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正誤表

             誤                  正
復旧写真中    気仙郡吉浜村防波堤(其ノ一)     気仙郡吉浜村防浪堤(其ノ一)
         同郡唐丹村小白浜防浪堤        同 郡唐丹村小白浜防波堤
         下閉伊群田老村防波堤(其ノ一及二)  下閉伊群田老村護岸(其ノ一及二)
         一一〇頁四行 8ノ対シ抗       対抗シ
         一一七頁四行目四、八六平方米テ    四、八六平方米ヲ
         一三二頁(イ)ノ八行目 大部分ノ   大部分ハ
         一三八頁三ノ二行目 湾方向ーノ    湾方向トノ
         一五四頁八行目 追潮林        防潮林
         一六三頁四行目 歩地方へ       此地方へ
         一八六頁七ノ一行目カラ二行目 一ガ回 一回ノ
         一八九頁九行目 ごと         こと

昭和八年三月三日未明、三陸海岸に襲来せる津波は甚だ其の暴威を逞しくし、瞬間にして幾多の生命と財産とを喪失せしめたり。
而して津波の浸水に因る道路の欠壊、橋梁の流失護岸の破壊等枚挙に遑あらず、之が復旧は県民の安寧を保持し、福利増進上一日も忽諸に附すべからざるを以て夫々復旧の計画を樹立し政府当局の援助に依り専ら力を其の事に対し今や全く事業の完成を見るに至る、省みて往時の劇甚なる惨状を想起するとき真に感慨深きものあり。
更に将来津波の襲来に際し其の災禍を未然に防止すべき防浪施設は一部其の緒に着きたりと雖も未だ以て万全を期する能わず既設浩二に於ても亦経費の都合に依り耐浪上遺憾の点あるもの少しとせず、斯の如きは此後の補強改善に力を尽し以て来るべき惨禍に備えるの緊切なるを痛感措く能わざるものとす。
玄に「震浪災害土木誌」を上梓して博く之を世に頒つに当り聊か同胞各位の高情に酬ゆると共に一は以て自ら将来の鑑戒たらしめんことを期する所以なり。

 昭和十一年三月三日

 岩手県土木課長 上野節夫

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揮毫

地震計記録

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盛岡測候所三陸沖強震記象(其ノ一)
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盛岡測候所三陸沖強震記象(其ノ二)

一、災害

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写真 気仙郡大船渡港工営所鉄矢板の被害(其の一)
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写真 気仙郡大船渡港工営所鉄矢板の被害(其の二)
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写真 気仙郡大船渡港工営所杭材機転落
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写真 上閉伊郡釜石町被害当日の遠望
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写真 上閉伊郡釜石土木管区焼失の跡
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写真 同郡釜石港工営所流失の跡
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写真 閉伊郡鵜住居村両石県道に押上げられたる家屋
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写真 下閉伊郡宮古町宮古橋流失の跡
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写真 九戸郡久慈港工営所破壊の内部
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写真 九戸郡久慈港工営所破壊の外部
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写真 九戸郡久慈港工営所ミキサーの転落
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写真 九戸郡久慈港工営所ブロックの流失
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写真 久慈港工営所仮事務所

二、復旧

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写真 気仙郡高田町防潮堤(其の一)
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写真 気仙郡高田町防潮堤(其の二)
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写真 気仙郡米崎村脇ノ澤護岸
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写真 気仙郡末崎村砂浜護岸
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写真 気仙郡広田村字泊の護岸
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写真 気仙郡広田村六ケ浦の護岸
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写真 気仙郡末崎村細浦の護岸
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写真 気仙郡末崎村泊里の護岸
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写真 気仙郡大船渡町塩田の護岸
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写真 気仙郡綾里村防波堤
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写真 気仙郡越喜来村浦浜護岸
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写真 気仙郡吉浜村防波堤(其の一)
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写真 気仙郡吉浜村防波堤(其の二)
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写真 気仙郡唐丹村小白浜防浪堤
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写真 上閉伊郡釜石町矢の浦橋
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写真 上閉伊郡鵜住居村両石護岸
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写真 上閉伊郡大槌町小槌橋
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写真 上閉伊郡大槌町安渡橋
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写真 下閉伊郡山田町護岸
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写真 下閉伊郡大澤村護岸(其の一)
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写真 下閉伊郡大澤村護岸(其の二)
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写真 下閉伊郡大澤村大澤橋
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写真 下閉伊郡重茂村防砂堤
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写真 下閉伊郡重茂村河川護岸
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写真 下閉伊郡宮古町宮古橋
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写真 下閉伊郡田老村防波堤(其の一)
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写真 下閉伊郡田老村防波堤(其の二)
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写真 下閉伊郡田野畑村平井賀船溜
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写真 九戸郡野田村護岸
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写真 同郡宇部村久喜船揚場
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写真 九戸郡宇部村小袖船揚場
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写真 九戸郡久慈町久慈橋

三、復興

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写真 気仙郡気仙町長部住宅適地
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写真 同郡唐丹村小白浜住宅適地
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写真 気仙郡唐丹村本郷住宅適地
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写真 上閉伊郡釜石町嬉石住宅適地
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写真 上閉伊郡鵜住居村両石住宅適地
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写真 上閉伊郡大槌町吉里吉里住宅適地
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写真 下閉伊郡船越村住宅適地
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写真 下閉伊郡田老村防浪陸堤
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写真 下閉伊郡田野畑村平井賀住宅適地
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写真 上閉伊郡釜石港内津浪予報装置塔
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写真 下閉伊郡山田町防浪壁

一、知事告諭及訓示

(1)告諭第一号

今暁三陸沿岸ニ於ケル強震ニ伴ヘル海嘯並火災ハ被害甚大ニシテ往年ノ惨害ヲ想ハシムルモノアリ之ガ罹災同胞ノ救援ニ就テハ各方面ニ於テ同胞共済ノ精神ニ基キ至大ノ努力ヲ致サレツツアリト信ズルモ此ノ際特ニ県民心ヲ協セ万難ヲ排シ罹災同胞ノ救済並被害地町村ノ復興ニ当ラルベシ時恰モ郷土将兵ハ熱河掃匪ノ為盡忠報国ノ至誠ヲ輸シツツアリ希クハ忠勇ナル出動将兵ヲシテ後顧ノ憂ナカラシムルニ努メラレルヘシ
  昭和八年三月三日
  岩手県知事 石黒英彦

(2)告諭第二号

三陸沿岸ヲ襲ヘル震災海嘯ノ被害甚大ナルヲ被聞召畏クモ
天皇
皇后両陛下ニ於カセラレテハ深ク御軫念遊バサレ特ニ優渥ナル御沙汰ヲ賜ヒ侍従ヲ遣ハサレテ親シク罹災民ヲ慰メ御内帑ヲ開キ給ヒテ救恤ノ資ヲ御下賜アラセラル
聖慮 鴻大
天恩 無窮誠ニ恐懼感激ノ至ニ堪ヘス
計ヲ樹テ以テ
聖恩ニ対へ奉ランコトヲ期スヘシ
  昭和八年三月五日
  岩手県知事 石黒英彦

(3)岩手県告諭第三号

今般皇国ガ国際連盟ヲ離脱シタルニ際シ畏クモ
大詔ヲ渙発セラレテ皇国ノ向フ所ヲ昭ニシ時局ニ処スベキ国民ノ心得ヲ垂教シ給フ
聖慮宏遠洵ニ恐懼感激ノ至ニ堪ヘズ惟フニ時ヤ国家非常ノ秋ニ際会シ県内又未曾有ノ災厄ヲ蒙ルろ雖県民タルモノ宜シク大ニ皇国建国ノ精神ヲ喚起シ挙県一致協心戮力内ハ自給白足ノ計ヲ樹テ外ハ自主独往ノ国策ニ順応シ敢然トシテ勇往邁進スルアラムガ内外ノ時難自カラ解消打開セラレ国運彌々隆ニシテ東洋ノ和平人類ノ福祉期シテ待ツベキナリ冀ハクハ県民斉シク相戒メ相率ヰテ此ノ重大ノ時局ニ処シ以テ
聖旨ニ答へ奉ラムコトヲ期スベシ
  昭和八年四月十七日
  岩手県知事 石黒英彦

(4)訓示 (昭和八年六月六日町村長会議ニ於テ)

去ル三月三日本県海岸地方ニ突如襲来シタル津浪ハ各位ノ骨肉ニ千七百有余りノ生命ヲ一瞬ニシテ奪ヒ去リ傷病者亦算フルニ数ナク其ノ他家屋ノ流失倒壊、田畑漁場ノ荒廃、漁船漁具ノ流失、道路橋梁港湾ノ破壊等其ノ惨禍ハ広汎ニシテ且深刻ヲ極ム生存者ト雖僅ニ身ヲ以テ免レタルニ過ギズ罹災町村ハイヅレモ金融梗塞其ノ他一般経済界不況ノ影響ヲ受ケ連年ノ不漁ト相俟ッテサナキダニ疲労困憊ノ極ニ在リナガラ今回ノ災厄ニ際会ス其ノ窮況言語ニ絶シ正ニ沈痛ノ至ニ堪エザルナリ各位ガ災害突発以来殆ント寝食ヲ忘レテ救護ニ復旧ニ復興ニ寧日無ク尽力セラレツツアルハ予ノ深ク多トスル処ニシテ各位ノ苦労深謝ニ堪ヘザル次第ナリ今次ノ災変一天聴ニ達スルヤ畏クモ
天皇
皇后両陛下ニ於カセラレテハ被害ノ甚大ナルニ御軫念遊バサレ特ニ優渥ナル御沙汰ヲ賜ヒ侍従ヲ遣ハサレ親シク罹災民ヲ慰メ御内幣ヲ開キ給ヒテ救恤ノ資ヲ御下蜴アラセラル 聖慮鴻大恐懼感激ニ堪ヘズ県ハ 聖旨ヲ奉体シ御下賜金ハ直ニ町村ヲ経テ罹災者ニ頒賜伝達スルト共ニ之ニ関シ県モ亦タ告諭ヲ発シ此ノ際県民斉シク不撓不屈相励ミ相扶ケ鋭意復興ニ力ヲ輸シ進ンデ将来ノ計ヲ樹テ以テ 聖慮ニ対へ奉ラムコトヲ期スベキ旨ヲ訓告スル所アリタリ又
皇后陛下ニ於カセラレテハ罹災傷病者並老幼ノ孤独者ノ身上ヲ深ク御憐愍アラセラレ衣服地及裁縫料ヲ御下賜アラセラル県ハ御趣旨ヲ奉体シ愛国婦人会岩手支部ヲシテ之ガ調製ニ当ラシメ町村ヲ経テ之ヲ伝達シ併セテ拝受者ヲシテ御趣旨ノ存スル所ヲ体シ永ク御仁慈御坤徳ヲ仰ギ奉ラシムベキ旨ヲ訓諭シタリ又各宮家ヨリモ種々御手厚キ御沙汰ヲ拝戴セリ今次ノ震災ニ際シ皇室ノ御仁慈ハ正ニ海ヨリモ深ク山ヨリモ高シ我等復旧復興ノ任ヲ荷へル者等シク恐懼感激ニ堪ヘザル所ナリ之ヲ以テ特ニ嚢ニ各位ニ示達シタル処ヲ反覆シテ各位ノ一層ノ努力ト罹災町村ノ人々ノ発奮ヲ望ム所以ナリ震災以来政府各関係当局ヲハジメ全国各方面ヨリ救護ノ為絶大ナル同情ヲ寄輿セラレタルハ各位ト共ニ感謝ニ堪ヘザル所ナリ又陸軍ニ於テハ盛岡駐屯ノ旅団、連隊及弘前師団ヨリ震災即日多数ノ将兵ヲ現地ニ急派セラレ物資ノ供給其ノ他救護ニ付極メテ敏速ナル措置ヲ講ゼラレ更ニ又道路橋梁破壊シ為ニ物費ノ供給ニ多大ノ不便ヲ感ジツツアリタル時工兵隊ヲ派遣セラレ応急之ガ改修ノ工事ヲ施行セラル海軍ニ於テハ横須賀鎮守府及大湊要港部ヨリ食糧其ノ他ヲ満載セル多数艦艇ハ風雪ヲ犯シ全速力ヲ以テ難航ヲ続ケ震災即日及翌日ニ旦リ震災地ニ着シ陸路ノ交通杜絶シタル地方ニ対シ多量ノ食糧衣服ヲ配給セラレ且応急建築ニ必要ナル用材ノ運輸ニ努メラル罹災地方ハ孰レモ僻瞰ノ地ニシテ而カモ海岸ニ於ケル重要道路橋梁ハ殆ント破損シ物費配給、医療救護ニ県ガ惨憺タル苦心ヲ嘗メツツアル時軍部ノ此ノ機宜ヲ得タル来援ハ罹災民ヲシテ正ニ蘇生ノ思ヒアラシメタルモノニシテ当時ヲ回想シテ感激更ニ改マルヲ覚ユ更ニ県下町村長ヲ始メ在郷軍人会、日本赤十字社岩手支部、愛国婦人会岩手支部、青年団、沿防組其ノ他県下各方面ノ活動亦其ノ宜シキヲ制シ適時適切ノ処置ヲ講ゼラレ又全国各府県、帝国水産会、大日本水産会、水難救済会、赤十字社、愛国婦人会、済生会、東京府及東京市其他公私各種団体、確信分社等ノ援助モ迅速ヲ極メ効果洵ニ甚大ナリ斯クシテ全国同胞ノ共助ト各位ノ献身的努力ト相俟ツテ今ヤ応急救護ノ措置ハ略々遺憾無ク之ヲ構ズルコトヲ得タルハ実ニ感謝ニ堪ヘザル所ナリ予ハ曩ニ復旧並復興ニ関スル諸般ノ計画ヲ画策シ之ガ具体案ヲ携エテ急遽上京攻府当局ト折衝ヲ重ネタルガ当時帝国議会ノ会期切迫シ之ヲ議会ニ提案スルコト殆ント不可能ナル折柄ニ拘ラズ総理大臣及各省大臣ハ県情ニ深キ関心ヲ払ハレ各関係当局亦連日不眠不休ノ努力ヲ以テ審議セラレ遂ニ復旧事業ニ関スル各費目ノ上程ヲ見ルニ至り貴衆両院異常ノ熱意ヲ以テ之ヲ支持セラレ並ニ昭和八年度予算ニ於テ四百四十余万円ノ国庫助成ヲ認メラルルニ至ル政府及貴衆両院ノ絶大ナル同情ト特ニ本県関係ノ両院議員諸氏ノ努力トニ対シテハ只々感謝ノ至ニ堪ヘザルナリ斯ノ如クシテ成立シタル計画ハ単ニ復旧事業ニ止メ復興事業ハ他日ニ譲ルコトトナレリ盖シ政府ノ方針ハ復興ノ事タル其ノ内容複雑多岐ニ汎リ短時日ヲ以テシテ之ガ審議ヲ遂グルコト到底不能ナルヲ以テ之ヲ留保ヌルコトトシ八年度予算ニ於テハ内務省及農林省ニ各二万円ノ調査費ヲ計上シテ之ガ調査研究ヲ遂グルコトトナリタリ各位ハ今回ノ復旧事業ガ斯カル事業ノモトニ成立シタルモノナルヲ常ニ念頭ニ置キ此ノ復旧事業ノ速カニ完成スル様益々力ヲ竭サレムコトヲ切望ス此ノ際罹災地ニ在リテ直接事業ノ実施並督励ノ衝ニ当ルベキ各位ニ要望スベキ数項アリ特ニ一言シテ以テ各位ノ深甚ナル留意ヲ促サムトス
第一 ハ事業計画ガ正確ナル急トヲ要ス則チ事業計画ガ当ヲ得ザルトキハ成功ノ見込ナキノミナラズ補助金ノ交付ハ勿論資金ノ融通ヲモ受ケ得ラレ難シ暇令今次ノ復旧事業ガ救済ヲモソノ目的ノ一トナスト雖成功見込ナキモノヲ援助スベキ何等ノ理由ナキノミナラズ今回政府ガ補助金、貸付金ヲ支出スルニ当リ特ニニ事業計画ノ正確ナルトヲ主要要件トナスニ徴スルモ明ナリ
第二 ハ事業ノ連絡統制ヲ図ルコトヲ要ス復旧事業ハ広汎ナル土木事業ヲ含ミ産業ノ各部門ニ亘リ其ノ他教育衛生社会施設等複雑多岐ヲ極メ之ガ事業実施ノ衝ニ当ル者亦一ニシテ止マラザルノミナラズ復旧事業中ノ重要事項ニシテ且ツ統制アル事業計画ヲ根幹トセル村落計画ノ如キニアリテハ本統制連絡ノ必要ナルコトハ喋々ヲ要セズ而シテ此ノ間ニ処シテ克ク事業ノ統制担当者ノ連絡ヲ期スルハ之ヲ統轄スル各位ノ責務タリ各位ハ曩ニ通牒シタル処ニ従ヒ既ニ復興委員会ヲ設ケテ之ガ励行ヲ期セラレツツアルベキモ尚一層此ノ点ニ意ヲ須ヒラレムコトヲ望ム
第三 事業ハ合同ノ力ニヨリ計画実行スベシ各個人個々別々ナルトキハ企業能力薄弱ニシテ到底事業ヲ行フニ適セザルガ故ニ各位ハ須ラク合同ノカヲ以テ当ルベク常ニ配慮セラレムコトヲ望ム之レ只ニ費金融通ノ途ヲ得ルノ方便ニ止マラズ産業振興ノ根本義タリ
第四 ハ借入金ノ償還ニ関スル事項ナリ政府ハ豆相並奥丹後ノ震災前後措置ニ関スル貸付金ノ償還成績ニ徴シ今回供給ノ低利資金償還ノ将来ニ関シ深ク憂慮セラルル処アリタルモ予ハ本県罹災地ガ水産業ヲ以テ主要産業トシ其ノ国民ノ日常消費生活ト密接不可分離ノ関係ニアル特異性ニ照シ之ガ合理的経営方法ニ基キ振興ノ根本対策ヲ樹立シ且ツ之ヲ実行スルニ於テハ資金ノ償還ハ決シテ難事ノ業ニアラザルベキヲ具陳シタル次第ナルガ各位ハ今後事業ノ基礎ヲ確実ナラシメ自余ノ施設経営ヲ苟モセズ償還ノ手続ヲ厳重詳細ニ定メ以テ償還ノ実施ヲ厳行シ断ジテ遅滞スルガ如キ結果ヲ招致セザル様充分ノ配意アラムコヨトヲ望ム
第五 ハ会計経理ニ関スル事項ナリ、今後復旧事業ニ伴ヒ多額ノ費金ノ流通ヲ見ル其ノ額ノ大ナル蓋シ既往ニ其ノ例ヲ見ザル処ナリ万一之ガ経理ノ当ヲ欠キ甚ダシキハ不正行為ヲ敢テシテ刑罰ニ触ルル力如キ事態ノ惹起スルアラムカ地方復興ノ将来ニ重大ナル暗影ヲ投ズルニ到ルベク公器ニ任ズル者ノ最モ怖レ且慎マザルベカラザル所ナリトス、各位ハ会計経理ニ厳ニ注意シ資金ノ使途其ノ宜シキヲ得テ違法錯誤等ノ事絶無ナルヲ期セラルル様切ニ各位ノ戒心ヲ促シテ止マザル次第ナリ
第六 最モ重要ナルハ自力更生ノ精神振作ニ関スル事項ナリ、今回国家財政多端ノ秋甚大ナル苦痛ヲ忍ビツツ多額ノ経費ヲ支出セラルル所以ノモノハ罹災地ノ切実ナル現状ニ即シ之ニ暫ク必要ナル施設ヲ講ジテ地方民ノ自奮自励ヲ促シ産業ノ再建ニ努力セシムルノ意ニ外ナラズ、若シ夫レ之ヲ楔機トシテ徒ニ他力ニ依ル保護救済ニノミ依頼セムトスルノ趨向ヲ馴致スルガ如キコトアラムカ政府今次ノ施設モ全国同胞ノ同情モ其ノ意義ヲ没却スルノミカ、今後永久ニ地方更生ノ端ヲ啓クコト能ハザルニ至ルベシ、各位ハ地方民ニ先ヅ以テ自助的精神ヲ鼓吹シ自営力行ノ意気旺盛ナラシメ地方振興ノ基礎ヲ築クノ機運ヲ醸成スルニ力ヲ竭サレムコトヲ望ム
第七 将来ノ災厄ニ備フル為必要ナル施設及ビ措置ヲ講ズベシ、共済組合ノ結成衣服穀類ノ貯蔵医薬ノ準備或ハ備荒林ノ設置貯金ノ奨励ノ如キハソノ事例ナリ、而シテ復旧事業ノ完成迄ハ臥薪嘗肝ノ堅キ決心ト覚悟トヲ以テ之ニ当リ断ジテモ弛緩ノ行為アルベカラザルナリ
第八 ハ町村内民心ノ融合ヲ図ルベシ、罹災地方ノ町村ノ間ニハ従来往々ニシテ部落感情、対人的感情又ハ黨弊ニヨリ部内民心統一ヲ欠キ町村民ノ公私生活ニ悪影響ヲ及ボセルモノアリ、各位ハ此ハ絶好ノ機会ニ於テ悪弊ヲ一掃シ民心ノ融合統一ヲ促シ一ツハ以テ復旧事業ノ促進ヲ図リ他ハ以テ一般町村治ノ改善二資セラレンコトヲ望ム
惟フニ今次ノ災害ハ稀有ノ惨事ナリト雖、余ハ各位ノ熱意ト努力ニ信頼シ各位ト協力一致シ復旧ノ事業ニ精進スルト共ニ地方百年ノ長計二向ッテ懇親ノ力ヲ傾注セム予ス冀クハ余ノ決意ヲ諒トセラレ心ヲ砕キ力ヲ悉シテ相共ニ罹災地方振興ノ為努力セラレムコトヲ

