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写真

“決死の救出−生と死の狭間(写真1〜写真4)”

【写真1の説明】
私が国道101号線から別れ、八森町青少年の家の前を通り潮路荘前の八森町滝ノ間海岸にきたとき、海岸から約50mの沖合いに浮かんでいる保坂義重さん(39歳)(証言11参照)を発見しました(真ん中の白い丸印の中)。泳いでいるというより浮かんでいる感じでした。岩場では救助しようと、5人ぐらいの人がロープを持って賢明の救助活動を展開していましたが、押し波、引き波、渦巻が交錯し。ロープがうまく届きません。波間に浮かぶ保坂さんの顔を見たときは、かなり疲れている様子でした。
あとで家族の方に聞いたところ、保坂さんは全く泳げないとのことでした。このとき時間は午後1時5分ころです。

【写真2の説明】
保坂さんを救出しようとしている写真です。写真の真中で岩と岩の間で四つんばいなっているのは能代警察署交通係長の高橋さんです。高橋さんの話ですと、パトロールカーから救助用のロープを取り寄せ、ロープを腰に巻いて保坂さんを救出しようと泳いで行ったが、ロープが1mほど短くて引き返してきたとのことです。波は高かったが、保坂さんが少しでも泳げていたら助かったのに、本当に残念です。

【写真3の説明】
だんだん保坂さんが沖合へ流され、海岸から約100メートルぐらい沖に大きな渦(真中の白い丸印中)ができ、そこへ保坂さんが引き込まれていくのがよく見えました。渦の中に引き込まれてから、ゴミと一緒なりながら保坂さんの姿が見えなくなりました。一番目の写真との時間はほんの数分です。

【写真4の説明】
保坂さんのすぐ隣では、見上文夫さん(28歳)が波にもまれながら岸に押し流されてきたところを、大高鉄也さん(左官・峰浜村)と能代警察署の糸屋吉美さんに救助されたところです。見上さんは、この二人がいなければ、引き潮とともに沖に流されるところで、危く一命をとりとめました。この日、見上さん(鷹巣町)と佐藤隆一さん(21歳)(山本町・6月5日遺体で発見)は、セールスの途中で近くの岩場で昼休みをしていたところ、急に潮が引いたので、岩場から降りて、貝を採っていたところを津波にさらわれたそうです。見上さんは脚が不自由なため、その場にいて助かったものです。
撮影・文 加藤実 郵便局員 山本郡八森町字中浜29−1 電話0815−7−3431

【写真5の説明】
能代港の海岸埋立用の護岸が津波で崩れ、多くの従業員が海へ投げ出された。渦の状態がよく判り、ちょうど、電気洗濯機の中で人と護岸用の石が回転した状態となった。多くの死者が出たなかで、救命胴衣を着用した人は、一人を除いて全員助かった。死んだ一人は、膨張式(ガス式)救命胴衣の背中が裂けており、ガスがもれていた。
(写真提供 アジア航測株式会社 東京都世田谷区弦巻五丁目二−一六電話〇三・四二九・二一五一)

【写真6,7の説明】
大津波来襲!そのツメ跡と引き潮の恐怖
八森漁港の高台にいて、、あの恐怖の地震と津波を体験しました。カーラジオのスイッチを人れると「秋田県地方にかなり強い地震があった模様です」と地震情報が入ってきました。その後、何回かの揺り返しがあり、何か変に腹に響くような地鳴りとともに海鳴りとも言えぬ不気味な響きが「ドドウー・ドドウー」と聞こえて来ました。港の方に目をやると、もう津波は、防波堤を一気に乗り越えて民家を一気に押しつぶすさまは恐怖以外の何物でもありませんでした。沖合いを見ていたら水平線が真っ白い壁になって不気味な波が見えてきたので、とっさにカメラのシャッターを切ったつもりです。瞬間的に何を撮ろうとしたのかわかりません。これも初めての経験と恐怖によって、頭も体も自由に行動出来なかったものと悔やまれてなりません。
(秋田市外旭川字八幡田五六二−四 菅沼宣芳 会社員 電話〇一八八・六八・四七一二))

“9人の釣り人がのまれた十三湖河ロ(写真8〜10)”

【写真8の説明】
津波だ!体一つで逃げる9人の釣り人の背後から、どす黒い濁流と化した津波が襲う。

【写真9の説明】
逃げおくれた釣り人が津波につかまった。この人は転倒し、津波に押し流された。

【写真10の説明】
わずか数分の間に津波は全てをのみこんだ。この一連のドラマで九人の釣り人のうち、三人が逃げのび、六人が押し流され、このうちの三人が近くにいた漁船に助け上げられ三人が津波の犠牲となった。
(撮影 奈良典昭 公務員 青森県北津軽郡市浦村大字十三深浦一七四 電話○一七三六二・二七四一)
十三湖は、昔十三湊として栄えた海上交通の要衝であったが、興国二年(一三四一年、暦應四年)の大津波で壊滅した。(知識編十 十三湊の大津浪参照)今回の地震では、河口釣りをしていた9人が大津波に次々にのまれ、最終的に6人の死者がでた。(証言1参照のこと)

【写真11の説明】
横一線の水の壁
八森町観海小学校は高台にある。児童らの「津波だ!」の声にグラウンドから見ると、水平線手前に横に長い、高い水の壁が立ち上っている。はじめてみる津波の驚異に、カメラのシャッターを押すよりもファインダーをのぞいた時間の方が長かったように感ずる。(撮影 能上光男 教員 山本郡八森町湯ノ尻 電話08157・7・2659)

【写真12の説明】
雄島が陸続きになった
雄島は、八森町の日本海金属(株)発盛製鉄所の沖合い150メートルにある。島には弁財天と恵比寿の二つの社がある。地震のとき二人の釣り人がおり、島で最も高い弁財天堂(右側・13メートル)の屋根に上って助かっている。雄島と陸地の間の水深は4〜2メートル、津波の引き潮で地続きとなり、自然のすさまじさを見る思いがする。
(撮影 長岡興八郎 電気工事業 山本郡八森町中浜5−140−6 電話0815・7・2130)

【写真13の説明】
大津波にのまれる!
この写真は、八森町鹿の浦公園から能代市方向に向けて撮ったもの。民家をひとのみしようとする自然の猛威に畏怖を覚えました(山内清美 自動車整備工場経営 山本郡八森町字古屋敷3−25 電話0815・7・3560)

【写真14の説明】
地震10分前の雲
地震の10分前(昭和58年5月26日午前11時50分)に、天王町出戸浜海岸から男鹿半島方面の雲を撮ったもの。
(撮影 竹原政敏 酒類販売店経営 秋田市広面字谷内佐渡38 電話0188・32・6088)

【写真15の説明】
男鹿・大黒島のはなれのクロダイ釣り
海釣りは辺ぴな海岸で行われる。ましてや磯釣りは、津波には全く無防備な状態におかれる。それだけに、釣り人は救命胴衣の着用や小型ラジオの携帯はぜひ実行してほしいものだ。

【写真16の説明】
男鹿・恵比寿島のウミタナゴ釣り
地震のあった時期は、ウミタナゴとクロダイの釣りシーズンであった。12人の犠牲者もこれらの釣りを楽しんでいたものである。釣りは自然を相手とするたけに、自然を畏れる気持ちを失わず、無謀な行動は避け、釣りを楽しみたいものだ。
(撮影15〜16 川村浩 公務員 秋田県牛島東三丁目1−55 電話0188・33・3899)

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写真 表紙
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写真 会長 松橋藤吉
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写真 秋田県知事 佐々木喜久治
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写真 写真1
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写真 写真2
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写真 写真3
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写真 写真4
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写真 写真5
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写真 写真6
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写真 写真7
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写真 写真8
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写真 写真9
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写真 写真10
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写真 写真11
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写真 写真12
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写真 写真13
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写真 写真14
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写真 写真15
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写真 写真16

大津波の証言

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地図 津波遭遇地点索引図1(「大津波の証言」と同じ番号で、遭遇した位置である)
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地図 津波遭遇地点索引図2

証言1 狂った海に次々にのまれた九人の釣り人 青森県市浦村十三湖

◎編集部注 本文については、カラー写真と参照の上、お読みください。
 あの日、海は凪いでいた。
 穏やかな釣り日和だった。釣り天狗たちは、全くの平和の中であるべき収穫を期待していたに違いない−そこに、突然、地震と津波が襲ったのである。
 私たち役場職員三名は、地震直後の十二時二十五分ころ、被害調査のため役場を出発、十三地区に向った。十三湖大橋の橋脚と取付道路との境に大きな段差ができていた。その部分を写真に撮り、日本海を振り返ったら−調査の途中ですでに十三湖内に五十センチ程の津波が押し寄せてきていたため、さらに大きな津波があるのではないかという予感があった−海はまるで狂った生き物のようにたけだけしく隆起した。
 「あっ津波だ!」
 とっさにカメラのシャッターを切った。何回切ったのか覚えていない。突堤にはまだ数人の釣り人がいた。「私の夫もあそこにいるの!」と、かたわらで絶叫する女の人の声もあったが、もはや助けるすべもない。ただ、一刻も早く橋まで逃げてきてくれることだけを祈った。
だが、理性を失った海は、放たれてしまった矢のように、次々と釣り人をのみ込んでいく。橋まであと七〜八十メートルの地点まで逃げのびた人も、ついに足を濁流に掬われて転倒してしまった。津波が去って静寂が戻った時、釣り人の姿は一人としてそこにはなかった。寂莫とした砂浜だけが残った。
 波が引けた直後、巡回していた地元の警察官から、いま発生した津波について職務質問をうけた。そしてその時、役場を出て以来、初めて私は腕時計を見たのだった。十二時五十分だった。
 私は計七回シャッターを切っていた。
 そのうち二枚に釣り人たちも写っていた。一枚には、ついには転倒して押し流されてしまった人が、いままさに足を掬われる瞬間の姿が写っていた。そして、もう一枚には九人の釣り人たちが写っていた。このうち三人は逃げ延び、六人はいったん波にのまれた。しかし、幸いにも六人のうち三人は津波直後に出た漁船に助け上げられ、九死に一生を得ることができた。だが、残りの三人は帰えらぬ人となってしまった。
 また、私たちが現場に到着する以前に、すでに四人の釣り人が地震直後に第一波の津波で海に投げ出されていた。このうち、ただ一人だけが果敢にも海に飛び込んだ人によって救助されたものの、三人は行方不明ののち遺体で発見された。私の写真に写っていた前記の三人と合計六人が、十三湖で津波の犠牲となった。
 この一連の災害で六人もの水死者を出すこととなった原因の一つは、釣り人たちに「地震即津波」という意識が皆無であったことである。これは、第一波の津波でさらわれたものの、ただ一人助かった人の後日談−−地震直後「大きな地震だったなあ」と顔を見合わせあったものの、そのまま、また釣り糸を垂れていた−−によって裏付けはできる。
 また、これまで十勝沖地震など幾度か地震はあったものの、当地方の日本海側で津波の洗礼を受けたことがないという経験の無さも災いとなったと思われる。私たちが現場に到着する前に、すでに村内に防災広報無線を通じて津波警報が伝達されていたにもかかわらず、釣り人たちは釣り道具等のあと片づけをしていて避難していなかった。
 さらには津波がすぐ目の前から発生−−海岸から二〜三百メートルしか離れていない地点−−していることである。これは、後日、津波の状況を調査にこられた東北大学の岩崎博士から追認していただいたことだが、震源地では沖合いから津波が発生するものの、震源地を離れると海岸線のすぐ近くから発生するということであった。また、このことも追認してもらったことだが、災害にあった人間の心理として、出来るだけ現場から遠く離れようとする意識が働くものと思われる。事実、津波にのまれた人たちは、波を背に背負い出来るだけ遠ざかろうとしていた。このため、ついには追いつかれてしまう結果となった。岩崎博士のお話では、「津波にあったら斜めに逃げる」のが鉄則なのだそうである。
 今日も突堤では多くの釣り人が糸を垂れている。釣りの醍醐味を知らない私にとっては、通常、災害のあった現場というだけで、一般の人は敬遠することになると思うのだが、その恐怖感を越えて、なおそこでなければならないという釣りの妙味を分かち合うことができない。
 現在、再びあの現場に立っても、悪い夢を見ていたようで全然リアリティ感がない。あの出来事は、そのように瞬間的な一過性のものであったのだろうか。
奈良典昭(昭和二十五年生・公務員)
青森県北津軽郡市浦村大字十三字深浦一七四
電話 〇一七三六ニー二七四一

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地図 津波のきた方向

証言2 引き潮だ、津波がくる!と予知して退避 青森県深浦町横磯海岸

 朝四時に釣り仲三人で青森県深浦町の横磯海岸ヘウミタナゴ釣りに出発しました。行く途中、車の中から海を見て、波はないか、風はないかなど心配しながら、横磯海岸へ着き、高台に車を置き、釣り場へ向かいました。
 当日は多少波と風があり、また干潮とあって水位が五十センチぐらい下がっておりました。水がとてもきれいであり、今日は釣れるのだろうかと考えながら、二時間ぐらい同じポイントでねばって見ましたが全然釣れませんでした。私は長靴をはいていたので、あまり波のくる所までは行けず、海草が生えている所を数カ所探り釣りをしましたがさっぱり駄目でした。今までこんなに釣れなかったことはなく、非常に変な感じがしました。
 みんなで別の場所へ移ろうと計画していたとき、変に体が動き、目まいのような感じがしました。
「変だ」「どうしてだろう」と思っていたら、そばにいた仲間が「地震ではないか」と言ったので、窪みにある水を見たら、大きく揺れ、溢れているのを見て間違いなく地震であるのを知ったのです。
 高台にある牧場を見たら釣り場に降りるとき、あちこちに分散していた約五十頭の牛が一頭も見あたらないのです。(これは、地震を牛が本能的に予知して、松林の中に全部集結、避難していたのを、釣り場から見えなかったのでそう思った事を後で知りました。)
岩場の上にいたので地震をそんなに大きいとは思いませんでした。地震もおさまり昼すぎ別の場所へ移ろうと思いながら釣りを続け、地震三〜四分後にやっとウミタナゴが一匹釣れてきたのです。魚を針からはずし、餌をつけ仕掛けをおろそうとした数秒間の間に、目の前の海水が二メートル程水位がさがって海底が見え、水がなくなっていたのです。「あれどうしたんだ」不思議に思ったが、この現象がこの後、生死を分ける恐怖の発端だとは知る由もなかっのです。
 海水が無くなったのを幸いに「中に入ってワカメがたくさん採れる」そんな思いさえしました。その矢先に、仲間から「大変だ。津波の前兆だ。きっと津波がくる、津波がくるぞ!」と大声で言われ、のばしたままの釣竿とクーラーを持って陸地に逃げようとしたのです。ところがもう一人の仲間が約三十メートルも離れて釣りをしていたので、叫びましたが聞こえず、どうしたらいいのか瞬間迷ってたとき、運良くこちらを向いてくれたので、大声で「波がくるから走れ」と言って、走りかけたのです。その瞬間、今まで見たこともない程遠くまで潮が引いたうみから、盛り上がるように海水があふれ出してきたのです。夢中で走りました。走りながらチラッと後を振り返って見たら、すぐ後を高さニメートル余りの大きな波の壁が、すごいスピードで迫ってくるのです。もう夢我夢中で走りました。
 危機一髪、牧場高台の下まで着いたと同時に、足元まで押し寄せた津波は真っ白く砕けてところどころ渦をつくっていました。走った距離は約百五十メートルぐらいでしたが、デコボコのひどい磯をどう走ってきたのか全く判りませんでした。牧場下まで着いた三人は、息をきらし真っ青な顔をしてくずれるように座りこみました。
 「死ぬと思った。一番早く釣り場を逃げた私だったが、一番年をとっているので一番おくれた。釣り場へ行く時は、凸凹の磯を苦労して先端まで行ったが、よくその磯を走って逃げてこられたものだ。
どうしてここまで逃げてこられたか夢のようだ」と、最年長の戸松哲蔵さんが、まず口を開いた。
「うしろすぐに波が迫ってきた時はこれで終わりだと思った」と戸松甲子男さん。
 思い思いの恐怖を胸に、二時間半ほど津波を見ていました。押し寄せるときは低い所から入ってきて、引き潮の時は高い所、低い所関係なく、轟音を発っして滝のように落下していき、くる時の二倍ぐらいのエネルギーはあったように見えました。「あの引き潮の力で持っていかれたら、ひとたまりもないだろう」とあらためて私たちの幸運を分ち合いました。
 牧場高台に駐車していた車に戻り、カーラジオで地震、津波の被害が甚大ある事を知った。「家で心配しているだろう」とすぐ出発した。途中「もしかしたら津波の犠牲に」と心配して、横磯海岸に向けて出発していた家族の車とすれ違ったりして一層の心配をかけたハプニングもあったりしたが、とにかく奇跡的に津波の犠牲は免がれました。
助った原因として、1.海水の異常変化を早く察知していたこと。2.最年長者の戸松哲蔵さんの引き潮後の津波襲来予測が早かったことが最大の理由であった。3.に釣り道具をいつでも移動できるようにまとめて置いたこと。4.それに高台下まで凸凹はあるにせよ、割合、平担であったことなどいくつかの運が味方した。
私は生まれて始めて津波を見たし、経験もしたのですが、肌で感じた恐怖を忘れぬ事なく、今後の釣行に生かしたいと思っております。
戸松哲蔵(昭和三年生・農業)
能代市鯨淵八一
戸松甲子男(昭和十二年生・飲食店経営)
能代市富町一六−一一
電話 〇一八五五−三−二八三〇
文・原田幸悦(昭和三十年生・郵便局員)

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写真 必死で逃げた3人組の戸松甲子男さん
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地図 詳細地図
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写真 ↑印が3人が釣っていた所
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写真 横磯海岸で恐怖の体験を語る戸松哲蔵さん(右)と原田幸悦さん
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写真 ↑印、3人が釣っていた所 必死で逃げた牧場の下に立つ。↑印まで約2mの津波が来た。

証言3 急襲する津波を背に、高台へ向かい一目散 青森県深浦町横磯海岸

午前九時半ころタナゴ釣りに行こうと思い、バイクで家を出た。途中餌を買うつもりで木村釣具店(能代市)に立寄った。すぐ後から友人が入って来て一緒に連れて行ってほしいとのことで、友人の車で深浦町の横磯海岸に直行した。
十一時ころ釣り場に到着、歩くのが億劫なので駐車場のすぐ下の釣り場に下りた。海はないでいて干潮時のように潮位がかなり低かった。そのためか海の底までよく見えた。これでは駄目と思ったが竿をおろした。一時間ぐらい経ってもさっぱり釣れない。付近に四、五人の釣り人がいた。(後日聞いたがこの中に私の知人もいて午前七時ころから九時ころまでは入れ食いであったとのこと)。
 十二時十分前ころ地元の郵便配達の人が釣りを見に来たので、二人でいろいろ話していたところ、あの地震が起きた。しかし岩場のためかそんなに大きいとは感じなかった。でも津波を直感した。
 少し離なれて釣っていた友人に一応引き上げて様子を見ようと道具を片付けさせた。そのとき、潮が急に引き出して、これは変だと思い竿をたたまずに、かついだまま駐車場に向かった。
二、三メートルも来たこところ急に潮が押してくるのに気付いた。後を見ると白波のようなものが見えたので、二人で夢中で馳け出し、ようやく釣り場から六、七十メートルの所にある小高い牧場にたどり着いたところ、足下まで波が押し寄せていた。そこで駐車場の高台まで一気に馳け上がった。
津波の恐しさもさる事ながら息が切れ心臓が止まる思いであった。
駐車場から海を眺めたら、今までいた釣り場一帯は岩かげ一つ見えない茶褐色の濁流がものすごい勢いで深浦方面に流れ出している。二、三分でまたもとの潮位になった。(これが第一波であったと思う)
車のラジオを聴き地震の大きさを知り、急ぎ帰路についた。
今回の体験を通じて二、三参考まで書いて見ると、第一に津波を直感したこと、第二に釣り場が高台(駐車場)に近かったこと、第三に一人でなかったこと。などであった。従ってこれからは地震即津波という事を念頭に、決して「無理のない釣り場」「逃げ易い釣り場」を求めるべきだと自分自身に言い聞かせるとともに、釣り愛好者の皆さんにも忠告したい。
永井新一(大正三年・無職)
能代市花園町九−一一
電話 〇一八五五ー二ー二七八九

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地図 横磯海岸
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写真 青森県深浦町横磯海岸
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写真 海岸より牧場(林の下)を見る

証言4 津軽の海は、四十八歳の働き盛りをのんだ。青森県深浦町小福浦漁港

加藤昇さんの目撃者については「斉藤さん」という人がいるとのことで、警察、漁協などへ照会したが、不明であった。
現地の状況から判断すると、小福浦漁港左手の防波提先端で釣行中、津波に巻きこまれ、左側の磯へ流されたものと推定される。
写真で見るとおり、津波は右手の方向より襲来、そのまま左側の磯へ流されたもので、大きい岩もなく、比較的遠浅の磯である。
それだけに、救命胴衣を着用していれば、四十八歳という働き盛りの年齢でもあり、難を免かれたのでないかと悔まれる。記録・川村浩(県つり連)

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地図 加藤昇さん発見地点
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地図 周辺地図
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写真 青森県深浦町小福浦漁港で捜索会議
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写真 加藤昇さんは、小福浦漁港防波堤先端で釣っていて、左手に流されたらしい
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写真 小福浦漁港左手の磯
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写真 心配げに、行方不明者の捜索を見つめる人たち(写真提供 秋田魁新報社)

証言5 死に神につかまり、岸壁をよじ登り助かる。青森県深浦町椿山海岸

この日、休日となっていたので友人を誘ってウミタナゴ釣りに行くつもりでした。しかし、当日は山菜とりに行くとのことで一人で出かけることにしました。友人となら早朝に出かけるつもりだったのですが、夕方までゆっくり釣ろうと思い、田んぼの水を見回り、家を出たのが十時になろうとするころでした。
 目的地は、深浦海岸の沢辺と舮作の中間にある椿山と呼ばれている所です。しかし、前日に同場所で職場の人達が十人ぐらい来ているので結局、そこには行かず、椿山の沢辺寄りの湾の向かいに海岸づたいに行ったのです。ここの海岸線は、岩崎から深浦まで二、三十メートルの崖となっているのです。
 私が陣取った場所は、海岸から百メートルぐらい突き出た場所です。初めは湾内にいたのですが、釣れなくてその先端に出たのです。
 現地に着いたのが十一時近かったと思います。湾内で三、四十分釣ったでしょうか。先端に出たのが十一時四十分ころだったと思います。着いて間もなくウミタナゴが次々に四匹釣れたのです。四匹目を釣り、針をはずそうとしていたときに地震が来たのです。
 小きさみながら激しい揺れの地震でした。椿山の上方から岩石が崩れたり、後方の海岸の崖の礫が落ちたりしていました。
私は平担な岩に座っていたせいか、また、対象物(家・電柱)がなかったせいか、そんなに揺れを大きく感じませんでした。
 それでも、座ったままでしたが、津波の心配も一時はして沖を見たのですが、そんなには感じませんでした。ところが、すぐそばの岩場の海水の水位が三十センチぐらいドがったのです。そうしたら、すぐにまた水位が上がり、今までの水面より十センチぐらいより上がらない。即ち、下がった水位から四十センチぐらいより上がらなかったのです。この水位の上下を二回繰り返したのです、だから、津波というのは、これかな?と思ったのです。
 手にはまだ、タナゴを握っていたので、この水位の上下を三回まで見た後、魚を取りはずすため、下を向いてしまったのです。二分ぐらいでタナゴを針からはずし、餌をつけて竿を振ろうとして海面を見たら、深さ三メートルから五メートルの海底が見えるではありませんか。その瞬間、津波が来ると思ったのと、ザック、クーラーを左肩にかけ、右手に竿をつかみ、岸に向って走ったのと同時でした。そのとき、津波はもうすぐそばまで来ていたのです。
 いくら、平担な岩場でも、あっちこっちに割れ目や凸凹がありますので、それらに落ちたり、つまづいたりしないように、下を向きながら走りました。走って二十歩ぐらいだったと思いますが、後方からザーという波の音が聞こえてきました。もうだめかと思った目の前に一メ−トルぐらいの小さな高い岩が見えたので、まず、それに上がろうと思いました。その岩に上がると同時に足元を水が走り、三、四秒ぐらいで胸まで水位が来て押し流されてしまいました。そのときまで、まだ、竿をつかんだままでした。
押し流されてから、まず、足をばたつかせました。すると、長ぐつがそのままするっと抜けたのです。「しめた」と思いました。足を動かしたら、水面に顔が出たのです。一呼吸ほどでした。再び水面の下になり、今度はどうしても浮かべないのです。これでは死ぬと思い、手の竿を離し、クーラーを水面下から手をのばしてつかまえ、やっとのことで顔を出すことができました。すると、目の前に海岸の崖が見えたのです。ほんのニメートルぐらいの所でした。
 しかし、そのニメートルの所へ向かって泳いでも泳いでも進まないのです。すでに引き波の始まるころだったからです。やっとのことで崖の岩につかまり、「もうはなすもんか」とつい声が出たくらいです。十秒か二十秒ぐらいで引き波が始まりました。身体が引かれる思いは少しの間でしたが、それは強いものでした。
 水が引いているので落ちないようにしてつかまっていましたが、水位が下がり、下の方を見ると、びっくりしたことに三メートルぐらいもある高い岩の壁につかまっていたのです。しかも、逆斜面だったのです。どうしたらよいかと思案にくれているうちに、手がはずれて落ちてしまいました。
幸いなことに下が平らだったので打ち身だけですみました。それでも、足から落ちたので痛い足を引きづりながら、つかまっていた岩の側方の崖をよじ登り、崖の半分ぐらいのところで第二波を見ました。第一波より、一メートルぐらい小さいものでした、また、第三、四波は一メートルぐらいありました。
 怪我は、全治五十日ぐらいとのことで三週間休みました。今は走ることはできませんが、仕事に支障がないくらいまで回復しました。
このときの服装は、上衣はジャンパー、下はカッパズボンに大きめの長ぐつです。

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写真 行方不明者の捜索活動をする船(写真提供 秋田魁新報社)
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地図 周辺地図
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地図 津波のきた方向
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写真 磯山と釣り場
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写真 右すみの所で釣っていて、絶壁の下まで押し流される
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地図 津波に押し上げられ、壁につかまったが、引き潮で水位が下がり、3メートルの逆斜面から落ちた
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写真 真中の白いシャツの姿のところまで津波が来た(約3メートル)

証言6 「おしん」で助かる人、救出寸前で流される人 青森県岩崎村立待岬

 朝四時に起床、薪ストーブに火を入れ、お湯をわかし、コーヒーを飲みながらレコートをかけ、サブちゃんの懐かしのメロデーを聴き、一服するのが私の日課の始まりです。
 その日は家内と山ヘタケノコ採りに行くことになっていましたので、その準備を済ませ五時半ころ愛犬「純」を連れて海岸を散歩しました。天候はよく絶好の釣り日和でベタナギでした。
 そこで、このなぎをのがしては海の幸は採れないと考え、家内と話し合い急拠海へ出かけることにしました。早めに朝食を済ませ海具器、ヤス、特長ぐつを持って港へ行き、家内と純を船に乗せ出発したのは七時ころでした。
 二十五馬力のエンジンは快調。目的地の舮作、椿山方面へ突っ走りました。崩山、白神岳、十二湖のキャニオンまで雲一つなく実によい眺めでした。沖にはキス、カレイ釣りの船が見えました。立待岬の沢辺海岸の眺めもすはらしく、水の間、わに目を通り椿山海岸へ着いたのは七時半ころでした。久し振りに見る椿山の全景と温泉の湧き出る湯煙をみて一服した気分は、実に壮快そのものでした。
かって、教職時代に剣道部の生徒を連れ、夏休みにこの場所で毎年キャンフをしたことを思い出しました。二十年前のことで、当時は魚、サザエ、アワビ、海草類も豊富で、一時間はかり子供達と潜れは沢山採れたもので、朝から海の幸をふんだんに食べたものでした。
特長ぐつをはき海見器とヤスを持って岩場づたいに魚やサザエを探し回りました。家内はコブのりを採っていましたが、なんだか急に帰りたい気持ちになって、一時間ばかりで椿山をあとにし岩崎の立待岬へと引き返しました。島の浅瀬に昔からの舟だまりがあるので、そこへ舟をつなぎ、九時過ぎから漁にとりかかりました。岬の東側つまり岩崎寄よりの岩場を丹念に見てサザエやウニを採りました。ウニはすぐ家内が貝を割り海水でよく洗い、身をパックにつめました。十一時ころだったと思います。ウニ、サザエを採り尽くしたので裏側へ行こうと思って一服していたら、一人の釣り人が岬の方へ行き、島の先端で釣り始めました。私は、お昼までもう少し採ろうと思い、西側の岩場から漁をしました。
 このころから磯波が荒くなり海見器で海中を見ていると、顔や手までしぶきがかかるようになり、いい場所まで入れなくなり、比較的波の穏やかな所を見て漁をしました。そうこうしているうちに、岬の最先端の釣り人の後方近くまで行ってサザエを採っていると、釣り人がうしろを見て、人なつこく「だんなさん、何採っているの」と話しかけてきました。「サザエやウニですよ」と言ったら、「いいですね」といって笑いかけていました。私がちょっと見ている
うちに一、二匹アブラメを釣り上げて大変喜んでいました。背丈のすらっとした四十歳前後の日焼けした温厚そうな方でした。私がすぐ隣の岩場へ移動している間、家内ともなにか話していたようです。
潮の流れが多少速くなって、両足と腰に力をいれふんばって漁をしていました。穴場にサザエが七つ、八つとかたまっていて、ヤスで突いてはビクに入れ、面白いほど採れました。こんなことは最近珍しいことだと思っていた矢先です。「グラグラッ」と岩場が揺れ出し、地震と気づいて海から「ゆらゆらっ」と岩が動き出し、今にも岩が割れ、崩れていくのではないかと思うほどでした。家内は平担な岩場に座り、すぐ向かいの釣り人は立ったままの状態で三人とも顔を見合わせて「地震ですね」と言いあいました。その間わずか二、三分だったと思うが、実に長く感じ、この震度では陸の方は相当揺れがすごかったと思いました。
 地震がおさまり、家内が日課のNHKテレビの「おしん」を見ようと促したので、釣り人と別れ、船まで四、五分歩く途中、岩の割れ目や水溜りの所がブツブツと異様な音をたてて泡だち、まるで火山が爆発するのではないかと思うほどでした。
 船ヘヤス、海見器、ビクを入れ出発しようとしたら、船尾が岩にひっかかり動きません。家内と犬をおろし、ひと波がくれば、船が離れ出発できると思い、七分ほど潮待ちをしていました。
 その時でした。目の前が異様に高く一様になり、白煙をあげて波が押し寄せて来るではありませんか。とっさに家内を近くの岩壁へ登るよう命じ、私は十メートルほど離れた船へ飛び乗りました。この間数秒。ニメートルよじ登った家内の足元十センチ近くまで、波が打ち寄せると同時に、第一波が船の真横から来襲、ロープは切れ、三、四十メートルは一気に流されたと思います。津波の高さは約ニメートル近く、船の機械場にしがみつき、船と波とのバランスをとるのに無我夢中でした。そのとき、沖の方から「オーイ、助けてー!」と、叫ぶけたたましい声が響きました。
 岬で見た釣り人が波にさらわれて、見えつかくれっ四、五十メートルほど先を流されているではありませんか。とっさにエンジンをかけ、救助に向かいました。
 どれくらい走ったろうか。突然「ガーン」という音がしてヘラ軸が折れ、エンジンは空転するぱかりです。船は進まないし、そのうちにまた波が来る、引く。私は船のともから中心部に移動し、ヤスのほこを持って船をあやつりました。そうこうしているうちに釣り人は見えなくなりました。
 岬をみれば、一番高い岩山が一、二尺ほどに波間に見え、あたり一面波ばかりでした。(津波の高さは、後日実測したら七・ニメートルありました。)陸の方からだれか叫んでいるがよく聞きとれませんでした。
 そのうちに引き潮が始まり、船は沖合いにどんどん流されました。あたかも飛行機で自爆して行くようなものでした。また立待岬の海底がすっかり見え、船もろとも吸い込まれて行く思いがしました。
「どすん」というにぶい音とともに岩礁に船が乗り上がり、体が前のめりになりました。立待岬まで陸地化しました。
 波は洪水のように流れ去り、あたり一面は岩と砂場だけになり、「逃げるのは今だ」と判断し、船から飛び降りて一目散に立待岬へ。高台へ登ったら家内と純、友人の川口さんがいて、お互いに無事を確め合いました。
 運、不運は紙一重である。助かって初めて津波の恐ろしさがわかりました。ただ返すがえすも残念だったことは、釣り人の秋出県能代市の河内さんを救助することが、私の力で出来なかったことです。
参考までに、次の話をつけ加えておきます。

1.地震発生後、津波が来襲することは全然考えなかった。
2.立待岬では地震後七分前後で津波が来た。(干潮は十センチぐらい)
3.釣り人も、船で出かけた私自身も救命胴衣を着用していなかった。
4.経験がないので、津波に流されても助かるまで津波とは思わなかった。
5.お互いラジオを持参していなかった。
七戸猛(大正十一年生・元小学校校長)
青森県西津軽郡岩崎村大字岩崎字玉坂七二
電話 〇一七三七ー七−二二五六

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写真 河内さんを助けようとした七戸猛さん
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地図 立待岬釣り人遭難場所
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地図 津波の方向
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地図 津波がきた方向
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写真 立待岬全景(岩崎側)
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写真 立待岬を岩崎側(東側)から見たもの。
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写真 津波のきた方向
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写真 沢辺側(西側)から見た所

