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津浪に直面して

噫、不幸なるかな、天は何故にか三陸沿岸漁民をして斯くの如く禍し給ふや。
三月三日未明深夜を破り轟然として押し寄せたる津浪は狂瀾天を衝き怒濤地を巻く一瞬にして集団せる二百三十有余の人家三百六十余の生霊は尽く激浪の呑むところとなる
本村は三陸沿岸被害地中田老に次ぐの大惨害を蒙り人家生霊剰(あまつさ)へ漁民の生命の綱と頼む漁船漁具迄も海中深く奪ひ行き殊に本郷は一部落全滅の悲境に陥り骨肉を喪(うしな)ひ狂乱血走る様名状すべからず
一朝にして村の大半は破滅せられ一族郷党と別れ住居家産を失ひ生業の資を流出せしめ荒擾(こうじょう)と変わり果てたる惨害の跡を見つめて只悄然佇立(ちよりつ)するのみ。
省願するに本村は明治二十九年六月十五日(陰暦五月五日)の大津浪に尊き幾多の生命財産は完膚(かんふ)なき迄に剥奪され(はくだつ)しょう来復興に苦心経営すること三十有八年其の間大正二年の大火災に禍されたるも時恰も好景氣時代に立ち至り漸く曙光見えたりしなり。
年来の世界的経済界の不況と打ち続く漁猟(ぎょりょう)の不振に全く疲弊困憊(こんばい)に陥り昨年僅かにスルメの大漁ありしとは云へ日支貿易杜絶(とぜつ)しスルメ鮑其の他の水産物をして価格を低落せしめ漁民の生活や誠に暗憺たるものあり。さるを今回の津浪は本村をして致命的の災厄を與へし
なり。
されども昭和聖代の恩澤は■(しゅ)辺率濱に遍(あまね)く
畏くも 両陛下 には深く御軫念(ごしんねん)遊ばされ多額の御内帑(ないど)金を御下賜あらせられ待従を御差遣遊ばされて親しく御視察御慰問の栄に浴す
我等罹民恐懼(きょうく)惜く能はざる所なり。
本縣知事石黒英彦閣下に於かれては神速(しんそく)にも危急救援の御處置を取らせられ岩手縣廰總動員の活動と各係員の涙ぐましき奪闘は続けられ知事閣下急遽上京斎藤内閣に惨状の御報告申し上げ多額の救援復興費を要請せらる罹災民一同只感激の涙あるのみ。
皇室の御仁慈と敏速なる縣当局の御處置と翕然(きゅうぜん)として起こりし縣民並びに全國民の同情により救援復興の事業は着々として進められ、しばし茫然爲す所を知らざりし我々罹災民もこの感激の中に決然復興のために悲壮の覚悟を持して起つに至りしなり。

津浪と前兆

次に挙ぐる点は津浪の前兆としては学的根據を有せざるも今後の研究と相俟って或は津浪と連繋(れんけい)を持つことのあらんことを想ふて略記す。
一、本年は例年になく荒れたる年なりと。
二、海流の変化 本年は昨冬末より(常には南冲潮)より北冲潮にして漁夫達の不思議に思ふてゐたる年なりき。
三、井戸水の変化 小白浜部落の井戸は三日位前より非常に渇水したる井戸あり。
四、赤潮の玉 本年は不思議なる俗に謂ふ赤潮の玉が至る所に点在し然も沿岸近く接近せり
五、鰯は三陸沿岸一帯に近年稀なる大漁なりき

当夜の前兆

体験者 小白濱部落 内海留三朗氏
仝氏は二日の午後六時頃小魚延縄に出漁し縄を張りし後約ニ十分を経て縄を上げしに縄は沖の方に強く引かれて上げかね、元の方に廻りて上げしに今度は湾内に強く引かれるも苦心して上げ八時半頃岸へと急ぎし時恰も海水は湾内に向かって流れ居たり。その為に予定よりも早く岸に着く事を得たり。岸に着く途中九時四十分頃沖合に於いて二回の音響を聞けり。
岸に着きて大漁せしドンコを陸に上げんとせしに一寸の間に海水の満干激しくその差二尺五寸より三尺位にて内海氏は二回の音響と比の時ならぬ海水の移動とを考へ不思議なる晩なりと云ひて帰宅せしと。

津浪の源因

今回の津浪の原因は未だ適確なる学的発表を見ざるも本年一ヶ年位の精密なる調査研究の結果明瞭なる発表を見ることにて目下斯(かく)界の人々推定を略記せん。
今回の津浪は明治二十九年の津浪と同型にして地震発作後相当の時間後に来襲せる点より震源地は宮古沖約四十里の地点即ち外側地震帯の断層線に沿ふて起こされたる地辷りに原因せるものならんとの説有力なり。
而もその地震動が直接海水振動を誘発せしや将又(はたまた)海底地盤の変動が直上海水(日本海溝海深三〇〇〇m—五〇〇〇m)の弾性により海面が押し下げられ為に先ず負浪により起こされたるものなるや恐らくは両者協同によりて誘発せられたるものではなきやと
然して外側地震帯に局處的の陥没を考ふることも又宮古沖合に火山脈を考ふることも二つながら独断の甚だしきものにて断層による地震並びに地盤の変位によりて起こりし津浪と見る説有力なるものの如し
然し今後の調査研究の結果どんな適説が生まるるや大いに注目すべき所なり

地震に就いて海岸警戒者の急報とその功績者

三月三日午前二時半頃俄然大激震起こり餘震息(やす)まざる中に約四十分位経過せる時東方に轟然たる大音響と発光現象とあり これより約十二~三分にして海水俄かに減水し始む其の音恰も遠き路を荷馬車の走るが如く或は青葉に西風のそよぐ音の如く聞こえたり 減水は普通の干潮線より下がること丈餘に及び小白濱湾内にては苦鼻より辨天崎迄の一直線上近く迄に干潟となりしと。
小白濱部落にては地震後早くも海岸を警戒し始め折柄海岸に行きし人々は尾形鉄雄氏、千葉長左工門氏、高橋忠氏、清水浜二氏、吉田寛之進氏、木村七郎氏、村上多助氏、佐々木慶太郎氏、板乗清三郎氏、木村長志氏、新沼円之助氏、阿部亀燾朗氏上村六郎氏の諸氏なりき。
地震後に鳴りし音響に生来敏感機鋭の尾形鉄雄氏は直ちに津浪を予感し走りて海岸附近の家々を呼び起こし避難の用意をなさしめたり。
然るに数分を経過せるに何等の変化もなきため尾形氏は再び海岸に下りて見るに時ならぬに海水は満潮となり居り三陸汽船会社の桟橋をも浮かす如くなれば清水浜二氏と共に橋板を取り上げ中今迄満潮なりし海水は俄かに減水し始め急流の如く引け行くを見、尾形氏はそら今度こそ津浪だ、早く逃げろとばかり大聲疾駆海岸附近を叫びつつ避難せり。
此れと同時に警戒中の千葉長左工門氏、木村七郎氏、村上多助氏等も減水と共に騒ぎ立つるに至れり
此れと呼応して同時位に高所より津浪の来ることを予感し海岸に向かって絶叫したるは本村駐在巡査三浦正雄氏夫妻及び木村助役夫人木村ハルエ氏なり。
本村駐在巡査三浦正雄氏は地震後駐在所東方の高所に立ちて沖を注視し至たるに沖合に於いて電光あり、稍々ありて潮の引く音したれば不安に思ひて警戒し居る折柄下より尾形留三郎氏坂を上り来り潮が引けてゐるから津浪が来ますとの話を聞き三浦氏夫妻は下に向かって津浪だ津浪だと絶叫すること稍しばし叫びしが深夜を破りて三浦氏夫人の聲はよく海岸に迄通りしなり。
郵便局附近に於いては木村助役夫人木村ハルエ氏は海水の引けゆくを高所より眺め居たりしが早くも津浪を予感し津浪だ津浪だと下に向かって聲を限りと叫び殆ど下通りの人々が避難せるを見て最後に避難せりと。