二、過去に於ける地震及津浪

第一節 本県の地質地形と津浪との関係

 本県は広裘實に九百八十七方里を擁し西域には奥羽山脈が、南北に蓮互し奥羽の分水嶺を画してゐる。又那須火山脈の弱線帯に沿うて処々に火山が噴出して居り、東半北上山脈との間には北上、馬淵の二大川があつて一は、南流して、一は北流し、其の流域は所謂本邦中央凹地帯の一部を為して居る。
 県の過牛を占めてゐる北上山脈は、北は馬淵河口に没し南は牡鹿半島に連なる紡錘状の山彙で、太平洋は、此の山脈の尾端部を被うて居り、沿岸は我国でも稀に見る小屈曲の多いリヤス式海岸を形成し、岸を距ること二百粁余でタスカロテ海溝に臨み海底は急傾斜を為してゐる。此の小屈曲に富んだ海岸の小湾は、北上山脈の支脈に依つて造られた横谷に海水が入り込んで出来上つたもので悉く外洋に向つてV字型に開け湾ロは広く深く湾奥は狭く浅くなつてゐる。故に一旦海水が外洋より湾内に漲流する時は、勿ち津浪を発生して陸上に氾濫する虞れが多く之が為本県の沿岸地方は古来幾度か其の惨害を経験し巨億の生命と財産を喪つてゐるのである。
 更に本県の地質を見ると、北上山地は、大部分古生層から成つて居り、南辺から牡鹿半島に至る間は、中生層で出来て居り、山脈中には、所々に花崗岩や各種の旧火山岩の迸出を見、又第三紀凝灰岩を主とする奥羽山脈との間の河川流域には、第四紀中積層が発達して居る。斯様に本県の大部分は、古生層や堅盤で蔽はれてゐるため地震の震度は比較的弱く昭和六年十一月四日の北上山脈中、小国川上流域に発生した強震に於ても、又今回の如く大規模な地震に於ても、沿岸又は河川流域の沖積土の一部に強震を感じた程度であつて、一般に震害として見るべきもののなかつたことは凍海岸の地形と対比し、其の一短、一長を相殺し得るものと言へよう。

第二節 既往に於ける三陸津浪の記録

 有史以来、文献若しくは、口碑によって残されてゐる。三陸地方の地震・津波は、貞観十一年、天正十三年、慶長十六年、元和二年、慶安四年、延宝五年、貞享四年、元禄二年、同九年、同十六年、宝暦元年、安政三年、明治元年同二十九年、同三十年、大正四年、昭和八年等十七度の襲来を受けて居るが、之に関する記録は、明治二十九年を除く外概ね紛失して当時の状況を知り得ないのは、真に遺憾な事である。

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三陸地方津浪一覧

第三節 明治二十九年の津浪

 明治二十九年六月十五目(陰暦五月五日)午後八時に発生した津浪は、我国の史上に於ける最大の津浪であつて、本県は南は気仙郡より、北は九戸郡に至る沿岸一帯の地方は悉く激甚の損害を蒙つた。沿海三十六町村百七十部落の大半は宛ら颶後の砂漠の如く残礎すらもとどめぬまでに洗ひ流され、幸に、蕩を免れたものも家屋は破壊し、耕地は荒廃した。海岸は到る処算を乱して横たはる死屍と悲叫して救ひを求むる傷者とに充ち、僅かに生命を拾つた人々は、一草一木無き荒掠の廃墟を彷徨して終日終夜我が身の窮命に泣き暮れた。而して、此の津浪の犠牲となつた死者は、実に二万二千五百六十五人を算し、負傷者は六千七百七十九人、流失家屋は六千百五十六戸であつた。
 其の発生は夜間のこととて精細な測定を得なかつたが、凡そ午後七時五十分前後で、最初の地震より約十八分の後と推定されてゐる。即ち強震の後幾くもなく、午後八時頃海水が増嵩し霎時にして一旦減退したが、八時七分頃に至つて、遠雷の如さ音響を伴ひつつ襲来し、爾後八時十五分、同三十二分、同四十八分、同五十九分、九時十六分、同五十分の六回に亘つて襲来したが、其の勢力は、第三回以後漸次減衰した。
 而して、最も惨暴を逞しうしたのは、第二回の第二回の津浪で約十分間に於て、其の最大波高は湾内に於て一丈五、六尺であつた。
 此の津浪発生の原因は、地震に由るもので、震源は海岸を距る三十里乃至三十五里、震央は宮古測候所より東南凡そ東経百四十五度、北緯三十九度に位し、地震の性質及びタスカロラ海溝の関係等より考察して、海底に発生した地滑りと断定されてゐる。

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明治二十九年津浪当時ノ人口、家屋被害調査 備考岩手縣宮古測候所調べニ依ル。

三、観測

第一節 県内各地の観測

一、地震

 三月三日午前二時三十一分に三陸地方を襲つた強震並に津浪は、其の地震規模の大だつたことは大正十二年九月一日の関東大震に勝るとも劣らないと言はれて居るが、其の震央が遥かに太平洋底にあつたため幸に震害は極めて軽微にとどまつた。
 然し、震後襲来した津浪は其の惨害言語に絶し、本県のみでも死者行方不明者を合せて二千六百余名、家屋の被害は七千五百余であつて恰も明治二十九年六月十五日の三陸大津浪の惨状を彷彿せしめた。
 一、主震の観測
  盛岡測候所の振動強震計及びウィーヘルト地震計に依る観測要素を挙ぐれば、
  発震時   午前二時三十一分三十九秒○
  初期微動  三十五秒三
  継続時間  同上
  総震動時間 三時間五十分
  最大全振幅 三十五粍
  同週期   二秒六
  最大化速度 百二十八粍^2秒
  初動
   水平動  南西へ 一五、〇ミクロン
        北西へ 二三、八ミクロン
        上へ  一六、七ミクロン
  震度    強震(弱い方)
  性質    緩
  記事
  人体感覚時間約四分中激動部二分間、地震中南方に青白色幕電様の発行現象を認め、二時五十八分東空に遠雷の如き音響を聞く。
 前記地震計記象の観測要素より推すと、震央は本県釜石の東方約二百粁余の太平洋底であり、此の附近の水深は五千五百米以上の深海底でタスカロラ海溝に臨み、所謂本邦外側地震帯主脈上に位し居り、本邦中地震発生回数が最も多く、毎年十回以上の地震を発生する地域である。
 地震記象及び其の他より推測すると其の震源は極めて浅く或は海底面に大地変の想像を許さる可きもので、従つて沿岸地方の津浪の虞れが充分に推知された。仍て同測候所は直ちに県庁並に一般に対して電話を以て警戒の速報を発した。尚ほ県内各観測所に於ける地震観測は左の通りである。

 二、前駆的地震及余震
 大地震には其の数日以前又は数十日以前より前駆的な地震があつて後に主震があるものと、何等前震を示さず突発的に大震の発現するものとあるが、然し其の小地震は果して大震の前駆的に発生するものであるか否かを制定することは極めて困難である。
 今次の地震に関し其の数箇月前に遡つて盛岡測候所の地震計計測に就き検討するに、本年(昭和八年)一月四日午前零時二十七分に宮古の東北東百九十粁の地点に稍顕著な地震を続発し、超えて同七日年後一時七分に略同地点にまた顕著な地震を続発し、引き続き強震を続発して月末迄二回の有感覚地震と百十八回の無感覚地震があつた。
 尚ほ今次の強震は其の震源浅く発震規模が大きかつたために大震後生じた余震も其の数夥しく震央距離二百六十粁余りの盛岡で観測した余震回数は五月末日迄に実に千三百余回に上つたが、その逓減状態は極めて順調な経過を示し人体に感じたものは三十八回で、三月に九百六十八回四月に二百三十二回、五月に百一回であつて、今盛岡地方の一箇年の平均地震回数を四百四十回とすれば、今次の強震に伴ふ三箇月間の余震は実に平年に於ける三箇年の量に匹敵する回数であつた。

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県内各観測所に於ける地震観測記録

二、津浪

 一、襲来の時刻と波高
 宮古測候所に依ると、強震の直後には海水に何等の異状を見なかつたが、午前三時二分沖鳴りを聞いて湾内を注視すると桟橋に繋留してあつた発動機船が浅水のため著しく傾斜しあるを発見した。
 即ち海水は三時以前に於て既に六尺を減退したものの如く、同三時八分に至つて烈風の吹き荒れるに似た音とともに津浪が外洋より宮古湾口の中央部に向つて一直線に襲ひ来るのを暗中に認めたが、是れより四分を経て三時十二分藤原須賀に到達した。
 尚ほ県内各地に於ける津浪襲来の時刻及波高は左の通りである。

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津波高(最大浸水高)
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津波襲来時刻(昭和八年三月三日)

四、被害

(1)一般被害

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一般被害の表

(2)人名及家屋被害調査

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人名及家屋被害調査結果

五、復旧事業

(1)応急工事

 震災当日より直に応急工事に出勤せるも道路橋梁流失の為め材料運搬の不可能なると人夫召集に困難を感じ第一日は着手不可能に終わりたるを以て第二日早朝より貨物自動車に依り人夫は津波に関係なき山奥より之を召集せり。
 本課並びに土木管区より被害地方に応援として派遣せる者左の如し。
 尚上野土木課長は被害激甚の報ありたる釜石に向かい早朝自動車にて盛岡を出発せり。

(イ):応援配置表
(ロ):応急工事間区別表
(ハ):応急工事箇所別表
道路之部
橋梁之部
(ニ):応急工事町村別表

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(イ)応援配置表
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(ロ)応急工事間区別表
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(ハ)応急工事箇所別表 道路之部
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(ハ)応急工事箇所別表 橋梁之部
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(ニ)応急工事町村別表

(2)災害土木事業費予算書

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災害土木事業費予算書

(3)災害国庫補助工事

(イ):管区別総計表
(ロ):県所属工事間区別一覧表
(ハ):県所属工事路線別一覧表
(ニ):県所属工事箇所別表
道路之部
橋梁之部
(ホ):町村所属工事管区別一覧表
(へ):町村所属工事町村別一覧表
(ト):町村所属工事箇所別表
(チ):船溜船揚場復旧費

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(イ)管区別総計表書
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(ロ)県所属工事間区別一覧表
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(ハ)県所属工事路線別一覧表
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(ニ)県所属工事箇所別表 道路之部
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(ニ)県所属工事箇所別表 橋梁之部
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(ホ)町村所属工事管区別一覧表
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(へ)町村所属工事町村別一覧表
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(ト)町村所属工事箇所別表
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(チ)船溜船揚場復旧費

(4)県限災害復旧費

(イ):管区別一覧表
(ロ):路線別一覧表
(ハ):道路工事箇所別表
(ニ):橋梁工事箇所別表

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(イ)管区別一覧表
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(ロ)路線別一覧表
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(ハ)道路工事箇所別表
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(ニ)橋梁工事箇所別表

(5)街路復旧計画

二 街路
 罹災町村の中甚だしく街路を破壊された田老、山田、大槌、釜石、大船渡、末崎、気仙の七箇町村に対する街路の復旧は総工費十万円の査定により、其の中八万五千円は国費の補助に仰ぎ、一万五千円は各町村の負担を持って施工する事になった。

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(ニ)街路復旧計画表(昭和八年十二月二十日現在)

(6)住宅適地造成

(イ)計画
四 住宅地造成
 将来津波襲来の際に於ける人命並に住宅の安全を期する為、今次並びに明治二十九年における津波襲来の浸水線を標準としてそれ以上の高所に住宅を移転せしむることとし、倒壊家屋も多からず、且つ造成に多額の工事費を要せざる適当なる小面積の移転地が分散せる部落に就いては別に資金を供給せず各個に分散移転の方法に依らしめ、其の然らざる地方即ち四郡内十八箇町村の三十二部落約二千百三十五戸は集団的に移転せしむることとし、之が造成に要する工事費三十四万一千四百七円を預金部低利資金の融通に仰ぎ之を左表の如く各町村に配当、県に於いて設計し内務省都市計画課の承認を受けたる上各町村に交付し、町村を事業主体として之を執行せしむることとした。
 只諸般の事情により高地移転の不可能なる地方、例えば釜石町、大槌町、山田町の如きはやむを得ず原地に住宅を復旧せしむることとし、将来の津波災害防止策として、後章に記述するが如く防浪堤防浪護岸等の築造を計画した。
(ロ):工事一覧表

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(ロ)工事一覧表

六、規定及設計調査心得

(1)災害国庫補助特別規定

勅令第百十九号
   昭和八年五月十九日
     震災ニ因ル宮城県及岩手県災害土木費国庫補助規定
 昭和八年三月ノ震災ニ因ル宮城県及岩手県ノ災害土木費ニ付テハ国庫ハ災害土木費国庫補助規定ニ依ラズ予算ノ範囲内ニ於テ県工事費ノ八割五分以内及下級公共団体ニ対スル県補助費ノ十割以内ヲ補助スルコトヲ得但シ県補助費ニ対スル補助ノ割合ハ下級公共団体ノ災害土木費ニ対シ其ノ八割五分ヲ超ユルコトヲ得ズ
 前項ノ規定ニ依リ補助スベキ災害土木費ノ範囲及ビ補助額ハ内務大臣之ヲ定ム
 本令ニ依ラズシテ補助金ヲ受ケタル災害土木費ニ付テハ本令ニ依ル補助金ハ之ヲ交付セズ
     附 則
 本令ハ交付ノ日ヨリ之ヲ施行ス

(2)損害ノ負担ニ関スル規定

岩手県令第十号
   昭和八年四月二十五日   岩手県知事 石黒英彦
     震嘯災二因ル時局匡救土木工事執行中ノ損害ノ負担ニ関スル規定
 昭和八年三月三日ノ震嘯災二因リ時局匡救土木工事執行中其ノ工事並検収濟材料ノ被リタル損害二付テハ道路工事執行令施行細則第二十二條ノ規定ニ依ラズ工事管理者ノ負担ト為スコトヲ得
岩手県告示第  号
昭和八年四月二十五日   岩手県知事 石黒英彦
     震嘯災二因リ損害テ被リタル県費補助時局匡救市町村土木工事ノ精算ニ関スル規程
 昭和八年三月三日ノ震嘯災ニ因リ工事中損害ヲ被リタル七年度所属時局匡救市町村土木工事ノ精算二関シテハ出来形並検収濟材料ノ被害高ヲ加算スルコトヲ得