証言7 生まれて初めての海釣りで、奈落の底に。

 私にとって生まれて初めての海釣りでした。その日は店も休みだったので、友人に誘われて青森県岩崎ヘカレイ釣り行きました。私の新車に乗った一行は五名。午前六時半ごろ岩崎漁港に到着しました。
そして、五トンぐらいの漁船で岩崎沖約ニキロの地点で竿をおろしました。
 その日は快晴に恵まれ、絶好の釣り日和だったそうですが、何しろ私は初めての釣行で船酔いをし、青くなって吐いたりもしました。それでも、二十センチ以上もあるカレイを五、六匹釣り上げて、面白さも増してきたころでした。
 突然、下から突き上げられるような「ガタ、ガタ、ガタ」という、激しい揺れがしました。エンジンは止めてあるのに、これはおかしいと思い、ふと陸の方に目をやると、十二湖の日本キャニオンの白い肌が数か所で、白い土煙りをあげ、崩れていくのがはっきり見えました。「これは地震だ!」とみんなで話していました。しかし、それほどひどいとは思いませんでした。
 そのうち陸の方では、救急車がサイレンを鳴らし走り回り、村のスピーカーは何かを叫び続けているし、海上でも異様な雰囲気が次第に感じられてきました。「これはただごとではないな」そんな思いが不安をかきたてました。
 まもなく、漁船の無線に「津波警報」が飛びこんできました。全員は「ギョッ」とした表情で船頭さんに陸に上がるよう催促をしました。三十歳過ぎの若い船頭さんは、しばし判断に迷っていましたが,陸に向かうことになりました。多分、沖で津波をやり過ごすかどうか,判断に苦しんだと思います。
 そこへ、岸からの大きな引き波がやってきました。沖からの津波を恐れていたのに,大波は岸からも襲ってきたのです。船は波の頂に持ち上げられ、谷底に気に落ちました。波の間に船がすっぽり入り込み、私達は立ったままで、振り落とされないように、船にしっかりしがみついていました。
「厩覆するのではないか」、「生きて帰れないのではないか」と思い、まさに恐怖の連続でした。
 十回ほどの大波を乗り越えたでしょうか。やっと波がおさまりかけました。早く帰りたいとだれしも思い、エンジンを全開にして岸に向かったのですが、すぐ近くの漁船から「岸に近づくな!」と注意され、また、元のところへ戻って船をとめました。何度となく引いたり,満ちたりする,不気味な潮の流れに乗って、岸のほうから廃材やゴミ、ムッとる臭いのするドス黒い重油が流れてきました。モーターボートも流されてきました。これを船頭さんが船につなぎました。
 ラジオでは能代港の惨状が次々に伝えられるうえ、無線では岩崎漁港には転覆船や浮遊物が多くとても人港できないことを連絡してきた。これでは夜までには港に帰れそうもないことを覚悟しました。
近くに漁船や作業船三隻が停泊しているのが心強く感じました。そのうち,船頭さんがモーターボートなら港に入れるかもしれないと、気転をきかせ、いかりをおろして船をとめ,四隻の全員がモーターボートを使って無事に岩崎漁港に到着しました。午後五時半ごろだったと思います。
 漁港内の漁船は転覆、沈没、大破していました。周辺の家もなぎ倒され、廃材が海面に浮き,港は惨状を呈していました。そして、岸壁から四十メートル離れた場所に駐車させていた,ひと月前に買ったばかりの新車・日産プレーリーは津波にもって行かれ、影も形もありませんでした。津波がこれほどまでの破壊力をもっていたことにあらためて身の毛がよだつ思いがしました。
関戸広司(昭年十四年生・菓子店経営)
能代市上町十二−二  電話 〇一八五五ー四ー三一三一

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写真 ムッとする臭いのゴミと一緒に流れる漁船(写真提供 秋田魁新報社)
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地図 周辺地図

証言8 三度目の場所替えで助かる、強運な私 山本郡八森町チゴキ崎

午前七時三十八分、向能代駅発の列車に乗り込んだときは、すでに心は釣り場に飛んでいた。「今日はあすこにしようか」「いや思いきってチゴキ崎燈台の下まで行って見るか」自問自答をしながらの車中であった。岩館駅着八時、徒歩十五分で磯場に出た。いつものように海の香りは何にも増した清涼剤だった。
 最初の釣り場は平担な岩場から、約五十メートルほどで突端に出るといたって低い釣り場であった。
二時間近くねばったが釣果はゼロ。
 次のポイントに移動したのが十時ころ。チゴキ崎燈台寄りの磯で、これまた足場が低く釣り易いホイントであったが、ここも全くアタリなし。
 三回目の移動をしたのが午前十一時ころ、チゴキ崎燈台下の大きな岩場である。右手の高台は約七メートル、左側先端部はそれより高く水面上十メートルは優にあるし、この辺では一番沖に出ていることもあって水深も充分である。右手高台下の岩場、北西に位置する所に竿を出した。
 釣り場は若干の傾斜もあるが、割と釣り易い場所で、少し沖目の海上に頭を出した根があり、いかにも魚がいそうな所である。左手の低く、少さな出っぱりにも一人、釣り人が糸を垂れていた。
 正午ごろ、目まいのするような感じがしたと思うと同時に、岩場が大きく揺れた。瞬間、「かなり大きな地震だ」と思った。巨大な岩場全体が、根こそぎ揺れる状態は、周囲が海という事もあって、街なかで感ずる地震とはまた別の意味で恐怖があった。それにしても長い時間のように感じた。気をとり直した痔は、座った状態で釣り竿を持ってまだ糸をたれていた。そして追い打ちをかけるような強い余震である。
 その直後、少し沖目に頭を出している根の周辺を流したウキが、大きく旋回するようになった。渦が発生したようである。
「変だ」そんな感じがしたと思う間もなく、急に盛り上がるように水嵩が増してきたのである。隣で釣っていた人と一緒に急いで、道具一式を持って高台の方に馴け登った。「まだ上かってくる」「どこまで増えてくるのだ」と思いながら、水位を見なから高台への退避であったが、「もしかして水にのまれてしまうかも知れない」という恐怖がチラッと胸の中を通り過ぎた。
 急速にせりあがってくる水面に、とうとう高台の頂上まで逃げたとき、足元から約一メートルまで水が上って止まった。
 左手の低い岩場で釣っていた能代のタクシー運転手は、釣り場が低かっただけに間に合わす、身一つで泳いで左手高台の途中にたどり着きつかまった。その間の距離は、約十メートルぐらいはあったように思われた。
 追い立てられるようにして高台頂上に逃げ、立った二人と、泳ぎついた一人に、今まで気が付かなかったが、先端部高台のかげで釣っていた一人の計四人は、あたり一面の盛り上がった水の中に孤立した。
 岩場の裂れ目にかかった鉄製パイプの小さな橋(水面上一メートル五十センチに架設され、長さが約三メートル)は完全に水没し、私たちの周りで水面の上に頭を出しているのは、四人が立っている高台だけという有様で、想像以上の水量を目撃しても、なお、それが津波であるという事は判らなかった。
 それから二〜三分経って急激に潮が引き始めた。「なぜだ」そんな疑問があったが、それが津波による「引き波現象」とはわかるはずもなかった。
 「また来るかも知れない。今のうちだそれっ!」と水の中から現れ始めたパイフ橋を渡り、急いで陸へ逃げた。二台の乗用車は見るも無残に燈台下の崖にたたきつけられていた。
 午後一時〇一分の列車で帰ろうと思って岩館駅に行ったが、地震の影響で運休となっていた。思案にくれていたとき、たまたま運よく逢った友人の車で家へ帰ることができた。
 途中、道路脇の護岸を越えた高波が住居に被いいかふさっているのを八森高台から見て、津波の恐しさに、ただただ身を震わすのみでした。
 最初と二回目の低い釣り場にいれば今日の私がいたか。たまたま三回目の岩場に移り、しかもそばに高い岩があったのが幸運でした。しかもその岩まであと一メートル以上も津波が上ればと思うと、ただただ運がよかったと思っています。
談・松谷二郎(大正十四年)無職
能代市落合字下大野七○−一〇
電話 ○一八五五−三−二五七五
記録・土田忍(県つり連)

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写真 逃け帰った駐車場で当時を話る松谷二郎さん
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写真 ↑印は松谷さんか逃けた高台
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地図 周辺地図
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写真 チゴキ崎全景(この写真の影が釣り場)↑印は松谷さんたちが逃げた岩場
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写真 写真中央の高台にいて、引き波と同時に、手前の鉄パイプの橋を渡って陸へ逃げた。点線は津波の水位を示したもの。
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写真 中央の岩場にタクシー運転手(↑印)、右手の岩場で松谷さんが釣っていた。

証言9 その日も主人は、いそいそと出かけました。山本郡八森町小入川河ロ

 主人は、五月二十七日午前十時すぎ、小入川河口の能代寄りの海中に仕掛けられていた網に引っかかっているのを発見されました。
 地震当日、主人は、いつもの通り一人でいそいそと車で出かけました。朝の五時半ごろだったと思います。
 私は所用で能代市の職業安定所へ出かけ、十二時の汽車に乗ったとたんです。あの地震がやってきました。鉄道は不通になり、向能代まで歩くことになりました。
 能代大橋を渡っているとき海の方から水が逆流してきて、まわりの人たちも恐しそうに眺めておりました。
 そのうちに、急に主人のことが心配になり、なんとなく胸さわぎがしてなりませんでした。歩く途中、心配で心配で足が地につきませんでした。
一時半すぎ、やっと家にたどり着きました。中に入ると、ガラスはメチャメチャ、時計は落ちているやらで散々な有様でしたが、主人のことが気にかかり、片づける気力もありません。近所の人が顔を出してくれて、その方から片づけていただきました。
 午後二時半になるかならないかのとき、八森町の消防団長の北宮さんという方から電話があり、主人の行方不明を告げられました。いつも車を預っているおばあさんからの連絡で、車に戻ってこないとのことなのです。
 北宮さんは、警察官の立ち会いのもとで車のガラスを割り、免許証から主人を知ったのだそうです。
 早速、弟の車で現地に向いました。場所は岩館の小入川河日の大きな岩の右側のところです。地元の人たちも一生懸命さがしてくれましたが、この目は見つかりませんでした。そのときの気持ちは察していただけると思います。結局は前述の通りになりました。
 主人は、はじめ真瀬川河目で釣っていたそうですが、釣れなくてむつ五郎旅館前へ移動をし、そして最後となった小入川河日の岩場で津波に遭ったそうです。
 必死になって、テトラポットにつかまっていたそうですが、もの凄い押し波であっという間に見えなくなったそうです。
 北宮さんや車を預っていただいたおばあさんに心から御礼を申し述べさせていただきます。
談・村山ウメ(大正十三年生・無職)
能代市落合字下大野六九−七
電話 〇一八五五−三−四二六六
記録・泉一男(県つり連)

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地図 村山さんが釣っていたところ
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写真 村山俊雄さんはこの岩場の影で釣っていた。
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写真 小入川河口を中心とした全景 A.村山さんが釣っていた所 B.村山さんの遺体発見の場所
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写真 空と海からの懸命の捜索活動(八森町)
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写真 題名なし(写真提供 秋田魁新報社)
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写真 題名なし(写真提供 秋田魁新報社)

証言10 竿をたたむのが一瞬遅れ、遭難した息子 山本郡八森町滝ノ間海岸

その日は職場のレクリェーションがあり、息子の守は同僚四人と八森方面へ出かけました。集合場所は八森町青少年の家でそこから好みのコースへ分かれていったそうです。
守は、前に八森町の駐在をしていた関係から釣り場に詳しかったようですが、その日に限って「レクには行っても釣りだけはしたくない。」と目記に書き残してありました。
 今、思えばあれほど釣り好きなのにおかしなことです。にもかかわらず竿をおろしたのは、仲間の手前もあったからでしょう。また守は、どうせ釣るなら雄島で釣りたかったそうですが、時間的な関係から青少年の家の下で釣ることになったわけです。
 地震が起きたとき、そばの崖からバラバラと小石が落ちてきたそうです。ほかの人は不安を感じて竿をたたみ始めたのですが、守だけはウミタナゴを六、七匹も釣っていたので、竿をたたむのが遅れたようです。そして、二、三歩あるいたとたんに下から「グーッ」と水が浮いてきたそうです。
「大変だぁ!」と、みんなが釣り場から立ち去ろうと思っている矢先に津波に襲われました。
 仲間の小野さんと他の人たちは幸い高台にいたのですが、守だけは低いところへいたために、岩場の高いところを伝って逃げたそうですが、大波につかまって帰らぬ人となってしまいました。
 守のそばにいた小野さんは少し高い岩にいて、運よくちょうどつかまり易い岩があって、そこにしがみついていましたが、津波に体を浮かされ、引き波のときは引く力が強くて手のひらが傷だらけになったそうです。
思えば不思議なこともあるものです。懸命な捜索にもかかわらず守が見つからないので、金足岩瀬にある東泉寺(菩提寺)のお坊さんからお札(おふだ)をいただき、現場でそれを流したところ、ある地点に流れて行くとスーッと沈んで行くではありませんか。普通ならスイスイと波に浮かれて流れていくはずなのに−。
 六月七日も、なかばあきらめながら遭難現場で捜索を見ていました。前夜は大雨で、この日も朝から空は真っ暗でした。潜水可能な時間が切れる寸前で、ダイバーたちは「もう上がろう」と思っていた矢先です。 黒雲がわずかに切れ、お札の沈んだあたりに一条の光が海へさしこみました。ダイバーが、もう一度と光がさしこむ海底に潜ったのです。そこに守が横たわっていたのです。午前九時四十九分でした。
 あれだけの津波に襲われながら、帽子を除いて服、長ぐつなど生前のままの格好で、遺体は傷一つありませんでした。
 三日分のお札はそのほか、まだ発見されていなかった保坂義重さんのために流したところ、スイスイと沖へ流されて行きました。後日談になりますが、保坂さんは、守の発見から三日後の六月十日に椿漁港の沖合一・五キロメートルで発見されたそうです。
 東泉寺のお坊さんが、守の供養塔を建立してくれるとのことで、津波からひと月後の六月二十六日に、守が釣っていた場所と遺体が発見された場所が見える高台に、供養塔を建立しました。
談・父・奈良宇左工門(大正十四年生・農業)
秋川市金足下刈字深田八九
電話 ○一八八−七三−四〇二一
記録・泉一男(県つり連)

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写真 遭難した釣り場と遺体が発見された海が見える位置に建立された供養塔
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地図 奈良守さんが釣っていたところ
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写真 幼子を残して。故人の冥福を祈る遺族
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写真 遺体や漂流物を発見!発煙筒を投下し、捜索船に知らせる(写真提供 秋田魁新報社)

証言11 高波から一人救出、だが一人は波の間へ。山本郡八森町滝ノ間海岸

 地震のあった日は、私の飲食店が開業して三日目でした。親類の人達がお祝いに集まっていました。
他の料理はすでに出来上がり、天ぷらを揚げていました。そのとき、グラグラときました。すぐガス栓を止め、揚鍋をおさえていました。
 地震は三分から五分ぐらい続いたのでしょうか。その後三分ぐらいすると、家の前に広がる海の水がどんどん引いていくのが見えました。母は「津波が来るかも知れない」と言いましたが、「日本海には津波は来ないよ」と、のんびりしている人もいました。ちょうどそのとき電話が鳴り、今、岩舘に津波が来たとの知らせでした。急いで店内の年寄り十二人を裏山に行かせ、それから隣り近所に「津波だ」とふれ廻りました。
 家に戻る途中、七、八メートルもの高い津波が斜めに押し寄せてきました。私は「もうこれで終わりだ」と思いました。それでも逃げなくてはと車に走り、エンジンをかけましたが、すぐ近くまで波が来たので車を降り、裏に逃げました。先に避難した年寄りたちがまだのろのろ歩いていました。足もとまで水がきていましたが、その人たちも一緒にやっと高台にたどり着きました。
 ひと安心して海を見たら、また五メートルぐらいの高波が、船をのみ込んでいるのが見えました。
陸に上がった水は、もの凄い勢いで引いていきました。第二波から三分ぐらい経ったとき、沖から白波がまっすぐ陸に向って、だんだん高くなってきました。これで家までも流されるのかと観念しましたが、護岸の上を越しただけですみました。
 近くの人が、沢山の人が海に投げ出されて溺れていると大声で叫んでいるので、すぐ行ってみました。午後一時過ぎころではなかったかと思います。潮路荘に着いたとき、釣り人が二人流されていました。その二人は陸に向かって必死に泳いでいますが、引き波のため、いくら泳いでも陸には着かないのです。近くにいた人達と、高い岩のある方にいき、ローブを投げてみたけれど、押し波、引き波でなかなかそこまで届かないのです。その間にも何度も波が押し寄せ、その都度、われわれも逃げました。そのうち、うまい具合に大きな波が一人(見上文夫さん)を岩の近くに押し寄せました。その人を二、三人で海の中から助け上げました。(カラー写真参照)
四十分ぐらい波にもまれているので、体は硬直し、意識もない状態なので、直ちに私が運転して八森町の奥村医院へ運びました。もう一人(佐藤隆一さん)の方も心配で、すぐ引き返しました。
その方は、みんなの目の前で浮き沈みをしていたそうですが、波が強く、救助しようにも近ずけず、次第に沖へもって行かれ、逐に沈んだそうです。それは何とも言えないつらい気持ちであったそうです。
今になって救命胴衣を着けていたら、もやい銃があったらな、と考えますが、目の前で、なすすべもなく、人が沈んでいく光景は、なんとも言えない残酷なものでした。
石塚正一(昭年二十一年生・食堂経営)
山本郡八森町滝ノ間一六八
電話 〇一八五七−七−二八〇六
注 石塚正一さんは、この救出で、一緒に救出作業をした大高鉄也さん(山本郡峰浜村)とともに、能代警察署長の表彰を受けました。

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写真 津波はこの防波堤を越えてきた(八森町滝の間海岸)
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地図 佐藤さん発見地点
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写真 能代警察署現地警備対策本部に掲示した潮汐グラフ
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写真 八森町滝ノ間海岸全景
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写真 滝ノ間海岸に打ち上げられた釣竿とクーラー
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写真 滝ノ間海岸で津波の惨状を語る石塚正一さん

証言12 五メートルの波の屏風にさらわれ、仲間が不明に。山本郡八森町真瀬川河ロ

 その日、私は近所の釣り仲間の小川福治さんと八森方面にウミタナコ釣りに出かけました。沖から吹いてくる風は心地よく、絶好の釣り日和でした。むつ五郎旅館下は、前にもかたのよいウミタナゴを二十匹ばかり釣り上げたところなのですが、その日に限ってフグ一匹も釣れないのです。
 たまたま出会った顔見知りの村山俊雄さんも「さっはり釣れない。岩館の方へ移動してみる」ということで車で行ってしまいました。このときが村山さんを見た最後でした。
 私たちも、そこから真瀬川河日へ移動したのですが、さっはりだめなのです。そのとき、地震を感じたのです。しかし、岩場のせいか、そんなに揺れはひどくありませんでした。ふと、足元をみると岩場の水が三十センチぐらいドがって、ふだん見えないニタリ貝が見えるではありませんか。おかしなこともあるものだなあと思いましたが、そのときは、津波のことなど全然頭にありませんでした。
 それから何分かたったときです。何気なく後ろを見ると驚いたことに四、五メートルもあるような波の屏風が立っているではありませんか。私達は、あっというまに波のうずに巻き込まれていました。
 私はやっとのことで水面に頭を出し、息をつきながら、そばにあったローブにつかまっていました。
まもなく引き潮になったとたんに、引き潮の力が強くっかまっていたローブから手を放し、再び波のうずに巻き込まれてしまいました。
 気がついて、水の中から上の方に手をやったら、船らしいものがあり、夢中でつかまろうとしましたが、プラスチックのせいか、つるつるすべるのです。その間も波は何回も何回も寄せては返していました。
 私は必死になって船によじ上ろうとするのですが、長ぐつや厚着をしているため思うようにいきません。時間が長く長く感じました。やっとのことで、船の棒のようなものをつかまえました。「やっ、しめた」と心に余裕が出てきたような感じがしました。
 そのとき、岸の方に男女二人をみつけたので「オーイ、オーイ」とあらん限りにさけんだのですが、いつのまにかいなくなってしまいました。またまたの寄せ波をみて逃げてしまったのでしょう。
 波との闘いからしばらくたった時です。波がややおさまり、ふと気づいたら水がひざぐらいしかありません。私は夢中で水のつかった重い長ぐつを引きずりながら岸へ走りました。
 しかし、一緒にきた小川さんの姿が見えないのです。全身びしょぬれ、血だらけのかっこうで河口から二百メートルの上流まで探し回りました。川岸も右往左往したのですが、人影はどこにもないのです。出合った人に能代への電話をお願いしたのですが、地震のため不通とのこと。しかたなく八森町茂浦の知人宅へ車で走りました。知人も私の身の格好、形相にびっくりぎょうてんしていました。
 寒さ、恐怖、不安も手伝って震えがとまりませんでした。着賛えを借りて毛布にくるまっているうちに救急車がやってきました。全身打撲ながら九死に一生を得た私ですが、今もって小川さんのことが悔まれてなりません。
談・桜井利助(大正十一年生・無職)
能代市落合字中大野岱一一八−一
電話 〇一八五五−三七−二五一八
記録・泉一男(県つり連)

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写真 小川福治さんの遺品
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写真 小川福治さん発見場所
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写真 小川さんと桜井さんが釣っていた真瀬川河口
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写真 真瀬川河口、二人が釣っていた所は右手
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写真 地曳き網で行方不明者の捜索(写真提供 秋田魁新報社)

証言13 津波に追いかけられ、弁財天の屋根に登る。山本郡八森町雄島

非番を利用して、同僚の高橋幸一さんと八森町の雄島に磯釣りに出かけました。渡し船で雄島に渡ったのが午前十一時半。西側中央部に陣取った二人が陽光の下、昼食を終えて釣り仕度にとりかかりました。正午ごろ、突如として島がグラグラ揺れ始めました。それは、今にも島もろとも沈んでしまいそうな大地震の襲来でした。
 生まれて初めて経験する大きな地震に、これはひよっとすると津波が来るのではないかと思いましたが、まさかこの島がのみ込まれるはずはないと互いに言いきかせ、気を取り戻すと二人は再び釣りの準備を始めました。
 二十分余りのち、ふと右手前方を見ると、海面が白煙状に盛り上がり、八森漁港の防波堤が音ひとつ無く爵のうちにのみ込まれるのがはっきり見えました。それはちょうど、白昼のまか不思議、無声映画を夢の中で見ているような恐ろしい光景でもありました。
 あまりにも突然の出来事に、一瞬何が起こったのか私たちには分かりませんでした。やがて沖の方から押し寄せてくる真っ白の巨大な水の壁に胸の鼓動が高鳴りするのを覚えました。
 「津波だ!」と直感した私たちは、必死の思いで頂上の神社目がけて逃げました。しかし、津波の押し寄せる速度は異常に速く、私が八合目ほど(海面より約十一メートルぐらい)登ったとき、背後からガーンというもの凄い衝激が襲いかかりました。
 一瞬、私は「第一巻の終わり」かと観念しながらも必死で岩肌にしがみつき、どうにか第一波の襲撃をかわし、引き波のとき頂上めがけてよじ登りました。高橋さんは私より四つも若いだけに一気に頂上へ駆け上り、途中で津波につかまり波間に没した私を見たときは「津波にやられた!」と思ったといいます。
 しかし頂上へ上っても決して安心はできませんでした。いつまた大きな津波が来てさらわれるかも知れない。二人はおそれ多いことながら、島の頂上にある高さ二・五メートルの弁財天のコンクリート製の社(やしろ)の屋根によじ登りました。
 あたり一面は白く泡立つ潮で埋まり、一段低い所にある恵比寿神社は屋根が見えるだけでした。津波は三十分余りの間に七、八回襲ってきましたが、第一波から三波あたりが最も大型で、社の八合目付近、足元五十センチドを波の先端が通過したときは本当に生きた心地がしませんでした。
 それにしても、まのあたりに見る想像を絶する津波の威力には全く戦標を覚えずにはいられませんでした。
 津波によって生ずる潮流の変化がもたらすのでしょうか、島の西側と南側ではすさまじいばかりの巨大な渦巻が荒れ狂い押し波のたび、雄島は波をかぶり、その後の引き波で水深十メートル前後の海底がその全容をさらけ出すのです。二人は、目前で繰り広げられる信じ難い大自然の脅威に、ただただ驚愕し、なすすべもなく驚怖におののくのでした。
開びやく以来、初めて見せた海底は、雄島を中心に南側が砂場、北部が岩場を形成、その気になれば陸へは走って渡れろほど海水はきれいさっはり引いてしまったのです。(なお、このとき「クロダイやスズキが潮の引いた海底で飛びはねた」という、話があるが、そういう事実は全くない。)
 押し波は七、八回余り繰り返しましたが、事実、押し波から次の津波が来るまで長いときで五分前後を要しましたので、陸続きになった百五十メートルほどの距離の海底を走って逃げようとしたのでしたが、対岸で救助にあたっている能代署の警官らの「来るな!」「来ては危ない!」という制止の声に断念したのでした。
 第一波から約四十分で大津波からの危険は去りましたが、いつまた危険が迫るか知れない。二人はワラにもすがる思いで救助を待ちました。
 そして午後三時、長い長い不安と恐怖と苦痛のときが過ぎて、キス漁で遭難した父親(六月三日遺体で発見……合掌)の捜索にきていた天祐丸(四・七トン)の船長、日沼邦男様(八森町横間在住)に無事救出されたのでした。
 このときばかりは心から助かった。これで生きて帰れると思いました。胸が一杯になりました。その後、但馬丸(二十九・九トン)に乗り移りましたが、津波による被害のため八森漁港には入港できず、この日は他の十数隻の船とともに海上で一夜を過ごし、翌朝、能代港に無事入港することができました。
 二本の足で能代港の岸壁をしっかり踏みしめたときの、あの筆舌に尽し難い安ど感と喜こびは生涯絶対忘れることは無いでしょう。
 最後に七十三歳の実父行方不明という悲劇にもかかわらず、自分の危険をかえりみずわれわれ二人を救出していただいた日沼邦男様をはじめ但馬丸ほか関係者ご一同様の格別のご尽力に対しまして心から御礼申し上げる次第であります。

談・成田和正(昭和二十八年生・公務員)
大館市字池内道下三六−二八
電話 〇一八六−四三−一一七八
記録・進藤和弥(県つり連)

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地図 津波の位置
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地図 津波の方向
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写真 成田さんたち2人は、雄島の右側の弁財天堂の屋根に登って助かった。
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写真 引き波が始まり、海底が露出した雄島(撮影は、いずれも八森町 長岡興八郎氏)

証言14 父親を眼前で亡くし、釣り人二人を救う。山本郡八森町雄島

 津波警報を漁業無線で知らされ、八森漁港所属の漁船が全船帰港を始めた。底曳き漁業の但馬丸(二十九・九トン・山本健蔵船長)の船長の家が海岸沿いの椿部落にあるため、船から双眼鏡で津波による被害状況を見ていたところ、雄島(日本海金属(株)発盛製鉄所の沖合)で、二人が、救助を求めているのを発見しました。但馬丸はきっ水が深く、雄島へ近づくことは困難のため、無線で小型船が雄島の近くにいないか照会しました。
 そのころ、天祐丸(四・七四トン日沼邦男船長)が、沖メバル釣りから帰港の途中で、津波警報を聞いています。天祐丸から五分くらい陸寄りの距離に、日沼邦男さんの父・留丞さん(七十三歳)がキスの刺網をしているのが見えました。
 沖から津波が来るのが見えたので無線で知らせましたが、津波は留丞さんの木造船をのみ込んでしまいました。ただちに現場へ急行し付近を捜しましたが発見できず、次々に津波が押し寄せ、岸は波が高く、二重遭難の恐れがあるため、捜索船に沖へ避難するよう命令が出されました。(留丞さんは・六月三日に遺体で発見)
 引き潮が強く、その流れに乗って沖へ出ているとき、但馬丸から雄島に人がいるので救助するよう依頼の無線が入りました。
当時、海は引き波、押し波が入り交じり、渦を巻いていたので、自分一人では救助は困難と判断し、但馬丸へ行き手助けの人を一人乗船させて雄島へ向かいました。
 雄島の人は釣り人で、船のへさきを雄島へ寄せて手伝いの人が誘導して船へ乗り移させました。そのとき、日沼さんは釣り竿やクーラーを先に船に乗せたので、釣り人は釣り具を大切にするものだと感想をもらしています。
 八森漁港は津波による被害のため入港できないため、その晩は全船沖泊り(底曳船六隻、小型船八隻)をするこのになりました。
 天祐丸には食料を積んでいないため、救助の釣り人を但馬丸へ移し、無線により漁業組合から釣り人の家族へ救出の伝言を依頼しました。
 翌朝、但馬丸は八森漁港へ入港できず能代港へ回航、天祐丸は八森漁港に入りました。
地震は、船のスクリューに物が絡んだような感じでした。津波の第一波は北側からきて、沖はモヤがかかったような状態で、岸へ行くに従って白い波頭が高くなりました。
 自分の父を目の前で亡くし、そのあと、釣り人を救助と、言葉に言い表わせない生と死のドラマを一日で体験しました。
談・日沼邦男(昭和十七年生・漁業)
山本郡八森町字横間一〇
電話 ○一八五七−七−三三七九
記録・川村浩(県つり連)
注 日沼邦男さんは、今回の救出で、秋田県警察本部長表彰を受けました。

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写真 日沼邦男さん(天祐丸)と右手後方が雄島
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写真 壊滅状態となった八森港(写真提供 秋田魁新報社)

証言15 人も船ものみ込んだ、横一線の白い壁 山本郡八森町鹿の浦海岸

 地震であわてて外へ飛び出したものの、火(ガス)を消さなければと食堂へ戻りました。まもなく二回目の地震がきました。
 店のテレビをみると津波警報が出ていましたので、沖の方向に目をやると、白い線が横一線になって押し寄せてくるのが見えました。
 津波は水平線の少し手前あたりで、白い煙が上がり、水の壁のようになって見えました。店の下に港があり、船をかたづけている人が見えましたので「津波だ、逃げて!」と叫びましたが、そのあとすぐ白い津波が押し寄せました。津波が引いたあとには人も船もいませんでした。
談・工藤ゆう子(昭和二十七年・鹿の浦食堂)
山本郡八森町泊台
記録・泉一男(県つり連)

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写真 きれいに何もなくなった八森町鹿の浦の船付場 八森町鹿の浦海岸
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写真 八森町鹿の浦海岸高台で当時の模様を語る工藤ゆう子さん

証言16 高波が川をも急襲、あわや死出の旅路に。能代市竹生川

 能代市の北端で、峰浜村近くの日本海に注ぐ竹生川(たこうがわ)下流は、鯉の大物の釣り場として知られる所である。
 その日、朝九時ころから、河日から上流約四百メートルの所で、鯉をねらって釣り系を垂れていたが、さっぱり当たりがなく、昼近くになったし、そろそろ切り上げようかな……と思っていたところ、突然の大地震がきた。もちろん立って歩くことは出来ない。無我夢中で堤防の上に這い上った。
 田の水は、ぐらぐらと煮えくり返ったようになっている。五十センチぐらいの厚さのコンクリートの護岸堤防は大きく口を開けて川に倒れかけ、テトラポットによりかかっている。竿立ては川の中に倒れ、釣り竿は四本とも、穂先が川の中に突っ込んでしまった。
 揺れがおさまるのを待って、大急ぎで竿を引き上げ、二十メートルぐらい離れた揚水ホンフ場近くの農道においてある車に運ぼうとしたところ、下流の方から、「がぼがぼ」と異様に大きな音が近づいて来た。見たら、水面がヒ、八十センチの段差で急速に増水してきた。津波が川にきたな!と思っているうちに、足もとを通り過ぎて上流へかけ上がって行った。
 私は釣り竿をかかえて車の方へかけ出した。車は右前車輪の地面が三十センチぐらい陥没してかなり傾いていた。竿をトランクに投げ込み、車を上げて残りの道目パを取りに再び川岸へ行って見ると、増水のときに水没していた、テトラポットが頭を出していた。減水し始めたのだ。残りの道具を車に入れて走り出した。途中の道路は、橋は大丈夫かな……などと思いながら。
 路面の堅い農道であったが、陥没、亀裂が至る所にあり、気ばかりあせるが思うように走れない。車の中では津波の二波、三波のことなど全然頭の中になかったが、ようやく家にたどりつき、家に被害のなかったのを確かめて、テレビのニュースを見ているうちにに、第二波、第三波の強烈な津波のあったことがわかり、しかも、私の釣りをしていた近くで、農作業をしていた人が行方不明になっていることを聞いて、身の毛のよ立つ思いがした。
 後を振り向くこともできず、夢中で走って来たのだが、最も強烈な第二波が、すぐ後を追って来ていたのかもしれない。八森町・峰浜村一帯の海岸が、最も波が高かったことがわかり、なか三日おいてから、当日、釣りをした場所に行って見た。
 車をおいてあった所のブロック製の揚水ポンプ場は倒壊し、すぐそばまでひと抱えもある大木が根こそぎ押し流されて来ており、植付けを終ったばかりの田地は一面流木、土砂、石ころで埋り、田の面影は全く見当らなかった。対岸の立木に引かかったごみの跡から見て、この辺りでの津波の高さは四メートル以上はあったようだ。
 後日、専門家の調査では、竹生川河口附近の波高は十四メートルぐらいあったと聞いた。あのとき、釣り場から逃げるのがあと数分遅かったら、完全に津波にのまれていただろうと思うと、今でも体から血の気の引く思いがする。
 なお、地震の十分か二十分前ごろからかと思うが、近くの松林で急にキジがけたたましく「ケン、ケン」と鳴き出したのを聞いた。かつて年寄りから、よく大地震の前にはキジが騒ぐ、と言うこと聞いたものですが、堤防にへばりついて揺られながら、年寄りの言ったことは本当なんだなあーとつくづく思ったものです。
薩摩茂夫(大正十年生・無職)
山本郡峰浜村石川字石川四五九−一
電話 〇一八五七六−二七六一

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写真 津波の第2波は、点線の位置まできた,写真手前で釣りをしていたもので、川面に木立か映っている
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地図 周辺地図

証言17 小船の真下を走った、三階建ての大津波 南秋田郡若美町申川沖

今年初めての竿おろしを兼ねて、昨年まで職場の上司であった仙北屋昭二さん(五十六歳)にお願いし、二人でアイナメ釣りに出かけました。仙北屋さんは、男鹿市北浦の人で小型船(船外機船)を所有し、釣りのベテランで、特にアイナメ、キス釣りが上手でいろいろ手ほどきをしてもらったことがあります。 午前十時ころ、北浦漁港を出港し、約二十分ほどで若美町申川沖約三キロに到着し、早速釣り糸を垂れました。北西の風でちょうど沖の方を見ながら釣る状態でした。潮流れも良く釣りには絶好のコンディションでしたが、アタリがなく、一時間半ほどで仙北屋さんと私が、それぞれ三匹のアイナメを釣りあげました。十二時ころ、仙北屋さんが「船底から音が聞こえて変だ」と話しかけてきたのですが、私は釣りに夢中になっており、またそのような気配も感じませんでした。
 それから間もなく、仙北屋さんは沖の方を見ながら「海の色が違う」と言うので沖の方を見ますと、なるほど海面が違って見えます。しかし、私は風の強弱や太陽光線の関係で海の色が変わるのを見ておりますので、風が変わったんだろうと安易な気持ちでおりました。
 その時、突然大声で仙北屋さんが「津波だ」と言いますので、沖の方を見ると波の壁が高くなってこちらに向ってきており、それがはっきりとわかったのです。仙北屋さんは在職中は消防の仕事をしていたので、すぐピンときたのでしょう。
「津波だぁ、救命胴衣を付けろ」と叫びました。私はあわてて救命胴衣を着ようとしましたが、気がたかぶっている上に普段着たことがなかったため、手間どりました。それでもどうにか身につけて、海を見つめ緊張していました。
仙北屋さんは、すばやくエンジンを始動し、船を走らせましたが、津波の速さは凄いものです。遥か遠くに見えていた波がもう四、五百メートル先まで来ており、まるで三階建のビルが押し寄せて来たようで、命の縮むというのでしょうか、胸がキューンと締め付けられる思いでした。一瞬の出来事でしたが、第一波の津波に船首を向けて乗り切ったときは、気持ちの高ぶり、足の震えが少しおさまりました。仙北屋さんは、時計を見ろと言ったので見ると十二時二十五分でした。
 津波のときは、沖へ出るのが良いと聞いていましたが、小型船では不安で港へ引き返すことに決め、北浦漁港へ全速力で向かいました。
 第一波の津波は、私たちの所を過ぎて間もなく立ち上り、波しぶきを上げながら陸へ押し進んで行き、北浦、五里合、宮沢、能代方向の海岸線に一直線となり、高さが二、三メートル、幅が数十キロもある水の壁のように見えました。
 入港しようとしたとき、後を振り向くと、白い波頭の第二波の津波が押し寄せて来ており、湯の尻、野村両港の岸に波がぶっかっていくのがはっきりと見えました。私は着岸はできそうにないと思い、死を覚悟し、最悪の気持ちでしたが、運よく北浦漁港に向って左手の防波堤にクレーン船が係留されているのが見えました。二人はそれに素早く飛び乗り難を逃れました。そのとたん、港の中へ渦を巻きながら波が押し寄せました。船外機をクレーン船に結びつけることができ、ようやく助かったと思いました。
 その後、防波堤に一時間ほど避難し、九死に一生を得た話や、私達のそばで漁をしていた船の安否など話しながら、波が収まるのを待って陸へ上がりましたが、今、振り返ってみると、もしあのとき、風が逆で陸を向いて釣っていれば、津波がの来るのがわからず、横波を受けていたかも知れません。また船付場まで突っ走っていたら船は転覆したかもしれません。
 今後、船で沖に出る時は、必ず救命胴衣を着用し、ラジオ、無線機などを備えつけ、いち早く情報をキャッチする事が大切だとつくづく思いました。また津波の状況次第では、沖へ避難する船の操船も大事なことではないでしょうか。
渡部健一(昭和二十二年生・公務員)
男鹿市脇本字頭名地八ニ−一
電話 〇一八五−二五−三二九九

