はしがき
戦後40年間の防災対策は、既往の災害実績を後追いする形で、防災構造物の建造に力が注がれてきたのが実状である。この結果、ハードウェアの持つ防災ポテンシャルに関する限り、わが国は世界的にみても、高水準に達している。これに加え、この20年間は襲来外力が稍や小さかった事もあって、国民生活に壊滅的な被害をもたらすような大災害は、目に見えて激減した。
しかしながら、災害発生が非日常化するにつれ、次第に住民の防災意識は希薄となりつつあるのも、又一方の現実である。急速に都市化が進んでいるため、過去には例を見ない新しい形態の災害が生ずる可能性が憂慮される事とともなっている。更に、構造物のみに頼る防災対策では、経済的、社会生活的に限界があることが認識され、これを補う何かが求められるようになった。特に、ごく稀に来襲するであろう超過外力に対しては、ハードウエアとしての構造物が全く無力であるやも知れず、曾に時の対処方法が種々論議されるようになった。
その中で、「災害文化」が新たに注目を浴び、期待されるようになってきている。
かって災害が頻繁に発生していた時代には、地域に共通な知識があり、受動的ではあるものの災害対策の一部を構成していたのである。
本研究では、災害文化を掘り起こし、自然科学や社会科学の立場から見直し、防災対策の一助とする方法を探ることを主眼として行なわれた。
当面、対象とする災害を、地震、高潮・津波、洪水、地質災害とし、
1)災害文化の収集
2)災害文化の地域性・歴史性の抽出
2)災害文化の変貌と限界の明確化
2)災害文化の定量的評価法の検討
を目指し、工学、理学、社会学、歴史学など、諸種の研究者が集まって実施したものである。
従来、災害文化の研究は関心は持たれてはいたものの、広範かつ系統的には為されていなかった。様々な視点を持つ研究者が意見を交換する場は皆無であった。こうした場を作り、多様な討論・検討が行えるようにすることも、間接的ながら本研究の目的の一つであった。研究開始当初、異分野の研究者間に、研究姿勢・方法などに関して、違和感が存在した。工学者である研究代表者にとって、一部の人の研究態度は迂遠なものと思えた。その逆に、工学者の研究態度は、余りにも限定的で現世利益を追求しすぎると感じられた事であろう。同じ言葉が異なった意味に取られているのではないかとの不安を感じた事もしばしばであった。3年間の研究中に行なった数度の会合・討論を通じて、こうした不安は解消し、相互理解が進んだと感じている。
この報告書では、災害文化の収集から、その解釈や秤量をへて、社会への応用に至る一つの道筋らしきものを示したいと努力したが、完成したものと云う積もりはない。不均衡で整理のつかない形のまま、問題提起の段階にとどまっているものが多くあることは認めざるを得ない。しかしながら、とにかく手探りで来た3年間の努力が、曖昧な言葉で雰囲気として語られることの多かった災害文化について、客観的・定量的に見つめて行く方法を示唆する事は出来たと考えている。本研究が今後の災害文化研究の出発点として貢献することを期待する。
この研究は次に示す分担者および協力者によって行なわれた。
分担者 所属・職名・(専門)
五十嵐之雄 東北学院大学(社会学)教授
泉 拓良 奈良大学文学部(考古学)助教授
河田恵昭 京都大学防災研究所(海岸工学)助教授(初年度のみ)
北原糸子 東洋大学(社会史)講師
笹本正治 信州大学人文学部(国史学)助教授
首藤伸夫 東北大学工学部(水工学)教授
都司嘉宣 東京大学地震研究所(津波学)助教授
原田憲一 山形大学理学部(資源科学)助教授
広井 脩 東京大学新聞研究所(社会心理学)教授(初年度のみ)
宮村 忠 関東学院大学工学部(河川工学)教授
虫明功臣 東京大学生産技術研究所(河川工学)教授
山本 賢 和歌山県南部町
(協力者)
序章 災害文化研究の意義 首藤伸夫
大きな自然外力が頻繁に襲うからといって、その場所が災害多発地帯であることにはならない。
災害とは、自然の営みと人間活動との関わりにおいて発生するものであり、人間の対応如何によって、その発現形態を変えるからである。
住居する土地に結びついた生産を生活の根拠としている人々は、自然との無理の無い付き合い方を身で学び、言伝えて、記憶している。災害の原因となる自然も、暴威を振う時以外は、住民にとって必要な、恵みの基なのである。
自然の近くで生活している人々は、常に自然と向き合っている。説明が出来なくとも、不自然な現象に対する恐れをおろそかにしない。日常経験しないことへの素朴な警戒を忘れず、時としてタブーと云う形をとって存続する。チリ津波で潮が突然引いた時、ニュージーランドの地元の信仰深い人は浜に入らなかった。原因は判らないものの、それは不自然な出来事であったからである。これに反してヨーロッパ系の住民は、座礁した船を面白がって見に行き遭難した。この経験は、罰があったのだとして、タブーの強化につながった(原田憲一)。
災害経験の積み重ねは、被災を避け得る知識となる。日本では神社は地震に強い土地に立っている。縄文の昔以来、地震の度毎に被害の無いところが聖地化されて、そこに立てられるようになったのではないかと考えられる(都司嘉宣)。地滑り地帯の住民は、本来土地は滑るものだと認識している(笹本正治)。輪中にあっては、「水屋へ避難」が自然との付き合い方であった。中国地方江の川峡谷では、最近まで水防という言葉すら知らなかった。そこでは、上に住まいする方が安価であったため、下にさがって堤防を作る必要性を認めず、避難する事が有効な対策であった(宮村忠)。
自然と付き合って行く上での智恵の一部として存在していたのが、災害文化の原形であった。
住み着くことによって作り出され、受け継がれてきた、日常的な生活の文化である。自然に向かって能動的に働きかけていくというよりは、それが猛威を発揮する際に受動的に対処する態度が根底にあった。この態度を共有する集団は大きくなく、個人とそれが日常生活で交流する地域コミュニテイの範囲である。したがって、空間的時間的な限定がきわめて強く、「下位文化」の段階にとどまっている。
果して、地域性や歴史性を抜け出し、より普遍的で一般性のある「災害文化」となりうるであろうか。そのためには、何が必要とされるのであろうか。まず、経験量知識量の多いことがあげられねばならない。一般性と特異性の見極めには、多量の資料の支えが不可欠である。次に、発生から経験則へと結実する過程と条件を解析認識し、集積された経験則について価値判断することが必要となる。こうした経過を経て、初めて「災害文化」となり得るものと考える。
空間的時間的な限定は、なぜ存在するのであろうか。一言で表現するならば、自然に対する人間の姿勢の差によると云って差し支えあるまい。
風土の違いは、人間の態度の差の根源である。時代の違いは、人間の所有する手段の差に現れ、自然観を変化させる。これらの制限を越えて、共通性を持たせ得るであろうか。時代を越えて、過去の災害文化の中から、現代に役立つものを引き出すことが可能であろうか。
人間活動の枠は自然力の法則やその再現のサイクルに抗しながら広がってきた。利便や減災を目的とする人工的営為がなされると、新しい環境が出来上り、自然観や災害文化は従来のままではなく、変化して行く。こうした変化をくぐりながら成立してきた災害文化に、時間を越えた、どの様な存在価値を認め得るのであろうか。
二つの相反する立場がある。
一つは、河田恵昭の示す例題である。地域や時間が異なっても、同じパターンで発生するなら、過去の経験は通用する。50年前の大阪と現在の上海の地盤沈下が、その好例である。両者に共通の重要原因が地下水の汲み上げであることは明白であり、原因と結果の対応が何の疑問もなく決定できるからである。さらに、現象が異なっても比較対照の可能な例として、河田は疫病と災害とをあげる。西洋でのペスト対応策としての下水道と、日本における洪水氾濫に対する堤防とは、同じ発想、同じ対応と考えられる。両者を翻訳して繋ぐためには、どの様な基準軸を見つけるかが問題であり、例えば人口圧力、平均寿命等がその役を果たすのではないかというのが彼の考えである。
一方、上の例題でも明かであるように、発生様式を異にすれば従来の経験は当てはめられない。
また、未だ経験していない社会形態を取るであろう未来への適用はできない。
結局、因果律の決まっている場合には、引き写しが可能だということになる。その他の場合にも、基準軸がきまれば、可能となろう。この時、基準軸の発見の成否が全てを支配するのである。
しかし、未来への適用では基準軸の発見が難しく、殆ど絶望的であると云わざるを得ない。
災害文化の限界性を論ずるにしても、その一般化を図るとしても、現在の我々の手元には、余りにも貧弱な知識しかない。当面我々の為すべき事は、固定した観念で災害文化を眺めることではない。まして、役に立つか否かで選別することではない。個別問題への適用に繋げようとする価値判断とは無関係に、災害文化を種々の観点から虚心に探り、集積し、将来の研究の展開の為の資料とする努力を続けることが何より必要である。
それにしても、昨今の社会の変化、自然観の変化の速度は速い。災害文化の忘れられる速度も、これに対応しているのではないかと不安を抱かせられる。構造物で代表されるハードな防災対策の限界を補?するものとして、災害文化の応用に期待が寄せられるようになりつつあるものの、災害文化それ自体が消失の危機に瀕しているという感がある。
災害文化継承の危機の原因を探ってみよう。
まず、被災地からの逃避があげられる。このため、経験は蓄積されず、災害文化として住民に受け継がれて行くことにならない。アメリカ・セントヘレンズ火山の爆発では、災害復興は行なわれなかった。日本では、災害が直接の契機ではないにしても住民の都市への流出があり、更に大家族の崩壊が、同種の効果をもたらし始めているのではないかとの指摘がある(北原糸子)。
次に、新来者の増加による地方共同体の変化があげられる。新来者は災害の歴史を積極的に学ぼうとはしない。身近に経験者の居ないかぎり、災害文化には関心が無い。日常性という点で、新来者にとって災害文化は縁が薄いのである。そればかりか、時たまの防災訓練にさえ、参加率が悪い。これでは、災害文化の伝えられる条件は満たされない。
第三に、旧住民にとってさえ、災害文化の日常性が薄れつつあるという現状がある。共同体としての連帯感の希薄化、防災施設の充実、災害発生の小頻度化などが原因となって、「行政」と「住民」とへの分離、「防災訓練」と「日常生活」とへの分離が進行し、災害文化を育て、守り、継承する力は弱くなりつつある。
「行政」との分離による危機には、見逃すことのできないものがある。その三つの例をあげよう。
第一に、現住民は知っているにもかかわらず、公式記録から脱落する可能性である。周参見町史における安政南海津波(河田恵昭)、中部地方における天保年間の山抜けの記録(笹本正治)が例として挙げられる。現在は覚えられていても、そのうち消失する危険を含んでいる。単なる記録にしてこの有様であるから、災害文化の中には全く顧みられないものがあったと考えざるを得ない。
第二に、行政による普遍化、あるいは標準化の過程において、誤りの入り込む事である。原田憲一は、ニュージーランドのマオリの場合をあげる。政府が小学校を避難場所に指定したのであったが、現地の人はそこを危険と考え、ハリケーン襲来時には彼ら独自の集会場に避難して助かったという。これに類似したことがわが国で起らないとは言えない。津波避難所まで、わざわざ海の方へ近づかねばならないところもあるのである。
第三に、抽象化された結果では表現できない、重要な何かを見逃す事である。住民は、行政が何かをしてくれることを望み、行政は明確な結果の提示を成果と見なす。こうして出来上がる成果の一つに、ハザードマップがある。それは住民が満幅の信頼を置けるものであろうか。東京の震災・空襲の体験者は、行政当局の決定した避難地を知ってはいても、そこへは避難せず、何処へ逃げるかは自分で考えるという(宮村忠)。当時の状況についての知識に加へ、その後の変化をも考慮して判断するものらしい。零か百かの選択ではなく、助かる可能性を少しづつ高めていく事を選ぶ。観念が固定化していない者ほど生き残れると考えているのである。ここには、抽象化され資料としてまとめられた災害文化と、住民が肌で感ずる災害文化との亀裂がある。
以上の事柄を振り返りながら、いま災害文化の研究において求められることをまとめると、日常の生活の中から成立してきた災害文化を採集して消滅から守り、その成立の条件・基盤・適用性を明らかにし、ついでまた日常性の中へと戻して行くことに尽きるであろう。それによってこそ、「無駄なことでは死なない」という精神を生かし、「災害を最小にする技術」に貢献する災害文化の価値が蘇ることとなる。
第1章 社会技術としてみた災害文化 原田 憲一
1.1 序
生態学の教科書にはよく、自然界の生態学的な平衡作用の例として、ある地域に住むウサギとオオヤマネコの数の周期的な変化があげられている(例えばオダム1975、254頁)。すなわち、ある年なんらかの理由で草が繁殖すると、それを食べるウサギの頭数が増加する。それにつれてウサギを餌とするオオヤマネコの頭数も少しずれて増加するので、ウサギの増加には歯止めがかかる。一方、草の生育が平年なみを下回ると、ウサギは餌不足に陥り多くが餓死するので頭数が激減する。しばらくするとオオヤマネコも餌不足になり、やはり頭数が劇的に減少することになる。
すると捕食者が減少した分だけウサギは繁殖しやすくなって、翌年からウサギの頭数が増え、遅れてオオヤマネコが増えるという周期が始まる。こうした周期的な個体数の増減を繰り返しながらも総体的には地域の生産力にみあった値に納まる。実際には、もっと複雑な喰いつ喰われつの関係が草食動物と捕食動物の間に成り立っているので、地域内の動植物の全体量の変化幅はさらに小さな範囲に納まっている。
ところが人間の場合、ある地域内で人口が増加しても、滅多に餓死は起こらない。それどころか、三百万年前に人類が出現して以来、世界人口は一貫して増大してきた。石器や骨格器、木器など簡単な道具類を巧みに用いることによって土地がもつ潜在的な生産力を引き出すことに成功したからである。とりわけ一万年前に農業革命が成立してからは、人間は積極的に農地を開墾したり、農場の灌漑設備を整えたり、あるいは品種を改良するなどして、農作物の収量を飛躍的に増加していった。また漁村では、漁具や漁法などを改良して水産高を増大した。
こうした食糧生産技術の発展により、食糧に余剰が生じて、直接農耕や漁労に従事しなくてもよい人間(社会余剰)が出現した。彼等はもっぱら日用品や道具類の製作に専念したので、手工業品の品質は向上し、機能の改良も促された。農業(漁業)と手工業の分業体制が確立すると、社会生活も全体的に効率化するので、食糧生産はますます増大し、それがまた地域の人口を増加させることに繋がった。その結果、約5,500年前にメソポタミア地方で初めて都市が成立したのである(伊東1985,51頁)。
このように、増加した人口が社旗発展の制約となるのではなく、かえって社会を発展させる一種の資源と化す点で、人間は本質的に他の生物と異なっていると言えよう。ここでいう社会資源(新資源論研究委員会1988)を構成する要素としては、ある一つの社会が抱える人口と人口密度、構成員間の言語の統一性、構成員が共有する知識の量などが挙げられる(原田1993a)。従って、社会資源の賦存量は、基本的には社会の発展(生産力の増大)とともに増加することになる。
そうした社旗資源を有効に活用して社会生活を効率化させるものが社旗技術である。例えば、首都圏におけるコインシャワーや書類宅配システムなどのいわゆる各種の「隙間産業」は、都心部へのヒト・カネ・モノの集中を利用した社会技術だと言える。また、地方都市は、大都市に比べれば狭い居住圏と相対的に小さな人口を抱えるが、農村に比べれば人口が多く、人口密度も高い。そうした地方都市で、バスとタクシーに代わる交通手段として急速に普及してきた運転代行業も、社旗技術の例である。一方、いわゆる過疎地域では、若年人口の流失と構成員の老齢化によって社会資源が消耗し、祭や寄合などの従来の社会技術が利用できなくなって社会機能が著しく低下し、そのためにますます社会資源が涸渇するという悪循環に陥っている、とみなすことができよう。
しかし歴史的に見た場合、最も端的な社会技術の例は、歴史的に宗教や習俗・習慣などと呼ばれてきたものであろう。例えば、環境意識の高まりから日本の各地で自然保護の気運が高まっているが、地域住民間でも開発に対する利害が対立して、環境保護に有効な対策が立てられない場合が多い。ところが、一昔前なら、住民の大多数が開発するのは不適だと考える場所には注連(しめ)縄が張られた。するとそこはたちどころに聖地と化して、開発のための立ち入りは禁じられた。注連縄は非常に有効な社会技術だとみなせる。
以上のことを図式化すれば(図-1.1)、人間社会は、天然資源を利用する生産技術(農林水産技術と工鉱業技術)と社会資源を利用する社会技術から成り立っているといえる。そして、生産技術は具体的な道具や装置をともなうのに対して、社会技術は社会的な約束ごとでなりたっている場合が多い。すなわち、コンピュータに譬えれば、生産技術はハードウェアであり、社会技術はハードウェアを動かすソフトウェアに対応するものだとみなすことができる。だが、従来は生産技術と天然資源の関係から社会の在りかたが論じられることはあっても、社会資源と社会技術という観点から社会の発展が論じられることはなかった。
本稿では、この図式に従って、まず地域社会における工業的な生産技術の発達を制約する要因は、気候や植生、土壌などのいわゆる風土条件ではなく、地質環境であることを説明する。すなわち、長崎県対馬において石屋根倉庫と朝鮮式山城を調査した結果を基にして、建築技術の発展を制約をするものは、地域的に賦存する資源の質と量、資源輸送を阻害する大地形、および地盤の性質であることを実証する。
ついで、長崎県北松浦郡の地滑り地帯の調査にもとづいて、いわゆる地質災害(地震・地滑り・火山噴火・洪水・津波など)と呼ばれる現象は、日本列島のような圧縮変動帯に特有な物質移動の形態であり、基本的には生物生産力を高める働きをもつことを説明する。
そして最後に、ニュージーランドのマオリ文化の調査結果を踏まえて、災害文化とは、一見突発的に見えても、統計的にはある種の法則性をもつ物質移動の利点を社会的に最大限に活かし、人的被害を最小限に抑えるために編み出された社会技術の一種であることを論じる。
1.2 資源と技術
日本では、名著と呼ばれる和辻哲郎の『風土』(岩波文庫)や梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公文庫)などの影響で、文化発展に与えるいわゆる風土条件の重要性が指摘されてきた。確かに、日本列島の複雑な海岸地形と水系ならびに里山を覆う照葉樹林は、漁労・狩猟・採集を生業とした縄文文化の発展を規定したであろう。また、梅雨をもたらすモンスーン気候は水稲農業で支えられた弥生文化の発展にとって不可欠な要素であることは明らかである。
しかし、先に述べたように、農耕技術が進んで社会余剰が生じるようになると、手工業生産が増大する。そうした手工業技術には石材や鉱石、粘土などの地下資源が必要になり、入手できる地下資源の質によって技術の発達が影響されることになる。従って、手工業が本格的に発達し始めた都市革命から後の文化発展は、食糧生産を規定する風土条件だけでなく、地下資源の特徴を決める地質条件によって規制されることになる(原田1990、283頁、1992b)。
このことを典型的に示すものが、以下に述べる対馬における石材資源の賦存状況と建築技術の発達の関係である。
1.2.1 石屋根倉庫
「対馬名物とんびに烏、またも名物女の馬乗り石の屋根………」と陽気節に唄われているように、対馬では石屋根をもつ倉庫が名物になっているが、長崎県が有形文化財(建造物)に指定した下県郡厳原町椎根の石屋根倉庫(写真1)に関して、厳原町教育委員会は以下のように説明している。
石屋根倉庫は、古来穀物を中心とする食糧や日常生活用品を保管するために使われてきた。現在もその機能は変わっていない。その起源は明らかではないが、古い伝統をもつといわれている。
島内に算する格好の板石を用い、屋根を葺くという技法は冬季の強い北西の季節風や雨露から大切な食糧などを守るために、人々が自然発生的に考え出した技法であったに違いない。火事による損害を防ぐため民家から隔離して建てるという配慮も体験的智恵によるものであろう。柱は椎材、周囲の壁・床・天井は松材を用いている。以前は全島的に石屋根倉庫が作られていたが、近年わずかに厳原町の西海岸に残っているに過ぎない。当倉庫は「島山石」を用い、模式的にその
様式を伝えている。
また、城田(1983)は、より詳しく石屋根倉庫の由来を説明している(67頁)。
村々の家はすべて萱葺きで、たとえ金があっても瓦葺きの家は許されなかった。対馬の家々が瓦葺きになったのは明治以降である。
一度火事が発生すると、村中類焼することが多かった。火災の類焼から免れるために、住居より離れた所、特に川の近くの小高い所に、食糧や衣料、その他大事な什器類などを納めておく小屋(倉庫)を建てるようになった。小屋も萱葺きであれば、たとえ離れていても類焼に遭うことがある。さいわい対馬には水成粘板岩の薄い板石が多く産するので、その板石で屋根を葺くと重くどっしりとして火災よりの類焼を免れるという発想が生まれたのである。
三,四百年ぐらい前から、百姓庶民の智恵として豊富な薄い板石で屋根を葺くという石屋根文化を生み出したのである。
対馬は風が強く吹き荒れる土地である。石の重みでがっしり立っている小屋は風に強いのである。どんな暴風雨にも耐えることができる。石屋根の小屋は、大切な食糧、衣料、什器等の財産を守ってくれる対馬庶民の城である。火災と風雨を防ぐ一石二鳥の石屋根文化を生みだしたといえるのである。
石屋根の石は、大体全島的に産するが、現在はっきり知られているのは、厳原町豆酘(つつ)の仲五郎石場が一番有名である。仲五郎石場の板石は豆酘村一円から南部の各村々に供給されていた。畳二帖敷の広さの板石を神社入口一の鳥居の下の敷石に使っているのを豆酘の多久頭魂神社や内院の奈伊良神社その他にもよく見かける。これらはみな仲五郎石場の石である。
(中略)
小屋(石屋根倉庫)の構造は、椎の木の幅広い柱で建てられ、高床式で風通しがよく、中は二つ又は三つの部屋に区切られている。一つの部屋には米麦をはじめホーシ(切りぼし藷、カンコロともいう)、センダンゴ、そばなど救荒食物といわれるような物を貯蔵し、他の部屋には衣類、客用布団、什器などを納めるようにした。
一旦村に火災が発生して仮に本屋が焼けても困らないようにしたのである。鍵は四角な細長い鉄の棒の先をちょっと曲げた簡単なものであるが、一戸一戸寸法が違うので、他人の鍵では絶対に開かないのである。
雨露や湿気を防ぎ、ねずみも入らないように建ててあるので、食糧、衣料等を保存するのに実に合理的な石屋根である。
椎根の石屋根倉庫に類似した倉庫は、対馬南部(下島)の西海岸に沿って分布している。すなわち、下県郡の美津島町の加志・今里、厳原町の阿連・小茂田・茶屋・椎根・久根田舎・久根浜・佐須瀬木・豆酘瀬・豆酘、および瀬川の鮎戻し附近の内山などの集落で確認することができた。
屋根を葺く石板の材質は、中粒から租粒の砂岩で、表面に漣痕をもつものもある。その厚さは3~14㎝、幅は30~80㎝、長さは50~200㎝である。重量のある屋根を支えるために、太い椎の内柱に加えて、庇を支える側柱があるのが小屋の特徴である。新しい小屋(恐らく明治以降のもの)は瓦葺きであるが、庇を支える側柱を有している点では同じである。
椎根と豆酘における聞き込み調査によれば、椎根の石屋根の石材は浅茅湾(浅海)奥にある島山島の採石場から採取されたもの(島山石)らしい。実際、島山島には昔の石切り場の跡が残されているが、ここで切り出された石材がどのように輸送されていたかについては不明である。一方、豆酘の石材は豆酘海岸付近の仲五郎石場から採取したもので、自動車道ができる以前には石材を他地域に搬出したり、あるいは厳原の赤石(赤石砂岩)を搬入したことはなかったとのことである。
下県郡(下島)の西海岸沿いに露出する対州層群は砂泥互層が卓越し、層厚2~20㎝の砂岩層と層厚1~10㎝の泥岩層が規則正しく交互に積み重なっている。砂泥互層のなかの軟らかい泥岩層が選択的に風化されて、固い砂岩層が板状に残ったところが採石場となったのであろう。現在、美津島町の玉調付近で板状砂岩を石材として機械を用いて大規模に切り出している採石場が一ヶ所あった。
これに対して、上島(対馬北部)の南部の西海岸沿いの鹿見・田ノ浜、恵古および東海岸に面した船志では、薄くて不定形の石板(厚さ2~8㎝、長径40~80㎝)を瓦状に葺いた石屋根倉庫(写真2)が、ほんの数軒見掛けられた。この小屋の建てかたは下島のものと違って庇を支える側柱はなく、L字型の曲がり屋のように小屋の端に出っ張りがあるのが特徴である。瓦状の石葺き屋根と小屋の形は、写真に見られる李朝朝鮮の時代の火田民の石屋根小屋と酷似している。鹿追でのききこみによると、城田(1983)の説明とは違って、そうした石屋根倉庫は鼠がはいりやすく、古くなると雨漏りがするので、十年以上も前に瓦に葺き直したということである。また、恵古で聞いたところでは、戦後は石葺きは貧しさの象徴だという思いがあったので、高度成長期
にきそって瓦に葺き直したということである。
この地域の海岸には、下島で観察されるのと類似の砂岩泥岩互層が卓越した岩相が発達しているが、地層は褶曲している。そのため、厚い砂岩層には多数の節理が発達する。厚さ2~3㎝の薄い砂岩層には節理が発達しにくいが、大きな板状の石材は切り出しにくい。従って、比較的大きな不定形の石状を掘り出して利用したものと考えられる。
一方、下島の東海岸(厳原町の尾浦・久田・厳原・曲・根緒・高浜など)と上島のほぼ全域(上県町の女連・伊奈・湊・西津屋、上対馬町の鰐浦・比田勝・浜玖須・琴・芦見・一重・小鹿など)にある倉庫群(写真3)には石屋根は認められない。そのうち少数の倉庫はトタン屋根であるが、残りは全て瓦葺きの屋根である。鰐浦では瓦の上に円礫が重しとして置いてある屋根が多く見られた。倉庫周辺にも板石は認められず、地元の人に話をきいても、倉庫の屋根に石板を用いたことはなかったとのことであった。このことは倉庫の建築様式からも窺うことができる。
すなわち、庇は短くて側柱はなく、柱は比較的細い杉材でできていて、倉庫の端に出っ張りはないからである。
上島北部では砂岩泥岩互層は発達せず、塊状の砂岩層または層理面の発達した厚い泥岩が分布している。こうした岩相では石板が切り出せないので、倉庫は最初から樹皮で葺いた軽い屋根をもっていたと考えられる。実際、比田勝の山間にある採石場(現在休業中)は塊状砂岩を切り出し、骨材として利用していた。対馬の住民は石材資源が全島的に賦存するものだと了解しているようだが、実際には分布域は限定されているのである。
対州層群の岩相分布と3種類の倉庫の分布、および聞きこみ調査でえた情報を総合すると、倉庫の伝搬は以下のように推察できる。すなわち、恐らく最初は浅茅湾周辺に朝鮮式住居が伝わり城田(1963)が説明するように、食糧や日常生活用品を保管するための倉庫として使われた。その際、朝鮮方式を真似て、付近で採れる不定型の板状石材を用いて屋根に葺いた。しかし、その方式では屋根の気密性が悪く、石板もずり落ち易すかったために、明治維新以後、屋根に瓦を葺いてもよいことになると、次々に瓦葺きに変えられていった。ところが、下島の西海岸では良好な石材が入手できたために、様式美をそなえた石屋根倉庫が建てられた。この場合は屋根の気密性も高く、石板のずり落ちも少ないので、明治維新後も屋根は改変されず、現在まで手厚く保存
された。一方、下島の東海岸や上島のその他の地域では全く石材が入手できないので、最初から樹皮で屋根を葺いた。その結果、柱の細い簡易型の倉庫が発達したのであろう(原田1992c、原田ほか1991)。

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1.2.2 藻小屋
先に述べたように、上島の西海岸には砂岩泥岩互層は発達しているが、褶曲のために砂岩には節理が発達している。このため海岸には偏平な礫や立方状の礫が無尽蔵に転がっている。そうした偏平な箱状の自然石を選んで、野面積みにして高さ2mほどの石壁を作り、それに屋根を掛けた間口2間、奥行き4間ほどの大きさの小屋が藻小屋である(写真4)。
峰町木坂の海岸に保存されている藻小屋の脇に立てられた説明板には以下のように記されている。
対馬の海付の村々では晩春の頃、船を繰って「藻きり」をしたり、海岸に漂着した寄藻を乾して、麦の肥料としたもので、この藻を貯える納屋を「藻小屋」と呼んだ。
西面の海岸に多く見られ、別名「船屋」とも称したのは、船を使わない時はこれに格納したからである。
法面保護を目的とした石垣は日本全国いたるところで見られるが、野面石の石積みで造った構造はきわめて稀である。藻小屋の存在が確認できたのは、木坂の他には、峰町の青海・津柳および上県町の久原のみで、下島と上島北部の西海岸および東海岸には認められなかった(原田ほか1992)。

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1.2.3 石塀と石垣
下島の東海岸にある厳原町には、江戸末期に作られた防火用の石塀(城田1983、54頁)が多数残されている。石塀はソウルなどではよく見掛けられるが、日本では日本では滅多にみられない。
石塀は石材に乏しいことと、地震で崩壊し易く危険だからである(原田1990、283頁、1991a)。
家をとり囲む高さ2mちかい石塀は主に東海岸沿い(厳原町の鷄知、上対馬町の琴など)および上島の西海岸(木坂、志多留など)に認められるが、そうした地域の海岸では、節理の発達した塊状砂岩や砂岩が卓越した砂岩泥岩互層が発達しており、海岸には偏平もしくは立方状の礫が散乱している。民家の石塀にはこうした礫を積み上げてつくったものが多い(写真5)。しかし豪邸や寺院の石塀には大小の角礫が利用されていることが多い。付近の山から切り出したものであろう。
こうした石塀に加えて、石材を積み上げた構築物が多いのも対馬の特徴である。その一つの豊玉町の西海岸にある猪垣で、長崎県指定有形民俗文化財になっている。その説明板には以下のように記されている。
白子浜の北岸にそそりたつ山頂から塩浜に通ずる鞍部にかけて145m、さらにその鞍部から西北の頂上に向けて、約96mにわたって石垣が築いてある。石垣は、高さ1.1m、上幅0.6m、根幅1.2mで、概して保存状態もよい。
いつの頃からか、この石垣は、元禄・宝永期の野猪狩りの時築かれた猪垣であると伝えられてきた。しかし、この猪狩りは、対馬藩あげての大事業ではあったが、その追い詰めのための柵であるならば、木柵で十分で、恒久性の高い石垣を築く必要がなく、また全島にその類例もない等より、この石垣は、中世から近世にかけて馬を放牧し、島内4牧中最大規模といわれた「長崎牧」の遺構ではないかと考えられるが、なお考察の余地もある。
豊玉町の東海岸にある廻の池田浜には大型の俵状の野面石で組んだ防波堤が残されている。これは江戸時代末に海岸付近にあった池を埋め立てて作った水田をまもるために、およそ200mにわたって築かれたものである。三段重ねの石垣で、全体の高さ3m以上ある。最上段の石垣は幅と高さが約0.7mで、中断は幅約2m、高さ1.5mの大きさをもつ(写真6)。保存状態は良好であるが、案内板などは設置されていない。こうした石組みの技術は、後述する金田城を築城する際に朝鮮半島からもたらされた技術の流れを汲むものだと考えられる。
朝鮮半島から対馬に伝わった石造りの建築は、地震がなく石材資源にも恵まれていたために受容された。しかし、朝鮮半島に比べると、島の石材資源の賦存状態は地域性に富んでおり、しかも『魏志倭人伝』にも描かれた急峻な地形が石材の運搬を阻んだために、島の各地で入手できる石材に応じて、建築様式が変容していったものと考えられる(原田ほか1992)。

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1.2.4 金田城
浅茅湾に面した美津島町の城山には文部省指定の特別史跡である金田城跡がある。文部省は同城について以下のように説明している。
『日本書紀』天智天皇六年(六六七年)十一月条に、『対馬国金田城を築く』と記され、この城山には壮大な城の遺構がある。
同二年、滅亡に瀕している百済の支援に赴いた日本水軍が、白村江の戦いで唐の水軍に大敗し朝鮮半島から全軍撤退するに至り、対馬は日本国防の最前線となった。
わが国は、翌三年、対馬・壱岐・筑紫の沿岸に烽を設け、防人を置いて警戒した。さらに、翌四年には、太宰府の南北に大野、基肆の二城と瀬戸内海の関門に長門城を築き、同六年には倭の高安城、讃吉の屋島城と共にこの城が築かれたもので、当時の国防の要としての山城である。
標高二七五メートルの城山は浅海(浅茅湾)の南岸にそびえる岩山で、絶壁の多い天然の要害である。
この山腹に高さ数メートル、延長二・八六キロメートルの城壁がえんえんとめぐり、城の周囲は五・四キロメートル、谷間には水門を設けて石塁を築き、城門を建てた跡がある。これを湾口から順に一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸と称している。
頂上には望楼の跡と見られる石塁があり、俗に火立隈と称したのは、烽があった意と解される。
なお、この神社は大吉戸神社と称し、正史の『日本三大実録』に記載された古社であり、城の鎮守として祀られたものとみられている。
浅茅湾を囲む美津島町と豊玉町には、北東ー南西方向に伸びる直線状の峰が何本も並行して並んでいる。峰を構成する岩石は、南東北部に嵌入した石英斑岩の岩脈である。砂岩泥岩互層を主体とする対州層群にくらべて固く、風化されにくいので直線状の峰を形成している。そうした峰がつくる尾根の一部に、城山は築かれている。海側から城山が乗る尾根を遠望すると、尾根の麓には崖錘(崩壊地形)が発達しているのが認められる(写真7)。
城の入口となる一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸は、峰の山腹から海岸にぬける谷筋を遮断するために設けられているが(写真8)、それぞれの城戸の位置を地形的に見ると、谷間の緩斜面の先端、つまり、尾根の風化でできた崖錘から巨礫を運ぶ土石流の末端部が作った地形変換点(写真9)に設けられている。城戸の石垣に用いられている石材はほとんど全て石英斑岩の巨礫で、整形されたものは少ない。土石流の末端面に堆積した転石を利用したものである。一方、城戸と山頂の石塁を結ぶ石垣は石英斑岩の岩脈が露出した所に沿って築かれていて、やはり岩脈から生じた転石を利用している。
従来の金田城の遺跡調査では、朝鮮式山城であることは示されていたが、地質条件(大地形と微地形および土石流など)との関連についてほとんど言及されていなかった。今回の調査で明らかになったように、効果的に進入路を遮断するための城戸と城壁が設けられているが、その際、石材の得やすさと、石垣が築きやすい地形に考慮がはられている。人力に頼っていた時代なので、最小の労力で最大の効果をあげるためには当然の選択であるといえる(原田ほか1992)。

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1.2。5 対馬の文化交流
対馬は朝鮮半島と九州本土の中間に位置するために、早くから日朝交流の中継地点となっていた。例えば、上島の西岸にある上県町越高の遺跡からは、縄文早期の前平式土器に加えて、越高式土器と呼ばれる朝鮮製土器が出土している。この越高式土器とまったく同じ隆起文土器は、釜山式郊外にある東三洞貝塚の最下層から発見されている。この東三洞貝塚をはじめ朝鮮半島南部の遺跡からは縄文土器と九州産の黒曜石製石器が出土しているが、それらはいづれも対馬で発見されているものと同じである。対馬の縄文遺跡からは、各時期の縄文土器が出土しており、当初から我が国の縄文文化圏に属していたことは間違いない。そこに朝鮮式土器が混在していることは、縄文の始めから朝鮮半島との活発な交流があったことを示している(潮見1985、375頁)。
一つ時代が下がった弥生時代の遺跡(上島の上対馬町古里の塔の首遺跡、同豊玉町仁位のハロウ遺跡など)や古墳(上対馬町加勢浦の朝日山古墳、上県町志多留の大将軍山古墳など)からも朝鮮式土器や装身具、武器などが出土している。また、弥生時代や古墳時代の石棺の多くは、板状の砂岩で作られている。九州本土の文化圏に属しながら、朝鮮半島との活発な交流が継続していた証拠である(佐原・工楽1987、172頁、正林1989)。
奈良時代には百済人の指揮のもとで金田城が築かれたし、中世には倭寇の本拠地として朝鮮半島から略奪した物品があつまった(高橋1986)。さらに、江戸時代には朝鮮通信使が対馬に様々な物品をもたらすなど(三宅1986)、朝鮮半島から対馬に様々な技術が伝えられた。
今回調査した石屋根倉庫や藻小屋などの建築技術は対馬独特のもので、日本本土には存在しない。金田城が朝鮮式の山城である事実からも、そうした建築技術は元々朝鮮半島で発生したものが対馬に伝えられたものだと判断できる。しかし、伝播した建築技術は、地域的な建材資源の賦存状況に合わせて変容しながら対馬全域に伝播していったにもかかわらず、朝鮮式山城を除けば、九州本土には伝播しなかった。その理由を以下に考察する。
1.3 変動帯の地質と安定大陸の地質
朝鮮半島は地理的には半島であるが、地質学的には中国東北部を構成する大陸地殻の一部である(原田1992a)。つまり、地殻はおもに先カンブリア時代の変成岩や花崗岩からなり、地盤は堅くて安定しており、地震も滅多におこらない。基本的に火山活動はなく、第四紀火山は北朝鮮の白頭山と南シナ海に浮かぶ済州島だけである。地形は半島東側になだらかな山地が連なり、西海岸には構造平野が広がっている。そして、花崗岩や変成岩は良好な石材を生み出し、韓三国の伽藍を飾る石造の多宝塔の建立などに広く利用されてきた。また、花崗岩の風化によって、生じた粘土(カオリン)は良好な陶土資源となり、高麗青磁や李朝白磁を生み出した。さらに、変成岩中に胚胎する鉄鋼床は鉄資源として古くから利用されていたことは、『魏志倭人伝』にも記されている。
対馬は地形は急峻で、地殻を構成する対州層群も比較的若い堆積岩(古第三系)であるが、地質学的には極めて安定していて、地震も火山噴火もない。従って、先に説明したような石材を多用した建築物が韓国から伝播すると、容易に受容されたのである。
しかし九州本土は、最近の雲仙岳や阿蘇山の噴火が示すように、地質学的に極めて活発である。
すなわち、火山活動は溶岩や火山灰を噴出するだけでなく、火山性地震を引き起こす。大噴火の際には、地盤の陥没が伴うこともある。それに加えて、九州南岸冲で沈み込むプレートの運動にともなって巨大地震も頻発する。褶曲や断層活動で脆くなった山地は、地震や豪雨などが引金となって容易に崩壊する。また急峻な河川はしばしば洪水を引き起こす。
このように、朝鮮半島南部と九州はモンスーン気候のもとにあって照葉樹林が分布するが、地質条件は全く異なる。前者は安定大陸の一部であるのに対して、後者は日本列島という圧縮変動帯だからである(表-1.1)。従って、朝鮮半島から伝えられた水稲栽培技術は九州に伝搬すると、たちまち受容されて各地に水田が拓かれたが、地下資源を利用する手工業技術は資源制約をうけながら発達していった。図-1.1と図-1.4で示すように、人間の生産技術は広義の資源条件に規制されて発達するのである。
1.4 物質循環から見た生物生産力
一般に、陸上で光合成する植物が人間を含む陸上生物の植物連鎖の基礎になっていることから、生物界は基本的に大洋エネルギーと大気と水によって維持されていると考えられがちである。しかし土壌がなければ陸上植物は根をはることはできない。また土壌中に燐酸塩や硝酸塩などの無機塩類が欠如すれば植物は育たない。さらに、微量なミネラル類も必要である。たとえばマグネシウムはクロロフィルの光合成に不可欠な元素である。
土壌の主成分となる砕屑粒子(砂利や砂粒)は、岩石の物理風化によって生産される。そして粘土鉱物と無機塩類は、科学風化によって生成される。岩石風化なくしては陸上で植物は育たないし、動物も繁殖できないのである(原田1991b、1993c)。その証拠に、水が養分を供給すると言われている水田でも、定期的に新しい土(客土)を加えなければ収量が年々減少していく。俗に地滑り地の米は旨いと言われるのは、地滑りで水田が自然に客土されるからである。地滑り地に山菜が多いのも、地下水が滲み出しやすいことと、風化されやすい崩積土が養分を供給するからだと説明できる。
ここで述べたように、本質的には物質移動が陸上生物の生存を維持しているとすれば、沙漠や氷河などの地域を除けば、ある程度の速度で物質が移動している場が一番生物採算力が高いことになる。すなわち、山から川によって土砂が運搬されてくる場所である。逆に、山から遠く離れた場所、例えばアンデス山脈から遠くはなれたアマゾンのような場所の生産力は低くなると予測できる。これを裏付けるように、アマゾンには年間0.4ha当たり約450gの割合でサハラ砂漠の砂が風で運ばれており、それがアマゾンの栄養補給を担っていることが1990年に発見された(ゴア1992、133頁)。
岩石風化によって陸地は一方的に削られていくことになるが、陸地から海に運ばれた砂屑物は造山作用によって再び陸地に運ばれて山を形成するので、風化は過去4億年間絶えることがなかった。すなわち、山で岩は砂になり、海に運ばれる。その砂は海底で岩となり、その岩が再び陸地に持ち上げられて山となる、という大きな物質循環が地球生命圏を維持しているのである(原田1991b、1991c、図-1.2)。
山で岩石が風化されて生じた土砂が海に運ばれていくことで、陸上生物は維持されている。
従来の生態学(図-1.3)は、アマゾンやブルネイなど熱帯の森林では光合成が盛んで生産力が高いと教えていた。だが、実際に熱帯林を伐採すると、後に残された貧弱な土壌は雨でうたれてたちまち流失してしまい、森林は二度と復元せず、土地は不毛化することが判明した。現実の生産力は低いのである。実際アマゾンの森林では90%以上の養分が再利用されている。
アンデス山脈から遠くて、無機養分を含んだ土地がほとんど運ばれてこないので、風が運んでくる限られた養分を自転車操業的に循環させているのである。たとえれば、回転数は高いがトルクが小さく出力の低いエンジンである。一方、近くの山から常に水や風で土砂が運ばれてくるような所では、光合成の速度は比較的低くても、実質的な生産力は高い。回転数は低いがトルクが大きく出力の高いエンジンのようなものだと言えるだろう。
数字は年間生産量(103kcal/㎡/年)。生産力の高い場所は世界的に見ても限定されており、物質の移動量が多い場所での生産力は高いことが示されいる。水は豊富にある遠洋の生産力が砂漠と同等であることは、降水量と日射量が一次生産を規定しているわけではないことを示している(オダム1975、65頁)。
1.5 災害多発地帯への人口集中
一般に、災害とは「異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命に受ける被害」(広辞苑)とされている。しかし、こうした定義では、なぜ各種の災害が多発する地帯に人間が定住しているのか、あるいは、なぜそこに定住しなくてはならないのか、そして災害という危険性を上回る社会的な利益は何かという問題が理解できない。
表-1.1から明らかなように、いわゆる地質災害が多発するのは変動帯に特徴的な現象である。
だから災害がほとんど生じない安定大陸に住む人々にとって、災害多発地帯に住民がしがみついてせいかつしていることは理解しにくいはずである。例えば、1980年セントヘレンズ火山の噴火に際して、カスケード山脈付近の農民の多くが政府の呼び掛けで、さっさと農地を捨てて移住してしまった。しかし、日本のような圧縮変動帯では、山間盆地や海岸平野にしか平地が発達しないので、いくら大きな災害を被っても、他の場所に移ることは難しい。
それでも工業化・都市化が進むにつれて、日本でも、日常的には自然の変化に左右されない生活様式が定着する。だが同時に、都市生活はあらゆる種類の災害に対して脆弱性を示すようになる(広瀬1984、1章)。従って、現代文明の恩恵のもとで暮らす現代人は、地質災害多発地帯とは人間がすみにくい場所だと考えがちである。それゆえに、地質災害多発地帯に人口が集中することを、人口圧力論で説明しようと試みる。つまり、人口が少ない時代には安全な場所を選んで住むことができたが、人口が増加すると弱者は安全な場所から押し出されて危険な災害多発地帯に住まざるを得なくなる、と。
しかし、日本の典型的な地滑り地帯である長崎県北松浦郡(5万分の1地形図で、平戸・志佐・今福・肥前川内・江迎・楠久・楠泊・佐世保北部・蔵宿・佐世保南部・早岐の範囲)で、長崎県教育委員会がまとめた遺跡地図資料(1987)に基づいて縄文から近代までの35遺跡の分布を地形図にプロットしてみると、様々な時代を含んだ17遺跡は、明らかに地滑り地帯に存在していることが判る。特に、佐世保市と有田市の境界をなす国見山ー八天岳の分水嶺をはさんで、地滑りを起こさない西側(有田側)には全く遺跡が発見されていないが、地滑りが多発する東側(佐世保市側)には多数の縄文遺跡が残されている。残りの18遺跡についても現地調査を行えば、地滑りとの関連が見出せると予測される。こうした現象は他の地滑り地でも認められており、例えば、第三紀層の地滑りで名高い新潟県頸城群でも、水田集落は地滑りを起こす谷筋に多いと言われている。
そうすると、人口圧がはるかに低い時代から、一見危険性が大きいと思われる災害多発地帯に人口が集中していたのは、災害を起こす自然現象には、人命を損なうというリスク以上のメリットがあると考えざるをえなくなる。
1.6 災害多発地帯の災害文化
災害を引き起こす洪水・地滑り・津波・雪崩・火山噴火などは、物質の移動を伴う地質現象である。先に述べたように、物質移動が活発な場所では必然的に生物生産力が高くなる。実際「エジプトはナイルの賜物」という言葉や「地滑り地の米はうまい」という言葉が表すように、洪水や地滑りは土壌の材料を更新して生産力を高める。また火山灰は天然の肥料であり土壌改良剤である。一般に対馬の土壌が貧しいのは、火山灰の供給が無かったからだと推察できる。津波や高潮が生産力にどのように影響するのか不明であるが、津波が発生しやすいリアス式海岸地形は海洋生物にとって有利なのかも知れない。あるいは、津波が湾内の生態系を定期的に破壊するので、生態系を安定化させるために各種の生物が競って増殖しようとするために、相対的に生産力が外海よりも高くなるのかもしれない。従って、最初は人々が不本意ながら被災地にとどまったとしても、災害の後には必ず生産高が伸びるという恵が自然からもたらされることを経験的に理解したであろう。
そうした自然環境のもとで、突発的な物質移動のメリットを最大限享受し、それに伴うリスクはできるだけ回避するために、人々は自然現象に受動的に対応する生活様式を生み出してきた。
例えば、地滑りが作る崩積土はもろく、二次崩壊、三次崩壊をくりかえす事が多いので、湧出する地下水を棚田に引いて、崩積土に水が浸透することを防ぐとともに、表土の浸食を防ぐ。春先の雪解け時期や大雨の直後など地滑りが発生し易い時には、安全な場所に避難する。崩積土の末端部は特に滑り易くて危険なので、恒久的な土地利用を禁止する。また、洪水多発地では、霞堰を築いて洪水時の水流の勢いを弱めて水田を洗掘から守るとともに、濁流が運ぶ土砂を水田に沈澱させるように竹藪を河川沿いに植えこむ、などである。
しかし、自然界の物質移動を的確に予測することは難しい。人間の時間スケールで見れば、その動きは突発的で偶発的だからである。たとえ予測できたとしても、物質移動を完全に制御することはむずかしい。移動量や移動経路も不規則だからである。従って、災害多発地帯の高い生産性を活かすために、物質移動の経路や速度を人為的に微調整するための技術を開発する際は、ジャジャ馬慣らしのように、ある程度の犠牲を覚悟して、試行錯誤をくりかえさなくてはならな
い。特に農家に関する場合には、それを面的な広がりのなかで行わなければならないので、社会全体の協調(アクセルロッド1987)が必要になる。そのために開発された社会技術の総体が災害文化だと言えるだろう。その具体例をニュージーランドのマオリ人の文化調査で得た結果を用いて以下で説明する。
1.6.1 安全な聖地と危険な聖地ーー地滑り地帯の社会技術の一例
南半球でほぼ日本列島に相当する地理的位置を占めるニュージーランドにはマオリ人が約千年前に東ポリネシアから移住し、ヨーロッパ人と初めて接触する18世紀末まで独自な文化を育てていたことが知られている。彼等は文字を持たなかったので、詳しい歴史は残されていないが、ニュージーランドを探検したキャプテンクックらの観察記録(バロウ1992)などによれば、当時のマオリ人の生活は、日本の弥生時代に近いもののようであった。すなわち、数十人~百人の単位で部族を形成して、海岸や湖岸、河岸に面した高台に戦に備えた砦を築き、狩猟・漁労・農耕によって生計をたて、多神教を信じて、石器・骨格器・木器の武器を用いて部族間で抗争を繰り返していた。
ニュージーランド(特に北島)は、太平洋プレートがインドーオーストラリアプレートの下に潜り込む変動帯にできた島弧で、日本列島と同じく、地震や火山噴火、地滑りなど様々な地質災害が多発する。必然的にマオリ人は変動帯の地質環境に適応した生活様式を発展させたと推察できる。そこで、同国教育相のNewZealandーJapanExchangeProgramの助成を受けて、平成3年および3年の6~7月に現地調査を行った(原田1992b、1993b)。特に災害文化と関連して注目すべき調査結果(原田1992d)を以下に述べる。
