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海嘯略誌編纂について

 去る三月三日未明、突如襲来せる津浪によつて、本縣海岸地方の人達は、精神的にも物質的にも、非常な打撃を受けましだが、そのうちでも我が大槌町は、被害程度の高い一地方で有ります。
 何千といふ人達は家を失ひました。着のみ着のままで避難しました。食ふ事が出来なくなました。
 子供達は學習すべき総べての物を失ひました。學校は止むなく休校の上、被害の調査やら、學習準備を行つて、一週間後にはどうやら、開校の運びに至りました。
 町の人達も日が経つにつれて「復舊から復興へ」を、目指して働き出しました。
 一般の人達といひ、學校の子供達といひ、比較的短日数で、どうやら夫々の立場に歸る事の出來たのは、その人々の「意氣」そのものが土臺であることは、勿論の事ではありますが、一面又社會全般の深厚な、御同情の賜である事を深く信じます。
 よつて、當時、哀れな子供達に、御同情下さいました皆様に、御挨拶を申し上ぐると同時に「將来の参考にも」との浄念から、此の小冊子を編纂することに致しました。
 幸ひ、この浄念の現はれが、何處かにありますなら、本懐の至りでございます。

昭和八年六月三十日、校長 鈴木兼三

偲ばるる海嘯の惨害他・被害区域図

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写真 写真 偲ばるる海嘯の惨害(其の一)
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写真 写真 偲ばるる海嘯の惨害(其の二)
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写真 写真 偲ばるる海嘯の惨害(其の三)
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写真 写真 偲ばるる海嘯の惨害(其の四)
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写真 写真 偲ばるる海嘯の惨害(其の五)
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写真 写真 海嘯後稍そう整理されたる大槌町の一部
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地図 三陸津浪被害区域圖(岩手縣)
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地図 大槌町(町方) 被害状況分布図 その1
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地図 大槌町(町方) 被害状況分布図 その2

昭和八年 三月三日 大槌海嘯略誌 第一章 海嘯の歴史

第一項 大槌海嘯略史

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大槌海嘯略史

第二項 歴史上の三陸津浪

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歴史上の三陸津浪

第二章 三陸海嘯の学的調査

第一項 観測所の観測発表

一、發震時及び震央距離
二、東京観測所の観測
三、震源地
 各地方測候所より電信により、報告せられたる所によると、震域頗る廣範囲に亙り、岩手縣、官城縣、福島縣の海岸では強震を感じ、震央は東百四十四度六、北緯三十六度二、金華山東北二百八十粁、釜石の東方約二百三十粁の遠い沖合に當つてゐる。
 此の位置は所謂外側地震帯上に位し、常に頻々として地震を發する所である。即ち此の地帯に發する地震の回数は、毎年千回を越ゆる位である。然し此の地帯に發する地震としても、今回の如き大規摸の地震は、稀に見る大地震である。

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發震時及び震央距離と東京観測所の観測

第二項 津浪の來た時刻

 津浪が來た時刻は、各地に於て可なり違つてゐる。之は各部落の住民から聴き取つたのであるから、勿論正確なものではない。只、鮎川検潮所で測定したものは、検潮儀によつたものであるから、正確といふことが出来る。而してそれによると、地震後四十分にして潮が急降した事を示して居る。然し夫れより九分前に徐々な上潮を記録して居る故、此の上潮が津浪の初波であるとすれば、津浪は震央より三十一分にして、鮎川へ到達したこととなり、平均約百六十米の秒速で傅播したことになる。然し之は震央に於ける浪の撹乱が、地震と同時に起つたと假定して、推算したものである。
 左記の如く、大體二十分乃至四十分を要し、其の平均は三十分強となつてゐる。之れより平均の速度を算出して見ると、秒速約百五十米となつて、鮎川の材料から算出したものと、似た結果を得る。
一、宮城縣 鮎川—四十分後    小網倉—二十分後
二、上閉伊郡 大槌—三十分後   釜石—三十三分後
三、下閉伊郡 宮古—三十九分後  田老—二十八分後

第三項 音響と海鳴

 地震後に音を聞いた處は頗ゐ多い。處によつては、二回も音を聞いて居る。そうして二回目の音は、極めて微かな音であつた。此の二回目の音は、恐らく第一回の音の、反射波であらうと思はれる。叉第一回の音響も、地震後十分以上を經てから聞いた處が多いが、之は震央から沿岸まで、平均二百五十粁も在るから、地震と同時に、震央にて音を發しても、早い所で十二分、遅い所では十五分を經たなければ、其の音を聴く事は出来ない。各部落の音響、海鳴は次の如くである。(部落名、同種のものを省く)
○震後十五分砲馨の如き音響を聞いた ○東方沖合に汽車の如き音を聞いた
〇三時十分寅艮方に大音響を聞いた  ○地震後東方にゴーといふ音を聞いた
○震後二十分沖合に音を二回聞いた  ○津浪の直前ドンと音がして浪が退いた

第四項 三陸地方地質地形概況

  一、三陸地方の地質概況
 三陸地方ば其の脊髄として、日本外帯山脈の北半たる北上脈がある。此の山脈は東は太平洋に面し、海岸はリアス式となつて居るが、西は北上川及馬淵川の渓谷によつて、中央山脈と境されてゐて、紡錘状をなしてゐる。此の山脈の地質は、大体古生層からなつて居るが、南部牡鹿半島は、中生層によつて、構成されてゐる。
而して、其のうち所々に花崗岩迸出がある。
 斯くして北上山脈の地盤は古く、且つ堅■であるため、地震に對して震度は、比較的小さい。故に今回の如き大規模の地震にあつても、海岸の沖積層上では、強震を感じたが、他の處では強震(弱き方)或は弱震程度の地震あつて、地震による被害は、殆んど見る事が出来なかつた程である。
  二、三陸地方の地形
 南は牡鹿半島から北は青森縣八戸町の、東なる鮫岬に至る海岸は、本邦に於て最も凸凹の著しい海岸である。即ち北上山脈の尾根が太平洋に没する所が、此の海岸であつて、所謂、リアス式海岸を構成して居る。
 此の海岸は、北上の褶曲山脈が、多くの枝谷を海岸へ向けて居る所へ、地盤の沈降が起つて水準を高め、其のため、海水は深く谷間に浸入して、形成されたものである。此の如き海岸にあつては、灣口の水深は極めて深いが、灣内へ入るに從つて淺くなつてゐる。然も此の場合、北上山脈の如き枝谷が多い所では、小灣が極めて多くなつてゐる。
 斯るリアス式海岸は、V字形をなした小灣が、太洋に開口せることと、灣口から海岸に至るに從つて、次第に淺くなる事によつて、津浪を生ずる恐が充分にある。岩手縣に入つて、門之灣、綾里灣、越喜來灣、吉濱灣、唐丹灣、釜石灣、大槌灣、船越灣、山田灣、宮古灣、久慈灣等がある。
 之等各江灣は、概ね東方に開口して居るため、今回の如く三陸海岸に平行して、其の沖合を走る外側地帯上に發した地震にあつては、其の震源極めて淺い場合に、津浪を生ずる恐れがある。叉北東、或は南東に開口してゐる灣では、多く袋の様になつて、深く灣入して居るため、失張り浪高を増して、津浪の災害を蒙つてゐる。
此の様に、三陸海岸は其の構造から見て、極めて津浪を生じ易い形式を備へて居る。故に古来津浪の災害を蒙つた事が頗る多い。歴史に徴して見ても、有史以來十一回の津浪を挙げる事が出來る。

第五項 近年に於ける三陸沖合の地震

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近年に於ける三陸沖合の地震

第三章 大槌町海嘯に関する状況

第一項 當夜の概況

 三月三日午前二時卅分過ぎ、強音の猛續する近年に珍らしい、強震に襲はれた。
「すはや!!」と、戸外に出る者、海潮を見に出る者、者、兎に角、此の一大地變に戦いた。寒さは寒い。けれども皆起き出て、何かしら次に起るらしい、豫感そのものを待つやうであつた。
 強震後廿分も経過したと思はれる頃、電燈が消えて全く闇となる。嵐の前の静けさのやうな、氣分の満ち満ちる時、此の消燈で益々夫を強くした。と、突如!!遙かに、そして近くに、「津浪だー!!」人間の最も懸命な、叫びが、—人生の途上に於て、或は一度も發し得ざる、或は聞き得ざる、悲痛、絞膓、血を吐くが如き、痛烈な叫びが— 一切の静を破りそうにして、そして破らうとせまる。
 時に、此の聲に應じでか、大須賀方面の各戸の人々、慌てふためいて、戸外に出て、各々、江岸寺裏山に、或は上方の親類、縁者、學校等の方向に疾走し、力走した。
—天地万物一切眠り、軒亦三寸下ると言はれる丑滿時、空には月なく、星もなき、暗黒の夜の寂に、常夜にすら肌へを刺す三月の大氣は、特に皮膚をつんざいて、その寒さ一入身に浸み込む—
 子を呼ぶ母、子供は!我が子は!!足りない。叉数へても、又呼んでも、やはり足りない。置き忘れて來たのだ。
 ああ、子供は!子供は!!呼べども叫べども、更に答へとてもなく、身を顫ひ、聲をからし、血を吐きて叫べども、暗黒の夜に巳が子の影とて見へで、更に更に悶ゆれど、やはり子供の数は不足に、天地神明にその加護を頼めども、心の何處くにも安けさなし、ああ恨しし、恨ましし、併し誰をか恨むべし、眞に誰を怨めばいいのだ。只、聲をふりしぼつて慟哭する悲痛な叫び、津浪の襲來に無我無中なる身にも、聞くだに辛き切ない、血絞地獄の聲だ。更に一方には、水だ!!津浪だー!!! との聲に交つて、親を求める子の凄絶なる絶叫!!兄を呼ぶ、妹を探す、兄弟姉妹の身を切るやうな聲、老ひさばれたる人らしい、かすれた中にむせび乍ら絶叫する聲、夫たる者の、妻たる人の互に呼ぶらしい叫び、叫!!叫!!叫びの■■!!暗黒の裡の大自然の力の中に、また小なる人間の、然し乍ら眞劒な叫び、正に阿鼻叫喚である。
 此の第一回目の水は町方より、大須賀の曲り角まで來た。間もなく消防隊及自警團、竝に軍人分會及町青年團の人々が警羅に出た。斯くして此の水は一度引退いたが、再び襲来した。此の間、凡そ廿分も経過したであらうか、這度の土水は前に襲つたものよりは尚ほ強く、大須賀より八日町、御社地、新町及向川原方面の一帯に押し寄せた時は、既に災害地域の電燈が消えてあるので、只、目標の不安定な暗夜を辿るのみであつた。
 之より二時間以上も経過して、漸くほのぼのと夜が白けかかる頃となつて見渡すと、其の惨状は、棲愴の極であつた。
 家を流した者、子を失ふ者、親を失つた者、寝巻のまま、跣足のまま、避難した者等の、物をも言ひ得ない哀れな姿は、フラフラと、倒壊家屋の間を彷徨する。之を見て、今更現實の大なる悲境を痛感せられた。
 血氣の男達が漸次山を下りて來て、夫々の被害程度に應ずる處置を取らうとして、一歩屋内に踏み入ればその荒れ狂つた混維の様に思はず驚嘆、而して「よくも斯く荒れだものだ」と、皮肉笑ひさへ出された。
  —再び、「津浪だあー!!」あの未だ忘れられない響を持つ叫び!!一散に山へとぶ!!とぶ!!
  どぶ溝に足を入る者、蹟く者、「全く恐ろしいのだ」思ひ出すだに戦慓させられる。—
 漸く安心して再び山を下る。三度、四度、此の海嘯來の叫びに脅かされ乍らも、やがて夜は全く明け擴がり、人々の聲にも漸く安心の影を認むることが出來るやうになつた。

第二項 學校の採りたる處置  (自三月三日至三月十四日)

