チリ津波地震について
岩手県土木部総務課
佐々木 忍
1.緒言
従来三陸沿岸はリアス式海岸として知られる如く,海岸線の凸凹激しく三陸地震に伴い,幾度となく津波の襲来をうけ,湾形によつては20〜30mまで遡上する所もあつた。今回去る昭和35年5月24日早朝いわゆるチリ地震に伴う津波に襲われ,過去における津波とは異質の津波を経験したのであるが,この相異について又構造物の被害例,過去の防潮施設に対する、評価,今後の問題等について記して見たい。なお今回のチリ地震津波の岩手県の被害は表−1の如くであり,死者行方不明 入家流失倒壊 明治29年18,000 5,500戸 昭和8年2,700 4,000戸 に比べれば死者行方不明が特に少く,又津波の浸水高は低かつたが被害は大きい湾の湾奥に集中した為,経済的損失は過去の津波に匹敵すべく,ここが三陸沿岸の生産活動地帯であることを考える時,津波の特性と共に多くの問題を含んでいると思われる。
2.チリ地震津波の特性
チリ地震津波はチリ沖に発生した地震に伴い,本邦に押し寄せた津波であるが,チリにおいては連口地震が頻発し,
No.1 5月21日午後7時23分 M=8
No.2 5月22日午後7時51分
No.3 5月23日午前4時15分
No.4 5月23口午前4時31分 M=8.75
震源地 S37° W73°
であつて本邦に津波をもたらしたものは4回目のものと云われ,約24時間後に本邦に達している。嘗て我々は三陸津波は三陸沖に発生するものと考えていたのであり,今回の津波で相当の被害を受けたのであるのが,宮古測候所二宮所長の調査では1951年の津波は理科年表によればやはりチリ沖地震に相当するので,前例があるのだと云われているのであつて,この機会に三陸地震津波の柑異について明らかにすることが有意義であろう。
1.検潮記録
岩手県下には現在久慈,宮古,釜石,大船渡の4港に検潮器を備えており,各港の記録は図−1の通りであるが,いずれも不完全なものである。故障を起したものは総て目測をもつて補つているが,高潮部については日頃工事を進めていろ関係で,現場附近の地形地物に通じているから,比較的大きい差はないと思われるが,低潮部については,常に露出している所ではないから,相当の違いはあるだろう。又たとえば大船渡において,高潮部でも痕跡調査と相当の差があるので,観測者が津波から逃げ遠地からの観測であることを考えればこれ以上の精度を要求することは無理であり,この種観測を進めてくれたことに敬意を表すべきであろう。又上記のような有意義な観測を除いて,一般の津波来襲状況の聴取の際の時間についてであるが時計の誤差と云う問題を除いても,常に時閲により業務を進めている人達においてさえ,検潮記録と30分の差があつたことはこの調査の限界を示すものであろう。
次に各港検潮器の状況を示せば宮古港 宮古測侯所のものであるが,潮位についてはパイプの関係で急激な潮位変動は示さず高潮位は低く出ている。釜石港 フロートがシャフトの途中で動かなくなり欠測している。久慈港 最高潮において故障している。大船渡港 検潮器は完全に水没したので,記録なく本表は日産建設橋本氏の目測である。この検潮記録によれば,岩手県下に押し寄せた津波の第1波は2時58分〜3時10分であつて,外海に近い久慈港と湾奥の釜石港との間には12分の差があり,これは湾内の位置によるものと思われる。津波の最高潮位は,4時30分〜40分頃であつて,久慈港では4時50分であるが検潮器の故障の時刻が4時30分であるから最高潮位はもつと早かつたのではないだろうか。この最高潮位が,第3波であるか第4波であるかは,議論の余地があるが,宮古港,久慈港では明らかに3波目であり・釜石港では4波目である。然し6〜8時頃の記録を見ると,宮古港の固有振動が50〜60分だとしても釜石港の固有振動が相当明瞭に出ていることを考えると,最高潮位は第3波目と考えてよいのではないだろうか。そうすると第1波より第3波までの閲は周期が30〜50分,それ以後は宮古港,釜石港の記録で6〜8時頃では50〜60分の周期が卓越している所を見ると50〜60分と考えてよい。それ以後は次第に湾の固有振動に移行して行き、この振動は約1週間継続している。このような振動が長周期波を受ける程長く続くことは,十勝沖およびカムチャッカ沖地震津波で観測された所である。