現在、マオリ人の集落は山間盆地や山間の川岸に設けられていることが多いが、そうした集落には必ずマラエという集会場が設けられている(写真10)。いつもは祭事や葬儀に利用される聖地として柵で囲まれているが、地震や洪水などの非常時には、集落の構成委員全員の避難所となる。集落で一番安定した土地は、「安全な聖地」として私有が禁じられ、守られているのである。
一方、集落の人々の立ち入りが禁止されているラフイと呼ばれる場所もある。その代表例として、北島中央部にあるタウボ湖の南湖畔にあるワイヒ集落の側にある地滑り地を挙げることができる。ワイヒにはかつてタウボ湖周辺の全マオリ部族を治める大酋長が住んでいたが、約百年前に大きな地滑りが起きて、集落の大半が崩壊し、大酋長も地滑りに巻き込まれて死亡した。しかし、集落の側に建てられていたキリスト教会(写真11)が無傷で残ったこと(土地の神の護りがあった証拠)と、湖畔に温泉(写真12)が湧き出ていること(土地の神の恵がまだ続いている証拠)から集落を少し移動させて、集落を再建した。当然地滑り地にはラフイであることを示す杖のようなもの(日本の注連縄に相当するもの)が立てられて、立ち入りが禁止された。だが数年後、部族の少年の一人が囲炉裏の火を跨ぐというタブーを冒したために、再び大きな地滑りが生じた。それによって「危険な聖地」としての神聖さが二次崩壊によってさらに高められ、ラフイの禁忌は更に強固なものとなった。
このように、変動帯に住むマオリ人たちは、集落で一番安定した場所を「安全な聖地」として共有し、一番危険な場所を「危険な聖地」として恒久的な使用を禁じ、その中間領域を生活の場として利用したのである。
長崎県北松浦郡や新潟県頸城郡などの典型的な地滑り地帯だけでなく、山形県下の小さな地滑り地帯でも、大木が育つ場所は数百年間地盤が安定している場所には、神社や祠が設けられたり、大木そのものに注連縄が張られてご神体となっていることが多い。マオリ人のマラエのように、「安全な聖地」として集落の避難場所になっているのであろう。
一方、崩積土の末端など危険な場には、マオリ人のラフイ、つまり「危険な聖地」に相当するものが存在するはずであるが、今回の調査では確認できなかった。しかし、日本各地の小字名には災害を示す言葉が用いられている(小川1983、1986)し、また「蛇抜け伝説」は土石流が発生する谷筋を「危険な聖地」として識別するものである。また、近畿地方で宅地造成などの地質調査に携わっている地質コンサルタント業者(例えば、(株)ランドシステム研究所の岡本茂氏)によれば、集落内部に分散する神社のなかには、「危険な聖地」に相当する場所にも設けられている可能性があるとのことである。今後は、集落内部の神社や祠の設置場所を、「安全な聖地」と「危険な聖地」という観点から吟味する必要があろう。

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1.6.2 VI指標とNG指標
地盤地質学という新しい学問を提唱する中世古幸次郎(1989)は、地域開発に際しての評価基準として「VI指標とNG指標」という概念を提案している(中世古・岡本1989)。前者はVeryImportant(大変重要である)を意味し、後者はNoGood(よくない)を意味する。
今ある地域(特に傾斜地)を開発する場合、まず最初に、どこを保全し、どこを開発すべきか決めなくてはならない。この時、地域住民が大変重要であると考えている場所(例えば、天然記念物や神社・仏閣などの所在地)は無条件に保全しなくてはならない。だが、歴史的町並み、風景(文化的背景をもつ自然景観、例えば、京都の東山や西山)、田畑や雑木林など、まだそれほど重要とは思われていない(つまりVI指数が低い)場所については、開発で得られる利益の大きさとVI指数の比較によって保全の度合が決められる。地域社会が共有する価値観は時代ごとに移り変わるもので、VI指数の数値も時代とともに大きく変化しうる。
これに対して、NG指標はその地域の地盤条件の良否を表す。たとえば、いくらVI指標が低い場所であっても、活断層が走る破砕帶や軟弱地盤が分布する場合には、大規模な構築物は建設できない。そのような場所の開発は、まさしくNoGoodーよくないのである。たとえ土木技術や建築技術の進歩をもってしても、地震や地滑り、あるいは火山噴火といった自然の力の大きさの前では、この指数を大幅に下げることは不可能である。だからNG指標の評価は、VI指標に比べてはるかに客観的に行えるが、地域住民や開発主体の自然認識が未熟な時代には、NG指標は軽視され、土木技術や建築技術を過信したいわゆる乱開発が行われる。だが、数年もまたずに自然からシッペ返しを受け、そのつけは永く残される。雪に弱い新幹線の路線を関が原に通したために、毎冬トラブルに見舞われるのはその好例である。
「VI指標とNG指標」は、長年の地盤地質学的研究の成果に基づいて生み出された概念であるが、その中味は、上で述べた「安全な聖地と危険な聖地」と一致する。この事実は、時代遅れで非科学的な迷信や習慣だとみなされてきた宗教儀礼が、土地の資源特性を反映した生産技術を制御するための有効な社会技術であることを示している。
今回の研究では地滑り地でしか調査できなかったが、洪水多発地帯や津波多発地帯でも「安全な聖地と危険な聖地」が識別され、そこを守るための宗教儀礼や風習が残されていると予想される。
1.7 災害文化の今日的意義
本稿の「序」で述べたように、人間は、まず、食糧を安定的にえるために、地域的な風土条件を利用するための生産技術を発達させ、人口を増加させていった。そして、約1万年前に農耕革命を成立させてからは、社会余剰を生み出し、地域的な地質条件を利用するための工業生産技術を発展させた。人口は順調に増加して、約5500年前に都市文明が4大文明地域で成立すると、手工業が急速に発達することとなった。そのため、文明地域を包む風土条件に比べて、地下資源の賦存状況や地盤の性質などを決める地質条件のほうがはるかに重要性を帯びるようになった(原田19911a、1992a、図-1.4)。そして、地域の自然条件(風土条件と地質条件)に適応した生産技術の基づく社会生活をより一層効率化するために、各種の社会技術(宗教や法律など)を発達させたものである(図-1.1)。
そうした文明が成立した安定大陸に比べて、変動帯(日本やニュージーランド、インドネシアなど)では、山間盆地や活火山の山麓斜面など物質移動が活発な地域にしか生活空間を見出せない。そこでは災害を被る危険性は高いが、高い潜在的な生産力を活かせば豊かな生活を営むことが可能である。そこで地滑り地や氾濫原を利用するために、棚田や霞堰など、自然に受動的な農業技術が開発された。そして、長年の体験的な自然観察に基づいて、居住地域に「安全な聖地」と「危険な聖地」があることを識別し、そうした場所を共同管理するために神社仏閣を配置したり、宗教儀礼を定めるなど、災害多発地帯のメリットを伸ばしリスクを軽減させるための社会技術、すなわち災害文化を発展させたのである。
一方、手工業生産に関しては、地域の地下資源賦存状況に応じて、伝播してきた技術を変容させた。特に建築技術に関しては、対馬の事例が示すように、地盤と資源の両方の制約を受けて伝播・変容していった。そして地域的な資源制約を資源輸送で回避することができないことから、独自に「組合わせ技術」を開発し、地域ごとに様々な特産品を生み出していった(原田1990,左側の発展段階(伊東1985)に対応する年数を右側につけた。産業革命以文明は地域的な自然条件の制約を受けていたが、産業革命で物質輸送と新素材の合成が実現し、人間は自然制約から解放されたという思い込みが広がった。下の箱の斜線は、文明の発展とともに地質条件が重要性を増してきたことを示している。301頁)。
18世紀のイギリスに端を発する産業革命は、世界で初めて熱機関を実用化し、工業原材料と食糧の大量・高速・遠距離輸送を可能にした。また有機化合技術の発達は、石炭や石油から様々な新素材を生み出した。この二つの技術革新は、見掛け上、文明の発展を地域的な資源と環境の制約から解放した。その結果、都市への人口集中が進んで、百万人以上の人口をもつ巨大都市が世界各地に出現した。
だが実際には、近代科学的な生産技術の規模が拡大し、それが世界的に伝播すればする程、地球の資源制約と環境制約に直面せざるをえない(原田1990、328頁)。なぜならば、一般に地下資源とよばれるものは地球物質の循環経路にはたらく濃集作用の産物であり(図-1.2,原田1991c)、たとえその偏在性を輸送で解決したとしても、賦存量の有限性を解消することはできないからである。さらに機械的工業生産は、循環経路にはたらく拡散作用を利用して廃棄物を処理しているが、その拡散能力は循環速度に規定されており、その能力は人為的に増強できないからである。現在の地球環境問題の大部分は、地域的な循環経路に過剰な量の廃棄物を投入することによって引き起こされていると言える。
起伏に富んだ変動帯で熱機関を利用すれば、地域の地形を大きく改変することができる。しかし、地質の改変は不可能である。つまり、地域の地盤の性質や資源条件および物質循環の特徴などは本質的に改変できない。従って、変動帯では、どこに住もうとも常に地質災害の発生を予想し、最悪の状態を想定して対策を講じておかなくてはならない(大阪市環境会議1981、159頁)。
しかしながら、たとえ災害多発地帯であろうとも、地域が都市化すれば自然災害からまのがれることができるという根拠のない楽観論が、住民だけでなくデベロッパーやデザイナーの間にも蔓延し、開発不適地にまで都市化の波が押し寄せているのが現状である。その結果、先人たちが「安全な聖地と危険な聖地」を識別し、地域の自然条件の枠内で生活を向上させようとするために開発された災害文化は、時代遅れの迷信や開発を妨げる陋習だとして退けられようとしている。
いまや世界各地で、工業的生産技術の発展が文明の装置系(図-1.1)を急速に肥大させ、人口の都市集中は、様々な自然現象と社会現象を容易に災害に転化させる危険性を高めている(広瀬1984)。そうした危険性の多くは、人口集中・知識量の増大・通信情報系の発展などにともなって急速に変質し、かつ極端に偏在化した社会資源を活用する社会技術が未開発なことに由来するものと考えられる。従って、現状を打開するには、さらなる科学技術の進展ではなく、文明
の制御系をになう社会技術の開発が急務である。そうした点で、変動帯における各種災害文化の研究は重要な意義をもつ。その成果は、各種の自然災害や都市災害の防止とリスクの軽減に直接貢献するだけでなく、21世紀社会が地球環境と整合的な装置系を発展させ、それを合理的に運用するために必要な制御系を開発をする際の基礎資料となり得るからである。
引用文献
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第2章 災害文化としての伝説 ――長野県南木曽町の蛇抜災害を中心に―― 笹本正治
2.1 はじめに
長野県木曽地方は頻繁に蛇抜災害に見舞われた。蛇抜というのは、「南木曽地方の土石流災害」で、既にその原因などについても科学のメスが入れられている(注1)。『日本国語大辞典』には、蛇抜が方言として「大雨などで土砂のくずれること」と説明され、山梨県、長野県東筑摩郡、岐阜県恵那郡で使われているとある(注2)。
蛇抜は表-2.1のように度々被害をもたらしたが、そのなかでも最も多くの犠牲者を出したのは、天保15年(弘化元年=1844)5月25日、信濃国木戸郡与川(現、長野県木曽郡南木曽町)で尾張藩のために木を切っていた、杣や日用95人(114人、106人とも言う)もが巻き込まれて死んだものだろう。ちなみに『西筑摩郡誌』は与川の中野沢山岳が潰れ崩れ死者300人に及ぶとしている(注3)。この事実は地元の『南木曽町誌』にも取り上げられておらず、長野県でもあまり知られていないが、徳川林政史研究所に所蔵されている『木曽与川山抜石地蔵』に、災害の後に尾張藩が死者を弔うために約40両の金をかけて石地蔵を建て、その供養に30両を費やしたとある。
この蛇抜に関係すると思われる伝説がいくつか地元に残り、現在も残る石地蔵とともに、この時の蛇抜を今に伝えている。
災害の事実が伝承され、記憶されている背景には、単に悲酸な事実の存在を伝えるのみならず、積極的に再び起こるかもしれない災害の警鐘としての側面もあろう。そこで本稿では災害に関係する伝説を、災害の事実を口承文芸という手段で、災害を警告する災害地帯独特の文化の一面としてとらえ、伝説の背後にある人々の意識を探りたい。そのため与川の蛇抜の伝説を素材として検討する。
2.2 与川の蛇抜伝説と石地蔵
約100人もが亡くなった天保15年の与川の蛇抜に関しては、どのような伝説が伝わっているのであろうか。まずそれを確認しておきたい。
A 蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町妻篭)
南木曽町に与川という川が流れています。その川をさかのぼった山では、貴族の家を建てるために大ぜいの木こりが集められ、役人のもとでたくさんの木が切られてしまいました。
その木こりの中に、正直者の与平という男がいました。
ある雨の激しい夜、与平は「トン、トン」と小屋をたたく音に目をさましました。恐る恐る戸を開けると、白い着物を着た女の人が悲しげに立っていました。そして女の人は「これ以上木を切り倒すと、必ず悪い事が起こるでしょう。」と言い残して雨の中にスーッと消えてしまいました。
あくる日、与平はこのことを仲間に話しました。木こりたちはこのことばを恐れて、仕事を続けることを拒みましたが、役人は聞き入れません。こわさのあまり、とうとう与平は「はらが痛い。」と嘘をついて仕事を休んでしまいました。
その夜、いつかの女の人が現われて、「あした雨が降り始めたら、山の頂へ必ず逃げて下さい。」と言い残して、夕闇の中へ消えていきました。
次の日、女の人の言った通り、大雨が降り土砂くずれが起きました。このため、里の家々は後かたもなくつぶされて、中山道もくずれ去ってしまいました。この時与平は、土砂に流されていく白へびを見ました。実はあの女の人は白蛇の仮の姿だったのです。
このことが起きてから、与平は木こりをやめて、馬方になり尾張の国から食物を運んだということです。
こういうわけで南木曽町には、水難を防ぐ石碑や地蔵様が多くたてられています(注4)。
B 中野沢の蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町与川)
天保15年に尾張様が下山の中野沢というところでね。御用材を伐ってどえらい蛇伐け(水害による土砂崩れ)がしたそうだ。そいで人夫がもうべったり(沢山)流されたって、その供養の為に与川渡に地蔵さんが建ったてわけよね(注5)。
C 中野沢の蛇抜けの話(長野県木曽郡南木曽町与川)
昔、うそかほんとか知らんけども、中野沢の奥で高い(身分の高い)女の人が糸をひいておったって、そいでその女の人が川が抜けるで逃げれっていっても、みんな逃げずにおった。
逃げれっていうのに逃げなんだもんで、みんな流れていっつまった(注6)。
D 与川の伝説(木曽郡南木曽町与川)
与川が木曽川に流れ込む所に、地蔵様がまつってある。
江戸時代に尾張藩では、与川から材木を伐って毎年出していた。ところがあるとき、人夫が山におったら毎晩、
「お前たち、早く行かんことには大水が出るぞ」
と声が聞こえてきたが、それをばかにしてかかっていたら、本当に大水が出て大勢死んだ。
これは、イケジキってとこに沼があった。そこの蛇がそこから抜け出すために、大水害を起こしたんだと。その水害のために300人くらい死んだという。それがために地蔵様をまつったのだという(注7)。
Aには年号が入っていない。与川で貴族の家を建てるため役人の元で材木が伐られていた。ある夜、与平の枕元に白い着物を着た女の人が現われ、これ以上伐採するなと忠告したので、仲間とともに仕事を続けることを拒んだが、役人は聞き入れない。再度女が現われ、明日雨が降ったら山の中に逃げろという。翌日大雨が降り、土砂崩れが起き、里の家々が流され、中山道も崩れ去った。このとき白い蛇も流されたが、与平に忠告した女はこの白い蛇だった。このことを前提にして南木曽町には水難を防ぐ石碑や地蔵様が多く建てられているという。
Bでは天保15年に中野沢で尾張藩が御用材を伐ったため蛇抜があり、多くの人間が流され、その供養のために与川渡に地蔵さんが建てられたと、時代までが指定されている。
Cでは同じ中野沢で女の人が糸を引いていて、川が抜けるので逃げろと告げたが、皆が逃げなかったので、流されてしまったとする。ちなみに女が糸を引いていたというのは、水音を機織の音に結びつけたもので、水の神と棚機女との関連は折口信夫の説くところであり(注8)、天竜川にも関係する伝説が多い(注9)。
Dでは、江戸時代に尾張藩が与川から材木を伐って出していた。人夫が山で、早くここを去らねば大水が出るぞという声を聞いたが、馬鹿にしていたら本当に大水が出て大勢が死んだ。大水は沼から蛇が抜け出そうとして起こしたものであった。その供養に地蔵様を祀った。
以上の伝説の内容の特徴を分析すると次のようになる。
1 洪水の原因は御用材を伐ったため。ーA、(B)
貴族の家を建てるため、役人が主導。ーA
尾張様(藩)の御用材。ーB、(D)
蛇が沼を抜け出したため。ーD
2 犠牲者のために地蔵さんが建立された。ーA、B、C、
3 蛇抜(洪水)の予言がある。ーA、C、D
白い蛇の化身の女。ーA
糸を引いていた女の人。ーC
不明。ーD
4 洪水と蛇とが関係する。ーA、D
これらの伝説はきわめて共通性が多く、おそらく同じ根から出たと推察される。そして伝説の背景に、先に触れた天保15年の蛇抜があったことは疑いない。すなわち1は、B、Dに明示されているように、この地域が尾張藩の直轄する留め山で、尾張藩が直営で材木を伐り、藩の財源となっていたことに関連する(注10)。
2は尾張藩が建てた石地蔵を指す。天保9年(1838)の江戸城西の丸焼失後、再建の材木を木曽山に求めた折、様々な怪異があったため、普請御用として木曽になった来た川路聖謨が自費10両を投じて石地蔵を1体建立した。天保15年の与川の蛇抜に際して、尾張藩が藩費を投じて石地蔵を建てたのは、怪異の一つに天保10年に藩主などが亡くなったことを思い起こし、藩主などに異変が起きないことを願って、川路聖謨の行為に倣ったと考えられる(注11)。石地蔵は犠牲者の慰霊によって、藩の安寧をはかろうと建立されたのである。
表-2.1でも明らかなように、与川の地は木曽谷でも最も頻繁に蛇抜に見舞われ、大きな被害を受けている。それなのにこの蛇抜の伝説を、天保15年の事件にだけ解消してしまってよいのか、あるいは蛇抜の伝説はこの地域のほかにはないのであろうか。特定地域の災害伝説を文化として考えるためには、他地域との比較が必要になる。
2.3 長野県の蛇抜に関する伝説
先に出した疑問に答えるため、とりあえず長野県内の蛇抜にかかわると思われる伝説を探すことから始めたい(以下の伝説は要点のみ)。
1 かじかと大蛇のけんか(長野県木曽郡)
昔、駒ヶ岳の麓の濃が池に大蛇が住んでいた。向い側の山にはかじか岩があり、そこには白かじかが住んでいた。ある時その大蛇とかじかが喧嘩をし、かじかは「お前にどれ程力はあるか知らないが、池をここまで押してくることはできまい」と大蛇に言った。怒った大蛇は池をぐんぐん押し出した。池の水はあっという間に山々を崩し、かじか岩に向かったが、結局は水は岩までは届かなかった。これによって「原野」ができた(注12)。
2 蛇ぬけ(長野県木曽郡)
木祖村と奈川村の境の境峠に「新池」と呼ばれる小さな池がある。そこから数分奥の方に歩いて行くと、周りを木々に囲まれた湿地帯につく。この辺一帯は昔大きな池で村人は「古池」と呼んでいた。池には主として夫婦の蛇が棲んでいた。ある年、武者修行中の武士がここを通り、池の中に小柄を落してしまった。何年もの後、小柄の銅がさびて大蛇は体が腐りはじめた。そこで、この夫婦はこの池を抜けて海に出ようと決心した。ある年の夏、一ヶ月も大雨が続いて村中の川が氾濫し、泥土が押し流された夜、夫婦は決心を実行に移した。夫は北の土手を、妻は南の土手を一挙にくだり、海に向かった。二頭の大蛇の目はランランと輝き、村中に響きわたるうなり声をあげて通り抜けた(注13)。
3 濃が池(木曽郡日義村)
昔、周囲が一里もある大きな池が、日義の村里離れたところにあった。池に流れる水はあるが、出る水はなかった。村にお濃という女の人がいた。ある日お濃はこの岸に立ち、あっというまに龍神になって水に入っていった。龍神は池の主で、どこの池にも龍が住んでいる。ある日、集中豪雨があった。その雨はものすごく、日義村をおおい高い岩の松の所まで水がついた。その時この池も流されてしまった。池が流れていく時、光も一緒に流れていったが、それはまるで龍の目玉のようだった(注14)。
4 蛇抜け(木曽郡大桑村)
伊那川田光に発電所工事のために従事していた人々の飯場が、大水で押し流された事がある。
この前の晩に、この飯場に白い蛇が出た。飯場の人々は、その蛇をつかまえて夕食に食べた。その翌日、大水害で40人もの者が水に流されて死んだ。これは白蛇の祟りだと、残った飯場の人たちは思った。ここには地蔵像が立てられて、村人が花をあげたり、お供物をしたりして、大切に祀っている(注15)。
5 かじかの念仏(木曽郡開田村)
昔、西野で幾日も雨が降り続いて、西野川が増水し、神田の村が水害を受けそうな危険な状態になった。村の人達がある一軒の家へ集って一晩中対策を相談した。夜明け前、東が白む少し前に村中の人が集っている家へ、白装束をした子供のように小さい人が突然おとずれて、「川も水が出て大変だが、それよりも、オリコシ(神田の東方の山の地名)が山崩れして、神田は埋め潰されてしまうから、早くあそこへ行って念仏をあげて、安全の祈りをしなさい」と告げて、そのまま姿を消した。「これは何かのお告げかも知れないから、早速念仏をあげよう」ということになり、村人はどしゃ降りの雨の中を蓑も笠もつけず、山裾からオリコシまで上って念仏をした。その時その手前の山の窪みにいた白かじかが稲光のように輝いて、山の上の方へかけ上がると、地
ひびきのような山鳴りがし、同時にどしゃ降りの雨がやんで、山崩れの危険がなくなった。その後幾日かして把之沢の山で蛇抜があり、そこを「蛇のくぼ」と呼ぶようになった。白装束の小人に危険を知らされ、山崩れをのがれた神田の人達は、輝いて山をのぼった白かじかが危険を知らせてくれたにちがいないとして、かじかの碑をたてて毎年田植上りには、オリコシへ上って、白かじかの供養の念仏をすることにした(注16)。
6 十人塚(木曽郡開田村)
半太夫屋敷の近くに石を積んだ塚がある。昔、よその土地から来た杣達が小野原の奥で仕事をしていた。あるとき三日三晩も大雨が降り続いて、月夜沢に蛇抜があり、杣達の山小屋を押し潰して流した。村の人達は気の毒に思って、ここに石を積んで、十人の霊をなぐさめた(注17)。
7 蛇抜の池(長野県木曽郡木曽福島町黒川)
まだ焼棚山に山姥が住んでいたころ焼棚山の尾根に池があり、たいそう大きな蛇が住んでいた。
しかしいつの日か誰も知らないうちに蛇がこの池からいなくなった。それ以来この池のことを『蛇抜の池』と呼ぶようになった(注18)。
8 蛇抜にまつわる伝承(長野県木曽郡南木曽町三留野)
龍が天に昇る時に、煙の様なものが光り、舞い上がっていた。その日には必ず白い雨が降り、ドーンという音がして大地を動き、川の水面を埋めつくすように流れ、後は泥沼のようになった(注19)。
9 沢底の蛇の池(長野県上伊那郡辰野町朝日沢底)
沢底の山寺に堂平という所があり、お寺もあったが、いつの頃からか廃寺になった。この堂平に蛇の池と呼ぶ小さいが底無しの池がある。昔、この池に大蛇が住んでいたが、大雷雨で山抜けした時、一緒に流れて行方がわからなくなった。池から7、8間離れたところに蛇ヌケといって、蛇の抜け出した跡だというところがある。この池を掻きまわすと雨が降ると言って、誰も昔から手を出した者がいない(注20)。
10 沢底の蛇の池(長野県上伊那郡辰野町朝日沢底)
沢底の山寺に堂平という所に蛇の池と呼ぶ小さいが底無しの池がある。昔、この池に大蛇が住んでいたが、大雷雨で山抜した時、一緒に流れて行方がわからなくなった。池から7、8間離れたところに蛇ヌケといって、蛇の抜け出した跡がある(注21)。
11 辰野と樋口(長野県上伊那郡辰野町)
昔朝日村の荒神山が伊那の東西両山脈の間をつないでいたために、諏訪湖はここまでいっぱいに水をたたえていた。その中に主の大蛇が住んでいた。ある年大洪水の折、荒神山の途中が切れ、湖水の水は一時に天竜川へ流れ出し、その跡が次第にかれて、平地になった。主の蛇は居所を失くして死んでしまった。辰野という名前はそのために出来た。荒神山が崩れて水が流れ出した所が今の樋口である(注22)。
12 熱田神社と大蛇の骨(長野県上伊那郡長谷村)
昔日本武尊が三峰川の上流にすむ大蛇を退治した。そこは大蛇の血が河原を真赤に染めたため今赤河原と呼んでいる。百姓達はそこに尾張の熱田神社を勧請してお宮を建てた。その時境内の欅の大樹の下から大蛇の白骨が現われた(注23)。
13 座頭なぎ(長野県上伊那郡中川村片桐)
昔、座頭数人が京へのぼる途中、なぎ崩れに出あって悲惨な死をとげた。村人はその祟りを恐れて碑を建て、その霊を慰めたが、山の木を伐ることがなぎ崩れの原因だとして、今後再びこのような惨事の起こらないことを願った(注24)。
14 大蛇が天竜川を流れて行った話(長野県飯田市下久堅)
今から700年前の元仁2年(1225)6月2日はひどい大雨であった。天竜川の水もひどく濁流が渦巻き、2丈(5、6メートル)もある大蛇も流れて行った(注25)。
15 池口の大蛇(長野県下伊那郡南信濃村)
遠山郷の池口は、およそ二、三千年前まで池の主として大蛇が住んでいた。下の方の地盤の弱い所が大地震か何かのはずみで崩れ池が一挙に押出した。大島、漆平島、屋の島、松島七島はその時できた。大蛇はその折諏訪湖に上った。池の底に大蛇の隠れ場が有ったので、諏訪明神として底の所に明神様の社を造り、現在も祭り続けている(注26)。
16 先途のお池の主(長野県下伊那郡天竜村坂部)
むかし先途は、三軒あって場の平らないい所だった。そこに池があり娘が毎朝その池を鏡にして髪の毛をすいていた。それを池の主が見て、この娘をどうしても嫁にしたいと思った。お池の主は蛇の体を人間の格好に変えて、この娘と愛し合うようになった。ところがある時、二人は仲が悪くなった。池の主は怒って娘を池に引っぱりこんだ。池は荒れたくって、一面にナギ(地すべり)になり、池はなくなってしまった。その時には、ナギの石が蜂山を越えて、富山の大谷まで落ちた。虫川もそれまではずっと浅かったが、それからは深くなって、今ではずうっと下を水が通っている。先途に三軒あった家も、ナギで流されて、一軒きりになってしまった(注27)。
17 三度がえり(長野県塩尻市宗賀洗馬)
昔、すさまじく大雨が降った時、奈良井川の支流の尾沢川は大変増水し、山を崩し、谷を削って押し出した。その時、尾沢山も主の大蛇も怒って、大あばれにあばれて濁流に乗り、奔流に躍りつつ里の方に下ってきた。そこで牧野の滝の神社の神さまが、里の人に害があってはならないと、激しく大蛇をしかりつけたので、大蛇は三度めに神さまのいうことを聞いて山へ帰っていったという(注28)。
昔、すさまじく豪雨の降った年があった。その時、尾沢川は非常な増水で山を崩し、谷を削ってどっと押し出した。尾沢山も主の大蛇も大あばれにあばれて濁流に乗り、奔流に躍りつつ里の方に下ってきたが、牧野の滝神社に食いとめられて再び上に戻って行った。それで今でもその辺を「二度帰り」と呼んでいる(注29)。
18 観音様のお怒り(長野県松本市入山辺千手)
観音様のご利益があらたかだったので、信者の参詣は絶えることなく毎日大変に賑い、遠くから来る信者のために宿屋や茶店までができた。参道も立派になって、西の参道から上って東の参道へ下りるようになった。その頃、観音堂から火が出てお堂はもちろん、近所の家まで焼けた。
そこで、村の人たちが相談して参詣に都合のいいようにと、観音堂をずっと村の下の方に建てた。
それから、どうしたことか村には天災地変が続いて起こった。大雨が降り続いて村の裏山が蛇抜して、古い観音様の両参道が深い堀のようになって下の沢に流れ落ちた。村の人たちは驚いて「こりゃきっと観音様を下の村におろしたせいだ」と、また元のところへお堂を建てて観音様に帰ってもらった(注30)。
19 田溝池の大蛇(長野県松本市井深)
六郎池の上の方には、中池と大池というため池がある。一番上の池が大池で田溝池とも呼ぶが、ここに大蛇が出た。昔、松岡の人が草刈りに来てその大蛇を見た。昼間人に姿を見られたので大蛇が怒って、土手を切って逃げた。このため、田溝池と中池の水が出て、死者が出、家が流され、町の方まで水がついた。その沢はジャヌケと呼ばれている。大蛇を見たという人は、その後一家全員が死んでしまった。このことは、この奥にある慶弘寺の過去帳にも書いてあるという(注31)。
20 蛇の宮(長野県東筑摩郡波田町)
鍋割の部落の東方の押出原に、蛇の宮(押出権現ともよぶ)というお宮があった。そこには、大蛇の骨を祀ってあると言い伝えられてきた。亨保年間(1716~36)という説もあるが、もっと昔のことのようである。ある年、幾日か大雨が降り続き、土地がすっかりゆるんでいた。そこへ、荒倉山から唐沢山にかけて山崩れがあり、夫婦堤が切れ中沢が氾濫した。中・下波田方面の台地は大きく東方へ向かって傾斜しているが、同時に北へ向かっても次第に低く傾いている。この大地を横ぎって、中波田の部落を通り、梓川の段丘に向かって、土石流が押し出してきた。それが、さらに今の波田駅のある東方の段丘の辺を乗り越えて、鍋割の頭部を通り、押出部落の南の押出原まで達した。そのすさまじさは想像以上だった。人家を飲み畑を崩して恐ろしい勢いで押し出した。村人たちは余りの恐ろしさに、驚きおののいた。押し出しの跡を見ると何か白い骨のようなものがあった。「これは、蛇の骨に相違ない」と、それをご神体に「蛇の宮」としておまつりした。昔の人はこうした現象を「蛇ぬけ」とよび、恐ろしい大蛇の仕業と考えた。そして、そのような大災害が二度と起こらないように、神様を祀って祈願した。押し出しのあった段丘の続きは、なだらかな道路(国道158号線)になっていて、昔そんな災害があったなどとは、思われない。けれど、中下原・中、下波田方面の台地は、傾斜地になっているから、大雨が降れば災害を起こしやすい地形である(注32)。
21 宮下大権現(長野県東筑摩郡明科町)
会田北山の東に女郎屋敷という所がある。文禄2年(1593)3月18日夜に大雨が降った時、山崩れが起こり川を堰き止めた堤ができた。ここに女郎という山姥(大蛇)が住みついたが、彼女の頭は石臼をのせたようになってい16の角があった。通る人は山姥に持物を取られたり命まても奪われたので、怖がって誰一人近づく者がいなかった。何とかしてこの山姥を退治したいとお上へ訴えたところ、花見の宮下勘左衛門という鉄砲の名人に申しつけられた。名人は神仏に祈って、17の別火を立て大きな玉をこめて、池から顔を出そうとしていた山姥(大蛇)へ向けて引き金を引いた。玉は山姥の左胸に当り、血が池に溢れ、暴れてのたうちまわるうちに、堤の土手が崩れて一夜のうちに犀川へ押し出した。その後17日間この血の流れは続いた。宮下勘左衛門はお上より褒美をもらい、その手柄をほめられた。人々はこの功績をたたえ、花見に宮下大権現として祀った(注33)。
22 蛇石(長野県南佐久郡小海町)
馬流の裏山に蛇石という石がある.1間半に1間、高さ3尺ばかりで、ちょうど蛇が土中から頭だけ出したような形をしている。この石が暖まってポタリポタリしずくが落ちると、きっと雨が降る。干天続きで雨でも欲しい時には、村の人は「蛇石のぐあいはどうだろう」などといって見て通る。昔、岳(八ヶ岳)に棲んでいた大蛇が山崩れでここまで押されて来て石になったのだという(注34)。
23 笠石(長野県小諸市)
笠石は、小諸市蛇堀川の東岸にある大きな石で、差し渡し七間余(約12メートル)もある。永禄年中(1558~70)の洪水に、大蛇が頭に石を載せて流れてきた。熊野堂社のそばに押し上がったが、社の方にある大石に突き当たって、再びまた雨の水筋にはいって、ここまできて止まったと言い伝えられている。この辺の字を笠石といい、また川を蛇堀川といっている(注35)。
24 霧窪の伝説(長野県小諸市押出し)
ここは今でも沢の中のじめじめした所であるが、昔は大きな池で、その主は大きな蛇体であった。この主は、七年に一度ずつ娘を犠牲として捧げさせるのが例になっていた。ある年、白羽の矢がその付近一番の金持ちの長者の一人娘に当たった。最も嘆いたのは娘の許嫁であった。彼は勇ましく立ち上がり池の主と戦った。風雨が激しい中の戦いはいつ果てるとも知れなかったが、ついに力尽きてともども死んでしまった。しかし戦いの最中の暴風雨で、大池の主も若者も一緒に押し流されて、今の場所に移った(注36)。
25 大蛇と大水(長野県小県郡長門町)
村の猟師二人が本沢にやって来て大蛇を打った。大蛇は淵の中に飛び込んだ。その日から大粒の雨が三日も降り続き、なお雨は止まずに降り四日目からはついに大豪雨となり、大門をはじめ長久保や古町、立岩の村々で、数十軒の家が流され、数十名の人たちが亡くなった。この水害はいまだかつて村の人々が経験したことのない大洪水で、五日目にようやく空が晴れた。村人の中には、濁流とともに大きな蛇がかま首を持ちあげながら流れ下る姿を見た人が何人か現われた(注37)。
26 池の平(長野県埴科郡坂城町)
① 御堂川に沿って林道を登って行くと湯沢に出る。これから50メートル程登ると「池の平」という。広くて平な所に着く。ここはかつてはうっそうたる原始林があって、その中に大きな池があり主が住んでいた。あるとき近くの赤岩を中心に大雷雨があって、もの凄い山津波が起き、あっという間に土砂が流出してきて、さしものこの大池も埋まってしまった。このために池の主は、ここに住んでいられなくなり、北西の山の峰伝いに坂城の方の池に移って行ってた。池の主の通っていた道を「乗り上げの横手」といっている。坂城の「池の平」も昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風のとき土砂流出によって埋まり、一隅に水神宮の祠だけが当時を物語っている(注38)。
② 池の平にはうっそうたる原始林があって中に大きな池があり、池の主が住んでいた。あるとき近くの赤岩を中心に大雷雨があって、もの凄い山津波が起きて、あっというまに土砂が流出して、この大池も埋まってしまった。このために池の主は、ここに住んでいられなくなって、北西の山の峰伝いに坂城の方の池に移って行ってしまった(注39)。
27 龍潭山明徳寺(長野県長野市松代町)
大昔、明徳寺は関屋の新谷の沢の入口に建てられ、付近には20戸位の家があった。新谷の沢は日向で温かく北風が無く住み良い所である。関屋氏の時代戌年の大洪水の時、新谷の沢の一部が山ぬけし、土砂の下敷になったり大災害を被った。新谷の沢に住んでいた人達は再度の災害を恐れて関屋川の西側に移り住んだ。この時明徳寺も被害を受けたので時の和尚様と相談したところ、和尚さんは{この大雨は天災ばかりではない。菖蒲沢の瓢箪池に龍が住んでいて霧下り山に雲を呼び大雨を降らすのだ。瓢箪池の辺りに寺を建て龍を鎮めて二度と大雨を降らせないようにしたい」と言った。関屋氏は和尚さんのいう通り菖蒲沢の瓢箪池の側に寺を建て、菖蒲沢の山里全部を朱印地として明徳寺に賜った。龍潭山明徳寺の寺号は瓢箪池の底深く龍が鎮まっているためである。また寺名は明徳元年(1390年)に建立されたので、明徳寺というと伝えられている(注40)。
28 浜津ヶ池の大蛇(長野県中野市)
昔、浜津ヶ池に大蛇がいた。大蛇には浜津ヶ池が小さくて棲みにくかったので、大蛇は大雨が降った夜に浜津ヶ池をとび出して、千曲川に渡ってどこかへ行ってしまった。それは、雨が幾日も続いていた夜だった。突然起こったゴウ、ゴウという音に村人たちは眠りを起こされた。朝になって見ると、浜津ヶ池から牧山を通って千曲川まで、畑や田んぼが巾30メートルにもわたって引裂かれていた。これは大蛇の通った跡とされた。浜津ヶ池の近くにある蛇越えという所は、浜津ヶ池にいた大蛇が千曲川に渡る時に通った場所という(注41)。
29 お諏訪さんの大蛇退治(長野県中野市赤岩)
昔、高社山の大蛇が、赤岩の村に土砂を押し流して、田畑を荒らして、家を壊しては村人を困らせていた。困り果てた村人は、産土神のお諏訪様に大蛇征伐をお願いし、やって来る大蛇を待ち構えて、ようやくにして討ち取った。お諏訪さんが大蛇と戦った場所に、神社を建てて祀った。
大蛇の死がいを埋めた場所を「蛇河原」と呼ぶようになったともいわれる(注42)。
全体で見ると、木曽と伊那地方が伝説の半分を占め、この地域に蛇抜が多かったことが知られる。これは両地域が赤石山脈と木曽山脈、さらに飛騨山脈に囲まれており、高い山から最も低い木曽川や天竜川を目がけて周囲の山に降った雨が流れ込み、洪水になりやすかったからである。
しかもこれらの山々の多くは花崗岩質で保水性に乏しく、水の出が急だった。それに花崗岩の風化したものは崩れやすく、土石流が起きた。材木を伐採するとこの性格がさらに強まった。
ところで、以上の伝説を先に見た与川の伝説と比較してみよう。
1 洪水の原因として木を伐ったことが挙げられるもの。ーなし。
ただし、6では杣が出てくる。
2 犠牲者のために地蔵さんを建立。―4
犠牲者のための石碑などを建立。―5、6、13
洪水の原因となった大蛇などを祀る。―15、20、27、29
大蛇などを退治した人物を祀る。―12、21
3 蛇抜(洪水)の予言がある。―5
白かじか。―5(1もこれに関係するか)
4 洪水と蛇、龍が関係する。―1、2、3、4、7、8、10、11、12、14、15、16、17、19、21、22、23、24、25、26、27、28、29
蛇や龍が他所に移る。―2、7、8、9、10、15、19、22、28
蛇などが住む池が流れたり埋まる。―3、11、26
蛇などの祟り。―4、25
こうしてみると、与川の伝説がかなり具体的で、伐採をするなといった主張など、他所の蛇抜災害とは異なる特徴をもっていることが浮き彫りになる。それと同時に、蛇抜の伝説は長野県内だけでも数多くあり、かなりの広がりをもちそうである。
2.4 蛇抜につながる各地の伝説
『日本国語大辞典』は、蛇抜という言葉で土石流を呼ぶ地域として、長野県の他に岐阜県と山梨県を挙げている。続いてこの両県の伝説も確認しよう。
ア 大古井の大蛇(岐阜県大野郡高根村)
大古井の千本桂の奥山に大蛇が住み、時々大嵐を呼んで大川へ出るので、そこを蛇抜と呼んだ。
千本桂の附近から流れ落ちる谷水は豊富で水質もよく、住民の飲料水となった。この大蛇は集落近くにも姿を現わし、千本桂に七巻半巻きついているのを見たという話もある。根本に古い祠が残っている。千本桂の根本から、泉が湧き出ているので、集落の人々はこの木と泉を山の神・水の神の霊木、霊泉として敬っていたが、ある時村の不心得者がこれに不浄なことをしたので、神が怒り大蛇になって大荒れした。それからこの辺一帶を「蛇ヌケ」と言うようになった(注43)。
イ 龍神を封じ込めた話(岐阜県大野郡高根村)
集落の中央部に自然に水が沸き出している湿地帯がある。普段でも霧が舞いやすく、長雨の降る時などは特に濃く立ち込める。昔この辺りに龍神の化身と言われる白蛇が住みついて、山伏塚のへんまで遊びに来た。大雨の時この辺一帶が土抜けして大騒ぎになった。次の大雨の時、集落の修行を積んだ行者が、雨の中で祈?して「千年も万年も抜けるな」と叫んで逆杭を打ったところ、豪雨にたえて無事であった。難を除かれた集落の人々は一層その行者を崇敬するようになった。逆杭を打つことは呪いを込める時とか、不吉を招くような時に行われるものだそうだが、この場合は行者の神通力が、自然界の不吉に打ち勝ったのではなかろうか。そのためか、20年余り前に大豪雨で集落内の所々で被害があったが、この場所は安全であった(注44)。
ウ 三分一(山梨県北巨摩郡長坂町)
昔、八ヶ岳は随分山崩れがあった。小泉村小荒間村地方では、この八ヶ岳の山崩れをおんだし(押出し)という。昔、天保(1830~44)のころ八ヶ岳に恐ろしいおんだしがあった。今の三分一の泉の辺りが中心となり、山のような濁流が押し出した。濁流に乗って一匹の白蛇が山から下り、三分一の辺りのどこかへ消えた。以来、三分一の主は白い蛇であるという。三分一の湧出口を破壊したり、裏山の木を伐ったりすると、白蛇の怒りに触れるといわれている(注45)。
エ 瀧本院のこと(山梨県塩山市)
中萩原と下萩原の境いに程近い黒川街道沿いに瀧本院という真言宗の寺がある。この寺は弘法大師兄弟が中萩原に来て真言宗を広め、弟の方が残り布教に努めたのが初まりだという。この寺の奥は滝の沢という深い山沢で大きな滝があった。その滝が大雨にあい、一夜のうちに山崩れになり、押し流されて滝が無くなった時、大蛇が流されてきた。その大蛇を捕えて頭、胴、尾と三つに切り頭を沢下の桧林、胴をお寺の近く、尾を寺より下の方の畑の中に葬り、それぞれ小さい祠を立てて供養した(注46)。
アでは、大蛇が大川へ出る時に蛇抜が起こるという。イによると白蛇が遊びに行く折に蛇抜になるらしいが、蛇抜をさせないために逆杭を行者が打ったところ効果があった。ウでは蛇抜の原因として白蛇が意識されているようである。エでも滝がなくなって押し流された(蛇抜)ことと、大蛇が関連付けられている。
このように、少ないけれども長野県の場合とよく似た伝説が両県にも残っている。これも蛇抜という災害が、与川のような特定の地域のみで起こるものでないことを示す。そして、蛇抜伝説の背後には日本人の災害観や、日本人の龍や蛇に対する意識(注47)が存在しているようである。
そこで最後にもう少し広い視野から蛇抜の伝説を考えたい。
【海に出る龍】
蛇抜は多くの場合、大蛇が移動するに際に起きるとされる。それでは何故に大蛇は移動するのであろうか。長野県の29の例のように、蛇が大きくなり住む場所が狭くなったために移動することが考えられる。もう一つ注目されるのは8で、龍が天に上る時、大きな音とともに蛇抜が起きるという。これに関係して次のような伝説がある。
I 桂の木と大蛇(北海道渡島支庁松前郡松前町)
福山徳山大神宮の本殿横に、何百年も経った大きな桂の木がある。昔、この宮に別当白鳥某という人がいた。ある夜、この人の枕元に一人の白髪の翁が現われ、「私はこのバッコ沢の奥に住んでいる大蛇です。この沢を出て大海にのり出し、やがては天に昇り、龍になりたいと思っているが、この桂の木が大きく枝が邪魔となって、海に出ることができない。どうかこの木を伐ってください」と言った。しかし、大蛇が大海に出る時は、雲を呼び大雨を降らし大洪水とし、その波に乗って出るというので、別当は望み通り大蛇を大海に出してやりたいとは思うが、そのために松前の街が大洪水に流されては困ると木を伐らなかった。木は今も伐られず大きな枝を伸ばしている。木の周りにはしめ繩が張られ、御神木となっており、手を広げてつなぐと六、七人も並べ
る。また、このしめ縄は、昔、大島噴火の時、津波が押し寄せ、松前の街も海の水をかぶったが、その波がこのしめ繩の辺りまできたしるしだという人もあった。バッコ沢に住んだ大蛇もこの機会に、その波に乗り大海に行き今では天に昇り、龍になり、望みが叶えられたのかもしれない(注48)。
II 桂の木と大蛇(北海道檜山上ノ国町)
桂岡愛宕の岡の麓に桂の巨木がある。昔、沢の奥に棲む大蛇が村人の夢枕に立ち、「この沼にいて修行すること既に千年、この上は海に出て、さらに千年の行を積み龍となって天に上りたい。
しかしトガフの桂があるので海に下ることができない。どうかあの木を伐り倒して私の願いを叶えてもらいたい」と言った。村寄合の結果、「大蛇は大洪水に乗って海に出るというが、あの桂の木が邪魔になるほどの洪水といえば怖るべき大洪水だ。トガフは愚か、上ノ国全体が濁流に呑まれてしまうのであろう。これは、どんなことがあっても伐れない」と決まった。それからこの桂に斧を入れる者はなく、桂岡の守り、天ノ川流域の村々の守りとして、今も神さびた偉容を誇っている(注49)。
この二つの伝説では、大蛇は大海に至り、天に上りやがて龍になる。大蛇が海に出る時に雲を呼び大雨を降らして、大洪水にしてその波に乗って海に出るという。そしてこの場合には、桂の木が大蛇のそうした行為を阻止する要因になっている。この桂の木はアにもつながる。
よく似た伝説は他にもある。
III 笠谷の七軒家(兵庫県養父郡大屋町筏)
① 笠谷の山の斜面のくぼんだ所に棲む大蛇が、大水の出た時海に流れ出たかったので、村の人の夢に現れ「水の出た時に大海に出たい。出してくれたら湯の町を立派な繁盛する町にしてやる。
出させんというなら、この村は現在よりは絶対増やさんぞ」と言った。蛇が出たらこの辺の田圃も家も押し潰されてしまうと考えた村人は、あたりの梨の木を全部使って枕をこしらえて、山から大川にいたるまで打ち込んだ。蛇は梨の木に触れると体が腐るのでとうとう出なかった。そのため今でも家が七軒しかない(注50)。
② 笠谷の庄屋の枕元に美人が現れて、「この奥に住む蛇体だが、千年の功を積んだので大雨を降らせて、大川に流れ出るつもりだが、村の端の橋が邪魔なので、一日だけ撤去してくれ」と頼んだ。ところが、村人は沢山の梨の木を集め杭を作って、龍が潜んでいると言われている場所の周囲に打ち回した。数日後に、村の主だった者の枕元に、かの美人が現れ、お前たちの命は三年を待たずに貰い受けて、末代までも笠谷は七軒以上はふやさないと言って去った。それ以来、千軒あった家は七軒になった(注51)。
大蛇は龍になるため海に出るという。長野県の松本平では白龍太郎あるいは泉子太郎の伝説がある。この地方は昔湖だったが、母の犀龍が白龍太郎をのせて蛇体となって風雲を呼び、猛烈な勢いで千山万岳を一挙に蹴破り、湖の水を日本海に出した。そのため松本平ができたというものである(注52)。この伝説もこれにかかわるかもしれない。
【龍を止める手段】
それでは、龍の邪魔になる桂の木を伐るなどのほかに、どのようにしたら、龍が海に下ることを防げるのであろうか。それを伝える伝説が以下である。
IV 大蛇の池(兵庫県養父郡八鹿町)
岩崎村の奥の山の上に大雨の時は池になる大きな窪地があり、大蛇が住んでいた。この大蛇が村の老人の夢枕に立ち、「この池から出たい」と言った。人々は気味悪がり、池の出口に蛇杭を打つことにした。大蛇は再び老人の夢に現われ蛇杭を打たぬよう頼んだが、村の人々は池の出口に蛇杭をぎっしり打ち込んだ。大蛇は大へん怒り、雨や風を呼び池から出ようとした。このため岩崎の谷は夜一晩中ゴウゴウと鳴り、雨は滝のように家々や田畑に襲い掛った。夜半過ぎ谷の奥の方に起こった、にぶい地鳴りの音が、戸障子をゆるがせて走り去った。翌朝みると家々の下の谷筋が一面の泥の海で、大きな岩がごろごろと転がっていた。ようやく穂の出そろった稻はその下に埋もれていた。大蛇の池は跡形もない。大蛇は大水の勢いに乗って池の囲いを破り、谷を下っていった。村人たちは恨みをはらすために、旧暦の8月1日に、太さは子供の胴ぐらい、長さは50メートルもある縄をない、大蛇にみたてて村中の人がひき合ってひきちぎる行事を行なうことにした。首尾良く綱がちぎれたら、大蛇を退治したことになる(注53)。
【山崩れと竜】
既に龍と山崩れとが深い関係にある伝説を挙げたが、もう少し付け加えておこう。
V 鍛冶ヶ野由来(高知県幡多郡西土佐村)
鍛冶ヶ野という山奥に昔、鍛冶屋があった。そこに猟師がおって、何十貫もある大きな猪を獲ったが、自分一人でもって来ることができないため、蛇がいるという蛇淵の水の際に置いておいて、人を二、三人雇いに村に戻った。帰ってみると、その蛇淵から大きな蛇が出て来て、猪を半分ぐらい飲み込んでいた。猟師は怒ってかたきを打ってやるぞと、蛇の嫌いな鉄屑をふご二はい、鍛冶屋から拾って来て鉄屑を蛇淵にまいた。そうしたら、下から湧き上るように淵がうねり返って、にわかに天が曇って雷がゴロンゴロン鳴った。雨がザアザア打つように降って、一刻、二時間ぐらいで、どこもかしこもゴンゴン大水になって湧き返り、山崩れが起き、家も流れて、猟師の部落は野になってしまった。鍛冶屋が野にしたようなものだということで、今に鍛冶ヶ野という土地の名になっている(注54)。
VI 蛇淵の毒流し(高知県安芸市栃ノ木)
昔、韮生の久保という所に大八という金持の羽振者がおった。村の人を誘って蛇淵の毒流しをすることにしたが、一人のうすのろの男のみ従わなかった。毒流しの準備をしていると、大八の家では自在鉤に茸が生えたり、鉄の釜に茸が生えたりの不思議がある。また大八の枕元に女が立ち、蛇淵の蛇だが、今は身重なので毒流しを延ばしてくれと泣いた。大八はかまわず蛇淵に赴いて毒流しをすると、「大八行くぞ」と叫んだかと思うと、大蛇が現れ七畝七谷のたうち回り、大きな音を立てて山は崩れ、韮生の村はなくなって、毒流しに従わなかった男の家一軒のみとなった(注55)。
こうした龍・大蛇と水との深い関係は、高木敏夫が早くに伝説を分類した際、水界神話的伝説の最初に「竜蛇伝説」を置いていることでも明らかなように、広く社会の一般認識である(注56)。また柳田国男も「竜王と水の神」(注57)で両者の関係を論じている。私も天竜川の災害における龍や大蛇と関係する伝説をまとめた(注58)。
【災害を告げる】
これまで見てきたように、へ部抜の伝説においては予言が大きな意味を持っているが、災害の予言に関係する伝説も各地にある。
VII 揚原の山崩れ(福井県鯖江市戸口)
昔は今の下戸口を揚原といった。ある夜、白い衣を着た神が揚原で一番の財産家に、「今夜この村の横にある山が崩れるから村人は皆逃げよ」と夢の御告をした。その人は非常に喜びかつ驚いて早速村人に知らせたが、村人は「そんなことがあるものか、あの奴少し気が狂ったぞ」と言って笑った。けれども中には信じて逃げた者もあった。こうしている中に、山頂からゴーと物凄い岩雪崩がやってきた。残っていた人はあわてて逃げ惑い、岩石や木の株、土の下になった。神のお告げを信じて逃げた人は、大喜びで方々に分かれて各家を作った。今の上戸ノ口、中戸ノ口、下戸ノ口の三区がこれである。山の崩れた所を今は「がら」といっている。がらがらと岩石が転がっているからである(注59)。