(3)宅地造成調査心得

一 本調査ハ三陸沿岸ノ震嘯災ニヨリ流失倒壊焼失又ハ浸水セル区域ニ於ケル住宅ノ復旧二際シ其ノ住宅ヲ高所二移転スル為宅地造成ノ計画二必要ナル事項ヲ調査シ其ノ設計ヲ定ムルモノトス
ニ 調査スベキ事項左ノ如シ
  1 移転ヲ要スル棟数
  2 移転ニ要スル面積
  3 住宅位置ノ選定
  4 平面図測量
  5 高低圏測量
  6 津浪浸水線
  7 地質調査
  8 道路測量
  9 工事用材料
  10 用水調査
1 移転ヲ要スル棟数
 流失倒壊焼失又ハ浸水セル家屋ヲ現ニ移転セムトスル棟数ニシテ将来ノ拡張計画ヲ算入セズ
2 移転ヲ要スル面積
 一棟平均一,七「アール」(五十坪)以内ヲ標準トスルモ地形地質等ニ依リ止ムヲ得ザル場合ハ超過スルモ妨ゲナシ  
3 宅地位置ノ選定
 可成海岸二接近シ交通上用水上使用上又ハ工事施行上最モ有利ナル地点ニシテ絶対二津浪ノ震来ヲ受ケサル高地ノ地均シ容易ナル箇所ヲ選定スルコト
4 平面図測量
 三角測量又ハ枝距測量ノ方法ニヨリ移転棟数ヲ収容スルニ足ル区域ヲ抱容セシムルコト
5 高低図測量
 附近海岸ノ通常満潮位ヨリ起算シ高二米突毎二同高線ヲ平面図ニ記入スルコト
6 津浪浸水線
 住宅移転地附近二於ケル津浪ノ及ヒタル普通満潮面上ノ高サヲ数ケ所以上二於テ測定シ浸水線ヲ平面図二記入スルコト
7 地質調査
  従来ノ工事施行ニヨリ地質露出セサル箇所ハ試験堀又ハ鑽孔二依リ地質二甚シキ差異アリト認ムベキ区域毎二之ヲ行フコト
8 道路測量
  既設道路ヨリ新設宅地二達スル幹線道路及各住宅ヲ連絡スル支線道路綱ヲ計画スルコト
  但シ幹線道路ニアリテハ測点間隔十米突毎二縦横断測量ヲ行ヒ計画幅員ハ特別必要ヲ認メサル限リ三米突内外トシ支線道路ノ幅員ハ二米突トス
  勾配屈曲二就テハ幹支線共二制限ヲ設ケザルモ地形ノ許ス範囲二於テ可成道路構造令二凖スルコト
9 工事材料
  土留、石垣等二使用スル石材ハ可成地方在石ヲ利用シ其ノ採取地ヨリ工事施行箇所迄ノ遠近ニヨリ適当ナル単価ヲ算定スルコト
10 用水調査
  飲用水並二雑用水ノ有無ハ宅地造成二重大ナル関係アルヲ以テ水源ノ水質並二水量二就テハ特二正確ナル調査ヲ遂ゲ取水方法ハ■井二依ルカ引水二依ル力揚水二依ルカ土地ノ状況二応ジ適当ナル方法ヲ調査スルコト
三 設計並製図
1 設計
イ 宅地設計ハ総テ調査材料ヲ総合シ地形二応ジ切取又ハ盛土ヲ可成過不過ナク適当二按配シ必要ナル箇所ニハ土留、石垣ヲ設ケ階段式宅地ヲ造成スル等最モ経済的ナル設計ヲ樹立シ其ノ経費ヲ積算スルコト
ロ 用水設計別二規定スル方法二依リ之ヲ調査スルコトトシ本計画ヲ於テハ単二適当ト認ムル取水方法並二其ノ工事費概算ヲ記載スルコト
2 製図
イ 宅地造成平面図ハ縮尺六百分ノ一トシ付近通常満潮位上二米突毎二同高線ヲ記入シ測量区域内二於ケル既設道路、家屋、山林、原野、田畑等ノ境界方位並二縮尺ヲ記入スルコト
  右ノ外新設道路ノ位置、路線、番号、測点、番号並二宅地割計画等必要ナル事項ヲ朱記スルコト
ロ 取水計画平面図ハ取水地点ノ関係上宅地造成平面ヲ利用シ得サル場合ハ参謀本部五万分ノ一地形図ヲ用ヒ水源地、導水路線、配水地予定位置並二宅地造成区域等ヲ朱記スルコト
3 作工図
 土留、石垣、昇降階段又ハ橋梁暗渠等ノ設計二就テハ必要二応シ適当ノ縮尺ニヨリ卒面図、横断面図、側面図又ハ詳細図等ヲ作製添付スルコト
 取水方法ニ開スル設計図ハ別二定ムル規程二依ルモノトシ本計画書ニ添付ノ必要ナシ

(4)震浪災地工作物築造要項

 震浪災地ニアリテハ工作物ハ左ノ要項二基キ之ヲ築造スルコト

1 道路及住宅ハ津浪浸水高(最高記録)ヨリ高所二之ヲ選定スルコト
2 地形上又ハ利用上止ムヲ得ズ津波浸水区域内ニ築造スル道路又ハ護岸堤防等ノ築堤ハ法面及天端共ニ張石又ハ混凝土等適切ナル工法ヲ以テ全面之ヲ鋪装スルコト
3 地形上又ハ利用上止ムヲ得ズ津波浸水区域内ニ施設スル橋梁及桟橋ハ木造ヲ使用セズ鉄筋混凝土等トシ橋脚、橋体、高欄等ハ津波ニ対シ抵抗少ナク対抗力大ナル工法ヲ採用スルコト、例へバ橋桁ノ如キハ特別ノ場合ヲ除キ単桁ヨリモ連続桁ヲ用フルコト
4 護岸石垣ハ総テ練積トシ津波浸水区域内ニ設クルモノアリテハ天端ヲ巻込ミ或ハ混凝土ヲ以テ固メ根■ヲ強固ニシ退水ノ際洗堀セラレザル様各所ノ接合ニ注意スルコト
5 津浪ノ浸水ソ免レ難キ箇所二於ケル胸壁工事ハ退水ヲ妨ゲ又ハ其ノ基礎護岸ヲ破壊ニ導ク虞アルヲ以テ之ヲ築造セザルコト
6 河川又ハ溝渠等ノ海中二流出スル付近ノ両岸並ニ凸角ハ浸水又ハ退水ノ際二於ケル流速極メテ大ナルヲ以て強固ナル護岸並二根固土ヲ施行スルコト
7 津波浸水区域内ニ架設セラレタル橋梁及溝渠等ハ基礎根入ヲ充分ナラシムルカ或ハ床張ヲ施エシ橋台橋脚ノ洗掘ヲ防止スルコト
8 自体ニテ津波ニ対シ抗能ハザルモノト認ムル橋梁ノ上下流ニハ堅固ナル防舷柱ヲ建設スルコト
9 津浪浸水区域内二於ケル建築物ハ鉄骨又ハ鉄筋混凝土ノ耐浪構造トナスヲ原則トシ経費ノ関係上止ムヲ得ザル場合ハ海岸二直面セル部分ノミニテ耐浪構造トナスコト
10 津波浸水区域内ニアル木造家屋ハ基礎ト土台ヲ繋ギ土台ト柱トヲ連結シ各所二筋違ヲ入レ耐震耐浪力ヲ可成増加スル構造トナスコト
11 防浪海堤、防浪陸堤、耐浪建築、防浪壁等津浪二対スル障害物ヲ築造スル場合ハ他方二充分ナル緩衝地帯ヲ存セシムルコト
12 前各項二該当セサル現存工作物ニアリテハ之二該当スル様漸次之ヲ改築又ハ修築スルコト

(5)簡易水道設計仕様

一 所要水量
 一日一人当使用水量ヲ平均九九リツトル(三、五立方尺)最大一七〇リツトル(六立方尺)ヲ標凖トシ給水人ロニ応ジ引用水量ヲ決定スルコト
ニ 自然流下法二依ル場合
 1 水源地
  河川又ハ溪流二於テ源流ガ常二枯渇セズ土砂塵芥流入ノ虞ナキ淵ヲ取入口ニ選定スルコト若シ前述ノ如キ適当ノ箇所ヲ選定シ能ハズ河川又ハ溪流ノ締切ヲ必要トスル場合ハ堰堤ヲ設ケ之ニ必ズ土砂吐ヲ設備スルコト
  取入口施工面ハ汀底ヨリ〇、五米以上高カラシメ土砂ノ流入ヲ防止シ制水扉及塵除ケスクリーンヲ設備スルコト
 2 濾過槽
  水源ノ水質二応ジ必要ト認ムル場合ハ簡易濾過槽ヲ設備スルコト
  濾過速度ハ一昼ニ三米トシ濾過池ノ面積ヲ定ムルコト
 3 配水槽
 平均所要水量六時間以上ヲ貯溜シ得ル容積トシ排水管並二溢水回ヲ設備シ必要二応ジ取水管テ取付クルコト
概算見積標準
取入口水門費 五十円(六吋管)
堰堤一米営費(天端一米平均高一米)四十円
配水槽面積ハ水深二米トシ給水人口百人当四、八六平方米ヲ要ス
 但一平方米工事費二十五円ヲ見積ルコト
濾過槽面積ハ水深二米トシ給水人口百人当四、八六平方米ヲ要ス
 但一平方米工費六十五円ヲ見積ルコト
揚水機据付費(家屋共)百五十円
備考
  特別ノ工事ヲ要スル箇所ハ適当二増額スルコト

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第一表
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第二表
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第三表

(6)漁村住宅設計仕様

一 漁村住宅
  本設計ハ漁師ノ生計状態ヲ熟知セル人ノ意見ヲ斟酌シ作製セルモノニシテ家族五人内外ヲ標準トセルモノナリ
 漁師ハ濡衣又ハ土足ノ儘家内ニ出入スル必要アルニ依リ便所ハ屋外ニ之ヲ設ケ尚各室ニ直面シ土間ヲ設ケ利用上ノ便ヲ考慮セリ
 漁師ハ魚籠、海藻、張縄、籠網其ノ他濡物ヲ持チ帰リ之ヲ処理スル場所ヲ必要トスルヲ以テ板張ノ作業所ヲ設ケ土間ヲコンクリート叩トセルハ海藻又ハ魚類等ノ処理作業ニ便セリ
 住宅ハ総テ採光通風ヲ完全ニスル必要アルヲ以テ本設計ハ道路側ヲ風雨ニ際シ充分二抵抗シ得ヘキ構造ノ硝子窓トシ庭園側ニハ椽ヲ設ケ障子及木製雨戸ヲ設備セリ
 漁師ハ海上生活ヲ常トスルヲ以テ陸ニ対シシテハ大ナル憧憬を有シ従ッテ住宅ヲ清潔ニシ庭園ヲ好ムモノ多ク農民ト自ラ其ノ趣ヲ異ニス従ツテ農村住宅ヨリモ小奇麗トナル住宅トナス必要アリ
 本設計ニ於テ家屋ノ内壁及上部外壁ヲ土塗トセルハ家ニ重量ヲ興へ風厭二対抗セシメンカ為トス経費アラハ瓦屋根トナシタシ
 尚本設計ハ基礎ト土台トヲ繋キ土台ト柱トヲ連結シ各所ニ筋違ヲ入レ耐震耐浪的構造トセリ
 アバート式住宅トスル場合ハ本設計ヲ単二連結セレハ足ル
 間ロ五間、奥行四間、便所共二十坪半工費概算六百円ナリ

二 商店住宅
 本設計ハ最近最モ利便トシテ商人ニ歓迎セラルル構造二作レルモノニシテ東京裏町其他ノ新市街二於テ多ク見受クガ如シ
 本設計ハ敷地ヲ節約スル為ニ二階建トシノ一階八畳ノ間ハ事務室兼食堂トシ二階ヲ居間並二寝室トス
 表壁ハ経費ノ都合二依リ体裁良キ板張又ハセメント塗ト為スモ差支ナシ
 一階表扉硝子及装飾窓硝子ヲ一枚張トセルハ商店ノ客引上二於ケル理想的設計二シテ細心ノ注意ヲ払ヒタルモノトス但シ経費ノ都合二依リテハ硝子ヲ数枚張トシ程度ヲ低下スルモ妨ケナシ
 アバート式商店タラシムルニハ本設計ヲ単ニ連結スレバ足ル
 一階ハ間口四間、奥行四間半、二階ハ間口四間、奥行二間及便所ヲ行へ延建坪二十六坪半健築費一千円ノ概算ナリ

(7)住宅適地造成資金利子補給ニ関スル通牒(昭和八年三月三十日土 第一、二四一号沿海各町村長宛)

 三陸地方震嘯災二因リ流失、倒壊又ハ浸水シタル区域二於ケル住宅ノ復旧二際シ其ノ住宅ヲ高所二移転セシムル為住宅適地ノ造成ヲ為スモノニ対シテハ政府ヨリ低利資金ヲ融通シ其ノ利子ノ補給セラルベキニ付左記條件ノ下ニ希望ノ向ハ別紙住宅移転計画ノ概要二基キ来ル四月七日迄二本県ニ御申出相成度
 追テ同日迄ニ本県ニ御申出ナキ向ハ希望ナキモノトシテ処理可致候篠為念申添候
       記
一、低利資金ハ五ケ年据置キ十五ケ年償還(利手補給)
二、設計調査並ニ工事監督ハ県ニ一任スルコト
三、右ニ要スル費用トシテ事業費ノ内一割ヲ県ニ寄付スルコト
四、住宅適地ノ造成ハ移転ニ必要ナル敷地ノ地均工及連絡道路ノ改修ニ限ル
五、事業主体ハ町村トス
(別紙) 住宅移転計画概要
               何郡何町村何部落
1 移転ヲ要スル棟数  何棟
2 移転二要スル面積    何坪
   但シ一棟五十坪以内ニ取リ度シ
3 連絡道路ノ延長   何間
  但シ平均巾九尺トシ一棟当二十間以内トシ度シ
4 移転セムトスル土地ノ地形
  山地ナルヤ緩傾斜地ナルヤ説明ノコト
5 敷地工法ノ大要
  切盛ヲ必要トスルヤ切取ノミヲ必要トスルヤ或ハ盛土ノミヲ必要トスルヤ
6 飲料水
  付近渓流ヨリ引水出来ル見込ミナルヤ■井ニ依ル見込ミナルヤ
7 平面図
  参謀本部五万分ノ一地形図又ハ見取図ニ移転地ノ位置及飲料水水源地位置ヲ記入セルモノヲ添付スルコト

(8) 住宅適地造成設計方針

一 住宅適地造成計画ニ当リ被害地付近ノ地形、被害程度又ハ津渡ノ高並ニ襲来ノ方向等二依リ左記ノ如キ場合ヲ生ズ
各種ノ場合二応ジ防浪ノ目的ヲ達成スル為ニハ特種ノ工事ヲ施行スル必要在リ

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移転時の工事条件

(9)船曳場設計仕様

一 震嘯災ニヨリ破壊セラレタル船曳場ヲ復旧セムトスル町村ニ対シテハ時局匡救土木事業トシ復旧費ノ四分ノ三ニ相当スル費用ヲ国庫ヨリ補助ス
ニ 本設計標凖ハ混凝土練積工トシテ干潮面若クハ干潮面以下ヨリ地形二応シ適当ナル勾配二張上クルモノトス
三 目潰混凝土ノ配合ハ「セメント」一、砂三、砂利(又ハ砕石)六ノ割合トシ砂ノ探取困難ナル箇所二於テハ砂ノ代用トシ細粒ノ砂利又ハ砕石ヲ使用スクコトヲ得
四 石材ノ寸法ハ規定セサルモ可及的大ナルモノヲ使用スルコト
五 目潰混凝土ハ張布一平均ニ付キ一合ヲ使用スルコト
六 張石一面坪ヲ仕上クルニ要スル工事費ヲ別紙単価表ニ基キ八円六十七銭トシ之ノ四分之三ニ相当スル費用一面坪ニ付キ六円五十銭ノ割合ヲ以テ国庫ヨリ補助ス
七 当初認可ヲ受ケタル設計ヨリ程度超過ノ工事ヲ施行シ又ハ出来上リ面積超過スルモ国庫補助ハ増額セザルモ出来上リ面積不足セル場合ハ其ノ不足坪数二対シテ面坪当リ六円五十銭ノ割合ヲ以テ国庫補助ヲ減額ス

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石張工一面坪当単価表甲
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混凝土一、三、六、一立坪当単価表

(10)防浪陸堤設計標準図

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(甲)A型断面図・単価表(長一米当)
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(乙)B型断面図・単価表(長一米当)
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(丙)C型断面図・単価表(長一米当)

(11)津浪被害地住居制限法草案

 震浪災害復興策トシテ或ハ又予防策トシテ諸種ノ事業ガ起興サレ或ハ又立案サレテ居ルガ、更ニ進ンデ震浪災害ノ虞アル地域ヲ指定シ其ノ地域内ノ居住ヲ禁止、制限スルニ非サレバ震浪災害予防策トシテハ未ダ全シト言フコトヲ得ナイ
 一方居住、移転ノ自由並二所有権不可侵ノ権利ハ帝国憲法ノ保障スル所ナルヲ以テ、此ノ自由権ノ禁止、制限ハ法律ニ■ルコトヲ必要トスルト云フ建前カラ県ニ於テハ昭和九年十二月次ノ如キ内容ノ法律ヲ制限方陳情シタノデアル
(イ) 津浪被害地住居制限法草案
 津浪被害地住居制限法
第一條 本法二於テ住居制限地域ト■スルハ津浪ニ因リ浸水スル虞アル土地ニシテ勅令ヲ以テ指定スル地域ヲ謂フ
第二條 住居制限地域内ニ於テハ住居ノ用ニ供スル建築物ヲ建築スルコトヲ得ズ但シ特殊耐浪建築物ニシテ地方長官ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラズ
第三條 住居制限地域内ニ於テ住居ノ用ニ供セザル建築物ヲ建築セムトスルトキハ地方長官二届出ヅベシ
第四條 本法施行ノ際住居制限地域内ニ現ニ住居ノ用ニ供スル建築物又ハ住居ノ用ニ供スベキ工事中ノ建築物ヲ所有シ又ハ占有スル者ハ本法施行ノ日ヨリ十年内ニ其ノ地域外ニ之ヲ移転シ又ハ立退クコトヲ要ス但シ左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ此ノ限二在ラズ
  一 特殊耐浪建築物ニシテ地方長官ノ許可ヲ受ケタルトキ
  二 住居制限地域外二建築物ノ主要構造部アル場合ニシテ地方長官ノ許可ヲ受ケタルトキ
第五條 国庫ハ勅令ノ定ムル所二依リ前條ノ規定二依ル移転又ハ立退ノ為通常生ズベキ損失額ノ一部ヲ補償入但シ昭和八年三月三日ノ三陸津浪以後ニ其ノ被害地ニ建築シタルモノ又ハ工事中ノモノ又ハ建築物ヲ占有シタル者ハ此ノ限ニ在ラズ
第六條 別條一ノ規定ニ依リ補償ヲ受クベキ者補償金額ニ付不服アルトキハ其ノ金額決定ノ通知ヲ受ケタル日ヨリニ月内ニ通常裁判所ニ出訴スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ訴願シ又ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得ズ
第七條 建築主、建築工事請負人、建築工事管理者又ハ建築物ノ所有者若ハ占有者本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令又ハ之ニ基キテ為ス処分ニ違反シタルトキハ五百円以下ノ罰金又ハ科料二処ス
第八條 前條ノ規定ハ前條ニ掲グル者未成年者又ハ禁治産者ナルトキハ其ノ法定代理人ニ之ヲ適用ス但シ営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有スル未成年者其ノ営業ニ関シ前條ニ規定スル違反ヲ為シタルトキハ此ノ限ニ在ラズ
    前條二掲グル者ハ其ノ代理人、戸主、家族、同居者、雇人其ノ他ノ従業者前條ニ規定スル違反ヲ為シタルトキハ自己ノ指揮ニ出デザルノ故ヲ以テ処罰ヲ冤ルコトヲ得ズ但シ相当ノ注意ヲ為シタルトキハ此ノ限二在ラズ
    前條ニ掲グル者法人ナルトキハ其ノ代表者ニ付之ヲ適用ス
第九條 本法又ハ本法二基キテ発スル命令二規定シタル事項ニ付行政官庁ノ為シタル処分ニ不服アル者ハ訴願スルコトヲ得
    本法ニ依リ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得ル場合ニ於テハ主務大臣ニ訴願スルコトヲ得ズ
第十條 本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ規定シタル事項ニ付行政官聴ノ為シタル違法処分二依リ権利ヲ毀損セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

