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序にかえて

 これは,昭和46年ころ,東京大学理学部地球物理学教室の新館工事に当って,同教室から地震研究所に移管された地震記象・図書などの中にあった「地震報告 静岡県其二」の全文である.同書には,このほか静岡県下の濃尾地震の報告も含まれているが,それは省略した. ここに掲載したものは,既に羽鳥(羽鳥徳太郎,1976,安政地震(1854年12月23日)における東海地方の津波・地綾変動の記録一明治25年静岡県下26ケ町村役場の地震報告から一地震研究所彙報51,13-28)によって整理され,報告されているが,原資料の全文をみたいという要望が強く,萩原尊礼地震予知連絡会会長からの要請もあったので,解読の上,印刷に付することとした.原文の誤字・あて字はすべてそのままとした.明らかな誤字の場合は(ママ)と傍注をし,前後の関係から推測できる正しいよみ方を傍注に記した場合もある.解読には地震研究所上田和枝技官が,とりまとめには宇佐美龍夫教授が当った.ここに記して,謝意を表する次第である.  明治25年に設立された震災予防調査会の事業の一つに,古地震に関する資料の収集がある.その一環として明治25年に静岡県に収集依頼したものの回答が,本報告の内容となっている.回答は県下26名のものからあった.回答は県でとりまとめ,翌明治26年12月および27年1月に東京大学に送られた.本調査の質問事項は(甲)海噛に関するロ碑又は記録に伝る各般の事項及右に係る土地の変遷(乙)五拾年内外以来海底の浅深に変遷ありしやの2項目であったらしい.したがって,回答の内容は,必ずしも安政元年11月4日(1854年12月23日)の東海沖地震に限定されない.しかし,この地震に関する資料が大部分を占めていることも事実である.


 この小冊子が,昨今話題に上っている東海大地震の謎をとく一助となることを望んでいる.


昭和52年1月1日


東京大学地震研究所長

目次

東京大学総長から静岡県知事宛の礼状(明治27年1月20日)・・・・ 3 静岡県知事から東京大学総長宛の回答(明治26年12月25日)・・・ 3

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目次1
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目次2

地震報告静岡県其二

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廿七年一月二十日

 理科大学長総長 書記官帝国大学坤第五五八号案客年十二月廿五日付ヲ以テ地震学地理学研究上二関シ貴県下市町村其他共二十五名ヨリ被差出候調書御廻送相成正に領収右ハ調査上便宜ヲ得ヘキ儀ニテ是御彼手数之至二侯此段及御挨拶候也 廿七年一月 日        総長  静岡県知事宛


----------------------------------------帝国大学坤第五五八号一第三七七五号地震学地理学研究上に関シ県下沿海各地取調之義客年十月坤第五五八号ヲ以テ御依頼ニヨリ夫々相達置候処別記ノ者より別紙調書差出候二付別相添此度及御回答侯也 明治廿六年十二月廿五日        静岡県知事 小松原英太郎 静岡県知事印東京大学総長 浜 尾  新殿


----------------------------------------   賀茂郡城東村奈良本 太田貞幹(二?)   同  仁科村 藤野圭三   駿東郡原町長 長沢市平   同  片浜村東間門 市川忠平   同  楊原村長 奈良橋儀八   同  静浦村口野 古屋与一郎   富士郡田子浦村 渡辺藤三郎   庵原郡江尻町 山岸金次郎   同  由比町 石切山純一   同  蒲原町 小長谷道貫   同  興津町 深津清三郎   有渡郡清水町長 鈴木平六   同 不二見村   同  長田村長 古知次郎太郎   榛原郡御前崎村長 釜下園右衛門   同  川崎町長 中山猪蔵   同  吉田村長 吉永七六   同  白羽村長 加藤源七   城東郡池新田村 赤堀伴作   同  千浜村長 岡田仙次郎代り助役   同  三浜村三津村村長 八木穂孫   同  佐倉村長 清水喜作   豊田郡袖浦村 坂口平次郎   同  長野村鮫島 鈴木八平   山名郡福嶋村長 青山嘉四郎二部十五通

(甲)海嘯二関スル旧記及伝聞

明応七年戊午之海嘯ハ波頭寺川ハ村ノ字大堰アリ海岸ヲ距ル事凡十五六町ニ在リ後百十六年慶長十八年発丑十二月十六日ノ海嘯ニハ波頭垣ノ内縄手ニ垣ノ内ハ田園ノ字ナリ海岸ヲ距ル八町許達ス後九十年ニシテ元禄十六(ママ)年発未歳十一月廿三日癸大地海嘯アリ下田ハ人家襲人多ク死ス 以上佐波神社ノ記録二見ユ安政元甲寅歳十一月四日朝今ノ十時頃地大二震ヒ次テ海嘯トナル波頭旧正円二達ス是亦地名海岸ヲ距ル四町許下田町ハ人家流失人多ク死ス魯艦船底ヲ損ス 伝聞伊豆加茂郡三浜村二伊浜ト称スル村落アリ邑ノ北三局燈籠山アリ海角ノ高山ニシテ十数州ヲ望ムヘシ邑人常二秣ヲ此山二取ル安政元甲寅歳十一月四日邑人某同山二登ル俄ニシテ地大二震フ已ニシテ西方二爆声ヲ聞ク百雷ノ響ノ如シ之ヲ望メハ巨大ナル水柱ノ如キ者海面二隆起シテ空際二登リ忽チ晦瞑暗黒トナリヌ忽チ変シテ巨大ナル水輪トナリ下田及伊豆諸島二向テ進行シ一方ハ駿河湾二向テ進行ス水柱ノ処ハ忽チ凹キ事雷盆ノ底ノ如ク暫時ニシテ水又凸ヲ為シ一凸一凹数回ノ後海上漸ク収マル某氏何ノ故タルヲ知ラス唯奇異ノ感ヲナス還テ而シテ之ヲ聞ケハ海騙ナリ上否套夜西風波誓起ス翌朝雲見嶽高灯篭山ト相連ル海角ヨリ以北宇久須二至ル宇久須村名雲見岳ヨリ同村ニ至ル沿岸五里強海岸幾千万ノ大口魚漂着スルヲ見ル魚体尾ヲ落シ首ヲ脱シ腹裂ケ肉破レ肉裏白砂ヲ含ンテ食フニ携ヘス間々半生半死ノ者アリ案スルニ豆遠両国ノ中間二瀬アリ瀬ノ海ト称ス深キ者三四百尋浅キ者二三拾尋ノ処アリ蓋シ富士函嶺ノ火脈伏行シテ瀬ノ海二通シ安政甲寅ノ海嘯ハ共火脈ノ裂破ヲ来タシタルニ因ル者ナラン前ノ水面隆起ハ火脈破裂ノ処ニシテ海嘯ノ源ナリ大口魚ノ死ヲ致シタルハ猶水雷火二撃タレタルカ如シ某農夫ハ其後肺病二罹リ治療ヲ我家二受ク故二親シク共人ノ談話ヲ聴タル者也以上列記スル如ク明応七年ヨリ安政元年二至ル三百五十六年之間我豆州ハ四回ノ海嘯ニ罹ル何ソ如斯夫レ災異ノ多キヤ安政ノ如キハ見テ而シテ之ヲ知ル明応慶長元禄ノ如キハ旧記二依リテ而シテ之ヲ知ル而シテ四回ノ海嘯明応ヲ以テ最トス其惨情想フヘシ記シテ識者ノ参考ニ供ス 以上(甲)ノ御尋問二答フ以下数条御尋問外二属スト難トモ地震学地理学研究上必須ト云二因リ類ヲ推シ記シテ御参考二供ス ○貝殻附着ノ巌隣村大田子邑名硯巌アリ海岸ヲ距ル凡十八町海面ヲ出ル凡四十丈此巌諸種ノ貝殻二面二附着ス往古海中ノ巌タルヲ徴知スヘシ然レトモ何ノ時代二桑海ノ変アリシヤ知ルニ由ナシ此類ノ岩他ニモアリ ○貝紋石天城山嶺続ロニニ層滝又島次郎旗立巌等アリ海岸ヲ距ル凡三里余海面ヲ出ル凡三百丈此辺二散在セル石磨耗シテ其面円滑幾ント海中ノ石二異ナラス之ヲ破砕スレハ破裂面二種々ノ貝殻ヲ印シタル鮮明ノ紋ヲ見ル之ヲ貝紋石ト称ス此石貝紋アルヲ以テ観レハ海中二凝集セル石タル事必セリ其所在地ハ当国最高ノ咎梯在テ豆国ハ国初以来存在セル旧国也古事記諾冉ニ尊伊豆及諸島ヲ経営シタル事ヲ記ス旧国ト云ヘシ是二由テ之ヲ観レハ蓋シ我皇国人類未タ生セサル以前ハ海底ノ一暗礁ニシテ大震災等ノ天変ノ為二隆起シテ一国土ト成リタル者敷記シテ識者ノ考案二供ス(乙)五十年以来海底及ヒ海岸二高低ヲ生シタルヲ聞カス仮令多少ノ変動アリシモ漁民ノ性質トシテ迂潤二観過シ意二介シテ之ヲ測知スル者二非ス故ヲ以テ之ヲ弁スル能ハス特二駿州薩埋下二砂場ヲ生シタル安政ノ地震後ノ事ト聞ク其地方二就テ聞カサレハ虚実ヲ弁明シ難シ 附説 予嘗テ豆州ヲ一巡シテ東海岸二至ルニ火脈破裂後躁跡ヲ認ム火山灰糯米石ノ焼テ浮石トナリタル者其他地層ノ変加茂郡二池村アリ古池アルヲ以テ名ック其池深キ事何丈ナルヲ知ラス蓋シ古代火脈此二破裂シタ噴火ロニハ非ル敷西海岸ニハ絶テ噴火ノ躁跡ヲ認メス大島三宅二島ノ火脈相連通スルハ一休一噴互二相噴火スルヲ以テ明カニ人ノ知ル所ロナリ  右依命記   那賀郡仁科村   明治二十五年十一月廿二日  藤野圭二

