尊き犠牲となられたみたまに封し謹んで哀悼の意を表ずると共に全国各地からの御温情こもる御救援と皆様の力強い御協力に心から感謝申しう上げます
チリ地震津浪浸水図
序
今回大船渡小学校では、去る五月二十四日大船渡市をおそった、チリ地震津浪の当時の記録をまとめて編集する事になったのであるが、その計画のまことに時宜に適している事を大変嬉しく思います。
こんどの津浪による被害は、大船波市は最も大きく、罹災世帯数一、四八○、罹災人員七、四六六人に上っています。この中には死亡五三名も加っているので、まことに恐るべき災難でありました。この中大船渡町だけで罹災世帯数一、〇六三、罹災人員五、一七五人、死者五一人を数えますので、市内全災害数の約七割は大船渡町がうけていることになります。而もこの中には児童生徒の死亡一〇人の中、大船渡中二、大船渡小六となっているので、町内の悲たん何ものにもかえがたく、一時は全く荘然自失の状態でした。
然るに、その後四、五ヵ月の間に、町民の復興意欲が強くもり上、昼夜をわかたない奮とう努力の結果、被災中心地の赤沢地帯を初め、大通り中心街は全く面目を一新し、ある所など、従来以上に立派な家なみとなりました。又当時学校は小中共被災者の収容所としてしぱらく彼目を果して来ましたが、約一ヵ月にして正常にかえり現在では全然授業に支障を来たさないまでになり、先般の運動会などには、今までの悲しみや苦しみをのりこえて、且ってない程の盛会で朗らかに終ったことは、この上なく喜ばしい事であります。このようにして物心両面にわたって急速な復興の飢来ました事は、県の内外を初め、遠く関東関西九州地方の合地各学校各種団体から、山なす慰問品慰問文等数々のげきれいのお言葉をいただいたおかげであり、唯々感泣の外ありませんでした。更に遠くユニセフの救援物資としてズック靴やミルク等も沢山いただき、その喜びようは一段とつよかったのであります。今回ここに当時の災害記録の一部左一まとめる事になったことは、災害の反省々、永久のこし、再びこのような天災から免かれたいという切なる念願をみのらせることになったこと、叉今日までの内外からの救援に対して感謝の万一にむくいたいという熱意も含めて、この編集が企図されたのであって、まことにその意義が深く、感謝にたえません。
大船渡小学校はここ数年間職員一致結束して、「小都市学校教育の経営」の教育日標を、掲げて、ひたむきな実践をしてきました。今回の計画もその一部をなすものでありましよう。どうか立派にまとめられて後世までの一史料となるよう熱意を注いでいただきたいと思います。ここに苦心された各位に深甚なる感謝の意を表します。
昭和三十五年十月十日
大船渡市教育委員会
教育長大和田肇
「くろいうみ」発刊に際して
五月下旬は、ここ岩手県南大船渡町においては、そよ吹く風にさえも、春の香りいとどゆかしい季節であり史す。五月二十三日夕刻頃は、街を往き来する人々の群も賑やかなネオンサインも常と変ることなく、美しく史かたいていました。大船渡湾は小波一つさえなく、鏡のように美しく静かな海面を見せ、港に錨をおろして碇泊している船は、いとものんびりと、さながら一幅の絵とも見まどうばかりに、平和そのものとも言うべき風景を展開していました。この平和境に誰か、やがて恐しい津波がせ喪って来ようとは知るよしもなく、皆々安らかな憩いの夢を結び、街は深い深い眠りに入ったのであります。
誰もが夢うつつの快いまどろみの中にあって、街はひっそりと静まりかえって、深い眠りから覚めやらぬ二十四日早暁午前四時三十分、それこそ何等の前兆もなく、全く突如として大津波が襲来したのでありました。非常を告げ、暁の空気をふるわして、けたたましく鳴りひびくサイレンの音にも、海岳の方角から聞えてくる「津波だ、津波」と絹を裂くような叫び声にも、誰もが一様に「地震もなかったのにまなか津波がくるなんて」と信じかねる程でした。
人々のそんな考えには何の躊躇もすることなく、怒り狂った逆巻く大津波は物凄い勢で疲風のように襲いかかって、繁華を誇った街を片っ端から無惨にも木葉微塵に打ち砕き、救いを求める血の出るような悲痛なる叫び声にさえ、何とも手の下しようもたく、全く一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化してしまったのであります。
この恐しい猛威をふるって暴虐の限りを尽した水魔のために、必死の努力の甲斐もなく、いたましくも死亡した当校児童は六名、家屋被災児童は約六百名に達し、当大船渡町は大船渡市全域災害の約七割を占め、死者五十一名という、まことに目を覆うばかりの惨状に全く箔然自失するばかりでした。
この時に当たって私たちに生気を取り戻させてくれたものは、関係各機関はもとより、全国各地からの心からなる温かい救援と激励のお力であったことは深く肝に鉛じて終生忘れ得ないところであり、まことにこのたびほど人の心のあたたみに感激したことは、かってなかったといっても過言ではありません。
お蔭様で当校も一ヶ月を出でずして、正常な学校運営に復帰することができ、全町民も深い温情に支えられて、禍を転じて福と為すとの意気込みもいとど高く、夜を日についで一路復興に努力を続け、まさに飛躍的とも言うべき街の再建が進められています。
私たちはこのいたましい体験を何等かの形にとどめて、将来の参考に資したいものと考えておりましたが、今回ここに拙い乍らも「くろいうみ」と題して、当時の記録の一端を編集することになりました。
私たちはこの記録の中に出ている子供たちを初め、そのほかの人々の血を吐くような体験記を、心の奥底に何時までも持ち続けて、将来への警鐘としたいと思っております。
「くろいうみ」発刊に際して、全国各地からの多大なるご援助と強い強い励ましのお力に対して重ねて深甚なる謝意を表する次第であります。
尚本市教育委員会教育長大和田肇先生からは本記録編集について非常なる援助と激励に接し、ご多忙のところ序文を戴きましたことは私たちの感激に堪えないところでありまして、ここに厚くお礼を申し上げます。
昭和三十五年十月十日
岩手県大船市立大船渡小学校
校長 紀室泰治
写真
津波は私達職員をこんなに苦しめた
津波の跡を振返って
チリ地震津波があってすでに四十日になろうとしている。市民のたゆまない努力によっで火部分整理され、バラツク建築等、人々は安定を求めて進んでいる。復興には違いないがその進展は微々たるものがある。私は前回の津波も経験し、これが二度目である。これからその惨事について述べて見ることにする。
私は海岳から約八十米、その商さは満潮時より約二.五米の場所に住んでいた。修学旅行から帰ったばかりの私は警報と同時に起床したが、その時はすでに遅く小野田セメントの三千トン岩壁は海底を目のあたりに見ることのできる引潮であった。漁船管理に出た人々は「逃げろ逃ろ」の連声であった。一瞬の余裕も与えなかりた。私は大声で泣く子供と二三の書類を家内に持たせて退避させた。着のみ着のままである。
潮は完全に引き、大津波になることが必至になった。逃げなければならない立場にあり瓶がらも海と対決せばるを得なかった。さっそくリヤカーに気付き室内のものを手あたり次
私の姿が見えると高台から「早く早く」の声が聞こえる。その頃は上げ潮がはじまったのであろう。時間にして十五・六分も経っていたであろうか。私は部落民と竹やぶから顔を出して波の行方に注目した。
たちまち押寄せる津波の来襲である。午前四時三十分頃であったと思われる。
大船渡湾内に停泊中の大小多数の船舶、数百台のカキいかだが一挙に流動し、すごい早さで陸地を襲った。海岸に近い家からたちまち倒され吹飛ばされる強烈な津波であった。高台から人々の悲鳴が起る。その後は更に拡大して高さ二米の宅地の石垣を崩壊、見る見る中に屋根に達した。全部落、魔の海である。家屋、船、いかだ、木材、家財、その他の混流である。津波は約十米低い足もとまで来ていた。
充満したかと思うと引潮である。破壊物を沖へ運ぶ。まるで海の滝である。この引波でまた、多くの家屋が破壊される私は津波を追うように家にかけつけた。柱だけが屋根を最少限に支えていた。更に倒壊状態となり四米程移動し、県道に突き出ているのを知った。他の二棟と建具、床、壁、家財の一部は見当らなかった。全壊流失である。部落は壊滅的であった。
大船渡町と赤崎町からの流失物が大船渡湾をうずめつくした。
この頃、間もなく第二波の来襲である。高台に帰った私は第二波への抵抗を失った。煙策を吸いながら見ているより仕方がなかった。この時記録の必要を認めながらも想像に終った。第二波も第一波と同様に熾烈であり、その高さも同程度であった。流失物の巻窪返しである。
続く第三・四、五波の来襲は流失物をことごとく破壊し移動させ、ここに大船渡市の海岸全域は消滅の止むなきに至ったのである。
私は宅地に帰り、住家の決定にせまられた。他家の長屋に生活を求め、家族の無事を幸とした。
昭和八年の津波と比していえることは、波速はおそいが水量が多くその高さは約五米に及ぶもので、前回より大津波であったことは人々の認めるところであろう。
調査によると、死者孔十三名、負傷者二〇九名を数え、被災者七,四六六名、一、四八○世帯におよび、損害額約九十三億は臨海工業都市大船渡にとって実に大なる惨事であったおしまいに大船渡市再建のために、救援をくだされた多くの人たちに対して心から感謝するものである。
回想
昭和三十五年五月二十四日、午前四時十分突然、けたたましい魚市場のサイレンの響きが朝もやをついて私遠の胸をゆさぶった。
"火事だ"一面真紅に燃え上る空を心に描き川しながら私は台所の窓の鍵をまわす手ももどかしく押し聞けた。
県南バスがフルスピードで中学校通りを山の手方面に走って行った外はニ、三名の部落の人が須崎川のだ見えるだけで何処にも火事らしい様子が見当らず、戸外にいつもの静かさであるが、心の何処かに不安をかくし切れないままに外にとび出し川の附近まで行った時、、津浪らしい」「津波だ津浪だ!」と云う声花、耳にした。驚いて家に引き返し、子供を起し、身仕度を始めた。
主人もあわて起きたが「とたかく様子を見に海岸まで行って来る」と私達のとめるも聞かずに川かけたが、間もなく引き返し「津浪だ、すぐ逃げろ、何んにも持たないで先ず逃げろ」と血相を変えて叫ぶ。無意識のうちに子供の手をひき、ランドセルを持たせ、自分のカバンを持って、ねえちゃんと戸をしめて家をはなれた。子供は恐怖でぶるぶるふるえて居る。だれに目をくれるひまもなく、ひしめきあいながら急傾斜の加茂神社の石段を一気に中段まで登った。それ以上人
ここまで来れば大丈夫と思い、海岸をながめた。あの青く澄んでいるはずの海が茶色のどろ水になり、大きくうき上って目に入った。"あれよあれよ"と思う間に海底から潮があふれ湧き出して町をのみこんだ。「メリメリッ/」と家のこわされる音がして、二、三百米先の鉄道線路を越えて、大きなやねが流れ込んで来る。のろのろと、だが防ぐ事は出来ない。誰も声も出ず涙も川ない。一瞬にして美しい大船渡の町は泥沼と化した。おもちゃの積木のように大浪の中に建物は浮かび、破壊され押し流された。浪の速度は遅いように見えたが、潮の主流が向って居ると見られる盛川、赤沢、埋だての方向は小舟や漂流物が物すごい勢いで流されて行く、私の家のまわりもすっぽり泥水にかこまれて見えた。今まで大船渡の大火にものがれて来たが、病うこれで終いかしらん…と思うと居ても立って粥居られないあせりを感じた。
戸板にのせられた病人や、背負われた老人などが石段の下を次々に通る。海岸の冷蔵庫の屋根の上に二、三人の人影が見える。逃げおくれたのであろうが、全然助け出す術がない
ものすごい勢いの引潮があってから、私達の後から逃げた主人や家が心配で帰ってみた。畳の上に泥がつもり、手のつけようもない。唯一つ残されたインコだけが、ずぶぬれになって羽ばたいて居た。「又来る、又来る」と叫ぶ声がするので、子供とねえちゃん靴休ませて居た場所まで逃げたが、どうにもならないというあむらめから石段に腰をおろした子供は、主人を見つけ、今までふるえて居たが、とんでいった。
九時過ぎだったろうか、田中婦人会の方からおにぎりとつけものをいただき感謝して朝食をすませた。
一応大きな潮もなさそうなので、救援にかけつげてくれた猪川の親戚の子に一番心配な子供を頼んでやり、衆の後かたづけにかかったが、私達だけの力では何んにも出来ない。沢山の人々の救援によって畳を出し、床板をはがし泥を出し孜類を洗っていただいた。
夜はねむる場所もないままに町の様子を見に川たが、道路は一歩も進まれず、電灯もなく無気味で昨夜束での明かるい町はどこにも見られず、復興は予想されないようだった。
あああの店もこの家もと思うと涙があふれた。夜中になっても満潮が危いた警報が出ているので、火をかこんで一夜を明かしたが、時々自衛隊の見廻りの靴音だけが…えた。
あれから五ヶ月、家の前にかれ木になった植木が残り、あの朝の惨事か、物語っている。骸骨の町の様になりた大船渡も想像以上の力で復興した。その後私達は地霞の度三度も避難した。子供の手をとり、荷物をかついで……大自然の猛威の前に唯にげまどう外はない。
"天災は忘れられた頃にやって来る"古くから語り伝えられたこの言葉は、人類の歴史が創られて行く限り私達の心の中に貴重な経験として幾度か甦えり又伝えられて行くことでしよう。私はこの津浪で最愛の教え子を失った。
多喜子ちゃんの冥福を心からお祈りしながら記録を終る。
水魔に襲われて
五月二十四日朝襲来したチリ地震津波は、私の郷土、赤崎にも、多大の損害を与え、人々を、失望と奈落の底に陥れて、去った。今思い出しても身の毛もよだつ思いで、到底文章などで表現できそうもないが、被害者の一人として、その体験と、反省を述べてみることにする。
午前四時十分頃、何となく騒々しいあたりのようすに、安眠の夢を破られた私は、「火事かしら」と思いとび起きた。
外はもう既に明かるく、寒気も感ぜられず、すがすがしい朝であった。往来には人の出入りがはげしく、海岸には潮を見守る人々が黒々と動いていた。「地震がないのに津波が来るなんて。」半信半疑の気持で、家族を起こし、身仕度を整えていると、消防署のサイレンが鳴った。
潮鳴りが激しくザーザー、ガラガラという無気味な音を立てて、引潮が始まっているらしい。
昭和八年にも津波を体験したが、夜中に家がつぶれるような地震があった。その時できえ床下浸水の程度だった私の家は今度は地震がないのだから書類一つ持とうともしなかった。
突然海岸の方で「津波だ」という声、見るとかき筏の樽が一つら、白波左けたてて、ものすごい早さで進んで来る。「来た」と直感した。もう何も持つ暇などない。体一つで後の山に登った。町が見える所に登った頃ば、もう海岸沿いの家は次2壊され、逆浪に呑まれていた。溢れるように海水がおしよせて、木端微塵に砕いていく。家も、家財弘すべてが、バツと波に飛び散り、波間に漂う。あまりに広無慚でもう見ていられない。目を閉じて神に祈り、こぶしを握っては耳を覆って見たりした。しかし情容赦もなく魔の水は暴れ狂ったか壁筏は折り重って浮き沈みつつ、大きい船などと"共に陸に接近してくる。あの巨体多くの家に当って砕け、もの凄い音響を上げる。
もう生きた心地もない多くの避難の人たち、子供達の恐怖の声、おろおろ泣き叫ぶもの、呆然として声弐、えも出ない全く地嶽》言ったらいいだろうか。波は高くないので海岸だけで止まる》思った水は、どんどん水量を増し、水面が高くなって来る。もこもこと下の方から泥水を押し上げ、緩慢に進んでくる。
私の家は約二米の県道の防波堤が唯一つの頼みであった。「この辺で止めてくれ」と心の中で叫び、最後の望みをかけたけれど・県道の防波堤も何の役にも立たなかった。県道から堰を切ったように流れ出た水は、私の家の畑を香み家に迫った。万事窮すとはまさにこの事であろう。人間の力ではどうする事も出来ない自然の力の偉大さ。今の今まで予想だにしなかった。泥水がわが家をとりまいて、刻一刻水面が山口同くなっていく。
この間十分間位だったろうか。悪夢の一瞬は本当に長かった。引潮がまたすごいうなりを上げて、引いて行った。
さっきまで、平利で静かだった町が、道路も、畑も一眺にして泥津の巷と化してしまった。到る所漂流物が散乱し、激流の物凄さを物語を家々の残骸が痛ましかった。
人々は力なく山を降りて所持品を探がしに行く、泥の中から見つけたとて使えるものもないだろうが、自分の持物に対する愛着の念からだろう。あまりのむごたらしい惨状を目のあたりに見た長男は、ガタガタとふるえが止まらず、ランドセルを流したと言って泣く。私の油断と不注意から鞄一つさえ持出せなかったことが残念でならなかった。
それから宣度程津波がおしよせ、その度にどうなる事かと不安と焦躁に身も縮む思いであった。やっと治った頃恐る恐る家の中を望いて見て再び驚いた。床上浸水一、五米と言えば大した事に聞えないが、海の底から持上げて来た泥が、一面にベットリとぬりつけたようである。建具は総て破損し、家具も、衣類も散乱し、手のつけようもない程で、しばし呆然として、全身の力が抜けてしまった。しかしこの位大きな津波が幸い朝であった事と、家族が全員無事であった事が何よりの喜びであった。
一刻も早くこの泥の中から立ち上らねばと、気をとり直し連日苦しい労働が纏いた。くよくよしていたのでは精神的に参ってしまいそうなので、朝から、夜遅くまで働窪続けた。泥の整理と洗濯に追いまわされ、私にとっては今までの苦労知らずが、大きな試練となった。人間と自然との戦い。我々の祖先砥幾度か天袋と闘って来た事だろう。津波は私に与えた人生の試練であった。
あの頃の生活は全く不自山極まるもので、電燈はなし、飲料水はない、衣食住にこと欠き、原始人のような生活であった。そういう中で多くの人々の温い救援を戴き、同僚、親戚の方々の御協力を得て、励まされ、どんなに感謝した事か、人情の肩難さもしみじみ味わった。
数多くの尊い体験を収得し、深い反省の上に立って、今後の津波に対する考え方を平素から心がけて行こう。天災は忘れた頃にやって来る。地震がなくとも、二度とこの惨過から守るように日々努力すべきであると痛感した。
終生忘れ得ない人生の一頁
深い眠りから一瞬にして恐怖と不安の"どん底"に突落した津波は私の半生を通じて初めて経験した天災であり、終生忘れ得ない私の人生の一貞である。罹災児童は津波の怖しさを作文に「くろいうみ」と題して当時の模様と書き綴っている。私も津波罹災者の一人として、その時の模様を述べて見度いと思うけれども、あまりの衝激に筆を以って表現する事は容易でないが、ふゆ返って記憶をたどり書いて見度いと思
五月二十四日午前四時分、夜の戸張りが静か明け放される頃、前日のPTA研修旅行の疲れで、私は正体もなく眠っていた。ふと何か騒々しい物音に眼が覚めた。表通りは唯ならぬ人の足音や車の走り廻る音が聞えて来る。私は直感的に「火事だ」と思い、急いで窓を開いて四囲を見たが火の手は見えない。玄関に廻って戸をあけた瞬間"津波だ、津波だ"と叫ぶ声が入って来た。私は大急ぎで衆の中に引返し着物を身につけながら、家族の者を大声で起した。その間も表日9、7ある。
「津波の時は高い所へ逃げるんだ」とかねて言われていた通りに、眼をこすりながら眠そうな顔をしている女中と姪を叱りとばして高台にある従姉の家へ子供と・長い間病床に伏している夫を避難させるのにもう夢中であった。勿論家財等を運び出す暇はない。家族を非難させた後、再び家の中に駆け込んで、日頃「何かあった時には必ず持ち出す様に」言われていた書頬をかかえて戸締りする事も忘れて一目散に家族の避難した後を追ったが、途中は人と車の渦である。須崎川の水が溢れて町中にひろがって来るのが目に止った。唯夢中である。裸足のままで逃げて行く人、身内の者の名前を呼び、泣きながらかけて来る人、高台にある中学校へ通ずる道路はまるで戦場だった。加茂神社の石段は見る見る中に人の波で埋まってしまった。加茂神社の入口まで来てふり返って見ると真黒い波がもう鉄道線路を越えて押寄せて来ていた。流失した家や、木材がまるでお祭りの屋台の様にもみ合いながら流されている。逃げおくれた人達だろう流失した家の屋根に上って助けを求めている姿は、さながら"ヂゴク絵4を見るような感じをした。これが津波なのかと私は思わず息をのみ全身の毛穴が引締るのを覚えた。
浸水しない山手の道路を急救車がけたたましい「サイレン」を鳴らして走って行く。暫らくの間押寄せては引き、引いては押寄せる津波を唯呆然と見ている外何も考えられない。引潮で岸壁から流れ落ちる水は滝の様に物凄い音をあげて海に戻って行った。残されたものは一面の泥海と化した荒寥たる死の町である。何れだけの時間が経ったのだろう、波も落ち着いた。家族と別れ別れになっていた人や・家を案じながら波の静まるのを待っていた人遠は廃墟と化した自分の家のあった所まで駆け下りて行く。私も夢中で駆け下りた。おびただしい流木や破壊された屋根等を乗り越えて、ともすれば腰迄沈んでしまう様な泥水を渡って我が家の前までたどりついた。つい今しがたまで平和であった我が家の変り果てた姿を見て私は涙さえも出なかった。家は流失を免れたものの壁は落ち、軒は傾き家財道具はほとんど流失し軒迄浸った津波の水位が生々しく一線を引いていた。附近一帯も流失家屋や流木等で一様だ。かろうじて流失しなかった家も使用に耐えられる物は何もないと思われる姿に変っていた。誰の顔も生気のある者はない。あまりの驚きと不安に町全体がしわぶきの声さえ発する者もない有様である。私は姪と二人で自分の家のものと思われるものを泥の中から探し出して集めている時、日頃子供が可愛がっている小犬の死体を見つけた。犬小屋より僅か数米しか離れていない泥の中に身体を半分埋めて横たわっていた。私達が避難する事で小犬の事を考えても見なかったが、泳ぎも知らずに苦しんで行った姿を思い浮べて、私はもののあわれを感じた。
私達は集めた泥だらけの家財を一ヵ所にまとめ、流れ残った衣頬を分けあって一応家族の避難している従兄の家へ帰る事にした。
途中痛々しい犠牲者の名前を貼出している掲示板が目に入った。その時はまだ死者の数が少かったが、行方不明の数が多かった。まだ死体が発見されていない人達の事だろう。せめて何処かで生きていて呉れる様にと心から希いながら高台に通ずる道路を登って行った時、突然爆音も高く二台のヘリコブターが私達の頭上で旋回を初めていた。私は空を仰いで「救援の手が差延べられたのだ、私達は心配することはない」これから一生懸命復興歯建設が初められるのだと思うと、坂道を登り家族の待つ家へ急ぐ私の目から溢れ出る涙の中に五月の陽光が温かく光り輝いてくるのを覚えπ。
悪魔は又もやって来た
「火事だ!」がばっとはね起きて、子供は表にとび出したけたたましいサイレンの響き、「どこだろう?何からの火事だろう?」とひしめき合う間もなく「津波だ、津波!」と遠くから叫びながら子供は家の中へ駈け込んだ。「津波!」「大変だ!」私の脳裏には、あの昭和八年の大津波の凄惨な光景が、生々しく蘇って来た。私の希望に満ちた前途を、根こそぎもぎ取っていったあの悪魔、又もややって来たのだ。
茫然とたたずむ自分にむち打ち、大急ぎで、ありったけの釜に御飯を炊き込んだ。炊き出しだ。手を真赤にしておにぎりを山とつくり、部落の人に頼み、身仕度ももどかしく学校へと向かった。途中で「母さん海の水はまだおさまらないから学校へ行くのは止めた方が良いと」強く子供に引き止められるのを押し切って急ぐ。何と足の運びのおそく感じられる事。頭の方だけが前にのめり出して仕様がない。高校の前歪で押し上げられた大きな船、そして地の森からの惨憺たる町の姿、「先生!まさちゃんが死にました」と泣きくずれる人蒼白な顔に、細紐一本の子供等、どれもこれも、哀れないたましさだ。クラスのあの子等が、否どの子も皆無事である様にと、私は一人一人のまなざしを地面に描いては、じっとそれを見つめながら、学校へと急いだ。学校へ着いても子供等の安否は仲々さ知り難い。「何人分です」とおにぎりを受けに来る人々へ「がんばって下さい。御遠慮はいりません」し一励しの言葉を投げかけながらも、涙が流れてたまらない。男ぎし日のあの時の自分が、まざまざと想い出されてたまらないのだ。
児童の死が二、三、匹数か増して行く。私はじっとして居たたまれなく、二階に駈け上って遥るか海上に目を注いだ。海の水はまだ流れが早い。家をそして肉親を失った人達は、今頃この海をどんな気持で見ているだろうか。きっとあの日の自分と同じ様に、憎んでも尚飽き足らない気持で眺めているだろう。「あ、皆早く逃げれば良かったのに、油断をせす逃げ出 せば良かったのに」私は思わずロ吟んでいた。
私の眼は海上の[点に釘ずけにされたま」だ。十九才のあの年、学校の休みを利用して、父母と共に四年ふりに、なつかしい故郷へ帰って来たその翌暁こそ、雪の降る無気味な暗闇の海上に、ほうり込まれたのだ、ゴーッと云う音と同時にバリバリッと云う異様な物音、ハット目をさますと畳は下から持ち上げられ、枕許を真暗な中を海の水はギラギラと無気味な光を放ちながら、うず巻いて流れる、瞬聞「お母さん」と叫んだそれっきり………。それからどれ位たったのか、あまりの苦しさに無我無中で顔を出したのがサンゴ島附近の海上だった。暗いのでまだその時は何所かもわからなかった。あたり一面「助けてくれ!・助けてくれ。4・」と救を求める声だけが闇の海上に悲壮な尾を引く、私はやっとの思いで流木に上った。向うの海の中から黒い大きな物がむくむく差浮んで来た。「誰ですか?」それは父だった。二人は抱き合って生きてた事を喜び合った。雪をまじえた風は沖から吹きつける、ガタガタと震えていたそれも何等感じなくなったたふき手にふれたピールの空き箱を父の背にして、ともすれば深い眠りに陥ろうとする父を、しっかりと抱きか、えた「眠らないで、眠らないで」と父の背をさすっていた手の甲が箱のため穴になったの"意識しない、斯うして流れ木に父子て命を托して、励まし合いながら雪の降る海上々助けを求めながら漂い続けた。
父はもう私の救を求める声も、うるさそうにしている。夜は白々と明けて来た。遂に父は私の胸に抱かれて冷たくなった。「終止」と云うひとことをのこして……。自分の命が寸前に迫っておりながら、海中から母を慕う幼児を救おうました父が………。そして私の卒業を指折り数えて待っておった父が………。私は今は声なき慈父の遺骸をしっかと胸に抱きか、え、父の顔に自分の顔を押しあて、「お父さんが死んだ!お父さんが死んだ!」と声をふり絞って泣いたま、意識を失った。
斯うして此処から私の人生航路の指針は新たな方面を示さねばならなくなった。一夜にして幸福の絶頂から奈落の底につ塗落され、希望に胸をふくらました幾多の夢は無惨にも跡かたなくはぎとられて了ったのた。どれ位たったのか、漸くにして我にかえって階下に降りて来ると、港務所長の死が伝わって棄た。あ、あの一人っ子の甘えん坊の美仁さんを残して………。何と云う事か、あの子から竜倖せを根こそぎ取ったのか、そして多くの人々に、悲しみと苦悩のみを残して行ったのか。皆の忘れた頃に悪魔は又もやって来た。鋭い爪を研ぎすまして。
恐ろしかった、こわかった意地悪の津波
ほんとうにおそろしいつなみ
つなみがくるまえにわたしたちはふとんをにかいにはこびました。つなみがくると「つなみだ。つなみだ」とおおこえでさけびました。おとうさんやおかあさんと一しよにせんうにあがってみました。みんなもなきそうになってえます。わたしたちがきるふくやたんすもみんなながれてしまいましたさかなかすをつくるこうばもこわれました。おとうさんはだまってこわれたこうばをみています。わたしたちは「ほんとうにおそろしいつなみだなあ」とおもいました。
ながれたどらむかん
おかあさんが「つなみがくるからおきろ」といいましたにいちゃんにらんどせるをもってもらっておばあさんのうちへにげました。おかあさんはくつやようふくをはこびましたみずがひけてからいってみたらせきゆのどらむかんはあっちへながされたり、こっちへながされたりしてみつからなくなりました。
よがあけてからじどうしゃでさがしました。どらむかんはしもうのほうやながいざわのほうにいっていました。それでもみんなみつかり棄した。おかあさんは「よかった。よかった」といいました。じどうしゃがどろんこになりました。それをまみずであらったらはしるようになりました。
つなみ
つなみのときわかくしは、ようちえんににげていきましたとうちやんはうちへかえってぴあのをもってくるからようちえんにえみこという志いった。みるとりようこちゃんのうちがながされていました。
あさになりました。うみをみると、またみずがなくなっていました。そしてとうちゃんがまたつなみがくるぞといってようちえんににげました。おばあちゃんとふくしまのおんちゃんは、わたしのうちのにかいにあがりました。わたしはおばちゃんがしんだとおもいましたが、なみがきたとをおばちゃんがにげてきました。そしておばちゃんたちがまたわたしのうらにかえっていきました。
つなみがすぎたとき、うちへかえってみたら、いっぱいいっぱいながされていたし、うちやどうぐがなくなったうちがたくさんありました。
おにんぎようさん
わたしはねていたとき、さいれんがなったのでかじだとおもってでてみたらつなみだとさけびました。そしてかあさんがにげたので、わたしはにかいにあがってたら、したのはしらがおれたので、わたしは「いたど」をわたしてやねにわたりだしたらぶかわのおかあさんにしかられました。そしてつなみがひけたとき、ぶかわのおかあさんがにんじくへいってみたらおかあさんがいました。そしてぶかわのおかあさんがかえってきて、わたしにいいました。そしてわたしをにんじくのおもちへつれていきました。にんじくのおばあさんがわたしにおかしをたべなさいといったのでわたしはたべました。そしてかえってみたらわたしのおにんぎようはながされてなくなっていました。それでおかあさんがまたかってあげるといいました。いまでもよるになるとおっかなくなりますのでぶかわにとまっていきます。
ぼくのうちもふみおちゃんのうちもながされた
ぼくはつなみがくるのをしらないでねているとさいれんがなって、びっくりしてにげました。そしてのうどうににげました・のうどうにあがってみたら。ぼくのうちがめちゃくちゃになりました。さとしちゃんのうちのほうにきてみましたそしてぼくのうちだのふみおちゃんのうちがなくなっていました。そしてながいさわにいきました。
でんきがつかなかった
つなみはおおきい。そしてぼくのうちにもみずがはいったそしてせんろに木がいっぱいだった。そしてうみにぺちゃんこになったうちがながれている。くらくなったらでんきがつかなかった。ろうそくをつけてばいきゅうでもらったおに督りをたべた。
きにぶっかってしんだんです
「ゆうちゃ。おきろ」とばんとうさんにおこされました。そしでとなりのやねにばんとうさんとあがったら、おとうさんたちはぼくのほしばにあがっていました。ぼくはなみがひいてからとなりのおじさんにはしごでおろされました。ぼくたちは、さきにやまのうちににげました。おかあさんたちといもうとはいっしよにきました。ぼくのおとうさんはあしにけがをしました。ぼくはあさごはんをたべてから、みせにいったらがらすがめちゃくちゃになっています。うちにはいったらくるまはてんじようにぶっかっていました。ぼくはだまってみていました。四じにばあちゃんたちがきました。ぼくが「ときちゃんがしんだよ」といったらみんななきました。じよ中さんは木にぶっかってなくなりました。だからぼくはなつやすみまでけせんねまにいたのです。
てんにのぼったひと
あさおかあさんがつなみでおきうといってぼくはふくをきてみにいくとうちがこわれていました。そしてぼくはしんだひとをかわいそうにおもいました。そしてしようがっこうにいこうとおもってくりいにんぐのところまできていました。そしてぼくはあさのごはんには、おにぎりをくいました。のこったおにぎりはていしゃばにやりました。そしてぼくのところにえきちようさんがきました。そしてでんきがつかないので、ぼくがかってきました。ぼくのところにじどうしゃがきていました。そしてぼくはしんだひとをほんとうにかわいそうにおもいました。しんだひとをてんごくにいかせるため、おいのりしました。
おもちゃのでんわ
ぼくはおかあさんとつなみをみにいきました、そしたらふねががんべきや、おかのうえにあがっていました。うちもみんなこわれていました。おかあさんが「かえろ」といいましたら、おもちゃのでんわをにいさんがひろいました。それをひうってからだれかにあげたいまおもいました。ばくががっこうへきたら、つなみにあったひとがいました。せんせいがつなみにあったひとにふくだのわけてやりました。せんせいがふみあきち。んのおかあちゃんがしんだといいました。ぼくはふみあきち雫んがひわいそうになりました。
