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 昭和21年12月21日4時19分過ぎ、潮岬南方沖合を震央として発生した、所謂南海大地震は同地方に於ては安政大地震に次ぐ強烈なるもので、地震及び此れに伴う津波の為め震央附近の和歌山、徳島、高知諸県を中心として南西日本一帯に多大の被害を生じた。水路部は其の業務の立場上之れが調査を計画中、たまたま米国水路部からも要請があったので、即時調査団を組織し、22年1月下旬より5月上旬迄各種の調査を実施した。
 まず第一天海丸(班長松崎卓一技官、船長佐藤孫七技官)を1月10日より約1ヶ月間に亘り主として直接被害の多かった三重、和歌山、徳島、高知、愛媛の諸県下に派遣し、津浪の状況、其れに依る被害、土地の降起沈降、海岸線の変化、港湾の水深変化等を実地踏査せしむると共に、九州班(班長山田豊房技官)、近畿班(班長風間惇技官)、東海班(班長小野弘平技官)、房総班(班長佐野義久技官)の四ヶ班を組織しそれぞれ前記地域に派遣して調査に当らしめた。又当部観測所の所員を総動員し、瀬戸内を笠岡観測所(班長松田賢技官)に、駿河湾岸を重須観測所(班長川村文三郎技官)に、伊豆半島沿岸を白浜観測所(班長山崎眞義技官)にそれぞれ分担踏査せしめた。
 次で地震に伴う海底地形の変化状況を調査する為め第四海洋丸(班長太平辰秋技官、船長佐藤孫七技官)を派遣し同年2月下旬より5月上旬に至る間、震央附近を中心として、和歌山県より高知県に至る南方海域沖合一体を音響測深せしめた。使用測深機は水路部型深海用記録式音響測深機1台である。なほ此の際前記海岸調査班の調査を補足する為め三重徳島各県下の一部の踏査を施行した。
 此等の調査結果は水路要報の増刊号として津浪篇、海岸地形篇、海底地形篇の3篇に分ち資料の整理付き次第順次刊行する予定である。津浪篇は松崎卓一技官、海岸地形篇は小向良七技官、海底地形篇は千野純彦技官がそれぞれ調査整理の主任者として執筆したものである。此等の小篇が将来震災又は浪災の軽減上、更に地震津浪等の予知上何等かの御役に立てば筆者はもとより刊行者としても誠に望外の幸いである。
 終りに臨み各調査班の現地調査に当り震災後の御多忙中、有益なる資料の提供、各種の便益を賜った関係各県庁、市役所、町村役場、測候所、水産試験場、海洋関係官庁、水産関係者其の他有志諸君に深甚なる謝意を表する。

昭和23年3月

水路部長 須田院次

I 一般

松崎卓一 久保田照身 山田初太郎

1.概説

 今回の津浪は日の出前に来襲した為適確な目撃者少なく且震源地附近に於ける験潮記録がないので眞相を知ることは非常に困難であるが各地の踏査の結果をそう合すると
1.津浪の範囲は(今仮りに波高1メートル以上の区域とする)東は大王埼から西は宇和島に至る紀伊及び四国の各沿岸と伊豆南端、それに九州の佐伯湾から有明湾に至る各沿岸とであって特に潮岬至海南市の間、橘湾至室戸岬の間及び新宇佐至足摺埼の間では波高3メートル以上に及び、津浪に依る被害も又大であった。
2.今回の津浪は各地とも静かに来襲している。然もその来襲時刻が早いことである。
紀伊南端、室戸東岸及び土佐湾西岸では震後10分以内で津浪の来襲を見たといっている。
併しこの津浪が一度湾奥に浸入した場合、所によっては階段的に又小山の様に来襲した所もある。賀田、椿、新庄、浅川、新宇佐、多の郷等は其の好例である。
3.津浪の初動が引か押かの問題であるが、震源地附近の験潮記録皆無のため正確なことはわからないが、現地での聞込みでは紀伊南端では僅かの引を認めており、紀伊西岸では可なりの引があったらしく、又土佐湾西岸の新宇佐至足摺間では大体大潮の低潮面より1~2メートルの引かあったといっておる、併し験潮記録では下津、徳島のもの以外はこの引の現象は見られない。
4.各波の間隔は験潮記録より見ると、40~50分及びこの倍数となっているが、各地の人の話では20分内外というのが最も多い。最も之は波のとり方や、副振動等により可なりの誤差を伴うことはやむを得ない。又波の回数も同様に差異を生ずる訳だが大きいものと思われるもののみを取りあげて見ると、大体3~4回でその最大波は潮岬以東では第1波又は第2波で、潮岬以西室戸埼迄は第2波又は第3波、浦戸以西の四国及び九州の各沿岸では第3波である。
5.津浪の第1波の山と谷との比を各験潮記録について調べて見ると、堺では1.6、宇和島では1.7、細島1.4、重須1.6となり、大体一様の傾向がある。津浪の性質を調べる上に於て参考になると思う。尚1946年4月1日のハワイ津浪では、その比は1/3で、今回のものの逆である。

2.波高の求め方

 津浪の高さは来襲時の潮位を0として現すことに定義する。津浪の高さは家屋白壁等にのこった明瞭な痕跡からその高さを測定時の潮位を基本として測定した値を主とし、場合によっては砂浜や堤防等で地方人の証言によってその高さを測定した時もある。その測定も同一場所で2回又は3回行い、出来得るかぎり誤差を少なくする様注意した。尚使用した機械はy-levelである。
 かくして測った値h0を来襲当時の潮位からの高さに換算する為に次の様な補正を実施した。
1)同一基準面として年平均水面を使用した。
2)各港湾に於ける潮汐観測当日に就き1日づつ潮候推算機により推算し、測定時刻に於ける平均水面よりの推算値ε0を測高に加減し、先づ平均水面よりの波高h0十ε0に換算した。
3)推算に使用した調和常数として、従来の資料のある地方はその値を、無い地方はその附近に於ける既知の値を採用した。又鳥羽、串本、下津、友ヶ島、淡路由良、土佐清水、宇和島の7ヶ所は長期の資料があるので15分潮により推算を行ったが、他の多くの地方は潮汐の主なる分潮(M2,S2,K1,01,P1,K2)の6分潮のみの合成であって、更に之に平均水面の年変化を考慮に入れてある。
4)6分潮の合成を行っている地方に於ては漲潮及び落潮の盛な時刻における観測値に10センチメートル以下の精度を期待することは出来ない。
5)津浪の実高hは、発震当日の推算曲線を同様に求め、津浪の到達時刻を地方民の言及び験潮器による記録により検討し、その推定時刻における潮高(年平均水面上の高さ)εを2)の値に更に加減してh=h0十ε0十εを求めた。
6)津浪の到達時刻に於て各地方とも略高潮時にあたっているので、津浪来襲の時刻に20~30分の違いがあったとしても、実高に大きな誤差は生じない。
7)推算に使用した調和常数を次表に示す。
8)地震と同時に地盤の昇降があったが津浪の実高に対し此の補足は施していない。
附図に浜島に於ける実例を示しておいた。

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浜島における例
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推算に使用した調和常数・鳥羽、串本、下津、友ヶ島、淡路由良、土佐清水、宇和島の7ヶ所
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推算に使用した調和常数・他の地方

3.波高

 各地の津浪の高さに関しては第7節及び附表附図に記載してある通りであるが今その概略を述べると、
1)今回の津浪の最高は串本町袋の6.57メートルで潮岬以東の三重県下では、賀田村の3.59メートルが最高で、和歌山県下では前記袋が最高で、四国徳島県下では浅川村の4.88メートル、更に土佐湾では野見村宮谷の5.20メートルが夫々最高であった。足摺埼の西方古満目港奥の浦尻で3.93メートルの波高を測定したこと及び浅川村沖の出羽島に於ける波高3.17メートル等は注目に値する。
2)今回の津浪を見て直ちにわかることは大体潮岬を境として東と西で波高の異なることである。即ち以東では概して2メートル程度であるが(最も湾奥ではそれ以上の所もある)。以西では殆ど3メートルを越えている。更に土佐湾西岸新宇佐から下の加江湾に至るまでの各沿岸も紀伊阿波に負けずに波高の高いことである。
3)土佐湾西岸に形状並に湾の開き方の同じものが三つあって前二者での津浪の高さは小室の3.86メートル及び上川口の4.5メートル(概値)と共に高いが、最後の下の加江湾の布では2.1メートルとなり、前に比して何なり低い。浪源を決定するのに有力な資料となることと考える。
4)一般にV型の湾形では津浪が発達し、その湾奥での高さは次の式で興えられる。
 但しh0b0は湾口の深さを及幅を示し、ここでの津浪の高さをH0とする。又湾奥での夫々の値をhb及びHとした。
今之を浅川、浦神及び椿に適用して見るに、浅川は理想的なV型であるのでよく一致するが、浦神、椿と細長くなるにつれて差が大きくなる。
 例1 浅川の場合
    湾口に鯖瀬の波高2.9メートルを用い、水深20メートルでの津浪の高さは1.94メートルとなり、従ってH0=1.94メートルh0=20メートル、b0=1.7キロメートル、h=3メートル、b=0.7キロメートルとして、上式よりHを求めると、H=4.86メートルとなり、実測4.88メートルとよく一致する。

 例2 浦神の場合
    h0=10メートル、b0=830メートル、H0=1.3メートル(実測)
    h=4メートル、b=120メートル
    としてHを求めると H=2.65メートルとなり、実測2.73メートルと可なり一致する。