地震学地理学研究等ノ必須二付御照会ノ廉御答

甲ノ答 土地変一遷記録・古老ノロ碑共他一切証トスヘキモノ更二無冊御座候乙ノ答 海岸ノ古老二就キ近クニ於テ水ノ浅深ヲ間ヒシニ去ル安政元年甲寅十一月四日豆相駿地大二震ヒ下田海嘯明治十年暴風怒簿ノ為メニ海岸大破シ夫ヨリ何トナク少シク風等ノ時ニハ波打上ケ舟曳場二囲置候漁船等破船侯事時々有之侯考ルニ怒簿ノ為メニ海岸ノ地肉ヒケ夫(ママ)クカ故二陸地二打上ケ候儀文ハ海嘯ノ為メニ地形変化アリシヤ更二其論トスヘキ処ナシ因ヲ之レヲ海岸波打ノ絶壁ナル処ニヨリテ平日試ムルニ更二変更之レナシ然レトモ打上方平日ハ昔年二異ナル事ナケレトモ少シノ風波ノ時ニハ陸地二打上ル事多キヲ考レハ絶壁二付何尺何寸ト分明二証スヘキハナケレトモ少シク地形二変更ハ無之候トモ愚 考仕侯海岸波打上リ方ハ城東村二限ラス何レモ同様ノ儀ト承り候愚考ヲ以テ申上候儀二 而確証トスヘキ事更二無之此段参考ノ為右申上候先般御照会二付別紙ノ通参考ノ為御回答二及上侯也   城東村奈良本     太田貞幹 印 明治十五年十一月廿八日 賀茂郡書記 碓井金吾殿 ----------------------------------------庶第一〇三号ノ一地震学地理学等ノ研究上必須ノ廉有之沿海各地ノ古老又ハ観測篤志者二就キ左ノ事項尋問致精細二取(ママ)細報告相成処旨御依頼了承有ハ当町原古老奈木長吉ナル者二尋問致シ取(ママ)細御回報侯也   静岡県駿東郡原町長     長沢市平 静岡県駿東郡原町長長沢市平公印 明治廿五年十一月三十日 帝国大学総長文学博士 加藤弘之殿 (甲) 安政元年十一月四日快晴ニシテ至テ穏ナル日ナリシカ午前第九時頃旧時ノ五ツ半頃頃俄然西南海二当リ大二鳴動シテ強震トナリ同十一時頃海面三局浪起リ忽チ東西二分レ束ハ本郡江ノ浦湊近辺西ハ当国有渡郡清水湊近傍ノ海岸エ押登リ所々非常ノ海嘯ニテ人畜死傷流家等夥シキモ幸ニシテ当町ハ該害ヲ蒙ムラサルモ正午頃ニハ激浪トハナリシカモ海嘯ト申スニハ無之キモ同日ヨリ昼夜数拾回ノ地震アリシ為メニ各白何れモ竹籔或ハ原野等へ小屋掛ケヲ設ケ居住シ職業ニハ更二従事セス十二月下旬二至リテ漸ク各白ノ家屋内へ移リ職業ヲナセシナリ (乙) 安政元年十一月四日午前第九時頃ヨリ数拾回ノ地震アリシ為メニ当町原字西山神道ト唱フル海岸ヨリ隔ツル七百四拾尺ノ沖合(東西三百尺南北百八拾尺)九百尺ハ従前三百尺ノ深サニテ小魚ノ留リ所ナリ往昔ハ漁獲多カリシモ地震後百六拾尺ノ海底ト変シ其後更二漁獲無之キモ海上通船ノ害ニハ相成不申侯

地震学二関スル報告書

甲ノ部口碑二伝フル所二依レハ去ル安政元年十一月四日午前十時頃大地震ノ節当片浜村東間町海岸凡六拾間欠崩シ屏風ヲ立ツル如キ形状ヲナシ同所二在リシ網船及松樹ハ根付キシ儘漂流シ為メニ海岸海底共頗ル高低ヲ生シ字松林続キ官林内各所二洞穴ヲ生シ同所妙伝寺所有地字寺田町田面ヨリ砂石及濁水ヲ噴出シ反別五反歩余満水シ殆ト近傍ノ人家ヲ浸水セントス該地ハ減水ノ后変シテ砂石ノ河原トナリ又海岸波打際ヨリ凡拾弐間ヲ隔テ東西間門ノ境ナル字浜地二長五拾間幅八間許凹陥シ小池ヲナシタリト云フ然レ共其后漸次修治ヲ加へ旧二復シ田面ハ畑地二復シ当時ノ実況ヲ証スル材料ナキヲ以テ詳細ノ調査ヲ要スルヲ得ス又乙ノ部右震災二付同所ノ海底モ頗深浅ヲ生シタレ共測知スルニ由ナク別紙陸地二係ル旧被害地図面(図1)添付此段及報告候也   静岡県駿東郡片浜村東間門四十三番地     市川忠平 印 明治十五年十二月十四日 帝国大学総長文学博士 加藤弘之殿 ----------------------------------------第四七五号地震学地理学研究上必須之廉取調方本年十月中御依頼相成処本村二於テ久敷里人ノロ碑二伝フルモノ別紙図中(図2)記載之通各条此度及御報告侯也 明治廿五年十一月三十日   駿東郡楊原村長 奈良橋儀八 静岡県駿東郡楊原村長 奈良橋儀八 帝国大学総長文学博士 加藤弘之殿 ----------------------------------------(甲) 安政元年十一月四日天気清朗寒気甚シク結氷強シ午前九時頃西南ノ方二当リ地鳴ヲ聞クヤ否ヤ強大ノ地震トナリ次テ海嘯起レリ其高サ水平面ヨリ拾五尺余二達セリ而シテ其引波ノ勢ハ実二甚シク平時ノ干潟ヨリ拾五尺余ナリ故二平素見ル能ハサリシ暗礁顕ハレ嶋興ノ如クナレリ爾後二回海嘯来リ漸次平水二復シタリ此地震若クハ海嘯二基因スルヤ詳ナラサルモ同時(図3)ニ村内大字江浦字中浜ノ寄洲長武丁巾壱丁大字獅子浜字小浜ノ海岸長三丁巾武十間ノ二箇所ハ欠崩陥落シ深サ各十尋乃至十五尋ノ海面トナレリ (乙)  事実無之右取調御報告候也   静岡県城東郡静浦村口野     古屋与一郎 印 明治廿六年七月廿七日 帝国大学総長 浜 尾  新殿

