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真喜屋小学校創立百周年記念誌
平成八年九月一日発行
編集 名護市立真喜屋小学校
創立百周年記念事業期成会記念誌部
発行 名護市立真喜屋小学校
創立百周年記念事業期成会
沖縄県名護市字真喜屋二二四番地
電話(〇九八〇)五八‐一二五一
印刷 (有)うらわ印刷
沖縄県名護市城二丁目四番六号
電話(〇九八〇)五二‐二〇四〇

歴史年表

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歴史年表

真喜屋小学校について

(途中から)


木造かやぶきの仮装舎が、次々と建築されていくのである。いわゆる「馬小屋教室」といわれていた床もない校舎であった。
昭和二十三年(一九四八)四月一日「六・三・三」の教育制度の改革により初等学校六か年、中等学校三か年の義務教育となる。


真喜屋小学校
昭和二十七年(一九五二)四月一日、羽地教育区立真喜屋小学校と改称する。昭和二十八年(一九五三)よりブロックスラブ葺の校舎建築が始まり、昭和三十一年(一九五六)には、馬小屋教室全部が解消され、全児童本建築校舎に収容す。


チリ津波来襲
地球の裏側、遠く南米チリ沖で起きた地震による津波が太平洋を越えて沖縄の東支那海ここ真喜屋の海岸を襲ったのは、昭和三十五年五月二十四日の午前六時頃のことであった。
このチリ津波の来襲により、海岸べりにあった真喜屋小学校が大きな損害を被った。全校舎が半壊状態となり、使用不能となる。学校備品や書類等も一切流失したのである。学校裏の護岸も、真喜屋奥武橋、屋我地大橋共に潰滅した。全琉各地から多大の見舞品や支援を受ける。一方当地域においては、災害対策委員会を設置。今後の対応について協議した結果、全会一致で学校の敷地移転を決定、中央教育委員会において新敷地ハジャナ森に移転認可された。早速、琉米親善委員宮城善兵氏を通じ、米陸軍輸送隊指揮官サックス大佐と交渉し、地均し工事が始まったのが八月二十五日であった。蔡温松が林立するハジャナ森の松を切り開き、地均しをするのは一大作業であったが、文明の利器をもつ米軍輪送隊は、大型ブルトーザーを何台も使い、一週間ぐらいで工事を完了した。おどろきである。学校においては、災害発生以来、教育は一日も休むことはできないと六月一日より露天授業を再開し、一、二年生はあさぎ森、三、四年生は阿波茶部森、五、六年生は学校のモクマオの下と分散しての授業であった。
当時の知念文平校長、新島俊夫教頭、稲嶺出身故宮城善兵氏、米陸軍輸送隊、村当局、PTA、地域住民の絶大なる協力があったことを忘れてはならない。
新敷地での新しい学校作りがはじまると、協力心旺盛な父兄の奉仕作業が頻繁に行なわれ、運動場周辺へ木麻黄、相思樹、でいご、ナンキンハゼ、ガジュマル等、その他何百本もの植樹がなされ、実に緑豊かな学校環境に生まれかわるのである。そして昭和四十五年(一九七〇)七月、県緑化推進委員会により緑化優秀校として表彰を受けた。
昭和四十七年五月十五日、祖国復帰に伴い名護市立真喜屋小学校と改称す。

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写真 露天授業(あはちゃび森)
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写真 真喜屋小学校全景(1976年)

昔の学校生活について 島袋三好(明治三十四年十二月六日生、真喜屋)

清く、正しく、健やかに
大道を闊歩せよ


明治四十一年四月、稲嶺尋常小学校入学。
校舎増築中であり、カヤブキ屋根の字稲嶺事務所が教室。当時は官からの義務教育督励が厳しく十一才の学童も一緒に勉強した。
校庭では大工が材木を削る。
服装
夏はウバサースディキヤ(芭蕉布でつくった簡単な着物)
冬は木綿を着る。
店に反物がなく家庭でジーバタ織。
家庭生活でも貧富の差が大きく、それが服装に現れる。
衛生
家庭に風呂がなく不潔で皮膚病いろいろ。
弁当
芋と塩を手拭に包む。本はフロシキに包み右肩から左脇に
かけて結ぶ。
女生徒は腰から前に結ぶ。
運動
男生徒は相撲、片足戦闘、竹馬、キカイ体操等。
女生徒はオテダマ、イシナグ、トンボ。
労作教育
頭と体の働き、実習地で耕作。
家庭においては草刈や野良仕事の手伝い、テマメができる。
自給自足の世の中
山の段々畑のスミズミまで耕作した。その状況を小学読本に次のような記事があった。「道を挟んで畑一面に麦は穂がでる、菜は花盛り眠る蝶々飛び立つヒバリ」人間が自然の中に育つ絶景を偲ぶ。
結び 昔と今
昔は修身教育に徹する。倫理道徳の典型的人格者として二宮金次郎を修身の本におさめ、人間教育の指針となる。働きながら読む労作教育。
現代は機械文化で物は豊かになったが、物にとらわれ、勤労精神を尊ばない。昔想像もしなかった非行が数々批判されている。若い方々に昔を訪ねてはと思う。
真喜屋小学校百周年記念、心から祝福申し上げます。

えんどうの花は萎まず 宮里定三(真喜屋)

わが母校の創立百周年の節目を迎えて、軌道を振り返り記念誌の創刊に漕ぎ着けたことは誠に喜ばしく、明治時代から地域の子供達の未来を開く人材の育成に重要な役割を果たして来た。その沿革を次の世代へ継承する又とない有意義なモニュメントになるであろう。
さて、私達が稲嶺小学校へ入学したのは大正八年であった。高等科が併置された記念すべき年でもあったと記憶している。然るに光陰は矢の如し歳月は流れ七十余年も経っている。はじめて登校した日の事をはるかに回顧してみたい。
真喜屋から学校までの距離は僅かだが、通学路に沿って一帯は水田がつづき、稲穂が風になびく光景を眺めながら、友達と連れ立って風呂敷に本を包み絣の着物と裸足といういで立ちの通学であった。
入学式は先ず全校生徒約六〇〇人と共に運動場に整列させられた。校長先生は一段と高い所に立たれて一番偉く見えた。容姿端麗にしてなんとなく気品が備わっていると、子供心に強く感じていた。大田周三校長(三重県出身)の面影は遠く近く断片的にちらついてくる。校長先生から直接に声をかけられた事もなく入学式の教訓らしきお話も今となっては残念ながら何一つ覚えていない。
学校敷地の周辺は島竹の緑に囲まれた農家のたたずまいが点在していた。四方のロケーションは起伏に富んだ赤土の森が連なり、保安林の老松群もそびえていた。なだらかな斜面には多彩な常緑の樹木が生い茂り、四季折々に飛来する野鳥も多く、夏を迎えるとクマ蝉等を競い捕って戯れていた。学園の位置としては閑静な環境であり、特に隣接には学校の農園が丹念に整備されていた。
高等科生になると農業専門の先生達が野菜類の栽培について種蒔きからご指導されていた。その成果は父兄達からも多大な注目をあつめ好評を博していた。校歌にもある象徴的な天洋森は近くの小高い丘にあった。そこからの眺望は雄大で、碧く澄み切った羽地内海がパノラマの様に映る絶景であり、常に清楚な松風に揺れて涼しく子供達の憩いの場所として活用されていた。
図工の時間には先生に引率されて幾度か森に駆け登り、がやがやはしゃぎながら仲良しグループ毎に好きな場所に陣取って写生に取り組んでいた。時には楽器のない青空教室も展開され声高らかに歌っていたものだ。学校の周りを取り巻く土塀には楠木が立ち並び、建物は木造平屋の赤瓦であった。校内の配置構図を描けば中央に職員室があり、裏手には校長住宅があって鶏も飼われていた。運動場の南側にゴムの木が大きく伸びて、その枝葉に覆われた木陰には生徒の水飲小屋が設けられ、よく利用されていた。
昭和四年頃から青年訓練所と称して、私達より二期先輩の人々と共に週三回位午後から慌ただしく登校を義務づけられ、軍事訓練が母校の運動場で繰り広げられていた。
特に歩兵装填の実技等は、先輩の宮城源光氏が教官としてその指揮を執ってご活躍しておられた。今更その経緯を指摘するまでもないが、愚かな戦争構築の末端における軍国主義の高揚を図る迷走であった。往時を省みて、沖縄が鉄の暴風に巻き込まれて筆舌に尽くし難い悲劇の影が潜んでいたとは、誰一人夢想だにしていなかった。恐らく沖縄のユタや三世相も洞察し得てはいなかった事と思う。
沖縄戦の実況はいろいろな角度から悲惨な記述が無数のストーリーを生んで、内外に広く刊行されている。私達も那覇から生死の境をさまよい、総てを失い衣食住を求めて焦土化した古里に帰り戸惑いながら新しい生活がきびしい環境でしたが、生まれ島の温かい風土に包まれて一応心の安堵が得られた。
夢多い少年時代を培われた懐かしい母校は、米軍の攻撃ではなく、皮肉にも友軍である日本軍の手によって放火され、全焼していたこと痛恨事であり、廃墟となった母校の姿は見る影もなく変貌を遂げていた。時が移っても遺跡の付近に立ち止まり目を閉じて耳をすましていると、何となく足が煉み感傷的になり忘れかけた在りし日の足跡が鮮烈によみがえり、走馬灯のように頭の中を駆け巡り過ぎ去りし佳き思い出は尽きることなく母校に対する思慕の念が胸に去来し、思わず目頭が熱くなる。八十路の年輪を重ねて時折里帰りしても、旧交を温める竹馬の友の存命者も減少し一抹の寂しさが漂ってくる。特に戦前は大志を抱いて南米大陸に雄飛した多くの知友達からの便りも途絶えて久しい。今や世代交代の現象だと実情をかみしめている。方丈記の冒頭に「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」とある如く人間模様も無常の観も又一入である。
人生のリハーサルは許されない。老人ボケに襲われない内に母校にまつわるささやかな逸話をかすんだ記憶を辿りながら小さな光を当ててみたい。
歴史は現在と過去の連綿たる対話を後生に記録として残すことも、今生きている吾々の義務として絆を深めていきたい。詩情豊かな古里の野山に端を発した(えんどうの花)の歌は隠れた不朽の名作として脈々と生きている。戦後生まれの方々には関心も薄いと思うが、昔の小学校は文部省指定の唱歌が主流であった。(えんどうの花)の歌は往時としては稀に見る傑作として県下に風靡していた。あの歌の発祥地は紛れもなく稲嶺校だと私は信じている。
私達が四、五年生の頃だったと覚えているが定かではない。あの歌を作詞された金城栄治先生は塩屋校から単身で赴任して来られた。あの頃は陸上交通も不便で先生は引っ越し荷物と共にクリ舟を仕立てて稲嶺の浜に第一歩を降ろされたのである。私達の学級全員が動員されて浜辺で先生を出迎えた。荷物は宿舎として決めておられた稲嶺の宮平屋までみんなで運びこんだ。はじめて会った先生の印象は目が細く眼鏡をかけて温顔であるが、何か寂しそうなご様子で校内でも何故か先生の笑顔は余り見受けられなかった。
稲嶺校に何年ほどおられたのか記憶のかなたに没しているが、突如として垣花校へ転任なされたことだけは覚えている。
数年後に先生は志半ばにして病没なされたとの悲報が伝わって来た。腕白時代であり先生の足跡を追って真相を知る殊勝な心掛けはまだなかった。宿命とはいえ清純で秀でた詩人でもあった、青年教師は社会的にその名声が大きく浮揚する機会も得ぬまま、さぞご無念だったと悔やまれる。
昭和八年頃だったと覚えているが、私が神戸で働いていた青年時代に時折ラジオのJOBK大阪放送局(NHKの前身)から、沖縄の歌の調べと題して(えんどうの花)作詞金城栄治・作曲宮良長包と紹介され夕方に流れてくることがあった。混迷する国際都市・神戸の旅空で、久しぶりに思いがけない其の歌を聴く機会に巡り会って、古里の田園風景と我が家の営みを思い浮かべ殊に夕日を浴びながら畑から芋を背負って家路に急ぐ母の姿が瞼に浮かび郷愁がはげしく胸に迫り、しみじみと先生のこ遺徳が偲ばれ心が洗われる思いをしたものである。
星霜は移り人々は逝き刻々と過去の姿が遠い過去へ連れ戻すものではなく、過去は其の姿を新しく掘り起こし進展している事もある。最近は国を挙げてふるさと創生を提起し心豊かな環境づくりを啓発するため全国の市や町に特別補助金も交付している。
折しも(えんどうの花)の歌は素朴ながら時代の先端で脚光を浴びている。ことに流行のカラオケにも組み込まれて浸透し各地に甦って新鮮な感動を呼び戻しつつある、稲嶺校の校歌を詠んだのも先生であり(えんどうの花)のメロディーが流れると、はるかなる青春の感動と夢が募ってくる。
地下に眠る先生の許へも栄光の歌声は届くだろうか。
機会があれば先生の霊前にえんどうの花等を捧げて心からご冥福をお祈り申し上げたい。
合掌


