序
著者工学士笹間一夫君は東京工業大學研究科に在つて、主として建築の計畫的方面を研究中の人であるが、過般の三陸地方の津浪に際し、挺身災害地を調査する事数日、歸來印象の生々しき間に稿を起し、其の得たる所に基いて『防浪漁村計畫』なる一文を草された。
思ふに津浪に封しては、個々の建物に耐震的手法を施す事によつて災害を未然に防ぎ得べき通常の地震と異り、其の性質上是非とも地形其他を考慮に入れて計畫の根本に遡つて策を練る事が必要であらう。此の意味に於て笹間君の提案は目下盛んに論議されつゝある防浪施設の問題に對して、一つの解答を與へたるものとも見る事が出來やう。諸先輩によつて幸に批判と叱正とが與へらるゝならば、喜びは獨リ著者のみに止まらぬ事と信ずる。敢てここに紹介する所以である。
東京工業大學建築學教室 田邊平學
A 三陸海岸の地形と漁村の形態
1 海岸の地形
三陸地方の東海岸、即ち南は宮城縣牡鹿半島より、北は青森縣鮫岬に至る間は、我國稀に見るRIAS灣形をなす。
RIAS灣形は一見スカンヂナビヤ半島に於ける、フイヨルド灣形に類似して居るが、それと成因を異にし、且つ外形上にも次の如き特長がある。
a 灣の形は、外洋に向かつて漏斗状に開いて居る。
b 水深は、灣口に於て深く、灣内に入るに従つて浅くなる。
このRIAS灣形は、水力學的に津浪の被害を最も被りやすき灣形であつて、灣口に於てはさほど高からざる浪も、灣内に進むに従つて、進路の幅と深さの減少により、著しく高くなる。
三陸地方のRIAS灣中、典型的なV字形灣をなし、外洋に直接開口している灣には次の如きものがある。
三陸地方には大灣の發達を見ず、大なりと云ふも幅5km,奥行10km,を越ゆるものは殆んどない。特に宮古町以北に於ては、山脈が海に迫り断岸をなし、見るべき灣は田老、久慈の似二小灣のみである。(第1表)
水深は、急激に深いとは云へないが、所謂遠浅ではない。
RIAS灣岸の成因が褶曲山脈の地盤沈下にある點より考へて、當然肯ける事は、V字形をなす灣の下端に、何れも谷川が開口して居る事である。この川口に、三角州的に形成された若干の砂濱がある。こゝは砂濱なる文字より連想されるであらう九十九里濱等と異なり大抵は面積2~3km2,にすぎず、砂濱の高さは高きもので6尺、低きものは1尺位、海濱の背面は急斜面の山となり、川は短く急流をなす。
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2 漁村の形態
三陸沿岸の村落は地形が農業に適せざる爲と、良き漁場に面する爲とより、殆ど全部が漁村である。然しながら地形に束縛されて、大村落を形成するに至らず、村は多くの字よりなり、字は海岸に沿ふて散在する。(第2表)
村落の形態は、地形及び村落の位置よりこれを6種に分ける事が出来る。(第1圖)
型I V字形の下端に川口を有するもので、大なる村落は大部分この型に属す。賓例、釜石町。
型II 山がV字形の両側を走るとき、山と海との僅かな砂濱を敷地として村落が形成されたもので、大村落への発展は許されない。又川を有しない。實例、大槌町在安渡。
型III 型Iの灣形であつて、灣に二河川が並行して開口して居る場合である。實例、大槌町。
型IV これも型Iの灣形であつて、二河川が川口で合流せるものである。實例、田老町田老。
型V これは型IIの灣形で、山がいくらか海岸より後退せるところ、半圓形の敷地を村落とせるものである。實例、船越村田の賓。
型VI 成因は型Iに類似しているが、谷に水なく、山と山との狭小なる敷地を村落として居る。實例、鵜住居雨石。
以上型I~V迄の敷地に発達した村落を、大體第2圖の如き標識であらはす事が出来る。
圖中A,B,C型の村落をそれぞれ三角型、一文字型、半円型と名付け、これをひとつのV字型灣に位置せしめて見ると、第3圖の基本圖を得る。
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3 津波以前の防浪的施設
三陸地方の漁村は、その地形よりして、甚だ津浪の被害を被りやすく、貞観11年(896)の記録以来、明治29年(1896)に至る迄、凡そ30年を週期として大被害を被つて居る。それにも不關、津浪に對する施設は殆ど講ぜられて居なかつた。その理由は前に述べた如く、村の構成が幾多の字から成立して居るため、大規模な防浪工事、即ち防波堤、防波林、堤防等が村の負擔では到底出来なかつた爲であらう。