地震学地理単研究上余考事項取調二対スル答書

本年十月加藤帝国大学総長閣下ヨリ沿海地方ノ古老観測篤志者等二尋問ノ件地方官庁エ申越サレタル趣ヲ以テ調査ノ上報告スヘキ旨諭示ヲ領シ当地海岸ノ沿革二於ケル伝聞変遷模様ヲ記録シ聊カ報答二供セントス不省素トヨリ浅学寡聞其採録周密ヲ欠キ要領ヲ得ル事或ハ難カルヘシト難トモ希クハ海恕アレ (甲) 当富士郡北部ハ富士山其他ノ連峰相接シ地盤頗ル高シト難トモ南部二於ケル四五町村ハ総テ平坦ニテ東西凡ソ三里南北几二里皆膏腺ナル水田ナレトモ上古ハタタ富士川河ロノ一荒原ニシテ当時富士川河ロハ現今ノ流域ヨリ遙カニ東方ニアリ其支流荒原ヲ流レ縦横常ナリ為メニ人畑モナカリシカ富士川本流西方二移リタル后チハ各支川皆干潤シ戴二開拓入便ヲ得テ衆民各地ヨリ移住シ随テ人口漸ク増加シ開墾ノ業益々進ミ数ケノ村落ヲ為スニ至レリ又海岸ノ変遷二就テハ別三記録等ノ存スルナリ事跡詳カナラス只或ル書類ノ中二 延宝八年閏八月六日大津浪(海嘯)大荒ニテ田畑皆水腐シ退転ニ及ヒ其時ノ難儀歳霜ヲ経ルト難トモ未タ忘レ難シ(中略)黒水逆巻来リ只一平ノ海トナリ云云 元禄十二年八月十五日ノ夜大風雨大波起テ田畑皆腐ル此浪庚申年(延宝八年)二競レハ汐湛ユル事二三尺モ高シ云云 万治三年ノ夏ヨリ秋二至ルマテ高浪打続キ波間ナク切落スコトナシ湊(潤井川河ロノ事ナラン)高浜トナリ田畑皆腐レテ更二青キ物ナシ云云右ノ外猶海嘯浸入ヲ受ケタル事アルヘシト難トモ取調ヘキ材料ナシ思考スルニ前記変災当時ノ如キモ静穏二帰スル時ハ随テ浸水退却シ地盤原形変更セシ事蓋シ少ナカラン然レトモ現今海岸ヲ去ル千間内外ノケ所二於テ地下数尺ヲ穿ツ時ハ海岸ニアルモノト同一ナル砂又ハ小石等ノ地層富士川流域ノ砂石ハ甚シク大小不同ナレトモ海岸ニ於ケル砂石ハ其不同ナキヲ以テ判断スアリ是陸地ノ漸々仲出シタルモノニアラスヤ且ツ本郡内ノ河川ハ皆山間ヲ経テ来ルカ故二常二土砂ヲ流下シ富士川ノ如キハ降雨水量増加ノ都度砂石ヲ押流スル事少ナカラス富士郡ヨリ駿東郡沼津町近辺二至ル海岸ハ総ヘテ小石ノミニシテ他ノ海岸ト其状ヲ異ニスルハ富士川ノ砂石押流スルモノ潮水ノ為メ二近隣海岸二打寄セタルモノプラントノ説アリ往昔海岸二浪除堤ヲ築キ(天明八年修繕工事ヲ起シタツ事アリ)暴潮ノ防禦ヲ為ス爾后風潮ノ都度砂石漸ク積集シ一ノ丘陵ヲナシ松樹繁茂セリ (乙) 安政元年地震ノ為メ富士川流域二高低ヲ生シ翌二年ヨリ四年マテ連年富士川破堤シ当村西部大字宮島五貫島地先海岸八百八拾間浪除堤及松林等流亡シ平浜トナル又同時大字川成島海浜突出セシケ所三拾間許流亡シ海面トナリ大字中丸鮫島間ノ海岸凡二十間許流亡シ波打一尋深ノ処二岩石ヲ露出セシ事アリシモ漸次旧形二復シ方今岩石ヲ見サルニ至ル其他海岸ノ異状海底二浅深ノ変遷アル事ナシ 明治廿五年十二月十六日   静岡県富士郡田子浦村鮫島八拾三番地     渡辺藤三郎 印

海嘯ニ関スル取調書

   静岡県庵原郡江尻町 (甲) 海嘯二関スルロ碑記録等ハ安政年間震災ノ際当海湾二起リタルモ僅カニ海岸田畑二浸入セシノミニシテ海瀕ヨリ凡弐丁許ヲ浸セシノミ為二土地ノ変遷ヲ来セシ等ノ事ナシ (乙) 現今当町海瀕ハ五十年以前二比スレハ累年附洲ヲ増加シ概シテ海中へ突出スル事五十間乃至六十間ナリ尚漸々寄洲ヲ増加スルノ状アリ故二水ノ浅深ハ之二随伴スル者ナラント難トモ既往二於テ浅深等ヲ測カリタル事実ナキヲ以テ之レカ比較ヲ為スヘキ実トスル者ナシ当町現況ヲ既往二監ル時ハ海ノ変シテ陸トナリタル如ク察ス現二当町大字出作字大曲ト称スル所巴川ノ細流二臨ミ沿岸二丁許耕地欠落セシ所平地ノ下丈許水上一尺ヨリ五尺許一帯種々ノ貝殻アリ是ヲ熟視スレハ貝中土砂ヲ含ミ貝殻ハ両片付合シ居ル者アリ是等ハ其内全ク腐朽シテ土砂其内二籠含セラルル者ノ如シ此レニヨツテ見レハ地震或ハ海嘯ノ為二土地ノ変遷セシ者ト察ス若シ漸々寄洲等ノ為二陸地ヲ為シタル者トセンカ彼ノ動物ハ海水来去ノ所二随テ居ヲ遷スヘキ者ナリ或ハ往時埋立工事等ノ為メニ埋没セシ者トセンカ斯ク種々ノ貝類群集セル状及貝殻ノ完全セル等大二疑フ可キ者アリ而シテ該川岸諸所二其類アリ然レトモ其年数幾百ヲ経過セシヤハ今由ヘキ書類又ハロ碑ヲ存セス右及報告候也 明治廿五年十二月五日 山岸金次郎