 例3 椿の場合
    h=20メートル、b0=900メートル、H0=1.62メートル(実測)
    h=5メートル、b=300メートル
   としてHを求めるとH=3.97メートルとなり、実例3.36メートルと比較して約60センチメートル異なる。
   註 を求める便法としてh0/h=nとし
     n=1,2,3・・・・・・・・・・の値に対するHとH0との関係を図表にしておいた。
5)津浪の高さは家屋白壁等からの痕跡から求めるのを最良とするが、海岸の斜面上等で波の到達限界から求めたものは一般に過大の結果を得る。幸い今次測定中この両者を測った場合があるので参考までに記しておく。
 即ちさ鯖瀬では家屋の痕跡から求めた値が2.9メートルで海岸の砂浜上からの値が4.1メートルとなり、大体1.2メートルの過大となる、又土佐の安和では家屋からの値3.0メートルで、砂浜上からの値は4.7メートルで1.7メートルの過大である。之は主として波自身の影響と思われるが、斜面砂浜上等で求めた波高は上記の例の如く一般に過大となるから、家屋等から求めた値と比較する場合この点考慮の必要がある。

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V型の湾形での湾奥における津波高さの式
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椿の場合における式

4.浪源

 今回の津浪の浪源を考えて見るに、今各地に到達した時刻よりその各々の浪源を求めると別図第1の如く波線上に浪源があることになり、その波線の交りが一般に津浪の浪源となるわけである。今この方法により、油津、細島、重須の各験潮記録並に串本、和具等の聞込みの来襲時刻より浪源を求めると大体潮岬南南西20マイル附近に浪源があることになる。それで今仮りに潮岬南南西20マイルに浪源を仮定した場合、津浪の波面を求めると別号第1の様になり、之より各地に到達するであろう時刻を図上で求め、実際の到達時刻とを比較して見ると次の様な結果が得られる。
 之を見ると紀伊南端及びそれ以東一帯及び九州南端ではよく一致を見るが、紀伊水道以北及び室戸東岸並に土佐湾西岸等では可なりの差がある。之を説明する一つの方法として、紀伊水道各地の来襲時刻よりして又上記の方法で浪源を求めると、別図第2の如く伊島、日の御埼の中間附近に別の源浪が求められ、この第2の浪源を仮定した場合、紀伊水道沿岸各地への到達時刻を比較すると次の様になる。

 之を見てわかる様にかなりよく一致を見るが、勿論これだけで第2の浪源は決定出来ず、将来測深の結果等よりして更に詳しく判明することと思うが、とにかく今回の津浪の浪源は単に1ヶ所だけに帰因するものだけではなく、数ヶ所又は比較的広範囲の土地の昇降に起因するものであろう。
 尚室戸東岸及び土佐湾西岸の一部に来襲時刻が非常に早く共に10分以内の所があるのも之を裏書きするものである。

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各地への来襲時刻と図法の時刻
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紀伊水道沿岸各地への来襲時刻と図法の時刻

5.過去の地震津浪

地震津浪を調査するに当って過去の地震津浪を調べて見るのも無益ではなかろう。種々の文献「昭和19年12月7日 東南海大地震調査概報(中央気象台)」よりして主な地震津浪を拾って見ると
(1)正平16年4月の地震津浪(1361)
(2)明應7年8月の (1498)
(3)慶長9年12月16日の東海道南海道沖の地震津浪(1605)
(4)寛永4年10月4日の東海道南海道沖の地震津浪(1707)
(5)安政元年11月4日の東海道沖の地震津浪(1854)
(6) 〃  11月5日の東海道沖の地震津浪(〃)
(7)明治29年6月16日の三陸大津浪(1896)
(8)大正12年9月1日の関東大地震に伴う相模湾岸の津浪(1923)
(9)昭和8年3月3日の再度の三陸大津浪(1933)
(10)昭和19年12月7日の東海道沖の地震津浪(1944)
(11)昭和21年12月21日南海大地震に伴う地震津浪(1946)
である、この内(7)、(8)、(9)を除いては震源地は東海道か南海道であり、特に(4)と(6)とは今回のものに酷似している。
 (1)の正平16年の震源地は紀伊水道南方らしく、阿波の由岐湊や土佐では津浪の為流失戸数が相当あった模様で(2)の明應7年の地震は東海道沖に震源がある為か、津浪に襲われた区域は紀伊より房総に及び、その被害は甚大であったという。
 (3)の慶長9年の地震は震源地が東海道南海道沖らしく、その津浪の区域は東は犬吠埼より西は九州南部に及び八丈島も非常な損害を被った。この津浪の来襲前に潮が引いたと傅えられ、又阿波の鞆浦では波高10メートル、突喰では7メートルもあり、甲浦では数百人の死者を出したという。次の(4)も(3)と同じく東海道沖より南海道沖に亘る海底より発したと思われる地震で、之に伴う津浪は九州の南東部より伊豆半島に至る沿岸を悉く襲うたのみならず、一方は紀伊水道より浸入して大阪湾に達し、又一方豊後水道より浸入した浪は伊豫の西海岸、防長の海岸に達した。就中甚大なる損害を蒙ったのは土佐の沿岸で、室戸町6.5メートル、安芸町5.6メートル、久祀では25.7メートルと推定されるという。
更に紀伊熊野も又浪害甚しく、尾鷲では数百人の死者を生じた。この地震の特徴は室戸半島、紀伊半島及び遠江東南地塊の南上りの傾動で、今村博士によれば室戸埼附近は1.5メートル、紀伊半島の串本で1.2メートル、御前埼附近で1~2メートルの降起を見、之に反して高知附近では地盤の沈下が見られたことである。之が為地震直後浸水した海水が長く引去らず、高知市の東方一円が海となり、漸く舟で通行したという。この現象は今回の地震に極めて似ている所である。更に次の(5)(6)の安政元年の二つの地震も東海沖及び南海沖でおきたもので、その津浪も前者は房総半島より土佐の沿岸を襲い、後者は九州の東岸にまで及んだ。特に前者で浪害の著しかったのは伊豆の下田と、志摩より紀伊の熊野にかけての沿岸であった。甲賀村では浪高約10メートル、鳥羽では5~6メートル、熊野の長島で5~6メートル、尾鷲で6メートル位で、新鹿、大泊では執れも村の8分通り流失した。又後者では紀伊の西岸と土佐湾沿岸が非常な損害を蒙った。紀伊の田辺や、土佐の宇佐、須崎、手結、下田、下の加江等は最もひどく、久祀で浪高16.1メートル、種崎11メートル、室戸町3.3メートルであった。この時も室戸、紀伊両半島は前の賢永地震と同じく南上りの傾動をした。今村博士の調査によれば、室戸町辺で1.2メートル程降起、甲の浦辺で約1メートル沈下、又田辺町辺を東西に走る線を軸として南側が降起し北側が沈下したので、串本では約1.2メートル降起、和歌山市外の加太で約1メートルの沈下を見た。この津浪及び土地の降沈も今回の地震のものと甚だ似ている。(7)(8)(9)に就いてはここでは省略して、最後の(10)の昭和19年の東海道沖の津浪は、束は銚子から西は土佐清水に至る広い範囲に及んでおり、その津浪の高さは気象台の報告に依ると、下田2.1メートル、鳥羽2メートル、尾鷲5メートル、九鬼7メートル、新鹿2メートル、勝浦4メートル、串本2メートルとなっており、海洋気象台の調査では、浦神4.1メートル、那智3.8メートル、大泊3.5メートル、古泊4.2メートル、新鹿村橋間5メートル弱、新鹿村遊木5.5メートル、二木島6.3メートル、南輪内村曽根5.3メートル、古江2.7メートル、名柄4メートル、三木浦4.0メートル、九鬼村早田5.3メートルである。尚この地震では熊野灘及び伊勢湾に面した一帯は約30センチメートル程沈降したといわれている。
 さて以上の記録を見て明らかなる如く、今回の地震は上記(3)(4)(6)に類似していることであり、その週期が百年前後であることは特記すべきことである。そして今回の津浪が安政の津浪に比して波高の低かったことは古老のいう通りであろう。

