復刻 昭和の津浪
上段 原本(二ページを一ページに縮小)
下段 原本に関わる地図、写真、注釈と誤植の改正
序
【上段】
回顧すれば、一部軍閥や官僚の誤れる國家主義の犠牲となり、善良にして平和を希う私達縣民が數年に亘り、明け暮れ暗膽と辛酸をなめつくした大東亜職孚が、漸く、有史以来の敗北を喫し、その、のろわしい戰の幕を閉ぢた。そして人々は、老いも若きも男も女も、永い戰争から開放され、新生民主國家に生れ變ろうとして、新しい憲法や地方自治法も發布されようとし、平和と自由の日が一歩々々と近づいて、虚脱状態の國民の心の一隅には、希望の曉光がぼのぼのと萠し初めていた。
だが、敗戰の現実は、更に次々と大きな苦難となつて現われ、食糧事情の極度の逼迫や、經済の混乱に物償の急激な昂騰やの世相に、私達縣民の生活は、明日をも知れぬ不安な時代を現出した。しかし、この人爲による戰禍や害毒は、やがて恢復の時も來る。受けた創痍は治癒し得るものであり將来に過ちを再びさせぬように防止することも不可能ではない。が唯天変地異のみは、現在の入間がこの地上に住まう限り、人智の限りをつくしても、到底避け得られ難い。それだけ実に天災は恐ろしい。而して終戰後僅かに一年にして訪れたのがこの恐るべき天災であつた。時は昭和二十一年十二月二十一日午前四時過ぎ、突如大地が震駭し、涯てしなき沖合からは洪浪が押し寄せ、一瞬の間に紀南一帯は大震害を蒙つた。これが南海道大地震であり、近畿中国四国の被害地の中でも,本縣は最も大なる痛撃を受けた。就中、新庄村は、その一番酷い眞只中におかれたのである。全く想起するだに恐しい戰慄を覺える。私は唯被災の人々に心からの同情と慰問の意を表すると共に,とりわけ犠牲となり喪われた諸靈に改めて茲に哀悼の微衷の限りを棒げる。年を越えてからではあつたが、天皇陛下御慰問のための行幸があり、私もお伴をして参つたが、死者二十数名、家屋倒壌流失五百余戸等、損害などいう生やさしい文字に表わし得ぬ無限の痛撃と心痛に唯呆然としたことであつた。天災地変はたしかに人闇杜会に想像の及ばぬ幾多の大損失を與える。が更に天災はそこに心眼を開けば數多くの教訓や警告が埋もれており、それを拾い取る自由をも人に與える。この教訓や警告を拾い取ることを忘れては、●この自由を自失して無爲に堕しては、それこそ損失中の最大の損失であると考えろ。この崇い教訓や、又とない警告の数々を銘記し、將来に備えてこそ禍を轉じて福となし、貴重な体験を後世に生かす要訣であり、叉償い得ない無限の損失に偉大な價値を附し諸靈を弔うて、子孫えの違訓となす所以でもある。かかる意味において、かかる使命と責務から、本書の刊行こそは誠に適切貴重の偉業であると申さるべきでありましよう。
茲に異變后四年有余、当時を回顧して、復興に挺身し、着々今日の建設の実をあげられた村民皆様に全幅の信頼の念と、心からの労らいの意を表すると共に、当時、わざわざ行幸を賜つた陛下の鴻恩の程をあらためて想起し、皆様とともに満腔の感謝の誠心を捧げて序文と致します。
昭和二十六年二月十八日 和歌山縣知事 小野眞次
【下段】
3行目 開放→解放
24行目違訓→遺訓
小野眞次氏
略歴
明治二十六年四月 西牟婁郡田並村、小野常右衛門の二男として出生。
同三十八年 田辺中学校に入学するも同盟休校に関連して退学。
京都高等蚕糸学校に入学するも病気のため退学し家業(回送業)に従事。
大正九年 田並村村会議員に当選。
同十年 西牟婁郡会議員に当選。
昭和六年 和歌山縣議会議員に当選。
昭和二十一年 衆議員議員に当選。
同二十二年 和歌山県知事に当選、後五期連続当選を果たす。
同四十九年一月三日 死亡。
序
【上段】
南海道大地震の時の愕き、つゞいて「ごーッ」と押し寄せた津浪のあの咆哮…。着のみ着のままやつと逃れた人達の、うち震えていたあの姿を思い出す。
聖上の行幸を御迎えした時の感激、鹵簿を御見送り申上げた刹那の感懐…。私はあのとき、眼頭の熱くなるのを、じつと手で押えた。
津浪の潮位標を建設した時の思い出…。私は傾いた太陽に向つて、たゞたゞ自己の足りなさを恥じた。
村長就任以来四年-此の間、災害地の復旧と、校舎の新築並に修理と、此等に関連する諸般の事業とは、私をして老いを増さしめた。
全てがこれ津浪の齎らした贈りものであつて、一つは限りない光榮であり、一は計り知れない殃禍であつた。
けれども、今日、とにも角にも復旧したあの道この橋その建物…。そしてまた、営々として働らく野の人職場の人…。嬉々として戯るゝ村の子學校の子…。復興へ!再建へ!と満ち溢る、意氣と力…。私は目の当りにこれを見、悦ぴ且つ敬意を表する。
このとき、福島右衛門氏、津浪の記録脱稿したりとて持参さる。原稿紙二百余枚、寫眞数葉,其の文、過去より現在に亘り、更らに未来に及んで細叙している。まことに結構と云うべきか。
氏は既に初老に庶幾い。我も亦中老。しかし乍ら、村の息吹きのはげしさに應えて、共に若返えらんかな。
これを以つて序とする。
昭和廿六年一月五日
新庄村長 南平七
【下段】
南平七氏
略歴
明治二十五年五月一日 新庄村橋谷南平蔵(四代)長男として生まれる。
同四十四年頃 田辺中学校を中退。
大正中頃より 紀州釦工場に勤める。
昭和初年頃より 文里南鉄工所に勤める。
同七年頃 田辺駅前に南タクシーを営業。
同十五年頃 田辺自動車会社に合併。
同十八年頃 明光自動車会社に合併退社。
同二十二年四月より同二十六年四月まで新庄村長を一期勤める。
同五十三年一月二十一日 田辺市湊にて死亡。
序
【上段】
公民館の事業と云うものは、関係者が考える以上に、村民の方々が、案外やり甲斐のあるものを教えてくれます。この「昭和の津浪」の発刊もその一つです。この間の事惰は、、太書執筆者、当公民館主事福島右衛門さんの「あと書き」にも詳述されていますが、一村民の方から投書で與えて下さつたヒントが、結局本書編纂の動機となつています。そしてこのことは「公民館は、我ら村民のもの」と云う公民館本来のレールに乗つて来たことの、何よりの証據であり、実は私達もこの上なくうれしく思つている次第です。
それにしても,あの大惨害をもたらした南海大地震から既に満四ケ年が経過しました。四年前の惨害を知らぬ通りすがりの人々には、恐らく今、当時を想わす事物の何物も残つてはいないでしよう。只街道脇の「津浪潮位標」がそれを物語つているに過ぎません。村民も亦、日々の生活のあわたゞしさと、將來への希望に燃えて、過去の苦しかつた思出は、いつとはなしに、その腦裡から忘れられようとしています。然しこうした大事件は、一應記録にも、まとめて置き、子孫への語り草の資料としても、必す保存すべきものでしよう。まして願わない事ではあるが、叉繰り返えされるであらうこの種の災害に對する心構えや對策と云つたようなものを、後の人々にもシツカリ持たしめて置くと云うことは、これ亦より以上に大切なことゝ思います。
「天災は忘れられた頃にやつて來る」と云う寺田博士の言葉は、うす氣味のわるい言葉ですが、矢張り疑えない眞実性を持つて私達に迫ります。殊に地震に関連する災害は、地球のつゞく限り繰り返えされるものですから、これは地球の免れ得ない運命であると同時に、亦我ら人類の持つて生まれた宿命でもあります。まあ大きいことは云いません。少くともこの新庄村が,どうしたら、地震によつて生する津浪の被害から、最大限に免れ得られるかと云うことを、お互い眞劍に考えておかなければなりますまい。本書は、こういう点にも数多い過去の経駿と科學的資料を提供し、読者に與えるものが大きいと思います。又一つの語り草としても、本村と内の浦の二會場で開かれた「津浪座談會」の詳細記は、けだし新庄村津浪の集成された一篇の人生物語であります。軍なる無味乾燥な記録ではありません。この中には、不幸にも村民が味い盡した恐怖と悲哀、そして一面こうした場合に、はじめて見られる人の世の美しい情が遺憾なく盛られτいます。こうした記録は、災害後年月も淺く体験者の多い現今では、兎に角、こゝ五十年も経つて、現存の先輩が、この地上から姿を消した頃には、叉と得難い文献にならうことを、當公民舘としてもいさゝか自負している次第であります。
顧れば、昨年十一月三日、「文化の日」の「津浪座談會」から其後満三ヶ月余、福島さんは、丈宇通り本書執筆に寝食を忘れて、沒頭してくれました。これは事実の記録でありますから、創作丈藝物と云つたような訳には参らず、さすがご當人も随分資料の蒐集には苦労されていました。自転車で、或はテクシーで、こつこつ關係者を訪ね又参考丈献を探し求められたことは、幾日を重ねたことでしよう。そして費料が集り次第、夜であれ晝であれ一向お構いなしに、机に噛りついて原稿紙の桝を一つ一つ埋めて行かれたものです。
或る雨の宵でした。ヒヨツコリお尋ねすると、やもめ暮しの,例の雜然にる部屋で、これは又原稿の資料を机の附近に、一ばい撒きちらして、ポツンと坐つて居られた姿を思い出します。そして、例の人なつこい笑顔で「飯もこゝ二、三日、いつ食べたやら分りまつてへなよう」と言つて居られました。兎に角、食い下さつたらなかなか離さぬ福島さんでなかつたら、この仕事は、到底出來なかつたことでしよう。
結局本書は、福島さんの非常な熱意と誠意によつて完成されたものに他なりません。こゝで私は、同氏に厚くお禮を申上け度いと思います。
それから又、福島さんに豊富な資料や話題を御提供下さり、或は得難い助言をお與え下さいました多くの方々にも、併せて深く感謝の意を表します。
昭和廿六年一月六日夜記
新庄村公民館長 藤本由太郎
【下段】
藤本由太郎氏
略歴
明治三十九年五月二十三日 南部町で生まれる。
大正十一年 田辺実業学校卒業。
昭和三年 和歌山師範学校専攻科卒業。
同三年 田辺第二小学校訓導。以後、栗栖川・田辺第三・佐本の各小学校訓導を歴任。
同十五年 新庄青年学校教諭に着任。以後西牟婁地方事務所学務課勤務等を経る。
同二十五年 新庄小学校長に着任。新庄村公民館長を兼任。以後、田辺第三・田辺第一の各小学校長を歴任。
同三十八年 田辺第一小学校長を辞職。
同四十八年より同五十四年まで 財団法人南部町開発公社理事長に就任
同五十五年より亡くなるまで南部町区長会々長
同五十九年三月十四日 死亡。
一、紀伊と地震津浪
1、南海道大地震津浪
【上段】
南海道大地震は、昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分〇四秒時に起つたと、潮岬測候所の地震計は、之を記録している。恐らく、午前四時二十分頃、突如、人々の平安な眠りを揺り覺し、一瞬、起ち居の自由を奪い、驚怖の坩堝に陥れ、そしてまた一転、津浪によつて全村民を狼狽させたものであろう。
何しろ、日の短い冬至前で、夜明けまで、たつぷり二時間以上もあり、電燈は消え、眞暗がりの中に、たとえローソクの用意のあつた家にせよ、人々は、落ちつきを失つて、時計を見るなどと云う事は、誰れも忘れていたに違いない。実際、家は揺れる、棚の物は落ちる、箪笥が倒れる、うちとにひどい物音が重なると云う、混乱のさ中であつた爲、時間など、氣にして居れなかつたのも,無理はあるまい。とに角、人体に感じた地動の時間は相当長く、津浪襲來の時刻は,十五分乃至二十分の後と、たいていの村入は、こう思つている。今これを、中央氣象台と、各地の罹災者の観察とを比較すれば、別表の通りである。
大正以來、四つの大地震があつた。それは大正十二年の関東大震火災,昭和八年の三陸沖大地震津浪、昭和十九年の東南海大地震津浪、今回の南海道大地震津浪で,これを地震規模の大きさに依つて順位をつけると、三陸、南海道、東南海、関東の順位となり、南海道大地震は、青森,秋田,奥羽地方の二三縣,並に北海道を除く、我が國の全地域に亘つて、震動した点より見て,稀有のものであつた事がわかる。たゞ震源が海底であつたゝめ、徳島縣、高知縣の一部に山が崩れ,大地が裂け,家が倒れた、烈震区域のあつた外、概ね、強震若しくは弱食程度で、地.震動そのものによる被害よりも、之によつて生じた津浪にょる被害の方が、かなり大きかつたのである。
この地震の震動の始発点は,外側地震帯の一つ、潮岬南々西約五十粁の沖とされているが、中央氣象台の観測によると、震央は、東経一三五度六、北緯三三度の地点であつて、地震動勢力の中心叉は震源範圍は、震央より西方に寄つているらしい。之に加えて、津浪発生の中心又は浪源範圍も、同じように考える必要がある。例えば、紀伊半島の東岸に津浪が弱く,西岸に強かつた事実が、これを物語つている。わけて、安政の大地震に比べて、津浪の規模の小さかつた事は、これは、地震規模の故による外、一つには、震源地域が、それ程の深海域でなかつた為であろう。たゞ、今回の津浪発源地域が、一部海岸にまで及んでいる事は、海岸に於ける土地の昇
降が、地震後著しく起つた所のあるのを見てもわかる。例えば、田邊、新庄、小松島方面の土地の沈下、潮岬、室戸崎辺りの土地の隆起の現状は、これを物語つている。この爲めに、津浪も亦、地震後、意外に早く来たのである。尚、震害は、四國、九州、近畿、中國及び中部地方の一部,一府二十四縣に亘つて居り、浪害を加えて、死者一三六二人,傷者二六三二人、行方不明一〇二人を算した。
2、地震津浪の歴史
昔から、紀州には、相當の大地震が記録されている。それは、紀淡海峡の地震、名草附近の地震、有田日高地震、昭和二十三年六月十五日の田邊東方山岳地帯地震等の、被害の小範囲であつた地震は別としても、南海道大地震の如き災厄が、忘すれ時々に起こつて居り、其れに依つて生じた津波と共に,悲滲な歴史を繰り返えしている。
今、これを、年代順に、明らかなものばかりを拾つてみよう。
○
天武帝御宇の地震(西暦六三四年)
天武天皇即位十三年十月十四日、土佐、伊予二國大地震、大和國に強震があつた。これは、土佐を震源地とした激震で、大和朝時代は勿論,上下三千年を通じて稀なもので、日本書記には十月壬辰逮干人定,大地震、擧國男女叫唱不知東西,則山崩河涌,諸國郡官舍及百姓倉屋、寺搭神社破壊之不可勝數、由是人民及六畜多死傷、時伊予温泉没不出、土佐國田園五十餘万頃、没爲海、古老日、若是地動未曾有也。
又、伊豆島の北西二方面に、自然に、三百餘丈の土地が隆起して・一つの島となる、とある。多分、紀州各地にも被害が及んだであろう。
○
天平の地震(西暦七三四年)
聖武天皇天亭六年四月七日、畿内七道地震うとあり、當地方にも震災があつたであろう。
○
治承の地震(西暦一一八○年)
高倉天皇治承四年十一月二十六日、紀伊熊野邦智地震と、山槐記、大日本史に記している。當地方にも災害があつたのではなかろうか。
○
貞永の地震(西暦一、二三三年)
日高郡誌に日う
貞永二年二月五日(四條天皇の御字)激震。蓮專寺記に日う、「五日大地震、大風大雨にて諸國大荒、諸方にて人死之数不知家潰事数不知候」と。
或は、局地的地震であつたのかも知れない。
○
元弘の地震(西暦一三三一年)
参考太平記に日う
元弘元年七月三日(後醍醐天皇の御字)大地震ありて、紀伊國千里浜の遠干潟、俄に陸地と成事二十餘丁なり。
と。日高郡南部町千里浜は、当村より十キロ前後、同所にかゝる隆起があつたとすれば、当村に於ける震動も非常なものであつたろう。尚、千里浜の隆起も,其の後、次第に沈降し、今の地形になつたらしい。
○
正平の地震(西暦一三六〇年)
後村上天皇正平十五年十月四日より、地しばしば震い、六日津浪があつた。蓮専寺記には
十月四日大地震十三淘、同五日九ツ時大地震淘,同六日朝六ツ時過ぎ津波上、熊野尾鷲より攝津兵庫まで大荒、牛馬人之死る事数不知
とある。翌正平十六年六月から十月まで,近畿、四國に地震津浪あり、大日本史に日う
正平十六年八月二十四日(陽暦十月一日)紀伊烈震、諸國堂舎多倒
と。参考太平記には
正平十六年六月二十八日巳ノ刻より、同十月に至る迄,大地夥しく動て、日々夜々に止時なし。山を崩て谷を埋め、海は傾て陸地に成しかば,神社佛閣倒れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万という数を知らす。総て,山林、江河、林野、村落,此の災に遭はすと云所なし
とて,阿波の雪湊が,一村悉く海底に沈んだ事を記した後
熊野参詣の道には、地の裂けぬ所もなかりけり
と、結んでいる、当地方も、其の災にかゝつた事は明らかである。
○
明應の地震(西暦一四九八年)
後柏原天皇明應七年八月二十六日(陽暦九月二十一日)東海迫大地震。伊勢、志摩にて、死者一万と云う。異本年代記抜萃には
紀伊諸國の浦津、高塩充満して滅亡
とある。
○
天正の地震(西暦一、五八五年)
正親町天皇天正十三年十一月二十九日(陽暦一月十八日)畿内海道藷國地震う。有田郡誌によれば
有田郡廣村が、戸数七百を失へるは、此の時の地震であろうか
とある。当地方の被害も、多かつたであろう。
.○
慶長の地震(西暦一六〇四年)
後陽成天皇慶長九年十二月十六日、薩摩、大隅、士佐、紀伊、伊勢、遽江、伊豆、上総諸國に亘つて大地震あり、沿海の地は海嘯起こり、入家を漂倒する事多く、紀州の沿岸も災害を蒙りたるが如し、と日本地震史年表、日本震火災略史等に見えている。田邊町大帳、万代記には、其の記載がないのでわからないがしかし災害を蒙つたであろう。
○
寛文の地震(西暦一六六四年)
殿中日記に
寛文四年六月十二日(後西天皇の御宇)、紀州新宮甚敷地震之由
と記るされている。局地的地震であつたかも知れない。
○
元祿の地震(西暦一六九九年)
田辺大帳元緑十二年(東山天皇の御字)の條に云う
九月朔日、寅中刻大地震
十二月八日、潮水非常に増長
文里、跡の浦方面は多少の被害はあつたであろう。
○
宝永四年の地震津浪(西暦一七〇七年)
宝永四年十月四日(陽暦十月二十八日)の未の上刻(午後二時)、田邊に大地震あり、倒壊家屋多く、次で海嘯起り、江川浦は殆んど流失、本町、紺屋町、片町は、過半流失し、溺死者廿三人に上つた。宝永四年十月四日、大地震大波書上、田辺組(田所氏交書)によれば
新庄村は、流家百八十五軒,流稻屋百九十六軒、流牛屋四十軒、流藏五軒、御藏流二軒
と書き上げてある。この災害は、安政の地震津浪と共に、大きなものゝ一つである。
蓋し、この時の地震は、伊豆から日向に至る間、太平洋岸及び其の附近を中心とする大振動で、其の區域は、東海、畿内、山陽、南海、九州東部に亘つている。同時に、沿海の地は、概ね大津浪を伴い、潰滅家屋二万九千戸、死者四千九百入と註せられ、就中、土佐が最も甚だしかつたが、當村では、文里の波と跡の浦の波が、東光寺のどの坂で、打ち合つたと言い傳えられている。
○
享保の地震(西暦一七一六年)
田辺町大幌に
享保元年極月六日(四暦一七一六年)の夜、大地震
享保十二年正月二十三日(西暦一七二七年)夜九ツ時珍敷大地展、翌二十四日も地震あり、江川浦に火災を起し、三十戸焼く
とある。津波を件つていなかつたらしい。
○
安攻元年夏の地震(西暦一八五四年)
嘉永七年六月十五日、地震あり。田辺万代記には
十四日夜九ツ時、珍数大地震に而、銘々外へ出で、大に驚き申候。同十五日五ツ時、又々大体之大ゆり,田辺川筋さし潮、平日より大分上り、浦辺筋、大に驚き申候。夫より十六日十七日迄、小き地震二三度宛ゆり申候
とある。この時、大和、山城、河内、和泉、攝津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前,の諸國は大地震で,郡山、奈良、上野、四日市を連らぬる線が震源地で、同地方は、死傷三千三百名、家屋倒壌八千四百戸を越えた。当地方は、其の餘波に過ぎなかつた。
○
安政元年冬の大地震津浪(西暦一八五四年)
嘉永七年十一月四日五日(陽暦十二月廿二日廿三日)東海,東山,畿内、南海、山陽,山陰諸道に亘り大地震あり、沿海の地は、海嘯之に伴い、諸國の災害甚だしく,家屋の潰滅六万戸、死者三千名に上つた。之を安政(此の年十一月廿七日安政と改元)の大地震と云い、當地方では、明治廿二年の洪水と共に二大災厄として記憶さるゝものである。蓋し、四日のものは、東海道海底に震源を発し,上総より紀伊に及び、伊勢、志摩,尾張、三河,遠江,駿河、伊豆、相模、武藏、信濃、下野、山城、大和、河内、和泉、攝津,近江、美濃、若狭、越前,播摩、備前、安藝、出雲,紀伊,阿波の諸國に大地震、尾張,三河。遠江、駿河、伊勢、志摩、伊豆の諸國に大海嘯があつた。翌五日には、南海道南方海底を震源とし前日の繼續地震と見做すべきもので、紀伊,淡路,阿波、讃岐、伊予、土佐,豊前、豊後,筑前,筑後,肥前,肥後、壹岐,出雲、石見、播摩,備前、備中、備後、安藝、周防,長門,攝津,河内,和泉若狭、越前、近江,美濃、伊勢、尾張。伊豆の諸國及び支那江南に大震災、紀伊,攝津、伊勢、播摩阿波、土佐、伊豆の諸國に海嘯があつた。この震動地域のひろかつたのは、東海道南部のの海底と、南海道南部の海底に、相接績する地震帯が、活動した爲めであつて、震度の甚だしかつた事は、遠く北米の西岸に及んだ相である。また當時、幕府は、阿蘭陀甲比丹に対し、其の来朝を一年延期せしめた事からでも察しられる。田辺町誌によると田辺では、四日辰下刻(午前八時)一大震動あり、前の六月の地震に数倍したもので、古家の倒壌、塀壁のくつる・もの多く,海潮も多少變調があつたから、人々驚いて、難を郊外にさけたが、同夜は小震動数回あつたゞけで過ぎ、翌五日辰下刻(午前八時)小震あつたが、日和よく、幸ひ穏やかとなつたので、佳民多くは郊外の小屋掛等から歸り、事なかりしを互に相慶し、安穏を所り合うているうち、同日申刻(午後四時)非常の大震あり、家屋は大半忽ち倒壊し、次いで田辺沖に当つて、数回の大音響あり、同時に海嘯起り、洪波寄す、會津川口に淀泊の帆船を、下秋津まで打ち上げ、會津橋を打ち破つたのは言うまでもなく、稻成の下村、糸田、淨行寺後等に浸水し、酉刻(午後六時)に至つて、三栖口の立花屋嘉兵衛、岡家源助の両潰家から出火、火熄まざる事三日、七日辰の刻に至つて鎭火した。焼失家屋三五五戸,倉庫二六六戸、部屋一四、寺院三、流失家屋二、辻番所一,死者九、米麥焼失流失三五〇四石と記るされている。
嘉永七年寅十一月天変諸事記中に新庄村本郷、跡の浦、内の浦、鳥の巣とも、人家大方流れ申候、唯山添の家而巳所々にて四五軒程つゝ残申候とある。尚、當村役場に、左の記録が残つている。
嘉永七甲寅年津浪眞記
干時、嘉永七甲寅年十一月四日朝五ツ時大地震、夫に付き、潮高く,叉濁り、潮度々込入り、新田街道へ潮上り、これに驚き,めいめい手寄手寄に山上へ荷物相認め罷登り、其の夜山上に野宿仕り候へ共、其夜も度々地震有之候へ共、別而嚴敷事も無之候。
明五日朝、潮見定め候處、凡そ壹ツ時ばかりも潮早や候へ共、至つて小潮、海辺しづまり候に付き、皆々心持ちよく、前日持ち出し候荷物、段々我が家へ取り込み運び、近隣の人々無事なる儀悦び合ひ候て、相休み罷り居り候所、五日七ツ半頃、・又々大地震、此度は至つて嚴ぴしく,地震のうち、所々の家又は納屋ひさし、所々の塀など崩れ、街道田地も大いにひゞ出来候處、何れより申出候哉、津波来る由、夫れより、追々山上ににけ登り候所、間もなく海鉄砲きびしく、驚き候へば、直ちに大潮込み入り、誠にこの潮の込み入る様子、恐ろしき事申す言葉なし。地震より津恨込み入るまで、聞なく候故、何れも、荷物持ち上げ候儀出来不申候。
扨て又、津波大潮一番潮、凡そ常潮より二丈ばかり高く,この時少々家流れ、猫二番潮同様の様子、参番潮は至って高く、貳番潮より参番潮は一丈余も高く、それ故、村中、新田より名切、宮の脇、又は古や谷、青木、五反田邊、平田まで、残らす流れ候。一代辺、北原、長井谷筋も、平地に罷在る家は皆々流れ、橋谷は一軒も不残、出井にては鷹の巣上地残り、是も家ばかりにて流同様の事、跡の浦も堂の坂にて三四軒残り申候。其の外総流れにて
一、新田川口に七八拾石積み船壱隻有之候所、彼の壱番潮に、平田、長井谷、岩本奥まで流れ込み,其の後は、夜に入り候故、行衛不知、後にて承り候へば,田辺江川口に流寄有之事に候
一、出井川新田川筋に居合せ候小舟、長井谷、瀬田へ行くも有之,又出井生ケ谷池の大手へ乗るも有り、いたみ申候
一、森の港に居合候新徳丸、壱番潮に引き出し、跡の浦南谷に流れ寄り、無事にて候
一、内の浦にては、家六軒残り、皆流れ申候。同所喜右ヱ門殿、六左ヱ門殿家敷、潮上り申候。右引潮の節、内の浦谷より鳥の巣へ、山打ち越え候事に候
一、五日夜四ツ時頃大地震,猶津浪潮込み引き至つてきびしく、夜八ツ時頃、靜に相成り申候
一、田邊御城下、大地震より出火に付き,北新町東より、長町弐丁、本町入口、夫より袋町横町、孫九郎町、南新町、残り無く嶢失仕候
一、江川大橋半分流失、是は津涙の節大、船込み入り、秋津ふき石まで、大船一隻。流れ登り候
一、六日朝、村中流し申候諸道具又は衣類等ひらいに罷り出で、段々諸色拾ひ上げ、其の木にて其後銘々小屋掛け致し罷り居り候所、御支配方御役入衆、村方御役人衆,同道にて、小屋々々御改め相成り、拾ひ上げし諸代物、庄屋元へ取り寄せさせ、扱て其げ後,十二月二十一日、村中流れ候人々、右取り寄せの諸代物、並に衣類諸道具、自身所持の物御調べの上、御下げ被下、諸色有之候人も有り,叉は衣類諸道具少しも無之ものも御座候。其の餘、何によらす、主なき代物は、村申寄り合い、入札致し候串に候
一、御支配方並に村役人衆御同道にて、小屋々々の家内人夫御改めの上、村方にも流れ申候米、所々に拾ひ上げさせ、むし米に致し、流れ出されし者どもへ、御上様より厚い御恵み御救米仰付けなされ、壱人参合づゝ被下、難有仕合せ、恐れ乍ら大悦仕り候
一、諸代物拾ひ上け、他村へ持越し候者、急度相調べ候。猶又、外村方より拾ひ候品々、皆々役元へ取り寄せ候事に候
一、十一月末方には、商人衆追々家普請いたし候も有り.又は貸小屋にして元の屋敷へ出るも有り、十二月中頃には、大阪和歌山通いの船に、米塩油諸代物積み下り、商ひ相初め申候。
一、今度不思議なる事、先年より段々聞き傳え有之候處、諸國の大地震、山津浪など有之候事ども、度々風聞御座候。尚又、去る癸丑年度頃、毎夜西の方に大星一っ出て、夜四ツ時頃、山場壱反丈け相成候節、舞ひ下り入ると申候。扨て、六月十四日夜八ッ牛頃大地震、明けて十五日も度々小さき地震有之、其の節も、津浪來る事も油断ならずと、皆々用心いたし候人も有之候。
一、参四ヶ年以前より、唐船、御江戸表へ段々来り候由、尚寅九月十五日、田辺沖へ和見へ、其の後、和歌山沖、淡路辺,和泉沖を通船致し,大阪安治川口に滞船致し候由。右に付き、諸國御城下、津々浦々、湊口に、弓箭鉄砲をかまへ、用意きびしく、御役人衆入夫を從へ、出張致し、誠に嚴重の御備え也
一、去る壬子年五月九日、大雨降大水にて、夫より天氣と相成り,七月末まで早魃、凡そ八十五日ばかり雨なし。依て、稻作、綿作,畑ものまで申すに及ばす,至つて凶作、甚だ難儀に存じ候
一、同癸丑年も同様大旱魃にて、百日の間雨なし。至つて凶作。
一、同甲寅年も同様大ひでり、しかし乍ら、當年は、何れの村方にも、新池叉は大手に上置きなどいたし、用意宜敷候所、五月田植後六月さし入頃より、稻作大にいたみくさり入り、尚当年も大ひでり、其の上いたみ入り候へば、叉々大凶作と、皆々心配いたし罷居り候所、七月さし入頃大雨降り、是れで諸作物大いに見替え、大豊年と相成り、大悦仕事に候。
右三ヶ年大早魃,田邊組にては、子丑弐ケ年凶作留田、朝来組は格別の事も無之、三栖、秋津辺は中作位に聞き及び候。芳養、南部も大にいたみ申候。西東山中は畑物はいたみ候へ共、稻作至つて宜敷事に候。
寅十二月に年号替り候事、明くれば乙卯正月と相成り、年号は安政二年と定る。先は目出度越年、小屋にて仕候。
(註)原交には句読点がなく、万葉仮名があり、判読し難い点もあつたが、之等を補つて轉載した。
【下段】
最古の巨大地震…日本書記巻第二十九(岩波書店日本古典文学大系)によれば、「天武天皇十三年冬十月壬辰()みづのえたつのひ(十四日)に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大(おほ)きに地震(なゐふ)る。国挙(くにこぞ)りて男女叫(おのこめのこさけ)び唱ひて、不知東西(まど)ひぬ。則(すなわ)ち山崩れ河湧(かはわ)く。諸国(くにぐに)の都(こほり)の官舎(つかさやかた)、及び百姓(おほみたから)の倉屋(くら)、寺塔神社(てらやしろ)、破壊(やぶ)れし類(たぐひ)、勝(あげ)て数(かぞ)ふべからず。是に由りて、人民(おほみたから)及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯(いよのゆ)泉、没(うも)れて出でず。土佐国(とさのくに)の田苑五十余(たはたけいそよろづしろあまり)万頃、没(うも)れて海と為(な)る。古老(おいひと)の曰はく、『是(かく)の如(ごと)く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』という。」とあり、西暦六八四年一一月二九日に、南海地域が巨大地震に襲われたことを物語っている。
海嘯…波の前面が切り立った壁となって進むさまをボアと呼び、その突進するとき、人がつぶやくような音を発するので海嘯といった。
8頁6行目 田辺大帳→田辺町大帳
9頁13行目 安攻→安政
9頁14行目 田辺万代記→万代記
11頁10行目 淀泊→碇泊
12頁12行目 込み入り→込入(原文)
12頁13行目 込み入る→込入(原文)
14頁11行目 大阪→大坂(原文)
15頁10行目 留田→富田
3、大地震津浪の週期悦
以上の記録は、和歌山縣に於ける大地震津浪の全部ではない。だから、これに依つて、津浪の襲来の期聞を,断定したり予想したりする雰は出来ない、それは、五世紀以後、我が國に起つた大地震津浪は、四十八回と推定されているからである。今これを地域別に大別してみると弟一区房総半島から奥羽の東海岸を経経て、北海道南東海岸に至る太平洋側第二区東海道から南海道を経て、九州の東海岸に至る太平洋側第三区日本海側となるのであるが、更らに各区毎に津波の大きさの順序を附してみよう。
これに依れば。我々の属する第二区は二十回、このうち被害の伴はなかつた津浪を差し引いて十八回,平均八十数年に一回の割合となつている、かねて京大の佐々博士は、過去に於ける記録的歸納として、津浪の週期説を唱えて居る。それによると約八十年と云うのである。恐らく之は事実に近いであろう。
彼の有名な藤田東湖が、小石川の水戸の藩邸で壓死した江戸の地震が、安政二年であり,それが七十年後の大正十二年、東京横濱を焦土と化せしめ、死者十万を算した関東大震災の起つている事などから思い合せて、右週期説を信じたいと思う。とまれ、安政の津浪は宝永のそれより一四七年後、昭和の南海道大地震津波は、安政のそれより九十二年後
災害は忘れた時にやつて来る
という、寺田寅彦博士の名言を、思わずには居られない。
二、津浪の解説
地震と言えば津浪、津浪と言えば大自然の暴威を連想するのが、南海道大地震以来の村人の常識である。
では、津浪とは?