海嘯二関スル取調書

   静岡県庵原郡由比町 (甲) 当町沿岸二海嘯打上ケタル事往古曾テ之ヲ聞カスロ碑二伝へ又ハ記録二存スルナシ唯嘉永七寅年十一月大地震ノ際第一回激震中海水大几二丁余モ干上リ震動ノ梢静穏二帰スル間ナク伊豆国大瀬岬戸田浦辺(当地ヨリ卯辰二当ル)ニ当リ遥カニ山ノ如キ波溝湧起シ遠望スルニ波勢当地方沿岸二向ヒタリト思ヒタリシモ幸ヒニシテ波勢変シ有渡郡王保辺工打上ケタリシ当地方沿岸ニハ通常荒波程ノ余波打寄リタルノミナリシ右震災後当町沿岸何レモ五六間乃至二十間モ潮水引去リ特二大字西倉沢薩垂山旧往還下ノ如キハ古来山際迄平素波打付多シモ潮水二三十間モ引去リ東海道往還ヲ通シ得ヘキ地盤ヲ増シ為メニ山腹ノ道路ヲ廃シ現今ノ道路ヲ新開スル事トナレリ (乙) 前記震災ノ際潮水引去リタル為メ礒辺ノ暗礁露出スルモノ頗ル多シ現今水面上二顕ルル岩石ハ大概旧時水中二隠レタルモノナリ旧時水面ト均等ナリシ岩石二就キ水面トノ高低ヲ量ルニ四尺内外ノ低下トナリタルモノ如シ其他記載スヘキ事項無之候右報告侯也 明治廿五年十二月廿三日 石切山純一

海嘯二関スル取調書

   静岡県庵原郡蒲原町 (甲) 今ヲ去ル百八十五年前元禄十五年中大海嘯アリタルハロ碑又ハ記録等二伝フルモ其当時ノ違動等ハ不詳ナリ (乙) 五十年内外海嘯等無之ト難モ安政元年十一月四日ノ大地震爾後海底二違動アリ既二該地震以前迄ハ当町蒲原沖合二於テ鰌残魚俗沖キスト云フ多ク蒲鉾ダネニ用フノ群集スル深キ所アリシモ震動後五十二尺程直尺ヲ減シ為メニ鰌残魚ノ漁獲絶テ無之全ク海中底下ヨリ生スルモノナリ将海岸一般二近接シテ年一年毎二砂地減縮シテ今ヨリニ十ケ年前二比較セハ殆ント百間以上ヲ海水二蚕食セラレタリ目下現在ノ在所浜金刀比羅神社(同村二百年以前ニ建設ノ社ナリ)等二於ケル其往前ノ所ニ安置スル不能是ヨリ道法ノ測量セハ百十三間ヨ海岸迄ツケリ右報告候也 明治廿五年十二月六日 小長谷道貫

海嘯ニ関スル取調書

   静岡県庵原郡興津町 (甲) 海嘯陸地二揚リシ事ナシ然レトモ安政元年十一月四日朝五ツ時(現今ノ八時ナリ)頃大地震ノ際田子浦ト伊豆ノ間ノ湾内ヨリ激浪突起シテ南ノ間即チ袖師ケ浦二向ヒ打チ来ラントシ又一方ハ薩垣峠ノ沖三保岬ノ東二激浪大二起リ東西ノ激浪相衝突シテ浪勢ヲ挫キシモ東方ノ浪勢西方二優リシヲ以テ三保岬ヲ打越シ進テ当町清見寺西端潟多打川々尻へ打揚リシモ幸ヒ人家耕地等ニハ障害ナシ (乙) 五十年内外以来海底ノ浅深二変遷ナシト難モ安政元年ノ大地震ノ際元ノ浪打際ヲ去ル事半丁計リナリ依テ薩壇山下洞ヨリ由比町大字西倉沢へ達スル東海道此時ヨリ白然人馬通リヲ開キタリ此分口碑記録等ナシ右報告侯也 明治廿五年十二月廿七日 深津清三郎

海嘯ニ関スル事項取調報告書

(甲) 本町ハ宝永年度海嘯ノ災害二陥リシ事アリテ海湾地盤等ノ変化大ナリシト難モ往古二属スルヲ以取調上要領ヲ得ス下リテ嘉永七寅年(三十九年前)大震災ノ当時海嘯ノ景況今古老ノロ碑二由レハ海嘯ハ伊豆海ヨリ当港湾へ襲来セシモ三保岬沖ニテ涛勢一転シ南方洋中へ傾キシ事ヲ目撃セリ故二本町ハ僅二其余波ヲ蒙ムリシニ過キサリシモ海岸ハ勿論陸上地盤大変化ヲ生シタリ将又海嘯起来ノ数時間前二於ケル変況ハ本町沿巴川(清水進口)平素水量壱丈有余ノ川底一時二干潟(絵図ニアリ)トナレリ爾后屡々官へ請ヒ或ハ人民醸金等ヲ以テ入工ヲ加へ洲凌ヒヲ為スモ到底旧形二復スル能ハス目今二至テハ満潮時ニアラサレハ僅二艀下小船ノ如キモ通路ヲ得ス水利ノ不便逐年甚シキヲ感ス (乙) 畿華氷度震災海嘯以来変遷ノ甚シキハ往時大船(日本形千石内外)ノ碇泊セシ個所寄洲ノ為陸地トナリシモノ内川(巴川末流)及港湾沿岸宅地田畑等比々(ママ)然ラサルハナシ現二川幅ノ如キ震災以前ニアリテハ九拾余間アリシ個所ニシテ目今四十余間二過キス而シテ海底ノ変化二至テハ往時深浅測量ノ記録ナキニ由リ其尺度ノ差異判然致シ難シ然レトモ絵図記入ノ如ク巴川末流(港口御蔵下)往時ハ干潮ノ時一丈二三尺ノ水量ナリシモ目今ハ満潮ニテ僅二六尺余リトナレリ以テ全湾漸々埋没スル事ヲ推知スルニ足ルヘシ要スルニ本町及港湾ハ嘉永度海嘯以来地盤全体二隆起シテ追年海底埋没シ白然付寄洲ヲ生スルモノト思量ス其変遷ノ概要御参考ノ為嘉永度震災前后並二目今ノ絵図(図4・5・6)ヲ添フ右及報告候也 明治廿六年七月三十日   静岡県有渡郡清水町     町長 鈴木平六 有渡郡清水町鈴木平六帝国理科大学御中

