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 有史以来の北海道周辺に起きたおもな津波をとりあげ、その規模や波源域などを紹介する。さらに津波の解析結果を地震の規模や発震機構と比べ、太平洋と日本海側とにおける津波挙動の特性を示す。

1.はじめに

 北海道の歴史は浅く、地震史料には18世紀のなかごろから、渡島半島沿岸を中心に地震・津波の記録がはじまり、北海道東部地域はそれより数十年遅れて現われている。史料のなかで目立つ津波に、1,400余人の水死者を出した1741年(寛保元年)の渡島大島津波がある。その発生要因は、大島火山爆発による山塊の大崩壊ということになっているが、果して火山の2次現象で広域に被害記録を残した大津波が起こされたであろうか。北海道東部の津波では、1843年(天保14年)に厚岸・根室の記録があるが、史料不足でナゾの部分が多い。
 最近約80年の間に、北海道東部から南千島沖にかけての地震・津波活動はきわめて活発で、これらの記録は、それぞれの立場から整理、検討されてきた(気象庁1962,宇津1968,Hatori1971,長宗1976,阿部1976)。しかし、歴史津波の記録は、これとは対照的に数がかぎられ、北海道の津波活動を論ずるのには近年の津波を中心に話をすすめざるを得ない。そこで、本稿では1894年から現在に至るおもな津波をとりあげて、挙動や波源域を紹介し、その解析結果をふまえて歴史津波の実体像を再現したいと思う。そして発震機構をもとに、北海道の太平洋と日本海側における津波特性を比べ、波源域の時間・空間分布から、今後の津波発生の可能性がある地域を考えてみたい。

2.太平洋側の津波

 十勝・根室沖で起きた津波が、東部沿岸地域に大きな被害をもたらしてきたことはいうまでもないが、南千島の津波も無視できない。また一方では、三陸沖の津波により、襟裳岬を中心に道南地域に大きな影響を与えてきた。以下に、東部・南千島・三陸沖に発生源をもつ津波に分けて、それぞれの特徴的なことがらを述べる。

