序
三陸沿岸は,その地理的条件から津波災害をうけやすい環箋におかれており,古来数多くの津波災害により尊い人命と貴重な財産を奪われ,沿岸住民の民生安定と産業経済の発展が阻害されてきたのであります。
昭和35年5月24日未明太平洋沿岸を襲ったチリ地震津波は,遠くチリ沖に発生したものでありましたが,何の前ぶれもなく,しかも全く過去の常織を超えたものであったため,その被害は甚大なものとなったのであります。これが対策としては,恒久的,抜本的対策が講ぜられる必要があるとの見地から,県は関係方面とともに対策樹立を政府に要望した結果,特別措置法の立法措置が講ぜられ,直ちに公布の運びとなり,対策事業が着工されたこと周知のとおりであります。
以来7ケ年の歳月と約60億円の事業費により,延長約52肋に及ぶ海岸堤防の完成をみたもので,これにより民生安定と本県経済の発展に寄与されるものは測り知れないものがあるものと信じております。
この事業の完成を記念し,当時の状況および事業の経過を記録し世に伝えることは,まことに意義あることと考え,ここにチリ地震津波災害復興誌を編集した次第であります。
チリ地震津波の特殊性とこれを克服した関係各位の努力,ならびに多くの教訓は,将来の防災対策の貴重な資料となるものと信じております。
発刊のことば
昭和35年5月チリ沖に発生した地震による津波は,従来の概念をやぶりはるか太平洋を越えてわが国の太平洋沿岸に大きな被害を与えたのでありますが,特に本県における被害は激甚で,全国被害のうち最も大きなものであったことは周知のとおりであります。
昭和31年に海岸法が制定され,本県においても各省所管の海岸保全施設の整備を昭和34年度より実施しましたが,その矢先に津波の被害を受けたのであります。政府においても被害甚大であるのにかんがみ,チリ地震津波対策について特別措置法の立法措置を講ぜられたのであります。
これにもとついて,昭和35年度から昭和41年度までの7ケ年にわたり.約60億円の巨費を投じ.て延長約52ん加の海岸堤が完成しましたことは,国はもとより,この事業に直接関与された方々の献身的な努力と地元関係各位の絶大なご協力,ご援助があって,はじめてなしえたものと存じております。
このたび本事業の完成にあたり,チリ地震津波災害復興誌を発刊することになりました。
この小編は,災害の特質から復興事業完成までの経過を詳述するとともに,この貴重な体験を記録して後世に残すことにしたのであります。
今後,万一の災害における活動の指針となるものと確信するものでございます。
なお,最後に本誌編さんのためつくされた方々の労苦に対して感謝の意を表しまして,発刊のことばとする次第でございます。
岩手県経済部長杉山栄輝
岩手県農地林務部長西川徹
岩手県土木部長下村肇
関係図
1.建設省関係
2.運輸省関係
3.水産庁関係
4.農地局関係
第1章過去の津波
第1節概要
世界における過去の津波の主なものは太平洋を取り囲む海岸線即ちアリューシャソ,カムチャカ,日本列島,フィリピソ,ニューギニア,チリ,ペルー,北米,カリフォルニアに至る海岸に来襲している。これらはいずれも還太平洋地震地帯に属するものであって,第3紀造山帯火山帯である。この地帯では地殻の変動が現在でも行なわれており,この地帯の海底地震が隣接する海岸に津波を誘起するだけでなく太平洋を渡って遠く対岸まで伝播することがある。
"東北地方の気候"(津波編)に記されているように,1751年以来東北地方に関係のある津波は58回とされており,明治以来我国に来襲した津波の約半数は,東北地方に関係したといわれている。
特に三陸地方は往時から津波により幾多の大災害により貴重な人命,家屋耕地等に甚大な被害を受けている。
第2節岩手県の海岸
岩手県の海岸は,いわゆるリアス式海岸として知られているように凹凸が激しく,北端より南端まで弓なりに計った距離189ん加に対して,海岸線延長は535.25ん彿であって,1肋当り2.83ん忽であり,凸部は断峯をなし,湾奥は河川の沖漬層として発達した平坦地であって,ここが都市,村落,耕地として三陸沿岸の生産地帯を形成している。大きい湾の奥部は大船渡,釜石,宮古,久慈の商港および山田,大樋の3種漁港等三陸沿岸の中心都市となっており,港湾5,4種漁港13種漁港4,2種漁港13,1種魚港97と総計120の商漁港があって,平均〜毎岸線4.5ん那当り1港の港がある。これらはすべて湾奥の比較杓外海の波に対して隔離された位置に立地している。
この三陸海岸の久慈以北の比較的単調な海岸では,一部海岸侵食が起きており,また久慈港,野田漁港,太田名部漁港,島之越漁港等外海に開放された港では,台風期あるいは冬期に大きな波浪が押し寄せる。三陸沿岸で最も顕著な現象は津波であって,過去において数十年に一度の割合で津波に襲われている。最近では明冶29年,昭和8年と二度甚大な被書を受けており,三陸海岸では最大の問題となっている。
第3節三陸海岸の津波
三陸沿岸では近くは明治29年,昭和8年の津波を経験しているが,これら津波により人命,家屋,その他生産施設に与える被害は甚大なものがある。
有史以来古文書,碑文等により来襲した津波の主なものは次表のとおりである。
これら数多くの津波の規模は,
第一級のもの貞観11年慶長16年明冶29年
第二級のもの元和2年延宝5年元録2年安永3年昭和8年と考えられている。
すなわち,三陸海岸/こ甚大な被害を及ぼすと考えられる第二級以上の津波について見ると,貞観11年〜慶長16年の間は750年もあるのに津波がなかったとも考えられないので,この区間を除いて計算すると現在まで348/7約50年に一度という概略の数字となる。しかしながら,地震研究所業報の今村明恒博士によれば,三陸地震と関東地方における地震とは同じく太平洋側地震帯上に震源地を有するから相関があるということから,「過去300年間三陸地方における津波発生には一盛一衰ありしこと。詳言すれば,17世紀において慶長16年津波を基として津波活動の侍期なりしが,元録以後1世紀半は極めて不活発であった。そうして明治29年津波を主要なものとして,最近活動の時期を再現したもののようである。」と述べられており,
これららの活動期においては20〜30年位に1回の割合で津波を受けることも考えられる。
第4節三陸に被害を及ぼす地震について
三陸に津波をおこした地震の震源地は図1-1のとおりである。
第5節明治29年及び昭和8年の津波
明治29年および昭和8年の津波は「岩手県災害誌」に次のように記されている。
a)明治29年の津浪
概要
明治29年6月15日(陰暦5月5日)午後8時に発生した津波は,我国の史上に於ける最大の津波であ,って,本県は南は気仙郡より,北は九戸郡に至る沿岸一帯の地方1よ悉く激差の損害を蒙っだ。沿岸36町村170部落の大半は宛ら観後の砂漠の如く残礎すらもとどめぬまでに洗い流され,幸二,蕩尽を免れだものも家屋は破壊し,耕地は荒廃した。海岸は到る処算を乱して横たわる死屍と悲叫して救いを求める傷者と二充ち,僅かに生命を拾った人々は,一草一木無き荒涼の廃堤を彷連して終口終夜我が,身の窮命に泣き暮れた。而して,此の津波の犠牲となった死者は,実に22,565人を算し,負傷者は6,779人,流失家屋は6,156戸であった。其の発生は夜間のこととて精細な測定を得なかったが,凡そ午後7時50分前後で,最初の地震より約18分の後と推定されている。即ち強震の後幾くらもなく,午後8時頃海水が増嵩し零時二して一旦減退したが,8時7分頃に至って,遠雷の如ぎ音響を伴いつつ襲来し,爾後8時15分,同32分,同48分,同59分,9時16分,同50分の6回に亘って襲来したが,其の勢力は,第3回以後漸次減衰した。
而して,最も惨暴を逞しうしたのは,第2回の津波で約10分間に於て,8回を往復し,其つ最大波高は湾内に於て1丈5,6尺であった。
此の津波発生の基因ぽ,地震に由るもので,震源は海岸を距る30里乃至35里,震央は宮古測候所より東南凡そ東径145度,北緯39度に位し,地震の性質及びタスカロラ海溝の関係等より考察して,海底に発生した地匙りと断定されている。
b)昭和8年の津波
(1)地震
3月3日午前2時31分に三崖地方を1塵っだ強震並に津波は,其つ地震規模つ大だった二とは大正12年9月1日の関東大震災に勝るとも劣らないと言わ江て居るが,其つ震央が遙がこ太平洋底にあっだため幸二震害は極めて軽微にとどまった。
然し,震後漫来した津波は其の滲害言語二絶し,本県のみでも死者行方不明者を合せて2,600余名,家屋の被害は7,500余であって1合も明治29年5月15日の三垂大津波の滲伏を彷彿せしめた。
1.主震の観測
盛岡測候所の実動強震計及びウイーヘレト地震計に依る観測要素を挙げれば,発震時午前2時31分39秒0
(初期微動、継続時間)35秒3
総震動時間 3時間50分
最大全振幅 35粍
同週期 2秒6
最大加速度 128粍2秒
初動
水平動南西へ15.0ミクロソ
北西へ23.8ミクロン
上へ16.7ミクロン
震度強震(弱い方)
性質緩
記事人体感覚時間約4分中激動部2分間,地震中南方に青白色幕電様の発光現象を認め,2時58分東空に遠雷の如き音響を聞く。
前記地震計記象の験測要素より推する,震央は本県釜石の東方約200粁余の太平洋底であり,此の附近の水深は5,500米以上の深海底く汐スカロラ海溝に臨み,所謂本邦外側地震帯主派上に位し居り,本邦中地震発生回数が最も多く毎年10回以上の地震を発生する地域である。
地震記象及び其の他より推測すると其の震源は極めて浅く,或は海底面に大地変の想像を許さる可きもので,従って沿岸地方の津波の虞れが充分に推知された。
(2)前駆的地震及余震
大地震には其の数日以前または10日以前より前駆的な地震があって後に主震があるものと,何等前震を示さず突発的に大震の発現するものとがあるが,然し其の小地震は果して大震の前駆的に発生するものであるか否かを判定することは極めて困難である。
今次の地震に関し其の数箇月前に潮って盛岡測候所の地震計観測に就き検討するに,本年(昭和8年)1月4日午前零時27分に宮古の東北東190粁の地点に稽顕著な地震を続発し,超えて同7日午後1時7分に略同地点にまた顕著な地震を発現し,引き続き余震を続発して月末迄2回の有感覚地震と118回の無感覚地震があった。
なお,今次の強震は其の震源浅く発震規模が大ぎかったために本震後生じた余震も其の数霧しく震央距離260粁余りの盛岡で観測した余震回数は5月末日迄に実に1,300余回に上ったが,その逓減状態は極めて順調な経過を示し人体に感じたものは38回で,3月に968回,4月に232回,5月に101回であって,今盛岡地方の1箇年の平均地震回数を440回とすれば,今次の強震に伴う3箇月間の余震は実に平年に於ける3箇年の量に匹敵する回数であった。
(3)津波
1)襲来の時刻と波高
宮古測候所に依ると,強震の直後には海水に何等の異状を見なかったが,午後3時2分沖鳴りを聞いて湾内を注視すると桟橋に繋留してあった発動機船が浅水のため著しく傾斜しあるを発見した。
即ち海水は3時,以前に於て既に6尺を減退したものの如く,同3時8分に至って烈風の吹き荒れるに似た音とともに津波が外洋より宮古湾口の中央部に向って一直線に襲い来るのを暗中に認めたが,是れより4分を経て3時12分藤原須賀に到達した。
なお県内各地に於ける津震襲来の時刻及波高は下記の通りである。
2)現象及雑象
宮古測候所の観測に依れば,宮古湾に於ける最初の津波は午前3時12分に襲来し,第2回は同23分,第3回は同35分,第4回は同45分であって,3時50分に至って小波となり4時10分ようやく湾内鎮静した。即ち10分乃至12分の週期で波浪が襲来したのである。広田港・大船渡港は津波の第1波より約5分後に第2波襲来し,其の後も5分間置き位に第3波と第4波と襲来したものの如く,其の週期は著しく短く午前6時頃湾内鎮静した。綾里湾・越喜来湾・吉浜湾・唐丹湾は15,6分置きの週期で第2・3波が襲来し,午前5時乃至6時に至り湾内鎮静し,釜石湾・大槌湾・山田湾は約10分の週期を以て激浪を繰り返し,船越湾は週期短く5分乃至10分で繰り返した。閉伊半島重茂村沿岸では第1波と第2波間は5分乃至7分を要し,第2波と第3波間は10分を要した。其の他外洋に面した沿岸北部では概して週期長く第1波と第2波間は平均18分を要した。而して各地とも波浪の襲来は3回以一ヒで6回位迄繰り返した所もある。
県内観測所並に町村役場等の報告を綜合すると,強震後大砲或は遠雪の如ぎ音響を聞いた所が多い。其の時刻は詳かでないが,大略広田湾より山田湾迄は強震後平均16分,沿岸北部では平均23分後であった。又内陸地方に於ては27分乃至30分を要した所が多い。其の方向は地形等によって多少の相違はあったが,大体東寄りの所多く稀には南東或は北東の方向に聞いた所もある。盛岡測候所の観測によれば午前2時58分(即ち強震i後27分)屋外で「ドーソ」と云う音響を聞いた。方向は東の空稻高く(地平と約30度の角度)余韻はなく瞬時で止み,底力のある音響であったが割合に弱かった。
午前2時33分即ち地震の最中,盛岡測候所では遙かに南方花巻方面に当って発光現象を認めた。地平より上空に向って「ポカッポカッ」と幕電のような広幅で光を放ち,色は淡青色で光度は弱い方であった。尚お盛町・気仙町・湯口村・浄法寺村等でも発光現象の報告があり,時刻は敦れも強震の最中で方向は内陸地方は南寄り,沿岸地方は東寄りであった。
3)被害
明治29年6月15日の津波

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第2章チリ地震津波の特質
第1節概要
昭和35年5月蟄日早朝チリ地震津波は突如として日本の太平洋沿岸を襲い,北海道,三陸などを中心に死者行方不明139名をはじめ,家屋,耕地,船舶および水産関係に大被害を与えた。なかでも岩手県沿岸では,津波の波高が最も高く数湾において5η以上の大津波となり最大の被災地となった。
今回の津波は,5月2:拍4時15分頃(日本時間)にチリ国の中部西海岸で発生した地震によるものではるばる太平洋を横断してきた極めてまれなものであり,今までに来襲したいわゆる三陸沖地震津波による場合と比べてかなり異なった様相を示した。
しかし,過去においてもこのような:現象が全くなかったということではなく文献資料によれば,三陸沿岸,あるいは函舘に影響を与えた津波は数回記録されている(表2-1)。
今回の津波の岩手県での被害は,死者行方不明62名,負傷者277名,被害額115億円に達するもので,この被害は比較的大きな湾,すなわち,広田湾,大船渡湾,山田湾,宮古湾で大きく,昭和8年の津波で被害の大きかった吉浜,田老,両石,綾里では水位が低く比較的被害も少なかった。