地震及海嘯二関スル取調書

   有渡郡不二見村 (甲) 海嘯ニ関スルロ碑又ハ記録二伝ル各般ノ事項右二係ル土地ノ変遷 有渡郡不二見村大字駒越増蛇塚ノ三字ノ儀ハ外海二臨ミタル沿海ノ地ニシテ古老二就キ取調ヘタルニ海嘯ニ関スル事項等記録ノ徴スヘキモノハ往昔ヨリロ碑二伝フル所更ニコレナシ去ル安政元年大地震ノ際海嘯アリタレ共土地ノ変遷異状ヲ現出セシ箇所等コレナシ (乙) 五拾年以来海底ノ浅深二変遷アリシヤ否 本村ノ内村松宮加三及駒越等ノ如キハ三保村ト相対シ内湾ノ沿岸ニシテ人家ハ海水面ヨリ高キ事十尺以上ノ地ニシテ従前ハ其直下マテ潮汐セリ去ル安政元年大地震ノ後潮汐大ニ退キ浅瀬又ハ陸地トナリ現今ハ最広三百間以上最狭百間内外ノ地悉ク田畑二変遷セリ海水ノ浅深変化二付テハ前項二述フルカ如ク村落二接近スル海面ハ数十町歩陸二変化シ随テ海底ノ浅深ニモ変化アリ往時二於テハ右内湾ヘハ五百石以上千石以下ノ船碇舶セシ地ニシテ安政元年地震後二於テハ船ノ碇泊ヲナス能ハス海底ハ深キモ漸クニ十尺内外ニシテ一般二地形ノ隆起セシモノト証ス其変化セシハ十尺余二至ルヘシ岩石又ハ材木ノ嘗テ海中二在リシモ海水面以外ノ高キニアルモノ又建築物樹木等ノ残余ヲシテ現今海水中二存在スルモノ等未タ発見セス右ハ村内古老ニ就テ取調及ヒ観測ノ事実概略ノ通ニ候也 ----------------------------------------地震学地理学等之研究上必須之簾有之沿海各地二就キ調査方御照会有之依テ予及御報導候也 (甲) 海嘯ニ関シロ碑又ハ記録等二伝7ル各般之事項及右二係ル土地ノ変遷静岡県有渡郡長田村近海二於テ海嘯ハ去ル弘化年度ニシテ之力為メ沿海二於テ被害ヲ蒙ル概略古老之口碑ヲ伝聞被害及変化況景ヲ記ス時キ弘化年度旧暦六月ヨリ七月至ル壱滴ノ降雨ナク旱抜之害ヲ蒙ムル事甚シ同年七月下旬二至リ気侯忽チ変シ両三回ノ風雨ヲ催フシタリシモ忽チ激浪トナリ波溝二百間以上打揚耕地及宅地等ヲ浸シ人畜ノ死傷人家之流失モ有之一昼夜ニシテ静ル            . 此時二当リ浜地二接続シタル耕地ハ一円砂漠之如ク野菜ハ勿論稲田等忽チ潮入トナリ此被害尤モ夥シ (乙) 五拾年内外以来海底之浅深二変遷アリシヤ往時二於テハ海底深カリシモ嘉永度震災以来海岸ヲ打埋メ或ハ海底ヲ浅カラシメタリ厳岩石磯之如クハ嘉永度震災以降追々打埋メ海岸之距離モ往時ト変遷セリ本村石部字大崩レハ往時漁船ノ往来又ハ碇泊セシ地ナレトモ予メ百間以上寄洲ヲ置キ陸地トナル嘉永度震災以降新規ノ道路ヲ開穿セリ海面崎立スル厳石現今海水中二存スルモノヨリ之ヲ観測スレハ壱間モ上テ潟トナル右予メ調査候処元来古老之口碑ニシテ尤モ詳細ナル調査ヲ要スルヲ不得ト難モ本村之況景及御報告候也 明治廿六年六月   静岡県有渡郡長田村長     古知次郎太郎 静岡県有渡郡長田村長古知次郎太郎帝国大学総長文学博士 加藤弘之殿 ----------------------------------------甲第二四一号本年拾壱月四日付庶第三〇六号御照会ニヨリ地震学地理学研究上二関スル件別紙之通取調侯也 明治廿五年十二月廿三日榛原郡御前崎村長 釜下園右衛門 御前崎村長釜下園右衛門

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府安郡衛受付
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榛原郡明治廿五年

安政元年ノ地震ニ基キ取調ペタルモノナリ

(甲) 海嘯ハ東南ノ沖ヨリ来リ海上拾七八里ノ先ヨリ大山ノ如ク漸次陸地二近ツキ本村ノ岬頭ノ平地ヲ浸水シ直チニ北方即チ駿河湾二向テ進行セリ海嘯ノ来ル前海水凡直立五六間モチ上ガリタル由岬角ノ刻二被害少ナク田畑ヲ浸水セシノミニテ土地ノ消耗ヲ見ズ地震后ハ却テ毎年少許ツツ土地ノ増雇スルヲ見タリ (乙) 地震后海中ハ少シク浅クナリタルヲ覚ユ其前鱗等ノ群集ヒシ岩間等ハ多少変遷ヲナシ鱗漁ヲ廃スルニ至リシ処アリ岬角ノ海岸三四拾間位イハ今日迄二陸地ヲ増シタル有様ニテ地震ノ節ノ浪打際ハ今日田圃ト変セシ処アリ現世ノ建築物ハ海岸ノ増殖ニヨリ昔時五拾間位ノ距離モ今日ハ百間位ヲ隔ツルニ至レリ海岸近クノ海中ハ岩石ノ干潮等ノ節突出スルヲ見レハ凡三四尺ハ浅クナリシカ如シ ----------------------------------------(甲) 海嘯ニ関シ口碑又ハ記録等二伝フル各般ノ事項及右二係ル土地ノ変遷本項更無之 (乙) 五拾年内外以来海底ノ浅深二変遷アリシヤ凡ソ本年以前遠江国榛原郡川崎町静波字港海岸旧幕府二於テ築湊目論見アリ種々測量縄張等モ相済海岸近接地ニシテ全国同郡同町勝俣字秋葉山山桜樹等植付風景ヲ副へ略順備整フモ其后立消トナル併シ右二関シ地形ノ変更海水面等二異動無之降テ五十年以来字港海岸ヨリ几三丁位漸々砂地ヲ現出シ随テニ十丁沖ニテ海水五尋水低浅クナルモ是事著ンク奇影ヲ顕スノ類是ナシ然ルニ安政年間大地震二際シ田畑平均三尺程地形高揚ス為メニ爾来田畑旱害多シ尤モ往古船舶碇泊(ママ)セシ地ニシテ現二洲若クハ陸トナルノ類無之現今ノ建物ニテ海水ヨリノ距離往古六十間位隔リタルモ今日ニテハ凡四丁位隔タリシ有様ニテ海岸砂地々形地面等ハ殊更変遷セリト云フ其他古老又ハロ碑等更二拠ルヘキモノ無之 明治十五年十一月八日 静岡県榛原郡川崎町町長 中山猪蔵 川崎町長中山猪蔵 帝国大学御中 ----------------------------------------庶第四四号   副申   静岡県榛原郡吉田村安政元年十一月五日地震ノ景形取調侯所別紙之通二有之候間進達侯条此段副申仕候也 明治廿六年六月廿日 右村村長 吉永七六 榛原郡吉田村村長吉永七六 帝国理科大学御中

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榛原郡明治廿六年第二五四号

地震ノ景形調書

一、地震ノ年度 安政元年十一月五日午前十時頃 (甲) 一、海嘯二関スル事項当地海岸ノ海水一時二凡拾町程干去リ漁業中ノ船俄然砂礒ノ地二転々タリ漁民狼狽沖合(遠江灘)ヲ見ルニ恰モ立雲ノ如キモノ現レタルヨリスハ海嘯ナリト陸地へ逃去リタリ幸ニ海嘯ハ東方二向ヒタルカ故二其害ヲ免レタリ暫クシテ干去リタルモノ復水ノ浪平常海岸凡百間程陸へ打揚ケタリ如何ナル訳ニヤ大地震動ノ際ニハ浮漁船ノ板子(床板)動揺シサナカラ寒風ノ戸障子ヲ揺ルカ如キ鳴動ヲナシタリ (乙) 一、五拾年内外以来沿岸ノ海底浅クナル事六尺少余当地ハ平坦地ニシテ岩石等モ無之故二変遷ヲ証スル現今ノ標準ハ無之右ハ土地ノ古老二就キ調査ス ----------------------------------------第五拾号兼而御照会相成居候地震学地理学研究上必須ノ事項取調ノ件古老二就キ尋問致候得共本村ノ如キハ震災ノ当時別二土地変遷ナク随テ参考トナルヘキ程ノ事項無之二付別紙聞得シ通リ御報告侯也 明治十六年七月八日   榛原郡白羽村々長 加藤源七 榛原郡白羽村長加藤源七

