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安房震災誌

     詔書
朕神聖ナル祖宗ノ洪範ヲ紹キ光輝アル國史ノ成跡ニ鑑ミ皇考中興ノ宏謨ヲ継承シテ肯テ愆ラサラムコトヲ庶幾シ夙夜競業トシテ治ヲ図リ幸ニ祖宗ノ神祐ト國民ノ協力トニ頼リ世界空前ノ大戦ニ處シ尚克ク小康ヲ保ツヲ得タリ
奚ソ図ラム九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾萬ナルヲ知ラス剰ヘ火災四万ニ起リテ炎焔天ニ沖リ京濱其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ傳ハリ人心洶々トシテ倍其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政當時ノ震災ニ較フレハ寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム
朕深ク自ラ戒慎シテ己マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ豫防シ難ク只速ニ人事ヲ尽クシテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ條規ニ膠柱シテ活用スルコト
ヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ爲ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス
朕深ク之ヲ憂惕シ既ニ在朝有司ニ命シ臨機救濟ノ道ヲ講セシメ先ツ焦眉ノ急ヲ拯ウテ以テ恵撫慈養ノ實ヲ擧ケムト欲ス
抑モ東京ハ帝國ノ首都ニシテ政治経濟ノ枢軸トナリ國民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我國都タルノ地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ將來ノ發展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルへカラス惟フニ我忠良ナル國民ハ義勇奉公朕ト共ニ其ノ慶ニ頼ラムコトヲ切望スヘシ之ヲ慮リテ朕ハ宰臣ニ命シ速ニ特殊ノ機關ヲ設定シテ帝都復興ノ事ヲ審議調査セシメ其ノ成案ハ或ハ之ヲ至高顧問ノ府ニ諮ヒ或ハ之ヲ立法ノ府ニ謀リ籌画経営萬遺算ナキヲ期セムトス
在朝有司能ク朕カ心ヲ心トシ迅ニ災民ノ救護ニ從事シ厳ニ流言ヲ禁遏シ民心ヲ安定シ一般國民亦能ク政府ノ施設ヲ翼ケテ奉公ノ誠梱ヲ致シ以テ興國ノ基ヲ固ムヘシ朕前古無比ノ天殃ニ際會シテ恤民ノ心愈切ニ寝食爲ニ安カラス爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
   御名御璽
     攝政名
       大正十二年九月十二日


天地何心(毛筆画像)

安房震災誌を読みて

 大正十二年九月一日の大震災は昔安政の大震と明暦の大火とを同時にしたやうで、其の惨憺たる被害の状況は實に筆舌の能く尽すことの出來ぬ酸鼻の極みであつた。我が房総の地亦震源地に近く強震に次ぐに強震を以てし、家屋の倒壊人畜の死傷算なく、単に震災のみの被害を以てせぱ東京横濱及横須賀より、より以上甚大であつた。此の日午の刻轟然たる大音響と共に屋宇倒壊濛塵晦瞑人畜逃避に遑なく、一瞬時にして死者千二百餘人傷者三千餘人を出し、家屋の倒潰三萬千餘戸其の範囲北條館山那古船形を中心として四十三ケ町村の廣きに及び、阿鼻叫喚凄絶惨絶の修羅場を呈せるに、加ふるに流言蜚語盛に行はれ、海嘯來ると称し、鮮人の襲撃至ると傳へらる。幸にして死傷を免れたる者も戦々競々狼狽狂奔殆ど爲す處を知らず、喰ふに食なく着るに衣なく僅に地上に茵蓆を設けて死傷者を護り辛ふじて夜を徹するの有様であつたと聞く。實に人生悲惨事の極致と謂はなければならぬ。安房郡民は此の古今未曾有の大震災を後世に傳ふべく震災誌の編纂を企て稿成り予に序を求められた。就いて閲するに記事正確又凄絶、加ふるに文章亦精錬當時の光景紙背に徹し同情の念湧出讀了に堪へぬものがある。予舊史を讀む毎に常に感激措く能はざるものは不慮の天災地變に際して我歴代の皇室が賑恤救護の天恩の優渥なことである。今次の震災に當ても詔書を下し畏くも「恤民の心愈切に寝食爲めに安からず」「朕深く自ら戒愼して已まず」と仰せさせ給はる。特に我が震災地には侍從を差遣はさせられ親しく災民の實状を尋ねさせられ、山階宮殿下亦親しく罹災民御慰問を給はれた。寔に感激恐懼措く能はざるものである。深く郡民の心肝に牢記して永久に聖恩の渥きに奉答せねばならぬ。今や震災後茲に四ケ年郡民の励精努力によりて復興の緒漸く就り今後勤儉力行積むに歳月を以てせば將來の發展期して俟つべきものがある。轉禍爲福は昔よりの教訓である。冀くば安房郡民たる者は大正十二年を生活の一變轉期として將來愈發奮一番新時代を招徠して以て聖恩の渥きに奉答するを得ば震災は寧ろ感謝すべきである。禍福の極致には人事と天事との差別はない。今や陽春三月萬物生を出すの時である。安房郡民の前途に多幸ならむことを祝福して已まぬ、一言所感を舒へて序にかゆ。
     大正十五年三月 千葉縣内務部長 山下謙一

 天災地殃は、從來吾人の知了し得ざる運命の一つと看做されてゐたが、科學の進歩は、或る程度までは、之れを豫知し之れを豫防することが出來るやうになつて來た。中にも地震は、學理によつて之れを豫知し得るものと断定さるゝやうになつた。然し、未だ完全な調査機關が之れに伴はないのは遺憾である。大正十二年九月の關東大震災も、地震研究者の説によれば、一兩年前より土地の隆起に既にその前兆を示してゐたと傳へられる。若し當時相當の調査機關が備はつて居たならば、斯くも戦慄すべき災禍は、或る程度まで之れを豫防し得たことであつたらう。
 我邦が、世界文明國中に於て、有名な地震國であることは人の知るところである欧洲に於て、我邦に比肩すべきものは、ひとり伊太利あるのみであるが、その災害は中部以南に偏在して、全國的ではない。又北米合衆國も、災害は殆んど西部地方に限られてゐるに反して、我邦に於ては、地震帯が全國に擴つてゐる。從て今次の大地震によつて一難は過ぎ去つたとしても。後難重ねて來らずとは断言することが出來ない。地震史料が、地震の調査研究に關して大切なることは喋説するまでもない。我が安房郡に起つた今次の地震を各種の方面から記録して、之れを後日に傳ふることは、少なくとも地震の災禍を今後に輕減するの一助となるであらう加之ならず、斯うした史料の研究によつて、間接に過去時代に於ける地震に對する伝統的な運命観を、その誤謬より一新することともなるであらう。震災誌の成るひとり有形的記録として大切なるのみならず、無形な效果の更らに大なるものあるべきをうたがはない。予職を安房郡に奉じ前郡長新川氏の後を承け震後復興の事に當り、切に之れを思ふ。記して之れを序に代へる。
   一九二六年三月
          安房郡役所に於て
             安房郡長 齋藤助昇

安房震災誌の初めに

 私が安房郡に赴任したのは、大正九年十二月のことで、まだ郡制時代のことであつた。大正十二年九月の關東大震災は、それから丁度四年目のことである。
 今次の震災は、いはゆる前古無比で、その被害が極端に惨烈であつた。私などは一命が助かつたのが、眞に奇蹟ともいふべきで、郡内の多くの死傷者に對しては申しやうもないのである。だが、一命が助かつた。それは無上の幸福であると共に又大なる責任でもある。私が當時郡役所の内外に向て、生命の無事なるものは、それを感謝して、救護の途に萬斛の同情を尽せと叫んだのは、それが生き残つたものゝ責任であることを痛感したからであつた。然し、私の菲才淺學に加ふるに、當時救護材料は、大欠乏で、食物さへもなかつたので、救護の業は、生命がけでやつても、それは頗る至難事であつた。即ち生けるものゝ責任を心の儘に尽すことが出來なかった。だが、幸に大過なく善後の處置を遂げ得たことは、郡内諸先輩の協同のカと、郡吏員諸氏の熱誠と、縣は勿論、大震災善後會等の同情の賜ものであつたことは私の終生忘れがたいところである。尚ほ一の特記して置くべきは、斯る未曾有の大天災に際して安房郡民の態度が如何にも立派で、少しも常規を失はなかつたことである。
 震災誌編纂の計画は、此等縣の内外の同情者の誠悃を紀念すると同時に、震災の跡を後日に傳へて、聊か今後の計に資するところあらんとの微意に外ならない。震後復興の事は、當時大綱を建てゝ之れを國縣の施設に俟つと共に、又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであつた。が、本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、資料も亦た其處に一段落を劃したのである。そして編纂の事は、吏員劇忙の最中であつたので、擧げて之れを白鳥健氏に囑して、その完成をはかることにしたのであつた。今、編纂成りて當時を追憶すれば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代へる。
   大正十五年三月
        前安房郡長 大橋高四郎

再版の序

 大正十二年九月一日の關東大震災は、實に文字通りの振古未曾有のそれであつた。我が安房郡の如きは、震源地に接近してゐだだけに、その震動は極めて峻烈であつた。本書に記する全郡の各種の被害は、實にその激震の状を物語るものである。殊に海面は一帯に大海嘯襲來の變兆を現じたので、淘々たる人心は更らに一段狼狽したのであつた。今にして之れを追憶するさへ尚ほ肌に粟を生するを禁じ得ないのである。
 安房郡役所は、此の前古無比の大震災を記念すべく曩に「安房震災誌」を編述して、之れを官公署、學校等に頒ちたるも、發行部數僅少にして、廣く一般の希望に應ずることが出來なかつたのでそれを遺憾としてゐたのであつたが、編纂の局に當られた白鳥健氏は、此の程當局と交渉の上、多少増補を加へ、之れを再版に付して、汎く一般の需要に應じ本書編述の趣旨を貫徹せんとてその後援を予に求められた。予亦た素より感を同うするもの、直ちに白鳥氏の擧を賛し且つ頒布その他の勞をも吝しまざるべきことを誓つたのである。
 蓋し震後既に四閲年、復興の業半を過ぐると共に、人心漸く遅緩の状あり。幾多の困苦と欠乏とを甞めた當時の貴き體験は、次弟に減退せんとしてゐる今日に於て、本書を一般各家庭に頒つは啻に温古知新の資料たるのみならず、罹災當時の体験を永く今後の生活に生かす上に於て、更らに大なる補益あるべきことを信じてうたがはないのである。今、再版成るに當つて、所感の一端を記して之れをその序と爲す。
   大正十五年八月
         安房郡町村長會長
         千倉町長勲八等 岩瀬久治郎

凡例

 本書は大正十二年九月の大震災によつて、千葉縣安房郡の被つた災害と、之れに對して安房郡役所を始め全郡の官民が執つた應急善後施設の概略を記録したものである。
 本書は記述の興味よりは、事實の正確を期したので、第一編に掲げたる諸材料の如きは、文章も、諸表の様式も、敢て統一の形式をとらず、當時各町村が災害の現状そのものに就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。
 第二編の記事は、那衙に於て、地震の即時から随時筆録した「震災日誌」と、その他の材料によつたものである。
 巻頭の寫眞は、災害當時余震の頻々たる中に、危険を冒して紀念の爲めに撮影したものである。從て鮮明を欠くものが尠なくないのは遺憾とするところである。
 元田千葉縣知事より巻頭の題字を、又山下本縣内務部長、齋藤安房郡長、大橋前安房郡長の三氏より各序文を賜はり、本書の爲めに光彩を添ふることを得たるは深く感謝するところである。
 本書の編纂に關して、安房郡役所の佐久間郡視學、中川前郡視學、武田技師、鈴木郡社會主事、吉井郡書記、小谷郡書記及び大坪第一課長、門前第一課長諸氏の熱心なる尽力に對して、茲に特筆して感謝の意を表する。
 終に私が安房郡役所の囑託によつて、本書の編纂に干與したのは、震災の翌年のことであつたが、當時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐたので、調査報告の取りまとめに可なりの月日を費した。そして此の間、上記諸氏と各方面の關係者には、多大な手數を煩はした。若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの役に立つことがあれば、それは悉く諸氏の賜ものである。
   大正十五年三月
     白鳥健 識す

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写真 写真:御差遣アラセラレタル山縣侍從
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写真 写真:大震災前後會々長以下ノ御慰問 中央 會長徳川公爵 右 副會長粕谷衆議院議長
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写真 写真:家屋倒壊潰ノ状況(其一)北條町南町通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其ニ)北條町停車場通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其三)館山町西ノ濱通リ
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写真 写真:家屋倒潰ノ状況(其四)那古町寺町通リ
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写真 写真:鐵道線路被害ノ状況
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写真 写真:鐵橋(九重千倉間)被害ノ状況
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写真 写真:道路亀裂ノ状況(其一)北條町地内
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写真 写真:道路亀裂ノ状況(其ニ)北條町地内
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写真 写真:野島崎燈臺(白濱村)崩壊ノ状況
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写真 写真:銚子測候所館山出張所陥没ノ状況
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写真 写真:震火災被害ノ状況(其一)船形町
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写真 写真:震火災被害ノ状況(其ニ)館山町三福寺附近
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写真 写真:軍人團其他道路整理ノ状況
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写真 写真:青年團其他死體発掘ノ状況
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写真 写真:食糧配給ノ状況
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写真 写真:慰問品整理ノ状況
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写真 写真:小學校児童露天教授ノ状況
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写真 写真:倒潰セル郡役所
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写真 写真:倒潰セル警察署
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写真 写真:郡役所及警察署ノ仮事務所(附)郡長告諭ノ要旨
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写真 写真:救護事務ニ従事セル郡役所職員
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写真 写真:千倉町平館ノ惨状
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写真 写真:千倉町川尻橋附近ノ惨状

目次

第一編 地震と其の被害
  第一章 総説…………………………一
  第二章 過去の地震と安房…………九
  第三章 地形の變動…………………六〇
  第四章 人の被害……………………九〇
  第五章 家屋其の他の被害…………一〇五
  第六章 産業上の被害………………一三一
  第七章 教育上の被害………………一五二
  第八章 交通上の被害………………一八八
  第九章 海嘯及び火災………………二〇四

第二編 慰問と救護
  第一章 総説…………………………………二一九
  第二章 勅使御差遣其の他…………………二二四
   一、勅使と御聖旨…………………………二二四
   二、山階宮殿下の御慰問…………………二二六
   三、徳川大震災善後會長の視察其の他…二三〇
  第三章 郡吏員の活動其の他………………二三二
   一、御眞影の奉遷…………………………二三二
   二、縣へ報告の急使………………………二三四
   三、各地への急使…………………………二三六
   四、倒潰跡の郡衙…………………………二三九
   五、負傷者應急手當………………………二四二
   六、焚出其の他の給與……………………二四六
   七、牛乳の施與……………………………二五六
   八、鏡丸最初の活動………………………二五七
   九、米の欠乏と罹災民の窮状……………二五八
   十、小屋掛と材料の欠乏…………………二六一
   十一、通信と輸送…………………………二七四
   十二、臨時町村長會議……………………二七六
   十三、震災状況調査………………………二七八
   十四、救護事務の分擔……………………二七九
  第四章 青年團の活動其の他………………二八三
  第五章 恩賜金其の他………………………二九三
  第六章 御下賜品及び慰問品………………二九七
  第七章 震災死者の追悼會…………………三一一
  第八章 震後の感想…………………………三一二

第三編 復興計画と善行美談
  第一章 復興計画…………………三二五
  第二章 安房郡震災復興會………三二六
  第三章 善行表彰…………………三三九
   安房震災誌

第一編 地震と其の被害

第一章 総説

 昔は地震を「なゐ」又は「なゐふる」といつた。「なゐ」は鳴居の意で、「なゐふる]は鳴動の義である。地震が科學的に研究される様になつたのは最近のことで、地震に對する思想は、幾たびか變遷してゐる。王朝時代人の地震に對する思想は、天譴の思想であつた。主としてその時代の詔勅に現はれてゐる。次は陰陽道の思想に基くものである。平安朝中期以後の地震に對する思想は、それである。次は崇の思想である。崇の思想は、前の陰陽道の思想の一部分であるかも知れないが、學者は普通之を第三期に數へてゐる。平安朝の末期以後に高潮された思想である。要するに地震を地震(なゐ)の神の處作と做し大地の震動を以て、神の働きに歸したことは蓋し近世に至るまでの思想であらう。江戸時代に於て、安政の大震災が比較的徹底的に救護されてゐるなどは、人間相憐の思想の外に、爲政者の自責の思想が加味されてゐることに基くことは看過すべからざる大事實である。

 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば、大正十二年九月一日午前十一時五十八分五十七秒が、發震の正確なる時刻である。そして、震源地點は、安房州の崎の西方にして、大島の北方なる相模灘の海底である。震動の回数は初發より九月二十五日までに八百五十回を算した。
 震災當時の氣象に就て、館山氣象観測所の報ずるところによれば、九月一日午前一時十分より微雨降り初め、同三時五十分より普通の降雨となり、同四時五分少雨同五時二十分歇む。同七時三十四分より少雨、同八時二分より普通の降雨となり八時七分強雨となり、八時十四分再び少雨となり、九時十分より強雨、九時十七分より普通の雨となり、九時三十分に至りて歇む。正午以後は、大震の爲め破壊を被り観測不能となつた。
 又同観測所の示すところによると、九月一日午前六時の氣壓は七五四粍三、風向は南東。同十時には七五三粍、風向は南々西。正午不明。午後二時氣圧不明、風向南々西。同六時氣圧不明、風向南西。同十時総て不明である。序でに地震の前日即ち八月三十一日の氣象を略記すれば、此の日は天氣晴朗で、炎熱甚だしく、宛然盛夏のやうであつた。氣圧は、午前六時七五九粍、風向不明。同十時七五九粍四、風向南東。正午七五九粍、風向南。午後二時七五八粍、風向東南東。午後六時七五七粍六、風向南々東。同十時七五七粍五、風向不明であつた。

 次に地震襲來の状況を記せば、上記正午二分前、南西より北東に向て水平震動起り、續いて激烈なる上下動を伴ひ、震動は次第に猛烈となり、別表に示すが如く、鏡浦沿ひの激震地方は、大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、家屋その他の建築物又一としてその影をとどめざるまでに粉碎され、人畜の死傷限りなき一大修羅場と化した
 續いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、余震毎に必ず此の鳴動を伴つた。人心爲めに恟々、全く生きた心地がなかつた。
 然し、發震時が丁度正午であつたので、住民の分布状態は下記の通りである。—重もに激震地帯に就ていふ—
(1)漁民は二百十日(九月二日が二百十日)を氣遣ひ出漁するものが少なかつた
(2)農民は昼餉の爲めに田畑からの歸宅の途中又は家人一同打集ひて食事中のものが多かつた。
(3)町の商店では昼食中のものが多かつた。爲めに箸や茶碗を持つた儘飛び出したものが多かつた。
(4)小學児童は、夏季休暇後の始業式を濟まして、歸宅したばかりか、又は歸宅の途中のものが多かつた。學校の倒潰数の多きに比例して、児童の死傷者が比較的少なかつたのは此處に原因してゐる。

 安房全部に亘りての震災状況は、左掲の調査表によつて、各町村被害の大小輕重を量定すべきである。調査表にも見ゆるが如く、震源地が相模灘の海底であつただけに、鏡浦に沿へる北條、館山、那古、船形、それに接續しだ町村が被害最も多く、此處から稍や遠き西條以東の地、殊に東條、天津、湊の町村の如きは、殆んど被害を見なかつたのである。是れは本書の巻頭に掲ぐる地震地圖によつて、その大綱を認むることが出來やう。
 終に一言附記しておきたいことは、本編各章に掲ぐる編纂の資料は、各町村の被害状況を、郡長から、各町村長に囑託して、出来得る限り精確に、而かも當時の實況を有りの儘に記述したるものを基礎として、紙數の關係上、之れを幾分か修正したものである。修正したといつても、出來得る限り各町村の報告を尊重して、その趣旨は一も變更したところはない。從て地震そのものゝ大小よりも、地震を感受したその土地の人々の主観が、報告書中に幾分反射されてゐるところが全くないでもなかつたが、適當の程度に於て、之れを採用した。蓋し此等の事情は、即ち全體の被害を表示する本章の調査表によつて、一見明瞭なれば、事に害なきのみならず、却て當時各地方人のその感受さを、その儘表現したものとも見られ、且つ後日の参考ともなることであらう。

第二章 過去の地震と安房

 地震が國史にあらはれたのは、允恭天皇五年七月十四日の地震の記録に始まる允恭紀には「五年七月己丑地震」とある。爾來記録に存するものだけでも、實に千數百回の多きに達してゐる。そしてその大體は古事類苑に網羅されてゐる。然し記事は何れも簡単で、詳細に當時の状態を知ることの出來ないのは遺憾である。我が房総半島は地震學者の所謂る外側地震帯に属してゐるので、可なり地震の多いところである。だが、歴史的に之を見れば相模、武藏、三河、遠江、信濃、越後、畿内、近江美濃等の地方よりも大地震の度數は少ないやうである。ひとり中國地方には上古以來、大地震の記録が殆んど見當らない。此の地方だけは先づ地震の安全地帯ともいふべきである。

 記録に現はれた大地震が、安房方面には如何なる影響を與へたか、反對にいへば、安房方面に於ける大地震と、他の地方に於ける大地震とは是れまで如何なる關係を有して來たか。記録に現はれた大地震の梗概を記して、安房に於けるその大要を述べやう。
 前項に述べた允恭天皇即位五年七月の地震から、百八十三年を経て、推古天皇の七年四月二十七日には、大和國に家屋を悉く破壊する程度の大地震があったことが日本書記に見える。それから約八十年の後、天武天皇七年十二月には筑紫國に大地震があった。此の地震は非常な強烈なものであつた。即ち大地に廣さ二丈長さ三千余丈の亀裂を生じ、村々の百姓の家屋が多く倒壊したと傳へる。それから同天皇の十三年十月十四日には、全國的の大地震があつた。山は崩れ、河は溢れ諸國郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社等の破壊は無數であつた。そして、人民、六畜は多く死傷した。此の時のことである。伊豫の道後の温泉が埋没し、土佐の田苑五十余萬頃が陥没して海となつた。此の時、伊豆の北西に三百余丈の土地が隆起して、一つの島となつたと傳へる。その後、文武天皇の大寳元年三月二十六日に、丹波國に三日に亙つて地震があつた。以上は大和朝時代に於ける大地震の概況であるが、此の時代に於て、安房に地震のあつたことを記したものは見當らない。

 次に奈良朝時代に入つての大地震は、元正天皇の霊亀元年五月二十五日の遠江國のそれである。同月二十六日には隣國の三河にも大地震があつた。次代の聖武天皇の御代も可なり地震が多かつた。天平六年四月七日には、全國に亙る大地震があつた。百姓の廬舎は破壊され、且つ多くの圧死者を出した。そして山は崩れ、河は壅り、大地の亀裂は到るところに生じた。爲めに朝廷詔を發したほどであつた。しかし、安房の地は此の大地震に就て、如何なる状態であつたかは明かでない。又同じ天平十四年十月二十三日から二十八日まで、大隅國の空中に太鼓の鳴るやうな音がしたが、遂にそれが大地震となつたことは、續日本紀の記するところである。又同じく大隅國では、その後、稱徳天皇の天平二年六月五日にも大地震があつた。隣國肥後に於ては、天平十六年五月朔、雷雨に伴ふ地震があつて、民家四百七十余、人口一千五百二十余、水害に會ふて漂没し、その外、山崩れが二百八十余箇所圧死者四十余人あつたと傳へる。又その翌十七年四月二十七日から三日三夜の間、全國的大地震があつた。諸國の佛寺、堂塔、百姓の廬舎等、到るところに崩壊した
そして余震は、月を越えて尚ほ止まなかつた。震動は日夜絶えず、各所に地割れを生じ、水泉を湧出したのであつた。が、此の全國的の大地震に安房は、どんな状態であつたか詳細なことは知るべくもないが、震源地が美濃以西にあつたやうであるから、多大な損害はなかつたであらう。殊に記録に特書してないところから推測しても、さう見るが適當なやうである。尚ほ此の時代には、淳仁天皇の天平寶字六年五月九日にも、美濃、飛騨、信濃地方に地震があつた。が、詳細は記録に見えない。

 次の平安朝時代、即ち京都遷都の後、初めて経験した大地震は、延暦十六年八月十四日のそれである—遷都は延暦十三年—此の日は地震に暴風を以てして、百姓の屋舎の倒壊したものが多かつたと傳へる。それから嵯峨天皇の弘仁九年七月には、相模、武藏、下総、常陸、上野、下野等、いはゆる阪東諸國に大地震があつて、山崩れで渓谷を埋むること數里、百姓の圧死するもの無數。八月十九日朝廷は、爲めに詔を發せられたほどである。次で九月十日更らに詔を發せられた。詔書に「比者地震、害及黎元」云々とある如く、全く此の頃は地震の頻發したものである。それから九年を経て、淳和天皇の天長四年には、京都に大地震があつた。舎屋の倒るゝもの多く、余震は毎日七八度の多きに上り、年を越えても止まなかつたとは記録の示すところである。越えて七年正月三日には、出羽國に大地震があつた。詳細は類聚國史に明である。次の仁明天皇の承和八年二月十三日には、信濃國に地震があつて、一夜の震動十四度公私の損害多大であつた。又同年七月には、伊豆國に大地震があつた。詳細は不明であるが、村落の崩壊、人物の損傷の大なることは、續日本後紀の傳ふるところである。その後又八年にして、文徳天皇の御即位になつた嘉祥三年には、出羽國に強震があつて、大地は裂け、山谷は處を易へ、圧死するもの多數に上つた。當時國府の所在地であつた井口の地は、弛盤の陥没の爲めに後年國府の移轉問題が起つたほどである。此の地震に就ては、同年十一月二十三日に詔を發せられた。それから又五年の後、齊衡二年には、四月以來京畿の地頻りに震動し、五月二十三日には、奈良東大寺の毘蘆舎那佛の頭を搖り落したことが、東大寺要録に示されてゐる。そして落された大佛の頭は、貞観二年四月、眞如親王の力によつて修繕されたといふ。齊衡年間には畿内には地震が多かつた、即ち元年には五回、二年には十七回、三年には二十回の大地震があつた。就中三年三月の地震は頗る強烈であつた、屋舎の毀壊、佛塔の倚傾したものが少なくないことは、文徳實録の記するところである。
 その後、清和天皇の貞観五年六月十七日には、越中越後の北陸地方に大地震があつた。陵谷ところを易へ、水泉湧出し、民の廬舎の破壊されたもの、乃至は圧死したもの等が多數で、且つ余震が毎日つづいたことは、三代實録の傳ふるところである。そしてその翌六年七月十七日には、富士山のの爆發に伴ふ火山地震があつて、熔岩流れて、甲斐國八代郡本栖、せの兩湖を埋没し、水熱湯の如く、魚鼈皆な死したと傳へる。そして百姓の居宅、湖水と共に埋められた。
 又その後、後一條天皇の長元五年十二月十六日にも、富士山は火を噴いて、熔岩を山麓まで流したといふ記事が日本紀略に見える。富士山の爆發についで火山の活動は次第に強烈となり、貞観六年十月三日には、肥後國阿蘇山の神池が震動して池水高く空中に沸騰し、又比賣神嶺の一石神が頽崩したといふことが、三代實録に明記してある。阿蘇山はその後三年、即ち貞観九年五月十二日にも、震動して、廣さ五十余丈、長さ二百五十余丈ほど崩壊したと傳へる。又此の年正月二十日には、豊後國速見郡鶴見岳が爆發して砂泥を數里の外に流飛したと傳へる。貞観十年七月八日には、京都に内外の垣屋を頽破する程度の地震があつた。その時播磨國では、諸郡の官舎及び堂塔の頽倒したほどであつた。更らに同十一年五月二十六日には、陸奥國に稀有な地震があつて、大海嘯が襲來した。初め流光昼の如く陰映したが、頃刻にして、大地震となり、人民悉く地に伏し倒れ起きることが出來ず、家屋が倒れて圧死するもの、地裂けて埋没するもの、牛馬は駭き走つて相踏むものがあつた。城廓、倉庫、門櫓、墻壁等の頽落転倒するもの無數であつた。地震の震動中に海口が雷霆の如くに哮吼して、怒涛一時に漲り來つて怱ち城下に至り、海を去る數十里の間は、原野も、道路も一帯に海となつて了つた。そこで、舟を用意する暇もなく山に避難する遑もなくして、溺死したものが千許に達し、資産、苗稼等殆んど亡失に歸したと傳へる。之に就て十月十三日詔を發せられた。三代實録の記するところ頗る詳細であるが、今は概要のみを摘記しておく。
 次に、陽成天皇の元慶二年九月二十九日には、関東諸國に大地震が起こつた。各所に大地割を生じ、震動は京都にまで及んだほどである。中にも、相模、武総地方は最も強烈であつた。揺り返しは五六日に及んだ。爲めに公私の屋舎転倒して一も全きものなく、道路は陥落して不通となり、圧死した百姓の數は數ふることが出來ないほどある。それから二年の後、元慶四年七月十四日には、出雲國の地大に震ひ神社、佛寺、官舎及び百姓の舎廬等の倒壊するもの多く、爲めに損傷するものも亦た頗る多かつた。そして、余震は二十二日に至るまで昼間一二度、夜間三四度づつ連續したといふ。又此の年十二月六日には、京都に大地震があつた。夜から明けまで十六回の大震動があった。宮城の垣墻、京中の廬舎等の倒潰、破損等甚だ多かつた。そして余震は、毎日起り、遂に翌年に至るも連續したといふ。此等の事實は類聚國史、三代實録等の記するところである。
 それから、光孝天皇の仁和元年十二月二十日己刻にも京都に地震があつて、高樓等が崩壊した。翌二年五月二十日には、安房國の南海から黒雲群起して天をおひ雷鳴と地震とが徹宵止まず、夜明けになつて見ると、砂石粉土が一面に山野田園をおひ隠してゐたといふ。詳細は安房國からの言上に明白である。即ち「去五月二十四日夕、有黒雲、自南海群起、其中現雷光、雷鳴地震、通夜不止、二十六日曉雷電風雨、巳時天色晴朗、砂石粉土遍満地上、山野田園、旡所不降、或所厚二三寸、或處僅蔽地、稼苗草木、皆悉凋枯、馬牛食黏粉草、死斃甚多」。と三代實録に特記してゐる。
 次で同三年七月三十日申刻には、京郡の地大に揺れ、天皇親しく仁壽殿から紫宸殿の南庭に出御あらせられ、大藏省に命じて七丈の幄舎二棟を建造して、御在所に充てさせられたといふことである。それから、亥刻になつて震動すること三度、此の日、畿内を初め七道諸國にも同様の大地震があつた、官舎の損するもの多く、又海嘯を併發して無數の死者を出した。中にも攝津國は、惨害最も甚だしかつた、又信濃國では、六郡の城府民屋は地を拂つて漂流し、人畜の死體は實に山を成した。そして余震は數十日間に亙つた。即ち八月朔日には昼夜二回、二日には昼夜三たび四日には五回、五日には五回、爲めに、京の市民は何れも家を出て街路に立つてゐたといふ。此等は、三代實録、扶桑略記の傳ふるところである。此の大地震は實に全國的の地震であつたが、當時通信交通の不便な世にあつて我が安房は、如何なる状態であつたが、記録に徴すべきものゝ一も存在せざるは遺憾の極である。此處で平安朝初期に於ける地震の記録を終り、次に平安朝時代の中期に移らう。

 平安朝の中期は、至て地震の少ない聖世であつた。即ち前期の仁和三年の大地震がすんだ頃、八月二十六日、御即位にあらせられたのが宇多天皇である。宇多天皇の御代には是といふ大地震はなかつたやうである。次の醍醐天皇の御代も地震史上に於ては、矢張り泰平無事な聖世であつた。が、次の朱雀天皇の御代に這入ると、先づ承平四年五月廿七日午刻には、京都に大地震があつて、京中所々の築垣が轉倒した。それから四年目の同八年四月十五日には、各地に地震が起つた。そして舎屋の倒潰するもの多く、中にも京都に於ては、宮城の四面の築垣を始め、京中の垣墻は悉く破壊された。人畜の死傷も多數に上つた。余震は連日につづいた鴨川の水があふれて、京の町に浸入して、民家を多數漂流せしめたといふも、此の地震であつた。さうした天變の中に、東に平將門、西に藤原純友の事變があつたのである
即ち天爲人爲の騒々しい時代である。
 次の村上、冷泉、兩帝の御代に地震はなかつた。が、次の圓融天皇の貞元元年六月十八日には、未曾有の大地震があつた。天下の官舎、民屋が多く倒潰した、中にも、山域、近江の二國の惨害は最も甚だしかつた。天皇は此の時、暫く御輿を南庭に寄せられ、幄舎を建てゝ御在所とせられたほどのことである。さうして後に、堀河太政大臣兼通の邸へ御遷幸なさられたと傳へる。近江國にあつては、國府寺の大門が倒れて安置した二王が悉く碎け、關寺の大佛も腰から上部が全く影を留めずなり、國府庁及び雑屋三十余悉く倒潰した。そして余震も可なりに長かつた。即ち翌十九日には、震動十四回の多數に及び、左衛門陣後庁堀河院の廊舎等の倒潰したものが多かつた。つづいて、二十日には十一回、二十一日には十三回、二十二日には十二回、二十三日には十回。二十四、五二日をおいて、二十六日には八回、二十九日には九回、三十日には八回、翌月即ち七月十一日には六回、十二日には四回、十四日には二回の震動があつた。此等の事柄は日本紀略扶桑略記等に明記するところである。此の地震は全國的であつたと傳へるが、安房地方は別に特記されてゐない。が、此の記録から推測すれば、矢張り相當の地震を呈したことであらう。貞元の大地震は、此の時代に於ける大地震であつた。
 それから七十五年余の一世紀近い間は、即ち華山、一條、三條、後一條の四代は、中央部にも地方部にも、大した地震はなかつた。尤も小地震は時々あつたやうである
それから、後朱雀天皇の御代になつて、長久元年十月二十九日夜丑刻に、京都に稍や強い地震があつた。地震と同時に東一品宮から出火したが、宮人の努力で大事には至らなかつた。思ふに震動の度合が或は屋舎が動揺して、灯火を消し、或は殿堂震動して倒潰するかと思はるゝ程度のものであつたかと推定される。翌長久二年には、七月二十日に京都に強震があつたと扶桑略記に記してゐる。

 次に平安朝の末期に至りては、後冷泉天皇の御代は無事であつたが、次の後三條天皇の延久二年十月二十日の夜半、山城、大和に地震があつた。そして、京都では家々の築垣を損じたが、奈良に於ては、東大寺の巨鐘が揺り落された。尚ほ諸國の寺塔も損害されたものが多かつたことは、扶桑略記、三代要略等の傳ふるところである。
 次の白河天皇の御代には、地震の記録を見ないが、堀河天皇の寛治五年八月七日申刻には、又しても、山城、大和に大地震があつて、法勝寺の五重塔に安置した丈六の軍茶利の倒壊の外、多くの堂塔屋舎が倒れた。大和では、金峰山金剛藏王寳殿が破損した。時人をして、古今未曾有であるとまでいはしめたとは、扶桑略記の記するところである。そして翌六年は無事であつたが、七年二月十日には、その未刻に強震があつた。そして京郡の市民は、家を飛び出し庭に避難したと傳へる。それから三年後の永長元年十一月二十四日辰刻にも、京都、奈良の地に大地震があつて、震動約一時間に及び天皇には、舟を召され、上下一般に庭上に難をさけたといふ。此の時、奈良の東大寺の巨鐘は、又々揺り落された。時人は何れも之を古今無比と稱したと傳へる。余震は連日連夜に及んだといふ。
 それから、三十余年間、鳥羽天皇の御治世を通じて、地震といふほどの地震はなかつた。が、崇徳天皇の保延三年七月十五日申刻に京都に可なりの強震があつた。時人は近代に比類なき地震だといはれた。余震は断續して、十二月に至つて止んだと傳へる。それから、近衛、後白河、三條、六條の四代を経て、高倉天皇の治承元年十月二十七日、奈良に大地震があつて、東大寺の廬舎那佛の螺髪二口、観音の前に落ち頂上の螺髪も揺れて抜け上つた。又しても彼の巨鐘は此の時分にも大地に揺り落された。治承元年は歴史上、事の多い年であつた。京都に大火災があつて、内裏を始め、市坊二萬余戸を焼き尽したのも此の年四月であり。平清盛の跋扈も、此の年であつたのである。それから、越えて三年十一月七日亥刻にも、京都に大地震があつたことは、源平盛衰記の記するところである。治承四年は、安徳天皇御即位の年であるが、又源頼朝義仲等の兵を擧げた年である。此の年十一月二十六日から三日に亙り、紀伊那智山に強震があつた。そして、瀧壼の石不動は、震動の爲めに目上から破損されたのであつた。
 後鳥羽天皇の元暦二年(二年八月改元して文治と改む)は有名な壇の浦の戦の年で、即ち平家滅亡の年である。此の年七月九日には、山城、近江、美濃、伯耆等の諸國に未曾有の大地震があつた。同日午刻、大地雷の如く鳴りひびき震動すること數刻にして、各所に地割れ若くは陥没を生じ、地水は噴出し、官舎民屋或は転倒、或は破壊域は傾倚、そして一も全きものなく、死者實に多數を出した。宮城にては、瓦垣を始め内裏の華門は倒潰し、閑院皇居の寝殿の棟折れ、西の透殿以下の建物多く転倒した。主上ははじめ腰輿に駕して庭中に御し、次で鳳輦に駕して中島に御し、次で攝政の言上により庭中に御帳を呼び、大床子を供じて終日御座したと傳へる。
 それから、神社佛閣の大建築物の被害は更らに大なるものがあつた。即ち法勝寺の九重塔は此の時頽れた。又阿彌陀堂、金堂の東西廻廊、鐘樓、常行堂の廻廊、南大門西門三宇、北門一宇等は倒潰して見るかげだもとどめなかつた。その他三十三間堂、法成寺、尊勝寺、最勝寺、圓勝寺、寶蔵厳院、仁和寺、最勝光院等の転倒破壊倒數ふるに暇なきほどである。又比叡山でも、三井寺でも、惨害を被らないところはなかつた。此の大地震で、京中の築垣は悉く壊れて了つた。そこで市民は盗群の襲來を氣遣ひし爲め、朝廷は義経に命じてその警戒に當せたほどである。
 地方でも、山城の宇治橋が墜落して、通行中の數十人が橋と共に水中に落ちた。近江の琵琶湖の水は北流して減水數日に亙つたと傳へる。その他美濃、伯耆等の國にも震害は頗る多かつた。
 此の未曾有の大地震は、その揺れ返しも亦た甚だしく七月から九月に至るも尚ほ止まなかつたといふことである。蓋し此の元暦(元暦二年八月文治と改元したるも諸書に元暦の大地震とある故、それに従ふ)の大地震は王朝時代と、武家政治とを劃する自然の手になる大變動であらう。即ち古き地上の建設は一もその影を留むることなきまでに崩壊して、新しき建設が其處から創造されだしたのである
政治上に於ても、古き貴族政治が倒れて、新しき武家政治が、其處に誕生したのであつた。蓋し天爲人爲、相絡はるところ、實に一奇蹟である。當時の惨状を叙した二三古書を援用すれば「方丈記」には「元暦二年の頃、(おほなる)大地震ふること侍りき。其の様常ならず、山は崩れ、川は埋み、海は傾きて、陸を浸せり。土裂けて、水湧き上り、いはほ割れて谷にまろび入り、渚漕ぐ船は、波にただよひ、道行く駒は、足のたちどを、まどはせり、いはむや、都の邊には、在々、所々、堂、舎、塔、廟、一として、全からず、或は、崩れ、或は、倒れたる間、塵灰立ち上りて、盛なる煙の如し、地は震ひ、家のやぶるゝ音、雷に異らず云々とあり。「平家物語」には「天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥獣悉く心をつくす。又遠國近國もかくの如し。大地さけて、水湧き出で、磐石破れば谷へまろぶ。山壊て河を埋み、海漂ひて濱をひたす。汀漕ぐ船は、波にゆられ、陸行く駒は足の立場を失へり。云々」とあり、二書の筆致相似たるものがある。又「東鑑」四巻にも之れと同じやうな記事がある。「源平盛衰記」には「今度の地震は、上古末代類あらじと貴賤さわぎ歎けり、平家の死靈にて世の滅ぶべき由まふしあへり」とある。天變地異に對する此の時代の心的傾向察知すべきである。
 かうした大地震に我が安房の地は、果して無事泰平であつたであらうか。上記によると「遠國近國も此の如し」とあるからには、安房にも亦た相當の震災があつたではなからうか。だが、甚だ遺憾なことには、一も文献の徴すべきものを見出さないことである。

 是れから鎌倉時代に於ける地震の概要を擧げよう。前項に擧げた元暦(二年)の大地震は、鎌倉では、最初の九日の地震は余り感じなかつたようだが、十九日には可なりの震動があつた。元暦二年を文治元年と改元したのは、此の地震が動機となつたのである。蓋し當時の思想にあつては、改元は天下の耳目を一新する所以で過去の不祥を一切放棄して幸福な未來を迎へやうとするのである。地震が改元の原因となつてゐることは、其の例は乏しくない。が、是れは専ら平安朝以後のことである。奈良朝以前にはその例を見ない。
 次に後鳥羽天皇の建久元年以後の地震の數々を簡単に擧げる。事實は主として「東鑑」にあらはれたものによることゝする。記事は至て簡単である。年表的に之を次に掲げる。
 先づ建久元年五月十五日には、風雨甚だしく、雷鳴終日休まず。大倉山震動し、樹木多く転倒した。岩石爲めに頽れ落ち、その跡俄に細流となつた。
 同二年三月六日にも、戌刻大地震があつた。詳細のことは不明である。
 同年九月二十六日には、哺時以後、地震稍や久し。
 正治元年五月十六日には、丑刻、大地震。
 建仁元年三月十日には、卯刻、地震、火災並び起る。
 同二年正月二十八日には、卯刻、大地震。
 同年十二月二十四日には、卯刻、地震あり。雪ふる。雷鳴兩三聲を聞く。
 建暦三年五月二十一日には、午刻、大地震、舎屋破壊、山は崩れ、地は裂く。近代稀有の震動であつた。
 建保三年九月六日には、丑刻、大地震。八日寅刻、大地震。十一日寅刻、大地震。未刻又小動あり。十三日未刻、地震あり。十四日酉刻、地震、同時に雷鳴があつた。その後も連日の地震であつた。
 嘉禄元年十月十一日には、子刻、大地震があつた。
 同二年六月二十六日には、申刻に地震あり。二十七日も同刻地震。二十八日も子刻に地震あり。七月一日は亥刻に地震があつた。
 安貞元年三月七日には、戌刻大地震があつて、所々門扉築地等転倒。又地割る。去る建暦三年、和田左衛門尉義盛叛逆の比、此の如き大動あり。中下馬橋の地割るることあり、古老之を談る、近年比類なし。八日陰陽道地震の勘文を捧ぐ。
 嘉禎元年三月九日には、亥刻大地震あり。五日午刻、大地震。今日天變妖等の事により御祈祷徳政等あるべき由、武州御亭(北條泰時)に於て、其の沙汰あり。師員朝臣奉行たり。
 同三年九月二十三日には、丑刻地震。二十四日子刻地震。二十九日卯刻光物流星あり。十月四日天變の御祈祷等之を行はる。九日未刻白雲天に亘る。
 仁治二年二月七日には、巳刻大地震。古老曰く去る建暦年中今如き大動あり即ち是れ和田左衛門尉義盛叛逆の兆なり。其の外、關東に於て、未だ此の如き例あらず。その後午時、子刻、兩度小動。
 建長二年七月十八日には、午刻大地震。そののち小動十六度あつた。
 同四年七月二十三日には、夜に入り雨ふる。寅刻に大地震があつた。
 正嘉元年五月十八日には、子刻に大地震があつた。
 同年八月一日には、大地震。二十三日も亦た、戌刻に大地震。音あり、神社佛閣一宇だも全きものなく、山岳頽崩、人屋転倒、築地皆な悉く破損し、所々地裂け、水湧出で中下馬橋の邊地裂け破れその中から火炎燃え出で、色青し云々。二十五日雨ふる
地震小動五六度、地震により御祈祷いたすべき由、護持僧並に陰陽道の輩に仰せらる。
 文永二年三月九日、亥刻に大地震があった。
 同三年六月二十四日にも、亦た子刻に大地震があつた。
 永仁元年四月十二日(十三日ともいふ)大地震。建長寺地震の爲めに転倒し且つ一寺焼く。地震の爲めに打殺さるゝもの一千七百余人とある—是れより「鎌倉大日記」による。記事の簡なること、「東鑑」よりも更に簡なり—
 此の地震は鎌倉時代に於て、記録にあらはれた地震中の大地震であつた。諸書にあらはれたる二三を摘記して、當時の概況を示さう。
 「醍醐寺日記」四月十四日、天陰、但不降雨、卯時大地震、先代未曾有大珍事、自治承以降無其儀云々、堂舎人—此處屋の字脱かと思ふ—迄悉転倒、上下死去之輩不知幾千人、云々(十五日よリ二十一日までの記事略す)
「實躬卿記」四月十四日戌、晴参内、次参仙洞、去十三日曉関東大地震及數刻之間、将軍御所並若宮始天主在家民屋等多以破損、人又多死去之由夙聞、山岸等又散々、凡非所及言語云々、先代未聞珍事也、元暦元年歟、有如此事歟、凡不可説云々、建長寺末仍火出來焼失云々。
「帝王編年記」四月十三日大地震、鎌倉中谷々山々崩之時、舎屋転倒、死者二萬三千二十四人也、二十二日建長寺焼失。
「北條九代記」四月十三日寅刻大地震、山頽人家多転倒、死者不知其數、大慈寺丈六堂以下埋没、壽福寺転倒巨福山転倒、乃炎上所々云々、不遑稱計、死人二萬三千二十四人。—鎌倉大地震に関する記事は、各記録とも大體符合するも、死者の數に於ては、上記の如く各書甚だしく相違してゐる。—