 一、事件突發當時に於ける處置
 午前二時半過、海嘯襲来と共に学校に避難する者多数だつたで、校長以下全職員、直ちに学校に出動し、男女両控所、小使室、宿直室を開放し、控所にはストーブを焚き付けて、避難者の便益を計ると共に、諸管理の任に當る。
 二、其の後の處置
1、児童に對しては臨時休業の旨を直ちに公示す
2、通常女教員一名宛の日直員を男教員二名とす
3、全職員は直に被害地の現状視察に向ふ
4、平常一名宛の宿直員を二名に増加す
5、罹災者に對する處置
 (1)、當朝、罹災者に對する給食は握飯とし、女教員之か任務につく
 (2)、當夜より尋一男女、尋三女の各教室、小使室、宿直室を開放し、罹災者の宿泊所に充てた
 (3)、罹災者の宿泊所には、敷物、火鉢、ストーブを配置す
 (4)、當夜より宿直員外二名の不寝番を設けて、火氣其の他の取締をなす
6、三月四日以後十四日に至る迄同一方法を繼績實施す
7、三月四日には職員総動員で被害家庭を訪問し児童の状況を調査す
8、三月七日再び職員総動員で被害家庭を訪問し児童被害状況の詳細な調査を行ふ
9、職員交互に町當局の罹災民救濟事務を應援す
10、三月八日満洲派遣兵へ郷土月報(海嘯號)を作製之を發送す
11、三月九日より實習室に於て町内整理の爲めに立ち働く消防手等のため炊事をなす
12、三月十一日被害児童に對し第一回目の配給をなす
13、三月十三日第二回目の配給をなす
   三、収容人員
三月三日現在にて廿三家族、其の人員百三十二名

第三項 交通、通信方面

 流言は流言を産んで、大槌町全滅の爆破的噂を耳にした町出身の他郷土にある者及び親類縁者は、どんなに心を疲れさせたことであらう。
 遠くにある人々は、その報道の遅いのに劫をにやし、配達される新聞には「遅し!!」とばかり、直ぐに縋りついたことであらう。
 刻々に被害地の酸鼻が報ぜられる。けれども大槌地方の記事は出ない。アナウンサーは附近の情況を報するが、大槌地方の事は放送してくれない。
 釜石の様子は報ぜられた。宮古の事は報せられた。山田の事も報ぜられ。
 然し、大槌の事のみは報ぜられない。海嘯鳥瞰図には、これ等の地方に挾まれて居て、當然大きな被害を豫想される。我等が大槌— 一体何うなつたのだ?
 心は非常に動揺する。安否を氣づかうた電信の返事まで來ない。ほんとうに何うした事だらう。
 一つ刻、一つ時の間さへ心もとなくて、じゆつとして居られない。
 状況がわからぬ迄も、せめて電信の返事ばかりも來さうなものだ。
 一つ体どうして居るんだらう。とんまな奴等だ。
 併しなあー、斯んな事では、大槌は全滅したんぢやなからうか?等、随分心配せられた事であらう。
 全く當地方の報導は、各地のそれに比し非常に遅かつた。併しこれは海嘯襲來と共に、交通、通信の両機關は、全く破壊せられ、ために一切の消息を絶たねばならなかつた實情にあつたからのだ。それでも若し假に、通信、交通の両機關として、取り残されたそのものを拾ふならば、僅かに、ほんの僅かに、舊道を息せき切つて來るのが、通信のもつとも迅速な方法であり、此の舊道を喘へきつつ辿り着き、辿り行くのが、唯一の交通だつたのだ。左にその状況を、日次を逐ふて記録し、以て参考に供す。
 三月三日
 1、自動車不通(小鎚橋、安渡橋共に落橋)
 2、電信、發信不能、來信の受付をなす(釜石局を通ず)
 3、電話、市内被害地及び長距離電話不通
 4、三陸汽船入港せず
 三月四日
 1、自動車不通 釜石方面への交通路は室濱橋急架工事を施し、之を通り白石より自動車便に移る
 2、電信は依然として來信のみ受付く、發信不能
 3、海軍及新聞社の飛行機視察の爲飛來
 三月五日
 1、新聞始めて來る
 2、始めて三陸汽船入港す
 3、大湊より驅逐艦入港
 4、通信交通機關前日の通り
 三月六日
 1、電信は盛岡へ直通可能となる
 2、盛岡工兵隊より架橋道路修理のため四十余名來槌
 3、其の他通信機關、自動車の運轉は前日同様
 三月七日
 1、自動車未だに町内より直接出立し得ず
 2、長距離電話通ぜず
三月八日
 1、小槌橋、安渡橋、架橋工事夕刻完成
 2、自動車便漸く通す
三月九日 本校宿泊中の工兵隊歸隊

第四項 避難民の救護

一、学校のとれる救護
海嘯襲來と共に校長以下全職員、直に學校に出動し、男女両控所、小使室、宿直室を開放し、ストーブを焚き付ける等、避難者の便■を計り、諸管理の任に當つた。
二、概況
三月三日 學校への避難者は総計百参拾貮名で、宿直記事に依ると當夜は微震が藪回あつて、収容者は、戦々競々たる様子であつた。當町内巡視の夜警は、数回に亘つて學校の収容所を巡視した。
三月四日 罹災収容者は前夜より減ずる。疲労と安心の爲か多く熟睡状態であつた。
三月五日 前夜と大差なし
三月六日 本校内の避難者は漸次減少の傾向で概数百各位となる
三月七日 本校内の罹災収容者調査の結果、十四家族、九十三名。
三月八日 本校内の避難者はいよいよ減少して、総数六十余名となる。罹災者一同(伹戸主)を宿直室に集め明後十日より授業開始に付、各人の引揚げ予定等に関し談合をなす。
三月九日 避難者は本格的に本校を引揚げ、尋一男女の教室にある収容者は、其の数を減じ、尋三女の教室には一家族を残せるのみとなる
三月十二日 収容者全部引揚ぐ
三、急造バラック
 各部落に急造バラックを建築して罹災者中寄るべなき人々を収容した

第五項 各種團体の救護状況

一、概況
『近き火などに逃ぐる人は「しばし」とやは言ふ。身を助けむとすれば恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。』
 近き火より尚ほ怖ろしい此の災害、辛ふじて命の助かつたことを正當に認識し得た時には、無い家、有る家、一切の地上の物と物とが重なつて、歩むことすら出來ない状態であつた。
 此の山と積まれた破損物件を、罹災者も、非罹災者も、如何ともすることもも出來ず、弱められ精神力と肉体力とを、かこち、ある大きな外部よりの救援を待つより他ないありあさまであつた。
 そこへ期待通りの救ひの手が、トラツクで、或は團体徒歩で入り込んだのだ。ほんとうに、ほんとうに云ひやうのない嬉れしさと、力強さとを覚へたことか、ただ涙してこれを迎へ、この人々に総てを委かした。
 救援の人々は夫々消防服、労働服で元氣一杯の体を包み、各種所要の器具を携帯して、學校に陣取る者、一般家屋に宿る者、皆、號令一下この非常時に喜ばしき活動振り、やがて各班に別れて破損物件の取かたづけ、交通整理等の激烈な労働に從事された。
 それは単なる肉体上の援助のみでは勿論ない。自然の猛威にうちひしがれた、弱い哀れな人どもの魂に或る一つの信念と生命とを與へてくれた。
二、來槌御應援の團体名及其他
三、大槌消防組
 第一部より第五部まで、海嘯襲來直後より三月末日に至る間、組頭以下一三二名出動し、破損物件の取りかたづけ、交通整理、屍体捜索、夜間警備の任務についた。
四、大槌自警團、青年團
 総員を動員し、消防組と協力して晝夜兼行各方面に努め、其の行消防組に同じ
五、人命救助の功労者(大槌消防組)
三浦 宗助  三枚堂 忠蔵  小笠原 謹六  山崎 虎太郎
鳩岡 福彌  前川 三郎   濱田 重蔵   佐々木 仁右衛門
谷澤 清蔵  田代 仁太郎  北田 六右衛門  越田 一太郎
竹澤 徳治  前川 義雄   芳賀 吉太郎   越田 深次郎
前川 徳右衛門
六、消防美談
其の一
 地響をたてて來た第一回の波は、倒すものは倒し、流すものは流して忽ち天地の潰滅せるかに思はせ、今が今まで平和なる里、我が大槌を、一転阿鼻叫喚の巷と化せる中に「助けてくれー助けてくれー」と、絶叫する聲が物凄く吠ゆる浪音に絡まりて、切々たる哀調を帯びて悲痛限りなく断続的に聞こえて來る。
 此の夜、第五部詰めの警戒長、一等手三浦宗助氏及び他の四名は、海嘯襲來の兆と共に萬全を期して町内の人々を逃がして居たが、最後の人を逃してやると間なく、目先き五間を隔てず最初の波は押寄せて、古澤徳松氏宅前まで來る。稍々汐の退け目を見定めて、之等消防手が大聲を張り上げ、聲のかすれるのも知らず、逃げ遅れた人々のために「出ろー!!出ろー!!」「今のうちに逃げろー!!」と、叫びながら各所を駈けづり廻はる。助けを呼ぶ聲を聞いては、闇を突いて其の聲を頼りに眞一文字に跳ぶ。體は綿の様に疲れる。併し我等の使命此處にある。斃れて後ち己むよりも、斃れて後ちなほ己まず、人命救助するを本懐として活動して居たが、中に見れば顔中を血だらけにし、ハアハアく苦しげに空を仰いで、歩むことも出来ない土方三人あり。如何にともし難きままに、消防手二名にて之を安全地まで運びて、避難させた。又、澤舘駒三氏宅前には泥酔者の如く、フラフラして立つことも出來ない者がある、見れば逃け後れた土方二人、之には一名をつけてのがれさす、小笠原鹿之助氏宅前まで來て見れば、破壊船が道路を遮断して居る。實に怖しい光景だ。其處此處の家は倒潰し、様々な物の破片が混乱して居る。踏まふとしても足の踏み處もない。提灯の影のさす限り、雑然として泥土と雑物の海だ。と、先の船からかすれ呻く様な聲で救を求めるのが聞える。提灯を翳して見れば、破船の間から大風呂敷包を脊負つた十四五才の娘が、なよかな姿して、顔面愴白に髪振りみだして、顫えながらも懸命に破船の横木に縋り、鈍い眼をこちらに向け紫色の唇を動かして居る。之を見るや身を躍らして破船に跳び移り、此の娘を小脇に抱へて飛下り、其處へ來合した伊藤組付小頭に、瞬間的に之を手渡して走らせた。破壊船を廻りて進まふとする時、向ふの破壊家屋の屋根のかげで、四五十才らしい女の人が救を求めてゐる。単身之を助けやうとそばの船に登る。この時ウワーとうなりを生じて、一丈二三尺もあらうか第二回の波が押し寄せた。三浦消防手は瞬間的に、船から只一跳び屋根に移つた。見れば此處は佐々木勇次郎氏宅の屋根だ。更に危険は迫まる。身を挺して澤舘駒三氏宅の屋根に移る。時に、大きな昔を立てて電柱が倒れて電線一齊になびく。その電線にはね飛ばされてトタン屋根上をころげる。斯くして先の女の人を助け得ず、そのまま一町程押し流された。
 この間、人の死より脱出しようとする懸命な叫び、うめき、叉は漸次衰へて行く悲痛な叫びを聞いだが己も押し流されるままに、これを助けることも出來ず、已れも亦静かに決心のほぞを固めなければならなかつた。浪も此處らで止るらしい。静かに水深を測ると四尺五六寸の深さだ。第三回目の襲來を豫想し乍ら一大決心と共に水に飛び込み、電氣會社のサーチライトを目標として、武装のまま懸命に水を蹴り、泳ぐに泳ぐ。その途中哀れな叫び聲を聞くけれども、何處とも解らず、抜手をやすめたが如何とも出來ないので、再び流され來る様々のものをかきわけかきわけ泳いで、やうやく福島屋の垣根まで着く。垣根を破り裏に出た。然し体が冷えて手足が自由でなく立つことすらも出來ない。ここで金崎清蔵氏の手によつて救はれる。この時、前の女の人の話をして、方向を示し救助に出動を促したら、同僚は直ぐに跳んで行き、暫らくして之を救助てし來た。頻死の状態にあつたが、よくよく見ればそれは柏崎嘉吉氏の妻であつた。
其の二
 「呑氣と言へば呑氣、津浪だアー!!と言ふ叫び聲で始めで起きあがつたわけで・・・・・・・・。」
 彼、濱田重藏消防手の家は安渡の山の手の安全区域にあるので、人々はあはてふためいて避難して行つたが、自分は好氣心も手傳つて態々濱邊の方へ下りて來た。
 倉子屋の前まで來て見ると、もう第一回の波が引けて行つた後で、地表をよく見ると一面に濡れてゐた。
 「これが津浪と言ふものか。だつたらあんなに悪聲を張り上げて避難する迄でもないな。今に「なあんだ」と、山を下りて來るさ」
 其處に集つた、五・六人の青年團の連中と「津浪恐るべきものにあらず」を話し合つてゐる處へ、地響をたてて、それはなんとも言はれない無氣味な音をたてて、家を倒し、流す、第二回の水が襲來した。
 「それ!!大きいのが來だぞー!!」
 忽ち、皆、夫々に避難した。彼も足駄をはいたまま逃げた。が、あの水では相當な被害がある。人命にも大きな影響があるに相違ないと思はれたので、こんどは消防服に身を固め、長靴をはいて出て來て見れば、阿部勘五郎氏も懐中電燈を持つて出て來た。電光で其の邊を照らして見れば、惨たる状況は全く朝と同じで、建設したばかりの第三部の消防屯所は、そのまま流されて向側に突き當り、裏側の家々はみな押しまくられて、町の道路と濱邊との道路を完全に遮断して終つてゐた。
 「助けろー!!助けろー!!」
 男の聲、女の聲が入り交つて、それ等の倒潰家屋を越して濱邊から響いて來た。
 それッ!!とばかり、屋根を跳越え二人は水を越え越え(此の時はまだ一尺ばかり残つて居た)聲のする方に行つて電光で見れば、家内中二階に避難したまま流された、松村春治一家であつた。二人は夫々背負ひ又は手を引いて、現在どの方向に流されて來てゐるやら皆目わからない、之等の人々を里舘彌兵衛宅まで運び、屋上の他の連絡員に渡して安全地に運んだ。すると再び同一方向より、助けを求める聲聞こえて來た。行つて見れば、前記の場所より十間程沖合の倒潰家屋の廂の下で、裸のままの子供三人が、ふるひ乍ら父親に縋りつき、父親は叉離すまいとしつかと抱いてゐた。
 此の父親—三人の子供を殺すまいと、両手で差し上げて、水から逃れさせ、或は頸にのせかかえては水より離してこれ迄来た。そのさまは直覗の出来ない哀れな状態である。—
 間も置かず。阿部は一人の子供を、彼は二人の子供を奪ひ取らうとすれば、父親何を思つたか、離すまいとした。
 「大丈夫だ。俺等は此の子供達は必らず助のてやる。安心して渡せ」と。
 元氣をつけて之を離し取り、そのまま安全地帯まで走つた。勿論父親も後からつい來たものと思つた。
そして、三人の子供を連絡員に渡して之を救助した。此の家族はもう一人子供の救助されたのがある。それは第一回の波に既に流されつつ居たのを、我が子を探しに出た、前川三郎氏に救助されて居る。が、併し外に六名の犠牲者を出した程不幸な家族である。
 三度救助を求める哀れな聲が聞えて來た。電光を便りに濱邊に突き進めば、二渡神社のの高處から、「津浪アー來たアー!!、逃げろー!!、早く逃げろー!!、」
 と叫び、わめかれた。電光を持つた阿部は躊躇したが、彼は単身、尚ほ濱邊に進んだ。と、前記の三人の子供の父親—里舘太郎が先きに一所に走れなかつたと見え、前の場所から流された佐藤慶蔵氏の納屋の處まで、僅かに約一十間もはつて來て居た。此の姿を見せられた時、思はず全身に水をかぶせられたやうな恐ろしさを感じた。その瞬間逃げんとまでした。
 山からは一生懸命に
 「逃げろー、水ア來たアゾー逃げろー!!」と、警戒の叫びが聞こえて來る。然し、断然此の人を助けやうと決心して近づけば、はつて來て、いきなり「ガッチリ」と、つかまつた。背中を向けて「おぶされ」と、言つたが、何分腰が抜けてゐるのでつかまれない。
 山では山で、濱邊にゐるらしい人達に警戒する爲に叫ぶ、騒ぐ。
 「早く逃げろ!!津浪ア來たアぞ!!」
 無我夢中で、此の男をかついだ。海なりが激しい。洵、第三度目が襲來して來たかも知れない。暗い道路に非ざる地表を走つた。そして安全地に到達して此の大の男を他の連絡員に手渡した時、自分の心と体が一時にゆるんで終つた。
 その後夜明け迄安渡全体に向つて人命救助、負傷者の手當等孔々として盡した。