半鐘乱打せる功績者

木村四郎氏は海水の引きゆくを見て海岸より走り上りて勇敢にも消防の半鐘に上りて乱打し、人々は敷地通りも危ふしと逃げゆく間にも泰然として去らず身はしぶきの為濡るるも物ともせず半鐘を乱打し居たり。
清水浜二氏は前記尾形鉄雄氏と共に盛岩寺に避難し木村四郎氏の打てる消防の半鐘より遅れたるも殆ど同時位に乱打せり。
以上の如く海岸に警戒中の機敏なる動作と常に津浪に対する常識の発達して居た事は人々の津浪だと絶叫し、或は警鐘を乱打せる奇特なる行為と相俟って小白濱部落にて七名の死者を出せしも数百の生命の安全なりしを思へば、その功績の余りにも偉大にして生存者一同只感謝の涙あるのみなり。
本郷部落にて地震後海岸に出て警戒したりし者も相当ありしが海水の平穏なるに大概安堵し家に帰り、再び就床する者あり。或は爐を囲みて談笑中の家もありたり。
平館幸藏氏は地震後三回海岸に警戒に出て三回目の時東方の沖合に大音響と発光現象あり。不思議に思ひて屡(しば)し海面を注視し居たるに海の遠鳴りと共に俄に減水し始めたり。此を見るや直ちに津浪と直感し半鐘を乱打して全部落に警戒せんと折柄、海岸に立てる大見楼に上らんとせるに海の鳴り響き物凄くなりたるに打ち驚き其の儘ひた走りに走り小池善兵エ氏宅前で津浪だと絶叫し又走り乍ら佐藤亀松氏の前で叫び自分の家に飛び入り一家を率ひて避難せり。
附近の家々では時ならぬ音響と海の遠鳴りに不安を抱き居りし折柄、幸藏氏の津浪だーとの最初の一聲に、すはとばかり騒然となり右往左往に避難するに至れり 今生存せし人々の平館氏に対する感謝の念の切なるもの多し
不幸 本郷は三百二十五名の多数の死者を出せしは、返す返すも残念にて思ふて涙の今新なるあり。
省みて本郷は何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしかば、その原因を探るに本郷には明治二十九年の津浪の遭遇者少なく ために海岸に下りて警戒する者少なく北村方面を除く外は大概平然として就床しあり或は談笑しあり津浪襲来間際に海岸の騒ぎに打ち驚き、或は海岸の家の破壊する音に驚き人々夢中に逃げ或ふ者多く常にかうした非常訓練に馴れざるため只高所高所と目差し狭隘なる箇所にのみ皆押し寄せ、上り兼ね居る中に渫はれたる者多く最も避難に適せる縣道伝ひに走りし者の少なきは遺憾なり 何の因縁か此の晩ばかりは常とは異なり余りにも消防其の他の人々は冷静なりし由なり。
然し乍ら比較的生存者多く一家全部残りし者等の北村方面に多かりしは避難所の良好とは無論なるが平館幸藏氏の功績又顕著なるものあり。
片岸部落にては岩沢長松氏は地震後直ちに身仕度をなし片瀬川口にある海岸燈の下に来りて海岸警戒中東方沖合に一大音響を発したるに打ち響き片岸部落に向かって「津浪だ津浪だ」と大聲を張り上げ片岸部落の人々をして早く避難せしむるに至れり
花露辺部落に於いては海岸に在りし大瀧安五郎氏は海水の引け始めしを直感し直ちに騒ぎ立て避難せしめ高所にありては川畑辰三郎の妻ウメ氏は聲の枯るる程海岸に向かって津浪だ津浪だと絶叫せりと
荒川部落に於いては消防手熊谷音右エ門氏は地震の直後附近を警戒任務中大音響を聞きたるに津浪を予感し下荒川縣道工事大倉飯場前に津浪だーと大音聲騒ぎ立てたるに人々皆戸外に飛び出し避難する間に鈴木幸男氏は自分の叔母が岩崎松の妻となりて海岸に住み居たりしため岩崎に急を知らせんものと海岸に走り、その途中、池田商店前附近で津浪だと叫びながら海岸に行きしため、その聲を聞きて避難せる者もありたり。

唐丹村役場の急報

三日未明に大惨害を蒙るや本村役場では早くも縣に向かって急報せんものと武山義助氏を依頼し三日午前十時出発大畑局に疾駆せしめ左の如く打電せしむ
 ダイカイショウ キウゴ タノム
     トウニ  ソン チャウ
三日午後七時本村役場にては書記 木村鶴藏氏 訓導小野忠男氏 郵便局員 淀川正太郎氏 青年団員 平野留藏氏を急行せしめ大畑局より縣警察部に向かって救護班の急派方を打電せり。
三氏は其の晩夜通し帰りて経過報告をなす

惨状偵察と海軍の救援

科学の進歩と通信機関の発達とは三日午前八時には早くも三陸沿岸津浪の惨状はラヂオを以って全国に放送され午前十一時頃に至るや霞ヶ浦航空隊の水上飛行機及び内務省の偵察機朝日新聞社の偵察機は爆音もいと雄雄しく災害地上空を飛行し空中より写真を撮影し此れを直ちに各地の号外に発表され又活動映写機によりてフィルムを作成各都市に於いては惨状は活動映画となりて発表されたり。
各新聞社の報道は一報毎に惨又惨を加へ此れより各地の同情は翕然(きゅうぜん)として起こるに至れり。
此れより早く第一海軍区に於かれては直ちに非常急救手段を構ぜられ三日の夜には横須賀鎭守府より軍艦数隻に多大の被服糧?を満載して急航せしむ本村罹災者も飢えと寒さに生き残りし者も餓死する許りの所へ四日の午前十時頃軍艦稲妻は黒煙濛々と入港し偉大なる船体を唐丹湾内に横たへたり。
此れより軍艦のモーターボートは下され陸戦隊の白脚絆の水兵達は勇壮なる扮装で毛布五百八十枚、醤油二十樽、米麦二百袋、菓子七十箱、缶詰七十箱を小白濱埋立に陸揚げし推く積み上げたり、此を見た罹災民は、感泣するのみなりき

山林課の活動と罹災者の收容

残寒猶烈しき三月初旬に於いて一瞬の間に三陸沿岸漁民の住宅は微塵もなく奪はれてしまひ生存者は僅かに流出を免れたる住宅に皆押し寄せ混雑の状、名状すべからず、住むに家なく着るに布衣なき罹災者は只焚き火に夜を明かす状態なりき。
本村の中小白濱部落にては幸ひに学校と盛岩寺が残りしため大多数は二ヶ所に收容され外は残りし家々に配分されどうやら寒さを凌ぎ得たるも本郷は只一戸のみ残りし家に数十人の罹災者は雑居し外に住むべき家なきため大曽根の開墾地に行くものあり、或は花露辺部落に行きて救助を求むる有様なりき。
片岸部落は山手の残りし家及び村社に雑居したるも多くは川目部落に行きて收容されたるなり。
荒川花露辺部落は流出戸数少なく被害を免れたる家の多きため割合に楽に收容さるるに至れり。
されども何時迄も斯くの如く不安定なる生活を辿る事能はず一刻も早く各自のバラック建ての住宅なりとも要望して止まざる時に本縣当局は早くも着目され山林課の總動員によりて三陸沿岸全部の罹災民を一時バラックに收容すべく計画され直ちに青森縣に向かって材料の購入運搬に着手され、ために本村には二百四十戸分の材料が供給さるることとなり一方罹災地には係員が急派され盛岡に於いては建築大工を募集する等涙ぐましい活動は続けられたり。
本村には最初縣山林課照井勝也氏派遣され盡力されたるに都合に依り交代し農林技手鈴木正愛氏派遣さるるに至れり。鈴木氏は本村の惨状に甚だしく御同情を寄せられ職務のためとは云ひ乍ら全く献身的に御奪闘なされしは村民一同、只感謝に堪へざる次第なり。本村に於いては木村助役又バラック建築の急務なるを賢慮され小白濱部落にては未だ敷地の決定を見ざるため取り敢へず窮状甚だしき本郷部落に九十戸分のバラック建設の計画を立て本郷の佐野定吉氏、千葉円藏氏の助力の下に着手し村よりは訓導佐々木源次郎氏を嘱托特派し本郷鈴木善三氏、佐久間磯治氏外罹災者一同又良く助力し工事の促進に努力せり。
縣よりは盛岡にて募集の大工三十名及び労働奉仕の紫波郡赤石村の大工十三名労働奉仕の青森縣川内村大工五名計四十八名は三月十日より建築に着手し窮状を目撃せる大工達は一日も早く完成せんものと不眠不休の活動は続けられ八戸港よりの材料の供給円濶に行かざるも三月二十三日頃迄には五戸建バラック十六棟殆ど完成し間もなく全部引越し罹災者一同は狭いながらも我が家として落ち着き八十戸の集団は打って一丸とすべき団結力と燃ゆるが如き復興の心意気を示すに至れり。
小白濱部落にては本郷部落に建築中各戸毎に敷地を設定し建築することとなり、各々高所の地を選定したるも何れも狭隘の地多く、ために五戸建或は三戸建或は独立家屋等建設するに至れり。
小白濱部落に於いては敷地の関係と家族の多きためと、又職業的差異により多少の材料を添加して間取りを広くし、又独立家屋として各便利の地に選定し建築せしは一つの特色なり。四月半頃迄には殆ど完成、移転するに至れり。
片岸部落にては河東謙吾氏、統制の下に盛岡大工三十名を使役して六戸建、四戸建、二戸建等に間取り等に意匠を凝らして建築され三月末迄には完成移転するに至れり。
続いて花露辺荒川にもバラックが建築され各移転するに至り殆ど四月二十日頃迄には村内全部完成され一先ず我が家として落ち着き是より各生業に対しての念慮を繞(めぐ)らし燃ゆるが如き復興心の下に起つに至れり。
(ここに原本12枚目 13枚目≪欠落部分≫が入ると思われる)