えんどうの花 金城 栄治 作詞 宮良 長包 作曲
一、えんどうの花の咲く頃は
幼い時を 思い出す
家の軒場に 巣をくって
暮れ方かえったあのつばめ
二、えんどうの花の咲く頃は
冷い風が 吹きました
妹おぶって 暮方に
苺を取りに 行った山
三、今朝はつめたい風が吹き
つばめが一羽飛んでいる
えんどうの畑は寒けれど
わたしゃ 一人で帰りましょう


小学校時代の思い出 宇久田マツ(真喜屋)
私たちの母校真喜屋小学校が平成七年十月一日をもって創立百周年を迎えます。この記念すべき節目に当たり盛大な式典と記念行事が行われることは同窓生の一人として喜びにたえません。
宮城卓也会長、與那城哲男校長はじめ関係者の方々の多大なお骨折りに対し深く感謝申し上げます。本校に学ぶ児童達は、皆様の絶大なる愛校精神、教育への情熱をくみ取り、「二十一世紀に貢献する人間」に向かって飛躍することと信じます。
私が稲嶺小学校へ入学したのは大正九年(一九二〇年)、今から七十四年も前のことです。瓦ぶきの校舎は、子供の目にはたいそう大きく、運動場もまた広く見えました。児童数は少なく複式学級もあったように覚えています。
当時の服装は、男の子も女の子も細かい縦縞の筒袖仕立てにした膝までの短い着物に細い帯といったもので、それに男は坊主頭、女はいわゆるカンプーを結っていましたが、四大節には髪をおさげにして大きなリボンを結び、えび茶色の袴をはき儀


(途中終了)

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島袋三好 93才:絵
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金城栄治

チリ津波と私〜用務員時代の出来事〜 伊差川 政男

南米チリで発生した今世紀最大の巨大地震は、今から三十五年前の一九六〇年五月二十四日の出来事でした。この地震でチリでは、死者二千人に及び隆起量は、最大六十六メートルに達しました。つまり、地面から一気に二階の天井の高さまで上昇したのです。それが有名な「チリ津波」です。
チリで発生した津波は、太平洋を横断し各地に被害をもたらしました。一万七千キロ離れた日本に二十三時間後の五月二十四日未明に来襲、私は当時真喜屋小学校の用務員として働き、夜は宿直を兼ねて働いていました。私が起床する時間は常に六時頃でした。ところが、その日に限って五時二〇分に目をさましました。海の潮音がいつもと違って、ものすごい不気味な音が聞こえてくるのです。私は目をこすりながら海岸へと向い、その下を見ると波はドロドロとなっていて、また橋の方に目を向けると、波が勢いよく羽地内海から太平洋へと潮が引いていくのです。
いままで見た事のない潮の引く速さに、私はただただ茫然と眺めていました。不思議に思い、当時いっしょに宿直をしていた仲尾次の仲尾徳夫さんを起して、二人は海岸へと向いました。彼も今日の潮はおかしい、おかしいと話され、二人は壊れた護岸を歩いて橋へ向っていきました。そこへたどりつくと、橋下の潮は猛スピードで羽地内海から太平洋に向い潮が引いていくのです。その状況はなんと表現してよいか、まるで飛行機かジェット機のような速さの音、いやハリヤー機の不気味な音のように潮が音を立てて引いていく様子を二人は眺めていました。
しばらくして、二人は話をしながら学校へ戻っていき、橋のたもとに着くと、先程まで引いていた潮が、数分間で満ちてきて、二人は手をしっかりつなぎ、やっとの思いで道を通りぬけ、私は急いで校長住宅へと走っていきました。当時校長をしていました知念文平先生を起し、再び学校へと戻っていきました。すると、すでに潮は運動場いっぱいにおよそ二十から三十センチ程度上っていました。校長先生は運動場いっぱいに広がっている潮を見て、「高潮では!」と言いました。しかし、私にとっては見た経験はなくだまって校長先生と一緒に学校へと向っていきました。後から校長先生の長男、知念紀彦さんもついてきて、一緒に海岸へと向いましたが、潮はすでに引いている状況で、これが第一回目の津波でした。しばらくして、三人はもう一度、橋まで行きましたが、その時はいつもと変らない海の状景でした。ただ、潮の引き方が普通と違って、かなり遠くまで引いていた事が記憶に残っています。
第一回目に押し寄せてきた五時二〇分の津波から約四〇分が過ぎた第二回目の津波が六時七分にやってきました。どうして、六時七分と記憶しているかと言うと、私は六時から仕事をするのが常でしたので、その時間帯とやや一致していたからです。前記したように、時間が経つのを忘れて急いで職員室のガラス窓のカギを開けようとした時計の針が丁度六時七分をさしていました。その後、海を見ながらガラス窓を開くと、波に追われてくる船乗りが大きく手振りをしているのです。私は何かと思い、目を海に向けると、なんと沖の遠方から大きな波しぶきが押し寄せてくるのです。これまで見たことのない高波を見ながら、船乗りに急いで「逃げて下さい!」と大きな声で叫びました。すると数分と経たない間に、高波が目の前に押し寄せてくるではありませんか、急いで職員室を飛び出し、運動場を通り抜け校長住宅にさしかかった時、後をふり向くと波は押し寄せてくるのです。校長住宅にいた校長先生の娘(マリ子さん)を抱え、一本の丸太の木橋を渡って田んぼの中道を走って逃げました。走りながら左の方を見ると、別の中道から学校近くの住民が逃げていくのが見えます。そう、その時サナエさんがゆっくり歩いてくるおばあさんを、大きな声で叫びながら助けに行く姿が、今でも目に浮かびます。私達は無事に県道(現在の五十八号線)に着きました。私は背負っていた子供を阿波茶部森の前におろして再び県道へと向いました。すでに潮は田んぼ一面を覆い、県道まで潮が上がっていました。そのような最中、近くの住民、上間康治さんが、子供三人を頭、両わきに抱え立ち泳ぎで逃げていた事がうすうす記憶に残っています。
私はしばらく足が震えて立つ事が出来なく、道路橋の側に座っていました。しばらく潮は満ちたり、引いたりして、数時間後に津波の解除を聞きました。その後、死者が出たとの情報があり、二人のおばあさんと、サナエさんは亡くなっていました。心から残念に思えてなりませんでした。もし、昼間子供達が、学校に居る時間に来たとしたら、生徒の犠牲者は数多く出たにちがいありません。この出来事が早朝だったのは不幸中の幸いでした、私は落着きをとり戻し、学校へとひき返して行きました。すると、校舎は壊われ、机、こし掛、学習用具、オルガン等が流出、また職員室の書類等が周辺の木の枝いっぱいに垂れ下がっていました。同時にこの津波の来襲で、真喜屋大橋、屋我地大橋も破壊されました。
津波が去った数時間後、父兄、教育関係者、そして多くのボランティァ活動グループ(ボーィスカウト)、赤十字等が集まって学校周辺の散乱した色々な物をかたづけて協力して下さいました。津波の惨事から、まだ幾日も経たない内に、全国の各学校から、毎日のように心温まる「励ましのお手紙」そして、ダンボールいっぱいの本や学習用且ハが贈られてきました。そのふり分けにあたった私は心から嬉しく思い感謝致しました。
一段落ついて、学校の授業が始まりました。勿論、校舎は使えなく露天授業で、下級生は阿波茶部の森、阿佐義森、そして上級生は壊われた校舎の中を使用、また学校周辺のモクマオウの木の木陰を利用して授業が行われてきました。
このような甚大な被害を受けた真喜屋小学校では、急速に学校移転問題が話題となって、短期間の内に話しが進み、移転することが決まりました。安全第一の移転先が決まった一週問目の夜中、米兵協力隊のブルトーザー数台がきて、その翌日から新しい学校の整地作業にとりかかりました。
ここでぜひ特筆しておきたい事は、一つ目に学校移転問題、それに学校整地にあたっては、稲嶺出身の故宮城善兵氏、そして時のPTA会長、故宮城源光氏を始め、村の教育委員会、三区のPTA父母、また、当時の校長知念文平先生、教頭新島俊夫先生、その他多くの方々の献身的努力があって現在の学校が建設されるようになりました。
二つ目に当時はアメリカの植民地支配下にあった琉球政府である。故宮城善兵氏の御尽力により、米軍サックス大佐への要請、その配下にいた八〇九部隊の多大な協力があった事も忘れてはならないものと考えます。米軍部隊の作業中、私は朝六時の一番バスに乗って氷を名護に買い出しに行き、午前八時までに戻る毎日の日課でした。一方、三区の婦人会も毎日交替制で接待をして下さいました。このように、多くの方々の協力を得て、見る見る内に山であった森から、二週間程で立派な学校敷地へと生れ変っていきました。
津波以後、私の仕事はふえるばかり、通常の業務で朝は職員室の掃除、お茶の準備に始まり、授業の始めや終りの時報鐘、謄写板による印刷、生徒の昼食準備(ミルク炊き出し、パンの配分、お使い)、更にPTA会議等の文書配布等、特に新しい校舎建設が着々と進む中においては、早朝から夜遅くまで動き通しの毎日、その期間中は朝食、昼食ぬきの日が多々ありました。私は十六歳、あまりのひもじさに校長先生の前で泣いた事もありました。それ以来、私が自転車で道を通ると、三区の父兄が自分の子供のように呼び止めて台所へ案内し、食事を与えて下さいました。
校舎建設も順調に進み、一校舎が完成。一方では、父母による運動場周辺の整地作業。当時はまだ、どの家庭も生活に余裕のある所は少なく、ほとんど人力による手作業、又馬を飼っている家庭は馬の協力等、雨の日、寒い日いとわず毎日のように作業が行われて出来たのが、今日の学校である。私も学校がニケ所にまたがった事もあって、浜の学校からミルク、パンを自転車で運び、時には、途中、ミルクをこぼして昼食時間に間に合わない事も一度や二度ではありませんでした。こうした毎日の連続でした。以後、一九六〇年に建設工事が始まり、次々と新しい校舎が建設され、一九六一年、名実共に新生真喜屋小学校が誕生いたしました。
私にとって、真喜屋小学校は、少年期の思い出いっぱいの学校です。色々書きたい思いもありますが、紙面の都合上割愛致します。
結びに、六年間勤めた学校用務員、名護高校定時制生でお世話下さった、当時の諸先生、三区の御父兄に心からお礼申しあげます。そして、私ごと三〇年余、待ち望んでいた当時の諸先生方と三十四年ぶりに昨年、一九九四年五月二十一日、旧学校跡地において、真喜屋小学校チリ津波をふり返って、懐かしき「思い出を語る集い」が実現でき、かつ再会できました事は生涯の喜びであります。その集いは、来年創立百周年を迎える真喜屋小学校記念誌に、少しでもお役に立てればと企画致しました。旧真喜屋小学校跡地は、昭和二十一年四月の開校以来、長年に亘って多くの卒業生を送り出した学校です。しかし、今日、学校のあった面影は何一つなく、歴史の刻みがないのは大変残念に思えてなりません。幸いに今年(一九九五年十月)には、真喜屋小学校百周年を迎えます。この機会に多くの卒業生を送り出した想い出の母校地、旧小学校跡地に碑の建立と今や風化しかけているチリ津波の教訓をよみがえらせ、今後の防災教育に役立つ建立碑計画を是非実現いただくことを希望し、本校の益々の御発展を祈念申し上げ私の回顧録と致します。