第2節 特性
チリ地震津波はチリ沖に発生した地震によるものであるが,チリにおいては連日地震が発生し,その規模はマグニチュード7.75,8.75に達するもので,これによりチリ国沿岸には大津波が押し寄せ局地的には10配の大波となり大被害を与えた。
この津波は,チリ海岸だけでなくアメリカ合衆国太平洋岸,ハワイ諸島を経てわが国の太平洋岸に達した。
また,この津波の被災地域の広さは,有史以来最大であり,北は北海道から南は九州東部におよぶ広範囲なものであった。
近海沖地震津波について一般に
1)地震発生後30〜40分で三陸沿岸に第一波が来襲する。
2)津波の周期は10〜20分で来襲は5〜7回である。
3)津波の浸水高はほぼ
丸1大きい湾で3〜6m
丸2V字形湾で10〜25m
丸3U字形湾で8〜10m
丸4扁平な海岸で5〜7m
と考えられているが,チリ地震津波について比較すると
(1)津波来襲地域
前述のとおり今回の津波は,日本の太平洋岸全域におよぶものであり,波高が高く被害の大きかったのは比較的大きな湾すなわち,大船渡,広田,山田,宮古であり,昭和8年津波で大被害のあった吉浜,田老,綾里では水位が低く被害も軽微であった。
(2)津波の形
明治29年,昭和8年の津波は鎌首をもたげた直立状の大波が押し寄せ家屋を押しつぶしたが,今回の津波はそのような形ではなく潮が静に上下するという状況であった。もっとも陸上部に侵入すると急激に流速を増し,河川を遡る時は少さい直立した形で進んでいる。
(3)津波の波長
チリ地震津波の波長は長く約40分の周期で水位が一ヒ下するゆっくりしたものであった。
(4)津波の波高
津波の波高は,全般的に,昭和8年,明治29年の方が高く,チリ地震津波は低い。しかし今回の津波と昭和8年の津波の著しい差は,昭和8年の時には湾の入口で高く,奥に行くにしたがって低くなっているが,今回の津波は湾口で低く奥へ行くに従って高くなっていることである。
例えば,宮古湾では昭和8年湾口で8.2mに達し,湾奥部金浜で3.5mとなっているが,今回はほぼ同箇所の湾口で2.0m中央部で3.0m-5.0m湾奥部で6mと次第に高くなっている。また,大船渡湾では湾口部7.8m湾奥で3.1mであるのに対し,今回は湾口部3.0m中央部5.0m奥部で5.5mに達している。
以上の関係を各湾毎に示すと次のようになる。
第3節津波の最大波高と湾の固有振動
前述したように,今回の津波と昭和8年の津波とを比較して各湾の最大波高の絶対値を比較した場合,宮城県沿岸部は今回の津波波高の方が大きく,本県の場合は一般に昭和8年津波の方が大きい。しかし,宮古,山田,大船渡,広田の各湾の湾奥部は今回が大きく,湾口部は逆になっている。また湾口部や外湾の波高はほぼ2.0m前後となっているが,昭和8年には4〜10πに散在している。
このように全く対象的な現象を示した原因は,津波源との距離にあり,遠距離の場合は平面波となり,近距離の場合は屈折波となって来襲したための差異と思われる。湾奥部の波高については,湾の固有振動が作用し,来襲した津波の周期に著しく左右されている。今回の津波は40分以上の長い周期の波であり,昭和8年の場合は10〜20分の短い周期の波であった。
この津波の周期と波高の関係は図2-14に示したとおりであり,この図から今回の津波の湾奥の最大波高は湾の固有振動周期と比例してほぼ直線的な増加を示している。
これは湾内の海水は常に固有周期に従っていくらか振動しており,これに津波が伝わってきた時に固有振動の振幅が増大して水面昇降が著しくなったためである。定性的には来襲した津波の周期が湾の固有振動周期より小さい場合はこの影響が少なく,津波周期の方が大きい場合は比較的大きく,両者がほぼ等しい場合は共鳴して発達するといわれていることを実証している。
第3章被害状況
第1節 概要
チリ地震による津波は,過去における津波と異質の津波であって,被害は明治29年,昭和8年津波に比べれば
明治29年 18,000名 死者行方不明 5,500戸人家流失倒壊
昭和8年 2,700名 死者行方不明 4,000戸人家流失倒壊
チリ地震津波 62名 死者行方不明 2,171戸人家流失倒壊
となっている。しかし過去の津波の経験によって防波施設の作られた,田老町等には浸水高も低く,被害も少なかったが,被害の大半が防護処置のほとんどなかった大きい湾の奥部に集中したため,経済的な損失は過去の津波に匹敵するものであった。またこれらの地域が三陸沿岸の生産活動基地であることから考えるとこの津波による被害は全く大きいものといわなければならない。
本県の海岸線延長は,500km余であり,このうち要防護延長は75々ηとなっているが,チリ地震津波来襲時までに防浪堤が築造された地区のうち大規模なものは田老,吉浜の防浪堤であり,小規模なものは大槌,越喜来(護岸)にあり,また山田町にも防潮壁が築造されていたに過ぎなかった。被害の最も大きかったのは大船渡市であり,県全体の被害額115億円の約給の42億円であり陸前高田市の26億円を加えれぽこの被害の半分以上はこの地域に集中した。
また,死者行方不明者についてもこの地区で61名の犠牲者を出している。
本県の被害総額は115億1千3百万円であり,この内訳は次表のとおりである。このような大災害を受けた原因が異質な津波であったこともあるが,更に,
1)津波の来襲が早暁であったこと津波の来襲は午前4時30分頃であり就寝中の人が大半であったこと。
2)何の前ぶれもなく突如来襲したこと過去に来襲した津波は地震後30分程度で来襲し一般に地震が起きてから津波がやって来ると思われていた。
3)大きな湾の奥部に人口が集中しており平坦地が続き避難しうる高地が遠かったこと。
4)津波警報の発令が遅れたこと
第2節一般被害
津波は大きな湾の湾奥で高水位となったため,多くの家屋を倒壊,流失し,尊い人命を奪い,水産物,耕地へも甚大な被害を与えた。一般被害は表3-2のとおり,死者57名,行方不明5名,負傷者308名,家屋の全壊465戸,流失497戸,半壊1,209戸,床上浸水2,990戸,罹災者数35,167名,罹災戸数6,678戸の多きに達した。
1人的被害
人的被害は,大船渡,陸前高田地区に集中した。これは陸上へ上がった津波の流速は非常に大きいものであり,また陸上での水深が2.0π〜3.50πにも達し,家屋が倒壊したことによったためである。
2家屋被害
家屋被害は津波の浸入した地域のほとんどが大なり小なりの被害をうけた。木造家屋は1,5〜2.0mの水深でほとんどが倒壊しているがモルタル造りでは2.0m程度ではほとんど無傷であり,3.0〜4.0mでも全壊を免れたものもある。しかし,三陸地震津波のような短周期の場合には更に低い水位でも倒壊すると思われる。また背後に山の近い家屋では同様の水位で半壊,或は浸水に留まった所もあり,津波の流速によって異なった様相を示している。
3農業の被害
今回の津波は前記したように大きな湾の湾奥部への浸水が大きく,この地区が三陸地域の平地の大半を占めているため,市街地,耕地に大被害を及ぼした。すなわち,広田湾の高田,宮古湾の津軽石等の水田地帯では,流失,埋没,冠水等耕地の被害ぱ1,242haに及んでいるが,岩手県沿岸部の山の迫った地形では,200ha以上の集団耕地がほとんどない状態から考えると非常に大きな被害といわなければならない。
しかも,時期的に田植を控え苗代,本田に与えた影響は大きかった。
地域的には高田,大船渡地区が顕著であり,宮古,山田地区がこれに続いている。
1ケ月後には淡水による塩抜きにより田植を行ったが高田地区では90%,宮古地区は60%程度であった。
この耕地の被害以外にも農道,水路,橋梁,海岸堤防等の損害がある。
4農林,水産の被害
津波は海面の昇降による海上での流速と陸上へ上ってからの激しい流れのため,水産業および防潮林,一般林業施設にも猛威を振い,林業関係被害額,2億4千3百万円,水産関係被害額21億円に達した。
防潮林の被害は33ケ所であり,そのうち高田松原では2ケ所で大きく波の浸入を見た。1ケ所は旧河川敷であり,林もまばばらで幅も少さく弱点な箇所であったが,幅200mにわたり欠壊し深さも6mに達した。また,他の1ケ所は沼川の河川で林の切れていた部分である。これら2ケ所から流入した津波が鉄道線路を乗り越え道床を破壊し,線路を折り曲げたと思われる。宮古湾奥津軽石の津軽石川寄りでは林が厚く,二重になっており,山側に行くにつれ簿くなって一重となっている,今回はこの境目で切れた,ここは,背後に沼がある弱い所でもあり,波が正面から押し寄せた場所でもある。
防潮林は水勢を弱めて背後の被害を少さくするので,弱点をもたぬよう一様に,生長させ幅をもたせる必要があり,生長した林は更新するか,下枝の少なくなったものは,地面を堀さくされぬよう保護する必要がある。
水産関係の被害は,「のり」「かき」等の養殖施設,生産物,漁具等が流失,破壊し,大きな被害をもたらした。
5その他の被害
以上のほか,商工,畜産,公共施設に次のような被害を与えた。
第3節公共土木施設災害
この津波による公共土木施設被害総額は表3-4に示すとおり254個所19億円におよぶものであった。この内訳は建設省所管14億円,運輸省所管1億円,農林省所管3億9千万円となっている。
地区として被害の最も大きかったのは陸前高田市,大船渡市であり,宮古市がこれに続いている。海岸災害に比し,河川災害は個所数で上回っており,津波が大きな流速で河川を遡上し,流下したことが考えられる。
構造物の被害の2〜3の例を示すと次のとおりである。
1 護岸堤防
津波により越流した護岸堤防は土堤はもちろんのこと,一見丈夫に見える前面を法覆した構造物であっても背面がほとんと洗掘されているし,殊に護岸天端が背後地盤より高い護岸は弱く,背後の洗掘により全面的な破壊へ連なった構造物も見られた。天端が背後と水平な場合でも周囲の状況によって流速を生ずるような所では天端に洗掘が生じていた。また,海岸に流入している小水路では異常な流速を生ずるようで護岸が洗掘されて倒れ,これと同様な陸橋,水門,暗渠などの取付部の破壊が目立った。
2 防潮堤
昭和8年津波後築造された堤防で大規模なものは田老,吉浜の防浪堤であり,小規模なものが大槌,越喜来(護岸)であった。今回の津波では田老では堤防位置まで津波は到達しなかったが,吉浜,越喜来の堤防では1.3〜1.5mの深さに津波が浸入し,効果を発揮した。
しかし,大槌の堤防は50cπの濫流で背面から全延長にわたって洗掘され,背面の保護が極めて重要なことを示した。
3 岸壁及物揚場
津波の引潮時の残留水圧により,ブロック構造のブロック間の滑り,矢板構造のターソバックルの切断,根入抵抗の不足により変形あるいは倒壊したものがあった。
第4章応急対策
第1節災害救助
災害の応急救助を目的として,災害救助法が制定され,災害の範囲が地域的に広い場合や同一の災害により多数の人が罹災した場合に同法による救助が発動される。救助の内容は,同法第23条に規定されているところにより,
1収容施設(応急仮設住宅を含む)の供与
2炊出しその他による食品の給与および飲料水の供給
3被服寝具その他生活必需品の給与または貸与
4医療および助産,死亡における埋葬など
5学用品の給与
等となっており,非常時に対処し,応急的,一時的に行うものである。
昭和35年5月24日早朝三陸沿岸を襲った,チリ地震津波による災害をうけた地域は釜石市,宮古市,大船渡市,陸前高田市,大槌町,山田町の4市2町であり,県は災害における罹災の状況が極めて大であったので,関係部課長および職員を現地に派遣し,その調査に当たらせるとともに速報をうけ同日直ちに災害救助法を発動し,罹災住民の救助に当たった。災害対策本部においてまとめられた被害状況は,基本的な生活維持に重大な影響のあった人的被害は369人,うち死者57人,行方不明5人,負傷308人に達し,家屋の被害は6,804戸でうち全壊465戸,流失497戸,半壊1,209戸にのぼっている。
この災害救助に要した救助費は56,906,105円でそのうち30,568,915円が国庫から支弁され,22,337,190円が県で支弁されている。救助費の内訳は,表4-2に示すとおり約45%の25,787,987円が仮設住宅の設置に要し,被服寝具日用品の給与が約26%でこれに次いでおり,その額は15,141,307円となっている。また,地域別に見ると,死者50人を出し全壊,流失432戸を出し,最も被害の多かった大船渡市に約40%に当たる22,825千円を支出し,山田町,陸前高田市,大槌町,宮古市等に対してもそれぞれ約500万円から1,000万円の救助費を支出し,罹災民の救助に当たった。
県は,以上のような災害救助を施したほか,さらに郵政省に昭和34年度のお年玉年賀はがき寄附金65万円の配分を要請し,これをうけて,罹災世帯に対して日用雑貨品を購入のうえ現物を支給したほか,陸上自衛隊岩手駐とん部隊に出動を要請し,災害復旧に当たらせた。また,一般からの救援物資の供与方については,各新聞社をはじめとする報道機関や,日赤県支部などの地域社会団体からも絶大なる協力があった。その結果,災害義損金や救助物資の応援は,県内外各地から多数寄せられ罹災民に対して物心両面から援助の手がさしのべられた。
第2節自衛隊の活動
5月24日6時20分,三陸沿岸各地に津波が発生してから約2時間の後に東北各地にある陸海空のあらゆる自衛隊に緊急出動命令がだされた。それから6月12日までの20日間,延約4万人が被災地にとまりこみ,救助作業はもとより,堤防補修,家屋の補修,救援物資の輸送,汚物の処理から飲料水の給水,或いは防疫活動などまで災害応急措置を一手に引きうけるなどめまぐるしいほどの活躍ぶりであった。
これら三陸沿岸罹災地に出動した機動力は,輸送機33機,ヘリコプター19機,自衛鑑11隻も出動し,陸の孤島となった被災地に,海空から救いの手をさしのべた。
チリ津波災害復旧に自衛隊員がいなかったら,被害はさらにふえたばかりか,人心の不安と動揺は,はかり知れなかったと,その活躍ぶりが各方面から高く評価された。本県をはじめとする被害各県からそれぞれ派遣原隊に対して感謝状がおくられたが,そのなかで家庭をあずかる立場としての婦人会から「野天風呂、お世話さまでした」というほほえましい感謝状もまじっていたことは,現実をすなおにやさしく包んでくれたものとしてうれしい限りであった。
本県内における自衛隊の出動状況をみると次のとおりである。
