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序
新潟地震は、過去の地震には、あまりみられなかった特異な地震として各界の注目を集めた。
社会情勢の変化に伴い災害の形態も変化しているが、まさに新潟地震においては、かつての地震では経験しなかった多くの新しい体験と教訓を残したのである。
流砂現象による建物の被害、石油タンク施設の火災等がそれである。
地震における火災については、従来から研究を続け対策をすすめてきたが、このたびの地震で新しい事実を認識させられ、さらに今後の研究と十分な対策をたてることの必要性を痛感した次第である。
消防庁としては、この地震直後いち早く調査班を編成して現地に派遣し、火災を中心にあらゆる角度から調査し、その後研究を行なってきた。その結果、まだ研究すべき点は多々あるが、一応今までにまとまった成果をここに報告することにした。
将来この報告書が、地震対策を検討する上での指標の役目を果たしてくれれば幸いである。
なお、この調査研究に当って、ご尽力くださった調査研究員井関弘太郎並びに研究論文をいただいた早稲田大学井上勇、建築研究所戸川喜久二の各先生方に深く敬意を表するとともに、協力いただいた新潟、山形、秋田の各県の関係者に深く感謝する次第である。
昭和40年3月1日
消防庁長官松村清之
目次
序
第1編 地震の概要…………………………………1
第1 新潟地震の発生状況………………………1
1. 震源地および震度、規模…………………1
2. 津波…………………………………………2
3. 新潟地方の地震の歴史……………………2
4. 新潟地震による被害状況…………………3
第2編 応急対策……………………………………11
第1 消防庁のとった応急措置…………………11
1. 防災連絡室の設置…………………………11
2. 防災非常体制の確立と現地視察…………11
3. 情報連絡および災害状況の把握…………14
4. 化学消防車等の応援要請…………………15
5. 化学消火薬剤等の緊急輸送………………16
第2 新潟震災における公共団体等の応援協力……19
1. 自衛隊等に対する応援要請………………19
2. 県外からの応援状況………………………19
3. 県内からの応援状況………………………25
4. 自衛隊の災害派遣状況……………………27
第3 消防機関等の活動状況…………………………32
1. 新潟県下における活動……………………32
2. 山形県下における活動……………………78
3. 秋田県下における活動……………………79
第3編 現地調査……………………………………81
第1 危険物関係施設の被害概要と問題点……81
1. 新潟市内の危険物施設の被害……………81
2. 昭和石油新潟製油所………………………82
3. 昭和石油原油貯蔵タンクから出火した第1火災概況…86
4. 昭和石油と三菱金属との境界付近より出火した第2火災概況……87
5. 昭和石油新潟製油所の消防設備………………………………………90
6. タンク被災状況分類表…………………………………………………92
7. 亜細亜石油新潟油槽所の被災状況……………………………………117
8. 歴世鉱油本社製油所および山下油槽所の被災状況…………………122
9. 日本石油製油所並びに貯油所の被災状………………………………125
10. 出光興産新潟油槽所の被災状況……………………………………132
11. モービル石油新潟油槽所の被災状況………………………………133
12. 三菱石油新潟油槽所の被災状況……………………………………135
13. 丸善石油新潟油槽所の被災状況……………………………………136
14. 日本瓦斯化学新潟工業所の被災状況………………………………138
15. 新潟市におけるその他の危険物施設の被害状況…………………141
16. 東北電力新潟火力発電所燃料タンクの被災状況…………………142
17. 危険物施設として今後検討されるべき諸点………………………144
第2 昭和石油新潟製油所火災調査……………………………………………153
1. り災前の状況……………………………………………………………153
2. 出火状況および出火原因………………………………………………163
3. 延焼拡大状況……………………………………………………………177
4. 被害状況…………………………………………………………………179
第3 消防用施設の被害状況……………………………………………………181
1. 被害発生地域の特質……………………………………………………181
2.主要市町村の被害状況……………………………………………………182
3.消防用施設の被害状況……………………………………………………188
4.震災時の消防力低下の問題………………………………………………195
第4編 研究論文…………………………………………………………………199
1. 地震と火災…………………早稲田大学教授 井上 勇…………………199
2. 地震時の避難………………建設省建築研究所設計計画研究室長工学博士 戸川喜久二…206
3. 地質学よりみた新潟地震…名古屋大学助教授工学博士 井関弘太郎…213
4. 地震災害対策基図の作製… 〃 井関弘太郎…219
あとがき
第1編 地震の概要
第1 新潟地震の発生状況
1.震源地および震度、規模
新潟地震は、昭和39年6月16日13時01分40秒(震源地)に、日本海の新潟県粟島付近を震源地として発生した。
その地点は、粟島沖北緯38°4分、東緯139°2分で、震源地の深さ40kmである。
震度は、新潟酒田地方が最も強く、強震(震度5)で局部的には烈震(震度6)のところもあった。その他の地域の震度は、図−1に示すような分布を示しているが、北海道帯広から近畿地方豊岡までの範囲に地震を感じている(表−1)。
新潟地震の規模は、7.7M(マグニチュード)で、震央距離(震源から地震を感じた最も遠い距離)は、600kmとなっている。この規模の地震は、日本海沿岸の地震としては1900年以来(地震計観測が開始されて以来)の最大の規模の地震である。
いままでの大規模な地震としては、大正12年9月1日の関東大地震7.9M、昭和8年3月3日の三陸地震8.5M、昭和23年6月28日の福井地震7.3Mをあげることができるが、これらと比べても新潟地震の規模の大きさがうかがえる。
新潟地震のあとの余震は、16日から27日の問に73回にもおよんでいるが、そのうち最大のものは震度3となっている。
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2.津波
震源地に近い岩船瀬波海岸では、地震後7~10分に、新潟では30分後の13時35分に津波が寄せてきたが、その後30分ごとに第12波までおよんだ。一般に静かに押し寄せている。
津波の波高は、震源地から近い上海府が最高390㎝(13時20分)を記録している(図‐2)。
3.新潟地方の地震の歴史
最近においての新潟地方の地震としては,昭和36年2月2日の長岡地震があるていどで、長い間大規模な地震に見舞われることがなかった。しかし古くさかのぼって記録を調べてみると、そうとう地震に関係あることがわかる。
その代表的な地震としては、貞観5年6月17日の越後、越中地方の地震、文亀元年12年10日の越後国府地方の地震、寛文5年12月27日の越後高田地方の地震、宝暦元年4月25日の越後高田地方の地震、文正11年11月12日の越後三条地方の地震、弘化4年3月24日の信濃越後地方の地震などをあげることができる。
こうしてみると「新潟地方は地震とは関係がない」とこの地方の人びとが信じていたということが、大きな誤ちであることがわかる。
もともと新潟地方は、日本海の内側地震帯と陸の信濃川流域地震帯の交さ点に位置しているもので、統計的には地震の可能性は十分考えられる。
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4.新潟地震による被害状況
(1)地震による被害状況のあらまし
地震による被害のあらましは
死者29
負傷者510
住宅被害
全壊3,557(うち全焼160)
半壊12,237(うち半焼7)
被害総額 290,475,562千円
地域的にみると、被害は新潟、山形および秋田地方に拡がっており、とくに新潟市内に集中的に生じている。
(2)新潟地震の被害特徴
新潟地震による被害の特徴は、1)流砂現象による被害 2)低地浸水による被害 3)石油タンク火災による被害においてみることができる。
一般に地震による被害は、地震動による振動的破壊による建築物、構造物の被害が発生し、これに伴う火災か被筈を大にするという傾向であった。これに加えて海岸地域では、津波による被害が発生するものであった。
しかし地潟地震では、地震の震度は5で地震動による振動的破壊は比較的少なく、流砂現象による砂質地盤の地変によって生じた被害が大きなものとなっている。
過去の地震でも、流砂現象による被害は、一部にみられたけれども、こんどのように大きな被害を出したのは初めてである。
一方、地震につきものの大火は、一般家庭については殆ど大事に至らなかったが、石油関係とくに昭和石油の火災による被害が代表的なものとなっている。
新潟地震に伴う火災は、一般家庭からではなく、企業とくに石油関係企業から多く発生していることは注目すべきことである。
(3)一般家庭の火災発生が全くなかった理由
新潟地震の火災における特徴として、一般家庭からの火災発生が全くなかったことをあげること
ができる。
大地震には、ふつう火災はつきもので、過去の関東大地震、福井大地震でも地震そのものによる被害より、火災による被害の方が大きかった。新潟地震でも9ヵ所から発生し、そのうち4ヵ所は直ちに消しとめているが、火元はいずれも工場、商店、学校関係で、一般家庭は1件もなかった。
このように一般家庭から出火しなかった原因としては、つぎのことがあげられる。
ア 家屋の全壊が少なかったこと
地震における出火率は、家屋の倒壊率に比例することは経験的に示されているところであるが、新潟地震では家屋倒壊とくに全壊が非常に少なく、殆どが傾斜したていどに終わっている。
イ 地震発生の時期が一般家庭の火気の取り扱いの少ない時期であったこと
地震における出火率は、火気扱いの時期に関係が深い。時間的には、午後1時過ぎと、昼食準備の炊事時間を過ぎていたことと、季節的には夏期で暖房を必要としないときであったため、一般家庭の火気の取り扱いが少なかった。
ウ 地震による家屋倒壊地域が浸水地域であるため自然消火したこと
新潟市内において、家屋倒壊被害の最も大きかった地域が堤防の決壊のため浸水地域となったため、残された火気、小火等は自然消火される結果となった。
地震による火災発生には、地震発生直後に出火するものと、そうとう時間を経て出火する場合とがあるが、後者の場合が浸水によって防止されたと考えられるのである。
エ 地震後の火災予防が強力に実施されたこと
地震後、ラジオ、テレビを通じて火災防止を訴えたのをはじめ、消防の広報車、警察のパトカーが火気について警告したことと、昭和30年10月に新潟大火を受けているため火災予防に市民の関心が高かったこと等のため、家庭の火気については十分注意が払われた。
オ 北陸ガスが地震と同時に元栓を一斉に締め切ったこと
(4)人的被害の状況(表‐3・4)
ア 人的被害のていどと分布状況
新潟地震による人的被害は、死者28名、重傷72名、軽傷者381名となっているが、被害は新潟が最も大きく、山形、秋田がこれにつぎ、福島、長野、群馬、宮城にもわずかではあるが被害の発生がみられる。
新潟地震の規模が7.7Mである割り合いには、人的被害は少ないのが特徴となっている。
イ 人的被害の少なかった原因
新潟地震の規模はM7.7と、そうとう大きなものであるのに、死者は過去の地震に比較して少ないのが特徴となっている。新潟地震において、死者の少なかった原因としてはつぎのことが考えられる。
i) 地震の発生が昼間であったこと。
ii) 火災発生が少なかったこと。
iii) 建築物の全壊が少なかったこと。
iv) 多数の人がいる建築物(百貨店、映画館)の全壊。火災発生が殆んどなかったこと。
v) 学校、保育所、百貨店等の避難が比較的適切に行なわれたこと。
ウ 人的被害の原因
(ア)死者の原因等(表‐6・7・8)
新潟地震による死者29名の原因別をみると、最も多いのは家屋の下敷きによって圧死(9)したものである。
ついで多いのは、ショック死(7)になっているが、年令的には60歳以上の高年令者が含まれているのが興味ある事実である。
このほかブロック塀の普及に伴って、ブロック塀の下敷きによる死亡、交通事故による死亡等が、従来にみられない特徴となっている。
(イ)負傷者の原因等
負傷の原因としては、家屋、ブロック塀の倒壊、家具の損壊等による頭部、脚部等の骨折、損傷が主なものであるが、窓からの飛び降り、階段からの転落避難中の転倒等、避難行為中の負傷がめだっている。
(5)物的被害
ア 物的被害の状況(表‐9)
新潟地震による物的被害は、新潟地方とくに新潟市内に集中して生じている。
その原因はすでにのべたように軟柔地盤に生じた流砂現象によって、被害がいっそう拡大されたとみることができる。
イ 建物被害
新潟地震における建物被害は、軟柔地盤に生じた流砂現象によって、いっそう拡大されている。とくに一般的に耐震性の鉄筋コンクリートのビルに被害が大きいのは注目すべきことである。
流砂現象(クイックサンド現象)については、福井地震以来問題になっていたが、今回のように大きな問題になったのは初めてである。
流砂現象の発生については、つぎのように説明されている。
新潟の軟柔地盤は主として砂層からなっているが、ふつうの状態ではこの地層にかかる荷重は、砂粒子の支持力と、砂と砂との間隙水圧による支持力によって支えられ均衡を保っている。
しかし、これに衝撃や振動が与えられると、間隙水圧が高まって、その水圧が荷重より大になって、砂粒子にかかる外力がなくなり、均衡を失なって砂粒子はバラバラになって流動化することになる。
このように砂が流動化すると、地震によって生じた地震の割れ目から地下水とともに吹ぎ出し、付近の重い建物は支持力を失なって傾くことになる。
新潟市内の駅前付近では、地震直後に各所で地下水とともに多くの砂を吹き出し、ビルが傾くという状態がみられるが、まさにこの流砂現象による被害の代表的なものである。
ロ 水道関係(表‐10・11・13)
新潟地震における被害のうち特色のあるのは、土地埋没物を中心とする水道関係の被害である。とくに新潟市内の軟柔地盤地域の送配水管は殆んど破損して、長期にわたって給水に支障をきたしたのである。
送配水道管の破損は、継手のゆるみ、継手脱落、亀裂、折損が主な状態である。
山形県では、庄内地域の被害が大きく、送配管等の破損があり、一時的に断水があったが、とくに酒田市では上水道送水管が折損し、飲用水等の確保に支障をきたした。
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第2編 応急対策
第1 消防庁のとった応急措置
1.防災連絡室の設置
新潟地震は比較的災害発生の少ない裏日本一帯に突然襲来した。とくに新潟市を中心に新潟県、山形県、秋田県の各地方に甚大な被害をもたらした。地震発生とともに、被災地の県及び市町村はもちろん、政府の各関係省庁は、直ちに被害状況の実状把握に努め、防災非常体制を確立し、中央防災会議の総合的な調整のもとに、対策が練られ、被災地救援のための応急措置を開始したのである。
まず政府は、災害対策基本法に基づく非常災害対策本部を総理府に設置し、本部体制を確立して直ちに被災県との情報連絡にあたる一方、各省庁が実施する応急対策の総合調整など国としてとるべき措置を迅速に展開した。消防庁では、防災業務計画に基づく、防災連絡室を発足させ、消防的見地から総理府の対策本部と緊密な連絡のもとに、一連の応急措置を行なった。すなわち被災地からの情報収集、現地で実施している消防活動に対する技術的な指導、助言を行なうとともに、係官の派遣、化学消火剤の輸送、化学消防車の応援要請など災害の情勢に対応して、全庁挙げて、迅速、的確な応急対策を実施したのである。
そこで、今度の新潟地震に際し、消防庁が非常災害対策本部の実施部門として、どのような対策を講じ、どのような役割りを演じたか、対策本部の措置とも関連するものもあるが、その概要を次に記述することにする。
2.防災非常体制の確立と現地視察
地震被害が最も激甚とみられた新潟市の被害状況をすぐに把握することは、通信網の不通により不可能であったが、山形、秋田両県については、一部の被害概況を有線電話により、聴取することができた。その内容は山形県鶴岡市において、幼稚園々舎が倒壊し、園児に死傷者がでた模様という情報であった。
この情報は直ちに、中央防災会議事務局に通報した。これによって、事務局では、直ちに(16日午後3時)関係各省庁の連絡会議を招集、今後の対策を協議した。協議内容は、被害状況の把握、非常災害対策本部が設置されるについての本部員の人選、現地調査団の派遣と団員等の編成についてであった。この会議に消防庁から川合次長、魚谷災害係長が出席した。
政府としては、地震災害の事態に鑑み、とりあえず、現地視察調査団を編成、赤沢自治大臣を団長に6名の団員を加え、急拠、新潟市に急行させた。調査団は、16日午後4時50分自衛隊のヘリコプターを利用して出発した。
調査団のメンバーには、当庁から山崎教養課長が同行した。とくに最初の現地視察団でもあるし、そのメンバーを次に紹介する。
団長 自治大臣 赤沢正道
団員 警察庁 金堀警備局参事官
〃 大蔵省 田代主計官
〃 厚生省 牛丸社会局長
〃 建設省 神田技術参事官
〃 消防庁 山崎教養課長
〃 総理府 北川参事官
また政府は、新潟地震に係る災害の応急対策を強力に推進する必要から午後5時すぎ持ち廻り閣議により災害対策基本法に基づいて総理府に新潟地震非常災害対策本部(以下「対策本部」という)を設置した。本部長に河野建設大臣、副本部長には、野田総理府総務長官をあてることを閣議決定した。本部長、副本部長は7月の内閣改造に伴い7月18日の閣議により、小山建設大臣、臼井総理府総務長官がそれぞれあてられた。
※閣議決定要旨
新潟地震非常災害対策本部の設置について(昭和39年6月16日閣議決定)
災害対策基本法(昭和36年法律第223号)第24条の規定に基づき、新潟地震にかかる災害の応急対策を強力に推進するため、下記により臨時に、総理府に新潟地震非常災害対策本都を設置するものとする。
記
1.非常災害対策本部は
(イ)名称 新潟地震非常災害対策本部(以下「本部」という)とする。
(ロ)所管区域 新潟県、山形県及び秋田県の区域とする。
(ハ)設置場所 東京都とする。
(ニ)設置期間 昭和39年6月16日から災害応急対策を推進するため必要と認める期間とする。
2.本部の本部長は、建設大臣河野一郎を充てる。
3.本部の副本部長は、総理府総務長官野田武夫とする。
4.本部の本部員は、関係行政機関の職員のうちから内閣総理大臣が任命する。
5.現地災害対策本部を新潟市におき、所要の部員を駐在させ応急措置の推進に当らせる。
6.本部の庶務は、内閣総理大臣官房審議室で行なう。
対策本部の本部員には18の指定行政機関の参事官、局課長クラスから46名が任命された。
このなかから被害の中心地域である新潟市に設置された「現地災害対策本部」の現地本部長に松村消防庁長官が任命されたのをはじめ、10名の現地本部員が任命された。消防庁では斉藤総務課長、山崎教養課長(現地本部員)が任命された。松村現地本部長はじめ10名の現地本部員は17日午前10時30分ヘリコプターを利用して現地に向け出発した。
現地本部室は新潟県庁内に設けられた。現地対策本部には、とくに当庁から魚谷災害係長が加わった。総理府の対策本部では、特別に本部室が設けられ、災害発生時から数日間は連日定時に本部員会議が開催され、応急対策の実施について協議された。
松村現地本部長は6月23日一旦事務連絡と経過報告のため帰庁したが、またすぐに現地に舞い戻り30日の、現地災害対策本部が閉鎖されるまで被害状況、応急対策状況、現地の要望等を迅速にまとめ東京の対策本部に連絡するなど、現地関係機関の指導及び連絡調整にあたった。
17日早朝には第1次調査団の派遣に引続き小林厚生大臣を団長とする第2次調査団が編成され現地視察に向った。続いて同日午後には、田中大蔵大臣、翌19日には対策本部長である河野建設大臣が現地に飛んだ。
また20日に福田通産大臣が現地に向い、21日には池田内閣総理大臣が新潟市の被害状況と応急措置の状況を視察するため現地に赴いた。
このように中央においては総理府に非常災害対策本部が設置され、また各指定行政機関もそれぞれ実施対策本部を設け災害の状況に応じた被災者の救援、応急復旧など応急対策を迅速かつ的確に実施した。一方、池田総理大臣をはじめ関係各省大臣と要員が現地に向い応急措置の状況、被災者の激励など必要な対策を講ずべく調査及び視察を行なったのである。
消防庁では、総理府の災害対策本部と相呼合して消防庁防災業務計画に基づく防災連絡室をいち早く発足させ防災体制を確立した。
総括的な指揮は、川合次長が長となって行ない、総力を挙げて、被害状況の把握、情報の収集に努めたほか新潟市民に不安を与えた昭和石油タンク施設等の火災を消火するための化学消火薬剤等の緊急輸送、化学消防車の応援要請、石油火災等に対する消火方法、応急措置の指導、助言等…など災害状況の情勢に対処しながら、現地対策本部が閉鎖された30日頃まで昼夜を徹して応急対策を行なったのである。
総理府に設置された対策本部との間の連絡調整及び現地との清報連絡を迅速、かつ的確にするために、本部室に当庁の職員2名ずつを連日交替で駐在させた。
対策本部の特別室には、新潟市の現地対策本部との問に、地震発生の翌日(17日)から連絡用の直通電話が設置された。一般の公衆電話がすべて不通になっていたのでこの直通電話を新潟市との唯一の通信連絡方法として大いに活用したのである。
次に現地に対する職員の応援派遣であるが、松村消防庁長官が現地本部長として現地に赴いたのはともかく、前記のように地震発生当日の午後4時に山崎教養課長が赤沢自治大臣を団長とする第1次調査団に加わり、急拠現地に急行したのをはじめ、翌17日には小林厚生大臣の調査団に伊規須予防課長が加わって現地に赴いた。
また現地において24日まで滞在し、消防活動の指導助言にあたっていた山崎教養課長と交替して斉藤総務課長が24日午前7時東京から現地に出発、30日までその任にあたった。
その他消火薬剤を緊急輸送した車輛に同乗して予防課の矢筈野補佐。中村技官の2名を16日午後7時頃急派した。ほか17日早朝総務課の永瀬補佐、安田事務官が消火薬剤を空輸する自衛隊機に同乗、石油タンク火災と被災地の状況を空から視察した。
ほかに予防課長谷川、高橋両技官を石油火災の実態調査のため19日午後5時から新潟市へ派遣したのである。
3.情報連絡および災害状況の把握
地震発生とともに、気象庁地震課に対し問い合わせ震源地、被災予想地域等について地震状況を聴取、新潟、山形、秋田の3県地方に震度の高い地震が発生した模様との情報を確認した。直ちに新潟、山形、秋田の3県の県庁防災主管課に対し緊急通話(日本電々公社の一般有線電話利用)し、まっ先に被害状況の把握に努めた。しかし新潟市との間が通信施設の故障のため通話不能であったことから相当の被害が発生しているということが想像できた。山形、秋田両県については通話可能であり両県の防災主管課を呼び出したところ管下市町村を通じて被害状況の把握に奔走している最中であった。山形県下では酒田地方に相当の被害が発生している模様であり、これまでわかったところでは鶴岡市において幼稚園々舎が倒壊し、園!
児拾数名がその下敷きになっているという暗いショッキングな情報をまず把握することができた。
この情報は直ちに中央防災会議へ通報した。新潟市については、同方面へ通ずる電信電話一斉が不通であり、苦慮したが、早急に被災状況を把握する必要から取りあえず、防衛庁に依頼、当庁の職員2名を派遣、防衛庁が情報収集するルートを通じ、情報収集にあたることにした。
時間の経過とともに秋田県をはじめ山形県、長野県、福島県などから続々と地震被害の速報が送られてきた。その結果山形、秋田の両県を除いて被害は軽微であることがわかった。
一方新潟地方の被害状況については依然として把握できず防衛庁に詰めている職員から断片的な概要が送られてくる程度の情報により知るほかはなかった。そのなかで石油タンクが爆発し、炎上しているという情報があったが火災の程度もわからず正確で詳細な情報が必要となった。石油タンク施設の爆発程度、火災の規模、他の石油タンクの爆発及び延焼の危険などその実状を把握し、それに伴う必要な応急対策を講ずるための検討資料を得ることが先決であった。そのためにも直接新潟県庁と連絡をとらねばならなかった。その連絡方法には相当な検討を要した。直接の通話が不能であるごとは厳然たる事実であったが新潟県庁の出先機関の事務所を経由して、ようやく正確な被害状況を把握することに成功した。つまり、これが新潟県からの第1報となった。この情報連絡の方法は新潟県庁が県の出先機関との間に行政無線通信施設を備えていることに着目したわけである。まず県の出先機関が所在する高田市、長岡市、新発田市の通話可能の可否を確認した。そこでこれら3市にある県支庁に対し公衆電話により、通話申込みをすることにした。通話可能ということではあったが新潟県内の電話は、地震のため混乱し、ふくそうしているとみえて、しばらく時間を要した。午後4時(地震発生後約3時間)高田市にある県上越支庁と連絡がついた。この時までは、新潟県庁との間に行政無線が働いているということであった。「新潟市に甚大な被害が発生した。」という情報を得た。この情報が当庁にとって新潟県内の県機関から直接得た初めてのものであった。上越支庁にはさらに新潟県庁と連絡を取り、くわしく状況調査のうえ速報するよう依頼した。つづいて次のような第2報を聴取することができた。「昭和石油のタンク施設が炎上中で他の石油タンクも爆発の危険があり付近に水素ガス、民家などもあり、類焼の危険性がある。また市街地が大部分浸水し、一般住民は避難を開始している」というものであった。
この情報が新潟県から出されそして、これまで知り得た情報よりも、最もくわしい正確なものであった。これによって当庁では、消防資機材、化学消防車等の応援要請とか、化学消火薬剤等の緊急輸送などを躊躇することなく実施に移すことができたし、その後の応急対策に役立ったことはいうまでもない。
しかしながらこの上越支庁の情報ルートは新潟県庁内の無線基地局の発電機が他の無線の方に使用され、発信不能になったということであった。そのため上越支庁と県庁間の交信もできず、このルートは第1、2報だけで中断する羽目になった。
それからの当庁と新潟県との情報連絡は、隣接している警察庁の警察電話を借用したり17日から対策本部に特設された新潟市の現地対策本部との直通電話を利用するより他に手段はなかった。このような状況から、情報収集及び連絡等に迅速かつ的確を欠く面が生じたことは否めなかった。このことからも消防庁と都道府県間との防災無線電話の設置が強く切望されるところである。同時に現存の行政無線等を効果的に運用するようあらかじめ検討しておく必要があることも痛感されたのである。
16日午後9時40分になって初めて新潟県の笹川消防防災課長から警察電話を通じて被害状況と応急措置の報告があった。折り返し、当庁の技官から石油火災の消火等について参考的な指導助言を与えたほか、当庁がこれまで講じた消火薬剤等の輸送と他県に対する応援要請の可否などについて情報交換を行なった。以後必要に応じ1日に数回以上情報交換及び指導助言を続けたのである。
4.化学消防車等の応援要請
地震による災害の重大さから、被災した県内の市町村に対して、隣接県等からの応援を要する事態が生ずるかも知れぬという判断のもとに、地震発生後直ちに福島、群馬、栃木、茨城などの隣接の各県に対し、被災県、市から要請があればすぐにも出動できるよう、消防用資機材、消防自動車等について準備体制をとるよう要請した。
新潟市の石油タンク火災についての状況が判明するにしたがい「なお拡大しつつあり付近の民家に延焼の危険がある。早急に住民の不安を解消する必要がある」という緊迫した情勢が伝えられ「石油タンク火災の消火」というのが当面の大きな課題となった。
石油タンク火災という特殊な火災に対処するためには、化学消防車及びそれに伴う機材と化学消火薬剤が必要である。新潟市は化学消防車は1台も所有してなく、石油精製会社に2台あるのみであった。また消火薬剤等にしても在庫は少なく、すぐ品不足をきたすことは明らかであった。
このような新潟市の科学消防の実態から、今回の石油タンク火災に裡処するには、不十分であり困難なことは明白であった。まもなく現地から化学消防車と消火薬剤等の応援要請を依頼してきたことはいうまでもない。
当庁では直ちに現地の情報に基づき協議検討した結果、新潟県に隣接する市町村のうち富山県の高岡市が化学消防車を所有していることがわかり応援出動の要請をすることにした。16日の真夜中ではあったが高岡市消防長に実情を説明し、応援出動を依頼した。高岡市消防署では、出動体制を整え、化学消防車1台と7名の消防職員とで編成のうえ、17日早朝新潟市へ向け出発、18時頃現地に到着したのである。
これと同時に東京消防庁に対しても化学消防車の応援出動を依頼した。東京消防庁では応援の規模、陣容、派遣職員の人選等を検討して、小野寺消防監を応援消防隊長に36名の消防職員と5台の化学消防車が編成され、17日朝出発した。現場には、第1陣が同日21時、第2陣が22時頃に到着した。なお後日20名の交替要員が列車で出発した。応援消防隊の献身的な活動状況は、別項で具体的にふれるので、ここでは省略する。
また、17日10時頃大阪市消防局から「必要なら化学消防車の応援を出したい」という積極的な申し出を受けたが遠距離でもあり往復だけでも相当な時間を要するので、石油タンク火災の情勢の経過をみて、応援を必要とする事態が生ずれば、連絡することにして、それまで待機するようにお願いした。
だが、17日23時過ぎに新潟県の笹川消防防災課長から化学消防車の他県からの応援はこれ以上要しないだろうという連絡があり、大阪市消防局には、要請しないことになった。
なお化学消防車の応援は前記の東京消防庁、高岡市のほかに、石油連盟から、東京都周辺の石油会社の6台を現地に派遣するという連絡があり、まず4台が17日15時から17時の間に現地に向け出発したようである。
次に当庁がとった措置のうち主体となった化学消火薬剤等の緊急輸送について説明する。
5.化学消火薬剤等の緊急輸送
今度の新潟震災の特色の一つに、地震後数日間新潟市民を不安に陥し入れた昭和石油タンクの火災発生がある。このような特殊火災に対しては、特殊な消火薬剤をもって対処せねばならない。新潟市またはその近辺に常時多量の薬剤の在庫があったわけでもなく、当然すぐに不足をきたす結果になることは予測できたのである。当庁では、石油タンクが爆発し、災上しているという報に接するや直ちに、対策を検討、消火薬剤の緊急輸送を行なうことに決定した。切迫した事態ではあるし、緊急を要するので直ちに消火薬剤のメーカーに連絡、16日午後4時頃には東京を出発できるよう輸送の手配を行なった。メーカーの積極的な協力にも拘わらず時間が少し遅れたが第1陣は19時にメーカーのトラック4台に消火薬剤及びノズル粉末消c!
?≪器などを満載埼玉県の飯能市から陸路新潟市へ出発つづいて第2陣として別のメーカーがトラック3台を使用、19時30分に荒川の戸田橋を出発した。
この輸送車輌には予防課矢筈野補佐、中村技官が同乗、現地へ向った。
消火薬剤等は災害緊急輸送物資として、一刻も早く地元消防本部が待つ、現場に送り届ける必要から夜間時ではあったが、途中の沿道の警備を受け持つ東京の警視庁をはじめ、埼玉県、群馬県の各警察本部に対し協力を要請、パトカーの先導を受け、途中道路の損壊のため心配されたが無事翌朝の6時と9時にそれぞれ現場に到着、新潟市の消防本部に引渡された。
さらに新潟からの情報として石油火災はますます拡大し延焼する危険があり、まだ大量の化学消火薬剤が必要だという要請を受け、今度は輸送機かヘリコプターを使用し、空輸することに協議決定、防衛庁を通じ航空自衛隊の協力援助を求めることになった。
航空自衛隊から積極的な協力援助の回答を得たので引続き、消火薬剤メーカーに手配、空輸の準備に取りかかった。当初は17日の午前4時から空輸を開始することになったが夜間飛行の困難性もあり、また準備の都合もあって夜明けをまって東京都下の立川基地から空輸を開始することになった。まず航空自衛隊機4機を使用することになり、それに積載する消火薬剤を所定の時刻までに飛行場に集積させる必要からメーカーの工場から搬送するのに、警視庁のパトカーの誘導を依頼するなど、当庁はしばらくの間この消火薬剤の空輸に忙殺された。
また在日米軍から空輸と消火薬剤の提供についての積極的な協力援助が防衛庁を通じ申し出がなされた。これに立川基地の大型輸送機1機があてられ1番機が17日午前8時に新潟市に向け飛び立った。
航空自衛隊の輸送機による空輸は初めは立川飛行場を使用したが19日から入間基地にかわった。
この消火薬剤等の緊急輸送の詳細については別表に掲載するが第1回の輸送から数量等をまとめると次のとおりである。
第1回は16日メーカーのトラック7台を使用して3%原液の消火剤ドラム60本12,000l、6%液ドラム20本4,000l、3%原液ポリ缶430缶8,600l、ノズル30本、粉消火器(同スペア含めて)400本、消火粉末150缶シークル噴射器1台を上越県境を越えて陸送した。
第2回目は17日6時10分から14時にかけて立川基地から航空自衛隊の輸送機延6機をもって6%原液ポリ缶351缶7,020l、ノズル32本を空輸、また米軍輸送機1機によって15時30分米軍空気泡原液27,000lbが空輸された。
第3回目は18日21時10分から19日1時10分にかけてまず米軍輸送機延3機によって3%原液ポリ缶1,215缶24,300l、6%原液ポリ缶426缶8,520lを立川基地から空輸、航空自衛隊は19日0時8分から5時48分にかけて延7機を使用し、入間基地から3%原液ポリ缶100缶2,000l、6%原液ポリ缶430缶8,600lが空輸された。合わせて、3回目は3%原液26,300l、6%原液17,120l1にある。
第4回目は、19日13時29分から15時15分にかけて、航空自衛隊延9機を使用して、3%原液ポリ缶249缶4,980l、6%原液ポリ缶501缶10,120lを空輸、また米軍輸送機1機によって同日16時3%原液ポリ缶250缶5,000l、6%原液ポリ缶252缶5,040lが空輸された。両方合わせて、3%原液9,980l、6%原液15,160lになる。
これらを総合すると、トラック7台航空自衛隊の輸送機延22機、米軍輸送機延5機をもって、輸送が展開され3%原液、ドラム60本、ポリ缶2,244缶56,880l、6%原液、ドラム20本、ポリ缶、1,960缶43,300l(3%、6%合わせて、100,180l)ノズル62本粉消火器(同スペア)400本、消火粉150缶などの日本のメーカーのものと特別に米軍の空気泡原液27,000lbが提供され、新潟の石油火災を消火するために東京から空輸されたのである。
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第2 新潟震災における公共団体等の応援協力
1.自衛隊等に対する応援要請
地震発生とともに、被災地域の県及び市町村当局では直ちに災害対策本部を設置し、まず被災状況の把握につとめ、被災者への救援活動を開始したのをはじめ、当面緊急を要する応急措置に全力を尽した。とくに新潟市においては、河川堤防の欠壊、急激な地盤沈下等により市街地の約13が浸水、その排水作業と堤防の仮締切り及び昭和石油火災等の消火活動並びに電気、ガス、水道の応急復旧など緊急を要する応急対策が山積し、繁忙を極めた。
この応急措置のため、新潟県及び新潟市当局は全機能を挙げて活動を開始したが、もちろん地元だけで手に負えるものではなく、県内のみならず、隣接の県及び市町村に対し、応援要請を行なう一方、国に対しても自衛隊の出動などを要請した。
また震災ニュースが全国に伝えられるや国をはじめ、県内外の都府県、市町村、各種団体等から続々と救援の手が差しのべられ、新潟市内の応援活動に協力従事した。そこで新潟震災にあたってどんな機関がどのようなかたちで参集し応急措置に応援協力したか、その調査結果をまとめた。
ここでは被害を受けた3県のうちでも、最も激甚な被災地区であって、県内外から多数の応援協力を求めた新潟市の場合について調査結果を掲げることにする。新潟県又は。新潟市からの応援要請、あるいは自発的に応援にかけつけ、応急措置に協力した公共機関及び団体等は各方面から多数にのぼり従事した応急措置の種類も各般にわたった。
ここでは、とくに新潟県内外の応援団体のうち「地方公共団体」に焦点をしぼり、応急措置の種類ごとに掲げることにする。これは、新潟県消防防災課の好意により提供された資料に基づくものである。
なお、自衛隊の応援状兄については、別にまとめたので、それぞれの項中からは除いてある。
2.県外からの応援状況
(1)新潟市に対する応援
ア.給水応援
新潟地震では過去の地震災害と異なり地下埋設物の被害がひどかった。水道管が破裂したため給水不能、それに浸水も加わり使用不能になるなど、給水に対する応急対策はとくに緊急を要した。新潟市の災害対策本部でもいち早く給水活動を開始したが、表−1のように東京都をはじめ大阪、神戸から支援にかけつけた。このうち東京都、横浜市、川崎市、埼玉県は自主的な応援であり、他は災害対策基本法(以下「災対法」という)第67条に基づく応援要請に基づくものである。県外からの給水の応援活動には。9つの機関から給水車21台、トラック44台、タンク車11台計76台、でもって、合計77日間、延656人が協力従事した。
イ.水道施設災害復旧応援
被災した水道施設を早急に復旧させるため、新潟市水道局では東京都、大阪市など7つの都市と、日本水道協会中部支部に対し応援を要請した。その結果水道施設復旧作業のため前記7の都市の職員延1、690人が合わせて82日間従事したのをはじめ、中部支部傘下の22の都市の職員延1,307人が41日間滞在し復旧に従事した(表−2)。
ウ.石油火災の消火応援
昭和石油タンク施設等の火災の消火は、住民の不安を解消するための先決問題であった。新潟県では、事態を重視、東京消防庁及び富山県高岡市に対し、化学消防車の応援を要請した。このことについては、別項の「消防庁のとった応急措置」で具体的に述べているように、東京消防庁から化学消防車5台と75人の消防職員が6月17日午後11時頃現場に到着、18日早朝から21日まで、消火作業等に活躍したのをはじめ、高岡市の化学消防車1台と消防職員7名も17日夜到着、他の消防機関に協力して、18日まで活躍した(表−3)。
エ.住宅建設の応援
公営仮設住宅の設計、技術支援のため、新潟市は、地方自治法第252条17(以下「地方自治法」という)に基づき、直接大阪市、富山市、福井市に対し、建築関係の技術職員の派遣を求めた。
また、建設省に対しても災対法第30条第2項に基づき地方自治法の規定による職員派遣のあっせんを求めた。その結果、長野県、富山県、福井県から4名の応援を受け、合わせて表‐4にあるように6つの県及び市から8名の技術職員が派遣され、応急仮、住宅などの建設に延83人が、従事した。
オ.清掃応援
被災地区のし尿処理等を迅速かつ的確に行なうためには、新潟市内の業者だけでは、到底処理し得ず、新潟市では直接神戸市、尼崎市に対し、応援の要請を行なった。両市からし尿収集車の借上げなど、職員13名を派遣、延96人従事した(表−5)。
カ.パネル橋組立の応援
新潟市では、災対法第29条に基づく職員派遣として、建設省中部地方建設局及び北陸地方建設局に対し、パネル橋の組立並びに、輸送等のため応援派遣を要請した。
両地方建設局では、表−6のように、22名の職員を派遣、延123人が従事した。
キ.都市排水応援
新潟市の旧信濃川の万代橋より下流地区の左右岸および支川の栗之木川、通船川、新栗之木川などの堤防が地震の発生により急激な沈下、あるいは亀裂を生じたため市街地約5。3ヘクタールが浸水、これを排除することが重要問題であった。新潟市は、建設省中部地建沼津工事事務所から10吋渦巻ポンプを6月19日から7月18日まで30日間、同じく関東地建利根川上流工事事務所からバーチカル12吋ポンプと、8吋ポンプほか4台を6月20日から7月18日まで29日間、同地建の木曽川下流工事事務所からポンプSD7台を6月21日から7月20日まで30日間、それぞれ借上げ使用した。これと同時に、新潟県土木部を通じて、建設省下水道課、東京都下水道局、名古屋市水道局に対し応援を要請、(東京、名古屋は自主応援)表−7のように35名の職員が、ポン!