津浪襲来と其の惨状

ドン・・・と落雷でもありしが如き—然も唯一つの音—
恐怖の念に藉(か)られし人—枕を蹴立て素早く寝巻きを脱し仕事着に着替へ飛び起きし瞬間—脳裡に閃(ひらめ)きしは津浪であった。
直ぐ様 海岸へ出で海面を見し時—退け行く浪の音 凄まじく—見る見る三陸汽船の何時も碇泊せし個所と思はるる辺りまで真黒くなりぬ
点々と水溜まりを思はせる如く白く光る個所—悪魔の眼の如く—鳴動する沖・・・将に確心ある津浪襲来の恐怖胸に浮びぬ
「津浪だあー」・・・
吾一人ならず十数人の人怒号した。
雨戸を蹴破る音・・・電燈消え、今は唯暗黒・・・
湾口は一層の危険を思はせる如く真黒の煙天に柱し・・・
数メートルの高さに覆ひて走り来るが見ゆ
今は父母に妻子に—兄弟に急を知らさんとすれど聲出でず
家に入れば人影なし
局坂へ向かひて走りぬ
道路一ぱいの人、蟻の如く 子を抱きし者—父母の手を引きし者
—然(しか)し聲を出すものなし。
太い歎息(たんそく)と重い足取りは進まず
寺へ逃げ行く人足(ひとあし)の音か
息つまる気 天地を圧す
一人なれば足早し。
高台へ至れば泊花の附近真白く天に魏(ぎ)立する水柱—鐘楼堂の鐘の音
—将に鐘の音・・・
数秒経過せし頃か
ミリミリミリッ・・・
とガラスでも破れるが如き音すれば忽ちにして天に轟くの音—
暗くて見えず
高台に在りし人皆不気味な静けさを保つ
一瞬にして明らかなり
家列壊せるを見る
数分後か
二度の波襲ひ来る
波高く大きくして家屋石藏皆押し流され 三度の波走りし時は河原を走るが如く岩石の転びあたる音聞こゆるのみなりしなり。
湾口一面に材木なり。
津波落ち着きし頃か
父母を呼び妻子を尋ねる聲・・・今は必死なり。
烽火(のろし)諸所に上る
家内を家財を心配する人 烽火を囲みていろいろと語る真暗なり
恐怖と失意—當(まさ)に生けるロボットなり。
唸り聲聞こゆの報に接す。
走れば中村針師重傷なり。
大澤川の橋の下の材の下敷に—励ませど果なし
引き上げし時 既に事切れ黄泉(よみ)の客となる
見れば血ぐるみにて頭部其の他数ヶ所の創(きず)
状報頻(しば)くなり。夜の中に知れる被害人命は死者六名、負傷者一名なり。(小白濱)
明くれば湾口一面の材の漂流—洗はれし宅地の跡—惨状言ふべからず。
引き波強きか大分の財海へ—尚濁流を起こせりと思はるるが如く
ビルデング附近の家財 大澤川へ来り居れり。
本郷如何にと早朝に至れば小白濱に勝る惨状なり。
百二戸の家屋、今は一戸を残すのみにて片影すら見えず唸き聲しきりなり。—
其の間に在りて新沼文之助氏父子懸命に働き居たり
遭難者の談によると
本郷にてはあの大地震の際不安を感じ家財を背負ひて高台へ逃れしも一度家へ来りし時、古老曰く「晴天に然も満潮時に津浪来るものにあらず」と頑迷なる言に依り安心をなし床にもぐりしと」
警戒者も少なく北村の数人が海面を見入り、潮の退け行くを見て津浪襲来を知り知らすれども寝につきし人なれば聞えざりしか。
かすかに声を聞きし者、スハと飛び起きし時は既に海岸の家屋倒壊し得るが如き急にて逃げし人皆大杉神社へ走る。
然るに道路狭く驚歎の余り脚上げ得ず聲出でず。
忽ちにして来る死の口—握りし手も抱けし子も力盡き数珠つなぎとなりて海水の呑む所となりしと
二度三度の浪は丈余の高さに逆立ち然も大渦流をなし財と生命を弄(もてあそ)びしも津波後一時間の程は救ひの聲聞こえしと。
然も命を拾ひし人々も今は恐怖と寒さの為活動出来ず、唯聞くのみにて落涙するばかりなり。
二度渫はれ、三度の波にもまれ辛うじて生命を得し若者の談に依ると、「私は一度、家内と共に大杉神社境内へ逃れしも他の人一人も来らず、再び家へ下りし時、古老の言を聞き益々安偖し家へ入らうと家内揃ふて歩を運びし時「津浪だー」といふ聲を聞き急いで母の手を握り板屋の家の辺りへ来りし時、母と共に波に巻き込まれ施す術なく、母の手を離し必死になって泳ぎしも逆立つ波は材木を—石を空に飛ばし危険此の上なく止むを得ず海中にもぐり口をふさぎ、目途なく泳ぐ何時しか屋根の如き物の下に居るに気付き爪を持って、あらん限り引き裂かうとすれども裂けず計らずも船のプロペラにさはる。
始めて船の下に居る事を知り、上らうとしてあせるけれども出来ず。三度の波にて打ち上げらる。
気が付きし時は皆に介抱され居りし時なり」と語を次いで「私は母の手を離し泳ぎ歩き居る時、大部分の流泳中の若者達は元気にて満州の兵隊を思ひ起こせ、何之れ位の事で死ぬものかと、御互いに元気を付け合ひし居たるも二度三度の波は離ればなれになり聲遠くなりし」と暗涙にむせぶ様いとど悲痛の極みであった。
斯(この)様なれば本郷の死者最も多く田老に次ぐの惨事を呈す。
落ち着きせし今日聞くと周章狼狽とは斯くやと思はれる程コッケイ至極のものがある。子供を抱き逃げしと思ひ見れば杉葉をギッシリ抱き締めて居るが如く。母と思ひしは他所の叔母さんであった等、其の光景聞くもいたまし。時間的に襲来状態を記すなれば、本郷最も早く本郷の返し波花露辺を襲ひ其の頃荒川片岸襲はれ小白濱最後なり。
恐らく本郷と小白濱は三分位の差ありたるものと推察さる。
死者、負傷者多き本郷にては部落民にて負傷者を收容出来ず小白濱部落民の手助けにより新沼文之助氏方へ急造擔架にて運ぶ、然も零下四度の寒さなれば一刻を争ふものを未明に至りしなれば陸に上げられし人の大部は凍死す。其の惨状亦言語に絶し首のなき者、脳露出せし者、大腸はみ出でし者、之れが昨夕迄の人でありしかと、今更涙にむせぶばかりなりしは恨めしく思はる。
負傷者割合に少なきは前述の如く手不足と零下四度の気候の然らしむる所なり。
左に波高、秒速、死者、負傷者の統計を記せん
波高 五米 秒速 十米
◎地震三月三日午前二時三十一分三十九秒発震
◎海嘯襲来地震後三十分ヲ経過シテ襲来
○家畜被害欄中ノ其ノ他—ハ兎及ビ鶏ヲ含ム