 次に南北朝に這入て、此の時代に於ける地震の迹を一瞥しやう。
 嘉暦元年十月二十一日、近江國に大地震があつた。延暦寺の十二輪塔悉く倒れ竹生島の地崩れて湖に没した。悪疫の流行と震災の爲めに、正中三年を嘉暦元年と改元したのであつた。
 正平五年五月二十三日、京都大地震、祇園社石塔の九輪碎け落ち、余震月をこえて止まず、七月十二日、光嚴上皇山陵使を遣はして奉告せしめられた。
 同十六年(北朝康安元年)六月二十四日、山城、攝津、大和、紀伊、諸國に大地震があつた四天王寺の金堂崩壊し、熊野、春日兩社も亦た社殿の倒潰を見た。難波の浦海水溢れて、死者數百名を出した。中にも京都にては、此の月二十一、二十二の兩日強震があり、余震はつづいて七月朔日更らに強震があつた。南朝では、観心寺に命じ、北朝では、青蓮院尊道法親王、聖護院譽法親王を宮中に召され、法を修して、災異を抜はしめられた。
 「太平記」には斯うした記事がある。即ち、同年六月十八日の巳刻より同十月に至る迄、大地夥しく動て、日々夜々に止む時なし、山は崩れて谷を埋め、海は傾て陸地になしかば、神社、佛閣倒れ破れ、牛馬人畜の死傷する事、幾千萬と數を知らず、都人山川江海林野村落、此災に合はずと云所なし。云々

 室町時代には、地震の記録は少なくないが、此の時代は混乱の時代であつたので詳細を知ることが出來ない。
 先づ初めに特記すべきは應永十四年正月の大地震である。此の地震は、上方地方は可なり強烈であつたやうである。「日本の國々、山崩れ川を塞ぎ、磐石野に落ち地大いに裂けて谷を埋み、神社佛閣公家武家四民の家倒れ云々、日本大騒動、又飢饉」といつたことが「八幡宮略記」に掲げられてゐる。
 次は永享五年九月には、東國に大地震があつた。利根川逆流したと傳へる。鎌倉には被害が最も多かつたと思はれる。
 應仁、文明の混乱時代にも、地震は少なからずあつたであらう。そして興奮した人心に一層の緊張味を投じたことであらう。その後、明應年間には殊に地震が多かつた。即ち
 明應三年五月七日には、大地震があつて、余震は翌年にまでつづいたと傳へる。中にも奈良は被害最も多く、東大寺、興福寺、藥師寺、法荘寺、西大寺等の諸大寺が破損したとある。
 同四年八月十五日、大地震、洪氷、鎌倉由比濱の海水千度檀に到り、水勢大佛殿の堂屋を破り、溺死者二百余人を出した。大佛は此の洪水に流されて以來、現今の如く露出されてゐるやうになつたといふ。
 同七年八月二十六日には、大地震と同時に東海道筋に海嘯があつた。「後法興院記」には、「伊勢、三河、駿河、伊豆の海邊二三十町の民家悉く水に溺れ、數千人致命、其外牛馬類數を知らず、前代未聞の事なり」とある。就中、伊勢では、大湊ばかりでも千戸余流失、五千人ばかり溺死したと傳へる。其の外、伊勢、志摩の間でも一萬人許も流失したとある。
 文亀元年十二月十日、越後國に大地震あり、震動日に數回、余震數日に亘り、人多く失せ、家屋又た倒潰すと傳へる。
 永正七年八月八日及び二十七日、大阪を中心に大地震があつた。國々の堂社佛院大厦民屋、転倒することその數を知らずと傳へる。遠州灘に海嘯が起つて、濱名湖は、此の時分に海と通じたであらうとの説である。此の時から、新居、舞坂の間二十七町般渡となつた。世に之を「今切れ」といつてゐる。濱名湖口の名に呼ばれたものである。蓋し「今切れ」の決潰は上記明應七年の大地震大海嘯の爲めに切れどが出來たので、それで新しい切れどに對して「今切れ」の名稱を附したのであらうと傳へる。即ち桑田變じて、海となつたのである。地震が地形と人事に及ぼす影響の大なるを思はせられる。今は東海道線によつて悠々と交通も自由であるが、往時此處の渡海は中々困難なものであつた。土地の諺にも「舞坂一里船に乗るも馬鹿、乗らぬも馬鹿」といつたほどである。
 大永五年八月には、鎌倉に大地震があつた。「二十三日、日本大地震、別して鎌倉大地震、由比濱の川、入江、沼、皆な震ひ埋まりて平地となる。二十七日まで昼夜地震なり」とは「八幡宮長帳」の記するところである。

 次の織豊時代に入つて特記すべきは、下の數項に過ぎない。
 天正十三年十一月二十九日には、畿内から東海道へかけての大地震であつた。且つ沿海の地方は大津浪に襲はれた。京都では東寺金堂の棟が崩れた。「多聞院日記」によると、地震の夜、東山から火が多く出たとか、内裏のお庭で數千人の躍る聲がして、朝起きて見ると、或は丸く、或は四角、或は長く、或は大きく、或は小さく、牛馬以下様々の異類の足跡があつたとか、院の御所に首が數多あつて、數へてゐるうちにそれが消へて了つたが、凡そ二百ばかりもあつたらうなどとの怪談を記してある思ふに是れみな時代思想の反映であらう。
 次は慶長の大地震である。慶長元年閏七月には九日と十二日の兩度の地震があつた。九日には豊後國に地震があつて、ついで海嘯があつた。府内及び附近の地を浸すこと方一里有余に及んだ。そして十二日の地震は畿内諸國に起つたもので、當時の記録によると閏七月十二日夜丑刻、大地震。禁中御車寄の廊が転倒して、畏れ多くも後陽成天皇は、南庭に茣座を敷かせられて、おたち退きあらせられたとある。京郡在家の倒潰するもの無數、圧死者亦隨て多く。東寺、天龍寺、東福寺等の大伽藍も、堂宇の転覆その數を知らざるの状態であるが、太閤秀吉新造の大佛の妙法院門跡の廊なども、此の地震で倒れた。當時太閤の居城であつた伏見は、震害最も甚だしく、義演准后が地震見舞の爲めに伏見に行かれた記事中に、「歸路に付見へ越了、言語道断次第也、全所一所も無之、諸人猥雑、大路難通路體也、大地裂て落入了」とある。殊に伏見城は、太閤晩年退隠の地として文禄元年より起工し、三年に至て漸く落成したのであるから、可なり堅牢な建造であつたのであらう。ところが、此處も矢張り震害を免かれなかつたといへば、その強烈さを推測し得られるのである。
 然し、此の地震は、關東には影響がなかつたやうである。當時の記録に「近江より關東は地動無之云々」とある。記事は素より漠然たるものではあるが、略ぼその震動区域を決定することが出來るであらう。余震は連日打ちつづいた。そして十月二十七日には、此の地震の爲めに文禄五年を改めて慶長元年としたのであつた
 慶長五年六月十三日には、陸奥國に地震があつた。岩木山火を噴き砂石を飛ばし、昼尚ほ晦冥。こえて十五日に至りて晴れたと傳へる。
 同十年十二月十六日、薩摩、大隅、土佐、紀伊、伊勢、遠江、伊豆、上総諸國に地震があつてつづいて海嘯が起つた。遠江橋本附近の民家八十余戸、浪と共に海に没し、上総小多喜の濱にては、(小多喜の濱不明なれども暫く奮記に從ふ)七箇村流失して、人馬數百死したと傳へる。此の地震と海嘯とは安房にも相當被害があつたやうであるが、記録の上に詳細を知ることが出來ぬのは遺憾である。

十一

 江戸時代に入つて破壊的な大地震は、凡そ二十回以上に及んでゐるが、中にも、此の時代の有名な地震は、慶長二年六月二十一日(本年より二百七十五年前)元禄十六年十一月二十二日(二百九年前)安政二年十月二日(六十一年前)の三回である。是れから江戸時代に於ける地震の梗概を擧げやう。
 慶長十六年八月二十一日、會津地方に大地震があつた時、人は會津始まつてからの大地震だと稱してゐる。民舎の被害はもとより、柳津の圓藏寺、塔寺の八幡宮等社寺の倒潰頗る多かつた。會津城も此の時大破損を被つたと傳へる。會津川の下流、山崩れで流水を塞いだ爲めに附近の村落は、可なり廣く水害を被つた。
 同年十月二十八日、陸奥國に大地震があり次で海嘯の襲來があつた。仙臺領内死するもの一千七百八十余人。此の海嘯の区域は可なり大きかつたので、居民は逃げ場を得ずして溺死したやうである。
 同十九年十月二十五日、越後國大地震、高田には海嘯起り、人畜の死傷頗る多かつた。
 寛永十年正月二十一日、武蔵、相模、駿河伊豆諸國地震。伊豆では熱海が高潮の爲め大損害を被り、駿河吉原は地に亀裂を生し、相模は震害最も甚だしく、小田原宿の民家倒潰して、一里の間、一戸をも止めなかつた。箱根山中山崩れ多く、往來爲めに困難にて馬の通ずるところなく、遂に荷を負ひ、人を背負ふを渡世とするものを出すに至つた。
 正保三年四月二十六日、陸奥國地震、仙臺城の石垣頽れ、三重の櫓転覆し。その他の被害多かつた。
 同四年正月十四日、武藏、相模兩國地震。江戸城の城壁の破損多大。東叡山の大佛の頭、地に落ちたと傳へる。
 慶安二年二月五日、伊豫、安藝兩國に地震があつた。宇和島、松山兩城の垣塀が大破損を來し、廣島城下の人家多く倒潰した。
 同年六月二十一日、武藏國に大地震があつて、江戸城の城壁を損じ、日比谷御門崩れ、諸大名の邸宅以下民家の倒潰破損したものが夥しかつた。東叡山の大佛の頭が又も地に落ちた—前々項の正保四年の地震にも大佛の頭は落ちたが、今回の地震にも(大正十二年九月一日)亦た地に落ちたのである。記録に見えるだけでも是れで三回である—府内の瓦葺悉く崩れたので、それから後は、柿葺となつたと傳へる。`此の年七月二十五日にも亦た、地震があつた。前の余震と見える。此の地震は江戸時代に於ける三大地震の一である。可なり強烈な地震であつたと思はれる。此の時も川崎宿の民家の倒潰は甚だしかつた。
 萬治二年二月晦日には、岩代、下野二國に地震があつた。會津では民家三百戸潰れ。那須では百余戸倒れ。何れも人畜の死傷が多かつた。
 寛文二年五月朔日、畿内、近畿諸國に地震があつた。祇園社東寺以下、社寺堂塔何れも破損し、倒潰した民家千余戸、死者二百人、余震容易に止むべくもなかつた。そこで、道路に小屋がけをしたものが多かつた。郡山、彦根、膳所、尼ケ崎、大槻、岸和田、亀山、小濱、桑名の諸城多くは傾倒又は破損を免かれなかつた。此の地震に近江栃木谷の城主栃木貞綱圧死した。
 同年九月十九日にも亦た日向國に地震があつて、佐土原、牧、秋月、飫肥の諸城市邑破損し、人畜の圧死毀傷その數を知らずと傳へる。又海嘯の爲めに村落八千余陥没して海となつた。
 同五年十一月二十七日、越後國に地震があつた。頸城郡の被害最も甚だしく、高田城の本丸、大手門、櫓等悉く崩れ民屋の潰れたものも夥しかつた。時に大雪一丈四尺余、家老小栗五郎左衛門、萩田隼人以下死者千四五百人の多きに上つた。
 同八年七月二十一日、仙臺地震、仙臺城本丸の石垣破損九箇所八百三十五坪ほどであつた。寛文年中には、上記の如く地震が至て多かつた。
 次の延寶四年には、六月二日、石見國に地震があつた。同五年三月十二日にも、陸奥國の地震で、且つ海嘯が起つたが、何れも大した被害はなかつたようである。
 次の天和三年五月二十四日には、日光に大地震があつた。是れより先き四月五日に日光附近に激震があり、次で五月十七日にも亦た可なり強烈な地震があつて此の日に至つて震動六十余回に及んだ。東照宮奥院寶塔の九輪落ち拜殿本坊等破損、石垣矢來概ね崩る。後九月朔日に至つて亦た強震、堂塔を損じた。此の地震に、岩代國境戸板山崩れて、男鹿川を塞ぎ、三依、五十里の諸村を浸し、之を五十里沼と稱するに至つたと傳へる。
 そして次の貞享三年八月十六日には、遠江、三河兩國に地震があつたが、被害はあまり多くなかつた。
 次は元禄年代に入ると、七年五月二十七日に、羽後國に、十年十月十二日には、相模、武藏の二國に可なりの地震があつた。七年の地震には鎌倉の堂社民屋の破損甚だしく、鶴ケ岡八幡宮の鳥居倒れ、江戸城の石垣倒潰した。
 元禄十六年十一月二十二日の地震は江戸時代に於ける三大地震の一で、武蔵、相模、安房上総諸國を中心としたものである。中にも、小田原の被害最も甚だしく、地震と共に海嘯もあつた。此の地震に、房総半島は、東海岸の被害夥だしく、安房の長狭、朝夷、上総の夷隅三郡は海嘯の惨害特に甚だしきものがあつた。朝夷郡千倉一帯の海濱は、地震前よりも八九町乃至一里ほども干潟となつたと傳へる。江戸にては、數寄屋橋、雉子橋、和田倉、馬場先、日比谷、内櫻田等の見附は崩れ、諸侯の邸宅神社佛閣、民家の倒潰、石垣その他の崩壊等は數ふるに暇なきほどである。殊に本所邊の被害は最も甚だしかつた。又震後數箇所から火を發したので、その惨害は目もあてられぬほどであつた。小田原も亦た地震と共に十二箇所から火災起り、町家四百八十四戸を焼き、死者八百四十七名を出した。小田原領の総計では、町家八千七戸、内五百六十三戸焼失、死者二千二百九十一人を算した。今回の震災地全體を通じて、潰家約二萬百六十二軒、死者約五千二百三十三人の多きに上つたとは、文部省震災豫防調査會資料の記するところであるが、「元禄寶永珍話」の記するところによると、相州小田原は分て夥しく、死亡のもの約二千三百人、小田原より品川まで一萬五千人、房総一萬人、江戸三千七十余人、火災の時、兩國橋にて死するもの千七百三十九人といへり、とある。何れが眞か、今は兩者を併記しておく。鎌倉では圓覺寺建長寺、浄智寺等の諸大寺、大半破損し、由比ヶ濱に海嘯があつた。箱根は山崩れにて、馬を通せず、僅かに飛脚の來往あるのみであつた。その後、余震は絶えず人心を脅かし、上下を擧げて易き心もなかつた。翌春、江戸府内は普請に忙殺されて年禮を欠くものが多かつたと傳へる。翌年三月十二日、朝廷幕府の奏請を客れて、年號を寳永と改元した。
 寳永元年四月二十四日にも、能代地方地震とあるが、詳細は分らない。
 同四年十月四日、畿内、東海、四國、九州に地震があつた。京都では、大社大寺概ね無事、然し、沿海諸國は、田地の損亡、人畜の死傷が多かつた。中にも土佐の地最も甚だしかつた。即ち家屋の流失は浦戸の御殿以下五萬千百余戸、倒潰四千八百余戸、破損千七百余戸、死傷二千七百余、損田四萬五千百余石、郷浦の亡びたところ百五箇所に上ったと傳へる。
 同年十一月二十三日、駿河國地震ふ。前日から此の日にかけて、地震ふこと三十余回、富士山俄然鳴動して、天地晦冥、夥しく火石泥砂を噴出して山を成し後之を名けて寳永山といふ。此の時近國灰降り積ること雪の如く、山麓は一丈二尺に達した。
 享保十一年三月十九日、越後國地震ふ。十四日の夜から、勝山領の荒島嶽、豊原、平泉寺の山谷鳴動し、十八日の夜になつも最も甚だしく、此の日山谷崩れて岩石を轉じ泥水を湧出して湖の如く、田畑凡そ七千石、民家百四十戸を流し、死者凡そ五百人に上つた。
 寶暦元年四月二十六日、越後國に大地震があつた。頸城郡被害最も多く、世に高田の大地震と稱す。地震は午前二時頃に發したが、余震強大にして、二十七日朝に強震があつた。高田領全體にて、全潰と焼失住家六千八十八戸、死者千百二十八名を出すに至つた。
 同十二年九月十五日、佐渡國地震ふ。相川の奉行官舎、眞野の順徳天皇陵の石垣崩れ、銀山道筋にも、岩山の崩壊したところが多かつた。鵜島村は海嘯の爲めに民家二十六戸流失した。
 明和三年一月二十八日、津輕領に地震があつて、潰家六千九百四十戸、焼失家屋二百五十二戸、圧死者千二十七名、焼死者三百八名に及んだ。
 同八年三月十日、沖縄本島に地震があつた。同時に海嘯があつて、死者九千四百余名を出した。
 安永七年七月二十九日、伊豆大島に大地震があつた。此の夕、三原山御洞から火が燃え出して、毛髪よりも細き黒白の灰降り地屡ば震動した。噴火は翌年まで數回に及んだ。
 同八年十月朔日、薩摩、大隅の二國に大地震があつた。此の日櫻島山の頂爆發して、火を噴き灰を降らし、熱砂迸流、山下の諸村田畑の損失、人畜の死傷數ふべからずであつた。
 天明二年七月十四日、江戸大地震。翌朝に至り震動十五六回、民家多く転倒した
此の時小田原殊に甚だしく、箱根山中亦た所々崩潰した。
 同三年七月六日、信濃國地震、五月二十六日から淺間山頻りに噴火し、七月に至りいよいよ烈しくなり、此の日大地震となつた。鳴動益す甚だしく、砂石を降らすこと三日、八日に至り、萬座山崩れて吾妻川を塞ぎ、決潰して利根川に注し、濁流沿岸の部落を浸して、民家の流失人畜の死傷多大であつた。翌四年は有名な天明の大饑饉であつた。
 寛政四年三月朔日、肥前國地震ふ。損田三百八十余町歩、死者九千七百四十五人の多きに達した。
 文化元年六月四日、出羽國大地震、此の夜、荘内の地最も甚だしく、本庄城の櫓、門、塀垣等頽破し、士民の屋舎多く倒潰し、田畑の損害、橋梁の損失多く、又海嘯の災も加はり、地形之れが爲めに著しく變じ、象潟の勝此の時亡びて平地となつた。
 文政十一年十二月十二日、越後國大地震蒲原、三島の兩郡殊に甚だしく、大地割れ砂土を噴き上げたところが多かつた。蒲原郡三條にては火起りて五箇寺千余戸を焼失した。此の時、長岡城また頽破の災に逢つた。
 天保元年七月二日、畿内、近畿諸國に大地震があつた、中にも京都の地最も甚だしく、市中の死者二百八十名、傷者千三百名を出したのであつた。十二月十日、地震の爲め改元して、文政十三年を天保元年とした。
 同四年十月二十六日、出羽國庄内及び佐渡國に強震があつた。死者數百名。
 弘化四年三月二十四日、信濃、越後二國に大地震があつた。いはゆる善光寺の大地震と稱するは此の地震である。三月十日から、善光寺如來の開帳で諸國の老若群集して、二十四日は長野市中雑沓を極めたのであつたが、同夜八時過ぎから大地震となり、地震中に市内數箇所から火を發したので、善光寺の如來堂、鐘樓、山門は倒れず焼失を免かれたが、四十八院の堂塔坊舎は悉く鳥有に歸した。民家の倒焼失に歸したものが、二千九十四戸、死者二千四百八十六名であつた。長野市西部には断層を生じたところもあつた。震災地全部を通じて死者八千六百余人、全潰住家約二萬一千戸、その内約三千四百戸は焼亡に歸した。地震と共に山崩れを生じたところが夥かつた。松代領内だけでも、それが大小四萬二千箇所もあつた。松本領では一千九百箇所に及んだ。中にも、犀川の右岸岩倉山の崩潰は、地形に一大變動を來した。即ち上流へ高さ八十丈余も崩れて、恰も突堤を築いた状態となつたので、岩倉、孫瀬の二村は全く水底になつて了つた。又下流に崩れた高さは百尺であつたが、長さ十五町、幅約二百間に亘つた。爲めに藤倉、古宿の二村は地下に埋められて了つた。そこで川上の數十箇村は何れも浸水を免かれなかつた。浸水の延長は約八里に及んだ。震後二十日を経て四月十三日午後五時頃に至つて、堰堤は遂に大決潰を來した。そして水勢は一時に川中島に押出したので、三十一箇村は水害を蒙つた。犀川大洪水の余波は信濃川下流に及び延ひて越後の長岡城下にまで及んだ。
 嘉永六年二月二日、相模、伊豆、駿河、三河、遠江諸國に大地震があつた、殊に小田原の被害は甚だしく士民の屋舎多く倒潰した。箱根山中、山崩れで往還を絶つこと數日に及んだ。
 安政元年六月十五日、伊賀、伊勢、奈良地方大地震。土地の隆起陥落多く、上野地方の死者五百九十三名、潰家二千二百五十九戸、四日市は、死者百五十七名奈良は全潰約七八百戸、死者二百八十四名、郡山は死者百五十余名であつた。
 同年十一月四、五日、畿内、東海、東山、南海、西海、山陽、山陰、諸道地震ふ。此の地震の区域を外れたのは僅かに東北地方のみであつた。震域の廣大なこと、蓋し未曾有である。且つ沿海の地方何れも海嘯が起つて、その被害は實に多大なものであつた
 その時、伊豆の下田に碇泊中の露艦は高潮の爲めに大破した。中に就き大阪湾に於ける被害は最も甚だしく、船舶の損失千四百九十六隻、水死者三百九十二名を出した。此の大津浪は太平洋を横ぎり、約十二時間を隔て、北米西岸に達したことは加州桑港その他の検潮儀に記録を留めたのであつた。加之ならず此の月二十七日、内裏炎上、爲めに嘉永七年を改元して安政元年とした。
 同二年十月二日、江戸大地震。いはゆる、江戸時代に於ける三大地震中の最後の大地震である。時代の新しきだけに、地震の詳細を記したものに乏しくない。が此處にはその概要を擧げやう。江戸府内で震害の最も劇烈を極めたのは、何といつても、地盤の柔弱な地域である。即ち深川、本所、下谷、淺草、の地であつた。今、名主からの屈出の數字を見ると、深川に八百六十八名、本所に三百八十五名、下谷に三百七十二名、淺草に五百六十六名の變死者を出してゐる。山の手の土地の堅硬な場所には震害は比較的輕かつた。同じ下町でも、日本橋、京橋、新橋附近の如きは、被害が割合に輕かつた。それから、地震の直後に府内三十余箇所から火事が起つたが當夜は幸にも常よりは風が静かであつたので割合に火勢弱く、火消人足の少なかつたにも拘らず、曉近き頃までに大方は消し終せたのであつた。全く鎮火したのは翌三日の午前十時頃であつたと傳へる。焼失総面積は約十四町四方、即ち、一哩平方であつた。淺草五重塔の九輪曲り、谷中天王寺の九輪は落下したが塔はどちらも無事であつた。品川沖の二番臺場の建物が潰れて出火があつた守衛の會津藩士十六名即死した。中川沿岸の逆井では、地面裂け、平井灯明寺の山門傾き、鳥居倒れ、行徳の行徳寺は大破損であった。江戸近郊で最も震度の烈しかつたと傳へるのは、亀有である。此處は田畑が一時に隆起して地面が小高くなると同時に附近に反對に沼を生じたといふことである。此の地震は、亀有から、亀戸、本所、深川の一帯が震源地であつたと傳へる。幸に津浪はなかつたが、それでも東京湾の海水が動揺して、深川蛤町、木更津の海岸などには、津浪に類似したものがあつた。余震も可なりつづいたさうである。
 小石川の水戸の屋敷などは、館舎築地など、悉く潰れて、藤田東湖、戸田忠太夫等、此の時に震災の厄にかゝつた。
 此の地震の實況を記したものに、江戸亀井戸の住人畑時倚の手記がある。以て當時の實況を推測するに足るであらう。即ち 二日の夜(安政二年十月)四ツ過、机上に寄讀書する折から、俄に地震大いに起り家震動甚敷壁落柱かたむき、障子唐紙自ら倒れ、棚の上より手箱硯石踊り出で、既におのれが天窓に當りけれど、是をさゝゆる隙なければ、四歳に成ぬる妾腹の女子を右に抱き、机上に有ける珍書をロにくわへ、右の手にて障子を開かんとするに鴨居曲みて中々に明けず、そがするうちにかたかたと音して四方に積置し本箱一時に例れ、袋戸棚より數多の瀬戸物微塵と砕けて飛散つたり。其音いかにも甚だしければ、是はたまらじと、かたへの小窓を蹴破りて庭先下へ飛下けるが、地ふるひ次第に強くして彳むこと能はず、二三度外にて震倒されけるが、側なる松の木にしかと取付漸にして危急の場を逃れたり。
 次に這次の震災の総死傷人員について記したものを見ると、その員數が区々になつてゐる。何れが正數か分らないが、大體の見當はつく譯である。
(1)「諸寺より書上候死亡人の數」には、二十一萬九千八百余人。
(2)地震早々の書上げには、四千二百九十八人。
(3)十月十四日の書上には、七萬五千六十人。
などである。二十一萬も多過ぎるやうだが、四千も少な過ぎるやうな感じがする此の地震に、我が安房地方は如何なる被害程度のものであつたか、特にそれを詳知することが出來ないのは遺憾である。が、時代の新しいだけに、地方にはそれを記したものもないとも限るまいと思ふ。しかし安房総體としてのものを知ることは、今日まではまだ出來ずにゐる。
 それから、救濟事業に關しては、可なり詳細なものがあるが、今はそれを省略しておく。詳細は「時雨之袖」の記事に見れば明かである。
 同五年二月二十六日、午前二時頃、越前、越中二國に大地震があつた。大鳶、小鳶の二山が崩れて、常願寺川上流の湯川眞川の渓流を塞ぎ、死者數百人を出した。

十二

 斯くて、江戸時代は去つた。新しい明治時代に入つて初めての大地震は石見國であつた。即ち明治五年二月六日午後五時頃、那賀町濱田町を中心として、倒潰家屋四千七百六十一棟、死傷者五百五十二人を算した大地震があつた。建物の倒潰は三十四プロセントの多きに及んだ。加之ならず、沿海の地は、或は陥没、或は隆起して、著しく段違を生じたのであつた。
 次は明治二十一年七月十五日の會津の大地震である。此の日午前八時三十分頃、盤梯山鳴動して地大に震ひ、火焔噴出、灰砂巨石を降らし、爲めに一萬一千三十二町三段十七歩の耕地を灰埋めにして了つた。此の地震で死んだものが四百七十七人の多きに達した。中にも、山の西北部の村落は、被害最も甚だしく、死傷者實に全村に及んだところもあつた。
 次は同二十四年十月二十八日の濃尾の大地震である。明治時代の地震は、事多く人の耳目に新たなるのみならず、記録も從て精細を尽してゐるので、殆んどその實況をふむの感がある。今、文部省震災豫防調査會の資料によつてその概要を掲げやう。
 此の日午前六時三十七分、美濃、尾張、越前等地大に震ふ。仙臺以北を除いて日本中悉く強弱の震動を感じた。最激震地帯は、濃尾平原、美濃西北部から、越前福井に亘り、震動区域實に二千九百余方里に達した。震災地を通じて震死したものが七千二百七十三名、負傷者實に一萬七千百七十五名の多數に上つた。そして全潰家屋の數八萬の多きに達し平均人家全潰十一戸に一人の死者を出した比數を示してゐる。又震災復旧の状態をいへば、國庫支出の土木費だけでも、岐阜縣三百三十六萬七千六百余圓、愛知縣一百七十二萬七千三百余圓の巨額に及んでゐる。総ての建物を合算すれば、全潰十四萬二千一百七十七戸、半潰八萬三百二十四戸といふ驚くべき數字を示してゐる。
 そして、余震は、震後二年間に岐阜に於て、三千三百六十五回の震動を示してゐる加之ならず、その後十余年間尚ほ継續したので、その総回數は實に四千回を超えてゐると傳へる。余震中の強震は、翌二十五年一月三日、九月七日、同二十七年一月十日の三回であった。
 此の地震の原因は、専門學者の説に從へば、(甲)根尾谷及び(乙)黒津温見の兩断層と(丙)濃尾平原下の變動線とを同時に生じたことに原因してゐる。そして甲乙兩断層線全般の中心点と看做すべきは水鳥附近で、その中心点から東南の部分は東南方からして圧力を受け、又同点から、北西の部分は、反對に西北から圧力を受けつゝあつたのでその結果として、遂に顯著な断層現象を呈するに至つたのだといふ。
 同二十七年六月二十日、東京激震。午後二時四分十秒に發し震央は、岩槻近傍より東京を経て、東京湾に延長する一帯であつた。安政以降、大正十二年の大震前に於ける東京最強の地震である。各地に地盤の小亀裂を生じた。東京、神奈川、埼玉の一府二縣を通じて死者二十六名、傷者百七十一名、市内の破壊家屋四千の多きに達した。
 同年十月二十二日、酒田町及び附近の地震ふ。全潰住家二千七百七十七戸、焼失一千五百戸、死者七百二十三名、負傷者一千六十一名を出した。
 同二十九年六月十五日、午後七時三十三分頃、三陸の海底地震と共に大津浪があつた。陸前の吉濱に於ては、浪の高さ八十呎に達したと傳へる。三陸東海岸に於て、北方尻矢崎附近から、南は牡鹿半島まで、約百里の距離に亘つて、家屋人命を損じ宮城、岩手、青森の三縣下を通じて、流失家屋六千四十九戸、全潰五百三十七戸、半潰及び小破損七百七十一戸。外に社寺學校倉庫二千四百七十七棟を流失し、全潰二百三十九棟、半潰二百九十七棟、総じて一萬三百七十棟を算するに及び、死者二萬千九百五十三名、負傷者四千三百九十八名の多數に達した。中にも岩手縣氣仙郡、南閉伊郡の災害最も甚だしく、釜石町の如きは、人口六千五百五十七名中四千七百名は死亡し、五百名は負傷した。戸數千二百二十三戸の中千八十八戸を流失したほどの大惨事であつた。その外、堤防、道路、橋梁、船舶、田畑の流失破損亦た夥しく、此の大津浪は、遙に太平洋を横ぎり、布哇、米國加州等の検潮儀にその記録を止めたのであつた。
 同年八月三十一日、陸羽大地震。八月二十三日から既に多くの前震を成したが三十一日午後五時六分、遂に大地震となつた。羽後國仙北、平鹿、雄勝、河邊、南秋田、由利、山本、北秋田の諸郡及秋田市。陸中國南岩手、稗貫、西和田、東和田、紫波の諸郡に於て、震害殊に多かつた。震死者二百九名、負傷者七百七十九名に及んだ。仙北郡千屋村附近妙阪山の半面高さ五百間崩潰して、幅五六十間の堤となり山中新たに一湖水を生じた。又鉛村の温泉は、地震の爲めに涸渇した。余震の度數は頗る多く秋田測候所の調査によれば、大震後二週間、九月十四日までに百四十八回の多きを算したのである。
 同三十年一月十七日、信濃上高井郡に、稱や破壊的の地震があつた。筑摩川沿岸の一部に亘り、東西約四里、南北約四里の地域内にわたつた。
 同年二月二十日、仙臺附近地震。同日午前五時五十分陸前東方の海中より發震
陸前、陸中、磐城、岩代の地方一帯に被害多く、土藏の崩潰、家屋の破損、地面の亀裂泥砂の噴出が夥かつた。
 同三十二年三月七日、紀伊、大和地震。午前九時五十五分、紀伊、大和、大阪の震動最も強烈、三重縣附近の死傷者二百人を出した。
 同三十三年十一月五日、三宅島附近の地震。四日午前八時頃から前震を感じ、午後四時四十二分激震となつた。家屋の損害岩石の墜落が夥かつた。
 同三十四年八月九日十日、八戸地方地震。九日午後六時二十三分十日午前三時三十四分、二回の激震があつた。青森縣全般を通じて死者十八名であつた。
 同三十八年六月二日、藝豫地方地震。發震時は午後二時三十九分、安藝國呉、江田島、宇品、廣島及び伊豫國三津濱郡中松山等震害最も甚だしかつた。震源地は能美倉橋兩島より西方の安藝海底である。
 同三十九年三月十七日、臺灣嘉義大地震。發震時は午後六時四十三分であつた近時の大地震中、濃尾大震に次ぐ最多數の死者を出した。(詳細は省く)
 同四十二年八月十四日、近江國姉川地方大地震。午後三時三十一分發震。局部的破壊地震である。家屋の倒潰、死傷者の多きこと、近來その比を見ない。殊に姉川下流に於ける泥水の噴出、琵琶湖水の氾濫は、最も甚だしかつた。湖岸に臨む泥洲は大震の時、陥没して了つた。又川上の地面は數十箇の箇所から五六尺の高さに泥水を噴出し七八分を経て止んだのであった。
 同四十二年十一月十日、日向洋地震、發震時は午後三時十四分で震動区域は、安政元年十一月五日の南海道大地震に酷似したものであった。唯だ震動が安政のそれに比して激烈でなかつたのみである。震源は土佐國南西端から南方約二十里の地点であつた。被害も可なり多かつた。が、詳細は省く。
 同四十四年六月十五日、喜界島地震。發震時は午後十一時二十五分であつた。震域は甚だ廣く、震源から約千百基米突を距だつる本州中部附近までも震動を波及した。震災の最大地は喜界島であつた。
 同四十五年七月十六日、淺間山激震。發震時は午前七時四十六分であった。震動の性質は、明治四十一年五月二十六日の淺間山震と同一であつた。淺間山湯平観測所對岸の牙山々麓の崖は此の時、三百尺程の地崩れを生じ、観測所から五町西々北に當る黒斑山内側字唐箕口と稱する急峻なる個所から岩塊の大崩落があり観測所から下方二基米突なる法印坊瀑布の附近、及び字長坂の所々に大なる岩塊の轉落があつた。爲めに樹木を倒し道路を雍塞した。湯平観測所では、震後十二時間に、有感地震四十八回、無感地震百六十二回を観測した。
 此の淺間山地震を以て、明治時代は終りを告げたのであるが、次の大正に入りては三年一月十二日櫻島地震を始め、同年三月十五日の秋田の地震、同五年二月二十二日の淺間山附近の地震、同六年五月十八日の静岡縣下の地震、同七年九月八日の得撫島の地震、同年十一月十一日の信濃の地震があり、大正十二年九月の關東大地震までに既に六回を算するのであるが、大正以來の地震は、何れも、人の耳目に新たなるところであるから、地震歴史は、明治時代を以て、一たび擱筆する。