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榛原郡明治廿六年第一〇二号

報告書

一、海嘯ニ関シテハ別二記スヘキ程ノ事項アラサルモ激震ノ当時潮水沖二去ル一里程為ニ暗礁所々ニ顕出シ宛モ奇峯ノ屹立セルト一般又瞬時ニシテ怒溝狂潤ノ如ク押来リ平常ヨリ四五丁程陸地へ襲来セシト云フ然レトモ又直二常二復シ元来海岸二変遷ノ状ヲ見ス御調事項中乙ノ如キ海底浅深等ノ変遷如何二付テハ記スヘキモノナシ ----------------------------------------   城東郡池新田村池新田     赤堀伊作一、海嘯二関スル記録等ハナキモ安政元寅年十一月四日(現今ノ午前十時頃)強震ノ際ヨリ今日迄口碑ニヨレハ陸地全体海面二突出セシ景況ナレトモ別二海底ノ浅深等ハ更二記憶セス一、本村前浜本年五月初旬ヨリ海底弐ケ所(陸地ヲ距ル凡三町余ニシテ幅拾間長百間位)岩石陸起シ漁船地曳綱(鰯鰍網ヲ))ヲ沖合ヨリ陸地(波打際)エ引揚ルトキ是レニ漁網触ルレハ其害ヲ蒙ル事甚シキヲ始メテ知レリ依テ本年八月中漁業ハ協議之上水潜器及人夫ヲ榛原白羽村ヨリ傭入二日間岩石破砕二従事シ数拾個ヲ引揚ケタルモ容易二皆取尽ス能ハス該石ニハ蠣及其他貝殻付着スルモノアリ察スルニ客年十月廿八日震動二起因シ其后顕ハレタルモノト想像ス一、現在ノ建築物ニシテ海水ヨリノ距離往時ト変遷及古昔ノ地図ト現地形不詳右概況取調差出侯也 明治廿五年十一月十一日   赤堀伊作 赤堀 帝国理科大学御中 ----------------------------------------第三十四号地震学地理学研究上必要之趣ヲ以右二関スル事項取調ノ御依頼ニヨリ了承則チ左記ノ通リ取調之御報告候也   静岡県城東郡千浜村村長岡田仙次郎代理 明治士六年三月三日   助役 水野儀七 千浜村助役水野儀七 帝国大学総長 加藤弘之殿一、当千浜村近傍ハ往昔ヨリ海嘯ノ為メ耕地及人家二変遷セシ事曾テ不聞及去ル安政年間シヨウジ大地震以前ハ菊川通リ当郡平田村大字嶺田井子場橋辺迄通常湖ノ満シ事アリ亦ハ本村大字周安橋辺迄舟ノ碇泊セシ事アリシモ震災后海面ヨリ見ルトキハ陸地殆ント壱丈有余モ緩リ上リ現今ハ湖の満之事ナシ一、本村大字千浜高新田耕地ハ用水不弁ノ為メ近来掘抜井戸ト唱ス鉄棒ヲ以テ地面ヨリ下エ二十間内外突抜水ヲ吹シ居候処井戸底ヨリ貝殻ノ類等吹出セシ事儘々有之右ハ往昔入湖ニテ白然埋リシモノナリト思考セリ一、現在ノ建築物ニテ海岸ヨリノ距離往昔ト別二異ル事ナシ右昔ノ地図ト現地形トハ前項二陳ル如ク震災后壱丈有余モ緩リ上リ為メニ田畑トモ変換シテ地味ヲ失シ収穫ヲ減シ農民等二大関係ヲ及セリ ----------------------------------------庶第百壱号地震学地理学御研究上必須ノ廉有之趣ヲ以テ沿海各地ノ者へ御尋ネニ付古老二就キ承リ報告候 (甲) 海嘯シ安政元年十一月四日地震ノ際海岸ニ居合セタル者ノ申聞ニハ海鳴リ潮沖ノ方迄引事凡ソ三町計リト見受ケルヤ此動揺反対シ来ルモノト心得直様居村ノ方へ馳帰ラント暫ク帰路ニ就キ砂山ニテ一見スルニ沖合ヨリ浪高ク上リ来ル事五町程暫時ニシテ故ノ如ク后追々平時ノ潮水トナリ右動揺ノ為メ漁船及船具等ヲ沖ニ引出サレ或ハ四五町程ノ陸ニ打上ラレタリト云フ (乙) 地震ノ後海底ノ浅クナリタル事凡三尺ト覚ヘタリト云ヘリ而シテ三十余年ノ后旧復セリ (沖ノ事ハ知ラス地引漁業ノ場所ナリ)海岸ノ田地数年間水保チ悪敷原因スル処地形ノ隆起シタルモノナラント其当時云ヘリト右海底ノ旧復ト共ニ地形旧ニ低下シタルモノナランカ田水ノ保チモ旧ニ復シタリ右古老ヘ尋問ノ上報告候也 明治二十六年二月廿日   城東郡三浜村三津村組合村長 八木穂孫 三浜村三津村組合村長 八木穂孫 帝国理科大学御中 ----------------------------------------今般地震学地理学等研究上必須ノ廉有之沿海各地ノ古老又ハ観測篤志者ニ就キ尋問調査之上別紙之通調製及御報告候也 明治廿五年十一月十七日   静岡県城東郡佐倉村     村長 清水喜作 佐倉村村長清水喜作 帝国理科大学御中 (甲) 海嘯ハ安政元年十一月四日当地方大地震アリシ時西南ノ方ヨリ濤海岸ニ打上リ其形状浪斜ニ寄セタルヲ以テ打上ル事少クナシ平常ヨリ凡三百間其他海嘯アルタル事口碑等ニモナシ土地ノ変遷ハ著シキモノナシト難トモ本村東西ノ川底凡五尺程凹其他変動ナシ (乙) 大地震以来海水ノ遠クナリシ事凡十間海底ノ深浅ハ当浜ノ地形ニ依レルモノナルカ西風多吹タル年ハ洲寄暗礁ヲ埋ム又東風多ク吹タル年ハ暗礁ニ冠タル洲沖ニ流失ス海岸ノ深クナル事凡四五尺之ハ時候ニ依テ時々変遷スルモノト信ス其他変遷シタル事ナシ ----------------------------------------地震学地理学等御研究上必須ノ廉御尋問相成候ニ付拙者目撃シタル記憶左ニ及御報告候也静岡県豊田郡袖浦村駒場 坂口平治郎 明治廿五年十二月十六日     帝国大学総長加藤弘之殿一、海嘯ニ関シ記録等無之唯拙者カ目撃セル著シキモノハ安政元年十一月四日大地震ト倶ニ来襲セシモノト明治三年九月十八日明治廿二年九月十一日及本年九月四日暴風ノ際トニ有之其度ニ堤塘ヲ破壊シ田畑ヲ浸害スル甚タ夥シ其来ルヤ大低満潮ニアリ其往クヤ六七時間ヲ経テ漸次ニ退却ス猶海水ノ暴浸スル事ハ年々歳々ニシテ実ニ枚挙ニ逞アラス扨安政元年ノモノヲ挙ケルニ海嘯ノ天竜川ヲ逆流スル様実ニ物凄ク是カ為メ当駒場南部ノ村民二三百人ハ何レカへ逃避セント泣キ来リシ様今モ看ル如キ思アリ拙者が居宅ハ海岸ヲ距ル凡三十町天竜川ノ東畔ニ在リ此辺ニテ其汐水ノ高サ平水ヨリ凡一丈四五尺也是ヲ以テ推考スルニ河ロニテハ凡三四丈ノ高サニ至リシナラン此際天竜川中ニ在存セル字中ノ浜(南ハ海他ノ三方ハ川ナリ)ハ高キ処弐丈斗リ之山ヲ成シ是二千有余本ノ松アリ其内大ナルモノ囲リ几八尺高凡十五間モアリテ反別凡二十町及耕地凡二十町合四十町歩斗リハ震災ト海嘯ノ為メニ崩壊シ翌二卯年大水(居宅辺ニテ一丈余ノ出水)ノ為メ松木大低流出シ海岸ヲ距ル凡二十町沖二在リテ漁業ヲ防タル事数年ナリ其後右中ノ浜ニ残リタルモノ数本アリシモ今ハ更ニナシ且地所ハ現今ニ至リテモ荒地タリ此外堤塘ヲ破壊スル等幾箇所ナル数知レス又明治三年明治廿二年及本年ハ堤塘ヲ破壊シ小池位ヲ成スニ止リ別段変地セス又明治三年廿二年ハ天竜川出水ニ連レタル為メ汐高ヲ確知スル不能ト雖トモ本年ノモノニ劣ラス本年ノ汐高ハ拙者居宅辺ニテ平水ヨリ凡七八尺ナリ一、五十年内外以来海底浅深ニ付テハ別段証拠トナルモノ無之モ大抵浅クナリタリ以前ハ海底二凸凹アリテ其凹キ処三間位ノモノ間々アリテ諸魚捕獲ニ甚タ便宜ナリシモ今ハ是ノ如キ事ナク海底平面ナル如シ海岸ヲ距ル沖二十町位ノ間ハ四五十年以来余程浅リシト想像セリ又海浜ノ押出ス事年々几一間位ト思考ス ----------------------------------------地震学地理学等御研究上必須ノ廉御尋ニ付テハ拙者弐老人ニ就キ取調侯処左記之通記憶ニ付及御報告候也豊田郡長野村鮫島 鈴木八平 印 明治廿五年十二月卅一日   帝国大学総長 加藤弘之殿 (甲) 余ヶ居住スル地ハ南遠州灘ニ瀕シタル地ナレトモ往古ヨリ海嘯ノアリシヤ否ヤハ今日別ニ記録ナキヲ以テ詳ニセス只老人言ニ今去ル殆ント三十八年前即安政元年十一月四日(所謂駿遠地方大地震ト称スルモノ)此ノ日午前十時頃大地震動ト倶ニ海水一丈余引汐トナリ空地ヲ生シタルニ今引返シタル潮水再ヒ湧クカ如クニ陸地ニ向テ浸シ其勢滔々トシテ忽チ海浜数十歩ノ沙原ヲ没シ猶止マルヘクモ見ヘス実ニ物凄キ事言ンカタナシ然ルニ波ハ誠ニ平穂ニ(ママ)シテ油ヲ流シタル如シト云フ其日漁夫ハ海岸ニアリシカ此有様ニ驚キ急ニ逃ントスルニ已ニ水脛ヲ没スルニ至リシカハ一同ハ近傍ナル漁船ヲ見カケテ乗ルヤ否ヤ海上ニ一丈余ノ高浪起リ乍チ船ヲ奪フテ海岸ヲ去ル十五六丁ノ堤塘二(汐除堤ト称スルモノ)押寄セラレ漁夫ハ辛フシテ生命ヲ助カリタルト云フ而シテ其潮ハ高八九尺ニシテ猶ホモ堤塘ヲ超へ田畑ニ浸入シ将ニ一村ヲモ陥没セントスルニ至リシカ諸所ノ堤塘ニ(是ハ海浜ト村落ノ間幾重モ海水浸入ヲ防ク堤ナリ)突キ当リ潮水分レテ数流トナリ其近傍ノ河水ハ之カ為メ逆流シ数十丁ノ上流マテ潮水溢ルルニ至リ其勢次第ニ衰へ漸ク一村中其災害ヲ免レシト云フ且其当時海底ノ鳴動甚シク恰モ雷ヲ聞クカ如キ事凡十数日人口安キ心ハナカリシト云フ是当時ノ事変ニ遇ヒシ漁夫ノ実話ナリトス而シテ土地ハ別ニ異状等ナキト言ヘリ (乙) 海底ノ深浅ニ関シテ別ニ詳細ノ事ハ測リ難シ只遠州灘ニ傍フタル海浜ハ年々歳々少許ツツ(ママ)海中ニ押出ルヲ見ル是レ今日実険ニ徴スル所ナリ漁夫ノ海岸ニ小屋ヲ結ヒ綱或ハ船具等ヲ蔵スルモ(俗ニカゲタト云フ)二年或ハ三年毎ニ壱度其家ヲ葺クヲ例トセリ然ルニ前年葺スルトコロノ屋仮令海浜水ノ浸ス所ヨリ八間或ハ十間ノ所ニ定メシニ年ヲ経ルニ随ヒ其屋ト海水トノ距離自然ニ遠サカリ之レカ為メ漁夫ノ業ヲ採ルニ白由ヲ欠クヲ来シ一度葺毎ニ其場所ヲ変シテハ其柱杭ヲ植へ換へ遂ニ二三年ノ后二至リ二尺或ハ三尺ツツ前進スルヲ見ルニ是陸地ノ突出スルニ因ルナラン遠州海岸一帯皆如是思考ス而シテ海底ハ往古ニ比シテハ(甚?)其タ浅クナリシ様ニ考フ何トナレハ近年不漁打続キ漁鰕遠ク陸地ヲ距リタルヲ見レハ或ハ是ニ源因スルニハアラサルカト老人ハ言ヒ合ヘリ