津浪とは、海面の異状上昇による大波が、陸上に奔流する、自然現象である。
しかし乍ら、これは、必ずしも、地震を伴つて起るとは限らない。強い低氣壓や、颱風によつて、波長も週期も長い、所謂長波が、海岸地帯を襲う事がある。けれ共、これは、津浪と云い乍らも、大きな災害を齎さない。ただ、地震に依つて起るものだけが、過去に於て、猛威をたくましくしたのである。
では、南海道大地震に於ては、どうであつたか?
先づ、地震と共に現はれると謂う発光現象から津波の傳り方、其他について、検討してみよう。
1、発光現象
【上段】
大地震に現われる発光現象、つまり「光りもの」については、南海道大地震に於て,、沢山みとめられている。安政の地震には、光りものの記録はないが、之れは、恐らく、書であつたため、現認し得なかつたのではなかろうか。けれ共、一方また、送電線のスパークではなかろうかとの説もある。此の点、將来、研究の余地のある問題であろう。
これに関し、去る日催され九、南海道大地震津浪座談会に於ける記録を、参考としよう。即ち、
一、鈍い光が射して、空が赤く染まつた。
二、鈍い光が、パツト、天神崎の海や空を染めた。
三、夏の遠稻妻のような光を、鷹尾山の方向に認めた。
これに関し、中央氣象台の報告に依れば、北西から北東の間、陸地に当る方向に光を認め九者(これは前記第三項に該当する)、和歌山縣海南地方では、海上に火柱をみとめたと云う者(これは前記第一項第二項に該当する)、田邊湾では、南北に孤を画いて飛ぶ光を見たと云う者等、様々であるが、其の色彩は、赤鐙色系統か、又は、青白いもので、大抵は地震中に認めている。これ等のうち、電無のスパークを見た者もあろうが、猶且つ其處に解き難い謎がある。
と云う意味の事を述べている。伊吹山測候所では発光は地動と同時にパツパツと明るく全天に拡がり明滅し、明るさはガス燈の如く、色彩は強い青白色、地動の度に数回續き、始めの光は西北酉の方向に、其の後南東の方向に移動した。第二回目の発光は南東方面に約四回観測す。強度は1、発光継続時間は四時十九分より四時三十一分迄と云うている。
日置町では、北方の山に赤く炭火の起つた様な光を二三回認めたと云う者、周参見町では、西南の方向に赤味を帯びた電光の如き光を見たという。
是れ等を綜合して、津浪と岩礁の摩擦から発するものであるまいかとの、疑念を起らぬでもない。兎に角、將来の研究に待たねばなるまいと思うが、津浪の際生ずる現象らしい事は注目に値するであろう。
【下段】
宏観異常現象…「宏観前兆」とも言い地震の先行現象を指す。ナマズやドジョウ、イヌ、ネズミが暴れたり騒ぐ現象。俗説とされてきたが今の科学ではまだ実証できない「未来学」とも云われる。
18頁14行目 孤を画いて→弧を画いて
19頁9行目 疑念を→疑念が
2、海鐵砲
【上段】
當村の、安政の古記録には「海鉄砲きびしく、驚き候えば、直ちに大潮込み入り」とあるし、南海道大地震では村人の中にはドロドロという音、ハツパの様なドーンと底響きのする音、パーンという音、ゴーツと云う音など、いろいろ言つている。しかし、たいていの入は、地震津浪の驚ろきの爲めであろうか、聞きもらしているらしい。中央氣象台の調査によると朝来歸及び和深では、ゴーツと云う地鳴り、周参見では、本震、余震ともに、海砲の様な響があつたと云う外、他の土地では、海鉄砲らしいものは聞いていないと、云う事である。ただ四國沿岸では一筒所、それは、宍喰で、海鳴りを聞いたと云う報告があつたらしい。
常識的に考えて,海鉄砲と云う特殊な現象があるかどうか、今後の研究に待つ以外、確たる科學的根拠を、つかみ得ないのではなかろうかと、地震学者の中に言つているものもある。然しながら、当村小學校の田上茂八先生は「ものすごい津浪と岩床の摩擦によるものだ」と断じている。
【下段】
田上茂八(故人) 新庄町七六三番地(北長)
3、津波のおこり方
さて、もう一度、はっきり言わう。津浪は、海底の地震によつてのみ起るものである事を……。しかし乍ら、海底の地震、必すしも津浪を引き起こすとは限らない。津浪を起す地震は、其の震源が比較的淺く、しかも。規模の地殻變動による場合が多いのである此の場合、地震の揺れ方が、大きく横揺れして、長く続く事である。南海道大地震では、五分間前後、人体に感じたと、一般に言われている。尤も昭和二十一年四月一日、アリユーシヤンに起つた大地震は、三千五百浬離れたハワイに、何の前觸れもなく、大津浪となつて押し寄せた、例外もあるにはあるが……。
では、海底の地震が、どんな影響を海に與えて、津波となるのであろうか。
陸上の地震が地上に断層や、土地の隆起、陥没に因つて起るのを目撃する様に、海底の地震も亦海底に於て、陸と同様の地殼變動を起こすものである。と同時に、それが更らに、其の上に接している海水に傳わつて波を起こし、遂に陸地に押し寄せて、大波となるのであるが、風による波濤が、海面ばかりを捲き返すのとは違って、果然として海底から揺り動かすものなのである。
これは、勿論、最初から一つの大波となるのではなく、恐らく、複雑な、幾種類かの波の形で現れるものであろうが、其れ等の波は、海底の摩擦や、水の粘性や、波の反射現象などによつて減衰し、やがて、波長の長いものばかりとなつて、海岸に殺到するのだろうと、考えている。
4、沖に於ける津浪
では、波長はどの位であろうか。
普通海岸に打ちよせる波は、まことに短かい。太平洋の真ん中に於てさえも、百米もある波は、稀れである。けれ共、津浪は、百米の数千倍、つまり三百粁、四百粁の長さを持つている。わけて週期に於ても、普通の波に、大波であつて数秒であるが、津浪の波は、第一波が来て第二波が來るまで、十分とか二十分とか云う、時聞がかゝつている。まことじ大きな波である。
では、波の高さはどうか。
波の高さは、沖の方では一般に低く、一米内外で、高くても、せいぜい数米と云うことである。だから波長に比べると、波高は目につかない。沖に居る舟が、津浪を氣付かなかつたなど言う事を聞いたりするが、この爲めではなかろうか。
では、その速度は?
これは、海の深さによつて異る。深い所では速く、淺い所では遅い。例えば、海の深さが四千米の所では、一秒間二百米の速さであるが、深さ千米の所では百米、深さ三百米足らすの所では五十米位になる。
學問的に言えば、津浪の速度は、海の深さの平方根に比例するのである。
5,海岸附近に於ける津浪
津浪が海岸に近ずくと、海が淺くなるので、波の速度が遅くなる。しかし乍ら、波の週期が變らないので、波の進行距離即ち波長が短かくなる。波長が短かくなれば、波高が波長の平方根に逆比例して大きくなる。斯くて波高が海の深さに比べて或る程度大きくなると、波の谷よりも波の山の方が速さを増し、波の前面が急傾斜して、遂には、普通の波の様に、波の頂が崩れはじめるのである。
ただ茲に附け加えたい事は、其の崩れはじめる場所が、普通の波とは違い、津浪は一般に早くから崩れ掛けると云う事である。これは海底の地形によつて、一概に言う事は出來ないが、遠淺の所、途中に淺瀬や障害物のある所などで目に立つ。理論上から言つて、大体海の深さと波の高さが等しくなつた邊で崩れかける譯である。
所が、津浪は崩れはじめると、殆んど波の性質を失つて、急な流れとなり、陸地へ突進して來る。其の速度は、約二倍と見られている。尤も、此の速度は、津浪の性質と地形によつて異る。南海道大地震の時の津浪は、概括的に見て、比較的遅く、地形上、逃ぐれば逃げられた處も少くなかつた様であるが、文里の場合、仮りに避難道路が平担で一直線であり、同時に書間であつたとしても、早駈け程度では逃げ終せなかつただろう事は、津浪に押し込まれて來た船の流るる速さを見ても、わかると考える。これは兎に角として、一般に、波高十米、深さ十米の所でくずれる津浪の速さは、毎秒七八メートル位となり、一平方メートル当りの■力は、約五屯と計算されている。
6、陸上に於ける津浪
津浪は、陸上に押し寄せると、斜面を駈け登る様になり、谷へ行く程高くなる。流速は、傾斜の少い程早く、特に背後が廣い平坦地ほど速い。
其の障害物に與える■力は、速度の二乗に比例するから、上記のような所にある家は、浸水僅か四五尺で倒壊する。けれども背後が山や崖のような處では、鴨居以上に浸水しても倒れない家もある。当村に於ても村道と國道の交叉点にあつた家の流失と、西部落の山添いの家の被害とを思い比べて見ると、成る程と、うなずかれるものがあろう。
津浪の引き潮の力は、その襲來時の力に比して、遙かに大きい。わけて、漂流物の質量と其の運動量とが、これを決定する。即ち、木材、舟等の漂流により、堅固な工作物や、建物、橋等を破潰し去るのである。これ等は、南海道大地震津浪の際、各地に於て、目のあたり展開した光景であつた。
三、津浪の現實(其の一)
【上段】
昭和二十五年十一月三日の夜、公民舘に於て、公民舘長藤本由太郎先生の挨拶、公民舘專任主事福島右衛門司会の下に、南海道大地震津浪の座談会を開催した。會する者三十二氏、夜の更くるをも知らす、當時を追憶しつゝ静かに語り合つた。
其の夜の出席者は現村長 南 平七氏、元村長代理助役内海豊一氏,元村長坂本菊松氏、當時の復興対策委員長であつた榎本傳治氏、委員であつた眞砂久一氏、東光寺住職今西唯乗氏、榎本新吉氏、当時の警防團長福島俊平氏、現警防團長山本保一郎氏、当時の村会議員濱名恒氏、瀬田政吉氏、季員であつた山下清左衛門氏、浜本助七氏、上田幸吉氏、收入役橋本武一氏、車輪製造業濱本喜三次氏、山林業中井竹吉氏、農業高井忠平氏、石橋休八氏、運搬業大戸吉次郎氏、當時の青年會役員塩崎幸夫氏、新聞記者谷口豊一氏、建築業者野中勘助氏、建具製造業出井佐市氏、新庄中學校より校長の保田亀太郎先生はじめ、野々田省吉、倉本一恵、須磨美壽姫の三先生、小学校より校長藤本由太郎先生はじめ、田上茂八、森本武夫、西秀次郎の三先生であつた。
以下、座談會の記録である。
【下段】
24頁5行目 恒→恒治
1、舘長の挨拶
皆さん、今晩はお忙しいところを御参集願いまして有り難うございます。丁度、本日は、丈化の日に當りますが、今夜は,我が村として忘れられない、昭和廿一年の南海道大地震に伴う津浪について、色々と皆様から、當時の模様を、お聞かせ願い度いと存じます。この座談會をきつかけとして、長らく懸案になつている津浪に関する文献を完成いたし,永久に我が村に残し度いと存じます。この事について、當舘主事の福島さんも,非常に張り切つて居りますωで、近く立派なものが出来る事と、樂しんで居ります。尚また、今夜の座談会の様子は、十二月号の舘報へも掲載致し、村民の皆様にも見て頂き度く思います。これはまた、願わない事ではありますが、斯うした不幸のあつた場合の、心構えを作つて頂き度いと云う、老婆心でもあります。でわ福島さんの司會で会をすゝめますから、よろしく御願い致します。
2、司會者の言葉
南海道大地震は、午前四時十九分〇四秒時に起つたと、潮岬測候所の地震計に記録されています。我々の身体に感じたのは,恐らく廿分頃でありましたろう。そして津浪の襲来したのは、皆様御存知の通り、四時卅五分頃ではなかつたでしようか。あの時、私は、枕許に置いていた懐中時計だけを持つて逃けましたが、時闇を見る事すら忘れて居りました。
こゝ新庄村では、昔から随分地震が繰り返され、度々津浪の災害を蒙つている筈ですが、御承知の通り、何の記録も残つて居りません。わずかに、九十二年前の安政の津浪が,嘉永七甲寅年津浪眞記として残っているのと、お互い租父母若しくは曾租父母からの聞き傳えだけであつて、誠に淋みしい思いが致します。これにつけても「災害は忘れた時分にやつて来る」と云つた、寺田寅彦先生の名言を,泌々思います。
けれ共、考え方によつては,天変地異に見舞わるゝ事は、吾等宿世の因縁ではないでしようか。此の因縁から解放さるゝ時、その時こそ、地球上のありとあらゆる生物が、永遠に死の扉の中にとち込めらるゝ時であろうと思うがどうでしようか。是れは一つの理論でありますが、何でも地殼の収縮は地震発生の原因であり、現在までに、既に一万分ノ一の収縮を来して居る相であります。そして之れが一万分の五に達すると、地球の壽命がつきて、月のような無生物の天体の一つとなつて仕舞うと云うのであります。と言つて地殻活動の象徴たる地震を有り難く思う者はありません。しかし乍ら、今後に於て、被害を最少限度に喰いとめるべく、そして叉、我等並びに我等の子孫が出來るだけ平安に、其の生活を樂しみ得る様な方策を,構じて置く必要を痛感致します。昔から,人力の及ぼないものゝ諺に、「地震雷火事親爺」と云われて居ります。親爺には孝行、火事にはポンプ、雷には避雷針,そして地震には耐震建造物、津浪には防潮堤と、其の封策がある課であります。お互い、今一応工夫をしようではありませんか。
尤も、今夕の座談會の主旨は、茲にばかりあるのではありません。南海道大地震津浪の記憶が年と共にうすらぎ,同時に資料の散逸も懸念されますので、差し當り當時の惨状を語らい合い、出来る事なら、將来の対策のほんの一部でも吐露し合つて.之を記録に止めて置き度いと思うからであります。何卒この座談會を意義あらしむべく,活溌な御発言を御願い致します。
3、津波の予感
【上段】
司會者 先ず、地震以前に何か特別に変つた事、例えば、自然現象に異変があつたかどうかについて、御話を伺い度いと存じます。濱本さん、どうでしたか。
濱本助七氏 予感なんて全くありませんでした。廿一日に、農作物の品評会があると云うので、前日、家でその出品の準備をしていました。
塩崎幸夫氏 品評會?そうそう、青年團の主催でやる事になつていましたね。私も役員の一人だつたものですから、前晩、配給たばこの「のぞみ」を巻いてケースへ入れ、洋服を取り出して服吊へ掛け、腕巻時計を机に置いて寝た事を思い出します。
榎本新吉氏 全く不意打ちを喰らつた譯です。十九日は所用あつて湯崎へ出掛けましたが、雪のちらつく日であつた事、廿日は北風が張かつた事を覚えているだけです。そして、津浪一時間前頃に眼が覚めて居りましたが、清夜沈々、忽との物音も聞きませんでした。
出井佐市氏 十九日、妹の結婚式で和歌山へ出掛けて居りましたが、其の日可成りはけしい地震がありました。そのとき、ふと津浪の予感に襲われ、我が家の事が焼き付く様に思い出された事を記憶します。近くの師範学校の松が倒れ相な程の、風の強い日でした。
浜本喜三次氏 前晩、兄の家で貰い風呂をしました。兄の家と云うのは、御承知の浜本ゴム車輔製作所なのです。其の晩、歸るとき、母親から「ハイ子供達のおみやげ」と云つて、蜜柑を貰いましだ。斯う云うのは何であすが、母は誠に氣のやさしかつた人で,近所の人達からも親しまれ、神様のような人だと言われていました。それが翌日津浪に浚われたのです。どうしても諦め切れません。思い出す度に涙が出て困ります。
司会者 そうでしよう。御察しゝます。
【下段】
浜本助七(故人)
新庄町二五七九番地ノ七(西跡ノ浦)
塩崎幸夫
新庄町二五四〇番地ノ一(西跡ノ浦)
榎本新吉(故人)
新庄町一九八二番地(西名喜里)
出井佐市(故人)
新庄町四三七番地ノニ(橋谷駅前)
浜本喜三次(故人)
新庄町四八四番地(橋谷駅前)
4、発光現象と海鐵砲
【上段】司会者 所で、どなたか「光りもの」は見なかつたでしようか。それから海鉄砲と云うものを聞きませんでしたか。
榎本新吉氏 地震の時、鷹尾山の方向に光りものを見ました。夏の遠稻妻のように感じました。
石橋休八氏 私は海鉄砲を聞きました。パーンと云う昔です。あッ津浪だ!突嗟にこう感じました。あわて出したのはそれからです。
真砂久一氏 私の聞いたのは、ドーンという大きな音で、百米位前方の、野砲の発射の響きに似ていました。
田上茂八氏 あれは、ものすごい波浪と、それから岩床との摩擦によつておこる音です。また同時に電光のスパーク様の光も発します。一つは海鉄砲と云われ、一つは光りものと言うのでしよう。
高井忠平氏 私はゴーツと云う海鳴りを聞きました。そして、一瞬鋭い光がパツと天紳の海や空を染めました。丁度、火事を想像させる様な色でした。
司魯者 高井さん、あなたは何処でそれを見たのです?
高井忠平氏 ひらはいえ行く道でゞす。
司會者 どうしてまた、ひらはいなどへ朝早くから出掛けていたのです。
高井忠平氏 実は、前日ひらはいに繋いで置いた舟を乗り廻して來たかつたからです。四時前に起きたのですが、とても底冷えのする朝でしたので、家を出たものの、一町と歩かないうちに引つ返して来て、袖無しを重ね着した位ですから……。
司會者 もつと詳しく話して呉れませんか。
高井忠平氏 では話しましよう。トンネルをくゞつて瀧内へくだり、浜名さんの前を過ぎ、海の中の石ころ道--今は立派な道路になつていますが、当時は未だ工事中で、海の中に道敷きの岩石だけ並べていました--を六分位行つた時、突然あの地震です。私はびつくりして、つき座りました。まるでモツコーに乗せられて、横振りに揺らるる様です。私はたまらなくなつて腹匐いになりました。それからです。さつき言つた様な海鳴を聞き、光りものを見たのは……。私は、石にしがみついて、ガタガタ震えていました。どの位時間が経つたでしよう。やつと地震がゆり止みました。家の者はどうしているだろう?家に被害は無かつただろうか?揺り直しは来はしないであろうか?こうした心配が、電光のように、心にひらめきました。そして、立ち上るなり、矢庭に引つ返したのです。家を出 る時、室は晴れて、星もまばたいていましたが、其の時は、漆黒の闇だつた様に記憶します。石や木の根に蹲いて、何度も前のめりに倒れかけました。しかし無我夢中でした。家に駈け込むと、釜部屋がくすれ、戸棚がひつくり返り、家の者は、あわてふためいて居りました。私はせきたてて、身仕度をさせ、やつと梵天様の麓の親父の隠居に避難しました。「ようまア舟へ乗つて居なかつたもんやのう」と家内が言つて呉れましたが、もう五分遅そければ、私はひらはいで、小舟に乗つていたかも知れません。さすれは、今晩、こうして皆檬と御話し出來ているやら、どうやら……。恐らくあの世へ行つていたでしよう。
【下段】
石橋休八(故人)
新庄町「九八○番地(西名喜里)
真砂久一(故人)
新庄町二〇一九番地(東名喜里)
高井忠平(故人)
新庄町二五四三番地(西跡ノ浦)
ひらはい…田辺市新庄町三〇二二番地(滝内)
28頁5行目 突嗟→咄嗟
5、地震と津浪の間
【上段】
司会者 たいていの人は、地震に揺り起こされたのでしような。
東光寺さん そうです。しかし揺り起こされて立つたものの、身体の中心がとれなくて、柱につかまつて居りました。便所にお祭りしている、ウスシマ様--鳥須志摩金剛明王--が花筒と一緒にカターンと音して落ちたのを記憶しています。しかし、日頃、地震と云えば、直ぐに津浪を聯想する習慣であつたのに、それ迄、津浪の体験を持たなかつた故でしようか、それとも氣が転倒していた爲めでしようか、其の事とも思いませんでした。
眞砂久一氏 私も同檬でした。しかし器物の落ちる音、壊れる音が物々しいのです。妻は泣く子をあやし乍ら寝台の眞中に坐つて居り、私は夜具の中に居りました。と、其処へ書棚が倒れてきて押えられてしまつたのです。身動きも出來ません。やつと地震が止んだので、長男の久哉を呼んで書棚を持ち上げて貰い,起きる事が出來ました。そして妻も赤ン坊も安全であつたのを見て喜んだ事でした。
司會者 地震から、津浪までの間、どんな事をなさつたか。塩崎さん一つ……。
塩崎幸夫氏 地震に揺り起されると同時に、電燈が消えました。眞暗らがりです、父も母も妹も、素早く身仕度をして家を飛び出しました。私は寝巻のまま、婆さんをやつとこさと抱えて続きました。地震の爲めに足が左右にもつれて、まるで小児麻痺のようです。でも、どうにかこうにか、家の横の田の岸
に逃れ出ました。父は、海を見て來ると云つて、出掛けました。津波!こうした不安が、直ぐに私を虜にしてしまつたのです。それに、地震は止んでいましたが,揺り返えしの来る事をも想像して居りました。全身が震えているのを意識し乍ら……。でも、うんと腹に力を入れて、家へ取つて返しました。
眞ツ暗がりの中で、先ず、帽子掛けから帽子を三つ四つ取つて、頭へ重ねてかぶり、昨夜寝る時、用意して置いた洋服を、引きちぎる様にして小脇にかかえ、手に当つたトランクの内、重い方を二つ提げました。これは、私のと妹のとである事が、提げた感触でわかりました。
田の岸へ出ると、婆さんが塞いと云つています。私は再び引つ返しましたが、何しろ落ち付いてゐると思つていましたが、周章てていたのでしよう、何かに蹴つますいて、いやと云う程、向う脛を打ちました。「痛いツ」と悲鳴を上げて、手捜りしました所、二階の段椅子が倒れています。もう無我夢中です。布團の上の着物を寄せ集め、手に触れた毛布と一緒に、ひつかゝえて、飛び出しました。
所が、さつきから、私は草履ばきであつた事に、氣がつきました。しかも古草履です。これはいけない。靴が無くてはと考えて、又引き返しました。そして、大小の靴を、手で捜し出しました。大きい靴は自分のもの,小さい方は妹のものと云う心算でした。所が小さい靴は、妹のものではなく、私の小學生の頃のものてあつたので、後で大笑いした事でしたが……。
その時分、私は、すつかり落ち付いて居りました。近所の人達も,其の附近で、わいわい言つていました。私は、トランクを開けて,襦袢と袴下を取り出して身につけ、足袋を紙の袋から取り出して新品をはき、服を着ようとしていると,さつきから、海のほとりへ行つていた父が帰つて來て、高井の釜部屋が崩れている、海は静かだと話しているとき、どこかで。「津浪だ1」と叫ぶ聲が聞こえて來たのです。すると、いつの間にやら、近所の人達が、どつと逃げはじめて、せまい田圃道は恐怖に充ちた人の声に埋まつていました。と、私の側で、子供が「わッ」と泣きはじめたのです。見ると、中尾さんの息子の哲夫君です。私は、突哮に叫びました。「中尾さーん、哲夫君は預かつたよう」と。そして哲夫君を小脇にか玉えると、直ぐ皆んなの後に從いました。処が、何分、暗さは暗いし、道は細いし、山が急な爲めに、避難の足取りは、遅々たるものです。「早よう歩るけ、早よう歩かんかい」の声が、前後のひしめきに交つて、ひときわ高く聞かれます。ゴーツと津波の寄せる晋が、段々近ずいて来ます。夢中でしたりそしてやつと、山の高所へ逃れる事が出來ました。
【下段】
東光寺=今西唯乗(故人)
新庄町二六〇九番地(東跡ノ浦)
30頁5行目 ウスシマ→ウスサマ
30頁5行目 鳥須志摩→鳥芻沙摩
31頁9行目 段椅子→段梯子
32頁5行目 突哮→咄嗟
ウスサマ様…鳥芻沙摩明王(ウスサマミョウオウ)の略。不浄を転じて清浄とする徳を有するとされ、寺院等の便所にまつられる。(広辞苑)
6、急げ!!あわてるな
【上段】
山下清左衛門氏 はじめの地震に、喫驚しました。が、何故かしら、次に大きな奴が来るのではないかと、心にかかりました。で、子供や家内の者に、服装を整えさせ、それから、私一人、海を見に行きました。「大丈夫だ、心配する事はない」と、わざと一同を安心させる様に言つて置いて……。所が、潮が遠方で、ザーツと昔がして、ほえ廻つています。直ぐに馳せ帰つて、子供達を横手の山へ避難させ,布團、米其他の物を運び出し、家内と子供と、リレー式に高所へ運ばせました。危急の場合、家族の者を、安心させ、落ちつかせる事が、肝心です。急げ!あわてるなです。隣家の南秀一君が「位牌を出したかア」と,叫んでいるのを聞きつけました。一片の木片に過ぎない竜のをと、笑い捨つべきではありません。先租に封する敬虔な心持を、泌々と感じました。
中井竹吉氏 空襲の苦い経験を甞めた後でありました爲,重要な書類など一とまとめにしていましたので、あわてなくて持ち出す事が出來まtた。今後,地震にでも火事にでも,この経験は非常に尊いと思います。
上田幸吉氏 私は当時部落会長をしていたものですから、一軒々々、「逃げたかあ」と云つて歩きました。その爲に。丸橋の横手まで駈けて行つたとき、アブキに似た汐がどんどんどん差し込んで來て、履いていた長靴が、すつかり水につかりました。
【下段】
中井竹吉(故人)
新庄町二〇二八番地(東名喜里)
上田幸吉(故人)
新庄町四〇五番地(橋谷中字)
山下清左衛門(故人)
新庄町二六九三番地(東跡ノ浦)
7、安政の古家
【上段】
司會者 榎本さん、お宅はどうでした?
榎本断吉氏 私の家は、安政の津浪直後建てたものだ相です。其の後、明治初年に、後へ後へと.二回つぎ足して建てたものだと聞いています。だから、建築後九十年位になる譯です。
何分こうした古家なものですから、地震に対しては、いつも不安を感じていました。当時、新築すべく.材木、板類、硝子、セメント、瓦など、順次買い整えて居りました。所が、あの津浪です。
共の夜、私達夫婦は、三度目に増築した奥の問に、それから,女中代りをして呉れていた利子は表の開に、寝ていました。
私は、地震と同時に飛び起きて,家内と一緒に、庭先の大きな五葉松に、しがみ付きました。五葉松は,すき間もない程枝を張つているので、たとえ屋根瓦が落ちて來ても、安全だと思つたからです。それに、何かにつかまらないと、立つて居られなかつたからでもありました。
そのうち、地震が止んだので、服を取りに内らへ入りました。揺り返えしを心配したからです。所が外で大きな物音がして、嚴しい叫び声が聞こえました。再び庭先に戻つて耳をすましましたが、ひつそりして居て何も聞こえません。兎に角。服を着、家内にも着替えさせ、再び家に入つた時、表の家が崩れている事を、夜目にもハッキリとみとめたのてす。私はピックリして、利子の名をつづけ様に呼びました。てつきり、家の下敷になつているに違いないと、思つたからです。ところが,直ぐに、表の道路の方から、利子の元氣な返事が聞こえて來ました。しかし乍ら,家は崩れているし,暗さは暗し、自分達の位置を示したものの、利子の姿は現われません。家内は,どうしたのでしよりと,切れ切れな言葉で言います。三四分たつてから、裏手から、利子が來ました。家が崩れて裏へ行けないので、山新の横から中芝を通つて、大廻りに廻つて來たとの事でした。
しかし、夫れよりも、道々津浪の話を耳にしたと云うのです。私はハッと安政の津浪り古記録を思い出しました。そして、日頃、津浪が來れば、表の道路を宮ン谷へ逃げようと計画していた事を突さに思い浮ぺたのです。けれ共、表へ出る事が出來ません。嫌でも鷹でも裏へ逃げ出さなければなりません。
裏には橋があります。橋を渡ると育う事は、避けねばならないと、常々考えていたのですのに……。しかし考えている場合ではありません。ゴーツと海鳴りが聞こえるじやありませんか。私共は、互に注意し合い乍ら,裏へ出ました。そして、橋を渡つて山へ登つたのです。
私達と前後して、芝出の甚さん一家が避難して來ました。その時、急行列車の走る様な「シュッシュッシュッ」という音が、下の方でしていました。津浪の音でした。
【下段】
山新=宮本新一郎(故人)家の家号
新庄町一九九四番地(東名喜里)
35頁2行目 突さ→咄嗟
8、老父をうしなう
【上段】
司会者 大戸さん、あなたの場合は?