第三章 地形の變動

 地震を分類すると、陥落地震、火山地震、断層地震地辷地震であることは一般の定説であるが、今回の大地震は、實に相模灘の陥没に起因してゐる。相模灘の陥没の最大なるものは、四百米に達してゐるといふことである。然し陥没は同時に又一部の隆起を誘起した。即ち相模灘に於ける隆起の一部最大なるものは二百五十米に達してゐるといふ。
 今その陥没と隆起の概略を示せば、伊豆半島の尖端から眞鶴に至る本邦沿岸は三米の陥没を見るが、眞鶴から以東漸次三浦半島にかけて、隆起著しく平均一、二米の隆起を見る。それから東京湾沿岸を迂廻して、富津附近までは大差を見ないが、富津岬から南方へ漸次隆起の度を加へ、洲崎に至つて隆起益々著しきを見る。それから外房小湊沿岸まではその余勢をつゞけてゐるが、それから九十九里海岸に至つて全く止んたのである。
 稍や重複に渉るの恐れはあるが、地震直後、即ち同年九月中旬門倉農商務技師の調査に係る房州沿岸の状況を記せば、
 一、北條、館山沿岸隆起約六尺。
 一、館山の鷹の島約七尺、同沖の島約八尺。
 一、富崎、西岬約八尺。
 一、船形約五尺。
 一、白濱、和田、約四尺。
 一、鴨川約三尺。
 斯うした海底隆起の結果、従來海底であつたところも砂濱となつたり、或は岩石を露出したりしたところが鮮なくない。從て海の深度に大なる變化をを來した。館山灣沿岸に就て見るも、船形の川名海岸から、湊川附近に至る約二千五百米間に於ては、平均沖合百米の砂濱を形成した。又湊川から館山に至る海岸は平均四十余米、館山以西は大賀鼻から波ロに至る海岸は平均四十米ばかり突出した。又從來は船で往來した。館山沖の鷹の島は、海底陸起の爲め干潮時には、陸から島へ徒歩で渡ることの出來るやうになつたなどは、顯著な一例である。又大震後大正十三年一月十五日の地震で、西岬村濱田字船越の海岸に温泉が湧出した。温度は攝氏三十四度で、色は無色透明で、そして稀薄な塩分と苦味を有してゐる。此等は地震が齎らした地理的變動の一例である。
 以下各町村に於ける地形の變動に就て、各町村別に之れを掲げる順序は前章末に掲ぐる調査表の順序による。
 北條町 北條町は、震源地に接近してゐたのと、地質の軟弱な爲めに地理的變動が少なくない。即ち上記館山灣沿岸の變化の外、陥没、亀裂した道路(縣道)十七町余の長さに達し、水田の被害十六町歩の多きに達した。之れを細記すれば、北條町六軒町から、海岸の汽船發着所に至る鐵道踏切前後二百五十間の間大亀裂を生じ、又汽船發着所附近の海岸には、長さ八十間の大亀裂、八幡海岸にも亦た數箇所の亀裂を見た。
 又北條町六軒町から、館山町に向て鐵道踏切に至る路面は、一帯に亀裂と陥没で實に物凄き光景であつた。
 館山町 本章の初めに記載した如く、館山灣に沿ふた土地は概して隆起したのであるが、就中館山町は倒潰戸數も全郡第一位に居るほどの極度の被害で(前章調査表参照)海底及び沿岸の隆起は、町の報告書によれば、五尺六寸乃至六尺に達したといふ。同所の鷹の島は、土地隆起の爲めに、陸地と接續して半島形を成すに至つた。又館山測候所附近は、大亀裂を生じて、道路は道方を失つて了つたほどであつた。從て耕地の亀裂、海岸隆起の爲めの漁業上の損失は多大なものであつた(産業上の被害は別章に細記する)それと白土坑の陥没の爲めに數萬圓の損害を被つた。
 海底の變動の爲めに、鷹の島には新たに温泉が湧出した。泉質も可なり良好である。
 西岬村 土地は一帯に隆起し、洲崎方面最も甚たしくその最隆起は七尺以上に及べるところあり。また坂田、洲崎、川名、伊戸等に於ては、山地崩壊し道路或は田、畠を埋めたる所がある。又海底は一帯に隆起した。
 神戸村 陸地の變動—土地の隆起陥没として、概して大なるものを認めざるも、亀裂、崩壊等は至る所に多數にして計上の煩に堪へない。
 海底の變動—本村の海岸約三十余間退水、水面七尺余も低減した。蓋し是れ海底の隆起の結果であらう。
 富崎村 富崎村は幸にして田畑山林、道路等の崩壊陥没したる箇所なく、從て陸地の變動として特記すべきものなし、ただ海底の變動のとしては海底の隆起約八尺余にして海底干潟となりし爲めに、漁港を失ふに至つた。
 長尾村 村内長尾川を境する高さ一丈余の石垣倒潰、附近の土地に亀裂を生じたのみで、他に別段の變動を認めなかつた。
 豊房村 豊房村に於ける地盤の變動は、河川河湖、埋立地または砂質地盤に著しく、地下にありては地殻の變動により一般に地下水の低下せるを認む。爲めに湧泉の涸渇、井水の低減を來たし、水田もこれが爲に地目の變換するもの全村を通じて五六町歩に亘つた。就中白土坑業地は、地中空洞多きを以て特に變動の著しきを見る。
 小部分の隆起陥没は到る處に出現せしも變動の最も甚しきは岡田区、明星ケ谷附近及び出野尾区字砂の作の渓間である。明星ケ谷にありては耕地約三町歩に亘り不規則なる隆起と陥没とを生じ、同所字淺間山より字砂山に至る一帯の地域砂質地盤なるを以て縦横の亀裂と崩壊とを生じ、地上の樹木、或は傾斜、或は倒伏した。恰も猛颶の一過せる跡を観るが如く、同所の山脚大抵崩潰し、直下の水田爲めに膨起し、渓流は壅塞せられ紆余曲折恣に耕地を貫流してゐる、畦畔また根柢より移動し、彼我の境界殆んど確認し難く、之れが整理殆んど策なし、只だ圖を按んじて之を設定するのみ。之れが復旧工事に着手するに當りては、全く新開地を拓くが如く、砂の作は數十枚の棚田をなせる水田悉く凹凸を生じたるも前者の比ではない。其の他に於ては山岳の崩壊は特筆すべきものもないが、只だ當村を貫流する長田川、鎌田川の兩岸は到る處崩壊し、殆んど創痍身に満つるの観がある。
 館野村 建築物の被害の大なる割合に地形上の變動は少ない。稲区域山の北部約一段歩ばかりの崩壊を見た。道路の亀裂は、所々にあつた。國分北條間縣道は、可なりの亀裂と陥没とがあつたが、車馬の交通は全く杜絶した程ではなかつた。その他の道路にも大した亀裂はなかつたが、腰越から國府に通ずる新橋附近約一町ばかりは陥没した。耕地は、腰越川沿ひの稲区一部に約二段歩ほどの落込んだところがあつたのみである。
 九重村 本村は比較的低地であり、且つ耕地はいはゆるぬかり田の多き爲め其の部分に陥没乃至は亀裂等を生じ、地盤並に区劃等の變動を生じた。陸地の變動として記すべきものは耕作地に甚しく、これに次ぐものは山林原野等である當村江田区の西端國府村延命寺に隣接せる小字内田川戸に属する水田二段五畝歩に亘り隆起と陥没とを見、凹凸甚だしく最高地と最低地との差約六尺となつた其の他水田に亀裂、陥没、隆起は各区を通じて尚ほ甚だしく、道路に鐵路に地盤の低下陥没等被害の多大なるを見る。
 稲都村 本村の大部をなす丘陵地帯は全部その地質、第三紀層なる小河川に沿ふ一帯の溝状平地は第四紀層である。變動の最も多かつたのは此の第四紀層たる平地、河川流域及び道路沿線の土地であつた。
 陸地の變動に付き本村變動地名を左に表記する。
 (一)断層地—トヅマ、四ッ田、六地藏、深井、御庄、中河川流域、池之内、中
 (二)崩壊—飯出(山崩)、御庄(山崩)
 (三)亀裂—堀之内
 (一)断層
   (イ)トヅマ、断層六尺位、長さ百十間、斜角度二〇度、南向(波状最激地)
   (ロ)四ツ田、断層五尺位、長さ四十間、北向
   (ハ)六地藏、断層一尺五寸位、波状緩、西向
   (二)深井、断層一尺五寸位、長さ二百間位、緩波状、南向
   (ホ)河川流域亀裂断層複雑なり、向は皆河流に向ふ。
   (へ)池之内、断層五尺乃至八尺四寸、南向、斜角五〇度位、最激地、延長二百十間
 (二)崩壊
   (イ)飯出、山崩、一八〇尺、厚さ五間位
   (ロ)御庄、山崩、約五〇尺
 (三)亀裂
    堀之内、住宅地亀裂。
 那古町 此處も地理上の變化は、平地に多くして、丘陵地に少ない。震源地が海底であつた爲めか、海岸の隆起は驚くべきものがある。以下その著しきものを列擧する。
(一)陸地の變動
 (1)土地の隆起
  (イ)海岸—一帯に約六尺位隆起、海水引き砂濱廣くなる。
  (ロ)陸地—正木区の田地二尺余隆起して米作不能となり、那古区大芝田丸の水田も同様に耕作の出來ぬ個所を生じた。
 (2)陥没
  (イ)正木区川崎より、北條町に通ずる縣道約一町陥没。
  (ロ)那古区大濱辮天社の附近十坪ほど陥没。
  (ハ)正木区岡七尾山の裾水田二十坪余五尺陥没。
 (3)亀裂
  (イ)那古区中濱下道、幅二尺、長二間。
  (ロ)同赤井下通、幅一尺、長一町。
  (ハ)寺町公園、亀裂大小無數。
  (ニ)正木区、矢田、御狩は田畑に無數の小亀裂。
  (ホ)正木より國府村府中に至る道路幅五寸、長二間のもの數條。
 (4)崩壊
  (イ)那古山に於ては、山の一角數十丈の懸崖一時に崩れて人命を損じた。
  (ロ)宿市場の山腹崩壊。
  (ハ)正木区西郷附近港川の堤防百余間崩壊、水流困難となつた。
  (ニ)亀原区横峯、河岸崩壊、道路の交通危険であつた。
  (ホ)正木区御狩用水地堤防三十間余崩壊。
(二)海底の變動
 當町に面せる海底総て隆起、その程度は數尺より數十尺に達し、海岸の砂濱増加
(三)其他
 川崎、大芝、宿、辻附近は、井戸水濁り、水淺くなり、飲料の用を爲さぬほどとなった。
 船形町 船形町の發展は漁港の完成に俟たねばならない。町當局も亦た之れが完成に努め、最近漸くその實現を見んとしたのであつたが、今回の大地震は多年の計画をして根本から一變せねばならぬほどの致命傷であつた。
 陸上の變動—大震一度襲來、一瞬にして亀裂と隆起が所々に起り、隆起は六尺余に及んだが、刻々に來る徐震によりて、幾分低下した。そして、漸く五尺程度で止んだ。川名邊の如きは水田二町九段二十六歩、畑九畝十一歩の免租地を生じ、又野房の如き山林の崩るゝこと約一反歩ほどであつた。
 海底の變動—尚ほ本町海岸の如きは、瞬時にして海水減じ漁舟は走るに水なく、魚は磯邊に鰭を打つに至り、海底露出して砂地となれる所、二十町歩に及ぶ實に劇甚なる災害であつた。
 八束村 本村は激震地であった、那古、船形、富浦の諸町村に隣接し、比較的海岸に近く地質堅硬ならず。相當の被害があるが、地理上に大異變と認むべきものはない。只だ地盤一帯に幾分の隆起を見、なほ所々に部分的の陥没亀裂等を見るのみであつた。
 當村手取区にあつては妙蓮寺の境内に長さ五六十間の間七八尺位陥没地、同寺の東方宮本城址の西麓には亀裂を生じ、清泉湧出す、而して城趾の北方の山岳は崩壊して田地七八反を埋没し、其の余勢丹生区を経て、一直線に富浦村南無谷に至る此の間約一里余である。
 其の他、道路に耕地に陥落、亀裂を見る。
 富浦町 從來本村の海岸ことに豊岡、原岡の海岸は大正六年の暴風雨の際激浪に洗はれ、爾來著しく海濱の面積を浸蝕せられたる以來、年々の激浪に其都度海岸を削り取られ、明治初年頃よりところによつては約一丁程も浸蝕された所がある。ところが、今回の大震により土地の隆起したため、再び舊の面積を海岸に現出するに至つた。
(一)陸地の變動
  (1)土地の隆起—大震により本村の土地は一般に隆起した、その反對に海水面は約六尺の低下を見た。
  (2)亀裂—亀裂は各所に現出せり。殊にその亀裂の中にても最も著しきものは裂罅の幅三尺、そしてその深さ一間、長さ數町に及ぶものあり。
  (3)崩壊—道路丘陵の大崩壊せる個所十ケ所を數ふ。
  (4)陥没—陥没せる個所は割合に少く、唯だ多田良海岸に並行してゐる水田と其處の松林との中間に幅一間、長さ三町の陥没があつたが、その外著しいものはなかつた。
(二)海底隆起と變化
 海底は一般に隆超した、且つ各所に從來暗礁として海面に現はれざる岩礁の露出數多あり。尚ほ漁夫の言に依れば、海底の岩礁が波の激動のため破壊轉覆せるもの數多あつたと。
 岩井村 岩井村に於て最も土地の原形を變じたるは海水の減少、即ち陸地の隆起したことである。昨日まで高崎小浦の海中に点々として波間に岩角の突出してゐたものが、現今にては其の岩石の全部の露出を見るに至つた。それが爲めに海岸の砂地が一倍の廣さを増した。又陥落隆起が所々に生じ、久枝、小浦、高崎区の井戸の廻りは四、五尺より少なきは一、二尺位陥落して井戸を使用し得ない所も多々あるに至つた。
(一)陸上の變動
 陸上の小變動は村内各所に現出し、殊に久枝の天神山及び平島山は崩壊し、原形を甚だしく變じ、尚ほ岩井、富浦の境界をなせる小浦の一山脈は地滑りの爲めに鐵道が破壊された。測量の結果によれば、當村は概して約五尺ばかり隆起したと傳へる。
(二)海底の變動
 土地隆起のため久枝、高崎海岸は遠浅となり、漁撈の位置も自然變り、殊に小浦は海水三分の一に減少し、帆船、漁舟の碇泊に非常なる支障を來した。
 勝山町 勝山町は地形にさしたる大變動は見ないが、沿岸一帯の土地隆起の爲めに、本町も亦約五尺の隆起を見るに至つた。それが爲めに道路は多少の亀裂や陥没、山の崩壊などがあつた。海岸も從つて一般に浅くなり、漁港など從前の如くに船の出入することが出來ない様になつた。從つて又漁撈する位置をも變ぜしめた。
(一)陸地の變動
 陸地の變動は主として龍島区方面にあつた。道路の亀裂が三ヶ所、停車場構内の凹凸、其の附近の亀裂及び陥没があつた。本町の北に聳ゆる淺間山半面崩壊し、浮島の一部も亦た崩壊して甚だしく風致を損じた。
(二)海底の變動
 土地隆起の爲めに海底は淺くなり、岩井袋区の漁港は浚渫しなければ以前の如く船は碇泊することが出來ぬ様になり、又龍島区沖合は海底亀裂の爲めに地引綱が引けぬやうになつた。
 保田町 保田町の土地は一般に隆起し變動また尠からず、亀裂海底の陥没等要するに地辷地震の爲めなるべしと思はる。
(一)陸地の變動
 土地の變動はことに著しく隆起し、海岸一帯には、五、六尺の隆起を見、又陸地の處々には亀裂多く、鋸山の懸崖には、數箇所の大崩壊あり。市井原よりは天然瓦斯を噴出し、点火せば火焔二尺に達するの奇観を呈した。
(二)海底の變動
 海底には陸地以上の大亀裂及び隆起、陥没の箇所あるべく思はるゝも、未だ詳細に知ることが出來ない。
 佐久間村 佐久間村は房州の中心層をなして居る爲か、震災の爲めに起つた地理上の變動は極めて少なく、唯た山の崩れたるを所々に見るに過ぎなかつた
陸地の變動
 當村全體としては隆起したやうであるが、部分的に及ぼしたものは殆んどなかつた。又陥没の如きも皆無と云つてもよい位いであつた。併し小さい亀裂は處々に見た。殊に津邊野山の頂には、巾約一尺長さ一町余に及ぶ地割を生じた此の外山崩と共に川をせきとめ、その深さ三尋に達した所もあつた。
 平群村 平群村にはこれといふ程の大なる變動なきも、從來混々として盡きなかつた。山間の渓流も震災後はそれが全く絶えた所が多くなつた。
陸地の變動
 當地の地盤軟弱なる箇所にありては、五坪乃至は十坪、多きは一畝歩ほど各所に五寸内外の隆起を見る。階落の箇所は発見することを得ざるも、村内の各方面は亀裂あり、殊に道路面は一寸又は二寸位の亀裂少なからずあつた。山林では二、三箇所の崩壊を見るのみにて、他には何等地形變動と見るべきものはない。
 瀧田村 本村は其の著しき變動を認めざるも、亀裂は到る處に見えた。殊に本村の南半に多かつた。この南半は耕地廣く、從つて地盤軟弱なる故にて、又北半は山地多く從つて地盤の堅固なる爲めであつたらう。
陸地の變動
 木村千代区土澤より下堀区に通ずる海岸に沿ふ縣道は亀裂甚だしく數間崩壊した。この地は最近埋立工事を施した處である。山地も處々に亀裂を生じ本村上堀山には崩壊低下せる處あるを見る、その他井戸水の激減したところと増加したところとがあつた。左に田畑、山林の崖崩を表示する。
  田畑崖崩………四反七一〇 山林崖崩………二四反七二〇
 國府村 國府村には断層、陥落、崩壊を生ずること最も多く断層の連續數十町に亘り二米以上の喰違を生ず。陥落の箇所には家屋の落込んだ所があつた。以て本村が如何に激震地であつたかが明示される。
陸地の變動
 本村は陸地の變動殊に甚しく、本織区なる平群街道地先より番場部落を通過し田圃を十數町の間を横断し、字延命寺に至りて断層最も甚しく一米九分に及ぶ喰違を見る。東方丘陵を断ちて再び田圃に入り、九重村の一部を通過して稻都方面に到る延長約一里。而して之と平行し南方約五町の耕地に高さ一米二分の隆起線をなすこと十町に及ぶ。之が陥落、隆起のため田圃は遂に耕地として使用に堪へざるものを生じた。其の他、明石区にては稻都に通ずる街道約五十間崩壊し人丸神社の下耕地は崩落し、谷向区に於ては海老敷に通ずる道路中、蓮華院、地先約五十間の所崩壊し、海老敷より平群川に注ぐ支流に沿ひて海老敷「大學口、山下の各区耕地が崩落した。
 白濱村 郡内の激甚地に比して、震動は比較的輕微なりし爲め、自然地理上より見ても甚しき變動を見ないが、土地の隆起に伴ふ海岸線の變動は最も著しきものがあつた。道路の破損、山岳の一部崩壊等は甚だ僅少である。殊に遺憾とする所は、人文地理上より見て野島崎燈臺の倒潰であつた。本村の地盤は極めて強固にして、岩石到る處に露出し壤土層の甚だ少なきは、震災をして輕減せしめたる一因ならんかと思はる。海事水路部及び野島崎燈臺の調査によれば、本村沿岸は潮水と海岸線との關係よりして、測量の結果約一米半の隆起を示した。
 七浦村 七浦村は土地隆起により汀線の降下約一米餘にして、海岸は磯根露出し、日を經るに從つて海草及び潮に取り残されたる雜魚、介類の枯死するものあり、異様の臭氣紛々として十數日を經るも尚ほ止まなかつた。
 地下の變動は不明なるも、井水湧出に變動があつた。震災前は給水不足なかりしものゝ減少して不足を告ぐるあり、或は却つて其の増加を見たものもあつた。
 高塚山丘陵の外面の断崖には十數ケ所の崩壊ありて、中一ケ所は幅十數間に亘り二、三日間は余震毎に潰落し、下方の耕地を埋没するに及んだ。
 千倉町 激震と共に海水は遠く引き去つて、今にも海嘯に襲はるゝにあらすやと疑はれたが、幸にその事なきは全く不幸中の幸であつた。然し、それは海底隆起の爲めであつたことが後になつて分つた。陸上の變動は海底の如く著しくはなかつたが崩壊、亀裂、陥没の箇所は尠なからずあつた。
(一)陸上の變動
 土地の亀裂、崩壊、陥没等は處々にあつたが、何れも大なるものはなかつた。然し橋梁の破壊、道路の亀裂は交通上甚だしき不便を感ぜしめた。井水の断絶せるもの、減少せるもの、又盛に噴出するに至つたものもあつたが、何れも地層の變動に原因したものであらう。
(二)海底の變動
 當地海底は一般に隆起せしこと凡そ五尺、當日午前中迄の海底は午後からは永久の陸地と化した。其れ故、地面の上に現はるゝに至つた岩石に附着せる動植物、及び海底に棲息せし動物は、この激變の爲め斃死又は枯死するもの多く、異様の臭氣鼻を衝くこと數十日に及んだ。また沖合の海底にも相當の變動があつたであらうが詳細は知り得ない。
 健田村 健田村は主として土地の断層、隆起、陥没等にして、隆起の状況は當村地先に於て約四尺五寸、陥没の地にありては判明ならざるも、其の隆起の状況に於ては、當地先瀬戸海岸富津輪に於ては約四、五尺。一大天然港を形成し、その周圍の岩礁は海水上に現はれ、幅四五十間、周圍五六町に及ぶ。深き所は十七八尺に達した。
 土地の陥没状況にありては村内大貫の地先里道約數十間、九重より千倉に至る縣道宇田地先に於て約二町余等にて、其の他山林及び宅地、耕地等の崩壊せるところ六ケ所、橋梁の墜落五ヶ所、隧道一ヶ所であつた。一時は通行に困難のところが少なくなかつた。
 千歳村 千歳村一帯の土地は最初の震動で、凡そ四尺も隆起し、處々に大亀裂を生じたのである。安馬谷と千田谷とに陥落はあつたが、さまで激しくはなかつた。唯々野となく山となく田畑、宅地、道路等いたる處に大きな亀裂が出來たので、甚だしく交通上の不便を感じた。
 海底も一般に隆起したので、これまで水の中に隱れてゐた岩根も水上に姿を出したものが少くない。白子の漁港など、その以前は水も深く漁船は陸近くに繋がれてゐたが、大震後は全く干潟となつてしまつた。其處の波止場は、よくこの前後の關係を物語つてゐる。
 豊田村 本村一帯に大なる變動なく唯だ數ヶ所に隆起、或は陥落を見たばかりである。
陸地の變動
 村内陥落の箇所は、大字加茂、御代の水田二十町歩余、隆起した水田は大字西原、矢田の八町歩等は村内屈指の變動地である。尚ほ溜池隆起の爲め水深二尺以上を減ぜるもの大字岩糸、根切の溜池、谷頭の溜池にして、耕地灌水に不足を來すに至つた。
 丸村 丸村に於ける土地の隆起、陥没等は極めて少なく、地面道路等の亀裂は夥しく、岩や山の崩壊も處々にあつた。
(一)土地の隆起
 丸村師珠ケ谷区に於ては、約二反歩に亘る耕地が凡そ一尺以上も隆起せるは、本村中最も甚しき現象である。其の他に於ては別に著しき隆起の状態を見ない
(二)士地の陥没
 全般に亘り別に著しき個所はないが、本村丸山川沿岸其の他の川岸に連れる土地は一帯に多少の陥没を生じ、其の中最も甚しきは沿岸の田地所有者にして、一人約四反歩の被害をうけたるものあり。以上の地盤には一尺以上二尺五寸位の喰違ひを生じたるものあり。其の他、河岸の田地所有者は大抵多少の損害を被らないものはない。道路の陥没喰違ひたるものには、幅六寸に達するものありて、馬車の交通は不可能であつた。
(三)亀裂と崩壊
 全村に亘り水田には無數の亀裂を生じ、廣きものに至りては三寸乃至五寸幅もあるもの稀ならず、其の被害は極めて甚大である。又道路は大亀裂を生じ、幅五六寸に達するものあり。學校の校庭も四、五寸幅の大亀裂を生じた。丸村大井師珠ヶ谷等の山地には崖くづれ處々にあり。然し、大なる崩壊、崖くづれ等はなかつた。
 北三原村 北三原村には山林、原野の崩壊多く、特に面積の大なるものにありては、崩壊一ヶ所の面積凡そ二町歩に亘り、また川を埋没して流れを断ち、恰も湖水状を呈した箇所もある。其の他山脈は到る處山上に亀裂を生じた。
陸地の變動
 道路の崩壊、低地の凹凸、耕地の亀裂、井戸水の断水若しくは湧出するもの枚擧に遑あらずである。稀には塩分を含める井戸水、或は水中より瓦斯を發する所もあつた。
 南三原村 本村の地理的變動の中で特記すべきものは下の如くである。
(一)陸地の變動
 土地全體に隆起して、汀線の退くこと一町余、磯岸に於ては震前の大干潮線が震後の大満潮線となり、又磯岩に記されたる干満平均線が著しく昻起せる等より見て四、五尺程の隆起ありたることは確かである。これが爲め温石川、三原川等の下流は震前河水の滞瀦約五、六尺なりしも、震後は河底の岩石累々として露出し、また流れも急激となつた。松田海岸に於ては砂濱なりし汀線に大小の磯岩群出し、景趣全く一變した。
海發区所田原、谷田、臼渚区前畑、小原、沼区南川等に於ては、低下四尺程の陥落を見る。其の他地盤の軟弱なる個所には随所に亀裂を生じ、其の他、道路を横切りて小亀裂あり。大なる裂口は二尺余。長さ十五六間。深さ八、九尺にして、底には水を湛へてゐた。大字白渚の淺間山の南東面の崩壊は最も著しく、最大なるは西端のものにして高さ四十五間、幅は底部に於ては百余間三角形を呈す、面積約一町歩。山林土砂と共に崩壊し、崖下の三原川を全く埋没横噺し、上方には水の深さ三丈余の一小湖を堰止め、この水漸次水路を求め、下流五段歩の田畑を流出し去り、遂に全然河床を變ずるに至つた。
(二)海底の變動
 陸地の隆起に伴つて海底の隆起は想像に余りあるも、詳細は全く不明である。汀線より沖合百間程に汀線と平行に一大淺瀬の存在を認む。其の他井戸の潰滅、井水の涸渇、減少、増量、混濁等の變化があつた。
 和田町 和田町は大震當時干潮甚だしく沿岸一帯の岩石露出せるを見て町民は海嘯襲來の前兆と思ひ、一家を擧げて山野に避難する者も夥しかつたが、九月十五日、農商務省より門倉技師、及川技手の兩氏視察せられ、猶ほ陸地測量部より技師出張せらるゝに至り、全然、こゝは土地隆起の結果なるを知るに至つた。其の報告に依れば、沿岸一帯平均三尺余の隆起を來たした爲めに、漁港の如きは海底露出し、船舶の出入の自由を失つた。其の他、山麓、山道、田畑等の如きは亀裂、崩壊せる所もあつたが、特記に値する程の被害、惨状を認めない。
 江見村 本村地理上の變動は左掲の通りである。
(一)陸地の變動
 山林、耕地、宅地等の亀裂、崩壊等多少あるも、之として特記すべきものなし。
(二)海底の變動
 海岸一帯に四尺程の隆起で、漁港の水深が減じて船着が不便となつた。又海底の岩石が崩壊して、蠑螺、牡蠣、鮑等介殼類の、ために圧死せるものが少くなかつた
 太海村 太海村に於ける地理上の變動は、殆んど皆無といつた程度である。
(一)陸地の變動
一帯に五、六尺の隆起をなしたる外、陥没、低下の個所なし。山崩は一個所にて、縣道を埋め四、五日間交通は杜絶した。
(二)海底の變動
 海底は一般に一尋内外に亘りて隆起したやうである。
 曾呂村 曾呂村は地盤の鞏固なる關係上、概して陸地には變動を見ず。唯だ僅かに小崩壊の個所を見るのみであつた。
 大山村 本村には到る所に大小の亀裂を生じ、隆起陥没等著しくし變形したる所はなかつたが、大宇金束、榎畑の山中崩壊したるもの一ヶ所あり。尚ほ嶺岡山脈及び鋸山山脈の東西の各所に低下せるものありて、村を縦断せる鴨川、保田間の縣道に亀裂數ケ所あつたが、交通には支障はなかつた。
 吉尾村
(一)陸地の變動
 土地隆起の状態を随所に認め、また河川沿岸の崩壊、陸地の陥没、亀裂するあり、山脈傾斜地は崩壊の個所も亦各所にあつた。
(二)地底の變動
 隆起低下、其の他、地殼内部の状況窺知すべからざるも、井水及び湧泉等の増減に因りて、水脈に異變を來したものと推測される。殊に井水には、其の水質に變化を生じたるものがあつた。
 主基村 主基村は土地の變動は極めて輕微である。幾分の隆起があつたやうであるが、判然とは分らない位だ、僅に田面の亀裂と石垣などの崩壊があつたが大した變化はなかつた。
 田原村 田原村に於ては道路及び耕地の亀裂、陥没せるもの頗る多く、殊に本村の中央を西より東にわたつて、被害多く、大里区の大津吉三氏の、住宅の床下面積十數坪が數尺余陥没した、又金川の如きはその地下の水源に變動のあつたものか、震災後に於いては著しく其の水量を減じたるなどの奇現象を呈せるもの尠なからずあつた。
 鴫川町 鴫川町は、地理上の變動として別に特記すべき程のものがない。陸地は、地盤一帯に三尺余の隆起を見た。海底は、地盤の隆起に伴い、海面著しく低下の爲めに、海中の岩石露出して、從來の景趣を一變するに至つた。
 西條村 西條村は地理上の變動に就て、何等特記すべきものなし。
 東條村 東條村は、土地隆起したる爲めか、地震以後と、その以前との陸と波際との間が少しく遠くなりたること、また磯岩の如きは從前海底にありしも、今は海面上に顯れたるものが多い。
 陸地の變動に就ては、唯だ海面より推察して、多少隆起したものと認むることが出來るが、海底の變動に就ては正確には分らない。
 天津町 天津町の地盤は一帯に岩石である。從て他町村に比して、震動の度は輕微の方であつた。地盤の亀裂又は陥落の個所も皆無であつた。
(一)陸地の變動
 住居地、田畑、山林等には別に變動を見ないが、海岸を見るに從來潮の干満程度に比し、其の隆起せること二、三尺である。それが爲めに從來使用してゐた船曳き場等は使用に堪えざるに至つた。
(二)海底の變動
 港内は陸地と倶に隆起したものらしく、船舶の出入及び繋留に困難である。深海に至りては實測しがたきも、一帯に隆起の状態である。低下した現象はない
 湊村 湊村に於ける陸地の隆起箇所は認めざるも岩石の亀裂、山岳の崩壊したる箇所は各所にあつた。
海岸の變動
 海底の隆起に至りては約二、三尺にして、是まで使用して居た貯魚池は海水の出入なき爲め、遂に不用となつて了つた。其の他、本村の特産物である海草の如きは海鹿、ハバ、青海苔等は皆無となつた。

第四章 人の被害 附 家畜の被害

 一般の歴史で見ると、地震の大小は、人及び家畜の死傷と、家屋の倒潰とが、大體の標準になつてゐる。勿論、地震の時刻と、その場所、殊に市街地と村落とで可なり差異のあることであるが、兎も角、本章に記する人及び家畜の被害は、地震のあらゆる被害の中で、最も注意して見るべき事項の一であらう。

 震度の大小は、本編の初めに掲ぐる被害地圖によつて明かなる如く、館山灣に沿ふた圖に縦横線を以て示した八町村が、最も激震で、その震動の勢は、内灣から、一直線に外洋に向つて東走してゐる。そして此の八町村に隣接した町村が之れに次ぐのである。即ち圖の横線の町村がそれである。圖の縦線の町村は、概して丘陵の地で、震度は他に比して稍や輕微であつた。
 又本章の人及び家畜の被害も、前掲の調査表に示すが如く、圖の縦横線を以て示した町村が比較的被害が多かつた。殊にその中でも、館山、北條、那古、船形の四町は市街地の爲めであらう、死傷率が多い。
 以下例によつて調査表順に各町村の實況を掲げる。
 北條町 人生悲惨事鮮なからずも、不慮の天災に倒るゝ位、悲惨なことはない。或は最愛の妻子を残し、或は老に先だちして、いはゆる鰥寡孤獨そのものゝ中に、日夜震災の脅威に戦慄しつゝ生活の不安に傷心する位悲惨なものはあるまい今回の震災は實に此の物凄き悲劇の場景を人の子の眼前に展開したのである。ひとり人間のみではない、厩舎倒潰の爲めに、家畜の死傷も亦た多きに達してゐる下にその総括數を掲げる。斯くまで死傷者の多かつたのは、一面には北條町が地震の強烈であつたことを物語り、他面には當時避暑旅客の入り込んでゐた爲めであったことに原因する。
 死亡者……二二二人 馬圧死……五頭
 負傷者……二六八人 牛圧死……七頭
 舘山町 舘山町は、家屋の倒潰數の多い割合には死傷者が北條町に比して多くなかつたことは何よりの幸である。即ち
 死者……一一六人
 傷者……一五二人(不具者となつた者五人)
 乳牛及馬……各一頭
 鶏……一四一羽
 西岬村 本村の被害は西岬村山脈の南と北とで大なる差異がある。即ち
鏡浦に面したる方面には被害が最も多い。
 死亡者 男……四人 女……九人 計十三人 負傷者 男……十一人 女……七人 計十八人
 畜牛……二頭
 神戸村 庭園、道路撰ばず、また人畜の差別なく轟然たる音響と、並ならぬ震動により、右に揺れ、左に倒れ、數十分余。漸くにして起てば建物の倒潰、人畜の死傷、眼も當てられぬ修羅のちまた。救ひを求むる者、またこれを救はんとする者、騒然たること言語に絶した。一方には倒潰家屋内の火元に向て消化に努むる者もあり、活動實に目覺ましきものがあつた。この時不幸左記の如き死傷者を出すに至つた。
 死亡者 男……八人 女……四人 計十二人 負傷者……八人
本村に原籍を有して他郷にて死亡せる者の數左の如し。
 死亡者 男……四人 女……七人
畜類の斃死は、牛馬各一頭のみ。
 富崎村 富崎村は幸にして人畜の被害ことのほか僅少であつた。然し遺憾ながら左の死傷者を出した。
 死亡者 男……一人 負傷者 男……二人 女……四人
 長尾村 長尾村の人畜に及ぼした被害は、僅少であつた。即ち
 死者……二人 傷者……三〇人
 豐房村 全村を通じて人畜の被害比較的少なかりしは、茅葺家屋の多きに依るであらう。概して建築用材如何に頑丈なるも家根の重量重きものは、爲めに倒潰せしもの多きを見る。左に人畜の被害を表示する。
 死傷者 死亡者…三三 負傷者……二四 畜類 牛圧死……五 馬圧死……二
 舘野村 本村内に於て、震災の爲めに死亡、又は重傷を負ひて終に死去しも
のゝ數は、左表の通りである。
 区名  死者 重傷後死亡  区名 死者 重傷後死亡
 大綱  一  —      稻  七  三
 安布里 〇  —      腰越 三  一
 山本  九  —      廣瀬 一四 一
 國分  一〇 三
 但し他町村に在りて死傷した數を合すれば、死者五七人、重傷者三三人となる。
 九重村 九重村に於ける被害は單に人畜のみに限らず建物、産業、教育、交通等あらゆるものゝ被害は實に甚だしかつた。左記に人畜の被害を表示する。
 死傷者 死亡者……二四 負傷者……四〇 合計六四人
 家畜圧死 牛……九 馬……四 鶏……六 損害價額 二二五〇圓 一一〇〇圓 四圓三〇錢
 稻都村 村人の多くは田畑にありて耕作中、大地は恰も波打つが如き一大震動起り、忽ち崩壊、亀裂を生じ家屋は倒潰し、大地は裂けて泥水を噴き、人は梁木下に圧せられて傷く者あり、不幸にして死するありて、人心恟々として村内は姶も鼎のにえたるが如く悲鳴をあげで泣き叫ぶ聲、援を呼ぷ聲、警鐘の響きは宛ら修羅場の觀を呈し、その混乱はいふを俟たない。人畜の被害は次の如し。
 死傷者 死亡者……二八人 負傷者……二六人 畜類の死亡……一
 那古町 此處は激震地帯の一部である。家屋の潰倒、地理上の變動等は各
章に記するが如く、北條、舘山に次ぐの惨害である。今當町人畜の被害を數字に記すれば左の如くである。
 死傷者 死者……一二五人 傷者……三〇〇人 牛馬圧死……三頭
(救助戸數八八八戸、人員五一八〇人)
 船形町 本町の受けたる災害は實に激甚にして、家屋の倒潰に加ふるに樞要なる区域の大部分は火災の爲めに烏有に歸した。町民の大募は漁業に從事し、農家は同町戸數の一割に足らざる状態なるが故に、家畜の被害は殆んどなく、唯だ焼失区域にて少數なる家畜の被害あるに止まるのみ。左に本町に於ける此等の被害數を表示する。
 震災當時在住者総數 男……三、二〇五 女……三、○八二 死亡者數 男……五六 女……七六
 負傷者數 男……一一二 女……一七八 行方不明 男……〇 女……一 合計 男……一六八 女……二五五
 震災當時在住者合計……六、ニ八七 被害者合計……四二二
 八束村 八束村は家屋の倒潰少なきを以つて從つて人畜の被害亦た少なし、即ち罹災者の中自村内にありて、或は圧死、或は負傷せるものゝ外、他町村に在りしものを示す。
 村内に於ける圧死者は……男には無く、女子一人。
 村内に於ける輕傷者は……男子は無く、女子七人。
 村外に於ける圧死者は……男女共無し。
 村外に於ける重傷者は……女子は無く、男子四人。
 畜類の被害には牛馬豚鶏の中、牛の負傷一頭及死亡二頭とを出す。
 富浦村 富浦村は曾て安政の大地震にも可なりの災害を被りしと傳へらるゝも確然たる記録は勿論、是れといふ言ひ傳へもないが、今回の震災には左の如き死傷者を出した。
 死傷者……死亡者、一〇一人 負傷……一七二人 牛…四頭 豚……四頭
 岩井村 岩井村は地盤の関係に依るものか、海岸近くに最も被害多く、從つて人畜の被害も多數を出すに至つた。
 在籍及在住者にして死亡せる者……三九人。
 重輕傷者……六九人。
 他に家畜としては牛一頭圧死。
 勝山町 勝山町に於ける死傷者の左の如くであるが、畜類には何等の被害はなかつた。
死傷者 死亡者……三五人 負傷者……四一人
 保田町 保田町の住民は大震に依る極度の恐怖と海嘯の襲來とを慮り、人心恟々として安からず、海岸一帯の住民は倒潰せると否とに關はらず、悉く高地に避難した。そして負傷者を負ひ、老幼を援けて難を避くるの状態は、實に惨憺たるものがあつた。遂に左の如き被害を見るに至つた。
 圧死者…六一人。重傷者……六〇人。輕傷者…二七〇人。畜類の被害なし。
 佐久間村 佐久間村に於ける人畜の被害は左の如し。
 死亡者…三人。圧死者…一人。負傷者…一人。他に畜類の被害なし。
 平群村 平群村にて人畜の被害一もなし。
 瀧田村 瀧田村の被害範圍は村の一半に過ぎなかつたから、從つて人畜の被害も比較的少なかつた。
 本村人口総數は二六〇六人にして、死亡者…一一人 負傷者…一一人。この負傷者の中、
 医師の治療を一週間要せる者……八人。
 不具となりたる者……二人。
 其の他……一人。
 國府村 國府村には断層、陥落、崩壊を生ずること最も甚しく、断層の連續は數十町に亘り二米以上の喰違を生じ、從つて陥落の箇所には家屋、人畜の落込んだものがあつた。その被害數は左の如し。
 當村の総人口數二〇〇〇人、死亡者……三六人。負傷者……九五人。家畜の圧死……四頭。
 白濱村 白濱村に於ける人畜の被害は實に僅少であった。即ち死亡者……一人。其の他畜類の被害一もなし。
 七浦村 七浦村の被害は村内住民よりも村外に移佳せるものゝ被害數多く、その數は左の如し。
 死亡者……一人。負傷者……二人。馬……一頭斃死。
 本村以外に於ける死亡者は……六人。
 千倉町 千倉町民も震動の即時は、唯だ驚愕の外何物もく戸外に居る者は眼を見張るばかりであつた。然し、我に歸りしときは親族の安否を氣遣ひて或は呼び廻り、或は救護を求め、全く混乱の極を呈した。被害中微傷者は無數であつたが、死傷は左の如し。
 死亡者……三七人。 負傷者……五九人。
 負傷者中假設救護所に収容したる者……五九人。
 (内全治者……二一人。死亡者……五人。)
 畜類は牛一頭の圧死ありたるのみ。
 健田村 健田村に於ける人畜の状況は本村住民中、村内に圧死せる者二〇人。本村に戸籍を有し他に於て圧死せる者六七人。負傷せる者一五人にして、比較的老幼の人に多かつた。役場、學校の建築物如きは悉く倒潰したのであるが、其處には死傷者は一人もなかつた。
 千歳村 千歳村に於ける村人の多くは倒壊した家の側に一族一團となつて、念佛を唱へて身の安全を神佛に祈つて居た。右往左往する老若男女の混乱は實に此の世ながらの地獄の責苦と思はれた。かうした混乱も今回の地震が昼間の出來事であつた爲め、人畜の被害の尠かつたのは不幸中の幸である。が、人畜に左の如き被害を見た。
 死傷者 死亡者……三九人 負傷者……一三人 家畜圧死……二頭
 豊田村 村人の多くは耕作に出てゐたので、我が家の安否を氣遣ひつゝ走せ歸て見れば住家は既に潰れ、食ふものもなく、寝るところもなくなつてゐるのは悲哀の情を一層深からしめた。遂に如何ともその術なく、左の如き死傷者を出すに至つた。
死亡者 男……一二人 女……一九人 負傷者 重傷者……一九人 輕傷者……三三人
家畜の圧死……七頭。
 丸村 丸村は全部を通じて人畜の被害は僅少であつた。左にその被害を表示する。
 死亡者……六人。負傷者……一〇人。他に家畜の被害なし。
 北三原村 村内一般住民は野外仕事に出てゐたもの多く、家に残れる者は老幼婦女子が多かつた。當時村内佳民の動静を表示すれば
 在宅せる者……七〇〇人
 田畑耕作中のもの……一三〇〇人
 外出中のもの……三八〇人
被害は幸にして村内住民には皆無であつたが、不幸にして出寄留中のものに死亡せるものあり。即ち
 死傷者 死亡者……三人 負傷者……二人 家畜の被害なし。
 南三原村 南三原に於ける死傷者の多くは地震をあまりに輕視して、坐ながら圧死せるもの、また出でんとして廂に打たれたるもの、病氣及び看護中のもの、又は家人を救はんとして果し得なかつたものが多い。左に被害數を表示する。
 死亡者……二二人。負傷者……八六人。家畜の圧死……三頭。
 和田町 幸に和田町は強震地帯に外れてゐたので、他町村に比すれば、人畜其の他の被害も大なるものなし。
 死亡者……一人。重傷者……一四人。輕傷者……五〇人。家畜の被害なし。
 江見村 江見村は激震区域から云へば、東北に偏した土地であるが、地盤の關係であらう、和田、七浦、白濱、富崎等の震源地に近い地方に比して、被害の程度は割合に大きかつた。その被害を左に表示する。
 死亡者……四人。負傷者……一一人。家畜の被害なし。
 太海村 本村は被害比較的僅少にして人畜の被害一もなし。
 會呂村 此處にも人畜の被害なし。
 大山村 大山村に於ける人畜の被害は幸にして一人の負傷者すらなきも本村民で當時京濱地方に居住してゐた者の中、二人の死亡者があつた。
 吉尾村 吉尾村民中京濱地方に在住せる者の圧死、焼死せるものゝ判明せし者五人あつた。在住者には一人の死傷者も、また畜類の被害もなかつた。
 主基村 主基村には人畜の死傷一もなし。
 田原村 當村は九月一日の大震災には一人の死傷者も、また畜類の被害も無かつたが、翌二日の激震の爲め不幸二人の負傷者を出した。
 鴨川町 本町には幸ひ死亡者はなかつたが、重傷者は四人あつた。
 西條村 當村には人畜の被害なし。
 東條村 東條村には他の部類の被害ありしも、人畜には些の異状なし。
 天津町 本町には人畜の被害なし。
 湊町 人畜の被害一もなし。

第五章 家屋其の他の被害

 地震が持つ大破壊力は、何の容赦もなく、人の造つた有ゆるものを破壊し去つたが、中にも人類に最も痛苦を與へたものは、家屋の大破壊であつた。建築物の総てが將棊倒しに倒されて了つたことである。人の上に被つた死傷の事實は、惨絶とも悲絶とも、勿論、形容すべき言葉もないのであるが、人の子の住む家屋が何の準備も、何の用意もなく、突發的に大暴力の下に粉微塵にされて了つたことは、天災といへば天災、随分残酷なふるまひといふの外はない。
 被害者の多くの中には、老病者もあつた。産婦もあつた。瀕死の病患を抱いてゐたものもあつた。ところが、一瞬のうちにその住んでゐた城廓が、大地の大震動と共に倒潰して、跡形も留めない始末である。加之ならず家屋の倒潰に觸れて、其處に又新たに幾多の圧死者や、重傷者を産み出したのである。あゝ、地震。汝の名は實にサタンである。
 以下残酷な地震が、地上の有ゆる建物の上に残したその残酷さの跡を記さう。
 北條町 當町の総戸數は一千六百十六戸であるが、その倒潰數は實に百分の九六に達してゐる。即ち全潰一千五百二戸、半潰四十七戸である。その他町内の建築物といふ建築物は殆んど倒潰して了つた。即ち郡役所、舊郡會議事堂、町役場、裁判所、警察署、縣立中學校、縣立高等女學校、町立小學校、銀行、會社、北條停車場を始め商店、農家、旅館、倉庫等は勿論、此等の附属建物まで、殆んど全滅の姿であつた。唯だ僅かに房州銀行と、古川銀行、北條税務署、北條病院の數軒が倒潰から免れて存在したのみである。
 房州で有名な八幡神社の拝殿も、鳥居も、其處の紀念碑も、惜いかな此の地震で悉
く倒潰の厄に會つた。
 次に諸建物の被害を表示する。
 全潰戸数……一、五〇二 半潰戸数……四七 焼失戸数……一八
 官衙全潰……四 同半潰……一 公署全潰……一 學校倒潰……三
 館山町 此處も北條と同じ館山灣沿ひの町である。激震中の激震地だ。
建築物の被害は、郡内随一といつてよいところだ。館山の総戸數は、一千六百七十八戸であつたが、その百分の九九までは倒潰と焼失とである。實に驚くべき數である。例によつて、その被害の総數を種類別に掲げる。
       全潰   半潰   全焼
 住宅…………九四五……五四六……八
 官衙…………一…………—…………—
 公署…………一六………一…………—
 學校…………八…………一…………—
 神社…………一三………一一………—
 寺院…………五…………九…………一
 銀行會社……四一………四…………—
 工場…………五…………三…………—
 倉庫…………一四〇……三五………九
 劇場…………三…………—…………—
 病院…………二…………三
 (備考 數字は棟數を示す)
 西岬村 西岬村の総戸數は七百九十三戸であるが、その中地震襲來の爲めに倒潰せる被害數を左に表示する。
 全潰……百〇七戸 半潰……百四十六戸
 流出……一戸
 學校 西小學校……全潰 東小學校……一棟全潰……一棟半潰
 神社……全潰四社……半潰八社
 寺院……全潰四院……半潰四院
 有名な洲崎神社も亦たその拝殿は全潰に歸した。
 神戸村 神戸は全村亘り住家、非住家を通じて千三百余棟を倒潰した。
左に公私建物の被害を表示する。
 種別     棟數 坪數  備考
 役場庁舎………一……三六……内附属六坪ヲ含ム
 巡査駐在所……一……一七……事務室共
 小學校舎………四……三九二…本校及分教場
 其他工作場……三……—………門柱、石垣其の他
 神社……………七……五二……本殿、附属建物
 寺院……………六……三〇……寺院、堂宇附属共
一般民家の被害數
 種別   全漬  半潰   大破   全焼 合計
 住家………一九七……八一……一二九……一……四〇八
 其他建物…四〇三……一六九……三二〇…〇……八九二
 合計………六〇〇……二五〇……四四九…一……一、三〇〇
 官幣大社安房紳社は、安房第一の大社であるが地震の爲めに被害のなかつたことは何よりも喜ばしい。
 富崎村 富崎村の総戸數は五百八十戸。被害の大部分は海嘯襲來により流失したのである。比較的地震の倒潰家屋は僅少であつた。左に区別してそれを表示すれば
 住家 流失……七〇戸 半流失……一〇戸 全潰……一五戸 半潰……九戸
 非住家 流失……一九戸 全潰……一七戸 半潰……九戸
 其の他公共建物に付ての概略を左に示す。
 役場庁舎……一棟……二四坪……破損
 小學校舎……一棟……一五四坪…破損
 講堂…………一棟……七一坪……破損
 隔離病舎……一棟……三八坪……半潰
 事務所………一棟……一一坪……流失
 隔離室………一棟……一二坪……半潰
 役夫室………一棟……三坪………半潰
 器具類………一式…………………流失
布良崎神社
 附属建物……水舎……一棟……二坪五合……破損
 其他工作物 玉垣……二〇間……破損 石燈籠……四個…破損
浪除神社
 本殿 拝殿……二棟……二八坪五合……倒潰
 賽物什器 祭器……一式……破損 賽物……三点……破損
 社務所……一棟……二二坪五合……破損
 其他工作物 石燈籠……二……大破 高麗犬……二……大破
龍樹院
 本堂……一棟……四九坪……破損
 庫裡……一棟……五五坪……破損
蓮壽院
 本堂……一棟……四二坪……破損
 庫裡……一棟……三〇坪……破損
 付属建物、玄關厠……二棟……一〇坪……倒潰
 什器……佛具……破損
大日本水難救済會
 布良救難所……一棟……二七坪……破損
郵便局
 布良郵便局……一棟……一二坪……破損
 長尾村 本村の総戸數は六百五十四戸である。が、倒潰は至て少なく、百分の十四であつた。即ち左に住家、非住家其の他の被害數を掲げる。
     全潰  半潰
 住家……七一……二三
 非住家…一〇八…三〇三
 學校……二………一
 寺院……一………—
 豊房村 全村を通じて建物の被害比較的少なきは、茅葺家屋の多きが爲である。
 左にその被害を表示する。
 全壊 住家……三一六 非住家……四八八 神社……三 寺院……一〇
 半壊 住家……二〇五 非住家……五八一 神社……六 寺院……一
 館野村 本村は、激震地の一つである。全村戸數五百〇七戸。建物の被害、實に百分の九六に達してゐる。以てその被害の大なるを推知することが出來る。村内廣瀬区の如きは、其の最なるものである。即ち区内で倒潰を免れたものは、僅かに二三戸に過ぎなかつた。左表は、此處の地震の強烈を語つてゐる。
 区名  種別 全潰 半潰 半潰以下
 大網……住家…三……一〇……四
 大網……非住…一二…一一……—
 安布里…住家…三〇…二六…一五
 安布里…非住…二五…八〇……—
 山本……住家…九二…三〇……三九
 山本……非住…一二七…一六〇…—
 國分……住家…九九…五………四
 國分……非住…一五五…八一…—
 稻………住家…六九…七………五
 稻………非住…五三…三七……—
 腰越……住家…五七…三………—
 腰越……非住…八三…二二……—
 廣瀬……住家……六五……一……—
 廣瀬……非住……九六…一八……—
 有名な國分寺は、地震の爲めに全潰して了つた。
 九重村 九重村に於ける一般の家屋、建築物は殆ど全潰し、僅かに残存したるも、或は半潰、或は傾斜して到底居住に堪へない。之を復舊せしめんには寧ろ全潰程度の経費を要すべきもの多く、眞に家屋の形骸を存するに過ぎないもののみであつた。被害程度左の如し。
 種目  全潰  半潰  焼失
 住家……三七二…六〇……一
 非住家…五九四…二四二…—
 學校……一………—………—
 役場……一………—………—
 社寺工場
 其の他…一八…五…………—
 合計……九八六…三〇七…一
 稻都村 稻都村にては初め微弱なる震動を感じて後僅か十數秒にして急
激なる震動起り、續いて襲來せし激烈なる鳴動に、野も山も、大地は恰も波打つが如
く惣ち崩壊、亀裂を生じ、家屋其の他の建造物は見る々々中に倒潰し、砂塵の中に大
音響をあげて、壊滅して了つた。左にその被害を表示する。
 全潰 民家…二七六 學校…一 役場…一 避病院…— 寺院…五 神社…四
 半潰 民家…五一 學校…— 役場…— 避病院…一 寺院…— 神社…一
 焼失 民家…一 學校…— 役場…— 避病院…— 寺院…— 神社…—
 那古町 此處は、隣の船形と共に、館山灣に沿ふ激震地帯である。調査表に
現はれた比數で見ても驚くばかりである。即ち建物の被害は、全戸數九百戸に對
して百分の九八に達してゐる。死傷者も可なり多かつたが、建物も殆んど全滅と
いつた姿である。之れを表示すれば、
     全潰    半潰
 住家……八七〇………一八
 非住家…一、七〇五…一一二
 社寺工場…三二…………四
 學校役場…二……………—
 房州で有名な那古観音は、坂東三十三観音札所の一であるが、地震で山崩れの爲め堂宇は大破損を來したが、直ちに復舊に着手した。
 船形町 本町の受けたる災害は實に激甚にして、家屋の倒潰に加ふるに樞要な区域は火災の爲め烏有に歸した。即ち全町戸數一、一四二戸中、全潰家屋五八九戸、半潰家屋一七二戸、焼失家屋三五三戸である。其の他公共建築物は小學校、町役場は勿論主なる神社、佛閣に至るまで悉く倒潰に歸した。随つて其の損害價額も三百數十萬圓の巨額に達した。住家の被害は漁業者に多く、非住家の被害は比較的商工業、農業者に多かつた。但し焼失せる区域は漁葉商工業者が大部分である。左に被害數を示す。

