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緒言

 昭和八年三月三日、俄然として大津浪の三陸沿岸を襲ふや、人畜の死傷家屋船舶等の被害夥しく、宛然阿鼻叫喚の衢と化し、其の慘状言語に絶す。一度此の悲報四方に傳はるや、天下の同情翕然としてあつまり、救恤に慰問に至らざるなく、
畏くも天皇陛下には御宸襟を惱ませ給ひて深き仁慈を垂れさせられ、當局また萬般の方策をめぐらして復舊復興を圖り、爲に今や更生の意氣大いに揚がるに至る。
 本會は、此の間に處して、專ら學校方面の救恤・慰問に携はり、各地より集れる義捐金並に慰問品等の取扱に當りたり。
 茲に其の資料を集録して冊子とし、當時の状况及び經過を報じ、且は大方諸賢の深甚なる同情に對して、聊か感謝の意を表するものなり。
昭和九年九月一日   岩手縣敎育會

凡例

一、本冊子は、昭和八年三月の三陸震災に關する資料を蒐集したるものなり。
一、本冊子は、專ら學校に關する資料を採録せり。
一、被害地各學校の状况は、本會に於いて被害地の學校より得たる報告に據れり。
一、美談哀話及び復興の状况等は、現地學校の報告及び各種の新聞冊子より抄録せり。

目次

等發震時線圖
中央氣象臺型強震計記象
三陸津浪被害區域圖
口繪(被害地の慘状)
緒言
凡例
告諭
告諭
概要…………………………………………………………………………………(一)
一、地震……………………………………………………………………………(一)
二、被害……………………………………………………………………………(一)
三、救恤……………………………………………………………………………(一)
四、敎育上の被害…………………………………………………………………(二)
五、敎育上の救恤…………………………………………………………………(三)
六、雜件……………………………………………………………………………(三)
中等學校職員生徒被害調査………………………………………………………(五)
小學校被害調査表…………………………………………………………………(一〇)
義援金配給一覽……………………………………………………………………
被害地各學校の状况………………………………………………………………(一五)
美談哀話……………………………………………………………………………(一二三)
學術上より見たる三陸海嘯………………………………………………………(一五三)
復興…………………………………………………………………………………(一六五)
震災義援金處理決算………………………………………………………………(一六八)
義援金寄贈芳名録…………………………………………………………………(一九〇)

等發震時線圖

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地図 等發震時線圖

中央氣象臺型強震計記象

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中央氣象臺型強震計記象

三陸津浪被害區域圖

津浪が陸上に打ち上げた区域
数字 浪の高さ(単位・尺)

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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪被害區域圖(岩手懸)1
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪被害區域圖(岩手懸)2
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地図 昭和八年三月三日 三陸津浪被害區域圖(岩手懸)3

口繪(被害地の慘状)

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写真 釜石 1
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写真 釜石 2
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写真 釜石 3
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写真 釜石 4
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写真 大槌
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写真 安渡
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写真 麥生
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写真 野田
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写真 久慈港工管所
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写真 久慈港工小坂製材工場
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写真 久慈港竹花工場
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写真 陸中八木
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写真 大槌小学校の天昭大神奉齋神殿
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写真 及川卯三郎墓

告諭

 今暁三陸沿岸ニ於ケル強震ニ伴ヘル海嘯並火災、被害甚大ニシテ往年ノ慘害ヲ想ハシムルモノアリ、之ヲ罹災同胞ノ救援ニ就テハ、各方面ニ於テ同胞共濟ノ精神ニ基キ、至大ノ努力ヲ致サレツツアリト信スルモ、此ノ際特ニ縣民心ヲ協セ萬難ヲ排シ罹災同胞ノ救濟並被害地町村ノ復興ニ當ラシムルヘシ。
 時恰モ鄕土將兵ハ、熱河掃匪ノ爲、盡忠報國ノ至誠ヲ輸シツツアリ、希クハ忠勇ナル出動將兵ヲシテ、後顧ノ憂ナカラシムルニ努メラルヘシ。

 昭和八年三月三日   岩手縣知事 石黑 英彦

告諭

三陸沿岸ヲ襲ヘル震災海嘯ノ被害甚大ナルヲ被聞召、畏クモ
天皇
皇后兩陛下ニ於カセラレテハ、深ク御軫念遊ハサレ、特ニ優渥ナル御沙汰ヲ賜ヒ、侍從ヲ遣ハサレテ、親シク罹災民ヲ慰メ、御内帑ヲ開キ給ヒテ、救恤ノ資ヲ御下賜アラセラル
聖慮鴻大
天恩無窮誠ニ恐懼感激ノ至ニ堪ヘス
惟フニ今次ノ災害ハ稀有ノ慘事ナリト雖、縣民ハ不撓不屈、相勵ミ相助ケ鋭意復興ニ力ヲ輸シ、進テ將來ノ計ヲ樹テ、以テ聖恩ニ對ヘ奉ランコトヲ期スヘシ

昭和八年三月五日    岩手縣知事 石黑 英彦

概要

一、地 震  昭和八年三月三日午前二時三十一分、突如として強震起り、約二十分を經て三陸沿岸一帶に津浪の襲來となる。盛岡測候所の發表によれば、人體に感じたる時間は約二分間なるも、總震動時一時間餘、最大振幅四十ミリ、強震にして震源地は宮古東南沖合約四十里の海底なりと云ふ。

二、被 害  地震による被害よりも、津浪によるもの最も甚しく、罹災町村は八町廿八ケ所、流失家屋二千九百六十九戸、全倒壞四百九十七戸、半倒六百十四戸、全燒二百二十戸、半燒一戸、其他浸水六千三百七十七戸、死亡一千四百八名、行衛不明千二百六十三名、負傷八百五名、其他の罹災三萬六千九百七十八名に達したり。

三、救 恤  災害の報告縣廳に達したるは午前三時頃なるが、直ちに幹部の非常招集を行ひ、之れが對策を議し部署を定め、救恤の食糧被服を携帶し午前六時一齊に出發したり。同正午頃、石黑知事次の如き告諭を發したり。
 今曉、三陸沿岸ニ於ケル強震ニ伴ヘル海嘯並火災ハ、被害甚大ニシテ往年ノ慘害ヲ想ハシムルモノアリ、之ガ罹災同胞ノ救援ニ就テハ各方面ニ於テ同胞共濟ノ精神ニ基キ、至大ノ努力ヲ致サレツヽアリト信ズルモ、此際、特ニ縣民心ヲ協セ、萬難ヲ排シ、罹災同胞ノ救濟並被害町村ノ復興ニ當ラルベシ。時恰モ鄕土將兵ハ、熱河掃匪ノ爲盡忠報國ノ至誠ヲ輸シツヽアリ、希クハ忠勇ナル出動將兵ニシテ後顧ノ憂ナカラシムルニ努メラルベシ。
災後、寒氣酷しく、時として零下十二三度に下リ、降雪亦屡々ありて罹災民の勞苦言語に絶するものあり。
加ふるに、本縣地域廣く、山岳至る所に重疊し、交通機關亦不備にして、被服食糧の輸送圓滑を缺き、救護の迅速普及を缺くの憾みありたるは遺憾とする所なるも、月を經るに從ひ整備し、旬日ならずして之等の救護品の配給圓滿に普及したり。縣の救恤と相俟つて、陸海軍の機敏なる救護班の派遣ありて、道路の復舊、醫療の普及を見たり。縣内外の慰問金品陸續として到着したるは、三月十日以後なりき。事天聽に達し、畏くも侍從の御差遣となる。依て三月五日、石黑知事左の告諭を發したり。
 三陸沿岸ヲ襲ヘル震災海嘯ノ被害甚大ナルヲ被聞召畏クモ天皇皇后兩陛下ニ於カセラレテハ、深ク御軫念遊バサレ、特ニ優渥ナル御沙汰ヲ賜リ、侍從ヲ遣ハサレテ、親シク罹災民ヲ慰メ御内帑ヲ聞キ給ヒテ、救恤ノ資ヲ御下賜アラセラル。
聖慮鴻大天恩無窮誠ニ恐懼感激ノ至リニ堪ヘズ。
惟フニ、今次ノ災害ハ、稀有ノ慘事ナリト雖モ、縣民ハ、不撓不屈相勵ミ、相助ケ、鋭意復興ニ力ヲ輸シ、進テ將來ノ計ヲ樹テ、以テ聖慮ニ對ヘ奉ランコトヲ期スベシ。

四、教育上の被害  罹災小學校六十四校中校舎の流失は分敎塲一校のみなるは、不幸中の幸といふべし。
罹災兒童生徒中、全家族の死亡により孤兒となり、學資は勿論生活の根據を失へるもの少からず、又死亡敎員中全家死亡せるもの一名あり。

五、教育上の救恤  縣の一般的救恤の外、敎育上の救恤を爲さんと、本會主唱して縣の内外に義援金募集に着手したるに深厚なる同情により、別表の如く多額の醵金を得たるは、誠に感激に禁へざる所なり。
三月中、學用品の現品寄贈を受け、之を各地救護所に委託して、各罹災學校に配給し、新學年に入るに際しては、新品の配給上遺憾なきを期したり。又災害による童心の傷害緩和を期し、巡回童話會を催したり。
義援金の配當に關しては最も愼重なる考慮を拂ひ、國費並びに縣の救恤と重複するを避け、罹災學校長の意見・希望等を斟酌し、更に寄託者の意志を尊重して之が配當計劃案を立て、別表の如く目下實施中にあり。死亡敎員兒童に對しては、最も厚く之れが弔慰を行ひ、生存者に對しては其の罹災程度及一家經濟生活上の地位等を參酌して差等を附し、復興上の一助たらんことを期したり。中等學校生徒中、父兄の罹災程度により、學用品費の一時的補給の外、一ケ年に亘り學資の補給をなすの途を立て、中途廢學するものなからんことを期せり。又卒業期まで數年に亘り、學資補給を要する者に就ては之に應ずるの用意をもなせり。
罹災町村は、數年に亘る不漁、財界不况等の影響により、町村歳入に著しき缺陷を生じ、豫算面に計上したる費目は、人件費外不實行の餘義なき實情にありて、學校經營上多大の支障を來しつヽあるに鑑み、設備方面に比較的多額の金額を支出するに至れり。
之を要するに、震災救恤事務は目下實施の中途に屬するも、尚數ケ月を要するならん。事務結了の上は更に詳細の經過報告をなさんとす。

六、雜 件
1. 大金侍從の本縣に入らせられたるは三月七日にして、至る所の慘状を親しく御視察あらせられ直接罹災民に對して心強き御言葉を下され勵まさるる所ありき。如何なる小部落に至る迄、親しく足を運ばるヽ毎に、常に豫定の時刻を經過し、午後九時過ぎに宿所に着すること珍らしからず、地方官民等しく感激措く所をしらず、只天恩の無邊に感泣するのみなりき。

2. 石黑知事初め關係官公吏何れも不眠不休精勵事に當り、赤十字支部・愛國婦人會・各地の病院・消防隊・在鄕軍人分會・男女靑年團・産業組合は勿論、鐡道遞信關係並に自動車運送業者等あらゆる機關は總動員を以て救護に當れる光景、眞に目まぐるしき戰塲の如き感あり。今次の災變に關する美談・佳話、或は逸話・哀話等も各所に傳ふるものあり。就中各地、町村役塲は、警察署と相俟つて、救恤の第一線に立てるも、手不足の不自由を來す事夥しく、所管小學校職員は、全部之が實務の補充に當り、遺漏なき而も公平なる救護品の配給をなし、或は統計事務の迅速を見たる等、是等隱れたる犠牲奉仕の賜ものと云ふべし。

3. 人命救助に當れる小學校長
津浪の去りたる後、蛸浦灣内に寂寞を破つて聞ゆる求援の聲を辿り、隣人森氏と共に闇ををかし、戸板に乘りて之に近づき浦島某女(二十才)を救助したる氣仙郡蛸浦小學校長伊藤榮一氏の如き美談あり。

4. 下閉伊郡小本小學校訓導小笠原吉見氏は、押し寄する浪を冒して學校に駈け付け御影を奉護し、安全地帶に奉遷し、夜明けて罹災地を顧るに氏の下宿せる家屋既に半潰して家具流失せるも、氏の居室のみは些かの浸水のみにて一物の流失せざるは眞に奇蹟と云ふべし。

5. 罹災兒童は、異常なる驚怖心を抱き、殆ど安眠さへなし得ざる状况にして、この傷心を沈靜せしめ、常態の心もとより援護應援に當れる人々も言ひ知れざる心強さを感じ、國家の恩惠に感激せざるを得ざりきと云ふ。

6. 全家族死滅の悲運に遭遇せし氣仙郡崎濱小學校訓導及川卯三郎氏は、地震と共に母を伴ひ避難せるも、半身不随の父を思ひ出し、再び母と共に家に歸り、父を連れ出すと同時に大浪に呑まれ、一家族三人共に行衛不明となれり。同僚職員並に親戚等相計り、本會より弔慰料を以て墓碑を建設し、其の碑銘は石黑知事の揮毫を得、親戚これに感激し、相謀つて及川訓導の後繼者を立て、絶家の再興をなす事とせり。(口繪參照)

7. 災害の報導一たび發せらるヽや、逸早くも東京市・横濱市より見舞を受け、次いで帝國敎育會よりも救恤應援の申出あるなど洵に心強きものあり。東京市小學校長會並に東京市小學校敎員會は代表者として東京市視學課長廣田傳藏氏・愛宕小學校長中澤留氏・富山小學校長上沼久之丞氏の三氏を派遣せられ、四月十一日金貳萬圓の義捐金を寄贈せられき。翌十二日宮古・山田・大槌・釜石等親しく罹災地を視察慰問をなし、翌十三日花巻驛より宮城縣の罹災地に向つて出立せり。
五月十七日、全國小學校敎員會を代表し、浦和第一小學校長丸山近美・東京市關口臺町小學校坂口繼輔・大宮小學校訓導三刀谷治の三氏(埼玉縣小學校敎員會代表を兼)慰問の爲來縣し義捐金の贈呈を受けたり。これ等の代表者も亦宮古・釜石等の罹災地を慰問視察をなせり。

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小學校・補習學校・中等學校別被害状況一覧
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中等學校職員生徒被害調査 三月二十三日 視學室
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小學校被害調査表 視學室調査
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義捐金配給一覧 (小学校)
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義捐金配給一覧 (補習學校)
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義捐金配給一覧 (中等學校)

被害地各學校の状况 海嘯罹災者救助の概况 氣仙郡蛸浦尋常高等小學校長 伊藤 榮一

 當學區は、被害甚しく、罹災者多くして各自家族の救助に忙しく他を顧るの暇なきものの如し、小職幸にして高地なる學校住宅に居住せるを以て溺流者の救助に當りたれば其概况を御報告申上ます。
 三月三日午前三時、津浪襲來するや、先づ以て海岸に居住せる二職員の安否を尋ねたり。二人共安全なることを知り、直に上蛸浦灣内溺流者の救助に努めんとせしが、津浪の再來を恐れて近よる者なく、灣内流失物に埋れて舟の通行も出來ず、又舟もなし。溺れ居るもの聲を限りに救を求むるも如何とも致し方なし。時計を見れば三時四十分、夜明くるに尚一時間餘あり、良案なきやと志田鐵治郎氏と共に工夫をこらせど仲々案なし。たまヽヽ戸を流失物に渡してと思ひつき、志田鐵治郎、森文治郎を勵まして戸を渡しつヽ暗夜を海中に渡る三十間餘。親子二人握り居る浦島なには(年二〇)を助け、森文治郎は脊負ひて上陸、父は既に死亡す。死亡者をば置き更に十間餘の沖に居る森覺右衛門若夫婦の救助に當り、時に海中に居るもの小職と志田鐵治郎氏のみ。覺右衛門體重くして脊負ひて上陸すること能はず。自分等の洋服和服を巻き、近所に流れある屋根より藁を抜き取りておひ、夜の明くるを待ち、舟を呼びて陸上げしたり。されど妻きんは手當の効なく遂に死亡、覺右衛門は幸に生命を得たり、夜明けて學校に歸り、職員集合、男敎員三名は部落を分擔して罹災兒童の家庭を訪問調査をなさしめ、自分は學區全部を見舞ひ、歸校せしは午前十一時なりき。

廣田村震浪災害時に於ける職員の救護振り 氣仙郡廣田高等・尋常小學校

三月三日午前三時卅分、大津浪の引き去つた後、間もなく字天王に集合して居た第二部消防組の小頭佐藤茂消防手砂田宗二・同佐々木倉吉・當校訓導熊谷勝三・土工佐藤安五郎の五名は、田谷・谷地・平陸方面を巡視中谷地の火葬塲前泥田の中に、闇と嚴寒との中に呻吟する者を發見し、細畝に抱き上げて檢分したが、五體凍結して將に死に頻せる岡渕ぎん、と其の娘京子なるを知り、聲を勵まして元氣づけ、負へる帶を鎌もて切斷し、母子を分離し、京子をば砂田に背負ひ、ぎんをば外套に包んで佐々木倉吉負ひ、佐藤これに添ひ、家屋船舶石塊の山積した間を熊谷訓導之を導き、平畠の佐藤勝惠宅に収容して佐藤安五郎後方を警戒す。母ぎんは一行に助けられたのを知り、安心して途中で絶命。収容後一行と同宅家人の手厚い應急も効無く落命したが、子供京子は、一時息もなく冷えて居たが幸ひ一命を取り止め、今は健在である。

震災直後に於ける團體的奉仕 大船渡尋常・高等小學校 同  實業補習學校

三月三日
 無被害地區の尋五以上の兒童及生徒(實業補習学校)を、全職員統導の下に二方面に分れて、罹災地區學友家庭の慰問並應援作業のため出動せる人々へ、麥湯接待をなす。

三月四日
 男職員四班に分れ、罹災状况の踏査、戸別訪問、通學兒童の安否、罹災の慰問をなす。

三月四日ーーー五日
 高等科並實業補習學校女生徒は、女子靑年團員と協力して前日の通り麥湯接待。

三月六日ーーー七日
 高等科男兒童學區内道路淸掃及溝上に勞力奉仕。

三月五日ーーー十日
 高等科女兒童並實業補習學校女生徒(罹災者を除く)罹災家庭の衣類寢具の洗濯奉仕、戸數五十,點數七百餘點。

盛農學校生徒罹災地救助出動状况 岩手縣立盛農學校

一、昭和八年三月三日
救助本部               五名(第三學年)
生徒罹災者手傳            三四名(第一、二,三學年)
職員罹災者手傳            一〇名(同)
學校連絡係              五名(第三學年)
大船渡方面道路整理倒壞家屋整理其他  六五名(第一、二,三學年)
赤崎村方面同上            一〇名(同)
卒業生在校生慰問           五名(第三學年)

一、三月四日
生徒罹災者手傳            四三名(第一、二,三學年)
職員罹災者手傳            六名(第三學年)
學校連絡係              三名(同)
末崎・大船渡方面倒壞家屋整理其他   三一名(第一、二,三學年)
赤崎・蛸ノ浦方面同上         三一名(同)
救助品配給係             二〇名(第三學年)

一、三月五日
生徒罹災者手傳            九八名(第一、二,三學年)
職員罹災者手傳            六名(第三學年)
救助品配給係             三〇名(第二,三學年)

一、三月六日
生徒罹災者手傳            四六名(第一、二,三學年)
學校連絡係              一名(第三學年)
細浦方面倒壞家屋整理其他       二六名(第一、二,三學年)
赤崎村淸水蛸浦方面同上        二七名(同)
救助品配給係             二四名(第二、三學年)

一、三月七日
生徒罹災者手傳            三八名(第一、二,三學年)
職員罹災者手傳            四名(第三學年)
學校連絡係              三名(第一、二學年)
細浦方面、倒壞家屋整理其他      六八名(第一、二,三學年)
救助品配給係             一八名(第三學年)

以上の如き部署により五日間に亘り、本縣救援隊と協力して「トラック」により救助品の配給を敏捷圓滑ならしめ、或は各方面の整理に手配從事し、地方民の感謝を受けたり。

昭和八年三月三日三陸大海嘯誌 氣仙郡廣田尋常・高等小學校

一、一般状况
三月二日の夜は晴天にして穩なり。
三月三日午前二時三十分、突如として大強震あり。
人々驚きて起床戸外に逃避す。
震動は、上下動なるが如く、其の繼續時間約五分間。
時計の止れるものあり、不安定物の落下せるものあり。
町民中、海嘯を豫感して、高田松原浩養舘に通話し、海邊の樣子を聽取したりと。されど海波平穩にして異状を認めずとの返電を接取したりと。
全町民、暗夜中不安の中に數十分經過せり。
午前二時五十分、遠雷の如き音響あり。
午前三時數分前、ざわヽヽといふ波の音あり。
河を逆流せる波は白光を放ち、沼池より破れて流れたる厚氷打合ひ、不氣味にして異樣な音をたてたり。よりて町民始めて津浪襲來を確知せり。
波の河を逆流すること六七百米、浸水地區海邊(汀線)より四百米ばかりなり。
數分間おきに來襲せる大襲五回、中にも第二回目の大浪最も猛威を逞しうせり。
小浪の數、數知れず。
五回目以後次第に其の威勢衰へ、潮次第に引きたり。松原方面は次第に地面を現せるが如きも、電柱倒れ、電燈消滅、電話不通にして消息全く不明。この時既に消防隊員並部落民の救助活動あり、四點警鐘、午前三時十分。
消防組員並町民は、松原居住者救助に赴かんとすれども、暗夜に加ふるに松原背後の底地濁水滿ち、防浪堤防各所破壞して如何ともなし能はざりき。この折、松原方面に燈火一點を認む。各員、筏を組みて渡らんとすれども數名を乘するに足らず。萬策つきて流失せる沼舟の捜索に從事し、暗夜をさまよふ。
かくする時、松原方面に當り、女・子供の悲鳴・叫聲、救を求むる、悲慘、悽愴なる哀聲、鼓膜に響き胸を刺す、惡感を覺ゆ。
生存者あるを認めたる消防組員並部落民は、勇氣百倍、苦心發見せる小舟に乘り、萬難を冒して松原に赴き、男五名、女一名を救助す。其の中男一名は失神し、介抱により蘇生するを得たり。女一名、子供男女各一名は、遂に發見するを得ざりき。

二、被害状况
水高(波高約一六尺)
波の勢最も猛烈なる所二ケ所あり。砂丘を破壞し、樹木を倒し、家屋建築物を木葉微塵に粉碎し、家具家財の破片附近に散亂、慘擔たる光景見るに忍びざるものあり。

(イ)浸水面積  六二ヘクタール
 内田      四〇ヘクタール畑七ヘクタール  其の他  一五ヘクタール

(ロ)損失物件
    堤防 六八七間  道  三〇〇間 橋  一
    水路 一一〇間  建物 四    發動機船 二隻
    漁船 二隻    其の他

(ハ)イ、ロ、合算損失見積金額二萬三千六百七十圓也

三、家屋被害状况
地震による被害少し。
全壞  高田松原浩養舘縣是製絲高田工塲松原慰安所外非住家一戸
半壞  一戸

四、罹災者
 死亡 男一女二名  負傷者 男二名  其の他 二名
當町の被害他町村に比し僅少なるは、海邊に接する部落なく、且又砂丘、松林、鐵道線路等にて波を遮りたるに基けり。而して松原居住者中には津浪襲來を知り、間一髪中に松樹によぢ登り、波を避け、生命を全うするを得たるものあり。當時を追憶して戰慄せざるものなし。
  死亡者氏名  浩養舘主人  福田キヨ氏 同 長女 福田リエ君 高田長女 二
         同長男    福田貞君 本校尋二
  負傷者    浩養舘主人  福田安二氏(全身擦過傷)
         浩養舘使用人 吉田愛次郎氏(頭部打撲傷、全身擦過傷、凍傷、失神状態にあり)
  其の他    三名宿泊者等

五、救護活動
(イ)活動團體
高田町高田町民全般、高田町消防組、高田町軍人分會、高田町靑年團、高田町女子靑年團、法雨會
(ロ)高田町罹災救護所開設
高田町警部補派出所前に町消防組員集合、午前三時三十分、三隊に分れ救護の爲出動
方面
氣仙町長部方面、午後〇時半歸町直に小友村只出方面へ出動、高田町松原方面、米崎村沼田及勝木田方面
午前八時高田救護事務所開設、警官役塲吏員協同にて災害應急事務開設
(ハ)配給品買上
午前十時附近町村罹災者へ配給の目的を以て救護品買上手配をなし直に買上に着手
品目並數量
 米   五六石五斗  野菜  一三一貫目  木炭  一五〇俵
 ミソ  一九四貫   ザル  二九五ケ   フトン 五五枚
 バケツ 二九六ケ   ナベ  五〇ケ
右は廣田、小友、末崎、米崎、氣仙の五ケ町村へ配給
(ニ)慰問品配給
午前十時四十分第一着の慰問品到着
一ノ關山ノ目町慰問トラック一臺
この時活動せる水澤町小林魚店トラックの行動に對し、感謝し、禮状發送。
以後、毎日三,四回の貨車便にて到着する縣内は勿論、各地よりの慰問品一日約トラックにて十數臺を算す。
慰問品到着するや救護事務所全力を擧げての指揮命令により、各種前記團體を始め、擧町一致、胸に横溢せる同情心と同胞愛と誠と熱とを以て配給に努力し、所員は定刻の食事をとることまれにして、立食の止むなきに至ること屡なり。
配給には最も敏速を旨とし、晝夜の別なく活動をなせり。
この熱誠溢るヽ同胞愛は、食ふに物なく、住むに家なく、身を包むべき何物をも有せず、寒氣に震ひ、地異に戰き、天を仰ぎ、知らざる者の如き無氣味なる水平線を凝視して無常に泣ける悲慘なる罹災民より、涙の感激を受けたりき。
この熱誠なる奉仕活動は、三月十九日、救護事務所の矢作驛移轉迄繼續せり。
慰問品の數量統計等は、凡て縣當局に送付せられ、記録し能はざるを遺憾とす。
(ホ)災害地應援奉仕出動の状况
災害地區整理應援の爲、本高田町に於ては、左の日程により全町民を擧げて出動。
 一、日時     三月三日、四日、五日の三日間
   其の後、團體行動を止め、各自親戚筋への應援をなせり。
 二、應援先    末崎・廣田・小友・米崎・氣仙・各町村。
 三、方法     區長引卒の下に、二區又は三區協同して各村へ一戸必ず一人宛全町。
          尚、靑年團は獨自(七日より)にて各町村へ奉仕せり。
 四、松原死體捜索 主として消防組員並小泉長砂區民從事。
          三日午前十一時十五分、子供男女各一名の溺死體を發見、行方不明者一名あり。
          連日捜索に從事すれども發見するに至らず、旬日にしてやうヽヽ發見するを得たり。
(ヘ)施療状况
1、縣衛生課派遣の醫師來高。
  三日午後〇時四十分、縣衛生課派遣醫師來高に付、米崎・小友・廣田方面へ案内出向せしむ。
2、一ノ關郡醫師會派遣醫來高
  三日午後三時二十五分、一ノ關郡醫師會醫師七名、看護婦六名、來高せるにより、當町消防組員に案内せしめ、米崎・小友・末崎・廣田方面へ出向せしむ。
3、一ノ關實費診療所醫師來高
  三日午後、一ノ關實費診療所醫三名、其の他四名應援のため到着に付、小友村只出・末崎村細浦方面へ案内せしむ。
(ト)其の他
   午後三時三十分、世田米消防組員三十九名を始めとし、郡内よりは勿論縣内各地よりの應援奉仕團體頗る多數に上り、又、國内各地よりの調査員・視察員・慰問使・慰問團等絡繹として其の數を知らず。本高田町救護所に於ては之等人士の應援、又は手配等にも多忙を極め、實に寢食を忘れて其の萬全を期せり。

六、高田町靑年團の活動
罹災民の困窮と難澁とを默視するにしのびず、當町靑年團は團長以下決然起ちて其の全能力を動員し活動せり即ち罹災町村に於ける道路の障害となれる流失物の除去をなし、交通路を開き、又行方不明者の捜索に從事し慰問品・配給品の分配配給等眞に献身的の努力を捧げて惜まず。かくして當町靑年團は、配給品の打切となるまで粉骨碎心、罹災同胞のため奉仕せり。

七、高田小學校の活動
三月三日、當校職員全員出動、本校尋二福田貞君の死體捜索をなす。松樹を仰ぎ草を分け藪に入り、濁流を渉り、愛しき兒の姿を索す。敎室内の貞君を忍び可愛き貞君を想ふ。今や骸となる貞君を思ひ、涙と共に捜索す。職員只默々として聲をのみ吐息あるのみ。悲しき哉、行方不明にして記念すべき一物をも得ず、空しく踵を返すは哀傷に堪へず、萬物悉く哀愁に滿つ。それより罹災家族を訪問し弔意並に同情の意を表せり。
因に貞君及リエ君の姉弟はよく四日部落民の心を盡くしての捜索により發見するを得たり。
三月五日、當校職員は三隊に別れ、附近罹災町村への慰問をなせり。
之より先、早も各三陸沿岸小學校へ見舞文を發送し弔意を表せり。
三月九日、當小學校兒童並に職員より義捐金を募集して發送す。
尚、罹災同胞のため當校兒童より學用品其の他の慰問品を募集し、箱入三ケとなし、便宜上郡部會へ配給を依頼し發送す。
尚又、當校兒童並職員中の罹災者に對しては、誠心誠意なる弔意をなし、又慰問をなせり。
省るに、この災變あるや當校は最も敏捷に且誠心以て活動をなし、一糸亂れず統制的に善處するを得たるは、之擧校一致事に處するの美風の現れにして、最も自ら快哉を感ずるものなり。
法雨會(當町宗敎團體)の活動
三日の當日午前四時、當町法雨會員は、各生殘り流れのがれし人家を訪ねて慰問に從事せり。
連日被害地を巡回せる中に感ずるところあり、直に巡回移動大追弔會を催して、最被害部落を一巡、各地に供養菩提塔を建立回向せり。
かくして、共に悲しき犠牲者の冥福を祈れり。又、各員は一方檀那寺なるを以て小單位的に各寺毎にその檀信徒の精神物質兩方面に慰問供養を爲してその復興に資せり。而して各地共多大の感銘を得てその感恩の大なるを感ぜしむ。
尚、各宗本山よりの見舞品慰問使續々來着、その失落せる慘状を救濟せり、又謝すべし。
只々人の世の情の厚さ、隣保の恩の温き、全く自ら自然的自利利他圓滿の世相を現出せる樣は報恩の涙無くしては亨け入れ得べきにあらず。愈此の秋復興の日の一日も速かなるべきを合掌念願しつヽあり。

災害發生以來の情况 氣仙郡氣仙尋常・高等小學校

1、地震並津浪襲來の状况(省略)
2、被害の概况
家屋の流失並倒壞したるもの多く(別紙統計表)人畜の死傷言ふに忍びざるものあり、凄慘荒凉の状實に斷膓の思ひあらしめざるはなかりき。
3、救援救護の状况
(イ)三月三日當日の情况
消防組・靑年團・女子靑年團・靑年訓練所・婦人會等各種團體並一般町民總動員にて屍體捜索、流出物處理或は糧食辨當等の配給に全力を注ぎ、尚近隣町村からの應援隊の活動を仰ぎ應急の救護措置をなしたり。
町當局に於ては即日救護事務所を設け整然たる救護方策を講ぜり。
夜は自警團員、消防手等の涙ぶましきまでの警戒に蘇生の思ひをなせりと。

(ロ)當日以後の状况
救護事務所の設置により、事務等分擔し各般の應急處置をなせり。事務所並分擔左の如し。
 受付……見舞客の應接、接待。見舞文書等の處理記録調製。
 配給……救護慰問品の接受、配給。物資の調達及配給。
 警戒……現状の警戒、警備。救療に關する一切。

(ハ)各種團體並一般の救援
消防組
 現塲の警戒、後片付の指揮、夜景(交代にて徹夜現在も尚繼續)献身的犠牲的な努力唯々感謝致すのみ。
靑訓生並靑年團員
 現塲の取片付、傳令、配給品の傳達、夜警
女子靑年團員
 配給品の分配、自發的なる奉仕感謝に堪へざりき。
一般部落民並近隣町村民の救援
 現塲の取片付
4、罹災地域の現况
(イ)復興工事
道路の改修、區劃整理等未だ雜然たり。
住宅等は大部分新築或は改築されたるも舊態に及ばざる事甚だ遠し。

(ロ)荒凉地の整理
畠地は大凡整理されたるも田は未だ整理されず。流入せる物に危險なるもの多く取片付終了し復舊までは尚數ケ月を要する見込みなり。

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一、罹災戸數及罹災者數
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二、建物被害及損害見積額
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三、漁場、漁船、漁具水産製造品等の被害見積額
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四、土地被害及損害見積額
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五、農林作物被害及損害見積額
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六、道路橋梁河川其の他の被害及損害見積額
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七、食料品衣服其他の被害及損害見積額

綾里村海嘯被害状况 氣仙郡綾里尋常・高等小學校

一、一般被害
1、海嘯前の戸數人口
  戸數   五百七戸   人口  三千五百九十五人
2、被害住家
  全潰   一戸   半潰   九戸   流失  二百四十四戸
  床上浸水 三戸   床下浸水 十一戸  計 二百六十八戸
3、罹災者數
  男 六八七人  女 七三〇人  計 一四五七人
  溺死者   男 三四人  女 五五人  計 八九人
  行方不明者 男 五〇人  女 四二人  計 九二人
                     一八一人
  負傷者   男 一二人  女 七人   計一九人
  内死亡   男 三人   女 二人   計五人
4、耕地
  田  四町歩      損害價格 一、六〇〇圓   畑 十一町八段歩  損害價格 三,五七六圓
  宅地 二五,五〇〇坪  同 一二,七五〇圓     計         同一七,九二六圓
5、道路橋梁
  道路  五,〇〇〇間  損害價格 一七、五〇〇圓  橋梁 八ケ所  損害價格 五,〇〇〇圓
  計           同二二,五〇〇圓
6、船舶
  發動機船 二〇艘    損害價格 二〇、〇〇〇圓  小舟 二〇〇艘 損害價格 二〇,八〇〇圓
  計           同四〇,八〇〇圓
7、家畜
  牛 八頭       損害價格 九六〇圓  馬 十四頭      損害價格 二,一〇〇圓
  豚 二七頭      同    二二〇圓   計         同    三,二八〇圓
8、家具        損害價格 八六,〇〇〇圓
9、漁具        同    七五,〇〇〇圓
10、農具       同    四,八八〇圓
   計        同一六五,八八〇圓
損害總額金五拾貳萬六千百四拾四圓
官公署の流失 村役塲 漁業組合 信用組合 郵便局