プ15台をもって排水作業に延443人従事した。
ク.下水道災害査定設計調査応援
新潟市では、下水道の災害査定と設計調査業務を緊急に行なうため、大阪市ほか4の都市の下水道部局に対し、地方自治法に基づく職員派遣の応援を求めた。この結果これらの都市から技術職員24名が派遣され、6月24日から7月19日まで26日間滞在し、設計調査業務に延624人が従事した(表−8)。
ケ.災害復旧査定事務応援(道路、橋梁の測量調査設計)
新潟県土木部では、新潟市からの要請によって、地震により、欠壊または埋没した道路、橋梁の災害復旧を急ぐため、愛知県ほか7県に対し。地方自治法に基づく職員派遣を要請した。これらの県から29人の土木関係の技術職員が派遣され、測量、調査等に延712人従事した(表−9)。
コ.下水道復旧実施計画応援
新潟市では直接、地方自治法に基づく職員派遣を東京都下水道局ほか4市に要請した。
その結果、12名の技術職員の派遣があり、下水道復旧のために延1,073人従事した(表−10)。
(2)新潟県に対する応援
ア.医療救護応援
新潟県衛生部では、被災者等の医療救護、避難民の診療を迅速かつ的確に行なうため、東京都衛生局に対し、応援協力を要請した(結果的には自主応援)。東京都では、6月18日技術職員15名が医療器具薬品をもって派遣され、地元の医療班、日赤などに協力し同月20日まで3日間延45日間医療業務に従事した。
イ.防疫応援
伝染病予防法に基づいて、新潟県では厚生省に対し防疫の応援を要請、厚生省では、隣接する群馬県など11の都県に対し、応援協力を指示した。これらの都県では、51人の職員がろ水器、噴霧器、自動車、薬品などを帯同し、飲料水のろ過、浸水地域、避難所などの防疫作業に延274人従事した。このほか神戸市、尼崎市が自主応援のかたちでかけつけ。16名の職員が自動車をもって新潟市の防疫班に協力、延128人が従事した。なお内訳は表−11のとおりである。
ウ.土木関係技術応援(測量、査定業務)
新潟県土木部では地方自治法に基づく職員派遣として、群馬県、埼玉県に対し応援要請を行なった。群馬県は、3名の職員を派遣、7月28日から8月27日まで31日間延93人、埼玉県は4名の職員を派遣、8月1日から9月30日まで61日間、延244人それぞれ土木関係の測量、査定、調査設計などの作業に新潟県の土木職員と協同して従事した。
エ.水防資材の調達輸送
信濃川堤防が欠壊し、市街地が浸水したがこの排除のための仮締切りなどに要する水防資材を調達するために、新潟県では、長野、富山、石川、群馬の各県に調達あっせんを依頼、これらの県はそれぞれ県内の業者に依頼、表−12のように水防資材が緊急輸送された。
オ.農地及び農業用施設の調査、設計応援
農地、農業用施設の災害復旧については、調査、測量、設計と一連の作業を要し、長期にわたるものでもあり、新潟県では、23都府県に対し、地方自治法に基づく職員派遣の要請を行なった。その結果表−13のように36名の技術職員が派遣され1か月間にわたって災害復旧作業に延1、116人従事した。
カ.被災農地の浸水排除協力
新潟県農地部は農地の浸水排除を行なうため、関東農政局、近畿農政局に対し協力を依頼した。関東農政局からは渦巻ポンプ300mm8台を6月17日から8月31日まで76日間、近畿農政局から渦巻ポンプ300mm3台を6月17日から8月20日まで65日間、それぞれ貸与を受け、浸水の排除匠活躍した。
キ.災害応急木材の緊急輸送
新潟県農林部は災害用応急仮設住宅の建設に用する木材を調達するため、林野庁をはじめ、長野、前橋両営林局に木材の緊急調達輸送を要請、車輛71台、延人員556人を動員して、1、380m3の木材が緊急輸送された(表−14)。
ク.改植用稲苗救援
新潟市大形地区の改植のため、埼玉県から7月4日から5日にかけて、稲苗25、300束が緊急調達された。
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3.県内からの応援状況
地震発生直後は、新潟市内は混乱状態が続いた。県及び市の当局においても被害状況の把握等に追われ、当面の応急対策で手一杯であった。近郊の市町村からは多数応援にかけつけ。救援活動に協力従事したが、その全貌を把握することはまず困難であった。そのため事後に関係市町村から報告を求めた結果、新潟市を除く115の市町村のうち66の市町村が応援出動を行なったことを確認した。市町村別の内訳は表−15のとおりであるが、そのなかで防疫応援は新潟県保健所からの応援指示もあってもっとも多く、63の市町村から249日間延643人が資機材を持ち込み防疫活動に従事した。
また消防応援については、応援協定締結に基づいての応援あるいは自主応援によって、新発田市ほか25市町村から71日延524人の市町村職員、消防関係職員が消防ポンプ自動車をもって応援出動し、石油タンク火災等の消火、警戒などに従事した。
その他応急給水の応援のため、新津市ほか11市町村から給水車だけの提供、あるいは、職員が給水車とともにかけつけたものもあり136日間。延810人が給水活動に従事した。
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4.自衛隊の災害派遣状況
地震発生とともに被害の甚大なるに鑑み、新潟県では直ちに陸上、海上、航空各自衛隊に災害派遣を要請し、6月16日より7月9日までの長期問にわたり、新潟市地域(陸上自衛隊の一部は神林村地域)において各部隊の一大救援活動が展開された。
陸上自衛隊は、先遣部隊の新発田部隊が16日から昭和石油新潟製油所に発生した油火災の消火応接、万代橋取付道路の改修補強等の救援にあたり、翌17日より第12師団及び第1師団の主力部隊並びに各配属部隊の到着により、信濃川堤防の仮締切り作業、孤立地帯の救援、防疫及び給水応援、主要幹線道路の応急啓開、補修、鉄道の応急復旧、水道、ガス応急復旧等広範にわたる救援活動が実施された。
海上自衛隊は16日舞鶴地方総監部より駆潜艇及び護衛艦による救援物資の輸送を開始し、続々と各艦艇等による救援物資、応急復旧資材、人員の海上輸送並びに防疫班による防疫、医官による診療等の活動がなされた。
航空自衛隊は、中部航空方面隊、航空救難群等の各部隊の出動によりヘリコプター、輸送機、偵察機をもって物資、人員の空輸、災害偵察及び災害連絡等の救援活動が実施された。
各自衛隊の派遣人員は最高時に8,455人に達し、その救援活動により、民心の安定と応急復旧対策の促進に多大の貢献をした。
派遣各自衛隊は、支援目標の達成とともに6月26日より逐次撤収を始め陸上自衛隊給水部隊を最後に7月9日全部隊の撤収を完了した(表−16、17)。
(1)派遣部隊名、出動人員(出動人員は最大派遣時を記載)等
ア 陸上自衛隊(6月23日18時00分)
イ 海上自衛隊
・部隊名
海上自衛隊幕僚監部
舞鶴地方総監部
第3護衛隊群
第31護衛隊
第10護衛隊
第4駆潜隊
第5駆潜隊
第14揚陸隊
第11掃海隊
高速救命艇隊
護衛艦 4
・人員 1,601名(6月22日現在)
・艦艇数 18隻
・航空機 10機
・車両 6両
ウ 航空自衛隊
・部隊名
中部航空方面隊
航空救難群
入間救難分遣隊、浜松救難教育隊
芦屋〃
小松〃
小牧〃
松島〃
航空保安管制気象団
偵察航空隊
輸送航空団
航空総隊司令部飛行隊
第46警戒群
新潟基地隊
・人員 135名(6月20日現在)
・航空機41機(ヘリコプター H−19……8機宜 H−21…2機 偵察機6機 練習機5機 輸送機20機)
(2)作業成果
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第3 消防機関等の活動状況
1.新潟県下における活動
(1)新潟県災害対策本部の活動状況
新潟県庁においては、地震発生後直ちに緊急部長会議を招集し、地震に伴う被害が異常かつ、激甚な災害の様相を呈し、従来の防災組織によっての事態の収拾は困難であると判断し、災害対策基本法(昭和36年法律第223号)第23条に基づき新潟県災害対策本部(以下「県対策本部」という。)を設置した。
平常時防災行政の各方面にわたる事務を総括し、所掌しているのは県総務部消防防災課であるが、そのため同課においては地震対策本部の所掌事務が具体的に分担されるまでの間必要な対策、指示を行なうこととした。もちろん消防に関する事務も当課の主管であるが、今回の地震のように各方面に及ぶ災害が一時に発生した状況下にあっては、火災消防対策のみについて全力を傾注することは困難であった。
県対策本部の設置により消防防災課の災害対策に関する所掌事務の概要は次のとおりである。
ア 県対策本部の庶務
イ 県対策本部総務部の事務局
ウ 災害救助法適用にかかる事務
工 県対策本部各部との連絡調整
オ 各種情報の収集
カ 外来者、り災者等の応接、苦情処理
キ 災害にかかる広報、安否照会のためのラジオ放送等
ク 緊急車両認定事務及びステッカー交付事務
ケ 関係各機関から差し出した連絡要員等に対する指示連絡
コ 自衛隊災害派遺及びこれらの活動に要する資器材の調達
サ 中央等の視察団の受け入れ準備、案内準備等
シ 中央から派遣の現地災害対策本部に関する事務
ス 市町村消防署、消防団等消防に関する事務連絡
セ その他他部に属しない事項の処理
したがって、消防防災課においては、これらに関する事項を円滑に運営するため関係機関への連絡あるいは指導等のため全員不眠不休の活動に入った。
地震発生後県対策本部においては、事態の確認、情報の収集が緊急であると判断し、関係機関に被害状況等について連絡を行なったが、通信網及び電源の途絶により通信施設により状況を把握することは不能のため急拠消防防災課員を連絡員として新潟気象台に派遣し、さらに情報収集のため無線施設のある新潟市消防本部、中央及び東警察署、北陸地方建設局に派遣した。
16日14時15分津波警報を受理した県対策本部(気象庁では13時30分発令)はこの旨を新潟市に連絡するとともにすでに出動していた県庁及び県警察の広報車を通してその内容を市民に周知させ、また知り得た情報は直ちに県庁正面及び県対策本部前等に掲示し、また県庁正面等からNHK、新潟放送の放送車の協力を得て被害の概況、市民に対する注意事項等を放送し民心の安定に努めた。
一方、警察、消防等の無線情報から最大の被害地は新潟市であると推定されたので対策の重点を新潟市におくこととした。
県対策本部において行なった消防に関する主な連絡及び指導事項は次のとおりである。
ア.新潟市に関する事項
(ア)昭和石油KK等火災対策
危険物担当官を消防本部に派遣、昭和石油火災等に対する消火対策等について打合わせ指導(16日15時)
新津、五泉、小須戸、巻、燕、吉田の各市町村長に対し警察無線にて応援依頼(16日16時30分)
国道7号線から昭和石油火災現場への迂廻進入可能との情報に基づき、中条町長経由で中条町倉敷レーヨンKK化学車の出動を要請。県警パトロールカー先導により現場に到着するよう手配(16日20時)
昭和石油工場責任者の県対策本部へ出頭方ラジオ放送。約5時間を要し出県した関係者10数名とその状況、消火対策、危険防止措置等について協議(16日20時30分)
新潟市消防の消火活動体制の整備と併せ消防無線により隣接市町村消防の応援出動を要請(17日4時)
県庁に立寄った陸送薬剤トラック第1便現地急行を指示(17日7時30分)
新潟市消防本部の要請により県警察無線、一部可能な警察電話を利用して市町村消防ポンプ自動車の応援を要請(17日8時)
空輸薬剤の投下標示等受入準備、自衛隊による現場までの輸送等手配(17日午後)
水素ボンベ移転作業のためトレーラー、レッカー、自衛隊30名の応援出動手配(18日2時30分)
運行途上の消火薬剤輸送車及び石油連盟化学車の急行方案内を沿道の長岡及び三条市消防本部に指示(18日3時30分)
県対策本部到着の石油連盟化学車に対し現地案内、急行方要請(18日9時40分)
消防無線により近接市町村消防隊の増援方要請(18日10時55分)
出県した日本石油、丸善石油等に対し石油基地の漏油状況を聴取。警戒、回収に最善をつくすよう要請(18日午前、午後)
空輸消火薬剤の投下確認のため消防無線を現地急行するよう指示(18日19時)
日本石油沼垂貯油所漏油防止作業のため自衛隊派遣要請及び使用資器材の調達指示(19日18時)
昭和石油火災現場からの要請により延焼漏油の拡大防止のための防油堤築造作業に要する自衛隊の出動要請(19日22時15分)
丸善石油の漏油防止作業資材輸送のため海上自衛隊の支援出動手配(20日)
流出重油の回収、除去のため主として日本石油に対し開蓋ドラムの浸水地域への配置方指示。オイルフェンス、タンクローリー、人力等により回収に全力をつくすよう指示。回収不能分については、拡散、沈澱薬剤の使用を検討するよう要請(19日)
万代島、北埠頭、臨港突堤、ガス化学等の被災タンク約25基の回収、危険状況等確認のため危険物担当官を派遣(20日)
ラジオを通じて火災予防、警戒、重油流出地域、給油所付近の火気規制を放送(適時繰返し)
新潟市消防本部に対し、危険区域のパトロールを行なうよう指示(適時繰返し)
(イ)火災以外の消防活動対策
湛水排除のため市長会申合わせによる各市消防ポンプの応援出動に対する調整、連絡給水のため各市現有の水そう付消防ポンプ自動車等の応援方要請
日赤の要請により各市消防本部所管の救急車(約10台)応援出動に対する調整、連絡消防学校ポンプ自動車を北陸ガスKKガスタンク復旧作業支援のための派遣(約1週間昼夜兼行)
新潟市青山浄水場における給水車への応援のため消防学校小型動力ポンプの貸与(約20日間)
県水産試験場試験施設の排水、清掃のため消防学校小型動力ポンプの貸与(約10日間)
イ.新潟市以外の市町村に関する事項
事後警戒、津波警戒等に遺漏のないようラジオで広報
出動市町村 76市町村
出動消防団員 約7万7千名
地震に伴う危険物施設等の点検について指導
(参考)
行政無線の状況
6月16日13時02分停止
15時23分開局
消防無線の状況
6月16日13時02分停止
13時06分開局
(2)火災発生状況
一般的に大地震には火災はつきもので、過去における関東大地震しかり、福井大地震においてもまたしかり、地震それ自体による被害より、火災による被害の方が大きかった。
新潟市内で地震による火災は9件を数えたが一般家庭からの出火は1件もなかった。しかしながら、近年の化学工業の伸展に伴い、特に新潟市は裏日本の石油工業の中心地であるためコンビナート施設は巨大であり、かつこの施設に起因して火災を惹起しさらに油等危険物が延焼拡大の媒体となって被害を甚大にしたことは特筆すべきことであろう。
新潟県下に発生した火災
ア 新潟市山木戸 市立東新潟中学校
イ 新潟市小金町3番地
三菱金属鉱業KK 第2工場研究室
ウ 新潟市長嶺84番地
永野商事有限会社(キャンデー製造業)
工 新潟市本町通11番地1820
公衆市場 揚げ物業
オ 新潟市柳島町3丁目18番地
藤島製作所
カ 新潟市松島町2丁目
成沢石油KK
キ 新潟市松島町2丁目
日東紡倉庫及びその付近
ク 新潟市沼垂町4914番地
昭和石油KK新潟製油所
ケ 新潟市平和町
昭和石油KK新潟製油所および三菱金属鉱業KK新潟第1工場境界付近
コ 岩船郡朝日村猿沢2664番地
農家
サ 東頸城郡松代町松代3473の6番地
県立松代病院
シ 北蒲原郡豊栄町上多門
店舗
ス 小千谷市川岸町
電柱
(3)新潟県下消防機関の活動状況
ア.消防機関の集合状況
非常災害に対する新潟市消防職員の非常召集については、火災、水防等大規模な災害については電話または呼び出しによって召集されることとなっているが、地震のように突発的な事態については自発的に参集することに計画されていた。新潟地震においては後者の方法がとられ、職員233名(うち日勤者38名)中非番該当者の約100名が地震発生後ほぼ1時間以内に参集した参集場所は地震の特殊性から東消防署及び西消防署の各管内居住者は、それぞれ直近の署に参集しその指揮下に入り、その参集状況は比較的に早く全員が参集した。参集の手段は、交通機関が全面的に途絶した状態であったため、そのほとんどの職員は自転車あるいは徒歩により行なわれた。
イ.危険物施設に対する保安対策状況
新潟市内の危険物施設は、製造所35、屋外タンク貯蔵所760、屋内タンク貯蔵所145、地下タンク貯蔵所48、給油取扱所63等であるが、地震発生と同時にこれら施設のうち昭和石油KK新潟製油所新工場のタンクが炎上し、また日本石油KK新潟製油所のタンクが破損等により大量に漏油した事故等が発生したため、市消防本部においてはこのことを重視し、危険物施設の安全確保のためその実態を調査し、漏油事故に対し万全の対策を講じた。
(ア)日本石油の流出油の事故防止対策
地震と同時に日本石油新潟製油所内のタンク250基のうち、数10基が損傷しさらに防油堤(鉄筋コソクリート造高さ)1mは相当箇所に亀裂あるいは破壊したため約7,000kl(原油1,700kl、揮発油400kl、灯油1,600kl、軽油300kl、重油500kl、潤滑油1,000kl、その他900kl)の油類が構内に流出した。同社責任者は直ちにこれに伴う事故防止のため構内はもとより、付近一帯の住民に対し火気使用の厳禁を警告するとともに、とりあえず従業員により油類の流出を防止するため土のうにより防油堤の応急補修作業を16日13時30分頃開始した。
その後、津波の来襲に伴う浸水により流出油は構内全域に拡大し、最も危険な状態に立ちいたった。同製油所においては、この状況を所轄消防署である東消防署に連絡するとともに流出油の早期回収をはかるため、腕用ポンプ、エアーコンプレッサー等を借り上げ流出油を吸収し、空タンクに回収したが、いかにも広範囲にわたったためその作業は困難を極めた。
消防機関においては、回収作業中における事故防止の徹底を期すべく同日夕刻東消防署から職員を派遣し、危険地域への自動車の乗入れを禁止するとともに付近住民に対し火気使用の禁止を警告した。一方流出油回収のため出動要請を受けた自衛隊は、18日コンプレッサー1台により作業に従事、翌19日さらに3台を増加し回収に総力を挙げた結果25日(自衛隊は23日まで作業)に至り構内流出油の回収を完了し危険状態を脱した。この間消防機関は常時巡回し、19日からは作業員によるパトロール隊を編成させ巡回させるとともに日本石油自衛消防隊の消防車によりエアーフォーム等の撒布を行ない事故防止に万全を期した。一方同社沼垂貯油所の7,000klタンク5基(原油タンク3基、重油タンク2基の)うち1基(重油タンク993kl貯油)の底e!
?¨の水切りパイプが地震と同時に抜けたため重油が流出し防油堤も破損したため重油は付近一帯に拡大し、さらに津波のため護岸欠壊箇所から栗ノ木川、八間堀あるいは東港線山ノ下詰下付近の浸水地帯まで流出した。
県対策本部はこの事態を重視し流出した重油をまず防油堤内に回収することが第1と考慮し、防油堤応急補修作業のため自衛隊の出動を要請した。会社側は18日及び19日の両日にわたり応急復旧作業のための足場をパネルにより建設し、20日午後自衛隊員100名の応援をえてとりあえず土のう造りの作業に従事した。
22日自衛隊員250名を主体とした本格的な防油堤応急補修作業を開始し、24日無事補修完了、その後スチームポンプ10基、ガソリンポンプ3台により流出油を防油堤内に回収し、さらにこれを空タンクに収納しおおむねその回収に成功し危険状態を脱した。この間消防機関においては、この回収作業による事故防止のため所轄東消防署員によるパトロール隊あるいは広報車を出動させ付近一帯に対し事故防止を呼びかけ、その万全を期した。
(イ)給油取扱い所の事故防止
地震発生と同時に新潟市下岡前通1番地新商給油所の地下タンク2基(1基はハイオクタン4kl、軽油6kl。1基はガソリンタンク7kl)。混合器2基が陥没するとともに損傷あるいは転倒し、これにより地下のパイプ部分に亀裂を生じガソリン及び軽油等がしみ出した。同地域は地震のため地下水が噴出し付近一帯湛水したためガソリン3kl、軽油1klが水面に浮遊する状態となった。
会社側は直ちにこの状態を隣接の中央警察署に届出で警戒のため警察官の出動を要請した。
市消防本部は、この事態を同警察署より連絡を受理するや所轄西消防署から広報車及び職員を現場に、さらに消防団2力分団(消防ポンプ自動車2台20名)を派遣させ、会社側とともに付近住民に対し火気使用の厳禁を周知させ、通行人に対しては禁煙の徹底、さらには付近走行中の自動車に対しエンジンスパークからの引火防止のため、エンジンの停止等火災危険防止のため万全の措置を講じた。一方警察側は、下大川通り2ヵ所及び礎町通りに警戒線の縄張りを行ない警戒危険区域内の立入りを禁止した。
会社従業員は、給油所設置の消火器を要所要所に分散配置し、万一に備え、また側溝から流出する油は土のうにより防油堤を築造し流出防止した。
現場付近の湛水は減少するのみか地下からの漏油が続いているため17日15時地下タンク内の残油を手動ポンプにより空ドラム缶に吸上げ、回収作業を始めた。翌18日3時無事完了し、この作業によりガソリン26本、軽油11本を回収した。
漏出油は日数が経過するに従い残油整理あるいは自然蒸発により危険度を脱し、地下タンク内も検査したところ危険は認められずここに警戒体制を解除した。
ウ.給水作業の活動状況
地震により地下埋没の水道配水管は各所で破損し、その機能は全く失ない、市内全域にわたって上水道による飲料水の供給は不可能となった。
16日14時50分市消防本部は市災害対策本部の要請により水そう付消防ポンプ自動車を急拠関屋浄水場に派遣し、タンクに満水のうえ市内の給水活動に従事させた。
隣接の各市町村の消防隊もこの給水活動に参画し、たとえば新発田市消防本部は醸造元に依頼し一升瓶に水を詰め箱詰めにし、あたかも酒を運搬する如く困窮地域に配給し、またある市では硫酸瓶に水を詰め搬送、給水する等その臨機応変な措置は市民に喜こばれた。また応援に馳け付けた各市町村の水そう付消防ポンプ自動車の協力を得て特に浸水地帯あるいは給水車の進入不可能な地域を重点に選定し給水活動を行なった。
日時を追うにしたがい他の公共機関等の給水車両が続々と到着したので、消防隊はこれら給水車に水を補給するため消防団の小型動力ポンプを動員し、関屋、青山、鳥屋町の各浄水場に派遣、給水作業を続けた。
この給水作業は地震発生後数10日にわたり断続されたが、連日の徹夜作業により水道配水管工事も順調にはかどり、市内の大部分は給水可能の段階にいたり、7月26日を最後に消防隊は各浄水場から引揚げた。
エ.排水作業の活動状況
地震発生後13時35分を第1波としてほぼ30分間隔に襲来した津波は、第3波の1.8mを最高(信濃川河口より5.3mの地点、新潟気象台観測)に10数回記録された。このため地震と同時に破壊した埠頭、岸壁及び信濃川等各河川の護岸欠壊箇所から浸水したためOm地帯は一瞬のうちに海水等泥水があふれ、さらには重油の洗礼をも受けた。
県対策本部の出動要請を受けた自衛隊は直ちに応急築堤作業を開始し、20日に至り欠壊箇所の締切作業を完了した。
消防隊は、20日昭和石油火災の防御成功に引続き時を移さず消防部隊を浸水地帯に移動させ、昭和石油火災の疲労を克服して排水作業を開始し、翌21日には56台221名の消防大部隊がフルに活動し本格的な排水作業を展開した。
オ.救急業務の実施状況
地震と同時に通信網が途絶したためその直後は救急出動要請の通報はなく、時間が経過するにしたがい馳け付け通報により家屋倒壊に伴う負傷者、急病人等種々の事故による負傷者の搬送要請が増加してきた。
市消防本部司令室は、消防無線の通信可能と同時に火災現場あるいはその他の災害現場に活動していた消防車から無線により一般市民の急病人、患者等救急出動の要請が送信された。
救急事故の出動回数が増加するにしたがい市消防本部所属の2台の救急車のみではこれらの要請に応ずることが困難となったため、市消防本部は日赤新潟県支部に協力を依頼し(日赤新潟県支部では16日13時45分救急班を編成、その後県内各地区に配属されている日赤所属の救急車を集結)、消防機関に通報された救急要請をその都度日赤当局に出動依頼し救急業務の円滑をはかった。
なお、日赤所属の各地区救急車の維持管理は当該地区の消防本部が行なっている。したがって救急車の機関員及び救急隊員は各地区の消防職員がその業務にたずさわっており、その日数も長期間にわたったため交替要員も当該地区の消防本部職員により行なわれた。
カ.その他の活動状況
市消防本部は地震発生後時を移さず地元消防団とともに市民に対し火災予防広報を広報車あるいは徒歩により周知させその徹底をはかった。引続き津波警報が発令されるやその旨を広報し、また市対策本部の指示により沿岸の市民に対し避難場所に指定された舟江中学校、山ノ下小学校、藤見小学校、栄下小学校の各避難所に緊急避難の広報とともに避難誘導にあたる等消防無線を最大限に活用し広報活動に従事した。
このほか地元消防団は市対策本部の要請により浸水地帯の排水後の道路整備に22日から26日までの5日間延372名出動、あるいは、全国各地から寄せられた救援物資を避難者収容施設に運搬する物資輸送作業に従事する等その活動内容は地味であるが実に多岐にわたり活躍し地震発生後新潟市災害復旧活動に大いに貢献した。
(4)火災の状況
ア.東新潟中学校の火災
地震により市立東新潟中学理科教室(36m2)の薬品保管棚にあった実験用の燐、赤燐、ナトリウム、濃硫酸、マグネシウム、ガソリン類等のびんが同保管棚が転倒したため破壊、出火し側の机類に燃え移った。
直ちに職員及び生徒は泡消火器、バケツ注水、さらに大量の砂で消火に努め13時20分消火した。
この火災による損害額は7万円である。
イ.三菱金属新潟工場の火災
地震により三菱金属新潟工場第2工場研究室(鉄骨コンクリート造り、内装木造)のびん詰の薬品(エーテル500g2本、ベンジン500g1本、油類5,000g)が転倒落下し発火した。
避難中の同工場職員が発見し備え付けの泡消火器を使用しようとしたが、地震のため消火器は転倒し泡が放出し切っていたため従業員約200名でバケツリレーし13時20分消火した。消火に利用した水利は構内工業用貯水池(500t)である。
この火災により研究室90m2及び試験用機械器具類を焼失し、損害額は40万円となった。
ウ.永野商事有限会社の火災
地震のため牛乳用低温殺菌機の燃料に使用していた50kgプロパンガスボンベ1本が転倒し(軒下に立てかけていた)、内部引込みのゴム管が切れガスが噴出、火災となった。
付近の人達が協力し13時10分消火した。
この火災によりアンモニア冷凍室の下屋1m2焼失、損害額は1千円である。
エ.公設市場市場の火災
地震が発生したため公設市場内揚げ物屋は天ぷら鍋のガス栓を閉め屋外に避難したが、鍋より流出した油が過熱したレンガかまどの熱により発火した。
振動が終わって店に入った時これを発見、備え付けの泡消火器1本で消火した。
オ.藤島製作所の火災
13時2分頃藤島製作所事務所東側の風呂場より出火し、同事務所はたちまち炎に包まれ、さらに北側隣接の工場に延焼していった。
新潟西消防署附船出張所分隊及び礎出張所分隊は付近住民の通報によりこの火災を覚知し消防ポンプ自動車に5名搭乗し出動したが、道路の陥没あるいは津波による浸水等のため現場到着は不可能であった。
しかし、この地区は地震後第1波の津波が13時35分襲来し浸水したためその後自然鎮火した。
この火災により木造2階建瓦葺事務所、工場および倉庫の3むね2,307m2を焼失し、損害額は5、200万円に達した。
カ.成沢石油KKの火災
成沢石油KK蒸溜場の蒸溜釜燃料タンク(固定式、容量100kl約80%入り)が地震のため架台より落下し、タンクより漏出した重油が釜内へ流れ入み火災となった。
出火と同時に成沢石油KKの従業員が直近の泡消火器及び粉末消火器5本を使用し、さらに他の消火器を持って来たが、蒸溜釜から出火した火は漏出した油類(原油、重油)とともに地震により噴出した地下水に乗り、広範囲に拡がりすでに手の施こしようがなかった。
揚煙により火災を発見した西消防署山ノ下分隊は早速消防車1台に4名搭乗し出動したが、道路破損、出水等により接近は困難をきわめたがこれを克服し現場に到着した。時すでに重油は猛烈に炎上し延焼拡大中であった。
その後17時15分環場に到着した榎出張所分隊(速消車)5名と協力、延焼防止活動に入った。
当時火災は、隣接の宗村綿業KKに延焼寸前の状態であった。消防隊は排水堀より水利をとり17時18分放水を開始、約3時間経過した20時頃宗村綿業KKへの延焼を阻止、翌17日4時鎮火した。この地域も13時35分津波の第1波が襲来し、第12波まで確認された。
この火災により全焼した建物は14むね、部分焼1むね、建物延面積1、502m2焼失し、損害額は3,400万5千円に達した。
キ.日東紡倉庫及びその附近の火災
道路に埋設していた日本石油KKの原油輪送管が地震のため破損し、原油が日東紡倉庫付近に流出した。13時17分たまたま避難のため走行して来た宗村綿業KKの軽四輸車が道路亀裂部にはまり停車したところ熱せられた排気ガスにより路面にあふれた原油が引火し、そのうえ浸水の流れに乗った油により瞬時にして延焼拡大した。
この火災のため日東紡新潟工場の倉庫及び付近の住家等11むね、1,479m2全焼し、り災世帯は24世帯、102人となり、負傷者1名(自動車運転手宗村武(33))を出し、19日20時30分鎮火した。火災による損害額は9,980万円に達した。
ク.昭和石油KK新潟製油所(新工場)の火災
第2回目の地震の大揺れの際3万kl原油タンク(図参照)から出火し、5基(原油3万kl3基・4万5千kl2基)のタンクから原油が漏出したため順次に延焼拡大し、約1時間後タンク群は濠々たる黒煙をはき全面炎上した。さらに地震のため防油堤が破壊され原油が漏出し、付近の民家にまで延焼した。
この火災のため全焼した建物は20むね、半焼1むね、建物焼失面積1、701m2、焼失区域面積は97,700m2に及び13世帯59人がり災し7月1日5時鎮火した。この損害額は実に27億4,267万7千円に達した。
ケ.昭和石油KK及び三菱金属新潟第1工場境界付近の火災
地震発生より約5時間後の18時30分頃昭和石油KK新潟製油所と三菱金属新潟第1工場の境界付近から爆発音とともに火炎が上昇した。当時地震により流出した油類が津波により広範囲に拡大していたため、火はこれにのりつぎつぎと東側のタンク、クラッキング、トッピング、各工場等に延焼し拡大の一途を辿り旧工場全般にわたる火災となったうえ、火勢は引込線路を越え東側ドラム缶関係工場方面に延焼、重油タンク群及び工作室にまで延び、帝国酸素新潟工場プロパンガスタンクに延焼し、重油出荷ポンプ室一帯は火の海と化し、さらに流出した油が旧運河に流出したため運河の西側浸水地帯タンク群にまで火流は曼延した。しかも運河西側のタンク群に延焼した火災は、その西側の民家約300むねを焼き尽し、北隣りの歴世鉱業KKa!