水がいえの中にはいったが
わたしはくらいときおかあさんにつなみだとおこされました。おかあさんがきものをきうといいました。わたしはきものをきてにげました。わたしはふるえました。おとうさんはふねにいっていません。おかあさんはあたらしいものをはこびました。おじいさんはのんきしてねていました。わたしはながれたひとがかわいそうだとおもったら、ひともうちもながれませんでした。そのかわりみずがはいりました。わたしはうちがながれないからみずははいらないとおもっていました。わたしはほんとうにかわいそうだとおもってがまんしられなくなってしまいました。たたみにみずがはいったうちでは、ひらのほうにかわっていきました。おかねもぬれたとおもったらぬれませんでした。たべものもながれたとおもいました。なんにもながれないでぬれました。そのあとにべつのひとがひっこしてきました。
ほんとうにきたつなみ
よなかかにわたしのおかあさんがめをさましました。おかあさんはさいれんをきいたからです。おかあさんがよそのひとやしってるひとがにげていくのをみてびっくりしました。おかあさんはなにごとだとおもってききました。すると
「つなみがきた。」といいました。おかあさんは
「まさか。」といいました。するとよそのひとが
「ほんとうにつなみがきたんだ。」とそういってにげていきました。おかあさんがそれがほんとうかとおもってでんわをかけました。ところがいくらかけてもでません。やっとでましたので
「つなみですか。」とききました。
「そうです。つなみです。」といいました。そしたらおかあさんがわたしをおこしていいました。
「つなみがくるから、ほんをらんどせるにいれなさい。」といいました。そしてげんかんまでいきまちた。そしてにげていこうとすると、つなみがまえまできたからわたしはにげました。やっとかもじんじゃにきたからあんしんしました。
つなみだつ、つなみだ
わたしはつなみのときはおきていませんでした。おかあさんがねていると
「つなみだっ、つなみだ。」
というのでおかあさんがおとうさんをおこしました。わたしもおこしたおかあさんが
「にいちゃんもおこして。」
といいました。わたしはおこしてやりました。にかいめのときはおばちゃんのいえにいきました。つなみばわたしのおうちのまえまできました。かねもや、かねきは、うみのすこしうえです。おとうさんやおかあさんたちはかねきにすけにゆきました。せんろのうえににもつをあげました。わたしはせんろのうえにいきました。こばべっかであめとおかしをくれました。こめもみんなながれました。おにぎりはつくってやりました。つなみが轟わってからよしこちゃんのところにごみがたくさんながれたり、うずまきがぐるぐるまわっていました。水がひいたあとうちをなおしたり、ながしをなおしたりしました。
どろんこになったぼくのうち
おじいさんはぼくに「つなみだぞ」といいました。うるさくさいれんがなりました。どうぐももたないでせんろににげました。そうしてぼくのおうちのぶたがみずがきてもたすかりました。そうしてぼくは「がっこうがこわれないかな。」としんぱいしました。とてもあのすごいみずなのでおっかないつなみだとおもいました。
そうしてみずがひけて、おとものおかあさんがきていろいろあらってくれました。ぼくがようちえんでかったかるたもながされてしまいました。いえの中はみんなどろんこになりました。やねにつくくらいどう水がはいりました。にげるときあしをきりました。とてもおそろしいでした。
いやだつなみは
あかるくなるとさいれんがなりました。わたしがとびおきてみると、わたしのうちのまえを「つなみだ。」といいながらはしっていくひとがありました。わたしがかばんをせおうとしたらしようぼうだんのひとがきて「はやく。つなみだ」といいました。おかあさんは「はやく、はやく。」といいながらわたしをひっばってせんろにあがりました。せんろにあがって「たすけろ」といいました。わたしのうちのはるこねえちゃんがせんうからかけてきました。わたしのおかあさんが、しいぼうをおぶってなきながらみていました。わたしのうちはうごきました。ふとんもよごされました。うみのみずはつばめのようにすーっときたのであぶなくさらわれましたたたみもながされました。きみがわるかったです。おかあさんが「ひろこちゃんがしんだってな。」といいました。わたしは「えっ」といいました。かなしくなってなみだがでました。
つなみでしんだひろこちちん
あさの四じごろ、わたしのうちのまえをじどうしゃがとおりました。わたしはおかあさんにおこされて「まさこちゃんおきてみなさい。」といわれました。わたしはおきてみたら「ほら、つなみ。」わたしはびっくりしました。わたしのうちはすこしたかいところにあるのですが、日のまえ歪で水がきていました。するとふねがやねといっしよにながれてきました。おかあさんは「はやく。はやく。」といってみんながおきてみました。わたくしたちはがっこうのどうぐをもってにげました。みんなさいこうじのおてらにあっまってさわいでいました。ぬれてきているひともありました。ないているひともあります。あさはやくいそざきのおじちゃんがきました。おとうさんとつなみのはなしをしていました。おはなしがすんでからおじいちゃんがかえりました。まもなくするとしようぼうのおじちゃんがきました。そしてしんだひとをのせていきました。がっこうもやすみです。しばらくしてからならんでがっこうへいきました。どうろがこわれてしまってあぶないからですが、がっこうにいってみるとひろこちゃんがしんだんだってわたしはききました。わたしはがっこうからかえっておかあさんにいいますと、びっくりして「あんなかわいいこどもさんが。」といっておどろきました。わたしはだまってききました。そしてわたしはかわいそうだとおもいました。せんせいはひろこちゃんのことをはなしてくださいました。みんなだまってききました。ひろこちゃんのつくえはあいています。みんなでおはなをかざりました。かわいそうです。わたしはいまでは、まいにちげんきにがっこうにかよっています。
ひろこちゃんがしんだ
つなみがわたしのうちにはいりました。どんどんはいりました。わたしのうちはめちゃめちゃになりました。つなみがおおふなとにひどくきました。ほんもながれてし次いましたさのさんのうちにとまっています。おにぎりをたべていますここにいつもとまっています。いつもおにぎりをたべています。おうちがめちゃめちゃになっています。おかあさんがないています。かんずめをひうってたべています。おうちがこわれてしまいました。おかあさんがないてい次す。つなみがこないほうがいいね。おかあさんがかわいそうよ。ひろこさんがしんでかわいそう。せっかくおともだちになれたのにかわいそうです。ほんとうにおそろしいつなみです。そうだけどがまんしました。
かわいそうなおともだち
このあいだあさはやくおかあさんが、ぼくかちに「つなみでずうっとむこうのほうまでうちがながされているよ。」といってくださいました。ぼくは「ほんと?」らいってすぐに見にいきました。うちがながされた人はかわいそうだな、とぼくはおもいました。その人たちはしんせきのいえか、ともだちのいえにとまっているとおもいます。ぼくたちの組でうちがながされた人や、水につかったいえの人がたくさんあります。つなみの時はかなしいでした。つなみってゆうのはほんとにおそろしいのだな、と、ぼくはわかりました。おとうさんやおかあさんがぼくに「また大きなつなみがくるぞ。」といいましたが、水がふえるだけでした。ぼくはつなみがあった夜はしんぱいでねむれませんでした。そのつぎのあさはやくおきてみました。水がぜんぜんふえていません。ぼくはいえがながされた人になにかいいことをやってあげようとおもっていました。ぼくのともだちのいえがもとのように早くたてばいいのにとおもっていました。ぼくのいえのちかくにとまっているともだちもいます。つなみがまたくるか、くるかとしんぱいです。このごろいつもうみを見ています。水もだんだんひいてきて、だいじようぶになってきました。ともだちとあそびたくなりました。学校のちようめんや本をながされた人は先生がくださいます。ものをながされた人はずいぶんかわいそうだとおもいました。ともだちのいえがかくさんながされてかわいそうだなとそれだけいつもかんがえています。
しぬかと思ったつなみ
いっかいめの水がひけていったときぼくがおこされて、おばあさんとおねえさんは水がまたきてからおこされました。それでもおねえさんがねむいといいました。おきうさんが水がきたのでうらからでました。おかあさんがあかんぼをおぶって、わたしたちのあとからでました。そしてにげるときあかちゃんのひたいにさおがあたったのであかちゃんがなきました。おばあさんがまだにげないので、おとうさんが中へはいっていきました。そしておとうさんはあきらめて、おばあさんに「しにましよう。」といっておとうさんが中から木でつっつきました。そのときおばあさんが水をのんで、にがそうなかおをしました。ようちえんにびよういんのせんせいがきたときいて、みてもらったら「にゅういんしなさい。」といったので、おばあさんがにゅういんしました。おばあさんがしぬかとおもって、とてもしんぱいです。
おみまいありがとう
あさ、ねているとつなみだと、大きなこえで、さけびましたそれにおこされて、おとうさんが、うらのかわへいってみました。
すると、一つかいめの水がひけていくところでした。それを、みておとうさんがもどってきました。そしておとうさんがさきに、オートバイをだしました。
こんどは、おかあさんが、みんなを、おこしました。わたしはふくもきないで、ずぼんを、もったまま、にげました。
おかあさんは、いちばんあとににげました。おかあさんがたかいところへあがったら、もう、せんろまで水がきていました。おとうさんは、おかあさんが、こないのでながされたのではないかとおもってしんぱいしました。そこへおかあさんがきました。そこ一。」うえへいってみました。
ずうっとみていたら、またも、大きな波が来て、わたしのうちがすっかり、ながされてしまいました。おかあさんは、それをみて、下をむいて、上はむきませんでした。
わたしと、おとうとは、さきに、オートバイにのせられてさかりの、おばさんのところへいきました。そしておにぎりをたべました。
つなみがおわってから、おとうさんとおかあさんが、まい日まい日、ながされたものを一さがしにいきましたが、わた【のかばん病本もひとつもみつかりませんでした。それからお米もながされてしまったので、うどんばかりたべました。多、れからおかあさんのうちからお米を、もらってきて、たべました。
学校がやすみのあいだ、あそぶ人もだれもいません。一しゅうかんたってから学校が、はじまりましたが、おべんきようができませんでした。そのうちに、ごほんや、ちようめんやえんぴつやたくさん、いただきました。そしてみんなと、おべんきようができるようになって、とてもうれしくなりました。
そのほかランドセルやクレヨンや、ふでいれやけしごむやおようふぐやなんでもたくさんいただきましだ。わたしは、とてもありがたいと、おもいました。きゅうしよくにパンやぎゅうにゅうも、たべさせてもらいました。
とおくの、学校から手紙もきました。わたしも手紙をだしました。それから、わたしのうちに、たくさんはいきゅうがきて、わたしはうれしいと思いました。それからだんだん、うちがたって、おみせも、はじまりました。
これから、よそにこまったことがあったら、わたしも、おこめやおようふくをやりたいとおもいます。
こわかったつなみのあさ
おかあさんがあさはやくからごはんにスイッチをいれていました。おばあさんが大きな声で、「つなみだ、つなみだ」といったので、わたしはあわててふくをきました。それからおねえさんがふくをきてかいがんのほうへ見にいきましだ。わたしはこわいからただ、ものほしざおのところで見ていました。
そうしたらなみがどうどうときました。そしておかあさんがとなりのにいさんに「まきこをたのむから」といっておぶせました。おにいさんはかぜのようにはやくはしっていきました。そしてせんろのさくのところでわたしをおろし、さくのところをくぐらせました。そのときうちのほうを見たら、大きななみがザアーッときて、やぎまたのへいがバリバリとこわれてきました。わたしはおねえさんと、おかあさんと、おとうさんがここにこなかったら、となりのにいさんをつれてあかさわのおばあさんのところにいこうとかんがえましたそのうちにおとうさんがきました。おとうさんにおぶさってだいがおかに行って見ました。だいがおかの上でわたしのうちを見て見たら見えません。おとうさんが、だいがおかの上でしゃしんをとりました。わたしとおとうさんはなみがひけてから、わたしのうちのちかくへ行って見たら、おねえさんがさくのちかくで、わかい男の人におぶさってぬれていました、わたしは、「おかあさんなにしたの」ときいてみましたが、がたがたふるえてなにもいいませんでした。おねえさんが、「はやく、あかさわのばあちやんのところにいぐべ」といいました。そしておくらのところにいくと、ばあちゃんがきました。
そしてうちについておねえさんとおかあさんと、ふくをぬいてねました。そしておかあさんとおねえさんとふとんの中でどうしてぬれたかをおはなししました。「そしておかあさんがわたしをにげさせたとき、おねえさんとおかあさんがまだにげていないので、おくれて波にながされるところだった」とおしえてくれました。わたしはこわくてとてもねむれませんでした。
どろだらけの町
「つなみだ、つなみだ」人のこえがきこえてたので目がさめました。わたしは、下のほうへ詣りていってみた。水がざぶんざぶんとよせてきました。わたしは、いそいで、知らせにいきました。「おかあさん水がいっぱいよせてきたよ」といいました。おかあさんは、ふとんをだしたり、どうぐを、ボストンバックにつめていました。みんなでおてらのわきのきよこちゃんのうちへにげました。また「つなみがきたぞう」しようぼうしゃの人が、かねをならしながらいきましたわたしたちは、きよこちゃんのうちのちかくで、あそんでいましたが、つなみがおわったのでまた下の方へ、おりていって見ました。そしたらずっとはなれた、あかさわのうちが、かねはらの所にいっぱいながれてきました。いろいろなものがたんぼのなかにも、たくさんながれていました。
うちにかえってあさごはんをたべてそとにでてみていたらしたいがつぎつぎに、はこばれていきました。わたしは、かわいそうでたまりませんでした。うちをながされた人や、しんだ人の家の人たちがなきながらうちのまえを、とおりました。
すこしたつと、またつなみがきたと、いうので上の方にいきましたがつなみがすんだので、あんしんしてうちにかえってきました。すこしたつと、きよこちゃんの、おかあさんがきたので、わたしはいっしよに、ちゃやまえの方まで見にいきました。どこのうちもみんなこわれたり、ながされたりどろ水がはいって、とてもきたなくなっていました。ふねも、道のまんなかにあがっていました。人がいっぱいいて、つなみでよごれたにもつを、はこんでいます。かえりに、あかさわでかたとき人がいっぱいあつまって、道にどうぐをたんぼから、あげていました。ランドセルも、どろだらけになってひろってあけました。かえってきたら、わたしは、つかれてくたくたになりました。夜は、又つなみがくるとたいへんなので、にいち中んと、わたしと、さかりのおばあさんのうちに、トラックにのってとまりにいきました。一つとまってかえってきました。つなみがすんだあとは学校は、やすみになり染した。
いま着ているふくもわくられてきたふく
ぼくがねていると、つなみだぞうというこえにおこされました。ぼくはせんろへにげました。うちではねえさんと、おかあさんと、おとうさんがズボンや、つくえをはこびましたすると、うみの水がざざざざーと、よせてきました。ねえさんと、おかあさんと、おとうさんがにげだしました。ねえさんがころびました。ねえさんもたすけてくれーといいましたおとうさんがたすけました。うえからみていたぼくはよかったとおもいました。でもしんだひとはかわいそうだなあとおもいました。そしてよるになりました。ぼくはじどうしゃでしんるいのいえにとまってありがたいとおもいました。そしてなんにちかたちました。大ふなとの町がだんだんかたづいてきました。ぼくのうちもかたづいたのでいまはうちにかえっています。あっちからもこっちからもいろいろなものがいっぱいおくられてきました。ぼくがいまきているふくもおくられてきたふくです・ほんとうにありがたいとおもいましたた。あとはこんなおそろしいつなみがこなければよいとおもいます。
はじめて見たつなみ
あさの四時ごろ、ぼくがねていたら、「ようぼつなみだよっ」といいました。ぼくは、まさかとおもいました。そしたらじどう車にのっていった人がつなみだつなみだといいました。それに、つづいてねえちゃんも「つなみだ」といってついていきました。ぼくはむねがどきどきしました。かあさんがかわ水がひけているのをみにいきました。ぼくはしぬかと思いました。かあさんとねえちゃんとぼくは、かもさまに、にげ血した。ぼくはつなみを見るのははじめてなのでどんなのかと思いました。だんだん水がふえていきました。ぼくはむねがどきどきしてたまりません、それから家がものすごい早さでながれていくのを見て、かわいそうだと思いました。
つなみはぜんろをこえてぼくのうちのほうにきました。ぼくはかもさまでふるえていました。その時いかわのさちえさんがむかえにきてくれ血した。ぼくはこわいからさかりへ、さちえさんといきました。ひとばんとまってからじいさんとうちへかえってきたら、どうしたのかうちはどろだらけになっていましか。
チリじしんつなみ
まだみんながねているのにおかあちゃんが「つなみよ」と大きな声で、いいました。みんなびっくりして、おきましたようふくをきてから、おかあちゃんが、「かばんかばん」といったので、いそいで、かばんをしよいました。そしてだいがおかにいくちゅう語くらでやすみました。すこしたったらみんなが、だいがおかのほうににげていきました。みたら水がどんどんあがって倉ました。わたしたちも・だいがおかの一ばんたかいところににげました。たかいところへあがってから、はしづめのおばちゃんたちと下のほうをみていたらびしょぬれではしごにのってかつがれてきた人をみました。そしてぎんこうのしてんちようさんのうちのにかいをかりたのでそのよるは、そのうちで、ねました。そしてつぎのあさごはんをたべてから、はしづめへいくしたくをして、はしづめにいきました。そしてはしづめのあとかたづけをしました一かいとまって、ほそうらにいきました。あとは、学校にもバスでかよいました。ゆう子ちゃんもわたしがのっている、バスです。だからわたしのほうがさきにバスにのるのでせきをとってあげました。そしてちゃやまえのほうのうちができるまで、ほそうらのほうへいきました。家がでて、ひっこししてから、ちゃやまえから、学校へいくようになりました。
こわかったつなみ
五月二十四日水よう日ぼくたちはまだねていました。そうしたらこはまさんが、さけびました。「おういまってろ」といいました。かあちゃんが「どこのよっぱらいだ」きしゃにのりおくれたとおもいました。にかいではまこちゃんとねえちゃんが「かじだ」ときいてびっくりしました。そしてかあちゃんが「かじだらおらいのにかいからみえる」といいました。そしてしってるひとが「いいやつなみだ」といってぼくをおこしました。そしてかばんをおいていってし奪いました二〇ぷんぐらいたってからつなみがきました。おちゃやへおかねやふとんなどたくさんながしました。なんかいもつなみがつづいてるのであきてしまいました。つなみをぼくは、はじめてみた。とうちゃんがそのときおんせんへいっていたので、つなみでながされたかとおもいました。しんぱいでしんぱいでわかりません。みんなからきいても、そのおんせんはかいがんだといっていました。そうしたらかあちゃんがなきそうになった。「いいよそこには、ぜったいつなみがこないよ」とぼくがいいました。そしてなんかいもつづいているうちに、みんなのうちがながされたりふねがどうろのうえをいったりしました。つかれてわからないからやすみにいったら「もうひるごはんたべるからあがりなさいっ」といってみんなと、ごはんをくっているうちにつなみがこなくなった。よるになったらとうちゃんがかえってきた、とうちゃんがかえってぼくはうれしかった。
ガバンをもってにげた
五月二四日朝はやく
ぼくは、まだねていました。セメントのサイレンがなりました。ぼくは、おかあさんに「つなみだ」と、おこされました。すぐかばんをもってにげました。ぼくのまえになってにげました。ぼくがあがっていきました。さわいでいました。うらのおおやさんのおじいさんが、じてんしゃをもってなみといっしよにきました。そしてたすかりました。おとうさんが「こんどはうえの台町へゆこう」とおっしゃいました。とうさんは、うえにいきました。けれどにいさんやかあさんが下へいきました。そしたらまた帰りました。こんどで一かいめです。そしておのでらさんとゆうところに、とまることになりそれはいちにちだけでした。こんどはちがうところにとまることになりました。とうさんが下へいったりさかりにいつもいきました。「あした、しえいじゅうたくにいくんだよ」とおっしゃいました。ぼくは、だんだんじゅうたくになれてきました。そしてすぐさくらおかでじのもりヘうちをたてました。いつもあそびにいきました。おとうさんがむりをしているのでくるしくなって、しにそうになりました。にいさんがしんぱいをしてごはんもたぺずに学校にいってしまいました。おかあさんがきようおつかいにいくのだから学校を「やすみなさい」といった。おかあさんのいうことをしんじないでいました。かあさんが「やすみなさい」「やすみなさい」というのでとうとうやすんでしまいました。つぎの日学校にいったら「どうしてやすんだのときかれました。みんなにそれをはなしました。いやなきもちでした。
ふくをきるひまもなかった
五月二十四日のあさ、わたしがねていると、おとうさんが「やえ子つなみだから、早くおきろ」といったので、わたしは、とびおきました。いそいでシャツとズロースとふくをきて、スカートを手にもってにげました。わたしはじゅうたくの方へにげました。へびのような水がどんどんながれてきました。わたしはおっかなくなって、がたがたふるえました。うしろを見るとわたしのうちは、もう水のためにこわされてしまいました。いつのまにか、わたしはおかあさんとはなれてしまいました。じゅうたくのまえでとまって、つなみをみました。そのとき手にもっていたスカートをはいてみていました。すると、みつおおじさんがわたしをさがしにきたのでいっしよにとみちゃんのうちにいきました。おとうさんも、おかあさんも、ようこも、あきこもみんなとみちゃんのうちにいました。もりおかにいる、のりこおばさんもきていました。わたしはとみちゃんの本をかりてよんでいるとまた二かいめの水がきました。わたしは本をよむのをやめて、つなみをみました。ともちゃんも、ようこも、おかあさんもうちがこわれるのを見ていました。すると、ほかのうちがめりめりとこわれてながされていきます。どこのうちもめちゃくちゃにされてうちがながれているのをみてわたしは、かなしくなりました。
つなみでしんだともだち
五月二十四日剛わたしは、ようちえんへにげてうみのみずがきて、おうちがぼっこれていくの麦、、いつまでもみていました。そのとき、いくちゃんがきて、「むっちゃんがしんだ」といったのでわたしは「むっちゃんはどこにいるの」ときいたら、いくちゃんが「ようこちゃんのうちのまえにいるよ」といったのでいってみました。そうしたら、いくちゃんが「これだよ」といいました。それでみたらわらがありました。わらのうしろの方に足がありました。「三つあるじゃない」といったら「おかあさんと、しようじちゃんも、しんだんだよ」といいました。「おねえさんもいたんじゃない」ていったら「ねえさんはゆくえふめいなんだよ」といいました四人もしななくてよかったのに」とおもって、なみだがでました。わたしのすきだった、むっちゃんがいなくなったので、ほんとうにさびしくなりました。
つなみ
五月二十四日のあけがたサイレンがなったのでおかあさんがびっくりしてそとにでました。すると「つなみだ」という声がしたのでびっくりしておきあがりました。さむくないようにセーターとズボンをはいてるとたなかのおばさんが「つなみだからはやくにげろ」とむかえにきました。おかあさんとわたしと、のぶことおばさんとそとにでたら「水がきたぞ」とだれかがさけびました。わたくしたちは、むちゅうでゆうえんちまでにげました。するとゴーゴーバリバリとゆう水の音、うちがたおれる音がしたのでおそろしくなってまっすぐ、たなかのおばさんのうちへにげました。おばさんのうちへいったけれどもおとうさんが、あとになったのでわたくしはしんばいでした。でもあとできいたら水といっしよに、にげたときいてあぶなかったなあとおもいました。三日おばさんのうちでとまって、わたくしのうちがしんぱいなのでとちゅまできたら大きなうちがたおれたり、じどうしゃがつぶれたりしてしようぼうのおじさんたちが、どうろをかたずけていました。うちにきてみたらうちはたおれないでいましたが中はどろがばいってガラスどはこわれ、おみせの中のものはこわれていました。かったばかりのオルガンは、ちゃのまにたおれていました。おとうさんにおこしてもらってならしてみたらへんなおとばかりで、いいおとがでません。せっかくちよきんをためてかったばかりなので、かなしくなってなけそうになりました。でもうちではみんなぶじだったので、うちばかりではないと思ってあきらめました。ぬれた力バンや本はあらってこたつでかわかしました。四日めからうちのにかいでねましたがでんきがつかないので、またつなみがこなければいいなあとおもって、しばらくねむれませんでした。
おいしかったたきだし
つなみのあさ、おかあさんはとうさんにおこされ、わたしはかあさんにおこされ、つなみだときいてびっくりしてしまいました。わたしは、くまちゃんをだいてにげようとしたら「はやくふくだけきてにげなさい」といわれてにげましたが、わたしは学校のことをおもいだして、「ランドセルをわすれた」といってないていたら、かあさんが、どうぐをみんないれてランドセルをもってきました。わたしたちは一ばんたかい、かもじんじゃになみにおっかけられながらにげました。
二かいめのつなみのとき、うちがつぎつぎにこわれましたわたしたちはじんじゃの上で、たきだしのおにぎりをたべました。とてもおいしいおにぎりでした。みんなでおにぎりをたべながら、うみをみました。またくるかとおもってしんぱいでした。
おとのしないつなみ
わたしたちがねていると、なんの音もしないのに、つなみがやってきたので、わたしは「つなみなんかうそだ」とおもっておきたのですが、ふくをきたときにはもうわたしのうちの中には水がきていました。わたしはおどろきました。そとにどうにげたらいいのかわからなくなりました。わたしはうちの人と、ぐるぐるまわってうらからやっとそとにでました
わたしのうちはせんろよりひくいところなので、うちの中にきたない水がどんどんはいりました。ものおきがそのままながれていきました。にわとりも二わしんで、かわいそうです。はともしんでしまいました。でもわたしたちのかぞくはみんなたすかりました。うちの中はドロンコでくさくていやですが、みんなたすかったからわたしはよろこびました。
おとのしないつなみなので、まだねていたままながされた人もいます。おとのしないつなみはなんとわるいんだろう。あとはこなければいい。つなみのために、たくさんの人がしんでわたしたちの町の人はすくなくなりました。
どろだらけのふく
なんだかそとでさわぐので、ぼくのとうさんがかいがんへいってみて、うちへけねてきて「つなみだ、はやくはやく」といいました。おかあさんはみんなをおこしました。ぼくたちはいそいでにげようとしましたが水がきていたので、にかいのやねにのりました。となりのにしきやに、とうさんがぼうではしをかけて、それをみんなでわたって、にしきやににげていきました。田中ににげていく時、ぼくは石にひっかかり、ころびながらはしりました。
ふとんもふくもどろだらけになりました。ふくを川であらっていっぱいほしました。よごれたふくはくさかった。学校でもらったふくをきました。べんきようどうぐももらったのでよかった。
はやくうちにかえりたい
おかあさんとねていたら、よなかなのにバスがうるさく音をならすので、ぼくはうちの人とおきてみましたら、つなみだったのです。
ぼくはびっくりしました。とうさんにおんぶして、せんろまではしりました。もうどうろには大きなふねがあがっていました。そっちにも、こっちにもふねがあがっています。ぼくはおかあさんと、けいさつの車で、水のこないじの剰りにいきました。こんどはだいがおかにうつりました。
水がひけたり、ふかくなったりして、おうちがたくさんたおれました。ぼくのうちもぜんぶこわれてしまい、おかしもドロンコになったのでうられません。ばあちゃんがめんまりおそいので、みんなでしんぱいしました。ぼくのともだちのばあさんはながされてしんだそうです。
ぼくはこんどはひころいちという町にいくことになりました。はやくうちにかえりたいけれど、すっかりこわれたからだめです。うちの人がみんなでなおしています。
はじめてみたつなみ
おかあさんに「つなみだから早くおきろう」といわれました。そしてぼくはいそいげ。」ふくをきて、おかあさんとうちをでました。ぼくのうちまではこないけれども、そとにでたらあっちこっちから「たすけてー」というこえがきこえてきました。たかいところで見いてましたら二三かいなみがひけたりたてたりしているうちにふねが二そうてんぷくしながらながれたり、うちがながれている人たちがそれにすがりながら「たすけろー」とさけんでいるのです。そのうちにぼくのおとうさんはひとしくんのねえさんをずぶぬれのからだにごみのついているからだをおぶってうちに入ってきました。
ほんとうにかわいそうで七た。火をもしてきものをとりかえさせて、あたためてやりました。、またおとうさんはたすけに外へ出ていったのです噂ぼくたちは大じようぶだから馬ストープにあたってぬれてくるみんなをあたためてやり虫した。ーをれからややっとなみがこなくなったころに、また外に出て見たら山のくらい宣いもくやらうちのこわれたのやらあっちこっあから、しん泥人がどんどんあげられておりました。みんな、なき煮がち見ています。ぼくもすこしなきました。そして見ているうちに5とうくから歯みまいの人たちぼ一つぱいきてくれました。なにかの、みまいひんをしよってきました。ぼくのうちはひがいがないからお見まいの人ばかりきたのです。ほんとうにはじめのつなみで、つなみはこんなものかとおどろきました。夜とこに入ってもねむられませんでした。つなみは「またもくる」といってみん煮さわぐのですにどとこういうことはいやだなあとおもいます。
おそろしかったつなみ
あさ、わたしたちがねているとき、うえの人がきて「つなみだ」といったのでわたくしたちがいそいでふくをきた。学校でつかうものだけもってにいちゃんがふとんをあげてにげた。おとうさんがかいしゃへいった。おかあさんがおじいさんのうちにいってふとんをあげてにかいにいったら、おかってにみずがどんどんはいって、おかあさんたちが、にかいにあがっていたらみずがにかいにあがってきたので、おかあさんやおじいさんや五人でやねでニじかんぐらいいました。ずっとあかさわのでんわきよくのとこやさんのやねで、はしごをかけてもらってせんろのところをまわってきました。わたくしたちがおかあさんがしんだとおもって、しんぱいしました。おかあさんが、ずぶぬれになってきたのでみんなよろこびました。えつろさんのいえでおふろをもらって、きものをとりかえました。またつなみがきてじんべやでごはんをたべました。どうろのまんなかにやねやなにかがたくさんながれていました。わたしのうちのすぐ下のたんぼまでみずがきました。わたしのほうはだいぶかたずけたけどしようぼうの人たちが、まいにちかたづけかたにあるいています。つなみでうちをこわされた人たちはまいにちとなりのひろばにとまっています。おかあさんがまいにち、,かたづけにいっています大ふなとの町はすっかりきたなくなりました。はやくもとのような町になればいいと思います。