大戸吉次郎氏 家は当時、索道の本社のかたわらに、在りました。家の敷地と云うのは、昔の塩出の汐遊びを、砂とオガ粉で埋立てたもので,地震と共にそれがめ入り込んで、家が傾き、戸障子が動かなくなりました。で、眞ツ暗らがりの中に、襖や戸を踏破り、戸外にまろぴ出ました。
当時、家族は老父と妻子との八人で、上が尋常六年生,下が常才の赤ン坊でした。で、私は、布團を引つ堕り出して戸外へ投げてやり、家内達を其処へ座らせてから、早速、老父を見に、隠居部屋へ行こうとしました。所が、牛小屋の前を通りかかつた時、牛小屋の傾いているのに氣がつきました。これは危い!揺り返しが來てはと感じたものですから、早速、牛を引き出し、近くの大戸山の畑へ連れて行つて繋ぎました。何しろ、牛も地震におびえていたのでしよう。中々動かなくて、大層時周と年間とをとりました。
帰つて見ると、子供達は、犬の子のように、寄り合つて、ふるえています。氣がつくと、ゴーッと底氣味の悪い海鳴りがします。私はハッキリと、津浪の襲來を直感しました。私は、家の中の大事なものを取り出すよう妻に命じてから、老父の隠居へ駈け付け、襖をけ破つて部屋へ飛び込み「津浪らしい」と一言いつて、老父を外へ運び出しました。すると老父は言うのです。「さきに子供達を避難させよ。わしは後でえゝから」私は其の言葉に從いました。老父は、長い間、中風で寝ていたのです。
家内と子供達を連れて逃ぐる途中、索道会社の事務員の曾根君に出會いました。「曾根君、すまんが親父を頼むツ」「承知ッ」と言う、元氣な声を後に聞きました。私は、やや安神し乍ら、大戸山へ子供達を連れて行きました。
私は、直ぐに引つ返えしましたが、もう駄目でした。と云うのは大戸川へ押し込んで來た津浪が、汐のアブキよりも激しく,傳馬船や木材と一緒に、見る見るうちに道路にあふれて、附近の製材所や民家に突進しています。其処へ,曾根君が、あわてふためいて、流され乍ら来ました。止むを得ず、私共は、命からがら大戸山へ逃れました。「隠居へ行つて見たが、父さんは、居らなかつた」と、曾根君は、一言いつたきりでした。
私は、歯ぎしりして、くやしがりました。曾根君に対する不足ではありません。天にも地にもかえ難い、父を見捨てなければならなかつた自分を、悪魔の様に感じたからです。
司会者 成る程、そうでしたか。御察し致します。
【下段】
大戸吉次郎(故人)
新庄町一三番地ノ七(西橋谷)
36頁10行目 安神→安心
9、津波の第一波
【上段】
司會者 東光寺さん、高い所から見た津波の光景を、一つどうぞ
東光寺さん 何しろ、眞ツ暗で何も見えません。山も海も、いや咫尺を辨ぜずと言う訳です。ゴーツと云う音と,地下の人達の、眞に迫つた声が響いて來るだけです。風は全く凪いで、じんじんとした冷たさが、着物を通して膚に泌み入つて来た事を覚えています。しかし、それも暫くでした。やがて、海邊から「ガタガタ、パリパリ」と云う家の崩れる様な物凄い音です.山の下から、大勢の人の声が、嵐のように聞こえます。そして、たちまち、山内は、修羅場を現出した事です。
平田茂一氏 私は、家を飛び出して、前の濱田の宅へ行き、濱田老人を負つて、宮ン谷へ遁れました。畦を通つてどんどん走つた事を思い出します。翌日、老人を負つて帰りましたが、重いの何のつて、よくまアあの時輕々と負つて走つたものだと思いました。
司會者 よく聞きますね。危急の時、馬鹿力の出たと云う話を……。ついでに、自分の事でなく、人の話で、何か御聞きなつていらるる方はありませんか。
申井竹吉氏 中芝一郎さんでしたか、最初、子供を連れて山幸山へ遁け、次に、米を取りに帰つた所、第一波に襲はれたのだ相です。御承知の様に。名切川は、大戸から廻つて來る汐の眞正面ですから、とても凄かつたでしようし、潮の先きが、丸太を、ゴロゴロ転ろがして來るのですから、たまつたものではありません。しかし,幸にも、丸太の一つにつかまり、押し込まれ、流れ込み、小學校の樟に取りついた相です。樟が、生命の親だつた譯です。三番汐が引いてから樟を降り、丸太や何や彼やを踏み越え飛び越えて、山幸山へ辿りつきましたが、一時、人事不正におち入つていたのだ相です。幸に避難してい九人達が,焚火で温めてくれるやらして、呼吸をふき返えしました。九死に一生を得た訳です。
榎本新吉氏 焚火と言えば、あの時の事を思います。余り冷めたいので、山で焚火をしようと思い立つた時、マツチを持つて来なかつた事に氣がつきました。ほんとうに、がつかりしました。一本のマツチ、これが我々の生活に、どれ程重要な役割を持つものであるかと云う事を泌々と考えさせられました。
橋本武一氏 全くです。マツチと共に、燈火の必要を、あの時位、はつきり分つた事はありません。津浪の前晩、わたしの家では、祖母の一七日の逮夜でしたので、佛壇にローソクの用意がありました。それで、比較的敏捷な行動がとれたのです。どこの御家庭でも、佛壇に灯りの用煮がある訳でしようが,将来に備えて常に佛壇と灯りを聯結させて置くべきだと思います。
【下段】
平田茂一(故人)
新庄町二〇四三番地(東名喜里)
橋本武一(故人)
新庄町四三三番地(東橋谷)
10、月が出た。細い月が……。
司会者 塩崎さん、月が出ていた筈でしたが、あなた見ましたか。
均崎幸夫氏 見ましたとも。廿七日か八日の月で、細い細い上弦の月でした。多分、五時前に出たのでしよう。星も、まばらに輝いていました。しかし、沖の方には黒雲が、わだかまつていました。
司會者 其の後の様子を引きつづいてどうぞ……。
塩崎幸夫氏 二度目の津波が去つた直後、私は、山を下りて家を見に行きました。製材の丸太、其の他の物が、ごつた返していたのは、先き程から、皆さんが仰言つた様に、跡之浦も同様でした。見ると、納屋が倒れています。それに、本屋のあたりで、人の争う声がきこえるのです。走り寄つてみると、浜中良雄君が山崎久吉爺さんを助けようとしているのです。所が、久吉爺さん、小さな行李を後生大事に抱えている。濱中君は、それを捨てて負われよと背中を向けている。これは大切な物だから捨てられないと言う。そんな物を提げていては駄目だと云う。段々声高になつている事がわかりました。で、私は、早速久吉爺きんの行李を受け取つて、山の下まで運び、力一ツ杯、それを山へほうり上げました。浜中君は,久吉爺さんを負うたものの、思う様に歩けません。それは、道が、海泥に埋まつている爲のです。私は、矢庭に、浜中君の腕に手を掛けて応援しました。「早よう登つてこうい、又来たぞう」と云う、山の上の声をききながら……。
11、津浪の第三波
【上段】
司會者 夜が白々と明ける頃、第三波が押し寄せましたが、其の光景を。
東光寺さん 第三波が、一番高かつたと云いますが、寺の位置では碓認出來ませんでした。ただ遠望の景色だけが、頭に残つています。それは、文里から流れて來る、船や、材木や、其他いろいろの漂流物が同じ速さで、流れて行きます。それに、跡之浦から出てゆく物が、それに合流します。それが、後から、後からとつづきます。「あれ!あすこの家が流れる」「あれ!造船所の舟が流れる」私の周囲は斯うした声で一杯です。そのうち、流れが止まります。暫らくすると、次の津波が、盛り返えしてきます。色々な漂流物が、再た帰りはじめます。同じ間隔です。同じ速さです。実際は、汐の力が、段々衰えて行つている筈ですが、寺から見ていると,文里からのものは文里へ、跡之浦からのものは跡之浦へ、押し返えされる様にみえるのです。
私は、不圖、映画に映して置けばいいがと思いました。後の語り草になるからです。けれども、次々と断続する地震にギヨツとさせられて、いつまでもこんな考にひたつて居る事は出来ませんでした。
福島悛平氏 その頃、私は東谷から勢ケ谷の山え登り、大勢の入達の避難している所へ行きました。文里湾内の汐の引き様は物凄く、木材は逆落しになつて、家、工場の屋根、其他の流失物の中に、荒れ廻つていました。そして、文里湾の深い所、中央です、其処が干上つて仕舞つた様に見えました。
大戸吉次郎氏 行李が流れて行く、長持が流れる、盥も浮んでいる、電柱が倒れて電線が丸太にからみついて、ゴロンゴロンとまくれる。太い丸太が沢山もみくちやにされて、立ち上るのがあるかと思うと眞中からポキンと折れる。何しろ、底からでんぐり返えして來る浪ですから、とても、たまつたものではありません。
【下段】
福島俊平(故人)
新庄町一六ニ番地(橋谷中の谷)
40頁12行目 勢ヶ谷→千賀谷
12、九死に一生
【上段】
司會者 大戸さん、索道曾社の重役の小畑さんの遭難状況は、御存知ありませんか。
大戸吉次郎氏 聞いて居ります。小畑さん夫婦は、最初、私の家の屋根にしがみついたまま、家と共に流された相です。それが一旦文里え行き、次の津浪に押し戻されたものの、瓦屋根の事ですから、段々沈んで行きますので、思い余つて、大きな木材に飛び移り、命拾いをしたとかでした。奥さんも同様にして助かりました。当時、螢林署の土場に太い官材が夥しく積んでありました。大きな物で、風呂桶の廻り位あつたでしよう。小畑さん夫婦の、命拾いしたのは、恐らく、それではなかつたかと思います。
はじめ、小畑さんは、曾根社員に向つて「会社を見捨てて避難するとは、以ての外だ」と、叱責し、「津浪なんて來えへん、あわてなさんな、あわてなさんな」と、云つた相です。これは、多分、あの時のどさくさに紛れて来るであろう、泥棒に、用心して居たのじやないでしようか。それが、二階から下りて、事務所を出て、其庭らを見廻つている時、津浪に襲われたものらしいのです。行きも戻りもならず、すぶ濡れに濡れて、私の家の屋根に登つたものでしよう。しかし、よくまア、命拾いされ九ものです。あの方は、何んでも、大阪の方でした。津浪なんて、思いもしなかつたのでしよう。
野中勘助氏 只々、一途に、佛にすがると云う心持を、痛切に感じたのは、あの津浪の時です。私が、家内をつれて、家を出ようとすると、表の硝子戸が「めりめり」と破れて、汐が「ざアーツ」と来たのです。私のポヶツトには、流してわならない,佛壇の位牌が入つているだけ…。私は、家内と一緒に,直ぐに座敷へ駈け上りました。浪は、勢い鋭く,足に腹に胸に、それが段々と力を減じて、遂に首にまできました。第一波は、幸にして、首まででした。家は、新築中で、造作はまた完全でありません。上へ登り度いと思つたが、梯子がありません。だから、第一波が引くまで、じつと我慢するより外、術がなかつた訳です。所が、汐が引いてから、私は、喫驚しました。私と家内とが並んで、ひつくり返つている火鉢に乗つかつて居るじやありませんか。しかも其れは,昨夜まで、表の格予の側にあつたものです。それが、私より先きに,波に寄せられていたのでしよう。そして不思議にも、私達を乗せていたのです。若しもあの長火鉢が無かつたとしたら、私達は当然沈んでしまつたに違いありません。何しろ首まで汐がきていたのですから……。私は,そつと、ポケットに手を入れて,位牌を探ぐりました。慥かにあります。そして、佛の冥助という事を、泌々、心に繰り返えしました。
司会者 それから、どうなさいました?
野中勘助氏 高足を探して来て二階へ上り、やつとこさで、妻を引き上げ、スバルの壁を手で破りました。その時、もう夜が明けていました。その後、私共は家から遁げ出しましたが、途中、一度は、浜田の勘さんの二階へ逃れ、一度は驛のブラツトホームに立ち往生をし、最後に、驛と廣田先生の家の間にかかつていた、倉谷製材の屋根を傳つて,逃げ終せました。自分の建てた家で死ぬなら本望やと、一時は覚悟も致しましたが、お蔭様で、九死に一生を得た訳です。途中、畑中さんの二階から、伜が手を振つているのを見て、あれも助かつたかと思うと、嬉し涙が出て來るのをどうする事も出来ませんでした。
【下段】
紀南索道会社…新庄町四二二七番地(橋谷)
野中勘助(故人)
新庄町四九三番地(名喜里西新田)
13、悲しき人々
【上段】
司會者 浜本さん、お母さんは、どうして遭難されましたか。
浜本喜三次氏 私は、分家しているものですから、遭難の現場に居たのではありません。と云つて、本家の兄等を責める心もありません。兄も兄嫁も、大勢の子供を蓮れて、やつと逃れ、母は、私の妹--當時廿三才--と一緒に逃げて、一緒に遭難したのですから……。其の朝、漸く東が白みかけて來た時、私はひよつこり兄と顔を合せたのです。
「母さんと妹が見えんのや」と兄、「見えん?」と私
そして直ぐに、不吉な予感に襲われました。
「一足先きに家を飛び出したのやが」と兄、「猪の谷に行つているんやなかろうか」と私、そして、四辺を見廻しました。
其処は、一本松の地藏様の山か、沢山の避難者が、其処此処で、焚火をしていました。
私は、津浪の合い間を利用して山を下り、一氣に、猪の谷へ駈け着けました。其処は、若干高い所であつたので、目の下までの津浪が、其の屋敷を避けて居りました。
申し遅れましたが、猪の谷は,私の親類なのてす。
所が、二人共、其処には来ていないのです。猪の谷の人達も、大層、心配して呉れました。けれ共、津浪の差し引きを見て居りますと、手も足も出ません。兎に角、御飯でも食べてと云つて、膳をこしらえて呉れたので、箸をとりましたが、飯が喉を越しません。そのうちに、やつと夜が明け離れ、潮も段々小さくなりました。
私は、兄の家に駈け付けました。所が川べりの家が全部流れて、街道を隔てた小谷の家も流れ、その跡に、兄の家の二階だけが、つき座つています。無論、その辺りは、材木やら何やら彼やら、積み重なり、ひつくり返つて、足の持つて行き処もありません。私は、其れ等の間に、不圖、車輪のタイヤを一本見つけました。職業意識がふと動いて,其れを拾いました。すると、畑中さんの二階で、話し声が聞こえます。畑中さんは、遁げ後れて、裏の座敷の二階に居たのです。私は、早速、声をかけました。母と妹は、屹度、あの二階に助け上げられているに違ひないと感じ乍ら……。
すると、畑中さんは、直ぐ二階から顔を出して呉れましだ。そして言うのです。
「やつて、おまはんとこの婆さんなア」私はヒャツと感じました、「娘さんと一緒に、薪さんとこの蜜柑の木に、抱きついていたが、三番の潮に流れたよう」。私は、持つていたタイヤが手を離れたのに、氣が付かなかつた程、力を落して仕舞いました。
新さんとこの蜜柑の木?
新さんと云うのは、街道を隔てた小谷さんの主人の名で,蜜柑の木というのは、畑中さんの本屋と離室をつなぐ渡り廊下の窓の外にある、高さ二間半ばかりのものでありました。私は、それを、目で捜しました。けれ共、見当りません。私は、漂流物の間をくぐり抜け、踏み越えて、其処と畳しい所へ行きました。と、蜜柑の木が、根こそぎ倒れている横手に、其の枝に手を伸べて、仰のけに倒れている母を、見つけました。私は、ハツと、立ちすくみました。次の瞬闇、むくろに取りすがつて、よ」と泣きくすれました。
其の日,私の母の里の母、つまり私の祖母も、津浪の犠牲になりました。祖母は、安政の津浪の日に生れたのでしたが、今度の津浪に亡くなりました。其の子の私の母と、其の孫の私の妹と、同じ運命に置かれたのです。何の因縁でしよう。
司會者 ついでに、妹さんの事を、お話し願えますまいか。
浜本喜三次氏 妹も蜜柑の木に、つかまつて居た様でした。「助けてヱー」と悲しい声で,叫んでいた相です。すると、畑中さんは、其の声を聞きつけて、「まア心棒しよし、まアまア心棒しよし」と返事をして呉れた相です。これは、畑中さんの二階へ逃けて行つた人から聞いたのです。若し,あの渡り廊下の窓が開いていさえしたら、助かつたのではなかろうかと,考えます。尤も、これは、畑中さん其他の人達に対する不足ではありません。あの時、畑中さんも,奥様と二入の娘さんを、亡くしていたのですから、きつと、それ処では、なかつたのでしよう。
其の後、数日、私共は、鳶口をもつて、あちらこちらと、捜し廻りました。ほど経て、跡之浦の外ごをらに流れ寄つていると,知らせて呉れました。早速、駈けつけましたが、髪はすつかり抜け、腹はふくれて見違えるばかりです。しかし、足袋のカバーによつて、まぎれもない妹だと、はつきり見定めがつきました。
身寄りの者が来ると、鼻血を出すものだと、兼々聞いて居りましたが、本当の事です。鼻血が出ました。しかし、變り果てた姿を見て、涙も出ませんでした。
司會者 御察し致します。所で、谷口西恵さんの遭難状況をどなたか御存知ありませんか。
大戸吉次郎氏 これは,曾根君の話ですが、谷口さんは、子供を負つて、一旦家を出たけれど、又家へ戻つた相です。何か、取りに帰つたのでしよう。それは、曾根君が、私の父を捜して見たが見つからないので、諦めて出て来た時だつたと云つていました。
所が、津浪です。曾根君は、突嗟にかけ出すと、後から、谷口さんの声が追いかけて來た相です。
「妾は索道の支庄に登ります一と。
曾根君は、やつと大戸山へ逃れてから、索道の支柱の方向を見て居りました,すると懐中電燈が二回三回明滅するのを見た相です。しかしそれ切りでした。夜が明けてみると、あの頑丈だつた支柱が見當りません。
子供さんの死体は上りましたが、西恵さんは、今に行方不明です。可愛想な事です。
【下段】
45頁16行目 心棒→辛棒
46頁15行目 突嗟→咄嗟
14、村長さんの屋敷
【上段】
司會者 村長さん、あなたのお宅は、どうでした。
村長 お蔭様で、高い庭であるのと、地盤が堅いのとで、大した被害はありませんでした。
あすこは山の端で、鉄道開通の醐、南北に断ち割られて、独立丘阜の形になつた処です。所か、南側の坂の石垣に、波が押し寄せて壊れて居はしまいかと、心配して居りました。あすこが崩れると、家が危いのです。けれども、石崖が嚴丈で、どこも傷んでいませんでした。
私が、山を下りて、家へ帰つたのは、夜が次第に明け離れた時でしたから、第四回目でしたろう,又もや津浪が押し寄せました。前より小さかつた様です。同時に津浪のよせ方が、判つた様な氣がして來ました。
何と云いますか、文里湾は袋の形とでもいいますか、入口が狭く、中が廣く、つき當りに、杉若製材、索道会社、日東、第一の製材会耐、それに波止場、造船會社などが並んでいて、其処が袋の底に當ります。そこで津浪は、狭い入口から押し入り、西岸から北岸を廻り、東岸を洗つて帰るという風に、思えるのです。無論,小さな港の事ですから、はつきりと、左様なコースを辿るものとは言い切れますまいが、津浪の力の強弱には、キツト此の法則が適用されるのではなかろうかと感じたのです。そこで、私の家は、港の北に当つて居り、分けて東西に谷をひかえている関係上、ここでは、潮がたたえて、力がぐつと減つて居る事を知つたのです。それや,これやで、被害が少なかつたのではなかろうかと考えています。
【下段】
村長=南平七(故人)
新庄町六番地(西橋谷)
47頁10行目 嚴丈→頑丈
15、美談一つ二つ
【上段】
司會者 瀬田さん、安政の津浪には、お宅邊りまで、千石舟が流れ寄つたと聞いていますが、今度の津浪には、お宅は勿論の事、北長字は、殆んど被害はなかつた訳ですな。
瀬田政吉氏 そうです。全く有り難い事でした。しかし、村内は、一家と同様です。心安い先が多く、親類も亦多い事です。潮が小さくなつてから、あちらこちらと訪ね歩るきました。また村會議員でもありましたから、役場に出掛けました。そして、罹災者救援の爲めに、炊出しをはじめたのです。指揮は、字長の北山平吉氏が取つて呉れました。第一回の炊出しを役場へ持つて行つたのは、十時頃でありましたろう。その後、北長字から、金参千円也を、村の復興資金として寄附させて頂きました。
山下清左衛門氏 濱本助七君は、当時、跡之浦の字長でしたが、自分の家が遭難しているに係らず、よく字の爲めに盡して呉れました。最初の炊出しに、米を一俵出して呉れたのは、濱本さんです。それもどうやら、寄附になうて仕舞つた様です。村の炊出しの勘定の時、申し出すればよかつたと思います。
が,あの方としては、最初から、寄附の心算であつたのでしよう。
司會者 陰徳とでも申しますか、常日頃の濱本さんの氣質が、よくわかります。尊いことです。
【下段】
瀬田政吉(故人)
新庄町一一〇三番地(長井谷)
48頁14行目 係らず→拘らず
16、警防團の活躍
【上段】
司會者 福島さん、あなたは当時警防團の團長を勤めていましたね。
福島俊平氏 私が團長で、山本徳平さんが副でした。所が、其の日から、山本さんは、役場の仕事が急に増えて來て、とても副は勤まり兼ねると申しますし,警防團の活動も、警察に協力して,積極的にやらねばならないので、止むを得す、山本保一郎さんに副をお願いして、仕事にかかつた事でした。
話は前後しまふ,が、私が家を出て、役場へ出掛けたのは、津浪の勢の衰えた、九時過ぎでした。途中,消防機具の第二格納車--現在倉谷製材所の店舗--へ來て見ると、流失してしまつて、跡方もありません。それに、近くには、七八十屯の機帆船が我者顔に道を塞いで、附近は、材木其他で、全く阿修羅道です。無論,半鐘台もなければ半鐘も見えません。アツケに取られて、四邊を見廻していると、程遠からぬ所、木材に埋すもれて、ひつくり返つているボンプを、見付けました。しかし、器具類は、一つも見當りません。これは、後になつて発見したのですが,半鐘は谷中さんの裏にあり、ホース等は、学校の横の田や、駅の附近に、泥に埋もれ、泥まみれになつて、散乱していました。
第一格納庫は、駐在所の西隣りですが、其処は,半壊程度で、ポンプは元の位置に、ただ器具ホースの大部分は、山庄さんの裏手に流れていました。
さて又、波止場から役場へ行く道ですが、色々な障害物の爲めに、とても困難でした。船の底をくぐつたり、屋根の上を越え九り、木材を飛んで渡る始末でした。
役場は、階下の事務室は、散々でした。二階へ上ると、中島悦藏元村長、内海村長代理助役と、収入役の山本徳平さんと、外に三四人、ぼかんとしていました。私は「えらい事でしたな」と,挨拶しただけで、言葉が続きませんでした。
午過ぎに、田辺警察署から,岡山警部とそれから巡査が五六人見えました。早速駐在所と巡査部長と内海助役と私達が、色々協議の結巣、取り敢えす、救護本部を,新庄駅に設ける事にしました。
以来、年末まで、各地の警防團、青年團、処女会等の方々が、毎日,七八十人位づつ応援に来て下さいました。道路の取り片付けは男の方、各戸の応援は女の方でした。農業会販賞部の布類其の他配給品の洗濯等、田辺市の會津川まで運んで行つて、やつて呉れました。
司会者 死体の牧容など、警防團でやつていたと思いますが。
福島俊平氏 そうです。村民に協力し、或は主となつてやりました。死体は、日に三四体は上りました。村内居佳者の死体は、発見次第処理されましたが、田邊市文里の援護局のものは、引取人が直ぐに来ないため,一時、宮の脇の避病舎へ並べて置きました。其の後,進駐軍の注意によつて、稻妻墓地へ仮埋葬致しましたが、四年後の今日、尚お引取人の現はれないのが、三四体ある筈です。恐らく、一家全員、遭難された方でしょう。
それにしても、墓地を掘り返えして、遺族に死体を引き渡す事は、仮埋葬する事以上に、心をいためつけられました。こんな事もありました。それは、四五才位の、いたいけな子供でしたが、死体が裸身のため、判別の材料を残すことが出来す、そのまゝ葬つて置いたのでしたが、二日程経つてから、三十七八身位の男の方が、見えました。で、こちらから色々と、埋葬した死体の特徴とか、背格恰とかを話したところ、其のうち其の子供はどうも伜の様な氣がするというので、墓地へ案内しました。日はもう傾いていて、途中、私達警防團員三人と,其の人の影が、長く野面に爲つて、黙々と、歩いて行つた事を畳えています。やがて、墓地に着いた私達は、一鍬々々と掘り返えしはじめました。「トーントーン」と云う響が室ろの声のように、私の心をゆさぶります。やがて、棺の蓋が見えましたので、夫を取りはすしました。死人は、うつむいていました。そつと手で顔を上向かせました。水脹れに脹れて、しかも既に眞つ黒になつていて、埋葬の時とは一段と変つています。しばらく見つめていた男は「わツ」と泣き出しました。そして、ひざまつくとその死体に手を掛けて、よよと泣き沈むのです。私達三人も、思わず貰い泣き致しました。日は沈んでいました。四邊は静寂としていτ、六地藏の邊りには暮色が迫つていました。明日の引取りを約して、其の男は、しをしおと帰つて行きました。
司會者 當時、泥棒があつた様ですが。
福島俊平氏 たしか、山幸さんへ入つた男でしたが、一人捕えました。津浪の当日だつたので、駅の本部へ蓮れて行つたのを覚えています。
以来、毎晩巡回しました。主として、橋谷、名切方面で、跡の浦、内の浦は、其の地の青年諸君が担当して呉れました。
何しろ、人手不足の爲めに、相當苦労しました。津浪の直後四五日は、團員の集合する者が少く、わけて昼間は、寂りようようでした。しかし夜間は十四五人ありました。これが三人一組となり、警官一人が之に加つて、巡回しました。昼間は家の片付けに忙殺され、夜間警備に当るという、各員の熱心さでありました。どの位感謝していいか,言葉がありません。
【下段】
49頁9行目 格納車→格納庫
50頁2行目 飛んで→跳んで
17、津浪直後の人々
【上段】
司会者 當時、避難の人達は、どこへ収容したのでしたか。
内海豊一氏 はじめは、山で火を焚いて明かし、次に、罹災家屋、又は村内の寺、学校、天理教會、津浪をまぬがれた高所の家の厄介になり、其の後、進駐軍の注意もあり、傳染病の発生を未然に防ぐために罹災家屋での寝泊りを禁止せられたものですから、田辺市の天理教會や、親類の家に牧容されました。
司會者 お宮の下、跡之浦、内の浦に、簡易佳宅が出來ましたね。
内海豊一氏 あれは、すつと後でした。元兵舎であつた、神子浜の新浜寮に罹災の方々を牧容し、其の後、各字別に簡易佳宅五十戸を建設した譯です。縣の方針としては、一ケ所へ建てよとの事てありましたが、そうは参りません。土地の方々の要望に從い、分散建築を強行した訳です。
東光寺さん 當時は、避難の人々で、本堂も座数も一杯でした。然し、寺で炊事された方は,十人位でしたろう。大抵の人達は家に帰って食事をし、或は炊出しを受け、後片付けに日を暮らしたのでしょう。中には、漬物を拾って来たり、甘藷を拾って来て焼いたりする物もありました。此等の人達も、旧正月の頃には、夫々山を下つて行きました。
福島俊平氏 私の家にも、一時は五十人計り見えていました.夜など、座敷は勿論の事、納屋も土間も、人でぎつしり一杯でした。
【下段】
内海豊一(故人)
新庄町四三七ノ二三番地(橋谷波止場)
18、流失物の処理は?
【上段】
司會者 各字では、流失物拾得者に封する紛争はなかつたですか、それとも、拾えば拾い得と云う訳でしたか。
榎本新吉氏 どうも、うまく行つていなかつたのじやないかと思います。何しろ、すつかり建築材料を流して仕舞つたし、家が潰れているので直ぐに建築に掛らねばならないしするので、其処らに堆積しているものの中から、自家の物を選り出し始めました。所か、永井清太郎さんが大声を出して、いづれ対策委員が見えて仕分けて呉れるから、銘々勝手に拾つてはいかんと、布れて來たのです。これはいい事だと考えたので捜す事を中止しました。処が、三日経つても四日経つても、其の事がない。そのうち、遠方へ流れて行つたものは、殆ど帰つて來ませんでした。其の後、木材だけは、各製材所から大勢の人夫が來て、刻印やマークによつて仕分けられ、夫々運び去られました。要するに、拾い後れた者、つまり正直者が損をしたと云う訳でしよう。警察の手も届かかなつたのでしようが、何とかすればよかつたにと、思います。或は最寄り最寄りに集積して、其の持ち主に還すと云う方法も、あつたであろうにとも考えます。
司會者 安政の津浪の時、田邊蒲では、漂流物を一所に集め、既に拾つている者にも差し出させて、一般の観覧に供し、然る後銘々其の処を得さしたと云う事ですが……。
榎本新吉氏 内の浦も、それに似た方法で処理したとか聞きました。
田上茂八氏 流失物の処理については、昔は、至つて道徳的で、自分の物でも、勝手に手を触れなかつた相です。津浪後、すぐに縄張りをして立ち入る事を禁じ、その後、名主とか庄屋とかのはからいで、秩序正しく持ち帰らせたとも聞きました。
福島俊平氏 家其調度布團その他何でも、名前とか家号とかを入れて置く事です。津浪の後、よく喧嘩を見掛けましたが、それは大抵、一つの物に二人の所有者が現われた時でした。それから箪笥長持には。日頃、錠を下ろしておく事です。箪笥は、潮につかると、中々抽出はひき出せないものですが、夫れが、中味が空ツポだと云うのもありました。
【下段】
53頁12行目 布れて→触れて
19、津浪後の偶感
【上段】
浜名恒治氏 私として、どうしても、低地から高所へ、住居を移す様にしたいと考えています。けれ共、人間と云うものは、総じて、元の棲家を捨て度くはありません。私も同様です。敷石まで流れて仕舞つたと云ふのならまた格別ですが、そうでもなかつたものですから……。この、移り度いと、移り度くないの二つの感情に迷い乍ら。いつの間にやら、元の屋敷に住う様になりました。しかし二男三男の分家には、たとえ二尺でも、三尺でも、高い所へ、屋敷を構えてやり度いと思つています。
野中勘助氏 また部落々々へ避難道路を作つて置く必要がありましよう。それが叉、産業道路になれば此の上もありません。
南村長 災害救助法による避難指標を、部落の要所々々へ建てましよう。それから、例の水門ですが、水門は、流れの奥の水を抱える処が、長くて、廣くて、且つ完全でなければ、効果は少い。これに関して、地方事務所の耕地課では、設計をやり直して完全なものにすべきだとの議もあります。
【下段】
浜名恒治(故人)
新庄町二九二〇番地(滝内)
20、防潮施設私見
【上段】
司會者 坂本さん、何か御意見はございませんか。
坂太菊松氏 私は、追放以来,何を申すにも謹慎しなければなりませんので、意見の発表は、遠慮させて頂き度いと思いますが、過去に於ける私の計画,それも、私自身の跡之浦に対する私見の一つを、御話しいたしましよう。當時、思い切つて、実現して居たら、今回の津浪にも、防溝の役目を果したろうにと、残念に思うからです。夫は、こうです。津浪封策としては、個人の家はコンクリートの塀、村としては築堤計画、叉、密植したる松の防潮林を設ける等、色々ありましよう。湯淺の廣村は、濱口梧陸翁の防波堤と防潮林によつて、今回の災害を最小限度じ食い止めたと云うので、今更ら乍ら,偉人の達識を、敬仰していると聞いて居ります。私も、村長当時、一私人として、跡之浦の防潮を考え、之を計画し、縣廳へ具申し、將に実行に移さんとした事がありました。あの時、遲疑しなかつたらと、今更ら残念に思います。当時の計画は、跡の浦の西の濱から大岩迄海の中を一直線に築堤し、その上に松を植え、内側に養魚場と干拓田を作る計画でした。つまり、一石二鳥の案だつたのです。これが、土は、先ずどの坂を切り下げ、清水谷から蓮ぴ、清水谷に堤を設けて池を作り、跡の浦灌概用水にする心算でした。当時、縣の経済部長は加藤氏であつて、副知事と云われた貫録のある方でしたが、私の説に大いに賛成して呉れ、秘書課長、耕地整理課長を隋伴して、和歌山から、自動車を飛ばして来られ、現地を視察して昊れると云う。熱心さでありました。そして、耕地整理課の技師は、一週間以上、私の家に滞在して、実測されました。私は、縣の補助と、字民の出資によつて、之を完成し、出資者に対しては、干拓田を分護する方策でありました。無論、字民の重だつた人達の賛成を得、私も私財一万円を寄附する覚悟を、きめていました。処が、好事魔多しと申しますが、私が日夜苦慮していた爲め、遂々病氣になつて仕舞つたのです。それに、経濟部長も「君の計画はいいが、差し迫つてやらなければならぬ事でもなし、何とかもう一度考え直してはどうか、君の身体が続かないじやないか」と言つて呉れるものですから、不本意乍ら、中断
せざるを得なかつたのでした。今から考えると、惜しい事をしたと、思います。
司会者 まことに、いい話を、聞かせて頂きました。津浪當時,私は、文里の防潮施設の一つとして。丈里の外側に防潮堤を作り、松を植え、荒磯に石とコンクリートの堤を築き、文里の口を出来るだけ狭くすべきだと考えたりしました。
榎本新吉氏 坂本さんの御話と、あなたの御意見は、必ずや、明日の参考となるでしよう。
榎本傳治氏 私もそう考えます。それにしても,安政の津浪の時、其の立ち直りの遅々としていたのに比較すると、今回の災害に封する、村民の復興意慾の旺盛さに、驚嘆致します。
司會者 戦後のインフレの波が、農工商の間に、澎湃として、張り渡つた故ではないでしようか。
榎本傳治氏 そうだろうと思います。それに加うるに、勤倹力行の風が、多々釜々盛んになつた故でしよう。
司会者 農家の子弟は申すに及ばず、仲仕にしろ工員にしろ、立派な方々が、黙々と働いている姿を見ると、自然と頭が下がります。それは、それとして、お宅などには、書類保存上、非常袋などの御用意は、常におありでしよう。
榎本傳治氏 前には、非常用として、証書類其他の重要なものに夫々箱を作り、背負い紐をつけて、用意して居りましたが、ずつと以前、鉄筋コンクリートの金庫式の倉を建てて其れへ入れる事にして居ります。内経一丈一尺に八尺、高さ七尺位ありましようか、不完全なものですが……。
【下段】
坂本菊松(故人)
新庄町二六二四番地(東跡ノ浦)
21、復興へ!再建へ!
