巻頭言
三陸沿岸に於ける津浪は古記録に徴し明かなるもの二十數回なりと。尤も之等の中には明治二十九年若くは本年三月の如く三陸全沿岸に亘るもののみに非ざるが如きも、而かも三陸沿岸と津浪とは至密の關係を存すること既に世の普く首肯する所なり。
而して津浪の災禍たるや眞に凄慘にして悲絶見るに忍びざるもの多く、世人擧りて豫防護法を云爲せざるなし。就中森林の必要、即ち効用に至りては學界、世人共に其の著大なるを認め之が造成を期するもの多し。洵に結構事なり。
森林の造成は他工種に比し頗る容易にして且其の存續は合理的施業のもとに正に無窮なるのみならず森林の特性は防風、防潮の効を奏し其の他諸種の保安的効果を齎すを以て防護的使節の中最も緊急を要するものなり。
而して三陸沿岸は之を全國的に見る時は其の位置局所的にして諸對策は凡て地元の行ふべき筋合なるが如しと雖、そは皮相の見たるを免れず。即ち三陸沖は有數の漁場として土佐、越中全國的に多數の船舶輻輳し、沿岸都邑と不可缺の關係にあるを以て都邑の衰微は自ら漁業の萎微を招來す。故に水産關係事業に鑑むれば到底一小地方として局限すべきに非ざるを以て、沿岸の施設は宜しく國家に於て主体たるべき性状を具有す。
殊に森林の造成に就ては終始撫育するの要あると使命の重要性に鑑み、比較的整備せる管理組織のもとに實行力を有する國有林に於て統制ある施業をなすべきは理の當然に歸する所たるを信ず。
今次津浪特輯號を編するに當り聊か所懷を述ぶること斯くの如し。
靑森林友 八月號 (第二百十七號) 三陸地方津浪特輯號 目次
口繪寫眞
巻頭言
三陸海岸地方に於ける津浪の記録………………………………………………………………( 四)
津浪及被害状況……………………………………………………………………………………( 六)
津浪と海岸林………………………………………………………………………………………( 二〇)
津浪災害豫防法……………………………………………………………………………………( 二九)
防潮林の造成………………………………………………………………………………………( 三五)
津浪に關する造林計畫の大要……………………………………………………………………( 三八)
防波堤に就て……………………………………………………………………大 川 大 三( 四七)
海嘯被害復舊用材の供給……………………………………………………………収 穫 生( 五三)
海嘯と潮害保安林……………………………………………………………………高 橋 武( 五五)
三陸海嘯と管内被害の概況………………………………………………竹 内 義 三 郎( 六一)
三陸海嘯に就て……………………………………………………………………………星 生( 七一)
三陸海嘯………………………………………………………………………………高 岡 生( 七七)
海嘯體驗記………………………………………………………………………竹 達 嘉 市( 八〇)
今回の三陸大海嘯………………………………………………………………柳 本 澄 江( 八三)
管内海嘯記事…………………………………………………………三 本 木 營 林 署( 八九)
慘たる昭和の海嘯……………………………………………………………………石 巻 生( 九三)
嘯害夜話………………………………………………………………………………相 澤 生( 九九)
三月三日の一日………………………………………………………………………山 口 生(一〇二)
津浪一口話………………………………………………………………………竹 達 嘉 市(一〇二)
海嘯餘談………………………………………………………………………………佐 藤 生(一〇五)
日記から……………………………………………………………………大 山 文 治 郎(一〇七)
津浪に關する小話雜話………………………………………………………………九 里 生(一一二)
無理がない哀れな話…………………………………………………………………高 橋 生(一一三)
彙 報
感謝状並に見舞状……………………………………………………………………………(一一四)
三陸地方津浪に關する縣報…………………………………………………………………(一一六)
宮城縣會の意見書議决………………………………………………………………………(一二四)
御下賜金品の傳達……………………………………………………………………………(一二五)
復興事務局設置に關する件…………………………………………………………………(一二六)
明治二十九年三陸地方津浪に對する訓令其の他抜萃…………………………………………(一二八)
局署員の動き………………………………………………………………………………………(一三三)
領収會費報告………………………………………………………………………………………(一三四)
三陸海岸地方に於ける津浪の記録
本稿は主として當局九里、相澤、松前三技手並に瀧川、渡邊兩囑託の
調査せられたるものより抄録せしものなり
三陸沿岸地方にありて從來地震と津浪とは常に相伴ふものにして、古記録又は口碑の示す處に依れば淸和天皇の貞觀十一年の津浪を最初として、其の後現在迄二十數回の襲來あり、其の内主なるものを列記すれば次の如し(宮城縣海嘯史を基本とし月日は舊暦なり)。
一 淸和天皇 貞觀十一年五月二十六日 (皇歴 一、五二九年)
二 正親町天皇 天正十三年十一月二十九日(同 二、二四五年)
三 後陽成天皇 慶長十六年十一月三十日 (同 二、二七一年)
四 後水尾天皇 元和二年 (同 二、二七六年)
五 後光明天皇 慶安四年 (同 二、三一一年)
六 靈元天皇 延寳四年十月 (同 二、三三六年)
七 東山天皇 貞享四年九月十七日 (同 二、三四七年)
八 東山天皇 元禄二年十一月一日 (同 二、三四九年)
九 東山天皇 元禄九年 (同 二、三五六年)
一〇 東山天皇 元禄十七年 (同 二、三六四年)
一一 中御門天皇 亨保十六年九月 (同 二、三九一年)
一二 桃園天皇 寳暦元年四月 (同 二、四一一年)
一三 後桃園天皇 安永五年 (同 二、四四三年)
一四 光格天皇 天明年間
一五 光格天皇 寛政四年 (同 二、四五二年)
一六 仁孝天皇 六年三月(文政或は天保)
一七 孝明天皇 安政三年七月二十三日 (同 二、五一六年)
一八 明治天皇 明治元年六月 (同 二、五二八年)
一九 明治天皇 明治二十七年三月二十二日(同 二、五五四年)
二〇 明治天皇 明治二十九年六月十五日 (同 二、五五六年)
即ち津浪の襲來頗る繁頻にして、凡そ二十年乃至四十年に一回の割合を以て襲來したるものゝ如く、就中前回即ち明治二十九年の津浪は其の慘害最も激甚、眞に未曾有にして一瞬の間に數十方里の陸地は碧海に化し、數十萬の財寳と人命とは摧壞せられたりと云ふ。
津浪及被害の状况
—本稿同前—
海嘯の原由地震と海嘯との關係
海嘯の原由は學者の通説によれば海底の地辷り海中火山の噴火、地殻構造上の作用及大暴風の作用等種々あるも、シバシバ三陸地方に襲來する海嘯の原由として信ぜらるべきものは、海底地辷りの作用即ち外側地震帶の活動に起因するものにして三陸海岸地方の特異性によるものなり。
即ち本地方海岸の沖合海底は特殊の地体構造をなすものにして、千島群島の沖より小笠原列島の東方に至る海底には日本海溝ありて、其の水深は北部八、四一四米南部九、九五〇米以上にして、三陸海岸沖には東洋第一の深海と稱せらるゝ「タスカローラ」海床と稱する八、〇〇〇米以上の深海ありて、三陸に近き海底の傾斜間に一大地辷を起し、之に起因して海嘯を生ずるものなりとするものにして、三陸沿岸は此のために周期的海嘯に襲はるゝものなりと謂へり。而して最近東北帝國大學助敎授林喬博士等の説によれば、三陸地方に襲來する海嘯は本地方特有の地形により、常に一定し同様の慘害を繰り返すものにして、地形に依り襲來する海嘯の型を
一、廻し津浪
二、潮吹き津浪
三、引き津浪
の三種に區別し、前二者に依る津浪の勢最も強大なりと稱せらる。宮古測候所の調査に依れば、本年一月より三陸地方には地震の回數極めて多く、一月中一二八回に及び、二月中に於ても相當の地震ありし等地震が所謂前震をなし、終に三月三日午前二時三十一分三十九秒、岩手縣釜石町の眞東二〇〇粁水深約五、五〇〇米の海底に、震度強震にして性質緩慢なる地震起り、其の後約三十分内外にして三陸海岸一帶に亘りて津浪襲來し、其の回數前後三回に及びたり。而して餘波は北は北海道襟裳岬より落合崎に波及し、南は紀伊半島に及びたりと云ふ。
特に三陸沿岸は震源地に近く、且其の海岸線は所謂「リアス」式の海岸線をなし、峨々たる山脚は直ちに海に迫りて小港灣岬角互に相錯綜し平地を伴ふこと少きがため、町村部落の大部分は海に臨み極めて危險なる場所に集中せれら、加ふるに過去數次に亘る海嘯の襲來を被りたるに拘らず、之が根本的對策を講ずることなかりしを以て今重ねて慘事を見るに至りたるは誠に惜しむべき處なりとす。盛岡宮古兩測候所に於て測定せられたる、今回の津浪の原由をなしたる地震の發震時其の他各項を示せば次の如し(盛岡測候所調査)。
發震時 昭和八年三月三日午前二時三十一分三十九秒
原由地辷りか
主要動繼續時間 二分三十四秒
震動時間 約三時間五十分
最大震幅 二十二粍
震度性質 強震 緩慢
震 央 地 釜石の眞東二〇〇粁、水深約五、五〇〇米の海底、東經一四四・六度、北緯三九・二度
餘震 三月四日午前九時迄に有覺二三回無感覺四三五回
大洋中に於ける津浪の速度 毎秒一三〇ーー一六〇米
入灣中の速度 毎秒 七ーー二〇米
尚參考のために各所の震源地調を表示せば
(1)、仙臺の東方稍々南寄り三〇〇粁 東北帝大白山觀測所
(2)、金華山沖一五〇粁 石巻測候所
(3)、釜石沖東方約二三〇粁 中央氣象臺國富技師
尚關係沿岸主要地方に於ける津浪襲來の時刻及其の高さを示せば次の如し。
被害の状况
津浪に依る被害の状况を視るに、津浪の強さと波浪の高さとは種々なる因子の綜合によりて决定せられ、各種の方面より之を觀案し得らるべしと雖、海岸林造成上重要なる因子をなすべしと思料せらるゝは
(一)震源地に對する港灣の方向
(二)港灣の形状
(三)港灣の海岸線の長さ竝に之に接續する平地の形状
(四)局部的(特異なる)地形
等の各項にして、今其の被害の状况につきて述べんとす。
(一)震源地に對する港灣の方向
津浪の強弱と其の波浪の高低を被害の状况より歸納するに、最も重大なる一因子をなすものは震源地に對する灣口の方向なりとす。即ち前述せるが如く今回の海嘯は釜石町の眞東二〇〇粁の海底に於ける地殻の變動に起因するものにして、此の地點震源地を結ぶ方向に對して直角に灣入せる港灣、即ち岩手縣下閉伊郡下に於ては西北に開口せる港灣は被害比較的少なく、之に反し震源地を結ぶ方向即ち東南の開口せる港灣は前者に比し被害大なり。例へば東北に開口せる宮古灣、山田灣と、東南に開口せる船越灣とは其の被害の程度に於て著しき相違あり。又東に開口せる兩石灣、釜石灣、大槌灣等の被害は、宮古灣、山田灣に比し極めて大なり。波浪の高さにつきて之を比較するに、左表の如き差異を示すを以て、兩者の被害の程度に於て又相當の差異有之べきは想像に難からざる處なりとす。
(二)港灣の形状
津浪の強度波浪の高さは港灣の震源地に對する方向のみによりて決定せらるゝものにあらず、港灣の形状も亦重大なる一因子をなすものにして、宮古、山田兩灣は共に東北に開口せるも、其の被害の状況は明らかに相異せるを見る。大槌、兩石、釜石、唐丹、吉濱、越喜來、綾里、大船渡の諸灣の奥部に位する部落は何れも慘害を蒙れるものにして、就中灣型のV字型をなせるものゝ頂點に相當する箇所は被害最も激甚にして、兩石、唐丹、吉濱、綾里等は其の典型的のものなりとす。
(三)海岸線の長さ竝に之に接續する平地の形状
三陸海岸地方は或場合殆ど海岸線の長さと平地の長さとは正比例するものにして、海岸線の長き處は平地の亦廣し。而して更に之を精査すれば次の三に大別し得べく夫々被害の状況を異にす。
(イ)海岸線の長さと平地の幅とは各同一にして兩側は絶壁をなすものU字型、姉吉(岩手縣)
(ロ)海岸より奥地に進むに從ひて幅の狭くなるものV字型、島ノ越(岩手縣)
(ハ)海岸より奥部に進むに從ひて幅の廣くなるもの巾着型、里(岩手縣)
海岸線の長さ一〇〇米内外の短き場合には、其の長さの相違による被害の差異は發見し得ざる處なるも、被害は全面的に波及し海岸に近き程被害大なり。
(ハ)の場合にありては狹小なる灣口より廣き部分に入るがため廻し波となり、其の方向に當りたる部分が特に被害大にして此の場合汀線に接するも僅かに高位置なりしがため被害より免れたる實例に乏しからず。例へば殆ど全部落全滅したる田老(岩手)に於て靑砂方面に被害なかりし一團あり。之は昨秋實行せる護岸工事のため津浪を避けたるためにして、松月(岩手)に於て極めて海岸に接して數本の赤松を殘存せるは、地形稍高く廻し波の中心を避け得たる結果なるべし。
(四)局部的(特異なる)地形
(イ)前述せるが如く三陸海岸特に岩手縣下閉伊郡下の如きは、山脚直ちに海に接し平地を存すること少きも、平地ある場合は必ずや野溪又は河川を伴ふを常とす。津浪は何等障害物なき此の河川又は野溪の低地を廻り其の沿岸に被害を及ぼしたり。例へば宮古灣に臨む津輕石村(岩手)の如きは津浪は津輕石川により、種市村(岩手)八木は同部落の中央を流るゝ小溪によりて何れも相當奥部迄津浪の侵入による被害を受け、又田老村(岩手)下攝待の家屋は海岸より約一、二〇〇米を距てたるも、津浪は攝待川を上昇し急屈折の箇所に於て氾濫し、之を倒壞流出せしむるに至りたり。
(ロ)船越村(岩手)田ノ濱部落は船越灣に臨み、灣口西に開くと雖部落の過半數倒壞したるは、其の位置全灣の奥部にありて對岸よりの反射浪なりしため、波浪の勢比較的弱くして倒壞に止り流失を免れたるが如し。
(ハ)田老村(岩手)田老又は田野畑村(岩手)平伊賀の如く、灣口の直面に低き障害物(例へば余り高からざる島)が列状をなして點在する場合は、却つて波浪の高さ增大し被害を多からしむるが如し。
其の他津浪の強弱と波浪の高さとは、海の深度局部的各種障害物の存在對岸との距離其の方向地形等、幾多因子の綜合によりて決定せらるゝものにして、一般的に之が斷定を下すこと困難なりと雖、沿岸各地被害の状況より推定せらるゝ事項次の如し。
(一)震源地を結ぶ方向に開口する港灣は然らざるものに比し被害大なり。
(二)港灣の型V字型をなし其の廣大なるものにありては、津浪の中心勢力は港灣の中心を走り奥部に進むに從ひて被害大なり。
(三)灣口狹き程波浪高く、其の勢力又強大なり。
(四)河川野溪が平坦地を貫流するときは波浪の中心勢力は之を傳ひて奥部迄も侵入す。
(五)汀線附近の廣大なるときは狹き場合に比して波浪の高さ低し。
(六)灣口の前面に島嶼等の如きもの列状に點在し、其の幅を狹少ならしむるが如き場合は波浪は却つて強大となる。
(七)港灣の規模小なるものにありては、其の震源地に對する方位型状等による被害の差異甚だ少し。
各地に於ける被害は何れも人畜の死傷、家屋の流失、倒壞、漁船及漁具類の流失、破壞、道路、防波堤欠潰等にして、津浪は遠く海岸より一、五〇〇米の奥部に迄も侵入したるものあり。其の慘状眞に同情に堪へざるものあり(寫眞參照)。
尚林業關係の被害は左記の通りなり(三月十七日現在)
一二、五三四立方米 二一八、二九〇圓
枕木 八八、八四五挺
木材{ 板 六四、五五八平方米
桐 七、〇五〇玉
製材所 二六ヶ所 四八、六一九
一九八棟 五三、〇九五
木炭倉庫{
一三、八七一平方米
炭窯 六八四基 一一、二〇五
木炭 七四、四三六俵 三八、四二一
海岸砂防 五・四九ヘクタール 一、二六一
保安林 一三・〇六ヘクタール 一、一二一
林道 二線 三、三〇八
二八一石 五二〇
造林地{
三・〇七ヘクタール
木炭檢査所 六戸 六二六
合計 三七六、四六六
(三)宮城縣下に於ける被害状況
(宮城縣山林會報第二十二號より抜萃)
今回の震嘯災害を被りたる町村は二十にして、五郡に亘り就中被害の最も激甚を極めたるは本吉郡唐桑村、歌津村、十三濱村、牡鹿郡大原村及桃生郡十五濱村なり。今縣下全般に亘る被害状况を擧ぐれば左の通り。
尚各種の損害見込額左記の通りなり
海嘯と海岸林
—本稿同前—
三陸海岸は海岸線の小屈曲甚しきため多數の江灣を形成し、加ふるに沿岸は絶壁をなすもの多きを以て海岸に砂地平坦地を存するもの極めて少し。從て此間所々に海岸林を散在するにすぎざるも、唯石巻市(宮城縣)以南及び八戸市(靑森)以北の地域にありては之と趣きを異にし、海岸線屈曲比較的少く砂地状の長汀相連り、内陸方面も平坦地又は丘陵状を呈し、宮城縣方面には相當の防潮風保安林を有するも、岩手、靑森の兩縣に於ては極めて微々たるものにして、殊に靑森縣の此の方面にありては國有林にして、此の目的の保安林は皆無なるの状況にあり。
今三陸沿岸に於ける海岸線の延長防潮風保安林の面積、及び之が設置を必要とする海岸線の延長量を見るに概ね次の如し。
三陸海岸の保安林關係
備考
保安林全面積 二、一七四Ha七八六九(内國有二、〇四八Ha七〇六九)
同延長 一四五Km五二(同 一一六Km五二)
而して右表の中國有防潮風保安林の分布の状況は、宮城縣にありては牡鹿半嶋を中心として、其の西南一帶海岸全線に亘りて連續的に海岸の林を有するも、此れより東北部に於ては海岸線の屈曲多きため局部的に存在し未だ全からず。岩手縣にありては前述の如く其の特殊なる「リアス式」海岸線の爲め、海岸林は大小局部的に存在するも未だ多大の必要地域を殘存す。靑森縣にありては其の南北端に僅少の海岸林を存するのみにして、大部分の沿岸地は之を有せざるものなり。
而して海岸林の内國有以外のものにありては、魚附林として海岸に面する丘陵又は高地にあるものは夫々優良なる林分を見るも、防潮風林として平地砂地に造成せられたるものは甚だ僅少にして、局部的にアカマツ、クロマツ等存在するも、多くは明治二十九年頃以後附近母樹よりの天然下種により發生したるものにして、之が群生地の面積は勿論、其の樹高直徑等に於ても海嘯に對して充分の効果ありとは斷定しがたく、尚此の外河口の各部落附近海岸にアカマツ、クロマツ、スギ等の人工植栽地存するも、極めて局部的且近年の植栽にかゝるもの多し。更に考慮すべきは、人家密集せる地域は多くは汀線迄も家屋を建築して何等の防潮的施設なきもの多く、從つて全滅の慘禍に會したるも、比較的地域廣大なるか又は幾分高所なる箇所には、相當海岸林の存立により多大の効果を發揮したるものあり。
海嘯に對する海岸林の効果
海岸林が直接海嘯に對して偉大なる防禦的効果を有することは茲に改めて述ぶるの要なき處にして、我國に於ても明治二十九年三陸の大海嘯に於ては死傷者二七、〇〇〇餘人、流失家屋一、四〇〇戸、船舶の流失は實に七、〇〇〇隻に達したるも、防潮林の後方一帶の地區は何等の被害なかりしことを證せられ、今回の海嘯にありても到る處に之が適例を示し枚擧に遑なき有樣にして、甚しきに至りては僅少なる屋敷林又は單木にありてさへも顯著なる奏効の事例に乏しからざる處なり。
然りと雖元より海岸林が偉大なる効果を發揮するには其の構成と津浪との間に緊密なる關係を有するものにして、立地の状况即ち形、深淺及入口の方向、海岸線よりの距離、汀線よりの高さ等と、森林の大さ即ち幅員、延長、森林を構成する各個樹の大さ即ち直徑、樹高、樹齡、形質、樹種、鬱閉度等の諸因子が、更に津浪の大さ方向等と共に幾多綜合の上表現せらるゝものなり。海岸林は前述の如き各因子の相關々係によりて夫々効果を表はすものなるが故に、單に一小局部的に存在せる森林が根倒れとなり又は折損せらるゝ等の被害ありしことを以て、直に海岸林は三陸地方の如き特殊の地殻構成をなす地方に於て、特有の形を以て襲來する津浪に對しては何等の効果なしと速斷せる學者あるも、餘りに小局部に對する皮相の觀察にして偏く全般に通ぜざる謬論と稱すべきなり。更に一度海岸林が造成せらるゝや、平時にありてはよく防風防潮の作用をなすのみならず、永く間伐副産物等の森林収入をも期待し得べき効果あるに於ておや。今回の海嘯に對する各地海岸林の具体的効果につき、其の幾部實例を掲げて之を明にせんとす。
一 單純なる屋敷林
宮城縣牡鹿郡大原村谷川部落
當部落は全戸數四三戸の中三二戸は全滅し、殊に海岸に近接して建築せられたるものは住家と物置其の他との區別なく全部流失し、殊に海岸通りに建立せられたる大型の記念碑さへも顛倒したるを見る。斯の被害地の海岸に接近したる附近に於て、只一棟の住家は幾部被害ありしと雖流失を免れたるのみならず、内容外觀共に殆ど舊態を維持し居れり。津浪襲來と共に家族は逃るゝの暇なく、遂に屋根裏に避難して異状なきを得たる程急激なる津浪なりき。此の家屋は周圍一方を除く外は全部エノキ、スギ、シノタケ等よりなる屋敷林によりて圍まれ、樹高約二〇米、下層は完全に鬱閉を保つものにして、全く此の僅かなる屋敷林によりて完全に防護せられ流失破壞を免れたるものなり。
岩手縣氣仙郡廣田村長洞
小友村唯出と接續し大被害を受けたる部落なれど、其の中の一民家は前及左方にスギ、アカマツの屋敷林(直徑二〇糎、高さ六米位のもの二、三本並びて存立す)の爲め倒潰流失を免れたり。然るに此の種立木を缺ける隣家まで全部の家屋の流失を見たるものなり。尚當部落にては電柱の頂部及電線に海草の附着せる状態より推察し、津浪の高さは凡そ八米位に達したるが如し。
岩手縣九戸郡長内村二子
海岸より七〇米餘を距る一民家は、附近家屋の全部流失せるに拘らず、住宅の前面に二十二、三年生のアカマツ拾數本存したるのみを以て、良く防波の効を奏し流失を免れたり。
岩手縣氣仙郡赤崎村大字永濱字小浦屋敷林
海岸よりの距離約三〇米、前面直ちに海岸に面し、屋敷の前面にスギ三〇年生胸高直徑二〇糎内外のもの成育せり。
本箇所は大船渡灣沿岸にして、本村は他部落に比し水勢稍劣れるが如しと雖、而も本家屋兩側の家は共に全部流失し死者を出したるも、本家屋のみは流失を免れしのみならず家族九人全部無事なるを得たりと。
主人須賀松治郎氏の談に依れば、地震後津浪を豫想警戒中突如津浪に襲はれたる時は既に津浪は家の前面にあり、スギ樹立の間を通り家の中央部を抜き海水は家中を斜に走りたり。主人は左手に孫(四才)を抱き居たるも、引水の爲一瞬にして水勢によりて押出され、スギ樹立に衝突せし瞬間無意識に右手にてスギの枝條を支へ、減水を俟ちて直に山手に引き上げ助命せりと。尚スギ立木中一本は折損一本は根倒れとなり流失し、此の部分を通りし水勢のため家の中の中央部を若干抜かれたりと。
二 保安林と堤防上の僅少の林木
宮城縣本吉郡大谷村三島野々下國有保安林
本林地は大谷村日角部落より階上村境を越え更に階上村に連續するものにして、此の大部分は舊藩時代伊達侯によりて地方民が植栽せしめられたるものなりと稱せられ、胸高直徑五〇糎内外に及ぶものあり。されども維新後地方民の無理解は遂に各所の海岸林を伐採し、必要と認めらるる砂地にして一木をも現存せざるの箇所あるも、タブ岬の突出部のみに森林を保殘し、現在沿岸砂地の各所に見るは多くは人工植栽にかゝるものを主とし、附近林木より天然下種により新たに森林を造成しつゝあるものを見る。大谷部落の西南端に存する保安林は上木は樹高一〇米、直徑二〇糎内外のものなれども、下木密生し且つ森林の幅員四米以上なりしを以て、其の前面に生立する林木によりて津浪の勢力は著しく減殺せられ、後方の耕地は何等の被害なかりしに不拘、此の森林の東端に於ては殆ど林木の存立なかりしために、津浪は後方耕地に對し一〇〇米以上の箇所迄も浸入し、土砂を以て埋没し此の大半を破壞し盡したり、又大谷海岸より階上村杉の下部落に至る沿岸にて僅かに森林状を呈せる堤防は、其の幅員狹少且林木の下層は極めて粗なりしにも不拘、津浪は堤防を越えて若干浸入したる程度に止るも、森林を存せざりし地區は堤防を破壞し土砂、石礫は遠く耕地に浸入堆積するに至れり。
宮城縣本吉郡大島村村有海岸林
本村は氣仙沼灣の入口東部に南北に長く横はる島にして、其の海岸一帶アカマツ、マサキ等の海岸林あり。マサキは多く屋敷林の如く一列に植栽せられ樹高又三米以内、アカマツの大部分も亦並木式の如く略一列に植栽せられたるもの多く、唯長崎部落のものは幅員三〇乃至八〇米に及ぶ壯齡林あり。此の下層は樹高五、六米なる幼樹密生し延長一、〇〇〇米に達する森林地帶あり。津浪は此の林地幅員の三分の一乃至五分の一迄浸入の形跡あるも、其の被害の程度は附近森林なき地區に比し著しく輕微なるものにして、本林内に海水浴場附屬建築物三棟ありしも何等流失破壞の厄に會はざりしに、林地より約一町餘の地點にありし鰹節製造所は全部流失せり。
宮城県本吉郡小泉村中島國有林(防潮保安林)
本林は海岸に平行せる幅員五〇米延長五〇〇米、帶状林にしてアカマツを重とし、直徑二〇乃至三〇糎樹高一五、六米の上木と、三乃至五米の下木との大樣二段林をなし、下木は極めて密生す。北部約五〇米の箇所は幅狹く立木散生し下木を有せず。此の兩者林相の差異は津浪に對し効果上顯著なる相違を來し、前者即ち密林の部分は海岸に面したる林縁に於て幼齡木を倒し樹根を露出せしめたるに過ぎず、後方耕地には何等の被害を見ざるも、後者疎林の部分は浪の力を緩和すること薄弱なりし爲め、後方の水田に二〇糎内外の海砂の堆積を見、又幅員、高さ共に一米内外を有する畦畔破壞され、被害は更に後方三〇〇米の桑園に迄及び桑樹の倒れたるもの點散せり。而して松樹に汚塵を留めたる高さより察し、津浪の高さは二、三米と思料せらる。
岩手縣氣仙郡高田町町有海岸林
高田氣仙沼兩町の海岸には幅員五〇米以内延長三粁に亘るクロマツの海岸林あり。人工植栽にかゝるものにして直徑五〇糎乃至一〇糎、高さ二五米乃至一〇米内外のもの各樹齡の集團的林分なり。
所有關係は町有市有相混す。
附近は沿岩にて海岸林の存在なく、開放せる耕地又は川沿の田畑は海岸より五〇〇米を距てたる地點迄も海嘯の襲來を受けたり。現に高田松原林中に浩養舘なる旅舘あり、眺望の關係より前面海岸の森林を伐採除去して此の方面には何等の障害物なかりしため全く流失し、死者三名を出したるに、此の處より僅か一〇〇米を距りたる林中に縣營松濱莊及び附屬建設物あり、高さ約一〇尺の津浪襲來したるも、前面一樣に森林を以て防護せられしため一部半壞を生じたるのみにして極めて僅少の損害に止り、其れより更に奥部二五米の箇所に存する便所等何等の被害なかりき。海水浸入の跡を檢するに海岸より二〇—三〇米の箇所にある此の森林にありては下層全く疎開し、防護力極めて薄弱なりしにも不拘、林内三〇米にして何等實害なき程度に緩和せられたるを見る。