めちゃくちゃになったうち
おかあさんが、「つなみだぞ」とわたしたちをおこしました。わたしたちは、おどろいてふくをもったままにげました潟とうさんはもりおかへいっていません。おかあさんは、ふとんをだしたり、にもつをだしたりしました。きんじよの人たちも、にもつをだしてくれました。水がきたのでみんなたかいとこるににげました。なみが、ざっとよせてにげているちかく皇できました。こんどはひけていくとき、うちのとやがらすなどみんなこわれてしまいました。かあさんたちはそれをみてないていました。水がひけてから、みんなしたへいったらすっかりめちゃくちゃになっていました。
わたしたちはまたくるとたいへんだと、てるこおばちゃんのうちへい倉ました。六日もうちへはいられないので、ともこのうちでとまりました。うちではすっかりしごとをするどうぐや、鳶かいがなくなっておとうさんも、おかあさんもがっかりしています。
あふれあばれる水
四時半ごろまだみんながスヤスヤねしずまっているうちにまえださんへ「つなみだ」というしらせのでんわがきましたそれをきいたペンキャのおじさんが「つなみだつなみだみんなおきろ」とマーケットじゅうさけびました。ぼくは、はねおきてふくをきました。それからえきに行きました。するとおとうちゃんが「はしづめにいくから台が岡にいってろ」とおっしゃいました。ぼくたちはいそぎ足でせんろをわたって台が岡に行きました。すると、とつぜん海があっと思うまにどんどん川にいってまたその水があふれて町のほうにむかい「ゴーゴー」とものすごい音をたてて流れてゆきます。
おとなの人たちが六人ぐらい町の中をうろうろしていました。ぼくは気が気でありませんでした。あちこちに、にげたときたちばな屋の前を船が二そうやってきました。タンスが「グラッ」とゆれたかと思うとガラスどが「ガチャン」とかけました。ぼくたちはあぶないので大いそぎでにげて高い所で見ていると、波が「ザー」とひいていきました。すこしたつと肉屋の人がきました。みんなとつなみの話をしているとさかなやのおばちゃんがきました。そしてふろしきをひろげてパンやおかしを出しました。「さあみんなたべろ」といわれました。ぼくがたべないでいると「まあぼっちゃんもたべろ」^いわれました。「はらがいたいからたベたくない」といいました。つなみもおちついたようです。ねえちゃんが「だいじようぶだから」といったのでおりてい登ました。やえ干ちゃんのうちへいってあそびましたがうちのことがしんばいでたまりません。きようはやえ子ちゃんのうちでとめていただくことにしました。みたこともないつなみに一回あってお聴ろしいことがよくわかりました。二どとつなみがこないよらにと、思っています、
ぼうし
いとうさんの人がきて「はいきゅうですよ」と、いったのでぼくは、走っていきました。いくとまだならんでいません「なんだならんでいない」とおもいました。ぼくはならびました。ぼくはじぶんでいいのをえらびました。ふくやズボンやえんぴつの中にねずみ色のぼうしがありました。ぼくはそれをみてうれしくなりました。ぼうしがなかったのでとりました。まい日、まい日そのぼうしをかぶっています。学校でもかさ、ノート、ふでいれなどをたくさんもらいました。とてもうれしかったです。ぼくはどこからきたのだろうと思いましか。ぼくもこまった人たちがあったらなにか送ってやろうと思います。ぼくはみんなからもらったためになにもこまらないで勉強をしています。ながされたぼくのうちもだいくさんや、とうちゃんたちが造りなおしました。いまでは食ベ物やくだ物のみせをやっています。
しんばいだったとうちゃん
「つなみ」と言う声をきいて、びつくりしておきました。おかあさんたちが「じしんもゆらないのにつなみがくるなんて、へんだなあ」と話をしている。いそいでランドセルをもって、にげるよういをしました。「じゃみてくるからなあ」といって出ていくとまもなく「なみが倉・たすぐにげろ、さかい屋のにわを通ってにげろ」と、とうちゃんがさけびましたかあさんとふたりで上の方ににげましか。えきまでいって「だいじようぶだろう」と思ってやすも5としたら「またきたー」と言う声でえきの高いところからボンと、おりてかけだしました。かあさんと、手をつないで、ひよっと右をみたらだいぶおかのほうから、水がどんどんながれてきます。わたしは「とうちゃん」と言いながらなきだしました。かあさんに「なくな、だいじようぶにげたから」といわれてもしんぱいでしんぱいでたまりません。それから高い所高い所とにげていきました。そして、ちばたけお先生のおうちへいきました。下をみると、うちや、はこや、どろだらけになったきれがたくさんながれています。わたしのうちもながれたかなあと思ってしんぱいです。うちと一しよにオルガンもながれたかと思うと、かなしくなりました。「オルガンがながれた」といってないたら「なくな、またかってけっから」としかられましたが、あきらめられません。
かあさんは、とうちゃんをさがしにしたのほうにでかけました。かあさんもなかなか、かえってこないのでながされたのかと思ってかなしくなりました。しばらくたってかえってきました。「あっかえってきた」と思って走ってきました。「とうちゃんは」とききました。「あわなかったけれど、さとう先生にきいたから、だいじようぶだ。あんしんしろ」といわれましたが、だいじようぶだときいてもなかなか、あんしんできませんでした。
おしよせてきたなみ
わたしたちは、ぐっすりと、ねていました。まどが「ガラッ」とあきました。なんだろうと思って、かあちゃんがおきたら、となりのばあちゃんが、「はつ子、つなみがくるぞ」とあわてて、いいました。わたしばびっくりして、いそいでにげるしたくをしました。わたしは、みち子をおこしましたみち子は「えーん、えーん」となきながら、おきてふくをきました。こうきはかあちゃんのせなかに、おんぶしていました。わたしたちは学校の本をいそいでだして、もっていこうとしたらかあちゃんが、「そんなのもってるときでねえや、水がきてしんでしまうぞ」と言ったとき、外で「水がくるぞう」という声がしました。わたしたちはむ中でにげました。みんなも、ガヤガヤ、さわぎながらゆうえんちにはしってきました。あぶないと思ったので、またかもじんじゃにむかってはしりました。にげてきた人でいっぱい味ました。かいだんにあがって見ました。なみはひらやまクリーニングまで、おしよせてきました。クリーニングのまえで、ゆかたをきた人がなみにおいかけられています。中学校の方へどんどん走っていってたすかったようです。なみはどんどんよせて来ました。おそろしくなって急いでかいだんをのぼりました。わたしは、しんぱいでうちの方をみたら、しみずりよかんの二かいが、バリバリこわされてうのうらびよういんまで、ながされていきました。わたしのうちは、やねだけみえたので、大じようぶと思いました。りよかんにとまっていた人がずぶぬれになって、上って来ました。「たすかってよかった」と思いました。なんかいもなみがおしよせてくるのが、はっきりみえました。つなみって、おっかないと思いました。下でうろうろしていた人たちも、早くじんじゃにあがってくればいいOにと思い豪した。大きた石のそばにいて、「からすがしんだと」ないている人もありました。たあぼうはどうなったかと、しんぱいしているとたあぼうとかあさんが、いそいで来たのでホッとしました。男の人が、「もうだいじようぶだ」といったのでわたしたちは、田中のしんるいに行きましたうちがどんなになっているかなあと思いながら、みんなでうちへ行きました。うちへいったら、どだいがはずれていまにもたおれそうになっていました。中をちよっとだけみたら、まっくらでした。うちをみたら、むねがドキドキとなって、おそろしくなりました。
かあちゃんどうなったべなあ
朝、おきてみると、ワーワーと、さけび声がしました。「つ波だー」とみつえねえさんがさけんだので、わたしはにかいのまどからとびおりました。とびおりたとき足が「キク」となりました。いたいのをがまんして、わたしたちは、きようだい四人でにげました。「かあちゃんどうなったべた」と見ていると、みるみる波がわたしの家までよせてき更した。わたしは、「かあちゃんどうなったべな」と、こころの中でなんかいもなんかいも思っていました。
こわしては流しぶっつけては流し…
わたしはおとらさんに「大津波だ」といわれて目がさめました。びっくりして、すぐ起きました。しんちゃんが「おかあちゃんおっかにゃー」とおかあさんにすがりつきました。わたしは、ねまきをぬいでふくをきようとしましたが、なかなかひもがとけませんでした。手がぶるぶるふるえました。おかあさんが「さむいから、ふくをいっぱいきなさい」といいました。わたしはスヵートの上に、ズボンをはきました。おとうさんが、ながくつをだして、「早くはきなさい」といったので、いそいで、ながぐつをはいて外にでました。自動車や人がにげてきて道がいっぱいでした。しんちゃんが「かもさまさいくう」といったのでいそいでかもさまに登りました。ヤサ子ちゃんにあいました。ヤサ子さんは、スヵートをはんたいにはいていました。上からみるとひら山クリーニングの所まで水が来ていました。家なんかこわれてめちゃくちゃになっていました。いままでの町とはすっかりかわっていました。にげてきた人たちは、あそこはどこで、あそこはだめだとか家がながされて見えないとか、みんなさむくもないのにぶるぶるふるえていました。ないているおとなもいました。少したって町の方から人が、きゅうにもどってきました「津波」と思いましたが、ちがうのでほっとしました。
海にうかんでいたまるたがこっちの方へ来たように思いました。するとお偉さんが「京子またつなみがくるよ、海にうかんでいたまるたがこっちの方へくるから」といいました。わたしは「津波はどんなにしてくるの」というと「いまくるから見ていなさい」といったのでみていると「津波だぞ」というのでよく見ると屋ねに上っておりない人が四、五人いました。なみがくると二人大いそぎで水をこいでにげていきました。津波はこわした家をぶっつけてもっていくようなかっこうで家にぶっつかりぶっつかりしてだんだんこわしていきました。わたしはもと、でんわきよくの前にいました。バスや自動車がたくさんとおってあぶないから川らにきたのです川らにこなかったらおしまいだと思いました。
わたしは朝ごはんをたべてからおかあさんがしっている人の家におみまいにいくのどいっしよにいきました。川の所までいくとみんなどうのついたものをあらっていました。みちも人とよごれたにもつとこわれたいえで、あるけません。いえの中もどうでいやなにおいでした。おかあさんが「京子こどもはあるけないからうちへかえりなさい」といわれもどってきました。どのいえもよごれたにもつをもっていそがしそうでした。
ぶるぶる足がふるえた
朝早く、さいれんがなったので、わたしはおかあさん、「どうしたの」と聞くとおかあさんが「火事かな」といって二かいへ上っていきました。わたしはおかあさんのあとをおって二かいへ上っていきました。わたしは「どこの火事なの」と聞くとおばあさんは「つなみだよ」といいました。わたしはびっくりしていまにもなきそうになったら、おじいさんが
「せんろからこえてこないよ」といいました。ずっと臭ているとさとるちゃんのおとうさんが「つなみがくるぞう」といいながらわたしのうちにきました。「早くふくをきてにげろ」とさとるちゃんのおとうさんがいいました。わたしは足がぷるぷるとしてきられませんでした。かもさまへ上っていてもわたしのうちに水がはいるかと思ってむねがどきどきして見ていられませんでした。
みんなが「ぴけたぴけた」といってさがっていくのでわたしもさがっていきました。そしてうちにいってみたら、がやがやしていました。すさきの人やマケットの人がうちに水がはいったといってきてい血したそしておびるを食べてからあそびにいったらどこかの人がきよう一日つなみが来るといっていましな。わたしはおかあさんに聞かせました。そうしたらおかあさんがわたしたちの組でひとりにげおくれてしんだよとわたしにきかせました。わたしはびっくりしました。それからわたしは「早く学校にいってみたいなあ」と思いました。そして話を聞いていたらまた来るぞうという声がしました。わたしはさいれんがなるとふるえてわかりませんでした。つぎの朝わたしがおきるともうおじいさんやおばあさんがおきていました。おばあさんは「じしんがないつなみはないよ」といっていました。わたしはこんな大きなつなみを見たのは、生まれて、はじめてです。わたしはつなみがどんないきおいできたりするかわかりました。つなみでうちをながされたり、おとうさん、おかあさん、きようだいにしなれた人はほんとうにかわいそうだと思いました。
にくらしいにくらしいつ波
朝四時半ごろおかあさんが、にいさんの学校の学りよくテストが、あるのでにいさんをおこしました。するとサイレンがなったので火事かと思って、空ばかり見ていました。そしておかあさんが、「つ波だよつ波だよ」といったのでびっくりしておきました。「ほんとうかい」とおかあさんのほうをみていいました。そして、わたしは、かもさまにいってみました。すると町のほうの家はめちゃめちゃでした。わたしはこんなに家がたおれたり、水びたしになったのをみて、大ふなとにみよりのない入は、どうしたらいいのだろうと考えました。わたしの組の人も死歳なければよいなあと、思いました。それからおひるすぎころともだちが来て「町のほうへ見にいくべ」と言ったので見にいきました。するとせんろのむこうの方に白分の家のいたをひろいあわせてまるたの上にすわって、かなしそうにしている人もいました。わたしはほんとうにかわいそうだ志思い全した。つ波でやられた人にとってはこのつ波はにくらしいにくらしいつ波だったでしよう。この大ふなとはみんなで助けあえば、きっともとの大ふなとのようにきれいになると思っています。おそろしいつ波はわすれません。そしてしばらくの間学校は休みでした。休みがおわって学校へ行ったら、歯ようとう先生が死んだ人の名前をいいました。ざんねんなことに石川けんじさんの名前もよばれました。そしてかんな野手を荊にくんでもくとうをしました。けんじさんが死んだ時けんじさんのおかあさんはどんなにかなしかったでしよう。このつ波はわたしたちの心の中にいつまでものこるでしょう。
いとこの死
朝、サイレンが、なったのーでぼくは、「どこかじだ」と、きくと、かあさんが、「そんだからわがんねやんだ」と、いいました。そしてすこし空をみていると、しゅくろうちゃんの、とうさんがでてきました。するとかあさんが、「どこかじだってす」ときき豪した。そうすると、しゅくろうちゃんのとうさんが「つ波だと」と、いいました。ぼくは、すぐふくをきて、ランドセルにどうぐをいれて、すぐ川をみると、一かいきたあとがありました。すると、とうちゃんが、「こりゃほんとのつ波だ」と、いいました。ぼくはずうっと、川をみていました。するとドドドッと波がきました。ぼくはゆきおちゃんたちとにげました。ぼくはばあちゃんがこないので、しんだんではないかなあと恩いました。そして、しばらく見ていると、ふみ子がきて「ばあちゃんがしんぱいしてたそしと、いいました。ぼくは「どこにいだ」ま、きくと「かあらにいだ」と、いいました。ぼくはよろこんでかあらへいきました。そしたら、ばあちゃんが「としろ、しんだと思ったが」と、いいました。そしてしばらくζたつに、あたっていると、とうちゃんが「タイヤやで、みんなしんで、かあさんばかりのこったっつが」といいました。そしたらばあちゃんがなきそうになりました。「ごっこもよしかずもしんだの」と、ばあちゃんがききました。すると、とうちゃんが、
「うんだど」といいました。ばあちゃんが「きのうまで、げんきで、やきゅうしてぱたぱたあそんでいたのになあ」となきながらいいました。ぼくもなきたくなりましたが、がまんしていました。ぼくは、こうこや、よしかずがしんだとは思えません。
こわかった
朝、目をさますと、おかあさんみたい声が「ばぼちゃん、あら大きいの」と、二かいのほうからきこえました。だれかが、かいだんをのぼっていく音もきこえました。わたしは、なにが大きいのかわからないので、【,なにが大きいの」ときくと、おかあさんが、「つ波きたんだがら早くふくきらい」と、言いました。わたしは、つ波とおかあさんが言ったのでびっくりしていそいでふくをきました。おかあさんが、順子をおばあさんにおぶせて、「そこでまってらい」と言いました。それですわってまってたら前のうちのたか子ねえちゃんが、はしりながら、「たんぼまできたよ」と言って、にげていきました。わたしは、にわに出て見るとほんとにきていました。おかあさんが、「さきににげてなさい」と、言ったので公子ねえちゃんたちと、いっしよににげました。
つ波をみていると、せつ子おばちゃんが、よう子をつれてにげてきました。よう子のうちはうみのほうにあるのでこわれました。せつ子おばちゃんが、よう子のうちのおとうさんたちと、いえのほうにいったのでよう子は、わたしたちのところにいました。うちでは、でんわきよくの人たちがきていました。あとから二かいぐらいきてあとは、きませんでしたよるになって、ねるとき、つ波がくるんでないかなあと、思ってねられません。でもあとからねむってしまいました。わたしは朝おきると、よるつ波がこなかったので、あんしんしました。
かわりはてた家
二十四日の朝とつぜんサイレンが、なりひびきました。その音といっしょにそとの方が、ガヤガヤして来ました。わたしはびっくりしてとびおきました,するとお母さんが「よう子か、つなみだよ」と言うので、わたしば、こわくてくつ下も、はかずにうろうろしていました。みんなと、いっしよに山の方に、にげました。やっと、となりの、けい子ちゃんたちが、しっている山の家に、おちつきをした。
朝ごはんも、いただきいろいろおせわに、なりました。波も、しずまったので、下の方に降りて、行きましたら家は、かわりはてたお家になっていました。お母さんな、「これから行く所もないのよしとさびしそうに官いました。それにもかかわらず、弟は、うたをうたっています。わたしは、弟がにくらしくなりましか。こんな時に、お父さんがいてくれたらと思いました。でもわたしたちよりも、もっとふこうな入が、いると言うことが、よくわかり虫した。
町は、かわりはてた家になって、木やまるたが、ながれていました。このすがたを、見て、わたしはつなみがにくらしくなりましたわたしたちは、お母さんと、しっている家に行きました。でも、へやがせまいのでお母さんとはなれて行くことになりました。お母さんの身を思いながら弟と昌人で下ふなとの家に、行きました。つぎの日お母さんのいる、所に、行って見たらお父さんが、帰っていました。わたしも、弟もうれしくなりました。はいきゅうも、みんなからもちいました。やっとよその家を、かりる癖になりました。お父さんはさかを、なん回もあがったり下りたりするのを見て、わたしは、ふねから帰っで来てやれやれと思ったらこんな事になってしまって、お父さんが、かわいそうになりました。
学校で、もうふにくるまってねている入よりも、わたしたちは、ありがたいと思わなければいけないと恩いました。もう二度と、こんな事が、おこらないでくれればいいと、思います。
夢にまでみた
つなみがくるとはおもわなかった。わたしはいつものように学校のどうぐをそろえて、ぐっすりとねむってしまいました。四じはんごろ、わたしは、目をさましてから、瓦分ぐらいしていると戸を、「あけてください、つなみです」といいました。わたしはびっくりして、あけました。そしたら、「早くにげてください、つなみですよ」わたしは、「おねえさん早くおきて」といっておこしました。それからいそいでふくをきて門をでたら、せんろの方から、人がいっぱいきました。そして、「なみがいまくるよ、早くにげろ」といって、みんないっしようけんめいに、にげました。ようやく高い所に行った時、みんはホットした顔で、いきをハーハーさせていました。そして、一時間もたったころ「あっだれかがしんでいる」とおとなの人がいいました。だれかがザイモクをとってみたら、「どうだらけになっているわ」と、となりのおばさんがいいました。「だれかしようぼうしよの・おじさんをよんできなさい」といったので、わたしは「うん」といって、よんできました。しようぼうの人は「おてらへはこんでいこう」といって、はこんでいきました。それからまもなくみんなてつだいにきました。おとうさんがまちの方をみにいきました。
八じごろ、おとうさんがかえって来て、「ただいま」といって、「とても町は、やられているよ」といって「おやすみ」といったので、だいどころに、もうふをしいてぐっすりとねむりました。わたしはねてから、つなみのゆめをみました。
家が紙みたいにこわれる
わたしがよるねているとサイレンがなりました。すると、バスが中学校の方へあがってきました。わたしは、パスがあがってきたのでバスがいしゃがかじだと思いました。まもなくすがわらはいしゃの人たちがタクシーでにげてきました。それから、みんなが「つなみだっ」といいながらにげてきました。わたしは、こっちまでくるとおもって、さきちゃんと中学校へあがりました。そしたら、なみがもくもくときました。うちなども、かみみたいにとられていきました。おかあさんはふろしきにようふくをつつんで、えんがわにおきました。みんなようふくも、ずぶぬれで、はしってきた人もありました。するとあいこちゃんが「きよう、学校休みだって」まいいました。わたしは「そうだと思ったよ」つなみの日はおにぎりをたべていましたので、はらがへってきました。わたしは、でもがまんしました。
つなみはひいたりいったりしてなんかいもきました。ひるごはんをすぎて、おとうさんが「町を見にいかないか」といったので、「いく」といいました。町にいってみると、やねばかりあってなにもないうちもありました。みんなぜんめつのところもありました。それからぐるっとまわって、おみせのところにきたら、おみせの人がオレンジジュースをくれました。わたしは、「どうも」といってもらいました。そしたらみんなが「つなみだー」といってにげてきました。わたしは、いちばんさきにちい子とふたりでにげました。やっとうちの近くまでにげてきたらみんながあそんでいたので、「またつなみがきた」といいました。おとうさんやおかあさんもあとからにげてきました。おかあさんが「あとはしたへいくなよ」といったのでうちの近くであそんでいました。
しんぱいでねむれなかった
たくさんのいのちをうばっていったつ波、ぼくは、にくらしいと、思います。つ波がきてにげる時、ぼくのからだは、ドキドキなってわかりませんでした。かもじんじゃの方へにげていきました。かもじんじゃには、にげてきた人たちで、かいだんがうずまっていました。ぼくたちもおかあさんと、かもじんじゃのけいだいにやっとあがりました。そこからは町のつなみのようすが、よく見えました。木やいろいろなものが、ものすごいいきおいで流れ、ぶつかりあって、家はどんどんこわされていきました。赤ちゃんが大人の人に、たすけられました。ぼくたちはだまってそのようすを見ました。どこかの、おばさんが、にぎりめしやたくあんを持ってきてみんなに、くれました。とても、おいしかった。それから、おとうさんたちは、ざいもくをわたりながら家に、さきにきていました。家の人がみんな集りましたので、あんしんしました。それでも家の中は、かベがはがれてめちゃくちゃとなり、へんなにおいがしていました。崎浜のおじさんや、おばさんがさっそくきてくれて家のかたづけをてつだって、くれました。それから家の人たちは、しゅうりでいそがしくなりましたので、ぼくば崎浜に、あずけられました。しばらくして家に帰ってきましたが風で、まどがガタガタゆれてもまたつなみではないかと、しんぱいで夜もゆっくり、ねむれませんでした。ほんとうにつなみは、いやです。
わたしのうちをつぶしたつなみ
わたしたちはねていましたが、もうおかあさんはおきていました。そーておもてのあまどをあけるとすぐほうきをおみせにだして水をくみにいってくみながら川をみると水がものすごくたまっていたそうです。おかあさんは「いつもはこんなにたまっていないんだがなあ」とおもったそうです。それからおかあさんがおとうさんと、わたしに「かずこや、つなみがくるかもしれないからおきてみなさい」といい棄した。わたしはドキドキしながら、つくえに入っているどうぐをかばんにすぐ入れて、ようちえんの上に「つなみだ」といいながらのぼっていきました。おとうさんはあべさんのうちに「つなみだ」といいながら、くるまをよびにいきました。そしてもうすこしでつなみがくるころ、くるまはやっとわたしがにげているきころにつきました。その時あべさんが「おくさん、下にあるきものをにかいに上げてきたら」といいましたでもおかあさんは「いのちの方がだいじだもの」といってにかいにあげないでしまいました。おかあさんのいのちはたすかったものの、上ったらながされてしまたでしょう。山の上ににげていって下をみたら、もうわたしの家のかげもかたちもありません。毒さんは「あっ家がながされてない」といいましたが、とうきわたしの家はながされてしまったのです。そのうちに、またとうふやのうちがミリミリとすごい音をたてて、ぴっちゃりとつぶれました。そのとなりの家は山ざきさんのうちで、そのうちのやねの上に、おばあさんとおとうさんが上っていました。みんな「おばあさんがあぶない、うちがつぶれるぞう」ささわいでいるうちにうちがよこになりました。ヒヤヒヤしながらみんな見ていましばがおばあさんもおぎうさんも、ぶじにたすかりました。しまらくしてなみがたきのように、ものすごいおとをたててひいていきました。それから大きな、なみがおしよせせてきました。またもうちがながされる。「またつなみがきたぞう」とさけぶ人。ほんとにわたしは気が遠くなるようでした。つなみがおさまって家へ行ってみるとにもつは、つぶれてびしよぬんでぺしゃんこでした。おかあさんたちは「しようがない」といいました。おかあさんのうちにいってすこしのあいだでもいいからくらしましようといいました。わたしは、かなしくなりました。もう二どとこんなおそろしいめにあいたくないとおもいます。
ぶじだったハーモニカ
朝かあさんが、「おきなさい」といってぼくをおこしました。サイレンがなっていたのでぼくは、とびおきました。ふくをきて、外に出たらみんな山のほうへ、しんぱいそうな顔でかけていきました。ぼくは店いんさんとにげました。川があふれそうだったのでつなみだと思いました。そうと思ったしゅんかん店いんさんからはなれてしまいました。ぼくは、こわくなったのでなにもかんがえるひまもなくスピードをだしてかけましたが、都合よくみんなが近くにいたのでぼくは店いんさんにひっぱられてにげました。ようやく田中のしんるいのうちにつきました。ぼくは、家がたおれるかと思ってしんぱいしました。そうしたらしばらくしてしらせがきました。すざきのほうがすごくやられたまいったのでぼくの家のことがしんぱいになったので聞きました。おとなの人は、「あんたの家はだいじようぶだよ」と言ったのでホットしました。それからは学校が休みでした。ぼくは学校を思い出すとみんなのことがしんぱいでした。つかみのしんぱいがすこしなくなった日、ぼくは家にいって見ました。宏には木や水がいっぱいつまっていて入られなかったのでおんぶしてもらって入りました。ぼくは、つなみの一日間買ってもらったハーモニ力とはしらどけいはどうなったかとおもいましたすぐにかいに上ってみました。ハーモニ力とはしらどけいはぶじでした。ぼくはうれしくてさっそくみがきました。ぼくのつくえもにかいにあったのでぶじでした。あのおそろしいつなみは、あとぜったいこないようにぼくは、つなみとたたかいます。
おそろしかった津波
サイレンがひっきりなしになっているので、わたしは目がさめました。火事かと思っていると、だれかが「津波らしいよ」と言ってげんかんにとびこんで来ましだ。お母きんはびっくりして「早く洋服をふろしきにつつみなさい」と言いました。おねえさんたちは、大急ぎで、いろいろな物存ふろしきにつつみました。わたしも学校のどうぐをぜんぶランドセルに入れてせおいました。カナリヤを助けようとかこのまましっかりと持ちました。あまりあわてていかものですから、わたしの大事な大事なヴァイオリンのことはすつかりわすれて、しまいました。外へ出ようとしたら、もう水が来てしまいました。となりのおばあさんはおどろいてこしをぬかしてしまいました。お母さんが「うらから」と言ったので、死にものぐるいでにげました。高い所、高い所とにげるうちにだんだん息が苦しくなりました。やっとセメントのしゃたくまで来てホッとしました。パジヤマを着て血だらけになった人が、こっちの方に歩いて来ました。わたしは、なんとも言えない気持でその人をじっと見つめました。津波のために死んだ人や、ケガをした人がたくさんあるにちいがないと思うとひまりで目になみだがたまりました。高い所から海を見下すと、大きな船がゆらりゆらりと動いています。青い屋根の家や、か車などが流されて行きます。海のそこが見えるほど水がどんどんひいて行くのでみんなは「また大きいのが来るぞー」と、さけびました。少したつとほんとうにいきおいよくやって来て、白っぽい波がうなっているようでした。
わたしは手足がガクガクしてきました。生まれてはじめて津波と言うものを知りました。みんな青い顔をしています。
お母さんが、「ちょっと行って来るからね」と言ってかけだしたので「波にさらわれたらどうするのさー」と言ったら「おまえのヴァイオリンを取って来る」と言っておりて行ってしまいました。わたしは心配でたまりません。カナリヤがえさをほしいと言うように鳴いたので、そばにあったハコベを取ってやろうとすると「また来たぞー」と男の人が言いながら向こうにかけて行きました。その時お母さんがはあ、はあ息をはずませながらヴァイォリンをかかえて走って来たのでほっとしました。少しおちついてきたので家へかえって見てびっくりしました。まどもなくタンスは、ひっくりかえり、まきはぎっしり家の中にはいって歩くことも出来ません。時訓ばななめになって四時四十五分でとまっているので、この時に水が入ったんだなと思いました。銀行の人たちが来て、手伝ってくれました。わたしたちのきれいな洋服も流されたりどろんこになったり、みんなひどくやられていました。お母さんは青い顔をしてぼんやり立っていました。お父さんが銀行へ行ったまま帰らないので波にのまれたかと思ってドキドキしました。でもぶじであることがわかったので、家の人みんながぶじなのでわたしは一人でうれしくてなりませんでした。わたしたちは、死んだ人たちをはこんだりしているじごくのような道を手も足もまっ黒くしてどろだらけの荷物を運びました。わたしと遊んだむっちゃんが死んだと聞かされた時は、なんとも言えない気持でした。今は何事もなかったようにしずまりかえっている海を見ると、にくらしくなります。わたしは海の近くに家をたてないで高い所にたてたらいいと思います。わたしたちは、これからぜいたくをしないでなんでも大事にしなければもとのような町にならないと思います。
地震のない津波
朝、四時二十分ごろ、太産のサイレンがなりひびきましたあまりながいので外に出て見ると、「津波た」「津波だ」といって加茂様の方に走っていきます。おかあさんが「あや子おとうさん、津波だよ」と言ってたんすの中から、お金をだしてもった。わたしは、学校の道具を持ってにげようとすると、おとうさんが、「なあに、じしんも左いのに津波だのって、あわてるなーあわてるなー津波が来かって、こっちまでくるものか」私達は、聞きいれないでにげ歪した。電気屋の所までくるまおかあさんが「あや子が、脚いから上着をもってくるからね」といってもどっていきました。いいから、さむくないから、はやくにげっぺす。よその人達は、なにももたないで、ぞろぞろとにげていきます。おかあさんが心配なので、私ももどっていきました。ひなんする人達が「水が来たぞ、みんなにげろ」と大きな声で走っていきます。「かあちゃん、水がきたそうよ、はやく、はやく」私と、おかあさんは津波と運動会をするようにむちゅうになって走りましたようやく神社に登って、家の方をふりかえってみたら、もう家の屋根まで水がとどいていましか。どこかの豪が、私の家のどうろの真中に流されて来ましか。「あや子、おらいの家も見えないね」「屋根が見えているからだいじようぶだよ」そのうちに、私の家の屋根も、ほかの家の屋根も見えなくなりました。流されてしまったんだなあ、そう思うと、なみだが出て来てわかりませんでした。よその家も見えなくなり、流されたりしている。とてもとても見ていられなくなった。私は、敵をくいしばった。おかあさんを見ると、おかあさんもなみだをこぼしている。学校の道具も、ふとんも、みんな流してしまった。あの海がとてもにくくてわからない、大人も子どももオイオイないている。たすけろ、たすけうと遠くの方から聞こえてくるような気でした。おかあさん、おとうさんが、ぶじににげたべか、心配下わかりません。そのうちに、盛のおじいさんが、むかえに術ました。おかあさんはいかないといいました。塩じいさんが「まあ、ごはんを食べてからくるべすさ、みんな心配しているからな」といいました。おじいさんの三輪車で盛にいった。おばあさんが、今にも泣きそうな顔をこらえるような顔をしていました。おばあさんになきながら、津波の事か聞かれました。おばあさんが流されて、けがをしないで、いのちがたすかってよかったといいました。