附則
第十一條 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
第十二條 本法ハ本法施行ノ際現二住居ノ用ニ供セザルモ新ニ住居ノ用ニ供スルニ至リタルモノニ付之ヲ適用ス

(ロ) 津浪被害地住居制限法施行令草案
津浪被害地住居制限法施行令
第一條 津浪被害地住居制限法第一條ノ地域ハ左ノ町村中地方長官ノ調製スル住居制限地域台帳ニ表示スル地域トス
岩手県
気仙郡ノ内
 気仙町 高田町 米崎村 小友村 広田村 末崎村 大船渡町 赤崎村
 綾里村  越喜来村  吉濱村  唐丹村
上閉伊郡ノ内
 釜石町 鵜住居村 大槌町
下閉伊郡ノ内
 船越村 織笠村 山田町 大澤村 重茂村 津軽宥村 磯鶏村 宮古町
 崎山村 田老村 小本村 田野畑村 普代村
九戸郡ノ内
 野田村 宇部村 長内村 久慈町 夏井村 侍浜村 中野村 種市村
第二條 住居制限地域台帳ニ関シテハ別ニ之ヲ定ム
第三條 損失補償ノ請求権ハ津浪被害地住居制限法第四條ノ規定ニ依ル移転又ハ立退ヲ終リタル時ヨリ其ノ効力ヲ生ズ
第四條 損失補償ノ請求権ハ一年間之ヲ行ハザルトキハ時効ニ因リテ消滅ス
第五條 補償審査会ハ津浪被害地住居制限法第五條ノ規定ニ依ル補償額ヲ裁定スルタメ之ヲ道府県ニ置ク
    内務大臣ハ補償審査会ヲ監督ス
第六條 地方長官損失補償ノ請求ヲ受ケタルトキハ遅滞ナク補償審査会ヲ開クベシ
第七條 補償審査会ニ関シテハ土地収容法第二十七條乃至第三十一條、第三十六條乃至第四十五條、第六十九條及第七十二條ノ規定ヲ凖用ス但シ同法中起業者若ハ土地所有者トアルハ之ヲ補償請求権者ト看做ス
附則
本令施行ノ期日ハ別ニ之ヲ定ム

(ハ)住居制限地域台帳ニ関スル件(勅令)草案
第一條 地方長官住居制限地域台帳ヲ調製スルニ当リ地元町村長ノ意見ヲ徴シ且之ヲ県庁及町村役場ニ於テ三十日以上ノ期間ヲ定メ公衆ノ縦覧ニ供スベシ
    前項ノ規定ハ地方長官住居制限地域台帳ヲ更正スル場合ニ之ヲ凖用ス
    前二項ノ場合ニ於テ利害関係人ハ縦覧期限経過後三十日以内ニ住居制限地域台帳ニ付意見ヲ申立ツルコトヲ得
第二條 地方長官住居制限地域台帳ヲ決定シタルトキハ其ノ原本ヲ保管スベシ此ノ場合地方ノ公布式ニ依リ之ヲ告示スベシ
    地方長官公衆ノ請求アリタルトキハ前條ノ台帳ヲ縦覧ニ供スベシ
第三條 地方長官住居制限地域台帳ヲ調製シタルトキハ地元町村長ニ通知スベシ其ノ更正ヲ為シタルトキ亦同ジ
    町村長前項ノ通知ラ受ケタルトキハ原本ニ就テ其ノ管内ニ係ル部門ニ付其ノ正本ヲ調製シ又ハ更正スベシ
第四條 町村長住居制限地域台帳ノ正本ヲ調製シ又ハ更正シタルトキハ其ノ旨ヲ公告シ公衆ノ請求アルトキハ之ヲ縦覧ニ供スベシ
第五條 町村長ハ其ノ管内ニ係ル住居制限地域台帳ノ正本ヲ保管スベシ
第六條 本令ノ規定ニ依リ之ガ為ニ要スル費用ハ住居制限地域台帳ヲ保管スル公共団体ノ負担トス

附則
本令施行ノ期日ハ別ニ之ヲ定ム

七、津浪予防対策

(1)復興計画

(イ)復興事業概要
 三陸滑岸ノ海嘯ハ過去ノ歴史ニ徴スルモ梢ヤ周期的ニ襲来スルモノナルヲ以テ被災地ノ復興計画ニ当リテハ周到ナル用意ノ下ニ其ノ目的ヲ速進シ併セテ今後来ルベキ災害ヲ除去スル最善ノ方法ヲ考究セザルベカラズ即チ海ニアリテハ各港完全ナル防浪堤ヲ築造シ陸ニアリテハ各港並ニ後方連絡ノ道路ヲ改修シ市街地ニアリテハ区画整理ヲ行ヒ海岸ニ強固ナル防浪建築並ニ防浪壁等諸種ノ設備ヲ為シ以ヲ沿岸地方民ノ安住地タラシメ一面又運輸交通ノ便ヲ図リ産業ノハッテン上ニ遺憾ナキヲ期セントス而シテ災害直後其ノ復旧工事ト共ニ復輿事業ニ対シテモ国庫補助ヲ受ケ起工ノ計画ヲ樹テタルモ不幸ニシテ財政ノ関係上政府ノ容ルル所トナラズ復興事業トシテハ僅カニ街路整理費一〇〇、〇〇〇円(内国庫補助八五、〇〇〇円)住宅造成資金三四五、○○○円(利子補給)ノ両費目ヲ認メラレタルノミニシテ本計画ノ大部分ノ今後ノ事業トシテ残サレ之レガ為ニハ一時多額ノ工事費ヲ要シ疲弊困憊ノ極ニ瀕セル羅災地方民ノ到底其ノ負担ニ堪ヘザル処ナルヲ以テ飽迄国庫ノ補助ヲ仰ギ速ニ当初ノ目的ヲ達スベキ方針ナリ

(ロ)復興事業費要求一覧表(昭和九年ニ月)
(ハ)内務省発土第二三号
   昭和十年四月十一日
           内務省土木局長
岩手県知事殿
      三陸地方海嘯災害予防施設費国庫補助二関スル件依命通牒
 貴管下海嘯災害予防施設ニ対シ助成ノ為別紙内譯書ノ通リ国庫補助ヲ交付セラルルコトニ決定相成候ニ付至急修築計画確定ノ上決議機関ノ議決ヲ経テ国庫補助申請並工事施行認可申請ノ手続き相成度此段依命及通牒候也
備考
雑費ハ工費ノ六分トス
(ニ)津浪対策調査
 本調査ハ将来ノ津浪対策上重要ナル技術的調査研究中主トシテ先般ノ三陸津波二於ケル被害調査ヲ資料トシテ遂行シ得ル研究項目中最モ効果的ニ成績ヲ挙ゲ得ルモノヲ選定シタルモノナリ
津浪対策調査事項
一 津浪及地震ノ被害調査
 先般ノ津浪ノ状態ハ測定装置等ノ不完全ナル為メ充分ナル調査ヲ為ス能ハザリシテ以テ将来ニ於ケル津波ニ対シテハ適当ナル測定装置ヲ設クルヲ要ス
尚重要ナル点ニ於テハ従来ノ津波ガ達シタル最高地点ニ指標ヲ設クレバ将来ノ津浪避難ニ対スル一指針ト為スヲ得ベシ

 一  各地点ニ於ケル地震及津波ノ被害一般
   重要地点ノ津波ノ高サ、浸水面積及被害等ニ関スル調査特ニ集団部落ニ関シテハ衝撃破壊ノ状態ヲ調査スル事
 二 海陸ノ地形ト津波ノ被害程度トノ関係
   港湾、水深、防波堤ノ有無、樹林状態等ニ依ル被害ノ大小及局部的ニ被害ノ大ナル場所ノ調査
 三 工作物種類ト津波ノ被害トノ関係
   津波ニ依ル被害ノ大ナル工作物及建築物ノ種類及構造ノ調査

二 津浪ノ調査研究
理論及実験ヲ併用シテ津波ノ性質ニ関スル調査ヲ行フモノトス
 一 震源距離ト津波ノ高サトノ関係
   陸岸ヨリ震源地迄ノ距離ノ大小ト津波ノ高サトノ関係
 ニ 海底勾配ト海岸ニ於ケル津浪トノ関係
   陸岸付近ニ於ケル海底勾配ノ大小ガ海岸ニ於ケル津波ノ高サ及其ノ破壊的勢力ニ及ボス影響ノ調査研究
 三 震源ニ対スル湾ノ方向ト津浪トノ関係
   震源地ト湾口トヲ結ブ線ト湾方向トノ為ス角ガ湾内ニ於ケル津波ノ大キサ等ニ及ボス影響ノ研究
 四 湾ノ形状ト津波ノ破壊力トノ関係
   湾ノ形状湾内凹凸ノ多ク両岸ノ勾配ノ大小等ニ依ル津波ノ破壊力ノ相違の研究
 五 震害ヲ受ケタル工作物ノ津浪ノ破壊作用
   震害ヲ受ケタル工作物ノ津波ニ対スル耐力ノ研究

三 津浪ノ被害防備施設ノ研究
 前記一及二ノ結果ヲ総合シ将来ノ被害ヲ軽減スル為メノ諸対策ヲ研究スルモノトス
 一 津波ノ被害ヲ軽減スル為メノ一般方針ノ研究
   重要ナル工作物ニ対スル津波ノ被害ヲ最少ナラシムル如キ位置ノ選択避難道路ノ設置其ノ他ノ一般的研究
 二 陸地ニ於ケル津浪ノ被害ヲ軽減スル為ノ防備施設
   海岸ノ防波林、防嘯建等区域ノ設定、道路盛土等ニ依リ陸地ニ於ケル被害ヲ軽減スル方法ノ研究
 三 津浪軽減ノ為メ防波堤並ニ普通防波堤ヲ此ノ目的ニ利用スル場合ノ配置及構造防波堤ニ依リ津波ノ浸入ヲ防グ場合其ノ配置及構造ノ研究
 四 津浪ニ対シ有利ナル工法ノ研究
    イ 護岸、岸壁、桟橋等ノ港湾工作物及船舶流失防止
    ロ 道路及橋梁
    ハ 建築物
 五 津浪警報施設
   湾外ニ警報装置ヲ設ケ水位ガ或ル程度以上ニナレバ湾内ノ重要地点ニ於テ警報ヲ発シ得ル様ニシ生命財産ノ損失ヲ軽減スル方法
 六 部落ノ位置ニ関スル都市計画的調査
   イ 沿岸部落並ニ其ノ付近ノ地形、道路其他諸施設ノ配置ニ関スル現状調査
   ロ 道路計画及部落移転計画ニ関スル調査

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(ロ)復興事業費要求一覧表(昭和九年ニ月)
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三陸地方海嘯災害予防施設計画並補助総括表
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三陸地方海嘯災害予防施設費国庫補助年度割表
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防波堤時費用年度割内譯表
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海岸堤防事業費年度割内譯表

(2)津浪予報装置

 三陸沿岸に於ては津浪の来る前兆として潮位に著しき影響あることが過去に於ける数回の津浪により立証されたるを以て昭和八年の津浪直後に於て岩手県土木課長上野勘夫氏は右の現象を利用して津浪予報装置を考案せられたり。
 右装置は海面の水位と共に上下する浮標の上下によりて潮位が或限度の異常水位に低下した場合又は上昇した場合は電気装置によりて自動的に電流が通ずるやうにし、此処より人家ある市街又は部落迄の配線により其処に電気警笛を鳴らし■て恐るべき津浪の襲来を十数分直前に報ずるものなり。
 口絵写真は釜石港防波堤内に設置せられたる本邦唯一の津浪予報装置塔の築造費二、九〇〇円警報器七二八円配電襞置費六五五円雑費二四円合計三、五〇〇円を要せり。
 本装置は三陸沿岸の枢要地に設備するの必要あるも経費の開係上釜石港に只一箇所のみ設備せられたるを遺憾とす。将来適当の機会に於て少くとも数個所に之を設置し相互配線によりて之を連絡するときは電気其の他の故障を予防し得ると共に其の効果極めて大なるものと認む。

(3)防浪施設

 津浪災害復興事業費要求額七、四四五、五九四円に勤し予防施設費として本省より六一〇、二七一円の事業費を配当せられたり。
 重なる箇所の計画平面図及設計断面図左記の通にして本省より指定せられたる綾里は其の後住宅を高地に移転し海岸堤防の必要なきに到りたるを以て地形上高地移転の困難なる細浦港に之を変更せむとす。

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(3)防浪施設 (イ)田老防浪陸堤(平面図)
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(3)防浪施設 (ロ)吉浜防浪陸堤(平面図)
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(3)防浪施設 (ロ)吉浜防浪陸堤 断面図
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(3)防浪施設 (ハ)大槌町防浪陸堤(平面図及び断面図)
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(3)防浪施設 (ニ)山田町防浪壁(平面図及び断面図)
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山田町防浪壁付属自働跳上防浪扉(未設)
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(3)防浪施設 (ホ)細浦港防浪壁及防浪海堤(平面図及び断面図)
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(3)防浪施設 (ヘ)釜石町防浪海堤(平面図)
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(3)防浪施設 (ヘ)釜石町防浪海堤(断面図)

八、雑録

(1)今村博士書翰

 拝啓 先般貴地出張の折は万事御高配に預り以御蔭無事任務を果たし得ました段厚く御礼申上ます。特に御懇切な御歓待までに預り感激に不堪是又熱く御礼申上ます。
 貴庁に於て釜石港につきなしたる所説は特に末段之斯る施設は釜石港の最も重要な商業地区を津波に対し却て危険に陥れる虞ありとの点、我乍ら不謹慎な過言の様にも感じましたので、帰京早々、石本地震研究所長、松澤博士、坪井助教授等に一々詳細説明し、批判を求めました処、何れも小生と同意見にて、特に「危瞼に陥れる虞」の一勾に就ては「良く言った」との賛辞を惜しまなかつた人もあつた位であります。小生の不謹慎を御咎めなく、御再考を賜はらば幸甚に存じます。早世の津波に関する知識固より貧弱なるものではありますが貴庁土木専門家の御説を伺つて居ると、津波を唯単に普通の海波の如きものと看做して居られるやに感じました。此点意見の分れる処と存じます。
 先は右御礼方々御参考まで草々 敬具
昭和八年六月廿八日
             今村 明恒
石黒閣下
   御許へ
 背景 此の間は貴管内沿岸地方に於ける浪災復興並に予防上の施設見学を願出ました処御快諾を賜はり且つ御多忙の折柄にも拘らず親しく東路の主となつて現況を御示教下され御蔭を以て予期に幾倍する程に旅嚢を充たすことが出来ました。田老、宮古、大澤、山田、船越、田の濱、吉里、安渡、大槌、両石、釜石、嬉石、唐丹、本郷、小白漬、吉濱、越喜来、大船渡、綾里港、赤崎、広田泊、末崎、細浦、高田松原、長部など、明治二十九年浪災後には二週間かかり、昭和八年には一週間かけて廻つた所を僅々四日間に、而も徹底的に見学が出来ましたのは全く貴下の御懇切な御響導に因ることと厚く御礼申上げます。加之屡悪天候に阻まれ、車道にあらざる難路を突破し、崖崩れに危く埋められんとしたるなど、数々の御迷惑相掛け、何共申譚なき次第、心からの御詫を申上ます。
 其の折柄の御約束に従ひ、見学上特に感銘の深かつた点二、三を摘記致して見ます。
 施設は予防並に復輿共予想以上に能く出来ていると思ひました。御努力に封して深甚の敬意を表します。実を申しますと私は昭和八年当時に於ては災害の予防施設は人命と財産とを兼ぬべしとの見解を有つてゐましたが、其後心境の変化とでも申しませうか、「止むを得ざれば予防施設の対象物を人命のみに止め、財産は之を犠牲にすべし」といふ風に改めました。畢党評価の標凖を多少低下せしめたが為、上記の様な見様をなし得たことと存じます。
 高地移轄は概して能く実効され、綾里港、唐丹、本郷、吉里、田ノ濱、両石等何れも理想的と思ひました。特に前三者には住宅地を貫通する県道が新設或は改通されたことには敬服致しました。但し移転後の旧地に他の地方の人達が新たに入込むことは所謂仏作つて魂を入れないものと申すべく、斯様なことがない様お互に今後の努力が必要と思はれ、此の事実の認識を得ただけでも今回の見学は無意義でなかつた様に感じます。
 吉濱の防浪堤が過般の経験に顧みて一層堅固に、高く、且つ延長して築かれたことは多とすべく、住宅地は高まり県道を此処に通して至極結構に拝見致しました。
 田老に於ける防浪堤は未完成ながら是亦至極結構、田老川のみならず、長内川の川筋までも緩衝地区に充てられたのは賛成致します。但し津浪襲来の場合は寧ろ長内側に緩く低く、田老側に激しく高く当りませうから、防浪堤は突角以南を多少高くする方が得策ではないでせうか、仮令北側を比較的に甘くしても。
 山田の護岸並に防浪堤結構。大槌も昭和十三年度には防浪堤が出来るとのこと、これも理想的なものと想見致しました。但し場処によりては防波堤の新設を以て津浪防止にも相当の効力あるものと過信し、それが為、陸上に於ける浪災予防施設を忽にしてゐられる様に思はれる所がありましたが、これは私の僻目でしたらうか。
 凡て予防施設には明治二十九年度の津浪が基凖に取られたが為、■て其の完成の曉にはそれ以下の津波に対しては被害著しく低減すべき筈でありますが、併し三陸沿岸地方には其れ以上の津浪を経験した実例のあることを忘れてはなりますまい。慶長津浪は明治二十九年津浪の四割増しの高さであつた証跡があります。されば防浪堤の有無に拘らず避難施設は必要欠くべからざるものであります。田老では村長さん、校長さん達に対して実地に御意を得て置きましたが、其他へは「三陸沿岸に於ける津浪に就て」なる拙文一編を呈したく存じます。
 中には昭和八年津浪を基凖に取つて居られる所もあつた様に思ひますが、若し私の思ひ達ひならば却て仕合に存じます。
 釜石は其の浪災予防施設に就て私共が最大の関心を有つた場処でありますが、昭和八年浪災が軽小なりし為か、土地の方々の御関心は却て薄い様に思はれます。「明治二十九年津浪は釜石では高さ二十七尺に過ぎなかつたが、それでも人口の七割一分を溺れしめるに十分であつた。若しそれが三十五尺或は四十尺に達したなら果して如何しとは私の所論でありますが、此の三十五尺や四十尺は強ち架空のものではなく、明治二十九年度のものの四割増しに近き数字であります。
 防浪地区を設定して其の前面に耐浪建築を並列せしめることは私共に於ても理想とする所でありますが、此建築物は半永久的のものとでせうから、津浪と数百年に一回しかない程度のものまで考慮に加ふべきものと思ひます。問題の耐浪建築は二階建として計画されてゐるさうですが、寧ろ三階建とし、屋上を避難所に利用し得る様計画する方が広い地積を有たぬ釜石の商業地域に取り賢明な処置ではないでせうか。さすれば六十七万円の予算は更に二十万円も増すかも知れませんが、二十年或は三十年がかりでやつたら、左程に困難でもありますまい。
 高所に住宅地を設けるのる私共の理想でありますが、津浪の年六月に参りましたとき、四ケ処を開拓し八十戸分を得られる計画なる旨聞かされ、これなきに勝ること満々と思つてゐました。燃るに今回参つて見ますと此の期待すらぜんぜん裏切られて仕舞ひました。若し私の評価標凖が津浪当時の通りであつたなら或は落胆したかも知れませぬ。併しそれが前陳の通り多少低下した為、必ずしも失望しなかつたのであります。
 それは外でもありません。人命救護に関する施設、少くも其の形態だけは整つたからであります。避難道路並に津浪警報器の施設が即ちそれであります。若し其等を一層有効ならしめんには、避難道路に更に多数の登ロを加へ、津浪警報をもつとく早く発する様にしたら良いでせう。
 貴下の津波予報器には敬服致しました。但しそれが釜石港防波堤内に在る為、津浪が其処に到達した上、水凖差一米以上にならなければ警笛が鳴りませぬから、釜石町の居住者をして避難せしめるには余裕少い様に思はれます。若し直接大洋に臨むか、或は之に近く、而も津浪が特に高かるべき場処に之を増設して電話で連絡を取る様にしたならば一層有効と思ひます。北に重茂、南に綾里港或は広田の泊など其処の防波堤内は此の目的に適する場処と思ひます。
 序に申上げます。此装置は学術的には津浪警報器とする方適当と思ひます。本年エヂンバラに於て開催される国際津浪調査委員会には此の名称で報告させて貰ひ度有じます。
津浪記念碑が部落毎に建てられたのは朝日新聞の大きな貢献と思ひます。但しそれに刻んだ警戒標語に「大地震の後には津浪が来る」は結構ですが、「地震があつたら津浪の用心」といふのは如何なものですか。どんな地震にも用心してゐては遂に用心しなくなる虞はないでせうか。
 宮古測候所が中央気象台に移管されたのは結構でした。■て地震観測のみで津浪警報が出る様にもなりませうし、他方津浪を伴ふ地震の特性が三陸沿岸地方人士の常識となる日も参らうと存じます。
 此れは貴下には無関係のことと思ひますが、防潮林の造営に用ひられた松樹が余りに幼な過ぎる様に感じました。
有名な紀州廣村の防浪堤には追潮林の掩護がありますが、これは寄進者たる浜に梧陵氏が樹齢二十年乃至三十年のものを、移植前の方位通りに据えて植えた為、一本も枯らさなかつたことが是れ亦有名になつてゐます。
 以上感じたままを率直に申述べました。妄語御寛容の程を願上げます。早々敬具
 昭和十一年四月十五日
 今村  生
  上野土木課長殿
  御許へ