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來槌御應援の團体名及其他

第六項 聖上陛下の御仁徳

  縣下震水害の惨状が 天聽に達するや我が至仁至慈であらせらる
 聖上陛下には畏くも深く御軫念あらせられ、御内帑を御開き給ひ、且叉大金侍從を御差遣あらせられて、惣民難苦の窮状を撫察し給ふ。仁風恵露の及ぶ所、皆感涙にむせんだ。
  御下賜金
  岩手縣 三萬圓   宮城縣 八千圓
  青森縣 千五百圓  北海道 二百圓
 畏き邊りの思召により、宮城縣・岩手縣・青森縣下の震災状況覗察のため派遣された大金侍從は五日仙臺に到着、三縣知事に對して御優渥なる御沙汰と、有難き御内帑金とを御傳達なされ、直に十日間の御豫定にて、震災地に御發向なされた。當町には、八日御來町、後藤町長の御案内にて震災地の惨状を視察在された。

第七項 慰問状況竝に慰問金品

一、状況の一
 三月九月學校は混乱の最中にある時、玄關側に一個の新聞包が置いてある。誰かの置忘れものであらうから、その中に取去られるものとしてゐたが、翌日になつても取去られない。持主が不明であるので、止むを得ず開封して見ると、半紙五百枚と鉛筆四打入れてあり、小さな紙片に「わづかですが、被害児童へ・・・・・・無名」、と記してある。校長は早速此の由を掲示板に示すと共に、更に控所に学校新聞としてこの由を掲示して、児童と共に感謝の心をわかち、新聞紙上にて無名氏に對し、謝意を表する手筈を取つた。
 状況の二
 三月九日、東京市區會議員南金太郎氏外青年團員幹部数名、大きなズック袋を背負つて來校、大槌町被害青年團員にとて、現金八拾圓を贈られた。
 余りに當地到着が早く、渡されたものは皆銀貨であることに不思議をいだき、之を伺へば、三陸地方海嘯の報を受くるや、青年團の人々は、夫々街頭に立ちて大衆に義金を仰ぎ、その上紙幣にすれば、持参の都合はいいが、被害地の人々の便利を考へ銀貨のままズック袋に入れてこのとほり被害地までで背負つ來た。とのことである。
二、救濟及慰問金品調 (十一月三十日迄の分)
一、大槌尋常高等小學校
(イ)縣よりの地震竝に海嘯罹災児童救濟費
三、六七五円・三八 (二、四四八円・三八銭・四厘 給食、被服、学用品代)
          (一、二二七円・〇〇銭・〇厘 一人三圓宛四〇九人分)
(ロ)縣教育會よりの救濟
    教科書   六三〇人分
    夏期練習帖 六三〇人分
(ハ)町當局よりの救濟資金
    罹災児童— 一二一人
    配當金額— 三二圓六七
    一人當—  二七銭
(ニ)各地よりの慰問
 (A)、物品
   品名         寄贈者           数量
  古教科書及学用品   本郡遠野小学校殿       七箱
  半紙         人類愛善会殿         一二、〇〇〇枚
  雑記帳        埼玉縣豊岡町繁田武平殿    二〇〇冊
  半紙及鉛筆      無名子殿           半紙五〇〇枚 鉛筆四打
  雑記帳        昆政次郎殿          三〇〇冊

 (B)、金員
   金額         寄贈者
  七三円〇〇      上閉伊郡内小学校児童一同殿
   五・〇〇      木谷キヨ殿
   五・〇〇      岩間徳太郎殿
   五・〇〇      富山縣滑川小学校殿
   二・八〇      本町一ノ渡分教場児童一同殿
   一・三五      本町一ノ渡女子青年團殿
   五・〇〇      無名子殿
  三〇・〇〇      盛岡教育会殿
  三〇・〇〇      岩手縣教育会殿(施設費)
 二一四・〇〇      岩手縣教育会殿(高等科児童へ)
 一〇〇・〇〇      木村茂太郎殿(施設費)
 二二九・六七      岩手日報社殿(施設費)
   四・九二      町役場より交付を受く
 計 七〇五・七四

2、大槌實科高等女學校
(A)、町當局よりの救濟資金
     罹災生徒—二九名   配當金額—七圓八十三銭  一人當—二七銭
(B)、物品
    品名       寄贈者        数量
   古着        和洋女子専門學校殿  一個
   古着        東京實践女學校殿   一八箱
(C)、金員
    金額       寄贈者
  一五円〇〇      千葉縣國府臺高等女學校殿
  一〇・〇〇      東京光風館書店殿
   五・〇〇      福島縣菊池ヨシエ殿
   五・〇〇      無名子殿
  九八・〇〇      岩手縣教育会殿
 計一三三・〇〇

3、大槌水産専修學校
(A)、町當局よりの救濟資金
     罹災生徒—六九名   配當金額—二〇圓〇一銭  一人當—二九銭
(B)、金員
    金額       寄贈者
  一〇〇円〇〇     盛岡キリスト教聯盟殿(設備費)
  二一六・〇〇     岩手縣教育会殿
 計三一六・〇〇

三、配給状況
1、震災直後罹災児童全部に學用品を支給した
2、其の後、家庭の被害程度竝に其の他の事情により、次の四階級に分けて配給した
(1)、教科書だけ支給せるもの
(2)、教科書竝に學用品を支給せるもの
(3)、教科書學用品竝に被服を支給せむもの
(4)、教科書學用品被服竝に畫食を支給せるもの
但し學用品竝に畫食は今尚支給方継続中

第八項

一、警察應援隊
當日正午を先着として應援隊來援し、治安維持の任務につく
(イ)、遠野署(七名)(ロ)、縣(三名) (ハ)、黒澤尻署(三名)(ニ)、花巻署(二名)
二、臨時出張所
 大槌町吉野々々部落に、當日より出張所を設く
三、暴利取締
 濫りに物資の高騰を圖る者無之を保し難いので、随時之を公示す
四、民心の安定
 民心を一日も早く安定させやうとして、流言蜚語をなす者を厳重に取締るため随所之を公示す
五、憲兵分隊、騎兵隊來援
 四日午前四時頃、憲兵分隊及び騎兵隊より警羅を目的として、凡そ十二三名來槌、一時學校女子部控所に休憩し、曉を俟つて活動に移る
六、夜間の警備
 夜間三人づつ三班に分れ、其他各種團体より参加させて、曉になるまで警戒の任につく
七、概況
 嘗つて十幾つの頃、或る山村に遊んだ或る夜中起き出て、暗い空を見てゐる中、ふと、今火事が出たら
洪水が出たら、人殺しが狂ひ出したら、一体此の人少なの村は如何なるのだらろ。と、考へさせれた時、人里離れた山村の限りなく、寂しく、便りないことを嘆じたことがあつた。
 今此の町、此の部落は、将に當つてまんぜんと感じたそれを、益々進んだ頭で考へさせられた。三日の夜から濱側の倒潰した家は勿論、倒潰しない家でも、皆、山の手の安全地帯に逃れた。
 自分等は泥水の洗禮を受けた家の二階に踏み止つて、毎夜額を集めて不寝番をした。小さな地震でも、直ぐに寝入つてゐる家族に知らせては、濱邊に出て、暗い無氣味な海潮を見て來るのだ。その附近は何となしに死氣と陰氣を感ぜさせられた。斯うして四面楚歌の中に孤城を守るやうな、緊張と苦しさと、便りなさを感じ續けてゐる或る夜、憲兵と騎兵二名が青年團員と來り、夜警をすることになつた。
 「今夜こそ、ぐつすり、ほんとに高枕で寝られるぞ!!」
 憲兵は青年を集合させて、之を第三班まで編成、夜警上の注意を嚴粛に話す。総て軍隊式だ。
 之等の夜警の人達は、夜明まで規律的に、粛々と交代、海の方の警戒と、此の頃出て來たと言ふ、盗賊の警戒とをしてくれた。此の附近の人達は、皆此の懸命な夜警に對して、力強さと感謝とを感じながら、疲れた身心をゆつくりと休ませたことであらう。