ごはんを食べても、のどをとおりませんでした。おかあさんは、また大船渡に行きました。わたしは、子どもたちのおもりをしていました。でも、とって津波のことがきになってわからなかった。すこしでも考えると、なみだがでてきてだめだった。おかあさんぱ、置輪車に、水びたしになった着物や、せとものをつんできました。「かあちゃん、おらいの家どうなったの」と聞きました。「すっかりびしゃんこになってしまった」といった。「これから、いきなければだめだから、きまましてはだめだよ、なにごともがまんしていくべしね」とおかあさんがいいました。近所の人たちが、なんとおっかなかったがすぺ、ほんでも、いのちばりがたすかっていがったねと言って、よごれた服や着物をおらってくれましたほんとうにありがたいとおもいました。そのうちに、おとうさんも元気で帰ってきました。得難おんちゃんも消防から帰ってきた。おんちゃんのはなしでは、「あや子の家はいいほうだよ、ただつふされただけだから」と言った。とても赤沢あたりが一ばんひどいよ、そのうちにおちついてから、死んだ人やゆくえふめいが大ぜいでてきました。おばあさんは、「あや子、ほられ盛にくれば、みんなに力すけられて、おいしいものもたべられるし、しんるいも、なにもない人はかわいそうだね」。つぎの日も、つぎの日もねとがたずけにいきました。自衛隊の人たちが来て、ほんとうにたすかりました盛に十日いて」また大船渡にひっこしてきました。これからおかあさんをたすけて、がんばっていきます。
なく妹のりえ子
津波が来た、津波が来た、おかあさんが、「あつ子たちは先ににげなさい」といいました。私は、おかあさんたちが、店のしよるいや、ようふくを持ちかけた時、しようぼう車がサイレンをひっしにならし「波が来たぞ、早くにげろ」といいながら、私たちの家の前を飛ぶように走って行きました。私は、「かあちゃんりえこは」と聞くと「りえこ、りえこ」といいながらさがしました。さがしていると、りえこのなきこえがしました。私がびっくりして、そのほうを見ると、りえこが、なきながらパスにのるのが見えました。ほっとしておかあさんにいうと、安心したように、すぐ冠の手をひいてにげようとすると、なみが来ました。私とおかあさんは、死にものぐるいでにげました。とちゅうまで来るとバスが来て「子どもはバスにのりなさい」といいました。バスにのるとおじいさんおばあさんや、小さい子どもたちがたくさんのっていました。その中にりえこがないていて、たくさんの人がなぐさめていました。私が、りえこのそばへいくと、なくのをやめましたが、またなきだしました。私は、なんといっていいのかまよってしまいました。あまり、お母さんのこさをいうので「だいじようぶだよ」というと、しゃっくりをするのをやめました。田中ばしの所へ来ると、おかあさんがまっていました。なみがひいて、おかあさんのあとからついていくと、だい所がこわれ、店の中にはやねがはいっていました私がたるの上にのると、たるがころがり、ころびそうになりました。おとうさんが「子どもは、田中へいっていなさい」といいまました。私たちは下船渡の家にいって、一夜をすごしました。つぎの日、津波のことを思いだし、ごはんがのどをとおりませんでした。私は「もう、津波なんかこなければいいなあ」と思いました。
おそろしい津波
朝ねていると「光一」と大きな声でお父さんがいいましたぼくは、びっくりしておきました。その時、「ウーウー」とサイレンがなりひびきました。お父さんは戸をあけて「つなみだあ」と、大きな声をかけるとどうじに、「ドドー」と水がまくれて家の中に入ってきました。ぼくは、お母さんといそいで二階に上って、となりの「さかいやりよかん」のやねにのぼりました。波は、東映の後の家をどんどんこわしながら、ぼくの家の方へ流れてきます。大きなまるたんぼが、いっぱい流れてきました。「ザー」という音やバリバリという音で、耳が「ガンガン」なりました。ぼくはショックで足が「ブルブル」ふるえています。となりのけいしろう君と三郎君がずぶぬれになって一人ずつグタッとなってやねの上にあげられてきました。二人は、やっとたすけられました。只郎君はくたっと息もできないようになってい血した。りよかんにとまっていたじようばんたんこうのやきゅうのせん手の人が、屋根の上に三郎くんをねかせて人工こきゅうをしましたやっとこ三郎くんが気がついて「お医者さん、お医者さん」とくるしそうな声でいいました。向いの家の人が「助けろ、助けろ」とさかんでいますが、助けたいとおもってもどうにもされないので見ているだけでした。四回目の津波がすんだ時、おとうさんが「次の津波がくるまで時間があるようだからにげろ」といったので、ぼくたちはいそいで下へおりてにげました。水がへそのあたりまであるのでなかなか走られません。津波がうしろからくるかと思うとおそろしくてたまりませんでした。明土のおかあさんのともだちのところにいって少しやすみました。よるは、下船渡のおじさんのところでねました。いつまでもわすれられないつなみ。つなみは「人くいだし評おもっても、とめられないのが「ざんねんだ」どんな大きな波がきても、町がながされないようするにはどうしたらよいかと、ぼくは考えた。ぼくの宝も下はこわされてめちゃめちゃになってしまった。ぼくは、これがらたりないものがあってもがまんしていっしようけんめいに勉強しようと思う。
かあさんはぶじだったが
ぼくはつかれてねていたらかあちゃんが、「つなみだぞ!」といった。ぼくはとびおきて「ほんとかい」といっておおいそぎでふくをきていたら、かあちゃんが「金庫をもってにげろよ」といいました。ぼくは「よし」といってそとにでたら中居のものおきが「ミシ、ミシ」となった。ぼくはこわくなって金庫をおいてにげたが、かあちゃんのことを思ってひきかえそうとしたら。やすんちゃんがむりやりひっばってぼくをつれもどそうとした。その時、波ぱ「ゴウ!」とものすごいいきおいでぼくたちのほうにむかってきました。ぼくはようちえんのほうににげていきました。おおぜいの人がにげてきました。その中でどこかのかあさんが「けんいち!」とよんでつなみがくるほうにさがしにいきました。ぼくばかわいそうでした。おちいさんやおばあさんをおぶった人も多かった。ぼくはぼくのおかあさんがしんぱいなのでもどっていったら、おとなの人が「水がひけるまでまちなさい」といった。ぼくは水がひけるまでまった。水がひけていったので、ぼくは家の方にとんでいった。父ちゃんがはだかになっていた。かず子やみよ干はぶじだった。かず子とみよ子はぶるぶるふるえていました。ぼくはかず子をあたためました。「またきたぞう!」と外で声がしました。たいしたことがないだろうとおも,てみにいきました。そしたら父も波がうずをまいてきました。そのうちにひいてしまいました。かえろうとしたらかあさんがないていました。ぼくはいってみると、むつ子としようにとあゆのやかあさんと、すずきさんがしんでいました。ぼくはつなみはおそろしいと思った。
声をからしてさけんだおじさん
つなみのきたのは午前三時三十分ごろでした。ちょうどとうさんのにいさんが、かにをとりにいったら海の様子がばかに激かしいおもって、すぐかえり私の家をおこしたのでした。とうさんは、いそいで服をきて、マルトにおこしにいって「つなみだ!つなみだ」といっておこしました。とうさんのにいさんは、声をからしてさけんで歩いた。私は、おそろしくて、足がふるえて歩けなかった。私は、あわてないで服をきて、かばんをしよって美奈子だのこうぞうをつれてにげた。二年生のあぺりようこちゃんの家のにわにのぼって見ると、波はかきだなが生きもののようにうごき、どんどんおきにながされていくのが見えた。「私の家がながされないといいなあ」差思った。見ていると、おそろしくて見ていられなくなる。見ていたらかあさんのことがしんぱいになってきたそして、せんろの上をはしっていって見たら、私の家はまだあったのであんしんした。そのうちにまたつなみがきた。かあさんがせんろにいないので私は、かあさんがおぼれてしんだのではないかと思い、泣けてしようがなかった。つなみがいってから、いそいで家にいってみたらおかあさんがいたのでホットした。おかあさんはにげおくれて、おしいれにかくれていたのでした。
おばあちゃんはたすかったよ
朝、かあさんが「外がさわがしいからおきろ」といった。その時は、広光が、いがわるくてねていたので、かあさんはおきてすぐ広光をおぶった。とうさんは、かいがんに海のようすを見にいった。とうさんは、水がだんだん上ってくるのを見て「だめだ、なにもいらないからにげろ」といった。そしてかあさんたちは、せんろの方へにげた。おんちゃんは、はしずめの所をいったので水にのまれて、およぎながら、えきの所におよぎついた。そして、ぼくたちは平山さんの家にいった。そしたら、しようぼうじどう車で死たいがつぎつぎさいこう寺にいった。しばらくして、かあさんも、とうさんも、ほかの人たちもきた。あっと思ってかあさんは、「さちこさんのおばさんがいない」といった。「あっそりゃたいへんだ」と思って、すぐ「としおがいない」と思って、すぐとうさんはみんなをつれて、かけていった。そして、ぼくはだいがおかにいったら、にっさんのふねが、でんわきよくのほうへ水にさらわれていった。とうさんがかえってきたのでぼくは、とうさんに「ぼくのうちは、どうなった」と聞いたらふねがぶつかってこわれたといった。ぼくは、そうおもってぼくのうちの力へいって見ると、うちの形もなく、ぺしゃんこになっていだ。東北きはんせんにいって見ると、おんちゃん」、おばちゃんはどうなった、と聞くとにこにこしてとうさんは、「たすがったよ」といった。ぼくはよかったよかったと思った。つぎの日は、広光のいのいたみもとまりとうさんたちは、ぼくの家のかたずけも終りました。
つぶされていった家
五月二十四日の四時半ごろ、すぎやまさんが「たいへんだつ看みがくるよ」といった。かあさんは「まさ子たちを早くおこしてきて」といった。かあさんは、わたしに「りつ子、早くふくかきろ」といったので、わたしはいそいで、ふくをきた。かあさんが「早くにげろ」といった時、わたしは、うしろをみると、もうかどの所まで水がきている。ねえさんたちは、はしって波とかけっこをしながら、はしった。やすおさんがきて、「早く、おぶされ」といったので、わたしは、いそいで、やすおさんにおぶさって、せんうまでにげた。」やすおさん、もうだいじようぶだね」といっているまに、もう、まるつうの所まで水がきている。
かあさんも、やっと、せんうにあがった。やすおさんは「早く、せんろをおりて、にいぬまのおじさんの所へいっていうかあさんたちをやるから」といって、やすおさんはいった。わたしは、はしってにいぬまのおじさんの所へいって、戸をたたいた。「おじさん、おじさん」、おじさんは戸をあけてくれた。わたしは、いそいで中にはいった。「おじさん、お母さんが」といったら、おじさんは戸をわけて、外にでて、「りつ子、早く、じてんしゃにのれ」といったので、いそいでのった。ふな吉病院の所へいくと、かあさんとにいさんがいたので、「かあさん、ねえさんは」というと「ねえさんは中学校へいった」といった。「かあさん、早く、にいぬまのおじさんの所にいこう」といったら、かあさんは「水がひけたから、家の方を見にいってくる。それまで、にいぬまのおじさんの所にいろ」といって、かあさんは、はしっていったそれからわたしは、にいぬまのおじさんとこにいってから、三十分ぐらいたったら、かあさんがかえってきた。「かあさん、家はだいじようぶだった」ときくみ、かあさんは「どっちもなくなっていたよ」というと、わたしはかなしくなったかあさんが「はやく、ねえさんたちをさがしてこい」といったので、わたしは、はしって中学校へいった。私はねえさんといそいでにいぬまのおじさんの家へいった。にいさんもきていた。やすおさんも、かあさんも「ほんとうにとうきんが一のせきにいっていてよかったな」といった。わたしはとうさんがいたら死んでいただろうね。かあさんは「さあ、あんしんしてねていろ」といったので、わたしたちはねむった。かあさんそこによこになっていた。やすおさんは、リヤカーをかりにいった。やすおさんはリヤカーをかりてきてから「さあ、はやく、つをひろいにいってこよう」とってすきやまさんたちといった。リヤカーでなん回もはこんだ。
にくらしい津波
四時半ごろわいわいと海の方で、さわいでいた。父さんが「なんだ」と言って起きた。その時どこからか「津波だと大きな声が聞えた。ぼくはその声におどろいて起きた。ズボンをはいて服を着ようとしたら、父さんが「みんな早くにげろ」と言ってた。ぼくはランドセルを持って外に出た。父さんが「早くにげろ」とさかんでいた。ぼくはむちゅうで、じゅうたくまで行った。おばちゃんや母ちゃんの家の人が一生懸命になってにげてきた。ぼくの家の所のガードから黒い水がいきおいよく流れてきた。おばちゃんが「もっとにげろ」と言ったので好ちゃん協ちゃん三人でにげた。そうしてじんべい屋に行ったら、もうぼくの家はメリメリとなって線路の所につぶれてしまった。なきたかったががまんした。おばちゃんが「かじ屋に行っておせわになるべし」と言ってかじ屋に行った。父さんがズボンをぬらしたまま立っていた。ぼくは新しい道ろで見ていたら、しようぼうだんの人たち家の屋根にのぼっていた。又おばちゃんにつれられて高い所の家に行った。そこにしろう兄ちゃんと、こうちゃんが血だらけになっていた。死んでしまった前の家の母さんと姉さん二人、ことぶき屋のやさしいばばさんも死んでしまった。思い出すのもいやです。大きな家もみんな流れて何にもなくなりました。にくらしくてなりません。そうしているうちに、よその母さんたちが米やみそ、おかしを持って来てくれた。ぼくはおにぎりをもらった。ほんとうにありがたく思った。
むちゅうでざい木に上ってからやねへ
四時五十分ごろ津波がきました。ぼくはそれをしらないでねていたら、ザザザザ、ザザザザという音がしました。ぼくはそれをきにしないでねていたらゆか下から水が入ってきました。ぼくはみんなをおこしてとをあけようとしたらとがあかりません。おきさんがまどガラスをわったら家の中に水がドッと入ってきました。ぼくはおとうさんにだかれて水をのみながらやっと外にでられました。
ぼくは外を見わ海すとまわりが水うみのようになっていまし海。よく見るとざい木が流れてきました。ぼくはむちゅうでざい木にあがってやねにあがりました。おとうさんが「もっと上にあがうらしといいました。それにさんせいしてみんな上にあがりました。しばらくしてしおがひいてからとなりの東さんがあとかたづけにきました。ぼくはあのザザザザ、ザザザザという音は家がたおれた音だと思うとぶるぶるふるえてきます。
しばらくするとまた小さい津波がくりかえしてきました。束さんもやねにあがりました。しばらくして水がすっかりひいてからおおやさんがきて「また大きい津波がくるから学校にひなんしてください」といいました。ぼくはこうどうにいってふくをきせでもらいました。ぼくがこうどうにいる間小さい津波が二、三回きました。その川におとうさんが、ぬれてない物をもってきました。大津波ガ三時ころくるといいました。
しばらくするとNHKの人がラジオをもってきました。ラジオの二ュースで三時ころくるまいわれた大津波がこなくて小さい津波がくる」いったので安心しました。ぼくは津波がまたくると思もとむねがドキドキします。つぎの日に津波よほうがかいじよされたので安心しました。ぼくは津波がこんなにおそろしいものだまはゆめにもおもいませんでした。ぼくは津波なんかこないといいなあと思いました。
あんなに大きい船も流される
夜中だった、サイレンがなっていたのでびつくりして父さんが二かいにかけ上った。まどをあけて「なにがおきたのですか」と聞いたがだれもにげるのにむちゅになって教えてくれない。ようやく津波だと知ってびっくりして服をもって外にでた。どの人もどの人もにげるのにむちゅうになっていたみち子ねえさんは白をつれて、トヨ子ねえさんは信輝をつれてにげた。ぼくたちはにげたが母さんたちはまだこない。そうしているうちになぎさの方から水が上ってきた。まるでヘビが、チョロチョロとくるようで、家などは水にまきこまれるようだった。はじめて津波を見たがずいぶんおそろしいと思った。からだがブルブルふるえてきた。二回目に津波がきた時せんろをこさないだろうと思っていたらせんろを通りこして公園のあたりのところにぶつかり土がほれて小さいたきみたいになった。たちまち小さなうちは流されちっとしてはいられなかった。ぼくの家からぞう船場まで水のどうろができてしまった。こうずいのようだっか。ひき水のとき船がおもちゃの船のように流されてはうずまきのところにいってぐるぐるまわり又流されていった。あんまりこわくてふるえがとまらない。とうさんも母さんもこなかったが、かもじんじゃのところにいたのでぼくは走っていった。そこでぼくの家の方をみたがやっぱり水にかこまれていた。みち子ねえさんばみているうちにないてしまった。前のところにはどこかのうちの屋根がながれてきた。あんな大きな屋根も流れてしまうと思うぎぼくの家も流されてしまったにちがいたいと思いみてけいられなかった。えきの方も水がこしていた。駅から下の方に流れ出る水はダムみたいだった。うめたてにはセメントのてつ船が上げられていた。「あんな大きな船も流される」と思うと津波というものがすっかりこわくなってしまった。
おそろしかった
朝三時半ごろ、兄さんの「津浪がくるぞ」という声に同をさました。ぼくはもう何が何だか分らないので起きて兄さんに「どうするべ」といったが兄さんは「だまっていろ」といって下におりていってしまった。ぼくは「つなみだ」いうだれかの声にかえってこわくなってしまった。ちようどカゼをひいてねていなければならないのだったが、津波ときくぎ、もうねてなんかいられなくなった。服を着て下へいったら父さんに「二かいに上ってねていろ」とおこられたがどうしてもねる気にはなれないので海を見ていた。水の引いたのがよくわかる。でもこれで津波がくるのかなと思っているうちにうとうとねむくなってきたので床に人った。目をねけるとやすおちゃんが上ってきていた。もう二かいに上ってきていた「大塚さん上ってこうでぱあ」という声に続いておっあっ」というだれかの声。いよいよ,津波だなと思った。急いで外を見ると、大塚さんがリャカーにふとんをつんでにげるところだった。だがすぐにやめてうちの方に、にげできた。そのあとを迫いかけて黒い水が静かにきた。しかしほんのちよっとの間にものすごい高さになった。ぼくの目の前で家がこわれる。コンクリートの電柱が折れる船が陸に上ってきて家をこわしてしまうのだ。家のこわれたのがぼくの家にふつかるのでものすごくゆれる。「けん首をひっこめろ」という声にびつくりして首をひっこめた。電柱が折れて電線ガぼくの目の前に落ちてきたのだ。かいだんの所に来るとあ!四、五だんだそうすると、となりのとうさんが「けんもら溜蘭だ」とゆうので頭はガーンとなったみたいだ、かあさんが柱におびでむすびつけた、ぼくはやんたっと言ってほどいた、まどを見たら水ガ引きはじめたそのとたんメキメキと膏をたてて長屋をこわした水はぼくのばらぐらいだ、かあさんがにげると言ったまどな見たらとうさんがよんでいた。となりのとうさんはあぶないからにげるなと、官う、とうとうにげることになったぼくはカゼでねていたからかあさんがぼくをおぶった、ぼくばかあさんに「ころびあすなよ」と言った。かんな台が丘に上った、しかしとうさんだけがいない二回目がきたとうさんがいはいかあさんがしってる人になんとかとうさんが助かんないかと聞いた、二回目が引いたころとうさんが「オーイ」と言ってきたそしていそいでこピットにのせた、とうさんは津波の来る前にだしていたのだ、そして盛ににげた盛はかあさんの実家だ、盛についた時盛のおばちゃんがよく助かったとないた。ぼくはもう津波が来ると開いだらすぐににげるぞと思った。
いやな津波
朝、外の方がさわがしいのでおきると「津波だあ」と言う声が耳にはいりました。その時は、月ちゃんや妹の美子はもうおきて服に着かえてヵバンに教科書やちよらめんを入れました。わたしは外を見ないでそのままヵバンをもってむちゅになって、てる子おばちゃんの家へかけて行きました。てる子おばちゃんの家は急な坂の上にあるので水げき虫せん。
少したつと本家のじいさんが、せいぞうおんちゃんと来ました。てる子おばちゃんはすぐこたつに火を人れてじいさんをあたらせようとしましたが、心配なのかあんらないで海を見ていました。その時は波の流れが早くてさんご鳥の底がどんどん見えて来ました。かきだるやかきだな、かっこ舟の様な物が、末崎の方へ流れて行きました。行ったと思ったら、だんだんこっちの方へ流れて来ました。すると下の方で、ガタガタとかメリメリと言う音といっしよにじいさんみおばちゃんは「ぱっ、どこがのうちがこわれたんだべが」と言って心配していました。わたしは家がどんなになっただろうと思いながら坂を下っていって線路の上に上がり、かあさんたもの所へかけて行きました。線路の上には家の物をみんな川し終っていました。家を見ると戸が庭や道路にいっぱいありました。わたしは心配ないと思ってまたてる子おばちゃんの家へ行くと、朝ご飯でした。でもわたしは食べたくありませんでした。てる子おばちゃんも「こんな時には食べかくわあな清子」と言い決した。わたしはだまいて海を見ていました。波はあらくなりて末崎の方へもどってい行きます。またこっちへもどってくるんだなと思うとこわいような気持が出ましたさんご、島を見るともうすこしてこっちからさんご島にはしごをかけるのいいように見えました。じいきんたちも心配そらな顔つきで見ていました。津波はまたこっちの方へどんどんおしよせて来ました。今度の波はさっきの波よりも、もっとあらい。線路の上にはさっきより人がいっぱい上がって見ていました。黄色い洋服を着た人やねまきのままの人、着物を着た人がいました。その時ば淡だ朝の八時三十分ごろでした。線路の上の人だちは「ばっ、ほんと「そうだな」「ちやあ」とわたしにはわけのわからないことを言っていましたよく聞くと「みどり屋のこどもと、」うさんが死んだ、ちゃな」とか言っているようでした。わたしはそのことがはん出うだろうかと思っているとまた「みどり屋じゃこどもが二人死んだっちゃっ。かわいそうだな」と言っていました。波がおさまったころわたしはともことさちこちゃんとで海の方を見に行きました。わたしの家の方から大船渡の方へ行くとだんだんひどくなっていました。永井沢のうめたてのへこんだ所には船やかきだな、かきだるでいっぱいでした。ささ崎の所まで来たら盛岡に行っていたとうさんが帰って来てわたしたちに「早く帰れよ」と言ってそのまま家の方へ行ってしまいました。わたしたちもとうさんをおいましたがとうさんは足が早くて追いつけません。しかたなくゆっくり歩いて行きました。家についたのは十二時ごろでちようどお昼ご飯を会べていました。海を見るとまたうごき始めたようでした。わたしはこの津波でひがいをうけない人々からきたごましおをかけたおにぎりを食べながら海を見ていました。かあさんやとうさん、きみちゃん、中村さんが線路にはこんだタンスやつくえ、テレビを、くらへはこんでいました。わたしはとも子の家に行きました。とも子のかあさんやとうさんもわたしの家へ行ってとも子の家にはだれもいませんでした。すこしたってまた家の方へ行くとほとんどくらへしまい終っていました。夕方、てる子おばちゃんの家でご飯を食べているとこうちゃんが「清水りよかんのやねが線路さついだちやな、おらいじゃつぶれなくて、いがったな」と言いました。夕ご飯がすんだのでとも子の家へ行くと、とも子のかあさんが「今日こごさ、とまっていげ」と言ったのでわたしたちはとまることにしました。
わたしと、とも子、月ちゃんとよし子の四人でねました。朝、おきて見ると津波なんかにならなかったように気持のよい朝でした。わたしは朝ご飯を食べて家の方へ行くと戸は流れグラスはかけがらんとしていますしせいろや、たるやきかいに水が入ったりしてつかえなくなったりしていました。わたしはこんないやな津波があとなければいいなあと思いました。
天じょうへにげて助かった
朝、早く兄さんが父さんと母さんとぼくのねているへやへきて「つなみだ」と、いった。その時ぼくはかぜでねていました。父さんはぼくに「ここまではあがってこないからねていなさい」といいました。でもぼくは心配でなりませんでした。しばらくねているとぼくの姉さんが「つなみだ」といってにげていく声がきこえてきました。ぼくはさきに父さんが「つなみがきたらおぶってにげる」と言ったのを思いだして父さんにおぶさろうとしたが門の前まで水がきたのであきらめました。するとどこかの人がぼくの家ににげこんできました。ぼくの家はどうろより家が高いのでその人がはいってきたの下す。父さんは水が入ってくるのでぼくたちとぼくたちのねているへやへ入りました。父さんが戸をしめようとすると水が父さんにかぶさってきました。えんがわのしようじをしめようとするとまた水がおしよせてきて、しようじもこわれてしまいました。今のこっているのはぼくと父さんと母さんとよその人の四人だけです。たたみが水にうくとふとんもういてだんだん上ってきます。それでてんじょうの板をやぶってぼくをてんじようにあげました。その次は父さんがあがりました。つぎはかあさんが上ってよその人が上りました父さんがてんじようまでは水が上ってこないといいました。やっぱりてんじようまでは水は上りませんでした。父さんは「ここから水がひけるのをまってひけたらおりてにげるんだ」といいました。水がひくと父さんがおりて母さんがおりてぼくがおりてよその人がおりました。そしていそいでようちえんの方のしんるいの家へいきました。しんるいの豪でねているとまた「つなみだ」と父さんが言って「二かいでねていろ」といいました。二かいにいくとちゅう時計を見ると九時でした。ずいぶん時間がたったなあと思いました。二かいでねていると父さんが「つなみだ」といったのが下からきこえてきたので二かいのまどから見るとすぐ前まできていたのでびっくりしました。でも家が高いのでそれに水がすこしなのでぼくの家のようにはいってはきませんでした。ぼくが見ているととうさんが「ねていなさい」といいました。そしてラジオをかけてくれました。ラジオはつなみはきよういっぱいつづくもようだといっていました。それから「まんちよう時はとくにきおつけるよう」といっていました。しばらくするとしんるいの家の人がきていろいろききましたが、ぼくはただうんと答えるばかりでした。そうするうちに中学二邸のしんごちゃんがきてぼうえんきようを見せてくれました。ぼうえんきようはよく見えました。で縞ぼくの家は見えまぜんでした。見ているとしんごちゃんがかせといいましたのでやりました。しんごちゃんが「水がぴけた」といったのでいそいでとぴおきて見ました。そうすると向うの方に水がひけていくのが見えました。ようちえんの方を見るといっぱいひなんしていたのが少しになりました。つなみというのはずいぶんおそろしいなあと思いました。
屋根に上がってたすかった
あさ、ぼくがねていた時、町の人が水々というから、おかあさんが外に出てみると、水がえきのほうへ、ながれて行きました。おかあさんは家の中へきて、ぼくや、おとうとや、いもうとをおこして、ふくを着せてからにげようとしましたがげんかんをあけて見ると水がはいっできました。おとらさんが、いもうとをだいてそとに出ましな。ぼくは、おとうとといっしよに、ふろばのほうににげました。おかあさんは、水しといっしよにおしだされました。そして、ふろばの戸を、あけようとすると、ふろの戸があきませんでした。そのうちに水がいっぱいになって、せいがたたなくなりました。すると、ふろばの戸が開きました。ぼくは、ふろばの戸の上にのぼり血した。でも水ほてんじようまできました。ぼくは水の中で目"、つぶったままでした。すると、目の中があかるくなり失した。目を、あいて見ると、首だけ川ていてぼくの前にやねがありました。そのやねの王に、ぼくの家ではたらいている人がいましたので、ぼくば、はたらいている人にあげてもらいましか。あげ、もらうと「おとうとは」と聞くと、おとうとは左,のほうで「たすけろう」と言った。
そして、すぐたすけました。おかあさんは屋根と屋根の間にいました。おかあさんもたすけて、まる通の屋根にのぼりました。激とうさんは、旅館のにかいにのぼっていました。「いもうとは」聞くとおとうさんは「いもうとはいない」と言いました。おかあさんは、ぼくたちをつれてはしごで下にさがりました。そして、おとうさんと、おかあさんとぼくと、おとうとといっしよにしんるいにいきました。その日の夕方、かし屋が碁かりましたので、かし屋にとまることにし染した。夜になりました。ねる時、いもうとのことばかり考えてねられなかった。つぎの日、おとうさんやはたらいている人が、みんなでさがしにでかけた。しようぼうの人たちも出かけた。お志うさんが、いもうとを旅館のうらで見つけた。いもうとの死体は,、どこもきずはついていなかった。いもうとを、かし屋のぼくの家にもっていきました。おかあさんやおとうさんが、いままでいもうとがきてたふくや、着物をきせて、おとうさんがだいて車でおてらに行りか。おかあさんもいったし、しんるいの人もいった。ぼくは、いきたかったとも、おとうさながつれていかなかったが、それからば毎日のようにおてらにばかり、おまいりにいった。おとうさんに「まだおはかをつくらないの」と言った。おとうさんは「もうすぐつくるよ」といった。ぼくは、「はやくおはかをつくればいいな」と思った。おとうさんは、いつもおてらにいくと、おしようさんとそうだんばかりしています。ごはんをたべる時は、おがんでたべます。ぶつだんにもごはんや水をあげます。いちのせきにとまりにいった時もいちのせきのかみさまに、また赤んぼうが生れるようにとおがみます
みんな助かったが弟がいない