6.特殊現象

今回の調査で色々の現象の変化の中で主なものを列挙すると
1.震源地附近特に紀伊及び四国沿岸では震後海水が濁り、概ね1週間程度時には2週間後に快復した。但し加太及び淡路由良の線以北では余りこの現象は顕著ではなかった。鳥羽、浜島、矢口等では海水が泥水化したと云い、尾鷲では赤味を帯びたと云い、文里港では黒ずんだという。
2.震後泡が出る様になった個所が5ヶ所程あり、内1ヶ所(橘浦)では今でも(昭和22年4月現在)出ているとのことである。調査員の話によるとメタン瓦斯らしいと。
3.出漁中の漁船(10トン内外)の乗組員の体験談をそう合すると、潮岬附近では身体がおどり船が分解するかと思われる程度であったが、実際には船体にも機関にも被害はなかった。東は遠州灘、北は友ヶ島水道、西は豊後水道日向灘までの区域ではドンドンと下から押上げる振動或は急に速度を増した時に感ずる様な震動があった。内海では之より幾分弱く、相模灘では殆ど海震を感じない状況であった。
4.震源地に近い所を航行中の大型貨物船からの報告によると、觸雷或は暗礁にのしあげた程度の海震を感じたが、被害は全然なかったとのことである。
 又10ノットの速力が6ノットに減少したとの報告もある。
5.今回の地震では発光現象を見たという者が可なり多く、中には測候所長や土木出張所長等が直接に目撃したのを聞いた。その種類も多様で、スパークの様にパッパッと光ったというのが最も多く、山火事の様にボーット光ったというもの、火柱を見たというもの、光が移動したというもの、或は岩石の落下の際マサツによる発火を見たというもの等々ある。その方向は、紀伊北部では大阪湾の方向というのが最も多く、その他は海上で、潮岬南方、紀伊水道南方、室戸岬南東方、足摺埼南方、更に有明湾南東方である。時刻は大体地震中が多いが、中には地震前というものもある。
6.漁獲は地震後とれなくなったという所が多いが、特に地震直前までは大漁であったものが、震後急にとれなくなったというものが可なりある。
 又勝浦では秋刀魚の漁場が南下したというから或は海流が変化したのかも知れない。九州では震後一、二日程は漁は不振であったが再び平常にもどり、又伊勢湾松坂では却って漁が多くなったという所もある。
7.其の他色々な異常現象が傅られているが、参考までに第12節にまとめておいた。
尚当日の天候として足摺埼の観測をかかげる。(清水測候所より)
21日00時雲なし快晴、01時雲極く少量快晴、02時、03時、04時共に同じ、05時雲量2.3晴で当夜は暗夜で月はなかった。

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n=1,2,3・・・の値に対するHとH0との関係
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第1圖
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第2圖

II 現地調査

7.津浪

房総半島 半島南端の洲の埼及び布良では午前6時前後に海水が引き、その後夏の大潮程度に上げ下げを見た。併し洲の埼の1漁夫は海水が引く前に幾分潮が増したともいっている。津浪の高さは布良では0.7メートルであった。又島崎、館山、船形等では午前8時頃にこの現象を見たというから、丁度之は第2波か第3波かの最大波であったのかも知れない。

伊豆半島 下田では震後約40分で第1波来襲、大きいもの4回で第4波が最大であった。津浪来襲前引潮を認めており、又波高もこの附近に比べて最も高く、最高2.38メートルを示し、町内にかなりの浸水家屋を出した。その他の所では大潮の大きい程度で湊2.1メートル、須崎1.5メートル、外浦1.0メートル、白浜1.16メートル、妻良子浦1.12メートル、稻取0.3メートルとなっている。

駿河湾  湾奥の重須での験潮記録によると、来襲時刻は震後48分で、引潮の現象なく、大きいもの4回で、震後143分で最大波が来ている。波高は1.0メートルである。其の他清水、焼津等では30センチメートル程水位が昇った程度で被害も殆どない。
     御前埼では潮の昇降が平日より幾分大きい程度であったと。

舞坂  午前5時頃海水が引き始め、第1波来襲、その第1波が最高で、次第に弱まった、波高約1メートルという。
伊勢海  湾内には各地に簡易験潮器があって、之等の記録より見れば波高僅かに10センチメートル程度で、名古屋港の30センチメートルを最高とする。来襲時刻は福江70分、松坂100分、豊橋120分、名古屋150分であった。従って津浪による被害は皆無であった。

鳥羽  鳥羽では津浪というよりむしろ大潮程度で、震後25~30分にて第1波来襲、大きいもの3回、第2波が最大であった。浸水区域は中之郷のみで、この中之郷は大潮時では常に浸水するという。その津浪の高さも地面上約30センチメートルで(附図No.1)験潮所横の大井氏宅前での津浪の高さは0.69メートル(ML上1.09メートル)であった(写真No.1参照)。
東海地震の津浪の方が痕跡を測って見て今次の津浪より0.24メートル高かったが、この中之郷は毎年沈降しているというから、実際はもっと高かったかも知れない。

和具  地震後30分位で第1波が押しよせて来た。之が最高でその後5回程来た。
津浪は砂浜を越えることが出来ず、漁夫等の証言に依って測定の結果3.0メートル(ML上3.4メートル)を得た。併し之は浪の到達限界であるから、実際の津波の高さは幾分之より低いと推定せらる。

浜島  引潮で始まり第1波が震後20~30分でやって来た。ここも大潮の高潮面より幾分高い程度で、巡航船桟橋附近での津浪の高さは0.63メートル(ML上1.04メートル)であった。大きいもの3回、その後も数回つづいた。

尾鷲湾  尾鷲を始め、引本、矢口、須賀利等の調査をそう合すると、津浪は大体震後20分位で来ており、第2波が最大であった。其の回数も8回前後で、最初引潮か押波かは尾鷲、矢口では引かずに来たといい引本、須賀利では引いてから来たという。津浪の高さは附図No.2に記載してあるが、尾鷲では1.48メートル(写真No.2参照)、引本町では0.78メートル、引本浦奥の矢口では2.29メートル、又須賀利では1.11メートルである。東海地震の時の津浪の痕跡によれば、引本では2.57~2.86メートル、矢口では4.23~5.63メートル、須賀利では3.96~4.34メートルとなっておる(但しML上である。)勿論可なりの月日を経ておるから幾分の誤差はまぬかれない。

賀田湾  湾口の盛松が戦時中一村あげて三木浦附近に移轉したため、湾口の津浪の高さを測定し得なかったのは残念であるが、湾内各部落での調査の結果は、津浪は賀田部落での押波性を除いては他は殆ど高潮性であり、震後20~30分位というのが多い。回数は大小合せて七、八回で、第3回目又は第4回が最大であった。津浪の高さは賀田3.59メートル、曽根2.83メートル、古江2.53メートル、三木里2.59メートル、名柄2.31メートル、梶賀2.17メートル、三木浦2.14メートルをそれぞれ最高とするが、詳細は附図No.2にのせてある。東海地震の津浪は賀田では非常に大で、ML上6.28メートルに達していた(写真No.3参照)。梶賀ではML上3.30メートルであった。

九木浦  始め引かないで高潮性で第1波来襲しその時刻も震後20分位で四、五回やって来た。津浪の高さは湾奥名古では1.40メートルで、其の他は附図No.1を参照されたい。尚東海地震では震後15分位で第1波来襲、その高さも今回のものより高くML上3.88メートル(九木)に及んでいる。

新鹿  九木浦と同様始め引かないで高潮性の形で震後20分位で第1波来襲、その第1波が最大で、大きいものが三、四回来た。津浪の高さは1.91メートルを最高とする。東海地震では初め1丈も海水が引き、その津浪も押波性の形で来襲したという。又痕跡によればML上6.78~7.24メートルを測定した。

泊村  大泊、古泊共に引潮にて始まり、震後15分位で第1波来襲、その回数も4回程度で第2波が最高であった。津浪の高さは浸水家屋なき為海岸砂浜上にて漁師等の証言により到達限界を計り、大泊では2.0メートル、古泊では2.3メートルを得た。

勝浦  第1波の来襲前僅かの引潮を見た。震後約10分にて第1波来襲、大きいもの4回でばかりで、第2波が最高である。津浪の高さは1.60メートル程度(詳細附図No.1及び写真No.4参照)。東海地震の時の津浪の方が今次の津浪より約60センチメートル高い。

古座、西向 津浪来襲前古座川の水が激しい音をたてて引きさがった。震後10分内外して第1波が来襲し、大きいもの3回以上、古座では第2波が最大といい、西向では第1波が最大なりという。津浪の高さは西向2.15メートル、古座の最高3.60メートルで古座の方が高い(附図No.3参照)。

浦岬  津浪来襲前僅かに引いた様子だという人、全然引かずに高潮性にやって来たという人とがあり、その眞疑は不明である。10~15分で第1波来襲、その状態は満潮のはげしい程度であったと。大きいもの四、五回で、第1波が最大、併し第3波が最大だという人もある。
津浪の発達しそうな湾であったので、湾内各地の津浪の高さを測定した。
幸い東海地震時の津浪の痕跡も明瞭に残っていたので併せ測定した(詳細は附図No.3及び写眞No.5,6参照)。その比較を次に掲げる。

串本  地震と同時に小浪が出来て、まもなく満潮の様にきたという人と、初め僅かに引いて後徐々に高潮性でやって来たという人とある。潮御崎附近にいた漁船の話では大きなうねりを感じたという。とにかく顕著な引潮の現象は認め難く、仮に引潮の現象があったとしても僅かなものであると推定される。来襲時刻も5~10分で5回ばかり来ており第3回目が最高である。
津浪の高さは最低3.24メートルから最高4.53メートルに及んでおり、各場所に於ける高さは附図No.3に記しておいた(写真No.8参照)。丁度大島巡航船桟橋附近に大毎新聞社浸潮標があり、之より津浪の高さを測定して3.67メートルを得、又附近民家の痕跡より測定して3.69メートルを得た。よく一致する参考までに掲げた。東海地震の時の津浪の高さは今次のものより数十センチメートル低かった由である。

袋   潮岬を廻って袋に来ると、津浪の性質が一変して破壊性をおびてくる。所謂津浪が来たのだの感が深い。南より浸入した津浪は湾内を一掃して右にまわり高さ44メートルの小山の背後を迂回して湾外に溢れ出たという。
その為に沿岸附近の建物は殆ど押し流され、ある二階建事務所の二階だけ100メートルもはなれた山麓にぶつかり残っているのが見られた。従って津浪の高さも全区域にわたっての最高で6.57メートルを測定した。但しこの附近は40センチメートルばかり降起しているから之を修正しても津浪の高さは6メートル以上となる。