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学校に残る津波の爪跡
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津波から逃げる人々
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露天授業を受ける子供たち
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警鐘を鳴らす人
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川岸での共同作業

懐かしき想い出を語る集い(第四回) —チリ津波被災を中心に—

三十四年ぶりの再会
司会 本日は、このチリ津波の被災地、真喜屋小学校の跡地にて三十四年ぶりに再会できましたことを、ともにお喜び中し上げます。一九六〇年五月二十四日から、三十四年の歳月がたちました。あの頃はみんな、若かったものです。お互いが働いた学校跡もご覧のように、今では市民運動場の公園としてかわっております。参考までに報告します。この跡地、真喜屋小学校は、昭和二十一年四月、今からちょうど五十年ほど前に羽地村真喜屋小学校と改称されまして、稲嶺尋常高等小学校から数えまして来年十月に、創立百周年を迎えます。本席では、チリ津波の記憶を語っていただきたいと思います。ちなみにチリ津波後の真喜屋小学校を語れるのはお互いしかいないんです。このたびの真喜屋小学校の百周年記念誌の中に少しでもチリ津波の内容というものを記載できればということでこれが、第一点目の企画の目的です。
二点目は、今日ふたり座っております当時の小使いをしておりました仲井問宗保さん、そして私伊差川が、先生方のよき導きの中で、大人にしてもらいました。お礼をし、そして職場を共にした昔の懐かしい思い出話ができる日を首を長くして待っておりました。ただ残念なことには今は亡き島田まつ先生、大城ゆき先生は、遠い空の上から、今日のお互いの集いをたいへん喜んでいるものと思っております。
企画目的の三点目は、この跡地に、チリ津波の被災地としての説明板、ここが真喜屋小学校の跡地であるという碑を設置したい。この三つの思いをもって実現の運びとなりました。仲井間さんと私は、知念文平校長と新島先生にご相談申し上げお二人に発起人となっていただきました。その発起人のお一人であります知念文平先生から最初にごあいさつをちょうだいします。
知念 私は、稲田小学校から真喜屋小学校に移ったんですが、その頃の真喜屋小学校は、父兄、先輩、校内の職員もたいへん熱心な方ばかりで、特長を持った先生方が揃っておりました。当時の子供たちも、みな立派になりまして、優秀なみなさんが各界で活躍しております。現在教育委員会の委員長であります宮城卓也先生からのご指導を仰ぎながら、この会合が実現しました。教育委員会が計画中の津波説明板についての集まりであり、県や市の補助によってうまれるんだということです。特に今回、宮城卓也先生が委員長でおられるのでスムーズに事が運び、喜んでおります。ずっと胸の中に秘めて実現できなかったことが今回実現できたわけで、改めて宮城卓也先生、宗保君、政男君にお礼を申し上げたいと思います。
この真喜屋小学校は、川のそばであるので、暴風のときは命懸けで先生方も学校から逃げるように県道に出て、家に帰ったと言います。これは毎年繰り返しており、場所的にはいろいろな問題があったようでございます。チリ津波が、塩屋湾から源河、それから稲嶺の海岸を通って真喜屋小学校を襲いました。根底から、土台から引っ繰り返されて、同時に屋我地の橋も流されてしまいました。残念なことには、中学を出た十一班の玉城早苗さんと、おばあさんがお二人のみこまれてしまった。早苗さんはひきあげられて、県道一号線で応急手当てを受けたんですけれども、もうだめでした。そのことが忘れられません。名護にお医者さんを呼んだが、一時間経ってもいらっしゃらない。あるいは私が、人工呼吸を知っていたら、ひょっとすると生き返ることができたかもしらんと思うと、今でもザンゲしたい気持ちです。津波は思い出したくない。政男君から催促があっても私は知らないと押し通しておったんですが、今日の集いになりました。改めて、亡くなられました島田まつ先生、大城ゆき先生、それから早苗さん、おばあさんのご冥福を祈ります。
そういうわけで津波を受けて、茫然自失という状態でございました。けれども、優秀なご父兄、指導者がいらっしやったので、その方々のお計らいで海岸から将来のために特に、仲尾次のご父兄の方々からの強い要求で、学校は山に移動しようじゃないかと。もう海岸ではいけないと。現在の真喜屋校の敷地が適当であろうということで、当時の教育長は、大城知善先生でしたが、議会の方々とも相談して、スムーズに現在の敷地に決定されたわけです。そこならよいと認めてくれました。稲嶺の方々も元の学校の近くでちょうど稲嶺から生徒が通いやすいということで、将来の子供たちのためにということで議会で決定し、あの当時、大きな松の木がございましたが、それを人力でとることができないため、宮城善兵さんが当時の米軍の八〇九部隊のサックス大佐という方に頼み込んでくださいました。宮城善兵先生は、沖縄県運輸部長でしたから、軍との交渉に当たっても力を持っておられたのです。軍の方も快く受け入れ、新しいブルドーザーを七台とか、十台とか持ってきてまるで訓練のように作業が進みました。約一月ぐらい続きましたか。学校をつくるのに軍を動かして仕事ができるということで、周囲からたいへんうらやましがられたほどです。来年は、移転しました真喜屋小学校で、稲嶺尋常高等小学校時代から合わせて百周年です。教育委員会の宮城卓也委員長はじめ、関係者のみなさんのご努力で、その時までにこの敷地に津波説明板が設置されました、沖縄全体の津波に対する教訓のシンボルにして下さいますよう、お願い申し上げます。
司会 つづいては、同じく発起人で当時の教頭先生でいらっしゃった、新島俊夫先生からもごあいさついただきたいと思います。
新島 津波の碑のことは、絶えず気にかけてきました。いつか区長会でお願いしようかとチャンスをうかがっていました。ちょうど、百周年というのはいい機会だと思います。これはぜひ実現したいと思います。私はこの津波のことは伊差川君が一番詳しいと思いますが、あと半時間くらい遅れたらお互いの子供は津波の犠牲になったんじゃないかと思います。助かったのは、天祐じゃなかったかと。そういう事情はお互いよくご存じと思います。津波の後のお互いの苦労というのは、はかり知れません。それから、ハジャナに家を移した件についても、真喜屋の方々が、向こうは北風を防ぐ部落の保安林だから絶対だめという最初の論でしたがね、喜納豊昌さんたちのおかげでできたんです。戦争前に私は稲嶺校にもおりましたが、最初ハジャナの前の、道をへだてた所に移してあったんですよ。ここに四教室ありました。ここも学校用地としては、適地だと考えていました。そこに今度ハジャナを真喜屋の部落から少し、風当たりはあるんだがそこにつくろうじゃないかといって、みんな衆議一決、善兵さんのおかげで四工ーカー、約五千坪を確保しました。当時は、もっと広げようと思ったんですが排水溝があってね、溝が。灌漑排水の溝がありました。稲作は非常に重要で、その溝を埋めて拡張するのは、絶対反対だと、地主が強硬に反対したので四工ーカーで辛抱したわけです。その善兵さんはじめあの時の三ヵ字の父兄のご協力のおかげでした。
司会 みんな思い出深い話です。つづいては、真喜屋のことは何でもわかるといっても過言でない名護市教育委員長、そして、真喜屋小学校百周年記念事業期成会長の宮城卓也先生のごあいさつです。