朝、おきると「つなみだ」と、お父さんが君いました。私は、汐見橋へ行って見ると水が来てもう、一つの古い橋がこわれて船が、ななめになって水がはいってしずみそうになっていました。ぼくは、すぐに家に帰ると、お父さんが、「ラジオのスイッチを入れろ」と、お母さんにいいました。「カチツ」と、スイッチを入れると、ラジオは、ならないでガガガツとだけでぜんぜんニュースもなにもなりませんでした今のうちにと米なんかを二階に上げました。ぼくは、カベンに勉強どう具を入れていると、お母さんが「津波が来た」といいました。「それじゃ早くにげろ」と、おとうさんがいい決した。警さつの方へにげると、警さつの人が、「中へ入れ」といいました。ぼくはうしろから、波がくるの下けんめいににげました。けいさつの中へ入りました。あとからまたみのり君のお糧さんとまきこさんと、仕事をしている人と三人入って来ました。まどからみているとぼくの家にバスが来て下はメリメリみ、たおれてしまいました。二階はななめになりました。けいさつのまどからみた時、二階からねえさんと、お父さんが飛び出てきました。つぎのとなりの家が、こわれてぼくの家に近ずいてきました。「いまだ」とお父さんがとなりの屋根に飛ぴうつり、次に姉さんが飛ぴうつり次次、ー家々をとびうついているのを見ていると、むねが、かなりドキドキなりて見はいられないくらいでした。ぼくは、かばんを机の上において、またまどからのぞいてみました。こんどのきたのはゆるかった。でも、また二、三回きました。ガヤンとしたので左がわのまどなみていると、お父さんがレンガで神田旅館のまるまどをやぶって姉ちゃんとお父さんが人って行き決した。あとで、お父さんからきいたところ東京から来た若い人が「どうしたらいいでしよう」と、おとうさんに官いました。「ついてきて下さい」と、お父さんが言いました。そうして、権藤病院の屋上に上りました。すると、正一君の家のつぶれた所で「ウウツ」といううなり声がしました。激とうさんは、及川昭二君のお母さんだと思った、たすけようと思って、行こうと思った時、姉さんが「いくな、いくな」と、いってなきました。みんなも「やめろやめろレといった。けれどお父さんは行ってみると、苦しんでいるその人にざい木が首にはさまっていました。お父さんは、ざい木を一つだけとったが、もう一つのざい木はとれないので、吉田さんという人にとってもらいました。みると家のお母さんでした。お父さんはびっくりしました。すぐにもち上げて助けだしました。(ここまでお父さんからきいたことは終り)津波がおさまっている時、福田のおばあさんがやねからみていました。正一くんのおとうさんが水の中を歩いて来まし泥。ぼくは、どぶがあるのであぶないと思いました。すると、ズブツとその人がどぶへ入りました。またたち上ると、けいさつの中へ入りました。しんぞうはかなりドキドキなっていましκ。上ってくると、ふじ沢さんのお母さんが「ズボンをとりかえて下さい」といいました。けれど「いいです」といいました。それから30分くらいたって、みのり君のお恐さんが出ていきました。ぼく一人になって悲しくなってきましπ。また入ってきました。まどから顔を、出すと、お父さんがいました。お父さんが「ちよっとおりてきなさい」といいました。ぼくがおりていくと、お父さんが自分の着物をぼくに投げました。「もっていろ」とお父さんがいいました。それから十分ぐらいたちました。しんるいの、おじさんが「おりてきなさい」といいました。ぼくはおりてきました。そうして、せのさわという所をまがってきました。するとお父さんとお毋さんがいました。ぼくとお母さんと二人で上のおばあさんの所へ行きました。おばあさんの家へ行くと、佐藤病院の先生のほか三人いました。ぼくは、バンをもらいました。「勇は、おぶっていたが死んでしまった」言いましたそれからぼくの話を聞いて「えらいえらい」》佐藤病院の先生がいいました。そうして、夜お母さんはなきながらねむってしまいました。零
波にのまれたかあちゃんと妹
夜明前、おかあさんが「つなみだ」と言って、わたしと、妹と、おばあさんといっしよに、あわててとびおきた。その時は、もう水が、ドーッと一きていた。あっと言うひまもなく、わたしたちはにげまわった。その時、わたしたちの、ねていたふとんがまどのほうへよってきたので、わたしはそこに上った。おかあさんと、おばあさんと、妹と三人して、おべんじよのところへにげた。わたしは、おかあさんたちのほうへ行こうとしたら、上からかべみたいなものが、ズズーときてふさがってしまった。わたしは「かあちゃん、かあち中ん」とさけんでも、へんじはしなかった。その屋根うらから、とうちゃんの声がしたので、わたしが「とうちゃん、とうちゃんとさけんだ。こんどは屋根がおちてきた。とうち雫んは、屋根にあるかわらをはがして、わたしの手をひっぱった。わたしのふくが、びしよぬれだった。とうちゃんが、ねまきをわたしにきせた。とうちゃんが、またかあちゃんたちをさがしにいった。わたしは、とうちゃんに「あぶないから行くな」〜言っても、とうちやんは「ふじ子は、だまってそこにいらいとうちゃんは、ちゃんといるから」と言った。バーマネントやに、かあちゃんらしい人がいると、きやまさんのおばちゃんがいったの一、わたしが「かあちゃん」とよんでみたけれど、ちがったのでがっかりした。とうちゃんもがっかりした。すこしして、ちばさんが、ふとんをもってきて、わたしたちにかけてくれた。しばらくして、とうえいではたらいている、えっちゃんのうちのべっかへいって、えっちゃんのきもので、小さくなったきものをかりて着た。そしてこんどは、ちばさんのうちへ行って、あそんでいたら、おとうさんがきて、きずに、薬をつけてもらい、わたしもつけてもらった。すこしたつと、おきらいのじいちゃんと、まつこおばちゃんが、なみだをながしながら、おべんとうをもってきた。すこしして、とうちゃんが「かあちゃんたちをさがしてくるから、まつこねえさんといるんだよ」と言って、町のほうへむかっていった。わたしは、かもじんじゃへいきたくなったので、まつこおばちゃんといっしよにいった。すこししてまた、ちばさんの家に帰ってきた。まつこおばちゃんが、じのもりのさいこうじにいくかといって、わたしもいった。きようは、バスにのるのが、とくべつただなので、バスにのってじのもりのさいこうじについたら、しんるいの人が、みんなないていた。わたしは、おかしいなと思ってみていた。そして、おくのへやに行って見ると、かあちゃんの死体き妹のたき千の死体が、二人ならんでいました。とうちゃんがないていた。わたしも、その時は、どんなにおどろいたかわかりません。わたしもないた。ぜんぶないた。わたしは、おせんこうを上げた。かあちゃんと妹のたきこに、パジヤマをきせてしょうぼうしゃの車にのせて、とうちゃんも、しよ5ぼう車にのって、わたしとまつこおばちゃんは車に乗ってさきにはおきらいによってから、りようりへ行った。一日一日すぎて、やがておそうしきがきて、おてらに行って、かあちゃんたちをやいて、わたしたちは帰りました。そして、しぱらくりょうりにいることにしたのですが、ええこちゃんたちが、学校にいっているのでたいくつなのです。それにひきかえ、とうちゃんに、しんぱいをかけないようにするということです。だから、べんきようもすすんでやります。かあちゃんたちのことは、すぎたことなのですから、それはわすれて、がんばりたいと思います。
津波の日
津波の日、私は妹と親類の家に泊まっていました。親類といってもすぐちかくです。だんだん明かるくなってきたとき消防のサィレンがなりました。私はじしんもなく津波ということをぜんぜん頭におかなかったので、火事だと思った。規美子、火事だぞ早く起きろ」と、言って規美子を起こしてから急いて服を着させ、私菊大いそぎで服を着た。外に出てみると、みんながぞろぞろとこっちのほうに上がって来ます。大人の人達が「津波だー」といいながらさわいでいるので、私は初めて津波だということを知りました。足のほうから、つめたいものがすーっとのぼってきたようで、じごくに落ちたような気持になりました。消防の人たちは、みんな消防ボンプ小屋の所に集まっています。「海岸を見てくる」と言って消防の人達のあとについていく人もいます。規美子といそい弓『で家に行きました。「ここまでこないから」と母さんが言いました。父さんが「本家さ行ってばばさんを連れてくるからな」と言いながら、下のほうへ走っていきました。本家の家は、海のすぐわきになっているから、台風や波があらいときは、とてもあぶないのです。こんどは津波だというからたいへんです。母さんと規美子と私とが外に出て本家のほうをみていました。すると本家のおんちゃんが、ねまきを、着たままおびと服を持って走って来ました。私が家にくるとすぐ二階に上がって服を着かえて、またすぐもどっていきました。ばばさんが私の家には来ないでうわむかいの畑に行きました。あとから規美千といっしよについて行きました。畑にはみんなが集まって黒山のようになっていました。みんな心配そうた顔下海のほうをみてい棄した。畑の上からば海の方がよくみえます。海々、みると、さんご島のまわりの海の水がい束までに私が見たこともないように潮がずっとひいていました。海がまっくろくなって、うすきみ悪く思います。かきだなやたるやさん橋のこわれたのやかきむきばの屋根がぴっくりかえったりして、木ぎれのようになって流れていきます。円畑といううちのばあさんが、線路の上でみていてたむれてしまい染した。みんながよってだきおこしてあげました。きっとおどろいたのでしよう。そのとき、大人の人津、が「これは大をいのがくるかもしれないぞ」といって見ていました。私は津波を初めで見ました。だんだんみちてきました。みんなしんけんになって海の方を見ています。「おらいの家が流されてしまう」といってないている人もいます。海の水がたいこのようにまるくなっているようでした。「あふれるっ」と思ったのがあふれないで、こんどばだんだん静かにひいていきます。速い速さで、細浦のかへひいていきます。うしろにいたばあさんが、「これあむかしの津波と同じだ」と言って海をみつめています。私は津波というのはなんだかのろいように思い吏した。そしてまた、海をみるとまたいつぱいになってきています。「母さんや父さんはいいべか」と思いながら、また冢にいってみろと感うとくちゃんの家のところ染で水がきていました。家の中に入って「母さん、とくちゃんの家吏で、もう水がをたよ」と言うと母さんが外に出ました。とくちゃんの家の庭には、てんば船が二そうもうかんでいます。庭まで水がくると、すぐ前の田に水が流れてきました。母さんはここまでくるんじゃないかと思ったのでしょう。私達に「早く線路の上ににげろ」といいながら、前の方をみています。畑の上に上がって見ていると、家までくるんじゃないかなと思った。まもなく母さんも畑に上がってきた。
津波がおわったということをきいて、家にもどって来た時にばかなりの時間が過ぎていた。いっの問に運んだのか、本家のふとんやふろしきづっみなどがいっぱいあった。おばちゃんもばあさんも順子ちゃんもみんなきていた。本家のおばちゃんがためいきをつきながら「ほんでも家ばりも流れなくて、水が入っただけでよかった」と言った。母さんも「ほんとだ」といった。そして「大船渡は死んだ人がうんといるしかなりひがいがあったってね」といった時、私ばその大船渡の町をそうぞうしてみた。父さんや母さんをなくした人もいるだろう。家を、流されてこまっている人もいるだろうと。その時母さんが「灘ばちゃんの家さ、むすびをつくってやるから、もっていけや」といった。ひろ子ねえちゃんや順子ちゃんが「うん」といったから私も「うん」といった。ごはんをにきって、しおとごまをくっつけた。それを一重ばこにつめて二つにわけてふろしきにつつんで線路を歩いていった。線路の上には、たくさんの人達がねたり、ご飯をにたりしていた。みんな日をまっかにしていた。下麦、見ると、家からぬれたふとんや服をだしたりしていた。かんづめ工場では道路にかんづめがちらばっていた。大きな船が道にあげられていた。町についた時は、これが大船渡かと思ったくらいだった。家がいっぱいなら、んでいたところには、材木が落ちていてオート三輪やテレビがこわれて、田んぼの中に板ぎれとまじって入っていた。おばさんのうちにおにぎりをわたしてから、また線路を歩いて帰ってきた。家に着いた時はもう暗くなっていた。本家では家に水が入ったので、私の家でごはんをたべることにした。水道も出ないし電気もつかなかった。ろうそくの暗い火が顔を照らします。きみの悪い暗い静けさです。津波のおそろしさを、しみじみとわかりました。
なかなかねむれなかった夜
午前四時十分頃、となりの家のかよ子さんに「高潮だ」と言われて、すぐ飛び起きて外へ出て行ってみたら、家の前にある石垣がくずれてなくなっていました。さん橋の方を見たら、そこにたくさん置いてあったドラムカンが、つぎつぎにくずれ落ちて流されていました。ぼくば、その時「大船渡の町がぜんめつだ」と思いました。ぼくはすぐ家の中にはいって、教科書や大事な本を急いでヵバンの中に入れて、オート三輪市のドァをあけて中にはいりました。そのうちに、おとうさんとおかあさん、それに会社の佐々木さんがオート三輪にふとんだの服などをつんでいる時、ぼくは「まさか津波はこない」と思ったけれどもプルプルふるえていた。いろいろなものをつみ終って、おとうさんとおかあさんと佐々木さんが来て、すぐオート三輪に乗って行きました。
みんなよその人は線路にふとんをあげていました。学校に行って三輪車からおりたら、そのすぐわきに赤ん坊をだいた女の人が泣いていました。ぼくは赤ちゃんは津波も知らず、赤ちゃんのおかあさんが泣いているのを、わかるのかわからないのか、悲しそうな顔をして、おかあさんの顔をジーッと見つめていました。
それから、校庭のはじの方に行ったら、溝水旅館の建物が流されていたところを見て夢だと思いましたが、そうではなくほんとうでした。そのうちに学校もあぶないと思って、農道に行きました。農道についてからぼくの家の方を見たら、家が流れないで残っているので、安心しました。
しばらくすると、どこかのおじさんやおばさんがきて朝ご飯をたべさせてくれました。二十分ぐらいたってから、平山さんといろ会社の人も、朝ご飯をもってきてくれました。
ぼくは、大船渡の人ばみんな親切だと思いました。夜ねるところは、平山さんの家を借りることにしました。夜になってからみんなねたけれど、ぼくはなかなかねむれませんでした。だんだん時がたってからそんなことを忘れてねむってしまいました。
そしてつぎの朝、起きて家へ行ったらタンスがおちていたり、ドラムヵンなどがはいっていました。ぼくば、それを見て津波のおそろしさをはじめてわかりました。
もう二度とあんなことがないように。津波なんかこないようにしたい。あの時、となりのかよ子さんにおこされなかったら、今頃は死んでいるかもしれない。思いだしただ旦、も体がブルブルふるえてるような気がする。
町をめちやくちやにした津波
五月二十四日の朝、とつぜんサィレンがなりました。利は火事だと思って外に出て見たら、みんながわいわいさわぎながら小学校の方に上がって来ました。
とうちゃんが「なんだ、なんだ」とほかの人からきい声ら「沖、津波だ、沖波だ」と息せききって走っていきましか。私はいそいでかあちゃんをおこしました。近所の人たち鳩むこしてまわりました。女の人が赤ちゃんをだいて、大きなふろしきをふりふりたすけをもとめていました。
私の家から三メートル先は、黒い波にのまれていきましたでんしん柱がぼきぼきおれていきました。気をうしなってしまった人もありました。私の家まで水が来るかと思って、小学校に行こうと思ったら、とうちゃんが「有子ここまで来ないから、しんぱいしないてねていろ」とみんなをなぐさめるように言いました。そこまで水が来ていたのに、六つのえい子はなにもしないでうたをうたっていました。
早くにげようと、思っていそいだら、げたをかたほうもっていました。あまりあわててはいけない。おちつくんだと頭の中でめいれいしても、とてもとてもふるえがとまらないので、水を一のんだらやっとおちつきました。
かあちゃんはえい子をおんぶして小学校に行きました。家が流されてないていた人もありました。さむさにふるえてふとんをかぶっていた人もありました。小学校の校庭には、たくさんのバスや自動車がひなんしていました。私の家のとうちゃんは、小さい時二回も津波にあったことがあるそうなので、のんびりしんぶんを見ながらとこの中に入っていました。
私ばとうちゃんが死んだら、おわりになるなと思って、小学校に「行こう、行こう」と言えば言うほどおこるのでした私ば家下大事なもの麦、何回も小学校にはこんだ。小さい子どもは、おまつりでもあるようにわいわいさわいでいました。大人たちは、やはりしんけんになってないていました。五年生の私にとっては、ときようそうのようにしか思えませんでした。
電気は消えるし、外に出ると水に入るしどうにもしようがありません。家がしんぱいになったので帰ってみたら、えいこがのんきにゆうぎをおどっていました。
それがにくらしかった。五回もつづけて水が来たので、外に出ようと思っても水だらけでした。私の家の前が、めちゃめちゃになっていました。
とうちゃんは、「こない、こないしと行かせませんでしたやがておそろしい一夜があけた。学校が二、三日休みになりました。
学校にかようようになって、ちようめんやふくやいろいろな物をもらう時「私はほしいなあ」と思ったこともある。
でも、それはまちがいだった。私の家が津波にあったら、気がくるいそうになったと恩いました。「とうちゃんがいつまでも家にいたら、とうちゃんが死んだな」と心の中界思いました。
津波は、何百人という人たちをころしてしまうおそろしいまったくおそろしいとはじめて思いました。
津波のためにたくさんの人たちがくるしむ。
『おそろしいおそろしい津波よ」
ものすごかった津波
津波が来たのは、五月二十四日朝の四時半ごろでした。その日の事です。私がねむっているとサィレンがやかましくなったので目をさましました。その時はきっと火事だと思いました。そうしたらお父さんがねまきを着たまま、じいっと海の方を見ています。何だろうと思いながらお父さんに「何したの?」と聞くと「津波が来そうなんだ。虫あいちおう服を着て外へ出ろ」と言ったので急いで服を前ました。私はとてもおくびようなので、服を着る時なんだか足ががくがくして手がふるえてろくにぼたんもしないで妹たちといっしよに外に飛び出しました。私はなあに、たいした事はないものと思って何噺持たないで外に出たのです。外に出たら、みんな「わあわあ、ぎゃあぎゃあ」とそうぞうしくさわいでいました
お父さんが海の方へ見に行って来たので、ようすを聞いたらたいした事はないような話でした。そうしたら海の方から「来たぞー」とさわぎながら見ていた人たちがにげて来たので、私もむちゅうでにげました。とちゅう綿路のところでお母さんといっしよになりました。線路までは、いくら津波でも来ないと思いました。
そして、家の方を見るとうす茶色のすごい波がそこらの家をあっという間にばらばらにして、それをかるがると持ち上げて線路に向って来るではありませんか。それでお録さんの手をひつぱって遊園地のかいだんを、登って、下の方を見ていたら、遊園地の下で波がうずをまいたようになっていましたまるで川です。家の屋根なんかぷかぷかとういていました。私はまだ津波というものが、こんなにおそろしいとは思わなかったので、そんなにこわいとは思いませんでしたが、今から考えるとなぜこわいと思わなかったんだろうとふしぎですそれはまだ一度も津波にあっていないのでこわいという事がわからなかったんだろうと思いました。
私の家の方か一見ると、家の前にざい木がたくさんかさなってはいれそうもありません。そして、教科轡は流まれてしまったんだなと悲しくなりました。
津波が来てから少しの聞は、ほかの家へとまって家へは帰れませんでしたが、家がどうなったかと心配でたまりませんでしか。そして、ついに家へ帰れる日が来ました。
家へ行ってみたら、中はどろがぎっしりつまって、かべはこわれて店の物はみんな流されていました。それからは、毎日トラックが運んで来るおにぎりを食べました。はじめて家へ帰った時には、食べるものもありませんでした。そしてあんな波によく家をこわす力があるなあとふしぎなような、おそろしいような気がしました。
津波のあとの店のせいりはたいへんです。お母さんはあんまり働きすぎてひんけつをおこしたりしました。でも、私は子どもだから。だけれどお父さんやお母さんは、家をなおすのにたいへんだろうと思いました。津波のあと、もし何かあった時にはきっと教科欝を持ってにげようと思いました。
サイレンが鳴ると今でもビックリする
二十四日の四時二十分ごろかあちゃんが「バタバタ」とろうかを走る音で目がさめた。ねむいなあとおもいながら耳をすますと、時々人の足音とサィレンが耳に入る。私がたいへんだとおもったら、かあちゃんが「父さんたいへんだ。津波だよ」とさけんだ。私がおきようとすると、父ちゃんが「なあに。ここまではこないからねてろ。ねてろ」と言った。だが私は気が気でならない。わきにねていた弟の聡(さとし)もへんな顔をしている。ねえちゃんはふくを着て、どこかに行ってしまった。私はとうとう聡と起きて、ふくをき終ってげんかんに行こうとするとおばあちゃんが「水がきたぞ。早くみんなにげろ」と言った。私は聡とげんかんに出ると、すぐ水のくるのが見えた。私はいっしようけんめいにげたが、水はすぐ私の家の近くで止まった。私はこれが津波なのかとおもった。津波なんかなければいいのにとおもった。すると人がさわぎ始めたので、何だろうとおもって水の止まった所に行って見ると、みんなが「人が死んでいる」と言った。私は気持がわるいの下家に帰った。そしてごはんをたべたが、いっこうたべられない。ようやっと一ぜんだけたべて、きゃくまに行ってみんなで津波のおそろしさをかたった。お父さんが「全くおどろいた。まさかここまでくるとはおもわなかった」と昔うと、おばあちゃんが「ほんとうにおどろいた」と言った。すると母ちゃんが「父さんとおばあちゃんは、あのまま津波が来たらあぶなかったねえ」と言っていると、どこかのおばあさんがたずねて来たので、私は外に出た。私の家のいどにいくと四メートル近いいどが少しあふれていた。
私はそれから田を見ると、田に小さなあながいくつもあり、そこからあぶくが川ていた。
私は父さんの所に行っていると、せきざわの母さんが来て「あの、ここで死んでいたむすめさん、家のさい子ではありませんでしたか」と君うと父さんが「あの人は、さい子ちゃんよりもずっと大きいですからちがいますよ」と言った。私はそこまで開いてあとは家に帰ると、しようぼうの人が来て「津波がくるから早くにげろ」と言ったのでにげた。こんどはねえちゃんもいっしよだ。私たちはにげたが、津波がきたのかこなかったのかわからないが、私の家にはこなかった。だがそれからサイレンをきくとビクッとする。
わすれられない津波
朝の四時、ころ、サィレンの音が、町じゅう一帯にひびきわたった。わたしは、火事かと思って「どうせ遠くの方だろう」ぐらいに考えていた。叉、ねようとすると、「おきろ」と、お父さんの声が聞えた。「父さん、なにす」と、わたしが聞くと、お父さんは顔をまっさおにして、「はやく、ふくきろ」といった。わたしは、ホックもせず左手にくつ下を持って、外へ出た。人々が、川のふちに集まってがやがやさわいでいた。お店の店員さんが、「さっちゃん、はやぐ、はやぐ」といって、わたしの手をぐいっとひっぱった。「はやぐにげろ」お父さんは、お母さんに、仏様と金庫を持たせて、「はやぐにげろ」といった。川の下を見ると、水がもうあふれてくるようだった。「津波だ」わたしは心の中ではっと思った。わたしは、津波ときようそうをして、山の方へとにげた。田中の少し上の方に、にげた。どこかのおばさんが、お母さんに、「どんなだべ」と話しかけた。お母さんは、「もう水があがってってば」といった。そのおばさんは、「そうですか」と顔色をかえて、下の方へ走っていった。わたしは、もうむねがドキドキと波うっていた。
じゅうたくのみつ子おばちゃんの家にいった。みつ子おばちゃんは、「中学校でみていた」といった。みつ子おばちゃんは、中学校てみていたことを話し畠した。「なにも、水がすっとひけていったと思うと、大きな波がザボンときたのっしゃ。そのときゃぞくっとしたもんね」といった。どこかのおばあさんもみつ子おばちゃんの家にきていた。そのおばあさんも話し出した。「おらあ津波ださいうから、台所のまどがらにげできたのす。おおらいでかせいでいるめんちゃんにおぶさってにげできたもの」と、いっていた。
夜、お父さんが今日のでき事を話した。「となりのすおやで、ほんとあ、見でだんだけど、そうでもねやあ」と思っていだれば、大きな波がきたので、あわてておらいの屋根さ上がったど。それでも、一家そろって、死ぬがど忠ったど。あどあおらいの象の中さ、こんな大きいたくわんのたるが、二つ三つはいってだし、こんな太いまるたも、はいってだもんね。ケースなんかめちゃめちゃだでば、それから英電社の「赤ちゃんがしんだ」といった。今度は、お母さんが、「自分が死ぬと、あとのみんなが、どうなると思ったから、赤ちゃんがぎせいになったようなものだがすべ」といった。
次の日みつ子おばちゃんが、『幸子は、ゆうべ「津波だ、津波だ」とねごどいったぞ』といった。お父さんが「中村の家ひっくりかえってだっけ。それから、緑屋の子ども二人死んだぜ。それがら父さんも死んだと」と、いっていた。しばらくして、店員さんのかこちゃんがきて、こんなことを話していた。「おさえても、おさえても、あの死んだ人のみじめなすがたを見ると、なみだがとまんにゃがったもんね」といっていた。その夜わたしは、昼間いろんなことを聞いたら、べつなことを考えようとしても、そのことばかり気になってねられませんでした。
次の旧加茂神社から、大船渡をながめると、須崎部落の下の方は、すごく家がこわされていた。もつとくわしく見ようとして、かいだんをおりていったら、屋根が道路のまん中にきていたり、れいぞう庫がひっくりかえって、中には、あぶらげが、どろんことまざって、ぐにゃぐにゃになっていた。どうせきたから、家までいってみようといったら、道路は、歩くすきまもなかった。線路には、やさいがころがった上にふとんがごたごたになったいた。川には、材木がすきまもないくらいにながれていた。信用組合の入口は戸が横になりガラスがこわれて、めちゃめちゃになっていた。どの家も、水のあとの線がついていた。自動車は、ひっきりなしに走っているし、道路はせまいしたいへんなものだった。
それから一週闇たって学校に行くことになった。部落ごとに、学校へならんでいった。ろうかにたたみがほしてある。家をなくした人々がこうどうに住んでいる。お便所には、消毒がしてある。かねがなって、教室にはいっていくと、ぼつんぽっんとせきがあいていた。先生がきて次のこと話した
「みんなも知っているように熊谷晶治君が死んだ」といった。先生によばれて、一人一人自分の家のひがいを話した。その中に、ねるところもない人がいた。家が半分ながされたり、長ぐつもかさもない人がいた。次の日先生がなぜ大船渡がひどかったのか、そのことを話した。「大船渡の海は、ちようど、長方形になっている。それに、海がせまいため、どんどん波が大きくなって、大船渡におしよせてきた」といった。先生は、「なぜこんなに死んだりけがを一した人がいたか」と、みんなにきいた。みんなの中からこうゆう意見をだした入がいた。『津波はむかしから、地震がおきてからくるものだと思っていたから、ただの高しおだと思って、安心したからです」といった。それから先生が、「チリから工八船渡まで二十四時間、ハワイから大船渡まで、八時間、ジエット機よりも早い」といった。わたしは、それを白地図に記入した。家をなくした人や、お母さん、お父さんを、なくした私達の同級生、これからみんな力を合わせて、助け合ってくらそう。
五十三の命をうぱった津波
ぼくは、朝の託時ごろ起きて見たら、電話がかかってきたかあちゃんに、「電話がかかってきたよ」といった。かあちゃんは、起きていても、電話には、出なかった。「かあちゃん、なぜ川ないの」と、きいた。かあちゃんは、「こないだだって、電話が、かかってきて、でて見たら、よっぱらいだったから、こんどだって、よっぱらいにちがいないからほっておきなさい」と、いった。電話はしきりになっている。ぼくは、「かあちゃん、もしかするとよっぱらいではないかもしれないから、出て見た方がいいよ」といった。かあちゃんが出て見たら、米久のさっちゃんから「津波だというから、早くにげるように」と、いうのでかあちゃんがにかいにいってねえさんたちをおこした。ぼくたちも、ふくをきて外に出た。じしんもよらないのに、津波がくるのだろうか。と、ふしぎに思った。ぼくは、いもうとの久子とうちのねえさんたちといっしよに、かもさまににげた。とうちゃんは「なあに水もひいていないし、じしんもよらないから津波はこないだろう」といって一人で川を、見ていた。その時、川の水が、急にひいた。川のそこが見えるくらい水がひいた。ひいていった水が、ひきかえして来た。とうちゃんがあわてて、にげようとした時ちようどとなりのおさむちゃんが、スクーターでにげるところだった。とうちゃんはスクーターにのせられてやっとたすかった。ぼくはかもさまから家や、人がながされていくのな見て、「ぼくの家もながされたんじゃないかあ」と心配した。海の水は、なんかいもひいたりよせたりした。ぼくは、さむいのと津波のおそろしさでふるえた。ぼくたちはかもさまをおりで、あきんどばしの方にあるいていったら、あきんどばしの所にはかあちゃんと米久のさっちゃんがいた「とうちゃんはどこにいったの」ときいた。そうしたら、さっちゃんが「おとうさんはうちを見にいったよ」といったそれなきいて、ほっと安心しとうちゃんがくるまで進先生のうちで待つことにしていた。いって待っていたらその時水道はだんすいだった。その時ぼくはのどがかわいていた。こう先生が「水道がだんすいで水が出ないから、水をくんできてください」とバケツをよこした。「どこからくんでくるの」ときいたら「ここをおりていくとはしがあります。そのはしをわたると、右がわに大きな家があります。その家にはいどがあるからそこにいって水をもらいにきましたといえぱいい」とおしえてくれた。ぼくはいもうとの久子とバケツをもって水をくみにいきました。水をくんでかえる途中あきんどぱしの方から、友だちのたくおちゃんがおかあさんのきな子おばちゃんとよそのおばさんにだかれてきた。ぼくははしっていって見たら、たくおちゃんのズボンやふくがぬれていた。そのうえ顔まで、どろだらけだった。きな子おばちゃんに「たくおちゃんなにしたの」ときいたらそれは、きな子おばちゃんは、前の日かま石の学校やいろいろな所を見学して、夜帰ってきたためつかれてねていた。たくおちゃんは、体がわるくて病いんに、にゅういんしてやっとよくなっていた。きな子おばちゃんたちは下でねていた。「高しおだぞう」と、いう声で、目を、さました。起て見ると、水はもうげんかんのところまできていた。きな子おばちゃんたちは、にかいに上ったたくおちゃんば、体がわるいのと、津波のおそろしさで、ひんけつをおこしかいだんから、げんかんにころげおちた。たくおちゃんは、「たすけてえ」とさけんだ。きな子おばちゃんはがいだんからおりてきて、たくおちゃんが波にさらわれそうになった時、たくおちゃんの手をおさえた。きな子おばちゃんたちは、にかいに上りにかいのまどのやねにのぼり、それから、マーケットのやねに上りけんなんバスの車このにかいのやねに上って水がひくのを、まっていた。水がひいてから、、おりてきて、やっとあきんどばしの所までにげてきて、船渡病いんにいってたくおちゃんを見てもらって、そしていま病いんから、きたところだった。ぼくは、久子とバケツをもってきな子おばちゃんたちといっしよに、進先生、のうちにいった。ぼくがいったころには、とうちゃんはもうきていたそのばんは、ごはん麦、たべてみんな進先生のうちで、とまることにしか。あさおきて見たら、とうちゃんは、いなかった、もう先生もおきていた。「とうちゃんはどこにいったの」ときいた。「おとうさんは、うちにいったよ」といった。ひるになると、とうちゃんたちはごはんをたべにきた。とうちゃんは、ごはんをたべながら、「うちのにかいがあいているから、うちの人はうちでねて、英雄と久子は、しばらくの問は、進先生のうちでとまることにしよう」といった。きょうからは、進先生のうちでとまることになった。ぼくたちば、朝の七時ごろおきて、かおをあらいごはんができるまであそびます。こうして、一日進先生のうちでとまると、つぎの日からは自えいたいがきて、家がつぶされ、どうろがふさがったりした所などを、自えいたいのトラックではこんだりした。なん日かたつと、学校にいかなければならなくなった。まい日、津波のことしかお話ししなかった。津波でしんだ人は、五十三人で五十三人のうちぼくたちの学校で鳩、せいとが六人菊しんでいる。こんなにたくさんのぼう者がでたの菊、津波のためだ。津波はおそろしい物だ。津波をふせげろ物は段いものだろうか。もしあるとするとチリじしん津波のような、しぼう者はでないかもしれない。それに、日本のみんながどんなにたすかるか、わからない。
友達をうばった津波
五月二十四日の朝、三時半ごろ、日産の人が、「津波だあ津波だあ」と、うめたて中を、さわいでまわった。その声に、私は目を一さました。そしたら、お父さんが「津波だっつぞ、おぎだが」と、私の部屋に入って来ました。私は「ほんとすか、うそで、あねあべね」と言いました。そしたら、「うそでねあみろ、日産の人があんなにさわいでいるべ」と言いながら外に出ていってしまいました。そしたら、お母さんが出てきて、「教科書をかばんに入れてなるべく軽いくつをばいて外に出ていなさい」と言ったので、私が「母ちゃんは」と言ったら「母ちゃんは、ふとんただんでっから」と言ってさも早く外へ出ろと言うような、顔をしていたので私は、ズツクぐつをはいて表へ出ました。そしたら、みんながねまきすがたで、海岸の方へ、走って行きます。みんなも、心配なのでしよう。私が、弟の徹や均に「津波が来て、ねえちゃんとはぐれても、必ず台ヶ丘か、「かす」さ行ぐんだぞ」と言って聞かせていると、母ちゃんが来て「かすさ行ってろ」と言ったので、私が、「母ちゃんも、じじちゃんだの父ちゃんも、早ぐきしゃいよ」み言って、かすに行ったら、警報のサイレンがなりひびきました。