周参見  震後5分位たってから海水が引き、次に山の如く押し寄せて来た。大きいもの3回、第2波が最高であった。津波は周参見川に沿うて氾濫し、家屋の8割に浸水を見る。津浪の高さは場所によって可なりの相違あり、海岸附近の松林の防波堤上の民家では津浪の高さが最も高く5.32メートルであるも、川口附近の民家では3.61メートル、町役場では2.96メートルとなっておる(附図No.3及び写眞No.7参照)。併しニ、三十トン級の木造船が高さ4メートルの鉄橋越えて田畑に乗し上っている所を見れば津浪の高さは4メートル以上と見て差支えない。

白浜  初め引かずに水量が増加する様にやって来た。その時刻は震後5~8分といい、大きいもの5回位、第3波が最高である。津浪の高さも場所により異なり、瀬戸では3.61メートル、番所山の北端では1.43メートル、賀の浦では2.99メートルであった。(附図No.4参照)

新庄  津浪になる被害の最も大な所の一つである。震後10~15分で第1波来襲し、波頭が白く小山の如き状態で押寄せて来た。回数は4回以上で第3波が最大であった。跡の浦では引返し浪が強かった為可なりえぐり去られた部分がある。新庄の浸水区域はぼう大で津浪は海岸より1キロメートル以上の奥地にまで及んでいる。従って津浪の高さも文里港口の大阪商船発着所附近では3.14メートル、湾奥の橋谷では3.61メートル、浸水区域の北端では2.39メートル、東端では2.60メートル、南端では2.52メートルとなっている(附図No.4及び写眞No.10参照)。
今から約90年前安政の地震時の津浪は更にぼう大なものであったという。

田辺  震後10分位して(人により20分ともいう)一度海水が引いて後第1波が来襲した。回数は3回以上で第3波が最大であった。津浪は会津川に沿い逆行し、附近民家に浸水した。その高さは2.5~2.6メートル程度である(附図No.4参照)。

印南  震後15分位で第1波来襲し三、四回来た様子なるも暗夜のため詳細不明であったと。津浪は他の地に比して可なり高く沿岸附近で5.5メートルを測っている。

下津  最初僅かに引いて後第1波来襲し初めは高潮性なるも岸壁に上ってから急に白波を伴った。大きいもの3回で、第3波が最大であった。津浪の高さは湾奥の下津部落では3.20メートル、脇濱では3.27メートルであった(附図No.5参照)。丸善石油の重油タンク海岸側に4メートルも移動しているのは引返し波のためと思われる。

由良  地震後幾分海水が引いてから後小山の様に(高さ約3メートル)押波となって押しよせた。時刻は地震後20分というも、又30分ともいう。津浪の高さは湾奥では3.37メートルを最高とし、津浪の到達した浸水限界の町役場前では2.8メートル(地面上の高さは0センチメートル)であった(附図No.5参照)。

加太  震後30分位で第1波来襲し全部で3回位、第2波が最も大きかった。
併し津浪は護岸を越え得ずして終った。津浪の高さは1.6メートルであった。

海南  震後約40分にて第1波来襲、第2波が最大で段をなして押寄せて来た。津浪の高さは湾奥では3.21メートルであった(附図No.5参照)。

淡路由良、洲本 共に浸水せず。従って津浪の高さも0.9メートル程度であった。

福良  震後40~50分で第1波来襲しその第1波が最高で、あと四、五回来た。津浪の高さは湾奥で1.76メートルで、淡路島では唯一の浸水区域のあった所である(附図No.6参照)。

撫養  津浪とはいえない程度で従ってその高さも0.6メートル程度で浸水区域なし。

徳島  験潮記録によれば来襲時刻は震後40分で第1波が最大で、全部で3回の来襲を見る。津浪の高さも1.1メートルで浸水区域も僅少であった。

小松島  震後約20~30分で第1波来襲し、その来襲前5分位前に大潮の低潮面より更に0.3メートル程海水が引いたので、従来海底の出ない所まで見えたという。大きいもの3回、第2波が最大であった。津浪の高さは1.66メートルが最高(附図No.8参照)。

橘浦  震後20~25分で引かずに第1波が来襲し、約30分の間隔をおいて7回程来た。第2波が最大で、民家の8割以上浸水を見た。津浪も湾口では1.90メートルなるも、湾奥の福井川河口では3.63メートルであった(附図No.8参照)。

椿   浦神に似た湾である。第1波来襲前5分位前に海水が大潮の低潮面より更に引いたという。湾口より土ヶ坂鼻附近までは静かに満潮の如く来襲したが之より急に高くなり、2メートル位の立浪となった。大きいもの3回、第3浪が最大であった。津浪の高さ湾口では1.62メートル、湾奥の椿では3.12メートル、須屋では3.36メートルで、その中間附近では2.03メートルであった(附図No.8参照)。

日和佐  震後15分位して引き波を伴わずに突然来襲した。大きいもの3回位で第3波が最高であった。津浪の高さは2.05メートルが最高(写真No.9参照)。安政元年の津浪は附近の由岐では2丈の高さであったが、今次のものは12尺程であったと。
浅川 四国阿波沿岸では最も津浪の高かった所であった。湾の形が理想的なV型で、津浪の発達しそうな所である。湾口の鯖瀬では津浪の高さ2.90メートルであるが(同所の砂漠での推定位置での高さは4.1メートルとなる)、湾奥では4.88メートルとなり、約2メートル高くなっている。之が為浅川村では殆ど全滅に近い被害を被った(写眞No.11及び附図No.7参照)。

出羽島  浅川東方2マイル沖合にある小島、出羽島での津浪調査によると、附図No.7にある如く、皆3メートルを示している。之はこの附近津浪調査の一つの基準を示すものとして注目される。同島では震後20分位で第1波来襲し、大きいもの5回、第1波が最大であった。第1波来襲前の引潮の有無は眞暗でわからないというのが本当らしい。

那佐、宍喰 那佐では地震が終らない中にはや水が増しに来たといい、宍喰では震後15分位たって海水が稍引いて後やって来たという。大きいもの3回、第2波が最高で、津浪の高さは那佐3.73メートル、宍喰3.16メートルであっ(附(図No.7参照)。宍喰漁業会の話によると20日の夜21時から22時頃の潮の干満が今迄にない変り方であったとのことである。

甲浦  地震後10~15分で大潮の高潮面より約2メートル引いて後満潮の様に静かに来襲した。全部で6回、第2波が最高であった。津浪の高さは湾の北端では最も高く3.90メートルで、南端の白濱では最も低く2.1~2.3メートル程度であった(附図No.7参照)。

佐喜濱、椎名 共に土地高く浸水なき為津浪の痕跡が認められないので漁民等の証言で高さを測り、佐喜濱では2.5メートル、椎名では4.4メートルを得た。
但し椎名の分は砂濱の海岸での測定である為過大のおそれがある。3メートル程度と見るのが至当と考える。更にこの方面は土地が明かに隆起しておるので実際は之より低いかも知れない。佐喜濱では震後10分位、椎名では震後3~5分で、大きいもの1回来た外は不明であった。

津呂  地震後20~30分して大潮の低潮面より約1.5メートル程引いて後急に押し寄せて来た。船だまりでの津浪の高さは1.42メートルであった。

安田  地震後10~15分で第1波来襲し、大きいもの1回のみで又浸水もなし。
海岸での津浪の高さは1.9メートルであった。

手結  引潮は認めておらず、震後15分位で第1波来襲し、大きいもの3回、第1波が最高で浸水は僅少、津浪の高さは船だまりの奥で2.87メートルであった(附図No.12参照)。

高知  高知港口浦戸では震後約30分位で第1波来襲し、その来襲前に海水が引いたといい、又御畳瀬でも震後直ちに海水が引いたと云っている。回数は3~4回で最大波は浦戸では第3波、御畳瀬では第2波、高知では第4波と各々異なっている。津浪の高さは実測によれば浦戸1.79メートル、御畳瀬0.92メートル、高知0.6メートルで比較的低いにも拘らずその浸水区域はぼう大で1,400町歩に及ぶという(附図No.9,10参照)。水準測量及び岩高測定によっても約70センチメートル沈下したことは事実で、之が浸水区域の大きかった1原因であることは疑う余地がない(写眞No.12,13参照)。

新宇佐  須崎と共に高知県下では津浪の被害甚大であった所の一つで、その浪高も最高3.90メートル(橋田)(写眞No.14参照)に及んでいる。浸水区域及び浪高は附図No.12にしるしてあるが、北部一帯が3.5メートル以上であるのに中央部に2.6メートル程度の所のあるのは護岸の影響かと思考される。震後10分位して大潮の低潮面より2メートル以上に引いて後第1波が壁の如く突立って急激に来襲した。面して押浪の方が引返し浪より被害が大であった(津浪による倒壊家屋が山の方にたおれている。)大きいもの3回で第3回が最大であった。

須崎、多の郷 須崎では震後10分位、多の郷では15~20分位で第1波来襲、共に来襲前低潮面より1メートル以上も引いたという。その有様は初め満潮の如く来襲したが、ザーザーという音を立てかなり激しい流れをなして、一度陸上に上ってから水田上を壁の様に役立って眞白くなって押寄せた。その高さは多の郷での測定によると3.05メートルとなり、須崎では2.96メートルを最高とする(詳細附図No.11及び写眞No.15,16参照)。