小漁村の取り得る唯一の津浪對策は村落を浪のとどかぬ山手に移す事であつた。
明治29年の津浪の経験より、山手に建築敷地を移せるものは次の通りである。(調査洩れの個所もある事と思はれるが)
北より
普代村 羅賀
小本村 茂師
磯鶏村 高濱
同 金濱
大槌在 吉里吉里
船越村 田濱
唐丹村 本郷
同 小白濱
同 大石(アンダーライン)
吉濱村 吉濱(アンダーライン)
(アンダーラインのあるのは被害の尠かりし村落)
以上の村落のうちにも、咽喉元すぎれば熱さを忘るの警の如く、近年になつて村落を海近く移すものが多く、僅の家のみが蕾位置を守つて居た。例へば、船越村田の濱では明治29年の経験より、村の裏山を平にならし、こゝを建築敷地に定めたが、誰一人として、こゝに家を建てるものはなく、遂に畠地となり、村落は再び海濱に形成されたが、今度の津浪で殆んど全滅した。
同じく船越村の本村は、且つて船越地狭の咽喉部に存在せる爲、全村この地狭を越えた浪の下敷となり全滅の悲運に遭遇したが、その後敷地を縣道に沿ふた山腹に移し今度の津浪には、その新敷地を守つた商店、役場、郵便局、警察出張所、族館、病院等に被害無く、再び海濱に戻つた、漁家、作業場、漁業組合事務所は前同様の被害を被つた。(第4圖)
漁村が、津浪の危險をも省みず、海濱に戻る理由は、次の如き事情に依るものと思はれる。
a 漁夫にとつて、船、海、家の接近は、何にかにつけて便利である。
b 漁夫一家は、砂濱にアハビ、スルメ類を乾し、シメカス類を作り、漁具を修理す、故に家が海濱にあるや否やは、漁夫一家の労働能率に關係する。
c 山手に毬てた村落が、その後火事に依り澆失したため再び空いて居る海濱に戻つた例がある。(唐丹村)
d 山手には全村落を容れる廣さの敷地が得られぬ場合がある。こゝでは村が膨脹するに從ひ海濱に下る傾向がある。
防浪施設とは云へないかも知れないが、29年後各所に建てられた津浪記念碑は、日頃津浪の恐るべきを教へるものとして、人命救助に有効であつたと考へらる。
以上二つの防浪策、敷地を高所に移す事と、津浪記念碑の教訓とを除けば、29年の災厄後といへども、これと云ふ防浪施設はなかつた様である。
防波堤、護岸、防波林もなかつたではないが、それ等施設のあつたのは、相當大きな町に限られ、これ等とても風波には耐ゆるが、津浪に耐ゆる様設計はされては居なかつた。結果より見て、多少有効であつたものもあるが、全く無効であつた例も尠なくない。
建築物について云へば、その殆んど全部が津浪を考慮して造られて居なかつた。結果より見れば、充分耐浪建築と見倣し得る種類のものもあるが、これ等とて當初の目的は耐震、耐火にあり耐浪にはなかつた様である。
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B 各種防浪施設の特長
4 灣 形
被害地を實地調査して、津浪の性質と灣の形とに依り、著しく被害の尠きところと、さうでなところとあるのを知つた。又今度被害の尠かつたところは、前の津浪にも被害の尠かつたところであり、前に甚しかつたところは今度も亦甚しい事を知つた。この理由は、一つは灣形と被終の位置との關係に依るもので、浪原は必らすしも一定して居ないのであるから、再度被害が尠かつたからとて、必らずしも安全の地とは云へないのである。次に述る事は、潤の形や浪原の位置により各地に於る津浪の被害は各異なる事を示す。
津浪の灣内に於る進行状況は、灘形及び浪原の位置に依つて異なり、これを示せば第5圖の如くである。
Oを浪原とし、A,B,C,D,Eを各種の形をなせる灣とす。浪原Oに發した浪は、先づC灣に達し、こゝでは正面から進入して次第に高まり、灣の最奥部に在る村落に最大の被害を及ぼす。實例、綾里灣(白濱)。
浪原の左右に在るB,Dの灣に於ては廻り津浪となり、Bに於ては右廻り、Dに於ては左廻りの進路を取り、何れも衝突した各側面に最大の被害を及ぼす。實例、唐丹灣(本郷)、廣田灣(只越)
Aの如く浪原に面した方向に半島の突出がある揚合には、浪が灣内に入る事が尠く、従つて被害も尠い。實例、宮古灣(宮古)