岩手縣下閉伊郡田野畑村海岸林
海岸は東に面し海岸線の長さ約二〇〇米、後方は直ちに山に接す。本森林の前方に平井賀川流れ、樹高一二—一三米胸高直徑一四糎内外なり。本林の内部に建設せられたる家屋は海岸より二七〇米内外の地點により、其の幅員狹少なりし部分にありし家屋は流失したるも、周圍相當密なりしもは流失破壞を免れたり。
岩手縣九戸郡下長苗代村の海岸林
下長苗代村字八太郎の海岸に於ては、明治二十九年大海嘯の際、海岸より約三〇〇米の内部に直徑一尺内外のアカマツ林ありしため、附近の部落は大慘害を被りたるも、本部落のみは被害極めて輕微にして住家の流失倒壞等なかりしと。
現在本地區にはアカマツ直徑一〇糎内外のもの密生せり。之前回の海嘯に於て浸水のため枯死したるアカマツ林を伐採後、天然下種によりて成立したるものにして、海岸より二〇〇米の附近より成立し、幅員一〇〇米延長約四粁に達す。今回の海嘯に於ても此のアカマツ林は防護の効果顯著にして、森林後方の住家は僅かに其の土臺に浸水したるのみにして被害なかりしと。
靑森縣上北郡百石町の防潮林
百石町字横道に於ては海岸より三〇〇米附近の砂地に、本町在鄕軍人分會によりて大正二年防風防潮並分量基本財産造成の目的を以て、アカマツ八割クロマツ二割の割合を以て約五町歩の砂防植栽を行ひ、現在に於ては直徑二〇糎内外樹高約一〇米に達し密林をなす。此の森林は部落の前面にありて幅員五〇米延長約一粁あり。海嘯は森林の外側にありし納屋等全部を倒壞流失したるも、潮水は森林内を徐々に内部に浸入したるため、森林の後方に建設せられたる住家は僅かに土臺に浸水したるもみにして全く被害なきを得たり。然るに本部落に相隣接せる川口部落にありては防潮林なかりしため、横道部落よりも海岸より遠距離なりしにも不拘、住家は悲慘にも流失又は倒壞せられたり。
以上は僅少なる例示に止るも、三陸沿岸全般に亘りては斯種の例夥多なるべきは推量に難からざる所とす。然れども一面、前方若しくは側方に屋敷林其の他木立を有するに拘らず、他の之を缺ける民家と同樣倒壞し或は流失したる事例も尠なからざるが如し。併しながら之等は森林の効用を缺ける所以にあらずして、波浪が他の林木無き箇所より襲來せる爲めなる事は、海草其の他塵芥等の附着せる状態により自ら明かなる處なり。故に屋敷林を造成し防潮林たらしめんとするが如き塲合にありては、地況の詳細を察知し、浪が何れの方向より襲來するも常に安全なる樣工夫すべきなり。
而して又林木が海岸近くに疎立し、或は集團すとも、幼齡にして小數の存在なる場合には、挫折され若しくは倒木されたる例尠なからず。更に又最近の植栽に係るアカマツの如きは殆ど全部枯死せり。故に前者に於ては防波の効用を發揮せしめんが爲めには常に疎立せしむるを避け、殊に三陸海岸が津浪の襲來頻繁なるに鑑みては、幼齡林時代に於ても其の被害を受くべきを思料し、豫め之に備へんが爲め、常に壯老齡林に於て必要以上に相當大なる幅員を有せしむるの要あるは此處に詳説する迄もなき事とす。
又後者に於ては、アカマツは潮に對して極めて弱性なるを以て、海岸防潮林たる最適樹には非らざるなり。尤も東北地方海岸殊に南方より北上するに從ひ、逐次クロマツの存立を減じてアカマツ之に代りて增殖せらるゝ事實を照合する時は、より多くアカマツに適するが如しと雖、防波林造成に際しては努めてクロマツ林たらしむるを必要とす。
津浪災害豫防法
本稿は震災豫防評議會發行の「津浪災害豫防に關する注意書」より抄録轉載せしものにして同會の承諾を得たるものなり
浪災豫防法
高地への移轉 浪災豫防法として最も推奨すべきは高地への移轉なりとす。尤も漁業或は海運業者の爲めに納屋事務所等を海濱より遠ざけ難き場合あらんも、然れども住宅、學校、役塲等は必ず高地に設くべきものとす。三陸沿岸の町村部落は概して山岳丘陵を以て圍繞せらるゝを以て多少の工事を施すに於ては適當なる住宅地を得るに甚だしき困難を感ぜず。但し漁業者にして往々高地住居の不便を唱ふるものあれども、業務上の施設を共同にし且つ適當なる道路を敷設するに於ては其の不便を除くを得べし。實に船越村山の内の如きは古來此の方法を實行し千數百年來未だ曾て津浪の害を被りたること之れなしと稱せり。
V字形をなせる港灣に於ては固より、U字形及港灣V字形をなして大灣に開くが如き場合に於ても亦津浪を正面より防禦するは實際上殆ど不可能に屬す。斯くの如き場所に於ける浪災豫防は津浪進路の正面を避け、其の側面の高地に適當なる移轉場所を求むるを唯一の策とすべし。船越村山の内、吉濱村本鄕等適例とすべし。後章、綾里村、兩石、田老、釜石等に關する案を掲ぐ。
安全なる高地は鐵道、大道路或は改修に當りても之を利用すべく特に鐵道驛に於て然りとす。
其の他浪災豫防法として推奨すべき諸方法を列擧すること次の如し。
防浪堤 防浪堤とは津浪除けの堤防を謂ひにして海に設くるものと陸に設くるものとの別あり。普通の防波堤は風波を凌ぐに足るも大津浪に對しては其の効果を期し難し。之を津浪に對して有効ならしめんには其の高さに於ても將た其の幅に於ても更に幾倍の大さに增さヾるべからず、費用莫大なる爲め實行困難ならん。後章、釜石、田老等に關する案を掲ぐ。
防潮林 防潮林は津浪の勢力を滅殺する効あり。海岸に廣濶なる平地あるときは海濱一帶に之を設くるを可とす。高田町沿岸に於ける松林の如きは此の好例たり。後章、田老、釜石等に關する案を掲ぐ。
護岸 津浪の餘り高からざる場所に於ては津浪を(後説に於て詳述す)阻止するに足るべき護岸を設くるに難からざる場合あり、山田、長部等此の好例たり。後章、釜石、泊等に關する案を掲ぐ。
防浪地區 繁華なる街區が海岸形式V字形をなして大灣に開き、或はU字形をなして大灣に開くが如き津浪の餘り高からざる海濱にありて、而も多少津浪の浸入を覺悟せざるべからざる場合に於ては、防浪地區を設置し區内に耐浪建築を併立せしむるを可とす。基礎深く且つ堅牢なる鐵筋コンクリート造は最良の耐浪建築なるべく、之を第一線に配すべし。海岸に直角なる壁を多少強固に築造せば一層効果を収め得べし。又家屋が木造なる場合に於ても基礎を深く堅固に築き土臺を基礎に緊結せば相當の効果あり。防浪地區の背面に配列せしむるに足るべし(本會編纂「家屋新築及び修理に關する耐震構造上の注意書」參照)。後章、泊、釜石等に關する案を掲ぐ。
緩衝地區 津浪の浸入を阻止せんとせば必然の結果として局部に於ける增水と隣接地區への反射或は氾濫を招來するに至るべし。川の流路谿谷、或は其の他の低地を犠牲に供して之を緩衝地區となし、以て津浪の自由浸入に放任するに於ては隣接地區の浪害を輕減するに足るべく、若し又投錨の船舶を此の緩衝地區へ流入する津浪に委ぬるに於ては其の被害を多少輕減し得べし。緩衝地區には住宅、學校、役場等を建設せざるものとす。鐵道、大道路も亦之に乘入れしめざるを可とす。後章、釜石、田老、兩石、綾里、湊、雄勝等に關する案を掲ぐ。
避難道路 安全なる高地への避難道路は何れの町村部落にも必要なるべし。釜石の如き都會地にありては此の種の通路をして將來の住宅地たるべき高地へ通ずる自動車道路をも兼ねしむるを得策とすべし。
津浪警戒 津浪豫知の困難なるは地震豫知の困難なるに等し。然れども津浪の波及は緩慢にして其の發生より海岸に到達するまでに三陸東沿岸に於ては通例少くも二十分間の餘裕あるを以て、器械或は體驗によりて其の副現象を觀測し、之に依て津浪襲來の接近を察知し得べし。
津浪の副現象は左の如し。
(一)津浪の原因たる海底變動によつて大規模の地震を伴ふ場合多し。
地震動は之に緩急種々の區別あるも概して大きく揺れ且つ長く繼續す。
(二)地震と津浪とは同時に發生するものなれども傳播速度に差あり、其の發生より海岸に到達するまでに地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども津浪は二十分乃至四十分を要すべし。
(三)遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり。地震後五六分乃至三十數分目に來るを通例とす。
(四)津浪は三陸沿岸に於ては引潮を以て始まるを通例とすれども然らざる場合あり。爾後海水は一進一退を繰返すこと多大なるべく、多くは第一波が最大なれども第二或は第三波が最大なることもあり。潮の進退は其の速かなるときは毎秒十米に達することあり。
津浪は概して以上の如き順序よりて起るを以て單に體驗のみに依りても警戒の手段あり。若し之に加ふるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、團體組織等を以てせば一層有効なる警戒をなすを得べし。
津浪避難 地震の性其の他よりて津浪の虞之れありと認むるときは老幼虚弱のものは先づ安全なる高地に避難すべく、其處に一時間程の辛抱をなすを要す。又強者特に健脚のものは海面警戒の任に當るべく、津浪襲來の徴を認めたる場合、警鐘電話等に依る警告を發するに遺憾なきを期すべし。
避難の爲め家屋を退去するに當りては津浪到着までの餘裕を目算し、火の元用心、重要なる物品携帶等機宜に適する處置をなすを可とす。雨戸を開放するは津浪破壞力の減殺に有効なることあり。
船舶は若し岸を二三百米以上離れたる海上にあるときは更に沖へ出づること却つて安全なり。然し然らざるときは固く之を繋留すべく、若し又緩衝地區へ流入の見込みあらば投錨のまゝ之を浪の進退に任せること避難上の一法たるべし。
記念事業 浪災豫防上の一大強敵は時の經過に伴ふ戒心の弛緩なりとす。明治二十九年大津浪の直後、安全なる高處に移轉したる村落は其の數十指を屈するに及びしも、時の經過に伴ひ再び復舊して今回の災厄を被るに至り、唯僅に吉濱村本鄕及び崎山村女遊戸の如き一二の部落のみ能く此の浪災豫防上の第一義を遵守せり。惟ふに今回の災厄に對する記念事業多々あらん、就中浪災豫防に關する常識養成の如きは之を罹災地の一般國民に課して極めて有意義なるものたるべく、特に之を災害記念日に施行するに於て印象最も深かるべし。
記念碑を建設するも亦前記の趣旨に適するものたり。是不幸なる罹災者に對する供養塔たるのみならず、將來の津浪に對し安全なる高地への案内者となり、兼ねて浪災豫防上の注意を喚起すべき資料ともなり得べきを以てなり。
浪災豫防法應用の例
(一)田老村 港灣は外洋に面してU字形をなし、津浪の高さ今回は六米なりしも明治二十九年の場合に於て十五米に及べり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を北方斜面十二米以上の高地に移す。此の爲めには多少の土工を要すべし。若し次に記すが如き防波堤を築き且つ緩衝地區を設くるを得ば住宅地を多少(例へば五米)低下せしむるも差支なからん。
田老川及び北方を流るゝ小川の下流をして東方へ向ふ短路を取つて直ちに田老灣に注がしめ、別に防波堤を築き其の南方地區及び上記二川を以て緩衝地區とす。
防浪堤を築き難き場合に於ては防潮林を設くべし。兩者を併用するを得ば更に可なり。
(二)兩石 兩石港はV字形をなして兩石灣に開けり。津浪の高き今回は十一米なりしも明治二十九年の場合に於ては多少高かりき。
浪災豫防考案次の如し。
住宅地を十二米以上の高地へ移轉せしむ。其の第一候補地を舊部落地の西南方高地とし。第二候補地を北方高地とす。兩者を併用するも可なり。共に多少の土工をなすを要す。
舊部落及び水海川の兩谿谷を緩衝地區とす。
(三)釜石 釜石港はU字形をなして釜石灣を開けり。津浪の高さ今回は四米たりしが明治二十九年の場合には八米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
北方山腹を開拓して住宅地とし、自動車を通ずべき避難通路を設く。
須賀の一地區は住宅の建設を止めて臨海の遊園地とし、兼ねて大渡川と共に緩衝地區たらしむ。
鐵道線路を利用して陸上の防浪堤となし防潮林を設けて其の外廓たらしむ。又出來得べくんば海上にも防浪堤を設けて前者と共に略ぼ一直線上にあらしめ其の北方に内港を抱かしむ。
護岸を内港及び大渡川右岸松原等に設け内港護岸に接する一帶の街區を防浪區とす。
護岸の高さは五米程度とすべく、若し海陸に防浪堤を設くるを得ば北方の護岸は多少(例へば一米半)低下せしむるを可ならん。
(四)綾里湊 南方に開ける細長き港灣にして津浪の高さ今回は八・五米なりしも明治二十九年の場合に於ては十一米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を西側十二米の高地に移すべく、此の爲に多少の土工を要す。
港灣の延長部たる舊部落地一帶の低地を以て緩衝地區とす。
(五)泊 泊灣はU字形をなして廣田灣に莅めり。津浪の高さ今回は八・六米にして明治二十九年の場合は十米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
泊は其の住宅地概して六米以上の高地にあるを以て、若し一歩後方の斜面に退却せば津浪の追及を免かるゝに難からず。但し現在に於ける漁業組合事務所等の位置は大津浪の場合浸水を免れ難かるべく、此の一帶海面に向へる樣を防浪地區として完全なる耐浪建築を並立せしむるを要す。
(六)雄勝 雄勝灣は細長く且つ屈曲したる入海にして雄勝港は其の末端にあり。港に於ける浪の高さ明治二十九年の場合は三・四米なりしが今回は稍々高く四・七米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を北方の丘陵地へ移すを可とす。本所は工業地のことなれば漁業地に比較して移轉容易なるべし。
護岸は現在二・七米の高さを有せり。更に二米築き上ぐるを可とすべし。
雄勝港の延長部たる川筋の低地を以て緩衝地區とす。
防潮林の造成
本稿は主として當局九里、相澤、松前三技手並に瀧川、渡邊兩囑託の調査復命せるものより抄録せしものなり。
海岸林が海嘯に對し極めて偉大なる効果あることは既に明かなる事實にして之は唯に海嘯防止に直接の効果あるのみに止まらず、其の造成に當りては
(一)コンクリートの防波堤の如く多額の經費を要せず。
(二)相當期間年度實行するものなるが故に、地元部落民を使役して之に勞働の機會を與ふること。
(三)相當成林の後は薪炭材、用材等の供給も可能なること。
(四)平時は防潮防風の作用によりて附近耕地に著しき効果を與ふること。
(五)魚附林として効果を有すること。
(六)風景美を增大し保健に適すること。
等間接的にも幾多の特長を有するものにして、海嘯防止の方策として眞に唯一好個のものたるべし。
被害各町村に於ては其の後諸般の方面に渉りて鋭意復舊に努力しつゝありと雖も、差當り直前の應急處置に奔命し、未だ本事業の如き恒久的且相當年間繼續して實行を要するものに對しては、大いに其の必要を認むるが未だ着手に至らざる事情にあるが如し。されば此の際速かに造成に對する具体的計畫を樹立すると共に、其の實現を期せざるべからず。今之が計畫並に實行に關して特に注意すべき事項を擧ぐれば左の如し。
(一)特に優秀なる森林技術者を必要とすること
防潮林は永久に存續せしむるを必要とし、之が造林撫育は勿論、成林後更新等に關しても一般林と大いに其の趣を異にし、極めて周到なる準備と取扱に俟たざるべからざるを以て、優秀なる森林技術者を必要とするや明かなる所なり。
(二)之を保安林に編入すること
其の目的より之を保安林に編入し、伐採其の他の施業を制限するを要するものにして、保安林として完全に其の目的を達成せしむるには國に於て之を管理經營するを要す。
防潮林は保安林として極めて嚴正なる施業取扱を必要とするが故に、一般民間又は組合等に委托せられざるは勿論、外力により其の根本施業の方針又は取扱を動かさるゝ懼あるが如き地方團体に托するを得ず。國に於て直接實行を必要とするものなり。
(三)強力なる機關の下に地域一帶の統括を圖ること
其の目的より効果の萬全を期せんがためには、沿岸地域一帶に渉り統一せる施業方針に基き強力なる一機關の下に統括し、業務の徹底的實行を期することを要す。
我が營林局署は既に多年此方面の實行に當り、豊富なる經驗と優秀なる技術者とを有し、各地に營林署擔當區の配置ありて統一せる訓練の下に嚴正適切なる施業計畫を樹立し、之が實行に當りては毫も外力に支配せらるゝことなく、最も忠實適確に實行し得るの立場にあるを以て、營林局署に依る施行を以て最も堅實に目的を達成せしむるものなりと思料す。
然れども元來之等の防波林は各地元部落の爲めに設置するものなるを以て、之が監督官廳たる當該縣とも十分打合せの要ある事は勿論とす。
(四)幅員は成るべく大なるを要す
理想を以てせば、津浪の到達する高さの地帶まで全地域に植栽すべきものなるを以て、常により廣からしむを要す、之を更新上より考察するに、立地の條件中庸なる場合にては、普通樹高の三乃至四倍にて足るべしと雖、植栽樹種がクロマツの如き強陽性に屬するものなる時、其の施業法は區劃皆伐に依り、更新面が津浪に對し効果なきものと假定せば、其れだけ幅員を增加せしむる必要あり。
而して地形其の他により所要幅員を得難き場合に於ても、樹木の存在は有効なるを以て、少數にても必ず植栽する樣留意すべきなり。
(五)樹種は最も強性なるを要す
造成地域は海岸砂地等最も立地的に惠まれざる所なるを以て、採用の樹種は之に適合するものならざるべからず。然るに東北地方海岸は北上するに從ひ林地は漸次クロマツを減じてアカマツを增加すること既記の如きも、アカマツは潮水に脆弱なるを以て、植栽に當りては其の全部をクロマツにすべきなり。
而して濕地等直ちにクロマツの植栽不可能なる箇所には差當り其等に適する樹種を以てし、且排水工其の他の工事を要するものは、植栽前完成せしむるを要す。海岸線に於ける樹種の分布は頗る單純にして、何等特種のものを發見せず。結局防波林の樹種たるべきものは主としてクロマツ一種に過ぎざるべし。尤も土地の肥沃を圖り森林の成立を安全ならしめんがために植栽する副林木の如きは此の限りに非らざるなり。
(六)河岸には成るべく奥部まで植栽するを要す
津浪は河川を遡り遂に兩岸より溢れて被害を及ぼすこと多きを以て、防波林は住宅地域より更に上流に迄植栽するを必要とす。此の際考慮すべきは河川が部落の中央を貫通し、之がために被害を增大せしむる箇所に於ては、其の河流を一方の山脚に移して將來に備へんとすること之なり。
(七)海岸への通路は海岸に向つて直線をなさヾる樣注意を要す
前項河川の場合に於けると同樣、津浪は道路より襲來すべきを以て之を屈曲せしめ、道路の爲めに被害を大ならしめざること肝要なり。
津浪に關する造林計畫の大要
—本稿同前—
所管別要造林地面積
津浪防備林の造成に關して本多靜六博士は「森林の幅は十間乃至五十間成可く三十間以上となし樹種はクロマツを主とし是の下にビヤクシン、ムロ、イボタ、ツバキ、ヒサカキ、タブ、マサキ、サンドジユ、イヌマキ其の他の海岸に適する雜木や灌木を繁茂せしめ下草落葉の集採を制限して地力を增加し以て森林の密に繁茂を圖ること」と主張せられ、又小林榮氏は「海岸林の幅員を大きくし、クロマツ、マキ等の林を成立せしめて其の下方にハマゴウ、グミ、ハマナシ、フデクサ等の灌木や草類を植付けて二段又は三段林を完成せば津浪の難は十分に防止する」と説明せらるゝも、今回災害地調査に依りて各町村各部落毎に地形其の土地に襲來せる津浪の大さ被害の程度森林効果の状況等を充分調査考察するに、海岸線に沿ひ夫々相當幅員の防潮林を造成するを要するものにして、大体左記に準據して之を决定せんとす。即ち、
一、從來も今回も被害僅少にして海岸に適當なる植栽區域なる箇所に於ては、町村又は部落民の自發的努力に依り簡單なる土壘の築設土壘上及土壘内の植栽及家屋周圍の屋敷林の造成實行を促進せしむること。
二、被害僅少なるも海岸に多少の造林すべき餘地ある箇所に於ては防潮林の幅員を最小一〇米を限度とす。
三、従來も今回も被害大なる區域に於ては可成別途に強力なる防波堤を築造し、海岸に於ては被害耕地又は住宅地の後退等によりて適確なる造林をなし得べき地域を必要とす。
四、被害最大なる地方及び海岸に造林すべき餘地を存して多數家屋の集團せる土地に於ては、防波林の幅員は最小五〇米を限度とす。
右に依り現地調査並に町村當局の意嚮等を參酌し、所管別要造林地面積幅員及之が延長等を擧ぐれば左の如し。
施業方法
其の一 造林方法
前節に述べたるが如く、防潮林構成の樹種として有効なるはクロマツを主とし、其の下にビヤクシン、マサキ等の灌木類を下層とする複層の密林なり。(岩手縣宮古町を中心とする附近にありてはアカマツも優良なる生育を遂げつゝあり)本地方各地に局部的に現存する海岸林の状況により見るも之等二樹種の最適なるを推知し得るも海水に對する耐久性よりして、本計畫の造林樹種としてクロマツを採用せんとす。尚アカマツは幅員相當廣き箇所又は特に適當の箇所に對し一部に植栽せんとするものにして、原則としてはクロマツ植栽とす。
而して各地に於ける海岸砂防從來の成績に鑑み、適確に其の目的を達成せしめんがため、一ヘクタール當り六、七五〇本植栽(四尺方植となる)を標準とし、植栽すべき土地は海岸の砂地從來の宅地跡又は耕地等なるも、砂地は安定を第一條件となし、之がため種々施工し、地拵は現地に應じて相當考慮すべきも、前述の如き土地なるを以て、一般に林地に比して極めて低廉なる單價にて實行し得べく、又造林地中一部に對して不良區域發生の場合は直ちに之に補植を行ひ、以て成林の確實急速なるを圖る樣留意すべきものとす。植栽に當りては砂地にして特に海風烈しき地區等に對しては立藁による衝立工を行ひ、且埋藁をも併用する時は其の効果著しきものあるべく、特に地表雜草灌木類等の發生を促し、場合によつてはアカマツ、クロマツ植栽一、二年前又は同時にグミ、ネムの類を混植するも良果を得るの方法たるべし。尚成林の曉に於ては漸次地味の改善せらるゝに從ひ一層濶葉樹灌木類の侵入し來るは必然にして、將來之等の侵入樹種に對しても充分其の成立を助長し速かに林内の鬱閉を期するの必要ありとす。
其の二 撫育
一般造林地と同樣植栽後の手入、蔓切、除伐等を施業するは勿論なるも、成林の状况を仔細に攻究し、特に集約なる方法を以て適切なる撫育方法を講じ、常に鬱閉の疎開せざる樣留意すべきものとす。
其の三 更新
樹種の特性 及び防潮林としての特有の目的を有効に達成せしめんがため、成林後の更新は天然更新に依るを有利且必要とす、而して將來は二段林又は三段林等の復層林型に誘導するを以て最も合理的且適切なりとするものにして、之が更新伐には特に技術上最大の考慮を要し、成林後は特定の期間を指定することなり。局部的に必要に應じ随時に間伐を施行して更新の準備を與へ、其の幅員延長生育關係等を考査して場合によりては海岸線に平行の列状に又小塊團状に伐採することを得べきも、之等の伐採は勿論海嘯襲來の周期の前後數年間に於ては特に回避して施行すべく、特に更新又は利用のために行ふものなりと雖全面的の伐採は嚴禁すべきものとす。
要するに防潮林の更新は保安的の目的を唯一として、形質良好枝條の擴張充分にして根莖の發達旺盛なるものを可成的密生せしめ、數段林型の復層林を形成せしむるを絶對必要とす。林木利用の如きは從屬的のものすべきものにして、之が目的遂行のため林分の伐採には特に愼重の考慮を要すべきものなれば、目的に合致せざる不良木更新の支障木は第一に伐採し、殘存木の形質向上に留意し、成林後天然に侵入すべきクリ、ナラ其の他有用濶葉樹は更新上極めて重要なるを以て適宜混淆せしめ、又灌木類の如きも地力維持上相當有効なるものなれば、其の取扱につきても特に考慮を要す。
其の四 其の他施行上必要なる事項
屡述の如く元より防潮林は保安林に編入し、之が完全なる目的達成のためには必要なる事項の指定をなし。施業上其の他相當の制限を加ふべきを絶對必要條件とするものにして、右の外施業上注意すべき事項は付述ぶれば次の如し。
一、道路施設
交通路及び管理保護上必要なる歩道等は海岸線と直角の方向に設定するは絶對避くべき所にして、之が新設はS字型又は海岸線の方向と平行に施設する等夫々地形に應じ特に考慮すべきものとす。
二、林地の保護
防潮林は保安林に編入せられ、各々其の指定事項に依りて林地は適切嚴正に保護せらるべき所なるも、森林設定の箇所は多くは農漁村の海岸なるを以て、塲合によりては多少の不便の供ふべきことあるは免れざる處なるも、將來林地の一部を他の目的のために使用貸付せしむるが如きは本來の目的を没却し、更新上多大の障害を釀す憂あるを以て嚴に目的外の使用貸付を禁止し、且落葉枯枝の採集等に關しても特に保護取締を嚴にするを要す。
三、局部疎開地の取扱
成林後局部的の成績不良區域にして林相疎開の虞あり又は疎開したる時は、著しく防潮的効果を減殺せらるゝを以て直に之が回復の手段を講ずるを要す。
四、屋敷林の造成
海岸附近に建設の住宅地には其の周圍に必ず相當幅員を有する屋敷林を造成し、平素は防風の作用をなさしめ、一面防潮對策たらしむるは誠に効果的なりと思料す。
五、河川岸の植樹
河川が部落又は市街を貫流する場合は、能ふ限り其の兩岸に對し適當樹種の植栽を行ひ、平時は美觀と保健衛生に資するは又有効なりとす。
防波堤に就て 大川大三(局)
過般の三陸沿岸の海嘯に伴ふ今後の對策並に豫防方法に就ては、各專門家の間に於て夫々調査研究を進められて居るが、其の調査研究の重要事項の一つたる防波堤に就て簡單に述べて見ようと思ふ。防波堤を計畫するには之を施設する箇所の常風、波の性質、海岸の状況及潮流の關係等を充分調査せなければならぬ。右の内波に就て概略述べて見よう。
波の原因
小さい波は簡單なる動揺に因りて起るが何等の害も與へないのである。大きな波の原因は三つある。
(イ)潮波。大海の眞中で起る月と太陽との引力に因り水面が上下して夫れが世界中に擴がり潮と成つてくる。
(ロ)陸上や海上に於ける急激な衝動(地震火山の破裂)や低氣壓や高氣壓等の爲に水面が上下されて起るのである。之は津浪の樣な形に成つて起つてくるのであつて、土地や氣壓の急激なる變化の爲に起る波は一般に日本では津浪と稱してをるのである。之は何處で地震が在つても日本の海岸に波を送るのであつて、近くで變化が起ると大なる波となるのである。
(ハ)風である。風が長く吹くと波は次第に高くなつてくるので波の主なる原因である。