私ば、やっぱり来るなと、思っていたら何の音もしないのに、みんなが「津波だ、津波だ」盛、言いながら上の方に登っています。私がとうとう来たなと、思いながら母ちゃん達の来るのを待っていると、なかなか来ません。私がかすに来ない時は台ヶ丘にいるという母ちゃんのことばを、思いうかべて台ケ丘に徹と均をつれて、行きました。そしたら母ちゃんがまっさ青な顔をして、私の家の方を、見ていました。私が「母ちゃん」というと、母ちゃんがこっちをむいて「徹も均もいだ」と言って、徹や均や私をだきしめて、泣いてしまいました。私は、お母さんがかわいそうでなりません。あたりを見まわすと、自転車屋のちやちゃんも、その他私のしらない人々が、沢山泣いてしまいました。私は、この人達はきっと津波のために、家をなくしたりその他いろいろな、事情があっての事だろう、とわかりました。そう思うと、みんながかわいそうでなりません。海の方を見るといろいろな家が流されて行きます。私達のようにそれ存、見ていた人が、「あっおらいの家が、つぶれるめああ…」と言って泣いてしまい豪した。私は、この人赤どうして泣いたかよくわかりました。この人の家族は、明日からどこにすむのか。ということを考えたら私ば思わず、もらい泣きを、してしまいました。
津波は引きました。人々のだいじな家をこわし、そして、流し数々の尊い命をさらって行ってしまいました。津波に、命をうばわれた人の中に私達の組の熊谷晶治さんがいます。晶治さんの家では、お母さんがにげようにげようと言ったのですが、お父さんが二かいにいれば大じようぶだと言って、二かいにいたのです。それが家に、船がぶつかって気の毒にも家がつぶさ九、お父さんだけ助かってみんな死んでしまいました。こういうような、おそろしい津波を、数々の命をうばう津波をふせぐことはできないの下しようか。それはできるはずです。りっぱな、ていぼうをきづきそして津波を一ふせぐための、測候所のようなものでも、もうけいろいろな研究をすればできるのではないでしようか。いまに科学が進歩[て、津波がこない時代になれば多くの人々の命も、救われますし海岸の人達も安心して、くらせるでしよう。私はその日を待っています。
夢中で逃げたお母さん
五月二十四日の朝四時二十分ごろ、まだ私がねている、おく王がとてもさわがしいので、私は日をさました。その時宮子ねえちゃんが、「津波だ」と言った。私はびっくりしておきた。すぐ服を着て、おく上に出てみたら海の水はなかりた。にかいをおりて下に行くと、父ちゃんが「津波がくるからはやぐにげろ」と言った。私は母ちゃんを見た。すると幻ちゃんは、いっしようけんめいになって、よう服をにかいに運んでいた。雄司兄ちゃんは、カバンに道具を入れていた。私は吉朗といっしよに、手をつないてにげた。
母ちゃんや、父ちゃんや、雄司兄ちゃんが、来るかと思って駅でまっていると、波の音がしてゆうびん局あたりまで来た時、中央マーヶットの人達といっしよににげた。駅のうらで水が引いていくのを見ていると後の方でブッブーと言う音がしたので、私は後を見ると、のぼるちゃんの車が止まっていた。それから、のぼるちゃんの隼にのせてもらって、おんちゃんの家に行って見ると、だれもいなかっ方。それから、私と吉郎といっしよに「わかた」にいって見ると、雄司兄ちゃんがいました。しばらくすると、父ちゃんが来た。母ちゃんもわかたに来ました。こう場のあんちゃん達が「おくさんよぐとんだね」と言ったので、私は「どごとんだのよ」と聞くと、私の家とぎんこうの間を、とんだと言ったので、私は「どうやってとんだのよ」み聞くと母ちゃんは、「どうやってとんだんだかわがんねあ」tご言いました。
それから津波に会った時の話を、母ちゃんから聞いた。すると母ちゃんがやねからはん分まですべりおちて、あぶなく死ぬ所だったそうです。母ちゃんは、かわらへ手をかけてやねにあがった。それから父ちゃんが、「ぎんこうにはいればいいがら」と言って、父ちやんが、ぎんこうのやねに私の家からとんだ。母ちゃんも、おそろしさにむちゅうで、ぎんこうのやねにとんだ。それから父ちゃんが、ぎんこうのガラスをわって中に入ったと言う話です。それからおんちゃんの家に行って見ると、おんちゃんはいました。中に入って話をしているとしんるいの家の人達が来ました。しんるいの人達の話を聞くと、その人達の塚の子どもが死んでしまいました。その子どもの母さんは、自分の子どもが死んだので「ワーッ」とないてしまいました。母ちゃんは「まさかこんなにひどいとは思わなかったよ」と言いました。来るとしてもおしいれあたりまで「だろうと思ってたたみをあげていた所に、波がやって来て、母ちゃんや、父ちゃんや、宮子ねえちゃんや、こうばの人達がみんな、にかいにあがっていると、にかいにも波が来て、おく上にあがりました。またおく上にも波が来て、こんどは、やねにあがりました。父ちゃんが、ぎんこうのまどのガラスをやぶって、こう場の人や、母ちゃんや、父ちゃんが、ぎんこうの中に入って助かりました。それから、ぎんこうのまどから、水が引いて行くのを見ていたそうです。
思いだすのもいやです
二十四日の四時十五分ごろ、むかいのおばさんが、きちがいのような大声を出して「津波がくるよ、みんなおきなさい早くおきてしたくをしらい」といって、さけんでおこしてくれた。父ちゃんと母ちゃんはねまきのままで「育子、哲也、早く学校の本をカバンに入れて服をきなさい」としんけんになっていった。私達はすぐ用意した。みんな話をするひまもなく、お父さんは会社の書類や大事なものをふろしきにつつんでいる。やすゆきやしゅうじは、津波なんてぜんぜんしらないが、みんなのしんけんな顔を見て「何かくるらしい」と思っているような顔でなかずに立っていた。
お父さんやお母さんは、しゅうじややすゆきをおぶって「早く早く」といった。道路の方に行ったらむかいのおじちゃんが自転車で海岸を見にいこうとした。おばちゃんはなきそう友声で「あなたもきなさい」と引っぱった。けれどむじちゃんは射こうとするので、ちい子ちゃんはなきながら「おじちゃん牡くな早くにげっべ」と言ってないている。私のお母さんもおじちゃんも早くちい子ちゃんとにげっべし、みんなにげっべし」と言うので、おじちゃんも私達とにげた。加茂神社の方に行くと皆んな自転車や、リヤカーに荷物をのせて建って行く。それからサィレンが鳴り皆んななきそうになっていりしようけんめいににげた。
私達が加茂神社の下まで来た時、もう第一回の津波が、おし寄せてきた。
私達はやしきにいる会社の内海おじちゃんの所に行った。お母さんは安心したようにしゅうじをおろした。それから、お父さんが来てやすゆきをおろした。正人おじちゃんも、おばちゃんやじゅん子ちゃんをつれてにげて来た。みんな安心しかように顔を見合わせた。お父さんは正人おじちゃんと、「家を兄て来る」と言って出た。それからしばらくして、またサイレンが鳴った。第二回の津波が来た。お母さんと、正とおじちゃんの家にいるおばちゃんの顔がまっさおになった家を見にいったお父さん達が心配なのです。しらない人が「,線路血で水が来たぞう」といってにげて来ました。お母さんとおばちゃんはよけい心配になり窓から町や海を見ていました。海のまん中に屋根があり船が町の方に上っていた。お父さんとおじちゃんが水びたしになって帰って来た。わけを聞くと「はじめ正人さんの家財見て家に行ったら、家はすっかり水につかって家の中がメチャメチャだった。みんな津波だ気といったので屋根をつたわってにげて来た。正人さんこしもぬかしてあぶなく波にさらわれてしまう所だった」と言い士した。お父ちゃんとおじちゃんは屋根の上で二回目の津波孔すっかり見たそうです。そしてお父さんはご飯も食べないでねこんでしまいました。
午後三時ごろ一の関のおじちゃんがジープで来てすぐ家に翁氏荷物をはこぶので手つだってくれました。家の前には太産の魚箱やドロが山になってありました。夜おそく沼宮内のおあばちゃんが来ました。私はおばあちゃんといっしよにね生した。家がなおるまで内海おじちゃんの所にやっかいになろ事になりました。朝おばあちゃんが「まさかこんなにひどいとは思ってもいなかったよ」と町をながめてさびしそうに言いました。朝ご飯を、食べて家におりていくと、町に自えい隊の人がジープやトラックで来ていました。そして流れて来た板などをかたずけていました。私の家の前にも昨日よりも川になってありました。家の中からもだしたからです。私は津波にあって死んだ人、けがをした人のお父さんやお母さんたちはかなしくて家の中やまわりをかたずける力もなくどうしているだろうなあ、それにくらべて私達の家では一の関のおじちゃんや立根のおじちゃん、盛のおじちゃんに手つだっずもらいしあわせだなあと思いました。私はいまでも海を見、-いると津波にあった時のおそろしさが身にしみて思い出されます。どうしてあんなこわい津波なんてくるのでしようか
おそろしかったチリ津波
四月二十四日朝四時ごろ、まだぼくはねていた。
すると、くつ屋の明さんが、となりのマルイ衣料店のおんちゃんに「今ラジオで聞いたんだけんと、津波がくるっていってたよ」と言ったのが、耳にはいった。それから、おきてふくをきて、川の水がひけているのを見てから、自転車で海を見にいった。すると海の水が引けていくのがよく見えた。船は、ななめにころんでい九。
それから、家に帰って、かあさんにそのことを言ったら「地震もないのに、津波はこないべえ」と言って、米をといでいた。すると、海の刀から人がはしってきた。定雄兄さんも帰ってきた。定雄兄さんは「海の水が、すこしづつ上ってきたっけ」と言った。また海を見たら、水が上ってきた。家にはいって、勉強道具をそろえていたら、定雄兄さんが家にはいってきた。定さんに「津波がくるかもしれないから、道具もってにげつべお」といったら、兄さんは先ににげていったとおもったら、かあさんが、家にはいってきた。ぼくは、かあさんに「津波がくりからにげつべあ」と言ったら、かあさんが二階に上っていった。ぼくも上った。するととうさんはしよんぼりとまどから外を見ていた。かあさんは、妹の基子左おぶって、ねていた妹の良子もおこそうとすると、とうさんは「ねでいる者まで、おごさねあくてもいい」と言った。げんかんまできた時、かあさんが「芳雄、おきろ」と言ったら、兄さんが、バタバタおりてきた。道路まで、でた水は、四軒となりの、もち屋まできていた。水と七メートルぐらいの差で台の山に登った。ぼくたちはにげたが、じいさん、とちさん、妹の良子がにげてこなかった。しんぱいして見ていたら、電柱の開からとなりのやねに、七、八人のっていたのがよく見えた。その中の三人が、ぼくの家の人だった。はだんのままで流されていっか。ぼくたちは「船にでも、ぶつから左ければよいが」となきなき見ていた。みんないろいろな、をいいながらないていた。中には「おらいのとうさん死んた」と言ってないていた人もいた。びしよぬれの人もいたカんななきわめいた。一番日の波が引いていた。すぐに二番口の波が寄せた。とうさんたちは、ますます上に流されて電話局まではこぼれた。二番目の波が引いた。三番目の波が寄げてきた。とうさんたちをのせたやねは、山口先生の所でと坐った。波はおさまった。とうさんたちは、やねからおりてぶくをきて帰ってきた時ば「みんなぶじでよかった」と思った。その夜はしんるいの、こうじ屋新家にとまった。二日たって、あかちゃんの死体を見た時は「津波をとめるものがあ-たら、こんなに小さいあかちゃんまで死ななくてもいいのになあ」と思った。今でも思う。田畑をこわし、かきやのりを流し、家や物を流したり何百人もきずつけ、何十人も殺したチリ津波を忘れよりとしても、忘れることができない。
音もなく来た津波
五月二十四口の朝四時ごろ、二かいにいた、こう一さんが下におりて来て「おばあさん外で津波だってさわいでだよ」と言った。母さんが、じしんもないのに、つなみがあるわけがないから高しおだろう」と言ってねまきのままおきていった私たちは、こわいのでふくをきておきた。そうして父さんと力也ちゃんが海をみにいった。そのうち鳳さんが、きものにきかえた。そらしから父さんが「津波だあー」と言いながらはしって来た。私はさいしよににげた。母さんは、りようりの、おばさんとにげた。私は「母さん、母さん」と言いながらにげか。母さんが「線路ににげろ」と言ったので、線路ににげた。父さんが、「だめだ、中学校へにげろ」と言ったのでいそいでにげた、そうしたら線路をこえて水は来た。にげるのに、むちゅになってどこをどうにげたのか、わからなかった。旧中のあたりで、「母さん、母さん」と言った。いくらよんでも、母さんば見えなかった。そうして走っていたら、さぶろうくんの家で働ら「瀞ている『南ばさんが来た。おばさんは、ばだしでにげた。そうしたら私と力也ちゃんが、一年生の時おしえられた、すずきこう先生にあっておぱさんがげたをかりた。こう先生が「よっていきなさい」}言ったけれど「母さんが中学校へにげろと言ったから中学校へいくもの一と言って学校へいった。
いくらまっても母さんはこなかったので下へおひた。すこしいくと母さんにあった。そうして力也ちゃんをさがしにいったら、また津波が来たと言ったので、高い所へあがった。そこへ力也ちゃんの友だちの、しよう一さんが来たので「力也ちゃんしらないと聞いたら、「あそこで母さんをさがしていたっけよ」としよう一さんが言ったので母さんがさがしにいった。すこしして力也ちゃんと母さんと父さんが来た。そうして、父さんが「家のほうにいってみてくるから」と言った。私とおばさんと母さんと力也ちゃんはたえこちゃんの家へいった。すこしたって、たかしおじちゃんのスクーターにさぶろうくんのおとうとのけいしろうがのって来た。それからすこしたって、おじいちゃんと、おばあちゃんと、せつこおばちゃんと、ひろきちおじちゃんと、さぶろうくんと、父さんが、いっしよに自動車にのって来た。夜はたえこちゃんの家にとまった。ふとんがたりなかったので、みんなかたまってねた。夜は、こわくていっこうにねむれなかった。
おそろしい津波
五月二十四日午前四時五分頃、ぼくの近所の人が「津波がくるぞう」とさけんだ。父ちゃんと母ちゃんが、服をきて外をみにいった。少したって母ちゃんが、津波がくるから早くにげろといった。ぼくは、下着だけきて、にげだした。みんないっしようけんめいに、山のほうへにげていた。しようぼ5自動車がサイレンをならしながらはしっていた。ぼくは県南の待合室の外で服をきた。静屋のおばさんがあんまり壽もたそうに、荷物をもっているのでぼくが荷物をもってあげたぼくは、ふとうしろをむくとおばさんが小西のほうへかけていった。ぼくは、おばさんがどこへいくんだろうと思って、しばらくそこへたっていた。はっと津波だということを思いだした。ぼくは、いちもくさんにかけだした。台町の高い土手の所で、おばさんにあったの下荷物をわたした。ぼくはあんまりはずかしかったので、声もでなかった。おばさんに荷物をわたしてから十分ぐらいたってから、一回目の津波が来た。船があちらこちらに、にげまわっていた。小野田のほうをみると、大きい船がうろうろしていた。ざいもくが流れてきたり、小さい船が流れてきた。ぼくが、いた所でたくさんの家がこわれた。一回目の津波は、やがてひいていた。ぼくはねえちゃんと家にいこうとしたが、土手から家まですこし遠いので、ニ回目の津波がくるとあぶないのでいそいでいった。駅前のくすり屋を通るとくすりのにおいで、はながもげそうになった。家の前に米てみると、ざいもくでいっぱいでした。衆の中が県南のあぶらでいっぱいでした。家のあぶらがひどいとこへ、海の水をかけて流したりしました。ねえちゃんはしばらくたってからきました。海のほうで「また津波がくるぞう」というさけび声がきこえた。ぼくとねえちゃんととうちゃんはいそいで二かいへ上った。そして二かいのものほしから県南の屋根へ上った。映画かんの外にとうえいのおばさんとおばさんの子どもがよこたわっていた。とうえいの屋根のあに犬と五六入の人がいた。二回冐目の津波がだんだんかさを議して来た。死体は水の上にうかび上りどこかへ流れさっていった。あんまりおそろしかったので、ぼくは家の中にはいっだ。まどから外をみると、水が二階のじき下までかさをましていた。材木、びん、かん、そのほかいろいろな物がながれて来た。二回目の津波がひいていった時いえにげんじゅうにいたを、うちつけてから台所のしんるいにいってみるとひろ子と、禄ちゃんがいた。ぼくたち親子はようやっとめぐりあえ童した。
お母さんに助けられて
ぼくは四時二十分ごろ、お緑さんに起こされました。それは町のみんなが「つなみだぞう」とさわいでいたからです。ぼくとお母さんと弟は、部屋にい決した。お父さんは海を見にいきました。お母さんは、「しんぱいしないで」といいました。ぼくはまたねました。するとお父さんが、あわてて「おい早く子どもを起こせ」と、お母さんにいったそうです。そして「おれは旅館の方へいってくるからな」と言っていきました。お母さんは、ぼくたちにふくをきせて、ふとんを一まいおしいれにいれて、外に川ようとすると黒いどろ水が、家の中に入ってきました。ぼくたちはテレビのある台に上りました。それでもどんどん、どろ水がふ久てきました。ぼくたちは、「助けてエー」とさわきました。するとお母さんが「母ちゃんがいるから大丈夫だよ」と言いました。どろ水はこしから胸へ、胸から首へとどんどんふえてきたので、ぼくは頭が上のたなにつかえて、息がくるしくなって水の中にもぐってしまいました。お母さんはそれから外へ出て、みんなにその事を知らせようとしたそうです。でもその時は、お母さんがぼくのからだを、おさえていたそうです。ぼくはそれをしらずに、からだが半分外に川ているのだと思って強く手で水をこぎました。でもお母さんがだいているのでしだいに息苦しくなって、友だちのことや、お母さんのことが日にうかんできました。まるでゆめを見て、いるようでした。ぼくはそのまま、気をうしなってしまいました。お母さんはぼくたちを助けようと、ひざかぶでべニヤをはがしたりしていました。弟はあたまで、たなをやぶり助かっていました。激母さんは、ぼくの死体だけでもはなすまいとまたにはさんでいたそうです。それでしだいに水がひけていきました。それから、「お母さんは「三郎はもう死んだからねえ」と言うとお父さんがびつくりして「なに三郎が死んだって」といったそうです。でもその時ぼくのよこばらが「ピクツ」とうごいたそうです。それでお母さんが「助るかもしれない」といってほつぺたをたたいたり、ゆすったりしたそうです。それでぼくが「ううん」とうなったから、二かいに運びトヨタ自動車の人が、人工呼吸をしたそうです。ぼくが目をさましたときは、二かいのへやにお母さんと、いつしょにねていましたそしてお母さんがなみだをながしながら「よかったねえ、よかったねえ」と何度も言っていました。もし、お母さんがぼくのそばにいなかったら、死んだかもしれまぜん。ぼくは、いまでも津波のことを、思いだすと「お母さんありがとう」という気持になり、お母さんをいつまでも丈夫にしてお宮かいと思います。
おそろしい津波
五月二十四日、午前四時半ごろ、サィレンが鳴りひびきました。私はまだふとんの中にはいっていた。すると、家のまわりで、ガヤガヤさわぎ声がするので、「火事だろうか」と思っていたら、とつぜん「津波だ、早くにげろ」と外から、大きな声で、家のお父さんが、私達に教えてくれました。私達、兄弟三人は、大急ぎで服を着、うらの高い所に、にげました。水は、間もなくドトッ、ドトッと、町にむかっておし寄せてきました。高い所で見ていたら、どこかの屋根や船やきたないどろ水がドンドン、おしよせてきました。
私は、父母を見た。すると、私達のそばには見えません。あっと思った。すると足や体がブルブルになって、立っていられず、泣き泣き走りまわりました。すると「富美子、富美子」と母がさけんでおりました。私は、ああよかったと思った時、町を見たら屋根の上や丸太に、しがみついて「助けてえー、助けてえー」と手をふっている人もあった。ドンドン水がおし寄せて来るので、助けに行きたくても、助けることが出来ないので、泣き泣き見ているばかりでした。ただ「早く水がひけろ、水がひけろ」と神様にいのった。それから家の方を見た。すると向いの店がつぶされているのを見て、私ばまたブルブル足がふるえた。私の家に、三、四けんよその家がよりかかり、たおれるばかりになっていたので、どうしようと思った。でも流されたり、つぶされたりした人々の身になったらしあわせだと思います。
私はあのにくい津波は、どうしておこるのか、みんなに、聞いた。すると、火山がばくはつし、またはかんぼつにより、強い地震がおこり、その後水がひけ、その水が陸におし寄せて津波となるのだそうです。私は周の人々にききました。尊い人のいのちをさらうような、おそろしい津波のこないのセ私は常にいのりながら、これからかぞく七人下くらしていこうと、私はいのろうとおもうのです。
お父さんの留守中にきた津波
玉月二十四日の朝、四時ごろ「津波だー」という声で、おきた母は、私たちをおこし「服をきたら早くにげろ」といりたので、私はむちゅうで台ヶ丘保育園ににげました。それから三十分ぐらいたって海の水があふれて来ました。「あっ」といううちに、水がどんどんふえて町におしかけて病院したバリバリドド……という音と共に、家はどんどんこわされてしまい染した。それからすこしたって、水がひけた時、海ばダムのようでした。父はその前の日の、五月二十三日に、青森のおんせんに行っていたので、私たちがたよりになるのは母だけでした。でもその日の夜、九時ごろ、父はとんで帰ってきました。その日から、三日間はおにぎりだけをたべました。母は、とまるところがないのでこまっていたら、おくらのおばさんが「ここにずっといてもいいから休みなさい」といったので、そこにとまることになりました。それからは、毎日、いそがしい日をすごしました。水につかった服やねまきなどをあらうの下、とてもいそがしくなりました。家にいってみると、家はまがり、しようじもたたみものこっていません。だい所にのこっていたのは、とだな、かまど、電気せんたく機だけでした。事務所には、となりの薬が流れてきたのか、薬だけでつくえもいすもありませんでした。海をみるとなにごともなかったように、静かに流れています。たく求んの人々のおかげで、私たちの町大船渡はだんだんもとの町になってきました。五月二十四日は私たちのわすれられない思い出と、なるでしよう。
ひどかった津波の被害
五月二十四日午前四時十五分ごろ、外のさわぎ声で、目がさめました。お母さんは、たかしや、よこねえちゃん達を、おこしました。家族四人が服を着て台ヶ丘保育園へにげました。台ヶ丘保育園の庭は、ひなんの人でたいへんでした。お母さんは、たかしがはだかでにげたので、お父さんといっしよに家にもどり、たかしの服五、六枚持って台ヶ丘保育園へ登って来ました。お父さんもオートバィ下すぐ登ってきました。来るとすぐ波がおしよせてきました。船が陸に上ってきて町をあらしたり、家がものすごい物音をして、こわれていったり、電信柱が流されたり、材木などが家にはいっていったゆしていました。やねに登って流されている人々、家評家との闇にはさまって出られなくなった人々が何回も見えました。一回目が終って、二回目がおしよせた時、とうふ屋のおばちやんと、おじちゃんがびしよぬれになって登ってきました。流木につかまってやっとのことで助かったのだそう下すおばちゃんは泣いていました。それを見ると、私は「でも助かってよかったな」と心の中下安心しました。ひなんした人々は悲しそうな顔をして話をしていました。津波がすんだ後家族五人一家の方へ下って来ると、よそのおばさんが子供をなくしたので、きちがいになるようにまで泣いていました。歩いていると、横屋水産のおばちゃんがきて「もし、よかったらうらのへやが、あいているのでどうぞ」と言われたので親類のせともの屋の人達といっしょに横屋さんに住むことになりました。横屋さんへ行って、お母さんの持っている小荷物を置いて、少し休みました。それからもとの家をかたずけに行きました。おりて来ると、町には、いろいろな場所に船が上っていました。電線は切れ、台ヶ丘のあがり口の所に私の家が船におされて、そこまで流されていました。すぐ近くの所に大きな船が二そう上っていました。お父さんぱ屋根の下からいろいろなものを取り出して、そのものをより分けしていました。すると、上の方から一ノ関のおばちゃんや、おじちゃんなど高等学校にいっているお兄さんも、おじちゃんの自動車で来ました。何となく「ほっ」としました。
朝ご飯もお昼もたべていたいので、一ノ霞から持って来たバンを食べました。夕方になると、子供達は自動車で一ノ関へ行くことになりました。お母さんは、私に「みち子な、じようぶだし役に立つからいらいね」と言われたので、のこることになりました。たかし、よこねえちゃん、せと屋の京子ちゃん、洋明ちゃん達、子供四人が一ノ関へ行きました。その夜は、子供は私、一人なのであそぶ相手がなく、電気もつかずシーンとした、まっくらなさびしい夜でした。
次の日からは、水がないの下、井戸のある台町の伊藤さんの家へ行き、お母さんと、毎日、毎日せんたくをやり続けました。やがて、私は一ノ関から食物を持って来たおじちゃんの車でよこねえちゃん達のいる一ノ関へ行くことになったので、私は嬉しくて、楽しくてたまりませんでした。一ノ関へ行き、二日とまり汽車が開通したの下汽車下帰って来ました
帰って来ると、今まで死んでいたような町が材木などが運ばれていたり、道路が整理されていて、生きかえった町のようになっていました。車は通り、うめ立に、ごみや、くずが山のようになっていました。
盛町の高校生の人々が手つだいにきてくれました。
米の配給、水の配給などがされました。
自衛隊の人々が、交通せいりや、お風呂をわかしてくれていました。私の家では、ごみといっしよになったつぶれた材木から、一木、姐本さがして津波でよごれ材木でバラツクを建て始めました。
やがて、学校も姉乗り私逮の友達六入が死んだことを知りました。その中の二人は近所のむっちゃんま、昌治さんでした私は、津波前むっあやんと、かくれんぼなどをしてあそんだことも有りましか。アルバムたさがすと、たかし達が保育圃の入学式の時にとりた写翼だけが有り豪Lた。しかも、その写翼だけが、水につがって左い様にむりちゃんが、とてもよくうつって宿り喪す。
よく日、学検へ行査、六人の友達にもくとうをささげましたろめ立ての向こうの、ヒ〜ント工場の機械の音が波の音の様に聞えて来ることもあります。
外国から来た津波は、家も、大事な物も、大好きなお人形さんもみんな持っで行って、しまった。
私は、じっとろらの海をにらんで考える。
ひがいを受けない様にするにはどうしたらよいだろう。
この事は、海岸の町にすむ私逮にとっては、心配で、心配でならない事でず。
子供の私達は、心を強く、お勉強や、お手伝いにせいを出して立派た火人になるこまです。
ものすごかった波の動き
五月二十四日の、あのおそろしい津波のことをわすれる事はできない。午前四時半ごろ、地しんもなく潮がひいた。大人の人が「津波だ」み言って、町の人々に知らせるために走って行っか。その時サィレンが高く、鳴りひびいか。家の人はなるぺく名く荷物をもって、睦んろににげた。ぼくは、親類のはつ爵君の家に、夢中になってにげた。はつ鳶姓の家に着いか時、海の水がここまでLあてくるかもし丸ないふ思って足がガクガクふるえてかまらたかっか。大人の人たちが、せんろに上り〆トン見ているのでぼく蝦思い切ってト一て海を見た「ごうごうー巴うなりながら川のように海の水ガ流れて、どんどん潮がぴいて行く。今杢甲見か事のなかnか海の底が見えて来か。大人の人が「さん〆島まヂ歩いて行くのいいぞうレ涛言うので、まだまだひく少か♪思ったら今度は反対に押し寄せて来か。もうぼくの家めかきだ蹴は、どこへ行ったかわからない。それよりも、となりの禦のお父さんが舟に乗ったままどんどん流されて行った。その家族の人かちが、泣きながらわめく声が今でもわすれられない。
消防団の人たちが浜に立っていたら小舟が流れて造たので陸に上げた。母さんが「久悦下におりていくなよ」と、自分だけ荷物を遮ぴに行った。しばらくすると潮淋引き始めた。「また来るぞう」と大人の人たちが叫んだ。みんな線路に逃げた。又波が押し寄せてきた。今度の波は、川を渡りぼくの家の庭まで上がってきた。魚がくさらないように氷と一緒に入れておく大きなたるが流されそうになったので、おじいさんがあわてて、ごろごろ転がして安全なところに移した。加工上には水が少し入っただけですんだ。海の上には、半分壊れた屋根や、かきだなの壊れたような材木や、壊れた船などが重なったり半分沈んだりして、ごちゃごちゃになって流れてきた。又少し潮が引いたり立てたりしたが、そのときの波は庭まで来なかったのでほっとした。母さんが「後来ないからお昼にしよう」といって家へ行った。立根のおじいさんも、はるばる歩いてきた。「無効がずいぶんひどいからこの辺は家なんかないと思ったのにながされなくて良かった」といった。みんなも「たいしたことがなくてよかった、よかった」と何回も言った。赤沢のおばあさんの家のあたりが全滅だというので、お母さんが行った。僕も行きたかったが、一人で行くのは不安なので、すすむ君を誘った。
すすむ君は「うん、僕もついでに親類の納豆屋を見てくるよ」といって一緒にいった。北のほうに行くほど被害がひどい。道路には材木や家が山のように重なってぜんぜん歩かれないし、人々は上に並んで黙ってみていた。おにぎりを食べていた人もあった。でもおばあさんの家はどうやら立っていたので安心した。お母さんが僕を見つけてびっくりして「又津波が来ると大変だ空早く帰りなさい」といったので僕たちはまもなく帰った。
その夜は、はつきくんの家に泊まって寝たが、眠られなかった。
あれから三ヶ月もたった、みんなもう一度やり直すために、船を作ったり、家を建てたりしている。大船渡が元に戻るのはいつだろう。
惨めな姿となった町
五月二十四日、朝の三時四十分ころ、漁師の人が「つなみだあ」とさけんだ。僕たちはびっくりして着物を着替えた。突然消防署のサイレンが「ウーウー」と鳴り響いた。
僕たちは海岸に出て海のそこを見たら、水のそこまで引いていた。
倒産が「たいしたことはないだろう」といったので事務所に言ってラジオをかけた。ラジオは何も入らなかったので又海岸へ出てみたら、だんだん水が増えてきた。心配になって家へ帰ってみたら、母さんたちが布団や服のようなものを蔵に入れていた。僕も一生懸命いれ方をした。
父さんが着て「みんな逃げろ」といったので一生懸命になって逃げた。
逃げるとき波を後ろにしてきたが津波というのは始めての経験なので、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
家が倒れ、電信柱が倒れる。津波は悪魔のように恐ろしい。
僕たちは学校の上の親類の家で一夜を明かした。
二十五日の朝、親類の人がぼくの家は「大丈夫だ」といったので安心した。昼過ぎ下のほうへ行ってみたら、町中全滅だった。すぐのう道に上がってみたら、やっぱりぼくの家は流されなかった。兄さんと一緒に家に行ってみた。そうしたら庭へほかの家が入っていた。伊藤さんと一緒に須崎にいってみたら、魚が道路に落ちていたり、道路に家がつぶれていたりしていた。
二十六日、みんなで家の掃除や片付け方をした。自衛隊も街を片付けてくれたり、道路を開いてくれたりして街のために尽くしてくれたり、消毒したり、町中の整理に取り掛かり手伝いをしてくれた。それに元気付いて街の人々は待ちの復興に力を入れている。
材木の上で助けを呼ぶ二人