Eの如く狭小なる灣が、浪原と、やゝ角度をなして存在する場合には、水は比較的徐々に浸水し、急激に引き始め、退く時の力が被害を及ぼす。實例、氣仙沼灣(氣仙沼)
灣形と浪原との關係よりして、危險に見ゆる位置に在りながら被害を被らなかった村落の例がある。特に廻り津浪の場合、廻轉方向と反對側に在つた爲被害を免れた村落の例は澤山ある。又特殊な灣形をなして居たゝめ、被害を被らなかつた例を山田灣に見る。(第6圖)
山田灣は、他の灣と異なり灣ロが狭く、灣内が廣くV字形と云ふよりもU字形をなし、水深も大きく、元來津浪の被害の尠きところである。この灣の周圍には、大澤村、山田町、織笠村の三部落が在るが、灣ロの裏側にあり、被害の比較的尠き筈の大澤村に反つて被害多く、灣口の正面に當り、被害の甚しき筈の織笠村は、反つて被害が尠かつた。この理由は、次の如く読明する事が出來やう。
灣ロから直進して來た波は、灣内に存在する大嶋、小嶋に衝突して二つに割れた。一方大浦牛島に依つて山田灣と境する船越灣を襲ふた浪は、大浦牛島の頸部1.3km,の地狭を突破して山田灣に進入し前者と合流して浪の方向は織笠村を避けて山田、大澤方面に曲がり、この方面を荒したのである。この事情は全く29年の場合と同様であつて、織笠村は比較的津浪に安全な地點に在ると云ふ事が出來やう。
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5 防波堤
津浪防禦の方法として、誰れしも直ちに考へつく事は、防波堤である。防波堤が、海岸におし寄せた浪を完全に殺し得るならば、港内の漁船も、海濱の建築も安全である事は明瞭である。然しながら、これを實行に移さんとする場合、その經濟性とその防浪性能とにつきで多少の疑問がないでもない。
今度の津浪に於ては、防波堤があつた爲被害の尠かつた例と、反つて多かつた例とあり、この問題に輕々しく断定を與へる事は出來ない。然し、どちらにしても、從來の防波堤は小漁港の風波を避ける爲のもので津浪を避ける爲に設けられたものでない事は明である。
東北帝大、林喬博士は、次の事實等から、從來の防波堤は津浪防禦に何等の効果なしと論断された。
宮城縣牡鹿郡大原村字鮫ケ浦入江、長さ250m,の石堤の中央部分約30m,は、津浪の爲に決潰し、石が陸地にはねとばされて居る。
これに對して、防波堤を甚だ効果あるものと信じて居られるは岩手縣港灣技師、渡邊幸三郎學士で、氏は次の事實から林氏の設に辯駁されて居る。
八戸港は、明治29年の津浪のとき致命的被害を受けたのであるが、今囘は全然被害を被らなかつた。これは蕪島から眞直に兩方に延びた北堤防で津浪を押へ、西堤防と岸壁(水深12尺)とが完全に餘勢を殺し、埋立地には全然水を寄せつけなかつたに依る。
又宮古町は、29年には大被害を被つたが、今度は浪災地の眞中に在りながら、最小の被害しか被らなかつた。これは恐らく、宮古町に隣る鍬ケ崎の先端龍神崎から南に延びた225m,の防波堤が未竣功ながら出來て居たゝめである。
國富技師に依れば、防波堤の効果は、灣形或は浪の方向と防波堤の方向に關係し、防波堤
の配置が適當であれば、防浪効果を發輝し得るが、悪けれぼ反つて害をなすと説かれ、防波堤の有効だつた例として次の事項を擧げられて居る。
宮城縣、志津川灣ロ正面突當りに高さ4m,の防波堤があつたが、この爲同町は水を被らす死傷者も無かつた。
今村博士は、防波堤の効果につきては言及せられず、唯完全に津浪を食ひ止める爲の防波堤は、甚だ大きく、その費用は到底一漁村の負擔に耐えぬであらう事を述べられて居る。
筆者も、今村博士の云はれるところに賛成するもので、完全に構築された防浪堤がフンダンに配置されたならば、その効果は期して待つべきものがあるであらうけれど、要は費用の問題に在る。
例へば、第7圖の如く唯1本の防波堤を恒風方向に直角に築造せるものと假定する。若し幸ひ左廻り津波が襲來すれば、防波堤は多かれ尠なかれ効果を擧げ得るが、不幸にして右廻り津浪であつたなれば海水は防波堤にせばめられ、重なりあつて村落を襲ふ結果となる。津浪が左廻りするか、右廻りするかは既に述ぺた様に主に浪原の位置に從ふ。(項4)