潮波は水面が上下するのみで構造物に對しては靜力壓に影響を及ぼし、地形に因りては潮流を起さすものである。すると構造物の前面の基礎を洗滌して構造物に大なる影響を及ぼすのである。(ロ)で生ずる波は何時何處でどの位の程度で起るかは人智では不明である。津浪は海上では何等の影響も無いのである。何故なればこの爲に起る波は長い波であるからである。
(ハ)の風で起る波は不斷あるので、此の波は構造物の安全度を計算するに主なるものとなるのである。次に波を分類すると二つになる。
(イ)振動波
(ロ)轉移波
(イ)の方は大海でも入海でも風が吹くと波が生じてくるので、風が續くと波はある大いさになつてそれから一定し、風が無くなるとも暫らく波は殘つてをるのである。
(ロ)の原因は別の所にあるのである。即月や太陽の引力などの爲に起りし波の海岸迄きた波を云ふのである。
海岸附近は大風が吹かなくとも外海で大風や地震があると構造物に大なる破壞を與へるのである。潮波、嵐の波、其他津浪も(ロ)の波の中の一種である。この二つの波は性質が異なるので(ロ)は前進運動を有し波と共に水が動いてくる。(イ)は前進運動無く水が上下するのみである。故に破壞力はないのである。(ロ)の波は水面から海底迄同じ樣な速度で水が動くのである。(イ)は其の局部で起る波なる故に下の方に行くと動搖が少なく上の方が激しいのである。少くとも水面の所が運動が大である。之は海岸近くに水に浮く物を置くと(イ)か(ロ)かどちらの波であるかは直に區別する事が出來るのである。(イ)の方は或區間を行つたり來たりしておるのみであるが、(ロ)は外海にある凡ての物を海岸に打ち寄せ、或は海岸に在る物を沖に持つて行つてしまふのである。構造物に對する波の作用に就て考ふるに、波が各種の構造物に衝突する時の作用は各種の方面に作用し、違つた方法で夫々害を與へ構造物の基礎の前面にも害を及ぼすものである。
(イ)波煙(シブキ)の上昇
之は先、波の高さの約六—七倍位である。波の上に昇る力は相當大なるものである。
(ロ)落下する水の作用
之は波煙で上にあがつた水が、下に落ちてくる時に重力を持つて落ちて來て、構造物に近くなるに從ひ速度を增し、大なる力で構造物にぶつかるので、或る時には波自身のあたる力よりも大きくなる時がある。之を防ぐには構造物の表面を平らにして、上部を曲線にして而も丈夫にしなければならないのである。
(ハ)水の旋回運動
之は一部分は波煙の作用で上にあがるが、一部分は丁度反對に下に水が入つてくる。此の力も相當大であるのである。此の力は相當大であるから前面の基礎が完全でなければ次第に洗滌されて構造物は危險となつてくる。尚此の外に二つの特殊な波がある。
(イ)反射波
(ロ)灣曲波
(イ)は反射に因り起る波で、其の起る物は沿岸が斷崖か人工的の垂直擁壁工等が原因になる。海岸の入りこんだ灣などで、如何にも自然的に保護されておる場合で、外からの波は少ないので靜だが、反射波が入つてきて害を受ける事がある。
時には反射波の爲に人工的に作つた港が靜にならない時がある。之はABの方向の代りにA´Bの如く、風と同じ方向に防波堤や擁壁を作ると反射波は起らないのである。附圖第一。
(ロ)外海からきた大波は海の深い所を傳つて海岸にくるのであるから之を防がなければならない。この二つの波は天然にも人工的にも起るので發見し難いのである。一見平面的には波や風から保護されて居る樣な所でも、此の二つの波の爲に保護されない所があるから、此點を充分注意せなければならない。
波の高さ速度及潮や潮流の關係等に就ても勿論言及せなければならないのであるが、他日又改めて述べる事にする。
さて防波堤を作り或は擁壁其他の方法に依り、各種の災害に對し防備を要する事は當然であるが、之等を施設計畫するには其の箇所の常風、波の性質、海岸の状況、潮流の關係等に就て、詳細に調査の上施設するに非らざれば一朝暴風に遭遇せんか忽ち是等構造物は破壞せらるゝのみならず、却つて慘害を誘起することが多々あることに留意せなければならない。
所で防波堤とは如何なる物であるか。之は波を防ぐ目的で作るものであるから、深い所で而も波の強くあたる所に波に直角になる樣に作るのである。之の働は外から進んでくる波を二つの異なつた方向にわかつのである。即ち一つは反射させてしまふのである。第二には砂濱にくると全く波は壞れてしまふ樣にさせるのである。其の原則に從ひ波を壞すのに堤を作るのである。波を壞す堤を防波堤(BreakWater)と云ひ、反射させる目的で作つた堤を埠頭(Pier)とか擁壁(Wall)とか云ふのである。
防波堤の強度や安全度は波の強さや深さに正比例する樣にせなければならぬ。一つの防波堤でも場所に依りて大變異なるのである。即ち異なつた斷面や形にするの必要があるのである。防波堤の種類は之を作る材料の供給關係に依りて異なるのみならず、海の深さや海床の地質、波の強さ如何に依りても異なるのである。其他其の地方の各種の條件も考慮に入れなければならないのである。
防波堤には色々の種類があるが、其の内普通施設されるものは天然石を以て作るもの、コンクリート塊を以て作るもの、コンクリート塊と天然石とを以て作るもの等である。天然石を以て作る防波堤は石を運搬するに好都合な樣に天然石を割つたもので形は色々の形である。此の石を豫定の防波堤の位置に捨石するのである。波の靜かな時は水面迄作られるが荒い波があたると直に壞れるのである。すると上の方は下に落ちて勾配は緩になるのである。すると亦捨石をするのである。斯の如くして附圖第二の樣になつて次第に破壞せない樣になつてくるのである。
然し今日では底幅を廣くして勾配を决定して次第に上に積んでくるから、嵐の時にもたいした破壞はないのである。此の種の防波堤を作る時は、下には小さな石を用ひ外側には少し大きな石を用ひ眞中には小さい石を用ふるのである。頭部や干潮面前後の間は特別に大きな石を用ひて此部分の所を堅固にするのである。此の種の物は石材の澤山ある所で石を安價で得ることが出來る所に適するのである。此の防波堤は底幅が大變廣くなる故、塲合によりては出來ない事がある。唯單に波を防ぐ目的の爲には此の方法が最も適當しておるのである。
コンクリート塊で作つたものは材料が最小ですみ、各層の安全度が充分である。全体としても充分な安全度があるのである。唯其の缺點は隙間が比較的に多く、外海の大なる餘波(嵐の後の波動)が此の隙間をとうして沿岸に波がぶつかるから感心した方とは云ひ得ない。附圖第三。
コンクリート塊と天然石とを併用した防波堤
波の強さに比例して石の大いさを選ぶと勾配も急になり斷面も小さくてすむ。然し大なる天然石を得ることは困難にして高價である。然るにコンクリート塊を併用すると簡單に出來又出來た塊は運搬に都合の良い樣に装置することが出來る、唯之には時間がかゝるのみである、故に天然石の代りに人造石のコンクリート塊を用ふると丈夫で結果が非常に良い。且亦經濟的である。人工石のコンクリート塊の大いさは三立方碼乃至六立方碼を最大とする。附圖第四。
其他色々の方法もあるが、あまりに專門的にして多種多樣到底此處では述べつくせないから、他日亦稿を改めて述べることにして此の稿を終りとする。
海嘯被害復舊用材の供給 収穫生(局)
本年三月三日拂曉三陸地方太平洋岸を襲つた地震、海嘯は實に近來の悲慘事と謂ふべく、死傷者數千家屋船舶の流失破壞數知れずといふ酸鼻を極むるものであつた。
而して此の災害に對し直に起る問題は、之が復舊に要する各種木材の需要であること明かなるを以て、當局に於ては災害直後罹災地管轄の各營林署長に對し、電報又は電話を以て、應急の小屋掛材其の他の材料の申込があつた場合には、最迅速且つ簡便に供給する樣豫め準備調査を爲し置くべきことを通達し、更に三月六日には文書を以て同樣の意味の通牒を發し出來得る限り便宜を圖り、罹災者をして一日も早く居住の安定を得せしむることに努むべき旨を指示し、殊に沿岸漁民に取つては家屋の復舊もさることながら、彼等の生計上漁船の復舊が寧しろ先決問題で、此の材料が先に要求せられべきを慮り、三月八日官行斫伐製品の生産に關係ある各營林署に對し、豫め船具材に振向くべき長材の生産方を示達し、何時にても需要に應じ得らるゝ樣計畫した。尚三月十六日にはヒバ、杉、赤松、栗、欅其の他の針濶葉樹にして、家屋、船舶の建築營繕材料に供し得らるゝものは、立木、製品共公賣處分及左程急を要せざる特賣處分は一時之を見合せて、災害復舊材の供給に充つる樣管内全營林署に通達し、夫々準備を整へて需要の申出に備へ、只管供給の迅速圓滑を圖るこゝとした。
今家屋、船舶の被害、復舊、供給材料等の概要を取纏めれ
ば大凡左表の通である。
備考 本表掲上の外宮古營林署に於て漁船の陸揚棧橋復舊用材として立木五〇四石罹災民の薪炭材として立木七、二一八石を賣拂處分したり。
海嘯と潮害保安林 高橋 武(高田)
去る三月三日三陸沿岸を襲つた大海嘯に因る被害の甚大であつたことは今更申すまでもありません。
本吉郡の中央部沿海に位する當地方も相當被害を受けました。
しかし三十八年以前の明治二十九年六月十五日夜の同じ三陸沿岸の津浪に比べて、襲來の時刻及強弱等に多少の差はあるとしても、被害の程度殊に人命の被害の少なかつたことは、誠に不幸中の幸とも言ふべきでありました。被害の程度が少しでも輕かつたと云ふのは、こんな事が切角見舞はれても困るが、一回より二回、二回より三回と重ねる樣になると、第一經驗が役立つことゝ、防備施設に重きを置いて來たためでなかつたかと思はれます。
最近よく此の方面の研究者とか先覺者とか云ふ人々が、海岸居住の移轉とか各種防備が完全に行はれさへすれば、海嘯被害の災厄から免れ得ると申しますが、其實さうだらうと思ひます。その防備にもいろ々々ありませうが、防潮林の偉力も大した効果を奏するものと思はれます。
本吉郡の小泉村字中島國有保安林も其の一例證として顯著なものがありましたので、其の状况と二三參考になると思ふ事實を摘録して御紹介したしませう。
本保安林は面積五、四二六八ヘクタールの平坦砂丘地で、南北に細長く、内巾の最大一五〇米で平均約七〇米位あります。東面は遠淺の海濱に接し、南端は小泉川の川口に臨み、西方は耕地廣大で且つ小泉の部落を擁し、北は護岸築堤を越えて民有山林に繋がる。
林内海岸に接する部分は常に飛砂、波浪のため地被物剥離し林木の生育せず北端突出して居る部分は草生地で、之に「クロマツ」が點生して居る外は、直徑二〇糎乃至四〇糎内外の「クロマツ」群生し、疎開せられて居る部分には「クロマツ」稚樹密生し、地表は「ハヒビヤクシン」叢生密閉して居り、そして少し許り「アカマツ」が混生して居ります。
此の保安林は潮害保安林で、耕地田約七〇町畑約二〇町を抱擁して、常には耕田畑に最も仇する潮風、潮霧等の害を防いで地方民に貢献するところが随分多かつたのであります。
そこで今回の海嘯には同海岸の波浪は約二十尺で、殊に大地震々源地方向とは殆ど直角正面であり河口を控へ平坦であり、附近被害激甚の部落に比しても相當大被害を豫想される好條件を備へて居るにも拘らず、北端の草生地の「クロマツ」點生箇所と、立木なき保安林以外の防波築堤の空隙を襲ふて土石、土砂を耕地に運びたるに止め、密生林内には波浪浸水したばかりであの暴威を殺ぎ、約百町の耕地一四〇戸の部落の生命財産を安泰の座に置いたものであります。
本保安林の保安抱擁耕地前述の約百町歩の内、保安林北端無立木或は散生地域を越えて浸水土砂堆積の被害は、
田流失 五反 同土砂堆積 一二町五反
畑同 六反 同 上 三町九反
家屋倒壞、浸水、人畜死傷なし、
以上の状況のみでは對照に乏しく比較するものがありませんから、明治二十九年六月十五日の津浪目撃の古老の話を其儘記せば、
今の保安林は、其の當時は相當「アカマツ」を混生し「クロマツ」が群生してあつたが、鹽焚材として間伐的に伐倒、其の上稚樹、下草、落枝、落葉も綺麗に採取せられ林内は疎開せられ、所謂太平に居て顧られなかつたので、一度海嘯に見舞はれた結果が殆ど障ぎるものなく、波浪は今回の津浪よりも高さ二十五尺で約五尺も高く、林内を其儘通過したものゝ如く、被害は(本保安林の流域即ち受益區域内)、新舊二回の海嘯被害を比較するときは今回の被害は殆ど皆無と言うてもよろしく、前回被害に地方民に於ても防潮林の造成並に保護に目覺めて、其後本保安林の養護は勿論接續の河口、河川に沿うて築堤完成し、之に沿うて防潮の目的で「クロマツ」の造林を實施して備へたるため、今回の被害を輕小ならしめたと言うても過言でないと思ひます。
そこで海岸には是非防潮林造成の必要であると云ふことは判りますが、之が造成に付て考へなければならぬと氣付いたことは、
1、潮害防備林には「クロマツ」が適樹であること
本保安林には以前相當「アカマツ」が混生したるも、二十九年の海嘯の際浸水の結果殆んど枯死し、現在では僅少數ふる位しか生立して居ません。
2、一齊に密植し林内を密閉すること
一部一局部でも疎開せられてあれば波浪が此の空隙を襲ふもので、本保安林でも北端、林地巾狹き草生地立木の散生地點を襲ひ、備へられた護岸築堤も形なく洗ひ去り土砂を耕地に堆積したもので、之は河川堤防の欠潰により猛烈の勢で濁水の浸害と同一なものと思はれまず。林内は河川の堤防と同じく延長が均勢同高であらねばならぬことが感ぜられます。
3、可成被害木の伐採、若くは更新上必要の伐採にしても一時に林内を疎開せざること
前項の草生地、散生地は以前は群生したるも、アカマツ多く混生し居たるため、二十九年の津浪が浸水して枯死伐採疎開せられた結果「クロマツ」も漸次枯死するもの出來、伐採せられ現在の状態となつたもので、補植の成功は誠に困難なるものと思はれます。
4、地被物の保護(落枝落葉とも)
海岸地帶は比較的新材に乏しく、かつ馬料の需要に不便な爲め、落枝落葉の採取下草の刈取等、背に腹は替へられぬとして敢て侵すものがあります。地被物の叢生は地力の維持と相俟つて稚樹育成上にも林内の鬱閉にも重大なるものあると思料せられます。
5、海岸沿線は勿論なるも、放流する河口平地には護岸築堤のみならず、内塘には「クロマツ」の造林を爲して備へるは適良の施設と認められまず。
今回の海嘯には小泉村、歌津村の小濱、小磯、部落被害の甚大なる箇所の例を見るに、各所共小澤小河に沿ふ部落で、何等障ぎらるゝものなく襲來せられたるものゝ如く、最も著しき歌津村高田浦は二筋の小河の中州に部落在り、一部落全滅の慘事あり、よく古老は津浪は小澤に沿うて上ると言はれて居ます。又同村港部落には生垣のために倒壞を免れたものがあります。
本中島保安林も前述の如く、南端河口は中州及堤塘に「クロマツ」が造林せられた結果浸水崩壞の災を免れました。
6、地方民には沿海岸に造林して防潮に備へしむる樣喚起せしむることであります。
以上要するに、潮害保安林のよく津浪を防ぎ得た効果の顯著なる例證を見るにつけ、平常は耕地潮害を除き、或る周期に襲はれる海嘯慘禍は之が造成に依つて輕減又は防ぎ得ることを思ふとき、吾々は海岸林の造成と管理經營の合理化と、沿海住民の更生喚起に心するの緊要なるを感ぜずには居られないのであります。
三陸海嘯と管内被害の概况 竹内 義三郎(高田)
過ぐる三月三日午前二時三十二分突如として襲來せる三陸沿岸大津浪に際し、各位の御同情と御懇篤なる御見舞を忝ふし、深甚の謝意を表する次第であります。尚禿筆乍ら當時の状况を掲載し、御厚意に對する御禮の一端と致したい所存であります。
一 三陸沿岸生活八ヶ年の思出
大正十四年九月宮古營林署を振出しに、盛、高田と順次三陸海岸の而も震源地に近い地方にのみ八ヶ年も勤務した自分に取つては、此の度の海嘯は一の免れ難き運命と觀念するより外はなかつたのだ。三陸の山河は曾つて施業案當時、大正八年、十年、十三年と、岩泉、宮古、釜石、盛事業區沿線七十里に亘り具に踏破した曾遊の地であり、今亦此處に命を受けて永年勤務した自分にとり、實に忘れ難き記念の地なのである。
山岳重疊海に迫りて平地乏しく良田稀なりと雖も港灣、漁獲に富み、此處に祖先の業を繼ぎて農漁に從事し、生活豊かならずと雖も人情の純朴なるは此の地方の誇りとし、交通の便備はらずと雖も文化の施設比較的進み、強兵を出しては東北健児の勇名を轟かし、率土の濱に住するも專心奉公に勵み、孜々營々として努力せる。之れ三陸沿岸住民生活の状態なのである。
この幾萬の良民に對し、天何の恨があつて此の災害を下したのか?
而も明治二十九年六月の大海嘯あつて以來、僅々三十八年に足らずして再び此の事ありとは、噫天地有情か將た無情か。
宮古に居た當時度々津浪の噂に脅かされたものであつた。確か昭和三年の春の事である。毎日陰鬱の天氣が相續き、丁度二十九年の津浪當時に彷彿たるものあり、加ふるに地震の襲來頻繁にして、今にも津浪來ると噂され、人心兢々として落付かず、夜間の如き戸外に馳せ出る事再々であつた。當年は恰も前回海嘯の三十三年忌に當り、人心の動揺したのも無理からぬ事なのである。
宮古營林署の廳舎は斯くの如き場合洵に危險な位置に置かれてあるので、當時附近に居住の秋元保助氏の如きは行李萬端荷作りの上、何時避難するも支障ない樣準備せられたもので、その用意の周到さは洵に感心なもので、今となりては一層その感を深くするものである。
事程左樣に三陸沿岸住民は津浪に對し神經過敏であり、恐怖に脅かされて居るのである。
二 津浪襲來の當夜
昭和八年三月三日 午前二時三十一分、草木も眠る丑滿の刻、乾坤爲めに碎けんとする大激震起り、日中の活動に綿の如く疲れて眞に熟睡せる人々の夢を破り、誰一人として床中に在る者なく、或は戸外に飛び出し或は雨戸を開きて避難の用意をなせしが、激震約三分にして漸く止み、再び餘震ありしも極めて微弱なるものありしのみにて別段の事もなかりしかば、人々胸撫で下して屋内に入り、火を掻き起して暖を取るあり冷えたる身体を床中に横たへるあり、多くは安堵して再び夢路を辿らんとした。
此の時遙か海上に當り、或は森林中に?大風の音を聞く如く、或は猛獸の嘯くが音を聞くが如き、又は大砲の轟くが如き異樣の音響を聞き、その響き遠く山間までもこだましたとの事である。
之と共に急に潮の高まり來るかと見れば忽ちにして引き下げ、三時十五分頃に至るや、物凄く急流の如き音を立てつゝ押し寄せ、其の只事ならざるを覺えしめ、人々津浪襲來を叫び塲所に依つては警鐘を亂打し、雨戸を叩いて呼び起す等、先の激震に幾倍せる大騒ぎとなつたのである。
陰暦二月七日の月は已に落ちて、僅かに瞬く星の光、此の夜陰然かも薄雲さへ降りたる寒空に右往左往、或は幼兒を抱き或は老人の手を取り、一物も携へずたヾ着の身着のまゝ跣足で駈け出すものさへあり、その慘状は目も當てられず、一瞬にして三千數十名の生靈を奪ひ、一千百餘の同胞を傷付け、幾千の住家船舶を破壞した。昔語りに繪巻物に身を振はせた往年の津浪が今まのあたり襲來したのである。
三 關係各官の慰問視察
三陸沿岸大海嘯の報一度世上に喧傳せらるゝや、朝野の名士諸官の慰問視察せらるもの引きも切れず、内山林局並に營林局關係調査官の往來せられた状況は左の通りである。
三月五日、午後 山林局造林係 潮見農林技手劈頭第一に來訪、今回山林局震災地被害調査の大綱を話され、高田町並に米崎村被害地調査。
三月七日、山林局池部、西澤兩農林技師には武藤、有園兩氏を同伴、林野被害調査の爲め石巻、志津川町方面より來管、海岸一帶に亘り調査即日盛岡市に向け直行せられた。
七日八日、山林局施業案係野村農林技手には、前一行と共に來町海岸保安林關係調査。
九日、本局九里營林局技手には、前局員案内並に同上の爲め來訪午後盛町に向はれた。
九日乃至十一日、當職管内被害各町村を歴訪慰問す。
十四日、本局高橋營林局屬には災害調査、主として貸附地等の被害調査の爲め來町、即日盛町に向はれた。
十五日十六日、本局安孫子事務官並に菊地金一郎屬には、會計檢査を兼ね災害地調査、特に唐桑村役場を慰問せられ、高橋屬も同行した。
十五日乃至十八日、本局施業計畫係小久保、植杉兩技手外三名には、海岸林と海嘯關係調査。
十八日、大泉計畫課長殿には盛部内より御來管、高田苗圃同松原被害状況御視察、翌十九日唐桑、松岩、階上、大谷、御岳、小泉、歌津各村役場御慰問御視察の上志津川町に向はれた。
十九日乃至二十四日、本局造林係渡邊囑託には、石巻海岸より引續き當管内に入られ、全線に亘り具に海嘯關係に就き一木一草に至る迄調査せられた。
二十四日乃至二十七日、本局淺利屬には、石巻管内より引續き當管内各村に就き、震災復興用材の需給關係に就き詳細營林署と共同調査を爲された。
三月三十一日、後藤農林大臣閣下には、海路桃生郡十五濱村雄勝より本吉郡唐桑村只越に御直行、約四十分に亘り親しく御慰問御視察の後、尚氣仙郡廣田村に御上陸、同樣御視察の上海路綾里村に向はせられた。
榛葉營林局長殿には、農林大臣御案内の爲め御來管、翌四月一日氣仙、高田兩町災害地御視察並に同町役場御慰問の上八戸に向け御出發せられた。九里局技手、高橋局屬の兩名随行せられた。
以上は大体其の大要を記したるもので、或は多少相違してゐるかも知れぬが諒とせられたい。
管内町村にして昭和八年三月二十五日法律第十八號の規定により震災地と指定せられたるは、
岩手縣氣仙郡廣田村、小友村、米崎村、高田村、氣仙町
宮城縣本吉郡大島村、唐桑村、鹿折村、氣仙沼町、松岩村、階上村、大谷村、御嶽村、小泉村、歌津村
の十五ヶ町村で、就中被害の激甚を極めた處は、本吉郡唐桑村、歌津村、氣仙郡廣田村で、前二村は宮城縣に於ても最激甚地に位し、後者は岩手縣内中位の被害とする。
今管内の被害状况を擧ぐれば左表の通りである。
四 被害状况
五 三陸海嘯と海岸林に就て
海嘯と森林の關係に就ては既に斯界の權威本多博士により古くより提唱せられ、二十九年に於ける三陸海嘯當時親しく海嘯地沿岸百里に亘り實地調査せられ、其の研究の結果海嘯防備保安林の主張となつて、造林學本論其の他新聞雜誌に公にせられ、今亦過般の海嘯に際しても逸早く同樣趣旨の喧傳に努められ、其の効果の顯著なる事は一般の等しく認識するところとなつた。
筆者亦前述せる如く國有海岸保安林多き三陸地方に勤務する事永く、平常之等に接する機會が多かつたから、蛇足乍ら其の顯著なりし事例並に所見を左に記述しようと思ひます。
(一)高田松原潮害防備保安林
本林は氣仙郡高田氣仙兩町に跨り、東西に亘る海岸線に沿へ、延長凡千七百米突、幅員凡二百米突の狹長林地で、其の形状は恰も太平洋上より吹き來る風浪を阻止するの状態に在る。
林況は赤松(七五%)黑松(二四%)杉(一%)の混淆林で、樹齡は幼齡林分五—一〇年、壯齡林分二〇—三〇年、老齡林分四〇—一二〇年、毎ヘクタール當蓄積平均二四〇立方米、成立本數九六六本(幅十米突の帶状區域三ヶ所の調査平均とす)鬱閉密なる美林である。
【成立起因】今之が成立起因につき探究するに、寛永十四年(紀元二、二九七年)六月廿三日より廿六日迄の四日間の大雨大洪水や、正保三年(紀元二、三〇六年)の大洪水等の爲め新田が荒され、高田村の百姓は大層困つた事があつて、寛文六年(紀元二、三二六年)仙臺の役人山崎平太左衛門は其の荒れた土地を調べ、傍らなる菅野杢之助(大阪浪士の落人平賀杢の息にして當時高田在住)に向はれ、此の潮の入つて居る處は新田のならぬかと問はれ、杢之助とても之は新田には六ヶ敷いと答へたらしく、其の山崎が復命の結果、同年九月に鎌田九助、宮澤源左衛門の兩代官の出張となり、杢之助に逢つて立神沖(今の松原)横二町長四町の所に松を植ゑよ、苗は山から人出は村人足でと彼を賴んで言付けられた。彼はそれより活動を開始し、人にも村にも相談して立神に植栽の計畫を立て、其の翌年寛文七年閏二月七日を以て植付日と決定し、杢之助は松苗九百本と人足十人を出し、其の他の村人は苗を五千三百本人足七十四人を出し大勢で植ゑた。九日より十二日迄村人足は毎日八人乃至十二人出て、十二日には悉く皆植ゑ終り、全部で延人足が百二十七人、松苗は六千百九十八本、監督は彼杢之助で、人足にはお上から幾分の補助があつた。即ち彼は主となつて植付けたが、植付けた松はその年の中に約半數が枯損して三千ばかり生きて居た。彼はその結果を代官に申上げたら、それはよくない、どうか枯れぬ樣に植ゑて貰ひたい。一体人足を一度に多數出すと植方は粗末になり、苗木の堀り方も(天然稚苗であつたらしい)丁寧でないから、何とかよい工夫はないかと言はれ、その時杢之助は、自分の持高の内三貫三百文計りは今潮の爲めに水下になつてゐる、お上樣で其の分の小役をお除き下され、從つて小作の者共に小役がかゝらぬ樣になれば、小作の者共をして念を入れて植付けさせ、自分もよく監督しませうと云つたに、代官はその通りにせよと云はれ、そこで彼は約束通り寛文八年人足數七六人、同九年八三人、同十年九五人、同十一年六十五人、同十二年五三人、延寳元年百人、合計四百七十二人、松苗本數一萬八千本程植ゑた。それが見事に成功して立神濱に小松原が出來た。これが即ち高田松原造林の起因で、本松原こそ氣仙最初の保安林である。
御陰で潮が入らず田はよく實り、風は和らぎ風景が添へられ、二十九年の津浪にも高田町には些の被害もなく、日本百景の一にも入る樣になつた。之造林者の一大功績と云はねばならぬ。その後成林に從ひ稚苗の發生を促す爲め常に下枝を拂はせたり、或は林守を立て、保護育成に努めさせたり、代々の役人の苦心の程が察知せらるゝのである。
面積及所有別 之が實測面積二六・六八ヘクタール、(幼齡林一・六二壯齡林三・一六老齡林二一・九〇ヘクタール)所有別面積 高田町々有一・七六佐藤良平氏所有一一・九二(以上高田町地内)氣仙町々有一三・〇〇ヘクタール(氣仙町地内)の大別である。
而して高田町地内に屬する分は元國有保安林なりしを、明治四十二年八月不要存置林として賣拂處分に拘はるものである。
防潮林の効果實例 高田松原は廣田灣に面して展け、比較的廣潤な耕地が其の背後を占むるを以て、彼の三陸特有の「リアス式」海岸なるV字形小灣ではないけれども、尚灣形大体U字形を呈して津浪を生じ易い地形にあり、同一位置なる米崎村字沼田部落及氣仙町字長部部落の被害激甚なのに徴して明かな所である。
然る所、本松原地内人家五戸の内、西方密林中なる三戸は床上或は床下まで浸水したる程度で、左したる被害なく、東方なる二戸中旅舘經營業にして展望の爲め前面の樹木を幅員凡そ十間餘に切開きたる家は全壞して跡形もなく、死者三名負傷二名を出して被害最も激しく、次には疎林々縁部に建設せられた松濱莊(岩手縣是製絲會社の慰安所)は近代的堅牢なる建物なるも、洋風建築物は全壊し、日本式建物は半壞した。其の他同所附近にあつても抵抗力弱き四阿及堀立式建物等は被害を免れた。尚本松原の接續地なる米崎村字沼田部落は、小松原の前面にあつた爲め六戸共全壞し死者七名を生じた。