司会者 どうも、色々御話し下さつて有難う存じます。最後に,濱本さん、あなたの復興への心構えをお話し下さいませんか。あなたは、新庄では、最大の被害と不幸に遭い、夫れが叉、早々に家を建築なされた様に記憶しますが……。
濱本喜三次氏 何しろ、流失した家の跡には、フイゴと金トコだけしか残つて居なかつた様な始末でしたから、すつかり力を落してしまつて、一時は途方に暮れましたが、有り難い事には、皆が力を貸して呉れました。第一に親戚の者が金を廻して呉れました。つづいて取引先の商人達は元通り頭を上げて貰い度いと言つて呉れて、品物を貸してくれました。それに,多くの人達の情によつて更生した譯です。有り難い事でした。恐らく新庄の人達の誰もが体験した事でしよう。慾のない者はありませんが、常日頃、強慾は一番いけないと思います。誰にも可愛がられる様にしなければいけません。人の情を泌々感じます。同時に、この御恩返しをしなければと、常に心掛けています。情は人の爲めならずと、身につまされて感じます。
司會者 これで、座談会を終り度いと存じます。長時間、色々御話し下つて、有り難うございました。
四、津浪の現實(其の二)
十一月四日の夜、内の浦の第二小学校に於て、校長神田秀一先生の肝入りで、福島右衛門氏司会の下に当時の現況を偲ぶべく、座談會を催した。当夜の出席者は、左記四氏であつた。
元助役中島久一氏、PTA會長浜名豊一氏、並びに森村庄一郎氏、田村貞雄氏
1、司會者の挨拶
南海道大地震津浪の座談會について、斯うして第二小學校に集り,客観的な氣持で、夜の卓を團んで居りますが、四年前の十二月二十一日の早曉、繰り展げられたあの惨害を思いますと、ぞつとして、よくまア苦難に耐え、再起し得たものと、考えさせられる事です。
しかし乍ら、過ぎ行く月日と共に、我等の記憶が、霞の彼方に隔てられ、それがまた、我等の子孫の代ともなれば、或は遠い昔話として爐邊の閑話の一くさりとなるか、それ共忘れられて仕舞うかと考えますと、じつとしては居れない程の焦燥を感じます。何故なら「天災は忘れた頃にやつて來る」と物理學の泰斗、故寺田寅彦先生が仰言つた様に、六十年乃至百年の後には、再びあの災害が繰りひろげられるるのではなかろうかと心配するからです。或は將来、地震學が進歩し、確たる予知が出來るものと仮定致しましても、どうして天變地異に抗し得ましよう。又、災害をどの程度まで食い止め得るか、誠に疑問とする処です。分けて、現在やつと海岸道路を整備し、耕地の大部分を復旧したばかり、將來の津浪について、何の施設も出来て居りません。仮りに内の浦湾口に、白浜観光道路が開設せられまして、それが築堤の形をなすと致しましても、これとても、津浪を避くる絶対的防波堤と云う譯には参りますまい。同時に、我々の研究すべき事、実地に行うべき施設について我々日々の生活の便不便を考慮し、或は村財政の現況より考えまして、しかく軍純に実行出来難い部面にばかり逢着して居ります。でも何とかして、子孫の爲めに之を仕遂げなければならない事は、お互い、夢寐にも忘れてならない事です。幸い皆さんの叡智に依つてこれを成し就げて頂き度いと念じて居ります。
就きましては、本年は、津浪以来まる四年目、お寺様流に言えば五週年に相当致しますので、差し当り當時の惨状を回顧し、これを公民舘報に発表し、津浪に関する思い出を新らたにし、村民諸君の意慾に油を注ぎ度いものと、念願して居ります。
司会は下手でありますが、皆様の談話に依つて、この小さな集いが、成功致しますよう、何分宜数く御願い致します。
2、津浪の前兆
【上段】
司會者 あの當時、津浪の前兆とでも言つた風な事はありませんでしたか。
浜名豊一氏 前日でありましたか、私は、艦砲射撃のような音を聞きましたが、今に不思議に思つています
中島久一氏 「ドロドロ」と云う激しい音を耳にしました。別に氣にも止めなかつたのでしたが、あれ
が前兆じやなかつたかしらと、考えます。
森村庄一郎氏 私は地震の直前「ドーン」と底響きのする音を聞きつけました。寝間に居て、一瞬、不思議に思つた事でした。
司會者 よく言わるゝ海鉄砲と云うものですかな。ところが、発光現象を認とめられた方はありませんか。あれについては、送電線のスパークだと云う地震学者もありますが、地震中、又は地震後に見た人がありとしますれば、既に停電後の事でありますので、これは今後の研究に待たねばならないと思いますが。
中島久一氏 地震に揺り起こされて、危い足取りで家を飛び出した時、天神崎と瀬戸崎の間の海上に、鈍い光が射して、空が赤く染まつた事を記憶しています
森村庄一郎氏 當時、復員兵から、聞いた話ですが、その人は、津浪の当日、潮岬沖を船で通つていたのだ相ですが、爆雷に似た様な大きなショツクを、船に感じたばかりでなく、空が輝いて,四國の山が眼に映つたと言います。
【下段】
浜名豊一(故人)
新庄町三二二八番地(内ノ浦)
中嶋久一(故人)
新庄町三四九〇番地(内ノ浦)
森村庄一郎(故人)
新庄町三四三六番地(内ノ浦)
3、津浪に追われて
【上段】
司会者 地震に飛び出しては危険だ、瓦などが落ちて来て、思わぬ怪我をするなど言われますが、あの時、皆様は、そうお考えにならなかつたですか。
濱名豊一氏 全くの処、怯え切つていました。わけて家内は、朝来生れで、飛び出しては危いと考えていたのでしよう、子供と一緒に布團を引つかぶつていました。しかし、私の頭に、電光のように、津浪の予感がひらめきましたので、早速、内らに居ては危い、身仕度をして戸外へ出ようと、せき立てました。
司會者 田村さんは、どうでしたか。
田村貞雄氏 実は、田邊の酒造会社へ、杜氏に行つて居りました。
司会者 では、其の日どうしましたか?
田村貞雄氏 地震の直後、家が氣になりますので、身仕度もそこそこに、杜氏仲間と一緒に、会社を出ました。町は,電燈が消えて、眞ツ暗らです。しかし、大勢の人達は、銘々の家を飛び出して、口々にしやべり合つていました。恐らく地震の愕きについてでしたろう。つぶり山の峠を一氣に駈け下ると、其の附近の田の中に、木材が流れ込んで散乱しているのと、藁塚が四五本流れ寄つているのが、闇の中に、それと見出しました。馬が一頭、道の眞ン中につっ立つていて、私共を吃驚させました。津浪がひくのでありましよう、物凄い流れの音が、色々複雑な物音と重なつていました。私達は、一散に街道を駈けました。無我夢中でしたが、無謀にも、津浪の引き潮を追つて突進していたのです。それは、縣道と村道の分岐点へ來た時,盛り返えして來た津浪を足許に感じた時、ハツト氣がついた訳です。
私共は、ビツクリしてつっ立ち止りました。所が、今更ら、来た道を引つ返えした所で、到底逃げおうする事は出来ません。そして突嗟に身を翻えして麦畑へ飛び込みました。鉄道線路まで二十米、そして其の後が山です。闇の中に、それと認められます。けれ共、畑の中は、さき程の津浪が持つて来たらしい泥でぬかるみ、それに物が散乱していて、其れにつまついたり、滑つたり、倒れ相になつたり、「ゴーツ」と云う波の咆哮に魂も身に添わす、ただただ一散に駈け上つて、ホツト呼吸づきました。けれ共、暗さは暗し、浪の穗は見えず、ただ物凄い音ばかりです方ら、呼吸ついたとは言うものの、顧慮するいとまとてありません。で,そのまま、岩山の松の間をくぐりぬけ、手も足も荊棘にひつかかれ乍ら、山の高所へと逃れました。今から思うと、無謀この上もない事でした。山には、大勢の避難者が、焚火明りの中に、失神した様に、黙り込んでいるかと思うと、叉口々に話し合つていました。それは、絶望的な口調であり、寒さに対する訴えであり,人の安否を氣づかう声でした。東の室に、弓のような月が、こつそり顔を出しました。内の浦の様子、家の者等の事が、心の中を騒きむしる様に、浮んでは消え、浮んでは消えします。それは、断続する地震に怯える心の、合い間合い間の事だつたでしよう。夜がほのぼのと明けて来ました。波の動きも見通しがきく様になりました。私達は、再び行を起こしました。やがて、葉糸の山へ取りつき、猪の谷へ出で、宮の脇を通り、東光寺の前の古道から、山の中へ入りました。そして難行苦行、内の浦へ辿りついたのでした。時刻は既に九時を廻つていたでしよう。潮の差引は小さくなつていましたが、浦全体は漂流物で埋まり、流失をまぬがれた家も,壁は落ち、戸障子は流れ去り、ガラン洞の姿を、津浪の狼籍の中に、塞々と残していました。それは、薪庄よりも、跡の浦よりも、もつともつとひどい光景でした。
司会者 途中、溺死者とか、遭難者とかを、見掛けませんでしたか。
田村貞雄氏 索道の支柱に登つていた一人と、鍛治屋の屋根の上に一人とを見掛けました。長井谷の入口の鉄橋の下に溺死者が一人ありました。
【下段】
田村貞雄(故人)
新庄町三二七二番地(内ノ浦)
63頁2行目 突嗟→咄嗟
63頁13行目 騒き→掻き
64頁7行目 鍛治屋→鍛冶屋
4、内の浦の惨状
【上段】
司會者 内の浦の状況はどうでしたか。浜名さん、一つどうぞ……。
浜名豊一氏 私は家内や子供を避難させてから、再び家へ引きかえしました。所が習慣ほど恐ろしいものはありません。危急な場合でありますのに、私は座敷へ上ろうとして、履いていた地下足袋を脱ぎました。そして上つた訳ですが、間髪を入れずと申しますか、直ぐに津浪です。何を持ち出す暇とてありません。そして地下足袋まで流して仕舞つた譯でした。と、庭の片隅で、何かの声が耳に人りました。灯をさしむくると、鶏の雛です。早速、それを抱きかかえて、遁げ出しました。浪の穗に追つかけられ乍ら……。
森村庄一郎氏 さし込んで來る潮の勢は、可成り激しいものですが、引き潮はとても物凄いものでした。私の家は、先ず、風呂場と便所が倒れ、つづいて本屋、梅小屋、納屋の順序で、海へ引き凌つて行かれました。
司会者 避難の途中、何か障害物に、ぶつかりませんでしたか。暗さは暗し、径はせましと云う譯で……。
森村庄一郎氏 何と云つても歩るき慣れている径ですから、どこに石が出て居り、どこに溝があるかは、心でと云うよりも、足の感触で、はつきりと判つて居りました。しかし、永井の信さんが、病み呆けた姿に、將校マントを羽織り、ぽつりぽつりと歩いて行くのに追いついた時「ギヨツ」とさせられました。「皆んな逃げましたか」と聞くと「あぁ」と力の無い返事をし乍ら、もう歩けないと言つて道につき座るじやありませんか。私は途方に暮れました。けれども、マゴマゴしては居れません。私は子供を一人抱いて二人背に負つていましたが「そんな弱い氣でどうする」と怒鳴りつけて、片手でひき起しました。そして、どうにか斯うにか、隠居の居る小高い丘の家まで、遁げた事でした。
司會者 家畜類、わけて、牛など、どうしましたか。
森村庄一郎氏 牛を牛小屋からひつぱり出したものの、動かないので困りました。後から押すやら、蹴るやら……。
田村貞雄氏 私の家では、牛小屋が崩れ相に見えたので、いち早く牛をひつ張り出し、家の前の馬目の木に繋いだ相です。それから、家の中の物を表へ出し、母が、箪笥の引出のニツ目に手を掛けた時,「津浪だ津浪だ」と近所が騒ぎ出したのだ相です。もう、どうする事も出來ません。火急の場合です。母は兄の背に負われ、兄嫁は佛壇の位牌を持ち、父は手廻りの必需品を携げて、山へ逃れたのだ相です。爲めに、牛は馬目の木に繋がれたままであつたため。遂々死んで仕舞いました。「モーモー」と、悲しい声が二た声、闇の底から聞こえて來たとき、母は「可愛想な事をした」と、念佛を申していたと聞きました。これは、余談ですが、母は、まことに、公私の義理をわきまえて居りますので、其の時,青年會の小さな行李を、持つて遁げて呉れて居りました。當時、私は、内の浦の青年會長で,それを保管していたのです。
司會者 そうでしたか。
浜名豊一氏 小谷さんの牛は、泳いで來て、山に登つていましたね。
中島久一氏 牛小屋の屋根裏に。藁など積んで、上のつかえる様な所の牛は駄目でしたが、天井の高い牛小屋の牛は、浮び上つていて、助かつたのもありました。
司會者 九時頃津浪が収まつた様ですが……。
濱名豊一氏 そうです。たしか九時前後でしたろう。私は、何よりも流失の跡を見度くて、山を下りました。
家の跡、それも数石ばかりと言い度い処ですが、その数石まで大半流れ去つて、材木だとか、海藻だとか、何だとか彼だとか、無用の物の散乱しているのを見て、唖然としました。同時に着た切り雀の、一物をも持たない自分を省みました。フラフラと海邊へ出て見ますと,沢山の漂流物の中に、家の屋根がいくつか俘んでいます。瞳をこらすと、自分の家らしい天窓が見えるのです。私は、小躍りして悦びました。私は、四辺を見廻しました。私の舟小屋も舟も見えません。私の周園には、大勢の人が次第に集つて来て、しやべり合つています。その内に、舟を見付けて漕ぎ出そうとする人があります。私は早速その舟に乗せて貰つて、見覚えの天窓の屋根へ,舟を着けて貰いました。それは遠望にたがわす、私の家でした。しかし家は二階と屋根だけで。二階の窓から、見覚えの妻の箪笥が覗いていました。その後、鳥の巣で、多くの漂流物の中から、私の箪笥が発見されました。仮令、二階だけの家にしろ、また仮令,箪笥だけにしろ、無一物の中か無盡藏を得た様な悦びを一感じた事でした。
【下段】
65頁2行目 引き凌って→引き浚って
67頁12行目 中か→中から
5、配給の茶碗
【上段】
田村貞雄氏 あれからです。何へでも名前とか屋号とかを入れて置かなければならないと、痛切に感じたのは…。當時、名前が入つていない爲めに、拾い去られた物も、相當あつたでしよう。その後、私は二百円を奮発して、焼き印を作り、何でも彼でも焼き付けています。
司会者 誰れも彼れも、殆んど無一物に近い状態になりましなが、縣をはじめ、各方面の救援に依つて、兎にも角にも、生活をつづけられましが、その感想を……。
濱名豊一氏 私は、今に、当時の配給の茶碗で、朝夕を頂いて居りますが、その都度、人の情を泌々思います。みらるる通り、現在、着々復興しつつあるのは、無論、村人各自の努力に依る処でしようが、その外に、國の力、縣の力、隣人愛が、大きく働いているのです。何とか、此の御恩返しをしなければと、いつも老えて居ります。
司会者 津浪対策と云う事で、何か御意見はありませんか
田村貞雄氏 田辺中學校の吉信先生--現熊野高等学校教論--は、五寸でも、一尺でも高い場所へ佳居を設けよと云つて居られました。全くだと思います。
中島久一氏 家の周園に,土用竹を植えるのがよいと思います。木や竹、わけて竹は、潮に強く、防風の役目も果し、まさかの時の物の流失を防ぎます。
司会者 夜も更けて来ました。色々お聞かせ願い度いのですが、此の辺で一先ず終り度いと存じます。まことに有り難うございました。
【下段】
68頁1行目 ましなが→ましたが
68頁2行目 ましが→ましたが
五、津浪の現實(其の三)
【上段】
昭和廿六年一月廿一日、吹雪の夜、内の浦第二小学校に於て、福島右衛門氏司会の下に、再度の座談会を催した。出席者は、神田校長の外、左記三氏であった。即ち前村長中嶋悦蔵氏、前村会議員田村清次郎氏、現村会議員谷口新一郎氏で、このうち田村氏は当時の部落曾長であり、谷口氏は部落第一班の班長をつとめていた。尚當時の第二班長は竹本久吉氏、第三班長は中嶋忠雄氏、第四班長は森山忠夫氏であつたが、當夜の座談会には欠席せられていた。
【下段】
田村清次郎
新庄町三二七二番地(内ノ浦)
谷口新一郎(故人)
新庄町三二二七番地(内ノ浦)
69頁4行目 森山忠夫→森山唯雄
1、當日の処置
司会者 當時の話は、前回の座談會で盡されている様に思いますので、津浪直後、部落会長及び班長諸君の打つた策について、御話し願へたらと考えまして、お寄り願つた次第です。
谷口氏 その日の午后、田村さんと一緒に、旧池田氏宅へ行き、部落民を集めて、さてどうすればよかろうかと、津浪後の処置について、相談を始めました,何よりも、一致團結してこの大難に処し、この字を平和裡に復興させねばならないと感じたからです。
田村氏 其の日の部落常會は、橋の流失の爲めに、集合不能の人が多く、周知徹底はしませんでしたが、取り敢えす相談の結果、一家の穿は考えす、部落全体の爲めに、互に協力し合い、一人の犯罪者も、一軒の落伍者も、出さない様にしようではないかと申し合せた事でした。
司會者 その大要を御話し願へませんか。
谷口氏 まづ死亡者の埋葬と死畜の処置、それから罹災民の収容でした。
田村氏 津浪をまぬがれた家は六軒だけで,ひどい家は数石が二つ三つ残っただけ、何しろ一丈四五尺と云う津浪でしたから.惨害の程は御想像がつくでしよう。
谷口氏 家は無し、夜具は無論なし、全く着た切り雀の、素つ裸になつて仕舞つたのですから。
田村氏 所が,田のあちこちに、米変の俵などが散見されます。で、其れ等を集めて部落の共同管理下に置き、差し当り、當分の飯米にする事に一決しました。
谷口氏 それから道路、特に橋の架設の協議をしました、。と云うのは、此の小さな部落に三つの小川がありまして、四つに分断されて仕舞つたものですから,舟によらなければ連絡が出来ない事になつて仕舞つたのです。此の不便さを除去する爲めに、どうしても、橋の復旧を第一の仕事にしなければなりませんでした。
2、人の性は善なり
【上段】
司会者 よくわかりました。あなた方の、指導的な遺りロに対し、頭が下ります。
田村氏 いやそう云う訳ではありません。兎に角こうした意圖が、全部落に徹底するまで,二日を要しました。何分,地震が断続するので、廿一日の夜は,めいめい、山の避難場所や何かで夜を明し、翌日流失をまぬがれた家や、山小屋などへ銘々集まつて行き、そして流失米の共同管理の方法が出来上つたような事です。その間、流失をまぬがれた家から、一回でしたか、二回でしたか、自発的好意による炊き出しを受け、其の後、お互に飯米を融通し合うとか、そこらに流れ転つている甘藷とかで急場をしのぎました。無論、夫々、流失物を捜し歩いて、皆んな血眼になって、ごった返していましたが、犯罪的行為をする者など一人も無く、互に助け合つて居りました。
司會者 飯米以外の流失物拾得についてどうなさいましたか。
田村氏 家具類は一応一と所に集めてそれを展覧し、銘々元の所有者の手許に帰りました。
司會者 安政の古事に慣つた譯ですな。
谷口氏 昔の事は知りません。しかしさうする事が一番よい事だと信じていました。全く人の性は善なりです。こん奮もありました。私の家の讐が,田辺市の海岸に流れ寄つて、神子浜の人に拾はれました。所が、それに小西と記るした風呂敷が入つていましたので、小西へ問い合せに来ましたが、小西では箪笥は流して居らないとの話、誰であろうかと先方では持主を捜しあぐんでいた処、ふと、別の風呂敷に谷口の名を見付けて、私の方へ知らして臭れました。人の情を泌々感じます。
田村氏 私のトランクは、津浪後半年目に、網不知の漁士の地引網に引つかかつて上りました。これはキツト津浪にさらわれたものに違いあるまいと云つて、役場へ届けられました。そして私の手に帰つたのです。何と御禮を申してよいやら、津浪後に各村から受けた応援と共に、生ある限り忘れ得ない思誼の一つです。
司會者 結構なお話を聞かせて頂きました。善行美談は、私の心を明るく揺さぶります。
【下段】
70頁11行目 遺り口→遣り口
71頁12行目 網不知→綱不知
71頁12行目 漁士→漁師
71頁14行目 思誼→恩誼
3、部落の災害封策委員曾
司會者 それから、地方事務所から、食糧特配の指令が参りましたが、あの時はどうしましたか。
田村氏 何分、部落内の蓮絡すら取れない有様であつたので、特配を受けに新庄まで出掛ける事が出来ませんでした。で、部落独自の災害対策委員會を作つて、委員の人達に御願いして、部落一とまとめにして、舟で運んで来たのは、津浪後大分経過してからであつたと記憶します。
司會者 対策委員と云うのは、どなたでしたか。
田村氏 浜本梅吉さん、小西辨次さん、中島久一さん、浜名豊一さん、永井亀次郎さん、松本伊勢夫さん、谷口新一郎さん、それに私でした。
司會者 其等の人達が中心になつて、色々の計画なり仕事なりをなさつたのですね
田村氏 そうです。
司會者 橋は直ぐ出来ましたか
田村氏 流木を拾つて仮橋を掛けました。これについて氣持のよい話があります。当時夥しい流木が湾内に流れ込み、それが潮と一緒に暴れ廻つて、建物を目茶苦茶にし九事でしたが、それ等は、津浪の後、湾内は勿論、陸上一面に横たわつて居りました。所が其れ等は、新庄の林材会社のものなのです。だから之を使用すると致しますと、一応会社に交渉しなければなりません。で、其の後、橋材並に家の建築乃至復旧資材として、譲渡方を申し出でたのです。所が混乱のさ中でしよう、之が完全な受渡しなど思いも及びません。だから一切を部落にお任せ願つて勝手に使用し、後日、橋なり家なりについて検尺を願い、その上にて代金を支拂う事に定めましたので、無論林材でも喜こんで承諾して呉れました。若しも其の間、悪智恵を働かそうと思えば、どんな事でも出来た筈ですが、何事にも公明正大であれと云う字民の考へ方でありましたので、うまく事が運び、其の後全部取り纏めて支佛を致しました。インフレ以前でありましたので、其の額は四万円足らずでした。
4、大日様詣で
【上段】
司会者 津浪で亡くなつた人は何人でしたか。
谷ロ氏 亡くなつた人は一人でしたが、死んだ牛は十一頭ありました。
司会者 可愛想な事をしましたね。
田村氏 当時、死畜は、田辺市の打越さんにお頼みして、片付けて貰いました。翌年の盆前に、部落の人達が打ち集うて、九十九淵の大日様へお詣りをし、牛の供養を致しました。
【下段】
73頁10行目 九十九渕→十九渕
十九渕の大日様
白浜町富田十九渕 加勝寺
5、小學校の事
司會者 學校関係については、どう云う処置を取りましたか。
谷ロ氏 田村さんは随分骨を折つてくれました。
田村氏 学校建築促進委員倉を作つて、村との連絡を密にしました。又一方、学校が流れたからと言つて、子供達を遊ばせて置く事は、修學上其他から考へて、いけない事であるので、西校長先生と相談の上,私の家の納屋を修繕し、それから叉、宮の拝殿を使用する事にして,二ヶ所へ昔の寺小屋式のようなものを始めて貰いました。何しろ板の間に莚を敷き、それに元海兵團の腰掛けを廻して貰つて机代りにしたお粗末なものでしたが、先生方は、自己を投け打つて、教育の任に当つてくれました。其の後、先生方は、學校の資材を捜しに、子供達を連れて、海岸邊りを見廻りに行かれましたが、机をタツタ三つ拾つただけでした。
谷口氏 西先生が、お宮の前で焚火をし乍ら、甘藷を焼いて頬張つているのを見たとき、先生に御苦労を掛けて相済まんと、泌々思いました。
田村氏 翌年の麥秋頃でしたか、倶樂部の會舘が出来上つて、其処へ学校を移し、其の年の十月新校舎が略々出来上り、翌一月七日に落成式を學行した様に覚えています。津浪以来まる一年とすこしかかつた訳です。
6、膝を入るるに足る住居
司會者 めいめいの住居は、いつ頃出来上りましたか。
谷口氏 大抵は旧正月迄に出来ました。尤も、家が完成した訳ではありません。こなし部屋でも何んでも、膝を入るるに足る佳居が出来れば、其処へ引き移つたのです。
司會者 他村から応援に来てくれましたが、當時の模様を掻いつまんで御話し願えませんか。
田村氏 廿一日には朝來の警防團が、いち早く駈けつけて下され、翌日は■じく炊出しが参り,其の後、長野、三栖などから応援に來て下さいました。そして其処等一面に漂流しておき去りにされた物の取りあらけ、それから架橋其他に積極的な御協力を頂きました。夕方引き揚げて帰らるる時、拾い集めた甘藷をゆでて差し出しましたが、そんなにして頂いては、食糧不足の当地の人に相済まぬと云つて食べる事をせずに帰られました。
谷口氏 垣矢みねさん福田治三郎さんから金壹封を部落へと贈られたのも、其の頃でした。有り難い事でした。
田村氏 其の後、部落から、谷口君と私に封して、谷口君には柱時計を、私には火鉢を贈られました。私共はビツクリして、再三再四固辞したのですが、どうしても受けて貰はなくては"と、終には置いて帰られたものですから、折角の御志と思つて、有り難く頂戴致しました。
谷口氏 全く面恥しい氣持で頂いた事でした。
司會者 電燈はいつ頃つきましたか。
田村氏 会社に対し随分交渉しましたが、何分災害が大きくて手が足らす、中々来ては呉れませんでした。何日位かかつたか、今では、はつきり覚えませんが、工夫達は私の家に寝泊りして、よく仕事をして呉れました。
7、前村長中嶋悦藏氏
【上段】
司會者 中島さんは、当時、随分、村のために骨を折つてくれましたが、津浪当日、お宅から役場まで、どうして連絡がつきました?