 住家 全潰…五八九 半潰…一七二 焼失…三五三 合計…一、一一四
 非住家 全潰…五〇〇 半潰…一〇五 焼失…一六五 合計…七七〇
 公共建築物の被害數は
 小學校 全潰…一 半潰…— 焼失…— 合計…一
 町役場 全潰…一 半潰…— 焼失…— 合計…一
 神社佛閣 全潰…一四 半潰…三 焼失…三 合計…二〇 
 此處の有名な船形観音が地震の爲に大損害をうけたのは惜いことである。
又西行寺も、地震で倒潰した。
 八束村 八束村は一般に地震堅固の爲め家屋建築物の被害は比較的少數である。全村家屋諸建築物の被害計數左の如し。
 建物  全潰 半潰 焼失
 小學校…一……三……三
 村役場…—……一……—
 巡査駐在所……一……—
 神社…二………—……—
 寺院…六………—……—
 住家…七一…四七……—
 非住家…六八…—……—
 合計…一四八…五二…三
 (備考 本表は棟を示す)
 其の他隔離病舎半潰一棟
 富浦村 安政の大地震も本村は可なりの被害ありしと傅へらるゝも、確乎たる記録も、またさうした傳説もないので、一般人は震害に對しては何等の豫防的智識なく、且つ震後の處置に對しても何等経験をも有するものがなかつた。今回の大震災に直面しては殆ど茫然自失の有様であつた。從つて個人的損害額百八十六萬二千四百五十九圓、公共方面の損害額二十三萬八千四十四圓、総計二百十萬五百三圓の大損害を見るに至つた。
 左に家屋及び建築物の被害を表示する。
 住家 全潰…六九〇 半潰…一五五 焼失…三
 非住家 全潰…四〇三 半潰…一三〇 學校…一
 社寺工場 全潰…二二 半潰…一
 (本表住家に戸數、社寺は棟数、非住家に坪數を示す)
 岩井村 岩井村の震害は地盤の關係に依るが、海岸近くに被害多く、小浦を最とし久枝、高崎、市部、竹内之れに次ぎ、合戸、吉谷、住家の倒潰數戸を出し、二部、検儀谷は大破あるも、全潰せしものなし。
 而して建物其の他の物質的損害高は約百二十萬圓以上に達した。私有建物及び村有建物社寺に就ての被害數を表示する。
 私有建物
 住家 全潰…三二八 半潰…九一 破損…二三二
 非住家 全潰…三七三 半潰…一二六 破損…三四一
 村有建物
 小學校々舎 全潰…一一二坪 半潰…一三五坪 大破…九四五坪
 役場庁舎…破損 巡査駐在所…半潰
 社寺
 拝殿 全潰…二 半潰…〇
 幣殿 全潰…三 半潰…二
 本堂 全潰…四 半潰…〇
 庫裡 全潰…一 半潰…一
 郷社天満神社は、拝殿の倒潰したのみで、他には異状がなかつた。
 勝山町 勝山町に於ける被害は全部を通じて、全潰百九十九にして、その中神社三、寺院四、人家百九十二戸。半潰は人家二百八十七戸、學校一、町役場一、合計二百八十九の被害を見た。他に焼失人家一戸を出せり。
 保田町 保田町は総戸數一、一三〇を有し、中、倒潰戸數二百六十四戸、半潰戸數六十五戸、修理を要すべき戸數三百二十戸、神社の倒潰三、寺院の倒潰一寺、半潰一寺、學校の倒潰二棟、半潰一棟を出した。
 佐久間村 佐久間村に於ける家屋び建築物の被害は割合に少なかつた。然し、左の如く全潰半潰を見るに至つた。
 全潰家屋—五。半潰—二。
 然し住家の壁の亀裂は殆んど毎戸にその被害を受けないものはなかつた。
 平群村 平群村の総戸數は七一一戸を有し、その中、全潰三戸、半潰三戸、此の坪數二百四十九坪、此の損害額八千三百圓其の他、農家四百三十五戸、商家四十四戸にして其の損害額九萬五干圓に達した。
 瀧田村 瀧田村に於ける悲歎の叫びは村を全半して南部に多かつた。これは本村が地理上の關係から南北に長い故に、南部が震源地に近かつたのと一つは千代、平野の中央には家屋が多かつたとの二つの原因に基く。尤も地盤の關係も大なる原因ではあるか、北部ば大部分が山麓であつた爲めか、倒潰家屋の僅少であつたのは一種の不可思議である。北部は全潰だけは免れたが瓦の落ちたのと壁の崩壊、亀裂、家屋の傾斜など相當に被害があつた。たゞ全く一つの不可思議は中央小學校校舎の倒潰したのを一つの境として、南部平野に阿鼻叫喚の修羅場を現じ、北部山谷に静寂の光景を見せたことである。左に被害數を表示する。
 住家 全潰…九九 半潰…二四
 非住家 全潰…一九 半潰…一〇
 神社 全潰…三 半潰…二
 佛閣 全潰…三 半潰…〇
 小學校々舎の全潰…二
 隔離病舎の半潰…一
 國府村 由來、安房の地は、震災の歴史を有するも時既に古りて、震禍の惨劇を知らず。多くは地震に對して安全地帯なるかの如く信じ、殆ど意に介せざるの感があつた。然るに、今回の震禍は、我が安房の地にありては古今未曾有にして、殊に本村は其の被害甚しく、全村戸數の九割以上は倒潰に歸したと傳へる。全村を通じての総戸數は三八一にして、その被害は郡の調査表によりてその正數を案ずるに、實に百分の九四に達してゐる。即ち
 全潰…三〇〇 半潰…六一
 學校全潰…一 役場全潰…一
 本村にある里見氏の菩提寺で名高い延命寺も、府中の寳珠院も全部倒潰して了つた。
 白濱村 全村を通じて、多少の被害を受けざるものなきも、倒潰家屋は僅かに住家一戸、半潰一戸のみ。然し、一般に土地の隆起に伴ふ漁港の破損及び魚介、海藻採集の磯根の損害等は之れを價額に見積ること頗る困難なるも、蓋し莫大なるものであらう。
 こゝに記すべきは、明治二年佛人某の設計に成れる野島崎燈臺の倒潰した一事である。この燈臺は高九丈八尺、海抜十三丈三尺、十七海里を照す、房総南端の航路の標識として、又本村の偉観の一として明治大正を通じて、房州名物の一に數へたのであつたが、地震は惜しみなく此の名物を倒潰して了つた。
 七浦村 七浦村は、地盤の關係とその被害比較的僅少にして、殊に中央なる小學校を境とし、西方の二部落即ち、大川、白間津の兩区に於ては小學校舎及び大川区村社、長尾神社社務所の倒潰を見たるのみにて、東方の部落千田、平磯の二区は比較的被害が多かつた。左に其の被害數を表示する。
 住家 全潰…一六 半潰…一〇
 非住家 全潰…一四 半潰…三
 社寺 全潰…二 半潰…—
 學校 全潰…二 半潰…二
 千倉町 千倉町に於ては、家屋の倒潰と同時に黄塵空を覆ひ余震引もきらず、人をして世の終焉を想はしめた。また、家屋の倒潰と同時に當町濱の郷の一隅に一民家の火災を發したが、幸に類焼を出さなかつた。激震は、瞬間に無數の倒潰家屋を出し、爲めに一般住民は露宿又は假小屋内に起臥した。左にその被害家屋の數を表示する。
 焼失家屋…一戸 住家全潰…五二一戸 住家半潰…二一一戸
其の他附属建物は幾分の被害を受けざるものは殆どなかつた。
 健田村 健田村の被害は實に夥しくして、土地は裂け、家屋は潰れ、橋梁は墜ち、家屋其他の被害は激甚を極めた。之を數字に示せば次の如くである。
 村役場 全潰…一 半潰…—
 小學校々舎 全潰…三 半潰…—
 隔離病舎 全潰…二 半潰…—
 神社 全潰…八 半潰…六
 寺院 全潰…七 半潰…二
 住宅 全潰…四二九 半潰…九〇
 附属建物の倒潰せるもの、一、五〇〇を算ふるに至つた。
 千歳村 人々が慌てふためいて、屋外に飛び出した頃には、どの建物もさながら怒濤に弄ばるゝ木の葉の様であった。またたく間に壁は潰れ、柱は挫け、濛々土煙は天地を閉ぢこめてしまつた。此の瞬間にあらゆる建築物は破壊され、本村全部を通じての総戸數七一二戸の中、全潰五三八戸、半潰六四戸、小學校校舎め倒潰四棟(五○五坪)其の他、幾多の附属建物の倒潰を見るに至つた。
 本村の眞野寺は惜しむべし、全部潰倒に歸した。
 豊田村 豊田村に於ける被害の主なるものば建物にして、公営物は残らず倒潰し、民家総建物の八割は全潰し、幸にして大字小戸区は其の被害少なきを得た左に其の被害數を表示する。
 住宅全潰…三八戸…一五、二四〇坪 神社…四棟…一三〇坪
 半潰…三七戸…一、四八〇坪 寺院全焼…一棟…一三二坪
 公署全潰…一棟…四八坪 寺院全潰…八棟…二九〇坪
 學校全潰…七棟…四六六坪 其の他全潰…二棟…五九坪
 此處のの莫越神社は式内神社の一である。震災で多少の被害があつたが、直ちに復舊した。
 丸村 村の家々では、午餐の仕度に忙しく、野良に出でたる人々は昼飯に歸る頃、突發せる震動は次第に烈しく、水平動より忽ちにして上下動に凄じき激震となり、俄然、一大震動來り、轟然たる音響と共に忽ち大地波打ち、壁はくづれ、屋根は落ち、塀は倒れ、一瞬にして家は、或は倒れ、或は潰れ、土煙は八方に上り、砂煙濛々天を蓋ひ、世は阿鼻叫喚の巷と化し、悲鳴を上げて救ひを求むるもの、泣き叫ぶもの、實に滲憺たる焦熱地獄は現出された。斯の如くにして、本村大井区を除く外は損害甚しく、全村に於ける全潰家屋住家は百六十五戸にして、全村住家の約五分一弱を占め、殊に甚しきは、丸本郷区、前田区の如きは全区殆ど全滅に歸した。然し大井区は山間の土地にて全潰家屋は一棟もなかつた。左に被害家屋の數を表示する。
 住家 全潰…一六五 半潰…九五  非住家 全潰…一九三 半潰…二〇二
 學校々舎 全潰…一 半潰…二  役場 全潰…一 半潰…—
 社寺 全潰…八 半潰…三  合計 全潰…三六八 半潰…三〇二
 古い歴史を有つた石堂寺も、今次の地震にその堂宇が傾いた。併し倒れなかつた。
 北三原村 北三原に於ける倒潰家屋、及び半潰並に其の儘使用に堪へず、修築又は、直し工事をなしたるものゝ被害數は下の如くである。
 倒潰家屋住家二十七。半潰及修築家屋二百四十四棟。神社全潰三社。學校全潰一棟。駐在所全潰一棟。佛閣の破損四ヶ寺。産業組合事務所及び倉庫、役場破損。
 南三原村 南三原村の被害は殊に甚しく、本村は総戸數四九五戸を有し、その内被害を受けたるもの左の如し。
 住家 全潰…三二四戸 半潰…六一戸  非住家 全潰…五三一戸 半潰…二〇五戸
 神社 全潰 村社…三 無格社…二 半潰…—  寺院 全潰…五 半潰…二
 學校 全潰…二 半潰…—  
其の他、登記所、役場、隔離病舎、巡査駐在所、郵便局、病院、停車場等、以上の如く被害は全村戸數の七十七パーセントに達し、幸に倒潰を免れしものも、之が復舊には各自多大な費用を要した。
 和田町 和田町には家屋其の他の建物の被害に就いて大なるものなし。即ち
 住家 全潰…二三 半潰…四一 非住家 全潰…三四 半潰…三九
 其の他社寺、工場等の全潰三棟を見る。
 江見村 江見村に於ける被害數は左の如し。
全潰家屋
 小學校舎—四。 隔離病舎—一。 同附属建物—四。 民家—九〇。 其の他—三五。
半潰家屋。
 寺院—二。 民家—七七。 倉庫物置其の他—二九
 太海村 太海村に於ける家屋、建築物の被害は左の如し。
 住家全潰—八。 半潰—二〇。 非住家全潰—二。 同半潰—四。を出せるのみ。他に特記すべきものなし。
 會呂村 會呂村は地盤の關係と、強震の割合には家屋建築物等の被害も他町村に比較して僅少であつた。左にその被害數を表示する。
 住家 全潰…八 半潰…三七 其の他建築物 全潰…五 半潰…一一
 大山村 大山村に於ける家屋建物の被害は、住家の全潰せるもの十一戸、半潰十六戸、非住家全潰四棟、半潰八棟外に被害激甚なるもの九十六戸あり。神社佛閣は全潰せるもの一棟、半潰せるもの一棟、就中房州の名刹高倉山、大山寺、不動尊、仁王門は倒潰し、金剛仁王の像を滅裂せるは遺憾の極みである。
 吉尾村 吉尾村は総戸数六三一戸を有し、中被害を受けたるものゝ數は左の如し。
 倒潰家屋住家十七戸、半潰四十三戸、之に附属せる建物の倒潰も亦之に準ず。其の他の建築物にして、傾斜或は屋根瓦及び壁の墜落等、毎戸の被害を免れず、家直し業の他修理を要せざる建物は一棟だもなかつた。
 主基村 主基村は全戸數五一七戸を有し、中全潰のもの一九戸、半潰のもの三十八戸にして、この損害價額十八萬七千七十六圓、その大部分は住家其の他の建物にて、此等復舊に要する総額は約二十六萬四千九百六十六圓を要するであらう
 田原村 天地を覆はんばかりの勢を以つて襲來せる大自然の破壊力、彼の大震動の前には、如何に堅牢なる家屋も微塵に粉粹せられ、村役場、小學校、駐在所等の公共營造物を始め、民家の被害甚大なること實に言語道漸であつた。倒壊は住宅四十五戸、非住家七十七棟、半潰は住宅四十五戸、非住家五十四棟の多きを算し、全村に渉り實に未曾有の惨害であつた。其の損害額は實に巨萬に達してゐる。
 鴨川町 鴨川町に於ける家屋其の他被害は総戸數一、三六○の内、住家倒潰三十五棟非住家倒潰十六棟外に一般建物の大破損を見た。
 西條村 西條村家屋の被害數左の如し。
総戸數三六五、住家全潰一三戸、半潰四五戸、附属建物全潰五〇棟、半潰五五棟を出した。
 東條村 東條村に於ける被害を數字に示せば左の如し。
 住家全潰一戸、寺院全潰一棟、厩舎全潰二棟、炊事場全潰三棟、物置全潰一棟、その他倉庫等の瓦の墜落せるもの尠なからず、住家の稍々斜面になりたるもの、梁間との接續個所の離れたるもの、其の他、粧壁を落され亀裂を生じたるもの等は枚擧に逞なきほどである。
 天津町 天津町に於ては、家屋の崩壊せしものは一棟もなし、屋根瓦の落ちたるもの、又壁を落せしもの僅に十戸に過ぎなかつた。
 湊村 湊村に於ては、家屋の被害として記すべき程のものなく、唯だ屋根瓦及び壁などを落せしのみである。

第六章 産業上の被害

 今回の大地震が地理上に變動を與へたことは、第三章に記するところであるがその變動が同時に水田に大變化を來したことは、産業上特筆すべき事實である。即ち農業に及ぼせる被害は、郡内を通じて、實に莫大なものである。
 それから漁業も亦た地形の變動によつて、多大な損害を被つてゐることは、沿海の町村に於ける漁港、船揚場、河口等の變化の爲めに、一時的といふよりも、恒久的に損害を被つたところが少なくない。
 要するに、農業、漁業、商業、醸造業、蠶業等郡内のあらゆる産業に及ぼした地震の被害は、よく計數を以て示すことの出來ないものが鮮なくない。
 以下各町村に於ける此等被害の状態とその計數とを掲げる。
 北條町 (一)水田の隆起、陥没、亀裂等の爲めに田面は勿論、用水路、溜池その他にも少なからず影響した。町内に於て、植付を爲すことの出來ぬ状態の田地が凡そ十六町歩の多きに達した。之れを区別に示せば、
 北條…五町六反五畝 高井…二町四反
 湊…六町歩 長須賀…二町歩
である。
(二)煉乳業及び畜産業 名實共に相當の好評を博して來た煉乳事業も、地震の爲めに約半ケ年の休業を爲さねばならなかつた。又畜産業は、乳價の暴落の爲めに多大の損害を被つた。從てその發展上に一頓挫を來した。
(三)醸造業 酒、醤油の工場の倒潰の爲めに醸造中のもの、貯藏品何れも悉く流出して了つた。その損害は實に數萬圓の巨額に達した。
(四)漁業 幸に漁船、その他の漁具等には、大した損害はなかつたが、漁業は一時中止した。中止の損失は大なるものがある。
(五)商業 店舗の商品は、大部分埋没又は破損して了つたので、その損害は、實に莫大なものであつた。惹いては金融上にも大なる影響を及ぼした。
(六)蠶業 丁度秋蠶の上簇中であつたので、蠶室の倒潰とその運命を共にした。それと共に、養蠶器具その他の損失は大なるものがある。
 館山町 (一)農業 耕地の亀裂、農事設備の損害は、凡そ二萬一千四百十一圓に達してゐる。
(二)商業 商品の破壊、埋没、營業の休止等の損害は、約二ケ月の間にて、實に七十一萬三千九百九十四圓。
(三)漁業 海岸隆起の爲め出漁が出來ず、又僅かに漁獲した場合も、輸送の出來なかつた爲めに大なる損失を被つた。その計數は、大約十三萬三千〇二十三圓を算した。
(四)鑛業 白土坑の陥没の爲めに被つた損失は、約五萬圓である。
(五)工業 工場破壊、作業中止の爲め被つた損失は、四十萬三千一百九十四圓に達した。
(六)運送業 その損失は五萬八千圓である。
(七)海苔養殖 その損失ば約七千圓であつた。
 西岬村 海底の隆起した爲め漁港を失ひ、漁船の出入に大なる支障を來したのと、海嘯のため漁船を破壊し漁具を流失したので漁業上に及ぼした被害は實に莫大なるものである。
 水田は殆んど一帯に渉り亀裂を生じ、稻作の収穫にも可なりの減額を來した。
 神戸村 神戸村耕地の變動を來した面積は、約五町歩、畦畔の破潰地面の崩壊凹凸等それが復舊費に一千余圓を要するに至つた。
 左に農具の破損を示す。
 唐箕…一八〇臺…價額…一、八〇〇圓
 萬石…一七三臺…價額…一、三八四圓
 摺臼…一五〇臺…價額…一、〇五〇圓
 外雑具…價額…二、○○○圓
 合計…六、二三四圓
外に収納所の被害も二百箇所以上に亘るも、それは別章一般民家及び其の他の建物中に包含するを以て、こゝには掲上せず。野外作物に就ては多少被害を見たるも、其の損害價額は輕微であつた。
 富崎村 本村は海産地である。震災當日は、出漁時刻に天候不良の爲め、全部休漁したので、幸に壮者は在宅してゐた。從て人命、家財等には割合に被害が尠なかつた。然し漁船、漁具等には多大なる損失を蒙つた。その概數を下に掲げる
 漁船(無動力)流失破碎……四四 大小破損……六二
 同(動力付)流失破碎……二 大小欠損……一一
 漁具捧受網……一三〇張 コマセ袋……一五〇個
 秋刀魚刺網……二、〇〇〇間 地曳網……二五切
 文■魚(トビウオ)刺網……二、〇八〇間 海老網……三〇〇反
 マニラロツプ……五、八〇〇間
尚ほ各産業家の損害、及び復舊に要する費用額は左の如し。
 漁業者 損害額…一一七、六六〇圓 復舊額…一二四、〇八二圓
 商業者 損害額…六二、四九九圓 復舊額…七〇、一七七圓
 工業者 損害額…二、六七五圓 復舊額…四、四五五圓
 其の他 損害額…一一、八一〇圓 復舊額…一七、二四五圓
 合計 損害額…一九四、六四四圓 復舊額…二一五、九五九圓
 其の他の損害
 富崎村相濱漁業組合…三九、一一四圓 富崎村布良漁業組合…一六、一〇〇圓
 長尾村 本村の産業上の被害に就ては、村の報告書に欠如してゐるので、その状態を明細に知ることの出來ないのは遺憾であるが、學校側の報告書中に見ゆるところでは、海底が約六尺も隆起した爲め、採藻の利を失ひ、漁業上の打撃は大なるものであつたと傳へる。
 豊房村 豊房村は震災の爲め諸般の事業は一時休止の状態であつたが、白土坑業、及び製炭業等、最も被害多く、白土坑業にありては全村を通じて廢坑となれるもの十七坑、加工建物潰倒一二四棟、此の坪數八百八十坪の多きに達した。製炭業にありては、製炭竈の破壊により共に製造能力の減少を見た。農作物にありては米作被害最も多く、震動の爲め立毛振蘯せられ、田面に散乱倒伏し、恰も大風の跡を見るかのやうであつた。それが爲めに収穫時期に及んで、之れが刈取に非常なる手數を要した。米質亦た劣等にして色澤を有せず、二等米に合格するもの殆んど稀であつた。平年に比し約二分減を見るに至つた。
 館野村 震災からうけた産業上の被害は、大したことはないが、農業にありては田面に亀裂の出來た爲めに、水持が悪しくなつた。即ち旱魃を招來するの虞れがある。
 山本区の白土坑の一部が崩壊した爲めに、可なりの損害をうけたことであるがその計數は今明瞭でない。
 九重村 本村葉煙草試作成績は次第に進境を呈し、本年も耕作成績良好なるを以て、村民大に喜び、何れも之れを住家に乾燥しておいたが家屋の全潰した爲め大部分は腐敗して了つた。然し、残存したものも葉は一面に煤附着し、色澤、香昧等も亦悪しく、且つ葉延、發酵等不結果であつた。其の被害は、實に二千九百六十圓に及んだ。
 家畜、家禽の被害額は二〇、七五〇圓、其の他水田、畑の被害は四町二反六畝二十八歩の多きに及ぶ。之れを平年作に比すれば確かに三割の減収であつた。
 其の他、煉乳工場の被害と、交蓮機關の不備とは、漸く發達して來た本村畜牛事業に一大打撃を加へた。
 稻都村 稻都村は前年度に比し、総段別二町一段歩を減ず。収穫は震災により一割五分減収、從つて價額も前年度より一割八分の減額を見た。
 耕地の破壊は五十町歩に及んだ。
 那古町 那古町の産業上の被害は、
(一)農業 農具の破損、肥料舎の倒潰、肥料具の破損は勿論、地殼の變動の爲めに、田地の貯水困難となつたところが少なくない。
(二)畜産 牛舎の倒潰、農具の破損、ひいて乳牛の手入れ不十分の爲めに、牛乳の不足をいたし、震前の殆んど半にも充たない。此の損害は、農家の被害の第一位を占むるものである。
(三)商工業 店舖の倒潰した爲め、商品の破損、殊に醸造家、呉服店等の損害は、甚大である。中にも米穀商は、家屋精米機の破損、材料の不足、交通の不便、石油供給の不足、電力の絶無等の爲め、事業中止に陷つたこと、數月の長きに渉つた。
 船形町 船形町は、水産業に依て生計を立つるもの、全町の六割を占む。從て産業上の被害も亦た、漁業がその第一位に居る。そして、家は何れも家屋の倒潰焼失した上に、漁具も亦破損若しくは焼失の厄に會はざるものなく、総じて失業の状態に陷つた。加ふるに本町水産業の根據地たる漁港は、海底隆起の結果殆んど其の用を爲さざるに至つた。左に主要なる漁具の被害を表示する。
 被害數量二〇九三個(全部焼失)……此の損害價額三六、九一六圓
 尚ほ製品鰹節七干貫……價額三萬五千圓を焼失
 次は商工業者にして商品の破損及び汚損による損害、焼失による損害とをあぐれば無慮數十萬圓に上らん、就中被害の甚大なるは醸造業にして、倉庫の倒潰と共に製品及び醪の流失、腐敗の損害また實に莫大である。
 次に被害の最も少きは農業である。本町の農家所有土地にして、崩壊の爲めに地租を免ぜられたる面積は、一町歩に過ぎなかつた。其の他果實、作物等の損害も亦少なくない。
 八束村 八束村は農業の土地である。田畑山林の亀裂崩壊等により可なりの被害を受けた。殊に近年發達しつゝある果樹園藝に於ては、多大の損害を被つた。即ち枇杷、梨等の結實が不充分なるは、氣象の影響もありしならむも、地盤の震動によりて、根毛を損傷せるに原因したものであらう。被害大要左の如し。
 田の損害額…六、○○○圓 畑の損害額…四二〇圓
 山林の損害額…二、五〇〇圓 宅地の損害額…三七五圓
 木材の損害額…一、五〇〇圓 作物の損害額…六〇〇圓
 計…六五、三九五圓
 富浦村 富浦村に於ける産業上の被害また少なからず。漁業家は漁撈に從事しても、京濱市場全滅の爲め魚類の搬出不能となり。畜産方面に於ても、生乳業の販路亦絶無となり。殊に魚仲買業の如きは、曩に京濱魚問屋に輸送したる魚代金が、時恰も前月分清算時期なりし爲め、大震災に遭遇して、問屋の全滅から自然収入不能に陷つた損害は多大なものである。
 岩井村 岩井村の産業上に於ける被害は農業を最とす本村、生産牛乳は、煉乳工場の破損により一ヶ月余其の製造を中止し、他に供給するの途なきため損害約三千圓以上に達した。
 尚ほ蔬菜栽培の手入れ不充分の爲め、産額の減少、品質の不良により、是れ亦た數千圓の減収を來した。農業に次ぐ被害は漁業である。海上の變化からして、恐怖心と京濱市場の不況の爲め、一ケ月余も漁撈を中止しだので、數千圓の損失を被つた。
 勝山町 本町に在る東京菓子會社、極東會社、ラクトウ會社、各工場内の機械は破損し、爲めに休業の止むなきに至つた。其の結果、九月一日より二十日間位は全町内の牛乳を無料にて一般町民に分配するの状態であつた。其の他、水産物農産物等も水陸交通の杜絶した爲め、其の處理に窮して、約ニケ月間位は休業状態に陷つた。從つて被害も亦多大であった。
 保田町 保田町に於ける産業上の被害は、輸送機關の杜絶と、京濱地方の大被害による影響を受け、漁業は一時中絶するの状態となり、牛乳の販路は皆無となり、其の他諸種の生産物は販賣の途なく、総じて大なる損害を被つた。
 佐久間村 佐久問村に於ては、特に産業上の被害として認むべきものは一もなかつた。
 平群村 平群村は間接の被害なるも、煉乳工場の倒潰、またはその被害の爲め本村産業上唯一の生産物たる牛乳を販賣すること能はず。其の被害尠なからず且つ、交通杜絶のため畜牛飼料たる麹の運搬不可能となり、村内一千有余の畜牛の被つた損害は大なるものがある。
 共の他、水田の隆起または地盤の變動せる爲めに損害を被れるも、特に果樹類に於ては震動の爲め、その細根を切断され、枯死するものゝ被害が多かつた。
 瀧田村 瀧田村は純農村である。從て産業上の被害は、本村固有の被害は
尠いが、経濟上の需給の關係からして、對外的にその余波を受けたるものは尠なくない。其の中でも、第一乳價の下落は、畜産業を唯一の副業とする本村にては、可なりの苦痛であつた。又、園藝方面の促成品が、東京、横濱が焦土と化した爲め、其の販路を杜絶された有様であつたが、幸に一時的の現象で、京濱の復興と同時にこれ等の被害は補填せられ、さまで憂慮すべき事柄でもなかつた。尚ほ、本村が唯一の生命とする農業の被害も大なるものなく、産業上の被害としては特記すべきものはなかつた。
 國府村 當村は七月下旬から雨量極めて少なく、水田は涸渇して亀裂を生じ、稻の吸肥力最も旺盛なる時季に、激震により地盤を震動したため、根毛切断せられて、養水分の吸収を不可能ならしめ、著しく發育を阻害した。從て結實不完全のものとなり、遂に平年作よりも三割の減収を見た。
(一)耕地の被害
 前記の如く断層、隆起、崩壊のため、耕地の被害甚しく、本村に於ては其の面積十五町歩に及んだ。
(二)牛乳の販路
 本村主要の副業は、畜牛にして、生乳の産額は郡内屈指の地である。震災の結果交通機關は全く杜絶し、煉乳作業又不能に陷リ、日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、徒らに抛棄するの止むなきに至りたること約一ケ月。その被害又鮮なくなか
つた。
(三)乳牛の價格低落
 斯くの如くにして、生乳は販路を断たれ、その上に飼料又欠乏し、乳牛の價格は著しく低落したるために、純良なる畜牛も漸次退化して、本村畜産業に一大支障を生じた。
 白濱村 本村各区、港口、海底の隆起の結果、港内狭小となり、從て水面また低下し、爲めに漁船の出入、及び碇泊不能となりたる爲め、一時漁業を中止するの已むなきに至つた。更に磯根露出の關係上、鮑、蠑螺、とこぶし、伊勢海老其の他、海藻類の損害甚だ大いにして、本村水産業上に及ぼしたる影響は、實に莫大なるものであつた。
 之れが損害價格は到底詳細な計數に表はすこと能はざるも、漁穫物の例年に比して、其の見積損害は大約左の如くである。
 鮑……九、一六三圓 蠑螺……三三三圓三〇銭
 伊勢海老……二〇〇〇圓 小雑魚……四〇〇圓
 天草……三〇〇圓 青海苔……二〇〇圓
 本海苔……一〇〇圓 はば海苔……一五〇圓
 雑草海苔……八〇〇圓
以上約一萬五千圓は、震災に遭遇せざれば例年採集し得べきものであるが、磯根荒廢の關係からして、採取すること能はざるに至つた損害の見積りである。若しも漁港復舊工事を損害金額に見積つたならば、或は百萬圓を突破するに至るであらう。漁船は、發動機船一艘の被害を受けたのみで、其の被害の程度も四百圓内外に過ぎまい。
 七浦村 汀線降下の爲め、從來の港は漁船の出入困難となつた。從て地先漁業の経營に頓挫を來たし、鮑の採取、鰕網等は杜絶し、秋季の秋刀漁の経營を悲觀せしめ、漁村の生活を脅威した。秋刀魚漁は實に本村漁業の主要なるもので、村民生活の一大根柢をなすものである。そこで、村當局、漁業組合等の活動により、一時應急的施設をなし、小漁船だけ、満潮蒔を見て出入し得べく修築を加へ、而して秋刀魚漁を營んだ。然るに、京濱地方の復興機運に向ふと共に、水上の運送次第に好況を呈し、出稼者も次第に多くなり、現今に於ては、稍や生活の安定を得るやうになつた。
 千倉町 千倉町の主たる生業は、矢張り水産業である。ところが、海底隆起は港内の水深を減じ、漁船の出入を不便ならしめ、本町唯一の漁業に大妨害を輿へた。而かも鐵道の破壊、橋梁、道路の破損等は、交通の断絶を來たし、東京、横濱の被害は、又直接に當地の産業上に影響を及ぼし、其の損害は鮮少ならざるものがあつた
 健田村 健田村に於ける産業上の被害は、耕地の崩壊に由て、田三町七反一畝、畠地一町四反五畝。又、畑地の亀裂は各所に夥しく、その被害は大なものであつた。
 千歳村 千歳村は純然たる農村である。震災のため土地は四尺余も隆起し、且つ、所々に大亀裂を生じだ。安馬谷と千田谷に陷没はあつたが、さまで大なるものではなかつた。唯だ野となく、山となく、田畑、宅地、道路等到るところ大なる亀裂が出來たので、交通の妨害は云ふまでもない。農作物の被害も亦僅少なものではない。
 豊田村 村民は一般に倒潰家屋の後始末、應急施設の事に忙はしく、生産的事業に從ふことが出來なかつた。尚ほ、本村農産物中、其の第一位を占むる米は、耕地被害の爲め、水稻植附困難なる水田十町歩余を算するに至りたるは、本村産業中の大打撃であつた。尚ほ、道路、橋梁破壊の爲め、物資の運搬常の如くならず、一般需要者は勿論、運搬業者の被れる損失もまた大なるものがあつた。而して、総ての被害額は約二萬五千百二十圓に達した。
 丸村 丸村は震災によりて、田地に無數の亀裂を生じたることは、地形の變動の部に於て述べたる如く、當時本村一帯に亘る水田の稻作は、早稻以外のものにありては、尚ほ結實を見ざる頃にして、最も稻の發育に重要なる時期にて、震動の爲め根莖等に致命傷を負ひ、これが爲め結實上多大の影響を被り、延いて収穫の減少を來したること甚しく、本村の如き純農村に取りては、農村経濟上の大打撃であつた。
 北三原村 北三原村に於ける産業上の被害は尠からざるも、特に三原煉乳所に於ては、工揚を破損したる爲め、引いて本村の畜産業に一大打撃を來たし、一時牛乳の處分に苦しんだ。尚ほ、三原煉乳所に於ては、東京方面に送品した製乳品約八千個價額四千圓以上の損害を見るに至つた。
 南三原村 南三原は半農、半漁の村である。淺間山の崩壊、河流の變化に因つて、水田約五段歩と、温石川沿岸約一歩に亘りて、水田が流失した。外に淺間山崩壊のため畑地約六段歩、山林一町歩埋没し、其の他、暗渠、排水路潰埋は海發区、谷田区に約二十町歩、農具収納場、倉庫、肥料舎等の倒壊また少なからず。水稻、畑毛の如きは、その時季を失したるために、収穫意外に減じた。又、磯魚介、海藻類は海岸線隆起の爲め、枯死逸散して収穫が出來なかつた。漁船附場の隆起せる爲めに漁船の出入碇繋に不便を生じた。其の他、一般に購買力減却して、所謂る不景氣を來した。之れに反して、工業關係者は多忙を極め運送業者、酒舗等は一時殷賑を呈した。
 和田町 和田町は激震地境を外れてゐたので、他町村に比すれば、大なる被害はなかつた。が、土地隆起の爲め、産業上には可なりの影響を及ぼした。
 江見村 江見村に於ける産業上の被害は、海岸一帯に四尺以上の隆起を見漁港の水深が減じて、船着が不便となり、また、海底の岩石崩壊して、蠑螺、牡蠣、鮑に介殼等はこれが爲めに圧死したものが多い。
 其の他、山林の崩壊流失九ケ所。また、水田は地盤の凹凸した箇所七箇所に及んだ。尚ほ漁港の如きは、海岸隆起の爲め、船舶の出入に便じたる澪路は五ヶ所の修繕費約四萬二千圓を要した。
 太海村 太海村に於ては、農産物には格別の被害なきも、海産物、殊に採鮑、海草採取は、地震以後全く休止の状態に陷つた。又岩石隆起の爲め収穫上の不便甚だしく、爲めに多大の損害を被つた。
 曾呂村 曾呂村に於ける産業上の被害は左の如し。
 水田の被害……一四、三五七圓 畑地の被害……六四五圓
 山林の被害……二、〇一五圓
 大山村 農家に於ける農具の破損を受けたる損害額三萬四千二百九十三圓。商家に於ては商品、店舖の破損及び汚損等に因るもの四千四百二十七圓。就中醸造業者にして、製品及び醪の流失した被害は莫大なものであつた。
 吉尾村 産業上特書すべき損害なきも、人心恟々として意気銷沈、一時は全く耕耘、除草其の他の生業に就くものなく、その被害は間接に大なるものがあつた。
 主基村 主基村は農業によつて生計を立つるもの、全村戸数五百三十九の中七割強を占むる村である。地震の爲めに一週間ほど農業を休んだが、一週間の後は却て、一層の勤勉力行をつゞけた。地震の産業的被害は、此の休業の外には、是れといふ特書するに値すべきものもなかつた。
 田原村 田原村の産業上の損害は耕地の亀裂、陷没とであつた。中には人體を容るゝに足るべきほどの大亀裂に、地下十數尺に達するものもあつた。耕地の被害面積を合算すれば六町余上り、之が復舊費の如きも約一萬余圓を要するであらう。
 尚ほ、水稻其の他農作物の被害は、一割乃至三割の減収を見ることであらう。
 鴨川町 鴨川町は極く一少部分の被害に過ぎずして、特記すべきものなし
 西條村 西條村に於いては大なる影響なし。
 東條村 毎日余震の激しかつた爲めに、村民は一週間位勞働を中止したのみで、他に被害はなかつた。
 天津町 天津町は震後は、海岸の闇礁隆起二、三尺及んだ爲め、從來其の岩礁に附着してゐた産物、就中鹿尾菜、角又、波柴海苔等は悉く採取すること不可能となり、その代りに青海苔に似た海草が一帯に生じた。其の他、海陸共に運搬、通信に金融の機關等は一時休止した。
 湊村 湊村は農業用の用水が枯渇した爲めに、揚水の勞とらなければ灌漑水の便を欠くに至つた。