さりとて右にも、左にも、正面にも防波堤を築く事は經費の點で實行不可能な事が多い。戸數100戸に満たぬ小漁村が机上だけの防波堤計畫を作製し、費用を全額國庫負擔に要求するは我國現下の財政状態よりして、餘りに無理である。
叉RIAS灣の特長として水深は次第に深くなり、海岸より1000m,もすれば、水深40~50mに達する。かくの如き地點に防波堤を築造する事は工學的には不可能でないが、この深所に工事を行ふは神戸、横濱の如き大商港に於てはいざしらす、小漁港としての企業價値位では遷到底實現されない。
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6 護岸
護岸は、津浪に對し何等積極的効果を示さない様である。元來護岸は風波が海岸を浸食するのを防ぐため設くるもので高さは凡そ6尺位、この高さでは津浪は易々と越える。この際幾分勢力を弱める様ではあるが、以つて防浪第一線となす事は出來ない。
被害地方の相當の村落では、大抵護岸工事を行なつて居た。その構造は、大部分直立護岸材料は花崗岩、モルタル目地、無筋のものが多く、基礎に小形のケーソンを用ひたものもある。護岸の背面は砂或は砂混り粘土で、この部分は道路或は荷揚場に用ひられて居る。
護岸の津浪に對する効果を調査して見ると、津浪は無雑作に護岸を越してしまふ故、浪のみに依つて護岸の破壊せるものは尠く、破壊せるものは大抵船或は浮遊殘物の衝突に依つてである。(冩眞第1)
埋立地の護岸は甚だ弱い。これは埋立てられた部分が大部分砂からなつて居るからであると思はれる。(冩眞第2)
河川の護岸が、津浪の被害を輕減した例がある。(冩眞第3)
護岸ではないが、陸上に築かれた石垣が水勢を殺し、内部の建物の破壊するのを救つた例がある。(冩眞第4)
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7 防波林
防波林は浪災豫防にかなりの期待がもて、又實現も容易なものである。
防波林の津浪に對する作用は、一つは砂濱に砂丘を發達せしむる事と、も一つは浪は通過するが、浪に伴ふて來る漁船や浮遊殘物をせきとめる事である。前者は餘り有効ではないが、後者は津浪の被害を激烈ならしむる漁船、浮遊殘物と家屋の衝突を除ぐ。若しこの作用が甚だ有効に働くときは、數本の立木よく數軒の家屋を救ふ。(冩眞第5)
然しながら、立木の數が尠く、まばらで、根が強固に張られず、太くなく、然も水勢の猛烈なる場合には、防波林も亦餘り期待する事が出來ない。
三陸沿岸には、一般に砂濱の發達が充分でないから、海濱に松林等のあるところは尠い。又防波林として特に植林されたところも無い様である。
防波堤がを効果を奏した例として、岩手縣氣仙郡高田町は海より餘り離れて居ないにも不
關、高田松原とて有名な松林に守られ、今度の津浪では殆ど全町が助かつた。これは明治29年にも同様であつた。
反對に、防波林が津浪に無力であつた例は、岩手縣下閉伊郡小本村である。こゝの松原は樹齢の若きものであつたゝめ、全部倒れるか、折れてしまつた。
防波林をして津浪に効果あらしむる爲には次の如き諸點に注意しなければならない。
a 防波林に用ひられる樹木は、砂濱に植えて發育早く、老衰の遅きものでなければならぬ。
b 防波林の幅、奥行は充分大きくなければならぬ。
c 防波林の密度は、船や浮遊殘物の通過を許さゞる程度に濃く、内部の交通が不便でない程度に薄くなければならぬ。
d 防波林の位置は、津浪の方向を考慮して適當に選ばるべきであるが、防波林が平常漁村の機能を害する様であつてはならない。
防波林と云ふほど大規模でなくとも、各家屋の外側に、津浪の襲來する方向と、津浪の退く方向とに立木を植えて置く事は、船及び浮遊殘物が家屋に衝突する事を防止するに有効である。尤もこの場合の立木は充分根を張つた強固なもので然も高からず低くからず、家屋の通風採光を妨げざる種類のものでなければならぬ。例へば柳、椿の類。(冩眞第6)
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C 漁村計畫の要領
II 漁村構成の要素
岩手縣は、面積から云ふと日本一の大縣であるが、内陸はおほむね山地であつて、北上川に沿ふた一部にのみ、稍平地を見るにすぎない。故に他縣に比して農耕に從事するもの尠く、山林に働くもの及び漁業に從事するものが比較的多い。全人ロ凡そ1,000,000その1/5の200,000は世界三大漁場と稱せられる大平洋岸に佳み、無数の漁村をなす。