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波高、秒速、死者、負傷者の統計

皇室の御仁慈

東北地方は天恵薄く畏れ多くも陛下に於かせられては日夕御軫念遊ばされゐたる土地なるに此の度の災害上聞に達するや、殊の外御心慮を御悩みあらせられ審(つまび)らかに状況を調査せよとの有り難き御沙汰を拝し大金侍従は直ちに罹災地発向(はっこう)になり、早くも宮城縣を視察になり、三月七日本縣に入り大船渡越喜来、吉浜村の惨状を視察、本村には午後五時過ぎ大石より海路古峰丸に乗船小白濱埋立に上陸連日の御疲労の模様もなく本村の惨状を石黒知事、一戸旅団長の案内にて親しく御調査になり柴病院に收容の傷病者に対しては各室毎に慰問の言葉を賜り此れより直ちに自動車にて本郷部落の惨状視察に向かひ、その惨状に甚だしく同情を寄せられたり。
篝火焚いて出迎へし罹災民は只聖恩の辱(かたじけな)さに感泣するのみなりき。
案内後帰廰して石黒知事謹話す
   (三月十一日 時事新報 東北版に依る)
大金侍従は親しく災害地を視察された気仙郡唐丹村本郷部落及び小白濱部落の惨状は言語に絶し一種凄惨な気分が満ちてゐた。
侍従はその中を松明を焚いて詳(つぶ)さに視察し罹災民に一々聖旨の有り難さを伝へ慰問したが罹災民は只有り難く涙を流すのみであった。
殊に侍従は此處では実感が胸に迫ったやうであった。
侍従は親しく視察せよとの御諚(ごじょう)を賜って来たのであるからと随行者が却って恐縮する程熱心に視察し、その都度親しく慰問の言葉をかけ、殊に山征兵の遺家族に対しては特別の慰問をなしたが、罹災民は勿論縣民を代表する知事として僕も今更ながら聖旨の有り難さに感激してゐる次第である。

是より先 畏れ多くも陛下に於かせられては三陸地方の災害を御聽取遊ばされたる折、直ちに御内帑(ないど)金三萬円を本縣に御下賜になり本村にては金三千百四十七円の御下賜を受くることとなり三月 日釜石町役場にて中野警務課長より伝達を受け、直ちに本村に於いては三月十八日午前十時小白濱小学校庭に罹災民一同を集め伝達式の挙行をなすに至れり。
皇后陛下に於かせられて今回の災害に甚だしく御同情を寄せられ、特に傷病者に対しては衣類一箱宛御下(おくだ)しになり本村に於いては木村助役は木村書記と共に四月十七日釜石町役場にて伝達を受け午後自動車にて帰村直ちに各傷病者に伝達をなせり。

今回の三陸沿岸を襲へし津浪は関東大震災以後の最大の悲惨を極めた天災なり。時恰も皇国多事の秋挙国一致、外には国難の打開に当たり、内には只管(ひたすら)銃後の守りを全ふすべき時に、斯くの如き天災に禍(わざわい)されたるは何たる不幸ぞや。惟(おも)ふて一日もこの惨状を黙過し能はず、茲に於いて本縣廰にては直ちに各地に向かって救護団の活動を依頼せるに各地の同情翕然として起こり、殊に本縣は挙縣一致非常の決心を以て隣保相扶奮然として起ち、各消防組、在郷軍人団、青年団、自警団等陸続(りくぞく)として来り廃墟の如き罹災地に夜具食料携帯の上救援に盡力されたり。
本村に来りし救護団は本村の報道以上の惨憺たる惨害に甚だしく同情され惨害の整理復旧に流失家屋の取り片付けに慰問品の配給運搬家族の救出、死体捜索等涙ぐましき活躍を続けられ罹災民をして豁然(かつぜん)として悟らしむるに至れり。
本村は地理的関係より窮状は、良く縣社会課警察部等に知悉(ちしつ)せらぬために救護団の派遣割合に遅く三日・四日・五日の中は、村内救護班のみにして六日に至り和賀郡小山田村消防組の遠く来村せるを見て罹災民は嬉しき涙を以て迎へしなり。
三月三日 本村駐在巡査三浦正雄氏は三日朝本郷の惨状を直視するや救護班の必要に逼られ機敏にも荒川縣道工事着手中の有田組、田村組に消防員を急ぎ馳せしめ救助を求めたり。此の急報に接し両組に於いては落成期限の切迫せるにも拘らず工事を休止し有田組石川昌三氏外五十名は直ちに現場に急行し死体の捜索に重傷者の收容に運搬に盡力されたり。
三月六日・七日・八日 和賀郡小山田村消防組
組頭菊池浩一郎氏外二十二名本村には他町村救援団としては最初に来村され宿所を小白濱小学校に定め本郷部落に赴き死体の捜索に或は跡片付けに盡力され罹災民の狂乱せる間にも良く同情且つ激励の言葉を與へつつ三日間の救護に努力され予定の活動を了へて無事九日帰村せられたり。
三月六日 吉浜村消防組仝青年団
吉浜消防組第二部長白木沢平太郎氏、第三部長水上助雄氏外二十二名は自村吉浜村も相当の被害を受けたるも、本村の窮状を聞き特に六日に来村せられ本郷部落の跡片付け其の他に盡力せられたり。
三月八日・九日・十日
岩手郡本宮村青年団
団長小笠原静雄氏外、二十三名は遠く本村に参りて宿所を学校に定め本郷部落の死体捜索及び跡片付けに盡力され小笠原団長の指揮宜しきを得喇叭(らっぱ)の合図に凡ては規律的訓練の下に奮闘され作業の跡も歴然と四日間の予定を終へて部落民の感謝の涙に送られつつ帰村せられたり。
三月十日・十一日・十二日
和賀郡二子村青年団仝補習学校生徒
団長高橋信太郎氏仝理事梅木義夫氏外三十名は九日来村せられ宿舍を小白濱小学校に定め十日より本郷部落にて作業に従事せり。団長高橋氏は二子補習学校の専任教員にして良く三十名の団員を統督し十日朝本郷部落に至り死体荼毘(だび)の煙に包まれつつある惨害の中に立ちて団旗を前に一同は整列し津浪溺死者の英霊に対して屡々(しばしば)黙祷を捧られ、其の後愈々(いよいよ)作業に着手せられたり。
此の頃は丁度本郷部落に於いては八十戸分のバラック建築に着手すべく八戸港より運送船が材料を満載し午前十一時頃本郷港に入港せり船は材料運搬に寸暇も無き時なれば、夜半に至るとも陸揚げを終了すべき船長の意見なり。この陸揚げ作業に二子青年団高橋団長に依頼せるに高橋氏は、自分等は非常の覚悟にて来りし者なればとて、此れを快諾され団員一同は部落炊出しの握り飯に空腹を凌ぎ乍ら海水に浸りて陸揚げし晝の疲労の色も見せず午后九時過ぎ迄奮闘せられ廃墟の跡に月影淡く煙に包まれて、凄惨極まりなき、本郷部落を夜半に引き揚げたり。
翌日よりは八十戸分の堆(うずたか)く海岸に積み上げられたる材料を、現在のバラック敷地迄運搬し或は良く惨害の跡片付け等に盡力され予定の日数を無事終へて帰村するときは、団員殆ど肩を腫らし足を痛め部落民の涙の見送りに十三日未明釜石経由帰村せられたり。
其の後仝青年補習学校は成績優良にして文部省の表彰を享けられしは慶賀に耐へざる次第なり。
三月十一日十二日
気仙郡日頃市消防組
日頃市消防組小頭 佐藤万次郎氏 第一部長鈴木佐太郎氏外七十名は十一日十二日の二日間本郷部落と小白濱部落とに二分してバラック材料の運搬バラック敷地の整理作業に盡力し十三日正午頃無事予定の任務を終へて帰村せられたり。
三月十一日・十二日・十三日
和賀郡岩崎村青年清明会
清明会とは縣民諸子の知悉(ちせつ)せる石黒知事主唱の六原青年道場終了者を以て組織せられたる青年団にして、此の清明会員及川光茂氏外十名は十一日来村され元小白濱消防屯所に宿舍を定め日頃鍛へし腕を持って本郷部落の整理にバラック材料運搬に盡力献身的努力を捧げられ十四日予定の行動を了(お)へて帰村されたり。
三月十三、十四、十五日
和賀郡飯豊村青年団
飯豊青年団斉藤忠勝氏外十七名は十三日来村、盛岩寺本堂裏に宿舍を定め小白濱部落の材料運搬、本郷部落の整理気仙水電電柱架設作業幇助(ほうじょ)等に従事し良く献身的に盡力され十六日予定の行動を終了し帰村せられたり。
三月十二日十三日
胆沢郡古城村青年団
古城青年団副団長小野寺正治氏外十名は釜石にて救護作業に従事し釜石より帰村の予定なるに釜石にて本村の窮状を聞き十二日本村に到着小白濱校に宿舍を定め本郷部落のバラックの材料運搬或は惨害の跡片付けに盡力され十四日無事帰村せられたり。
三月十三日より十八日まで
紫波郡赤石村櫻町大工
建築請負業鈴木永治氏十二名は労力奉仕として十二日来村せられ本村の窮状に殊に同情し一日も早く罹災者に住宅を與へんものと本郷に小屋掛けをなして宿舍とし十三日より直ちに本郷バラック建築作業に従事され縣大工と共に不眠不休の努力を続けられ十八日迄に五戸建バラック一棟半を建築し無事予定の奉仕を終へて帰村せられたり。
三月十二日—十九日迄
青森縣下北郡川内村大工笠井盛三氏外四名
右五氏は遠く青森縣より本村に参られ、本郷バラック建築に労力奉仕として奮闘せられ盛岡大工赤石村大工と共に不眠不休の奉仕をなし五戸建バラック一棟を建築し予定の奉仕を終へて帰省せんとせるに本村木村助役より猶引き続き従事せられたきことを懇請されしに事情諒察笠井氏、高田藤吉氏、工藤兼吉氏の三氏は後迄残り従事することとなり本郷バラック完成後は花露辺のバラック建築をなし四月末に罹災者の感謝を受けつ名残惜しくも遠く帰村せられたり。
三月十三日 釜石町 白浜消防組
      仝   白浜青年会
隣村白浜青年会消防組は白浜部落の惨害取り片付け中なるも本村の窮状に同情を寄せられ特に十三日本郷に海路来りて死体捜索或は惨害の跡始末に援助され良く盡力されたり。
三月十三日十四日
日頃市消防組
第三部長鈴木伊太郎氏、第四部長杉山仁右エ門氏六十九名は第一部第二部と交代に来村せられ小白濱校に宿舍を設け小白濱部落の跡片付け或は小白濱校に收容されたる罹災者の炊事小屋の小屋掛け等に盡力され殊に塵芥等の焼却をなし、此れが消火に喞筒(そくとう)を使用して打ち消し小白濱部落罹災者に不安を抱かしめざるは真に感謝に堪えざる次第にて十五日無事予定の行動を終了して帰村せられたり。
三月十四日十五日
胆沢郡真城青年団 二十五名
   真城自警団  十六名
統導員真城小学校訓導高橋清見氏、自警団第一部長瀬川勝雄氏、第三部長及川力雄氏、第四部長梨川一郎氏外十七名は気仙沼より三陸気船にて十四日来村せられ盛岩寺観音堂に宿舍を定め本郷に赴きバラック材料の運搬及び跡片付けに従事し、殊に自警団員一同は海岸よりバラック住宅地迄の道路を修理する等、全く献身的努力を捧げ十六日予定の行動を終へて無事帰村せられたり。
三月十五日より十九日迄
岩手中学校配属将校現役陸軍少佐小林島司氏、仝校教諭志賀義雄氏外仝校五年生十名は十五日来村せられ始めは本郷部落北岸に天幕を張り奉仕作業に従事し半ばになりて、盛岩寺観音堂に移転し本郷に通ひて盡力せり。十名の生徒は皆盛岡良家の子弟なるに仝校の体験労作教育の方針より此の度罹災地に特派することとなり来村されし十五日の日より直ちに着手し金ボタンに巻ゲートルの姿勇ましく本郷バラックの材料運搬惨害の跡始末、雨天の日は罹災民收容所たる小白濱小学校の舍内掃除迄さながら学校にある如き厳粛なる規律を守り献身的に奮闘せられたり。
作業半ばにして小林先生の御令息急病のため突然御帰盛されたると又生徒の中、厨川駅長の御子息盲腸炎を起こし、就床し父上と兄上の態々(わざわざ)当村に御出で下されしは誠に御気の毒にて同情に堪えざる次第なりき、されど志賀先生の統率の下に九名の生徒は無事予定の行動を終へて十九日帰盛の途に上れり。
うら若き青年学徒の将来に於いて定めし思い出深くし、又偉大なる体験を得し事を想ふて猶将来の成功を希(こいねが)ふと共に岩手中学校の発展を祈る次第なり。
三月十八日・十九日
胆沢郡小山村徳岡在郷軍人分会
小野寺久吉氏外十名は釜石に於いて救護作業に二日間奉仕し帰省せんとせるに小野寺氏は本村の被害甚大なるに同情され是非本村にも奉仕せんことを主唱し一同を動かし遂に十八日来村せられ盛岩寺本堂裏に宿舍を定め小白濱部落に陸揚げせられ、二十日予定の行動を了へて無事帰村せられたり。
三月二十一日 二十二日 二十三日
稗貫郡湯本村青年団
団長高橋正右エ門氏十四名は二十一日来村せられ小白濱小学校に宿舍を定め小白濱部落のバラック敷地作業に活動され雨降りの日も物ともせず良く盡力され二十四日朝予定の行動を終へて三陸汽船にて釜石経由帰村せられたり。
三月二十二日二十三日
胆沢郡南都田村東田土工園
仝土工園長高橋斌男氏外十名は二十一日来村せられ二十二日より本郷小白濱間の縣道の修理工事に盡力され二十四日無事帰村せられたり。
此の後盛岡聯隊区の命を受け盛町在郷軍人分会刈屋友治氏五十名、世田米在郷軍人分会横田村在郷軍人分会菅野彦七外六名等来村せられ夫れ夫れ惨害の整理に敷地の作業に盡力されたり。
   訂正
◎本項(各種団体活動の部)中、三月三日有田組石川昌三氏五十二名の外「田村組大倉喜作氏外五十名」を書き落したるを以て訂正します。