弟九項 救護衛生施設

一、救護班の來援
1、田村救護班 医師 一名  看護婦 一名、
2、騎兵隊救護班 看護長 一名 看護兵 一名
3、赤十字救護班 医師 一名  事務員 一名 看護婦 二名

二、來援到着日
1、田村救護班  三月三日
2、騎兵隊救護班 三月四日
3、赤十字救護班 三月四日

三、概況
 來援隊及町医とが各部落に分かれて、當日より廿五日迄罹災者無料、尚一般町民でも資力の少ないものには無料にて施療した。(田村救護班は主として吉里々々部落)けれども全般に對しては、手不足を町民に感ぜしめたやうである

四、取扱者数(自三月三日至四月二十五日)
1、古谷救護班  男— 五九八名  女— 四三〇名
2、大宮救護班  男— 四六〇名  女— 四一四名
3、田村救護班  男— 二三一名  女— 一八七名(自三月三日至三月一四日)
4、赤十字救護班 男— 五二名   女— 四八名 (自三月六日至三月十一日)
5、騎兵隊救護班 男— 一二四名  女— 七六名 (自三月四日至三月八日)
6、藤井救護班  男— 三六名   女— 三六名 (三月三日當日のみ)

五、防疫事務囑託
(イ)一名を囑託して絶えず巡廻せしめ、患者の有無、傳染病の調査、消毒藥品の配給をなさしむ
(ロ)ヘテロゲン二千人分、傅染病患家附近の人々に服藥さす

六、臨時種痘施行
三月二十七日全町に亘つて之を施行す

七、屍体發見及び慮置
三月三日より六日に至る四日間に亘つて、屍体四十四個を發見し、或者は役場で假埋葬に付す。其の後五月二十九日迄に九個發見され尚行衛不明は八名である。(六月一日調)

第十項 電燈の復奮竝に被害高

 海嘯襲來後尚凄愴と恐怖とを感じさせたのは夜間であつた。電燈の復奮は其の後遅々として進捗せず、暗いランプのもとで、幾夜家族が額を集めて、わびしく海嘯を語つたことであらう。
 やがて近い部落から漸次明るく復奮した時、人々の心からも亦、ランプのしんのジイジイするいらただしさは消えて、晴々として來た。
海嘯被害調

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海嘯被害調表

第十一項 犠牲者を語る

一、ことば
 「露の世は露の世ながら、さりながら」
 何人目かの可愛いい「あこ」を、此兒こそはと思ひつつも、遂に死なせた時、そう言つて、必然的事象と知りつつ、死を哀れんだ人生詩人、小林一茶でなくとも、静かにあるがままの生—到達すべき生—を、考へた時、誰しも世の無常をわびしく哀れに思はずには居られません。
 空ッ風の吹きまくりて耳朶を赤く染めしむる、一月・二月も過ぎて、三月が来たのでした。三月こそは世の人達に麗かな春日和を思はせませう。不景氣を解消する神の御聲とも響くでせう。
 「暖かくなつたら、その時こそ思ふ存分働くのだ。その時こそ家内の者にも不自由のない暮らしを立てさせてやるのだ。」
 「三月、この末には卒業するのだ。進級もなし得る。上級學校へも行ける。」
 三月!!まさしく三月こそ早春、新芽、躍動すべき楽しい生々した生活を予想させてくれる、強い叫びでした。大槌町は此の頃の不景氣に次ぐ不景氣の為め、生活の窮迫は想像以上のものでした。電燈料不拂の爲め電線を切られた家は続々と出て参りました。十銭、二十銭の小銭が大切に融通されてゐました。けれども、人々は暖かくなつたならば屹度働らいて見せるぞ。と、灰色の空と鉛色の海を眺めながら、やせさらばへながらも、かすかなる生の索をたどりつつ、只、來れ春!!と、祈つてゐました。
 「待てば海路の日和あり。」待ちに待ち詫びた春は、遂ひに來ました。
 春の前奏曲を奏で乍ら、三月は來ました。一日の日は去り、二日の日も暮れて、夜のとぼりの深くなるにつれ各々家中、爐邊にうち集ひて、今日漁などれる糧から花を咲かし、明日、三月三日の雛の節句のことに迄で及んで床に就きました。かうしたかぼてい烟り立ててゐた町の家々にも、かくして此の夜ばかりは一家まろかに、つぶらなな夢は結ばれ、樂しかるべき明日、三日の御節句が胸に展けてゐました。
 嬉しい三月の御節句!!女の子供達は小さな赤いお口で「私達の世界」を聲高らかに歌ふ日だつたのです。地方に依つては盛んなお雛様の自家祭が営まれる女児の喜びの日です。だが私達には、此の日、唐突にも、怖ろしい、恐ろしい、津浪が襲ひかぶさつて來たのでした。
 前の二十九年の津浪は、奮男の御節句、こん度の津浪は女の御節句、偶然とは言ひ乍らも、そこに見えない脉絡の、索の様なものを感ぜさせられます。そして貴方方の大切な「いのち」を、犠牲にして行つたのでした。
 「死期は序を待たず。死は前よりしも來らず。かねて後に迫れり。沖の干潟遙なれども、磯より潮の滿つるが如し。」
 誰が津浪—死を予測し居たでせう??私達は歴史上の津浪と、それにまつはる悲惨さは知らされてゐます。けれども、今、目のあたり展げられた惨事に對して、只、自失するばかりでした。その昔、荒くれをのこのアイヌ人が「あなたに子供があるか。ない者に物の哀れなどわかるものでない。」と、言つたそうです。子供は無くとも、近親者でなくとも、あなた方の惨事に出會う前迄の、生の営みの跡を眺めさせられた者として—さなきだに泪おほきものを—。今は、只、貴方方の御霊に、ほんとうに、ほんとうに心の底から、お慰めの言葉をおかけいたしたいのです。
二、人々
町方   上野 寅次郎   上野 清之亟    上野 テル    上野 イソ
     上野 ジゲ    上野 重三郎    中村 リハ    中村 アサ
     中村 リイ    佐々 ハル     中村 圭吉    佐々 サキ
     小川 リワ    志田 ソテ     中島 儀蔵    加藤 恭平
     志田 勝郎    岩間 ハツ     岩間 興八    岩間 鐵三

安渡   山崎 ヤス    山崎 光平     田中 タツ    倉田 キク
     前川 セツ    三浦 鐵五郎    小國 喜蔵    小國 博
     里舘 義雄    平野 桃太郎    前川 フサ    前川 キヨノ
     前川 圭吉    里舘 キヨノ    里舘 ヨシ    里舘 サメ
     里舘 カツ    里舘 ミヨシ    里舘 芳雄    佐々木 チエ
     越田 エヲ    佐々木 トクエ   佐藤 ヤス    其の他一(岩舘政蔵ノ子供)

吉野々々 佐々木 シキ   三浦 種吉     角地 トヨ    三浦 ウシ
     芳賀 若松    行川 嶋太郎    竹本 清蔵    堀合 重五郎
     越田 松五郎   芳賀 賢治

他郷ノ人々 渡邊 當地(秋田)  太田 勝秀(青森)  上野 一郎(青森) 一町田 源太(秋田)
      川口 宇之助(秋田) 澁井 佐之(秋田)

三、その頃
▲加藤恭平君(洲崎)
 盛岡商業への受験生だつた君は、あの晩も受持の先生の所へ夜學に行かれたそうだ。先生は言つてゐます。「君のあの晩の顔が忘れられない」と、君は夜學をする爲め白石の實家にゐず、只一人洲崎の納屋に別れ住んでゐて、此の災厄に會つた。二日の日、實家に何の用もなしに行つて居つたさうだ。うちの人々は「お別れに來てゐたのかもしれなかつた」と、言つてゐます。

▲佐藤ヤス様(安渡)
 貴方は、恰度二日の日に、用事の爲め釜石から御出でになつたそうです。そして、妹である安渡の越田セイ様の所に立寄つた。その夜は大槌の蓮薬寺の上の岩間三右衛門氏方(安全地帯)で、一泊するつもりだつたが、久し振りで會つた妹さんと、語りに語つて遂ひそのまま泊つて、二人共あの恐ろしい災厄に會つたのでした。貴方の御子様が、貴方のなきがらを探しに來て、「まるで死にに來たやうなものだ」と、語つてゐました。ほんとうにそう思はざるを得ません。

▲前川圭吉様(二人のお孫さん)(安渡)
 貴方は、二人の男のお孫さんを連れて避難されたそうです。足の悪い祖母は、一人の孫を背負ふたが、マガマガして居られたので、三郎氏(息子さん)は、それをそのまま、つまり母と子供を二人背負つて、安全地帯まで運んで、再び貴方方の様子を見に自宅の方に戻れば、最早自宅もなく、貴方方の姿も何處にも當うない。血眼になつて探してる裡に、第二回目に襲來され、自分もほんとに辛ふじて助かることが出來ました。翌朝三郎氏は、貴方方三人のなきがらを見出す可く、倒壊家屋の中を、或いは海岸に、じつと腕組みしたまま立つていつまでも、岸を、水を、見つめてゐました。事情を知つた人々は、思はず、顔をそむけました。ほんとに、生と死と何秒かの差でした。

第十二項 海嘯美談

其の一
 此の家族はすぐ目の前には、大槌川の川水と大槌灣の海潮とが相交錯してゐて且つ避難に不便で、死人を数人出した安渡川口に住んでゐた。
 「津浪なぞ人間一代に二度も來るものか」
 あの猛烈な地震に反射的に起こされた一家五人、寒さにふるへ乍らも父に津浪襲來のことを尋ねた。然し五十二才の父は皆に斯う言つて安心させながら寝せたのである。けれども心配でならない。眠るべく余りに不思議な地震がさまざまな次の恐怖を考へさせた。これ以上の恐怖が來ては一大事だ。そうだ。支度をしてゐなくては・・・・・とズボンをしつかりはき上着を着た。皆は床の中に入つてゐる。自分は着たままで床に入つたが寝つかれない。
 チョロチョロと前の川の水があはただしく引け始めた。不思議だと思つてゐると川向ふの大須賀、向川原方面での騒ぐ音が聞こえた。
 「寝てはゐられない」
 父親を起した。そして父親と一所にとび起き兎に角今夜は寝てはならない。夜明しをしやうと思つて自分は裏口へたいまつを探しに出た。表へ父が出ると間もなく「津浪だあ」と言ふ他の聲と父親の聲が一かたまりになつてとびこんだ。
 妹も姉も母も眞暗い中を逃げた。自分もたいまつを投げたまま逃げた。電燈も消えてゐた。全くの闇ではあるが瞬間的に目ざした目標に向つて走らうとすれば白べ光る大きなものを見る。
 「これは大變だ」
 と見ると暗い中に一人の子供がウロウロしてゐる。やにはに妹(九才)をかついでお寺へ行く二・三尺の小路を走つた走つた。だがヤトイ(海苔をほす臺)が澤山ならんでゐる。暗さは暗いゴーゴーといふ海鳴が後から後から押寄せて來る。走つた。ころんだ。妹がその勢で手からはじきとばされた。再び妹を探してはかついで走つた。途中でころぶこと数度漸くしてお寺の高地へ到達して妹をおろした。今まで一言も出さなかつた妹が急に救はれた喜びにか恐怖のゆるみにか泣き出して母を求めた。急に自分も心配して母を探したが見當らない。と、かすかに
 「建治ー建治ー」
 といふ慥かに母の聲が前方の畠の中から聞こえてきた。最早その時はゴーゴーと海水がすぐ下の底地まで押寄せてゐたさなかである。早速そのことを父に告げ一所に山を下つたが父は着物を脱いで裸になり単身水の中にとびこんだ。遂に木にしつかりとづぶぬれになつたまま縋りついてゐた頻死の母(五十才)を助けることが出來た。大槌水産專修學校前期二年黒澤建治(十六)
其の二 遞信大臣から表彰
 今回の大津浪によつて三陸沿岸一帯の三等郵便局はほとんど全滅し、流失倒壊六局、浸水六局、局長の死亡一名、重傷一名、従業員死亡七名、重傷四名を出した。仙臺遞信局では震災にまつはる美談哀話を調査中であつたが十五日功労者十六名の表彰方を内申した。この内十一名は可憐な交換手達で「津浪襲來」のSOSを逸早く最寄りの郵便局へ急報し幾多の尊き人命を救ひ出したものである。尚津浪襲來の警報を發して釜石山田兩町を恐しき惨禍から救ひ出し感謝の的となつてゐる大槌郵便局交換手佐藤ひめさん(二二)に對して特に遞信大臣の表彰方を安光仙臺遞信局長から十五日上申したが、一へき村の三等郵便局従業員が遞信大臣から表彰されることは今回が嚆矢である(東京朝日新聞所載)