この外釜石市に対しては岩手駐とん部隊88名が5月24日から6月3日まで自主出動をした。宮古市に対しては岩手駐とん部隊66名が6月1日から6月2日まで自主出動をした。
第3節消防活動
津波は,沿岸において確認したものだけで,6回来襲しているが,そのうち最も波高の大きい津波は,地域により若干時間の差はあるが,大体午前4時25分前後である。又津波警報の受領は午前5時25分であり,この差1時間であるが,幸いにも今回の津波は時間的にみて,沿岸漁民が磯漁作業のため,4時前後には海岸におもむくため,各市町村ともに,これらの漁民(主として消防団に在籍している)が異常な引潮を発見し,消防機関に通報したため,各消防機関は津波警報の受領をまたず,直ちにサイレソ警鐘により警報を発令するとともに,消防ポソプ自動車,連絡車等により津波の来襲を伝達し,避難誘導に当たった。
しかし,異常引潮の発見が遅れ,津波警報の発令が遅れた大船渡市は死者を多く出している。津波来襲後は,連日出動,各種作業に従事しているが,各市町村別の活動状況は次のとおりである。
1大船渡市
(1)警報発令前後の活動状況
消防本部
応援勤務者三浦善治(消防団員)が当直していた5月24日の午前3時50分頃,赤崎分団より潮の状態が異常だが何か情報が入っていないかとの問い合わせがあったが,何もな:い旨回答し,その後,直ちに海岸地区に電話にて問い合わせたが、いずれも確認できないうちに電話局から高潮の連絡があった。よって市役所に通報し,天神山のサイレソを吹鳴したが,その時は津波の第二波来襲後の4時37分であった。
消防本部では4時37分天神山サイレソをもって団員の非常召集を行ない,かけつけて来た各分団に対し,現場に急行し,人命救助に全力をあげるよう指令した。
それとともに現場本部を大船渡町県南米協前,および赤崎町漁協支所前の2か所に設置し,全力を挙げて救助活動に入った。
赤崎地区
消防団本部班長金野徳雄(当37オ)は午前3時30分頃,引潮の異常を認め,直ちに赤崎分団第2部屯所にかけつけ,消防本部に情報の有無を問い合わせたが,情報は得られなかったけれども,津波来襲を察知し,すでにきていた分団長吉田博(当41才)とともに消防ポソプ自動車により備付の拡声機で,地区内を数回にわたり巡回しながら津波の来襲を住民に周知徹底し,避難誘導に当たった結果,家屋その他の被害の割合に犠牲者が少く,人的被害を最少限度に止めることができた。
又,金野班長は,住民の避難誘導中,第2波の来襲により倒壊せる家屋内より救助を求めている只野巳代治を発見するや,第3波による危険をおかして,水中に飛び込み,これを救助した。
大船渡地区
魚市場のサイレソにより消防団員は火災と思い各屯所に集結したが,警察の港派出所より「水が来る」との電話をうけ,直ちに状況偵察のため,海岸に行ったところ,岸壁すれすれ(標準海面より2毎の高さ)の海面が急に上がり初めたので,直ちにサイレソを鳴らし,津波来襲を伝達し,消防団員に対して住民の避難誘導に当たらせた。
大船渡分団第4部副部長平山喜代治(当33才)は,第2波来襲の午前4時30分頃,大船渡町赤沢地区で増水により流壊せる家とともに流されている家族4人を発見するや,身の危険をおかして流木伝いに全員を救助したが,その救助作業中に再び,屋根に乗って救助を求めながら流れて行く8名を認め,他団員の協力を得て,梯子,ロープ等を使用して全員を救助した。
(2)災害発生後の活動状況
災害発生後は,消防活動の重点を人命救助に指向し,当初の目標を負傷者の救出,死体収容におき,その後は自衛隊および他市町村消防団,一般作業隊とともに交通杜絶の原因となっている路面に散積されている廃材,塵あいの運搬処理に従事した。
5月24日,塵あい,障害物排除活動に出動せる人員は地元消防団874名のほか,応援消防団,住田町消防団200名,一般作業隊21名,計221名の協力を得て,行なわれたが,作業は急速にピヅチをあげ,赤崎町は午前10時には人の通行も可能となったが,大船渡町赤沢地区,笹崎地区および南町地区は倒壊家屋がはなはだしく,作業は困難をきわめ当日はもちろん人の通行は全く不可能であった。
5月25日は、地元消防団827名の出動のほか、三陸町消防団210名、住田町消防団120名、午後からは江刺市消防団20名、計350名の応援を得、さらに一般から702名の応援を得、前日夕刻到着せる自衛隊280名と密接なる連絡のうえ、前日から引続き障害物や塵あいの処理を進めた。この結果、幹線道路ぱ夕刻までには車両の一方交通可能の状態までこぎつけ、作業は著しく進捗をみるに至った。
残された区画街路の開さくも引続いて行なわれ、所有者の明確な流出物は別として、塵あいその他は県有埋立地に運搬処理した。
なお、この作業が終了した6月11日までには路面開さく延長1,200π、除去運搬せる廃材、塵あいは80,000㎡にも達した。
消防団員の出動状況は次のとおりである。
又引潮後は直ちに行方不明者の捜索に従事し、倒壊した家屋の下や屋根裏から、続々発見した遺体41体を大船渡町富沢の西光寺に運搬収容した。
翌25日からも連日、行方不明者の捜索活動夕続けたが
5月25日4遺体を発見収容
5月26日2遺体を発見収容
6月1日1遺体を発見収容
6月4日1遺体を発見収容
6月5日1遺体を発見収容
6月10日2遺体を発見収容
行方不明1名を残し、ついに捜索を打切ったが、収容した遺体は52体の多数にのぼった。
2陸前高田市
(1)警報発令前後の活動状況
消防本部
5月24日,午前3時30分頃出漁しようと準備中の米崎分団第2部団員鈴木正巳(当30才)は異常なる大潮そして引潮を認め,津波来襲を察知し,直ちに津波来襲を連呼するとともに,5m離れた消防屯所より市役所内の消防本部に連絡した。
市役所当直員管野与一(消防団本部付団員当32才)は直ちに沿岸各分団に通報するとともに自転車で伊東司令,佐々木士長に連絡した。
佐々木士長はジープ車により沿岸地帯住民に対して避難を伝達,伊東司令は直ちに本部において消防長の指示に従い,午前4時5分沿岸地区に対して津波警報を発し,避難命令を出すとともに全団員に対して出動命令を発し,又宮城県気仙沼市役所を通じて県消防課に津波来襲により被害甚大の旨連絡を依頼した。
気仙地区
漁協のサイレソにより津波来襲の危険を知った分団長は,気仙町長部地区の住民に対し警鐘ならびに連呼をもって避難を指示した。
米崎地区
第2分団員鈴木正巳の警鐘乱打により,出動した団員は,住民に避難を連呼するとともに,海岸において潮の状態を警戒し,津波来襲とともに逃げおくれた者を収容しながら北方台地に避難した。
高田地区
市役所のサイレソ,警鐘により住民の避難誘導に当り,第2波来襲の際逃げ遅れた者を収容しながら高台に避難した。
分団長柴用虎尾(当47才)はサイレソ,警鐘により直ちにスクーターで高田松原に急行,同地区住民の避難誘導に当たっていたが,津波来襲を受け退避の途中,濁流に押し流されている老婆(佐々木ツナ)を発見,自己のスクーターを捨て,老婆を背負い,身の危険を顧みず,濁流の中を100mも1馳け救助した。
又同じく高田町長砂地区においても,濁流の中を助けを求めている一家3名(村上正也,テル貴和子)を救助した。
(2)災害発生後の活動状況
5月24日,団長以下878名は津波来襲直後に死傷者および罹災者の収容に当たり,住田町消防団80名の応援を得て,道路復旧作業,気仙川堤防補修作業に従事,夜は被災地の警戒を実施した
5月25日,団長以下796名出動し,住田町消防団120名の協力により,道路の復旧作業,倒壊家屋の取片付作業に従事した。
5月26日,団長以下679名出動し,住田町消防団70名の協力を得て,倒壊家屋の取片付作業に従事した。
5月27日,団長以下658名出動し,大東町消防団60名の応援出動を得て,倒壊家屋の取片付作業,および道路上の泥芥の処理作業に従事した。
5月28日,団長以下221名出動し,泥芥処理作業および消毒作業に従事した。
5月29日,被災地域分団184名出動し,泥芥の処理作業,漂流物の収容運搬に当たった。
5月30日、被災地域分団192名が出動し,前日と同様,泥芥の処理作業および漂流物の収容運搬に当たった。
5月31日、高田分団、気仙分団の158名が出動し、漂流物の清掃に当たった。
6月1日、横田分団、高田分団の95名が出動し、古川沼堤防補修用空俵輸送および漂流物の清掃に従事した。
6月2日、横田分団、高田分団の39名が出動し、前日と同様古川沼堤防補修用空俵輸送および漂流物の清掃に従事した。
3三陸町
5月24日午前4時15分警戒体制に入り、消防団員430名が出動して、住民の避難誘導に当たった結果、幸い人畜には被害はなかったが、1波2波と繰り返し、押し寄せる津波に、漁民一番の財産である漁船の収拾に決死的作業を行ない、被害を最小限度にとどめた。
第9分団副分団長庄司直司(当44才)は津波来襲に際して、前日来の風邪をも顧みず、出動して分団長を補佐し、住民の避難誘導および家財の保護にあたっていたが、たまたま根白漁港に停泊、繋溜中の小型漁船が沖合に流出したのをみて、部下団員を指揮し自ら危険をおかして、流失していない漁船に乗り、潮水を浴びながら、流失の漁船に近づき、海岸に曳航し、さらに終日、海岸において警戒の任に当たった。
続いて翌25日、26日の両日にわたり、昭和8年の津波の際の報恩をするのが今と、身体の具合の悪いのにもかかわらず、大船渡市の災害復旧に応援出動したが、連日の疲労によりついに27日には症状悪化し、29日に気仙病院に入院したが、6月2日に死亡した。
第7分団団員橋本行男(当34才)ぱ津波来襲に際して直ちに出動、吉浜海岸において警戒の任に当たっていたが、折から舟揚場に繋溜又は停泊中の小型漁船が上げ潮により見る見る間に浮上し、引き潮とともに互に衝突しながら流失して行くのを見て、附近にい合わせた古老より昭和8年の津波の様子を聞き、このまま放置すれば、漁民にとって最も大事な漁船をことごとく大破あるいは流失すると考え、身の危険をもかえりみず波間に飛び込み、漂流中の漁船に泳ぎつき、陸の漁夫達と呼応して、波の合間を見て岸に漕ぎよせ、又若い漁夫数名を乗せ、再び沖に漕ぎ出し漂流中の船にそれぞれ分乗せしめて多くの漁船を安全地帯に収集、繋溜し、被害を最小限度に止めた。
4釜石市
(1)警報発令前後の活動状況
消防本部
5月24日未明当直勤務中の消防士平野拓が消防署前岸壁の異常な潮の干満の差を発見して、津波来襲を察知、午前4時津波警報を発令するとともに全消防職団員の非常召集を行ない、全力をあげて沿岸地区住民の避難誘導することを指示した。
消防隊活動の指揮統制を行なうため、消防本部内に現場本部、さらに海岸地区本部を釜石ビル屋上に設けて活動の円滑を図った。
唐丹地区
5分団1部団員磯崎洋(当33才)は,5月24日午前3時35分頃唐丹町小白浜海岸にて出漁準備中,潮の異常であることを発見し,その引潮の状態のはげしいことから津波来襲の危険ありと判断して,海岸地区住民に津波来襲を報知するとともに上司に連絡,さらに釜石市役所唐丹支所宿直員に消防本部に対する電話報告方を依頼,自らは消防ポソプ自動車の機関員として出動,海岸地区を巡回,サイレソを吹鳴するとともに,口頭をもって津波来襲の危険を知らせ,折から出動せる消防団員とともに住民の避難誘導に努め,午前4時頃までには,危険地帯に住居する400名全員を高台および小学校の安全地帯に誘導を完了した。
鵜住居地区
津波来襲の察知が早く,消防団が出動せる際,住民のうちにはすでに避難を始めている老もあったが,消防団は出動と同時に,消防ポソプ自動車要員はサイレソの吹鳴とともに避難を広報し他の団員ば高台および小学校の安全地帯への避難誘導に当たり,4時5分〜8分に,両石町,箱崎町,箱崎白浜,片岸町室浜の地域住民約1,400名の避難を完了したGその後,潮の状況調査の任にあたり,避難民にそれぞれ報知し,民心安定に活躍した。
釜石地区
沿岸地区民の津波来襲の察知ぱ他地区より若干遅れたが,消防本部,署と呼応して全力をあげ沿岸地域住民の避難誘導に当たり,4時15分〜25分頃までに東前町,新浜町,浜町,須賀,嬉石町,松原町,平田,尾崎白浜の住民約6,000名の避難を完了し,以後は潮の警戒に当り,被害の最小限防止のため全力をあげた。
(2)災害発生後の活動状況
5月24日,消防職団員750名が出動し,海岸一帯が漂流物(木材,樽等)のため道路が遮断され
自動車の通行に支障を来たす状態であるため,津波警戒とあわせ漂流物の除去整理に努めた。
5月25日,午前2時頃,当地方満潮のため,消防職団員約80名が,警戒に当たった。午前4時
40分津波警報解除を受信し,広報車をもって解除を伝達した。
5月26日-6月2日まで,大船渡市および大槌町に延396人が災害復旧のため応援出動した。
5大槌町
(1)警報発令前後の活動状況
5月24日,午前3時15分,消防団常備部に第3分団部長岩間健治(当34才)より潮流に異変があるとの電話連絡があり,直ちにその旨,役場に連絡するとともに,小鎚橋側に監視員を派遣し監視の任に当たらせた。
又一方,各沿岸地区より情報を収集し,津波来襲のおそれあるを察知し,町役場に設立された対策本部に情報提供のかたわら,津波対策計画に基づき,沿岸地区の第2分団,第3分団,第4分団,第6分団,第7分団および第8分団を非常召集し,出動せる団員に対して避難民の誘導,避難順路および火災盗難予防に関する指示を行なった。
午前3時40分,町独自の判断により津波警戒警報を発令し,消防ポソプ自動車等により住民に対して周知し,避難を指示した。
避難誘導に関する事前の処置が適切であったため,避難民の誘導が円滑に行なわれ,午前3時50分までの僅か10分間にそれぞれ高台および,安全地帯に避難を完了することができた。
しかし,一部逃げおくれた老があり,その人命救助に全力をつくし,全員救助に成功した。
イ 第4分団団員佐々木重夫(当36才)は管内の警戒と避難民の誘導に当たっていたが,たまたま,被害甚大なる雁舞堂地区において,村岡日出夫(当35オ)が激流にほんろうされつつあるのを目撃し,敢然として水深3mの濁水に身を躍らし,折から漂流して来た小舟に乗り未経験をもかえりみず,激流にほんろうされつつ,夏本部落前まで舟を操り,仮死状態の被災者を収容して大槌病院まで搬送,応急処置によって蘇生せしめた。
ロ 第6分団団員沢舘年男(当29才)および同じく団員三浦浩(当28才)は受持管内の避難民の誘導に従事していたが,第3波来襲時に被災最も甚大なる雁舞堂地内町営住宅において穴沢亀寿(当62才),同妻ハナ子(当44才)が溺死寸前であることを目撃し,両者協力,危険をかえりみず,濁流に飛び込み,救助し,安渡小学校に搬送,さらに小川キクエ(当77才)が逃げ場を失い水浸しになり喚いているのを発見,引潮が強烈なため,困難をきわめたが,両者協力,ついに救助に成功家族に引き渡した。