二、學校被害
1、校地校舎其他被害なし
2、兒童死亡者(溺死及行方不明)
尋一新沼鶴治炭釜晶子道畑トシメ畠山トミノ
尋二相馬勘藏澤ヨシ子道畑ハルエ
尋三道畑藤男道畑善治小向勳三浦キヨミ佐々木ハルネ村上ハツ佐藤キノエ熊谷マツミ阿部キン
尋四佐々木フサエ
尋五澤助三郎熊谷トシオ
尋六道畑善藏新沼庚生小向ヨシミ
高一川原チエ子
高二澤鳥右衛門

3、兒童被害者數二七九人

4、職員被害者(流失)
死亡者なし 負傷者なし
流失者  訓導 柏陽三  同 千田忠治  同 柏フミ  同 古内民右衛門  同 千葉良治

三、被害概况
1、津浪襲來
三月三日午前二時三十五分、強震あり。村民人心恟々の内に外出するものありしが、別に家屋の倒潰するものなく濟めり。然るに三十分を經て午前三時五分頃、突如として津波襲來し、沿岸部落民驚愕して立退きしが、餘りにも急激なる爲遂に家屋流失に止らず、多數の死亡者を出せり。激浪の高き部落に於て相違あれど、一〇メートル乃至三〇メートルと稱せられ、波は數回打寄せて多數の人畜財産を流失し、港部落・白濱部落は全滅せり。學校は、幸ひ難を免れしが、津波襲來と聞くや、直ちに御眞影を奉遷し、その無事なるを得たり。夜明けて津波の跡を見るに酸鼻の極目を當てられず、親子兄弟骨肉相別れて泣き叫ぶ聲、助けを求むる悲鳴の聲、死骸各所に累々として發見せられ慘擔たる光景、眞に言語に絶したり。
2、救護概况
三月三日、津波當日の朝は降雪白く、寒氣強くして、罹災者救助は焦眉の急なりき。村内消防組在鄕軍人・靑年團・靑年訓練所等總出動となり、死體捜索救助に全力を注ぎ、流失物の處分、取片付等に勞役せり。軈て他村の後援團體引きも切らず奉仕し、飛行機低空に災害地を飛來して視察なしたり。海軍の軍艦遙々入港して食糧衣料を配給し、盛岡騎兵第二十四聯隊出動して救助に努め、其の他縣よりは救護班來り、日本赤十字支部よりも又各保險會社等よりも救護班來り、救護に萬全の力を注がれたりき。
 其の後殆ど連日慰問品義捐金の配給ありて、社會の深厚なる同情により罹災民蘇生せり。畏くも聖上陛下御内帑金を下賜遊ばされ、村民一同聖恩の無窮なるに感泣せり。尚、罹災者は被害なき部落の親類縁者の家に収容されて厚き救助を受けつヽあり。
3、復興概况
災害後、救護と共に更生復興に全力を擧げ、旬日にして復興協會の誕生を見たり。由來、海嘯は三陸地方に週期的に襲來するを以て今後の襲來も豫想し、地域の移轉、防波設備の建造等根本的に百年の長計を建つるを復興協會の使命となし、着々進捗し居れり。而も復興委員は、連日寢食を忘れて委員會を開き、壯たるものあり。
4、學校敎育の概况
小學校は、三月三日より十日間臨時休業を行ひ、校内には臨時役塲、臨時郵便局、警察署及救護配給本部を置き震災事務、通信事務、警備、配給事務を進め、職員、兒童(非罹災者高學年)又總出して、慰問品配給、通信傳令等に全力を盡せり。三月十三日より普通に授業開始することを得たり。而して三月廿五日には恒例の通り、卒業證書授與式を擧行し、非常時に於ける卒業生を送れり。翌二十六日には、小學校主催を以て取敢へず溺死兒童二十四名の追悼會を、當村長林寺に於て嚴修し、悲痛哀惜滿堂泣號弔意を述べて靈位に別れたり。(三月廿七日)

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3、兒童被害者數二七九人

津波襲來當時の状况 下閉伊郡磯鶏尋常・高等小學校

先般突如襲來せし大地震、其に伴へる津波は非常時不况の底に喘ぐ三陸沿岸民の上に、痛烈なる打撃を與へたり。
本村も亦其の痛撃を受けて一時は大混亂を呈したるも、天威の前に寧ろ勇猛心を誘發されて、今や復興途上に勇ましき努力をつゞけつゝあるは欣快に堪へざるところなり。
 想へば去んぬる昭和八年三月三日午前二時半、人々の熟睡の夢を破つて、突如襲來せる地震は、約三四分間に亘つて天地を震撼し、而も主に上下動にして人心の動揺其の極に達し、戸外に飛出す者多く、如何になり行くやと不安は募るのみなりき。やがて震動も沈まり、人心辛うじて平常に復し、家庭に歸つてほつとする間もあらせず遙か沖合方面より自動車の爆音にも似たる一大音響と共に第一回の大波の襲來を見たり。轟々たる音響の間に、津波だ、津波だ、逃げろ……。の怒號もけたゝましく、田の畔、畠の中を山地に向つて避難する人々の或は子を呼び、或は老母を探す等々凄慘そのものゝ如く叫喚の中に此世の終熄かと思はれたり。つゞいて第二、第三の大波襲來し、本村被害の大部分は第二の大波に因るものなり。暗黑陰慘の氣漲る間にも消防組員の大活動となり。避難民の整理、被害箇所の巡視道路に山積せる流材の處置等其の機敏なる動作は一般村民の信頼を集め、靑年團亦消防組と協力一致よく變時に處して力強き程なりき。斯くして午前六時には道路の整理も出來、折から變を聞きて見舞に飛ぶ人々の往復に大混雜を呈したり。天うらゝかに晴れて海上寂寞、今曉の慘事も知らぬ顔なるに、家屋の破壞、流材の山積、魚粕俵の散亂、目を當つべくもなく、昨日の家も何處へか、礎石のみ空しく所在に雜然たるを見ては今更乍ら天威の大に打たれて感慨無量のものありき。
 小學校に於ては、學校長津波襲來と共に、
 御眞影を奉じて校地を隔つる約五丁の箇所に無事奉遷し、海上の平常に復するを見て奉遷したり。當日は臨時休業をなし、全職員被害兒童の家庭を訪問激勵慰撫をなし、被害程度の調査をなす等多忙を極めたり。
 然しながら本村は位置・地形等よりして被害最も大なるべきに拘らず、比較的輕少に止り、別表の程度なりしは不幸中の幸と云ふべきなり。
 尚、今次の災害最も激甚なりしは、本村高濱部落にて流失、倒壞戸數も多數を算したり。

一、津波後の状况
 村としても、學校としても被害程度小なりしは天祐と云ふべく、村民出稼中の者二名死亡、學校兒童にして厄を蒙りたる者百四名を算すれども、其の後の救濟配給品の分與等宜しきを得たる爲、被害の爲の欠席一名も無く、皆元氣にて通學しつゝあり。

二、配給品の割當
 震災直後より縣敎育會・新聞社・個人等より數回に亘り學用品・敎科書・日用品等の配給を受け、罹災の程度によりて適宜分與せり。

三、津波罹災兒童學年別調

四、被害状况
被害世帶數  二一四
被害者罹災前職業別
   農─ 六 商─ 四 工─ 五 官公吏─ 一 其他─ 一九八
被害後生計維持者 二一四
   救助を要する者 一一  救助を要せざる者 二〇三
産業經濟關係の被害
   住宅 八九戸   貯藏倉庫 一三
   作業塲堆肥舎等 七九  農用機械器具 六〇〇點
   貯藏穀物 一五一石   種籾流失 三石
村有建物の被害
   敎員住宅半壞損害見積  百圓
罹災戸數
   住宅流失又は全壞 戸數 七  人口 五三人
   家族死亡     同  一  同  二人
   住家半壞     同  三三 同  二五〇人
   住家床上浸水   同  三五 同  二三七人
   住家床下浸水   同  一三 同  八九人
   計        同  八八 同  六二九人

五、復舊状况
復舊資金        六千四百九拾貳圓九拾錢也
   罹災者      八九名に復舊應急費として配給せり。
住宅建築を了したる世帶數  三三
漁船
   修理使用しつゝあるもの 九八   新造せるもの 三
米の配給數量      千百三十石
稗  同        三石七斗二升
大豆 同        四石九斗六升
農具          肥料桶 六二個 同 柄杓 三一個
            肥料(硫酸アンモニア)一五俵 同 (過燐酸石灰) 一六俵
            鍬 六二個
種子          蔬菜種子 二袋

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三、津波罹災兒童學年別調

津浪概况 下閉伊郡崎山尋常・高等小學校

一、津浪襲來の状况
 強震に夢破られて皆起き出でたるも、津浪の來襲は豫想だにせざるもの多かりし樣なり。古來六十年乃至數百年に一回と言ひ傳へられ居るため、僅か三十八年後の今、津浪の襲來はあり得べからざる事と考へたるもの多數なり。また津浪襲來を危惧せしものも、地震後相當時間經過するも何等の異状なく、且つ非常に寒冷なる夜なりし爲、火を焚くも却つて地震の際は危險と再び床に入り、まどろむ間もなく津浪襲來の音に狼狽、命からがら逃げ出し、且つ暗夜の事にてもあれば、その襲來の状况を確實に見るの餘裕なかりしが如し。たゞ一二津浪襲來の豫感より、強震後沖を眺め居たる者あり、これ等の人々の語るところを綜合すれば次の如し。
 第一に、星の光の異常にキラヽヽせし事に對し、天變地異の前兆には非ざるやと思はれたり。強震後約二十幾分、沖にあたつて異常なる一大音響あり。(爆發的)(この前後東々南の沖合に青白色の探海燈か電光の如き光を認めたりと)スワと驚き、家族を全部避難せしめ、尚よく注意するにゴーツといふ響と共に海水はモクモクと盛上り、黑山となり、閉伊崎沖より押寄せ、怱ち岸近くなるや、波頭よりは青白き淡き虹の如き光を發し、岸近くなるや急に波頭は碎け、猛烈飛沫をとばし、大音響を發して陸地に打上げたり。かくして一たん押上げたる浪は恐しいといはんか、凄しといはんか名状し難き響と共に沖へと引き、十數分にして再び押寄せたり。かくて四五回來襲あり。内、最も大なるは二回目の浪なりしとの事なり。
 この日午前一時三四十分頃、本村日出島の小型發動機船は出漁せしが、平常は大干潮の時も船底のあたりたることなき瀬に船底あたりたり。不思議に思ひながら出帆約四五十分も走りし頃、砂洲か、大鮫の背にでも乘り上げたる樣なる感じあり、船の進行止り、何事と騒ぐ内に常態に復したり。よつて何等の疑念もなくそのまゝ沖に出で、夜明けて歸港、始めて海岸に津浪ありし事を知れりといふ。

二、被害の状况
 本村は、外洋に面し居るも、幸に人家の被害僅少輕微にして、人畜の死傷またなかりしは幸なり。
 各部落に於ける被害の状况を記せば左の如し。
(1)大澤部落
 當部落は、宮古灣の外洋に面し、明治二十九年の津浪には全滅の悲運に遭ひし處なるも、今回は浸水家屋なく、人畜の被害なし。
 波高 目測 約三米 陸に打上げたる距離 三五一米
(2)日出島部落
 浸水家屋一戸人畜には被害はなし小舟の流失多く納屋漁舎等流失す
 波高 目測 八米  陸に打上げたる距離 一一〇米
(3)宿部落
 本村中被害最も大なり。
 倒潰流失家屋一浸水家屋一負傷女一名漁舎四棟、小舟の流失多し。
 波高 目測 六米  陸に打上げたる距離 三〇〇米
(4)中の濱部落
 浸水家屋なく、人畜に被害なし。海岸に生えたる徑一尺以上の松の幹は五,六尺乃至一丈位の處より全部折れたり。
 波高 目測 六米  陸に打上げたる距離 三五〇米
(5)女遊戸部落
 當部落も二十九年の津浪の際は人家の全部と住民の半とを失ひしところなりしが今回は浸水家屋二戸あるのみにて人畜に被害なし。
 波高 目測 五米  陸に打上げたる距離 六〇三米
(6)松月部落
 當部落は、海岸を去ること遠き爲人畜家屋には何等の被害なし。濱にありし納屋小舟薪炭等流失松立木の折れたるもの多し。
 波高 目測 五米  陸に打上げたる距離 四三〇米
 尚、部落別の各種被害高を示せば別表の如し。表中古里・崎山・釜石は直接海岸に接せざるも出漁する濱に於けるその部落の損害高を掲げたり。

三、救護状况
(1)村内本村は前掲の通り人畜の被害只一人の負傷と流失家屋一,浸入家屋三あるのみにて差當り救護を要すべきものは流失家屋の被害者なり。これに對しては附近の難を免がれたる民家に家族を収容、應急施設として食料衣服を配給し、其の他の罹災兒童に對しては敎科書學用品を給與し、罹災の翌日より通學せしめたり。
其の後、各方面よりの救護慰問金品の寄贈あり。罹災者は何等の不自由も不安もなく、感謝し居れり。

(2)他町村隣村田老の被害甚大なるを聞き、津浪當日より村民個々に救護に赴きたるが、團體として三月五日より同十一日まで一週間、靑年團員七六名、靑訓生三二名、軍人分會員三五名、計一四三名、靑年會長・靑訓主事・軍人分會長引率の下に出動す。主として死體の發掘作業をなす。家屋の破片木材塵埃等の打上げられ、山と積まれたるを掘崩せば屍體は累々として現れ、慘状目も當られぬ状態なり。發掘作業一通り終了後は、小屋掛材料の運搬小屋掛敷地整地等を爲せり。
 女子靑年團員は、本村役塲前より田老役塲まで食料の運搬をなせり。

四、其の後の復興状况
被害の最も大なるは漁船、漁具の流失なるが、當局の市道並助成によりて着々とその歩を進めつゝあるも、船匠の不足は造船思ふに任せず、現在流失せるもの半數も竣工せざる樣なり。然し罹災者は何れも非常なる意氣込にて復興に努力しつゝあり。
 浸水流失の厄に遭ひしものは、全部宅地の移轉を行ひたり。
 新築一戸、高地に移轉五戸、移轉計劃中のもの尚十數戸あり。
 朝、新聞社よりの慰問金による朝日倉庫も目下工事中にて、舊態に復するも近きにあり。

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地域別被害状況

昭和八年三月三日午前二時五十五分に 於ける三陸沿岸を來襲せる津浪による船越村の状况 下閉伊郡船越尋常・高等小學校

一、前兆
1、井戸水に現はれたる前兆
本村小學校用の井戸水は二月二十七日一日間混濁して使用にたへざりき。
本村船越區上臺の井戸は、二月二十四日より三四日間白色に濁りたりき。
本村田ノ濱伊達屋の堀抜井戸は、十數尺の深さにして平素薄く濁れるが、津浪數日前より澄みて底までよく見えたり。

2、魚介屬に現はれたる前兆
鰮の豐漁ー昨秋本縣一帶近年に稀なる異状の鰮漁にて、明治二十九年三陸津浪の際も鰮漁ありたりといふ。メンコガニの不漁ー山田灣に於ては毎年十二月中旬よりメンコガニと稱する徑三四寸食用蟹漁獲せらるるが、昨秋より今春にかけて全然漁獲なく、明治二十九年も同樣漁獲皆無なりしといふ。

3、豫感
數年前より東海岸一帶誰言ふとなく津浪來と噂せられ、地震又は海鳴の塲合には海岸低地に居住するものは夜間避難しつゝありたり。

二、一般の状况
1、當夜の状况
津浪前數日來春らしき暖氣加はりしが、津浪直後は急に寒氣加はる。三月二日の夜は、月令八日、晴天にして氣温五度、風無く、海上波穩かなりしも、海鳴はありたりき。

2、津波直前
三月三日午前二時三十四五分頃、激烈なる上下動水平動を混じたる如き大地震あり。地震の割合に棚等の物品は落下せざりき。一時間をおきて再び地震ありき。村内各戸は地震強烈なりしため、津浪を豫感して皆起き、中には高地に避難するものさへありたり。されど海水には何等の變化なく、暫く海水に注意せるも異状なく、サガ延網漁船のエンジンの音を遠く聞くのみなれば安堵して就床するものありたり。
地震直後、本村海藏寺住職中村義寛氏は、三四百米突隔りたる海岸に到りて海水に注意し、其の動揺を見て津浪を豫想し、急ぎ歸りて釣鐘を撞かんとせしが、若し來襲せざれば村民迷惑ならんと懸念して二回だけ撞きしが、船越部落にては鐘の音を聞き、津浪ならんとて皆山地へ避難せり。果して間もなく津浪來襲せり。
本村漁業組合の電話機に大槌局より「大槌は津浪です」の電話あり、一般には徹底せざりしも、附近は最も海岸に接近せる部分なりしため、津浪前避難することを得たり。田ノ濱部落にては、地震と同時に皆戸外に出で、海面に注意せしが變化なく、中には安心して就寢するものもありたり。

三、津浪來襲状况
 津浪直前、正南方に當りて電光の如き白色の光輝三回續けざまにありたるも、多分漏電等なりしならん。又遠雷の如き音響を聞く。
 大地震後二十四五分にして海水急に引き、且つ沖合よりわりゝゝざあヽヽといふ實に身の毛もよだつばかりの凄慘なる音響ひゞき渡りしかば、安心して一度は就褥せるものも、まさしく津浪ならんと直感し、山地を目がけて避難す然かも誰一人聲を發するものなく默々と疾走するのみ。
 明治二十九年の津浪には、逆巻く怒濤口を開きて來襲せるも、今回のものはするヽヽと平かに漸次高き山を成して來襲せり。
 物凄き音響と共に高さ五米乃至八米の激浪五六分間毎に來襲すること五回なり。第一回の浪は、割合に小さく、海岸に接せる一部の家屋を流失せり。第二回は、最大にして海岸は一物も殘さず流失せり。處により浪の高さ多少差異あれども、小學校附近は八米位ありたり。第二回の浪にて電燈消えて暗黑の世界となる。第四回目も大なりき。第六回目より逐次小となり。尚ほ絶えず來襲して午前五時迄連續せり。
浪と浪との間短かかりしため、引浪甚しく急激にして、被害は重に引浪のためなり。
 浪の方向は、東南より來襲せるを以て發源地に東南方にあるものの如し。
 本村は、船越灣と山田灣との地峽をなせるが、激浪は此の地峽を自由に往復したりき。此の地峽を越えたる浪はやがて大澤村及山田町を襲ひたり。
 被害の割合に死傷者少かりしは、避難の際消防組員・軍人分會員・靑訓生・靑年會員の手當り次第老人幼兒を背負ひ、婦女子を助けて安全地帶に避難せるによるものにして、死傷の多くは部落を離れたる一軒家のものなりき。
 又、此の時本村田ノ濱加藤久米太郎氏の長男寅三郎(一九)は安全地帶に避難せしが、附近岡市三郎氏方にては、家族五名同居人二名共逃げ後れ、家屋共流失せしが、同居人藤原半兵衛は鮪建網用竹製の浮胴電柱漁船等の間に腹部を壓せられ、暗黑の彼方に悲鳴をあぐ。されど次ぎヽヽと激浪來襲するを以て危險甚しく、且つ人家少き塲所とて人手少く、救助に向ふものなし。此の時加藤寅三郎は單身提灯片手に聲をたよりに現塲に接近せしが、第四回目の浪襲來り危險にて近寄る能はず、浪の引くを待ちて救はんとせしも大船の下敷となり、如何とも手のつけ樣なく、此のまゝ放置せば寒冷と壓迫とより死を待つのみ。救助するには刃物を要すれど、流失せるを以て小學校に來り、手工用鋸を携へ、外一名と共に危險を冒して現塲に到り、徑五六寸の竹七八本及電柱を切斷して漸く引出せしが、此の時は全く人事不省に陥りたるを背負ひ來り、焚火して暖を採らしめしも生命危篤に陥り、夜明けて醫師の診斷を受けしも絶望といはれしが、看護宜しきを得て漸く蘇生するに至れり。之れ加藤の燃ゆるが如き義侠心により救助せられたるものにして、引續く大浪に何人も出向ふことは困難なりしなり。
 又、本村田ノ濱加藤幸太郎氏二男秀夫(二二)は津浪來襲を目前にしながら逃げ後れたる幼兒を抱えたる一婦人より幼兒を受取り、婦人を助けて疾走中途に激浪に呑まれ、婦人は重傷を負ひ、加藤秀夫は引浪と共に海上遠く持ち去られ家屋の木材及漁船等のため幾度か打碎かれんとして遂に幼兒を見失ひ、全身重輕傷を負ひ、漸く岸に泳ぎ上りたり自分一人なれば無難に助かりしが、一婦人を救はんとして危く一命を捨てんとせり。
 又、本村田ノ濱佐々木庄助氏三男喜藏(一九)は津浪直後尚ほ激浪治まらざるに、暗夜危險を冒して田ノ濱區船越區間の連絡をとりたるため、各區の被害状况の大略を知ることを得たり。
 又、田代忠平氏の祖母は、病床にありしが、津浪に際し運搬せんとせしも頑として聞入れず、已むなく其の儘とせしが、家屋と共に流され、幸に破壞せる家屋の中に海水にも浸されずして無事なりき。

四、津浪直後の状况
 小學校附近は、校舎と敎員住宅を除き、一軒も殘さず流失し、附近の人々は小學校に避難せり。船越部落は、高地にして被害の憂なきも、區民全部後方の山地に逃れ、寒さにこごえながら夜を明したり。船付塲附近(須賀)は船越漁業組合を始め二十數戸全部流失し、破壞せる一部は村役塲の下手に押上げらる。屋敷地は土砂さらはれて原形を止めず。
 船越地峽は、防波堤破れ、耕地は全部白砂にて掩はる。
 沼の養魚は、全部流失し、土砂にて埋められて養魚塲に適せざる迄に荒さる。
 日向脇及浦ノ濱の牡蠣及海苔養殖塲は、全部流失せり。
 小なる漁船は形骸も留めず、發動機船は見るかげもなく破損して、高地に打上げらる。
 家財道具衣類魚粕漁具等各所に散在し、渚は木材の破片家具等の漂ふありて見るに忍びざるものあり。
 漁業組合の大金庫は、四百米ばかり離れたる沼に、小なる方は千米以上の浦ノ濱に流出せらる。
 又、日向脇には七八十貫の巨石海底より打上げらる。田ノ濱部落は、二百二十數戸殆ど全滅し、街路の下側(海岸)は屋敷まで掘り取られ、下町は徹底的に一物も殘さず流失せり。
 八幡神社の下の邊には、流出の家屋折り重りて手の付け樣なく、其の間に大破せる發動機船の横はるあり、海面には家具家屋の破片にて掩はる。
 早川は埋立地のため浪を防ぎたれども埋立地は大半破壞せらる。
 昨年救濟事業として改修せられたる船越・田ノ濱間の道路又破損せられたり。
 臺地に殘れる數軒及八幡宮の社務所等は避難者にて充滿し、尚ほ後方の畑地には着のみ着のまゝの罹災者中には、薄物のまゝ家族一團となりて寒風にさらされ、目も當てられぬ慘状を呈せり。

五、本村の被害状况

地震による被害はなかりしも、津波による被害は甚大なり。村内三部落のうち、田ノ濱區の被害最も大にして全滅の状態なり。船越區は、海岸に近き二十餘戸流失の外耕地の被害大なり。大浦區は、住宅の流失は數軒なれども、製造塲は全部流失せり。三部落を通じて大小船の流失又は破損せしことは、全く職業を奪はれたるも同樣なり。此の外水産物製造塲、水産養殖塲、棧橋、道路、耕地等の流失又は破損は莫大なり。
 左に本村の被害状况を記す。

1、死傷者

船越區長田藤助老夫婦は、漁粕製造のため浦ノ濱の番屋にありて死亡せり。
田ノ濱區岡市三郎の一家は、逃げ後れて家族全部家屋と共に流出し、祖母死亡し、三郎フミ及同居人藤田半兵衛の三名重傷を負ふ。
加藤武左衛門も逃げ後れて死亡す。
前記加藤秀夫は輕傷を負ひ、加藤アイは重傷、幼兒は行衛不明となる。
村内の死傷者男二名女二名行衛不明一名負傷者男三名女二名なり。

2、罹災戸數及罹災者數左の如し。
本村の戸口は昭和七年十二月三十一日現在にて
   戸數 五百六十六戸 人口 三千七百六十三人

3、建物被害及其の損害見積高

4、漁塲漁船漁具、水産製品の被害及見積高

5、土地被害及損害見積高

6、農林作物被害及損害高

7、道路橋梁河川其他の被害及損害高

8、食料品衣服其他の被害及損害高

六、村内の救濟状况
 本村は、郡内にて被害の大なる方なれど、各團員避難救濟に當りたるを以て、死傷者割合に少かりき。津浪は夜明まで屡々來襲せるを以て避難者は寒氣におびえながら山地に一夜を明かせり。
 夜明後、村役塲に村會議員、漁業組合役員、區長、組長等集合して假住所及被服炊出し等の臨時の善後策を協議し消防組・軍人分會・靑年會は警戒、流失物の監視に從事し、且つ炊出しの配給小屋掛等罹災者の救濟に努力しつゝあり。罹災者は殘れる人家及寺院・神社・學校等に収容せらる。
 食料は、漸く間に合ひたるも交通不便のため物資乏しく被服・夜具の補給小屋掛等の設備後、天候急變して寒冷加はり、降雪さへありて罹災者の窮状は悲慘なりき。
 六月十日現在に於て救濟も行渡り復興も進行して、漸く生業に就くを得、目下烏賊漁を控へて出漁の準備中なり。

七、船越尋常高等小學校の被害状况
1、學校の被害状况
地震による被害なし。
地震と共に當直員伊藤・昆の兩訓導起床して校舎内外の警戒の任に當り、鈴木校長御眞影並勅語詔書を捧持して使丁と共に第二奉安所たる裏山の安全地に奉護し、津浪靜まりて後、奉安所に奉安して異状なし。
 校舎は、海岸より百五十米ばかりの距離にあれども、海抜十六米の臺地なれば、校庭は浪の高さより尚ほ八米位の高さを存して校庭には海水浸入せざりき。されば校舎・校具に被害なきも、實習塲等左記の損害を被れり。
 實習船 一艘 流失 見積價格 三百圓  牡蠣養殖塲 流失同  見積價格 八十圓
 海苔養殖塲  同  同    五十圓  井戸    破損   同    七十圓
 合計五百圓

2、職員の罹災者
 職員には、死傷者なし。
 罹災せるものは、中村德兵衛・中村ハルの二名にして、兩敎員は一家族にして、家族六名異状なく、避難せるも着のみ着のままにて、家屋・家財道具一切流失し、其の損害見積高壹千五百參拾圓なり。

3、兒童の罹災者
 本校兒童中には、一人の死傷者をも生ぜざりしは、不幸中の幸なりき。
 罹災兒童左の如し。

 罹災兒童數は、在籍數の五割に當り、罹災兒童は全部敎科書及學用品一切流失せり。

4、本校の善後策
 全職員總出にて、罹災者の調査、収容所の斡旋、被服食料等の配給に努め、分擔して罹災兒童の状况を調査し、且つ一部職員をして役塲勤務を援助せしむ。
 尚ほ罹災せざる高學年の兒童は、職員の補助として活動したり。
 村内の被害甚大にして、罹災兒童は全部學用品は勿論、被服等流失せるにより、三月三日より臨時休業を行ひ、三月八日より授業を開始せんとして準備を整へしも、一般罹災者の救濟進行せず、尚ほ野宿の状態なりしため、三月十二日まで休業し、敎科書は謄寫し、其ほ他の學用品を調達して三月十三日より授業を開始したり。(六月十日)

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2、罹災戸數及罹災者數
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3、建物被害及其の損害見積高
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4、漁塲漁船漁具、水産製品の被害及見積高
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5、土地被害及損害見積高
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6、農林作物被害及損害高
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7、道路橋梁河川其他の被害及損害高
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8、食料品衣服其他の被害及損害高
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学年別罹災兒童數

三陸海嘯の被害並に救護状况 下閉伊郡羅賀小學校長佐々木恒夫

一、被害の状況
 昭和八年三月三日午前二時三十一分、突如として起れる強震に伴ひて襲來せる海嘯の被害(主として羅賀・平井賀)を擧ぐれば、左の如し。
イ、地震に依る被害
 稀有の強震なりしも、地震に依る被害は殆ど認めざるの状態なるも、強いて例を擧ぐれば
1、村社大宮神社の大鳥居土臺石を磨りて西南に移動の跡歴然たり。
2、二階物置より柾二三丸落下せるもの一戸あるのみ。其の他硝子戸の破損もなく、又棚より器物の落下せりとの事等殆どなし、故に強震の爲、一時は家外に出でたるも、素より海嘯襲來は夢想だもせず、加ふるに零下十七度の酷寒に耐へざれば、多少不安の念に驅られながらも再び床中に入れり。これ人命に多大なる損害を來せる主因の一と思惟せらる。

ロ、海嘯に依る被害
1、人の被害
2、家屋の被害
3、漁船並漁具の被害
4、小學校の被害
A、兒童の被害
B、補習學校練習船流失被害
C、敎員の被害
住宅流失數 一

二、海嘯襲來の跡
1、羅賀
 汀線より最も長距離に達したる地點 二四〇M
 浪の高さ最高と思はるゝ地點に於て 一八M
 概して平井賀に比し被害の尠なかりし理由と思はるゝ點を列記せば
イ、敷地が階段式に漸次高所に並び居ること。
ロ、港口に横居礁(ヨコ井ヰセウ)と稱する(約長さ三〇M海面よりの高さ二M)の島が、天然の防波堤をなせること。
ハ、汀線より六二Mを距つ地點に住宅あり、高さ四M長さ二四Mの石垣汀線に並行せる爲、第二の防波堤となりしこと等にして、當夜地震の直後船揚塲に至りし人々、急激なる引潮を發見、早くも海嘯の徴候と思惟し、高聲にて叫びたりと雖も要するに死傷者の皆無なりしは、明治二十九年の大海嘯經驗者多かりし爲と思はる。
2、平井賀
羅賀に比し、被害甚大なり。
汀線より五五〇Mの距離まで海嘯襲來せり。
羅賀に比し被害著しき原因は
イ、汀線より殆ど平坦なる所に宅地を有せしこと。
ロ、港口に防波堤の備無かりしこと。
ハ、平井賀川沿岸に沿ひ、浪は遠く上流に建せり。
ニ、地元出身の海嘯經驗者少なく、避難の塲所に至る道不便なりしこと等より。
ホ、地震の被害少なかりしこと。
ヘ、地震の後消防・靑年の出動警戒なかりしこと。
ト、一般に地震後海嘯を連想せず家に入りしこと。
チ、徒に被害大となれるは注意の足らざりしなり。
リ、辛うじて避難せる者も非常時に處する覺悟なかり爲、全く着のみ着の儘の状態なり。

三、救護の状况
1、三月三日午前三時頃(地震と共に電燈消えたり)津浪の襲來に避難せる者は山上より山麓の間に在りて互に家族親戚の行方安否を尋ね、激浪に襲はれ、或は流材の下敷となり、或は樹間に挾まれ、辛うじて一命を取止め居る者は悲鳴を擧げ、救護を求むる聲と交錯し、數時間前まで田野畑村の文化地、歡樂境と謳はれたる平井賀港も一瞬にして怱ち修羅の巷と化したれど、酷寒零下十七度、あまつさへ避難せる者も、身に燈火の便るなく、且履物を足にせざる者等あり。阿鼻叫喚の聲に胸を打たれ、救護の一刻も怱にせざるべからざるを感じつゝも如何とも詮術なく、只焦燥の中に時を移せり。
2、此間にありて二番波三番波と其の波間をうかゞひ、一命を賭して勇敢にも流材の間よりこれ等負傷者を救助せる者あり。更に逸早くもかけつけたる消防・靑年數人は、各所より救を求むる聲を目當てに提灯をかざし、流物の中より救出し、火をたき暖を採らしめ、應急の救護に盡力せり。
3、夜將に明けんとする頃には、正しく小學校長の聲にて、『負傷者は、漁業組合事務所に!』『罹災者は、羅賀小學校に収容!』との事に作業は、集る靑年・消防の手に依り迅速順調に行はれたり。やがて村役塲・警察方面の出動後、平井賀なる畠山榮吉氏宅を救濟本部として統制ある指揮の下に救護を進めたり。
4、通信機關は、郵便局流失せる爲、漁業組合の電話機を以て代へ畠山榮吉宅に取付け、事務開始せるも輻輳の爲、着信等は盛岡局より郵送せられたるの状態なり。
5、消防組は、村内より第一二、六部北山自警團、其の他靑年の出動あり、遠く岩泉よりも來援せり。
 之等の作業としては、死體捜索及運搬火葬流材片付、バラック材運搬、慰問品配給、警戒等に當れり。
6、罹災者中他部落に親戚を有する者は、一時之に假寓せるも、津浪襲來後第一夜より罹災民は勿論一般民も不安焦燥の中に夜を徹したれども、バラック建設と、時日經過の今日は、漸く心落付き大部分はバラックに移轉營業開始せり。
7、慰問・救濟品給與
饑と寒さに困じたる罹災民救濟の爲、速に食糧被服の配給を其の筋に歎願陳情せるに、衣服・食糧等殆ど毎日の配給あり、爲に當座の生活に何等事無きを得たり。
8、縣營村營のバラック建設
  羅賀  一棟 (間口十六間 奥行二間半)  八戸分
  平井賀 三棟 (間口三十間 奥行三間 二棟)四十戸分
         (間口二十間 二間半 一棟)
  和野  一棟 (間口八間奥行二間半)    四戸分
9、御下賜金拜戴
今次の海嘯による死亡・負傷・罹災者に對し御下賜金を羅賀小學校に於て、村長代理(村長小田氏遭難溺死の爲)助役より傳達せられたり。
10、東京朝日新聞社より慰問金を受く。
罹災者(死亡、負傷を含む)に對し慰問金を傳達せらる。(羅賀區長より)
11、大金侍從災害地御視察の途次發動機船にて平井賀御通過遊ばさる。
12、海中死體捜索の爲潜水夫派遣せらる。
13、罹災者住宅建築の爲信用組合(住宅組合)組合組織申請中。
14、村營住宅地の測量終了。
 現在はバラック五棟、郵便局一、木炭檢査所一,旅館一,商店四,倉庫製造塲八棟は殆ど落成せり。其の他工事中のものあり、復興氣分横溢せり。(バラックにて商業其の他營業する者約十五戸あり。)

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1、人の被害
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2、家屋の被害
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3、漁船並漁具の被害
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A、兒童の被害
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B、補習學校練習船流失被害