其の他樹木に圍まれ或は藩籬等の繁茂するにより倒壞を免れた例は枚擧に遑がない。
(二)本吉郡内小泉村外一潮害防備保安林
本吉郡小泉村及大谷村地内潮害防備保安林は、主として農耕地に對する潮風防止上設置せられてあるが、本回の海嘯に當つても防潮の効甚大で海水の浸入を著しく阻止した。而して其の力は、林下に稚樹の密生せる二段林形に於て特に強力なるを認めた。
稚樹發生せざるか或は地床物少なき林地に在つては防波力劣弱勢で、樹木の根部が激流に洗はれ或は挫折、轉倒木を生じ易く、疎林に於て特に著しく、或は地盤の缺潰を生じた個所等もある。
以上により之を見るに、防潮林の幅員は出來得る限り廣きを可とし、最少と雖も四〇—五〇米突を下らざるを要する。尚恒に稚樹發生に留意して出來得る限り二段林形を保たしめ、伐採の方法は伐採面が必ず海岸線に平行し帶状的ならしむる樣にし、尚極めて消極的に間伐的伐採を數回に行ひ、大面積の皆伐面を現出せざる等の如き、一般海岸林の取扱方法を遵守するは勿論のことである。
尚海岸に通ずる通路の如きは出來得る限り直線を避くるを必要とする。之は今回の經驗によれば海水は何の抵抗もなく眞直に内陸部に押し寄せるからである。
六 海水と樹木
海水の激突に對する林木の抵抗力は比較的大で、今回の海嘯による樹木の被害挫折轉倒等は比較的尠少であつた樣に認めらる。唯林縁部に於て、若干挫折したもの或は地被物を洗はれ根部の露出したもの等二三あるもその額は僅少である。
然るに茲に見逃すべからざるは稚幼樹の枯損で、林木は一般に海水に浸りたる場合、特に海嘯の如き場合には枯損著しきものゝ樣である今回海に浸りたる經驗者の話に依るに津浪の塲合海水は恰も湯の樣であつたと。
今樹種による抵抗力の強弱を調ぶるに、ビヤクシン、ネズミサシ、クロマツ等は強く、スギ、ヒノキ等は之に次ぎ、アカマツは最も劣弱なるを確めた。潤葉樹類は一般に強く、特に生籬用ツバキ及クマツバキ(方言)は強く、竹類は何れも劣弱である。
今高田苗圃に於ける浸水に依る被害調を示せば次の如くである。
樹種 床替被年齡數 害生育量本數 枯損本數 枯損歩合 備考
杉 一回 二年生 三〇、〇〇〇 二五、〇〇〇 五、〇〇〇 一七%
赤松 同 一四、四〇〇 六、〇〇〇 八、四〇〇 五八%
同 一年生 一五〇、六〇〇 七、五〇〇 一四三、一〇〇 九五%
扁柏 一回二年生 五、〇〇〇 四、〇〇〇 一、〇〇〇 二〇%
尚苗木枯死の状態を觀察するに、樹皮下形成層の部分より漸次腐敗し始め、約二三週間で其の状が顯著となり、外觀及根部には異状なき如きも遂に枯死するに至つた。地中埋没の根部及び根切蟲は何等枯死或は斃死しない。
七 海嘯に關する二三の傳説
(一)地震と鰯 地震の前兆として三陸沿岸一帶に近年稀なる鰯の大漁あり、之は地震により海底近くに住む大魚が浮び出し、ために鰯が海岸へ避難移動し、その結果大漁を來した理由とも見得可く、由來三陸地方では津浪の前に鰯の大漁があり、津浪後には烏賊が獲れると云はれ、「鰯でやられて烏賊で助かる」との俚言さへある程で、現に目下は烏賊の大漁で、事實を裏書してゐる。
(二)地震と雉 雉は地震の場合、如何なる微動でも鋭敏に感知し、早速鳴き騒ぐ習性を有する如く、當署附近の飼育雉に就き常に經驗する處である。
然るに三月三日夜中に於ける地震に際しては、あの強震なるにも拘はらず少しも鳴音を聞かず、矢作村地方に於ても同樣であつたとの事で、この事を後で聞くに、雉の鳴かない地震は必ず異變を伴ふものと古來稱せられ居るとの事で、雉には何等か特殊の感能があるものと考へられる。
八 今回の慘事に鑑み營林業務に付き特に施設考慮すべき事項
(一)林野整備に關して 今回の海嘯に際して防潮林の効果の甚大なるものあるは世人の等しく認識する處。然るに從來動もすれば海岸保安林と雖も團地面積狹少なるの故を以て、或は亦地方に於ける經營能力充分なり等の理由の下に、不要存置林となして賣拂處分せられた例は少しとせない。偶々處分不可能なりし爲め今日存置せられて偉効を立てたもののある状態に鑑み、今回計畫せられつゝある林野整備に當つても右の點考慮の上可及的海岸保安林の廢棄處分は見合はすを可と認められる。
(二)調査應援隊派遣に關して 今回の如き非常災害の塲合、局に於かれては可及的指揮命令の迅速徹底を期する爲め、災害地方營林署二三宛を包轄する臨時局員出張所を設置し、調査或は營林署事務の應援を行はしめられ度い。若し右不可能とすれば、營林署長の命に依り一切署員並に活動する臨時應援者でも可なりと思ふ。警察及町村役場方面では何れも右の如き状態で急塲を過した模樣である。
(三)災害備林特に船舶用材林の設置に關して 三陸沿岸地方は殆んど周期的に海嘯に見舞はるゝ状態で、斯くの如き場合最も被害の大なるは船舶であるは言を俟たない所で、今回の被害總數は流失破損を合して、岩手縣八、三七九隻、宮城縣二、〇六五隻、靑森縣六三二隻、計一一、〇七六隻の多數に上つた(右の内約一萬餘隻は小舟)に徴しても明かな處である。
而して此の船舶用材は船の種類構造によつて大小の相違ありと雖も、大体末口直徑九寸乃至一尺以上、長級二〇尺以上四、五〇尺の杉大材を要するもので、之等の杉材料は殆んど民間には拂底の状態にあり、將耒益々不足の傾向にあるを以て、之等災害に備ふると共に船舶用材の供給を計る意味に於て、沿岸地方適當の箇所に長期輪伐作業級の設置を望むものである。終り

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三陸海嘯に就て 星 生(岩泉)
三月三日拂曉 三陸沿岸に襲來した海嘯は甚しき慘事を齎し、大正十二年に於ける關東大震災に亞ぐ大悲慘事であつて、詳細は當時新聞紙上に報道せられたから、筆者は岩泉署管内に於ける被害の概況と、當時之に對する措置其他管内に於ける二三の實話に就て述べさして頂きます。
記事に先立て、この震嘯の爲めに各營林署林友各位から寄せられた御懇情と、罹災擔當區員たる小本の高岡主事、田老の竹達主事へ贈られた御芳情とに對し、滿腔の謝意を表する次第であります。
恒例に依り、三月一日には各擔當區員出署、二日も年度末整理で引續き出署して皆岩泉に滯在して居ましたが、田老の竹達主事は久方振で嚴君が田老に來られて間もなく歸國せらるゝ爲めに二日の朝歸舎しました。
當地方は概して石灰岩の所謂石山が多く、從來の地震の例に依れば地震に先立つて山岳鳴動して後に振動に移るのが普通ですか、三月三日午前二時頃の強震は鳴動もなければ初期微動もなく、すぐ主動が來て然も永續の上下動でありました。兎に角常の塲合と異つた地震で其後もシバ々弱震があり、強震から約三十分位で又餘程強震がありましたが、津浪は丁度其の時らしいのです。突然けたゝましい電話の鈴!!高岡主事の小本津浪の報です。これは小本郵便局から岩泉郵便局への通知で、只「小本津浪」で電話不通となつたそうです。高岡主事にはすぐ歸舎して状況を報告する樣に命じたのであります。これと前後して佐々木雇が出署したので全署員の非常招集を行ひました。外業の準備で食糧携帶の條件のもとに全署員の集合したのは午前五時過ぎでした。岩泉署は勿論附近は何等被害ない模樣だが、海岸津浪と共に通信網が破壞せられ、最も懸念せる小本、田老の擔當區官舎の消息が全然判らない。兎に角どの程度の災害か一向見當がつかない。頻りに高岡主事の報告を待つたが、漸く午前六時過ぎ官舎は半潰家族無事其の他の概況の報告が應急電話架設に依つて知り得た譯です。そこで困つたのは營林局への報告です。岩泉から盛岡、靑森方面への電信電話は小本、田老、宮古を經て盛岡に出でて行く通信系統で、然も通路は災害地です。そこで臨機の處置として岩泉から沼宮内行の郵便自動車に托送して、沼宮内局から打電する事とし、内務主任を殘して他全署員が救護の爲め災害地に行く事としましたが、自動車がなくつて困つたが、丁度小本からの戻り自動車で一同小本に着いたのは七時頃でした。
我々の小本に着いた時は水も全部引去り、海は平穩で此の慘害を露知らぬ靜けさである。子の行衛を尋ねつゝ泣き叫ぶ親、死体に泣きくづれる娘、誠に阿鼻叫喚の巷と化し、其の慘害は想像以上であつたには一驚を喫した。早速高岡主事家族の避難所を訪ねて其の無事を祝し、全署員を第一第二兩班に別ち、第一班は小本擔當區官舎の取片付及小本の救護に當らしめ、第二班は田老擔當區及田老の救護に從事せしむべく派遣した。筆者は第一第二各班の連絡を統制すべく小本に在つて、役場、學校、其の他の見舞と共に救護に當つたのである。小本の高岡主事の家族は奥さんと八つ六つ四つ二つの四人のお子さんとであるが、然も官舎は半潰の厄に遭ひながらも皆無事なるを得たるは、勿論奥さんの勇敢にして機敏なる行動に依るけれども、又一方に於て勇敢なる子守と、平素災害時に於ける訓練宜しきを得た爲めである。勇敢なる子守の行動に就ては先に柳平氏が詳細書かれたから省略する事とする。然し其の行動たるや、生死の境にあつて尚且つ身を忘れて主人の爲めに竭すは推賞に値するもので、是に報ゆべく營林局の感謝状を贈つた次第である。
小本の海岸には明治二十九年海嘯迄赤松の老大木林があつたそうだが、明治二十九年の海嘯で全部流失したそうだ、其の後天然に赤松が密生して徑一〇センチ乃至一四センチの幼齡林をなして居つたが、今度の海嘯で殆んど大部分が折損してゐた。地方の人は何の効果もない樣に考へて居たが、小本の田老に比して災害の甚しくなかつたのは此の赤松林による所が多いと思はれる。
小本に在つて田老の消息を待つたが消息がない。待ち兼ねて更に午前十一時第二次の田老救護班を派遣したが、田老方面より來れる人との言を聞くに、何れも田老全滅海嘯後火災發生しありとの事で、田老の官舎は勿論擔當區員家族は消息は恐らく絶望の状態となつた。然し尚田老の樣子がわからぬ。小本擔當區官舎の取片付も終へて、消防組頭の好意で避難すべき所も定めた。其の中日暮に近づき避難民の爲め宿所もない始末なので、小本班を取纏めて一旦岩泉に引揚げるより致し方がなかつた。午後六時歸署して情報を待つた。丁度六時半小本からの電話で、田老官舎全部流失擔當區員無事の報を得て安堵の胸をなで下した。田老は乙部の三、四戸と學校、役塲、寺、それ丈け殘存して災害が甚しく、避難民の全部は學校と寺院に避難して混雜甚しく、救護班と先の打合せにより一先づ岩泉に引揚げる事にして、署に引揚げを了したのは午後十一時半であつた。
小本擔當區官舎は半潰流失で家財約半分は亡失したが、差當り困難を感ぜない程度であつたが、田老擔當區官舎に至つては土臺石を殘したのみで一物もなく、全く着のみ着のまゝである。以て如何に津浪の襲來が迅速であつたかが想像される。救護班が田老の峠に行つた時は田老灣内は家屋の破片で一ぱいであつた。そして痛切に感じたのは、小本では泣き叫び死体を尋ねる者が多かつたに拘らず、田老は悲慘其の極に達し、泣き叫ぶ者もなく何れも失神状態であつたとの事である。
翌四日署内に緊急會議を開き、兩擔當區員の救護方法を議した譯である。然るに全所員が協力一致で忽ち金七拾圓を醵出せられ、日用品、衣服、用具の類に至るまで持ち寄り、俗界を超越せる人情美を發揮せられた事は私の感謝措く能はざる所なると共に、又我國獨特の美風の遺憾なく發揮せられたものと信じ欣懷に堪へぬ次第である。後日までも自分は此の意氣を以て凡てを解决せられん事を希望した次第である。
この海嘯に關し、地元古老遭難者に就て、著しき兆候の豫感の有無を尋ねたが一向判らぬ。兎に角昨年は海嘯發生の噂とり々々で、地元でも大分警戒してあつた樣だが其の後話もなかつた。それは明治二十九年の海嘯は舊五月節句の日暮間もなかつたが、昨年は其の頃地震が頻繁にあつた爲めと思はれる。その外これは地震と直接或は間接に關係ありや否やは知る由もなく、何れ專門的の研究を要する事だが、夏季海流の關係が海草の發生少なく、爲めに沿岸の鮑の海岸に漂着するもの頗る多かつた事と、鰯漁が稀なる大漁であつた事である。明治二十九年の海嘯前には矢張り鰯が大漁であつたのは事實らしい。然し鮑の斃死について何等異状がなかつたらしい。
それから津浪直前の現象として、河水海岸の海水の減少が言ひ傳ひられて居るので、此度も海岸或は河水域は井戸水に注意した人が澤山ある樣だが、時間の關係か一向減水なかつた樣である。地元古老の言に依れば、明治二十九年の津浪の時の地震は今回のよりも遙かに弱かつた。然し津浪の大さは前回に比し遙かに小さいと云ふ。田老に於ける前回の浪の髙さは四十八尺、今回のは二十尺と言はれて居る。
罹災地を視察して異樣に感ずるのは、激甚地は建築物の大小を問はず皆悉く破壞せられあるも、激甚地以外の二階建物は何れも階下は破壞せられてあるが二階の部分は其儘殘存してゐる。これは強激なる波浪の爲めに階下は破壞せられて二階のみ殘存したのであらう。當署管内小本、田老兩部落に於ける死亡者、行衛不明者を見るに比較的壯齡者多く、弱者たる老齡者、幼齡者が少ない。其の原因は種々あらんも、老幼者は最初の強震に依り安全地帶に避難をせるに依り、壯齡者は老幼者の避難を先にし、或は大膽過ぎたる爲めならんかと思はれる。
此の災害に於て種々の美談佳話や又聞くに堪へざる事柄もある。實は出署日に座談會を開いて取纏める積りであつたが、事業の關係其他で人も揃はなかつた爲に實行致し兼ねた次第である。
田老のある有識階級の方で、資産あり仁術を業とせるにも拘らず、常に窮民を苦しめつゝあるものと、又資産はないが之も同業の仁德者として敬慕されて居る人とがあつた。津浪の襲來で何れも先を爭つて高地に避難した。夜が明けて死者不明者の詮議があつた。前者はどうした、いや生きて居る。後者はどうした、惜しい事に死んだ。何の話だ、前者が死んで後者が助かればよいのに、世の中はうまく行かないと歎じて居つた。後者は他人から預つた馬を棄てヽ避難するに忍びず、他人の制止するを振り切つて遂に馬と運命を共にしたのであると。惡くまれ者世に憚るとは此の事でせう。
田野畑村の村長小田喜代八さんは、三月二日の村會を濟まして平伊賀の自宅に歸つたばかりの所で津浪に逢つたものだ。海の高鳴と一緒に悲鳴が家をとり巻いてしまつたので、ハツトなつて老母を背負つて逃げ、娘さんは提灯をつけて道案内をしたのだつたが、岸邊に母を背負つたまゝの小田村長と、お父さんの手をしつかり握つてゐる娘さんの三人の死体があはれにも發見された。親孝行の二重奏だ。日頃の村長さんの人となりも思ひ出されて涙が自然に流れ、手を合せないものはなかつた。流石は村長さんの此の災厄にあつた事を村民一同惜しんで居る。
三陸海嘯の統計記録は筆者寡聞にして其の詳細を知らないが、釜石小學校の調査に依れば、紀元一五二五年以前の記録が不明だが、第一回が一五二五年三月廿六日、第二回が七四六年を經過せる二二七一年月日不詳、第三回が五年後の二二七六年十月二十八日、第四回が六十一年經過後の二三三七年三月、第五回が二七年經過後の二三六四年十一月二十三日、第六回が四七年經過後の二四一一年五月、第七回が二三年經過後の二四三四年五月、第八回が一九年經過後の二四五三年一月、第九回は六三年經過後の二五一六年十月二十三日、第十回が四〇年經過後の二五五六年明治二十九年五月三日、第十一回が三十七年經過後の今回の分である。
兎に角 この記録から見ても今後も襲來を豫期せねばならぬ。科學の進歩せる今日に於て其の襲來を確實に豫知し得る事の未だ發見せられたのを聞かぬが、何れ發見の城に達せられるものと思はれる。然し其の發見迄は是が對應策として防浪堤とか豫報機とかも必要だらうが、何れにしても安全地帶に市街地を形成する事が第一と思はれる。防潮林なども其の適當な施設でせう。まとまりのない事を書き連ねて貴重な紙面を費した事をお詫します。
最後に管内罹災町村小本、田老、田野畑の被害概表を掲げて御參考に供し度いと思ひます。
三陸海嘯 高岡 生 (岩泉)
三月三日その日は丁度出署日なので岩泉町に出張佐和旅舘に投宿して居りました。
午前三時未曾有の激震に恐愕夢破れ、多くの客と共に安全地帶に避難し、地震止みて郵便局に賴みて小本方面の模樣聞くに何事もなき由通報あり、再び寢に就くべく伏したる時小本方面海嘯全滅の報傳はり、仕度もそこそこに宿を飛び出し、岩泉軍人分會長外四名の者と同乘、午前四時自動車にて出發、地震で堕落した岩石等を取り除き取り除き、二十分にして小本より十丁手前に當る中野部落に到着したに、倒潰流失家屋の破片丸太角材等漂流物山積、部落は欠壞し自動車の進行不能に陥り止むなく自動車を降り同乘車一同は泥濘膝を没し、漂流物散亂し薄暗き中を見すかし乍ら決死的覺悟を以て前進亦前進、時々來る震動に心を慄き乍ら幾度もぬかるみに轉倒しつゝ同行者に前後連絡を取り、約十町の歩行に約三十分も費し、漸く小本部落に到着したのは午前五時であつた。
未だ夜はすつかり明けきらず、被害を免れたる町内各所に薄暗りの中に焚火をなし、消防組、自警團、靑年團員等總出動、果然自失老幼男女を劬はりながら安全地帶に送り、或は傷病者を収容應急手當を爲す等健氣な其の活動振り意を強ふしました。
小本本村二〇〇戸の内、鈴文旅舘より海岸寄りにある住家非住家一〇四戸は跡形もなく倒壞流失したに、小本擔當區官舎は半潰一部流失したのみで大部分現場に現存しあるを認め、官舎の裏山に登つて家族一同の無事な姿を見た時は、一同歡喜の極相抱していつまでもいつまでもなけました。
極寒の夜を幾時間も着のみ着の儘立通し、神心共に疲れ果てゝ呆然自失せんばかりの家族を勞はりつゝ、絶對的安全地帶松葉旅舘に避難して採暖安靜せしめた。
その頃漸く電話復舊したるを以て、直ちに小本の詳細を本署に報告した。署長殿始め全署員時を移さず來村、官舎内外を整理下され、尚恐怖の極にある家族に對し色々御慰めの御言葉を給はり、食料品迄御携行下されたので一同蘇生致しました。
御一同樣の御應援により取り片付けの結果、極印及重要書類は流失を免れ現存を確め得た時程大なる歡喜は今迄味はつた事がありませんでした。
署員皆々樣の御慰めにより氣を取り直した妻の話をきけば次の通りであります。
強震と共に一度は家外に出たが、電燈も付き海水や井戸水が減少しないから海嘯の心配は全く無からうとの事に、子供全部を再び寢に就かせて起きて居たに、異樣な地響きのする物音と共に、海岸方面より津浪々々と泣き叫ぶ聲とを聞いて急いで子供を起し、着の身着の儘長男嚴(八才)二男進(六才)を玄關より「津浪だ夫れ逃げよ」と突き離し、妻は三男隆(四才)を、子守は禮子(二才)を背負ふ暇もなく抱きたる儘逃げ、三十間ばかり行つて山の麓に足を懸けると殆んど同時に、官舎附近は轟然たる響きと共に倒潰し、今迄聞えてた救を求むる聲はなくなり、遠く海邊近くに引浪の音のみして居つたさうです。
子供等は漸くの後母の周圍に集つて來た相です。
子守のサツ子は禮子を抱いて逃ぐる時「奥さん大丈夫です。赤ちやんは屹度助けます。私が死んでもきつと赤ちやんだけは助けて見せます」と言つて別々に逃げた相ですが。
なかなか來ない爲め心配して居りましたが、三十分許りしてから出て來た相です。逃げる途中二回許り子供を落した相ですが、氣丈な子守(十五才)は拾つて走つたが山麓で浪に追付かれ、少々海水の飛沫をかぶつた相ですが無事なるを得た事は不幸中の幸と存じて居ります。僅か三十間許りの避難にも斯樣に困難を感じたところより見て、如何に津浪の速度の速かなるかが判りませう。
未曾有の大災害に當り小本村被害世帶數九四、是に對する死者行衛不明者計一五四名で、一戸當り一人六分強に當ります時、小生一家には一人の死傷者もなかつた事に付き神の御守護の賜と感謝すると共に、左の二三を揚げなければなりません。
一、無欲且敏速に行動を爲した事。
二、平常、火災、震災、海嘯等の場合夫々避難塲處を決定し、申合せ置いた事。
三、人手少き爲め子守を傭つて置いた事。
四、非常時用として各自一個づゝ懷中電燈を備へ置いた事。
誠に拙き文ではありますが是を以て三陸海嘯遭難記を終ります。
吾が子守サツ子の健氣な行爲に對し、先般營林局長殿より表彰せられました事は誠に感激に堪へざる所であります。
一度三陸海嘯の報傳はるや、吾が林友各位よりは深甚なる御同情を賜はり且過分の御同情金を御惠與下され、御陰樣で一途更生に直進致して居ります。只管肝銘罷在御厚志の程厚く厚く御禮申上げます。
海嘯體驗記 竹達嘉市(岩泉)
先には關東大震災に遭遇し、今又三陸海嘯を體驗するとは私も奇妙な運命プログラムの所有者である。關東震災の際は上野驛附近の西黑川町にゐたが、其處へ移つてから一週間位になつてをり、あの日の午後には元居た本所衣服廠附近の友達の所に荷物をとりに行く積りになつてゐた。友人は被服廠に逃げて漸く九死に一生を得た。私は行かないばかりに生命拾ひをしたのである。西黑川町附近は九月一日の晩に燒けた位でしたので私等は逃げる丈の餘裕は充分あつた。然かも一介の苦學生で夜具と着物と書籍の若干があつたのみでしたので何等の痛痒も感ぜず、上野の山の上で晴夜の星に見守れながらゆつくり眠つたのであつた。
田老へ來たのは大正十五年の十一月二十日で田老では名物の鮑の漁期でした。川尻の山中から太平洋岸の一角に身を置く事になり、生きの良い魚を食べるによいのを喜んだりしたものだ。其の後星霜を閲すること八ヶ年。明治二十九年の海嘯の事は田老人から屡聞かされてゐた。殊に擔當區官舎の隣の老人は二十九年のそれの體驗者である。遊びに來る度毎に遭難談を本氣になつて聞かせられたものだ。田老は當時も全滅で、この古老は三十八九才の壯年時代、四十八尺の大浪に流されて山岸の材木に頭を狹まれて引浪に持つてゆかれなかつたといふ事を耳に「たこ」のよる位度々聞かせられた。
三月二日は私は定期出署を終へて歸舎した日である。私の實父が私の赴任以來八年目の田老へ初めて遊びに來てゐたので、署長にお願して外の擔當員がまだ殘つてゐたのを一日早く歸して貰つたものだ。
二日午後歸舎すると夕方隣の古老が又やつて來て、私の父に二十九年の遭難談を例によつて例の如く永々と語つたものだ。またやり出したとばかり思つてゐた。老人の歸つた後で夕飯を濟ましてから海鳴りがするぞ父は氣にし出したものか『今日は海が妙になる』といふことを繰返してゐた。
私も妻も別に氣にも留めず、風の加減で鳴るのだと言聞かせてゐた。四方山の話も一段落がつき、尚又三人共風邪氣味であつたので比較的早寢することにした。平凡に眠り平凡な夢を見て時間が消されて行つた。
明けて三日の午前二時半、突如、近來稀に見るの一大地震があつた。あまりの強大なので皆起きて外に飛び出した。隣近所で起きて地震の大きいことについて語り合つた。例の古老が飛んで來て曰く「あゝ大きい、私も八十になるがこんな強い地震は初めだ」と、程なく其の古老の妻が孫を背負つたまゝ素足で山から下りて來た。地震にたまげて津浪がくるかと思つて逃げたのである。私はそれを見て一寸可笑しく思つた位である。關東震災の經驗があるので地震はあの時より小さいと思ひ古老にも語り、間もなく家に入り家内の者にも語つたりした。地震で電燈が消えてゐたので無氣味な闇が室一杯に流れてゐた。妻は着物を着たまゝで寢た。外出の際隣の老人は「津浪は來ないかとは思ふが若し來たら後の山へ逃げなさい」と言ふたまゝ隣の役場員の所へ行つたらしい。地震も靜まつたので皆家に入つた。
未明の美しさはまた格別である。爐には火の氣はないので起きてる譯にも行かない。とかくする中に電燈がぽつかり點つた。既う大丈夫だらうと言ふ氣がしたので一同はまた寢についたのである。不安の空氣があたりに影をとヾめてゐた。地震でしつかり神經が冴えて中々眠られない。と表に面してゐる室に寢てゐた父が「何んだか海の方が鳴つて來た樣だ」と言つて起き出した。樣子を見る積りである。私も妻も續いて起きた。空には星がまゝたいてゐたが月がないのであたりは暗い。その闇の中を官舎等の塀の外の小路に沿うて山へ向つて人々の逃げる影が黑く認められた。先に父が海が鳴ると言ふた際の音響は餘程耳をすまさなくては聞きとれない程度のものであつたが、それはいつもの浪の音とも風ともつかぬ、一本調子の高低のない音であつた。外で一寸立つて聞いて見たがまだ音はたいして大きくなつてはゐなかつた。半信半疑のまゝで逃げる人々の後に續いた。先きに起きる際に枕邊にあつた足袋と首巻とを身につけたが實に神速そのものであつた。着物は勿論寢巻のまゝで、帶はぐる々々と巻いたまゝ、足駄をひつかけてゐる。妻は音響の立聞もしないで一足早きに走つた樣子。父は田老へ來てから六日目であるので勿論その邊の地理には暗い。私は父の手を取つたまゝ傾斜面を上り出した。その時には既う浪は直ぐ後方からと左方からと百雷の落ちかゝるやうな一大音響を伴つて押しよせて來た。今にも後から浪がのしかゝりさうである。既う無我夢中である。路は極細路で兩側からは茨が伸びてゐる。妻は私の前にゐて轉げては起き轉げては起きしてゐる。私は帶が解けて落ちてしまつた。結ぶ間もないので其のまゝ捨てゝ行つた。足駄は片方ぬげて落した。勿論履き直してゐるなんといふ餘裕はない。そのまゝ置いて行つた。浪は盛んにほえてゐる。漸く頂上に辿りついたのである。頂上と言うても五十尺位の高さである、逃げた人が右往左往してゐる。未明の寒氣は一入である。燐寸を持つてゐる人もゐて枯木枯葉を集めて焚火をし初めた。所が第二回目の浪がまたやつて來た。其の音は馬鹿に大きい。小山の頂上に居たまらずそこに續いた大山の方に逃げるものは逃げる。然しそこから大山の方にゆくには一旦低地を通り越さなければならないのと、荊棘小柴の群生の個所を横ぎるので私はこゝで大丈夫だからと言うて父と妻に言聞かせて、そこに踏留ることにした。音響は益々大きくなる。私等は頂上の二〇糎位の樹にしがみついた。浪が來ても持つてゆかれない算段である。妻は「私の手を握つてくれ、死ぬ時は一所に死なう」と、顫へ聲である。先きに大丈夫とは思ひながら不安の念が刻々に襲て來た。胴體はぶるぶるする。齒ががたがたする。親子兄弟の呼び聲が闇の中に響く。既う生きた心地はしない。
とかくする中に浪音が靜まつたので、町並の方を見ると乳色の靄が一面にかゝつてゐる、しばらくして其處かしこに焚火が見える。東の方二三町位の塲所の火が大きくなつた。火事を起したのであらう。何んでも岸に打ちよせられた家屋及其の破片の堆積したものが燃えてゐる。火が益々大きくなる。其の火の光のために町の方一帶が見られた。水が既う引けてしまつたが家は一つも殘つてゐない。しつかり流されてしまつたのである。五百戸の町が跡方もなく荒原と化してしまつた。私等の逃げた箇所にはあまり人が居ないので生殘者は何程もあるまいと思つた。事によつたら三分の二位の人が死んだのではないかと話合つた。