?日本製蝋になどにも延焼した(消火活動の詳細は、昭和石油KK火災の消火活動を参照)。
この火災のため全焼した建物は347むね、半焼6むね、建物焼失面積57,282m2、焼失区域面積は23万5千m2に及び、347世帯、1407人り災し、その総損害額は31億7,413万6千円に達した。
コ.岩船郡朝日村の火災
地震のため農家(鈴木徳栄知(48))の養蚕上ぞく用マブシが保温用練炭こんろの上に落下し出火した。
避難中の家人が窓から煙が出ているのを発見、蚕室に入ったところ上ぞく用マブシ3枚落下し燃えていたので直ちにバケツにより消火し、大事に至らなかった。
サ.東頸城郡松代町の火災
県立松代病院(責任者山口愛正(41))検査室の壁に取付けた薬品棚の薬品類が地震のため転倒落下し出火した。
同病院の薬剤師が検査室から煙が吹き出しているのを発見、直ちに同病院職員とともに泡消火器5本をもって消火作業にあたった。
当時検査室内は煙が充満し、火は天井に達していたが、泡消火器により発火点の薬品類を消火し、天井に延焼した火災は消火栓1基を使用、病院関係者のみで消火した。
この火災による損害額は30万8千円である。
シ.北蒲原郡豊栄町の火災
地震のため薬品、雑貨商の店舗(田辺二郎(51))が倒壊し、使用していた練炭火鉢から出火した。
倒壊後約10分して煙が立ち昇ったのを発見、消防機関に通報するとともに近隣者12名によりバケツリレーをもって直ちに消火した。地元消防団の消防車1台(職員4名。団員3名)が現場に到着した時は火災はすでに鎮火していた。
ス.小千谷市川岸町の火災
地震のため各所の送電線が故障し、電力会社職員が修理にあたったが、14時50分頃第1回試験送電したところ35号電柱の電源が混触していたため発火、高圧線が断線し、引込線に接触した。さらに現場から連絡のないまま第2回の送電が行なわれたため34号電柱上のトランス及び付近のメーターボックス、動力用スイッチ等が発火した。
直ちに付近の人が消火・器により消火し、大事に至らなかった。この通報を受けた消防機関は消防車を出動させたが火はすでに鎮火しており放水せず、職員2名を警戒のため現在に残留させ引揚げた。
(5)昭和石油KK火災の消火活動
地震発生後まもなく市内4ヵ所から黒煙が上がり、うち3ヵ所はいずれも油火災と認められたが通信網途絶のため出火場所からは火災通報が入らなかった。また各消防署(所)間の連絡も不能のため、一時は指揮系統にも支障を来たした。しかし各署の自主判断あるいは目撃者の馳けつけ通報により、新潟市沼垂町4,914番地昭和石油KK新潟製油所新工場のタンク火災と確認した消防隊は、消火薬剤及び器具を積載し出動したところ、道路は右往左往する人の雑踏と道路の亀裂のため通行に困難をきたし、また市を二分する信濃川の橋梁が落下し、あるいは接続部分の路面が沈下したため橋台との間に段を生じ通行不能となり、新潟市の東と西は完全に車両の通行が断絶された。
消防隊は迂回路等を選定し、同日17時頃ようやく消防車1台が現場に到着する状態であった。
当時火災は4万5千kl及び3万klの原油タンク5基が猛裂な勢いで炎上しており、かつ輻射熱のため接近することができなかった。現場に到着した消防隊は油タンクの誘爆の危険性が考慮されたので、警察職員と協力して平和町方面の住民に対し物見山、小金町の高台あるいは飛行場への避難広報活動に従事した。
一方県対策本部は市消防本部と昭和石油火災の消火対策について打合わせを行ない、20時国道7号線から昭和石油火災現場へ迂回進入可能との情報に基づき、北蒲原郡中条町長経由で中条町倉敷レーヨンKKの化学車の出動を要請し、県警察本部パトロールカーの先導により火災現場に到着するよう手配し、さらに20時30分県対策本部は約5時間を要して出県した昭和石油工場の関係者10数名(ラジオ放送により出県依頼)と火災の状況、消火対策、危険防止措置等について協議を行なった。
翌17日夜半に至り信濃川万代橋の通行が可能な状態となり、直ちに消防無線により隣接の市町村消防隊に対し応援出動を要請した。
市消防本部は万代橋の通行可能の報告を受理するや広報活動に従事していた市内西地域の消防署及び消防団自動車分団の出動を指揮し、17日未明にかけて各消防隊が昭和石油の火災現場に到着した。
消防機関は、昭和石油災害対策本部と消火対策について打合わせの結果、南側10基の白灯油等タンク群の延焼防止及び旧工場構内の運河方面に延焼拡大中の火勢を制圧することとした。
17日5時昭和石油自衛消防隊の化学車2台及び中条町倉敷レーヨンより応援の化学車並びに市の消防車2台を先頭に、その他の消防車を中継送水にあて、総数18台、128名をもって火災防御に全力を傾注した。
当時火災は、昭和石油旧工場北側にある施設のほとんどは焼失し、旧運河に流出した油、タンク群、プロパンガス装置等が猛裂な勢で炎上し、さらに運河西側のタンク群は延焼寸前の状態であった。
消防隊は昭和石油の貯水そう1,000m3(地震のため600m3)より水利をとり(このほか水利は構内にいくつかの消火栓が設置されていたが、いずれも地震のため使用不能)火災防御にあたった。しかし昭和石油旧工場は低地帯(Om)のため津波により工場内は冠水し、損傷施設より流出した油類が水面に拡大し広範囲に、かつ猛烈に燃焼しているため消防隊の懸命な努力にもかかわらず8時第2ブロック群の石油タンクが誘爆し、火勢は遂に運河を突破した。
第2ブロック群の延焼拡大に伴い道路1本隔てた臨港町3丁目の住宅地さらには農林省倉庫、桃山小学校、火力発電所、桃山町住宅街など山ノ下地区一帯への危険が予想されたのでとりあえず昭和石油構内で防御中の消防車2台を臨港町方面への延焼阻止のため転戦させた。
臨港町に消防隊が到着したとき火炎はすでに住宅に延焼を始め、火勢はますます拡大の様相を呈し、先行車の2台では防御は困難な状態であるため作戦計画を変更し、昭和石油構内で消火活動中の全消防車を臨港町2、3丁目住宅の延焼阻止に転戦指令した。各消防隊は直ちに昭和石油構内から、臨港町へ移動したが臨港町へ通ずる最短距離にある運河の橋梁は油タンクの炎上による猛裂な輻射熱と道路の亀裂により通行不能の状態であったため飛行場道路から桃山町へ大きく迂回し、浸水地帯を越え悪条件を克服し現場に到着した。
ア.臨港町の延焼火災
臨港町に消防隊の主力が到着したとき臨港町昭和石油屋外タンク群は次々に炎上し、隣接の一般住宅へ猛裂な火勢で延焼拡大し、道路を隔てた農林倉庫への危険が認められた。さらに臨港町もOmの低地帯のため津波による浸水で水深は1m以上となり、かつ水面は流出した油のため一挙に延焼拡大の危険性が高く臨港町2丁目の延焼防止活動以外は困難の状況であった。
消防隊は9時30分現場到着し、同35分馳けつけた新津市の消防隊3隊14名の応援をえて直ちに消火態勢を整え、水利は浸水した水を利用し10時消火活動に移った。引続き同20分北蒲原郡豊栄町消防本部の消防車1台6名が応援に馳せ参じ、さらに新発田市等8市町の消防車9台61名が相ついで馳けつけた。
市消防本部は隣接の各消防隊の応援をえて農林倉庫前の県道及び臨港町中央通りに防火線を設定し、浸水の中で消火活動を行なった。消防隊は前夜来の長時間にわたる活躍のため疲労は甚だしく、かつ胸まで重油、泥水等につかりながらも火点に接近し屋根に登って放水、あるいは火炎をかいくぐり揚煙にむせび悪戦苦闘の末16時頃鎮圧に成功した。
消防隊は警戒のため2個分隊を現場に残留させ、他の消防車は昭和石油構内の油火災に対処するため再び転戦した。
イ.昭和石油の火災対策
18日0時30分応援の東京消防庁(以下「東消」という。)化学車5台が火災現場に到着した。
当時新工場の3万kl3基及び4万5千kl2基の原油タンク群は、原油が破壊した防油堤から流出し約200rnの範囲にわたり火の海と化し依然延々と炎上していた。一方旧工場では、南側10基の白油タンク群と四エチル鉛混合室、水素ボンベ格納庫、ローリー出荷場、事務所等を残し全面的な火災となり、敷地内各所に山積みのドラム缶は爆裂し、大小タンク60余基よりの流出油あるいはパイプ破損部より流出の各種油類が合流火災を惹起しタンクはもとより地面も浸水地も猛裂に炎上していた。さらに1,200m3プロパンガス球形タンクの配管が損傷しその火柱は20mにも達し、これらが巾1,500m奥行の広大な範囲にわたり物すごい轟音あるいは異様なうなりを生じ燃え上がっていた。
2時30分東消化学車の応援を契機として昭和石油現場対策本部に消防庁教養課長を始めとして市消防長、東消第5方面本部長、昭和石油製造部長等幹部により防御行動についての作戦会議が開催され、その結果次の4項目を決定した。
(ア)南側10基の白油タンク群の延焼を阻止するため(ひいては東北電力火力発電所方面の危険除去)、第1ブロック東側隣接の工作室火災を鎮圧し、第1ブロック内の1万5千k1(B)重油タンクの延焼を阻止すること。
(イ)(B)タンクの延焼を阻止するため、第1ブロック防油堤内の温油火災を早期に消火するとともに、同ブロック内の(A)、(C)、(D)各タンクの火勢を抑制する手段を講ずること。
(ウ)第1ブロックの火災を消火すれば延焼防止の目的はほぼ達せられるが、さらに運河を隔てた西側の第2ブロック及びその北側の第3ブロック群の消火にあたること。ただし、このブロックはやや低地のため現在市街地の浸水地域に通じており、水中にあるため防御は至難であり、消防行動上最も危険であるから特別の防御方法を講ずること。
(エ)水利はコンビナート入口左側の浸水を利用し、3・4台中継により最前線防御の東消化学車及び白油タンク群南側の貯水池に送水すること。さらに貯水池に部署したポンプ車より高岡市消防本部化学車、昭和石油等の化学車に中継送水し、昭和石油自衛消防隊の協力をうること。騰以上4項目を決定するや。3時東消第5方面本部長(小野寺慶治)が現場総指揮者となり、5時を期し泡沫放射を開始すると指令が発せられた。5時泡沫放射を開始するまでの間地元の消防車及び各市町村から応援の各消防車を適正に配置し、中継体形を整え送水準備をすることとなった。しかし集結した消防車は性能、型式も異なり、ホースの結合環も相違していたため苦労が多かったがともかくも前線への送水準備を完了することができた。
ウ.第1段階消火活動(作業室)
5時を期し白油タンク群北側工作室(鉄骨亜鉛葺建て面積630m2延べ面積942m2)附近の猛裂な火災に対し東側から各化学車の一斉放水が開始された。寸断されたパイプからは油が噴水し沸騰して燃え上がる火勢は強く、消火した足元の重油は長時間にわたる熱のため700度にも上る高温となりブクブクと突沸し、あらかじめ水を張り込んでいたゴム長靴も焼けただれる高温であった。
消火開始40分後30cmから40cmの泡の層は徐々に油面を縮小し火面を圧迫することに成功し、7時50分頃第1段階の消火が終わった。
エ.第2段階の消火活動
(第1ブロック)
第1段階の作業室の消火作業に引続きこの西側に隣接する4基のタンク群の消火活動に移った。
当時このブロックの(B)1万5千kl重油タンクは延焼寸前の状態であり(A)、4,800kl重油タンクは北側上部天蓋部が口をあけ内部に引火し燃え続け、北側上部はゆがみくずれていた。(C)4,800kl重油タンクは天蓋が8m位裂け、火炎は約30mに昇り濠々たる黒煙は5mの北風にのり幾百メートルにたなびいていた。(D)1万5千kl重油タンクは単独に防油堤を築いていたが、この堤もくずれあるいは亀裂を生じ堤の内外は判然とせず特に西側(運河寄り)パイプラインに多量の油が流出し、周囲の火炎も壮絶を極めていた。
消防隊はホースをさらに延長し、このブロックの北・東・南の三方から地上の漏油火災の消火とタンクの冷却を併用し南側10基の白油タンク群の延焼を阻止するためこれに最も近い(B)タンクの延焼防止活動を行なった。
決死的な消火活動が功を奏し6割程度消火した15時頃突然轟音とともに(C)タンクが爆発、火柱約50mに達して炎上し、多量の油が周囲に飛散したため地上火災を拡大させ、さらに21時30分にもボイルオーバーを起こし前回同様ブロックー面に重油が飛散しこれに着火したため延焼範囲は防御着手前より拡大する結果となり消した先から燃え広がるというように全く一進一退で苦労の連続であった。またこの間にも付近の野積みドラム缶の山が次々と爆発しており、特にタンク爆発後は北西側のプロパンガスの球形タンク及びプロパン充てん所の大小ボンベの山に重油が流れ実に危険な状態であった。
19日1時最前線において活動していた東消隊員は応援に馳けつけた東消隊員20名と交代したが、この間約20時間の連続消火活動のため身心ともに疲労困憊の状態であったが根性を発揮しがん張り抜いた。
現場交替した新手の隊員は、前隊に引続きブロック内の消火活動を続行し、夜明けに至り(A)タンクと(D)タンクの消火に成功、さらに(C)タンクへ直接泡を注入した。
4時55分新工場3万5千klタンクが猛裂な勢いで再炎上し、ボイルオーバーの危険が生じたため5時20分消防隊は一時放水を停止し後退、6時56分ボイルオーバーの危険が去ったので防御活動を再開した。
10時過ぎ(C)タンクの鎮圧に成功し、さすが荒れ狂った第1ブロックの火災も19日11時30分完全に鎮火し、(B)タンクへの延焼を防止するとともに白油タンク群は直接の危険が去った。
連続31時間余車はガソリン補給とオイル交換以外はほとんど休むことなく運転され。東消消防隊を始め高岡市消防本部、新潟市消防本部、隣接市町村の応援消防隊あるいは昭和石油自衛隊の各隊員の活躍は誠に賞賛に値する。
オ.第3段階の消火活動(第2・第3ブロック)
19日12時より作戦会議を開催した結果、第2ブロック内で最も激しい(F)タンクの火勢を弱め、北風を受け火炎を浴びている(G)タンクを防御することとした、これは、もし(F)タンクがボイルオーバーを起こすと運河付近は一面の火の海と化し、折角消火した第1ブロックタンク群の危険性があるためである。
当時このブロックの未然タンクは(G)7,500kl重油タンク1基のみで、(E)3,000kl重油タンクは天蓋上部約3mが裂け口をあけ、火勢は弱い方であったが、(F)3千kl重油タンクは火勢熾烈を極め燃焼し、(G)タンクを加熱していた。また(H)1万kl原油タンクはすでに天蓋も飛び、タンクも約半分位につぶれ残量も少なく火勢は最盛期を過ぎ、(1)1万k1重油タンクは北側上部約6mに及び天蓋が裂け、口をゆがめ燃焼し、東側下部のマンホールよりの漏油火災を併発し防油堤内水面一帯が溢油火災となっていた。
まず化学車4台(東消)を運河付近に集結させるとともに泡沫ノズルは運河(水深70cm~100cm)を渡らせ、(F)(G)タンク中央東側防油堤外パイプラインに固定させ防油堤内を消火し、同箇所に放水銃2口を固定させ強圧注水により(G)タンクを冷却し、かつ水幕を張り(F)タンク火災からの放射熱を遮断する方法をとり、さらに(G)タンクの南側から2口の泡放射を行ない、(F)(G)タンク周囲の火災を消火することとした。
13時一斉放水が開始された。放水開始後約3時間この消火作業は功を奏し(F)(G)(I)タン汐周辺の火災は大方消火し、(G)タンクへの延焼防止は一応成功し、(I)タンク東側下部のマンホール漏油火災も消火し、第2ブロック内は(F)タンクのみとなった。
ところが16時30分頃突然(F)タンクが大音響とともにボイルオーバーを起こし約100mにも達する大火柱を噴出し、大量の重油を第2ブロックは勿論運河まで油が溢れ出て約2、200m2の広範囲に飛散し一面が火の海と化し、さらに猛裂な火炎は約80mとなり消防隊員、消防車もあわや焼損する危険にまでさらされた。しかし幸いなことに最も接近していた隊長以下2・3名が顔面等に軽度の火傷を負ったのみで、ポンプ車の被害はほとんどなく、放水中の放水銃も泡ノズルも無事であった。
このボイルオーバーのため(G)タンク及び第2ブロック北側の4基のタンク群(第3ブロック)の誘爆の危険性が高まったので直ちに泡消火隊を増加し、ポンプ近くの運河一帯あるいは第2ブロックの水面上一面に泡沫剤を放射するとともに(G)(I)タンク周囲を移動泡沫放射により効果的に実施し、再度のボイルオーバーに備えたため21時頃には第2ブロック内は完全に消火に成功した。
その後(F)タンクは異状燃焼を起こし多少の油を周囲に飛散させた程度で翌20日0時頃には火勢も弱まり平常の燃焼状態となり、(E)(G)(I)タンクへの延焼を防止した。
20日0時頃第3ブロックは第2ブロック(F)タンクのボイルオーバーに伴う溢油や飛散した油により防油堤内は相当広範囲な火災となり(L)3,000kl軽油タンクの下部マンホールの漏油も激しくかなりの火災となり、さらに(M)1万5千kl重油タンクの上部も火災となっていた。
(J)(K)(L)の3基のタンクはいずれも3千klの軽油が充満しており、万一このタンクが破壊すると付近水面が大きな火の海と化し、さらには折からの干潮に乗り市街地に流出する恐れがあり、かつ折角の第2ブロックの消火活動が烏有に帰し、再び大火災になることは容易に想像された。
消防隊はこの事態を重視し、第2ブロックの消火活動に引続き作戦会議を開催し、2時消火活動に移った。
すなわち、このブロックは浸水地帯であり消防車両の進出は不可能のため小型動力ポンプにより泡放射と多量の消火器を使用することとした。まずブロック内0面に炎上している水面に泡を約20cmの厚さに放射しこれを成功させ、さらに(L)タンクの下部のマンホールよりの漏油火災に接近し、10数本の消火器によって消火した後泡を放射して再燃を阻止し、マンホール及びバルブを締付け漏油防止に成功し、また(M)のタンク屋上の火災は噴霧注水により消火した。
その後第2ブロックには火災が全く無いのを認め各タンクの漏油状況を調査し、一応危険が無いと確認した。しかし第2ブロック(F)タンクが未だ燃焼しているため約1時間警戒態勢をとった。
カ.新工場の火災
新工場の5基の原油タンク群は消防隊が到着したときはすでに全面火災となっていたが、他に延焼する危険がないと判断されたので炎上するにまかせていた。しかし20日10時頃出火タンクの3万kl原油タンクが異様な音を立てて燃焼を続け、時にはボイルオーパーの危険が濃厚であった(他の4基のタンクはすでに衰え消滅に近かった。)。もしこのタンクがボイルオーバーを惹起すれば西側隣の蒸溜装置は勿論40m西隣の白油タンク群が危険にさらされることとなる。そこで新工場タンク群と蒸溜装置との問に防油堤を築造すべくこの作業のため県対策本部は自衛隊員の出動を要請した。
自衛隊員は5台のトラックとともに現場に到着するや煙と熱気との悪条件を意に介せず直ちに作業を開始し、消防機関は構築作業の援護用に消防車を待機させ、長さ200m、巾1m、高さ70㎝の堤防を築き上げボイルオーバーに伴う延焼防止対策を講じ、万一の事態を考慮し未然に対処した。
18日5時東京消防庁を主体とした化学車を先頭に消火活動を開始してより延々51時間余の長時間にわたる決死的な消火活動も遂に終わりを告げ20日8時ポンプも始めて休息を得たのである。
今回の昭和石油の大規模な油火災にみせた東京消防庁を始めとする各消防機関の熾烈な消火活動は正に消防魂というべきか、はたまた消防根性というべきか、根性をいかんなく発揮したまれにみる防御活動といえよう。
なお、この決死的な消火活動を賛し、防災の日に東京消防庁新潟応援隊が内閣総理大臣より防災功労団体として表彰されたことを附記しておく。
○地震に対しての注意事項
1 出火原因の面からみて、学校、病院等の研究室及び実験室薬品の保管については、薬品棚は固定し、かつ各薬品が転倒しないよう枠を作る等薬品の保管、管理について考慮すること。
2 地震のため消火器が転倒し泡が放射したため初期消火の用に供しない事例がある。消火器のうち特に転倒式消火器についてはその固定化を図ること。
3 今回の油火災の如くその消火活動が長時間にわたる場合は、消火活動従事者の疲労を考慮し交替要員を確保すること。また、給合設備を完備するとともに庶務、連絡(含む車両)要員を、常備し災害活動の円滑を図ること。
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2.山形県下における活動
地震発生後山形県は直ちに各地方事務所に災害情報と被害状況を報告するよう指示するとともに、山形地方気象台に震源地と各地の震度を照会した。
14時被害の激甚が予想されたため対策に万全を期するため山形県災害対策本部を設置し、本部連絡員室を災害対策本部事務局である民生部消防防災課に設けた。また、被害の大きい地域は庄内地方であるとの情報に基づき15時田川、飽海の両地方事務所に山形県災害対策本部の支部を設置するとともに災害対策本部員及びその他の職員を非常配置することとした。
山形県下の被害の大部分は鶴岡市、酒田市、遊佐町、温海町に集中し、家屋の倒壊、地割れ、山崩れ等が瞬時に発生した。しかし家屋の倒壊が多かったのにもかかわらず幸いにして地震による火災の生は1件もなかった。
県下各市町村の消防機関においては地震発生後時を移さず火災発生を防止するため、火気使用を厳重に注意するよう呼びかけ、また津波に対処し警戒体制を厳重に敷く等その管内の警戒復旧に従事し恐怖と不安におののく民心を安定し。復旧を早める原動力となった。
消防機関の活動内容は地味ではあるが各方面にわたり活動しその活動人員は延べ2万1千余名に及
んだ。
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3.秋田県下における活動
秋田県庁においては地震発生後直ちに県防災計画に定める第2防災体制をとった。その内容は次のとおりである。
気象注意報その他の情報により災害発生のおそれがあるとき、県消防課員と災害発生の予想関係地域の福祉事務所一部職員とが防災業務に当り、情報の収集把握、防災上の措置すべき指示、警告の伝達を行なう。
(1)気象通報の収集伝達
(2)情報の収集解析および伝達
(3)県所管通信確保の手配
(4)県および出先機関の一部職員の出動状況
(5)自衛隊との連絡調整
(6)防災上の指示警告の伝達
(7)災害対策本部設置検討
秋田県は山形県と同様に地震による火災は1件もなく、また新潟県及び山形県に比較しその被害も少なかった。
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第3編 現地調査
第1 危険物関係施設の被害概要と問題点
1.新潟市内の危険物施設の被害
今回発生した新潟地震は、各地に種々の被害をもたらしたが、ここでは、特にその被害の目立った新潟市内における危険物関係施設について、被災の概要をのべ、今後の保安対策を樹立する上に必要と考えられる諸点について検討を加えることとする。
新潟市内に存する危険物関係施設は、昭和39年3月31月現在、総計1,509で、その内訳は次のとおりである。
地震による被害のあったものは、程度の大小を含め相当数におよんでいる。被害の最も大きかった大規模な危険物施設をようする昭和石油の石油精製工場に始まり給油取扱所まで、その範囲は広いものであった。
地震とほぼ同時に3箇所の出火が認められたが、うち2箇所は、危険物関係施設であり、いずれも石油精製を行なう工場であった。昭和石油新潟製油所及び成沢石油製油所がそれである。
他に、石油精製工場としては、日本石油新潟製油所及び歴世鉱油製油所の2箇所があったが火災の難は免かれた。
出火場所のうちたまたま2箇所が製油工場であったのであるが、石油精製であったための出火とはいい難い。
しかし、石油原油を加熱処理することを主体とする工場である点からすれば、操業中に地震を受ける状況下では危険度の高い場所になると考えられる。また、地震当時は、いずれの工場も作業中であり、火気が使用されている状況にあった。
石油精製工場に次いで比較的多量の危険物が保有されているものとしては、油槽所等があげられる。これ等の施設は、前述の日本石油新潟製油所等と同様、地震、出水、津波などによる被害を受けているが、亜細亜石油油槽所、歴世鉱油油槽所を除いては、いずれも火災の難は免がれた。その他の危険物施設も地震による被害を受けたものはあるが、いずれも火災には至らなかった。
以下、被害概要、危険物施設の検討すべき諸点を順を追ってのべる。
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2.昭和石油新潟製油所
所在地新潟市沼垂4の914
(1)施設概要
ア.旧工場の主なる設備
敷地面積—184,800平方米、蒸溜装置、再精溜装置、洗滌装置、白土処理装置、L・P・G充填設備、添加剤混合装置、ボイラー—2基、重軽質タンク
イ.新工場の主なる施設
敷地面積—322,300平方米、原油蒸溜装置—40,000バーレル/日
水素化処理装置—11,000バーレル/日、接触改質装置—4,800バーレル/日
水添脱硫装置—2,000バーレル/日、原油タンク180,000kL 5基
製品タンク—47,500kL 10基
(2)被害状況
ア.旧工場の状況
当工場では、地震とともにNo.33、1,000klタンク(当時964kl入)の引線パイプが側板から折損してガソリンが約2メートルの高さに噴出し、防油堤の破損箇所から流出した。その他のタンクにおいても地震動により大きくゆれ満量のタンクは屋根の破損箇所より貯蔵油が流出した。
この他、地下水も各所から噴出し、さらに14時00分頃の津波によって50センチメートル程度の浸水をしたうえに、タンクならびに機器配管の亀裂により流出した軽質油および重質油が浮遊して極めて危険な状態になった。
その後、当製油所の北側にある隣接工場と、当製油所との境界附近の火災が当工場一帯に拡がり、瞬く間に全面火災となり、一部の施設を残して、当工場はほとんど全滅した。
イ.新工場の状況
地震により当製油所、日本石油新潟製油所及び貯油所並びに近隣の東北電力の各タンクはいずれも震源地方向の南北に動揺した。
当製油所原油タンク5基、製品タンク10基の浮屋根は、地震の影響を受けて、それぞれ動揺し、特にNo.1103原油タンク(満量タンク)は、地盤沈下による西側への傾斜及び地震波の反射により、複雑な動揺をしたため、地震とともに屋根が3~4回側板より上方に動揺し、同時に原油が上部から側板に添って周囲に温流したが、4回目ぐらいの動揺時に火災が発生した。
この他、No.1101、No.1102、No.1104及びNo.1105の原油タンクも同様であって、ほとんど同時に火災を起こした模様であり、原油タンクならびにタンクヤードは一面の火に包まれた。
これら原油タンクの上部には、ドライケミカル消火剤ボンベ(10キロ型)が数本宛常備されていたが、上述のような火災状況であったので消火剤の使用はできなかった。
この結果、No.1103の原油タンクは6月29日17時まで、他の原油タンクは6月24日10時頃までえつづけ、その間に流出した原油の火によって、インテグレート装置の加熱炉、廃熱ボイラー、接触改質装置の反応塔、水素化処理装置及び水添脱硫装置の反応塔下部において、水素系混合油の火災が発生した。
又、流出油によって高圧変電室も一部焼損した。
(3)地震直後の状況
ア.地震と同時に、消火用水の送水のためのディーゼルエソジソ付ポンプは基礎の不等沈下のためカップリングに無理が生じ運転不能となり、ガソリンエンジン付ポンプは廻転したが送水出来なかったので、ポンプの駆動を断念した。又、地震と同時に東北電力排水管の亀裂により、同ポンプ室は水びたしの状態となった。
さらに一部貯水池は地震によるコンクリートの亀裂によって貯水がなくなり、地上から地下への配管がその結合部において亀裂が入り、あるいは切断された。
その上、化学消防車は道路の地割れ隆起等により走行不能の状態であった。
したがって、もし化学消防車が直ちに出動したとしても、初期消火作業は実施できなかったものと思われる。
イ.旧工場の加熱炉及びボイラーは手動操作により直ちに消火した。
この地帯では、地震と同時に地割れが起こり、この地割れの部分からは地下水が噴き出し、又、ほとんど同時にタンク漏洩その他によって油も流出した。
ウ.新工場は遠隔操作により加熱炉およびボイラーとも消火した。
エ.送電関係については製油所内の特高変電所のスイッチを作業員が切ろうとした時にはすでに停電していた。
オ.原油タンクならびに製品荷役の状況は次のとおりである。
(ア)16日11:00時、本船より重油をNo.1101タンクに受け入れ中であったが、直ちに桟橋のバルブを閉め荷役を中断した。
軽油は船積みを終了し、B重油とガソリンをそれぞれ船積中であったが、いずれもタンク廻りのバルブを閉め、船は退避した。
(イ)No.1102タンク、(ガッチサラン原油)装置へ通油中であり、タンクは攪拌中であった。
(ウ)No.1103タンク、(カフジ原油)16日12:00時に検尺を終了し、タンクは攪拌中であった。
(エ)No.1104タンク、(クェート原油)装置へ通油中であり、タンクは攪拌中であった。
(オ)原油関係タンクのバルブの開閉状況は別添図面のとおりである。
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3.昭和石油原油貯蔵タンクから出火した第1火災概況
(1)火災の概要
ア.出火場所の名称
新潟市沼垂4914番地 昭和石油KK新潟製油所
イ.出火工作物
屋外タンク貯蔵所(容量30,000klフロ・一テング原油貯蔵タンク)
ウ.出火日時
昭和39年6月16日 13時2分頃
エ.覚知日時
昭和39年6月16日 13時3分頃
各通信網が損壊途絶した為火災通報はなかったが揚煙状況で覚知した。
オ.延焼危険防止日時
昭和39年6月19日12時頃
力.鎮火日時
昭和39年7月1日 5時頃
キ.焼失面積及び損害額
(ア)焼失屋外タンク貯蔵所
容量45,000kl2基全焼
容量30,000kl3基全焼
(イ)焼失原油
121、937kl
(ウ)焼失タンク及び原油損害額
タンク 480,400,000円
原油 675,874,000円
計 1,156,274,000円
(エ)焼失建物面積及び損害額
昭石所有建物 全焼3棟
建面積 450m2、延面積478m2
損害額 1,572,639,000円
罹災一般住家 全焼 18棟
罹災世帯数 13世帯、罹災者数 59人
建面積 1,173m2、延面積 1,223m2
損害額 13,854,000円
合計 2,742,767,000円
ク.死傷者なし
ケ.気象状況
天気晴、風向西、風速5。2m/SEE、気温22.2℃
相対湿度 60%、実効湿度89%
4.昭和石油と三菱金属との境界付近より出火した第2火災概況
地震発生後概ね5時間を経過した18時0分頃昭和石油KK旧工場と隣接する三菱金属KK第1工場の境界付近から突然爆発音と共に出火し、第2の火災として発展した。その状況は次のとおりである。
記
(1)火災の概要
ア.出火場所
出火原因が不明のため出火場所は認定できず。
イ.出火日時
昭和39年6月16日 18時0分頃
ウ.覚知日時
昭和39年6月16日 18時1分頃第1火災に出動中の消防車よりの無線連絡で覚知した。
エ.放水開始日時
昭和39年6月17日 5時0分頃
オ.火勢鎮圧日時
昭和39年6月20日 5時0分頃
カ.鎮火日時
昭和39年6月20日 17時0分頃
キ.主なる焼損工場の名称
(ア)昭和石油KK新潟製油所(旧工場)
(イ)三菱金属KK新潟第1工場
(ウ)新潟アスファルト工業KK
(エ)新潟食油工場KK
(オ)杉治商会新潟工場
(カ)亜細亜石油KK新潟油槽所
(キ)昭和石油KK新潟油槽所
ク.焼失面積及び損害額
(ア)昭和石油KK新潟製油所(旧工場)
焼失棟数及び面積
全焼 55棟、半焼 2棟、延面積 11,505m2
焼損タンク数 138基 焼失油量 32,380kl
損害額 1,498,764,000円
(イ)三菱金属KK新潟第1工場
焼失棟数及び面積
全焼 13棟、半焼 1棟、延面積 11,987m2
損害額 664,003,000円
(ウ)新潟アスファルト工業KK
焼失棟数及び面積
全焼 2棟、延面積 1,920m2
損害額 89,500,000円
(エ)新潟食油工場KK
焼失棟数及び面積
全焼 12棟、延面積 1,517m2
損害額 55,201,000円
(オ)杉治商会新潟工場
焼失棟数及び面積
全焼 10棟、延面積 7,342m2
損害額 309,066,000円
(カ)亜細亜石油KK新潟油槽所
焼失棟数及び面積
全焼 3棟、半焼 2棟、建面積238m2
損害額 5,300,000円
焼失タンク及び油量損害額 169,126,000円
合計 174,426,000円
(キ)昭和石油KK新潟油槽所
焼失棟数及び面積
全焼 6棟、延面積 492m2
損害額 15,600,000円
焼失油量損害額 29,000,000円
合計 44,600,000円
(ク)その他(一般住家を含む)
焼失棟数及び面積
全焼 339棟、半焼 1棟、延面積 22,281m2
損害額 347,636,000円円
(ケ)総合計
焼損区域面積 235,000m2
焼失建物面積 57,282m2
損害額 3,183,136,000円
ケ.罹災世帯数及び人員数
全焼 347世帯、半焼 1世帯、人員 1,407人
コ.死傷者
死者 なし、傷者 1名(消防職員)
消防活動中流出した熱油に足を踏み入れ両足に第1度の火傷を負ったものである
サ.気象状況
天気 晴、風向 北々東、風速 4.3m/S
気温 19.3°C、相対湿度 81%、実効湿度89%
シ.消防車出動数及び人員数
自6月16日 至6月20日
消防車延出動数 255台
消防職・団員他出動数 2,173人
ス.消防車応援出動台数
県内 26市町村 30台、倉敷レーヨン 1台
県外 東京消防庁 5台、高岡市消防本部 1台、石油連盟 5台
合計 42台
セ.消火剤消費数量
エアーホーム原液
3% 約56,880l、6% 約43,200l
ドライケミカル薬剤
約3,000kg
5.昭和石油新潟製油所の消防設備
(1)消防ポンプ
化学消防車
○いすずTXG50ジェット2型3投140HP日機 1台
○日産F4816気筒3投高圧105HP市原 1台
速消車
○いすず6気筒2投バランスタービン80HP 1台
可搬式消防ポンプ
○東京発動機トーハツ4気筒35HP 1台
(2)固定泡消火設備
泡消火用ポンプ
〇電動渦巻BH8—D5 200HP 1基
薬液ポンプ
○電動ギヤーF—30 20kw 1基
泡消火用ポンプ
○ディーゼルエンジン直結駆動タービン 200HP 1基
薬液ポンプ
○ディーゼルエンジンVベルト駆動ギヤー 15HP 1基
薬液タンク
○直径1,900mm高さ3,200mm容量9kL 2基
薬液保有量(エアフォーム)
3%10,000L(薬液タンク)、3%3,000L(化学車)
3%1、740L(予備ドラム)、6%3,000L(化学車)
6%12,000L(予備ドラム)
配管(新工場)
本管 8吋、支管 立上消火栓 4吋
タンクフォームノズル3吋(旧工場)
立上り消火栓(新工場)
寸法 4吋×21/2吋×双口、基数 17
(旧工場)
寸法100mm×65mm×双口、基数 14
(3)固定水消火設備
定置式水消防ポンプ
〇トヨタF型6気筒ガソリンエンジン駆動タービン 1O5HP 1基
配管
本管8吋、支管4吋
立上り消火栓(新工場)
寸法4吋×21/2吋×双口、基数 11
立上り消火栓(旧工場)
寸法100mm×65m×双口、基数 47
固定蒸汽消火設備(新工場)
主装置(インテグ)13個、白油ポンプ室1個
黒油出荷ポンプ室1個、黒油混合ポンプ室1個
消火器(新工場)
泡沫消火器(10l)65、アソスル消火器(20封)69
四塩化炭素消火器 11、炭酸ガス消火器 2
消火器旧工場
(4)消防器材
ホース 230本
管鎗
普通用 82本、ゼネレーター用 14本、エアーホーム用 50本
ホース運搬車 5本巻 2台
泡沫用ゼネレ一ター 9台
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6.タンク被災状況分類表
(1)地震発生時におけるタンク別在庫量
(2)タンク損傷程度分類
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7.亜細亜石油新潟油槽所の被災状況
所在地 新潟市沼垂字牛街道4914
(1)施設の概要
タンク
C重油 1,000kl、B重油 500kl
ガソリン 800kl、A重油300kl
灯油 300kl、軽油 300kl
灯油 500kl
ローリー詰場 1ヵ所 36m2、倉庫 1棟 54m2
ポンプ室 1棟 40m2、ボイラー室 1棟 48m2、その他事務所、車庫
(2)地震発生時の状況
作業状況は、その日の午前中にローリー詰場においてガソリン、灯油及び軽油の出荷作業をし、側線でタンク車にC重油の出荷作業を行なっていたので、午後も引継いて作業を行なうため、充填の準備がなされていた。
地震発生直後、従業員は装置の各バルブを締め、電源を切って、事務所等の整理を行なって、全員避難している。
施設一帯に地割れが発生し、No.4灯油タンクが1m位埋没して、油が流出していた。
(3)被害
地震発生直後の状態は、地割れの発生があったが、各建築家屋、事務所、倉庫、ポンプ室、計量場、ボイラー室に倒壊はなく、タンクはNo.4が1m埋没して油を流出したのみで、他の6基は傾斜したにとどまった。タンクに接続している配管は曲折又は切断し、ポンプ、計量器、ボイラー等の装置類には大きな破損はみられなかった。
津波による被害は、敷地が高いので冠水からの被害はなかったが、延焼火災によって、地震発生時に破損したタンク及び配管からの油に引火し、7基のタンク、パイプヤード、ローリー詰場、倉庫、ポンプ室の一部を焼失し、さらにNo.5のA重油タンクが爆発して屋根が飛び、約80m離れたボイラー室に落下して大破させた。
防油堤はブロック造りであるため、倒壊し粉砕した。特にパイプが防油堤を貫いている部分は破壊が著しく、このような構造の防油堤は、地震にも、熱にも弱いことが立証された。熱のためパイプは膨張し、原形をとどめない。
類焼の時刻は明確ではなく、6月17日午前中から19日夕刻頃と思われる。油類の火災による発生熱は、配管類の可鍛鋳鉄品が溶解していることから、1,800°C以上になったものと推定される。
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8.歴世鉱油本社製油所および山下油槽所の被災状況