第七章 教育上の被害

 突如たる大地震は、一瞬の間にあらゆる建築物を倒壊し去つた。安房郡内に於ける各町村の小學校は勿論、北條町にある縣立の中學校、高等女學校、圖書館等も、均しく此の災禍を被らないものは殆んど稀である。
 建築物の被害に就ては、第五章に詳記した通りであるが、本章に於ては校舎及び教育諸設備の大破壊の爲めに、教育上に及ぼした、有形無形の事象を一括して郡内各町村の被つた、教育上の實況を通覧するの便に供したいのである。例によつて各町村別にその被害状況を掲げる。
 北條町 (一)御眞影 北條町小學校は校舎の倒潰と同時に、畏くも御眞影奉藏所までも亦全潰の厄に逢つた。然し、幸に尊厳なる御眞影に對しては、大自然の暴威も何等の故障だも及ばなかつた。その夕刻、無事に校長石崎常夫氏の邸宅に奉遷した。其の後、郡内罹災小學校(八束村小學校震災の爲め焼失した、恐れ多くも御眞影も同時に焼失の厄に逢つた)中學校、郡役所の御眞影を一時縣庁へ奉遷すべく九月十一日より十八日まで、房州銀行金庫内に奉安した。この間、各職員は日夜交替で守衛の任に當り、次いで十八日午前五時發、縣の便船鏡丸で石崎校長が奉戴して縣庁に奉遷した。
(二)校舎及び備品 備品は圖書の大部分と、器械器具の一部を除くの外、大部分破損してしまつた。其の被害の見積價額を示せぱ次の如くである。
 目種   細別    數量        損害見積の價額
 本校舎  八棟…………八九七、二五坪………一一六六四二、五〇
 附属建物 便所…………五棟…五〇、〇〇坪…四八〇〇、〇〇
      昇降口………六棟…三三、七〇坪…二八八六、〇〇
      小使室………一棟…八、七〇坪……四三五、〇〇
      物置…………一棟…六、〇〇坪……一八〇、〇〇
      雨天體操場…一棟…六〇、〇〇坪…二四〇〇、〇〇
 非及暗渠 井  二ヶ所…………………………二〇〇、〇〇
      暗渠 六〇間…………………………六〇〇、〇〇
 器具………………………五六五〇個……………八四七五、〇〇
 備品 器械…一四〇〇個…二二四〇、〇〇
    標本…三三〇〇個…五二八〇、〇〇
    合計…一四四一三八、五〇
(三)児童及び職員 激震の起つた際は児童殆んど下校し、僅かに高等科女児五名のみが教室に残つて居た、數十秒にして校舎が倒潰してしまつたので、逃る暇なく五人共に建物の圧せられたのであるが、三名は無事に救ひ出され、一名は手と足に輕傷を負ひ、一名は不幸にして即死してしまつた。其の他、児童の家庭に於ては傷者十一名、死傷者十二名、行衛不明二名を出した。
 職員もまた児童と同様に逃る暇なく、憐れ六訓導も建物の下敷となつた。内三訓導は無事に救出されたが、二訓導は負傷し、川名訓導一人は不幸にして即死した
(四)教授方法 九月二十一日と、二十五日との二回に児童の招集を行つたが、意外に出席良好なので、二十六日よりは林間教授を開始した。そして、學用品一切を失つた児童には、各府縣郡市町村、其の他の團體から寄贈を受けて之を配給したので、多少の不足は免れなかつたが、左ほどに教授上の不便は感じなかつた。
縣立安房高等女學校
 北條町にある縣立安房高等女學校の校舎総坪數は、八〇九坪の内、生徒控所と雨天體操場合せて七二坪、便所二ケ所二〇坪、渡り廊下九坪、合計一〇一坪をのこして他の七〇八坪は悉く倒潰して了つた。
 職員及び生徒—高等女學校の職員には死傷者は死傷者はなかつたが、生徒には六名の死亡者があつた。其の他自宅で六名、寄宿舎で二名の死者を出したのは遺憾である。
縣立安房中學校
 本校も亦校舎、寄宿舎、附属建物等の大部分倒潰し、備品も殆んど破壊し、その被害は實に巨萬圓に達してゐる。
 職員及び生徒—第二學期授業開始の當日にて一同出校し、講堂にて始業式を終り、尚十一時半職員會議も終り、職員生徒も大略退出の後であつたので校内に死傷者のなかつたのは不幸中の幸であるが、家庭に於て生徒の負傷二十五名、職員の死亡一人を出したのは遺憾であつた。
 館山町 午前十一時五十八分、激震と共に、校舎倒潰。僅かに一棟、半潰の姿にて辛くも立残つた。校長は二名の職員と共に、御眞影を假奉安所に奉遷の後、職員一同を集め点檢したるに、准訓導大塚ユキ子、准訓導菊本幽香子の二氏、校舎の下敷となりゐたるが、職員総掛にて、屋根を取毀ちて救ひ出した。幸に二人共に微傷だも負はずして、無事であつた。洵に一種の奇蹟であつた。
 それから職員は二つに分かれ、一部は火元の注意に任じ、一部は教授用の藥品置場に潜り入り、黄燐、エーテルなど、危險性の藥品を取出し、火災の豫防に努めた。
 そのうち學校の附近にて救護を乞ふもの多く、職員は各手を分ちて家屋の下敷となつた者、地震で圧死した者の引出しに取かゝつた。そして一日は夜まで救護の爲めに働いた。
 そして翌二日は、職員総掛にて、御眞影假奉安所及び宿直室を建設した。
 三日は、學校長は家族の圧死した職員の家庭を、受持訓導は、當該學級の死亡児童の家庭を各訪問して、弔慰の意を表した。且つ、職員は児童の家庭を訪問して、震災状況を七日までに調査すべく、本日その調査に着手した。(四日以後の記事省略)
(一)小學児童の圧死者氏名
 尋常二 熊澤米造  同 西川秀吉  同三 中山貞子
 同 松本ハル  同五 辰野千枝子  同六 田張榮治
 高等二 上岡八千代
 以上、特に氏名を掲げて哀悼の意を表す。
(二)震災被害調査表 (大正十二年九月十八日調)
 種別   數量       損害見込額    種別   數量  損害見込額
 校舎………七棟(六五八坪)…四三、五四〇圓  器具………七六五…三、九三七圓
 理化機械…一八三………………八七二圓     家事用具…一三七…三二七圓
 裁縫用具…二四…………………一一二圓     圖書………二一五…四二八圓
 掛圖………三五七………………五四五圓     標本………二七二…三一七圓
 合計…五〇、〇七八
 教授方法
 九月二十三日、館山町復興會を組織し、委員長に島田榮治氏就任、同會教育部には高木榮次郎部長に、長谷川房治郎副部長となり、左の諸項を決定、即時實行することとした。
(1)速に残存校舎の大修繕を行ふと同時に、水産講習所を借入れ、二部教授を開始すること。
(2)右借入委員は、島田榮治之に當ること。
(3)若し右借入不能の場合は東教場に八十坪、西教場に二百坪のバラツク教室を建築すること。
(4)速に新敷地に校舎本建築に着手し、二部教授を解くべきこと。
 西岬村 西尋常高等小學校は全潰、東尋常高等小學校は一棟全潰、一棟半潰
兩校とも校具、教具等の大部分を破損し、教育上實に甚大なる支障を生じた。當時西尋常高等小學校には、校長及び職員一名が建物の下敷となつたが幸にして生命に異状はなかつた。
 神戸村 神戸村小學校は殆ど大部分倒潰せられ、從て机、腰掛等は甚だしく破壊された。左にその損害を表示する。
 種目   數量  損害價額    種目  數量 損害價額
 器具類…一七〇個…三、四五九圓  機械類…三個…三八〇圓
 圖書類…二五個……一五〇圓    標本類…一〇個…三五圓
 合計…………………四、〇二四圓
 校舎—四棟 坪數—三九二坪。 損害價額—四三、一二〇圓
 富崎村 本村小學校舎一棟及び講堂は稍や傾斜したるに止まり。直に之れが修理を加へ、他は全く無事にして、九月十九日より授業を開始した。
 左に校舎講堂の被害を列記すれば、
 小學校舎…一棟(一五四坪)破損…損害價額六〇〇圓
 講堂………一棟(七一坪) 破損…損害價額二〇〇圓
 長尾村 同村瀧ロ尋常小學校にては、地震と同時に、男教員數名直ちに御眞影を奉藏所より遷して、校長諸員と共に之を奉持し、取りあえず校庭の一隅なる砂丘の松林の樹下に避難した。午後六時、更らに第二奉安所なる村役場に奉遷した
 又、長尾高等小學校にては、校舎倒潰後直ちに御眞影奉藏所の外廊を破り、職員協力して、御影を其處から直ちに村役場に奉遷した。唯だ事前に奉遷し得なかつたことは、深く恐懼に堪へずと、同校長は、報告書中に特記してゐるが、臣子の情として當に然るべきことなれども、事天災のことにて、咄嵯の出來事に屬すれば、唯だ々々恐懼の外なきのみ。
 次に職員は、高等小學校にては、使丁が落瓦の爲めに輕傷を負ひしが、他に死傷者はなかつた。が、森教員の實家は全潰の厄に會つた。尋常小學校にては、小宮訓導の家屋土藏外二棟全部倒潰、神田訓導の實母震死、妹二人負傷したが、他に格別の異状はなかつた。
 高等小學の在學児童が、住宅全潰の厄に逢つたもの三名、その内女子一名惨死した、洵に悲痛の限りである。
 校舎は、高等小學校は使丁室、便所等附属建物を残して、全部倒潰した。尋常小學校にては、校舎の屋根瓦墜落、玄關傾倒、舊校舎と新校舎との渡り廊下倒潰したのみであつた。
 震災直後、高等、尋常小學何れも、十日間臨時休業をした。休業後は、尋常校にては校庭教授を始めた。それから、校庭教授を止めて、隔日教授を始めたのは、十月二十日のことであつた。それは新校舎一棟二教室を使用したのである。高等小學にては假校舎を設けて其處で教授を始めたが、僅かに二教室、四十坪の急造のものである。不完備なことはいふまでもなかつたが、それでも校庭の露天の教授に優ること萬々であつた。
 豊房村 豊房尋常高等小學校は、宿直室、物置、便所二棟計四棟を除く外全部倒潰し、使丁一人重傷を負つた。教材其他の設備も殆んど全滅し、児童を収容すべき場所なく、九月中は授業を開始することが出來なかつた。十月十日に至り始めて一二年生を南條八幡神社境内に、その他を校庭に集め、林間學校の例に傚ひ教授を開始したが、野外の爲めに風雨の日は休校する外なかつた。
 神余小學校に於ても校舎全部倒潰し九月中は混乱状態に暮し、十月七日に至り始めて假校舎を落成したので一部の生徒を此處に、他を松野尾寺に収容して教授した。
 畑校は校舎幸ひ倒潰を免れたるも、激震の爲め校舎の東北に約六十度の傾斜をしたので、應急修理を加へ、十月三日漸く開校した。震後月余の間は生徒殆んど放浪生活に慣れ、學業の成績、性行の向上、爲めに多少退歩の状を見た。ひとり不幸中の幸なことは、震災當時各校共、放課後であつたので一人の死傷者をも出さなかつたことである。
 館野村 學校は丁度第二學期の始業式で児童は何れも十一時頃歸宅した
後であつたので、校舎内で震死した児童の一人もなかつたのは、何よりの幸であつた。が、歸宅後家屋の下敷となつて惨死し児童が七名あつたことは、悲痛の限りである。
 職員は、役場吏員と一緒に、運動場の一隅に避難したが、一人の死傷もなかつたのは仕合せであつた。
 御眞影は無事に校長の宅に奉遷した。そして十一日に房州銀行の金庫に奉藏して安全をはかつた。
 校舎は南側四教室一棟、理科室、教員室、應接室、裁縫室の一棟、小使室、物置一棟は倒潰した。北側教室一棟の内二教室は倒潰したが、他の二教室は辛くも倒潰を免れた。が、殆ど使用に堪へない程度になつて了つた。便所は二棟共倒潰を免がれた
 重要書類や、書籍、器具、器械の類は、完全なものとては一物もなかつた。それを二日から職員と、在郷軍人會、青年團の人々で整理した。
 それから始めて児童を學校に集めたのは九月二十日のことであつた。そして二十八日から露天教授を開始した。別に教場といふものがないので、樹の下や、菰張りで、児童は莚一枚敷いただけであつた。彼れ此れしてゐるうちに寒くなつたので、神社や、寺の日當りのよい所へ引越して、四箇所で教授した。が、黒板一面と、教科書一冊が、學習の生命であつた。惨めの極みそのものであつた。然し、児童の健康を害したものゝ一人だになかつたことは、實に一種の奇蹟であつた。
 九重村 新舊兩校舎全潰、御眞影、勅語謄本、其他重要書類等無事に引き出し、御眞影は村長の宅に奉遷し、小柴教員守護。七日職員総出にて、職員室整理。重要物件を假舎に移す。十一日在郷軍人役員、職員共力して器具圖書類を整理し、同日御眞影、勅語謄本を郡役所に奉遷す。二十二日、二十五日生徒招集。二十九日高等科生徒招集。假教場を三島神社境内に設け、十月三日授業開始。九日児童作業として倒潰校舎より机又は腰掛等を假教場に運ぶ。十八日もつゞいて児童作業を爲す。十九日村民一同倒潰校舎取片附着手した。卅一日天長節祝式を三島神社境内に於て行ふ。十一月十三日、児童作業にてバラツク建設を始め、十七日より此處にて授業を開始した。二十一日校庭にて詔書奉讀式擧行。十二月七日村民バラツク建設開始。十日よりバラツク校舎にて授業を開始す 十三日縣教育會義捐金配布さる。十五日補習生徒招集、勅語謄本受領。十九日補修教育授業開始。二十三日御下賜金傳達式。二十五日修業式擧行。舊校舎並に器具機械標本類の被害は、多大なるものであるが、新校舎の新築は大正十二年冬季に起工。四月基礎工事をなし、六萬二千余圓を以て八月三十一日竣工豫定のところ、工程進まず漸く北側の一棟の杉皮葺を了せしのみであつた。爲めに被害は比較的輕少であつた然し、教育の實績上の被害は甚大なるものがある。
 稻都村 稻都小學校教育上の被害は左の如し。
        数量    損害價額           數量  損害價額
 小學校校舎……一七七七二坪…一、〇六六三圓  器具類……一四五…六三〇圓
 機械類…………八七……………九〇圓      圖書類……五〇……九〇圓
 標本額…………一〇……………三八圓      附属建物…二三……六〇〇圓
 其の他…………一〇〇…………一〇〇〇圓
 教育の設備は殆んど破壊された。一時は林間を利用して、晴天學校を開始し僅に授業を継續した。さればこれが復舊は一日も忽にすることが出來なかつた。そこで委員は夜を日に継ぎ工事を督励し、假校舎の建設に尽力した。その結果十一月末日に至り完成を告ぐるに至つた。
 那古町 校舎全潰、校具の全部が破壊されたので、授業を中止すること月余に及んだ、殊に技能教科、理科教授などは、一時その跡を絶たねばならなかつた。
 訓練上からいふと、児童の一般は不規律となつた。不節制となつた。言語、風俗も粗野に流れた。又身體、居室の不潔、校舎、校具の不完全からして、視力、姿勢などにも影響をうけた。
 要するに物質的損害は、勿論多大であつたが、精神的無形の損失も、實に大なるものがある。
 船形町 當町教育上の被害は、校舎の倒潰及び校具の破損により、授業は全く不能であつた。加之ならず、各家庭の被害の爲め登校する児童は殆んどなかつた。然し、そのまゝに過ぐべきでない。そこで町民多數協議の上、児童教授開始を希望するに至りしかば、早くも九月十三日震災地各町村に先ちて、野外にて晴天授業を開始した。爾來専心復興に努力した。左に教育上に及ぼせる損害の大要を表示する。
 大震災の突發の爲め大火災を惹起したので、全町は潰滅に歸した。児童は家なく衣なく、食ふに食なき惨状であつた。斯うした状態の下にある児童如何にして就學せしむべきか。町當局者の深く頭脳を悩ました問題であつた。職員は數里の外より出勤して、先づ死亡児童の家庭の慰問、負傷児童の見舞等に費した日數は震後三日間であつた。全潰校舎の取片附、運動場の整理、机腰掛の鷹急修理に費した日數は八日間、漸く九月十三日、始めて児童招集露天教授の開始をした。
 八束村 八束村小學校は、校舎の倒潰に加ふるに火災の厄に遭ひ、圖書校具一切を擧げて烏有に歸したるは遺憾であつた。殊に校舎倒潰に際して御眞影奉遷の機なく、畏くも御眞影を焼失し奉りたるは、洵に千秋の恨事である。學校を擧げて恐擢をくところを知らない。火災の原因は理科室の薬品自體から發火したもので、職員は全力を尽して防禦したが、遂にその効を奏することを得なかった。
 當日は第二學期の初日にして、児童は早朝より登校したるも、學習の準備等終りたれば、一場の訓話をなし、悉く歸宅したる後のことゝて、校内には一人の児童なく職員も亦無事であつた。而して、本校児童は家庭に於ても、幸に一人の死傷者なきは誠に天佑といふべきである。然し、校舎は焼失以外のもの悉く半潰の状態となり、使用に堪ゆるものなければ止むなく約十日間の休業をした。
 職員は此間、各家庭訪問をして、児童の安否を見舞ひ、他方には将來の教育計画に思を焦し、村當局と協力して之れが應急策を講じた。幸に本村は寺院及び集會所等倒潰を免れたものがあつたので、一時之を借用して假校舎に充て、机は石油の明箱を代用した。そして、九月十二日より授業を開始した。半潰校舎は應急的修理を加へて、假校舎と同様の授業を開始した。當時収容の配置は
 本校—尋常科第一學年より第三學年
 第一假校舎(宮本永福寺)—尋常科第四學年及び同五學年
 第二假校舎(大津諏訪神社集會所)—尋常科第六學年
 第三假校舎(青木眞勝寺)—高等科第一學年及び第二學年
 震後人心の不安に加ふるに、教室は勿論、教具、圖書類まで全滅し、諸般の施設経営は悉く破壊され、延いて児童の學習上尠からざる損害であつた。農業補習學校も例年は十月より一週四回夜學を以て教授を開始したるも、本年度は遂に全廢に歸した。青年團、處女會等社會教育方面にありては、會合の場所なかりし爲め、諸般の行事は大部分は休止した。本村小學校職員、児童の被害状態は左の如し。
 職員及び児童には死亡、負傷、行方不明の者なし。
 住宅の倒潰は職員に五名、児童に三十六名。
 住宅焼失は職員に一名、震災により退校せる児童一名。
 校舎の損害額…………三八、二八〇圓   圖書の損害額…………六五〇圓
 校具の損害額…………三、五〇〇圓
 富浦村 富浦村小學校校舎倒潰の外、教室に假用しつゝある商船學校及高等師範附属中學校の夏季水泳部寄宿舎全部倒潰した。外に教具、圖書類其の他の校具も大部分破壊して用をなさず。九月一ケ月は全然休業し、十月より授業を開始したるも、登校者極めて少なく、爲めに二部教授をなすの止むなきに至つた。それが爲めに教育上に及ぼせる影響は實に大なるものがあつた。
 岩井村 岩井村小學校校舎は、全潰または半潰。之が児童の収容設備の爲め九月二十七日まで休業、以後は左記の場所に假校舎を設け、越えて翌十三年二月まで之を継續した。
  學年別        假校舎の場所
 尋常科一、二學年男女——郷社天満神社境内(天幕を使用)
  同   三學年男女——竹内八雲神社社殿
  同   四學年男———久枝神社社殿
  同   四學年女———久枝私有建物
  同   五學年女———同
  同   六學年女———同
  同   五學年男———高崎圓照寺本堂
  同   六學年男———同岩井神社社殿
  高等科 一學年男———合戸八幡神社境内籠堂
  同   二學年男———合戸福満寺本堂
  同   一、二學年女—検儀谷大勝院本堂
 其の他分教場は被害なき爲め從前の如く授業をしてゐた。
 勝山町 勝山町小學校校舎は、幸ひ倒潰を免がれたが、柱は折れ、壁は落ち、瓦は飛び、迚ても児童を教室内に入れることが出來なかった。爲めに約一ケ月の間授業は全く休止した。然し、其の後とても屋根の修繕の終るまでには、僅かの風雨にも授業を休止する日が多かつた。幸に倒潰の難を免がれたので、校舎の破損額は約三、○○○圓、機械器具の破損額は五、九〇〇圓で濟んだのであつた。
 保田町 保田町小學校の倒潰及び半潰は、一時休校の止むなきに至り、應急的修理の上、漸やく二部教授を開始するに至りたるも、其の教育の効果に及ぼす損害は非常なるものであつた。
 佐久間村 佐久間村小學校校舎の破損は五十余ケ所に及んだ。けれども建築物は倒壊を免れ、教育上には格別大なる支障を見なかつた。
 然し、児童の家庭では地震に恐怖して、何れも屋外に宿泊したのであつた。児童の心も恐怖の念高く、人心安定せず、且つ日に幾十回の余震があるので、此の上如何なる變事の襲來するかを気遣ひ、授業は九月十五日まで休み、十七日より震災前の状態に復旧した。
 平群村 平群村に於ける教育上の被害は、有形的なものは校舎の小破損、備品薬品等の破損流出位に過ぎなかつたが、児童職員の精神的打撃は有形の打算を以て測定すべきでなかつた。
 瀧田村 震災の齎らす重大なる被害は、教育そのものゝ上に被つたそれである。建築後十數年を経過した小學校校舎は可なりに理想的に設けられ、優に本郡中の屈指であつたにもかゝはらず、僅かに一瞬の揺ぎの爲めに、見るも惨ましい有様となつてしまつたのである。
 物質上の損害は単に一校舎の倒潰、教具の破滅に過ぎないが、之れを将來の教育全般の上から洞察するときは、児童の精神上、身體上に取りて、甚大なる悪影響を興へたることは勿論である。町村の災害と、校舎校具の破滅は、本村の如き純農村に取つては可なり大きい打撃であつた。同時にそれが將來教育の發展上にも一種の暗影を留めないとも限らない。さう見ると今次の震災被害の中で最も大なる損害を被つたものは、教育であると云つても過言ではなからう。
 震災後退學したものが四名あつたが、それは復興の手傳の爲めであつた。
 授業は九月十四日、下瀧田区智恩院境内で開始した。時間は午前八時より同十一時までとした。児童の出席状況は震災前と別に變化はなかつた。
 國府村 小學校校舎は、多年其の不備に悩んでゐたが、村財政の都合で教授訓育上の不便を忍びつゝ改増築を遷延してゐたが、社會の進運は遂に此の不完全なる状態を持續することを許さず。豊かならざる財政の中から巨額の資財を捻出して、數年前より之が改増築に着手し、大正十二年一月に至り総ての整備を了へ村落小學校としては、敢て遜色なきに達したのであつたが、同年九月一日、突如として未曾有の惨害に遭ひ新旧校舎悉く倒潰、教授用具亦た凡て破損して、休校二ケ月に亘りたるは、教育上甚大なる損失であった。
 家庭教育は住宅破壊せられ、陋たる仮小屋に居住して、児童は學ぶ所なく、加ふるに恐怖と不安と、而して復旧とのため、父兄は子女の教育を顧みるの程なく、震後數ケ月は家庭教育に大なる悪影響を及ぼした。
 又、児童の保健衛生に就ては、住居の不完全と衣食の不充分な爲めに、成長機能旺盛なる児童の保健衛生に大なる影響を及ぼした。
 白濱村 白濱村に於ては、大地震後は直ちに學校を閉鎖し、三週間の臨時休業をした。九月下旬に至りて、授業を開始したが、人心尚ほまだ安定に歸せず、從つて児童は常に不安の状態に在るを以て、殆んど完全に授業をなすことは能はず、十月三日に至り稍や整頓したる普通授業に移り、八月の夏休暇に引き続き約二ケ月間の休業によつて、訓練は離れ、學力は低下し、教材は學年末に至るも完全せず、之れが結果は次年度に影響し、児童等の被りたる教育上の被害は亦た實に甚大であつた。
 七浦村 七浦村は地盤の関係上被害は比較的少なく、殊に村の中央なる小學校を境とし、西方の二部落即ち大川、白間津の兩区に於ては、小學校校舎及び大川区村社、長尾神社社務所の倒潰を見たるのみにて、東方の部落千田、平磯の二区の被害は甚だし。學校被害は左の如し。
  校舎 倒潰………二棟二〇五坪
     半潰………二棟一五六坪……損害額一、八六〇圓
  附属建物半潰……四〇五坪…………損害額二八〇圓
  器具………………七七………………損害額三一五圓
  器械………………三二六……………損害額一、七六七圓
  圖書類……………一六九……………損害額一九三圓
  標本類……………七…………………損害額六○圓
 被害児童二十二人、児童の住家全潰十三戸、半潰一戸、幸にして職員及び児童には身体に關する被害なかりしも、校舎の倒潰及び跡片附または半潰した校舎の修繕等をなす爲め、十一月七日まで休業。八日より児童を招集して、二部教授を開始した。當時余震なほ止まず、心の奥底まで刻み込まれたる恐怖は、些々たる物音にも驚かされて室内に落着かず。約一週間は授業も殆んど手に附かざりしが、漸時落付きを得て、學習態度も稍々改つて來た。然し修繕と云ふも、實は應急的の其れにて、剥落しかけたる壁、筋違を打ちたる室内は、破れたる障子、脚の挫けたる机、或は又室の内外に堆積せる破碎木材等、震災氣分容易に失せ難く、教授上にも、訓練上にも大影響を來し、教化の不便は言ふまでもなかつた。だが、一面又不屈不撓の精神を養成し、授業開始後は職員児童、共同して教具の整理、校舎内外の整頓、修繕工事の補助等、奮闘、努力の體験を得た。十二月一日より學習時限を延長し、廂及び土間を利用して専ら不進教科の補充に努力した。三月に至り未完成の假校舎の一部を使用した。
 千倉町 千倉町小學校校舎の倒潰の爲め器具、器械及び教授用、圖書、用具等殆んど破損し、授業不能。十月二日まで休業し、其の間児童は校庭に集合し、家庭との連絡を圖り、十月十日より林間學校を開始し、十二月二十日校舎バラツク竣工、倒壊校舎の修繕成り、翌十三年一月全學年の普通授業を開始した。
 健田村 健田村に於ける教育上の被害は第一校舎は倒潰し、総ての機械器具は破壊され、數旬の後、露天教授を開始したが、五百に余る児童等の心的状況は恐怖にのみ襲はれ、一の微震にも児童は其処を飛び出すの状態にて、果して教養の効ありや否やも疑はざるを得ざるほどであつた。九月三、四日の夜間の如きは、鮮人問題の流言に更らに、新なる恐怖心を喚起するに至つた。然し、震災の体験が精神的訓練の一助となつたことは多くの事柄に徴知することが出來る。第一村民の精神復活の資料、愛郷心の助長等に就ては、一種の利益となつたことであらう。
 千歳村 御眞影は、激震と同時に、倉庫内へ奉藏して安全を圖つた。次で職員會議を開き、取り敢ず暫時休校と定めた。
 児童は全部始業式を終へて歸宅の後であつたので、校舎内にて死傷したものは一人もなかつたが、家庭に於て、尋常科一年の女子一名、同四年の男子一人圧死した
 校舎は倒潰し校具は殆んど全滅であつた。僅かに圖書の大半と、掛圖類の大半が、漸く用に堪へる位であつた。
 第一回の児童招集は、十月五日であつた。當日校長の訓話あり。授業は十一月一日より役場及び漁業組合事務所を修理して、此處で二部教授を開始することにした。
 豊田村 豊田村小學校、補修學校に於ては午前九時半講堂に参集し、何時になき緊張味を以て始業式を擧行し終つて、児童は大部分退校し、職員は各自部署につき、執務しつゝありしに、午前十一時五十八分、俄然大音響と共に校舎は見る々々倒壊し、無惨なる形骸を留むるに至つた。
 突然の異変の爲め、室内にありし児童は退出の余裕なく、高等科女生徒、並に補習學校女生徒の一部は校舎の下敷となつた。而かも余震は頻々として襲ひ來り、阿鼻叫喚の凄惨名状すべからずであった。
 避難した職員生徒は、萬難を排して發掘に努力し、警鐘を乱打して救を絶叫し、熱誠ある父兄數名の援助を得て、御眞影を始め奉り、建物の下敷となりたる同僚並に児童を發掘し、全部救濟を了へたのは、午後三時半であつた。遭難者は殆んど救助し得たが、高等一年の岡村なを、補習科一年杉本とよの二名は不幸即死した。尚ほ數名の負傷者を出したるは遺憾の極みであつた。職員中、石井訓導、鈴木教諭は倒壊家屋の下敷となつたが輕傷であつたのは不幸中の幸であつた。住宅の全潰は職員六名。児童三百二十九名であつた。
 九村 九月一日は第二學期の始業中で、午前八時生徒集合し大掃除をなし、始業に對する心得を訓話し、生徒一同は午前十時半頃歸宅した。丁度地震の時は、職員、生徒、隣接役場吏員等は一同校庭の中央に避難した。その瞬間に西側なる最旧校舎倒潰し、それと同時に役場も倒潰し、南部にある最新校舎(大正十二年七月竣工)も轟然たる音響と共に倒潰した。
 北側の校舎は半潰。東側の最旧校舎も亦半潰。今にも倒れんばかりであつたこの時に當り氣に懸るは御眞影である。職員一同危険を冒して東校舎に入り、御眞影を無事に奉遷し、校内には一人の死傷者なく、其の中半潰校舎は益々傾斜の度を高め、將に倒れんとする危機一髪、居合せた人々協力して大木を以て支柱となし辛うじて半潰の二校舎は倒潰をまぬかれた。
 御眞影の奉遷。御眞影は本校訓導にして、丸村宮下区なる三幣高一氏の宅が幸に無事なりし爲め、同所に奉遷し、一同先づ一安堵した。
 旧校舎二棟は全潰をまぬかれ、理料機械及び標本室、職員室、圖書室、重要書類、諸帳簿及び教授に要する資料の大部は、旧校舎にありたるを以て大抵無事であつた。
只だ、ガラス製品の如き、絵画掛図の如きは破損した。遺憾なるは新校舎の全潰である。村民の大努力は一瞬にして破壊された。殊に、此の中の机の大多數の損害を始め、黒板、樂器等皆全滅に歸した。半潰校舎は危険にして使用することが出來ないので、石堂観世音の境内に野外教授を始めた。しかし、腰掛、黒板等の不足と絵画類の破損のため職員は教授の徹底に苦しみ、從つて教授能力の増進上、之れが反響する所、又大なることを痛感した。折柄氣候不順にして、戸外教授の不便また一方ならざるものがあつた。然し、村民協力一致、力を復旧に用ひ、半潰校舎は十一月中旬に修理完成し、再び室内教授を開始した。震災に於ける児童は、精神上多大なる創痍を被りたるに拘らず、其の實績は案ずるより良好であつた。
 北三原村 北三原村尋常高等小學校は、全潰の爲め生徒を収容すべき場所なきを以て、旧校舎なる産業組合事務所に貸與しある一棟を以て、一部の教場に充て其の他は附近の堂宇、並にバラツクを急設して、教場に充てたる爲め、校舎の全潰、校具の破損、臨時休業、教授時數の短縮等の如き具體的損害は無論、自然の暴威に恐怖し、勉學の念を欠き、授業開始後に於ても、授業中、些少な地震にも直ぐ屋外に飛び出すといふ精神的脅威が、教育上に與ふる影響は實に大なるものであつた。
 上三原尋常小學校は全潰を免れたが、運動場の亀裂と校舎の傾斜した爲め一時附近の公會堂を借受けて、假校舎に充て、直に校舎の修繕に取りかゝつたが、九月一日の大震災に生徒の心を痛く刺戟したので、後微々たる小震にも直ぐ屋外へ飛び出す程の神経過敏となり、教育上に無形の影響を及ぼした。
 南三原村 南三原村にては、大正十二年八月下旬に竣工した小學校が一棟全潰開校後僅に一年半経たる縣立農學校が全潰した。而かも、全潰後、教室から發火したので全焼の厄に會った。次に小學校の状態をいふと、即ち
(1)校舎は新旧悉く皆倒潰し、校具は破損して完全なるもの一もなし、圖書類は其の形を存せるも、埋没十余日に及び、而かも數回の降雨の爲めに浸潤して用をなさず。
(2)休校は一ケ月にして、十月一日より林間學校を開始した。
(3)林間學校は、十月一日より十二月十五日まで開設した。設備、衛生其の他に就いては、可なりの注意を拂つたが、素より林間教授は震後の一時的方便に過ぎなかつたので、遺憾ながら其處に十分の効果を収むることは出來なかつた。
(4)環境の不備の爲め、児童の精紳的不安を免かれなかつた。
(5)バラツク校舎は、野外教授に比すれば、勿論幾分の安定は得られたが、通風、採光温度の調節などは面白くなかつた。殊に隣教室と音聲交錯して、幾多の不便を感じた。又室内湿潤にして、衛生上大なる欠陥を感じた。然し、児童職員の熱心と努力とによつて、着々各方面に改善を企てられ、就中、児童の自治的活動の顯著となりしは欣ぶべき現象であつた。
 和田町 始業式を終り、午前十時児童全部歸宅。十一時五十八分物凄き音響と共に、大地大震動。職員は一同運動場に避難し、藥品の發火性のものと、火鉢の埋火に注意を拂ひ、而して御眞影の奉遷の準備をしてゐたが、震動毎に氣遣ひたる校舎も無事であつた。夜は校庭の中央に土間板を並べ、蚊帳を吊りて、御眞影を衛つた。
 それでも校舎の一部は瓦落ち、壁や障子の破損は免かれなつた。門垣は倒潰した。武津町長、學務委員來校して、夜の明くるを待つた。
 職員中、罹災者僅に三名、その他は被害比較的輕少であつた。
 四日から向ふ一週間臨時休業をやつた。五日の正午頃から、鮮人騒ぎが大きくなつた。人心恟々として、一層の不安を加へた。然し、全くの流言で終つたのは仕合せであつた。
 児童の住家倒潰したもの二十一名、負傷した児童四名、教科書を失ひしもの三名であつた。
 震災後に於ける児童の精神状態は幸にして平日と異ならなかつた。且つ學習上にも格別の不都合を認めなかつたことは、教育上に取つて何よりの仕合であつた。
 江見村 江見村に於ける倒潰校舎の坪數は二七四坪一五にして、その損害見積は二一、九三二圓であつた。其の他附属建物の損害價額は一、七七七圓、器具機械、圖書標本類の損害額五、五四〇圓、尚ほ痛惜に堪へざる事柄は、職員、児童の死傷であつた。左に之を記す。
 負傷者(重傷)訓導大川恪、(震災後死亡)児童一名。
 家庭に於ける死亡児童三名。
 學校の授業休止日數は約一ケ月間であつた。
 太海村 太海村小學校校舎は、内部の壁が亀裂した外、器具機械等には何等の損害もなかつたが、授業休止は十一日間に及んだ。なほ授業開始後も頻々たる余震に脅かされ、人心安定を得ず、約二ケ月間は教育上可なりの支障があつた。
 會呂村 余震の頻々たる爲め十日間児童の通學を中止したのみで、他に何等の支障もなかつた。
 大山村 大山村小學校校舎は幸にして倒潰を免れたが、余震が屡々襲ふので、児童の通學に危険を感じたから三日間林間教授をとるの止むなきに至った。併し、家庭の被害の少なきを以て、人心の安定を俟て、平常の如く授業を開始した。被害の爲め登校せざる児童は一人もなかつた。
 吉尾村 吉尾村小學校は、校舎は倒潰を免かれたが、児童の精神に落着なく教育上無形の損失を被った。
 主基村 比較的震源地に遠かつた本村が受けた被害の中で、兎も角も九月一ケ月、授業を休止したことは、以て被害の大なるを知るべしである。斯うした長い間の休止は近村にはなかつた。校舎は倒潰はしなかつたが、這入りたくも這入ることの出來ない歪み方で、もう一とゆれ來たら直ぐ落ちさうな渡廊下の屋根などは、児童を入れるにはあまりに恐ろしかつた。そこで、父兄は力を協せて修繕に努めたが、中々早急には出來しなかつた。十月にはいつてもまだ余震が續いたので、思ひ切つて完全に修繕の出來ない校舎へ児童を入れることが出來なかつた。
止むを得ず修繕の出來上るまでといふので、校庭の其處此處の木蔭で教授するといふ有様であつた。そして十月一日から授業を始めたが、月半になつても震前の面影は見られなかつた。だが、年末には長い休業の被害もどうやら取り返されたのであつた。
 田原村 田原村に於ては、新校舎、四教室は大破となり、使用不能に陥り、旧校舎、小使室及び便所、肥料小屋等の被害甚しく、又理科器具、器械等の損害も尠なくなかつた。之れが復旧費は約三千圓を要する見込である。斯の如く大々的に破壊された校舎の中に、而かも余震頻々として襲來するの時、児童を招集して教授するのは危険千萬である。そこで、關係者協議の上、九月三日より十二日まで臨時休校の己むなきに至つた。然し、復旧工事は休業中に出來上るの見込がなかつたので更らに協議の上十三日より四日間の休業延期をした。
 臨時休業後、即ち十七日より児童を招集して、二部教授を開始し、十月三日に至り辛うして全部教授に復旧した。此の大震災に因り精神的に與へられた大なる衝動は、教育上亦た大なる影響をうくることであらう。
 鴨川町 鴨川町にては、教育上の被害は極めて小部分であつた。別に特記するほどのこともない。
 西條村 西條村に於ては、十日間の休校をしたのみで、他に何の異状もなかつた。
 東條村 東條村に於ける教育上の被害として數ふべきは、九月三日(月)校舎は何等の被害はなかつたが、余震頻々たる爲め臨時休業を宣し、昇校途上にある児童を途中より歸宅せしめた。
 九月四日(火)児童参集せしも、余震頻々として人心安定せざるを以て、児童は教室に入らしめず、校庭に於て向ふ四日間臨時休業の旨を告げて歸宅せしめた。
 九月十日(月)授業開始、余震尚ほ絶えず、地震に對する注意をなし、午前中二時間限りにて児童を退校せしめた。
 九月十七日(月)余震も稍や遠ざかつたので、午後も授業をしたが、職員も児童も共に脳裡不安を取り去ることを得なかつた。職員中自宅倒壊、其の他の理由により欠勤せしもの九月中に七名、日數二十三日間に及ぶ。其の間不安裡に教授は継續したが、學科は自然遅れざるを得なかつた。然し、十月、十一月と過ぐる中に余震も次第に遠うびいたので、大に回復に努力した。そこで大體豫定の如く進捗して行つた。児童の出席状態は平常と変ることがなかった。そして十二月末日には殆んど旧に復した。
 天津町 天津町には校舎の被害は殆んどなかつたが、唯だ大震襲來の豫言其の他の流言など時々刻々に到來したので、學校内外の警戒に努めた。即ち九月五日より同九日まで五日間休業し、夜分は第一校舎の玄關前に天幕を張り、宿直員二名を置き、學校構内に設けられた芝区の警護團員と提携して徹夜警戒にカめた
 御眞影は右の天幕内に奉遷し、宿直員二名の内一人は終始御側を離れずに守衛警戒した。かくて九月十日よりは総て旧に復することを得た。
 湊村 湊村小學校は、運動場の石垣の一部が崩壊したのみで、其の他には何等被害なし。御眞影は職員の宅に奉遷し、職員は同所に當直をつゞけた。
 余震激しく海嘯襲來の噂、又頻々として到り、九日まで臨時休校をした。十日より從前の如く授業を開始した。

第八章 交通上の被害

 地震の襲來が、地形に大變動を與へた事實は地形の變動の部に詳記した通りであるが、それが又道路、橋梁等交通上の被害となつて、往來交通に大故障を與へ、一時安房全、土を殆んど絶海の孤島に似たる状態に陥れたのであつた。
 加之ならず、大地の震動は、電柱を倒し、電線を破壊し尽したので、交通上の被害に加へて、通信と電燈とに同様の惨害を與へた。
 要するに、地震の一作用は、吾人の生活から通信を奪ひ、交通を奪ひ、そして夜の明るみをも奪ひ、是れまで経験したことのない暗黒な不自由な極めて住み苦しい世界と化せしめた。乃ち、本章に於ては、此等文明的施設が破壊された當時の實状を掲げて、郡内各地の生活事情を知るの便に供したいと思ふ。
 北條町 大震襲來の瞬間より四圍との交通全く杜絶し、只だ一路便船によつて、東京其の他と往來することが出來たのであつた。陸上交通機關の損害を示せば次のやうである。
(1)道路
 北條町 金堀より館野村に至る間…………………陥落   約四〇〇間
 同   六軒町より館山町間………………………亀裂   約二七〇間
 同   六軒町濱通り十字路より海岸に至る間…亀裂   約二四〇間
 同   八幡通り那古町間縣道……………………亀裂   約九〇間
 同   湊通り那古町に至る間……………………陥落亀裂 約六〇間
(2)橋梁
 高井区…………鵜戸川橋  墜落  新宿区…………境橋  墜落
 島原……………孫橋    墜落  新塩場…………仲の橋 墜落
(3)鐵道線路
  北條町を通つてゐる鐵道線路は大破壊で、レールは波状を描いて屈曲し、復旧には約二箇月を要した。如何に被害の大であつたかは、この復旧に要したる日數によつても察知することが出來る。
(4)電信電話
 電柱は悉く倒れ、電線は打ち切られ、電燈會社もまた其の災を受けたので、夜の北條町は暗黒と化した。電信電話の完全に通ずるやうになつたのは約四ケ月後であつた。
 館山町 上眞倉の相生橋、宮城の菱華橋、沼の大橋は地震の爲めに陥落した菱華橋は、七日の後に至りて、青年團のカで假橋を架け、辛うじて交通だけは出來るやうになつた。が、相生橋は、二ケ月間不通であつた。北條に通ずる要橋は大破損神戸村を境する切割道路崩壊して、此処の交通は全く杜絶し、漸く一ケ月後に至つて開通した。又海岸ホテル附近の道路は一面に亀裂で、交通は困難であつた。下にその損害数を掲げる。
(1)道路
 欠損…………三(延長七十間)…………損害…………四五〇圓
 埋没…………一(延長四十間)…………損害…………三二一圓
(2)橋梁
 陥落…………三(延長三十間)…………損害…………一、六〇〇圓
(3)港灣
 桟橋…………一…………損害…………三五、〇〇〇圓
(4)船舶
 帆船…………五…………損害…………一六、九〇〇圓
 傳馬船………三…………損害…………二九〇圓
(5)諸車
 馬車…………二…………損害…………三五一圓
 荷車…………六〇………損害…………二、〇一二圓
 自動車………一…………損害…………二五〇圓
 自動車………七九………損同…………四、四四三圓
 人力車………六…………損害…………五四五圓
 西岬村 橋梁は墜落し、道路は崩壊し、香濱田、見物に於ては、道路崩れ交通上大なる不便を感じた。
 海路は海底隆起のため漁船の出入をも出來得ざる程なれば、交通の便宜に大なる支障を見るに至つた。
 神戸村 大村中央動脈たる縣道は、佐野、洲宮の二橋墜落によりて交通全く杜絶され、夫より館山境に至る約三十間の間甚しく破潰せられ、道路水路の区別なく車馬の往來も絶對に不通となつた。僅かの貨物も壮者ならでは携帯すること不可能であつた。其の他、村道の橋梁墜落九ケ所、破損道路延長九百三十間、外に多少の破損は枚擧に遑あらずである。左に被害の箇所を表示する。
(1)縣道の被害
 一、切割、二ケ所、外數ケ所崩壊
 一、佐野橋、洲宮橋の二橋墜落
 一、道路破潰延長約三十町
(2)村道の被害
 一、墜落橋梁、小塚橋、上の橋、神布橋、養老橋、照玉橋、濱田橋、清水橋、中の橋。
 一、道路の破壊甚しきものは、佐野区及び茂名区、洲宮にして、大修理を要する分は
延長九百間、其の他破損延長四十余町に上る。
 富崎村 本村は幸にして交通上の被害なし。
 長尾村 交通上に支障を及ぼさなかつた。
 豊房村 當村を貫通する縣道は幸にして故障なかりしも、村道は各所に架設せる橋梁及び道路の破損により、部落の間に於ては一時は交道杜絶せるも、應急修理をなし、九月十五日漸く村内の交通復旧するを得た。各部落に於ける墜落の橋梁及び道路の崩壊の主なるもの左の如し。

 所在     名稍      橋梁      道路   概算工費
              長   巾    長  巾
南條………………鎌田橋………四間  一間半……—  —……一、五〇〇圓
西長田 大戸間…前田橋………三間半 同…………—  —……一、三〇〇圓
西長田……………川崎橋………同   同…………—  —……一、三〇〇圓
畑…………………同  ………八間  同…………—  —……四、〇〇〇圓
同…………………吉野橋………一六間 同…………—  —……三、五〇〇圓
同…………………吉野……………………六間 三間半………………二八六圓
山萩………………山萩橋…四間半 同…—  —……………………一、五〇〇圓
 計…………………………………………………………………………一三、三八六圓
 館野村 道路の崩壊亀裂三箇所、此の延長八十間、橋梁の破損一箇所、此の延長十八間に及んだ。然し、車馬の交通には別條なかつた。
 九重村 九重村には二線の縣道が貫通してゐて村内一般に平坦である。
村内を西流する二川は幅員狭小にして、大橋を架せる所なきため、被害は從つて僅少であつた。別に特記すべきものがない。
 稻都村 稻都村に於ては道路甚しく破壊され、その決壊した間數は一、二九六間にして、損害額二〇、一二〇圓に及ぶ、其の他橋梁の墜落は四箇所、此の損害額五〇〇圓。尚ほ橋梁の流失したもの三箇所損害額五〇〇圓に達した。
 那古町 道路も、橋梁も、陥落破損等の爲めに、一時交通杜絶した。本町を通ずる鐵道は破壊の爲め汽車不通であつた。唯だ僅かに東京汽船會社の汽船一隻が交通の助けをしたのみであつた。町民の不便、不自由はいふまでもなかつた。
 船形町 船形町に於ける交通上の被害は主として鐵道の被害である。停車場の家屋倒潰、此の損害八、七〇〇圓、官舎二棟の全潰、此の損害六、○○○圓。其の他乗降場の倒潰、線路の崩潰、軌道の曲折、備品の破損等にて損害實に三萬七千八百圓に達せりといふ。尚ほ休業による損失を擧ぐれば九月一日より同月二十三日までの休業、前年即ち大正十一年九月の乗客及び貨物の輸送による一日平均
 乗客(一日平均)…………一八五圓五九銭  貨物(一日平均)…………一九圓九四銭
前年の割合にして計算すれば、右二十二日間の休業による損失は
 乗客(一日平均一八五圓五九銭として)…………四、二六八圓五七銭
 貨物(一日平均一九圓九四銭として)……………四五八圓六二銭
   合計四、七二七圓一九銭
次に、當町町民の損害額を職業別に表示すれば左の如し。
 漁業…………四〇八、一九〇圓  商業…………一、一六六、四九四圓
 工業…………三六九、七〇〇圓  農業…………一二九、九四三圓
 其の他………三八三、七四六圓  合計…………二、四六八、〇七三圓
 八束村 八束村は激震の爲め村内枢要道路の橋梁五ケ所墜落し、車馬の交通一時杜絶したるは、被害の最大なるものである。然し、村民の協力によつて假橋を架設して、一時通行することを得た。尚ほ枢要道路に陥没せる箇所二三ケ所ありしも大なる支障はなかつた。
 墜落せる橋梁は、千部川橋、白塚川橋、香太川橋。
 陥落せる道路、深名字平代地道路約二十間。
 富浦村 富浦村に於ける道路の陥落崩壊、橋梁の破壊に加ふるに道路に接する家屋、石垣の崩壊、隧道、崖等の崩壊の爲め道路は殆ど不通となつた。鐵道線路も亦た、同様の故障の爲め全く不通となつた。電信、電話は勿論、郵便物の取扱も停止された。海上の交通も陸上と同様に杜絶した。又電燈も点灯不能となりたる爲め、殆ど一切の文化的施設は破壊されて了つた。實に暗黒世界となり、住民は安き心地がしなかつた。
 岩井村 岩井村を貫通する縣道、橋梁の破損二ケ所、隧道二ケ所、道路の崩壊數ケ所あつた。村道橋梁の破壊一ケ所、隧道の崩壊一ケ所、道路の破損數十ケ所に及ぶ。そして橋梁の破壊を除く外は、九月二十日頃までに應急修理を了つた
 鐵道の被害は甚大にして、橋梁、隧道、堤防の崩壊破損の箇所多く、十月十五日は兩國橋驛より岩井驛まで開通し、南無谷隧道の修理に時日を要し、十一月二十八日に至り漸く北條方面と運輸の連絡を爲すことを得た。又土地隆起のため、小浦港狭隘となり、京濱航路の帆船及び漁舟の碇泊に一大支障を來した。
 勝山町 勝山町にては、鐵道線路の陥没、電信、電話線の切断よつて通信、交通、運輸の便も亦暫く杜絶した。ひとり海上の交通は左したる影響はなかつた。
 保田町 保田町に於ては、鋸山の崩壊は、明金峰最も甚しく、一時交通杜絶したるも、直ちに取片付け、道路の亀裂せる箇所は應急修理して、復旧を見たるが、汽車の開通は鐵道の被害により著しく後れた。電信、電話の被害は四方の状況を知ることを得ざるため、益々不安の念を起さしめた。關東随一の眺望と景勝と五百羅漢の奇とを誇る日本寺の被害は、何ものを以つてしても賠ふことの出來ないものであつた。五百羅漢の大部分は、倒潰して殆ど原形を留めざるまでに破壊されて了つた。境内の風致もそれが爲めに痛く損はれた。
 佐久間村 佐久間村に於ける交通上の被害に就ては、道路は數ケ所亀裂を生じた。されども車馬の交通には差支なき程度のものであつた。約一ケ月も過ぎた後は殆ど原状に回復した。唯だ路上に家屋の倒壊したものがあつたので、當座は多少の影響を受けたが、住民の機敏なる援助によつて數日にして片附け、交通には左までの差支なきを得た。
 平群村 平群村には特書すべきほどの被害なし。
 瀧田村 瀧田村の千代区土澤より下堀区に至る縣道の一部に崩壊及び亀裂を生じたるのみにて、外に交通の不便を感ずる所もなかつた。唯だ下堀地先岩崎橋の一部挫折せるは、交通上の要路にあたれる所とて稍因難を感じたるのみ。
 國府村 國府村には從來文明の交通機關なく、從つて震災によりての交通
上の被害もなく、只だ断層、隆起、崩壊の多かりしため、道路、破壊せられて交通上の不便を感じたるのみであつた。
 白濱村 白濱村にては道路その他には、被害なきも、電信、電話は北條、館山方面が全滅の爲め不通となつた。野島崎燈臺は、航路標識として、房陽に於ける重要なるものである。直ちに假燈臺を建設したが、一時は大なる困難を感じた。
 七浦村 交通上の被害として特書すべきものを認めない。
 千倉町 千倉町は鐵道の破壊、道路、橋梁の破損より交通全く断絶して、一時恰も孤島の如き観を呈した。従つて陸上運搬の不能の為、食糧及び日用品の不足を告げ、米穀、藥品等は、鴨川及び勝浦より海上輸送によつて辛じて需要を充たすことが出來た。
 健田村 健田村に於ける交通上の損害は、縣道の破壊せるもの二ケ所數町村道の崩壊は十九ケ所。橋梁の墜落は五ケ所。隧道の崩壊は一ケ所にして、一時は全く交通杜絶となり、村民総出で復旧を了した。
 千歳村 千歳村を貫通する道路は到るところ大なる亀裂が出來たので、交通の防害は云ふまでもなかつた。また、土地の隆起陥没、亀裂等によつて橋梁の墜落したものは久保に二、安鳥谷に一、道路の崩壊は和田地先に三十二坪、千田谷に陥没箇所約五十間あつたのが、交通上の被害としての重もなるものである。
 豊田村 豊田村の中央を流るゝ丸山川に架設せる新橋、古川橋の陥落せる爲め、車馬の通行杜絶し、通行人は假橋を往來するの状態にて、尚ほ東方を貫流せる温石川に架せる橋梁も三ケ所陥落、若くは破壊。これまた、車馬の通行にも一般の通行上にも大なる不便を感じた。その被害を表示すれば、
 道路の欠損 三ケ所の損害額…………三、九三〇圓
 橋梁の陥落 九ケ所の損害額…………四、四〇〇圓
 丸村 丸村に於ける交通上の被害も多大であつた。村を縦貫して、長狭方面に至る縣道は到るところ亀裂、または喰違ひを生じ、車馬の交通は全く不能となつた。加ふるに、村内の架橋は殆ど墜落し、就中、丸山川に於ける丸本郷川澤橋、前田橋、九本郷、御陵橋の如きは皆な本村交通の要路に當る場所なれば、其の墜落は各方面に取りて最も不便を感じた。殊に、郵便、電信等の機關も亦た不通となりたる爲め、一層の不便を感じた。
 北三原村 北三原村は山間の僻地で、道路の崩壊は特に甚しかつた。村内の枢要里道中、崩壊個所は五ケ所、埋没二ケ所、欠壊二ケ所、橋梁破損一ケ所にして、此の損害の復旧には多大なる夫役と費用とを要した、尚ほ里道または耕地、山野に通ずる道路の崩壊は擧げて數ふべからずである。特に村内貝坂に通ずる道路は全く杜絶となつた。
 南三原村 南三原村の交通上の被害は左の如し。
 (1)道路—村内は一般に著しき被害なし。
 (2)橋梁—懸道は温石川の里見橋、三原川の旭橋。村道にては、温石川の沼川澤橋の破壊あり、五六日間の杜絶にて復旧した。
 (3)鐵道—本村内鐵道堤の崩壊、鐵橋の破損、停車場の倒潰等あり、全線に亘りての損害と共に、往復途切れ、九月廿七日に至りて漸く開通を見た。
 和田町 交通上に被害はなかつた。
 江見村 山林の崩潰流出の爲め村道を一ケ所埋めたるのみにて、他に交通上の被害なし。
 太海村 太海村は大字天面、字鷹の巣の縣道に山崩あり、地震後一週間は、余震の危険を恐れて取り除くこと能はず、鐡道工事中の隧道を迂回して通行したが
他に被害なし。
 曾呂村 曾呂村に付ての交通上の被害としては、左の損害を見るのみにて他に特記すべきものなし。
 橋梁の被害…………一、四五八圓  道路の被害…………三三〇圓
 大山村 大山村にては、道路の陥没、亀裂は多少ありしも、交通上には支障なかつた。
 吉尾村 吉尾村は幸にして道路の陥没、橋梁の墜落等は免れたが、要所に交通警備を設けたので、物資の輸送は勿論、民人の交通利便を欠き、直接間接の被害は尠くない。要するに此等被害の程度は、具體的に算定することは出來ないが、各方面を総合するときは多大なものであらう。
 主基村 主基村に於ては、震道當時人の往來は絶えたが、震動が止むと人通りは常の如く、長挟街道でも橋が落ち、山が崩れて交通遮断となつたところはなかつた。然し、里道の欠壊及び陥落が二ケ所(三〇三間)と橋の墜落が二ケ所(一〇間)あつたのみであった。
 田原村 大震災は思ふがまゝに暴威を揮ひ、交通上に及ぼした被害も亦少なくない。東條村より西條村を経て當村に通ずる道路で、元郡道であつた西條村境の睦合橋の一部崩壊を始め、橋梁の破損、道路の亀裂陥没は随所にあつた。それが爲めに交通は一時杜絶の状態となつた。然し、青年團、在郷軍人等の労力奉仕によつて悉く復旧した。
 鴨川町 鴨川町に於ける交通上の被害は一小部分であつたが、特書すべきものはない。
 西條村 西條村にては、大なる影響なし。
 東條村 東條村には、交通上の被害一もなし。
 天津町 天津町にては交通上の被害はなかつたが、鮮人浸入の浮説で村民は多く家をはなれなかつた。
 湊村 湊村には、交通上の被害一もなし。