1 北海道東部の津波

 まず、端的に津波挙動を理解するために、第1図におもな津波の波高分布を示す。図示のように,1952年3月の十勝沖津波は、厚岸~霧多布間で5~6mの波高に達し、流氷が市街地に押しよせ猛威をふるった。いかにも、北海道的な災害の様相を示したのである。また、三陸沿岸各地を襲って陸上に溢れ、1.5m前後の波高が測定された。
 この津波と対比される津波が、1843年4月(天保14年)の津波である。厚岸対岸の真龍の神社では石灯籠が倒れるなどの激しい地震動に見舞われ、江戸でも有感を記録し、マグニチュードはM8.4と推定されるほどの巨大地震であった。このときの津波は、厚岸の村落を呑みこみ、「大海のようになった」ともいわれ、水死者46、破壊家屋61、船の破損61と記録に残り、潰滅的な打撃を与えたのである。しかし、村はずれの国泰寺では流失を免かれた、とある。この付近の地盤高は、現在の水準点で5mぐらいであり、潮位が平水より15尺あがったという記録からも、津波の高さは4~5mと推定できよう。また、津波は色丹にも襲ったが、函館ではたいしたことはなかった。
 では、この波源域はどこにあったであろうか。第1図に示すように、各津波の波高分布は厚岸付近をピークに、それぞれ分布パターソが似ており、波源域が十勝沖か根室沖に区別できるほど明瞭でない。また、震度の記録も不十分で、きめ手を欠く。このように、天保津波の波源域の判定はむずかしいが、1952年十勝沖地震から1894年根室沖地震へと発生経過をたどっていくと、十勝沖津波であった可能性を考えさせる。
 天保津波は厚岸などの記録から、1952年津波と同じような規模であったとみなされているが、では津波の規模とはどのように区分されているか、少し解説しておこう。津波の規模(マグニチュード)は、波源域に近い沿岸の波高の大きさと、影響範囲で定義された今村・飯田スケール〔m〕が用いられている。これは、数十㎝の小津波から20mクラスの大津波をm=-1~4の6階級に区分され、それぞれ津波エネルギーなどの物理量と対応がつく。いまでは、理化年表に歴史津波から最近の津波まで、津波の規模がこのスケールで表示され、各津波の大きさを比較することができる。このスケールは波源域に近い沿岸の津波記録から区分してあるが、筆者(羽鳥1978)は波源から遠い広域で観測された多数の検測記録を用い、津波の伝播距離と波高の大きさから、各津波のマグニチュードをきめ直したことがある。この方法によると、津波規模を0.5とびにきめることが可能で、北海道の津波では1952年十勝沖津波m=2.5、1969年北海道東方(色丹島)沖津波m=2、1973年根室沖津波m=1.5と格付けされた。なお、この定義によれば、津波マグニチュードが1階級あがると、波高は2.3倍、エネルギーにして5倍大きくなる。また、m=3の津波エネルギーは10^23エルグ程度に見積もられている。
 ここで、津波の発生源である波源域を紹介しよう。津波の多くは、断層運動によって海底が隆起・沈降して起こされるが、その変動域のことである。第2図は1例として1952年十勝沖津波の波源域を示す。沿岸各地の検潮記録や目視された津波伝播時間をもとに、海図上に逆伝播図を作図して推定される。第2図の波面は、各地の伝播時間に相当した最終波面を示したもので、実線は検潮データ、点線は目視記録によったことを表わしている。この地震が午前10時23分ごろ起きたことさら、各地で信頼のおける目視記録が多数得られ、検潮データを補足することができた。解析の結果によれば、波源域の長さは160㎞、面積にして8.8×103km^2となり、検潮記録の津波初動がすべて押し波であったことから、この領域が海底の隆起とみなせる。右下図はこの地震の余震域を示し、Aは本震から1日間、Bは1ヵ月間のものを表わしており、波源域は本震直後の余震域とだいたい一致したことがわかる。
 1952年十勝沖津波後、エトロフ・ウルップの南千島の地震活動が活発になり、北海道東部ではしばらく平穏期が続いた。そして、1952年十勝沖津波と1969年北海道東方沖津波(Hatori1970)に狭まれた海域に、1973年根室半島沖津波(羽鳥1975a)が起きたのである。この地域は、80年近く地震活動が低調で、根室半島の地盤沈下が続いていたことから地震の空白域とみなされ、近いうちM8程度の巨大地震の起こる可能性が指摘されていた(宇津1968)。そこへ根室沖地震がまっていたように起こり、当時社会の注目を浴びたことは記憶に新しい。この地域は、1894年3月の根室沖地震の発生域であったこともあって、1973年地震はその再現と考え、この余震域が1952年と1969年地震の余震域の間を埋めて空白域を解消し、歪エネルギーが放出されたという見方がある。果してそうであろうか。津波データから調べてみよう。
 第3図は、1894年と1973年の根室沖津波について、波高と波源域を比べたものである。図示のように、両津波とも北海道沿岸では2m前後の波高を記録し、大差ない。しかし、三陸沿岸をみると、1894年津波は1.5m前後で海岸に溢れたところもあったが、1973年津波は0.5m程度の波高にとどまった。広域のデータで比べると、1973年津波のエネルギーは1894年津波の1/4ということになる。まだ、比較できるデータがある。
 1894年津波は、日本ではじめて検潮儀による記録が鮎川で得られており(第3図右下)、1973年津波の記録より明らかに周期が長い。これは、1894年津波の波源域が大きいことを暗示する。事実、鮎川の津波伝播時間は1973年津波より1894年津波の方が8分も短く、逆伝播図によれば、1973年津波の波源域は1894年津波の東半分を占めたにすぎない。このように、津波データから判断すれば、1973年津波波源域の西隣り約100㎞の区間は、有意義な空白域として残されたことになる。一方、1973年地震の規模はM=7.4と見積もられているが、地震の長周期波の解析から、地震モーメントMo=6.7x10^27ダイン・㎝と求められ、巨大地震といいがたい結果が出ている(Shimazaki1974)。また、1973年地震後も花咲・釧路の平均潮位が横ばいを続け、根室半島の地盤が沈降のままであることを付記しておこう。