罹災者を職業別に調査すると第7表の如くなる。
漁業に從事するものが絶對的に多く、商、工、農業に從事するものといへども、漁業と何等かの關係を持たないものはない、例へば商業は漁夫相手の商店、石油の販賣等。工業は締粕、造船、製氷等漁業と關係深きものゝみである。
農業は、元來三陸沿岸に耕地なき爲發達せす、僅かに山林に木炭を産し、牧畜を營む。
漁村を構成する要素は大體次の如きものである。
海―――漁船
海濱――作業場
村落――家屋
海――漁船 海岸寄りの海は、村の一部であり、こゝに漁船をおく。漁船は漁民生活に於ける最も重要なるものゝ一つで、漁船なき漁村は考へられない。
津浪は漁船に最も大なる被害を及ぼし、今度の津浪にも非常に多くの漁船を失つて居る。『先づ漁船を與へよ』これが復興に當つて第一に發せられた罹災者の叫びである。
この點が農村に於る地震の被害と、漁村に於けるそれと根本的に異なるところで、前者にあつては、その佳居こそ破壊を見たれ、田畠はいさゝかの被害もなく、農具を失ふ事もなかつたから翌日からでも働く事が出來た。これに反して、後者にあつては農具に相當する漁船を失つたのであるから、徒に沖に群がる魚群をながめ、虚しく配給品に徒食せねばならない。
海濱――作業場 海濱も亦漁村構成の一大要素である。海濱は船着場であり、又乾燥場である。
海濱は、三陸浩岸の南牛分に於ては稍見るべき發達があるが、宮古以北に於ては殆んど海濱と稱すべきほどのものはなく、断崖の下が磯になつて居る。かくの如き處では、極く限られた部分しか船着場として利用されないので、この磯を甚だ大切にする。今度の津浪でも、この部分が破壊して、甚だ困却した村落がある様である。
三陸地方では、主にイワシ、アハビ、スルメ等の乾燥に海濱を使用し、大漁ともなれば、濱はこれ等漁獲品で埋められる。海濱は又網乾場に使用される。
村落――家屋 漁村の仕事は農村の仕事と異なり、共同作業を必要とする事が多いので、家が農村の如くポツリポツリと散在する事が尠く、集團的に存在する事が多い。
然るに三陸沿岸は、地勢の關係上海濱が狭いため、村落は數十戸づゝ小さく纏まつて存在する。
村落の大部分を占むるは勿論漁家であつて、それに次ぐは、海岸近く無數に存在する小屋の類である。これ等は納屋、倉庫、締粕工場、鑵詰工場、造船場として使用される。
今度の災害で流焼失せる重要建築中、岩手縣に關係あるものは第8表の如くである。
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12 漁村の區劃整理
三陸沿岸には、都市計畫法の適用さるゝが如き都市は一つもなく、僅に釜石町のみ津浪後本法が適用された。されば、一般の漁村の如き何等都市計畫的制限を受くる事なく、家屋は甚しく乱雑に建て込んで居る。
復興漁村計畫に當つて、都市計畫的に用途地域を次の如く定め、筆者はその各の配置に關する注意を述べんとする。
a 住居地域 b 漁業地域 c 工業地域
d 商業地域 e 風致地區
a 住居地域
住居地域は原則として絶對に浪に襲はれざるところに選ぶべし。その爲に最も常識的で確實なのは、山手の高臺に選ぶ事である。(項8)
然し全村落をあげて山手に移す事は、なかなかの努力を要するもので、一度山手に移つた住居地域も、しばらくして海濱に戻る事が多い。(項3)
だが、無理にでもこれを實行する事が防浪漁村計畫の第一の目的であつて、その一手段としては、佳居地域と海濱とをよき道路で連絡せしむる事である。元來三陸地方では、海濱山手間の距離は、さほど大きくないのであるから、よき道路さへあれば、彼等は悦んで高地に移るであらう。
第二の手段としては、個人の住宅を禁じ、主に漁業組合又は住宅組合によるアパートメント、或はヂートルンクを建設する事である。かくすれば漁民は半強制的に、よき設備ある佳宅に居を移すであらう。
ヂートルンク、アパートは縣當局の計畫するところでもあり、且つ元來漁民は共同作業に慣れて居る事であり、叉復興の必要に迫られながら経濟的に行きつまつて居る状態なのであるから罹災者は悦んで、この方法に赴くであらう。