海嘯記 釜石鑛山小學校

一、前夜
 二日、その日は春の近づきが、風の香にもしのばれる程のなごやかな日和であつた。この日のかげに、あの恐しい慘虐な餘りにも偉大な大自然の暴威が隱されてゐるとは、神ならぬ身の知るよしとてなく、誰一人恐しい津浪がせまるのを露ほども氣づかずに、激しいその日の勞働を、嬉しい夕餐に忘れ、この街の人々は、皆安らかに憩の夢を結んだのだつた。鑛山の瓦斯エンヂンの響も、クレーンの音も、沖を走る發動機船の音も、常と變る筈もなかつた。かくて街は深い眠りに入つたのである。

二、大津浪と猛火に包まれた凄慘な釜石町
 誰もが死んだものゝやうに、眠りつゞけて、ひつそりと靜まり返つてゐる三日の午前二時三十五分頃、突如、上下動の強震が襲來したのだ。昨年から數回となく小地震に脅されて、津浪襲來の噂さに恐れてゐた人々も、一旦は戸外に飛び出しては見たものゝ、まさか津浪が來るとは想像だにしないので、再び、又床の温さに誘はれて、寢についてしまふものもあつた。そのまどろみも、瞬時、濱邊の街の一角から、絹を裂くやうな「津浪だ。津浪だ!」との叫聲が起つた。と同時に異樣な物音がすさまじく聞えた。電燈が一時にパツと消えた。此處、彼處から、火のついた樣な子供の泣き叫ぶ聲や、人々の救ひを求めるわめきとざわめきが暗闇を貫いて全町の人々の耳朶をうつた。あゝ、なんといふ悲慘、夢にだに思はなかつた慘禍がまさしくこの町を襲つたのだ。恐怖に戰慄しながらなだれを打つて人々は背後の山にと、とるものも取り不敢、身には寢巻すらもまとはなかつたりして逃げた、親は子を案じ、子は又親を求めつゝ。疾風の如くにすさまじい鳴動を伴ひ、怒り逆か巻く丈餘の怒濤は海岸一帶を襲つた。
 幾百の漁船は堤防を乘り越え、人家を壞ち、町にヽヽにと流れた。
 つるし上げられるやうな高まつた怒濤が互に競つて取組み合ふと波は怱ち眞白な泡の山に變じて、その巓が、どつと倒れて、陸地を包呑し、あらゆるものを沖にひいて行つた。
 何んとも手の下しやうのない自然の暴虐に何年となく親しんで來た我が家が、無慘にもうちひしがれるのを人々は見て、どんな感慨にうたれたであらう。剰へ肉親をも奪はれた人達は、泣くにも泣かれず、たゞ狂ひのたうち廻るのみだつた。ーーあゝ、その上に又、町の中樞から火が燃え上つたのだ。人の居ぬ町の火。誰一人消すものゝない火。風こそなかつたが乾き切つた住家だ。猛然と火は擴大し、黑煙を吐き、焔を吹き上げ、次から次へと燃えさかつて行く。やがて警鐘が亂打された。愕然と我に返つた人達は、街を浸す海水と、ふりかゝる火の粉を物ともせず消防につとめた。鑛山街・中妻(無事であつた部落)から馳けつけた自動車ポンプ・ハンドポンプも、浸水の爲、火事塲に行くことが出來ず、立止つてゐたが、水のひけると共に急ぎ馳け參じ、必死の勢で防火鎭火に努力した。しかし猛火は、依然として、燃えさかるのみだ。暗黑と火焔のキヤロスキユーロ、その中に逃げまどふ、雜踏が見える。流言・デマがしきりにとぶ、「又津浪だ。ーー、」心を失つた人達は又どつと街路、小路をわめきつゝ走る。大釜石は、かくして大自然の猛威のために、一瞬の間に、阿鼻叫喚の巷と化し去つたのだ。

三、夜が明けて
 物狂はしくも亦恐しかつた夜が明けそめた。白々と明けはなれた大空の下に、人々は何を見出したであらう。そはあまりにもむごたらしい、悲慘そのものの釜石のかなしいむくろだつた。思ひ見よ!繁華を誇つたありし日の釜石!その姿のいづこをも、現實の釜石からは見出すことが出來ないのだ。成程鑛山の各工塲は動いてゐる。しかし、棧橋と回漕部は多大の損害を蒙つた。そして、工塲の許す範圍内の職工は、罹災救護に全部動員された。罹災を免がれた町の人達は、誰もかれも應援に行つて、子供らや、老婆達のみが、寒さをもうち忘すれて、戸外で海嘯の噂に夢中になつてゐる。あゝ、かなしい姿に變りはてゝしまつた釜石よ。ーー火は未だに消えない。全町は雨水紫煙ですつかり蔽はれてゐる。
 小高い丘によつて、遙かに釜石の海を見ると、今曉、暴虐至らざるなく、恐しい猛威をふるつた海は、憎い程落ちついて、小波一つたてず碧空をうつしながら凝つとしてゐる。朗らかなる美しい海洋だ。ーーその中に、涙ぐましい消防夫・靑年團・自警團の人々の奮闘によつて猛火も、やつとをさまり、遂に午前九時三十分頃鎭火した。火焔になめつくされた戸數三百、しかもそこは目貫の大通りである。大渡橋、上流附近には無殘に破壞された可成り大きな發動機船がゴロヽヽと船腹をさらしてゐる。鑛山の鐵橋の架構の間には、くヾり抜け切れずに引つかゝつてゐる大きな漁船がある。その他傳馬船などが無數に轉がつてゐて流されて來た材木や、屋根、樽そんなものゝ上に、海鳥や群鴉がとまつて獲物をあさつてゐるのも悲慘な情景だ。
 大渡の錦館(活動寫眞舘)の邊から東へかけての道路は海水の運んで來た泥濘で埋まつてゐる。そして海邊から流れて來たらしい色々のものがちらばつてゐる。只越塲所前あたりの目貫の通りから、海岸通りには、ガラヽヽと無數の家屋が崩壞してゐる。どぶヽヽと長靴がうづまつてしまふ程のおびたゞしい泥濘の街を更に進んで行くと、昨夜までは不夜城の觀を呈してゐた仲町・只越の大通りが、見るかげもない燒野が原に變り、今なほ濛々たる白煙がたちこめてゐる。そして何んとも云へないムツとした異臭が鼻を衝く。死者の臭か家畜の臭に違ひない。燒跡の中に、舊警察署の左側にあつた七部の火の見櫓がくすぶつて見えてゐるのも皮肉だ。若い女の人達が泣きながら後片づけをしてゐる、といつても、只譯けもなく燒け跡をかきまはしてゐるにすぎない。
 大通りの眞中に何處から流れて來たのか、二三軒の家屋がノツソリと行坐してゐる始末だ。その外、家屋のくだけた材木・木片が無數にそここゝに推高くつみ上げられてゐる。
 たまに立ち殘つてゐる家が在ると思つて立寄つて覗いて見ると、疊も何も家財道具一切が流されて、ガランドウとしてゐる。棧橋から押し流された鑛山鐵道の貨車が二臺ほど、これも猛火にやられて、街路のかたはらでいぶつてゐる。恐しい津浪の威力だ。ーー釜石町の一番東端の町並は割合にちやんとしてゐる。こゝから臺村と稱する小さな家のある小高い丘によつた。丘の廣塲で災厄を免れた山の手の家の子供達であらう。數人手をつなぎ合ひながら童謡を唄ひ遊びたはむれてゐる。思はずその無邪氣さに打たれ、そしてこの災害を思ひやつて暗然とした。ーーこの丘から見ると釜石の大半は完全に災害を蒙つたことが判然する、勿論、鑛山と中妻方面を除いて。
 尾崎神社のスラック煉瓦の塀が木端微塵に破壞され、本殿が、眞黑くなつて僅かに舊形骸を止めてゐる。境内と後方に五十トン位の漁船が二三隻流されて打上つてゐる。まるで尾崎神社の裏は漁船の並べられた街のやうになつて、その間を救濟品の山と積んだ荷車やリヤカーが往來してゐる。まつたくの奇觀だ。
 名物の魚市塲も目茶苦茶、岸が深く掘り取られてゐる。コンクリートのベーブメントにも大きな龜裂が入つてゐる。
 方向を轉じて嬉石(ウレイシ)、松原を見る。ーーこゝは五、六尺位高い鑛山の社宅を殘して全滅、ひどいのになると五、六十間も押し流されて山腹に折り重つて崩壞してゐる。
 元氣な漁師達の濶歩してゐた町がけしとんで仕舞ひ、まことに、むごたらしい荒凉蕭條たる廣野に變つてゐる。着のみ着のまゝの人々は、棒片や、カツチヤであちらこちらを掘り返して、何かを拾つてゐる。濡れた箪笥や行李・バスケツト等役に立ちさうになくなつたものを大事さうに運んでゐる。こゝにも火災のあとが見られる。何んと悲慘な姿だ。老爺が氣狂のやうになつて、何やらブツヽヽとわめきたてゝ流木で自分の屋根だけの家を叩きつけてゐる。
とりみだして、歩き廻つてゐる老婆の姿が一番悲慘だ。
 舘山の水上機が二機と各新聞社の飛行機が、なごやかに睛れわたつた大空をかけ廻つてゐる。単葉のプスモス機は最も輕快だ。しかし災民は打仰がうともしないで默々と蠢めいてゐる。今朝一番乘りをした朝師の飛行機は故障のため、中妻河原に不時着をした。こゝにも黑山のやうに人が集まつてゐる。
 かうした悲慘を惹起した自然の大きな力を考へると人間の力の如何に小なるものであるかゞうんと考へさせられるーー宗敎も科學も、何もかもに就いて。ーーだが、これを克服して我々は甦生しなければならない。

四、被害状况の概略
燒失した目星しい建築物
  富士館 緑館(常設館、富士館にはトーキーの設備ありき)
  岩井氏宅 尾崎神社 釜石信用組合 盛銀 殖銀兩支店 土木管區 及菊商店 須崎旅舘 小野寺町長宅
  東日通信部 其他 約二百戸
流失 一八九  倒壞 一六三  浸水二,〇〇〇
死者 一五   負傷者不明 行衛不明 五

損害概算
  イ、商業家屋      約四拾貳萬圓
  ロ、一般家屋      約五拾貳萬圓
  ハ、港灣修築工事    約拾貳萬圓
  ニ、郡營護岸工事    約拾五萬圓
  ホ、須賀濱建物漁粕流失 貳拾萬圓
  ヘ、建網・差網損害   七萬圓
  ト、其船漁船  五百隻流失

 信ずべき數字ではないが、間接の損害を合算したなら驚くべき額に上るであらうと思はれる。
 罹災民約五千は津浪直後の寒さに目もあてられない。しかし、軍隊又全國的の熱烈な救護運動により、續々必要品を補給され凌いでは居る。食糧も、最初直ちに鑛山街及鑛山社宅では全能力を發揮して握飯・衣類・布團を補給した。

 罹災兒童 約八百(釜石校)
 同     十五(鑛山校)

釜石鑛山小學校では、早速必要な學用品、鉛筆・ノートを非罹災兒童より集め、(凡ノート一,〇〇〇冊 鉛筆一,五〇〇本)釜石・平田白濱及び本校の罹災兒童に配給した。尚、白濱の罹災兒童には、衣類・敎科書をも補給した。

五、各救護團體の活動及び其の他
衛生方面
 東京市救護班・東京府濟生會救護班・東京市赤十字救護班・赤十字支部
 其他の團體が、震災後最も憂慮さるべき衛生上のあらゆる方面に毎日、自動車に分乘し、街路を疾驅し不眠不休の大活動をしてゐる。

警戒方面
 釜石町、自警團・軍人分會・靑年團・少年團(鑛山をも含む)
 尚鑛山合宿員一同は、四日夜より引續き午後十二時まで町の警備の任に當つてゐる。

其の他
 郡部、他郡部の消防手、在鄕軍人、分會員の各團體も警戒、救恤品の配給運搬、災害整理等に大活動をなしてゐる。全く深い感謝の念が泪と共に胸にこみ上げて來る。
救世軍・新聞社・保險會社其の他各社の慰問團體も大風呂敷包を脊負つて町をねり歩いてゐる。婦人會の活動もなかヽヽだ。町役塲の救恤品配給部のビラが、陸に上つてゐる漁船の船腹にべたヽヽと貼られてある。六日も經過した。今ですら燒跡に行ってみるとブスヽヽと煙が立ち上つて居り惡臭がひどい。
小學校の高等科の兒童が右腕に■のマークをつけて一生懸命働いてゐる。
街の到る所、廣告のビラで一杯だ。
警察署の暴利取締令などが目立つ。
華やかな生活から、悲慘な生地獄にと突き落された町民は、徒らに嘆くことを止めて、眞劔なしぐさで一心不亂に働いてゐる。新しい建築材料が街の一部に運ばれて若い大工さん達がそこで鉋をかけたり、のみをふるつたりしてゐるのを見ると、眞面目な意味での明朗な復興甦生!開始の雰圍氣が感じられる。
早く悲慘逆境を克服超越して生れ變つた新しい釜石の意氣を躍動させながら働く元氣な人々の顔が見たい。そして昔以上の釜石が現出されんことを祷り且つ信じて止まない。

昭和八年三月三日 吉里々々震災誌 吉里々々小學校

一、地震並に津波の状况
紀元二千五百九十三年昭和八年三月三日午前二時三十分、突然強震あり。震動時間六分、時計の振子の停止するもの多く當地方稀有の強震なり。當吉里々々部落民は、去る明治二十九年の大津波に苦い體驗を持つものなれば、此の強震あるや、津波の襲來を豫期せるもの多く、直ちに老幼婦女の避難準備をなせるものあり。中には強震を感じたるとき、一旦起床せるも、地震の止むと同時に就床せるものありたり。間もなく餘震あり。強震後三十分にして大風の如き響音を聞くや、直ちに津波と叫ぶものあり。怱ちにして山の崩るゝが如くにして襲來し、其の濤聲竹林の燃るが如く、瞬く間に滿目荒野と化し、全く夢かと思ふばかりなりき。
波の襲來せしは前後三回なり。一番波と三番波とは小にして、二番波は大なり。一番波にて殘りたるものも、多くは二番波にて破壞せられたる模樣なり。
此の時間は大凡十五分間ならんか、波の高さは約五米にして、浸水地域は明治二十九年の津波と殆ど大差なし。
明治二十九年の津波の動向は、太平洋より眞直に襲來せるも、今回(昭和八年三月三日)は南沖より四十坂に突當り同所に於て二方に分岐して、一方は下閉伊郡田ノ濱方面に流れ、一方は吉里々々の南方に押寄せ來りたるものの如し。
浪板は太平洋に直面せるにも拘はらず、明治二十九年の津波に比して被害僅少なるは、四十八坂に押寄せたる波は吉里々々の南方に直流せる爲ならんと考へらる。

二、被害の状况
當吉里々々の最も被害の多かりしは、海嘯筋より市街地の中央にして百餘戸流失倒潰し、浸水三十餘戸に及び、罹災民數約八百人死亡者十二人なり。流失せざる家屋は約百十戸もありたる故、罹災民は此の殘れる家屋に避難救助を受け、雨露寒天に彷徨するものなかりき。
罹災者は何れも僅かに身を以て避難せる故、家財道具等を持逃げたるものなく、全く着のみ着のまゝ命からヽヽの状態なり。生業の主要なる漁船・漁具の流失甚だしく、發動機船三十五艘、小漁船百七十一艘、破損を被れり。
津波當日、沖合に出漁中の目抜船九艘は、僅かに漁船・漁具、乘組員共被害を免れたり。
耕地は、高地の畑地及び小數の水田は、浸水を免れたるのみ、他は悉く被害を受けたり。
津波のため交通機關及び通信機關に故障を來せるは、非常なる打撃なり。電信・電話の不通のため、他に被害の状況を報ずることを得ざりき。
電信は、大槌局は津波後三日にして漸く取扱をなすに至れり。釜石局も同樣被害を受けたるため、電信の取扱をなさず。僅かに釜石鑛山局に依り通信する状態なりき。中央より來る電信亦盛岡局に停滯せるため、同地より騎兵を以て遞送せられたるものありたり。

被害一覧表
1、人口並に家屋の被害調
2、學校罹災兒童調
3、漁船の被害調

三、避難箇所及應急救護
津波襲來するや、多く學校及び北田舘、花道上道門前方面の高地に避難せり。學校に於ては、校門に提灯を掲げ、校庭に焚火をなし、敎室控所を開放して避難者を収容し、津波と寒氣とに戰慄する罹災者の救護に努めたり。
靑年團・消防組・自警團等早くも出動して、危險状態にあるもの、或は行衛不明者等の捜索、負傷者の救助、並に災害後の警戒の任に當りたり。

四、災害後の救護
1、聖恩優渥
畏くも天皇陛下には三陸津浪の慘状につき深く軫念あらせられ御救恤金として岩手縣に金參萬圓を御下賜せられたり。
罹災地視察のため御差遣せられたる大金侍從は三月八日當吉里々々にも御立寄り遊ばされ親しく災害の状况を御視察の上北方に御通過あひなりたり。

2、負傷病者の診療
吉里々々醫院は、直ちに罹災傷病者を収容して、之が診療をなせり。日本赤十字社岩手支部、直ちに臨時救護班を當吉里々々に派遣して、救護所を吉里々々醫院内に置き、罹災傷病者の診療をなせり。

3、食料品配給
縣は、直ちに罹災救助金を支出して、罹災民の救護をなせり。災害後三日目には、縣より食料配給せられたるを以て、餓飢の憂なきを得たり。

4、バラック建設
縣は、直ちに木材を縣内各地及縣外より買入れ、之を罹災各地に配給してバラックを建設し、罹災者を収容したり。當吉里々々には、バラック七棟を建設せり。バラックは横二間半縱十間を一棟として、一棟五戸を収容したるを以て、七棟三十五戸を収容せり。

5、他町村よりの各種團體の奉仕援助
隣接町村は勿論のこと、遠く郡内外の消防組・靑年團等來りて援助するもの多く、當吉里々々には金澤靑年團・金澤在鄕軍人分會員約四十人來りて、災害後の跡片附及び夜警等をなせり。

6、各種團體出動救護
 イ、道路の開通
津波のため、道路は潰家等にて塞がり、交通困難なる箇所多かりしも、消防組・靑年團・軍人會・自警團體出動して之が開通に努めたるを以て、災害後五日にして全通するを得たり。
 ロ、救護品の運搬
災害のため、道路閉塞して車馬の交通不能となり、罹災民救護に要する食料品・被服其の他雜品等は、役塲より當吉里々々に運搬すること能はざるを以て、靑年團は出動して之が運搬の任に當り、以て罹災民救護に努めたり。
 ハ、各地との連絡を圖る
電信・電話の不通のため、役塲との連絡は勿論のこと、各地との連絡も亦斷絶の状態なるを以て、靑年團は傳令となり、之が連絡を圖れり。
 ニ、被害漁船の引下げ
津波のため漁船は悉く海岸より遠く高地方面に押揚げられたるを以て、災害後は何れも山手方面、若くは市街地の内外に散在せるを、消防組・靑年團・自警團・船主・船員等悉く出動して、押揚げられたる漁船の引下に努むること七日、漸くにして全部の引下を完了せり。
 ホ、救護事務に援助
配給事務、被害調査等に、役塲吏員のみにては手不足のため、靑年團幹部は之れ等事務の援助をなせり。

7、各地より慰問品
大津波の慘害全國に傳はるや、各地よりの慰問品縣に達するもの非常に多く、罹災各町村縣より配給を受け、殆ど日常生活に不自由なき程なりき。

8、縣よりの救護
津浪のため臨時縣會を開き、縣自ら罹災民救護費支出の途を講じ、又國庫の補助を仰ぐ等、罹災救助の爲大なる努力をなせり。

9、漁業組合より救護
吉里々々漁業組合は、組合員の小漁船の被害を受けたるものに對し、漁船二十艘を新造して之を貸與し、生業に就かしめたり。又發動機船の被害を受けたるものに對しては、修繕によるものと、新造によるものとに區別してそれヾヽ救濟の途を講ぜり。其の他建網・鰮巻網等にも相當の救濟をなせり。

五、復興復舊
1、避難道路の改修
海岸より高地に至る道路を改修して、津波のときには容易に避難せしめんとするものなり。北端より南端に通るもの一線、海岸より高地に通ずるもの四線を改修せり。

2、住宅の高地移轉計劃
津波による流失倒潰せし住宅を高地に移轉する計劃を立て、住宅組合主となりて之が計劃中なれば、實現の曉には津波の被害を受くること少なかるべし。

3、防潮林・防波堤
津波を防止するため防潮林・防波堤の提唱あり。内務省・農林省の技師多く來りて視察せられ、其の必要なるを發表せられつゝあれば、之が實現を見るの期あるべし。

4、繋船塲の設置
漁船の船溜塲を餅ケ嶋に設け、風波烈しき時の繋船に便ならしむるを目的とするものなるも、之が設置實現せば、之に依りて波浪の動向を統制して、津波を市街地外に誘導し、以て市街地の災害の輕減を圖らんとするものなり。

六、津波に現はれたる靑年敎育の効果
三月三日、津波後約一ケ月の間は殆ど不眠不休の状態にて上下協力一致、唯唯默々として何の不平不滿もなく、災害復舊に當り、非常なる困厄に堪ふべき必要の最も大なる津波罹災の試練所に於て日頃鍛へし質實剛健の精神を如實に發揮したる状を見て、私に邦家のため意を強ふするものなり。

七、津波警戒
津波豫知の困難なるは、地震豫知の困難なるに等し、然れども津波の波及は緩慢にして、其の發生より海岸に到達するまでに、三陸東沿岸に於ては通例少くも二十分間の餘裕あるを以て、器械或は體驗によりて、其の副現象を觀測し、之に依て津波襲來の接近を察知し得べし。
津波の副現象は左の如し。

イ、津波の原因たる海底變動によりて、大規模の地震を伴ふ塲合多し。地震動は、之に緩急種々の區別あるも、概して大きく搖れ、且つ長く繼續す。
ロ、地震と津波とは、同時に發生するものなれども、傳播速度に差あり。其の發生より海岸に到達するまでに、地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども、津波は二十分乃至四十分を要すべし。
ハ、遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり。地震後五六分乃至十數分目に來るを通例とす。
ニ、津波は、三陸沿岸に於ては引潮を以て始まるを通常とすれども、然らざる塲合あり。爾來海水は一進一退を繰返すこと多次なるべく、多くは第一波が最大なれども、第二波或は第三波が最大なることもあり。潮の進退は其の速かなるときは、毎秒十米に達することあり。
津波は、概して以上の如き順序によりて起るを以て、單に體驗のみに依りても警戒の手段あり。若し之に加ふるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、團體組織等を以てせば、一層有効なる警戒をなすを得べし。

八、津波避難
地震の性質、其の他によりて津波の虞之れありと認むるときは、老幼虚弱のものは、先づ安全なる高地に避難すべく、其處に一時間程の辛抱をなすを要す。又強者特に健脚のものは、海面警戒の任に當るべく、津波襲來の徴を認めたる塲合、警鐘、電話等に依る警告を發するに遺憾なきを期すべし。
避難の爲、家屋を退去するに當りては、津波到着までの餘裕を目算し、火の元用心、重要なる物品携帶等機宜に適する處置をなすを可とす。雨戸を開放するは津波破壞力の減殺に有効なることあり。
船舶は、若し岸を二三百米以上離れたる海上にあるときは、更に沖へ出づること却て安全なり。若し然らざるときは、固く之を繋留すべく、若し又緩衝地區へ流入の見込みあらば、投錨のまゝ之を浪の進退に任せること避難上の一法たるべし。

九、津波と津波の間の年數
津波は、何年目毎に襲來するかは、何人も之を知ること能はざれども、大凡四十年目位に襲來するものの如し。
明治二十九年の津波は、前回の津波の四十一年目なりといひ、昭和八年三月三日の津波は、明治二十九年の津波より三十八年目なりといふ。之れを以て觀るとき津波後大凡四十年前後は最も警戒を要するものと考ふるものなり。
後世の人、能く常に避難訓練をなし、以て地震・津波のときは細心の注意を拂ひ、不覺をとるなからんことを期すべし。

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1、人口並に家屋の被害調
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2、學校罹災兒童調
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3、漁船の被害調

震災の概况 大槌尋常・高等小學校 大槌水産專修學校 大槌實科高等女學校

一、大槌海嘯略史
一、元和二,一〇、二八(市日)後水尾天皇二二七六(秀忠)
 湖水古明神の下迄浸入、人馬死する者大なりと言ふ。
二、寛政五,正、七光格天皇二四五三(家齊)
  兩石浦殊に甚しく流亡家屋百餘戸、死者二十餘名。
三、安政三,七、廿三孝明天皇二五一六(家定)
  潮勢緩慢波高く海面より凡そ一丈二,三尺にして安渡、大須賀邊は水殆ど大屋根に達し、八日町邊は或は縁先まで及ぼしたり。差汐至つて緩慢なりし爲、人畜には死傷なし。只大須賀端れにて最も海岸に近き高田某、菊池某の家宅二軒流失せしのみ、他は一般無事。
四、明治廿九、舊五,五明治天皇二五五六
五、昭和八、三、三

二、當夜の概况
 三月三日午前二時卅分過ぎ、強音の繼續せる近年珍らしき強音あり。すはや!と戸外に出づる者、海潮を見に出づる者等々、とまれ此の一大地震に戰く。寒さは寒し。されど皆起き出でて何かしら次に起るらしき豫感のものを持つが如し。
 強震後、廿分も經過したりと思はるる頃、電燈消えて眞の闇となる。嵐の前の靜けさの如き氣分の滿々たる時、此の消燈にて益々夫を強うしたり。突如!遙かに、そして近くに「津浪だあー!」人間の最も懸命なる叫びが一切の靜を破らんとせまる。此の聲に應じて大須賀方面の各戸の人々慌てふためきて戸外に出で各々江岸寺裏山に或は上方の親類縁者學校等の方向に向つて疾走したり。
 天地萬物一切も眠り、軒も又三寸下ると言はる所謂ウシミツ時、加ふるに月なく三月の大氣その寒さ爲と一入骨にしむ。
 子を呼ぶ母、子供は?我が子は?足りぬ、又數へても又呼んでも、置き忘れて來たのだ、恨むべし。然し誰をか怨むべき、只聲をふりしぼりて慟哭する悲痛なる叫び、親を求むる子の切なる絶叫、兄を呼ぶ、妹を探す兄弟の聲、老いたるものゝかすれたるむせび、夫たる者の、妻たる人の呼ぶらしき夫等の叫び、叫び!叫び!叫びのルツボ!大自然の力の前にまた小なる人間の、然し乍ら眞劔な叫び、實に阿鼻叫喚たり。
 此の第一回目の襲來にて町方より大須賀の曲り角まで來る。此の時已に消防隊及自警團並に軍人分會及び町靑年團員の人々警邏に出でたり。
 斯くして此の水一度は引退きしも再び襲來せり。此の間凡そ廿分も經過せしか、這般の上水は前に襲ひしものよりは尚強く、大須賀より八日町・御社地・新町及び向川原方面の一帶に押寄せたり。時既に災害地域電燈消えてあれば只目標の不安定なる暗夜を辿るのみなり。之より時間を經過すること二時間餘、漸くほのヾヽと夜白けかゝる頃となりて見渡せば、其の慘状たるや實に悽愴たり。
 家を流せる者、子を失ふ者、親を失ふ者等の物をも言ひ得ざる哀れな姿はフラヽヽと倒壞家屋の間を彷徨するを見て、今更現實の大なる悲境を痛感せられたり。寢衣のまゝ、はだしのまゝ避難せる者等血氣の男達が漸次山を下り來て、夫々の被害程度に應ぜる處置を取らんとす。一歩屋内に踏み入れば、その荒れ狂へる混雜の樣、思はず驚嘆と而して「よくも斯く荒れし」と皮肉笑さへ出だされぬ。再び「津浪だあー」あの未だ忘れられぬ響を持つ叫び、一散に山へとぶ、どぶ溝に足を入れる者、つまづく者「全く恐しいのだ」
 漸く安心して再び山を下る。三度、四度此の海嘯來の叫びにおびやかされつゝも、やがて夜は全く明け擴がり、人々の聲にも漸く安心の影を認むるに至れり。

三、學校の採りたる處置
一、事件突發當時に於ける處置
午前二時半過、海嘯襲來と共に學校に避難せる者多數にて、校長以下全職員直に學校に出動し、男女兩控所・小使室・宿直室を開放し、控所にはストーブを焚き付けて、避難者の便益を計ると共に、諸管理の任に當る。

二、其の後の處置
1、兒童に對しては、臨時休業の旨直に公示す。
2、通常女敎員一名宛の日直員を男敎員二名とす。
3、全職員は直に被害地の現状視察に向ひたり。
4、平常一名宛の宿直員を二名に增加す。
5、罹災者に對する處置
(1)當朝・罹災者に對する給食は握飯とし、女敎員之が任務につけり。
(2)當夜より尋一男女、尋三女、小使室、宿直室を開放し、罹災者の宿泊所に當てたり。
(3)罹災者の宿泊所には敷物・火鉢・ストーブを配置せり。
(4)當夜より宿直員外二名の不寢番を設けて、火氣其の他の取締をなせり。
6、三月四日以後同十四日に至る迄同一方法を繼續實施す。
7、三月四日には、職員總動員にて被害家庭を訪問し、兒童の状况を調査せり。
8、三月七日、再び職員總動員にて被害家庭を訪問し、兒童の被害状况の詳細なる調査をなす。
9、職員交互に町當局の罹災民救濟事務を應援せり。
10、三月八日、滿洲派遣兵へ鄕土月報(海嘯號)を作製、之を發送す。
11、三月九日より實習室に於て、町内整理の爲に立働く消防手等のため炊事をなす。
12、三月十一日、被害兒童に對し、第一回目の配給をなす。
13、三月十三日、第二回目の配給をなす。

三、収容人員
三月三日、現在にては三家族、其の員數百三十二名

四、交通通信方面
流言は流言を産んで、大槌町全滅の爆破的噂を耳にした町出身の他鄕土にある者及び親類縁者は、如何に心を疲れさせたことであらう。遠くにある人は、新聞に縋り付く、刻々被害地の酸鼻を報ずるも、大槌地方は記載せられぬ。
アナウンサーは、附近を報告するけれども、大槌地方云々を放送せぬ。正しく全滅ではなからうか、と涙せし多くの人があつたであらう。海嘯來と共に交通・通信機關は全く杜絶し、舊道を息せき切つて來る有樣である。
三月三日
 1、自動車不通(小槌橋・安渡橋共に落橋)2,電信發信不能、來信の受付をなす(釜石局を通ず)
 3、電話、市内被害地及び長距離電話不通。4,三陸汽船入港せず。
三月四日
 1、自動車不通。釜石方面への交通路は室濱橋急架工事を施し之を通り、白石より自動車便に移る。
 2、電信は依然として來信のみ受付く、發信不能。3,海軍及新聞社の飛行機視察のため飛來。
三月五日
 1、新聞、始めて來る。2,始めて三陸汽船入港す。3,大湊より驅逐艦入港。4,通信・交通機關前日の通り。
 3、其の他、通信機關自動車の運轉は前日同樣。
三月七日
 1、自動車の便通未だに町内より直接出立し得ず。2,長距離電話通ぜず。
三月八日
 1、小槌橋・安渡橋・架橋工事夕刻完成。2,自動車便通す。
三月九日 本校宿泊中の工兵隊歸隊。
五、避難民の救護

一、學校のとれる救護
海嘯襲來と共に、學校長以下全職員直に學校に出動し、男女兩控所・小使室・宿直室を開放し、ストーブを焚き付くる等避難者の便益を計ると共に、諸管理の任に當る。

二、概况
三月三日 總計百三十二名にして、宿直記事に依れば、當夜は微震數回ありて、収容者戰々兢々たる體なりき。當町内巡視の夜警者數回に亘り、學校収容所を巡視せる状態なりき。
三月四日 罹災収容者前夜より減ず。疲勞と安心の爲か、多く熟睡状態なり。
三月五日 前夜と大差なし。
三月六日 漸次減少の傾向にて、総數百名に近し。
三月七日 罹災収容者の調査の結果、一四家族、九十三名。
三月八日 尚、減少して總數六十餘名となる。罹災者一同(但戸主)を宿直室に招集し、明後日十日より授業開始となるに付、各人の引揚げ豫定の談合をなす。
三月九日 殆ど本校を引揚げ、尋三女の敎室には一家族を殘せるのみ。只尋一男女の敎室にある収容者のみは稍々減じたり。
三月十二日 収容者、本日全部引揚ぐ。

三、急造バラックの施設
各部落に急造バラックを建築して、之を収容す。


六、各種團體の救護状况

一、概况
 罹災者も、非罹災者も、山に積まれた破損物件を如何ともなし能はざる精神力と肉體力とをかこち、或る大きな外部よりの救護を待つより他ない塲合、之等救の手が團體徒歩にて、或はトラックにて入りこんだ時、どんなに力強きを覺えたか。
 救援の人々は、夫々消防服・勞働服にて元氣一杯の體を包み、各種の所要器具を携帶し、學校に陣取る者、一般家屋に宿る者、皆號令一下この非常時に喜ばしき訓練ぶり、やがて各班に分れて毎日々々破損物件の取かたづけ、交通整理の猛烈な勞働に從事された。

二、團體名及び其の他
三、大槌消防組
 第一部より第五部まで、三月末日に至る間、組頭以下一三二名出動し、破損物件の取かたづけ、交通整理・屍體捜索・夜間警備の任務につけり。

四、大槌自警團・靑年團
 大槌消防組に同じ。

五、人命救助の功勞者(大槌消防組)
 三浦 宗助  三枚堂 忠藏  小笠原 謹六  山崎 虎太郎  鳩岡 福彌  前川 三郎
 濱田 重藏  佐々木 仁右衛門  谷澤 淸藏  田代 仁太郎  北田 六右衛門  越田 一太郎
 竹澤 德治  前川 義雄  芳賀 吉太郎  越田 深次郎 前川 德右衛門