ハ 第6分団班長小国正康(当37才)は任務の潮流異変の監視に当たっていたが,午前4時50分頃,第3波の引き潮により大槌町魚市場岸壁において当部落,佐藤三郎(当52才)同剛(当25才)の2名乗組の小型船が転覆,引き潮に吸い込まれる寸前を発見,ロープを投げ出し,救助に成功した。
二 第8分団団員平野洋(当25才)は避難民の誘導中,吉里々々須賀路上において,周囲を浪に囲まれ,逃げ場を失い,狂気の如く,喚き,救いを求めている芳賀吉一(当8才)を発見全身水浸しになり,荒れ狂う波浪に足をさらわれながらも,これを救助し,安全地帯に搬送知人に引渡した。
(2)災害発生後の活動状況
災害発生後は内舎ケ崎副団長指揮をとり,漁船(無動力船,動力船)木材,家屋,汚物その他の取片付け作業に従事,25日以後は釜石市消防団41名,遠野市消防団39名の応援を得,対策本部と連絡協議のうえ,国・県および町道の障害物の除去,運搬の任についた。
夜は24日から28日まで潮の動向,火災盗難予防の任に当たった。
6宮古市
(1)警報発令前後の活動状況
5月24日未明宮古市消防士白鳥定男(当31才)が望楼勤務に従事していた午前3時15分頃,望楼から約170m南方を流れる閉伊川の水音に不審をいだき注視中,動力の音がないのに川口方面に向かって相当の速力で流れて行く,白色の船を発見し,ますます不審をいだいていたが,夜が明け始めた時,川幅約120mの閉伊川の水が1/4位に狭くなり,横倒しになっている船,4-5艘を発見して,津波による海上異変と認め,望楼よりの直通電話により,消防署に連絡,消防署より市長ならびに署長に報告し,3時45分市長の命により第1回の緊急避難信号(サイレソ吹鳴)を発するとともに,津波来襲を市民に周知するために広報車が出動した。消防団長佐々木藤次郎(当66才)は午前3時30分消防署よりの緊急電話により津波来襲を知り,直ちに出動,消防本部にあって副団長志賀秀雄(当55才)補佐のもとに消防団員の非常召集を行ない,海岸地域を担当する各分団に対して警戒指令を発し,警報の伝達・避難の誘導・避難民の保護,海上監視の指示を与える等第一線の活動の統制をとった。
副団長山内良平(当46才)は団長の命により宮古市藤原地区,磯鶏地区,高浜地区に消防本部の指揮車で緊急避難命令の徹底と消防団員の配置状況を監督するために出発,第3波の大津波来襲(午前3時50分)の直後であるため,道路の障害物が散乱し通行に混雑を極めたが,被害甚大の高浜部落に入り,その状況を消防本部に連絡した。
副団長山根松太郎(当51才)は午前3時30分頃,津波来襲を察知するや災害激甚地の一つである津軽石赤前地区に居住する副団長として津波来襲時の業務編成に従い,津波警報未発令であったが緊急避難信号と同時に同地域消防団の第一線指揮者として住民の避難誘導,避難民の保護あるいは危険をおかしての人命救助等の指揮をとり住民の生命,財産の安全を守った。山内副団長の報告により待機i中の宮古地区第1,2,3,5,8,9,12,13,花輪地区17,18,19,津軽石地区21,23,重茂地区24,25,26,27の17ケ分団に現地出動を命じ,救護と警備に当たらしめた。
なお,第4,6,7,10,15,16の海岸地域の分団をもって別に海上救助隊を編成,船を激浪上に出動せしめて,海上に押し流された者,5,6名を救助した。
災害発生後の活動状況
5月24日,現地市民の救護と民心安定のため,まず,交通の確保に従事し,八戸,仙台線2級国道上の物件除去と,破壊せられた個所の応急復旧に当たり懸命の作業を続けたが,午後5時までに路上1配の津波が,4回も来襲したため,24日中に開通するに至らなかった。
5月25日,午前は午前8時より前日同様作業に従事し,自衛隊の応援を得て全線午後6時頃開通することができた。
5月26日からは学生,生徒,各種団体の協力を得て,被災地域の整備に出動し,6月8日まで延3,841名の消防団員が出動して災害復旧に当たった。
特に,激甚災害地の高浜地区を所轄する11分団は,副分団長笹平喜智雄(当37才)以下10名が津波の来襲を知るや,部落民の避難誘導に当たり,災害を最小にとどめるとともに来襲後は引続き,災害地の復旧整理作業に出動し,夜は民心の安定と警戒のため夜警を行ない,家業をかえりみず,6月8日までの16日間も出動し,災害地の復旧,罹災民の生活安定に尽くした。
その他5月24日より6月20日までの28日間の長期間にわたって災害地の飲料水確保のため,消防署,消防団が協力して,消防署のタソク車をもって毎日12,000m^3を災害地に運搬配給した。
7山田町
(1)警報発令前後の活動状況
海岸地区の多くの消防団員はこの日5月24日,山田湾共同漁場若布解禁により午前3時頃出漁
しようとして浜にきたが,湾内の干潮異変に気づき,直ちに引返し消防屯所の警鐘サイレソによ
り警報を発した。
午前3時30分,警鐘サイレソ吹鳴により他の消防団員も自動的に出動し,消防車等により町内全般にわたって広報活動を展開し,至急高台に避難するよう連呼するとともに,3時40分から4時にかけ,田ノ浜,大浦,織笠,山田,大沢の海岸地区住民を附近の高台,学校,公民舘等に誘導,概ね4時10分に1人の事故者もなく全員の避難を完了した。叉一部海岸地区の団員は,海岸に部署し,津波の来襲,引き潮の見張りを行ない状況を逐一本部に連絡した。
(2)災害発生後の活動状況
5月24日,25日は毎日,消防団員360名が出動し,道路の復旧,倒壊家屋の整理,罹災者に対する物資の配給,および清掃に従事した。
26日から31日までは連日,消防団員60名が出動し,主として障害物の除去,および清掃作業にあたった。
8田老町
5月24月,午前4時35分消防団員60名出動して,警戒体制に入り,事前計画に基づいて,住民の避難誘導,防潮堤の通行門閉鎖,高波の警戒等に従事した。
今回の津波においてぱ,おおむね被害はなかったが,浜辺に置かれていた若干の小漁船の流失があったので,その回収および陸地に打ち上げられた漁船の除去等に従事した。
9岩泉町
5月24日,午前3時30分頃,津波来襲により海岸地区消防団員90名が出動し,避難誘導に当たり引き続き夕刻まで,潮の見張りに当った。
10久慈市
消防本部
5月24日,午前4時5分津波来襲の恐れ大なる旨の急報により,直ちに海岸地区分団に連絡,状況問合せの結果来襲の公算大なるを確認,4時20分,サイレソ吹鳴により海岸地区住民に対して警報を伝達し,消防職団員の非常召集を行ない,出動せる職団員150名に対して住民の避難誘導を指示した。
久慈地区
副団長兼田哲夫(当42才)ぱ午前4時5分の一般人より引き潮がはなはだしく津波来襲の恐れ大なる旨の通報を受けたので直ちに久慈湊地区住民に対し緊急避難を連呼していち早く,避難誘導したため,午前4時20分の波高3mの津波来襲時にはほとんど避難完了しており1名の死傷もなかった。
大尻地区
第8分団長新井谷市太郎(当53才)は午前4時大尻港において子女魚出漁準備中,異常潮位を観測,津波来襲を直感し,4時5分消防本部に連絡するとともに住民の避難を連呼し,津波来襲時にはほとんどの住民の避難を完了していた。
11種市町
5月24日早朝,沿岸町民より津波来襲の情報が入り,関係機関に連絡するとともに,午前4時
18分,警報を発令して沿岸管轄の1分団から15分団の消防団員392名に出動を命じ,危険地区住民の避難誘導,磯舟の繋溜等に当たるとともに午後9時まで家財の警戒,漂流物の整理に当たった。
12野田村
5月24日,午前4時10分津波来襲の察知とともに消防団員180名が出動して,危険地区住民の避難誘導に従事し,午後6時まで警戒.漂流物の整理に当たった。
第5章応急工事
第1節概要
チリ地震津波に際して,公共土木施設の復旧で何よりも急がれたのは陸前高田市の松原防潮林欠壊個所の復旧であった。この工事は,田植前に津波の浸入を見た耕地への塩水を止め耕地の荒廃を防ぐためであった。この仮締切工事は第一線堤であり,県土木部が復旧にあたり,背後古川沼の後部を第二線堤とし自衛隊が復旧した。
このため土木部内に高田松原海岸復旧工事対策本部を5月27日設置し,次のごとき機構とした。
対策本部表ー1
この工事は田植を控え早期完成を期した結果,28日目の6月27日に完成した。工事の概要は当時現地で直接指揮に当った河港課長(当時)の手記を引用する。
第2節工事の概要
私は昭和8年,昭和35年と2度,津波災害に遭遇した。昭和8年の三陸津波の際は直接,その衝に当らず,ただ,この眼で,発光現象をみることができただけだった。何といっても,チリ地震による津波災害は直接対面しただけに,終生忘れえない想い出となった。概して,チリ地震津波では,前回,U字,T字湾に大被害をもたらした処はそれ程ではなく,かえって被害のなかった処が被災したといえよう。殊に,いりこんだ湾奥部に著しい被害があった。県南,陸前高田市の占める位置がそれである。ここは広田湾の最奥部にあって,リヤス式海岸としては珍しい程,遠浅な海岸で,長い白砂の浜が続き,すぐ後ろに,樹令200年程度の黒松と赤松との混交林が密生している。その数,約3万本。誠に白砂青松の自然景観の極地である。昭和8年の津波の際はこの松林のため,木登りして,厄を免れた者もあったとか,エネルギー減殺には格好な施設物でもあったので,そのためか,人畜被害は皆無であった。
5月24日に起ったチリ地震津波の主勢力は旧河川の河口であったという,松原北端部から浸入,幅4米,長272米の捨石堤(この石堤によって旧気仙川川成りであった古川沼と海とを分割しておったのだが)を欠潰せしめ,国鉄線路を寸断,背後の水田を一挙に幕進して,市街地を押流し,瞬時に8名の尊い人命を犠牲に供した。時を移さず,現地視察に村上建設大臣が幕僚を引きつれて市に見え,型通りの陳情要請となった。市役所の楼上で,県側としては,私1人だけ,代表として同行して,説明に当った。今もそうであろうが,当時はなおのこと技術陣営が手薄であったし,人災といわれる程,視察,調査の要人,ひきもきらず立現われ,応接にいとまがなかったので,私1人だけというのも無理がなかったことである。そのせいでもなかったろうが,市側は,かの石堤の管理は県にある,1日も早く復旧してもらいたい。も一度,起るかもしれぬ津波による臓大な被害を考えると懐然たる思いである,といい。これに対して,県側の代表として黙視するに忍びず,一矢を報いる気も多少は手伝って,従前,国庫の補助をうけて,災害復旧した事実に鑑み,石堤の管理は市にあるので,早急に対策をたてて応急処置を市側が講ずべきであるとの主張を縷々と述べたてた。市はずるく,飽くまでも逃げ腰で,これに応ぜず,相当長い間,応酬がかわされた。とどのつまり,大臣が介入,国が面倒をみるから,県が応急工事を施すようにとのご託宣であった。論言汗の如し,公僕たる以上嫌々ながら,これに応じたわけだった。が,内心は戦々競々たるものがあった。というのは,東北一の少数技術陣営の県であったし,しかも担当技術員は数百粁にわたる三陸沿岸の災害対策に大童で,それ所ではなく,俗に猫の手も借りたいおもいであっただけに,危惧感を伴ったのも私としては無理ではなかった。やむをえず,非役の技術事務員を狩り集めてみたら,僅か10名にしかすぎなかったが,早速,応急工事挺身隊を組織して,隊長を買って出,自ら応急工法の設計に当った。こういう際は,えてして野次馬精神が具現するもの。「サソドポソプを持ちこめ。」「締切りの最後には流速が物凄く早くなり,九じんの功を一管に欠きがちだ。これには一番沈床が効く。最初に沈床を下ろすに限る。」とか,「船櫓を持ってきて,鋼矢板を打つのが早い。」等々。責任がないもの故,経済にかかわりなく勝手に放言する仕末。しまいには憤ってしまい、一切ノーコメソトにした。
挺身隊を二つにわけ,本部班と現地班とにした。本部班は勿論,指揮を統卒,現地班は精鋭2名,現地の事務所とは,きり放して尖兵として,本部との連絡現地の指導に当らせることとして,とるものもとりあえず,調査測量のため現場に急派した。
設計上,苦心を払ったのは締切工法と最終締切の場所の問題であった。最初,土俵締切法を考えてみた。当時,背面耕地100町歩全部塩水を冠り,収獲皆無と診断されてあったので,この水田の再植付可能なよう自衛隊が総出動して古川沼欠潰個所を土俵で復旧しつつあった。使用資材として,県下並に東北6県から17万俵の空俵を調達,舟艇を含めて800輔の車輔群が昼夜をわかたず,急施しておった。土俵締切で石堤を復旧するとすれば,どうしても最低15万俵の資材を要すると概算,その資材調達は東北地方ではとうてい期待できず,関東,関西方面に依頼する外はない情勢であった。この調達に要する日数と人員を考えると全く暗然たらざるを得なかったし,且,最終締切時の流速に対抗するには不適当な工法だと判定,この案を放棄した。コソクリート方塊工法も一応考慮にいれたが,方塊製作後脱型投入まで相当時間がかかり,総体的には限定された期間内での完工が不可能なものと判断して,これも廃棄せざるをえず,最終的に捨石工法を採用した。これにも1万立方米余の捨石の採取,運搬等の困難な問題が必然的に惹起してくる。稲苗の再植付けに可能なよう完全締切を行なうとすれば,6月末から7月上旬迄が限定された完成時期目標となる。この間,同じ目的で活動する自衛隊の800輔の車輌とどんな交通確保の方法で相互に交錯しないで円滑に施工しうるかという問題も起ってくる。さりとて,天候を考慮せず期限を無視して,舟運に依存する気にもなれぬ。内心甚だ恐慌たるおもいであったが,運否天賦をきめこみ,石堤欠潰個所の両岸に支柱を建て,キャリヤーで,石灰石を吊って捨石する方針を採ることに決定した。附近一帯,石灰岩地質であるので,大発破をかけてトラックで現場に搬送することが最適だと判断,すぐ採石場の選定にとりかかった。