説明板の設置急ぐ
宮城 思い起せば三十四年という年月のながれを経て、このように再会でき、語れるということは感慨深いものです。当時の校長、教頭はじめ職員に、馳せ参じていただき、意義ある会を盛り上げていただくことに対して感謝し、教育委員会伊差川社会教育課長の創意発想で、資料もまとまり心からお礼申し上げます。思い出せばお手元の「今朝、各地に津波」という資料ニページに、真ん中にディゴの木に机、こしかけがひっかかってる写真があるわけです。それについてお話中し上げますと、津波のあった日、私は、真喜屋校から中部にいっておりましてその時には、十地区(辺土名地区、名護地区などの)時代で、コザの教育事務所におりました。その日は、朝から研究発表会で美東におりました。すると、発表の最中に津波がきたとの第一報で真喜屋小学校がやられたとメモが私のテーブルに届きました。会を中座しましてふるさとへ向かいました。バスで戻ったら、許田で交通止めになって、歩いてこっちまで来ました。するとまだ、波が寄せたり引いたりという状況でした。橋のところに行くと、棒を投げたらヒュッと走っていくような波の速さでした。恐くなって部落に引き返したのですが途中で、チラッとみたのがこの写真の真ん中のデイゴの木にかかっている机と腰掛けでした。もし、子供たちが登校していたら、どんな惨状になっていただろうと想像したわけです。それでその後、地域や職員のみなさんが分散授業しているなかで、移転というようなことで、部隊が総動員されこのような作業をしたと。その中でここから移せるものは何があるかというようなことを話し合ったんです。その時に、私はこのデイゴは絶対に移動すべきだということを言いました。しかし、人力では移せないわけです。それじゃということで、ちょうど門の真ん中の、ロータリーの真ん中にあったものですが、これを、胸の高さからチョン切って、現在の真喜屋校の運動場の端っこに穴を掘って立てたわけです。それが今現在生きているわけです。あのデイゴは絶対にみんなで大事に記念として残して置こうということで、このまえ、学校に行ってちょっと見てみましたら、真っ赤なディゴがいっぱい咲いている。その姿をみて、あの当時をまた、思い出しました。
さて、津波の説明板というものがこの地に絶対に必要じゃないかというわけですが、一昨年琉大の教授から、教育委員会に文書がきて、この津波について、後世に名を残し、その思い出を記し、その時の状況を後世に残す必要があるだろうと言うわけです。ぜひ、委員会として設置をはたらきかけ、私も協力いたしますという文面でした。教育委員会としてどうするかということをいろいろ考えて今日まできているわけですけれども、どのような方法でやった方がいいのか、行政や財政の問題があるわけで、考えると、百周年も間近になり、それと整合させながら、当時の思い出をいっぺん語り合ってみることで具体的な形になるのではないか。教育委員会としても、予算のつけかたなどがやりやすくなると感じまして、伊差川課長と話を具体化しました。
司会 つづいては、百周年記念事業記念誌部長の仲田博さんのごあいさつをお願いします。
仲田 真喜屋小学校の与那城校長先生からの連絡で参加させていただいています。期成会の記念誌部としても記念誌に盛り込む内容として、このチリ津波と真喜屋小学校の関係、事実についてはできるかぎり詳細に記録を残したいという気持ちで取り組む考えです。それに向けて、色々資料も集めている最中であります。今後、みなさんのお話をお聞きして、チリ津波について記念誌の編集にも役立たせていただくことができるとよろこんでおります。
司会 しめくくりに与那城校長先生のごあいさつをいただきます。
与那城 出身地は大宜味村の塩屋です。去年から真喜屋小学校でお世話になっています。チリ津波のことについて思い出を語る会で、当時の先生方の声を聞くことができますことをうれしく思います。百周年にあたり先輩の色々な足跡をたどって、歴史と伝統をしっかり受けとめ、二十一世紀に向けて、子供たちにこれを引き継ぎ発展させていこうという気持ちを確認し、今、記念事業期成会を中心にして取り組んでいるところであります。記念誌発行で歴史がしっかりと確かめらると、古きを温ねて新しきを知るで、これからの真喜屋小学校が展望できると確信します。沿革をひもとくと、去った大戦とチリ津波が記念誌を飾る重要な部分になるはずです。その被災の状況についていろいろ調べてみましたら、本当にたいへんな様子がわかりました。そのあたりを記念誌に立派に集録していきたいと思います。


悪夢のような津波
司会 実際に津波を見たのは、知念先生と私でした。津波の後の厳しい現実というのは皆さんも体験されておられます。チリ津波の様子をかいつまんでお話してみます。正直言って三十四年前とはいえ、私にとっては昨日のような感じがするんです。その間一日たりとも津波のことを忘れたことはありません。ここに来ると当時を思い出し足が震えてしまいます。私は毎年、五月二十四日の日は学校に来ています。一九六〇年五月二十四日の出来事でありましたが私は当時、学校のこづかい、世話係として勤めておりました。毎日、世話人が学校の宿直をしておりまして、私はいつも六時前に起床するのが習慣でございました。その日に限って実は早くに目を覚まして時計を見たら、午前五時二十分でした。起きたとたんに波がゴーゴーと音を立てて、どうもおかしいなと目をこすりながら護岸に行くと、潮と砂が泥まみれになって異様な感じがしました。そして橋の方に目を向けてみますと、ヘリコプターのような大きな音が聞こえてくるわけです。私はすぐ海岸を離れまして、当時一緒に宿直をしておりました仲尾ノリオさんを起こしてもう一度実は、護岸の方へ行ったのです。そしたら、二、三分前に聞いた時より波の音が高いんですね。ふたりで、様子がおかしいんじゃないかと言いながらも海岸を歩きながら橋の上まで行き、橋の下をみますと羽地内海の潮が、ものすごいスピードで、ジェット機の爆音のようなすごい音がするわけです。新聞報道されたように、時速七〇〇キロ、そして秒速は二〇〇メートルと。想像するとわかるようにね羽地内海の潮が橋の下を通って外海に流れていくんです。私たちふたりは四、五分程、橋の上で潮を眺めて帰ってきました。すると先ほどものすごい速さで引いている潮が、いつのまにか満ちてくるわけです。ふたりは手をしっかり握り合って、橋の手前の道路をやっと渡りました。すでに運動場の方は二十センチから三十センチほどの潮があがっておりました。「先生、今日の潮はおかしいですよ」と言うと、先生は「高潮じゃないか」というお話をしておりました。そんな会話をしながら先生とふたりゆっくり校舎の方に向かったのです。私とノリオさんとそして先生の長男でありますノリヒコさん、三名もう一度護岸の方へ行きましたら、潮は普通のように流れているわけです。普通とまったく変わっていなかったわけですね。いつものように掃除をしようと、私は職員室に戻りました。時計をみたら六時七分で、ガラス窓を開けようとして海の方に向かったら、仲尾次の親川ジロウさんが一生懸命むこうから手を振っているわけです。波がむこうから大きなしぶきをあげて向かって来るわけですね。あっという問に護岸の方に波が押し寄せてきたんです。波が護岸を越えてから、先生も私もノリオさんもノリヒコさんも一瞬にして「ああ、たいへんだー」ということで一生懸命走って、校長先生の家の前を通りましたら、実は校長先生の子供たちがここにいらっしゃるわけです、末っ子のマリコさんという子を私はおんぶをしまして走り出しました。ちょうど小さな川があり、丸太の一本木が渡してあったので、それをわたって真ん中の方にいきました。そうしたら、ちょうど田んぼの中道があって、真ん中に行きましたら先程のサナエさんが、「おばあさん」と呼んでいる声が聞こえてくるわけです。我々も一目散に逃げているわけで、やっとアハチャビの森の方にたどりつき子どもを降ろして橋の方に行くと、潮はすでに上がっているわけです。よく見ますと、タコ取りの上間ヤスジさんという方が子供三名、一番下の子供は頭の上に、両手に子供さんふたりですね、立ち泳ぎで陸の方に向かっているわけです。実はあの瞬間に、サナエさんが波にのまれて、亡くなられたんですね。そしておとなりのおばあさんも、宮城テルオさんのブッソウゲの垣根の方に流されていたというふうな話でした。私はもう、給油所の向かいの橋にたどりついたら、しばらく足が震えて歩けませんでした。それから約二十分ほどしてから津波が過ぎて一時は雨が降りました。それからサナエさんのお家の方の小さなカヤブキ家がありましたがこれが波に流されて行くのが見えました。とにかくこの潮が上がった瞬間に真喜屋の公民館の方で鐘が鳴り、区民がみんな集まりまして、しばらく海を見ていました。次第に潮が引いて、津波解除という報せがあって、その後多くの区民が学校へと向かって行きまして、私も震えていた足も止まって学校に行くと津波の爪跡というものはすごかったです。見る方もなく残酷に、校舎は壊され、机、こしかけ、書類、本、紙切れ等がこの中いっぱいにちょうど写真にありますように垂れ下がっているわけです。津波がもし昼間、子供たちが校庭にいる時間に来たとしたら、生徒の犠牲者はたくさん出ていただろうと思います。朝早かったのがまさに不幸中の幸いというふうに言えます。津波警報が解除されて大勢の人がこの学校の敷地に集まり、事後処理がはじまりました。校長先生、教頭先生はじめ、たいへん難儀してもらった、今は亡き宮城源光PTA会長、このこ三名が、学校をどうするか、授業はどうするのかといろいろと相談している姿をよく見かけました。津波直後の状況というのは、書類、本、机、腰掛けみんな垂れ下がっているわけで、そういう情景を、語っていただければと思います。