(2)今村博士の地震漫談

一 役小角と津浪除け
 昔、村一番の物識りと言へば、檀那寺の和尚さんにきまつて居た。其れ程、人知が開けて居なかつたことがわかる。今日では最早左様なことはない。それでも外国では今猶ほ僧侶の中に偉大な学者、特に科学者がある。天文学や地震学の国際会議に坊さんが牛耳を取つて居るのは能く見受ける。
 天台宗の僧侶は好んで高山名岳に其道場を建てる。随つて往時に於ては、気象、噴火、薬物に関する物識りが彼等の仲間に多かつた。鳥海、阿蘇、霧島の古い時代の噴火記事は大抵彼等の手に成つたものである。
 役小角は恐らくは当時に於ける日本一の博物学者であつたらう。彼が呪術を能くしたといふことと、我邦の彼方此方に残した事蹟と称するものが今日の学理に合致するもののあることとから然か想像せられる。
 史を按ずるに役小角、或は行者といふ。大和の人、仏を好み、年三十二のとき、家を棄てて葛城山に入り、巌窟に居ること三十余年、呪術を善くし鬼紙神を使役すと称せられた。文武天皇の時伊豆の島に流されたが、後赦されて入唐したといふ。
 此の行者が、一日、陸中の国は船越の浦に現はれ、里人を集めて数々の不思議を示し、後戒めて言ふには、卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此海浜に建ててはならない。若し此戒を守らなかつたら、災害立どころに至るであらうと。行者の奇蹟に魅せられた村人は能く其教を守り、爾来千二百年開敢て之に叛く様な事をしなかつた。
 三陸沿岸は津浪襲来の常習地である。歴史に記されただけでも少くない。貞観十一年五月二十六日のは溺死千を以て数へられて居るから、入ロ桁違ひに殖えた今日であつたら幾万を以て数ふべき程度であつたらう。慶長十六年十月二十八日のは伊達領だけの死入千七百八十三人に及び之に南部津軽の分を加へると五千人にも達したといふ。これも今日であつたら幾万を以て数ふべきものであつたらう。明治二十九年六月十五日津波死人は二万七千百二十二名の多数に及んだから、之を以て三陸津浪の最大記録とする学者もあるが、成程、損害の統計からはさうであつても、それは津浪の破壊力の計数にはならぬ。浪の高さ、陸地へ浸入した距離から見て、前記三者は伯仲の間にあつたものの様である。
 第二流の津波として史乗或はロ碑に残つて居るのに元和二年、延宝五年、元碌二年、安政三年等のものがある。近年に至つて記録も整つて北から、見かけの上では回数が一層増して来た。試みに最近四十年間、十尺以上の高さを以て押寄せた津波を挙げて見ると明治二十七年三月二十二日、同二十九年六月十五日、同三十年八月五日それに今回のものがある。若しそれ、全く無害であつた二三尺或は四五尺程度のものまで拾つたなら更に幾十回を増すか計りきれないであらう。実に三陸の太平洋沿岸は津浪襲来の常習地として日本一は愚か、世界一なのである。
 斯くして三陸沿岸は津波就て世界的名聾を博するに至つた次第であるが、それには二つの原因が数えられる。第一は遥かの沖合、深海床の辺りに於て、広い区域に亙る地形変動を伴ふ規模の地震が時々発生すること。第二は此沿岸には漏斗なりの港湾多く、而も其喇叭の口を震源の方へ向けて開いて居るものが特に多いことである。今第一に記した様な性質の地震が彼処に起つたとき、真上の海水面にも海底同様に水凖の狂ひが起り、それが数十百粁の波長の波、即ち津波となつて四方に拡がる筈であるが、併し、外洋に於ては波長の大なるに似ず、波高は比較的に極めて小さいから、仮令船舶が之に出会っても其存在を認める事は出来ない。但し、それが漏斗形の港湾に侵入するとき、港湾の幅が次第に狭くなることと,海底が次第に浅くなることとの二重の関係によりて、浪の高さは数倍乃至数十倍になり、朗との底の位置に於て甚だしく暴威を逞しくする呈るのである。国語の津波なる語は今日最早国際語になつて居る程であつて、実に能く其実際の性質を表はして居る。漢語にては之を海溢と書くべく、海嘯即ち海笑は全く別物である。
 三陸の太平洋沿岸は津浪襲来の常習地として世界一ではあるが、併し斯様な世界一は決して自慢にはならぬ。否、之に基づく災害を防止し得ないのは、寧ろ文明人としての恥辱ではあるまいか。それには吾々の如き学徒にも責任はあるが、其局に当る役人や、自衛の道を講じなかつた居佳者も亦其責の一半を分つべきである。
 役小角は三陸津浪の災害防止につき殊勤第一に推すべき人であらう。明治二十九年大津浪に於ては吉濱、綾里、船越湾等漏斗の底に於ける津浪の高さが、夫れ夫れ八十尺、七十二尺、五十尺になつたが、幸に般越の村落に限つて被害が軽微であつた。恐らくは其以前の津浪の場合に於ても同様の幸があつたであらう。此度の津浪に無難であつたことは断るまであるまい。
 船越村に於ける垂教者が事実小角であつたか、其れは伝説のことだから確実だとは申されぬ。併し過去の経験から未来を察し得た偉人があつた事だけは信じて良いであらう。
 偉人は三陸の他の村落へも巡教したであらう。併し縁なき衆生は度し難しとやら、仮令教旨に相当の理由があつても日常の便利を犠牲に供してまで、其教に従ふには余程の信頼がなくてはならぬ。偉人が船越に限り成功したのもこんなことであつたのかも知れぬ。
 明治二十九年の大津浪後予は度々夫の地に行脚したが,舶越で右の伝説を聞き、是こそ津浪の害を防止する最良の手段と感じたのであつた。成程、津浪の侵入を阻止する積極的手段としては防浪堤を築くも良からう。併し四五年尺乃至七八年尺の水壁の侵入に対して果して有数な施設が出来るか否か此は大なる疑問である。仮りに可能としても、斯くまでして守らなければならぬ経済的価値のある場処は極めて少い筈である。幸に繁華な港は多少津浪の低い場所に発達して居るから、此処では問題の防浪堤を築くに左程の困難を感じないかも知れぬ。現に和歌山県廣村には濱口梧陵の築いたものがある。予は大阪の如き場所に第二第三の梧陵が現はれんことを祈って止まないものである。
 津浪を阻止する一法として、海岸に防潮林を設けることも悪くはあるまい。沼津の千本松原の程度になると多少効能のあることは明治三十二年十月七日の田子の浦津波の場合に証明せられた通りである。三陸沿岸に於て之を実行して然るべき場処は先づ田老村辺りであらうか。
 田老村は去る二十九年の場合に於ても高さ四十八尺の津浪の為めに全村一呑にされたが、今回も亦二十五尺の浪に襲はれて再び同じ悲惨な蓮命に陥り、人ロ三千の中其の三分の一を失つたといふ。其の地勢を按するに、三面に丘陵を負ひ、唯東南の一方だけ外洋に面し、土地平坦に稍ゝ広く、細長く立ち列んだ村落と海岸との間には高さ十尺内外の砂丘があつて、平常の場合、漸く海波の侵入を防いで居る。斯様な村落が大津浪の度毎に一呑にされる蓮命に暴されて居るのは理の見易き所であるが、之に対して安全なるべき唯一の策は船越式の村を立てることにある。之を警告しなかつた学徒にも、将又其儘に放任し置いた当局にも責任はあるが、津浪の自働的警報たる地震に対して即時自衛の手段を取らなかつた村民の不覚も亦甚しいと言はざるを得ない。安政の南海道大地震津浪の場合、土佐に於ては百四十七年前の経験に鑑み、自働警報を感ずるや否や居民悉く丘陵上に避難して殆ど一人の死者を出さなかつたが、此の見事な手際に比較すると質に雲泥の差がある。
 船越式の村落建設は津浪襲来の常習地に取つては実行最も容易な、而も最も安全な改造方法であらう。実に津浪の暴威を奮ふは唯僅に漏斗の底に当る弾丸黒子の地面であるから、斯様な位置を避けることは極めて容易であつて、而も問題がこれで全く解決するのである。但し運送業者漁業者の如く、海岸に仮設的の事務所、倉庫、納屋等を絶対に必要とするものもあらうが、それにしても住宅は必ず津浪の魔手の届かない位置に選ぶべきでめる。海岸に望楼を設けることが近頃推奨されて居るが、此の問題自然に解決される。
 因に記して置く、明治二十九年大津浪後、船越式に復興した村落は吉浜村本郷、崎山村女遊戸などであつたが、今度の変災に於て吉浜は三十尺といふ最高の津浪に襲はれ乍ら、全く無難であつたことは特筆すべきであらう。予は三陸沿岸行脚中、力めて船越式村落建設の利益を宣伝して見たが、然し乍ら、一夜、越喜来村に於て、旅宿の主人の身の上話を聞いて、宣伝の甲菱なきを覚るに至つた。
 当時、災後費尚ほ浅く、交通不便な為め復興も遅々として進ます、漸く二里に二三棟、三里に四五軒といふ状態であつて、泊り宿とても十里に僅に一軒の商入宿を見出し得るに過ぎなかつた。斯くして辿り着いたのが越喜来の宿屋であつたのである。
 越喜来湾は漏斗のロが比較的に狭く、随つて北隣の吉浜湾、南隣の綾里湾に比べて津浪の高さは半分程度にも達しないので、三十四尺に過ぎなかつたのであるが、併しそれでも二百戸程の一村を一呑にするには十分であつた。
 夕の食膳の後、予は遂に我慢し切れないで主人夫婦に身の上話を聞かして呉れとせがんだ。実は主人は二十歳位の若人であつたが、主婦は最早四十の坂を越えた人の様に見えたからである。予が請に応じて主人は淋し気な笑を湛へて語り出した。
 彼の家は村の綱元でもあり、十一人の大家族に、多勢の僕婢も使つて繁昌して居た。丁度其日は端午の節句であつた為め、内でも皆に祝酒を饗し、太平楽を謡つて居たが、午後七時半頃長い大揺れの地震を感じてから凡そ三十分も経過したと思ふ頃、海上急に噪しく、続く疾風急雨に雨戸が破れさうな模様を認めたから、彼は直ぐ防御に駈出したけれども、戸口に達するや否や、戸は破れ彼は其処に打倒されて意識を失つて仕舞つた。■て正気ついて見ると第一に感じたのは何とも言ひ様のない総身の痛み、次に意識したのは片足が巨材に挟まれて、身体は鮭の様に逆に吊されて居たことである。時最早夜半の刻半と見え、萬■寂として■犬の声すら絶え、唯幽かに溪水のせせらぎを聞くのみであつた。そこで始めて前夜の出来事が津浪の襲来に由つたものと覚るには悟つても、総身の痛みに堪へ兼ね、死に由つて一刻も早く此苦患から救はれんことを念するのみであつた。幸に翌朝始めて救出されるに至つたが、其節肉を殺がれた脛は此通りと大小不揃の雨足を並べて見せるのであつた。
 彼は溜息を維ぎ乍ら附加へた。幸か不幸か、昨日の楽しき大家族の中、此世に取残されたものは、哀れ此の私一人であつたと。
 数奇な運命に弄ばれたのは彼ばかりではなかつた。主婦も亦幸多き家の人妻ではあつたが、最愛の夫や子女を悉く浪に浚はれて此世に取残されたのは彼女一人であつた。唯幾分幸であつたのは引潮の為め竹籔に取残されて、彼の如き甚だしき傷を被らなかつたことである。
 斯様に彼方に一人、此方に一人と取残された男女幾組を、村役人が結びの神となつて組合せたのが、斯様な家庭を形作つたのだといふ。
 彼は更に附加へた。現在の家は斯く粗末なものであるが、地所は正確に祖先伝来の場処に相違ない。浪に取残された立木や、庭石に依つてそれが証明されると。此点だけは得意気に聞えた。
 身の上話は以上の通りであつた。予はそれに悉皆打のめされて仕舞つた。旧物への日本人の強い執着は全く道理を超越して居る。此事は後年、溶岩で埋められた灌島の村民に於ても認められた。此の強い執着は旅宿の主人夫婦を二度目の災厄に導いたに相違ない。此度の津浪で越喜来の死者四十五、行方不明八十六、流失家屋二十を数へて居る。
 爾来、予は、船越式村落の宣伝を思止まつて居た。然しそれも一時であつた。伊太利震災の復興に際し、ムツソリー二政府の取つた手段を学んで、往年の宣伝熱は再び盛返して来たのであつた。
 昭和五年七月二十二日伊国中央部に大地震が超り三千の死者を生じた。予は当時パリに滞在中であつた為め、震災の状況、復興振りについては比較的に詳細に知ることが出来、感じたままを大阪朝日にも通信して置いたが、其中、予が最も感じたことは、政府が果断にも、地震に対して特に不良な地盤の都会地は之を見捨てて、可良な地盤の新位置に復興せしめたことである。之に封してメるフイ市其他に於ては市民の反対もあつたが、それにも拘らす、政府は断然之を押切つたといふ。此は一見苛酷な処置の如く考へられないこともないが、大所から之を観察するとき、実に百世に互りて幸福を齎すべき一大仁政たるに相違ない。或はムツソリー二政府が此地震につき、外国からの同情金を断つたことを感心した人もあつたが、予は寧ろ此仁政の方を賞賛するものである。
 今日に於ては最早力を以て此仁政を敷くぺきときであらう。
 最後に津浪除けの記念碑に就き一言して、本篇を結びたい。
 寛永四年十月四、日の南海道沖大地震津浪は地震としても我国に於ける最大記録であるが、津浪としても、其分布の広かりし点に於て、将た又、其全勢力の偉大なりし点に於いて、是れ亦、最大記録であらう。幸に、近畿、南海道方面に於ては、三陸沿岸に見る如き漏斗形の港湾が比較的に少い為め、港湾の奥に於ける波の高さは最高の記録を示さなかつたけれども、土佐の種崎の如き、殆ど一直線をなせる海岸に於て七十尺の高さに達したことは此津浪の勢力の絶大なりしことを物語るものであらう。
 土佐に於ては溺死者の多く漂着した高処に供養の記念碑を建て、乗ねて津浪除けの指標とした。此は今日尚ほ沿岸各地に保存されてゐるが、安政度の地震津浪のときは、居民は地震を感ずるや否や此指標以上の高地へ逃げ、其処ヘ一時余り辛抱して居た為め、幸に遭難者を出さなかつたのだといふ。大阪に於ても同じ機会に建てた津浪の記念碑が今尚ほ残つて居るが、此処ではそれが旨く利用されなかつたと見え、安政度に於ても寛永度同様の被害があつた。
 此度の三陸津浪に於て東京、大阪朝日新聞紙が取扱つた義捐金二十万円に及んだ。其の大部分は罹災者に贈られたが、一部分は右に記した様な記念碑を立てる資に充てることとなり、碑面に刻む注意書の草案を予に求められた。但し其文案は標語的のものたるを要すとのことであつた。それに対して予は次の通り答へた。
 一 住宅学校役場などは、津波の来る水凖以上の高処に立てよ
 二 長く大きく揺れる地震は津浪の警報と心得地震後十五分から一時間までは安全地を離れるな
 三 津浪に追はれたら近くの高地へ避け、若し平地であつたら浪を後ろにして逃げよ
 右の備考として、次の説明を加へた。、即ち第一項に就いては、事務所、倉庫、納屋など海浜の危険区域に立てるなど止むを得ざる場合ありとするも、住宅は必ず高地に立てるべく、又津浪の来る最高の水凖は明治二十九年と今回の場合とに鑑みて定めることとし、記念碑は其水凖線上に立てることにする。此為めに場所を開拓し、直通の道路を設ける必要の生する場合もあらう。
 第二項に就ては、三陸津浪の特徴として、津浪の最初の襲来は地震後二十分乃至五十分の間と見做し得られる。間題の地震に出会つたら、逸早く避難すべきであるが、然し乍ら余りに慌てて火の用心を忘れてはいけない。人と場合とによりては重要な物品を安全地へ移す余裕があるかも知れない。津浪はひき潮で始まるから、それを警戒すれば良い。但し稀にはさし潮で始まる場合もある。
 第三項に就いては、海岸村落の常として道路が多く海岸線に平行について居る為め、津波の接近を見乍ら、徒らに此道路を走つて遭難した人もある。斯る危険を除く為め、安全地への近路を蟄ねて用意して置く必要もあるが、突差の場合、道なき処を走る位の覚悟は有つて居なければならぬ。
 予は斯くして津浪襲来の常習地が船越式に改造建設されんことを切に所つて居る次第である。
二 四度三陸沿岸を巡りて
 緒言 三陸沿岸と言へば直ちに夫の特徴のある海岸線の凹凸を思ひ出す。スペインの西北部ラコルニヤ及びポンテヴエドラ地方の沿岸が丁度此の通りである。海深二三十米乃至百米で此点亦相似て居る。斯様な形式の滑岸をリア型といふ、此は西語のリア即ち河口なる語から取つたのであつて、其等の港湾の大抵大きい川の出ロに相当して居るからだといふ。
 さもあらばあれ、我が東北日本のリア式沿岸は世界に於て最も有名な、津浪常習地となつた。地元に取つては誠に迷惑千万であらう。交通不便な歩地方へ、前後四回二月に余る予の行脚も、人道の為、将た又、学徒に取つて世界の■地だとの意識がなかつたならば、徹頭徹尾陰鬱な旅行に終つたに違ひない。
 最初の二回は明治二十九年大津浪、翌三十年小津浪の研究の為、後の二回は今回の津浪後、浪災予防法研究の為、四月と六月とに行つた。其前後の間隔三十四五年、一は人生行路の首途に於て、他は其の没落に近き日に於ての行動である。多少の感なきを得ない。特に最後の旅行は本多静六博士を始めとして其他若い林学者二十名許と行を共にし、誠に賑かなものではあつたが、車上に其頽齢を労はられ乍ら、脳裏に徂徠するものは、瞼路に難む昔の姿であつた。即ち感じた儘、見聞した儘を記して同好の士の一黎を仰ぐことにする。
 窮地の人人 二月目の再会でも中々に懐かしい。此四月の行、東路の主であつた岩手県水産講習所の長岡技手、海路を案内してくれた早池峯丸の艦員、釜石町、宮古町官公署の誰彼、旅館の人々、六月の折には袂を分ち難い思をした。況んや三十幾年目の再会や思出には、貴に感慨無量に堪へないものがあつた。
 宮古の小学校で講演を頼まれた。行つて見ると三十余年前にも其処で講演した記憶が蘇る。実に其通り、老校長は当時最年少の訓導であつて、新任した許りであつたから、此席で二度も貴方の講演を聞くものは僕だけでせうと言つて居た。其節予を聴衆に紹介したのは水産学校長小笠原嘉壽君だつたと云へば町長伊東元介氏は其時水産学校の生徒だつたと自白する。
 三十余年前船越で役小者の奇蹟を語り聞かせて呉れたのは村長吉田愿次氏であつた。それによれば船越の山内、小谷鳥など行者の戒を守りて高地に佳宅を建て、千数百年来津浪の害を免れて居るものらしい。有徳の老人八十の坂を越えて今尚ほ健在とは目出たし。
 石巻では毎度千葉甚旅館に泊つた。其処には其昔姉妹の看板娘が居た。先頃適々其処へ泊つたので、何は扨置き、娘達の行方を尋ねて見た。此間に、血の気の多い連中は好奇の眼を瞠つ掩たが、姉娘は束京に縁ついて、今は五十路余りの媼となり、妹娘は最早此世に在さずとの答に、若者達はあなやと許りにて興を醒まして仕舞つた。
 二十九年の大津浪は三陸の沿岸を荒廃せしめ、其翌年の旅行にも五里や十里に一軒の安泊りを見出しては漸く雨露を凌ぐに過ぎなかつた。斯くして辿りついたのが越喜来の宿舎である。当時宿の主は年齢漸く二十二三なるに細君は四十路許りとも見えた。両者何れも夫れぞれ繁昌した大家族の一員たりしに、無情な津浪は残りの家族全部と家とを奪ひ主人は巨材に脛を挟まれて逆に吊るされ、細君は竹籔に引懸つて助かつたのだといふ。斯く一緒になられたローマンスはと間へば、否、彼処に一人、此処に一人と生残つた男女の幾組を役場で組合せて呉れたまでと誠に淋しい答であつた。
 爾来幾十星霜、予は傷ましき当夜の物語を忘れることが出来なかつた。今回の津浪にも越喜来の死人八十七名と注せられたから、仲々に気懸りであつた。越えて六月十九日同処に行き、村役場にて用を足した後、右の次第を村長に打明くれば、佐々木盛治と云ふ旅館主がそれらしいといふ。家は浸水したが足が不自由な為、仏壇の前に端座して動かなかつたのださうだ。紹介によりて面会して見ると長い白髯をしごく所、別人らしくもあるが、面影には慥に見覚えがある。両脛を捲つて貰ふと左方は例の疵跡、齢は六十歳、愈々間違なしと言へど白髯翁覚なしとて肯じない。稍々暫くしてはたと膝をたたき、思出した、あの時貴方は海に沈める器械を持つて居た筈、私が彼方此方と案内して上げたと云ふ。なる程さうであつた、それはヨダ波を計る為の検潮儀であつた、愈々それに相違ないとて、互に手を取つて無事を祝し合つた。
 始めて会つたときは壮丁、二度目には白髯の翁、こんなのを今様浦島とは言へないであらうか。
 珍らしき見聞 金庫は重いものだから、水には沈むものと許り信じて居たが、大金庫が津波に浮んで遠方に運ばれたのを目撃した人がいくらもある。成程、計算して見ると空気を密閉した大金庫は其の比重が一よりも小さい。小金庫はそれ程でもないが、それにしても津浪に浚はれては、くらげの如く彼方にふわり、此方にふわりと泳ぎ廻ったことであらう。細浦の二万円入り金庫の行方捜索が如何に因難を極めたかが首肯かれた。
 今秋リスボンで開かれる津浪研究会の国際会議に出陳の目的を以て、浪災の惨状を示す写真を用意しつつあつたが、最も悲惨を極めた場処の写真は却て朗かな気分を唆り、浪災軽徴な場所の方が却て凄惨を極めると云ふパラドツクスに逢着した。例へば釜石町の如く、津浪の高さは僅に四・五米、死人も三万の人口中三十八人に過ぎないといふのに、浪に流され損つた家が、或は倒れ、或は近所の家に衝突し、それに大小の船舶まで上陸雑居してゐるのだから、誰が目にも凄い。然るに田老の如く又唐丹本郷の如く、全村流亡したのは跡に一物をも留めて居ないから、単に一幅の属景画たるに過ぎないのである。
 広田村に集(あつまり)と云ふ部落がある。位置が太平洋に面したV字形の湾頭にある為、津浪の高さ明治二十九年のときには二十七米、今回は二十三米に達し、綾里湾に次ぐ最高記録を出したのである。斯く海水が高く集まる為、部落名が出たのかと思つたら、さうではなかつた。
 此のV字の左辺は長さ一粁、右辺は一粁半もあるが、長い方は処々欠損した点々たる島幽をなしてゐる。其大なるもの二つ、沖にあるのが椿島で、陸に近いのが青松島である。何れも文字通りの樹木が繁茂し一絶景たるを失は椿島は津波の高さ三乃至四米、青松島では八米、さうして湾奥では二十三米。湾幅がせまり、海底が浅くなるにつれ浪高が次第に上つて行つた状態が面白く観察きれたが、もつと興味を引いたのは、産卵の為此等の島嶼に幾万とも数へきれぬ程に集まつて来る海猫(鴎の一種)の大群である。元来集の字は木の上に鳥を配した会意の文字であるが、実に此文字通り広田の集は海水の集まりでなくて、海猫の集まりであつた。
 浪災予防上の障害 土地の人々に津波の常識の乏しいのは遺憾であるが、過去の悲惨事の忘れられ勝ちなるは殊に恐ろしい。
 釜石町は今回の罹災地の中、最も殷賑な都のことだから、浪災予防評議会でも最大の関心を有ち手落のない様に浪災予防策が立てられた。其骨子は大渡川及び左岸砂洲の地を緩衝地区とし、此処に津波をおびき入れて其勢力を殺がんとするにあつたが、県当局に於ても、其効能を認め乍ら、之に逆行する施設を探用せんとするものの様である。それは防波堤を主体とする築港計画であつて、例の砂洲の地は広大な住宅地とならうと云ふのであるのであるが、吾々の所見では、其の防波堤は明治二十九年程度の津浪の前には殆ど何らの効果なきのみならず、却つて侵入の津浪を北方へ転向せしめて、町の最も大切な商業地区を一層危険に陥れる虞がある。
 明治二十九年の津波は慶長十六年のものよりも稍々軽かつたが、それでも釜石町の人口六千五百五十七人の七割一分に当る四千七百人を溺れしめるに十分であつた。此時津波の高さは二十七尺であつたがそれが、三十五尺となり四十尺となつたら果してどうであらうか。
 津浪常習地に於ては住宅地を高所へ移転ることが最も賢明安全な処置である。特に浪高十米以上、二三十本にも達する村落に於ては、実際問題として、これ以上の浪災予防策はないであらう。それにも拘らず、実行の段になつて色々の障害が起つて来る。
 第一は日常の生業に不便だと云ふ、特に漁村に於てさうである。
 或る地方識者は斯くも論じた。田老の如き漁村の人々に、海岸を離れて山側に移住せよとは、其の海上利用を捨て陸産に転業せよと云ふに等しと。(四月九日岩手日報)
 さなきだに、旧物に執着の強い、又低地に住みたがる日本人の性質に、これは一段の煽りを輿へる議論である。終に或る漁村では高地移転反対の示威運動すら起つた。
 何も漁村全部を引越せと云ふのではない。生活休息睡眠の場処と、製造所、漁具格納修繕の場処とを区別し、前者即ち住宅のみを高処に移し、後者即ち業務所は海岸便利の位置に、共同の施設として残したが良い。さすれば其筋の補助も出よう。業務所と住宅地との間に避難にも役立つ便利な道路も出来ようといふのである。一方、生活の向上であり、他方、百世に亘る仁政である。
 高地居住は呪ふべきでない。香港、長崎、神戸などを引合に出すまでもなく、船越村の山内、小谷鳥、崎山村の女遊戸(おなつぺ)に好例がある。予は特に綾里湊を睥睨せる丘陵上の二棟を高調したい。一は医家で他は土地の成功者だと云ふ。綾里湊の復興計画が吾々の理想に一致したのも、陵上の二棟が好範を示して呉れたことにも因るであらう。
 釜石町では町を囲める丘陵四箇所を開拓して、八十戸分を収容する住宅地を得る計画を立てたといふ。現戸数五千六百に対して階上からの目薬であらう。但し之れ無きに勝ること萬々である。少くも他日夫の陵上の二棟の役割を演じ得る性能を有つてゐる。