六、人命救助の一
 阿鼻叫喚の混亂中に、地響をたてゝ來た第一回の波は、倒すものを倒し、流すものを流す地の逆轉を思はせる中を「助けてくれーヽヽ」と眞劔な哀れな叫びが聞ゆる。
 第五部に詰めてゐた此の夜の警戒長一等手三浦宗助氏及び他の四名は、萬全を期して人々を逃がす。最後の人が走り去るや、五間を隔てずこの最初の波は古澤德松宅前まで來る。稍々退け味を見定めて之等消防手が夫々大聲を張り上げて逃げ遅れた人々を「出ろーヽヽ」と呼ぶ。助けを求むる叫びを聞きつけ、やをら聲の彼方に跳ぶ。見れば顔中を血だらけにし、ハアヽヽ苦しげに空を向いて歩むことを得ざる土方三人、怱ち消防手二名之に當り、安全地まで避難せしむ。と見ると、澤舘駒三宅前に泥醉者の如くフラヽヽ立つことを得ざる者あり、見れば後れた土方二人、之には一名をつけてのがれしむ。尚小笠原鹿之助宅前の道路を破壞船が、遮斷しある船中に大風呂敷包を脊負へる十四・五才の娘がしきりに助けを求む。此の娘をば伊藤組付小頭に手渡して、之を瞬間的に走らしむ。
 尚も破壞屋根のかげにて四・五十才らしき女の叫びがする。單身之を助けんとすれば、見よ二・三間先に地より湧いたかの如くウウーとうなりを生じて一丈二,三尺と見る第二回の波が押し寄せる。三浦消防手最早救助能はざるを知り、佐々木勇次郎宅の屋根に船より只一跳びにとび移る。更に危險を知り、澤舘駒三宅の屋根の移れば、大きな音を立てゝ電柱倒れ、電線一齊になびく。その電線にはられてトタン屋根上をころげる。斯くしてそのまゝ一町程押し流さる。
 人の死より脱出せんとする懸命な叫び、うめき、漸次衰ひ行く悲痛な叫びを聞いた。然し助けることも得ず、己れまた靜かに決心のほぞを固める。波の退け際屋根より降り來て水深を測る。二回目には四尺五・六寸の深さだ。
第三回目の襲來を豫想しつゝ一大決心と共に水に飛び込み、泳ぎに泳ぐ。電氣會社のサーチライトを目標として武裝のまゝ懸命に蹴る。その途中、哀れな叫聲を聞くも如何とも出來ず、流され來るものをかきわけヽヽ遂に福島屋の垣根を破り裏に出る。然し體が冷えて手足自由ならず。立つことも得ず、こゝにて金崎淸藏氏の手に救はる、と同時に瀕死の人あるを告げて、之を救助せしむ。見れば柏崎嘉吉の妻であつた。

七、治安維持の施設

一、警察應援隊
當日、正午を先着として應援隊の來援を受け、治安維持の任務につく。
 (イ)遠野署(七名)(ロ)縣(三名)(ハ)黑澤尻署(三名)(ニ)花巻署(二名)

二、臨時出張所
大槌町・吉里々々部落に當日より出張所を設く。

三、暴利取締
濫りに物資の高騰を圖る者無之を保し難きを以て、随所之を公示す。

四、民心の安定
民心をして一日も早く安定ならしめんとして、流言蜚語をなす者を嚴重に取締らんと随所之を公示す。

五、憲兵分隊・騎兵隊來援
四日午前四時頃憲兵分隊及び騎兵隊より警邏を目的として凡そ十二・三名來槌、一時學校女子部控所に休憩し、曉を待つて活動に移る。

六、夜間の警備
夜間三人づつ三班に分れ、其の他各種團體より參加せしめて曉に至る迄警戒の任務につく。

八、救護衛生施設
一、救護班の來援
1、田村救護班   醫師  一名   看護婦  一名
2、騎兵隊救護班  看護長 一名   看護兵  二名
3、赤十字救護班  醫師  一名   事務員  一名   看護婦二名

二、來援到着日
1、田村救護班三月三日
2、騎兵隊救護班三月四日
3、赤十字救護班三月四日

三、概况
 當日より來援隊及び町醫とが各部落に分れて當日より廿五日まで、罹災者無料、尚一般町民にても資力少なるは無料にて施療せり。(田村救護班は主として吉里々々部落)然れども之を以て當るも、尚全般に對して手不足を町民に感ぜしめたるが如し。

四、取扱者數(自三月三日至四月廿五日)
1、古谷救護班(延人員)男五九八名女四三〇名
2、大宮救護班男四六〇名女四一四名
3、田村救護班(自三日至一四日)男二三一名女一八七名
4、赤十字救護班(自六日至十一日)男五二名女四八名
5、騎兵隊救護班(自四日至八日)男一二四名女七六名
6、藤井救護班(當日のみ)男女各三十六名

五、防疫事務囑託
(イ)一名を囑託せしめ、絶えず巡廻せしめ、患者の有無、傳染病の調査、消毒、藥品の配給をなさしむ。
(ロ)ヘテロゲン二千人分傳染病患家の附近の人々に服藥せしむ。

六、臨時種痘施行
三月廿七日、全町に亘つて之を施行せり。

七、屍體發見及び處置
三月三日より六日に至る四日間に亘つて、屍體四十四個を發見し、或者は役塲の手にて假埋葬に付す。其の後五月廿九日迄に九個發見され、尚行衛不明は八名なり。

九、電燈の復舊並びに被害高
 海嘯襲來後、尚悽愴と恐怖とを感ぜしめたるは夜間であつた。電燈の復舊は其の後遅々として進捗せず、暗いランプのもとに幾夜、わびしく家族が額を集めて海嘯を語つたことであらう。やがて近い部落より漸次明るく復舊した時人々の心からも又ランプのしんのジイヽヽするいらだたしさは消えて睛れヾヽしたのである。
海嘯被害調

慰問状况並に慰問金品
一、状况の一
 三月九日、學校は混亂の最中にある時、玄關側に一個の新聞包が置いてある。誰れかの置忘れものであらう、その中に取去られるものとしてゐたが、翌日になつても取去られない。持主が不明である。止むを得ず開封して見ると半紙五百枚、鉛筆四打入れて、一枚の紙片に「わづかですが被害兒童へ……無名氏」と記してある。校長は、早速此の由を掲示板に示すと共に、更に控所に學校新聞としてこの由を掲示して、兒童と共に感謝の心をわかち、新聞紙上にて無名氏に對する謝意を表する手筈を取つた。

二、状况の二
 三月九日、東京市區會議員南金太郎氏外女子靑年團員幹部數名、大きなズッグ袋を背負ひて來校、大槌町被害靑年團員にとて現金八〇圓を贈られた。
 餘りに當地到着が早く渡されたものは皆銀貨であることに不思議を持たれ、之を伺へば三陸地方海嘯來の報を受くるや、靑年團員の人々夫々街頭に立つて義金を大衆に向つて仰ぎ、その上紙幣にすれば持参上の都合はいゝが、被害地の人々の便利を考へて、銀貨のまゝズッグ袋に入れて、該地まで背負つて來たと言ふのである。

三、救濟及慰問金品調
1、大槌尋常高等小學校
(イ)縣よりの地震並に海嘯罹災兒童救濟費

三,六七五円,三八    二,四四八円,三八四……給食・被服・學用品代
一,二二七,〇〇〇……              一人三圓宛四〇九人分

(ロ)縣敎育會よりの救濟資金

(ハ)町當局よりの救濟資金

(ニ)各地よりの慰問
(A)物品

(B)金錢

(2)大槌實科高等女學校
(A)町當局よりの救濟資金

(B)物品

(C)金圓

(3)大槌水産專修學校

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二、團體名及び其の他
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海嘯被害調
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(ロ)縣敎育會よりの救濟資金
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(ハ)町當局よりの救濟資金
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(ニ)各地よりの慰問(A)物品
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(ニ)各地よりの慰問(B)金錢
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(2)大槌實科高等女學校(A)町當局よりの救濟資金
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(2)大槌實科高等女學校(B)物品
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(2)大槌實科高等女學校(C)金圓
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(3)大槌水産專修學校

各種統計表

(一)被害戸數
(二)死傷者
(三)家具其他被害
(四)農用地被害表
(五)義捐金内譯書
(六)白米及其の他諸雜品配給状况調四,三〇現在
(七)災害以來救護状况

一、罹災戸數救護人員
七四四戸  四六五五人  三月三十日現在

一、最大の救護人員    四,九九九人以後
二、慰問金
 イ、御下賜金      金二,二五六圓
 ロ、御下賜品 御衣服地 四一人分
   御裁縫料      二,〇五〇圓
 ハ、一般義捐金金    一〇,三〇〇、〇四圓

(八)慰問金配當割合
(九)大槌尋常高等小學校兒童被害状况調
(一〇)職員被害調 (大槌尋常高等小學校)
   一、家屋流失倒潰  一    二,床上浸水  三
(一一)大槌水産專修學校被害状况調
(一二)大槌實科高等女學校被害状况調

同職員被害状况調

一、床上浸水一
(一三)大槌尋常高等小學校要救護兒童調
1、要救護兒童數   四一七名
2、學用品敎科書必要數
    學用品    四一七名
    敎科書必要數 三八三名
3、學年別調
イ、尋常科
一年 四七   二年 四八   三年 四九
四年 四四   五年 四五   六年 六一

ロ、高等科
一年 六二   二年 二七
ハ、   計三八三名

(一四)學區内被害状况

イ、被害家族數  二,一七六名
ロ、死亡者数   二一名
  行衛不明者  五名   重傷者數七名
  輕傷者數   三五名
ハ、總被害總額  七一、二七七三圓

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(一)被害戸數
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(二)死傷者
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(三)家具其他被害
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(四)農用地被害表
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(五)義捐金内譯書
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(六)白米及其の他諸雜品配給状况調四,三〇現在
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(七)災害以來救護状况 一、罹災戸數救護人員
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(八)慰問金配當割合
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(九)大槌尋常高等小學校兒童被害状况調
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(一一)大槌水産專修學校被害状况調
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(一二)大槌實科高等女學校被害状况調
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(一四)學區内被害状况

震災概况 九戸郡宿戸尋常・高等小學校

昭和八年三月三日午前二時三〇分頃、大地震あり。上下動相當烈しきのみならず、繼續時間も長く、何等かの凶變を豫知するに充分なりき。それより約四十分にして恐るべき海嘯襲來したり。

被害状况
 本學區内四部落とも被害、殊に甚しき被害を蒙れるは八木區宿戸區なり。
1、流失又は全壞家屋   四五戸
2、半壞家屋       五戸
3、住家の被害戸數    五三戸
4、被害人口       二六四(内敎員二 兒童三二)
5、流失納屋倉庫工塲等  二六
6、床上浸水家屋     三
7、床下浸水家屋     ー
8、死亡者數       一一一(内敎員二 兒童一〇)
9、負傷者數       二二(内兒童一)
10、罹災職員及兒童
計 職員 罹災數  二   死亡 二
  兒童 罹災者數 男二〇 女一二 死亡 男 八 女 二 負傷男一 女ー
11、耕地
 八木區  畑 一町九畝十四歩    田 ー
 宿戸區  畑 一町四段二畝十五歩  田 四段五畝歩
 戸類家區 畑 二町四段二畝十九歩  田 一町九段二畝十九歩
 玉川區  畑 二畝七歩       田 三段一畝二十三歩
  計    畑 四町九段六畝二十五歩 田 二町六段九畝十二歩
12、漁業關係建築物
13、漁港、船舶、船揚塲
八木區  被害金額 五四,七一七圓  宿戸區 同 五〇〇圓
戸類家區 同    二,〇〇〇圓   玉川區 同 五〇〇圓
計    同    五七,七一七圓

14、漁具及副漁具
15、水産增殖被害及水産製造物
16、罹災漁船
17、水産業者住宅家族等

臨時休業中の状况
本校に於ては、海嘯襲來當日より五日間臨時休業をなし、災害後の復舊人心安定に努めたり。
三月三日 田村・小原兩訓導遭難のため、女敎員をして日直せしめ、校長自ら之が屍體捜査に當り、安藤・高橋兩訓導をして、八木區の罹災兒童其の他罹災者の調査並に慰問をなさしむ。
 高橋・安藤兩訓導午後に至り、將校團召集の現地戰術演習會に出席のため花巻に向ふ。
 羽行校長は、小原・田村兩訓導の屍體を發見し、各屍體檢視を終へて兩訓導の遺家族に引渡し、夕闇の中を歸校せしは既に午前九時。
三月四日 羽行校長、大濱及八木の罹災地に至り、罹災兒童の調査及罹災家族の慰問をなす。一日中。
三月五日 午前中出勤し、羽行校長慰問客に接待す。
 午後一時、兒童代表者數名を引率し、種市驛前自宅出棺の田村訓導葬儀に會葬。
 午後五時三十分、種市驛發列車にて久慈町に赴き、小原訓導の葬儀に參列。夜念佛を上げて歸校。
三月六日 高橋・安藤兩訓導演習會中止のため、空しく歸校出勤。職員全部出勤。兒童召集をなし、海嘯に關する學校に於ける被害状况並災害後の諸注意をなす。午後全職員罹災地區視察及慰問。
三月七日 全職員出勤。罹災者に對する給與學用品其の他の準備に忙殺さる。
三月八日 二訓導十兒童を失ひ、悲しみの中に平常授業開始す。

一般の状况
最も慘状を呈したるは、八木區及宿戸區の大濱部落にして家屋の流失破壞せるもの多く、然も柱一本板一枚として滿足のものなく、殆ど木屑同然微塵となり、海岸一帶に堆積せり。其の中に顔面、手足所きらはず負傷のまゝ慘死を遂げたる屍體あり。親を失ひて歎く子、子を失ひて狂せんばかりとなれる親、屍體にすがり號泣するもの等全く生きながらの地獄同然、其の中を消防・軍人・靑年會等村を擧げて之が救護に活動し、救護本部を八木區工藤旅舘に置き鋭意罹災者の救護、災害後の取片付等に盡力せり。
 三月三日、當日は村内擧げて之が救護に當るの外、赤十字社より醫師及看護婦の來援あり。久慈警察署並に福岡警察署より警官の派遣あり。各地よりの見舞客、慰問品等多數ありて悲慘の中に救護を進めたり。
 之より約一週間にして漸く災後の取片付を了したりしが、この間毎日、部落の人夫・消防夫・軍人分會員・靑年團員等涙ぐましきまでの活動を續けたり。

慰問金品等の状况
當校にて受付け、贈與を得たるもの次の如し。
  金壹圓也   久慈町  三船景子氏より   金五圓也  村内 城内小學校職員兒童一同より
  金五拾錢也  山形村  今野正藏氏より   一、學用品 一棚 種市小學校より
  一、鉛筆及筆記帖    九戸郡敎育部會より 一、乾麺麭 一箱 横須賀海軍より
  一、學用品一箱     福岡町より     一、鉛筆三十六打 盛岡市敬文舘書店より
 以上の如く、現金にては繪具・クレヨン・手拭・風呂敷・裁縫用具等を購入し、兒童(罹災兒童のみ)に分與し、其の他の學用品も舊敎科書不要分を除く。凡ては之を罹災兒童に配給せり。
 一般に對する慰問品は、各地より絶大なる同情に依り、至れり盡せりの状態にて配給を受けたる罹災者も、その御同情に涙を流して感激せり。

侍從御慰問の状况
 畏くも三月十日今上天皇陛下大金侍從を御差遣罹災地御慰問を賜ふ。
 大金侍從は、岩手縣學務部長湯本二郎氏の御案内にて、三月十日午後一時卅三分、陸中八木驛に御下車。驛前に御出迎申上げたる村民一同に對し陛下の有り難き御慰問の御言葉を親しく傳へられ、種市村長和井内光氏及中野村長中村傳三郎氏各村民を代表して謹んで御禮の御言葉を言上し、それより和井内村長の御先登御案内にて罹災地八木區大濱部落を親しく御巡覧遊ばされ、八木漁業組合事務所前にて、出征軍人遺族並罹災在鄕軍人分會員遺族に一々有り難き御慰問の御言葉を賜はり、同事務所に御少憩の後、中野村長中村氏の御案内にて中野村小子内部落御巡覧の上、八木驛に御少憩遊ばさる。八木驛々長室に於て羽行校長二敎員十兒童を失ひたることを言上し、有り難き御慰問の御言葉をいたゞき恐懼して退下す。午後四時三十分、陸中八木驛より靑森縣知事の御案内にて靑森驛に向はせ給ふ。
 以上は當學區内の状况を調査せるものなり。

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10、罹災職員及兒童
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12、漁業關係建築物
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14、漁具及副漁具
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15、水産增殖被害及水産製造物
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16、罹災漁船
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17、水産業者住宅家族等

震災資料 九戸郡平山尋常小學校

 三月三日午前二時半、突如大激震起り、三十分程經過した三時頃、異樣な音響と共に、津波の襲來となり、明治二十九年以後三十八年目の今年、再び東海岸の三陸は津浪の災厄に遭遇し、幾多の生靈を失ひ、巨額の損害を蒙りて其の慘状言語に絶す。本村民亦斯の天災に依り、災害を受けたること甚し。本村の海岸に近きは半崎部落にして、危險最も多かりしが、流失家屋一戸に止まり、幸死傷者なく、大湊部落は、前回に流失家屋多かりしが、今回は縣道の下まで襲來せるも、流失は免れたり。避難せるもの屋外に夜を徹し、寒氣と不安に夜を明せり。
 災害の甚だしきは、夏井川の側にある小坂製材所にして、工塲の煙突は中斷し、屋根は倒潰し、死傷者數名を出せり。
 本村の罹災戸數七十一戸にして、罹災者數五百三十九人、損害見積價格參萬七千百五拾壹圓に上れり。

概况
A津浪襲來の状况
激震後、間もなく地響きのする異樣な音響に不審を抱きつゝも、津波とは思はざりしが、戸外に出でゝ、それと知り、驚愕の餘り着の儘素足で裏山に避難し、寒氣にふるひつゝ夜を明したり。
最初見たる際は、全く雲を衝く大山の如く見えたりしが、次第に低く、南より東に亘る一線上には、探海燈を照らしたる如く輝きたるは、押し寄する波の前端に閃きしものと察せらる。
大波は、三回の亘り襲來、最も大きかりしは第三回目の波にして、約八・九米の高さにして、第二回は最も小さく、五米位、最初には六七米なりき。時間は一回より二回に亘る時間は四分位、二回より三回には六分位にして、其の間に小波は交れり。波の上面は、潮の滿ちて來る如く、ヂワヽヽ押し寄せ、波の前端は崩れながら前進したれども、海底は凄い勢を以て、大きな石は動かされあるものの如し。

B襲來後の状况
平常に復したる海上は、平穩なる大海となり、魔の海とも思はれざる樣なり。眼前に目撃する慘状を見較べて夢の如し。
避難の人々は、何れも布團を背負ひ、續々何處へか立ち去り、或は引續き山麓の避難所に夜を徹するもの數日間人心の兢々として恐怖に襲はる。
波は夏井川を愬り、兩岸を襲ふ。而して家屋の立並ぶ裏の平地は浸り、遠き所は縣道を横切る小川の縣道筋より東方十米位まで押し寄せたるものの如く、水田は洗はれ、其の中に舟は横はり、魚籠其の他の破片は散亂し、慘澹たる光景なり。
海岸は納屋等の建物は悉く流失し、砂濱に魚糟の俵らしきもの數知れず寄せ上げられたり。
尚、珍らしきは、魚が押上げられて死せることなり。
津波後の慘状を眼前に目撃して、深夜の悲慘事を回想して戰慄し、罹災者に對する同情の念、禁じ得ざるものあり。

C被害状况
一、小學校
建築物  被害なし         敎員罹災者なし
兒童   流失家屋 一戸(兒童二名) 罹災兒童數 九三戸

二、罹災調 昭和八年三月十五日調(役塲調査)
現在戸數 三九八戸  同 人口 二,四九一人   罹災戸數 七一戸
罹災者數 五三九人  内 死亡 一        負傷 七

損害見積額計  金參萬七千百五拾壹圓。

D救護状况
一、兒童
家屋流失者  米及魚、學校より支給
       敎科書支給 縣敎育會より學用品として金參圓役塲より受領
罹災兒童   十九名報告
       救濟費交附金支給に依り夫々學用品、被服、食料支給
一、罹災者
村當局にて、夫々慰問品配布、救濟費、補助金等支給救護せり。

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罹災調 昭和八年三月十五日調(役塲調査)

久慈小學校罹災状况 九戸郡久慈尋常・高等小學校長  及川 定治

 當校舎、職員、兒童及當校學區には被害なし。
久慈町被害状况(久慈湊小學校學區)

イ、住居の被害戸數
  1、流失家屋 一   價格 三〇〇圓
  2、半壞家屋 二   同  五〇〇圓
  3、浸水家屋 八
         計 十一戸 八〇〇圓

ロ、死傷者なし
ハ、納屋器具等の被害
 納屋 二八棟  價格 八,二〇〇圓  漁網 一四張  價格 一二,九〇〇圓
 漁船 二三艘     四,三〇〇圓  魚粕製造具 七     三,八〇〇圓
 同雜具一       一,〇〇〇圓  引ボート 一        六〇〇圓
 石油 四〇         五〇圓  ロープ  三        一〇〇圓
 錨 二           八〇圓  船材料         一,五〇〇圓
 船大工道具        二〇〇圓  板材          三,五〇〇圓
 製材         二,五〇〇圓  工塲建物 六棟     二,〇〇〇圓
 板倉 一         三〇〇圓      計      四一,〇三〇圓

ニ、耕地被害
 田 五反         一四一圓  畑 二八五反        七六五圓
  計 三九〇反      九〇六圓

救護に關する事項
イ、大金侍從御慰問
三月十日、大金侍從御一行罹災地御慰問のため、野田村方面より御來町親しく災害とを御巡視あらせられ、久慈湊小學校に於て、聖旨の御傳達あり。三船町長奉答の御挨拶を申上ぐ、當時參集するもの被害町民を始め、男女靑年團員・消防組員・在鄕軍人分會員・町會議員・小學校長・上級兒童等百餘名。一同聖旨の有りがたきに感泣せざるものなし。
ロ、久慈小學校及九戸郡敎育部會より罹災地へ送りたる慰問金品、左の如し。
1、久慈小學校及九戸郡敎育部會より郡内罹災各小學校へ罹災直後三月七日、古敎科書三百冊、雜記帳百五十冊鉛筆二十打を寄贈せり。
2、つゞいて三月十日、久慈小學校兒童より、クレオン三十八箇、畫用紙千枚、鉛筆三十四打を郡内罹災小學校へ寄贈せり。

ハ、殉職敎員に對する弔問
三月三日、海嘯のため任地にありて殉職せる種市村宿戸小學校訓導、田村義郎・小原富太郎兩君に對し、九戸郡敎育部會より弔慰金として五圓宛を贈呈し、更に郡内小學校敎員一同より弔慰金を募集し、三十八圓を醵出し、之を二分して二君遺族に贈呈せり。

災害救護奉仕に關する事項
イ、久慈町靑年訓練所奉仕状况
久慈町靑年訓練所生二十四名、交代にて三月四日より同三十日迄二十七日間、久慈驛前にて九戸郡救護事務所を援助し、慰問品貨物の配給作業に從事し、慰問品の配給を敏速ならしめたり。
ロ、久慈町女子靑年團奉仕状况
久慈町女子靑年團十二名交代にて久慈驛前九戸郡救護事務を援助し、炊事を擔當、配給作業に奉仕するところ多かりき。

美談哀話

美談

  氣仙郡綾里尋常・高等小學校
    訓導  古内 民右衛門

 氏は三日夜當直にて津浪襲來と聞き、直ちに奉藏庫に駈け付け御眞影奉遷につとむ。既に津浪は奉藏庫裏川筋を傳へて十數間の上流に遡り、危險に頻するを見るや、第二の浪の來らざる内に奉遷すべく努力中、丁度校長も駈けつけて、使丁と共に協力して無事第二奉遷所なる千田校長土藏に奉遷することを得たり。
 其の責任感の發露賞すべし。それより校内を巡視して、一歩も退かず、朝に至る。而して宿直員の任を完うせり。
  使丁  鈴木 惣兵衛
 古内訓導と協力して、第一着に奉藏庫に至り、御奉遷に當る。
  訓導  渡邊 ■
 氏は、やゝ學校より遠き廿一町を隔つる白濱部落に住居せるが、津浪の襲來と共に一先づ學校の安否を氣遣ひ、走りに走りしも、途中學校の無事なるを聽き、引返して部落民の救助に努めたり。同地は、今回の津浪中恐らく被害の甚大なる所にして、浪の高さ約百尺に及ぶ。されば一戸として殘留するものなく、死傷者も從つて多數なり。同氏は靑年を指揮して家の下敷となり苦しむ者、或は材木に壓しつぶさるゝ者數名を浪の間合々々を見て救助せるは、一般の認むる所なり。氏の住居も半潰せるも總てを打捨てて此の擧に出づ。數名の親神として尊敬せられ居ることは全くの美談なり。

  校長  千田 久松
 津浪襲來の聲と共に人々の止むるもきかず、學校に駈け參じ、御眞影の奉遷に努めたること前古内訓導と同樣、更に奉遷を終へ、直ちに人命救助に活躍せり。川筋堤防を下へヽヽと下り、救助すべく大聲にて呼びたる時、それに力を得たるか、救ひを求むる聲かすかなり。之に力を得て人を召集し、火を焚き、之れが救助に活動中、第三回の浪襲來し、一先づ一同退去のやむなきに至る。浪の引くを待ちて漸く救助(一婦人)して校長宅に収容し、手當を加へて蘇生せしめたり。此の活動を實地に高地にありて眺めたる人々、其の暴擧に驚きたりと。それより盛警察署に靑年團員を急使し、報導を怠らざる、又一方郵便局の復活に努力し、學校電話機を校内に据付け、學校の一部を郵便局となし、局員を鞭撻したるを以て四日には、既に通話をなすに至り、五日より郵便開始することを得たり。一方村長(吏員皆罹災し一人も來るものなし)と協力して、罹災民救助に從事せり。

氣仙郡大船渡實業補習學校
  第一學年  新沼 シツヱ(一六)
 震災當朝、前年度擔任訓導の宅に到りて安否を尋ね、且つ浸水のため衣類浸潤し、頗る不自由なるを知り、自己の晴衣、履物等を提供して急に處したる報恩の念、其の他にも美しき師弟間の情誼の掬すべきもの多々見聞せるも略筆すべし。

尋常科第五學年 佐々木 哲雄(一二)
 津浪襲來とともに避難せんとする際、道路の水溝中に六才位の小兒逃げおくれて途方に暮れ居るを發見するや急を父母に告げて安全地帶に避難せしめたるものなり。

尋常科第五學年 佐藤 實(一二)
 同じく津浪當時、居宅浸水せるも危險なきを認め、そのまゝ踏み止まり居たるに、隣家の老婆が歩行不自由のため救助を求むるを聞き、母及妹と協力して之を自家に収容救護せり。

氣仙郡小友尋常・高等小學校


 尋常科第四學年村上伊助君は、三月三日の夜津浪襲來の聲を聞くや我れ先にと避難する所を歩行不自由なる盲目の老母の手を引き、臺所にありし自分の學校道具を抱へて危く海嘯に襲はれんとする所を安全に避難せり、殊に咄嗟の間に學校道具まで所持して避難せしは全く奇特の至りなり。母は救はれ、住家は流失せり。


 舟繋ぎのため海邊に出てゐた佐藤傳三郎氏は、突然海嘯に襲はれて木片にすがりしまゝ數時間海水に浸り救助を求めたりしが、附近の小舟は悉く櫓や櫂諸共流失破壞されてゐたるに如何共救助の途なき時に、靑年訓練生の大田三太夫君は、危險を侵して海水に飛び入り、流れゐたる小舟に泳ぎつき、彼を舟に救助すると共に再び海中に飛び込みて、舟を岸邊に引きつけて一命を救へり。

遞信大臣から表彰
   大槌尋常・高等小學校
   大槌水産專修學校
   大槌實科高等女學校
 今回の大津浪によつて三陸沿岸一帶の三等郵便局はほとんど全滅し、流失倒壞六局、浸水六局、局長の死亡一名、重傷一名、從業員の死亡七名、重傷四名を出した。仙臺遞信局では震災にまつはる美談哀話を調査中であつたが、十五日功勞者十六名の表彰方を内申した。この内十一名は可憐な交換手達で「津浪襲來」のSOSを逸早く最寄の郵便局へ急報し、幾多の尊き人命を救ひ出したものである。尚津浪襲來の警報を發した釜石・山田町兩町を恐ろしき慘禍から救ひ出し、感謝の的となつてゐる大槌郵便局交換手佐藤ひめさん(二二)に對して、特に遞信大臣の表彰方を安光仙臺遞信局長から十五日上申したが、一僻村の三等郵便局從業員が、遞相から表彰されることは今回が矯矢である。
(東京朝日新聞所藏)

釜石局交換手の奮闘
 岩手縣釜石町郵便局交換手宮舘とし子・伊藤ひさの・鎌田はる・佐藤ゆき・佐藤みわ・叶井たかの六名は地震と共に大槌から海嘯の通知を受けたので直に沿岸各郵便局に通知すると共に港灣修築工營所其の他主要な個所に報告してゐるうちに海嘯が押し寄せ遂に斷線するまで離れぬ覺悟で踏み止まり町民のため最後まで奮闘したので激賞されてゐる。此の貴い働きが東京の最初の號外に報ぜられ更に新聞に掲載された。尚安光仙臺遞信局長は表彰を内定し其の中鎌田はる子さん・叶井たかさんは大臣賞を受けられた。

水産試驗塲技師宇佐美敏夫氏の働き
 氏は津浪襲來と知るや直に己が無電室に入り各方面に對し津浪襲來に警告したり。之がため沖合出漁中の漁船並航海中の汽船は勿論、落合・銚子の無電局其の他各方面にまで其の報が達し津浪に對する處置を機敏にとらしむることが出來た。氏の己れを顧みざる臨機應變の處置は深く世人を感激せしめてゐる。

消防手の犠牲的行動
 岩舘爲三氏を組頭とする釜石消防組諸氏の己れを忘れたる活動は一般町民の誠に感激するところで、岩舘氏の如きは自分の家の危機をも顧みず一同を指揮激勵する點は眞に消防精神を發揮したものといふべく海水は膝頭を没しともすれば足を奪はるゝ程の不安におびやかされながら消火に努め、流石の火の手を消し止めたのは岩舘氏初め各消防手の犠牲的行動の賜物である。

釜石警察署内勤巡査佐藤勇さんの活動
 釜石警察署内勤巡査佐藤勇さんは地震と共に屋外に飛出で直に海岸に馳せつけ津浪を警戒して居たが不安を感じて集まつた町民達は潮が引かないので皆歸つて行つたが、佐藤さんのみは後に殘つて尚も海面を注視してゐたが、その内に海潮が流れるが如く遙か沖合まで引いたので、それ津浪だとばかりに先づ急を本署に報じ、それから海岸通りを『津浪だヽヽ』と狂ふが如く呼んだので其の聲を聞いて避難した町民が澤山あつた。津浪後は佐藤さんは罹災者の救助に或は整理にと不眠不休の活動を續けた。

津田德三郎氏の感心な行動
 氏は地震の際尾崎神社裏手海岸にて焚火して警戒し引潮を見るや直に其の事を附近一帶に知らせ避難せしめ尚氏は靑山喜八・金澤富夫・靑山政雄・鈴木宇吉・鈴木善雄の諸氏を激勵しつゝ津浪よ火事よと騒ぐ混亂の中を物ともせず尾崎神社御輿を出し之を安全なる塲所に遷御したので御神體は無事災害を免れることを得たのである。これ偏に津田德三郎氏の犠牲的行動として最も賞揚されてゐる。

釜石常備消防手の活動
 高橋千治・高橋信幸・長澤一郎・菊池甚之助・大和田宇之吉・岩間榮太郎の諸氏は潮水引くを見るや直に警鐘を亂打しつゝ津浪の襲來を町民に知らしめ尚自動車ポンプを以て町内を巡り避難警告をなした。

大槌郵便局の交換手遞信大臣から表彰
 大槌町郵便局交換手佐藤ひめさん(二二)は今回の津浪に於て眞先に之を山田・釜石の郵便局に知らしめた。これに依つて山田・釜石の交換手は驚き夫々町内の重なる個所に知らしめたので町民はそれ津浪とばかりに避難したのである。山田は被害の多い割合に死亡者の少なかつたのは此のおかげであると言はれてる。ひめさんは其の功に依つて遞信大臣から表彰されることになつた。女子にして遞信大臣から表彰を受けたことは無上の名譽と言はねばならぬ。

町を救うた山田町の交換嬢
 死者八名の内最も可愛想なのは山田郵便局の殊勳の交換嬢沼崎ちえ子さん(二一)の家族で兄の海産物商熊太郎(三一)は中風で臥床中の父松藏氏を背負つて境田の自宅から山の手方面へ逃げ出す途中で、水魔に呑まれてしまひ、更に熊太郎長男熊次(六つ)は津浪と同時に行方不明となつた。それにもかゝはらず沼崎さんは町の人々のために他の局員と共に郵便局附近に水が來るまで通信連絡のために働いた。初め此の夜當直の沼崎ちえさん・湊つちさん(二九)内舘あきさん(二〇)の三人は大槌局から津浪襲來の電話を受けるや之を機敏に町内電話のある家々に急告したので町民はそれ『津浪だ』とばかりにはね起き龍昌寺・八幡神社境内、山の方面に避難することを得た。山田町は被害程度の多い割合に死亡者の少なかつたのは、この三人の犠牲的行動をなした交換嬢のおかげであると町民から感謝されてゐる。

尊き母性愛
 これも大槌の話であるが、全滅に近い吉里々々部落の或る漁師の女房が、大波をかぶつた瞬間に本能的に二人の子供を兩脇にひしと抱きしめて居た。この母性愛は、天に通じたものか、グシヤツとつぶれた家は、傘をつぶした樣な格好であつたが、翌朝になつてから家の中からうめき聲が聞えたので、區長が靑年團などゝ協力して穴をあけ、掘り出したら不思議にも三人はかすり傷一つもつかず助かつた。

靑訓海嘯美談
   第八師團司令部留守部
 昭和八年朔北の風冷かに雪未だ消えやらぬ三月三日、草木も睡る午前二時三十分、突如として起る強震に、やすらかな夢を破られて跳び立つた東北三陸沿岸の同胞は「ソレ、津浪ガ來ルカラ逃ゲロ」と古老の注意を守つて、逸早く高い處に避難するもの、津浪の襲來を感知し得ず住家の附近で待期するもの、一時は避難したが、再び我れ家に戻るもの、道具を持つもの、子を負ふもの、それは大騒ぎであつた。其の混亂の眞只中に唸りをたてゝ暗を突いて押し寄せた山の如き怒濤は、何物をも呑噬せずには止まざる惡魔であつた。怱ち起る萬雷の如き響、暗に光る渦巻く浪、實に物凄き極みであつた。
 彼は、瞬く間に三千六百の人命を奪ひ、八百の人身を傷つけ、四千の家屋を破壞し、全部の漁具を浚つて行つたのである。(以上は岩手、靑森の兩縣の分のみ)
 此の天災非常事變に遭遇した沿岸靑年訓練所は生徒・主事・指導員は、一身一家を顧みず人命救助に、老幼婦女の避難に、町内の治安維持に、被害地の警戒に、諸種の傳令に、食料の運搬配給に、死體の捜索に、倒壞家屋の取片付けに、漂流物の拾集に、或は個人的に、或は團體的に、不眠不休努力し、平素訓練の効果を如實に示したのである。
今、盛岡聯隊區司令部の報告により、知り得たる行動の一端は、右の通りである。