こうして,この設計に10日間,不眠不休で当った。文章にするとわけはないが,不眠不休なるものは3日と続くものでない。しまいには眠ろうしても眠れず完全に病的虚脱状態に陥り,血圧は60も跳ね上り,体重は5妊も減量し,食事時には砂を噛むようで,味など更にない。全くのフラフラとなり,はては,思考力が皆無という状態に陥った。閑話休題,採石場候補地の物色にかかったものの,運搬に便利で,現場に最短距離であるという条件に合致するところは,そうザラにあるものではない。丁度,幸運にも,現場から4粁のところ,国道沿いにグロリアエ法で石灰石を採取しておった小野田セメソト大船渡工場の福伏工業所があった。たまたま,津波のため大船渡工場が被災し,月余の操業中止となっており,連鎖的に工業所の方も採掘休止の状態になっておった。これに着眼,20砥以上の石灰石1万立方米余を只同様にもらいうける交渉に成功した。直ちに金額を決定せずに,大体の施工方針をロ述して,請負業者に施行を命じたのであった。業者は現場を調査して,工期は6ヵ月にしてもらいたいということであったが,全然,とりあわず,逆に叱咤激励して,6月末日を限度として完了する非常命令だと半ば脅迫的に通達した。業者は20余台のトラックを調達,採石運搬作業に入った。6月1日からであった。晴雨を問わず,昼夜兼行で,人家連担の急カープも物ともせず,交通規則などは無視して,石灰石を満載して現場に搬入する.1台1個,5聴余を運んだこともしばしばであり,朝,町場の曲り角をみて廻ると.大小様々の石灰石が散乱しておった。よくも事故を起こさずに運行したものと慨歎したものである。
初め,両岸にできるだけ,捨石を集積,交互に吊し上げて投石する考であったが,まどろっこしくなり,キャリヤーには見切をつけ,両岸から直ちにトラックを乗りいれて,待期するブルドーザーとの協同作業で,海面に投入し続けた.然し,6月21日の低気圧の余波による時化が満潮時と重り,白い歯をむきだした砕波が捨石天端を越えて,古川沼に落下する様をみた時は生きた空もなかった。が,搬送は中止することなく,捨石は両岸に集積しておいただけの手戻りしか,現場には影響がなかった。最終締切時には立会することができたが,流速は泡立って早くなったものの,思った程でもなかった.ともかく,天佑のご加護があってのことか,作業開始後,28日目の6月27日22時に締切は完了した。
この作業を通して,「道は近きにあり」とする教示をえた。こんな粗策な人海戦術的な工法が時には最良の方法といいうることに思い当ったのでもあった。
今は,万里の長城然たる本工事の工成り,往時を偲ぶよすがもない。
第6章復興に対する立法措置
第1節立法までの概要
わが国土は,地形的にも気象的にも天然の異常現象による災害を受けやすい条件下にある。
なわち,世界でも有数の地震国であり,これに伴う津波の襲来も多く,その度に甚大なる被害を蒙ってきている現況にある。
なかんずく,岩手県は,地理的に日本海溝に面し,しかも海岸線はリアス式であり,この付近の地震により発生した津波により,今まで数多くの人命,財産を失ってきている。歴史的にふり返ってみても,古くは,貞観11年の三陸沖津波を始めとして,その後慶長16年,明治29年,昭和8年と周期的に大津波の襲来を受け,近くは,昭和27年の十勝沖地震による津波があり全国的にみても,津波の襲来度が高い県となっといる。
今回のチリ地震津波は,南米チリに発生した2回にわたる大地震によるもので,従来の日不海溝付近の地震による津波と異なり,はるばる太平洋を横切り,昭和35年5月24日早朝日本の太平洋岸に来襲したものである。特に被害を蒙った地域は,北海道,三陸全域,常磐,四国南部の海岸で,死者119名,行方不明20名,家屋全壊1,571戸,半壊2,183戸,流失1,259戸に達し,このほか耕地,船舶等に相当の被害を蒙ったのである。
県においては,その被害の激甚なることを重くみて,直ちにチリ地震津波災害対策本部を設置し,その復旧に努力する一方,県議会においても,第7回県議会臨時会(昭和35年5月30日)において,災害復旧対策について,速急に万全の措置を講ぜられるよう内閣総理大臣および関係各大臣ならびに衆,参両議院議長に対し,強く要望した。
政府も,チリ地震津波による被害の甚大なることにかんがみ,国土保全と民生安定の見地から津波による再度の災害を防止するために必要な河川または海岸に関する施設の新設,改良および災害復旧事業につき,抜本的な政策を樹立し,計画的にこれを実施するため,直ちに第34国会に「昭和35年5月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法」を提出し,昭和35年6月27日,昭和35年度法律第107号をもって公布され,続いて8月18日に同法の施行令が政令第240号として制定された。
第2節昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法
昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法をここに公布する。
昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法(目的)
(目的)
第一条この法律は,昭和三十五年五月のチリ地震津波(以下「チリ地震津波」という。)にょる災害を受けた地域における津波対策事業の計画的な実施を図り,もって国土の保全と民生の安定に資することを目的とする。
(津波対策事業)
第二条この法律で「津波対策事業」とは,チリ地震津波による災害を受けた政令で定める地域において,海岸又はこれと同様の効用を有する河川でチリ地震津波により著しい災害を受けたもの及びこれらに接続し,かつ,これらと同様の効用を有する海岸叉は河川について施行する津波による災害を防止するために必要な政令で定める施設の新設又ば改良に関する事業(それらの施設について合わせて施行するチリ地震津波に係る災害復旧に関する事業を含む。)をいう。
注「政令」= 令一条・二条
(津波対策事業計画)
第三条津波対策事業に関する主務大臣は,当該津波対策事業につき,関係地方公共団体の意見をきいて,その事業計画(以下「津波対策事業計画」という。)の案を作成し,閣議の決定を求めなければならない。
2津波対策事業計画には,津波対策事業の実施の目標及び事業量を定めなければならない。
3主務大臣は,第一項の規定による閣議の決定があったときは,遅滞なく,津波対策事業計画を関係地方公共団体に通知しなければならない。
4第一項及び前項の規定は,津波対策事業計画の変更について準用する。
(昭四一法九八・一部改正)
第四条削除(昭四一法九八)
(国の負担の特例等)
第五条地方公共団体又はその機関が,政令で定める地域において津波対策事業を施行する場合においては,他の法令の規定により国がその経費の三分の二以上を負担し.又は補助する事業を除き,他の法令の規定により国がその経費の一部を負担し,又は補助する事業にあっては,これらの規定にかかわらず,国の負担率又は補助率を三分の二とし,その他の事業にあっては,国は,その経費の三分の二を補助することができる。
2 国が,前項の政令で定める地域において津波対策事業を施行する場合においては,他の法令の規定により地方公共団体がその経費の三分の一をこえて負担する事業については,これらの規定にかかわらず,地方公共団体の負担率を三分の一とする。
注第一項・第二項「政令」=令三条(昭三五法一六五・追加)
(津波対策事業計画の実施)
第六条政府は,津波対策事業計画を実施するために必要な措置を講じ,かつ,国の財政の許す範囲内においてその実施を促進することに努めるものとする。
(昭三五法一六五・旧第五条繰下)
附則
(施行期日)
1この法律は,公布の日から施行する。
第3節昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法施行令
(昭和三十五年八月十八日 政令第二百四十号)
昭和三卜五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法施行令をここに公布する。
昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法施行令内閣は,昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法(昭和三十五年法律第百七号)第二条及び第四条第二項の規定に基づき,この政令を制定する。
(津波対策事業に関する特別措置に係る被害地域)
第一条昭和三十五年五月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法(以下「法」という。)第二条に規定する政令で定める地域は,北海道厚岸郡浜中村,青森県八戸市,岩手県の海に面する市町村,宮城県の海に面する市町村,福島県双葉郡富岡町,和歌山県田辺市,徳島県阿南市及び高知県須崎市の区域とする。
(津波対策事業に関する特別措置に係る施設)
第二条法第二条に規定する政令で定める施設は,海岸堤防,河川堤防,防波堤,防潮堤,導流堤,離岸堤,突堤,胸壁,護岸,防潮林,水門及び嗣門とする。
(国の負担の特例等に係る地域)
第三条法第五条第一項に規定する政令で定める地域は,県又は県知事が津波対策事業を施行する場合にあっては,青森県八戸市,岩手県の海に面する市町村及び宮城県の海に面する市町村の区域とし,市町村長が津波対策事業を施行する場合にあっては,北海道厚岸郡浜中村,岩手県九戸郡種市町,宮古市,下閉伊郡山田町,上閉伊郡大槌町,釜石市,大船渡市及び陸前高田市並びに宮城県本吉郡志津川町,桃生郡雄勝町,牡鹿郡女川町及び同郡牡鹿町の区域とする。
(昭三五政三一一・追加,昭四一政二〇七・旧第一一条繰上)
附則
(施行期日)
1この政令は,公布の日から施行する。
第7章事業の実施
第1節概要
昭和8年津波以来岩手県では津波対策事業として
・住宅道路の高地への移転
・防潮林の植林
・防浪堤,防潮壁,護岸等構造物の建設
・警報組織の完備と避難訓練
が実施されてきた。
道路は昭和8年の津波後高台に移設され,その上に住宅地を造成した。今回の津波ではこの処置の取られたような個所にはほとんど津波は上がらなかったが,津波来襲後の救援活動の上から道路の確保は重要な問題であって今後もさらに移設を考慮すべきと考えられる。しかし,住宅については,高地へ津波後移転しても生活の不便から再び低地へ移転している個所もあり,これらに対しての指導対策が必要であろう。
防潮林は背後の被害を少なくし,また,殿風時の塩害を防ぐものであり,これを保護するための防潮堤,護岸の建設を行なった。防浪堤については,昭和8年津波後大規模なものは田老,吉浜,小規模なものは大槌,越喜来に建設したが,特に田老町の堤防は全町を巻く模範的な堤防である。また,山田町には海岸線に平行して防潮壁が建設されている。
第2節対策事業の基本的考え方
チリ地震津波発生後,6月27日特別措置法,8月18日同法施行令がそれぞれ施行され,この法律に基づき「チリ地震津波対策審議会」が設立された。この審議会は昭和35年9月6日,11月28日,36年11月24日の3回開催され,チリ地震津波対策事業計画が決定された。
この主な内容は
1津波対策事業計画の策定基準
2津波対策事業計画の事業量
3津波防波堤計画であって,海岸保全計画,都市計画,住宅計画,津波警報等の基本的な考え方について検討された。計画策定基準と岩手県内の波高,計画天端高は次のとおりである。
昭和35年5月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業計画策定基準
今次チリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業として施行する諸施設の新設,改良叉は,災害復旧に関する事業の諸計画(以下「計画」という。)の策定は,この基準によるものとする。
1基本的事項
1)計画は,チリ地震津波による災害にかんがみ,再度災害防止の見地から策定するものとする。
2)計画は,海岸,河川,港湾,漁港,干拓地,埋立地,道路,防潮林等の施設についての諸計画を総合的に考慮して樹立するものとする。この場合において,これらの計画のうち,実施の具体的方法,時期等が現段階において,明確でないものは,それらの決定を急ぎ,計画の実施により二重投資とならないよう十分な調整を行なうものとする。2堤防の計画高
堤防天端計画ぱ,原則として,チリ地震津波の潮位を基礎とするものとする。この場合において,津波の衝突高,背後地の状況,堤防構造の特性,堤防法線の局地的特性,堤防前面の海底地形,防潮林の状況,既往の台風災害及び津波災害並びに港湾又は漁港の機能保持等の諸点を考慮するものとする。
3堤防等の構造
1)一連の堤防の構造ば,できるだけ統一をはかり,既設堤防との取付けの関係,地形上の特性,土質条件,又は,土地取得の難易等のため,統一された構造とすることができない場合は,構造を異にする堤防問の接続点が弱点とならないよう措置するものとする。
2)堤防の天端,表法及び裏法はコソクリート等による被覆工を施するものとし,表法尻及び裏法尻は洗堀防止のための措置をとるものとする。
3)施工後の堤体沈下が特に懸念されるような⊥質条件の場合は,あらかじめこれに対処するよう十分な措置をとるものとする。
4)樋門,樋管,陸嗣等については,海水の急激な流出に耐えられるよう,設置箇所の断面,構造等について,十分な検討を行ない,又それらの施設と堤防との接続部が弱点とならないよう措置するものとする。
5)堤防等の耐震性については,これを十分考慮するものとする。
6)背後地の状況,地形等により,防潮林の造成が妥当と思われる場合は,これを考慮するものとする。
第3節各省関係
(1)農林省関係
1農地局関係
1災害査定
岩手県における沿岸関係市町村は5市5町3ケ村であり,その耕地面積は,水田4,198ha,畑11,193ha(岩手県統計年鑑昭和35年度版による)である。
これらの耕地は,本県の地理的な要因により,大半は海岸線沿いにあり,またV字型湾河口に多く存在しているため,津波のたびに甚大な被害を受け,チリ津波においても,冠水した面積は水田620肋,畑621肋余に及び,また海岸堤防7,900米が破堤の壊滅的な被害をこうむった。
農地,農業用施設については「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置に関する法律」に基づき査定を受け,また海岸堤防および付属施設については,「公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法」に基づき,6月15日から同6月21日までの間,現地査定を受けたこの個所数1個所,金額450,402千円を申請し,個所数8個所,金額183,544千円と採択された。
農地局所管の海岸堤防災害事業調は表7-2のとおりである。
2計画の基本方針
農地局所管の津波対策事業として施行する諸施設の新設,改良または,災害復旧に関する事業の諸計画は次の方針に従って樹立した。