2.浸水高
昭和8年の津波および今回のチリ地震津波の浸水高を数ケ所の湾について図示すれば図一2の如くであり,これを湾口より湾奥までの縦断図に示せば図一3の如くである。昭和8年の津波は上げ潮の略平均水面において始まり、津波の周期が短かかつたことを考えれば,最大浸水高を示した時も略平均水面と考えてよく,今回は下げ潮で津波の始まりは満潮1時間半後に始まつたが,最大浸水高を示した時刻は略T.P.上10cmと考えられる。これによれば宮古、山田、大船渡、広田の各湾とその他の湾では明らかに両津波に対して違つた傾向を示している事が明瞭である。すなわち津波の周期対して、湾の固有振動が短い場合と長い場合で違う減少が起るであろうことは,先に昭和8年の津波と昭和27年の十勝沖地震津波,カムチャッカ沖地震津波を検討して考慮されたことであるが,今回これが明かになつた。又昭和8年の津波と今回の津波について湾の固有振動と湾奥の浸水高について整理すると図一4の如くなる、湾の形,湾の水深変化等,種々の要素が1巨なるから,必ずしもこのような直接関係が成立するとは考えられないが,明らかに異つた傾向を示している。これらの諸傾向から云えることは
1)津波の諸元によつて湾に対して異つた法則に左右される可能性が
ある。
2)従つて三陸の沿岸に対して,異つた性質の津波が押し寄せるならば更に大きな災害を及ぼすような可能性がある。たとえば周期30分程度の湾は,2回の津波に対して取り残されたように思われる。
3)今回の津波は図一2,図一3によれば,湾口において浸水高50〜100cmであるから、潮位10cmを考慮すれば振巾は80〜180cmと考えられ外海で4√hに逆比例すると仮定すれば水深100mの地点では65〜140cmの間にある。
これらは要するに津波の諸元,および湾内での津波の変形に対する理論的研究が,今後の最も大切な,深題である事を示している。
3.津波被害について
三陸沿岸では昭和8年の津波を受けてより次のような対策が実施されて来た。
1.道路の高地への移設および避難道路の建設
2.住宅の高地への移転
3.防潮林の植林
4.防浪堤の建設
5.防潮壁の建設
6,護岸構造物の築造
7.警報組織の完備および退避訓練
これ等の処置がその後どうなつているかあるいは施設が今回の津波でどのような効果を果したかについて検討し
て見たい。
1.道路および住宅の高地への移転
道路の移設は昭和8年の津波に照して,その高さより上に道路を移し,その上に住宅地を造成した。今回の津波においてはこのような処置の取られた所には,津波は上らなかつたが今回の経験から津波襲来後の援護活動の上からも,交通確保は極めて重要であつて今後更に道路を移設すべき箇所が多く残されている。又住宅は昭和8年後高地に移転した所であつても,完全にこの鉄則を守つている所と長年の生活の不便,あるいは宅地の不足から,下に降りて来た所と略半々であつて今後三陸地震津波が襲来したならばやはり数千戸の完全流失を見るであろう。このように低地の居住は,生活の根拠を海に求めているためであるが,これを一概に高地に移転すべきであると云うのは観念的ではなかろうか。最近の漁業は次第に漁場が遠くなつており,又生産性が高まり沿岸漁業資源が減少し,海に依存する日数が次第に少なくなつているから,生活の根拠を林業あるいは畜産に移行することによつてのみ住宅の高地移転が無理なく解決できる。
2.建築物の被害
各地の建築物の被害状況は表一4および図−5,図一6の如くであつて木造は1.5〜2.Omが限度であるが,モルタル造りともなれば2.Om程度では略無傷であり,3.0〜4.Omまで全壊を免かれ得る可能性がある。又このような被害は背後に津波の進入するような所に顕著であり,これは相当の流速があるためであつて三陸地震津波の如き短周期の場合には,更に低い浸水高で破壊するであろう。一方たとえば背後に山の近い下船渡では浸水高で半壊あるいは浸水に留つた所もあり,今回の津波の如く波頭をなして来ない場合には,流速を減少させる事によつて相当の効果を得る可能性がある。
3.防潮林