二十三日、私たちはご石に遊びに行った。家を出るとき、母がきゆうに「なんか変なことが怒るような木がする」といった。私はその言葉がずっと忘れられなかった。ところがその次の日、母が行ったような講が起こった。私はぐっすり眠っていた。父が私を揺り起こして「美智子ちゃんの家が流された」といった。私は思いがけないことなのでうそだと思った。けれど、そのときの父の顔は真剣であった。私は、急いで外に出た。すると公庫さんの家の前に、たくさんの人が集まってみんな海のほうを見ていた。私は、美智子ちゃんはどうなったろう。友達はどうなったろうと不安な気持ちを抑えながら庭先に立って海のほうを見た。すると父が「ちょっと見てくるから、恭子を起こさないよう」といって台の山のほうへ走っていった。私も、みんながどうなったかと心配で見に行きたくなった。私が行ってくるまで恭子が起きないだろうと思って台の山に行った。すると清子さんが、寝起き姿で立っていた。私は、清子さんの家までこないだろうと思って聞いてみた。すると、中に水が入ったといったそれを聞いて、ずいぶん大きな津波だなあとそのとき初めて気がついた。台の山は、大人の人たちがいっぱいで、入る隙もなかった。どんなにひどいんだろうと思って、見てはいる人達の中に入って町の方を見たら、今まできれいだった大船渡の町が材木やどろ水で、町は見るにも見られないほどあらされていた。家はおしつぶされ、かたむき、人は流されたり死んだり。どうしてこんなかなしい津波が来るのだろう。私ばそう思っていた時「あっ、あれ」みだれかが言った。見ていた人達の目がいっせいにその方を向いた。そこに材木の王で助けをよんでいる二人がいた。私は「だれだろう」評小さい声でいった。すると後のおばあさんが「若い人達らしいがかわいそうに」と言った。すると、私のわきの男の人が「どうにがして助けられないのか」と言っていた。海水がどんどん入って来るので助けように噺助けられなかった。幸いにもそこは線路に近かったの下二人は助かった。見ていた人たちもほっとして「よかった」「よかった」と口々に言っていた。
私もほっとしてその人達を見ると、その人達はいがいにも絹子さんのお父さんとお母さんではありませんか。私はまたまたびっぐりしました。お子さんのお母さんはふるえながら顔をふいていた。私は、心の中で「よかったなあ絹ちゃん。うれしいだろうなあ」と思った。そしてその時、私は水害にあった人達の苦しみやかなしみをしった。また、はかいされたこの町を私達の手でもとの町にたて直さなれればならないこともしった。
おしよせてくる波
夜明けの四時ごろサィレンが鳴りました。そのサィレンは火事ではなく"津波がくる"というしらせのサィレンだということがわかったのは、おしよせてくる十分くらい前でしたそれまでは火塩だし。ばかり思っていたの下、にげろ準備もしないで"どこが火事なんだろう"と思って外を見ていました噛も津波だとわかった時、いそいで洋服を着、カバンを持って外にとびだしました。線路のあたりまできて一息ついたら「きたぞ」という声がして海岸の方から方くさんの人が先を争って走って鳶ました。私はお姉さんといっしよに農道までにげました。どこかの象がこわれてゆき、だれかの家が流されていきます。バリバリという音や、ガラガラといういかだのようなものが流れていく音が聞こえてきます。農道からは、大船渡の町のこわれていく様子が手に取るようにはっきり見えました。私と姉はこわれてゆく町のすがたをぼんやり見ていました。水の力のすごさ、おそろしさがわかったような気がしました。
それからすう日たって、じえい隊や婦人会の人達がたくさん働きにきてくれました。じえい隊の人達は、道路をなおしたり、おふろを作ってみんなをいれてくれたりしていっしょうけんめい働いてくださいました。
今ではバスも汽車も通れるようになりました。町にも新しい建物がたくさん建ちました。もう津波のあとがあまりなくなりました。前のような火船渡の町になるのも、もうすぐだと思います。
どろ水に洗われたお父さんやお母さん
私は、朝とこの中で同荷露ますと、弟はもう起きている。お父さんは起きて仕事をしている。少したったらお父さんは「ああ津波じゃないかな」^言ったので、質人は急いでカバンに道具を入れ、向いの台ノ山に登った。すると、青黒い波が道路いっぱいにくる。私は見ただけで大船渡がなくなるのではないかと思った。ふた気がつくと父母はその時いなかった。私たち四人はおどろいて二人をさがした。あっちにいたという人もいれば、こっちにいるという人もいた。
私たちは、その人の言う差うりにさがしていた。けれど見つからなかった。私たちは、どこをさがしてもいないので、私たちの家のあたりをさがしていると、お父さんとお母さんが流れているのを見た。私み弟と三人泣きながら、お父さんーお母さんーとさけんだ。私は気ちがいみたいになり、むねはドキンドキンと高くなる。父母はおそろしい津波、あの黒い水にのまれるかと幾度か目をふさぐ。お父さんとお母さんが一度になくなったらどうしようか。さいわい父母は水びたしになって、どろもたくさんついていたが、命だけはとりとめた。死んだ人たちは全くかわいそうです。家は流されたりこわされたり、ごたごたになっているが、毎日毎日消防団の人たちや、他町村の人たちが来て、日一日とりっぱな道路になっていきました。そして津波にあった人々は、方々から暖かいおくり物をいただき、なに不自由なくくらすことができ本当にありがかい気持で一ぱいです。
お父さんと弟、妹の二人をうばわれた
アッ火事だ、消防団のサイレンがなった、ぼくは「火事だ火事」だと弟をおこした。服をきて表に出て見た、津波だぼくは弟が見えなかったのでざしきへかけもどったぼくは「けんじ、けんじ」とよんだ、へんじがなかった。もう一度表に出て見たら弟がおとうさんにおぶってけろといったのがけんじの最後の声だっか。水はぼくのひざかぶぐらい来た。おかあさんは妹をおぶってにげた。ぼくはおかあさんの後をおって行こうとしたら女中さんが「量ちゃん、量ちゃん」と、よんだからたすかったが、よばなければぼくも死んでいた。女中さんによばれて病院のまどにすがって後を見たら、おかあさんがひろ子をおぶってせんろのほうへにげようとしたら米下病院の聞から大波が来てむかあさんの足をさらっていったそのときにぼくは、むかあさんが死んだと思ったそのしゅんかん思わずなみだが出た、病院のまどにぎっとすがってぼくの家の方を見ていた。少しずつ水がいっぱいになっていくその力下案をたおす。ぼくは津波を、はじめて見たので津波の力がわからなかった。ぼくは津波ってすごいんだなあと思った。だんだん水がいっぱいになった磯、首まで水が来た、もうだめかた思ったする盛水がたんだんひいていった。病院の薬のまざったにきいがまどからながれて来た強いにおいだった。そのにおいで死ぬかと思った。だんだんにむいがとれたまたも津波が来た、でもその津波は弱かった、すぐに水がぴけたそこへ消防団の人が来たのでおぶってもらってりよかんのにかいに上った。しばらくたって及川さんのしっている家へいくとちゅうにおかあさんがしばた病院にいるル聞いたのですぐしばか病院にいっておかあさんとあった。そこでしたぎなどを差りかえてにかい事休んでいた。するとひろ子の死体をしばた病院へもってきたと女中さんがいった。アッ差思った。でもその時は死体を見なかった。
しばらくたつと「津波だ、津波だ」とみんながさわいだので、すぐに大三の車にのって中学校へにげた。それから及川さんのしんせきの家で休んでいたらおとうさんと、けんじの死体が見つかったのですぐ西光寺にいこうし、思ったら永井さんのとうさんがよびにきたので、永井さんの家出おちついていた。それから仙台のおんちゃん二人が車できたのでその車にのって西光寺へいっておとうさん、けんじ、ひろこの死体を見たらぼくは思わずないた。おかあさんはみんなにすがりすがりないた。ぼくはかなしくて、かなしくてわからなかったぼくがないていたらおかあさんが「あとなぐな」とおかあさんがいった。それでもかなしくてわからなかったーみんなでおがみおわって車で家へかえったらおとうさんやおかあさんのしんせきの人たちが来て、ぼくたちをはげましたのでぼくは元気ずいた。これからも、がんばっていきたいと思います叉、勉強も友達といっしよにやっていきたいと恩います。
流されたわが家
五月二十四日午前四時三十分ごろ大船渡に津波がおし寄せてきました。その時、ぼくは「津波だから逃げろ」とお父さんに言われたので、ねまきのまま「カバン」を持って逃げました。いそいで、丘に上ると、逃げて登た人たちがいっぱいいました。丘から下を見ると、ものすごい勢いで水がおし寄せてきて電柱がたおれたり、衆が流されて行きました。丘に上がった人の中に逃げおくれて案の屋根にあがって流されて行く人たちに「がんばれよう一とはげましのことばをおくっている人もいます。ぼくの家の人も屋根に乗ったまま三百メートルも遠くに流され二時間すぎた七時ごろようやくたすけられました。ぼくは、父や母、家の人が死んだと思っていたのが、生きていたのでよろこびました。
しかし、家の人たちはたすかったけれども家は流されてしまいました。つぎの日、象が流された所に行って見ました。すると、ぼくの衆が田んぼの中でつぶれていました。お父さんは屋根をこわして中にあるものをできるだけ取っておじさんの家に運んで行きました。ぼくの衆の人たちはよごれた「ふとん」などを取る時、津波の来るおそれがあるので、びくびくしていました。それからしばらくおじさんの家にやっかいになっていました。十五日ぐらいやっかいになっていましたが小倉さんの衆の柵所を借りてそこにたたみをしいて住む事にしました。たくさんのいもん品が毎日きましたことはありがたいと思いました。津波が来てからもう四ヵ月も過ぎたのにまだ家も建っていません。父や母は毎日家を造るために働らいています。ぼくは、津波のおそろしさを忘れることができません。
波にのまれて
「津波だ」と言う母さんの声でとび起きた。だけど私はこのまえの位だろうと思ってまた寝ようと思ってもそわそわした気持なので服を着て海岸の所まで見にいりか。その時はもう水がすれすれになっていた。もうすこし射こうと思ったら水が岸べきをこえあふれて来たのでこわくなって水といっしよに走った。満紀子は、衆の中にはいってカバンをしよって窓からとびおりて逃げていった。私は母さんに手伝ってから満紀子がかわいがっている小犬を三びきバケツに入れ、カバンをもって台所の入ロから逃げようとしたらもう水がどんどんあふれ私の胸の当りまでになった。とても出られそうもなかったが母さんに「思いεって川よう」と言われおそろしさと、寒さでがたがたふるえながら思いきって水の中に入った水はだんだんいっぱいになりあちこちから流れで来た材木や畳、戸棚などが体や頭にぶつかり私達の君小をふさいでしまう。泳ぐにも泳がれず、何回か沈み母さんとつないでいた手もはなされいつの間にか、泳いだのか流されたのか。気がついて見ると道路のさくの所まで来ていた。母さんも私もさくをこす事ができない。ちょうど畳が流れて来たのでつかまったがすぐ流れに持って行かれてしまう。私たちがつかまっている前や後をいろんな物が流れて行く。その時私の家の茶ダンスが流れてひきだしからは水とうがはか出て流れているその時初めて津波のおそろしさを感じました。母さんは、体が弱く寝たり起きたりしているので心配で心配でたまらない向う側の高い所からみんなが早く来い早く来いと、手招をしているけどどうにもならない、となりの家がどんどん流されていく。私の家が流されて来たら私たちは、死んでし史うんだと思うと胸がどきどきする。水が今までと反対の方へ流れ出しそしたら男の人が、木や板をわけてやってきたので、私はおぶさった。母さんは、さくの中をくぐった。その時、お父さんが満紀子をおぶって来たので満紀子と、母さんと、私と、ばあちゃんの家に行こうと思ったら、照悟あんちゃんがむかえに来た。頭からは、ボタボタとしずくがおち寒さのために歯がカチカチする。途中みんなが見ているので、すとしはずかしかった。ばあちゃんの家までいった時さすが母あんはつかれと安心したのであろう倒れてしまった。やっただき上げて着がえをしてからふとんに休ませた時、津波はこんなにおそろしいものかとつくづく労えさせられた。
黒い海
五月二十日、午前四時三十分太平洋に面した日本の各淋はふいに大沖波に襲われた。ぼくたちの町大船渡市もひどく被害を受け、いつも静かな美しい海も、どす黒く気味悪く変りはててしまった。
震源地が南米のチリなので、それほどの大波はこなかったのだが、この大船渡湾が余りにも奥ゆきが深いため、順海水は静かに奥へ奥へと入って水位を高めたのだ。だから遠く鵜高等学校までニキロイートルもの広い地区を水で荒してしまったのだ。
その夜、この港に泊っていた五十トン位の船が十隻ばかりと、海岸に建てら九流製材所の丸太棒とが湾の奥を、水にのって次々と家を倒し、人々を追って黍れまわったのである。水に浮かぶ尿根上を見ると、恐しく救いを求める人たちが数人。ひき潮の丸太棒にすがって流れていく入、押し寄せる波に逃げ場を失って泣き叫ぶ人々、見るまに波轄押し寄せてまたも人々を波にまきこんでいく……。
高台にひなんした僕たちの耳に「助けろー」、「おーい」と遠く細い声で聞えてくるのだがどうすることも出来ない。みんなの顔はただ河れた海を力なく眺めているだけだ。
その時、下からおばあさんを背負ってきた消防団の人が、「せきさん堂では父さんだけ生きてみんな死んでしまった」と話して、みんなをきんちようさせた。誰も何も言わない。ただ力のない眼でその消防の人を眺めているだけだ。その多くの人たちは、海岸に住む人たちなので、形をなくした自分の衆のふきんをぼら然と眺め、生きた兄弟同志弔神社の片すみにふるえながらうずくまってしまった。
ひなん地の下の通りには、病院の車、消防の車、そして逃げてくるトラック、三輪車のけいてきで人々はあわてていた「きっと、多くの人々が死んだのだろう」と僕は思った。こんなに恐ろしい津波も昼すぎには落着いて、ようやく人々は動きはじめた。僕の家は津波にあわないので急いで家へ帰った。家には下のおばさんたちが、津波で流されたといってやすんでいた。ただ生きることが出来ただけの姿だった。すっかり力をなくして、立ち上る気力がどこにも見えないかめいそうな姿である。
こんな時に一生懸命働らいてくれたのは自衛隊の人たち、消防団の人々、婦人会の人々、青年団の多くの人々が災轡を受けた人たちに、あたたかい救いの手をさしのべたことだ。特に自衛隊は約一千人の手で次々とかたづけていて、二、登日のうちにバスが通れる様にした。また消防団の中には、速く釜石や江刺のかんぱんをきた人たちもあり、火船渡のかめに頑張ってくれた。昼ばかりではない。夜まで通して働らいてくれた。
そのうちに赤痢の予防や、物資の配給、ひなん所の都備も進み、人々に活気が見えてきた。青年団と婦人会は「物姿を高くしないように御協力下さい」と叫び、「一日も早く〜の被害から立上りましよう」と運動した。僕たちも、僕たもに出来ることを力一ぱい努力した。
僕たちの学校では六人のお友だちがなくなった。一弗生から五年生余での人だ。そのほか、お父さんやお母さんのなくなった人もいっぱいいる。学校で校長先生初め、みん数やなくなったお友だちのごめいふくを祈った。涙がとめどなく流れてくる。死んでいく時のあの幼い一年生の姿を思い浮がべるからだ。どんなにか苦しいめにあいながら死んでいったろうと思うと、またも涙が出てくる。僕だけではなく、全校千七百人のみんなが思うことは「二度とこんな被轡は受けまい誰もが受けてはならない」と強く心に誓うことだと思う。
震源地の遠かった津波
玉月二十四日朝、まだみんながねているころに津波警報が鳴った。ぼくは日をさました。何回も何回も鳴っている。「火事だろうみ思ったが、うらの城な火ぜいの人が中学校の庭へと走っているのだ。火事の時ばいつもこうなのだ。
校庭で「津波だ」とさけんだ人がいた。兄さんや弟、お父さんお母さんが着物を着ている。ぼくもいそいで着た。弟はもう外に川ている。ぼくもゲタをはいて中学校の庭へ行った中学校通めにはバスやその他の白転車が走ってくる。すでに線路をこーた水が光ってみえる。セメント工場の近くにある島が、もら少ししか見えていない。お父さんはしんるいの家が心配だと言って、川かけた。兄さんも行った,ぼくはこんどの津波がどんなに大きいかよくわかった。津波はだんだんひいて行った。ぼくは衆に帰ろうふ思った時にだれかが「またきたよらだ」と言ったようだが、郷けがしたので帰った。案でふとんをたたんでいるとしんるいのねえさんが来て「おらどだけにげてきた」と言った。そして少し調母さんと諸していたが「また下へ行ってくる」と言って出かけた。十時ごろしんるいの人がぜんぶきた。ぼくは地震のない津波もあるということもわかった。しんるいの人たちも「地震のない津波ははじめてだ」と言っていた。ねえさんは潮がひいてから死者が二人でたと言っていた。
次の日ば学校が休みだった。お母さんは、たきだしでおにぎりをたくさん作って「これをしんるいの家までもっていけな」と言った。弟もついて来た。
町では道路の画わきに材木がつみ重なっていた。ぼくはおにぎりをわたしてさらすぐ帰った。家に着いてからラジオをかけたら、ラジオは大船渡がいちばん死者が多いと言っていた。
三十一日からは学校だが、道路は材木やごみがいっぱいであぶないから、大洋学園に田中の一年から六年までを集まらせて、先生がみんなをならべてつれて行った。
学校の教室に入ると、みんながトランプをしていた。やがて先生がきて授業が始まり、先生とみんなで津波について話し合った。こんどの津波について、みんなは「地震のない津波もあるんだな」と言ってガヤガヤさわいでいた。先生は津波についての説明をしてくれた。震源地が南米のチリーだということや、チリーは火山の多い国だから、火山がぼくはつして地震をおこして、その震動で波がおきて、ハワィや日本におしよせたということもわかった。そしてこんどの津波は"チリ地震津波"という名がついたことを話し合った。ぼくはこんどの津波がどんなに大きいか。大船渡の町にどんなに大きな損害をあたえたか。また、たくさんの死者を出したか。ぼくは町を見に行ったり、人から聞いたりしていろいろなことを知った。また、ゆだんが多くの損害や死者を出したということを、いつまでもわすれないでおこうと思うゆ
初めて見た津波
五月二十四日の朝四時半ごろ、近所の人たちがさわいでいた。わたしはなにかと思って外に出て見たら、近所の人たちは「津波だ。津波だ」とさわいでいた。私はびっくりして道路の方を見た。すると、消防自動車がサィレンをならしながら私の家の方にくる。県南バスも中学校へ行く。よその人たちは、急いで孤茂神社へあがっているので、私もよその人といっしよに上った。そして海岸の方を見た。すると、家はめちゃめちゃにこわされ、家が道路のまん中に流されていたりどれがだれの家だか、わからなくなってしまうほどであった道には水がいっぱい流れていて、まるで海の中に家があるように思うくらいであった。よそのおばさんたちは、ねまきをきたまま泣きながら歩いて来た。消防団の人たちは、としをとったおばあさんをおぶってはしって来たり、小学生の人たちも、カバンをさげてはしって来た。よそのおばさんたちは悲しそうに「ほんとうに手のつけようがないね。なんといっても津波は天災だからねえ」と話し合いながら、いまにも泣きだしそうにいっていた。しばらくたって津波がやんだのかみんなはぞろぞろ海岸の方へ行く。
その時わたしもいっしよにいって見た。すると線路がこわれていたり、店屋の物があっちこちに流れていた。よその人たちも「火分ひどい津波だからねえ。きっと死亡者がでたかもしれないね。でなければいいが」とおじいさんやおばあさんたちは話していた。その時私はびっくりした。津波というのはいつくるかわからないもんだなあと思った。
しばらくたってお昼になった。盛の婦人会の人たちや大船波町の人たちは、米をたいておにぎりを作って、災害を受けた人たちに、おにぎりをくばってあげた。おとなの人たちは「わたしたちは、災害を交けたうちの軽い方だ」といっていた。ほかの人も「そりやほんとうだよ、死んだ人もいるんだからねえ。おくさん」と災害のことを話していた。お昼もすんで、めいめいの人たちは、それぞれ自分の家に行って、こどものふくや自分たちのふくをひろいあげてきて、川であらっていた。私の案では災害にあわなかったので、私は災害を焚けた人の服やくつ下など川であらって、少してつだってあげた。
よく日から、おまわりさんや消防団の人たちが来て、交通せいりをしてくれたり、死んだ人を探してくれたり、西光寺に死んだ人の運搬や、又自衛隊の人々も来ていただいて道路を三日で歩けるようにしてくれたりしていただき、私は心からうれしく又感しゃしております。どうして津波というのはくるのだろう。お友達あや、家までさらうおそろしい津波。これからは津波にのまれて死んだお友達をなぐさめながら、災害をうけた人達を親切にして、津波から大船渡を救って二度とこんな災害をうけず、明るく元気に生きていきたい思う。
家を失って
昭和三十五年五月二十四日の朝、とつぜんおそった大津波この朝近所の人たちが、ガヤガヤさわいでいる声が聞えてきた。父ちゃんや、父ちゃんが目をさました。そして、何事がおきたんだろうと、父ちゃんが家のうらの川へ見に行った。そしたら、ふだんめったに石がきをこえたこともない川の水が、石がきをこえて、便所のところまで入ってきていた。父ちゃんが「こりゃあ津波かもしれない」と言いながら、またがんぺきの方へ海の水を見に行った。母ちゃんが時計を見て「こりゃあ、四時半ごろだな」といって「まだ早いんだけどふとんをあげてしまうべ」と官いながら上げ終って、おしいれの戸をバチンとしめ終ったと同時にサイレンがなった。だれかの声「津波だあ」と言う金切声が聞こえた。それを聞くやすぐ母ちゃんは、私と妹をつれて表へ出た。便所のところから水があがって来た。母ちゃんは「だめだから早く行こう」音いながら、近所の人たちをいたてて台の畑へ登った。下を見たら、波が「ゴウゴウ」とうずをまきながら、すさまじいいきおいで押し流れてきた。と、同時にもう私の家がなくかった。近所の家もなくなった。その間、五分とかからなかった。母ちゃんは「これじゃあ、どこまでくるかわかんないから、つきやっこさあべ」と言ってひ難した。八時ごろやっと父ちゃんが、こしから下がびしよびしよにぬれて、「子供かちや母さんを殺してしまった」と叫びながら青い顔をして帰ってきたが、私たち元気でいたのでおどり上って喜こんだ。そして親子四人生きたから、何がなくてもよかった、よかったと喜こびあった。あとで、赤沢部落だけ。約二十人ら死んだと聞いて、私はびっくりしてしまった。二階そろりてから、ばあちゃんの家へ行った。その道々に、ぬれた家具を運んでくる人、ぴしょぴしょになった服などを運んでくや人、なきながら歩いている人たちの、悲しい姿に出合った。猪川の親類の人が、おにぎりや、バンを持ってきてくれた。空にはヘリコプターが何回もせんかいしていた。いっさいの交通がふ通になったので、ヘリコプターで、いろいろの救援物資を運んできているのである。学校は休校になった。被災した人々は、あまりのことでぼうぜんとし、身寄のない人は、学校の講堂でかりに住んだ。数日は何をすべきかただうるうろしている人々の姿だけであったが、やがて、各消防団、婦人会、市役所、自えいたいの人々のおかげで、町は一日ましにかたずいてきたので、り災市民も力強く立ち上った。一週間後に登校した朝、私たちの組の人たちは、みんな元気でいるのでほっとした。残念なことに私たちの学校では、六人のお友達達が死んでしまった。朝会の時、死んだお友達のためにもくとうをささげた時、あちこちから、すすりなきの声聞こえ、私も目がしらがあつくなり、なみだをおさえた"あれから五ヶ月、大船渡の町はだんだん復與してきた全国からたくさんの救援物資もきた。衣類、くつ類、学用品食料品、薬など。その中に、私たちをはげます手紙を入れてよこしてくれた見知らぬ友達もあった。今度の津波は地しんがなかったので、人々は、津波は地しんがあるものだと思って、気をゆるしていたのだと思う。父ちゃんたちは、新しい大船渡の町づくりについて、よりあいなどし、防波地帯っていぼう、ひ難道路などを設備するように、市役所に相談することなども、話し合ったそうだ。住宅こうこ、国民金ゆうこうこの貸し出しのおかげで、みんな力強く立ち上った。今ではすばらしく美しい建物がどんどん一日ましにたってきている。やられた家も、、再建がむずかしいとさえ思われる家がたくさんあるがみんなで協力し、立ち上がりつつある。津波なんかにまけないで、みんなでがんばろうとしている。
らんまをつたわって母さんや弟のところに
五月二十四日の朝、四時半ごろ津波が私達の町をおそったお母さんが「火事だ、火事だ」といってはいってきた。私たちは急いで服を着た。そうしているうちに、戸のすきまからちようらよう水がはいってきた。見る見るうちに、水がどんどんふえてきた。水がまだ、腰のあたりまでの時、私は勉強ぺやが、どうなったかと思って見にいった。その時、急に水がどんどん増えてきな。水がまだ、こしのあたりまでの時、わたしは勉強べやが、どうなったとかと思って見に行った。そのとき、急に水がふえて私のせいが立たなくなった。はなのあたりまで水がきて少し水を飲んだ。私ははしらにぎっしりつかまた。そしてらんまをつたわって、お母さんや弟の所まで行った。材木がい、ばい流れてきたので、その上をわたって屋根に上がった。その時、私たちにふるえがきてしばらく止まらなかったやがて朝日が登ってきた。少し水がひけてからはしごをかけてもらっておりた。私たちは、いとこの家にいった。お母さんが足にけがをして手当てをしにいった。私は一人で町を見にいって高い所から見たら、私達の町は、目もあてられない状態になってしまった。家はめちゃくちゃ、船は陸に上がっていた。そして、たくさんの人が死んだ。私の祖母といとこの三枝ちゃんが死んだ。三枝ちゃんの死顔を見た時、なみだがぼろぼろでてきた。すっかり水がひけてから家にいって見るλ申はがらんどうだった。戸などは一つもなかった。まるで肉を取られた魚のようだった。それからは、毎日毎日、遠い各地から救援物資が送られてきた。でも今は、町の家々はさかんにたてられている。町の人達は大船渡町をもとのすがたに直すために、一生懸命働らいている。ああ……もう二度とこんな津波がこなければいい。私達にとって一生わすれることができないだろう。
おそろしい津波が
昭和三十五年五月二十四日、この日のことは、私達の一生において忘れることのできない日です。この朝、市場のけたたましいサイレンと同時に県南バスのすさまじいいきおいで走る音がしました。その時、私の家のお父さんが「火事だ」とさけんだ声で私達は飛び起きました。ところがどこかのおとなの人が、「つなみだあ」とさけびながら走ってきました私はびっくりして、まず先にざしきの先生に知らせ、それから服をきました。そしてすぐ、げんかんにあったくつをはいて、先生と私達兄弟三人一しよに、やしき部落の畑に、にげて、その畑から津波がきたのを見ていると、海の水はどうや材木などで、くろずんで見え、うずをまいておしよせてきました。その水の中のあちこちからかすがに、たすけをもとめる声が聞こえてくる。波が、新しい地の森達路五くに、おそろしいいき凄いで、おしせまってくる。麗沢病院を見ると、地面から約一メlトルニ十センチ位まで水がきていました。今まで話に閃いていた、おそろしい津波がほんとうにやってきたのです。高台に避難した時のこわさは、なんといってよいか思いだしても、むねがドキドキします。しばらくたってから先生と私達兄弟三人が家に帰りました。その時きゅうに「友達がぶじににげたかなあ、けがをした人がいないかなあ」と、とても心配で心配でたまりませんでした。そして一日おちつかない日をおくりました。よく二十五日、町の人々はもと自分の家があった所に行って、かたずけたり、よごれた服あらいをしたりして、とてもいそがしそうでした。私の家の親類の家が、流されたので私の家もたいへんなさわだでした。またけいさつの人は、地の森道路のよつかどにたって、交通整理をしました。布内消防団、市役所、婦人会、じえいたいなど、人人の協力によって、町はだんだん復興してきました。そしてその夜電気がついたのでラジオをかけてみんなラジオに耳をかたむけました。ラジオは、じしんもなくとつぜんやってきた、チリ津波の放送でいっぱいでした。大船渡の町には、たくさんの救えん物資がきました。教科書、学用品、着類、はき物やそれといっしよに、はげましの手紙もはいってきます。私は今度のチリ津波で、いせわん台風の人達の失望などが、いやというほどよくわかりました。それから全国でいちばん津波のひがいが大きかったのは、私達の住んでいる大会渡尉と知ってびっくりしました。死者四十七名、行方ふめい七名、きずついた人二百一名にもなリ、尊い人命がたくさんうばわれました。私達の小学校のお友達も六名なくなり、父母や、兄弟などのなくなった人、家を流された人達もすくなくありませんでした。あとで学校が始ってから朝会の時、みんなてなくなったお友達に、もくとうをささげました。あのおそろしい津波から、もう十日以上にもなりました。海はなにもなかったように、きれいな美しいけしきをして、船もういています。町はバラツクが立ち始め大工さんやズドいろいろな人達が、一生けんめいに働いています。私達の学校も、普通の勉強が始まりました。町の人達が、みんな協力して新しい大船渡市をきずいていくため一生けんめいです。今度のチリ津波は、世界の人々にとって、わすれられないおそろしい思い出になるでしよう。
こんなきれいな海が人々をのむなんて
昭和三十五年五月二十四日、この日は私達の町におそろしい悪まが爪あとを残して去って行った日である。
この朝市場のサィレンが鳴りひびいて来た。それからパスやトラツクが、すさまじい音をたてて走っている音が聞こえてきた。私はすはやく起きて、母さんのねているへやに入って行って「母ちゃん火事じゃない」と聞いた。母さんは「そうかもしれないな。電話で聞いてみろ」といい、電話をかけるように言って、私は交かん手に聞くと、交かん手はあわただしい声で「今のは火事ではありあません。津波のようです」と言った。「難波」ずうっと前におばあさんから晒してもらったことを思い出した。とたんに足がガタガタして、ロびるがふるえて、せなかがひゃっとした。前の道路を見ると、お父さんお母さんらしい人々、それにおとしより、子供がぞろぞろ走りながらにげてくるのが目についた。みんな顔がまっさおで、着ているものはたいていねまきだった。水がひいてがら、ちよっと線路の所までくると、町の中で米麦やくだもの、やさいなどの食料品や、家財用具、木材、色々どろまみれになって流れて来ていた。生き地ごくとはこんな姿を言うのだろうか?去年のいせわん台風のりさい者の気持がよくわかった。その夜私の家に、しりあいの人が家を流されたのでと泉りに来た。私はむばちゃんの衆にとまった。電柱がこわれたので電灯がつかなかった。おぱちやんの衆のげんかんには、みなとけいさつ署の人達が仮りの派出所をつくりました。よく二十五圓にこの仮りの派出所には色々な人々が出たり入ったりし、あわただしい空気が流れていた、きんこをなくした人、お金をぴろってとどけに来た人、死亡者のかくにんにやって来た人。けいじばんがが出され、死亡者の名前、行え不めいの人数などいろいろ書き出された。学校の友達の名もその中にしるされてあった。みんなもじっとけいじばんを見てた。さっきから見ていた人がないてしまった。それは死亡者の名前に自分の親か兄弟がのって"たからであろう。この人ばかりでなく、もっとたくさん父、億、兄弟をなくした人々もいるのだ。十日ぐらいたってから、部落ごとにならんで学校に行った。そして朝会で、なくなった私達の友達のめいふくを祈った。
学校に来た日から、毎日遠くの人遠からの救えん物しやはげましの手紙がたくさんとどき、りさい者にくばられた。津波によって一時働らく気力を失った人々も、みんなの協力で立ち上りつつある。そして、町はバラツクの家々が建ちならび、復興のつち音がきこえ出した。津波の来た日から数えると約四ヶ月にもなるが、まだ自分の家を建てないで、他人の家をかりて、かた苦しい生活をしているりさい者もたくさんいる。市でもバラツクをたくさん建てたが、まだたりないのだろうかけれど、みんなは町の建て直しに一生けんめい働らいて、たった四ヶ月で前の町に勘とらない町をきずきつつある。こんなに早く復興したのは、市内の消防団、市役所、婦人会、自えいたいの人々の他に、社会のみなさんが協力してくれたたまものだろう。津波について「海があるかざり津波がないとはいえない」と先生が言ったことを私もなるほどと思った。その時死者を出さないで、津波をおいがえすことができないだろうか。津波から町を守ることが出来ないだろうか。これからみんなで考えれば、津波が来てもこんな悲しいことをくりかえさないようなていぼうをきずくζとは出来ないものだろうか。