(3)津浪・高潮避難心得

一 はし書
 津浪なる言葉には広いのと狭いのと二通りの意味がある。広い意味に於ては地震津浪と風津波との両方を含んでゐるが、狭い方は地震津波だけを含んでゐる。此の後の場合に於いては、近頃風津波の代りに高潮なる言葉を用ふるやうになつた。本書に於ても此の狭い意味を用ふることにした。海嘯なる漢語が津波の代りに用ひられれることがあるが、これは誤である。支那では海嘯を或は海笑とも書き、特別な川の口に於て、新月或は満月の頃、大量に、而も水壁を立てて遡つて来る満潮のことをいふのである。
 吾が国の津波に当る漢語は海溢である。元来津波は海水が陸地に溢れて来るやうな減少だから、海溢なる語は能く其の実際を形容してゐる。しかし吾が国の津波なる名称はもつと能く其の実際の性質を表はしてゐる。やがて説明するやうに、津波は外海では其の存在すら分らぬぐらゐ浪の高さは小さなものであるが、港湾、特にV字形或は漏斗形のものに浸入したとき、始めて著しくなり、甚だしき災害を想起するやうになるのだから、港の浪即ち津の浪として最も能く実際に当て嵌まつてゐると言はねばならぬ。今日海外の学会でも此の津波なる語を使用する位なのに、津波の国、又は津波の学問の国といはれる吾が日本に於て、今猶ほ海嘯なる漢語を誤り用ふるが如きは不見識の極と言ふべきであらう。
 津波も高潮も海水が陸上に漲り溢れる点に於ては共通である。昔津波に出会つた人の欠いたものに、海岸線を固定して置いて、沖の方を持ち上げるやうに海底を傾けたならば、かうもあらうかとしてある。実に其の通りである。
 かやうに津浪と高潮とに箕饗黎あるが、他の誇長て幕しい袈もある。
 先づ原因に於て、津波が主に海底に於ける大規模の地変に基づくのに対して、高潮は著しき気圧の低下や風力などの気象上の異常に基づくのである。
 次に海水漲溢の緩急・大小に於ても一般的に著しい差がある。即ち高潮の場合に於ては浸水の高さが平水上数米に過ぎないのに対して津浪の場合は数十米の高さに達することもある。又高潮は低気圧の中心の移動に伴つて増水し、其の通過後次第に減水する関係上、海水の漲溢は概して一回に止まり、潮の差引も比較的に緩慢であるが、之に反して津波は海水の一体としての振動なるが為、潮の差引が幾度も繰返され、且つ比較的に急激である。尤も高潮の場合は風に因つて起る激浪が加はるのも其の一つの特色である。
 更に其の害を及ぼす作用を比較して見ると、高潮の場合では浸水が主であつて、此の為に軽い低い家は流され易いのであるが、津浪の場合はこの外に、潮の急激な差引に因る破壊作用が加はつて来るのである。尤も高潮に於ても潮の差引が皆無なわけではないけれども、津浪の場合に於けるが如き、差引の速さ毎秒二三米乃至十米などに比べては、論するに足りない程度のものである。
 昭和九年九月二十一日の室戸台風は大阪市及び其の附近の沿海地域に高潮を惹起し、非常な災害を興へたが為、高潮なる現象は一躍して世人の注意を喚起してしまつた。大阪はかような高潮や津浪の為に、幾回も悩まされた経験を有つてゐるので、今回の被害地域の如きは明治維新までは海水の漲溢を覚悟して、決して町家を建てたり、橋を架けたりなどしなかつた土地である。今回は水位が平水上三米余に上り、沿海地域に於て多数の家屋を流し、川口に架かつた橋も三個ほど損じたが、若し市街の区域が昔の通りであつたならば、大した損害は無かつたのであらう。之に反して津浪の害は比較にならぬほど大きい。安政元年十一月五日のときは川口での高さ五米、落ちた橋の数二十五、宝永四年十月四日のときは同じく浪の高さ少くも六米、落ちた橋の数五十を下らなかつたので、其の大概の模様が察せられるであらう。
 之を要するに、高潮は浸水の高さに於ても、亦潮の差引の速さに於ても、津浪以下のものであり、且つ其の原因たる気象変化は幾時間も前から其の徴候を示すのであるから、其の警戒・避難・災害防止は津浪に比較して遥かに容易でなけれぱならぬ。恐らくはこれについての対策は大体津波に関するものによりて盡されるであらう。
 前に述べたように、本書に用ふる津浪なる語は狭い意味のもの、即ち地震津浪を指すのである。地震津浪なる名称は或は地震に因つて起される津波との誤解を導くかも知れぬ。之に就いては少しく弁明して置く必要がある。
 湖水・河水或は池水などは気象上の変化や地震などが原因となつて、桶の水を見るやうな動瑤が起ることがある。これはセイシユと名づける。
 セイシユはただに内陸の水に於てのみならす、港湾内の海水にも起ることがある。地方によりては之を「よだ」ともいひ、或は「あびき」とも呼び、其の高さ数十糎に及ぶこともある。
 前に、津浪は主に海底に於ける大規模の地変に基づくことを述べて置いたが、かやうな地変は同時に大規模の地震を惹起す原因ともなるであらう。以前に於てはかやうな地震に因つて津浪が起るものと考へてゐたが、其の後証予立てられた所によれば、地震はたとひ如何に激しくても津浪の主な原因にはなり得ないものであつて、漸く港湾のセイシユを起すに過ぎないとのことである。しかし津浪と大規模の地震とが相伴つて起ることには誤はないのだから、此の種の津浪を地震津浪と呼ぶに何等の不都合はないのである。
 陸地地震に於ては其の大小に従ひ、之に相応する地変の上下変動のあることが陸地測量によりて証明せられたが、海底地震に於てはかやうな上下変動が一層大規模に起るらしいこと、これ亦海深測量によりて証明せられるに至つた。
 若しかやうに海底に上下の変動が起つたならば、其の上に位する海水も亦之に応じて上下変動をなし、それが四方に拡がつて津浪の現象を呈するに至るであらう。
 池に石を一つ投げ込んだとき、其処から四方に波が拡がつて行くことは能く見る図である。此のとき、投げ込んだ石は唯一つでも、波は一つではなく、後から幾つもく追ひかけて行く。かやうな場合、波の山と谷とが見られるであらうが、其の山の平水面上からの高さを波高と名づけ、一つの山と次の山との距離を波長と名づける。
 斯く波は四方に拡がつて行くけれども、池の水が横に動くわけではなく、若し一滴の水を見つめてゐたならば、それは概ね上下に動くのみだといふことに気づかれるであらう。つまり水滴は一上一下を繰返すわけてあるが、其の一たび上りつめてから次に上りつめるまでの時間を此の波の周期と名づける。
 池の波でも、それが浅い岸に近つくと、水滴の上下振動は次第に水平の振動に変ることを気づくであらう。此のことは、海浜の波について一層明かに観察し得られる。随つて波の周期はかやうな一進一退を見て之を計るのも一の方法である。
 津浪も一種の波である以上、池の波や、日常海浜に寄せる波と同じ性質を有つて居る。しかしながら其の波長や周期が普通の波に比較して非常に大きい。唯其の高さだけは普通のものに比較して大した相違はない。
 此の事は津浪を起す海底の広さと其の上下変動の大きさを考へたなら、直ぐわかる筈である。
 実際此の種の海底の変動は其の区域のさしわたし数十粁に及ぶことが珍らしくないから、之に因つて惹起された津浪の波長も亦極めて長く、歎十粁はおろか、甚だしきに至つては数百粁或はそれ以上にも及ぶことがある。随つて津浪の週期もそれ相応に長く、二三十分位を通常とし、大なるものは二時間にも達することがある。
 吾が三陸の太平洋沖合に起る津浪は二十分から三十分位の周期のもの最も多く、随つて其の波長は太平洋の深い処では五百粁にもなるのだから、十数回もうねると対岸のアメリカへ届くことになる。これ一箇所に起つた津浪が同じ大洋のみならず、隣りの大洋のはてまでも拡がつて行く理由である。
 津浪は、其の周期と波長とはかやうに格外に大きいけれども、其の波の高さは、外海では数米若くは其れ以下のものである。随つて外洋を航行中の船舶はたとひ津浪に出会つても全く之を気づかないことが通常である。
 明治二十九年六月十六日の三陸津浪は夜八時頃起つたのであるが、沖合に夜の漁獲に出てゐたもものは自分の村が留守中に全部流されたとも知らず、翌朝帰つて来て変り果てたありさまに夢かと許り驚いたといふ。又大正十二年九月一日関東大地震のとき、熱海では高さ十二米の津波に襲はれて四苦八苫の真最中、沖を走る三艘の石油発動機船は何の苦もなく、穏かな航海を続けてゐたさうである。
二 津浪の暴威
 津波は外海に於ては船舶に対して無害なこと前に記した通りであるが、それが人畜・船舶・家屋などに対して暴威を奮ふのは専ら陸地に接近し、陸上に侵入して来たときだけといつてよい。但し津浪に伴つて発生した海底地震は海水に伝はつて海震となり、附近の海上を航行する船舶に感ずることがある。此の為に、船は鋭い振動を感じ、器物を傾倒せしめなどするので暗礁に乗り上げたのではないかとの疑が起るさうだが、しかし船は停止することもなく、以前からの進行を続けるので、始めて其の疑が晴れるのださうだ。海震が激しいと昔は難破する船もあつたが、造船術が進歩した今日に於てはかやうなことが無くなつてしまつた。
 津波が陸地に近寄つて来て其の暴威を奮ふやうになるのは一つにはそれが其処で急に其の高さを増すからである。
 今仮りに、海岸線に凸凹がなく、又海底が沖の方へ次第に深くなるものとしたなら、遥かの沖合、例へば六千四百米の深さの所で起つた高さ一米の津波は四百米の深さでは高さ二米となり、二十五米の深さでは高さ四米となる筈である。
 かやうな次第だから、凹凸の少い海岸では津浪は多少えらくなつても大した高さにはなり得ない。三陸の沿岸に於ける経験によれば、五米位がかような地形の場処に於ける最大の記録であらう。但し宝永四年十月四日南海道沖大地震津浪に於ては土佐の種崎に於りる高さが七十尺に及んだとしてあるが、これは上の場合に似て非なるものの例である。
 海底が上に記したやうに沖の方へ次第に深くなり、且つ海岸線がV字形即ち漏斗形をなし、漏斗の入口が津浪の起る方へ向つて開いてゐるならば、津浪の高さの増大に最も適してゐる。若し漏斗の開き目が十六粁であつて、其処での津浪の高さが一米であつたとし、且つ波が崩れずに奥の方へ進行するとしたならば、幅四粁の処へ進入したとき高さは二米となり、幅一粁の処では四米となるべき筈である。しかし、若し波が崩れて津浪が漏斗の奥へ向つての流れとなつたならば、幅四粁の処では高さ四米となり、幅二粁の処では高さ十六米となるべき筈である。
 津浪は右のやうに、湾の形状に因つては、急に其の高さを増すやうにもなるのだから、これと同時に、前に記したやうな深さの関係まで加はつて来ると、其の高さの増大する割合は一層甚だしくなるわけである。
 大正十二年関東大地震のとき、相模湾の沿岸は彼方此方に津浪の襲来を見たが、熱海に於ては其の港の奥の処では十二米の高さに達し甚だしき損害を被つたに拘はらず、港の両翼の端に当る処では高さ僅かに一米半、中間の船着場の処で高さ四米半に過ぎなかつた。
 三陸の沿岸に於ては綾里湾が理想的に近いV字形を備へて居り、一V字の間口が三粁、奥行が四・五粁ある。従つて此の地方が津浪に襲はれるたび毎に、綾里湾は浪高の最高記録を出し、明治二十九年六月十五日の大津浪に於ては実に三十米といふ驚くべき数字を示してゐる。
 集の湾も亦V字形をなし、間口奥行共に約千二百米ほどめる。此処での浪高は明治二十九年のとき二十七米であつて、昭和八年のときは二十三米であつた。此の後の場合に於ては、湾の一翼の端に当る椿島に於ての浪高は僅かに三米であつて、中間にある青松島に於ての高さは八米に過ぎなかつた。
 港湾が上に記したやうなV字の理想形を備へ、且つ其の口は津浪の起る方へ向つて開き、又海底が沖の方へ次第に深くなるやうな場合に於ては浪の増大に最も適してゐるわけであるが、此の形式から次第に遠ざかるに従つて浪の高さの増し方も亦次第に減するのである。U字形のものはV字形のものに次ぎ、間口狭き袋形のもの更に之に次ぎ、若し袋の口が一層狭きときは浪は湾内に於て却つて低くなる位である。
 大灘の内に小灘が寄生してゐるとき、其の小湾に於て津波の増大する状態は、丁度上に記したと同じ傾向を取るのである。例へば大阪湾は袋形であつて南方から侵入する津波に対しては紀淡海峡の袋の口を有つてゐるわけだから、湾内に於ての浪の高さは比較的に低いのであるけれども、湾の北端に近き、大阪市から尼崎・西宮辺に至る沿岸は、U字形の小湾を形作つてゐる為、大阪湾の中では浪が比較的に高くなる場処である。
 津浪が浅い海岸に近づくと、水の動きは主として横の振動となるので、海水全体が一体となつて前後に振動するやうになる。海水が陸上に溢れるのもこれに因り、其の進退の速さが毎秒数米、甚だしきは十米に上るのも之に因るのである。海水が陸地に高く上る半面には、沖合遥かに退却して、平日見得ない暗礁まで露出することがある。
 津浪の破壊作用は浸水並に海水の激しき進退に因るのであるが、若し湾の底面或は側面に凸凹が多いときは、其の進退の速度は多少緩かになる。かやうな海底が浅く且つ遠く沖合にまで拡がつてゐるときは此の働きが一層著しい。

三 津波襲来の常習地
 津浪は何れの海岸にも起るとは定まつてゐない。先づ大規模の海底変動の起る海に面してゐること、言ひ換ふれば、沖合に大規模の地震を起し勝ちな海岸なることが第一の條件である。