罹災者の健康状態

連日厳寒の襲ふ三陸罹災沿岸地方は気温の低下甚だしく九日頃は零下十度七分といふ薄衣の罹災民に取っては殺人的寒気が訪れ、ために感冒流行し中には急性肺炎を併発して重態なる者も出来るに至れり。
本村に於いては小野寺孟夫氏の長男小野寺芳信君(三才)及び赤羽正夫君(二十二才)が学校に避難中に急性肺炎を起こし一時は重態なりしも漸次経過良好なりき 外多くの罹災者は良く健康を保持し居たるは良く防寒に留意せられたるによる。只配給品は単一食物にて米、鰹、鱒、鮭、鯖、福神漬のみにして野菜類新鮮なる魚類味噌類等の要求多かりしない。

罹災者の津浪直後の精神状態

津浪直後の罹災者の精神状態は先ず誰もが考えたるは近接者の安否を気遣へたるものの如く事業家は又、漁船漁具の安否を、一般罹災者は自己の家、家財道具の安否を考へ此等が判然し行くにつれて家族の将来に対しての生活上の煩問に皆茫然たるものの如し。

救療班の活動

救療班の活動を記すに当たり先ず特筆すべきは紫診療所の活躍なり。
即ち明治二十九年の津浪に際しては本村は甚大なる惨害を破り数多くの死者を出し重軽傷者又多かりき、此の重傷者救護の多く、全く献身的努力を続けられ村民一同の感激を受け、又其の筋よりも其の功績を褒賞されし、紫琢治氏は再び此の悲惨極まりなき津浪に遭遇せられ救護診療に献身的活動を捧げられしは罹災者一同感謝に堪えざる次第なり。
特に今回の津浪に際しては前回の津浪による尊き体験と一昨年釜石病院唐丹分院として新築せる建物充実せる諸設備とに依りて萬遺漏なき救療を施されしは又真に幸甚(こうじん)の至りなり。
三月三日
紫琢治氏は未明津浪の襲来を知るや直ちに小白濱部落の負傷者を救護せんものと惨害の中を踏査され磯崎六之丞氏妻タカの孫ウタ子(七才)を背負ひ瀕死の状態にて倒れ居たりしを探し出し応急處置を致されし其の甲斐なくタカ女は惜しくも黄泉の客となりしも背にありて今や凍死せんとするウタ子は救ひ出されて早くも手当てを受けしため一命を取り止め得たるに全く紫琢治氏の神速なる活動による者なり。
未明なるに紫琢治氏は看護婦平松マサ女を伴ひ三浦巡査と共に本郷に急行せり。着するや本郷は重傷者の呻吟(しんぎん)死者の伏屍阿鼻叫喚の巷たり。
直ちに負傷者に対しては救急處理を施し瀕死の状態の者に対しては焚き火をなして暖を取る等神妙なる活動をなされ後、此れ等負傷者は全部小白濱診療所に運搬收容し此れより両川重吉氏鈴木フヨ女、大向フミ子、小野寺末子女の助力の下に全く全院一同涙ぐましき活動が展開されたり、斯くしてゐる中に遠く其の窮状を聞き救療班の応援団来村せられ良く応援せらるるに至れり。救療応援班の状態を略記せん。
三月四日ヨリ六日迄
 花巻共立病院 救護班{医学博士  草刈兵衛氏
            外科副医長 飯田研三氏
            薬剤師   森川秀吉氏
            看護婦   小原フジ女
             〃    千枝ウヨ女
             〃    千田タミ女
三月四日ヨリ十三日迄
 東京府救護班
 東京府救護主事 横島常三郎氏 看護師 藤本サワ
 医学博士    小島栄治郎氏  〃
 医学士     田中淳氏    〃
  〃      田中盛親氏
三月六日ヨリ八日迄
 逓信省診療班
  嘱托医 小原幸作氏
  看護婦 相沢エン女
  事務員 戸島千秋 
 岩手医学専門学校生徒 救護班
三月十二日ヨリ二十日マデ
 岩手医専四年生 田村彰氏
 仝       柴田清治氏
三月二十三日ヨリ四月七日迄
 四年生 佐藤政勝氏 仝 王壬癸氏
  〃  北條昌弘氏
  〃  日戸太郎氏
三月二十四日ヨリ三月二十八日迄 盛岡一戸医院 一戸氏
以上の如き応援を受けて治療を受けし者二百八十余名の多きに達し三ヶ月に亘る柴診療所全員の献身的活動は実に偉大なるものにして長く感謝の一念として罹災者一同の脳裡に深く刻まれたるを惟ふて筆を止む。