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佐城郡第八〇四号
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佐城郡第三四五号

学理研究上必要海痛二関スル報告

(甲) 明治三年九月十八日夕方ヨリ雨降東北風起リ漸次烈風トナリ十九日午后二時海底雷ノ如ク鳴動ス其間十五分ニシテ歇ミ夜ニ入リ俄然海嘯突起シ村々州ヲ浸害ス翌日数十尾ノ鯛海岸ノ松林中ニ現在ス鯛ハ魚類中最モ深キ海岸ニ生息スルモノナルニ海底鳴動ノ為ニ浮カヒテ海嘯ニ由テ此ノ如ク打揚ケラレタルモノト思考セラル土地ノ変遷等アリシ事ナシ (乙) 安政元年大地震以前近海ノ深浅ヲ測量シタルニ海岸ヲ隔ツル十町ニシテ其深サ拾尋廿町ニシテ廿尋卅町ニシテ卅尋ノ深サナリシテ地震后再ヒ之レヲ測ルニ十町ニシテ五尋廿町ニシテ拾尋卅町ニシテ拾七尋ノ変化ヲ呈シタリ口碑ニ依ル海浜歳々壱間余海水退キ砂洲ヲ広ムト由テ天保年間陸地陸上ヨリ水際ニ至ルノ間数ヲ記シ置キ維新ノ際之レヲ調査セシニ果シテ一歳一間ヲ広メリ地盤ニ於テハ異状ナシ右ノ外報告ス可キ廉無之侯也 明治十六年一月五日   静岡県山名郡福島村長 青山嘉四郎 印 帝国理科大学御中 ---------------------------------------- 廿七年二月六日 理科大学長総長 書記官去月廿六日付ヲ以テ地震学地理学研究上ニ関シ貴県下長上敷知浜名郡役所ヨリ差出候調書御廻送相成正ニ領収右ハ調査上便利ヲ得ヘキ儀ニテ彼是御手数之至ニ侯此段及御挨拶侯也 明治士七年二月 日   総長 静岡県知事宛 ----------------------------------------第二五六号地震学地理学研究上ニ関シ県下沿海各地取調之義御依頼ニヨリ客年十二月中調書等送付及上候処猶長上敷知浜名郡役所より別紙之通申出候間則差遣候也 明治廿七年一月十六日   静岡県知事 小松原英太郎 静岡県知事印 帝国大学総長 浜 尾 新殿