私は生殘つたこの喜びをしみじみ感じた。とかくする中に夜もしらじらと明け初める。其の時一人の男が飛んで來て大聲で叫び出した「おい々々向ふの材木の下敷になつて人が澤山悲鳴をあげてゐる。助けを求めてゐる。我々男子はあれを見捨てゝゐる譯にはゆかない。一刻も早く助けなければばらない。男子は行け男子は。怪我したものや、女は仕方はない、男子は行け」。この男は私大出の自稱政治家である。我々は早速蔭の方へ下つて行つて見たら成程山岸に材木が澤山積まれてゐて其の中に助を呼ぶ男女老若の聲。一人の男の側に行つて見たら材木と疊にぎつしり體を狹まれ、浪にびつしよりぬれてゐて然もこの寒氣ではたまらない。既う蟲の息である。それでも人の來てゐることを意識したらしく「助けてくれ」と蚊の鳴くやうなか細い聲である。漸く引きあげて疊の上に載せて火を焚いて温めてやつたが遂息を絶つてしまつた。他の方でも盛んに掘り出してゐる。悲鳴が夜の明方の空に反響して將に阿鼻叫喚生地獄其のまゝである。やがて時間が流れて隣村附近部落から救助の者がやつて來る。夜が明け切つたので山を下つて官舎の方へ行つて見たが官舎は跡も形もない。家材の破片すらない。
生殘者は流失物の捜索に血眼になつてゐる。階下がしつかりやられてしまつて階上ばかり殘つてゐるのが所々に見える。ぬけ出たまゝの寢床が其のまゝになつてゐるのもある。岸に寄せられた家屋の破片が誰のものやら見當がつかない。其の材木の中には無數の死人がゐる。道路の上にもごろごろと轉がつてゐる。一人や二人の死人だと返つて恐ろしい氣がするが、こんなに澤山あれば恐怖神經も麻痺してしまつて左程感じなくなる。九百名の人が僅か五六分間にやられてしまつたのである。とやかくする中に消防等の手によつて流された米を洗つて炊出しが初められる。附近部落からは親類縁者が握飯を持つて來てくれる。知人が來て安否を問はれて初めて聲を立てゝ泣く。それまでは家族を皆二三人から多きは七八名を亡くしてしまつても泣く事を忘れてゐたものゝ如く誰も泣く者すらなかつたのである。七八人の家族で只一人しか殘らないものもあり、しかも子供ばかり一人殘つたのもある。實に言語以上の悲慘事である。消防の手によつて死體の狩集めが初められる。右往左往の人、生色殆んどなく笑顔は一つも見られない。只田老灣内も灣外の太平洋も波が靜かになつて素知らぬ顔をしてゐる、空はからつと晴れて太陽が皮肉な笑顔で下界を見てゐた。
今回の三陸大海嘯(本稿は四月號に登載濟のものなれど津浪特輯號の發行さるゝに及び再度之を掲載す)—編輯係— 柳平澄江(岩泉)
今回の三陸大海嘯の被害地及慘状等は新聞紙にて既に御承知の事と存じますが、當署管内にて最も甚だしき被害地は、田老、小本、小本擔當區部内の茂師及田野畑村の平井賀、島の越であります。
其の中擔當區官舎所在地の小本、田老の被害現塲に於て、私の見聞した範圍を擔當區官舎を主に書いて見たいのであります。たヾ私は文士に非らず、新聞記者に非らず、殊に拙文を綴るのでありますので、續者に慘状の百分の一も報ずることの出來ないのを遺憾とする次第であります。
時は三月三日拂曉の嚴寒です。
營林署の時計は午前二時三十五分で止つてゐる。激震は其の前後五、六分も續き餘震數回でした。
激震終つて、ものゝ二十分餘も經つたと思ふ頃、小本海嘯襲來が喧傳された。これは小本郵便局より岩泉郵便局への電話あるや、岩泉郵便局長は逓信省命令を發し全自動車を召集して消防隊の出動に依つたのである。
日は恰も定期出署日なので田老擔當區員は父親が來て居られたので二日に歸つたが、小本擔當區員は、奥さんと八つを頭に四人の子供が留守な爲め津浪と云ふや第一番の自動車に便乘して歸つたのであるが、擔當區官舎より七、八丁手前の中野部落に於て人家倒壞大混亂の現塲を目撃しては、當然擔當區官舎の全滅は誰人も考へられるので、妻子に對面する迄の本人の心理状態は如何なりしか實に思ひやられたのであります。
署に於ては小本津浪襲來の報を聞くや、署長は直ちに岩泉町に在る署員全体に出動準備を命じて署に集合し、自動車に交渉をなし、其の中に小本擔當區員より人命無事の電話にて安心したが、宮古田老の通信機關不通の爲め田老擔當區員の消息不明なのである。
早速に、署には通信連絡萬一の場合の應急對策等の爲めに留守役一人を殘して、署長指揮の下に署員全部出動し小本に至り見るに豫想以上にして、自動車を下りた中野部落は襲浪の終點にて渚より約十六、七町にある人家は倒壞し、コンクリートの橋梁は流失或は破壞せられ、高さ十四五尺の小本橋を打越したる等よりして、如何に其の浪勢の強く高く遠くに及びしかを想像し得べく、渚より二、三丁にては屹立面の樹木に懸れる芥より見て、二丈七、八尺の高さに押寄せたる模樣である。
先づ小本擔當區官舎に駈け付け見るに、襲浪の二方の壁は破壞せられて建具炊事具家具等は流失或は損壞せられ塵芥砂利家屋の木破片等に滿されて、砂の中には鮒の生きてゐると云ふ有樣にて、隣りの電氣會社は全滅してるのに、かゝる程度の被害は不幸中の幸であつたのであります。
擔當區官舎は渚より五、六町の處にして全滅の難を免れたのは、今回の津浪は東南より襲來したると、少しく山の蔭に位置しありたるが爲めであつたのです。
前記の通り、小本擔當區員は出署不在中に、スワ津浪と云ふや奥さんは三番目の子供を子守に脊負はせ樣としたが其暇が無く、昨年生れた四番目を子守に抱かして先に出し、自分は殘る三人の子供を先に出したが、脊負つたか抱へたか無我夢中で家を飛び出したが、既に浪は腰丈けあり、二番目は浪に流されたが幸に隣りの人が見て引上げて呉れるや、間もなく毒龍一呑みと襲來し間一髪にして助かつたと云ふ。
此の毒龍の爲めに人畜家屋の一切が一呑みにされてしまつたのである。
津浪が落付いた頃、あちこちから子供や子守が山から下りて來て母子一緒になり、其の中に父も歸つて一族抱き合つて其の無事を喜んだのである。
擔當區員の話を聞くに、津浪の時は裏の山に逃げることを平常子供等に敎へて居たと云ふ。それで僅か七、八才以下の子供ながらも平常は忘れてをるが、事實に當面しては咄嗟の間に神秘的に記憶を呼び起して裏山に逃げ、而も拂曉の寒氣に堪へて居たものと思ふ。
私は此處に子守の美談を讀者に報じて置かねばならない。と云ふのは前に書いた通り奥様から二才の女兒を托されて今逃げんとする際「奥様私は死んでも决して此の赤ちやんは殺しません。」と云つて避難したさうです。で戸外に出たら既に自分の腰を没する海水の中を子を抱へて避難するとは、自分の命が危機一髪に直面して、而かも十三四の女の子が大抵の者なら人の子供などは打捨てゝ自分のみ逃げるものを、加之腰から下は凍えて曉の嚴寒に震へながらも山中に子供を護つたとは、實に感心すべき子守と云はねばなりません。
此れを思ふに、平常主人夫婦に於て召使視せず、自分の子供同樣の同情を以て取扱ひ、子等も亦蔑視せずよく馴染む等平常感謝しある恩誼の結晶が斯かる非常時に際して忠義の極美として現はれたるものと私は考へるのであります。
小本に到着するや、平野、白石の兩氏は田老に向つたが擔當區官舎の樣子不明。たヾ田老部落全滅の風説のみ。やうやう正午に至り田老部落の全滅は確かとなり、第二次田老出動を命ぜられて私と高山氏は直ちに出發し、道々田老方面より來たり會ふ人毎に擔當區官舎の樣子を聞くに、官舎附近は火災と云ひ或は津浪にやられたと云ひ、區々ではあるが火災説が多いので、火災なれば人命は心配無く。場合によつては何程かの品物をも持ち出し得たものと半ば安心であつたが、それは人の話で先きの安心は裏切られたが、幸にして三人共人命には別状は無いが、一物も無く毒龍の爲めに呑み去られてあつたのである。
田老は小本からの入口七、八軒、宮古町への出口數軒に學校、寺、役場のみ殘つて殆ど全滅戸數四百餘、人命一千餘或は三分の二と云ふは哀れ毒龍の餌食となつたのである。
海は今朝の惡戯を忘れたかの如くに凪ぎてゐるも亦天の皮肉でありませぬか。
田老灣は家具、家屋、漁舟其他の破片に滿たされ、田老部落は一望の砂原と化し、山手は今猶ほ倒壞家屋が燒けてゐる。
小本では被害家屋七十餘戸犠牲者百四十餘名と聞き、収容死体の外は見なかつたが、田老は至る處に散亂し、流失物や死体を探す者、物品を運ぶ人等右往左往し、死体は消防靑年團によつて運ばれて寺前に収容されてゐるも、生存人ある者の死体親戚知己朋友等のある者の死体は、現場にある儘でも莚衣類、布團等にて叮嚀に被ひ隱されてあるが、一家全滅して何の縁類を持たぬ死体は見苦しき其の儘に放置されてゐるを見ては實に無慘な有樣である。
午後三時着、三時間にして田老に至り、散亂せる死体を避けつゝ人混みの中に漸々擔當區員の一族を見付け出し先づ無事を祝して喜ぶ。
擔當區員とお父さんはシヤツにどてら、奥さんは平常着の儘三人共細紐ほんのそれだけ、文字通りの着のみ着のまゝなのです。その姿であの明方の嚴寒を堪へて夜の明けるを待つて學校に非難されたのであるが、焚出しは流された米を拾ひ集めて焚いた砂混りのご飯を食べたと云ふ。實に涙を催さざるを得なかつたのです。
營林署に状况を報ずべく直ちに高山氏は小本に引返し、殘る我々三名は見つかつた本箱一、臺鍋二、十能一、鏡臺一、雜誌書籍數冊、帶劍等を取片付け、何はともあれ先づ襟巻外套を着せ田老に居つた處で致し方ないので、三人を護り元氣を付け勵まして午後四時半頃惡魔の港を後に出發して、夜の十二時に署へ着いたのです。
小本からのトラツクでは風も立ちて針を刺す寒さ。それでも如何に疲苦して居つたのか奥さんは眠つてゐる。
署ではご飯の準備萬端を調へ、ストーブは眞赤に燃して待つてゐてくれたのには涙を誘はれた。
一寸署長の心状を書いて見ます。
高山氏の報告した田老の三人共無事の電話を接受した署長は、電話室からドアを半開して田老萬歳を叫んで署員に其の無事を知らしめたといふ。勿論何れの長も同樣ならんも消息を聞く迄の心痛、無事を聞いて如何に安心したかは、此の萬歳の叫びが心状の全部を吐き出して居る事を窺ふことが出來るのである。田老から引返した状報者は坂又坂の山道四里餘を僅々二時間で小本に着いたとは實に生ある飛行機である。
津浪襲來の模樣を聞くに激震後二十數分ばかり經て襲來、激震の時は皆一度は戸外に逃げ出したが、沈靜するや歸つて再び寢に付いた者もあり、それが爲犠牲者が多かつたと云ふ。中には股引鷹匠を履いてゐる死体も多數ある。
田老擔當區員も激震に一度逃げ出したが、歸つて寢に付くや否や數十臺もの自動車の爆音と松吹く嵐樣の物凄き音がしたので、「ソラ津波ダッ」とお父さんと奥さんの手を引張つて闇の中を無我夢中で十間餘りの小山に駈け登つたが、後方には既に毒龍が迫りほんの五十秒か一分であつたと云ふ。
お父さんの話では財布を持つて逃げ樣としたがそれを止めてよかつたさうです。
官舎の隣り小山のすぐ下にある電氣會社では財布を持ち出す爲めに三人死んでゐる。塲合に依つては金は死出の案内者たることを注意すべきです。出漁者にして我が村の慘事を知らずに歸つた者もある。
毒龍に襲はれ逃場を失して桑の木に上り辛ふじて助つた二人の酌婦もあり、妊娠の婦が兒を脊負ひ脛を折られ頭を碎かれて無慘な死骸を横へてゐるもあり、逃げる途中、子の落ちたのにも氣付かず逃げ終へて初めて知り、「父さん流れるう」と子の呼んだ聲を呼び起して悲しむ父、死骸に顔を打ち付けて泣く妻もあり子もあり母もあり、又薮や破片の中を泣き叫び乍ら母を探す子、子を探す母、孫を探す老婆等其の悲慘實に目もあてられぬ慘状である。
空は晴れて三日の弦月は物凄く澄んでゐる。(三月六日書)
管内海嘯記事 三本木營林署
昭和八年三月三日午前二時十分、強震に引續き一大海鳴りあり、次いで同三十分頃海嘯の襲ふところとなりて、當署管内三澤村及百石町の太平洋に面せる部落に大災害を惹起し、其の慘状目も當てられず、死者二十二名、行衛不明五名、負傷者五十九名、家屋、納屋の流失全潰六〇棟、破壞せるもの七十二棟、浸水家屋三十三棟、船舶の流失四十八隻、破損百五十五隻、此の見積總額一四九、五四九圓に及べり。
今回の海嘯は、地震後凡そ一時間位を經過し襲來せることゝて、強震と同時に村人は海嘯を豫想し、一時後ろの小丘に遁れ、二、三十分も過ぐるも何等異變なかりしにより、避難所を引きあげ寢に就きたるに、間もなく突如潮騒の音せはしく襲來せる海嘯に逃ぐるに遑なく、概ねは夢寢の裡に家屋とともに激浪に渫れたるもの多かりしものゝごとく、殊に三澤村三川目濱通りに於てこの事實を明かに物語り居れり。
災害當時は海岸方面一帶は三〇糎程の積雪あり、且つ當夜は寒烈嚴しく、跣足の儘戸外に飛出したる避難者の大部分は、長時間雪上にありしため凍傷に罹りたる者多し。
明治二十九年六月十五日(舊五月五日)午後十一時頃の大海嘯に比較するに、波の高さ、浸水程度は各災害地に於て聞くに、區々にして一致せざるも大体に於て大害なきものと認めらる。然るにも拘らず人畜の死傷及被害の少なきは、前回(二十九年)の海嘯におびえたる海岸部落民の大部分は、當時概ね住家を高所に移轉せる結果とす(別表比較參照)。
海嘯と森林との關係
百石町字川口部落(小字横道と稱する部落)は明治二十九年の海嘯被害死亡一四名流失五全潰家屋四に對し、今回の被害は死亡一流失家屋〇全潰家屋三浸水一〇なるは、一七、八年前百石町在鄕軍人分會に於て海岸砂地を桓樹敷として縣より借受け、防潮林としてクロマツ、アカマツを植栽し生育良好なり。面積約二ヘクタール〇〇——南、北の長さ五〇〇米東西の幅三〇米——現在胸高直徑一〇糎——一八糎全長二米——六米の密林なるを以て激浪を阻止したるため、森林の背後一〇米——三〇米の位置にある家屋は完全に被害を免がれたる實例により、若し明治二十九年の海嘯當時被害地に防潮林を造成したるものとせば著しく被害を輕減し得たる事ならん。これにより森林造成による効果の偉大さを地方民に知らしめたること甚大なり。
前項の如き事實に鑑み海岸に沿ふて帶状に防潮林を造成し、海嘯の防止は勿論農耕地の潮風防備となり、併せて用薪材に窮乏せる海岸地方に供給するは緊急事とす。
海嘯に關する傳説
鰯大漁の年又は海岸地方の井水の減りたる場合は近き中に海嘯ありと言ひ傳へらる。
昨年秋季は近年稀れの鰯の大漁なりしため當時海嘯襲來するに非ずやとの噂ありたり。
本年六月下旬防潮林造成に關する調査のため出張せられたる今村博士が、三澤村字三川目海嘯被害現塲にて遭難者に對し海嘯の心得として話されたるを聞くに『地震が強くとも短時間のものは海嘯なく、地震相當に強く、ユラユラと長く續くものは海嘯を起すものなれば斯る場合は用心すべし。又強震後海鳴りありて海嘯の襲來までに、凡そ三十分内外を經過するものなれば、其間に避難方法其他を考へ、地震の度毎に「ソレ逃げろ」と云ふ樣な輕擧をせざる樣注意を要す。而して前述のことを海嘯の徴候ある地震にて避難したる場合には、少なくとも地震後一時間以内には引揚げする樣戒心すべきである云々』尚、地震の性質を見分けることの大切なることを繰返し話されたり。
慘たる昭和の海嘯 石巻生(石巻)
一 偉大なる人の世に
嗚呼何たる天の配劑であらうか。偉なる人の世に「天災と戰爭」、そして私共人間の赤い血潮を奪つて行く。戰爭は避けべくして避けられない。天災は絶對に避けたいが之又避けられない。只人智の限りを盡し程度の多寡を極言する事は可能であらう。
常に筆不精の私が此の文を草せんと百パーセントの决意をしたのは海水が高く躍つた爲めではない。あらん限りある尊い私共人間の生命と財産が、より多く葬り去られた悲しい歴史的事實と、此の災厄に對し民衆が極度に共同善を表現した涙ぐましいあらはれを、事實のまゝに御知らせ致したいがためである。
二 海嘯だア!!
世人命名して三陸の大海嘯と云ふ。然し私は海嘯其のものゝ程度を知らないが故に「大」の字を冠しない、只海嘯と呼ぶ。
即ち昭和八年三月三日午前二時三十一分地震を感じた。激震ではないが二分位震動した。それから七、八分經つて金華山沖海岸洋上で靑白い發光を認めた。直後大砲樣の音二回を聽取した。それから約二十分經つて海水が甚しく干潮し、直ちに第一波が襲ふた。第二波は最も強く之れによる大被害であつた。第三波第四波漸次勢を減じ當日午後二時頃平穩に歸した。
之が我が署管内を襲ふた海嘯の事實であり、そして牡鹿郡、桃生郡、本吉郡の三郡内に多數の家財と死傷者とを生ずるに至つた哀れな天災である。
三 吾等の現在は
海に縁の遠い所に住する八年、客春當地に轉じた私は、あの蒼々とした海に對し特に大きい歡心を持つ。
西は日本三景の一つと稱せられる松島より、程近い野蒜村海濱有名な不老山海水浴塲(背景には天然記念物に指定の白砂に靑松の南餘慶國有保安林あり)より、本吉郡志津川町辨天崎に至る海濱迄延長百十一里三十二町、此の海岸に連る群山の大部分こそ吾等の管掌する、國、公有であるが故に、足元の海を觀察せずに森林の形成をのみ考ふる事が出來ない。
而して近來遠海漁業もさる事ながら近海漁業の生産は一層激減し、年生活の基底とする事が出來ない實情にある。此の不漁の主なる原因は、全体的に森林の濫伐による虫類の繁殖せざるによるものとも云はれて居る。
又一面には今回の津浪の前兆とも云はれて居る鰯の變態的大々漁による。燃料一棚一圓八十錢が四倍の八圓迄取引された事實もある。又海岸の農耕地保護及住宅地保護等幾多の懸案が吾等の双肩に掛つて居る。
四 雄勝擔當區官舎
北上川口から上流二十町餘、約三尺の增水で事なきを得た石巻市内も「津浪よ」との人心不安に相當喧噪を極めた。折柄出署中の擔當區七氏は大平の夢に御定宿阿部新に収まつて居つた。
夜明けて津浪襲來を知り各居城の状報察知に努めたが、電信電話は何れも不通状况を知る事が出來ない。
雄勝は全滅?との状報を得たので、當該阿部榮吉君と署より畠山、山家兩君を派して確報を待つたが午後に至るも確報がない。荻濱、大原、十三濱、戸倉の各海濱擔當區官舎は異状なき報を得た。然し雄勝官舎は片影だになしとか或は浸水だにせぬ等のデマ報のみ、官舎もさる事ながら阿部家族の安否に一大疑心を持ち、座したり、立つたり、電話をかけたり、遂に終自動車にH署長と私と戰闘準備?をなし雄勝に向ふ。午後六時半頃の地獄雄勝に着く。ありし日の雄勝の人家なく燈火なく空漠々たる間に、常に見えざりし海は穩かに収まり無心鏡の樣だ。H署長と共に「コレハ」「コレハ」とばかり名實其の廢墟の雄勝をば散ばる木片、倒壞せる家財を飛び越えはね越え、六町餘に時餘を要して漸く官舎に辿りつき、見るに床上六尺浸水四、五尺後方に押し流され、岩石に打ちつけられ大破してある。此の大破を見更に阿部君の家族の安否に不安の念が高まる。
五 斯くして九死に一生を得
阿部榮吉君は吾署きつての子福長者、十五才の長女を頭に七年十月生れの四女を殿りとし四男四女あり、阿部君は出署の爲め石巻町にあつて其の不在中突如として襲來せる今回の海嘯に、貞淑にして沈着なる妻君は折柄の地震に床を離れ、八人の子女を起して衣類を纏はしめて居た時、常に事業に使役して居た中島守治君(三四才)が駈け來り、不安に戰く子女を慰はつて震後床につかしめ、之れを見守りつゝあつた時、「津浪だア」の一聲に直ちに七人の子女と赤子とをいだく阿部妻君とを裏山六十度の傾斜の(寫眞に示す×の所)山に一人一人を避難せしめて居た折、造林定夫渡邊勘一君も其の家族を捨てゝ約六町を距たる所より津浪の波に追はれつゝ息せききつて駈け來り、共に力を協せて二十數尺上の涯上に完全に避難せしめたが、津浪の第一波は阿部妻君の避難途上の片足を洗ひ、間一髪かくして九死に一生を得たものである。
中島守治、渡邊勘一君に對しては特に局長の感謝状を戴いた。
六 呪はれたる浦々
今回の東海岸の海嘯被害は灣の形、深淺等によつて其の襲來の形状を異にして居る。波の高さが三、四尺程から三十五、六尺程度迄であつた爲め、自ら被害程度に差が多かつた。吾が署海岸線百十二里海岸部落七十一の内、人命と財産を失ふに至つたものは僅かに大原村の内谷川澤、鮫の浦、十五濱村の内雄勝濱、荒濱、舟越濱、十三濱村の内相川、小指の七部落に過ぎない、其の外は地上に又は床上に浸水した程度で、塲所によつては大海風よりも波が低い所があつたとも云はれて居る。
其の七部落の状况は見るも悲慘語るも涙である。呪はれた一家は一家毎に皆涙の哀史である。親のみ子のみ又は老人のみ、或は死し或は生殘り或は全家波に呑まれ、等々々人生悲慘の極である。嗚呼慘たる海嘯かな。
(イ)、味噌の空桶で
牡鹿郡大原村谷川濱は流失は一戸に過ぎないが、部落の八分通りは全、半倒潰で目茶々々である。其の流失家屋では若いもの共は全部「津浪だ」の聲と共に避難したが、老婆一人逃げ遅れ屋内にあつた時丈餘の海水が浸入した。そして其の水に押し上げられ梁に打ちつけられたので、之に取りついて居たに空味噌桶浮び來たので其の中に入り、自分の帶を解き之を梁に結びつけ、一方を自分の手に収めて救いを求めて居つた。かうして谷川灣内を自家と共に漂流して將に太平洋上に流れ出でんとする際、救助船に救ひ上げられて辛うじて一命を得た等の挿話的事實があつた。
(ロ)、「津浪だア」と云ふ間もなし
鮫の浦は牡鹿郡大原村谷川濱を北に距る十町餘の一漁村である。灣口の巾は二十間餘の所を高さ二十尺餘の海水一直線に押し寄せ、左折した引波により十三戸の人、馬、犬、猫家諸共「津浪だ」と云ふ間もなく灣外に押流されたので此の部落には破片一つない。
老幼婦女子三十九人はまたゝく間に彼の世の人となり、男子の壯者のみは海上で屋上に逃れ、流るゝ舟木片等に取りつき陸地に辿りつき、前夜來降り積る白雪を素足のまゝ部落に歸つたが、寒氣のため斃れたものも多い。海嘯後程經つて此の部落を通つた際、荒廢で蔽はれ死体が海岸に三個も四個もあり、心ばかりの線香に靈を慰められ居る等顔をそむけずには通られなかつた。
(ハ)、人命に國境なし
廢墟と云ふ文字を實地に用ひ樣としたら、三月三日の桃生郡十五濱村雄勝濱の海嘯慘害の跡であらう。然し廢墟の文字を創つた人も此の状態迄を豫想しなかつたらうとさへ想はれる。
原料を國有林より供給して居る石盤や天然スレート、硯の製作で全盛を極めた四百戸餘の本部落も、目に映ずるものは散亂する木片と倒潰家屋と曲りなりにも立つて居る電燈、電信の柱のみである。三十噸級の發動機船が三隻も波に押し上げられ、海岸より三町餘を距るそして海面より二十尺も高い小學校舎に横付けになつて居る等は、波の力の如何に強く且つ高かつたかを如實に物語つて居る。
人口二千餘人の本部落で代表的被害箇所であるに拘らず死者九人に留まつたのは、雄勝駐在所高橋巡査の海嘯豫知と機敏なる警戒網を施したによると云はれて居る。
九人の死者の内七人は一家族の親子のみである。それは菓子商鈴木求一家で、同家の老人が明治二十九年の津浪に戸外に逃れたものは皆死んだから二階に上れとの言により、一家九人が全部二階に避難した。其の間一髪家諸共海上に押し流された。求と弟武の兩人は、天上板と屋根を破壞して逃れ出で、闇夜の魔の海を泳ぎ陸地に至らうとする際、救ひを求める同家に十年も借家する邱恒榮(三八)の聲を聞き、邱さんは水泳を知らなんだ事に氣付き、其の家族を老幼婦女子の安否を捨てゝ兄弟協力し邱さんを救ひ、共に附近の陸地に泳ぎつき九死に一生を得て、今や部落民の感動と、同情とを一身に集めて居る。
(ニ)、安住の地は?
十五濱村荒部落は二十三戸の名實共の寒漁村だ。明治二十九年の海嘯に殆んど全滅の非運に遭ひ、今回再び此の災厄である。
明治二十九年の海嘯に生き殘つた高橋梅吉老に、其の當時の状况を聞きたいと話して居つた矢先今回の實寫である。同氏の語る處によれば、此の荒は明治二十九年の津浪の際は十六戸で、其の内八戸流され二十八人死んだ。其の時の津浪の高さは十九尺五寸であつた。そこで二十四、五尺も高い此所に引越したら、今回は三十五尺からの波で、そして地震後只一ぺんにやつて來たのでたまりません見らるゝ通りです。今回の死人は五十九人です。私の家でも重傷六人で佛樣になつたのが七つあります。此の部落で一家全滅は高橋松男の八人、高橋貞治郎、高橋しんの各四人の三家族です。世の中には神も佛もありません。一代に此の樣に二回もやられてはたまりません。何處か安住の地がないでせうか。と臨床目に涙をたゝいて居つた。神よ幸あれかしと祈つたが、父祖からの地位には越せないであらうと思ふた。
(ホ)、鰯の祟りか
荒部落より十町餘を距る舟越部落は、郵便局、巡査駐在所、小學校、擔當區官舎(欠員中)あり十五濱村第二の都である。惠まれたる漁港で年中鰯の漁あり、殊に客秋の大漁で不景氣知らずである。
今回の海嘯では倒潰僅少で、浸水は全部落に及んで居る。人畜、家屋被害は割合に少ないが、需要期の價格騰貴を見越して、鰯粕を賣らずに居つたもの二萬俵約十萬圓の粕は浸水と流失の厄に遭ひ眼を白黑にして居る。
(ヘ)、命の恩人
本吉郡志津川町の高橋德太郎さんは、津浪を豫知して警察に駈け込んだが、相手にされず憤慨して居る間に津浪が襲來したと云ふ話があるが、是れは同じ郡内の十三湊村相川の阿部倉松さんの人命救助の功名談である。
此の部落は明治二十九年の海嘯に二百七十人の死者を出した哀れな村であるが、今回は三十一戸流失して死者は一人を出したのみと云ふ記録を作つた。それは同村阿部倉松(五六)さんが地震後海岸に出て干潮の甚しきを見て津浪を豫知し、直ちにかくと部落民に知らしたので、部落民は逸早く避難したので三十一戸流失したに拘らず死者のなかつたので、命の恩人として部落民から神の如く崇拜され感謝されて居る。
(ト)、死出の道伴れ
十三濱村小指部落は十二戸の太平洋に直面する寒漁村である。V字型の小灣なるが故に海水二十數尺に及び二戸流失し一戸倒潰した。流失家屋の内哀れなものは阿部作兵衛さん一家だ。其の長男が客死して親族近隣の人々相集まり御通夜中に音もなく襲ふた津浪により一家族は勿論、集まつた人々全部が死出の道伴れと一呑みとされたが其の死体さへ見付からない、作兵衛さんは翌朝未明に埋葬せんものと墓地に行き居つた關係で家族中只一人生存し、涙ながらに跡片付をやつて居る等哀れの極みである。
七 社會への目醒めか