本社製油所所在地 新潟市関屋1661
山下油槽所所在地 新潟市沼垂牛街道4914
(1)本社製油所
ア.施設の状況
タンク
原油 200kl 1基、製品(潤滑油)90kl 1基
製品(潤滑油)90kl 1基、製品(潤滑油)90kl 1基
原油 500kl 1基、硫酸 20~50kl 5基
イ.地震発生時の状況
作業状況は、その日の午前中にタンクローリーに出荷作業中であり、午後も引継いて作業を行なうために準備中であった。
地震発生直後、従業員は装置の各バルブを締め、電源を切って避難している。
ウ.被害
施設は火災の発生もなく、冠水もしなかったので、間接被害による損害はなかった。
震動によって原油タンク2基が200~350m/m沈下し、他のタンクも数度傾斜した。水道管は、鋳鉄であったため、移動し切断した。
防油堤はブロック造りであったため、数ヵ所が破壊した。
(2)山下油槽所
ア.施設の状況
タンク
原油 5,000kl 1基、原油 3,500kl 1基
原油 6,600kl 1基、原油 15,000kl 1基
ポンプ室 1ヵ所
イ.地震発生時の状況
地震発生直後、油槽所従業員は、タンク及びポンプの元バルブを締めて避難している。震動によって全てのタンクが250~400m/m沈下し、配管の切断部分より油が流出していた。
ウ.被害
地震発生直後の状態は、施設に地割れが発生し、タンク本体が250~400m/m沈下した。
タンクの屋根及び側板の一部は南北の震動方向に変形した。配管で地下に埋設して、屈曲部を溶接加工してある部分は、全て折曲又は切断された。
防油堤はブロック造りであるため、倒壊粉砕し、再び使用することはできない。
津波によって敷地全面にわたり約1m冠水し、さらに、延焼してきた火災によってポンプ室を全焼したが、延焼面に対して空のタンクがあったため、タンクを焼損したのみでタンク火災を免れた。
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9.日本石油製油所並びに貯油所の被災状況
所在地
新潟製油所 新潟市沼垂477
王瀬貯油所 新潟市王瀬町
沼垂貯油所 新潟市沼垂
(1)製油所並びに油槽所の施設概要
ア.新潟製油所施設概要
製油所敷地 448,000平方米
製油所建物 23,000平方米
常圧蒸留装置 1,590kl/日 1基、減圧蒸留装置 320kl/日 1基
シュルツ式単独真空蒸留装置 126kl/日 3基
プラットフォーミング装置 254kl/日 1基
ガソリンスタビライザー装置 159kl/日 1基
脱ろう装置80k1/日 1基、アスファルト製造装置 70屯/日 5基
ボイラー50屯/日 6基、受配電設備 1,600kw 一式
自家発電装置 400kw一式、外出荷埠頭設備 一式
工業用水 1,400屯/時
タンク関係
原油タンク 150,000kl 23基
製品、半製品タンク 59,000kl 193基
イ.王瀬貯油所施設概要
原油タンク 70,000kl 3基
ウ.沼垂貯油所施設概要
原油タンク 18,000kl 3基
製品、半製品タンク 12,000kl 2基
(2)新潟製油所被害状況及び地震後の処理の状況等
構内は地震発生と同時に路面のクラックから地下水と地下滞油が噴出し始め、その他、貯水池の溢水、工業用水線及び水道線の破裂による噴水、破損タンクからの油の漏洩及びオイルトラップの温油等により構内全域に亘り20センチメートルから30センチメートルの油びたしになった。
又、運輸地区、トラップ付近は防潮堤とともに1メートル程度陥没し、折からの津波のため河水が流入し、このため流出油の一部が河川に流れ出した。流出した油の一部は、北越製紙工場の破壊した防潮堤から同所の構内にも流入した。
この外、鉄道引込線は波状に隆起または陥没し、これに伴い味入れの硫酸タンク車が横転或は陥没した。
このように水と油でおおわれた構内で特にグランドからNo.11タンクのまわりと自家発電室前及び運輸トラックまでの間は軽質油が充満しており、火災の危険性は非常に増大し、一触即発の状況にあったので、これ等軽質油関係に対し泡シールをすることとし、化学車でエヤーフォームの散布を実施して危険性の減退に努めた。
川に流出した油はその後津波による川の水位上昇により、川中の筏がかさなりあって北越製紙の橋の落下個所にせき止められたために、オイルフィンスの状態になって下流への流出がほとんどおさえられた。
一方、油の回収については,自家発電室前の軽質油流出地区にはドラム缶を配置し、人力で重油を実施したが能率があがらないので腕用ポンプ4台を消防団より調達し、油の回収に努めた。又、No.11タンクからグランド付近の油回収については、トリックル工事に使用中のエヤーコンプレッサーを借用し、スチーム線内にエヤーを送り、東新潟原油受け入れ用レシプロ型スチームポンプを駆動して油の回収に当たった。この他、プラットフォーマーPGタンク(No.413、No.414タンク、7kg/cm2)の圧力を利用し、トラップの重油ポンプを駆動して,側溝からの流入油の回収も行なった。
このように多量の可燃性油が流出した上、稼働中であった製油所において出火を防げた主な点として次のことが考えられる。
地震と同時に加熱炉等の火元を緊急遮断し、タンク等の損傷による危険物流出の防止及び流出物の回収にあたったこと。
加熱炉等の火元になるおそれのある施設の周囲には土盛りなどをして流出した危険物の流入を防ぐ等の処置がとられたこと。
地震後直ちに消防署を通じて付近の火気使用禁止の徹底を図ったこと。
地震後数日間は、危険区域を設定し、パトロールを行なったこと。
津波警報発令後、工場にとどまり、火災発生の防止に努めていること(NHK新潟放送局に出向いて津波の大きさ程度を確認し、決定がなされている。)
等があげられる。
この他、当製油所において地震時以降に実施された火気取締状況及び情報活動状況について要約すると次のとおりである。
火気取締状況について
i 構内の火気喫煙は厳禁するとともに、構外にあるタクシーのガレージを一次喫煙場所に指定した。この喫煙所は20日まで続いた。
ii 構外の火気管制については町会、北越製紙、国鉄に申し入れをするとともに、東消防署に危険状態を説明しパトカーで呼びかけをしてもらい周知徹底を図った。
iii 夜間は製油所周辺からのもらい火を防ぐために警備隊を編成し、保安係の指揮で河川その他構外のパトロールを強化した。特にグランド付近の日之出町では自主的に自警団を組織し、18日当方で火気管制を解除するまで交替でパトロールを続行、炊飯も差しひかえて毎日保安係に状況把握のため連絡に来た。
iv 夜間は表門要員の増強を行ない、バリケートを設置して入門者の厳戒を実施した。
情報活動状況について
i 検査係は、地震発生直後手持カメラを動員し、余震続発中にもかかわらず記録の蒐集につとめ貴重な資料を集めた。'
ii 14時頃から本部に携帯ラジオを置き逐次放送される情報をキャッチした。しかし誤報が多かった。
iii 保安係職長は本部指令により新潟駅前のNHK報導班に2回にわたり出水中を往復し、15時津波の危険性のない旨の情報をもたらした。
iv 津波警報発令後は、津波と昭石火災の監視のためNNLストラクチャー頂上にトランシットを置き、警戒員を配置監視にあたらせた。
v 新入社員と品質管理係員の一部を伝令として各所に連絡にあたらせるとともに、各所の状況報告を行なわせ現況の把握につとめた。
これらの情報活動にあたり、地震後は交通は途絶し、電話もとだえたため、情報のキャッチは非常に困難をきわめ、すべての連絡は徒歩にて行なわれた。
最後にタンク関係の被害とし、製品、半製品タンクのうち計53基が傾斜あるいは陥没し、底部破損、パイプ付根の亀裂、切断等の大きな損傷を受け相当量の貯蔵油が流出し、この他に損傷程度の軽微なるもの68基があり、合計121基に及ぶタンクが何らかの被害を受けたことになる。
(3)王瀬貯油所被害状況及び処置状況
タンクNo.6の20,000kl原油タンクが満量に近かったためトップアングル部が裂けて油が飛散し、多少原油の流出をみたが他のNo.7、No.8のタンクは健在であった。それ故原油線元バルブの閉鎖を確認するとともに消防ポンプを起動し警戒にあたった。又、当貯油所地内にある建設飯場より人員15名を借用し、飛散した油面に砂を撒布して飛火による引火防止に努めた。この結果当油槽所においてもタンクの損傷のみで、出火による被害は見なかった。
この他に当王瀬貯油所から製油所までに至る間の送油管(直径10インチ)の一部が日東紡績付近で破損し、パイプ内の原油が流出した。この事故による油の流出量は、5~10k1程度である。流出量が比較的少なかったのは配管破損個所が地下約1メートルの個所であったので、砂と水で埋められた状態になつたためである。
(4)沼垂貯油所被害状況及び処置状況
地震発生当時油槽所では、貯蔵タンクより重油を2、000kl船積みする予定で作業を行なっていたが約1,000klの船積みを終わった時に地震が発生した。このため直ちに船積み作業を中止して貯蔵タンクのバルブと船側のバルブをほぼ同時に閉鎖し、船は離岸した。この結果船は何ら損傷を受けずに済んだ。
貯油所内では防油堤が各所で亀裂し川側防潮堤の陥没によって川水が浸入したが、この頃にはまだタンクの損傷は認められなかった。
タンクからの漏油は13時30分頃の強烈な余震によりタンクが損傷を受けたためと判断される。この余震により6,000klタンク5基のうち、底部が亀裂破損し貯蔵油約6,000klを流出したもの1基、約30°傾斜したタンクが1基、その他の3基のタンクも多少の損傷を受けた。
この間、原油係員は各バルブの閉鎖を確認して回り、消防ポンプを起動して警戒していた、この結果当貯油所においても出火はみなかった。
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10.出光興産新潟油槽所の被災状況
所在地 新潟市流作業場字下島2529ノ1
(1)施設概要
タンク関係
A重油 80kL×1、 100kL×2
灯油 1,000kL×1、揮発油 1,000kL×1
B重油 1,000kL×1、 C重油 2,000kL×1
軽油 300kL×2、 ブレンド重油 80kL×1
揮発油 100kL×1
建築物、工作物関係
事務所、倉庫、ボイラー室、ローリー積場、ドラム詰場、電気設備、配管、側線、桟橋、護岸、防油堤、万代塀
(2)地震発生時の状況
地震発生当時、ローリー詰場では充填作業を行なっていた。
(3)被害
当油槽所の敷地は地震により全般にわたって0.6メートル沈下し、全面が冠水した。このため12基のタンクは殆ど全てが陥没傾斜し、このうち、容量100kl、揮発油貯蔵用タンクが転倒し、貯蔵中の揮発油20klが全量海中に流失した。
この外、地震によって配管が折損して油の流出をみたが、バルブに異状がなかったので当時ローリー詰場で充填作業を行なっていた作業員が直ちにバルブを閉鎖して被害を軽減した。
ブロック造の防油堤は全壊した。
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11.モービル石油新潟油槽所の被災状況
所在地 新潟市沼直竜島4920
(1)施設概要
タンク関係
普通ガソリン 340kl×1、般空ガソリン 120kl×1
灯油 135kl×1、軽油 44kl×1
高級ガソリン 44kl×1
(2)被害
当油槽所では敷地が全体的に約1メートル陥没し津波に洗われた。タンクは、全部で5基あり、そのうちNo.2のタンク15°~20°傾斜したが他の4基は無事であった。これ等タンクの基礎はNo.4タンクがコンクリート基礎である他はすべて地盤に砂を用いていたので、地震より津波の影響を多く受け、被害も地震によるより津波が引くときに起こったものと思われる。
鉄筋コンクリート製の防油堤は、護岸沿いのものが護岸と共に動いたため約30センチメートルの縦の亀裂が生じた。
パイプラインについては、固定されていた航空用ガソリンのダイヤフラムバルブ2ヵ所破損した。
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12.三菱石油新潟油槽所の被災状況
所在地 新潟市万代島 面積1,855m2
(1)施設概要
タンク
ガソリン 1,000kl 1基、軽油 510kl 1基
B重油 510kl 1基、A重油 510kl 1基
灯油 510kl 1基、ドラム充填場 40m2 1棟
第一ポンプ室 36m2 1棟、第二ポンプ室 15m2 1棟
倉庫 86m2 1棟、休憩所及び雑品庫 38m2 1棟
ローリー詰場 96m2 1棟、事務所 80m21棟
(2)地震発生時の状況
作業状況は、その日の午前中にローリー積場において出荷準備中であり、ドラム充填場において充填を行なっていた。
地震時、従業員は装置の各バルブを締め避難している。施設には、各所に地割れが生じ、タンクが沈下又は傾斜し、配管が折損したため各所で油が流出していた。
(3)被害
地震発生直後の状態は、タンクについては、揮発油用1、000K1タソクが沈下し、他の4基は傾斜したのみで、いずれも本体に損傷はなかった。すべての配管が破損して、油が流失しかなりの損害をうけた。
施設の沈下と、津波によって、全面が冠水し、材木やドラムが漂着したため、施設の再使用にはかなりの補修を必要とする。
防油堤は鉄筋コンクリート造りであったが、基礎の強度が十分ではなかったので、底部で折損して使用できない。
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13.丸善石油新潟油槽所の被災状況
所在 新潟市万代島埋立地先県有地
敷地 472坪
(1)施設概要
タンク関係^
ガソリン 300kl×1、灯油 300kl×1
軽油 100kl×1、A重油100kl×1 50kl×1、 B重油300kl×1
建築物工作物関係
危険物倉庫 鉄骨ブロックモルタル仕上げ亜鉛鍍鉄板葺、10.6坪 1棟
ポンプ室 コンクリート陸屋根ブロック造、6.5坪 1棟
消火ポンプ室 コンクリート陸屋根ブロック造、2.3坪 1棟
ローリー詰場
鉄骨波型トタン張片屋根、7.5坪 1棟
事務所兼社宅
木造亜鉛鉄板葺モルタル塗、2階建30坪 1棟
専用線 60メートル
(2)地震発生時の状況
当日の地震発生時、ガソリンのローリー及びドラム充填作業を実施していたが、構内全体に無数の地割れが発生し、割れ目より地下水が噴出しはじめたので、構内作業員は直ちにローリー充填用コック及びドラム充填用バルブを閉止して、200メートルはなれた日通材料置場へ避難した。その後約2分経過して危険が一旦去ったのを見極めて同所主任が引き返えしてタンク元バルブを完全に閉止した。この時、津波が川口より襲来するのを確認している。
(3)被害
当製油所の敷地は地震により0.5~2.5メートル沈下し、地下水の噴出、津波等により全体が冠水した。このため6基あるタンクはいずれも陥没して5°~10°傾斜し、特にNo5.のタンクは完全に顛倒した、このタンクは容量50kl、A重油貯蔵用のもので、地震発生時ば貯油をしていなかったものである。
なお、下表のとおり、貯蔵油が多量に流出した原因は、午前中からひきつづき行なっていたローリー及びドラム充填作業中に地震が発生したため、構内作業員がローリーの充填コック及びドラム充填用バルブは閉止したがタンクの元バルブを閉じずに一時避難したため、後刻主任がタンクの元バルブを閉止するまでの間に流出したものである。
配管については、タンク専用線配管は護岸陥没の際に寸断され流砂に埋没し、又、固定された配管は各部で折損した。防油堤は数ヵ所にわたって切断され、倒壊、傾斜している。
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14.日本瓦斯化学新潟工業所の被災状況
所在地 新潟市松浜町3500番地
(1)施設概要
タンク関係
メタノール 200kl×6、40kl×3 2,000kl×1、150kl×1 300kl×2
粗メタノール 200kl×7
ホルマリン 50kl×4、 100kl×1
重油 15kl×1、 10kl×1
純水用 300kl×1、 10kl×1
メタノール 2,000kl×1(臨港)、3,300kl×1
酢酸 200kl×1(万代島)
硫酸 2,000t×1(松浜工場)
(2)被害
敷地全面にわたって河水と地下水が流入し冠水した。又、当工業所は地盤の隆起及び陥没が甚しく、基礎杭と機械基礎との間に亀裂を生じる等相当の被害を受けた。
タンク関係では、タンク総数40基のうち沈下等をしたもの8基、傾斜したもの15基におよび、貯蔵中の危険物もメタノール約220k1、粗メタノール約370kl及び酢酸約200k1が流失した。
配管関係ではフランジがはずれたり、バルブやジョイントに亀裂が生'じたものが多く、総タンク、数の約半数におよぶタンクの配管がこれ等の損傷を受けた。これが上記の如く多量の危険物を流失する原因となったものである。鉄筋コンクリート造の防油堤は傾斜しただけで倒壊はまぬがれた。
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15.新潟市におけるその他の危険物施設の被害状況
地下タンク貯蔵所、屋内タンク貯蔵所及び給油取扱い所における被害の概要は、下記のとおりである。
3 給油取扱い所
被災給油取扱い所数 40
被災計量機数 43
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16.東北電力新潟火力発電所燃料タンクの被災状況
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17.危険物施設として今後検討されるべき諸点
新潟地震は、地震国日本にまた1つの経験と教訓を与えたが、特に危険物施設については、貴重な経験と教訓を与えたといえる。
化学工業の近年における発展には、非常に目ざましいものがあることは、ここでのべるまでもないが、このことは世上いうところの危険物品の増加によって著しい進展をとげてきたといっても過言ではない、逆にいえば、化学工業の発展は、危険物品を製造したり取扱ったりする施設、またそれを貯蔵する施設等種々の形態の施設の増加をもたらすものといえる。
この増加している施設には、諸外国において開発された設備又は科学技術の諸外国との提携により外国で用いられている設備をそのまま国内に設置するものがないとはいえない。
また、これらの諸設備は、必ずしも日本が地震国であるという点まで配慮されているものであるとは限らない。
危険物品関係施設のうち、特に危険物施設について限定してみても全く同様のことがいえる。勿論、現存する保安法令には、いずれも地震を考慮した規定が含まれているが、必要にして十分であるとまではいえない。しかし、保安法令による規制とて全ての災害を予想し、かつ、それに十分対処できる体制を整え得るものではなく、限界があることは自明のことであろう。かかる事情を考慮するとき、今回の貴重な災害事例を今後の対策を樹立するため十分に活用することこそ防災行政に携わる者に課せられた道といえよう。
因みに昭和20年以降に発生した大地震と呼ばれるものは、三河地震を始めとして十指を超えるものがある。大地震には、大被害を伴うことは、周知のことであるが、これまでに発生した地震の被害地には、新潟市のように大規模危険物施設が存在していなかった。今回の地震は、この点で全く新しい意義を持った地震であったとみられる。
このような意味あいから、全く客観的立場から災害を観るとき、今回の災害は、巨費を投じた地震に対する大実験であり、その実験結果から引き出せる結論の価値は、非常に大なるものであるといえよう。
危険物施設には、一方には、進代化学工業の先端を歩むところゐ天規模な石油化学、石油製精工場があり、他方には、ガソリンスタンド等のように市中に多く存するものもある。
今次の災害を受けた新潟市には、この幅広い対象施設が設置されていたことが重要な点であろう。勿論、新潟市は、特殊な地盤構造の地帯であり、そのよ5な地域に設は皇ね工込た危険物施設の被害程度により、他の地域に設置される施設の安全度を全て類推することは困難であるが、少なくとも安全に対する指針としては十分な価値をもつものであろう。
そこで、この項においては、今次災害で大被害を被った石油製精工場及び油槽所等に焦点をあて、そこから問題とされるべき一般的事項を掲げることとした。従って、提起した問題点は、技術的に十分検討し尽くされた事項を網羅したものではなく、今次の災害から直ちに改めることが適当と認められるもの、また今後技術的に検討を待たなければ結論を下すことができないもの等が混在しているが、とに角、問題点の提起という観点から掲げたものであることを予めのべておく。
1 位置関係
ア.危険物施設の民家等との距離
危険物施設は、その施設の危険度に応じ、民家等との間に十分な距離を保つよう再検討することが必要である。
不幸にして万一災害が発生した場合には、少なくとも自己施設から他の関係のない民家等への波及は絶対させないとする防災的措置が必要であり、その対策の一環として対外部への距離が問題とされるものである。昭和石油火災の例をとれば、原油タンク群から流出した火のついた原油が数100メートルも隔った民家にまで至り、民家、倉庫等を焼失させている。
この事例は、民家等に対する距離というものが平面的に捉えられていただけでは、災害拡大防止の目的を達成し得ないことがあることを示したものといxる。上記例の場合は、タンクから流出した多量の原油が防油堤の破損箇所から流出し、そのために起きた延焼火災である。仮りに、防油堤に異状がなかったらこのような延焼火災は生じなかったかもしれない。しかし、万一災害が発生しても、自己施設以外に災害を拡大させないことを考慮するとき、大規模危険物施設を設置する場合は、民家との距離及びその施設の所在する周囲の地形からくる特殊性等を考慮し、その位置が選定されなければならないものといえよう。
大規模危険物施設の設置場所が危険物の流出により災害を拡大するおそれのある地形である場合には、その工場敷地の境界に土盛りを施す等の措置を講じておくことが必要となろう。
イ.工場内における施設の配置
工場内部における諸施設の配置は、その施設の危険度を十分考慮したものとする必要がある。万一火災等の災害が発生した場合に、それを最少限に止め置くためには、施設問の配置関係が検討されなければならない事項の1つとなる。例えば、タンクヤードとその他危険物施設が集合している構内地域には、その地域において火災が発生した場合、発災施設から他の施設への延焼を防ぐため、施設相互間に十分な距離と消防の活動に活用できる道路を設けることが必要であろう。
最近の傾向として、狭い敷地に設けられるタンクヤードのタンク配置には、防災上の適正性を欠くとみられるものが多い。狭い敷地内にあたかも消防等の進入道路の必要性を無視したかのようにタンクを目白押しに並べたてたものを計画するのがそれである。これは、土地利用に専心し、防災を軽視した態度といわざるを得ない。特に、大量の危険物を貯蔵するタンクヤードを計画する場合は、この点を十分考慮する必要があろう。
また、タンクヤードは、工場内の常時火気を使用するボイラー及び加熱炉等の施設から可能なかぎり離した位置とするよう検討すべきである。
タンクヤードのボイラーや加熱炉に対する考察と同様に、装置集中地区を計画する場合は、構造上比較的安定性を保持し難い煙突、塔等からの距離についても検討が必要であろう。
2 構造関係
ア.タンク、装置等の基礎
基礎の強度は、今回の災害において、特に注目された点の1つであろう。
耐震性ある基礎を設けるには、まず、タンク設置場所の土質の十分な調査結果に基づいてその基礎工法が決定されなければならない。それによって始めて、十分な強度のある基礎が完成するのである。しかるに、今回の地震は、施設基礎にかなり不完全なものがあったことを明確に立証した。従って、今後タンク等の設置にあたっては、土質の十分な調査及びその土質に応じた基礎工法が進められることが望まれる。
基礎の不完全さは、不等沈下の原因となり、その結果タンクの変形、底板の裂傷、装置本体の変形、転倒及び付随配管類の損傷等を招くことになる。
工場の所在する地域が、高潮又は出水の可能性がある場所である場合は、タンクや装置等のうち、特に緊急時に使用する機器装置類や加熱炉、ボイラー等の火気を使用する設備類については、その基礎の強度とともにその基礎の高さ及び周囲地形についても一考する必要があろう。
このような地域において高潮又は出水等が起こった場合は、重要機器類の機能の停止を招く恐れがある。また、油等の危険物が流出したり、飛散したりしている状況下において、高潮や出水が生じた場合は、その危険物を水により拡散せしめることとなり、引いては火気使用設備付近への拡散、流入を招くおそれが多分にある。このような関係から周囲の地形及び基礎の高さが問題とされるものである。
イ.タンクの構造関係
危険物施設が地震等の災害により火災となった場合、火災の規模において最も問題とされるのは、貯蔵タンクであろう。
一般的に、火災発生の危険性は、貯蔵状況におかれた危険物より、加熱、加圧、気化等物理的な変化を加えられて装置内部を流動している危険物のほうがより大といわねばならない。しかし一度、火災が発生した場合の消火、鎮圧の困難さは、火災発生危険の頻度とは逆の状況を示すことがある。従って、今回の災害を機会にタンクの構造全般について再検討されることが必要となろう。以下数項目について触れてみる。
(ア)タンク本体の強度について
タンク本体の強度については、タンク底及び側板の強度、溶接方法等タンク自体の強度について再検討しておくことが必要と考えられる。
(イ)タンク規模について
タンク規模は、タンク火災とその効果ある消火作業の可能性との関係において、特にその高さが検討されなければならない。タンク火災に対する消火の可能性の限界は消火技術の内容が、その限界を決定するものであるので、この点を検討して、タンク規模を決定する必要があり、今後に残された大きな問題点といえよう。
(ウ)タンクルーフについて
今回のタンク火災で特に注目を浴びたのは、浮屋根式タンクのタンク構造であろう。
地震により、浮屋根式タンクから出火した事実は否定され難いが、この事実だけをもって浮屋根式タンクは地震に対して危険度が高いものと断定することはできない。
しかし、浮屋根の構造については、今後次の諸点の検討が必要とされるであろう。まず第1は、シールの機構である。地震によるルーフシール部分とタンクシェルの摩擦による発火の危険性、落雷に対するルーフシール部分とタンクシェル間の放電による発火の危険性、シール火災に対するシール部分の耐火性など予想される危険性に対処する機構が今後検討されることになるであろう。
第二は、浮屋根の構造である。浮屋根は、常時油面上に浮いているものであるから、地震の場合は、油面の動揺により浮屋根を動揺させることになる。従って、タンクの油量が大なるときは、その動揺によりタンク内の油を溢流させる危険がある。今回の地震において、満量に近い油を収納していた浮屋根式タンクはかなり多量の油をタンク外部に溢流させている。またその結果大火災をまねいたのである。従って、今後は、このような災害が起きないよう油面が動揺しても容易に危険物が溢流し難い機溝が望まれる。
また、地震で浮屋根が激しく動揺した場合は次の危険性が考慮されよう。タンクシェルに亀裂等の損傷を与える危険性及び浮屋根とタンクシェル並びにタンク頂部との衝撃によるポンツーンに損傷を与える危険性また、ポンツーンの損傷による浮屋根を没下させる危険性等がそれである。これ等の点については、浮屋根の強度、浮屋根面積に対するポンツーン面積の広さなど種々の面からの検討が今後の課題とされよう。
以上は、浮屋根式タンクについてであるがコンルーフタンクの場合は、浮屋根式タンクにみられた程の多量の危険物の溢流はみられなかった。しかし、満量に近い油を収納していたタンクはやはりタンクシェルとタンクルーフとの結合部の損傷箇所から或程度の油の溢流をみている。
コンルーフタンクは、その構造上、タンクシェルとルーフの結合部分を予め弱化させているため結合部分の損傷はやむを得ないものである。しかし、タンクが激しく動揺した場合でも危険物の溢流を可能な限りにおいて少量に止められるようその構造を改良することが望まれる。
(エ)ドレインパイプについて
今回、災害を被ったタンクには、ドレインパイプとタンクとの接合箇所の折損または亀裂によって、タンク内の危険物の流失をみたものがかなり認められた。
これは、地震によるタンクの不等沈下、タンク位置の移動などによって起きたものであるが、いずれの場合にしてもドレインパイプの接合箇所及び接合方法の適否が指摘されるべきものであろう。
ドレインパイプは、タンク元バルブと同様にそれが損傷した場合は、タンクに収納している危険物の流出を防止できなくなる関係にあるためタンクにおける非常に重要なる部分といわなければならない。ドレインパイプは、タンクの不等沈下などの条件を考慮して設けられていないものが多く、そのためかかる事故を生じたのであるが、今後、今事例を十分検討し、その接合箇所及び接合方法について本来的にあるべき箇所、方法を検討する必要があろう。
3 防油堤の関係
防油堤に関する問題は、今回の災害において非常に注目された事柄であり、またその機能について再認識された事柄でもある。仮りに、今回地震において防油堤がその機能を十分発揮することができたならば、地震による被害はかなりの範囲に縮少できたものと考えられる。
防油堤は、タンクに収納している危険物が何らかの原因により流出した場合、流出する危険物の拡散防止を目的として設けられるものである。従って、防油堤は、タンク災害拡大防止の砦ともいうべきものであろう。このような機能を持つものであるから防油堤は、非常事態が発生した場合に初めてその効果を示すものである。しかし、今回の災害をかえりみると防油堤については全般的に再検討される必要があると思われる。以下数項目について触れてみる。
ア.防油堤構造について
構造については、地震の場合にその機能を十分に発揮できないものがあることを明らかにしたといっても過言ではない。特に、コンクリートブロック製のものは、耐震性においても、また耐熱性においてもその弱さを示した。
また、鉄筋コンクリート製の防油堤であっても地盤の起伏の著しい場所にあったものは震動による被害を受けている。しかし、その程度は、コンクリートブロック製のものとはかなり異なり、その構造によっては、強度的に相当程度期待できうるものといえよう。ただし、鉄筋コンクリート製の防油堤とする場合においてもそのエキスパンションの構造については、今後検討を要する点であろう。
いずれにせよ防油堤を耐震力あるものとすることは、非常に困難であるが、土盛り、コンクリートなどの組み合わせにより耐震力に対する欠陥を補うことは可能であり、その方面の研究が望まれる。
イ.防油堤の容量について
防油堤は、タンクから危険物が流出した場合にその拡散を防止するために設けられるものであるから堤内の容量が大きいことが望まれることは当然である。一方、防油堤の高さは、タンクに緊急事態が発生した場合、堤内に比較的容易に出入りすることが要求されるものであるから、この要件を満足することが必要である。しかし、自とその高さには、限界があり、その限度内で堤内の容量を大ならしめなければならない。従って、その高さの限度内において容量を大ならしめるには堤内の面積を増大させなければならない関係に立つ。
更に、不測の事態に対する場合を考慮するとき、でき得る限り堤内面積は小さいことが要求される。このように防油堤の堤内容量及び高さは、一方に偏することができない関係にあるから防油堤の容量は、この両者の関係を十分検討して決定することが要求される。また1の防油堤に2以上のタンクを設ける場合は、各タンク間に仕切堤を設けることが問題とされてくる。この場合においても仕切堤の高さは、防油堤の面積と切り離せない事項として検討される必要があろう。
ウ.防油堤とタンクとの間隔について
タンクと防油堤との間隔については、タンクに収納される危険物の性状及びタンクの高さ、構造等により応じたものが考慮されるべきであろう。
エ.その他
以上のほか、防油堤を貫通する配管の設置方法、排水口設置方法等が検討されるべき点として掲げられよう。
4 設備の関係
ア.消火設備
消火設備については、他の問題点と同様今回の火災でも大きくクローズアップされたものである。
昭和石油製油所についていえば、一応その設備が整っていたにもかかわらず地震により全く使用不能の状況にあったことである。火災を発生しなかったそのほかの製油所及び油槽所等においても同様の状況下におかれたものがかなりあった。
これは、地震による地盤の陥没、出水、津波等によりおこったのであるが、1例を火災が発生した昭和石油製油所の消火設備についてみると、消防用ポンプ室は、地震により傾斜し、ポンプ基礎傾斜のため消防用ポンプが使用できない状況にあり、また、消火配管のうち地中に埋設されている配管の立ち上がり部分は、著しく損傷を受け、送水不能の状況にあったこと。また、工場の化学消防車は、構内道路損壊のため直ちに活動できない状況にあったこと、などが掲げられる。このように、消火のための設備は、地震によりことごとくその機能を停止させられたとみられる。
そこで、地震等の災害時においてもその機能を十分発揮できるよう消火設備及び消防活動体制全般について今後検討する必要があろう。
以下数項目について触れてみる。
(ア)消防用ポンプ室
まず、消防用ポンプ室の設置場所は、工場において災害が発生した場合にあっても出水、油の流出等による火災の影響が最も少なく、かつ、操作が容易に行なわれる場所が選択されなければならない。また、その基礎は、堅固な地盤に設けられなければならないであろう。また、その原動力は非常の場合においても駆動可能な方策を構じておくことが必要とされよう。
(イ)消火配管について
消火配管は、地上、地下いずれかによることになるが、特に地下配管である場合は、地震などにより配管が損傷を受けても確認が困難であり、送水不能に至る場合が考慮される。従って、地下配管とする場合は配管の途中1箇所の損傷により全配管の機能が遮断されることがないよう予め配管方法を検討することが必要となろう。また、地下配管から地上配管への立ち上がり部分については、地盤面及び配管の変動による配管結合部分への影響を考慮し、立ち上がりの方法についても検討が必要になろう。
(ウ)タンク消火設備について
大規模のタンクに設ける消火設備は、今回の災害を考慮すると固定式、半固定式のいずれがより適切であるか、或は、浮屋根式タンクの場合には、まず考えられるのはシール火災であるから移動可能な消火設備による消火が適切であるか等については、今後の検討を待たねばならない課題といえよう。
固定式消火設備は、地震等の場合に配管径路において損傷を起こす危険が考慮されるので、配管損傷による消火機能の低下をきたさないよう予めその対策が考慮される必要があり、半固定式消火設備は、その消火設備の薬剤注入口に地震により地割れ等が生じた場合においても化学車が容易に接近できるよう予め対策が考慮される必要がある。また、移動可能な消火設備は、消火作業員が容易に出火場所に接近できる状態がとれるよう考慮される必要がある。以上は、いずれも消火の適格性において一長一短があり速断し難い。いずれの消火設備が適切か、或はこれらを組み合おせたものが適切かは今後に残された問題ではある。
大規模タンクについては、その消火設備の設置とともに次の事項の検討が必要であろう。即ち、不幸にして大規模タンクが火災等になった場合のタンク内の危険物の取り扱いである。大規模のタンクから出火した場合又は近隣のタンク等の施設から出火し、火災拡大のおそれがある場合は、そのタンクに収納している危険物を安全に他のタンク等の施設に移送する方法が予め検討されていることが今後必要となろう。
(エ)消防水利等について
消火設備とともに重要とみられるものに消火薬剤と消防用水の確保がある。火災の場合、水は、薬剤放射用と同時に、タンク等の施設の冷却に用いられるものであり、また、特に、地震などの場合は、同時に数箇所から出火する場合が考えられるのであるから十分な水量の確保が望まれる。しかし、現状は満足な状況にあるとは必ずしもいえず、この点も今後検討されなければならない問題であろう。
消火薬剤についても、消火対象となる施設の内容に応ずる薬剤の確保が必要となる。また化学工場密集地域においては、共同の薬剤備貯など検討される必要があろう。
イ.配管関係
消火設備の配管については、前項にのべたが、ここでは危険物移送配管についてのべる。
(ア)タンク関係の配管について
まず、タンク関係の配管は、タンク元バルブの配管部分が注目されたものといえる。今回の災害でタンク元配管に十分なフレキシビリティーが保持されていなかったものは、地震によるタンクの不等沈下や移動により、配管又はバルブに損傷をきたし、収納している危険物を多量に流出させ、危険地域を拡大させた事例がみられた。一方、十分なフレキシビリティーのとられているものは、タンクの沈下、移動等に耐えその効果に大きな相異のあることを示した。従って、タンクの元配管は、十分なフレキシビリティーの保てる施工をするか、或はそれに代わるべき耐熱性のあるフレキシビリティーを供えたメタルホース等を設け等種々の面から検討される必要があろう。
装置間、タンク間の配管においても地中から地上に立ち上がる部分の配管については、十分にフレキシビリティーを保持させるようにする必要がある。
(イ)工場外部の配管について
次に、工場構内外部にある配管に触れてみる。構外の配管としては、原料受け入れのための桟橋などからの配管或は、他工場との間を通じる配管などがある。ここで特に検討を要すると思われるものは、構外配管のうち特に民家集合地域付近を通過するものである。今回の災害を例にとれば、日本石油王瀬油槽所から同所製油工場に至るまでの送油管(直径10インチ)が、市内松島町の日東紡績倉庫付近の地中で地震により破損し、配管に滞留していた原油が流出した。このため間もなく付近の火源により引火、火災となり付近の民家、倉庫など11棟を全焼させる事故に至ったのである。幸い付近は民家の密集している地域ではなかったが、民家密集地域においてかかる事故が発生しないとはいえない。昨今のように化学工業の進展a!