湾内流失物の処置

恐怖と失意の呑底(どんぞこ)へたたき落とされし今は、唯生命の貴さを知るばかり骨肉の父母兄弟—数十年の蓄財・・・瞬時にして去りしを思へば暗涙のみ。
茫然自失其の去就を知らず明日の食を・・・否今日の食を如何にすべきか?右に左に心は落ち着かず 腕をこまねき惨害を見入る様狂人がと怪しまる。渚に遊ぶ財は今は恨めしく見ゆるのみ。
骨肉の死体すらも人手のなす所況(いわ)んや財に於いておや
流失物湾内に満つあれども心にあらず、あまつさへ船なく蒐集に努める者更になし。
然れども何時迄斯くあるべき生きし者のなすべき事の一々を知りし村有志は殆んど被害なき大石浜より二艘の発動機船と五艘の小船とを以て蒐集せしめんとす。然れども自分達の財なれど拾はんとする罹災民なし 被非罹災民之に従事す。
三日には発動機船並びに小舟の繋索をなし、他の物の蒐集も心掛けしかども意の如くならず船を出せしは晝頃なれば海遠く去りし物亦数ふべからず。
箪笥、梱(こり)などは皆破られ形なく陸より蒐集可能のものの外、海水の弄(もてあそ)ぶ所となる。
陸上にありし物は各自拾ひ歩き、三日の後には陸上殆んど整理され四日の後より小船にて海中に没せし物の蒐集に努む然れども海底は一面の泥にて意の如くならず、本郷湾など二米(メートル)程の泥海との事なり。然れば意の如くならず必死の努力にて反物衣類など拾ひ上ぐ。
米俵炭などは皆罹災民の食料薪炭となり反物衣類などは立ち会いの下に各自に下渡す。
所有者不明のものは皆配給所にあてられし学校に運び乾かす。
後入札になすとの事。
材木、畳などは皆陸上げなし、不明のものは役場保管者となり、公共建築材になす。
流失材湾口を塞ぐ程の多数なりしも蒐集すべき心なき為、活動遅く湾外へ流失せしは残念なれども其の心境に至れば斯くなるものと、今更口惜し。流失せし財の統計を左に記さん

   罹災救助品配給状況調   五月三十日現在
種目 本日マデノ受入高  仝配給高 差引残数量
米       八二五   八二四     一
味噌      一三五   一三四     一
醤油      一三四   一三四     ▽
漬物       九二    九二     ▽
野菜      一八一   一八一     ▽
布団    一、三一〇 一、三一〇     ▽
毛布    一、八三九 一、八三九     ▽
木炭    一、六九一 一、六九一     ▽
其ノ外   二、一二六 二、一二三     三

慰問品の配給

住むに家なく食ふに食なき罹災民唯救ひの神を待つのみ。
通信機関の一切は途絶し飛脚のなす所さながら昔に帰りしが如く。
移入で生活を保ち居る罹災民なれば山谷、荒川、片岸方面よりの食物の応援意の如くならず当局為に苦慮す。
然るを縣の活動敏活にて三日午前七時といふに廰員招集せられしとの事
四日より釜石署下四ヶ町村は配給は開始せらる。
縣廰配給吏員たる社会課員不眠不休にて警察部の被害調査と町村よりの被害調査報告とを基礎として町村別配給率を定め全国各地よりの慰問品並びに縣よりの配給品を即日配給なすの敏捷(びんしょう)さ慰問品亦多数にして其の敏捷を以てして尚本署広場並びて本署正門前道路に山積みす。終日汽車汽船、トラックにて海陸両路より来る物数入られず其の荷受けさへ終日の仕事と思はる。
山積みせる荷物は非罹災町村よりの応援消防夫並びに青年団員により四ヶ町村へトラックにて直接に又は間接に運搬さる。
彼等亦不眠不休にて荷受けに荷渡しに握り飯にて活動を続く其の活動たるや涙ぐまし 吾々罹災民感謝の言葉なし。
本村にても早速配給船金比罹丸を廻航せしめ配給を受く四・五日の間は消防夫派遣し配給船への積み込みをなせしも翌九日より小白濱青年会員之れに当たる。
会員未明釜石本署配給所に至り窮状を訴ふ。
然れども率の示す所如何とも仕難し不得止(やむをえず)。かくなれども青年の血を吐く窮状の叫びと苦痛を訴へば吏員を動かさず置くものか、遂に吏員の本村派遣となり翌日より配給船二十トンの船は満船にて帰航するを得、村民の咄嗟(とっさ)の生活並びに人心を安定せしめしは真(まこと)に熱ある青年の活動と吏員の時宜に適したる最良の手段の誠意ある所と村民非常に感謝し涙を流し日本国家の有り難さを必々と述べしは非常時日本にふさはしき状景なりしなり。
十四日より第一部消防組と青年会と二日更替(こうたい)にて配給を受くるに至る。
全国民の同情は数日ならず日毎慰問品山積みす。配給船何時の日も満船にて帰航す。
今は旧に倍せる如き衣類の山、然も二月(ふたつき)に渡る全国民の同情如何に文明文化と言ひしも、斯くばかりなるを今更驚き日本国民への心情益し強く感謝の念禁ずる能はず。
斯く運搬せられしを村吏員の手より各部落区長へ被害率に依り配給なし、更に区長より伍長へ更に伍長より各人へ数に依り配給す。
衣類は目分量にて山になし分け、番号を付け抽せんに依り分配す。
米、味噌は計量器の示す所より、下駄、ござ其の他の物も略(ほぼ)確実に配給せらる。然も今日に至れば必要品皆揃へ日常事欠かざる状態にして全国民よりの同情身に泌(し)むを覚ゆ。
慰問袋など受け取るを其の日の楽しみと考へるに至り、さながら玉手箱を戴くが如く、其の中には可憐なる子供よりの手紙や血を吐くが如き激励の手紙など数知れず一層の元気と勇気を植ゑつけられしは感激の外なし。
斯く確実なる配給をなし得たるも之れ皆全国民よりの多数の慰問品と各人の自覚によるものなり。
然れども人心未だ不安状態去らず恐々(きょうきょう)の折柄、デマよりデマ飛び其の不安一層なり。
津浪再来・・・流失物のいんとく、配給品の不平等々頻なり。
関東大震災も斯くやと思はる。其の間にありて花巻署よりの警部殿以下十数名の警官の心痛餘りあり。
応援警官亦三浦本村駐在巡査と協力し死体検視に人心不安一掃秩序恢復に他方には損害調査に日夜労苦を惜しまず東奔西走よく努力致されしは感謝に堪へず。斯くなれば警官の努力は報ひられ人心不安一掃し安(やす)んじて跡仕末に従事し得る機会を與へられたるは喜ばしき所なり。
当時来りし警官 芳名並びに本村配給係員の氏名を記せん。
警察官 花巻署 今野巡査部長外六名=警護、治安維持。 衛生課 福地警部=衛生。
唐丹村配給係 松田勇藏、木村鶴藏、高橋正 各区長 各伍長