懸命な復旧作業つづく
新島 具体的な復旧活動というのは、一ヵ年ぐらいやりましたかね。校舎を移してそこで、掲示板も据え付けた校門は、PTA全体の寄付でした。特定の人に寄付させてやろうというふうな話もありましたがね。いやそれではだめだ、これは全体でやりましょうということでした。私は七時から親子ラジオでいうもんだから食事をほったらかして自転車を飛ばして学校にきたんですが。ちょうど周期というのがありますな、日時の。私の時は十五分だったんです。ずーっとむこうのウトゥフイイシありますよね、あのへんまで引いてそこにある石も数えられるくらいハッキリしていましたよ。それと、あの屋我地橋の土手にあるモクマオウ、あれがゆっくりゆっくり映画でみるように倒れて海に沈んだんです。このふたつの情景はひじょうに記憶に深いです。
司会 津波直後のことでしたが、ボーイスカウト、赤十字、各国、各県からいろんな人たちの見舞いがありました。物心両面からの声援がありました。たくさんの本が届けられ、これを整理するのにたいへんでした。一番感心したのはボーィスカウトのみなさんがいろんな面で協力してくださったということでした。そして、校長先生、教頭先生と源光さん三名は、朝も早くから夜遅くまでいろんな話をして善後策を練っていました。源光さんを通して宮城善兵さんに働きかけてサックス大佐の、八〇九部隊を動かしたんです。そこでここにブルドーザーが七台来ましたよ。稲嶺には英語を話せる宮城さんという方がいました。当時琉大の学生だったはずですがこの方に通訳してもらいました。新しい敷地にブルドーザーを今日、置かしていただきたいということで、夜の十時ごろアメリカ兵を帰し、翌日から作業開始なんです。昔の話ですので時効ですから言いますが、作業開始という時に校長先生がいらっしゃらないわけです。たいへん酒好きでしたので、新島先生が「どこに行ったのか、政男君探してきなさい」と、あっちこっち電話してもなかなかつかまらないわけです。そうこうするうちに一時間ほどして先生がみえました。話し合って新しい今の学校敷地に行きまして、整地しようということになったわけです。このように短時間で、二週間以内で決断を下して作業に入ったと思うんです。こうして学校は、再建着工する段階に入っていった。学校もない、授業もできない、書類や本もないわけです。ふゆ先生、昔を思い出してください。
新里 だいぶ以前のことになってしまって、ほんとに忘れている。松の木で作ってあった終戦後の机はたいへん重くて、一年生にそれ持たせて移動しましたが、かわいそうでたまりませんでした。それと、稲嶺は字全体がにわとりをやられてしまいましたよ。


茫然自失の日々
仲田(晴) 話を聞いて思い出して、恐さがよみがえりますね。その頃はちょうど私、こどもができたばかりで小さかったんです。親子ラジオで津波が発生したことを告げていました。それから公民館の鐘が連打されたもんですから、子供を背負ってアサギの方へ登ったんです。登ったら「学校が、学校が」って騒いでいまして、上の方からみたら、もうモクマオウの木すれすれに机や紙等が流れていくのがみえるんです。それが引いたり、また寄せたり、これを何回も繰り返すわけですね。警報が解除になったというので、子供を降ろして、県道まで出ましたが、シカボー(こわがり)ですから学校へおりることができないんですね。今の屋我地入り口の近くに松の木が四、五本あったと覚えていますが、サナエさんとおばあさんが引き上げられたところで、消防隊の方ですかね集まっていましたけれどもなかなか医者はみえなかったようでした。そうしてみんなが学校へ学校へと向かうので私もついて行きましたけれども、橋やら護岸やら特にレンガ教室のひっくり返っているのを見て、津波なんて聞いたこともないし、もちろん写真やテレビでみたこともない現象でしたので、校長先生も先生方もみんな唖然として、立ち尽くしていました。ちょうど私は二年生を担当しておりまして、西側の二階の教室の下の方でした。ガラスがメチャメチャに割れて、子供たちのクレヨンとか学用品等がなくなっていました。私の教科書を入れていた、「タントウバコ」もひっくりかえって、中の引き出しのものまで全部ないんです。泥に埋まっていました。時計が斜めに歪んでいたのをハッキリ覚えています。その後、PTAの方々やあちらこちらの教育関係の方々が入れ代わり立ち代わり学校へお見えになって、写真を撮ったり、調査したりしていましたよ。それから一週間程して、一、二年生はアサギに行きました。アハチャビもありましたし、上級生は、モクマオウの下でやっていたように思いますが。先ほどふゆ先生がおっしやったように、机やいすを泥に埋まったのを探して、PTAの方々が掘り起こしたものをかついでいったんです。勉強したのかよくわかりませんけれども。その後、私たち教員用の指導書などが届けられました。授業は子供たちの教科書は子供たちが持っていましたから、うまくいったんじゃないかと思いますけれども。どれほどの期間あちらで授業したか記憶しておりませんけれども。その後、新しい敷地でサックス大佐という方がヘリコプターでみえまして、PTAの婦人部の方や先生方がお茶を沸かして、パイン等を切っておあげしたのを覚えています。木や橋の下や砂に埋まってる机やイスを父兄の方が掘りだして、波で洗って持たせてやったこと覚えています。とっても重たかったです。
仲尾 ちょうど体調をくずしてしまい病院を往復し、学校を休んだりしていました。その日も七時ごろまで家で寝ていました。学校に出られるかどうかはっきりしませんでした。そして津波の状況は、みんなは屋根に登ってみたとか、アサギでみたとか言っていましたが、私はそういうこともできなくて一日家に寝ているような状態でした。津波が去ってから、先ほどの腰掛けなどが木にぶらさがっている状況を見て、開いた口がふさがらない、どうしていいかわからないというふうに、茫然としてしまったんです。その木のそばに大きなモクマオウがあり、職員のロッカーから飛び出した体育着等もぶら下っていました。私が一番印象に残っているのは、当時教職員のバレー大会の県体会に出たんです。羽地がそこで優勝して、県大会に出たということで、ユニフォームをもらいました。ユニフォームなどというのがめずらしい時代だったのでそれが手の届かないところにぶら下って、もったいないなという気がしたのを覚えています。とっておけばよかったかなという感じでしたけど、それどころではなかったですね。私も、職員室隣の校舎で三年生を担任していたと思いますが、校舎にいってみたら、やはり時計が残っていましたね。手を伸ばしても届かない高さ、そこまで水位が上がったと思って驚いたことを覚えています。それから、屋我地大橋にいく手前にはモクマオウがいっぱいありましたので、そこに子供たちを集めて授業したのを覚えています。何をどのように教えたのかということは記憶にありませんが。その時の子供たちは、とてもおとなしくて、ほんとに不自由しているんだけれども、よく聞いてくれたような感じがしました。そしてお話に出た、各団体からの支援物資で非常に助かったなという感じでした。名護のマルセイドウ薬局のおじさんが、「こういう救急箱も学校に必要でしょ」ということで届けてくださったのも、忘れません。サナエさんが亡くなったとき、中央外科の名嘉真先生があの子を診察していたと覚えています。


混乱に負けず
司会 次は旧姓で池宮和子で、現在は豊里和子先生、先生は一番若かったんですよね。
池宮 私は、二階にいましたから二階は何も被害を受けてなかったんですよ。だから授業するのに困ったとか、物が不足したとかいうような記憶があまりないんです。子供たちはみんな教科書持ってますでしょ、私の教材とか教科書も幸い学校に残っていましたから、それほど不自由をした覚えはございません。私の場合、普通どおりできたと思うんです。授業は。その津波のあった日は、伊差川にいたもんですから、真喜屋小学校は八時の授業開始でしたね。七時二十分ごろ家を出て、同じ時間帯のバスに乗るのは決まってましたのでいつも来るバスがこなくて、津波に襲われたという情報もいっこうに入らなくて、私はもう、遅刻することだけ心配になってね。バスは待てど暮らせどこないし、もうどうして来たか覚えていないんです。学校に到着すると運動場が水びたしになってヒザ上まで水につかりながら職員室に行きました。職員室では床が抉りとられていて歩けないほどでした。
司会 清松先生、ひとっ昔語りをお願いしたいと思います。
金城 みなさんが言う通りぼくもラジオを聞いて知った。私的には何の被害も受けていないが最初は何も手がつかない。授業に関することでいえば、以前から校長の命令を受けて学校の教育方針をまとめてくれということでずっと考えて構想をまとめたんです。それが津波の時に前日、職員室で夕方暗くなるまで金城敏郎君とあと一人、三名でこれを仕上げて明日は厚紙切ろうと思って、明日の作業のため本棚に置いて帰ったわけよ。それが流されてみんななくなっている。とても残念でした。それから先生が生徒を集めてチリ津波の説明をなさった時に、今も忘れられないのは、もう一生懸命これからの時代は勉強をしなさいということ。子供らの顔をみたら、本当にかわいそうだなと思いましたよ。先生方もみんなそうでした。他の学校では学力向上に一生懸命やってるのにこっちは何にもない、「ナーデージナタン」と。明日からどうするかと。もうお話にもあったとおり、その後の関係者の努力で復興して一流の学校になっているのですばらしいことだと喜んでいます。