昭和8年の津波後各地で防潮林が組織的に植林されたが,今回津波で被害を受けた地域の中,津軽石,大槌,高田に防潮林があつたがこれらについて検討して見よう(図-7)。津怪石では背後が田圃であつて,比較討論すべき何物もないが,防潮林が3ケ所で抜け,これらの所には海岸線に大きい変化を生じ地盤も1.00〜1,50mの厚さで削り取られたが,うち2ケ所は防潮林の巾が極めて小さく,他の1ケ所は通路が通り抜けていた。大槌においては大槌側では防浪堤の外側に防潮林があり,この背後が右側の海に露出している部分に比して,防浪堤の被害も人家の被害も少ないように見える。しかしながら一方は海に露出している部分であり,他方は防浪堤より200〜400mも突出して,ここに防潮林があるので必ずしも防潮棒のみの効果とも断定できない。また鉄橋下の部分においては、防潮林背後の町営住宅が附近および背後の住宅が全壊しているに拘らず,浸水のみに止まりほとんど被害を受けておらない。これはこの地点の浸水深が1.5〜1,9mであり木造家屋で流れの集中する地点であることを考慮するならば、半壊ないし全壊すろ所であるが,この町営住宅が最近4〜5年の中に建てられたものであり,基礎とボールト締であるためと思われる。高田においては防潮林が長200m最深部−6.Omとなつて抜けたが,この部分は旧河川敷であつたと云われ,またこの左側の防潮林のない部分においても,海岸線に大きな変化を見た。これらの部分は松もまばらであつたし,巾も他の部分の半分ないしそれ以下であつた。また背後の鉄道の被害状況を見ると防潮林の抜けた部分、および防潮林のない部分に集中している,しかしこの地点は広田湾の屈折図(図一8)を見ると,津波の進路の正面に当つているし,また防潮林が抜けてからの流れの集中で被害を大きくしたかも知れないし,海岸線より距離の問題もあつて防潮林の効果を云々できない。これらを綜合して極めて常識的ではあるが
1)防潮林が欠点のある地点で抜け,流れが集中して地形変化を起したと云うことは,防潮林の効果を示している。
2)防潮林は全海岸線にわたつて一様で相当の巾が必要であり,下枝が十分についていなければならない。したがつてある年限がたてば植えかえが必要であるから,この間の空白を無くするため2重の配置ができるだけの余地が必要である。
3)地形,地下水位,土質等の一様性は極めて困難であるから実際問題とすれば,防潮林のみによる防護は不可能であり,あろ場合には極めて危険である。これらを考慮するならば防潮林は防護目的の明瞭な局部的な防護,あるいは防浪堤の補助的な効果をねらうベきてあろう。
4.防潮壁
山田町には衡の中央部の道路と海岸寄りの道路の問に,人家がありこの瑚に海岸線に平行に防潮壁があつて,これには両道路を結ぶ道路が開放されている(図−9)。今回の津波後三陸沿岸を調査された方には山田町と関口,織笠の被害を見て,市街地防護の好例としてこの効果について云々されているが,建築物の被害状況図が示す如く,今回の津波の浸水高が山田町では本来被害を受ける浸水高であつたかどうか疑問が残るし,また津波が背後に流入するような悪条件にもなかつた,一方防潮壁間の海岸に通ずる道路の陸側が今回の1・2〜1・3m程度の浸ノk高で被害を受けたのであつて,この種通路を開けた防潮壁の方法の場合,通路巾,浸水高,津波の周期と背後の被害範囲が予想されるならば,背後の永久構造物区域を決定することができる。背後に山のせまつている大船渡湾の下船渡では建築物の被害が比較的少なかつたが,この種防潮壁の効果があるだろうと云うことを意味するものであるが,通路背後の永久構造物化を推進しなければ通路開放型は極めて危険性を伴うものである。
5.防浪堤
昭和8年の津波後築造された堤防中大規模のものは田老,吉浜の防浪堤であり小規模のものが大槌,越喜来(護岸)てあつた(図−10)。田老の堤防は津波後着手し戦時申工事を中止し,昭和29〜32年に完成したものであるが、今回は堤防の位置まで津波が到達しなかつた、吉浜,越喜来の堤防においては今回の津波は堤脚より約1,3〜1,5mの深さに達し一応背後への津波の浸入を止めたが,吉浜の堤防については昭和8年の津波高15mに対して天端高+7・6mであつて,昭和8年程度の津波を受けた場合,背後の遡上高が2波,3波目に対してどのようになるか疑間が残されている。これらの構造物は総て前面はコンクリートあるいは練積石垣で法面を防護されているが,背面は一様に空積であつた。大槌の堤防はこの点について極めて有意義な教訓を与えた。すなわち構造物の天端はT.P+3。