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地図 津波の推定される水位
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写真 寒風山を背に、申川沖のアイナメ釣り
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地図 周辺地図
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写真 津波の去ったあとは、船も網もゴミの山となった五里合漁港(写真提供 秋田魁新報社)

証言18 大津波で、真っ白な氷山と化した男鹿の水島 男鹿市北浦湯ノ尻沖

 五月に入ると、ここ男鹿半島.湯の尻沖一帯はアイナメ釣りの最盛期を迎える。休日ともなると、釣り大会が開催され大いに賑わう。
 この日は平日とあって釣り客も少なく、四隻が出漁していた。早い船は午前九時、遅い船でも十一時には出港し、約三キロ沖合いの大型アイナメのポイントで糸を垂れていた。
 東の風弱く、海上はなぎ、またとない好天に恵まれアイナメ釣りには絶好の釣り日和であった。数回ポイントの移動を繰り返したころには、各船の位置は湯の尻漁港から北に約六キロの海上にあった。
 正午近くである。船底を断続的にハンマーで叩くような音がした。今まで経験したことのない音だった。釣り客が船べりを叩いているのかと思って見渡したが、そのような様子はなく、釣り人は無心にアタリを待っているだけだった。
 海底からせり上がってくるような不気味な音とともに船は上下に激しく揺れた。「変だ」と、底知れぬ不安が脳裏をよぎるころ、場所移動で航行中の僚船から漁業無線が入った。
 「ペラ(スクリュー)に物がからまったようで、うまく走れない。なしてだべ。こんなこと、初めてだでば」、「おかしいな、おらの船も上下に揺れて、ハンマーで叩いたような音してるでば」。そんな会話に前後して北浦漁業無線受信所から「巨大地震マグニチュード七・七」の連絡が入ったのでる。船内は一瞬、動揺した。
 それから十数分、オモテ(船首)の釣り人が釣り場から西の方向、半島の最先端から約一キロ離れた水島周辺で異様な光景を目撃した。「あれはなんだ」という声に、同乗者の目は一斉に水島方向に注がれた。通常、水島を見慣れている者にとっては信じ難い現象が起こっていた。全島、雪に包まれたように白くなり、その層が徐々に厚味をまして海上に氷山が出現したようになったのである。その高さ約七〜八メートルはあったように見えた。
 「なにかが起きる」と、不吉な予感が皆の背すじを通り抜けた。そのとき、津波の第一波はすでに岸辺へ向けて猛進を開始していたのである。これが巨大津波の襲来の序曲であった。普段、水面上一メートルそこそこの水島が、その雪のような白さの中から、まるで隆起してくるもののようにその全容を見せ、事態は最悪になったのである。つまり、船からは隆起したように見えたこの島も、その実、周辺の海底が露出するほどの強い引き潮現象によってその全容を見せたのである。
「みんな、救命胴衣を着てくれ!」。船頭は万が一に備えた。船頭の動揺は釣り人皆に影響する。
努めて平静を装った。引き潮どき、その巨大さの片鱗を見せた現象の反動は、その後やってきた。津波の第二波である。それは、おりからの満潮(午後一時十七分)と重なって日本海では初めてのすさまじい津波となって、沿岸各所に潰滅的な被害を与えることになったのである。
 岸に押し寄せるその獲を沖から見た光景について、四人の船頭は口を揃えてこう語っている。
 「子供のころから海を見て育ち、長じて漁業に従事しているが、あんな波は始めてみた。一列横隊の高い水の壁が、雪のような波頭をつけて海の上をすごい速さで進んでくる。波は崩れることなく、岸に近づくほどますます高く、強大になりながら押し寄せる光景はどんなしけた海からも想像できないすさまじいものだった。」
 沖の深場ということもあって、釣り場附近は特に津波の影響はなかった。だが漁業無線には陸の被害状況が刻々と入ってくると同時に、釣り人の家族からの問い合わせが殺到した。異状な状況の中で釣り人の氏名を一々確認するのは不可能と見た船頭は「湯ノ尻の釣り人は全員無事」と返事してくれるよう言ったという。誠に機転のきいた状勢判断であった。
 津波の状態も大部おさまった午後四時半ころ、港の安全を確認しながら全員無事帰港した。使い慣れた漁業無線を最大限に生かして陸の状況を把握し、さらに無線受信所の指示に従って「沖で待機した」冷静な行動が釣り人たちを救ったのである。もちろん、北浦漁協が新しい事務所に三月に移転したことも幸いした。(旧事務所は津波の直撃を受け、内部設備はすべて流失した。)
本文は、湯ノ尻漁港所属、大良丸(桧山良吉六十九歳・男鹿市北浦湯ノ尻 電話 〇一八五−三三−三
二五二)、ひろ丸(桧山由治・五十七歳)、善宝丸(鎌田善宣・三十九歳)、幸丸(桧山秀雄・六十
一歳)の四人の船頭から聞いたものである。
記録・土田忍(県つり連)

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写真 男鹿・水島(写真上の離れ島)

証言19 テトラポットがオモチャのように転がった 男鹿市北浦湯ノ尻海岸

 突如襲ってきた大きな揺れの中、お年寄り達はかつての男鹿地震の恐ろしさを知っているのか、道路にへばりついた。私達、経験のない若い者たちは、ただおろおろするばかり。家のゆれ、ブロックべいの揺れ、電線の揺れ、目の前に見て十数分間といものただ漠然としていた。二度目の余震で外へ出た。
 最初の地震から十分ぐらいたっていた。隣のおじいさんが「津波だ、山へ避難しろ−!」と叫んだ。私も海の方向を見た。白い横線がまっすぐ陸の方へ向かってくる。これでは大変と思い、近所へ「津波だぞ!」とふれ歩いた。
 あの波の押し寄せてくる音は、雷雲が百も一度に固まって鳴って落ちてきた様な音だった。第一波がおさまり、潮がきれいに引いた。
 漁船数隻が沖の防波堤でぶつかりあっていた。鰰船三隻が陸から海へさらわれ沈没した。釣り人の車四台も海中へ。第二波までの間かなりの時間があった様に思えた。何事もなかった様に静かそのものだった。
 湯の尻漁港から、釣り船三隻、漁船二隻が沖合へ漁に出ている。だが、無線連絡で皆無事とわかり安心。もっとも釣り客の家族に電連絡きかず、ABS秋田放送ラジオを利用させてもらい「男鹿市北浦湯の尻漁港の桧山釣り船店より出港している釣り船は、全船無事である。ご家族の皆様、安心してください。」と放送してもらった。
 地震、津波のときは、沖へ出ている船の方が安全だということは、祖父から以前、聞かされたことがあったので、絶対に釣り人は大丈夫だと信じ、冷静さを保つことができたように思う。
 津波警報の解除を聞き、浜へ出たら、港中央の公民館は津波で側面がもぎとられ屋根のみとなり、網は流され、重油缶が約六十本も流されていた。
 船外機はほとんど潮水をかぶり、船の板も流され、もう手のほどこしようがなかった。あの何トンもある重いトテラホットがオモチャでも転がしたように、道路に点々としていた。波の威力はたいしたもんだと驚くばかりだった。
私たちに人身事故がなかっただけでも、よかったと思っている。今回の津波を教訓に自然の恐ろしさをもっと身につけ、常に体制を整えておきたいと思う。
松山康子(昭和二十年生・釣り船店経営)
男鹿市北浦湯の尻
電話 ○一八五−三三−三二五二

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写真 どこからきたのかテトラポットが転がってきた(男鹿湯ノ尻海岸)
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地図 側面地図
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写真 A.消波ブロック投入場所 B.防波堤 C.ブロック置き場 D.繋船場 E.ブロック置場より津波によって運ばれたブロック F.津波が上がった石垣
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写真 津波水位の測定
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写真 津波が上がった石垣Fで津波水位測定

証言20 船も車もさらい、海底まで見せた巨大な引き潮 男鹿市北浦湯ノ尻海岸

 地震後、「もしかしたら津波がくるかもしれない。船は大丈夫だろうか」−そんな思いがして、夢中で湯ノ尻漁港まで走っていた。着いて少しの間、津波の影響はなかったものの、若干の潮枯れ現象は起きていた。
 急いで係船ロープをゆるめ船を少し沖へ出しながら、ふと水島の方向に目をやると、大きな波がきたので「きたな」と思い急いで逃げたが、自然のすさまじい破壊力は、その十数分後にまざまざと見せつけられることになった。
 漁港の水が一挙に沖合い二百〜三百メートルまでも引き、底がむき出しになるような潮枯れが起きた後、小山のような第二波が襲来したのである。
 地響きを立てて押し寄せる津波の高さは、私の見ている位置からは、入道崎の先端と同じ高さに見えるほど高かった。まるで盛り上がるように消波堤を越えるころには、そのエネルギーのすべてを発散するものの如く、高い水の壁となって港内と陸をひとのみにしたのである。
 高さ五〜六メートルぐらいはあったように思う。港内の船や浮いているものはおろか、駐車していた釣り人の車などすべてのものを陸にたたきつけた後、引き潮とともに沖へ持っていった。
 幸い、私の船は陸へ打ち上げられ、トモ(船尾)が痛んだ程度で済んだのは不幸中の幸いであった。
「消波堤も防波堤も乗り越えてくるあんな大きな波なんて初めて見た。」「思い出すだけでおそろしい」というのが、今のいつわらぬ気持ちである。
談・桧山弘一(昭和二十二年生・漁業)
  男鹿市北浦湯ノ尻
記録・土田忍(県つり連)

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写真 船も車も、全てポンコツとなった
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写真 男鹿湯ノ尻海岸においた釣り人のクラウンはスクラップとなった
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写真 津波の直撃を受けた湯ノ尻地区の公民館

証言21 追いすがる恐怖の高潮を、やっと振り切る。男鹿市湯本温泉下の海岸

 その日、湯の尻漁港から西に徒歩十分ぐらいの湯本温泉下で、釣り餌の岩虫採りをしていた。 岸から十五メートルの沖合い、深さ一メートルの軟かい岩場の所である。海も静かで作業もはかどり、正午少し前、陸にあがって昼食をし、一服していたとき、地震がきた。
 以前に新潟沖地震や、宮城県沖地震を経験していたので、またかといった気持ちもあって、たいして気にもとめていなかった。間もなく何の気なしに海を見たら、頂上を真っ白くした大きな波が、北西の方向(水島沖の方向)から陸の方へ向かってきたので、「これは津波だ」と思い、急いで岩虫採りの道具をとりに戻った。
 今まで見たこともないような高い波が、すごい速さで陸に押し寄せてくる。無我夢中で道具を手にし陸に走ったが、手に持った道具が邪魔になってそれを捨て、男鹿荘の坂まで夢中で逃げた。逃げ切ってから今まで一緒に仕事をしていたジッチャ(じいさん)に声をかけてくるのを忘れていた事を思い出した。波にのまれたかも知れないと心配したが、幸い無事でホッとした。
 津波のあと、途中で捨てた岩虫採りの道具の一部が、おびただしい海草と共に木の枝に引っかかっていた(県つり連で後日調査の結果、水面上約五〜六メートルの高さであった)。このあと、潮がすさまじい勢いで引き、普段は海中の所が、二百メートルから三百メートルも沖合いまで陸地になり、津波の大きさに驚愕したものである。
談・桧山篤(昭和二十五年生・漁業)
記録・土田忍(県つり連)

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写真 ↑印は、津波による塩害により赤くなった樹木(男鹿・湯本温泉海岸)
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写真 男鹿・湯本温泉下で、津波の水位を測定する県つり連の編集委員

証言22 高台から見た大津波の全貌と地響き 男鹿市湯本温泉

 男鹿グランドホテルの増改築工事が昨年十一月から始まっていて、その日も打ち合わせがあるため、午前十時ころ秋田市を出発、男鹿の現場へ出かけた。
 プレハブ事務所内で打ち合わせ中、ものすごい地響きが起こったと思ったら、プレハブ全体が持ち上がったような感じがして、テーブルの上に置いた湯のみ茶わんが落ちた。「これは大きな地震だ」と思った。立っていられない程強く、しかも長い時間の揺れであった。靴を履いている暇もなく、スリッパのまま外に出て一番心配だった建築中の建物を見た。
 そのまま崩れてくるのではないかと思う程、大きく揺れており、建築途中だったのでなおさらそんな心配が強かった。
 長く強かった地震もやがておさまった。その時、七階屋上にいた鳶職人と、型枠職人の二人が、「水島方向から大きな波がくるぞ!」と下に向かって叫んでいるのが聞こえた。瞬間的に「この大きな地震だ。きっと津波だ」と思い、スリッパを履いまま、男鹿温泉郷高台の一番北端にある「ユースホステル」前まで夢中で走った。
 そこから見たら、白波が一本の線のようになり、その白線の前後は波もなく静かなのだが、急速に陸に向って押し寄せてきていた。おそらく最初の津波だったろう。波打ち際や、防波堤周りを真っ白くして、陸にあがった。その後、引き潮現象が始まった。深浅の差もあったが、通常「岩虫採り場」と称している浅場は見渡す限り海底が露出して、見る場所によるだろうが、二百〜三百メートル沖合いまで露出したように思う。
 その後、最も強烈な第二波が押し寄せた。最初、さざなみ程度のものが押し寄せ、すぐ後を、盛り上がるような大波が続いた。浅場で岸辺に障害物のない場所では、一気に道路までのし上り、湯ノ尻漁港のように防波堤のある所では、障害物に当たるごとに波の高さを増して陸に押し寄せた。 浮くものすべてが、紙きれのように水流に翻弄されて見えたのは、高台から見ているせいばかりでなく、強大な津波の強さによるものと思えた。地響きを立てて押し寄せる、腹に響くようなすさまじい音は、一生忘れる事のできない大音響でした。
 若美町の方向の海岸線は津波にかくれて何も見えなかった。その方面海岸近くの部落は全滅したのではないかと思った。潮が引き、また押し寄せる現象はそれからしばらく続いていたが、徐々にそのエネルギーは衰えていったようだった。
土田喜隆(昭和十二年生・会社員)
秋田市南通り六丁目十五−二○
電話 〇一八八−三二−七六〇一

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写真 男鹿・湯本温泉下の海草が付着した大津波の跡
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写真 七田喜隆さんが津波の直後に撮影した男鹿・湯本〜湯ノ尻海岸

証言23 母とともに沖へ流され、九死に一生を得る。男鹿市入道崎ごんご崎

 そのとき、私たちは男鹿入道崎の有料道路料金所から、約五百メートルほど男鹿水族館寄りの磯場の海中にいました。ウエットスーツを着て兄の悟(三十四歳)と素潜りをしていたのです。同行者は私の母(五十八歳)、兄の会社の同僚佐藤寿一さん(四十四歳)です。
 母は景色を眺め、佐藤さんは釣り糸を垂れていました。私たちが水から顔を出したとき、母が私たちに向って「地震だったよ」そう叫んだそうです。でもウエットスーツの頭巾をかぶっている私たちに聞こえるはずもありませんでした。
 それから約十分後、母が岩伝いに私の所に来て「さっき地震があったよ」と言ったのです。そう言えば、私と兄は、海の中にいて船のエンジン音に似た一定のリズムでズズ、ズズという音を同時に聞いて顔を見合わせたそのときが、海水が沖に引いた音なのか、地震そのものの揺れに伴なう音だったのか。いずれにしろそのときが地震だったに違いありません。
 私は海に潜るといつも約四十分ぐらいで波に酔い、ちょうどこの日もト一時ニ十分ぐらいから潜り始め、そろそろ頭痛がしてきたので陸に上がろうとして、近くに来た母と荷物のある場所へ行こうとしたそのとき、六十センチもの高さの海水が岩の上に乗っていた私と母の太もものあたりまで一気に押し寄せてきました。
私はとっさに「津波!」だと叫びました。顔をこわばらせる母に向かい「足元の岩にしっかりつかまれ」と言いました。
 一方、兄の同僚佐藤さんは岩の上で釣りをしていて二十センチぐらいのアイナメを一匹釣り上げた直後、海水が今までと少し違った動きで小さな渦らしきものが沖目に向ったのを目撃し、変だなと思いながらも兄に陸にあがるよう指示したといいます。
 そのとき、兄はまだ海の中にいて、体全体が持ち上げられるような感じにとらわれ、大きな船が近くを通り、その船の余波だと思ったらしい。間髪をおかず押し寄せた大きなうねりに、私は母の衣服を後方から両手でしっかりとつかみ、兄とは別々に自分からうねりに乗って流されました。
最初は青く透き通った水も瞬時に濁流に変わり、私は前方を流されて行く兄が岩の上に押し上げられるのを目撃し「ああ、兄は助かって良かった」と安心すると同時に、私と母は濁流の中を岩でゴツゴツした磯場を岸へと向って一気に百メートルほど押し流されたところで、一瞬流れが止まりました。ふと背後の崖の方を見ると、高さ三メートルほどの所から私たちをめがけて茶色の引き波が落ちて来るのを見て、一瞬、死を覚悟しました。
この波をなんとかしのいで安心する間もなく、二回目の波が押し寄せました。私と母は離ればなれになってしまい、頭の中に母と私の枢(ひつぎ)が二つ、どこかの遺体安置所に行く光景がはっきりと見え、私自身も力が尽きたかのようでしたが、顔をあげると三メートルぐらい前を、全く泳げない母が亀の子をあおむけにしたような姿勢で、沖へ流されて行くのが見えました。私は気をとり直して泳ぎながら手を伸ばし、再び母をつかまえた所で、岸の岩近くにたどり着くことができました。
 流されている最中に、泳げない母に呼吸をさせるため、母の体を四、五回両手で持ち上げるたびに、私は反対に濁流の中に沈み、何度か私もしたたかに水を飲んだが、奇跡的にも九死に一生を得ました。
 一方、兄が流されて上がった岩が残差約一メートル、佐藤さんの釣りをしていた岩の残差が約四十センチと、いずれにしろもう一段高い波があれば私達はもちろん、兄たちも助からなかったに違いありません。
 また佐藤さんは、もう一波来たら自分から海へ飛び込もうと思ったらしいのですが、落ち着いて判断したのか、足元がすくんで動けなかったかは定かでありませんが、いずれにしろじっとしていたのが好結果につながったと思います。
 兄たちは岩の上から流される私たちの姿を目撃し、また押し寄せた波が引き波に変わり、足元が四、五メートルもの段差でものすごい勢いと音を発しながら、沖へ去る津波をも目撃していたのだから、流された私たちとは違った恐怖を存分に味わったに違いありません。
 時間にして、流されてから岸に押されるまで一分ぐらいもあったでしょうか。道路から磯場まで七、八メートルもの段差があるのに、津波は道路まで這い上って行くのではないか、そう思ったりもしました。流されている短時間のうちに、もの心がついてから現在までの人生のことが走馬燈のように頭の中を駆けめぐり、助かって高台に上ってから下を見ると、海は第一波から三時間以上経過しているというのに、まだ流木や各種のゴミを従えながら、濁流のまま寄せては返す光景を繰り返し続けているのです。
 悪夢、地獄絵図としか言いようのない事実と、奇跡としか言い表わせない事実に、助かってもただ空虚な気持ちで黙って海を見ていたのです。
 私と兄は着替え(下着まで)はもちろん、クーラーや弁当、釣り竿、カメラ、免許証、車の鍵、財布などを含め、金額に換算して約二十万円が一瞬にして海に持って行かれたのは言うまでもありませんが、命あっての物種と、不幸中の幸いを喜ばなければと思いました。
 私たちの近くには、他に二人の釣り人がいて、一人は第一波で陸に上ったが、もう一人は後日、遺体で発見されました。
 私もそうであったし、他の人たちも何が何だか分らないうちに流され、夢中になって助かろうとしたに違いありません。不幸にして亡くなられた人たち以外の人たちは、その日を振り返ってみても、当日よりも二日目、三日目で少し気持ちが落ち着き、始めて本当の怖さがでてきたに違いないと思います。
 海での体への最も怖いのは、大きくても上層を流れる押し波ではなく、小さくても海底へ向けて流れる引き波であるということ。
また、ライフ・ジャケヤト着用はもちろんのこと、岩場での地震は、街や家の中で感じる地震よりもかなり弱く感じられることも、覚えておかなければなりません。
 さらに、各種の釣りにはもちろん、小旅行等にもラジオを携行し、いろんな情報を得ることも一つの対策であると思われます。
 あの死に直面した恐怖は、これから何年経過しても消えるものではありませんし、冗談にでも「何事も経験だよ」「貴重だったな」などと言える日は絶対に訪ずれないものと確信し、あのような事が私達の周り、いや世界中に二度と起こってもらいたくないものだと願わずにはいられません。
横山隆(昭和二十六年生・無職)
秋田市広面字大巻一七−四
電話 〇一八八−三四−九一五四

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写真 ごんご崎、どっけ周辺の磯
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写真 A.戸賀と方向 B.どっけ C.佐藤さんが釣っていた所 D.横山さんと母が流され始めたところ E.横山悟さんが流され始めたところ F.ごんご崎
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地図 鵜島・ごんごの崎周辺

証言24 助けてくれ!救命胴衣があったなら。男鹿市入道崎親沢地区

 男鹿市入道崎親沢で養豚業を営む中田和雄さんと、有料道路ゲートに勤める父親の中田正雄さん親子は、当日、偶然にも人道崎周辺で磯釣り中、津波により亡くなられた三沢弘さんの最後を目撃しました。
 ここ豚舎の一帯の地磯は、晩秋から初冬のクロダイはもちろん、春のアイナメ、ウミタナゴ。夏から秋のマダイ、スズキのポイントが連続しており、いつも釣り人の姿が絶えることのない釣り場である。
 有料道路から磯まで降りる細い道が急勾配できつく、降りきると五砂利のある岩場は比較的平担で、磯先までの足場はよく、初心者も容易に釣りを楽しめる所である。
 高台にある豚舎は、有料道路から少し入った所にあるので、駐車しておくには大変便利で、多くの釣り人が利用している所である。三沢さんも午前五時前、和雄さんへ駐直をお願いしながら、たびたびこの磯にきていることや「今日はウミタナゴを釣りにきた」ことなどを話している。手には比較的短く軽い竿を持っていた。
 豚舎のある高台から、仕事の合い間に下の地磯を見ると、通称五枚岩と言われるポイントで、タナゴ釣りを楽しんでいる三沢さんの釣り姿や、近くの浅場でワカメ採りをしている船外機船などか見え、少し入道崎寄りで二人のダイバーが潜水を楽しんでいる様子なども望見されて、なぎで静かな海は平和そのものあった。
 そして正午。突如として襲った地軸をゆるがすような強震は、大津波を併発してこの平和な図柄を一変させ、大きな悲劇もたらしたのである。
 この時、たまたま有料道路のゲート勤務が休みで、豚舎のうしろ(海側の崖上)の狭い畑で農作業をしていた父の激しい声を耳にした和雄さんは、地震のショックで鎌で足でも傷つけたのかと思い、急いで畑に行く途中、余震に遭い、ちよっとひるんだ直後、今まで聞いたことのないような大音響が崖の下から聞こえてきた。それは周辺の空気をつんざくようなもの凄くすさまじいものであった。
 ようやく高台の崖端に立って下の磯を見た時、その大音響は、高い水の壁となって泡立ち、磯のすべてを水没させた津波の音であったこともわかった。また、父の激しい声は、ワカメ採りの船と、三沢さんへの危険を知らせる絶叫であったこ
ともわかったのである。このときの状況を、父親の正雄さんはこう語っている。
 私の声をきいて、ワカメ採りの船は、すぐ津波と知ってかフルスピードで沖に避難した。岩場にいた釣り人には、私は会っていなかったので地震がくるまで気がつかなかった。それでも私の声を聞きつけて崖の方を見ていたようだったが、別に逃げる様子もなかった。おそらく津波のことは全然知らなかったのではなかったかと思う。私は必死で逃げるよう叫んだが、事の重大さは通じなかったようです。
 そのうち、水かさが増してきたので、釣り人は竿を持って足場の悪い磯を陸地に向かって小走りに逃げかけたが、急に盛り上ってきた波に追いつかれ、歩行の自由を奪われ波の中へ。そして海の底が見えるほどの引き潮で沖に運ばれました。
 クーラーのようなものにつかまって「助けてくれ!」と叫んだ言葉が沖から吹いてく風に乗って聞えてきましたが、高い崖の上ではどうしょうもありませんでした。それからすぐ五、六メートルの大津波が磯の全てを洗って、崖下まで押し寄せてきたのです。
 和雄さんは次のように語っています。
 父が早く逃げるよう必死で叫んでいるのを、父が怪我でもしたのではないかと思って高台の端まで来たときは、すでに第二波の大きな津波が崖下まできており、白く渦巻いていました。右手の地磯の頂上は一メートルぐらい出ていましたので、津波の高さは五、六メートルぐらいではなかったかと思います。
 三沢さんはかなり沖(県つり連で後日調査の結果、磯端より約二百メートル。崖下より約四百メートルの地点と判明)の方まで引き潮で運ばれ、クーラーのようなものにつかまって「助けてくれ!」と三度ばかり叫んでいましたが、崖下まできている津波の状態ではどうすることもできませんでした。
おそらく、沖に流されながら崖上の私たちを見つけて助けを求めたのかも知れません。そのうち見えなくなりました。
 救命胴衣を着用していれば助かったと思いますし、あとの話になりますが、三沢さんが釣っていたうしろに、高い岩(約八メートルぐらい=写真・イラスト参照)があったので、その頂上に上がっていれば助かったかしれません。しかし、危険を感じた場合、本能的に岸に逃げるのが人間の心理でしょうからどうしようもありません。助けを求めたあの声が忘れられません。
談・中田正雄(大正五年生・農業)
談・中田和雄(昭和十七年生・養豚業)
男鹿市北浦入道崎字島畑一三〇
電話 〇一八五−三八−二二二五
記録・上田忍(県つり連)

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写真 男鹿市入道崎親沢地区の入り口に立っていた遭難現場の標柱
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地図 男鹿市入道崎親沢地区
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写真 男鹿市入道崎親沢地区遭難現場全景(豚舎崖下より撮影)
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写真 三沢さんがウミタナゴ釣りをしていた「五枚岩」の陸寄りの釣り場↑印
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写真 ↑印が助けを求めた五枚岩の「先ポコン」
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写真 ↑印が、中田さんが津波を警告した豚舎、「先ポコン」はこの写真の左手
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写真 右側の白い線の上まで津波がきた。水面から約6メートルと推定される。
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写真 男鹿・入道崎親沢地区遭難現場全景(会場から見たもの)

証言25 津波を発見、直ちにマイクで釣り人に警告 男鹿市戸賀塩浜

 地震から津波。男鹿水族館での恐怖の一瞬をふれてみたいと思います。硬い岩盤に立つ鉄筋コンクリート三階建ての水旅館ですが、地震の衝撃はまことにすさまじく、グラグラと動きました。なかでも大回遊水槽の厚さ六十ミリのアクリル板が波打つようにしなり、水中の魚は、泳ぎが速くなり、何かに追われているかのようだった。電気が切れ、暗がりの中で見物客は、われ先に悲鳴をあげ入口に殺到した。
 やがて地震もおさまり、当館の上方にある有料道路に避難した見物客を確認に行って、ふと、海を見たら、海水面が急にドがって行く。これは大きな津波がくると直感した。なぜなら、過去に新潟沖地震で、海水面が下がって行くのを北浦海岸で実際に見ているからです。
近くの岩場約四十メートル先に釣り人がいるのを見て、避難を呼びかけなければと、とっさにハンドマイクが頭に浮んだ。館内に引き返してハンドマイクを持ち出し、大声で「津波だ、津波だ!」と叫んだ。
 釣りをしている四人が懸命に岸に向かって逃げようとしているのを見て、「間に合わないので高い岩に登れ!」と数回叫んだ。あっという間に、海水が洪水のようにもの凄い速度でおし寄せてきた。
高さ四メートルの岩も海水でっかり、広い駐車場にあった約十二台の自動唯も一瞬のうちに海水に浮いて、沖へ引き込まれていった。
 その後、高い波がいたるところから発生し、うずを巻いて押し寄せて来る。引いて行く力はすさまじく、どんな重い物でも軽く持って行くかのようだった。幸い、釣り人は高さ七メートルぐらいの岩によじ登って助かった。津波のスピートが速いので動けなかったと思う。しかし、「むやみに陸の方に逃げ出していたら」と思うとぞッとする。
 今回の津波による人的被害を考えるに、公的警報も大切に思う。しかし津波の第一波が地震から十二分という速度からの対応としては、地域における住民の協力が必要と思われる。さらに避難方法を具体的に伝えることが肝心と思いました。
細井歳春(昭和二十年生・公務員)
男鹿市脇字曲田一ー−六
電話 ○一八五−二五−三五○六

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写真 今地さん達(証言26)が釣っていた岩場を指す細井さん
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写真 大津波来襲!
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写真 轟音を発して引き始めたすさまじい「引き波現象」
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写真 想像を絶する自然の偉力、押し波から引き波に転じた瞬間
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写真 男鹿市船川港南平沢字林台30−50

証言26 海面の異常盛り上りで、高い岩場へ逃げる。男鹿市戸賀塩浜

 午前十一時ニ十分ころ、同じ勤務先の釣り仲間堀川潤平(四十八歳)、吉川秀次(二十九歳)、古川祐一(二十八歳)の諸君と私の四人で、男鹿水族館駐車場から約百メートル程離れた地磯の先端で釣りをしていま.した。
 ブッコミ釣りとフカセ釣りで、ウミタナゴ、アイナメなど合わせて十二、三匹の釣果があり、天候もよかったので、のんびり冗談を言い合ったりしていました。
 釣り始めて三、四十分ぐらいすぎたときです、突然グラグラと揺れ出し、岩と岩がはげしくぶっつかる音がしました。それがまるで地底から聞こえてくるように不気味でした。水族館を見ると、館全体が激しく揺れています。落ちそうになる竿を押えながら、「これはでかい地震だ」「長い揺れだ」など、仲間とくちぐちに言い合いながら地震のおさまるのを待ちました。
 地震のおさまるのを待って、また竿を出したのですが、それからは全く魚信がなく十数分たちました。
 竿先を見ていたら、手で持っている竿の位置はそのままなのに、海面との間がだんだん狭まってくるのです。「おかしいなあ」と思って見ていると、一秒間に約三十センチぐらいの速さで盛り上がるように水位か高くなってくるのです。
 自分の足元を見ると、二メートルぐらいの高さがあるはずなのに一メートルぐらいしかありません。
「これは異状だ」と思って見ると、周り一面もの凄い盛り上がりようです。すぐ仲間に「高波がきた。
逃げろ/」と叫び、私も近くにあった竿を持って、釣り座の後にある小高い岩にあがりました。
 このとき、始めて津波である事を知りました。第一波だったのです。ブッコミをしていた竿が、全部同じ方向に弓なりになっています。気がつくと、今までの釣り座は白い波に洗われていました。
 それから十秒ぐらいたってからでしょうか。「ゴー」ともの凄い音を立てて波が引き、駐車場にあった車が舟のように流れ出したのも見ました。すぐに第二波がきました。第一波より大きく三〜四メートルぐらいあったように思いますが、幸いなことに、私達が逃げた所が海面より五メートル程の高さの所でしたので、大きな被害を受けることなく済みました。釣り座のすぐ後に高い岩があったので九死に一生を得たのだと思います。
 それからは意外と冷静に周囲を見ることができました。低い磯場を水没させて、白く泡立って猛り狂っている海からは、いつもの戸賀の磯は想像できませんでした。
 そんな時、水族館の横からハンドマイクで「もっと高い所に逃げろ!」と呼びかけられました。しかし、そこへ行くには途中、低い所を通っていかなければならないため、かえって危険だと判断しましたので、必死に呼びかけてくれた人には申しわけなかったのですが、そのままその高台で津波のおさまるのを待つ事にしました。
そのとき、また、ハンドマイクで「駐車場にいて、波にのまれた人がいるから見てください」と呼びかけがありましたので、岩の上から周囲を捜しましたが、残念ながら見つけることができませんでした。また、近くの海で漁をしていたらしい戸賀の船(未確認)が一隻いましたが、その船もその周辺を探していたようですが、見つかりませんでした。
 第一波から約三十分ぐらいで津波がおさまってきましたので、比較的高い磯伝いに陸に戻ってきました。
 これは体験後の感想ですか、地震即津波という予備知識は全く無く、非常にびっくりしましたが、その逆に、すぐ津波に結びつけて考えていたなら、駐車場に逃げ帰る途中で津波にのみこまれていたと思います。
 その時の状況にもよるでしょうが、善意からのアドバイスも、ときと場合によっては、よく判断してから受けないと、その逆になる事だってある事を知りました。
 状況を正確に把握し、判断して行動することが、突然の出来事に対する大きな支えになるのではないでしょうか。
 いつも危険と隣り合せの磯釣りに、救命胴衣も着用せす、釣行している事に大きな反省をしております。
今地誠(昭和三十一年生・会社員)
男鹿市北浦字出口野二二九
電話 ○一八五−三三−二八六四

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写真 今地さんたちがいた釣り場全景、白い建物が県立男鹿水族館
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写真 A.釣りをしていた所 B.逃げた岩場 C.水族館の細井さんから逃げるよう言われた岩
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写真 津波て孤立した岩場から堀川さんが撮した、大津波の跡(波で黒くなっている部分・・・・の点線で示した部分)
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写真 同じ場所から、撮した引き波で潮が引いた岩場(白い線が通常の水位)