集合住宅の形式は、三陸沿岸の如く敷地の狭いところに最も効果を發揮するもので、明治29年の津浪後、船越村本村では1戸當り60坪、字田の濱では42坪の敷地配當をなして山手に移る計畫を立てたが、この敷地は1戸建住宅の敷地としては狭すぎる。この場合集合住宅の形式を借りれば、充分の餘地を生じ、こゝを野菜園等とし、漁村に生氣あらしむると共に野菜類の自給自足が出來るのである。
項3に述べた、漁家が一度山手に移つて、再び海濱に戻る特殊の理由、即ち山火事に追はれたものと、飲料水の不足せるものとは、正に一考を要する。
山火事に追れたものは、極く特殊の場合のみであるが、飲料水不足に關しては津浪後いち早く山手に住居地域を移さんとした、氣仙郡唐丹村では、130戸に供給するに足る飲料水が得られす、移轉が行き悩んで居る。
飲料水不足に封する設備は、ポンプ、水道を使用する事で、この爲には組合による佳宅經營が最も適當して居る。
b 漁業地域
漁業地域は、その本質よりして海濱を離れる事が出來ない。こゝは船着場、乾燥場にあてられる。 漁業地域内は整然と配列し、有用面積を増し、作業能率の増進を專一とすべし。船着場とも乾燥場とは分離するをよしとす。
c 工業地域
漁村に於ける工業は、殆んど全部漁業に關係ある、締粕、鑵詰、造船、製氷工業に限られて居て、これ等は海濱の後方、魚の加工を主とする工業は乾燥場に近く、漁船に關係ある工業は船着場側に設けられる。而して以上の工業は全べて倉庫を必要とする故、工業地域の後半は倉庫地帯とする。
d 商業地域
漁村の商業地域は甚だ狭い部分で事足り、敢へて商業地域を選定するの必要もないが、村の中心と云ふ意味で、こゝに役場、郵便局、駐在所、商店、放館、病院等を集中せしむる。商業地域は住居地域との交通よく、幹線道路に沿ふ必要から、倉庫地帯の後方、住居地域の前方、即ち村の中心近くに選定される。
e 風致地區
何れの村落も、學校、神社、佛閣は、山手の、村を一望の下に見渡せる形勝の地に設けんどする傾向があるが、その理由は第一に、社寺、學校の類は、漁民の日常生活に直接關係なき爲山手にあつても不便を來さない、第二に、文教上山手が環境が宜しき事、第三に、神佛に永久不滅的観念を持たせる必要上、その具體的發現たる建築も安全なる地に設くる必要ある事等による。
今度の津浪に於ても、學校、杜寺には、高臺にあつた爲被害を被らなかつた例が多い。
漁村は、學校、祉寺を高臺に設け、こゝを公園とし風致地區に指定すべし。この地は、平時は村のよき散歩地であり、娯樂地であり、冠婚葬齋の會場であるが、一度津浪となれば、最もよき避難地となる。こゝは又津浪記念碑、警報装置を設備するにもよい。
13 漁村の交通計畫
三陸沿岸の各町村は、交通に恵まれる所が尠い。他の地方では普通の交通機關である鐵道も、この地方には殆んど無い。
被害地の代表的な都市、宮古、山田、大槌、盛、高田、氣仙沼、志津川町に於てすら鐡道なく、僅に釜石町のみ東北線花巻驛との間に輕便鐵道を通じて居るが、これとて途中に峠があり、駕籠に依るにあらざれば、徒歩にて蓮絡せざるを得ない。
宮古、山田町は、東北線盛岡驛との間に山田線が豫定されて居るが、未だ途中迄しか開通して居ない。
東北線一關騨から分岐する大船渡線も未だ海岸に迄達して居ない。
以上の様な状況で、東北線から分岐して、東へ、太平洋岸へ出でんとする三線は、何れも未完成で、東海岸を北より南に下る繊道の如きは計畫さへない。從つて東海岸に沿ふた、被害地の漁村は、當分鐵道の恩恵を被る時は來ないと思はねばならぬ。
海運に就いて云へば、唯一の東海岸定期船に、三陸汽船會社經營のものがある。これは1日1回位の割りで主要町村に寄港するものであるが、元來三陸沿岸は良港に乏しく、些少の風波にも缺航する事が多くて、今度の津浪にも桟橋が破壊し、海に依る連絡は断たれた。
主要町村以外の漁村は、附近の主要町村から20トン級の發動機船で1日1回程度の往復がなされるに過ぎない。
残された唯一の交通路、道路は、自動車の發達により可成よく利用されて居るが、乗合自動車を通じ得る道路は、宮古迄で、それより北は断崖が甚しく自動車を通さない。
こうしたわけで、三陸漁村の交通計畫は、主に道路に在る。