?≪伴い生産原料を他工場から配管を通じて、供給を受け、或は生産品を他工場へ配管を通じて供給する形態がとられるようになれば、工場構外の配管設置の傾向は増加する方向にあるといえよう。河川、鉄道、軌道を横断し、或はそれに沿い、市街地付近の地下を潜り設置される配管は安全性について細心に過ぐる程考慮されなければならない。この方面について、安全に対する種々の面からの検討が望まれる。
ウ.電気設備関係
電気関係諸設備のうち、特にその設置について検討すべきものは、電気配線であろう。電気配線が各電気設備と結合する部分、各装置問を走る部分、地下ケーブルとして地中から地上に立ち上がる部分等には、十分なフレキシビリティーを保持するようその設置方法、設置位置を検討し、地震、風等に対処しなければならない。
以上数項目にわたり、今後種々検討されるべき点を掲げてみたのであるが、始めにものべたように、ここで取り上げた問題点は、全問題点の一部分に過ぎないかもしれない。しかし、今後、保安対策を1歩でも前進させるための参考の一助となり得るものと考える。
第2 昭和石油新潟製油所火災調査
1.り災前の状況
(1)位置
昭和石油新潟製油所は、図—1にみられるように、新潟市を貫流する信濃川の右岸河口部付近で、同市の「旧市街地」ともいうべき地域の東北端部に位置し、ほぼ東西方向に長いその工場敷地の北側は直接日本海に臨んでいる。また、当工場の付近一帯は発展しつつある新潟市の「工業地域」として、都市計画による指定を受けた地域であって、信濃川右岸河口部に造られた「新潟港」の埠頭施設をはじめ、鉄道その他の交通の便にも恵まれた地域である。
(2)地勢
本製油所附近は、地質的にみると、信濃川および阿賀野川の2つの河川にはさまれた地域で、両河川の河口堆積物が地表面下数100mの深さにまで及んでいるが、特に地表面に現われた地形的な特長としては、日本海の卓越風により形成された砂丘が、海岸線とほぼ平行に数条走っており、本製油所は、これらの砂丘のうち最も海岸に近いもの(形成されたのが最も新しいもの)の北側斜面下に位置しているということができる。
本製油所付近の土質条件については、ボーリング資料によると、地盤面下約1.7mまでは埋土であり、その下4mまではしまりの弱い細粒砂である。さらにその下方15.5mまで(ボーリングはこの深さまで行なわれた)はややしまりの良い細粒砂となっている。なお、以上の関係をボーリング資料によるN値を用いて示すと図−2のとおりである。
(3)気象
当地の気象について、新潟地方気象台の資料によると、気温は年平均13°~14°C、最高、37.2°C、最低−6.6°C、6月における月平均気温は約20°Cである。風速は、年平均で3.9m/s~4.Om/sとかなり高く、年間暴風日数も90日以上で、特に冬期に著しいが、6月における月平均では2.9m/~3.5m/sという程度である。湿度は、年間平均および6月の月平均値とも大体75%~80%程度である。なお、出火当日の気象条件については後記((1)・アおよび(2)・ア)する。
(4)工場内諸施設の配置状況
本製油所の構内は、昭和38年に完成したいわゆる「新工場」と呼ばれる地区と、昭和26年頃からあった「旧工場」地区とに大別することができるが、説明の便宜上、図−3に示すようにA~Dの地区に分けて、諸施設の配置状況の大要をのべると次のとおりである。
A地区
「新工場」と呼ばれている地区で、構内をほぼ東西方向に走る主要道路を境としてその南側に位置し、原油の精製装置である「インテグレーション・プラント」を中心としてその東側には巨大な5基(45,000kl×2基、30,000kl×3基)の原油貯蔵用タンク群、またその西側には10基(5,000kl×9基、2,500kl×1基)の製品用タンク群が整然と配置されている。これらの諸施設は昭和38年に完成して操業を開始した新しい近代的施設であり、後述する第1出火点もこの地区内にある。なお、石油タンク類の詳細については別に後記((6))する。
B地区
前記A地区の北側にあり、図—3に示すように、その西北部には球形のLPGタンク2基を含むLPG(液化ガス)充てん装置があり(帝国酸素新潟工場所属)、西南部には重油貯蔵用タンク4基(15,000kl×2基、4,800kl×2基)が配置されていた。さらに当地区の東南部には、10,000kl容量のタンク2基が建設中(基礎工事のみ)であったが、その南側には、工作室の建物のほか、タンクローリー(運搬用自動車)に製品である石油類を塔載して出荷するための施設が設けられていた。なお、この地区は本格的な消火活動が開始された地区である。
C地区
前記B地区の東北に当たる地区で、本製油所全体の事務室等の管理部門が配置されている。ただし、同地区の西側には資材倉庫やドラム塗装室等の建物があり、また東南隅に当たる位置には自動車車庫があり、地震発生当時昭和石油所属の化学消防車2台と客シラ付ポンプ消防車1台もこの車庫に入れてあった。なお、この地区は付近一帯より多少盛土してあったためか地盤高が高く、そのため津波および地下水の噴出による浸水に対しても最後まで水没を免れた地区の1つである。
D地区
前記C地区の北側を走る鉄道の構内引込線を境として、その北側より海岸線に至る部分の地区で、いわゆる「旧工場」と呼ばれる地区の中心的な施設が配置されている。それらの諸施設のうち主なるものを東側より配置の順に列挙すると次のとおりである(図−1参照)。
東北隅には原油タンク4基(2,000kl、1,600kl、900klおよび800kl各1基)があり、その西側には常減圧連続蒸溜装置と半製品の灯油、軽油および潤滑油等を入れる19基(36kl、50kl、60kl、90klおよび100klの4種)の小型タンク群があり、その西隣りには貯水池とボイラー室をへだてて第1および第2の常圧連続蒸溜装置(トッピング・プラント)ならびにその付属装置が一団となって配置されている。さらにその西側、海岸沿いの部分には灯油、軽油類用のタンク16基(180kl×4基、360kl×4基、720kl×1基、900kl×7基)が並んでいる。再び東側にもどると、この地区の東南隅に当たる部分には「新潟アスファルト工場」という名のアスファルト加工工場があるが、同系列の会社のためか、境界に厳重な塀の類は設けられていない。この会社の西側に当たる鉄道!
線路沿いの部分には、航空機用ガソリンなど揮発油類を入れた10基(360kl×1基、500kl×2基、540kl×1基、1,000kl×6基)のタンク群がある。この施設の北側および西側にはコンプレッサー室とかドラム洗滌室などの施設があるが、さらにその西側には灯油連続洗瀞装置、硫酸および苛性単独洗滌装置等の諸施設がある。この地区の最西端に当たる部分には5,400kl容量の原油タンクと720k1容量の残油タンクがあるほか、南方の鉄道線路沿いには大小合わせて299基のタンク群が配置されている(500kl~20kl)。
E地区
前記のAおよびB地区の西側には「運河」と呼ばれる水面があるが、これは本製油所の敷地の西南方にある「東北電力新潟火力発電所」からの巨大な排水管路がこの部分で開渠になって日本海へ注ぐ途中の水路で、海岸における出口には大きな水門が設けられているので、一種の大規模な貯水池ということもできるわけである。E地区は、この運河をへだてた西側に位置する部分で9基のタンク群が並列している地区である。その9基の内訳は、1,500klおよび1,000klの原油タンク各1基、3,000klの軽油タンク3基および3,000kl×2基、7,500kl×1基、10,000kl×1基計4基の重油タンクである。なお、運河の最南端部にある「臨港橋」という橋の北側に当たる部分には、本製油所全体の固定式消火設備の心臓部ともいうべき「ポンプ室」がある。
(5)隣接地区の状況
本製油所の火災と関係ある隣接地区の状況について、前項と同様に各地区に図−3に示すような便宜上の記号を付して略述する。
F地区
昭和石油KKの社員寮および社宅群がある地区で、一部にはG地区にある「三菱金属鉱業KK」の社宅および一般民家もある。建物はほとんど全部木造下見板張瓦ぶき平家建の和風住宅であったが、地盤面はG地区に比べると多少高くなっている。なおこの地区の一般的町名は「平和町」となっている。
G地区
三菱金属鉱業KK新潟第1工場のあった地区で、最も海岸に近く、地盤面も隣接のD地区とほとんど同じである。そのD地区との境界には、コンクリート製組立式塀(商品名「万年塀」)が設けられていた。
H地区
本製油所の西側、E地区に隣接する地区で、「歴世鉱油KK」の敷地である。主なる施設はタンク4基とポンプ室および倉庫などである。
I地区
石油関連施設の多いこの付近の地区のうち、この地区のみは多少異なり、「新潟電波標識局」のラジオビーコン施設などの建物があり、地区内の東側は未だかなりの空地を残していた。
J地区
前記のI地区の西側に隣接して「亜細亜石油KK」の敷地となっていた地区である。主なる施設としては、小型のタンク類7基とその関連施設が挙げられる。
K地区
前記のJ、HおよびF地区の西側から新潟港(内港)の埠頭地区に至る一帯の地区で、一般町名は「臨港町」と呼ばれている。埠頭よりの鉄道引込線より北側の部分には「松治倉庫」と「昭和石油、新潟油槽所」とがあり、線路の南側は一般民家で、普通の木造平家建の建物が建ち並んでいた。
(6)石油類の貯蔵施設(タンク)について
今回の地震火災の特色は、大量の石油類の貯蔵タンクが炎上したことにあるので、特にそれらの
うち主なるものの位置関係(地区記号、タンク番号)油の種類、最大貯蔵量(呼称)、当時貯蔵量
直径、高さ、構造および今回の被害状況などについて、まとめて表示すると表−1のとおりとなる。
(7)消防設備と自衛消防隊
本製油所には、いわゆる「危険物」の製造、取扱いおよび貯蔵する施設として消防法の定めるところに従い、各種の消防設備が設けられていた。特に第1出火点を含むA地区は、昭和38年に完成したもので、その設備も新しく、老朽などによる故障は考えられないものである。これらの消防設備の主なるものと会社の自衛消防隊とについて概説すると次のとおりである。
ア.初期消火用器具(消火器)
本製油所の各所に備え付けられていた消火器(大型消火器を含む)の種類別個数は表−2に示すとおりである。
イ.固定消火設備
(ア)水源……(図−4参照)
(イ)泡消火設備
a 送水ポンプ
モーター付 200HP、送水量300kl/h、圧力9.3kg/cm2
デイーゼルエンジン付200HP、送水量320kl/h、圧力9.Okg/cm2
b 薬液ポンプ
モーター付 20kw、送水量24kl/h、圧力10kg/㎝2
デイーゼルエンジン付15HP、送水量12kl/h、圧力10kg/cm2
c 薬液タンク(空気泡用原液収容用)
構造・形状……鋼板製直立円筒型
寸法・容量……1.9mφ×3.2mh、容量9kl
基数…………2基
d 薬液(空気泡用原液)の保有量
e 配管
本管は200mmφ、支管は100mmφを用い、A地区では堀割式パイプヤードの中を他の配管類と同様に露出式(ただし防油堤、交叉道路などを貫通する部分は地下埋設式)、またA地区以外の地区(旧工場)では地下埋設式の配管が行なわれていた(図−4参照)。
f 泡用消火栓
地上型、双口(65mmφ)の泡用消火栓が、A地区では17基、その他の地区(旧工場)では14基、計31基設けられていた。
g タンクのフォームチャンバー
(ウ)水消火設備
a 送水ポンプ
定置式ガソリンエンジン付105HP、送水量120m3/h、圧力3.4kg/cm2
撒水冷却用モーター付75HP、送水量120m3/h、圧力7.5kg/㎝2
b 配管
A地区では、本管200mmφ、支管100mmφ~75mmφ、またその他の地区では本管150mmφ~125mmφ、支管115mmφ~80mmφを用い、敷設方法は前記の泡消火設備用配管の場合と同様である(図−4参照)。
C 消火栓
地上型、双口(65mmφ)の屋外消火栓が、A地区に11基、その他の地区に47基、合計58基設けられていた。なお、これらに付属して消火用ホース等を収納した格納箱が適当に設けられていた。
d 油タンク冷却撒水用配管設備
(エ)蒸気消火設備
本製油所には、蒸気を利用する消火設備が設けられていた。その設置場所は図−4にみられるようにD地区内の東北部にある「常減圧連続蒸溜装置」、中央北側にある「第1および第2常圧連続蒸溜装置(トッピングプラント)」および西南部にある「灯油連続洗滌装置」の4カ所、ならびにA地区内の中央部にある「インテグレーションプラント」、西端部にある「白油ポンプ室」およびB地区のNo.12タンク付近にある「黒油混合、黒油出荷の両ポンプ室」付近の4ヵ所、合計8ヵ所である(図−4参照)。
ウ.自衛消防隊
本製油所には会社の従業員を以て組織する自衛消防隊が設けられていたが、その大要は次のとおりである。
a 編成
6カ班、班員数55名、うち専任は1力班12名で、その他の班および班員は非専任である。
b 詰所
C 地区の東南端近くにある自動車庫を専任隊員の詰所としていた。
c 装備
化学消防車
日本機械工業KK、昭和38年5月製造、エンジンいすず140HP、放水量200m3/h、放水圧力10kg/㎝2
化学消防車
市原ポンプKK、昭和30年製造、エンジン日産105HP、放水量150m3/h、放水圧力22kg/cm2
タンク付消防ポンプ車
いすず自動車KK、昭和18年製造、エンジンいすず80HP、放水量96m3/h、放水圧力14㎏/㎝2
可搬式消防ポンプ
東京発動機KK、昭和34年2月製造、エンジン、トーハツ4気筒35HP、放水量84m3/h、放水圧力7kg/cm2
d その他
本製油所の「防火管理規定」は昭和29年2月1日に制定され、その後数回にわたり改訂が加えられた。また「消防規則」は昭和30年に制定され、消防隊長は工務課長、同副隊長は総務課警備係長とし、前記化学消防車2台を中心として活動するよう計画が立てられている。また、相互応援については「日本石油KK新潟製油所」との間に昭和38年3月15日「消防設備相互援助協定」が結ばれていたが、今回の災害の如く両者が同時に被災した場合にはその効果が発揮できなかったわけである。
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2.出火状況および出火原因
(1)第1出火点
昭和39年6月16日午後1時02分頃発生した地震により、大地、建物およびタンク等の諸施設は大きく揺れたが、A地区の東部にあった5基の巨大な原油タンク群も大揺れを起こし、タンクの上端部から原油があふれ出したとみるまに、No.1103のタンクから出火し、タンクの周辺にあふれ出ていた油に延焼して、たちまちこの5基のタンクを含む全域が猛炎に包まれた。これを第1出火点からの火災という。
ア.出火当時の気象条件
新潟市消防本部の発表によると、第1出火点から出火した当時の気象条件は次のとおりである。
天候……晴
風向……西
風速……5.2m/sec
気温……22.2°C
総体湿度……60%
実行湿度……89%
イ.出火個所について
第1出火点の出火個所は、前述のようにNo.1103の原油タンクであることは、ほとんど間違いないと思われるが、これは次のような検討が加えられた結果である。
(ア)No.1103タンクの上端付近より出火したという説
当時現場付近にいて出火を目撃した人のうち、大多数の人はこの説を主張しているが、特にC地区の事務関係の室にいたある者は、地震の初動とほとんど同時に点灯中の天井の螢光灯が消えたので、急いで室外へ出て右前方の巨大なタンクの方を見ると、浮屋根が大きく揺れ、その揺れている方向はほぼ北東一南西の方向(この方向を延長すると震源地といわれる粟島の方向とほぼ一致する)であったという。また、この時の出火までに揺れた回数については明確に何回とは記憶していないが、大体3~4回大きく揺れて、そのたびに原油がタンク側壁の上端よりあふれ出しており、一番手前のタンク、すなわちNo.1103のタンクの上端から何回目かの揺れ運動の直後、突然パット炎が上がり、火災となった。この時「ゴーツ」という音がe!
??えたという者もいる。この人の記憶と陳述は最も信頼性があり、特に時間的に、出火時刻が停電時刻より後である点がハッキリしている点は重要な点である。
(イ)No.1103タンクの上部の左右両端部から出火したという説
F地区の、昭和石油の寮および社宅群にいた人の中には、地震に驚いて戸外へとび出してみると、当然ながらNo.1103、1104および1105の3つのタンクが横に並んでいるのが見え、それらの浮屋根がいずれも大きく揺れているのが見えたという。そして問題の出火個所は、やはりこれらの人々の側からみて右端のタンク、すなわちNo.1103のタンクだという点では前の(ア)の説と一致している。ただ、タンクを北側からみて揺れているNo.1103の上端の、左右両側からほとんど同時に出火したのを見たという人がいる。これは、ほんとうは左か右かどちらかの一端から出火したものが一瞬にして他端にも延焼したのを見たものか、あるいは実際に同時に両側より出火したものか明かでない。しかし、この点については、いずれであっても原因の推a!
R?にはあまり大きな影響はないと考えられる。
(ウ)No.1103のタンクの側板の下部から出火したという説
前記(ア)、(イ)と同じく、No.1103のタンクから出火したという点には変わりはないのであるが、出火個所は、原油が上から下へ流れ落ちた時、地面付近、すなわちタンクの側板の下部付近であって、炎は直ちに上方へ走って全面的な火災になったという者がいる。これらの目撃談を聞いてみると、やはり記憶は多少あいまいで、上部と下部と何れが早かったかという点について確信のある人はなく、要するに、この説の信頼性は乏しいということができる。
(エ)No.1101のタンクの北東側より出火したという説
出火当時、たまたま同地付近を通りかかりNo.1101のタンクから出火したのを目撃したという人から投書があり、その人が信頼性のある地方公務員であったので特に重視して詳しく調査した。すなわち、G県の農政部畜産課に勤務するY氏(技師)と同僚のO氏の2人が、地震発生の当日、偶然他の所要でA地区の東側に接する道路を歩いていて、巨大なタンク群を背景に記念写真を撮り終わった直後、地震に遭遇し、No.1105のタンクの右側より出火するのを目撃したというわけである。その直後、この2人は恐ろしさのあまり未だ動揺の続く道路上を南へ一目散に走り、南方にあった小高い砂丘(物見山と呼ばれている)の東側より馳け上り、その付近の住民とともに避難したのであるが、その時Y氏が撮影したのが写真−1である。消防研究所a!
?R第2回現地調査班は、この説を確かめるため、昭和39年9月16日現場に赴いて両氏の行動したと思われるとおりの地点よりタンク群の方を見て確めたところ、ちょうどY氏等が出火を目撃したという地点は、No.1101のタンクの右側面とNo.1103のタンクの左側面とが、ほぼ重なって見える位置にあり、非常に見誤りやすい場所であることが明らかとなった。また、Y氏と
0氏とに直接会って、その目撃談を聞いた際にも、細部の点については両氏の間に観察結果の異なる点もあって、記憶の正確さについては幾分の疑問が認められたので、この貴重な目撃者の説も、結論的には信頼性に乏しいものとなったわけである。
ウ.出火原因について
第1出火点の出火原因については、現在未だ確定的なことは不明であるが、出火個所が前述のようにNo.1103タンクであること、および出火時刻が地震発生の直後、すなわち当日の午後1時02分頃からせいぜい1~2分以内程度の間と推定されることから、この部分の出火原因は、いずれにしても2~3の説に限定されてくるように思われる。以下その各説について検討を加える。
(ア)摩擦もしくは衝撃火花による出火説前述のように、多くの人々がタンクの浮屋根が大きく揺れ動いた現象を目撃しており、ある者は「屋根の裏面が見えた」とさえ言っている。その目撃したものが真に浮屋根本体の裏面であったかどうかは疑問のあるところで、あるいは浮屋根の外周の最上部に雨水の浸入防止用として付設してあった「ウェザーシールド」(図−5参照)という鉄板の裏面か、または他の部分であったかも知れないが、いずれにしてもかなりの量の原油の溢流を伴う大きな動揺が起こったことは事実であろう。これらNo.1101~1105の5基のタンクは最新式の浮屋根式タンクとして最近完成したもので、その構造の詳細は図−5に示すとおりである。特にその特長とするメタルシールの部分は巧妙な構造で、平常時なら!
ば防火上安全な設計であったということができる。ところが今回の地震の特長ともいうべき。軟かい地盤のために生じた周期数秒という極めて異例の長周期の振動により、タンク内の油面が浮屋根とともにいわば共振現象を生じたものと推定され、しかもこの推定に対しては、次のようにしてほぼ確実な裏付けを得ることができる。
すなわち、原子炉内の水の振動に関する実験を取扱った文献(注1)から、理論式および実験値を用いて、直径や高さの大なる場合のタンクの共振振動数および振巾を次のように近似的に求めることができる。
(注1)「地震時における原子炉容器内の水の振動」、加賀万亀男、日立評論Vol.45、4 1963
なお、共振点における水位の振巾比は、水の対数減衰率が同じであれば、タンクの大小にかかわりなく等しい値となり、大型タンクの場合の対数減衰率はほぼ0。01~0。03の範囲内である。
すなわち、以上の結果によれば、第1出火点となったNo.1103のタンクの場合、原油の代わりに水と仮定すると。最も大きな振巾を生ずる第一次共振点は、振動数0.118c/sec(すなわち、周期約8.5秒)で起こり、その場合の水位の振巾比は実に25~132という驚異的な値となる。これに対し、今回の新潟地震で始めて得られたという、貴重な強震計の記録(新潟市川岸町、強震計SMAC型)によれば、図−6に示すように、周期が5~6秒という、非常に長周期の振動が続いたことが明かであるので、前記のような共振現象を生じたであろうことは容易に推論されるところである。また、水と原油との相違や浮屋根の荷重や接触抵抗など、多くの関連要素の条件を考慮に入れても、液面と浮屋根との運動が、かなり烈しいものであって、振動により多e?!
?の原油の溢流を伴うものであったことが推論できるわけである。
上記のように烈しい浮屋根の振動が起こると、タンクの側壁から中心方向に向かって突出している部分、たとえば図−5にみられる「ローデングラダー」とその「プラットフォーム」、「消火用フォームチャンバ」などと浮屋根の一部分が激突するのは当然で、そこには衝撃火花の発生の可能性が考えられる。また「メタルシール方式」を用いているNo.1103のタンクの構造から、図−5でも明かなように、「シュープレート」とタンク側板内面との間には相当な摩擦があるのは当然で、これが今回の地震による大振巾の振動現象を起こした場合、烈しい摩擦運動を起こし、相当な摩擦熱を生じたと容易に推定される。これらの衝突や摩擦現象の激烈さの例証としては、No.1103のタンクは全焼大破して何も残っていないが。同じA地区にあっ!
た5,000kl容量の製品タンク群(No.1201~2091)は焼失を免れているので、それらの浮屋根上に登り実地調査した結果によるとある程度推察することができる。写真−2はその一例を示すものであるが、これらのタンクは、構造的には全くNo.1103と同様であって、唯規模が小さかったに過ぎないのであるが、若干の地盤不同沈下も伴っているためかタンク上端部も完全な円形よりかなり変形しており、側板の内面には浮屋根の振動による上下運動によって生じたと思われる垂直方向の「引きかき傷」が無数の線状となって残されている。また、甚だしい一例では、プラットフォームの下端に取付けられていた「検尺用パイプ(75mmφ)」がフランジ部分から引きちぎられて水平方向に1mほど移動しているなどの損傷を認めることができた。(写真!
−3参照)これらは何れも地震時の浮屋根の運動の烈しさを示す証拠ということができる。さらに前記のある目撃者談のように、浮屋根の一端がタンク側壁の上端より上方高く持ち上げられてから落下してきたとすると、図−5に示す構造からも明かなように、「シュープレート」の部分は元の位置よりばねの力で外方へ向って延伸されているので、当然「シユープレート」のほか「ハンガー」や「コイルスプリング」などの部分が側板の上端に激突したであろうと推定される。これらの衝突や摩擦の生じたことは、以上のようにほとんど疑う余地のないところであるが、その実況の細部がどのようであったかなどの点については、目下消防研究所で準備中の模型実験の結果により、さらにもっと詳細な点まで明かになるものと期待される。
次に、上記のような衝突や摩擦により生じた熱が、原油に着火する可能性については、現在のところ、次の諸点が明かにされている。
まず、原油等の可燃性液体より蒸発する可燃性蒸気と空気との混合気体に引火するに必要な熱量は、「数ミリジュール」であること。(注:Guest.P.G.:「Static Electricity in Nature&Industry.」Bur.Min.Bull..No.368 1939)原油蒸気と空気との燃焼限界範囲はガソリンの場合と同等とみなして、1.4%~7.6%(注:N.F.P.A.National Fire Code.vol.1 1963)であること。さらに図−5に示す油面と「ファブリック」との間および「ファブリック」と「ウェザーシールド」との間の空間には、「シュープレート」と側板とのすり合わせの間隙(巨大なタンクの場合、この間隙は工作精度の面からも部分的に数mmに及ぶことがあるのは避け難い)より蒸発した可燃性蒸気により、十分前記の燃焼限界範囲内にあったと考えられること。また地震による振動で原油が!
一たん溢流すれば、側板の上部や浮屋根の周辺部一帯は油に濡れ、その付近の空気は十分前記の限界範囲内になると考えられること。さらにまた、巨大な鉄部と鉄部との衝突あるいは摩擦により発生した熱が、混合気体に引火するに十分な「数ミリジュール」の熱量に達することについては、適当な条件を仮定すれば計算上も十分可能性のあることを立証することができる。
以上の諸説で明かなように、この摩擦あるいは衝撃による出火原因説は、最も可能性のある原因としての諸条件を備えているということができる。
(イ)静電気による出火説
ガソリンのような電気の不良導体である液体に運動が加えられた場合に、静電気が発生し、液体の接している容器等からアースがとられていても、発生した電気が一時的に全部大地へ逃げ切れないで、残存した電気とその直近にある良導体との間に電気火花を発することがあることは既に知られている。今回の第1出火点であるNo.1103のタンクにおいても外側板はもちろん、浮屋根の各部分、特に図−5に示す「ポンツーン」と「シュープレート」との間にも十分なアースが取り付けられてあり、それらが地震動によって全部破断したとは考えられないので、アースに関する処置が不適当であったわけではないが、それでもなお、予想以上の烈しい振動による油の運動がどれほどの静電気を発生し、そのうちアースから逃げ切れなかっa?!
?量がどれほどに達して、可燃性混合気体に引火するに足る電気火花を発して火災の原因となったか否かは速断を許さないわけである。この問題に関する研究は、従来、あまり多くは行なわれておらず、油送管よりの油の注入、油タンクの下部に設けられた攪拌機による攪拌等の場合については、1~2の研究があるが、今回のような地震動による振動に関する研究は未だ発表されたものがほとんどない。そこで、消防研究所においては、油タンクの模型を作って振動実験を行ない、静電気の問題を解明すべく、現在研究実施中であるので、その研究の成果が期待されるわけである。要するに今回の第1出火点に関する静電気による出火原因説は、現在研究中の段階で、その可能性は何人も全く否定し去ることはできないものであるという!
ことができる。
(ウ)電気配線の短絡等による出火説
第1出火点であるNo.1103のタンクの付近に電気配線があり、地震によりその一部が切断したり、または混線したりして、短絡し火花を発したと仮定すると、地震によるタンクの大揺れで溢流した原油およびその可燃性混合気体に引火して火災となる可能性は十分にあると認められる。そこで、地震の際この種の電気配線に、わずかの時間でも通電状態が存在していたのではないかという疑問がもたれ、もしその可能性があれば、この説は出火の有力な推定原因となり得るので、この点について徹底的に調査した。しかし、われわれが調査した範囲では、次に列挙する理由で、電気は地震の最初の時期(おそらく主振動の開始時)に停電し、前記のような原因による出火の可能性はほとんど完全に否定された結果となった。なお、No.1103a?!
Rタンク付近に配置されていた電気機器としては、タンク上方の「プラットフォームーに設備されていた「照明用電灯」と、タンク下方の外部に設けられていた「原油攪拌用電動機(22kw)3基」とがあった。
i.地震発生の際、事務室内にいて室内の螢光灯が停電したので室外にとび出した人が、その眼前で、No.1103のタンクが数回揺れた後出火したのを目撃していること。
ii.東北電力新潟営業所配電課で調査した結果、当時昭和石油新潟製油所を含む市内11ヵ所へ配電していた山下変電所では、地震発生と同時に配電線遮断器が9ヵ所作動し、その9ヵ所の中には本製油所も含まれていた。そしてまた母線遮断器も送電遮断器もほとんど同時に作動したことが明かとなった。したがって、本製油所構内への一切の送電は、地震と同時に断たれたことが明かである。
iii A地区内の「インテグレーション・プラント」の西南部にある変電室内には、「非常用電源設備」があった。この設備は「アルカリ電池(700AH)」を電源として「SCRインバーター」によりAC100Vを供給するもので、その出力は「6.25KVA」である。この設備より供給される電気は、変電室に隣接するコントロール用計器室内の計器類と同室の保安照明用としてのみ、停電時に利用されるもので、その他には配線もされておらず、またたとえ配線されていたとしても、No.1103のタンクの撹拝用電動機(22kw)を動かすに足りる電力ではなかったので、今回の第1出火点とは関係がなかったと認められる。なお、この非常用電源は、今回の地震発生直後、一般の電源の停電と同時に自動的に切替えられたが、係員により約5分後に停止されている。
(2)第2出火点
第1出火点からの火災が、5つの巨大なタンク群を包む猛炎となって燃え続け、相次ぐ余震や津波の襲来に人々は遠く避難して製油所内にはほとんど人影を見ないという状況下に、当日午後6時~6時半頃、「旧工場」と呼ばれるD地区の東端にある「新潟アスファルト工場」と、隣接の「三菱金属鉱業KK」との境界部付近から出火し、折から付近一帯に侵水していた水面上に浮んだガソリン等の油類に引火し、火はたちまち延焼拡大し、西南方向に伸びた火勢は遂に臨港町の民家約300戸を焼失するという大火災に発展した。この火災を、前記の第1出火点からの火災と区別して「第2出火点」からの火災と呼ぶことにする。
ア.出火当時の気象条件
新潟市消防本部の発表によると、第2出火点から出火した当時の気象条件は次のとおりである。
天候……晴れ
風向き……北北東
風速……4.3m/sec
気温……19.2°C
相対温度……81%
実行湿度……83.3%
イ.出火前の状況
地震と同時にD地区内にあった数多くのタンク類を始め諸施設は傾斜、破損等の被害を蒙ったが。特に同地区の東部にあったNo.33のタンク(容量1,000kl、ガソリン、ドーム型固定屋根)のパイプと側板との接続部が折損し、当時の目撃者の談によれば、ガソリンは当初2mの高さに噴出し、防油堤の破損個所より流出し、あたり一面に拡がった。また、今回の地震の特徴の一つである「地下水の噴出する現象」は、D地区およびG地区一帯においても起こり、至るところで地割れが生じ地下水が噴出したため、この付近一帯は、深い所で約50cm、浅い所で約30cmの浸水状態となり、その水面上に前記のタンクから流出したガソリンその他各所から溢流または漏出した石油類が浮んで付近一帯に拡がるという危険な状態が現出した。この浸水地帯a!
?‾本精油所構内のうち、少しでも地盤高の高い部分を残しD地区からG、E、H、Kと広い区域にわたって拡がり、特に同日の午後6時頃まで約10回にわたって来襲した津波により、西部の臨港町など港に近い方面はその影響も受けたようである。なお、隣接のG地区との境界線上には、商品名「万年塀」といわれる組立式のコンクリート塀があったが、地震のため傾斜や不同沈下を起こし、こわれたため浸水地帯の水面に浮んでいたガソリンなどの油類は、もちろん境界線をこえてG地区にも拡がっていたわけである。本製油所には当時約270名の従業員が勤務中で、そのほかに建設工事その他のため外部下請業者に属する人員が約110名いたので、合計約380名の人々がいたわけであるが、地震自体による死傷者はなく、最初の地震動に驚き怖れてa!