証言27 離れ島で、地獄の底から這い上った私 男鹿市戸賀力モメ島のポコン

 五月二十六日、私はこの日を一生忘れることはないだろう。あの地獄絵にも似た情景を、忘れたくも未だに脳裏から離れず、思い出すたびに身震いするほどの恐ろしさであった。「人の生死は、紙一重」という事がいわれるが、一生に一度あるかないかの貴重な体験を経て、今、こうして生の道を歩んでいるが、あの日の出来事を少しでも釣り人たちに伝えたいと思う気持ちで、ヘンをとった。
 釣友の山本藤志男さん(三十三歳)と私は、男賀の戸賀からの磯渡しで、黒鯛狙いに早朝から出かけた。この日は、本命の恵比寿島に渡るクループがあり、やむなく「かもめ島」をはさんだ小さな島に、一人ずづ別れて上がることにしたのである。二人の距離は約三十メートルで、大声で話すと聞こえる程度の所である。釣り始めてから二時間、山本さんか四十五センチほどの見事な真鯛を釣り上げた。彼は獲物を両手でかさし、「釣ったぞ!」と誇らしいげな様子を見せた。私も竿を持つ手に力が入った。
 その日は流れか速く、フカセは釣りにならす、八号のオモリを使いブッコミに変えてみても、ミチ糸か大きくふけて手前に戻され、「これは、まずい潮だ」と思った、ときおりボラの集団が、南の方に全速力で泳ぎ去って行く様子を何度も見て、変な気持になった、午前十一時ころになっても釣果はパッとせず、アイナメが二本出ただけ。山本さんもその後はさっぱりだという合図を送ってきた。
 そこで、黒鯛狙いを断念し、ウミタナゴを釣ることにした。ところが、今まであんなにあったエサ取りのアタリがさっぱりなくなり、キツネにつままれたようであった。
 そんなときである、あの悪夢のような出来事がやってきたのは。突然、底からうなりを上げ、地鳴りがし、びっくりすると同時に、小さな島が立っていられないほど大きく揺れ動いた。岩にしがみつきながら山本さんの方を見ると、彼もしゃがみこみ、岩ごと海の中にころげ落ちるほどの勢いで、なすすべもなく岩に腰を落しているだけであった。陸の方を見ると、有料道路のある崖が土煙りを上げ崩れていく、あの迫力と言うか凄まじさが、「すごい」のひと言であった。
 ようやく大揺れもおさまり、私はひょっとしたら津波がくるかも知れないと危倶した。きてもおそらく一メートルぐらいの津波と思い、軽い気持ちでいた、山本さんの方を見ると、救命具を脱いでいたので、用心のために着るように言った。再び釣りを始めたが、やはり津波のことが気になり、沖の方を絶えず見ていた。
 地震から二十分近くも経ったであろうか。海面が異常に大きく膨らみ、私たちの方に向かって来るのがわかった。「津波だ。」竿を放り投げすぐに高い所に上り、山本さんに大声で「津波だ!」と叫んだ。すごい勢いで押し寄せる、高さ三メートルもある巨大な波というより、信じられないほどの水位の盛り上がりが、我々をのみ込もうとするかのように、ゴーという海鳴りをたててもの凄い力で襲いかろうとした。そのときは、ただただ驚きの方が先で、岩の上にへばり付くのが精一杯であった。
私の七がった島は、最も高い所で水面から三メートルほどあり、つかまるような岩もないので、岩に爪を立てるようにして頭を南側にしてしがみつき、四つんばいになった。幸い、波は足元までで流れて行った。山本さんはと見ると、波が岩の上にはい上がり、胸までつかっているのを見て、「これは助からない」と思ったが、私にはどうする手だてもなかった。
 だが、それ以上に押し寄せた波が引き潮に変ったとき、まさに悪夢のような地獄絵を見てしまったのである。今まで釣り糸を下げていた海は、褐色の岩肌、へばり付く海草が無気味で、まさに地獄の底を見せていた。その引き具合いで、次に来る波がどれほど大きなものか想像しただけでも体が震え、心臓の鼓動が速く大きくなり、「死」を予感した。生まれて一度も「神だのみ」などしたことのない私であったが、このときはかりは「神様どうぞお助けを−」と祈っていた。
 再び波がこちらに向かって襲いかかってきた瞬間、目をつむり、次にそっとあけると、私の横にあったリュックが波で持っていかれそうになり、懸命に押さえながら、恐る恐る山本さんの方を見ると、波に耐えていられるのが精一杯で、いつ波にのまれるかわからない状態であった。岩の間に二本の竿尻を差し込み、この竿と岩を抱きかかえる格好で、波に向かって流されないようふんばっているのであった。まさに、とっさに差し込んだ釣り竿がつっかい棒、いや命の棒となったのである。ただこのときの状態をあとで述懐したのであるが、波により救命胴衣が浮かされ、岩から体が離されそうになり、恐怖も重なり、泳ぎたくなったと言った。もし、泳いでいれは果たして今日の彼がいたか判らない。
 次の引き波があり、地肌が現われたとき、私はまたくる押し波の恐怖もあり、近くの高いカモメ島に島伝いに逃げようと考え、一段下の岩に降りた。そして波の動きを見ると、また向かってくるので、急いで今までの島に逃げ帰った。第二波を境に波は段々と小さくなり、三〜五分の刻みで断続的に押し寄せたが、私たちも度胸がついたというか、波のおさまりにつれ、落ち着きを取り戻した。
 やがて、北の方からエンジン音を響かせた迎えの船が来たときは、まさに「これで助った。」と思う半面、張りつめていた力が急激にしぼみ、岩にへたへたと座り込んだ。
 今回の体験を振り返って幸運なことは、1.日中であり、周りを見て状況判断ができ、対処も適切にできたこと。2.周囲に大小の島々が散在し、消波堤の役目を果したこと。3.割合、沖の島であったため、岸辺のように津波が盛り上がらなかった。などが考えられる。
 次に津波の対策として、1.高い所にハーケンを打ち込み、ロープを結び、いざという時にそのロープで体を縛ること。2.小型ラジオを持って行き、的確な情報をつかむこと。3.救命胴衣は竿と同じ釣り具と考え、必らず持参する。いつどこで危険にさらされるか分からない磯釣りでは、いざというときのために、必らず実行して欲しいものである。
 なお、この日、恵比寿島と小根太島にも釣り人がいたが、少し水かさが増しただけで、津波という実感を持たなかったという話を帰りの船上で聞き、意外というか拍子抜けをしたことを付記しておく。
山森豊(昭和三十年生・会社員)
秋田市大住二丁目一六−五
電話 〇一八八−三四−五〇一三

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地図 山森さんか釣っていた「カモメ島のはなれ」
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地図 カモメ島
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写真 カモメ島全景
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写真 カモメ島のはなれ
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写真 「カモメ島のはなれ」高さ約3.5メートル
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写真 「カモメ島のポコン」 内側より撮影
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写真 「カモメ島のポコン」高さ約3メートル
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写真 山本さんが釣っていた「カモメ島のポコン」「カモメ島のはなれ」
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写真 男鹿・恵比寿島(右)
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写真 男鹿・小根太島(左)と根太島

証言28 命を救った冷静な判断と沈着な行動 男鹿市加茂おいろ浜

 あの日、私は男鹿・桜島荘下のおいろ浜で釣りをしていた。真下に降りたところの先端で、二・五メートル程の高さの割合に足場のよい場所である。
正午過ぎに地震が発生したとき、山鳴り=発電機が回ったときのグォーという音=がして、すぐ脳裏をかすめたことは「地震即津波」ということであったが、クーラーに腰をおろしていての実感では、震度はせいぜい二ぐらいしか感じられなかったので、津波などの発生はないだろうと軽く思っていた。
 釣りを始めてから四十年余になるが、釣行中に地震に遭ったこともなく、ましてや、津波などどんな状況の時に発生するか実際に見たことなかったからであろう。
 しかし、それでも気にはかけていて、沖の方を見ては波の変化に注意したり、また潮が引く現象にも十分気を付けていたのだが、それらしい徴候はそれまで全然なかった。
 当日の満潮時間は午後一時ころの予定であったが、午後零時十五分ころ付近に浮かんでいた海草の動きで、潮がさしてきたなと思ったら、その勢いかいつもより、ことのほか速いので、「オヤッ」と一瞬嫌な予感がした。ちょっと気付いたらもう一メートルぐらい水位が上がっているので、「これは大変だ」と、逃げ帰るつもりで陸の方を振り返ってみた。すると、一面濁流と化した潮が押し寄せて、岩場の起伏の間を奔流のように流れていた。
 足が冷たく気がついてみるとヒザ下まで水がきていて、もう絶体絶命の境地であった。
 孤立してしまったときの気持ちは、簡単には云い表わされないが、生きるためにはどんな方法がよいかが一瞬の判断だろうと思われる。死という恐怖は頭にはなかった。むしろ「こんなことで死んでなるものか」という気持ちが強かった。
 もし流されたらと、とっさにクーラーが浮袋の代りになることを思ったが、そのクーラーも道具類と一緒に潮に押し流されつつあって、間一髪でつかむことが出来、これで少しは気を取り戻した。幸運なことに高潮はヒザまでで止まり一命を取り止めたようなわけである。
 波は全然なく、底の方から一気に水かさが増してきた感じであった。最高水位は約三メートルと思われた。潮が込んできてから三十秒か四十秒の速さであった。
 一分ぐらいして潮が引き始めたが、そのときの速さももの凄く、アッという間にマイナス三メートルぐらいまで下がってしまった。今までかくれていた海中部の岩肌や底の一部が異様に見えて、あたかも噴火口の断崖をのぞき見るような恐怖に似た感じであった。一瞬の恐ろしさを感じ我れに返ったとき、潮が引いたからにはまたすぐ押し返してくると分かったから、急いで陸地へ引き返さねばと走ったが、起伏のある岩場のこととて、気ばかり焦っても足が思うように進まず、四、五十メートルのところなのに、あと五メートル程まできたとき、また潮が押し寄せてきた。
 一・五メートルぐらいの溝があってヒザまでっかれば渡れそうであったが、潮の速さがもの凄いことが分かり、無理をすればたちまち押し流されると判断したので、足を踏んばってその場に立ちすくんだ。陸地はすぐそこだから状況次第によって対処しようと考えたが、幸いにも、今度は腰下までで潮が止まり、流れの抵抗もなんとか切り抜けて、危うく二度目の危機を脱したような次第である。
 九死に一生も二生も得た運命であったが、そのときの体験から二、三提案したい。
一、海での釣りや作業には救命胴衣の携帯をぜひ実行すること。
二、いったん異変に遭遇したときは、動転することなく冷静に判断し、事態に対処されるよう心がけること。
三、海辺や釣り場などの辺ぴな所での警報伝達方法として、桜島荘や水族館などの公共施設はもちろん、旅館、食堂などにハンドマイクを常備し、テレビやラジオの警報をすぐ伝達してもらうこと。
 余談であるが、五月二十六日、一番先に行ったのが戸賀漁港の防波堤であった。七時十分ころから九時ころまでいて、ウグイの尺物が二匹、七、八寸が三匹であった。これではつまらないと思い、水族館の駐車場へ向かった。水族館の裏手や駐車場の裏手を見て歩いたが、どうも気が進まず、それでも竿をおろそうかどうしようか変に気が迷い、三十分ぐらいは経過してやっばり諦めて、おいろ浜へ向ったような次第である。おいろ浜へ着いたのが十時ころであった。当日は水が澄んでいて釣果はよくなく、タナゴ六寸二匹、五寸二匹、アイナメ八寸一匹、アブラッコ五寸二匹であった。
 釣果があまりよくなかったので、昼飯でも食べながら、もっと入江の内側にでも移動しようかなとこ二、三回思ったが、もしあのとき移動していれは、今日の日は無かったであろうと思うと、私は幸運に幾度となく恵まれたことになるのである。
 なお、中ノ島にいた二十五、六歳の青年は急に水かさが増してきたので、体一つでゴムボートに飛び乗り陸へ逃げ帰り、途中で立ちすくんでいる私へ声をかけてくれた。これでホッとし急に元気が出てきた。長崎にも一人赤い上衣の人が十一時半ごろまで見えたが、あとはどこへ移動したか見えなくなった。津波のくる前に無事移動したと思われる。
小松慧(大正十三年牛・無職)
秋田市寺内字油田二〇四
電話 ○一八八−六三−○○四七

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写真 左手の先端で釣っていて、右の高い方へ立って、ヒザまで津波に洗われた。
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写真 男鹿・おいろ浜全景
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地図 周辺地図

証言29 高所に逃げ、三時間じっと状況を見守る 男鹿市加茂貝ケ崎(剣崎)

 日本海中部地震前日の五月二十五日は、朝から快晴。その日、私は叔父と二人で早朝から岩城町の西方沖合にあるメグリにボートを浮かべていた。テリ釣りである。漁もまあまあと言ったところで切り上げ、帰途についたのは午後五時ころであった。
 エンジンは快調であるが、ふと前方の大平山に変な雲がかかっている。長い間海上から大平山の雲を眺めて来たが、今までに見たこともない雲で、折からの夕日をうけ、それはまるで造花の牡丹の花のようであり、じっとして動かない、実に無気味な雲である。気味悪い雲の話から近日中に何か起りそうだなと話ながら帰港した。
 翌二十六日、地震発生の日である。朝から快晴。仲間から沖釣りを誘われたが、男鹿半島ヘサヨリ釣りの約束があるのでと、沖釣りはその日やめたのである。
 朝八時三十分、やはり叔父と連れだって出発した。昨日の無気味な雲のことなど心の片隅にもない、さわやかな朝の出発であった。まさかあんな地震が起こるとは、神ならぬ身、知るよしもなかった。
 最初、門前の潮瀬崎に行ってみた。釣り人がいたが、早朝四時ごろから来ているが、今日はまたサヨリ一匹だけの釣果、どうも潮瀬崎のサヨリは終ったのではないたろうか、と。あまりかんばしくない情報であった。
 それでは水族館裏へでも行こうと、有料道路へ入ったのである。加茂部落の上を通るとすぐ桜島荘である。桜島荘の下はいつも釣り人の多いところであるが、十時ごろと言うのに釣り人の姿は見えない。そこで急に気が変わり「剣崎」か「通し」にしようと桜島荘の駐屯場に人った。
 だれもいないと思った剣崎の岩かげに二人いて、ウミタナゴ釣りをしていた。私たちの目的はサヨリだし、邪魔にならないポイントを選んで一緒にウキを飛ばした。ぼつぼつサヨリも釣れ出した。
 そろそろ昼食にしようかと思っていたそのときだった。あの突然の地震が起きた。山を渡る風の音のように、岩場の下から「ゴオー」と地鳴りがして、岩がぐぐっと持ちあがるような地震であった。
だが、そんなに強いとも思われず、震度は三か四ぐらいにしか感じなかった。
 すぐ振り向いて有料道路の方を見たら車が走っている。普段でも落石の多い道路なのに、この地震で途中、落石はないだろうかなどと思いながら足元を見ると、つい先程まで沖に投げていたウキが岸の方へ流れて来るので、竿をあげて投げ直しをしたが、ウキはすぐまた、足元に流れて来る。
 満潮だろうかと思い時計を見たら、零時十分である。今日の満潮はたしか午後一時過ぎのはずだが水位はぐんぐんあがって来るので、クーラーなどを三尺くらい高い所に移した。しかし、水位はまだ上がって来る。私たちの立っている岩まで来たので、釣りをやめ、海面より四〜五メートル高い所に移動して海を見ていた。海水は渦を巻いて濁っている。人の乗っていないゴムボートが渦の中に入り、濁流にすい込まれように桜島をかわして加茂湾の方へ流れて行ったので、これは津波ではないかと思った。とにかく、これでは釣りにならないと高台に上って昼食にした。
 桜島荘の方で四、五人の人が上って来いと手を振っていたが、へたに動いたりすると危険ではないかと思って午後三時近くまで釣りをしないで、じっとしていた。これが結果的にはよかったのではないかと、あとで思った。私たちのいる所から桜島荘へ戻るには、いったん高台から低い所へ降りなければならない。津波が断続に押し寄せていた当時の状況では、へたに動き回ってはかえって津波に巻き込まれた可能性もある、
頭上ではヘリコプター数機が低空で飛び、何か大きな事故が起きたのではと思っていた。すぐ左手に加茂湾がある。しかし、湾内は見えない。あの無人のゴムボートが流れて行ったころ、加茂湾では合川南小学校の児竜が津波に襲われていた。男鹿水族館では観光客や車が流されていたのである。
中島清(昭和汽年生・農業)
秋田市飯島道東三丁目六−五一
電話 〇一八八−四五−四八〇二

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写真 男鹿・貝ヶ崎(剣崎)のホッケ釣り
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写真 救命胴衣を着用し、楽しい釣りを(男鹿・貝ヶ崎)

証言30 加茂湾に赤いリンゴがポカポカ浮いた 男鹿市加茂青砂海岸

 地震で外へ飛び出しました。そのあとすぐ坂からマイクロバスが降りてきました。旅館「金竜」の
前の駐車場にそのバスは止まりました。
 バスが止まると同時に子供たちが降り、そのまま浜へ散っていきました。男の子は護岸の階段の上から飛び降り、女の子は階段から降りて行きました。
 これからの様子を見やりながら、金竜のおかみさんと今の地震のことを話をしていたら「津波だ。」という叫び声を聞きました。
 浜をみたら海が盛り上がって、子供たちが浮き上がり、護岸のふちにへばりつくように押し寄せられていました。赤い運動帽をかぶっており、ちょうど、リンゴがポカポカ浮いているように見えました。
 私は近くにあった魚網のロープを護岸の上から投げ、三人を助け上げました。折り悪しく昼休み時で男は家の中で、近くにいたのは部落の女たち四人だけでした。板やロープなどを投げ、隣のかあさん(鎌田キヱさん)も一人助けました。みんな夢中で、全部で五〜六人を助けたと思います。
 すぐ潮が引き始め、赤い運動帽に青いトレパン、リュックを背負ったチ供たちが沖へ流され出しました。白い渦の中にリンゴが浮いたように赤い運動帽の子供たちが流されて行くさまは、白昼の中、悪夢を見ているような今でも信じられない光景でした。
 沖の島に男の子が一人、しがみついているのが見えました。「がんはれよ、今、助けに行くからなあ!」その子は二回、三回と波をかぶりながら必死に岩にしがみつき、がんはっていたところを遂に救出されました。
淡・大友ハナ(昭和九年生・釣り宿大竹荘経営)
男鹿市加茂責砂四一
電話 ○一八五−三七−二五一二
記録・川村浩(県つり連)

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写真 このロープを海へ投げ入れ、何人かの児童が助けられた。まさに命綱である。
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写真 13人の児童をのみこんだ男鹿加茂湾
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写真 この護岸すれすれまて海水が盛り上り、「赤い運動帽がリンゴかポカポカ浮いた欠うに見えた」と語る大友ハナさん大友さんはこの護岸から3人の児帝を助けた
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写真 婦人の手の付近まて津波が盛り上った砂浜から4.7mの高さてある

証言31 渦巻く海へ船外機船を出し、決死の救出活動 男鹿加茂青砂海岸

「津波だ!」の叫び声で家を飛び出したところ、防波堤先端の海が渦を巻き、ふくれ上がっていました。
船を沖へ出さないと危いと、船付場へ走りましたか途中の小川を越えたとき、水はヒザ上まで来ており、さらに押し寄せ、あわてて岸へ戻りました。二〜三分で引き潮になり、普段の水面から一メートルも水位が下がり、私の船(きん丸)も近くの船も流されました。
 大勢の子供たちが引き潮で流され、岩場にはさまれている子た二人見えました。「子供らを助けなくては」そんな思いが、渦を巻く海へ危険を考える余裕もなく、船外機船を出しました。三隻の船外機に三人ずつが乗り組み、加茂の湾内に走り出しました。
 津波が二回、三回と引いては押し寄せ、渦を巻き、一面、白い海でした。ポカポカ浮いている赤い帽子を目印に子供たちを救い上げ、二回浜へ戻りました。岩場の二人も金竜(旅館の名前)と私の船で一人ずつ助けました。三隻で二十数人ほど助けたでしょうか。もうあたりに浮いている人も見えないので浜へ戻りました。そのときは午後四時ころだったと思います。
 先生たちに遠足にきた人数を聞いてもだれ一人正確に答えられず、だれもが茫然自失の中で行動していたようです。何人が行方不明なのか分らないまま、先生はただ船を出すように言いますので、また船を出しましたがだれも見つからす、結局その日は、三十ニ人の子供と先生、父兄四人の生存を確認して捜索を打ち切りました。津波は午後五時ころになっても断続的に押し寄せていました。
 翌二十七日も快晴で、早朝から捜索活動が開始され、午前六時に最初の遺体が沖合約五百メートルで発見され、二十八日午後零時十分、沖合百五十メートルで十三人目の最後の遺体が発見されました。
談・大友一雄(昭和六年生れ・釣り船業)
男鹿市加茂青砂四一
電話 ○一八五−三七−二五一二
記録・川村浩(県つり連)
注 大友一雄さんは、今回の救出で、秋田県警察本部長の表彰を受けました。

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写真 昭和58年6月12日現地で慰霊祭を行ったとき建立
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写真 船外機で荒れ狂う海で10人は助けたと語る大友一雄さん
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写真 左手の護岸上部まで津波が盛り上がった
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写真 男鹿加茂湾、13人の児童をのんだ海とは信じられない平和な風景である
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写真 加茂湾で懸命の捜索活動が展開された(写真提供 秋田魁新報社)

証言32 大桟橋沖で、異変を知らずにキス釣り 男鹿市門前沖

 友人三人と門前漁港から、菅原船頭(新生丸)の案内で午前十時半ころキス釣りに出かけ、地震も津波も全然気付かずに釣りを楽しんだ一人です。と申しますと他の方に大変失礼で、犠牲者を思うと筆を取ることをためらった次第です。お許しください。
 私たちは、門前大謀十時起しを午前十一時ごろ見物し、他に汐潮丸もお客さん数人乗せ見物していました大謀網にはウマヅラハギがこれみよがしの大漁でした。
 釣り場は、門前代謀よりやや北寄りの加茂方向で、陸地から約二キロメートルの大桟橋の沖かと思います。水深約六、七十メートルほどです。
 地震のあったのは正午を少し回った時刻であったと後て聞き、津波はそれから約二十分後に発生したとされております。これらの時刻に新生丸が揺れたわけでもなく、音も波もなくふだんと全く同じでだれ一人異変に気付いておりません。数分過きて、ヘリコプターが低空で飛び、加茂方面を中心に何回となく巡回し、そのうちセスナ機、自衛隊機などが飛び回る光景を見、有料道路をパトカー、救急車が加茂方面に向かって急行する光景に、陸では何か異変があったのではないかと、お互いにおかしい、おかしいと言い合っておりました。
 これらをあとで総合的にえてみたらまず、大桟橋あたりで地震のころ砂煙が見えました。見たの一人だけです。また、津波が来襲したと思われる時刻には岩場の水際線が、肉眼で見ると約ニメートル低く見え、このとき津波が引いたものと思います。次に岩場に白く一直線に波が打ち寄せているのを見ました。これらの繰り返しが数回あったようです。この時刻には潮流が全く無に等しく、私たちは勝手に昼食を取りながら竿先を見、船頭は大謀からもらったウマズラの皮はぎに余念なく、地震と津波があったことを船上では全く知りませんでした。
 三人の釣果は、キス七、カレイ十二、カナガシラ二でした。むしろ午後二時半ごろ北風が一時強く吹き、波がいくらか立って、この波が強く感じられました。午後三時ごろに潮瀬のハナに移動するつもりで船を走らせようとしたら、あまりにも陸で車が頻繁に走り回るので、帰港することにしました。
 途中、門前大謀網船の合図でそこへ寄り、初めて地震と津波があったことを知らされました。
その船から私たちの無事を無線で連絡してくれました。午後四時ころ門前港に入りましたが、漁港入日はなお津波の余波でうず巻き、海水が音を立てて流れ、波打際から五〜六メートルの所に漁船二隻が打ち上げられていました。私たちが直接異変に遭わなかったのは、地震と津波を避ける海深、陸と船の距離があり、これがほどよく一致したものと判断しております。
私の体験から次の提案をします。
一、釣り船及び釣り人は、常に携帯ラジオを備えつけるか、持参すること。
二、救命胴衣は身近に置くか、着用すること。
三、冷静な判断と行動。
四、地震には津波がつきものと覚悟すること。
塚田仙四郎(大正十二年生・無職)
秋田市浜田字石山四九−一
電話 〇一八八ー−二八−三八五六

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写真 大桟橋沖〜門前沖の船釣り

証言33 捜査あきらめ霊を弔った翌朝に遺体が浮かぶ 男鹿市門前海岸

 両親・妻、三つと二つの幼な子を残して遭難した門間辰雄さんの場合、遺体の発見が二十六日目と捜索が長期化したことや、捜索のダイバーを個人的に依頼したこともあって捜索費用が莫大な額になった。
 「死ぬも地獄、生きるも地獄」とは、述懐した父、佐市さんの気持ち。一家の支柱を失った土、多額の捜索費が借財として残った実態を、遭難対策とは別の面で、釣り人も知る必要があろう。
以下、父の佐市さんの証言である。
 辰雄は磯釣りや貝採りが好きで、地震当日は非番明けで、朝十時すぎに車で男鹿へ釣りに行きました。
 地震の惨状はテレビで知っていました。夕方には帰るだろうと思っていましたが、暗なっても何の連絡もなく、一抹の不安はありましたが、テレビやラジオで辰雄の遭難情報もなく多分、夜釣りに切り替え、車の中で寝ているだろうと思っていました。
 それでも心配になって、日目の早朝、男鹿市門前の現地へ行ったところ、すでに、秋元晃さんの捜索が始まっていました。これに合い乗りする形で捜索が始まりました。
 捜索初日の二十七日は九十五人、二十八日は百三十三人、二十九日は百四十人と日を追って、捜索従事者はふくれ上がりました。暑さのなか、仕事を休んで一日中、海岸を見回ってくれる人に感謝の念でいっぱいでした。しかし、これらの人に毎日、おにぎり、お茶、ジュース類を届け、さらに、ダイバーの費用が重くのしかかってきました。
 ダイバーは危険が多く、過酷な労働ということもあって、一日の労働時問は三時間、時間給が六万円とのことで一人のダイバーの一日の費用が十八万円となります。六人を頼むと一日で百万円を超すことになります。
 捜索初日は(五月二十七日)秋元晃さんと一緒の捜索でしたが、初日に秋元さんの遺体が発見され、二日目からは単独捜索となりました。
 一日の捜索費用が百万円以上になる上、人出を多くしても確実に発見される保証もありません。捜索から三日目の五月二十九日、捜索費川が多額となることもあって、いったん捜索を打ち切りました。
そして、家族や同僚などの内輪だけの捜索に切り替えました。
 しかし、冷たい海で助けを待っている息子のことを思うとあきらめ切れず、なか三日おいた六月二日、百九十三人という大規模な捜索を行いましたが、この日も徒労に終わりました。さらになか三日おいた六月六日に規模を縮少し、六十二人で捜索をしましたが、依然として辰雄は発見できませんでした。
 次々に遺体発見のニュースが流れるなかで、早く子が発見されるよう祈っておりました。本格的捜索とは別に、私たち家族は毎日、現地へ出かけておりました。
 捜索参加者の都合もあって、今後は日曜日に捜索をすることにし、六月十二日にも実施しましたが依然として発見できず、六月十九日にまた捜索をしました。
 遭難してから既に二十五日を経過しており、三七日も過ぎ、この日(六月十九日)は引導を渡してもらうべく、菩提寺である宗延寺(五城目町)と地元の尭林院(男鹿市)のお坊さん三人が遭難現場で読経して、辰雄の霊をとむらいました。
 そして、翌日の朝、遭難現場からわずか三百メートル離れた海上に、辰雄の遺体が浮いているのが発見されました。遭難の日から二十六日目の六月二十日午前九時でした。おそらくお寺さんの読経に呼びさまされて、冷たい海から浮かび上がってきたものではないでしょうか。
 遺体捜索に要した経費は、門間家だけで支払いしたお金が三百五十万円以上にのぼり、それもダイバー費川などは正規の金額よりうんとまけてくれてです。このほか、公的機関でも多額の負担をしたとのことです。
談・門間佐市(大正九年生)農業
南秋田郡飯田川町飯塚字水神端一六
電話 〇一八八−七七−四二〇六
記録・川村浩(県つり連)

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写真 門問さん、秋元さんが釣っていた場所
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地図 男鹿市門前

証言34 新婚ニヵ月目に一人で磯釣り、悲しい遭難 男鹿市門前海岸

 息子の晃は磯釣りが好きでした。東京の大学を出て、会社勤めのあと、家業の酒類販売店を取りしきっていました。
 晃は、今年になって初めて男鹿へ行くと言って午前九時過ぎに家を出ました。大変慎重な子で、この日は下見のつもりなのか、いつもは必ず持って行く救命胴衣を家に置いて行きました。途中、男鹿駅前の船木釣具店へ立ち寄り、釣り竿を買っているのをみても、十分な準備をしないまま家を出たようです。
 家業が酒の販売店なので、地震による店の被害を心配する連絡があるものと思っていました。しかし、電話が不通であったり、道路が寸断されたりのテレビを見て、夕方には帰ってくるものと思っていました。
 夕方になって、秋田放送ラジオへ晃への呼びかけの安否情報を頼みました。午後六時ころに、男鹿警察署へ晃の車の番号を言い、問い合わせをしましたが、見つかっていないとのことでした。時間だけが無為に流れ、夕暮れとなりました。
 心配になって、午後七時すぎに私が、車で男鹿へ向いました。椿、門前、加茂、戸賀と回り、息子の車を捜しましたが見つからず、帰路に車の置けそうな所をシラミつぶしに捜して、門前部落の手前二百メートルほどの有料道路の奥まった駐車場に車が二台止めてあるのが懐中電灯の光にうかびました。その一台が息子の車であることを確認したのは夜中の午前零時すぎでした。(注、もう一台は同じく遭難した門間辰雄さんの車)夜明けを待って男鹿警察署へ行き、捜索を依頼しましたが、加茂の合川南小学校の遭難を初めとして、多数の行方不明者が出ており、手が回らない状態であることを告げられました。
 やむなく地元(椿)の駐在さんへ話をして、費用はすべて自分が持つということで、漁船二隻と県栽培漁業センターのダイバー三人と民間のダイバー三人による捜索が朝から始まりました。
 神岡町役場へも事故の模様を報告し、朝五時半には神岡町消防団十人が地元を出発し、現地へ駆けつけてくれました。
 釣り竿、リュックサック、釣り道具などはすべて前日に海岸に漂着していました。
 沖合でダイバーの手が上がりました。遺体発見の合図でした。五月二十七日午後三時二十分でした。
 晃は長ぐつを履いだままで、釣り糸が両手にからんでおり、釣り竿などが海岸に打ち上げられていることから、釣りの準備をしていた直後に、津波に遭ったものと思います。
 晃が結婚式を挙げたのは、三月二十六日で、遭難に遭ったのは奇しくも三ヵ月目でした。
自分よりも悲しい人がいると思って、自分に言い聞かせ、また努めて思い出さないようにしている毎日です。
談・父・秋元徳三郎
  母    玲子
仙北郡神岡町神宮寺字神宮寺六二
電話 ○一八七七二−四○四七
記録・川村浩(県つり連)

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写真 竜ヶ島の手前の磯で2人は竿をおろした直後に大津波が来襲、背後が崖のため、津波が高くなった。
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写真 若い2人をのみこんだ男鹿門前浜

証言35 竿をおろした直後に大津波、二人とも沖へ。男鹿市門前海岸

 私の店へ立ち寄ったのは午前十一時を過ぎていたと思います。最初に秋元晃さんが来て、その後に門間辰雄さんが訪れました。秋元さんは初めてのお客さんで、ウミタナゴが釣れるポイントを聞かれたので、門前の釣り場を教えました。
 門間さんは三回ほど店に来ており、秋元さんに親切にポイントを教えていました。二人とも門前へ行くことに決まり、秋元さんが先に店を出ました。門間さんが店を出たのは午前十一時半ころだったと思います。
 正午過ぎに地震が発生、津波警報が出て、テレビが惨状を伝え出しました。これは大変なことになったと、門間さんたちのことが心配で、門前の有料道路沿いにある駐車場へ直行したところ、車が二台あり、車の中に竿が入っているのが見えました。午後零時四十分ころだと思います。
 上から門前大謀番屋が見え、漁師らが何事もなかったように番屋の前で働いていました。この光景を見て二人とも大丈夫だったと思い、戸賀へ行き、また門前を通り店へ帰ろうとしたところ、大桟橋付近が通行止めになったとのことで、北浦を通って店へ帰りました。
 翌朝、門前大謀番屋前の岩場に長ぐつや釣り竿が打ち上げられていたという話を聞き、夕方になって秋元さんの遺体が発見されたことをテレビで知りました。
 私の店を門間さんが出たのが午前十一時半すぎ。私の推定ですが、秋元さんが先に門前の有料道路の駐車場で待ち、地理に明るい門間さんと連れ出って、坂を下って門前大謀番屋の前へ着いたと思います。
 釣り場は現地に明るく、足場の悪い所に門間さん。足場がよい所に秋元さんが陣どったと思います。
 釣り場を決め、竿をおろして間もなく海がふくれ上り、約ニメートルの津波に二人とも体を浮かされ、引き潮で沖へ持って行かれたのではないでしょうか。
談・船木海風
(昭和十八年生・釣り具店経営)
男鹿市船川港新浜町
電話 ○一八五−二四−二九三三
記録・川村浩(県つり連)

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写真 有料道路駐車場下から、遭難現場を指さす船木海風さん

証言36 番屋のすぐ前に津波、真っ赤に見えた海の底 男鹿市門前海岸

 私は、門前大謀の番屋の炊事婦として住み込みで働いています。二十数人の漁師の昼食の準備をしていたら、グラグラとすさまじい地震で番屋から外へ飛び出しました。
 番屋は今にも倒壊しそうにに揺れ動き、あたりを見回しましたところ、竜ケ島方向に二人の釣り人が見えました。地震で釣り人は大丈夫だろうかと心配したことを覚えています。地震がおさまったので、番屋へ入り、再び炊事の準備をしていて、何げなく窓から外を見たところ、番屋のすぐ前まで波がきており、津波だと直感しました。
 津波により、岸にLげていた船や燃料のドラム缶が流され、大変なことになったと思いました。
 そのあとすぐ(津波がきて二〜三分後)に津波は引き、ふだんは全く隠れている岩や海の底が現われ、海藻が真っ赤に見えました。
 このあと、白く渦巻く津波が何回も押し寄せては引き、生きた心地がしませんでした。
 津波に気を奪われ、釣り人のこととは忘れていました。津波の高さは二メートルぐらいだったと思います。
談.船木トクヱへ大(大正十一年生・炊事婦)
男鹿市椿四二  電話 ○一八五−二七−二一○七
記録.川村浩(県つり連)

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写真 捜索活動を見つめる人たち(写真提供 秋田魁新報社)
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写真 門前大謀番屋20数人が泊っている。写真中ほどのドラム缶付近まて津波かきた。
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写真 左下のドラム缶の所まで、約2メートルの高さの津波が音もなく押し寄せた。写真中央か海面
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写真 あちらの方向で2人釣っていたと語る、門前大謀番屋で炊事婦をしている船木トクヱさん