第九章 海嘯及び火災

 地震の殆んど附随物の如く看做されてゐる海嘯と火災は、今回の大震災には比較的輕微であつた。海嘯は、富崎村、西岬村の一部、即ち外洋に面した方面の一小部分に襲來したのみで、内灣方面は、平静であつた。
 火災は、船形町が第一で、館山之れに次ぎ、北條町は、その次位に居るの順序である即ち、焼失戸數からいへば、船形三百四十戸、館山五十五戸、北條十八戸である。尚ほ富浦村の三戸館野村の二戸、神戸、稻郡、千倉、千歳、豊田の五町村が各一戸づゝを出してゐるのみである。
 北條町 北條町沿岸には海嘯はなかつたが、海水の干満状態は變態を呈し地震直後、即ち十二時頃海水は極めて急速に激減し、汀より約一丁半か二丁近くの地点まで減退し、數分にして再び急速に増加して平常の状態に復したが、斯うした状態は數分、若くは十數分間隔を以て、十數回繰返された。人々は此の現象を見て必然、海嘯の前兆だと危ぶんだ。然し、後にはそれは土地隆起より起つた現象であることが判明した。
 火災—町の家々は鉢合せに倒潰し、道路は陥落と大亀裂で、海は淺瀬となり、物凄き光景の中に、島原方面に破竹の物音すごく、火焔天に漲るを見る、六軒町と長須賀区と、遠くは船形の一部は早くも火煙に包まれてあつた。明くる二日の朝鎮火した。即ち島原十六軒、長須賀一軒、六軒町二軒の焼跡を見た。その時、船形町の火煙は、まだ鎮火しなかった。
 館山町 夕方から海嘯襲來の噂に恐怖して、或いは城山に、或は北下臺に、或は笠名高地に避難したものが多かつたが、噂は事實となつて來なかつたことは幸であつた。唯だ海底の隆起の爲めに、鷹の島が、西の濱地先海岸と、船によらずして自由に通行の出來るやうになつたことは、地形の變動の章に詳記した如くである。それが初めのほどは、海嘯襲來の前兆の爲めの減水であつたかの如く想像されたのであつた。
 火災は、地震に次で起つた。當時焼失した戸數は、五十五戸に及んだ。
 西岬村 引續く余震と海嘯襲來で一時は非常なる混乱を生じたが、夜間でなかつたことは不幸中の幸であつた。海嘯のため漁船の破壊、漁具の流失は、延ひて當地産業上にも大なる損害を及ぼした。幸に流失家屋は僅かに一棟に過ぎなかつた。
 神戸村 震災當時の氣象は、未明より西南の風、降雨あり、午前九時三十分より追々晴れ模様にて、氣温は華氏八十三度であつた。最初は上下動數秒にして、聊か弛むが如きも、再び猛烈に震動し、人畜は素より森羅萬象悉く、瞬く間に一大修羅場と化した。時しも海嘯は巴川口沿岸を崩壊し、巴井附近の住家二戸浸水破壊しなほ耕地にも被害を及ぼした。其の他、火災は村内洲宮の藥王院一戸を焼失したのみであった。
 富崎村 激震後海水一時に減退したので、海嘯襲來の前兆と思ひ、海邊に近き住民は先を争ふて老幼を高所に避難せしめ、壮者は各々貴重の家財搬出に努めた。折しも激震後約三十分にして、洋中に局部的海嘯を誘發し、其處に一段高まりたる波絞起り、洲の崎沖合より來りてて相濱部落及び布良の一部を洗ひ去り、ことに本村漁業には多大の損害を與へた。流失戸數實に七十戸の多きに及んだ。
 長尾村 海岸は約五、六丁ほど干潮を呈したので、村民は何れも、海嘯襲來の前兆だと思ひ、學校の校庭に避難したが、幸にその襲來はなかつた。
 火災も亦、起らなかつたのは不幸中の幸であつた。
 豊房村 豊房村にては海嘯も火災もなかつたが、一日の午後三時、満潮には大海嘯襲來すべしとの流言は、可なり人心に脅威を與へた。
 館野村 村の一部、即ち大網、安布里方面では、海嘯襲來の噂に人心恟々として、逃げ仕度をたものも多かつたが、幸にその事はなかつた。
 唯だ昼時で、火元をその儘にしておいた爲めに三戸の焼失を見た。
 九重村 九重村に於ては、竹原区不動尊が焼失したのみで、別に海嘯、火災または盗難などはなかつた。唯だ北條方面に黒煙立ち昇り、益々猛威を示し、夕方に到るも濛々西の海を葢ふが如く見ゆ、幸ひに本村の死傷者は比較的僅少にして、近隣相倚り相助けて、夕方までにはそれぞれ救助し了つたが、医藥と衛生材料の欠乏には困却した。又日暮るも点ずるに燈火なく、纒ふに衣なく、飢餓を凌ぐ糧もなく數家或は十數家一團となり、焚火を囲みて僅かの握飯と梅干を副食物として、濁り切つた水に渇したる喉を濕ふして、或は竹藪の中に、或は山中の樹下に、或は鐵路に莚を延べて夜を徹した。
 稻都村 稻都村は村の位置が海嘯には關りなきも、火災は中区に於て一戸地震と同時に起つたのみであつた。
 那古町 海嘯を氣遣ひ、山に登るもの、廣場に遁るゝもの、先を争ふの状全く戦乱そのものゝやうであつた。學校の校庭と、那古寺の境内は忽ちにして人山を築いた始末であつた。
 那古観音は、僧行基の建立したもので、安房名刹の一であるが、此の地震に大々的破損を被つた。
 火災は、一時船形の火災が延焼するかと氣遣はれたほどであつた。が、幸に火事だけは免かれた。
 船形町 海嘯は流言に過ぎなかつたが、地震の混乱裡に町の西方から火災起り、吹き荒む西北風に煽られ、炎々たる紅蓮は家より家へと燃へ移り、火焔は砂塵を捲き、風向火勢を件ひ本町の大半を焦土と化した。折柄、海嘯襲來の流言頻りに到り、それに脅かされて、家財道具の一物をも持たず、子を負ひ老を助けて北方の丘をめざして避難した。其の騒擾、混乱は眞に名状すべからすであつた。斯くて一時は海嘯を恐れて北方の高臺へと避難したものも、一時の流言であつたことが分つたので、家財の取纒めに歸つたが、余震が間断なく來るので畑の中でも、芝生でも鐵道の線路でもところ選ばず板を敷き、戸を並べて其処に家財を積みかさねて神を祈り、佛を念じながら、濛々黒煙のうちに燃え行く町を見詰めて夜に入つたのであつた。焼失戸數實に三百四十戸に及んだ。
 八束村 本村小學校にては、激震と同時に倒壊せる校舎内の御眞影の奉安所の隣室から火災起り、折柄西北の風強く吹き煽り、忽ち四方に延焼し、倒潰後の事とて内にはいること出來ず殊に消防手少なく、如何ともすること能はず、遂に、畏くも御眞影を奉遷するの暇なく焼失し奉りしは、誠に千古の恨事である。かくて、午後四時頃に僅か二棟を残して鎭火した。そして日暮になつても余震尚ほ刻々に至るので恐怖の念益々深く、全村何れも屋内に居る者なく、庭の一隅または木蔭等に安全地帯を相して、梯子又は板を並べ、或は藁蓆を敷き露宿した。人々は恐怖と興奮とで疲労甚しく眠ることを得なかつた。斯うした生活が約一週間もつゞいた。而かも此の間或は海嘯、或は盗難、或は鮮人の襲來等流言蛮語は日毎に人心を脅かした。
 富浦村 村の一方に火災の起りたるも、道路は亀裂し、橋梁は墜落し、而かも倒潰家屋の爲めに消防器を使用すること能はずして、鎭火に困難を感じたが、焼失戸數三戸にして、幸に大事に至らなかつた。
 岩井村 岩井村に於ては火災なく、又海嘯も唯だ流言のみに過ぎなかつた
然し、この流言には海沿ひの村民は家財を負ひ、婦女子の手を取りて先を争ひ、丘陵を指して避難した。當村海潮は第一震後、約三十分を経て、高さ六七尺の巨浪となり、人々をして一層の恐怖を抱かせた。が、海嘯ではなかつた。
 勝山町 勝山町にても火災なく、海嘯の襲來も全く一時の流言に過ぎなかつた。然し、蛮語流言はその夕方から、人から人へと傳唱され、次で鮮人の暴動、帝都の全滅、鐵道の惨状など傳へられ、人心は一刻も安定を得られなかつた。
 又、人々は海嘯の襲來を怖れて、はしたない米櫃を背負ひ、古莚を手になどして、老も若きも大黒山に集つた。又田文山へも、天神山へも、附近から避難した。そしてその夜はそこに夜を明かした。その時、誰も彼も明日は宅に歸れるだらうかと語り合つて居たが、明日になつても、余震はまだ強烈であつた。かうした恐怖を抱いて次の一日も送つた。海潮は遠く渚から去つた。海面は一丈も下つた。海嘯の襲來も殆んど謎から謎の中へと這入て行く。不逞鮮人は金谷へ三十人も上陸したとか、東京では鮮人の爲めに毒殺され、官庁や會社などは爆弾のために崩壊されたなど云ふ、人々は不安と恐怖とが続いた。さうして三日目になつてもまだ宅へ歸ることが出來なかつた。遂には消防組、青年團、在郷軍人團などの手に護衛されて野宿をつゞけた。
 保田町 海嘯は震災と同時に、やゝ大なるもの一二回襲來したが、被害を及ぼす程のものでなかつた。
 火災は、各家の注意によつて幸に之れを免かれた。人々は、大震に極度の恐怖と共に、海嘯襲來を慮り、沿岸一帯の住民は倒潰せると否とにかゝはらず、何れも高地を指して避難した。而かも傷者を負ひ、老幼を扶けて難を避くるのさまは實に惨憺たるものであつた。
 佐久間村 佐久間村には、幸にして、海嘯も火災もなかつた。
 平群村 平群村には海嘯及び火災の被害なし。
 瀧田村 幸に火災を免れたが、隣村の火災の煙で日の光りは異状を呈し、其の物凄さは當時を追想するだにぞつとする。人々は暮れて行くその夜の心細さ期せずして數戸集合して一團となつて、安全なる地点に避難したが、夜もすがら眠もやらず、唯々恐れおのゝくのみであつた。
 國府村 國府村には幸ひ火災なく、海嘯も流言のみであつた。
 白濱村 白濱村には火災なく、倒潰家屋も僅かに一戸を出せるのみ。しかし傾斜及び小破損を見ざる家なく、從て住家に入るの危険なるより、或は庭前に或は山林、または畑に、仮小屋を設け、戦々競々の状態であつた。海嘯襲來の流言傳はると共に、家財の取片附をなすもの、山地へ遁るゝもの、其の混乱の状言語に尽し難きものがあつた。而かも強烈なる余震は、夜に至るまで數分を隔つる毎に約數十回、稱や身體に感ずるものに至つては、翌日に到るも殆んど間断なく、其の數、何百回なるを知らず。然し、斯うした震動も日一日経過するに從つて回數は次第に減少し、震動は微溺となつて行つた。唯だ、九月十五日午前十時頃には、山岳鳴動して最も強烈なる震動を感じた。稍や安定せんとする人心をして、更に不安の状に引返した。
 七浦村 七浦村には火災及び海嘯なきも、人々は頻々と來る余震に大なる恐怖を抱き、人心益々不安に陥つた。大抵は一週間乃至二週間位は戸外生活をした。且つ海水減退の反動として、海嘯襲來を氣遣ひ、海岸の住民は家財を取纒めて安全地帯に避難した。
 千倉町 千倉町字濱の郷の民家から火災を發したが、類焼を見なかつたのは幸であつた。海嘯は一時の憶説に止まり何等の異變もなかつた。しかし、海岸近き住民は一夜を丘上に明かした。其の後は、夫れ々々住宅附近の安全地帯に天幕を張つて、其處に旬日の間余震を避けた。
 健田村 健田村には火災も海嘯もなし。
 千歳村 千歳村にては火災ありしも、一戸の焼失のみにて事止みぬ。
 海嘯襲來の聲はいづこよりともなく傳へられた。倒壊した家の側に一族一團となりて、念佛を唱へて身の安全を祈つて居たが、實際は襲來しなかつた。
 豊田村 本村第一の巨刹日運寺の本堂、庫裡の大伽藍全焼した。豊田村は七四%の被害なれば、十數日間は倒潰せるものは勿論、倒潰を免かれたものも頻々たる余震の襲來に不安を抱き、住家内に起臥することを得ず、各路傍、或は宅地、畑地等の立木などを利用して掘立小屋を造り、一家族、或は數家族此に雑居した。其の上不逞鮮人、盗賊等の襲來の流言蛮語に脅かされ、青年團、在郷軍人會、自警團など獲物を携へて、要所要所に屯営し、警備の任に當つた。
 丸村 丸村に於ては、海嘯も火災もなかつた。
 北三原村 北三原村にて火災はなかつた。村は大部分山間のことゝて海嘯の恐れはなかつたが、一部落海に接してゐるので、海嘯の襲來を恐れて、一時山覆に避難したものが多かつた。然し、山間の部落は崖の崩れ多き爲め一週間、若しくは二週間の避難をした。
 南三原村 南三原村にては、海潮の退くこと一町余、汀線に沿ふて岩礁、砂洲、露出した。一旦退潮の後は、海面静平、油凪ぎになぎて、却つて危懼の念を與へた。爾後時を経るも海嘯は來なかつた。
 火災は、その時丁度、人々は昼食時であつたので火災を憂へたるも、安房農學校の藥品發火の爲め全焼せしのみにて、他には何等被害を見なかつた。
 和田町 和田町には火災はなかつたが、海水は見る々々減少し、漁港其の他沿岸一帯の岩石は露出せしかば、定めし海嘯襲來せんと、老若男女は安全地帯へと馳せ集つたが、幸に無事であつた。
 江見村 江見村にては火災も海嘯もなかつたが、住民は突然激烈なる大地震に驚愕と狼狽の間に皆な屋外に飛び出した。その瞬間に家屋は倒壊、半潰、傾斜の災厄にかゝり、道路、山岳、崖、橋梁など崩落し、海岸は五六尺も隆起して、殊に多數の死傷者を出し、阿鼻叫喚の大修羅場と化した。剰へ海嘯が來るとの流言が傳はり一層の戦慄を感じた。野に、山に、其の他、各所に安全地帯を選びて避難をした。その混乱騒擾言語の外であつた。
 太海村 太海村には海嘯火災等の災厄はなかつた。しかし海嘯襲來の聲に恟々として屋内に起臥するものなく、何れも附近の高地に避難し、四五畳敷の場所に三、四の家族が入交りて起臥し、少なきも一週間、永きは十日余も露宿を續けた
 曾呂村 曾呂村に於ては、火災も海嘯もなし。
 大山村 大山村にも火災、海嘯なし。
 吉尾村 吉尾村に於ては海嘯及び火災なし。
 主基村 主基村にては、海嘯も火災もなかつた。思ふに、此の瞬間程人心を正しくした時はないのであらう。心中何物も有たない人間。それはかゝる際に始めて見ることが出來たのであらう。
 主基村が大した被害を受けなかつたのは、本村が、長狭の中部に位した事である常に不便をかこつ本村が、此の日に初めて不便が自分たちの不安を幾分なりと輕うせしめたといふことを覚り得たであらう。今更ながら造化の前に膝を折つて禮讃の辞を放つものが、二三に止まらなかつたであらう。今日が今日まで出づるに船あり、食するに鮮魚ありと、利便を誇つてゐた海邊の諸町村民は、この地震によつて本村民の知らざる不安を抱いたのは海嘯の襲來であつたであらう。
 田原村 鴨川村 西條村 東條村 にては、海嘯及び火災なし。
 天津町 天津町にては海嘯も火災もなかつた。大震當時の如きは、人心恟々で、地震のため海潮の退きたるを見て、海嘯の前兆として恐怖した。かくする中に、江見、北條等の大惨事を傳聞して顔色を失つた。且つ海岸の各処に清水の噴出したのを見て、大地の大變動來らんかと疑惧の念を懐いた。
 湊村 湊村にては、九月一日午前九時頃より豪雨あり、約三十分にして歇み。それより遠雷を聞くが如き音響あり、村民は奇異の思ひをなせしに十一時五十五分に至り、俄然大地震襲來し、約三分間の激動は物凄く、海水は急激に退潮したので住民は海嘯の前兆ならんと予想し、海岸近き者は住家を逃去り、海嘯の虞なき場所に集合してゐた。

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表:震災状況調査表 大正十二年九月十九日調
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表:(一)校舎及び其他建物の被害
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表:(二)校具被害
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表:(三)児童及職員

第二編 慰問と救護

第一章 総説

 前編に於ては、地震の惨害を事實の儘に叙述するがその目的であつたが、本編はその惨害を如何に處理救護したか。即ち自然力に對する人間力の對抗的状態を詳記するが目的である。
 勿論、突如たる天災で、其處に何等の用意も準備もあらう筈がない。殊に今回の大地震は、「前古無比の天殃」と詔書に仰せられた程で、實に人間想像の外であつた。
從て、平時の條規によつて事を處するなどは、迚ても出來得べきことでなかった。総てが事實必然の要求に從て、救護の途を講ずるより外はなかつた。中にも震災と殆ど同時に大々的必要を感じたのは、(1)医藥、食料、小屋掛材料の欠乏と(2)人心安定の方法であつた。北條、館山だけでも三千戸以上も潰れ、死傷者一千百余人も出したほどの大地震である。つい一瞬前まで泰平な天地は、震動一過、忽ち修羅の巷と化して了つたのである。人心の恐怖と不安と失望とは當然の歸結である。此際郡當局の最も苦心したのは、斯うした人心を平静に導くの方法であつた。もとより物資の欠乏も重大事であることは勿論だが、此の上人心が一たび自暴自棄に陥つたならば、その波及するところは豫め、測定することが出來ないのである。そこで、郡長は、聲を大にして「此際家屋の潰れたのは人並である。死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。身體の無事であつたのが此の上もない仕合せだ。カを尽して不幸な人々に同情せよ。死んだ人々に對して相濟まないではないか。」といつて、郡民を導き、且つ励ましたのである。そして此の叫びは實際に於て、多大な効を奏した。萬事此の態度で救護に當つたのである。
 九月三日の晩であつた、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、聞けば船形から食料掠奪に來るといふ話である。田内北條署長及び警官十數名は、之を鎭静すべく那古方面へ向て出發したが、掠奪隊の來るべき様子もなかつた。思ふに是れは人心が不安に襲はれて、神経過敏に陥つた爲めに、何かの聞き誤りが基となつたのであらう。すると、郡長は「食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ」といふ意味の掲示をした。可なり放膽な掲示ではあるが、將に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、此の掲示が多大に効果があつたのである。果して掠奪さわぎはそれで沮止された。
 又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。安房郡は館山港をひかへてゐるので、震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の來往によつて傳はつて來た。果然人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の不穏の噂を打消す爲めにも亦た大なる苦心をした。丁度滞在中であつた大審院検事落合芳藏氏も鮮人問題には少からず心を痛め、東京から館山港に入港した某水雷艇を訪ひ、艇長に鮮人問題の事を聞いて見ると、同艇長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであつた。そしてそれを郡長に物語つた。物語つたばかりではない、人心安定の爲めに自分の名を以て艇長の談を發表しても差支なしとのことであつた。之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意昧を記載して、北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであつた。此の掲示は初めは大に効果があつたのであるが、東京の騒擾が實際大きかつたので、後ちに東京から來る船舶が、東京騒擾の事實を傳へるので最早疑を容るるの余地がなかつた。そこで、一旦掲げた掲示を撒去しやうかとの議もあつた。然し、郡長は艇長の談として事實である。それを掲示したとて偽りではない。而かも、之れが爲めに幾分なりとも、人心安定の効果ある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、遂に其の儘にしておいた。兎角するうつちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に鮮人防衛の夜警を始めた土地があつた。爲めに青年團が震災應援の業に事欠かんとする虞れがあつた。加之ならず、人心に大なる不安を與へることを看取した。其處で田内北條署長と共に、「此際鮮人を恐るゝは房州人の恥辱である。鮮人襲來など決してあるべき筈でない」といつた意味の掲示を要所々々に出した。加之ならず、「若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、宜しく十分の保護を加へらるべきである」とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。郡長が細心の用意は實に此處にあつたのである。蓋し安房に忌まはしき「鮮人事件」の一つも起らなかつたのは、此の用意のあつた爲めであらう。

 突如たる大天災で、而かもその災害区域の廣大であつた爲めに、医藥、食料、小屋掛材料の欠乏には、郡當局は非常に困難を感じた。要するに救護材料の総てが、震災の爲めに破壊されたり、輸出したりすることが絶對に不能に陥ゐつて了つたのである。そして死者負傷者は曾て人の経験したことのない多數に上り、家屋は殆ど総て倒潰して、住むに家なきもののみであつたのである。即ち地震の爲めに必要欠くことの出來ないものは、同じ地震の爲めに破壊されて供給することの出來ないものになつて了つたのである。郡當局の苦心と労力とは實にいふべからざるものがある。是れより章に分ちて、救護の内容を物語らう。

第二章 勅使御差遣其の他

一 勅使と御聖旨

 有史以來、人の子が曾て経験したことのない大地震に際會して、人は死し家は倒れ、而も救護するにさへ、一物も残さゞる大破壊力の下に立ちて、不安と恐怖と、生き心地のなき折柄、安房郡民をその心の底から救ふべき天來の祝福が、郡民の上に降つた。是れ實に山縣侍從の齎らせる兩陛下のあつき御聖旨である。それは郡民の総てが忘るゝとの出來ない九月十一日(大正十二年)のことであつた。
 侍從には、此の日午後零時二十分、軍艦にめされ館山淺橋に御着。直ちに水産學校に赴かれ、郡長大橋高四郎氏に對して、左の御聖旨を傳へられた。
 今回ノ震災二關シ
 兩陛下二於カセラレテハ深ク御軫念アラセラレ罹災民ニ對シ多大ノ御下賜金
 ヲ賜ハリ今亦タ小官ヲ派遣シテ詳細被害ノ状況ヲ視察シテ復命スヘキ旨
 仰出サレタリ
而して、侍從には
 罹災者は、此の災害に屈せず、奮励協心一日も速かに恢復を圖り、聖慮を安んじ奉らんことをと附言せられた。即ち郡長は聖慮の有り難きに感泣し、謹んで御禮を申上げた。
暫時小憩の後、侍從には館山、北條の市街を親しく視察せられ、次で船形町に赴かれた。罹災者はいふまでもなく、安房郡民の齊しく感泣措く能はざるところである
 侍從には、舶形町を視察せられ、同町小學校庭に於て、正木町長に、侍從御差遣の次第を傳へられ、且つ前の附言と同様の意を達せられ、午後六時、再び軍艦に御歸艦せられたのである。
 斯くて、郡長は、聖恩の厚きに感泣し、郡民一般に對して左の諭告を發した。
    安房郡民に諭く
 今回の震災は未曾有の惨害にて 聖上皇后兩陛下に於かせられては痛く宸襟を悩まされ給ひ嚢には多額の御下賜金を賜はり更に十一日山縣侍從を當地に御差遣あり詳密に被害状況を視察せしめられ且つ難有御諚を拜す聖恩の厚き寔に感泣措く能はず
  一、罹災者は此際勇鼓萬難を排し自ら恢復に努むべし
  一、幸に被害を免れたるものは自己の無事なるを感謝し萬斛の同情を以て被害者を援助すべし
 斯の如くにして一日も速に惨害の恢復を計り以て聖慮を安し奉らんことを切望に堪へず
  大正十二年九月     安房郡長 大橋高四郎

二 山階宮殿下の御慰問

 斯くて、兩陛下の優渥なる御思召に感泣しつゝある安房郡民は、山階宮殿下が、今次の震災に於て、妃殿下の遭難の御悲痛の中にあらせらるゝにも拘らず、遠く我が安房郡の傷病者の救護所に成らせられ、親しく患者の状態を御慰問あらせられたることは、郡民の総てが感謝に辞なきところである。殊に殿下には、御通路に堵列の男女老幼に對して、一々御會釋をたまはり深く被害民を撫はられたことは、郡民の感激を一層深うしたのである。
 殿下の御慰問を給はつたのは、九月二十八日のことである。此の日午前十時、殿下には軍艦にて、館山淺橋に御着遊ばされ、大橋郡長その他の御出迎あり、直ちに水産學校の救護所に成せられ、少憩の後、館出、北條、那古、船形の各市街を順次御視察あらせられ、午後四時、随員と共に御歸り遊ばされた。殿下には、最初僅かの間自動車にめされたが、那古、船形方面へ御出のときは、人力車であつた。人力車でも、観音下へ差しかゝつたときなどは、崖崩れで道路がまだ本當に直つてゐなかったので、一面に墜落した荒々しい岩石の上を御徒歩で、而かも、木の下などをくゞりながら御通行遊ばされた。洵に恐擢に堪へなかつた。
 山階宮殿下、本郡御視察當時に於ける、大橋郡長の「通牒」を此處に特記して、永へに殿下のありがたき御同情をしのぶの一端とする。
 山階宮武彦王殿下本郡震災状況御視察に關し別紙を「山階宮妃殿下賀陽宮大妃殿下御遭難概況」と共に及送付候條其御行動難有御思召の事々を管下一般民に特に小學校児童、青年團、軍人分會、消防組の各員に徹底せしめ復興の意氣を喚起し其の實を擧ぐることに禦尽力相成度此段通牒候也
  大正十二年九月二十八日   安房郡長 大橋高四郎
     各町村宛
今回の震災は獨り本郡のみにても千數百の人命と幾千萬圓の財物とを損ず實に未曾有の大惨事たりされば
 兩陛下 には痛く御軫念あらせられ嚢に侍從御差遣の御事あり各宮殿下亦深く御心労遊ばされ災害地に對し夫れ々々御手分け遊ばされ御巡視御慰問あらせらるゝ御趣にて本郡には今二十八日山階宮武彦王殿下御來郡あらせられ被害及び救護の状況は詳悉攝政宮殿下に御報告あらせらるべき旨御仰せあらせられたり
山階宮殿下は今回の震災に際し妃殿下を失はせられ又妃殿下の御母君賀陽宮大妃殿下は御負傷遊ばされ重々の御悲の中にてあらせらるゝに拘らず本郡災害の甚大なる趣聞召され御同情の余り特に御自ら進んで御來郡あらせられたる御趣なりされば御巡視中沿道奉迎の罹災者に對しても老若男女を問はず一々御懇なる御會釋を賜はり其の窮状を御洞察遊ばされ數々の難有御言葉を拝せり殊に妃殿下薨去の御事に就ては別紙記載と同様の
 今回の地震は多數國民を失ひ遺族の心中察するに余りあり余も亦遽に妃を失ひ痛恨に堪へずと雖も妃が多數國民と其の難を共にせるを想へば以て慰するに足る妃も亦此の点に於て必ずや安んじて瞑すべきものあるは余が平常の信條に照し確信する所なりと御仰せあらせられたり御心中拝察するだに忍び難き極みにして御仁恵御同情の深厚なる何共申上げ様なく唯々感泣の外なし尚震害に關し青年團、軍人分會、消防組が能力を尽して活動せる次第を言上せるに深く其の行動を嘉し給ひ又一般罹災民に對し此際災害に屈せず寧ろ禍を轉じて福と爲す底の大決心を以て奮励努力一日も速かに復興の實を擧げられんこと余の特に希望する所にして此旨一般に貫徹せしむべき由特に仰出されたり
被害者は勿論一般郡民は共に此の厚き御思召を奉戴し思を致し力を尽し以て御思召に副ひ奉らんことを切望に堪へざるなり(御遭難概況書略す)
   大正十二年九月二十八日   安房郡長 大橋高四郎
     三 徳川大震災善後會長の視察其の他
 侍從の御差遣、山階宮殿下の御慰問と共に、郡民が永へに記憶すべきは徳川大震災善後會長、粕谷同副會長其の他の視察のあつたことである。それは十月八日のことである。同一行は黒田、阪谷同會部長外に常務委員幹事、兩院議員等數名であつた。一行は此の日午後二時、軍艦にて館山着港。大橋郡長その他の出迎をうけ、翌九日郡衙に立寄り、館山、北條、那古、船形の市街を視察して歸京された。その結果、大震災善後會が、安房郡罹災民の救護と復興の爲めに多大なる金圓を寄贈されたことは顕著な事實である。その金額は數次に亘りて、蓋し三十五萬圓以上に達してゐるであらう。尤も、同會の寄贈は縣の手を経て施行されたので、安房郡が直接に之を同會から接受したのではなかつた。
 更らに茲に特記して、その厚情を感謝せねばならぬのは、萬里小路伯爵と、檜垣錦鶏間祇候の二氏の厚情である。二氏は共に古稀を過ぐる老体を以てして、余震の未だ絶えざる中に、郡衙に來り郡長に會して、郡民の爲めに激励の辞を與へられ、爾來殆ど毎日の如くにそれを繰返された。郡長始め郡吏員が、二氏の熱誠に励されたことはいふまでもない。
 又落合芳藏氏(大審院検事)が病中にも拘らず、屡々郡衙を見舞ひ、吏員を励まし、郡民を慰めてくれたその厚意は、深く感謝する。
 千葉縣育児園主光田鹿太郎氏が、罹災民救護の爲めに尽された功績は、郡民の耳目に新たなるところである。特に、震後小屋掛材料の欠乏に困難してゐる最中に之を郡長に謀り、偶々館山沖にありし軍艦の同情を以て、大阪に航し、「トタン」板十萬枚とその他の材料を得て、之を郡長に致したることは、別章に詳記するところである。
 其の他、懸の内外の篤志家から寄せられた懇篤なる慰問に對しては、郡民が永へに忘るゝこと能はざるところである。

第三章 郡吏員の活動其の他

一 御眞影の奉遷

 御眞影は平時には、郡庁舎の最も静粛な一室に奉安して、其処を神聖の壇場としてゐたが、激震が二三回するうちに、建物は震動に耐え得で遂に倒潰して了つた。倒潰と寸秒の差で其處を屋外へ飛び出した吏員は、幸くも危難を免かれたが、運悪しく逃げ出す間に倒れて來る梁の下敷となつて了つた吏員があつた。そこで吏員は一旦は屋外に飛び出したものゝ、建物が全滅すると直ぐ又引返して、一部は御眞影の安否を奉伺すべくその室に赴き、他の一部は、同僚救護の爲めに發掘を始めたのであつた。それは誰れが指揮したのでもなかつたが、赤誠の發露は、斯うした規律を見せたのである。御眞影は幸に無事であつた。然し火災も何時起るか知れない、海嘯も何時來らぬとも限らない。不安といへば、實に不安極まる。そこで恐れ多くも御眞影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。—郡長は此の檜の木の下で、即ち御眞影を護りながら、出來るだけ廣く被害の状況を聞くことにした。そして、能ふだけ深切な救護の途を立てることに腐心した。縣への報告も、青年團に對する求援の事も、皆な此の樹下で計画したのであつた。—
 そして昼の間は、何事が起つても、それぞれ処理の途があると確信して、郡長は檜の樹下に救護の事務に忙殺されてゐたものゝ、夜に入つてからは、時々海嘯來」の騒ぎが其處此處に高まつて來た。昼間の修羅の巷も、夜の幕が降ると、いはゆる「萬物皆死」ともいふべき寂寞さで、何處にも点灯が一つ見へない。物音とては、犬の遠吠も一つきこへない。物凄いといつたら斯んな物凄さは、生れて経験したことかなかつた。そして「海嘯だ!、海嘯だ!」といふ男女の悲調な叫びが、闇を破つて聞える樹下の郡長と郡吏員は御眞影に對して、萬一を氣遣はずにはゐられなくなつた。そこで、今度は御眞影を安全地帯に奉遷せねば安心が出來ない。海嘯が來るといふは、事實のやうに思はれる。確か夜の一時頃であつたと思ふ。いよいよ御眞影を庭の樹上から少し隔つた隣村の阿夫利といふ小丘の上に遷すことにした。暗夜のことで、北條から其處へ出る順路が分からない。唯だ無暗に畔や小路を辿るのである。門郡書記は御眞影を捧持して、斯うした暗い作場道を行くのであるが棒持するといふも、實はしつかりと背負つて行つたのであつた。郡長と、武田技師と、小谷、野中の郡書記は、御眞影の前後を護つて進むのであつたが、昼の活動で疲れ切つた爪先きは、眞闇な畔路に幾たびか躓き、躓きては小休みせずには歩めなかつた。さうして、やつとのことで、御眞影をば丘の安全な位地に奉安することが出來たのである。幸い此の夜は海嘯も、人々の騒ぎの如くには來らず、火事も起こらかつたのは、聖上のあつき恩寵であつた。

二 縣へ報告の急使

 山は崩れ、谷は塞りて、路通せず。震災古史によく見る文字は、大正の今日、面のあたりに見せつけられたのである。北條から千葉までは二十五里ある。どうして砦の大震災の惨状を縣に報告して、縣の應援を求めやうか、第一その報告の任に當る使者に窮した。人選に困つた。道路も橋梁も地震の爲めに悉く破壊されて了つてゐるのである。郡長は人選に腐心した。腐心の末、佐野郡書記が、會て軍人であつたことに氣が付いた。佐野氏ならば、此の特別の使命を果すことが出來ると儒じた。そこで、直ちに佐野氏に此の任を命じた。すると佐野氏は、覚悟あるものゝ如く、誓つて「使命を全うする」と答へた。然し、場合が場合だけに、郡長の心底には尚ほ幾分の不安があつた。更らに聲を励まして、「佐野頼むぞ」と念を押した。佐野氏は力のこもつた聲で、「心得ました」と、いふや否や、族装には用意も入らぬ震災の場合のことである。直ちにその儘其處を飛び出して、懸への報告の途に上つた。それは一日の午後二時過ぎのことである。
 佐野氏は出發したが、郡長を始め主もなる庁員の心には、「此の場合のことだから果して縣庁まで行き了せるだらうか?」といふ心配のない譯には行かなかつた。そこで、重田郡書記は自ら進んで、此の大任に當らんと申し出た。安藤郡書記も亦た同様に申し出た。誰れの心裡にも同様な心配があつたのである。そこで、重田、安藤の二氏は、佐野氏の出發後、共に郡衙を立ち出て、千葉へと向はれた。縣への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、第二は工兵の出動と医藥、食料の懇請であつた。
 斯うして、上記三氏は、千葉へ向はれたが、余震は頻發して、此の上更らにより大なる地震のなきも保しがたき状態でもあり、山崩れと橋梁の墜落その他の危険は、郡長始め吏員の胸奥に往來して寸刻も安じ得なかつた。ところが、勇敢なる重田郡書記は、徹夜疾走して、翌二日の正午を過ぐる一時半頃、他の二氏に先んじて、無事に懸庁に到り、報告の使命を果したのであつた。加之ならず、途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を托して行つたので、翌二日の未明には、山成す炊出が青年團によつて、北條の郡衙へと運ばれた。瀧田村が逸早く震災應援の大活動に當られたのは重田郡書記の通報に原因したのであつた。

三 各地への急報

 交通も通信も、激震と共に一時に杜絶して了つたので、北條、館山等の市街は勿論安房郡一圓が文字通りに孤獨無援の地となつて了つた。分けても眼前に横はる死者、傷者、その累々たる中に、建物の下敷となつた半死の悲鳴。悲絶とも惨絶とも形容の言葉がない。無論、縣の應援は時を移さず來るには違ひないが、北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。手近で急遽應援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出來ない。しかし、どの地方に應援を要求したら好いか。郡長は沸きたつやうな氣分を抑えて、沈思黙考して見たが、先づ大鳴動の方向と、地質上の關係から考察して、被害の状態を判断するより外はなかつた。そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が比較的災害の少ない地方であらうと断定したから、先づ此の地方の青年團、軍人分會、消防組等の應援を求めることに決定した。
 愈々此の方面の應援を求めるとして、適當な使者を尋ねたが、庁員は西に東に救護の爲めに忙殺されて居るし、學校の職員も、その他の人々も、當面の急務に忙はしく、殊に自己が被害者で眼を廻はしてゐるので、使者として平群、大山方面へ遣はすべきものが、何處にもゐない。郡長の心は焦燥に燃えても、使者その人を得られないことにはどうすることも出來なかつた。ひとり地段太ふんでゐるところへ、其處を通りかゝつたのが、北條税務署の直税課長であつた。課長は殆ど裸體同然で何かの急用で郡役所前を疾走して行くのである。それを見かけた郡長は、聲をあげて呼び止める暇さへなく、兩手を擧げて招き止めて、税務署内に「使者に適當なものはないか」と口早やに尋ねた。—二た言三事話してゐる間にも、余震は二人の話を中切るほどの震動を與へた。—すると課長は考へるともなく、同署の久我属を推薦した。而かも一旦立ち戻つて久我氏を郡衙まで同行してくれた。その時の郡長はありがた涙で物が言へなかつた。と後日郡長の地震談には、何時もさう人に聞かされた。
 然し、北条から、平群、大山、吉尾などの諸村へ行くには、平日でも可なり道路のよくないのに、夜道ではあり、大地震最中のことで、果して使命を全うし得られるか、否か多大の疑問であつた。血氣の久我氏は「死ぬまでやります」といつて、快諾一番、郡長の意をうけて、夜中此等の諸村に大地震應援の急報を傳へた。—久我氏は危険を冒して、多くの障害物の上を疾走して行つた。—すると、此の方面諸村の青年團、軍人分會、消防組等は、即夜に総動員を行つて、二日の未明から、此等の團員は隊伍整々郡衙に到着した。郡當局は應援の此等團員の四隊に分ちて、一は館山方面、一は北條方面、一は那古船形方面の圧死者の發掘等に充て、そして他の一は救急薬品等の蒐集に當らしめた。久我氏の功績は實に偉大であつた。郡長の依頼に一命を惜まずといつて、蹶然と起つたその勇敢振りは、茲に大書するに余りある。
(附記)青年團、軍人分會、消防組と名称を異にするも、その實一人にて各團體に属するもの尠なからす、故に或る一人より見れば、何れの名称にても可なるものがある。此等團體の活動に就ては、後章に之を詳記する。

四 倒潰跡の郡衙

 青年團の來援も、救急藥品等の蒐集も、炊出の配給も、其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかつた。ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。一日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に全力を尽しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやつてゐた。事務用品などは、紙も、鉛筆も何もなかつた。しかし、何か事務所の形がなければ、萬事の處理に不都合で堪らない。そこで、吏員の手で三日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を取り出して形ばかりの假事務所を造つた。そして、危く倒潰を免かれた税務署から僅ばかりの椅子を借りて來て、事務を執つた。夜になつてから、吏員の手で倒潰した庁舎の板や、柱のようなものを取り集めて、二坪ばかりの小屋掛をして、吏員の雨露を凌いた。小屋といつても、名ばかりの小屋だ。驟雨でもあると、一帯に雨漏であつた。而かも、狭苦しくて吏員が這入りきれないのであつた。その困難は實に名状すべからずである。
 救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の處理である。それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して了つたことであるから、同じ場所で執務するが便利であるので、郡吏員と警察署員とは、郡衙の斯うした手製の假事務所で一緒に救急事務を取扱つたのであつた。
 救急事務は不眠不休でやり通うした。一日の震災直後から、二日、三日頃までは碌々食事を攝らなかつたが、又大した空腹も感じなかつた。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に空腹さへ感じなかつたであらう。然し、郡吏員も警察署員も、宅へ歸る時間もなければ、又何一つ商ふところもないので、事實必然の要求に迫られて、救護員の爲めに郡當局は自炊的に炊事を始めた。縣からの應援のものも、その他から來た慰問者も、此の炊事場で僅かに飢を凌いだのであつた。炊事場の光景といつたら、食器は一つもないので、何時も握飯より外仕方がなかつた。又副食物なども最初三日間ほどは絶對食ふことが出來なかつた。竈は最初は極貧弱なものが一個であつたが、必要に迫られて段々に増加して、遂には八升、六升、二升の三個を備へて、日に三度つゝ炊き出したが、朝の七時と、正午と、夕の五時とは、露天の食堂は可なり多忙であつた。—食堂。それは古い戸板を並べて、握飯をその上へ積み、多數の人々は、それを囲みて、立食するのである。—さうした生活が、九月一日から、十一月十五日まで、七十六日間つづいたのである。いはゆる立食のお客が人員一萬四千人の多きに達した。白米の消費高も驚くべき石數に達した。即ち四十二石を算した。後に四日の夜であつたらう「加々美丸」で縣から副食物が少々屈いたが、それは味噌と、澤庵漬と、梅干の外に少許の罐詰である。それでも、當時は可なり美味を覚えたものであつた。—それも一食に僅かづゝしか供給することが出來なかつた。實に惨たるものであつた。—
 要するに郡吏員、警察署員、工区員、各町村吏員等救護に任じた人々は、その大部分は自分の家が倒潰して、大なる被害者である上に、斯うした生活の中に救護の爲めに身を献げて一心不乱に從事したのである。是れも地震が描いた大渦巻の一つである。勇敢な活動の半面である—郡吏員の家庭には、老人を失ひたるもの、子供を失ひたるもの、妻の負傷したるもの等、實に惨たるものであつた。

五 負傷者の應急手當

 死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。中にも鏡浦沿ひの北條、館山那古、船形の市街地は最も悲惨であつた。—詳細は第一編に明記してある—今此の四町内に就て見るも、死者は六百四人の多きに上り、負傷者は一千七百八十四人といふ大なる數字を示してゐる。家屋の倒潰數も、之を百分比例で見ると、北條は九六、館山は九九、那古は九八、船形は九二といふ多大な倒潰數である。從て病院や医家も、倒潰を免かれたものは少數である。大部分は皆な倒潰して了つた。北條町でも僅かに北條病院と諸隈病院とが、倒潰を免かれたのみである。その他の医家は悉く倒潰して了つた。從て一方此の多數の負傷者に對して應急救護を尽すべき方法がない。負傷者は何れも先を争て肩車や、戸板で、前記二病院へ運ばれたので、病院では、見る間に庭も道路も一帯に負傷者の山を築いたのであつた。中には殆んど瀕死のものもあつた。素より限りある設備である。斯う殺到する多數の負傷者をどうすることも出來なかつた。然し、院長、看護婦は、死力を尽して、救護に當られたので、患者に満足を欠かさなかつた。外に折柄、納涼博覧會が閉會したばかりで、まだ建物が其の儘に残つてゐた。而かも、倒潰を免かれてゐたのを幸ひに、負傷者は、其處に担ぎ込まれ、雨露だけでも凌がせやうとしたものが又山なすほどであつた。ところが、其處の主任者が、多少医療に経験を有つてるたので、有り合せた消毒剤や、繃帯材料などで、見かねた患者を世話してやつた。そこで、納涼博覧會跡は、忽ち一つの病院のやうなものに變じて了つた。兎も角も此處も負傷者の集合場となつてゐたので、數日の後には小原医學士が回診して患者を救護してやつた。
 館山方面の負傷者に對しては、農商務省の水産講習所に収容して、此處で應急手當をした。医員は、最初は千葉医科大學の職員の一團が治療に當てゐだが、後には赤十字社の救護班の手に委したのである。而かも最初は、正式の救護所といふではなかったが、應急の必要に因つて、多くの負傷者を此處で救護した。後に正式に借受けて救護所とした。納涼博覧會跡は、徴發の形式によつて矢張り救護所とした。然し、それは何れも後日のことで最初の間は、唯だ必然の勢ひに應じて出來たものである。
 銚子の關谷医師外五名の來援は、四日の午後九時のことである。千葉縣赤十字社救護班の一行六名と、医師小野田周齋氏等銚子医師團の一行の來援は五日のことであつた。此等の人々は、何れも勝浦から、陸路を北條へと廻つて行つたのである。その労苦、大書特筆すべきである。そして此等の來援者は、各部署を定めて、各町村の医師の少なき地方に、それぞれ出張して活動されたのである。或る村落などでは、負傷者が數日間、一回の治療をも受くるを得なかつたものもあり、又一回消毒した儘で、數日繃帯を取換へることも出來なかつた爲めに、傷口から蛆がはひ出したといふ惨めなものもあつた。が、此の來援者の爲めに、全く救護されたのであつた。然し、各地方の医師も全力を擧げて救急の事に從はれたことはいふまでもない。郡長は斯る場合に傳染病の流行は必定だと思つたので、特に傳染病に注意を拂つた。極めて少數の赤痢患者の外、傳染病の出なかつたのは、何よりの仕合せであつた。
 ところが、一時に多人數の負傷者を取扱ふだけには、医藥も衛生材料も、設備されてゐない。殊に家屋の倒潰の爲めには此等の物品にも多大の損害をうけたのでその欠乏には、甚だしく困難をした。北條病院その他の医院も初めの日は辛うじて處置したが、二日目からは、全く欠乏して、青年團の蒐集に俟つたのである。が、救護團の來援以來は、此等の諸材料は幾分緩和されたのである。
 此處に特記すべきは、北條町の藥丸医師は、その家屋が全潰した上に、震災の爲めに妻女を失はれたにも拘らず、負傷者の救護の爲めに、よくその天職を尽された。それと共に、水産講習所の鷹の島主任の救護に就ての尽力は、郡民の永へに記憶するところである。

六 焚出其の他の給與

 罹災者の救助に就ては、普通の場合には、豫め定められた規定があるが、今回の如き未曾有の大震災に當りては、迚も平生の常規を以て律することが出來ない。そこで、医藥、衛生材料に次で米その他の食料品の配給をしたが、その配給が後に救助になるか、斡旋品になるか、それは別問題として、目前に迫れる焦眉の急に應ずることが主眼であつた。たとへば、被害は輕くとも食料品の欠乏した土地には、食料品を供給して、その急を救ひ。又被害は甚大でも、附近で間に合せ得る土地は、町村なり有志なりの手で一時を凌ぐことにしたのであつた。焚出なども迚ても正式の焚出は出來べくもなかつた。從て一部落なり、一組合なりへ米を渡して、其處で焚出するのであつた。しかし、それすら中々思ふやうには行届かなかつた。罹災者は、唯だ饑かつを凌ぐだけが當面の急務であつた。又小屋掛も、被服のことも、皆な同様で結局急迫した必要が、総てを支配したのである。郡當局は唯だ至誠以て、罹災民の痛苦を少しでも輕減することに努めた。即ち郡長は、八日に出縣して、情を陳じて食糧配給の増加と焚出昼日數の延長とを要求した。そして縣は直ちに郡長の要請を容れたのであつた。要するに、平生の常規は、迚ても今回の大震災には適用が出來なかつた。即ち、食品、小屋掛材料は現品給與が本則であるが、今回は交通機關の杜絶と、商家の倒潰の爲めに、それが實行出來なかつた。米その他の食料品は縣より送付されたものゝ外は、郡役所、郡水産會及び町村の斡旋によつて、當面の急を救ふことを主眼とした。從てその計算は何れも後日のことにした。
 給輿は、震災直後から始まつて、十月末日を以て終了を遂げた。その給與額も可なり多大な數に達した。その合計金額は、實に六十二萬四千六百九十七圓十銭であつた。下掲の表は、即ちその結果を示したものである。