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第1図:十勝・根室沖津波の波高分布(単位m)
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第2図:逆伝播図による1952年十勝沖津波の推定波源域。沿岸に示す数字は津波の伝播時間(単位分)。右下図は余震域
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第3図:1894年と1973年根室沖津波の波高・波源域の比較。右下図は鮎川における両津波の検潮記録

2 南千島の津波

 エトロフ・ウルップ島沖の巨大地震による津波では,北海道東部沿岸で1m近く、三陸沿岸では50㎝前後の波高が観測されている。1918年9月のウルップ津波は、遠く小笠原諸島に伝わり、父島で浸水被害を出した。波源が北海道寄りの津波では、根室沿岸の波高は当然大きく、1969年色丹島沖津波のとき、花咲で平均海水面上1.5mの波高を記録したが、幸い干潮時であったので大事にいたらなかった。
 第4図は、これら南千島の津波について、日本とソ連側の観測データから逆伝播図の方法で得た波源域を示す。ここで、各波面にはそれぞれの観測点の伝播時間が示してあるが、エトロフとウルップ沖との津波では、花咲で伝播時間に20分ほどの差がみられる。1963年ウルップ津波の波源域は、北千島の観測データから北端がおさえられ、その長さは470㎞にも及ぶ大きな波源域が推定された(Soloviev 1965)。しかし、1918年のウルップ津波では北側のデータがなく、波源域の広がりははっきりしない。そこで、つぎに示すように花咲・釧路の津波波形を周期分析し、津波のスペクトルから波源域の大きさを推測してみた。
 第5図は、いろいろな南千島津波のパワー・スペクトルを示す。釧路の記録は、幅広い陸棚の奥にある立地条件から、常時30分前後に優勢な港湾のセイシュがあって、津波周期の分離はむずかしい。しかし、花咲のスペクトルをみると、明らかに規模の大きい津波ほどスペクトルのピークは長周期部分にあり。小津波になるほど短周期の帯域に移っている。ここで、矢印は津波と常時の記録のスペクトル比を求めた結果から、卓越周期のピークの位置を示す。1918年ウルップ津波のピークは周期40分のところにあり、1963年津波と同様に長周期で、波源域の長さは400㎞に近いことを考えさせる。なお、1918年・1963年ウルップ地震はM81/4のマグニチュードであるが、これらの波源域の大きさは、本州近海の津波ものと比べると、やや長い。

3 三陸沖の津波

 三陸沿岸各地に潰滅的な打撃を与えた1896年・1933年三陸大津波は、北海道沿岸にも押しよせ、襟裳岬を中心に浦河~広尾間で津波の高さは4~5m、局地的には9mに達した。1968年十勝沖津波では、庶野・浦河で5m前後の大きな波高が測定されたところもあるが、平均して2m程度にとどまり、たいした被害は出なかった。
 歴史をさかのぼると、1856年8月(安政3年)の津波は函館市街に浸水し、渡島半島東岸の八雲・臼尻などの地域にも津波被害が記録された。震央は、駒ケ岳の噴火と重なったこともあって、渡島東岸付近とみなされてきた。このとき、三陸沿岸では2~4mの波高を記録し、震度5の分布が北海道から青森県下にまたがった。これを1968年十勝沖地震と比べると、渡島東岸の津波が多少異なるものの、震度・津波分布のパターンは1856年津波のものとよく似ている。さらに1856年津波の各地の津波到達時間の記録をもとに逆伝播図を画いたところ、1856年津波の波源域は1968年十勝沖津波のものよりやや北海道寄りに推定された(羽鳥1973)。これら記録の対比により、多少のくい違いがあるものの、1968年津波は1856年津波の再現であった、といえそうである。震央は、1968年地震に順じて八戸沖に改訂されたのである。
 さらに時代をさかのぼって、三陸地震の史料を見直すと、1677年4月(延宝5年)と1763年1月(宝暦12年)に起きた津波の波高・震度の大きさ、分布パターンが、1968年十勝沖津波ときわめてよく似ている(羽鳥 1975b)。これら地震の北海道の記録は見当らないが、1968年津波と同様な挙動をとったことは疑いない。しかも、この種の地震は約100年の比較的正しい間隔で起きており、この地震の長期的地震予知の目安になる。このように、最近の津波をふまえた史料の見直しから、歴史津波の実体像が浮かび上がってきたのである。