海嘯當時に於ける靑訓生徒の活動
   岩手縣九戸郡種市村宿戸靑年訓練所
     生徒  三浦 福松
 靑森縣鮫港附近から岩手縣久慈港附近に亘る太平洋沿岸は、陸奥金剛と一時はやされた程に奇岩齒立し、其の間に砂濱が點在し、砂原を前に岩石の麓には草葺の漁家が建てられ、幾隻かの漁舟が家の附近に、或は小川の中に繋がれ居るのを汽車の中から眺められるのであつた。宿戸部落は、八木驛の西北方約半里の漁村である。時は雪未だ消えぬ三月三日の午前三時、ヒシヽヽと襲ひ來る寒風を冒して三浦福松外一人の靑年は、濱の見張の順番に當り、警戒の任に服して居つた。
 時しも暗黑の海上より銀色の波見ゆと覺えしも東の間、突如として襲來した津波に、早くも一人の靑年は浪に浚はれ、三浦は幸ひ波の猛追撃よりやつと逃れ、小高い處に上つてホツト安心したのであつたが、顧れば同僚は波間に翻弄されて生死の境にあるに氣がつき茲に彼は勃然として友情、義侠、犠牲的精神の一時にこみあがつて來るを感じ、勇敢にも波の引間を利用して干潟に飛び出し、腰繩を投げかけヽヽ、ヤツトの事で同僚を救助する事が出來た。彼は他に遭難者なきを知り、更に警戒を續行して居る時、第二の激浪に浚はれ、死力を盡して岸に泳ぎつかうと努力したが、心身綿の如く疲れ、力及ばずいつしか頭を没し海底の藻屑となつたのである。彼の死洵に痛惜に不堪、されど彼の行動たるや帝國男子の本領を遺憾なく發揮し、平素敎練に鍛はれた機敏なる動作と犠牲的精神を如實に顯はしたものであつて、靑訓の力は事變に際し、偉大なる力を現すべきを物語るものである。
 因に、彼は性温順にして規律的生活を好み、服從心の最も強い成績優秀の靑年であつた。

   下閉伊郡船越靑年訓練所生徒  加藤 寅三郎
 海嘯襲來の際逃げ遅れた逗留中の一商人は、浪の爲に電柱と漁船の間に身を狹み、救を求むるも誰一人として救助に當るものなかつた。此の時彼は單身激浪に投じ、危險を冒して聲を頼りに現塲に泳ぎ着いたが、動々もすれば船の下敷にされ、夫れ自身が危險になるのでどうする事もならず此儘にしては死を待つより外ないと考へ、再び歸つて刃物を捜したが流失してるので、小學校に行き、手工用の鋸と斧とを携へ、外一名と協力して又々現塲に至り、電柱を切り倒し、船の個所を破壞し、やつと商人を引き出すことが出來、危き生命を助けた。

   下閉伊郡小本村中里靑年訓練所 三年次生 武田 伊三郎
 彼は、震嘯に際し、率先訓練所に至り、災害地の出動を志願した。指導員以下全員より成る救護隊の組織さるゝや彼は部落の生徒に洩れなく通達し、集合を促し、被害地に行つた時は、炊出配給、各種團體の連絡に進んで服務し、火の用心大切な事を感じては毎夜拍子木を鳴らして夜警をなし、今回の嘯災に依り、在滿將兵の志氣の衰へるのを虞れては、一日も早く復興する樣にと働き、一方神社に祈願する等眞劍其の儘の活動をなした。

   下閉伊郡小本村小本靑年訓練所生徒  田村 ■
   同                 安藤 七郎
 右二名は、三月四日津浪の翌日午後十一時、夜警巡察中一民家から火の手上り、アハヤ大事に至らんとするを發見するや、「火事」と叫んで急を告げ、直に家の中に飛込んで臺所の水で消火に努め、辛うじて事なきを得た。同夜は津浪再襲の風説あつた爲、村民は皆我が家を捨て々避難中の出來事であつた。
    三年次 箱石 林平  箱石 市兵衛  金澤 伊勢治
    二年次 箱石 正平  金澤 美好   金澤 由見
    一年次 加藤 勝見  畠山 陸三   安藤 七郎
右九名の者は、津浪後二十四日間一日も休まず流失家屋の仕末、村役塲其の他團體の傳令となり、夜間は分會員と共に巡察勤務に服し、其の勤務振は實に熱心機敏なものであつた。

    氣仙郡越喜來靑年訓練所生徒
          西村 淸次郎  平田 市次郎
          木村 平之助  熊谷 喜代治
 西村は、幼時兩親に別れ殆ど孤兒同樣の境遇に置かれてあつたが、彼は自主自立家計を支へて來た。然るに今回の災害で全家流失し、一物をも止めず危い一命を助かつたのであるが、彼は悲觀の色も見せず、直に訓練生として救護に出動し、克く傳令警戒の任に當つた。
 平田は、自己の班を率ゐて直に被害現塲の整理警戒に服し、本部よりの命至らざるに臨機の處置をなし、最後迄各種の任務に精勵した。
 木村は、温厚で熱心に訓練を受け、今回の天災に平素の修養を遺憾なく發揮した一人である。主として傳令警戒に當り、寢食を忘れて命令を實行し、常に同僚に先んじて仕事に就いた。
 熊谷は、災害後約三週間殆ど家に歸らず、晝夜の別なく傳令警戒、現塲整理、配給等各種の任務に服した。

    九戸郡種市村靑年訓練所生
          川口 亦藏  佐々木 義太郎
          野口 榮吉  野口正七郎
 右四名は海嘯罹災者救護の任に當り克く係官の指示に從ひ眞劍熱心に服務し非常時の模範的活動をなした。

海嘯當時に於ける指導員の活動
    氣仙郡越喜來靑年訓練所
          鈴木 喜三郎  見世 衛
          若林 傳次郎  新沼 千三郎
 鈴木指導員の實母は、當時唐丹村に在つて津浪の爲行衛不明となつたが其の悲しみを深く胸底に包み、津浪當日から最後迄殆ど家に歸らず、晝は訓練生を指揮し、各種の任務に當り、夜は生徒を督勵して夜警に當る等目醒しき活動をなした。
 見世指導員は、同村崎濱分隊指揮者として津浪當日より最後迄訓練生の配置任務の分擔等をなし、專心救護の任に當り、生徒をして充分の活動をなさしめた。
 若林指導員は、訓練生を指揮活動したばかりでなく、津浪襲來の際逸早く危險を冒して現塲に駈けつけ、家屋の下敷となつて救助を求めてあつた數名を救ひ出した。
 新沼指導員は、本人の住宅は流失を免れたが、倒壞するばかりに破壞せられ、津浪の際家族と共に身を以て逃れたが、直に被害現塲に走り、家の下敷となつて救助を求める聲を尋ねては之を救ひ出すこと五名に及んだ。之が爲足部は凍傷に罹り跛行するに至つた。されど彼は家をみず跛行しつゝ生徒の詰所に至つて之を勵した。

    九戸郡久慈靑年訓練所 田高 商一郎
 田高指導員は、震嘯災に際し、奉仕作業に從事し、津浪の翌日から三週間毎日出塲し、靑訓生を指揮監督し、熱心精勵復興の爲、献身的奮闘を續けた。

海嘯當時に於ける靑年訓練所の團體的活動
    下閉伊郡船越靑年訓練所
 暗夜の災難に大混雜を極めつゝあつた際、逸早く集合した同靑訓生は、手當り次第に老人婦女子幼兒を背負つて高地の安全地帶に運び、殆ど一人で避難したものはなかつた。此の村は被害比較的多く、同村田濱部落の如きは二百餘戸も流失し、全滅の状况であつたが、同本村は死者五名負傷者五名を出したのみで事濟んだ。是れ全く靑訓生の機敏なる働きと努力の賜であつた。

下閉伊郡宮古町第二靑年訓練所
 主事及指導員四名生徒二〇名は、罹災後三日間に亘り、被害甚大なる田老村・重茂村に救援の爲出張し、死體捜索及倒潰家屋の取り除き、食料の運搬配給等に從事し、其の奮闘實に目覺しきものあつた。

氣仙郡越喜來靑年訓練所
 海嘯襲來以來約三週間に亘り、總動員で、三班に部署し、被害多き部落に出張し、死體捜索、傳令、倒壞、浸水家屋の取り片付、救恤品の運搬等をなし、夜間に入つては警戒に從事し、規律正しき活動をなした。

九戸郡久慈町靑年訓練所
 海嘯襲來と同時に消防員其他各團體は、同町内海岸に接したる湊方面に出動し、町内に殘つたのは女、老人、子供ばかりである。そこに餘震頻々として起るので生きた心地もなく、不安の裡に置かれたのであつた。此の時同町靑年訓練所は總動員をして要所を堅め、不眠不休夜警をなしたので町民もホツト安心した。

下閉伊郡織笠靑年訓練所
 海嘯と同時に生徒を訓練所に集合せしめ、避難民特に婦女子の救助、死體捜索、浸水倒壞家屋の跡仕末等の作業に從事し、尚一週間不眠不休にて火災盗難の豫防夜警の任に服した。

上閉伊郡釜石町平田靑年訓練所
 嘯災に際し、靑年團と協力し、不眠不休夜警の任に當り、尚波浪と闘ひながら海上に漂流して居る家財道具、其の他を拾集したり、物品の流失を防ぐ處置をなしたり、罹災者の爲大に盡す所あつた。

海嘯奇談

   大槌水産專修學校前期一年  佐々木 正男(一三)


 「こんな時には何が起きるだらうから着物をどつさり着てあたつて居よ」
 強烈な地震中ふるひ乍ら寢床の中にあつた二人の兄弟(弟は九歳)を起して、母は海水を見に外へ出た。兄弟はいつもの服の上に袷を着て武者ぶるひしながら小さい煙の火にあたつて母を待つてゐた。「何か起きるのではないか」こんな時に母一人小さな兄弟二人の少人數と隣近所の離れた全くの海邊を寂しく思はずに居られなかつた。
 間もなく歸つた母は、兄に「お前も出て樣子を見て來い」と言ふので暗い外に出た。「前の水は引けぬか」と注意されたので、良く見たが引けない。尚見てゐると水は引けぬ乍らも白く光り出し、いつもより細かな音をし海水がふるひ出した。ふと遠くを見れば白く光つた大きな高い波は岡に當つて崩れるのが見えた。とつさに「津浪だあ!」と叫び乍ら飛び歸れば、弟はその聲を聞きつけて外へ出る。母は「お前達は先へ逃げろと悲痛な聲をふりしぼる。弟の手をしつかり握り、母の叫びを後ろに聞いて暗夜を疾走した。バツタリ倒れた弟を亂暴に襟元をつかんで引きずり乍ら「うんと走れ、早く。」と叫べば漸くにして起き上る。後ろからゴーヽヽと地響が聞える。「うんと走れ、うんと」としきりにあせつたが、遂に追ひつかれた「あつ?」と思ふ間もあらせず胸の高さまで來た水にどつと二人共倒された。最早弟を失つたことに氣づかぬ、只懸命に泥水の中を動き廻つた。と其處へ好運なる哉一隻の小漁舟が横押しに押されつゝ此の兒をすくひ入れんとするが如く、怱ち半身を舟の中に縋らせ脚をぶら下げたまゝ流れ一軒の家につき當り丁度自分は家と舟との間にはさまれて身はひしげて終ふ樣だ。全身の力を脚にこめて家を蹴り漸く舟を離す。そして町方の裏田の間を舟は數度も往來する。手足は凍えて自由ならず、もう此のまゝ死んで了ふのだと思はれた。その中に舟は引け水に乘つてどんヽヽ沖の方へ退く。彷徨し乍ら白石の角まで來た時には夜がほのヾヽと明けかゝり、岡の方で話し聲、叫ぶ聲が聞えて來た。「人だ、人だ、なんとかして助けて貰ひたい」頭をもたげて立上らうとすれば、目がくらみ、視力衰へ如何することも出來ない。そして舟は尚も沖の方へ進む。「俺も助からない、母も死んだらう、手放した弟も死んで終つたらう」始めて母、弟の生死の上に及んだ時、全く悲しい氣持になり、寢たまゝ涙が頬を傳つて止まなかつた。然し舟は尚も沖へ向つて進行を繼續した。けれども、あゝ、暫くして聞える、慥かに聞える、ポンポンたる發動機船の朗かな音、「今度こそ」反射的に立上つた。目もくらまぬ、痛い脚を曲げて叫び得ないで、只目を向けたまゝ突立つてゐた。
 「子供がゐるぞ、體中泥だらけの子供だ」遂に救はれた。斯くして母、弟の二人を失つたが、奇しくも數時間の後己れ一人のみ助かる事が出來た。


 海嘯襲來直前の發光現象は、學界人の研究題材に供せられて來るが、大槌町浪板漁夫加藤丑松(六〇)といふ老人の目撃談に依ると、二日午後六時頃同町鯨山に上つて海上を眺めてゐると、突如太平洋が眞赤になつたかと思ふと、海水が噴火したのではないかと思はれる樣に、眞赤な海水が火柱の如き形態をなして沖天に打上るを見たと言ふ。發光現象と共に今回の災害と何等かの關係があるものではないかと見られてゐる。(岩手日報所藏)
 牛も、もうこりヽヽ
 釜石の牛乳屋神林惠津郎氏の嬉石牧塲の牧夫久保六郎君(二八)は大津浪に驚いて牛舎から大牛を引出し一頭は首尾よく能山の上に引きあげたが、殘つた三頭を引き出さうとすると牛は大波に呑まれて行方不明になつて終つた。海面には家屋、漁船の破片や無氣味な溺死體が浮動してゐる。この時波に呑まれた筈の三頭の牛がニューツと頭を出したではないか、海の底をコシヽヽ歩いて來たものか……牛は、津浪はもうこりヽヽだと大きな聲でないたといふ話が殘つて居る。

津波の三段跳
 松村哲治君(二七)は釜石町紀谷商店の店員だ。當夜は釜石湾前線の重油タンクの宿直だつた。哲治君は水泳などは一尺も出來ない『津浪だ』との聲でガバリと飛び起きた時は第一回の大波、中空高く巻き上げられてズドンと落されたら、こんどは第二の波で一町程先きの岩谷堂の路上に投げつけられて、起き上らうともがいて居ると、またもや第三回の波にブーンと持ち上げられた。氣がついて四邊を見るとそこは愛宕山の下で首尾能く無事、これこそ津浪の三段跳だ。

波の上で先づ煙草
 大槌町の漁師關谷龜藏さん(六〇)は出漁の準備をしてゐると間もなく津浪に襲はれ船はひつくり返つたが運よくズツポリと其の船をかぶつてしまつた。船が津浪にもまれて沖へ流されたり、磯へもどされたりする間爺さんは逆さになつた船の中で『モウ駄目だ』とあきらめをつけ、好きな煙草でも飲んで往生しようと懷を探すと幸ひマツチもぬれずにあつたのでゆつくり煙草をふかして居た。暫くすると船は陸へ上げられて波は引いたので胴體を破つてノコヽヽと出て來た。

不思議な聲で助かる
 田老村収入役川上新助氏は實父が津浪の二日前病死したので鄕里の鍬ヶ崎町に歸つて居たので皆無事、留守をあづけられて居た女中の「たみ子さん」は、主人の大切にしてゐた物を風呂敷にかき集めて逃げたが、津浪のために刻々苦しくなつた。するとどこからともなく「ソレ、捨てゝしまへ」と怒鳴る聲にハツと思つて捨てた。そのお蔭で身輕になつて危い命を助かつた。たみ子さんは、その時の聲は「亡くなつた主人のお父樣の聲そつくり」と不思議にしてゐる。

海嘯哀話
   大槌小學校尋常四年生  中村 正太郎(一一)

 晝の烈しい遊びの爲、ぐつすり寢こんであの猛烈な地震も知らない。ふと目が醒めれば同じ納屋にゐる水車谷右衛門と言ふ人があわたゞしく泣き騒いでゐる。
 「子供は夜、早く寢るものだ」母はそれでも最後の訓示を今起きたばかりの子供に與へ乍ら、あわたゞしい中に箪笥を引き出して新しい絣の袷を兄弟(弟は十歳)二人に愛の手もて渡したのである。全くすぐ近くの海からはゴーヽヽと海なりがする。波は亂舞して今にも押し寄せんとするかのやう。家内全部充分に着物を着、母は三才になるのをしつかり背負ひ、十四才の娘は六才の子供を背負ひ八才になる女をしつかつと握る。家の中は大混雜。
 兄は弟を引き連れて逃げんとする時、母は「オイヽヽ」只泣きわめいて救を求むるのみであつた。「死ぬ時は一緒に死ぬのだ。出てはいけない。」と兄弟に叫んだが、二人は遂に恐ろしさに一刻も早く逃げんと外に出た。一間位走つたかと思はれる中に遂に恐ろしい波は此の小さい二人を倒して終つた。二人はしつかり手を握つたまゝ、倒されたまゝ一間以上も流された。けれども流失物の爲、二人は離れるともなく離れて終つた。兄は苦しさに桑の木に縋りつき上つた。弟も桑の木に登つたらしい。「アンナ(兄)助けろ!助けろ!」といふ悲痛な叫びが彼方の桑の木から聞えて來る間もなく弟の叫びも聞えなくなつて終つた。斯くしてゐる中に一艘の發動機船(七福丸)が押されて來て桑の木の側を通つた。瞬間的に桑の木よりこの舟に飛び乘りそのまゝぐんヽヽ流されて行つた斯くして流れるまゝに彷徨する、夜明ける頃甲板上に立つてゐると、遠くに人々の出て來る姿、間斷的に聞える、大きな聲が聞えて來る。
 「夜が明けた。親類の家まで行かう」として下を見ると、尚水が澤山ある、けれども降りようとすれば體が重く、ノタヽヽしてゐる中にバツタリ倒れて終つた。今まで動かざるものがノタヽヽ動き出して急に倒れた、靜より動への變動が遠くの人に發見され、一人が慌てゝ飛んで來て此の兒を助け起した。「よく助かつたなあ、母は何處にゐるか」と聞かれたが、口の中には尚どつさり泥が入つてゐる爲答へることが出來ない。只始めて死んだであらう皆の事が悲しまれて來るのであつた。
 斯くして生き殘つて見れば、母(三三)弟(一〇)他家の娘(一四)妹(八)同(六)同(三)等の皆の者に逢ふことすら出來ぬ身上となつた。一切合切只夢の中に包まれ、夢の中に開けられた氣持がすることであらう。

 工兵隊の活躍により安渡橋が八日から開通したので、安渡・吉里々々迄視察したが、安渡・大槌町の一部が殆ど全部が損害を蒙つてゐる。滿洲派遣兵の家族達が大金侍從一行を奉迎してゐるのが、特に目についた。同部落で殘つた十數軒の家の外は全部安渡川に押流されてゐる。交通が出來ないので縣土木課では應急施設として海岸際に道路を移してゐる。近村の靑年團、消防組、在鄕軍人百數十人が出動して、倒壞家屋の取り除きに手傳つてゐる。一行は自動車で吉里々々に向ふ。此處は大槌の北端で交通も電信も全然不可能であつた爲に、救助品の配給が遅れてゐたので、僅かに殘つた數軒の家にあつた米、味噌で辛くも部落民がその日の糧としてゐた所、一日でも開通が遅れたなら大變な騒ぎが起きたゞらうとの話である。高い個所にある吉里々々醫院の屋上に赤十字の旗が翻つてある。今日の侍從の視察を知つた部落民が、よごれて日の丸の赤がはつきりせぬ旗を陸に上つた船に高く揚げてゐるのも哀れである。その部落の行方不明者は十名小學校生徒の被害戸數は百七十四戸、校長藤本覺氏は、學用品が一品もないので何時開校してよいやらと途方にくれてゐる。災害地は何處でも同じであるが、發動機船漁具迄も一切合切ないんだから復興は何時やら判らない。同村の三浦健吉氏は、熱心な法華信者であるが、津浪が起るや、部落の人々の逃げ騒ぐを外に南無妙法蓮華經とやつたが御利益がない爲か五十八才を一期としてあの世に行つて終つた。(岩手日報所藏)

着物がぬげて唯一人助かつた話
 運命の奇蹟といへばこれなどは正にそれだ。片袖一枚によつて呪はしき死の運命から逃れ得た。これは氣仙郡唐丹村本鄕での話。『津浪だ助けて』の聲はガラヽヽと家屋を破壞する激浪の音で消されて行くのであつた。この瞬間部落の漁師秀三郎長女はる(一三)は寢巻一枚で山の手安婆神社の坂道を夢中になつて駈け上つた。部落の人々も之に續いて避難して來た。はるの背後には一漁師の妻よし(四五)が續きはるの片袖をしつかとつかみ、よしの着物を次の人がつかむといふ具合で安婆坂は尾長猿の谷渡りのやうに續いたが之を大波はドカンとなめした。助かつたはるは後を振りかへつた時は彼女は一枚の着物も身にはなかつた。押し寄せた波の瞬間眞に遇然はるの着物はするりとぬげ、よしにしつかり此の着物をつかんだまゝ海の藻屑と消え去つた。よしに續く人々も逆巻く波にさらはれて死んだことは勿論である。

窮すれば岩をもかぢる
 折も折全滅した大田名部の大田方に宿泊してゐた漁夫上野留之助(三三)君は裏山に逃げのびる間にもう波にさらはれて三度目の津浪に厭といふ程岩に打ちつけられたので何糞とばかり死物狂に岩にへばりつき襲ひかゝる材木に全身打ちすくめられ乍らガツチリと岩をつかんでゐたお陰で命拾ひをした。だが八十五人の中生殘つたものはないとは何と哀れな話ではないか。

人情味ある海の狐
 これも唐丹での話。漁師内海留三郎(四五)は二日の夕刻小舟を操つて唐丹灣大立網附近で繩漁をして居つた。近來の大漁でほくヽヽして居つたが少々薄氣味惡くなつた。零時頃漁を切り上げ櫓を使ひ二三回押すとアラ不思議、船は一里位の海を音もなく走つて汀に來てゐる。イザ上らうとするとこれは大邊沖の元の位置にあるではないか、留さん海の上で狐に馬鹿にされたと獨言して、やうヽヽ歸宅したのが二時卅分、するとあの大地震續いてあの津浪、留さん『狐に馬鹿にされても少しまごヽヽしてゐると家族の者は助からなかつたらう』と膚へにあはをして震へて居たが、海の狐は案外人情者と哀れに語つてゐる。

田老村役塲吏員中井進平さんの哀話
 下閉伊郡田老村役塲吏員中井進平(二五)さんは五歳になる甥を背負つて逃げ出したが、あと七人の家族は行方不明になつてしまつた。それに夜半の事であり夜着を着た儘だつたので家財道具を洗ひ去られた今日此の寒空に寢巻姿で役塲も休まず救護やら、死者又は行方不明の調査に一心不亂になつてゐる。夜分なんかおそくなると甥は進平君を慕つて泣きながら役塲へやつて來るので夜勤救護係を泣かせてゐる。

之も亦命の親
 地震ではね起きたけれども亦寢ようとした普代村の細越ミツ(二〇)さんは沖の方で雷鳴の樣な音がするので吃驚して『津浪だ』と思つたときはもう死物狂ひに戸口を走り出たのであつたが、其の時は大波に足をさらはれて家と一緒に百間許りも畑地の方へ押し上げられてゐた。そして今度は物凄い引き波にさらはれて助からうと藻掻いてゐると不思議にも波に殘されてホツトして我が身を顧みれば、腰巻が松の木に引つかヽつてゐるのであつた。ミツさんに取りては腰巻は命の親だといふ譯でこれも一つの奇談だ。

水と火と因果はめぐる宿命の話
 唐丹村小白濱部落は明治廿九年の時全滅し、生き殘つたものは山手の畑地に部落を移轉したら、大正二年の大火で丸燒の運命に遭つた。そこで部落民の大半は昔の通り再び海岸に逆もどりして居つたらこの度の津浪で濱邊の家は全部持つて行かれた。因果はめぐる宿命の部落。誠に氣の毒である。

縣から頂いた時計がコツトンヽヽ
 半島を乘り越えて南の海から北の海へ波が押し寄せた、うその樣な話のあるのは下閉伊郡船越部落である。然かも波の通つたところは半島の頸部に當る數百町の平地であつたが其の波の高さは三十尺、實に凄絶、驚倒、大地の終りかと思はれる程であつた。この阿鼻叫喚の渦巻の中に模範組合船越漁業組合は激浪にさらはれて水の引くと共に破壞の體を部落に横たへた。組合の人達は驚いて中に入つて見たら模範組合の表彰で岩手縣から貰つた柱時計はコツトンヽヽと振子を動かして確實に秒を刻んでゐた。今も尚この時計は狂ひもせず動いてゐる。それにつき鈴木組合長は語つてゐる。
 表彰が天に通じたものでありませうか。これにつけても捲士重來、復興に死力を盡さねばなりません。と

海嘯悲喜劇
   上閉伊郡安渡小學校長  小國 郡治
 大地震に目覺めた、田野濱屋の爺樣は津浪がくるとも露知らず二人の孫を相手に床の中で色々の話しをしてゐると「津浪だあー」と凄い叫び聲。婆さんは床をのけるや孫二人の身じまいをさせ、「安寺さ逃げろ」とどなると、十四才になる、やす子は七ツになる康平をおんぶして家をかけ出した。爺さんは、それとも知らず家のなか中捜したがゐないので、外に出たら門口に男の子がゐたので、喜んで脇にかかい挾んで五,六歩かけたところ、大浪に足をさらわれて海の方へカラヽヽと引かれていつたかと思ふと、又山岸の方に、ゴウッと打れた爺さんは、もうたまらなく、息がきれさうになつて手をゆるめたが、この孫と氣が立つて、ゆるめた手をぎつしりと握りしめたが、もうあとはわからなくなつて、孫を抱きしめたまゝなみにもまれヽヽして崖下に打ち上げられ、はつと氣がつき「康平や、やつと生きたぞ、元氣を出せ」と言ひはげました、矢先に勇太郎と子を尋ねる母の悲鳴がしたら爺さんの腕の孫は、ガツカアと母の元にかけて母にすがつた。之を見た爺さんは「人の子を俺が」といつて氣がうせて倒れてしまつた一方、婆さんは着物に手を通し終らぬ中に、水がどんヽヽはいつて來て、裏の入口から、おし流されて桑畑に出てしまつたから、桑木にしがみつゐたが、第一回の波と共に爺さんの流れて行くのが見えたから爺さんと言はうとしたが、どうしても聲が出ない。そうしてゐる中に第二回目の浪は大山をなして、婆さんにやつて來て桑木から手を引きなぐつていつた。もう婆さんは命の親をうしなつて波にもまれてゐる中に、大きな材木が婆さん目がけてはしつて來た。これにあたつては體が粉だと思つてゐる間もなく材木は婆さんの下をはしつて、運よく材木に乘せられたが、帶をしめてないから着物が木材に巻付いて、じふヽヽと沈んだかと思ふと、又運よく材木はぽつかり浮んで、材木の船に乘つて流されてゐたら、勢よく船が家の中にはいつたまゝ婆さん目がけて飛んできた。もう此度こそ命がと心で念佛を稱へてゐたら二尺程前ではつたと止つたが、波でがくがくつと婆にむかつてくる。危ぶないと材木にのだばつた、二,三度かくして水はざあヽヽと引けていつて婆さんは、安寺に運ばれたからして、爺さん婆さんが助つたが、孫二人は波にさらわれてしまつた。

嗚呼とても及ばない
 「おつかあ津浪だあ」「何、馬鹿者、どこに津浪等くるものか」とはねかへされた正美は、主人の家德右衛門樣へと引きかへさうとしたが、「津浪だ」と叫んで通る者があつたので、正美は「津浪だ出ばれ!」と母にどなつたので、正美一家は「それ」と姉みえは「びつこ」の母の手を取つて其の夜宿つた釜石の叔父、叔母と四人で家をかけ出したがもう後から水に追ひかけられた叔父は、崖にはい上つたが、びつこ足のお母さんは安寺橋のところに來たとき、あゝとてもおよばないと、水の中にばつたりとたふれてしまつた。娘おみえは、何この「おつかあ」およばないなんてと言つて抱き上げるや、大浪がうなつて來て親子弟兄諸共に海にさらつて行つた。娘おみえは、のり柴の上で助けて助けてと叫んでゐる中に一艘のボートが流れて來たのでどんなことあつたつて死ぬもんかとボートに片足をかけた。この叫び聲を聞きつけたのは弟正美であつた。あれは確しか姉の聲だと思ひ助けようと抱き上げた。向ひの鐵哉爺樣をおいて姉の元へかけて來たがもうその時は姉はボートに足をかけたまゝ死んでゐた。安寺におぶつてきて手足を暖めたり體をさすつたりして、やつと助けたが母、姉妹は沖へ流されて行つたと見える。

五人の子供を救ふ母
 大地震に驚いたので、子供達には用意はして休ませたが、自動車が通つたので、安心してまどろになつたころ津浪だと、さむしい女の聲があつたので、窓から海を見たら、はや水が鏡の如く光つて山をなしておしとせて來た。「さあ大變、喜一・常雄早く逃げろ」と寢てゐた子供達を起した兄喜一は、すばやく起きて家を出たが、八軒目の田野濱屋の家の前は屋根に水がとどきさうだつた。喜一は夢中でかけたが母は三ッになる子をおんぶして紐を結び終らぬ中に家の中は水がはいつて來た。かうなつては逃げるすべはないと思ひ、十三になる常雄は柱にすがらせて、五ッになる子と八ッになる子を起してゐる中に、水は腰きりになつた。二人を兩手にひつかついで天上にあげて、柱によつて立つた。間もなく水がばらヽヽと引けて行つたので、五ッの子を、おんぶして八ッの子を上にあげてゐる中に、波がおしよせて材木が窓を破つて母をたふした。二人をおんぶしたまゝ材木の下になつて死んでしまつた。十三になる子は二番波で柱がすがりついてゐた手を離されて家の中から押し出されたので、材木にとつつきヽヽ桑の木迄流されていつた。これは幸と桑の木にとついてゐたら二番波が引けたので、桑の木からおりて早く逃げようとしたら、眞暗で道がわからないが、まごヽヽしてゐてはならぬと夢中で山の方向へのがれた。水が引けると甥達は懷中電燈で心當りの塲所を輝して見、泥ぐるまになつて目ばかり光らせてうなつてゐた。甥達があつと叫んだが、よくヽヽ見れば叔母、手早く安寺にかついて行き、二人の子供をおろして、すつかり裸體にして火あぶりにしてやつと助けたが、子供達は人手少く助けるすべがなかつたので、爺さんは五ッの子供をおぶつて母の看護し終へて助けてやらうと、朝の光に輝して見れば、もうすつかり可愛いい目をかたく閉ぢてゐた。三ッになる子は母にしかとおんぶしたので之は助かつたが、哀れ天上にあげた子と、母の裸身遠くおんぶした子とは、母の慈愛の甲斐なく歸へらぬ子となつた。

津浪を喜ぶ男
 固くしめきつたローヤが、大波に打れてもつくり、もち上つた、出口を一心にさがしてゐた。裸體の德三馬鹿は、これが幸ひと這出た。波の引けぎはをねらつて大佛殿に夢中にかけつけた。彼は、からヽヽと笑つて曰く、「大浪よ、山をなしてここへ、俺を助ける神の御業、嗚呼、面白い、今こそ自由の天地よ」と血の流るる足を小踊りして喜んだ。此のさまを見かねた近人は、みつともないと、小布に紐を通して投げてやつたが、喜びきつた德三は、それは何のことか一向無感心の體で、「あゝ腹がへつた、何かくれ」と騒ぐので、お握りをやるから、今やつたものをしなさいと言つた時、始めてその人の言つた通りになり、お握りに喰ひついた。

お婆さん思ひの兄弟
 地震がやんだのでホツト一息つくと前の硝子障子に白裝飾の幽靈が立つてゐるのは目に映じた。何だ淸四郎はどうかしてゐるなあと思つたが何となく薄きみ惡さを感じつゝ床についた母のをせつも妹きえ子も、お婆さんも睡つてゐない樣子だつたので氣味惡さをまぎらすべく雜談に耽つてゐた何時の間にか睡りに落つてしまつた。約五分位睡つたと思ふ頃床の中がひやりとした。これは何事ぞと起して見れば水は硝子戸を破つて來たお婆さん津浪と淸四郎と抱き上げた妹きえ子も、お婆さんといつてかけ出した。そこへ波がどつと來たので柱にしつかりついた間もなく浪が引けて行つたのでお婆さんの所へ行き、どせ死ぬなら一緒に死ぬべしと兄弟手を取り合ひ兄は婆さんをだいたら婆さんは私はここで死ぬからお前達は逃げてくれといつたが二人はお婆さんをここにおいて行けばどうにか逃げられぬこともないがどうしてそれが出來やう。婆さん出口は隣の家や、「やとえ」か流れて來て出られませんからここにゐませうと三人は死を決して柱によつた。さうしてゐる中に又もや第二回の波がおしよせて來て三人は一丈程の深さの水に沈んだ何か何やら分らずに男山のところに來た時に二階はおちたので初めて氣がついた。きえ子は兄さん、お婆さん、お母さんはと聞えたら兄は、お母さんも、お婆さんも死んだらうと二人は手を合せて二人の靈を拜んだ。それから二人は一尺程もあるどぶを手を取合つて、安寺迄のがれた。死んだと思うたお母さんの生きてゐることが分つて喜んだがお婆さんの消息は朝になつてから、屋敷から發見されたので始めて知つた。

事務所の三勇士水泳達者で命を拾つた話
 安渡の漁業事務所は海岸で眺望百パーセントの海岸にある夏の淸遊を試みるには屈強之所だ。海嘯の夜はサガ賣上高調査のために阿部山鐵太郎君(二〇)はおそくまで執務してゐた地震後は何となく淋しくなつて床に入つた。目を醒ますと海が鳴つてゐる床がじめヽヽとむれて來た。側に寢て居た小石や良之助を呼んではね起き床をあげた、ローソクの燈で支度もそこヽヽに外を見ると漁船が窓の上に見えた。『小石變だなあ』と言ふと『軍艦が入つたのではないか』と答えた。然し窓に色々なものがつきあたる。ストーブをもさうと立上ると體が家と浮上つた。さあ大變だ何とかして逃げ出さねばならない。戸をあけやうとしたが開からない。實にどんヽヽ水が入つて頸程になつた。死なば一處だ三人は二階のはしごにまるまつた。然しどうかしてこゝを逃げ出さねばならない。水がひけると二人はこゝから逃げだした。だが逃げると直ぐ大浪にさらはれてしまつた。オーイ小石オーイ良子、二人は互ひに呼んで浪を泳いだ。大木が流れて來たので二人これにとりすがつた。小石は着物を着て居ては泳ぐこと不便なので着物をぬごうとしたら又大浪が來て木から離されてしまつた。これからは暗い海の中で只一人無我夢中に泳いだ「助ケロー」と呼んでも返事がない何十分も泳いだ末ボートに乘り上つて、眞裸で酷寒の海に一生懸命助を求めた。もう今では元氣が衰へて絶える樣である逃げおくれた鐵太郎君は二階にむりヽヽ上つたそれから屋根につき上つて船のくるのを待つた。とても寒くて堪へられない。小石の叫びが時々聞える然しどうすることも出來ない。今救けるから元氣でゐろーと叫んでは勵ました。夜が明けて室に入つたがはき物がない靴下二足重ねてはいてともかくこゝを逃げ出した時々電線に頸をとられる途中で小國松次郎君に會つたので二人で小石救助にもどつた。このときはもう小石は事務所の前で眞裸で逃げて來てこゝで氣絶して居た。これから皆で暖めたらうまく蘇生して今ではぴんヽヽして居る。良之助君は木と一處に陸にあげられ、えつさヽヽで山へ逃げて助かつた。