証言37 釣り人と、車で流された母子二人を決死の救出 男鹿市潮瀬崎

午前十一時半ごろ、いつものように家(親栄館)を出て潮瀬崎でワカメの根株をとっていた。 潮の流れが速くなったと感じたとき、あたり一面、真っ白な潮となり渦を巻いていた。津波だと直感。
危いと思い船外機(貞栄丸)を沖へ出すべくエンジンをかけた。地震は全く感じなかった。
 遠く岸壁方向で釣り人(図Aの地点)が高い岩にしがみつき、その上を波が超えているのが見える。
急激に水かさが増し、船を動かそうとしたとたん、目の前に釣り人が流されてきて岩にしがみついていた。(図Bの地点)。船に助けあげたとき大きな波がきて、あわてて船を立て直した。
 そのとき灯台の高から叫び声が聞え、指をさしているのが見えた。その方向を見ると赤い車が帆掛島方向へ流されているのが見えた。(図Cの地点)
 船のエンジンを全開にして車へ近ずくと、前部を前のめりにし、後部座席にいた若い女性(二十五、六歳)と二歳ぐらいの女の子が座っているのが見えた。幸い窓が開いていたので、子供をよこすように言っても、恐怖からか、腰が抜けたか動こうとしない。
 船を車に横づけにし、先ほど助け上げた釣り人が身を乗り出し、子供、母親の順に車の窓から救出した。財布が見えたのでこれも拾った。
 まだ車が浮いており、港が近いので後部バンパーにロープをかけて二〜三分曳航したところで車が沈み始めたのでロープを切断した。赤い軽自動車がゆっくり沈み、黄色のナンバープレートがとても印象的であった。小浜漁港(図Dの地点)へ入り、釣り人、親子をおろして急ぎ門前漁港へ引き返した。
 話しを聞き終って。
 船頭さんは異常な状態の中で、自分の危険を感ずる余裕もなく、船を動かし三人を助けた立派な行為である。
 残念なのは赤い軽自動車の女性と一緒の男性(多分・夫)である。夫が釣りが好きで一緒に来たものだろう。救出の模様を夫も見ていたことは多く人の証言がある。船がいなければ車もろとも海へ沈んだことは、当時の状況から確実である。それが遭難の日から四力月以上たっても一言のあいさつもない。
談.秋山定美(昭和十五年生・旅館 親栄館経営)
男鹿市本山門前二五
電話 ○一八五−二七−二五一一
釣り人 小林通勇(昭和四年生・会社員)
秋川市土崎港中央三丁目一−五三
電話 ○一八八−四五−五四七一
記録・川村浩
注 秋山定美さんは、この救出で、秋田県警察本部長の表彰を受けました。

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地図 潮瀬崎周辺
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写真 小林通勇さんが流され、しがみついた岩(矢印)
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写真 親子が流された赤い軽自動車は、左中央部の船外機船の付近で沈んだ。(矢印)
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写真 大活躍をした秋山定美さんと定栄丸(門前漁港所属)後方は津波でこわれた門前漁港の消波堤
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写真 流れ着いた漁網を引き上げる漁民たち(写真提供 秋田魁新報社)

証言38 海が突然膨らんだ、人の腰にしがみつく。男鹿市潮瀬崎

 男鹿半島潮瀬崎岩壁の釣り場が急に揺れだした。地震だと感じたが、それ程の揺れでもなかったのでそのまま釣りを続けた。約五分たったころ、沖に投げてあったウキが急に陸地の方向に移動してきた。魚と違った動き方をした。
 突然、海が盛り上るように膨らんできた。星野進さんは、危険を感じ、とっさに岩壁の釣り場で一番高いところに逃げ、岩場にしがみついた。菊地一正さんは逃げる余裕もなく、波に押し流されそつになり星野さんの腰にしがみついていた。菊地さんは全身波をかぶったが星野さんから離れなかった。
 津波と感じたのは第一波が過ぎてかりであった。津波は三回ほど来たように記憶している。地震直後に襲ってた津波第一波が最大の潮位であった。津波は岩壁の釣り場、北西方向から潮位が膨れあがるように盛りあがり押し寄せ、海岸の駐場にあった車を襲い、帆掛島方向へ抜けるようにして通り過きて行った。そして小浜漁港の岩壁をかすめるような状態で沖に引いて行った。
 男鹿半島も五月に人り、サヨリ釣りの好情報が聞かれ、平日でも釣り人で連日にぎわっていた。五月の男鹿の海は穏やかで、当日も潮瀬崎で釣りを楽しんでいた釣り人が十四、五人いた。海岸に駐車してあった車も十二、三台はあったようだ。
 津波の第一波来襲が地震発生から数分という速さで押し寄せたため、釣り人も車も避難はできない状態であった。岩壁の釣り場は比較的平坦であるが、一カ所だけ高さ二・三メートルの岩場があり、津波による引き潮もなく、二波、三波ともに潮が膨らんだ状態で押し寄せ通り抜けたので、高い岩場にしがみついていて助かった。左突端の釣り人は、岩場が高く安全であった。津波を早く発見して逃げた釣り人は、津波の来襲が速かったので途中て波にさらわれて漁船に助けられた人もいたが、波をかぶって難をのがれた釣り人もいた。灯台に避難した人もいた。
 もしも、門前大謀番屋下の状態であれば、予想以上の被害があったのではないかと思われた。このたび、秋川大学でまとめた津波調査によると、男鹿半島北部で津波の最大波高が第一波で四〜五メートルと記録している。当日の男鹿半島の潮汐をみると、大潮で十三時十七分が満潮時になっていた。
潮瀬崎でも四メートル以上の潮位があったと思う。
 この日、釣り場の沖合でワカメ採り漁をしていた船が、津波で流されて来た車の人を救助した。駐車場近くで遊んでいた人が地震にあい、車の中に避難していた親子が車ごと津波に押し流されてしまった。流されて来た軽四輪の赤色の車は、船の人に危機一髪で救助された幸運な人であった。海岸の駐車場にあった車はほとんと波にのみ込まれ跡形もなく、津波の猛威をまさまさと思い知らされた気がした。
 気象庁が津波警報発へのためデーターを収集なとに要する時間は二十分前後もかかるという。地震の直後数分で襲ってきた津波を、釣り人のだれもが予想しなかったことであり、あの日まで忘れられていたに等しいものだったようだ。これからは釣り人にかぎらず常に、「地震即津波」を忘れず、速かに避難する自覚がないと、今回のような津波の被害は防げないということを痛感した。
 男鹿半島で釣り人三名が不幸にして無残にも波にのみ込まれて犠牲になってしまった。
 県内で十二人が遭難死亡し、最後の一人も七月二日、遭難現場から約四百キロ離れた北海道の海上で発見された。
 この不幸な貴い教訓を生かして、「地震即津波」の認識を一層深めたいと思います。
談・星野進(大正十一年生・玩具店経営)
男鹿市船川港新浜町
電話 ○一八五−二四−二八○五
談・菊地一正(昭和十五年生・寿司店経営)
男鹿市船川港片田六九−三一
電話 ○一八五−二三−三一八二
記録・佐藤烈夫(県つり連)
男鹿市船川港船川字親道一八五
電話 ○一八五−二四−二八六七

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写真 釣りの様子
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写真 潮瀬崎は男鹿半島で最も潮が速い所、それだけに四季を通じ多様な魚が釣れる。

証言39 死に神に押し流されて泳ぎ、岩によじ登る 男鹿市潮瀬崎

 五月二十六日、友人と二人で男鹿半島の潮瀬崎に釣りに行くことに決定しました、秋田を出発したのは午前十時ころてす。
 その日は天気もよく絶好の釣り日和で、二人とも気分も良く最高の代休だと車の中で話し合っておりました。
 潮瀬崎に着いたのは正午ころです。車を潮瀬崎の駐車場に置き、歩いて先端に向かおうとしたそのときです灯台の付近で、クラグラとめまいがする感じがするので地震だと感じました。釣り人は八人ほどおり、女の人と子供はしゃがんでおびえておりました。
 それから十五分ほど場所を探してから、岸壁の方て釣ることになりました、荷物を置いて海を見ているとき、突然波かあふれてくるような状態になりました。そのとき初めて津波が来たと感じました。「来た!逃げろ」と言って、自分は一目散に逃げましたが、後から波に押されたため泳ぎました。
 五メートルほど泳ぐと、ちょうど目の前に高い岩があったので、やっとのことでよじ登りました。クーラー、竿、リュック何も持たずにただもう無我夢中でした。友人のことも忘れており、何も考える余裕がありませんでした。岩に登って後ろを振り向くと、友人が小岩に立っており、お互いの無事を確めへ合いました。
すると、海の中に車ごと引きづり込まれた子供と母親の「助けてくれ!」という悲鳴が聞こえてきました。そのとき、自分の車も流されたと思いました、車中の人は、幸いにも付近で漁をしていた小型船によって助けられました、また、クーラーにつかまって流されていた人も助けられました。
 それから、すぐ潮が引いて行くのを見てから駐車場に急いで行くと、ー数台あった車が、たった一台しかありませんでした。ズボンや下着もみんなびっしょりでした。近所の人がみんな貸してくださり、風邪もひかずにすみつくづくありがたく思いました、帰りは、本荘の人と四人でその車に便乗させてもらい、無事に家路に着くことができました。
佐藤良一(昭和二十二年生・会社員)
秋田市茨島六丁目十○の四
電話 ○一八八−六三−二二七四

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写真 男鹿・潮瀬先の「岸壁」といわれる釣り場、津波はこの右方から押し寄せ、左の方へ流れ、人も車も持って行った。

証言40 妻の手をしっかり握り、岩につかまる 男鹿市潮瀬崎

 女房もよく知っているが、私の釣りは全く無計画なのである。ところが、この日は違っていた。前もって釣り情報や県つり連発行の釣りカレンダーで潮の干満を調べての釣行だった。だから能代で迷うことなく左へ曲がって男鹿半島に向ったのである。
 潮瀬崎に到着したのは午前十一時でした。先着の車が約十五台。私達は急いでトランクから釣り道具を出して、仕度をしておりますと、赤い乗用車が、私達の近くまでやってきました。ご主人は、奥さんと子供を車に残して急いで、釣り場に向かいました。
 私たちも遅れじと急ぎ最先端へ向かいました。途中で三人の釣り人に会いました。帰るようでした。
「今日はどうてすか?」と言葉をかけると、「今までやってやっとサヨリ一匹だよ。昨日はサヨリを四十、五十と上げている人がいたけど……今日はいったいどうなってるんだかさっぱりだ」。竿をおろしてすぐサヨリの四十センチ級が女房に三匹、私に一匹釣れました。最近は師匠である私より弟子の女房の方が釣れるのてす。午前十一時半ころからピタリとあたりがなくなり、私達は弁当を広げました。
 正午過き、突如大地を揺るがす大地震になったのです。立っていることが出来ず岩場に座わり込んて岩につかまっていました。眼前に見えるものすべてが揺れていました。恐ろしくて心臓が止まりそうでした。地震がおさまっても体がまだ揺れているようでした。私は地震のあまりの大きさに津波のことを考えました。女房に広げた弁当を片付けるように言い、そして沖合いの方を注意して見るように。高い白波が来たら全部捨てて高い岩場に逃げるように言いました。
 地震後も私は無中で釣りをしていました。沖合いの方は依前何の変化も起きませんでした。突然あたりの様子が一変しました。海が突然、急速に膨んで来たのです。あたり一面は猛り狂ったように、あちらこちらで大きな渦巻きが出現しました。高い岩場に移ろうにも退路は絶れてしまいました。私はとっさに女房に、言いました。死んでも離すなと私は叫びました。女房は「光ちゃん!どうしようああ神様、どうかお助けください。神様、お願いです」と狂ったように叫び続けていました。
 私たちの釣り道具は全部渦の中に引き込まれ、狂った海面はもう目の高さより高く膨らんでいました。足、胴、肩、頭を海水が越えていきました。私は一瞬、下半身が浮くような感じがして、再びゴツゴツした岩にしがみ付きました。女房は左事を岩に、右手はしっかり私につかまっていました。ほんの一瞬だったのか、長い時間であったのかまったく分かりません。気がつくと潮は引き、私たちは波にさらわれることもなく、貝のように岩にくっ付いていたのです。
 気がつくとあたりがまた一変しておりました。周りの海水はどこへ行ったのか全くなくなり、水深十メートルも二十メートルもある場所なのに海底が見えるのです。どこもかしこも海の底が見えるのです。まさに天地創造の図てありました。
 私たちは潮瀬崎の最先端で釣っていましたのて、急いで近くの高い岩場へ移りました。無くなってしまった海水は陸地に押し寄せたのでした。今まてしがみついていた岩の上に立って、海水の無くなった岩礁帯を眺めまわし後ろを振り返ると私たちは再び恐怖のどん底にたたき込まれました。私たちが先端まで伝い渡って来た岩場はすべて海水に隠れてしまったのです。
 私たちは逃げるに逃げられず、ただ茫然と岩の上に突っ立っていました。
 そのとき、陸地に押し寄せるだけ押し寄せた海水の逆流が始まりました。陸地にあるものは何もかもさらって海に戻り始めました。ゴウゴウともの凄い音をたて濁流となって私たちの周りを襲って来ました。二、三百メートル前方を車が五、六台沖へ向かってもの凄い勢いで流されて行くのが見えました。その中の一台の乗用車の窓からしきりに手を振って助けを求める女性の叫び声が聞こえました。赤い乗用車でした。
 窓から身を乗り出して狂気のように、助けを求め叫び続けている。しかし、車はどんどん沖へ流されていきました。そのとき、船外機船が、大きな渦巻に木の葉のようにほんろうされながらも必死に操船してました。「あの車の女を助けて!」必死に私たちが叫び続けると気がついたのでしょうか。私たちに手を振ろと、全速で車に向って、船を走らせました。車に横付けにすると、なかの人を窓から引きずり出しました。その人たちは母子でした。助け出すと間もなく赤い乗用車は沈んでいきました。
 私たちは海水がだいぶ引いてから、岩場伝いに腰まで海水につかりながら陸地まで来ると、再びがく然としました。私の車も他に十数台近く止まっていた車は跡形も無くなっていたのです。ただ一台だけジープが残っていました。
 やがて、九死に一生を得た人たちが集まって来ましたが、ただお互い顔を見合せるばかりでした。
みんなは流された車を惜しむより、助かったことを喜んでいたようです。
 そして、恐ろしい現場には一分でもいたくないように、早々と立ち去って行きました。
 私はふと左手に痛みを覚え手を見ると、女房の右手がしっかりと握られていました。津波が来てから、今までずっと手を握ったままだったのです。
 タクシーに乗ってから私のポケットには二百三十円しかないのに気がつきました。お金は流されてしまった車の中にあったのです。私はポケットを探っていて運転免許証の中にキャッシュカードがあるのに気がつきました。男鹿駅前の銀行でお金をおろし洋服店を見つけ、ずぶ濡れの衣服を取り替えました。生き返ったように暖かくなった。再びタクシーに乗って、とりあえず八竜町釜谷の親戚の家へと向かった。
 車のラジオ放送を聞いていると「合川南小学校の児童が男鹿市加茂青砂で津波に襲われて、多数が行方不明である。」不明者の名前を次々に報じている。突然、「ああ久也、久也」と女房は気違いじみた声で悲鳴を上げた。女房の弟の子供、加藤久也の名前があったのです。
本吉光雄(昭和十五年生・会社員)
北秋田郡合川町福田字明田四三
電話 ○一八五五−三−二一二一

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写真 男鹿・潮瀬崎で海へ流され沈んだくるまが10数台、この1台だけが岩渕にひっかかったが、廃車となった
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写真 潮瀬崎灯台は、潮が速く、最もよく釣れる好ポイント

証言41 白昼夢、大地が裂け、岩壁がせり出す 秋田市秋田港五万トン岸壁

 初夏の心地よい西風をほおに受けながら、私は秋田港五万トン岸壁で友人たちとイワシ釣りをしていた。六十人ぐらいの釣り人が、思い思いの場所で楽しんでいた。みんな良く釣れていた。私も最高に良かった。
 折りしも春の全県選抜高校野球大会が、八橋、県立、両球場で開かれていた。私は母校の応援のため一足早くみんなに別れを告げて、愛車を岸壁から動かしていた。
 午後零時、突然、グラグラッと地面が揺れたかと思うと、岸壁に亀裂が入り、「ズズズズッ」と大地にひび割れが生じていった。真昼の異変だっ!!一瞬、だれもがポカンとしていたように思う。
 やがて、あちこちでとよめきが起こったと思うといっせいに避難し始めた。中には中風にあたったのじゃないかと、オロオロするお年寄りや車いすの人もいたので、みんなで安全地帯に誘導した。
 地震が小康状態になると、岸壁で竿をたたんだり、ひび割れのため腹をついた車を動かしたりして、次に恐しい津波の襲来を予想して、みんな退散したのであった。
談 木村建(昭和二十一年生・出版業)
南秋田郡八郎潟町中嶋六−二二
電話 ○一八八−七五−二六二五

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写真 秋田港5万トン岸壁の後方が約1.2メートル陥没、地震から3日後というのに、もう釣り人はイワシ釣りに来ていた。
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写真 5万トン岸壁の中央が湾曲したなかで、地震直後から大羽イワシの大漁が続いた。
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写真 もの凄いせり出し(手前)と全体的にふくらんで、海側に傾斜した5面トン岸壁
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写真 地震も津波も何のその

証言42 沖で津波を目撃、帰港中に河口で転覆 秋田市雄物川河ロ

その日はちょっと肌寒い日でした。朝の八時おgろにいつも行く雄物川沖にある鉄塔跡へ。今日の新屋のお祭りに「黒鯛の刺身で・・・。」と言いながらの楽しい釣りが、一瞬の津波のため二人の犠牲者を出してしまいました。
 波もなく、穏やかな日でした。正午を少し過ぎたとき、突然船底が突主げられるような、また、だれかが船の上で飛び跳ねているような動きが五秒ほど続きました。
 不審に思い、私はその日は船尾に座っていたので船首を見ると、大渕春光さん、石野昭男さん、亡くなった高橋謙二郎さん、それに私の横に座わっていた船主の高橋文男さんたちが不思議そうな顔で、だれともなく「今のは何んだ」「地震でねが、気持ち悪がったねが。」「地震、もしや津波が」一瞬思い浮かべ不安になりましたが、「まさか秋田に津波なんて」と不安を打ち消し、釣りをしていました。
 その後、なにげなく腕時計を見ると、午後零時十五分でした。遠くの東北電力秋田火力発電所の三本の煙突から、つい先ほどまで見えていた煙が消えていました。隣の文男さんに「火力の煙、止まっている。昼休みで止まったのだろうか。それでねば地震で止まったんでねが・」と、話しかけると、「何んで止まったんだ」言いながらも、雄物川河口に最も近いポイントで釣っていると、根がかりで釣り針を取られた。
 針結びをしていて何げなく顔を上げると、ついさきほどまで五〜六メートル先に浮かんでいた、赤い印の小さな三角の旗竿が消えている。「あれ、何んか変だ」と思い、「あの旗どこさ行った」。
「見えなくなった」と声をかけると、みんな消えた旗の方を見て「本当だ。旗見えね」。周りを見てもどこにも旗はなく五人とも何となく不安な気持ちになってきた。
 そのとき、突然、目の前七〜八メートル先の海面が湧くように盛り上ってきた。「あっ津波でねが」、「大変だ、早く糸、巻げ巻げ」との文男さんの声で、みんな夢中で釣り糸を巻き海を見回すと、船首方向に見える船越沖の海面が盛り上がり、波立っているのが見えた。「大変だ、早く帰らねば」とエンジンをかけ、周りを見ると秋田港沖に停泊していた大型船から煙が上がるのが見えた。「見れ、見れ、あの船も逃げるとこだ。」
 わずか河口からニキロメートルほどしか離れていない場所なので、われわれは津波の来る前に帰れると思っていた。雄物川河口の三百メートルぐらいまでくると、すでに河口両岸の波打ち際から二十メートルも陸に波が上がっていた。河口は濁流がうず巻いていた。
 私たちより一足先きに河口に入った船は、渦巻で進むことが出来ず、河口の中を回っているのが見えた。そのうちわれわれの船の所もどんどん河口に押し流され、河口の砂底が五十センチほど下に見え、私は「文男さん、底が見える」と言った瞬間、船外機のスクリューが砂底に当たり「ダッダッダ」と音を出してエンジンが止まってしまった。
 「早く着れ、着れ」と文男さんが大声を出している。一瞬、私は何んのことか分からずにいると、高橋謙二郎さん、石野さん、大渕さんたちが船首に走っていった。ライフジャケットを取りに行ったのだ。私もライフジャケットを手に取り、一つ残っていたライフジャケットを文男さんに投げてやった。
 船はスクリューを軸にして座礁し、船首が河口を向いていた。船首が津波の引き潮と、川の流れで沖の方を向いた瞬間、目の前には波頭を白くした津波が沖から何キロも横一直線に向ってきた。今まで聞いたことのないようなものすごい音を出してきた。私は鳥肌が立つような恐怖に襲われた。
 津波はニメートルから三メートルほどの高さで船にぶっかってきた。その瞬間、船首は空を向き、その後船底を津波に向けて転覆した。あたりを見ると、つい先ほどまで一緒にいたはずの四人の姿が見えない。左手に持っているライフジャケットだけは、どんなことがあっても離せない。「離すとしんでしまう」と思うまもなく次の津波がきた。
私は渦に巻き込まれ海の底に。息苦しくなり口をあけると砂まじりの海水が入りこむ。手足を動かそうと思っても、着ている服やら長ぐつが重くて、思うように動くことが出来ない、「このまま死んでしまうのでは」、「いや、こんなことで死ぬのは馬鹿くさい」さまざまな思いがかけめぐる。
 夢我夢中で長ぐつを脱ぎすて、上を向いたら二メートルぐらい上の方が明るく見えたので、ライフジャケットを持ったまま手足をばたつかせてやっと水面まで出た。海は、うずまき、波立ち、息を吸うのがやっとの状態だった。
 六、七メートルほど沖の方に私たちが乗っていた船が船底を見せていた。船まで夢中で泳ぎ、ひっくりかえった船外機につかまっていた。それでも津波の引き潮、川の流れで沖の方へ引っはられる。
夢中でしがみつきながらも「大変なことになった」、「ほかの人なんとなった」と回りを見ると、海にはごみやら流木が浮いていた。
 私は船腹にしがみつきながら、また津波がくれば大変だと思い、手に持っていたライフジャケットを身につけ、ほかの人を探すと、少し離れた所にクーラーが流れている。「あのクーラーにだれかかつかまっていてくれれば」と思っていると、船から十メートル以上も離れた所に文男さんが足を沖の方に向けて仰むけに浮いていた。
 「高橋さん大丈夫だか」と叫んでも全然応答してくれません。そのまま沖の方に流れて行くので、私は「なんとかしなけれは」と思い周りを.見ると、ヘラ軸の所にライフシャケットが一つついていたので、それを投げようと思い引っぱったか、どこかに引っかかっているのか、いくら引っぱっても取れない。
 文男さんは波の間に見えなくなった。大声で「高橋さん」「文男さん」と叫んでも周りはもの凄い波の音だけ。私も海につかっていたので寒くなり,またこれ以上海に入っているのも恐くなってきたので,ひっくり返った船底に上ると,河口の両岸には三,四十人がこちらを指差している。それにパトカーも走ってくるのが見えたので,「このまま船にいれば助けられる」と思い船底に座った。
 十分か二十分ほど過ぎたころに,沖の方に遭難していた船が河口の方へくるのが見える。「あ,これで助かる」と安心したら,どこからともなく「オーイ」と叫ぶ声が聞えた。見ると私のいる船から二十メートルほど沖合の方に,波の間からポツンと頭が見える。
 「だれかいる」。私は沖から来る船に叫んでも聞えないのに,大声で「沖にだれかいる」「だれかそっちの方にいる」と手で合図した。
 船の人もわかってくれたのか,その方向に行って浮輪を投げて,引き上げるのが見えた.「だれか一人助かった」,「あと三人,なんとなったかな」と思いながらも船がそばに来てくれるまで不安であった。
 船に飛び移ると,大渕さんが海水を吐き,寒さと怖怖で震えていた。「大丈夫だか,あとの三人は」と聞くと「俺もわがらね,やっと助けてもらった」とのことだった。私たちを助けてくれた高茂丸の高橋茂雄さんに「あと何人いるんだ」と聞かれたので,「あと三人いる。まだこの近くさいるはずだから」,「なに,まだ三人」,「早く探さねば」と言われ,私も船首に行き見回した。波の間に黒い物が見える。「あすこだ,あすこだ」と指さす。近くに行って見るとそれは流木だった。
 助けてくれた船渦に巻き込まれるし,船腹には流木がぶっつかるので河口内に入ると,岸で見ていた人たちが波打ち際まできて「沖の方にまだ一人いる」と叫んでいる。「このままでだば俺の船も危ねくなる」と,高橋船長は言いながらも,私を助けてくれた場所間で戻って探してくれたけれど,人影を見つけることは出来なかった。「だれか見えるか」、「だれも見えね」私たちもその言葉を最後に雄物川の船付場に帰ってきた。
 船から陸に上がると「本当にこれで助った」と思ったら、急に寒さで体が震えてきた。濡れた服を脱ぎ、貸してもらった作業衣を着て船付場の小屋のストーブで暖まっていると「あの津波でよく助かったなし、「こっちだばすごかった」。その後、警察の人が来ていろいろと遭難のときの模様を聞かれていると、外にいた警察の人が「新屋浜にだれか一人、自力で泳ぎ着いて助かったとしと言った。「助かったのだれ」と聞いたら「声の大きい人だと。それ以上わがらねし。私は「助かった人だれだ」、「あとの二人も必らず助かっている」と心で思いながらも、今度は家族や家のことが気がかりになってきた。
 車を運転して帰る途中ラジオのスイッチを入れると、県内で災害のあったこと、津波で行方不明者が出ていることなどを放送していた。濡れた服を持って玄関を開けたとたん、子供の元気な声が聞こえた。「死ないでよく家へ帰ってくれた」。本当に心の底からよかったと思った。
 あとで石野昭男さんが救命胴衣を片手に新屋側の浜に打ち上げられたと聞いて安心した。残念なことに高橋文男さんは、その日の午後二時四十分ごろ現場近くで、また高橋謙二郎さんは三十七日ぶりに雄物川河口から四百キロも離れた北海道沖で、それぞれ遺体で発見されました。ライフジャケットを身に付けていればと、今でも悔やまれます。
 今、このときにも船釣りや磯釣りをしている人々がいると思いますが、釣りをしていての津波による犠牲者を二度と出してもらいたくないと思い、私はレジャー船といわれる船を持っている人たちと海上保安部へぜひお願いしたいことがあります。
 それは、レジャー船に、海上保安部からの非常通信を傍受出来る受信機を備え付けることを義務づけてほしいのです。そうすれば津波に対して、また天気が急変したときなど適切な避難ができると思います。また、「津波では沖へ逃げろ」と言われていますが、素人では分らず、逆に岸へ逃げて転覆しました。こうしたことも海上保安部などで指導してほしいものです。
 編集部注
 石野昭男さん(昭和二十年生)の証言  だれかが投げてよこした救命胴衣をつかんだか、大波にもまれて離した、ところが幸運にも、付近に救命胴衣が流れており、これを手にして着用せす、新屋側の浜辺に打ち上げられたもので、さんざん津波にもまれて、泳いで岸へ近づくことは津波の状態と体力的にも不可能の状態にあった。
 大渕春雄さん(昭年二十二年生)の証言  救命胴衣をつかんだが、何回か波にもまれているうちに離した。二回ほど大きな渦に巻き込まれ、海中をふり回され本当に疲れた感じであった。
 水面に顔が出たら、目の前にルアーのタックルケースが流れており、地獄に仏と、ワラをもつかむ気持ちで手にした。激しい潮流と渦、重い体で幾度となく死を覚悟していたところ、沖から船が走ってくる。
必死で「オーイ!」と叫んだら気がついたとみえ、浮輪を投げてくれ、船に引き上げられた。
阿部晃(昭年二十二年生・仕出し店経営)
秋川市川尻上野町八−二三
電話 ○一八八−六二−〇四四九
注 阿部晃さんと大渕春光さんを救出した高橋茂雄さんは、秋田敬.口察署長の表彰を受けました。

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写真 毎日のように遭難地点で無事をいのる高橋謙二郎さんの奥さんと娘さん(右2人)
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写真 釣り仲間も、連日捜査に協力
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写真 釣りに出て転覆した高橋文雄さんの船外機船(秋田県雄物川河口)
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写真 雄物川河口に設営された秋田市現地対策本部
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写真 遠く、男鹿市脇本漁港から連日、捜索にきてくれた第一庄七丸などの漁船(高橋謙次郎さんは、脇本へもよく釣りに出かけた)
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地図 釣りをしていた場所(雄物川河口から2〜3キロメートル)

証言43 決死の救出、礼も言わない四人の先生 由利郡仁賀保町鈴部落

 地震の時、本荘市の現場にいました。カーラジオで地震情報を聞きながら西目町の現場に寄り、自宅のある仁賀保町へ帰ったのが午後零時二十八分ごろでした。
 すぐカメラを持って津波の模様を撮すべく海岸へ出ました。ところが、鈴部落の前の離岸堤(以下地元の人のいう「堤防」に表現する。)に釣り人四人が孤立し、多くの人が見ていました。
 ここで、堤防のすぐ前で食料品店を営む佐藤りえ子さん(五十六歳)は次のように証言している。
 店のテレビを見ると、津波警報が出ていたので堤防上の釣り人に、「津波が来るから逃げろ」と、叫びました。しかし、津波が本当に来るのかどうか自信がなく、間違えば釣り人や周りの人に恥ずかしいので、叫んでは堤防の後ろに隠れました。
 三回ほど叫んだとき、釣り人は気づいた様子でしたが、依然として釣りをしていました。
 その後、地元の漁師が海の様子がおかしいぞと言い、釣り人に「早く逃げろ」と、叫びました。それでようやく釣り人は釣り道具を片づけ始めました。
それから間もなく津波が来襲し、釣り人四人は堤防にある電柱によじ上りました。四人が順に上へ登り、最後の人は電柱へ登ることもできず、電柱にしがみついていました。
 津波は一番下の釣り人の胸ぐらいまでの高さで堤防を越しましたので、平常の水面高より約ニメートルぐらいの高さがあったと思います。
 高橋善一郎さんが決死の思いで助けたのですが、陸に上ったとき、私も行き、「最初に逃げうと、叫んだのは私です。助かってよかったですね。」と言いましたが、迷惑をかけたとも言わず横を向いており、あとで山形の高校の先生と聞き礼儀知らずの人だと思いました。
 以下、高橋善一郎の証言
 津波は断続的に来襲しましたが、あとは堤防の上を越えることもなく釣り人は放心状態で電柱のそばにかたまっていました。
 そのころには警察、消防の人たちもおり、消防署でもやい銃を撃ちましたが、綱が二十五メートルよりなく、届かず一回で中止しました。
陸地と堤防の距離は、津波の引く状態で五十〜百メートルほど離れていました。
 もやい銃が失敗し、海は寄せ波、引き波、返えし波と渦を巻いており、船外機船も出せない状態の中で時間だけが経過していきました。
私は三年前に、仁賀保町消防団五分団第四部に二十三年間勤めており、消防団員としての訓練を受けていたことと、この付近の海で海藻や貝採りをし、海底の地形を知っていたので海へ入るべく、家へ準備のため戻りました。
 胴突き長ぐつをはき、水が入らないようにゴムバンドで二重に胴突きを締め、波に流がされないようつっかい棒を持ち、腰に細いロープを結び、海へ入りました。時間は午後零時五十分ごろであったと思います。
 途中、波が二〜三回きて、胸までつかったこともありましたが、海底の足場の高い所を探して写真にあるように手前の電柱(津波がくる前から曲がっていた)に到着し、電柱と陸地の間にロープを張りました。
 そこで津波が来る前に堤防に渡るとき、釣り人が持っていったゴムボートが繁留されてあったので、ゴムボートをおろし、年をとっている人から乗るように話しましたが、だれも恐がって乗りません。
説得の末、ようやく二人がゴムボートに乗り移り、私のいる電柱まできました。そしてゴムボートの前の綱を輪にしてロープに通し、ゴムボートに別のロープを引かせ、前もって張ってあるロープを釣り人がたぐって陸地へ戻りました。そして空のボートをたぐり寄せ残りの二人が乗り、陸へ戻りました。
 釣り人が陸へ到着したことを確認してからロープを解き、前と同じ要領で陸へ戻りました。
 今、考えてみれば、津波をみんなが初めて見て、濁流のような状態の中では恐くてだれも海に入らなかったのだと思います。私も津波の惨状を新聞で読み、テレビで見て救助当時は思わなかった恐さが、二〜三日してから実感として知りました。
 あとで私が助けた人は、山形県立鶴岡高校の先生、四人と知りましたが名前も知らず、また、礼のことばも四カ月をすぎても全くありませんでした。
高橋善一郎(昭和十四年生・建設業)
由利郡仁賀保町平沢字前谷地五三
電話 ○一八四三−七−二四七二
注1 高橋善一郎さんは、今回の救出で秋田県警察本部長の表彰を受けました。
注2 救出された釣り人は、山形県立鶴岡高等学校の五十嵐浩(四十六歳)、鈴木新(三十四歳)
   伊藤紘夫(三十七歳)、佐藤茂(三十六歳)の四人の教員です。

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写真 人命救助で秋田県警察本部長の表彰を受けた高橋善一郎さん
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写真 陸から約100メートルの沖合いにある離岸堤、4人の釣り人は、手前の船付場からゴムボートで渡った
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写真 引き波が始まり、不安そうに沖を見る4人の釣り人(写真提供 仁賀保町)
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写真 高橋善一郎さんが張ったロープで陸へ戻る釣り人(写真提供・仁賀保町)
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写真 仁賀保町三森部落と午の浜へ津波が押し寄せたところ
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写真 津波が引き始めるところ
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写真 津波が引いたところ

地震・津波の知識

一 地震のおこるしくみ

気象庁
一、地震とは
 地震とは、地球内部の岩石か急激に壊れる現象である。地球内部のある部分には絶えず力が加えられている。このため、この部分の岩石には歪(ひずみ)が生じる。時間が経つに従って、歪は次第に増大し、その部分の岩石は、遂にはこれに耐えきれなくなって破壊する。これによって歪は解消される。このとき、そこに断層ができる。すでに断層がある場合は、その断層に沿って壊れる。
 壊れたところでは地震波(弾性波)が生じ、四方に伝ぱする。地球上にいるわれわれは、地震波によってゆり動かされ「地震」を感じるわけである。

二、地震波
 地震波には、地球の内部を伝わる「実体波」と、地球の表面に沿って伝はする「表面波」とがある。
さらに、実体波の中にはP波(縦波。波の進む径路と同じ向きに振動する。)とS波(横波。波の進む径路に直角な向きに振動する。)があり、P波の伝わる速さはS波のそれの約一・七倍である。表面波の速さはS波よりさらに遅い。
これらの波は震源を出るときは同時であるが、走る距離が遠くなると、それぞれの波の到着する時間の間が長くなる。
 P波とS波との間の時間を「初期微動時間」といい、距離が五十キロメートルぐらいのときの初期徴動時間は約七秒、百キロメートルぐらいの距離では約十三秒くらいの開きが出る。
注 日本海中部地震では、秋田地方気象台の地震計に到達したP波が午後零時零分十七・八秒・S波 が午後零時零分三十六・五秒で、その差は十八・七秒となっている。

三、震源と震源域
 地震は地球内部のある部分が突然破壊する現象であるが、破壊は、一秒間に二〜四キロメートル程度の速さで伝ぱする。そして壊れるのはごく狭い区域だけで終わることもあれば、極めて広範囲に及ぶこともある。
 壊れ始めた地点を震源といい、震源の直上の地表の点を震央という。地震で壊れた地域全体を震源域といい、その大きさは地震の大きさ(規模)に関係する。震源域は、一般に、断層の大きさ(幅aキロメートル、長さbキロメートルなどと表わす)、または、あとで述べる余震域の大きさと同じと考えておけばよい。