七、牛乳の施興

 食料品は一般に欠乏してゐたが、傷病者と飢餓に泣く乳児とは、何とか始末せねばならなかつた。殊に震災の恐怖で急に乳のとまつた母が、飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、郡當局は一掬の涙を禁じ得なかつた。幸に安房は牛乳の國である。郡長は安房畜牛畜組合に依嘱して、無償で牛乳の施興に當らしむることゝした。しかし、交通杜絶の場合である。牛乳の輸送と、殺菌設備には、相當考慮を要するのである。が、折柄東京菓子會社、極東練乳會社の好意と、青年團、軍人会會の尽力とで、九月四日から牛乳を配給した。そして十月七日まで、三十四日間之継續した。配給区域は、北條、館山、那古船形と南三原の四町一箇村であつた—その上区域を拡張することは、事情が許さなかつた—施配した石高は、實に七十六石一斗三升の多きに上つた。施與延人員は、二萬人に達した。此の牛乳は、全部郡内牛乳業者の寄贈にかゝるものである。

八 鏡丸最初の活動

 上記の如く、眞先きに縣へ急使を馳せて、縣の應援を要求してはおいたが、医藥、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出來ない。そこで、館山にある縣の水産試験場に、ふさ丸と鏡丸の發航を依頼した。笹子場長は郡長の依頼に懸命尽力したが、ふさ丸は機關部に故障があり、鏡丸には輕油の蓄へなく、その上地震の爲め機關長の生死が不明であつたので、二隻ともどちらも即刻の間に合はなかつた。しかし、一方機關の修繕を急がせ、他方輕油を所在に求めて、二日の夜半漸く出帆準備が出來た。汽船の準備は出來たが、震災の爲めに海底に大變動があり、且つ燈臺は大小何れも全滅して了つた。此際航海の危険は、いふを俟たない。それでも出帆するとすれば、それは全く決死隊とならねばならなかつた。ところが、場長の激励と船員のきょう氣とで、遂に三日の未明、汽船鏡丸は館山を發して千葉に航行した。鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の處理に任じた。海底の隆起と陥没と、いふべからざる危険の中に鏡丸は天佑によつて、無事に千葉に着いた。そして翌四日の午後八時十五分には、又無事に館山に歸航したのであつた。鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、そして縣の派遣員十六名と、看護婦四名とが乗船してゐた。是れが千葉からの最初の應援であつた。郡當局は斯うして最初の救護即品を蒐集した。

九 米の欠乏と罹災者の窮状

 安房郡の全體からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。此の大體論から推察すると、安房は大震災があつても、大した火災が伴はなかつたから、米は焼失してゐない。從て米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。然し、此の観察は全く安房震火當時の實状に通ぜざる外観上の皮相論に過ぎない。
 若し此の皮相論のやうであつたならば、安房の罹災者は、實際あれほどに窮状を呈しなくともよかつたのである。然るに、米の欠乏に泣いたのは、實際泣かざるを得ない事情がある。之を閑却しては、當面の救護問題は解決出來ないのである。それは外ではない。九月一日の震災の當時まで持越されるやうなものは大體に於て、殆ど総てが籾米である。籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。加之ならず、籾摺器具も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了つたのだから手の着けやうがない。それでも、純農村の方は、辛くも一時の凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。多少の買置き位は兎も角も、それすらも、倒潰家屋の下敷となつて、物の役に立つべきものがない。突如として起つた大震災である。即刻から食料の供給を叫ばねばならぬのは當然なことである。激震地に米のないのは不思議はない。その上に道路も橋梁も破壊されて、米の輸送の途は絶對に断たれて了つてゐる。安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、此の大震災に直面しては、何處へも通用ならぬのである。米騒動の起らなかつたのが仕合であつた。
 それに就て、一つの哀話がある。茲にその大要を録して當時の事情を知るの一端に供したい。九月二日三日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が澤山郡役所の庭に運ばれた。すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻つて、之を飢へた人々に分與したのであつた。又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。兎角するうちに肝心な握飯が暑氣の爲めに腐敗しだした。郡役所の庭にあつたのも矢張り同然で、臭氣鼻をつくといつたありさまである。そこで郡長始め郡當局は、腐敗物を食した爲めに疾病でも醸されでは一大事だと氣付いたので、甚だ遺憾千萬ではあつたがその日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであつた。ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の罹災民が押しかけて來て、腐つたむすびがあるさうですが、それを戴かして貰ひたい。と、いふのであつた。それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であつた。そのカなきせがみ方が如何にも氣の毒で堪らなかつた。郡當局も、此の光景を見せ付けられては、流石に断らうとして、断はり兼ねたのであつた。そこで、郡當局は、斯うした面々に向つて、「よく洗つて更らに煮直してたべて下さい」と條件附で、寄贈品の握飯を分配してやつた。何といふ窮乏のさまであらう。何といふ悲哀であらう。
 斯うした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に來た悲劇である。當然蒙らねばならぬ平生の生活實状に伴ふ窮乏である。そこで、郡當局は、一方懸に急報して、食料の配給を求むると同時に、他方旧長狭に駐在してゐた縣の耕地整理課技手齋藤正氏に嘱託して、同地方の米を買収して、鴨川より海路北條に輸送するの計画をしたところが、米の買収は中々困難であつた。それは、何時又重ねて大地震の來るかも知れないといふ懸念と、交通杜絶の爲めに、今米をはなせば、生命をつなぐ途が絶えると悲観したからであつた。—此の時徴發してはどうだ。と、いふ話もあつたが、郡長は頭からそれに反對した。それは、唯ださへ人心恟々たる折柄に、徴發でもやつたら、事態容易ならぬことゝなるからであつた。—各町村長も極力買収に努めたが、遂に現金を以て所要の米を買上ぐるの外なかつた。そこで、在北條の各銀行の主脳を會し、地震の爲めに支拂休止中であつた銀行重役の公徳心に訴へ、金一萬圓の貸出を請ひ、それを以て米を買ひ、縣の配給と合せて、之を配給した。又長狭以外でも、被害稍や輕き町村には、いはゆる隣保互助の精神に從ひ、篤志家を説き、青年團を督して、廻米に努力したが、到底大量を得るに至らなかつた。
 斯の如くにして、僅に集めた米は、焦眉の必要に應じて、それからそれへと配給して行つたが、日を経るに從つて欠乏甚だしく、七日の夜に至つては、全く絶望状態に陥った。殊に総説に掲げたる「食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ」といつた、各所に掲げた掲示で、人心を安定に導いてゐる刹那のことである。若し當時此の窮状が一般に窺知されるやうなことがあつたら、是れまで郡長に信頼して飢と戦つて來た罹災民は、如何に失望するであらう。失望の結果、又如何なる事態を惹起するであらう。實に危機は一髪の間に迫つた。「鳴呼、余は此の窮乏せる罹災民を遂に救ふこと能はざるか。何の面目あつて再び郡民に見へん」とは、大橋郡長の嘆聲であつた。そして郡長は決意を深く秘めて、翌八日の拂曉、鏡丸に乗じて上縣し、つぶさに郡民の窮乏を訴へ、而かも米の欠乏甚だしきを以て、直ちに米九千俵の急送を懇請したのである。すると縣も之を容認して、米五千俵を給興するに決した。且つ輸送の爲めに、館山灣に碇泊中の汽船を徴發すべく、徴發命令二通を交付された。そこで、郡長は九日直ちに歸任して、汽船二隻を徴發し、廻米の事に從はしめた。そして、その翌十日であつた。突如、縣よりは更らに米一千俵、増加配給する旨を通達された。此の通達は勅使御差遣あらせられた前日のことであつた。震後人心に強い脅威を與へた食料問題も、是に至つて漸くその眼前の急より救はるゝことを得たのである。
 下に米及び副食物受入れの數を掲げて、上記米の欠乏に對して、當局が如何に苦心したか、罹災者が如何に窮乏に陥つてゐたか。その罹災状況を知るの便に供じやう。
 (1)縣より郡へ配給された米の數量。
  玄米……六、一七九俵  白米……一、八七一俵  外米……一八九袋
そして是れは九月五日から、十月二日まで、四十二回に鏡丸その他の汽船にて千葉、勝浦、木更津から、館山港にて受取つて、それから各町村へ配給したのである。
 (2)郡役所が直接に購入して配給した米の數量。
  玄米……三二俵  白米……一、九○○俵
是れ又、九月六日から同二十九日までの間に十二回に、鴨川、天津等にて購入したものである。
 (3)副食物受入數。
副食物の種類は至つて多い。併し、此の場合どんなものを多く用ゐたか、罹災状況を知るの一つであるから、下にその受入月日と、その種類と數量を記載する。
 九月四日………漬物一樽。
 九月五日………澤庵五樽、梅干五樽、ラッキヨ五樽、馬鈴薯十俵、甘薯一俵、里芋一、牛鑵五十匁入百六十六個、一斤入四十八個、日本橋漬二十四個。
 九月六日………甘薯五十俵、梅干十七樽。
 九月八日………甘薯七十八俵、韮漬十樽、梅干四樽、塩五叺、味噌五樽。
 九月十日………味噌一樽、甘薯十九俵。
 九月十二日……味噌十二樽、梅干三十一樽、鹿角菜六十三袋。
 九月十三日……味噌(小樽)二樽、(匝瑳郡野田村青年團寄贈)
 九月十三日……ラツキヨ漬三十叺、塩十叺。
 九月十七日……韮二十樽、塩四百十六叺。
 九月十八日……ラツキヨ三十五樽、梅干一樽、茄子漬一樽、醤油千樽。
 九月二十日……ウドン二箱、甘薯五俵、玉葱二俵、甘薯二十四俵。
 九月廿一日……蔬菜十三俵(茂原町寄贈)
 九月廿五日……甘薯九百十九俵。
 九月廿七日……玉葱四十六俵、甘薯三百俵、味噌百五十樽、野菜十七俵(茂原町寄贈)甘薯八十俵。

十 小屋掛と材料の欠乏

 震災當時に於ける、北條町の総戸數は一千六百十六戸であつたが、その内の一千五百六十七戸は、地震の爲に、全潰、半潰、焼失の厄に遭つた。百分比例にすると、百分の九六の被害である。館山町は當時総戸數一千六百七十八戸で、その内の一千六百六十三戸が、矢張り全潰と半潰と焼失とであつた。その百分比例は、實に百分の九九の大被害である。那古町も百分の九八、船形町も百分の九二といふ被害である。此等鏡ケ浦沿ひの町は、實に建物全滅といふ状態である。
 從て、その應急手段として、小屋掛の必要なことはいふを俟たないのであるが、當時小屋掛材料の欠乏には、郡當局の頗る困却したところである。罹災者の中には破れた戸板や、板切れなどで僅に雨露を凌ぐ用意をしたものもあつたが、多數の罹災者は、それすらも出來得なかつた。雨のたびに折角取出した破れ残りの家財や商品などは、之を始末するの方法がなかつた。殊に瀕死の病者や、産婦を持つ家では、せめて屋根の下で介抱しやうとしても、それが出來なかつた。そして斯うした惨状が、つい十日もつづいた。中には郡衙に救護を頼んで來るものも尠なくなかつた。医藥、食料の大欠乏で大困却をした郡當局は、小屋掛材料の欠乏でも、亦たそれに劣らぬ大なる困難を感じさせられたのである。地震の大渦巻は、人間の生活の総てを巻き込んで行つた。
 斯の如くして郡當局は、屋根材料の供給に腐心してゐるところへ、偶々千葉縣育児園主光田鹿太郎氏が訪て來た。氏は宗教家で安房に育児事業に從事してゐるものである。此の度の大地震には、心身を捧げて罹災民の爲めに尽してゐるのである。屋根材料の欠乏には、初めから確信があつたらしく、「自分は大阪に大鐵工場を経営してゐる小泉澄と云ふ知己がある。此際のことだ、之れに懇請すれば「トタン」とそうした材料は、多少手に入れることが出來る確信がある」と、いはれた。それを聴いた郡長の喜びは一と通りでなかつた。そこで、郡長は此の急迫な事情で縣の指揮を仰ぐ余裕がない、全責任は自分一人で負ふ覚悟である。「トタン」と屋根材料一切の爲めに、即刻大阪へ急行して貰ひたい」と、カのこもつた言葉で光田氏に答へた。素より英断家と熱血家の、民を救ふか救はぬかの分かれ目の場合だ、話は忽ち一決して、愈よ光田氏は大阪へ急行と極まつた。すると氏は一刻の猶豫もなくその場から直ちに飛び出して、館山に行つて、碇泊してゐた軍艦に事の次第を訴へて、大阪急行のことを頼んだ。光田氏の熱心は艦長の同情を喚起して、遂に即刻乗艦の許可を得た。—當時鐵道も汽船も、震災の爲めに杜絶して、軍艦による外なかつた。—そして、直ちに館画灣を出發した。それは九月十一日であつた。
 そして、光田氏は大阪へ着くと、直ちに小泉氏を訪ひ、次で大阪府庁を訪ふて屋根材料のことを懇請すると同時に、偶々府當局及び府市の有志者から成る關東大震災救護に關する委員の會合があつたので、それへ出席して、安房大震災に關する一場の講演を爲し、且つ携ふところの安房震災寫眞帖を示して、大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。そこで、大阪人の同情は湧くが如くに集つた。府庁では安房大震災に懇篤な同情を寄せられ、「トタン」その他の斡旋に全力を尽してくれた。そして忽ちに「トタン」十萬枚と、釘三百樽、鎹二萬本、針金二千貫。外に「ローソク」「マツチ」、衛生材料を取りまとめ、その上之れが輸送に要する汽船の提供までも尽力して一刻も早く罹災者の急を救ふべく厚意を寄せられた、大阪府庁の厚意は、實に謝するに辞がない。分けて當時大阪府内務都長であつた平賀周氏(本縣山武郡の人)の厚意は茲に特記して謝意を表する。加之ならず、海上暴風に出逢ひ、進航容易ならざりしときも、宰領の爲めに乗船された大阪府吏員の激励の爲めに、船員は決死の覚悟を以て進航を一刻も停止することなく、罹災民が千秋の思ひで待焦れてゐた館山灣へ入港したのである。罹災民の歓びは之れを適當に表現すべき言葉がなかつた。時は實に九月二十八日であつた。
 光田氏の大阪に於ける、安房大震災講演の効果は、ひとり大阪市中を動かしたのみではない。通信交通の杜絶してゐた折柄に、早くも関西各地に安房の大震災が傳へられたのは、光田氏の此の講演に於ける叫びが原因となつて、逸早く諸種の慰問品が關西諸縣より到達したのであつた。光田氏の労は、此處にも、多大な功績を擧げてゐるのである。
 期くて第一回の屋根材料は、陸揚と同時に直ちに配給したのであるが、町村長會議を招集して、各町村の所要を聞くに、「トタン」板三十余萬枚及び釘、鎹等之れに附属する物料を要すとのことであつた。ところが、第二回目には、現金がなければ、此等の諸材料を取寄せることが出來ないのであつた。然るに素より斯うした大枚の金が郡當局の手にあるべき筈もないので、縣の保證を得て、一時の窮状を救ふの外なかつた。そこで、安房銀行頭取小原金次氏に謀り、光田鹿太郎氏と同行上懸して知事に懇請することにした。そして門郡書記を同行せしめた。ところが、知事は本件については一切責任を負ふこと能はずとて、その懇請するところを容れなかつた。然し安房銀行にして責任を負ふならば、農工銀行、川崎銀行の二行より金十五萬圓貸出の斡旋をすることだけは辞せぬ。といふことであつた。そこで、小原氏は直ちに二銀行の代表者に會見して、安房銀行に於て、十五萬圓を借入れ、之れを以て第二回の屋根材料を再び大阪に於て購入するに決した。而して、第二回の大阪行も矢張り光田氏を煩すことにした。光田氏の外に安房銀行員二名が正金を携へて、日本銀行に至り之を手形に振替へて、宇都宮郡書記が同行下阪することにした。そして再び大阪府庁の斡旋で「トタン」板五萬枚、大小釘千二百樽、外に「マツチ」「ローソク」若干を購入した。ところが、輸送船に差閊へたので、折原兵庫縣知事の尽力で汽船豊富丸の提供を得て、輸送せしめたのであつた。豊富丸が、館山に入港したのは、十月十七日であつた。
 要するに小屋掛材料の配給は、可なり複難な経緯の下に郡長は多大な苦痛を當めたのであつた。が、然し、前後合して十五萬枚の「トタン」とその附属物料を罹災民の急に應じて配給し得たのは郡長が英断の結果である。勿論その英断は、縣から見れば獨断専行であるが、それは常規から見た場合のことで、地震が描いた事實必然の要求は、實際常規で律することが不可能であつた。今回の地震は詔書のいはゆる「前古無比」である。眼前に起つた必然の要求は何よりも強力であつた。
 下に建築材料配給表中の五萬枚の「トタン」と釘の数字を掲げる。(その他の諸表は之を略す)

十一 通信と輸送

 交通も通信も、あらゆるものゝ破壊された爲めに、是れまで郵便や電信電話で事足りたことが、今は何事も飛脚によるより外は、片言隻語の通信も出來得ない状態である。丸で往古時代の社會状態である。そこで、郡當局は青年團、軍人分會等の應援團の中から十余名を選定して、通信事務に當て貰ふことにした。そして郡内の各町村との連絡をとつた。鐵道電話は九月三日から千葉まで通ずるやうになつたが一回の通話に數時間を要するのみか、而かも完全に通話が出來得なかつた一例をいふと、郡衙から北條驛にかけ付けて、本千葉驛に通話を頼み、本千葉から、同驛前の交番に、そして交番から縣庁に通話したのである。警察電話の開通したのは、九月五日の夜のことである。それで漸く本縣との通信が出來るやうになつたのであつた。郡當局は、此の電話開通で、本當に生き返つたやうな思ひをした。孤獨の世界が、急に世界的に擴つたやうなものであつた。九月八日からは、郡内郵便局相互間の電話が通ずるやうになり、同十八日からは普通郵便が開始され、十月三日からは市外一般電話が開始された。そして一般官庁との通信の開始されたのは、十一月一日のことであつた。此の長い間の通信上の不便は、實に想像以上であつた。そして此の不便は、僅かに傳令によつて、應急の處決をしたのである。郵便物の取扱が開始されても、輻輳した郵便物は、一時にどうすることも出來なかつた之れが配達には意外の時間を要したので、至急の用件は矢張り傳令を煩らはすの外はなかつた。そしてそれが約五十日間もつづいたのであつた。青年團員と軍人分會員は、雨の日も風の夜も、郡當局と共にそれを眞面目に忠實に働いたのである。九月五日から、二十六日までの傳令に要した延人員は約二百人、二十七日から十月三十一日までのそれは約百七十七人であつた。要するに斯うした特殊な方法も僅かに通信交通機關の破壊された欠を補ふの一手段に過ぎないのであるがその労苦と不便とは、之を説明するに適當な言葉を發見することが出來ない。
 次に輪送上の不便も、通信上の不便と同じく、別項(九)に記するが如く、水産試験場所属の汽船「ふさ丸」と「加々美丸」を徴發して、輸送のことに當らしめた。外に東京灣汽船株式會社の汽船清瀬丸と、同北海丸も徴發して、救護品、食料、慰問品等の輸送に充てた。それでも尚ほ不足を感じたので、上記四隻の常備輸送船の外に、臨時傭船として、宮代丸(船形町)福神丸(天津町)幸神丸(船形町)も亦た同一の任務に充てた。常備船の根據地は、館山港であつたが、最も頻繁に往來した地点は、木更津と、勝浦と、次は千葉であつた。そして此等汽船の活動は、九月三日の未明から殆んど毎日のことで、その航海日誌を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。鐵道も、陸運も全く杜絶した時のことで、ひとり海運にのみよつたのであるから、此の間は全く海の時代である。安房でなければ出來ないことであつた。

十二 緊急町村長會議

 地震の残した大惨事、大損害。それは迚ても工兵のカをからねば、収拾することは出來得まいと思つたので、縣へ斯くと要請しておいたが、それも急速の間に合はない。そこで、望みを郡内の青年團に属したのであるが、—早い地方は二日の夜朝け方から來援はあつたが—二日の正午過ぎに、又しても一大激震があつた。一日の大地震に此較的損害の少なかつた長狭方面は、今度は激震であつた。そこで長狭方面から北條方面へ向け來援の途上に在つた青年團は、途中から呼び戻されたものもあつた。—二日の地震は、東京では微弱であつたといふ—且つ警戒の爲めに應援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、三日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。斯くては迚ても郡の外部の應援は望む、べくもない、一日の震後直ちに計画してゐたことも、郡の外部に望を属することは迚ても不可能である、絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。そこで、「安房郡のことは、安房郡自身で處理せねばならぬ」といふ大覚悟をせねばならぬ事情になつた。四日の緊急町村長會議は實に此の必要に基いた。悲壮な意義を持つ會議であつた。從て會議の目的は、各町村の震災の實況、医藥、食料品の調査、青年團、軍人分會、其の他の應援が主たる問題であつたことはいふまでもない。郡長は席上に於て、大地震に就ての實況と四圍の情勢を詳細に熱烈に述べた。そして各町村青年團は、
 (1)全潰戸數が総戸數の三分の一以下なる町村は必す他に應援救護すべきこと
 (2)被害三分の一なる町村は其青年團、軍人分會、消防組員を三分して、—一分は被害者、—一分は自町村の救護に、一分は他町村のそれに、而して激震地の救護に從事すべき員數は郡長の割當に從ふべきこと、特に北條、館山、那古、船形に出援するものは郡長の指揮に待つこと)の割合で應援すべきことを命じた。會議は無眼の緊張味を似て、「安房郡のことは安房郡で處理する」の覚悟を固めた。來會した町村長は何れも草鞋脚胖で、物凄い情勢であつた。就中、富崎村長の如きは、自分の村の被害は海嘯で被害者約七十は何一つ取片付けべきものも残されてゐないから全村こぞつて應援に當らう」と申出た。何といふ悲壮な事であらう。

十三 震災状況調査

 被害の状況が明白に調査されなければ、救助計画も出來ない順序であるから、被害調査は、第一着に手をつけたが、調査の中枢機關たる町村役場が、何れも全潰又は半潰の悲惨な状態であるのと、道路も、交通機關も杜絶し、その上町村吏員も亦た均しく羅災者であるので、その調査には大なる困難を感じた。
 然し、斯うした状態の中にも、各町村は最大の努力で時を移さず被害の状況をそれ々々報告されたのである。郡當局は、それを基調として對應策を決定することが出來た。だが一度調査したものを更らに精査したり、又町村の應急施設指導の爲めには、郡吏員は、屡々各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、調査の進捗を図つたのである。本書の第一編第一章の終りに掲ぐる「震災状況調査表」は、即ちそれである。

十四 救護事務の分擔

 尋常の場合には、事務は分擔的に取扱ふ方が、規律も立てば、能率もあがるのであるが、今回のやうな大天災の場合には、迚ても實際の事實がそれを許さない。それからそれ、次ぎから次へと起て來る、而かも寸刻の猶豫もならない出來事が平生の何百倍といふのであるから、臨時雇員の採用なども、迚ても出來得る事情ではなかつた。殊に手數のかゝることは、想像も及ばないほどであつた。第一電信も電話も郵便も破壊されてゐるのだから、一つの用件にも吏員は一々現場に出張せねばならぬのであるのと、鐵道も道路も矢張り破壊されてゐるのであるから、出張も一々徒歩であった。平常のやうに事務所で、椅子に腰を下ろして執務する考を以てしたならば、此の場合の事務などは、一として満足には出來かうないのである。吏員は手當り次第にそれからそれと、何事でも指揮して行つたのである。當初から分擔を定めておいて、執務するなどといふことは迚ても事情が許さなかつた。此の執務振りを、事情に通じない他のものからでも見たならば、何が何んだか不規律千萬なやうに見えたであらう。素より不規律でやつて行くのであるが、その不規律の中に一道の規律があつた。それは郡長が統率者となり一身を以て総般の指揮に任じたことであつた。殊に吏員は、「此際吏員は一身を捧げて罹災者の爲めに大に努力すべし」といふ郡長訓示の下に身を捧げて働いたのである。紙の上で画一的に定めた分擔などよりも、各人が至誠一貫で努力猛進したところに、罹災者を満足せしめた一層の出來榮えがあつた。
 然し、縣からの應援も來り、医師團、救護班等の來りて、事務を分擔して取扱ふことの出來るやうになつたのは、三四日過ぎて後のことであつた。寧ろ分擔的に執務することの出來るやうになつたのが何よもの仕合であつた。最初の三四日間などは、事務分擔などは迚ても夢にも見られなかつた。加之ならず、分擔は一旦下記の如くに定めたが、中々その分擔通りには行かなかつた。苟も手のあいてゐるものは、分擔に拘らず、何の仕事でもやつて、一寸の休息も出來なかつたのである。最初の事務分擔は斯うであつた。
 総務 門(主任)小谷、小林、中山、原田、露崎(記録)吉井、能重、重田(町村)安藤(會計)野中(炊事)飯田(藥品其他)佐野(通信傳令)
 食糧 武田(主任)齋藤、縣出張官(配給)高柴、山井(運輸)宇都宮、川又、山口、多田、増田(収検)安仲、成子(牛乳)
 労力 鈴木(主任)池田、鈴木、服部、實方、平川。
 此の事務分擔は、十月十六日になつて、改正したが、九月末までは、全く不眠不休そのものであつた。郡吏員と共に町村吏員も、矢張りそれであつた。何といつても人は鐵石ではない、此の上の奮闘は迚ても無理であると思つた。そこで、郡長は九月三十日の日曜だけは、一同休息するやうにと、特に各町村に示達したのであつたそして十月、十一月と過ぎ、十二月も矢張り此の奮闘をつづけて行つた。
 郡吏員は悉く罹災者であるが、一家を顧念せず一身を捧げて、罹災民の苦痛を輕減することに飽まで努力されたのである。警察署員も郡吏員と協カ一致して、よくその職責を尽された。又町村長町村吏員が、自町村の爲めには勿論、郡の諸多の救護計画に對して、多大の便宜と努力とを運ばれたことは永く美談として、茲に特書する。
 郡庁舎の倒潰と共に不幸その用材に圧せられて重傷を負ふたものが二名あつた。その一人は中川郡視學である。氏の重傷は迚ても健康に復すべくも思はれなかつたが、氏の人格の力は、遂に重傷に打ち勝つた。死より生に甦つた。上記事務分擔中に氏の氏名の見えないのは之れが爲めである。
 ひとり悼むべきは杉田郡書記が、震後僅かに七時間にして、不幸不歸の人となつたことである。氏の負傷は余りの重傷であつた。殆ど蘇生の余地がなかつた。氏の持つ沈勇のカも、今はどうすることも出來なかつたであらう。是れ實に同僚の均しく痛惜禁ぜざるところである。噫。

第四章 青年團の活動其の他

 正しく云へば、「青年團」、「在郷軍人分會」、「消防組」は、各別個の團禮であることは勿論であるが、實際に於ては、同一人にして、此等三團體、若くは二團體に属してゐるものが多數であるから、茲には単に「青年團」といふ名稱の下に、各町村に於ける此等の諸團體が悉く含んでゐるものとして、章を一にして、此等諸團體の記事を掲げる。—尤も表は二つになつてゐるところもある—
 今次の震災に當て、青年團が團體的にその大活動を開始したのは、平群、大山の青年團が、一日の夜半、郡長の急使に接して、総動員を行ひ、二日未明、郡役所所在地に向け應援したことに始まり、遂に全郡の町村青年團の総動員となつたのである。—
 各町村に於て、自發的にその一小部分づつの活動は、震災の直後、直ちにその急に應じたことは勿論である—それ故に、別表に記する數字は、團體的に而かも郡の指揮の下に活動した人員である。無論、此の數字の外に、自發的に他町村に、或は自町村に、活動した人員は、莫大なもので、數ふるに遑なきとろである。—
 そして、青年團の第一段の仕事は、死傷者の處理であつた。同時に医藥、衛生材料食料品の蒐集であつた。二日の如きは、市中の藥店の倒潰跡に就て、死體及び此等諸材料の發掘に大努力をいたされた。その活動振りは、實に勇壮なものであつた市民をしてその血氣の旺盛なるに感激せしめた。
 それから、第二段の仕事は交通整理であつた。地震に打ち倒され家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、道路に堆積して、通交の不能となつてゐるは勿論路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、實に青年團の力である。その力は偉大であつた。僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。いはゆる手の着けやうのない様であつたのである。
 第三段の仕事は、救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、各町村への傳令等であつた。あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、實に青年團の力である。若し青年團がなかつたならば、救護事業の多部分は、あの通り敏活には處理出來なかつたであらう。
 要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。といつたならば、何人も青年團の力であつた。と答ふる外に言葉があるまい。實に青年團のカであつた。ところが、青年團には、何の報酬も拂つてゐない。若し青年團の労力に對して、一々應分の報酬を拂ふものとしたならば、その額は實に巨萬に達することであらう。然るに報酬どころか、何人も當時にあつて、澁茶一つすゝめる余裕さへもなかつたのである。それどころか、飯米持参で、而かも團員は自炊して、時を凌いだのであつた。更らに茲に大書して感謝すべきは、當時は雨露を凌ぐべき場所とては、北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧會跡の一部に過ぎなかつた。そして税務署以外は、何れも土間である。折柄残暑で寒くこそはなかつたが湿氣と蚊軍の襲來には、安き眠も得られやうがなかつた。加之ならず、何れも狭隘の上に、多人數である。分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあつた。それでも、青年團員は、一言の不平も不足も口にしたものがなかつた。不足どころか、唯だその同情の及ばざらんことを恐れたのであつた。
 茲に特筆せずして己むことの出來ない一事は北條町伊東松之助氏が青年團に對しての奇特な所爲である。氏の佳宅は數萬金を投じた壮麗な建築で、而かも耐震的用意もあつたので、倒潰を免かれた。折柄青年團が宿舎に窮してゐるの見て直ちにその住宅を擧げて青年團の宿舎に解放された。如何にも奇特なことである。後には應援來訪者中の重もなる人々の宿舎に充てたが、可なり長い間、解放してゐてくれたのであつた。

 次に團體活動の數字を掲げる。
 他町村の救護に尽したるもの(大正十三年一月二十八日調)
 團體名    延人員     團體名    延人員
富崎村青年團  一六     七浦村青年團  三二〇
長尾村 同   七〇     丸村  同   五二〇
那古町 同   五十     北三原村同   一三一
八束村 同   一四八    南三原村同   三〇
富浦村 同   二一     和田町 同   五二
岩井村 同   二〇     江見村 同   一九
保田町 同   一二     太海村 同   四五
佐久間村同   一四七    曾呂村 同   四二四
平群村 同   五五一    大山村 同   一六三
瀧田村 同   三〇九    吉尾村 同   一二一
白濱村 同   二一七    主基村 同   一五八
田原村 同   二三八    天津町 同   四八
鴨川町 同   一四〇    湊村  同   四三〇
西條村 同   一一〇    曾呂村壮年團  三五
東條村 同   二八一    合計      四、八二四
 尚ほ自町村内に於ける相互的救護に從事したものゝ數は、頗る多大なものである。が、之を省く。
 東京方面の避難民の救護に尽したるもの(大正十三年一月二十八日調)
 團體名    延人員     團體名    延人員
保田町青年團  一、五二〇  鴨川町青年團  三八
和田町 同   一二     東條村 同   二四
江見村 同   一六二    湊村  同   二八二
天津町 同   一一五    合計      二、二九一
太海村 同   一二八
 在郷軍人分會の活動(大正十二年十月八日調)
 團體名    延人員     團體名    延人員
富崎村分會   二九     曾呂村分會   三七四
八束村 同   六一     大山村 同   一三六
佐久間村同   二四三    吉尾村 同   二六〇
平群村 同   七五五    主基村 同   一九二
瀧田村 同   五七     田原村 同   八四
七浦村 同   三二〇    西條村 同   一六五
丸村  同   二〇     東條村 同   一三五
北三原村同   二〇     天津村 同   六三六
江見村 同   一五〇    湊村  同   二四九
太海村 同   七七     合計      三、五六三

 郡外よりの救護團體 災後人心恟々たる五日の夜半であつた。夷隅郡青年團員四十七名、青木同郡視學指揮の下に館山海岸に到着。次で長生郡青年團員五十一名山武郡青年團員四十四名印旛郡青年團員四十七名、羽計長生、田部山武、石原印旛、各郡社會教育主事の指揮の下に來援。其他軍人分會、青年團水産會等の各團體員も、或は陸路より、或は海路より陸續として、來援してくれた。そして長途の疲労をも忘れて、或は罹災民の救護に、或は交通障害物取除に、或は食料品の荷揚運搬等に、極力尽瘁されたのでめる。郡民は唯だ唯だ感泣するばかりであつた。應援團體に就て多大の配意を辱うした縣當局者及び佐倉司令部に對して特に感謝の意を表する。當時郡役所に於て受付けた來援團体は、左の如くである。
 夷隅郡青年團    長生郡青年團    山武郡青年團
 印旛郡青年團    夷隅郡軍人會    山武郡千代田村分會
 長生軍人會     印旛郡阿蘇村分會  海上郡本銚子漁業青年團
 印旛郡川上村分會  香取郡青年團    印旛郡遠山村分會
 山武郡水産會    (以上到着順)

 感謝状と支給金 青年團、軍人分會等救護上の効績顯著なるものに對しては大橋郡長の名を以て、それぞれ感謝状を贈つて、その奉仕的行爲を拝謝した。次に感謝状の一例を示す。
    感謝状
前古未曾有の震災に當り本郡の被害は實に其極に達し土地の隆起陥没相次ぎ家屋の倒潰せるもの算なく死傷者累々たるも之を處置するに途なく災民饑を訴ふるも給するに食なく傷者苦痛に泣くも医藥給する能はずして惨状見るに忍びざるものありき加ふるに流言蛮語盛に傳はり人心の動揺底止する所を知らざるの時團員克く協力一致自己の被害を顧みずして或は死傷者の運搬に或は倒潰家屋の取片付に或は慰問品食料品衛生材料等の荷上げ配給に其他交通障害物排除又は傳令に從事せる等其の熱烈にして敏速なる奉仕的活動は洵に克く青年團(軍人分會)の精神を顯著に發揮せるものにして、本郡に於ける災後整理並に救護事業遂行上貢献せる所尠からず茲に謹んで感謝の意を表す。
  大正十三年一月二十六日
         千葉縣安房郡長正六位勲六等 大橋高四郎
 青年團、軍人分會の活動振りは、文中によく表現されてゐる。敢て附加修飾を要しない。當時諸團體の活動は實に郡民の総てが感謝するところである。
 次に東京方面よりの避難民救護團體に對して本縣知事より左の指令があつた
               安房郡聯合青年團
 其團震災に當り東京方面よりの罹災民を救護したるにより金四百五十六圓を支給す。
   大正十三年三月一日
        千葉縣知事 齋藤守圀
 斯くて聯合青年團長は、現金受領の日、即ち四月九日を以て、關係町村青年團長に此の指令と共に現金交付の手続を爲したが、關係青年團にては、關係青年團即ち保田町青年團は、地理上の關係からして、東京方面よりの罹災民を救護したので、他の被害激甚地方の青年團も、自町村相互救助に、被害の輕微なる町村の青年團も、亦た他町村罹災民の救護に、均しく多大の費用と労力を費してゐるのであるから東京方面からの避難民を救護した町村の青年團のみが、此の恩典に浴するは他の青年團に對して情誼に適するものでない。といふ理由の下に、支給金は全部聯合青年團の経費に充當されたしとの寄附申込みをしたので、聯合青年團は、その意を容れて之を受納するに決した。東京方面よりの避難民救護團體は、左の八團體である
  保田町青年團  和田町青年團  江見村青年團
  太海村青年團  鴨川町青年團  東條村青年團
  天津村青年團  湊村青年團
 要するに青年團、今次の活動は「身にあまる重荷なりとも國の爲め人のためにはいとはざらなむ」と仰せられた明治大帝の思召にかなふものであらう。青年團本來の意義は、大震災に會つてより一層發揮された。

第五章 恩賜金其の他

 我が至仁至慈なる
 天皇陛下には、今回震災の被害極めて惨烈なるを深く御軫念あらせられ九月三日、御内帑金一千萬圓を下し賜ひ、その中より安房郡へも、千葉縣を経由して、左記の有りがたき御下賜があった。
 一金拾貳萬六千六百九拾貳圓也
 我等罹災者は、陛下の此の有りがたき御思召を拝して恐擢感激措くところを知らないのである。
 又今回の大震災に際し、千葉縣罹災救助基金から、安房郡へ配附された大正十二年度決算の金額を擧ぐれば、左記の通りである。
  一金四十一萬八千九百二十八圓七十九銭
 次に震災に當り、安房郡役所が、直接受入れたる寄附金の内容は左記の通りである。茲に特書して、各方面の厚意を感謝する。
(1)縣復興會が寄附金募集の上、安房郡に配當され各町村に交付した金額は、大正十四年七月までに
 一金四十六萬三千百七十八圓也
 又上記縣復興會寄附金中へ本郡内より寄附した人名と金額は左の通りである。
 一金五千七百四十八圓四十銭     安房郡應募総額
  内譯
金五千四百二十圓 東條村    金壹百圓 鈴本常次郎
金参千圓 鳥海幸太郎      金壹千圓 橋本平二
金壹百圓 亀田俊正       金貮拾八圓四拾銭 丸村
金壹百圓 鳥海完        金二十八圓四十銭 村内十一名
外二百二十三人(百圓以下略)  金貮百圓 千倉町
金壹百圓 大山村        金二百圓 石井作平
金一百圓 大山一圓
(2)全國町村長よりの寄附金は
 一金一千二百圓也
(3)大阪朝日新聞社、大阪毎日新聞社聯合寄附金は
 一金六萬九千一百二十圓五十三銭
(4)又銀行、學校、青年團、婦人會及び各個人よりの寄附金は左の通りである。
一金二千圓   郡内北條町   株式會社 安房銀行
一金二千圓   郡内北條町   株式會社 房州銀行
一金一千圓   郡内北條町   同    古川銀行
一金七百圓   郡内北條町   同    九十八銀行北條支店
一金三百圓   郡内七浦村   合名會社 山口銀行
一金二千九百圓   郡内吉尾村   永井博
一金二千圓     安房郡豊房村  小原金治
一金一千圓     郡内北條町   萬里小路通房
一金五百圓     郡内大山村   高梨吉太郎外九名
一金三百圓     郡内大山村   竹澤太一
一金四十圓五十一銭 郡内天津町   天津小學校職員生徒
一金三十圓     郡内曾呂村   曾呂小學校職員生徒
一金二十圓     郡内佐久間村  改進社青年會
一金十圓七十五鏡  郡内天津町   天津小學校
一金二十圓     印旛郡遠山村三里塚 大正婦人會
一金二十圓     香取郡小見川町 山口材木店
一金二十圓     長生郡鶴枝村  猿袋青年團
一金十圓      印旛郡八街町  高橋友吉
一金七圓七十銭   同郡宗像村   宗像青年團
(5)學校關係の寄附金にして、特に郡内小學校、又は罹災職員及び児童へ寄贈されたものは
 一金一千三百三十圓(郡内各小學校へ)  東京震災同情會長
 一金九千一百十七圓(罹災職員生徒へ縣下各學校より) 千葉縣教育會

第六章 御下賜品及び慰問品           附 受領及び配給

 今回の災害は、各宮家にも尠なからず、御損害あらせられたるにも拘らず、各宮家には、罹災傷病者に對して、御救恤の御思召を以て、特に衣類を御下賜あらせられた十月二十日縣を経由して、水産講習所に収容中の本郡傷病者に對して、衣類三十七点を賜つた。郡當局は、詳細なる調査を遂げ、深甚なる御思召の存するところを示達して、その日救護所収容中の男三人、女七人及び既に救護所を退きたる男十二人女十五人に對して各一点づつ御下賜品を交付した。罹災者は齊しく感泣して、之れを拝受した。
 御下賜品はひとり衣類のみではない。罹災者の爲めに建築用材をも下し賜つた。その石數は、松、杉を合して實に三千五百十一石であつた。罹災者は唯だ唯だ感泣するばかりである。
 又町村公共建物復旧材料として、縣が直接に安房郡各罹災町村へ配付した建築用材は、その石數實に七千六百八十四石である。

 逸早く慰問袋三百袋を寄せられたのは、山武郡千代田村青年分團、同村處女會であつた。それは九月九日午後六時である。それから數回、縣下篤志家の寄贈にかゝる衣類を受領した。九月廿二日、騙逐艦「樅」は愛媛縣よりの慰問品を搭載して館山港に入港した。同二十五日、陸軍省より食料品パンの寄贈があつた。同二十七日、慰問品及び白米を大阪市より北京丸にて送致された。爾來各地から續々慰問品を寄贈された。
 各地からの慰問品は、陸上交通が杜絶したので、海運によつて、館山港に途致されたので郡當局は舘山海岸の水産學校、桟橋會社、安房造船所、綾部倉庫を慰問品一時保管所に充て陸續として到來する寄贈品を此處で受附けたが、(「トタン」其他の斡旋品も勿論共に取扱つた)四棟の保管所には、何時も充溢してゐたのであつたが、郡當局は、慰問品係を專任し、「現場」と「配給」の兩主任に分擔して、陸揚収検、保管、配給等一糸乱れす整然として、寄贈者の厚意に背かざることを得たのは、此の戦乱にも均しい惨害の街にあつて一の仕合せであつた。
 縣の内外、(遠くは外國)より致された、慰問品総数は、實に一萬一千三百四十四個を算した。その内慰問袋二千五百四十七箇、蒲團百四十六箇、毛布八百八十二箇、衣類一千四百三十五箇、食料品四千七百二十二箇、薬品及び衛生材料二百二十九箇、學校用品二百二箇、雑品一千百八十一箇は何れも罹災者當面の必需品である。若し之を貨幣に換算せば、その価額實に巨額のものであらう。然し、篤志家の同情は世界の何物を以てもしても、到底數ふることを得ざるより高貴なものである。

 寄贈の藥品、衛生材料の處分方法に就ては、那當局の深き考慮を費したところであつた。即ち那内の医師の多部分が家屋の倒潰の爲めに、藥品、衛生材料に欠乏を來したことは言ふ迄もないが、震災の稍や輕微な地方の医師も、一時に多數の治療の爲めに、遽かに欠乏を來たし、加ふるに交通機關の杜絶の爲めに、之を他より買入るゝの途もなく、各医師は藥品、衛生材料のなき爲めに、十分その能力を發揮することを得ざるの状態であつたので、之を医師一般に無償で譲與して、十分に医療能力を發揮せしめんものとしたが、斯くするときは、一般罹災者に對して権衡を得ざることゝもなり、又寄贈者の精神にも戻るの恐れがある。さればといつて、現品をその儘で一般罹災者に配給するも、受贈者はその藥品の利用を十分に達することが出來得やうとも思はれない。然らば之を無償で各医師に譲與して、施療券を發行すれば、計画だけは、間然するところなきやうであるが、實際の結果は果して、此の計画と一致するかどうか深く考察せねばならない。斯うした考慮の結果、遂に藥品衛生材料は断然有償譲渡をして、その代金を一般罹災者の救助に充つることに決した。偶々十月七日安房郡医師會長から、之れが拂下の出願があつたので、價額について、十分調査の上、十一月六日、現品全部を同医師會に拂下げた。その條件の重もなるものは斯うである。
(一)十一月六日現品授與と同時に代金を納入すること(二)後日に至つて危険負擔の責に任せざること(三)拂下げたる藥品衛生材料は郡内各医師には何人を問はす實費を以て拂下ぐること。