VIII 山の神の知らせ(高知県室戸市佐喜浜)
根丸の草分ともいうべき小字の一つに「はけのもと」がある。谷が今のように荒谷になっていない昔、山の麓に二、三軒の家があり田畑を耕し山仕事をして暮していた。ところが山がだんだん荒れてきて、田畑も流されるようになったので、一軒去り二軒去って、残るは一軒だけになった。怖いからお前さんも引越さないかと勧められたが、主人は頑固に拒んでいっこうに引き移る気配もなかった。その年の暮、正月の用意の餅つきも終り、主人が囲炉裏に火を焚いてあたっていると、見知らぬ者が囲炉裏の横座に坐っている。髪が真白の赤ら顔した男で「餅を食わしてくれ」と言う。妙な奴だと思ったが黙って一つ取ってやると、食い終るや煙抜きの天窓から去った。
あくる晩もやって来て、「餅を食わせ」と言うので分けてやった。三日目の大晦日に来た時には、昼のうちに用意してあった丸い白石を餅の代りに渡した。「もう餅はいらん。わしはお前に告げに来たが、とても聞き入れそうにないので二晩三晩とやって来た。近いうちに、この山には山潮が起って大はけが来る。谷も埋まり、家も田畑も流されるので、早く立去れ。わしは山の神じゃ。さらばじゃ」と告げ終ると、山の神は天窓を伝って闇の中へ消え失せた。正月の三ヶ日後、一家は家財道具をまとめて子まるの方へ引き移った。七草も済むか済まぬ頃に、子まるの人にも聞えるぐらいの大きな音がして山崩れがあり、はけの谷は埋まった。根丸の山本家は今だに通称をはけという。山本家の発祥の地ははけの谷であると言われている。その後、山の神は浜宮の後ろの山に移されて祀られている(注60)。
IX 山の神の知らせ(高知県室戸市佐喜浜)
ある日、一軒の百姓家に美しい娘が訪ねて来て、手桶二つを借りた。親父さんが蝦ヶ池に行ってみると、淵の中では二人の娘が懸命に手桶で水を掻いていた。そのありさまがあまりにすさまじいので、親父さんはわが家に逃げ戻った。やがて、先の娘が手桶を返しに来て、「二、三年のうちに天と地が引っくり返ることがおこるから、ここを立ち退いた方がよい」と言って去った。皆は今の段の池に移った。その二年後、予告通り加奈木の山がふくれ上がって大きな山崩れが起き、元の在所は変わり果てた(注61)。
淵の水を掻き回すことは伝説9につながろう。
以上の伝説で、洪水を知らせたものを整理すると、次のようになる。
神ーVII、IX、(D)
白い衣を着た神(男)ーVII、髪の真っ白な赤ら顔の男の神ーIX、(D)
大蛇が夢枕ーI、II、III、IV
大蛇が白髪の翁となってーI、男ーIII①、白い着物を着た女ーA、美人ーIII②、女の蛇ーVI女ーC(これはAとの関係からして、蛇の可能性が高い)、IX
白いかじかが白装束の子供となってー5
つまり、蛇抜を起こす神とは別な神が知らせる場合と、蛇抜を起こす主体である大蛇や龍が知らせる場合と二つがある。そして、知らせる神や大蛇などの象徴として、白い蛇のA、4、イ、ウ、白いかじかの骨の20、白いかじかの5と、白という色がある。いずれにしろ、この世の住人でない神仏や大蛇のもつ力は絶大だと意識されている。
次に問題になるのは、いかに蛇抜に対処するかである。一つの方法は、蛇抜などを起こした大蛇や龍を神として祀るもので、15,20,ア、エに見られる。また神や神社の力によって蛇抜などを鎮めようという意識は12,17,18,21,23,26,29に出ている。27では寺がそうした役割を負っている。この神の力を頼むという方法が、最も普遍的かつ古くから見られると推察される(注62)。土石流に蛇抜という名称が付けられたのも、そのメカニズムがわからない時代に、大蛇(龍)という不可思議な水の神がこれを起こしたのだという理解があったからと考えられる。
12,21では大蛇と戦う男が出てくるが、戦った者は神として祀られており、男が特別な人間にされている。しかしながら、人間が大蛇と戦うというモチーフは従来神とされてきた大蛇や、これによって代表される大自然に、人間が戦いを挑むことを象徴的に示していよう。このことは大蛇を弱らせる手段として、文明の象徴ともいえる銅がある2,鉄のVの伝説とも関わる。
大蛇に消極的に対抗する手段として、大蛇が海に向かうとき邪魔になる木を伐らないことであり、I、IIの伝説にそれが見られる。
蛇伐に積極的に対処するのが自然に手を加える杭を打つという行為で、イでは逆杭、IIIでは梨の木の杭、IVでは蛇杭が打たれている。これらの杭は堤防構築をイメージさせ、人間の自然や神への挑戦といえよう。例えば鎌倉時代の末に描かれた「一遍上人絵伝」には信濃の犀川などの川岸に乱杭を打ち並べて氾濫に備えている状況が見られる(注63)。中世までの人々にとって、杭を打つことが洪水への手立ての一つだったのである。なお、堤防の構築が大きく進むのは戦国時代であるが、その背後には自然も人間が統御できるという、自然や神々に対する挑戦の意識の進展があった(注64)。
これに対して本稿の主題をなす与川のA、B伝説の場合、材木の伐採を止めることによって蛇抜が防止されると意識している点に特徴がある。これは13やウにも通ずる。杭を打つことが自然への挑戦だとしたら、この場合には蛇抜が材木の伐採を引き金にして起こるという自然のメカニズムを認識したうえで、自然保護の積極的主張ということができるであろう。VIの川に毒を流すなという主張も、これにつながる。現在の自然保護運動に近い考え方である。
与川の蛇抜の伝説は、天保15年の事件を契機に作られている。つまりこの場合の山の木を切るべきではないというお告げは、蛇抜災害の原因を自然メカニズム全体のなかで認識したうえでの主張であり、伐採が引き金になって蛇抜が起こるという人為的な蛇抜を自覚した、近世末における最新の考え方を前提にしている。そしてその背後には尾張藩により木曽の材木伐採の事実があり、それに対する地元民の危機感が存在した。それだけに、地域と事件とが結び付いた独特の伝説担っているのである。
2.5 おわりに
伝説は昔話と異なり、話し手とその周囲の人々に真実であると信じられてきた点に特徴がある。
そして由来や口碑が現在の事物に関する説明や過去の出来事に関する話全般を指すのに対し、伝説は特定の土地にある具体的な事物と結びつけられて語られてきた(注65)。自然のことながら蛇抜にかかわる伝説の場合も、蛇抜災害を経験しなかった場所では伝説が伝わらない。災害の事実と伝説とは深く結び付いているのである。
それでは何故に伝説は伝えられてきたのだろうか。塚田正公20の伝説に、「『一度あることは二度ある』とか『殷鑑遠からず』という諺のあるように、過去にあったことを、戒めとすることが大切に思われます。その実例が、昭和五十八年の大水害です。中波田の部落を水浸しにし、波田堰に至りました。昔の『蛇ぬけ』が、また起こったのです。昔の人の伝説にすぎない、などと思っていると、大変なことになりそうです」(注66)と付言している。ここに示されるように、伝説は単に災害の事実を伝えるだけでなく、より積極的に未来に再び起こるかもしれない災害への警戒をも主張している。それだけに、災害の伝説があるところには再び伝説と同じ災害が起きる危険性がある。その意味で災害伝説の収集が望まれる。
そしてこうした災害伝説を具体化し、しかも印象付けているのが災害の犠牲者の慰霊碑や記念碑、さらには関係する神社や寺であり、南木曽町与川で起きた蛇抜の場合、石地蔵だった。災害に関係して目に見えるモノを残したり、作ったりすることが災害の伝説を固定化し、将来に備える手段になりえるわけである。慰霊碑は本来、災害にあった者たちの霊を慰め、鎮魂するためであるが、歴史的に見ると災害の事実を伝え、石地蔵や碑に対する不断の供養などを通じて、災害対処の自覚を与えている点に意味がある。木曽谷には蛇抜の慰霊碑が多く存在するが(注67)、災害に対する知識を植え付け、将来に備えるためには、こうしたものの役割が大きい。災害記念碑を多く作ることが、災害への対処にも効果的だといえよう。
ところで、蛇抜という災害は名称分布からして地域的で、ある意味で普遍性はない。しかしながら、既に見たように、蛇抜にかかわる伝説の背後には日本人が大蛇や龍に抱いてきた普遍的な意識がある。このため、蛇抜の災害地では蛇抜という言葉を失うと、広く各地に見られる一般的な土石流災害と差がなくなり、地域の者たちには切迫感が薄れてしまう。この個別的な事実をもとにする伝説と、日本各地に残る普遍的な災害伝承との関わりは重要である。一つの伝説は地域性・個別性と普遍性の相互の影響のもとに形成される。この両者での間の揺らぎが災害文化としての伝説の特性をなすだけに、両者の関係を明らかにすることが今後の課題になる。
ところで、災害を伝えていこうとする文化は伝説だけではない。日常行為としての信仰もある。
本稿で扱った蛇抜に関して、木曽地方では次が知られている。
○与川(南木曽町)蛇王様(胡桃田、池口幸夫さん)
毎日新しい水を汲んであげる。特別に日を決めておまつりすることはない。この神の由来は、昔、奥から蛇抜が来て、蛇が石の上に頭を置いて死んでいたので、それを祀ったところにある。
祠は一度流されてしまったが、なぜか御神体は流されずに残っていたので、再び祀った。祀った場所は、最初に祀った場所ではない。しかし、蛇王様は水の側でなければいけないというので、水の側に祀ってある(注68)。
○三留野(南木曽町)川施餓鬼
昔、蛇抜のあった伊勢小沢で、数名の老女達が前夜集まって地蔵様の御印を百体ずつ捺印し、明朝五時頃に地蔵菩薩を念じつつ、清流に御印を捺印した紙を納め、蛇抜けの碑の前で摩訶般若波羅密多心経を唱和する(注69)。
○柿其(南木曽町)禁忌
朝赤飯に味噌汁をかけると蛇抜がある(注70)。
このような祭礼や、日常的な禁忌が日々災害を認識させる手段になっていることは疑いない。
その場合、生活文化としての災害に関係する伝承や信仰を伝えているのは、主として女性である。
そこで、未来を背負う子供と接触することが多く、日常行為の基底をなしている女性にこそ、災害に関係する情報を多く与え、いざというときに備えておく必要があろう。今後の災害に備える場合も、日常的に災害への意識を喚起するために、主婦層への意識浸透が大事になる。
伝説や日常的信仰行為は、地域共同体が大きな意味をもち、宗教心が強かった時は地域に維持されてきた。しかしながら、現代の大きな社会変動は個々の家や共同体が保持してきた、祭や伝承などを急激に解体させつつある。ここにこれまで培われてきた災害文化に対する現代の限界があると思う。
災害の伝説や禁忌などは、またいつ災害に見舞われるかわからない場所だからこそ伝わってきた。従来の共同体が崩れ、老人から子供たちへの日常生活における文化的遺産の継承が途絶し、伝説が伝説として継承されなくなりつつある今こそ、災害の伝説や禁忌、災害に対する民俗的備えなどの文化を採集し、改めて災害に対する認識を強めなければならないのである。そこに災害の文化を災害文化として独立させて研究する重要性も存在すると考える。
注
1 『国土問題VOL21特集南木曽地方災害環境調査』(国土問題研究会・1980)
2 『日本国語大辞典』第10巻190頁(小学館・1974)
3 『西筑摩郡誌』472頁(長野県西筑摩郡役所・1915)
4 『私たちが調べた木曽の伝説』第5集19頁
5 『民俗調査報告書長野県木曽郡南木曽町与川』72頁(和洋女子大学民俗研究会・1978)
6 同上
7 『長野県史民俗編第三巻(三)』444頁
8 折口信夫「七夕祭りの話」(『折口信夫全集』第15巻169頁・中公文庫・1976)
9 拙著『天竜川の淵伝説ー「熊谷家伝記」を中心にー』(建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所・1992)
10 木曽の林業については、徳川義親『木曽山』(私家版・1915)、所三男『近世林業史の研究』(吉川弘文館・1980)
11 拙稿「『親刻名古屋噺』をめぐって」(『信濃』近号掲載予定)
12 『私たちが調べた木曽の伝説』第1集18頁(長野県木曽西高等学校地歴部・1976)
13 『私たちが調べた木曽の伝説』第1集19頁
14 『私たちが調べた木曽の伝説』第1集26頁
15 『私たちが調べた木曽の伝説』第2集14頁(長野県木曽西高等学校地歴部・1976)
16 『開田村誌』上巻511頁(開田村誌編纂委員会・1980)、同じような伝説が『私たちが調べた木曽の伝説』第3集11頁(長野県木曽西高等学校地歴部・1976)にも収録されている。
17 『私たちが調べた木曽の伝説』第3集14頁(この伝説は『開田村誌』上巻510頁(開田村役場・1980にも採録されている)
18 『私たちが調べた木曽の伝説』第5集9頁(長野県木曽西高等学校地歴部・1980)
19 『民俗調査報告書長野県木曽郡南木曽町三留野』142頁(和洋女子大学民俗研究会・1978)
20 『長野県上伊那誌民俗篇上』1431頁(上伊那誌刊行会・1980)
21 『長野県上伊那誌民俗篇上』1431頁
22 岩崎清美『伊那の伝説』239頁(歴史図書社・1979)
23 岩崎清美『伊那の伝説』85頁
24 『片桐村誌』634頁(中川西公民館・1966)
25 『下久堅村誌』804頁(下久堅村誌刊行会・1973)
26 『高齢者の語り第一輯ふるさとへの伝言』107頁(南信濃村教育委員会・1983)
27 『長野県下伊那郡天竜村坂部民俗誌稿』121頁(長野県史刊行会・1985)
28 『長野県史民俗編第三巻(三)』445頁(長野県史刊行会・1980)
29 塩尻史談会編「塩尻の伝説と民話」127頁(塩尻史談会・1978)
30 『山辺の民話』20頁(山辺歴史研究会・1981)
31 『長野県史民俗編第三巻(三)』473頁
32 塚田正公『波田町の民話』12頁(波田町民話の会・1985)
33 『明科町史下巻』955頁(明科町史刊行会・1985)
34 『南佐久郡誌』(民俗編)1082頁(南佐久郡誌刊行会・1991)
35 『限定復刻版佐久口碑伝説集北佐久編』150頁(佐久教育会・1978)
36 『限定復刻版佐久口碑伝説集北佐久編』95頁
37 児玉断『長門昔ばなし第二集』93頁(私家版・1985)
38 『坂城町誌上巻』637頁(坂城町誌刊行会・1978)
39 『坂城町誌上巻』637頁
40 『とよさか誌』781頁(とよさか誌編纂実行委員会・1982)
41 『続ふるさとの伝説と昔話』35頁(中野市公民館・1983)
42 『長野県史民俗編第四巻(三)』534頁(長野県史刊行会・1986)
43 『高根村史』1109頁(高根村・1984)
44 『高根村史』1269頁
45 『長坂町誌』下巻878頁(長坂町・1990)
46 『塩山市の伝説・民話』32頁(塩山市教育委員会・1978)
47 これについては『瓜と龍蛇』(福音館書店・1989)がある。
48 『日本伝説大系』第1巻211頁(みずうみ書房・1985)
49 『日本伝説大系』第1巻211頁
50 『日本伝説大系』第8巻100頁(みずうみ書房・1988)
51 『日本伝説大系』第8巻101頁、この話は谷垣桂蔵『兵庫県の秘境』(のじぎく文庫・1965に収録)
52 杉村顕『信州の口碑と伝説』224頁(信濃郷土誌刊行会・1933)
53 『日本伝説大系』第8巻101頁
54 『日本伝説大系』第12巻73頁(みずうみ書房・1982)
55 『日本伝説大系』第12巻74頁
56 高木敏夫『日本伝説集』(私家版・1913、宝文館出版・1990復刻)
57 『柳田国男全集』第10巻(ちくま文庫・1990)
58 拙著『天竜川の災害伝説』(建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所・1993)
59 『日本伝説大系』第6巻207頁(みずうみ書房・1987)
60 『日本伝説大系』第12巻153頁
61 『日本伝説大系』第12巻154頁
62 拙著『天竜川の災害伝説』
63 『日本の絵巻20一遍上人絵伝』(中央公論社・1988)
64 拙著『戦国時代の天龍川』(建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所・1991)、拙稿「『院内』考」(信州大学人文学部『新聞科学論集』21号・1987)
65 野村純一「伝説」(『大百科事典』10巻346頁・平凡社・1985)
66 塚田正公『波田町の民話』12頁(波田町民話の会・1985)
67 三留野(南木曽町)蛇抜けの碑は、大部昔に蛇抜けがあった際に子供が二人石の下敷きになって埋まってしまい、今も出すことが出来ない。その子供達の供養の為に建てたものといわれる(『民俗調査報告書長野県木曽郡南木曽町三留野』137頁・和洋女子大学民俗研究会・1978)。そのほか1953年の蛇抜の犠牲者の霊を慰めるための「悲しめる乙女の像」などがある。
68 『民俗調査報告書長野県木曽郡南木曽町与川』44頁(和洋女子大学民俗研究会・1978)
69 『民俗調査報告書長野県木曽郡南木曽町三留野』85頁(和洋女子大学民俗研究会・1978)
70 『木曽谷民俗調査報告書第七号柿其』42頁(和洋女子大学民俗研究会・1973)
表-2.1 蛇抜関係略年表
西暦(元号)年月日─────事件《出典》
769(神護景雲3)年────木曽川洪水。《西筑摩郡誌419頁》
1447(文安5)年──────木曽川洪水、須原定勝寺流亡する。《西筑摩郡誌472頁》
1586(天正14)年──────この年木曽川洪水。《西筑摩郡誌437頁》
1605(慶長10)年──────黒沢村、本洞川洪水、武居神主家流失。《西筑摩郡誌439頁》
1608(慶長14)年──────夏と秋の交わりに木曽川大洪水。《西筑摩郡誌439頁》
1614(慶長19)年夏─────王滝川・西野川洪水。《西筑摩郡誌440頁》
1624(寛永元)年──────与川大きな被害(詳細不明)。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1638(寛永15)年夏─────王滝川、西野川洪水。《西筑摩郡誌440頁》
1644(正保元)年──────与川、下山沢、死者100名、日傭小屋流失3軒。《小川の奥に無縁塚あり・民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1650(慶安3)年──────木曽川洪水。《西筑摩郡誌440頁》
1671(寛文11)年──────与川の土地境目証文の中に蛇抜が見える。《与川(3区)平尾篤氏所蔵文書》
1691(元禄4)年6月4日──大風雨、木曽の道路所々大破。《西筑摩郡誌450頁》
1704(元禄14)年8月────王滝川洪水三尾村の橋渡流失。《西筑摩郡誌452頁》
1715(正徳5)年6月18日─暴風雨山崩れのため野尻の須佐男社流失する。木曽川洪水、須原宿古町流失。《西筑摩郡誌455頁》
1726(享保11)年8月────大水により与川村下川橋が痛む。《与川南野良人所蔵文書・乍恐奉願上口上之覚》
1738(元文3)年5月27日─暴風雨原野村の農ヶ池埋まる。木曽川洪水福島宿の木曽川の橋流失。山口村田畑被害多し。《西筑摩郡誌460頁》
1741(寛保2)年3月────大水抜けとなる。《徳川林政史研究研究所・永覚御公用日記》
1745(延享2)年頃─────大きな蛇抜があったものと思われる。《徳川林政史研究研究所・延享3年永覚御公用・村方諸事日記ー2月4日・2月12日などの記載》
1745(延享2)年──────妻篭村山証文の絵図のなかに押手沢の地名が見える。《蘭(大島)原清明氏所蔵文書》
1746(延享3)年──────神戸新田起しの覚に蛇抜以前といった語が見える。《三留野(神戸)林修氏所蔵文書(南木曽町誌資料編218頁)》
1751(寛延4)年6月25日─与川小川野で蛇抜、7月8日「井水河よけ人夫覚帳」に記載。《与川(3区)平尾篤氏所蔵文書》
1757(宝暦7)年5月4日──大雨、木曽川大洪水。《西筑摩郡誌462頁》
1767(明和4)年──────木曽川大洪水。《西筑摩郡誌463頁》
1798(寛政10)年──────木曽川洪水。《西筑摩郡誌467頁》
1804(文化元)年4月21日─田立の大野井戸ヶ沢の蛇抜、「井水新規堀立人足覚」に記載。《田立(大野正兼)松原敏彦氏所蔵文書》
1827(文政10)年6月27日─神戸袖ヶ沢で蛇抜、「覚」に記載。《三留野(神戸)林修次郎氏所蔵文書》
1830(天保元)年5月7日─大雨降り8日往来止まり、滝下大抜け。《妻篭(下り谷)西尾勇氏所蔵文書》
1842(天保13)年5月17日─木曽川洪水。《西筑摩郡誌471頁》
1844(弘化元)年閏5月27日ー与川で山抜。95人死失。(114人、106人とも)、西筑摩郡誌472頁によれば「与川村中ノ沢山岳潰崩し死者三百余人に及ぶ」。《名古屋蓬左文庫「木曽与川山抜石地蔵」に記載、三留野(住吉町)北原正義氏所蔵・古文書写、(南木曽町誌資料編293~308頁)》
1848(嘉永元)年6月3日──大雨出水。8月に至り河原御見分。《妻篭(下り谷)西尾勇氏所蔵文書・村方帳・西筑摩郡誌473頁》
1854(安政元)年6月20日─霖雨山抜、長野村で2戸流潰。馬1頭死す。《西筑摩郡誌474頁》
1854(安政元)年7月7日─木曽川洪水福島宿大手橋落ち、土居倉川手破損し2戸流失。八沢川筋の田畑の被害大。《西筑摩郡誌474頁》
1857(安政4)年5月18日─福島宿八沢洪水、八沢橋流失。川原町にて5戸流失。《西筑摩郡誌474頁》
1857(安政4)年7月24日─強雨洪水、妻篭村で赤坂渡橋1か所等流失。《南木曽町誌資料編309頁》
1857(安政4)年8月24日─洪水、妻篭村字又井水の石垣・井水流失。《南木曽町誌資料編310頁》
1857(安政4)年──────広瀬初沢大蛇抜、川筋大荒れ、田畑流出白州となる。《三留野(住吉町)北原正義氏所蔵文書・北原家古文書写》
1865(慶応元)年閏5月17日―妻篭字与島等で蛇抜、大きな被害が出る。木曽福島宿上町下町の裏通り大破、三留野村流失4戸、浸水10余戸。《妻篭(中町)林文二氏所蔵文書「覚」に記載、南木曽町誌資料編310~312頁西筑摩郡誌477頁》
1866(慶応2)年8月────暴風雨、橋が落ち薮原付近は交通が途絶。《西筑摩郡誌477頁》
1867(慶応3)年5月19日─上松村上の山崩れ、人家5戸倒壊、女1人馬1頭圧死す。《西筑摩郡誌478頁》
1868(明治元)年5月────長雨のため黒沢村上谷原野1町歩崩壊し、人家1戸流される。《西筑摩郡誌479頁》
1868(明治元)年6月────木曽川洪水、薮原村5戸流失、溺死3人。《西筑摩郡誌479頁》
1881(明治14)年7月────駒ヶ根村小川洪水、家屋2棟馬3頭流失。《西筑摩郡誌487頁》
1881(明治14)年9月────蘭川沿い(字川向)の田7反3畝、畑2畝に損害額600円。木祖・日義・福島・上松の各村に流失家屋・死者続出、須原以下山口に至る被害も甚大。《南木曽町誌(通史編)706頁》
1882(明治15)年10月1日――木曽川洪水、同時新開村黒川出水被害100円。《西筑摩郡誌488頁》
1884(明治17)年7月16日――木曽川大洪水。木祖村流失5戸、溺死3人。日義村2戸4棟流失、溺死11人、浸水25戸。新開村上の沢・熊沢出水、3戸流失、死者2人。福島村7戸流失、死傷3人。駒ヶ根村桟の釣橋流失し焼笹1戸流失。須原以下山口村に至る沿岸に被害多し。《西筑摩郡誌489頁・民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1884(明治17)年8月10日――奈良井川洪水、奈良井村12戸流失。《西筑摩郡誌498頁》
1888(明治21)年7月────西野川・末川洪水。《西筑摩郡誌491頁》
1889(明治22)年7月────奈良井川洪水。《西筑摩郡誌459頁》
1891(明治24)年7月22日――木曽川洪水、福島村道路決壊。《西筑摩郡誌492頁》
1893(明治26)年7月────木曽川洪水、山口村にて1戸流失。《西筑摩郡誌493頁》
1896(明治29)年7月20・21日――木曽川洪水、木祖村7戸流失、浸水12戸、溺死1人。新開村流失2戸、内1戸は黒川の洪水。開田村西野川・末川ともに洪水。日義村田畑に被害多し。《西筑摩郡誌495頁》
1897(明治30)年9月30日――木曽川上流味噌川・笹川洪水、木祖村6戸流失、同時に八沢川出水。福島町1戸流失。《西筑摩郡誌496頁》
1903(明治36)年6月中旬――夜明方、岩戸沢、戦沢で死者6、柿其で死者2、他に読書村で4名、妻篭で2名が流されたという。《読書村の山津波年表「南木曽」創刊号》
1904(明治37)年7月9日から11日――豪雨のため正善沢等で蛇抜。死者ー妻篭7・蘭8・広瀬37、負傷者ー妻篭6・蘭3・広瀬8、流失家屋ー妻篭31・蘭8・広瀬18、《三留野(上の原)竹腰一郎氏所蔵文書・「掟」に記載、南木曽町誌(通史編)708頁、資料編608頁・西筑摩郡誌500頁》
1923(大正12)年7月17日の夜から18日の明け方――豪雨で読書村の諸所に山崩れ、死者も出る。《南木曽町誌(通史編)710頁、民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1928(昭和3)年7月14日――広瀬の山津波、午後六時過ぎの大雷雨のため井戸沢及び蛇抜け沢の上流2か所から山津波、口広瀬・寺の両地籍に大きな被害をもたらす。家屋の流失10戸(工場2・水車1を含む)・同半壊13戸・田畑の流失・土砂侵入等1町4反4畝。《南木曽町誌(通史編)711頁・資料編611頁》
1932(昭和7)年6月13日――蛇抜け沢で蛇抜、橋流失、鉄道、道路、田畑などに被害が出る。《国土問題44頁》
1934(昭和9)年6月21日――読書村を中心に集中豪雨、梨子沢・蛇抜沢・白鳥・下沢・南沢等各所で水害。帝室林野局貯木場及び三留野駅構内に流れ込む、与川では流失家屋3・全壊7戸。《三留野(下仲町)市川温氏所蔵文書・覚書・南木曽町誌(通史編)711頁》
1937(昭和12)年7月────与川の家屋流失2戸、耕地被害1ha。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1938(昭和13)年9月5日――与川、岩倉川、梨子沢で蛇抜、耕地3町5反、水路540m流失。《国土問題44頁》
1943(昭和18)年7月22日――午後の雷雨、2時頃本谷川(蘭川の上流)広瀬二つの橋部落を山津波が襲う、罹災者112・死亡2・住家流失11、土砂侵入家屋12等の被害。《南木曽町誌(通史編)712頁・資料編612頁》
1943(昭和18)年7月22日――下山沢でも同様の災害あり、住宅2戸を流失。《南木曽町誌(通史編)713頁、民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁
1947(昭和22)年7月────与川・蘭川、近辺の家屋流失14戸、死者2名、負傷者10名、国道19号線与川与橋及び蘭川全橋梁流失。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1948(昭和23)年8月────与川他各河川出水し、伊勢小屋沢で死者3名、家屋流失5戸。与川渡鉄橋で貨物列車転落。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁・国土問題44頁》
1953(昭和28)年3月────上山沢で営林署集材機、木材の流失、森林鉄道耕地の流失。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1953(昭和28)年7月20日――伊勢小屋沢、長者畑本谷沢、長谷川玉くり沢、死者1名、行方不明2名、家屋5戸流失。《国土問題44頁》
1953(昭和28)年8月14日――与川上山沢、大洞沢、集材機2、木材運搬車14、木材35石流失、森林鉄道流失、畑全滅。《国土問題44頁》
1956(昭和31)年7月────広瀬夏焼沢、1戸全壊、田畑3町流失。《国土問題44頁》
1956(昭和31)年7月14日――男垂川、1戸流失、男垂沢の橋梁全部流失。《国土問題44頁》
1959(昭和34)年9月26日――伊勢湾台風で全半壊、その他600戸。国有林内風倒木約2,000立方メートル。神坂村にも相当の被害あり。《国土問題44頁》
1961(昭和36)年6月────各河川出水し、死者1名、公共施設損害65か所、被害総額2億6千万円。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1965(昭和40)年7月────集中豪雨により各河川出水し、家屋被害22戸、公共施設被害総額3億3400万円。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1966(昭和41)年6月────大澤他、神戸沢、戦沢他各河川土石流のため大被害、死者1名、家屋流失38戸、公共施設を含む被害総額12億7,500万円に及ぶ。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1969(昭和44)年8月────梨子沢・与川・蘭川等各河川に土石流が発生し、死者8名、被害総額9億6000万円。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
1972(昭和47)年8月23日――田立、養魚全滅。《国土問題44頁》
1975(昭和50)年7月、7月7日――集中豪雨(七夕災害)、死者1名、被害総額17億1,800万円。《民俗調査報告書・長野県木曽郡南木曽町与川11頁》
第3章 災害文化の成立――地震と鹿島信仰―― 都司嘉宣・山本賢
3.1 日本の神々
唯一絶対の神を軸とするキリスト教やイスラム教の社会に住む人々と、仏教やヒンドゥー教、あるいはギリシャ神話の世界、日本の神道のような多神教の中の人々の描く「神」とでは、同じ神という言葉を用いていても意味するものは大きな隔たりがある。一神教の神は世界そのもの、人間を超越した絶対の救世主とされる。つまり人の宇宙観、世界観全体を根底から支配して、疑われることを拒否する全智全能の神とされるのである。
これに対して、日本の神道のような多神教の神は、恋いもすれば嫉妬もする。泣き笑いもし、ときにはだまされるというひどく人間くさい性格をもっている。個性ある個々の人間社会をそのまま正直に投影した神々の世界が語られる。ギリシャ神話はこの段階の神であり、日本の「古事記」に登場する神々もまたそうである。このままではまだ宗教の形態をなしているのではなく、人間の現実の歴史と未分化な「神話」の世界である。アイヌの「ユーカラ」や、沖縄の「おもろそうし」、韓国の「檀君降臨」の神話もそうである。この段階の神は「いまのわれわれの先祖」という形で、祖先崇拝とさほど変わらぬ形で崇拝されるのである。「神」は登場しても、まだ完全な形の宗教とはいえまい。
このような素朴な「神話」が宗教的な方向に発展すると、「神」たちは「人間」にはできない「超能力」を持ち始める。さらに「今」生きている人々に干渉をしはじめる。個々の神が自然現象と結び付いて、「その現象を支配する神」と語られるようになる。さらにはその神を信仰することによって、その現象にかんする現実の利益がもたらされるという信仰形態が現れる。そのもっとも良い例が菅原道真であろう。現実に12世紀に実在した菅原道真が、「天神さま」となって学問の神となり、神社が作られ受験生の信仰の対象となっている。この宗教的発展をわれわれはたどることができる。和歌がうまくなるという人麿神社もその例であろう。しかし、菅原道真や柿本人麿は実在の歴史上の人物として明白に特定できるまれな例である。大部分の神は、その元となった人は分からないのが普通である。たとえば、水神さまというのは、どこのどなた様が神になったものであろうか。
日本にも中国にもこのような現世御利益誘導型の神が数多くいる。世界中にもたくさんいるであろう。御利益誘導型の神は、もっともドライ・直線的に、人間の欲望と神とが打算的に露骨に結び付いて生み出された産物といえるであろう。世界の宗教家からどんなに嘲笑を受けようと、日本人に好まれる神とは現世御利益誘導型の神なのである。日本人にとって「神」とは、薬屋の棚にズラリと並んだ薬のような、「なにかに効く神」なのである。したがって、仏教やキリスト教が伝わってきても、御利益(ごりやく)の「神」の座は揺るぎもしない。「せんぶり」や「ゲンノショウコ」のはいった薬箱のなかに「アスピリン」が加わったようなものだ。日本人には、新しく持ち込まれた仏教、キリスト教の神に対してまで日本風にアレンジして現世御利益の神にしたてあげる癖すらある。
なんとなく「宗教に対して精神的に低級な日本人」の面を強調しすぎたが、いっぽう、日本には神仏の霊験、神仏罰、易占、霊魂・来世の存在、妖怪、など超自然的な物の存在を理性的に拒否・否定する、迷信打破の冷静な論調のあったことも記して置かないと、公平を欠くであろう。
江戸時代の大阪の豪商経営の実力者として腕をふるった、山片蟠桃(やまがたばんとう、1748ー1821)はその代表者であり、易占の効果は有り得ないものと喝破する上岡龍太郎氏もこの伝統のうえに立つ人であろう。ほんとうは多くの日本人は、易は当たるとも思ってはいないし、神様の御利益などというものは実際にあるとは思ってはいないのだ。神を「冷やかしている」、あるいは「ペット化している」というのも表現がまずく、適当な言葉が見あたらないが、とにかく日本人は「神を深刻には考えてはいない」面もたしかにある。
これとは別に、仏教を主とする宗教の宗派の教祖自身が、宗教の役割と限界を理性的にわきまえ、現世御利益の誘導を宗教に求めることを排斥した例もいくつかみられることも知って置くべきであろう。
3.2 自然災害の神
日本の神が現世御利益と結び付くなら、神は、五穀豊穣の神、類縁結びの神、商売繁盛の神、和歌製作能力増進の神、などのようなプラスの利益をもたらしてくれる神と、病気、火災などのマイナスを経験してくれる神の二種類に分類される。そして後者のなかに、もろもろの自然災害を経験してくれる神がいる。たとえば、洪水にしばしば悩まされる木曽川下流地域に「水神」と記した倉庫が見られる。三河国の秋葉山信仰は火災避けの要素をもっている。
では地震、津波避けの神は日本列島上に存在するだろうか?筆者らは多くの神社寺院の由来を記した文章を読んでみたが、意外なことに日本列島には体系だって存在する地震の神は1種類しかいなかった。それが「鹿島の神」である。
現在日本列島に実際に存在する鹿島の神のいくつかは、地震や津浪の災害を軽減する霊験があるということをキャッチフレーズにしている。そして神社内には「要石(かなめいし)」と称する、地中に深く根を張った石があり、この石のおかげで地中の鯰(なまず)が鎮められ、地震の被害が生じないのである、と信じられている。
後に述べるように、全国に散らばる大部分の鹿島神社の一番根元は常陸国(茨城県)鹿島郡鹿島町の鹿島神社であるとみられる。つまりここが本家本元の鹿島の神である。この神社を訪れた人は、参道の両脇に地震なまずの置物や文鎮の土産を売る店がずらりと並んでおり、また境内に要石という、地上からは野球のベースほどの大きさにしか見えない石があることに気付くであろう。また社務所で売っている神社案内にも、ここが全国の鹿島の総元締めであるとともに、地震の神の性格をも持っていると説明がある。ここから分祠、孫分祠された各地の鹿島神社が、ほとんどすべて地震神の性格を持っているのであればきわめてことは明瞭なようにみえる。つまり鹿島の神の発生の元からして地震神であったわけだ。
しかし実際に調べてみると、どうもそう単純ではないらしい。というのは、地震の霊験をキャッチフレーズにしない鹿島神社も、日本列島には相当広く分布するからである。なかには、常陸の鹿島から分祠された後に、地震に霊験があることが忘れ去られたケースもあろう。しかし、本当に元から地震の霊験を説かれたことが一度もなかったと考えられる一群の鹿島信仰がたしかに存在するのである。
全国、ほとんど全ての鹿島神社の祭神は武甕槌(タケミカヅチ)の神である。そして副次的に経津主神(フツヌシノカミ)が共に祭られていることもある。
本稿では、鹿島の神がどこで生まれ、どういう機縁で地震の神となって行き、現在どこでどういう信仰の形態をとっているかを述べ、さらに現代の災害科学から鹿島神社の意味を考察してみることにする。
3.3 全国の鹿島の神の分布
日本列島上で鹿島の神を祭られている神社をさがしだすのは決して難しいことではない。神社の名の中でポピュラーなものをあげれば八幡神社、稲荷神社、諏訪神社、住吉神社、白山神社、天満宮神社、熊野神社、八坂神社、等となって、これらはいわば「どこにでもある神社」ということになろう。鹿島神社はこれほどはありふれてはいないが、頻度の第2グループには確実に入っている神社名である。全国どこでも市街地図帳をたんねんに捜せば、鹿島神社は相当数見つかるはずである。
しかし、全国の街角のどこにでもあるような、ありふれた名前の小さな神社というのは、多くの場合小さな人間集団の移動にともなって中近世のいずれかの時期にどこからか分祠されてきたものが多く、その神とその場所とが根元的な必然性をもって結び付いている例はきわめて少ない。その神にとって根元的な意味あいを担う神社は、やはりそれなりの由緒伝説と、近世初頭からの確かな存在証明、そして現在の氏子数と神社規模がある程度以上大きいこと、などの要件を備えていなくてはならないであろう。
このようなことから、われわれは、鹿島の神の素性をしらべるさいに、「鹿島」という名前のついた全部の神社を市街地図・住宅地図などからしらみつぶしに調べる、ということはしなかった。
各地方の代表的な神社リストのなかから鹿島神社を捜し出すことで研究の材料としたのである。
鹿島の神の追跡には、これでまず十分であろう。
「神社名鑑」や各府県ごとに刊行された神社のリスト、さらに白水社から全13巻のシリーズとして刊行されている、「日本の神々ー神社と聖地」(1984-1986)によって各地方の代表的な神社はほぼ網羅されるものと考えられる。「日本の神々」には各神社の由来、伝承の記載が詳しく載っている。さらに、各地の町村誌、とくに地名「鹿島」のつく町村の町村誌を調べてみた。
これらの資料によって得た、全国の鹿島の分布を図-3.1に示す。☆と★は鹿島神社があり、要石もあって、地震や津浪の霊験を説く神社の所在を表している。ことに黒で塗りつぶした後者の記号は、過去の地震のさい本当に鹿島神社周辺が地震や津浪の被害を受けなかった実績をあげているものを示している。このような例は茨城県鹿島神社のほかに、山梨市、静岡県清水市、三重県青山町、さらに九州熊本県の竜北町にそれぞれ存在する。ことに清水市と青山町の例では、実際に過去の地震のさい、その場所だけ地震被害が小さかったという「実績」が気付かれている。
○と●は鹿島神社はなく、要石のある例で、千葉県佐原市の香取神社、静岡県沼津市原の要石神社、の2例が知られている。沼津市の原は安政元年(1854)の安政東海地震のとき、西隣の吉原と東隣の沼津の宿場が大きな地震被害に遭ったのに、原の宿場はほぼ無傷で助かったという実績がある。
□と■は、鹿島神社があり、地震や津浪の霊験を説くもので、ただ要石のないものである。静岡県榛原町、和歌山県南部町、徳島県海南町に例が知られている。南部町の鹿島神社は、この海岸地方が宝永4年(1707)、安政元年(1854)、および昭和21年(1946)の3度、津波を伴うの大地震を経験していながら、3度とも被害に遭わなかったという「霊験実績」を誇っている。
△は、鹿島神社はあるが、地震や津浪の霊験を伝えないもので、東北地方、ことに福島・仙台方面にやや濃密に分布する。東北地方は、鹿島の地名もあり、鹿島神社も多く存在するにもかかわらず、地震の神とされるものは一つも見つかっていない。▽は、地名のみ鹿島で、鹿島神社のない場所である。細かい調査をすれば△はふえるであろうが、普段神主もいないような余り小さな神社は由来伝承自体が伝わっていない場合が多く、いまの研究にあまり役に立たない。
3.4 地震の霊験を説く鹿島神社と要石
地震よけの神としての鹿島の神の性格を表すものに「なまず絵」がある。(図-3.2参照)鹿島の神が要石によって地下のなまずたちを押さえつける図柄である。
少なくとも江戸時代の末期には、明らかに鹿島の神は一般的に地震の神と認識されていたことを証明している。
鹿島の神と要石は地震封じに霊験ありという伝承をもつ神社は現在までに9ヶ所見つかっている。この9ヶ所の神社をひとつひとつ見て置くことにしよう。
(1)茨城県鹿島郡鹿島町の鹿島神宮(図-3.3参照)
この神社はすでに8世紀始めに編輯された「常陸国風土記」に記載され、しかもその当時すでにこの神社の分祠が常陸国内に2ヶ所(後述)存在していた。この鹿島神社だけは、鹿島として全国ただ一つの「神宮」である。いくら大きくても建物が立派でも無闇に神宮とは呼ばれることはなく、次に述べる香取神宮をはじめ、熱田神宮、平安神宮、霧島神宮、伊勢神宮、そして明治神宮など、一定の格式を備えた限られた神社だけが「神宮」とよばれる資格を持っているのだそうである。また全国に散らばる多くの「鹿島神社」は、この茨城の鹿島神社の分祠であると伝えていることからも、この「鹿島神社」が鹿島の本家本元であることは疑えない。
JR鹿島線の終点鹿島神宮駅の駅前下りるとすぐ参道が始まり、鹿島台地と呼ばれる丘陵地の上に、見上げるばかりの大鳥居と、寛永11年(1634)水戸徳川氏寄贈の大楼門を備えた、南北約1㎞東西約800mの境内地を有する大きな神社が現れる。さすがに全国の鹿島の本家本元である。
祭神は武甕槌(たけみかづち)の大神とされる。利根川を挟んで対岸にある香取神宮の神である経津主大神と一対をなしている。
地震を押さえる要石は、神社本殿前から参道を奥に300mほど直進して右に小道を折れたところにある。見たところ地上にでているのは約40㎝四方の野球のベースほどの石の面で、中央にゆびの先ほどの小さなくぼみがある。どうと言うこともないタダの石にみえるが、掘ってみると底が知れないほど根をはっているといい、地震のときにも、このあたりは揺れることがないと伝える。鹿島の七不思議の一つに数えられている。
この神宮での要石と鹿島神、地震霊験との結び付きの古さを知る手がかりとして、建久二年(1198)年の「伊勢暦」に載せられた、読み人知らずのつぎの和歌が伝えられている事実がある。
ゆるぐとも よもやぬけじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは
この和歌の存在によってわれわれは知る。鹿島の神と要石が地震に霊験ある神であるという信仰は、本家本元の常陸鹿島神宮では、鎌倉時代(1192-1333)の初頭にはすでに存在したことを。
(2)千葉県佐原市香取神宮(図-3.4参照)
古代利根川の河口付近は大きな入り江をなしていて、今の丘陵地の麓まで海が迫っていた。
「常陸国風土記」によると、その入り江は水運による重要な交通路となっていた。香取神宮は、鹿島神宮とともにこの水路の両岸を守護する位置にあった。この神宮にも要石があり、やはり地震を起こすなまずをうえから押さえていると伝えている。香取神宮の祭神は経津主(ふつぬし)の神とされる。
(3)山梨県山梨市石の森山梨岡神社内鹿島祠
山梨市石の森にある山梨岡神社の境内地は、地名の通り大きな岩が地上にごろごろと散乱した地域で、石ごとに「ヤマトタケルの腰掛け石」とか「太鼓石」とかの名前が付けられている。明治20年(1887)刊行の「山梨郡加納岩村誌」によると、これらの石群のなかに「要石」という石があり、鹿島の神が祭られている。地上に出た大きさはわずか「高さ2尺〈60㎝〉径2尺5寸〈75㎝〉というたいして大きくもない石である。しかし、石の根は「地中に入りてはかりがたし」と表現去れているように、茨城鹿島神宮の要石同様の石であることから、この石も要石とよばれ、それにちなんで「鹿島祠」がまつられたものであろう。この石が鹿島信仰と結び付けられた年代については伝記は何も述べてはいない。この鹿島祠の場合は、自然石としての要石が先にあって、あとでそれにちなんだ鹿島の神が「添え置かれた」ケースであろう。山梨岡神社は延喜式内の社であるので、成立は平安時代にさかのぼるが、鹿島祠が作られたのはそう古い時代のことではあるまい。
(4)静岡県沼津市原要石神社
沼津市原は東海道53次の宿場の一つであって、吉原宿と沼津宿との間にあった。
「駿東郡誌」による説明を載せる。
「要石。原町一本松にあり。傍の要石神社は寛永年中勧請する所なり。この石の根は社殿下大橋家屋敷の井戸まで達しおり、ために大地震といえども揺らぐ憂いなく、安政元年大地震のごときもこの地のみその災を免れたりと社記にのせたり。」
寛永年中というのは、西暦1624年から1644年までのころであって、まだ江戸幕府による五街道の制度が確立してからまだそれほどときがたっていない。原が宿場として繁栄し始めたころ、いちはやく要石神社が祭られたことになろう。このときすでにこの石が地中に広く深く根を張った石であることに気付かれており、地震にもゆれが少ないことが予測されていた。あるいはこの土地が先験的に地震のときに揺れが少ないことが知られていたためであろうか。ともかく神社勧請の当初からこの神社は地震の神として祭られていた。
それだけではない。「駿国雑誌」には次のように書かれている。
「原町一本松新田の浜辺に要石と称するあり。傍らに石の祠あり。高潮あぐる時ありとも、この石より上、陸に来ることなし」
つまり、この石は地震だけではなく津波からも守ってくれる霊験を備えているというのである。
この地震と津浪という2種類の霊験がともに正しかったことは、安政元年(1854)11月4日の安政東海地震のときに証明された。すなわち、両隣の沼津、吉原の両宿とも地震と火事のためほとんどの家屋が被災し、静岡県平野部全体が震度VIからVIIの木造家屋全壊が数10%にも達していたというみぞうの大地震のさなかにあって、原だけは「無事、宿泊可能」ときされているのである。また宿場は海に面していながら津波の浸水を受けることがなかった。
「駿国雑誌」の刊行年は天保14年(1843)であって、もちろん安政地震より古い。また、宝永地震(1707)は由比より東では東海道筋全体で被害を生じなかった。ただ宝永地震の本震(旧暦10月4日の翌日に富士川中流域におきた余震によって、富士宮とその周辺に被害を生じたのみである。慶長9年の地震は東海地方に震源のある地震ではなかったので、けっきょく駿河湾奥部に被害をもたらした地震は江戸時代の始め、17世紀初頭以降はなかったことになる。
原の要石神社を寛永年間(1624ー1644)に創建したとき「原は地震も津浪も被害を受けない場所である」という知識を、かれらはどうやって知ったのであろう?また安政東海地震のさいにどうして的中させることができたのであろう。この問いに現在のわれわれは答えることができないのである。
ここは「要石神社」であって、「鹿島神社」ではなく鹿島の神は直接にはでてこない。
(5)静岡県清水市袖師の鹿島神社
静岡県清水市袖師にある鹿島神社は「西久保の鹿島神社」と呼ばれ、御神体は背後の山腹に先端を現した大臼大の神石である。「要石、根底深く図り知れず」とあり、昔からどんな天災地変にも微動だにしないと伝えられている。(3)の山梨岡神社の鹿島祠と同じく、ここも先に要石があって、あとから鹿島神社が祭られたものであろう。
安政東海地震のとき清水港は、江尻宿とともに地震、津波、そして火災のため大きな被害を生じている。地震の12日後の安政元年11月16日にこの地を東行した伊勢神宮の御師(神官)安田賎勝はこの附近の地震被害について次のように記している。
「江尻(清水市中心街)までの村三分過ぎも潰れ居たり。江尻駅は出火もあり、(被害程度は)府中(静岡)に倍せり。(略)横須賀村より清見寺前まではさしたることなし。」
この文によると、横須賀(横砂)から興津の清見前まではほとんど無事であったことになるであろう。そして横砂は袖師村の一部分である。鹿島神社を含む袖師も、安政東海地震の震源地域の直上にあってしかも大きな被害を免れた数少ない地域の一つであった。
(6)静岡県榛原町下庄内鹿島の鹿島神社
ここの鹿島神社の御神体は石であって、往古津波のために打ち上げられたものである。明治三陸津波(1896)によって岩手県田野畑村羅賀の畑に打ち上げられた二個の津波石は有名であるが、駿河湾に面した静岡県榛原郡にも津波石があった。この神社はこの津波石を御神体にしたものである。この地方の豪族・勝間田氏による応安2年(1369)年の供養記録がある。また藤波家の系図に、先祖の藤波一政が正和年中(1312-1317)神主となったとの記録がある。少なくとも鎌倉時代の終わりの頃にはすでに、この鹿島神社はあったことになる。
ここには要石はないが、津波の記念物を神格化して鹿島を祭る行為には、すでにそのとき、鹿島が地震や津浪の神であるという普遍的な認識があったことを物語っている。
ところでこの神社の伝承にでてくる「津波石を運び揚げた大津波」は、いつの津波であるのか、いまのわれわれには特定することができない。未知の津波の一端をさぐりあてたものであろうか?それとも嘉保三年(1096)十一月24日の嘉保東海地震による津波であろうか。
注;嘉保東海地震。「後二条通記」に「駿河国解云去月二十四日大地震。仏神舎屋百姓四百余流失」とある。
(7)三重県青山町阿保字上川原大村神社
三重県青山町阿保は伊賀国の東部、伊賀上野盆地の東南端に当たっており、江戸時代は伊勢参宮の初瀬街道の宿場町で、いまは近鉄大阪線が通じている。
「三代実録」貞観5年(863)の上にすでに「伊賀国政六位上大村神」とみえ、「延喜式」にも記されていることから、すでに平安時代の初頭から存在した神社であることは確かである。嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疎」に「大村神二座、伊賀郡阿保郷」として、「春日同神、神護慶雲元年(767)、神常州より三笠山に遷座のとき、しばらく御休座の地なり」という割注が付されている。さらに貞亨四年(1684)成立の「伊水温故」には「武甕槌の神、神護慶雲元年六月二十一日常陸国鹿島を出、(途中経路略)それより当社大村社にとどまる」と書かれている。どういうわけか、遙か神代の時代の神が、歴史時代に旅をしている。こういうのはあまり深く追求してはいけないことになっているのであろうか?冗談はともかく、これらの記載が分祠の記事として正しいのならば、奈良時代の767年に、常陸国の鹿島から分祠された神であることになる。この伝承の時代の真偽はともかく、この神社が、鹿島神宮の分祠とされてきたことは事実であろう。