??た人々も、直後の興奮が収まると、それぞれの持場で上級指揮者の命により次のような応急処置をしたということである。すなわち、D地区の「トッピング加熱炉」では加熱炉の送油バルブを締めて火を消し、さらにバーナーの管を炉より抜き出して安全を確認した後退避した。なお、この炉の運転中の炉内温度は650°~700°Cであり、また炉から出てくる油の温度は305°Cである。また汽缶室(ボイラー室)では、地震により煙突が途中より折れて倒れたが、地震の直後直ちに送油バルブを閉じてボイラーの火を消した。さらにその後しばらくして消火を確認するため現場に行き、ボイラーのマンホールの蓋を締めた際、その付近にあった重油類の浮遊していた浸水が、ボイラーの下部に残っていた熱(ボイラーの下方にある耐火煉量などは熱容量が大なるため容易に冷えない)のため風a!
??の湯程度の温度にまで温められているのが感じられたということである。さらに現場休憩室などでは、電熱器を使用していた所もあったがいずれも地震と同時に停電したため、間もなく冷却したものと思われる。さらに、「新潟アスファルト工業」では、加熱溶融したアスファルト鍋の中にフエルト類を入れて「アスファルト・フエルト」や「アスファルト・ルーフング」を加工製造していたので、当日は「攪拌機1ヵ所」、「滲透鍋2ヵ所」および「溶融鍋4ヵ所」でそれぞれ重油バーナーを使用していたが、ちょうど正午の休憩時間に入ったので火を止め、午後1時から午後の作業を開始すべく準備中、地震が発生したので未だバーナーに点火せず、そのままであったという。炉は耐火煉瓦造で鉄板製鍋を使用し、鍋の下方を重油バa!
??ナーの直火で温める構造のものであった。炉内温度は推定約700°Cで、タールは70°~80°Cまで、またアスファルトは約220°Cまで液温を上げて操業することになっていた、これらの温度は、火を消してからも急激には下がらず、工場側の説明によると、220°Cに加熱されたアルファルトは24時間後でも約60°C低下する程度であり、炉内温度も正午に約700°Cであったとすると午後6時頃には約300°Cまで低下していたのではないかと推定されるが、当日午後1時40分頃に、同工場の工場長が最後に退避した時にはすでに半長靴の半ばぐらいまで浸水し、隣りの昭和石油のNo.33タンクからの油も水面に浮んでいたということである。午後2時頃に至り、浸水地帯に流出浮遊中のガソリン等より、蒸発した可燃性混合気体に引火する危険が益々増大し発めで、全員に退避命令が出された。その頃、G地区の三e!
?±金属鉱業KKの構内においても、ほぼ同様の処置がとられ、同様に全員に退避命令が出され、保安要員の幹部が、全員の退出を確認した後。最後に正門外に出たのは午後3時頃であったといわれ、しかも当時浸水は同工場の守衛室付近まで及んでいたという、したがって、DおよびG地区では、この頃より午後6時頃の出火時刻に至るまで、いわば無人の状態が続いたものと思われる。
ウ.出火時刻について
第2出火点の出火時刻は、多くの目撃者の言を総合すると、ほゞ午後6侍より同6時30分の間と推定される。これらの目撃者は前記のように、出火点と推定されるD地区とG地区との境界線付近に居合せたのではなく、近い人でもF地区の社宅群の付近から、また遠い人ではずっと南方の物見山といわれる砂丘上の遜難場所から眺めていたわけであり、ほとんどすべての人々が第1出火点からの猛烈な火災の勢に圧倒され、恐怖におののいていた状況であったため、正確な出火時刻を記録したり、憶えている人のないのは、やむを得ないことというべきであろう。
エ.出火個所について
出火個所についても、前記の出火時刻について述べたと同様の理由により、正確な地点を決定することが困難である。すなわち、最も出火地点に近かったと思われる目撃者は、ほとんどF地区の社宅付近にいたのであるが、その言を総合すると、D地区の東端、「新潟アスファルト工場」付近から、G地区の西端にある木造の資材倉庫付近を包含する付近一帯という、かなり広い面積の部分ということになり、それ以上細部の出火個所を推定する手がかりは得られない。また現場の焼跡から、出火個所を推定するに足るものが得られないかと、できるだけ綿密に調査したのであるが、あたり一面が火の海と化した火災のため、特に証拠となる点が認められなかったわけである。
オ.出火原因について
前に記したように。出火前の状況、出火時刻および出火個所について、極力調査したにもかかわらず、非常に莫然としたことより判明しなかったほどであるので、現在までのところ出火原因」についても不明である。原因については、次に記すように、いくつかの推定原因が考えられるが、その一つ一つについて検討してゆくと、いずれも可能性がうすれ、物的証拠は全然得られない状況である。特に原因推定の過程において困難を感じる点は、地震発生の直後、または第1出火点からの火災発生後あまり時間が経たない頃に第2出火点から出火しているのならばともかく、約5時間も経過してから突然出火したという事実の論証がどうしてもできない点である。
(ア)昭和石油のD地区内にあった各種の熱源による出火
たとえば、「トッピング加熱炉」、「汽缶室のボイラーの火」、「現場休憩室内の電熱器」および「新潟アスファルト工場の加熱炉」などであるが、これらは地震直後消火が行なわれ、付近一帯は浸水した。消火後も炉の温度は直ちには下らず、徐々に冷却したものと考えられるが、浸水面上に浮んだガソリン等の可燃性混合気体に引火する可能性は時間の経過と共に漸次うすれて行なったとみるのが妥当であり、午後6時頃になって突然前記のような「残火」ともいうべき熱源による出火が起こる可能性はほとんど考えちれない。
(イ)三菱金属鉱業のG地区内にあった各種の熱源による出火
G地区においても前記(ア)と全く同様で、各種の「加熱炉」など、地震発生時に火を使用していたのは6ヵ所であるが、いずれも熱源は電気のため停電により消火されたことが確認されており、その後は時間とともに冷却する一方であるので、これらの熱源から午後6時頃になって突然出火したという可能性はほとんど考えられない(図−7参照)。
(ウ)G地区内にあった水素タンクまたは天然ガスタンクからの出火
三菱金属鉱業の構内の東端部には、水素タンクと天然ガスタンクとが一基づつあったが(図−7参照)、地震と共にタンクからガスを送り出す管が折損し水素および天然ガスはその切断部から大気中に放出されたが、出火はしなかった。この点は、火災後の調査により両タンクとも破損はしているが焼けた痕跡もないことから明かである、またこの事実から、地震直後から構内各所へのパイプによる水素と天然ガスの供給は停止していたことも推定される。
(エ)G地区内の資材倉庫内にあった「鉄粉」その他の物質の自然発火による出火
三菱金属鉱業では各種の金属治金作業を行なっていたので、その資材倉庫内には各種の物質が格納されていた。図−8にその資材第3倉庫内の格納物質とその配置状況を示す。(三菱金属鉱業提出の資料による)これらの格納物質のうち何物かが、もし自然発火したと仮定すれば、地震発生後約5時間も経過してから出火したという時間的遅れの原因を説明することができるかも知れないが、調査の結果では、前記の物質中たとえば「鉄カルボニル」、「ニッケルカルポニル」または「海綿鉄粉(100~200メッシュ)」などの最も疑問の持たれる物質についても、当時の諸条件の下では自然発火の可能性がほとんどないことが明らかとなったので、この自然発火説も原因とは考えられない。
(オ)G地区内の「焼結炉」からの出火
三菱金属鉱業の構内の「大手焼結室」(図−7参照)では、地震当時2ヵ所の焼結炉を使用していた。この炉内には高温の水素ガスが外気圧よりも少し高圧になるように充満されてあり、操業中わずかでも空気が入って爆発することを防止するようになっていた。これらの炉はすべて全焼しており、その焼跡から物的な証拠を発見することはできなかったが、もし地震により炉の一部に亀裂などが生じるか、または水素ガスの供給が止って炉の内部の圧力が下がり、そのため炉の製品取出口などの隙間から空気が侵入するような事態が起これば爆発出火する可能性が考えられる。しかし炉の熱源は電熱であり、地震直後の停電により炉内の火は消え、その後は冷却する一方であったから、午後6時頃になって突然前記のような事態が起a?!
?る可能性はほとんど考えられない。
(カ)普通の失火による出火
前記のような各工場の作業または施設に直接関係のある原因のほかに、ごく普通の「失火」による出火の可能性もまた、全く否定し去ることはできないと思われる。この点については、出火時刻と推定される午後6時の前後に、少なくとも10数人の人々が現場のすぐ近くのF地区にある社宅群の付近におり、そのうちの何人かは道路を越えてG地区内に入ったことも明かにされているので、前述したようにDおよびG地区が当時完全に無人であったという説は否定されることになり、また人間が存在している場合に、絶対に失火しないという保証もまた得難いからである。もちろん、これらの人々のうち氏名の判明している人達からは失火の証言は得られていないし、今後も得られないであろう。またもし、これらの人々のうち誰かがたとa!
??ば火のついたマッチを捨てるなどの失火をした場合には、あたり一面にガソリン等の浮遊した浸水があったのであるから、その当人が火傷などを受けているはずではないかとの疑問も生じるが、しかしこのような推論も必ずしも絶対的なものとは云えないと考えられる。なおこれらの人々が何故当時、前記のような位置にいたかというと、同日の午後2時頃には、津波のおそれと浸水上浮遊したガソリン等に引火する危険のため全員に避難命令が出され、そのため一たん南方の物見山その他の安全な位置に避難していた人達のうち何人かは、津波警報の解除とともに、日用品やトラソジスターラジオなどの必需品を持ち出すため、それぞれ各人の自宅(ほとんどF地区の社宅)に引返していたためである。
(キ)第1出火点の火災からの「とび火」または「類焼」による出火
午後6時前後においても、第1出火点の火災が炎上中であったから、その火災からの「とび火」または「類焼」により出火したのではないかという疑問が生じるのは当然であろう。しかしこの説は次の理由により、その可能性がないとみるのが至当である。
まず、「とび火」については、第1出火点の火災により燃焼中の物質は原油であって、その付近にあるものは鉄材かコンクリートなどの不燃性材料のみであり、とび火の原因となる「火の粉」を作るものがない。しかし第1出火点となった5基の巨大な原油タンク群の東南方には、数戸の普通建物があって類焼しているので、ずっと後期には「火の粉」の発生も絶無とはいえないことになるが、当時の風向きは北ないし北々東であったことから、その反対方向に当たる第2出火点の方への「とび火」は考えられない。次に「類焼」もしくは「延焼」の方法としては、第1出火点と第2出火点の中間にある木造建物などの可燃物を媒体として次々と延焼してゆく経路が考えられるが、この点も中間にあるF地区の社宅群が焼け残っていることかa!
??否定される。最後に、第2出火点付近一帯に拡がった浸水上のガソリン等の可燃性混合気体が、北風に乗って南方に流れ、遂に第1出火点の火災地点に達し、その気体に引火して延焼したのではないかという仮説に対しては、もしそのような現象が起こったならば、たとえ一瞬間であっても非常に大きな炎の流れ(可燃性混合気体の燃焼による)が見られたはずであり、物見山を始め多くの地点に避難中の多数の人々が火災現場の方を見守っていたのに、誰一人としてそのような現象を目撃した者がいないばかりでなく、前述したように中間地帯の社宅群は焼損せず、また10数人以上の人々が社宅群の北側道路付近にいて何等の被害も受けず、そのうちの何人かは彼等の当時の位置からみてほぼ北々西に当たる第2出火点の方向に火の手!
の上がるのを目撃したと証言している点からみて、その可能性がないと思われる。
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3.延焼拡大状況
第1出火点および第2出火点の火災は、前項でのべたように、それぞれ独立の火災と考えられるが、それらの火災が時間の経過とともに延焼拡大して行った経路、ある時点における大体の焼失区域および最終的焼失区域を示す「焼止り線」などを示すと図−9のとおりとなる。今回の火災は普通の市街地区域の「大火」と異なり、浸水を伴う大規模な石油関連工場構内の火災という特異性があったので、延焼拡大の方向や経路および速度などにも一般の場合と著しく異なる点が認められる。すなわち、一般の市街地火災の場合には、ほぼ風下方向に向って拡がりながら延焼する傾向があるのに対し、今回の場合は図一9にみられるように非常に不規則な経路や方向を示している。この理由は、延焼拡大の媒体となった可燃物が、主としてa!
μ,水地帯の水面上に浮遊したガソリン等の油類であったことで、従って地盤がわずかでも高くなっていて浸水を免れた場所、たとえばC地区の事務所のように風下に当たる方向にあっても焼け残る結果となって現われている。また当時の風速が、4~5m/sという、大火の場合としては比較的低い値であったことも影響があったものと考えられる。さらに火災の後期には、組織的な消防隊による消火活動が行なわれ、最後の「焼止り線」で延焼を阻止したものであることは言をまたないところである。なお、図—9には浸水地帯も同時に記入されている。
次に、延焼拡大の原因としては、次の諸点を挙げることができる。
i 地震によるタンクおよび配管類の破損により、石油類が大量に溢流または流出したこと。
ii 防油堤が地震により破壊されたため石油類が構内一帯に流出したこと。
iii 固定式消火設備が地震のため破損し、役に立たなかったこと。
iv 地震(余震を含む)による地面の変形、隆起および亀裂ならびに地下水の噴出と津波による浸水により、消火活動、特に科学車を含む消防ポンプ自動車を持った自衛消防隊および新潟市の公設消防隊の活動力覇止されたこと。
v 広大な面積にわたる石油類の大火災に対応する化学消防力、特に空気泡消火剤を主力とする消防力(機械、人員、消火剤)の集結勢力がおくれたこと。
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4.被害状況
今回の地震によめ本製油所の受けた被害は、一言にしていえば「壊滅的」であった。死傷者のなかった点は不幸中の幸いということができるが、物的損害についてはほとんど全施設が何等かの損傷を蒙っており、金額に換算すると、直接的損害額だけで数十億円に達するといわれているが、休業や復旧その他に要する間接的損害を加えるとおそらくその数倍に達するものと思われる。
物的損害のうちでは、火災による焼損がその主要部分を占めることには相違いないが、たとえ焼損を免れた施設でも、地震による破損はかなりひどく、直ちに使用可能なものは皆無といった状態である。
図−9に示す焼失区域内にあった施設と原油および製品、半製品の油類はすべて焼失したわけで、その詳細は第1項の「り災前の状況」の項を参照されたい。同図に添きれたように、A地区のうち「インテグレーションプラント」の大部分と同地区の西部にあった10基の製品入りタンクが焼失を免れたが、これらのタンクは、基礎の不同沈下や振動のためかなり破損しており、外観上は元通り異常なく直立しているようにみえるが、何等かの修理なしに使えるものは皆無の状態である。また、C地区にあった事務所等の木造建築物も焼失を免れたが地震で大破している。一時危険を伝えられたA地区内の「四エチル鉛」と「水素ボンベ」とは、自衛隊の協力で安全な場所に移され無事であった。そのほか、各施設の破損および焼損状況は写c!
??−4ないし写真−8を参照されたい。
被害状況のうち、特記すべき点は次のとおりである。
(1)固定消火設備用ポンプ室の被害
E地区の運河上、臨港橋という橋の北側に、運河をまたぐように造られたポンプ室は、構内全体の固定用消火設備の心臓部に相当する重要な部分であったが、最初の地震動で主ポンプと原動機とを連結する回転軸がフランジ部分ではずれ使用不能の状態になった。また消火用泡原液タンクも傾き沈下している。その後、運河一帯の水があふれ、ポンプ室内も浸水し、その水面に浮んだ油を媒体として延焼してきた火災のため内部の機械施設全部が焼損している(写真−5・6参照)。
(2)配管類の被害
A地区内の新工場では、配管類は地面を約1m掘り下げた梯形断面の掘割りの中に管類を平行して配列した方式の「パイプヤード」であったが、今回の地震による地下水と砂の噴出により掘割りの一部が土砂中に埋まったほか、これらの管類が直交する道路面下を横断する場所や、防油堤を貫通する部分および地中から地表上に現われた部分などで破損している例が多い。水および消火用泡の配管からそれぞれの屋外消火栓に分岐管を出す部分も同様に破壊されている(写真−7・8参照)。
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第3 消防用施設の被害状況
1.被害発生地域の特質
この地震による被害発生の特質は、特徴ある地盤変動によるものが多く、関係者の注目をあつめた。
また今回の地震による酒田市の被害地域は明治27年10月22日に発生した荘内地震(住家潰焼6,006死者726)の被害地域と、きわめてよく一致するという事実は、かりに震源の深さ、発振機構の相異等、今後解明されねばならぬ問題は残されているにしても、それぞれの位置する地質条件によって、かなりの相関をもって被害発生の特質が予想されるのではないかと考えられる。
消防研究所では、地震発生後、二度にわたり被害地域を調査したが、その結果、被害の多発地域は、つぎのような地質条件のところに多いということが判明した。
i 最近における埋立地、盛土
ii 新しい氾濫原
iii 砂丘と沖積平野との境界部
iv 山間の沖積地
v 河口部の堆積地
これらのうち、とくに土質状況の軟弱な部分、および地下水面の高い地域には被害が集中している傾向がある。
(1)最近における埋立地、盛土
この種のものは新潟市、酒田市に多く発生し、このほか新しく造成された宅地にも被害が見られている。とくに経過時間の短かいものほど被害が大きい。
この部類に属する地域の被害の特徴は、雁行状の亀裂や、構造的な不等沈下などに代表される。
(2)新しい氾濫原、洪涵地
これは信濃川、阿賀野川の旧河床や、鶴岡市の大山地区等にみられ地下水面の高さ、土のしまり具合の良否等により、さらに被害の強弱があるようであるが、埋立地と同様、大きな被害が発生しやすい地域と言えるようである。
被害の様相は、埋立地、盛土の例に似て亀裂、地盤の不等沈下等がいちじるしい。
(3)砂丘と沖積平野の境界部
とくに新潟市市街地西方の内野、寺尾関屋方面、酒田市飯森山、黒森地区等によくみられるが、この地区の被害の特徴は、地震動により砂丘下部の自由地下水面の盛り上がりが、流砂層となって周辺部に押し流されたものと考えられる。また、この地域の砂丘傾斜面上には階段状になった小規模な断層群がみられるほか、下部には場所により砂の噴き出しがみられる。
(4)山間の沖積地
鶴岡市三瀬水無地区、温海町、村上市在部等にみられる山間の小規模な沖積地で、土蔵の被害をはじめ、比較的強烈な被害が目立っている。
(5)河口部の堆積地
最上川河口の宮野浦地区、荒川河口の神林村塩谷、信濃川河口の山ノ下、阿賀野川河口の松浜、下山地区に代表され地下水の噴き出し流砂現象をはL"め、家屋の被害が圓立つている。これら地域ぱ震動により、続成作暦が促進され、地盤溝沈下したと考えられる。また下山地区のように地盤面が、地下水面より儀くなサ、地下水による漫水がおさまらぬ地域もでている。
以上が被害発生地域の地質的にみた特質であ番が、とくに地下水面の高いところでは、条件により、いわゆるQuick-sand現象がみとめられ、また一般に地盤は沈下した模様である。
2.主要市町村の被害状溌
新潟地震による被害は、ひろい範囲にわたってはいる滅その殆どは新潟市一市に集中している。このため、他の市町村の被害については案外忘れられ勝ちな点もみられる。
しかし、各市町村によって、その位置するところの地質的条件により、本質的に異なった被害の様相を示している。調査の結果、今次新潟地震による被害は、被害形式の相異により2つの型に分けることができる。
その1つは山形県温海町を中心とした強烈な被害相で、これを仮りに温海型と名付ける。また他の1つは新潟市に代表される例で、これを新潟型と名付ける。両者の被害様式についての詳細は、各市町村の被害状況報告の中で述べる。
(1)新潟市
新潟市の被害は、信濃川と阿賀野川の河口付近に挾まれた地域に多発し、地質学上最近の時代において生成された氾濫康地帯や、市域の発展にともなつて行なわれた埋立地にいちじるしいものがみられる。とくに明治以後において完成された埋立地ぱ壊滅的な被害を受けている。手元にあるいくつかの地形図の組み合わせによって作られた新潟市の埋立地の発達状態は、図−1のとおりである。
一方、これら被害地域に対し、旧砂丘地帯は被害の殆ど無い地域となっている。
現在の地形図に旧河川、砂丘地帯を入れると図−2のようになる。
本市付近には、海岸線とほぼ平行に数条の砂丘堆積物帯が走っているが、この上に位置する地域は、先の被害地域と、きわめて対照的であるほか、その間にかなりはっきりした境界線を求めることすらできる。
新潟市における被害地域と無被害地域の分布については図−3に示した。
本市被害の特質は、コンクリート建物が地上構築部に被害のないまま、基礎からそっくり傾斜してしまった形式のものが多いことで、これは土の支持力が急速に失われたためと説明されている。この原因は地下水が震動により間隙水圧を増し、砂が流動化したという。いわゆるQuick-sandの現象と土砂の締まり方の問題に起因する。もともと新潟市を中心とする地域は、一部にsilt層等も無いわけではないが、圧倒的に中粒砂ないしは細粒砂が厚い層をなしており。あるいは地下浅部に腐植土を挾む軟弱地帯もみられている。
この中粒砂ないしぼ細粒砂は堆績物中、毒っ之も流動化され易い粒径にあたるものであることも不運なことであった。
土の締まり方についてはJISに定められた標準貫入試験の方法により、目安をたてることができるが、これによるいわゆるM値の値の大小は、被害の分布と対照させて考えることができる。この結果N値は信濃川に沿って小さく、被害の地域とよく一致したようである。
このほか本市は地下水揚水過剰のためと思われる急激な地盤沈下があったことも周知の事実で、このため低地にあっては地震による信濃川堤防決壊等のため逆流し浸水したことで、これら二次的被害もきわめて大きなものがある(図−4参照)。
以上要約すると、新潟市の被害の特質は、土の支持力が失われたことによるコソクリート建物の傾斜Quick-sand現象、低地浸水などである。
本市中心部の被害の状況については、震災後、すぐに行なわれた新潟大学地質学教室一同の献身的な調査活動によって完成された「新潟地震地盤災害図」の大作がある。
(2)村上市
村上市における被害は、三面川氾濫原に沿う地下水の胚胎地域に多発し、とくに四日市、山辺里、西興屋、下山田等の部落に家屋の倒壊がみられたほか、震源地が本市から近い位置にあったことから沿海部で津波の被害が多発した。とくに瀬波、岩船港では漁船の被害が大きかった。本市には新潟にみられたような砂の噴出はなく、コンクリート構築物等の傾斜4、みられなかったが、村上中学校のコンクリート壁面に亀裂が生じたのは震動の大きかったことを物語っている。また墓石の転倒も各所でみられかなりの水平加速度が加わったこと(約400gal程度で新潟よりも大きい)を示している。
(3)山形県温海町
温海町の被害は震源地に近く、その上、他の諸市町村と異なり、いわゆる硬い地盤の上にあるので、その被害様式も特異なものがある。温海町付近の地質構造は、海岸線とほぼ平行に海岸側から順に、玄武岩額、第三紀中新世及位層(砂岩、疑灰岩、礫岩よりなる)、中新世安山岩類、花嵩岩類が露出しており、沖積部は極めて局所的に存在するに過ぎない。
温海町の被害のうち、他の地域と比し、もっとも特色とすべきことは、地震にともなう山崩れが多発したことである。概査した結果によれば上記諸岩類のうち、及位層の露出している地帯に山崩れが多いようであるが、この点に関しては今後なお検討されねばならない。
また本地域には、直線状に連なった強烈な振動帯が発生したと思われる節も二、三あるが、これらの点は地質構造線に関係あるもののようで、今後に残された研究課題である。
本地域の被害の特色は、コンクリート構築物に顕著な被害が発生したことで、壁面の亀裂、石垣の崩墳鳥居墓石の転倒、瓦の飛散など、強烈な被害も各所に認められる。また、前記山崩れによる被害とともに落石による家屋の被害など、二次的な被害も多発した。
(4)鶴岡市
鶴岡市の被害は市の中心部には、むしろ少なく、本市の西方、日本海海岸沿いに起伏する丘陵の内側に位置する大山川、およびそれの支流の洪涵地(一部は砂丘の境界部に当る模様)に被害が集中的に発生しており、とくに西郷、大山、水沢等の各地区には相当な被害が認められる。この地域はN値も一般に小さく、締まりの悪い軟弱地盤であって新潟型の被害相である。
また上例とは異なり、三瀬、水無地区の山間の沖積部には、温海型の被害が認められ、コンクリート壁面の亀裂、警鐘台の倒壊等の被害が認められた。
(5)酒田市
酒田市の被害は埋立地、河川沿岸および砂丘と沖積平野との境界部にとくに被害がいちじるしく、被害の形式は新潟型である。
新潟における信濃川両岸の埋立地に対応するものは、酒田では最上川右岸の小中島地区である。また、この他、酒田では郊外に造成した埋立地にも被害が発生している。河川沿岸としては、最上川両岸の旧河床部に被害の発生をみているが、本市でとくに被害の大きいところは、海岸砂丘の内側と沖積平野との境界部にある黒森、坂野辺新田、飯森山の各地区と最上川河口の宮野浦地区で、相当の被害が認められる。また飯森山地区では砂丘斜面に階段状断層の発生や、いわゆる砂火山の現象が見られ、砂の噴出が行なわれたことは新潟の場合と本質的に類似していることを物語っている。
また、これらの被害地域は、いずれもN値が小であったことも新潟の場合と同様である。
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3.消防用施設の被害状況
(1)消火栓設備
今回の地震の結果、調査地域にある消火栓は、表−1のような被害をうけた。
この表で、「被害をうけたものの総数」とは、地震の結果、何らかの被害をうけたもので、消火栓
自体は被害はなくとも、埋没、傾斜等の理由により復旧作業を要するものをさし、また、「消火栓
本体の被害」とは、消火栓自体の機械的な被害で、取替え等を必要とするものをいう。「震災直後
使用不能となったもの」とは、導配水管路等の被害による断水のため、使用不能となったもの等も
含まれる。
この表から判るように、現在設置されているところの消火栓本体は、その機械的強度においては、この程度の地震には耐えられるという心証を得ているが、かりに消火栓本体に何の事故がないにしても、現在のように水道管に連結されている以上、水道被害と一蓮託生の運命にあるのが実情で、消火栓設備は、大震災発生時には全く頼りにすることができないことを銘記する必要がある。
以上のような現状から、今回の新潟地震の結果受けた消火栓の被害状況調査については当然のことながら、それはすなわち、水道被害を調査することになる。
新潟における水道被害は、取水、浄水施設は被害軽微であったが、配管関係に相当な被害があった。
本市では一般震害と同様に、水道被害においても重被害と軽被害との地域が分けられるようであり、その分布は地質条件の良否とよく一致する。とくに流砂現象を起こした地盤の地下埋設物は壊滅状態に近い。
また配管系の被害は、鋳鉄管にあっては、継手部に被害が多く、抜け、弛み、脱落等の被害が目立っているが、石綿管にあっては、折損の被害が多いようである。これは新潟市に限らず、他の市町村でも共通に言えるようである。
新潟市における消火栓の被害の詳細は表−2のようである。(なお新潟市では、消火栓は全部、地下式である。)
また、被害をうけた消火栓の分布は図−5のとおりである。
村上市における水道被害は、水源井より配水池に至る鋳鉄管が途中2カ所にわたり、接手コーキングが抜けの状態となったのをはじめ、市内の配水管(石綿管使用)が16カ所、折損の被害を生じたが、断水はさけられた。しかし、駅前付近の地上式消火栓がフランジ部分から外れ、倒壊したので、消火栓は地震直後この1個が使用不能となったが直ちに復旧された。
温海町における水道被害は、湯温海地区において鋳鉄管による配水管が14ヵ所(接手管部の外れ7ヵ所、管の亀裂7ヵ所)被害をうけたのをはじめ、地震による落石により、消火栓が1基、破壊されたこのほか、水源上流に地震に伴う山崩れが発生し、河川が赤濁したが、温海町水道には沈澱濾過池の設備がないため、取水を停止せざるを得ない状態となり、約10日間、断水の状態となった。この期間、消火栓はもちろん、使用し得なかったわけである。
鶴岡市水道にあっては、市街の最西部、柳田地区の末端に位置する石綿セメント管の接手部が外れ、単口消火栓1基が使用不能となったが、直ちに復旧した。このほか、市街20ヵ所で一部洩水がみられた程度であった。
鶴岡市大山水道にあっては、石綿セメント送水管が接手部から亀裂折損の被害をうけ、送水不能となったほか、配水管(いずれも石綿セメント管)も3カ所、亀裂を生じた。このため、自衛隊による給水作業がつづけられ、消火栓は使用不能となった。
酒田市にあっては、水道の被害は大きく、とくに450mmと600mmのヒューム管による送水管が60ヵ所にわたって折損したほか、市内の配水管も、主として石綿管の部分に亀裂、折損が多発し、完全断水となった。このため自衛隊の給水活動が行なわれたが、地震発生後、約2週間の長期にわたって、消火栓は使用不能となった。
以上のような事実は、大地震発生時には、石綿管、ヒューム管等は折損されやすく、とくにそれら送水管に用いてある市町村は、地質条件によっては、全面断水になる可能性もあるので、事前から検討する必要のあることを教えている。
(2)防火貯水槽
この地震による防火貯水槽の被害は、表−3のとおりである。
この表中、「被害を受けたものの総数」とは、地震の結果、何らかの被害をうけたもので、貯水槽の傾斜、浮上がり、沈下等も含まれている。「被害総数中全壊洩水」とは、以上の「被害を受けたものの総数」中、地震の結果。亀裂を生じ、中の水が洩水し、消防の役にたたなくなったものをいう。「被害総数中軽被害」とは、貯水槽の沈下、浮上がり、傾斜、小亀裂等を生じたもので、いずれ修復の必要はあるが、消防用の水としては、非常時に際し使用可能なものを示している。
新潟市における全壊洩水の1件は、阿賀野川河口附近、浜松地区にある加治川運河を一部埋立てた際、700mm径のヒューム管を長さ422mにわたって埋設し、途中何カ所かの貯溜部を設け、連水管式に仕上げたもので、いわば特殊なものである。軽微な被害としては、一部洩水2件(うち1件は100m3級、他の1件は震災前から若干洩水気味であった。)、浮上がり傾斜2件(浮州町ほか)陥没が5件である。新潟市における貯水槽の被害位置分布は図—6に示してある。
本市の貯水槽被害の特性は、他の構築物、水道の被害の激しかったのに比べ、意外と思われるほど、軽かったことで、これは被害の様式の似た酒田市の場合と一致する。
村上市における全壊洩水は、同市北方、吉浦地区で、川の表流水を流下貯溜させる独自の方式によるものである。このほか同市では東方、赤沢地区で同前川支流の表流水を流下貯溜させる独自の方式によるものが一部亀裂を生じている。また大月地区ではヒューム管を用い導水貯溜する形式のものがヒューム管接合部に亀裂を生じたりした。
温海町では、安土、山五十川、戸沢、小岩川地区にある無筋コンクリート造貯水槽に、最大巾5cm程度の亀裂を生じ、完全洩水したものや、間知石積みによる無蓋貯水槽(山五十川)が崩壊したりした。このほか当地域は他に比して全般に貯水槽の被害が多いようであるが、これは先に述べた新潟型と、温海型の本質的な違いによるものか、あるいは予算の関係上、無筋のコンクリート(厚さも15cm以下である)にせねばならなかったことに原因があるか否か、なお検討を要する。
鶴岡市における全壊洩水の5件は、本市の南西方、温海町との境に位置する。三瀬、水無地区の山間部に集中している。この地域は鶴岡の他の地域とは異なった被害相を示していることから、温海型に近い被害と考えられる。しかしながら、全壊の被害をうけた貯水槽は、無筋のものであり、厚さも12~15cmであることは温海の場合と同様である。
本市ではその他、軽微な被害は全市域にわたっている。
酒田市における貯水槽の被害は、飯森山、黒森地域にみられるが、全壊の1件は小さなものであり、無筋コンクリート、厚さ8cmというものであった。このほか本市の貯水槽被害は、きわめて軽微であったといえよう。
以上、貯水槽被害をかえりみると、これらの中には、国の補助により設置された鉄筋コンクリート製のものは、全地域を通じて一件も被害がなかったということは特筆に値する。
また、温海、鶴岡の三瀬、水無地区のような山間部では、若干被害がでているが、これとても鉄筋コンクリート造にしたならば、どうであったか、なお検討されねばならない。
しかし、新潟、酒田、鶴岡の大山地区のような軟弱地盤地帯にあっては、貯水槽はもっとも確実な水利施設であるという心証を強くした。また、亀裂の状態にしても勇断方向に働いたものは殆ど見当たらず、多くは引張り方向であったことを考え、現在この種貯水槽の洩水防止策について、消防研究所で研究中である。
(3)防火井戸
防火井戸は、新潟、村上両市に設置されているが、その被害状況は表−4のとおりである。
新潟における防火井戸の被害は、信濃川河口付近の山ノ下地区、阿賀野川河口付近の松浜、下山地区に多発し、流砂現象により井戸内から砂が噴出し、埋没した例が多い。とくに下山地区にあっては、全滅の状態となり、松浜地区では過半数が破壊された。
新潟における防火井戸の被害分布については図−7に示した。
村上における防火井戸の被害は、岩船地区において、井戸枠が陥没、使用不能となったものを始め、村上地区で、地震直後、しばらくの間、水枯れの状態となったものである。
このほか、「一部破損、土砂流入等」とは、井戸枠の一部が破損したり、少量の士砂が噴出あるいは流入したりしたものである。また村上地区にあっては、殆どの井戸にわたり若干の砂の噴出があった模様であるが、その量は、せいぜい20~30cm程度と思われる。
なお、本表は震災間もなくの資料であるので、とくに新潟にあっては、調査がすすみ次第、被害は若干増大する可能性もある。
(4)プール
プールは大量の貯水量を有するので、消防用水利として指定されたものが多いが、新潟市においては11カ所の指定がある。このうち、宮ノ浦中学校のものが最も大きな被害をうけ、亀裂の発生をみたが、いちじるしい洩水は避けられた状態であった。
ただ、指定こそされてはなかったが、昭和大橋わきの白山小学校のもののように、完全に勇断破壊されてしまったものもある。ただし、この地域は地盤の上からも、もっとも悪い条件であって、むしろ例外的なものといってよかろう。
(5)自然水利
新潟市にあっては信濃川の表流水を、酒田市にあっては最上川の表流水、および一部は海水を消防水利として指定してあるが、新潟の場合、一部に地割れ等が発生した個所もあったが、さしたる被害もなく、適当な措置により、容易に復旧使用し得る状態であった。
(6)消防署関係、分団器具置場、望楼等
これらの諸施設にも各所で被害が発生した。新潟では、榎木、附船、松浜の各出張所が地割れ発生により戦力から脱落したのを始め、下山地区器具置場が倒壊した。また榎木出張所の望楼が傾斜したりした。
村上市では、大月地区器具置場に床面亀裂を生じた。
温海町ではポンプ車庫の全壊、半壊各1棟をはじめ、山崩れにより警鐘台が1ヵ所押し倒されるという被害が発生した。
鶴岡市では、庁舎関係の被害3件をはじめポンプ格納庫19件、警鐘台関係8件の被害があり、その多くは、三瀬、水無地区および大山地区である。