當時新聞は三日目に配られた。佐井に居つた時大正十二年九月一日の關東大震災を三日目に知つた私は、今回の海嘯災害を目のあたりに眺め、其の手配の迅速であつた事に驚く。それは事實の報道が速かであると云ふ理由もあらうが、一般民衆が身は昨今の經濟的苦惱に喘ぐとは云へながら、天災に泣く同胞の歡心は絶大であつたが爲めである。之が社會共同生活への目醒めでなくてなんであらう。人口が日に增加し職業の爭奪は白熱化して居る。白熱化せば化す程一面に人情美も深まるであらう。其の深まる處に吾等相互の生くる道が拓くであらう。今回の災害三日正午迄には四憐の消防靑年團、自警團、處女會は續々と蝟集した。そして罹災者に對し食物に、住宅に、衣服に身心を堵して捧げた。同日夕景には遠くは縣廳所在地から警察、軍隊、醫療救護班、等々各被害地に分布された。そして警防に療養に寢食を外に努力された。それに力を得てか成す處なく自失の罹災者達は生氣を生ずるに至つた聖代への感激。同日既に更生への第一歩を染むるに至つた。
八 同情の品々
奉仕に二通りある。強制奉仕と任意奉仕とである。信仰する神への奉仕に近來強制が流行して居る。或は信仰に對する差別待遇をさへ見受ける感心出來ぬ世とはなつた。然るに今回の海嘯災害者に對する同情奉仕は純情から出た任意の奉仕であり、其の多きに驚いた、金錢や品々は人の心を買ふものでないとは云へながら、純潔は或は金となり品ともなる。各村役塲は同情品の津浪である。自動車に、舟に、連日連夜の配船である。村役塲内は同情品の分配に途方にくれて居る。約二週間繼續した同情品は過大のものであつたであらう。罹災者達よ何を以て之に酬いんとするのか、此の社會愛を忘れずに「復興」に努力し以て酬いようと祈つた。
三月七日あたりから九尺二間の縣費救濟バラツク(三十圓)が建設せられた。三月十五日には、救濟も長くは續きませぬ各自正業に着いて下さいと村役塲が掲示し出した。
九 辭典を修正しませう
第一、怖いものに地震、雷、火事、親父の古語に誤謬があつた。歴史あつて千五百年、東北地方津浪の歴史あつて一千年、一千年に千四百回の津浪があつたさうである。此の津浪を怖いものに入れなんだ處に間隙があつた。故に地震の次に津浪の二字を入れて頂きたい。そして將來を警告致しませう。
第二、津浪は常に同一勢力同一高さ同一方向にのみ活動するものではない。常に働きを異にするものであると云ふ事に訂正して頂きたい。
第三、住宅地の選定並に繋船方法と防波方法とを考案致しまして辭典に登載して頂きませう。そして次ぎの海嘯史には年月日時海水五十尺三陸沿岸を襲ふとのみいたしたい。
一〇 寫眞説明(八年三月廿一日撮影)
宮城縣牡鹿郡大原村谷川濱の内
(一) 屋敷内の樹木に依り流失を免れたる家屋(牡鹿郡大原村大字谷川濱)四周の家屋悉く流失したるに拘らず屋敷の南西二方面を抱擁する樹木により僅かに流失を免れたる渥美庄助氏宅主なる樹木種類杉五本(約八十年生)たぶ七本、えのき一本、竹藪(若竹、篠竹混生高さ六七尺)其他たぶ、しゆろの稚樹數本、位置は海岸を去る約百四十米突家屋の高さ横十間縱五間の平屋建、浸水地上七尺建具、家具類殆んど流失家屋一角のけやき八寸角柱一本挫折、家族は屋根裏に遭難し危急を免がる。寫眞手前の雜然と散亂せるは家屋の破片にして家屋の後方に見ゆるは海面とす
(二)(一)を接近して海に向つて耕地より撮影せるもの(同上)
(三) 海岸堤防上に生立せる樹木により缺潰を免れたるもの渚を去る約十米突、樹木なき部分は悉く缺潰流失す樹木根部の波浪により露出せる状况に注意
同郡桃生郡十五濱村雄勝濱
(四) 被害を蒙りたる雄勝擔當區官舎にして×印は阿部主事の家族八人渡邊定夫及中島守治兩氏の助力を得辛ふじて難を遁れし急斜崖地なり
嘯害夜話 相澤生(局)
世の中で怖いものは地震、雷、火事、親父と云はれてゐるが、最近では地震、雷、火事息子と訂正した方がよいと云はる小説家が新聞小説に書いてゐたが、凡そ數ある天災の中でも津浪程恐ろしいものはあるまい。津浪の慘害が何んなものか、一般には呑み込めないからかも知れないが、今度の三陸海嘯被害跡地の慘状を見てこれ程怖いものは無いとつくづく思ふ。だから地震、雷、火事、津浪、息子とでもしたら何うであらう。
津浪後毎日の新聞紙上でその凄慘な状况が報道され、被害地を見た人々により被害の有樣を次々に言傳へられても實際の慘状は到底筆舌に盡し難い。今の人は思ひ切つて形容が出來ない。ひどいとか驚いたとか、何變繰り返して見ても昔の人の形容には叶はない。
三陸海嘯誌序の一節に曰く。
轉瞬之頃、流蕩夷滅、至赤地千里、不駐隻影、其禍豈可勝言哉、明治二十九年六月三陸之東、瀕海之邑、地震、繼以海嘯、殷々之聲、震天憾地、駭浪洪瀾、雷犇電驗、呑邑里、没閭閻、壞山襄陵、人畜死亡者、以萬千數。
三十八年後の今日又同じ地方に此の慘害が繰り返された。海嘯記念碑の石碑は三陸沿岸各地に建てられてあつたが今回其の中の幾何かは流失した。然し又其處に新たに白木で墨痕新たなる海嘯弔慰碑が建てられてあるのを見て誰か襟を正さぬものがあらうか。
異常の災害には流言蜚語が附きものである。彼の關東大震災の際流言蜚語の盛であつた事は今尚記憶に新たであるが、今回も亦其の例に洩れない。
災害直後人心の動揺せる際ではあり、世の中にこんなひどいことがあらうかと思はれる程ひどい目に合はされて九死に一生を得た人達であつて見れば、よしそれが何んな種類の流言であらうと信ずるし又信ぜざるを得ない程人々の心は眞劍なのである。いくら流言に惑はされるなと云つても災害直後に於ては無駄である。理屈抜きに人々の心は眞劍なのである。津浪來の流言に幾度か逃げ惑ふたことであらう。
大槌町沖に驅逐艦碇泊中のことである。明朝午前四時に津波襲來の徴候あり、其の時は驅逐艦よりの合圖を待ち警鐘を打つて合圖する由町當局にて布令したと云ふ。然るに同日午前一時頃驅逐艦より照せる探照燈の閃光を見て、徹夜警戒せる町民はそれ津浪來ると山手に避難したと云ふことである。
町當局に於てすら斯かる流言を信じて布令する程であるから、一般町民の惑はされるのも無理なきことである。
各部落附近の小高い山の頂に在る神社境内等には何れも焚火の跡がある。當時人々が息せき切つて避難した有樣が忍ばれて感慨深いものがある。
海嘯の報傳はるや、最もその安否を氣遣はれた沿岸のM署長は、赴任前から津浪來を豫想し、三陸海嘯の周期は茲二、三年の中なりと覺悟の臍を固めて赴任せし程であつて、地震と共に津浪の襲來を豫想し、直ちにM測候所に電話で問ひ合せたに其の心配無しとの事であつたが、五分後に津浪が襲來せりと云ふ。地震計には津浪は感じなかつたのであらう。
沿岸に關係ある營林署の中でも雄勝、田老、小本の三擔當區官舎は流失し、其の他關係者中多少の被害を蒙つたものがあつたが、職員家族中生命に關する程の打撃を受けたものの無かつた事は全く天祐と云ふべきである。當夜局署の職員中慘害地部落に宿泊してゐて海嘯に見舞はれ九死に一生を得たものあり、又津浪の當日或は前日に慘害地に出張豫定なりしも用務の都合で出張を延期せし爲被害を免れたものもあり、天災は紙一枚の差で吾人の身邊を窺つて居るものだと云ふ事が出來る。
森林の津浪に對する偉大な効果は、今回各所に於て其の實例を示した處で、小にしては屋敷の周圍に樹木があつた爲流失を免れしもの、樹木にすがり辛うじて一命を取り止めしもの等無數に其の例がある。浪に浚はれたものが樹木にすがり得るは全く間一髪の瞬間で、津浪により蕩盡せし部落跡地に點々存する樹木の中には、幾多被害者の生命を救つたものがあるといふ事が偲ばれる。
又立木にすがつた助命者多き中に、流木の激突を受けて顔面を突抜かれても猶すがれるまゝ手を離さず、無殘な死骸となつて殘つたものもあると聞く。死の最後の瞬間までも生命に執着を持つ吾人の本能を思へば涙なき能はずである。
深夜、幾多の家屋、船舶等を倒壞流失せしめし狂浪の有樣は、今にして憶ふも猶慄然寒慄せざるを得ないが流失せる漁船の家屋に激突し、更に家屋の破片が互に狂ひ亂れし波中の悽愴なる光景は各所に展開されたであらう。
鈍重な金庫は流れて各所に打ち上げられ或は海中に没し、中には大金入金庫の行衛不明となつたものあり、一方大船渡町では重油入大タンクの活躍により附近の家屋に衝突して被害を及ぼしたと云ふ。怖しき塲面の中にも苦笑を禁じ得ぬものがある。
三陸沿岸に居住するもので津浪の怖しさを知らぬものは無いであらう。されば今回の地震にも直ちに津浪を豫想し事前に避難せる爲、明治二十九年の際に比し死亡者尠く、死者と雖一寸した油斷から避難の時期を誤つた爲貴重なる生命を奪はれたものが多數だと聞く。又茲に大槌築港の土木工事小屋に居住せし人夫(靑森縣人)は、地震後附近の人々が津浪々々と騒いだが、生憎津浪の何ものかを知らなかつた爲狼狽する中に波に浚はれ、十二人中六名死亡したと云ふことであるが、今時津浪を知らぬとは信ぜられぬ話である。
津浪に關して斯かる小話を求むれば際限がないであらうが、最後に當時新聞紙上で、
「交換嬢が海嘯來を速報、殊勲、町民の感激」
なる見出の下に、
災害甚だしい釜石町が死者十六名に止つたことは奇蹟とされてゐるが、これは釜石から三里北の大槌町から海嘯が來たとの電話があり、釜石郵便局の交換嬢が直ちに消防組、警察に急報し、警察消防組は警鐘を亂打して町民に警告したためである。
との記事があり、大槌町の交換嬢が、釜石、山田の兩町に津浪が來たと報じたその沈着と臨機の處置に對しては絶賛を博せるもので、美談として傳へられてゐる。
當時被害激しき大槌町に於て、而も夜半に、若き女性にして此の沈着と機轉ある行動に就ては事實と多少の相違がある樣である。即ち若き交換嬢は地震後津浪來を豫想し、狼狽の結果無意識に釜石、山田を呼び出し、突差に津浪が來たと報ぜしも事實で、其の時大槌には津浪は未だ來なかつたので、津浪が來たと報じたのは誤報で、津浪に就て何ものかを告げんとして呼び出したものの、適當な言葉が出て來なかつたため思はず來たと報ぜし由で、これが却つて殊勲なる行動となつて表はれたものであると云ふのが眞相らしい。
狼狽せる有樣が窺はれるが、地震後未だ津浪の來ぬ時に、津浪に就て何ものかを告げんとする気持とその責任感とには敬服せざるを得ぬものである。
津浪一口話 竹達嘉市(岩泉)
この度の津浪で死んだものゝ中に勿論海岸近くにゐて逃げても追付かれてやられたのも相當あるが、あの非常時に慾心を動かしたものと、今一つは常に性格として馬鹿に落つき掃つたもの、糞度胸のあつたものが多く死んだ樣である。慾も糞度胸も時と塲合で大いに必要だが、かういふ非常時には其の價値が疑がはれる。
AとBとの間に交された話—津浪の夜が明けてから邂逅したAとB、A曰く「某が死んだか」B曰く「あれが生きたよ」A曰く「そうかあれが生きたか。困つたなあれが死ねばよかつたのに」某は村の開業醫で一般から憎まれてゐる者である。生きて居ると聞いて喜ばれぬ者は日常の行動が大體想像せられるであらう。これと反對に一般から死んだのを惜まれたものに村上といふ獸醫がある。この男は無産階級の爲めに相當の盡力をし將來もしようとしてゐた實費診療所等の開設準備が萬端整つてゐた元氣で多辯で愛嬌者であつた。
奇跡的に助かつた人の話
西野といふ二十五六歳の靑年、この男は二階に寢てゐた。それ津浪だといふので二階の階子段を中程まで下りた時ばつたり浪にさらはれた。後は意識不明であつたが氣がついて見たら其のまゝ流されて行つて岸に打ち上げられてゐた。何の怪我もなかつたとの事。
ある男は二階にゐた儘階下と階上は眞二つになつてしまひ、二階の疊の上に居たまゝ田老灣外に運び出され海上二里も流されてどつかり陸に上げられた。身命に別條がなかつた。
三歳の女兒が浪に持つてゆかれて浪打際に材木と共に置かれ、夜明後人々が行つて見たら、波がゴウッと來る度に悲鳴を上げてゐたのを助けられた。今でも其の子を見ると涙ぐまれるのである。
彦太爺といふ老人がある。この老人は明治二十九年の津浪の經驗者である。濱邊にゐたので逃げ後れ、浪が來たので二階に上り、階下の婆さんを呼んで『助かりたいなら早く二階に上れ』と言つた。自分は二階にゐたまゝ流されて岸に辿りつき、材木(二階がつぶれた)の下敷になつてゐて人に助けられた。其の時爺曰く『婆は生きてゐるか』助けた人曰く『婆さんも此處にゐるよ』爺曰く『生きてゐるか』助けた人『生きてるかどうか此處にゐる』と言聞かせた。彦太爺は材木の中から抜け出て婆の所に行つて見たが冷たくなつてゐた。爺は其の日一日婆の側を離れることをしなかつた。
三月三日の一日 山口生(宮古)
目を覺した時は、あまり建付の丈夫でない僕の二階の部屋は、可成りひどく揺れてゐた。書棚から書籍がバラバラくづれ落ち。木立の上の花瓶が机の上に倒れて水がこぼれたのでよろよろ起きぬけて手拭で水るをぬぐつてゐる間に電燈が消えた。それまでは、随分ひどい地震だな位に考へて別段不安も覺えなかつたが、電燈が消えてあたりが暗黑になると、急に何とも云へない不安の黑い固まりが身体中に擴がつた。
揺れはなかなか止まない。急いで硝子窓を開いて見たが、人の騒ぐ氣配は見えないので外に出るのも少々氣が引ける。出ようか、出まいか、迷つてゐる内に揺れも漸く止んだので、そのまゝ床の中に入つた。
十分位の經つたろうか、しばらくすると戸外で人の騒ぐ聲が聞え、耳を澄まして聞くと潮鳴りが妙に高い。津浪に對する恐怖が心をさいなんで、そのまゝぢつとして居られない樣な切迫した氣持、自分は津浪にさらはれて、その屍も發見されない樣な死方をするのぢやないか知ら、こんな感傷めいた氣持にとらはれてゐる時、町内の人であろう、中年の女の聲で、
「津浪だぢやんすが、逃げとかんせ」
と叫びながらひどくあはてゝ走つて行く。
僕はほつと救はれた氣持、戸外に逃げ出すきつかけを與へられた氣易さにそのまゝ飛び出してしまつた。その時の僕はかなりひどいあはて方だつたらしく、後になつて近所の人達の話では、帶もしつかり緊め切らないでぞろぞろ尾を引きながら、高い足駄をはいて血眼になつて小走りに馳けてゐたらしい。僕の足は無意識の間に山手に向いてゐた。正直なところ僕は役所の安否を心にかけてゐる餘裕がなかつた。人間の生命に對する本能慾、許さるべきであろうか。
最も被害のひどかつた田老などの話をきくと、浪が後から追ひかけて來る。今にも足をさらはれさうだ。子供が泣きわめいてすがりつく。自分の生命を救ふためには、子供の手を振り切らねばならなかつた。肉身ですらかうである。他人に對する同情とか愛とかは自分の生命が現在安全な状態に置かれてゐて初めて起るもので、現在の自分の生命が安全でさへあれば、それから自分の生命の危險を冒して他人の危險を救ふことは出來る。そうではないかしら。
家を出て通りに出ると、警鐘が鳴る。宮古中の自動車がけたゝましく難を避けて通る。
それぞれとつさの間に大切だと思ふ品を取纏めたのであろう、風呂敷包を背負つた人の群が何かに追はれてゐるやうに、高台へ高台へと急ぐ。兵火を避ける市民の總退却とでも言つた有樣。僕もその群衆の間を揉まれながら、閉伊川を下つて來ると宮古町の入口に當る小高い山の頂に登つた。
この夜は近來にないひどく寒い朝だつた。皆んなで薪を求めて焚火に暖をとつた漸くほつと落付いて海手の方を見ると、まだ夜明に間のある周圍は暗く、只物凄いおびやかすやうな浪の音だけが高い。宮古町を取巻く周圍の山には難を避けた人達の焚火や灯燈の明りが点綴してゐる。
署長の家族は皆んな無事避難したらうか。日頃から人一倍津浪を心配してゐた署長のこと、どんなに驚いたらうか。署員の人達も皆んな無事だらうか。こんなことを考へてゐる内に、何か大きな建物が崩れるひどい音を聞いた。宮古橋が落ちたのだ。
「あゝ宮古橋が落ちた。」
「藤原は全滅だろう。」
「藤原がね、鍬ヶ崎はどうだらう」
三十八年前の津浪の恐しかつたことを多辯に話して聞かせる女があつた。
僕はたヾもう朝が待遠かつた。ひたすらに朝を待つた。宮古町はどうなつたろうか。何を置いても早く知りたい。小さい焚火を抱くやうにしながら朝を待つた。
朝明が自分の周圍から次第に波紋のやうに廣がつて來た。あたりの木立がやうやく見えだして來た。待ち切れなくて山を下りた。
朝
山を下りると、附近の人家は少しも異状がない。家々からはもう穩かな朝の炊事の煙さへ出てゐる。津浪はそんなに大してひどくなかつたことを知つて、自分の逃げ振りは少し大袈裟すぎたかなと思ふ。一先づ下宿に歸る。足袋もはかないで今迄どこに行つてゐたのだと云つて婆さんに笑はれる。
婆さんは逃げなかつたのかと聞けば逃げるもんですかと言ふ。
よく逃げなかつたねと言へば、この家が流される位なら宮古の町は全滅だと言ふ。
僕の下宿は海岸から随分遠く離れてゐるから、本當に婆さんの言ふ通りかも知れない。だがこの家が流れる位なら宮古の町は全滅だと言つて落付いてゐるのは少々呑氣すぎる。宮古町の全滅などゝ言ふことは决してあり得可らざることだと信じてゐるのだらうか、それともまた、宮古町の住民全部の一蓮托生の死なら悔ないと、死の群集心理とでも言つたやうなところに逃避してゐるのだろうか。僕は宮古町の全滅などゝ云ふ塲面を想像する時、全ての人が死んで僕だけが生き殘る。そんな虫のいゝことを考へる人間、それだけ僕は人一倍のエゴイストかも知れない。
書籍の散亂して狼藉たる自分の部屋に落付いて、ゆつくりふかした煙草の甘さ、かう云ふ時の一ぷくのためにも煙草は飲むべきもの。役所の樣子を早く知りたいが、宮古橋が落ちてゐるし、電話も不通なのだがら船で藤原まで行くほかはない。船があれば役所まで行つて見よう、とにかく舊舘の渡船塲まで行けば役所も見えるし、樣子は判るだらう。出かけて見る。やうやく明けた頃の寒い朝で、街の家はまだすつかり家戸を下してひつそりしてゐるが、街路は海岸の方に急ぐ人、海岸の方から歸つて來る人の往復で一ぱいだ。皆んな黙々として、行く人達は期待の急ぎ足で、歸る人達は見るべきものを見たあとの落付いた緩かさで。舊舘の川岸に來る。藤原はすつかり元の姿。流れたり、こはれたりした家一軒も見えない。役所も無事。初めてほつとする。
かなた遙かに朝靄の中に宮古橋の落ちたのが見える。潮に押し上げられて破損した多數の魚船のいたましい姿。閉伊川は枕木や丸太や其他あらゆる種類の木片で水面を埋められてゐる。恐しい勢で河口に向つて流れ出るかと思ふと、又ぢりぢり押し上げられて來る。靜かではあるが、押上げて來る力の力強さ、潮の運動はまだ變調で薄氣味が惡い。
それにしても、この樣子では別段大した被害はない。僕はこの時から數時間の後、次から次へと報道される各地の慘禍のことを無想だにせず、まあよかつたと云ふ安堵の中から、人間の殘虐性と云ふか、期待してゐたことが裏切られた物足りなさ、何んだこれだけかと云つた氣持を抱いて下宿に歸つて朝飯を食つた。
宮古橋のたもとで渡船が始まつたと云ふ話を聞いて早速出署することにする。消防組の人達が渡船をしてくれてゐる。なかなかの混雜。船を待つてゐる間に人々の話を聞いてゐると漠然とはしてゐるが、沿岸の各地は随分ひどくやられてゐるうわさ。釜石が大火だと云ふ話もこの時聞いた。初めて今朝の津浪が只事でないことを知つた。
署員の出揃ふ間をストーヴを圍んで話した。地震を知らずに寢てゐたもの、知つてゐて大膽にも避難しなかつたもの、寢衣のまゝ子供の一人を背負ひ、二人を兩脇に抱きかゝえて小學校に避難した子供の多いKさん。みんな後から談り合へば笑ひ話。
署長、署員全部集まつて來た。各地の被害の状况が追々知れてくる。その對策について協議會を開く。
直ちに局に電報する。
丁度出署日で出署してゐた擔當區の人達には、すぐ歸つて部内の状况を知らせて貰ふ。役所の裏手海岸に積んであつた枕木製品の流出したものに對して直ちに採集にとりかゝる。宮古町諸官廳、關係木材業者を見舞する。こんなことを急速に協議してすぐ手分してその配置についた。
署長のお伴をして宮古町の見舞に出る。町は各方面からの見舞やら見物やらに出て來た人でひどい混雜。新聞社や役所の掲示塲には各地の被害の状况が刻々に掲示される。宮古町の樣子を見ては、各地のこのひどい慘禍のニユースは一度その眞を疑ひたくなる。
田老、重茂、山田、船越、織笠、各地の慘状を知ると宮古町の平穩さが不思議な位。
宮古町の被害と云つては、宮古橋が落ちたと、染谷と云ふ木材商製材工塲が全潰したこと、漁船の破損位のことで、人命に被害のなかつたのは何よりのしあはせ。併し各地の被害がこんなにひどくては、三陸地方の津浪は全國的の騒ぎになつてゐるに違ひない。
國の兩親も随分心配してゐられることを思つて、郵便局に立寄り無事の知らせを國に電報する。どんなに喜ばれるか、その姿が目に見えるやう。
まだ時々地震がある。閉伊川の水を見ると平常には見られない恐しい勢で海に流れ込んでゐる。海の底に何か大きな穴でもあつて、吸ひ込まれでもするやうに見える。表面靜かでも海の底にはまだまだ容易ならぬ亂調の渦が巻いてゐる樣で易い心もない。
トド山の官斫事務所に詰めてゐた署員が歸つて來た。これで皆んな無事。重茂方面の樣子が知れる。重茂の里と云ふ部落は半ば以上浪に持つて行かれた。日の出屋と云ふ署員の泊りつけの宿も土台ごと綺麗に持つて行かれた。署長と僕とは昨夜こゝに宿泊する筈になつてゐたのが、仕事の都合で一日延期することにして助かつた。かうして助かつた例は幾らもあらう。又その反對の例も澤山あらう。生死の境は本當に紙一重、運命論者でない僕も多少憮然たる感慨がある。
又夜が訪れた。
時々氣味の惡い地震がある。
幸ひ電燈はついたが、いつ又消えるかも知れない樣な賴りない光。
洋服のまゝ眠つた。
海嘯餘談 佐藤生(高田)
高田灣に注ぐ氣仙川を遡ること數里、世田米の在に川口と云ふ小さな部落がある。山村で傾斜地が多く、往時は大分不便な處とされてあつたが、只今では交通の便もよくなり、氣仙地方からの遠野町や東北本線水澤驛に出る要路になつて居るので、毎日幾臺となく自動車も通る樣になつた。然し何んと云つても四圍山又山で、耕地も少なく農家一般は餘り樂とは云へない。
此の山村の百姓家に一人の少年があつた。名を吉田愛二と云ふ八人兄弟の三男と生れ、昭和六年の春、村の高等小學校を卒へると間もなく家庭の都合で他に出て働かねばならぬ身となつた。他人の家に行くのは無論始めてヾ、それに年少の身である。
働く爲めの行先は决まつた。數里を離れた高田町郊外高田松原内にある××舘と云ふ浴塲兼旅舘である。愛二少年はつまり小間使として奉公する譯なのだ。知人に連られて住み慣れた吾家を出る時、行つて來ます、おとうさん丈夫で、さようなら、と云ふと父鐵は云ふのであつた。愛二お前の兄弟は大勢ある。然し年若さに他人樣の家にやるのはお前ばかりだ。確り働いてくれ、たのむぞ。との一言だつた。××舘に來て見れば、御主人は極めて温厚な人、主婦さんも又親切一點張りで、誠に愉快に働くことが出來た。彼も一生懸命眞心をこめて働いた。自分の生れた川口部落から見れば、總べては違ふ。居る處は日本百景の一として誠に景色は宜しい。又町はすぐ近くにある。商店や工塲も多い。灣内には運送船漁船は無論、三陸會社の定期船も上下すると云ふ賑かさ。冬季は平凡なれ共、夏季になると學生や其他の避暑遊覧客も相當に入込む。其の時などは朝早くから夜遅くまで働き通し、全く手も足りない樣に忙しい有樣。然し斯樣な仕事をするのは自分に與へられた天職かと思ふと面白く、困苦も幸福に彼は永遠のためにと働いた。主人も彼を信用したのである。彼は別れて居る年老いた兩親や弟や妹にも、月一二度位づつは幸福なる便りを齎すのであつた。又親元より來る便りは彼を喜ばしめるのは勿論だつた。
三月三日夜半二時半頃、嚴寒の深夜二回の強震によつて平和な樂土の夢は破れた。主人を始め家族一同飛起きた。彼も又蒲團を蹴つて戸外に出た。天は墨を塗つた樣に暗黑だ。××舘の前は直ぐ海である。然るに海の浪は平穩の樣だ。昨夜來の雪は未だ地面を覆ふて居る。身は裂くる程寒い。電燈は既に消えて居る。餘震もあるが極微弱な程度で、一同心配ないと再び寢に就いた。二十分間も經つた時、ドーンと一代音響がした。津浪だぞと云ふ主人の聲が耳に入つた。其の呼聲を聞いた時は既に遅い。夢中で蹴起き戸外に出た。家族の者は誰も居らない。沖の方からは悲壯な音と共に山の樣な浪が押寄せて來たのである。津浪などゝ云ふ事は年寄の人から聞いたことはあるが、見たのは始めてだ。
かうなつてはいよいよ命はないとつた。狼狽もしたが今は猶豫すべき時でないと思つたから、××舘の裏の方へと走り出したが、一問とも行かぬに矢の樣に早い浪の爲めに足を浚はれ、体の自由を失ひ、忽ち十數尺の水の中に巻込まれ、不思議にも浮き上つたが、水の音家の倒れる音木の折れる音形容すべくもない。主人家族四名と共に今は絶望、地獄、たヾ悲慘と云ふのみ。身を天に委し泥水と共に百餘間を押流されたと思ふ時、幸なるかな直徑三寸程の松の樹に手がかゝつた。これは松原地内の生立木であつた。彼は天の助とばかり力の限り其の木の枝を握つた。此の枝は彼の命を支配する譯だ。どうなつても此の枝は離しまいと努力した。數分にして水は幾等か減つた。けれども第二の浪が來るかも知れない。身は濡れたシヤッ一枚、昨夜以來の寒氣は零度以下、手はもう寒いも傷いも感じない。今此處で死ぬかと思つたら、老いた兩親や兄弟の事も考へた。早くに死んだ直きの兄さんの事も頭に浮んだ。時に、××舘の方に當つて人の聲がする。誰だか判らないが多分御主人だなと思つて、其の方に行きたいが足も充分歩けない。又水も有る。然し津浪も二回目には小さなものがあつた丈で、後は來ない模樣だから、這ふ樣にして先の人聲のする方向に向つた。其れは矢張主人で、濡れた寢巻を着て、直徑一尺位の松の樹下に倒れて居た。今は話も充分出なくなつて居たが、互に助かつたことだけは話合つた。主婦さんや二人の娘さんはどうなつたか分らない。二人は其の塲で寒さの爲め意識不明となつたが、忽ち夜は明けた。町よりの町當局を始め消防組員、在鄕軍人會員、靑年團員、其他多數の救護員の手によつて、主人と二人は手厚き應急の處置を受けたため体は快復したが、××舘は形もなく毀され、遺憾ながら主婦さんと娘二人は遂に浪に揉れた爲め死亡したのは氣の毒でならない。主人の助かつたのも、彼の愛二少年の助かつたのも、共に附近の松の木にすがり付いた爲めで、偶然とは言ひながら、此處に木が無かつたら如何ともする事も出來ず、海の犠牲となつた事と思ふ。是は二人共一本づゝの木によつて助かつたと云ふ實話である。今主人は愛二少年と共に復興に努力中である。
附言高田松原は沖の松原と稱し、高田町氣仙町海岸二十町に亘る赤松黑松の防風林で、寛文年中藩命によつて初めて松樹の植栽をなし今日の美觀を呈するに至つたものである。今回並に明治二十九年の海嘯の時も、高田町の災厄を免れたるは此の防風林の爲めである。實話中の××舘と云ふは、松林の外側海濱に面して建ててある故この損害を蒙つたるものである。
日記から 大山文治郎(三戸)
三月三日 金晴
不安に藉られながらも、夜の地震に未だ曾つて床を飛び出した記憶は無いが、今朝の地震には横着を通し得ないで到頭飛び出して了つた。時刻は二時半頃で震動時間は五分間も續いたと思ふ。