(1)基本的事項
1)計画は,チリ地震津波による災害にかんがみ,再度災害防止の見地から策定するものとする。
2)計画は,海岸,河川,港湾,漁港,干拓地,埋立地,道路,防潮林等の施設についての諸計画を綜合的に考慮して樹立するものとする。この場合において,これらの計画のうち実施の具体的方法,時期等が現段階において,明確でな:いものは,それらの決定を急ぎ計画の実施により二重投資とならないよう十分な調査を行なうものとする。
(2)堤防の計画高
堤防天端計画高は,原則としてチリ地震津波の潮位を基礎とするものとする。この場合において,津波の衝突高背後地の状況,堤防構造の特性,堤防法線の局地的特性,堤防前面の海底地形,防潮林の状況,既往の台風災害および津波ならびに港湾または漁港の機能保持等の諸点を考慮するものとする。
(3)堤防の構造
1)一連の堤防の構造はできるだけ統一をはかり,既設堤防との取付けの関係,地形上の特性,土質条件,または土地取得の難易等のため,統一された構造とすることができない場合は,構造を異にする堤防問の接続点が弱点とならないよう措置するものとする。
2)堤防の天端,表のりおよび裏のりはコソクリート等による被覆工を施すものとし,表の り尻および裏のり尻は洗掘防止のための措置をとるものとする。
3)施工後の堤体沈下が特に懸念されるような土質条件の場合は,あらかじめこれに対処するよう十分な措置をとるものとする。
4)樋門,樋管,陸間等については,海水の急激な流出に耐えなれるよう,設置個所の断面,構造等について十分な検討を行ない,またそれらの施設との接続部が弱点とならないよう措置するものとする。
5)堤防の耐震性については,これを十分考慮するものとする。
6)背後地の状況地形等により,防潮林の造成が妥当と思われる場合は,これを考慮するものとする。チリ津波対策事業による経済効果は表7-3のとおりである。
3堤防天端高の決定
前述の基本方針に基づく天端高については,他の施設との関連上決定されたものを除き,チリ地震津波高+余裕高=計画高と決定し,余裕高は1.00mとした。
なお,大船渡湾内の永浜地区については,湾口防波堤による,津波減殺高1.90mを考慮し,津波潮位4.82m一1.90m=2.92m約3.00mと決定した。
各堤防の決定高と津波潮位との関係は表7-4のとおりである。
4対策事業
チリ津波による被害が甚大であるため「昭和35年5月チリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法」が昭和35年6月27日(法律第107号)に公布され,これに基づき対策事業が施行されることになった。実施に当っては昭和35年12月に岩手大学農学部農業工学科に次の項目を調査委託し,これを計画立案の参考とした。
(1)津波災害実態調査
(2)コソクリートの示方配合表7-5
(3)堤防基礎地盤調査
対策事業としては.,16個所,金額1,599,011千円を申請し,9月12日から同月20日までに現地査定を受け,10個所金額659,410千円と採択され,その地区別事業費は表7-6のとおりである。永浜地区については,運輸省との関連で,当初保留となったが,その後,事業費が決定された。
事業実施年度は昭和35年から昭和41年度にわたり,その経過は表7-7のとおりであるが,永浜地区については,運輸省との関連で実施が1年遅れ昭和36年から実施され,大沢地区については,漁港との関連で実施が遅れ,昭和38年度から実施された。なお,完成した堤防,樋門等の型式数量構造ぱ表7-8のとおりであり,代表的な断面は別図のとおりである。
次に農地局所管の対策事業のうち堤防の規模,事業量,事業費を比較してもっとも代表的であり,しかも本県初の干拓事業と関連する,小友地区の概要を述べれば次のとおりである◎
(1)位置
本地区は広田湾の最奥部にあたる陸前高田市小友町字三日市に位置する。
(2)計画の概要
チリ地震津波により被災した海岸堤防1,556mの復旧とともに対策事業としては,昭和34年度から着手の干拓事業により施行中の海岸堤防を補強,強化して,既存農地と干拓地の保全に万全を期するため,対策事業と干拓事業の合併施行により,三日市塩谷を結ぶ491mの海岸堤防を築造し,費用をアロケーショソすることにした。なお,アロケーショソは身替り建設費方式により対策72.49%,干拓27.51%に決定された。
(3)施行計画
1)堤防工
イ堤防型式傾斜型築堤式
海底基盤軟弱であることと堤体材料が近距離に豊富にあるので,傾斜型築堤式に決定された。
ロ堤高TP+6.15m
チリ地震津波潮位を採用した。
ハ標準断面
a表法勾配1:3
b裏法勾配1:2.5-1:2.O
c天端巾2.0m
二構造
a堤高捨石及び盛土により築堤
b被覆工前面捨石,アスファルトサソドマチック施工
前面アスファルト厚20cm舗装
基層工7cm(粗粒)
中間層8cm(密粒)
表層工5cm(粗粒)
なお,表層はサルビアシム工法により強化した。
背面捨石,雑石張
(4)施工上の特色
小友地区海岸堤防の特色は,堤防被覆工をアスファルト舗装とし,サルビシアム工法を採用したことである。
舗装の計画については,
1)サソドアスファルト基盤十コソクリートブロック張
2)アスファルト舗装を考えたが次の理由によりアスファルト舗装に決定した。
1)17,000m^2に及ぶ舗装なので,工期の点からアスファルトが有利である。
2)沈下その他の補修に対しアスファルトが有利である。
3)比較設計の結果アスファルトによる方法が安価である。
サルビアシム工法についてアスファルトの特性上,転圧による密度の増大が強度に関係するため,本地区のような斜面,舗装の転圧の場合密度をある限度以上(本地区の場合は2.1とした)にあげられないので,この欠点をカバーして,アスファルトの老朽化を防ぐため,セメソトミルクにプロサルビァを添加し表層に浸透させるサルビアシム工法を施工した。
(5)構造物
排水樋門2ケ所3門
道路遮断扉1ケ所1門
潮遊池448m
むすび
農地局所管対策事業の概要は上述したとおりであるが,堤防の規模については,チリ津波潮位によった個所が多いので既往津波潮位からみた場合,災害防止の完全性については,保障されない。従って今後堤防のかさ上げ根固等の補強工事を海岸保全施設整備事業長期計画の実施により逐次施行して津波の脅威を除去していきたいと考えている。
一般災害(農地局所管)
1災害査定
「公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法」に基づく災害復旧事業ならびに特別立法措置による津波対策事業のほかに,農地局所管の災害復旧事業として,「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置に関する法律」に基づく農地,農業用施設の復旧砦業があり,6月15日から同月21日まで,7月6日から同月13日までの2回にわたり現地査定が行なわれ,第1回目は,農地,農業用施設について,74個所,金額112,045千円を申請し,74個所,金額92,859千円と採択され,第2回目は除塩事業について,499.99ha,金額25,572千円を申請し,499.99ha金額13,062千円と採択された。
市町村別災害復旧事業費調は表7-9,表7-10のとおりである。
2事業実施の概要
事業の実施については,緊急を要する除塩事業から実施し,除塩事業は昭和35年度単年度で完了し,農地農業用施設については緊急を要するものから始め,昭和38年度までに4か年で完了した。
(2)水産庁関係
1災害査定
今回のチリ地震津波は全く特異な現象で,過去に幾多の津波を経験した浜の人々による「地震があったら津波と思え」との諺は覆えされ,なんの予告もなしに突然津波が襲ったので唖然とした。しかし5月24日早朝(明け方)の出来事であり,朝起きの早い漁民が海水の異変に気付きいち早く津波を察知し,県中部から北部の沿岸では比較的に人的被害が少なかったが県南の大船渡湾,広田湾は湾入も深く,また背後地が平担となっている関係から湾奥部では津波がいったん陸上に浸入すると急激に勢を増して破壊力が増大し(周期が長いことによる)たためにこのよな地形にあった大船渡市,陸前高田市においては60人余の尊い人命と多額な財産を一瞬のうちに失った。
漁港区域の諸施設についてもその被害は大きく近年ではその例をみないものであり,公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法にもとづき昭和35年6月23日-7月1日間現地査定が行なわれ,その査定額は61個所362,400千円であった。この災害復旧は急務とされたがこれのみでは背後の人家,耕地等の防護はでぎない,ことに本県沿岸は過去に幾度びかの津波を受けその都度甚大な被害を受けてきた津波常襲地帯であるので,国はこのような実情から背後地を守るため昭和35年6月27日法律第107号「昭和35年5月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法」を定め災害復旧とは別に従来にその例をみない画期的な海岸保全施設の新設改良を行ない再度津波による災害を防止するための総合的な対策を確立し,早急にその実施を図るため,県においてもその方針に沿った計画をたて,昭和35年9月14日-23日間水産庁調査担当官および大蔵省立会官による現地調査が行なわれ申請額5,648,936千円に対し,決定事業費は2,935,666千円となった。(表7-11,7-12参照)
2計画の基本方針
漁港区域背後地の再度災害を防止する見地から,防潮堤を海岸沿いに築造し安全を期することが急務であり,施設計画に当たってぱ次の重点事項を考慮した。
イ漁港の機能保持と津波の防禦とは相反するが防潮堤による遮蔽を充分にし,また,漁港の機能を阻害しないようにとの考慮から繋船地区は複断面工法を採用する。(図7-38A断面)ロ特殊事情のある場所以外は計画および実施を簡素化するため出来るだけ統一的な標準構造を考慮した。(図7-38参照)
ハ在来の船揚場ならびに天然海岸を船揚場として利用していた所で防潮堤の敷地として失なわれる個所は,その代替えとしてあらためて船揚場の築造を考慮した。
二津波の特性は,地震等で予知されても短時間に到達するし,今回のチリ地震津波のようになんの予告もなしに突然襲われるこにもあり,水門,門扉の閉塞に要する時間は大体3分以内にするよう考慮した。なお非常事態時に逃げ遅れた人の避難用に門扉箇所には必らず非常階段か梯子を設けることとした。
ホ将来海岸保全事業で昭和8年三陸津波高迄嵩上等の予定されている個所については,全体計画に見合った断面とすることとした。
3堤防天端高
陣潮堤の計画高について当初県の考え方は,チリ地震津波高は比較的に低いものであり,過去にはこれ以上の高い津波が幾度びも襲って来ているので,その中で頻度確率30〜35年型の昭和8年3月の三陸津波高を基準に申請した。(明治29年三陸津波が最高であるが頻度確率約100年と言われている)しかし前記の特別措置法はあくまでチリ地震津波を対照としているため調査の結果は,チリ地震津波高+余裕=計画高と決定された。
余裕高は地形その他の条件により概ね0.5m〜1.Omとし,津波常襲地区である両石,綾里漁港については,特例として2m〜2.2mの余裕高が認められた。
また,大般渡湾口防波堤築造による湾内津波の減殺高は1.9mとなるので,湾内にある蛸の浦,大船渡漁港は下記の高さで実施された。
蛸の浦(D.L)+4.8m-1.9m約+3.Om
大船渡(D.L)+6.4m-1.9m=+4.5m
各漁港防潮堤決定計画高は,表7-13のとおりである。
4対策事業
チリ地震津波対策事業は,当初昭和35年9月に決定されたが,その後大船渡湾口防波堤へ事業費の一部供出等諸状勢の変化があり,昭和38年5月再び水産庁係官,大蔵省立会のもとに再調が行なわれ,申請2,143,246.5千円に対し,決定は2,009,049.5千円となった。事業の経済効果等は714表,事業費の申請ならびにその結果については7-12表のとおりである。
事業の実施
1概説
実施設計の細部については,次の事項について考慮をした。
(イ)築堤式防潮堤は表のり,天端および裏のりはすべてコソクリートで巻立てる。
(ロ)防潮堤基部前面は基礎の根入を充分にするか,または矢板打込み等で前面の洗掘を防止する。
(ハ)防潮堤背面についても越波,越流により容易に洗堀を受けないよう水叩工を設置する。
(二)築堤式防潮堤には原則として30m〜50mおきに隔壁を設ける。
(ホ)門扉の両側取付部(門柱部分)は扉体の受ける外力に対し,充分抵抗できるよう重量を増した断面とする。
(へ)施工目地は止水板およびアイガス等を施し,水密性について考慮をした。
なお,崎浜漁港は当初防潮堤275m,事業費34,650千円と決定したが,昭和38年の再調査時に改修事業による防波堤が完成し,また防潮堤築造予定地の前面は漁港用地が造成されて相当量の津波高を減殺できることと防潮堤天端高と在来護岸高との差は僅か0.5mであり,この程度は前記した施設により減殺できるとみなし計画から削除された。
釜石漁港については,38年再調査で防潮堤680m,事業費129,134千円と決定していたが,背後地は非常に狭隙であり,防潮堤築造の可否,また漁港機能障害の程度等について種々検討したのであるが,地元側から日常活発な漁業経営を阻害する面が強い。将来海岸に面した建築物等は逐次耐浪性の構造とする,むしろ漁港整備計画で防波堤を促進することが望ましいとの強い意思表示があったので津:波対策計画は中止となった。
実施の経過については表7-15のとおりである。2主な実施箇所の平面図,断面図および水門については,次のとおりである。
綾里漁港橋梁兼用水門について
綾里漁港平面図および断面図に示すとおり在来道路を利用した三面張工法である,そのほぼ中間に綾里川が流入しており,在来の道路橋は径間10.25m2径問,幅員4.5rnのコソクリート橋であったが,橋面高は+4.Omで1.Omの嵩上げ必要である。しかし非常に老朽化しており,また橋台,橋脚とも嵩上げに耐えうるものでぱなく架け替えをしなければならない。しかもその前面に水門を設置するため相当な経費を必要とし,全事業費が大幅に増大するので,種々検討の結果橋梁兼用水門を考案した。これにより橋梁または水門のどちらかの費用に多小加算する程度のもので両方を兼用することができ,非常に経費の軽減が計られた。