2m,津波高+3.7mで50cmだけ越流したのであるが背面は全延長にわたつて洗掘されていたのであつて,背面の保護が極めて重要なことを示している。また昭和34年度より普代,津軽石において防浪堤を築造しているが,これらは総て,背面をコンクリート枠張工で保護している。普代では今回津波を受けていないが,津軽石では全計画730m中130mを築造していたに過ぎず,天端高+5.0m,津波高5.4m,瞬開的には約1.Omで越流したと推定されるが,水が裏に廻りウォータークッションになつた点も考慮されるが,先端部の洗掘を除いて堤体は全く無傷であつた。
6.港湾構造物の被害
津波時においては常時の波浪災害と異なり無数の漂流物が衝突するのでこのような漂流物衝突による災害および短時間内に海面の上下運動をするための裏込の流失などを除き次のようてある。意外であつたのは大船渡港および宮占港においていずれも桟橋と土留擁壁にかかつているスラブが持ち上げられなかつたことであつて,これは昭和8年の津波で桟橋構造などに津波時の下より持ち上げる力を構造上考慮すべきであると注意を喚起しているのに比較すると,今回の津波の海面の上昇速度が緩かつたことを意味している。
1)大船渡港−3m物揚場
本物揚場は一般の方塊積物揚場(図−11)であるが,元来最近の方塊積物揚場は方塊の後端を1:0.05〜1:O.1下げて物揚場の前面を傾斜させるが一般的であるが,本物揚場では地層がC=0,1〜0,5kg/cm2と云う軟弱地盤であつたため,砂で置換え捨石を施工して更に全方塊を2列5段に積み重ねて荷重をかけ,沈下を促進したため,一般的な方法では最終下端均しに手嚇かると云う施工上の点と,方塊下端の荷重分布を捨石下面に分布させた場合に裏込,裏盛土の完了後,後側が沈下し物揚場は後に傾斜する筈であると云う構造上の点とより、方塊は水平に掘えつけてある。これが今回の津波に際して全長420m中約70mにわたつて,場所打コンクートとエプロンの間に口があき1〜3cm前方に滑り出している。調査の結果物揚場自体が滑り出しているのではなく,2段目の方塊が滑り出しているのであつて,これは津波の引潮時に残溜水圧がかかり方塊問が滑り出し,ホゾによつて止つていると考えられる。なお物揚場の前面は落潮時の落下水のため洗掘された。大船渡港では一3.Omまで,釜石港,久慈港では一2.0〜2.5mまで潮が引いているが,他にはこのような異常は認められなかつた。このようなことを考えるならばやはり一般的に方塊を傾斜して据えつけるべきであろう。
2)矢坂構造
本構造の被害は釜石製鉄所の鋼矢板岸壁(根付護岸),大船渡港−4m鋼矢板物揚場,−2m鉄筋コンクリート矢板物揚場の被災であつて釜鉄岸壁および大船渡−2m物揚場はいずれもタ-ンバックルより切断し,大船渡港-4m物揚場は矢板の根が前方にはらみ出した。これらはいずれも引潮時の残溜水圧の増加により前者はタイの不足,後者は根入抵抗の不足を生じたものと考えられる(図−12)。
3)護岸堤防など
津波により越流した護岸堤防は土堤は勿論のこと,一見丈夫に見える前面を法覆した構造物であつても,背面がほとんど洗掘されているし,護岸天端が背後の地盤より高いような護岸が弱かつた。また天端が背後と水平な護岸であつても,周囲の状況によつて流速を生ずるような所では、天端に洗掘が生じていた。また海岸に流入している小水路では異常な流速を生ずるようで,このような水路では護岸が洗掘されて倒れ,これと同ような陸橋,水門,暗渠などの取付部の破壊が目についた。
7.警報組織
津皮警報の伝達組織はいつ頃から整備されたか不明であるが,気象関係機関の努力と,一方地元では田老町が従来、3月3日(昭和8年の津波月日)に自主的に津波の避難練習をして来た実績によつて,この)両極から組織が固められ現在では3月3日は三陸沿岸全部にわたつて避難訓練が行なわれている。現在の津波警報の伝達系統は表−5の通りであるが,この系統の主柱は仙台管区気象台から発せられた津波警報が電話で各市町村に伝達されるのであつて,三陸沿岸には本年3月21日および7月30日盛岡において震度4の三陸沖地震が発生し,いずれも津波警報が発せられ,その時の各地への伝達時聞は表−6の如く,地震時より警報発令まで約20分,各地で警報受領まで2〜10分である。警報発令後の伝達速度は昭和27年当時から見ると,はるかに短縮されているが三陸地震津波が地震後30〜40分で押し寄せるとすれば,なお次のような不十分な点がある。