出勤して皆で話し合つて見ると、震動時間の永いのに吃驚して飛び出さない者は一人も無いが、昭和六年三月の地震に比較すると遙かに弱い事に一致した。
頓て配達された號外によつて、海嘯の襲來を知つた。釜石附近は被害が甚大で、本縣も階上、三澤兩村を中心に相當の被害があるらしい事を報じて居た。
宮城、岩手の管内圖を窺きながら、海岸所在の擔當區官舎を漁つて見たが相當の數に上つて居るので、皆で罹災の慘状を想像しながら語り合つた。
三月四日 土曇
午後零時六分の下り列車に乘るべく三戸驛へ行つて見ると、海嘯見舞客らしいのが相當見えた。大風呂敷を抱いた婦人が、八戸市へ嫁いだ娘からの便が無いので、行つて見るのだがとて發車時間をもどかしがつて居るのは氣の毒だつた。
劍吉驛で下車して名久井村行の自動車へ乘ると、名久井村黑川助役と、外一人の客とが上り列車で下車して同車する。助役は靑森からの歸りださうだが、靑森は地震は相當強かつたが、海嘯の影響は無かつたと言ふ。
他の一人の客は八戸市某吏員だと言ふので、種々と海嘯被害状况を聞いたが、八戸市では船舶の流失破損以外に、蕪島の橋が流失した許りだそうだ。
午後一時四十分名久井村役塲着、佐藤村長に會つて官行造林地の追加提供勸誘をしたが、御互に海嘯の觀念が手傳つてか氣乘がしなかつた。
辭して劍吉に引返し、北川村役塲を訪れたが、村長が海嘯見舞のために八戸市出張不在だと言ふので、明朝八時の會合を約し平良崎村役塲を訪れ、午後五時三十分三戸町松十旅舘着宿泊した。
三月五日 日 曇時々雪
午前七時三十分、宿の前から自動車に乘ると、續いて五人連の一行が乘つた。服装と話具合から、八戸市以南久慈町に至る、海嘯の被害跡地見物に行く事が直ぐ分つた。
鐵道が覆舊したとの新聞だが大丈夫だらうな。
海嘯は四十年に一回しか無いと言ふ事だ。一生に一度より無いのだもの、是非見て置く必要がある。
前の海嘯は明治二十九年だと言ふから、僕の生れた年だ。
俺は八歳の年だつたが、幾分記憶があるなあ。等と言ふ話を聞きながら三戸驛着、午前七時四十分發の下り列車に乘り、劍吉驛下車、川守田北川村長に會ひ、野澤村役塲を廻つて、宿に歸つたのが午後五時だつた。
三月二十四日 金晴
海嘯被害寫眞送附方照會に對する、局への回答用寫眞蒐集方命令を受け、午後二時發、自動車で出發、三戸發驛午後三時七分の下り列車で八戸驛着、木炭同業組合事務所を訪づれ、電話を借り新聞社なら種板の持合せがあるだらうと思つて、東奥日報支局と八戸毎日新聞社を問ひ合せたが一枚も無いと言ふ。併し八戸毎日新聞社を介して、やつと、鳥谷部町の浦山邦二と言ふ寫眞師が所持して居る事を知つたので早速種板を持參して貰つたが、慘状の豫想外に甚しいのに驚いた。
燒附方を依賴して、事務所を辭したのは午後六時過ぎだつた。
三月二十五日 土晴
午前九時二十四分八戸驛發、久慈行列車に乘る、湊橋にも白銀海岸にも、被害らしい被害を認める事は出來なかつたが、彼れ程頑丈だつた蕪島の橋は、跡形も無く押し流されて、釣橋に代へられて居た。
午前十時十九分階上驛下車、海岸へ出て見ると、海面から十米位の高さにある殘雪が打ち付けた浪に汚れて、當時の凄慘な状况を物語つて居る、地形圖を便りに海岸を北進して階上村字榊に出る。小さな入海を圍んで作られた部落で住宅は皆後方高い位置に在るので被害は無いが、納屋の流失が多く破損した船舶倒潰した納屋が未だに其儘になつて居る、波の浸入距離は最奥部で一二〇米、波の高さは浪打際から四〇米位の地點で、一〇米位あつた樣に觀察された。被害は東南面に多く西北面に少い寫眞は二枚撮つた。岡を一つ越すと階上村追越だ。
東北面の緩斜地で、海面から四〇米位で急に高くなつて居る。人家は海面から二〇米位離れ、道路に沿つて建てられて居る。道路に沿つて作られた板塀は無慘に押し流されて居るが三米程も伸びたマサキの生垣が靑々と繁つて居るのは目を引いた。部落の入口ではそれ程でも無いと思つた被害が北進する程高くなる。漁夫達は舟の修理に忙しく、破損した家の其儘なのは未だ移轉先が决定せぬのだらう。一人の男に聞くと、流失家屋一戸、死者一名だと云ふ。男は偶然にも死亡者の兄だつた。地震後三十分位で押し寄せた浪のために、岩の上に上げられた舟を部落の若者一同と共に引下して居ると、三十分位で又押し寄せて來た大波のために一人押し倒されて行先不明になり、一日も經て岩の間に狹まれて死んで居るのを發見したのだと云ふ。深く哀悼の意を表して幾何も離れぬ階上村字大蛇に着いた。大蛇は三戸郡下に抱ける最激甚地と聞いて居たが、成程甚い。道路下浪打際迄の距離は二〇米乃至五〇米だが、此處に建てられた納屋は綺麗に洗ひ流され、道路上の電柱は皆折倒され、五間舟が五〇米位も離れて顛覆し、二間舟が二〇〇米程も押し上げられて居るのが見られた。死亡行先不明者二名、流失家屋九戸、勿論岩手縣方面の激甚地には比すべくも無いが、其の慘状には驚いた。本部落は海岸線約五〇米、東北に面し、東南方は浪打際から約四〇米で急に高くなり、東北方に進むに從ひ、奥部迄緩傾斜をなし、北端に小川がある。本部落は明治二十九年當時は被害は些細なものだつたさうだが、今度は眞實に甚かつたのである。死亡者二名も一時は避難はしたのだつたが、安心して持出物等持ち歸つてほつとして居る間に、二回目の大波に家諸共波はれて了つたとの事である。寫眞は追越一枚大蛇二枚。大蛇から小川を越せば直ぐ八戸市だが間もなく金濱部落に出る。此處は又舟の流失と納屋の破損はあるが、被害は眞の微々たるもんだつた。此處から鐵道線路傳ひに、汗を拭き々々種差驛に走せ付け、午後二時二十六分發の尻内行列車へ飛び乘つて歸途に就いた。
六月十八日 曇後晴
八戸市階上村への出張は、寫眞撮影が目的であり、時間もなし、單に素通りしたに止り、調査洩れの個所もあり、海嘯被害地標準地調査のため出張せられる本多、今村兩博士の御一行に階上村の海嘯被害状况を傳へるため、更に調査する様にとの命令を受けて、午前八時三十分發署。午後一時四十一分階上驛着、前回見なかつた階上村字小舟渡へ行く。此處は明治二十九年には激甚を極めたのだつたが今度は波は前とは反對に東南方から來たのと、部落の東南方に高く長く突き出でて居る崎が、防波の作用をして呉れたのと、地盤が一般に高くなつて居るので流失破損の舟は相當の數に上つて居るが、家屋の流失破損は一軒も無い。
併し斯くも被害の少いのを單に波の弱い事に許り歸せしめる事は出來ない。部落の東南方に突き出た崎の突端に建てられて居る「海嘯死亡者の碑」によつて、幾多犠牲者の英靈と、苦い經驗を持つ先輩の、加護と、指導とによる部落民の緊張と覺醒とを知らねばならないのである。それから榊、追越、大蛇と調査して廻つたが、流失破損の家屋は後方高い位置に移轉改新築され、未だ納屋の恢復されたものは無いが、部落民は舟の修理製造に没頭して居る。追越では、先生に會つて話を聞く心算で、小學校を訪れたが先生は不在だつた。大蛇では、元階上村長中田岩太郎氏宅を訪ね、御子息追越小學校訓導淸助氏が逃げおくれ危く押し流されんとする所を掴まつて、死地を脱したといふイチヰを見せて貰つた。惜しい事には、同氏宅でも奥の方に引越しイチヰも移植したため枯れかゝつて居た。
大蛇から鐵道線路を階上驛に引返し、午後五時四分發の上り列車で歸途に就く。
六月二十一日 水晴
靑森縣内海嘯防備林造成豫定個所調査の相澤營林局兼農林省技手並栗原靑森縣農林技手兼農林省囑託に隨ひて、午前九時四十三分鮫驛發川村階上村長に迎へられて階上驛着下車、驛前の店で休みながら、村長さんから階上村に於ける海嘯被害状况と海嘯防備林設置に關する希望を聞き、村長さんの案内で榊、追越、大蛇と調査して廻る、
調査の結果に對する兩技手の御意見は次の樣だつた。
榊
納屋類のみの被害個所だから問題にならぬ。
追越
現在のまゝでは造林する餘地が無いし。後方高い位置に移轉すれば絶對に安全になるから、造林の必要が無くなる。
大蛇
部落の中央以北長二〇〇米、巾二〇乃至五〇米位に要設置個所があるが、部落では網干塲其他漁の作業に必要だと云ふ樣な意嚮だから、無理に押し通す譯にも行くまい。
午後二時十一分階上驛發、鮫に引返し石田家に泊つた。
六月二十二日 木晴
兩技手に隨つて、鮫發八戸を經て下長苗代村役塲を訪れ、村上村長から種々承はつて、接待書記の案内で海岸に向ふ。十五分程して八太郎部落に着き、間もなく八太郎沼に出る。
浪打際までは六〇〇米程もあるだらうか、明治二十九年の海嘯には波は此處まで押し寄せ、當時沼では鱸が漁れ、鹽水が脱けぬため、其の灌漑區域の水田は三年前も皆無作が續いたとか。沼の下手は巾一〇〇米程の水田地帶になつて居るが、今度の海嘯では三〇米程が海水を浴びたに止まり、沼には少しの海水も入らなかつたと云ふ。此れから一〇〇米程が畸形をした赤松林、或は畑で、砂原は巾四〇〇米程もある。斯うした状態が市川、百石、三澤、の各町村を經て遠くは下北郡に迄及んで居るのだと云ふから驚く。本春靑森縣の實行に係る二ヘクタール程の黑松の砂防植栽は、案外長く活着して居たが、一ヘクタール當八〇〇圓も要るのだと云ふから至難な事で、單に海嘯防備林として許りではなく、海岸砂防林とし國營造林を要する事は焦眉の急務であると思つた。一通りの調査を終つて、村役塲で世話して呉れた小學校前の宿へ着いたのは午後五時だつた。
六月二十三日 金晴
兩技手に別れ、鮫で宿の準備を整へ、尻内驛へ出で西村君と共に、午後三時三十八分の下り列車で着かれる本多、今村兩博士の一行を待つた。縣の田中農産課長並丸山技師及猪狩測候所長も見えて居られた。博士の一行は兩博士の外に、山林局橋口技師、井出技手、武藤囑託及局の平間技師で、午後五時鮫石田家に着く。午後九時頃及川署長さんと共に、局長さんも着かれる。
六月二十四日 土曇
一行に隨ひ、午前七時三十分發宿自動車で八戸、下長苗代、市川、百石を經て午前九時三澤村字三川目着、博士一行の標準地調査を視る。流失家屋一六戸、死者二〇名、縣下海嘯最激甚地である。此處は階上村とは全然地勢を異にし、下長苗代村海岸よりも低いかと思はれる砂原が、五〇〇米程も續いて、流失家屋の跡地にはイボターキの生垣が取殘されて居た。本多博士は調査の途々、今村博士は最後に各御意見を述べられる。
本多博士の御意見
防備林としては、最前線は黑松とし、次に赤松、最後部には現在良く生育して居る樣でもあるし、ニセアカシヤ、ケヤキ、クリ等の濶葉樹を植ゑた方が良い。私が曾て佛國に行つた時見たのだが、北部海岸に同國有數の海水浴塲が在る。一面の佛國海岸松の林で、之れから松脂の採取もして居る。併し、此處は五十年前迄は風の強い沙漠で、海水浴所か通行さへも困難な塲所だつたのが、佛國海岸松の植栽で面目を一新したのだ。佛國海岸松は我が國能登地方にも相當生長して居るものが在る。
兎に角、當地方でも此の植栽が成功の曉には、一大海水浴塲が出現するかも知れぬ。収入の上からも忽せに出來ぬ事だ。
又砂原に植栽した塲合には、苗間に一寸方形位にイボターキの本年發生の新梢を、三、四寸の長に摘み取つて、其の半以下位の葉を摘み去り、挿木してやれば良く活着するものだが、砂を早く安定せしめて造林木の爲めにとても良い。
今村博士は、海嘯は波の方向や強弱は常に一定して居るものでは無いから、今度海嘯の被害が無かつたからと言つて、防備林の必要が無いとは言はれないから、被害の虞在る塲所は一樣に造林するの必要が在ると言はれたが、我々には金言だ。
防備林としては巾の廣い程効力がある筈だが、植ゑる餘地があれば三間でも五間でも良い。一本でも防備の効力は無いにしても、木が在ると言ふ觀念から氣分が違ひ、安心せしめると言ふ意味に於ても、効果がある筈だ。
今村博士の御意見
ゆらゆらと永く電燈の揺れる樣な地震だつたら、先づ、海嘯が來るものと見て良い。
海嘯が來る塲合には地震後三十分位で海鳴りがし、更に三十分位で浪が來るのだから夫々警戒避難し、落ち着いて一時間半乃至二時間も待たねばならぬ。地震に海嘯は附物だと言ふ樣な觀念から、地震毎に避難する樣な事になれば、反對に慣れ切つて終つて、海嘯にも避難しない樣な具合になる事は、羊飼の子供と狼との話と同じだから、地震を見分ける事が必要だ。
又當地方の波は、明治二十九年當時よりも高かつたと言ふ樣な話だが、それは前回は前方に未だ家が在つて、防波作用をしたため、奥部に波が浸入しなかつた事に基因する、茲に林の効果を認め得る譯だ。
此處から三澤、淋代を經て古間木に出、晝食後一行に別れ、午後一時四十五分古間木驛發上り列車で歸途に就いた。(終り)
津浪に關する小話雜話 九里生(局)
(一)津浪襲來を豫見するには地震の直後海水の後退せるや否やによると傳へられたる爲め、多くの人々は走りて海岸に出でたる所、何等異状なきにより安心して再び寢に就けりと云ふ。然るに實際は津浪襲來前約五分に海水著しく後退したりと(宮城縣唐丹村小白濱)。
又一部には數回海岸に出で津波の襲來を見んとせしも其の事なし。よつて又安心して就寢せるものなりと。
死者多かりし箇所は概ね之に類す。
(二)前記小白濱部落の發動機船、數艘は豊漁を喜びて歸港したるに始めて津浪の慘害を知れり。
船にては地震を感知するも津浪は判然せずと云ふ。
(三)津浪の襲來は箇所により少し宛相違するらしきも凡そ地震後三十分なり。
(四)津浪は大なるもの三回襲來し、第二回目は一番大にして被害多く、之により流失を多大ならしめたり。然して小なるものを合すれば數回ありたりと云ふ。
(五)第一回の襲來に避難したるが、引き返して家財等を持出さんとし、第二回目の襲來に遂に死に至りたるもの多し。
(六)部落によりては警鐘を亂打せる爲め火事と思ひ込み、家財道具の整理をなしつゝある間に津浪襲來せるものなり。
(七)高田松原鹽湯にては津浪の爲め戸外に投げ出されたるが、主人及下宿人(小學校敎師)は其の瞬間マツ枝に掴まり一命を助かりたるも、主婦及二兒は其の力なく浪に押し流されて主婦は行方不明となり、二兒は南方の日蓮宗敎誨所裏手に死体となりて漂着せり(浪は松原を貫流し其の後方を迂廻して今泉方面へ行きたるものあるが如し)。
(八)發動機船或は重油タンクの如き巨大なるものゝ打揚げられたる箇所は、津浪其のものゝ被害よりも之等の打撃によること大なり(大船渡)。
(九)越喜來村小學校にては窓硝子一枚も殆ど破損せざるに、海砂は敎室内に二、三寸も堆積したる所あり。
(一〇)八木海岸にては發動機船一隻は津浪襲來を沖合に認むるや、直ちに全速力を以て沖合に乘出し、途中にて大浪に遭遇せるも無事なりしに、逃げ遅れたるものは全部轉覆破損せり。
(一一)老人が女兒の身を慮り手を引き避難せるに浪に追はれ、進むに困難なりし爲め脱衣せんとして手を離したる時、女兒は其のまゝ行方不明となれりと。女兒一人をして逃げさしたらんには却て無事なりしを思ひ、後にて最も愁傷を感ずと。
(一二)防波堤ありたる海岸にては津浪と共に打ち上げたれたる發動機船は之に打ちかゝりて殆ど全部破壞せられたり(唐丹村小白濱)。
(一三)久慈町海岸に於ける三人家族の一家にては、壯年の男二人は津浪の呼聲と同時に戸外へ逃げ出し、一人は流され、一人は戸口にて波のために後頭部を打ちて負傷せしに、逃げ遅れたる嫁女は第一回の浪の引きたる後、無事に逃れることを得たり。
(一四)家屋の殆ど基礎工事迄流失せられ乍ら直後再バラツク建設に從事し、曰く折々災害に遭はなくば勵みにならぬと。所謂負け惜みならんも、其の土地殊に所有地に對する強き執着心の現れと見るべき節あり。
(一五)海岸を餘り距てざる山間部落は概ね製炭を主、放牧を從として生計を營み、其の日暮らしの細民にして主食物は蕎麥、稗、トチ、の實等なり。而して罹災地救援のため幾日間も米飯を辨當として持參し益々生活を逼迫せしめたり(岩手縣下閉伊郡海岸地方)。
(一六)前者と反對に平常一升買ひせる細民が、救恤品潤澤にして俵米を三俵も所有するに至りたる者あり(高田町方面)。
無理がない哀れな話 高橋生(高田)
地震の後には津浪が襲來すると言はれて居る經驗から、一人の警報で多數の人命が救はれた話を聞くが、本吉郡大谷村では「サメ」漁の漁夫が船出に先立ち地震直後に海水の一時に干いたのを見て津浪の來襲を悟り、警報したので住家六戸流失したが一人の死傷者も出さずに免れ、又歌津村字名足では一漁夫の第六感から逸早く警報したので、部落で只一人の死者を出しただけで避難したが、その一人の死んだ人は「ツンボ」で、警報が聞えなかつたとは無理もない哀れな話である。
參考林
甲斐の林業 第三號
(木炭特輯號)
本縣に於ては何故に木炭檢査制度を必要とするか 野村 榮二
木炭縣營檢査の主旨周知方に付ての措置
研修 八月號
擇伐作業による海部郡の樵木材業 田中 生
植物の分類と學名 相馬 丑五郎
管内の海岸砂防植栽に就て 加曾利囑託講演
佛國海岸松直播に就て 兼行囑託講演
モミ、トガ、ケヤキ天然稚樹發生に關する考察 H S 生
上屋久の築窯改善に就て 上屋久營林署
御料林 八月號
御料地の測量(三) 食田吉雄
木材運搬車の改良に就て 嶺本孝治
生長率の圖表計算法に就て 本局林務掛譯
林業上圖表學の應用 糸井省吾
等量等布荷重及び混凝土所要材料算出圖表 木村 達郎
實際問題としての天然更新補助事業に就て 軍地誠造
山林 八月號
國立公園と登山 田村 剛
登山と國有林 柳下 鋼造
登山と保健 南崎 雄七
登山者の爲の氣象智識 平岡 德太郎
南洋材の輸入增加と雜木の將來 朴山人
南紀廣村の防潮林と防浪堤 今村 明恒
彙報
感謝状並に見舞状
三月三日三陸地方津浪の際身命を賭して擔當區員の家族を避難せしめたる者に對し當局長より感謝状を送り、又關係地方の町村長に送りたる見舞状は次の通りである。
宮城縣桃生郡十五濱村
渡邊 勘一殿
中嶋 守治殿
昭和八年三月三日拂曉強震ニ伴ヒ海嘯ノ襲來ヲ知ルヤ雄勝擔當區詰員出張不在ナルヲ察シ自己ノ危險ヲ顧ミズ官舎ニ赴キ九名ノ家族ヲ救助避難セシメタルコト洵ニ間隙ニ不堪仍テ茲ニ深厚ナル感謝ノ意ヲ表ス
昭和八年四月十三日
靑森營林局長正五位勳三等 榛葉 可省
岩手縣下閉伊郡小本村
山崎サツ殿
昭和八年三月三日拂曉強震ニ伴ヒ海嘯ノ襲來スルヤ自己ノ危險ヲモ顧ミズ危機ニ瀕セル小本擔當區員ノ家族四名ヲ避難セシメ更ニ幼兒ヲ抱キ身命ヲ賭シ激浪ニ身ヲ挺シ以テ救助シタルコト洵ニ感激ニ不堪仍テ茲ニ深厚ナル感謝ノ意ヲ表ス
昭和八年四月十三日
靑森營林局長正五位勳三等榛葉可省
拜啓時下益々御淸穆の段奉慶賀候陳者過日強震に伴ふ海嘯の襲來により貴町村に於ける人畜の死傷家屋の倒壞流失其の他船舶の流失等被害頗る甚大にして御損害も尠からざる御樣子に有之洵に御同情に不堪候之が救濟並復舊に付ては晝夜兼行の御努力眞に御心痛の程御察申上候先は不取敢以書面御見舞申上度如斯御座候
追て應急並復興用材の供給に關しては關係營林署へ出來得る限り便宜迅速に處理致候樣通達致置候間御必要有之候場合は最寄署へ御協議被下度候
三月十一日
靑森營林局長
榛葉 可省
各町村長宛
靑森縣下
上北郡 三澤村長、百石町長、
八戸市長
三戸郡 階上村長
岩手縣下
九戸郡 種市村長、中野村長、侍濱村長、夏井村長、久慈町長、長内村長、宇部村長、野田村長、
下閉伊郡 普代村長、田野畑村長、小本村長、田老村長、崎山村長、宮古町長、磯鶏村長、津輕石村長、重茂村長、大津村長、山田町長、織笠村長、船越村長
上閉伊郡 大槌町長、鵜住居村長、釜石町長
氣仙郡 唐丹村長、吉濱村長、越喜來村長、綾里村長、赤崎村長、盛町長、大船渡町長、末崎村長、廣田村長、小友村長、米崎村長、高田町長、氣仙町長
宮城縣下
本吉郡 唐桑村長、大島村長、鹿折村長、氣仙沼町長、松岩村長、階上村長、大谷村長、御岳村長、小泉村長、歌津村長、志津川町長、戸倉村長、十三濱村長
桃生郡 大川村長、十五濱村長
牡鹿郡 女川村長、鮎川村長、大原村長、荻濱村長、渡波町長、石巻町長
三陸地方津浪に關する縣報
靑森縣告示第八十號
本縣下震嘯災ノ爲被害不尠趣天聽ニ達シ畏クモ
天皇
皇后兩陛下ヨリ御救恤金下賜並侍從御差遣ノ御沙汰アリタル旨本日宮内大臣ヨリ左ノ通公報アリタリ
昭和八年三月四日 靑森縣知事 多久 安信
本月三日管下強震ノタメ被害不尠趣聞召サレ御救恤トシテ
天皇
皇后兩陛下ヨリ金壹千五百圓下賜セラル
宮内大臣
其管下震災ノ爲被害不尠趣聞召サレ思召ヲ以テ侍從大金益次郎ヲ差遣サル同侍從ハ本日午後十時三十分上野驛發ニテ明五日午前七時仙台驛着ノ豫定ニ付同所ニテ岩手縣知事並宮城縣知事ト萬事御打合アリタシ
宮内大臣
靑森縣告輸第一號
本縣地震海嘯ニ因ル被害ノ趣畏クモ
天聽ニ達シ
天皇
皇后兩陛下ヨリ御救恤ノ御思召ヲ以テ金一千五百圓ヲ下シ賜ヒ又侍臣ヲ遣ハシテ災害地ノ實况ヲ視察セシメ給フノ恩命ニ接ス
縣民等シク無限ノ聖恩ニ浴ス
伏シテ惟ミルニ陛下至仁至慈蒼生ヲ憐ミ給フコト普天ノ下率土ノ濱ニ遍ク曩ニ昭和六年本縣凶作ニ際シ巨額ノ御内帑ヲ以テ窮民賑恤ノ資ニ充テシメ給ヒ今復恩賜ノ御沙汰ヲ忝ウス天恩鴻大寔ニ恐懼感激ノ至リニ禁ヘス
優渥ナル 聖旨ヲ奉体シ職ニ救恤ヲ掌ル者宜シク罹災民ノ匡濟ニ其全力ヲ臻シ敢テ遺憾ナキヲ孜ムルト共ニ全縣民須ラク其生業ヲ勵ミ一致協力復興ヲ速カナラシメ以テ轉禍爲福ノ計ヲ立テ豫メ災厄ニ處スルノ策ヲ講シ鴻大無邊ノ聖恩ニ應ヘ奉ラムコトヲ期スヘシ
昭和八年三月七日 靑森縣知事 多久 安信
岩手縣告示百二十號
震災義捐金取扱規程左ノ通定ム
昭和八年三月三日 岩手縣知事 石黑 英彦
震災義捐金取扱規程
第一條 岩手縣下震災義捐金ノ出納ハ本規程ニ依リ之ヲ取扱フヘシ
第二條 義捐金出納ノ事務ハ震災義捐金取扱主任之ヲ取扱フ
前項ノ取扱主任ハ内務部會計課長ノ職ニ在ル者トス
第三條 取扱主任ハ第一號樣式ノ震災義捐金出納簿ヲ備ヘ之カ出納ヲ登載スヘシ
前項ノ出納簿ハ随時内務部長ノ閲覧ヲ受クヘシ
第四條 取扱主任義捐金ヲ領収シタルトキハ第二號樣式ノ領収證ヲ交付スヘシ
第五條 休日又ハ執務時間外ニ於テ義捐金ノ申立ヲ受ケタルトキハ内務部當直員ニ於テ領収ノ取扱ヲ爲シ前條ニ依ル領収證ヲ交付スヘシ
前項ノ義捐金ハ第三號樣式ノ義捐金授受簿ニ登載ノ上保管シ領収證原符ヲ添ヘ翌朝遅滯ナク取扱主任ニ之カ引繼ヲ爲スヘシ
當直員更替ノ塲合ニ於ケル引繼ハ前項ニ準スヘシ
第六條 取扱主任ニ於テ受領シタル義捐金ハ株式會社殖産銀行當座預金ニ預入ルヘシ
第七條 取扱主任義捐金ノ支出ヲ爲サントスルトキハ内務部長ノ决裁ヲ受ケ預金銀行ノ當座小切手ヲ振出シ受領証ヲ徴スヘシ
第八條 取扱主任ハ義捐金収支日計表ヲ作成シ學務部社會課長ニ通知スヘシ
第九條 取扱主任ハ毎十日ニ第四號樣式ノ義捐金収支計算書ヲ作成シ知事ニ報告スヘシ
第十條 取扱主任更替ノ塲合ハ第九條ニ準シ収支計算書ヲ作成シ現在金及帳簿其ノ他關係書類ヲ後任者ニ引繼ヲ爲スヘシ
前項ノ引繼ヲ了シタルトキハ直ニ其ノ旨知事ニ報告スヘシ
第十一條 有價證券ノ取扱ニ關シテハ前各條ノ規定ヲ準用ス
第十二條 知事ハ必要ト認ムル塲合ハ義捐金収支ニ關スル現金並帳簿ノ檢査ヲ行フコトアルヘシ
附 則
第十三條 本規程ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
第一號樣式
取扱主任 取扱者印 年月日 提出者住所氏名 適要受高拂高現在高
備考
一、本簿ハ日計月計及累計ヲ附スヘシ
第二號樣式
備考
一、本受領證ハ複寫式トス
第三號樣式
震災義捐金授受簿 月日當直員官職氏名 印
當直員受領月日 金額 團体名又ハ個人名 取扱者印 引繼月日 受領者印 摘要
備考
一、摘要欄ニ現金ノ種類員數又ハ有價證券ノ種類員數等ヲ記入スヘシ
一、未了ニハ合計金額ヲ記載スヘシ
一、文字ノ改訂ヲ爲シタルトキハ取扱者ニ於テ捺印スヘシ
第四號樣式
昭和年月日
義捐金取扱主任 氏名 印
岩手縣知事 氏名 殿
自月日至月日義捐金収支計算書
受 拂
現金又ハ有價證券ノ種別 前期ヨリ越高 本期受高 計 本期拂高 現在高 備考
右及報告候也
備考
一、備考欄ニ受高ノ累計高ヲ記載スヘシ
一、有價證券ノ塲合ハ其ノ種類ヲ記載スヘシ
岩手縣告輸第二號
三陸沿革ヲ襲ヘル震災海嘯ノ被害甚大ナルヲ被聞召畏クモ
天皇
皇后兩陛下ニ於カセラレテハ深ク御軫念遊ハサレ特ニ優渥ナル御沙汰ヲ賜ヒ侍從ヲ遣ハサレテ親シク罹災民ヲ慰メ御内帑ヲ開キ給ヒテ救恤ノ資ヲ御下賜アラセラル
聖慮 鴻大
天恩 無窮誠ニ恐懼感激ノ至ニ堪セス
惟フニ今次ノ災害ハ稀有ノ慘事ナリト雖縣民ハ不撓不屈相勵ミ相助ケ鋭意復興ニ力ヲ輸シ進テ將來ノ計ヲ樹テ以テ
聖恩ニ對ヘ奉ランコトヲ期スヘシ
昭和八年三月五日 岩手縣知事 石黑 英彦
岩手縣報
昭和八年三月七日 岩手縣 内務部長
岩手縣 警察部長
岩手縣 學務部長
岩手縣知事官房主事
廳内各課長、各課主任、視學官殿
下閉伊支廳長 殿
各驛長殿
各警察署長、警察敎習所長殿
岩手縣報
官秘號外
昭和八年三月八日
岩手縣知事官房主事
下閉伊支廳長殿
各警察署長殿
各市町村長殿
罹災地方面行鐵道運賃減免ニ關スル件
標記ノ件左記各號ノ通御了知相成度
尚證明書ノ發行ニ當リテハ其ノ發行ノ主旨ニ鑑ミ特ニ嚴正ニ行使シ苟モ之ヲ濫發シ若ハ疑惑ヲ招クカ如キ事ナキ樣充分御留意相成度
記
一省線
震災及海嘯震災者用救恤品及復舊建築材料ノ運賃減免ニ關シテハ鐵道省告示第五十八號(三月六日官報)ヲ以テ告示セラレ又本月五日附社會號外ヲ以テ學務部長ヨリ通牒ニ及ヒタル處今般左記ノ通改正實施セラレタル旨本日盛岡運輸事務所ヨリ通報アリタリ
記
三陸沿岸震災及海嘯罹災者用救恤品及復舊建築材料ニ對シ鐵道省告示第五十六號ヲ以テ運賃減免方告ノ處三月六日ヨリ左記ノ通改正實施セラル(電達濟)
一、品名 甲、罹災者救恤用寄贈品
乙、復舊建築材料
木材、竹、瓦類、煉瓦類、セメント、セメント製品、ブリキ及トタン類、針金類、釘類、建具、敷物類、疊、板硝子
一、發驛省線及連帶線各驛
一、着驛 甲、仙台、一ノ關、盛岡、沼宮内、古間木、下田、鹽釜、石巻千厩、氣仙沼、陸前矢作、平津戸、八戸、湊、鮫、階上、種市、久慈間各驛、仙人峠(岩手輕便)遠野(岩手輕便)米谷淺水(仙北鐵道)、三陸汽船會社各荷扱所
乙、一ノ關、沼宮内、古間木、下田、鹽釜、石巻、氣仙沼、陸前矢作、平津戸、八戸、湊、鮫、階上、種市、久慈間各驛
仙人峠(岩手輕便)遠野(岩手輕便)米谷淺水(仙北鐵道)三陸汽船會社各荷扱所
一、扱種別甲、小荷物及各扱貨物
乙、各扱貨物
一、賃率甲、省線、仙北鐵道、岩手輕便、三陸汽船内無賃
乙、省線、仙北鐵道、岩手輕鐵、三陸汽船内五割減
一、荷受人 甲、岩手、宮城、靑森縣知事又ハ岩手縣九戸、下閉伊、上閉伊、氣仙郡、宮城縣本吉、桃生、牡鹿郡下各町村長、靑森縣百石町長、市川、三澤村長
一、期間 甲、自昭和八年三月六日至昭和八年五月三日