家根から出た首
 安渡に多利助さんと言ふのがある。生來の病氣で兩足とも不自由で杖を頼りにだけ歩くことを得た。親兄弟とてなく一人暮しであつた。地震と共に起きて煙草を飲んで居たが津浪が襲來すると家も體も浮き上らされた。多利助さんは無我夢中にもがいて助を求めた。翌朝見ると萱葺の家根に穴を明けて頸だけ出してゐたのだと判つた。

津浪の時の寶物
 こんな震災には誰でもあわてる。安渡出身の某助役も又あわてた一人だ。海嘯襲來と共に無事に避難したはよかつたが、浪が引くと子供等と家にもどつた。そして家の樣子を見て貴重品を風呂敷に包みいそヽヽと避難先に歸つた。
そして暫くの間大事に保存して居たが後で明けて見ると座ふとん三枚に茶筒一つ入つてあつたとのこと。

模範訓練生の活躍
 第一回目の浪が引けてから倒潰せる家屋の上に立つて須賀を眺めると『助けてけろヽヽ』と絶叫する聲を聞きつけた。側に多數の人が來て居たが誰も動かうとしない。この時模範訓練生阿部勘五郎君は側の先輩靑年濱田重三君を顧み一處に救助する決意をした。一個の懷中電燈をたよりに救けるから『大聲で叫べ』とどなりながら屋根を越えては進んだ。すると一人の男が(里舘重太郎氏)三人の子供をかゝへて水の中から頸を出してゐた。先づ二人で三人の子供を背負ふて水の中を安全地帶に急いだ。やがて多勢の人にその子供等二人を預け早く暖めてくれと叫んで引返した。又浪が來た。津浪だあーと人々は叫ぶ危いとおさへる人もあつたが二人は眞劍にふりきつて須賀に急いだ。すると屋根の上に四人の家族(松村新次氏の一家)が子供を中にして逃げ塲を失つてゐたのに出つ會した避難も最も困るだらうと思ふびつことくえ子(四五)を背負つて返らうとすると二渡神社の避難者は又浪が來た浪が來たーと叫ぶ。柱につまづいて轉んだが無我夢中で安全地帶迄引返した。この時手に傷を受けたが氣づかなかつた。そして又救助に向つた前後で五人の人を救けたとき須賀には救助を頼む聲は絶えてなかつた。時計を見ると午前四時を過ぎる六分部落の上方が案ぜられ、そのまゝ朋輩濱田安堵の兩君と急遽山地をめぐり來て見ると家屋の總てが流失倒壞せられ目もあてられぬ慘状で、只泣叫びつゝ血類の縁者を尋ねる若者四,五名を見るのみであつた。そこで彼らはこれを應援しつぶれたる家屋の下をはい廻し歩くに一人の溺死せる幼兒を發見取すがり見れば既に死亡せるものにて、ふと頸を上げればかすかにうめく人のうなりを聞けり。直ちに行きて材木を取り去り雜物をとり除き奥野柱の下に手を入れると六、七才の幼兒なり。高聲を立てゝ朋輩を呼び、これを助けて運搬救護に努めしめたり。かくて五時半にもなり夜は全く明けはなたれたり。其の後も阿部勘五郎君は模範訓練生の名に恥ぢず、靑年として特に目立つて總ての業務に百パーセントの奮闘を試みたること無論なり。

非常時に於ける部落の焦點
 部落民は、さあ津浪だあて學校にさあ配給だあて學校に一切合切學校に學校にと押しかけて來た。部落の首腦者や有志の來校しない日は一日もないそして何時も重要な協議が校長を中心に校長室で行はれた。從つてこゝから出る使令は百パーセントの確實さで各團體の合一的働きとなつて表れた。何でも學校に行けばわかると言ふ評判で人々がその處置に困るときは何時も學校へかけこんできたものだ。

安渡小學校の御難
 救護所が開設され配給所が設置されてから學校の訪客はおびたゞしい數に上つた。小使は草履がないと上申してきたどんなに訪客があつても困らむ位の草履の貯へがあつたのにと用度は考へた。然しそのときは氣づかなかつた後になつて考へて見ると海嘯の夜跣足で來た避難民がめいヽヽはいて歸つたものと判明して微苦笑するより外なかつた。

學術上より見たる三陸海嘯

三陸海嘯警世の記念碑文
三陸海嘯史年表

學術上より見たる三陸海嘯

三陸津波の原因
 三陸の太平洋沿岸は津浪の常習地として日本一否世界一であるが、これには二つの原因がある。第一は遙かの沖合深海底にて廣い區域に亘る地形變動を伴ふ大規模の地震が時々發生すること。第二は此の沿岸に漏斗なりの港灣多く而も其の喇叭の口を震源の方へ向けて開いて居るものが特に多いことである。今第一に記した樣な性質の地震が彼處に起つた時、眞上の海水面にも海底同樣に水準の狂ひが起り、それが數十百粁の波長の波、即ち津浪となつて擴がる筈であるが、併し外洋に於ては波長の大なるに似ず波高は比較的に極めて小さいから假に今船舶が之に出會つても其の存在を認めることは出來ない。但しそれが漏斗形の港灣に侵入する時、港灣の幅が次第に狹くなることゝ、海底が次第に淺くなることゝの二重の關係によりて、波の高さは數倍乃至數十倍となり漏斗の底の位置に於ては甚しく暴威を逞しくするのである。

震央距離と震源地

東京觀測所の觀測
 一、發震時   午前二時三十二分十四秒  一、初期微動繼續時間 六十秒
 一、最大震幅  三十六粍         一、震度        強震
 一、總震動時間 約一時間

盛岡觀測所調査
 一、發震時    午前二時三十一分三十九秒 一、初期微動繼續時間 三十二秒
 一、主要繼續時間 三分四十秒        一、總震動時間    約一時間
 一、最大震幅   四十粍          一、震度及性質    強震緩
 一、震央方向   東南東          一、震央距離     盛岡より二百四十粁
 一、震央地    釜石眞東百七十粁沖

其他の觀測所の發表
  仙臺……發震時……午前二時三十一分四十四秒二  震央距離……三百三十粁
  靑森……發震時……午前二時三十一分十八秒    震央距離……三百七十粁
  宮古……發震時……午前二時三十二分       震央距離……三百三十粁
 各地方測候所より電信により報告せられたる所に依ると震域頗る廣範圍に亘り岩手縣・宮城縣・福島縣等の海岸では強震を感じ震央は東經百四十四度六,北緯三十九度二,金華山東北約二百八十粁、釜石の東方約二百三十粁の遠い沖合に當つて居る。
 此の位置は所謂外側地震帶上に位し常に頻々として地震を發する所である。即ち此の地帶に發する地震の回數は毎年千回を越ゆる位である。然し此の地帶に發する地震としても今回の如く大規模の地震は稀に見る大地震である。

津波襲來の時刻
 津浪の來た時刻は各地に於て可なり違つてゐる。之は各部落の住民から聽取したのであるから勿論正確なものではない。只鮎川檢潮所で測定したものは檢潮機に依つたものであるから正確に近い。それによると地震後四十分にして潮が急行した事を示してゐる。然しそれより九分前に徐々に上潮を記録して居る故に此の上潮が津浪の初波であるとすれば津浪は震央より卅一分にして鮎川に到達した事となり、平均約百六十米突の秒速で傳播した事となる。然し之は震央に於ける浪の攪亂か地震と同時に起つたと假定して推算したものである。
 左記の如く大體二十分乃至四十分を要し其の平均は三十分強となつてゐる。之より平均の速度を算出して見ると秒速約百五十米突となつて鮎川の材料から算出したものと似た結果を得る。
   宮城縣鮎川 四十分後   小網倉 二十分後
   岩手縣大槌 三十分後   釜石  三十三分後
   宮古    三十九分後  田老  二十八分後

三陸沿岸の地形
 北は青森縣八戸市の東なる鮫岬から南は宮城縣牡鹿半島に到る海岸は本邦に於ても最も凹凸の激しい海岸である。即ち北上褶曲山脈の屋根が太平洋に没する所が此の海岸となつて居り、所謂リアス式海岸を構成して居る。此の海岸は北上山脈が多くの枝谷を海岸に向けて居る所へ地盤の沈降が起つて水準を高め其の結果としては海水は深く之等枝谷の谷間へ浸入して複雜な海岸形を形成するに至つたものである。一般に斯かる海岸にある灣にあつては灣口の水深は極めて深いが灣内へ入るに從つて急に淺くなつてゐるのが常である。然かも北上山脈の如く枝谷が深い樣な所にあつては小灣が極めて多い。
 而して三陸のリアス式海岸ではV字形をなして太平洋に向ひ開口せる小灣が灣口から内部に入るに從ひ水深が急に淺くなるため津浪を生じ易い。即ち三陸海岸にあつては大小の港灣極めて多く其の主なるもの三十近くある。先づ南方から見ても牡鹿半島西岸には萩濱灣・大原灣・十八成灣・鮎川灣・東岸には鮫の浦灣・女川灣・雄勝灣があり、更に北へ向つては追波灣・志津川灣・氣仙沼西灣・同東灣・廣田灣があり、岩手縣に入つては大野灣・門之灣・大船渡灣・綾里灣・越喜來灣・吉濱灣・唐丹灣・釜石灣・兩石灣・大槌灣・船越灣・山田灣・宮古灣・久慈灣等である。
 之等江灣の多くは東方に開口してゐるため三陸海岸に沿うて沖合を略々南北に走る外側地震帶上に起る地震中規模大にして且つ震源淺く海底面に地變を生ずるが如き地震にあつては津浪を伴ふものである。又北東或は南東に開口してゐる灣では多く袋の如く陸地深く灣入してゐるため灣奥では著しく波高を增して津浪を生じてゐる。斯樣に三陸海岸は外側地震帶上即ち三陸沖合に起つた地震に依つて古來多くの津浪を蒙つて居る。今歴史に徴しても慶長以來約三百二十年間に十八回、即ち十八年間に一回の割合で津浪を蒙つて居る。

三陸地方の地質及震度
 三陸中央には其の中央脊髄として北上の褶曲山脈がある。北の山脈は東は太平洋に面し西は北上川及馬淵川により中央山脈と境し略々紡錘状をなして南北に走つてゐる。而して此の山脈は主として古生層・中生層の砂岩及粘板岩より形生されて居るが所々に石灰岩・礫岩・凝灰岩等存在し且古期に迸出した花崗岩をも含んで居る。但し南方牡鹿半島は第三紀層によつて形成されてゐる。又北上川及阿武隈川に涵養せらるゝ宮城平野は仙臺灣に臨み第四紀層より成つて居るが第三紀層の丘陵が所々に介在してゐる。
 斯樣にして三陸地の海岸は堅牢なる地盤あるがため地震動に對しても震度が比較的に小である。故に今回の樣な大規模の地震にあつても海岸の沖積層地では強震を感じ壁に龜裂を生じた樣な處もあつたが古生層或は中生層の土地では強震或は弱震程度であつて地震による被害は殆ど見ることが出來なかつた程である。但し沿岸地方で崖崩れ或は石垣・堤附の缺潰、地面の震龜裂等もあつたが夫等は凡て震後に襲來した津浪によるものであつた。

津波前の退潮
 津浪が襲來した時の状况を調べて見る。之は三陸沿岸各地の驗潮儀記録で見ても判る如く、始めは僅かな上潮で始つてゐる。然し地方住民で此上潮を見た人は極めて少い。只僅に岩手縣大野灣の灣奥に當る所で見て居た人が『津浪の前に潮が二三尺寄せ、それから五分にして退いて行つた』と云つて居たのと宮古及細浦で『地震後三十二分滿潮面より三尺增水した』と云つて居たゞけである。要するに驗潮儀に現へれた初潮の上潮は餘り小さく且つ徐々に寄せて來たらしいので之を見た人はなかつたと思はれる。津浪の前に潮が退いた事は非常に多くの塲所に依つて異つて居る其の状况を岩手縣のみ列記すると左の如くである。
 長部…………地震後三十五分海水灣口まで退いた。
 綾里…………地震後三十分約一粁の灣口まで潮が退く。
 小白濱………地震後二十四分で潮が退いた。
 釜石…………地震後十分底力ある音が聞え其の後數分で延長百六十間の棧橋の先端まで潮が退いた。
 鵜住居………地震後十分音響聞え間もなく潮退く。
 山田…………地震後約二十分海水退いた。
 音部…………津浪の前五分海水七,八間退いた。
 赤前…………三時十五分頃海水急に退いた。
 宮古…………津浪の前水深七八尺退いた。
 綾里…………津浪の前五十間程潮が退いた。

ーー三陸沿岸大海嘯印象記ーー

各灣津波の高さ
宮古灣(下閉伊郡)
田老灣(下閉伊郡)
大槌灣(上閉伊郡)
釜石灣(上閉伊郡)
大船渡灣附近(氣仙郡)

復興の歌

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三陸海嘯警世の記念碑文
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三陸海嘯史年表
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近年に於ける三陸沖合の地震
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津波の高さ・宮古灣(下閉伊郡)
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津波の高さ・田老灣(下閉伊郡)
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津波の高さ・大槌灣(上閉伊郡)
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津波の高さ・釜石灣(上閉伊郡)
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津波の高さ・大船渡灣附近(氣仙郡)
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復興の歌

復興

震災記念施設状况

震嘯義捐金處理決算

収入
一金五萬貳千七百八拾五圓六拾錢也 (金五萬六千百參拾壹圓五拾參錢縣委託金加算)

支出
一金四萬八千貳拾八圓八拾參錢也 (金五萬壹千參百七拾四圓七拾六錢縣委託金處理加算)
差引殘高金四千七百五拾六圓七拾七錢也
 殘金の處理本會罹災救恤部に編入せり

収入(内譯)

支出(内譯)

慘禍彼方へ・雄々しき復興
 まへがき
人類史を通じ、その最も悲慘なものに、戰爭と天災地變を擧げる事に恐らく異論ないではあるまいか。そして後者の最近の事例として、まざヽヽわれ等の眼に映じたのは、過ぐる昭和八年三月三日午前二時三十分、突如として自然の暴威を揮ひ、天下を戰慄せしめた三陸の大震嘯災害であるー宮城・岩手・靑森三縣下に亘る太平洋沿岸數百里に、突然この世ながらの生地獄を現出させたあの慘禍は、想ひ起すだに身の毛もよだつものがある。身命を奪はれ、又は行方不明となつたもの二千五百三十餘、家屋の流失、倒潰及び浸水約二萬の多きに上り、漁船の流失、破損亦五千餘を算し、罹災總數無慮十萬を數へられた。そしてその報一たび傳へらるゝや畏くも皇室の優渥なる御仁慈に浴し、各宮家よりも御救恤金を賜はり、全國各地より金品の寄贈に、勞力の奉仕に盡きない同情を寄せられた。ーー今や一周年を迎へんとし、一家全滅の悲慘事も、肉親を喪ひ、家屋、生業を失つた悲話・哀話も漸く世の人の口の端から消え失せようとしてゐる時、これ等慘禍に見舞はれた地方が如何に復舊し、更生し、又は復興に努めてゐるが、更に震嘯災害が契機となつて、産業に、經濟に、社會風敎其の他精神方面に何等かの影響をもたらさなかつたか、等々を實地に視るべく、酷寒の數日を費して三陸沿岸の行脚を試みた。たゞ三陸の沿岸は、都人士の遠く思ひ及ばない程の交通不便の地である。短時日の旅程をもつてしては到底一貫してこれを視野に収め得ない憾みはあるが、現れる種々相からもその一班を推察されん事を希ふのである。

一年後の震嘯災地
 住宅の〝建築案〟に腹を示した岩手縣當局各地方形態全く整ふ震嘯災後一ヶ年間に於ける復舊状况を、概括的に見ると、町村又は部落の特異性により、事業の進捗、その樣式乃至は遅速等々の差はあるが、各罹災地共に生業に直接する物質的方面の復舊は、まづ完成したとみてよい。漁船・漁具は勿論、災害前に見られなかつた共同作業塲・共同製造塲、又は共同倉庫等各部落ごとに立派に建てられてゐる。只住宅はまだヽヽ復舊完成に間がある。尤も宮城縣も、岩手縣も、靑森驗も再度の災害を避けるため、適地の選定、土地買収の交渉等に暇取つたことや、土地は選定したが、昨年の漁期から年末にかけての勞力需供の關係等もあり、一般に遅れてゐる。海岸道路の修築は、防波堤・防潮堤等の設備に至つては勿論まだヽヽである。
 此宅地造成に就いて、岩手縣當局の採つた方針は、相當興味ある問題として考究すべきものがある。宮城縣では、住宅適地造成に關して、縣令をもつて取締規定を設け、強制的にこれに從はしめたが、岩手縣では住所の問題は、その根本が法律に關する問題であるからと、一部特例の設定方針を本省に内申したに止め、縣令をもつては取締規定を設定しなかつた。但し石黑知事は、罹災全部落を草鞋ばきで廻り、縣の方針を説示し
 高臺に宅地造成のものには資金を與へ、住宅建築資金も出す。現地復舊のものには、縣は何等お構ひしない。
 要するに、縣の方針に從ふものには金を出すが、いふことを聞かんものは勝手にしろ、との腹を示して着々進めた。
 さらに徹底した事は、岩手縣では、この宅地造成による集團的復舊を産業組合組織化せしめたことである。勿論、釜石・大槌・山田の樣な主要地で、半ば商業の伴ふ市街地では、反産運動問題等の構成を考慮されるので、別途に處置したが三十戸、五十戸の部落で、各戸の經濟形態を同じくするところは、これを産業組合組織とし、復舊に要する物資の共同購入、資金の融通乃至は、今後の生産品の共同販賣に備へる等經濟統制と、共存共榮の基礎を築きつゝあるところに禍を轉じ將來に福を得んとする深甚の考慮を發見する事が出來る。
 以上は、物資方面から見た復舊状態と、その派生的なものゝ一般概况であるが、精神的方面においても注目すべき幾多の問題を見出す事が出來る。

災後に現はれた〝勤勞〟の大精神
 勇しく復興へ、更生へと男女朗かに
 震嘯災害がもたらした精神的問題として、三陸震災の地方を一貫して目立つのは、男女靑年に勤勞精神の振作されたことで、これは驚異に値するものがある。そればかりでなく、これが重大な原因となつて、部落對立の抗爭や、役塲派・反役塲派の爭ひ等從來村政の運用を亂してゐた問題が、大部分解消されたのは喜ぶべき現象である。たゞその一面憂慮されることないでもない。それが靑年と壯年以上の對立?であり、復舊インフレに馴れた漁民が受けるのであらうところの復舊事業一段落後の反動的經濟問題である。
 岩手縣下四郡三十六町村に壹千萬圓、宮城縣下五郡二十町村に四百萬圓、さらに靑森縣にもといへば、震嘯復舊の資金注入は莫大なものとなり、復舊インフレ現はれようといふもの、事實舊年末から舊正月にかけて罹災地の購賣力は、前年より四割乃至五割を增してゐるといふ商人の言葉から推しても、金廻りのよいことはうなづけるが、その半面には納税成績があまり芳しくないといふ寒心すべき事實もあるが、概していへば、例年舊正月から二月三月は漁業閑散期であるが、宅地造成に、住宅建築に、道路堤防の工事にと、猫の手もかりたい程で、勞銀は得られる、義捐金の餘りは貯金通帳にありといつた具合で、朗かに復興へ、更生へと進んでゐるやうに見える。
 三陸地方と津浪、その民心に及ぼすところはどうか、小野寺釜石町長の言によると
  慶長の年代から、大小の差こそあるが、わが釜石町は、十八年に一回の割合に襲はれてゐる。これでは民心も安定しないし、産業も經濟も確立しない。根本的にまづもつて災害防除の施設が必要である。
 と、洩らしてゐた。各縣共災害直後復舊計畫に續いて復興計畫を進め、これを本省に要求した。岩手縣が、復舊復興を合し四千萬圓の大計畫を樹てゝ要求した事は人の知る通り、此中貳千萬圓を復舊に、貳千萬圓を復興に、宮城縣でも壹千四百萬圓の復興計畫を樹てたものだが、農林省も、内務省も、一通りの復舊計畫が出來ると、あと暫くはまづ津浪もあるまい。復興は繼續事業でゆつくりやらう。と、農林・内務各々貳萬圓の豫算で、調査機關を設け、學者專門家がさかんに三陸地方を跋渉調査されたが、どの程度の復興事業が計畫實施されるやら今のところ不明、何れにせよ各縣當初の計畫等は思ひ及ばない事請合ひ。
 生活の資源は復舊し、住宅は高臺に建築されるが、今後再び襲ふこと無きを期し難い災害防除施設に萬全を期す事困難な三陸の同胞、十八年に一回の割合は別としても、一生に二度も受ける慘害の見舞に、いくら先祖傳來の地でもこれ以上忍べようか。と懷しの鄕土を棄て、他に安住の地を求める轉出者があるではあるまいかと憂慮されたのは、災害當時罹災者の洩らした言葉と合して充分心を重くされた事だが、慘禍一ヶ年、復舊にいそしむ部落に訪ねても、町にも村にも轉出者は一人もない、むしろ他地方から復舊の各種事業に入り込んでゐる人の數は大したもの、宮城縣十五濱村だけでも、秋田・山形その他から一時は五百人からの人がは入りこんで働いてゐた。つまり津浪が恐ろしいからといつて、漁師が山に登つて生活が出來るか、東北の海はいやだといつて漁塲を他に需める事が出來るか、まゝよ、先祖傳來の地に限るの結論。
 たゞ釜石町にのみ有力な轉出者が二家族あつた。何れも醫學博士の肩書を持つて病院を經營してゐたが、こんな恐ろしいところでなくとも立派に稼業が出來る、何を好んでーと許り一家をまとめて安全地帶へと去つた。もとヽヽ土地つ子でないことは勿論だが、町財政の芳しくないのを苦心してゐる小野寺町長は、有力な町税負擔者が去られるのは困ります。と、本音を吐いてゐる。
 視察後の観想を、ひつくるめていふと以上のやうなものだが、各地について見ても、物質方面の復舊に、精神方面の問題にも幾多の注目すべき事柄を發見することが出來る。以下三陸行脚の杖に觸れたものを拾つて見よう。

建ち並ぶ新家屋
 劃然整然の釜石町ー頼母しき男女靑年の意氣
 釜石町は、災害の三陸を通じて第一の都市だ。それだけ復舊も早く、殊に他の町村部落と違つて住宅も、災害現地復舊だから早かつたのだらう。こゝの被害は、家屋の流失・倒潰、それに地震につきものゝ火事に見舞はれ、約七百戸、其の火事は目抜の塲所だつたから、損害はこの町だけで約壹千萬圓に達した。町内産業・經濟の中心地を一掃された打撃は名状すべからざるものがあつた。たゞ被害の甚大に比べ、人命の損傷少なかつたのは不幸中の幸で、これは三十八年前の津浪の經驗で、前徴を發見して速に避難したゝめだつた。
 損害に比例して、復舊の資も相當注入された。
  漁船復舊費 拾六萬圓   漁具復舊費  拾七萬六千圓   商業復舊費  約參拾壹萬圓
  工業復舊費 七萬七千圓  住宅復舊費  拾萬參千圓
 その他、道路・海岸の復舊と總額百參拾五萬七千餘圓以上に達し、夜に日をついで復舊の事業は進められた。
 震災後一ヶ年、早くも五百戸は本建築で復興した。約百戸はまだそのまゝだが、今町當局でも復舊に一生懸命だから間もなく完成するだらう。漁船・漁具は復舊完成に近く、街路復舊に住宅の適地造成に共同養殖塲・個人製造塲も計畫に、復舊に見るべき進捗ぶりである。
 復舊事業完成後の釜石は、蓋し産業に、交通に、三陸沿岸の王座を占むべき充分の資格が具備される。人口三萬一千、優に市制實施の條件を備へてゐるが、小野寺町長は
  市制工作を急いではどうかと云ふ人もあるがーー慶長年代わが釜石は、十八年に一回の割で、津浪の被害を受けてゐる。勿論被害程度に大小の差はあるが、この災害を根本的に防除しなければ、産業も、經濟も確立しない。内容の充實しなくして表面のみを飾るに汲々たることは吾輩の採らざるところだ。
 と、昂然眉宇に決意を示して、根本的町勢振興の基礎確立を企圖してゐるあたり、頼母しくもある。海嘯災害根本防除の八百萬圓繼續事業案が實現した曉こそ釜石町は、永遠に救はれるであらう。
 こゝも亦、災害を機に男女靑年に勤勞の精神を作興せしめた。元來釜石町の靑年團については、町の有力者も相當憂慮してゐた程であつたが、震災後その氣風が一變した。女學校に通つてゐる中流以上のお嬢さん方もさうだ。町の有力者が
   あそこのお嬢さんも、ヅブ(粗末な着物のこと)を着て働くやうになつた。といふやうな言葉を聞くやうになつたのは、町のため非常によろこばしいことです。と、語つてゐる。
 更にー衛生施設の改善も、住宅復舊と伴つて實現しつゝある事は、最も注目すべき問題である。釜石町は、六十戸に對して一戸の割合位にしか便所がなかつたのだから驚くではありませんか。と、記者を案内してくれた人がいふ事實とすれば、驚くよりも、恐ろしい事だと思つた。町當局に聞くと
   お恥しいが事實だつた。町民の保險衛生上由々敷問題として、改善計畫中この災害です。幸、復興と同時にこの方面に力を入れて立派な衛生施設にと努めてゐます。
 朝鮮や滿洲地方の衛生施設不備を云々する事の出來ない事實を思ひ浮べ、轉感無量のものがあつた。
 釜石町にとつて更に大きな問題は、鑛山事業の存在である。軍需インフレに湧き立つ製鑛業は、二千二百の常傭夫と、六百の臨時夫、二百の事務員を總動員して、晝夜の別なく活動を續けてゐる。天地も凍てつくやうな午前六時半から七時頃チラつく飛雪も何のその、大渡橋を鑛山事務所へと急ぐ若者の何と多きことよ、過般の製鐵合同で、會社から町へ貳拾萬圓也を寄附したとか。もつて景氣のよさも量り知ることが出來る。たゞ一つ鑛山と、その以外との對立?感情が尚融け合はずにあるとかないとか、いづれの是非は別として、大釜石の建設に決して有つて益なきものだらう。
 海に豐倉の漁業と、陸に鑛業を初め、幾多の産業あり、港は一萬噸岸壁を初め、臨港の施設完備し、鹽釜港と同時に税關署は設置され、國際都港としての飛躍も、災害復舊と共にむしろ面目を一新して期すべきものがある。たゞ憾むらくは、後方連絡の不備である。天惠薄き東北、地形地理的に一層惠まれなかつた三陸地方も、これが開發に天下の同情を集めてゐる。後方連絡の便が拓かれた時こそ、釜石港の躍進は、將來にその基礎を築くであらう。

奮ひ立つた老幼復興の黎明に息吹
 〝田老の慘害〟を偲ぶ
 有史この方、幾度かくり返された三陸の海嘯は、その都度被害地の方向を大部分換へてゐる。明治廿九年の海嘯に最大の被害を蒙つた地方も、昨年はさほどでなかつたといふところもあるし、その反對のところもあるが、昨年の海嘯を想ひ起す時、われ等は直ちに、「田老」の慘害をすぐにまのあたりに喚び戻されるー蓋し岩手縣下閉伊郡田老村の被害は、近世海嘯史稀有の慘状であつた。
 家屋の流失五百、死者八百、行衛不明百といふ愕然たるもの。家屋の五百は、この部落の殆ど全部だ。殘つたものは高臺にあつた役塲とお寺だけ。
 海岸の砂原に、まぐろの樣な屍體がごろヽヽと無數に打寄せられてゐた慘状は、想ふだに偲びがたいものがある。
爾來一ヶ年、田老はどう更生したらうか。
 宮古から舟便一時間半、田老濱は海荒く、容易に上陸出來ない。やつとの事で上陸一歩、何んと意氣高き復舊作業の人々よ。
 交通不便の地ではあるが、三陸第一の被害地として天下の同情は厚かつた。物資の復舊は、村當局の努力と俟つてバタヽヽと進行した。發動機漁船十一隻、サツパ(小舟)八百は漁具、漁網一切と共に完成した。住宅のバラックも四百は出來た。之は救助バラックを取拂つて各自が建てたもの。高臺には四,五十戸既に本建築されてゐる。今、造成中の住宅が出來たら見違ふ部落が建設されるだらう。
 由來、田老は、太平洋に直面したU字形をなしてゐる。どんな方面から津浪が襲來しようと免れることの出來ないところだ。この小漁港をして將來如何にして災害を防止するか、は、縣は勿論、村當局の最も考慮したところであり苦心したところだ。そして成案を得て目下工事に着手したのが、避難街路網の完備と、護防浪堤の築造である。
  一、幅員十二間の幹線道路が、縱横に山の手に向けて十本、見事に區劃ヲ整正されてゐる。この間を縫ふ幾多の道路。
  二、護岸工事の外に、護岸と宅地の間、護岸寄りに幅十米、高さ五米の防浪堤が、約參拾萬圓の工費で築造される。
 田老濱の住宅は、從來全く浪打際に建てられてゐた。不備な護岸を去る三尺位しかなかつた。それがこんどの宅地造成で四、五十間山手に寄る事になつたが、聳え立つ小山の下、僅かの面積を住宅なり、耕地とする海嘯部落にとつては、これだけども非常な努力である。山の手に自力で本建築を了へたものも、四,五十戸はあるが、宅地造成には入つた人々は、一種の耕地整理組合を作つて、割當土地の八割を宅地とし、二割を道路敷地として提供した。これが立派な幹線道路を整理せしめたもので、當局の努力もあるが、慘禍が縁となつて現れた美しい隣保相助の精神の發露である。
 田老は、鮑漁業が主要生業だつた。勿論、鰯や鯣漁業やその他淺海漁業は一通やるが、一ヶ年中前後三ヶ月位鮑漁業をやれば、一戸五百圓の収入があつたので、あとは無理な働きはしなくともよいといつた樣な氣風があつた。
 ところが、田老ばかりでなく、三陸沿岸鮑漁業地はどこでもだが、日支事變以來唯一の顧客先である支那への輸出がバツタリ杜絶えた。収入は激減する、働かねばならぬと考へた時、鮑輸出杜絶騒ぎどころぢやない津浪の慘害に見舞はれた。
 働かねばならぬ。奮起せねばならぬ。女子供も起て、村のゴタヽヽ等吹き飛ばせと湧然として勤勞精神が勃興した事は、目覺しきものがある。
 村の對立も解消した。この村には田老・乙部・攝待の三ヶ所に對立的に漁業組合があつた。
 こんな小さな村に組合が三つもあるやうでは面白くない。大同團結、擧村一致して更生の田老村を建設せねばならない。
 と、これを淸算し、三組合を合同して一組合とし、産業と經濟の統制につとめてゐる。
 更に今後に備へるため村では備荒倉庫を建設することゝなつた。單に倉庫ばかりでなく、その附屬事業として、復興事務所を設け、復興に關係する一切の處置機關とすると共に、村の集會所にもあて、又は村のために本省や、縣や關係官廳から來るお役人の宿泊所にもあてたいとの計畫である。
 轉禍爲福、田老はいま、かくして慘禍は、はるか彼方へ、雄々しく復興工作を急いでゐる。そしてその工作過程は、他の範とするに足ものが多い。そこにわれ等は村人の一致協力の蔭に、一身を粉にして努力しつゝある田老村長・前縣會議長・現縣議關口松太郎氏の奮闘に感謝するものである。

災害後にできた老若夫婦とりヾヽ
 〝立派に復興するやう〟と兒童に訓話
 震災後の家族關係は、各地共に大いに注目すべきものがある。親を失うた子、子をなくした親、妻と死別した夫、夫に逝かれた妻、これ等のその後はどうなつたか、被害の甚しかつた地方は、特にこの問題が多い。災害直後は、不慮の災害を嘆き、生者必滅・會者定離の理をしみヾヽ味つたが、復舊せねばならぬ。更生せねばならぬと雄々しくも起たんとした時、家族組織の缺陥をまづ補填しなければといふことになつた。
 田老では、村の有力者がこの點を非常に憂慮し、災害復舊の前に先づ第一に家族組織の復舊工作に努力した。
 稀有の慘禍に見舞はれた田老は、餘震も期間が長かつた。交通不便なこの部落の人々は、從つて文化に惠まれず、不安を拭ふべき何物もない。縣の救助によつて建てられた救助バラックにも夜は寢泊りせず、別に山の中腹にバラツクを建てゝ、救助バラック夕飯を過してから山のバラックまで行つて泊つた。震災後半年位はかうして續いたが、やゝ期日を經過して人心も落着いた頃、山の別莊まで行つて寢なくともいゝだらう。と、避難小屋を別莊と呼ぶまでに心が和いで來た。
 小學校でも、精神敎育に徹底的努力を續けてゐる。全村罹災者といふ關係もあつてか、雄勝に見るやうな不安は今のところなさそうである。
 天皇陛下の御心を惱し奉つた地震と津浪、全國の方々から寄せられた同情で、村はいま斯うした復舊しつつ復興するのだから、みなさんも復興に心がけて立派にならなければなりません。
 これは毎朝の訓示である。この村も亦轉出者は殆どない。
 復舊計畫は整理し、着々として復興に歩を進めてゐる。女子靑年も從來あまり働いた方ではなかつたが、震災後は目覺しい活動ぶりを見せ、この頃は村に仕事がなければ舟で一時間半の宮古港まで出て來て働くといつた有樣、去年九月の鯣の漁期には大いに働いたものだ。それでも災害直後は、いくら貯へてもこの有樣だ。身を粉にして働くなんて、をかしくて出來るかい。と、お金があつたらまづ一杯の氣持だつたが、今では一生懸命、一切を流され、洗はれた罹災者も、今、一戸平均貳百圓位の貯金が出來、雄々しく奮闘してゐる。
 下閉伊郡山田町は縣における無産運動發祥の地だ。大正十三年頃大山郁夫が乘込んで組合結成を擧げたといふ歴史を持つてゐる。今でも時々社會運動の有力者が出てゐる。町内も二派に對立して事毎に爭ひ、町の發展はいくら犠牲にされて來たか判らない位だ。監督官廳の縣も默し兼ね、官選町長を置いた。その町長石川敏藏氏が町長になつたのは災害直前のことだ。難治の町を引受けると間もなく災害に遭つて石川町長は『從來の爭ひを續けるやうなら災害の復舊事業はおろか、復興は望まれない。こゝはお互に自覺して對立抗爭を一掃し、轉禍爲福・町發展に進まねばならぬ。』と説き、誠意遂に町民を感動させて一掃し、こゝに山田町發展の基礎を築き上げた。
 家屋の流失三百、半潰二百餘あつたが、死者は僅か八名に過ぎなかつた。それは政府からまで表彰された大槌町郵便局の交換嬢佐藤とめさんの奇智機轉による功績である。今尚、佐藤さんは三陸の女神として尊敬されながら大槌町局につゝましく働いてゐる。
 町はこの住宅復舊に努力して復舊資金六萬圓の低資を借入れ、宅地造成を急いでゐるが、その貸付條件が直接國税參圓以上を納むるもの三人の保證人を必要とすること。その宅地が借地の塲合は二十ヶ年の地上權設定を必要とする等で、したがつて地主との折衝に困難も多く、またバラック住居のものも相當ある。
 工事最中、災害を受けた埋立事業も、三度目の同じ事業に參萬五千圓を投じて盛んに工事中である。
 石川町長は、復舊と復興の條件は、全部整つたから、全町一致努力すれば、町の將來は期待するものがあると朗かだ。