死体捜索

余りに大きい瞬時の徒(いたず)ら、誰が予想したであろう。未明鱈縄へ送りし妻が子が今日の日に迎へざりしか
昨日の喜びは今朝は悲しみとして迎へねばならないとは誰が察知したであろう。三百有余の物言はぬ人・・・今は何処に去りしか?尋ねんとするに目途なし、僅かに百有余の死体のみ・・・
他町村よりの応援隊員と消防 青年の力に尋ぬれば今は はかなし首なき胴、顔つぶれ 材木の下敷きに 塵を覆い人名すら明白ならざる人、見るも無惨なり。
近親之れを呼べば血を吐くの古語を信ずる遺族懸命に之れを呼ぶ
父は子を 子は親を—兄弟を 伯叔父母を・・・此の世の地獄・・・ 名状すべからず
今は陸を隈なく探せど尚見えざりし二百余の死体・・・
一縷(いちる)の望みを海に托し小舟をもて捜(さが)せど見えず潜水夫に依れども空し。
力盡きたる遺族トロール船に依り捜索す 亦空し
暴浪に奔弄されし霊は遠く去りしか。
当初よりの望み今は絶え、暴風雨に依る偶然を頼みとするに至れり。
数日にして暴風雨来れども見えず頻りにデマ飛ぶ 汽船数十個の死体を見しとか、海底深く沈みしとか。
恐らく湾口外に出で遠く南の国へ去りしものと推察さる
津浪当時 南潮激しく風激しきなればなり。
死者と断定さるべきも、法規の示す所如何ともしがたし。
亡霊となりしも、尚生存者となり居るは気の毒の極みなり。

死体の始末

今は望みなき死体捜索
発見されし者ばかりも懇ろに葬りたしと考へるもならず。
昨日迄戯れし幼子いつくしみし父母・・・面影なき死体を受け取る。
近親の心情・・・誰か知り得よう
医師の検視後近親之れを引き取り一家内の者は一度に重ね死せし姿にて薪を重ねて焼く。
跡仕末未だならざる凄惨な海岸に三々五々に別れ、青白く光を眺め刻一刻黒く焼け行く父母兄弟妻子・・・卒倒せんばかりの気なり。
昨日の宅地 今日の大葬場
運命の皮肉・・・
男なるが故に聲を出せず 歯を喰ひしばり朝迄凌ぐ 心中、遺族ならでは味わひ知らざるものであらう。
焼けし跡始末 亦惨なり。
打ち上げられし生箱(生魚入れ箱)或は醤油樽へ手をもて骨を拾ひ之れに入れ擔いで寺に持ち行く様、何に例へやう。
或は遺族語る
「何の罰でこんな事になったのだらう。生きた自分は幸福なのだらうか、河原で焼き魚箱へ骨を入れる。私はつらい、こんな事なら一緒に死にたかった。」と
目がしらをふく彼は、幸と言はうか不幸と言ふか言葉を知らず。
唯、頭の下るを覚えし、記憶 尚 新たなり。
骨は皆本堂に安置され、来るべき慰霊祭迄安置し置くとの事なり。

村内各種団体の活動

痛手を受けし各種団体 僅かに山谷、上荒川のみ難を逃れる。
然れども団体に席を置く各人皆一斉に立つ
名簿其の他流失せしも曲がりなりにも統制を付け活動せしは、団体にあらねば出来得ざる所なり。
配給品の運搬に死体の捜索に始末に流失個所整理に真に涙ぐましき活動でありしは感謝の至りなり。
左に各種団体の活動状況を記せん。

消防組
部 名  仕事ノ種類                出動延人数
第一部 配給品ノ運搬罹災者ヘノ物品配給流失個所整理  九〇九名
第二部 流失個所整理                  八〇名
第三部 流失個所整理・配給品運搬           四一六名
第四部 仝                      五六〇名
第五部 仝                      三二五名
第六部 仝      —               三九二名

青年団
第一分団 流失個所整理—
第二分団 仝     —
第三分団 仝     —
第四分団 仝     —
第五分団 仝     配給品運搬
第六分団 仝     —
第七分団 仝

女子青年団 炊き出し及び罹災者收容の諸世話
愛国婦人会 満州派遣兵家族慰問
三陸沿岸に周期的に襲来する此の津浪の災害に対しては吾人は周到なる豫防、避難方法を講じ再びかかる惨害を蒙らざる様、今に萬全の策を立てられんことを切望する次第なり。参考として震災予防評議会編纂津浪災害予防に関する注意書より抜粋して左に記す。

第一章 緒説

港湾は其の地形、水深分布及び環境等に於いて千差万別あるを以て、津浪罹災地の浪災予防法を講ずるにも亦其の規を一にすること能はず。但し三陸太平洋沿岸に見るが如き港湾は其の大同小異に従ひて之れを若干個に分類し得べし、本注意書に於いては、其の各部類につき標式的のものを選択し之れに対する津浪の加害状況を考へ之れに適すべき浪災予防法を講究することとせり。
惟ふに今回の津浪に於いては罹災町村部落二百を以て数ふべし其の地理的状況一々相異なるべきも小異を捨てて顧みざるに於いては何(いず)れの一を取るも其の前記標式的のものの何れかに近きを発見するに至るべく従って其の地に適すべき浪災予防法も亦之れを類推するに難からざるべし。
末段数個の実例を挙ぐ是れ其の類推を容易ならしめんが為なり。

第二章 海岸線の形状及び海底の深浅と津浪の加害状況

津浪は平常の水準面上二・三十米の高さに達することあるを以て次に記す港湾の地形は各々の場合に相当する高さを修正して考ふるを要す。
例へば平常の水準にてはV字形ならざるものも水準を若干高めるときは其の形式に近づくものもあるが如し三陸沿岸に普通見るが如き港湾に於いては湾の深さ甲乙類に於いては概して三・四十米乃至七・八十米なりとす。

甲類 直接に外洋に向かへる湾
 第一 湾形V字をなせる場合 津浪は湾奥に於いて十米乃至三十米の高さに達し汀線(ていせん)に於いて一層勢いを増して浪を更に高所に打ち上ぐるを通常とす。
 綾里湾 吉浜湾 姉吉集 十五兵村 荒等 此の部類に属す。
 第二 湾形U字をなせる場合 津浪は前者に比較して稍軽きも、高さ十五米に達することあり。
 田老、久慈、小本、大谷等此の部類に属す。綾里湾は其の変形と見るを得べし。
 第三 海岸線に凸凹少なき場合 津浪は其の高さ前記第二に近くして稍低く十二米に達することあり。
 吉浜村千歳、赤崎村長崎、十五浜村大須等 此の部類に属す。

乙類 大湾の内に在る港湾
 第四 港湾V字形をなして大湾に開く場合 津浪は第一の形式を取るも波高い稍低く十五米に達することあり。
 船越、山田の両湾に連なれる船越、両石湾に開ける両石湾、十五浜村相川等此の部類に属す。
 第五 港湾U字形をなして大湾に開く場合 津浪は第四に比較して一層低く浪高七八米に達することあり。
 広田湾に開ける泊 釜石湾に連なれる釜石湾、大槌湾に連なれる大槌港、追波湾に開ける船越湾等此の部類に属す。
 第六 海岸線凸凹少なき場合 津浪は第五に比較して一層低く四・五米に達することあり又、破浪することなく単に水の増減を繰り返すに過ぎざる場合多し。
 山田湾内に於ける山田湾、大船渡湾に於ける大船渡港等此の部類に属す。

丙類
 第七 湾細長く且つ比較的に浅き場合 津浪は概して低く波高漸く二・三米に達す。
 気仙沼湾此の部類に属し、女川湾之れに近し。

丁類
 第八 九十九里濱型砂濱 海岸直線に近く海底の傾斜比較的に緩やかにして津浪は其の高さ四・五米に達することあり。
 青森縣東海岸、宮城縣亘理郡沿岸等此の部類に属す。
港湾は其の形状深浅に従ひ以上の如く数種に分類し各々の場合に相当する波高限度の概数を記載せるも湾側及び湾低の凸凹屈曲等の津浪に與ふる影響も亦決して軽視すべきにあらず屈曲凸凹甚だしきときは浪勢之れに由って減殺せらるるに至るべく従って同型に属する港湾に於いても其の環境の如何によりて波高限度に多少の差違ありと知るべし。