本計画は図7-60のとおり径間20.Om1径間,幅員4.5mで常時は一般の道路橋として使用し,津波襲来時にこれを90度回転し,水門として使用するものである。水門の状態では,車両の交通は遮断せざるをえないので,すぐ上流の道路橋を利用することとし,防災活動を考慮して人だけは通行でぎるようにした。
この構造で一番苦心をしたことは,A防潮堤標準断面図でわかるように前面堤体の天端高と背後道路面ぱ1.Omの差があるので,どうしても水門として使用するには前面堤体の位置に垂直に立てることが必要である。もしこれを堤体背後,あるいは中間に立てる場合は前面堤体からその立てた位置までの小口は1.Omの高さで開口し,溢水をまぬがれないのである。
次に,この構造を簡単に説明する。まず橋版Aの両端にそれぞれ2個の「ローラー」1,2を適当な間隔をおいて植設し,一方両側橋台にはこれら「ローラー」を案内するように案内溝3・4を設け,水平から垂直とするには捲揚装置Bの「ワイヤー」をゆるめることにより図7-61の軌跡図に示すとおり「ローラー」!,2がそれぞれ3,4の案内溝を回転移動し,これに伴い橋版が傾移動して防潮堤前面位置で垂直となり,水門としての効果を発揮する。この状態では歩道8は水平となるので,人の通行が可能である。なお上流の水位が下流より高くなった場合,水の推力により案内溝4内の「ローラー」2がある程度逆転が可能であり,門扉となった橋版が容易に「フラップ」して放水することができる。
またこの状態で海側からの外力に対しては「ローラー」1,2および橋台に突起した9ならびに河床中央に設置された止コソクリート10によりそれぞれ支承される。
次に垂直から水平にするには捲揚装置Bにより「ワイヤー」を巻き込むことにより,橋版は前と逆に作動して水平位置に復元し道路橋となる。この状態を保持させるためには沓受7および「ローラー」1ならびに「フック」5を止め粁6に掛け合わせることにより支承される構造になっている。これらの操作で閉塞の場合は手動も可能であるが,捲揚器による遠方操作とした。また捲揚器は「ワイヤー」巻取式で動力は電動である。商用電力が非常の場合停電となる恐れを考慮し,電動機出力7.5kWおよび「ガソリソエソジソ発電機」200V,50C/Sを整備して万全を期した。
付記
この橋梁兼用水門については昭和38年8月26日東京都中央区日本橋通り2丁目3番地,函舘ドック株式会社から特許出願中であるので念のため申し添える。
田老漁港水門の特徴について
1本水門は田老町長内川の下流に設置したもので,これにより上流約2km付近にラサェ業K.K田老鉱業所があり,鉛,亜鉛,銅,硫化鉄鉱を生産しており,その影響を受けて河水は酸性が強く,過去のデーターからPH4〜6と推定され,門扉の「ガイド装置」は常時その影響を受けるので,材質は「ステソレス」および「フジコルテソ」を使用した。
2 扉体鋼材表面は「ショットブラスト工法」を用い,錆「ミルスケール」を除去し,直後「ウォッシュプライマー」を塗布して耐蝕表面処理を施し,その上耐酸性,耐候性に富む「ビチェラック」No203を塗装して万全を期した。
3 鋼製「スルースゲート」6門のうち中央部2門は「フラップゲート」付とし,上下流の水位差により上流からの自然放流を考慮した。
4 開閉装置は「ピソジャッキ」方式を採用し,6門全部を連動とし,閉塞には6門を一動作で急降下できうるようにした。なお手動で1門つつも可能である。また吊り上げには1台の「エソジソ」に3門を連動とし2台の「エソジソ」を操作することで6門同時に引き上げることができるし,1門つつ手動でも可能である。
(3)林野庁関係
チリ地震津波防潮林造成事業
1災害査定
昭和35年7月状況調査に林野庁治山課より調査官が来県し,県有防潮林の被災箇所の採択ならびに復旧計画の内容等について現地検討がなされたが,防潮林の林地保全を主とした防潮堤の高さ,構造等が問題となり,一部修正をし,さらに大蔵省の査定を受け工事着手が承認された。
その後,38年5月残事業について林野庁治山課ならびに東北財務局から係官が来県し,再査定が行なわれ38年度以降実施予定箇所の計1由1内容について,現地調査を実施し,別表査定額の通り決定された。
2計画策定の方針
チリ津波対策防潮林造成事業として策定した事業計画は,防潮林としての機能の保持,増進をはかることであり,単に津波のエネルギーを分散して波高を低下せしめることだけでなく,平時海風によって送られる塩分を捕捉してその量を減じ,またぱ濃度をも減ずるという林木本来の効果をも考慮した林帯の確保を主眼とし,工事を計画したものである。従って既存防潮林の海岸侵蝕による林帯の保全が困難または拡張を必要とする個所について重点的に防潮堤,護岸等を主体とし,林木の成長促進による防潮林としての機能を最大限に発揮せしめるよう事業計画を策定したものである。
3事業の実施
概況
チリ地震津波によって被災した防潮林の侵入海水位は4m位と推定されたが,現地について個々に検討を加え,再度の被災を防止するため,主として防潮堤の築設による林地の保全と林木の保護をばかることとし,昭和35年度から昭和39年度まで高2.0〜3、On1のコソクリート防潮堤を施工することとした。
これに基づいて,特に陸前高田市米崎町については,昭和38年度において林帯の濃密化をぱかるため,くろまつ0.6haを植栽し,防潮林としての機能の保持増進を更に期することとした。
2.運輸省関係
1災害査定
チリ地震津波により港湾施設に多大の被害を受けたので,災害国庫負担申請を提出し,昭和35年7月3日から災害査定が行なわれた。この結果,八木・久慈・宮古・釜石・大船渡5港26ケ所74,921千円が採択された。さらに,チリ地震津波対策特例法により,海岸保全施設の新設改良を行ない,再度の災害を防Lヒするための対策事業についての現地調査は9月13日から18日迄行なわれ八木・宮古・大船渡3港,929,808千円(内災害費7,578千円)が決定された。
2計画の基本方針
港湾区域背後の再度の災害を防止し,かつ,港湾としての機能を発揮するよう考慮し,防波堤護岸,堤防の建設,改良を実施することとした。
防波堤については,菖.Lげ・補強・新設により津波の勢力と浸入量を減ずることとし,大船渡港,八木港に実施すこととした。
防浪堤については,三面張工法とし,門扉については,一般に津波が地震後に来襲することから電動操作をやめ手動とし,また3分以内に閉塞しうる自動操作を取りつけた。さらに門扉位置は越波して堤内に入った,海水の排水が充分可能である位置とした。
3堤防天端高
堤防天端高は,チリ地震津波高に余裕高を0m〜2.5mとして決定したが,背後の経済効果,三陸津波高を考慮して決定した。
4対策事業
運輸省所管の対策事業としては港湾区域背後地の防護のため,喧要港湾,宮古港,大船渡港,地方港湾八木港の3港に防波堤,防潮堤護岸門扉が建設された。この総延長は3,792m事業費2,081百万円に止している。
このうち特筆すべきものは大船渡港湾口に運輸省が直轄施工した締切防波堤である。この工事は最大水深一38.0mに及ぶ海⊥二に建設された,稀有の大工事であった。
各港ごとの概要は次のとおりである。
a)県施行事業
補助工事として施行した港湾は宮古,大船渡,八木港であり,この年度別事業費,工種別延長は次のとおりである。
b)運輸省直轄施行大船渡港湾口防波堤
1)概要と効果
湾口締切防波堤は,昭和37年度から国直轄施行として運輸省第二港湾建設局宮古港工事事務所により着手された。
津波対策施設としては第一に海岸堤防が考えられるが,港湾地区では海岸を取り巻く高い堤防は港の利用一ヒ,開発L大きな障害となり,むしろ防波堤を築造する方が全体として有意義であると云うことから湾口に津波対策防波堤を建設することとした。
大船渡湾口防波堤の建設ケ所は最大水深が一38.0mにも及び,このため,構造としては巨大な捨石マウソド上に函塊を据付ける混成堤型式で,港口部は鋼セル,中詰,プレパツクドコソクリート構造が採用された。防波堤の巨大なマウソドに使用する捨石は113万m^3にも達し,この効率的な施工が最大の問題点であった。この防波堤は,津波来襲時に港口から流入する海水量の制限を行う必要があり,また一方船舶からは港口rh員,水深を大きく確保することが望しく,このため検討の結果,10万屯級船舶の入港可能な巾員200m,水深一16.3mとして港口部に潜堤を建設した。この港口部の遮閉による減殺効果は,チリ地震津波(周期40分波高3〜5m)に対して1,9m,近地地震津波(周期15分半波高3m)に対して2.6mと考えられる。
この事業の年度別事業費は表7-22となっている。
2)工事の施工
昭和38年4月から4ケ年にわたって行なわれた,防波堤建設工事の計画と実績を主要工種について比較すれば次の表のとおりである。表7-23
(1)準備工事
原石山は防波堤捨石個所に近い長磯側と対岸の波板側を調査の結果,石質は大差なく,長磯側は広い採石場が得られ,地質構成もよく長磯の島に被覆され作業用地として適しており,表L,ズリ捨場として有利な条件であったため,採石場を長磯側に原石山と定め本工事の着工に必要な準備工事を行なった。
先ず採石場へ搬入する前機械の通路を既設道路より延長1,950mを分岐し,また,火薬保管のための火薬庫,割石計量装置,石材運搬船の積出桟橋を建設した。
(2)割石採取
石材採取は昭和38年9月から着手し,各年度における採取実績は計画量1,035,000m^3に対し約1割増の投入実績となって完了した。
採取方法は,ベソチカット式(昭和38年9月〜39年5月まで)と抗道式大発破方式(昭和39年7月〜41年9月まで)で行なった。
石材採取量と火薬使用量を対比すれば次表のとおりである。
表7-24
(3)割石積込み及び運搬
採取した割石はパワーショベルによりダソプトラックに積込まれ,護岸桟橋シュートから石運船に積込み,運搬した。
工事の最盛期には1日1,750m^3の運搬を行なった,本工Fll二のダソプトラック(22t積)の稼働延運搬回数は109,782台で,石運船(180m^3積)の延べ稼働隻数は7,294隻に達した。
(4)基礎捨石
水深が一35規以上もある深海に捨石を投入する場合,潮流等の影響によって割石がどの程度拡散されるか,また投入方法はどのような方法がよいか前例がないので未知の事柄が多かった。
投入方法は1日1隻で1,200m^3投入することとし,船をス戸一スピードで運航しながら投入し,天端及び法面の投入の場合は船を固定して実施した。当初懸念された潮流の影響などは余り大きな問題ではなく,石運船から投入すると直径8m程度は捨石が1〜2m程度高く積み重なりそれから自然勾配を直径25〜30m区域に拡散していた。
(5)基礎均じ
基礎均しの行なわれた水深は一21.7m,一15.3m及び一9mであったが,潜水作業は水圧の人体に及ぼす影響から作業時間が制約され,通常の港湾工事における均し能力よりは劣った。
(6)鋼製セル製作及び据付
鋼製セルは,港口部および堤頭部補強用で全数量は23基である。
鉄板加工ぱ工場で行ない,組立は作業用地で実施した。精度は高さ,直径共±5mm程で水密試験ぱ夜間鋼セル内に点灯して灯火の外側への漏れの有無により検査した。吊揚移動は,吊金具およびワッシャーによる8点吊とした。
セル内部に骨材が順充されるまでは波浪によるセルの移動が考えられるため,15t方塊2個をワイヤーでセル1基に2ケ所吊り下げ移動を防止した。
鋼セル下端には帆布を張りモルタルの流失を防ぐ工法とした。
(7)プレパクッドコソクリート
鋼セルの据付が完了すると帆布を敷均し,さらに5cm厚程の細砂を敷いてから下部1mまで骨材を投入してプレパクトコソクリートを打設した。養生期間2日以上を経た後再び骨材を投入し,第2段のプレパクトコソクリートを打ったモルタル注入パイプは1吋1/4直径のものを10m^2当り1本の割合で長尺物,短尺物の二種類をセットした。
骨材の投入ぱ底開船で行なったがセル外に落下した量は約30%であった。モルタル注入圧力は3〜5kg/m^2,注入能力10〜12m^3/ha(1台当り)で施工時のコアーの強度ぱ平均σ28=165kg/cm^2,σ90=230kg/cm^2であった。示方配合は次のとおりである。(1m^3当り)
表7-25
(8)函塊製作
函塊は宮古の既設ヤードを使用し,大船渡まで回航することとした。防波堤々頭部の一16.3mに据付を行なう大型函塊は,宮古のヤードでは製作能力が不足するので,高さ10mまで製作し,残7.8mは大船渡港函塊仮置場で3段打継を行なった。函塊ゐ形状寸法は次のとおり。
表7-26
(9)函塊曳航
函塊曳航距離は65浬,回航時間は約22時間を要した。宮古から大船渡へは潮流が常時0.5〜0.7Ktで南下しており,回航にぱ有利であった。避難実績は釜石港2回,山田港1回であった。
(10)函塊据付および中詰
函塊は仮置場にある函塊をポソプにより浮揚させ,据付現場まで4時間を要して曳航した据付はfE動ウイソチ7台とし,函塊内への注水は6.0吋の水中ポソプ6台を使用した。据付時の限界波高は1mとした。中詰材料はズリ,屑石を使用したが,堤頭部函塊約1,500㎡/函標準函塊800m^3/函で据f寸当日3割以上の中詰を行なうことを目途に実施した。中詰は函塊各室に平均に行なう必要があったので,高低差3mを限界として実施した。
(11)ま5iコソクリート
荒天時に波浪による函塊中詰の流出,函塊頭部の保護を口的として厚さ50cmのコソクリートを50m^3/日打設した。
(12)上部コソクリート
ーヒ部コソクリートは1日打設量約100m^3と計画し,二層の水平目地を設けて3段打を行なうこととした。まず中詰完了函塊から順次+2.7m(打設厚70cm)までコソクリートを全函塊について打設した。
次いで,+3.5m(打設厚80cm)を打設し,最後に+5.0m(打設厚1.5m)まで施工した。基礎天端の沈下量は約1mと想定し,予めこの厚さの余盛を行なっていたが,現在の沈下量は約50〜60cmである。
(13)本堤取付
本堤取付部の構造は基礎捨石と袋詰コソクリートによって基礎をつくり,本体工は方塊(60t)積によって実施した。袋詰コソクリートは現場と長磯基地の2ケ所で混合を行ないウイソチで投トし,潜水夫で平坦に積み屯ね,鉛直方向と水平方向に鉄筋を挿入して袋と袋の密着を図った。
5事業の実施
補助事業として施行された港湾は,宮古港,大船渡港,八木港であり,この年度別内訳は次のとおりである。()内は災害費。
3. 建設省関係

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1災害査定