乙、自昭和八年三月六日至昭和八年七月三日
一、條件 イ、甲ハ集貨及配達ヲ爲サス
ロ、乙ニ對シテハ岩手、宮城、靑森縣知事又ハ岩手縣九戸下閉伊、上閉伊、氣仙郡宮城縣本吉、桃生、牡鹿郡下各町村長、靑森縣百石町長、市川、三澤村長ニ於テ震火災又ハ海嘯罹災者用復舊材料タルコトヲ證明シタル書類ヲ提出スルコト
三陸沿岸震災及海嘯ノ爲今ヨリ何分ノ通知スル迄三陸汽船會社航路連帶輸送制限ニ關シ三月四日電達ノ處更ニ本月七日ヨリ左記ノ通變更實施セラル(電達濟)
一、鮎川、氣仙沼、大船渡、脇野澤、宮古各取扱所ハ代金引換貨物引換證付及着拂ノ取扱ヲ除キタル一般貨物及小荷物ニ限リ取扱ヲ爲ス
二、細浦、越喜來、小白濱、釜石、大槌、山田ノ各取扱所ハ三月六日鐵告第五十六號ニヨリ救恤品及復舊建築材料ニ限リ取扱ヲ爲ス
三、荷受人カ官公衙、出張中ノ官公吏各電氣會社及釜石鑛業所宛トナル一般貨物及小荷物ハ前記各項ニ制限ナク取扱ヲ爲スモノトス
二、岩手輕便鐵道
本月三日附同會社ヨリノ通報ニ基キ五日附社會號外ヲ以テ學務部長ヨリ通牒ニ及ヒタルモ本月六日ヨリ左記ノ通改正實施セラレタル旨同會社ヨリ通報アリタリ
記
今回ノ震火災ニ關シ被害地救護事務ニ當ル爲社線各驛ヨリ遠野驛及釜石驛ニ往復ヲ要スル旅客ニシテ岩手縣又ハ警察署長ニ於テ必要ト認メ證明アル者ニ限リ昭和八年三月六日ヨリ當分ノ間無賃乘車ノ取扱ヲ爲ス
昭和八年三月三日附救護事務ノ爲往復スル乘客ニ對シ運賃免除ノ件ハ昭和八年三月五日限リ之ヲ廢止ス
但三月五日迄ニ證明書ニ依リ乘車シタル旅客ノ復路ニ對シテハ該證明書ニ基キ無賃ノ取扱ヲ爲ス
三、救護醫師看護婦鞭乘車取扱ノ件
救療ノ爲罹災地ニ赴ク醫師看護婦ニ對シテハ左記ニ依リ無賃乘車取扱ヲ爲ス旨本日盛岡運輸事務所ヨリ通報アリタリ
記
一、發驛上野、仙台、盛岡、靑森
二、着驛石巻、氣仙沼、花巻、平津戸、久慈
但歸リハ右ニ準ス
三、乘車等級二等、三等
四、取扱期間三月四日ヨリ三月二十日マデ
五、資格無報酬ニテ直接救護ニ從事スル醫師、看護婦ニシテ官公衙發行ノ救護班員タル證明書所持スルモノニ限ル
四、勞力奉仕團體無賃乘車取扱ノ件
標記ノ件左記ニ依リ取扱フ旨本日盛岡運輸事務所ヨリ通報アリタリ
記
一、宮城、岩手、靑森縣下ノ所在各驛ヨリ着驛石巻、千厩、氣仙沼、陸前矢作、平津戸、遠野、仙人峠、沼宮内、古間木、下田、陸奥湊、階上、八木又ハ久慈トノ相互間
二、乘車等級三等
三、取扱期間三月七日ヨリ三月二十日マデ
四、其ノ他(イ)十名以上ノ團體タルコト
(ロ)無報酬ニテ引繼キ三日以上滯在シ勞力奉仕ヲ爲スモノナルコト
(ハ)縣知事又ハ市町村長發行ノ證明書ヲ所持スルモノナルコト
岩手縣報
官秘號外
昭和八年三月九日 岩手縣知事官房主事
各警察署長殿
各市町村長殿
各種團体ニシテ罹災者救援ノ爲罹災地ニ赴クモノハ必ズ責任アル指揮者ヲ定メテ統制アル行動ヲ執ラシメ又出先官憲ノ指揮ニ從ハシムルコトゝシ之ニ反スルモノハ今後罹災地ニ赴カシメサル樣特別ノ御留意相煩度
岩手縣報
視號外
昭和八年三月十日 岩手縣學務部長
公私立各小學校長殿
罹災職員調査ノ件
過般ノ震災ニ關シ貴校職員中罹災者有之候ハゝ左記要項ニ依リ至急御調査ノ上御回報相成度
記
職氏名 家屋ノ被害状况流失倒壞燒失浸水 本人被害ノ状况死亡負傷行衛不明 家族家財死傷被害状况程度 罹災ノ塲所
計
備考 震災地學校ニアリテ既ニ報告濟ノモノハ除ク
岩手縣報
官號外
昭和八年三月十五日 岩手縣知事官房主事
支廳長殿
各警察署長殿
各市町村長殿
三陸沿岸震火災及海嘯罹災者用救恤及復舊材料輸送ニ關スル件
北日本汽船株式會社ニテハ靑森室蘭間航路及稚内本斗間航路ニ於テモ鐵道省告示第五十六號ニ準シ輸送品甲ハ無賃乙ハ五割減ヲ以テ取扱致シ其他一切鐵道省告示通取計可致旨同會社ヨリ通知有之候ニ付右ニ御了知相成度
岩手縣報
岩衛發第六五號
昭和八年三月二十五日 岩手縣警察部長
罹災地警察署長殿
罹災地町村長殿
煉乳配給方ニ關スル件
罹災地町村ニ配給ノ煉乳ハ本月七日付岩衛發第五二號ヲ以テ震災ノ爲母ヲ失ヒタルモノ及母性疾病其ノ他震災ニ因スル精神衝動等ノ結果泌乳不足シ哺乳不充分ナル乳兒ニ對シ母乳代用トシ又要救護者其ノ他必要ト認ムル者中傷病者虚弱者等ニシテ普通食ノ攝取不能ナル者ニ對シ配給スヘキモノナルヲ指示通牒セルニ不拘之カ配給ノ趣旨副ハサルノミナラス未タ之カ配給ヲ怠ルモノ等遺憾ニ不堪モノ有之候ニ付テハ爾今前記要配給者ノ調査ヲ嚴ニシ配給上萬遺憾ナキヲ期セラレ度
岩手縣報
社會號外
昭和八年四月七日 岩手縣學務部長
下閉伊支廳長殿
各市町村長殿
三陸大海嘯義捐金募集ポスター送附ノ件
今般標記ノポスター左記ノ通別便ヲ以テ送附致候ニ付テハ貴部内適當ノ塲所ニ掲ケ利用セラルゝ樣致度
記
省略
岩手縣報
岩手縣條例第九號
震災被害者ニ對スル縣税免除等ニ關スル條例左ノ通定ム
昭和八年四月十五日 岩手縣知事 石黑 英彦
震災被害者ニ對スル縣税免除等ニ關スル件
第一條 震災(昭和八年三月三日ノ震災及之ニ伴フ火災又ハ海嘯ヲ含ム以下同シ)ニ因ル被害者ニシテ震災地ニ於テ納付スヘキ縣税ノ免除等ニ關シテハ本條例ノ定ムル所ニ依ル
第二條 前條ニ於テ震災地ト稱スルハ左ノ町村ヲ謂フ
氣仙郡 唐丹村、吉濱村、越喜來村、綾里村、赤崎村、大船渡村、末崎村、廣田村、小友村、米崎村、高田村、氣仙町
上閉伊郡 大槌町、鵜住居村、釜石町
下閉伊郡 普代村、田野畑村、小本村、田老村、崎山村、宮古町、磯鶏村、津輕石村、重茂村、大澤村、山田町、織笠村、船越村
九戸郡 種市村、中野村、侍濱村、夏井村、久慈町、長内村、宇部村、野田村
第三條 家屋税ニ付テハ左ノ區分ニ依リ之ヲ免除ス
一、震災ニ因リ滅失、倒壞シタル家屋所有者ニ於テ再建築ヲ爲シ又ハ新ニ取得シタル家屋ニ付テハ昭和九年度分迄
二、震災ニ因リ著シク毀損シタル家屋ニ付テハ昭和八年度分
第四條 震災ニ因リ課税標準著シク減損スヘシト認メラルゝ者ノ營業税ノ課税標準ハ豫算ヲ以テ之ヲ算定ス
第五條 雜種税ニ付テハ左ノ區分ニ依リ之ヲ免除ス
一、震災ニ因リ滅失シタル船ノ所有者ニ於テ再建造ヲ爲シ、又ハ新ニ之ヲ取得シタル船ニ付テハ昭和九年度分迄
二、震災ニ因リ著シク毀損シタル船ニ付テハ昭和八年度分
三、震災ニ因リ滅失又ハ毀損シタル車、水車、電柱、金庫ノ所有者ニ於テ新ニ取得シタル同一物件ニ付テハ昭和八年度分
四、震災ニ因リ斃死又ハ行衛不明トナリタル牛馬ノ所有者ニ於テ新ニ取得シタル牛馬ニ付テハ昭和八年度分
五、震災ニ因リ滅失、倒壞シタル家屋所有者ニ於テ家屋復舊ノ爲昭和十年度迄ニ新ニ住宅地及家屋ヲ取得シタルトキノ不動産取得
六、震災ニ漁船、漁具ヲ滅失、毀損シ又ハ漁塲ヲ破壞セラレタル者ノ漁業税ニ付テハ昭和八年度分
附 則
本條例ハ昭和八年度分ヨリ之ヲ適要ス
宮城縣會の意見書議決
昭和八年四月六日縣會臨時會に於て滿塲一致を以て左の意見書を可决したり
意見書
一、這般突發セル震嘯災害ノ甚大ナルニ鑑ミ本縣沿岸全部ニ對シ根本的調査ヲ遂ケ速ニ有効適切ナル防難方策ヲ樹立セラレンコトヲ要望ス
理由
三陸沿岸震嘯ノ慘害ハ古來一再ニ止マラス殊ニ去ル明治二十九年及今回ノ災害ニ於テ最モ慘鼻ヲ極メタリ震嘯ノ被害ヲ豫防スル根本施設ハ罹災地百年ノ大計ニシテ内務農林文部ノ各省ニ於テ必要ナル調査ヲ遂ケ以テ實施セラルル計畫ナルハ洵ニ罹災地住民ノ至上ノ幸福ナリシト雖今回ノ罹災地ニ止マラス本縣百五十餘里ノ海濱曲浦ノ全部ニ亘リ悉ク之ヲ調査シ苟モ海嘯襲來ノ處アル地域ニ對シテハ速ニ適切ナル防難施設ヲ完成スルニアラスンハ沿岸ノ住民ヲシテ其ノ賭ニ安ンセシムル能ハサルニヨリ
本意見書ヲ呈出シ其ノ實現ヲ要望スル所以ナリ
右府縣制第四十四條ニ依リ意見書呈出候也
年 月 日 宮城縣會議長
宮城縣告示第百十號
今般縣下海岸地方強震ノ爲被害不尠趣 被聞召罹災者御救恤トシテ 天皇皇后兩陛下ヨリ金八千圓下シ賜ハリタリ
昭和八年三月五日
宮城縣知事 三邊 長治
御下賜金品の傳達
御下賜金の傳達に付ては聖旨の徹底を圖るに萬遺漏なきを期する爲、罹災地の町村地の町村長及所轄警察署長をして、愼重に罹災者の罹災状况を調査せしめ、之を左記御下賜金交附要項に基き、縣下十四箇所に於て關係町村長に對し三月二十日一濟に傳達を了したり。
尚其の際には關係町村長に知事より左の告諭を發したり。
御下賜金交附要項
1、死亡者行方不明者 一人當 交付標準 一〇
2、負傷者 同 同 四
3、住宅全流失 一世帶當 同 七
4、住宅全潰 同 同 五
5、住宅半流失若ハ半潰 同 同 二
6、住宅ノ床上浸水 同 同 一
備考
各罹災者に御下賜金交附する標準は大体右によること
告諭第二號
亘理郡 坂元村長 牡鹿郡 女川町長
名取郡 閖上町長 荻濱村長
桃生郡 十五濱村長 大原村長
鮎川村長
本吉郡 志津川町長 戸倉村長 十三濱村長
歌津村長 小泉村長 大谷村長
階上村長 鹿折村長 唐桑村長
大島村長
本月三日縣下震災ノ爲損害不尠趣被聞召至仁至慈ナル
天皇
皇后陛下ヨリ御救恤ノ思召ヲ以テ金八千圓、御下賜アラセラレタルハ、恐懼感激ニ禁ヘサル所ナリ、乃チ茲ニ其ノ傳達ヲ行フヘキニ付各位ハ此ノ鴻恩ニ感銘シ各罹災者ニ對シ迅速交付ヲ了スルト共ニ、各拜受者ヲシテ齊シク優渥ナル聖旨ヲ奉体シテ御救恤金ヲ最モ有効適切ナル方途ニ利用セシメ、以テ自奮自勵家運ノ挽回ニ勉メ、進ンテ地方災害ノ復興ニ力ヲ致サンコトヲ期セラルヘシ
昭和八年三月二十日
宮城縣知事 三邊 長治
皇后陛下より特に罹災傷病者並六十歳以上、十四歳未滿の孤獨者に對し、御下賜あらせられたる衣服地並裁縫料の傳達に付ては、愼重調査を遂げ、四月十一日罹災地町村長會開會劈頭縣廳正廳に於て、知事より關係町村長に夫々傳達したり。
尚各宮殿下より御下賜の御救恤金に付ても最も有効適切なる方途に充てしむる爲目下愼重考究中なり。
復興事務局設置ニ關スル件
震災善後措置ニ關スル事務ノ統制敏活ヲ圖ル爲メ今般復興事務局設置相成其ノ職制並ニ事務分擔別紙之通决定本日直チニ施行相成候條御了知ノ上事務處理上遺憾ナキヲ期セラレ度依命及通牒候也
追而昭和八年三月三日付社會號外ニヨル事務ノ分擔ハ自然消滅ト
組成候條御了知相成度
(別紙)
復興事務局職制並事務分擔
局長 内務部長
總務部
部長 官房主事
係長 地方課長
庶務係{
副係長 高等課長{罹災地警察署長、出先官吏、市町村長其ノ他各方面トノ連絡ニ關スル事項
見舞客ノ應接、接待、見舞文書ノ處理其ノ他禮儀的事項
震災記録調製ニ關スル事項
他係ノ主管ニ屬セサル事項
係長 庶務課長
經理係{
副係長 會計課長 社會課長(兼){罹災地復興ニ關スル各般ノ經理ニ關スル事項
救護部
部長 學務部長
係長 社會課長
義捐金品係{
副係長 敎育課長 社兵課長{御下賜金ノ傳達ニ屬スル事項
義捐金品ノ募集ニ關スル事項
義捐金ノ授受及配給ニ關スル事項
視學官 會計課長(兼)
係長 農務課長
物資係{
副係長 商工課長(兼)山林課長(兼)保安課長{物資ノ調達及配給ニ關スル事項
義捐物品ノ接受及配給ニ關スル事項
敎育課長(兼)衛生課長(兼)社會課長
警察部
部長 警察部長
係長 警務課長
警備係{
副係長刑事課長巡査敎習所長{警戒警備ニ關スル事項
係長 特高課長
情報係{
副係長 保安課長 高等課長(兼)刑事課長(兼){情報蒐集及發表ニ關スル事項
高等通報ニ關スル事項
係長 衛生課長
救療係{ {救療ニ關スル事項
保健防疫ニ關スル事項
{副係長 健康保險課長
復興部
部長 内務部長(兼)
係長 商工水産課長
企劃係{
副係長 山林課長 農務課長(兼) 庶務課長(兼)
耕整課長 土木課長(兼) 敎育課長(兼) {罹災地ノ地興計畫ニ關スル事項
地方課長(兼) 保安課長(兼) 社會課長(兼)
係長 土木課長
工營係{
副係長 耕整課長(兼) 山林課長關(兼){復興工事及復興工事ニ関スル事項
備考
1、震災善後措置ニ關シテハ其ノ他各般ノ事務存スベキモ夫々處務細則ニ定ムル各課分掌事務ニ從ヒ處理スベキモノトス
2、局長、部長不在ノ時ハ夫々其ノ事務ニ關スル主務部長主務係長
其ノ事務ヲ代决シ係長不在ノ時ハ副係長(副係長二又ハ二以上アル時ハ係長ニ於テ代决者ヲ指定ス)之レヲ代决ス
3、右ノ分掌事務ハ係長、副係長ノ下ニ屬スル課員ヲシテ補佐セシムルヲ原則トスルモ事務ノ繁閑ニ隨ヒ適宜他ノ課長ト協議ノ上其ノ課員ヲシテ補佐セシムルコトヲ得
4、震災善後處理關係文書ニハ總テ○震ノ印ヲ押捺シ特ニ迅速ニ處理スベキモノトス
明治二十九年三陸地方津浪ニ對スル訓令其他抜萃
訓第十八號
今回非常海嘯ノ爲メ被害少カラサル段天聽ニ達シ憫然ニ思召サレ聖上皇后兩陛下ヨリ罹災者救恤トシテ金壹萬圓下賜ハリ候ニ付優渥ナル聖旨ノ在ル處普ク徹底候樣郡内人民ニ告諭セラルヘシ
右訓令ス
明治二十九年六月二十三日
岩手縣知事 服部 一三
沿海郡長宛 各通
訓令甲第五十三號
沿海郡役所
沿海町村役塲
今回ノ海嘯災害ノ爲メ國税徴収猶豫出願者アルトキハ町村長ニ於テ被害ノ輕重資産ノ有無業体等ヲ取調奥書ノ上所在収税署ヲ經由差出スヘシ
明治二十九年七月十五日
岩手縣知事 服部 一三
告示第九十號
本月十五日縣下沿海ノ海嘯ハ非常ノ天災ニシテ其災害ニ罹リタル者ノ救助費本縣備荒儲蓄金百分ノ五以上供用支出シタルヲ以テ中央儲蓄金ノ補助ヲ稟請セシニ今般不取敢金五萬圓補助相成タリ
明治二十九年六月二十七日
岩手縣知事 服部 一三
訓令甲第五十六號
沿海郡役所
沿海町村役塲
海嘯罹災者中家宅流失、全潰若ハ半潰ノモノニシテ被服家具ヲ失ヒタル窮民ニハ左記ノ割合ニ依リ被服家具料給與候條請求書ヲ添ヘ出願セシムヘシ
明治二十九年七月十八日
岩手縣知事 服部 一三
一家宅流失全潰者ニ對スル
給與割合
一、一戸ニ付金七圓五拾錢
一、生存家族一人ニ付金若干 一人ナルトキハ金七圓五拾錢二人ナルトキハ一人ニ付金五圓三人以上ナルトキハ一人ニ付金四圓
右戸割家族割ヲ合シ一戸金貳拾圓以上ニ當ルトキハ金貳拾圓ニ止ム
二、家宅半潰者ニ對スル
給與割合
一、一戸ニ付金六圓
一、生存家族一人ニ付金若干一人ナルトキハ金六圓二人ナルトキハ一人ニ付金四圓三人以上ナルトキハ一人ニ付金參圓貳拾錢
右戸割家族割ヲ合シ一戸金貳拾圓以上ニ當ルトキハ金貳拾圓ニ止ム
訓令甲第五十五號
沿海郡役所
沿海町村役塲
海嘯罹災者中家宅流失全潰若ハ半潰ノ窮民ニシテ自活ノ途ヲ失ヒタルモノニハ救助金トシテ左記ノ金額給與候條請求書ヲ添ヘ出願セシムヘシ
但シ農具料ノ給與ヲ受クルモノハ救助金ヲ給與スル限ニアラス
明治二十九年七月十八日
岩手縣知事 服部 一三
一金參拾圓 生存者老幼若ハ廢疾篤疾者ニシテ親族ノ救助ニ賴リ難キモノヽ一戸給與額
一金貳拾圓 家宅流失全潰ノモノ及家宅半潰ニシテ家族中死亡者アルモノノ一戸給與額
一金拾七圓 家宅半潰ニシテ且家族中死亡者ナキモノヽ一戸給與額
一、六十歳以上ヲ老トシ十五歳未滿ヲ幼トス
一、一肢ノ用ヲ失ヒタルモノ若ハ之ニ準スヘキモノ一肢ヲ亡シ或ハ二肢ノ用ヲ失ヒ又ハ兩眼ヲ盲シ若ハ二肢ヲ亡シ若ハ之ニ準スヘキモノ及唖、瘋癲白痴ノモノヲ廢疾者トス
一、負傷其ノ他病患ニ依リ六ヶ月以内ニ生業ニ從事スルコトヲ得サルモノヲ篤疾者トス
明治二十九年縣令(寫)
縣令第三十三號
明治廿九年度追加地租割戸數割賦課法臨時縣令ノ决議ヲ採リ左ノ通相定ム
明治廿九年八月五日
岩手縣知事 服部 一三
明治廿九年度追加地租割
戸數割賦課法
明治廿九年七月臨時縣會决議ノ追加地租割戸數割ハ左ノ各項ニ據リ之ヲ賦課ス
一、追加地租割ハ明治廿九年八月一日現在ノ地租額ニ據リ之ヲ賦課ス
一、海嘯ノ爲メ荒廢シタル土地潮水浸入作土ヲ損害シタル土地水路ヲ破滅シタル等ノ爲メ地目ニ異動ヲ生シタル土地收利ヲ滅損シタル土地及家屋ヲ流亡壞倒シタル宅地ハ追加地租割ヲ免除ス
一、家屋ノ流亡壞倒ニ至ラサル宅地ニシテ被害ノ著シキモノハ其状况ニヨリ前項ニ準シ特ニ地租割ヲ免除スルコトヲ得
一、追加戸數割ハ本籍寄留戸主非戸主ヲ問ハス十月一日現ニ一竈ヲ爲スモノニ賦課ス
一、海嘯ノ災害ニ罹リ備考儲蓄金若クハ海嘯災害費ノ救助ヲ受ケタルモノハ明治廿九年度地租割戸數割賦課法第八項第二ニ準シ追加戸數割ヲ免除ス
一、備荒儲蓄金若クハ海嘯災害費ノ救助ヲ受ケサルモ被害ノ著シキモノハ其状况ニヨリ特ニ戸數割ヲ免除スルコトヲ得
一、明治廿九年度地租割戸數割賦課法中前各項ニ抵觸スルモノヽ外渾テ之ヲ適用ス
縣令第三十四號
明治廿九年度地方税特別免除規則臨時縣會ノ决議ヲ採リ左ノ通相定ム
明治廿九年八月五日
岩手縣知事 服部 一三
明治廿九年度地方税特別免除規則
一、明治廿九年六月十五日海嘯ノ災害ニ罹リタルモノハ左ノ區分ニ據リ明治廿九年度地方税被害當時ノ未納税金及被害後ノ納屋ニ係ル税金ヲ免除ス
一、地租割ハ荒廢シタル土地、潮水浸入作土ヲ損害シタル土地水路ヲ破滅シタル等ノ爲メ地目ニ異動ヲ生シタル土地收利ヲ滅損シタル土地及家屋ヲ流亡壞倒シタル宅地
二、商業税工業税及雜種税中地位等級ニ依リ課税シタルモノハ商品及營農ニ要スル資本器械ヲ流失シタル者
三、雜種税中漁業税採藻税ハ第一類海漁業及第四類ノ海漁業採藻業第三類中實際稼業シ能ハサル海漁業及川漁業中海岸ニ接近シタル鮭留鱒留鮭鱒留
四、戸數割ハ備荒儲蓄金若クハ海嘯災害費ノ救助ヲ受ケタルモノハ明治二十九年度地租割戸數割賦課法第八項第二ニ準ス
一、家屋ノ流亡壞倒ニ至ラサル宅地又ハ床上浸水ノ家屋ニシテ被害ノ著シキモノハ其状况ニヨリ前項ニ準シ特ニ免除スルコトヲ得
縣令第三十八號
明治廿九年度地方税免除願出ニ關スル規則左ノ通相定ム
明治廿九年八月七日
岩手縣知事 服部 一三
明治廿九年度地方税免除願出ニ關スル規則
一、本年八月縣令第三十三號明治廿九年度追加地租割戸數割賦課法第三項第六項及本年八月縣令第三十四號明治廿九年度地方税特別免除規則第二項ニ據リ特ニ地方税ノ免除ヲ得ントスルモノハ別紙書式ニ依リ被害ノ状况ヲ詳悉シ地租割ニ係ル分ハ土地所在ノ町村長其他ハ所轄町村長ヲ經由シ郡長ニ願出ヘシ
一、前項ニ據リ願出ントスルモノハ海嘯被害當時ノ未納税金ニ係ルモノハ八月二十日迄ニ被害後納期ノ税金ニ係ルモノハ各納期末日前五日迄ニ差出スヘシ
一、前項ノ期限ヲ經過シ出願シタルモノハ特別ノ事情アルニ非サレハ受理セス
一、本規則ニ據リ免税ヲ願出テタルモノニハ郡長ニ於テ被害當時ノ未納税金ニ係ルモノハ本年九月二十日迄被害後ノ納期ニ係ルモノハ各納期經過後三十日以内地方税ノ徴収ヲ延期スルコトヲ得
別紙
明治廿九年度地方税免除願
一金何程 前記何々
一金何程 後期何々
右ハ本年六月十五日海嘯ノ爲メ何々ノ損害ヲ蒙リ候間免除被下度此段相願候也
何郡何町村大字何々番戸
何營業 何ノ誰
年月日
所轄部長宛
被害ノ状况ヲ詳細記入スヘシ
地租免除願ニハ被害ノ地割字番號地目反別地價地租ヲ毎等ニ取調ヘ添附スヘシ
縣令第三十九號
明治二十九年度備荒儲蓄金特別規則臨時縣會ノ决議ヲ採リ其筋ノ裁可ヲ經左ノ通相定ム
明治廿九年八月九日
岩手縣知事 服部 一三
明治三十九年度備荒儲蓄金特別規則
明治二十九年六月十五日海嘯ノ災害ニ依リ備荒儲蓄金ヨリ罹災者ニ給與スル小屋掛料農具料及地租ノ補助ハ左ノ各項ニ據ル
一、小屋掛料ハ借家又ハ同居ニ拘ラス一戸金拾圓ヲ給與ス
一、農具料ハ自作小作ニ拘ラス一戸金拾五圓ヲ給與ス
一、被害土地ニ係ル地租ヲ納ムル爲メ土地家屋ヲ賣却セサルヲ得サルモノヘハ二十九年分ノ地租ニ充ツル金額ヲ補助ス
追テ本訓令ニ對スル各郡役所市町村ノ回答文ハ保藏ナキモノヽ如シ取調ヘルモ發見スルニ至ラス
明治二十九年訓令乙號
訓令乙第一二一號
氣仙郡役所
西南閉伊郡役所
東中北閉伊郡役所
南北九戸郡役所
今般海嘯罹災者救助費取調ノ上至急要用ノ儀有之候條別表ニ記載ノ事項各欄ニ取調來ル七月五日迄ニ當廳ヘ差出スヘシ
明治廿九年六月廿六日
岩手縣知事 服部 一三
備考
雜費ハ焚出米炊夫賃運搬人夫賃並ニ薪炭等ノ費用ヲ記入スヘシ
地租貸與人員ハ貸與ヲ請ル戸主ヲ記入スヘシ
(各郡各町村名略)
訓令乙第一三三號
郡役所
沿海警察署
今回ノ海嘯被害ニ付テハ刻下ノ急務トシテ夫々救護ニ鞠躬相成居候處漂流物及遺留財産ノ始末方ハ亦輕忽ニ付スヘカラサル儀ニシテ此際豫メ之カ注意ヲ欠クトキハ今後處分上不尠混亂ヲ來スヘク被存候條夫々留意不都合無之樣取計ハルヘシ
明治廿九年七月四日
岩手縣知事 服部 一三
訓令乙第一三六號
沿海各郡役所(各通)
客月十六日以降本月十日ニ至ル海嘯罹災者救助ニ要シタル費用及十一日以後救助ニ要スル費用トヲ區分シ左記各項ニ據リ取調來ル十七日ヲ期シ進達スヘシ
明治二十九年七月十一日
岩手縣知事 服部 一三
一、救助費用ハ一般救助費ト醫療費トヲ區分シ更ニ郡役所ニ於テ直接支出シタルモノト町村若クハ親戚等ニ於テ支出シタルモノト及一己人自ラ進ンテ金穀物品ヲ醵出シ救恤シタルモノトニ區分取調ヲ要ス
一、一般救療費ハ罹災者ト人夫ニ要シタルモノトヲ區分取調ヲ要ス
一、一般救助費用ハ食糧米、副食物、鹽味煢、雇人給料其他性質ノ異ナルモノ毎ニ區分取調ヲ要ス
一、醫療費ハ給料藥品(消毒材料其他一切醫療上ニ要シタルモノ)備品、消耗品、通信料等其他性質ノ異ナルモノ毎ニ取調ヲ要ス
訓令乙第一三八號
氣仙郡役所
西南閉伊郡役所
東中北閉伊郡役所
南北九戸郡役所
今回ノ海嘯ニ付救護ノ爲メ臨時設立ノ病院又ハ救療所等ニ於テ治療シタル負傷者ハ別紙表式ニ依リ人員ヲ調査シ週間毎ニ報告スヘシ
本月十日以前ニ係ルモノハ前項ノ式ニ依リ
來ル二十日限リ報告スヘシ
明治廿九年七月十五日
岩手縣知事服部一三
訓令乙第一五三號
何郡役所
縣下海嘯罹災者救恤トシテ下賜相成リタル恩賜金及第一回義捐金今般配付ニ及ヒ其郡配當ノ分別紙調書ノ通リ送付ス但恩賜金ハ各町村別配當者ニ對スル爲替券ヲ送付シ配當規程第八條ニヨリ其郡出張縣屬某ヲシテ(東北閉伊郡役所ニハ「東閉伊郡ハ其郡出張木村屬北閉伊郡ハ百木屬ヲシテ西南閉伊郡役所ニハ縣屬某ヲ派シ」)下附セシメ候條不都合無之樣取計下附ノ際ハ郡長立會ヲナシ義捐金ニ付テハ便宜受付方取計ハルヘシ
但指定義捐金ハ配當規程第八條ニヨリ右調書ニ基キ配當取計ハルヘシ
明治廿九年九月四日
岩手縣知事 服部 一三
訓令乙第一五四號
何町村役塲
本年六月十五日海嘯罹災者救恤トシテ御下賜相成リタル恩賜金今般縣官ヲ派シ各罹災者ニ配付及フヘクニ付下附日限ノ通知ヲ受ケタルトキハ洩レナク罹災者ニ通知シ諸事不都合無之取計フヘシ
明治廿九年九月四日
岩手縣知事 服部 一三
訓令乙第一六〇號
二戸郡役所
南北岩手紫波郡役所
稗貫東西和賀郡役所
膽澤江刺郡役所
盛岡市役所
客月震災以來各地ニ於テ井水ノ混濁ヲ來シ爲メニ飲用上困難ナルモノアルヤニ相聞ユ若シ右樣ノ飲料水ヲ供用シ滿一傳染病毒ノ發生ヲ助長スルニ至リテハ實ニ容易ナラサルニ付此際數壞浚渫ヲ爲サシムル樣取計フヘシ
明治廿九年九月 日(原本ニ日附ナシ)
岩手縣知事 服部 一三
訓令乙第一六四號
氣仙郡役所
西南閉伊郡役所
}各通
東中北閉伊郡役所
南北九戸郡役所
海嘯被害者救濟指定義捐金配當上必要ニ付其郡罹災者中左ノ事項ニ該當スルモノヽ各總數取調至急申報スヘシ
明治廿九年十月十五日
知事
一、鰥寡孤獨トナリタルモノ
但孤兒ノ數ハ別記ヲ要ス
一、罹災藥師商
一、罹災酒造營業者
訓令乙第一七四號
氣仙郡役所
西南閉伊郡役所
}各通
東中北閉伊郡役所
南九戸郡役所
本年六月海嘯罹災者救濟義捐金第二回配當ノ分別紙調書ノ通リ送付及候條受付方便宜取計ハルヘシ
(別紙二號表添付)
明治廿九年十一月十九日
岩手縣知事 服部 一三
局署員の動き
月 日 任免其他事 項官氏名(現勤務署)
六、一 森林主事畠山儀八郎病氣缺勤中薄市擔當區代務ヲ命ス 森林主事 外崎金四郎(中里)
七、四猿澤擔當區兼務ヲ命ス 同 川村長平(一關)
七、六願ニ依リ雇ヲ解ク 雇 西方愛子(収穫)
七、一〇陞叙高等官五等 營林局技師 大川大三(土木)
同 陞叙高等官五等 營林署技師佐藤毅六(金木)
同 陞叙高等官五等 同 關 辰三(田名部)
同 陞叙高等官五等 同 小野田吉平(大畑)
同 陞叙高等官五等 營林署山林事務官 一瀬大策(川内)
同 陞叙高等官五等 同 登坂龍郎(遠野)
同 陞叙高等官五等 同 片野祐吉(盛岡)
七、一二願ニ依リ雇ヲ解ク 雇 丸山治男(土木)
七、一五叙正七位 營林局屬 淺利永之助(収穫)
同 叙正七位 同 大立目成男(文書)
同 叙從七位 營林署技手 村上源吾(野邊地)
七、一八弘前營林署ニ於ケル利用並造林事務取扱ヲ囑託シ手當トシテ一ヶ月金七拾五圓給與ス 宮村六郎
七、二〇叙勲七等授瑞寳賞 營林局屬 淺利永之助(収穫)
同叙勲八等授瑞寳賞 同 渡邊時雄(施業計畫)
同叙勲八等授瑞寳賞 營林局技手 石川周一(測定)
同叙勲八等授瑞寳賞 營林署屬 及川長七(盛岡)
七、二一大鰐營林署在勤ヲ命ス 營林署屬 松尾延治(川井)
同水澤營林署在勤ヲ命ス 同 玉山榮治郎(增川)
同川井營林署在勤ヲ命ス 同 曾我部梅吉(水澤)
同增川營林署在勤ヲ命ス 營林署技手 小松末吉(大鰐)
同碇ヶ關營林署勤務ヲ命ス 雇 相馬公毅(弘前)
同沼宮内營林署勤務ヲ命ス 同山本渉(碇ヶ關)
同川井營林署勤務ヲ命ス 同仁木仁之(内眞部)
同内眞部營林署勤務ヲ命ス 同佐藤恒吉(川井)
會費領収報告
△金二・八一黑石署五月分△金四五・〇五本局員六月分△金六・一五靑森署同△金五・〇八沼宮内署同△金三・九一遠野署五月分△金四・二一仙臺署六月分△金三・二一一關署同△金三・〇〇三本木署同△金二・四六宮古署同△金二・五六岩泉署同△金四・八一石巻署同△金六・六〇蟹田署四、五月分△金三・〇一田名部署六月分△金三・七六盛岡署同△金三・六六中里署同△金三・三〇中新田署同△金二・六一今別署同△金二・七五高田署同△金二・五六川井署同△金三・一五久慈署七月分△金四・四一野邊地署六月分△金三・七〇花巻署同△金二・七〇三戸署七月分△金三・〇〇北浦隆治自八年五月至九年四月分△金四・一六雫石署六月分△金四・一五鰺ヶ澤署同△金二・八一黑石署同△金二・六六大間署同△金三・三〇增川署同△金三・五六大鰐署同△金三・五〇相内署同△金五・一四川内署同△金三・七〇碇ヶ関署同△金四・〇一大畑署同△金六・七〇白石署五、六月分△金三・二〇盛署六月分△金三・〇一深浦署同△金三・五一横濱署同△金三・九一遠野署同△金二・九一佐井署同
合計一八八・六九
以上六月十六日ヨリ七月十五日迄領収候也
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昭和八年八月二十日 發行 【非売品】
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編輯兼発行人 池田 唯輔
青森市大字大野字長島三番ノ二號
印刷人 柿崎 千代吉
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