第十三項 海嘯奇談

その一
 「こんな時には何か起きるだろうから着物をどつさり着てあたつて居よ」
 強烈な地震中ふるひ乍ら寝床の中にあつた二人の兄弟(弟は九才)を起して母は海水を見に外へ出た。
 兄弟はいつもの服の上に袷を着て武者ぶるひしながら小さい煙の火にあたつて母を待つてゐた。「何か起きるのではないか」こんな時に母一人小さな兄弟二人の少人数と隣近所の離れた全くの海邊を寂しく思はずには居られなかつた。
 間なく歸つた母は私に「お前も出て様子を見て來い」と言ふので暗い外に出た。「前の水は引けぬか」と注意されたので良く見たが引けない。尚見てゐると水は引けぬ乍らも白く光り出しいつもより細かな音をし海水がふるひ出した。ふと遠くを見れば白く光つた大きな高い波は岡に當つて崩れるのが見えた。とつさに「津浪だあ!」と叫び乍ら飛び歸れば弟はその聲を聞きつけて外へ出る。母は「お前達は先へ逃げろ」と悲痛な聲をふりしぼる。弟の手をしつかりと握り母の叫びを後ろに聞いて闇夜を疾走した。バッタリ倒れた弟を乱暴に襟元をつかんで引づりながら「うんと走れ、早く」と叫べば漸くにして起き上る。後ろからゴーゴーと地響が聞こえる。「うんと走れ。うんと」としきりにあせつたが遂に追ひつかれた。「あつ!」と思ふ間もあらせず胸の高さまで來た水にどつと二人共倒された。最早弟を失つたことに氣づかぬ。只懸命に泥水の中を動き廻つた。と其處へ好運なる哉一隻の小漁舟が横押しに押されつつ此の児を救ひ入れんとするが如く、忽ち半身を舟の中に縋らせ脚をぶら下げたまま流れ一軒の家につき當り丁度自分は家と舟との間にはさまれてひしげて終ふ様だ。全身のカを脚にこめて家を蹴り漸く舟を離す。そして町方の裏田の間を舟は数度も往來する。手足は凍えて自由ならず。もうこのまま死んで終ふのだと思はれた。その中に水は引け舟に乗つてどんどん沖の方へ退く。彷徨し乍ら白石の角まで來た時には夜がほのぼのと明けかかり、岡の方で話し聲叫ぶ聲が聞えて來た。「人だ!!人だ!!なんとかして助けて貰ひたい」頭をもたげて立上らうとすれば目がくらみ視力衰へ如何することも出來ない。そして舟は尚も沖の方へ進む。「俺も助からない。母も死んだらう。手放した弟も死んで終つたらう」始めて母、弟の生死の上に及んだ時全く悲しい氣持になり寝たまま涙が頬を傳つて止まなかつた。然し舟は尚も沖へ向つて進行を継續した。けれども、ああ、暫くにして聞える。慥かに聞える。ポンポンたる發動機船の朗かな音「今度こそ」反射的に立上つた。目もくらまぬ。痛い足を曲げて、叫び得ないで只船の方向に目を向けたまま突立つてゐた。
 「子供がゐるぞ、体中泥だらけの子供だ」遂に救はれた。斯くして母弟の二人を失つたが奇しくも数時間の後己れ一人のみ助かる事が出來た。大槌小學校六年生佐々木正男(十三才)

その二
 海嘯襲來直前の發光現象は學界人の研究題材に供せられてゐるが大槌町浪板漁夫加藤丑松(六〇)といふ老人の目撃談に依ると二日午後六時頃同町鯨山に上つて海上を眺めてゐると突如太平洋が眞赤になつたかと思ふと海水が噴火したのではないかと思はれる様に眞赤な海水が火柱の如き形態をなして沖天に打上るを見たと言ふ。發光現象と共に今回の災害と何等かの關係があるのではないかと見られてゐる。(岩手日報所載)

第十四項 海嘯哀話

 晝の烈しい遊びのためぐつすり寝こんであの猛烈な地震も知らない。ふと目が醒めれば同じ納屋にゐる水車谷右衛門と言ふ人があはただしく泣き騒いでゐる。
 「子供は夜早く寝るものだ」
 母はそれでも最後の訓示を今起きたばかりの子供に與へ乍らあはただしい中に箪笥を引き出して新しい絣の袷を兄弟(弟は十才)二人に愛の手もて渡したのである。全くすぐ近くの海からはゴーゴーと海鳴りがする。波は乱舞して今にも押し寄せんとするかのやう。家内全部充分に着物を着母は三才になるのをしつかり脊負ひ十四才の、娘は六才の子供を脊負ひ、八才になる女の子をしつかりと握る。家の中は大混雑、兄は弟を引連れて逃げんとする時、母は「オイオイ」只泣きわめいて救ひを求めるのであつた。
 「死ぬ時は一所に死ぬのだ。出てはいけない」と兄弟に叫んだが二人は遂に恐ろしさに一刻も早く逃げんと外に出た。一間位走つたかと思はれる中に遂に恐ろしい波は此の小さい二人を倒して終つた。二人はしつかり手を握つたまま、倒されたまま一間以上も流された。けれども流失物の爲二人は離れるともなく離れて終つた。兄は苦しさに桑の木に縋りつき上つた。弟も桑の木に登つたらしい。
 「アンナ(兄)助けろー助けろー」といふ叫びが彼方の桑の木から聞えて來る。間もなく弟の叫びも聞えなくなつて終つた。斯くしてゐる中に一艘の發動機船(七福丸)が押されて來て桑の木の側を通つた。瞬間的に桑の木よりこの舟に飛び乗り、そのままぐんぐん流されて行つた。斯くして流れるままに彷徨する。夜明ける頃甲板上に立つてゐる遠くに人々の出て來る姿、間断的に聞ゆる大きな聲が聞えて來る。
 「夜が明けた。親類の家まで行かう」として下を見ると尚水が澤山ある。けれども降りやうとすれば体が重くノタノタしてゐる中にバツタリ倒れて終つた。今まで動かないものがノタノタ動き出して急に倒れた。静より動への變動が遠くの人に發見され一人が慌てて飛んで來て此の児を助け起した。
 「よく助かつたなあ、母は何處にゐるか」と聞かれたが口の中には尚どつさり泥が入つてゐる爲答へることが出來ない。只始めて死だであらう皆の事が悲しまれて來るのであつた。
 斯くして生き残つて見れば、母(三三)弟(一〇)他家の娘(一四)妹(八)〃(六)〃(三)等の皆の者に逢ふことすら出來ぬ身の上にとなつた。一切合切只夢の夢の中に開けられた氣持ちがすることであらう。大槌小學校尋常四年生中村正太郎(十一才)

其の二
 工兵隊の活躍により、安渡橋が八日から開通したので安渡、吉里々々迄視察したが、安渡、大槌町の一部が殆んど全部が損害を蒙つてゐる。滿洲派遣兵の家族達が大金侍從一行を奉迎してゐのが特に目についた。
同部落で残つた十数軒の家の外は全部安渡川に押流されてゐる。交通が出來ないので縣土木課では應急施設として海岸際に道路を移してゐる。近村の青年團、消防組、在郷軍人百数十人が出動して倒壊家屋の取り除きに手傳つてゐる。一行は自動車で吉野々々に向ふ。此處は大槌の北端で交通も電信も全然不可能であつた爲に救助品の配給が遅れてゐたので僅かに残つた数軒の家にあつた米味噌で辛くも部落民がその日糧としてゐた所一日でも開通が遅れたなら大變な騒ぎが起きただらうとの話である。高い個所にある吉里々々医院の屋上に赤十字の旗が飜つてある。今日の侍從の視察を知つた部落民が、よごれて日の丸の赤がはつきりせぬ旗を陸に上つた船に高く掲げてゐるのも哀れである。その部落の行衛不明者は十名、小學生校徒の被害数戸は百七十四戸校長藤本覺氏は學用品が一品もないので何時開校してよいやらと途方にくれてゐる。災害地は何處も同じであるが、發動機船、漁船、漁具迄も一切合切ないんだから復興は何時やら判らない。同村の三浦種吉氏は熱心な法華信者であるが津浪が起るや部落の人の逃げ騒ぐを外に南無妙法連華経とやつたが御利益がない爲か五十八才を一期としてあのに世に行つて終つた。(岩手日報所載)

第十五項 児童生徒の感想

尋二 黒澤 えい
 三月三日のあさ、ぢしんがしたときには、うちの人はみなおきましたが、ぢしんがやんだので又ねました。そして私がねてしばらくたつてから、またぢしんがしましたので、又おきました。するとまもなくじどう車のはしるやうな、おとがしましたが、おとうさんが「じどう車だ」とおつしやつたので、私は又ねました。するとむかふで「つなみだ」とさけんでゐましたので、うちの人がおきて見たら、つなみでしたから、私のねえさんとゆきさんとにげました。私は「おばあさんおばあさん」とよびましたら、おばあさんもよろこんでゐましたので、おばあさんと一しよに山へにげました。おかあさんは、いもうとをおぶつてにげました。そしてしばらくたつてから、おとうさんが「牛をつれて來た方がよいだらうかな」といひました。そしておとうさんが「牛小屋まで行つて見たが家はこはれてないやうだ」とおつしやつので、私のどかどかしたむねはなほりました。

尋三 高橋 クニ子
 三月三日の晩の二時半頃の事でした。とつぜんおそろしい地しんがゆれました。私はからだ中ががたがたふるへてねてもゐられなかつたので着物を着て下へおりました。下ではあ母さんが着物を着てねどこの中にはいつてゐました。それから少したつてからです。表の方で誰かが「つなみだー」といふてはせました。私はだびをはいたまままつさきに學校さしてはしりました。後の方では子供たちがないたりさはいだりしてがやがやしてゐます。その時誰かが私の名をよびましたのでふりむいて見ると。ねえさんでした。ねえさんはいきせききつて私のあとをおつてきたのでした。そして私はねえさんと二人で一さんにかけ出しました。やうやう學校ゑんについた時やつと安心しましたが、まだからだががくがくしてゐました。下の方を見れば、ねえさんやお母さんや兄さん、お父さんをよぶこえが、あつちからも、こつちからきもこえてきます。
 「助けろー」といふあはれなこえもきこえます。うちのお母さんたちはどうなつてゐるのだらう。と、そんなことを思つてゐると、たれかが、
「もう水が引けた」
 といひました。私はそれでも又水がきてはいけないと思つて、ねえさんとぎつしり手をにぎつて、ふるへながら立つてゐました。空を見上げたら、だんだん明るくなつてきました。水もすつかりひけたといふので、學校へ行つてあたらうと思つて、小づかひ室の入口へきたら、又水がきたといふので、また學校ゑんへかけ上りました。しばらくたつて、學校へ下りて見ると、もう何のさわぎもなかつたけれども、助けろーといふこえはまだきこえてきます。お母さんたちとあひたいと思つてゐると、兄さんがそこへきて
「みんな無事だから、だまつてそこにあたつておいで」といひました。けれどもうちの人たちとあひたかつたので、お母さんのゐるところへいつて見るとお母さんは青くなつてゐました。そしてばんから當分學校に、とめてもらうことにしたといふことでした。二三日たつて、うちへいつて見ると、いやになるほどぐちやぐちやになつてゐました。私はうまれてはじめてつなみにあひました。