中島氏 連絡なんてそんな悠長な事ではありません。夜が明け離れる頃、山を越え越えして出掛けました。瀧内や跡之浦や名切の一部の惨状そ見ながら役場へ着いたのは、八時前だつたでしよう。北山君と山本君とが、津浪に荒された役場の階下で茫然としていました。
司會者 あなたが村長を辞してから直ぐでしたね。
中島氏 廿一日目でした。助役の内海さんが村長代理を勉めて居りましたが、私としては、村の破滅的災害に当面して、それを傍観するなんて良心が許しません。當時翼讃会の支部長の故を以つて、追放に該当する者として、村長の職を退いていたのでしたが、村を憂うる心が全身に張っていて、どうにもならなかつた譯です。
司會者 それからどうなさいましたか。
中島氏 さつそく復興対策の構想を練りはじめたのです。其の間、無論、色々の事を耳にし、様々な事にぶつかり、各方面の方々に面接致しましたが、村の復興について、如何にすべきかと云う構想に、夜もおちおちねむれませんでした。あの当時、家へ帰ったのは三日に一度位でした。家と云つても、津浪の爲めに、ドデン返へしになつて仕舞つで、子供達も家内も、三栖の親許の厄介になつていた始末ですから、帰りましても、二階ヘコソコソと逼い上つて、眞暗らがりの中で寝るだけでした。
司會者 随分苦労なさいましたね。
中島氏 別段苦苦労は思いませんでした。當時,縣聴へ、チョィチョイ出掛けましたが、今覚えているだけでも,十二月廿三日、廿六日七日、一月四日、十五日六日、二月三日、三月十日、二十六日と云う風でした。地方事務所へも階分通いました。
司會者 何日頃まで役場へ通いましたか。
中島氏 二月二十六日まででした。其の後、御承知の新庄村自給製塩組合の理事長になつた譯です。
司會者 そうでしたな。
中島氏 組台の創立総會はたしか三月五日でしたね。理事には、たしか阪本榮吉、今田直吉、永井善吉、上田幸吉の四氏と、監事には、あなたと、鷹巣善作氏だつたと記憶します。何しろ、當時は製材が流れる、田畑が流れると云う訳で、訊百軒以上の失業家族が出來まして、之を救う道は、製塩以外にはないと云う事でした。
司會者 そうでしたね。所で,話を元へ戻すとして、あなたが上縣された要件は、どんな風な事でしたか。
中島氏 沢山ありました。要するに、如何にして復興すべきかと云う事でした。ここに。十二月廿六日、七日の二日間の記録があります。御目にかけましよう。
かう云う風にやつた訳です。そして順次軌道に乗つた事でした。復興対策委員會の結成も、当時、縣聴から役場へ電話をして、作つてもらつた事でした。
司會者 御骨折り感謝致します。同時に内海村長代理も、役場の吏員達も。不惜身命の氣持で勉められた事と想います。尚、伺い度い事は相當ありますが、此の辺で座談會を終り度いと存じます。
【下段】
中島悦蔵(故人)
新庄町三四六一番地(内ノ浦)
76頁1行目 惨状そ→惨状を
76頁4行目 勉めて→勤めて
76頁5行目 翼讃会→翼賛会
80頁6行目 急援物資→救援物資
81頁上段5行目 村長官→村長会
六、津波後の処置
【上段】
南海道大震災津浪當時に於ける役場並に村會議員の構成は左の通りであつた。但し村長中島悦藏氏は、終戦後の昭和二十一年十一月、進駐軍マツクアーサー元師より、當時翼賛會支部長であつた故をもつて、追放に処せられ、村長の椅子は、空席のまま、助役内海豊一氏が、其の代理をつとめていた。即ち村長代理助役内海豊一氏、収入役山本徳平氏、同助手山崎雅己、熊代ツ子の両君、戸籍係主任兼選擧配給係松太義一氏、同助手葉糸正昭、橘かんの両君、食糧調整主任象人口動態統計係北山源七氏、同助手浜田道技、谷口庄一の両君、厚生衛生学事係災害援護係川本茂次氏、農業技術員橘正次郎君村會議員として、塩本兵次郎氏 岩本長平氏 丸橋才吉氏 平田茂一氏 野村甚助氏 瀬田政吉氏 山崎槌兵衛氏 山根三兵衛氏 中路甚藏氏 濱名恒治氏で、此の外、小學校長には大谷七郎氏、駐在巡査に林護一氏が在任して居り、警防團長には福島俊平氏が就任していた。そして、これらの人々が中心となつて、災後の処理に当つた事は論をまつまでもない。
【下段】
82頁5行目 熊代ツ子→熊代ツネ子
82頁7行目 浜田道技→浜田道枝
1、復興封策委員會
しかし乍ら、事態の重大性に鑑み、村會の議決をもつて、急據、復興対策委員會を組織するに決し、津浪後十二日目、翌昭和二十二年一月一日、村長代理助役、村會議員の外、村内有志中、左記入々を詮衡し、之を委嘱する事となつた。即ち榎本傳治氏 小谷安一氏 坂本菊松氏 中島悦藏氏 榎本三郎氏 田上茂八氏 西秀二郎氏 濱本助七氏 南定一良氏 北山平吉氏 鷹巣善作氏 浜本梅吉氏 樫山平八氏 山下清左衛門氏 上田幸吉氏 眞砂榮太郎氏 眞砂久一氏 福島右衛門氏 福島俊平氏(順序不同)であつた。
今年一月三日午前九時牛より内海村長代理助役は、右対策委員を招集、議長席につきて開會の挨拶を述べ、委員會組織に至るまでの災害対策に関する経過を報告して協力を求め、將來の甕力を要望し、委員を投票に依つて選任し、且つ、分課を定めて各人に之を委嘱した。即ち委員長 榎本傳治氏 副委員長 小谷安一氏 総務部 内海豊一氏 畑地源治氏 坂本菊松氏 中島悦藏氏 丸橋才吉氏 土木建築 岩本長平氏 福島俊平氏 榎本幸治氏 塩本兵次郎氏 学務 大谷七郎氏 田上茂八氏 西秀二郎氏 濱本助七氏 農林水産 中島久一氏 浜名恒治氏 山崎槌兵衛氏 鷹巣善作氏 濱本栴吉氏 樫山平八氏 瀬田政吉氏 財務 山下清左衛門氏 上田幸吉氏 山根三兵衛氏 南定一郎氏 眞砂榮太郎氏 厚生 眞砂久一氏 平田茂一氏 福島右衛門氏 野村甚助氏 中路甚藏氏であつた。
尚、引きつづき、協議に移り、復興の大綱に関し審議を進め、午后二時より、内の浦鳥の集の現地を視察した。
2、救援の手第一日
【上段】
これより先、廿一日午前九時過ぎ、津浪の勢の減じそむるや、ぽつく山を下つて、我が家に露つた男達は、先ず何を見たであろうか。それは、ただ目の蔽わしめる、津浪の狼籍の跡そのものであつた。
いや、これは、住居の流れなかつた家の事であつて、家は跡方もなく流れ、中には、僅かに敷石の七ツ八ツしか残つていないものもあつた。いやいや呼べども叫べども、途に現われない、行方不明の人達が幾人も幾入も数えられ、多くの男達は、ただ荘漠として、自然の暴威の跡に、つ、立つていた。
しかし乍ら、ふと我に帰つた男達を襲つたのは、室腹であつた。けれども、其盧には、米もなく、鍋釜もなく、幸にして其れ等を見付け出した人達でも、それを炊くべき一本の薪もなく、いやそれよりも喉を潤すに足るだけの一杯の水もなかつた。
ところが、其処此処に、甘藷の散乱しているのが、男達の眼に止まつた。三ツ五ツ七ツ……男達は、目を輝やかせ乍ら,それを拾つた。そして再び山へ登つて行つた。其庭には老人や女子供が焚火を園んでいた。
やがて其れ等の人達は天下の珍味として焼芋を頬張つた事であつた。
一方、惨筈の最もひどかつた内の浦では、字長田村清次郎氏を中心として、協議が進あられていた。
けれども小部落内の浦ではあるが、三本の川に四分せられて字内の連絡さえ絶たれていた。
その上、内の浦は、陸の孤島であつた。尤も前村長中嶋悦藏氏は、津浪の力の衰えそむるや,内の浦の自宅から、道なき山を越えて、辛うじて役場へ辿りついていたが、手の下し様もなかつた。
その頃、流失をまぬがれた北長字では、炊出しに掛つていた。村外の救援の手も伸びはじめていた。
午後になると、酉牟婁地方事務所から、食糧特配の指令が、役場へ届いた。
炊出 二日聞、但し米一人一食一合、乾パン同じく一袋、生パン同じく六十匁一個
特配 流失家屋五日分、床上浸水家屋三疑分、床下浸水家屋一日分
基準量 一人一日三五〇瓦(年齢を問わず)
引きつづいて、地方事務所から、地震津浪の災害に関し、本書持参の者に、一刻も早く報告を寄せられたいと、騰爲印刷物が届いた。即ち、役場では、急遽調査の上、翌廿二日朝、左の如き報告を提出した。
昭和廿一年十二月廿二日
新庄村長代理助役(印)
西牟婁地方事務所御中
地震津浪状況報告
別紙の通り速達(速報の誤りか)す。
参考事項
一.収容可能の戸数 人員
戸数七九戸 人員 四〇〇人
二.収容不能の戸数 人員
戸数 五五匹戸 入員 二一三六人
三、食糧衣類等の要援護物資の必要数 食糧二、五三六人 衣類二、五三六人
内の浦の被害は殊の外甚しく、完全農家四戸、食糧全部流失
四、表参照
五、表参照
六、家畜の被害状況
牛九頭(死亡)
(註)後日確定したる数字牛二十一頭(死亡)
七、製材、素材の流失状況
製材七、〇〇〇石、素材一二、〇〇〇石
八、現今町村に於ける救済方策
村の約九割は被害につき、災害なき部落民の炊出に依り災害者に食糧を配給し、家屋なきものは、各部落の災害なき家に収容しあるも、収容出來得ず。
尚、内の浦、鳥の巣は連絡なき爲,詳細不明なり。
和歌山縣知事殿
かくて、津浪の当日は、人の魂を、揺さぶり、奪い、或は翻弄し盡して暮れて行つた。眠るべき家も畳も夜具も奪われた人達の多くは、又々、山や丘の風陰に、焚火をはじめた。中には、災害をまぬがれた家々の、座敷、納屋は勿論、土間までギツシリつめかけた。それにしても、依然として断続する地震に封し、人々の驚怖はゆるまなかつた。少くとも年寄達は、皆が皆、夜もすがら目覚めていた。
【下段】
86頁9行目 カシコ→カッコ
87頁12行目 農排地→農耕地
3、第二日以後の救援
【上段】
村誌に関する書類綴の中に、連絡事項(二十二日朝)として、鉛筆の走り書の、左の一文が綴ぢこめられている。
一、北長タキ出班より
取敢ず本朝七斗炊出するにつき、それにて朝食を配付し、昼食分の足りぬ量を速報せられ度し。
役場倉庫より、原米(■俵)持ち出す事廣田鹿次郎さんに連絡され度し。
二、朝来村助役、前七時頃來村「同村警防團員は目下内の浦の応援に出向かれている由、省タキ出其の他の足らぬ場合は、連絡され度しとの事」
三、二三村民の希望として、(駐在所より)緊急村會でも開催の上、流失物の内、たとえ自分の所有物たりとも、勝手に持ち帰らぬ様、通知せられたしとの事とある。字の格恰から見て、現助役川本茂治氏の筆でないかと考えるが、兎に角、この一丈からでも、第二日の朝の、役場のあわただしさが分る様である。
それにしても、炊出しが軌道に乗り、他村の救援の手が伸びはじめた事は、頻死の村にとつて、カンフル以上のものであつた。
以来、旬日に渡つて、各村から繰り出された諸團体によつて、有形の奉仕の受け、無形の救援を得たのをはじめとして、各方面の同情がキユゥ然として集まつた。
地方事務所を通じて物資の特配が来た。其の中には軍彿下けの衣料、靴等があつた。
進駐軍から日頃口にする事の出来ない様な輸入罐詰が贈られた。
京都市の青年行動隊は市長の名によつて、救恤品を届けられた。
長野小學校、朝来小学校から届けられた餅米其の他は、小学校の子供達を嬉こばせた。
其他、どれ位の温かい心が、此処新庄村に集中した事であろう。
村人は、無言のまま、じつと頭を下げて、報恩の誓いを、心の中にうちたてた。
復興へ!、再建へ!、村人は、夜もおちおち眠る事なく、ひたすらに、突進した。
【下段】
89頁10行目 川本茂治→川本茂次
89頁14行目 奉仕の→奉仕を
90頁3行目 嬉こばせた→喜ばせた
4、津浪の犠牲者
それにしても、村の人口の約百分の一、戸数よりすれば百分の二に該当する二十二名の哀しい津浪の犠牲者が出た。
死因の大半は、遁げ後れであり、一部には病臥中の人もあり、また母子づれの者もいた。これにたいし、村人は、限りない哀悼の意を寄せたが、葬儀などと、言つては居れなかつた。それよりも、來る日も来る日も、犠牲者の近親者達は,未だ出ぬ骸を捜し歩いていた。或る人は田の中にあつた、或る人は家と家の間にあつた、或る人は家の中にあつた、また或る人は外ごをらの岩の間にはさまつていた。そして大抵は、漂流物のごたごた積み重なつた下に埋れていた。それ等の骸は近親者の手によつて運び去られて行つた。涙する事を忘れた様な表情の人々によつて……。
ただ田邊市文里の援護局の人達の死体は、主として、警防團の人々に収容されていた。それは、日によつて、三、四体もあつた。はじめは可愛想にと言つて立ち寄つて見る人もあつたが。毎日発見されるに從つて、誰れの注意も引かなくなつた。警防團の人々は、それを一旦避病含へ運び,更らに稻妻墓地へ仮埋葬をした。
5、津浪の水位
【上段】
それにしても、津浪の水位は、どの位あつたであろう。
家の中の取りかたつけが進むに從つて、人々は今更らの如くそれを眺めた。
壁や柱に、明らかに、水の跡が線を画いて残つている。それは、水の表面に浮んでいたであらう芥が、くつついているのであつた。しかも、それが二本明らかに認められた。一本は最も高く、一本は一尺ばかり下つて……。更らに一尺下つて、壁はくずれて居り、その下には、水位を示すべき何の痕跡も残つていなかつた。これは、恐らく、二番若くは三番目の津浪が、最も高かつたであろう事を、示して居るものであつた。
けれ共、今更ら、其れを云々する人達は居なかつた。自分一人がそれを見、自分一人が納得するだけで、互に黙りこくつて、せっせと跡片付けを続けるだけであつた。しかし乍ら、他村からの手傳い衆達は、黙していなかつた。
「あれまア、潮の跡が鴨居についていますよ」
「あれまア,神棚のこんな所まで、潮が来たのですねヱ」
村の人達は、笑みを含んだまなざしを、其れ等の驚きの言葉にたいして返えした。それは、軍に、其れを肯定するたけで、自分達の不幸を、其れによつて表現しようとはしない、一種の冷たい笑みに外ならなかつた。それ程、村人の心は、津浪の暴虐に、打ちひしがれていたのである。
当時、地上よりの最高水位を調べたところ、概ね左の通りであつた。
【下段】
93頁8行目 陵駕→凌駕
6、竹田宮殿下の御視察
【上段】
年の瀬の十二月三十一日、畏しくも竹田宮恒徳王殿下には、聖旨を奉じて御來村、つぶさに罹災状況を御視察下さつた。日程は、今日午前十一時五十分、和歌山縣聴着。知事室に於て、聖旨を御傳達、知事から災害状況を聞かれ。直ちに紀勢西線にて南下田辺驛へ、而して本村災害地御視察、其の後白浜新宮へ、引つ返えされて勝浦、由良、海南を御巡視との事であつた。
これより先、十二月二十九日付、内務部長からの通知を受けた村當局は、急遽、其の準備に取りかかつた。
勿論、準備と云つた処、どうしようにも、するすべがなかつた。ただ有りのま・の現状を、ありのままに御視察願うより外に策はなかつたのである。わけて、内務部長の通知の中に「追而,一般の奉送迎等は一切御遠慮中上ぐると共に、関係者の服装も総て通常服(背廣又は作業服)にて差支えありませんから、念の爲め申添える」とあつたので、関係者一同、心を安んじた事であつた。
其の日,午后三時四十分、田辺驛御着、自動車に川上知事同乗、徐行されつつ礫山以東の被害地を見ちれつつ御見えになられた。御付きしていた人々は、知事其の他、四五人に過ぎなかつた。
造船橋々詰に於てお迎えした内海村長代理助役並に村の有志運は、恐催しつつ、殿下を小学校に設けられた休憩所に御案内申上げた。其の邊りは一順取り片たづけられてはいたが、津浪の跡は覆うべくもなかつた。
やがて,進み出た村長代理助役は、謹んで罹災状況を報告申上げた。其の声は低くかつたが、復興への意慾が、其の面を紅潮させていた。
一、被害の状況
去る十二月二十一日未明(午前四時十九分)突如激震あり、其の震動は約五分間に亘り、其の強裂さに於ては村民の何者も未だ経験しない程度のものでありました。其の後約二十分を経過しましてから,大地鳴りと共に、丈余の津浪が押し寄ぜ、忽にして全村を泥水に捲き込み,村内総戸数六百三十
一戸の内、五百十七戸を流失又は倒壊浸水しました。之か被害状況は別紙の通りであります。
二、被難民に対する応急施設の現状
被難民は、災害當時、附近の高所に避難しましたが,災後一、二日を経過しましてから、逐次民家や神社佛閣に収容し、尚、収容し切れない者にたいしては、田邊市内天理教会に急設せられた収容所に之を収容し、炊出し其の他給食状況は順調に進んで居ります。尚、衣料品の流失叉は浸水の爲、当時、寒氣に悩み心配して居りましたが、縣当局の急速な処置と、各方面から寄せられた同情ある救援物資が、罹災民に配給せられますと同時に、現在に於ては、不自由なく推移して居ります。
尚、田辺保健所、紀南病院、縣醫師会、日赤縣支部,学生班、民間診療班等の救援を受け、防疫に万全を期して居ります。
三、今後の対策
今後の封策については、村で復興対策委員會を設け、食糧、住宅,土木、衛生、産業、教育の各部門に亘つて、擧村一致、將来の復興封策を立案中であります。
本日、畏くも,竹田宮恒徳王殿下には、聖旨を奉じて親しく本村の罹災状況を御視察遊ばされるの叡慮を添う致しました事は、村民一同、感激恐催の至りに堪えません。
謹んで、聖旨の程を奉体し、和衷協同、速かに復興に努め、以て皇恩に応え奉らんことを期している次第であります。
(被害状況の数字省略)
(西牟婁郡新庄村被害地圖添付)
御到着になつてから約二十分、殿下から種々御下問をいただき,激■の御言葉を頂戴した。村長代理助役以下、恐催感激、ひたすら復興に遭進すべきを御誓い申上げた。かくて、午後四時廿五分から、全員奉送裡に、自動車に御召しになり、白濱へと向われた。
【下段】
94頁14行目 強裂→強烈
7、復興封策豫定概要
あわただしく、年は暮れ、年は明けた。
災害地新庄村には年末もなく年始もなかつた。
入々は、夕方になると罹災地を去つて、仮りの塒へ急ぎ,夜が明けると。再び其処へ立ち戻つた。そして、復興へ、再興へと、我武者羅な活動をつづけた。
夜間は人の佳まわぬ往来を、警防團員達は巡回した。村には、戦火の犠牲になつた廃趾にも勝る鬼氣が、光のない村の辻、家の間に漂うていた。
一方対策委員會は、順次會合を重ねて行つた。そして一月六日に至り大体の決定を見るに至つた。
今、その大要を摘記すれば、左の通りである。
a、住宅
(イ)応急対策として簡易住宅百戸建設の事
資金は、村の起債と國庫補助に依るべきこと。建坪七坪半。建築代壱戸當り一、五〇〇円。
(ロ)全、半壌家屋に封し、資材及資金を斡旋すべき事。、但し資材として木材壱千石、釘七拾樽、外に瓦、セメント、杉皮、畳類を確保し、資金として一戸平均二万円の融通方策を講ずべき事
b、農業
被害農家並に田畑に関し資金の捻出方法を講ずべきこと。
但し壱反歩につき流失田二万円、浸水田一万円、農機具損失にたいし一戸當り二千円。
c,漁業
漁舟流失八十五隻に封し一隻に付き三千円見當を融資すべき事。
d、道路
村道要改修三千米、改修費一米当五〇〇円、橋梁流失大四小九、金額三〇〇、○○○円
右にたいし國庫補助六〇%申請の事
尚、避難道路の新設をなす事。國道の嵩置きを要望する事
e、被港湾
村有荷揚場改修の事。巾員拾米、延長一五〇米、此の費用五〇万円。
縣工事として護岸工事をなす事。延長一、○○○米、此の費用百万円
f、公共施設
國民学校内の浦分教場流失に付 一五〇、○〇〇円
〃 本校修理費 四〇、〇〇〇円
役場、駐在所、村営水道施設、部落會舘損傷につき一五〇、〇〇〇円
g、工業
村営製材工場の建設費 五〇〇〇、〇〇〇円。
製塩の復旧と、之が拡張の方途の研究。
斯くて、村の方針は確定した。
以下、前記の順に從い、之を補足し演繹し、もつて本記録を結ぶであろう。
8、復興事業概要
【上段】
a、佳宅
凡そ、人間として、人間らしき生活を営むには、衣食住の安定が、其の慾求の第一義的のものであらねばならない。然るに津浪の災厄は、一朝にして、人々の衣をうばい、食をうばい、住をうばつたのである。着のみ着のままと云うべき処であるが、中には、寝巻のままのもの、足袋の片足を履いている者裸足のままの者など、相当居た。津浪後二三日は、朝の手水を使わぬ者も沢山あつた。役場では、正確な数字を知る爲め、罹災者の調査に当つた。罹災者が一時,ちりぢりになつて思い思いの先きへ身を寄せていた爲め、可成りの困難と、日数を要した。
之れを集計すれば、左記の通りである。
これによれば、罹災戸数のうち。流失家屋は八十八戸、全半壌家屋は百廿九戸と判明した。之を津浪当日、縣知事宛に報告したるものと照合すれば、流失戸数五十五戸は過少であり、全半壊家屋の四百七十三戸は意外に過大である事がわかつた。同時に、流失者に対する簡易住宅の数も、百戸の計画は、若干過大ではあるまいかとの■問が生じ、之を再検討する事とした。叉一方。罹災者の臨時収容所として、田辺市元海兵團第十三号兵舎一棟の借用方を、田邊管財出張所に申し込んだのである。幸にして、一月十三日、之が認可書が到来し、希望者をつのつて、其の手配を完了した。罹災者達は、其の兵舎を「新庄村分村新浜寮」と名づけた。
其の後、簡易住宅数も五拾戸と変更し、.二戸建一棟拾二坪五合、二拾五棟を、宮の脇、跡之浦、内之浦の三ヶ所へ建築する事となり、田邊市建工社をして請負わしめ、之れが補助を関係方面に申請した。
かくて、工事は順調に運び、年内に竣工、新浜寮及び其の他の家に寄留していた人連は、嬉々として引越して行つた。
今、この精算を見るに當初予算建築費六二五、〇〇〇円、國の補助金三一二、五〇〇円、之にたいし所要建築費六七九、四七七円(内建工社費三七七、一〇〇円、其他三〇二、三七七円)内國庫補助金三一二、五〇〇円,村債三一二、五〇〇円、村費支出五四、四七七円となっている。
一方、全半壊の家の人達に対し、農業会に於て、瓦畳其他の斡旋が順調に進められていた。木材も山幸製材所、製樽会社が引受けて之が供給に当つていたが、順次、製材業者の復興によつて、円滑なる需給が行はれる様になつた。かくて、案ずるより生むか易しの諺の通り、着々其の成果を上けていつた。
b、農業
農業に関する復輿に関しては、之を短時日に決定すべく、余りに滲澹たる被害であつた、田畑には機帆船が横たわつていた。無数の流材が重なつていた。中には直径風呂桶大の官材がドツシリ据わつていた。それよりも、一般には目につかぬ、硝子や瀬戸欠けが、農夫にとつて最も厄介な危険物であつた。
一月十三日付を以つて、役場から、各木材業者宛に、左の通知が発せられた。
復興作業に御繁忙の御事と存じます。
扨て、過般の津浪により、村内田畑に漂着せる木材の取除きに付き、田地所有者からも至急にとの要望あり、本月中に、各業者に於て取除き願度、もし人手不足にて始末出来ぬ様な際は、耕作者で取除くも、費用は御負担相成度しとの希望あり,此儀御通知申上げます。
機帆船の引下ろし作業、道路上のものからはじめて、田の中のものも一月中に完了した。木材業者の流木収拾も、多数の人夫の動員に依って完了した。ただ、官材だけは、早急に処理が出来ないのか、二月三月頃まで、田の中に、不逞な姿を、とどめていた。
其の後、耕地復旧業が、農家に於てはじまつた。耕土が流失して床土ばかりの田、耕土の上二寸、三寸と泥土が置かれた田、様々あつた.農道、水路、橋梁、護岸、溜池の欠漬があり壊滅があつた。そして地方事務所監督の下に災害救助法が適用されたのである。農民は孜々して働いた。
尚、耕地復旧事業費の内訳は、左の通りである。
昭和廿二年、稻の作付を前にして、農地並に農業調整委員に於て,村内災害田の実態調査を行つた。其の結果、皆無田、一級田、二級出、三級田等の段階を附し、一級出は、其の年の収穫予想は至難であつたが,秋には必ず毛見をする事とし、不敢取地力を四斗と定められた。
秋になつて、その収穫は予想通り、種々の狂いが生じた。
津浪の運んで来た海泥で、凹凸の出来た田の地均しの際、海泥を持つて來た所がよく出来、海泥を取り除いた処が悪るかつた。又何回も鋤唐返へして、水を入れて潮抜したと思つた田の収穫は芳しくなくむしろ、田植前にあわてて、打ち返しただけの田の方がよかつた。更らに又、植付後、潮氣の甚だしい田、例へば水を甞めて見て辛味のある田は直ぐに枯れ、分■した稻でも、成長するに從い、根が深くなるにつれて塩分にふれ、枯死するものもあつた。
現在、新庄村の水田百町歩余り、平均段収は一石九斗二升六合であるが、昭和廿二年度に於ける作付不能田は約十一町歩、このうち作付したけれど収穫皆無に終つに田は十三町歩にも及んだ。稻は、津浪の後、五年乃至七年は収穫皆無らしいと、昔から言い傳えられているが、翌々年、則ち昭和二十三年度は、廿二年度に比し、一割方収量を増加し、三年目に至つて、殆んど元の姿に復したのであつた。けれども、作付不能田は依然として八町歩余り現存している。
萎は、畝間に津浪の流れ込んだのみの田は、さしたる被害はなく、津浪に流失した萎のうち、一部分作付した馬鈴薯及び玉葱は比較的成績よろしく,瀧内、内の浦方面で試みた七島葦は完全に失敗した。
c、漁業
此の村には,專業の漁家は、一軒もないのであつた。ただ、臨江の村であるだけ、副業的漁家はあるにはあつた。しかし、漁業それ自身よりも、寧ろ,副産物的な海藻の探取、又は、眞珠貝の養殖と母貝の採集が、主たるものであつた。だから、漁舟流失に封する融資に関しても、漁舟そのものが、生計上第二義的存在であるが爲めに、誰れも問題にしなかつた。
我れ如何にして生くべきか、かかる問題に直面して,眞剣に考うる村人として、漁業は、殆んど関心事でなかつた事は、事実である。けれども眞珠貝の養殖場は全滅した。
d、道路及港湾
道路並に護岸の損傷は、多大であつた。橋梁は全部破壊されていた。
之に關し、二月拾日、本村岩本組に樹し、復旧工事を請合いせしめる事になつた。
即ち 道路 拾参ケ所 橋梁 九ケ所 護岸 拾九ケ所で、これが見積金額は、二百八拾壱万参千八百五拾八円と算せられた。之が詳細を示せば、左の通りである。
工事請負明細書
番号工事名 請負金額
新道一号 文里道線道路復旧工事 一四三、七九三円〇〇
新道二号 今今 一六八、八八八、〇〇
新道三号 万呂村往來線今 六六、三七五、〇〇
新道四号 北原往来線今 四四、九一一、〇〇
新道五号 今今 五八、八六八、〇〇
新道六号 出井往来線今 四六、六五〇、〇〇
新道七号 田邊朝來往來線今 二〇、四二五、〇〇
新道九号 救馬谷往來一線今 六、七九五、〇〇
新道一一号 白濱往來線今 五九、〇六七、〇〇
新道一二号 鳥の巣往来線今 八四、八七四、〇〇
新道一三号 朝来往來線今 五五、一〇〇、〇〇
新道一四号 鳥の巣往来線今 七九、二〇〇、〇〇
新道一五号 今今 一八九、〇九四、〇〇
橋谷川架設 天神小橋復旧工事 三、八四五、〇〇
〃 天神橋復旧工事 五九、一五一、〇〇
千賀川架設 千賀橋復旧工事 六一、八七九、〇〇
出井川架設 出井橋復旧工事 二三、四一八、〇〇
成川架設 學校橋復旧工事 五、七八六、〇〇
名切川架設 名切橋今 二六、二七九、〇〇
瀧内川架設 瀧内橋今 九、六九三、〇〇
内之浦川架設 地童橋今 八、一六〇、〇〇
船場川架設 学校橋今 一七、二七二、〇〇
新川二六号 橋谷川護岸復旧工事 三五、三五〇、〇〇
今二七号 今今 四一、二五〇、〇〇
今三〇号 名切川今 二五、七九二、〇〇
今二八号 今今 七六、〇〇五、〇〇
今三一号 出井川今 二四、四〇〇、〇〇
今三二号 今今 一八、六〇〇、〇〇
今三三号 今今 一〇四、一〇〇、〇〇
今三四号 丈里湾今 一二八、一〇二、〇〇
今三五号 全今 一八二、一七二、〇〇
今三六号 全今 二八、三二五、〇〇
今三七号 全今 一三七、六三四、〇〇
千賀川口護岸復旧工事 三三三、二〇一、〇〇
鷹ナ巣地先今 三九、五〇二、〇〇
跡ノ浦今 八四、九〇〇、〇〇
跡ノ浦地先今 一四六、一=六、〇〇
ホコラ湾 ホコラ海岸今 七九、〇一六、〇〇
黒崎海岸今 一〇、八三六、〇〇
田ノ浦海岸今 一八、七〇四、〇〇
今今 六〇、二三〇、〇〇
かくて、年余の日子を費して、昭和二十三年六月、工事は竣工した。
e、公共施設
公共施設の惨害も大きかつた。流失したのは、国民學校内の浦分教場、部落會舘、教員住宅であつた。
どちらも数石若干を残しただけであつた。國民学校本校、役場、駐在所、清防機具格納庫、橋谷名切の二部落會舘等も亦被害を蒙つた。然し第二消防機具格納庫が流失した外は、幸にして残つたのは何としても有難い事であつた。
災後、内の浦分教場は、山■神社の肚殿と田村清次郎氏の納屋とを仮校舎に当てられた。そのうち、社殿の邊りは鬱蒼と茂つていて、日の光もささぬ爲め、冬など、日向に黒板を持ち出して授業をした。
それが、昭和廿二年七月、校舎一棟六十五坪の外に、教員室、宿直室、便所、風呂場十六坪七合五勺の建築の工を起し、翌廿三年三月竣工した。建築工事並に敷地造成工事の請負者は堀利一氏、此のうち工事費入札額は二拾参万二千三百円であり、資材費其他二拾二万七千八百七拾七円五銭を要した。
一方国民學校本校並に公共建造物も順次復旧せられて行つた。此の費用総額拾万六千八百八拾七円四拾銭と算せられた。
f、工業
縣下有数の製材工業地帯としての当村の被害は、東京大阪の木材市場に衝撃を與与えた。
全工業を通じて、流失二〇、全壊七、半壊一五に達していた。このうち、製材業は急速に復旧したが、製樽会社、砥石工業、梅干加工業の復興は遅々としていた。中にも紀州造船株式会社と紀州釦会社の復旧は全く見込みが立たなかつた。前者は、戦後の打撃を蒙りた上、建造中の二百屯級船舶七、八艘は、或は田の中に、或は港内外の淺瀬又は、岩礁に打ち上げられていたし、貝鉛は戦後の不況の上に、工場、機械、製品等みな散々に流失したからであつた。このうち製材工業に対しては、勧銀の手を通じて多額の低利資金が供給せられた。然し乍ら、戦後,急に現われた全國的の塩不足は、塩專■の一手では覆い難く,勢いの赴く所、自給製塩事業の公許となり、加うるに災後の失業増加と、各所に堆積された流失燃料は、自然之れに拍車を加うるに至つた。
かくて、新庄村は再び工業村としての面目を発揮して行つたのである。
【下段】
99頁14行目 ■問→疑問
101頁10行目 欠漬→欠潰
107頁11行目 貝鉛→貝釦
七、配給物資と義損金
【上段】
食糧並に配給物資は、更生の原動力であつた。先づ、配給物資から調べて見よう。
衣類 三三、八四二点
内ラ、物資九十五点を含む
毛布、布團 四〇六枚
医薬品 二三点
莚 九〇〇枚
鍋釜.バケツ、こんろ 六、〇六六個
陶器類 六、五二九点
漬物 二九樽
甘藷 三〇〇〆
罐詰類 三三〇箱
乾パン 一〇五箱
木炭 五、一二三俵
薪 五、五二九束
昆布外 一四三〆
石鹸 二、九三七個
ローソク ニ四〇本
洋傘 二七六本
革靴 二〇〇足
地下足袋 六三〇足
米麦 六六〇K
ラ、物資食塩 四五K
右の内、無償を以つて特配された物があつた。それは各地から寄せられた義損物資で、津浪直後、田辺螢林署から贈られた木炭をはじめとして、翌年十一月迄、或は直接叉は地方事務所を通じて喜捨され,罹災者の家庭をうるをした。
木炭一〇〇俵 田辺営林署
甘藷一六 俵草履二〇〇足 西牟婁震災封策本部
蒲團布地一二五枚 莚八○枚 バケツ五〇個 漬物二〇樽 里芋五〆
莚二〇梱 地下足袋一八○足 衣類七〇八点 衣類五八四三点 蒲團
八五枚 衣類三四三八点 日用品三二梱 罐詰五六〇個 乾パン一〇
五箱 罐詰三一〇個 鮭罐詰六箱 タオル一八○○本 衣類二包外三
種 衣類三八七点 今三六二点 チョツキ七二点 米麦六六〇K 地方事務所
食器類、七〇八点 京都市
衣類三二〇点 西牟婁青年團
塩四五K 衣類九五点 社會福祉團体LARA
切干甘藷五俵 日赤和歌山支部
紙製布團 横須賀市新生横須賀婦人会
夏用シヤッ外十一種一二五三点 田漫警察署
コンロ三〇〇個 岸和田市花田製陶所
メンタム外八種 各地ヨリ
之れに依つて、如何に救われたか、子々孫々まで忘れてはならない感激である。
次に各方面から同情盗るる義損金が寄せられた。
御下賜金 五、九九二円〇〇
田邊聖公会殿 九五、七六
内務大臣大村清一殿 一、〇〇〇、〇〇
南部町青年團殿 一、〇〇〇、〇〇
万呂村長殿 五、〇〇〇、〇〇
西紀木工有限会社 吉見哲郎殿 三〇〇、〇〇
和歌山市殿 二、〇〇〇、〇〇
和歌山縣木材組合殿 一、五〇〇、〇〇
村井光次郎殿 五〇〇、〇〇
栗栖川村青年團代表 南正視殿 二〇〇、〇〇
和深村地下青年團代表殿 三〇〇、〇〇
田邊警察署を通じ一無名士殿 二〇〇、〇〇
東牟婁郡大島村新女会殿 三〇〇、〇〇
和歌山市和歌浦町内会■合会長殿 五、〇〇〇、〇〇
日本赤十字社和歌山県支部殿 一〇〇、〇〇〇、〇〇
田邊視務所労働組合殿四〇〇、〇〇
新庄村北長字殿 三、〇〇〇、〇〇
県庁より地方事務所を通じ一般義損金 九七、五六〇、〇〇
同胞援護会和歌山縣支部殿 五〇〇、〇〇
和歌山縣知事殿 一、〇〇〇、〇〇
新庄村旧翼賛会支部殿 一八六、九八
新庄村旧翼賛会年團殿 二二一、二六
内閣総理大臣より死者に対し 四、四〇〇、〇〇
合計 二三〇、六五六、〇〇
右金額は、左表の通り罹災者に配分された。
次に各地小学校教職員生徒一同より當村小學校に対し、左の寄附を寄せられ、父兄をはじめ職員生徒一同を感激させた。これらは生徒の教科書代、學用品代に用いられ、一部を以つて復旧作業用具の買入資金に當てられた。即ち
下秋津小學校 三九五円〇〇
上芳養小學校 五一七円〇〇
三栖小学校 五〇〇円〇〇
和歌山縣教員組合
縣下小学校 六、一〇〇円〇〇
中芳養小學校 五〇〇円〇〇
長野小學校 五七五円九〇
稻成小学校 三九六円五〇
万呂小攣校 二四〇円〇〇
上秋津小学校 六四四円〇〇
秋津川小學校 三五〇円〇〇
少年赤十字團 三〇〇円〇〇
日本赤十宇社和歌山支部 二五、七九〇円〇〇
合計 三六、三〇八円四〇
日本赤十字祉和歌山支部 學用品、衣類大包二個
教員組合 ケシゴム一三五個、くれをん六〇函墨一一五個 筆入四五個
帳三五〇〇冊 鉛筆五七〇〇本 衣類一包
和歌山援護局 帳三五〇冊 鉛筆四〇〇本
上芳養小學校 草履三百足