村民一絲亂れず復興へまつしぐら
 模範村船越と田の濱田老村とその附近
 災害復舊の物的方面において、各地とも共通して苦しんだのは、宅地造成事業である。宮城・岩手共住宅の復舊は原地復舊を許さず、將來の災害に備へ得る高臺の地に適地造成を指示した事は既報の通りだが、海岸地方の部落は、住宅の並ぶ小面積の平面地の後方のすぐ山續きである。若干の平面地はたとへ傾斜してゐようとも耕して蔬菜を作り麥を植ゑ、猫の額のやうなところまで利用してゐる、だから海岸地帶の耕地は、宅地よりも値段がよい。
 宅地造成の塲合、すぐ候補地となるのはこの耕地である。傾斜はあつても山を切り崩すよりは工事が早いし、工事費も少くて濟んだが、耕地を潰せば重要副食の蔬菜をどこにも栽培出來る。隣村といつても交通不便であり、同樣不足勝ちのところばかりだ、そこから移入すれば、とんだ高いものになる。宅地は高いところに越したいが、畑地は惜しい。讓るにしても高くなければいかん。此の事情が到る所宅地造成事業の進捗を困難にした。ところがこの問題について稱揚すべき美談がある。
 下閉伊郡田野畑村も慘禍に見舞はれた地である。そして船越部落は移轉すべき住宅の適地が地主とうまくまとまつたが、平井賀部落は地主が高い事を云つて容易にまとまらない。
 ところが明治廿九年、震嘯の洗禮を受けた同部落の大澤預次郎外四十八名が再び津波あつても被害ないやうにと高臺に移轉し、同時に附近に土地を求めてゐたのが一千八百坪程あつたのを、宅地造成になやむ人々を見兼ねて率先これを寄附した。
 同じ部落にゐる人の、この義擧に刺戟されてはいかに頑迷な地主も見て見ぬ振りは出來ようもなく流石難關の宅地造成もバタヽヽと解決した。
 この村では、今尚村長小田喜代人氏の遭難に心から同情してゐる。聞けば小田村長は、津浪!と聞いて一旦避難したが、フト八十六歳の老婆を家に殘した事に氣が付き、狂氣の如く引返し、老婆を背負つて、娘のたまさんの手を引き避難の途中遭難した。
 翌朝、山の麓に親子と孫の三人が抱き合つたまゝ死んでゐたのには見る人涙を禁じ得なかつたといふ。
 自治に訓練され、村に基本財産を蓄へ、村内融和してゐる所謂模範村は災害後の復舊にも、他のもつて範とすべきものがある。此の好適例に下閉伊郡船越村がある。
 同村田の濱部落では、全部落二百五十戸が高地に集團移轉を行ふ事になつた。その宅地造成の如きも極めて積極的で、縣の指示した計畫をーーそんなちつぽけなことで將來の對策になるかーーといつて批難した程である。自力に確信あればこそだ。
 この田の濱部落は、地形上最も不利で、地圖で見ても判るやうに山田灣・小谷鳥灣・船越灣に三面を圍まれてゐる津浪襲來の方向によつて附近の港が難を免れる樣なことがあつても、田の濱だけは免れないだらうと見られるところだ。だが村人は決して悲觀せず着々として復興にいそしんでゐる。
 山田・小谷鳥・船越の三面に七萬五千圓の工事費で、防潮堤を築造してゐる。
 漁村は更生指導町村に指定されてゐるこの模範村は、村當局と漁業組合産業組合が三位一體となつて村發展のため努力してゐる。
 組合員は、努力して全村をうるほすべく努め、村經濟に年々壹萬圓乃至壹萬五千圓を寄附し、村民の戸數割輕減に資してゐるために戸數割の一戸平均が僅かに壹圓四,五拾錢位といふ驚くべき低廉さである。
 この模範村經營の裏に村長鈴木吉平氏の努力と手腕を看過する事は出來ない。鈴木氏は村長の職にある許りでなく推されて産業組合長と漁業組合長とを兼ね、村に關する限り産業・經濟その他すべてを統一し、一たび命令を發するところ、村民もまたよく理解し精進を怠らない。縣當局でも船越・田の濱は他の範とすべき完全な復興が出來ます。
と、太鼓判を押してゐる。
 天災に對する人の力の弱いことはいふまでもないが、今復興の地を訪ねて彼此對照する時、人の和が如何に大きな力であるかをしみじみ感ずることが出來ると同時に、町といはず、村といはず、部落といはずよき爲政者を得る事が如何に大切であり。どんなに幸福であるかを如實にみることが出來る。

養はれる團結心
〝よく働く〟女の群咲き出る椿も賞でず復興へ
 氣仙郡唐丹村の海岸は、南國情緒豐かな赤い椿の花咲く詩の自然境だ。今年も亦この詩境が展開されるだらうが、慘禍に見舞はれて、本鄕・小白濱の漁村部落には椿をめづる心より、復興復興へと精進する努力心以外にはこゝ暫くは何の心も起らないだらうと思はれる程熱心に復興へとつとめてゐる。
 お嫁貰ふなら本鄕・小白濱から
 と、いふ言葉が氣仙郡一帶はおろか釜石あたりまで、謳はれてゐるのは、有名な美人部落であることにも因をなしてゐることは勿論だらうが、古くから
 本鄕や小白濱の女は實によく働くと、いはれてゐるところに大きな力がある。
 かうして傳統的によく働く女として認められてゐる部落が震災以來一段と勤勞精神を增して來たといふのだから頼母しい限りではあるまいか。
 無論男子も働く。本鄕・小白濱の女が他の部落からお嫁にと所望されるほど働くといつても、それは他地方の女と比較してのことで、男子に比べてのことではない。
 この勤勞精神は、偉大な力となつて兇暴の限りを盡した自然の暴威、地震と津浪の洗禮から舊態に復せんとし、さらに一歩をすゝめて更生への途をたどつてゐる。
 唐丹村の中心をなす本鄕部落は、有名な盆地にある。災害原地を離れて住宅の適地は一坪も發見されない。強いて求めるなら聳え立つ裏山を切り崩すばかりだが、その經費だけでも大したものになるといつて、誰しも再びの津波にはあひたくない。唐丹村の災害住宅の宅地造成はかうして一番行惱んでゐる。勿論自力で住宅適地を造り、移轉本建築のものもあるが、大部分は未だ救助バラックに住んでゐる。
 〝こゝに生れたのが運命だ。また津浪に襲はれたつて仕方がない〟
 と、悲壯な言葉を洩らす宿命論者すらある。何といふ惠まれない天命だらうか。
 かうした地理的關係は部落民をして團結の精神を培ひ養つて來た。團結力の強い事は三陸一といはれてゐる。一面同族結婚も多く、美人部落の稱もこの關係から生れたともいへる。
 當初、當局では住宅適地を他に求め、從來の宅地を耕地に、そして大部分を田にして揚水機關で、灌漑溜池を造る計畫を樹てたが、例の宅地造成問題で行惱みとなり、部落民の反對意見もあり、自然解消の形となつた。
 尤も生業の資は他と同樣、早くも復舊した。が、將來のため漁業經營の方面に於いても考慮すべき點が多い。
 元來この地方は、漁業は主として淺海漁業で、大部分の漁民は磯物に從事してゐる。動力船を持つものは、いはゆる旦那で、それも二,三隻のトロール船を持つだけで、漁期が來ると、漁民はこの旦那に雇はれる。鯣や、鰯の漁業でも巾着網や、定置網で旦那が大漁しても一般漁業者には、利得が薄い。
 昨年の鯣漁期には三陸地方は非常な大漁成績だつたことは數字的にも現はれてゐるが、その漁業者との關係において見逃せないことである。
 それは巾着や、定着では網が切れる程の豐漁だつたが、小舟をあやつりながら一生懸命働いた小漁業者の収穫は、なんと慘めなものだつたといふ事が事實だ。
 この話はひとり唐丹附近ばかりの問題でなく、釜石あたりでも
   去年の鯣漁期に、釜石だけで拾九萬圓、鯣漁業成績だといつてゐる。勿論その數字は確かで、事實豐漁だつた。巾着網や、定置漁業をやり得る云はゞ地方での大漁業家だけの事で、小漁民はあの鯣漁期には泣いた。
 と、語つてゐる。唐丹村本鄕・小白濱でも
   これまでのやうな漁業經營ではだめだ。何とかしてわれヽヽも遠洋へ乘出さねばならん、淺海漁業や磯物ではいつまでたつてもわれヽヽの時代は來ない。
 と、水産漁業の趨勢に漸く目覺め、これが實現に努力してゐる。自然の暴威に踏みにじられた跡をたゞ單に舊態に復するばかりでなく、一歩進んで將來の經營に處するところに眞の復舊事業の意義あることを信じ、この自覺と精進への努力に絶大なよろこびを感じた。(河北新報より)


慰靈の歌
亡(な)き靈(たま)は千尋(ちひろ)の海(うみ)に沈(しづ)もりて榮(さか)え行(ゆ)く世(よ)の柱(はしら)たるらむ

復興の歌
大津浪(おほつなみ)くゞりてめげぬ心(こころ)もていざ追進(おひすす)み參上(まゐのぼ)らまし

───岩手縣撰────

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震災記念施設状况
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収入(内譯)
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支出(内譯)

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 長崎第二尋常小學校
 長崎第三尋常小學校
 仰高東尋常小學校
 仰高西尋常小學校
 仰高北尋常小學校
 時習尋常高等小學校
 西巣鴨第二尋常高等小學校
 高田第一尋常高等小學校
 長崎尋常高等小學校
 仰高尋常高等小學校

王子區
 王子第一尋常小學校
 王子第二尋常小學校
 王子第三尋常小學校
 荒川尋常小學校
 豐川尋常小學校
 堀野尋常小學校
 第二岩淵尋常小學校
 第三岩淵尋常小學校
 第四岩淵尋常小學校
 王子尋常高等小學校
 岩淵尋常高等小學校

瀧野川區
 瀧野川第一尋常小學校
 瀧野川第二尋常小學校
 瀧野川第三尋常小學校
 瀧野川第四尋常小學校
 瀧野川第五尋常小學校
 瀧野川第六尋常小學校
 瀧野川第七尋常小學校
 瀧野川第八尋常小學校
 瀧野川尋常高等小學校

荒川區
 第一瑞光尋常小學校
 第二瑞光尋常小學校
 第三瑞光尋常小學校
 第四瑞光尋常小學校
 第五瑞光尋常小學校
 第一峽田尋常小學校
 第二峽田尋常小學校
 第三峽田尋常小學校
 第五峽田尋常小學校
 尾久尋常小學校
 尾久西尋常小學校
 赤土尋常小學校
 大間尋常小學校
 後田尋常小學校
 第一日暮里尋常小學校
 第二日暮里尋常小學校
 第四日暮里尋常小學校
 第六日暮里尋常小學校
 瑞光尋常高等小學校
 第四峽田尋常高等小學校
 日暮里尋常高等小學校
 原尋常高等小學校

板橋區
 板橋第二尋常小學校
 板橋第三尋常小學校
 板橋第四尋常小學校
 板橋第五尋常小學校
 志村第一尋常小學校
 上板橋第二尋常小學校
 紅梅尋常小學校
 開進第二尋常小學校
 豐溪尋常小學校
 石神井東尋常小學校
 石神井西尋常小學校
 開進第三尋常小學校
 板橋尋常高等小學校
 志村尋常高等小學校
 上板橋尋常高等小學校
 赤塚尋常高等小學校
 開進第一尋常高等小學校
 豐玉尋常高等小學校
 練馬尋常高等小學校
 石神井尋常高等小學校
 大泉尋常高等小學校

足立區
 千壽第一尋常小學校
 千壽第二尋常小學校
 千壽第三尋常小學校
 千壽第四尋常小學校
 千壽第五尋常小學校
 千壽第六尋常小學校
 西新井尋常小學校
 關原尋常小學校
 梅島第一尋常小學校
 千壽尋常高等小學校
 江北尋常高等小學校
 合人尋常高等小學校
 梅島尋常高等小學校
 弘道尋常高等小學校
 東淵江尋常高等小學校
 花畑尋常高等小學校
 淵江尋常高等小學校
 伊興尋常高等小學校
 本木尋常高等小學校

向島區
 第一吾嬬尋常小學校
 第二吾嬬尋常小學校
 第四吾嬬尋常小學校
 第五吾嬬尋常小學校
 第二寺島尋常小學校
 第三寺島尋常小學校
 隅田第二尋常小學校
 第三吾嬬尋常高等小學校
 第一寺島尋常高等小學校
 隅田尋常高等小學校

城東區
 第一龜戸尋常小學校
 第二龜戸尋常小學校
 香取尋常小學校
 水神尋常小學校
 第三大島尋常小學校
 第二砂町尋常小學校
 第三砂町尋常小學校
 淺間尋常高等小學校
 第一大島尋常高等小學校
 第二大島尋常高等小學校
 砂町尋常高等小學校

葛飾區
 高砂尋常小學校
 第二奥戸尋常小學校
 南綾瀬尋常小學校
 本田第二尋常小學校
 本田第三尋常小學校
 水元尋常高等小學校
 金町尋常高等小學校
 新宿尋常高等小學校
 第一奥戸尋常高等小學校
 龜靑尋常高等小學校
 南綾瀬尋常高等小學校
 本田尋常高等小學校

江戸川區
 小松川第二尋常小學校
 小松川第三尋常小學校
 第一松江尋常小學校
 第二松江尋常小學校
 上小岩尋常小學校
 下小岩尋常小學校
 第二葛西尋常小學校
 第三葛西尋常小學校
 小松川第一尋常高等小學校
 松江尋常高等小學校
 葛西尋常高等小學校
 瑞江尋常高等小學校
 篠崎尋常高等小學校
 鹿本尋常高等小學校
 小岩尋常高等小學校

神田區
 千櫻尋常夜學校

芝區
 南海尋常夜學校
 竹芝尋常夜學校

赤坂區
 赤坂尋常夜學校

四谷區
 四谷第三尋常夜學校
 四谷第四尋常夜學校

牛込區
 山吹尋常夜學校

小石川區
 柳町尋常夜學校
 靑柳尋常夜學校
 林町尋常夜學校
 御殿町尋常夜學校

本鄕區
 根津尋常夜學校

下谷區
 東盛尋常夜學校
 練塀尋常夜學校
 大正尋常夜學校

淺草區
 正德尋常夜學校

本所區
 横川尋常夜學校
 柳町尋常夜學校
 明德尋常夜學校
 牛島尋常夜學校
 日進尋常夜學校
 菊川尋常夜學校
 茅塲尋常夜學校

品川區
 城南尋常夜學校
 大崎尋常夜學校

荏原區
 京陽尋常夜學校

荒川區
 尾久尋常夜學校

城東區
 第一大島尋常夜學校

麹町區
 麹町幼稚園
 富士見幼稚園
 番町幼稚園
 上六幼稚園

神田區
 淡路幼稚園
 神田幼稚園
 練成幼稚園
 小川幼稚園
 神龍幼稚園
 芳林幼稚園
 今川幼稚園

日本橋區
 城東幼稚園
 第一幼稚園
 阪本尋常小學校附屬幼稚園
 常盤尋常小學校附屬幼稚園
 濱町尋常小學校附屬幼稚園
 十思尋常小學校附屬幼稚園
 箱崎尋常小學校附屬幼稚園
 千代田尋常小學校附屬幼稚園

京橋區
 朝海幼稚園

芝區
 西櫻尋常小學校附屬幼稚園

麻布區
 麻布幼稚園

赤坂區
 中之町尋常小學校附屬幼稚園
 靑山尋常小學校附屬幼稚園

四谷區
 四谷區幼稚園

牛込區
 鶴巻幼稚園

本鄕區
 本鄕第一幼稚園
 本鄕第二幼稚園

下谷區
 根岸尋常小學校附屬幼稚園
 竹中尋常小學校附屬幼稚園


秋田縣敎育會
 (一金九百五拾壹圓貳拾八錢也)
 秋田市
 保戸野小學校
 明德小學校
 川尻小學校
 明德婦人會
 簗山小學校

北秋田郡
 上川沿小學校
 澤口小學校
 眞中小學校
 阿仁合小學校
 龍森小學校
 鷹巣小學校
 阿氣小學校
 上杉小學校
 花岡小學校
 大葛小學校
 比立内小學校
 三嶽小學校
 佛社小學校
 長木小學校
 榮小學校
 杉澤小學校
 三井田小學校
 米内澤小學校
 川口小學校
 古館小學校
 木戸石小學校
 七座小學校
 早口小學校
 成章小學校
 浦田小學校
 沖田面小學校

南秋田郡
 飯田川小學校
 大川小學校
 面潟小學校
 翌北野小學校
 寺内小學校
 土崎女子小學校
 上新城小學校
 比詰小學校
 一日市小學校
 豐川小學校
 仁井山小學校
 高岡小學校
 船川小學校
 增川小學校
 新城小學校
 上井河小學校
 下山内小學校
 内川小學校
 脇本小學校

鹿角郡
 小坂元山小學校
 毛馬内小學校
 花輪小學校
 曙小學校
 小坂川上小學校
 柴内小學校
 草木小學校
 尾去澤學校
 小坂小學校

雄勝郡
 湯澤小學校
 三輪小學校
 横堀小學校
 西馬音内小學校
 田代小學校
 立岩小學校
 高松小學校
 秋宮第一小學校
 新成小學校
 岩崎小學校
 輕井澤小學校
 辨天小學校
 岩井川小學校
 駒形小學校
 小野小學校
 小栗山小學校
 稻庭小學校
 奥宮小學校
 大澤小學校
 須川小學校

山本郡
 鹿澤小學校
 荷上塲小學校
 山谷學校
 上岩川小學校
 觀海小學校
 榊小學校
 森岳小學校
 潮小學校
 岩館小學校
 富根小學校
 崇德小學校
 藤琴小學校
 粕毛小學校
 朴瀨小學校

平鹿郡
 增田小學校
 大森小學校
 醍醐小學校
 山内小學校
 三重小學校
 横手尋小學校
 福地小學校
 川西小學校
 里見小學校
 境町小學校
 黑川小學校
 旭小學校
 沼館小學校

由利郡
 本莊小學校

仙北郡
 檜木内小學校
 峯吉川小學校
 松倉小學校
 南楢岡小學校
 畑屋小學校
 下延小學校
 横澤小學校
 長野小學校
 神宮寺小學校
 北楢岡小學校
 中川小學校
 中山小學校
 大川西根小學校
 大盛小學校
 刈和野小學校
 朝日小學校
 四谷小學校
 梅澤小學校
 外小友小學校
 田澤小學校
 藤木小學校
 内小友小學校
 角館小學校
 金澤西根小學校
 六鄕東根小學校
 大曲小學校
 心像小學校

埼玉縣小學校敎員會
 (金貳千四百圓也)
 北足立郡
 浦和町男師附屬小學校
 浦和第一小學校
 浦和第二小學校
 浦和第三小學校
 浦和第四小學校
 土合小學校
 六辻小學校
 尾間木小學校
 三室小學校
 片柳小學校
 第一蕨小學校
 第二蕨小學校
 美谷本小學校
 笹目小學校
 戸田小學校
 芝小學校
 鳩ヶ谷小學校
 新鄕小學校
 神根小學校
 戸塚小學校
 大門小學校
 野田小學校
 草加小學校
 谷塚小學校
 安行小學校
 大宮小學校
 大宮西小學校
 大宮北小學校
 大宮南小學校
 馬宮第一小學校
 大砂土小學校
 馬宮第二小學校
 三橋小學校
 指扇小學校
 春岡小學校
 七里小學校
 大砂土東小學校
 宮原小學校
 上尾小學校
 大谷小學校
 平方小學校
 原市小學校
 大石小學校
 桶川小學校
 加納小學校
 小針小學校
 上平小學校
 川田谷小學校
 鴻巣小學校
 中丸小學校
 石戸小學校
 馬室小學校
 田間宮小學校
 小谷小學校
 箕田小學校
 朝霞第一小學校
 朝霞第二小學校
 志木小學校
 大和田第二小學校
 内間木小學校
 新倉小學校
 白木小學校

入間郡
 古谷小學校
 日東小學校
 大田小學校
 田面澤小學校
 福岡小學校
 南畑小學校
 水谷小學校
 宗岡小學校
 所澤小學校
 山口小學校
 入間川小學校
 堀兼小學校
 奥富小學校
 坂戸小學校
 勝呂小學校
 三芳野小學校
 大家小學校
 鶴ヶ島第一小學校
 鶴ヶ島第二小學校
 越生小學校
 二葉小學校
 山根小學校
 梅園第一小學校
 梅園第二小學校
 高萩小學校
 南高麗小學校
 東吾野小學校
 長澤(東吾野村)小學校
 吾野小學校

比企郡
 松山第一小學校
 松山第二小學校
 大岡小學校
 唐子小學校
 神戸(唐子村)小學校
 高坂小學校
 菅野第二小學校
 七鄕小學校
 八和田小學校
 小川小學校
 大河小學校
 平小學校
 明覺小學校
 玉川小學校
 龜井小學校
 今宿小學校
 中川小學校
 三保合小學校
 出丸小學校
 八保小學校
 小見野小學校
 東吉見第一小學校
 東吉見第二小學校
 南吉見小學校
 北吉見小學校

秩父郡
 横瀬小學校
 大宮(秩父町)小學校
 芦ヶ久保小學校
 高篠小學校
 原谷小學校
 久那小學校
 影森小學校
 浦山小學校
 尾田蒔小學校
 吉田小學校
 長若小學校
 上吉田小學校
 倉尾小學校
 三田川第一小學校
 三田川第二小學校
 三澤小學校
 樋口小學校
 野上小學校
 國神小學校
 金澤小學校
 矢納小學校
 日野澤小學校
 大田小學校
 大瀧小學校
 白川小學校
 中川小學校
 大椚小學校
 槻川小學校
 大河原小學校

兒玉郡
 本庄小學校
 藤田小學校
 仁手小學校
 旭小學校
 北泉小學校
 兒玉小學校
 共和小學校
 金屋小學校
 靑柳小學校
 神保原小學校
 賀美小學校
 長幡小學校
 七本木小學校
 本泉小學校
 太駄(本泉村)小學校
 那珂(松久村)小學校
 東兒玉小學校
 秋平小學校

大里郡
 久下小學校
 佐谷戸小學校
 吉見小學校
 御正小學校
 小原小學校
 大麻生小學校
 三尻小學校
 玉井小學校
 長井小學校
 秦小學校
 妻沼小學校
 男沼小學校
 小島(男沼村)小學校
 太田小學校
 明戸小學校
 別府小學校
 深谷小學校
 大寄小學校
 中條小學校
 八基小學校
 岡部小學校
 幡羅小學校
 榛澤小學校
 本鄕小學校
 藤澤小學校
 武川小學校
 花園小學校
 用土小學校
 櫻澤小學校
 男衾小學校
 折原小學校
 鉢形小學校

北埼玉郡
 忍小學校
 中條小學校
 南河原小學校
 北河原小學校
 星河小學校 
 星宮小學校
 持田小學校
 太井小學校
 下忍小學校
 長野小學校
 荒木小學校
 須加小學校
 太田第一小學校
 太田第二小學校
 埼玉小學校
 屈巣小學校
 廣田小學校
 笠原小學校
 羽生小學校
 新鄕小學校
 岩瀬小學校
 井泉小學校
 中島小學校
 手子林小學校
 三田ヶ谷小學校
 村君小學校
 須影小學校
 川俣小學校
 加須小學校
 騎西尋常小學校
 騎西高等小學校
 志多見小學校
 田ヶ谷小學校
 共和小學校
 種足小學校
 高柳小學校
 禮羽小學校
 不動岡小學校
 豐野小學校
 三俣小學校
 大桑小學校
 水深小學校
 鴻莖小學校
 樋遣小學校
 大越小學校
 利島小學校
 川邊小學校
 原道小學校

南埼玉郡
 豐春小學校
 粕壁小學校
 武里小學校
 柏崎小學校
 新知小學校
 百間小學校
 黑濱小學校
 茲恩寺小學校
 蓮田(綾瀬村)小學校
 閏戸(綾瀬村)小學校
 櫻井小學校
 新方小學校
 增林小學校
 出羽小學校
 蒲生小學校
 川柳小學校
 八幡小學校
 潮止小學校
 大相模小學校
 越ヶ谷小學校
 大澤小學校
 須賀小學校
 太田小學校
 鷲宮小學校
 淸久小學校
 江面小學校
 小林小學校
 琢玉(三箇村)小學校
 篠津小學校

北葛飾郡
 栗橋小學校
 靜小學校
 豐田小學校
 櫻田小學校
 幸手小學校
 權現堂川小學校
 上高野小學校
 吉田第一小學校
 吉田第二小學校
 八代第一小學校
 八代第二小學校
 八代第三小學校
 行幸小學校
 高野小學校
 杉戸小學校
 田宮北小學校
 田宮南小學校
 堤鄕小學校
 幸松小學校
 豐岡小學校
 寶珠花小學校
 冨多小學校
 南櫻井小學校
 川邊小學校
 金杉小學校
 豐野小學校
 松伏領小學校
 吉川小學校
 早稻田小學校
 八木鄕小學校

川越市
 川越市小學校
 第一小學校
 第二小學校
 第三小學校

川口市
 第一小學校
 第二小學校
 第三小學校
 第四小學校
 第五小學校

熊谷市
 男子小學校
 女子小學校
 石原小學校
 成田小學校
 大幡小學校

全國聯合小學校敎員會
(金參千百參拾八圓四拾四錢也)
 社團法人東京市小學校敎員會
 呉市小學校敎員會
 福井市敎員協會
 奈良縣生駒郡敎員協會
 福井縣遠敷郡敎員協會
 廣島縣尾道市敎員協會
 京都府何鹿郡敎員會
 廣島市敎員協會
 京都府愛宕郡敎員會
 豐島市敎員協會
 岡崎市小學校敎員協會
 長崎市小學校敎員會
 鹿兒島市小學校敎員會
 八王子敎員會
 室蘭市小學校敎員會
 金澤市小學校敎員會
 京都府南桑田郡敎員會
 愛知縣聯合小學校敎員會
 盛岡市小學校敎員會
 埼玉縣小學校敎員會
 埼玉縣秩父郡小學校敎員會
 岡山市敎員協會
 群馬縣利根郡小學校敎員會
 高岡市小學校敎員會
 一宮市敎員會
 福井縣南條郡小學校敎員會
 甲府市小學校敎員會
 福井縣坂井郡敎員會
 廣島縣甲奴郡敎員會
 廣島縣山縣郡敎員會
 廣島縣雙三群敎員協會
 廣島縣神石郡敎員會
 廣島縣佐伯郡敎員會
 廣島縣安藝郡敎員會
 廣島縣深安郡敎員會
 廣島縣比婆郡敎員會
 高知市初等敎育研究會
 京都府綴喜郡敎員會
 東京府南多摩郡敎員會
 愛知縣額田郡敎員協會
 富山市小學校敎員懇話會
 富山縣中新川郡小學校敎員會
 三重縣北牟婁郡敎員會
 米澤市小學校敎員會
 福井縣丹生郡小學校敎員會
 大阪市小學校敎員會
 横濱市小學校長會
 宮城縣名取郡敎員連合會
 大分縣郡市聯合小學校敎員會
 群馬縣前橋市小學校敎員會
 群馬縣群馬郡小學校敎員會
 群馬縣吾妻郡敎員會
 群馬縣高崎市小學校敎員會
 群馬縣多野郡小學校敎員會
 群馬縣邑樂郡小學校敎員會
 群馬縣碓氷郡小學校敎員會
 群馬縣北甘樂郡小學校敎員會
 群馬縣山田郡小學校敎員會
 新田郡敎員會
 佐波郡小學校敎員會
 桐生市敎員會
 岩手縣東磐井郡小學校敎員會
 岩手縣西磐井郡小學校敎員會
 石川縣鹿島郡敎員互助會
 岩手縣和賀郡小學校敎員會
 岩手縣稗貫郡小學校敎員會
 廣島縣御調郡小學校敎員會
 奈良縣山邊郡小學校敎員會
 奈良縣北葛城郡小學校敎員會
 愛知縣渥美郡小學校敎員會
 新潟市小學校敎員會
 岩手縣上閉伊郡小學校敎員會

山形縣敎員會
 (金七百八圓貳拾八錢也)

茗溪會
 (金貳拾九圓五拾錢也)

帝國敎育會
 (金壹萬五千參百參圓七拾參錢也)

 其一
島根縣飯石郡
 赤名村小學校

埼玉縣入間郡吾野村
 坂石小學校

神戸市
 須佐小學校
 明親高等小學校

愛媛縣廳
 愛媛縣敎育會

神戸市
 成德小學校

埼玉縣入間郡
 柏原小學校

吾野村
 南小學校
 霞ヶ關小學校
 霞ヶ關公民學校
 南川小學校

熊本縣葦北郡水俣町
 深川小學校
 深川靑年團
 深川處女會

甲府市
 山梨縣敎育會

熊本縣葦北郡
 古石小學校
 津奈木小學校
 計石小學校
 湯出小學校

埼玉縣入間郡
 山田小學校
 高麗小學校
 南古奈小學校
 北川小學校

神戸市
 中道小學校

島根縣美濃郡
 都藏小學校

熊本縣宇土郡
 戸馳小學校

熊本縣葦北郡
 田川小學校

熊本縣下益城郡
 豐野地郡小學校

埼玉縣入間郡
 豐岡小學校熊
 東金子小學校
 金子小學校
 元狹山小學校
 宮寺小學校
 三ヶ島小學校
 藤澤小學校

岡山市
 縣立第二岡山小學校

熊本縣葦地郡
 久木野小學校

埼玉縣入間郡
 加治小學校

島根縣八束郡
 大芦村小學校

岡山市
 第一岡山小學校

埼玉縣兒玉郡
 丹莊小學校

熊本縣玉名郡
 小天小學校

熊本縣阿蘇南郡小國村
 黑川小學校

熊本縣菊池郡
 水源小學校

埼玉縣入間郡
 吾妻小學校

島根縣美濃郡高城村
 神田小學校

熊本縣下益城郡
 豐川小學校

熊本縣阿蘇郡
 市原小學校

熊本縣玉名郡
 有明小學校
 花簇小學校
 大濱小學校
 大野小學校
 彌冨小學校

岡山縣後月郡荏原村
 江原小學校

熊本縣阿蘇郡
 高森小學校
 上差尾小學校

熊本縣阿蘇郡小峰村
 高松小學校

熊本縣下益城郡
 年禰南部小學校々友會
 杉合西部小學校

熊本縣玉名郡
 滑石小學校

埼玉縣入間郡
 入間小學校

熊本縣阿蘇郡
 楢木野小學校
 岩坂小學校

名古屋市役所内
 名古屋市敎育會
 名古屋市小學校長會

神戸市
 生田川小學校

島根縣通摩郡
 久利村小學校

埼玉縣大里郡
 新會小學校

大阪府三島郡
 如是小學校

堺市
 英彰小學校

大阪市
 天下茶屋小學校

熊本縣玉名郡
 六榮小學校

熊本縣下益城郡
 小川小學校

岡山縣和氣郡
 閑谷中學校

島根縣簸川郡
 大津村小學校

島根縣飯石郡
 西須佐村小學校

栃木縣下都賀郡
 栃木第二小學校

大阪府南河内郡
 丹比小學校

埼玉縣入間郡
 豐岡小學校

熊本縣玉名郡
 八嘉小學校

岡山縣牛窓郡
 牛窓高等女學校

島根縣八束郡大庭村
 實業工民學校

新潟縣三島郡日吉村七日市一,一一
 吉原與吉

大阪府此花驅
 第三西野田小學校

埼玉縣入間郡
 鶴瀬村小學校

岡山縣苫田郡
 香々美小學校
 公民學校

熊本縣葦北郡
 女島小學校
 水俣小學校

熊本縣玉名郡
 横島小學校

大阪府南河内郡
 長野町小學校
 長野町裁縫女學校

熊本縣玉名郡
 江田小學校

熊本縣阿蘇郡
 坂梨小學校

熊本縣阿蘇郡北小國村
 北里小學校

熊本縣玉名郡
 大原小學校

岐阜市美江寺町
 岐阜縣敎育會扱ヒ岐阜縣師範學校外中等學校四一校分及ビ岐阜市明德小學校外三一一校分

島根縣鹿足郡
 藏木村小學校

岡山縣吉備郡
 總社高等女學校

大阪府堺市
 舳松小學校
 堺市高等小學校
 少林寺小學校

大阪市大正區
 泉尾高等女學校

大阪市浪速區
 成器商業學校

熊本縣玉名郡
 伊倉小學校

熊本縣
 松橋高等女學校

熊本縣下益城郡
 砥用小學校

熊本縣玉名郡
 八幡小學校

岡山縣小田郡
 笠岡商業學校

岡山縣兒島郡
 赤崎小學校

熊本縣玉名郡
 腹赤小學校

大阪府
 池田師範學校

熊本縣玉名郡
 緑川小學校
 梅林小學校

大阪府北河内郡
 四條小學校

大阪市
 花園小學校

熊本縣玉名郡
 春冨小學校

岡山縣苫田郡
 芳野小學校

茨城縣新治郡
 大岸田小學校

大阪市住吉郡
 桃山中學校

大阪市外濱寺
 羽衣高等女學校

大阪府立
 富田林高等女學校

熊本縣菊池郡
 河原小學校

大阪市港區
 府立高等海員學校

熊本縣立
 多良木實科高等女學校

岡山縣淺口郡
 大島中小學校

大分市分
 金地小學校外二九六校敎員醵出金
 (内一〇校分兒童醵出金ヲ含ム)