尋四 澤舘 榮吉
 僕が一寝、寝てからなんだか恐しい氣持ちになつてねまきをかぶつてゐた。そしてゐたらなんだかゆれてゐるような氣がしてゐる。と、すぐ第一の大きな地震がきた。僕は「これは何でもおそろしいことが來るぞ」と思つて、はねおきて服をきて外に出て見ると、町の人々はみんな出てゐた。出たと思ふと消防夫がかけ出して、須賀の方へ行つたが、誰も「なんともない」といつて通るが、なんだか心配になるので、僕の家の人は、みんな外に出て立つてゐた。そして今度は二かい目の地震がきた。その時はにげる支度をした。となりのところに、いつぱい子供達が立つてゐたので僕もとなりへ行つた。「津浪だー」といふ聲をきいたので、命がだいぢだと思つて。一番早くかけ出したが、尾半の所に行つたら、足がつかれただがあらんかぎりの力を出して、かけた。五六才の女の子が妹をつれて「津浪だ」といひながら、かけてゐたのを追ひ越して、一番になつてかけた。かけながら僕も又「津浪だー」と言つてかけたが、僕はあまり走つたのか、知らない内に、大久保先生の家の前までかけた。後を見ると、誰も來ないので、又もどつて行くと、進郎君が來たので「君も行かないか」と言つて、清君の家にいつて見たら、火をたいてゐたので、あててもらひ、そのうちに御飯まで食べさせていただき、やがて進郎君が何處へ行つたか見えないので、僕はきつと父母を尋ねに行つたんだと思つた。僕のうちでは二人見えないといつて、さがしたが、見つかつたので、安心した。そして今度は、山に上つて見たら、僕は驚いた。町でもとても大きいと言はれてゐた、明治丸でさへ、町の眞中にはひ上つてゐた。ぼくのうちの人は、みな居たので幸せであつた。家はくづれてしまつたけれども、僕達は元氣だつた。

尋五 金崎 久雄
 三月二日の午後、友達と面白く遊んで、その夜はぐつすりゆめの國に入つた。
 「ガタガタコラコラ」
 二時半、たちまちゆめの國がやぶれてしまつた。地しんだ。おばあさんは明治元年生まれですから、明治から今まで、どんな大きな地しんがあつたかを、しらべるにもべんりです。するとお父さんが起きて、表を見てゐました。僕はおばあさんと話をしてゐました。おばあさんのお話では、生れて始めてだそうです。するとまた、びつくりすることが起りました。外の方で、
「津浪だアー」と言つて走つてくるのが、きこえます。僕のうちでは五才になる徳子だけ、起きてゐませんでした。あとの人はみんな、地震のとき起きました。たくさんの人が、
「こまつたことになつた」などと言つて上の方に、にげていきます。お母さんたちは、
「なあに大しほと見たのだらう」と言つて、家の内にゐました。不しあはせ、七十三才になるおぢいさんは病氣でねてゐます。僕と妹と下女一人が、表にたつて、人たちのにげるのを見てゐますと、人達はまた下の方にいきます。不思議におもつて、聞いて見ると、
「うそだうそだ」といひました。お父さんは裏からきて「おいなにをぐづぐづしてゐる。もううらに水がきてゐる」といつてきました。僕たちがにげやうとすると、お母さんが、
「ばか、にげるときは一しよににげろ」と注意されました。二番水のきた時に、僕たちはにげました。夜の明けるのは待ち遠しい。ぴくぴくしがなら、朝まで起きてゐました。
「今日は遊びにもいかれなくなつたので、たいくつだ」と思つてゐるうちに、
「まだきたあー」といつてにげる人があります。
「にげるな、こんな大きな家が流されるような津浪なら、大槌町はなくなるではないか」とおばあさんがいひました。僕は水をかぶつたり、家を流されたりしないから、津浪つて、どういふなこはいものかはゆめのやうですけれど、人をうしなつたり、家を流された人たちは、かなしいでせう。

尋六 岩間 テル
 三月といふともう春です。それでもまだうすら寒い風が身にしみます。
「今晩は大そうおつとりした良い晩だ。早く宿題を終へて少女倶樂部を讀まう」と獨り二階の電燈の下でペンを動かしてゐた。けれども何時の間にか夢路に入つたと見えて、姉さんに起されてゐた。
 床についたが仲々目がはつきりして、眠れない。
時計は二時を打つた。眠らうとするが眠れない。妹は羨しい位良く寝入つてゐる。「サァ大へんだ。眠らう」と思つて、布團をかぶつた。
 突然「てる子、起きろ!!地震だ、下へおりて來い!!」と云ふ、恐しいお母さんの聲だ。びつくりしてはね起きたら、二階には誰も居ない、あはてて下に來て外にとび出した。すると、お父さんは、
「なんともないから、入つてねろ!!」と言つたので、又二階に上つた。間もなく恐しい地響がしてきた。
「大へんだ!!潮が狂つてきた「みんな逃げろ!!」と、兄さんの叫び聲。それ、と起きて海を見たら、もう山のやうな浪が、家をめがけて、ゴーゴーとおしよせて來た。
 私は、お母さんの手を取つて走つた。しかしお母さんは一かう走れない。後から大波が追ひかけて、もう五六歩の處に迫つてゐる。あつと思ふ間に、お母さんと手を離した。
やつと町に入つた。それから夢中で、みんなの走る方へかけた。ホツとした時は、首のシヨールも、羽織もなかつた。心配なのはお母さんと、家の人達だ。すると同じ山に、姉さんも、妹も、兄さんもゐだが、お父さん、弟の勇ちやん、お母さんは見えない。
「たしか死んだに違ひない」と思つたら、もう立つておれない。泣いた。姉さんや兄さんは、他の人々から聞いたが、わからない。すると叔父さんが來て「材木と共に流れ流れて、笹勇様の裏まできて、助けられた。勇も、お父さんも、無事に助かつた」
 ホッと安心したが、ますます涙が出る。
家は粉みぢんになつて、流れ、あとかたもない。けれども、家の人々は皆無事だと思つたら、ほんとうに嬉しかつた。
 山からおりて町にきたら、
 「春さんが死んでお寺にゐた。一家六人共に死んだ」と云ふことだ。日頃仲良しだつた春さんが、どうして又死ぬやうなことを、したのだらう。どうしても信じられなかつた。私の家より町に近いのに、と死んだことがどうしても信じられなかつた。
 あとできくと、妹や弟の世話をし、それかち弱いのに、小さい妹をおぶつたといふことだ。
 翌日、春さんのお父さんは、在から歸つてきた。變りはてた家族を見た心持は・・・・・と思ふと、涙なしにゐられなかつた。
 夕方お寺に行つて春さんを拝んできた。

高一 澤山 タカ
 星も一つ二つと消えて、夕べの恐ろしかつた、事も忘れたかの様に、町はひつそりと。静かになつたやうです。海はまだ物すごい音をたてて、岸に打つけてゐる音だけが恐しく聞えます。私と弟は田圃を走つて、あの恐しかつた夕べの有様を見ようとして洞橋の方へと、足を運ばせました。向ふの方からは四五人の男が「氣仙では走つて来る途中、水に追ひかけられて、子供を奪はれたそうだぜ」と、話し合つて行く。私は急にぶるぶると震へた。何といふ可愛そうな事だらう。「赤ん坊のお母さんは、あまりのことに、氣でも失はなければよいが・・・でも仕方がない。自然の悪戯だ。もう死んだのであらう。」と思はず獨り語する。弟も眞青になつて、立ち止つてゐる。あたりを見廻しながら又歩いた。ふと土手の下を見ると、流れて來た屋根が、どつしりと坐つてゐる。その下には船が何艘とも数へ切れないくらい、おしつまつてゐる。安渡橋の方から、小さい子供が大勢で「橋の下に、あばあさんが小さい子供をだいて、死んでるぜ」と口々に言つて、通つて行く。誰も彼も顔色がない。見に行かうとしたが、足ががたがた震へて歩けなかつた。夜夢に見ては恐しいから、行くことは止めて、家へ歸らうとして戻つた。弟は「見に行きたいから、家へ歸らない」と言つて一人で走つて行つた。來る途中も海嘯が來ると大變と榊に祈りながら歩いた。
 海嘯。々々と口だけで聞いた言葉が、今は目の前に、そして實際に家を奪はれたり、人までさらつて行かれたリ、等した無惨な有様を、目の前に見なければならなくなつたのだ。振りかへれば、お社地から大須賀、昨日までぎつしり建てつめられた家は、ああ、何といふことだらう。目も當てられない惨状だ。又何か恐ろしいものを見つけたのだらう。弟の消えた土手の方で、大聲でわめく聲がきこえる。脊から水を浴びせられる様な、恐怖にかり立てられ、一目散に家へ馳けもどつた。

高二 佐々木 孝平
 午前二時頃だつた。突然地震がゆり始めた。上下動だ。これでは震源地は、よ程近いと思つた。益々強くなつて來る。外は人々のざはめく聲で騒々しい。だがまだ強震だ。僕もこらへきれなくなつて、起きて雨戸を開ける。家々の振動する音、雷でも鳴つて居るやう、ゴーゴーと言ふ音、外は益々騒がしい。やがて三十分位の地震もやんで、ホツと安心した。だが、津浪でも來るんじやないかといふ、不安で一ぱい。人々は皆海邊に行く。其の中に家の父も海邊よりかけこんで來て、家の者に「津浪が來そうだ。汐がぐんぐん引けて行く」といはれた。僕等も不安に不安を重ねながら着物を着た。其の中に「津浪だー」と、まるで氣違ひのやうに走つて來た。一時に眠がさめて、人々は我先にと山に登つた。僕の家でも、無が無中で、山へ走つた。外に一足つくと、もう裏の浪々は家のためにつぶされて、音が身のさけるやうに聞えた。あの音を聞くと、今でも思ひ出され、非常に恐ろしい。なんといつていいか解らない恐しい音だ。後一分遅れたら自分達も命がなかつた。こう思ふと、身がちぢまるやうに恐しい。又後から後からと波が來て家を破した。人々は氣を失つたかのやうに、呆然として立つて見て居る。このいたはしさ、着物をあたへたかつたが、自分達も一枚しか着物を着て居ない。顔中血みどろぶるぶるふるへる。なんとみじめな姿だらう。實に恐ろしい天災だ。やうやく夜が明けた。人々は自分の家を見るため、山から下りて見た。僕も下りて見た。
 ああこの惨状、家も木もあらゆるものは、一つになつて皆山になつて居る。一面に砂原だ。海は津浪がないと言ふ風に、のたりのたり岸におして居る。それになんとも言はれない泥の嗅、この津浪の後をさびしく寒風が吹いて居る。仕方がない天災だと同時に、此の惨状をもとの如くしなければならぬ覺悟が獨立獨歩必ずや、此の村を實業的に教育的に盡力し以て同村の復興を圖り、他町村におとらないやうにする事は、我々第二村民の當然の義務ではあるまいか。

水前一 三浦 恭太郎
 「地震だ!」
 こう叫んだ父は、僕の枕元をけちらして障子を開けた。僕は寝巻をこわきにかかへて立上つた。
 ガチャンガチャンと棚に置いてあつた洗面器が、ころげ落ちて恐しい音を立てた。
 「ひどい地震だ!」こう云ひながら父は外へ出て行つた。僕も病氣ではあつたが、父の後からこわごわ外へ出た。然し地震は間もなく止んだ。
 「もう寒いから入いれ」と父に云はれて、僕は寝巻に身をつつんで、家の中に入つた。
 間もなくゴーゴーと風のやうな音がした。
 「今何時だ」父は僕に問ふた。
 「もう三時だ」
 「これはゆり返しだ」
 父は須賀に行つて來る。と云ひ残して裏に出て行つた。
 「起きてゐたか、何んだつてなあ」こう云つて親類のお母さんが入つて來た。母は弟に云ひつけて、爐に薪をくべさせた。と思ふ間もなく、電氣が一度にピカッと消えてしまつた。
 「提灯に火をつけろ」母の聲で兼ねて用意してある提灯に火を燈した。
 間もなく父が歸つて來たらしい。裏の方から足音が聞えて來た。
 「お父ちやんだい」小さな家が救はれたやうに叫んだ。矢張り父だつた。
 「津浪だあー津浪だあー」と叫んで通る者がある。
 「それ津浪だ」父は手早く弟脊負つて外へ出た。
僕もすぐ續いて出た。
 「恭太郎來たか」
 「すぐ後にゐる」
 母も後に續いてゐた。
 大して離れもしないで、混雑の中をもまれもまれして、二渡神社の境内に避難した。またたく間にあたりは大騒ぎになつた。
 家がないといふもの、人が見えないと叫ぶ者。僕は何にも云へなかつた。ただわくわくとふるへてゐたにちがひない。
 白々と夜が明ける頃、僕の家は家はとよく見たがただ材木が高く積重つてゐるばかりで、僕の家の形は見えなかつた。
 母は何んにも云はないが、ただ僕の手をしつかりとにぎつてゐた。