チリ津波により公共土木施設に多大な被害をこうむったので,直ちに災害国庫負担申請を提出し,本省より査定官が派遣され(建設省6月13口より運輸省7月3日より)
建設省関係申請82個所1,243,524
決定78個所940,014と決定された。
これと併行して,県としては,恒久的な対策により津波災害を防こうと関係各省へ陳情を重ね8月18日津波対策事業の特別措置法が公布され,恒久対策が施行される見通しがついたわけである。
2計画の基本方針
海岸法が施行されて日も浅く,所管省の決定に疑問があったので,副知事(小川)主催のもとに各所管省の決定をし,各課毎に作業を進めた。
昭和8年の津波の結果,本県でとられた津波対策は高台への部落の移転(太田名部,両石,田の浜,小白浜)と堤防型式の海岸堤防(田老,吉浜,山田)であったが,利用面を考慮し,海に近い個所へ堤防を築造することに県として決定し立案された。
これにより9月13日〜9月23日まで大蔵省立会官による現地調査が行なわれ,施工の段階に入ったのであるが,方針としては
(イ)堤防は三面張工法とする。
(ロ)津波は地震後襲来するのが普通であるので,門扉構造は電気操作はやめ手動式とし,チリ津波の様な場合でも閉塞する様自動操置をつけること。
(ハ)津波高は計算出来ないので,越波し堤内に水が漏水した場合の排水を充分考慮して,門扉位置を決定すること。
3堤防天端高
高さについては,三省協議の一ヒ決定されたが,チリ地震津波高+余裕高=計画高とし余裕高0m〜2.2m程度になっているが,これは,背後地の経済効果を考慮して決定されたものである。
高田海岸チリ地震津波対策事業について
1算業実施の概要
昭和35年5月24日早朝,南米チリの大地震に伴う津波がはるばる太平洋を横断して日本の沿岸に来襲したが,なかでも三陸南沿岸地域が激甚な被害を受けた,陸前高田市も死者8名,家屋全壊63戸,流失86戸、半壊129戸,その他公共土木施設,鉄道,耕地,船舶等が被災した,概略の地形は広田湾の湾奥部に白砂青松の名勝で有名な高田松原があり,西に二級河川気仙川が流入し東は浜出川以東は漁港区域に隣接している。北部に耕地,鉄道をはさんで市街中心部があり,気仙川左岸に気仙町の市街地がある。津波は最初気仙川を遡上し,ついで防潮林の少ない部分から砂丘背後の占川沼,浜田川等に侵入したが,湛水時間が長く引潮によって松原中央部に最深部5m幅約240mの欠壊流入海溝を生じた。このため常時潮の出入があり,早急に締切る必要があったので,応急工事により締切を27日短期間に完了し,海水の浸入を遮断した,これとともに昼夜兼行で測量調査および設計を完了し,災害査定を受け事業費の決定を見て本格的工事に着手することになった。
(1)第一工区第一線堤(海岸堤)および防砂突堤
当海岸は屈指の海水浴場で観光地でもあり,公園計画が立案されているので,風致を損うことなく海水浴等にも差しつかえのないよう常時浸食されている前浜を防護し,河線の維持をはかる目的で第一線堤が設計施行された。階段式護岸工法で実施したが,最も弱点部と思われる欠壊個所には5tテトラポットを投入し根固工とした。この結果,テトラポットがほとんど埋まる程の砂が推積し,階段式護岸の波のエネルギーを逐次消失させる作用と相まって,充分な所期の効果をあげているものと思われる,ただ河口に近い西側区域は根固工として200kgの捨石を投入したが,施工後冬期暴風浪等により相当量が散乱,移動しているので,41年度において5.5t六脚ブロックによるT形防砂突堤を施工した。
(2)第二線堤(防浪堤)
第二線堤は津波に対して背後地域を守る目的で設計,施行されたが,計画高T.P+5.50醒
はチリ津波高TP+4.50mに1.0mの余裕高をとったものである。この防浪堤の完成はチリ地震津波程度のものから防護される効果として住家800戸,公共建物30戸,工場および倉庫40棟,田200ha,鉄道1.8km,国道:4.Okm等があるが,住民の無形の安心感は近年だけでも明治29年昭和8年と相次いで被害の歴史があるだけに何ものにも換えることのできない大ぎな効果といえるであろう。
(3)第二工区および第三工区(河川堤左右岸)
津波の遡Lおよび河川の洪水に対して設けられたが,盗流を考慮して三面張工法を採用している。第二工区(気仙川左岸)をもって高田町側を第三工区(右岸)をもって気仙側を守る効果をあげている。
(4)門扉工
(a)浜田川水門
津波の浸入路になったので,フP一ト式自動r匝降下によるローラーゲート2門を設備して,浜田川からの津波の遡上を阻止する。
(b)古川沼水門
松原背後の古川沼が河口付近で海に開口しているが,これも弱点部になっているので,フロート付フラップゲート2門を設けた。津波時はもちろん自動閉塞するか,それより常時潮の干満を調節作動し,沼の魚貝類の保護および水田の塩害防止に主なる効果を上げている。
(c)二線堤通路門扉工3門
各門扉共フロート式自動装置,カウソターウェイトによる閉塞のマイター型を採用し,車輔人等の通行に便利で維持管理上経費が安く,津波時には確実に作動する構造としてある。
(d)姉歯橋左右岸門扉工
国道45号線姉歯橋と河川堤の交差する地点の波返し高部に設けたが,交通の安全性を確保し,堤防,橋台との取付,電話ケーブル等の地下埋設物にも支障ない工法を検討の結果,引揚式タイプとした。通常は通路路面下に格納してあり,津波時にはフP一ト自動作動しウエイトの降下によりワイヤーにて吊上げるものである。
2計画,設計および施工の概要
(1)計画,設計について
(a)第一線堤および第二線堤の二段構えにした理由は,前述してあるとおり海水浴場で観光
地でもあるので利用面も考慮して,一線堤の構造,高さ(T.P+3.0m)等決定した。なお,一線堤を越え.た水を二線堤との問にできるだけ湛水させ,盗流した水は沼地に貯め耕地家屋への被害を最小限にするよう計画した。また防砂突堤は気仙川河口部に漂砂が集中するのを防止し,季節的に汀線が移動するのを安定させ,根固工の捨石の散乱を押えて階段式護岸の基礎の洗掘を防止し,T形頂部を砕波帯に設けて消波し,堤体に直波を受けぬよう計画した。
(b)第二線堤を築堤工法としたのは,一ヒ質が下層程シルト層で軟弱地盤であること,良質の
盛土が近くに安価に得られること,天端を遊歩道として利用できること,風致面から優美で安定感のある傾斜堤が望ましいこと等のため計画した。
(c)河川堤の表法覆工は,既設の石張工を生かし前面をコソクリートで張り天端ぱ車輔の通
行ができる幅員,強度を持つよう設計した。裏法覆コソクリート枠張工が家屋にかかる場合には隔壁工にして用地費補償費の節減をはかった。
(d)門扉工ぱ審査委員会を設置して一般的には次の各項を満足するものを採用決定した。
(1)津波時に確実に作動すること。(2)電気,燃料,油圧等は使用せずr匝,ウェイトギヤー等重力力学的なもので閉まること。(3)水圧(動水圧,静水圧)に対して充分な強度を有すること。(4)現地に適合するものであること。⑤維持管理に費用,罫数のなるべくかからぬものであること。
特異点としては,通路用門扉(マイター式)の下部を10cm程度あけておき.扉体が閉じた時スライド板が降りて水密にする構造とした。
姉歯橋左右岸門扉に引揚式工法を計画したことである。
(2)施行について
イ 第一線堤
(a)基礎工
50kgの捨石による築堤方式で進められたが,採石場にはトラクターショベル2台を配し爆破した岩石を選別し大型ダソプトラックにて運搬し,道路整備により一方通行を可能にし,1日稼動時間12時間を強行,36年1月着工,2月末まで40日にして10,000m^3を施工した。
ブルドーザーで投入したが当海岸は常時でも波高が高い所なので,前面の捨石は波浪に
より散乱するものもあり,盛石一L部が流失することもかなりあった。しかし,短期日で一挙に築堤したことにより砂が次第に推積し日を追って安定した。
(b)矢板工
鋼矢板5加ものはクローラクレーソで1.5tのドロップハソマーで打込み,4吋ジェットポソプにてパイルを誘導したのであるが,垂直に打込むことが困難なので襖形に加工し垂直と水密に留意した。また50kg捨石が波浪によって散乱し,これをよけることが至難であった。干潮時1日5時間(昼夜)30枚〜35枚の工程で打込んだ。
(c)根固工(捨石)
200kg捨石投入はクローラクレーソにガットを用い投入した。この際最初から均すよう投入せず,山積みにし,後で施工する階段工波止として役立たせるようにし,階段工施工後均す順序にした。
(d)根固工(テトラポット5t)
小運搬の最も近い位置で製作し,型枠取りはずしとともにトラクターショベルで運搬し水中養生の方法を採り,その後投入はクレーソで行なった。
(e)根固工(柴工沈床)
施工k最も苦労が多かったものでその位置まで曳き出すのは簡単にできるが,絶えず動く波により前後左右を完全に押え,沈めるのに困難で時間もかかった。はじめは作業船で行なったが,うまくゆかず沈床を小さく区切ってクレーソで吊り出して施工することにより解決した。
(f)根止コソクリート
床堀が困難であり数度にわたり高波で埋まり手戻りを生じたことがあった。
(g)階段工
施工順序は,床作り,配筋,枠工の形枠組立,枠工のコソクリート打設,階段のコソクリート打設で行なったが,波よけにぱビニール,パネル等を用いて流失を防止し,最も重要な点である階段を一体に打設するため,型枠組立は上部を満潮時に下部は干潮時に組み次の干潮にコソクリート打設を行なうよう配慮した。このため一班を大工15人,鉄筋工3人,打設人夫15人,コソクリート人夫8人,小型ダソプトラック3台,バッチャープラソト1基を編成して能率的施工をはかった。
ロ 防砂突堤
調査,設計に手間どったためどうしても2月の厳寒期に六脚ブロック5.5t,757個の製作をせぜるをえなくなり養生面で相当苦労があった,その上冬季には北西の季節風の時期でもあるので製作位置は一線堤と松原砂丘間の凹部で行ない,ブロック1個に練炭2個を使い,保温と風よけにシートカバーで被覆養生した,しかし最も困難であったのは離岸堤部(T形頂部)の据付であった,最初層積で計画したが砕波帯の位置であり波が高く潜水夫を入れることも出来ないので乱積に変更した,脱型したブロックを第一線堤前浜にクレーソで仮置しておき,二又船をアソカー繋留し,陸上にはクレーソを設置し,この間にワイヤーロープを張り仮置場所よりブロックを吊り上げ満潮時に海中曳航する据付方法を採った,T形基部の据付は湿地ブルドーザーで吊り干潮時に層積施工した。
3 むすび
海岸工学ぱまだまだ未知の分野が多く,また津波の規模も予測できないので万全とはいいえないであろう。しかし岩手県の海岸事業としては,事業規模,工法共に誇るに足るものであって,新聞でば高田松原の白亜の万里の長城が地域住民の生命財産を守るべ`く完成したという表現で賛辞を送っている,構造物の質については大船渡土木事務所,高田出張所にコソクリート試験室を設け,骨材材料試験,コソクリート強度試験等を行ない,均質で強度の充分ある構造物を建設すべく鋭意努力してきた,できばえとしては百点満点とはいえないがおおむね良好の程度に仕上っている。労務,および建設機械の管理,組合せ工事の経済的工程等の施工面については岩手県の建設業者のトップクラス2社が総力をあげて請負施工したので効率のよい建設機械の組合せ,運用整備,および労務の適正管理が行なわれ,これによって工事も経済的にしかも,軌道に乗った工程によって完成したものである。
本工妻は前述のごとく本県においては始めての本格的海岸工事であり,設計,施工面では末開拓の面が非常に多かったが関係者一同の熱意と努力が実ってさしもの難工事も完成したものと思われる。
おわりに
チリ地震津波対策事業は,事業費60億3千6百万円,堤防延長52kmを施行し,昭和35年から7年の月日を費して41年度に完成した。このことは関係各省のご尽力とご指導によるところが多きいが,この事業を完成させるた:め,不眠不休の努力を続けた現地関係者,また,大災害にも屈せずたちあがった住民の気力等に負うところも大きい。
この事業を完成しても将来,必ず押し寄せるであろう近海津波に対してまだ防護されていない地域も少なくない。これらの地域には災害の起る以前になんらかの対策をたてられるよう関係機関のご配慮をお願いしたい。
今年5月に来襲した十勝沖地震津波の際には,この事業の防浪壁に囲まれた陸上へはほとんど津波が浸入せず防浪堤の威力を遺憾なく発揮した。また,大船渡防波堤についても内海の潮差,潮の勢力も少さく,効果を充分立証した。しかし,鵜住居では防浪堤の天端を濫流し内部へ,津波の浸入をみたところもあり,今後に問題を残した。
今後は三陸津波に対処するため,さらに,海岸保全に積極的に取組まなければならないと思う防浪堤については,その対策の基本となった津波の条件を充分考え,過信することなく,警報避難等をおろそかにしないよう平常の注意が肝要である。特に大船渡港防波堤については津波時の波の勢力と,浸水を減ずることが目的であって万全の処置ではなく低地への浸水は充分考えられることであり,その効果について認識する必要があろう。津波があったら「高所へ避i難する」ことが何よりも肝心である。
チリ地震津波による被災から8年有半,この対策事業に対する経過と貴重な経験を後世に伝えまた将来の参考とするため本書を編さんしたのでありますが,なにぶん短期間における資料収集と整理不十分なため,本書ご高覧にあたり幾多の不備とそしりを免れがたいことを,幾重にもおわびいたします。
なお,本書が上梓されるにあたり,被災写真その他貴重な資料を提供された,関係各位に厚く感謝の意を表します。
(昭和43年12月)
資料及び文献目録
1大船渡災害誌(大船渡市)
2チリ地震津波誌(大槌町)
3津波と防災(田老町)
4三陸津波誌(気仙地区調査委員会)
5震浪災害土木誌(岩手県土木課)
6岩手県昭和震災誌(岩手県)
7津波災害について(建設技術協会)
8月刊建設1965年10月号(建設技術協会)
9わが国の災害誌(全国防災協会)
10三陸津波調査報告(建設省土木研究所)
11三陸地方地震津波に関する調査報告及び資料(東京帝国大学地震研究所)
12三陸津波による被害町村の復興計画報告書(内務大臣官房都市計画課)
13チリ地震津波踏査速報(チリ津波合同調査班)
14チリ地震津波調査報告書(建設省国土地理院)
15大船渡津波防波堤建設工事報告書(計画調査編)(第二港湾建設局宮古港工事事務所)
16大船渡津波防波堤建設工事報告書(工事編)(第二港湾建設局宮古港工事事務所)
17チリ地震津波について(佐々木忍)