四、余震
 震源の浅い地震は、時間的にも場所的にもかたまって起る性質がある。大きな地震が起ると、引き続いて多数の余震が発生するが、あまり小さな地震では、必らずしも余震を伴わないものもある。マグニチュードがおおよそ六・五以上の地震では、ほとんどの場合、余震が観測されている。
 余震の数は、本震の直後に多く、時間が経つに従って少なくなる。
 また、余震の大きさは本震より小さく、最大の余震でも本震のマグニチュードより一ぐらい小さい場合が多い。
 大きな地震の起り方には、このほかに前震を伴うものがあり、前震・本震・余震型と呼ばれる。
 今までの例で、本震と最大の余震(または前震)の大きさを比べてみると、かなりの差がある。しかし、一番大きい地震とその次に大きい地震の大きさとの差があまり大きくない場合がある。同じくらいの大きさの地震が多数起る場合である。このような形の地震を群発地震という。群発地震には二年も三年も続くような規模の大きいものもあれば、ごく短時間で終わるようなものもある。

五、余震域
 余震は、大体において、ある区域にかたまって起る。余震が起った区域を「余震域」という。余震域(の面積)の大きさは地震のマグニチュードに関係し、大きな地震では余震域も広くなる。多くの地震について統計的に調べた結果によると、M七の地震では平均して千平方キロメートルぐらいの区域が、また、M八になると約一万平方キロメートルの区域が余震域になる。
 なお、本震の震源は、余震域の縁にあることが多い(このことは、次のようなことを意味している。
 すなわち、震源域は、その地震によって破壊した区域であり、余震が起るのもこの区域である。破壊は本震の震源で始まり、ある一方向に伝わって行く場合が多い)。

六、地震の規模(マグニチュードM)
地震の大きさ(規模)を表わす尺度として、マグニチュードMが広く使われており、数値によって地震の大小を表わす。Mによる大きさの分類は、おおよそ次のとおりである。
M>8  巨大地震
M>7  大地震
7>M≧5  中地震
5>M≧3  小地震
3>M≧1  微小地震
1よりさらに小さいものを極微小地震という。
 これとは別に、単に抽象的に「大きな」地震という意味で、「大地震」という言葉が使われること
がある。
 Mがおおよそ八以上の地震は、第一級の大地震で、巨大地震と呼ばれることがある。巨大地震が起ると、広範囲に大被害を生じ、震源が海の場合には大津波を伴う。M七〜八の地震は、内陸に起ると大被害を生ずることがある。海底に起ると津波を生する。Mが四〜六程度の地震では、被害を生ずることはあまりない。ただし、震源の深さがごく浅い場合にはM五程度の地震でも震央の近くで、ごく局部的に被害を生ずることがある。M三〜四程度の地震では、震源に近いところで人体に感じることがある。
 巨大地震は、そうたびたび起るものではない。統計的にみると、日本及びその周辺にM八クラスの地震が発生するのは平均して十年に一回程度である。M七クラスの地震は年一回くらい、M六〜七の地震では年十回、M五〜六になると年約百回の地震が日本及びその周辺で発生している。Mの値が一小さくなると地震の回数は約十倍になる。
 日本列島及びその周辺で起る地震の数は、地球上に発生する全地震のおおよそ十%である。

七、地震のマグニチュードとエネルギー
マグニチュードは、一九三十五年アメリカの地震学者リヒターによって定義されたもので(このため、リヒタースケールと呼ばれることがある)、「震央から百キロメートルのところにある標準地震計の記録上の最大振幅の常用対数をもってその地震のMの値」としてある。実際にはちようど百キロメートルの距離のところに標準地震計が設置されているとは限らないので、一般には、任意の距離のところにある任意の地震計に
よる振幅からMの値が求められるようになっている。
 このように、マグニチュードMは、地震の大きさを区別するため便宜的に定義された物さしであるが、これは、地震のエネルギーと密接に関係している。
マグニチュードとエネルギーとの関係は、おおよそ次のとおりである。すなわち、Mの値が一大きくなるとエネルギーは約三十倍になり、二大きくなるとエネルギーは約千倍になる。M八の地震一つでM七の地震約三十個、M六の地震であれば約千個分のエネルギーに相当する。
 M八.五の地震のエネルギーは、約4×10の24乗エルグといわれている。これは、百万キロワットの発電所が約十年かかって発電す電力(最新の原子力発電所の出力がおおよそ百万キロワットである)、または、八十五メガトンの火薬(大型の水爆約四個に相当)のエネルギーに相当する。
 このように、大きな地震では多量のエネルギーが放出されるわけであるが、地震が起るまでは、このエネルギーはひずみとして岩石中に蓄えられている。一方、ある容積の岩石中に蓄えられるひずみエネルギーには限度があるので、多量のエネルギーを蓄えるためには、それ相当の範囲(容積)が必要になる。おおよそこの範囲が、地震の震源域となるところである。巨大地震では、ひずみエネルギーの蓄えられる範囲、すなわち震源域は、直径百キロメートル程度あるいはそれ以上になる。ただし、地震後、地震波の解析などから求められた断層の大きさなどは、表に示してあるように、地震によってかなりの差がある。

八、震度
 マグニチュードは、その地震自体の大きさを表わす量で、地震によって放出されたエネルギーに関係する。これに対し震度は、地震によるある地点の揺れの強さを表わす景である。
表−2は、気象庁が採用している震度階級表で0からVIIまでの八階級に区分してある。
 震度は、体感及び周囲の揺れ方、被害の状況などによって決められるもので、機械観測ではない。
したがって、感じ方、地変、被害の状況がわかれば任意の場所の震度を求めることができる。
 現在、地震のときに気象台が発表している震度は、たまたま気象台・測候所のある場所における震度であって、同じ都市内であっても地盤の良否、建物の種類、構造などによって震度にして一〜二階級ぐらい違うことがある。

注 秋田地方気象台が設置されている所は地盤が良いため、地盤が悪い所で感ずる震度と一〜二の開きがあるようである。

九、津波
海域で起った地震により海底が急激に変動すると、津波が発生する。津波は、火山噴火や山崩れなどによっても起るが、地震に伴うものを「地震津波」という。
 津波の大きさを表わすのに、表−3のようにマイナス一から四までの六階級の規模(m)が使われている.

十、過去における大地震
 「災害は忘れたころにやってくる。」と言われる。表−4のとおり巨大地震は、ほぼ同じ所で繰り返し発生する。場所によって、三十年から百年ぐらいの間に蓄積されたひずみが限界に達したとき、地震が発生する。
 過去における大きな地震の記録を添付したので、本編の地震と津波から知識を吸収し、いざというときに役立てて欲しい。

注 本稿は、「地震・津波と大規模地震の予知、昭和五十七年八月気象庁」から大部分を抜華したもので、一部分は当編集部の記事である。

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表−1 巨大地震の断層の大きさ
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表−2 気象庁震度階級表
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表−3 津波の規模階級表
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表−4 太平洋周辺地域における巨大地の平均繰り返し時間間隔(力武,昭51年による)
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表−5 最近100年間(1882〜1983)の日本の地震災害(死者100人以上)
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表−6 日本海沿岸に被害をもたらした地震・津波(1926年以降)
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表−7 秋田県に被害のあった地震

二 釣り人のための津波の知識

東北大学工学部教授 首藤伸夫
一 津波のおこる仕組み
一−一 世の中、動かないものはない。
 特殊な例をのぞけば、津波は海底地震によってひきおこされるといってよい。我々の住んでいる大地は確固不動のものではなく、僅かながらも絶えず動いている。何故動くのか、運動を続けさせるエネルギーは何なのかについては、まだわかっておらず、疑問だらけであるが、動いていることだけは間違いない。

一−ニプレートテクトニクス−味噌汁に浮んだ焼海苔−
 日本列島太平洋側での地震発生の仕組みは、プレートテクトニクスという考えで説明される。地球の表面を、比較的固く厚さのうすいプレート(岩板)が敷きつめたように覆っている。その下にあるものは、これにくらべ軟かい。
 朝の味噌汁の表面に、焼海苔を数枚おとしてみよう。この焼海苔がプレートにあたる。焼海苔はその形をたもったまま、下にある味噌汁の動きにつれて移動して行く。
プレートの動きは全てが同じであるとは限らない。西へと進む太平洋プレートは、大陸プレートと押し合うことになるが、次第に向きを下へ変え、大陸プレートの下方へともぐり込んで行く。この速さは、大きくても、年間に十センチぐらいだという。
大陸プレートの端も、もぐり込む太平洋プレートとともにド向きに動いていく。
 そのうち、このような変形にたえきれなくなって破壊がおこり、断層が生じ、元に戻ろうとする激しい運動がおこる。
 これを試してみようとするなら、割箸でも手にもって曲げてみれば良い。片方の端を左手で強く持ち、水平に固定する。他の端を右手で下へとまげて行くなら、いつかは折れ、左手に残った部分は、はね戻って水平の位置に戻るであろう。

一−三 ヨーカンの押しつぶし運動
 次の型式での地盤の破壊もある。
 ちょっともったいないけれども、ヨーカンを細長く切って、棒押しの力比べをするように、両端から押すこととする。力の小さいうちは大丈夫だが、カが大きくなると、ヨーカンはこわれてしまうだろう。
夏の暑い日、鉄道のレールがグニャリと曲がることがあるが、これも似たような現象である。
 昭和五十八年五月二十六日秋田県沖で発生した地震は、どちらかというと、このヨーカンの例の方ではあるまいかといわれている。太平洋プレートの押すカが日本列島を伝わり、さらに西方の大陸側と押しあった結果、一番弱い場所で右のようなこわれ方をしたのだろうというのである。

一−四 断層運動と余震域
 このような地盤の破壊(断層運動)の結果、地盤のズレが生ずる。
 震源は断層運動が開始された地点である。ここから破壊が始まって、大体一〜二分の間にひとまず終了する。これが本震である。
 ヨーカンをつぶしてみればすぐわかる通り、このような破壊は点ではなく、ある拡がりをもった面として生じている。この面上の各地点で同じような状態になっているとは限らない。完全にこわれてしまって、もはや押しあう力の名残りもとどめていない場所もあろうが、こわれかたが中途半端なため、押しあいもみあうカが残っている所もあろう。この後者が再びこわれ、残った力を放出していくのが余震である。
 逆にいうと、余震の生ずる場所を全部あわせてみると、本震の生じた断層運動の場所を覆うことに
なる。

一−五 津波が発生する。
 断層運動の生じた場所が海底面からはるか下の方であれば、地震があっても海底面はほとんど高さを変えない。海底面下の浅い所であれば、断層運動で生じた地盤のズレに応じて海底面の高さも変化する。ある所は上へ、ある所は下へと移動する。断層面の真上のみでなく、その周辺の海底面も動く。
この動きにつれて、海水も上下に動き、まわりの水と高さが違ったものになる。これが津波の波源である。
それでは、津波をおこしてみよう。風呂に入り、手のひらを上へ向け、水中でゆっくりと上へ持ちあげる。手の動きがゆっくりしていると、上にある水は脇へ逃げて行く時間があるから、水面に大きな変化はあらわれない。
 手のひらを、指二本ぶん位水面の下におき、今度は急に持ちあげる。持ちあげる高さは指一本ぶんで良い。水も上方へ動き、まわりの水と違う高さになる。そのあと、波が四方に伝わって行くのを見ることができよう。これが津波である。
 もっとも実際の津波の場合、手のひらに相当するのは、五十キロメートル×百五十キロメートルぐらいの拡りを持つ海底面である。

一−六 日本海中部地震津波
 岸で観測された津波の到達時間に、二−一でのべる波速をかけてやると、その津波が発生した場所がわかる。各地点の潮位記録にもとづいてこの計算をした結果が図−1にある。たとえば能代を中心にして、点線で「能代二十二」とあるのは、この線上のどの点から出発した津波であっても、能代に十二時二十二分に到達することをしめしている。点線は、能代の津波が引きで始まったことをしめしている。こうした曲線の包絡線が津波の波源をあたえる。図中斜線をつけた部分がこれである。
 図−2は、余震域に津波波源域を重ねたものである。図中星印は震源、黒丸は五月二十六日から五月三十一日までの余震の位置である。津波波源域が、この余震域とその周辺を覆っている。余震域は本震で地盤のズレが生じた場所であった。海底地盤の変位は、断層運動の生じた場所のみならず、その周辺部にまで鉛直変位をもたらしたのである。
 津波波源域の水面は一様に盛り上ったのではなく、上った所、下がった所がある。しかし、この詳細の決定はこれからの課題である。

二 津波が大きくなるのは何故か

二−一 浅くなると津波は大きくなる。
 津波の伝わる速さは水深による。深い所ほど速く、浅くなれば遅い。水深をhとすると「ルートgh」であらわされる。gは重力の加速度というもので、「9.8m/s×s」という値をもつが、大体十としてよかろう。
 たとえば、深さ一千メートルの所では「ルート10×1000=100m/s」つまり毎秒百メートル、あるいは一時間三百六十キロメートルという速さである。水深10メートルなら、10m/s一時間三十六キロメートルという速さになる。
 津波の先端が陸地近くにきて速度が遅くなったにもかかわらず、後ろの部分は深い所にいて速い速度で追いついてくる。ちょうど、交通渋帯がおこるときに似ている。渋帯なら先端部に車の数がふえることになるが、津波の場合、その高さが大きくなることになって現われる。これを「浅水効果」という。水深の深い沖ではほとんど認められなかった津波が岸にきて大きくなる。
津波の大きさや地形によっても異なるから一律にはいかないが、普通の場合、水深百メートルより深い海にいれば、津波の影響はまずないといってよい。岸近くの方が危険である。

ニ−二 押し込められると津波は大きくなる。
入口の幅が広く先細りになっている湾の奥では、津波の高さが大きくなる。湾口幅一杯に入ってきた津波が、幅が狭まると上へ伸びるしか行き所がないからである。三陸地方はリアス式の海岸で、平面的に三角形に近いものが多い。こうした湾の奥では、高さ三十メートルに近い津波のはいあがり高が生じた事がある。
 これと同じ事が、「屈折効果」によってもおこる。津波は水深によって速さが違った。今、野球のバットを転がして見よう。向うへ転がしたつもりが、いつの間にか円を描いてこちら側へと戻ってくる。バットの頭は太く、根元は細い。同じ一回点の間に、頭部ほど早く進み、根元は遅いからである。
 波の峰のある部分が水深の深い場所にあり、他が浅い所にあれば、次第に浅い方へと向って進んでくる。風でおこされた波が、沖合ではどのような高に進んでいようとも、岸近くにくると汀に直角にうちよせてくるのはだれでも知っている。等深線が沖へ向って凸に突き出ている場所には、波が集中する。
 津波でも似たような現象が生じ、波の集中場所では波高が大きくなる。

二−三 共鳴すると津波は大きくなる。
 糸の先にオモリをつけた振子で考えよう。糸をたるませないようにしてオモリをある高さまで横に持ちあげてから、手を離す。オモリは往復運動を繰返しながら、次第に振れ幅が小さくなっていく。
 もう一度、試すこととする。ただ、少しばかりやり方を変える。手を離すまでは同じだが、オモリが向う側から戻って最初の位置にきて、再び向うへ行こうとする瞬間、オモリを向うへ押しやるようにカを加える。オモリは勢いを増して飛んで行き、最初より高くまであがり、こちらへ戻ってくる。

そしてまた、力を加える。こうした事を繰り返すと、オモリは次第に高さを増し、速度を増して運動を続ける。これを「共鳴効果」という。
 糸の長さが長いと、比較的ゆったりと振れうごく。手を離してからオモリが元の位置に戻ってくるまでの時間を周期という。力をあたえる時間間隔は、この周期と同じである。つまり、長い糸の振子では、長い時間間隔で力を加え、短い糸の場合には短い時間間隔でカを加えてやらないと、共鳴は生じない。
 津波の場合も似た現象が生ずる。第一の波が湾の奥から反射され、沖へ戻っていく途中で第二の波に出会う。この出会いの場所がうまく行けば、次第次第に湾奥での津波の振幅が大きくなる。
 奥行きの長い湾では往復に長時間かかる。したがって、この湾に共鳴をおこす津波は周期の長いものである。
 遠地津波(たとえばチリ津波)は周期が長く、近地津波は短い。このため、三陸津波で被害の軽かった湾が、チリ津波で大被害をうけるということが生じたのである。

ニ−四 遠浅海岸の津波
 浅い所が長距離続くと、津波の峰がそば立ち、場合によっては、幾つかの短い波長の波の集まりになってしまう。今回の津波では、これが顕著にあらわれた。これを「分散効果」という。
 この説明は難かしい。しかし、似たような現象は身近かにある。
 大きな温泉の風呂に入ろう。家庭の風呂と違って、洗い場のタタキと、湯舟の縁との高さの差はほとんどない。湯舟へゆっくりと沈み、お湯を溢れさせる。あふれたお湯がうすい水の層となって走って行く。その先端部あたりを注視すると、小さなシワのようなさざ波が、いくつもあらわれていることに気がつくであろう。
 これに似た現象が大規模にあらわれるのが、遠浅海岸での津波である。先端部に生じた短波長の波は、もともとの津波の大きさ、形、海底地形などに影響されて複雑に変化する。今回の津波では、波長百メートル前後のものが観察されている。

三 津波から身を守るにはどうすれば良いか
三−一 海上で知った場合
 海上では、地震のため船は、「下から突きあげられたような」動きをする。「底突きされ、エンジントラブルだ」と、まず思うようである。スクリューに何かからまったのかと船をとめて調べた人も多い。これは、地震で大地が震うのと同じ事で、海水の震動を船が感じたときの揺れである。
ラジオや漁業無線で地震や津波の情報を知るよう努めるとともに、もし沖にいるのなら、なるべく深い所に逃げるのが良い。水深百メートルより深い所ならまず大丈夫である。
 問題は岸近くにいたときである。遠浅海岸でなければ、沖合へ全速で避難した方が助かる確率が大きい。
 遠浅海岸で、水深十五メートル前後の場所にいる場合が、もっとも判断に苦しむようである。
 場所によっては、大きな津波は岸から来る。岸に行くまでは小さかった津波が、二−四の効果のお陰ではねかえったあとの方が大きかったり、また岸の形によっては、はねかえったあとの津波が集中して重なり、大きくなることがある。救命胴衣を着用し、情報を入手するとともに、沖だけでなく岸の方向にも注意しておく必要がある。万一転覆したら、浮いているものにつかまって辛抱するより仕方がない。大きな津波は、続いたとしても、たかだか三時間程度で、次第におさまって行くものだからである。

三−二 海辺で地震を知ったとき。
 立っているのがつらいような地震を海辺で感じたら、揺れがおさまると同時に、高さニ十メートル以上の高台に避難する。ラジオを聞くとともに海上の模様を注意して眺め、必要に応じてはさらに高所へ登れるよう準備しておく。
 地震を感じなくとも、海に何かしら異常を認めたら、同じように行動する。このとき、遠くに逃げることよりも高い所へ逃げることの方が大事である。
 高所にたどりつくのに時間がかかりそうな場合には、まず救命胴衣を身につけ、その他は置去りにし、なるべく身軽るになって急がなくてはならない。
 避難してから最低一時間半は、岸辺へ降りて行かないことである。地震後三十分経っても何もおこらないからといって、素人判断で津波がないときめこむのは危険である。ラジオなどの情報で津波がないと確認したのならともかく、そうでなければ、最低一時間半我慢しよう。津波があるとすれば、このくらいの間に何かが起るのが普通である。

三−三 生半可な知識は命取り。
 「津波は引きから始まる」と良くいわれるが、必ずしもそうではない。押しで始まるか引きで始まるかは、海底地盤の変化の模様、我々の位置がどこであるか、などできまる。
 今回の津波でも、男鹿から深浦までの範囲では僅かながらの引きで始まったが、それ以外の場所では押しで始まっている。
 確かに、従来の津波の多くが異常な引きで始まったが、いつでもそうとは限らないのである。
 単純な思い込み、自分に都合のよいものだけをとりあげて判断することは、被害を大きくするもとである。

三−四 欲に目がくらむと命を捨てる。
 避難の途中で忘れ物をとりに戻ったり、津波の引き潮に水がなくなったからといって竿をとりに岸へおりて行くことがある。これだけは絶対にやめなくてはならない。
 こうした一時の欲のために、佳日から数多くの人が命を失っている。竿はまた買える。命はひとつしかない。
 慶長の津波(一六一一年)の記録にも「…市日なれば欲に離れ候者は命助り、大欲の老若男女大部分死……」とある。身軽るで逃げた者、物をとりに戻らなかった人が助かっている。
 陸上でいったん逃げながらも津波で命を失うのは、屈強の青年男子である。津波が引いたので家へ財産をとりに戻り、次の波でやられるのである。昔から何度となく繰り返されたバターンである。

三−五 ひとつの提案

 今回の津波のあと、幾人かの釣り人の話を聞く機会があった。
 磯にいて地震を感じなかった。
 津波による引きを大物が食いついたと勘違いした。
 陸上のパトカーや消防署の車の放送は耳に入らない。
 携帯ラジオなど聞いていない。
などという。これだけ釣りに夢中になれるのだから、大変幸せな状態といえるが、津波から身を守るという事からすれば非常に困った事ばかりである。
 しかも、暖かい季節になったので、救命胴衣も着用しないことが多いという。
 何とかして釣り人の注意をひきつける工夫がいる。たとえば、強力なポケットベルのようなものはどうであろうか。音だけは強力なものをポケットに入れておく。緊急時、陸上からの連絡信号で突如として鳴り出し警告をあたえる。釣り人はすぐ救命胴衣を身に着け、ラジオのスイッチを入れ、次にどうすれば良いかを考える。携帯ラジオにも特殊な工夫をし、漁業無線や防災無線の電波も入るようにしたものは出来ないであろうか。これが出来れば、孤立した場所でも必要な情報の入手が可能となる。
 これ以外には、釣りに熱中している人の注意を津波への警戒に切り換える方法はないように思われれる。何とか実現して、折角の楽しみが悲しみに転ずるのをなくしたいものである。
東北大学工学部土木工学科
仙台市荒巻青葉
電話 ○二二二・二二・一八○○

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地図 図−1 津波の波源域 資料 羽鳥徳太郎博士による
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地図 図−2 余震域と津波波源域 資料 東北大学地震予知観測センター

三 〔解説〕津波について

秋田大学鉱山学部教授 高安泰助
 海底の地震や海底火山の爆発、または海底の地すべりのような原因によって起る波長の長い海水の波を津波という。台風や低気圧によっておこる高潮(たかしお)を暴風津波と呼ぶこともある。地震による津波が最も多く、それは大陸棚斜面に多く発生する。
 海底の地盤が縦ずれを起すような地変が生じると、その区域の海水は数回から数十回の上下振動を行ない、それが大規模な波動となって変動区域外へ伝ぱしていく。この波の波長は水深よりはるかに長く、海水は水面から海底までほとんど一様に動かされ、その周期は十分ないし一時間程度である。
洋上を進行する速度は一秒間に二百メートル内外であるが、海岸に近づくとおそくなる。波の高さは洋上ではさほど高くはなく、遠浅のところでは勢力を消耗して波高は低くなるが、岸近くまで海が深くて急に浅くなっているところではきわめて高くなり、十メートル以上になることもある。
 津波は多くの場合、波長が長いために磯波のようにけわしい形にならず、むしろ潮の満干に似てジワジワとやってくる。したがって海岸でも砕波せずに数メートルあるいはそれ以上の高さをもったまま上陸する。海岸に湾がある場合は、湾奥・湾口で何度も反射をくり返し、湾内に波の振幅を広げていく。波の高さは湾の形によって異なり、V字形の湾では湾奥が湾口の三−四倍、U字形では二倍ぐらい、全体に浅くて細長いと逆に減少して二分の一ぐらいとなる。津波では第一波が最高の波高をもつとは限らない。一般に波源から遠ざかるほど最大波がおくれて到着する。地震津波のエネルギーは、海底に同じ地震が起っても海が深いほど大きい。
 津波は沖合では肉眼では認められず、航行する船舶上の人も気がつかないことが多い。したがって海岸の船は、津波情報が出たら全速で沖合の、出ることを心がけてほしい。陸上にのぼった津波の破壊力は、流動する海水の流速と密接な関係があるが、その他に浸水による浮力、船舶その他の浮遊物の衝突なども大きな要素である。日本で最大の被害を生じた津波は一八九六年の三陸大津波で、死者二万七千百二十二人、全半壊流出家屋一万六百十七棟、波の高さ最高二十五メートルであった。
 日本海でも太平洋でも海底地震が発生したら津波は必ずやってくると思っていても間違いはない。
(古今書院・地学辞典を参照にした)
秋田市旭南二丁目五−二三
(電話 ○一八八−六ニ−四二六一)

図の説明
一,能代沖百キロメートル、水深二千メートルの海底地盤に縦ずれの逆断層が生じた。この地殻変動は地震波として地殻表層を伝ぱしてゆくと同時に、震源域の海底から海中に伝わり、さらに海水中を伝わって海上に大きな波を発生した。
二、波の速さは水深二千メートルとして一分間に約八キロ、時速五百キロのスピードで震源域の四方へ津波として拡がっていった。
 水深二百メートル以浅の大陸棚に進入してきた津波は、スピードは落ちたが波高が二倍ぐらいになった。
三、地震波が秋田市に達したのは五月二十六日午後零時十七・八秒、地震が収まってから十〜二十分後に、海岸や防波堤では引き波が現れ、約五、六分後に押し波の第一波が到達した。地震直後に津波が襲来したのは、震源域の水深が深いことと距離の近いことによる。
 津波の高さは、深浦で三メートル、八森町で三〜五メートル、能代市五メートル、入道崎五〜六メートル、男鹿半島西部海岸で一・五〜四メートルといわれている。

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日本海中部地震津波

四 波の特性を知ろう

佐藤信二

 私は、二十数年間海上で波浪の観測に従事してきた。その間、冬期のオホーツク海で連日十五メートルの風に吹かれ、波浪の高さも四メートルを超えたときも、また、ある年には鳥島近海で迷走台風に追いかけられ、約一週間、荒波のなかで不自由な生活を強いられたことがあった。
 これらの波は、いわゆる風によって起こされた波であるが、一度起きた波は簡単に減衰はしないし、風のようには曲げられず真直ぐ進んで行く。そして海底地形の影響を受けるまで、速度の変化はしないし、最後は海岸で砕け波となって、その巨大なエネルギーは消滅するのである。
 海の波は、さざ波のような周期一秒以下の表面張力波や、津波のような十分から二十分という長周期のもの、潮汐波のような半日周期・一日周期のものがあるが、これら海の波に共通してすえることは、長周期の波、すなわち、波長の長い波ほど速度が速いということである。何かの原因で起きた波(津波を含む)は、周囲に伝ぱしていくが、海岸近くになり、水深が波長の半分に達すると、海底の影響を受け次第に速度が遅くなり、その分だけ高さが増していく。
 津波のような波長の非常に長い波は、この浅海波の性質をもっているので、古典的な理論から、波の速さ(C)は、重力加速度(g)と水深(h)をかけ合わせた数値の平方根、つまりC=(ルートgh)である。また、周期(T)及び波長(L)の間には次の関係がある。C=(1.25×ルートL)=(1.56×T) L=(0.64×Cの2乗)=(1.56×Tの2乗)これをみると、波長が長いほど波速が速くなることや、波長は周期の二乗に比例することもわかる。
 今回の津波は、地震発生後十分前後で、約九十キロメートル離れた男鹿半島に到達しているが、前式から波速を求めると、震源地の水深二千五百メートルとすれば、秒速百五十八メートル、時速に換算すると五百七十キロメートルという、いわば航空機並みの速さであったことがわかる。
 十数年前、北海道南方海域を航行中、震源地付近でいわゆる海震というものに出会ったことがある。
穏やかな日の昼さがり、突然船底に強いショックを受けた。船が流木に衝突したのにしては大きすぎるし、鯨にでも衝突したのかと思い、甲板に出て周囲を見回したがそれらしいこともなかった。私以外の者も甲板に出て何かを叫んでいた。少し間をおいてから、私達の通った海域で地震があったことをラジオで知った。ショックの原因は地震であったのである。
 実際、海上で地震に会ったらこういうものか、少し海がしけていたら感じなかったかも知れない。
これが津波の場合はどうなるのか、仮に十分から二十分の周期で、海面が一メートルからニメートル上下したところで、沖合いでは津波を感じることはないだろうし、もし、港内で少しでも津波の押し寄せる危険があったら、直ちに沖合いに向かうのは当然のことである。
 波高ニメートルから三メートル、周期六秒前後の波はふだんよく現われる波であるが、こういう波は、必然的に、それなりに警戒しているが、周期の長い波、たとえばうねりのような丸味のある波には、案外油断しがちである。一見その優しそうな波に魅せられ、その影に潜む魔性を見落としがちである。現に思わぬことに遭遇することがある。
 磯釣りで、防波堤で、海中に流されたりするのはこの種の波である。普通、波の特性を知るためには、百波程度の波を見なければわからないが、同じような海面状態が数時間続くとすれば、千に一つの波は、約二倍近い高さの波が出現する可能性があるからである。一発大波である。
 海で仕事をする人も含め、釣り人がこの種の波で毎年事故を起こしている目立つ波はもちろんのこと、うねりのような目立たない波にも充分気をつけなければならない。
秋田市寺内児桜二八一−四
電話 〇一八八−四六−七四四八

五 台風十五号の軌跡−救命胴衣が生死を分ける

秋田県つり連合会
川村浩
 昭和五十六年八月ニ三日、本県を通過した台風十五号は、秋田市で午後零時十分最大瞬間風速三十九・八メートルと、明治十五年に秋田地方気象台が開設されてから二番目の記録となった。
 八郎湖では操業中の漁師十人が昼ごろ船が転覆、死亡。他方、午前六時秋田港を出港した釣船(第3つよ丸・2トン・船長渡辺正則さん)が、午後零時十五分ころ岩城町道川沖で転覆、五人全員が海に投げ出され、午後二時四十分までに全員が救助された。
 この明暗を分けたものは救命胴衣の着用の有無で、釣り人は危険を感じ、船に装備の救命胴衣を着用したことと、幸いにも西の強風により砂浜へ押し寄せられたものである。台風通過中の無謀な行動であるが、この事故を教訓に台風の軌跡を振り返り、台風の恐しさを知って欲しいために記したものである。
 台風は反時計回り(左巻き)の渦を巻きながら北上する。図1のように、最初は北の微風から始まり、次第に風速が強まりながら東→南→西と回り、最も強くなるのが西系の風である。左表のように午前三時に北の微風、六時に東南東の風二・八メートルと次第に強くなり、風は南南東と暑くなり午前九時四十分にこの日最高の気温二十八・一度を記録した。
 そして、最も台風が接近したときは無風状態(風速二・七メートル)となり、台風が去ったものと錯覚する。これが魔の午前十一時十三分で、このときの気圧は、この日最低の九百六十八・ニミリバールを記録している。多くの人が誤認するのがこのときである。
 その約一時間後の午後零時前十分に、この日最大の西北西三十九・八メートルの暴風となり、気温は反対に最低の二十一・一度を記録している。
 遭難はこの昼ころに発生したもので、その後、西系の十メートル以上の強風が五時間も続いた。いわゆる吹き返しと言うのはこの風のことで、素人判断で釣行しないことと、台風の気象情報下では絶対に無理は禁物である。

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台風15号(1981年8月23日)の軌跡 秋田地方気象台
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地図 図1 風向の見方
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図2 台風15号の進路

六 捜索費用

秋田県つり連合会
川村浩
 海で遭難をすると捜索活動が開始される。通常は、地元の漁協と消防団が中心となり,これに地元の警察署や海上保安部の巡視船などがあたる。
 公的機関の捜索費用は別として、ダイバー、漁船などの費用は遭難者側の負担となる。
 今回の津波の場合は、災害救助法が適用され、死者への見舞金、捜索費の補助などが支給された。
しかし、男鹿市門前での門間辰雄さん三百五十万円、秋田市雄物川での高橋謙次郎さんの約百万円のように、個人で捜索を依頼したものは、個人の負担となってはね返ってくる。
 山岳遭難の場合は一応の基準が定まっているようであるが、海の遭難の場合は明確な基準がないままとなっている。
 捜索費は、人命救助あるいは遺体発見というセンセーショナルなる動きに隠れて、「お金」という出す方から見ればできるだけ少なく、受け取る方からすればできるだけ多くという,矛盾とお互いに言いにくいなかで「協定」が行なわれる。
 陰湿としか表現できないものが捜索費用に常につきまとう。助けてもらったお礼に酒を持っていったら突き返されたり、遺体を引き取ったら、その後何のあいさつもないといった類いは多い。
 今回の津波でも、八森町の釣り人、男鹿市潮瀬崎の車の女性、仁賀保町鈴部落の釣り人などは助けられていながら、礼の一つもない。また、近くの民家から衣類やくつを借りて返さないなど、助かったらそれ相応の謝礼をするのが当り前と思うが、実際には殆んど礼をしていないのが多い。不思議なことながら、今回の遭難記録のとりまとめの過程で、生と死という明暗を分けたなかで、助かった人は、意外と助けられて当り前といった例が多かった。
 次に、捜索費用で後日、問題を残すのが、当事者の家族の了解を得ないで、友人などが直接、ダイバーや漁船を頼むことである。しかも、前もって「お金の額」を決めないままに捜索を依頼する。
これは緊急のときであり、善意の行為であるが、結局は「お金」という形ではね返ってくる。そして頼んだ方は「お金までは」ということで逃げ、頼まれた方は命がけで働いて、結局はタダ働きという形で終わる。
 捜索費は、助かった場合は何百万円積んでも惜しくないと思う反面、遺体捜索の場合は、短い期間で発見されればそれだけ費用も少なくて済むが、長期化すると経費も膨大となる。さらに、未発見までは「捨て金」となり、あてのないまま捜索が続くことになる。男鹿市門前で遭難した故門間辰雄さんの例を次の表に紹介する。いかに多くの人と多額のお金が必要かお判りになるかと思い、あえて公開したものである。
 海でも山でも遭難騒ぎが起きると最も迷惑するのは地元である。今回の津波のように天災の場合は別として、多くの場合は本人の不注意、無謀な行動が原因となる。これがたび重なれば、地元から閉め出しをされることになり兼ねない。極く少数の不心得者のために、多くの善良な釣り人が迷惑をこうむるのが遭難騒ぎである。
 今回の事故を契機に、行政当局で捜索費用の指針を検討されることを願うものである。