 水專二 澤舘 幸七
 夜は増々更けて犬の聲一つだに聞えない。自分は全く深い眠にふけつてゐた。
ガタガタ、突然物すごい音がした。それと同時にガラスの割れる音、茶碗のこはれる音、自分の家はまるで、木の葉の如く震動している。
 「これは何事だ」私は無意識に、側にある着物をしつかりとつかんだ。
 「大變だあ!地震だあ!」兄は氣狂ひのやうな大聲でどなり立てた。あわてふためいた私は、無中で外へ出た。
 年寄、大人、子供、路いつぱいになつて蜂の巣をつついた様な大騒ぎだ。
 「今に津浪が來るぞおー」職人体の男があわただしい聲を投げつけて、上の方へ走つて行つた。
十分、二十分と時がたつたが、一向津浪らしいものがやつて來ない。
 「何んだ馬鹿を見た」といふものもあれば「風をひく寒い寒い」と云つて、引上げて行く者もある。私も安心して家へ引上げやうとした。
 「津浪だ!津浪だ!」血の出るやうな聲だ。
 私の前を黒いかたまりが飛んで行つた。それに續いて、どつとばかり人々のかたまりが、上の方へ向つて走つた。大人の叫び、子供の悲鳴、あたりは忽ち混乱の巷と化した。それと同時に電灯も消えて、あたりは眞暗やみとなつてしまつた。
 「逃げろ逃げろ」誰となく叫ぶ聲に、私も必死になつて驅けた。人を押し分け押し分け、眞黒いかたまりも重なり重なり懸命に逃げる。
 お寺山の安全地帯に落付いた。兄も居ない。母も居ない。私は聲をからして、母や兄の名を呼びつづけた。然し間もなく私の聲を聞きつけた、母や兄の無事な姿を見ることが出來た。眞暗な夜の道を矢張り、今までの自分と同じ様に、親子を探し求めて居る人々を見ると、思はず涙ぐまれた。山は混雑してまるで此の世の地獄のやうであつた。
「水が引けたぞ」誰云ふともなく云ふ聲に、私は身の危瞼を忘れて、家へと急いだ。死人、怪俄人が消防手の努力に依つて、どんどん運ばれた。
 長い長い一夜が漸く明け始めて來た。ほの暗い町、其の一隅、海岸地帯は惨たる光景を目の前に展開してゐる。太陽は地震・津浪の大混乱を知らぬかの様に、何時もと變らぬ姿で、眞赤な水平線を離れた。
 見渡す限り破壊された家々で、海岸はいつぱいだ。其の中を何を探し求める人であらう。右往左往にどよめいてゐる。昨日の人家は唯一度の大浪によつて目茶目茶になつたのだ。三月三日、此の日こそ神は我々に試練を輿ヘたのだ。白分の心は郷土復興の念で一ぱいだ。

實女一 岩間 イツ
 三月三日、明日は数學の試瞼だと云ふので、又もや寝床をぬけ出して、一頁々々と余念なくくり返してゐた。四邊はしんと寝静まつて、犬の子一匹通はぬ静かさで、時々家の人々の高いいびきと、犬の遠ぼえだけ、いたつて静かな晩で、夢にも津浪等といふことは思はれなかつた。だが空には月も星もなくすごい墨空だつた。数學の復習に飽きが來ても、タベたてて消した風呂の火が、この眞夜に燃え盛つてゐる様な、ボウボウといふ異様な音か耳に入つて、寝床に入つて後も、眼は益々強烈にさえて來るばかりであつた。私は不安のうちに時を過した。柱時計はとうに一時を報じ、尚も余念なくカチリ、カツチリときざんでゐる。
 私も何時か深い深い眠に落ちて、約三十分とたたないうちに「これ起きろ、起きろ」と激しくゆり起され、すわとばかり床の上に起きなほつた。氣がつけば、世に恐ろし程の大きな地震だ。電燈はゆれ時計は二時三十分で、ピタリと止つてゐた。上下動とはいかないが、棚の物が落ちる様な音がして、後で聞けば四分間ゆれたそうだ。其の四分間の長いこと、家が倒れるかと思つた。子供等は泣き叫ぶ、でも何事もなく、やんでほつとする。だが不思議にも鳥もきじも、鳴かなかつた。こんな時は恐しいものだと聞いてゐた。が、間もなく、ほんの間もなくだつた。
 表が急にざわめき出して、人々のものも云はず馳けまはる様な氣配がし、一聲高くりんと澄んだ聲で「津浪だー」と叫んで走つて行つた人があつた。「余震がしてゐる」「さあ大變だ。津浪だ」と、夢我夢中で表に飛び出し乍ら、同じやうに避難する人々が、どしどしと須賀から、又横町の小路から駈けてくる。皆の顔は等しく不安に曇つてゐた。子供を負ふてゐる者、老人の手を引いて駈けてくる者、裸で、或いは素足のままくる者、等、々、私も夢我、夢中で走つたら、不思議な程足が軽く、羽がはえて飛んでゐるようだつた。太鶴別荘に避難して一安心したら、同時に寒さがひしひしと身にこたへる。幸ひに、大人がどんどん火をたいてれた。
 今の今まで、不安におびへてゐた人も、次第に氣持にゆるみが出來たと見えて、冗談口をきいてきたが、下から子を呼ぶ親の聲、弟の兄を呼ぶ者等、悲痛な叫び聲となつて、次々と續いて、山は一層ざはめいた。電燈が消えた。何も見えないが灣内を見はつてゐる船だらう。小さな灯が二つ三つ、白濱の方い行つたかと思へば又かへり、ただ灯だけが何の變化もなく、水に映じて動いている。しばらくして沖の方で、異様な音がしたと同時に、船の灯も、ピカリと消えた。私は今までの緊張が倍になつて、一層不安におそはれた。その音は變つた、ばりばりといふ音だ。私は何時も聞かされてゐた。津波と云ふものはかういふ音がしてくるものだといふ。一度津浪の経験のある父母の言葉を思ひ出した。いよいよやつて來たなと思ふと、それと同時に白石街道の眞上で、沖の方からピカツ、ピカツピカツと三度、細いだが光の強い線状のものが、四邊がパツと明るくなつて、すぐにもとの暗さにかへつて、何も分からないが、何かしらキラキラといふものが、岡の方に廣がつて來たのは水だらう。下の方からは逃げ遅れた人の救を求める悲痛な叫びが、幾度となく耳をかすめた。後山を下りて叔母様の家で夜を明す。
 余震が幾度となくした。不安のうちに夜は白々と明けはじめ、空には星が尚光つて風があつたが、夜半のものすごさが微塵もなかつた。けれども街には人々がかけ廻つてゐた。
 惨場に駈けつけて始めて、津浪の恐しさを知つた。いくらも話には聞いた。けれど経験のない私は一向信じられなかつた。ふと氣がついて目を注げぱ、死人が戸板に乗せられて、むしろがかかつてあり、其の端々からは、生白い足が見えて頭は泥にまみれて見るも痛々しい姿だつた。
 夜半死人もあつたのなあ、と思ふと急に、上野テルルさん一家の事が頭に浮んだ。万が一のことがなければいいがと思ふと、心配になり出した。水は赤武の所まで現場を見て二度びつくり、道路は木材でふさがり、家が折重つて倒潰し、夜具は泥にまみれてうづもり、ほとんど足場もなかつた。聞けばテルさんも死んだそうだ。八年間の級友として交り、お別れしてから約一年になるのだが、其の間お盆の時も天紳様の祭の時も、共に親しく交つた友であるのに昨夜一時間かそこらのうちに、もうこの世の人でなくなつたのかと思へば、ほとんど信ぜられなかつた。だが今となつては仕方がない。せめて屍体だけでも早く見つかればいいがと念ずる。幸に晝頃見つかる。
 体は泥にまみれて見るかげもなく、体は非常な傷だつた。
 お寺にどしどし人が來たなと思ふと、籠に入れられた、或は戸板にのせられた、死体が足だけプランと下つて、片方足袋をはいてゐたのは、六年生の女の子だつた。寺の山の木々はシウシウと悲しみの音樂を奏してゐた。
 死者この町だけで六十二人、夕方になつても「水だ」「又水だ」と人々は逃げまどうてゐた。郵便局も電信、電話、不通となり、この町の遽信、交通機關は全くたたれてしまつた。
 其の日も一日不安のうちにすごした。四日の日、午後偵察飛行機が通る。
 軍艦も大きな船体を灣内に現はす。盛岡からは看護兵が來て、負傷者の救護につとめ、工兵隊は橋をこしらへて、交通上の便宜を與へてくれる。そして慰問品が方々から運ばれて、生活上の便宜を與へてくれる。他地方からは自警團、青年團が來て道路の整理をしてくてくれる。二三日のうちに町はほぼかたづく。私はつくづく社會國家の有難さを感じた。大槌を復興し、幾分なりと御恩に報ゐねばならぬと、かたく心に誓つた。

實女二 中嶋 トモ
 星も眠るであらう眞夜中過—丁度三時頃か。
 グラグラグラア、といふただならぬ物音に、心地良い夢を破られ「すは何事?」と急いで床上に起き上つた。あつ地震だ。まるで家は舟でもゆれてる様に、ゆらゆらと上下に大きくゆれ動いて居る。
 父母も弟も、とび起きて來た。とかくする中に、表の方が大變騒しくなつて來た。まあこの眞夜中過ぎ、何だらうと不思議に思ひ、表に出て見ると、まあ大變な人々の群、あつちこつちに一かたまりとなつて、何か口々にガヤガヤ云つてゐる。何かただならぬ不氣味さが、町一ぱいに満々てゐる。電燈の光も淡く浮き出された。人々の横顔は、地震より受けたシヨツクのためか、青ざめて見える。
 とかくする中に、町の騒々しさも一時静まつた。ああやれやれと、ほつと安堵する間もなく、「わあつ」と云ふ異様な叫聲とともに、人々がばたばたと一散に走つて來た。その顔悲壮といはうか、すごいと云はうか、色青ざめ、目は血ばしり、眉はつり上り、口はわなないて居ゐ。そして皆口々に、津浪だ津浪だ津浪だと叫んでゆく。
 之を聞いた他の人々も「わあつ」と、一種異様な叫び聲を上げて、バラバラと一緒になつて走つて行く。此の時、今迄淡い光を地上になげてゐた電燈がパツと消えてしまつた。町は綾目もわかぬ眞黒闇になつてしまつた。
 何處か遠くの方で「ドドンー」と物すごい音響がしたと思ふと、あはただしい「水だ、水だ、水だつ」と云ふけたたましい聲がして、二三人の人々は一散に走つて來た。其の姿が闇の中で、異様に恐しいものの様に見えた。
私も弟をつれて、最早水が町にひたひたとおしよせて來たのを後にして、夢中で、闇を傳うて、向山さして走つた。
 山は、不氣味な騒音で一ぱいに包まれてゐた。
 「お父さん」「お母さーん」と、親にはぐれて悲しげに、父母をさがし求める聲や、姉妹を呼ぶいたいたしい呼聲や、それ等の聲々を物すごい様にこだまする山々のひびきやうで、さながら生地嶽とは、かくやと思はるるばかり、暗さは暗し、陰々たる叫聲は、鬼氣人にせまり、物すごい極みである。
 かくする中に、やがて夜は白々と明けはなされ、町の様が目前に展開された。
 ああ其の様は。目をさへぎるうちとては一つも無く。唯、木片のみが遠近にころがり、倒された家々が所々に重なり合つて居る。目も當てられぬその光景、唯、海のみは何事もなかりし如くに、くだけた木々のみ、波間にただよふて居るのが見える。ああ之が昨夜の丈餘の浪がさかまいた海原の態とはどうして思はれやうか。波間にただよふ木片に依り、何か異變ありし事がそれとうなづかれるのみた。
 町は泥土と化した。定めがたきは運命よ。
 呪はしき津浪よ。
 ああつれ無き神よ。
 いたづらよ。
 何たる此の町の有様よ。
 日は容赦なく過ぎさり行く。其れと共に津浪の洗禮を受けた無惨な姿も、漸次に復興されつつある。
 人、災難に遭ひて始めて情を知るとか、他府縣の人々の温情、又は政府の御盡力に依り、日々安定な生活を送る事の出來る罹災民の人々の、温情に對する感謝の念は、それは筆舌につくし難いものであらう。
 それにつけても一時も早く、元の大槌町にも増した姿となつて現れることが、同胞隣人の人情に報ゆる、私達町民の唯一つの報恩の道であらうと思ふ。
 一日も早く、一分でも早く、復興せられん事を、私達乙女は神に祈つて居ります。