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帝国大学坤第五五八号案
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帝国大学坤第五五八号

遠江国長上敷知浜名郡役所調

地震学地理学研究上必須ノ廉取調然処沿海町村ノ内新居町近傍ハ往時数度地形ヲ変遷シタリ其他町村ニ於テハ著シキ変異ナキ乎口碑二伝フル処ナク亦古書ノ看ルヘキモノナキニ付単ニ新居町近傍ノ事ヲ記スルニ過キス亦数百年ノ古ニ係ルヲ以テ概略ト難容易取調難ク尤モ近キ嘉永七年ノ大地震海嘯ト雖已二四十年以前ナルカ故古老ニ間フモ其答フル処各少異アリ記録アリシモ事冗長ニシテ必要ノ件ナク或ハ必要ノ書類アルヲ聞クモ所有主死シテ索捜ノ途無之然処幸ニ当時東京市麻布区へ転住ノ者ニ於テ記録ヲ所持有之候事ヲ聞知シ之ヲ取寄候処幾分乎参考ニ供スル廉アリ其他該町民ノ所持スル旧記及古老ノ記臆等(ママ)ニ依リ左ノ通記述シタル儀ニ有之侯敷知郡浜名湖ハ往古淡水ニシテ此ノ江ヨリ流出スル川ヲ帯ノ湊ト云フ渡船ニテ往来セシ事第一図(図7)ノ如クアリノカ貞観四年初メテ橋ヲ架セラレ旅客便ヲ得タリト云フ是ヲ浜名橋(長五十六尺広一丈三尺高一丈六尺)ト名付ケラルタルモノ則第二図(図8)ナリ該橋ハ日本ニ四橋ヲ架セラレシ内ノ第二ノ橋ナリシカ明応八年ノ海嘯ニ依リ第三図(図9)ノ如ク浜名湖ノ南方陸地ヲ打切リ村落ヲ流亡シ海水ノ出入スル大ヒナルロヲ開キタリ之ヲ今切ノ湊ト称ス此ノ時ニ於テ浜名橋ノ川末帯ノ湊ハ変シテ陸地トナリ日ケ崎村ハ流亡シ荒井へ併合セリ后チ慶長五年第四図(図10)ノ如ク荒井へ幕府ニ於テ関所ヲ設ケタルガ第五図(図10)ノ如ク永禄十四年ノ海嘯ノ為メ右関所及城町ト称スル所ヲ打流サレシニ付関所ハ移転シタリ第六図(図10)ニ掲クル陸地ノ断絶アルハ延宝八年八月ノ海嘯ニテ地形ヲ変シタルナリ此ノ時人家流亡スル事多シト云フ宝永四年亥十月四日午下刻大地震並海嘯ニ依リ居住地ヲ打流サレ死人多ク所詮此地ニ居住ナリ難キヲ以テ三河国吉田ノ城主牧野大学頭へ誇願シ翌年六月迄ニ理今ノ地へ移転シタルヲ以テ示后新居ト称ス則チ今ノ新居町ナリ此ノ移住ノ地ハ中之郷村内山村橋本村ノ三村ノ土地ナルニ付換地トシテ元新居ノ居住地ヲ引渡セリ文政八年ニ至リ弥太郎新田久蔵新田松本新田西浜名新田東浜名新田等湖面ヲ埋立田畑ニ開墾シ第七図ノ如ク湖面ノ地形ヲ変シタリ以上図解トス第一図ニ示ス湖ヨリ出スル西流ノ川則帯ノ湊ハ明応八年ノ震災二依リ第三図ノ如ク変シテ今猶存在シ本川ノ西部ヲ西川ト云ヒ松山新田ノ東北ニ当ル本川ハ近傍田面ノ悪水ヲ受ケ逆流シテ湖ニ流下ス但地形ニ高低ヲ為シタルカ湖ノ海ニ通スルカ為メ湖ノ水量ノ減シタルカ明言シ難シト難現ニ今ハ西川ト湖トハ反対ニ六七尺ノ高低アリ第二図ニ示ス浜名橋ハ畳八畳敷程ノ石アリ之ヲ橋台ノ石ナリト云フ水面ヨリ低キ事七八尺ノ下ニアリ或ハ地ノ低落セシニアラサルナキ乎第七図(図11)ニ示ス現今住吉弁天字堺ヲ地蔵道ト云ヒ五輪ノ石塔アリ此辺周囲八町余ハ蜊貝非常ニ多ク砂ト貝殻ハ相半セリ而シテ他ニ如期(斯?)土地無之ヲ以テ考フレハ湖ハ海ニ通スル水嵩ヲ減シタル乎或ハ貝塚等ノ遺跡ナリシカ又ハ土地ニ高低ヲ生シタルナラン乎第六図ノ光珠庵澪ト云ハ荒井ノ光珠庵ト云寺跡ニテ地震海嘯ノ為メ湖ニ変シ竜谷寺モ同様ノモノナリシカ文政年間二埋立開墾シテ今ハ田面ナリ新居町海岸ヨリ南二千尺程沖ニ瀬アリ(是ヲ沖ノ瀬又ハ十三尺瀬ト云フ十三束トハ魚貝網ヨリ名ツク)此ノ瀬ハ往古ノ海岸ナリト云フ然レトモ是レハ尤モ古キモノナルヲ以テ都テ詳カナラス白須賀町ハ新居ニ隣スル宿駅ナリ宝永年間大海嘯ノ為居宅大半流失シ居住地ハ海二変シ為メニ当時現今ノ地二移転セリト云フ現今ノ汐除堤より凡五町余右海嘯ノ為メ海二変シ目今ノ浪打際ハ昔時ノ往還ニシテ該町ハ熊野海道追分ノ土地ナリト云フ右汐除堤ニ大ナル松アリ稀代ノ老木ニシテ土人崇敬シ一ノ小社ヲ建設シアリ但本陳庭内ノ木ナリト云フ明治十年頃右大木枯死シテ今ハ無シ唯此ノ近傍南面ハ海ニ変シタルヲ想像シ得ルノミ嘉永七寅年十一月四日ハ日出ヨリ太陽ノ色何トナク黄色アリ随テ蒼天此色ヲ交へ恰モ日蝕ノ時ノ如クナリシカ昼后ニ至リ常ニ復セリ嘉永年度大地震ノ三日斗リ前より毎戸一疋ノ震居ラス震后ハ再ヒ鼠居ルト云フ地震前ハ海底白然ニ変動アルモノナルカ右十一月四日ハ水上ニ泡ヲ生シフツフツト吹キ上ケタリ此ノ日天候平和ニシテ風ナク而テ水面泡アルヲ見テ漁夫ハ大漁ナリト誤想シ 鰯ノ海底ニ多ク集マル時ハ水面ニ泡ヲ生スルモノナリ 無惨ノ死ヲナシタルモノアリト云フ

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図1 旧被害地図
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図2 駿東郡揚原村各大字接壤之圖
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図3
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図4 清水町 震災以前絵図面
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図5 嘉永七寅■地震海嘯荒■地■絵図
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図6 清水町■時■絵図面
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図7 茅一号
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図8 茅二号
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図9 茅三号
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図10 第四号 第五号 第六号
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図11 第七号