生々しいキズあと
司会 津波後の思い出がありましたら、お願いします。
比嘉 私は津波の翌年、ちょうど一年後に来ました。それでもまだ、残骸が残ってモクマオウのてっぺんに、机、腰掛けのきれっぱしが残っている頃でした。レンガ教室の、北側が抉りとられてポックリ穴が開いていました。二階が傾き、恐いなと思いました。もう、校庭の緑の芝も戻っていました。子供たちが一年前のことを私に一生懸命説明して、その津波のことを教えてくれるんですね、こうだったよ、ああだったよと。生々しい津波の様子を毎日私に聞かせるんです。たいへんだったよと、亡くなったサナエさんのことや何かも。それから今、津波で食堂をしている教え子が時々食堂に寄ると、今でもその頃の話をします。三十四年経ってもあの津波のことをきっかけに子供たちとの絆を確かめられます。深くつながってるんだなと。集まればあの当時のことをすぐ思い出すようです。私、学校には四年目で移動しなければならなかったので、新しい学校に移る以前に離れました。子供たちは津波の後も勉強にがんばって、明るくて楽しい真喜屋時代でした。教員するなら真喜屋です。真喜屋の三区の父兄の人のよさ、子供を中心に学校と一体になって事にあたるというところですね。それと稲嶺の卵の味。毎日のように島田先生のお家はじめ、あっちこっちから大きなザルのいっぱいゆでられてくるんですね。楽しい思い出がよみがえります。
司会 やはり、職場には裏方さんも必要です。当時、世話人をしていた仲井間宗保さん。今のような立派な施設でなく、ミルクを炊くのにも薪でした。当時はモクマオの上の方に登って枝をとった。そういう裏話をひとつお願いします。
仲井間 私は、三十五年前、伊差川さんと入れ替えで二ヵ年間、昭和三十三年から三十四年までつとめさせてもらいました。中学を卒業して、家計を助ける必要がありましたので、上地憲先生が「学校は、今小使いさんがいないから君つとめてみた方がいいんじゃないか」と。「我ん、先生というもの恐くてとてもつとまりませんよ」と断ったんだけど「そんなことないよ、先生方みんなやさしいよ、来なさい」と。まずはやってみなさいと説きふせられました。先生方にいろいろ教わりながらつとめて参りました。朝起きると湯呑み洗いと掃除が始まり、夜は日直ですね。若い先生方といっしょにやりました。一番きついのは、薪集めだったんですよ。おそらくミルクは炊くんだけど、この薪は自分たちの学校で調達しなさいということでした。当時は、モクマオウがいっぱいありましたので、それを切って割って、薪の準備をしました。僕は三回ほど自分の親父の馬を借りて、ターモウの近くから出したことがあります。間に合わない場合もあったので、親父に相談して自分で馬と馬車をもって行き、楽しみながら仕事した思い出もあります。苦労なさったのは、松尾さん(旧姓平良)のお母さんですよ。ずっとミルク炊きしていらっしゃいましたけれども。学校に二年お世話になりましたけれども、六ヵ月ぐらいあとで「勉強のやり方はいろいろありますよ」ということで、通信教育をすすめられたりしました。先生方も教えるからここで勉強してみないかというお話でした。工業課程をとったんですが、なかなか難しくてできなかったんです。「それではいかんだろう」ということでつとめ出して、もうすぐ二年というときに親父と相談して、学校に行きたいといったら、自分で学費を出すなら良いと言われて、憲先生に相談したら「仕事は探してあげるから、心配するな」ということで、運よく定時に入ることができたんです。環境は人間を左右すると昔の孟子の言葉があります。これで僕はよかったなと。もし別のところで働いていれば高校も出ないで、人生も変わっていたんじゃないかなとも思ったりします。自分は自分なりに那覇にいって苦労もしたがみなさんが一生懸命貫徹しなさいよと、励ましてくれたおかげで私も現在に至っております。この真喜屋校の思い出は実際、満十五歳というまだ何もわからない少年の私が入ってじきに宮城悦子先生が琉大を卒業して二、三年目だったと思いますね。若いピチピチの二十四、五歳の先生でいらっしゃいまして、いつも運動場で「宗保君、一緒に走ってみよう、円盤投げしてみよう」と言って、かなわなかったです。腕はあるけど要領がわからないもんだから、いつも負けていたんです。その一ヵ年後に池宮先生がみえて、先輩の池間先生もおられた。新島先生は僕の中学の先生でした。この先生方に、僕はここで給仕をしている問にいろいろと教わりました。校長先生もカマジサー先生であったけど、とてもやさしいところもありまして、「宗保君、今日の相撲はね……」とラジオで五時から相撲中継を聞く。僕は興味なかったんですけど、「今日の相撲はね、だれと誰がやるからまず、聞け」とこういう感じで聞かされました。また、校長先生の家に呼ばれてごちそうになったりしました。おかげで十五歳に三十五足したら私の年齢もだいたい百歳の半分をすぎようとしております。頭もアマクマシルー(白いモノが)がマンチャーマンチャー(混ざっていて)してみなさんとたいして変わりはないなと。チリ津波の災いもこれから碑もつくって県下に知らされていくのも真喜屋をPRできるんじゃないかと思います。私は直接津波の災害を受けませんでした
司会 先ほど卓也先生からもお話がありましたようにこの真喜屋校跡地に碑をつくりたいという構想をもっております。先ほどご案内のように、二年ほど前に琉球大学理学部海洋学科のカトウユウゾウ先生から名護市に提言があって、真喜屋の被災地跡に碑をつくるということですね。碑の建立の意義については詳しく申し上げるまでもございません。本席の出席者の名で名護市に対して説明板を設置してほしいという陳情を展開していきたいと思います。
真喜屋小学校と、チリ津波を振り返っての懐かしき想い出を語る集いのメンバーでこれを、陳情していきたいと思っています。長時間にわたりありがとうございました。

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懐かしき想い出を語る集い(第四回) 日時等詳細
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写真 出席者集合写真
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写真 懐かしき想い出を語る集いの様子(1)
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写真 懐かしき想い出を語る集いの様子(2)

真喜屋小学校の思い出 長山正時

私が真喜屋小学校に初めて赴任したのは昭和三十四年四月、教諭の時だった。その後教頭として、二度目の赴任をしたのが昭和四十七年十月、以後昭和五十三年三月まで勤務した。その間、校長先生はじめ諸先生方のお力添えや、地域・PTAの皆様方のご協力を得て楽しく勤務できたことを、改めて感謝申しあげたい。以下教頭在任中の思い出について自分なりに感じた事を述べてみたい。
赴任当時はまだ復帰直後で他県に比べ施設・設備の面ではかなり差があり、学校教育の推進を図るのに苦心惨憺している状態だった。この時期に、学校教育の研究分野ではあまり開拓されてない「学校給食指導」について県教育委員会指定の研究校を引受け、職員・児童が一体となって研究に取組んでいた姿は、今なお我が心に深く刻まれている。後日(昭和四十九年十月)研究の成果が認められ、全国学校給食研究大会(奈良大会)において、学校給食指導優良校として文部大臣より表彰を受けた。これは職員一人一人が意欲を持ち研究に励んだ賜物であり、誠に喜ばしい限りである。と同時に、本校の歴史を飾るに


(途中終了)

全国学校給食研究協議大会

(途中から)