野見  津浪の高さはこの湾が高知県下では最高であったが、民家が少い為被害は大したことはなかった。震後15分位で極めて静かに海水が増して来たが湾奥では白壁の如く突立って来た。回数は6~7回で第3波(又は第4波ともいう)が最大であった。浪高は宮谷5.20メートル、小浦4.60メートル、駿岐4.26メートル、野見4.22メートルであった(附図No.11参照)。

安和  須崎湾の湾口西部にある安和では、震後15分位で第1波来襲し、その来襲前に大潮の低潮面より更に低く引いた由である。大きいもの3回で第3波が最高であった。津浪の高さは海岸の砂濱上では4.7メートルであったが、家屋の浸水痕跡より測ると2.99メートルとなり、1.7メートルが波の影響と考えられる。

久礼  震後10分位で大潮の低潮面より約1.5メートル引いて後第1波来襲し(久礼漁業会では引かないという)津浪は静かに満潮の如くやって来た。その回数は6回位で第3波が最大であった。津浪の高さは鎌田のポンドでは2.81メートル、久礼町の海岸では3.9メートルであったが、民家での痕跡によれば1.91メートルとなり比較的低い。之も護岸の影響であろうか(附図No.11参照)。

上の加江 震後7分位で第1波来襲し引潮は認めていない。大きいもの3回で第3波が最高であった。高潮性ではあるが幾分急激な流れをなして増水した。浪高2.50メートルを得た。

小室  震後5分位で大潮の低潮より約2メートル海水が引いて後第1波が来襲した。この為船だまりは空になったという。大きいもの3回で第3波が最高であった。船だまり横の倉庫及び民家に明瞭な痕跡があり、それぞれ3.72メートル、3.86メートルを測定した(附図No.12参照)。

佐賀  震後30分位で第1波来襲し、大きいもの3回で第2波が最高、津浪は伊奥喜川を3キロメートルも逆行したという。海岸の横浜では津浪の高さ4.7メートルであったが、之は砂濱上の推定位置より測定したものであるから波の影響があり、之より低いものと考える。来襲前の引潮については部落民は引潮を認めており、漁業会では認めていない(附図No.12及び写眞No.17参照)。

上川口  震後30分位で第1波来襲し、大きいもの5回で第4波が最高であった。
護岸での津浪の高さは村民の証言により4.45メートルを測定した。

下田  第1波来襲前大潮の低潮面より約2メートル引いてから静かに来襲した。
その時刻は震後約40分で大きいもの3回、第1波が最高であった。津浪の高さは海岸では到達地点より測って3.5メートルを得たが、下田町では1.07メートルであった。川が大きい為か四萬十川での波高は比較的低かった(附図No.12参照)。

下の加江 湾奥の下の加江及び以布利では津浪来襲前川の水や船だまりの海水が大潮の低潮より約1メートル引いたので船だまりでは水がなくなった。津浪は加江湾の方から増量する如く静かに来襲し海岸線附近に来て、急激に押波性にかわった。その時刻は震後30分位であったといい、大きいもの6回、布では第3波が最高であった。波高は湾奥の下の加江では3.23メートル、湾口の布では約2.1メートル、又以布利では2.7メートルであった(附図No.12参照)。又布では20日の夜半(24時頃)通常の低潮では引かない所まで引いたという。前の小室といい、上川口といい、又布といい、湾の形及び方向が同一であるにも拘らず前二者は津浪が高く、最後の布だけが比較的低いのは何が原因か不明であるが、布のみが布埼のかげになる様な方向に浪源があったのかも知れない。

清水  験潮器の時計故障の為その来襲時刻は知り得なかったが、町民の言によれば震後20~30分で第1波来襲し、大きいもの5回位、第2波が最高で津浪は道路の一部に浸水した程度で波高1.83メートルを測った。之をML上に換算すると2.33メートルとなり、測候所での実測ML上2.42メートルと略一致する。従って同町の被害も他に比し僅少であった。

古満目  普通津浪による被害大な所は足摺埼で終りの如く考えられていたが、予想外であったのがこの古満目港である。特に湾奥の浦尻での津浪は高さ3.93メートルに及び被害又大であった(写眞No.18,19参照)。古満目では震後30~40分位で第1波来襲し、大きいもの4回で第3波が最高であった。又第1波来襲前大潮の低潮面より約1.5メートル位引いたという。又津浪は静かに高潮性で来た。湾口での波高は2.54メートルであった(附図No.10参照)。

片島  震後20分位で大潮の低潮面位迄引き後第1波来襲し、大きいもの4回、第3波が最高で波高は海岸附近の民家では1.32メートルであった(附図No.10参照)。

宇和島  験潮記録によると震後80分で引かずに第1波来襲、その高さは1.16メートルで浸水家屋なし。大きいもの4回で第2波最高、之が道路上に浸水した程度であった。

八幡濱  幾分水量が増した程度波高0.4メートルであった。

伊予吉田 震後約1時間で第1波来襲、その高さは1.1メートルであった。

三崎  震後1時間位で第1波静かに来襲し午前中数回来た。波高は海岸で0.6メートルを測る。

瀬戸内海 瀬戸内海各地での調査報告よれば、高松港に於て験潮記録より波高25センチメートルを測定し得た外に津浪現象のあった所はない。唯牛窓及び松山では約30センチメートルの高潮を見たとのことである。

九州  細島及び大野川の験潮記録によれば引潮の現象は認められないが、大分、別府、佐伯、油津等の村民での調査によると、皆引潮の現象を認めている。
第1波後の引きの誤認かも知れない。来襲時刻は震後細島では70分、油津60分、土土呂約60分となっており、その回数は3回にして、共に第3波が最大である。津浪の高さは佐伯より南志布志までは1.3~1.5メートル程度であった。

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東海地震時の津浪との比較

8.海面の状況

鳥羽 中の郷岸壁前面に於て時計の針の方向の渦流を生じた。加茂川口附近一帯は海底泥砂がかく乱浮遊し泥水化した。

和具 西流と東流とが交互に変化しその変化は5分毎に変った。これが5往復ほどあった。潮流の激高を感じた。

濱島 地震後湾全体が泥水化し沸き立った様になった。

矢口 湾内の海水が泥水化した。

尾鷲 防波堤内では時計の針の方向に渦を巻いた。その速さは5ノットほど、又幾分赤味を帯びて濁って来た。

新鹿 海水は割合濁らなかった。

浦神 浦神港内で反時計方向に渦を巻いた。海面が湧きたつ様になった。

串本 潮流は一定方向なく激流した。又潮岬では沿岸一帯は津浪の為水色が変り濁った。

周参見 海面は湧き立つ様であった。一定の潮流を認めず渦流もなかった。

白浜 潮流は非常に激流した。港内は1週間位濁っていた。

文里港 湾内の水は底から沸き出る如くかく乱されて水面が黒ずんだ。

印南 出漁中川口より約500間位(深さ30尋)では非常に大きなうねりを生じた。海底からは泡が沸き立った。此の附近では渦流を認めない。

加太 湾内では津浪直後でも濁らなかった。

由良 地震後海面が動揺し上下にジャブジャブと動いた。

淡路由良 潮流の方向は南北方向のみで濁らなかった。

福良 湾内は雨後の如く湧き立ち濁った所もある。

小松島 出漁中の船は流れがはげしくなって一方向に流れ又10分位経って方向が変った。港内は反時計方向に渦を巻いて流れた。震後2日間位港内は泥水化した。

椿町 特別な潮流を認めなかったが湾内では時計方向に渦を巻いた。海面は四、五日後まで濁った。

日和佐 牟岐~日和佐間の漁場では上げ潮が実に速かった(川の流れの如くであった)。平家島北側海面では地震前から少し泡が出ていたが地震後は特に顕著になったけれども2月中旬頃停止した。

橘浦 竜王埼突端より南15メートルの海面で気泡が連鎖的に湧出し始めていたが次第に衰微しているので近く消滅するものと思われる。

出羽島 港内の波は時計と反対方向に廻った。又海が何日も前から潮の干満の様な動揺を感じていた。

鞆浦 津浪前四、五日前から夜の潮が川の水が無くなる程引いた。

宍喰 20日の21時から22時頃潮の干満が今までにない変り方であった。津浪の際湾内の船は五、六回渦巻につれて廻り乍ら陸上にのし上げた。

浅川 浅川湾内は反時計方向の渦を巻いた(普通は時計方向に流れる)。海底は沸き立つ様であった。海水は1週間位濁っていた。

甲ノ浦 波止場内では差し津浪は時計方向に、引返し津浪は反時計方向に渦を巻いた。港内は約5日間濁っていた。津浪前4~5時間に港に港内海面全体に泡が眞白に沸き立つ如く発生した。12月11日より15日迄物すごく速い南流があって大謀網を流し去った。