幹線道路は海岸に竝行なものが多い。それは地形上、道路が海岸傳ひに、各漁村を結んで走つて居る關係からである。これを第一幹線道路とすると、第二幹線道路は(川のある村落であれば川に沿ふて)第一幹線道路に直角に發達する。
以上二幹線以外には、始んど道路と名の付くぼどの道路は無く、發りは車馬の通行を許さざる程度に細い不規則な露路である。道路の配置と被害の關係を調査すると、次の如き注意すべき事實が明らかになつた。
田老村と船越村田の濱とを比較するに、各々の建築物の破壊状況は、ほゞ匹敵するにも不關、死者は、田老村の1,000人以上なるに對し、田濱は僅に5人、この理由を道路配置の可否に依り、若干の説明がなされる。
田老村の幹線道路は、山に平行に走つて居るものゝみであつたから、津浪に際し最寄の山に逃れる爲には、道なきところを、或は不規則な露路を我先きにと逃れねばならなかつた。(第8圖)
田濱に於いては、山に直角な幹線道路が2本あつたばかりでなく、一般に山迄の距離が小さかつた爲、避難に手間どらなかつた。(第9圖)
以上二例よりして漁村の道路計畫は、半圓形の放射状をなした幹線道路と、環状をなした支線道路とを合せた、蜘蛛の巣形を適當とすると認める事が出來る。(第10圖)
このシステムは、住居と漁業地域との連絡、村の中心と各部との連絡、本村と隣村との連絡をよくし、半圓形の段をなせる地形、即ち三陸地方の漁村には、非盤の目形等よりピタリとあてはまるものである。
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D 防浪漁村試案
14 一般的指針
三陸漁村の復興計畫に當つて、考へねばならぬ事が二つある。その一つは、如何にして防浪漁村を弧制的に實施すべきや、その二は、如何にして経濟的に防浪漁村を建設すべきやである。
一に就いては既に述べた。(項12)
二の経濟性に關しては、三陸滑岸が重ね重ねの経濟的窮乏、即ち打續く不景氣、凶作、銀行休業、壮丁の満洲出兵等と、自力更生も殆んど不可能なるまで困窮して居る事を知らねばならぬ。
それにも不關各町村の防浪計畫なるものを見ると、云ひ合した様に防波堤、築港、護岸等極めて大規模なものばかりであるが、かくの如きは計畫するに易く實施するに甚しく難い。(項5)
三陸地方の漁村計畫に當つては、先づ経濟的に負擔の尠き施設より始め、産業の復興、経濟の更生を待つて、更に完全な施設に移らねばならぬ。
防浪漁村計畫中経費を要せす、直ちに實行に掛り得、然も効果の期すべきは區劃整理である。次いで防波林、警報施設、防浪建築、築港と進み、最後に防波堤その他の文化施設に及ぶ、唯一つの防浪施設に頼る事が一番危險で、各種の施設が助け合つて、よき効果を擧げると知らねばならぬ。以上の施設をなすに當つては、数十戸に満たぬ漁村に分散せず、一つの大漁村として計畫する事が、復興を早め且つ施設を完全にする所以である。
15 防浪漁村計畫案
三陸地方の漁村の形態は、大別して三角型、一文字型、半圓型とする事が出來る。(項2)
防浪漁村計畫はこの各に就きて述ぶべきではあるが、一文字型のものは村落の規模小さく將來の發展性も、唯不合理に延びるだけで、大村落となる可能性は尠いから、村落を分散させぬ様にと云ふ注意(項14)に從ふて、この形態を避け、本論文では三角型、半圓型に就いて防浪漁村を提案し、その設明をなす。
半圓型村落
この種の村落は多くは灣口に近く存在し、河川を有せぬのが普通である。海濱は一直線の砂濱で、山手は半圓形をなして村の敷地は次第に高くなる。村落は餘り大きくなく、直徑1km.以内である。
第11圖 幹繰道路をA,B,C,Dとす。Aは隣村に通づる主要交通路、B,C,Dは低地より次第に山手に登る。Cの終端には村の文化施設、學校、図書館、公會堂があり、B,Cの絡端には神杜、佛閣がある。各幹線の集るところEは、交通の中心として乗合自動車の停車場があり、商業の中心である。
支線道路(露路)は環状に配置され、各支線道路に挾まれた個所は平坦地だが、支線道路を境として次第に登つてゆく、即ち半圓形の雛壇をなす。
第12圖 海濱は全て漁業地域とし、向つて左を乾燥場、右を船着場とする。船着場を右とせるは、村落が第7圖に示すが如き位置にあるとき、右廻り津浪が襲つたとして、船が移動し、船自身又船と建築との衝突を免れがたいが、船着場を右として置けば、船はおし流されても建築との衝突は避け得られる。