 かやうな地方としては第一に太平洋の沿岸を挙げることが出来る。吾が国の太平洋沿岸も亦此の内に含まれてゐる。
 日本海の方では海底変動が起らないこともないが、しかし、たとひ起つても、太平洋側に比較しては規模が大きくない。言葉を換へて言へば、日本海側でも津浪が起らないこともないが、それでも規模は小さく、被害も海浜の小屋、小型な船舶を流失せしめるに過ぎない。
 第二に海底が海岸を距るに従つて吹第に深くなることが必要である。急に深くなつてもいかぬ。又次第に深くなるにも余り遠浅であつてもいかぬ。例へば台湾の東海岸の如く、たとひ第一の條件に適つてゐても、海が急に深くなる為、津浪の大した被害はない。又陸中の大船渡湾、陸前の松島湾の如く、遠浅なるが為、此処では津浪は大きくない。
 津浪が発達するに要する第三の條件は、海岸の地形が沖の方へ向つてV字形に開くか、若くは之に近き形を取つて居ることである。
 以上記した三つの條件を最も能く備へた海岸は津浪の発達に最も適した処である。三陸の太平洋沿岸は此の條件を備へてゐる為、津浪常習地として世界に冠たるの土地である。
 紀伊・伊勢・志摩・土佐の沿岸に於ても右に近き條件を備へた処がある。伊豆・上総・安房の海岸にも此の種の小形の港湾がある。
 次に規模の梢大きな港湾として、V字形或はU字形に近さものに、夫の室戸崎と佐多岬との間に展開してゐる土佐の入海がある。前に宝永津浪が種崎で七十尺を記録したことを述べて置いたが、若し海岸線を小観すれば直線形であるけれども、大観すれば此の入海は漏斗形に■入して種崎は其の底の辺に相当するのである。
 大規模の湾でロの稍狭いものに相模湾・東京湾・伊勢湾・大阪湾等がある。瀬戸内海も亦此の類に近く、時々津浪に侵入された例がある。
 北海道は千島列島を含み其の太平洋海岸は、著しき■入に乏しいけれども、大規模の海底変動に縁の深い深海溝に近い為、津浪の襲来は其の頻繁なること、三陸沿岸と同様である。唯三陸沿岸に見るようなV字形の港湾がない為、非常に大きなものを経験しないといふに止まるのである。
 南海道沖、東海道沖は三陸沖にも劣らぬ津浪の発生場所あるが、九州沖はそれ程ではない。しかし絶対に発生しないわけでもない。琉球石垣島の如き、明和八年大津浪に襲はれて、二万の住民中凡そ其の半数を失つた例もある。
 津浪は其の起る前に之を余地することの困難なこと地震の場合と同様である。但し其の発生の場処は概して海岸から遠く、其処から海岸に来るまでに二三十分か一二時間はかかるのが通常であるから、其の発生を察知して到着前に、警戒・避難につき、何等かの方法を取ることはさ程に困難ではない。
 斯くいふものの、しかしながら津浪の発生を未然に察知する方法は、絶対にないといふ意味ではない。前に述べたように、津浪は海底に於ける大規模の変動に因つて起されるのだが、此の変動は其のつづきの部分が陸上にも現はれることがある。但しそれは津浪発生と同時に現はれるのみならず、その前触れの変動が数年或は数十年前からも現はれるもののようである。かような前触れの変動が気づかれた地方に於ては、津浪につき多少の警戒を加へて然るべきであらう。
 津浪を発生すべき大規模の海底変動は大規模の地震をも発生するのが通常だから、之を津浪警戒の目的に利用し得ること勿論であるが、若し津浪襲来の常習地に於て、かような地震と共に海岸に数十糎或は一二米程度の上下変動、即ち海水にそれだけの急な干退若くは増水を認めたならば、一層警戒を加へて然るべきである。
 関東沖や南海道沖で起る津浪は浪原が海岸から験り遠くない為、津浪発生時の変動が海中に突出た半島の先端に著しく現はれて来るのが普通である。即ち此の場合、半島は南が上り、北が下るような傾動をなすのである。
 読者は大正十二年関東大地震に津浪が伴つたことや、半島傾動のため、房総半島南端では二米、三浦半島南端では一、四米隆起したことを承知して居られるであらう。之に先だつ二百二十年、即ち元禄十六年のときの関東大地震津浪は一層大きかつたが、此の時、三浦半島南端では一、六米隆起し、房線半島南端では六米隆起し、地震前までは一の小島に過ぎなかつた野島が陸続きとなつて、今日の如く名称を野鳥崎と改めた次第である。
  海道沖には安政元年と宝永四年とに大地震大津浪が起つたが、此のときの半島傾動により、紀伊半島の南端は両度共に一、三米位隆起し、室戸半島の南端では安政年度に於ては一、三米、宝永年度に於ては二米隆起した。
 津浪発生に関係ある大規模の変動が半島傾動として気付かれたことは、前に記した通り、其の例に乏しくないが、しかし、かような変動の続きが事件発生以前に現はれ、且つそれが気付かれたのは単に大正十二年の場合だけである。これは、かような現象が外の場合では起らなかつたといふ意味ではなく、昔は学問が開けてゐなかつた為、たとひ其の現象が起つても気付かれずに終つたといふに過ぎないのである。
 三陸沖や北海道沖に起る津浪は其の浪原が海岸から割合に浅い為、海底変動が陸地に現はれるほどでない。従つて陸地の変動によりて津浪の発生を察知することは此の地方には適用されない。
 津浪の警戒に利用すべき事柄として見落してはならぬ副現象は大規模の地震である。若し地震計の設備があつたならば申しぶんはないけれども、たとひかような設備がなくとも、単に身体の感覚だけで、かような種類の地震と、さうでないものとの区別ぐらゐはつけられる。
 地震が小さければ固より問題にはならない。震動がたとひ大きくても大揺れが数秒間続くか、或は十秒間位で終るようならば局部性の地震たることを意味し、大したことはない。しかしながら、若し大きな動瑤が十数秒以上一二分も続く場合に於ては津浪襲来の常習地には厳重な警戒を加ふべきである。
 此の種の地震の動揺の緩急については地方によりて多少の相違がある。それは主として震原までの距離の遠近に因るのであつて、例へば三陸沖や北海道沖に起るものに於ては震原距離遠い為、震動も緩漫であるが、関東沖に起るものに於ては震原距離比較的に近い為、震動割合に急激である。南海道沖に起るものに於ては震原距離に遠近両様の区別がある為、或る場合には緩漫であるが、他の場合には急激である。
 之を要するに、三陵及び北海道地方の津浪に於ては、沿岸地方でたとひ大揺れの地震に襲はれても被害は軽微で済むが、関東地方の津浪に於ては地震の被害却つて著しく、南海道方面のものに於ては被害の原因が地震、津浪両方の場合と専ら津浪だけの場合とがある。
 以上のやうな大規模の地震があつた場合、それが如何にして津浪警戒の役に立つか、それは次の説明によりて明白となるであらう。
 同一の海底変動から発生した津浪と地震とは、実際的には同時に同一の場処に発生したと見てよいであらう。しかし、それが陸地に向つて進んで来るのに、進行の速さに著しき差異がある。それは雷鳴と電光との■速にも比較すべく、地震は電光に、津浪は雷鳴に相当するのでめる。
 地震波の進行速度は縦波が毎秒五粁、横波が毎秒三、二粁位なること、別な場所に於て述べた通りである。随つて沖合百粁の処で起つた地震は其の先鋒が海岸に到着するまでに二十秒を要し、沖合二百粁の処であつたならば四十秒を要するわけである。
 之に比較して、津浪の進行速度は頗る緩かである。即ち
深さ{八○○○・四○○○・一○○○・一○○・一○}米では
秒速{二八○ ・一九八 ・九九  ・三一 ・一○}米
 であるから、津浪は沖の深い処だけは早く進行し得ても、岸に近い浅処に来て著しく其の速度を減することになる。津浪の襲来を海岸で気づいてから、それが岸に着くまでに二三分もかかるといふのはこれが為である。
 実際、地震を感じてから津浪が到着するまでの時間差は、三陸及び北海道沿岸に於ては三十分間内外あるが、南海道方面に於ても最も近い沿岸に於てそれ位の余裕がある。其処から湾内の方へと次第に遠ざかるに従つて此の時間も亦次第に延びるわけだが、特に大阪市の海岸は最も遠い距離にある為に、此の時間が最も長く、津浪が由良海峡を通過してからでも、三四十分の余裕がある筈である。
 しかしながら、関東方面の津浪に於ては此の時間差が余り大きくない。十分或は五分しかない場合もある。但し、かような場合に於ける津浪は大したものでないのだから、余り悲親するに及ばない。
 津浪が本格的に海岸に襲来するまでには猶ほ此の外に二三の副現象がある。
 先づ、遠方の雷か、或は大砲の音のような鈍き轟を一回或は二回聞くことがある。これは地震後、津浪前に聞えるのだが早いときは地震後数分の後、晩いときは津浪に尭だつ数分といふのがこれまで多く経験された例である。
 地震直後に、震原の方へ光物が現はれるといはれてゐるが、しかし、これは毎回さうだと断言するわけには行かない。
 最後に、津浪が本格的に暴威を奮ふ直前に於て、海水が軽徴な干退若くは増進をなすことが多い。若し上記のような副現象が備つた上、此の軽微な海水異状が始まつたなら、津浪の本格的襲来は二三分の後に迫つてゐるものと覚悟すべきである。
 いよいよ津浪が本格的に襲来したとして、其の最初の大浪の退去を見て安心してはいけない。津浪は其の固有の周期を以て幾回も繰返し、而も二回目或は三回目の方が却つて最初のものよりも大きい場合もあるからである。
 以上詳説したことによつて警戒の方法も自ら了得せられたであらう。若し其れ津浪を早く感知すべき位置を選び、其処を前哨として人為的に、或は器械的に、津浪の接近或は到着を察知すべき施設をなし、有線或は無線電信を以て重要な海港或は市街地へ速報するような手段を取るようにしたならば一層有効な警戒が実行し得られるであらう。
 津浪に対する避難は地震の場合よりも容易である。先づ其の襲来の虞れある場所が海岸或は海面の限られた狭小な面積たる許りでなく、津浪の達し得る高さが最れ亦限られた水凖、即ち海面上数米或は十数米程のものであつて、如何に高くとも三十米以下のものであるといひ、避難には極めて都合のよい条件を備へてゐるからである。
 高地は避難の場処として最も安全である。津浪の特に高くなるのはV字形・U字形の港湾の奥の方であり、かような港湾は其の側方に斜面を有することが通常であるから、其処に適当な避難場所を見出すことは容易であらう。平日かような場処や、之に達し得るに好郡合な避難道路を物色して置くのも良く、若し其のようなものが見つからぬときは新設しても良いであらう。
 種々の副現象によりて津浪の虞れありと認めたならば、老幼虚弱のものは先づかような安全な高地に避難し、其処に一時間、或は其れ必上、辛抱することが必要である。此のような場合、強健なもの、特に健脚なものは海面を警戒し、必要に応じ、警鐘・電話等によりて警告を発するなどは望ましいことである。
 嘗つて安政大津浪のとき、土佐の海岸地方では最初の地震にそれと心づき、宝永大津浪の寄せて来た水凖以上へ避難し、其処ヘニ時間も辛抱してゐた為、幸に無事なることが出来た。又昭和八年三陸津浪のとき、居民は最初の地震に津浪を恐れて、一旦は高地へ避難したが、或るものは寒さの為辛抱が出来ず、十分か二十分かの後再び危険区域内にある自宅へ立帰り、其処で遭難したものが多かつたといふ。一は学ぶべく、一は戒むべきことであらう。
 海浜の平地で津浪に追はれることがないとも限らぬ。津浪は川筋のような低地を先廻りするから、それに心を配り、手近の小高い処を志して逃げるが良い。勾配の急な処では津浪の進行も多少緩やかになる。昔の人はかような処で津浪に追ひかけられたならば浪を後ろにして逃げよ、右或は左に見て逃げてはいけないと教へてゐる。
 津浪に捉へられた場合、若し遊泳の心得があつたならば、絶壁のある方へ向つて泳ぐ方が有利だとしてゐる。大正十二年関東大地震のとき、熱海で津浪に捉はれた漁師二人が無事に伊豆山に泳ぎついたことがあつた。前に記した通り、熱海の港の奥では高さ十二米の津浪が襲来し、引続き幾回も激しい一進一退を見たのに、港の両翼の端では高さ一米半に過ぎないのみならず、其処を越えた伊豆由の辺では津浪の減少が殆んど無かつた位であつた。
 他へ避難の為、海岸の家屋を退去する場合には、津浪到着までの余裕を目算して、火元用心・重要物品の携帯など機宜に適する処置をなすとよい。雨戸を開放して置くのも津浪の破壊力減殺の為、多少の効果がある。
 明治二十九年三陸大津浪のとき、雄勝町で浸水した一家屋があつたが、家族一同二階に避難して無事なるを得た為、昭和八年津浪のときも此の方法を応用したが、今度は家が流され一家遭難した。之によりても高地避難を最上策とし、貧弱な経験に基づく冒険は排すべきことがわかるであらう。
 船舶は若し岸から二三百米以上も離れた海上にゐたならば、更に沖へ出ることが安全である。若し汽船が港内碇泊中、津浪或は高潮の虞れありと感じたならば、直ちに汽力を増し港外に出でゝ機宜の処置をなすべきであらう。
 港湾に開く河川は津浪襲来に当りて特に多量の海水流入を許し、之れが為、附近の海岸地区の被害を多少緩和し、緩衝地区としての役を勤めるのである。若し船舶が岸に近く居て、而も沖の方へ逃げ出す余裕がないときには、岸に固く繋留するも良く、若し又緩衝地区へ流れ入る見込があるときは投錨のまま浪の進退に任せることも亦避難の一法である。