3.日本海側の津波

 渡島半島西岸は北海道開発の発祥地であったこともあって、1700年の中ごろから、地震史料が渡島から順次、積丹地域に広がり、近年の太平洋側の地震活動とは裏腹に、日本海側の歴史津波が多く記録されてきた。
 北海道の津波史の幕あけに、記録された津波が日本海側で最大規模の1741年8月(寛保元年)の渡島大島津波である。記録には、渡島西岸の松前から熊石に至る120㎞の範囲にあった村落で、水死者はじつに1,467人(福山秘府によれば1,236人)、流失家屋729戸、大小船舶の破壊1,521隻に及ぶとある。当時の人ロ構成からみて、いかに津波が猛威をふるったかが理解できよう。
 松前と江差の寺院には、被災当時犠牲者を合同葬した供養碑がいまも建ち、当時の惨状を偲ばせている。第6図はその1つ、江差町の正覚院境内に建つ津波碑を示す。石碑の側面には津波の状況がこまごまと漢文で刻まれ、一部破損個所があるものの、大要は読みとれる。松前・江差などの街並みは、冬期の風浪が大きいこともあって、いまの水準点で5m以上の高台にあり、津波の高さが6mを超えないと、記録に残ったような津波被害は説明できそうもない。おそらく、局地的には10mを超えたところもあろう。
 津波被害は渡島西岸にとどまらず、津軽にも流失家屋が記録され、三厩・関などの村落では5~6mの波高が推定される。津波は遠く両羽・北越に伝わり、佐渡を襲い、鷲崎・相川では津波の高さは4~5mと推定できるほどに高い。さらに、島根県沿岸にもこの津波が伝わった、と思える記録がある。
 これら広域の記録から、津波マグニチュードはm=3(1933年三陸津波と同じクラス)と見積もられているが、地震を記録した記事はどの史料からも見当らない。津波に先だつ12日前ごろから渡島各地で大島火山の噴火が目撃され、江差・松前・津軽地方で地上に10㎝もつもる降灰が記録された。この噴火記録から、津波は火山爆発による山塊の大崩壊で起こされた、と考えられてきた。1792年(寛政4年)島原眉山の大崩壊による津波の発生機構と、同一視されたのである。このときの津波記録は、有明海に面した島原・天草・熊本沿岸に限られ、湾外には見当らない。また、1640年(寛永17年)北海道駒ケ岳の泥流で内浦湾内に津波が起こされたが、いずれも狭い範囲しか津波記録は残っていない。
 寛保大島津波が渡島西岸を襲ったのは、旧暦7月19日の早朝で、当時松前では雨が降り、海上はシケていたようである。また、津軽地方では「風も静かに雨も遠ざかり」と記録されており、台風による高潮とは考えにくい。
 大島は、渡島西岸から約60㎞の沖合に浮ぶ東西4㎞、南北3㎞の無人島で、夏期に漁業の小屋が建つが、年間を通じての定住者はいない。最近、北海道大学理学部の地震・地質など各種グループによる総合的な火山調査が行なわれ、大島山頂(標高約700m)付近で幅1㎞から、島の北側に向けて北岸2.5㎞の範囲に大崩壊の痕跡が確認された(北海道防災会議1977)。しかし、この程度の崩壊から予想できる津波は短周期波で、渡島西岸に局地的にはい上がることはあっても、波の減衰が早く、数百㎞もの遠くまで大きな波は伝えにくいだろう。しかも、崩壊跡が島の北側であるから、それと逆向きの日本海沿岸の波高分布の解釈はむずかしい。