さらに、この神社には「要石」がある。
「拝殿の横手に「要石」と称する石があり、地震の守霊石とされる。じつは安政大地震(安政元年の安政伊賀地震〈1854年〉、同年の安政東海地震の5ヶ月前に起きた)以後重視されるようになった石であり、鹿島神宮の要石信仰と同じ系列の信仰対象である」と、「日本の神々」は記す。
本家常陸鹿島から100㎞をへだてて、鹿島の神、要石、地震霊験、常陸からの分祠伝承、そして安政伊賀地震の実績と、五つの要素の完全にそろった実例をここにみることができる。
要石、地震神の要素は、767年に分祠されたときから伝わっていたものではなく、後世になって伝わってきたものであろう。
(8)和歌山県南部(みなべ)町鹿島神社(図-3.5参照)
紀伊半島南西海岸沖の海域は、沖合いから北上して来るフィリピン海プレートが南海トラフのところで日本列島を載せるアジアプレートの下に沈みこむところである。沈む側のフィリピン海プレートの上面でのこすれにともなう巨大地震が、100年余りの周期で起きている。南海地震系列の巨大地震である。
この系列の巨大地震は有史以来すくなくとも9回起きたことが記録として残っている。江戸時代の初頭以降では、宝永4年(1707)、
安政元年(1854)、そして昭和21年(1946)の各南海地震が起きており、それぞれ記録が詳しく残されている。そのたびごとに、南部の東隣の田辺市、西隣の印南町や御坊市は大きな被害が生じた。しかし、鹿島神社のある南部町南部だけは、地震の揺れによっても津波によってもほとんど被害を生じなかった。
じつは南部の町の沖合いには「鹿島」という小さい島がある。
津波は島があるとこれにエネルギーが集中する傾向がある。その結果、南部の海岸にはこの島に津波のエネルギーを吸収してもらうことになり、背後の海岸では津波のエネルギーは相当緩和される。しかも南部の居住区域の地盤の高さは6mもあって、もともと、少々の津波では海水は浸水しないようになっているのである。
現代の津波の知識でもってすれば、南部でなぜ津波被害が小さかったかは、解釈が可能であるけれども、南部に住んだ人たちは歴代の地震津波のとき、両隣の町の大きな被害を聞き、しかも我が里だけが無事であるのを眼前にして、住民たちは鹿島の神の霊験をいよいよ確信したにちがいあるまい。
地震(なゐ)ゆれど 高波よせぬ この里は かしま神の ませばなりけり
安政東海地震の直後、かしまの神社をたたえるこのような和歌が残っている。
鹿島神社は今は町のなかにあるが、ほんらいは沖の島である「鹿島」が本体であったらしい。
天保年間(1830-1844)に記された「紀伊国続風土記」には、「鹿島明神社、島の中にあり、祀神は常陸鹿島と同じく武甕槌命なりといへり」とあるからである。
ここには「常陸鹿島と同じく」という句はあるが、この鹿島が常陸からの分祠である、とは書かれていない。またこの神社が発行している由緒書きをみても常陸からの分祠であるとは伝えられてはいない。「鹿島とあればいつでも常陸鹿島からの分祠に決まっている」と速断するのは危険である。島の名前が鹿島である以上、ここには常陸とは原初の由来を異にする別個の鹿島の神社があったとみられる。かえって逆に、常陸の鹿島より古い可能性もあろう。この点あとでもう一度論じることにしよう。要石はこの南部の鹿島にはない。
(9)熊本県八代郡竜王町の鹿島神社
常陸鹿島からはるばる西へ1,300㎞離れた九州熊本県に、地震霊験を説く鹿島の神があった。
やはり武甕槌の神と経津主の神が祭神である。そして境内には要石まである。この神社について竜北町の教育委員会から丁寧な次のようなお手紙を頂いた。
「要石はある。鹿島明神はなまずを踏みつけてござるから地震災害は起きないという言伝えがある。また一説には鹿島神社の要石は、常陸の鹿島神宮から分霊して鹿島に創建する際、力持ちの巨体の若者が持ってきたものである。当地から力士が出たときには、しこ名は必ず要石でなくてはならない」
ここには鹿島の神の要件である、要石と地震信仰がそろっている。そのうえ力士の命名の要素までつけ加わっている。さらに、ここの鹿島の神が常陸国から分祠されてきた年が明白に伝承されている。
「常陸からの分祠は人皇77代後白河天皇(在位、1155-1158)のよきで、保元2年(1157)11月15日に社殿落成した」という。鹿島の地名は天文12年(1543)の文書に現れるので、中世以降から存在した地名であることは傍証される。
以上、日本列島に9ヶ所、地震信仰をともなう鹿島・要石の所在が確認された。その所在は常陸鹿島から西方1,300㎞へだてた九州熊本平野に及ぶ。しかしながらその分布は、常陸鹿島からみて西方にのみ延びて、北方と日本海岸にはひとつも存在しない。また以上9ヶ所、一つ一つおのおの個性な特徴をもっている。地震神鹿島はいつ生じ、どう伝わって行ったのかを推定するには、以上に述べた特徴を無理なく説明できなくてはならないだろう。
その考察をするのには、じつは以上のデータだけを見ていたのでは重大な片手落ちがある。というのは、日本列島には、地震信仰を持たざる一群の鹿島もまた厳然と存在するからである。
注記:徳島県由岐町木岐の小坂元日堂の「地震次第」(新収・日本地震史料・第5巻別巻5-2、1850頁)の末尾に、鹿島と要石の和歌が載っている。
ゆるぐのに 四方や浮き地の 要石 鹿島の神の あらぬ限りは
ゆるぐのに なぜにおさえぬ 要石 かしまの神は 留守か寝たのか
これらの和歌は安政東海地震によって大きな被害を受けた海岸の被災記事の直後にでてくる。
大きな地震の被害にあって、鹿島の神、要石の効果がなかったことを「留守か寝たのか」と罵倒・叱責している。
この研究の当初、木岐附近に要石(と鹿島神社)が実在して、その霊験効果のなかったのをなじった和歌であると解釈していた。15㎞ほど西の海南町浅川には「加島」があり、あるいはこれをなじったものかとも考えてみた。しかし、木岐を含む由岐町全体にも要石や加島神社はなく、浅川のものは陸係島の「鹿島」という名の島であって、神社ではない。けっきょく、この海岸地方に実在する要石をなじったものではないと考えられる。この和歌の鹿島とは、常陸鹿島を元とする一般信仰としての鹿島なのであろう。江戸時代には、地震神としての鹿島の神は広く一般の常識となっていたのである。
3.5 地震信仰を伴わない鹿島
前項では地震信仰を伴う鹿島だけをみてきた。その結果、常陸鹿島から北方へは、地震信仰を持った鹿島は一つも現れないという、際だった特徴があることが分かった。それでは、北関東、東北地方には鹿島の神は伝わらなかったのだろうか。そんなことはない。図-3.1にも△印ですでに示したように、東北地方はじつは鹿島の神の濃厚に分布する地域なのである。福島県鹿島町、宮城県鹿島台町は地名にもなっており、北は青森県木造町にまで分布する。いまこれらの北の鹿島神社たちを含め全国の主な「地震神にあらざる鹿島神社」を表にして示しておく。
ふつう、東北地方の各地域の詳細が分かり始めるのは江戸時代の初期(17世紀)以降のことというのが常識とされる。東北地方の古代は、まず文書史料からは知られることが大変少ないのが一般である。その「常識」の目でみると、この表に現れた1,から11,での鹿島神社の伝来年代の古さは驚異的である。人によっては、全くの虚偽であるとかたずけるのが正しいとするむきもあろう。しかしながら、そうとは言い切れない史料がある。近畿朝廷の公式記録である六国史の一つ「三代実録」の次の記事である。
「貞観8年(865)年、鹿島神宮司言う、陸奥国に鹿島大神の苗裔神、三十八社あり。菊田郡1、岩城郡11、樟葉郡2、行方郡7、伊具郡1、亘理郡2、宮城郡3、黒河郡1、色麻郡3、志太郡1、小田郡1、雄鹿郡1なり。」
この記事にいう「鹿島大神の苗裔神」とは「鹿島神社の分祠、さらにそれから分かれた孫分祠の各神社」の意味であろう。この記事でみるとおり、9世紀後半には、すでに鹿島神宮の分祠が福島県と宮城県に數多く存在していたことが客観的に証明されるのである。してみると、表-3.1に見なれたような、一見異様に古い、東北地方の各鹿島神社の開基年代にも多く真実を反映したものとみなければならないであろう。
東北地方の鹿島神社だけではない。長野県大桑村の鹿島も、東京品川の鹿島も、開基年代は平安時代前半であると伝承している。つまり、意外なことに、地震神としての鹿島を祭る神社のほうが分祠年代がむしろ新しく、地震神の信仰を伴わない鹿島の神社方がむしろ分祠年代が古いことが判明するのである。
鹿島神宮の分祠が奈良時代まで(8世紀)にすでに行われていたことを証明する他の文献がある。8世紀前半に成立した「常陸国風土記」である。そのなかに行方郡の条に波須武野(現在麻生町小牧)の北の海岸沿いと、同郡堤賀の里(現在玉造町玉造)の二ヶ所に「香島の神子(みこ)の社」があったと記されている。これは同書に記された鹿島神宮(「風土記」の表記では「香島の天野大神」)の分祠を表現するとみて間違いあるまい。また同郡の鴨野(現在玉造町加茂)には香取神宮の分祠とみられる「香取の神子の社」があったと記されている。
これらの例からすると、八世紀前半以前には、後世のように鹿島神宮の分祠した神社も「鹿島神社」というのではなくて、分祠した社は「鹿島の神子(みこ)の神社」といっていた時代があったことになろう。ここで注目されるのは、宮城県石巻市の「鹿島御児神社」である(表-3.1)。われわれの目には一見異様に見える「御児」の2字が入っているのは、他の鹿島神社と異なり、この神社だけは8世紀以前の神社名を、約1,300年後の現代まで変えることなく、かたくなに守り続けてきたことを示すものではないだろうか。そして同時に、東北地方に散在するいくつかの「鹿島神社」が、その伝承のとおりに、奈良時代・平安時代前半という古代に常陸鹿島から分祠されてきたことを裏付けているのではないだろうか。
注記:ここで、常陸鹿島とは無関係とみられる鹿島のことにふれておく。人にも同名の別人ということがあるように、鹿島にも由来からして常陸鹿島とは原初から無関係とおもわれる例がある。
(a)愛知県豊明町沓掛の鹿島神社
延喜式に記載された古い神社であるが、延喜式の記載は「川島神社」である。
いつの時代にか「川島神社」が訛(なま)って「鹿島神社」に音が変化したのであろう。
(b)島根県三隅町冲の鹿島
町沖合いに「鹿島」という島がある。自然発生的に生じた島の名であろう。町内には鹿島神社はない。
(c)肥前鹿島
古代の非全国風土記には「杵島(きしま)」と書かれ、のち「かしま」と音が変化した。
ここで、とくに問題になるのは(b)の例である。日本には町の前面の海岸の沖合い(港口)にある島に神を祭る霊が非常に多い。三隅町の鹿島は神社が作られなかったが、もし作られたとしたら、その神社の名は、やはり「鹿島神社」と呼ばれることになろう。その場合、同姓同名の他人ならぬ、常陸鹿島と同名の異神(無関係な神)が生ずることとなろう。和歌山県南部の鹿島も、土佐国佐賀の鹿島も、一番原初の姿は島の名に由来するとみられる。この点後に詳述する。
3.6 鹿島の神の軌跡
前節までの議論にみてきたような、地震信仰ありの鹿島神社と、それのない鹿島神社の特徴ある分布を、必要にして十分に説明しうる合理的な「鹿島神社発展史」を描くことはできるであろうか。
「合理的な」のなかには「確立の非常に少ない偶然の状況を取り入れることを禁ずる」ということが含まれる。つまり次のような作業仮設(パラダイム)は落第である。
ダメな作業仮設の例:
「常陸鹿島はいつの時代からか地震の神となった。一方和歌山県南部の冲に「鹿島」という名の島があって、それにちなんで鹿島神社がつくられた。この由来の違う二つの「鹿島神社」がともに地震の神となったのは、偶然の一致である。」
→この仮設によれば、たしかに常陸鹿島神宮、和歌山県南部の鹿島神社の両方の現在の状態を説明することはできる。しかし、可能性の低い偶然が起きたことを前提の一つにしている以上、この仮設が多くの人に説得力を持たないのは明白であろう。「偶然の一致」を仮設の中に採用するような議論は客観性、普遍性を保持し得ないのである。統計学の有意水準の判定の考えも、確率の低い偶然がそこで起きたことを否定することに根拠を置いている。
3.6.1 「鹿島の神」の生い立ち
問題を鮮明にするために鹿島の生い立ちの原点にたち返って見よう。
現在全国各地に散らばるおもな鹿島の神の少なくとも半数以上は、自分たちの神社は常陸国(茨城県)鹿島郡鹿島町にいまも鎮座する茨城県「鹿島神社」の分祠であると伝えている。「風土記」や「三代実録」の記載にも、常陸鹿島は「大神」と書かれているうえに、古代から分祠のあった事実が記載されている。
このような状況で見る限り、鹿島の神の一番原初の姿は常陸国の神であったことを否定することはできない。非常に幸いなことに常陸国は古代の風土記が現在まで伝えられて残っている、五つの国の一つである。「風土記」とは、西暦713年に元明天皇の詔によって編纂された国別の地方誌で、各国の集落配置、地形、産物、伝承を記録したものである。風土記は出雲国、播磨国、肥前国、豊後国、そして常陸国の、この五ヶ国しか本文が伝わっていない。
「常陸国風土記」には、九州を舞台とした「古事記」、「日本書紀」の神話とは異なる、東国の神の世界が記されている。この書物が奇跡的に現在まで伝えられたために「鹿島の神」の8世紀前半の姿を、われわれは知ることができるのである。
その「常陸国風土記」の行方郡(霞ヶ浦の西海岸)の条のなかに、崇神天皇のとき、建貸間命(たけかしまのみこと)が遣わされ、霞ヶ浦の対岸に住んでいたヤサカシ、ヤツクシを長とする原住の人々(国栖〈クズ〉とよばれる)を平定したと書かれている。この平定はじつは「だまし討ち」である。すなわち、武装してこの地にはじめて侵入した建貸間命が、警戒して近寄ってこない国栖たちをおびき寄せるために、浜辺で7日間宴会を開いて踊りを踊った。国栖たちもいっしょに踊りだしたとき、突如彼らに襲いかかって牢に閉じ込め、火で焼き殺した、と書かれている。
このとき、建貸間命が征服した土地がのちの鹿島郡となる。してみると、「風土記」には明記されてはいないが、霞ヶ浦の東側太平洋との間の土地を「鹿島」と呼ぶようになったのは、字は大きく異なるが、「建貸間命」の名にちなむものであると推定される。してみると「鹿島神宮」の一番原初の姿は、建貸間命の征服の「業績」をたたえた記念物、ないしは建貸間命の支配の根拠とした宮殿だったのではないだろうか。(この項、昭和薬大の古田武彦氏の説を参照した)
このときはもちろん、鹿島神宮は、武甕槌神とも関係がなく地震神でもなかった。さらにいうと、「鹿島」ではなく「香島」と書かれていたはずである。「8世紀の「風土記」には「鹿島」とは書かれておらず、すべて「香島」の表記が用いられているからである。では、建貸間命が国栖の長をダマシ討ちしてこの地方を征服した時というと西暦でいうといつのことになるのであろうか?「風土記」の8世紀の前半からみて、「はるか昔」の「人皇10代の崇神天皇」のころ、なのである。西暦2、3世紀ころか。
3.6.2 8世紀前半の「香島神宮」
この時代は「風土記」の編纂時、つまり風土記のなかの「今」の時代である。大化5年(649)に南の下総海上郡と北の常陸国那賀郡の一部を併せて「神郡」を置いたとある。これが8世紀初めには、香島郡となる。すでにこのとき香島は「香島の天の大神」とよばれ、伊勢神宮にも比すべき大きな神社となっていた。それには相当の理由はあるのだろうが今はよく分からない。持統天皇の4年(690)、はじめて神宮を作ったとあり、このときから香島は神宮と呼ばれるようになった。
意外なことに「風土記」には香島の祭神の名は書かれていない。武甕槌が祭神だとは「風土記」には書かれていないのである。この神那覇古事記に現れる(付記参照)。この神は元来は香島とは何の関係もなかったのであろう。近畿天皇家を含む倭族の直接支配が常陸にまで及んだ後の時代に、倭族の神話のなかの登場人物の一人として割り当てられ、当てがわれたのであろう。
元来九州の海辺の女性であった「木花咲耶姫」が富士浅間神社の祭神とされたのも、同じ所行であろう。新支配地にたいする倭族がわからの精神的文化的同化政策であろう。日本も第2次大戦前、ソウルやタイペイに神道の神社を作った。
ともかく、風土記の時代、8世紀初頭はまだ常陸香島はこのような文化的汚染を受ける前であった。つまり香島に倭族の神が割り当てられるという行為がなされる前であった。ではこのときの祭神の名は?言うまでもない、「香島の大神」そのものである。「建貸間命」が死後神となり、さらに「大神」に発展したものであろう。
「風土記」はまた香島の神が地震神であるとも書いていない。8世紀初頭になっても、香島神社はまだ依然として地震神としての性格を持っていなかったのである。
付記「古事記」の中の武甕槌の神
「古事記」には3人の「カケミカヅチ」の神(人)が現れる。
一人はイザナギが火の神(カグツチの神)を産んで死んだのを悼んだイザナミが、その火の神を刀で首をはねたとき、血が「湯津石村」に滴り落ちて成った神の一人で、「建御雷之男神」と書く。この神はまた名を「タケフツの神(建布津神)」とも「トヨフツの神(豊布津神)」ともいう(A、とする)。
二人目は「伊都の尾羽張」の子で「建御雷(之男)神」と書く。出雲国を含む西日本とおぼしき「芦原中国」を支配していた大国主にたいして天照大神側がそこの支配権の譲り渡しを強要して、その先行交渉にあたった神である。大国主側の交渉相手であった建御名方神の腕を折り、さらに諏訪湖まで追いかけ回して殺そうとしたという、はなはだ乱暴な神である。倭族がわの膨張政策の先兵を務めた武闘派の神ということになろう(Bとする)。
もう一人は、大和三輪山の祭神・大物主の子孫で崇神天皇の条に河内の美務の住人・意富多々泥古の父とされる「建甕槌命」である(Cとする)。
この三人は名の発音は同じと考えられるが、出生のいきさつや行動、時層が異なるので同名の異なる神(人)とみなすべきものであろう。
鹿島の祭神は文字だけはCに一致するが、神としての実態はAであるとすべきであろう。その理由を書こう。
まず、Cは神ではなく、神官を勤めた現実の人物名である。Bは行動が具体的すぎる上、行動範囲は明らかに諏訪湖を東限としていて常陸に結び付かない。香島の祭神である武甕槌がAと等置すべしとする理由を2つ補足しよう。
Aのタケミカズチは、「タケフツの神」の異名をもっている。「タケ」は勇敢なという形容詞であるから実態は「フツの神」であろう。鹿島神社には「武甕槌」と「フツヌシ(経津主)神」を共に祭った例が多い。またAは「湯津石村」という「石」の国で生じたとされており、「要石の神」としてふさわしい。
さらに別の考え方として、この3者のすべてと無関係な第4の「タケミカズチ」である可能性もある。「武甕槌」は「ヘレン」、「マリア」などとおなじように神話の神の名にも、現実の人名にも使われうる、ありふれた名前だったのであろう。
3.6.3 香島(鹿島)神社はいつから地震神になった?
香島は8世紀以降、しきりに全国に分祠を送りだし始める。一部はすでに「風土記」に書かれている。そして東北地方に数多くある鹿島神社もま11世紀までに常陸から分祠されたものという伝承を持っている。その分祠に「香島」と書かれるものがないことからみれば、「風土記」時代の直後、字が「鹿島」に変わったものと推定される。また、武甕槌の神が鹿島の祭神とされるようになったのもこのころであろう。三重県青山町の大村神社の伝承にしたがうならば、神護景雲元年767年には常陸鹿島は武甕槌を祭神としている。つまり常陸鹿島の祭神として武甕槌が割り当てられたのは、「風土記」編纂の始まった713年以後、767年までの54年間のいずれかの年であるということになろう。
そして11世紀までに分祠されたとみられる鹿島神社はどれも地震信仰を持っていない。常陸の鹿島神宮はいつから地震神になったのだろう?表-3.1によれば、平安時代前期の貞観6年(864)以前、あるいは品川鹿島神社の伝承を重視するなら969年が地震信仰を持たない鹿島の分祠の下限とみられよう。
一方、3.4節にのべたように、地震信仰を伴って分祠した鹿島神社の最も古いものは熊本県竜王町の鹿島神社であって、その分祠年は1157年である。つまり全国に散らばる鹿島神社は、少数の例外を除けば864年、あるいは969年までに分祠したものには地震信仰が含まれておらず、1157年以降に分祠したものには地震信仰が含まれていることになる。さらに前述の「伊勢暦」は建久2年(1198年)に常陸鹿島はすでに地震信仰をもっていたことを確認する材料となる。
してみると、本家の常陸鹿島が地震神としての性格を備えたのは864年、あるいは969年以後、1157年までの間である、ということになるであろう。
表-3.2による限り、長久2年(1042)12月22日の地震が年代的にもっとも合致しているようにみえる。あるいは、われわれの知らない大地震が歴史の闇に埋もれている可能性もある。近年、住居遺跡に残る砂の流動の痕跡から地震が実証される例が増えてきた。この方面の研究の進展を期待したい。
3.6.4 常陸鹿島はなぜ地震神になった?
それでは、どういういきさつから常陸鹿島神宮は地震神になったのだろうか?これについて直接立証する手がかりとなる史料は全くない。しかし、まったくかわったことが何もないのに、ある日突然神官たちの討論合意の結果「鹿島の神が地震にも霊験があることにしましょう」と決まった、などということは考えにくい。常陸鹿島を含む関東地方に大きな地震があって、この地方も大きな被害が出た中で、鹿島神宮とその周辺だけが助かったということが起きたため、鹿島神宮が地震に霊験があると自然に考えられるようになった、とみるべきであろう。その地震を特定することはできるであろうか?
西暦864年から1157年の間で、関東地方におきた大きな地震はあるだろうか。平安時代の後半は、地震史料の「暗黒時代」で、現在にまで地震記録の残りにくい時期に当たっている。京都の朝廷で古代から書き継がれた「六国史」の日記体の綿密な記録は、西暦887年の「三代実録」の時代の終了とともに終わりを告げる。
貞観年代から1157年までに関東地方に地震が起きた例で、われわれが知っているのは表-3.2に挙げた3例のみである。
3.7 残った問題
常陸鹿島神宮はおよそ西暦969年から1157年までの間に地震神としての性格を身につけたことが前節の議論で立証された。そうなってみると、3.4節、および表-3.1に挙げた個々の鹿島神社について議論しておかなければならないことがでてくる。
3.7.1 土佐清水、土佐佐賀の鹿島神社
表-3.1によると土佐清水市の鹿島神社は文明年間(1469-87)に常陸鹿島から分祠されたという伝承をもっている。つまり、常陸鹿島神社が地震神となった後に分祠されたことになる。
しかるに土佐清水の鹿島神社は現在、地震神の信仰を伴っていない。これはなぜであろうか?
じつは、この鹿島神社は1707年の宝永地震津波に社殿が一度流失し、また昭和21年の南海地震で大きな被害にあっているのである。いかに鹿島神社が地震や津波に霊験ありと宣伝されていたとしても、その神社自身が津波で流失するようなことがあれば、たちまち人々の信用を失ってしまうであろう。神官自身、気がとがめてそれ以後は地震神としての霊験を説かなくなる、というのが自然であろう。土佐佐賀もまた宝永津波に一村流失している(「谷陵記」に「亡所」)。このようなことから、土佐の2ヶ所の鹿島の地震霊験の信仰は津波とともに失われてしまったのではないだろうか。
3.7.2 「鹿島」という地名が常陸鹿島とは無関係に太古から存在するケース
和歌山県南部の鹿島神社、高知県佐賀の鹿島神社は、それぞれ南部、佐賀の集落の沖合いに現実に「鹿島」という名の島がある(図-3.6参照)。ことに南部の鹿島は島に鹿がすんでいたことにちなむという。不合理な「偶然の一致」という議論を拒否するとすれば、これはどのように説明されるべきであろうか?
そもそも、島の名前に「鹿」がいるから「鹿島」だという命名法はさほど珍しいことではあるまい。島根県三隅町の鹿島、徳島県海南町の加島(古名は鹿島)もこのような自然発生の地名としての「鹿島」であろう。兎島、馬島、猿島、蛇島、鳥島、など動物名にちなんだ同様の自然地名が日本列島には多数存在する。また「仮名文字1字+島」という島名(利島、豊島、千島、杵島、児島、伊島、猿島〈さしま〉、沼島〈ぬしま〉、野島、屋島、湯島〈ゆしま〉、三島、手島、渡島〈おしま〉)も、日本列島全体に広く存在して、かな文字全部が揃うのではないかと思われるほどである。してみると「鹿島」という自然発生の島名(あるいは内陸地名)が日本列島にいくつかあってもさほど不思議なことではない。
さて、眼前の神の沖合いに自然地名から発した「鹿島」をもつ海岸の村のひとたちは、天下に著名な常陸鹿島の神に無関心でありつづけるだろうか?同名であることを奇縁として、この天下に著名の神を招請分祠した、ということはないであろうか。土佐佐賀の鹿島神社はまさにこのケースで、もともと「鹿島」という島があったところへ、その名前にちなんで常陸鹿島から神が招請されたものであろう。島根県三隅町と徳島県海南町にも鹿島(今は加島と書く)は信仰に結び付かず、神が招請されなかったケースであろう。
和歌山県南部の鹿島神社は常陸からの分祠を伝えていないことから、神社の発足は常陸鹿島とは独立的であった可能性がある。しかし、祭神が武甕槌であること、地震神の信仰をもっていることから、常陸鹿島の信仰の影響が平安後期から鎌倉南北朝時代のいずれかの時代にこの地に及んだことは事実であろう。
さらに九州熊本県竜王町の鹿島神社も自然発生地名である可能性がある。鹿島集落は、北西隣の「鹿地」と南東隣の「島野」の集落の間にある。双方に住む人が中間の土地を開拓して新たに1字ずつとった「鹿島」の新集落が形成された、とは考えられないだろうか。
3.7.3 地震信仰を伴う鹿島神社のある土地はなぜ本当に地震、津波に安全な土地なのであろうか?
さて、静岡県袖師の鹿島神社にしろ、和歌山県南部の鹿島神社にしろ、現代科学の眼で、地質調査、N値分布、地下水位などの指標をみても、また津波の伝播図を見ても地震や津浪の被害が大幅に少なくなる条件をそなえた場所に存在している。そして現実に歴史上の大地震のときに、周辺の町村に大被害がでているのに、地震信仰をもつ鹿島神社のいる村だけは非常に軽い被害にとどまっている。このようなことになったのは、なぜであろうか?
鹿島神宮の分祠を造った先人たちが、すでにその土地が経験的に地震に強い土地であることを知っていたため、ということがまず考えられる。その場所は清水市袖師にしろ、山梨県石の森にしろ、岩盤が表面に頭を出した土地で、地震に強い土地であることが先人にも見抜かれていたケースであろう。要石先行型の、沼津市原、三重県青山の要石もこのケースであろう。経験のなかには、過去の地震被災経験の知識もあるだろう。われわれは、明応東海地震(1498)が安政東海地震(1854)によくにた震度分布を示した。駿河湾内部にまで震源域の及んだ巨大地震であったことを知っている。しかし、明応地震のとき沼津市原や清水市袖師が周辺より無事であったかどうかまでは、発生年代が古いだけに古文書史料の知識からは知ることができない。しかし、沼津市原の要石神社が造られた寛永年間には、案外、それから130年前の明応地震の被害分布が今より詳しく伝承されていて、原が地震に安全な土地であることが明応地震の経験として知られていた可能性がある。地震信仰をもつ鹿島神社、要石は今後も見つかるかも知れないが、その多くはこのケースとして説明しうるであろう。
このようなことでは、説明できないのが和歌山県南部の鹿島神社である。ここは地震・津波に強い土地であることがあらかじめ分かっていたから鹿島神社が造られたのではない。沖合いに「鹿島」という名の島があったから鹿島神社ができたのである。では、そこが本当に地震に強い土地であったのはやはり偶然とみとめるべきではないのか?
私(=都司)にもこの偶然は謎であった。降参して「偶然説」を受け入れざるを得ないのではないか、という考えに傾きかけたとき、次に述べる「淘汰説」が頭にひらめいた。
3.7.4 鹿島神社淘汰説
問題点を整理してみよう。常陸の鹿島ははるか古(いにしえ)の「建貸間命」にちなむ名であった。それが平安時代の1157年までに地震信仰を付け加えるに至った。いっぽう和歌山県南部の鹿島は、自然地名(島名)である「鹿島」に由来し、常陸鹿島と無関係に同名の異神を土着神として信仰することとなった。「鹿島」という地名は「ありそうな名前」であるだけに日本列島全体を隈なく捜せば複数個見つかっても偶然でも軌跡でもない。
いっぽう、南部が地震にも津波にも「強い」土地であることは、現代は科学的に説明することができる。宝永以前の地震にもこの土地がいつも助かっていた、という知識が蓄積されて、ここの鹿島の神が地震信仰を持つに至ったことも自然の成り行きと言えよう。
さて、そうすると問題は、ともに自然発生的に同じ「鹿島」の名前を持つに至った常陸と南部が、両方とも地震に「強い」土地だったとしたら、これは「偶然」であることを認めるべきではないのか?………この見解を合理的に否定できないと、科学的な立場とは言えまい。
そもそも、どの街角にでも見掛けることのできる小さな神社まで含めたら、日本列島には無数に鹿島神社があることになろう。ほんの一例だが、たとえば千葉県佐倉市域に3ヶ所の鹿島神社がある。鹿島神社は東北地方にとくに濃密に分布する。表-3.1は各地域に代表的な「大きな」神社のリストから作ったもので、文字どおりすべての鹿島神社をリストアップしたら、表-3.1はその何十倍、何百倍にもなるであろう。「日本列島には小字の数ほど神社があり、その2%前後が鹿島神社」というのが現実に近いであろう(東北地方はこれより高率になる)。岩手県だけども小字の数は約15,000もある。岩手県にあるすべての鹿島神社をすべてプロットしたら、岩手県は鹿島神社で埋めつくされるであろう。その大部分は、その地方の大きな鹿島神社からの再分祠、再々分祠である。つまり、常陸鹿島から見れば孫かひ孫にあたる分祠である。
さて、そのような星の数ほどある鹿島神社の分布するある地域に、被害を伴う地震が起きたとしよう。そのなかに、地盤が良くて被害の軽く済んだ地域と、重い被害を生じた地域、そして津波被害が軽く済んだ地域と、ひどく被害を受けた地域とがあったであろう。その時代の人々に「鹿島は地震に霊験ある神」の通念が普及していれば、被害が軽かった地域の鹿島神社は、改めて「地震の霊験は本当だった」とより信仰を多く集めるようになるであろう。逆に、地震津波被害の大きかった地域の鹿島神社は、(ことにその鹿島神社の建物自身が大きな被害にあったような場合には、)その地方に住む人々から地震の霊験を否定されるようになるであろう。場合によってはそこの鹿島神社それ自体が廃されるであろう。日頃地震に効ありの宣伝をたくさんして
いた神社ほど、現実の地震で被害を受けたときの信用失墜は大きいであろう。
このようなことを繰り返して長い年月がたてば、結果的に、星の数ほどあった鹿島神社は淘汰されて、本当に地震や津波に強い土地にある鹿島神社だけが生き残るのではないだろうか。
そして、和歌山県南部という、科学的にみても地震、津波に強いことが実証できる場所に今、われわれはこのような形で淘汰されて生き残った鹿島神社を見ているのではないだろうか。
この仮設によると、かって、紀伊半島海岸の400㎞にもおよぶ長い海岸線の上にはきら星のごとく、きわめてありふれて鹿島神社があった。その大部分は歴代の東海地震、南海地震に遭って大きな地震津波被害が起きるたびごとに信用を失墜して消えてなくなってしまたのだ、ということになる。
このような「作業仮設」を受け入れたとして、もう一度図-3.1の全国の鹿島神社の分布を見てみよう。われわれは次のようなことに気付かないだろうか?つまり、鹿島神社をいちばん「ほしがっている」、あるいは「必要としている」地域にはかえって鹿島神社は少ない、という事実である。「必要としている」地域とはどこであろう。当然、幾度もの三陸津波で多くの人命を失った三陸海岸、関東震災型の巨大地震に幾度もみまわれた神奈川県と静岡県御殿場地方、東海地震の被害のでやすい静岡県天竜川下流域、東海・南海地震の津波の被害を被ってきた、紀伊半島、四国南岸の海岸地方などであろう。しかるにこれらの場所にはほとんど有力な「鹿島神社」は存在していないのである。これはいったいなぜであろうか?
三陸海岸に津浪の霊験のある鹿島神社が分祠されてきて「この神は津波に霊験あり」と宣伝したら、きっとその神社は大繁盛すること請け合いである。いうまでもない。津波はこの海岸に住む人たちにとって最大の感心事だからである。しかし、自然はそう甘くない。本当に大津波がきて神社もろとも流失の大被害にあったとしたら、それ以後はもう人々をだますことはできない。
神社は早晩廃滅させられるであろう。周期が180年とも、もっと長いともいわれる南関東地震の本場である神奈川県の平野部に著名な鹿島神社がないのも、これで理解できないだろうか。
土佐清水市の鹿島神社は宝永津波に流失した。この鹿島神社が地震や津波の霊験が説けるわけがない。土佐清水の鹿島神社は地震の霊験を売り込まなかったことによって、かえって今日まで生き延びることができたのであろう。
このことを思えば、自然の厳しい試練をいく年も経て、なおかつ実効ある地震霊験を示してきた鹿島神社の存在は、きわめて貴重な先人の経験知識の結晶とも言うことができるであろう。ことに、南部鹿島神社こそは先人の長い経験の蓄積が生み出した「災害多発地帯」のなかの災害文化の花、といえるであろう。
3.8 おわりに
各地方の歴史地震災害史料を市町村誌によって調査するとき、筆者は「災害」の章だけではなく、かならず「寺院・神社」の項目に目を通す。寺院・神社は長い年月にわたる自分の建物の興亡を記憶するからである。一つの市町村内の各小字のどこが被災したかは、寺院神社の章を見たほうが詳しく把握できる場合がある。そういうわけで、筆者は全国の町村誌の寺院神社の由来変遷の記事を多く読破した。その経験から神社霊験で、地震・津波にかんするもので系統的なものは、ほぼ鹿島信仰のみである、といえる。そのほか個別なものが3、4種あるが(付録参照)普及に広がりのあるものは鹿島のみであった。日本列島には地震の神の種類は、鹿島信仰以外はきわめて限られているのである。
付記:鹿島以外の地震津波信仰
図-3.1には鹿島神社以外の地震津波信仰をも一部プロットしておいた。系統的なものは少ないがここに参考として記しておこう。
(1)「経塚」信仰
一種の「まじない」に類するものであって神への信仰からははずれるが、「経塚」について記して置こう。地震避けのまじないとして「きょうづか、きょうづか」と唱えるとよいという信仰がある。雷にたいする「くわばら、くわばら」と同じようなものである。
奈良県橿原市今井八幡神社内に経塚があり、どんな地震でもこの経塚だけは遙れないと伝承されている。この呪文はここに伝わる伝承である。
徳島県木沢村坂州の宮の窪にある倭武神社の境内にやはり経塚がある。ここでは昔から経塚の地点だけは地震の遙れを感じない安全地帶であるという言伝えがある。1854年の安政南海地震のとき、付近の寺谷の住民は、ここへ避難して難を免れた。
経を書写した紙を金属筒(経筒)に封じたものが、古墳様の塚から出た場合、その後はしばしば経塚と命名され、全国に数多く例がみられる。その経塚が地震のときに遙れないという言伝えは、いまのところ、この2例が見つかっているに過ぎない。経塚信仰の全体像の研究は将来の課題としよう。
(2)平塚八幡神社
神奈川県平塚市の平塚八幡神社には、仁徳天皇の68年(日本書紀の天皇伝記を信ずれば西暦380年にあたるが、西暦換算は無意味)に武蔵相模の地に地震があり、山崩潰し、人家倒滅するもの少なからず、と云え、それがもとで天皇の支援によってこの神社が開基したという伝承がある。年代はとうてい信頼できないが、古い時代の南関東地震の記憶を伝える伝承として尊重すべきであろう。ただし、ここで信仰すれば、地震の霊験がえられる、とは説かれていない。
(3)沼津市下香貫字牛臥の大朝神社
「延喜式」に記されているので西暦927年までに存在していたことは確実。「沼津市誌」、「駿東郡誌」などによると、昔この神社は潮留神社と言ったことがある。寛治年間(1087ー1094)のころ、この神社のあたりまで海であった。このころ大きな津波がきて、人家が多数破損した。そこでひとびとは潮留明神として津波の難を免れるように祈?をした。文永年中(1264ー1275)日蓮がここにきて、この神社の松ノ木に曼荼羅を掛け祈?をした。その霊験によってこの地には津波は来なくなった。いま「曼荼羅が原」の地名が残る。この伝承による大きな津波とは永長元年(1096)11月24日の永長東海地震による津波であろう(榛原町の鹿島神社の項参照)。
この例は、この神社の単独の津波信仰である。またここでは信仰が神仏混交している。
(4)徳島県那賀郡那賀川町今津浦の沖石権現
紀伊水道に面した徳島県那賀川町今津浦に「沖石権現」という神社がある。ここは昔から沖石権現が守っているので津波は来ない、という伝承がある。じっさい、安政南海地震(1854)の津波もこの海岸では浜の松原まで達しただけで無事であった。また津波や高潮の前には権現神がほら貝を吹いて知らせる、と伝えられている。
この信仰もこの神社だけの単独信仰である。
引用文献
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第4章 津波災害文化の有効性と限界性 五十嵐之雄
4.1 序
本章では、東北地方三陸沿岸の地域社会における津波災害を機に発生し、それとかかわりあいながら存続している災害文化に関するフィールドワークの結果から導き出されたいくつかの知見を報告している。
東北地方の三陸海岸では、歴史的に明らかな限りで千年近くの年月の間に10回以上もの死者を出す大津波が発生している。ここ百年間を取ってみても、明治29年の明治三陸大津波、昭和8年の昭和三陸大津波、昭和35年のチリ地震大津波、昭和43年の十勝沖地震津波などの大津波が記録されている。これらの津波よりも小規模の津波の数はかなり多く、例えば岩手県下閉伊郡田老町の津波年表では、過去三百六十年に24回も津波が襲来したと記録されているほどである。
三陸地方ではよく津波周期説が流布しているが、田老町のように三百六十年の間に歴史的津波ともいうべき大津波が九回も来襲すると、単純平均で四十年間隔で津波が来襲していることになり津波襲来四十年周期説が成り立つのはこのへんの事情からであろうと推察される。
とにかく、三陸海岸の地域社会の居住民にしてみると、一生涯に一度は必ず津波を経験し、それによって手痛い被害を受けるだけでなく、不運なことに、二度ないし三度の津波経験をする場合も生じてくる。現にわれわれの調査でも、明治29年、昭和8年、昭和35年(この間64年間)の三度の津波経験者が、少数であるが必ず対象者に含まれており、昭和8年と昭和35年(この間27年間)の二度の大津波の経験者はかなり含まれていたのである。津波の経験者ではなく、そこに住む地域社会には、複数人の複合的な津波経験や知識また情報が集積され堆積される。そしてそれは家族を媒介としてより若い世代に伝えられることになる。
われわれは以上のような津波災害頻発地に発生し、世代を通して伝承される津波災害に対する考え方、態度や行動の様式など主として行動文化を津波災害文化と呼ぶ。本来ならより正確には、津波災害を極小化するために世代から世代へまた集団から集団へ伝達していく知識、スキル、情報などであるから、むしろ津波防災文化と呼んだ方がよいのかもしれない。
いずれにしてもこの種の文化には今あげた側面だけが含まれるのではない。文化一般がそうであるように、技術的分野、精神的分野そして行動的分野の三分野それぞれと三分野の重複分野全般を含めてわれわれは津波災害文化あるいは津波防災分野とよばなければならない。
津波現象についての技術的分野は防波堤・防潮堤あるいは河川岸壁ないしは防災情報設備などの計画や設置に関する分野であり、直接津波現象の防災設備に関する技術とかスキルである。地震の予知体制とか津波予測システム形成とか、被害地独自の避難し易い市街地づくりなどもこの分野に入れてよいだろう。
第二の精神的あるいは観念的津波災害文化の分野にわれわれは、そもそも災害とは何であり、それをどうとらえるかなどについての観念形態を指すものと想定してよいだろう。
自然現象はわれわれの意思や観念とはまったく独立して生起するものであるが、それが発生して人間個人、集団、地域社会などに影響を及ぼす以上、人間がわが事にその災害を引きよせて物事を考えるのは当然である。一例として関東大震災の後の「天譴説」をあげておこう。清水幾太郎(注1)はその風潮を分析しているが、自然災害が天のとがめであるーしかし、本来天譴は、天の支配者への天罰であって、被支配者へのとがめではなかったーという観念は、その災害の発生した社会状況を背景としたひとつの精神文化であると想定される。
以上の二つの文化概念に対して、行動文化としての文化概念がある。すなわち、日常的なわれわれの行動様式一般を文化としてとうえる考え方である。われわれの災害文化論は主として第三番目の内容の行動文化的側面を扱う。津波が頻発し、時として肉親や親戚、友人、隣人、などの死者や負傷者を出し、家財や生産財を流失し、また家屋浸水とか家屋の流失・倒壊・半壊などの被害が頻発すると、その地域では他地域には見られない、津波防災の独自の態度・行動様式が形成され、かつ継承されていくことになる。また、技術的な分野についての地域住民の防災体制への評価意識とか、町の中長期の防災体制に対する住民要望のあり方なども、長年の津波災害によって形成された行動文化の一側面といってよいだろう。更に、津波災害に関する一般住民のための「防災のための教育」(注2)の内容とかその改善の方法なども広義では災害文化の行動文化の一環をなすものであろう。このような行動文化は地域住民の防災行動を拘束し、それに従うことを要求する。
われわれのフィールドワークは主として津波災害に対して現出するこのような一連の態度とか行動様式を中心にして把握しようとしている。従って、取り扱われている大半は津波現象に直面してとられた行動そのものではない。そうゆう行動をとるかもしれないという地域住民の態度ないしは、オリエンテーションが問題となっているのである。具体的な行動として顕在化するには、現実的な諸条件が加わってくる。そして必ずしも意図通りの顕在的行動を結果としてうまないことがありうる。現実的には、意図された通りの行動にならないところに、津波災害時の現実行動と意図のズレが生じる。現地で防災対策を担う各防災対策会議が、防災体制の整備を行うに当たって苦慮していることの一つはこの地域住民の防災に対する意識あるいは態度とありうる現実行動のズレなのである。さて、このように災害文化の定義を施した場合に、この災害文化を規定するいろいろな条件が問題となってくる。津波災害文化といっても、津波の襲来する沿岸部の地形的・地勢的・地層的・地理的条件とか防災条件などによって津波の及ぼす影響は大きく異なってくるのである。三陸地方一つ一つをとっても海岸線が200㎞もあり湾の刻み具合でそれぞれ津波災害のあり方が異なるのだから、三陸沿岸と日本海岸とではさらに津波災害の現れ方が異なってくる。従って、そこで発生し育成される災害(防災)文化も異なった様相をしめしてくるのである。これが東北三陸地方と紀伊半島地方ということになれば、さらに災害(防災)文化の様態は違ってくるはずなのである。その意味で、本章ではとにかく三陸地方に発生し、そこで伝達されてきた津波災害(防災)文化に着目することにしたいのである。
4.2 津波災害文化とは何か
初めに、災害とは何かについて定義をしておこう。災害という現象はいろいろな局面を持っているから、これを定義するとなると、多様な側面からの定義が可能となる。そこで、われわれとしてはそのうちのひとつを、B.ラフアエルから引用して使用したい。
「専門用語としての『災害』は、個人や社会の対応能力を超えた不可抗力的な出来事や状況、さらに少なくとも一時的には、個人や社会の機能に重大な崩壊状態をもたらすものという意味で使われている。」(注3)このような災害は色々な視角から分類されるが、B.ラフアエルは、「災害が人間の経験の中にどのように取り込まれるのか」という観点から、疫病災害、自然災害、人為災害などを分類しているが、災害がこのうちのどれかに分類されるだけでなく、複合的な災害もある。
これら災害は個々の人間や地域社会的な規模での影響を及ぼすか、かかる災害の頻発発生によって災害サブカルチャーが成立する。災害サブカルチャーとは「災害の脅威と衝撃の繰り返しに反応して生まれた目的観、価値観、規範、組織、技術などの複合的集合体」と定義されるが、われわれが、災害文化と呼ぶものとB.ラフアエルの災害サブカルチュアとは同じ内容をさしていると思われる。B.ラフアエルは、さらに、「災害サブカルチャーには、災害への対応の仕方、災害死の在り方と原因、将来への備え方などについて、その集団の精神的傾向が強く現れ、(中略)、将来起こりうる災害に対する社会と個人の意識と対応の在り方に影響を与えるという点で重要である。ある種の災害を過去に経験していると、それが将来への適切な備えに役立つし、過去の災害に有効だったことが、恒常的なシステムに組み込まれることもあろう。また特定の災害にだけ望ましい対応ができるというのではなく、ほかの災害にも通用する一般的な準備態勢を助長することにもなりうる。」(注4)
はたして、津波災害文化というサブカルチャーの考察が「ほかの災害にも通用する一般的な準備態勢」を助長することになりうるかどうかは疑わしい。先ずは津波災害一般に通用する準備態勢を助長することになればかなり有用な検討であるといってよいのではなかろうか。
本章はフィールドワークの結果をふまえていると述べたが、これまで実施してきたフィールドワークの調査地点とそこで実施された実査の調査内容を簡単に紹介しておくことにする。
調査地は、岩手県下閉伊郡田老町、岩手県大船渡市、宮城県本吉郡志津川町、唐桑町である。
太平洋側南三陸を中心に昭和60年から平成4年にかけて実査した。
実査内容としては、主として、災害文化についての住民意識項目であったが、詳しくは1)地域社会に伝承されている津波前兆現象についての伝聞度とそれに対する信頼度、2)津波情報伝達についての諸側面、3)まちの津波防災の個別設備に対する評価、4)まちの津波防災体制の全般的評価、5)津波観、津波イメージ、6)防災情報ネットワーク、7)津波災害をめぐる住民のコミュニケーション状況、8)防災教育、ーー家庭教育、社会教育、学校教育、などであった。これらの内容の調査を一地区ですべて網羅的に全て実施したわけではない。
しかし、志津川町では三度調査したのでほとんどすべての項目をカバーしえた。なお以上の三陸地方での実査結果と比較対照するために、日本海中部地震津波の経験地である秋田県男鹿市の三地点でも平成二年に実査を行った。(注5)
今回は主として、三陸沿岸の津波災害(防災)文化を中心に、実査結果を報告するにとどめたい。
4.3 災害文化のコミュニケーション機能
行動文化の特徴として、通常、伝達可能性、学習可能性そして分有可能性があげられる。すなわち、たった一人だけの災害対応経験だけでは、われわれは災害「文化」とはよばないのである。
文化内容が集団から集団へ、また、世代から世代へと伝達されること、また、その成員がそれを学習して、共通に分けもつことが可能であることが必要なのである。そしてその文化が個人に内在化することによって個人の行動にある程度の制約・高速を与える結果が生ずるのである。このことは文化のコミュニケーション的側面にかかわることであり、災害文化は従ってそのコミュニケーション的側面からアプローチされることが必要なのである。そこでわれわれは、津波災害のコミュニケーション的側面のいくつかについて調査結果を検討することにしたい。
1)災害項目の伝承をめぐって
社会的コミュニケーションにはいくつかの機能がある。そのコミュニケーションが作動することによって、ある地域社会なりそこに居住する個人の生活体系の安定性が維持され、さらなる展開が保証されるという結果がもたらされるのである。
津波災害文化にもそういう側面がある。何百年という年月の中で度重なる痛烈な被害をうけることで地域と地域住民は津波災害についてそれなりの知恵を深め、それを後代に伝承してその地域社会と住民の生活の安定や活動に貢献する結果をもたらすのである。
われわれの調査では、各地で、津波災害にまつわる伝承について地域住民がそのことを聞いたことがあるかという質問とあなたはそれを信じるかという質問を尋ねてみた。前者を伝聞度、後者を信頼度として示すと、それは表-4.1のようである。
云い伝えの類は表-4.1に示してある項目につきるわけではない。例えば、「青葉の頃津波はない」、「津波は節句の時に来る」、「寒い時には津波は来ない」、「晴れた日には津波は来ない」などの項目も曽っては流布していたが現在ではあまり聞かれなくなったし、それを信じる者もいなくなった。