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故門馬辰雄さんの捜索人員

七 津波から身を守るには

秋田県つり連合会
川村浩
一 地震即津波と思うこと。
 日本海沿岸には、これまで津波は無いものと言われてきたが、古くは、本書の「十三湊の大津波」にあるように、今から約六百四十年前(一三四一年)に、今の青森県北津軽郡市浦村十三湖で数万人の死傷者が出て、安倍一族が栄えた十三湊が潰滅的被害を受けた記録がある。また、一八〇四年(文化元年)、山形県酒田市沿岸に三〜四メートルの津波が、近くは一九六四年(昭和三十九年)の新潟地震では、秋田県沿岸に約ニメートルの津波が押し寄せた記録がある。
 日本海中部地震の大津波を教訓として、地震即津波を連想することが何よりも大事なことではなかろうか。
 日本海では地震後最低一時間半は津波を注意する心構えが必要である。
二 救命胴衣を着用すること。
 釣りは津波警報も届かない磯や海岸など辺びな所で行われる。自分の身は自分で守るよりない。
 今回の津波で犠牲となった十二名の釣り人は全員救命胴衣を着用していなかった。
 雄物川河口では、五人乗りの釣り船が転覆。生存者三人のうち、二人が流れている救命胴衣を手にしており、一人は流れてきたルアーのタックルケースを浮袋の代りとしている。
 犠牲者の殆どは救命胴衣を着用しておれば助かったケースが多く,事実,青森県立待岬,八森町滝ノ間海岸,男鹿市入道崎親沢,雄物川河口などでは目撃者の証言も多い。
 秋田県海上保安庁が調査した能代港の津波による事故記録では,救命胴衣を着用していて死亡した者一人である。これは膨張式(ガス式)救命胴衣の背中が裂けていたためで,他の救命胴衣着用者は全員助かっている。また,救命胴衣を着用して助かった顕著な事例としては,本書の「台風十五号の軌跡」を参照して欲しい。
五十七年十二月,男鹿・金ヶ崎で磯釣り中に高波を受け,海中に転落したときに,同僚が救命胴衣を投げてやり,それにつかまって,あとで漁船に救助されている。
三 小型ラジオやポケットベルを持参すること。
 小型軽量のラジオをビニール袋に包み、常にリュックサックに入れておくと便利。
 鉛や岩場では地震を感じないこともあるので、釣行中は、常時ラジオのスイッチを入れておくと正しい津波警報が聞ける。
 また,辺ぴな所にも到達する協力なポケットベルがあれば,緊急時の連絡が可能なほか,ラジオのスイッチを入れたり,電話連絡も可能である。
 特に、船外機船やモーターボートなどのレジャー船には、無線を備え付けている船が少ないので,ラジオやポケットベルは必ず常備して欲しいものである。
四 津波と思ったら体一つで逃げること。
 津波の速さは浅場の水深十メ−トルで秒速十メートル近くで、オリンピック選手並みの速さである。
 一瞬の判断が生死につながることを肝に命じて、一刻も早く逃げることである。
 逃げるときの判断も大切で、陸地に逃げずに、近くの高い岩に逃げ助かったケースが、青森県岩崎村立待岬、八森町チゴキ崎、男鹿・潮瀬崎などにあり、事実、男鹿・入道崎親沢では、高い岩に上っていれば助かったと考えられる。
 八森町滝ノ間海岸では、竿をたたんだわずかな時間が生死を分けている。 
 青森県深浦町横磯海岸、男鹿半島などでは波の異常な動きを感じて、素早く体一つで陸地に逃げて九死に一生を得ている。
 島釣りでは、男鹿半島で島の割れ目に竿を差し込み、岩と竿を抱きかかえて頭上を越す津波から身を守っている。
 言うなれば、冷静な状況判断をとっさにとることが、自分や釣り仲間を助けることになる。
五 船では沖へ逃げること。
津波は水の塊が一直線に進むような状態である。水深二ーメートル以上もあると、山なりのうねりとなり気づかないことが多い。岸辺に近づくと水塊が押されて、上に高い波頭となる。
小型船でも水深の深い沖へ逃げればなんともない。雄物川河日で転覆した例は、沖で津波を見て、逆に岸へ来て津波に巻き込まれている。男鹿市北浦も同じで、岸辺で大型船に飛び移って助かっている。
六 海に落ちたら長ぐつや衣類を脱ぐこと。
 アノラックや長ぐつは、重く体の自由を束縛する。アノラックは一時、浮力を持つのでまず長ぐつを脱ぐこと。
胴つきや長ぐつは水の中では水圧のためそのままでは脱げない。口の部分を広くし,水を十分に入れると簡単に脱げる。
 ウェットスーツは、足部に空気がたまり浮くので、顔に波がかぶり易く,危険である。ウェットスーツに救命胴衣を着用すると、保温を兼ねるので裸よりは体がもつ。
 五十八年七月十四日、伊豆七島・新島沖でスキューバダイビング中に流され、五十五時間二百三十キロメートルを漂流し助かったのは、この例である。
 クーラー(魚の保冷箱)が救命具の代わりになるという説があるが,津波や高波のように波が激しいときは,クーラーとひもの間が長く,短時間では浮袋になるが,長時間体を支えるにはクーラーの構造上難しい。事実,男鹿・入道崎親沢では効果がなかった。
 防波堤や島から落ちた人にクーラーを投げるときは、クーラーのひもを短くすることと。クーラーにロープをつけて流してやると救助し易いのでなかろうか。
七 津波情報の正しい把握を。
 津波予報は、表−1のように津波警報と津波注意報に分けて発表される。
 ラジオ・テレビやサイレンで正しい情報をつかんで判断することが何よりも大切だ。
 なお、現行の気象庁の大地震による津波予報は、地震発生後二十分以内に発表されることになっているので、震源地によっては予報前に津波がくる場合もある。
八 津波の速さは飛行機なみ。
 津波の速度は、水深が深いほど速く、浅くなるに従い遅くなるが,波高は高くなる。

 津波の速さは、水深四千メートルで秒速二百メートル。二千メートルで百四十メートル。千メートルで百メートルとなる。
 時速にすると、水深千メートルで三百六十キロメートルと、飛行機並みのスピードで陸地に近づいてくる。
 今回の地震では、津波の引き波が、青森県深浦町で地震発生の七分後、能代市で二十七分後、男鹿市で十二分後に始まり、その後五分程度で第一波の押し波が始まっている。
 津波が来襲した事例を見ると、表ー2のように、三陸沖を除くと、いずれも十分間以内に津波が到達している。
 津波の高さも、能代港でニメートル以上、男鹿市加茂で四・五メートル以上、峰浜村沢目地区では標高十四メートルの砂丘にまで達している。
表−2のように岩手県では二十五メートルの記録がある。

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表−1 津波予報文と標識 資料 気象庁
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表−2 海域に津波が発生してから、津波が来襲するまでの時間の例

八 日本海中部地震・津波の概要

一 発生 一九八三年(昭和五十八年)五月二十六日(木)午後零時零分十七・八秒
二 震源 東経百三十八度九分、北緯四十度四分の秋田県沖西方約百キロメートル。震源の深さ五キロメートル。
三 震源域 南北に百〜百二十キロメートル、東西に六十〜七十キロメートルの楕円状となっている。深さは一番深い所で三十〜四十キロメートルに達している。
四 マグニチュード 七・七五 震度 五(強震)図−1は地震波の記録である。P波(縦波)が午後零時○○分十七・八秒、S波(横波)が午後零時○○分三十六・五秒、P波とS波の間が十八・七秒となっている。
 図は原寸大で、実際の地震と同じ振幅を示しており、最大振幅は上下動(縦揺れ)が五センチ、水乎動(横揺れ)が六センチを示し、強震計の針が振り切れている。
六 余震 五月二十六日の本震の日は無感七十八回、有感十四回があった。六月二十五日までの一月間の余震回数は無感二百ニ十七回、有感三十七回で、このうち六月四日までの十日間で無感七十四・○%(百六十八回)、有感六十七・八%(二十五回)と集中的に発生し、以後減衰している。六月二十六日から七月二十五日までの一月間では、無感が三十六回、有感が八回で、ひと月前に比べ大幅に減衰している。
 最も大きな余震は、六月九日午後九時九分と午後十時四分にそれぞれマグニチュード六・六と六・○の地震があり、震源は東経百三十九度○分、北緯四十度一分と四十度三分、震源の深さはともに四十キロメートルで、震源域の南端となっている。
 次に六月二十一日午後三時二十六分にマグニチュード七・○と最大の余震があった。震源は東経百三十九度二分、北緯四十一度三分で深さは○メートル、震源域の北端、青森県小泊岬の西方沖約五十キロメートルであった。
 この最大の余震が震源域の両端で発生したことから、エネルギーは殆んど放出したものとみられ、今後これ以上の大きな余震はないものと考えられる。
七 逆断層型地震地震 予知連絡会臨時特定地域部会では、六月一日に会合し、日本海中部地震について、次の見解をとりまとめた。地震は東側(陸側)が隆起した逆断層によって起きた可能性が強く、震源域は能代市の西方約百キロメートルの沖合で、南北百キロメートル以上、東西数十キロメートルの範囲。震源域には北北東の方向に八十キロメートルの断層があるという。この付近の海底は切り立った崖になっており、深い所で水深二、千メートル、浅い所で二千メートルと千メートルほどの落差があり、陸地に近い東側が隆起、西側が潜り込み、際立った地形になっているという。
 地震は長年の間にわたって、蓄積された歪(ひずみ)か解放されるときなどに、断層(岩盤の破壊)が生じることによって起こる。
 この断層が上下にずれるもののうち、引っ張るカによって落差が生じるのが正断層、押される力によって隆起するのが逆断層。日本海側の過去五十年間のマグニチュード七程度の地震四回もいずれも逆断層型とされている。
八 津波 日本海沿岸に津波の第一波(引き波)か始ったのが、占森県深浦町で地震(午後零時)から七分後(マイナス三十一センチ)、秋川県能代港で二十七分後(マイナス六センチ)、男鹿市戸賀で十四分後(マイナス六センチ)にいすれも引き波を記録している。その後、急激に潮位が上昇し、引き波の約五分後に殆んどの地域で押し波か始っている。
 図−2は、能代港の潮位計グラフである。地震直後の潮位は十六センチ、その後、潮位は緩やかに下がり始め、午後零時二十七分にマイナス六センチと、地震直前に比べ二十二センチ下がった。一転して潮位は急激に上昇し、五分後の午後零時三十二分に二メートル九センチを記録している。
 潮位計は、この後、針が振り切れ故障し、午後五時半から再び作動している。
 図−3は、男鹿市戸賀の国土地理院男鹿検潮場のデータである。午後零時十四分に六・八センチ潮位が下った。午後零時十八分に一・三メートルの最高の潮位があり、三分から五分の間隔で押し波、引き波の繰り返しが終日続いている。
 図−4は、秋田港の潮位計のグラフで、地震直前は、午後一時十七分の満潮に向って、午前九時ごろから緩やかに潮位が上昇している。地震で正午から針が振り切れ、午後一時二十分ごろから作動しており、引き波、押し波の急激な潮の動きが長時間にわたって続いていることがよく分る。
九 気象(正午・秋田地方気象台観測)
   気温 十五度六分
   風向 西北西の風 四・四メートル
   天気 晴れ 視程三十キロメートル
   雲  四割の積雲があって一割の巻雲
十 潮汐(秋田港基準)
   正午の潮位は約二十センチ
   満潮 午前三時四十六分十九センチ
   満潮 午後一時十七分二十ニセンチ
   干潮 午前八時〇六分十四センチ
   干潮 午後九時〇二分マイナス四センチ
   太陰 暦四月十四日大潮
十一 津波警報 午後零時十四分にNHKテレビ・ラジオが発表。
十二 被害状況

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地図 震源地
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図−1 1倍強震計記録(秋田地方気象台)
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図−1 1倍強震計記録続(秋田地方気象台)
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地震による隆起と沈下
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秋田県の被害状況(確定)
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図−2 能代港の潮位計記録
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図−3 男鹿検潮場(男鹿水族館南側)の潮位計記録
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図−4 秋田港の潮位計記録

九 雲による地震の予知

藤井忠之助
 私は雲によって地震の予知をしている者です。これとて雲をつかむような話ですが、長い間雲の観察をしていると私なりに地震を予知することができ、現在も暇を見て続けています。
 地球の一点秋田で地震予知の範囲は限定され、北海道の一部と東北の全域と関東の一部が雲によって予知できる範囲と考えております。
 さて、五月十三早前六時三十五分、私の家の二階から例の如く雲の観察をしておりましたところ、北西の方向に尾状雲を発見(写真A)し、また、南東の方向に飛行機雲が浮いているのを発見しました。近く地震が発生するだろうと思い、早速カメラで二階から地震雲を撮影しました(写真B)。
 今まで地震雲を発見してから地震が発生するまでの日数は、昨年一月から六月までの半年間における私の実績は次のとおりになっています。
 当日発生三件、二日目発生五件、三日目五件、四日目発生一件、五日目発生四件、六日目以降三件。
 以上が予知から発生までの日数です。
 そんな私の実績から、五月十三日発見の地震雲が、実際に地震として発生する日を予想して見ると、十五日か十六日ごろではないかと思っていました。ところが翌日(五月十四日午後十時三十分ごろ)秋田市でマグニチュード1の地震でした。震源地は、青森県西方沖と、秋田魁新聞によって知ることができました。しかし、地震雲の予知で地震発生の方向や、秋田県に地震が発生する雲はどんな雲かと研究をしておりますが難しいものです。
 そのときの予想では、太平洋岸と考えておりましたが、新聞では私の予想と違っていました。当時撮影をした写真を見ますと、尾状雲は北西に、飛行機雲は北東の方向から東南の方向に浮いていたので、尾状雲の方向を震源地とすると、新聞で報道されたように青森県西方沖と大体一致すると思っています。
五月に入ってから十三日以降二十日までの八日間に四回も、異常と思えるほど短期間に地震雲が発見され、当日、または翌日に地震が発生したのでびっくりしたものです。その発見をした地震雲で地震を予知した例は次のとおりです。

予知               地震発生
五月十三日 午前六時三十五分   五月十四日 午後十時三十分 
五月十五日 午後一時○五分    五月十三日 午後十時十八分 
五月十九日 午後二時○四分    五月十三日 午前二時三十分 
五月二十日 午後四時二十分    五月十三日 午後七時四十六分 

 以上の四回の予知をしたとき、今年は何か異変があるのではないだろうかと、思うようになりました。そこで、気温による異常と何か関連があるのだろうかと考え、五月九日から秋田市での午後三時の気温をグラフに記入して温度差を調査し、解明しようと考え実施中です。
 二十日以降も雲を観察していますと、五月二十三日、五月ニ十五日とまた地震雲を発見し、新聞の地震の内容を見てホッとしたものです。
 地震雲を発見しては、町内の川原理髪店に行き、近く地震が発生するだろうから、東京の新聞を見て地震の記事が掲載されていたら知らせて欲しいと、いつも依頼をしておりました。
 一方、県教育センターの鎌田さんに異常事態が発生する気がしてならなかったので、早速知らせようと思い、一応手紙の原稿まで書いたのですが、何んだか気が進まずとうとう止めてしまいました。そして電話で秋田魁新聞、NHK、気象台等に連絡しようかと考えたものの,民間人が、こと地震に関する予感を話したところで無駄と考え、これも止めることにしました。そのときが五月二十一日で、五日後に震度五の強震があろうとは何んと皮肉なものでしょう。
今、地震発生を振り返って見るとき、今回の地震発生の兆候は、私なりに五月レニ.日に発見をした地鵬 震雲からのように思われてなりません。その理由は、地震が短期間に多数発生し、十四日は青森県西方沖、十六日は青森県東方沖、二十日は岩手県中部、二十一日は千葉県東方沖、二十四日は宮城県沖、二十五日は千葉県東方沖でいずれも東北、関東地方で集中的に発生していたわけですから、地震の予知をされておられる方々ならば何か異常を感じた事と思います。
 われわれ一民間人の雲による地震予知の研究をしている者でさえ、感じたわけですから、今思うと連絡をしておれは事なきに終わったことだろうと後悔しております。だが、もし連絡をしたとしても一民間人のぜ予知をどの程度信用し、活用されたでしょうか。
 地震発生後と同じ結果になったのではなかろうかと思われてなりません。
 日本は地震が多い国ですので、地震の学問も世界の最先端をいっていると伺っております。その日本でさえ,未だに地震の予知すら出来ない現状を誠に遺憾だと考えています。何か良い地震予知の方法がないだろうかと,毎日,空と雲を眺めては,予知の手がかりを提案し,地震雲の研究に努めております。
 今回の日本海中部地震により,不幸にして津波等で帰らざる方々を思い浮かべるとき,心からの御冥福をお祈りするとともに,地震の予知ができるような開発を早急に出来ないものだろうかと思われてなりません。
秋田市東通仲町十五ー三
電話 〇一八八ー三四ー五一四○

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写真 A 日本海中部地震の兆候と思われる地震雲(撮影 昭和58年5月13日午後0時55分)
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写真 B 写真Aとほぼ同じ時刻に、筆者の自宅2階から東の方向を撮影
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写真 C 地震雲 昭和58年6月26日午前7時30分撮影

十 十三湊の大津波

みちのくあけぼの
市浦村史資料編上巻
東日流外三郡誌
注 本編は、青森県北津軽郡市市浦漁村の御厚意で、原文のまま転載したものです。
興国二年之大津浪(一三四一年・暦應四年)辰の刻(午前七時から午前九時まで)北海沖に風波なきに、三丈余の大高浪起る。路歩む入の地震感覚し、家路を急ぐより十三浦沖に近く襲いける高浪の潮涛速く、見るがうちに浜明神人浪に呑消し、百石船の木の葉の如く浪涛に漂砕す。
 十三湊十三の軒並は一涛に消滅し、大浪は福島城上濠迄に達して引返りて四辺に草赤く漂物渡島に続くが如き島にも似たる眺めなり。
 巖鬼川口やもとにあらず十三湊は浜をはるかに陸となし、住める人家や人々の命は数えてつきるなし。哀れや栄ひき湊の面影何処やら、神の怒りや仏罰か涙も枯れて呆然たり。無惨に変りき世の相、漂ふ屍に鴉の群やついばみて地獄の想ぞ思いけく。
 管領十三津浪抄に曰く。
一、埋田六百町歩  一、埋家三千二百十七戸
一、牛馬浪死五千頭 一、流失米六万俵
一、人命凡十二万人 一、沈船二百七十艘
一、倉邸埋失金三十万貫一、神社仏閣二七十棟(駐百脱落か)
 右は安東管領代官の調書なり。依て明細は難く尋ぬるにも証処なしと日す。世は世乱を兆して管領職官安東氏も是を復し難し。
  天文元年十二月 磯崎嘉衛門

安倍水軍四散禄
 興国二年の大津浪に依る十三港中島柵水軍は皆滅す。
 折よく渡島及び出航の安倍水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木と埋土に依れる遠浅の為に巨船は人湊し難く、再びその安住地を求め何処へか去りにけり。
 亦波浪に亡命生存のあてもなき惨々たる十三湊は、幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には無数のアブやウジ虫の喰い込や亦鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ此の世さながらの生地獄なり。
 安倍一族が栄えし十三湊今は昔に復すこと叶ふ術もなし。涛襲十七回、十三邑二万六千人生存者なし、脇元死六十、磯松死三十八、下前死六十一、唐崎死百四十、移夷地死百七十、高根死百十一、中里死二百八、鮎内死七十一、其他萢地居住者生存者なし、約六百余と曰ふ。(能野神社霊鎮祭記)

辰の刻に北海沖に風波なきに三丈余の大高波起こる。

漂う屍に鴉の群がついばみ地獄の思いがする。

安東管領代官の披害調書

大津濃に十三港中島柵水軍皆滅す。

 津浪に大害を蒙りし十三浦の安倍氏は、せめて水軍の寄湊堤を築き湊底を堀らんと費を多く落じたるも、人の労に湊を復すことを得られず遂には水軍を瀬戸や土崎、能登、若狭門津、熊野、築紫へと四散のやむなきに至れりと曰ふ。
寛政庚申年
秋田孝季

 波涛六十尺の打波にて一刻の間、十三湊町屋並怒涛に消滅し、押波相内、太田に及ぶ。
山野草木抜根、山野を赤土の肌にして流々牛馬三千頭を波浪に呑む.
 亦人命十二万人波泥に埋む。天日暗く、押波二十七度に及び、浮世さながら惨無惨たる地獄図絵なり。
 激浪鎮みたる跡や荒茫たる潮魔の洗磯や流

 興国二年之大津浪
 興国已卯二年十月、西海に海鳴の異音起る事暫々にして、十一日突如として浜の海潮及び十三湊のそこも見ゆる程に沖に潮ぞ引きけるにやがて沖より数十丈に及ぶ大浪幾重にも押寄せて来り、逆巻怒涛は十三の町を一呑みにし、更に唐崎、錬崎をも呑み越えて福島城邸までに及ぶ怒涛に四方の山も海辺に潮を突進せる処は一木一草だになく、地肌を赤くはぎとられたりしと云ふ。
寛政三年五月 秋田孝季

大津波の被害

興国二年十月十一日突如として大津浪来襲し,十三湊地獄絵図 を現出す。

十三湊水移之図
 元禄四年七月 秋田頼季花押興国二年突如として起りたる高津浪十三湊辺に住居せる二十万の人命、牛馬、船舶、家屋もろとも激涛の渦中に巻込みて消滅し、亦十三湊の埋土に依る廃湊茲に安倍一族の盛果了りぬ。
 如何なる人工に旧港の復せん施工も空しく遂には嘉吉年間以来廃港となりぬ。幾万の諸霊を供養し奉る唐崎の西院地蔵も今は川倉邑に移され名残だになし。
寛政五年 孝季

 祖秋田氏之事抜華
(前略)天命なる哉十三港は興国二年九月十三日の大津浪に港埋没、余多の人命及び財資を一刻にして波涛の彼方に消滅せり。
 依て土崎港もその災を蒙りぬ。(中略)正平元年七月六日、安東時季藤房の胸中を痛感し、東日流藤崎城主安東康季殿に案内し、官軍挙兵の旨を謀りぬ。然るに、安東康季とて是を否したり。
 十三湊大津浪より東日流の民はとたんの苦難にあえぎ尚続く不作流病等に兵挙至らず、先づ以て領民の安泰第一義の急務なりと悲壮なるお面にて断言せり。(後略)
 元禄二年一月 土崎補陀寺良勉

 東日流外三郡古伝・抜萃
 興国二年、十三港の品川水戸口埋りて田光沼と相成る。
 故は、大津浪起りて十三浦四辺全く以前の面影を遺さず。高丘なる福島城の外柵までも引浪にさらわれ、海辺の草木は無毛の如く土肌をむき全く天変地変に流石安東氏の財巨なるとも、是を修工せる術もなく、浪中埋砂の十三町三百艘の舟船、牧の馬住民の十万を過ゆる人命・金銀を通商にせし幾万の巨宝を蔵の金蔵邸など今に至りては当もなし。(後略)
 元禄二年五月二十一日 田光弁才堂縁起

 十三往生記
興国二年大津浪十三浦を消滅す。残るは語り部の盲語なり。乃至十念塔婆海辺に漂ふ。施者の群も逝く月日毎に少なけれど、名残を留む山王坊法灯乏しき雲水に保たる。
 福島城耳虚空を突きてそびゆとも、十三浦の船影一艘だにな潮中流木水に立枯るさま見ゆる人の景勝によしとせるも物悲しく、往昔に偲びてただただ涙こぼるるなり。十三浦何処ぞと訊ぬるとも昔跡葦萢と化し信じるべきもなき。旅人に語る翁の眼に涙あり。
 寛永十年 良善坊

 十三津浪之大害
 興国二年八月二十八日、夜寅の刻(午前三時から午前五時まで)突如として大震起るや,数丈の怒涛寄来りて一挙に十三の

千余の家棟を一呑に消滅せり。
 その波浪は大小十六回の大潮、東日流行来川の田茂木野をも破棟し、牛馬七千頭、水死人十万を死傷せり。
 亦西岸の砂山十三浦を埋め、対岸の移夷地、今泉、唐崎、鰊崎、大牧、福島城の草木を洗刻なして湖岸の人家を涛中の渦中に消滅せり。
 諸行無常の大変異か神仏の大科に依れるものか、今は浜の明神なる社殿のいらかも何処たりしや、地位川流の形まで変異す。湊は千石船の船底入江浅くして入り難く、水戸口亦閉じて人労を費々すとも、是を開港難義なり。
 元禄十年 秋田頼季

 十三湊津浪供養
興国二年に大津浪起りて十万余の命を奪はれたる有縁無縁の大供養なり。是即ち水供養とも称す。右の灯を十三町は田光水門、今泉は岩木川水門より流す。此の灯塔十三湊一面に何千何百が浮き広ぎ、見事なる夏の風情なり。
 寛永二年七月十三日 鮎打庄又祐


被害敦

良善坊の紀行文

八月二十八日夜寅の刻大震起こり数丈の怒涛寄来り、十三の千余の家棟を一呑に消滅す。

地形の変異、復旧なりがたし。

十三湊供養行事

緒霊を供養する唐崎の西院地蔵堂,川倉に移される。

九月十三日、大津浪幾多の人命および財資を一刻にして波涛の彼方に消滅さす。

十三港の品川水戸口埋まり,田光沼と化す。

 津軽流疫史
・興国壬午年五月,赤腹疫流行し,たちまちにして六郡に弘まりて死者幾千を越す。依てその死者をイコク穴をして深く埋葬,亦は火葬亦死人の遺物皆焼却し,後流疫を防ぎ十月八千人の死者をして流疫治まる。
・明徳壬申年,バソフ病流り,外郡の各所に死者百余名を出したり。
・応永乙亥年,阿曽部沢に隠病棟を建て,不治の病人みなこれに移さる。
・文安乙丑年,南部一族に豆生病起りて,津軽の侵駐の兵士多く死す。之を安倍一族の祟りとして怖れられ,南部兵士津軽より故地に逐電す。
・文明辛丑年六月,大咳病流りて死者多く出づ。
・永正戊寅年,赤腹病流り,死者多く出づ。
・享禄三年庚寅十月,バソフ病流行し,死者多く出づ。
・永禄戊辰十一年五月,ヒゼン病流りて難儀す。
・元和丁巳三年十月,不明疫流りて死者多く出づ。
 万蔵寺過去帳覚書より
 寛政庚申年 秋田孝季

興国三年

明徳三年

文明十三年

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みちのくあけぼの タイトル
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地図 十三津浪図
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地図 十三津浪図三部
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地図 十三津浪図(津浪前後)
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地図 十三津浪周辺地図
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地図 十三湊水移之図
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供養挿絵

鎮魂

鎮魂

加藤昇 自営業
昭和十年二月二十二日生
能代市大内田一一九−三二
電話 〇一八五五−四−四一六〇

好きな釣り 湖沼釣り、磯釣り。釣り歴約二十五年。
遭難の場所 青森県西津軽郡深浦町大字横磯、小福浦漁港防波堤先
      端でウミタナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  六月三日午後二時、青森県深浦町、小福浦漁港西防波
      堤先端、北西約八十メートルの沖合。
遺族(同居) 妻・フサ(昭和十五年生)
      長女・恵(昭和四十年生) 
      次女・智恵美(昭和四十五年生)

河内敏彦 左官業
昭和十六年長二月十一日生
能代市河戸川字中谷地一六−八七
電話 〇一八五五−二−五三四○

好きな釣り 渓流釣りを主として磯釣り。釣り歴約三十年。
遭難の場所 青森県西津軽郡岩崎村大字沢辺 立待岬先端でウミタ
      ナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  六月五日午後二時三十三分、岩崎村立待岬西方約二百
      メートル、海岸から約百メートルの沖合。
遺族(同居) 妻・梅子(昭和十九年生)
      長男・勝彦(昭和四十年生)
      次男・敏幸(昭和四十三年生)

村山俊雄 無職
大正十年三月二十三日生
能代市落合字下大野六九−七
電話 〇一八五五−三−四二六六

好きな釣り 湖沼、川、防波堤釣り何でも好き。釣り歴約三十年。
遭難の場所 山本郡八森町岩館海岸小入川河目近くの岩場でウミタ
      ナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  五月二十七日午前十時十分、岩館海岸小入川河口付近
      の海中
遺族(同居) 妻・ウメ(大正十三年生)
      長男・浩一(昭和二十六年生)
      長女・恵美子(昭和二十九年生)

奈良守 能代警察署警察官
昭和二十六年十一月十一日生
秋田市金足下刈字深田八九
電話 〇一八八−七三−四〇二一

好きな釣り 磯釣り、釣り歴三年。
遭難の場所 山本郡八森町岩館、青少年の家の下の滝ノ間海岸でウ
      ミタナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  六月七日午前九時四十九分、遭難現場から八十メートル
      ル沖合の岩のくぼみ。
遺族    父∴宇左工門(大正十四年生)
      母・トヨ(昭和二年生)
      妻・ひめ子(昭和二十八年生)
      長女・真希(昭和五十三年生)
      長男・宣大(昭和五卜五年生)

保坂義重 公設市場店員
昭和十九年二月二日生
能代市大手町四−二七(塚本アパート五号)
電話 ○一八五五−三−二七三三

好きな釣り 湖沼釣り、最近クロダイがよく釣れるニュースがあり、
      クロダイ竿を購入して、始めての海釣りで遭難。釣り
      歴一時中断後三年。
遭難の場所 山本郡八森町潮路荘前の岩場でクロダイ釣り中に遭難。
遺体発見  六月十日午後三時四十分、八森町椿漁港沖合一・五キ
      ロメートルの海上。
遺族(同居) 妻・智子(昭和二十七年生)
      長男・重樹(昭和四十八年生)
      次男・浩樹(昭和五十年生)

佐藤隆一 会社員
昭和三十六年七月二十七日生
山本郡山本町森岳岩瀬一○○−一

遭難の場所 山本郡八森町むつ五郎旅館前で貝採り中に遭難。
遺体発見  六月五日午後三時十八分、八森町潮路荘沖二百メート
      ルの岩場。
遺族(同居) 祖父・一朗(明治四十三年生)
      祖母・ミン(明治四十二年生)

小川福治 左官業
昭和三年二月十六日生
能代市落合字中大野岱一二一−二
電話 ○一八五五−四−一七六四

好きな釣り 主としてフナ釣り。釣り歴十五年。
遭難の場所 真瀬川河口の岩場でウミタナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  六月三日午前九時五十分、真瀬川河口近くの海中。
遺族(同居) 妻・梅(昭和五年生)
      三男・公男(昭和三十一年生)
      三男の妻・世代子(昭和三十二年生)

三沢弘 会社員
昭和十二年三月五日生
秋田県八橋大沼町一−二三
電話 ○一八八−二三−一七四一

好きな釣り 湖沼釣り、海釣りなんでも好きだった。釣り歴約三十年。
遭難の場所 男鹿市入道崎親沢の磯(豚舎の下)でウミタナゴ釣り
      中に遭難。
遺体発見  五月二十九日午前九時十四分、遭難現場から南西八十
      メートル、海岸から二十メートルの海中。
遺族(同居) 妻・恵子(昭和十七年生)
      長女・雅恵(昭和四十八年生)


門間辰雄 国鉄職員(秋田駅)
昭和二十七年二月七日生
南秋田郡飯田川町飯塚字水神端一六
電話 〇一八八−七七−四二○六

好きな釣り マダイの船釣り、マブナ釣り。釣り歴四年。
遭難の場所 男鹿市門前大謀番屋から南西約二百五十メートルの
      海岸でウミタナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  六月二十日午前九時、男鹿市門前漁港から南西一キロ 
      メートル、海岸から百メートルの沖合。
遺族(同居) 父・佐市(大正九年生)
      母・フクヱ(昭和三年生)
      妻・とし子(昭和二十八年生)
      長女・真理子(昭和五十四年生) 
      長男・和明(昭和五十六年生)

秋元晃 酒類販売店経営
昭和三十年五月一日
仙北郡神岡町神宮寺字神宮寺六二
電話 〇一八七七二−ー四○四七

好きな釣り 磯釣り。釣り歴小さいときからで十五年。
遭難の場所 男鹿市門前大謀番屋から南西約百五十メートルの海岸
      でウミタナゴ釣り中に遭難。
遺体発見  五月二十七日午後三時二十分、男鹿市門前大謀番屋か
      ら南西二百五十メートルの海中。
遺族(同居) 父・徳三郎(大正十三年生)
      母・玲子(昭和三年生) 
      妻・美貴(昭和三十五年生)


高橋謙次郎 鉄工所経営
昭和九年八月十七日生
秋田市新屋勝平町三−二六
電話 ○一八八−二三−二五○九

好きな釣り マダイの船釣り。釣り歴 八年
遭難の場所 秋田市雄物川河口から南西約二・五キロメートルの鉄
      塔跡へクロダイ釣りに行き、津波を目撃、帰港中に雄
      物川河口から沖合二〜三メートルで座礁、転覆。
遺体発見  七月二日午前四時四十五分、雄物川河口から約四百キ 
      ロメートル離れた北海道虻川田郡豊浦町の沖合二十キロ
      メートル
遺族(同居) 妻・ユリ(昭和七年生)
      長女・篤子(昭和三十四年生)
      三女・保子(昭和四十二年生)

高橋文雄 タクシー運転手
昭和二十二年四月二日生
秋田市新屋勝平町一四の四五
電話 〇一八八−二三−八八七一

好きな釣り マダイ、クロダイの船釣り。釣り歴十三年。
遭難の場所 秋田市雄物川河日から南西約二・五キロメートルの鉄
      塔跡ヘクロダイ釣りに行き、津波を目撃、帰港中に雄
      物川河日から沖合二〜三メートルで座礁、転覆。
遺体発見  五月二十六日午後二時四十三分雄物川河口から沖合
      二百メートル。
遺族(同居) 祖母・イシ(明治三十五年生)

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鎮魂タイトル絵
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写真 加藤昇
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写真 河内敏彦
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写真 村山俊雄
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写真 奈良守
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写真 保坂義重
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写真 佐藤隆一
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写真 小川福治
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写真 三沢弘
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写真 門間辰雄
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写真 秋元晃
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写真 高橋謙次郎
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写真 高橋文雄

追悼

一 四十八歳の働きざかり
 早いもので地震から一カ月が過ぎました。幾分落ち着きを取り戻しましたが、あの恐怖の数分間を思い出しゾッとする毎日です。
 地震が起こる数日前でしたか、釣り友達から「青森の深浦でタナゴが釣れる」との電話があり、早速釣りに出かけて行きました。そのときは、タイ、アブラッコ、タナゴを釣って来ました。そして一人で塩ふり焼きにし、酒を飲みながら「うめえ、うめえ」と、言いながら食べていました。明日も行って大きいのを釣って来ると行って出た結果、帰らぬ人となってしまいました。
 いまだに信じられなく、ひよっこり笑いながら帰って来るような気がしてなりません。釣りは大好きで、私と一緒になったころからよく釣っていました。また、子供が小さいころ、フナ釣りやハゼ釣りによくついて行ったものでした。庭いじりや車を大切にする人でした。少しでも汚すとすぐ磨くため、車の中は、いつもきれいで、乗る時はたいへん気持ちが、よかったものです。それから、帰って来るなり家の中へ入らず、真っ先に植え木に水を与えるのです。朝も早く起きてそうすることが日課でした。
 四十八歳というまだ働きざかりの年齢で、やりたいことも沢山あったと思います。まさかこんな目にあうとは思ってもみませんでした。とても悔まれます。でも、それは、寿命だと思ってあきらめるしかないと思います。それよりも残された私と娘達で、しっかりと夫の分まで生きていくことが、夫も喜ぶと思います。もう二度とこんな目に会いたくないと思う気持ちは、皆さんも同じだと思います。
故加藤昇 妻・加藤フサ
能代市字大内田一一九−三二
電話 〇一八五五−四−四一六〇