 そこで、筆者はM7.5程度の地震で、100㎞以上の広域に顕著な海底変動が生じ、この大津波がひき起こされた、と考えてみた。渡島の史料には地震記録はないが、1896年三陸大津波や1975年根室沖津波のように、震源近くの震度はきわめて小さいけれども、地殻の非弾性破壊と考える断層運動で、大きな津波がまれに起きた例があるからである。これは、地震の実体波は小さいが、長周期波の振幅がきわめて大きい「津波地震」と呼ばれている(Kanamori 1972)。
 では、どのあたりに海底変動が起これば、広域の波高分布が説明できるであろうか。つぎのような、3個の波源モデルを想定してみた。大島を中心とした直径20㎞の波源と、渡島・津軽沖に長さ100㎞の変動域を想定したモデルである。第7図に示すA波源は、大島西側の日本海盆縁に、等深線にそって北東一南西方向に想定してある。その根拠は、海底地形のほかに、奥尻島の第四紀地殻変動がこの走向であることを重視した。これらの波源から津波伝播図を画き、波源域周縁から放射する波向線が沿岸に達したその集まり具合で、グリーンの法則を応用して、沿岸のshoalingと屈折係数を計算した。もし、波源の海底が一様に隆起したとして波の指向性を無視すれば、波向線で分けられた各沿岸の波高増幅係数は波高分布と対応するであろう。このような解析方法で、3個の波源モデルによる沿岸の波高増幅係数と波高の分布パターンを比べると、第7図に示す波源モデルが、もっとも波高分布と調和する(羽鳥・片山 1977)
 1940年8月の積丹半島沖津波は、石狩・留萌沿岸で2m前後、利尻島南岸では3m、そのほかソ連の沿海州や北朝鮮でも観測された。津波マグニチュードは、1964年新潟津波と同様にm=2と格付けできる(Ha-tori 1969)。第8図は、各地の伝播時間をもとに推定した波源域を示す。波源域の長さは170㎞、面積にして94×103㎞^2で、M7.0の地震による波源域としては、標準をはるかに上回る大きさである。この特異性については、次章で説明を加えよう。
 この津波と対比すべき1792年6月(寛政4年)の津波は、石狩湾に面した積丹半島沿岸に流失被害を出し、地震動の強さも1940年のものを上回った。波源域ははっきりしないが、震度・津波分布からみて、積丹近海を考えさせる。第8図には、1947年11月留萌沖津波の波源域も示してあるが、この津波は利尻島で2m、羽幌70㎝、留萌・天塩沿岸に軽い被害を出している。この種の津波は、そのほか1863年(文久3年)と1874年(明治7年)にも記録されており、留萌沖には中規模津波がよく起こることに注目したい。また、1834年2月(天保5年)の石狩湾地震では、石狩川河口付近で噴砂現象があり、札幌付近も強い地震動に見舞われたであろう。さらに津波で50戸が流されており波源域は石狩沿摩付近らしい。この地震はマグニチュードM=6.4と推定され、そのほか積丹・留萌沖地震のマグニチュードはM7以下にきめられたものが多い。津波挙動からみれば、地震規模の割に津波が大きい傾向にある。