表-4.1から明らかなように、男鹿の場合を除いて、三陸海岸での伝聞度が85%以上、そして信頼度60%以上と伝聞度、信頼度ともに比率の高いのが、大きな地震と津波襲来の関係を示す云い伝えである。これは三陸沿岸には一般的に流布しているようだが、津波襲来前の地震の様態を表現する修飾語はさまざまである。われわれのこれまでの聴き取り調査とか質問票の自由解答欄では「あまり大きくなかったが長かった」、「一日中小さい地震があった」、「大きな地震」、「強い地震」、「地震強くて立てず、棚から物が落ちた」、「地震でバイクが倒れた」、「初めて経験する大きな地震」、「一回目の地震より二回目のゆり返しが大きかった」、「長くモクモクと揺れた」、「震度は強く感じなかったが、何回も地震があった」「立ち揺れの地震」、「大きな地震、立ちゆれがあった」、「震源地の近い地震は上下運動で揺れる」、「津波は一回目の地震では来ない。必ずゆり返しがあってから来る、」などである。東北大学の中村左衛門太郎教授(注6)は、地震がゆるやかでも長い時は津波と知れと指摘されているまた、花輪莞爾は「たとえば三陸海岸に三十メートルもの、史上最大級の大津波をもたらした明治二十九年の地震、「稻むらの火」の地震も、めまいのようなゆんわりした揺れだったという」(注7)と記述している。そして地震の揺れの激しさと津波の大きさが必ずしも比例しないと指摘している。花輪氏は日本海中部地震津波や青森県十三湖で生起した津波現象を扱った短編を書いている作家だが、津波災害地でのフィールドワークを積み重ねている点で説得力のある文章を書いている。(注8)
その様態はどのようであれ、地震があれば津波を用心せよというのが三陸沿岸に一般的に流布している云い伝えである。これに対して男鹿地方の場合には、必ずしも大きな地震と津波とが関連してとらえられていない。ただ、ここ何年か津波が襲来しなかったと云うだけで、地震ー津波のセットを地域住民が信頼する度合いが低かったのは、やはり津波災害文化を持つ地域と持たない地域の差がそこにあらわれたのかもしれない。しかも男鹿市の場合には、昭和58年(1983)の災害経験から10年たらずの時点での調査であるので、地震ー津波のセットは1983年以前より高くなっているはずなのに、三陸地方のどの調査地よりも伝聞度も信頼度も低いのである。従って日本海中部地震津波災害を経験する以前であれば、このセットの伝聞度また信頼度はさらに低率であったろうと推察されるのである。
さて、三陸地方ではいずれにしても一般的に地震ー津波のセットは広く流布しかつ信じられていたが、昭和35年のチリ地震津波災害はその図式を完全に打ち砕いてしまった。それで、その頃から、三陸沿岸では、「地震がなくとも津波は来る」という云い伝えが成立したのである。地震がなかったわけではなく、チリ地震と云う遠地地震であり、近地地震のように有感でなかったので、地域住民には、無地震ー津波のセットがつけ加えられることになったのである。災害文化としてのコミュニケーション的云い伝え項目はこのようにして、たえず削除、補正、追加がなされつつ継承されるのである。
地震以外に、潮流の変化、特に異常引き潮現象は津波の有力な前兆現象とみなされている。
表-4.1では三陸地方のみならず男鹿でも回答者の半数以上がその情報を伝い聞いており、田老町ではちょっと低いがそれ以外の地では約半数がそれを信じている。われわれの質問では割合に漠然と「潮の流れの変化」というワーデングで尋ね、その結果が表-4.1のようであったのだが、唐桑調査の場合のように、「異常引き潮の時」と特定化すると、伝聞度81.0%、信頼度72%と一般的質問よりは高率化している。三陸沿岸では前述のように地震ー津波の図式よりはむしろ地震ー異常引き潮ー津波の図式を信じているようで、従って、文化項目の(4)地震になったら海岸の方に避難せよ」という言い伝えはまず流布する基盤がない。
しかし、男鹿市ではこの項目は伝聞度30.7%に達しており、また、信頼度も13.4%と2ケタに達している。これは、われわれの調査でもそうであったが花輪も述べているように男鹿の場合には、「地震ときけばまず山崩れを調べろとしか教わっていないとの、証言もしてくれた。」という文化的背景があったからである。
このような文化項目についての相反する信頼性の傾向は、第一に、津波災害文化に地域的ヴァリエィションのあることを示唆しており、第二に、津波災害文化という際に、言い伝えの重要性と同時に、その地域における地質や地層、地形などについてのより科学的研究も重要であることが示唆されている。何故なら、津波の襲来による災害は危険であるが、同時に避難した先の裏山の山崩れもまた致命的な打撃を与えることがあるからである。この事情は三陸沿岸でも同じで、避難場所に避難する際に山崩れに出会ったという事例が報告されている(注9)。伝承も、この意味では、一方の災害にかかわる側面だけでなく、科学的知識を加えてその地域におけるトータルな情報を提供するものでなければならないことが考慮されるのである。
地震・異常引き潮のほかに、井戸水野汚濁化・低下現象とか河川の急流化などいろいろな前兆的自然現象が上げられるが、三陸沿岸と男鹿地方の伝聞度また信頼の決定的な違いは男鹿地方では各項目、例えば地震関係とか異常引き潮などの場合でも、ポジティブな比率が低いだけでなく、ネガティブな比率が高いという点にある。すなわち、地震が津波の前兆という云い伝えを聞いたことがないとか異常引き潮が津波の前兆現象だという云い伝えを聞いたことがない。また、信じないというネガティブな方向での回答率が割合に高いのである。これは津波災害文化としてのコミュニケーション内容項目が成立していないのか、あるいは伝承主体が確立していないのか、その両方なのか、少なくとも三陸地方とは異なる災害文化形態をとっているとしかいいようがないのである。津波災害文化を考えるには、その文化内容、ーどの単位でそれをとりあげるかが問題だがーの伝達の主体と、分有主体、その間の伝達可能性、学習可能性、分有可能性が問題だが、同時に文化伝達の方法、伝達の場などが問われてくる。
少なくとも三陸地方では伝達可能で分有可能な行動文化内容があり、それがコミュニケーションによって授受されており、その結果何らかの津波災害対応行動が実行されている。と見ることができる。その点、日本海側では三陸地方における防災文化をめぐるシステムが同じようには作られていないと考えられるのである。
なお、余談であるが、通常われわれの知らない海底が引き潮によってその全貌を現わす時、それがいかにグロテスクな姿をしているかについては花輪莞爾「海が呑む」と村松友視の「海が消えた」の記述が圧巻である。
津波の前兆現象ー特に事前の地震と異常引き潮ーを経験して地域住民がどのような対応姿勢をとるかについては、4.2のように示される。それを契機にして直ちに避難行動をする住民はそんなに多くない。せいぜい、避難行動の準備作業にとりかかる程度で、実際には、行政の避難行動の指示勧告を受けた後に避難行動を開始するのである。この意味では、津波の事前現象は、地域住民に防災体制をとらせる面では間接的規制を与えているに過ぎないが、避難行動についての云い伝えの方は、直接的に地域住民の態度や行動・考えにも影響を与え、機制を与えているということができる。その意味では避難行動についての文化項目により多く災害文化の文化的性格が含まれるものがある。ただ、その避難行動規制の項目自体に矛盾がみられるものがあり、必ずしも地域一帯で一義的なものとはなっていない。例えば、「10)地震があったら海を見よ(海岸に出よ)」は、6)の異常引き潮の後には津波が(きわめて急速な速度で)海岸に向けて押し寄せてくるから危険である、という項目と相反する行動を勧めているし、「11)津波の時には他人にかまわずに逃げよ」という項目は、避難訓練時には集団単位とか集落単位で、あるいは組織単位で避難せよと教示されており、これと矛盾する。昭和35年のチリ地震津波の時の避難者の記録では、きょうだい単位とかひとりで避難している事例が多いのである。それで避難先で孤独感と不安感を持ったり、避難途中で家族メンバーが見当たらなかったり、きょうだいのだれかが不在なので、あわてて家に引き返しそのまま返し波にさらわれてしまう事例が報告されているのである。避難単位をどのようにすべきか、統一的に何らかの集団単位にするように指導すべきか、あるいは、実践の場を想定して、最小単位(一人だけ)の避難行動を指導すべきかの検討をする必要があろう。私見では、最小単位で避難行動をするように指導した方がよいと提言したい。「12)津波時は何も持たずに逃げよ」という項目はある程度効用性を持っているようだが、平成4年7月の第三回志津川町調査では、過去の津波災害において、約半数の回答者が「大事なもの」を流失した経験をしていることが知られた。
その大事なものとしては、具体的には現金、通帳、書類など、通常避難時に直ちに携帯できるように整理準備しておくべきものが含まれていた。ここにも現実と意識のギャップが見られるのかもしれない。
また、「13)避難は高台にせよ」の項目はきわめて妥当な避難に必要な注意事項であるが、これも災害時の現実行動を導くのに必ずしも有効でない。というのは、前述のチリ地震津波の状況を見ると、周知のように津波が志津川町に襲来したのは気象庁の津波警報発令前であった。昭和三陸大津波でもここまで津波は来なかったから今回の大丈夫と高を括ったり、地震もなかったしと勝手な判断から殆どの住民は寝込みを襲われ、幼い子どもをも準備されていた避難場所に最初から避難させたものは少なかったのである。記録では、彼らはまず最初に二階にのぼり、次に、天井板を破って屋根に登っている。そして、少し水が引いた後でやや高層の建築物に移り、そして最終的に高台の避難場所へと避難しているのである。その意味では、最終的避難場所の確保はもちろん必要なことだが、現実的には、住宅街、あるいは町の中の高層ビルディングを中間的避難場所とする方策が避難にはより一層有意義だと考えられるのである。町の建築基準とか景観の問題があるだろうが、津波多発地帯の街なみ形成にとっては、いくつかの高層ビルディングが津波の破壊力を軽減し住民の避難作業に有意義である。
避難時の心得とか行動の注意の項目の数はもっと多い方がいいだろう。例えば津波という周囲全体が水、水、水、のなかで、意外と飲み水が欠乏するので、「避難する時には飲み水を持て」とか、「いったん水が退いても避難場所を直ちに離れるな」などは追加されるべき項目といってよいだろう。身一つで避難せよと訓練時には教えているわけだから、前述のように重要あるいは貴重なものを家に置いてくる可能性は高い。だから、「財布を忘れ家へ戻った人が屏の間にはさまって亡くなった」、「地震が来て避難したが、津波が来ないので家に大事なものをとりに帰って津波に巻き込まれ犠牲者が増えた」、「地震と津波の間の時間があまりにも長く(このような感想はほかの何人かからも聞かれた)、避難しても一時家に物を取りに戻って、被害にあった人が多い」、「忘れた物を家に取りに行き、そして津波に流された人が相当いると聞いている」(いずれも志津川調査)などの事例が報告されるわけである。平成4年調査では、表ー4.3の示すように貴重品を自宅に忘れた時に「大丈夫だと思えば」とか「波の引くのを見計らって」という条件づきで、いったんわが家に帰ろうという態度を持っている回答者が回答者の約4分の1に達しているのである。
かくの如くして、三陸沿岸の場合でも避難行動に一定の枠組を与える行動文化の面では、地域差があったり、また、基準軸に多少の揺れがある。しかし、前述の前兆自然現象それ自体の云い伝えとは異なり、行動文化の項目はそれに従わない場合には結果として一命を失うという個人にとって逆機能が生じる。あるいは地域社会とか家族集団などの崩壊の結果もないわけではない。それだけに行動文化項目には地域住民の行動に規制を与え、逆脱行動を許さぬほどの拘束的側面がある。
この拘束的行動文化の側面にも今後追加されるべきものが現れるだろう。
指し当たり、車社会における避難行動の面が問題になる。平成4年の志津川調査の結果をちょっと検討してみよう。
平成4年の調査では回答者の80%が自家用車所有の世帯である。それで避難時には自家用車を利用することになるのではないかと懸念されることになる。現在の避難路も町の街路も整備されておらず、専ら人間が避難するために用いられているのに、そこを車を利用して避難するとなるとおそらく街路は大混乱状態になるし、二次、三次の災害が生じることは間違いないのである。そこで、地域住民に、車社会での避難様式を尋ねてみると、表-4.4のようである。このような様式に従って考えると避難通路についても整備のありかたが問題となり、表ー4.5のような要求の分布が生じて来るのである。今後車社会が地域にも拡大することは必然であるから、津波災害文化のハードの面ではこのような街路形成についての配慮が必要である。そうすれば、それに対する適応文化がフォローするのである。
2)津波災害文化の担い手とその伝達の場
前項で、われわれは、伝承的津波災害文化の項目を津波の前兆現象と避難行動に分けて検討した。前兆現象は避難行動に直結するものではないが、避難行動の項目は直接的に地域住民の避難行動を統制あるいは規制する、または避難行動を促進する内容を含んでおり、それがまた後代に伝承されることを期待される文化内容である。どちらの内容項目も津波災害頻発地で発生し、そこで伝承されたものであるが、前者はそれ自体で地域住民に避難行動の準備体制を取らせるものの、その項目の知識によって、住民が必ずしも避難行動をとるわけではない。すなわち事前現象への接触が即行動の触発を促したりその行動の制約条件となるのではない。ところが、行動文化項目への接触あるいはその認知は直接的に住民の避難行動の様態に影響を与える。例えば、ヴァリエーションはあるものの、「高台へ逃げよ」という項目は、住民をして、その文化項目を社会化(socialization)させに内存化させることによって、津波襲来のさいには低地とか海岸側に逃げることなく、出来るだけ高台あるいは高層建築に避難するように避難行動をオリエントするのである。
そこで本稿では、次に、津波災害文化の内容項目が伝承されていくに当たって、その社会化過程の担い手あるいはそれが行われる場はどこか、また、社会化される内容は主として何かという問題に着目することにしたい。端的にいえば津波災害文化の伝承主体と伝承の場また伝承内容を問題としたい。
この問題は、次の点から見て重要な意味を持つ。
1.現在は、昭和35年の大津波襲来後まだ30数年に過ぎないから、その当時の津波経験が存命していて、その経験の風化にある程度歯止めをかけているものの、地域社会では世代交代が進んでいて、曽っての経験の風化の現象が進んできている。
平成4年志津川調査の結果をみても、大津波経験者と非経験者では、津波防災の意識に差があり、何らかの形で、津波経験にかわる機能の提供が必要とされている。
2.津波災害文化の担い手あるいは授受の場の特定化また社会化内容の確定化と複数担い手の機能分化は、津波災害文化を進化させ持続化させるに必要な問題である。
①先ず初めに、津波災害文化の社会化の担い主と社会化の行われる場を特定化しておこう。
前述のような云い伝え文化内容はどこで、誰によって伝承されるか、換言すれば、その云い伝え文化内容の担い手がだれがどこでそれを伝え社会化させていくのかを確かめておくことが必要である。
これまでの調査では、表-4.6の示すように、津波災害のコミュニケションの交わされるのは、主として家庭の場である。それに次ぐのは、近隣の地域集団である。いわゆる血縁・地縁のゲマインシヤフトが、津波災害文化の社会化の行われる場であるということができる。平成4年志津川調査では、チリ地震津波の話題を三つの集団でどう取りあげてきたかを問うてみた、がこの調査でも家庭で津波災害コミュニケーションが授受されていることが明らかである。
家庭の場で、だれがコミュニケーターになるかといえば、表-4.7の示すように、父母、祖父母、そして、恐らくおじやおばなどの目上の近親者である。平成4年の調査をみると、調査対象世帯には津波災害経験者が少なくとも一人はおり、しかも家族メンバーのうちで年齢が高いメンバーほど、いろいろな被害経験をしていることが知られている。このような事情は明治29年の明治三陸大津波と昭和8年の昭和三陸大津波災害を被った田老町の場合も同じであった。目上の近親者は幼い子供の添い寝をして、自分たちの恐ろしい津波体験を物語り、また、諸注意を注入したのである。
このようなプロセスで家庭の場で主として津波災害経験者がエイジエントとなって、幼い子供たちに津波災害文化を内存化していくというのが津波災害文化継承のメカニズムである。その意味で津波災害文化はすぐれて家庭文化あるいは家族文化の色彩が濃いということができるのである。
家庭あるいは家族以外の者にも、津波災害文化のエイジエントはいる。例えば平成4年調査で、学校教育と社会教育と家庭教育の三分野に分けて地震・津波に関する教育をどこで受けたかを尋ねてみた。表ー4.8の示すように、回答者の年齢によって多少の差はみられるものの、どの年齢階層をとっても家庭で父母を初めとする近親者から教わったという比率が高いことが一目瞭然である。しかし、回答者の中でも年齢の若い層ほど、学校教育で教わったという回答比率が高いことも事実である。また、恐らく回答者の頭の中では、学校で教わったのか、家庭内で近親者から教わったのか漠然としているものもあって、何をどこで教わったのかもはや識別ができない状態となっているものもあろう。
次に、津波災害文化として何が伝達されるのか、という文化内容の吟味をしてみよう。
われわれの調査ではこの内容の問題については、プリコードによって文言を設定し、そこから選ばせる方式はとらなかった。自発的な自由回答方式をとったので、きわめて、多種多様な回答項目を手に入れることができた。それを唐桑調査、男鹿調査そして平成4年志津川調査の結果を基礎にして総括的に大きく分類してみると次のような項目群になる。
1.津波の前兆現象について、特に地震についての言表が多い。
1)男鹿調査の場合……
①日本海側には地震があっても津波はない。
②日本海では津波が起こらないので浜に逃げろ。
③海水が異常に引く。
④地震がある。
⑤地震は津波の前兆だから気をつけること。
2)唐桑調査の場合……
①大きな地震があったら、津波が来ると思って用心すること。
②大きい音「どん」となると必ず地震と津波が来る。
③地震があった時とか、海鳴りがした時は津波の来る前兆とする。
④ねずみやからすがいつもより騒いだ。
⑤地震があり、十分後に沖の方で大音がする。
3)志津川調査……
①地震がなくても津波が来ることがある。
②地震がなく、すごく潮が引いて津波が来た。
③海岸で異常な海水の動きに気づいたら津波を注意する。
④干潮の時でなく、潮が引いたら津波と思え。地震がなくとも潮が引いたら津波と思え。
⑤潮の満干とは関係なく、川の水や海水が引きはじめたら津波が来る。
2.津波襲来状況
1)男鹿調査……
①能代港で、潜水作業をしていた際に実際に目で見た津波の大きさ。
②思ったより早いペースで海水が高くなる。
③地震がおさまってすぐ後にものすごい音と共に石けんの泡のような波が押し寄せた。
④一回目と二回目の水位が一番高いようだ。その次からは低くなる。
⑤船で仕事をしていてもう少し大丈夫だろうと思っている間に波が来てもう少しで波にのまれそうになった。
⑥津波にはテトラポットを動かすほどの力がある。
2)唐桑調査
①潮が引く時、大風が吹く音が聞こえる。
②地震の震源地に向かいあう港湾に、水位が高く押し寄せる気がする。
③地震後、5分で津波がきた。
④津波は昼間より夜間に来るようだ。
⑤潮が引き海底が見え、今度は山のような津波が来た。
3)志津川調査……
①私たちの予想以上に波の来るのが速く、川を中心に被害が広がる。
②カラカラと音をたてて川の水が引き湾内に水がなくなり、底が見えていた時は恐ろしかった。
③海の水がなくなったので、歩いて海底の魚を篭一杯に捕らえた。そのうちの人達の中で波にのまれた人がいた。
④寄せてくる波より引き潮の方がスピードがある。
⑤津波のスピードの速いこと、波の大きいこと、また、津波の波のこと。津波は海の色のようにきれいにみえるが、実際にはまるでヘドロのように黒くてドロドロしている。(注9)
3.津波被害状況
1)男鹿調査……
①日本海中部地震津波で、遠足に来た合川小学校の生徒が津波で死んでいったこと。
②男鹿の水族館の駐車場でスイス人が津波にのまれたこと。
③車や子供たちが波に飲みこまれた。車は友達のもので買ったばかり。
④能代で死亡者が出たこと。
⑤戸賀その他の浜で津波による死者が出たこと。
2)唐桑調査……
①家を流された時、屋根にすがっていて助けられた人がいた。
②海岸においてあった船が、一隻残らず流されたとのこと。
③母の生家が津波にあい、家の中で魚が泳いでいた。家の人はみな助かったが馬一頭が流された。
④三陸大津波で親類とか助けようとした人に死者が出たこと、また、沢山の船に被害を受けたこと。
⑤鶴が浦の被害が一番ひどかったこととか、陸前高田市の松原から約800メートル位離れた高校に、多くの人が流れ着いたこと。また力全高田市広田町から唐桑町大沢港に、タンスや着物が流れついたということ。
3)志津川調査……
①家が流され住む所がなかったり、食べる物が出回らなくて不自由になったこと。
②小学校がランドセルを背負ったまま逃げて溺れて亡くなった。
③逃げ遅れて、浮き上がった畳の上に乗り、屋根裏を破って屋根の上にのぼったこと。
④流されたギターを取ろうとして流された人のこと。
⑤実家の親戚の海苔だなが津波で流されて全滅した。
4.避難行動の様態と避難の心構え
1)男鹿調査……
①近所の人たちが皆集まって避難した。
②火を止めて水を汲んでおくこと。
③食料品を持って高台に逃げよ。
④日本海側には津波は起こらないので浜に逃げろ。
⑤日本海側には地震があっても津波はない。地震がきたら山崩れに注意せよ。
2)唐桑調査……
①夜明けのまだ周りの暗い時、ドドーンと大きな音と共に大地震となり、屋根、瓦などが落ちる音といっしょに「津波がくるぞ、山に逃げろ」(注10)という大声が聞こえ家族で逃げた。
②テレビやラジオなどを常に聞いた。
③津波の時は他人の誘導を待たず、自分で行動して出来るだけ高い所に避難する。
④海の上で津波が来たら、必ず沖に出る様にと亡くなった父から教わった。
⑤道路事情の悪い地方では車は役に立たない、道路が狭いので車が止まったら(立往生したら)みんな身動きできなくなってしまうから車を利用の避難はしない方がよい。
3)志津川調査……
①避難訓練の時にされた話の内容。
②食べ物や水が不足する。
③家族が皆いっしょにいる時はよいが、それぞれ学校や仕事場に行っている時の避難の仕方や連絡の仕方、落ち合う場所をどこにするかなどを話しあう。
④昔、ばあちゃんは何も持たず、着の身着の侭で逃げて助かったこと。
⑤避難する時は決して戻ったりしては駄目なこと。戻って亡くなった人がいること。
以上のような四つの大項目以外にも、色々と語り継がれているコミュニケーション内容は沢山ある。しかも、表ー4.9のように教育の場、チャンスが違うとコミュニケーションも異なり、また、語り継がれる内容も微妙に異なってくるものと想定される。
学校教育の場では、第一に科学的根拠に立って系統的に地震や津波などの発生原因やメカニズムが教えられ、知識としての地震・津波の教育が第一義的に行なわれる。そして、それと平行して、津波災害地であれば郷土史を副読本としながら地域の防災の重要性を教えていく。例えば、岩手県下閉伊郡田老町の場合では、町が「津波と防災ー語り継ぐ体験ー」という副読本をつくって、「本町の津波の記録と防災計画を長く後世に残し、必ず来るであろう水魔の惨禍から免れよう」という意図から田老町の津
波災害史や防災体制を教育している。この副読本は教育現場のみならず社会教育の場でも利用されるもので、これによって地域社会の津波災害の実態とかそれに対する行政・財政的施策の側面などについて理解は可能になる。しかし家庭教育は学校教育とか社会教育の場合と違って、極めて具体的・個人的なスキルを授受するのである。花輪の表現をかりれば、災害について基本となる知恵ーいかに上手に恐れるべきかーをたたきこむか、また、「この風土に生まれついた者が、無事に生きてゆける知恵をおそわる場」(注11)こそは家庭の場である。そして、その教育のエイジェントが家庭を含む近親者なのである。
4.4 津波災害文化の有効性
さて、以上に述べてきた行動文化は、地域社会に住む個人に対し、また、当の地域社会のシステムの維持とか存続のために貢献する結果をもつだろうか。あるいはむしろ、それはシステム維持とか存続に対して寄与しない結果をもつだろうか。この二つの枠組み、すなわち社会学的な機能性と逆機能性とをもって、われわれは、津波災害文化の有効性と限界性とを示すものと解したい。
1)津波災害経験の有効性意識
初めに、平成4年調査の結果に基づいて、志津川町の住民が「チリ地震津波災害の経験が有効であると考えているかどうか」、を検討してみると、「役に立たないと思う」という意思はきわめて低率であり、条件抜きと条件つきの有効性(役に立つ)の合計は圧倒的に高率であった。つまり一般論の見地からみれば、地域住民には災害文化のうち行動文化は津波の際には地域住民の個人的身体を守るためにも、家族生活を維持するためにも、また、地域社会の体系を存続させるためにも十分に役立つものと認識されているのである。事実、地震ー異常な引き潮ー津波ー避難行動あるいは避難の準備行動という図式は、多数の地域住民の命を救い、また地域社会の安定性を確保してきたのである。また、そのように機能性をもつと信じられてきたが故に、地域住民は津波災害経験者である故老の言葉を尊重し、事あるごとに故老を招いては災害体験談を聞きそれに耳を傾けてきたのである。しかし、地域住民はチリ地震津波災害を機に故老の言葉に対する信頼威を減少させていることも事実である。例えば、地域住民の一人は、それを「大自然の掟と世間の掟」(注12)の差としてとらえている。
「自然の掟には前例も何もありません。その時に生じた現象の違いは考えず、ただ昔から浸水しないというその言葉だけを信じた私たち大人の考え方に誤りがあったのです。我等は常に自然現象に対して余りにも昔からの古老の言い伝えを信じ過ぎたのではなかったのでしょうか。殊に水戸辺の場合は、昔から、どんな大きい津波でも上つたことがないという原則めいたこと誰もが信じていましたから。」
これはチリ地震津波で大きな被害をうけた志津川町戸倉地区の一婦人のスティトメントである。
このように行動面の規則に関する文化内容は、恒常的なものではなく、たえずそれに修正が加えられ追加項目が必要なのである。削除しなければならない項目もある。第一に〔地震ー異常引き潮ー津波ー避難行動あるいは避難の準備行動〕の伝統的図式があまりにも通常化している故にみられる、この図式の対極にある図式、すなわち、〔無地震ー無津波〕に依拠する避難行動の不必要性の強調という項目は完全に削除しなければならない。
〔無地震ー無津波〕の図式に基づく非避難行動が地域住民を悲劇に導く事例を花輪莞爾は次のように描写している。
「だめだよう、爺っつあん、津波だよ、逃げねばだめだあ!」明子が叫んだ。「なにい、津波だあ、でえじょうぶ、そんなもん」「本当なんだよお逃げねばだめだでばあ!」「なに、でえじょぶ」なぜか知らぬが、老人はそのままけそりとして便所に入った。おそらくこの老人には、地震なしの津波はないという知識がかえって邪魔したのだろう。明子がなおも屋根づたいに行くと、便所に入ったはずのその老人が、フンドシ一つで軒すれすれに先を流されて行く。見知らぬ人と力をあわせて屋根にひきあげたときにはもう、老人は完全にわがねぇことになっていた。」(注13)
次に、第二、削除さるべき文化内容の項目は、日本海側における「地震になったら海岸側に逃げろ」というものである。また、同じく、「日本海側に地震はあるが津波は来ない」という言い伝え(もしあるとすれば)も否定されなければならない。
以上のような云い伝えのほかに、ここではもう一つの避難行動訓練と避難教育の果たす有効性についてとりあげる。表-4.9は調査三地区における避難訓練・避難教育の有効性意識の比較を示している。どの地区の場合でも、避難訓練への参加度は積極的にみて高いわけではないが(表-4.10)、これらが役に立つと認識されているのである。
ここで避難訓練への参加が現実訓練の場合に有効であると想定されているとして、避難訓練への参加・不参加の意思決定に影響を与えている要因の一つは過去の津波災害の経験の有無ではないかと推察される(表-4.11を参照)。
第三に目を技術文化に転じてみよう。昭和35年のチリ地震津波は三陸海岸に大きな被害を与え、行政はその被害を基準として生じうる津波災害に対する設備の整備を行ってきた。その設備施設が技術的にいかに有効なのか、すなわち、襲来する津波を防いだり、その力を減退させるだけの能力があったかについては、われわれはここで問題とはしない。
本項では、むしろ、行政がチリ地震津波災害の経験を生かして、次に襲来するかも知れない大津波に対応できるだけの能力のある設備施設を予想するかどうか、また、地域住民もそのような能力の設備施設を作ろうという意識を持つかどうかのみを検証しておくことにとどめたい。チリ地震津波災害の経験は有効に機能するかどうか、行政と地域住民はチリ地震津波災害から次の災害を縮小し減少するべく意図的に堤防、門扉、河川壁、防災情報手段などの設備や設置を整備するかどうかを検討しておこうと思うのである。つまりは防災意識の向上にプラス効果をもったどうかを点検しておくことにしたいのである。
行政の津波防災対策は二つの側面から評価されうる。第一に、前述のよう防波堤、防潮堤などの堤防施設、河川対策、避難路、避難場所、防災情報手段、さらに流材・流般対策、避難誘導体制、夜間照明、街並み整備などの津波災害に対する個別対策に対する評価がある。本来防災対策はこの個別対策の総和からなるが、あえて区別すると、第二にこれを底辺で支える行政の津波災害対策なり中長期的対策展望と個別対策を含む対策全般に対する行政の姿勢が評価の対象となる。
周知のように、各地域社会では、その地の防災会議によって地域防災計画が策定されており、防災体制はそれにそって実施されている。しかし防災計画ではあまり詳細で具体的な防災のための施設や設備のあり方までは規定していない。そこで、地域住民の間からは、色々な評価がでてくる。例えば平成4年志津川調査では、表-4.12で示すように、避難場所関係の夜間照明、掲示板・指示板などいわば小道具的な資材対策が不足していることが指摘されたり、また、流材・流船対策に対する評価が低い。町としては製材会社を高台に移すことによってチリ地震津波当時に生じたような第二次災害を防ぐ流材対策を実施したが(現実的には製材会社の高台移転策)、それでもなお地域住民には対策が徹底しているとは評価されていないのである。流船対策に関しては住民の中に「どうしようもない」という諦めの声が聞かれるほどである。
チリ地震津波当時に流材や流船が街路を流れ下りそれが家屋などにぶつかり、大きなダメージを与えたことは事実である(注14)、そのような災害をもたらした個人的なトラウマ(注15)を軽減する結果をもつならば、そのような対策は文化的効果があったというべきであろう。
表-4.12の示すように、海岸の堤防に対する評価と河川壁に対する評価には少し差がみられる。志津川町の場合には街の中を走る何本かの川沿いに津波が来襲し、かつまちに氾濫する。それだけに地域住民は河川管理にきわめて敏感である。河川に架けられている木橋が永久橋になることによって生じうる思わざる結果にまで住民は懸念を示しているのである。それに最近の都市景観の観点が加わると、景観を構わない防災対策のあり方が問題になる。こうなると景観とは何ぞやというその地域独自の観念が新たに問われることとなり、ここに災害文化とかかわる精神文化の効用性の視角が導入されざるをえなくなる。
以上のような行政の防災の為の個別対策の評価のほかに、防災対策の総合評価がある。志津川街の場合には、90%ほどが設備されていると合格点の評価であり、従って、かりに33年前のチリ地震と同程度の津波が襲来があっても、その被害が前回を上回ると想定する地域住民は少なく、半数近くは前回を下回ると判断しているのである、(表-4.13参照)。地域住民がこう判断しているだけでなく、チリ地震津波の被害をうけた陸沿岸16自治体への同趣旨の問い合わせに対して自治体全てが「30年前のチリ地震津波の時より被害は少い」との回答を返している。被害が少なくなるだろうと判断する根拠となっていたのは、防波堤・防潮等の堤防の整備、情報伝達・指示命令機構の整備、地域住民の防災意識の向上、避難訓練の徹底化などをあげている。なお、地域住民はこのような行政の見解に、チリ地震津波当時と比較して家屋構造が堅固になったこと、街路の拡幅化、河川改善、「チリ地震津波の経験」をあげている。これらはわれわれの表現を用いれば、まさに、津波災害文化が果たす効果性ということができるだろう。チリ地震津波災害の経験とその継承は、市町村の津波対策のあり方に影響を与えるのである。さらに、地域住民は表-4.14のように、行政に対しては今後の防災対策を求めている。
4.5 津波災害文化の限界性
本項では、津波災害文化のなしえないことは何かについてとりあげる。前項では、津波災害文化を内在化していればこれこれの効果を果たしえる、あるいは達成しえるという側面についてふれたが、本項はある結果を意図しないのに結果としては地域社会に住む個人とか家族あるいは地域社会にとって利益にならない、(前述の表現を用いれば、それらの体系維持に非貢献的な)結果となる場合を取り上げることとする。それをもってわれわれは限界性とよぶのである。
第一にちょっとだけ技術面に目を向けよう。技術文化としての堤防類は、明らかに、津波のもつエネルギーを軽減したり、浸水を防ぐために設置され整備されることを意図されている。従って地元住民には常に嵩あげを望む声がある。しかし、ある一定以上の嵩あげによる堤防の設置はむしろ(浸水を防ぐなどの)意図と反する思わざるマイナス結果をもたらす可能性もあるのである。例えば平成4年の志津川調査では、次に昭和35年のチリ地震津波と同程度の津波が来襲した場合に「チリ地震津波時より被害が上回る」という理由として「高い防潮堤があるため、市街地に入った場合水の引きが悪く、時間がかかる」とか「防潮堤が出来て小さい津波は安心だが、「防潮堤をこすと中はダムのようになり、引き潮がなく被害大きくなる」などがあげられている。
技術的には恐らくそのような危惧の解消される操作が可能なのだろうが、過度の嵩あげは、大なり小なり思わざるマイナス効果を地域社会にもたらす可能性がないわけではないだろう。あるいはそのような心配を地域住民に与える可能性があるかもしれない。
行動文化の面についてとりあげてみよう。行動文化は本来過去の災害経験の積み重ねからある種の行動をする、あるいはその準備をすれば、想定される被害をうけないとか被害を軽減しうる、だからそれに従った方がよい、従うべしだという意図の下で伝承され学習されてきたものであるが、その伝承内容があまりにも極度に強制力をもつようになったり、その対極の内容に固執すると、意図に反する影響力をもつ結果となりかねない。その典型的事例として、われわれは再三〔地震ー津波〕の図式の対極にあるものとして〔無地震ー無津波〕の図式をあげてきた。もう一度それについてふれると、昭和35年のチリ地震津波当時にあっては、当時の小学生の多くは次のような作文を綴っていた。
・おかあさんが起きて外へ出ました。そしたら津波だというのでおかあさんは「どうせここまでこないからねていなさい。………」
・五月二十四日の朝の四時半ごろ、サイレンがなったので、おばあさんがでんわを聞いてみたら、「つなみだ」といわれたのでびっくりしました。おばあさんが、「ここまではこないから。」といったのでまたねようとしましたが、こわくてねむれませんでした。
・あさの五時近くにさいれんがなった。びっくりして、めをさました。二回め、三回めとなっているうちに、なんだかむねがどきどきして来た。そして六回めくらいになった時、おとうさんが、みに行った。すこしたったら、おとうさんは、わらいながら「つなみだったよ」といった。
きっと、志津川につなみが来るなどとは、おとうさんだけではなく、わたしたちでさえもそうぞうがつかなかったくらいなのでばかばかしいと思ってあんしんしてわらったのでしょう。
・ねていたおじいさんがおきてきました。三陸つなみだって家へは十センチ位しかこなかったからこんども波は来ないと思ったのでしょう。又ふとんにはいってねてしまいました。
・水はどんどんふえてきてぼくたちの足もとまできたので、こんどは山の上までにげた。みなさんが、にもつをはこんでいた。「おらいでも、はこべばよかったね」とおばあちゃんにいうと、おばあちゃんは「こんなに来るとは思わなかった。昭和八年に音をたててきたからな。こんどは、音がないからこんなにくるとは思わなかったや。」と言った。
・おばあさんが、突然「これこれ、津波だど、津波だど」と私たちを起こした。私が教科書を持とうとしたら、おばあさんは「ここまでこねがら、道具いいがら、早ぐあの海みろ」といった。
老人層は、自分の家が昭和8年津波で浸水しなかったことを基準に、「ここまで津波の水が押し寄せることになれば、この町は全滅だ。ここまで押し寄せることはない。」といういわれのない自信を持って避難をしなかったか、あるいは危険な形での避難行動をせざるを得なかったのである。
当時の資料から、われわれは、〔無地震ー無津波〕という図式のほかに、地域住民にはもう一つ、過去の津波において浸水経験がないことからくる津波災害への無防備体制への信頼あるいは安心感が浸透していたと判断せざるを得ない。
次に防災・避難訓練への過信が生みうるマイナス効果について述べてみたい。地域住民の避難訓練への評価は二分されている。まず地域住民の避難訓練への参加度であるが、表-4.10のように期待される程熱心であるとは思われない。平成4年の志津川調査によると、住民自体、表-4.15の示しているように、地域社会の住民の避難訓練への取り組み方を全面的に「真剣に」しているとは評価していない向きが見られる。
たしかに「非常に」と「まあ」の項目を加えると真剣に取り組んでいるとみている回答率は60%前後になるが、「真剣だと思わない」というマイナス評価は30%に近い。志津川町では、避難訓練への参加度をみると、半分位は参加しているという回答者(この中には半分以上参加者、毎回参加者を含む)はほぼ60%であり、毎回不参加者と半分以上不参加者の合計はほぼ30%である。この数値から、志津川町での避難行動への取り組み評価と現実の避難訓練のあり方が推定されうるのである。ただ、表-4.11の示すように、津波経験の有無によって避難訓練への参加度は異なってくる、経験のある者の参加度が高いことは、彼らには拘束力のある津波災害文化が彼らに有効に働いていることを示すものであろう。技術面における防災体制の整備が、地域住民に安心感を与え、思わざる形で経験の風化が進行しているのではないかと思われる面がある。地域住民の中にも同じような考えがみられる。前述の質問「もしチリ地震津波と同じ程度の津波が来たら被害はどうか」という回答の根拠として回答者は、「避難訓練はあるけれども、年々危ないという気持ちが薄れていると思う」とか「年一度、町役場での避難訓練があるが、記念式典だけで本気と思えない」の理由をあげ、また、情報機関から流される莫大な災害情報を受けとるだけで、「もう大丈夫だと高を括る人が多い。」(注16)現象を指摘したものもあった。
要するに、われわれは過去に大津波を経験し、それを無事乗り越えて今日に至っているし、33年前に比較して防災整備や防災情報システムなどが格段に進歩している現在では、以前ほど津波は危険でないという過信が地域住民にある種の思わざる結果をもたらす事がありうるのである。
ところで、ちょっと視点をかえて津波災害文化を津波災害の発生を基点としてみると、特に行動文化に関しては、津波災害の予兆の局面と災害中の局面について多くの言い伝えや行動規制の文言を残している。しかし、災害後の局面についてあまりそのような文言はない。実際上は、津波襲来後のいろいろな災害後始末作業はきわめて重要な作業である(注17)。なぜなら後始末をしていく過程で、津波襲来に備える条件が予見されることがあるからである。その一例をあげよう。
津波は「黒いどろと鼻をつなむようないやなにおいを残していった。」というように、波が運んできたどろと、所によって、内便所であったがために畳全体が異臭を放ったり、汲み取り式便所のために便が溢れたりして大変な混乱を招いているのである。
行政はこういう事態に直面していろいろな対策をとっているが、それだけでは応急処置であって、津波災害に対する適切な対策にならない。従って地域住民も行政も、下水道の完備、水洗式トイレの普及を望むことになるのだが、これの完成までには時間がかかりそうで、不幸にして再び津波襲来があれば、またも同じ悲劇を繰り返すことは必定なのである。家屋の高台移転の問題も同じである。
山口彌一郎(注18)はかつて三陸地方の津波被害地の踏調の結果「津波の被害を避ける最も完全な一方法は、津波の衝撃面である湾頭の低地より、村を側面の高地に移す事である。」と指摘しているが、この指摘は現在でも、津波常襲地の防災対策としては有効があり続ける。平成3年に実施した三陸海岸16の市や町への問い合わせに対して大船渡市や志津川町など二三の行政では、防災対策として「高台への、住宅移転」の措置をとったと回答を返しているが、しかし、一旦は高台に住宅移転をするが、職場は依然としてまち中に残すという職住分離とか、特に漁業関係者の場合には海辺の方が都合がよいので再びもとの地に戻るという状態がどこの町でもみられるのである。
災害後に災害経験を基にして改善されることの多いのは、防災情報ネットワーク形成である。
津波災害から一身を守り、家族の安全を確保し、財産流失を防ぐためには一刻も早い情報が必要である(注19)。そのため罹災地はどこでも津波関連情報のキャッチとその伝達のためのネットワークづくりに努力している。現在のところ、屋外同報無線とか有線放送を利用する方式が一般的であるが、屋外同報無線の聴取状態については、例えば、表-4.16のような結果がえられており、この方式だけでは緊急の情報伝達は不可能であり、志津川町戸倉地区とか宮城県志田郡鹿島台町で実施されているような全戸屋内受信機設置の方式を併用することが望ましいのである。
前述のように花輪莞爾は、緊迫したストレスの場合いに遭遇すると、人間は沈黙してしまうという習性があると指摘したが、かりにそのような習性があると前提するなら、人間に大きな被害をもたらす自然現象には、技術で対抗する以外にはない。あるいは、機械技術で人間のその欠陥を補うことが可能である。その意味で、例えば男鹿市の開発した自動地震警報装置の設置は有効である。それは人間の手をかりずに震度3以上の地震の発生と同時に自動的に同報無線に直結して地域住民に注意を促すシステムなのである。
かくの如く、被害後の後始末の作業は重要なものであるから、これについても、何か文化項目を設けたいものである。
4.6 結びにかえて
本章で、われわれは津波災害文化のうち、行動文化の側面に着目した。行動文化は、津波災害の多発地域に発生し、伝達され、そこで、ある程度のその地域住民の災害時における行動を拘束する特性をもつもので、地域住民はエイジェントによってそれを教え込まれ、自分の中に内在化することによって、必ずしも他者からの強制なしに災害時にその状況に適応できる体勢をとることができるのである。そしてその結果、地域住民個人、あるいはその家族などが危険な目に会うことなく自分の生命を保持し、また、家族小集団の安泰性を確保できることとなるのである。われわれは災害文化がそのようなプラス効果をもつ場合を津波災害文学の有効性、あるいは順機能性とみた。
概していえば、津波災害文化の行動文化には、その地域が長年かけて伝承してきたものが多いだけに、友好的かつ順機能的項目が多いとみてよいが、中には日本海側の地震にかかわる行動文化のように、伝承の基礎になる文化形成のさいの災害経験の豊富でないことから来る、必ずしも現実行動にプラス効果を持たない津波災害文化項目もあるのである。
従って、時としては津波災害文化に関しては、常に新しい情報をインプットしてそれに基づく修正とか追加あるいは削除を実施して行かなければならない。
われわれとしては、とりわけて、〔地震ー津波襲来〕の図式にあまりにも固執しすぎることによって、その対極にある〔無地震ー無津波襲来〕の図式をも信頼しすぎることの危険性を強調してきた。
最後に、津波災害文化の有効性と限界性を問題とする場合に、われわれはその文化内容項目が、何に対してどんな有効性・機能性と限界性・逆機能性があるかについて詳しく検討しそのインベントリーを作製して、現実行動にフィットする体勢づくりをめざすことが必要なのである。
津波災害文化には行動文化以上に、物質あるいは技術文化と精神文化の側面があるが、本章ではこの両側面については殆どふれることはなかった。技術文化が津波災害の軽減のためにはきわめて重要な側面であり、それの整備拡充が必要なことはいうまでもない。地域住民も地域社会も技術部門に頼っていることは勿論である。しかし、それを更に有効に機能せしめうるかどうかは、それを管理し、それに生命を託している地域住民である。技術部門の設備に安住し、避難行動やその準備に必要な心構えなどの態度を維持することがなければ、あるいはそれに過度の依頼心を持つことによって技術部門そのものは逆機能に転ずるかもしれない。俗っぽい言い方をすれば、ハードウェアとソフトウェアの両方の調和のとれた対策が整備されはじめて、津波災害文化は最高の有効性機能性を発揮することとなるのである。
(注1)清水幾太郎「日本人の自然観ー関東大地震」清水幾太郎著作集11、178頁以降
(注2)消防庁防災課監修{災害対策本法解説」154頁
(注3).B.ラファエル「災害の襲うとき」16頁
(注4)上掲書66頁
(注5)一市四町村の調査結果は次のリポートで報告されている
①「三陸地方の津波災害文化に関する研究ー田老町を中心にしてー」(東京大学新聞研究所紀要39号、1989年3月)
②「津波災害文化に関する研究ー大船渡市を中心としてー」(東北学院大学論集(人間・言語・情報)第97号1990年9月)
③「津波災害文化の有効性ー第一回志津川調査を中心にしてー」(東北学院大学論集(人間・言語・情報)1991年3月)
④「津波災害をめぐるコミュニケーション状況」(東北大学社会学研究)第58号1991年5月
⑤「津波時の避難行動と被害後の後始末」(東北学院大学論集(人間・言語・情報)第97号1991年3月)
⑥「津波災害文化の比較と地域社会の防災情報ナットワーク」(東北学院大学論集(人間・言語・情報)第101号1993年3月)
⑦「津波災害頻発地の地域住民の防災意識」(東北学院大学論集(人間・言語・情報)第103号1993年1月)
(注6)佐々久著「近代みやぎの歩み」、83頁
(注7)花輪莞爾「海が呑む」301頁
(注8)津波災害文化論の業績の中に、小説とかコミックマンガを含めることはわれわれの想像力をたかめたり、理解を深める点で意義がある。その例として、吉村昭「三陸海岸大津波」、村松友視「海が消えた」、花輪莞爾「物いわぬ海」、「海が呑む」、矢口高雄「激濤」などがあげられる。また、明治29年三陸大津波を題材として「津波文学」があっといわれるが、ここではそれを除いて比較的新しいものだけをあげた。
(注9)拙稿「津波災害をめぐるコミュニケーション状況」(社会学研究第58号)を参考。
(注9)拙稿「津波時の避難行動と被害後の後始末」東北学院大学論集(人間・言語・情報)第100号(平成3年12月)では、当時小学生だった被害者の作文を紹介したが、それにも、志津川町では「家の中は泥沼のよう」とか「どろんこになって泥の中に」とか「床は海の泥で一杯たまっていました」とか「おかあさんに起こされて川をみたら、どろんこの水がどんどんおしよせて来て」という表現が随所にみられた。また、岩手県上閉伊郡大槌町の一教諭は「家の中に入れば家具類はゴチャゴチャに転び、悪臭に鼻をつき、めくれた畳の間には黒い泥が一面に床をおおっている。」と書き、大槌町の小学生は「津波はまるでノッスノッスとはいってきた。それも茶色みたいな色で。(中略)私達の着物や本などはどろどろにくるまり、どろくさくてほんとうにイヤな感じがしました。」と書き残している。
(注10)「海が呑む」で花輪莞爾は、昭和8年の津波の時、津波襲来を知りながら、人々はそれを近隣に報せることができなかった。と災害という予期せぬ恐怖が人間に言葉を失わせる状況を描いている。ごく単純なこともいえなくなるという事実を昭和8年の三陸大津波の際に現在の岩手県気仙郡三陸町の綾里小学校教諭の証言をもとに描いたのである。
その教諭の妻はさらに昭和35年に大船渡市でチリ地震津波に襲われる経験をしたが、その時にも津波が来ると知りながら近所の人々に報せることができなかった、という。大災害の際、人間が言葉を失うということを花輪は示唆しているが、われわれの知る限り、志津川町では近隣の人々が互いに「津波が来るぞ」という声を出し合い。その発話を機に避難行動をする物が多かったのである。花輪の示唆とわれわれの調査結果のズレを生起させたものは何なのであろうか。
(注11)花輪莞爾「海が呑む」、301頁
(注12)拙稿「津波時の避難行動と被害後の後始末」東北学院大学論集(人間・言語・情報)第100号(平成3年12月)56頁に所収
(注13)花輪莞爾「物いわぬ海」286頁
(注14)前掲拙稿
(注15).B.ラファエルは災害のもたらす影響を精神医学の面から分析しているが、K.エリクソンにならって、災害のもたらす個人的な「トラウマ」(精神的外傷。衝動的なショックで、精神的に持続的な影響を与える原因となるもの。「心傷」ともよぶ。)を「突然に、しかも効果的な対応ができないほどの力をもって、個人の防御体勢を打破してしまう精神的打撃と規定している。津波で肉親を失ったり貴重品を流失するなどもトラウマであろう。
さらに、エリクソンは、社会的連帯を損なわないかねない集団的な心傷を「人間同士を結びつけている絆を断つほどの社会的生活組織への打撃」と規定している。B.ラファエル「災害の襲うとき」17頁
(注16)拙稿「津波災害頻発地の地域住民の防災意識」東北学院大学論集(人間・言語・情報)第103号1931年
(注17)前掲第100号論文
(注18)山口彌一郎「津波と村」昭和18年9月発行(恒春閣書房)
(注19)拙稿「津波災害文化の比較と地域社会の防災情報ナットワーク」東北学院大学論集(人間・言語・情報)第101号
この論文では第一部で男鹿市と志津川町の地域災害文化の比較を行い、第二部で、男鹿市、一関市、志津川町、鹿島台町の四地域社会の防災情報ネットワークについて検討を行った。