六 浪災予防
 津浪を警戒したり、或は其の難を避けることは、津浪に襲はれる虞れを有つ海辺に住むものの、老幼男女を問わず、等しく心得べきことであるが、津浪の災害を冤れんが為、予め其の施設をして置くのは、寧ろ大人共のなすべき責任であらう。
 浪災予防の方法として最も推奨すべきは安全な高地へ移転することである。尤も漁業或は海運業等の為に納屋・事務所等を海浜から遠ざけることの困難な場合もあらうが、しかしながら、住宅・学校・役場等は必ず高地へ設けることにして置きたい。
 高地移転に対して往々猛烈な反対を唱ふるものがある。漁業者の仲間にそれが多い。或は漁業者を高地に移せとは、其の生業を奪ふに等しとか、転業を強ふるものだなどと極論する人もある。一応は尤もなことである。若し外に浪災予防の簡易な、而も完全な方法が見出されるならば必すしも住所を移転するにも及ぶまい。しかし前に説明したように、津浪の高さが十数米或は二三十米にも上るような場処に於ては、高地移住を除いては外に適当な方法は皆無だといつても過言ではあるまい。
 高地移住は実際不便には相違ないが、其の不便を緩和する方法はいくらもある。例へば漁業者・海運業者等は其の業務上に必要な施設を共同にし、且つ此処と住宅地との間に適当な道路をつけるが如きはそれである。
 津浪の特に発達する海岸に於ては、津浪進入の正面を外れた側面に於て、適当な住宅地を求めることが容易である。津浪に悩まされながら、其の辺に手を着けないのは恐らくは因襲に捉はれてゐるが為であらう。
 香港を見るがよい、急傾斜の山が全部住宅地となつてゐるではないか。長崎や神戸も間もなく香港化するであらう。
 もつと適切な例が三陸の津浪地方にいくらもある。陸中国船越村の山の内部落や小谷鳥部落がそれである。此処は二十米或は二十五米程度の高さの津浪に襲はれたことが幾度もあるが、村が側面の高地にある為、嘗つて甚だしい浪災を被つたことなく、唯僅かに漁船や製造場等を損するに過ぎない。
 同じ陸中国綾里村湊部落では明治二十九年の津浪に於ても、昭和八年の場合に於ても、浪は十米内外の高さに上り、全滅に近い程の惨状を呈した。最近の津浪のときのこと、湾の西側の大地に各々一軒の第宅が頑張つてゐた。一つは医院と其の住宅、他は土地の成功者の別荘である。空気は清浄であるし、眺望はよし、平日から村人の羨望の的となつてゐたのであるが、夫の津浪の襲来を被るや、村は前述の通り非常な惨状を展開したに拘はらす、両方の第宅では寸毫の損害も被らず、文字通り高みの見物に終始したのであつた。かような事実を見せつけられた村人は考へざるを得なかつた、災後直ちに村会を開き、住宅の高地移転を即決したのである。即ち事務所・製造所等は共用のものとして海岸の便利な位置に残し置き、住宅地として西側の台地を開拓することにしたのである。三陸の被害地方に於てはかような計画を企てた町村は数多くあつたが、しかし其の先鞭をつけたのは綾里村であつたと称して良いであらう。
 吾が同胞はとかく高地の住居を好まぬ癖があるが、津浪に悩まされ勝ちな土地に於ては、何はさて置き、先づ此の租先伝来の因襲を捨つべきであらう。これは自己一人の幸福のみならす、子孫千万年の為にも決行すべきである。
 津浪災害予防の為には高地への移住が第一策であるが、其の他にも種々の方法が考へられる。次に之を列挙して見る。
 緩衝地区を設けること。津浪の侵入を正面から喰止めようとすると、必然の結果として、其の場所に於て増水を見るのみならす、波の反射や増水の氾濫等の為、隣接の地区まで迷惑を蒙るようにもなる。川の流れ路、渓谷或は其の他の低地を犠牲に供して、ここを緩衝地区とし、津浪が自由に侵入し得るようにして置くなら、隣接地区の被害を多少軽減することが出来る。若し錨地についてゐる船舶をここへ流入する津浪に委ねるようにしたならば其の被害も多少緩和されるであらう。津浪に襲はれた船舶が町に上陸して家を破壊し、其の残骸を街路上に横へるのは能く見る図であるが、之を転向させるだけでも相当の効能があらう。
 防浪堤を設けること。津浪の高さが五六米の程度に止まるような場処に於ては防浪堤を設けるのも良い。但しここに言ふ防浪堤とは津浪除けの堤防をいふのであつて、風波のみを除ける防波堤とは違う。普通の防波堤は津浪に対しては殆んど何等の効能もないのである。
 防浪堤は海中に設ける場合もあり、陸上に設ける場合もある。和歌山県広村に於て義人濱ロ梧陵が設けた防浪堤は現今吾が国に於ける唯一のものかも知れぬ。若し防浪堤を津浪の方向転換の為に設けるならば、其の位置に於ける浪高を凌ぐに足れば良いのであるが、若し津浪の侵入に対する正面防御の為に設けるならば其の位置に於ける浪の凡そ二倍の高さに築くことが必要である。広村の防浪堤は前者に属し、川筋を巧に利用して其処へ津浪を外らすようにしてある。
 防浪堤は理論上から何処に設けても差支ないのであるが、津浪の高く上る場処にはそれ相応に高く築くを要するのみならず、其の幅も亦之に相当しなけれぱならぬ関係上、実際上から見て実行困難な施設である。
 防潮林を設けること。防潮林は津浪進退の勢力を弱める効能がある。海岸に広い平地があるときは海浜一体に之を設けるが良い。狙し一列に樹木を植えただけでは大した効能はない。出来るだけ厚くすべきである。
 植樹或は土塀は住宅の周囲に設けても、浪勢を殺ぐに多少の効果がある。
 護岸を設けること。津浪が三四米を越さないような場処に於ては浪を阻止するに足るべき護岸を設けるのも一法である。
 防浪地区を設定すること。繁華な市街地に於て五六米程度の津浪の侵入を覚悟しなければならぬ場合に於ては海岸に防浪堤を設けるのも一法ではあるが、防浪堤の代りに、津浪に抵抗し、若くは之を阻止するに足るべき高さの堅牢な家屋を並列せしめるのも一法である。
 防浪地区に建てる家屋は耐浪建築でなけれぱならぬ。耐浪建築として最も推奨すぺきは鉄筋コンクリート造であらう。成るべく基礎を深く重く堅固にし、浪の侵入或は退却の方向に面する壁を稍厚くするが良い。これは防浪地区の前面に用ふべく、同じ地区の背面には木造の耐浪建築を代用してもよいであらう。凡て津浪の破壊作用は地震の場合と同じように、下層に激しく当る為、二階建は平屋となり、三階建は二階となることが有り勝ちである。従つて木造家屋を防浪建築として役立たせるには基礎を深く堅固に築き、土台を基礎に緊結した耐浪建築たることを必要とするのである。
 大阪の西部地区の如く、津浪の侵入を阻止すること実際的に困難な場合に於ても、人命保護の目的を以て随所に耐浪建築を設けることは望ましいことである。小学校を斯く施設し、兄童通学区域内に於ける住民の避難所とするも一策であらう。

七 高潮
 高潮即ち風津浪と普通の津浪即ち地震に伴ふものとの区別は前に述べてある。高潮は陸上への海水の漲溢概して一が回限りであつて、而もそれが幾時間もかかつて徐々に起るのだから、其の進退は比較的に緩く、破壊作用は主に浸水に因るのである。但し其の原因には風の作用も加はつてゐることだから、激浪と称すべき高波が、夫の漲濫した海水の上に重なり、之れが為、破壊作用を増すことがある。此の種の激浪は普通の風波に比べて周期が稍長く、稀には数分に達することもある。
 高潮は間々日本海の沿岸にも起るが、しかし多くは太平洋側に起り、其の襲来の常習地としては凡て南乃至南西に大きく開いた入口を有つ湾であつて、中にも有明海、大阪湾、駿河湾、東京湾などが有名である。今日本海の場合を除き、以上の諸沿岸に於て高潮が如何なる順序で発達するかを説明して見る。
 高潮の第一の原因としては台風性の低気圧の急速なる中心移動を挙ぐべきであらう。此の種の低気圧に於ては其の示度七二○耗に下ること珍らしくなく、昭和九年の室戸台風の室戸での示度は六八五粍といふ驚くべき数字を示した。これ等の示度と平圧との差は五五糎乃至一〇五糎の水圧に等しく、若し低気圧が一箇処に停滞してゐたならば、海水は其処に上記の高さだけ盛り上がつて平均が保てるわけだが、しかし事実はさうでなく、南から来た低気圧は九州或は本島に近つくに従ひ、概して北東乃至北々東の進路を取り、移動の速さも毎時二〇粁、甚だしきは一〇〇粁の程度になるのである。従つて盛り上がつた海水も之に伴つて急速な移動を始めるのは当然であるが、若し前方に陸地があつて其の前進を遮つたなら、其処に氾濫が捲起されるのである。此のとき、港湾の地形や、海底の深さの関係等に因つて、水位の高さが変化を被ること、津浪の場合に解説した通りである。
 東京湾や大阪湾の西側に沿うて低気圧が北上すると、高潮の高さは気圧の中心示度から計算した水位の三倍程度に達することが通常である。例へば大正元年九月二十三日及び昭和九年九月二十一日両度の大阪湾高潮に於て気圧の最低示度はそれぞれ七一五粍及び六八五粍であつたのに、大阪に於ける高潮の水位は一六七糎及び三八○糎に達した如きがそれである。
 此の高潮の水位が低気圧に平均すべき海水の盛り上がり量の三倍程度に増大する事実は台風の風力をも考慮に加へて説明すべきである。いひ換ふれば風力は高潮の第二の原因である。
 凡て右のような低気圧が北上して、本州若くは九州に近づくとき、中心の東側には風速毎秒三四十米にも及ぷ南風乃至東南風が吹き、西側に於ては反対に北風乃至西北風が強く吹く。これに中心移動の関係が加はつて、東側は西側に比較して風力は一層強いが、西側は其の代りに雨を多量に降らす傾向がある。
 かような関係にあるが為、低気圧の進路が湾の西側に当るときは、南乃至南東の強い風が高潮の発達を助ける為、水位は一層増大するが、反対に、湾の入ロの東側に当るときは、北乃至北西の強い風が高潮の発達を妨げる為、比較的に安全である。
 このことは高潮の警戒に役立つであらう。若し台風性の低気圧が九州或は本州に近づき、而も其の中心が有明海・大阪湾・駿河湾・東京湾等の各西側を通過するときは其れに相当する場処を警戒し、若し東に遠ざかつて通過する場合はかような注意を必要としないであらう。
 前に高潮の最も発達し易い数箇処の例を挙げたが、太平洋の沿岸地方に於ては、地形並に其の他の関係によりて、これ等に次ぐべき箇処がいくらもある。即ち伊勢湾、相模湾特に其の小田原沿岸、石巻湾等があり、又紀伊半島や四国の太平洋岸に於ても之に相当する小規模のものが数多くある。九州の八代湾や播磨の沿岸も亦之に凖ずべきものであらう。
 日本海の沿岸に於ては高潮の起ることが少いが、しかし絶対にないわけでもない。昭和四年一月二日越後の沿岸に起つたこともある。これは低気圧が概ね海岸に沿うて東に移動し、北よりの強い風が増水を助けた結果と解せられる。
 前に高潮の二つの主原因を詳述したが、猶ほ此の外に高潮の水位を左右する二次的のものがある。一は平常の潮汐で、他は湾のセイシユである。即ち高潮はその時刻が潮汐の干満特に新月・満月の頃のそれと一致するか否かによりて相違が起る筈であるが、此の事は気象的変動によりて起されたセイシユに就いても同様である。
 高潮は津浪に比べて低いこと度々説明した通りであるが、有明海の東沿岸遠浅の地方、大阪湾の大阪・尼崎辺、東京湾の城東・深川・京橋・芝など間々四米に達することもある。恐らくは五米以下のものと見てよいであらう。
 明治三十二年十月七日駿河湾内田子浦に襲来した高潮は明治以後今日に至るまでの最高記録であらう。確かではないが、高潮の水位は凡そ六米に上り、此の上に更に五米位の高さの激浪が加はつたらしい。昭和九年室戸台風のとき、室戸半島の南西沿岸に於ては水位六米程に上つた所もあるが、これも亦、高潮の上に激浪が重なつてかような結果になつたらしく思はれる。(終)

(4)渡邊技手ノ殉職

 渡邊政太郎君ハ明治三十七年三月十三旦福井県福井市ニ生ル
 昭和四年三月攻玉社高等工学校土木科卒業後昭和五年四月岩手県道路技手兼土木技手ニ任ゼラル
 爾來土木技術官トシテ工事ノ測量ニ又ハ監督ニ各地ニ奮闘努力シ就中明治橋架設工事ハ氏ノ最モ努力セルモノナリ
 昭和七年時局匡救事業ノ起興サルルヤ君ハ抜擢セラレ九月一日付テ以テ八木港工営所現場主任ヲ命ゼラル
 爾來直営漁港修築工事ノ設計並ニ監督ニ昼夜ノ別ナク鋭意精勤シ其ノ成績頗ル大ナルモノアリ工事モ漸ク最盛期ニ入ラントスル時、昭和八年三月三日未明突如襲来セル津浪ニヨリ工営所ニ宿直勤務中ノ氏ハ一瞬ニシテ怒濤ニ呑マレ春秋ニ富ム二十九歳ヲ以テ不幸ニシテ殉職ス、君ハ資性温厚ニシテ寡言実行常ニ人ニ接スルニ温情アリ同僚間ノ徳望極メテ多カリキ
 趣味ハ音楽並ニ読書ニシテ前途有為ノ身ヲ以テ職ニ殉ゼルハ洵ニ痛惜ニ堪ヘズ
 昭和八年四月四日盛岡市内報恩寺ニ於テ県並ニ地元町村ニ於テ盛大ナル氏ノ慰霊祭ヲ営メリ知事ノ弔詞左ノ如シ
 慰霊祭ノ辞 (昭和八年四月四日午前十時 北山報恩寺ニテ行フ)
 渡邊政太郎、小平由蔵両君ハ去三月三日午前二時半海嘯ノタメ八木港ニ於テ激浪ニ呑マレ春秋ニ富ム若キヲ一期トシ幽明界ヲ異ニセラル噫悲哉
 渡邊君ハ昭和五年ノ春本県ニ赴任以来工事ノ測量ニ監督ニ各地ニ奮勤努力シ為ニ席温マル逞モナク亦小平君ハ本県ニ奉職シテ日尚ホ浅シト雖モ朝一夕劇務ニ奮闘シ寝食ヲ忘ルル有様ナリシニ思ハサリキ本日並ニ両君ノ為メニ慰霊祭ヲ挙行セントハ、
 渡邊君ハ資性直情経行而モ常ニ温和ヲ以テ人ニ接シ職務ニ精勤恪勤未タ曾ツテ人ノ難ヲ受ケタルコトナク、小平君ハ温厚篤実職務ニ勉勤シテ同僚ノ模範トスルニ足ルモノアリキ
 昨年八木港修築工事起ルニ方リ渡邊君ハ抜擢セラレテ同工営所主任技術者トナリ、小平君ハ其ノ部下トシテ共ニ鋭意事業ニ当リ成績甚タ良好ニシテ其ノ工事ノ利用最モ将来ヲ期待セラレタリシカ突如彼ノ激烈ナル海嘯ノ襲来ニ遇ヒ算ヲ■シテ微塵ニ打チ壊ラレ工営所モ亦其ノ難ヲ免ルル能ハスシテ適々職務執行中ノ両君モ共一ニ瞬ニシテ其ノ姿ヲ消シ今ヤ叫ヘトモ帰ラス
 噫蒼海洋々トシテ両霊何処カニ在ス人間万事因縁ニ外ナラスト雖モ亦更ニ哀愁ノ切々タルヲ如何ニセム
 一言以テ慰霊祭ノ辞ト為ス
昭和八年四月四日
岩手県知事  石黒英彦

昭和十年八月一日印刷
昭和十一年八月五日発行
[非売品]
岩手県土木課
印刷人  山口 徳治郎  盛岡市内丸十番戸
印刷所  山口活版所   盛岡市内丸十番戸

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写真 渡邊政太郎氏