 時に或は重複のきらひなきにあらざるも、慰問品の寄贈者と、其の品目等を各府縣別に掲げて、各府縣に於ける篤志者の厚意を謹謝する。
千葉縣の部
 山武郡千代田青年分團及同所處女會            慰問袋   三〇〇袋
 縣内篤志者                       同     四梱
 香取郡                         同     二一梱
 縣内篤志者                       同     二箱
 東葛飾郡野田町分會、野田醤油株式會社分會、野田町青年團 同     三三箱
 安房郡平群村                      同     一箱
 山武郡顯本法華宗救援隊                 同     五箱
 長生郡本納町婦人會                   同     二箱
 縣内驚志者                       同     一六梱
 山武郡                         同     一箱
 縣内篤志者                       衣類    五六梱
 縣内篤志者                       同     六〇梱
 海上郡元銚子小學校青年團處女會婦人會          同     三二梱
 縣内篤志者                       同     一六九梱
 安房郡佐久間小學校 松田せい              同     一包
 縣内篤志者                       同     一九二梱
 安房郡平群村                      同     三梱
 同郡天津町                       慰問袋   六八〇袋
 安房郡吉尾村 中島とき                 同     一包
 縣内篤志者                       同     一五〇梱
 香取郡篤志者                      同     三個
 夷隅郡古澤村                      白米    三〇叺
 匝瑳郡野田村野手前古屋青年團              同     一俵
 香取郡                         同     二一梱
 印幡郡 黒川かつ                    同     二俵
 香取郡                         玄米    三俵
 香取郡                         味噌    八樽
 匝瑳郡野田村野手前古屋青年團              同     二樽
 縣内篤志者                       醤油    一〇樽
 香取郡                         漬物    三樽
 香取郡                         梅干    五樽
 香取郡                         澤庵漬   四樽
 香取郡                         甘藷    二俵
 香取郡                         里芋    一〇俵
 印幡郡 黒川かつ                    塩     一俵
 長生郡茂原町                      蔬菜    三〇俵
 安房郡平群村                      鶏卵    三箱
 長生郡東郷村                      南瓜    五俵
 縣内篤志者                       パン    一七四箱
 山武郡大平校                      下駄    二梱
 香取郡                         雑品    一箱
 長生郡茂原町                      下駄    一包
 安房郡東條小學校                    學用品   一包
 縣内篤志者                       バケツ   一包
 縣内篤志者                       日用品   一箱
 印幡郡佐倉町川村彦三、吉田藤四郎            反物    一包
 東京灣納涼博覧會主催者                 布切    一包
 山武郡東金小學校長                   教科書   七箱
 東葛飾郡篤志者                     藁ブトン  一〇梱
 干葉市加藤病院長                    幼児用帽子 一箱
 干葉女子技藝學校                    柱掛鏡   一〇面
大阪府歌山縣の部
 大阪市                         慰問袋   五六九梱
 太阪市                         同     三〇二梱
 大阪市婦人聯合會                    同     二箱
 大阪府、和歌山縣                    同     九〇五個
 大阪府不動寺及關東聯合婦人會              蒲團    一六梱
 大阪市婦人聯合曾                    同     一〇梱
 大阪府不動寺及關東婦人聯合會              毛布    二梱
 大阪府青堀方面委員部                  同     四梱
 大阪市婦人聯合會                    衣類    三二箱
 大阪府、和歌山縣                    同     三七三梱
 大阪市                         白米    二九一俵
 大阪市、和歌山縣                    梅干    二、九九樽
 大阪府、和歌山縣                    漬物    三八四樽
 大防府、和歌山縣                    サイダー  二八七樽
 大阪府、和歌山縣                    メリケン粉 四箱
 大阪市                         釘     三樽
 大阪市婦人聯合會                    下駄    三四包
 大阪府、和歌山縣                    薬品及衛生材料 二〇個
 大阪府、和歌山縣                    同     一七個
 大阪毎日、朝日兩新聞社                 切手帖   一包
 同                           衣類    四〇梱
兵庫縣の部
 兵庫縣                         慰問袋   三一個
 同                           蒲團    一〇〇梱
 同                           毛布    一九梱
 同                           衣類    二八箱
 兵庫縣                         同     一三四個
 同                           缶詰    二箱
 同                           昆布    一箱
 同                           木炭    一〇〇俵
 同                           縄     一一一束
 同                           陶器    四箱
 同                           靴     一六箱
 同                           下駄    一三箱
 同                           紙類    二七箱
 同                           枕     五箱
 同                           足袋    四箱
 同                           茶     一俵
 同                           洋刀    一箱
 同                           目薬    一箱
 同                           草履    五包
 兵庫縣                         ヘプリン丸 一箱
 同                           傘     一一箱
 同                           歯磨    二箱
 同                           雑品    一一個
愛媛縣の部
 愛媛縣                         慰問袋   一〇五梱
 同                           衣類    一〇二梱
 同                           白米    五俵
 同                           玄米    八俵
 同                           麥     九俵
 同                           醤油    一〇樽
 同                           梅干    一五樽
 同                           澤庵漬   二四樽
 同                           黍粉    三箱
 同                           煮干魚   三箱
 愛媛縣                         梨     五箱
 同                           干うどん  二箱
 同                           麥粉    五箱
 同                           日用品   一八箱
 同                           陶器    四包
 同                           雑品    一箱
 東京府の部
 救世軍                         蒲團    二〇梱
 基督教青年會                      毛布    七梱
 大震災善後會及南葛飾郡驚志者              衣類    二三個
 東京青山學院                      同     二個
 震災同情會                       同     五一梱
 基督教産業青年會                    同     二二箱
 鐡道省                         白米    九〇俵
 陸軍省                         パン    二〇〇箱
 文部省                         學用品   一〇四個
 文部省及大阪市                     小學校教具 六五個
 帝國教育會                       學用品   四個
 文部省                         教具    一五個
 震災救濟全國學生聯盟                  教具    六個
臨時震災救護事務局経由
 慰問袋     一七九梱             毛布(外国寄贈) 八五〇梱
 陶器      二九二包             鐵器       三五七包
 傘       二九箱              下駄       九九梱
 雑品      二箱
佐賀縣の部
 佐賀市赤十字愛國婦人會支部               慰問袋   四〇箱
 佐賀市                         同     九梱
 佐賀市                         漬物    八箱
埼玉縣の部
 熊谷町青年團                      手拭    一個
富山縣の部
 富山市石瀬総盛堂                    薬品    一包

第七章 震災死者の追悼會

 震災の爲め悲惨なる最後を遂げたるもの、北條町だけにても二百余人に達したが、之れが弔祭の途は、急速に行はれなかつた。郡當局は、北條町日蓮宗法性寺住職西尾師と北條町と相謀り九月十二(大正十二年)法性寺に於て、日宗僧侶十八名を招き、死者の爲に大法會を催ほした。會する者は、遺族、町名誉職等多數であつた。その夜、遺族及び罹災民の爲めに同町青年團主催の下に、活動爲眞の映画を北條小學校の校庭に公開した。來観者約五千余人であつた。
 十月一日、天津町の清澄寺住職、北條町全台寺住職が幹部となつて、安房郡各宗寺院聯合、北條小學校に於て、安房郡震災死亡者千余人の爲めに大追悼會を開催した郡内各町村長、遺族、北條町名誉職、同町小學校職員、生徒等無慮千余人の参列があつた。
 又十月二十二日、千葉郡眞言宗豊山派千葉第一號宗務支所員數名、内各町村に行脚弔問をされた。

第八章 震後の感想

 大震災に就ての感想!それは廣く郡内各方面の人々から集めて、大震災の記念とも、又後日の心得ともいたしたい計画であつたが、震後多事の折柄で、何分計画の如く集らなかつた。甚だ遺憾であるが、命は唯だその一端を掲げる。記事の順序不同は、あらかじめ諒恕を冀ふ。

 郡長大橋高四郎氏が、今回の大震災に當て、痛感した事柄は、迚ても一々特記するに逞あらずであるが、今その二三を掲げる。氏はいふ、此の大震災に就て、自分が身を以て體験したところを一言にして掩ふならば、唯だ、「感謝」といふ言葉が一番當つてゐるやうに思ふ。斯うしたありがたい事實を身に體して、血のにじむやうな實感を本當にいひ現はすには、自分の知り得るだけの言葉では、総てに向つて「感謝」するといふ外はない。出來得るならば、その「感謝」といふ言葉も、今少しく深酷な意昧のものとして、用ゐたいのである。それは大震災當時の事實に當てはめて見ると文字通りの「感謝」では、物足らのやうな感じがするのである。それは第一今回の大震災に就て、皇室の有難き御思召を思ふとき、正にさう感ぜずには居られない。次は郡の内外の切なる同情である、それと又郡民と郡吏員の眞面目な、そして何處までも忠實な活動振りである。どちらから考へても、「感謝」であつて、そして「感謝」の内包をもう少しく深めたくなるのである。

 それで、一人一人で考へて見てもよく分かることだが、此の前古未曾有の大震災の中で、大部分の人々が或は死に、或は傷いてゐる中に、「自分は一命を全うしてゐるといふこと自體が、既に「感謝」すべき大なる事實ではないか。」自分は、どうして一命が助かつたか。と、ふりかへつて熟々と自己を省みると、「感謝」の涙は思はず襟を潤ほすのである。實に不思議千萬な事柄である。不思議な生存である。ありがたい仕合せである。
 生命の無事なりしは、何よりの幸福なり。一身を犠牲にして、萬斛の同情を以て罹災者を救護せよと、震災直後、郡役所の假事務所に掲示して救護に當る唯一のモツトーとしたのも此の不思議な生存観から出發した激励の一つであつた。不思議な生存!其處には特別な重大責任を感ぜずにはゐられない。郡長が大震災の初めから、後始末の総てに當つて、決行された総ての大方針は實に、此處に出發してゐる。そして吏員の総てが、永い間の不眠不休の大努力も、亦た此處に根柢してゐたのであつた。

「感謝に就て一挿話がある。震後或る日の未明であった。郡長は何時ものやうに、中學校の裏門通りを郡役所に急いだ。途に一人の老爺が、郡長を見かけて「誰れの仕事が知れませんが、毎晩來てうちの芋畑をすつかり荒して了ひました。どうかなりませんでせうか?」と訴へるのであつた。すると、郡長は「折角の作物を盗まれるのは、洵に氣の毒だが、ぢいさんよく考へてお呉れ。お前はとられる方でとられる物を持つてるのだが、とらなければ、今日此の頃、生きて行けぬ方の身にもなつて御覧なさい、どんなに苦しいか分からない。殊にお前は、世間の多數が死んだり負傷したりした大震災の中に、無事なやうだ。並み大抵の時とは違ふから、辛棒して大目に見てやつて呉れ!」と頼むやうに諭してやつたさうである。郡長の話を傾聴してゐた老爺は、郡長の言下に「あゝ分りました、分りました。どうも濟みませんでした。よろしうございます」と幾たびか低頭して、其處を去つた。老爺は郡長の話を聴いて心から自分の無事を「感謝」するものゝやうであつたといふ。人心が動もすれば悪化せんとしてゐる最中である。老爺をして、裏心から「感謝」の心を持たせるところに無限のひゞきがあらう。

 是れも大橋郡長の談話であるが、郡長は、僅かな時間の余裕を得て、見舞かたく町村を巡視したことがあつた。その時分に熟々と感じさせられたことがある。農村(漁村も同様だ)の堅實!農民の剛健!。それはかうである。ある村にゆくと無論小さなものではあつたが、半永久的なバラツクを造つてゐた。バラツクの職人はと見ると、感心したことには、年の頃四十ばかりの細君が、屋根の上に登つて、藁屋根の下地に細竹をカまかせにかき付けてゐた。その下には、六十余りの老媼がどう見ても病氣などは曾て経験したことのなさそうなかほ色をしで、小さい踏段の上に力強く兩足を下ろして、こまいをかいてゐた。傍らを見ると十三四位と覚ほしき小娘が、下の方から、そのこまい竹を一手々々に老媼に取次いて、老媼の作事の助けをしてゐた。此の一家三婦人の働きぶりを面の當り見せ付けられた郡長は「おゝ農村の本當の強味は此處だ!」と思はす三嘆するを禁じ得なかつたといふ
 そこで、郡長は、小娘に向つて、主人はどうしたかと聞くと、「父は隣家の手傳に行きました」といつた。そこで、郡長は、一寸隣の屋敷に行つて見た。すると、四五人の男達が地震で潰れた家の柱や、梁などを取り片付けて、其處に矢張り半永久的な小屋を建てるのであつた。何といふ美風であらう。隣保互助の光景が、文字通り如實に實現されてゐる。期うして男女老幼が骨身を惜まず勢一杯に働くところに、清い農村の生活味がある。今度の大震災後の農村のバラツクは、大抵斯んな風にして、職人入らずに出來上かつたものが多い。

 是れも亦た郡長の談話だが、日柄は確と記憶しないが、震災直後のことである。
郡吏員は、誰れが申合せたといふのではないが、吏員殆んど全體が「後ろ鉢巻」をして仕事をした。シヤツとズボン下一枚が、恰も制服ででもあるかの如く、それで公にも私にも飛び廻つて活動したのである。「後ろ鉢巻」の起つたのは、蓋し汗を拭く爲めの手拭のやり場が、衝天の意氣と相合して、偶然にも、それが「後ろ鉢巻」といふ武装的なものになつたのであつたらうと思はれる。後で考へると可なり可笑な話であるが、その殺氣だつてゐた頃は、それが唯だ威勢がよいやうな風に見えたのである。郡吏員ばかりではない。服制のやかましい警察署長でさへも、上着だけで仕事をした、ヅボンを着けるやうになつたのは、余ほど程経て後のことであつた。昼のうちは勿論、夜半になっても、郡役所の假事務所の中央の薄暗いところに、棒立になつて顔の見さかへも付かのまでに、汗とほこりにまみれて、白服の黒ろずんだのを着て、丁度叱るやうな、罵るやうな大聲を擧げて、一瞬の体息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。「あれは誰れだらう。」と一般の通行人には可なりの問題となつてゐたのであつたが、聞いて見ると、あれは大橋郡長であつたのだ。といふ噂が、其處にも此處にも擴がつたさうである。郡長の着てゐた白服も確か鼠色以上になつてゐたものと見える。総じて此の頃は、洗濯の自由もなければ、着換のあられやうもなかつたので、震後の「後日談」となるやうな種類のものが澤山あつた。併し、一面には是れが又、當時の惨たる實況を想起する貴い資料の一つでもある。

 安房郡復興會副會長川名博夫氏に就て、今回の震災に就ての感想はどんなものであつたかと聞いたら、氏は一方極度の凄惨な實験と、他方バラツク生活の呑氣の兩極端な實験であつたといつた。震後暫くの間は、食ふことゝ寝ることの他に何一つ爲すことが出來なかつた、丸で動物的な生活であつたので、複雑な生活から急轉した自分は、特にその単調な氣輕るさを感じた。しかし、斯うまで窮境に陥つた—普通の場合を超越した—人心の底に、果して無情荒涼の感じを湛えずに居られるであらうか。自分はそれを心配してゐる。

 門六郎氏は、畏れ多いことだが、御眞影を脊負つて、郡役所から山へ登る途中であつた、烈しい余震に出會しだが、御眞影を捧持してゐるから、倒れても生命だけは、きつと助かる。一人ではない、御眞影と共にあるのだからと思つたら、急に勇氣が百倍して、先刻郡役所の倒潰の際、腰部を打たれた時と丸で別人のやうな氣がした。そして此處が日本人の日本人たる強昧だと感じた。至尊の御眞影と共にある時の強さは、何とも言へない強さである。震災に際して種々な體験を得たものは、決して少なくはあるまいが、御眞影を身に捧持して握つた経験は、恐らくは自分一人ではあるまいかと思ふ。物語るも畏き極みである。果して無事に御眞影は、火も水も來ない山腹の安全地帯に奉遷することが出來た。そして自分の使命を完うすることが出來たことを喜んだ。

 吉井郡書記、能重郡書記は斯ういつてゐる。「あの時若し死んだならば」といふ一語は、私共には総ての困難な場合を切りぬけるモツトーとなつてゐる。震災直後に、大橋郡長が庁員の総てに對して訓示せられた「諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、罹災民の爲めに奮闘せられよ」には何人も感激しないものはなかつた。庁員一同が不眠不休、撓むことなくよく救護の事務を遂行し得たのは、全く此の一語に励まされたものである。殊に庁員が恰も一家族の如くに、渾然融和して、謙遜互譲の精神を一貫してゐるのは、此の震災によつて、相倚り相扶けて來たことが原因の一であらうと思はれる。「あの時若し死んだならば」といふ一語は、今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉である。言葉といふより血を流した體験である。地震が心の肉碑に刻したものである。

 鈴木社會教育主事は、青年團が今次の大震災にあれだけの功績を擧げたその根本指導の任に當つてゐたので、青年團に就ての感想は獨特のものがある。氏は斯ういつてゐる「今度の地震には、青年團の共存共榮の同胞愛を本當に實現することが出來ました。天災も斯うした大天災になると、團體力でなければ迚ても救はれません。その上、文字通りに不眠不休で、献身的にあの大難事に當つたのであるがあの不自由極まる中に團員の誰れ一人として、不平一つ漏したものゝなかつたのは、唯だ々々敬服するのみです。要するに、吾々罹災者は、青年團から精神的にも物質的にも、大なる祉會的債務を負つてゐるのです。それは郡民の永久に忘れてはならない公の債務です。」
 又鈴木氏は「地震で一大家寳を發見した!」といつてゐる。それは、震災で慰問袋の配給に接したから、取り敢ず禮状を差出したことに原因してゐる。すると先方からは、更に同情のこもつた七八尺ばかりもある長い書翰を寄越した。全文悉く同情の結晶である。三分の一ばかり讀むと、此の大天災の中に、一面の識もない遠國の人が、斯うした深切を寄せてくれると思ふと、涙がこぼれて、卒に全文を讀了し得なかつたといふ。然し、どうして此の恩を報じたら好いかと、氏は色々と考究して見た。そこで、「毎年九月一日の正午、家人一同打寄つて、此の書状を讀み、そして一は同情者の厚意を謝し、一は當時を忘れぬことにした。取り敢ず震後第一年の九月から之を實行してゐる」といふ。そして同情の書翰の主は、岡出縣赤磐郡佐伯村杉野石造氏である。

 小谷郡書記は、寄贈品の取扱者として、人心の奥底に流るゝ清き暖かきその同情に感激し、如何にして報恩の眞情を表すべきかに就て、「報恩の途は誠心にある」といつてゐる。そして大橋郡長の震災直後に發せられた「安房郡民に諭く」の精神に深く感激してゐる。殊に諭告文中の「幸に被害を免かれたるものは、自己の無事なるを感謝し萬斛の同情を以て、被害者を援助すべし」との精神を實行するに努められたさうである。そして其處に御詔書に仰せられた聖慮を安じ奉る所以の途があるであらうと信じてゐる。

 野中郡書記は、炊事、食事運搬、外來人の接待等に關する救護事務を分擔してゐたが、此の震災に於て、痛切に感じたことは、斯うであつた。
 一、千金を身にまたふよりも一椀の飯粒が貴い。
 一、餓えたる時は食をえらばない。
 一、腹がへつては戦は出來ぬ。
 敢て格別新しいことではないが、斯うした場合の實験が産んだ歸結であるから其處に尽きぬ響があるのだといつてゐる。實に腹がへつては戦は出來ぬ。人間永遠の眞理であらう。

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表:震災焚出給興調(大正十二年九月一日被害) 安房郡(一)
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表:震災焚出給與調(大正十二年九月一日被害) 安房郡(二)
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表:罹災救助費総計表 安房郡
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表:建築材料配給表

第三編 復興計画と善行美談

第一章 復興計画

 震災と同時に起つた應急救護のことは、前編に記するが如くにして、一段の局を結んだのであるが、之れと同時に又恒久的な施設を欠くことが出來ない。勿論、斯うした種類のものにあつては、國又は縣の施設に待たねばならないことが多きに居るが、それとても郡當局は初に於て之れが計画を充分建てねばならない。そして、地方は又地方だけの復興を着々實現せねばならない。何よりも事實の要求がそれを許さない。例へば學校、公共営造物、道路、橋梁、河川、漁港、舟曳場、耕地、溜池、避病舎、産業復興の準備などのやうな種類のもので、一日もその儘にしておくことの出來ないものが尠なくない。即ち當局は先づ此等復旧の途を建てたのである。
 然し、本書の主たる目的は、惨たる地震の記録と、その之れが救護同情の記録であるのみならず、編纂の資料は震災直後の調査に成るので、文字通りの眞の復興施設は未だ十分その時期に達してゐなかつたのである。だが、官民の合同に成る安房郡復興會は震災直後に於ける単なる計画對策の機關たるに止まらずして、その對策の實行機關ともなつて幾多の活動をしたのである。次章に之れを掲げる。即ちその多種の決議實行の細目は、此の時期に於ける必然の要求が生んだ事實そのものである。そして各町村の復興計画は此處から出發したのである。

第二章 安房郡震災復興會

 震後の復興は官民の双肩にかかる大なる事業である。眼前の應急對策を講ずると共に、亘久の復興を策せねばならない。それには有力なる郡全體を一つにした大團體を起すの必要がある。殊に當時にあつては、縣と安房郡震災地との意思の疎通融合を圖る上に於ても、斯うした官民一致の團體は欠くべからざるの必要があつた。先づ郡長大橋氏は此處に着眼して之れを郡内の重もなる有志に謀つた。すると有志も亦た之を郡長と相謀り、互に議を重ねて、次に掲ぐる「設立趣旨」によつて、先づ九月二十一日にその發起人會を、郡役所の假事務所に開催した。そして假會則十一條を議定した。
     安房郡震災復興會設立趣旨
 今回の震災は千古未曾有の惨事にして、人畜の死傷家屋の倒潰等殆ど算なく、其の被害全郡に洽く交通通信等の機關は杜絶し、郡民生活の基礎をして根本より破壊せられたり。畏くも
 聖上皇后兩陛下は痛く宸襟を悩ませられ嚢には多額の御下賜金の恩命を拝し更らに九月十一日山縣侍從を本郡に御差遣あり詳密に被害の状況を視察せしめられ、且難有御諚を辱うす聖恩の優渥なる寔に感泣の外なし加之内外人の同情は殆ど其の極に達し資を醵するもの幾萬なるを知らず殊に官憲は全力を擧げ之が救濟と復興とに尽力せられ其の活動實に目醒ましきものあるは大に吾人の意を強うするに足るべきものあり雖然非常なる時に際し単に官憲のカにのみ倚頼し拱手傍観するは本郡の爲め甚だ憂慮に堪へざる所なり宜しく此際官民協心戮力以て本郡の復興を圖り將來郡民生活の基礎を培ふは目下焦眉の急務にして亦以て郡民の一大義務たらずんばあらず若し夫れ一時を糊塗し他日噬臍の悔を招き徒に無辜の民をして路傍に泣號せしむることあらんか本郡の不幸之より大なるはなし茲に於てか吾人等損埃の至誠を捧げ安房郡震災復興會を設立し郡民の嚮ふ所を定め官憲の莫大なる援助と郡民諸士の熱烈なる翼賛とを得て其の目的の貫徹をカめ本郡永遠の利益を樹立せんとする所以なり
 此の日の出席者は
   萬里小路通房   檜垣直右   大橋高四郎
   小原金治     古田敬三   長谷川三郎
   川名博夫     島田榮治   笹子藤太
   武津爲世
の諸氏であつた。
 それから九月二十七日、郡長大橋氏は、被害激甚地の町村長を招集して、各町村復興會から代表者一名づつ、安房郡復興會の會員として選定すべき事を議定した。そして、二十九日に安房郡震災復興會の総會を北條税務署内に開會した。出席者は、下記の諸氏であつた。
 (發起人)  萬里小路通房   檜垣直右   大橋高四郎
 小原金治   吉田敬三     島田榮治   川名博夫
 辰野安五郎  明石重平     長谷川三郎  平野由太郎
 笹子藤太   宮崎徳造     武津爲世   満井武彦
 尾澤健一郎  竹澤太一     押元才司
 (町村復興會代表者) 館山町 内田松五郎  神戸村 錦織庄之助
 豊房村 川名房五郎  館野村 小原健夫   九重村 和田孫三郎
 稻都村 杉田戸一   那古町 渡邊富之助  船形町 小澤榮三郎
 富浦村 川名正吉郎  岩井村 鈴木亀太郎  國府村 松本梅吉
 千倉町 岩瀬久治郎  健田村 和田松五郎  千歳村 座間助治郎
 豊田村 加瀬喜三郎  南三原村 鈴木龍蔵
 開會に先て郡長大橋氏は、座長に小原金治氏を推擧せんことを諮つた。満場異議なく之に決した。座長小原氏は、會則を議せんことを提議した。すると満場一致で原案を可決した。會長、副會長その他の役員は郡長大橋氏の推擧に一任するに決し下記の諸氏が就任した。
 會長      小原金治   副會長  川名博夫
 農業部(委員長)笹子藤太 (副委員長)宮崎徳造
    (委員)平野由太郎 (委員)尾澤健一郎
 漁業部(委員長)武津爲世 (副委員長)満井武彦
    (委員)辰野安五郎  (委員)押元才司
 商業部(委員長)吉田敬三 (副委員長)島田榮治
    (委員)明石重平  (委員)長谷川三郎
會長小原金治氏の提議で、満場一致を以て、左の諸氏を顧問に推薦して、その承諾を得た。
顧問(常任)  安房郡長 大橋高四郎
同           萬里小路通房
同           檜垣直右
同           竹澤太一
 斯うした順序で、安房震災復興會は、その目的とする復興の爲めの根本組織が出來上つたのである。そして小原金治、門郡書記、光田鹿太郎の三氏は、先づ住宅用亜鉛板購入に關して、縣に出頭して、知事に交渉するところがあつた。その結果、縣は農工銀行、川崎銀行の兩行から、低利で金十五萬圓を安房銀行に貸出し、安房銀行は同一利率で郡長指揮の團體に之を貸付け、住宅復興の資に供することゝした。次で小原氏は、上記兩銀行の當局と會見して、その貸借を決定したのである。

 次に第一回総會に於て、復興會が、先づその事業の手始めとして、議定した題案は下の十三項であつた。
 一、農具破損の修繕は目下の急務なれば本會に於て職工を傭入れ共同使用の條件にて無代修繕を爲さしむること。
 二、農具破損の爲め新農具の必要上購入の希望者あるときは町村復興會はその種類個數を本會に申出で之が資金借入の便宜を本會に請求すること。
 三、農業倉庫の必要なる町村はその建設すべき場所倉庫一棟の坪數を調査し假倉庫建設を本會に請求すること。
 四、焼失又は流失の漁具にして應急補足の必要上資金を要するときは漁業組合に於て調査し、その資金借入の便宜を本會に申出づること。
 五、漁船出入の港灣にして震災により地層隆起し多少の工事施設の爲め資金必要なるときは該資金借入の便宜を本會に申出づること。
 六、町営貸家建設資金請求の件。
 七、住宅組合に於て建家資金請求の件。
 八、小學校舎建築資金借入の件。
 九、建築材料供給援助に關する件。
 一〇、大工職工供給の件。
 一一、人夫仲介所を北條、船形、千倉の三ケ所に設置する件。
 一二、公課諸税減免請願の件。
 一三、町村教育費特別補助請願の件。
総會に於て、委員を擧げて審議した結果、上記第一項は速行の手配を爲すこと、第二項乃至第五項は町村復興會の調査を俟て實行すること、その他の事項は、便宜當局に陳情して、その目的の達成を期することに決定した。
 十月三日、千葉縣震災復興會設立の通知があつた。會長小原氏會を代表して出席、郡内被害の實況を報告し、その協議會に臨席した。
 同十四日、小原會長は、大橋郡長と共に、白上内務部長の郡内視察に同行して、その善後策に就て陳情するところがあつた。そして翌十五日は、本會委員會を郡役所内に開き、震災復興方針に就き、白上内務部長と意見を交換し結局白上氏より左の言明を得た。即ち
 一、安房郡震災復興會を公認すること。
 二、本會の事務費は懸の交附金を以てすること。
 三、本會の事務所は安房郡役所内の一部を充當すること。
 四、本會は安房郡震災に關する全般の事務を處理すること。
 同二十三日、又総會を北條税務署内に開き、下記の諸項を協議決定した。
 一、小學校児童収容所建築に關する件。
 二、農具倉庫建築に關する件。
 三、農具購入費補助の件。
 四、大工職工傭入に關する件。
 五、小學校建築費借替に關する件。
 六、建築材料に官林を拂下げ廉價を以て罹災者に拂下の件。
 七、共同販賣所建築に關する件。
 八、共同倉庫建築に關する件。
 九、小學校舎附属室建築資金貸付に關する件。
 一〇、水産業復興に關する件。
 一一、児童用机腰掛製作費に關する件。
以上十一項目は、各部會の審議を経て其筋に陳情することに決し、陳情委員を左の三氏に依頼することに決した。
   小原曾長   笹子農業部委員長   武津漁業部委員長
 十二月十九日、小原會長縣の通知により出縣、翌二十日、本縣知事より本會に對し左の命令があつた。
 一、大工職工賃金補給資金として金一萬圓を安房郡復興會に交付す。
 一、豫て募集せる大工職工五十名本日青森市出發明日安房郡に到着の筈に付き適宜配置使用せしむべし。
 一、青森市大工職工一日の賃金三圓五十銭外に賄費として若干支給のこと。
 一、尚ほ五十名至急募集の手配をなし纒り次第發向せしむべし。
越えて二十一日、小原會長は、北條倶樂部に交渉して、大工職工宿泊給與辧當付賄料を一日八十五銭と契約した。そして直ちに之を縣へ報告した。當地方の大工賃金は一日二圓九十銭である。一人一日六十銭を補給するとして、賄料合算一人一日一圓四十五銭の補給金を給することゝした。
 そして翌十三年四月二十五日、縣は大工職工雇入賃金補給額を追加して、金一千五百圓の追加補給をされた。

 斯くて安房復興會が、その第一期復興救濟事業として、震後一箇年以上に亘りて縣に陳情し、縣當局の同情により施設決行した事項を擧ぐれば、實に左の通りである。
 一、共同倉庫建設の件。
 一、農業作業場建築の件。
 一、漁船發着所改修の件。
 一、稚蚕共同飼育場建築の件。
 一、共同農具動力設備の件。
 一、促成栽培助成の件。
 一、共同搾乳所建築の件。
 一、商品共同販賣所建設の件。
 一、水産物共同販賣所建設の件。
 一、小住宅建設の件。
 一、大工職工供給賃金補給の件。
 一、小學校児童収容所資金貸付の件。
 一、小學校舎建築資金貸付の件。
 一、安房公會堂建築の件。
 次で第二期事業として諸税減免の請願を爲すべく、その基本調査に着手し、着々進行中、郡内町村長會議に於て、本會の趣旨と同様なる提議あり、其筋へ請願の手續をなしたので、本會第二期事業たる諸税減免のことは、調査を中止して、之に譲ることゝした。
 そして大正十二年十二月二十二日から、翌十三年四月三十日までの大工職工供給人員を町村別に示せば下の通りである。
 北條町 延四千四百九十四人四分   館山町 延二千六百人五分
 豊房村 延二百三十六人五分     那古町 延一千百二十一人五分
 船形町 延一千百十二人       富浦村 延一千二百六十八人九分
 計延 一萬八百三十三人八分
 安房郡復興會が、その活動に要した収支計算の大綱を茲に摘記して、此の章を終らう。
 受入高 五五、一三四圓  拂出高 五四、六六七圓

 「安房復興會」震災の爲に大小の建物が、悉く破壊されて了つたので、物産陳列場とも、諸集會の會場とも、圖書閲覧室とも、斯うした種類のものゝ爲めに、取り敢ず郡から縣へ二萬圓の寄附をし縣の事業として、縣は之れに更らに四萬圓を加へて、縣営として、北條町に一大會館を建築するに決し、直ちにその工事を起した。

第三章 善行表彰

 今回の震災に際して、特筆大書するに値すべき美談善行は決して尠なくない。中に就き郡長より縣に調査報告したいはゆる功績顯著なるものを茲に掲げる。そして次に各町村の調査報告に係る善行美談中の特殊なものを掲げる。

一、住所氏名年齢
          安房郡北條町北條千六百五十八番地
                      光田鹿太郎
                       明治十三年三月十日生
二、経歴の大要
 一、明治三十六年岡山孤児院事務に從事。
 一、明治三十八年十一月鎌倉小児保育園に招聘。
 一、明治四十一年四月東京育成園に聘せられ同園千葉縣支部事業に從事、大正五年五月同支部獨立して千葉縣育児園となるや其の園主となり今日に至る。
三、功績顯著と認むる事實の概要
 氏は大震以來一身一家の一切を放擲し八方に奔走して寧日なく今日に及ぶ事績の特に顯著なるもの左の如し。
(一)這般の大震は實に千古未曾有の惨事にして罹災者の窮状と恐怖とは到底筆紙に尽し難きものあり此の時に當り北條、館山、那古、船形其の他に亘り實状を精査し人心の機微を探り細大之を報告せらる人心の安定を策するに貢献する所大なり。
(二)災害當初に在りては死傷者救護の特に急なるものあり食品を顧るの遑なかりしを以て被害者は一般に食品に窮す過日瀧田村より多量の炊出寄附あるや氏は各所にふれ廻り且自身食品を背負ひて館山其の他多數罹災者の集合せる場所を巡廻して之れが配給に努む事小なるに似たるも當時の状態重きを負ふて東西に奔走する容易の業にあらず活動特に人目を惹く。
(三)三日余震は尚ほ甚だし此の時に當り震災の現況を撮影し置くは永久の紀念たるのみならず教育上、歴史上、科學上有效の材料たるべき旨を建策し寫眞師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む此の寫眞は御差遣の侍從及び山階宮殿下の御目にかけたるに何れも好材料なりとて御持歸りあらせらる其の他地震學者等多數本郡視察者に於て復製して参考に供せらる。
(四)災後數日にして医藥食品の配給稍や其の緒に就くや次に欠乏を感ずるは小屋掛材料殊に屋根材料なり屋根材料としては此際「トタン」を措て他に適當のものなし氏は大阪に知己あり多少該品の買付を爲し得るの確信ある旨を通じ乃ち小官の依頼をうけ九月十日交通機關は依然破壊状態にして族程困難なるに際し萬難を排し方途を尽して大阪に赴き亜鉛板十萬枚、釘三百樽其の他の買付を爲すと共に大に當地の惨状を説き同情を喚起し幾多慰問品の寄贈を得たり十月更らに第二回の亜鉛購入の爲め下阪し大阪神戸の間に奔走し亜鉛板五萬枚、釘千二百樽購入の任を全うす。
(五)十一月下旬三たび大阪神戸に下り布團、毛布募集の大遊説を試み布團、毛布其の他千余の寄贈を受け家屋の焼失、流失者に分與し寒さと飢に泣く罹災者を救ふの途を講ぜらる。
 以上氏が眞に罹災者を思ふの熱情と犠牲的精神の然らしむるものにして其の功績顯著なりと謂ふべし。

一、住所氏名
             安房郡保田町大帷子三百十一番地
                   重田嘉一
                    明治廿五年十二月一日生
二、経歴の大要
 一、大正六年十二月より大正十二年七月まで保田町役場書記勤務。
 一、大正十二年七月任千葉縣安房郡役所書記、今日に至る。
三、功績顯著と認むべき事實の概要
 這般の大震に當り急を本縣に報告すると共に救護を求むるは最急要の事に属するも交通機關は全く壊滅に歸せるを以て吏員をして徒歩上縣せしむるの外なし依て安藤、佐野兩郡書記を選び急行せしむることゝせしも道路橋梁は破壊せられ余震甚だしきに加ふるに海嘯來の噂あり且闇夜のことゝて果して能く目的を達し得るか否やに大に疑あり爲めに更らに郡書記重田嘉一を選抜して急行せしむ責任観念の強烈にして勇敢なる同郡書記は決死の覺悟を以て十七里余の道程を闇を突いて一休一睡だもせず危険を突破して二日午後一時半本縣に到着具さに惨状を報告することを得たり。更らに同郡書記は上縣の途次瀧田村に立寄り被害民一般に食品の欠乏せるを告げ説きて其の援助を依頼せり二日瀧田村中被害僅少の部落は數度に亘りて炊出を爲し來も食ふに食なき北條、館山の被害民に分與せらる功績顯著なり。

一、住所氏名
             安房郡北條町
                   久我武雄
                    明治卅四年二月廿九日生
二、経歴の大要
 一、大正九年十一月任税務属北條税務所在勤、今日に至る。
三、功績顯著と認むる事實の概要
 大震災に依て稀有の大惨状を現出するや郡は直ちに急を本縣に報じ救援を求めたるも當面の惨状は少時も放擲し置くを許さゞるを以て急に手近に應援を求むるの要あり郡内平群、大山、吉尾等山間部は被害少なく求援に便なるを想像するも郡吏員は既に救護の爲め八方に奔走し使者として適任者なく使丁、學校職員其の他に人を求むるも遂に應諾するものなく大に苦心の折柄偶々同氏のあるあり交渉中激震あり人々色を失ふの際氏は快諾一番闇夜悪路を冒し約十三里の道程を突破して、平群、大山、吉尾等各町村に到り、青年團、在郷軍人分會、消防組の出動を請ひたるに何れも即夜動員を行ひ二日未明二百余臺の來援を得て死傷者の収容、救急藥品の蒐集、食糧の配給等に努力せらる尚ほ之を端緒として引つゞき各町村青年團、在郷軍人分會等の活動を見る功績顯著なり。

         安房郡北條町長須賀三九九番地
                 秋山清吉
                  明治十三年八月十四日生
     功績の概要
 九月一日震災以來現今に至る百有余日間一身一家を顧みず日々役場に出勤し町吏員を應援し罹災救助事務に從事し又學務委員として小學校倒潰校舎の取片付作業の監督の任に膺り又町當局及校長と協力し小學校の復興に努め應急バラツク校舎建築工事の進行を急速ならしめ十一月中野天教授を廃し児童を校舎に収容し得たる等氏の努力に依るもの多し功績顯著なり。

         安房郡北條町北條千八十九番地
                 富藤貫
                  明治廿二年五月五日生
     功績の概要
 過般の震災 際し北條町は被害殊に甚だしく民家は殆んど全滅し死亡者二百三十余名、負傷者千百余名を出し惨状を極む此の時に當り氏は献身的に多數負傷者の治療に從事數日間は全く不眠不休にして其活動目醒ましきものあり爾來引續き奮闘すること月余に及び功績顯著なり。

         安房郡北條町北條千七百六十五番地
               諸隈清三郎
                明治八年一月二十日生
     功績の概要
 這般の震災に際しては多數負傷者の治療に從事引續き献身的活動を爲すこと二旬余功績顯著なり。

         安房郡船形町川名六五一
               澤口常太郎
                明治三十六年生
     功績の概要
 大震災による惨状を見るや直に鋸錠を持ちて勇敢なる活動を爲し倒潰家屋に圧せられたる同所高尾善二郎外十三名を救助す功績顯著なり。

         安房郡勝山町加知山三一九
               澤太一
                明治廿年六月廿一日生
     功績の概要
 大正十二年九月一日の激震に際し當町被害甚大にして家屋の倒潰百九十三戸半潰百十八戸、其の他全町多少の被害なきはなく死傷者亦に頗ゐ多し氏は直ちに救護所費総計二千一百八十二圓を要せしも町又は個人に負擔せしめず一切自費を以て多數の傷者を救助し其の功績顯著なり。

 上記の外、尚ほ今次の震災に際し善行者として表彰すべく郡より縣に報告したるものゝ住所氏名を特記してその善行を長へに記念するの資とする。
  消防組長     安房郡長尾村根本一七〇三番地 小谷重太
                    明治十四年一月三日生
   訓導   同郡稻都村御庄二五〇番地 松川 保
             明治卅六年十一月廿八日生
   訓導   同郡同村同所二百五十番地 高橋福松
             明治廿三年三月十日生
   訓導   同郡同村山名千七百七十一番地 樋口源治郎
             明治九年二月十四日生
   勲七等  同郡八束村青木 白藤清治
             明治廿五年九月十八日生
   訓導   同郡八束村尋常高等小學校 石井新治
             明治廿年五月廿五日生
   訓導   同郡同村深谷 羽山武雄
             明治十九年六月廿三日生
   千葉医學専門學校學生 同郡同村同所 明星智臣
             明治卅四年八月十五日生
   穀物検査員 同郡同村福澤 角田久太郎
             明治卅二年五月廿六日生
   元町長  同郡保田町本郷二十八番地 關口二郎
             明治十二年十二月六日生
   豫備海軍一等水兵 同郡天津町 高松慶二郎
             明治二十九年十二月生
   實業   同郡同町元名八二二番地 岩崎圭介
             明治十年四月廿日生
   精米業  同郡南三原村松田 白井忠藏
             明治十二年八月廿六日生
   元村長  同郡同村白渚 栗山庄平
             元治元年正月廿二日生
   商業   同郡同村海發 庄司和三郎
             明治六年四月十日生
   高等小學生徒 同郡同村白渚 柏川よね
             明治四十四年一月八日生
   漁業   同郡和田町和田四七六番地 大溝由松
             明治十三年一月廿日生
   洋服裁縫師 同郡同町同所四二四番地 茅野常吉
             明治十八年五月廿七日生
   精米業  同郡大山村金束五十二番地 相川伊吉
             安政三年五月四日生
   後備陸軍歩兵少尉 同郡天津町天津千七十二番地 神作四郎
             明治廿七年八月廿日生
   千葉縣巡査     同郡保田町本郷七十二番地 圓崎平五郎
                  明治十六年十二月八日生
 同郡那古町  那古町大濱青年團     同郡鴨川町  鴨川町青年團
 同      那古町小原青年團     同郡東條村  東條村青年團
 同郡保田町  保田町青年團       同郡大山村  大山村青年團
 同郡南三原村 南三原村青年團      同郡吉尾村  吉尾村青年團
 同郡帝國在郷軍人會南三原村分會     同郡主基村  主基村青年團
 同郡平群村  平群村青年團       同郡曾呂村  曾呂村青年團
 同郡田原村  田原村青年團       同郡瀧田村  瀧田村青年團
 同郡湊村   湊村青年團        同郡丸村   丸村青年團
 同郡天津村  天津村青年團

 是れから各町村の報告に係る震災美談中の二三を掲げる。
 老看護婦吉田錦子 錦子は北條町南区の人で、大震災の年は五十一歳であつた。震災前から腎臓病をやみて病褥にあつた親も兄弟も子もない全くの一人ものである、親戚はあつても、別に世話などするものもないやうであつた。九月一日も矢張り病床にあつたが、あの大震動で住家は倒潰した。しかし、錦子はすり傷一つ負はず、不思議に其處を逃れて生命を完うした。町では死者、負傷者幾百千といふ騒ぎで医者も殆んど家が潰れて了つたので藥品も繃帯も欠乏して施すに術なき情態であつた。
 すると錦子は「一命を抛つて同胞を救ふは此の時だ」と病躯を提げて、傷病者の救助に當つた。素より家もなければ、食物もなく、僅かに一椀の水に渇を医して、懸命に、傷病者に應急手當をしてやつたので、錦子の屋敷の前は忽ち人山を築くほどであつた。一日二日は、不眠不休で、救急手當に忙殺されて了つたが、病中の錦子は勇氣百倍で到頭二十三日間も、同じ働きに身を献げた。そして、その間に錦子の手に救はれた患者は百五十余名の多きに達した。さうするうちに幾たびか斃れんとしたので、休養を勧めたものもあつたが、「私は三十余年間看護婦で身を立てゝ來たのだから、飽まで天職を尽して終りたい」といつてその働きから休まうとはしなかつた。
 だが、根が病者である錦子は、此の劇忙にさう長くつづくべき譯がない。流石に剛毅な彼れも、九月二十三日から自分が床に就かずではゐられない病勢となつたすると錦子の救助に一命を拾つた百五十余の人々は、恰も親の如くに、その恩に報ぜんとしたのであつたが、彼れは「自分は近く死ぬる身だ、着物一枚と僅かの食糧があれば十分だ。その余の金品は貧民に與へてくれ」といつて同情者から贈られた衣類金品等は、之れを町役場へ届けさせた。彼れの働きは實に一種の奇蹟であつた。土地の人々は、彼れを日本のナイチンゲールといつてゐる。

 仁術の模範 大震災の當日は、誰れも食はず飲まず、着のみ着のまゝで一夜を明かしたのであつたが、此の惨たる有様に人知れず奇特な働きを献げられたものがある。それは上野幹太郎氏(六一)である。氏は北條町長須賀の人、代々医業を以て知られてゐる旧家で資産も相當有してゐる。一日の震災には脚部に負傷をして、三日ばかり身動きも出來なかつた始末であつたが、日が暮れると家人車夫等に命じて、所有の米を羅災者に分配してくれた。而かもその仕方が洵に美しかつた「今晩此處にお米を少々置いて行きますからお上り下さい」と罹災者の門口に米を置いて行くのであつた。そして使は誰れであつたか暗に隠れて行くのである。すると、それを貰った罹災者は、蘇生の思ひで、「今のは神さまではなかつたらうか」と後を伏し拝むのであつた。さうして一夜に三十戸余も施して廻らしたが、誰れのしたことだか分らぬやうにしてゐた。かうした仕方を九月一日の夜から十日の夜までつづけた。そしてその量は八十余石に達したと傳へる。
 氏は災害當日から患者は一切施療で、その後も一年あまりも誰れからも一銭の藥價を徴せずにやつてゐる。氏の父は隆景と稱して、謹嚴な古武士風な人であつた。氏も亦た租先崇敬家で、檀那寺(來福寺)には、何時も多大な寄進をしてゐる。立涙な仁術の模範である。

 館山病院と鈴木病院 兩病院共、建物倒潰の危に逢つたのであるが、傷病者の手當に全力を尽され、寝食を忘れて、仁術の實功を擧げられた。而かも月余の間、治療費一銭もとらずに施療した。
 荘司千代子 千代子は館山町上須賀北下臺の人、縣立安房高等女學校の生徒である。自家の倒潰を顧みず、當時水産講習所に収容中の傷病者の看護に當り寝食を忘れてその熱情を尽された。加之ならず、母と共に町内を戸別的に訪問し救急藥を施與して多くの傷病者を救護した。

 座間助次郎氏 千歳村長である氏は、米の欠乏に村民の窮厄を救ふべく、昼夜兼行で米の買ひつけに狂奔してゐたが、氏の尽力で古川銀行倉庫から三百俵の玄米を融通することが出來たので、直ちに之を村内に配給して、人心を安堵せしめた加之ならず、被害調査の爲めに戸別訪問をして、罹災者の慰問激励に努め六十日の間、炎天下に人夫を指揮して、土工も及ばない勞働をつづけた。此の間、村民の爲めに家を忘れ、身を忘れて、家人に顔を見せたことがなかつた。良村長の名は、震災に會つて更らに一段の色彩を高めた。

 模範区長 出口市助氏は、六十六歳の老人であるが、富浦村豊岡区の区長に推されて、平素区民の爲めに忠實に尽してゐたのであつた。突然たる大震災に自分の家は潰れて了つたが、それには構はず、自分はまだ余震の頻々たる中に区内を戸別的にかけ廻つて、火の用心に努め、又慰問品の配給、道路交通の整理、被害状況の調査等に寝食を忘れてその職責を尽された。そして、区内の倒潰家屋の取片付は出來ても、自分の家の取片付をする余裕がなかった。すると区内の青年團、消防組の人々が、区長の尽力に感じ、一同して、区長の家の倒潰跡の取片付をして区長の深切を謝した。之れを見た出口氏は、自分は区長の職務としてやつたのに、区民が斯うまで心配してくれたことは、望外のことだと只管に感謝した。出口氏に對しては當局は大正十三年一月一日、銀盃一組を贈つてその功勞を表彰した。


安房震災誌 終


大正十五年三月二十八日印刷
大正十五年三月三十一日發行
大正十五年十一月十五日再版印刷
大正十五年十一月廿五日再版發行
     定價 参圓
編纂兼
發行者 千葉縣安房郡役所

印刷者 大島義房
    東京市芝区新櫻田町一九
印刷所 一噌印刷所
    東京市芝区兼房町一五