佐喜浜 東方1マイル沖で泡が海底から生ずる様になった。

御畳瀬 出漁中の船は潮流の激変は感じなかった。港内では船、材木、漂流物等が一緒になって往復流動したが渦はなかった。港内は1週間位濁っていた。

浦戸 浦戸西方湾入部附近は反時計方向に渦をなした。湾口附近では2週間位濁っていた。

新宇佐 宇佐湾内では多少渦巻をなした様であるが詳細不明。

須崎 港内では約15日間海水は濁った。

野見 湾内は20日間位海水が濁っていた。又潮流は時計方向に流れた。

久礼 磐だまり内は時計方向に渦を巻いた。久礼湾内は10日間位濁っていた。

上ノ加江 潮の変化は認められなかった。

佐賀 湾内は時計と反対方向の潮の流れがあった。1週間程濁っていた。

下田 湾内は約1週間位濁っていた。潮の流れは渦をなさず河口に向け前後運動があったのみである。

布 布東西突端より南方400間の所に新しい潮の流れを生じ今日に及んでいる。

以布利 下ノ加江湾は2~3日、船だまり内は4~5日間濁った。潮流は下ノ加江湾では直線運動をなし渦はなかった。

清水 港内では流れは前後運動のみであって渦は認められなかった。港内の海水は1週間位濁っていた。

古満目 湾内潮流は前後運後はあったが渦巻はなかった。港内は1週間位濁っていた。

宿毛 潮流は前後運動が主であったが所により小さい時計の方向の渦流を生じた。海水は1週間から10日間位濁った。

宇和島 湾内に渦巻は認めず、15日間位濁っていた。

八幡浜 時計の針の方向の渦巻があった。

坂出 潮流の異変及び擾乱を認めず。

牛窓 潮流強大となり漁網を流失した由。

田ノ浦 田浦港北東2マイルの沖合の漁場で地震後水泡が出ている所がある。

9.海震

洲ノ崎、焼津 共に感じない。

福江 佐久島に停泊中の7トンの発動機船は急回轉のときの様な衝動があった。

鳥羽 港内繋留中の機帆船はドンドンと下から突上げる様なショックを感じた。

須賀利 鰯漁船が海震を感じた。

尾鷲 出漁中のいかつり船(5トン以下)が地震時に波の擾乱を感じた。

賀田 沖合出漁中の漁船が強くドンドンという震動を感じた。三木浦で航走中の船が地震時に物凄い震動を感じた。又ヤンマー発動機船の航行に困難を感じた。

泊村 古泊ではないが釣船がドンドンと突上げる様な感じを受けた。

紀伊勝浦 勝浦沖合に出漁中の船は突上げられる様に感じた。

古座 出漁中の船は地震中非常に圧迫される様な感じを受けた。

西向 出漁中の船は岩にぶつかる様な震動を感じた。

浦神 出漁中の船員は身体が躍る様な感じを受けた。又強い震動を受けて機械が止る様であった。

下津 海震は全く感じない。

加太 湾内の櫓船はドットという発動機をかけた位の震動を感じた。

淡路由良 紀伊水道沼島東方6~8マイル附近に出漁中の船はドンドンという音を聞き物に衝突した様で、又下方から突上げられる様な震動を感じた。

洲本 海震は気付かなかった。

福良 福良湾口南寄り附近に鰯漁中の船は機関の振動程度の動揺を感じた。

撫養 出漁中の船は強い海の震動を感じた。

小松島 牟岐沖4マイルの所に出漁中の船は衝突した様な震動を感じた。又和歌山、徳島中間に出漁中の船は機雷にかかった様な急激なショックを感じた。

椿町 港内の船では機械をかけることが出来ない程強い震動を感じた。

日和佐 出漁中の船は殆ど地震を知らなかった。

浅川 出漁中の船では機関を急回轉したときの様な震動を感じた。

出羽島 出漁中の漁船は機械が急回轉した様な振動を感じた。

宍喰 いか釣に出漁中の漁船は急回轉の様な感じがあった。

甲ノ浦 竹ヶ島南方2~3マイル附近に出漁中の船は機関の急回轉したときの様な感じを受けた。

室戸岬 機関の急回轉した様な震動を受けた、又遠洋漁業船(出漁場所不明)の一部のものは海震を感じ、一部のものは感じなかった。

手結 出漁船は舟底に大きな怪物が出て来て叩く様な感じを受けた。其の後舟は物凄く長い間急震動を受けた(確かに地震か何かあったとは思ったが津浪があったとは思
わなかった)。

高知 釣舟は港内で何か湧いて来る様な感じを受けた。

御畳瀬 沖合の船は機関をかけたような震動を受けた。又航海中の船は暗礁にのし上げたようなショックを受けた。

浦戸 室戸岬東方120マイル附近にて操業中の動力漁船(10トン)は地震時に全く何等衝激を感じなかった。

紀伊藤浦南東沖にて操業中の動力漁船(18トン)は地震を感じた。

新宇佐 宇佐沖2~3マイルに出漁中の漁船はドンと鳴る音を聞き舟はひどく震動し潮の流れは急変しこの為舟は往復運動をした。

須崎 須崎町沖合4~5マイル附近に出漁中の船は船体が破壊されるような強い震動を受けた。

多ノ郷 出漁中の舟は急震動を受けた。又舟底を突上げられるような感じを受けた。

安和 出漁中の舟はドンドンという音を2度聞いた。これと同時に魚が取れなくなった。

久礼 出漁中の舟は海面の変化も震動も気付かなかった。

上ノ加江 出漁中の舟はドシンと下から突上げられるような感じを5~6回受けた。
又ズルズルという音を立てて震動した舟もある。

佐賀 出漁中ドシンと震動した漁船あり、又或る船は上下に激しくガタガタと震動した(佐賀沖5マイル)。

上川口 出漁中の船は突上げられる様なショックを受けた。又船に立っていることも出来得ない位のショックを受け櫓も漕げなかった船もある。

下田 いか釣に出漁した船は地震浪はあまり気付かなかった。又或る船はズーという音がして地震が感ぜられた。

下ノ加江 出漁中の船は船体が暗礁にのし上げた様な感じを受けた。

布 出漁中の船は初めドシンと上下に突き上げられるような震動を感じた。同時に潮の流れが8~9ノットの急流となって船を前後に流した。

以布利 下ノ加江、以布利沖3マイルに出漁中の船は上下に突き上げられる様な強い震動を受けた。

古満目 古満目沖3マイル附近では家に居て受けるよりも激しい震動を受け激流の為5馬力の船が進行し得なかった。

宿毛 出漁中浪が高くなり上下に非常に激しく小波を伴って震動した。

宇和島 宇和島海湾に出漁中の船は機関の急回轉する様な猛震動を受けた。

吉田 高知附近を航行中の無動力帆船では震動を感じた。

八幡浜 沖合出漁中の船では震動を感じなかった。

三崎 出漁中の船は機関をかけた時の震動程度のものを感じた。
別府~八幡浜間を巡航中の巡航船繁久丸は高島附近航行中地震時僅かな震動を感じた。

坂出 内海に出漁中の船は何処かで爆薬を仕かけた様な震動を受けた。

大島(日和佐南方沖) 重油発動機60馬力の機関を備えた木造80トン機帆船久實丸は木材を満載して高知より大阪に向って航行中徳島県海部大島の北東端東方1マイルの地点を蒲生田岬の方向に向け進行中4時20分頃恰も平床の岩礁の上を乗り切ったのではないかと思う様な上下の震動を約2分間連続して感じた。船底の機関室に居た機関手は船底を持ち上げられた様に感じたと述べている。此の震動は1回だけしか感受しなかったが機関の震動の為其の後の震動が感じなかったのかも知れない。尚当時これが地震であるとは知らなかったので専ら何かに接觸したものと判断していた。

佐伯 大入島沖3マイルに出漁中の4トン漁船は機関が空轉回したときのような振動を感じた。

崎田 都井岬沖2マイルに出漁中の3トン漁船は船底を叩かれた様な音を感じた。

笠岡 港内に繋留していた船では海震を感じた。

徳山 出漁中の3トンの帆船では地震だと直感する位上下に大ショックを感じた。

呉 小舟は上下の震動を感じ、50トン級機帆船にて左右震動を感じた。

宇部 碇泊中の50トン級機帆船は船底を叩かれる様な音を聞き地震だと感じた。

新宮沖 V053号は新宮沖10.3マイル(33度39分N,136度12分E)の地点を名古屋港に向け航海中、突如船体に觸雷と覚しい激動を感じ、約30秒間上下動の震動を続けた。丁度觸雷後觸底又は坐礁せる様であった。尚暗夜の為海の変化は不明であった。(名古屋港務所より)
新宮沖12マイルを航行中のLSTからの報告によれば、船の底が機雷に觸れたような感じであったと。(新聞紙より)

室戸岬 室戸岬30マイルを航行中のQ45号の事務長からの報告によれば船体が突然がたがたと震動しはじめると同時に船首が前にのめるような感じを覚え丁度暗礁に乗り上げるようでした。それからは10ノットの船足が6ノットしか出なかった。(新聞紙より)

田ノ浦 地震当時田の浦南方約13キロメートルの又ノ岬沖に出漁中の一漁師の談によれば当時私は小さな漕ぎ船で前の晩から出漁していた。そろそろ帰えろうとする時分、急に船が上下にこきざみに震動しだした。大体5~6センチメートル位の震動であったろう。海震だと気付き何処か大きい地震があったのだろうと思った時、北東の方向に2回大きな光を見た。その光は稲光よりも少し青みがかっていた。それから北に帰路についたが地震があってから40~50分後非常に速い引潮を感じた。そして下田沖2マイル位な所にさしかかった時、時間にして5時半頃であったろうか、相当ひどい「シホザヒ」三角波に遭遇し船中に波がしぶき込んで来たが、之は200メートル位の範囲内であった。此の区域を通過し薄明時分、田の浦南方のイヤ岬沖にさしかかった時前回より猶ひどい南に向った引潮を感じた。田の浦港口にさしかかった時は潮が満ちて居る時だったのでしばらく港外で待機した後上陸したと。(高知測候所より)