また、津波警報の発令から、それが地域住民に到達するまでの一連のプロセスの検討と最近の地域独自の観測システムの含む問題については拙稿「津波防災情報の伝達過程に関する研究」、東北学院大学論集(人間・言語・情報)の第105号がとりあげる。
第5章 洪水に関する災害文化の地域性と普遍性 宮村忠・虫明功臣
5.1 洪水に関する災害文化の成立要因
洪水に関する災害(水害)文化は「洪水」と「水害」の緊張関係を基礎とし、その緊張関係は自然的要素と社会的要素に立脚している。
我が国河川の洪水は、次の事項が卓越している。
1.洪水氾濫による沖積作用が活発である。
2.洪水頻度が高く、洪水は繰り返し現象となっている。
我が国の土地利用は、河川と洪水氾濫と密接に関連して形成された沖積平野を中心に展開してきた。水田稲作は、その代表例である。従って、水田農耕文化が土着した時から、すでに洪水氾濫を自然条件として許容し、水害問題を当初から内包してきた。そうした条件を前提にして、生産基盤・生活基盤が形成され、それらを深化発展させる方向で夫々の時代の自然与件が造りだされてきた。従って、沖積平野に展開してきた稲作農業技術の導入と普及によって、洪水に関する災害文化の成立が促されてきた。洪水が繰り返し現象であることは、経験を容易にし、土地利用の変化に対する応答(洪水と水害の関係)は、世代交代を待つことなく経験することが可能である。このことは、水害の特殊な現象を表す。即ち、古い生産基盤・生活基盤は、新しい生産基盤・生活基盤に比して被災程度が顕著に軽微となるか、全く被災しない。経験によって自然的要素への知識と知恵の集積が行なわれ、その集積をもとに社会的要素が決定される。したがって、古い集落、古い家にこそ、洪水に関する災害文化が培われていることになる。
稲作農業を生産基盤とするためには、洪水に対応することの他、用水の確保が不可欠である。
用水の確保は「みためし」(用水の安定取水方法と使用水量の決定を経験的に把握する方法で、近世から「みためし3年」、「みためし5年」などの採用を実施してきた)を1事例に、経験則をもとに地域圏を形成してきた。こうして、洪水に対応する一面と、水利用をもとにした他面とが合致する形で、強固な水共同体が成立し、河川との関わりは洪水期も渇水期も高密な関心を顕在させることとなった。
洪水への対応と水利用の展開は個別的ではなく、むしろ有機的な関係を有してきた。災害文化の高度化は利水の進展を促し、また利水の進展は、災害文化の高度化をも要請してきた。それだけに、強固な水共同体は、地縁的、地域的な性格を提示し、排他的な諸相を備えてもいる。
洪水への対応と水利用の展開は、法体系の中にも顕われている。地域の自主的な洪水への対応を法制化した水防法は、明治23年制定の水利組合条例から出発している。水利組合条件によって水害予防組合が設置され、自主的防災組織が初めて法制化された。水利組合条例は明治24年に水利組合法と改正され、昭和24年の土地改良法の成立によって水害予防組合法が区分された。このことは、洪水への対応と水利用との有機的な関係を表現している。こうした水共同体を背景に洪水に関する災害文化は、洪水だけを区分して成立してきたのではなく、河川全体への理解をもとに成立してきたと言えよう。従って、洪水に関する災害文化の内容は、洪水に限定されるのではなく、日常的に、また多岐に渡っている。
そこで、洪水に関する災害文化の追求は、水害の軽減に役する目的と、加えて河川と人とのかかわり方の追求にも役すると位置付けられよう。
5.2 災害文化の地域性
洪水に関する災害文化の追求にあたって、洪水時の水防活動を伝承する目的で実施されている水防演習に注目することは有効であろう。そこで、平成2年度および3年度に開催された全国水防演習(18箇所、表5.1参照)を例に、災害文化の地域性を論及してみる。
5.2.1 北海道の災害文化
北海道の河川は、明治新政府の拓殖事業から河川改修が実施され、しかも、第2次大戦後に集中的な事業展開が行なわれた。
その中で、他の地域とは明瞭に区別できる地域性が認められる。すなわち、開発あるいは防災に関することは行政主導型である。他の地域でも、近年の防災に関する意識は行政主導型であるが、むしろ近年の時代的な特徴である。北海道の場合は、「入植」による初期の段階から付与されたもので、近年その方向が強化されたにすぎない。この地域性を災害文化の観点からみると、特異な形態を示し、継承している。
水防演習への参加をみると、北海道開発局からの指示による「演習の為の演習」の意識が強く、水防技術についての興味もほとんど示さない。こうした行政主導型の場合、日常の地元での生活でも、行政依存感が強固で、行政と住民とが隔絶してしまうのが一般的である。ところが、地元での自主防災意識は、他の地域に比して低下しているわけではなく、むしろ他の地域より卓越した内容と伝承が認められる。
・常呂川下流常呂町の高徳寺境内には、治水記念碑がある。常呂川下流は、海岸に第3紀の古砂丘があり、その内陸側は低湿な原野で、氾濫水位が2~5mに達し、湛水時間も長期におよぶ。
明治16年に常呂村外6ヶ村と町役場が設置され、漁場として開拓の緒についた常呂川下流は、大正8年の北海道拓殖計画改訂拡張により改修計画が着工されることとなった。治水記念碑は、このときの常呂川治水工事を記念したものである。治水記念碑は常呂川治水期成同盟会により維持管理され、6月15日に相撲大会を中心に祭りを実施し続けている。この行事は、常呂川下流氾濫区域の自主的組織として挙行されつづけ、北海道開発局はもとより、常呂町役場との関連もない。この行事を中心として、治水記念碑の主旨は、「常呂川治水(高堤防の築造)を下賜」されたことへの感謝であり、水防活動(洪水時の対応と異常現象の把握手法)の伝承である。
・石狩川は江別市で左支川の千歳川を合流し、さらにその上流で同じく左支川夕張川を入れる。
この千歳川と夕張川を連絡する形で、旧夕張川が蛇行して流れている。石狩川、千歳川、夕張川、旧夕張川の四川に囲まれて穀倉地南幌町がある。夕張川に架かる清幌橋のたもとに神社があり、義経神社という。日高山脈の西麓に位置する沙流郡手取町の源義経を祀る平取神社を分祀したものである。
立派な社殿があるわけではないが、広場と小さな祀と銅像が、林に囲まれているだけのこの神社は、南幌町にとっては他の寺社とは異なる意味を持った存在になっている。その理由は、義経神社は町民の洪水との闘いの跡を秘めた治水にかかわる神社であるためである。南幌町の義経神社が質素な境内ではあるが、町民とのふれあいが強い。町の条例により、祭礼の行なわれる7月1日は、役場も学校も農協も、町の公共機関のすべてが公休日となって、町主催の治水感謝祭が行なわれる。祭礼はまず神式により治水への感謝の祈りが、次いで仏式により殉職者の慰霊祭が施行されてから、行楽としての祭りとなる。
南幌町の治水感謝祭は、旧夕張川を新たに切替えた河川工事を機に制定された。かつて夕張川は、現在の旧夕張川を流れて千歳川に合流し、それから石狩川に注いでいた。そのため、夕張川の洪水はもとより、千歳川の洪水、さらに石狩川の洪水に影響を受け、たびたび襲う水魔に泣かされてきた。そこで、義経神社の東から、新たに夕張川の河道を造り、江別の上流で直接石狩川に合流させる「夕張川切替え工事」が採択され、昭和10年に完成した。
この工事の担当者が保原元二である。南幌町では切替え工事が完成すると、感謝の意をこめて保原元二の銅像を造り、その地に義経神社を建立した。以来48年間、7月1日を公休日と定めて保原元二に感謝を表し、夕張川切替の功を子々孫々に伝えようとしてきた。感謝祭は、週休5日制の影響を受けて公休日の条例が解かれたが、なお継承されている。
義経神社の祭りは、単なる保原への感謝や記念にとどまっていない。南幌町は旧夕張川の洪水と闘い続けてきた経緯から、新しい夕張川が完成したからといって、洪水との闘いを忘れることはできない地形にあることも、記念行事を続けている理由の一つである。
また、南幌町の義経神社の事例は、保原元二と地元民との対人関係だけの話を越えている。
義経神社が保原元二に謝意を表現すると同時に、南幌町の宿命的な立地条件を考え、決して河川、洪水に対する心構えを忘れさせないという、当初の地元を支えてきた人たちの意志が強く示されたものである。7月1日の治水祭は、夕張川切り替えの効果をかみしめるとともに、洪水から地元を守る自主防災への決意の表現でもある。その決意を反映した具体的事例として、アキカンをつかった異常降雨の発見など独自の認識手法を日常生活の中で確立している。また、その危険予知にもとづいて河川水位の観測への配置・段取りが迅速に行なえるようセットされており、それらの情報を基に独自のデーターを作り、対処を行なっている。そのため、気象情報や河川水位の情報が北海道開発局から伝達される時には、すでに南幌町の行動は整い、進行中となっている。
旧夕張川を挟んで南幌町の対岸に長沼町がある。同じように夕張川切り替えの恩恵に浴した町であり、長沼神社に保原元二をたたえる石碑を建て、公休日ではないが、7月2日を治水記念日としている。南幌町同様、長沼町の治水の日は、いずれも町民に強い水防意識を伝承させ、水害に強い町をつくり出すことに役立っている。
南幌町と長沼町の堤防は対峙した形となっているが、これを「万歳堤防」と呼んでいる。対岸が破堤したさいに万歳をさけぶためである。
5.2.2 東北の河川
東北地方の河川は、水田を中心とした土地利用とのかかわりが強い。とりわけ、昭和36年の農業基本法による選択的拡大の農業政策を背景に、活発な土地改良事業が行われてきた。土地生産性の高まりは、近年他の地域が水共同体意識を低下させているのに対して、河川・水への関心が強く、水共同体意識は良く保全されている。そのため河川の氾濫記憶が伝承されており、水防技術に対する自己評価が積極的である。
水防演習では、参加者が過去の洪水への記憶を話し合う光景が多い。演習想定では警戒水位や計画洪水量をつかわず、昭和22年洪水、昭和30年洪水、昭和47年洪水、昭和55年洪水、平成2年洪水などの洪水規模をもとに、アナウンスされると、参加者や観客席からどよめきがおきるなど、他の地域とは大差が認められた。演習会場には、地元の小・中・高・大学の参加もあって、年少者から年長者まで多数が集まり、活気ある風景を呈していた。
しかし、演習内容には、地区ごとの社会的条件も強く反映しており、東北地方の災害文化の特性といっても良いだろう。すなわち、水防技術のレベルは、地区ごとに差異がある。牛枠や築廻しなどの高度なものはもとより、比較的容易な木流しや土俵積みでさえ、地区によってはほとんど無理解で、形だけ整えてきた。一方で、互いに競い合い、誇らしげに評価し合う地区も多かった。水防技術が低下していた地区の共通事項は、農地の水田転作が多いことである。昭和48年に水田の休耕補償時代が終わり、転作補償が始まると、作付面積に応じた補償のために荒いづくりが多い2種兼業農家が目立つようになってきた(農家調査の実施を行ったのではなく、踏査によるヒヤリングだけの推論である)。また、転作補償の実施にともなう排水改良を目的とした土地改良事業が、従来20ha以上の団体営、県営事業から個別農家でも対象となり、水田と畑とが混在型になっている。洪水氾濫に対しては、水田と畑が区別されていることが、有利である。この型は、東北地方顕著に整っていたが、近年では混在型が進んでいる。水田→畑の場合に、災害文化の面で不利な条件が追記される。農村地帯での洪水氾濫への重要な対応手段は、農業共済制度である。いわば、農業の保険であるが、農業共済は水田を対象にすることが一般的である。東北地方の水防演習(馬淵川・米代川)で、転作補償対象者18名のヒヤリングでは、全員畑作部分の農業共済加入はなかった。農業共済制度は水田ー洪水氾濫地の関係を背景としており、安定した水田経営を維持する目的が強い。九州地方の川内川を代表例とした水田の分散所有による被害の軽減手法を含めて、氾濫地帯の自主防災の1つである。一般に、不安定な農業経営となる畑作では、農業共済への依存は少ない。安定した水田稲作経営をもとに成立していた東北地方の氾濫対象地の災害文化も、実質的な変転をみせている農業基本法の影響により、少なからぬ変化をみせているといえるだろう。
5.2.3 関東地方の河川
関東地方の水防演習は、利根川で実施される。平成2年度は下流取手地先、平成3年度は中流妻沼地先で実施された。この地点は、利根川の氾濫記録が多く、利根川治水の難所である。そのため、水害予防組合法(明治41年制定)にもとづく地方公共団体から独立した地縁的組織である水害予防組合が存続している(中利根川小貝川沿岸水害予防組合、大里郡利根川水害予防組合)。
水害予防組合は、水防法制定当時(昭和24年)に全国で661組合が存在していた。水防法の改正(昭和33年)により水防事務組合への移行(行政組織化への移行)が整備されたこと、防災を行政へ依存する傾向が社会的に強まったこと、および、治水施設の進歩により、水害予防組合は全国で極端に減少し、平成3年4月現在では、わずかに17組合となっている。その内容を表5.2でみると、利根川水系が最も多く、利根川・荒川水系が全国の76%強を占めている。なお現在の水防管理団体は、市町村が大部分を占め、次いで水防事務組合(水防に関する事務を共同に処理する市町村の組合)、もっとも小数なのが水害予防組合となっている。なお、利根川・荒川水系の水害管理団体の変遷は表5.3のようである。
利根川の水防演習は、全国水防演習の端緒である。昭和10年の利根川大水害を経て、内務省土木会議においては「水害防備策ノ確率ニ関スル件」を決議した。この決議にもとづき、昭和11年より、内務省東京土木出張所と茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・東京の各府県によって水防演習が実施されることとなった。第2次大戦中から第2次大戦後の中断の中で、昭和22年の大水害が発生した。そこで、昭和27年より第1回利根川水系聯合水防演習が、破堤地点である埼玉県北埼玉郡東村で実施され、昭和62年の水防月間制定により全国9地区で水防演習が実施されるようになった。利根川水系連合水防演習は、首都圏の大演習会であるため、多数の河川・防災関係行政機関が参集する。そのため、演習の企画・実施は建設省を中心とした行政主導型の色彩が強い。
水防演習を実行する水防団体も、行政主導による演習意識が強い。行政主導型とはいえ、北海道と比して、形態を異にし、「下賜」の概念はない。都市型の強い行政依存となっている。全国的には水害予防組合が存続している稀有の河川とはいえ、行政主導型のもっとも強いところである。
5.2.4 北陸地方の河川
北陸地方の河川は、急流河川が多い。そのため、水防演習では、他の地方と比して急流河川を意識した技術訓練が多用され、川倉・蛇籠などその代表である。その技術レベルー災害文化の程度ーは、高い。高度な技術レベルを保持している要因は、融雪出水との関係に求められる。毎年、融雪期に出動していることから、伝承と意識の高揚が明確である。新潟県小千谷市の水防活動では、昭和36年、58年に蛇籠の石を運ぶため、基幹線の列車通行さえ水防団により停止させている。
活発な水防演習を展開する中でも、都市部と農村部との混乱も認められた。農村都市の場合、個別水防組織(分団)の中に、都市部の農村部の団員が共存することが多い。しかも共存する水防団員が、災害文化に対して共通の認識を持っていない。災害文化が都市で低退性を強くしていることは一般的な傾向である。しかし、農村都市においては急激にかつ極端に伝承が絶えてしまう傾向がある。大都市の場合には、都市化の進展とともに漸次希薄になるもの、その中で伝統文化への回帰性も登場している。それは、伝統文化の保存・保全という文化性から生じる。また、伝統文化の発掘が、それ自身文化となるのが都市型といっても良いであろう。
農村と都市の中では、農村部の団員が都市部に対して尊厳性や眺望性の意識は低い。そのため、共存する団員の中で、水防演習の展開に格差がめだつ。
雪への対応方法も、水防組織に影響をみせている。融雪出水に対しては、河川はもとより、農業排水路への関心も重要である。農業排水路は、流量の増大だけでなく、水路中に流雪が堆積して氾濫することもある。そのため、洪水に対する災害文化は、農業排水路の除雪を重要な関心対象とし、水共同体で成立してきた。国鉄が鉄道沿いに流雪溝を設けて除雪を実施したことをヒントに、昭和初期に新潟県小千谷市では、農業用水を使って市街地の融雪溝を整えた。近年、北陸地方では流雪溝による除雪がさかんになってきた。この流雪溝の活用では冬期に農業用水や河川の流量が確保されるか否かによって形態が異なる。水の確保ができる地域では、除雪時間は自由である。しかし、非灌漑期の水が得られない地域では、河川水を導入しなければならない。河川水の導入時間にあわせて除雪しなければならず、地域の組織的対応が必要となる。新潟県小出市は前者の事例で、小千谷市は後者の事例となる。小千谷市では、2時間のポンプ導水に応じて、町内会が組織団体の役割をはたす。積雪のある都市では、道路の雪踏みを実施するが、小・中学校のPTAが学区ごとに組織団体の役割をはたす。個人の家の除雪は、降雪のある一時期に集中して行うため組織化はできず、核家族の方向も組織化を阻害する。集合住宅など各個の除雪を必要としない住民は、道路管理者への除雪依存度を強めている。積雪・融雪への対応は、従来水共同体を中心に可能であったが、新しい融雪溝の設置により、住民組織の必要性に反して個別目的ごとの組織に区分(組織活動の分断化)あるいは組織化を困難にしている。したがって、自治体行政からも、地域住民のリーダーからも、消防・水防組織への期待を求める声は大きかった。
5.2.5 中部地方の河川
全国水防演習の中で、演習に(参加)出動する地元団体が演習内容に最も「こだわり」を見せていたのが中部地方である。この「こだわり」は、消防団・水防団が災害文化の担い手としての自意識に富み、地域を守ってきているという気概に満ちたところから発する「誇り高き集団」に因るものである。
水防演習の準備(リハーサル)や演習当日に会場で見聞した「こだわり」の事例は、近世・近代・現代を通じて積極的な河川改修が実施されてきた地域でのことである。
・水防演習指導者の号令「これより指揮をとる!」に対する拒否。
全国水防演習では、主催者は建設省および県であるが、演習参加者への指示は地元代表者(開催地自治体の消防団長)が指揮者となって行う。平成2年度天竜川上流飯田市で開催された水防演習では、所属団長以外の指揮者の号令は受けられないとして混乱していた。天竜川上流の谷底平野は(伊那谷)、上伊那地区と下伊那地区に区別され、氾濫現象が異なる。また、洪水氾濫に対応する史的経験も異なっている。そこで、上・下流の水防団体は互いに他の組織の命令に従属できないという意識発露で、「おれたちは、人夫じゃない!」との怒号が飛び交った。
・号令・敬礼の方法
各分団ごとに、号令。敬礼の行い方が異なっており、その伝統に固執し、統一行動への拒否を示した。団員同士では敬礼はせず、団員外にだけ敬礼するという習慣の組織もあり、団員外に敬礼する理由は帽子をとり頭を下げるあいさつより簡便であるという実践型習慣を強調していた。
・未経験水防工法への演習拒否
未経験な水防工法や建設省考案の水防工法に対して、拒否反応をを示し、数人の代表者だけで演習実習を「試みる」団体もあった。その意志に反して、伝統工法の改良については積極的で、竹蛇籠の上部を鉄線を利用して広げ、詰め石が入り易くした。さらに、河道整備により河原の石が減少したことを契機に蛇籠を杭を打って積み土俵を代用するなど、現場に応じた方策を探求している。
・消防団への参加拒否
水害予防組合が消失し、水防法上の水防管理団体は大部分が、市町村に変化している。したがって、消防団を中心に各地の水防演習が実施されている。しかし、消防団と水防組織がかならずしも整合しているわけではない。天竜川上流の谷平野では、段丘の発達が顕著で、上位段丘と下位段丘とでは防災に対する意識が伝統的に異なっている。近世・近代に築造された天竜川の堤防(惣兵衛堤を代表例に川除堤が配置されてきた)には、地先堤防ごとに堤防区を作り、強固な組織を形成してきた。その強固さは伝承も強く、昭和36年水害で破堤した惣兵衛堤をめぐって、左岸の喬木村では「万歳」を叫んだことや、対岸に渡って堤防を破壊したことなどが伝わっている。一方喬木村対岸の上郷町では、毎年古地図を用いた「絵図開き」(土用干し)を行い、酒宴を催しながら喬木村との水争い(洪水・渇水期)の伝承を行っている。
こうした社会的背景をもとに、上郷町の低位段丘の住民は、町消防団とは別の表現を強調し、水防法上の組織とは区別して自主的な水防組織(水利組織)を継承して水防演習参加は一般部に参列していた。
・演習技術に対しての評価
聖牛などを用いた演習では、設置地点を明確にする必要を強調していた。洪水時に聖牛などの水制を用いるためには、その組立場所は、投入地点により選択される。すなわち、投入地点から逆算して組立地点を決定する。組み立てられた聖牛は、回転して投入地点に至る。その技術は、団員の職人芸に相当する。組立だけの演習では、実験的でないとの主張である。
また、木曽川の演習では、木曽川右岸特有の「屏風返し」の伝統的技術をみせる一方で、土のうが持ち上げられない団体に対し、「小田井人足!」をやっているのかけ声があがった。「小田井人足」は、庄内川右岸の遊水地で使われてきた。小田井地区(遊水地)は、尾張藩の命により、遊水地の切堤をとり除く任をおびていた。
自らの土地へ洪水を導入するための任務であることから、藩命に従いながらも、工事の時間を長びかせる工夫をしてきた。つまり「みせかけ労働」の工夫である。そのため仕事のはかどらないことが「小田井人足」と呼ばれるようになった。
5.2.6 近畿地方の河川
近畿地方の河川では、都市が水害の対象となることが多い。そのため、災害文化の稀薄性が都市に顕著であるとはいえ、水害体験が災害文化を支えている。淀川左岸水防事務組合では、水害体験の伝承を基調とした組織づくりに熱心である。建設省の新造したアクアライナーや釣船を使った日常の河川の見学、木曽川などの研修、「土木の日」を活用した水防体験の実施、行政への技術伝達など、活発な働きかけを行っている。「旦那衆」が幹部に参加していること、青少年指導・体育指導員が加わっていること、建設省・大阪府・大阪市との連携が比較的良好なこと、日本銀行と朝日新聞が水防出動を有休扱いとしているほか中小企業に有休扱いが多いことなどに因り、水防組織の維持(災害文化の活用と伝承)が継承されている。しかし、この継承も第2室戸台風による高潮被害を経験した此花区・港区・大正区と他地区との差異も認められる。淀川左岸水防事務組合では、経験者の保持を目的に組合員の停年制を廃止したが、実務と伝承の矛盾に悩み、枚方、寝屋川、守口各市の農村地帯に残っている世襲性を啓蒙しているが都市化の影響を強く受けつつある。
水害体験の伝承を市民行事に仕立てあげている事例として、由良川中流部の福知山盆地で行われる「堤防まつり」・「花火大会」がある。明治29年、同40年の大洪水を契機に、明治45年に福知山市街地を守る堤防が完成した。さらに、大正12年、由良川治水期成同盟会が結成され、由良川改修の請願が繰り返された。昭和2年3月、丹後地方を襲った地震は、福知山市街地の由良川堤防を破壊した。この災害復旧にあたって、鋼矢板による低水路部遮水壁と、旧堤石積前面にコンクリートを張立てた。堤防を鉄筋コンクリートで補強し、まだ生産をしていなかった鋼矢板をドイツよりとりよせて作った福知山の堤防は、当時他に類をみなかった。工事が災害復旧であるため、この工事の施工には主任査定官の大英断があった。そこで、地元では、主任査定官岩沢忠恭を評してこの改修堤を岩沢堤防と呼ぶようになった。この工事に際して、地元数千人が嘆願書を提出し、これらの地元民を中心に堤防完成後の昭和6年8月に「花火大会」が挙行された。翌年、この花火大会に付随して「堤防まつり」が行われた。地元民の組織は、昭和12年に「堤防愛護会」となり、以来今日まで「堤防まつり」・「花火大会」が続き、福知山市最大のイベントの一つとなっている。この間、「堤防愛護会」は昭和30年に福知山信用金庫より100万円の寄付を受けて神輿をつくり、さらに昭和59年には神輿倉を神社として整えた。神社殿建設のため「堤防愛護会」は約2,000万円の寄付を集めた。なお現在「堤防まつり」の協賛事業として「花火大会」が行われ、花火大会は両丹日日新聞と福知山観光協会が主催している。水害経験、改修促進運動、伝承を都市型の方策として展開した事例といえよう。その展開を支えているのは、頻発する浸水に対する自衛手段としての3階建ての家屋(3階屋根裏部屋の天井に滑車を設け、浸水時に家財を3階までひきあげる。そのため家の中は吹き抜け構造になっている)や個人の浸水位記録が多くみられる福知山市街地の災害文化にあろう。
5.2.7 中国地方の河川
中国地方の河川は、渓流河川が多く、大規模な氾濫地が少ない。そのために、水防演習では、通行不能対策としての転倒電柱の取り除き復旧、倒木の撤去、転石の撤去、土砂の撤去、自転車・自動車の救出などが特徴的である。それに反して、木流し、土のう積みの簡便なものから五徳縫い、月の輪、釜段工、折返しなどの工法は技術的に低位である。
江ノ川中・下流部は、その特徴がとりわけめだった。ここでは、水防活動の言葉も工法も知らない参加者が多かった。土積みの経験もないという消防団も多い。水防活動ではなく、まず避難なのである。避難は、近くの2階屋→天間→川船で山(神社・寺)への順で大正8年、昭和18年、同19年、同20年、同47年と経験者は多い。江ノ川沿いの三江線鉄道は、大正8年の水位を基準に建設された。そのため、その後4回の洪水では、いずれも水没した。鉄道の水没は、トンネルを導水路として下流集落を激流が襲う。そのため、昭和47年以降三次~江津間に6ヶ所の鉄道陸閘が設置された。この陸閘は、手動と電動とが併設され、3名1組で各2組の地元民が担当し、5~10月は各月に、他の期間は2回の点検・実地訓練を続けている。唯一の水防活動である。
江ノ川沿いの鉄道と道路は、三次~江津で「5分水で不通」の状況下にあり、江津市街地上流点では、「5分水」で不通となる。そのため、「巡視に出て帰れなかった」との体験(昭和36年、同41年、同47年、同58年、同61年、同63年)も聞き取れた。しかも、道路は崩壊土砂、倒木により度々不通となる。「巡視のこわさ」は、情報収集を困難にしている。そのため、水防演習では、他に例を見ない種目が行われている。県警によるモトクロス実演で、巡視のための専従パトロール隊である。
こうした江ノ川中・下流部は、集落から集落への情報が期待できなかった。土地生産性も低く、岩見鉱山と良質の炭山を生産基盤としてきた集落は、水共同体をつくる条件も乏しかった。そこで、この地域では、血縁関係を頼りにしながら、基本的には各戸で洪水対応を経験的に集積している。水害頻発地と外村とが一致しているのもその実証になろう。外村は、便利度との選択が明確で、川船を使って避難する形態も、水害地ー外村ー川船に近いという様式に連なっている。反して本村では、避難の経験も少ない。
現在の江ノ川中・下流部では、盛土による住宅地の造成や築堤が進められている。桜江町の江川堤は昭和53年に完成した。同58年の洪水時には、堤防の効果で氾濫しなかったが、漏水が数ヶ所あった。しかし、避難も水防活動も実施しなかった。江川堤に隣接している家では、漏水は確認したものの、堤防にとって危険であるとの認識はない。この家の中年の世帯主も70歳をこえたその父親も「堤防から洪水を見たのは初めて」という。彼等は、河原と家の2階と山上の神社へ至る石段から、江ノ川を見つめ続けてきた。彼等の言葉をかりれば、江ノ川は山と山の間を流れている。近年築造された堤防を「山」がつくられたと表現していた。この集落の7名のヒヤリングでは、共通した表現を聞いた。「山」であるから堤防への不安はない。昭和47年水害後の江ノ川の築堤以降、まだ破堤・溢水の経験はない。したがって、従来の避難や家の立地を中心とした災害文化から離れてはいない。その災害文化の中で、自然与件が大きく変化した。堤防により河道が決定した自然与件に対する新たな災害文化はまだ成育していない。河川改修が進み、技術への信頼や行政責任への転化から意識的にも無意識のうちにも、災害文化を離脱する方向とは異なり、従来の災害文化を基盤においている。堤防を「山」として認識する段階から、災害文化を離脱してしまうのか、あるいは新たな自然与件をもとに新たな災害文化を形成していくのか、江ノ川の注目すべき内容である。
5.2.8 四国地方の河川
四国地方は溜池の分布が密である。とりわけ土器川流域は溜池灌漑の全国的代表地帯である。
溜池灌漑地帯は、水共同体が強固である。水利秩序が複雑で、水利紛争が度々発生する。洪水氾濫に対する方策も豊富で、畳を使った氾濫防止や、水害防備林の多用など、守るべき要所を的確に伝承している。また、水害防備林の竹を活用した団扇の製造は、全国一の生産をみせている。
満濃池を築造した空海の伝承を基に河川・水路への認識は高い。
土器川流域の溜池群に新しい変化を導入したのが、瀬戸大橋の完成と香川分水の通水である。
瀬戸大橋の開通により、土器川下流に新興住宅地が急造している。公営住宅を中心にこれらの新興住宅は、浸水被害を受けやすい地区が多い。この浸水地区を中心に、溜池決壊の不安が増大している。浸水被害地は、水田跡地が多く、その上流側に親溜、子溜、孫溜が配置されている。
昭和62年、平成2年の豪雨では、小規模溜池の決壊を経験し、不安感を強めている。水防活動を実施する消防団は、消防行政の進展により火災出動がほとんどなくなったが、近年水防活動への出動が頻発し、消防団の主任務は水防活動との結びつきを強める。予備放流の導入や水量確保のために行っていた「かけ土居」(杭打ちや板囲いに土俵を押し付け、雨水を溜池へ導入する)を応用して氾濫水を誘導したり、氾濫対応に利水技術や伝統的水防工法を多用し、新資材を使った技術にも熱意を現している。水防演習の工法には、地域性に合致しないことで不評であったが、地域的特性を生かした工法への話題は活発に議論していた。
香川分水の通水は、水不足に悩む溜池地帯に大きな効果をもたらせた。しかし、その効果は、まだ不安感を取り除く経験を得ていない。そこで、溜池を保守し、その使い方は経年貯留型である。したがって、豪雨時には、溜池決壊の可能性を高めることになった。特に、親・子・孫溜の配列から、下流への連続する溜池決壊のエネルギーの大きさに話題が多く出た。
瀬戸大橋と香川分水による水防への意識の高まりは、土器川河道を管理する建設省行政と、必ずしも整合した認識があるとは言えない。上流渓谷部は別として、土器川に対しては、安全性が確保されたという認識なのか、あるいは、土器川の水害防備林の効果が歴史的に実証されてきたためなのか、ヒヤリングの結果は他面である。
5.2.9 九州地方の河川
筑後川は、昭和28年洪水による久留米市の大水害を中心に、沿川市町村における伝承は比較的良好である。とくに、近年建設省の災害キャンペーンに因り、災害に対する伝承が再浮上している。「地雨はこわくない」、「タカトリ夕立(タカトリは山の名)があったら川(筑後川)から子供は帰れ」、「西風でブヨが眼に入るようだと危ない」、「古床山おろしに注意」など、地方性を豊かにしている。とくに、久留米市を除いて筑後川沿川の利水組織と水防組織の人的一致が伝承を強くしている要因であろう。
大淀川の水防演習は、小学生の熱心な見学が特徴的であった。宮崎市教育委員会の方針が大きく影響していたと考えられる。宮崎市教育委員会は、大淀川を全教科の題材として活用することを教育方針で指導している。各小学校は、毎年、どのような方式で大淀川を活用したかの研究発表会を行っている。全国で唯一の郷土学習法で、宮崎市内の母親と子供が大淀川に関する知識は豊富であった。しかし、水防演習の参加者も一般市民も、洪水に関する災害文化という観点からは、理解や認識に稀薄であった。それだけに、小学生教育に大淀川を題材とすることに意義があるとも言えよう。
5.3 都市化過程の災害文化の変遷
5.3.1 鶴見川における災害文化の変遷
鶴見川は、流域面積235?、延長42.5㎞の中規模河川である。標高80~170mの多摩丘陵を水源とし、流域の71%が丘陵と台地で占められている。流域は、東京都町田市、神奈川県横浜市、川崎市の行政区画が分布し、市街化区域は流域面積の77%におよび、都市河川の代表例として1級河川の指定を受けている。鶴見川が重要河川として取り上げられたのは、明治43年の臨時治水調査会の指定に遡る。流域規模や氾濫面積、市街地面積の拡大はごく近年急速に進展したもので、被害規模からみても、第1回の直轄河川指定に入る素因はない。
鶴見川の氾濫形態を大きく変えたのは、明治5年の東京ー横浜鉄道開通である。鉄道は、鶴見川の河口近くで鶴見川を渡る。この橋梁建設では、鶴見川の沖積低地を横断する築堤と橋梁とによって堰とめる形で行われた。その結果、鶴見川の氾濫水位は従来に増して高くなり、かつ氾濫頻度を大きくした。もとより、鉄道建設以前にも、沖積低地の氾濫は常習的であった。そのため、常習氾濫地の土地利用の安定化を計るため、上・下流、左右岸で対立抗争が絶えなかった。対立事項は、築堤の位置・高さを中心として、付洲ざらいや寄洲取り除きに関するもので、死者を伴う水争いの記録が多い。定杭を設け、築堤や洪水時の上置きを規制するなどの取り決めや、氾濫を規制するための控堤に関する規定など、論所堤が多用されていた。また、氾濫源の藪を育成する一方、対立地点の藪刈を行ったり、洲ざらいを有利に展開する仕掛(掻き上げ堤ー河道の土砂を浚渫して築堤するーを造るときに、洪水流が対岸に向かうように土砂取りを選んだり、対岸や下流の藻刈りを行って洪水流を対岸に押しやったり、下流の流通を良くするなどの工夫)など実行されてきた。水争いがあったとはいえ、それなりに水共同体の秩序が整っていた鶴見川は、鉄道の開通により、常習氾濫地の拡大と氾濫水位の上昇を現し、従来の秩序に大きな変革をせまられた。東海道線の建設に当たって、太平洋側の中小河川で水防組織が建設された。しかも小規模な水防組織とは別に、連合的な組織が生まれた。その要因は、中小河川の鉄道橋に対する異議申し立てにあり、政府(鉄道省)に抵抗するためには大規模な組織を必要としたこともある。鶴見川は、第1号に相当する。明治33年に鉄道計画に対する新川計画(放水路計画)、同4年の再願、同20年の分水計画が鶴見川沿川28ヶ村惣代の目録書として提出された。「鶴見川吐ヶ口水開場道へ今般鉄道御築造有形川幅二十間ニ鉄路橋御掛渡、左右ハ高二丈余リ高土手ニ相成リ、サ候テハ川筋村々川災」、この訴えは、この後に太平洋側中小河川の訴えのモデルとなっている。一方、鉄道にとっても、明治11年出水による不通を初めとして、明治40年、同43年と重要な幹線鉄道の不通は鶴見川への関心を強くし、鉄道の保全をもとに鶴見川が早々として直轄河川への指定となった。
明治19年の24ヶ村併合会の開催を経て同21年に水利土功会をもとに水防組織を強化し、明治39年申請の武蔵電気鉄道会社(現東横線)と同40年、同43年の大水害を契機に水防組合が結成された。さらに大正10年鶴見川改修期成同盟を結成、改修運動を高めた。関東大震災後の横浜市域の拡大に伴って、鶴見川改修への運動は再び活発になった。とくに工場群の進出と養蚕の没落(氾濫原への桑畑は、横浜開港とともに活発になったが、中・低木の桑畑が氾濫水位の上昇により被害を受け、上簇(まゆを作らせるために十分発育した蚕を簇に移す)の時期に桑が欠乏し、四斗樽に入れて鶴見川に流してしまった。それ以後、養蚕農家が無くなり、氾濫原の土地利用が低下したことなどが、改修運動への機運を高めた。
昭和9年に設立された鶴見川水害予防組合は、鶴見川改修期成同盟を母胎とした。明治44年の臨時治水調査会で直轄改修の対象河川に指定された鶴見川は、その実現に手間取っていた。そこで、鶴見川改修期成同盟は、国費改修実現のために改修費の地元負担を決意するとともに、地元負担の事務処理機関として水害予防組合を設けた。したがって、水害予防組合とはいえ、改修工事促進が主目的で、水防活動は行われなかった。
昭和14年に改修工事が開始されると、組合の主目的が達成されたこと、戦時下では国家事業促進を目的とする自主組織が好ましくないものと扱われたことを理由に、解散論が出て組合は内紛した。淀川水害予防組合の視察を契機に、改修後の河川管理を主目的としてた組合存続論が優勢となり、水害予防組合は新たな活動に入った。昭和19年には、神奈川県で初の水防団が結成され、水防活動への体制を整え、昭和23年、同24年、同27年、同33年の大出水をはじめとして高い頻度で水防活動に出動した。昭和41年に鶴見川工事実施基本計画が改訂され、翌42年に一級河川の指定を受けて、治水事業が大進展することとなった。時を合わせて、昭和40年代の急激な都市化により新住民が急増した。農地減少に対応するため、土地割りの賦課金を反別から土地評価額に変更した。これらの新住民を中心に、組合の賦課金が税の二重どりであること、水害対策は行政責任であることが主張され、都市化に伴う組合区域の変貌が激しく組合員の把握が困難になってきたこと、水防団員の老齢化がめだってきたために活動が低下してきたことなどを加えて組合解散論が再燃した。昭和59年3月、組合は解散した。水害予防組合解散への経緯では、新住民の河川への理解が稀薄で、旧住民による水防意識が伝達されなかった。この点の認識を基に、解散後に新たな水防組織である鶴見川水防協会が設立された。この組織は、法人格を有さず、任意団体であるが、非常時の水防活動のほかに、河川環境浄化や河川理解への施策を加えた新組織とした。
地域との一体化した組織とするために、旧組織に参加していなかった自治会、町内会を加え、旧水防団員を中心とした水防隊を設けた。水防隊の団員は、消防団の分団を地域的に一致させた。
また、都市化の進展に伴う新水防区を新設して水防体制の強化を計った。こうした新組織により、洪水氾濫区域外の水防団も水防活動に参加することとなり、訓練を加えて参加性は極めて高い。
例えば、水防団との兼任が最も多い鶴見水防団(団員49名、30~40代の自営業者主体)では、水防、消防を加え年間100回程度の出動(訓練・研究会等を含む)を記録している。
しかし、鶴見区より上流氾濫地對では、都市化が昭和50年代以降に顕著で、また築堤やポンプ排水機場の設立など改修工事が進んだことも背景に、氾濫に対する意識は急激に低下している。
当時、社会的に河川環境への関心が強くなり、洪水氾濫への関心はむしろ敵対関係にすらなった。
上流町田市など、行政上の直轄区間、県管理区間に編入していない地区では、頻発する浸水に対応した町内会組織が結成されているが、鶴見川をめぐる住民組織は、鶴見川河川環境を目的としたものが多数つくりだされている。
鶴見川の水防組織は、鉄道建設以来、改修工事の促進を主目的としてきた。政府・行政機関への災害文化を育む重要な要素である地域間の対立関係を消失させた。そのため水防活動も他地域との競合をみせることもなく、洪水時には鉄道、道路橋の流木取りと土俵積みのほか、水門操作や孤立家屋からの避難援助などが行われてきた。そのため都市化の急激な進展の中で集落ごとの家屋立地の選択(氾濫水位の観察による立地選定や盛土)や戸別の氾濫対応(氾濫水の引き際に土砂を洗い流したり、畳や家財の避難など)までも、伝承することもなく関心が失われている。
5.3.2 境川の都市化と災害文化の変遷
境川は、流域面積211k㎡、延長49.8㎞で、神奈川県城山町の標高200mの山間から流れ出る。城山町から東京都町田市、神奈川県相模原市、大和市、藤沢市、横浜市瀬谷区、戸塚区を流れ、藤沢市江ノ島西で相模湾に注ぐ。流域は巾約5kmの長方形状をなし、流域の30%が山地で、平坦地の占める割合が大きい。平坦地は、台地・丘陵上と境川沿川の沖積低地で、沖積地に水田が分布している。平坦地が多いため、都市化に有利な条件を提供している。そのため、昭和30年には、山地・農地が86%、市街地が14%であったものが、平成2年には市街地が71%となっている。
流域人口をみると、昭和30年に22万人が、昭和40年に51万人、昭和53年には102万人と倍増しつづている。
都市化の進展にともなって、表5.4にみるように洪水氾濫による被害が増大している。
境川流域の土地利用の特徴は、現在では市街地の形成で混在しているが、昭和30年代までは台地・丘陵沿いに集落、台地上に畑、河川沿いに水田と分布が明瞭であった。さらにこの水田地帯に特徴的な事項「サバ神社」の存在がある。水田地帯としてもっともまとまりがみられる中流部(横浜市瀬谷区、戸塚区、大和市、藤沢市)に、12の「サバ」神社が集中している。それらの神社は、境川からの取水堰および用水路が集中していた地区である。それらの取水堰用水路は、河川改修による統廃合、撤去、変更および市街化によりすでに消失しているものが多く、位置の確認が明瞭ではない。記録・聞きこみを総括すると、次の取水堰が集中していた。すなわち下鶴間堰、上瀬谷堰、竹村堰、島津堰、本郷堰、鹿島堰、大門堰、久田堰、北村堰、宮久保堰、城山堰、下分堰、飯田堰、上和田堰、下和田堰、高倉堰、高飯堰、七ッ木堰、杉ノ木堰、元木堰、今田堰、俣野堰などである。これらの堰は、いずれも土堰で、3月~5月に松の木と土俵により組みたてられた。
この境川の堰群と用水路の単位は、「サバ」神社の氏子と一致する。たとえば、瀬谷の佐馬神社境内を囲む石柵に刻石された寄品者氏名(氏子)を追求すると、大門堰、久田堰のかんがい区と一致し、また、氾濫区域とも一致する。
境川中流部の水田地帯は、「サバ」神社が水利組織区域を見わたせる丘陵地あるいは高位段丘上に位置し、神社にもかかわらず鐘楼が付設されている。「サバ」神社の由来は、源佐馬頭義朝、満仲を主神としている。義朝は頼朝の父であり、満仲は源氏興隆の功績者である。「サバ」神社は、鎌倉街道上道・中道に沿って配置されている。
境川中流部は、「サバ」神社を水共同体の1単位とし、取水堰の構築、水争いへの対応、洪水への対応(取水堰築の土俵づめの土砂を水防資材とも兼用して備蓄し、洪水時の堰撤去の判断や、水田の分散所有による被害軽減など)などが行われてきた。神社の鐘楼は、氏子への情報伝達として使われ、各種の祭礼もコミュニケーションづくりとして活発に行われてきた。
昭和30年代以降の境川の変化は、次の事項により境川中流部のコミュニテーを崩壊させた。
1.都市化の進展による水害の増大を受けて、近年境川の河川改修が大規模に行われた。大巾な河床低下のため、従来の用水取水が困難となり、付帯工事により、新たな取水体系が造りだされた。水田面積の減少を基に、合口堰や新堰を建設し、また廃止した取水堰も多出した。その結果、従来の用水路を含めて、新たな水利秩序をつくりだした。しかし、施設の維持管理が過重な負担となり、新しい水利秩序は、発展をみせていない。
2.都市化の進展とともに、生活排水・工場排水による水質悪化が顕著となり、昭和46年~55年には、BOD20ppm以上を連続して記録し、神奈川県を代表する水質悪化河川となった。そのため、農業用水としての利用が困難となり、河川改修に付帯した合口堰や新設堰も取水を止めてしまうか、地下水を汲みあげて希釈したりしている。取水を停止した灌漑地区では、住宅地の進出を混在させながら数戸の農家あるいは各戸で地下水利用を新設して水田経営を行っている。その結果、従来の水利組織が大きく後退した。
3.「サバ」神社を中心とした水共同体は、農業水利組織の崩壊と、新住民の増加、さらに古くからの集落は浸水対象でないことにより、新たな水共同体へとの転換がみられない。
境川流域の災害文化は、都市化過程の中で伝承が切られようとしている。その一方で、河川環境への要請も強くなり、治水と環境との調和が重要な課題となっている。また、都市化による地域コミュニティーの欠如をどのように構築するかを、行政も地元も模索している。
横浜市域あるいは神奈川県の都市部の中では、境川流域は農地面積率が高い。残された水田は、近年の統合治水方策としても貴重な土地利用形態である。「サバ」神社の祭礼は、近年関心が高まり、にぎわいをみせている。しかも、古い集落に、災害文化の集積も残されている。災害文化の観点からみれば、境川の都市化過程による災害文化の後退と復興への可能性の条件を認めることができよう。
5.4 災害文化の地域性と普遍性
災害文化は、地域性に富んでいる。その地域性は、自然条件と社会・経済条件とを背景として成立してきた。
前記の「水防演習からみた災害文化の地域性」では、以下の観点から地域性を追求した。
北海道地方の河川―拓殖事業と災害文化
東北地方の河川――農業基本法の変転と災害文化
関東地方の河川――首都圏と災害文化
北陸地方の河川――農村都市と災害文化
中部地方の河川――郷土意識と災害文化
近畿地方の河川――水害体験の伝承と災害文化
中国地方の河川――河川改修と災害文化
四国地方の河川――社会環境の変化と災害文化
九州地方の河川――教育体制と災害文化
自然環境の変化ー各時代の自然与件ーに対応した洪水経験が得られる場合には、伝統的な災害文化が基底となって、新たな災害文化が構築される。しかし、社会・経済条件の影響が強い場合には、洪水経験が豊かであっても、新たな災害文化の形成は容易でない。とりわけ、行政主導型の災害文化の伝承では、新たな災害文化の形成は困難である。
行政主導型の災害文化の育成・伝承が困難であるとはいえ、社会・経済的条件が地域に与える影響が強い近年では、行政主導は欠かせないだろう。その場合、行政主導が、災害文化の普遍性を基盤として地域性を強調する方向では、災害文化の基本に反することになる。他方、地域性を基盤とする場合には、地域住民と河川とのかかわり方の選択が第1義として議論されなくてはならないだろう。その議論を展開する前提は、「治水とは何か」から始まり、治水指標の上昇を防災力の向上と評価するにとどまらず、治水効果と妥当投資額の選別をも必要としよう。現在、水防活動に出動すべき対象者は102万人を越えている。災害文化に関与する人口と考えれば、大きな可能性を提供している。
第6章 災害文化の定量的評価 ――津波来襲時の音響―― 首藤伸夫
6.1 序
津波襲来に際し大音響が前駆現象としてあったという報告や言伝えが、数多く存在している。
青森県北部の三沢市などでは、「地震海鳴りほら津波」と記した記念碑が立てられ、現存している。もし、その発生の原因と条件が確かめられるならば、来襲直前の現地に於ける津波警報として利用できるであろう。
6.2 音響に関する過去の認識
6.2.1 昭和三陸大津波の提案
昭和8年三陸大津波の後、二つの提案があった。
その一つは、森嘉兵衛(1933)のものである。それによれば、「第一に津波襲来余地の教訓としては
イ.津波は周期的に来襲する事、少なくとも四十年に一回襲来する事
ロ.津波を伴う大地震の起る前年は常に平常より大漁である事
ハ.津波襲来は大地震後二十分乃至三十分位の時間差がある事
ニ.津波襲来にはその十数分前に日常の干満に無関係な大引潮がある事
ホ.津波来襲数分前は大砲を発射した様な大音響の伴う事」
となっており、音響を津波予報に使うことを推奨しているのである。
第二は、震災予防評議会(1934)のまとめた「津浪災害予防に関する注意書」の中にある。例えば、宮城県昭和震嘯誌に記載されたものを引用すると、次の通りである。
「第三章浪災予防法
津浪警戒 津浪余地の困難なるは地震予知の困難なるに等し。然れども津浪の波及は緩慢にして其の発生より海岸に到達するまでに三陸東沿岸に於いては通例少なくとも二十分間の余裕あるを以て、器械或は体験によりて其の副現象を観測し、之に依りて津浪襲来の接近を察知し得べし。
津浪の副現象は左の如し。
(一)津浪の原因たる海底変動によりて大規模の地震を伴う場合多し。地震動は之に緩急種々の区別あるも概して大きく揺れ且つ長く継続す。
(二)地震と津浪とは同時に発生するものなれども伝播速度に差あり。其の発生より海岸に到達するまでに地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども津浪は二十分乃至四十分を要すべし。
(三)遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり。地震後五六分乃至十数分目に来るを通例とす。
(四)津浪は三陸沿岸に於いては引潮を以て始まるを通常とすれども然らざる場合あり。爾後海水は一進一退を繰り返すこと多次なるべく、多くは第一波が最大なれども、第二波或は第三波が最大なることもあり。潮の進退は其の速やかなるときは毎秒十米に達することあり。
津浪は概して以上の如き順序によりて起るを以て、単に体験のみに依りても警戒の手段あり。
若し之に加うるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、団体組織等を以てせば一層有効なる警戒をなすを得べし。」
ここでも、現地での判断の一助として以上音響に注意することを奨めている。
6.2.2 外国での判断基準
音響を伴うことは、外国でも認識されている。Ambraseys(1962)は、津波強度の定義の中に取り上げている。即ち、修正ジーベルグ津波強度IAは、I(verylight)、II(light)、III(ratherstrong),IV(strong),V(verystrong),VI(disastrous)の6段階からなるが、その中の強度Vの内容は次の様に定義されている。
「V.Verystrong.Generalfloodeingoftheshoretosomedepth.Quayーwallsandsolid
structuresneartheseadamaged.Lightstructuresdestroyed.Severescouringofcultivated
landandlitteringofthecoastwithfloatingitemsandseaanimals.Withtheexceptionofbig
shipsallothertypeofvesselscarriedinlandorouttosea.Bigboresinestuaryrivers.