酒田市では、飯森山、黒森宮野浦地区を中心に、格納庫4件、警鐘台10件の全半壊の被害が発生したが、損害はやや軽微である。
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4.震災時の消防力低下の問題
(1)地割れ
大地震の発生の際には、大小無数の地割れが発生することは、良く知られたことであるが、これは消防活動をきわめて困難にする。
今回の新潟地震においても、被害地には、各所にさまざまな地割れが発生し、同時に地下水の噴き出しにともなって砂を噴出し、あるものにあっては、その砂で裂罅を充填したものもあったが、大きいものでは、車の通行を不能にした。
地割れの発生個所は、地質条件に密接な関係があるが、その形状については、地塊ごとにみた場合、卓越した方向性もあるが、全体としてみると、必ずしも顕著な構造的な方向性があるわけでもないようである。
ただ地割れの発生は、地下に比較的口径の大きな配管等がある場合、それに沿って延長されることが多く、したがって公道上に地割れが直進しているような形状のものが多いようである。
地割れによる落差は、今回の地震ではあまり大きなものはなく、特殊な例外(例えば昭和大橋取付部の盛土)を除いては、せいぜい数10糎程度のものである。亀裂幅は単純な地割れ(水平移動のみのもの)にあっては、糎台から数10糎程度までが多く、それ以上のものはむしろまれである。
一方二本以上の平行な地割れの発生により、中に位置する部分が陥没するいわゆる地溝状の地割れも多く、この場合1m程度、陥没したものもみられた。自動車等が埋没された例は、この種のものに多く、地溝状の凹地に砂が噴き出してきたものである。
このほか、上例と反対の地畳状の地割れや、路面の波形変形等も各所にみられた。
新潟市における地割れ等の路面変化については図−8に示したとうりである。
新潟市にあっては、地震発生と同時に、出張所を出ようとした消防車が、地割れに落ちこんだり(附船出張所)、地割れが車庫前に発生したため、地震直後の出動ができなかったり(榎出張所)した例が報告されており、大地震発生時には、かなりの消防戦力が脱落することを覚悟せねばならない。このほか、新潟では低地浸水があり、かなりの広い範囲にわたって、車の進入が不能となる地域が発生したことは先に述べた。
(2)水利確保の方策
すでに述べたように、大地震発生の際の水利としては、消火栓は全く期待できず、防火井戸は地下水の性質上、その胚胎地域があらかじめ限られていることから考えると、非常時用消防水利として、もっとも確実であるものは、自然水利および防火水槽であるという心証を強くしている。
ただ、消火栓も、直線状の部分にあっては、強い面もみられるので、消防用専用水道を設け、鋳鉄管による配管を行なったりするならば、あるいは相当にフレキシブルな材料による専用吸水消火栓を設けるならば、きわめて有効であるとは言えるが、現状ではその実現は困難であろう。
そこで水利を確保する方策は、最大限に自然水利を利用すること、そのために大地震発生を想定し、地盤変動に対し耐えられる地点を事前から選定しておくことである。ポンプの中継送水のほか、相当量の貯水のできるシート袋(たとえばビニール・ターポリンの袋)の用意も必要となろう。
このほか、自然水利に頼ることの困難な地点にあっては、耐震性のある防火貯水槽の設定が急務である。とくに鉄筋コンクリート製のものであって40m3~60m3程度のもので塊状のもの(いちじるしく細長いものは不可)は、きわめて信頼し得ると考えられる。
この貯水槽を設置する場合、低地浸水のおそれのある地域、および地盤が軟弱であり、Quick-sand等の現象の起こる危険のある地域にあっては、取水孔はつねに路面より数10糎程度以上高く設ける必要がある。新潟地震においても砂の噴出にともなって、取水孔が埋没したり、土砂の流入のあったものが多くありまた貯水槽全体が数10糎程度陥没したものが多かったことは、今後の対策によい教訓とされた。
このほか、消防水利としてはプールがあるが、これは予想以上に確実なものであるという心証を得た。これら消防水利を守るということは、消防の至上たる使命であるばかりでなく、新潟地震調査の際にも各所で見られたように、急場の生活用水としても利用ざれており、小さい施設ながらもその利用価値はきわめて大きなものであろことが改めて認識された。
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文献
1)新潟地方におけ異状地盤に基づく震害緊急対策調査委員会調査報告書建築業協会昭和39年7月
2)全国科学技術団体総連合新潟地震防災研究総合報告会講演要旨科学技術庁国立防災科学技術センター昭和39年8月
3)新潟市新潟市政要覧昭和39年4月
4)新潟市6.16新潟地震の概況
5)新潟地方気象台新潟地震速報第3号昭和39年
6)NHK広報室新潟地震と放送一非常災害における放送の役割一日本放送協会昭和39年8月
7)東京都土木技術研究所新潟地震に関する資料昭和39年11月
8)吉村尚久林等若林茂敬新潟地震(写真図版)地球科学73号昭和39年7月
9)西田彰一陶山国男ほか新潟地震地盤災害図新潟大学地質学教室未発表
10)新潟県地震水害対策本部新潟地震と7.7水害の状況昭和39年7月25日
11)村上市6.16新潟地震災害及び救助の状況報告書
12)村上市村上市市勢要覧昭和39年3月
13)温海町温海町勢要覧昭和36年8月
14)山形県災害対策本部39.6.16地震被害状況(写真集)
15)山形県災害対策本部39.6.16地震に県がとった措置状況昭和39年6月30日
16)山形県災害対策本部地震被害の応急復旧状況昭和39年8月10日
17)山形県災害対策本部6.16地震被害状況最終版昭和39年8月25日
18)鶴岡市新潟地震による被害並びに災害復旧予算昭和39年7月25日
19)鶴岡市鶴岡市市政要覧昭和37年11月
20)酒田市新潟地震による被害状況報告書昭和39年7月20日
21)酒田市工場設置の案内昭和39年
22)酒田市酒田市政要覧昭和38年11月
23)酒田市消防本部消防現勢昭和38年
24)新潟市消防本部消防年報昭和39年3月
25)新潟県新潟臨海工業地帯地盤図昭和38年
26)新潟市水道局にいがたの水道1962
27)八幡エコンスチールK.K建築基礎と地盤一新潟地震の記録マンスリ一エコン43
28)山形県商工労働部鉱業課山形県地質図及説明書昭和35年3月
29)新潟県新潟県地質図説明書昭和37年3月
30)細野義純新潟地震災害調査1消防用施設の被害調査日本火災学会昭和39年度秋季学術講演会概要集昭和39年11月
31)中川恭次大崎順彦新潟地震がのこした課題——振動による地層の液化現象—科学朝日1964年8月
32)新潟日報社新潟地震の記録—自然との半月の戦い昭和39年8月
33)須貝貫二佐藤茂牧野登喜男新潟地震を予察して地質ニュースNo.120工業技術院地質調査所
第4編 研究論文
第1 地震と火災
早稲田大学教授 井上勇
新潟地震を象徴するものは、昭和大橋の落下、アパートの転倒、昭和石油の火災の3つといえる。
このいずれにも共通して言えることは、近代的な施設の震災という点であるが、特に近代的な工場の地震災害である昭和石油の火災は、最も顕著なしかも初めての経験として注目すべきものであろう。
石油工場の大火災はかって四日市市において経験し、その後消火設備が著しく改善されて、火災の発生はあっても適切な消火活動によって、初期消火に成功していた。しかるに、新潟地震では既往の努力もむなしく、折角の消火設備も地震によって同時に破壊されて効果的な作業を行なえず、長時間にわたって、野放しで燃え続ける最悪の事態となり、大被害を蒙ることになってしまった。火災・消火の実務・研究に携る者がとくに反省して今後の対策を考えるべきところである。
地震時に発生した火災あるいは火災の危険に頻した例は新潟においても2~3に止まらない。新潟市消防本部の調査によっても、4ヵ所の炎上火災、4件の消止め火災および2件の火災危険状況の発生が記録されている。
いまこれらの調査と重複した記述をすることは意味がうすいと思うので、できる限り、他の角度から地震時の火災と防火対策について、私見を綴ってみることとしたい。
1.地震と初期消火
新潟地震の炎上火災4件のうち、3件は危険物火災で、他の1件は地震による火災か、火災発生時に地震に見舞われたのか疑わしいものであるから、一般市民の家からは1件の火災も発生していないといえる。市民の消防意識の高さを示し、実に稀有の好記録を残し、異変の際にも冷静に事に処せば火災を免れる実例を見せてくれた。
もちろん、この地震が新潟では震度5の程度で、倒壊家屋が少なく、慌てて家をとび出した市民も、火元処理の確認にもどるゆとりを持ったことが幸いしたには違いない。より激しい地震で多数の倒寝・破損を生ずる場合には火災の多発が予想されるが、このような事態になっても防火・初期消火の心構えを失なわなければ損害を最小に食い止めることができよう。すなわち、心のゆとりの有無が初動の適否となって現われ、重大な岐路を誤りなく選ぶもととなるのである。
新潟には2つの大きな製油所があった。一方が原油タンクの発火を起こしたのを除けば、両製油所とも同じような漏油・浸水に遭遇し同じような火災危険の状態に陥ったがこの中で作業員は各々適切な処置によって、操業中の蒸溜装置・ボイラーなどの火源を処理し、試験室の薬品などからの発火を防ぎ、浸水のため漏油が拡散しても、工場内での発火・炎上は起こさなかった。平素の訓練がよく非常時に役立ったようである。
それにも拘らず、一方が首尾を全うして、直ちに復旧に移り得たのに対し、他方はついに全工場炎上と被害を拡大してしまったのは原油タンクの火災の熾烈さによって、心のゆとりを奪われ、一種の敗北感に陥り、津波のおそれの警報によって消防措置を放棄してしまった点にある。
天変地異に際しての人心の動揺は、誠に微妙なもので、ゆとりを持てというのが無理であり、特に思いもしない災害に直接遭遇した場合の判断は著しく困難には違いない。けれど、地震・台風に見舞われる機会の多い日本では、常にそのための心構えが必要で、予想だもしなかったというならば、いささか怠慢ともいえる。
火災は初期消火が消防の要諦であるが、地震火災ではとくに初期に制圧しない限り、大火となり易いので、常にゆとりを以って消火に当たる心構えを失なってはならない。
2.火災危険の拡散と火源の処置
地震などの自然災害に伴うと否とに拘らず火災は常に燃焼の三原則を満足する条件によってのみ起
こる。
唯平時は火災危険の大きい各種の危険物は一般によく管理され、可燃物が人間の管理の外におかれることはまずないといってよい。それゆえ、火災危険の大きい可燃物の管理を厳重にすれば火災を防ぐことができて、工場などで多量の危険物を扱って操業できるのである。しかし、地震による破壊が起こると、管理下に置かれていた火災危険を持つものが各所にバラ撒かれ、我々の統制の手からとび出してしまう。
こうなると、燃焼の三原則のうちで、我々の処理できるのは発火温度のみになり、火源の制御以外に防火の方法はなく、これに成功すれば火災は起こらない。新潟地震では、市民はこの点をよく理解していて、損害を最小に食い止めることができた。たとえば、ガスを消して避難し、再び確認のため屋内に戻り、こぼれ油の火災を消火器によって消し止めた天ぷら屋の小母さんは、変災時の防火活動の要諦を実践した模範的な人物といえる。
工場内にもこれに類した措置によって災害を未然に防いだ人々が多数にいる。ボイラーのバーナーが地震変位のため焚口からはずれ外側に火炎を吹き出したのを消し止めた作業員。大きな動揺でまだ足もとも危い中で這い廻って元栓の処置をしてまわった職員。沈下したボイラーの中へ漏油の浸入するのを砂を盛り上げて防いだ人々など、火災危険の充満し、一触即発の危機の中で、よく適切な処置を施した例が多数にある。変災時の火源処理の重要性をよく認識していたわけである。
新商ガソリンスタソドや日本石油新潟製油所の漏油に対する火源警戒は作業員、隣人、消防隊など多数の人の緊密な協力によって成功したもので、火災危険に対する良識の勝利であった。
しかし、一方には地震時における火源管理の不徹底から重大な失敗を招いたものもある。松島町の道路火災などは火源管理の不良の故で、四囲の状況を考えない行動の所産である。
発火温度以上のところへ可燃物と酸素が供給されるならば、燃焼は必ず起こる。それ故、地震時には可燃物が各所に拡散するのであるから、発火温度以上の温度を保有するものは徹底的に監視し、火災危険のある状況とは隔離する注意が必要である。昭和石油の旧工場から、臨港町までを焼きつくした火災は、地震発生後5時間を経て発火しているが、この注意の不足に端を発しているように思う。
一般に工場では各種の目的で高温を利用して操業するから火気取扱いには熟練者が多く、常時の管理には全く遺漏がなく、危険物を扱いながら安全に運転が行なわれている。しかし地震の場合には、どのようなことから安全管理が崩されるかは予測できない。
たとえば、自動制御装置の破壊による制御機構の停止や誤動作、試薬ビンの転倒による混合発火あるいは浸水によるカーバイトのガス発生爆発などの事態は容易に起こる。新潟地震でも、制御機能の停止によって、分解蒸溜などの塔内のガスの追出しと窒素置換は中央指令室で遠隔操作できなくなり、各単位ごとに処理をせねばならなくなった例がある。また、薬品の転倒破損による発火も数件発生した。幸いにいずれも消し止められているが、どの場合も僅かの手落ちがあれば大災害に発展する火源となるものである。
さらに考えるべきことは、工場における炉の問題である。炉は高温作業を行なうものであるから、炉体は相当多量の保温材によって断熱され、内部を高温に保つようにされている。このため、たとえば炉への熱供給を遮断したとしても長時間にわたって炉内の温度は高温を保っている。炉体が損傷して外気との接触が容易になった場合は甚だ危険である。
新潟地震の例を見ても、炉や反応塔の火源を止め、出入口を密封して窒息をはかったにも拘らず、亀裂部からの空気の流通で、長時間内部で燃焼を継続したと見られるものがあった。また、地震後2時間ほど経過してから炉の蓄熱部に浸入して蒸気爆発を起こし炉体の一部を損傷した例も見られる。これらの場合外部から危険物が流入して来たとしたら、火災発生となることは明らかである。高温作業とくに熱容量が大きく、断熱のよい炉を持つ作業の地震時の処置については今後十分な検討をする必要がある。
火気、高温の取扱いの複雑な工場の地震被災後の火源管理は綿密細心に行なわねばならない。
3.消防装備
原油タンクの発火・災上をはじめ地震と共に起こった火災に対する消火活動は、常時にくらべて著るしく劣り、ことに昭和石油を中心とする大火災は燃えるが儘になってしまった感じさえする。
地震と共に断線・停電が起こり、通信網は破れ、火災発生とその状況に関する情報入手が遅れ迅速な措置が取れなかった。また、道路の噴砂・浸水・亀裂などは消防車の現場到着を遅れさせ適切な時に適切な消火活動を行なうことを妨げた。さらに、貯水池の破壊による減水・用水路の切断による給水の不足などがこれに輪をかけた。
その上、重要な時期に津波警報によって退避し、あるいは消火弾の投下のデマによって、消火活動を中止し、活動の空白と闘志の冷却を来たさせたのは甚だ遺憾なことであった。
考えてみると、これら消火活動を阻害した現象は、大地震である限り、必ず随伴する現象で、消防の装備というものは、これらに打ち勝つだけ十分に強力でなければならないはずなのである。それなのに、関係者の努力にも拘らず今日の消防装備は地震に対して甚だ無力であり、消火活動を期待する方が無理とさえ思えるのである。むしろ、劣悪な装備の下でよく消火努力をし、被害を最少に食い止めたものと言える。
ラジオ・テレビが火災を報道し、茶の間に火災の画像が写し出されているのに、関係者は正確な情報が得られず徒らに焦燥の中に時を過したように見える。消防用の無線通信網が完備していて、迅速により正確な情報の入手があれば、みすみす第2の火災を起こさせずにすみ、タンク火災も制圧の方策が得られたように思う。指令は徹底できず、現場では四囲の状況が判らず、連絡不明のまま消火にあたるのでは、大きな誤りを犯しやすい。通信装置の完備は消防近代化の第1歩である。
現地消防署に化学消防車の1台も装備がないのでは、火災対策を立て得ないのも道理であり、また、緊急時の消火活動に対する教育訓練・油火災に対する消火法教育の不足などと、とがめても無理である。複雑化する都市の消防装備はもっと充実させねばならない。
製油所・化学工場には化学車装備の自衛消防組織があるが自家工場内の局部火災と類焼防止の活動のみを期待すべきものである。にも拘らず、現実には、それのみが戦力で、公の消防装備の方が劣っていたとは国の予算編成に疑いを持ちたくなる。
新潟地震による被害額を見積ると、鉄道・土木・建築の損害はいずれも200~300億円であるのに対し、工場の被害は実にその数倍1、700億円を越していて、その損失の大部分が火災によって失なったものである。消火活動が満足に行なえるだけの装備を持てば、損失は恐らく10分の1以上に減らし得たと考える。現実には東京で組織した応援隊を待つほかないという哀れな有様である。これは、新潟のみの問題ではない。
消防専用のヘリコプター・悪路でも行動自由なジープあるいはカタピラ車・これに牽引されるタンク車・高圧車・泥水用ポンプ・消火艇などから消火剤の貯蔵倉庫を持つことまで決して過ぎた要求とは言えない。
このような装備によって訓練して、はじめて近代消防の活動も満足したものになる。現状での教育訓練はあまりにも無手勝流である。油火災の実態を見学し、また泡消火の教育を受けた者が殆どいないというめも装備の劣悪に遠因がある。これでは応用動作を欲求することはできない。東京から急送された各種の消火剤が混同され、消火泡原液がそのまま火災部へ投げ込まれるような混乱もあったと言われる。
新潟地震を契機に各地の工場の相互援助協定が益々緊密化し、機動性のある良好な装備の消防隊が活動し得る機運が生れつつある。とくに石油連盟は新潟地震のときも対策本部を置いて協力して消火活動を行なった経験をさらに発展させる模様である。地域毎に消防ブロックを作って組織的な近代装備をはかるべき時が来ているようである。
4.消火設備
災害が起こると、一般に全く無防備のところに災害が発生したように報道され、関係者を惜しがらせることが多い。新潟地震の火災とくに昭和石油の原油タンクは、我々が見てもまず最も良好な消火設備をしていたと思う。そのタンクが被災し、しかも固定消火設備は役割りを果たしていないのである。
無防備の被災ならば、今後は設備によって災害を防ぐことができる。最高の設備が無力であった点にこそ問題があり、反省を要するのである。
昭和石油の消火設備は、その発端に欠点があった。タンク附近のフォームチャンバー・配管はあまり異常が認められず、送液すれば平常の作動をしたものと推定される。ポンプ室は2箇所あったが、両室からタンクヤードまでの配管も1箇所の損傷以外ほぼ問題はなく破損部も何らかの応急処置は可能であったと思われる。致命的であったのはポンプ室の沈下であり、異常変位による偏心であった。
主ポンプ室は旧運河沿いに置かれ、旧運河の貯水を利用する計画になっていたが、沈下・移動によって、停電時用のディーゼル駆動も役立たなくなってしまった。ポンプの傍のエャフォーム原液タンクも大きく傾いていたから、あるいはプロポーシァナーにも異常を来たしていたかも知れない。
新工場のポンプ室は容量約1,000m3の貯水池の横にある。貯水池はひび割れ減水し、取水管が浮き上り、これがポンプ室の壁を破壊して、ポンプを突き上げ偏心の因をなしたように見える。送液側配管は殆んど乱れを見せていないので、長期間の火災の間に運転を試みてもよかったと思う。いずれにしても、折角の設備も何等消火活動に役立たずに終わってしまった。
日本石油の製油所は、消火ポンプからの配管はタンクあるいは装置附近の消火栓までで、タンクの基部で災害時に連結し、水・泡その他の薬剤を選択利用でき、あるいは、消防ポンプ車から直接タンク附属の消火設備配管に給液することもできるような、いわゆる半固定式の方式を採用している。この製油所の消火配管は相当古い埋設配管であったため、地下で破断したものもあるらしく、実際上消火栓までの送水が不可能で、万一火災となった場合は、消防ポンプとの連結方式を用いることになったものと思われる。
しかし、この工場は漏油と侵水によって、発火寸前の危険状態にあったので、若し、タンク上部で火災となった場合も、下に消防ポンプ車を近よせて、運転することは不可能であったと考える。地震などの場合には地表の漏油も当然発生し、この製油所に近い状態が生ずる可能性は多く、半固定式による消火設備も地震時の設備として信頼し難いものがある。
さて、新潟の設備・装置の被災を詳に調査すると、配管の破損・切断は配管が固定され逃げのない状態で変位を受けた場合で、(1)埋設管が、亀裂などによる勇断を受けたとき、(2)埋設から地上に立上り、装置・建家等に固定されあるいは長い架管となった場合の立上り部、(3)装置に固定された管が装置の不等沈下によって地表とぶつかった場合、(4)2つの装置施設などを貫通しているとき、両者の不同の変位による勇断力を受けたとき、(5)防油堤の貫通部、などに破損が見られ架管・地上のころがし配管は殆ど損傷を受けていない。
さらに、損傷の多い部位でも、フレキンブルジョイントを用い、あるいは高圧・高温配管のように円弧を用いて応力を緩和している場合には全く破損が生じていない。また、直角の曲りに135度に2回曲げ、中間にフレキンブルジョイントを用いた配管は、甚しい変位にもよく耐えて健在であった。
装置の損傷は不等沈下と2つの装置の基礎の違いによる変位が主な原因で、もとはと云えば地盤不良、基礎工事の不足によるものが多い。一般にポンプ室は工場の片すみに追いやられ、地盤不良の位置になってしまうことが多い。新潟地震はこの誤りを明瞭に示してくれた。工場の被災後に最も重大問題となったのは、工業用水の不足であった。新潟という特殊な事情を別にしても、地震後の用水の確保は火災の有無に拘らず工場として真剣に取り組むべき問題で、貯水池とポンプを震害から守ることは工場の至上命令となってよい。よい地盤と堅固な基礎の上で常に給水可能な設備が望まれる。
配管は、消火用配管の埋設はやめるべきである。凍結を心配するなら、常にドレン抜きを励行し、保温あるいは配管ピットを設けるがよい。しかし、ピットは漏油の流入などの事故の出る恐れがあるので、ころがし配管を推したい。消防活動の際に配管が邪魔になって活動を妨げるという難点はある。けれど他の欠点に較べるとこの不便が一番軽いように思う。地上をころがすことは、消火用配管に特有の着色を施してその配置を明らかにし、また、万一損傷のあった場合直ちに応急の処置を講じられる利益がある。
新潟の教訓はいずれかといえば、消火設備に対する不信感を与えたように見える。しかし初期消火を成功させるものは、消防隊の活躍ではなく、固定設備である。貴重な経験を生かして万全の設備を作り上げねばならない。
5.延焼の防止
社会生活が高度になればなる程、火災になるような危険物の使用量も使用頻度も大きくなる。火災発生の機会も、火災被害の大きさも増してくる。これを守る消防の使命も重大となり、多くの場合我々の制御下に危険物を置いておける。しかし、地震による火災の発生は、いかに注意しても、ある程度、止むを得ないものがある。発生した火災は初期消火で制圧すべきものであるが、なお炎上するものも生じよう。こうなれば延焼防止の対策が検討されねばならない。
危険物の保安距離・防油堤の構築などは、このための配慮であり、地震時と否とに拘らず延焼防止対策は重要である。けれど、地震時には各種の破壊が伴うため、平時に現れない延焼条件が加わってくる。この点はよく注意する必要がある。
新潟の地震火災が、液体火災でしかも傾斜めある浸水地域に起こったところに不幸があった。しかし、このような事態は、どこの臨海工業地帯が地震被災をしても起こることである。貴重な教訓といってよい。
石油類の防油堤は地震によって沈下・倒壊あるいは一部破損し防油の役割りを果たさなかった。そこに防油堤を越す浸水があって、一面に燃料油を拡げてしまった。地表に浸み込んでいた油類も噴砂・噴水と共に浮き出て来た。製油所の被災はこんなふうに始った。この上に河口の堤防の決壊は海面と連がることになり、干満により、あるいは津波により水の移動が起こるに従って油面も移動したと考えられる。
昭和石油の旧工場の火災の発火が、ほぼ満潮時に起こり、運河をわたり臨港町に延焼して行ったのが翌朝の干潮時、アジア石油へ火の廻ったのはつぎの満潮時と見るのはこじつけに過ぎるのであろうか。新潟港の潮汐差は1メートルにも満たないから、あるいは延焼の大きな因子とはならないかも知れない。しかし注意してよく検討しておく問題であろう。
水面上の油火災に対する有効な手段の探求は現在当面している大課題である。強力に推進し、各種の試みを実用化にまで持ちこさねばならない。オイルフェンスによる水面区分の方式や、丸太・ドラム缶などの連結による区画法、固形泡沫による被覆など各種の応急対策を検討したい。
原油タンクの火災は浸水による流動は起こさなかった。しかし、地震によるタンク内の油の揺動溢油が大事を惹き起こした。また、焼けてしまったので明確な断定は下し難いが、タンクヤード内の配管とくにタンクとの接手部に切損があって原油を漏らしたように見える。これが、防油堤の破壊と併せて5基のタンクへ直ちに延焼し、凄じい火災となり、人々を驚かし、旧工場の処置にまで影響をおよぼした。
原油のボイルオーバーの恐ろしさはこの火災でも発揮され、溢れた油は防油堤を倒して傾斜地を流れ、船江町に及び民家を焼いてしまった。ボイルオーバーは原油タンクの大火災では必ず起こるので、熱伝導率からほぼ沸き上がる時間を推定できる。その予想の下に砂地のどこかに土堤構築をして、火災局地化をはかる必要があった。とはいえこれは冷酷な第三者の批判で、あの非常事態の中で土堤構築の人員を集め作業を進められたか否か断じ難い。それならば、地震に耐え、大量の溢油に負けない防油堤を予めはりめぐらすのがよいことになる。
新潟地震ではブロック積みは甚だ弱く、ブロック1枚積みのものは殆ど例外なく破損していた。コンクリート製でも亀裂による破損・配管貫通部の破損などはあったが被害は僅かであった、工場敷地、配置などから考えねばならないがもう一度土堤を防油堤とすることを検討する要はないだろうか。大量の土を保有することになり、一部の亀裂など容易に修理でき臨機の処置が取り易い便がある。
この火災で幸いであったことは、殆ど無風に近い状態で焼けて行ったことである。もし強風に吹かれたら惨状はどのようであったろう。やはり火災は初期に局地化して留めをさすべきものである。
6.むすび
新潟の地震火災を教訓としながら、全くの私見を並べてみた。私は火災は慌てなければ制圧できると思っている。地震の際にもまず、火災に対する心構えが幸・不幸の岐れ目になる。冷静であれば、注意は行き届き、火災危険を1つずつ始末できる。災害は未然に防ぐべきである。
変災時の火災は大火となり易い。これをおさえるのは装備である。火災装備と近代消防、とくに変災時の工場火災に対する火災装備の不足は、日本の高度成長のひずみの1つと思える。消防装備の充実を切に望むものである。
なお最後に防火・消火は大きな共同作業である。近隣の連絡の円滑であった所は、危機を無事に切り抜けている。相互に信頼し、補い合ってこそ変災を免れることができる。地震があろうがなかろうがこの原則が守られない限り災害は猛威をふるうことになろう。
第2 地震時の避難
建設省建築研究所 設計計画研究室長 工学博士 戸川喜久二
1.はしがき
地震はいつも不意打ちにやってくる。そして最も困るのは、どれほどの大きさで、どれほど続くのか、見当のつかぬことである。
日常、体験する地震は、結果として微震・弱震に終わるのが多いが、油断はできない。それがいつ烈震となって災害にまで発展するか、まったく予測できないからである。
昔から、怖い災害の筆頭にあげられるのも、この理由からであろう。そこで、避難のことは、常々からよく考えておく必要がある。
地震の発生は、季節も時間も選ばないが、避難する側には、それぞれに利害得失がある。本来なら、避難対策も、季節別、時間別に考究すべきであるが、それは煩項にすぎ、反って一読の妨げとなるであろう。そこで、この小文では、単に昼夜別にとどめ、各建物における避難法を述べる。
2.夜間
(1)木造住宅
就寝中に地震に襲われることが間々ある。気付いたときの揺れかたが、本震自体か。それとも来たるべき本震への前ぶれか、見当がつかないが、丈夫な家具類(洋服ダンス・本箱・机等)に囲まれた中に寝ているのだったら、避難の必要はない。落下物に備え、夜具を深くかぶり、できるだけ小さい姿勢をとる。本震がいよいよ強く、家が傾くほどの地震となっても、生命を守るほどの空間は、家具類が確保してくれるからである。戦後、住宅が小型となり、家具類と同居するような生活が多くなったが、地震に対しては、このほうが有利である。
さて、地震心得8力条のひとつに。「1分過ぎたら、まず安心」というのがあるが、避難とは、この1分間を如何に安全に過ごすか、ということである。なかでも、本当に怖いのは10秒前後であることを、よく知っておこう。
新潟地震の強震計記録で見ると、前ぶれ8秒(10ガル)本震最大4秒(159ガル)、それから余震になり、1分もたたずに危険は遠去かっている。
また験震時報に集められた50の大地震記録を見ても、経過は似たようなものである。地震は昔から「ナマズ」に見立てられているが、地震計の針の描いた波型は、むしろ「エイ」に近い。小微動の前ぶれののち、大波が「エイ」の本体を形作り、それから付けねが太く、先にゆくほど細い、長い尾がつづく。大波は10秒前後で、それさえ巧みにやり過ごせば、そのあとに大波をしのぐほどの強い波は、決して来ないのである。
小住宅の密集したような地域では、原則として戸外への避難はあきらめた方がよい。敷地も道巾もせまいところでは、かえって外の方に危険が多いものである。ただし、危険を避ける突差の行動は、つねに忘れず、外に、安全場所の見付かるときは、座蒲団などをかぶり、脱出する。
大きな家、社寺、などは大屋根になり、頭が重いので、地震には危険である。家具の少ない座敷に寝ている場合は、納戸のような家具の多い小部屋か、便所・浴室などに逃げこむのがよい。
地震の去ったあと、火災危険の点検をする。ガス管の外れ、揮発油・アルコールのビンの倒れ、など注意する。
*1.川岸町アパート2号棟地階SMAC-A型
*2.第22巻別冊「日本における大地震の記録」昭和32年9月気象庁
(2)アパート
コンクリートのアパートは、新潟地震で、一般の信用を落とした。倒壊したのでなく、大傾斜しただけなのであるが、技術上のミスは明白である。河口に近い砂地の上のコンクリート建物には、杭打ちが必要だったのである。こういう落度さえなければ、コンクリートアパートほど、地震に安全な建物はない。コンクリート造は、一般に地震には強いが、その中でも、とくにアパートは強い。室内の棚からの落下物とか、本棚の総倒れなどに気をつけさえするなら、外への避難など、考える必要はない。
ただし、地震後の点検は、面倒でも念を入れるほうがよい。コンクリート造は、外部からの火の延焼に対しては強いが、内部からの火に対しては、特に弱いのである。気密にできているため、小さな火に対しても、怖るべき一酸化炭素の蓄積量が多く、かつ、早い。それに地震後の断水も考えておかねばならない。
石油暖房は倒れないまでも、油こぼれしていないか、貯蔵油は安全か、またガス洩れ、漏電等、配線配管の安全をたしかめる。
もし、小火で喰いとめることに失敗したら、窓も出入り口も密閉して逃げるとよい。空気不足にして、火勢を弱めるためで、その間に十分の水を用意するだけの、時を稼ぐことができる。
上階への延焼防止のため、上階居住者にバルコニイの可燃物を取りこむよう、伝えねばならない。コンクリート造は、アパートに限らず、地震よりも、内部発生の火災の方が強敵である。
木造アパートの強敵も、地震の終わったあとの火事である。管理人は、居住者不在の一室に立ち入っても、出火危険の有無を、確かめなくてはならない。
(3)旅館、ホテル
旅館は、立地条件により、宿命的に地震に不利のものがある。景勝の傾斜地・断崖に密集する旅館群など、それである。
また、敷地に恵まれぬ市街地旅館も、僅かの庭に岩石を組み、石灯籠を配する等、わざわざ地震の時の危険場所を、設けているものが多い。
旅館の規模設計はさまざまであるが、共通する欠点は、宿泊者にとり出入り口への順路の解りにくいことである。宿泊者は、宿泊のとき非常時を念頭にして、脱出方法や脱出場所を確かめるだけの心の用意をしておいて欲しい。
強い地震に襲われたとき、不案内による不安のために、多人数の宿泊者が、混乱に陥る可能性がある。
地震時には、なるべく室内にとどまる方針がよい。室内の卓、広縁の卓と椅子、電気冷蔵庫等、若干の丈夫な家具を拠点として、危険時間をしのぐ。また、そういうものがないとき、押入れの上の段がよい。また。近くに浴室・便所があるなら、そこへ逃げこむのもよい、また、一般に木造2階建ては、強震のとき胴差部分(1階2階の継ぎ目)で折れまがることが多いのが、2階の変型は少ない。従って2階宿泊者は比較的安全である。
ホテル宿泊者は、ベッドの蔭が安全な避難場所である。コンクリート造のホテルなら、ベッドの蔭へかくれる必要もない。
3.昼間
(1)事務所建築
昼間は、すべての人が活動状態、あるいはすぐ活動にうつれる状態にあるので、夜間の地震より、避難するには有利である。
コンクリート造のビルディングなら、建物の大小を問わず、外に避難する必要はない。室内の落下・倒壊物に気を付けるだけでよい。あわててエレベーターなどに逃げこむと、停電で中途に閉じこめられて、その救出に無用の人手がかかる。また階段へ走るのも、それに刺激されて多人数がそこに集まり、無用な人騒がせになるから、慎むべきである。
木造の事務所なら、とりあえず机の蔭に低い姿勢で、強震をやりすごす。2階の方が安全だから、2階勤務者は、わざわざ危険の多い階下に、降りていくことはない。
老朽木造の事務所のとき、やはり強震は机の下にかくれて、10秒ほどをしのぐ。もし、広い空地や道路があるなら、そこへ出てもよいが、揺れている間の10秒では、20m以上は走れないし、瓦の落下にも気をつけねばならない。事務机がたくさん並らべば、便所や湯沸場のせまい場所に多勢詰めるよりは、かえって安全である。大部屋の事務室であったら、周辺よりなるべく中央近くの机の下がよい。書類が多く、喫煙による火点も多いので、地震後の出火を厳戒すべきである。
(2)デパート
福井地震(1948.6.28)では、8階建てのデパートが大破壊した。倒れはしないが、1部の柱が折れたため、建物が大きく2つに割れ、その1方はひどく傾いた。この原因は地盤にも建物にもあった。地盤は旧濠跡、建物は戦災焼ビルに増築を加えたものである、1階1部は天井が垂れさがって、床に接した。
これほどの大被害にかかわらず、また営業時間であったにかかわらず、人命被害は皆無であった。コンクリート造の地震による変型は、非常にゆっくりくるので、このような類例のないひどい場合でも、人は容易に生命を守ることができるのである。従って、デパートで買物中に地震にあっても、決してあわてることはない。むしろ、その位置を動かぬ方が安全である。
デパートでは、群衆の動揺して階段へ集中することの方が、警戒を要する危険を内存している。
買物客の主力は女性であるが、地震に気づくと、初めもと来た順路へ戻ろうとし、エレベーター・エスカレーター・階段へ集中する。こういうときは、多数集まっている方が、安心感があるので、階段が最も多く人を集める。しかし、各階で階段を一時に使うことは不可能で、順調に使える階段は2階1階間だけである。2階群衆の流出の終わらぬ間は、3階群衆も、4階群衆も、流出不能なのである。それでも、見かけ上の進行は続く。ここに群衆事故を起こす原因がある。