囲気づくりに焦点をおき、「係りや当番活動を生かした、楽しい給食指導はどうあるべきか」を主題に研究を進めた。
指定校を引き受けたものの研究は暗中模索の状態であった。理論研究、実態把握、指導計画、組織、実践等については、県教育庁、具志堅盛繁・喜如嘉順子両主事の指導助言のもとに研究を進めた。更に小林先生には本土の給食先進校の資料収集をしていただきました。
研究は先ず、保健衛生の面から正しい手洗の指導(大腸菌培養検査)、ハンカチニ枚持参、エプロン、マスク、帽子等父母の協力で全員個人用も作ってもらった。給食の環境づくりでは黒板カーテン、テーブルクロース更に、係り活動の役割分担をして「机の上に花をかざろう」「クイズをしよう」等各学級のアイディアを生かした楽しい給食の工夫がみられた。
しかし時間内での給食は準備から片づけまで、配膳方法、食べ方、三角食べ(交互)、ミルクの飲み方、サキワレスプーンの使い方などいろいろ課題があった。また、残量調査の結果、家庭や地域の食習慣、子どもの嗜好の実態を把握し、残さず食べさせるにはどうするか、残量を減らすことも学校の課題であった。
これらの課題を解決するため連日職員の研修が日暮れ近くまで行れた。その時のソーメンチャンプルーやアイスケーキ、吉田校長先生からのグロモントの提供で元気づけられた。味は忘れがたい。
研究を進めていく中で改善されたことの一つ、「パン」をビニール包装にしたことである。ハエが多く教室の天井からハエ取り紙を二・三個ぶらさげたこともあった。ビニール包装をしたことで、衛生的面もよくなりパンの配食が手早く出来るようになった。
昭和四十五年には羽地給食センターが設立、完全給食が実施された。当時の給食費は、四十八年五五〇円、四十九年一四〇〇円、五十年二〇〇〇円、それにパンのビニール包装代金と給食関係で父母の負担も増加した。
研究テーマ「係や当番の活動を生かした楽しい給食指導はどうあるべきか」を通して、子ども達が明るく、自主的に諸活動にも活発になった。
中間発表(一年次)昭和四十八年二月二十七日、(二年次)昭和四十九年一月二十九日、全学年「学級指導」の公開授業、真喜屋公民館での全体研究発表会であった。(体育館建設中)
新学習指導要領に基づいた、県指定のはじめての研究発表会、県内各地から多数の参加を得て盛会裡に終りました。
給食指導と言えば真喜屋小学校、県下各学校で指導資料が活用され、他校からの学校訪問や実践指導参観で知られるようになった。
二ヶ年の研究の成果は、県学校給食研究協議会での提案発表、又県外での発表資料としても高く評価された。それらの諸々の活動が認められ「学校給食優良校」として、昭和五十年十一月十九日、文部大臣より表彰状授与された。
学校をはじめ地域のほこりであり、児童の諸活動を触発するものとなった。
教育委員会、校長先生、他関係の皆様のご配慮で私は、県内外で多くの研究会等に参加の機会を与えていただき多くの方々と接することが出来ました。
創立百周年を心からお祝い申し上げると共に、地域の方々の教育愛とご協力に感謝し、二十一世紀に翔く子供達が健やかで有為な人間に育ち、教育の殿堂として真喜屋小学校が益々ご発展することを祈念いたします。

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写真 第26回 全国学校給食研究協議大会

遺稿 チリ津波 元村長 上地清嗣

悪夢は早く忘れたい。敗戦の悪夢はさておき、吾々にはチリ津波と云う悪夢が残されている。真喜屋小学校を破壊し稲嶺区を全滅状態に陥れ、真喜屋区の国道沿いまで押し寄せ、死者三名を出した大惨事、チリ津波は今から二十二年前の昭和三十五年五月二十四日午前六時、児童の登校前のことであった。若し此れが登校時又は授業中であったらどうなっていたかと慓然とさせられた。真喜屋区は奥武島が障壁となった為か部落までは免れた。
時の大田政作主席が新里善福工務部長を滞同して来られ、慰めの御言葉と激励を受けたことは今に忘れられない。帰庁後早速災害救助法を発令され、住宅や生活物資を支給された。之が同法摘要第一号であった由。学校側としては直に学区の幹部(PTA、区長、議員、向上会長等)を集め、その善後策を講ぜられた。
この騒動の中にもかかわらず感動に堪えなかったのは、児童の教育は一日も疎かには出来ないとして各区の公民館で授業を続行したことであった。
次に在那覇羽地村人会(宮城善兵会長)からトラック一杯の米俵が役場に到着したので、私は現場に届けさせた。役場では私一人を残して助役以下使丁まで現場に駆けつけた。又、全島からの御見舞いのお客さんが殺到し、てんてこ舞いを演じた。
扨て学校では学区の幹部が集まり善後策を講ずるのでしたが、中心になる論議は人命尊重の上から学校の移転か否かに絞られた。私は校長と村議を滞同して、大城知善教育長に移転の陳情に行った。教育長は「東京の大震災にでも東京の人はやっぱり東京に帰えって来た。このような災害は再び来るとは思われない」と私達を慰撫するかの如く説得されたが、村会議員が、「将来若し人命にかかわるようなことがあれば教育長が責任をとるか」の一点張りであった。如何に偉い人と云えども人命を保証することは不可能である。それで教育長も学校移転のことは云われなかったが、こちらで現在のかざな森に移転するようになった。此処かざな森は小高い森になっていて老松が林立していた。それで一本の老松を切り倒すにも何日かかるか知らず、これに土を引き均すのでは何ヵ月かかるか、今のように機械のない時代に人力で、鍬やノコでは迚も間に合わない。此の状況を見た宮城善兵さんは早速米軍の工兵隊長サックスさんに交渉してブルや兵員を入れ、あれ丈の老松の切り倒しから土引き地均しまで一週間位かかって完了して仕舞った。皆、ブルの偉力に舌を巻いていた。各区の婦人会員が湯茶の接待は当って呉れた。勿論、敷地の購入や校舎の新築に県や村の負担は膨大なものでした。
思えばあれから二十二年間、真喜屋小学校は隆々たる勢いで発展して沖縄一の優秀校として名をなしている。終わりに軍官民の暖い御援助に対し御礼を申し上げ、この稿を終わる。
※チリ津波当時、羽地村長であった上地清嗣氏が、昭和六十一年頃に書かれた原稿である。

チリ津波の時 新里牛三

真喜屋小学校が過去一大最悪の悲惨な状況に会った一九六〇年五月に起きたあのチリ津波の事に付いて、元PTA会長仲宗根敏雄君はじめ七、八名の方々から津波当時の状況に詳しい貴方から是非編集部へ一筆寄稿して欲しいとの再三のお推めがありましたので、色々と思い起し、筆を取った次第であります。
実は、当時の校長は、知念文平校長、教頭新島俊夫、PTAの役員は、会長が宮城源光氏、副会長仲村源英氏、役員稲嶺区大山政義氏、真喜屋区島袋三好氏、故宮城源三郎氏、仲尾次区故新城平幸氏、故小波津清隆氏、私新里牛三の以上八名でございました。そこで同校役員として又、父兄の一員として忘れる事が出来ないあのチリ津波の悲惨な状況の一端を述べ度いと思います。
私は毎朝六時二〇分〜三〇分の問に起床しておりますが、当日は、午前六時一〇分に起きて家の前を箒で掃いておりました。その時海の方からザァザァという聞いた事もない変な音がきこえてきました。何事かなあと、箒を持った儘海岸に行ってみると、吃驚して、「大変だ!此れは津波だ」。奥武橋から仲尾次橋にかけて津波の土手が出来ているではありませんか。直ぐ様家に帰り、家内に津波だから落着いて貴重品や寝具類を整え、何時でも公民館に運べる様準備をしておきなさい、それから子供達は外に出さないよう告げて、私は公民館へ走って行き、非常用の酸素ボンベの鐘を打ち鳴らして津波が来ることを区民に知らせました。それから鐘打をかわり、家へ行き消防着に着替え、消防班員と向上会員の集合を呼びかけました。当時、私は向上会長と消防班長を兼ねておりました。それで浜辺の各世帯をまわり、必要な物を持って何時でも公民館に運べる準備をさせ、私は教頭の上地憲先生と二人で役場のジープに乗って真喜屋校に向いました。現在の給油所(マンガー橋)迄行き、大声で校長の知念文平さんと連終を取り、校長は住宅の屋根で手を振り、学校の二階では給仕の伊差川政男君が手を振っておりました。その時内海を見ますと海一面に机と腰掛が浮いておりました。これは大変だと直ぐジープで引返し、当時の漁業組合長故親川次郎さん(親川鮮魚店の父)と話し合い組合員を集め、一艘の刳舟に向上会員二人を乗せ、出来るだけ遠くから集めるようにと頼み、海に流されていた机腰掛を回収しました。そして向上会と青年で馬場に運び一脚も流さずに約四〇〇脚前後と記憶しています。
その時の仲尾次漁業組合員の功績は、忘れてはならないと思います。
更に私が思いますのは、津波がもう二〇分位遅かった場合はどうなっていたでしょうか、少数の犠牲者は出ましたが、生徒が一人も登校していなかった事は、不幸中の幸いと言えるでしょう。