Harbourworksdamaged.Peopledrowned.Waveaccompaniedbystrongroar.」
すなわち、大音響の発生の有無が津波強度決定の一因子として取り上げられている。
これがどの位の波高に相当するかを、推定してみよう。KajiuraandShuto(1990)は、IAと次式で表わされるSokovievの強度ISとの関連を考え、
IS=log2(21/2H)(6.1)
IA=3及びIA=6はそれぞれ、IS=0-0.5(H=0.7-1m)、IS=3-3.5(H=5.7-8m)の程度であろうとしている。この間にあるIA=5に対応する津波高を推定すると、3mから5mの程度となる。
6.3 音響の分類―明治三陸大津波―
6.3.1 音響の種類
明治三陸大津波に対し、音響の種類を取りまとめると、以下の表-6.1のようになる。
これらについて、典型的な記述(首藤、1990)を抜粋すると次節の通りである。
6.3.2 音響の事例
(1)海上で聞いた音響(海震或いは地震の音)
岩手県宮古湾沖合:「○海嘯の前兆大災の前兆に就いて確たる原因と認むべき異状なかりしも当日鍬ヶ崎の漁夫等が女遊戸沖に出で漁業に従事し居たるに沖合に幽に鳴動聞えた」
(2)海上で聞いた音響(陸地方向の音)
岩手県陸前高田市広田町:「広田村小西幸太郎なる者の直話によれは同人は海嘯の当日沖に在りて漁を為し居たるに陸地の方に当りて只ならぬ物音聞えしにぞ異変あらんとて急ぎ帰途に就きたるに向ふの方より床板の上に乗りて九十余の老婆波間に浮沈し来りたりさては海嘯かと之を熟視するに豈に図らんや是ぞ己が祖母ならんとは」
(3)陸上で聞いた地震時の音響
北海道十勝郡:「六月十五日午後八時十勝国茂寄村海面沖合ニ於テ遠雷ノ響クガ如キ音響ト共ニ微震アリ、其振動ニ比シ地震長ク且ツ大ニシテ殆ント五分間ニワタリ」
(4)退き波時の音響
岩手県田老町:「○海嘯を見る小湊の人海岩の高處に在りて異様の波の音を聞くと同時に海潮退くこと三百間余」
(5)襲来した津波による、他地点での音
岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里:「地震より凡そ五分間を過きたと思ふ頃何處となく轟轟と鳴り響く音あり初めは石臼の音と思ひたれと追々此音響は近接する……而して轟々の音止まずして益々接近するものの如し遂に戸外を望むこと三回目のとき海上激浪を湧かして白色銀彩あるを見、思はず海嘯なりと絶叫せしは已に目前に逼りたる時にして此一刹那海岸にありし家屋は一斉に倒潰して百雷の轟くが如し……先に轟々の音響ありしは疑もなく激浪の湾外の岩石に撞突せし音なり」
(6)襲来地点で発生した音
岩手県下閉伊郡小本:「小本村の中なる中野にては沖の鳴るかと思ふ間もなく家屋破壊陥落し然る後海嘯の襲ひ来るを見しと云ふ」
(7)発生場所を特定できない例
「本吉郡唐桑村字鮪立……六月十五日……午後七時四十分大砲ノ如キ音響アリシヲ以テ不審ニ思ヒ如何ナル変事ヤ起ルヤラムト二回ノ音響毎ニ時計ヲ見居リシニ……俄然頭上ヨリ水溢レ掛リシカハ互ニ何事ナラムト言フ間モナク潮水ハ已ニ室内ニ充満セリ……」
(8)音響無しあるいは不明
岩手県釜石湾南湾側:「釜石白浜区……別に音もなく兆もなく俄然捲取られ」
6.3.3 津波による音響の表現
これらの音響の中、本論文で対象とするのは、津波によって生じた事が明かである。次の4つである。
先ず第1は、巨大な波が断崖に激突して生ずる音を遠距離で聞いたもので、砲声、遠雷、発破の様だと表現される。
第2は、同じく大音響であるが、襲来した浜辺で巻き破砕波を起こし、その際発生するものがある。
第3は、砕波が継続するために生ずる音である。比較的勾配の緩い海岸で発生しやすいが、津波の高さが高く、前面傾斜が急であれば深海でも発生する。ノンノンノンと不思議な、不気味な音が続く。ザーッ、ゴロゴロ、ゴーゴー、強風吹き荒ぶ等とも表現される。浜近くでは、砂礫の動く音も加わっている。
第4は、強い引き波による流れのため、浜の砂礫が移動して発生する音である。津波来襲直前に聞かれることがある。
6.4 津波による音響の発生条件ー昭和三陸大津波ー(首藤、1993)
6.4.1 発破の様な音響(遠い発生源)
離れた地点で発生した大音響を聞くと、大砲のような音、発破のような音、雷鳴や遠雷、と表現される。音響を聞いた地点、音のした方向、音発生後の到達時間の関係から、発生源が特定出来、しかも発生させた津波高を精度良く求められる例は、次の通りである。
(1)岩手県普代
普代:第一波襲来4分前。風の如き音。東南方。
音発生地点:普代の浜から約3キロ離れた黒崎地点。
津波高:6~7米程度。(普代第一波15尺、痕跡高7.5米。田名部痕跡高は7.4米、8キロ東南方の羅賀で痕跡高8.4米)。
(2)宮古湾湾口およびそれより北の海岸
崎山村:津波来襲5分位前。ノウノウという野砲の発砲位。沖の方角。
閉伊川川口付近:第一回の津波襲来約5分前。ゴーと大きな音響。
音発生地点:閉伊崎。距離は5~6キロ。
津波高:閉伊崎での痕跡高は9.6米。
(3)山田湾
山田湾北岸の大沢:津波来襲7-8分前。東南の方向。遠くより自動車でも走って来るような音。
山田と織笠の間にある伝作鼻:地震後約10分。「ドーン」という砲声に似た音響。
音発生地点:霞露岳のある半島の先端。距離は大沢で9キロ、伝作鼻で8キロ。
津波高:小谷鳥での痕跡高6.6米。
(4)岩手県大槌湾
鵜住居地区箱崎:津波襲来約10分位前。真東より15度位南の方向。遠雷のような音。
音発生地点:大槌湾と両石湾の境にある半島の先端。距離5キロ内外。
津波高:5米内外。(箱崎の痕跡高4.3米、隣接する両石湾内で痕跡高10米、さらに釜石湾内での痕跡高2.7~3.5米)。
(5)釜石湾
平田:津波来襲前約5分。雷の如く、爆発物の如き音。
音発生地点:東に伸びた湾南側の半島の先端尾崎。距離は6キロ。
津波高:5米内外。(釜石湾北岸の泉田で痕跡高3米、鎌崎で痕跡高4.9米、平田で痕跡高3.7米、この半島南側の佐須で痕跡高が6.1~8.5米)。
(6)ー1唐丹湾
小白浜:津波襲来の7、8分前。遠雷の如き、大砲の如き、石垣の崩れるが如き大音響。東南の方向。
音発生地点:唐丹湾南岸半島の死骨崎付近。距離5.5キロ。
津波高:5米内外。(唐丹湾北岸の佐須で痕跡高6.1~8.5米、南岸の半島を少し奥へ入った大石での痕跡高が5米、また南の吉浜湾北岸の千歳での痕跡高が6.3米)。
(6)ー2吉浜湾
吉浜(湾奥):津波襲来15、6分前。沖合。大砲のような音。
千歳(湾口):津波来襲5分余り前。「ザアザア」と大風のような音。
音発生地点:(6)-1に同じ。距離は3キロ(千歳)、8キロ(吉浜)。
(7)越喜来湾
浦浜:津波前5、6分位。沖の方。大砲を打った如き音。
小石浜:地震後20分乃至30分。二度あるいは三度沖合の方向に音。
砂子浜(湾口に近い):津波来襲約7~8分前。釜石以東の海上に大砲の如き音。或は、地震後20分程で大砲の様な音を二度東方に聞いた、または三回聞いた。
音発生地点:北岸の大塩崎あるいは南岸の脚崎。距離は、浦浜まで7キロ、小石浜4キロ、砂子浜3キロ。
津波高:7米弱。(崎浜痕跡高7.6米、小石浜痕跡高8.3米、綾里湾綾里岬先端近くの痕跡高7.5米)。
(8)綾里港湾
港:津浪10分前。東方。遠雷の響きのようにドドンと微音。
音発生地点:綾里岬。5キロ程度。
津波高:7米。(綾里岬先端で痕跡高7.5米)。
港地点と音発生源との中間に山があり、遮蔽されたためか音は小さかった事が伺われる。
(9)大船渡湾
下船渡:津浪10分位前。ドーンと大砲でも撃った様な音。釜石沖の方向。
大船渡:本震後30分位(津波来襲10分程度前)。南東の方にドーンと云う余り大きくない音響。
音発生地点:大船渡湾入口南岸の碁石岬、あるいは北岸の長崎。距離は7キロ。
津波高:7米前後。(碁石岬で痕跡高6.5米、長崎で痕跡高8.0米)。
(10)ー1門之浜湾・大野湾
只出:津浪前10分位。東南方向。発破のような音。
音発生地点:根崎近くの黒崎社のある辺り。距離は4キロ。
津波高:7米強。(痕跡高は広田崎で10.5米、集で10.5米、岩倉で8.2~12米、黒崎社のある岬先端で7.5米)。
(10)ー2広田湾西岸湾口付近
泊:地震後25分程。東の方。発破に似た音響。
根崎:地震後20分程で東の方にあたって「バーン」と云う音。
音発生地点:(10)ー1に同じ。距離は2~2.5キロ。
(10)ー3広田湾奥
両替:地震後約20分(津波来襲5~10分前)。
高田:本震後約20分位後(津波来襲約10分前)。南より少し東に偏った方向。余り大きくな
い底力のあるようなドーンという物凄い音響。或は、自動車のエンジンの響の大ナル如き音響。
長部:地震後約25分(津波来襲約10分前)で音響。
音発生地点:(10)ー1に同じ。距離は、両替6キロ、高田10キロ、長部9キロ。
(11)気仙沼湾口波路上半島岩井崎灯台
灯台:津波来襲前3分。ダイナマイトの様な音響。東の方。
音発生地点:大島先端の通島崎。距離は3キロ。
津波高:9米。(大島通島崎の痕跡高は9米)。
6.4.2 直前に発生した大音響
(1)八戸市
種差海岸白浜:押し寄せる直前には一時波音が絶え極めて靜かになった。次いで水がモクモクと盛り上がるように来て岸にドット打ち付け、大きな轟音がした。各回とも同じであり、第一波は8尺、第二波は9尺、第三は10尺であった。
ほぼ3米位の波高で衝撃音を発したものと解釈出来よう。
(2)岩手県八木
津波は地震後約35分に雷声の如き音響と共に第一波が襲来した。その大きさは1丈5尺、波頭は砕けて水泡を交えていた。痕跡高は陸中八木駅の辺りで3.5米、南の小子内で3米である。海中には岩礁が発達しているから、3~4米の津波が、岩礁や崖に衝突した音響と砕波の音響とによるものであろう。
(3)大槌湾
南岸の箱崎白浜での第1波は6尺以上の大きさがあり、ドッと音響高く崩れた。ただし、怒濤岩と激突する勢いでは無かった。
(4)大野湾
只出では、地震後約15分か20分位後で何とも言われない物凄い音を立てて第一回の津波がやってきたが、波の高さは割合に小さく、その次にやってきた波は大きく約10尺以上もあった。
(5)追波湾北岸
大指での津波の高さは1丈6尺(4.8米)で、地震後40分程経て襲来した。雷光の様な光りとともに大砲の響きのような音を津波の直前に聞いた。「津波が強かったから津波の襲来を案じていた折から、非常に烈しい音がしたから海辺へ行って見ると、その音は水が引けるため船と船とが衝突し合うためであった。」ここでの痕跡高は3.8米。4米内外の津波が巻き波砕波したときの音、およびそれによる家屋等の破壊の音と考えられる。
(6)宮城県鮫の浦湾
湾口の寄磯は、津波に対して遮蔽されるような位置にあり、第1波が大きく、津波高は1.6米位、痕跡高は2.4米で、ここでは音を聞いていない。
湾奥でも大谷川の北にある鮫の浦では、やはり音を聞いていない。ここでの痕跡高は5米である。しかし、この鮫の浦地点のある小弯曲の湾軸は、津波の主進行方向に対し90゜の角をなしている。このため、津波によって水位が高まったにしろ、湾軸に沿って鮫の浦地点へと直進する運動量は、大谷川に比べて非常に小さいものであったに違いない。
湾奥の大谷川には、津波が直進して衝突する。ここでは津波来襲の前に何とも例えようのない物凄い音が2、3回したという。他地点で聞いていない事から、この音響は大谷川の浜で生じたものである。津波の高さは1丈7尺(5.2米)であったと云われる。痕跡高は不明。5米内外の津波が浜で砕波して発生したものであろう。
6.4.3 海鳴の如き音響
(1)日高国幌泉郡庶野
襟裳岬の北の庶野では、津波はまず約2丁(平常の大干潮の3倍位)引き、地鳴りを生じて押し寄せた。遙か沖より一帶に水嵩を増し、波の上部は崩れて白波を見せ、岸を指して一直線に押し寄せた。
庶野での第1波25尺、痕跡高は庶野6.0~9.1米、襟裳岬3.6米、11キロ南の小越で4.6米である。
(2)青森県百石町
三沢市周辺の長く伸びた海浜にある、相坂川(奥入瀬川)川口から二川目までの範囲で海鳴を聞いている。
二川目では、沖一帯に波が盛り上がって低い黒雲が張りなびいた様であったという。その音はノンノンと聞えた。津波高は二川目で4米、5キロ北の四川目の痕跡高は米であった。
川口では音が聞こえるや否や津波がやってきた。遠方から汽車でも走って来たようであったという。津波高は10尺以上である。尚、岩崎安太郎の証言として、第三波の音は、ノンノンノンときこえたという。この津波の高さも特定できない。
(3)野田湾
発震後約30分で京風に似た鳴動と共に、第一回以後12分間位の間隔を置いて、二回三回の津波が来襲した。波の高さ約1丈8尺もあった。
ここでの痕跡高は5.5米である。
(4)田老
波は崩れて、丁度山上の林を暴風がサアーサアーと吹くような音響を立てて来襲した。田老での痕跡高は10米であるが、田老湾口北岸の三王岩辺で痕跡高4米、南岸の佐賀部付近で痕跡高4.5米である事からみて、4米程度の波が崩れ波砕波を起こした、その音響である。
(5)宮古湾中央部
閉伊川川口付近で、午前3時2分風吹き荒れるような沖鳴りを聞いた。その時湾内を見ると鍬ヶ崎前桟橋に係留されていた発動機船が傾斜しているのが認められた。測候所下の海岸では約20間海水が引き、水深は約7、8尺減じた.3時8分烈風が吹き荒れるような轟々という凄まじい音と共に波頭が砕け白波を立てた津波が襲来した。その高さは約2.5米という。この辺りの痕跡高は、3~4米である。
(6)宮古湾奥
赤前では、午前3時8分頃遠方に微かに轟々という音を聞いた。この音は次第に高くなったのは、高浜や金浜に襲来した時であろうと思われる.3時15分頃より海水は急激に引き、遠浅のため7、80間干退した.3時22分第一回の津波が襲来した。
高浜、赤前及び堀内での痕跡高2米である。湾内で砕波しながら進行する津波の音響である。
(7)船越湾
田ノ浜では、津浪来襲3分位前から、遠潮鳴りのように(波の進行の音)を、南西の方向に聞いている。
経験者大田さんの話(1992年3月1日採話)によると、吉里吉里でもサーという音が次第に高くなって行ったという。
当時の船越郵便局長の談では、津浪の第一波は午前3時5分頃トラック数台遠方より疾走して来る様な音を聞き、其後2、3分してから到達したと記録されている。
津波高は田の浜で19尺、痕跡高は3.7米、田の浜南端で痕跡高3~3.5米である。船越で13尺、痕跡高は5米。浪板の痕跡高は5.2米、吉里吉里の痕跡高は5.5米である。
津浪の高さは3米以上であったものと思われる。
(8)釜石湾
釜石では津浪の第1波は午前3時5分頃、湾口沖合いより突風吹き荒ぶ様なゴーゴーという物凄い音を発して沿岸に接近するに従って次第に波高をまして来襲した。
平田では、盛り上がる波の音が、強風の音の如く、津波襲来の1、2分前より沖の彼方に聞こえ、しかも次第に近寄って来た。平田での津波高7尺、痕跡高3.7米である。北岸でここより沖の白浜での痕高3.2米、対岸泉田の痕跡高3米である。釜石周辺でも痕跡高は2.7米から4.9米である。結局、3米程度の津波が砕波しながら進行しつつ、音響を発したものと判断される。
(9)越喜来湾
南岸の砂子浜では、「海嘯の襲来当時は微風だに無かりしに海湾内粛颯として宛も空林を亘る大風の如き音しつつ波濤の到れるは岸を伝へて噛み来たれるものか或は又波の捲き廻しつつ洋上を渡れるものか定かならず……」と報告されている。ここより湾奥の小白浜での痕跡高は8.3米である。また対岸の崎浜では痕跡高7.6米である。砕波しつつ進行する津波が発した音で、7米近い津波の作ったものである。
(10)大船渡湾
下船渡に浪が打ちつけて来る時は、自動車でも走る様にガウガウと音を立てて来た。ここでの津波高は2~5尺、痕跡高はこの周辺で3.2~4.1米である。
3米程度の津波が砕波しながら進行して発生させた音響である。
(11)広田湾東岸
獺沢、矢之浦、両替、三日市の諸部落では、津波はジワジワと音を立てて来た。
獺沢の津波高10尺、痕跡高3.5米、矢之浦の津波高7尺、痕跡高4~6.5米、両替の津波高7尺、痕跡高3米、三日市の津波高7尺、痕跡高2.5~5米である。
2.5米以上の津波が砕波しながら来襲したものと考えられる。
(12)広田湾奥
広田湾奥、高田松原の東端付近の沼田、脇の沢では、津浪来襲前3分前に、沖の方よりゴーという音を聞いた。終始同じように聞いたと言っているので連続して聞いたものと思われる。
沼田での津波高10尺、痕跡高4.5米、脇の沢での津波高5尺、痕跡高4.6米であるが、湾内他地点で発生している音響であるから、その他の地点での津波高を調べることが必要となる。東岸での痕跡高4~10米、西岸での痕跡高4~7米の範囲であるので、4米内外の津波によるものと推定できる。
(13)追波湾南岸
船越、名振ともに、津波の寄せて来る有様は比較的靜かにザワザワと音を立てて海が高まって来ると、表現されている。
船越の津波高4.5米、痕跡高3.7~4米、名振の津波高4.2米、痕跡高2.7~3.3米である。両地点とも八景嶋等に遮蔽されていることが影響し、津波がおだやかとなったものらしい。
6.4.4 音響の発生条件
(1)崖海岸で生ずる大音響
以上の事例から、発生地点毎の津波の高さは、
黒崎6~7米、閉伊崎10米、霞露岳6~7米、尾崎5米、死骨崎5米、大塩崎或は脚崎7米、綾里岬7米、碁石崎或は長崎7米、根崎付近7米、気仙沼大島9米、となっている。すなわち、5米以上の津波なら砲声のような大音響を発生させるとして良い。
(2)津波襲来地点の海浜で発生する大音響
巻き波砕波の起こす音響である。大槌では2米内外で生じているが、それほど大きなものではないと、わざわざ注釈が付けられている。種差で3米、八木で3~4米。大野湾只出で3米強、大指で4米以上、大谷川で5米内外となっている。何とも云えない位大きな音と表現されるのは、4米以上のものである。また、沿岸で漁船や家屋を破壊する音響も付け加わっていることがある。
(3)海鳴の如き音響
音の発生した津波高は、
庶野6米、百石4米、野田5.5米、田老4米以上、宮古2.5米、宮古湾奥2米以上、田の浜3米以上、釜石3米以上、越喜来7米、下船渡3米、広田湾東岸2.5米となっている。
連続する崩れ波砕波によって生ずる音響は、宮古の例などから判断すると、浅い海では津波高2.5米位からとすることが出来る。この時は、砕波の音及び海底の土砂移動の音も加わっていることであろう。
深い海でも、十分波高が大きければ砕波が生じ、海鳴りと形容される音が生ずる。田老で聞いた音からすると、3米以上の津波で発生しているようである。ただし、砕波だけの音なのか、崖海岸近くで岸にあたって発生する音も入っているのかは、判定できない。
6.5 沿岸での津波の形態
津波による音は、巻き波砕波か、崩れ波砕波かにより、異なるもののようである。したがって、沿岸近くでの津波の形態と関連付けて確認することが必要となる。
津波の形態は、筆者の解析(1991)により、津波高によって、以下に示すように4つの形式にまとめることが出来る。使用した原文献では、津波高について明確には定義がなされていないのであるが、痕跡高との比較などから、おおよそ汀線付近での地上から測った津波波峰高に近いものと考えられるようである。
図-6.1が、その結果を出現率として表示したものである。全部で160例が利用できた。4つの形式に分類され、さらにそれぞれの形式の中が砕波の有無により更に二つに分けられる。
第I型は、潮汐に近いものである。「潮のようにゆっくり水位が上昇した」、「津波は早い潮のようだった」、「津波は靜かに進んで来て、防波堤の所で急に上昇した」などと表現される。その中には、前面に「畦に似た縞模様を形成する」短波長の波群を有するものもあった。第1型の多くは、比較的急勾配の海底上の、比較的小さな波高の津波であると思われる。
第II型は、「津波は沖では気がつかないほどだったのに、岸に来て急に大きくなった」という特徴を有する。海底勾配が、やはり比較的急であることを示唆している。70例がこれに属していた。
「水が岸の近くで急に膨れ上がった」、「水が底の方から膨れ上がった」、「後ろの波が前の波に次々と追いついて水位が上昇した」などと表現される。この内の4例、特に波高が大きいものが崩れ波砕波を伴っていた。それをII」型とする。
第III型は、22例あった。「沖でも認められていた津波が、岸近くで急速に大きくなった」という特徴を持つ。比較的緩傾斜の海岸での津波である。「堤防の様な津波」、「幕を張ったような津波」、「沖でもその峰が崩れている壁」などと表現されている。この内の半分が砕波を伴っていた。これをIII」とする。
第IV型は、26例で、明かな巻き波砕波を生じているものである。第2波以後の津波は、それに先立つ津波の引きと出会うためか、巻き波砕波となることが多い。いちばん小さいものでは、2m位の波高で巻き波砕波をしていた。第1波でも非常に高い波は巻き波破砕を起こしている。これが4例あり、IV」型とした。第I波が巻き波砕波を起こした下限は、波高7mであった。

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6.6 津波形態、音響発生と津波被害程度
津波の形態等を表-6.2にまとめて示す。ここで、津波強度Iは津波高H(m)を使って、
I=log2H(6.2)
と定義される(Shuto,1993)。津波強度毎に特徴的な現象や被害の程度とともに、音響発生の目安となるものである。AmbraseysのIA=Vは、この津波強度では、ほぼ2に相当する。津波の崩れ波による連続音、及び浜での急激な巻き波砕波で発生する音が生じ、これをAmbraseysが津波が轟音をたてると表現したものとみられる。
6.7 いくつかの湾・地点に於ける特徴
6.7.1 船越湾南端の吉里吉里
対象地点に襲来する以前から、津波に起因する音響を聞いていた事が明確に判る典型例である。
図-6.2に船越湾近辺における明治三陸大津波のフロントの一分毎の位置を示す。このとき、津波はほぼ真東より襲来した。地震後10分で船越湾北側で北東に長く突き出た半島の先端である亀ヶ崎に到達し、11分後に大釜崎、13分後に北では大島、南では大槌湾の南部の御箱崎、15分後に吉里吉里の東に突き出た野島に到達、という順序で進行し、更に2分かかって吉里吉里に来襲した。これら半島の海岸は所々に小さなポケットビーチが存在するものの、全体としては岩石海岸であり、大波高の津波の衝突や砕波により、連続的な音響発生が予想される地域である。
従って、下記の当時の体験談(閉伊郡役所、1897)はこの状況をきわめて良く反映しているものと考えられる。
「上閉伊郡大槌町吉里吉里」
・小学校長海野某の談に十五日夕刻将さに点燈の頃一回の地震ありこの時偶ま来客ありて椽側に於て談話を為し居りしに地震より凡そ五分間を過きたと思ふ頃何處となく轟轟と鳴り響く音あり初めは石臼の音と思ひたれと追々此音響に近接するが如き故少しく不審を起ししばしば椽側より頸を延へて戸外を望みたれとも……海上は瓦斯の為めに遠く見る能はず別に戸外に異状を認めず唯細雨の霏々として窗を撲つあるのみ示して轟々の音止まずして益々接近するものの如し遂に戸外を望むこと三回目のとき海上激浪を湧かして白色銀採あるを見思はず海嘯なりと絶叫せしは已に目前に逼りたる時にして此一刹那海岸にありし家屋は一斉に倒潰して百雷の轟くが如し尋常小学校は海岸なれども少く高地なれば幸に潮水浸入せさりし故直ちに勅語を身に纏ひ夫より数戸の提燈を点し庭前に篝火を燃し此等種々の動作を為したる後第二回目の激浪押寄せたれば此間全く十分以上の猶予ありしを疑はず而して最も先に轟々の音響ありしは疑もなく激浪の湾外の岩石に撞突せし音なり云々」。
この付近では、昭和三陸大津波の時にも同様の現象が生じている。第6.4.3節(7)船越湾の項を再録すると次の通りである。
田ノ浜では、津浪来襲3分位前から、遠潮鳴りのように(波の進行の音)を、南西の方向に聞いている。経験者大田さんの話(1992年3月1日採話)によると、吉里吉里でもサーという音が次第に高くなって行ったという。当時の船越郵便局長の談では、津波の第一波は午前3時5分頃トラック数台遠方より疾走して来る様な音を来き、其後2、3分してから到達したという。

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6.7.2 岩手県釜石湾
湾奥では湾口近くの岸壁海岸で津波により発生した音響を聞いていたにもかかわらず、ある場所のみ殆ど音を聞いていないという特異な例である。
釜石湾はその北の両石湾と双子湾の形となり、カモメ森山のある岬で大槌湾と境され、鷹巣山のある岬で唐丹湾と境されている。
明治三陸大津波は、これら湾口の岬先端に地震後14分に到達、それより約6分で釜石湾奥に到達している。釜石港のある湾奥では、津波襲来以前から「大砲の音」、「汽車の音」を沖合に聞き、また市内では津波来襲直前にも音響を聞いている。それより南の平田地区でも、地震の後、継続する音響を聞いているようである。
同じ様な状況は、昭和三陸大津波の時にも生じている。平田では津波来襲前約5分、雷の如く、爆発物の如き音を聞いている。釜石でも、強震後約30分遙か東方沖合に当り底力のある遠雷の如き音響を3回聞き、それより数分後海水が急速に減退するのが認められた。
明治、昭和とも、湾南側の半島先端部尾崎に津波が衝突したためと考えられる。
ここで問題となるのは、平田の東にある白浜である。昭和の時には記述が無いが、明治の津波では、殆ど音に気づかず津波の襲来で被害を受けた事が明確に述べられている。この地点は図-6.3にみられるように、津波進行方向に直に近い形にやや深く湾入し、両側に高い岬が存在している為、他地点の音が遮蔽されやすくなっていたのであろう。また、同じ理由により、進行主方向から逸れてここに侵入した津波の波高は小さく、岸で大音響を作るような崩れ方をしなかったのとも考えられる。何れにしても、この白浜地点は、他地点の津波の音も、その地点での津波の音も聞いて居らず、特異な地点である。
6.7.3 広田湾周辺及び唐桑半島東岸
広田湾の東岸から反時計周りに、広田湾西岸、唐桑半島東岸までの各地点を見てみよう。
東岸湾口付近の泊港では、地震後25分程で東の方から発破に似た音響があり、まもなく潮が引いて行った。
同じく根崎では、地震後20分程で東の方にあたって「バーン」と云う音を聞き、まもなく潮が引いて構内の船は海底に付いて覆ったものもあった。この発生源は黒崎社のある辺りと想定される。
湾奥近くへ行くと、両替では、地震後約20分で音響を聞き、それから約8分の後に潮が引き、5~10分後に津波が来襲した。
高田では、本震後約20分位後南より少し東に偏った方に余り大きくない底力のあるようなドーンという物凄い音響を聞いた人が沢山あった。この音響を聞いてから約10分後5尺位の津波が来襲した。
この音は、津波来襲約15分前に、海の方から、自動車のエンジンの響の大なる如き音響がしたとも表現されいる。
西岸の長部港では地震後約25分で音響を聞き、それから約10分程を経て湾口位まで潮が引いた。その後、約10分して第一波が来襲している。
津波伝播は広田湾内で湾口から湾奥まで10分程度であるから、ここで聞いている音響も広田湾東岸の諸地点で聞いたものと同一波源によるものであろう。
唐桑半島東岸の小原木では、地震後20分ほどで音響が一度あり、其後5分で海水が引いた。これも根崎黒崎社先端付近での津波の音であろう。
それより南で、半島付近付け根付近の石浜では、発破のような音響を二回聞き、後の方が稍や小さかったという。方向や津波来襲時間との関係が述べられて居らず、発生源を特定できない。
所で、最も興味のある報告の見られるのが、半島中程の名勝巨釜半造の南、欠浜である。ここでは、地震後8分程でドーンという音を綾里の方(東北東方)に聞いた。
又5分位で稍や小さい音があり尚20分位を経て稍や大きな音が聞こえ最後の音と殆ど同時位に津波が寄せてきた。最初の音は綾里岬(20キロ)、第二は大船渡湾口(12キロ)、第三は根崎黒崎社の先端(8キロ)で発生したものであろうと推定される。他地点に比べ遮るものが少ないため、遠方の津波の音を伝搬しながら発生する度毎に聞くことが出来たのである。

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6.8 結論
津波が大きくなると、砕波、衝突、砂礫の運動、船舶衝突や家屋破壊などが原因で、異常な音を発生することが確認された。また、音響を生ずる津波と、それによってもたらされる被害との関係もほぼ明かとなった。
津波発生源を想定すれば、来襲方向の位置関係から、津波による以上音響の発生する箇所を決定し、それが津波来襲の何分前であるかを推定することは容易である。このためには、津波の数値計算をおこなって、津波到達時間と津波高とを求めればよい。
音の発生と種類は、地形的な条件によっても左右される。発破のような大音響は、主として突き出た半島先端の崖に大きな津波が衝突して発生する。音響発生から湾奥へ津波が到達するまでには、かなりの時間が見込まれるので、避難すべきか否かの判断にとって重要な一情報となるであろう。
また、青森県八戸周辺、岩手県船越湾、宮城県気仙沼湾から本吉町大谷迄の地区等では、来襲前に連続して海鳴りのような音を聞く可能性の高い場所である。ただし、津波波源との位置関係によっては、必ずしも連続音響を聞くとは限らない。例えば、もし津波が南からやって来るとすると、本吉町では海鳴りのような異常音を聞く可能性は少ないと判断される。
このように、津波毎に、また地点毎に、異常音発生の条件が異なることを考慮しながら、判断の助けにすることが望ましい。
そのほかにも、問題がある。その1は、空白地帯の存在である。周囲が音を聞いているのに、岬一つ違うだけで何も聞かない場所がありうる。もっとも、そう云う場所は津波が急激には襲来しない所のようである。
第2の問題は、社会の変遷に伴う問題で、異常音に対する注意力の減退である。日常、音が溢れすぎているため、異常な音を聞き分ける能力が無くなっているのではないかとの疑問がある。
このような問題があるにしても、津波来襲直前に地先で行なう判断の一助にはなるであろう。
引用文献
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第7章 災害常襲地帯における災害文化の継承――三陸地方を中心として―― 北原糸子
7.1 歴史学における「災害文化」の領域
「災害文化」という語は比較的新しい用語であって、この語が示す領域について必ずしも明確な一般的了解が成り立っているわけではない。そこで先ず歴史学の立場からこの用語をどの様な意味において使うのかを明らかにしておかねばならない。
「災害文化」が災害研究の領域で使用され始めたのは、1960年代の初頭のアメリカの社会学界においてであるようである。その初発の論文である」AndtheWindsBlew「(H.E.Moore.1964)においては、災害を受けた地域では、人々の災害への反応に災害を受けなかった地域とは異なるものが観察されるという点を分析の出発点とし、災害襲来直後の災害症候群(「disastersyndrome」)と呼ばれる災害の衝撃から人々が立ち直るまでの機関の人間行動に、一定の特有な傾向が見られるとし、それを「災害文化」と規定した。災害文化はその特質として社会的普遍的に見られるというより、むしろ災害を受けた地域の人々に特有のものである点で、当該社会全体に貫徹する支配的文化に対して下位文化(「subculture」)と位置付けられた。その後、アメリカにおいてWengerらによって、災害文化論は更に発展され、道具的(instrumental)と表現的(expressive)文化に分別する概念規定が示された(Wenger&Weller,1973)。
わが国の災害研究に於て災害社会学の立場から、広井脩が1982年起きた浦河地震の災害分析にこの災害文化概念を適用した(広井脩、1982)。ここで、広井はWenger等の災害文化概念を紹介しつつ、道具的災害文化を災害に対する対応態勢、表現的災害文化を当該地方の住民の災害觀と言い換えて、実際の分析概念としての有効性を実証し、併せて、個別の災害体験の蓄積による災害文化の社会的継承には有効性と同時に限界があることに留意を促した。
以上にみられるように、ここにおいての主たる分析対象は災害襲来直後の人々の反応であり、社会学が従来手掛けてきた人間行動に関する分析手法が活用される領域でもあったわけである。
しかし、歴史学は現に行動する人間を直接分析対象とすることは稀であり、分析対象のほとんどは時間的には既に過去となった事態を対象する。したがって、主に資料的痕跡を通して過去を再現する手法を取る。たとえ、対象とする歴史事態に直接関わる人々が現存しているとしても、その人々にとっても既に過去の事態であり、記憶の中にあることを言語や記録で再現するということに限られる。歴史学は現に行動する人間を目の当たりにしての客観的分析の手法は持たないと一般的にはいいうる。とすれば、社会学の分野で提起された「災害文化」の分析領域をそのまま歴史学の分野で踏襲することは困難であるということになる。
では、歴史学において「災害文化」という研究領域は存立しうるかをということになる。
ところで、先ず問題の範囲を限定して置かねばならないのは、ここでの災害は自然的外力によって引き起こされた自然的、あるいは社会的事象に限定するということである。昨今、自然災害と人為的あるいは社会的災害との境界線は明確には線引きしがたくなる傾向にある。しかし、ひとまずここでは自然災害に限定しようという了解の元に共同研究が進められてきた。本研究会では自然科学者が災害を自然災害によるものであることを自明のこととして出発したのに対し、社会科学を専攻する研究者の側からこの点について疑問が呈されたのも故無しとしない。歴史学の一分野として、歴史を通して観察しうる地域社会の変容や人口の増減、社会組織の変容を分析の対象としうるとすれば、そうした歴史現象は必ずしも自然災害によるものとは限らず、あらゆる社会で起こる変化である。しかし、ここでは自然災害に限定したことで自ずと「災害文化」の領域も明らかになった。すなわち、過去に自然災害によって打撃を受けた地域がその歴史的痕跡を景観的、あるいは構造的変容として現在に至るまで残存させているならば、そうした変容が歴史的に定着した過程を明らかにし、地域社会や個人は積極的にせよ消極的にせよ、そうした変容にどの様に荷担したかを明らかにしていくことは可能だということである。もちろん、社会学の分野で提唱された「災害文化」は、既に述べたように災害時に於ける人間行動を規定する要因を客観的に分析した結果、「災害文化」として繰ることが出来るとするものであるから、災害の衝撃による神経症などをも取り込み、災害時の人間行動をトータルにみていこうとするものであり、必ずしも価値的に高く評価されるものだけを対象としているわけではない。しかし、歴史学が対象とする領域においては歴史的時間というフイルターにかけられ、災害時の人間行動が生のまま分析できるということは期待できない。その結果、歴史的事件としての自然災害について語り継がれ、書き継がれてできた歴史的痕跡は既に一定の価値的取捨選択が行われていることを前提としなければならない。また、災害の衝撃から当該社会が立ち直り、ある程度の日常性を取り戻すようになるまでの比較的短時間を分析対象とする社会学に比べ、歴史学が取り扱う対象は観察可能な一定の歴史的結果の蓄積が必要となり、そのため比較的長時間を対象とするといえる。
このように考えると、歴史学における「災害文化」の領域は、災害と社会の対応関係の歴史を検証するということになる。当然ここで使用する社会という語の持つ範囲も限定しておくことが必要である。国家、地域社会、個人は、それぞれ社会を構成する要素であり、災害が発生すると、それを乗り越える努力は上記の構成要素のそれぞれの次元でなされる。本論では、視座を最も低く採り、先ず個人のレベルから出発することにする。
本論が分析の主軸にすえようとするのは、明治三陸津波及び昭和三陸津波の被災地での災害に対する社会の対応の歴史である。知られているように、明治三陸津波によって一家全員死亡した家は岩手県のみの統計によっても罹災戸数6,854戸のうち728戸といわれている(岩手県災害関係行政資料I、1984)。また、幼い子供独りを残し、一家が死に絶えた家もめずらしくはない。この時人々はどの様な工夫をして、家族を形成させ、今にいたる「家」を維持させようとしたのか、それはなぜなのかを問うことは歴史学に置ける「災害文化」の領域にふさわしいものであろう。
そこで、本論の課題として災害に対して「家」あるいは家族はどの様に対応したのかを考察の中心にすえた。しかし、「家」の問題は決して超歴史的に存在したのではない。社会においてあるいは個人において、庶民が「家」を問題とし始めるのは歴史の古いことではなく、自家の財産と歴史を自らが創り出さねばならないという自覚が国民一般に生まれたのは、近代に至ってからだといえる。この点で近代に入って発生した二つの津波による大災害は、三陸地方という限定性はあるにせよ、庶民が災害を契機に自覚的に「家」に対峙した最初の経験だったといえよう。
なお、家族と「家」について前稿で論じた(北原、1992)。本稿でも、被災者集計のような家族に関する計量的概念を問題にする場合と個々の家族をその個別の事情に応じて分析する場合とに応じてそれぞれ家族、「家」を適宜使い分けた。
7.2 災害と家族の研究史の素描
災害と家族との関係史についてはかつて民俗学の立場から宮田登が、天明3年(1783)の浅間山噴火で埋没した鎌原村で生き残った93人の村人をそれぞれ新たに結び併せ家族とさせ村再興を図ったことに言及して、災害後の新しい人間関係の結合にそれまでの日常と異なる一種の災害ユートピアが出現したのではないかとした(宮田登、1987)。しかし、この事例について家族維持の基礎となる耕地配分の実態を踏まえた渡辺尚志の研究では、土地配分と人的配分が領主や有力農民の采配で行われ、当初均等分配であった耕地も能力や条件で経済的格差が生じ、それが家格差へ固定化したとした(渡辺尚志、1987)。つまり、災害ユートピアと呼べる状況などなかったということである。三陸津波と家の再興については名著「津波と村」を著した山口弥一郎によって言及された(山口弥一郎、1943)。山口はいうまでもなく湾口形態と津波襲来の相関関係を指摘し、地理学的見地から三陸津波の解明に尽力した。しかし、山口の関心は広く、災害で失われた家族がどの様に再構成されていくのかについて、実例から多くのタイプを抽出した。しかし、個人の情報に関わることとして抽象化された記述に留まる点があり、人々の記憶も薄らいで行く今日、出来る限り具体的な記録を残すことは急務であるように思われる。そこで、大船渡市赤崎町合足部落で調査を行い、明治三陸津波を中心に災害と家族についてまとめた(北原、1992)。ここでの主要な関心は災害からの復興はどの様に行われるのかということであった。基本的には個人の努力に負うものであっても個人そのものがむき出しに歴史の全面に現れることは稀である。そこで、村落の場合であれば、生活共同体としてのまとまりを持つ村あるいは部落、また、社会的基礎単位としての「家」の復興という領域で集団が担う「文化」を対象とし得るのではないか。
個々の人々の苦闘を通して一定の方向性を持つ社会的行為や行動を文化と呼び得るとすれば、まさにここに災害文化を問うことが出来るのではないかと予測したからである。
合足部落は、明治津波被災前13戸129人の部落であったが、このうち76人が津波で死亡した。
1戸当り平均6人の犠牲者を出したことになる。部落毎の被災率としては極めて高い方に属する。
一家でそれぞれ13人、10人、9人の死亡例がこの小さい部落で起きたため、部落全体の死亡率を一挙に高めた。しかし、これほどの人的被害を受けながら、この部落は間もなく江戸時代以来の13戸の戸数を復帰させ、昭和津波の時には15戸と戸数を増やしたが、人口は昭和5年時104人と以前として明治29年津波被災前の水準には回復していない。そこに再び昭和津波で20人の命を奪われた。この村が受けた打撃の深さを物語ってあまりある(後出表ー7.1参照)。
「家」の成員たる家族を大半失うという困難に直面して合足部落で採られた方法から次のパターンを析出した。
A:直系家成員による家の相続が可能な場合
B:傍系親族(甥など)による相続の場合
C:再婚・養子による家成員の再編成の場合
D:二家系の合家の場合
E:絶家ー再興
F:転出
G:絶家
なお、F,Gのパターンは合足部落には見られず、部落を構成する家数が長い歴史を通じて一定に保たれた点にこの部落の特徴が認められる。また、だからこそAーEの努力が成されたのだともいえる。
前稿では、家屋移転は事実として調査はしたが、災害文化との関連で考察をしていない。
ここでは、上記の問題設定がどこまで普遍化し得るか、また、災害からの復興過程に見られる問題として他にどの様な視点を持たねばならないかを今回の研究課題とした。そこで、以下では具体的事例に基づき、検討を進めることにする。
7.3 災害と家族――事例研究
以下では、前回調査できなかった岩手県大船渡市赤崎町の宿・生形部落と上・下蛸浦部落を素材に、津波常襲地帯の家屋移転及び家の維持を主に考察する。この地域は近代以降、明治、昭和の三陸津波およびチリ地震津波の三度にわたる甚大な津波による被害を受けた。当面対象としたのはチリ地震津波を除く前二者である。ここで言及する部落の被害概要を表ー7.1に示した。
被災直前の村落全体の戸口から推して、この両津波災害の間に戸数にして約2倍(589/307)弱、人口にして約1.5培(3,820/2,490)の戸口増加があった。
岩手県全体のこの間に戸口増加は明治29年696,747人109,183戸(1戸当り6,38人)、昭和8年1,020,000人、164,024戸(1戸当り6.22人)であるから(岩手県統計書、1897,1934)、19世紀後半から20世紀の3分の1を経過して人口にして1.5培(1,020,000/696,747)、戸数にして1.5培(1,020,000/696,747)の増加が認められる時期であったとすることが出来る。
なお、「岩手県統計書」明治30年には付録として津波による被害と明治29年7月の大洪水による被害統計が附けられている。それによれば、津波被害を受けた太平洋沿岸の気仙、南閉伊、東閉伊、北閉伊、南九戸、北九戸の各郡の被害は死者18,158人6,036戸としている。この結果、岩手県全体の戸口も当該年のみ前年より8,349人310戸の減小をみるが、災害翌年の統計によればほぼ災害罹災前のレベルに復している。この時期を経て、昭和8年と比較した上記の数値から次の様なことがいい得よう。総じて、この時期は衛生状態の向上、近代産業の発展により都市、農村を問わず出生率が上昇し、死亡率が低下することで人口の自然増加が堅調になる。いわゆる人口転換が成し遂げられた時期と見なすことが出来る。
7.3.1 大船渡市赤崎町宿・生形
さて、図-7.1に大船渡湾調査対象地域を含む地形図、図ー7.2に山奈宗真の調査図を挙げた。
現大船渡市赤崎町、当時は赤崎村である。赤崎村の各部落は表-7.1に示したほか、山口、永浜、清水、長崎があるが、調査対象と出来なかったので表には示していない。
*明治三陸津波
宿・生形部落は図-7.2に示すように後ノ入川の扇状地に広がる川を挟む両側の部落である。
この部落は昭和8年の津波後集団的家屋移転が両部落に跨って行われ、人々の交流も両部落に跨るので、それぞれ分割しては実際の人々の動きが把握できないと考え、一体として扱った。
明治三陸津波での被災戸は流失・倒壊家屋94戸であるが、被災戸数は93戸犠牲者は109人である。明治津波で被災した家93戸のうち聞き取り調査によって41戸の家の所在地が判明した(図-7.3参照)。
図-7.3中の番号は表-7.2の番号、戸主に対応する。生形地区においては、昭和35年のチリ津波後の大規模な宅地嵩上げ、県道補修工事などで様相が一変しており、現在の地図上に必ずしも正確な地点が示し得る条件にない。しかし、昭和津波被災時の家の所在地点を復元し得たことから、一定の信頼性はあると期待している。
山奈宗真の調査によれば、明治津波では、宿・生形の打ち上げ浪20尺(6M)、浪走り260間(約500M)(山奈宗真、1896)ということである。図-7.3に聞き取りによる当時の推定海岸線を点線で示した。No26の三浦元助家は船二艘を流失させたが、家での犠牲者、家屋流失は免れた。No25の金野源蔵家では1名の犠牲者を出したが、この家で犠牲者が出たのか否か記録による確証は得られなかった。
後に述べるように、津波来襲当日が節句に当たるため、婚家から実家に戻り、そこで津波に襲われたという事例も少なくない。したがって、この地点まで波が遡り家、人を襲ったとすることについては留保が必要である。家屋流失の記録と犠牲者の出たことが記録上確かめられるのはNo21の三浦藤右衛門家である。後ノ入川を波が遡り、川岸近い同家は被害が出たと考えられる。表-7.2の41戸のうち31戸の家から71人の犠牲者が出た。被災地点の不明な犠牲者はこの両地区でほかに38人存在したことになるが、No21のライン以南では地盤の高い地点の家を除き、後ノ入川扇状地の比較的低いほとんどの家家で犠牲者が出たと推定されよう。
*昭和三陸津波と家屋移転
昭和三陸津波の場合は宿での波高は2.78Mということである。被害の程度は明治に比べ少なく、犠牲者も3名に留まった。図-7.4は昭和津波で家屋が流失・倒潰した61戸のうち津波被災地点の判明したものおよびその後の家屋移転の有無を地形図に落としたものである。表ー7.3の番号は、図-7.4のNoに対応し、当時の戸主名、被害の内容などを摘記した。表-7.3で顕著な家屋の流失数は、一家で本屋のほか納屋、廐、便所などが算入されているからである。このうち、本屋を流失した36戸のみに*印を附けた。図-7.4と表-7.3の流失家屋欄とを照合させることによって、No52端巳之作家の流失を除くと現在の県道より南側で家屋のうち本屋まで流失した例が大部分であるといえる。
表-7.3の目的の一つは、被災戸の位置・被災内容を確認することのほか、二度の津波を経て、家屋移転がどの様に進展したかを示す目的も兼ねている。宿・生形地区は昭和津波後宅地造成のための大蔵省預金部低利資金の受給対象地となり、20戸分の宅地造成が可能となった。また、同時に、国および県からの災害土木費をもって県道の復旧・拡幅工事がおこなわれた。現在の、部落を縦断する県道はこの時新設されたもので、それ以前はより海岸寄りのNo.29ーNo.7ーNo.8ーNo.11ーNo.19ーNo.30ーNo.35ーNo.34の各戸に沿う道路が村のメイン・ストリートだったということである。宅地造成地は2ヶ所作られた.1ヶ所は八坂神社下の崖を崩し、No.11,No.20などが移転した箇所である。崖を崩した土は道路、宅地の嵩上げに使われた。もう1ヶ所はNo.11,No.13,No.4,No.18などが移転した新県道沿いである。上記2ヶ所の造成地以外への家屋移転は、基本的には自助すなわち自分持ちの耕地、本家からの分与、あるいは買得地などへの移転であったという。その他この部落においては、セメント工場拡張のための土地買収がほぼ時期を同じくして始まり、津波被災後買収に応じた家の移転も重なった。表-7.3にみるようにこの地句の職業構成は次に検討する蛸浦地区より多種多様であり、それだけ人間の流動性も認められる地域である。表-7.1によっても明治・昭和間の人口増加1.2(869/744)であるのに対し、戸数増加が1.6(147/93)と三地域の中では最も高く、この地域については人口の自然増加以外の要因も予想される地域である。したがって、家屋移転や転出を簡単に津波災害の結果とのみ判断するわけには行かない。従来の生活の大幅な変化を強いられる家屋移転を行う動機付けは何によるのかを考える手がかりを得るため、表-7.3には明治津波での被災の有無を判る限り挙げた。明治津波の場合は被災後直ちに家屋移転を行った例はきわめて少ないという。この点は宿・生形地区に限らない。とすれば、ここにおいては、二度にわたる津波被害を受け、国や県の財政補助を受け、県道敷設と平行した計画的宅地造成がなされたからこそ、家屋移転が一部実現したものといえそうである。従来の生活改変を強いられる住宅移転は、就労機会のある都市でならばいざ知らず、当時の農村においては生活の経済的基盤を失ってまで行うということは現実には有り得ない。たとえ、生命の危機に関わる事柄であっても生活維持への長期展望が立たなければ、家屋の移転は容易には行われないだろう。明治の場合、昭和津波とは比べものにならない甚大な被害を受けながらも従来の居住地点を離れる例がきわめて少なかったのは、こうした社会条件の言い換えれば、社会資本の投資が行われる段階に達していなかったということが出来る。

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7.3.2 大船渡市赤崎町上・下蛸浦
蛸浦地区は上・下に分かれた行政区であるが、家屋移転、人的交流とも行政区を超え、混然としているので、両区をまとめて扱った。両地区の大船渡湾内における位置は図-7.1によって明らかなように尾崎岬が部落を囲むとはいえ、湾口部に近く明治・昭和両津波の波高は宿・生形より高い。山奈宗真の実地調査では明治の場合、打ち上げ浪は上蛸浦で30尺(9M)、下蛸浦で18尺(5.4M)であった(山奈宗真、1986)。昭和では、蛸浦で4.3Mとされている(岩手県災害関係行政資料I、1984)。
*明治三陸津波
表-7.1によって、明治の両部落の戸数は64戸、人口467人、昭和では86戸601人で、戸数・人口とも約1.3倍に増加している。しかし、既にみたように岩手県全体の増加率1.5倍を下回り、明治津波による人的打撃の大きさからようやく脱したかに見えた時期再び津波禍に遭うという事態であったと推測される。明治の津波で被災した家のうちその所在地の判明した28戸を現在の住宅地図に落し、併せてその家での犠牲者の人数を○印のなかに示した(図-7.5)。○印で囲んでいない番号は家番号で、表-7.4の番号に対応する。この表には明治津波被災時の当主名、また、津波で当主が死亡した家の新しい戸主名、家毎の犠牲者の数、生存家族数、本来ならいたであろう家族数を記した。毎時の被災戸83戸のうち所在地点の判明した28戸で既に両部落の犠牲者85人の半数を超える46人がこれらの家から出でたということである。表中の各戸の職業をみても2軒の農業戸、雑業戸以外はすべて漁業に従事しているという漁村である。図-7.6の地形図によって背後に山の迫るところでは、生業の利便のために海沿いに家が並ぶ以外選択の余地のないことがわかる。ここでも、明治津波罹災後家屋の移転をした家は3軒のみで、ほとんどは従来のところに再び家を建てたという。本格的な家屋の移転が行われたのは昭和津波被災後である。
*昭和三陸津波と住宅移転
蛸浦地区は集団的に家屋を移転させる用地確保の困難からか行政主導の宅地造成は行われなかった。家屋の移転はいわゆる自助によった。図-7.9は昭和津波後の家屋の移転が行われたケースである。この両地区の被災戸数は86戸であるが、このうちの47戸の被災時の家屋所在地点と移転先を→印で示した。→印のない家番号は移転せず、従来の宅地を嵩上げなどして津波に備えた。表ー7.5の移転欄は〇印、+印を附けて移転の有無を示した。この地区は昭和津波でも多数の犠牲者を出した。家屋移転の条件に乏しい当該地区では、移転しない家でも現在はほとんどが嵩上げなどを行っている。チリ津波では宿・生形のように死者こそでなかったが、4M余の津波に襲われ半壊7戸、床上浸水20戸の被害を受けた(大船渡災害誌、1962)。
なお、この部落では、明治・昭和の戸数増加は12戸、増加率1.3である。社会的な流入人口の条件に乏しいと推測されるから、ほとんどが分家(別家ーベッカ)によるものであろう。聞き取りに依っても、明治津波時には存在せず、その家の分家で新たに創出された家は何軒か確認できた。
表-7.5に昭和津波の被災戸で明治被災戸であるものも摘記した。両津波の被災戸は、大部分が住宅移転を行っているといえよう。また、そうでない場合もほとんどの家で嵩上げをしたことは既に紹介した。この両部落においての家屋移転は図-7.9の移転の軌跡によっても用地確保が困難であったことがじゅうぶん窺える。そればかりではなく、宿・生形のような、工場誘致による新しい職業就労への可能性もなかったことを考えれば、対津波自衛策として家屋移転、あるいは宅地嵩上げが困難な状況下でなされたことは、それだけ明治・昭和津波がもたらした惨禍の影響が大きかったからであろう。
7.4 災害と家族
次に明治の津波で絶家の危機にあった家の再生、再興の過程を聞き取りによって得られた事実から考察したい。
宿・生形地区で一家から7人の犠牲者を出した家が二軒ある。表-7.2のNo.11の金野巳之作家とNo.34の田代森吉家である。
事例1:金野巳之作家
死亡した7人は巳之作自身とその子供4人、長男夫婦及びその子供である。この合計は8人となるが、うち1人は嫁いだ長女(明治12年生、同28年結婚)が節句で実家に戻って来ていて、津波に遭ったものである。
一家7人が死亡し、残されたのは3才11ヶ月の豊之進だけであった。そこで巳之作の二男つまり豊之進の叔父で他家に養子にいった久太郎が後見として豊之進の面倒を見、且つ自分の娘アヤノ(明治34年生)を豊之進の妻とし、実家の家筋を維持した。久太郎家は長男民治郎が別家を立てた。
この事例には明治三陸津波にまつわる二つの事柄が象徴的に示されている。一つは今に至るまでよく聞かれる節句で婚家から実家に帰っていた新妻や幼い子供が津波で命を奪われたという点である。二つ目には、幼い子供独りが残されたという点である。既にこれと同様の悲劇的な例を合足部落の事例で紹介した。こうした場合、最も近しい親戚が後見として成人まで面倒を見、その家筋を絶やさないようにするという点でも同様な努力がなされている。なお、金野アヤノ氏は存命であり、直接お話を窺うことが出来た。同家は明治・昭和津波被災後生形造成地に移転した。
しかし、チリ津波でも家が流され、生涯で家を4回建てたと歎慨していられた。
事例2:田代森吉家
事例1の金野家同様、宿・生形地区で最も犠牲者の多かった田代家の場合は森吉の亡兄の長男夫婦・子供と森吉の長男夫婦、森吉の未婚の子供らが同居する、一家17名の大世帯であった。
明治の津波では、養嗣子である森吉の亡兄の長男吉五郎の妻とその子供の2人、および森吉の長男夫婦とその子供1人、それに嫁ぎ先から節句で実家に帰ってきていた森吉の長女の計7人が亡くなった。
この場合も節句で婚家から嫁いだ娘が帰ってきていて津波に遭遇するという事例であるが、この場合は田代家の犠牲者として届出られている。当地方の当時の慣習として嫁にいっても一定期間は婚家の籍に入らないということのためであるという。
田代家では、養嗣子吉五郎が明治40年病死し、森吉の長男は既に明治津波で死亡、次男も相次いで病死したので三男の亀太郎が家を継いだ。亀太郎の代には昭和津波で本屋こそ流失しなかったものの浸水、納屋が流れた。
同家は明治以前よりほぼ同じ場所に居住しているという。
次の事例は上・下蛸浦での聞き取りから得られたものである。
蛸浦地区では明治津波で一家6人が死亡した例が1軒あるが、詳しい聞き取りを行っていないので詳細は不明である。しかし、この事例を除くと、事例1、2のような大量の犠牲者を出した場合はみられない。
事例3:崎山清十郎家
表-7.4のNo.24崎山清十郎家は清十郎自身、その妻、ほかに女性独りが津波で亡くなった。清十郎家の娘ヤヨエは既に同村の森清治郎に嫁いでいたが、節句で実家崎山清十郎家に帰ってきていた。ヤヨエは、幸いに難を逃れた。清十郎家の独り息子清之進も当時盛町に奉公に出ていたので助かった。清之進はこの時13才であった。清之進は鍛冶職の修行を積んで、奉公から帰り嫁を迎えた。清之進家は、明治津波後も海岸沿いに住、昭和の津波でも被災した。昭和津波では同家の家族4人は津波の難は逃れたが、節句で同家に遊びに来ていた親戚の子供2人が津波で命を失った。No.37の崎山義雄家の6男昭と志田五蔵の2女高子の2人であったという。志田五蔵家は図ー7.9に示していないが、No.37崎山家は尾崎神社の宮司であり、同家は上・下蛸浦を分ける小高い岬の上にある。
同家については、山奈宗真が明治津波の津波浸水域図で「海面ヨリ二十尺タカキ宅地ヘ壱尺打上タリ」(山奈宗真、1896)と注記している。昭和津波の波高は同家まで及ばなかった。同家から津波の犠牲者が出た理由は、以上の様な親戚の家での災難であった。
事例4:新沼丈右衛門家
表-7.5のNo.3新沼丈右衛門家に、昭和津波時、蛸浦地区で最も多い6人の犠牲者を出したことになっている。しかし、聞き取りで判明した事実では、9人の犠牲者がでたという。新沼家では丈右衛門自身と子供5人の計6人が死亡したことは事実であるが、その他に表-7.5No.45の森弥左衛門から新沼家の長男吉次郎に嫁いでいまだ未入籍の新妻がなくなった。他に、新沼家から森家に嫁にいった娘が出産を控え幼い子供を連れて実家に帰って来ていて、津波でなくなった。この地点で計9人の死者が出ていたことになる。また、森家の犠牲者が3人出たという記録の実際の内容は、同家の2人と嫁にいったが未入籍の娘1人が新沼家の地点で被災したということである。
明治津波被災の詳細はもはやわからなくなったものが多い。昭和津波の詳細についても実際の体験者から話が窺える場合にのみこうした事柄が判明する機会に恵まれる。
以上の事例から、当時の人々のさなざまな社会行動の一断面が災害という事態で切り取られたように私たちにわかったということであろう。例えば、節句では嫁は実家に帰る。結婚後ただちには入籍しないという慣例、現在でも見られる出産に際しての里帰りなどの慣習などである。不慮の災害で人々の行動がある瞬間停止させられ、その断面が否応なくさらけ出された、人間行動の一断面である。