階段上の密度はその水平面積1平方米につき8人までが限界で、10人以上は危険、12人になると、ブレーキのこわれた自動車と同じで、前進がとまらなくなる。あとは将棋倒しが随所に発生すること、過去のいろいろな群衆事故が示すとおりである。
地震の1分間は、恐怖にさらされているので、その間の僅かの待ち時間でも、群衆密度はあんがい高くなると思う。
7月、12月の大売出し期間中は、とくにこの群衆事故の発生を防がなくてはならない。
デパートで、地震にあっても、避難行動は起こさぬよう、万一、動揺したら、上階側へ誘導するように注意すべきである。
ただし、屋上では、塔や貯水槽や煙突の倒壊危険に注意しなくてはならない。
(3)映画館
映画館で映画鑑賞中に地震となったら、椅子より低い姿勢をとることとし、出口・階段へ殺到することを避ける。観客数の如何にもよるが、僅か一分足らずの時間で全員を館外に出すことは困難であるし、また、館外の方が安全とも限らないからである。
木造映画館の階上座席のものは、バルコニイの落ちることがあるので、座席後方へ移動したほう
がよい。
停電は観客に不安動揺を与えるので、全照明を点じて館内を明るくし、同時に予備電源へ切換えを急ぐ。念のため、停電予告を出したほうが、その後の動揺を少なくするであろう。
コンクリート造の映画館なら。避難を考える必要はない。一部の天井脱落などに備え、椅子より低い姿勢をとったほうがよい。バルコニイが二層も三層もある大型映画館では、極力階段集中を避ける。恐怖のあまり一斉に階段へ殺到すると、階段で将棋倒しを生ずる可能性は、デパートより強い。
映画館・劇場に限らず。公会堂・集会所のような多人数の集まるところでは、地震と同時に、群衆事故を強く警戒しなくてはならない。
(4)学校
木造校舎では、外壁を南京下見(厚板を横段に順重ね)としたものが、地震に非常に強いということが、実証されている。が、老朽していれば、安心できない。
授業中に地震があったら、机の下に身をかくすのが原則である。1教室(50人出口巾75糎2カ所)で廊下に出るのに約20秒、廊下を集団で走って秒速3mである。火災とは性質がちがうので、教室にとどまるほうが、安全のようである。
コンクリート造校舎なら、避難の必要はない。
学校建築は、地震後の情勢によっては、避難救援の拠点となるので、地域居住老の受け入れにつき、よく研究しておく必要がある。
(5)病院
木造の病院なら、患者はベッドの蔭にかくれる。重症患者には手助けが要る。2階建で2階に入院している患者は、その必要はないであろう。倒壊するようなことになっても、2階は助かるものである。ただ、重症のため、酸素吸入や懸垂注射器など使用中の患老には、看護婦の監視が要る。
薬局から火事を出さぬよう、地震後の点検を急ぐことが大切である。
コンクリート造の病院なら、全然避難の必要はない。懸垂注射器など、倒れるものに注意を要する。困難なのは、手術中の患者についてである。強震10数秒は、そのままやり過ごすことができても、引き続ぎ起こる停電・断水等につき、十分な対策が要る。ことに、人工心肺など使用する高度技術の手術には、十分な地震対策を、常々用意しておかねばならない。地震後、薬品火災を起こさぬよう、薬局その他の点検を怠らぬことである。
病院は、地震後の情勢で、救援活動の拠点となるから、負傷者の受け入れ、救護班の急派等、常々検討しておくことが望ましい。
(6)建物外での行動
道路歩行中に地震となったら、ブロック塀・石垣等に近よらず、なるべく大通りに出ることである。市街地では、看板や外壁タイルなどの落下物に注意し、コソクリート造の建物が見つかったら、構わず建物内に避難するとよい。公衆便所・公衆電話ボックス・交番等、小型の建物でもよい。
神社やお寺の境内は広く、樹木が多いので安全そうだが、鳥居・灯籠・石欄・石垣・老巨木など、倒壊のおそれのあるものが多いので、注意を要する。社殿・本堂も、屋根の重いものが多いので、近付かないほうがよい。
学校の校庭、公園など、よい避難場所である。
広い草地でも、川べり、崖地に近いところは、地崩れや地たりが起きやすいので、そういう場所で地震にあったら、できる限りそこから離れる。
地震のあと、山で遠雷を聞いたら、山津波だから、谷添いの路を避け、谷をはさむ斜面に向かって、できるだけ高く登るとよい。
4.集団避難
地震後、津波の来襲が予報されたり、火災が多発して大規模な火災となったとき、危険を予想される地域は、一時血退かなくてはならない。その避難目標は、その地域の学校か、隣接地域の学校である。
この勧告や命令の系統は、何時の場合にも、複雑多岐で、避難老を大いに迷わすものというが、放送1本にしぼるべきで、あとは放送内容の伝達にとどめたいものである。そのかわり、放送内容は十分な検討を経た簡潔なものでありたい。
伊勢湾台風のとき、立退きに応じないものの主因は、海賊集団の出没であったというが、自然災害による家財の喪失は断念できても、盗難は忍び難いのである。
また避難先での救援方法に、不安を持つものも、立退きを渋滞させる。
非常の際には、とくに血の通った為政でありたい。
さて、避難勧告の発令時期の判断、および受け入れ側の参考に、任意地域の避難完了に要する時間の推定法を述べよう。
地域面積(m2、km2)の平方を0.3で除したものが、その時間(秒)である。25ヘクタールの地域なら、全員がこの地域から姿を消すのは33分かかる。また、学校が地域の中心にあると17分で、集合できる。なぜこうなるか、という根拠の説明は、長くなるし、この小文の目的でないので割愛する。
地域の人口は、地域小学校の学童数の約7倍と思えばよい。一時的には、この全員受け入れを覚悟しなくてはならないが、罹災者となり、長時日とどまることになると、その収容限界は、全数の約1/3までである。
その期間、絶えず関連あるニュースを伝え、各自の再出発の意図を刺戟する。罹災者のもつ絶望感は、ときに破壊的悪宣伝を生み、また、それに共鳴しやすいからである。
(1)住居よりの移動
立退きは一時的で、すぐ復帰できる場合もあるが、復帰不能の場合もある。だが立退きの主目的は、生命を守ることで、財産ではないことを、知っておかねばならない。
従って、持っていくものは、生きるために必要の順である。水・食糧・毛布・金銭・紙・小型ラジナ・薬品・マッチ等。
水。断水を覚悟する。できるだけ多くの容器に用意する。給水を受けるにも、まず容器が必要である。
食糧。2日分は用意する。配給機構は寸断され、焚き出しを受けるまで、予想より時間のかかるものである。
紙、用便に使用する
以下、こういうときの心得は、台風季節の雑誌や、放送などでよく耳目にするので、省略する。
次に、家族のとりまとめが、困難な問題である。主人は勤務先に、子供は学校に、というように、昼間の家族は分散しているのが、普通である。双方で探し合って、移動をつづけ、10日も再会できなかった例など、珍らしくない。これらは、指示された集団避難から離れた場合に起こる。指示通りに移動するなら、情勢により、再移動、再三移動となっても、行くさきは常に明らかである。
留守家族だけ立退くときには、とくに指示通りに動くことが、家族を早くまとめるのに有利であ
る。
自家用車により立退くものには、予めその使用すべき専用コースを決めておくとよい。それも一定時間に限らないと、交通麻痺を起こし、公共の避難および救援の機構の妨害となる。
自転車・リヤカ一・乳母車等の利用は、それほどの障害とならないだろう。
徒歩避難の平均速度は、集団化すると毎秒50cm、子供つれでは30cmである。目標とする学校までのコースは、常々よく調べておくことが望ましい。
(2)職場よりの移動
津波警報の出たとき、その立地条件により、工場・事業所でも、操業・業務を中止し、立退きをいそがなくてはならない。
そのときも、移動の第一の目的は人命保護であり、財物でないことを強く認識しよう。情勢によっては、ただちに全員を解散帰宅させるほうがよい。不安に満ちた情勢下では、職員各自の家族相互の安全を確認した後でなくては、十分な活動を期し難いと思うからである。
職場の整理、重要物件の移動などは、家族に不安のない小数、および社宅居住老、解散後再参集の小数の手によって行なう。
最も困るのは、警察署・消防署を職場とする職員に、同様の解散手段のとれないことである。現在、どのようにこの対策がとられているか知らないが、総動員するなら、その一部を割き、各自家族の安全確認のための代表連絡係りとすべきである。家族をかえりみず職務を全うすることが如何に称讃されようとも、それは形をかえた非人道であり、礼讃すべきことではないと思う。
第3 地質学よりみた新潟地震
名古屋大学助教授 理学博士 井関弘太郎
新潟地震における新潟市の被害状況を視察して、とくに注目された点は、表層地質の状態が、地震災害の程度に強く影響していたことである。
新潟市およびその付近の沖積層の層厚が異常に大きく、G1層(第1礫層)までの150m内外に達することはすでに指摘されているが、今次の地震において、沖積層の全層厚の大きさが、被害の発生にとくに重要な直接的条件となっているとは考えられなかった。そのことは、沖積層の厚さの点では全域がほぼ同様な状態にあると思われる新潟市市街部において、地震被害の程度、とくに建物被害の状況に著しい地域差のあったことからも知られる。
*1.井関弘太郎(1957):日本周辺の陸棚と沖積統基底面との関係(名大文学部研究論集XIV)
*2.例えば、新潟市役所付近の中心市街部には、殆ど建物被害が認められず、また砂丘上にある新潟大学のあたりでは、赤レンガ作りの長い壁でさえも、損傷が認められない状態であった。
建物被害を中心とした地震災害(火災・津波を除く)の激甚地は、次の4地域であった。
i 信濃川の河状整理による同川両岸の埋立地帯
ii 新潟駅付近の新規埋立て、嵩上げ地域
iii 砂丘背後の新規造成宅地の陥没地域(藤見町)
iv 砂丘背後の旧河床部における湧水・陥没地域(関屋田町一帯)
関屋田町一帯の現象については、その原因が明らかでないが、他の3地域に共通していえることは、すべてが昭和以降に埋立て。嵩上げされた個所である。言葉をかえれば。沖積層の表層部分が、他の地域に比較してルーズな状態にあると考えられる地域に、被害の集中していることが認められたのである。次に、それぞれの地域の地質状態と被害の概要を述べておく。
1.信濃川河状整理埋立地帯
大正11年に大河津分水路が完成してから、それより下流の信濃川の最大洪水量は、従来の1/4以下に減少した。このため、低水路を安定させることと、市街地の造成を目的として、昭和2年以来、河状整理計画をたて、両岸の埋立てを実施した。埋立地の幅は万代橋右岸で約400m、左岸で100m弱に及んでおり、その結果、770mの長さをもっていた万代橋が、現在の308mに短縮されたのである。県営アパートの転倒で有名になった川岸町や、これに近接する国体グランドも信濃川左岸の埋立地上にあり、後者の損傷も著しかった。
これら埋立地の造成に用いられた埋立土は、河床砂(中砂~細砂)であったといわれるが。河床砂だけであったか否かについては確証を}xていない。埋立地帯では、地表面下5m内外まで、標準貫入試験のN値が5未満の場合が多いが、それ以浅においてN値が10代になる個所もある。川岸町には、後者に属するデーターもでている。しかし、地震時においてはこれらの埋立土が、いわゆる高含水性のクイック・サソド(quick sand)—流砂—化し、ほとんど支持力を失ったらしいことは、電柱が自重により4mも沈下したことにも示される。
クイック・サソド化した埋立土は、河方へ流れだしたと思われる。そのため、パラペットと長さ8mの鋼矢板からなる信濃川の護岸は、多く河方へのめるように倒壊した。またそれによって河岸の埋立地の地盤はさがり、さらに建物はなかば陥没しながら傾き、倒れている。河岸の諸埋管類も河方へ流失したり、切断したものが多い。
このような信濃川護岸の欠潰は、万代橋より下流の左岸で最も深刻であった。かかる状態のところに最高1.8mにおよぶ津波の襲来をうけたので、左右両岸とも各所に大きな浸水事故が発生したわけである。
なお、新潟港の埠頭個所においてもクイック・サンドの被害がみえたが、そのなかで比較的被害の少ないようにみえる中央埠頭においても、鋼矢板(長さ18m)が海方へふくれだし、さらに繋船に欠くことができないピットが弱化しているため、大型船の接岸荷役は、ほとんど不可能な状態にあった。
2.新潟駅付近の新規埋立て、嵩上げ地域
現在の新潟駅は戦後に新設されたものである。それ以前の状態を地形図等から検討すると、少なくとも近世には信濃川の河道になっていたと判断される。そのためにか、局部的には標準貫入試験のN値5以下という軟弱砂層が8m以深にまで及ぶ個所もある。とくに表層部には、N値0~3という極めて軟弱な泥層・砂泥層がひろがっている。これは、旧河道の跡が、新潟駅の新設まで、湿田になっていたことに関係があるように思われる。
このような地質状態のところに大型ビル・中小コンクリート建造物が建設されたため、不同沈下、剪断破壊による陥没現象が随所にみられた。駅舎・プラットホームの変形、および国鉄線路の弯曲などが、新潟駅構内の比較的限られた範囲に発生したのも、以上のような条件によるところが大きいと考えられる。
重量構造物の沈下などにより、道路面は、大きく波うつように弯曲していたが、これは表層部に軟弱層があり、それが流動したことによって、顕著になったものと推測される。この付近の路面には多くの亀裂が生じたようにみうけられたが、われわれが視察した7月2日現在ではすでにそれらは修理されていた。
しかし、傾斜したビルの一部には、傾きが増加しつつあるものもあった。例えば、新潟駅東側のマルヒロビル(4階建)の場合、6月28日から7月3日(午後1時)までの問に2°も傾斜が増し、全傾斜量は9°に達していた。
3.砂丘背後の新規造成宅地の陥没地域(藤見町)
砂丘部分の家屋被害は殆どみられなかったが、砂丘砂を運搬してきて新規に宅地造成した市営藤見町団地においては、局部的ではあるが、帯状につづく陥没帯が生じ、数戸の全潰家屋さえだしている。陥没帯の幅は住宅2~3戸が入る程度で、長さは200m内外、陥没量は1~1.5mに達していた。その様相は、土壌侵蝕のようにもみえるが、土砂の流れは認められず、また、地震時に湧水があったようでもない。地元民の一部には、この沈下現象を付近に天然ガス井(昭和34年規制)のあったことと関係づけているが、筆者の観察では、その原因が深部にあるのではなく、表層付近にあるように思われた。
4.砂丘背後の旧河床部における湧水・陥没地域(関屋田町一帯)
震動が停止した直後、土砂を含む地下水の噴出および噴砂があった後、地盤が陥没して家屋が傾斜したものである。この地域は砂丘背後地であると共に、近世の信濃川河床部に相当するところである。上記の現象が砂丘中に豊富に含まれる地下水(透水性のため、砂丘は一般に地下水賦存量が大きい)に関係があるか、あるいは旧河床部分の表層の地質的特性に起因するか否かは不明であるが、このような現象が、殆ど旧河床部だけにみられたことは注目される。なお、この地域では、ガス管と思える約4吋径の鋼管が、八字状に折れ曲ってアスファルト舗装の路面を突き破って露出しているのをみたが、これも表土の流動によると判断される。ただ、それから10m足らずのところにある石碑が、何の変化もなく存立していることは、a!
?°潟地震の一新潟市における一特徴をよく示すものといえる。
以上の現地調査の結果をもとにして、その後に建設省建築研究所などが蒐集した地質資料や建造物の基礎工事の状況を検討してみると次のようなことがわかった。
(i)上述のように建造物の被害が大きかった新潟市の旧河床部には。他の個所に比較して軟弱な砂層が厚く堆積(人工的埋立て分を含む)していることが共通して認められた。この軟弱砂層とは、地表面下5m以浅では標準貫入試験のN値が5以下の程度、また地表面下1GmあたりでN値が10以下の砂層をさすが、このような砂層の厚さは、新潟駅付近の旧河床部では地表面下1Om内外の深さにまで達しており、また信濃川沿岸でも地表面15m近くの深さにまで及んでいる。
しかし、このような砂層でも静的な状態では、5~8t/m2内外の長期支持力をもち、川岸町の県営アパートのような、4階建てコンクリ。_ト建築物(約4.5t/m2)でも布基礎によって支持することが可能であった。しかるに、地震時のような動的状態にあっては流動化し、支持力を殆ど失ってしまう性質のあることを忘れていた結果が、あのような被害をまねいたのである。なお、このような流動化しやすい軟弱砂層は、新潟市の場合もそうだが、一般に粒子がそろっている細砂層で、しかも堆積の時期が新しいため、砂の配列が整然とした状態にあるうえ、地下水を十分に含んでいることが普通である。
(ii)上記の軟弱砂層が地震時に支持力を失ったことは、電柱などが自重で4mも沈下したことでもわかるが、地震前後に行なった標準貫入試験のN値を比較してみても、この軟弱砂層の部分では、地震前のN値より地震後のそれが小さくなっていることからも認められる。
しかるに新潟市の地表面下約15m以深には、標準貫入試験のN値が30~40以上に及ぶかなり締まった砂層が分布しているが、この層においては、上部の軟弱砂層とは反対に、地震後のN値が地震前のそれよりかえって高まったことがわかった。換言すれば、この層では地震時以後にかえって支持力が高まったことになる。
(iii)したがって、コンクリート建造物の基礎が、長さの比較的短かい松杭などの摩擦杭(長さ7~8m以下)によっている場合、軟弱層の厚い旧河床部では、基礎杭がその支持力を失い、遂には、建物の傾斜をまねく結果になったのである。これに対して、基礎杭が15mを越える長尺杭(ロングパイ
ル)による場合には、建物の傾斜が殆どみられなかった。
なお、上部の軟弱砂層と15m以深の締まった砂層との間には、中位の締まり方をもった砂層(N値10~29代)があるが、その部分で終わっている基礎杭による建物の場合には、地震により傾斜を生じたものがあった。
(iv)以上のような地盤条件と建築物の基礎構造および被害状況との関係は、今後の軟弱地盤地域における建築設計にとどまらず、都市計画にも極めて重要な教訓をあたえたといえる。とくに軟弱砂層部分は、動的状態においては、支持力を殆ど失うという前提のもとに、それぞれの計画を策定することが強く望まれるのである。このような軟弱砂層が分布している地域は、沖積地のなかでも、旧河床部分や池沼・海面をサンドポンプ等によって埋立てた個所、あるいは低温地に嵩上げをした個所に主として分布しており、その状態は、上述のごとく地表面下5mぐらいまでは標準貫入試験のN値が5以下、10m内外の深さで、N値10以下ということをとくに付言し、このような砂層が厚く分布するところでは、とくに注意の要することを喚起a?!
?ておきたい。
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第4 地震災害対策基図の作製
名古屋大学助教授 理学博士 井関弘太郎
まえがき
現在の段階では地震の発生を予知することができないので、当初から防災態勢を整えてそれに対処することは望めない。また地震の場合は、極めて限られた面を除いては、施設によって震害を封じることは困難であって、大震火災への対策は殆ど消防活動にまたねばならぬ状態である。また、火災の準焼速度方向などはその時の気象状況によって異なるので、水害などにみられるような規則性はない。
これらの点からみて、地震災害対策は日ごろから十分な対震演習を重ね、臨機に対処しうる態勢を備えておくことが最も肝要である。しかし演習をするためには被害想定をする必要があるが、その被害想定があまりに現実性に欠けるものであっては、折角の演習の効果も薄らぎ、適切な震災対策をたてることもできなくなる。このような理由から、現実性のある被害想定と、それに対する消防・救護活動を図上で演習できるような地図作製の必要性が生まれるのであるが、このような必要から、愛知県防災会議の依頼により、筆者は「愛知県防災対策基図」(名古屋地域)と呼ぶ図上演習図の地図を作製した・この地図は、図名が示すとおり被害想定図ではなく、被害発生に関する諸条件を図示したものであって、これをもとにしa?!
|、関係者が各種の現実性のある被害想定を行ない、それに対する消防救護計画をたてるために作られた基礎図、すなわち基図(base map)である。
次のこの図の作製要領と、これを使って被害想定や消防・救護計画を策定する場合に考えるべき要素の若干を紹介し、震度6程度の地震があった場合の被害の想定を巨視的に行なううえの基準をあげてみる。
1.沖積層の厚さと家屋倒壊率
地震災害で最も恐ろしいのは火災だが、地震時の火災発生は、家屋の倒壊を原因とする場合が多い。したがって、火災発生点数は、家屋倒壊の関数とみることができる。
しかるに家屋の倒壊は、沖積層の状態、とくにその厚さと密接に関係することは、大正12年の関東地震の経験からみても明らかである。東京消防庁火災予防対策委員会(委員長内田祥三博士)の報告によれば、関東地震の場合、沖積層深度と倒壊率との問には、表1に示すような関係があった。しかし、同委員会においては、その後における木造家屋の耐震構造の発達から、表1に示す倒壊率に75%の修正係数をかけた値を、今日、関東地震程度の地震にみまわれた時の想定倒壊率としている。
このような経験をもとにして、名古屋地域の場合には、震度6の地震があった時の沖積層深度と家屋倒壊率との関係を、表2に示すように推定した。この倒壊率を用いて、学区ごとの家屋倒壊数を、次の式によって求めた。
A学区内の家屋倒壊数=学区内全戸数×(0.006a+0.008b+0.02c+0.04d+0.08e+0.15f)…
(1)ただし
a:洪積台地
b:沖積層の厚さ 0~10m
c:同上 10~20
d:同上 20~30mのそれぞれにおける宅地面積÷学区内の全宅地面積
e:同上 30~40m
f:同上 40m以上
このような被害想定をする前提として、洪積台地あるいは第三紀丘陵・山地などの地震災害の小さい地域と沖積地とを大別し、さらに沖積地については沖積層の層厚分布を地図に描く作業から始めなければならない。沖積層は過去2万年以降に谷地や入江・湾内に堆積した新しい地層であるため、一般に軟弱である。その厚さは東京下町では40~60m、濃尾平野の木曽川河口あたりで40~50m、大阪湾付近で35mに達するところもあるが、沖積地においても厚さが10m内外にとどまるところもかなりある。
沖積層の厚さを求めるには、土木工事に伴うボーリング資料を集め、それを検討すればよい。その場合の資料としては、なるべく標準貫入試験を併行したものが望ましい。標準貫入試験は一定のロット上に重さ64kgの錘を75cmの高さから落下させ、それが30cm突入するのに何回落下を繰返えすかを求めたもので、その回数をN値という。N値が高いほど地層は締まっているのであるが、沖積層の場合だと、砂層でもN値が10内外(時には30以上にもなる)、粘土・シルト層ではN値5以下の場合が少なくない。しかるに沖積層の底に達し、洪積層あるいは第三紀層にうつりかわるとN値は急に高まり、50以上になる場合もある。N値の急変部を注意しながらボーリング資料の記載事項をみると大体沖積層の底がわかるが、一般的には、海岸付近の沖c!
c?層は上部の5~10mが砂層で、その下が軟弱な粘土・シルト層になっている。このようにしてえられた沖積層の厚さを、その資料のえられた地点に記入し、それにもとついて沖積層の等厚線図を描けばよいわけである。
2.沖積表土層の厚さと倒壊率
一般的にみて、家屋倒壊率は沖積層の層厚と密接な関係をもつが、しかし局部的にみた場合には、沖積層の厚さが同じでも、表土層の状態によって倒壊率の異なることが、昭和19年の東南海地震における名古屋市の震害率を検討した東京大学地震研究所の表俊一郎・宮村摂三博士によって証明されている。
*表・宮村博士の館率P(%)とは、P=100×(全壊数+1/2半壊数)総戸数
ここでいう表土層とは、終戦直後、京都大学の佐々憲三博士により行なわれた名古屋市内の地質の物理探査の際、地表付近(とくに沖積地の)深さ数メートルの部分にかけて、人工地震波伝播速度が0.2~0.85km/秒以下という著しく緩漫な層(一般的にいって軟弱層)のあることが認められたが、その範囲の層を指している。この表土層の厚さと上記の震害率との問には、かなり高い相関関係がみられ、同層の厚さが5m以上の場合には、震害率は5~10%(部分的には50%以上)に達している。
したがって、`各地区の家屋倒壊率を求めるには、まず前項で述べたように。沖積層の層厚との関係から予想される家屋倒壊数を推定したうえに、表土層の厚さが5m以上(部分的には4m以上)の個所については、表3に示すような倒壊率から算出される家屋倒壊数を加えなければならない。これを式であらわせば次のようにたる。
表土層の厚さが5m以上の地区の家屋倒壊数=(1)式で求めた家屋倒壊数+(学区内総戸数×0.05)…………(2)
今次の新潟地震においては、新潟市の場合、沖積層の層厚よりむしろ人工的埋立土としての軟弱表土層の厚い個所において大きな被害をみせた。これは、上述の名古屋市南部の場合と全く同じような。あるいはそれ以上に顕著な流砂現象による被害であった。このような現象を起こすのは、人工地震波の伝播速度が綬漫な層であるが、そのような試験がない場合には、標準貫入試験のN値からも推測できる。すなわち、地表面下5m内外までN値が5以下の砂層、あるいは地表面下10mまでN値が10未満の砂層で、しかも地下水が飽和しているような場合をこれにあてるととができる。このような軟弱層の分布地域がわかったならば、沖積層等厚線図とは別に軟弱層分布図(厚さ5mの線で描げばよい)を重ねて記入すればよい。なお、軟弱な表a!
??層が厚く分布するのは、埋め立てられた河川・湖沼の部分をはじめ、人工的埋立地に多いので、このような個所を予め調べておくことも必要である。
沖積層の層厚や表土層の厚さとは別に、沖積層が砂礫からなる場合と、粘土や砂などからなる場合とでは、かなり顕著な倒壊率の差(後者が危険)がみられる。東南海地震の際にも、砂礫質の天竜川沖積地に対して、その隣りの砂泥質の大田川沖積地では著しく高い倒壊率を示したことにもうかがえる。したがって、図面があまりに複雑にならない限り、砂礫層の分布地域を記入しておくことも望まれる。
3.家屋倒壊数と火災発火点数
家屋倒壊数と火災発火点数との関係は、関東地震における東京市の場合、全壊家屋数の1.3%になり、半壊家殿を1/2して計算し場合0.9%になっている。したがって、今日の各都市における出火想定を行なう場合には、出火条件が関東地震当時より高まっていることからみて、発火点数は、少なくとも倒壊家屋数の1.3%程度に推定することが妥当と思われる。換言すれば、倒壊戸数80戸に1件の出火があると考えればよい。しかし、これは関東地震の経験をもとにしたため、夏季の昼食時の状況であり、火気使用量の高い冬季の出火率は倒壊家屋数の2。0%程度に想定することが妥当のように思われる。
これらのことを式で示すならば、次のようになる。
火災発火点数=(1)式または(2)式から求めた家屋倒壊
数×[0.013(夏)………(3)または0.02(冬)]
(1)式から(3)式までの作業を学区単位に行なえば、学区ごとの倒壊家屋数および発火点数の大様が求められる。そこで、発火点が学区内のどこになる可能性が強いかを想定する作業に入らねばならない。これは大震火災を考えるうえに極めて重要なことといえる。
この問題を解くため、まず、関東地震の際の火災発火点を職業別にみると、薬品取扱業者が44(全発火点の27%)、これに次いで飲食関係業者が30で、火災発生件数の約20%に。及んでいる。しかるに、平常時の出火状況をみても、職業別には飲食業関係者からの出火が多く、また地域的にも。その集中地域が比較的高くなっている。それゆえ、——地震発生時刻により差異があるぜ思われるが——一般には、大震火災の発火地点も、平常時の火災多発地域に多く集まると考えて差し支えなかろう。
このような理由から、基図作製にあたっては、例えば、昭粕30~35年の町別火災出火密度で、1ha当り1件以上のところを、既往火災多発地域としで現わすことが望まれる。
発火点の分布を考える他の1つの条件として、木造映画館・木造浴場の分布をあげでおくこともよい。これは、両者が発火しやすいというより、むしろ倒壊しやすい建築物であることによる。なお、そこは大衆が集合するところであるから、平常から救助活動の対象として注意を払うべき地点ともいえる。
このほか、危険物取扱所(危険物貯蔵所・製造所・取扱所・販売取扱所・給油所など)、高・中圧ガス管の配管状況を図示しておくことも必要であろう。しかし、これらは発火点としての条件がすべて同じではないので、予め、個別的に検討しておくことが必要であろう。なお、愛知県防災対策基図には示さなかったが、図があまりに錯雑しないならば、発火性薬品の取扱業者・学校をマークしておくことが関東地震・福井地震の経験からみて発火点の分布を想定するのに役立つと思われる。
4.初期消防活動に関する資料
前項の諸条件を勘案して火災出火点を想定したならば、当然のことながら、これに対する初期消防の計画をたてることになる。このための参考資料として、次のような事項な記載しておくことが望ましい。
(1)消防署(本署・分署)の位置
(2)震災時においで、消防車等の通行がなんとか可能と思われる道路(原則として幅員10m以上の道路。さらに20m以上の道路を別に示すのもよい)
(3)上記の道路に近接した貯水槽(4)消防ポンプ車の接岸・取水可能地
(5)幅員10m以上でも、地震に路面電車の架線が落下し、ポンプ車等の交通が阻害されると予想される道路については特別の記号を符しておく。
5.延焼火災発生に関する条件
地震時において初期消防が成功することは望ましいが、現実の消防能力からみて、延焼を全くくいとめることは不可能といえよう。そこで、火災の延焼を妥当視するわけでないが、避難・救護対策を計画するうえから、最悪の事態を想定してみることも必要であろう。
火災出火のうち、発火家屋の焼失だけにとどまる即時消止と、不幸にしてそれが拡大した延焼火災とに区別される。関東地震の場合、東京市内における即時消止と延焼火災の比は、約3:4であった。しかし、この比率にもかなり地域差があり、浅草区・本所区・深川区・神田区など、全壊家屋数が多く(それゆえ出火点数も多い)、しかも家屋密度の高い地区では、延焼火災の比率がいずれも出火数の80%前後に及んでいた。これに対して、全壊家屋数も少なかったうえ、当時、比較的家屋密度の低かった本郷区・小石川区・牛込区では、延焼火災の比率は20~30%であった。
このような点から、愛知県地震災対策基図においては、空中写真からの判読により、建蔽率がおよそ20%以上の集密市街地と、それ以下の市街地・農村集落とに区別した。そして、これらの地区における延焼火災発生率を——最悪の場合——上述の関東地震の経験と、今日の当該都市の諸状況(ここでは名古屋市を事例にとる)を勘案して、下記のように考えることが妥当と思われる。
予想される独立出火点からの延焼火
災の発生率(発火点数=100%)
建蔽率20%以上の密集市街地60~80%
上記建蔽率以下の市街地・農村集落20~40%
(消防署からの距離、道路事情、水利などからみた初期消防の難易、防火建築の普及状況、ガス管あるいは石油類等の危険物取扱施設の有無・状況などを勘案して、上記の発生率の範囲内で地域差を考える。)
なお、大震火災の場合は、独立出火の延焼からさらに飛火出火するものも少なくない。また関東地震の例をあげるが、この場合には飛火出火延焼数が独立出火延焼数の約66%に及んでいる。この数値をそのまま耐火建築が普及し、道路幅員の拡がった今日の多くの都市にあてはめることはできないとしても、最悪の事態を想定するにあたっては、独立火災延焼数の30~40%の飛火出火延焼率を考えねばならなかろう。したがって、延焼火災の発生件数(飛火出火からの延焼を含む)は、次の式によって推定することてができる。
全延焼火災発生数=(3)の式で求めた火災出火点数×
独立出火延焼発生率[0.6~0.8(密集地域)または0.2~0.4(非密集地域)]×
(1+飛火出火延焼率(0.3~0.4))………(4)
なお、火災の延焼拡大の条件については、次に示す延焼限界距離基準表(東京消防庁火災予防対策委員会資料)をもとに検討してみることが望まれる。この基準表は、空地があったり、耐火構造の建物がある場合に、火焔の直線的な進みが一時足踏み状態となり、場合によってはそこで焼け止まりとなる延焼限界距離を示したものである。
6.空地.病院等について
避難誘導の計画をたてるための資料として、空地を図示(緑色系統などで)することが必要である。この場合、空地の種類を次の4とおり位に大別しておくことが適当であろう。
(1)恒久的空地……公園・競技場・校庭・河川敷など
(2)都市計画空地区……第2種・第3種空地地区
(3)耕地
(4)一時的空地等……工場用空地・港湾物揚場など
これらの空地は単なる避難所になるばかりでなく、時には消防活動の拠点になることもありうるので、細大もらさず記入することが望まれる。
救護活動の計画をたてるために、耐震耐火構造の病院をマークしておくことも必要である。
あとがき
地震災害対策基図は、はじめにも述べたように、地震災害の発生あるいは消防活動などに関係する諸条件を図示したのにすぎないから、直ちにこれから防災態勢のありかたを結論することはできない。むしろ、この図をもとにして、各種の被害を想定し、それに対応する態勢をさがしだすことが必要なのである。そのような図上作戦の基礎になる地図なので、あえて基図と称したのである。
なお、地震災害対策基図の作製あるいはその使用にあたっては、都市計画諸図、とくに用途地域図、防火地域図、あるいは平常時の交通量図などを参照すべきである。
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あとがき
昭和39年度の非常火災対策の調査研究の対称として、新潟地震における石油タンク火災等の火災をとりあげ、直接実地調査を行なって、総合的な角度から調査研究した成果をまとめたのがこの報告書である。
調査研究の基本方針としては、昨年度、大震火災の総括的な問題点を明確にすべくとりまとめた報告書「大震火災対策の研究」に引続き、さらに地震における火災問題を深く掘り下げ、地震時の火災対策をより具体化することにあった。
ご承知のように、昨年6月に発生した新潟地震では、公共建物や一般民家などからの火災発生は、ほとんどなく、石油タンク施設から火災が発生するという過去の地震には、みられなかった特異な現象が起こり、社会問題として大きくクローズアップされたのである。
この石油火災に対処すべく、当庁としては応急措置に万全を期する一方、現場の消防機関も、必死の消火活動を行なった。また、予防課並びに消防研究所では調査班を編成して、現地に赴き実態調査を行ない、あらゆる角度から分析、検討を加え、被災の実態の解明にあたったのである。
この新潟地震の残した貴重な体験と教訓を記録して将来に備えるべく、この報告書をまとめたのである。なお新潟地震に関連して、早稲田大学教授井上勇、建設省建築研究所設計計画研究室長戸川喜二、名古屋大学助教授井関弘太郎の諸先生方から、得がたい貴重な研究論文を寄せていただき収録した。誌上をかりて深く敬意を表したい。
また本書の執筆にあたっては、主として、消防研究所堀内部長総務課、魚谷、川崎、教養課、小宮山、予防課、長谷川、柿田、次郎丸、原、消防研究所、細野の各事務官及び技官がそれぞれ担当した。それを各主管課で修正検討を行なったうえ総務課において編集したものである。
願わくば、本書が関係方面に十分活用されいささかなりとも、地震時の火災対策に寄与すれば幸い
である。
最後に、現地調査において、ご協力いただき、あるいは資料の提供をいただいた新潟県消防防災課、新潟市消防本部、山形県消防防災課、秋田県消防課、東京消防庁ほか関係者御一同に、深く感謝の意を表する次第である。
昭和40年3月1日
消防庁総務課長 斎藤正夫