1)地震後,警報発令までの時間を短縮すること。
2)現在の伝達方式は電話方式を主柱としているから三陸地震津波の場合は,不通を覚悟しなければならない。
3)現在の伝達系統の末端は地方官公署であるから市町村役場,あるいは支所のない所は部落電話によるかあるいは無連絡に残されるのであつて,この未端組織を充実すること。
4)警報の伝達はサイレンまたは半鐘で住民に知らされているが,これが火事と混同しやすく今回の津波で各地で混同している。
これらの諸点は次第に改善されなければならないが
1)トランジスターによる直接ラヂオ放送聴取によつて有線伝達を除くこと。
2)住民独自の判断による避難,事実チリ地震津波に際しては警報は問に合わず,住民独自の判断で避難したし,また地方公署において独自の警報を出した所もあつた。また3月21日,7月30日にも沿岸の大半の所で独自に警報前に避難を開始したか,または警報を待つていると云う状態にあつた。このような状態にまで進めた沿岸,市町村には敬意を表さなければならないし,将来にわたつてこの努力を続けなければならない。
4.結語
以上述べて来たように我々は嘗て幾度か経験した三陸地震津波とは異つた性質の津波を受け,そして今まで努力して作り上げて来た海岸構造物に対して種々被害を受け,この被害の様相は今後の対策に対する方向を示しているが,なおその底に次のような本質的諸問題が残されている。
1.津波現象に対する問題点
我々は三陸津波と今回のチリ地震津波と2つのタイブの津波を受けたのであるが,この対策を樹立する場合に既往最大浸水高を以つて対称津波高とすると云う最もありきたりの方法による以外に現在の所方法がない。先に述べた如く津波高は外海の津波高,周期,湾の形状、固有振動周期に関係することが考えられるのであつて,今までの各地の経験以外にある条件の津波が押し寄せた場合に,更に大なる浸水高を示すことが予想される。従つて次のような理論的問題が今後に残されている。
1)津波の発生機構
2)津波高と津波の周期はどのようにしてきまるか
3)大陸棚において,津波が変形するかどうか
4)湾内においてどう変形するか
以上の問題があきらかにできれば津波の頻度が不明に残されても,各地の構造物あるいは,立地についても進んだ配慮がてきる。
2.海岸法について
海岸法の成立によつて我国の海岸,防災はその緒についたばかりであり,その進歩は将来を約束されていると云えるのであるが,津波現象は限られた地方の特殊な現象であるため,海岸法において配慮されなかつたのではなかろうか。我々の常識よりするならば波浪と異なり堤防など築造する場合,海岸線より数百米あるいは千数百米離れた所に,海岸線より独立して配置するのが一般的であつて,この場合海岸管理者が背後の施設の管理者となると考えるべきであろう。しかしながら,もう一つの解釈は海岸法では(第5条第4項)知事と海岸管理者(港湾管理者,漁港管理者)が協議が成立した場合は海岸管理者が,背後の施設の管理者となる。したがつてもし協議が成立しない場合は(この条件も不明であるが)知事が背後の施設の管理者になり得ると云う解釈であるが,海岸のない海岸管理者になることになり疑義が存在する。この点については,3省において明確にしなければ地方公共団体では混乱が起るであろう。また津波に対して防潮林が他の諸施設を組み合わせて効用を発揮する可能性があるのであるから,当然海岸管理者の管理下におかれることも考慮してよい問題であろう。更に海岸に接続する河川であるが海岸管理者が河川区域を指定できない現在,津波の如く原因が海にあるに拘らず河川管埋者が津波に対する工事を施工することができるであろうか。
今回チリ地震津波によつて甚大なる被害を受けたのは三陸の一部であつた。この地域においては今後数年にわたつて対策事業が進められる。しかしその他の地域においては三陸地震津波が近いことを意識し,その対策を急ぐ要望がチリ地震津波以前にも増して強まつている。そして私達もそれが重要であると考えている。災害は常に忘れられがちではあるが,三陸の何処かで津波対策事業が進められ目の前に施設が築造されれば決して忘れられないであろう。