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第4図:逆伝播図による南千島(エトロフ・ウルップ)沖津波の推定波源域
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第5図:花咲と釧路の検潮記録から解析した南千島・北海道東方沖津波のパワー・スペクトル
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写真 第6図:江差の正覚院にある1741年渡島大島津波の供養碑
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第7図:渡島大島津波を想定した波源の津波伝播図。波面は1分間隔で示す
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第8図:1940年積丹半島沖津波と1947年留萌沖津波の推定波源域

4.肇震機構と津波の規模

 1940年積丹沖地震の震度分布の広がりを1964年新潟地震(M=7.5)と比べると、明らかに新潟地震のものより小さく、M=7.0ときめられたことが妥当のようにみえる。しかし、積丹津波の波源域の面積は、新潟津波のものより3倍近く大きい。これは、20秒周期の地震波の振幅できめられている地震マグニチュードが、適格に地震の大きさを評価していないことを考えさせる。
 第9図は地震と津波のマグニチュードの関係について、外国のデータも加えて示してある。図示のように、M7.0~7.5の範囲が目立ってバラツキが大きい。津波規模に3階級の幅があり、津波エネルギーにして15倍もの大差になる。これでは、地震規模に依存した情報から、精度ある津波予報はきわめてむずかしい。地震の断層運動にはいろいろなタイプがあり、津波を多様化しているのである。最近、M7以上の多くの地震について、長周期波の解析から地震モーメントが求められ、地震の大きさをよく評価している。たとえば、積丹地震のモーメントはMo=4.2×10^27ダイン・㎝と解析され、新潟地震のものより1割程度大きい(Fukao and Furumoto 1975)。これらの解析結果から、大きな津波ほど、地震モーメントとよく対応することがわかってきた(羽鳥 1978)。発震機構の研究がさらに進めば、地震波のスペクトルや地震モーメントの情報処理によって、津波予報の精度はさらに向上するに違いない。
 では,北海道の太平洋側と日本海側の津波を伴った地震のメカニズムには、どんな特徴があるであろうか。第10図は、と逃らの地域における発震機構の解析結果を、1図にまとめて示してある。これは、世界多地の観測ネットで得た地震初動の押し引き分布を下半球に等積透影で示す。細かいことは省略するが、太平洋と日本海側の津波を伴った地震はいずれも逆断層タイプで、両サイドにおける主応力方向の相異がよく現われている。
 太平洋側の大地震は、断層のすべり方向がだいたもN60°Wにむき、断層面の傾斜角は20°程度の低角逆断層で、すべり量は約3mであった(阿部 1976)。しかし、1973年根室沖地震では、断層面は小さく、すべり量は他の大地震の半分の1.6mと解析された(Shima-zaki 1974)。このように地震の長周期波の解析から各地震の断層モデルが得られてきたが、そのほか沿岸の測地データからも断層モデルが解析され、大地震による海底の垂直変動量は、大きいところで1.2m程度に見積もられている。そして、断層モデルを基礎にした津波の数値実験の結果は、津波の観測データをうまく説明している(相田 1977)。
 一方、日本海側の地震では、断層面の傾斜角は50°前後のものが多く(Fukao and Furumoto 1975)、太平洋側の地震が20°前後の低角断層であるのとは対照的に、急傾斜で立っている。プレート流にいえば、太平洋プレートが低角で島弧プレートの下に沈みこみ、3mぐらいすべって巨大地震が起こるのに対し、日本海の地震はM7.5どまりで、すべり量は1mぐらいである。しかし、断層面の傾斜角が50°ぐらいに立ち、陸側のプレートが突き上がって沖合側が沈みこみ、断層面のすべり量の割に海底の垂直変動量は大きい。つまり、津波がきわめて能率よく起こしやすい発震機構になっている、といえよう。

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第9図:地震と津波の規模(マグニチュード)との関係。津波マグニチュードは今村・飯田スケールで示す
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第10図:北海道周辺における津波を伴った地震の発震機構(金森、阿部、島崎、深尾・古本の資料による)