下秋津小學校 草履三百五十足
上秋津小學校 草履八百二十足
尚、國庫補助金並に大藏省預金部よりの借入金は左記の通りである。この借入金は、当村はじまつて以来、最初のものであつた。
【下段】
109頁13行目 布團→蒲團
110頁下段6行目 税務所→税務署
八、天皇陛下の行幸
【上段】
昭和二十二年六月八日、天皇陛下には、震災地の惨状を御軫念になり、此処、南海の僻諏、災禍の地、新庄村の人々を、親しく御慰問給つた。吾等の感激は、どんなであつたであろう。誰れ広彼れも、眼に涙の露を浮べて、お迎え申上げた事であつた。
其の日零時三十八分、御召列車は田邊驛着、陛下には御出迎いの人連の前を、杏井驛長御先導、東出口を出られ、小森田辺市長、木村助役、正副市会議長、各官公聴長官、縣選出参議隆議員、代議士、婦人會代表など、名士多数の御出迎へを受けさせられ、直ちに、自動車に御召しになり、沿道を埋めつくした学校兒童生徒並に一般の奉迎者に、御會釋を賜り乍ら、一路元町の水産学校へ成らせられた。
水産学校では、内田校長の御説明をお聞きになり、無電室では、沖合に碇泊中の武智丸から、無電による御巡幸感激の御挨拶を御聴取、標本室を御覧の上、裏庭にお出ましになり、望遠鏡によつて白浜等を御遠望になつた。
其れより、元の道順を逆に驛前へ出られ,町を埋めた奉迎者に応へられつ・、第二小学校にお向いになつた。第二小学校では御迎えする児童に、一々笑顔で御優しきお言葉を賜り、新宮市より来田している新宮市代表者に対して「津浪は随分ひどかつたろうね。今後復興に努力して貰いたいね」と有り難き御言葉を賜われば.玉置醒市會議長は、ハンカチを顔に当てて、嬉し涙を流していた。また、矢船くみ子(23)さんは、戦死した兄、陸軍伍長の爲眞と一緒に御迎え申上げていたが、不圖それを御覧になられた陛下は、立ち止まつて敬禮され、「遺族だね、氣の毒だつたね、再建の爲めに努力して貰いたい」と仰せになれば、一同感激の余り声を立てて泣く者すらあつた。
それから引揚者の住宅、和風寮に向わせられたが、此処では、入口で村上音松(30)さんに「何処から引き揚げられたの、苦しいでしようね。途中、大変だつたね。日本再建に、努力して貰いたいね」と仰せられ,更らに新庄村分村新渚寮では、一室々々御視察になり、罹災者一同、余りの有難さに、感極はまつて涙する者もあつた。
かくて大戸越えを文里街道に出でさせられた鹵薄は、徐行しながら、震災地新庄村へと向われた。
鹵薄の順序は、前驅として自動車三台、それには、警部補報告員、通訳、警察官ヱムピー、警視,警部、行幸主務官、次に御料車。次に供奉の宮内府侍從、後驅として警視警部随衛、つづいて宮内府扈從、政府大臣知事官房主事属從,内務省警察部長扈從、宮内府用(整備)一車、予備車一車、警部補一車、通訳警察官ヱムピー一車、外人記者のバス、宮内府記者のバス、縣内記者のバス、警察署用車等が、一定間隔を置いて続いた。同時に大戸越えの雑木林には、村の警防團員が、夫々の位置について御警衛申上げた。
文里の港に初夏の光が盗れ、製材工場も一時休止、天地一帯、今月のお成りのめでたかれと静まつていた。
災後の復旧も、着々進められて居るとは言え、縣道沿いの田は塩害の爲め植付は覚束なく、螢林署の官材は依然として散乱して居り、川の堤防は末だ欠潰したままであつた。それよりも、新庄村の生命たる製材工場も、未だ復旧しないものが其処此処にあつた。港には造船所の沈没船が横わり,造船所は破損して沈黙していた。
やがて黒山の奉迎者の間を鹵薄は静かに倉谷製材所の材木置場に到着になつた。其処には港に向つて一段高く御野立所が設けられ、白布を覆うた椅子とテーブルが備付けられていた。机は役場の事務机、椅子は山長の安樂椅子で、陛下をお迎えする調度としては余りにも貧弱であつた。然し、これが村として最上のものであつた。
やがて、お野立所にお立ちになられた陛下の御前へ、南村長は恐催して進み出た。そして畏れ謹み乍ら奏上文を読み上げた。陛下は時々御頷ずかせられ乍ら、逐一お聴取になつた。
【下段】
115頁4行目 鹵薄→鹵簿(以下同じ)
115頁14行目 横わり→横たわり
奏上文
【上段】
陛下におかせられましては、当新庄村の震災復興につき深く御軫念あらせられ、畏くも、此の南海の僻地にお巡幸給いましたことは、無上の光榮とし、恐催感激に堪えない次第でございます。謹みて茲に
当新庄村の震災被害並に復興施策の状況につき奏上申上げます。
昨年十二月十一日未明午前四時十九分、突如當地方一帯に亘り激震がありまして,其の震動は約五分間の長きに及び、其の強烈さに於ては石老も未だ経験しない激烈さでありました。
其の後約二十分を経過した頃、大地鳴りと共に丈余の津浪が襲来し、忽ちにして全村を濁水に巻き込み、村の総戸数六百三十一戸中五百十七戸を流失又は崩壊浸水致しました。伺この津浪は容易に減退せず、其の後数回に亘り大自然の暴威を逞うして、阿鼻叫喚の世界を現出しました。これが爲め、當村人口二千九百四拾一名の内、実に二千参百九拾一名が罹災致しまして、二十二名の死者と、一名の行方不明者を出しました。官公衛の殆んどは被害を蒙り、農地九十七町歩中五十町歩は流失致し、其他道路の缺潰、橋梁の流失、工場の流失半壊等、多大の災害を蒙つたのでございます。罹災民は、災害當時、附近の高処に避難致しましたが、災害後一二日を経過致しまして、遂次民家や神社閣に収容し、尚収容し切れない者に対しては、田辺市の天理教會に急設せられました収容所や、文里にある元海兵團の兵舎に収容し、応急炊出しを実施したのでございます。又衣料品の流失又は浸水の爲め、当時罹災民は寒氣になやみ心配致しましたが、縣当局の敏速なる処理と、各方面から急送せられた同情ある救援物資が直ちに配給せられ、一同感激致しました。又、田邊保健所、紀南病院、縣医師会、日本赤十字社和歌山支部並に附近學生班,民間診療班等の救援を受け、防疫に万全を期した次第でございます。
次に復興状況につき奏上申上げます村と致しましては、復興対策委員會を設け、食糧、住宅、土木、衛生、産業、教育の各部門に亘つて、挙村薮、復興に努力中でございまして、災害当初、手のつけようもない程荒れはてていた民家も、村民の復興への熱と意氣によりまして、着々修理されつつあります。流失其の他により家を失つた者に対しては、村では簡易住宅五十戸建築の準備を進あ,復興用資材も全部移入を終り、今着々研究中でございます。
流失致しました内の浦分校も、田辺市里の元海兵團兵舎の彿下けを受け、近々改築する運びになつて誉專。欠潰、流失致しました道路橋梁につきましては、附近村の警防團員、男女青年團員、一般村民の応援を受け、修理を終り、日々復旧しつつある次第でございます。
以上をもちまして、新庄村におきまする震災並に復興の状況の奏上を絡ります。
陛下におかせられましては、深く大御心を我等の上に垂れさせ給い、遠く南海の僻村に、玉歩をあゆませられました。この光榮、この感激、万感胸にせまり,言の葉もございません。我等村民一同、一致團結,一日も早ぐ復興を完成致しまして、陛下の御軫念を安んじ奉りますようお誓い申上ます。
茲に村民一同を代表致しまして、御禮を言上申上ます。
昭和二十二年六月八日
新庄村 長南平七
かくて、陛下には、直ぐに御野立所をおたちになり,震災によつて親兄弟叉は子を失つた遺族の奉迎に一々応えさせられ乍ら、お帰途につかせられた。分けて子供に向つては「立派な人になつて下さいね」と優しいお.言葉をかけられ、又戦没者の遺族たる一老婆に対しては「氣の毒だね、苦しいだろう」と、慰めのお言葉を賜る等、村民を憐れむ御心を注がせられ、並み居る人々は、唯々有難涙にむせぶのであつた。
それより再び鹵薄の列を正し、一路、礫山から田辺駅へと向われた。
礫山の東側から西側にかけて、富田川筋、三栖秋津谷、田邊中部、高女、家政の各学校生徒、並に一般奉迎者の一列する中を、ソフト帽をふられ歡呼の声に応えられつつ、優しい御笑顔を向けさせられた。
思えば、新圧村としで、紀南地方に於てためしなき再度の行幸を添うしたのであつた。それは、昭和四年六月一日軍艦長門に御召しになり、白濱町京都大学瀬戸臨海研究所へ御臨幸、其の節、畠島並に当村神島に立寄られ、植物の御採集をなされたのが最初であつたのである。
當時の村長故田上次郎吉氏、助役坂本菊松氏、及び田辺の磧學、故南方熊楠氏御先導申上げ、熱帯植物北限の地、神島を御案内申上げ、叡感まことに深かつたと拝聞する。分けて村民は白浜町に至つて奉迎し、御道筋は十重二十重の人垣を作つた事であつた。
今年六月十五日、陛下御臨幸のお禮を宮内大臣宛に言上、御■賜金拝受につき、時の知事、野手耐氏に執奏方取り計らわれ度き旨、書面を差し出している。即ち
聖上陛下
今般阪神地方御巡幸ノ御途次僻阪紀南ノ地二
龍駕ヲ駐メサセラレ遍ク仁風慈雨二浴セシメ給フ
聖恩毎二優渥欽荷暇アラス殊二
玉歩ヲ我ガ新庄村二柱ヶサセラレ殊常の恩賓ヲ賜リ感激恐催二堪ヘス奉公盡忠ノ念盆々切ナリ村民一同謹ミヲ聖恩テ奉体シ和衷協同以ヲ皇恩二応へ奉ランコトを期ス
右御執奏ヲ講フ
昭和四年六月十五日
和歌山縣西牟婁郡
新庄村長勲八等田上次郎吉
宮内大臣 一木喜徳郎殿
御下賜金拝受二付御禮言上二関スル件
聖上陛下 今般紀南行幸ノ御砌我ガ新庄村へ
玉歩を柱ゲサセラレ然シテ又御下賜金ヲ拝受シ寔二感激恐催二不堪村民一同ヲ代表シ別紙ノ通リ御禮言上致シ候間執奏方宜数御取計相成度候
昭和四年六月十五日
西牟婁郡新庄村長 田上次郎吉
和歌山縣知事殿
尚當時、わん珠壱百個、爲眞二枚、但し神島全景及わん珠を撮影したものを、今年五月六日野手知事を通じて傳献している。
昭和五年六月一日,神島に、石の記念碑を建立した。それは縦八尺五寸、横三尺五寸、厚さ七寸で、碑面には、至尊登臨之聖蹟として、南方熊楠先生の和歌一枝もこゝろして吹け沖つ風
己か天皇のめてましし森そ
が刻まれている。
それにしても,さきの行幸をしのび、この度の御幸を仰ぐにつけても,申すも畏きこと乍ら、その間に起れる不幸なる戦の爲め、國運は有吏以来の悲惨なる状態に陥り、現下のきびしき艱苦と、試練と、國民思想の甚だしき変化に思いを致すとき、感慨まことに泉の如く、次々に湧き来つて限りなきものがある。
しかし乍ら、終戦当時、今日の生く日に
朕ハ爾等國民ト共二在リ常二利害同ジウシ休戚を分タント欲ス
と、神を離脱し人としての天皇となられた陛下はかく仰せられ,この地にお巡幸じなり、災禍の我々を親しくお慰め下され、我々は目の辺りにお姿を拝し、有り難きお声に接するを得たのである。われ等の喜び、我等の感激、我等の胸に熱いものの込み上げて来るのを、どうする事も出来ないのであつた。
我等村民は、謹みて、聖恩を拝謝し、而して新庄村の復興を完成し、更らに平和日本の建設に一段の力を致すべき事を、かたく心に誓はねばならないと思う。
【下段】
119頁16行目 奉体シ→奉戴シ
119頁16行目 コトを期ス→コトヲ期ス
121頁2行目 己か→わか
九、美わしき責任
【上段】
地震津浪中の美談に類する実話の資料に相當の期待を掛けていたが、予想に反して少なかつたと、同胞援護會和歌山縣支部発行の昭和紀伊洪浪の記の著者は述べている。けれども時の司法大臣鈴木義男氏を感激せしめ、表彰状に金壱封を添えて贈られた、当村書記葉糸正昭君の適切機宜な措置に対し、村民の感激は深い。左に、當時の君の行動を記るして永久の感謝の記録とする。
廿一日早曉、だしぬけに超つた天変地異に夢を破られた葉糸正昭君(廿一才)は、ゆれ動く座敷で、ようよろとふためいた。逃げよう、倒をれる、物の落ちる音……、正昭君の若い頭に、電光のようにつつ走つたものは|職場|であつた。屋外では、既に、人々の叫びが聞こえる。耳を澄すと--津浪々々--と連呼していた。
そうだ。このままで居てはならない。職場!職場!職場の役場へ!そして突嗟に自宅を飛び出した。もう彼の胸じは何ものもなかつた。ただ、あるものは彼の職場たる役場への強烈なる責任観念だけであつた。
闇の中には,白く押し寄せて來るらしい浪頭が見える。家の事も、ちらりと頭をかすめた。しかし自宅には一入の兄と一人の弟がいる。今、この職場への責任を果さないでどうするか。役場には宿直員が居る筈であるが、どうして居るだろう。早く行つてやらなければ、さぞ困つているだろう。そして、家の事など再び思わない彼であつた。
往來は高い。人々は口々に叫びながら避難している。彼は駈けた。役場まで約十町、それを千里の様に感じ乍ら、ひた走りに走つた。潮は、ざあーッと足許に押し寄せた。
彼はやつと役場にかけつけた。同僚の宿直員を捜している暇もなかつた。いきなり三冊の戸籍簿をかかえ込むや、直ぐに高所へ高所へと避難し、それを安全地帯に運び終えた。
戸籍簿は、貴重な村の記録の一つである。万一潮に奪われたなら、それこそ永久に得る事の出来ない記録である。正昭君は、この貴重の簿冊の安全を計り得たのである。それにしても,よくも果し終つたものだとかえりみて、夢の様な思いと共に、感激がひとりでに込み上けて来て、どうする事も出来ない彼であつた。
葉糸正昭君は態野林業學校の出身で、熊林の助手をつとめ、次に開拓事業に從い、其の年の八月から新庄村の役場吏員になつたのである。
突嗟の聞に、沈着、しかも重大な責任を果した事は、日常、彼の胸裡に深く根ざしていた、旺盛な責任感のいたすところであつたに相違あるまい。
【下段】
122頁4行目 超った→起こった
122頁8行目 突嗟→咄嗟(以下同じ)
葉糸正昭(故人)新庄町三七二番地(中橋谷) 後日、和歌山市に移住。
一〇、津浪と其の対策
津浪と其の対策については色々ある、即ち上述のうち、之に蘭する指摘を除いて、尚を若干ここに述べてみたい。
1、避難の心得
【上段】
文里湾では、津浪は屹度、地震後十五分乃至二十分後に來るものと、畳悟して置くべきだと思う。万一津浪が來ないからとて、油断は禁物である。それは、安政の古事を見ても明らかである。
四國の牟岐では、津浪は、地震後卅分位経過してからでなくては來ないものと言い傳えられ、或る所では、地震があつても、飯を焚いて背負つて逃けても,津浪に問に合うものと言い傳えられていたが、此度は、いつれも、意外に早く來たものだと、狼狽していた相である。
昭和十五年、北海道神威崎沖の地震には。震後十四分で、岩内に津浪が襲来して居り、昭和十九年の東南海地震では、熊野灘沿岸に、震後十分で津浪が到達している。
だから、之等各地の実際より推して、前記十五分乃至二十分なるものも、將來の津浪に対し、一定不変のものではなくて、震源地其他によつて異る事を、記憶して置く必要がある。
然らば、比の短時間を、如何に有効に使用し、安全に避難すべきだろうか。
之れに就いては、日頃の心構え、その用意が、全てを決定するものと考える。まして、南海道大地震津浪の如く,夜間に突発したものに於ては、特に然りである。
前掲、座談會に於ける、灯の用意、貴重品の処理、或は生活必需品の携行等、突嗟の間に落ち付いて処理し得る如く、常日頃の用意が緊要であろう。ただ、家畜、分けて牛馬に関しては、内の浦座談會の記録が、何事かの示差を與えるものと思うがどうであろうか。兎に角、参考までに、和歌山縣立地方測候所が、昭和十年九月一日関東大震災記念として印刷配布した、美濃紙大のパンフレツト「不意の地震にふだんの用意」の中かも、當村として心得置くべき点を摘録したいと思う。
a、先づ消火……地震の害より火事の害が恐ろしい。先づ第一に火を消すこと。又潰れ家からの発火は数時間後にも起るから、注意が肝要である。(安政の地震の際の田邊の大火,南海道地震の際の綱不知の火事)
b、避難時の注意……強震の際には先ず窓や戸を開ける事。屋外へ脱出する時は、必す坐蒲團、バケツ、箱の如きもので頭を保護し、足袋又は靴をはく事。万一煙に巻かれた時は、地面を這い、手拭で鼻口を掩う事。
c、津浪の警戒……震動の長い場合は、誰れか一人海邊へ出て、潮の加減と海嶋りに注意し、若し変調を認めたならば、直ちに避難する事。此れに関しては、本書の各所に明記してあるから、諒解されるに違いない。
d、津浪に追われた時……近くの高所へかけ上る事。平地であれば津浪を背にして逃げること。津浪を横にして逃ける時は遂に浪に巻かるる。
e、避難の場所……崖、石垣、土塀、煙突、石燈籠,鳥居の下は危険。場所は地盤の固い小高い廣々とした所が最も良い。
それからまた平素の用意としては、
a、一杯の水……バケツに一杯の水と懐中電燈又は提灯、ローソクの用意を必ずして置くこと。
b、建築は基礎が第一……成るべく堅固な地盤を選ぶ事とし、又、基礎工事は、土質に從い充分入念にすること。
c、木造家屋の耐震……屋根は成るべく輕く、通柱を沢山使い、木材の接合せ目に羽子板鉄、帯鉄、かすがい、ボールト等を使用すること。又各部に筋違い、方杖等の斜材を用うること。又古い建物には必ず補強工事を加えて置くこと。
d、山崩れ……山や崖の下では、強震の際に崖崩れや、恐ろしい山津浪を起すから、予あ避難方法を考えて置くこと。
e、井戸は大切……大震の際には水道が大抵断水するから、水道が出来ても井戸は残して置く方がよい。
f、棚のもの、発火性の藥品……陳列戸棚や書籍棚其他転倒落下し易いものは、平素から、相當工夫して置くこと。叉危険性の藥品の貯藏については、常に地震の場合を考え、安全な方減を講じて置くこと。
g、養蚕家の注意……保温装置中は、地震の場合を考え、消火の方法を、予め考えて置くこと。
h、屋外への脱出……大震の場合は、戸や扉が開かなくなり,倒潰物其他の物に妨げられ、容易に屋外へ腕出が出来難いから、平素から第一第二第三の脱出方法を充分に考究して置くこと。叉室外へ出ても、道路へ出るまでに障害物の多い箏や、又は暗夜を予想し、最善の方法を工夫して置くこと。
i、避難の場所……大震や津浪の場合に避難する道筋、及び集合の場所を、平素から定め、家族及び字に於ても固く申し合せをして置く事。
j、貴重品つ持出……避難の際、貴重品の持出の爲め思わぬ災厄に遭う人が多いから、平素から貴重品を素早く持出す方法を考えて置くこと。
k、津浪の防備……津浪の災害を受けた所では、今後も、其の害を受けるものと覚悟し、速に防波堤、防潮林,護岸堤、避難道路等を設け、住宅は成るべく高所へ造ること。
【下段】
124頁14行目 示差→示唆
124頁16行目 中かも→中から
125頁4行目 坐蒲團→座蒲團
2、避難道路
新庄村の橋谷名切を大観するに、村の道路は、概ね東四に幹線が走り、南北に支線が連らなつている。
支線は主として農道であり、津浪を対象としては居らない。まして、各家について之を見るとき、避難の便、不便がある。例えば。波止場、駅前、新田の一部、東名切等、不便の部に属する。然かも、これ等の部落は,人口の密度が最も高い。即ち、この点より考えて、避難道路開設上、検討すべき点、多々あるのではあるまいか。
由來、避難道路は、荷車、リヤカー等の曳き得るだけの道幅を要する。たとえ、時間の余裕がなく、身をもつて逃るる体の津浪にしろ、道幅の廣くして平坦なる道路は、田圃道より遙かに安全であらう。
道路を完備し、避難指標を建つれば,更らによろしと言うべきではあるまいか。
3、防潮堤
津浪の被害は、海岸の形に依つて差異がある。即ち、海岸線に凸凹がなく、大体直線状であれば,被害は少く、それが遠淺なれば尚お安全である。けれ共、港湾或は入江に於ては、被害はまぬがれ難い。
茲に、V字型、U字型、袋型の三湾があると仮定する。此の場合、どの型の湾が、津浪の被害を最も多く受けるだらうか。
岩手縣の綾里湾は、完全に近いV字型湾であり、同縣越喜來湾は大体コツプ状をなしたU字型である。
明治廿九年六月十五日の大津浪において、綾里湾の湾奥では、波の高さ三十米と云う,我国としては最大の記録を示したが、越喜来湾では、四、五米の高さに過ぎなかつた。同時に、袋型はV型U型に比し、津浪の波高の遙かに低い事は、説くまでもあるまい。
今、文里港について考えるに、文里港は不完全乍ら、袋型をなしている。ただ田辺湾の中の小港である爲め、波高は田辺湾より高く、被害の程度も亦大きい。しかし乍ら、防潮施設の点より考うると、港湾は入口の深淺及び廣狭によつて、津浪の高低に差異を生ずると謂う。即ち、此の点よりして、茲に、いくつかの間題を提起しては居ないだらうか。
昭和廿三年に起工し、昭和廿五年に竣工した、縣道沿ひの防潮堤も、必ずや津浪の被害を最少限度に喰い止め得るに相違ないのであるが、今一歩研究の歩を進あて、文里港の入口に防潮施設を施し、更らに又跡之浦、内の浦に対し、座談会に於ける、坂本元村長の発言其他を参考として、更らに一暦適切なる具体案を考究すべきであると考えるが、どうであらう。
尚、各家に關する防潮施設として、南海道大地震津浪における好例を、茲に引用して、一般の参考に供し度いと思う。即ち,徳島縣牟岐町は、当時、可成りの惨害を蒙り、中でも、同所本町の如き、多数の潰れ家を生じたのであるが、其の一角に、多少傾いただけで倒潰を免れた家が数軒あつた。その原因は、其等数軒の内、海岸に近く汀から三十米ばかり離れた一階家が、海岸側に高さ一間厚さ五寸位のコンクリート塀を設けていた爲あであつた。「小さな塀の偉大なる力よ」と云い度い。心すべき点ではあるまいか。
一一、津浪潮位標
【上段】
昭和二十三年、南海大地震津浪潮位標建設の議が村議會において採り上げられ、全年五月廿一日、竣成し建設された。標の高さ六尺、上八寸、下一尺二寸、頂部を立錘状とした、四角のコンクリ1ト柱である。此れが建設費壱万円、建設場所は駅前、役場前,北原三叉路、跡之油東部落の道路沿い,及び内の浦部落會舘前である。尚、標の前面に南海大地震津浪潮位標、標の裏面に昭和二十一年十二月廿一日と刻し側面若しくは其の上部に、潮位の赤線を一線ひいている。
草萠ゆる南海津浪潮位標 波止場 福島右衛門
かきうてりつなみくづれの石垣に 名切 松本無二花
寒燈や津浪あげくの納屋住居 跡の浦 塩崎室比古
逝く年や壁に津浪のあとしるく 名切 中井北水
津浪にも堪えし松なり注連張らむ 名切 榎本三呆
寒波ひそと凪ぎぬ人家をのみしまま 名切 小山四方見
【下段】
松本無二花=松本義一(故人)
新庄町二〇四九番地(西名喜里)
塩崎室比古=塩崎幸夫(前掲)
中井北水=中井竹吉(前掲)
榎本三呆=榎本新吉(前掲)
小山四方児=小山軍助(故人)
新庄町四三七番地(東橋谷)
129頁7行目 三又路→三叉路
おくがき
【上段】
十月のはじめであつたか、「津浪の座談会を開いて下さい。年と共に津浪の事を忘れて仕舞つては不幸ですから」という投書が、名切の公民舘投書函に入つていた。で、早速其の準備に取りかかつた。
先づ村役場へ行つた。其処には記録すべき書類が相当ある筈であると思つたからである。
ところが、どうした訳か、ひと纏めに纏めていない。で、止むを得ず、永久保存の村誌に関する綴と、昭和廿二年一月三日以降の復興対策書類綴を借りて來た。しかし、これだけでは、どうにもならぬ。其の後しばしば役場へ出かけ、記録の名を言つては、係員から出して貰い、色々面倒な調査を頼んだり、煩はしたりした。
これより先き,新庄中學校に、津浪の記録があると云うことを耳にした。何でも津浪一週年を記念して作つたものらしかつた。早速出かけて行つて、倉本先生に話して見た。すると、直ぐに悦んで出して呉れた。それは、田中清次先生が生徒と共に実状調査に当られ、野口幸子先生が筆をとり、清水長一郎先生、倉本一恵先生が地圖を書き、序文とあとがきの外に、一、現実 二、実状調査 三、対策 四、其の他から成つて居るものであつた。
これが此の書に一つのヒントを與え、生みの親となつたのである。
十一月三日文化の日の夜、公民舘において津浪の座談会を催した。翌四日の夜、新庄第二小学校においても亦同様の催しをした。その後十四、五日間、座談会出席者の家庭を歴訪して、當夜の話を再度聞き歩るいて正確を期し、更らに當夜欠席されていた方々を訪問して、あらたなる話柄を拾つた。そしてこれを十二月号の舘報に登載した。
其の後、村長から、震災記録編纂の依頼を受けた。で、家の仕事を投げ打つて之に没頭した。
以來、村役場はじめ田邊圖書舘、地方事務所、其の他から,順次資料を蒐集した。中央氣象台発行南海大地震調査概報、和歌山縣災害救助封策協議事務局発行「地震津浪のはなし」等の書物を参考とした。又元村長坂本菊松氏から「不意の地震にふだんの用意」と云うパンフレヅトを届けられ、南村長,田上先生眞砂久一氏から爲眞の御貸與にも預かつた。表紙檜は西野健次郎氏、題字は藤本校長先生を煩はした。
それや、これやで、私自身、麦の作付けも怠った。大根も花を咲かせてしまつた。
かくて出來上つたのが本書である。以上録して感謝の言葉に代えたいと思う。
幸にして本書が地震津浪の過去を細述し、今後の備えともなれば幸甚これに過ぐるものはない。
昭和廿六年五月廿一日
波止場の寓居にて 福島右衛門
【下段】
略歴
明治三十二年十二月十七日 新庄村一六二番地に生まれる。
同四十五年 新庄小学校卒業。
大正六年 田辺中学校卒業。以後、日高銀行・紀南無尽(株)等に勤務。
昭和二十五年 新庄村公民館専任主事に就任。
同年 新庄村議会議員。
同二十九年 田辺市事務嘱託として新庄公民館・田辺市公民館(兼務)に勤務。以後、田辺市役所庶務課勤務等を経る。
同四十一年 依願退職後、田辺市誌編纂事務嘱託に就任。「田辺市誌(二)」編纂室主管。「田辺文化財」や「くちくまの」誌への寄稿。
同四十五年五月十四日 国立田辺病院で逝去
(享年七十歳)
老幹に梅ほころびてありにけり 右衛門
帯解や唄の師匠に養はる 右衛門
どぶ浚どんがめ蟲の溺れたり 右衛門
原本奥付
【昭和の津浪】
昭和二十六年五月二十五日印刷
昭和二十六年五月三十一日発行
(非売品)
和歌山縣西牟婁郡新庄村四三七番地
著作兼発行者 福島右衛門
和歌山縣田辺市海藏寺町一〇七四番地
印刷者 坂口武二
発行所
和歌山縣西牟婁郡 新庄村役場
昭和の津浪余録
津波犠牲者の周辺(談話)(カッコ内の年齢・住所は震災当時)
△井上澄夫(一才)の母カツエ(二十八才)・新庄町十一番地(橋谷文里)談
地震の振動がおさまって、着がえる余裕もなく寝間着のうえにモンペをはいて、生後四十日の澄夫を背負い、六才の裕子を連れて、道路に出た。
しばらくして近所の山本さんが「津波がくるぞ……」と言いながら馬にまたがり、山の方へ駆けていったので、家の中でぐずぐずしていた主人に「もう皆んな逃げたで、早く出てきて!」と叫んだが、のんびり屋だけになかなか出て来なかった。主人を置いて先に逃げることもできず、いらいらしていたら丁度そこへ、先に逃げていた隣の谷口西恵さんが子供さんを背負って「忘れもんしたのでとりに来たんや。」と言って帰ってきた。その時谷口さんは「津波は引き潮が強いらしいから気をつけなあかんよ……」など声をかけてくれながら家の中に入って行った。
「お父さん、早く早く……」と叫んでいるうちにやっと米をかついで主人が道路に出てきた。さあ逃げようとした時、足もとにジャブジャブと潮がきたかと思うとみるみるうちに首までつかってしまった。主人は背負っていた米を放り投げるなり長女の裕子を左手で、かかげ上げるようにして肩にのせ、右手で流れる丸太をつかまえて、私に「丸太を両腕でかかえこめ」「股に丸太をはさめ」と叫んでくれたので必死になって丸太を股にはさみ、両腕に丸太をかかえたのでどうにか浮くことができた。
流されながら頭の上を波といっしょに、とび魚のように丸太がとび越えてゆくようだった。
まっ暗で周囲がどうなっているのか、どこを流されているのか、さっぱりわからなかったが、前方の灯り(実際は焚火)がプカプカ浮かんでこちらに流れてくるように見えた。
そうこうしているうちに足が何かにつかえた、「ここは新道?」(現在の国道42号線を当時はしんみちと言った)一瞬助かるかも、と思った、と丁度その時目の前に四角の柱で組んだ二畳ぐらいの広さのイカダが流れてきた、ひっくり返りかけながらも必死でその上に乗ることができ、そこからしばらく流されて鉄道線路近くの民家のところで主人、裕子も離れることなく助けられた。
冷たい海水につかっていたため裕子は、もう足はカンカチになっていて、意識が朦朧としていた。眠らせてはおしまい、と思って焚火で暖めてもらうと同時に顔を叩き続けた。そのうちやっと赤味が出てホッとした。しかし背中におぶっていた澄夫は、流される中で何度も海水をかぶったためか背中から降ろした時は、すでに冷たくなっていた。「生まれてから、たったの四十日の生命で死なせてしもうて……」
明くる日、流されている時に離さまいと必死に丸太を抱え続けたためか、胸から全身が痛く、とても動けなくて、澄夫の埋葬にも立ち会ってやれなくて今も悲しい想いはぬぐえません。
主人がもっと早く家を出てくれていたら澄夫は死なせなかったのに……と今もくやまれてなりませんが九死に一生を得たのは主人と離されずに、声をかけ合っていたからだと思う。
△小倉あや(三十二才)小倉紀夫(五才)小倉章代(一才)稗田たき(五十九才)の主人小倉豊(三十三才)・新庄町三七七番地(橋谷文里)談
地震のものすごい震動が一応おさまったあと「近所の人達が、津波がくるかも知れんよと言っているから逃げよう」と家内に言ったが、長女章代を産んでからまだ一週間目で寝床に伏していて、身体も相当疲れていたのだろう、それに山村育ちの家内には、(私もそうだったが)、津波に対する認識が皆無だった、「津波が来るか来ないかわからないのに私は逃げたくない」と言って動こうともしてくれなかったので仕方なく、長男の紀夫だけでも先に避難させようと背負って家を出た。
途中、角戸さんの小路で、橋向さんの奥さんらと逢って橋向さんに「逃げんと言ったって、無理にでも連れて来なかったらあかんで!津波は必ずくるから」と言われ、再び家に帰って「起きたくない」と言う家内を無理矢理立たせ、家内の母稗田たきに赤ん坊章代を抱いてもらって、私が先頭に立って、紀夫を背負って、橋谷川の左堤防を山にむかって逃げていた。
その時突如として津波が襲い、波が河岸を這い上ったかと思ったら、ドウ!と足もとに潮がきてアッというまに右側の土場に叩きつけられた。
帯もせず両手をうしろに組んだだけで背中に乗せていた紀夫は一瞬のうちに投げとばされ見失ってしまった。
あとどうなったかは全然記憶にない。鉄道線路ぎわで浮いているところを小谷福芳さんに救けられたようで、焚火で暖めてもらっているうちに気がついたようだ。たすけられた時はすでに鼻血を出していたようで、よく生き返ったもんだと思うと同時に救けていただいた皆さんに感謝でいっぱいです。
しかし、あとについて逃げていた家内や、生後一週間の章代、それに家内の母らが一瞬のうちに生命をうばわれてしまって、私の津波に対する認識の無さから、家族みんなを殺してしまって、こんな悲しいことはない。
△津田幸次郎(四十三才)津田マサエ(四十才)と同居の塩本きみえ(二十六才)・新庄町三七七番地(橋谷文里)談
津田さん夫婦は、私の父と知り合いとかで和歌山市から疎開してきて私宅の二階に住んでいました。
地震で家は倒れずにすみましたが家の中はぐしゃぐしゃで、おまけに真暗闇ですから仲々歩けなくてやっとのおもいで表へ出られた状態でした。
「津波がくるかも知れんから先に逃げとけ」と主人が言うもんだから、父、母、私と子供二人の計五人が、裏木戸から出ようとしたが出られないので裏の窓からとび降りて、木材置場を横切って新道にかけのぼり(当時土場は国道より1m位低かった)逃げました。
次女のみき子が生後十四日目で首がまだすわってなく、両手に抱いて逃げていたが足もとが暗い上に障害物が転がっていて、とても早く歩けないので途中で足首を握ったまま背中で宙づりにしたりして逃げました。
二階に居た津田さん夫婦は、一度表に出て様子をうかがって居られたようですが、津波がくる寸前になって荷物をとりに戻り、それを背負って逃げる途中に津波に襲われたようです。
近所の小倉あやさんには、津波の前の晩見舞いに行って、床に伏しておられたけど「元気か」「元気やで」と声をかけ合い、「女の子だったのでうれしいよ」と長女の誕生をよろこんで居られましたが、その言葉が最後だったわけで、今も耳に残っています。
△谷口西恵(三十八才)谷口富子(六才)の近所に住んでいた目良(現中田)とよ子(十九才)・新庄町十一番地(橋谷文里)談
地震のゆれがおさまったので、とにかく表の道へ出ようとしましたが玄関の戸が開かなく、蹴とばして戸を破って道に出ました。
「潮がひいて文里湾が空(から)になりやるから津波がくるぞ!」と誰かが叫んでいるので、父、母、兄、姉、妹二人、私の計七人が一緒になって、大戸の中谷重太郎さんの高台に逃げました。
途中まで一緒で杉若製材の事務所の手前まで娘の富子さんを背負って逃げていた谷口西恵さんが「お米をとりにちょっと帰ってくる」と言って引き返そうとするのでみんなが、「あぶないからやめよし」と言ったのですが、そのまま来た道を帰って行きましたが、それが最後でした。
△岩井よね(五十一才)の隣室(第一製材事務所)で泊っていた中井芳男(二十三才)談
岩井よねさんは第一製材事務所と同じ棟の部屋で自炊され、薪切りの仕事をされていたが、地震の震動がおさまって表に出て来られていて、地震のすごさをひと言三言話し合ったが、ほどなく私は自宅に帰ったのでその後の様子はわからない。
唯、同じ所に居た夜警の那須清一郎、橋向卯吉さんらはたすかっているし、坪井さんも、流されて鍛冶屋(前田幸一)の二階(新庄町四〇六番地)でたすかったと聞いていますから、逃げる途中で津波につかまり遭難されたのじゃないでしょうか。
△広崎八重子(十才)マツヱ(五才)宏平(二才)の姉弟と一緒だった広崎利八郎(七才)・新庄町四三七番地ノ九(駅前)談