第十六項 津浪を實際見た人の實話

 期せざりし、あの夜。佐々木麻吉氏は語り出した。
 恐しい地震でした。私は地震が止むと直に家から数町離れた海岸の、漁業組合の事務所に馳けつけた。直覺的に、地震・津浪と聯想したからである。馳けつけて見ると、漁夫の人達も多数集まつてゐた。「海の様子は」と聞くと、誰も彼も「心配がない。津浪などは何處に來るものか」と云ふ。見れば平日と變らぬ静寂さ、津浪などは何時來ると豫想するさへ愚だと思つて、再び海を見て歸宅した。歸宅して見ると、四日町の親類から「大須賀は津浪だとさわいでゐるとの事なので來た」と云つて四五人居た。そして、お祖母さんとお子供さんだけでも、安全な四日町に避難させてはと云ふ。私は海を見て來て何んともないからと云ふてゐた。
 バツト、電燈が消えた。それローソク、マツチとさがしてゐる中に、家内の人達は逃げた。その中に戸外は只ならぬ物音、逃げる人の足音、子を呼ぶ親、親をさがす子の叫び、皆避難したのだ。ガラス越に見ると、如何にも大出水の急流の如く、浦賀の海水は段々増水して、小船も動き出した。と見る間に自分の家にも浸水して來た。尚私は逃げる氣がなくて外を見てゐた。黒い影が戸外に立つてゐた。人だと思つて近寄つて見ると、ずぶぬれになつてゐるのだ。だんだん聞くと洲崎に居つた土方で、十数名の土方と共に流れたが同胞は皆んな舟の下、家の下になつたから死んだに相違いない。自分も流されて來た。とぶるぶるふるひてゐた。これでは凍死させるばかりだと思つて、土方を連れて四日町山口方に來た。と云つた。それは第一回目の津浪であつて、私の家にはニ尺五寸位、畳の上にあがつた。その後第二回目の水が來たのです。それが一番大きく、第一回は左程大きいとは思はなかつたが、それでも一二軒の家屋は動いてゐたと語つた。

第四章 各種統計表

第一項 各地被害調

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各地被害調

第二項 本縣全員被害調(昭和八年三月廿二日現在)

一、人及び家屋の被害
ニ~四、ページ抜けている(表一部あり)
五、船舶の被害
六、農用地被害表
七、家畜の被害
八、義捐金の内譯書
九、白米及其の他雑品配給状況表 四月三十日現在
一〇、災害以來救護状況
 一、罹災戸数・救護人員
 二、慰問
イ、御下賜金    金二千二百五拾六圓
ロ、御下賜品    御衣服地・・・・四一人分  御裁縫料・・・・二、〇二五圓
ハ、各宮家御救恤金 百拾七圓二拾八銭
ニ、一般義捐金   金壹萬参百圓〇四銭 
ホ、縣罹災救助基金中ヨリ   六萬九千七百五十一圓二十三銭
へ、義捐金配當額
   種別             配當額
 一、生業資金         七九、九〇二、〇〇円
 二、生産施設援助       二二、〇〇〇、〇〇
   水産業共同施設       九、〇〇〇、〇〇
   養蚕業共同施設       一、八八〇、〇〇
   畜産共同施設        一、二九三、五〇
   林業共同施設        一、四二六、五〇
   副業共同施設        八、四〇〇、〇〇
   商工施設
   其の他
 三、死者ノ弔慰援助         七〇〇、〇〇
 四、災害豫防及備荒施設援助   九、六七八、〇二
   備荒林及防潮林苗圃ノ造成援助  六七八、〇二
   備荒倉庫設備ノ援助     九、〇〇〇、〇〇
   計           一一二、二八〇、〇二

一、生業資金交付状況
 区分             一戸當り      一人當り
自家流失者           九五圓       六、〇〇
借家流失者           五五圓       六、〇〇
自家全潰者           九五圓       六、〇〇
借家全潰者           五五圓       六、〇〇
自家半潰者           五五圓       四、〇〇
借家半潰者           二五圓       四、〇〇
浸水者             一五圓       一、八〇
倉庫、製造場、個居流失、全潰  五〇圓
右半潰者            二五圓
發動機艇流失、全潰       三〇圓

ト、慰問金配當割合
     一一、大槌尋常高等小學校児童被害状況調
     一二~一六ページ抜けている。
     一七、學区内被害状況
イ、被害家族数  二、一七六名
ロ、死亡者数— 二一名   行方不明者数— 五名   重傷者数— 七名   軽傷者数— 三五名
ハ、総被害総額  七一二、七七三圓

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一、人及び家屋の被害
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ページ抜けの表一部分
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五、船舶の被害
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六、農用地被害表
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七、家畜の被害
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八、義捐金の内譯書
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九、白米及其の他雑品配給状況表
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罹災戸数・救護人員
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慰問金配當割合
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大槌尋常高等小學校児童被害状況調(表一部抜け)
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學区内被害状況

第五章 津浪被害豫防法及び地震津浪に對する心得

1、港灣は其の地形・水深分布及び環境等により、その災害の状況を異にするを以つて、その豫防は地形・環境等を考へた上にすることが大切である。
2、港灣の形状及び海底の深浅と津浪の加害状況
津浪は平常の水準面上に、二・三十米の高さになるので、その港灣の地形は増水により異なつて來るものである。當町の港灣の如きは、平常U字形であるが、一旦増水すると、V字形となるが如きである。斯くした港灣の地形によつて、加害状況を研究した結果は、左の如きである。
 甲類=直接に外洋に向へる灣
   第一、港灣の型V字をなせる場合
    綾里灣、吉濱灣、姉吉灣等の如く、外洋に向つてV字型に開けてゐるところは、津浪は灣奥十米乃至三十米の高さに達し、汀近くに於て一層浪勢を増して、高所に打上げるものである。
   第二、灣型U字型をなせる場合
    田老・久慈・小本・大谷等、U字型をなせる港灣にては、前者よりも波浪稍〃軽きも、十五米に達することがある。
   第三、海岸線に凹凸の少なき場合
    吉灣村・千歳・赤崎・長崎・大須等は、津浪は前記第二に近くして、稍低く十二米に達することがある。
 乙類=大灣の内に有る港灣
   第四、港灣V字形をなして然かも大灣に開く場合
    津浪は第一の形式を取るも、波高稍低く十五米位に達することがある。船越、兩石港、十五濱村等は、この類である。
   第五、港灣U字形をなして大灣に開く場合
    津浪は第四に比して一層低く、波高七・八米に達することがある。廣田灣に開ける泊、釜石灣に開ける釜石港、大槌灣に開ける大槌港等は之なり。
   第六、海岸線凹凸少なき場合
    津浪は第五に比較して一層低く、四・五米に達することあり、又波浪することがなく、単に水の増減を繰返すに過ぎないことが多い。山田灣に開ける山田港、大船渡灣に開ける大船渡港等は、之に類す。
  丙類=・・・・・・・・・・・・
   第七、細長く且つ比較的浅き場合
   津浪は概して低く、波高漸く二・三米に達する。氣仙沼等は此の部類に属してゐるし、女川港は之に近い型である。
 丁類=・・・・・・・・
   第八、九十九里濱型砂濱
   海岸の地形直線に近きところにして、海底の傾斜比較的緩かなところは、津浪の高さ四・五米に達するに過ぎざることがある。青森縣東海岸、宮城縣亘理郡沿岸は、之に類するものである。
港澱の形状、深浅による結果の實験状況の分類は、以上の様なものであるが、この他に灣側、灣底地形が、津浪の波高に影響を與へることも甚大であることは、軽視することが出來ないもので、屈折凹凸の甚だしい港灣は、浪勢を減殺するのが常である。
3、津浪豫防法
(1)、住宅地高地移轉
(2)、防浪堤の設備
(3)、防潮林の設備
(4)、護岸の建設
(5)、防浪地区の設定
(6)、緩衝地区の設定
(7)、避灘道路建設

4、警浪の警戒
津浪襲來は豫知することは困難なるも、その副現象に注意することは、幾分でもその被害を減少することが出來る。
(1)、津浪には大規模の大地震を伴ふもので、その地震動は之れに緩急種々の区別があるであらうが、概して大きく揺れ且つ長く継續するものであること。
(2)、地震と津浪とは同時に發生するものであるが、その傅播速度に差があつて、その發生より海岸に到着するまでに、地震は三十秒程度であるが、津浪は二十分乃至四十分を要するものであること
(3)、津浪の襲來の時には遠雷或は大砲のやうな音を数回聞くこともあるが、それは地震後五・六分乃至十数分後に来るのが通例である。
(4)、津浪は三陸沿岸に於ては引潮後を以つて始まるのが通例ではあるが、何時も左様だと思つてゐてはならない。例外の場合もあると思はなくてはならない。
 以上の様なことを常に考へて置いて、それぞれの準備と心構へとを怠つてはならぬと思ふ。若し一朝不幸にして今時の様な災害に會つた際、びくともせぬ訓練を積んで置く事は大切だと考へる。
5、地震・津浪に對する心得
△、あわてるな先づ落ちついて・・・・・・
一、丈夫さうな机、箪笥などの陰に身を寄せて、桁・梁の破壊の危険からのがれよ
一、地震が起きたら先づ出口を開けて、逃げるに便利な交通路を見つけて置け
一、家屋が倒壊するのは余程の強震であるから、あわてて飛出して怪我をするな

△避難するときには・・・・・・・・・・
一、あわてずに、地割に落ち込む心配のない空地などに避難せよ
一、瓦などが上から落ちてくる心配があるから、氣をつけよ、二階などが却つて安全である。
一、屋内の火には灰をかけるか水を注ぐかして、その上に、鐵瓶・鍋釜でもかけて飛出すことを忘れるな。
一、電燈ば安全器によつて電流を遮断して、漏電による失火を防せげ
一、塀・塗壁・煉瓦・建物・煙突・石垣・石燈籠・石塔・崖の下等は、倒壊・崩壊する危険があるから近寄るな

△山間の人は・・・・・・・・・・・・・
一、崖崩れ、山津浪の危険があるから注意せよ
一、長雨後の地震や、地震後の大雨のときは、特に氣をつけよ
一、土砂・岩石の崩壊が、河水の流れをせき止める恐れがあるから氣をつけよ
一、迅く安全な所に避難せよ

△海岸の人は・・・・・・・・・・・・・
一、緩漫な長い大揺れの地震(時計の振子が止り、棚のものが落ちる程度のもの)があつたら、津浪襲來の慮れがあるから、少なくとも一時間位は警戒せよ
一、家財に目をくれず、身一つで家族を連れてのがれよ
一、直に高い所、安全な所へ避難せよ
一、避難するときは、川添をにげると危瞼
一、夜には燈火を上げ、警鐘を打つて警告せよ

△平素の心得・・・・・・・・・・・・・
一、常に非常用のマツチ・ローソク・履物等を用意し、一朝事が起きたら、あわてぬ準備が必要・・・・・・。

昭和八年十二月十日印刷(非賣品)
昭和八年十二月廿日發行
發行所  大槌尋常高等小學校臨時海嘯調査部
岩手縣上閉伊郡大槌町
編輯兼發行者 鈴木 兼三
岩手縣上閉伊郡遠野町
印刷所 秀盛舎印刷株式會杜
電話 一三三番