5.むすび

 1700年なかごろから現在に至る北道道周辺のおもな津波をとりあげ、地震との関係をふまえて、特徴的な津波挙動を紹介した。これまで筆者によって解析された各津波の波源域をとりまとめ、第11図に波源域の分布を示す。期間は1700年以降の津波を対象にしてあるが、北海道東部では明治以前に記録された津波が限られており、最近約80年間の分布とみなすべきであろう。
 北海道東部では、この80年の間につぎつぎ起きた地震の震源域は、あまり重なることなく移り、1973年根室沖地震を最後に、地震空白域がほぼ埋めつくされた、という見方がある。しかし、南千島沖にかけて、地震活動はいまも衰えをみせていない。津波の観測データから解析された波源域は、第11図に示すように、移動しながらもかなり折り重なり、大津波の波源域の端に小津波が起きている。1973年根室沖津波の波源域は、1894年津波の東半分の領域を占めたにすぎず、この西側約100㎞の区間は、歪エネルギーの未解放域の疑いがある。地震予知連絡会が、1973年地震後もひき続き観測域に継続指定していることは、まことに当を得た処置といえよう。
 一方、日本海側の最大級の規模であった1741年渡島大島津波は、まだナゾに包まれている。1940年積丹半島沖地震のように、非弾性破壊的な断層運動で、短周期波成分の小さい地震と考えれば、小さな震度記録は華やかな火山爆発に隠されたかも知れない。ここでは、広域の波高分布が説明できる地震による地殻変動説を示した。なお、津軽の三郡誌によると、808年(大同2年)と1341年(興国2年)に津波記録があり、400年ぐらいの間隔で渡島大島津波が繰り返された疑いもある。
 近年の日本海側の地震活動は、太平洋側とは対照的にきわめて低調であるが、歴史的には留萌から積丹半島沖にかけて数個の津波が記録されてきた。これらの地震はいずれもM7以下に見積もられているが、地震規模の割に津波は大きい。これは、この海域の地震断層のすべり面が50°前後の急傾斜という発震機構を反映しているように思える。積丹~留萌沖では、30年近く平穏期が続いており、今後の地震活動に注目したい。

参考文献
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〔8〕羽鳥徳太郎:地震2,28,461~471(1975a).
〔9〕羽鳥徳太郎:地震研究所彙報,50,397~414(1975b).
〔10〕羽鳥徳太郎:地震2,31,25~34(1978).
〔11〕羽鳥徳太郎・片山通子:地震研究所彙報,52,49~70(1977).
〔12〕北海道防災会議:渡島大島—火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策.北海道における火山に関する研究報告書,第6編,1~82(1977).
〔13〕H.Kanamori:Phys.Planet.Interiors,6,346~359(1972).
〔14〕長宗留男:札幌気象100年記念論文集,104~118(1976).
〔15〕札幌管区気象台:気象庁技術報告,20,46~96(1962).
〔16〕K.Shimazaki:Phys.Earth.Planet.Inter.,9,314~327(1974).
〔17〕S.L.Soloviev:Bull.Earthq.Res.Inst.,43,103~109(1965).
〔18〕宇津徳治:北海道大学地球物理学研究報告,20,51~75(1968).
〔19〕宇津徳治:地震予知連絡会会報,7,7~13(1972).

イルカぶっくす・1
イルカと人間
—その文化史—
大村秀雄
イルカと人間のかかわりあいはほほえましくそして古い。著者は鯨類研究の専門家であるが、余暇にその文化史を20余年もたずねた。写真・図面などをながめながら楽しく読める珍しい本である。
序章 はじめに  1章 ギリシャ・ローマのイルカ  2章 英国とイルカ  3章 シャチホコ  4章 現代のイルカ物語終章おわりに

イルカぶっくす・2
地震予知
—方法論的な考察—
檀原毅
地震予知はまだ幼い学問である。それだけに、この分野では学問的な基礎や方法についての体系化が不十分である。本書は、地震予知という学問分野を、方法論的に整理しその体系化を試みている
序章 はじめに  1章 地震学への誘い  2章 地震のメカニズム  3章 地震の起こり方  4章地震のエネルギー源  5章 地震前の地殼と予知の要素  6章 地震予知の観測  終章 研究の展望

イルカぶっくす・3
海の大循環
—うずはなにをしているか—
高野健三
大循環は、時間的にも空間的にもきわめて規模が大きく、また、海のいろいろな現象と深くかかわりあっている。本書は、この基本問題にかんし、はじめやさしく、しだいに最新の成果におよぶ。
序章 はじめに  1章 大循環とはどういうものか  2章 大循環と気候 3章 どのように測るか  4章 うず  終章 研究の展望

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第11図:北海道周辺における津波の波源域分布(1894~1978年の期間に起きた津波に歴史津波のものを加えてある)