さて、以上の事例調査およびこれら部落の調査からは、合足部落で析出した「家」再生のパターンに新たに付け加えるべきものを見いだし得なかった。合足部落がその規模の小ささに比して受けた打撃の大きさと、したがって、「家」再生・復興と部落再生・復興が同義であり、部落の総意であったという点で、他の部落とは異なる部落の共同意志あるいは期成が存在したかも知れない。それに比べ、社会的流入人口があり、産業構造も単一でない宿・生形、漁業村落として農業村落に比べ流出入が比較的自由であったと推定される蛸浦部落などそれぞれがおかれている経済的社会的条件に応じて、復興への過程は異なるということであろう。しかし、事例が僅かであり、ここから村落タイプと災害復興のパターンを導き出すことのできる段階ではない。とりあえずは、ここの部落における明治津波の被災戸の推定位置や昭和津波後の家屋移転の実態などを記録に留め得たという点はひとつの成果としよう。
7.5 明治・昭和三陸津波における災害文化
さて、以上明治、昭和三陸津波の襲来を受けた一地域を事例として、家屋移転と「家」の再興過程を見てきた。これらの点を災害文化としてどの様に位置づけるかを最後に述べなければならない。
わが国の場合、これほどの激甚災害を再度受けながら、なお生まれ育った父祖の地に住続けることを所与のものとしている。せいぜい行い得るのは同じ部落内でより安全な所への移転である。災害文化という学術用語を生み出したアメリカは、Mobilityを当然視する国である。災害文化を論じたMooreの理論的前提には、ハリケーンを受けても逃げない人がいるのはなぜか、その地を去らない人がいるのはなぜかという点がある。わが国では、これだけ自然災害が多い国でありながら、父祖の地を移動するということは先ず問題にならない。したがって、アメリカとわが国では、問題の立て方がそもそも逆転している。予想される自然災害も指摘されながら、人々が父祖の地を捨てるということを発想する人は稀であるという点は、わが国の災害文化を特徴付けるものとして論じられてよいだろう。
さて、これまで三陸地方における近代の津波災害が人々にもたらしたものを歴史的に検証する場として家屋移転と「家」の再興を考察してきた。これらの問題は、人々における災害文化の自己実現の場として考察し得る対象であることは前述した。つまり、家屋移転はそれを行うかどうか、また、どう実現したかも含め災害に対する人々の外的反応とすれば、「家」の再生、再興は、災害への内的対応ということができる。そして、少なくともこれらの点を検証する場として対象になった家々は、再度の災害を家屋を移転したり、絶家の危機を乗り越え今にまでその系譜を伝えることのできた、いわば災害に打ち勝った家々である。既に絶家となったり、津波を契機にこの地から流出しなければならなかった家々は対象外である。この点で、聞き取りによる調査は一つの限界を持つことを自覚しなければならない。家屋移転にせよ、家再生への努力にせよそれを何とか切り抜けて父祖の地を守る人々だけ人からではなく、そのことの成し遂げられなかった人々からもその理由を探らなければ、災害を受けた地域の地域再生のより広い視野からの取り組みは望み得ないだろう。防災のみならず、被災地への復興対策の有効性を高めるためには、過去の歴史における失敗の例から何を引き出すかによる。
しかし、家屋移転せよ、「家」再生、再興への努力にせよ、人々の生活に埋め込まれた災害の歴史を検証する場として、歴史学における「災害文化」の領域はさまざまな教訓が引き出せる場であることには相違あるまい。
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第8章 比較災害論による災害文化の現代的意義 河田恵昭・泉拓良
8.1 序
自然災害研究の目的は、自然災害がどれくらいの規模でいつ、どこで起こるのかを予知し、できることなら未然に防ぎ、不幸にして起こればできるだけ被害を少なくすることである。歴史が明らかにしているように、ある特定の地域に特定の自然災害が繰り返し起こる性質をもっている。
したがって、災害が起こってからそのメカニズムを調べたり、何故被害が大きくなったかを明らかにすることも非常に大切である。それが明らかになればきっと将来役に立つという確信であり、それと類似の災害環境の地域でも適用できるという望みが出てくる。
ところで、類似とはどういうことであろうか。これについて少し考えてみよう。
自然災害の最大の特徴は地域性であろう。この地域性を構成するのは図-8.1に示すように自然の外力と被災要因である。地域性が際だつような特異な災害が発生したとすれば、その災害構造の解析のためにはケーススタディがもっとも有効であろう。しかし、過去の災害の歴史を振り返ってみれば、そのような例は被災要因が余程特殊でない限り、例外的な存在であると考えてよいことに気がつく。私達が災害の地域性と言うとき、それは図-8.2に示すように、グローバルな普遍性と地域の特異性で構成されている。ただ、気をつけなければいけないのは、災害の進化といわれるような現象では、普遍性が言葉本来の意味を失い時間的・場所的に変わるということである。これについては、比較災害論の限界のところで詳しく触れることにしたい。ここでは、普遍性と特異性の分け方はあくまでも相対的なものであることを指摘しておくことにとどめたい。
さて、わが国では1970年代に都市化の波が押し寄せ、それが過密と過疎という両極端をこの狭い国土に定着させてしまった。そして、いま都市災害と田園災害のいずれが起こってもおかしくない災害環境にある。その違いは、異常外力がどの地域で発生するか、どこを通過するかということに依存している。大きな人的・物的被害が発生するのは、わが国の場合には都市災害に限定してよいであろうが、広義の都市災害はその成熟の過程で、都市化災害、都市型災害、そして都市災害へと変貌することが明らかにされている(河田、1991)。
そして、都市災害の対策を立てようとするとき、防災構造物などのハードウエアによる方法が、土地取得上、財政上、技術上などの理由からすでに限界に近い。とすれば、ソフトウエアの充実に大きな期待がかけられるのは必定であろう。そこでは、とくに近年、災害の減少や都市化に伴う新住民の流入、都市のライフスタイルの変化などのため、昔から受け継がれてきた水防の知恵などが廃れつつある。すなわち、災害文化が衰退しつつあり、すでに消失した地域もある。そこで、本章では、解析の方法として比較災害論の手法を紹介したあと、津波を主たる対象として、常襲地帯におけるアンケート調査から災害文化の特性とそれを強化する方法を提案することにしたい。
8.2 都市化による「おまかせ防災」と「見えない被災過程」
現代の都市災害の重要なキーワードを示せと言われれば、このような2つが挙げられる。まず、「見えない被災過程」とは、災害の原因と結果が容易に結びつかない。つまり原因と結果の因果関係が災害が起こるまでわかりにくいことを言っているのであり、現代の都市災害の最大の特徴である。これは、複合災害や2次災害となり、災害の拡大や長期化に結びつく。わが国の地方都市で地震や台風で、ガスや電力などのライフラインが被災すると、それがいかにも都市災害の典型のようにマスコミのみならず一部の研究者も飛びつくが、それらは正確に言えば都市型災害であって、都市災害ではない。わが国は過去約30年間、気象学的にも地質学的にも平穏な時代を享受してきたことは疑いなく(その証拠に大型台風の直撃や巨大直下型、あるいは海洋性地震が大都市の近辺では発生していない)、比較的小さな外力、あるいは大きな外力から距離が離れているために小さくなってしまう外力の起こす災害が、あたかもわが国の今後の災害の特徴であるかのような錯覚があるようである。
また、「おまかせ防災」とは、行政任せの防災対策の風潮を表したものである。私たちの生活の多くの基準が経済的なものでほぼ決まるというような風潮は、1960年代から始まった高度経済成長からつい先日のバブル経済の破綻まで、根強く着実にはびこってきた。何でも金で解決できるという考え方は、本来住民の知恵と行政の努力によって進めなければならない防災という事業を、後者のみの責任に帰する流れとして確実に存在している。この期間の水害訴訟の激増もこれとは無関係ではあるまい。
私が生まれ育った大阪市城東区の京阪電鉄の「野江」駅の近くでは、城東運河を越えると生駒山脈まで、1950年代には視界を遮るものはほとんどなかった。晴れた日には生駒山脈の麓までくっきり見えていた。この東大阪と呼ばれる地域には江戸時代の1700年頃まで淀川と大和川が一緒に流れ込み、古くは大きな池が2つ、そしてそれが干上がって沼地がここかしこに点在する低湿地であった。今でも門真市や寝屋川市にれんこん畑(実態は池)が存在しているのはこの名残である。この地域で歴史的に発達した町はほとんどが河川の自然堤防(洪水のときに運ばれた土砂がたまった微高地)上に位置している。日本最古の河川堤防である茨田堤(「まんだのつつみ」と言われているが地元の地名「まった」が現在残っている)もここに作られている。
この地域はもともと淀川と大和川の遊水地であった。だから、高度成長時代に都市化がはじまって、はす池や低湿地を埋め立てて宅地として売り出してもこの特性は変わるわけでなく、現在もそうである。新しい住民の多くは、交通の便や教育環境、それに当然地価を考慮に入れてこの地を選択されたのであろうが、どのような災害がこれまでこの地で起こってきたかを調べた上で判断された人はいるだろうか。しかも、昭和年代に入って地下水の過剰汲み上げによる地盤沈下の発生と、都市化に伴うアスファルトやコンクリート舗装などによる雨水の浸透阻害が重なって、ますます洪水を取り巻く環境が悪化しているのである。JR片町線の鴻池新田あたりの車窓から見られるコンクリートの溝の中に封じ込められている寝屋川の姿は、この間の洪水と私たちの社会との苦闘を物語っている。
このようなことを書くとすぐに、それは行政の怠慢だという人がいる。それは行政における十分な予算と人材、そして地域住民の協力があって、なおかつそういう内水氾濫災害が起こればそう言われても仕方があるまい。しかし、現実はまさにその逆なのである。今、両者が手を携える環境をいかに作るかがこれからの洪水災害の防止の鍵を握っているといえる。昔ながらの水防の知恵、もっと言えば災害文化を復活させ強化させていかなければ、都市の防災は絵に描いた「もち」になってしまうであろう。
8.3 比較災害論展開の視座
比較災害論研究の目的は、どのような災害がどれくらいの規模でいつごろ起こるかを予測する手法を確立することである。とくに、人的・物的被害が激甚となる巨大災害が主たる対象となろう。この場合、自然外力の発生・伝播・拡大のメカニズムはそれぞれの災害ごとに自然科学の分野から研究され多大の成果を挙げてきた。それに比べて、それが人的被害の発生にどのように結びつくかについては、外力の特性ばかりでなく、社会構造や人間行動に関係するだけに複雑であって、この方面の研究を進めなければならない。それは単に想定被害を求めることに意義があるばかりでなく、それに至る過程で必要な被害発生のシナリオを明らかにすることが必要である(河田、1991a)。なぜなら、災害対策の有効性は、被害の発現過程をどれくらい精度よく予測しているかに依存しているからである。ここでは、比較災害論研究を行ううえで基本となる方法を示す。
8.3.1 比較災害論研究の構成(河田、1991b)
比較災害論研究の目的は、災害の地域性の中で普遍性があればそれを抽出してその法則性を見いだすことであって、一般的には普遍性は少ないと判断されている傾向にある。実は、バイアスのかかった普遍性を見いだすために、比較災害論の解析方法は有効と考えられる。なぜなら、普遍性という判断も相対的であるから、どこかの地域でそれが単純な形で大いに露呈している可能性がある。そのことを異種の外力、たとえば津波氾濫と洪水氾濫の比較に用いれば、外力特性の相違が思わぬところで住民の生活や考え方に反映されている可能性がある。
そこで、防災・減災に貢献すると考えられる同種あるいは異種の外力による比較災害論研究の構成を述べる。
本研究の構成は、つぎの3つから成立すると考えられる。
1)災害の実態
(a)復元(外力の規模の推定、被害の定量化)
(b)発生特性(周期性、極値構造の解明)
(c)社会への影響(災害觀、自然観の形成と変質の説明)
2)災害の地域性
(a)自然の外力の地域性(わが国のみならず世界各地域で存在)
(b)被災要因の地域性(土着の要因、被災様相の空間的、時間的相違、社会構造の変化)
3)災害の法則性
(a)防災ポテンシャルと災害ポテンシャル(災害発生確率の定量的表現)
(b)社会環境変化(綜合指標の選定)
(c)災害発生モデル(協同現象としての現象の記述)
(d)自然災害方程式(基本解の特性把握)
これら3つは独立に存在するのではなく、相互に関係している。しかもこれらはいずれも災害予測のマクロモデルの構築につながるものであって、その成果をある時代のある地域へと適用するには、ミクロモデルへの変換機構を明らかにしなければならない。
8.3.2 地域災害研究と地域災害科学
被害の発現が自然現象のみならず、都市災害の名前があるように社会現象でもあり、そこに災害の地域性が認められる。したがって、比較災害論研究も地域研究と地域課がの関係のうえで解析されることになろう。米山(1990)によれば、地域研究(areastudy)とは、長期にわたる現地研究の実績を踏まえて、その地域の人間、自然、社会、文化、そして歴史研究で構成される。
一方、地域科学(regionalscience)は、地域開発や都市計画のノウハウをシステムとして作り、どのような地域にでも適用できるようにする科学と述べている。そこで、ここでは米山によって紹介された山田による両者の対比の成果を利用すれば、自然災害の場合については、つぎのようになると思われる。
1)対象
地域災害科学:目的によって種々の広さの地域を対象とし、地域間、地域内研究を含む。
地域災害研究:1つの文化圏において地域内研究を対象とする。
2)方法
地域災害科学:自然科学を適用して数学的モデルの定式化を行う。
地域災害研究:具体的かつ個性発見的であって、記述形式となる。
3)目的
地域災害科学:どの地域にも通用する災害の法則の誘導。
地域災害研究:地域特有の災害現象の理解。
このように、比較災害論研究において災害の地域性を明らかにしようとすれば、上記の研究を行うことになる。このことは、従来のような自然科学主導型の災害研究ではもはや対処できないことを示しており、人文・社会科学分野の協力が必須となろう。しかも、マクロモデルとミクロモデルは地域災害科学と地域災害研究に対応していると言ってもよいので、両者のかかわり合いが問題となろう。具体例として、都市災害を挙げてみれば、被害の絶対量を予測することとそこに至るシナリオを書くことが同程度に重要であることはこの指摘に対応している。
8.4 比較災害論による天変地異と疫病の類似性
ここでは具体的な適用例として、中世ヨーロッパのペストとわが国の天変地異の類似性を、比較災害論の対象として解析した河田(1991b)の結果を紹介する。
8.4.1 災害環境と疫病環境の類似性
中世から近代にかけて数百年にわたり、人にとって一番重要な生死の問題について、ヨーロッパではペストが、わが国では天変地異が大きく影響した可能性を明らかにした。これら両自然災害による死者数は当時の戦争やそのほかの老衰以外の死亡原因のなかでも最大であったと言ってよい。そのような事例が自然災害として存在していたばかりでなく、それらを取り巻く環境にも類似性があったことを示してみよう。
樺山(1984)は、当時の疫病環境として、つぎのものを指摘している。
1)気候、動植物などのいわゆる自然環境
2)人口の総数や分布、人間相互の接触機会の量的増減などの社会環境
3)人間身体がその時点でおかれていた主体の病理的環境
4)農産物生産や流通経路などの経済的条件
5)戦争や改革などの政治的環境
6)対症態度や知識・経験などの文化的環境
これらは当時のヨーロッパにおける自然災害としてのペストを取り巻く自然・社会環境といえる。一方、わが国の場合の天変地異、すなわち現在、自然災害と呼んでいる災害環境は、疫病環境との類似性で、つぎのように挙げることができる。
1)自然外力、地形・地質などの自然環境
2)人口の総数や分布、人口密度、社会資本の集積度などの社会環境
3)人間社会がその時点でおかれていた主体の社会病理的環境
4)富及び情報の充実などを支配する経済条件
5)戦争や改革などの政治的環境
6)災害の知識、経験、知恵などの文化的環境
このように記述すると、各項が非常によく対応していることが理解できる。したがって、わが国とヨーロッパでは社会構造が相違していたにもかかわらず、天変地異と疫病を取り巻く環境についてみれば恐ろしいほど類似性が認められることになる。
8.4.2 発生・伝播過程の類似性
天変地異や疫病が自然現象だけでなく社会現象の側面をもつことを示そう。疫病の場合、その発生・伝播はつぎのようなサイクルの中で捉えられている(Carpentier,1984)。
天候不順ー作物不作ー疫病の発生・伝播ー食料不足ー飢饉の発生
このようなサイクルの存在はヨーロッパで一般に認められているばかりでなく、中近東やエジプトでも認められている(長谷川、1989)。たとえば前述した14世紀半ばのペスト大流行の前に、エジプトでは1337年以後の約10年間に、大雨、暴風、大雪、雹、洪水、渇水、熱風、鼠の異常発生、地震などが絶え間なく続き、農業生産が壊滅的な打撃を受けたことが記録されている。これによってカイロのみならずエジプトの人口の1/3から1/4が死亡したと言われる。
一方、わが国の場合、1751年から1850年の小氷期において、
天候不順ー作物不作ー天変地異の発生ー食料不足ー飢饉の発生
というサイクルの存在が認められている。天変地異は作物不作が原因で起こるのではないが、これが食料不足に追い打ちをかけて飢饉にまで至ることを助長するわけである。この100年間に岩手県では、霖雨(なが雨)27回、降霜(雹)28回、洪水45回、凶不作32回、飢饉13回を数えている(山本、1976)。
このような類似性が認められるものの、社会へのインパクトの大きさを人口の減少によって評価できるとすれば、ヨーロッパにおける疫病の方がわが国の天変地異より大きかったと認めざるを得ない。森本(1989)は人口動態を経済過程の原動力としたうえで、
人口増加→過度の開発による環境破壊→限界生産力の低下と人間の抵抗力減少→人口の急激な減少→環境との均衡回復→限界生産力の上昇による人口再生産力の回復→人口増加
という、自然と人間の関係をも考慮に入れた循環の構想を示している。ただし、疫病を人口減少の最大の要因であることに歴史家の見解はほぼ一致しているとしつつ、ペスト流行の素地を医学的に証明するのはきわめて難しいと述べている。このような人口増加と生態系均衡の崩壊は、17世紀前半でのイギリスにおける木材価格の高率の上昇による17世紀半ばの出生力の極小につながるという安元(1989)の説明の例ともよく対応している。
この例はキリスト教という単一の宗教圏で生じたものであるが、それが地理上の発見の時代に大洋を疫病が渡った場合にはさらに劇的な変化となって現れる。たとえば、1521年にコルテスがメキシコを征服したとき、2,500万から3,000万がメキシコの文明中心地の人口とされていた。それが1568年には300万人に激減し、1620年にはわずかに160万人という最低値に達し、18世紀まで人口の回復は非常に緩慢であったと指摘されている(Macneill,1985)。従来、この原因はスペイン人とともにもたらされた現地住民には未知であった新しい疫病が、その原因であったと言われてきた。しかし、それだけが原因であったのではなく、キリスト教徒であったスペイン人が異教徒であった原住民の徹底した人権無視と過酷な支配も、また主要な原因であったことはまぎれもない事実として示されている。つまり人間の思想とそれに基づく行動が1つの地域の人口の激減を招くと後藤(1989)は述べている。
そのように考えてみると、14世紀のヨーロッパにおけるペスト大流行の際にも異教徒であるユダヤ人が疫病流行の張本人として大量に虐殺されており、歴史上キリスト教社会がユダヤ人の大量殺りくを運動として組織化するという事態も歴史上何回も起こったと述べられている(村上、1990)。動機が違うとはいえ、第2次世界大戦という「災害」による場合も、このような歴史的な素地とは無縁ではないであろう。
しかしながら、わが国の場合、大きな人口減少は江戸時代の3大飢饉の場合に限られ、しかもその影響はあくまでも地方単位であって、国全体としてはペストの場合のように20から30%の人口減少には達せず、1%程度であったと言われている。このように歴史的な事実を重ねて考えると、わが国が過去(少なくとも明治時代以前)において、自然災害の最大の被害国であるという従来の主張は再考の余地があると言える。そうすると、自然災害が人々の災害觀や自然観の形成に影響した強さも、わが国とヨーロッパにおいて、少なくとも同等と考えてよいことになる。
8.4.3 現代における天変地異と疫病の類似性
前述した比較災害論研究の目的からすれば、自然・社会現象としての自然災害の変質をマクロな立場から予測するために、天変地異と疫病の類似性に基づく、自然災害の変わっていく方向を検討してみる。
わが国における天変地異は、災害觀や自然観の形成と変質の過程を経て、災害の対策、予防、予知が行われ現在に至っているといえる。そして、対象とされた自然災害は古典的といってよい、すなわち被災様相の劇的な変化を伴わない。いわば「風土災害」(ruralnaturaldisasters)に属するものであった。しかし、都市災害(urbannaturaldisasters)に典型的にみられるように、複合災害の特質をもつに至っている。この特徴は、事前に外力と被災様相の間に因果関係が見いだせないところにある。わかりやすく言えば、何が起こるかわからないのである。しかも、発展途上国では今だに風土災害を繰り返す二重構造となっている。
一方、ペストを含む疫病の場合には、19世紀に相次いで病原菌が発見され、疫病の治療、予防、予知が自然災害の場合より平均して1世紀以上も前に、組織的に取り組まれた。そして、わが国の「風土病」(佐々、1974)はもとよりヨーロッパからも各種疫病は根絶されたかのようである。
しかし、ビールスによるエイズの感染・死亡はとくにアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国において拡大の一途をたどっている。それと平行して、マラリヤやコレラなどは発展途上国では現在においても致死率の高い伝染病となっていて、やはり二重構造が認められる。
そこで、複合災害としての都市災害とエイズを含むビールスによる感染病とのアナロジーを考えると、そこに共通の拡大要因が存在していることがわかる。それは人口密度である。すでに、Mcneill(1985)は疫病の流行において人口密度がある値を越えると爆発的に流行する、いわゆるパンデミックになることを示している。疫病の伝染力は人口密度に関係しているわけである(Ruffie・Scournia,1988)。そこで、過去の都市災害が巨大となった場合について、例は少ないけれど人口密度と死亡リスクの関係を求めたものが、図ー8.3である。これからわかるように、都市における人口密度が国全体のそれの20倍程度になると風土災害から都市災害に移行し、死者数が劇的に多くなることが認められる。すなわち、自然災害においても人口密度がある値以上になれば人的被害が急激に多くなる減少が存在するわけで、疫病の大流行とよく似た現象と言える。
このような現象は相転移と呼ばれるものであって、協同現象の一例である(Weidlch・Haag,1986)。人口密度は秩序パラメター(orderparameter)となっているわけである。自然災害、とくに巨大都市災害の発生をこのように取り扱うならば、自然災害方程式の定式化も可能であって、その解としての巨大都市災害の発生、あるいはその結果としての人口減少の予測が可能となるはずである。すなわち、比較災害論研究の目的はこれにあると言ってよいであろう。
8.5 比較津波災害論―土佐湾と三陸沿岸の場合―
三陸沿岸や土佐湾沿岸などでは、かつて数千人以上の死者をもたらした巨大津波が、数十年から百年単位の間隔で発生してきた。津波防災はこれらの地域の宿願であって、防潮堤などの津波防災施設が充実し、近年にはいくつかの重要都市を背後に控えた湾口付近に、大水深の津波防波堤が建設あるいはその途上にあって、いわゆるハードウエアによる対策は着々と進んできたと言える。一方、住民にとっては被災後時間を経過するにつれて、悲惨な経験がともすれば風化し始めるとともに、被災経験の無い新住民の割合が増えるにつれて、防災の知識や伝承が空洞化しつつある。その上、防災施設の充実はこれに過度に依存する傾向が見いだされるのも事実である。
津波防災は、海岸構造物による外力制御と氾濫原の居住制限、予・警報による早期避難などの組み合わせによって実現されると言える。ここでは、とくに津波情報をとりあげ、上記の2地点における現状とその問題点を示す。
8.5.1 高知における津波アンケート調査(河田ほか、1992a)
(1)高知と三陸沿岸における津波災害略史
コミュニティに認められる防災にための知恵や伝承は災害文化と呼ばれる。この文化の形成に当たっては、災害の地域性を見逃すことはできない。そこで低頻度巨大津浪の常襲地帯である高知と、比較の対象とした三陸地方における津波災害についてまとめたものが表ー8.1である。三陸の場合、慶長11年から昭和43年まで357年間に9回津波が来襲し、約40年に1度の割合となる。
一方、高知のそれは、約100~150年であり、死者数においても三陸地方の方が高知に比べて多いことがわかる。したがって、歴史的には三陸地方の方が高知よりも頻度、被害規模とも上回っているといえる。
(2)アンケート調査の概要
①調査の実施日:1991年10月中旬
②調査地、及び対象者:高知県の3中学校(須崎、三里、南海)の2年生の父兄を対象にアンケート調査を行った。なお、回収数は、須崎218、三里249、南海157通であり、回収率は100%に近い数字と推定される。
③調査項目:アンケートは、19の設問からなっており、大別するとつぎの通りである。
1)住居環境(性別、年齢、職業、居住開始時期)、2)災害被災状況(台風、大雨、地震の被災)、3)津波経験(1946年南海地震津波経験の有無、家族に津波経験者がいるかどうか)、4)津波に関する伝聞(体験談を聞いたことがあるか、教訓や言伝えを話したことがあるかどうか)、5)津波の前兆、6)災害觀、7)津波災害に対する見識(津波来襲までの時間)、8)防災対策意識(避難訓練の参加、自主防災意識の必要性)
これらの設問の回答は、2~6問の選択方式としたが、体験談の内容、教訓や言伝えを聞いた内容、後世に伝えて行くための手段、方法、アイデアは記述方式とした。
(3)調査地の概況
図-8.4は各校区の位置である。須崎校区は、須崎市の西部であり、校区の東側は、須崎湾から逆くの字形に入りくんでいる須崎港地区と重なっている。1946年南海地震津波によって大きな被害を受けた。三里地区は、西に桂浜、浦戸湾を控え、南には、広大な太平洋が広がっており、海岸のすぐ際まで大平山が迫っている新興住宅地である。南海校区は、高知市の最南部に位置し、東に浦戸湾、南に太平洋を望み、三里校区よりも平野部が多い。
8.5.2 アンケートの解析結果
アンケートの解析結果は、記述方式を避けて、できるだけ表の形でまとめることにした。以下、その項目毎に結果の概要を示す。
1)回答者の年齢層:624名の回答者の校区別年齢構成は40歳代前半が多く、平均的には40歳前後である。
2)回答者の職業:どの校区でも会社員がもっとも多く、須崎では第一次産業従事者がかなり存在し、三里は高知市のベッドタウンとして機能し、南海はその中間と言える。
3)津波被災経験:1946年南海地震津波については、表-8.2のように、被害の大きかった須崎でも4人に1人が、そのほかの校区でも5人に2人が知らないと答えており、この数は今後増え続けていくと考えられる。
4)体験談等の伝承:図-8.5に各校区別に津波の体験談を聞いた人とそれを話した人との割合を示す。これから、「聞く」人より「話す」人の方が少なく、被災経験が経年的に希薄化することに対応している。
5)被災経験の有無による体験談等の伝承:表ー8.3のように、南海地震津波を経験した人でも、個人的に体験談を周囲の人に話した人が40%弱しかいない。4)と合わせて、津波文化として後世に継承していくには、貴重な経験を多くの人に知って貰う努力を組織的にやる必要があることを示している。
6)宝永・安政地震津
波の知名度:3)と同じ整理方法で、両巨大津波災害の知名度を調べたところ、津波常襲地帯に住んでいながら低頻度であるがために、回答者599名中76%に当たる459名が過去の津波災害を知らないという結果になっている。この「常襲地帯」という言葉が一般住民にはほとんど死語に近くなっていると言える。
7)津波情報の入手:「もし何かで津波警報や注意報が出ているのを知ったとすると、その後はどこからの情報を最も頼りにしますか」という問において、3)と同様にグループ別に集計したところ、図ー8.4のようにまとめられた。これから、津波災害の実態を知らないグループほど身近かな手段に頼る傾向が認められる。後述するように、被災経験の有無がこの点に如実に反映されている。
8.5.3 三陸地方に於ける津波アンケート結果との比較
三陸地方は、日本有数の津波常習地域であり、その頻度の高さは近代に入ってからは高知を上回っており、その被害においても同様であることは2で述べた通りである。このような同種の災害であるが、頻度も規模も違う地域において、その災害文化にどの様な違いがあるのかを調べてみた。なお、比較資料として、「地震と情報」研究班(1982)及び五十嵐・船津(1990)のアンケート結果を用いた。
(1)津波情報の入手先
この質問結果をまとめたのが表ー8.4である。これから、つぎのことが指摘できる。すなわち、高知では、災害時において、半数以上のひとがその災害情報源をまたテレビ、ラジオ等のマスメディアに依存していることがわかる。一方、三陸沿岸では防災無線、サイレンなどの信頼度がテレビと同程度に高いことがわかる。すなわち、情報の入手経路が多様化しており、複数の経路を通じて入ってくるようになっている。三陸沿岸では明治・昭和の2度にわたる巨大津波災害を蒙り、そのため、高知に比べて広く津波の危険性が認識され、行政においても防災無線の設置や地域防災計画の見直しが活発に行われており、そこに住民意識の高揚の結果が表れていると考えられる。マスメディアの災害時における障害の発生の危険性を考えると、三陸沿岸のそれらは住民の知恵の反映と判断される。こうしたことから、災害のインパクトの大きさに比例して災害文化の形成が促進されると考えられる。
(2)津波防波堤の効果
津波に対する防波堤の効果に対する質問結果をまとめたものが表-8.5であり、三陸の結果も併せて示してある。これによると、津波災害の程度が高い地域の順(1.三陸、2.須崎、3.三里・南海)に、防波堤に対する信頼度が高くなっていき、逆に、津波にかかわりが薄い地域ほど、防波堤の効果を低く評価する傾向にあるということがわかる。津波災害について人々が抱くイメージは、多かれ少なかれ錯覚が認められるようであるが、この比較から災害の経験の少ない方が災害のイメージを過大視する傾向があるということがわかる。
(3)自主防災組織の必要性
地域コミュニティにおける住民自身の防災活動の「拠点」として、自主防災組織(防災市民組織)が全国的に結成されている。主として自治会・町内会単位で組織が結成されており、地域住民相互の協力と助け合いによる災害への対処を主眼として、平常時から防災訓練などの活動を行っている。このような防災組織の特徴は、従来の画一的の防災からその地域の地理的、社会的、及びその他の様々の特性(地域危険度や居住形態・コミュニティ特性など)に応じたより実質的な活動が期待できることである。しかしながらこれらの組織のあり方や活動面に問題がないわけではない。自治会役員を中心とする主力メンバーの固定化・高齢化にともない、活動が停滞し形骸化が進行しているところもある。
こうしたことから、住民の自主防災組織に対する考えを調べることは、今後の自主防災組織を占う意味においても興味深いものであるといえる。そして、これらの結果をまとめたのが表ー8.6である。「大いに必要である」の選択肢については、高知で34.4%、三陸で44.4%と三陸の方が10%ほど高く、それに「まあ必要である」と答えた人のパーセントを加えると、高知80.5%、三陸75.6%となる。つまり「必要である」と思う住民の割合は、どちらの地域においても約80%と高いことがわかる。自主防災組織は、前述のように、より実質的な活動が期待できるものであり、防災の重要な役割を担うものである。
(4)災害觀
ここでは、つぎの3つの考え方を示して、地域性があるかどうかを調べてみた。すなわち、1)天けん論:自然災害は天が人間を懲らしめるために起こすものである.2)仕返し論:自然災害は人間に対する自然からの仕返しである、及び3)周期論:津波はかなり周期的にくるものである、という考え方である。
これらの結果は、それぞれ表-8.7、8及び9のようにまとめられた。これから、つぎのことが指摘できる.1)天けん論については、高知の方が「共感する(賛成する)」の割合が35%であって、三陸の4%と比べて大変高いことがわかる。2)仕返し論についても同様の傾向である。3)周期論に関しては、三陸地方の方が「共感する(賛成する)」の割合が多い。災害時について高知の中学校毎に検討を行ったが、その結果、中学校毎ではあまり回答分布に差がみられなかった。
しかし、三陸地方との比較においては、大きな差が現れていることから、災害觀は地域毎に形成されていくものであると考えられる。
また、このような回答分布の違いから、三陸地方の方が津波災害に対して冷静な見方をしているという傾向がわかる。災害経験の豊富な地域の方がこういった傾向にあるのは、高知における風水害アンケートの結果(1992)にも現れていたことである。また、薩摩災害がかなり周期的に起こっているという歴史的事実からすると、三陸地方の住民の方が津波に対して正確な知識を持っているといえる。
(5)津波のまえぶれ
津波のまえぶれとして代表的な5つをとり、その知名度を、高知と三陸について調べた結果が表-8.10である。三陸地方では、全体的にまえぶれの言い伝わっている率が高知に比べ高いことがわかる。これらのまえぶれをよく知っているからといって、津波災害の際、それらの知識が必ずしも役立つとは言いきれないが、よく知っているということは、津波への関心の高さを示すものである。
8.6 比較災害文化―津波と洪水氾濫災害の場合―(河田ほか、1993)
人命の損失に的を絞れば、現代のわが国の津波災害は明らかにlowprobabilityandhighconsequenceな特徴をもっており、それに比べて洪水氾濫災害はhightprobabilityandlowconsequenceな特徴といってよいだろう。ここでは、これらの災害の常襲地帯の住民の意識の相互比較から、被災体験の風化の問題を取り上げてみよう。被災体験の繰り返しは、林(1988)の指摘のように、災害文化形成の主要因であり、被災後の防災意識の経年低下は災害文化衰退そのものであると言える。津波の場合、住民の危険感などが経年的にどのように減っていくかなどのデータがないので、洪水氾濫の結果を援用して、この問題を考えるものである。
図-8.7は洪水氾濫災害に関するアンケート調査対象地域を示す。これらの地域は仁淀川と鏡川の流域に位置し、図ー8.8に示すように毎年のように浸水被害が蒙る地帯であり、その最大規模のものが1975、76年の両年にわたって発生し、その後現在に至るまで水害被害はほとんど起こっていない。さて、まず1975、76年の水害のインパクトの大きさを示そう。たとえば、図ー8.9はつぎのような結果を図示している。すなわち、高知市では1974年以来、約10回のアンケート調査を行っており(回答者数はいずれも約4,000人)、その中で、『市政全般を見わたして、とくに力を入れて欲しいと望む施策は何か』という問に対して、図中の黒丸で示すように、1982年までの8年くらいは、防災対策がトップであった。ところがそれ以降徐々に関心が薄くなり、1991年には回答例26項目中、11位と低下した。そのとき防災対策を希望した回答者の割合を白丸で表している。この結果は、激甚な災害が発生すると、地域住民には8年間ぐらい日常的な最関心事項になっており、また関連の復旧事業の主たるものがその程度の期間継続することも影響していると考えられる。このことは、被災から8年経過した前後に、防災訓練や防災教育を徹底すれば、再び住民の防災への関心を高めることができる可能性が見いだされる。
つぎに、これに関連して『浸水の危険性を感じるかどうか』という設問に対して、図-8.10のような関係が得られている。図中の数字は1976年の台風17号による高知市内の被災世帯数の割合であり、およそ50%の世帯が被害を蒙っている。図中の曲線は危険感の経年変化を示し、被災後15年経過した1991年には、被災した世帯の約40%しか危険と思っていない結果となっている。これは、この間に治水対策が行われたことが寄与していると考えられるが、ほかのアンケート結果では必ずしもそうでないことが判明している。すなわち、高知市神田地区は鏡川と神田川の流域であり、それぞれの治水施設の規模の決定では、計画降雨は前者が70年、後者が50年となっている。この事実は大半の住民が知らないようで、アンケートでそのような設問があって、初めて知った住民が多かった。このような理由から、住民の危険感の変化は、正確な知識に基づくというよりは、むしろ過去15年以上にわたって浸水被害を蒙っていないという事実に依拠したものと言える。
さらに、コミュニティ内で被災経験が伝承されることは、防災上とくに有効であろうが、洪水氾濫災害についてまとめたものが図ー8.11である。これと図-8.5の示した南海地震津波に関する土佐湾沿岸のアンケート結果を比較すれば、つぎのようなことがわかる。
まず、水害常襲地帯では、仁淀川流域で高知市に隣接する伊野町を除いてこれら両年の水害を体験した、あるいはその災害のことを何らかの形で聞いた人に比べて、それをほかの人に話した人のほうが多くなっている。伊野町の場合はやはり都市化の影響がはっきり出ており、新住民の流入によって、この地域が水害危険地帯であるという共通意識は経年的に衰弱しつつあると言える。
一方、津波に関しては、1946年の南海地震津波の経験者が大変少なく、被害の大きかった須崎を除いて、この津波災害を聞いたことがある人は、洪水氾濫災害に比べてかなり少なくなっている。そして、聞いたこと、体験したことをほかの人に話すのは50%程度となっており、伝承の衰退がはっきりと現れている。津浪の常襲地帯といっても、土佐湾の場合その平均間隔は表-8.1に示したように100年以上の低頻度であって、これくらいの長期になれば、地区内に津波の避難場所を示す看板や記念碑などがあっても、住民の津波に対する関心を呼び起こすことにつながらないようであり、低頻度であればあるほど、時間が経てばコミュニティの話題にもならない状況にあると言える。さらに、1990年に3つの台風が高知県に上陸したが、そのとき被災すると思ったかどうかを聞いた結果が表-8.11である。これから、住民の40%程度が被災すると思い、75~80%がその可能性を指摘している。すなわち、現状の治水対策では不充分と判断しており、いまだ水害常襲地帯のイメージが残っている。そこで、防災のための知恵・工夫をもっているかどうかをたずねたところ、住民の1/5程度しか持っていなく、もっぱら治水対策に防災を期待していることがうかがわれた。
8.7 比較災害論の適用限界(河田、1992c)
巨大津波のような低頻度災害を対象とする場合に、地域の異なるところの津波災害や同種の浸水災害との比較が有効であることは、前節で例示した通りである。ただし、比較災害もその適用対象に限界があることを少し触れておきたい。
図ー8.12はレビイ・ストロースいならって横軸に共時態、立て軸に通時態をとって災害の特徴を表したものである。
通常x軸となる共時態とは、同時に異なる複数の地域で同じ現象が発生することである(ここで断っておくが、同時とは瞬間的に時間が重なるのではなく、社会・自然現象かほぼ同じと見なせる時間スケールである)。また、時間t軸となる通時態とは、特定の地域で時間を隔てて同じ現象が発生することである。古典的な田園災害は、線形変換によっていずれの軸上に投影しても議論することができる。たとえば、現在上海で問題になっている地下水の汲み上げ過剰による地盤沈下の進行と高潮災害ポテンシャルの増大は、約60年前の大阪とそっくり同じ現象であり、通時態の軸上に並んでいる。一方、1991年の台風19号による被災のパターンと1992年のハリケーン『アンドリュー』のそれとはよく似ており、共時態の軸上の問題である。多くの災害は、通時態と共時態の関数であり、それも(xーct)によって表現できる。ここに、cは、災害の変化速度である。
すこし難しい問題に入りすぎたきらいがあるが、なぜこれを取り上げたかと言えば、都市災害では共時態と通時態間の線形互換性が大きくゆがむ可能性を指摘したいからである。要するに災害の変化が多価関数になり、それが複合災害や2次災害となって現れることを言いたかったわけである。したがって、津波が土佐湾沿岸を襲う場合と東京や大阪に来襲する場合は、被災様相はもとより被害の伝播・拡大速度などが大きく異なる可能性が大きい。その意味で都市災害は突然変異災害とも定義することができる。
8.8 災害文化の現代的意義
わが国の災害対策、とくに津波などの水災害に対してはこれまで構造物による対策と予警報の充実による対策を両輪として行われてきた。そしてそのきっかけとなったのは、大災害の発生であり、戦後に限定しても伊勢湾台風高潮や飛騨川バス転落事故など幾つかが引き金となって、防災体制や対策の変化が起こったと指摘することができる。しかし、過去30年間の沿岸都市域への人口と社会資本、社会基盤施設の集中は、都市生活の機能にとって、災害が起こってからでは遅すぎる、へたをすると致命的になりかねない危険性をはらんでいる。その一方で、快適な都市生活を享受しようとする要求は、ウオーターフロントやリバーフロントの開発となって現れており、後者の比重がますます大きくなりつつあると言える。
そのような状況では、災害が日々の生活と無関係な存在となりやすく、その典型例が東京1極集中である。毎年9月1日の『防災の日』に水防訓練などをやっても、国や自治体関係者の自己満足(個人的にはきっと不満に思っておられる人が多いと思われるが)に過ぎない場合が少なくないであろう。したがって、今後とも必要であることが間違いない水防などの知恵をどのようにして育成していくかは、将来の被災規模に確実に反映されよう。そこで大事なことは、水防をはじめとする災害文化が時代とともに変化しているという捉え方である。つまり、水防活動の一環として、昔なら堤防の土嚢積みであったものが今は変わらなければならないという意識である。
たとえば、都市の周囲の河川堤防を強化することが治水対策であったが、現在は都市そのものを耐災化するという発想が重要であり、耐災都市をどのようにして作るかということが、災害文化の現代的意義につながる。
そこで、ここでは住民の災害文化に形成や向上につながる2つの提案を示すことにしたい(河田、1992b)。
8.8.1 防災事業に対するインフォームド・コンセント
突然見慣れないカタカナが出てきたので、驚かれたかも知れない。このインフォームド・コンセント(説明と同意と訳されている)とつぎに述べる防災ボランティアが災害文化の形成にとって重要なキーワードであり、両者は密接な関係にある。
耐災都市の骨格が決まったとして、それに血となり肉となる栄養を与えるにはどうするかをつぎに考えてみることにしたい。何しろ都市は生き物なので、それらを与えなければ防災の機能を発揮できなくなりますから。
近年のように、大きな自然災害が発生しなくなると、そのこと自体は喜ばしいことではあるが、それとともに住民の防災意識が希薄になるという困った問題が出てくる。
戦後のように自然災害が頻発していた時代にあっては、防災事業は地元に歓迎され担当者はある種の気概をもって仕事に臨むことができたと考えられる。住民も災害の恐ろしさを身をもって知ったから、永く忘れることはなかったといってよい。その後、その当時からのやり方でこれまで防災事業を進めてきたのである。何のために防災事業をやるのかを説明しなくてよい時代ならばともかく、現在においては防災事業を進めることは、無条件によいこととはなっていない。防災と開発・利用、そして環境が調和することが要求される時代になっている。自分の家の前の堤防が200年に1度の洪水を防ぐために嵩上げされた結果、家の窓からは堤防しか見えなくなる。
たった1度の洪水を守るために200年間眺望を犠牲にしなければならなおわけである。防災が関係者のバランス感覚の問題として捉えられている。したがって、複数の要因を比べて合理的に判断できる情報を住民に提供するサービスが必要となっている。公共事業といっても、何ものにも優先できる時代ではないのである。防災施設がなぜ必要か、それによる利益とは、どのような機能をもっているか、など住民に情報を伝え、防災事業の遂行に同意を得るという過程が必要なのである。そういうことを通してしか、災害に対する理解が得にくい状況にあるわけである。
インフォームド・コンセントとは、医療は病気の患者に病状が充分説明され、同意されてはじめて実施すべきである、という考え方の基本である。手術方法やがん告知などもこれに含まれる。
都市は生き物であるから、そこで生活する住民は、都市にどのような防災対策をしなければならないかについて、担当者から説明を受ける権利を有していると解釈される。これはパブリック・インフォームド・コンセントと名付けられよう。また、この過程を通じて住民は災害のことを学習するわけで、防災教育の生涯学習になろう。災害の無い平和な時代にあっては、災害の繰り返し発生だけをインパクトとしたこれまでの災害文の形成と替わって、日常的な学習の機会からそれを会得するような方向に変わらなければならない。
8.8.2 防災ボランティアの育成
地域・都市防災を進める上で、防災ボランティアの育成がその成否を握っていると言っても過言ではない。これに類するものに日赤奉仕団があるが、失礼ながら日常的には町内の葬式、敬老の日の行事や赤い羽根の共同募金の世話ぐらいしかその活動は思い浮かばない。また、水防組合もあるが構成員が老齢化して実際にどの程度活動できるかが疑問である。かつては両者とも充分機能していたことは周知の事実である。それがおまかせ防災の風潮の蔓延と軌を一にするかのように衰退してしまった。なぜ今ボランティアなのかを述べたい。
まず、大都市における災害弱者の急増である。災害弱者とは、乳幼児、高齢者、身体障害者等、傷病者、外国人居住者および訪日外国人を指し、1990年の国勢調査によれば合計約2,900万人を数える。その多くの割合が大都市に含まれる。これらの人達は災害が起こったときに真っ先に犠牲者になる可能性がある。彼らの特徴は土地に不案内、もしくは行動がかなり狭い地域に限定されていることである。そうであれば、土地の環境をよく知っている地元の人達が災害時に手を差し伸べることが大変役に立つだろう。
つぎに、都市災害の最大の特徴はどのような被災形態になるかについての事前の予想が困難なことにある。そうであれば、防災の中央司令室に居て、現場の事情を通信網を使って取得し、指令を出す方式より、現場を熟知する住民が自主的に判断できれば、それの方がはるかによい。災害時に通信回線が確保されているかどうか、指令を下す人が現場の事情を正確に把握しているかなど、不安な要素が多すぎる。現行の防災無線等による災害情報のネットワークは災害前には非常に有効であろうが、災害時あるいは災害後まであまり大きな役割をもたせない方がよいと考えられる。したがって、この場合も地元のボランティアが必要となる。さらに、災害復旧過程を考えると、その期間が長くなるか短くなるかはボランティアの活動内容に大きく依存する。図ー8.13に示した国土庁・消防庁のアンケート調査結果によれば、防災ボランティアに期待する活動内容は、多いものから順に、1)炊き出し、2)避難所での世話活動、3)避難収容者の世話活動、4)清掃、5)負傷者の応急手当、6)情報収集・伝達、となっている。これらはいずれも住民の日常活動の延長上に位置している。
ボランティアの育成の重要性については認められているものの、具体的な案に乏しいことも事実である。個人主義に基づく社会奉仕・社会連帯などの精神が欧米で発達しているというような突き放した見方ではなく、わが国の風土にあった組織ができるはずであるし、旧来のものをテコ入れするなどが考えられる。また行政側に受け入れ態勢の不備があることも事実である。なお、ここで述べた個人のボランティアとともに企業ボランティアの育成も重要である。何しろ後者は日中においては、働き盛りの成人集団であって、救援活動などに大きな力を発揮してくれると期待される。
8.9 結語
ここでは、比較災害論研究の序章として、この研究を実施するに当たっての基本的な事項を示すとともに、その具体例としてわが国の天変地異とヨーロッパのペストを取り上げて考察した。
また、比較災害研究として、土佐沿岸と三陸海岸の津波災害、高知県内の洪水氾濫災害を対象としたアンケート調査を行い、災害文化の形成と衰退について考察した。そして、これらの結果を踏まえて、災害文化の現代的な意義とその育成につながる、パブリック・インフォームド・コンテントと防災ボランティアの必要性を指摘した。
これらの成果は、自然災害科学を基礎とし、人文・社会学的な知識を援用して、人間の文化的能力の向上による防災・減災策のさらなる具体化へとつながっていかなければならない。ともあれ、本研究を通じてこれまで科学的・定量的には手がほとんどつけられなかった災害のこの分野の研究が、徐々にではあるが着実に明らかにされつつあるという確信をもてたことを感謝したい。
引用文献
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第9章 結語 首藤伸夫
様々な立場から、地滑り、地震、洪水、津波など諸種の災害毎に、行動文化としての災害文化の様々な側面を記述してきた。最後に、各章を関連させながら若干の考察を試みよう。
災害文化としての伝承・伝説を、現実の場に復活させ得る一つの方法が、第1章、第2章、第3章から浮かび上がって来る。
元来、自然の影響の強い所とは、それなりに見返りの期待できる所である。人々は、利点を最大限に生かし、危険はなるべく回避するようにと、自然現象に受動的に対応する生活様式を生み出してきた。そのためには、万一の場合の「安全な聖地」、立ち入ってはならない「危険な聖地」とを分類し、その中間に日常生活の場を展開してきたのである。
「安全な聖地」の形成過程の一例が、鹿島神社と地震信仰の結びつきである。1042年に関東地方を襲った地震を契機に、鹿島神宮は地震に強い神と認められ、地方にも分祠されて行く。行く先々で地震や津波の洗礼を受け、評価が決まり、淘汰された。霊験あらたかなる代表例に、和歌山県南部町の鹿島神社がある。安政南海地震では、その両隣の集落が被害を受けたのに、此処だけ無事で
「地震ゆれど高波よせぬこの里はかしまの神のませばなりけり」
と称えられた。その逆に効験なく、信仰対象からはずれたものもある。土佐清水の鹿島神社で、宝永地震津波(1707年)で社殿流失、南海地震(1946年)で被害を受けている。こうした淘汰を経て地震信仰が出来上がったと見るべきで、単なる非科学的な迷信や習慣と一蹴する事の出来ない背景を持っている。
「危険な聖地」の形成や、その再認識の例が、地滑り災害に見られる。中部地方では、地滑りは「蛇抜け」と表現され、伝説や記念碑、寺・石地蔵などの形を取り、地域共同体によって維持され受け継がれてきた。単なる伝説でないことが、時々痛切に体験され、反省される。
「『一度あることは二度ある』とか『殷鑑遠からず』という諺のあるように、過去にあったことを、戒めとすることが大切に思われます。その実例が、昭和五十八年の大水害です。中波田の部落を水浸しにし、波田堰に至りました。昔の『蛇ぬけ』が、また起ったのです。昔の人の伝説にすぎない、などと思っていると、大変なことになりそうです。」という感慨に端的に表わされている。
こうした伝説や信仰に残る「聖地」を生かしていく方法の一つが、地震地質学でのVI指数(VeryImportant)、NG指数(NoGood)との結合であろう。地域住民が大変重要だと考えており、VI指数の極めて高い所として天然記念物、神社・仏閣が当てられて居るが、これと「安全な聖地」との対応は良い。社会生活上の重要さだけでなく、災害に強いという特殊性をも含ませうるのである。
一方、NG指数は、本来は対象地域の地盤条件の良否を表わし、自然の力の大きさを表現するもので、地盤地質学では客観的に表示できるものである。しかしながら、いますぐには客観的評価が出来ないにしても、蛇抜け伝説の場所はこれに相当すると見なせようから、「危険な聖地」をNG指数の高い場所として採用することは、不適当ではあるまい。
災害文化の地域性・限界性を、洪水災害、津波災害への対応の比較において考えてみよう。共に水の氾濫に起因する災害ではあるが、水利用の違い、発生頻度の違いにより、異なる対応となる。第4章、第5章、第8章から、違いと共通点、今後の課題とをまとめてみよう。
水田稲作を主な生産基盤とする地域では、洪水氾濫は必ずしも忌避すべきものではなかった。
それを自然条件として許容し、水害問題を当初から内包した形で、地域の生活は成立していたのである。洪水は頻度の高い繰り返し現象であるから、土地利用変化に対する応答を、世代交代を待つ事なく経験できる。経験によって自然的要素への知識と智恵の集積が行なわれ、その集積の下に社会的要素が決定される。洪水への対応と水利用は、お互いに関連しながら進化してきた。
災害文化の高度化は利水の進展につながり、利水の進展は災害文化の高度化を要請した。洪水現象だけを区分するのでなく、地域の生産・生活に関わる河川全体を理解する中で、災害文化が成立し、変化し、受け継がれ、効果を発揮してきたのである。
津波災害は、漁業を主とする人々が沿岸に居住すると言う条件下に発生していた。被災はごく稀で、大津波は一世代に一回有るか否かの程度であり、そのインパクトは大きいものの、経験集積の速度はきわめて遅い。津波に対する災害文化は、時間的空間的に強い制限を受けた経験の上に成立しており、地域社会の変化進展とは関係が薄かった。一つの津波に対して得られた経験則は、次の津波に簡単に否定される。数多くの中から精選していく過程が無いからである。経験則の中でも「地震が有れば津波、したがって避難」という図式は、比較的長く信奉されたものであったが、チリ津波の来襲のよって破れ、古老の言に対する信頼感が減少することとなった。これは「大自然と世間の掟の差」と受けとめられた。洪水ほど頻繁に現われる現象なら、この差を埋める情報は比較的速く入手でき、修正や追加が容易であったであろう。
洪水災害と津波災害の知識を直接比較した結果からも、災害頻度の大きい方が、一般に情報量が多く、したがって冷静な災害觀に通ずることが確認された。それにしても被災体験は、被災後8年位は日常的に重要な事項として認識されているが、時間の経過とともに知識・関心共に薄れて行き、再現期間100年ともなると、殆ど関心を引かなくなるという。
修正・追加が比較的頻繁に行なわれて来た筈の洪水災害文化においても、「大自然と世間の掟の差」が顕在化する状況が現れ始めている。洪水災害では、自然環境の変化や各時代の自然与件に対応した洪水経験が得られさえすれば、伝統的な災害文化が基底となり、新たな文化が構築されたのであった。しかし、社会・経済条件の強い影響の下で、水から離れた生活が日常化すると、修正や追加による新たな災害文化の構築は困難となる。水と密着した、かっての住民生活はなくなり、普遍性を基盤とする行政の主導が強く求められ、災害文化の地域性が薄められるからである。住民の危険度認識の変化は、行政のいう計画対象外力についての正確な知識によって起るのではなく、浸水被害の頻度が直接の要因なのである。被災頻度の変化が、社会条件の変化によってもたらされており、災害文化形成能力が低下しつつある。
津波の場合には、自然現象それ自体が稀にしか起らず、災害の発生頻度が小さいため、住民の高い関心の維持、正確な知識の構築が共に困難であった。洪水の場合には、被災頻度の低下が、社会・経済的な要請に答えるという。人為的な行為によってもたらされ、同様の結果を生ずる事となった。
こうした事態を改善するには、どの様な水との関わり方を住民が選択するかを確認しながら、災害文化の項目や内容について、現実行動への適用を常に念頭において、その有効性や限界を検討し、「大自然と世間の掟の差」を埋める努力がなされなくてはならない。それには、科学性による保証、あるいは時間・空間を超えた適用性を保証する尺度の発見が必要となる。科学的根拠を整える1例が、第6章に示されている。時空間を超えた適用性を見いだす努力の1例が第8章にあり、そのための基準尺度として人口密度が提案されている。
災害文化が地域性を保ちながら継承されていくことは、今後難しくなるのではないかとの危機感が、どの章においても触れられている。文化継承の手段として有効であった信仰は衰退し、継承組織としての地域共同体の結束力は変化し弱まり、その基本的構成としての家の観念は人口流出入の自由度が増すにつれて変化している(第7章)。大地に足を下ろした個人や地域共同体としての対応から、行政への寄りかかりへの移行が、災害文化への関心の低下を加速している。災害文化の科学的根拠を明らかにして「大自然と世間の掟の差」を埋める努力に加え、現実への効果的適用を保証する手法を検討すべき時点に来ていると言わなくてはならない。