当時七才で「津波が来るから先に北原の祖母の家へ逃げときなさい」と親に言われ近所の人々と駅前迄四人の姉弟で逃げて来たが、そこで小便がしたくなり家にもどって裏の川で放尿した。その時文里の製氷会社の付近が真白の滝のようにみえたが、まだその時には津波という意識が無く、家の荷物を整理していた両親にそのことをいったら、「早よう逃げよ」と叱られ駅にむかって走ったが国道の手前で潮に足を取られて倒されながらも直ぐに一直線に一本松の地蔵さんまで線路を乗り越えて逃げた。(編集注・津波の第一波は国道を十五センチばかり越す程度の潮位だった)逃げた道はいつも遊んでいた道で良く知っていたので助かったと思う。
母親に逢えたのはようやく顔が見えはじめた夜明け前だった。
父親はリヤカーを引っ張って逃げたが山幸さんの前で、動けなくなり、丁度伝馬船が流されて来たので、それにつかまっていたが引き潮に流された。運良く旧道に入り森下由作の家の電柱の処に来たので電柱にのぼり二階に居られた由作さんに窓の鍵を切って貰って、中に入れて貰い、潮の引くのを待ったと聞いて居る。子供の時には祖母の処(宮本利一宅)へ行くコースはいつも成川の川べりを通り、国道を横断して国鉄線路に出、線路脇を通って猪の谷川べりに北長の道に出て通っていた。姉たちは私の来るのを待っていたが待ちきれず此の道を逃げる途中、津波につかまったのだと思う。それだけにこのことはひと時も忘れることはなく、心が傷む。
△成川いそ(四十六才)の娘成川はるゑ(十六才)・新庄町四八二番地(駅前)談
地震がおさまってから母は「隣の坂本茂一さんとこに子供達がまだ小さいから、ちょっと様子を見てくる」と家を出て行きました。
いつまで経っても帰って来ないし「津波が来るぞ!」と叫ぶ声が聞こえ出したので「かあさん、かあさん……」と家中探し廻ったのですが返事がないので早く逃げなきゃと家を出ました。家の東側の排水路に沿った幅五十センチほどの道を膝まで潮につかりながら排水路に落ちないようにと、家側の柵につかまりながら逃げました。隣りの、山本幸子さん節子さん恵美子さんの三姉妹と一緒でした。
国道まで行くと、そこまでは潮は上ってきていませんでした。そこから新庄駅を通って駅裏の地蔵さんの山に逃げました。
「母が先に来て居てくれたら」の祈りもむなしく駄目でした。
それでも流されずに残った二階の、箪笥に置いていた「貴重品の風呂敷包み」が無くなっていましたので、母が取りにきて持っては逃げたが逃げおくれたのかなと思っています。でも家で母の帰りを待っていた私ですし、いくら暗いと言っても人の気配は判ると思いますが、いつ母が家にもどったかは私にはわかりません。出井の六平さんが目の不自由なお母さんを背中に、病弱の姉と三人の子を連れた奥さんらに「みんな揃っているか」と声をかけ合って逃げてゆく様子をみて、こんな時は家族は一団となって逃げなければならないなあと、痛切に感じました。
△出井利枝(二十六才)・新庄町四三七番地(駅前)談
成川さんのお隣の浜本貞子さんは、成川いそさんは一度新庄駅まで逃げてきていたのに「箪笥の上に忘れものをしてきたので取りに帰ってくる……」と言って帰った、と話されていましたよ。
△浜本せい(六十五才)浜本君枝(二十四才)と一緒に寝ていた浜本すみ子(九才)・新庄町四八四番地ノ三(西新田)談
おばあちゃん(浜本せい)と君枝おばさんと一緒に離れの屋敷に寝ていて、おばあちゃんに「地震や!早よう起きよし……」と叩き起された。
震動がおさまったところで枕元にたたんでいた服を素早く着て土間におりた。そこには割目ができていた。
おばあちゃんは逃げようとしないで手を合わせて一生懸命拝んでいた。
潮の様子を見に行っていた彦やんおじさんが遠くから「津波がくるぞ……」と叫んでいるのを聞いて、母屋の母のもとに走った。
母のお腹には五ヶ月の赤ちゃんが宿っていて四郎を背に、弥三男の手を引いて逃げる後を私も必死でついて逃げた。
その後おばあちゃんと君枝おばさんが、どんな行動をとったかは私にはわからないが、正月を真近に控えて、「あれも、これも持って逃げなきゃ……」と家族の先々のことを考えていて結局逃げおくれてしまったのじゃないかと思います。
△畑中梅乃(五十三才)畑中美智子(二十一才)畑中恒子(十六才)浜本せい(六十五才)浜本君枝(二十四才)の近所に住んでいた野中定(十七才)・新庄町四九三番地(西新田)談
父と母は完成真近の母屋の一階で、私と兄は、裏にある一階が大工仕事の作業場の二階に寝ていた。地震とともにドサッと大きな音がして箪笥が倒れて、敷いている布団の足もとが押えられた。幸いに怪我はなく、揺れがおさまったところですぐに服をきて中庭に出た。
家の中より庭の方が安全と、そこにムシロを敷いて布団を出し、寒さと怖さに震えながら坐っていた。
しばらくして「いやにおもての方が静かだなあ」と不安になり、兄に「ちょっと見てくる」と言って玄関にゆき表へ出た とその時、腹の底に響くようなゴォーという音がした。「アッ海鉄砲や……津波が来る!」と咄嗟に思い、家の中に飛び込んで、先ず食糧を持たねばと、暗闇の中を手さぐりで小さなトランクを探し当て「荷い桶」に入れていた米をつめて、再び玄関に立った。とその時、玄関のガラスがバリバリッと砕けたと思ったら海水が飛び込んで来た。
もう表の道から逃げるのは駄目だと思い、裏から逃げようと座敷を駆けて廊下に出た。とその時にはもう海水が湧きあがるように忽ち膝まできた。真暗で周囲はなにも見えなかったが、そこは住み慣れた家の中、裏の二階へと思って中庭に降りたら、もうそこは背丈ほどの海水で、ズブズブと沈んでしまった。
持っていたトランクを放して二階の階段目当てに泳いだが仲々見つからなかった。
作業場に入ってすぐに階段があるのにその時はどこをどう泳いだのか、結局階段をつかむことができなかった。
必死に逃げ場を求めて泳いでいたら目の前に小さな窓があり、そこをくぐりぬけると手の届く低い廂があった。何度も手をすべらせながらもどうにかその上にのぼることができた。
隣の畑中茂市さんの裏の二階建は頑丈な建物だったので、ひとまずそこへ、と屋根づたいに渡った。
二階には畑中茂市さんと永一さんが居られたが、茂市さんは「梅乃に美智子、恒子の三人、死なせてしもうた……」とふさぎ込んでいた。
なんでも「ここに居ても大丈夫やと言うのに山へ逃げんとあぶないとふるえながら言うんで丁度潮もひいていたので、裏の木戸を開けて様子を見ていたら、いつの間にかあとについて来ていた三人は私が腕をひろげて戸を開けている脇の下をくぐって、一メートルほど高くなっている新道(しんみち)と木戸の間に懸けていた「あゆみ板」を渡って山の方へ逃げて行ったが、ほどなく二回目の津波が襲って来た、そのまま逃げおおせてくれていればよいが、おそらく……」ということで意気消沈されていたのだ。
私が畑中さんの二階に辿りついた時は二回目の津波の来襲だったのか、階下ではバリバリと木が裂ける音の連続で、いつこの家もつぶれるかわからんなあと不安で不安でたまらなかった。
しばらくして西側の窓の下の方から「助けて!」と女の声が聞こえたので窓をあけて下をのぞくと、庭に植えられたみかんの木に人影らしいものが見えた。
「しっかりしよしよ、そこの屋根に移れんか?」と声をかけたら「おばあちゃんも一緒に居るんや……」と悲痛な声が返ってきた。
二階からは十メートルぐらいの距離だがどうすることもできないでいるうちに、すぐそばの小谷の新さんの家が動き出したかと思うたら、みかんの木をアッという問に押し倒してしまった。
あとで判ったのだが、浜本せいさんと娘の君枝さんだったのだ。
すぐ近くに居りながら、どうすることもできなかったくやしさは、今も忘れることはできない。
△野村まさ(九十二才)の川向いに住んでいた宮本子竹(三十二才)・新庄町二〇五九番地(西名喜里)談
「もう年やし、何時お迎え来てもよいんやから、津波は来たら、来たでええ、私は逃げないよ」と言って逃げなかったようだ。
息子の福三郎さんも七十才を過ぎていたし、背負って逃げることもできなかったのじゃないでしょうか、お家の中で亡くなっていました。
△岩崎すぎ(八十七才)の孫岩崎久(九才)・新庄町二五〇九番地ノ一(西跡ノ浦)談
「私はもうええ、津波が来たら来た時、この家で死んだら本望や、私にかまわんと、先に逃げよし……」と言って絶対に逃げようとしなかったようです。家から外に流されることなく、奥の部屋で死んでいました。
△石本きく(六十六才)と同じ町内の田村清次郎(三十二才)・新庄町三二七二(内ノ浦)談
石本さんは森なつ枝さんの「離れ」に住んで居たが、地震のとき一度小学校の裏山の方に逃げていたが「荷物を取りに家へ帰ってくる」と言って山を降りられたようで、そこで遭難されたようだ。
地震発生から津波の第一波まで(談話)
○「えらい地震だったなあ……」
近所の家々から皆んなとび出してきての第一声はこの言葉だった。しばらくして父親から
「弘(ひろむ)!津波がくるかもわからんから第一製材で荷車を借りてきてくれ……」
と言われて、千賀川の川伝いに第一製材まで行った。
丁度そこに、遊びにきて事務所で泊まっていたのだと中井芳男君が居た。
「ちょっと荷車を借りにきたんや……」と言いながらしばらく立ち話をして、荷車をひいて、もと来た道を家にもどった。
そこで家財道具を積みかけたとき、「津波がくるぞ!」と誰かが海の方から走りながら叫んできた。
もう荷車に乗せているひまがない。
咄嗟に家の中にとび込んで、醤油びんを右脇腹にかかえ一斗の米を右手に持ち、祖母の襟首を左手で持ちあげて千賀墓地の方へ逃げた(祖母は背中が曲がっていて背負うことが出来なかった。)
少し後から来た父らは足もとに津波の第一波をうけたそうだ。
新庄町四三四番地(東橋谷)
谷口弘談
○その夜正月の芝居の稽古を終えて第一製材に遊びに行って泊った。
地震の揺れがおさまってから夜警さんが「家には帰らない」と言うので焚火をおこして煙草を一服吸って地震の大きさを語り合った。
その時は津波のことなど考えもしなかったが、こんなに震れては、我家の方も壊れているかも知れない……と心配になって、ひとまず家の様子をたしかめるために帰ろうと戸口に出たところで谷口弘君と出逢った。
家財道具をかわすのに荷車を借りに来たとのこと。
少し話をして自転車で新道(しんみち)に出て、小学校(現経済農協連)のところから旧道に入って家に帰った。幸い家族も家も無事だったので先づは一安心して煙草を一服吸いながら玄関口で近所の人らと立ち話をしていた。
しばらくして名喜里川の方から「津波が来るぞ……」との叫び声が聞こえたので、大潟神社へむけて避難した。
新庄町二〇四九番地(西名喜里)
中井芳男談
○津波がくる時はその前に潮が引くと古老から聞いてるから「潮の動きを見てくる」と震動が止まってしばらくしてから出井六平さんらと名喜里川の川口のミズハネの所へ行った。
潮は静かにたたえて動いていない。
「おい!潮は動きないから大丈夫やなあ!」
一緒に居た連中とそんな話をしながら暫らくその場で川の様子を見ていた。
しばらくして急に向う岸に繋いでいる舟が動き出したと見る間に足元の潮が引き始めた、とその勢は激流となって沖へ流れてゆく。
「潮がひき出したぞ!津波や!津波や!」
みんないっせいに駆け出した。
そこから三〇〇メートル先の新庄駅まで「津波や!津波がくるぞ!」と叫びながら逃げた。
新庄駅までくると蒸気機関車が来るようなガタンゴトンという音がする。(あとで判ったのだがその音は積み上げた木材のくずれる音だったのだ。)
「汽車が来るから早よう線路を渡れよ」と言いながら新庄駅構内を横切って、呼び上げ地蔵さんに駆け上ったが、駆け上がる途中、すでに足首のところに潮が来ていた。
地震から約二か月位、地蔵さんの高台で流れてきたトタン板で小屋を造り、そこに寝泊まりしながら、復旧作業をした。
新庄町四七九番地ノ一(駅前)
廣崎伝吉談
○地震の揺れがおさまった後、汐の状況を見てこようと名喜里川に出、出井六平さんらと川口の方まで見にいったが、潮にはなんの変化もなかったので先づ安心し家に老人をおいたままなので家に戻って、近所の広崎雑貨店でローソクを買って家の上り口に灯し、再び潮の様子を見に名喜里川の川口まで行く途中、出井六平さんが帰ってくるのに出逢った。
「おい!潮、ひきはじめたぞ!」
「津波くるぞ!早よう家へいんでみんな連れて山へ逃げなあかん……」と言うのでそこからひき返して家に帰り母に位牌を渡して、米びつの米を袋に詰めかえた、それを表に出て母に渡そうとしたが母はすでに避難したのかそこに居らず、止むなく敷いていたフトンの上に米袋を放り投げ、祖母を背負って家の外に出た、とそこへはもう潮が来ていてスネまでつかりながら、隣りの山崎清太郎さんと一緒に新庄駅にむかって逃げたが、幸い新庄駅に近づくにしたがって水カサが低くなって新道では十五センチぐらいで、新庄駅には潮は来ていなかった。駅の構内を横断して呼上げ地蔵の山に避難した。
潮がひいて家の様子を見に帰ったら敷いていたフトンが畳と共に浮き上ったのか濡れてなくて、その上に放り投げて逃げた米袋も無事だった。
新庄町四三七番地(駅前)
谷口猛談
○お嫁入りする時、「新庄は津波のあるところやから……」と親に言われていたので地震がおさまってから、新庄駅へ行けば津波についてその指導もしてくれるだろうと八ケ月のお腹をかかえ、和雄(四才)を連れてとんで行った、が誰も避難して来ていない。
津波は来ないのかなあ、と思い、取敢えず着物と貴重品をとりに家に帰った。
入口で、「すぐに来るからここに居なさいよ」と和雄に言って中に入って、毛布を背負って出て来たが和雄が居ない。大きな声で「和雄!和雄!」としばらく叫び続けたが応答がない。この場を離れてはいけないと辛抱強く待ったが遂に待ちきれず駅の方へ走りかけた時、和雄が帰ってきた。なんでも表で立っている時にみんなが駅の方へ逃げてゆくので、ついついそれについて行ったようだ。そこで母が居ないことに気がつき、帰ってきたとのこと。
すぐさま手を引いて今度は千賀墓地の方向に走った、途中幅六十センチほどの畔道で逃げる人々が「早よう行け!早よう行け!」と後から声がかかるので気が気でなく毛布をほっ放り出して、山の方での焚火の火を頼りに千賀墓地に避難した。
新庄町四五五番地(波止場)
樫山綾子談
以上の体験談から各人の行動を再現して時間を追ってみると地震発生から第一波が来襲するまでの時間は二十分から二十五分ぐらいと推定される。
前兆(まえぶれ)(談話)
○小鳥が知らせに?
台所の天窓に地震の十日ほど前頃から黄色いセキレイが飛んできて、コツコツ、コツコツと窓ガラスをつつくのだった。
「なんど知らせに来たんか?」と家族で話し合ったものでした。
橋谷 佃カツエ談
○大きな三日月
戸締りをしようと、南の方を見たら、きれいに輝くニツの星の間に、今まで見たこともない大きな三日月が出ていた。
「みんな、みんな、出てきて見て!」
「なんど起るんとちがうか?」
「こんな三日月、はじめてやのお……」
それから三、四日続いたのでうす気味悪く夜のくるのが怖かった。寝る時は必ず服を枕元にたたんでいつでも逃げられるようにした。
橋谷佃カツエ談
○津波の夢
文里入口からドロドロの濁った浪が押し寄せてくる夢を何日もみた。
橋谷塩本きみえ談
○空は淡い茜色
前日はもったりとした日和で、大変暖かくパンツ一つになって塩焚きの薪を割った。誰も信用してくれないが、空は淡い茜色になっていたのを見た。
西新田 岩本義朗談
○潮が引いた
その晩は、岩本組の潮時仕事で山仁木材と杉若製材の問の海で仕事をしていたが、文里の潮が大きく引いていた。その仕事が終わって帰ったその朝に南海道地震があった。
橋谷天神 山崎良一談
○まっ赤な夕日
昭和十九年の地震の時には海鉄砲が鳴って高雄山にひびいたと祖父に聞いていた。又、南海地震の時には後で考へて見たら二、三日前から夕日が大変赤かったと山崎清太郎さん達が、一本松の地蔵さんに逃げていた時に話していた。
駅前 森田圓子談
○海鉄砲
「表に出て山の方(高尾山の方)を見ててくれ、光ったり、鉄砲の音がしたら、津波のくる前兆(まえぶれ)やから……」と父に言われて、まだ震動が止まない問に家の表へ出た。
しばらくして槙山と鷹尾山の間で光が走った。
「アッ!稲光り!」
そのあとドドーンと大きな音が続いた。
「アッ!海鉄砲や!」
すぐに家にとび込んで父に告げると「津波がくるはよう裏山へ逃げとけ」と父の叱るような大きな声。何も持たずにそのまま裏山へかけ登った。その前日の夜、跡ノ浦から山越えで帰って来た那須種吉氏が「今夜の沖は異常に明るかったが……」と話されていた。
出井原 真砂勝己談
余話
△やっぱりお宮さん
流れてきた「なる」が、山長さんと宮本さんの家に両端がひっかかって格好の柵となり、そこまで流れてきていた家の残骸や家財道具など、ことごとくそこで止まって、大潟神社の前は、きれいなものだった。「さすがお宮さんやなあ」と感心したものでした。
新庄町二〇二〇番地(東名喜里)
眞砂利子談
△濡れていなかつたフトン
「逃げる時はしっかり戸締りして逃げること」と親から津波の心得を聞かされていたので、その通り実行して逃げたが、津波のあと流されなかった我家にきて、驚いたのは、畳の上に敷いていたフトンが全然濡れてなかった。
床板と一緒に畳も浮いて、そのまま静かに降りたのだろう。
昔から新庄の家は、床板は釘づけしなかったようで、低地帯に住む人の生活の智恵だったのだろうか。
新庄町九番地ノ五(西橋谷)
大坪敏一談
△紀伊新庄駅の一基六十kgはあると思う閉塞器が二基、折り重なるように倒れていたし、小荷物計量器が、プラットホームの上にちょこんと坐っていた、津波の潮位がプラットホームより四十センチぐらい高だったというのに。
そうかと思うと宿直室に敷いていたフトンが全然濡れていない。静かに下から畳もろとも押し上げて、静かに降ろしてくれたのだろうか。
当時の新庄駅員 椿本喜一談
△六畳の部屋の縁側に置いていたミシン(高さ一メートル横九十センチ)が、流されて、六畳の部屋の真中に突立っていて、その上に床板と畳が乗っかって、畳の上に敷いていたフトンが全然濡れてなかった。
「なんでこんなに……」と今でも不思議に思えます。
新庄町二五七五番地(跡ノ浦)
宮本美佐恵談
△静かな夜だった
地震のあと山ヘローソクの灯を頼りに逃げましたが、風一つなく、ローソクの火も消えなかった。夜が明けてみると霜が降って一面銀世界だった。
新庄町二〇〇八番地(東名喜里)
中井ウメ談
△田圃でボラ釣り
新庄駅の裏の田圃に、第二次大戦中の昭和20年7月24日、爆弾が投下され、大きな穴ができた。
なんでも広さが一段六畝、深さは13段の梯子を二つつながなければ底に届かなかったくらい大きな穴だった。
津波で、近海の魚が流されてきて、そこに取残されて住みつき、格好のボラ釣り場となった。
新庄町八〇七番地(北原)
繁行リエ談
△地震のあと津波を考えてすぐ一番新しい服に着替え、又、一番良い靴をはいて線路を越えて裏の畑に逃げた。その時に家の裏は戸を開けて逃げたが、たまたま茶粥の半分残っていたのが、鍋敷(本製)に乗った侭約1米50ぐらい高い裏の向き合っていた納屋に引っくりかやらず据っていた。
新庄町三九八番地(橋谷中字)
葉糸力雄談
△津波が来るという事で地震後すぐに、祖母、女子供を連れて山(通称お稲成さんの山)に逃げ二度目家に戻り、色々物持って山迄行き三度目家に行こうとしたが潮が来てバリバリと製材所の壊れる音もしていて駄目であった。親父も衣粧箱を五つ程くくって来て「もう行けない牛小屋のカンヌキははずして来た」という。そのおかげで牛は夜が明け明るくなって来て、釦の貝殻の上に乗ったのを見たが、鉄橋の下を潮と一緒にくぐり西谷で誰かにつないで貰い助かった。
また跡之浦浜中儀平さんは「良い処へ逃げよ」といって牛を牛小屋から出してやったそうだ。
それが神子浜に流れ着いていて戻って来てその後、子牛を産んだそうだ。
新庄町四〇二番地(橋谷中字)
小谷弘談
△昭和19年12月7日の東海沖地震にあった時だったがたまたま学徒勤労動員で文里の海兵団にいっていて、偶然大阪商船の船着場で、水兵さん達が防空壕を掘っていた時に地震があり船着場に上陸用舟艇が2隻つながれていたが潮に逆行して、全速をかけても潮に敗けて太いロープが切れたがすぐに五浦の浜に避難した。何時もは見えない磯が引き潮で現れていた。又、1本の電信柱の根元から倍程に水が吹き上げたのを目撃した。
新庄町一六七番地(橋谷)
畑中幸雄談
△津波直後の惨状写真
北海道江差郡上屯別の養蜂家の笹尾良隆、宮沢哲雄氏は毎年、梅の花の「蜂蜜(はちみつ)」を採取するため、正月前に新庄の田鶴梅林に巣箱を置きに来ていた。丁度その時に南海道地震津波に出くわしたのである。早速に業務用の写真機を持って村内のあちこちを写し廻った。数日後、写真をもって村役場に来て「この写真、ほしいか、ただとちがうんやけど」と私に言ってきた。早速に中嶋悦蔵村長に伝えたら、「こりゃ貴重な写真だ、是非おいておかなきゃ」と写真を入手するよう指示があった。収入役の山本徳平さんと相談して「軍衣袴、防寒の毛糸の下着上下」と交換成立、震災直後の貴重な写真が残されたのだ。
新庄町六五一番地(東新田)
川田長四郎談
△あの世の息子が救けてくれた持てるだけの荷物を背中におぶって逃げる途中、巾五十センチほどの畔道で滑って前のめりになった。
他人(ひと)どころじゃない、と側をすりぬけて逃げていく人の中にも
「そんなに荷物を持って逃げるさかいや」
「はよう放(ほ)れ……」と言いながら手を貸してくれた。でも足は滑るし、背中の荷物の重さからか仲々起き上がることができない、避難する人もいつまでもかまっておれない。
「荷物を放ろうか……」と一瞬思ったが背中の荷物の中には、毛布にくるんだ先年先立った息子貞吉の位牌があるだけに、それを放り出すことはとてもできなかった。
その時、息子の顔が浮かんできた。
「貞吉 おこしてくれ……」心に念じた。と、不思議にも、ひょこっと思いがけなく起き上ることができた。
あとは千賀墓地にむかって必死になって逃げた。
夜が明けて早速に息子の墓に、手を合せたよ、と祖母から聞きました。
新庄町四三六番地(東橋谷)
山本道子(十四才)談
△避難への気くばり
母親のさつさんから、家の後の細いお稲成さんへの道は、もしも津波が起こったら、下の人々が逃げて来る道だから何時もきれいにしておくようにと言われ、いつも草刈りをしてきれいにしている。
新庄町九番地ノ三〇(中橋谷)
葉糸みち子談
宝永・安政津波の伝承
△私宅台地の敷地から少し下った所にある柿の木は、根元から中程まで大きく裂けている。なんでも宝永の津波の時、二つに枝分れして田圃の方にのびていた枝に、引き潮と共に流れてきた漂流物にひっかかって、枝分れしたところからひきちぎられてしまった痕だと先代から聞かされている。
新庄町一〇一七番地(長井谷)
樫山松一談
△安政の津波は、高台にある私宅へのぼって来る石段の、上から二段目まで来たが、宝永の津波では、家財道具が、「千賀の谷」の奥の上まで、流されていたと聞かされている。
新庄町四二八番地(東橋谷)
浜田 武男祖母談
△安政の津波のとき、塩本さん横の避難道からお稲成さんの山に逃げて、最初の平地の畑に米を置いていたら、アッという問に津波に櫻われてしまったと聞かされている。
新庄町三九六番地(橋谷中字)
山本繁治談
△安政の津波のとき東光寺下の坂本栄吉氏宅では座敷に置いていた膳箱がひっくり返りもしないで、神棚にでんとのっていたと父は言っていた。父は同家から来た養子だった。
新庄町二五四〇番地ノ一(跡ノ浦)
塩崎幸夫談
△安政の津波は高台の私宅に上ってくる石段の上から二段目まで来たようだ。
新庄町三二二五番地(内ノ浦)
森常一談
△安政の津波の時、屋敷内の松にどこから流されてきたのか、「大国さま」が流れついていたそうで、いまも大事におまもりしている。
以前は大潟祭には玄関に出し善男善女の参拝を受けたそうだし、宵宮の獅子舞のお渡りもここからお宮にむけてねり渡ったそうだ。
私宅の近くに鎮座ましましていた「若一王子」の社が津波の来襲を告げて山に移られた後、大国様がお越しになるなんて不思議に思っている。
松は昭和45年頃に、白ありが根元を喰いあらして危険になったので切り倒したが、年輪は五百年を超えていた。
年輪からうかがうと安政の津波の時は、すでに四百年近い大木だったようだし、それより百四十六年前の宝永の津波にも耐えて、生きぬいていただけに残念でならない。
新庄町六四六番地 榎本三郎談
津波と地名
これは新庄の古老たちの語りぐさのなかから津波と地名との関わりについて抄出したものである
クギヌキ峠 東山町二丁目五番地付近
津波で流され、壊れた船体の釘をぬいたところから。
ヨビアゲジソウ 新庄町四七〇付近 紀伊新庄駅裏山
津波の時 地蔵さんが「こっちへ来い、こっちへ来い……」と鐘を叩いて呼び上げ誘導してくれたところから。
コギ谷 新庄町八○○番地奥の谷
津波で流されてきた船を再び漕ぎ出したところから。
ドの坂 新庄町東光寺前
名喜里からの波と跡ノ浦からの波が「どーん」と打ち合ったところから。
ナグイ 新庄町三〇八七番地付近
避難者が流れてきた魚を食したところから。
サンジョガシマ 新庄町内ノ浦
安政の津波の時、三人の女の溺死者が発見されたところから。
ツボ 新庄町鳥ノ巣三九九一番地
内ノ浦湾にあふれた津波が鳥ノ巣半島のくぼんだところから、神島の方の浜へむけて滝のように流れ出し、滝壷ができたところから。
被災後の津波対策
その一 防潮堤
製材工場から流れ出た材木丸太によって家屋の破壊等被害が大きかったため、製材工場群から住宅を護るため小野知事の肝入りで神子浜の山から新庄町出井原に及ぶ全長一千三十メートルの防潮堤が昭和二十三年に起工され、岩本組(代表 岩本長平)が請負い、昭和二十五年に完成した。
事業費は一千万円ぐらいだったと親父が言っていた。
防潮堤の土は、神子浜の山(現在の三菱ふそう自動車工場付近裏山)からレールを敷いて、ナベトロ(トロッコ台の上に鍋型の器があり、左右どちらへも傾いて土が落せる当時の最新型の土砂運搬車)をガソリン車に引かせて運び、石垣用の石は、滝内の山(現在の東急ハーベスト北東側山)から船で運んで築造した。
常時百人位は働いていたと思う。
土取場では、大正ハッパをかけて岩を砕いていたが、ハッパを込める穴掘り用に八角型長さ三メートル、先が蛤形の鉄の棒で掘り、その型を維持するために鍛冶職人が常時3人居た。
又トロッコ用のレールの保線に、専門職の人が3人常駐して、カーブの保線に、ジンクローを使ったりして保線につとめてくれた。
石垣用の石は鷹の巣の山からとれば近くでよかったのだが砥石用のやわらかい石で駄目ということで滝内の岩石を用いた。滝内湾の奥深く船を着けるためには夜の潮が大きいので殆んど夜の運搬となった。五ノ浦の先を廻って文里湾に入るのに暗い時は親父が橋谷天神山から懐中電灯を振って誘導してくれた。
当時の運び賃一個三円、一船に六十個載せて百八十円、一日一回しかできなかったが、現場監督だった親父の日給が六十円だった時だから収入は最高だった。
一方千賀川の作業では、当時は長靴も無い時代だから、わらじを履いて脚半を足に巻き腰までつかっての土掘り作業は、冬の寒い時は大変だった。
白浜町富田一二三三番地 広畑努談
新庄町一四三番地(橋谷) 塩地定夫談
その二 昭和の津波潮位標
その三 安政の津波潮位標
西暦一八五四年の安政の津波について、昭和四十八年塩崎幸夫新庄公民館長が、古老らからの話を参考に調べ、推定潮位を定めて設置した。その後平成十年に東光寺寺下どの坂に、また平成十一年内ノ浦干潟公園にも新設された。
地震後の地盤沈下
南海道大地震によって、白浜町庄川から日置川町三舞にかけての東西線を境として、ポッキリ折れたようにそれより南端ははね上り、潮岬では六十センチも隆起して港に船が出入りできなくなるなどの被害が生じ、一方北の方は沈下して田辺では二十センチ沈下し稲田へ海水が侵入して農作物がつくられなくなったりした。
文里湾では秋の大潮には、護岸の上に潮が上り、荷役作業ができなくなったり、新庄駅前の土手内では、道路の側溝の木蓋が浮き上って引き潮にすっかりもっていかれたと言う笑えぬ現象が生じたりもした。
約百年を周期として起った慶長、宝永、安政、昭和の地震の記録によれば、紀伊半島の先端は常に震前沈下、震後隆起の傾向を繰り返しているようだ。
寄稿
南海道地震と"私" あの時文里港で 児玉五郎 美浜町吉原三〇八-三
昭和二十一年十二月二十一日 四時十九分六秒七その時……
私は文里港の杉若木材会社事務所二階に、沢作太郎君と宿直していた。私は終戦後間もなく、田辺市湊本通り、杉若木材本店に住み込み店員として勤めていた。
当時、杉若木材は文里港に、大きな製材工場を建設中だった。工事は、新庄の岩本組が請け負っていた。
店から工場までの通勤は、自転車か徒歩であった。昼食も[つぶり坂」を越え往復した。この年の十月(定かではない)完成したように思う。事務所が先に出来上がったので、二人一組として交互に、住み込み通勤に関係なく男子職員が宿直した。
この夜の宿直は、沢君と私の番だった。物資不足の時代で、火鉢の炭火も侭ならなかった。
電力と食料不足は極に達していた。当夜は特に冷え込みが強かった。早々と蒲団に潜り、空腹に耐えながら眠っていたら、"ドスン!"と腹の芯にこたえる大きな衝撃に襲われた。無意識にはね起きた。暗くて何がなんやら、自分が自分であることさえ計りかねる。「地震や!」と大きな声を出すのが精一杯だった。足元は定まらない、立っているのがやっと、部屋は真っ暗。
咄嗟にこのままでは家が倒れると思った。横は海。衣類を持ったか、寝巻きのままか記憶がない。転がるように階段を下り、工場横の岸壁の空地に佇んだ。両足を踏ん張るのがやっとだった。船の上にいるように揺れた。大きな木造工場が「ギシ、ギシ」と大きく軋みながら揺れた。
今にも倒れそうに!文里港は盥に水を入れ揺する如くジャブジャブと波たち、岸壁を洗った。
白浜の沖が光った。やがて揺れは止まった。
長い長い時間のように感じた。思い出を綴っていると、自然に体に揺れが甦って来る。
工場前の海面には、"アバ"(オイルフェンス)を張り丸太を浮かしているので、私は"アバ"が切れて丸太が流出していないか点検した。月夜のせいかよく見えた。今、ジャブジャブと波打っていたのに、干潮となり丸太は干し上っていた。干潮は別に不思議に思わなかった。大丈夫を確認し、事務所に戻った。沢君がストーブに薪を入れていた。
もし、"アバ"が切れていたら、私は"アバ"修理をしていたであろう?そしたら?……と思えば、今でも緊張する。
暖を取りながら、「児玉、地震てこんなものか」私は、答えた。「こんな大きな地震始めてや」彼は笑いながら、煙草を探していた。無理もない、彼は満州育ち、大連高等商業卒で、全く地震を知らない御仁だった。沢君二十五歳、私二十三歳。
外で話し声がする。「大きかったなあ……」「津波心配やなあ……」私は沢君に言った。「皆何やら津波来るとか、来んとか話しているけど。朝まで起きておろうよ。寒いから出来るだけ着込もう。……」私は自転車を二台外に並べ、何時でも乗って逃げれるようにした。
彼は会計をしていた関係上、金庫から手金庫を取り出し、風呂敷に包み、ストーブの側の机に置いた。直ぐにも持てるように、「幾ら入っているの」「二十万」当時の二十万は大金であった。
誰かが、大声で文里の方から走って来るようだ。……馬の蹄が聞こえて来る。蹄の音は荒々しく早い。「チュナミダー(津波だ)」事務所の前を新庄の方へと駆け抜けた。声の主は直ぐに分かった。製品を駅まで運ぶ馬力引きの山本氏だ。山本氏は韓国人で訛りに特徴があった。工場の少し向こうに住んでいた。見事な馬を飼っていた。山本氏は地震直後、文里港口に様子を見に走ったのか、釣りが好きで夜釣りをしていたのか?海の異常を察知し、馬に鞭打ち急報してくれたと私は思っています。もし、この急報がなかったら、もっと多くの人命が失われたであろう。
【改めて、心からお礼を申し上げたい】
私たちが緊張したのは、蹄の響きが消えてすぐだった。事務所の横に小さな橋があった。その橋を早口に話しながら国道の方へと走って行く人の気配を感じ取った。妙な予感がした。様子を見に事務所を出た。橋桁はもう見えない。
水は、道へと溢れ出している溝を白波が逆流している。月の明かりがギラギラ光りながら、私は大声で叫んだ「津波や早よ出て来い、逃げるんや」彼は飛び出て来た。そして、金庫を持ちに戻ろうとした。私は再度叫んだ。「ほっとけ、早よう逃げんか」彼はそのまま私の後を追って来た。自転車も金庫もそのままにして、道に溢れる潮水を蹴散らしながら走った。「右へ寄れ、左へ寄ると川に落ちるど」五人ほど玉になって走った。薄ぼんやりと続く道を真っ直に。(約二百米)
国道に沿って小さな工場が並んでいた。突き当たりの工場の扉はなかなか開かない。よじ登り飛び越えた。誰かが横が通れると言って、そこから工場を駆け抜けた。無我夢中。五米ほどあろうか、線路脇を這い上がった。そして、小高い丘へと駆け登った。この間の時間二〜三分か。
どうした事か、今まで薄明るかった周囲が、真っ暗く何も見えない。津波は無気味にどす重く、轟々と唸りをたてて襲って来る。建物が流されるのか。「バシャバシャ」と大きな音が、次々と続く。(将棋倒しの連想)助けを求める声が闇に響く。尾を引きちぎるように消える。
後は"ゴーゴー"と津波の荒れ狂うだけの闇。
女性の金切り声が耳を劈く。ただ、佇んで「ジーツ」と聞いているだけそれが精一杯。この気持ちの表現は至難です。静かになった。潮のたたえであろう。しばらくして前に倍しての轟音!