漁村地域の中央を各種漁業關係の工業、商業地域とする。第11圖のEを中心として或る半徑で半圓を描いた中を商業地域とする。この邊りは平坦地であるが、この半圓より外の部分は次第に高くなり、こゝを往居地域に選ぶ。住居地域の外側に風致地區がある。こゝは神社の境内、公園、墓地に使用される。
防浪的見地より、漁業地域の後方に防浪林を設け、その背後住居地域との境はコンクリート擁壁(護岸)とする。
商業地域は低地にあるから、水の浸水を避け難き故、前面に鐵筋コンクリートの防浪倉庫を建てる(項9)。かくの如くすれば浮遊殘物の衝突がないのでその後方の家は破壊を免れる。
第13圖 漁船は魚を積んで桟橋に着き、荷を揚げて船溜りに行く。此處で油、水、その他の必要品を積み込み、再び出漁する。
魚は市場で取引され乾燥場に行くものもあれば、鑵詰工場へ行くものもある。かくして加工された魚は全て倉庫に納まる。
三角型村落
この型の村落は灣の奥に存在し、河川を有するものが多く、比較的大きな村落を形成する。
三角型村落の防浪計畫は、原則に於ては半圓型のものと殆んど變りはないのであるが、唯河川がある點に於て異る。
河川は、津浪の勢力の緩衝物として甚だ有効である。海水は灣の正面から幅を狭められ、高さを増して迫つて來るが、漏斗の口の如き河川を遡り勢力を弱め、やがて引く。
この作用は、河口が廣く河岸の高きものほど、又河川の方向が津浪襲來の方向と一致するほど有効である。例、宮古閉伊川。
津浪の襲來方向と殆んど直角をなして居た田老川に於ては、殆んどこの作用を認められなかつた。(第8圖)
河川の作用は、唯津浪の勢力を弱めるばかりでなく、又漁船を救ふ。船は海水と共に遡航して、船自身の破壊する事は尠き勿論、船が建築物と衝突して、雨者破壊する事も尠い。それ故三角型村落に於ては、河ロに近く船溜りを設け、津浪に際しては全部の船を河に流しやる。
但しこゝに注意すべきは、河川に架けられた橋梁に就いてゞあつて、橋梁は第14圖の幹線A及び幹線Fと幹線Cとの交りE,Gのニケ所に必要である。
漁船と橋梁との衝突は漁船を破壊するばかりでなく、往々にして橋梁の破壊をまねく。(冩眞第11)
橋梁の破壊は、両地交通の杜絶を來し、例へば村落の形態が型III,IVの如きところの両河川を挾まれた部分は避難が困難となり、津浪後の救助作業にも不便である。例へば宮古橋の破壊に依、宮古の對岸藤原方面の消息が不明となり、大槌町は、大槌川、小槌川の両架橋が陥落したため、救助に甚だ手間どつた。又橋梁の破壊に依り、三陸地方唯一の交通機關、自動車の連絡が全く絶えた。
橋梁の破壊を避けるには、橋梁を堅固に構築するは勿論であるが、又橋桁を高くして、漁船をして優に橋下を通過せしめる様にしなくてはならない。又橋脚の丈夫ならざるものにあつては、洪水の場合、流木の流下衝突を避くる爲、流木避けを川上に設くるが、それの如く津浪の場合、川下にこの流木避けを設くる事が必要である。
第14圖 道路計畫は大體半圓型の場合と同様であるが、川筋に當るところは海水が遡り、水が河岸に洪れる事を考慮して雨岸に護岸を施し、充分に根の張つた街路樹を植え、両岸を道路とする。
環状の支線道路は全て河川のところで切断される故、環状の幹線道路を尠くとも一本設くる。この幹線道路が河川を横ぎる點Gに橋梁を設くるのであるが、この橋梁は點Eに於るそれよりも桁を自由に高くする事が出來、自動車の交通なき故木橋でも差支へなく、吊橋等でも宜い。
第15圖 半圓型との著しき相違は、中央が船着場で左右が乾燥場である點にある。防浪建築は商業地域を保護すると共に、津浪の勢力をなるべく河川の方向におし込ましむる爲、漏斗状をなし外に向つて開く。
以上で筆者の防浪漁村計畫の大要を終るのであるが、この試案と被害地復興計畫の現状とを對照する時、若干この案が現實に即せざる案なりとの懸念がないでもない。然しながら、眞に津浪の惨害を思ふならば、この程度の案が寧ろ最小限度の愛協案であつて三陸沿岸の漁村は勿論津浪の恐れあるところは何處でも、この程度の案を口標として計畫がされたい。さるにても世界有数の漁業國日木の漁村計畫の貧弱なる事よ。(昭和8年5月5日受附)
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