10.発光現象

津 震源地方向に光を認めた(日時不明)。

松坂 海上に光を見た(日時不明)。

西浦 南西及び北西に地震当時スパークの様な光を認めた。

福江 地震中北西に光を見た。

舞坂 南南西~南西方向に黄赤の光を見、後西北西にも黄青の光を見た。

鳥羽 小呉町より北東方向に電雷の如く1回光った。

浜島 北方宇治山田方面に赤味を帯びた光を見た。火事かと思ったが地震が来て飛び出したときに見えたので火事ではなかった。紀州沖合にいか釣に出ていた漁師は何か
光ったものが天から下りて来て海中に浸したと思うと間もなく震動を感じたという。

尾鷲 地震と同時に北方にスパークの如きもの略10秒間隔で2個所の発光現象を見た。又出漁中の5トン以下のいかつり船では九木埼より行野沖に至る間に於て西側に山火事の如き光りを見た。又漁師の言に依れば紀伊沖から火の玉が飛んで来て尾鷲附近で一旦とまり又北方に飛んで行った。此の時尾鷲附近で地震であった。

九木浦 地震前南東寄りの方向の山が焼けつく様に眞赤に見えた。

賀田 賀田湾沖3マイルにあった漁船全部が地震中北より南に向って流れる電雷の様な光を見た。
又或る者は地震と同時に東方より西方に電雷の様な光を見た。其の光は西方で火花の如く散った。

泊 泊村大泊に於ては地震中及び其の直後電雷の如き光が北西方に走るのを見た。又泊村古泊に於ては地震時に海岸から見て山手方面が山火事の如くパット明るくなり、それが南西方面に走ったがそれは火事の如くでもなく又稲光りの如くでもなかった。

古座 地震前北西方面(大阪方面)に盛んな閃光を見た。

西向 地震前及び地震中伊串より見れば小笠山(259メートル)方向の奥の方に山火事の如き光を見た其の光は都会の空を遠方から夜見た様な光であった。

浦神 出漁中の船は潮岬方面より那智山方向に光が去ったのを見た。
出漁中の船は地震直前赤雲が発生し手のすぢが見える程の明るさであった。

須賀利 地震と同時に西方の山にものすごい眞赤な光を見た。又北東方にも光を見た。

串本 沖合漁船は潮岬より大島の方向に光が二つ飛んだのを見た。

潮岬 橋杭に於ては地震前に眞赤な光を見た。又大島沖に出た舟は橋杭方向に赤い光を見た。
地震中かなりの明るさをもった光が南方沖方面にパッパッと見えた。

白浜 江津良に於ては北北西方にポーッと明るい光が見えた。

田辺 南より北に向って光が見られたが北の光は南の光の反射らしい。又旅行者が遠州灘で汽車の窓から見た話に依れば紀州方向に光を3回見たが、第3回目が最も強い光であった。紀伊椿の一老人は地震前夜「異変あり」と予言し、地震直前の午前3時過ぎに起床して見た処白浜沖に、次に周参見沖に火柱が立ち其の下の水が掘れるように見えた。その掘れ方は皿の如くで、その後に地震が起きた。

文里 港口では沖の方から山に光が反射して一面に明るかった。

印南 地震後津浪が来る前に北西方向と東方に非常に明るくパッと光が見えた。
その中にそれが火柱の様に見えた。

由良 丁度地震中山手方面に電光を見た。

下津 和歌山市方向に山火事の如くピカピカすると光を見た。又地震時空が光って全体が明るくなった。

加太 出漁準備の為海岸に居った漁夫は地震後2分に東方が朝日の昇る様に明るくなったのを見た。宵の口から東方に当って電光の様な光が数回パッパッと見えた。又地震の最中火柱の様なものが4本(洲本方面、南方、山の手南西方面各1本づつ)見えた。地震中海面及び海底が明るくなった。此の明りは大阪方向及び淡路方向へ走って行った。

出羽島 紀州の方に電光の様なものが地震中に見えた。四国の山の頂上に赤いボヤットした火を見た。

由良 由良町の北端方向が地震時に明るくなり瞬間に飛び上って消えた。又或る漁夫は地震と同時に日ノ御崎方向にパーッと電気の短絡した様な光が見えた。

洲本 洲本東方2マイル位の沖に出漁中の漁船ではうすあかりの光を見た。此の光は初め熊野灘方面より始まり淡路島西方で終った。光は柱状で斜角30度で点々と光っていた。そして神戸方面あたりへ行くと全体に明るくなりその為に山々の輪郭が判っきりした。此の光が一周するに2~5分かかった様に思う。

福良 地震と津浪の間に電雷の如き光を東方に見た。又漁船は福良より撫養に亘る光を見た。

撫養 地震時に光を見た。

徳島 徳島西方2.5里の石井の住人が地震中扇形の閃光を南方に、次で西方に見た。閃光の色は下方が赤く上方は黄色味を帯びていた。

小松島 北東及び南東方に鈍い色で電気のスパークする様な光を見た。又出漁中の船及び陸上に於ても電雷のような光が徳島方向に空襲時のように見えた。

椿町 津浪前10分位で東の方がボート赤くなった。

日和佐 南方に火柱が見えてから音がした。又出漁中の船は殆ど地震を知らなかったが牟岐、日和佐の岩石が崩れ石と石の摩擦で火を発して居るのを見て初めて地震のあったことを知った。

浅川 地震時電光のような赤い光が南から西、北の方へ順次光って行った其の間2~5分かかった。

甲ノ浦 20日夜より地震前迄南方沖合が明るくなった。又東方に火柱が立ったという者があった。

橘 地震と同時に紀伊日ノ御埼の南方に赤白い光(火事の様なぼんやりした余り明るくない)が見えた。

佐喜浜 地震時に山側の上空が赤くなった。

室戸岬 光は認めなかったという者あるも、津呂では東方に桃色の様な光がパッパッと見えたという者もある。

安田 地震中室戸岬方面と足摺岬方面に光が点々と見えた。

手結 手結より北北西及び北西方向にガス燈の如く青くピカリピカリと何回も光った。船でも同様の光を見た。又他の漁夫は西方に桃色の光を見た。

御畳瀬 地震前南西方向に非常に強い光を見た。

浦戸 光は浦戸より見て東方に見えた。

新宇佐 光は東方に見えたが高圧線のスパークと思うという者あり、又眞西方向に火柱を見た(此の方面に高圧線がある)。

須崎 地震時南西方、北東方、北方、北西方の順に光が廻って行ったのを見た。
又青い光が北方に見えて其の為家の中の物が明るく見えたと云う者があった。出漁中の船は高知方面より西の方へ進む光を見た。

多ノ郷 野見湾神島や牛竜山沖に出ていた船は北方に光を見た。野見に出漁中の船は東から北西須崎方面に火の玉が飛ぶのを見た。又地震直後0430頃南東方向の空が夕焼のように明るくなった。