二 本当に釣りが好きで好きで
 夢想だにしなかったあのいまわしい地震、愛し信頼しきっている夫を一瞬にしてさらっていった津波、天災とはいえあまりにもむごい仕打ちです。
 主人は結婚前から釣りが好きで暇があると竿を手にする人でした。最初はバイク、次は車となってからは距離も次第に延び、能代港の北・南防波堤、遠くは舮作、チゴキ崎灯台の下、岩館、滝の間等季節に応じた釣り場へ出かけていた様子でした。
 退職後(消防署)はなおのこと、竿の手入れに余念がなく、私が竿に手を触れようとすると「女が触れると釣れなくなる」と言い、私は手に取ったこともありません。だから流れ着いた竿も主人のだか、今だに判らない仕末です。
 釣りに行かない日は、木村釣具店(能代市)に行き、或いは、能代港に行き、何が釣れているか自分の目と耳と足で情報を集め、翌朝、私が目覚めないように足音を忍ばせて出て行きます。昨年退職してからは一層激しくなり、心の底から釣りを楽しんでいる状態でした。一週間も続くと体が心配になり今日一日だけでも休むよう注意するときがたびたびありました。
 でも、私はこんなに楽しんでいるのにと思い、随分協力したものです。冷えると思い、羽毛の上下を買ってやったり、おにぎり、お茶など、目に見えない所まで心くばりをしたつもりです。
 あるとき、「木村釣具店では夫妻で釣りに行っているよ、母さんも一度行って釣ってみると俺の楽しさも判るし、身も心もさっぱりするよ。あの青い海を見ながら釣る気分の良いこと。一度一緒に行かないか」と幾度となく誘われました。でも、私はあの青い海に吸い込まれそうで恐い。私の生れは大館。水の少ない長木川で泳いだだけでしたから、・・・。
 多く釣れると近所に配るのがまた大変。疲れているのに、自転車で自分で運ぶ。量が少ないときは流し場にドンと置き、「母さん頼むよ」と言い、多い時は外の水道で自分で調理しており、疲れているのに楽しんでいるようでした。「疲れているでしょうから私がする」と言うと、「いいよ、いいよ、夕飯の仕度を早くしてけれ」と言います。釣果を楽しみ、私に面倒かけまいとするその気持ち。
 晩酌は、釣りの成果によって一合が二合になるときがたびたびあります。腹の底から「うまいなあー」と言っては、お気に入りの手作りの萩焼の盃を傾けます。夕食が終ると六時半であろうが七時であろうが「母さん寝るよ」と、言います。私はこの声を聞くといっつも大声で笑ったものです。「また父さんの十八番が始まった。まだ、外は明るいのよ」と言うと、「俺には関係ない、布団頼むよ。」また、私が忙がしそうに働いているときは、黙って自分でさっさと布団を敷き寝てしまいます。床に就くと必らず本を見ます。本が好きな人で、最近は大菩薩峠の連続本を読んでいました。
 私があと片づけの終るころは、軽いイビキをかいて気持ち良さそうにして眠っている、好きな道とは、言え疲れているのでしょうに。
 あの日から三十五日も過ぎましたのに。今も目覚めると主人が隣りに眠っているのではと、必らず見ます。もういないのにと思うと涙がこみ上げて来ます。年甲斐もなくと思うでしょうが、若いとき苦労が絶えなく、現在は子供も成長し(娘・小学校教員、息子・高校教員)、老後の心配もなく毎日が満ち足りた生活になったばかりです。
 冷蔵庫の中に餌がまだたくさん残っているが、捨てる気になりません。もう少しそっとしておこう。
物置には釣り道具や衣類もあるが、場所を変えずそのままにして一年間保存したいと思います。あの世できっと釣りに行くかも知れませんもの。
 遭難当日、岩館大謀網の岩場で釣ってる姿を、車を置いている隣りのおばあさんが判っており、津波が来たときテトラポットにっかまっている主人を見ています。津波を知っていれば助かったでしょうに。でも、知ったときは遅かったと思います。遺体は小入川で上がったが、まったく水は飲んでいなくて、お腹はへこんでおり、私はショック死だと思います。遺体は網にからんでいたせいか傷ひとつなく、皮膚の色もきれいでした。物事に慎重な主人なので、少し波が立って来るとすぐ帰る人だと、近所の方々が話しておりました。夕方、一人でだれにも邪魔されず、気をっかわず、のんびりと釣るのが主人の釣り方なのです。
 五月ニ十日タナゴ二十三匹、アブラコ五、六匹。二十二日シンジョウ一匹、尺物なので刺身にする。
二十三日タナゴ少量、アブラコ少々。二十四日タナゴ少量、アブラコ少々。二十六日タナゴまたはクロダイに夢中になって遭難したものでしょう。
 最後に一言、磯釣りでは救命具は絶対着用すべきだと思います。
故村山俊雄 妻・村山ウメ
能代市落八合字下大野六九−七

三 初盆の思い出語り
 あの日本海中部地震の体に感じた恐しさ、また、目に見た光景、なんと書きあらわせばよいか。全くの天地異変の出来事であったろう。瞬時の間の大津波の惨事、尊い人命を奪われた情けなさは、一生忘れる事のできない出来事であります。
 あれから二カ月半過しても落ち着きはなく、考え事をしているような日々を送っているこのごろ、お盆を迎え、東京で働いている守の弟、嫁いでる妹が墓参りに来た。
 家族一同が守の供養話をしているそのとき、弟が次のように語った。まだ俺が一度も話したことがないが、たしか小学校四年のころであった。
 近くの沼に敏郎と守と私の三人が釣りに行ったとき、五月初めごろであったと思う。守の竿が急に引かれて、十メートルも水の中を走ったのを見た守は、水に首まで入って竿を持って来た。釣れていたのは大きな鯰で、岸辺に来て落ちた。
 そのとき、危険をおかして水に入らなくても、家へ帰って八十円貰って別の釣り竿を買えばよいものをと思って、その濡れた姿を悲しく思った。水に入って危険であったからそのときはだれにも話していなかった。
七年前の夏、八郎潟へ釣りに行く事を約束した。朝から暑い日で、車で西部承水路へ行き、アシの茂みの中で面白いほどフナが釣れる。バケツに入れたフナは、二十分もすると酸素不足でパクパク。
バケツの水はぬるくなり何回も水を取り替えた。それでも釣れ続き、このままだとせっかくのフナが食べられなくなると早目に家に帰った。塩ふり焼きのフナの味のまた格別うまいこと。私は一匹一匹とたいらげて行く。酒もうまいが釣りたての魚は、なおうまい。
 昨年の夏、一度も八森海岸を見た事ないだろう。釣りでも楽しみながらと誘われた。冷蔵庫に入っている釣り魚の、カンカン凍った魚でも魚屋から買ったものより味が良い。海から釣れたナマの魚はもっとうまいと鼻高々にしている。
天気の良い午後、八森の海へ向った。ニ十分ぐらい舟出して岩場に着く。波が白く砕けるこういう所に魚が集ると言いエサをばらばらと撒く。タナゴがっれる。フグもつれる。
 釣りは真剣勝負だ。ちよっとの油断もできない。釣りは楽しむのではない。一生懸命に魚に取りつかれたものと一緒だ。その目、動作、すきがない。全くのスポーツだ。だれにも負けないと頑張る。
風はシブキを岩場に上げ、冷気漂よう二時間ぐらいたった。
 波が白くなる。付近を通る小舟が波しぶきをあびる海の様子は、ちょっとの間にかわる。ああ、海は恐ろしい。海には魔性がある、釣り人は海と戦う。
故奈良守 父・奈良宇左工門
秋田市金足下刈字深田八九

四 あすは黒鯛の刺身で乾杯だ
 五月二十五日夜に、新しい竿と釣針をいっばい持って帰って来た。「明日の休みは、黒鯛釣りに行くぞ、いいか」「え、本当に遂に行くの」と私は喜んだ。新聞の切り抜きを見たり、針に糸をつけたり、子供のようでした。その後二人で生ビールを乾杯して、「明日は黒鯛の刺身だなあ」と笑った。
 夜十時半「じゃ明日早いから、子供達を頼むよ」と二階へ上って行った。それが夫の最後の姿でした。
二十六日夕方、海に行きましたが、大層波が静かで、とても地震があったと思われなかった。その日から十六日間海を見ていましたが、海と自然の恐ろしさを感じました。
 夫は二時間も、海の中で頑張っていたと言う。一緒に行った人が助けられ、病院へ行くときに、助けた人は夫を見て、「救命具を着けている」と思ったが、帰って来たときは、海に夫の姿はなかったと話していました。もし、本当に救命具を着けていたら、今ごろは・・・。
 何度考えても、残念だし、くやしいです。そして、二度と私達の様な悲しみは、だれにも味わせたくない。今後、釣り人達自身の安全について考える必要があると思います。
故保坂義重 妻・保坂智子
能代市大手町四−二七
 
五 主人が私達を導いてくれた
 主人は、八日ぶりにわが家へ帰ってきました。それも、帰らぬ人となって・・・。
 身内の執念といいますか、沢山の人達が捜してくれたにもかかわらず、長男の治康が主人を発見しました。六月三日午前九時五十分、真瀬川河口の岩場に、マネキン人形の手のようなものが見えたそうです。「まさかこんなところに、もしや父では」。やはり主人でした。
 思えばいろいろおかしなことがたくさんありました。近所の釣り仲間、桜井利助さんと釣りに行く前日、全然釣り道具をいじらないのです。しかも、釣りに行く当日の朝になっても気持ちよさそうに眠っているのです。
 ふだん、釣りに行くときは、前日から、いそいそと準備にとりかかり、当日は、植木鉢に水をやり、犬の散歩もおこたりなくやるのです。虫の知らせでしょうか。主人はこの日、釣りに行きたくなかったのでしょうね。話によると、主人は波の屏風で、あっという間に失神したのではないかとも言われております。
 また、遭難してからなかなか見つからなかったのですが、その間もおかしなことが幾つかありました。海のことゆえ捜索範囲もだいぶ広がったわけですが、不思議なことに、娘が真瀬川河日にある岩場の付近にくると、「頭が割れるほど痛い」と、言うし、三男はこの場所で入れ歯が割れるし、その付近の公民館にはカラスがバタバタ入ってくるし、結局、私達は「主人は必ず真瀬川河口の岩場にいるに違いない」と思った次第です。
 主人は三十年前、北海道の炭鉱から私の郷里へ来ました。そして職業訓練校で左官の技術を学び、市内の工務店で働いていました。苦労のかいがあって、最近は幸せの日々でした。新盆を前にして、今、主人の思い出にひたっている次第です。
故小川福治 妻・小川梅子
能代市落合字大野岱一二一−二

六 キ印がつくくらい釣り好きな夫でした
 結婚前、「趣味として釣りを少々します」と言われ、そして、結婚後、趣味なんてものじゃない。
キ印のつくくらいの釣り好きだと思い知らされました。「そんなに釣りが好きだったら漁師になったら」と言った事もありました。本当に、海・川・湖・釣り堀、魚のいる所では必ず竿を持たなければ、気がやすまらなかったと言っても、過言ではなかったような人でした。
 結婚間もなくだったと思います。太平湖に二泊三日で、夫の釣り友達の渡辺さんと夫と三人で、鯉釣りに行ったときの事が思い出されます。洞窟の中に泊り、焚き火をし、飯ごうでご飯を炊いたり、キャンプ気分で楽しかったのですが、残念ながらあのときは、大きな鯉が水面に浮かんで来てバシャバシャはねるのですが、釣果はゼロで帰って来ました。
 主人は、いろんな所へ連れていってくれました。春は、男鹿水族館横の磯ヘタナゴ釣り。いつも釣れなくて貝採りに変わってしまうのです。夏は、船でキス釣り、あまり波がなくてもじっとあたりを待っているうちに、私のほうはもう船酔いをしてダウンです。秋には、男鹿の羽立の離れ防波堤へ黒鯉釣り、夜暗くなって遠くの灯りがチカチカ光り、暗い海には、電気ウキのポッチリとした灯り。これもあまり釣れないとなるといつの間にか、カニ採りに変わるのです。冬は、八郎潟へのワカサギ釣り、氷の上でじっと立っていると足が冷たくて、我慢出来ずに車の中で待っているのです。年中出かけておりました。何しろ休みだからといって、一日家の中にいるような人ではありませんでした。
 娘が三歳のとき、渡辺さん一家と山形県の飛島へ行ったのも思い出の一つです。あのときは、民宿ですごい蚊に悩まされ、持参の蚊取線香をもうもうと炊いて、煙くて煙くて……というのが印象に残っています。
 あちこち釣りに連れていってもらったのですが、まだ釣りの面白味がわからず、このごろあまり一緒に行きたがらない私に、五月二十五日の夜、ウミタナゴ釣りの仕掛けを作っていて、「おまえにも魚釣りの醍醐味を知ってもらいたいなあ」とボツリと言った主人。思えばその言葉が遺言のようになってしまいました。
 あの津波さえなかったら、まだまだ死なない人だったのにと思うと残念でなりません。せめてもう十年、子供が成人するまで、生きていて欲しかったと思います。「お父さん、あなたの分まで私が頑張りますので、どうぞ見守ってくださいね」。
故三沢弘 妻・三沢恵子
秋川市八橋大沼町一−二三

七 優しい主人は幼な子を残して
 結婚して六年目、一女一男の良きお父さんであり、優しい主人でした。
 いつも家族みんなで出かける我が家にとって、二人だけで旅行した事と言えば、新婚旅行のときだけです。車中一泊、京都、熱海、東京と四泊五日の楽しい、思い出深い旅行でした。旅慣れているお父さんの側に、安心して寄り添っているだけで良かったのです。
 第一日目はタクシーに乗り京都見物、銀閣寺から嵐山、東映撮影所などです。私にとっては、修学旅行以来の事なので懐しいやら珍らしいやら……。オヤッ、お父さんが、運転手さんに何か話しかけてるようですが、全然通じていない様です。それもそのはず、京都に来て秋田弁を使っても無理ですよね。昼食は、運転手さんの紹介により、料亭「嵯峨の庵」と言う所で食べた梅干しの天ぷらが、とても甘くっておいしかったので、作り方を聞いたのですが、塩ぬきをするとだけしか教えてもらえませんでした。やっぱりそのお店の特許のようなものでしょうね。
 第二日目は熱海でした。宿泊はホテルニューアカオと言う所でしたが、とても親切でサービスが行き届いておりました。「今度は、子供が出来たら家族みんなで新婚旅行の思い出として、同じ部屋に泊まりにこようね。」とまで二人で話し合っていました。
 第三日目は東京見物です。電車や地下鉄に乗って「アメ横」と言う所に連れて行ってもらいました。人ごみが激しくって物を見るよりも、人を見に行った様なもので、二人とも歩き疲れてぐったりでした。上野の動物園にも行きましたが、珍らしい動物と言えばパンダがいました。全然動こうとせず、寝てばっかりでしたので、ぬいぐるみを見ている方がずっと可愛いいなと思いました。見知らぬ土地にいるせいか、二人で手をつないだり、ソフトクリームを食べ歩きしたりしました。
 もう明日は家に帰らなければならないなあと思うと、もう少し二人きりでいたいような……。
 こうして新婚生活が始まりました。
 お父さん(秋田駅の運転掛)は、朝仕事に行くと翌朝まで帰ってこないので、何年たっても新婚気分でいられました。一年近くたっても子供ができないものだから、心配でしようがなかったようです。
結婚して一年八ヵ月ぶりに、一人目の女の子「真理子」が生まれました。今はもう三歳になります。
お父さんのいい遊び相手でした。今年から保育園に通ったばかりだったので、保育園の運動会や、父親参観日を楽しみにしていたお父さんでした。
 どこに行くにもよく連れて歩いてくれました。今でもその場所を通ると、「お母さんここお父さんと来た所だよ」と私に教えてくれます。いつまでもお父さんの事を覚えてもらいたいなあと思っていますし、そういう様に努めていきたいと思っています。
 二人目は、その二年後に待望の男の子「和明」が生まれました。大きくなったら野球をしたり、一緒にお酒を飲みに行くのが夢だったようです。お父さんの残していった、この子宝を、祖父、祖母と共に協力して、健やかに育てていきたいと思います。
 お父さん、いつまでも私達を見守っていて下さいね。
故門間辰雄 妻・門間とし子 南秋田郡飯田川町飯塚字水神端十六

八 魂は青蟻山脈へ
 想えば、あの人が故郷に心を寄せ、家という存在を体感し始めたのは、いつのころからだったのでしょうか。 体の動きが自然になり、言葉を自在にこなし始めたころ−−まさに、自分の肉体を我がものにしたときから、父は遊び相手に、母は学習と生理的感覚の養い手という役を担ってきました。
 東京で生まれ育ち、のびのびと過ごしてきたらしい少年時代から、一転、戦争の渦に巻き込まれ、記憶も一時中断させられる程の地獄の中を駆け抜けてきた父。
 両親ともに教師という家庭環境のなかで、知の習得を自明のことのように心がけ、また、教師としての正義に揺れながらも、家に入って子供と暮らすことを志した母。
 二人は、それぞれの違う回路から家庭と子供に対する心情を、同質のものとしていました。
 ときはまさに高度経済成長期に足を突っこんでいました。
 無機的に、合理主義・便宜主義を貫く経済の流れと、それとは全く正反対の有機的にして、因果交流電燈のような人間のつながりを、対等に、生存の根源として、私たちの生は育くまれてきたのです。
 今にして思えば、私は彼のことを語るときに、直接的関係での印象や体験を数多く持ちません。
 というよりも、彼を家に引きつけた吸引力や彼の哲学についての根拠を、彼個人とのつきあいのなかから、あまり見い出せませんでした。
 大学三年の春でしたか、一度だけ夜明け近くまで話し込んだことがありました。
 彼は、キリスト教について語りました。
 自分の生の拠りどころを求める人間の本質。
 火を生んだ人間の知恵に対する敬意と火に対する人間の畏怖、など……。
 彼がキリスト教に触れた新鮮さは、人類の進歩に対する驚きと、あるがままにすべてを受け取め、自然に生きていく術の一端を自分のものにしかけた、ひらめきのようなものでした。
 その後、彼は都会での学生生活に終止符をうち、秋田に帰りました。
 故郷に帰ってからの彼はひたむきでした。
 朝七時から夜九時までの仕事と、月一、二度の休みのなかで、本当にささやかな趣味を持ち、働き続けました。
 そんな彼が結婚をし、彼のなかにさらに家という存在か高まっていくとき、私は父と母の生き方が、彼の姿にオーバーラッフしていく自然さを感じ取りました。
 そんな彼が、地震による津波にのみこまれ、二十八歳の生命を絶ちました。
 彼は、私の兄です。
故秋元晃 弟・秋元浩
仙北郡神岡町神宮寺字神宮寺一六二

九 きょうは新屋のお祭だ
 午前八時ごろ、主人が「母さん、刺身を釣ってくるから頼むよ」と言って、いつも釣りに行くときの嬉しさを、体中にみなぎらせて出かけました。
 五月二十六日は、私たちが住んでいる地域の、秋田市新屋のお祭りの日なのです。「お祭りだから、二時ごろまでには帰ってくださいよ」と言って、送り出しました。
 正午に強い地震を感じ、津波がくるかも知れないと思いました。勤めに行っている娘から「父さん帰ってきた?」と電話がありました。
 おばあさん(主人の母)が入院しており、家には私一人よりいないので、外へも出られずにいました。テレビは、津波警報や地震の被害状況を刻々と伝えていました。私は心配になって「父さんが無事に帰ってくれますよう」神棚に向かってお祈りを続けました。
 午後一時に娘が帰ってきて、「父さんの船がどうも、ひっくり返ったようだ」と言って、着替えを山ほどもって、雄物川河口へ出かけました。私は心配になり、ただおろおろするばかりでしたが、私の母親が飛んできて、「お前がしっかりしなければどうする」と言って、元気づけをしてくれました。
私は、神様へただただお願いするばかりで、とても気持ちが苦しくなり、口の中が乾いてきました。
水をのんだら、とても気持ちが落ち着きましたことをよく覚えています。
 午後三時ごろ、一緒に出かけた船長の高橋文雄さんの遺体が発見されたことをテレビが伝え、事態は最悪となってきました。隣近所の方も見え、結局、その日は、私は一歩も外へ出ず、神様におすがりをしていました。
 
 翌二十七日から本格的捜査が始まりました。高橋文雄さんが、船が転覆したすぐ近くから発見されたこともあり、まさか、捜索が長期化するとも思わず、むしろ「どこかへ流され、生きているんだ、いや必ず生きている」という気持ちと、「もしや」という気持ちが入り交じり、いうに言われない気持ちになりました。
 連日、新聞やテレビで遺体発見のニュースが流れるなかで、早く遺体が発見されてうらやましいと思う反面、もしやどこかへ流されて助かっているかも知れぬという気持ちも心の底にあり、毎日、電話が鳴るたびにドキッとしていました。
 捜索が長期化するなかで、私の友人や町内の人たちが、毎日、捜索する人たちにおにぎりの炊き出しをしてくれ、本当に助かりました。また、いろいろな人からお米や潰物、塩ザケなどが届けられ、世の中の人の親切心に、何と御礼を申してよいか、いくら感謝しても感謝し切れない気持ちでした。
主人は、私から言うのも変ですが、人柄もよく、だれにでも気軽るに声をかける人でした。それがこういうかたちになってはね返ったかも知れませんが、本当に人々の親切心に頭が下がる思いがしました。
 また、船をもっている方は毎日、捜索に船を出してくれ、男鹿市の加藤庄七さんたち三隻は、遠くの脇本漁港から来て捜索に参加してくれました。主人の友だちの釣り人も、毎日交替で海岸を見回ったり、捜索の道具などを作ってくれました。
 次々に遺体が上がり、津波からひと月近くなると、男鹿市門前で遭難した門間辰雄さんと主人だけなり、心に焦りと、同志がいるという安心感がありましたが、二十六日目に門間さんの遺体が発見されたときは、心の底から力が抜けた気持ちになりました。

 毎日、花と菓子を持って遭難現場へ行っていましたが、この付近で漁をしている人や雄物川に船を置いている人たちに、これ以上捜索を続けることは、主人のために御迷惑をかけることでもあり、人様の生活をおびやかすことにもなると思い、六月二十七日に秋田市消防本部へ行き、捜索の打ち切りをお願いしました。
 市では七月四日まで捜索をしてくれると言ってくれましたが、私たちでテントを回収し、私たちが毎日、浜へ出かけていました。
六月二十九日は、遭難の日から三十五日目になり、この日に仮葬儀をしました。お寺さんでは、本葬は一年後でも二年後でもよいといってくれました。
 遺体発見の七月二日は、主人の釣りの師匠である渡辺博さんや近所の佐藤金五郎さんたちが朝早くから船を出して、捜索をしてくれるとのことで、私も早く家を出て、ジープで浜辺を捜し回り、九時すぎに家へ帰ってきました。
 そうしたら、隣の水野さんの奥さんが、「主人が北海道で見っかったと」と知らせてくれました。
心の片すみで生きていてくれと思っているなかで主人の死を告げられ、これで現実のものになったと、心の底からガッグリしました。
 警察の方から詳しく話を聞き、その日の午前十一時に、私と娘二人、親戚など八人が三台の車に分乗し北海道へ向かいました。
 夜中に室蘭に着き、伊達警察署で主人の遺留品である車の免許証や車の鍵、首にかけていた磁気ネックレスなどを見せられたときは、これで主人の死が現実のものになったのだという気持ちで、今までの張りつめていた心が崩れていくのがわかりました。
 伊達警察署の方は、夜遅く着いたのにとても親切に応待してくれ、本当に感謝申しあげます。
 主人の遺体を車に乗せ、その日のうちに現地をたち、秋田の家へ連れて来ました。

 お盆の前にまた北海道へ行き、今度は主人を見つけてくれた豊浦町の平塚清蔵さん(三十八歳)など親子四人の方にお会いしました。
 遺体発見の様子や、その後の処置などを話してくれ、とても親切でした。地元では、主人の発見した場所へ私たちを案内してくれる手はずでしたが、あいにく海が荒れ船が出せず、あとで、平塚さんたちが現場へ花や菓子を捧げてくれるとのことで、本当にありがたく思いました。それと、主人の遺体を現地で火葬をせずに、秋田まで連れ帰える準備や心づかいをしてくれたことを、とても嬉しく感じた。
 主人も懐しい我が家へ着いて、安心して成仏したものと思います。
 家業の鉄工所は廃業することにし、娘二人と私の母子三人が力を合わせて、これから生きていくことになりました。
 このたびの遭難を通して、人の世の情けに本当に御礼の申しあげようがありません。紙上をお借りして厚く御礼申しあげます。
故高橋謙次郎 妻・高橋ユリ
秋田市新屋勝平町三−二六

十 あんちゃの思い出
 私達は兄を幼ないときから「あんちゃ」と言って育ってきました。
 昭年五十八年五月二十六日、帰らぬ人となり、私達家族、親戚一同ただ涙して、突然の死を悔むばかりでした。明朝まで一睡もせず津波を憎みながら、五月ニ十七日早朝、夜の明けるのを窓越しで見ていました。
 私には、兄というよりも、親という感じの方が強く印象に残る。あんちゃは中学校を卒業後、昼は新聞配達、夜は定時制高校へ通いながら、自分達家庭の生活のために一生懸命がんばってくれた。
 あんちゃは十六歳でバイクの免許を取り、新車を買う。その日の夜九時過ぎに学校が終わり、家に帰ってすぐに「春樹、新品のバイクだど」と言いなから外に連れ出し、「いいべ乗って見るか」と言って乗せてらった想い出がある。やさしいあんちゃだった。
 家に近い沼、川、海などには近所の子供達と一緒に連れて行ってもらった事がいっはいあったが、あんちゃと二人で魚釣りに行ったのは、バイクを買ってから間もなくの事だったような気がする。最初に連れて行ってもらった所は八郎潟で、フナ釣りの記憶がある。早朝三時半か四時ころだった。土崎のバイパスがまだ工事中で、砂利道をあんちゃは一生懸命に私を乗せてバイクを走らせたものだ。
 数年前待望の船を買い、仕事の合い間、休日、夜勤帰り、一睡もせずに海へ釣りに出かける日が多くなった。 あんちゃは、魚群探知機を買って、浜田沖の油田跡に釣りに行くようになってから、新発見でもしたように、ひそひそ話をするような感じでよくこう言っていた。「あそこには黒鯛がいっぱいいるよ。
生エビが一番いいよ。春樹だれにも言うなよ」と、あんちゃは自分一人か、特に仲のよかった友人二、三人を連れて数年間油田跡に通った。
 五月中旬ころから釣り始め、晩秋まで油田跡へ。多いときは半目で黒鯛十三〜十四尾を一人で大漁する日もあった。
 私の会社の友達にその話をしたら、「連れて行ってけれ」とみんなに言われて、あんちゃに頼んだら、人のいいあんちゃは連れて行ってくれ、五人で黒鯛七〜八尾を釣った。そして最近は岩見川の漁業権を買い、ヤツメウナギ漁をするようになった。自分では食べないヤツメを寒中の川で、別に気にもとめず漁をしているあんちゃの姿を見ていると、釣り人と言うより漁師という感じが強かった。
 今、生きていたら海の漁業権などと言って、将来漁師になる話をしていたのかも知れないと思う。
あんちゃの過ぎし日をいろいろ思い出すたびに、突然の死は悔まれてならないし、新たな悲しみがこみ上げてくる。
故高橋文雄 弟・高橋春樹
秋田市手形山西町二丁目一三−二

日本海中部地震津波による釣り人遭難記録集編集委員会
委員長 川村弘  公務員    秋田市牛島東三丁目一−五五  電話三三−三八九九
委員  土田忍  会社員    秋田市楢山太田町一−三○   電話三三−九五一五
委員  泉一男  教員     秋田市楢山登町八−一六    電話三三−七九七五
委員  熊谷幹夫 建設業    秋田市楢山南中町一−五二   電話三二−五二八七 
委員  進藤和弥 団体職員   秋田市東通仲町二二−二〇   電話三二−四〇四五
委員  阿部賢孝 ガラス販売業 秋田市川元開和町一−三    電話六二−四八一九
委員  竹本隆輔 公務員    秋田市保戸野すわ町五−二二  電話二四−二四八一
委員  坂野隆  公務員    秋田市牛島東四丁目六−一三  電話三四−九三六八
委員  佐藤烈夫 会社員    男鹿市船川港船川字親道一八五 電話〇一八五−二四−二八六七
注 電話番号の局番は、佐藤烈夫を除いて「〇一八八」です。

編集を終えて

 あのいまわしい地震から五カ月近く経ちました。初夏に始った編集が中秋になりました。
 人間の生死は、意外に簡単に分かれるものだと実感したのが今回の調査の結論でした。運命としか表現のしようがない、その人がもって生まれた命としか言いようないものが人の生死にはあるように思いました。
 合川南小学校の児竜の場合は、たった十数分の差が、八森町滝ノ間海岸では、同じ場所で釣りをしていながら、体一つで逃げた人が助かり、竿をたたんだ一分足らずの差で命を失っています。
 救命胴衣があったら助かったと思われるケースも多く、八森町滝ノ間海岸、男鹿市入道崎親沢地区、雄物川河口では「助けてくれ」と叫びながら潮に引かれています。

 本調査書をとりまとめる直接の動機となったのは、五月二十六日の地震のあと、なか一日おいた二十八日、男鹿半島全域を回って、湯ノ尻、入道崎、戸賀、加茂、門前などで釣り宿や漁師さんのはなしを聞くうちに、地震や津波の被害の惨状とは別に、津波に対する全くの無防備な状態に釣りがおかれていること。そして、もしこれが日曜日であったなら、釣り人の被害は大変な数字になるであろうという恐れが、現地を一つ一つ見て行くたびに強くなりました。
 さらに、被害の全貌が明らかになるにつれ、釣りによる死者が十二名に達し、一方、沢山の人が津波に遭遇していることを見、聞きするうちに、記録としてまとめ、後世に伝えることと、広く多くの人々に津波の実態を知ってもらうことが、現代に生きる我々の責任でないかと思うようになりました。
 早速県つり連内に「遭難記録集編集委員会」を設け、新聞報道、釣具店の情報などを手掛かりに遺族とその目撃者探し、体験者などを求め、それこそ地を這うような調査が始まったのです。この間、秋田魁新報社、北羽新報社やNHK秋田放送局、能代市の荒川釣具店、木村釣具店などの御支援。遺族・体験者など沢山の方々の協力によってようやく刊行にこぎつけたものです。
 なお・体験談を寄せられた方々の殆んどが、犠牲者の御冥福を祈る文章をのせられていましたが、編集部で割愛させていただきましたことを御了承ください。

 ドラマティックなことも多くありました。男鹿市門前では二十六日間も遺体があがらず、遂に菩提寺のお坊さんが現地で引導を渡した翌朝に遺体が浮かんだり、同じ門前で、三月二十六日に結婚し、ちょうど二カ月目に遭難。雄物川の釣り船転覆では、死亡二人のうち同じ船で、県内で最も早く死亡者が出ながら同じ船で県内最後の死者が三十七日ぶりに北海道で発見されたり、八森町では自分の父親が目の前で津波に巻き込まれ、その遺体捜索中に釣り人を救助。また、八森町では、雲間かりもれた太陽の光のさす方向を捜したら、遺体が発見されたなど、因縁というものが沢山ありました。
 意外と思えをとは、助けられ人々の中には全く何のあいさつもしないという人が多くあったことです。男鹿市潮瀬崎で二十五、六歳ぐらいの母親と二つぐらいの女の子が車ごと沖へ流され、これを近くにいた船が救助し、その直後に車が沈んでいます。救助が二〜三分遅れていれば確実に車ごと海へ沈んだことは多くの人々が目撃しています。同じ男鹿で、着替えの衣服や靴を借りたままと言う例や、仁賀保町では助けられた人が公務員でありながら知らんふりです。

 捜索費用が莫大な額となり、「死ぬも地獄、生きるも地獄」と述懐した男鹿市門前の例、捜索が長期化するだけ費用もかさみます。それでも今回は天災ということで、公的負担や見舞金、義援金が出ましたが、単なる事故では全額遺族の負担となります。
 釣行中は家族や周囲のことを思い、無謀な行動は慎しみ、安全対策に気を配り、救命胴衣は必ず着用し、楽しい釣りに徹して欲しいものです。

 知識編の原稿をとりまとめるため、地震、津波のことを随分と勉強しました。そして、地震の発生には一定の周期があり、発生の誤差も、今では十年程度まで読めるようになっているようです。
 東海地震は、いずれ発生するようで、地盤の隆起、水位の低下など予兆があるようです。震源地が駿河湾となると、大津波が瞬時にして、陸地を襲うことになります。
 科学技術の進歩で、地震の予知も、日時は別として、数年程度という範囲では予知できるそうですし、マグニチュード八クラスの巨大地震ですと、完全に予知できるまでに進歩したそうです。
 今回の津波でも、東京大学地震観測所では一〜二分で震源地、津波発生の範囲、規模を予測できたようですが、お互いにセクショナリズムを廃して、連携プレーで被害を少なくする手だてを考えてもらいたいものです。
 日本海に津波はないと言われてきましたが、本辞に掲載したように、今から約六百四十年前には、今の十三湖(青森県)で、巨大な津波により、当時、殷賑を極めた十三湊が一朝にして潰滅した記録があります。
「災害は忘れたころにやってくる」といいます。備えあれば憂いなしです。これからは、一人たとも津波の犠牲にならないよう、行政も民間もお互い協力し、努力することが何よりも大切なことではないでしょうか。

 「地を這うような捜査」とは今回の編集を通じて実感として出た言葉。目撃者を捜しあて、現地へ同行を求め、遭難の原因調査。サラリーマンの中には休暇をとっていない人もいて、会社はおろか家族にも津波に遭ったことを言っていない人もいて、調査が難航した例や、遭難地点が青森県から県内全域に及び、いずれも辺ぴな所で予想外に時間を要したこと。調査スタッフと目撃者の時間調整や天候との関係など様々の問題がありました。それでも皆さんが全面的に協力してくれたおかげで順調に仕事ができ、本当にありがたく思いました。
 編集スタッフの七田忍、泉一男両君の殆んど休日ごとの調査行が四ヵ月も続き、ちょうど釣りシーズンに入ったときに調査に入り、釣りのシーズンが終わるときに本書が完成しました。
 今回のような強烈な地震や津波は、恐らく今後三十年か百年後でないと発生しないと思います。そのときに、今回の記録が役立てばということと、釣りでは、津波に限らず常に自然の脅威にさらされながら行なわれます。人も魚も自然界の生物の一員にすぎないのです。自然を畏れ大切にして、長い人生と楽しい釣りを今後とも続けて欲しいものです。
 それが、今回の津波で犠牲となった十二の御霊に対する何よりの供養ではないでしょうか。
 御霊の安からんことと合わせて、御遺族の人生に幸の多からんことを祈念して。合掌編集スタッフを代表して 川村浩

秋田県つり連合会編
大津波に襲われた
−釣り人が証言する日本海中部地震−

印刷 昭和五十八年十月十四日
発行 昭和五十八年十月二十日

編集及び発行 秋田県つり連合会
秋川市楢山南中町一番五七二号
電話 〇一八八・三四・〇七四五
印刷 株式会社 三戸印刷所
秋田市旭北錦町三番五十号
電話 (〇一八八)代二三・五三五四
万一 落丁・乱丁のときは おとりかえいたします