第三章 浪災予防法

   高知への移転
浪災予防法として最も推奨すべきは、高地への移転なりとす。尤も漁業海運業等の為に納屋・事務所等を海浜より遠ざけ難き場合あらんも然れども住宅学校役場等は必ず高地に設くべきものとす。
三陸沿岸の町村部落は概して山岳丘陵を以て囲繞(いじょう)せらるるを以て多少の工事を施すに於いては適当なる住宅地を得るに甚だしき困難を感ぜず、但し漁業者にして往々高地住居の不便を唱ふるものあれども業務上の施設を共同にし、且つ適当なる道路を敷設するに於いては其の不便を除くを得べし。
実に船越村山の内の如きは、古来此の方法を実行し千数百年来未(いま)だ曽(かつ)て津浪の害を破りたること之れなしと稱せり。
第一の如き港湾に於いては固(もと)より、第二、第四の如きの場合に於いても亦津浪を正面より防禦するは実際上殆んど不可能に属す。斯くの如き場所に於ける浪災予防は津浪進路の正面を避け其の側面の高地に適当なる移転場所を求むるを唯一の策とすべし、船越村山の内、吉浜村本郷等適例とすべし。
後章、綾里村、両石、田老、釜石等に関する案を掲ぐ。
安全なる高地は鉄道大道路の新設或は改修に当たりても之れを利用すべく特に鉄道駅に就いて然りとす。
其の他浪災予防法として推奨すべき諸方法を列挙すること次の如し

   防浪堤
防浪堤とは津浪除(よ)けの堤防の謂(とな)ひにして海に設くるものと、陸に設くるものとの別あり。普通の防波堤は風波を凌ぐに足るも大津浪に対しては、其の効果を期し難し之れを津浪に対して有効ならしめんには、其の高さに於いても、はたまた其の幅に於いても、更に幾倍の大きさに増やさざるべからず。費用莫大なる為実行困難ならん。後章、釜石・田老等に関する案を掲ぐ

   防潮林
防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり。海岸に広濶(こうかつ)なる平地あるときは海浜一帯に之れを設くるを可とす。高田町沿岸に於ける松林の如きは此の好例たり。後章、田老、釜石等に関する案を掲ぐ

   護岸
津浪のあまり高からざる場所に於いては、津浪を阻止するに足るべき護岸を設くるにかたからざる場合あり。山田、長部等此の好例たり。

   防浪地区
繁華なる街区、海岸形式第四或は第五の如き津浪のあまり高からざる海濱にありて、而(しか)も多少津浪の侵入を覚悟せざるべからざる場合に於いては防浪地区を設置し区内に耐浪建築を併立せしむるを可とす。基礎深く且つ堅牢なる鉄筋コンクリート造りは最良の耐浪建築なるべく之れを第一線に配すべし、海岸に直角なる壁を多少強固に築造せば一層好果を收め得べし又家屋が木造なる場合に於いても基礎を深く堅固に築き土台を基礎に緊結せば相当の効果あり防浪地区の背面に配列せしむるに足るべし。

   緩衝地区
津浪の侵入を阻止せんとせば必然の結果として局部に於ける増水と隣接地区への反射或は氾濫を招来するに至るべし、川の流路谿谷或は其の他の低地を犠牲に供して之れを緩衝地区となし以て津浪の自由侵入に放任するに於いては隣接地区の浪害を軽減するに足るべく、若し又投錨の船舶を此の緩衝地区へ流入する津浪に委ねるに於いては其の被害を多少軽減し得べし、緩衝地区には住宅學校・役場等を建設せざるものとす。鉄道・大道路も亦之に乗り入れしめざるを可とす。

   避難道路
安全なる高地への避難道路は何れの町村部落にも必要なるべし、釜石の如き都会地にありては、此の種の道路をして将来の住宅地たるべき高地へ通ずる自動車道路をも兼ねしむるを得策とすべし。

   津浪警戒
津浪予知の困難なるは、地震予知の困難なるに等し。然れども津浪の波及は緩漫にして、其の発生より海岸に到達するまでに三陸海岸に於いては通例少なくも二十分間の余裕あるを以て器械或は体験によりて、其の副現象を観測し、之れに依って津浪襲来の接近を察知し得べし、津浪の副現象は左の如し。
一、津浪の原因たる海底変動によりて大規模の地震を伴ふ場合多し、他震動は之れに緩急種々の区別あるも概して大きく搖れ且つ長く継続す。
二、地震と津浪とは同時に発生するものなれども伝播速度に差あり。
其の発生より海岸に到着するまでに地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども津浪は二十分乃至四十分を要すべし
三、遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり、地震後五・六分乃至十数分目に来るを通例とす。
四、津浪は三陸沿岸に於いては引き潮を以て始まるを通常とすれども然らざる場合あり。襲来後海水は一進一退を繰り返すこと多次なるべく、多くは第一波が最大なれども、第二波或は第三波が最大なることもあり、潮の進退は其の速やかなるときは毎秒十米に達することあり。
津浪は概して以上の如き順序によりて起こるを以て、単に体験のみに依りても警戒の手段あり。
若し之れに加ふるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、団体組織等を以てせば一層有効なる警戒をなすを得べし。

   津浪避難
地震の性質其の他によりて津浪の虞之れありと認むるときは老幼虚弱のものは先ず安全なる高地に避難すべく、其處(そこ)に一時間程の辛抱をなすを要す、又強者特に健脚のものは海面警戒の任に当たるべく津浪襲来の徴(しるし)を認めたる場合警鐘、電話等に依る警告を発するに遺憾なきを期すべし。
避難の為家屋を退去するに当たりては、津浪到着までの余裕を目算し、火の元用心、重要なる物品携帯等機宜(きぎ)に適する處置をなすを可とす。
雨戸を開放するは津浪破壊力の減殺に有効なることあり。
船舶は若し岸を二・三百米以上離れたる海上にあるときは、更に沖へ出づること却って安全なり。若し然らざるときは固く之れを?留すべく、若し又緩衝地区へ流入の見込みあらば投錨のまま之れを浪の進退に任せること避難上の一法たるべし。

   記念事業
浪災予防上の一大強敵は時の経過に伴ふ戒心(かいしん)の弛緩(しかん)なりとす。明治二十九年大津浪の直後、安全なる高處に移転したる村落は其の数十指を屈するに及びしも、時の経過に伴ひ再び復旧して今回の災厄を被むるに至り、唯僅かに吉浜村本郷及び崎山村女遊戸(おなつべ)の如き一・二の部落のみ能く此の浪災予防上の第一義を遵存せり。惟ふに今回の災厄に対する記念事業多々あらん、就中浪災予防に関する常識養成の如きは、之れを罹災地の一般国民に課して極めて有意義なるものたるべく特に之れを災害記念日に施行するに於いて印象最も深かるべし。
記念碑を建設するも亦前記の趣旨に適するものたり。是れ不幸なる罹災者に対する供養塔たるのみならず将来の津浪に対し安全なる高地への案内者となり兼ねて浪災予防上の注意を喚起すべき資料ともなり得べきを以てなり。

正誤表(覆刻文に合わせて作製)

・8ページ本文5行目「殆ど同時位に」の次に「盛岩寺の梵鐘を」附加し「乱打せり」と続く
・8ページ本文7行目「人々の津浪だと絶叫し」を「人々の津浪だとの恐怖に逃げ或ふ中にも良く高き所より津浪だ津浪だと絶叫し」と附加す。
・10ページ11行目「川畑辰三郎」は「佐々木辰三郎」と訂正
・原本十三枚 表(おもて)三行目「三月十四日釜石役場にて」と附加す。(原本欠落)
・17ページ2行目「怒号した」を「怒号す」と訂正
・17ページ15行目「天に■立する」を「天に魏立する」と訂正
・18ページ3行目「静けを」を「静けさを」と訂正(訂正済)
・19ページ6行目「頻(しげ)くなり」を「頻(しき)りなり」と訂正
・19ページ16行目「談によると」を「談によれば」と訂正
・20ページ14行目「依ると」を「依れば」と訂正
・21ページ7行目「あせるけれども出来ず」を「あせれど出来得ず」と訂正
・21ページ7行目8行目「付け合ひし居たるも」を「付け合ひ居たるも」と訂正
・原本十九・二十枚の統計は三十二枚目に続くものなり。(原本欠落)
・原本三十二枚目の統計は三十五枚目に適用(原本欠落)

◎記録を一先ず打ち切って
大自然の暴威に怖れ慓(おのの)いて当時は夢中で働いて来た。今、後々のために何か記さうと思ふて筆を取ったが、頭の中は次から次へと混雑の有様が、只、走馬燈の如くめぐって、まとまりがつかない。只書かうと思ふ一念から、手当り次第書いて見た。未だ未だ書くべき事が山程ある。又此れから書かねばならぬ事も澤山出て来るが、一先ず打ち切って置きたい出来上ったものは、全く杜撰(ずさん)なものだ、断片だ、文体は目茶苦茶だ。然しこんなものでも見て、皆様の御批正と補填が出て、将来完璧な記録でも生まれることのあらんことを希(こいわが)ふて閣筆(かくひつ)する 記録係

       覆刻者上飯坂 哲
       釜石市甲子町九−二四一−六一