安和 出漁中の舟は沖の方に光を見た。陸上でも同様な光を見た。

久礼 地震時に陸上及び沖合の漁船は南方沖合に瞬間的な光を見た。光の明るさは月夜のように明るく手の指紋が見える程度であった。

上ノ加江 地震時に北東方に電雷光のような光を見た。又出漁中の船では高知方面に探海燈のような光を見た。其の後須崎方面に同様の青光を見た。

小室 地震中光は東から北東へ電雷の如く飛んだ。

佐賀 出漁中船で東から西へ飛んだ光を見た。又西の山の方が光ったという者がある。
下田町沖に出漁中の船は潮が非常に光ったのを見た。

上川口 上川口港沖3マイルの海上で東から西へ向う光を見た。

下田 地震時青砂島海岸で見ると東方沖合に電雷のような光を見た。

下ノ加江 出漁中の船は足摺埼(南方)方向にパッパツと点滅する光を見た。

布 地震直前南東方向に電雷の如き光を見た。

清水 清水港遠見埼0.5マイル沖にいか釣に出漁中の漁船は南東方向に光を見た。

古満目 沖合3マイル附近に出漁中の漁船は北方にパッパツと電光のような光を見たが陸上の者は知らなかった。

浦尻 光は東方にピカリピカリと光ったが電雷光のようではなくにぶいものであった。又燐鑛採掘人が見た所に依れば東方の山が各所光ったが崖崩れであったろうという。

宿毛 宿毛湾中央付近に出漁中の船は北東の空に相当明るい雷光のような光を見た。又南西方向に青白いパッパッと光る弱い光を2回見た。

宇和島 地震最中に西方に電雷のような光を見た。

吉田 南西方に光を見たという者がある。

八幡浜 出漁中の船は山の方で木と木が觸れ合いボート明るくなったのを見た。

三崎 三崎海岸5~6間位沖に出漁中の漁船が上空でパーと光るのを見た。

坂出 南西方向にサーチライトの様な光を見た。又漁船の中にも稀に光を見たという者もある。

海南 北方山手方面に電気のスパークの如く青白い光が多数回ピカピカ光ったという。

大分 地震と同時に南東方に発光現象を認めた。

別府 地震と同時に南東方に発光現象を認めた。

佐伯 地震と同時に青白色の発光現象を認めた。

細島 地震と同時に東方海上に発光現象を認めた。

崎田 地震と同時に南東方に発光現象を認めた。

油津 同上

志布志 夏井にて地震と同時に南東方に発光現象を認めた。

11.生物と漁獲

清水 津浪後ニ、三日は漁が全々無く、四、五日後から少しづつ漁獲があり、12月末頃には平常通りになった。

松坂 地震後港内の漁は多くなった。

津  的矢南方のえびの漁獲は地震の日は平日の倍(80~100貫)の収獲があった。

舞坂 西へ行った船には漁獲あり、東へ行った船には漁獲がなかった。一般に漁獲は少い。

九木浦 地震前10日程から羽鰹が取れ始め、地震後は更に多量に採れた。

和具 地震前2~3日には伊勢えびが相当取れたが地震前日には全々取れなかった。

浜島 地震直後4~5日間はあじが岸へ寄って来た為大漁であった。其の後棲息場所が変ったらしい。

尾鷲 地震前かつをが大漁であった。漁師は東海地震の経験よりして又地震があると予言していた。地震後は1週間位漁がないものであるが今回も地震後とれなくなった。

引本 海底から腐敗性の泥が上って来る為に之をかぶって眞珠、かき等が死んだ。又20日夜迄漁獲があったが其の後はなかった。

須賀利 10日前から引本町や長島でカマスが大漁であった。

新鹿 地震前までサンマが取れ、特に地震の晩は大漁であったが、地震後からは皆無となった。

勝浦 地震後漁が少くなった。又サンマ漁場は沖合12マイル位までであったが地震後30マイルまで遠方に移った。

新宮 地震前いかが海岸近くに寄っていたが地震後は沖に出た。又昨年は11月から2月頃迄抜実によくいかが獲れたが地震後獲れなくなった。鯖も同様な傾向があった。

西向 地震後いか漁が多いように思うという者あり又かれい、ひらめの如く比較的地底に棲む魚は収穫が少くなった。

浦神 地震日の翌朝えびが比較的多く獲れた。一般にいかは地震後幾分多く獲れるようである。

串本 地震後漁道の変化があったと思われる漁獲は皆無に等しかった。殊に海藻類は全くなくなった。

潮岬 海藻類は地殻隆起の為繁殖不能になった。漁獲は殆ど皆無に近い程になった。又20日夜より21日朝までは鰯が大漁であったが、其の後は全く獲れない。

周参見 漁獲には地震前後に変化がないが津浪後2~3日間は漁獲がなかった。

白浜 地震後10日間位は漁獲皆無であった。

印南 地震前いかがよく獲れた。

由良 シラスの獲れ方は殆ど変化がないが幾分減少した。伊勢えびは地震後一層多く獲れるようである。

下津 漁獲には変化がない。

加太 津浪後漁獲は少くなった。即ち浅水浮漁は全々変化がないようであるが、底漁は幾分獲れなくなった。

由良 津浪後2日間位漁獲が少なかった。

洲本 淡路島雁来埼附近から同島佛埼附近までは潮流の影響で津浪直後より5~6日間たこが多量に獲れた。其の他魚類には明確な異変はなかった。

小松島 地震後2~3日位いかの漁獲が比較的多かった。然しいわし、ぼら、このしろは地震後あまり獲れなくなった。

椿町 鰯の漁獲には変化を認めず、さわらは地震後不漁であった。

日和佐 当時は一般に漁は少なかったが地震後は特に少くなった。

甲ノ浦 一般に変化なし。但し地震後いぼだいが非常に大漁であった。

橘 地震前後とも鰯は大漁であった。津浪後ナマコが全然いなくなった。

佐喜浜 地震後は一般に漁が多いようである。

室戸岬 地震後ぶり、さばは多少少くなった。いかの漁獲は多くなった。

安田 地震後鰹漁業は不振であるがいかの漁は不変である。

手結 地震後いか、いそ、鯛等の漁獲は20日間位皆無であった。現在でも僅かに獲れるに過ぎない。

高知 港内でちぬの漁業が地震後少くなった。

御畳瀬 震後4~5日間はいわしが大漁であった。

浦戸 津浪後3日間位は海底は非常に濁って居り漁はあまり獲れなかったが4日目位からよく獲れるようになった。

新宇佐 地震後漁獲は少い。

須崎 地震後釣漁は殆ど漁獲が皆無である。

地震後底曳網がかなり大漁であった。

多ノ郷 地震後いそえびが全々獲れなくなった。
牛龍山沿岸では漁獲に変化がないが一般に地震前後40日位は漁業が不振であった。12月中下旬頃から海水の色が変化し震後40日間もこの状況が続いたので漁獲が振わないのであろう。

安和 地震後1週間位の間鯛が特によく獲れた。津浪前0時頃潮が引いた為たこが鳴いた。

久礼 冬季は漁獲の少い時季なるも一般に地震後は漁業は不振である。即ち釣漁は一般に収穫なし。鰯の漁もない。

上の加江 地震後れんこ鯛が全くとれない。但しはも等は地震後約1ヶ月は昼間でもとれた。

小室 ぶり、たこ等漁獲は不振になった。古人は地震後は漁獲が多くなると言っているが、今回の地震では収穫がない。あゆの子や、ぼらは全く獲れなくなった。但しかたくち、いわしのみは地震後普通より幾分獲れる様である。

上川口 地震後1ヶ月位は漁獲(ちたい、いそうお、いそえび)が少かった。

下田 地震後1ヶ月位は総ての漁獲(たい、いか、いそ等)は皆無であった。現在(昭和22年2月)も尚不振である。

下の加江 漁獲は地震前後に大した変化はないが、あまだい、れんこだいはとれ方が少なくなったようである。

布 地震直後より漁獲は(あじ、さば、たち、さわら、いか等)殆ど皆無であった。特にまついかは地震直後全く獲れなかった。

以布利 地震後1週間位は漁獲不振であったが現在(昭和22年2月5日)は従前と変りない。

清水 地震時にえびが相当数岸壁にとび上がった。

古満目 漁獲は一般に震後不振であるが地震後20日間位は鰤が比較的多くとれた。

浦尻 漁獲には大した変化はない。

宿毛 地震後よりあぢ、さば、めぢか、いわし等の漁獲は現在(昭和22年2月6日)に至るも皆無に近い。

宇和島 地震後4~5日間は漁獲は皆無であったが現在(昭和22年2月7日)は略既往に復元した。

吉田 吉田湾内では変化がない。

坂出 一回に何百貫ととれたいかなごがとれるべき潮時にとれず数十尾程度のことすら度々である。小豆島でも同様である。

海南 地震及び津浪後養殖中のかきの大半は死滅した。

崎田 地震後1日漁なく2日後より平常通りとなった。

油津 地震後2日より漁は平常通りになった。

志布志 漁が沖に引っ込んだ為地震後2~3日は漁獲が少かった。

高松 地震前後の21日朝はいか漁が普通より目立って多かった。

徳山 地震後引網の漁獲は著しい大漁を見た。

12.其の他の現象

天候
田辺 地震前は生暖かいどんよりした天候であった。
串本 地震当夜は無風でどんよりした生温い様な寝苦しい晩であった。
文理港 地震の夜はむし暑い寝苦しい晩であった。
須崎 津浪来襲前はどんよりした生ぬるい天候であった。
津呂 当日はどんよりした気持ちの悪い天候であった。
浦尻 地震前どんよりした気持ちの悪い日が続いた。
八幡浜 なまぬるい天候であった。
坂出 寒に入っているのに関わらず珍しく暖かい日が続いた。


賀田湾 帯状白雲が5日前から現れた。
浦神 潮岬方面に黒雲が地震時に渦巻の様な状態を呈した。
音響
浦神 地震前出漁中の船はドンという爆弾のさくれつする様な音を聞いた。
視程
浦神 地震時星の光は何時もより輝いた。


賀田湾 コスキ鼻より僅か南方で地震10日程前から石が熱くなり蒸気が発生した。これは震後4日頃から再発し1月14日頃止んだ。

水温
文理港 本年は例年より海水が2~3度高いといわれている。
須崎 地震前に水温高く次第に下り地震後は急に下った。
手結 地震前後海水温度が高かった。

水色
多ノ郷 12月中旬頃から海水の色が変化した。
佐賀 下田町沖の漁船は潮が非常に光ったのを見た。

うねり
上川口 20日朝頃から夜までうねりの様な大きな波が1日中寄せては返していた。かつて此の様な不思議な波は見たことがない。

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附表 津浪一覧表・1
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附表 津浪一覧表・2
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附表 津浪一覧表・3
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附表 津浪一覧表・4
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附表 津浪一覧表・5
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地図 附圖第1(鳥羽、九木浦、新鹿、勝浦、木ノ本)
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地図 附圖第2(尾鷲湾、賀田湾)
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地図 附圖第3(浦神、串本、古座、周参見)
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地図 附圖第4(田邊及新庄、白濱)
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地図 附圖第5(海南及下津、由良)
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地図 附圖第6(撫養、洲本、加太、福良、淡路由良)
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地図 附圖第7(甲浦及附近)
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地図 附圖第8(橘及椿、小松島)
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地図 附圖第9(高地市)
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地図 附圖第10(高知港口、清水、宿毛、古満目)
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地図 附圖第11(須崎及附近)
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地図 附圖第12(宇佐、小室、佐賀、手結、下田、下ノ加江)
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附圖第13(東京(築地)、重須)
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附圖第14(松坂、名古屋、大崎(三河湾))
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附圖第15(前芝、豊橋)
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附圖第16(福江、西浦)
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附圖第17(下津、徳島)
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附圖第18(堺、堺(上図に続く)、高松)
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附圖第19(大野川、細島、宇部)
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附圖第20(宇和島、清水)