津波が引き始めたようだ。そして、また静かな静かな闇となる。薪を拾い焚火をする。皆輪になっているが、声の出る雰囲気ではなかった。
三十分ほどたったであろうか、再び沖が唸りだした。だんだん近付いて来る。前よりももの凄い捻り。目も闇に馴れ、朧気に少し見通しがきくようになった。線路の五十糎ほど下迄満ちているようだ。キラキラと水面が線路に沿って光る。今何時かなあ、五時ごろか?流れ着いた薪を集め、燃やす焚火だけが勢いよく燃える。向こうの方でも焚火の火が燃えている。人影が映っている。第三波が襲う。
見通しもよくなった。屋根の上に乗ったまま流されている人、戸板の上で犬が震えながらうろうろしている。第一波から流されているのであろう。屋根の破損材に乗って流れて来る二人組を見つけた。「コッチヘコイ、コッチヘコイ」と線路脇に立ち「タルキ」を伸ばして待っていると、近付いてきた。「離すな」「飛び込め」やっと皆なして引き上げた。おどおどと震えていた。焚火の側に連れていき皆で励ました。声も出ない、寒さと恐怖で無理もない。いつの間にか、十人近くになっていた。声と火を頼りに線路を逃げた人が集まって来る。こんな時は、人が恋しいのだ。
私は叫んだ。「沢君、工場が残っている」濁敷いた布団が見える流渦巻き、夥しい物が流されていく激流の中に、杉若木材と大屋根に書いた文字がはっきり見える。軒から上が水面に悠然と浮かび、微動もしない悠然と!事務所の二階も水面にはっきり、嬉しかった。この時、始めて涙が出た。向こうに田辺木材会社の建物も残っている。二階の窓に誰かがいるようだ。大きな声を出し手拭を振ると、気付いたようだ。盛んに手を振っている。落ち着いているようだ。
名前は忘れたが、よく顔を合わす職員だ。彼も宿直していたのであろう。私より少し年長である。
残っていたのはこの他に、紀南索道?の鉄柱が四股を踏ん張った姿で立っていた。昨日まで、多くの工場(製材)、民家があった。それが今ほとんど流出、家屋等の残材、丸太等がゴチャゴチャに干し上がって残っている。昨日の姿今何処。一瞬の大変貌です。
寄せくる時は「ドーツ!」と重く強く、引く時は激しく荒れ狂い渦を巻く。文里港は、流出物を港一杯に浮かべ、全ての渦を集めて大きく脹れゆうゆうと沖へと動く。
寝巻きのまま流れにまかせ、手を振る元気もなくじっとうずくまっている人たち、遠くを、近くを流れる棒切れの届かぬ時は、なす術もなく万事休す。飛び込んで泳ぎ着く、そんな生半可な状況ではない。地獄があるとするならば、この時の文里港そのものが地獄也!津波の終わるまで、頑張れ、無事であれ、そう念じるのみです。
津波は、一波から六波まで続いた。でも一日中、国道を越える津波は四十分、五十分おきに襲ってきた。と田辺木材の職員は、屋根に登って腰を据えていた。昼ごろ潮の引きを見計らって、私たちの所へ走って来た。始めはどうなることかと心細かったが、時間と共に度胸が据わったと元気に語っていた。
津波の引いた後の文里港は、底が見え、小さい用水池のようだった。水溜りと言う方が適している。文字通り空っぽになる。
津波は、白浜沖から始まり文里港を襲い、白浜沖に戻る。この繰り返しであった。この事を証明する事実を綴り置きます。
戦時中、木造輸送船を軍の要請で、文里港の紀州造船が造っていた。五百トン程度の船が二隻、船体だけが出来上って、終戦後そのまま造船所前の浅瀬に座礁さしていた。第三波頃から、展望が開けてきた。港内を潮により、この二隻の船が流れている。潮が引きはじめると人が操縦する如く、船首を沖に向けて出ていく。空船故喫水線を高く浮かして軽やかに浮いて進む、流されているようには見えなかった。白浜沖で止まり、船はゆったりと、回っている。船が盛り上るように高くなる。海面が大きく盛り上り拡がり始めると、港に向かって進んでくる。だんだん近くなり、滑るように港内に流れ込む。
港内をくるっと一周、又沖へ出ていく。津波の差し引きに乗って一日中、同じ行程を繰り返していた。翌日気がついた。全く驚いた。何と元の場所に二隻とも、何もなかったように座礁しているのではないか。
その後、三年して杉若木材を退職した。その時もそのままであったと記憶している。流されている船というよりも遊弋(ゆうよく)してる船のようだった。その船影は、五十年経過の今も明細に私の記憶に残っている。津波を研究する人たちへの貴重な証言と思います。
紀伊新庄駅での体験 椿本喜一 田辺市新万一二-五
昭和二十一年十二月二十一日未明、私は紀伊新庄駅前の四七八番地の二階で就寝中地震にたたき起こされた。激しい揺れと枕元の壁が落ちるので、起き上がれず布団を頭から被って、地震のおさまるのを待ち、すばやく制服を着用、手探りで階段を降りながら、大声でおじさんを呼んだ。
おじさんは入口だと答えてくれたので急いでおじさんの処まで行くと「津波が来る、早く皆に知らせながら、駅へ」と言う。私は走りながら津波が来ると叫びつつ、約百米走行、駅前に着く。大勢の人達が駅前広場と待合と、その周辺にあふれているので、直ちに改札口と貨物搬入口を開放し、ここから線路を横切り裏山に早く逃げるよう話しながら駅事務所に入り、手近にあった旅客運賃表を持ち、皆の後から早く早くと言いながら駅裏山の登り口にある「呼び上げのお地蔵さん」の処まで登ると、すぐにホームまで津波が大きな音をたてながら押しよせてきた。
暫く足もとの津波の流れを見ていた時、駅から「チンチン……」と鳴る音が聞こえて来た。
この音は紀伊田辺寄りの閉塞機に添装の電話の呼び出し音である。私は一刻も早く現状を紀伊田辺駅に連絡出来たらと考え、駅長にこの旨を申し出て、山と駅の間約五十米を片手に衣服を持ち裸で泳いで下りホーム迄たどり着く。
事務室付近はまだ津波が引かず、窓には十数本の木材が突っ込んでいて、書籍等が定位置に見当らず、先程「チンチン……」と鳴っていた紀伊田辺寄・朝来寄りの二機の閉塞機は折り重なって倒れていて、何とも悲惨な状態で、事務室にも入れず、連絡も出来ない、すると急に裸の身が寒く足の冷たさが身にしみ、服を着るべく上りホーム待合に行き、服を着ていると、海の方からメリメリと異常な音がしてきた、と思う間もなくホームまで三回目の津波がエンジンのかかった木造船もろとも押し寄せて来たので待合の屋根に避難した。
暫く屋根にいたが屋根一面大霜がおりていて寒いのでホームに降り歩いて体を温めていると、四回目の津波が二回目同様に押し寄せてきたので、再び待合の屋根に登り暫く足もとの津波を眺めていた。
少し津波が引いたところでホームに降り、田辺寄りに少し歩いて海の方を見ると前の国道上に、約二百トン級の機帆船が打ち上げられていた。
山と上りホーム間の津波の残り水は線路が田畑より一米以上高いので線路下の細い溝ではなかなか引いてくれなかった。
三回も津波に遭い恐怖と孤独から山に逃げようかと考えつつ暫くホームを歩いていた時、まだ夜の明けやらぬ空の下、紀伊田辺方面から線路づたいに津波の合間を利用してくる人影を発
積み上げられた製材所の残骸見走って近付くと、紀伊田辺駅の太田助役さんである。まさに地獄で仏に合った思いで恐怖心もふっとんだ。
太田助役さんに未明からの地震と津波の状況を説明し被害の現状も確認して頂き、まだ、津波が来ると思い、せかせて帰って頂いた。
その後、線路を越えるような大きな津波はこなかったが夕方まで拾数回溝の奥まで打ち寄せて来た様に思う。九時過ぎにようやく避難していた職員達が山を田辺寄りに迂回し、線路づたいに帰って来た、駅は事務室や待合に土砂が流入し、先に書いた通り、流木が窓から拾数本突っこんであり、書籍、乗車券箱等が数箱流出したあとに木の根や、大きな丸太が沢山転がっていて、足の踏み場もない状況であった。
午後水の引くのを待って木材等を取り除いた。
翌二十二日から本格的復旧に取りかかり、22日は紀伊田辺駅構内の皆さんが応援に来てくれ、土砂取除きにご協力頂いた。
二十二日から三十一日まで紀伊新庄駅は営業停止とし、列車の運転は紀伊田辺-朝来間を一閉塞区間として、紀伊新庄駅は下り本線一線扱いで車掌が列車客扱とも行なった。
駅職員は二十二年一月一日の営業再開準備を行ない、無事一月一日営業再開する事が出来た。
この地震と津波を通じて得た教訓といえば大地震の後には必ず津波が来る、津波も一回ではなく少なくとも大きい津波が三回程度は来るであろうと言うこと。海岸、川口近くで生活している人々は常に町内会等で高台に避難箇所を指定して置き、子供に孫たちにと語り継ぎ津波の折に対処の出来る心構えを養っておくべきである。
尚 ・紀伊新庄駅のホームの高さが電化に伴い一米二十糎の高さである(先の津波当時は九十糎であった。)
・津波は駅で一米二十糎まで来たので当時はホームから三十糎近く高くまで来た。
・今は先の津波の時の様にホーム間を渡って山には行けないので袴線橋を渡るか、便所裏に出て線路を渡り裏山に行く方法を考えるべきである。
南海大震災のこと 三島稔 福岡県粕屋町二五三-二
昭和二十一年十二月二十一日早朝、強い揺れで眼を覚まし、母と私と妹は表に飛びだしました。
場所は文里岸壁の真ん前です。
表は月の明かりで見ますと、片足がすっぽり入ってしまう程の亀裂が、あちこちで口をあけており、田辺湾上空には、稲妻のようなものが、ピカピカしていました。
揺れがおさまると、いまの地震がまるで嘘のような、満天の星空でした。
家の中は危ないとおもったので、どこか安全な場所に行く積もりで、衣服を着込み若干の現金などを身につけて、ふたたび三人で表へ出ました。
南の方を見ると、田辺湾から潮がひき始め、みるみる海底の岩肌が現れてきたのが、月の光でわかりました。
その年の夏は牡蠣で足を切りながら泳いだり、伝馬船を漕いだりした海です。
暫くするとこんどは、いったん引いた潮が反対に、陸の方に向い押し寄せて来ました。小川のせせらぎのような音です。
「山の方へ逃げよう。」と三人で話したのが最期でした。
小川のせせらぎも、ピクニックのときに聞こえてくると楽しいものですが、このときは二十歩も走っていると、膝の高さくらいまで、潮は上がってきました。さらに二十〜三十歩で腰までつかる急流に変わりました。
三人がバラバラになったのは、その前後のことです。
足をとられながら私は、外套のボタンを引きちぎり、上着とズボンを剥ぎとっていたとき、幸運にもある家屋と出会いました。二階建てで母屋と便所が廊下で繋っている構造です。まさに"溺れるものは藁をも掴む"気持ちでその便所の屋根にとりつき、上にあがりました。そのとき潮は、ほぼ一階の屋根くらいまできていました。
瓦が滑って危ないので、廊下の上を二階まで移動しました。そちらの人はすでに避難されたのか、声をかけても返って来ませんでした。
家屋全体が軋む音を聞きながら、もし家ごと浚われたら自分も最期、しかし万が一と言うこともあるだろうからと、雨戸一枚を借用してヨーイドンの姿勢で、待機をしていました。
はじめて経験する自然の怖しさと寒さに震え悪戦苦闘している自分を眺めているもう一人の自分をそのとき感じたものでした。すぐ近くの山の上では、なん箇所かあかあかとたき火が燃えておりあそこに母と妹がいるかなという淡い期待感はありましたが、彼我の距離は、せいぜい百数十米か二百米ぐらいではなかったでしょうか。資料によりますと、その山は〈石山〉となっており、標高二十数米で、山というよりは丘と呼ぶにふさわしい高さです。それでも歴然とした奔流が彼我をわけており、地獄と極楽とはまさにこのことを指すのか、とそのときおもいました。
すこしつつ夜が明けてきて、下を見ていると潮のスピードはさほど衰えていませんが、いったん上げたあとは砂地が見えるほど奇麗にひいて、その反動でふたたび上げてきていることがわかってきました。殆んどパンツ一枚の格好で寒くもあるので、つぎの潮までのあいだに屋根から降りて、一か八か山まで走って見ようと決心しました。
全力疾走で麓に辿りついたときの喜びは、やはり大きいものがありました。
たき火している人に尋ねてまわりましたが、母と妹は上がってきていませんでした。すこしつつ潮もおさまってきましたので、虚ろな頭と体で被災場所付近を終日ウロウロしましたが、けっきょく両名は現れませんでした。
自分たちの住まいは跡形もなく流失し、辺りは一面砂浜になっていました。私の時計は四時二十一分をさしたまま止まっています。
近所では、家屋ごと潮に運ばれ、はるか海兵団宿舎付近で倒壊し、ご家族の方全員の遺体が発見されたいたましい記憶もあります。
大阪空襲がひどくなって、母かたの郷里に近い田辺にきました。戦後、引揚援護局ができたあと、さきの文里岸壁まえの家屋がその職員寮となり、母はその寮母として私と妹と三人で二十一年春ころからその家に住んでいました。
私は田辺中学を四年で卒業、妹は田辺高女の三年のときでした。父は昭和十九年にビルマにいっており、その戦病死の公報が母の生前にとどいていたかどうか、ざんねんながら記憶がはっきりしません。
新年があけて間もなく、新庄に遺体が一体上がっているという連絡で、妹と再会できました。場所は文里港のいちばん奥でした。
オート三輪で火葬場に連れてゆくと、おおぜいの人の処理で薪が不足しているので、調達してくるようにとのことで、また引き返したのを覚えています。
母は、中学の友人二人の応援を得て何度か白浜のほうまでさがしましたが、会えませんでした。
結局、私は紀伊田辺に一年半程おったことになります。その後の身の振り方のこともあるので、妹の遺骨をだいて早々に田辺を発ち、その後九州にやってきて、俗事にまぎれアッという問に五十年経ちました。
いま国土地理院発行の二万五千分の一の地図を見ています。私たちが住んで居たところから、さきほどの山まで測ってみますと、直線距離でたったの二百米位です。かりにその倍の距離を駆けたとしても、いまの私-六十七才です-でさえ約三分で走れます。
当時、母が四十才、私が十七才、妹が十五才ですから、激震のあと目標を決めてすぐ走りだしていたら、と思うと本当に口惜しくてなりません。
もうひとつ、当夜のことをあらためて考えてみますと、文里港は北に向かって奥深く入っており、私たちが住んでいたところはちょうど、対岸とのあいだがくびれた所で、田辺湾から押し寄せた潮は真北に向かって、物すごいスピードで岸壁のうえを、溢れていったのではないかと思います。
母も妹も逃げる方向が潮の方向とかさなり、一気に浚われたようです。私は西北方向に山があることをイメージして流されたせいか、潮の勢いもやや弱まったものと思われます。
暗くてなにも見えませんでしたが、これがもし明るいときであればこの世のものと思えない光景をいくつか見たことでしょう。
チリー津波(昭和三十五年(一九六〇)五月二十四日午前四時十五分来襲)
チリー地震津波の経過
昭和三十五年(一九六〇)五月、南米チリー、サンチアゴ沖を震源とするチリー地震による津波は、一万七千粁離れた日本の太平洋岸に二十四時間後、日本時間の昭和三十五年五月二十三日午前四時十五分に来襲し、各地に大きな被害をもたらした。
地球の反対側からの津波は、太平洋の深いところでは時速八〇〇粁以上というジェツト機並の、猛スピードで来襲してきたわけで、マグニチュードも九・五とも言われ、過去最大の地震だったようだ。
文里湾内で一番低地帯の新庄土手内では、第一波が床下十センチ程、第二波は名喜里川堤防ぎりぎりまできたが一波ほどではなく、第三波は床上八十センチ位まで来襲して大きな被害をもたらした。
その後夕方まで数回の来襲はあったが川の堤防を越して浸水することはなく、周辺縁者の多くの救援を受けて夕方までにそれぞれの家屋の後片付けがほぼ終った。ところが六時頃、床上ぎりぎりまでの津波が来襲して一日の勤労も元のもくあみ、徒労におわってみんながっくりだった。それからは、被害をもたらすことはなかった。
田辺市の被害
床上浸水 二百八十三戸 田畑冠水六十四町歩
床下浸水 二百三十一戸
木材関係 木材流失 二万石 六千六百万円
木炭流失 百五十俵
製材工場冠水 二十三工場
農地関係 海岸堤防九ヶ所 五百五十m決壊 一千八百四十万円
土木関係 橋 七ヶ所 流失
道路 十八ヶ所 決壊
河川 五ヶ所 決壊 一千三百六十万円
真珠関係 養殖用イカダ ニ百台 流失
漁船 二十隻 破損
新庄町真珠関係者
日本真珠 一億一千九百九十二万円
新庄漁協 二千二百九十五万円
山本仁三郎 九百五十六万円
田端真珠 八百七十一万円
松村涼一、楠本勝次、福田俊次、福田栄一、森弟二郎、森村庄一郎、田上庄太郎 計九百八十二万円
新庄地区での床上浸水は
橋谷地区で駅前、波止場、東橋谷
名喜里地区で西新田、東新田、東名喜里
床下浸水は
橋谷地区で中字、西橋谷の一部
名喜里地区で東名喜里、出井原
跡ノ浦地区で西跡ノ浦の一部
惨状写真
救援活動
泥海の中、機転の処置 精薄患者二百余人を無事避難させる 紀南総合病院 危険おかし看護婦ら
津波災害で神経過敏になっている二十六日、小山英次紀南総合病院長(五一)は田辺市新庄町の同分院精神病舎をおとずれ武田三吉看護長(四三)ら看護士、看護婦一人々々の手を握って去る二十四日未明の津波で二百余人の精神病患者を海水づかりの病舎から一人の犠牲者もなく救い出した労をねぎらった。
同分院精神病舎は同町文里入江の玄関口の海岸にあるため、こんどの津波では一番早く襲われた。同病舎には男百四十三人、女九十三人のほか錠のかかった特別保護室には男女計六人の患者を収容、当直には武田看護長ほか五看護士、岡芳子さんら看護婦三人および事務員、櫟田数雄さん(四六)の計十人が当たっていた。
同朝いち早く海の異常干潮を知った古川冽看護士(二二)からの報告を聞いた武田看護長は津波を予感したが、そのときすでに一波の高波は病舎構内へ流れ込んでいた。ところが危機を知っても解放厳禁の特殊患者のため武田看護長はとっさの処置として当直員の協力でとりあえず全患者を起こし特別保護室はいつでも開けるよう施錠をはずした。
こうしているうち病舎の廊下など床上約一メートルが浸水、三波の高波がおどり込んできた。このとき解放厳禁の患者でも生命には替えられないと四ヵ所の非常口を解放し数人の拒絶症患者(反対行為をとるクセの患者)をむりやりに引っ張り出し裸姿の患者には手当たり次第に衣類をくくりつけ、また婦人患者を背負ったりして胸までつかる泥海の中を裏手の山へ移し全員の生命を守り通した。
この落ち着いた看護精神に徹した適切な行動は多くの人たちに強い感動を巻き起こしている。
武田看護長の話 一番困ったのはなにぶん解放禁止の患者ばかりなので非常口を開ける時期の判断だった。心配された患者の興奮が比較的少なかったこととこれまでときどき行っていた避難訓練が意外に役立ったと思います。 -毎日新聞(S35・5・27)より-
新庄消防団員の活躍
消防団員の活躍の中で、特に人命救助の功労ということで、田中克治、熊代敏男、塩本弘治、出井芳男の四人に、消防庁長官、和歌山県警察本部長、和歌山県消防協会長から表彰状が贈られている。
三氏の当日の行動を談話の中から拾ってみた(塩本弘治はすでに故人)第一波の時は、まだ三人は寝床にあった。起きて道路に出ると一面濡れている。雨も降っていないのに「なぜ!!」と思いながら、早起きの近所の人達が集まって、なにやらガヤガヤ話し合っている所へ行くと「津波のようや…」と言う。丁度その時、田辺市の消防署員が来て、「チリーに地震があって、その津波の余波が来たようだ、遠い国からのことなので、もう心配ないと思う…」と教えてくれた。(実際はその後第二波、続いて第三波が来襲)
しかし、そこは消防団員、その使命感は必然的に消防屯所の車庫へと向かわせた。
「沖の様子が良くわかる跡ノ浦へ…」と、団員数人が消防車に乗り、跡ノ浦へ走った。
鳥ヶ谷の手前で消防車を降り、南海道地震津波の後、構築された護岸の西端まで行って潮の様子をみていた。
しばらくして、沖の方の潮が盛り上がった、それが岸辺にきたかと思うと、たちまち護岸の天辺までかけのぼってきた。
「消防車が危ない!!」数人が消防車にかけ込み、すぐに避難した。
「アッ!!あそこの家に(塩谷宅)まだ人が残っている…」誰かが叫んだ。
丁度その時、家から子供らが飛び出してきた、すぐさま熊代敏男は、子供を背負って近くの小高い丘へ避難した。
田中克治、塩本弘治、出井芳男の三人は、家の中へとび込んだ。
そこには婆さんが、箪笥の引き出しから衣類を引き出そうとしていた。
一そんなことしてるときやない!!早く、早く!!」
手をひっぱり窓際に行こうとしたら、畳の下から押し上げるように潮が湧き上がったかと思うとあっと言う間に畳もろとも家具類が、なぎ倒された。
どうにか窓際まで来て外に出ようとしたら、押し寄せた潮は、両側を屑石で積み上げた護岸から玄関までの道が、沈むようにくずしていく。
「もう山へは逃げられない、なんとか屋根へのぼらねば…」
手段はないものかと、田中克治は窓から外にとび出した。
ところがそこは、もう背丈ほどの潮高で、どうすることもできない、おまけに、水中で浮くように流れていた石に思いきり向脛を叩かれた。
塩本弘治と出井芳男は床の上で腰までつかりながら、「婆さんをなんとか」と思うだけでどうすることもできない、いらだちに恐怖が絡まってくる。「万事窮したか!!」と思っていた矢先ふと、「あ!そうだ!!」先ほどから腰まできた潮が、それ以上増していないことに気がついた。
「そうだ!!潮が止まったのだ…」先程からの恐怖もいっぺんにふきとんだ。
あとは潮のひくのを待つだけだった。
チリ津波体験談
夢うつつで寝ていると雨(あま)だれのような音が戸外でするので雨でも降っているのかなあと思いつつ、なおまどろんでいたが、玄関の方で何やら大きな声で話し合っている声が聞こえてきた。「表の方で、なんか騒がしいからちょっと見てくる……」と言って起き、道路に出たら近所の人らが、「津波やぜ!」と言う。
「なんで津波?地震も揺らなかったのに!」不思議に思ったが、晴天で雨も降ったはずがないのに足元の路面が濡れている。そう言えば寝ている時、雨だれのような音がしたのは、海水が床下に入って瓶が倒れ、それに海水が入っていく音だったのだ。
そのまま堤防まで行って文里湾の様子を見ていると、津波が早いスピードで名喜里川に入ってきたかと思うとみるみるうちに溢れんばかりに護岸の上段まできた。
しばらくして引きはじめたかと思うと、今度は文里湾が空ッポになってしまった。
「こがいに引いたら今度は大きいの来るぞ!」みんな一斉に我家へむかって走り出した。私も家にとび込んで「津波がくる はよう二階へ上れ!」と言いながら箪笥の引出しを下からとって二階へ放り上げたが二段目をとった時はもう海水が畳の下から湧き上ってきて家具類はバターンバターンと倒れてしまった。
三月に結婚しての花嫁道具もすべて台なしだ。
いつでも二階に逃げられるよう階段の下で腰までつかりながら津波になされるままの状況を見つめていた。
便所の汚物が浮き上ったかと思うと一面黄色に染まった。
すごい悪臭があたり一面に立ち込めた。
「ああ!ああ!」
思わず溜息が出た。
津波は畳から八十センチのところで止った。
幸い津波の被害としてとしては最小限度にとどまったが、夕方まで親類、縁者のみなさんらに手伝っていただいて片付けがすんだ夕方、又しても畳すれすれの津波が押しよせて、道端や庭で干していたもろもろの家庭用品が、津波の引き潮と共に、「あれよ!あれよ!」と言う間にみんなもっていかれてしまった。
でも先年の南海道地震津波のような恐怖感はそんなに無く、増水にみまわれた感じだった。
それは、地震が無かったこと。昼間だったことからかも知れない。
新庄町四七七番地(駅前)柏木多美男談
バイクを追いぬく津波の早さ
背戸川口でバイクに乗ったまま文里港入口を見ていた。
これより先「文里港が空(から)になっている」との情報を聞いて礫坂から、とんで見にきたのだ。
しばらくすると文里港入口の灯台を乗り越えそうな高さの波が横いっぱいに広がって、文里港に襲って来た。
「アッ!津波だ!」と思うやいなや、バイクを方向転換させて、礫坂に向かって全速力で走った。
途中田辺工業高校前の鉄道線路ガード付近に来た時は、国道に沿って流れている背戸川を逆(さか)のぼって押しよせて来た津波に追いつかれ、なおも走りのぼった津波は、礫坂の登り口付近で国道横断のガードで急に狭くなっているためか潮が跳ねあがり、その飛沫(しぶき)が国道にうち上って、走り続けている私のバイクの前にダッダッダッダッと流れおちてきて、危うくハンドルをとられるところだった。
それにしても、六十キロ以上出して走っていたバイクを簡単にぬき去ってゆく津波の早さにはびっくりした。
田辺市新庄町二六二番地ノ五六(跡ノ浦)白井稔三談
津波対策 運輸省第三港湾建設局
昭和三十九年着工
当初はこのような計画だったが、跡ノ浦湾奥に計画の防潮堤を、湾口に設け、その内側を港湾とすることに計画が変更され、跡ノ浦湾側は昭和四十年三万坪の土地造成を兼ねて四億円の事業費で起工され、昭和四十二年完成をみて現在の状態となった。
これより先、跡ノ浦湾は、海岸線に石垣を積んだ粗末な岸だったのを、昭和二十一年十二月の昭和の津波後、コンクリートの護岸に改修され昭和二十八年頃に完成していた。
チリー津波は、この護岸を僅かに越える程度の潮位だったためか昭和の津波で大被害を受けた跡ノ浦地区だったが、庭先にも津波は到着せず殆んどの家は無傷だった。
南海道地震の時の津波では私達の家は軒先までつかったが、チリー津波では家の前の道路へも来なかった。
南海道地震の津波があってから跡ノ浦湾に高潮対策の防潮堤ができましたが、その上を津波は越しては来ましたが、量が少なく防潮堤で津波をせがえてくれたのでしょう、家の前の庭へも来なかったですよ。
新庄町二五七五番地(跡ノ浦)宮本美佐恵談
新庄町二七二五番地(跡ノ浦)樋口百合子談
新庄町二七二二ノ一番地(跡ノ浦)南松枝談
内ノ浦地区も時を同じくして内ノ浦湾中程に防潮堤を築いて完成をみていたのでチリー津波の被害はなかった。その堤防は現在の内ノ浦湾横断の道路(旧白浜有料道路)に沿った外側の堤防敷である。
同じように過去の津波で大被害を受け、明治二十九年の三陸沖地震では一千八百五十九人の人口のうち、僅かに三十六人しか生き残らなかった岩手県の田老町では、夢の長城と笑われながらも高さ十メートル、延長一千三百五十メートルの堤防を完成していたため、このチリー津波で三十二名の犠牲者を出した同じ県内でありながら炭倉庫二棟が浸水しただけの被害にとどめた。ということで、防潮堤が津波の規模に合致さえすれば、すばらしい効果が生まれることの教訓がそこにあり、今後の津波対策に是非学ばなくてはならない。
今回のチリー地震津波(マグニチュード九・五)のように、地震もないのに突然津波が襲ったというのは、元禄十二年(一六九九年)十二月八日北アメリカで、マグニチュード九・二という地震があって新庄にも押し寄せてきた記録がある。
万代記七
同八日夜明時分 浦辺あびき強く上り
新庄村御蔵へ潮入、其外跡ノ浦、はま、
めら、田地麦作損申候 御堀土橋迄潮高來
新庄村の御蔵は、おくら屋敷とも言われ新庄町一四一七番地(名喜里・平田)付近にあったようだ。
情報化時代の今は、遠地からの津波の情報も、随時入ってきて、過去のような「突然」ということはないと思われるが、新庄は遠地からの津波にも影響が生じる地域であるということを強く認識しておく必要があるだろう。
資料提供者(順不同)
(談話)
佃カツエ 塩本きみえ 岩本義朗
山崎良一 森田圓子 真砂勝己
眞砂利子 葉糸みち子 大坪敏一
椿本喜一 宮本ふさ枝 中井ウメ
繁行リエ 葉糸力雄 小谷弘
畑中幸雄 川田長四郎 山本通子
樫山松一 浜田武男祖母 山本繁治
塩崎幸夫 森常一 榎本三郎
谷口弘 中井芳男 廣崎伝吉
谷口猛 樫山綾子 井上カツエ
小倉豊 中田とよ子 広崎利八郎
成川はるゑ 出井利枝 浜本すみ子
野中定 宮本子竹 岩崎久
田村清次郎 塩地定夫 白井稔三
榎本美佐恵 樋口百合子 南松枝
(寄稿)
児玉五郎 椿本喜一 三島稔
(写真)
川田長四郎 平田松造 榎本光男
岩本英樹 熊代貞一 講談社
東大地震研究所 田辺市
(文書)
森本武夫
(記事)
紀伊民報社毎日新聞社紀伊新聞社
(記録)
和歌山県 京都大学防災研究所白浜海象観測所
田原測量
以上の各氏、各社よりの資料等のご提供やご協力に対し厚く御礼申しあげます。
あとがき
津波の体験談を取材中、話された幾つかの会話の中から大事なこと三話。
一、「踝まで浸かりながらも、どうにか逃げた……」
多くの方々からこんな話を聞きましたが昭和の津波の第一波は以外に小さく(チリー津波程度)例えば新庄駅前の国道では、僅かに路面を越す程度の潮位だったので、踝以上の潮高にならなかったから逃げることができたのです。
もしこの第一波が、あとに襲った第二波、第三波のような潮高だったら、なお多くの犠牲者が生じていたことは確実で、大変危険な避難状況だったことがうかがえました。
二、「寒いし、夜明けまでまだ間があるし、もうひと寝入りできるなあ、とは思ったが、津波がくるとは思ってもみなかった……」
新庄に生まれ、新庄で育った数人からこんな言葉を聞きましたが、歴史的に繰返し津波の来襲を受けている新庄では、「地震のあとには津波」の意識は、当然みんながもっているものだと思っていましたが、そうではなかったのです。
三、「地震が大きかったから、ひょっとしたら津波がくるかもしれん、海の潮の様子をみてくる…津波がくる時は文里湾や跡ノ浦湾は、空っぽになる、と昔の人は言っていたから…」
かなりの若い男の人は、家族にこう告げて海辺に潮の動きを見に行っています。
このことについて
「とんでもない危険極まる行動!!、津波の来襲前に必ず潮が引くとは限らない、すぐに押し寄せる津波もある」と地震学者は警告しています。
さて、昨年の秋と今年の春にアメリカの地震学者アットウォーター氏が新庄公民館を訪ねられました。
西暦一六九九年北アメリカ西海岸で起きた地震津波(元禄の津波)の日本での影響を調べに来られたそうで、その記述のある新庄が、遠く外国からも注目されている地域でもあるのでしょうか。
歴史的にみても当然なことですが、それだけに、前述した会話のようなことがあってはならないと思います。
あらためて「早期の避難」、「地震のあとには津波」の認識、「片寄った認識をもつことの危険」等地震津波に対する心がまえの周知徹底を図らなければならないと痛感いたしました。
本書がそれに資せれば幸甚です。
昭和の津浪復刻委員会
委員長 大下稔
塩崎幸夫 畑中幸雄
岸彰則 柏木多美男
岡崎美次
編集責任者
柏木多美男
裏表紙
復刻
昭和の津浪
付 昭和の津浪余録
チリー津波
平成十一年五月三十一日発行
編集発行者 田辺市新庄公民館・昭和の津浪復刻委員会
和歌山県田辺市新庄町二〇三八番
発行所田辺市教育委員会
和歌山県田辺市湊一六一九番地の八
電話〇七三九-二ニー一六〇六番
印刷・製本紀伊民報社
和歌山県田辺市秋津町一〇〇番地
電話〇七三九ー二二ー七一七一番