熊本縣八代郡
 八代郡敎育支會長

熊本縣菊池郡西合志村
 合志義塾

岡山縣淺口郡
 玉島小學校

岡山縣高梁町
 高梁中學校

廣島市國泰寺町
 廣島縣敎育會扱ヒ

廣島市
 尾長小學校
 矢賀小學校
 靑崎小學校
 似島小學校
 楠那小學校
 比治山小學校
 第一小學校
 白鳥小學校
 大手町小學校
 中島小學校
 本川小學校
 江波小學校
 廣瀨小學校
 觀音小學校
 福島小學校
 大芝小學校
 三條小學校
 巳斐小學校
 古田小學校
 廣島女學院附屬小學校
 第二小學校
 大河小學校
 皆實小學校
 草津小學校
 神埼小學校
 千田小學校
 牛田小學校
 荒神町小學校
 段原小學校
 袋町小學校
 仁保小學校
 宇品小學校
 廣島光道小學校
 幟町小學校
 竹屋小學校
 天滿小學校

廣島縣賀茂郡
 野路南小學校
 三津口小學校
 造賀小學校
 吉土實小學校
 東野小學校職員兒童
 竹原小學校
 西志和小學校兒童
 廣北小學校
 中里瀨小學校職員兒童
 鄕田小學校職員兒童
 鄕原小學校職員兒童
 大田小學校兒童
 東高屋小學校職員兒童
 西高屋小學校
 廣西小學校
 内海小學校兒童篤志者
 萩野小學校職員兒童

廣島縣豐田郡
 中川源小學校
 久保喜小學校
 椹梨小學校
 中野小學校
 吉名小學校職員兒童
 木ノ江小學校
 忠海小學校職員
 竹仁小學校職員
 竹仁農業補習學校職員
 上戸野小學校
 東川源小學校
 須波小學校職員兒童
 長谷西小學校
 大埼南小學校職員兒童
 北方小學校職員兒童
 西野小學校
 瀬戸田小學校
 南生口小學校職員
 和木小學校
 豐田村高等公民學校
 西川源小學校職員兒童
 大長小學校
 大長村女子靑年團
 大谷小學校職員兒童
 大乘小學校
 田野浦小學校職員兒童
 忠海小學校職員兒童

廣島縣御調郡
 津部田小學校
 分津小學校職員兒童
 掠ノ浦小學校
 栗原小學校
 吉和小學校職員兒童
 菅野小學校
 永野小學校職員兒童
 市村小學校職員兒童
 木ノ庄東小學校職員兒童
 鏡ノ浦小學校職員兒童
 三成小學校職員兒童
 諸田東小學校職員兒童
 諸田西小學校
 三庄小學校梶本良一外十九名
 向島東小學校
 西野小學校職員兒童
 板井原小學校職員兒童
 奥村小學校
 江奥小學校
 羽和泉小學校職員兒童
 田熊小學校職員兒童
 向島西小學校
 土生小學校職員兒童
 下川邊小學校

廣島縣沼隈郡
 大浦小學校武田敬太郎外二名
 田島小學校職員兒童
 浦崎小學校
 赤崎小學校
 松永小學校職員
 本鄕小學校廣安金三郎外九名
 熊野小學校加藤忠孝外十七名
 高島小學校奥政彦外八名
 水呑小學校職員
 高須小學校職員兒童

廣島縣芦品郡
 新市小學校
 常金丸小學校
 有磨小學校
 服部小學校
 岩谷小學校
 府中東小學校

廣島縣神石郡
 上野小學校職員兒童
 古川小學校職員兒童
 小畠小學校職員
 牧小學校職員兒童
 相渡小學校職員兒童
 父木野小學校職員兒童
 安田小學校職員兒童
 永野南小學校兒童
 高蓋小學校職員兒童
 福永小學校職員兒童
 豐松小學校職員兒童
 上豐松小學校職員兒童
 近田小學校職員兒童
 上村小學校職員兒童
 笹尾小學校職員兒童
 高光小學校職員兒童
 田頭小學校職員兒童
 小野小學校兒童
 油木小學校職員兒童
 草木小學校職員兒童
 坂瀬川小學校職員
 有木小學校職員兒童
 井關小學校職員兒童
 永野小學校職員兒童
 新坂小學校職員兒童

廣島縣雙三郡
 雙三郡小學校
 某

長野市
 信濃敎育會扱ヒ

長野縣上高井郡
 豐洲小學校

長野縣上水内郡
 津和小學校

長野市
 長野工業學校

長野縣埴科郡
 松代小學校

長野縣下水内郡
 市川小學校

長野縣上水内郡
 北小川小學校

長野縣諏訪郡
 北山小學校

長野縣更級郡
 信級小學校
 月新小學校

長野縣下伊那郡
 和田小學校
 大河原小學校
 座光寺小學校
 神稻小學校
 飯田小學校
 下久堅學校
 松尾小學校

長野縣下伊那郡
 上飯田小學校
 喬木第二小學校
 根羽小學校

長野縣更級郡
 通明小學校
 眞島小學校
 鹽崎小學校
 八幡小學校
 昭和小學校
 稻荷山小學校
 信里小學校

長野縣西筑摩郡
 上田小學校
 黑川小學校
 把ノ澤小學校
 須原小學校
 妻籠小學校
 蘭小學校
 山口小學校長

長野縣北安曇郡
 八坂小學校
 大町小學校
 池田小學校
 美麻南小學校
 美麻北小學校

長野縣上水内郡
 小田切小學校
 七二會小學校
 水内東小學校
 水内小學校
 水内實科女學校

長野縣北佐久郡
 岩村田小學校
 高瀬小學校
 本牧小學校
 蓼科農學校
 蓼科女學校
 春日小學校
 追分小學校

長野縣下高井郡
 市川小學校

野縣小縣郡
 滋野小學校
 禰津小學校
 和小學校
 神川小學校
 豐里殿城小學校
 東原小學校
 本原小學校
 傍陽小學校
 神科小學校
 長瀨小學校
 鹽川小學校
 依田小學校
 東内小學校
 丸子小學校
 長久保小學校
 大門小學校
 和田小學校
 川邊小學校
 浦里小學校
 靑木小學校
 西溢田小學校
 別所小學校
 富士山小學校

長野縣上田市
 上田小學校
 上田實科女學校
 上田盲學校
 上田實業補習學校

長野縣小縣郡
 縣小學校
 室賀小學校
 長村小學校
 長窪小學校

長野縣上伊那郡
 赤穂公民學校

長野縣小縣郡
 中鹽田小學校

長野縣更級郡
 下氷鉋小學校
 北部實科中等學校
 川柳小學校
 愛知縣敎育會

熊本縣
 八代農業學校

大阪府豐能郡
 中豐島小學校

大阪市東區
 大阪偕行社附屬小學校

岡山縣淺口郡
 大島中小學校

岡山縣御津郡
 白石小學校

宮崎縣
 延岡商業學校

島根縣那賀郡
 三隅町小學校

熊本縣菊池郡
 重味小學校

山口市
 山口縣敎育會
 山口中學校
 大殿小學校

山口縣美禰郡
 桂陽小學校職員兒童
 桂陽實業公民學校

山口縣都濃郡
 富田小學校

山口縣小郡
 高木女學校職員生徒

山口縣玖珂郡
 麻里布第一小學校
 田宇小學校

山口縣
 柳井高等女學校卒業生一同

山口縣阿武郡
 德佐小學校

山口縣佐波郡
 柚野小學校

山口縣熊毛郡
 大野小學校

山口縣都濃郡
 四熊小學校

山口縣玖珂郡
 岩國高等女學校

山口縣厚狹郡
 赤埼小學校職員兒童

山口縣阿武郡
 高俣小學校

山口縣熊毛郡
 相浦小學校

山口縣大島郡
 屋代小學校少年赤十字團

山口縣都濃鵜郡
 下松小學校
 下杉實踐學校

山口縣阿武郡
 彌冨小學校

山口縣豐浦郡
 瀧部小學校

山口縣大津郡
 大津中學校

山口縣萩市
 萩商業學校

山口縣豐浦郡
 田耕小學校

山口縣大島郡
 久賀小學校

山口縣玖珂郡
 岩國中學校

山口縣山口市
 山口縣師範學校

山口縣美禰郡
 大田小學校職員兒童

山口縣佐波郡
 西浦小學校長

山口縣厚狹郡
 厚東小學校

山口縣宇部市
 長門工業學校職員生徒
 宇部高等女學校職員生徒

山口縣熊毛郡
 阿月小學校

山口縣佐波郡
 四浦小學校

山口縣豐浦郡
 豐浦中學校
 豐浦小學校

山口市
 山口高等家政女學校

山口縣豐浦郡
 神田補習學校小學校敎員一同
 神田補習學校小學校生徒兒童一同

山口縣佐波郡
 八坂小學校
 小野小學校
 柚木小學校

山口縣豐浦郡
 吉母小學校

山口縣佐波郡
 向島小學校

山口縣宇部市
 宇部工業學校々友會

山口縣吉敷郡
 名田島小學校

山口縣厚狹郡
 興風中學校

山口縣豐浦郡
 淸末小學校

山口縣玖珂郡
 深川小學校
 鳴門小學校職員兒童

山口縣豐浦郡
 小串小學校

山口縣都濃郡
 長穗小學校

山口縣佐波郡
 伊賀地小學校

山口縣熊毛郡
 室津小學校
 三輪小學校

山口縣玖珂郡
 乙瀨小學校
 杭名小學校

山口縣厚狹郡
 船木實科高等女學校

山口縣玖珂郡
 賀見畑小學校

山口縣佐波郡
 第一右田小學校職員兒童一同

山口縣大津郡
 通小學校職員
 通推算實踐學校

山口縣都濃郡
 下松工業學校

山口縣玖珂郡
 河山小學校

山口縣大島郡
 城山小學校職員兒童
 三蒲小學校

山口縣玖珂郡
 米川小學校職員兒童
 廣東小學校
 柱野小學校
 南桑小學校
 天尾小學校
 玖西高等實業女學校
 麻里布第二小學校

山口縣熊毛郡
 淺江小學校
 習成小學校
 三丘小學校

山口縣都濃郡
 笠戸小學校
 公集小學校
 沼城小學校
 須摩小學校

山口縣佐波郡
 串小學校
 野島小學校

山口縣吉敷郡
 阿知須小學校

山口縣豐浦郡
 玉司小學校
 殿居小學校
 豐東小學校

山口縣美禰郡
 伊佐小學校
 伊佐實業公民學校

山口縣阿武郡
 福田小學校

山口縣下關市
 生野小學校

山口縣玖珂郡
 麻里布第三小學校

山口縣大島郡
 冲浦西小學校職員兒童

山口縣吉敷郡
 仁保小學校

山口縣玖珂郡
 西黑小學校職員兒童

山口縣大島郡
 安下庄小學校

山口縣玖珂郡
 栗谷小學校

山口縣熊毛郡
 麻里布小學校
 馬塲分敎塲
 栗田布施小學校
 國木小學校
 麻里府小學校
 西田布施小學校

山口縣都濃郡
 福川小學校
 福川實業公民學校
 深浦小學校
 中須小學校
 
山口縣佐波郡
 冨海小學校

山口縣吉敷郡
 大富小學校
 宮野小學校
 宮野實業公民學校
 井關小學校

山口縣厚狹郡
 須惠小學校
 厚狹高等女學校

山口縣豐浦郡
 實津小學校
 田部高等女學校
 楢崎小學校
 西市小學校
 小月小學校
 楢崎村上久野
 赤十字少年團
 手洗小學校
 岡枝小學校
 栗野小學校

山口縣美禰郡
 嘉石小學校
 本鄕小學校
 重安小學校

山口縣大津郡
 角山小學校
 日置小學校職員兒童

山口縣阿武郡
 佐々並小學校職員兒童

山口縣萩市
 越ヶ濱小學校
 椿東小學校
 明倫小學校

山口縣下關市
 彦島小學校
 文關小學校

山口縣佐波郡
 華城小學校

山口縣玖珂郡
 遠崎小學校

山口縣美禰郡
 大嶺小學校

山口縣阿武郡
 大嶺小學校
 池福實業補習學校

山口縣大島郡
 平郡西小學校

山口縣豐島郡
 二見小學校

山口縣大島郡
 關蒙小學校

山口縣玖珂郡
 愛宕小學校

山口縣熊毛郡
 祝島小學校

山口縣都濃郡
 小畑小學校
 戸田小學校

山口縣佐波郡
 向島女子青年團一同
 馬神小學校

山口縣大津郡
 俵山小學校
 宗頭小學校

愛知縣會議事堂地内
 愛知縣敎育會

宮崎縣東臼杵郡
 上南方小學校

宮崎縣北諸縣郡中鄕村
 二俣小學校

宮崎縣北諸縣郡
 繩瀨小學校

宮崎縣東臼杵郡
 鬼神野小學校

熊本縣玉名郡
 米富小學校

大阪府八尾町
 八尾中學校

熊本縣玉名郡
 府本小學校

大阪市北區
 都島工業學校

大阪府
 堺中學校

富山市總曲輪
 富山縣敎育會扱ヒ

富山縣上新川郡
 上瀧小學校職員兒童
 大庄小學校
 文珠寺小學校

富山縣中新川郡
 滑川區城小學校
 三鄕小學校
 東種小學校
 日中上野小學校

富山縣下新川郡
 下中島小學校
 上中島小學校
 松倉小學校
 下野方小學校
 加積小學校
 經田小學校
 田初小學校
 田家小學校
 石田學校
 入善小學校
 泊區城小學校

富山縣婦夏郡
 速星小學校
 池多小學校
 宮川小學校
 室牧小學校

富山縣射水郡
 二上小學校
 橋下條小學校
 大江小學校
 枚生津小學校
 堀岡小學校
 七美小學校
 大門小學校
 野村小學校
 淺井小學校
 二口小學校
 櫛田小學校
 大島小學校
 塚原小學校

富山縣氷見郡
 上伊勢小學校
 連川區城小學校
 碁石小學校
 藪田小學校
 宇波小學校

富山縣東蠣波郡
 井波區城小學校
 東山見小學校
 城端小學校
 南山田小學校
 山田小學校
 東中江小學校
 利賀小學校
 出町小學校
 中田小學校

富山縣西蠣波郡
 石動小學校
 福光區城小學校
 廣肥館小學校
 北蟹谷小學校
 鷹栖小學校
 立野小學校
 赤丸小學校

富山縣射水郡
 作道小學校

富山縣下新川郡
 生地小學校

富山市
 富山縣敎育會事務所

熊本縣玉名郡
 東鄕小學校

岡山勝田
 梶並小學校
 梶並公民學校

福井縣
 福井縣敎育會

宮崎縣東臼杵郡
 草川小學校

宮崎縣北諸縣郡
 高崎小學校

岡山縣後月郡
 三原小學校

熊本縣
 山鹿高等女學校

栃木縣
 栃木縣敎育會

熊本縣八代町
 八代成美高等女學校

廣島市
 廣島縣敎育會扱ヒ

廣島縣加茂郡
 廣東小學校

廣島縣安佐郡
 山本小學校
 東野小學校
 伴小學校
 戸山小學校
 小川内小學校
 大林小學校
 深川小學校
 小峠小學校
 綠井小學校
 八木小學校
 虹山小學校
 可部小學校

廣島縣佐伯郡水内村
 水内村女子靑年團

廣島縣賀茂郡
 野路南小學校

福岡市
 福岡縣敎育會扱ヒ

福岡縣久留米市
 昭和高等女學校
 久留米淑德女學校
 久留米家政女學校
 久留米小學校
 國分小學校
 莊島小學校
 篠山小學校
 京町小學校
 南薫小學校
 鳥飼小學校
 長門石小學校
 金丸小學校
 國分小學校

福岡縣小倉市
 小倉中學校
 天神島小學校
 日明小學校
 米町小學校
 小倉商業學校
 小倉師範學校
 中島小學校
 三郎丸小學校
 到津小學校
 西小倉小學校
 富野小學校
 足立小學校
 淸水小學校
 堺町小學校

福岡縣門司市
 門司實科女學校
 門司小學校
 小森江小學校
 日野浦小學校
 錦町小學校
 淸見小學校
 古城小學校
 松本小學校
 庄司小學校
 大里小學校
 大里尋常小學校
 丸山小學校
 小森江第二小學校
 向野江小學校
 大積小學校
 柄杓田小學校
 門司商業學校

福岡縣八幡市
 八幡小學校

福岡縣大牟田市
 大牟田商業學校
 第一小學校
 第二小學校
 第三小學校
 第四小學校
 第五小學校
 第六小學校
 第七小學校
 川尻小學校
 三里小學校
 大牟田小學校
 三川小學校
 大牟田工業學校
 加賀田實科女學校

福岡縣直方市
 直方高等女學校

福岡縣粕屋郡
 箱崎小學校
 志免小學校
 志免第二小學校
 宇美小學校
 須惠小學校
 勢門小學校
 山田小學校
 小野小學校
 席内小學校
 勝馬小學校

福岡縣遠賀郡
 東筑中學校
 大辻中學校
 遠賀農學校
 吉木小學校
 内浦小學校
 香用小學校
 山田小學校

福岡縣鞍手郡
 劍小學校
 太の浦第三小學校
 宮田小學校
 笠松小學校
 太の浦第一小學校
 太の浦第二小學校

福岡縣郡粕屋

福岡縣朝倉郡
 小石原小學校
 朝倉農蠶學校

福岡縣甲良郡
 金武小學校
 内野小學校
 田隈小學校
 入部小學校
 曲淵小學校
 壹岐小學校
 淺島小學校
 脇山小學校

福岡縣糸島郡
 小呂小學校
 糸島中學校
 糸島農學校
 糸島高等女學校

福岡縣浮羽郡
 竹野小學校

福岡縣三潴郡
 江上小學校

新田小學校
 三潴小學校
 西牟田小學校

福岡縣三門郡
 中學傳習館
 柳河小學校
 柳河盲學校
 矢留學校
 豐原小學校
 二ッ河小學校
 濱田小學校
 本鄕小學校
 淸水小學校
 山川西部小學校
 山川南部小學校

福岡縣三池郡
 上内小學校
 駛馬小學校
 二川小學校
 開小學校
 銀水小學校
 手鎌小學校
 倉永小學校
 飯江小學校
 三池小學校

福岡縣京都郡
 苅田小學校
 行橋小學校
 興原小學校
 片島小學校
 白川小學校
 諫山小學校
 黑田小學校
 稗田小學校
 延永小學校
 今川小學校
 泉小學校
 今元小學校
 仲津小學校
 祓鄕小學校
 豐津小學校
 犀川小學校
 上高屋小學校
 鎧畑小學校
 城井小學校
 帆柱小學校
 京都高等實科女學校

佐賀市松原町
 佐賀縣敎育會

宮崎縣北諸縣郡
 宮村小學校

廣島縣佐伯郡
 友和村女子靑年團

宮崎縣北諸縣郡
 志和地小學校

岡山縣苫田郡
 香北小學校

岡山縣
 高松農學校
 高松敎員養成所

宇都宮市旭町
 栃木縣敎育會

岡山縣兒島郡
 山村小學校

熊本縣玉名郡
 長洲小學校

熊本縣下益城郡
 砥用町靑年團

熊本縣玉名郡
 荒尾小學校

宮崎縣東臼杵郡
 北川小學校

關東廳
 旅順中學校職員一同
 旅順工科大學
 水谷彬
 穴澤貞藏
 金州小學校兒童一同
 貔子窩小學校兒童一同
 四年街小學校職員一同
 撫順中學校職員一同
 蓋平公學校兒童一同
 海城小學校職員
 公主嶺小學校兒童一同
 公主嶺家政女學校生徒一同
 蘇家屯小學校兒童一同
 撫順高等女學校職員一同
 鳳凰小學校職員生徒一同
 撫順千金小學校職員一同
 鞍山小學校兒童有志
 大連市實業學校職員生徒一同
 南滿洲工業專門學校生徒一同
 蓋平小學校兒童有志
 蓋平幼稚園幼兒有志
 撫順公學校一同

宮崎縣北諸縣郡
 横市小學校

宮崎縣東臼杵郡
 内川小學校

名古屋市
 愛知縣敎育會

長崎縣
 佐世保高等女學校

佐世保市
 祇園小學校

大阪府三島郡
 山田小學校

宇都宮市旭町
 栃木縣敎育會

熊本縣玉名荒屋町
 處女會代表 岡崎與市

大分縣玖珠郡
 粟野小學校外四校分

長崎縣南高來郡
 西有家小學校

長崎縣南高郡加津佐町
 山口小學校

長崎縣南高來郡
 口之津第二小學校
 南津山第二小學校
 有賀第一小學校
 龍石小學校

長崎縣南有馬郡
 吉川小學校

長崎縣南高來郡
 南有馬小學校

宮崎縣敎育會
 南那珂郡支會

長崎縣南高來郡
 宮原小學校

岡山縣勝田郡
 勝間田公民學校

長崎縣南高來郡
 有家第三小學校
 島原第一小學校
 口之津第三小學校

長野市
 信濃敎育會扱ヒ

長野縣上伊那郡
 小野小學校
 伊那小學校
 上片桐小學校
 美和小學校
 片桐小學校
 中箕輪小學校
 手良小學校
 東箕輪小學校
 伊那里小學校

長野縣上伊那郡
 南向小學校
 赤穂女子實業學校
 伊那中學校

長野縣東筑摩郡
 鹽尻小學校
 鹽尻實科高等女學校
 朝日小學校
 山形小學校
 笹賀小學校
 廣丘小學校
 芳川小學校
 壽小學校
 和田小學校
 波田小學校
 新小學校
 島立小學校
 島内小學校
 入山邊小學校
 錦部小學校
 五常小學校
 麻積小學校
 坂井小學校
 日向小學校
 東筑摩農學校
 宗賀小學校

長野縣諏訪郡
 諏訪高等女學校
 豐平小學校
 豐田小學校
 平野小學校
 四賀小學校
 富士見小學校
 湖東小學校
 境小學校
 玉川小學校
 泉野小學校
 下諏訪小學校
 下諏訪實科女學校
 高島小學校
 高島實補學校
 高島裁縫專修學校
 宮川小學校
 金澤小學校
 諏訪南部實業中學校
 米澤小學校
 長野縣南佐久郡
 川上小學校
 南牧小學校
 小海小學校
 靑沼小學校
 切原小學校
 臼田小學校
 中込小學校
 野澤小學校
 前山小學校
 岸野小學校
 南佐久郡農林學校
 南佐久郡家政女學校
 南相木小學校

長野縣上伊那郡
 龍東農蠶學校

長野縣南安曇郡
 豐科小學校
 小倉小學校
 堀金小學校
 北穗小學校
 南安曇農學校
 豐科高等女學校
 高家小學校
 南安曇北部農學校
 大野川小學校
 安曇小學校
 南安曇南部農蠶學校

長野縣上水内郡
 柏原小學校

長野市
 長野商業學校
 長野師範學校
 師範附屬小學校
 實科小學校
 後町小學校
 芹田小學校
 三輪小學校
 吉田小學校

長野縣諏訪郡
 落合小學校

長野縣上伊那郡
 赤穗小學校

長野縣埴科郡
 杭瀬下小學校

長野縣更級郡
 更府小學校

長野縣西筑摩郡
 末川小學校
 西野小學校

長野縣埴科郡
 豐榮小學校
 淸野小學校
 森小學校
 屋代小學校
 東條小學校

長野縣諏訪郡
 長池小學校
 上村小學校

長野縣更級郡
 信田小學校

長野縣上縣郡
 武石小學校

長野縣南高來郡南有馬町
 古園小學校

福岡市藥院堀端
 福岡縣敎育會扱ヒ

福岡市
 男子高等小學校
 女子高等小學校
 馬出小學校
 千代小學校
 堅粕小學校
 西新小學校
 原小學校
 八幡小學校
 長尾小學校
 席田小學校
 姪濱小學校
 大名小學校
 當仁小學校
 簀子小學校
 警固小學校
 草江小學校
 檜原小學校
 尾形原小學校
 大濱小學校
 松原小學校
 御供可小學校
 奈良屋小學校
 席田小學校
 吉塚小學校
 冷泉小學校
 縣立高等女學校
 私立福岡女學校
 三宅小學校
 住吉小學校

福岡縣粕屋郡
 志免第三小學校
 仲原小學校
 大川小學校
 篠栗小學校
 久原小學校
 多々良小學校
 香椎小學校
 立花小學校
 靑柳高等小學校
 靑柳小學校
 新宮小學校
 相島小學校
 和白小學校
 志賀島小學校
 西戸崎小學校

福岡縣嘉穗郡
 宮野小學校
 目尾小學校
 大分小學校
 上穗波小學校
 足白小學校
 上山田小學校

福岡縣糸島郡
 前原小學校
 加布里小學校
 深江小學校
 福吉小學校
 一貴山小學校
 長糸小學校
 雷山小學校
 治土小學校
 波多江小學校
 周船寺小學校
 今宿小學校
 元岡小學校
 今津小學校
 北崎小學校
 櫻野小學校
 芥屋小學校
 小富士小學校
 可也小學校
 瑞海寺小學校
 玄界小學校

福岡縣三井郡
 御原小學校
 山本小學校
 草野小學校
 大橋小學校
 金島小學校
 善導寺小學校
 三井實業高等女學校

福岡縣三潴郡
 安武小學校

福岡縣山門郡
 柳河高等女學校
 山門高等實業女學校
 城内小學校
 宮永小學校
 兩開小學校
 四垣小學校
 中島小學校
 六合小學校
 大和小學校
 藤吉小學校
 矢ヶ部小學校
 三橋小學校
 埀見小學校
 中山小學校
 上庄小學校
 下庄小學校
 太神小學校
 大江小學校
 水上小學校
 山川北部小學校
 三橋國民家政女學校

福岡縣八女郡
 八女農學校
 八女高等女學校
 私立黑木高等女學校
 福島小學校
 三河小學校
 北山小學校
 白木小學校
 邊春小學校
 串毛小學校
 大淵小學校
 矢部小學校
 笠原小學校
 星野小學校
 豐岡小學校
 北川内小學校
 松崎小學校
 川崎小學校
 上妻小學校
 忠見小學校
 長峯小學校
 上廣川小學校
 中廣川小學校
 下廣川小學校
 羽犬塚小學校
 八幡小學校
 古川小學校
 渡内小學校
 枝折小學校
 仁田小學校
 田代小學校
 劔持小學校
 平野小學校
 飯干小學校
 高巣小學校

福岡縣八女郡
 小野小學校
 椋谷小學校
 久木原小學校
 上横川小學校
 東山小學校
 下横川小學校
 尾久保小學校
 松原小學校
 二川小學校
 水洗小學校
 下妻小學校
 古島小學校

福岡縣三池郡
 岩田小學校
 玉川小學校
 銀水小學校
 江浦小學校

福岡縣企救郡
 松ヶ江小學校

福岡縣田川郡
 中元寺小學校
 添田小學校
 三井小學校
 大峯小學校
 田川小學校

福岡縣京都郡
 節丸小學校
 伊良原小學校
 椿市小學校
 南原小學校

福岡縣浮羽郡
 妹川小學校
 吉井小學校
 御幸小學校
 千年小學校
 小鹽小學校
 水分小學校
 山春小學校
 田主丸小學校

福岡縣三井郡
 合川小學校
 上津荒木小學校
 高良内小學校
 御井小學校
 山川小學校
 弓削小學校
 宮ノ陣小學校
 味坂小學校
 北野小學校
 大城小學校
 大堰小學校
 本鄕小學校
 大刀洗小學校
 立石小學校
 三國小學校
 小郡小學校

長崎縣南高來郡
 口之津第一小學校
 有家第二小學校
 長崎縣久田小學校(金五圓也)

帝國敎育會
 (金壹百五拾七圓四拾八錢也)

 其二
大阪府中河内郡天美村
 布忍小學校

宮崎縣兒湯郡
 高鍋小學校外十九校(兒湯郡敎育會友枝小學校滋賀縣栗太郡扱ヒ)

福岡市藥院堀端
 福岡縣敎育會扱ヒ

福岡縣築上郡
 上城井小學校
 下城井小學校
 築城小學校
 八津田小學校
 推田小學校
 葛城小學校
 角田小學校
 岩丸小學校
 畑小學校
 川内小學校
 鄕山小學校
 西友枝小學校
 東上小學校
 宇島小學校
 三毛門小學校
 黑土小學校
 西吉富小學校
 友枝小學校
 唐原小學校
 東吉富小學校
 寒田小學校
 原井小學校
 築上高等女學校
 推田高等實業女學校
 大分縣速見郡東山香小學校
 (金壹圓也)

帝國敎育會
 (金七百貳拾壹圓四錢也)

滋賀縣廳學務部内
 滋賀縣敎育會扱ヒ

滋賀縣立
 愛知高等女學校生徒一同
 日野高等女學校職員生徒一同
 虎姫中學校

滋賀縣栗太郡
 笠維小學校職員兒童

滋賀縣東淺井郡
 七尾小學校

滋賀縣大津市
 大津市高等女學校
 大津小學校
 大津西小學校
 大津東小學校
 藤尾小學校

滋賀縣栗太郡
 草津小學校

滋賀縣犬上郡
 高宮小學校

滋賀縣栗太郡
 大寶小學校
 上田上小學校

滋賀縣神崎郡
 八幡小學校

滋賀縣栗太郡
 治田小學校
 物部小學校
 瀨田小學校

滋賀縣東淺井郡
 東草野小學校
 下草野小學校
 上草野小學校
 湯田小學校
 田根小學校
 小谷小學校
 虎姫小學校
 速水小學校
 朝日小學校
 竹生小學校
 大鄕小學校

滋賀縣栗太郡
 常盤小學校
 下田小學校
 志津小學校

滋賀縣立
 彦根工業學校

滋賀縣愛知郡
 東小椋小學校
 高野小學校
 角井小學校
 西押立小學校
 八木莊小學校
 秦川東小學校
 秦川西小學校
 日枝小學校
 稻小學校
 葉枝見小學校

滋賀縣栗太郡
 大石小學校

滋賀縣蒲生郡
 八幡小學校

滋賀縣立
 神崎商業學校

滋賀縣蒲生郡北都佐村
 代表 北都佐村長

滋賀縣立
 八日市中學校

滋賀縣栗太郡
 老上小學校

滋賀縣愛知郡
 稻枝小學校

滋賀縣栗太郡
 葉山小學校

福岡縣甲賀郡
 石部小學校
 三雲小學校
 岩根小學校
 下田小學校
 伴谷小學校
 永口小學校
 大野小學校
 佐山小學校
 土山小學校
 鮎河小學校
 山内小學校
 油月小學校
 宮小學校
 龍地小學校
 寺庄小學校
 貴生川小學校
 北杣小學校
 南杣小學校
 朝宮小學校
 小原小學校
 多羅尾小學校

福岡縣敎育會扱ヒ

福岡縣朝倉郡
 甘木小學校友會員

福岡縣八女郡
 黑木小學校

信濃敎育會
 (金貳拾貳圓拾五錢也)

群馬縣附屬小學校
 (金參圓四拾八錢也)

横濱市長扱
 (金壹千參百參圓也)

兵庫縣敎育會
 (金參千四百〇七圓五拾貳錢也)

三重縣志摩郡敎育會
 (金貳拾貳圓四拾參錢也)

靑森縣石川小學校 靑訓處女會
 (金七圓七拾八錢也)

神奈川縣吉野校
 (金七圓貳拾六錢也)

神奈川縣鳥屋校
 (金拾五圓也)

岡山縣味野高等女學校
 (金拾五圓也)

長野縣倉科小學校
 (金七圓也)

愛媛縣田原町中學校
 (金壹圓也)

大分縣敎育會
 (金壹圓也)

縣内(本會扱)
 (金貳千四圓四拾七錢也)

 西磐井郡部會
 遠野高等女學校
 岩手中學校
 紫波郡部會
 西磐井郡部會
 九戸郡伊保内小學校
 遠野中學校
 稗貫郡湯本小學校
 上閉伊郡上宮守小學校
 一ノ關高等女學校
 盛岡商業學校
 岩手縣立工業學校
 盛岡市山岸小學校
 盛岡農學校
 盛岡市城南小學校
 岩手縣師範學校
 水澤高等女學校
 福岡中學校
 水澤商業學校
 岩谷堂高等女學校
 水澤農學校
 一戸高等女學校
 黑澤尻高等女學校
 女子商業學校
 女子師範學校
 稗貫郡八日市小學校
 膽澤郡第三支會
 千厩蠶業學校
 花巻中學校
 二戸郡淨法寺支部會
 九戸郡五日市小學校
 一ノ關中學校
 岩手郡沼宮内小學校
 東磐井郡南部支會長
 稗貫郡大迫小學校
 岩手郡本宮小學校
 岩手郡中野小學校
 岩手郡川目小學校
 岩手郡部會第三區會
 二戸郡荒澤支部會
 和賀郡第一支區會
 江刺郡西部支部會
 稗貫郡部會第五區會
 岩手郡篠木小學校
 江刺郡部會北部支會
 稗貫郡部會第一區會
 和賀郡左草小學校
 江刺郡南部支會
 膽澤郡第四支部會
 同   第二支部
 岩手郡瀧澤小學校
 下閉伊郡宮古支會
 膽澤郡南方小學校
 盛岡市部會長
 氣仙郡世田米支會
 岩手郡第三區會
 稗貫郡第五區會長
 和賀郡部第三支會
 東磐井郡北部支會
 稗貫郡矢澤小學校
 九戸郡第一支會
 東磐井郡西部支會
 和賀郡第四支會
 和賀郡黑岩小學校
 九戸郡第二支會
 九戸郡第一支會
 東磐井郡南部支會
 九戸郡第六支會
 氣仙郡世田米地方部會
 岩手郡第二區會
 岩手郡巻堀小學校
 二戸郡福岡支部會
 同     會長

     ー以上ー

昭和九年九月二十五日印刷
昭和九年十月一日發行
(非賣品)

編輯者兼發行者
社團法人
岩手縣敎育會

岩手縣盛岡市窪田第二地割外加賀野小路七八
右代表者 鈴木重男

印刷者
盛岡市内丸十番戸
   山口德治郎

印刷所
盛岡市内丸十番戸
   山口活版所

發行所
岩手縣敎育會
岩手縣廳敎育課内
振替口座東京二,〇二九番