小学校の思い出あれこれ (仲尾次)屋田直勝

私は昭和十七年四月に、羽地国民学校の門をくぐった。当時の学校は、初等科と高等科があって仲尾次、川上、親川は、分校の区域として位置づけられていた。分校は、一年生から六年生まで、各学年一クラスであった。現在の羽地中学校が当時の分校で、本校の高等科へ通学すること——現在の羽地小学校へは仲尾次から通学することになっていた。ただし、主要行事(入学、卒業式、天長節、紀元節、運動会、学芸会等)は、全て本校で一堂に会していた。学校長は有満興吉先生で、一年の担任は屋比久和子先生、二年は糸数ヨシ先生と宮里秀子(現、野垣)先生のお三方にお世話になったのが、戦前のことである。思えば、昭和十九年十月十日の早朝、米軍機による空襲——いわゆる十・十空襲で沖縄戦がいよいよ近づいたことを実感させられた年である。
その後しばらくすると、学校の校舎は日本軍が利用することになり、分校の児童は各字の公民館を使っての分散授業を余儀なくされた。昭和二十年三月頃には、米軍による沖縄攻撃も激しくなり、教育も自然に中断され、児童疎開の呼びかけ等、仲尾次の住民も安全な場所を求め、私の一家も多野岳の麓——ガママチへ避難することになった。戦争の恐ろしさを身をもって知った年である。
そのうち、米軍に沖縄が占拠され、敗戦を告げられたのが七月頃と記憶しているが、着のみ着の儘、避難していた山から苦労の末、我が家へ辿り着いた。しかし、戦禍を免れた住居は、北部へ疎開して来た人々が住まい、家主は家畜小屋で生活するという、異常な状態で戦後を迎えたのが小学校三年生の時で、昭和二十年八月十五日が終戦の日にあたる。
時あたかも昭和二十年に、母国日本では戦時教育令が公布されていたが、その頃仲尾次に住む生徒達は、前仲尾次農協向いの戦火を受けた広場と馬場の青空教室で空き木箱を机に、セメント紙袋を帳面にして授業が行われていた。当時、仲尾次は疎開民や戦争孤児、それに原住民とが雑居しており見知らぬ人との触れ合いに不慣れで「学校嫌い」今でいう登校拒否が目立っていた。そのような状況の中、私達に教育の重要性を告げるかのように、米軍の将校、ダブラス中尉がジープで部落内を巡回し、遊んでいる子供を容赦なくジープに乗せて、授業の場へ運んでいたことが度々見受けられた。今、振り返って考える時、その将校は立派な教育者であったのだと、敬服している。
その頃の母国では、昭和二十一年五月に日本国憲法が公布された。私は、先に述べた戦前の級友達のことが脳裏から離れることがなく、再び仲尾次、川上、親川の友達と一緒に学ぶ時期が実現するものだと、ひたすら思っていた。ところが、真喜屋初等学校が創設され、今度は、稲嶺、真喜屋、仲尾次の三ヵ字が学校区域と定められたのである。三度び、新しい友人づくりが始まるという反面、内心は不安な気持ちで、戦前とは逆な方向へ一歩を踏み出して行った。真喜屋初等学校は八年制で、私が四年生に転入したのは昭和二十一年であった。服装は先生も生徒もHBT(米軍服)を仕立て直したものが主で、カバンその他の学用品も米軍の払い下げ品。生徒達は皆ハダシで登校していた。学校は、米軍が使用した跡地で、羽地内海と東支那海に面し、木麻黄(モクマオウ)が林立した格好の地であった。職員室は、米軍が使用していた建物、教室はテント張りというスタートであった。生活も落ち着きを取り戻した頃になって、学校の建造物も木造茅葺きと瓦葺きの職員室、校舎となった。授業が始まって、不安の一つであった真喜屋、稲嶺からの転入生との友人関係も、意外に早くスムーズに出来上がっていった。一方、先生方からは、標準語励行と規律を正しく——との指導は常にあったが、友達間はごく自然に方言で会話することが日常的であった。
私にとって羽地の方言は、仲尾次の言葉がイントネーションなどから言っても、標準だと自負していただけに、真喜屋、稲嶺の方言のイントネーションには、何となく馴染みにくく、しばらく時間がかかったように記憶している。まず、担任でお世話になった方が、四年生の時の諏訪文子先生、五年生では比嘉良芳先生。学校長は宮城徳吉先生、教頭が新里衛先生、全体朝礼や全体集合の指揮には、金城作一先生が当たっておられた。特に、作一先生の厳しい生徒指導の砒は、今なお鮮烈である。また当時、宮城徳吉校長は学校教育を再建していくのに、大変な使命感に燃えておられるという方で、この素晴しい先生が退職なさったら困るということから、校区内の保護者が話し合って、お米や芋などの主食を醵出して、先生を励ました——とのことである。当時は、住民全てが衣・食・住の困窮者であったが、先生方の待遇が薄給のため、転職する先生もおられたことを覚えている。先生方は、戦後の廃虚の中で、学校教育再建の使命感に燃えておられ、それぞれ創意工夫をして熱心に生徒達を教え、指導してくださった。その姿は、私の脳裏に深く刻み込まれている。真喜屋小学校では、短い期間ではあったが、私の人生にとって「良き師」に出会った、忘れることのできない時期であり感謝の念で一杯である。昭和二十二年、母国では「教


(途中終了)

津波の思い出 (旧姓山城・当時二年)照屋明美

三十五年前のその日の朝も、いつもと変わらず、「早く、早く」と急ぎ立てられる中、朝食を前に座っていました。暑さのため食欲のない私は、何の準備もせずパジャマ姿で皿の中のおかずをつついていました。
その時です、公民館の鐘が、「カンカンカンカーン カンカンカンカーン」と、けたたましくなりひびきました。日常の平和な時間の流れが一瞬にして消えてしまいました。何事かと外にとび出し、放送に耳を傾けると、「津波がきたぞー。津波がきたぞー。高い所に避難して下さーい」と、言っているようです。「津波」の意味もわからない私ですが、まわりの雰囲気から何か大変なことが起こったらしいということを感じ取ることができました。
何を、どのように準備したのか、四人の兄弟は母や叔母に手を引かれ、アハチャビ森に足早やに登っていきました。そこには多くの人がかけつけており、遠くの海の方を指差し、騒々しい感じがしました。
小学二年生の私にとっては、はじめて目にする恐しい光景でした。なんと、二階建ての校舎が海にのみ込まれ、周りのモクマオの木頭がかすかに顔を出しているだけでした。通学路の周りの田も、すべて海の中に消えてしまい、校舎が溺れかかって助けを求めている様でした。
今でもこの日の光景は、白黒写真として私の脳裏にはっきりと焼きついています。「津波」という言葉を耳にする度に、海の中にのみ込まれた校舎が鮮明に思い出されます。
あの津波が、一時間遅れてやってきたなら一瞬にして何百人もの小学生や、地域の人々が海の中に消えていったのかと考えると、身の凍る思いがします。
津波の心配がなくなってから登校した私達が目にしたものは、大きな穴がぽっかりあき、傾きかけた赤レンガの校舎でした。モクマオの木があっちこっちで根こそぎ倒れ、見るも無慚な姿でした。
私達二年生も、机や椅子を寄せ集めて青空教室が始まりました。校庭の木かげを求めての青空教室は、太陽が差し込んで来ると移動するというもので、暑さとまわりの騒音に集中力はかき消されていました。
その中でも、嬉しかったことは、全国から届いた支援物資の配給でした。エンピツ、ノート等の学習用具をもらう度に嬉しくて、大切に、大切に使ったのを覚えています。
あれから三十五年の月日が流れても、校舎跡を見る度に思い出し、無事だったことに感謝するのです。

母校を語る座談会[第三回] ——戦後の真喜屋小を語る——

終戦前後の思い出
司会 本日は戦後の混乱期に真喜屋小学校を出た方々を中心に座談会を行ないたいと思います。
久場川 私は昭和九年生まれで戦後は、仲尾次の松田清忠さんの家の焼け跡にテントを張って仲尾次の子どもだけ集めて、遊びが主だったんです。教科書も何もない時代ですからアメリカのお菓子を配り喜ばせて歌を唄わせて、もうこれで一日終わりと。そんな時代でした。真喜屋小に移っても初めは歌を唄ったり、草刈りしたりして一日を過ごしておりました。その当時は小学校八年までありました。ちょうど八年生が昭和の八年、九年生が七年でした。その前の七年生はすぐ小学校から高校にいったのですね。八年生からは中学に編入と。従って、六・三・三制の制度ができまして昭和八年生は中学校の三年に編入と。昭和十年生が一年生ということですね。正式に中学に入学、三年で卒業できたのは昭和十年生からであります。我々は二ヵ年一期先輩は、一年出てすぐ高校というようなひじょうにめまぐるしく変わった時代でありましたですね、制度が。もう小学校で勉強したという覚えはあんまりありません。いつも歌を唄ったり、先生の話を聞いたり運動場の草を取って帰ったという記憶しかありません。卒業式もありませんでした。それで何期生かもさっぱりわかりません。(笑)そういう小学校の思い出であります。校舎はテントでした。我々が中学に行ってから、カ


(中略)


んじゃないかという気がします。そういうことで家庭生活でも学校でも粘り強く何でもやりとげるという子どもになって欲しいなと思っております。
古波津 大人の場合、もっと物を大事にしないといけませんね。ポンポン捨てず、物をもっと大事にしてほしいと思います。
平良 勤労意欲、責任感ですね。これが足りないんじゃないかなと。そして忍耐力、それらを身につけてほしい気がします。
上地 もう時代が我々の頃とは全然違っていますので、何をするようにと言ってもおそらくできないだろうが、要望というと学校でもっとスポーツを振興させてほしい。子どもたちの健康増進という意味でも、学校ぐるみでレベルアップさせる。スポーツすることによって、子どもたちがのびのびとやっていけると思うんですよ。
大山 自分たちもわりと物に不自由はしないで育ったといいますが、先輩方の話を聞いたりするとどうなのかなと考える部分もあります。やはり自分も子どもを育てながら何をしてきたのかなと反省させられることも多いです。家庭を持って家も構えると、どうしても自分で色々とやらんといかんわけです。学校で、親が何か子どもたちと一緒にするとなると学校の清掃とか、汗水流して学校周辺の美化につとめるなど、一緒にやれば勤労意欲あるいは自分の持ち場に対する責任感などを育てていけると思います。学校現場も非常に忙しいでしょうが学校のことは全部PTAがやってしまうという風潮になっていると思うんです。ですから、例えば木の枝を払うとか大人にしかできないことはやって、あとの片づけは子どもに任せる。そういう作業を通して触れ合いを深めていってはどうかということです。
島袋 学校で、今子どもたちに作業的なことをやろうというと、進んでやらないんですね。ちょっと残念な気がするんです。真喜屋小学校にはそれを期待しつつ進んで働く子を育ててほしいと思います。
司会 色んな面からお話をしていただきました。本当にありがとうございました。

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母校を語る座談会[第三回] 日時等詳細

チリ津波のつめあと

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写真 チリ津波のつめあと(1)
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写真 チリ津波のつめあと(2)
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写真 チリ津波のつめあと(3)
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写真 チリ津波のつめあと(4)
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写真 チリ津波のつめあと(5)
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写真 チリ津波のつめあと(6)
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写真 チリ津波のつめあと(7)
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写真 チリ津波のつめあと(8)
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チリ地震津波 解説
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各地に津波 羽地では死者三人
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開港できぬ眞喜屋校
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過去の被災忘れないで

思い出の写真集

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写真 戦後のかやぶき校舎、真喜屋初等学校 馬小屋教室とよばれていた
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写真 昭和26年頃 真小と上ノ山小の交流農耕作業風景 後方アハチャビ森
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写真 真喜屋初等学校5年
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写真 自力校舎落成 昭和28年頃の職員とPTA
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写真 津波の後、移転した現在の真喜屋校敷地 校地造成作業
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写真 昭和32年頃 ボリビアへ送り出す子どもたちと職員
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写真 明治34年頃の稲嶺尋常小学校(現真喜屋小学校)