ある日友達と海岸を歩いた。海は青々としてとてもきれいに見えた。この海が津波をおζしたなんて考えられない。このきれいな海が人々を一のみにしたなんて考えられない。これからの大船渡の町を良くしていくのは私達なんだ。私達の町大船渡を肉然の災害から守り通そう。
チリ地震津波
地球の裏側からきた津波、太平洋を渡ってきた津波、震源が南米チリ沖しかも浪源となった地震のあったのは二十三日朝だったそうだ、それだけに全く地震が感ぜられないま』予告なしに一七〇〇キロの海を一昼夜で渡り二十四日未明太平洋岸一帯特に大船渡に襲来した時速約七二〇ヰロジエット機なみの快速であったのだ。前日PTA研修旅行の疲れかよく眠っていた。何か話声と走る足音で起され外は明るくなっていた。川渕に(海岸より三〇〇米上流)三、四人下何か見つめていたので、五時にもならないのにと不審ながら寝巻姿で出て行って見た「水の流れがあまりにも早いどうも変だ」と語り合っていた。何か不吉の予感、案に戻って家族を起し着替えて再度川洲に行った。地震の前ぶれがないのに津波とは全然考えられず、明治以来の経験者達も「津波なんかくるものか」と意気込でいた。同時海の方から津波だの大声、いや驚愕の叫びだった。静かな町、眠っていた家々から逃げ出す飛び出る、泣いて走る幼児、ランドセルを持った子供、何か叫ぶ母親………自分も何処をどう走ったか鉄道(二米高)に上がっていた。比処まではと安心して人々の誘導に喉をからした。既に国道はドス黒いウズがはやてのように流木を乗せグングン臭地を目指して凄じい勢で逆流してゆく丸太と人船、屋根に人激流は我ガ足元にも瞬間次の土手に飛び越えて後を見ると我が家も屋根のみ残してくずれ落ちた.土手の下は泥水に浮んだ材木、もがく人、曲った屋根、流木に囲まれ助けを求めている老人、濡鼠で遑い上る女、全くの惨状だ。綱や棒等で見えている所の人はどうにか助けられた。これが生き地獄と言うのか現実に見てしまった。此の惨状を見た子供達、あまりにもの衝撃に只声無く目ばかり光らせていた姿が可哀想に感じた。間も無く生徒の安否を気づかって駈付けた先生方に掌握されて安堵の顔印象的だった。常々子供等に地震津波の教育はしていた、年一度の訓練もあった。併し今度のは全く不意打ちの津波で経験を越えた奇襲であった。ハワイのホノルルにある津波情報センターはいち早く「チリ激震は太平洋全面に拡がる津波を引起した」と警報を発したそうだ。日本では何の予報兆警報も出さず女字通り寝耳に水の大惨害を生ずる結果となった、本県の津波史上に又新しい昭和八年三月三日の三陸津波とともに浪源が三陵沖だっただけに津波が押しよせる前に激しい地震があらわれていたことから津波の前には必ず地震があることが津波襲来の常識とされていた、ところがこの前ぶれなしの大津波完全に津波常識をくつがえしたもので、ここで考えられなければならないのは普通の地震機では観測できない地震やも津波が襲来することだ。少くとも本県みような津波常習地には遠い震源も容易に観測出来得るような設備が急がれ、団時に警報組織、津波予報,制度等も再検討しなければならない時がきたと思う、この点今後の津波対策の上に重大な問題を提起している。
母を失って
津波の思い出を書く様にとの事で、今迄何度も書かねばならぬと思いベンを手にするのだが、何として噺書かれない。思い出というのには、あまりにもショックが大きすぎた為なのかも知れない。音もなくヒタヒタと水が黒い水が真白いコンクリートの道路に上ったと思った途端に、それはそれは早いスピードと水の勢を増してぐんぐんと我々にせまって来たそれこそあれよあれよと思う間の出来事である。水と競争の様にして、後より来る水を意識しながら、ここなら大丈夫という地点でほっとしている間でも、津波の経験のない私は自分の住んでいた家が水に入ってどうなっているかという事等思いもいたらず、ましてや五十三人もの死者を出していようとは考えも及ばぬ事であった。そしてその五十三人の中に自分の母も入ってるとは夢にも思っていない事であった。私達六人家族は男四人と女二人なので水の来ないうちに駅に向って走りだしたわけである。私と中学生、小学生の子供二人主人と母と中学生の子三人と二組になってにげたわけである。途中で母達がなかなか来ないので後をふりむき私が走らぬので中学生の男の子は気が気でなく後で「家には小さな子ばいないお母さんが足手まどいみたいで心配だ」といわれる始末であった。主人に母はだめだったといわれても、十分ばかり前には元気だった人だけにビンとは来ず涙も出ずただ「どうして死なねばならなかった」ときくのが勢一ぱいの事であうた。自分でも落付いてるのか、びっくりしたのかわからぬ有様であった。気がつけば水が引いたらしく、初夏の太陽は五時ともなれば高く昇り地上では、地獄の有様なのに日本晴れのよい天気なのである。赤々とした太陽の光をうけて私は「こんた悲しい日には太陽も出ず暗い静かな日だったらなあ」と何の意味もないが思った。母の死んだ場所がわかっているので水は引いたので、女は危いといわれたが何としても行きたい、男の方々の後について私も山から下りて行った。二同とみられぬあわれな町の姿である。電柱桂は真中より折れ、電話線もブラブラとたれさがっている。大通りは、まだひざまでの水量なのでスカートをまくリザフザフとこいで歩く。親類の方々、高木先生に取りまかれて、いやに静かな町を歩く大きい船が家屋をこわし五六軒家かがないところもある。通りは丸太で歩かれず、まわり道をして家の近くまで来た。家は大丈夫残っている。では母を出して来なければならぬ、というので高野屋の横に行った時又津波だという。私とすればつかれきって、二度と動きたくない。にげる人はにげればよいという心境になって、どこだりにどかっと坐りこみそうになるのを引き立てられて又走った。この津波は前のよりは水量はいくらか少なかったらしいが勢がよく、この引きぎわに家の中にあった道具は流れ出したらしく津波が来ぬときまった時見に行くとすっかり何もなくかだヒサシの上にかりていた鳩小屋の鳩等が元気にいきていたのには、びっくりしてしまった。
死者は同日西光寺にぞくぞく運びこまれた。広い木堂に、つぎつぎと来る。五十三名も集ると悲しさよりただただぼう然として「あ、自分一人でないんだな」とおもい朝よりの胸のしこりもとけていく横で普通なら気持の悪いものなのだろうが、この日ばかりは一生懸命他の仏様を世話してあげても何ともなく順々と焼かれて行く煙を夜中の山中に見ながら「人間の一生とは死でよりしかわからぬものだ」というがよくその意味がわかり医著にもか、らず一瞬の間にこの世をさった人々に人一倍の供養たしてあげ様と心に念ずるばがりであった。津波が来て早五ヶ月、街もすっかり美しくなりサンマ船等入り活気をみせている。人々は津波の事もわすれた様である。然しそれでよいのだ。前進する為には悲しい事もふみこえていかねばならぬのだから、然し二度とこんか事のない様、願ってやまない。
チリ津波に三陸津波を憶う
けたたましく鳴り響くサイレンの音、絹を裂くような女の叫び声と共に異様な物音がする此処、彼処から火のついだ様な子供の泣き叫ぶ声や、人々の救いを求めるわめきと、さわめきが聞こえてきた。再び安眼をむさぼらんとねむりかけていた私は夢中で服を着ると外に川た。家の前の道路は逃げて行く人や車でごった返していた。その人々のただならぬ必死の形相をみてこれは大変だ本当に津波が来ると直感した。誰も津波だと立止って知らせてくれるものがない、みんな死物狂いで高台の方へ逃げていく。私はあわてながら家の中にもどろうとしたらもう人々の後を迫うように鉄道線略を大山のような黒い波が流木や家を押し流しながら物凄い勢で迫ってきた、私は逃げおくれた母を急がせながら屋敷の高台へ向って逃げた後から波が追っかけてくるようで気が気でなく母の手を無理に引っぱって走った。妻や子供達は私達より先に消防自動車に途中で拾われ屋敷の妹の家にいっていた。
人々はみな小高い丘を目ざして取るものもとりあえず逃げた。中には寝巻だけ身にまとったま、恐らく寝ていたところを襲われたのだろう。屋敷部落の高台は避難の入々や車などで埋まっていた。その人々の顔は皆不安におびえ悲痛だった次々に押し寄せてくる避難民、ずぶぬれになって子供をか、えながら登ってくる母親、親は子を案じ子は親を求めつつ気狂のようにさがしまわっている。家族の名か呼びつつ走り去ってゆくもの、逃げおくれてやって来る我が子を発見して狂喜して抱きしある母親、みな身内の安否を気づかって海の方をみている。誰しもがこの津波を予想できかろうか、家族一諸に逃げることも容易でなかったのだ。
そっちこっちの高台は黒山のような人で埋まり呆然と海の方を眺めている、海は色々な流材で一はいになった高台からみると街の方は家が流されたのかまばらになってみえた。そのうちに水が引けたおいうのでみんな自分の家のことを心配して帰りはじめた。私も家に婦った、幸にも家の中生では浸水せず家の前の道路まで来て津波はおさまった。蜜の畑はまるで泥だらけの流失物で埋まりあたかも材木置場のようだった。家の前の水が引けたくぼみに黒いどうだらけの死体が残されていた返してみる差くっきりと顔だけが白く印象に残った。急いで人口呼吸しようとしたがもう口からあわか出していてどうにも手のほどごしようがなかった。戸板にのせむしろをかけ消防団に渡した。後75郷ったがそ珀はKさんの中彫校の娘、さんだったそうだ、本当に司愛想だった。
私は海岸よりの方は相当な被害だろうと小学校の児童や親類の入達の消息を知ろうとして街に出かけた。街は大変だった。家屋の倒壊や流失物が大山のように重なりすっかり廃墟と化し泥海となって異様な状況を程していた。道路は山のような流失物で埋まり全然通行出来ずどこの家がどこなのか自分の生活している町なのに見当がつかなかった。皆さんのように重なった屋根や流木などの上を歩いて人々の消息や街の状況をみて歩いた。赤沢地区にいった時死人がみつかったというのでさわいでいた、これでは相当死者があるなと思った。昭和八年の津波の時とは比較にならないくらい大きな被害を与えた。突然サイレンの音がする。ドキンと胸を打つ再び津波が押し寄せて来たらしい、皆びっくりして再び丘の方へ我れ先にと巣の子を散らしたようにはい上って行く、息をせき切っで丘の上に登ってみると海一ぱいに流失物をのぜてくろい水がどんどん陸の方に押し寄せてくる、誰も一言も発せずだまって海を恨めしそうに見守っている。
このくろい海が五十三人の命を奪ったのだ。その日はは一日中大小様々の津波が押し寄せその度にサイレンがムリ不安に不安が重なり極度に疲労した。
昭和八年の三月の三陸津波の時は私はこの学校の五年生だった、あの当時のことを思い出す。当時は大船渡は現在と比べると淋しい漁村で今のような町ではなくその被害も少かったことを子供心にもはっきり記憶している。小学校の生徒にも死亡者はなく、全町で僅か二人だけの死亡者であった。全壊、流失した家も少く津波後の道路も自由に歩けた。鉄道がまだ来ていなかったので救援物資は横須賀(旧軍港)から軍艦が五隻来て、物資々配給し被災民を救援した。私の同級生達も教室で学用品など色々なものを頂戴した。私達ば羨しがったことを思い出す。幼なかった私達にもあの当時の記憶が今よみがえってくるが今度のよう友悲惨友津波ではなかった私達の同級生や同年輩の人達も被害者があったが誰も死ななかった。チリ津波には私達の年ぱいの人々は随分被害を受けた。子供評共に波に呑まれて死んだーさん、家内全減し一人残ったKさん、或は子供遂に見失ったAさんや沢山の入達がある。その人達がどんた気持ちマ死んでいったろう又残さ-れた人々のことを考えると涙をさそわれてどうにもならない私と同じようにこの小学校下津波を経験したのにどうして死んだのだろう、もつとはやく逃げる事が出来なかったのだろうかふ思う、然し誰菊津波が来ると確信し得た人があろうか私も母と一番最後に逃げた、もつと津波の激しいところであったなら私ばかりでなく一家を全滅させていたことたろう。予想もしなかった津波をうらむよりほかはない。然も昭和八年の津波の被害の最も少かったところ冠今度は}看被害が甚大だったのむ皮肉だった。その為の油断もあったろう今度の津波では昭和八年の津波と比較にならない程の暖かい救援の手を全国各地の方々より受けた。毎日のように後片付に出てくれた各地からの消防団や各種団体の方々、力強い自衛隊の活躍どんどん後からくる慰問品金や救援物資、毎日のように来る慰問文、私たち教師は皆さんに感謝しながら毎督のようにその慰問品等を生徒に分けてやった。本当に有難い事だった。町もどうやら後片付も終り復興に立上りつ玉ある。私は高台にある加茂神社に上って生徒と共に海を見ながら考えた私は五年生下津波にあった、あれから二十七年でチリ津波にあった。この子供等が私の年ぐらいの同年ぱいになるまで叉も津波がやってくるだろう、いやもっと早くやってくるかもしれない。昔から災害は忘れた頃やってくる}云われている今度のチリ津波には昭和八年の三陸津波に得られない数々の教訓を得たこの地で生れこの地に埋まる気でいる私はもう一度津波を経験するだろう。今度のように油断せず今までの体験を生かしていくことこそ被害を少なくする一つの方法であるチリ津波は私の生涯に決して忘れることのできない一頁である。
葬儀に参列して
チリ津波犠牲者合同慰霊祭参列記
津波以来二十日になろうとしている六月十三日、悪魔のツメァトが片づいたあとでも、歴然と残り、歯のかけたような町並がイタイタしく目に映る。合同慰霊祭会葬児童を引卒して、この惨状を右に、丘の上を西光寺にむかう。
黒い喪服の入々が、定刻午前十時を前に、続々とつめかけすっかりと掃き清められた境内をうずめ、その数およそ七百余。
その人々の胸の中は黙して語らず………ありし日の回想に心をとめてか、しっとりと重々しい。
定刻午前十時。
境内に張られた幾張りかのテントの中の人々が、ざわめき、動き始め、会葬者の心と体を緊張させる。
導かれるままに、大きな花輪を幾度かくぐり、本堂に入る会場はすでにその準備も終り、私たちの座が静まりかえるのを待って、もうすぐ五十三柱の霊が静かに慰さめられるのである。
葬儀場の中の遺族の表情と、小学校一年生の入学記念写真の、今は亡き、そのあどけない顔とが対象的で、私たちの心を痛める。
やがて藤原市助役の重々しい口調で開式の辞l時に午前十時二十分。
水な打ったかの如く静まりかえり、鈴木葬儀委員長の声涙ともにくだる。
私はその言葉を知らず、どのような書葉を持ち、どのような心をもっても、慰さめようのない、なくなられたギセイ者、そして遺族………
遺族は勿論、会葬者の胸のうちは、ただただ亡き人々の安眠と、二度とくり返すことのない祈りで、尽きるのである。
始めの読経からすでに一時間半。
多くの弔いのことばは、本堂と境内の会葬者の涙を、流れるままに、ただ泣かす。
「止めどもなく流れてくる涙」「尽きることなく聞えるそのむせび泣き」………。
それは二度と流してはならない、二度と泣いてはならない悲しい憎しみの涙なのである。
中でも小中学校代表の大船渡小学校長の用詞と、小学生代表の弔詞は、読む者をして泣かし、会葬者の心と体を強く強くゆずぶり、涙を新たにするものがあったのである。
弔詞
盛小学校の花川正光さん、花川勝徳さん、大船渡小学校の八木規さん、泉多喜子さん、右川博子さん、熊谷睦子さん、石川健治さん、熊谷昌治さん、大船渡中学校の熊谷あやのさん平山幸男さん。今日ばあなた達の受持の先生と同級生が揃って、皆さんと最後のお別れに参りました。これからはあなた達の元気な姿も明かるく朗らかな顔も、もう二度と見ることができなくなって、呼べと答えず叫べと帰らぬ遠い遠い永久の旅路に立たれてしまいました。
とても可愛らしかった小学生の皆さんの笑顔も、あんなに成長した中学生の皆さんの姿毛、先生方の胸の奥にも、お友達の瞼にもしっかりと灼きついていて、あなた達が亡くなったとは今でも考えられませんし、とても信ずることのできないのばひとり私達のみでありましようか。
例えようもない大きな大きな悲しみに、何と申し上げたらよいのか、先生方と皆さんのお友達の心中の嘆きを言い現わすべき言葉すら見出すことができません。私達一同は本当に悲嘆愁傷やる方もなく、全身の血潮も凍りつき、只々胸も張り裂け荘然自失して気も狂わんばかりであります。
無惨にも全くの廃墟となった街々に心を痛め、亡くなられたあなた達の在りし日のことどもを偲びながら、始めて登校したその日、三つの学校ではそれぞれの先生方と、多くのお友達が、あなた逮の御冥福を祈って静かに静かに瞑目して心から黙薦をささげました。
こみあげてくる悲しみに、咳きくる涙も涸れ果てて、すすり泣街の声ばがりが静かな校庭の隅々まで、悲しみの心そのままに流れていました。先生方もハンカチでじっと瞼を押えて本当にみんながよよとばかり泣きくずれてしまいました。鳴呼五月の二十四日、思い起すだに身の毛もよだつばかりに標然とする最商の凶懇の日ではありました。物々いまだに眠りも覚めやらぬ早暁に、平和にして静かなここ大船渡の街々に何等の前兆もなく突如として襲来したあの大津波。ありとあらゆるものを無惨にも打ち砕き、打ち流し奪い去って、暴虐凶悪の限りを尽したあの水惨。それはかりでは尚、飽くことをも知らずに、なぜに可愛いい十名のあなた達までも無情の波に巻き込んで、一度行きては又帰るよしもない旅路に誘なってくれたのでしようか。
可愛いい十名の生。徒の皆さん、あの逆巻く大波の中で精魂の尽き果つるまで、力の限り最後まで生きる努力をなさったことだったでしよう。声を振り絞って必死に助けを求めたでありましよう。悲痛なる叫び声が、今尚私達の耳に痛々しくもひひいてくるような感じがしてなりません。どんなにか苦しかったことでしよう。如何ばかりか無念だったことでしよう思えば悲しとも、嘆かわしとも、傷わしとも、言わん方もなく、滂花たる涙に明け暮れるばかりであります。
また昨日までお元気であった多くの父兄の方々や、頑是ないいたいけ盛りの幼い子供達をも一瞬のうちに幽明境を異にしてしまいました。思えば思う程寸腸九廻、断腸悲愁の念もいとど深く、あたら世の無情の風を憎み、矢をも恨んで只々慟異するばかりであります。
亡くなった可愛いい十名の生徒の皆さん、多くの父兄の皆様いたいけ盛りの幼な子の皆さん、悲しみは日毎に深く嘆きは永久に御遺族の方々と私達の胸から消え去ることはないでありましよう。
併し乍ら私達はこの悲しみと深い嘆きを胸の奥深く刻み込みここ大船渡の街々の再建復興に、あらゆる努力を傾倒して、二度とこの惨禍を繰り返さざるよう覚悟を新たにして起ち上るつもりであります。何卒この復興と街々の安泰を草葉の蔭よりお守り下さるよう、今猛前にぬかずき、涙と共に祈願するものであります。
さらば可愛いい十名の、生徒の皆さん、多くの父兄の皆様、いたいけ盛りの幼な子の皆さん、安らかに永久の眠りにつかれますようここに三つの学校を代表して御冥福を祈り弔詞と致します。
昭和三十五年六月十誉日
盛小学校、大船渡小学校、大船渡中学校
教職員代表紀室泰治
おとむらいの言葉
亡くなられた一年生の八木規くん、泉たき子さん、石川ひろ子さん、二年生の熊谷むつ子さん、三年生の石川健治くん、五年生の熊谷昌治くん、私たちは小学校を、代表して最後のお別れにまいりました。あのおそろしい津波があってからすでに二十日もすぎ、六月一日から学校が始まりましたが、なくなられた六人のみなさんの机だけがさびしくあいております今でも先生が出席をとる時「ただしちゃん」と呼んだり「たきちゃん」「ひろこちゃん」と呼んだ時、みんな胸がつまって、下を向いてしまうのです。「いくら呼んでも規ちゃんや多喜ちゃんたちは来版いんだものね」と先生も涙ぐんでしまうのです。桜の咲くこの四月にお父さんお母さんにつれられて大きなランドセルとぞうり袋を持ってニコニコ笑いながら入学した三人の一年生だったのに今はその姿を見る事ができません。
先生の問いに手をあげて答えることをわかり、本もじようずに読めるよっになり、そして学校でのことをどんな小さい車でも、お父さんにお毋さんに話させるようになったかわいいかわいい一年生だりたのです。このあいらしい顔をした三人の子供たちをどうーて波がのんでしまったのでしよう。もみじのような細い手や足をもがきながら苦しんでいった事を思うと、とめどなく涙がでてきてなりません。単校での生活もやっとなれて元気に石けりや、ゴムとびをしていた。二年生のむつ子さん……お兄さんの昌治くんと二人、遠い遠い天国下。何をしておりましたか。きようはあなた方二人のお父さんやしんるいの人。そして私たち小学校のお友だちがたくさんあいにきております。さびしさや悲しさをふきとばして喜んで下さい。お残りになられたお父さんから、あなた方二人の様子をききクラスのものみんなで泣きました。
熊谷昌治くん妹のむつ子さんをよき兄さんとしてかわいがって下さい。石川健治くん妹のひろ子さんを前よりもかわいがって親切にしてあげて下さい。なくなられた六人の小学生のみなさん安らかに安らかにねむって下さい。私たち小学生一千六百名はみなさんの死をむだにしないよう一日も早く立上る事をお誓いします。町の復興のため美しい緑の鞠にするためにお父さんお母さんと力を合せて頑張っていきたいと思います。いつまで泣いていもきりがありません。強く正しく立上ることをやくそく致します。
八木規くん、泉多喜子さん、石川ひろ子さん、熊谷むつ子さん、石川健治くん、熊谷昌治くん。
私たちは毎年この五月二十四日に美しい花束をささげてみなさんのごめいふくをお祈りします。どうぞ安らかにおねむり下さい。さようならさようなら
昭和一二十五年六月十一二日
大船渡小学校
児童会代表宮沢洋一
やがて正午、静かに教会の鐘がこの町になり響くーー
遺族代表の切々たる訴えと、泣き叫ぶばかりの謝辞が、会葬者最後の涙をさそう。
幾ら泣き叫んでも、亡き人々の声は聞けず、その姿も見えず………。
しめやかに、厳粛のうちに慰霊祭は閉じる。しかし会葬者は動かず。故人の霊を心から慰さめ、哀悼の意を限りなく表したのである。
一九六〇、十一、十三
全国各地から激励のお手紙を
岩手県胆沢郡鬼神小学校一年たかはしちひろ
ひがいちのみなさんげんきですか。つなみのようすを、がつこうのせんせいやうちの人たちにききました。ほんとにおきのどくです。がっこうへは行っていますか。おもちゃはありますか。おともだちはみんなげんきですか。つなみなんかなければよいとおもいます。みんなもそのように、はなしています。わたしたちのほうは、つなみはないから、みなさんがわたくしたちのほうにくればよいとおもいますびようきにならないようにげんきでいてください。
長崎県大村市箕島みしま分校三年大島和子
大船渡のみなさん、このまえのつなみはたいへんぴどいでしたね。わたくしはしんぶんを見たら、いえがなんげん雪ながされていました。ラジオでもききました。
箕島につなみがくると西なんでもながれます。どのぐらいの高さのつなみですか9うちの人も「かわいそう」といっていました。箕島にたいふうがきても、わたしはおそろしいのです。大船渡のみなさんのことをきいて、あたしたちみしま分校のせいとは、お金をあつめておくることにしました。みしまのせいとはようもえんから六年まで二十五人います。箕島の中学生はふねで学校にいきます。みしまのいえは伊みんなで十五けんあります。
広島県向東小学校四年藤原香
四年生のみなさま、大きなつなみにおそわれてたいへん苦しまれたことでしよう。私もテレビで見たり、お父さんやお母さんからも聞いてびっくりしました。こちらはつなみにもやられず、たいふうもあまりひどくないし、たいへんいいところです。
それにくらべて、そちらはたいへんですね。お父さんやお母さんとわかれたりした人もおられるでしよう。どんなにつらいことかと思いますが、へこたれないで下さい。いくらまずしくても、なにもなくても、いつも美しい心をもっていて下さい。そしていつも正しいおこないをしていきましよう。強く正しく生きて、だれにもまけない、りっぱな人になって下さい。私たちのためたわずかな、お金とふくや学用品もおくります。少しふるいのもありますがつかって下さい。四年生のみなさん、きっとりっぱな人になってくださいね。
さようなら
愛媛県四宇和郡三崎町立松小学校六年田中敬子
小学校の皆さん、この間は思わぬ災害を受けて、たいへんなめにあったことでしよう。私達はラジオで聞きました。あまりひどい災害なので、おどろいてしまいましか、皆さん。皆さんの苦しみはどんなにか大きかったこ}とでしよう。私達のところでは地震、大風、つなみというようなおそろしい災害は一度も見たこ志がありません。それで、どんな苦しみをしたか、少しもわかりません。ラジオや新聞で知りている程度ですが、それでも私たちには、たえられそうもないことばかりです。「かわいそうに」と心の中で思うことばかりです遠いところなので、なにもして上げることができませんがただ一つ、皆さんが友だちといっしよに楽しく勉強ができるように。そして苦しみにうちかって強く生きて下さいとはげますことしかできません。これからはますます暑くなり、いろいろな病気になるので、体に気を付けてがんばりて下さい。さようなら
千葉県海上郡海上町立嚶鳴小学校六年平野文子
災害地のみなさん、今度はほんとうにひどい日に介いましたね。みんなとわかれわかれになってつらいことでしようががんばって下さい。私の家も、もと東京にいたんですが、せんそうのためみんなとわかれわかれになって、ここ千葉県海上郡へひっこして来たのです。海上郡といってもちようしの近くです。でも、海とはとてもはなれていて、つなみのおそろしさなんてわかりません。だから、おちついたら当日のようすや今の様子を教えてね。私の家はでんぶんやです。おいもの時期が来ると、広い庭に山のようにいもが積まれます。それを機械ででんぷんにします。あなたの家は何だったの。でも、だれにも不幸はあるんだと思って、たくなった友達のためにがんばって下さい。今のあなたたちは、日木の国と同じなんですから、もう少しして、私達がおとなになるころは社会などで学習した。日本の国のみらいのようすのように、しあわせになれるでしよう。だから、おたがいに力を合わせてがんばって行きましよう。それがじつげんすれば、日木の国もしあわせになれるんですもの。あなた達が不串だったら日本人がみんな不幸なのよ。だから無くしあわせになってね自分一人っきりでも、私達がついているんだから、気をしっかり持って、なくなった友達のぶん豪で勉強し、もう二度とこんなことにならないように、私達で研究して、自然の害から守りましよう。みなさんと同じように、ひどいひ害を受けた。いせわん台風に合った人々。でも、今はもうだいたいしゅう理されて、元気でやっているんだから。みなさんも、悲しい気持をすてて、元気にもう一度やりなおして下さい。私達のできることは協力します。お手紙下さい。
私のじゆう所は千葉県海上郡海上町後草一五七二番です。
大阪府泉大津市穴師学校児童会長高寺明
新聞、ラジオ、又は父母にきかされ「チリつなみで大ひ害をうけ、こまっている人がいる」とうかがいました。それで心配なぼくたちは、学級会でこの話を取り上げ、各学級にグループをつくってよびかけました。
それからの毎日、みんなは村別にはんを作り、一けん一けん「チリつなみでひ害をうけてこまっている人たちを助けて下さい」と声がかれるほど熱心に努力をしました。あきかん古新聞、あきびん、古ざっしなどの、ガラクタだが「金や銀よりも、ねうちの高い真心のこもったものだ」と先生もよろこんで下さいました。衣類やお手紙は小包で送ります。お金といっしょに、できればぼくたちと同じようなお友達がたくさんいる学校へ送り届けて下さいどこへ送ればいいのかわからないので日赤へ送らしていただきます。
栃木県塩谷郡壇谷村壇谷分枚神長チル子
前略
見渡すかぎり、緑の山々につつまれて来ました。今日このごろ、突然のチリ津浪によって大きな被害をうけられた皆様方の悲しみは、私達海のない県の人々にもよくわかります。昭和に入ってから五度目の津浪とあって、傷少の経験者もあられたかと存じます。もし今度の津浪について、気象庁がもっと早く市民に知らせていたならば、こんな大き獄災害にならなかったのではないかと思います。
私も毎日のように、チリ津浪の事をきいてホロリとさせられた事が幾度かありました。時に小学生や私の同じ位の人が言っている言葉などを聞くと、木当にかわいそうでなりません。チリ津浪にあった皆様。私達が想像する以上の苦しみであると思います。苦しみにもまけず頑張って下さい。
希望をもって働く事によって、その希望け現旗となって、いつかはあなた方の前に現れると思います。今すぐでなくても数年後には、きっとその希望が充たされると思います。しかしその希望に向って言う事は多くの因難がある事でしようこれらの苦しみと戦っていく人こそ、本当の人間性のあらわれだと思います。「不幸だとか、又は世間で懇とよんでいる大部分に投げやりすぎて自分の目的をはっきり知ろうともせず、父知った処をまじめに努力しようとしない点から起るのである」。この文句は美しき魂の告白の一部ですが、この言葉によって色々考えさせられることがあります。被害者の皆様もこの言葉によって何らかの富が得られるならば幸と思います。
被害者の皆様。苦しみにも負けずがんばって下さい。そして再びこのような事のないように、我々人民はこれからの方針について考えなければならないと思います。被害者の皆様の御健康と一日も早く元の姿になれる事を心から祈ります。ここに送ったお金と千羽鶴は私達クラスの一人一人が真心こめて作ったものです。少しでもお役に立てば幸と思います
津波のあらしたあと
一、津浪の概況
一、チリ地震津波の性質
昭和逆五年五月二四日早朝、荒陸、北海道を中心とした太平洋海岸一帯に津波が来襲し、各地に大被害をもたらした。これは南米に発生した大地震によるもので、津波が我が国に到達するまで二三時…半程かかっている。震源地と日本との間は約一八OOOキロも離れており、これ程遠方から大きな津波の襲来を受けた例がない。直接地震を感ぜず大被害を受けたこともはじめてである。チリ地震津波の特徴は次のとおりである。
イ 震源地が非常に遠方であるにもかかわらず津波の規模が大きかった
ロ 津波は理想的な平面波として襲来し波長、即ち周期が大きかったこと
ハ 津波の被害が日本の太平洋岸全体に及んでいること
2各地の浸水状況
津波の来襲回数は各調査地店乳二〇回前後大小の波が繰返し来ている。床上浸水を生じせしめた波の回数は各地によって異なるが、数回程度である。津波の来襲時刻は各地によって異っている。津波の偶期は五分乃至一九〇分の範囲にわたっている。大船渡市における津被来襲回数時刻、周期、浸水高を表に示すと次の通りである。最高浸水高は各地と属海岸通りの建物の床地盤面から約二、四米〜三、0米である。浸水上昇速度は正確な値は分らないが、志津川町においては男子高校生が走ってようやく逃げられたが子供々背負った女性は逃げられなかった程度
二、被害概況
津波による被害絵地彫によって異なる。押し寄せた津波は湾の入口につきあたり、さらに湾内に浸入してくると湾の奥では海の中もせまくたり、深さも浅くなっているために波高が急に高くなり陸地にあがってくる。この波高は湾の形よりかなり異なり、V字型U字型の場合は湾入口の二…数倍になる。前述の如く、津波は湾形で波高が左右される。
三大船渡市に於けるチリ地震津波来襲の状況
五月二十四日午前三時十分頃、潮の異状を発見した人々は地震の予告がないの、で単に高潮程度に感ずるものが多かった三時五十分頃赤崎町漁業協同組合職員より消防本部に高潮らしいとの連絡があったが誰も大津波が来襲するとは予想するものがなかった。然しその後数十分を経てから意外友引潮がはじまり、大船渡町笹崎県営岸壁では海底が露出、また赤崎町野島では海底に長く裾を引く真黒な岩肌が露出して、全く不意な津波の襲来を知った。この後午前四時四十分静かにあげ瀧がはじまり、浅瀬に乗った海水は奥地ほど速度と勢いをまして浸水し、無漸な災禍をもたらすに至った。来襲時刻と波高猿次のとおりである、
1、時刻と波高
来襲回数来襲時刻 前回との経過時間
第一回三時一〇分〜三時一三分 三分
第二回四時四十分〜四時五十分 十分
第三回五時二五分〜五時三五分 十分
第四回五時四三分〜五時四九分 六分
第五回七時〜七時六分 六分
第六回一一時〜一一時六分 六分
第七回一四時五五分〜一四時五八分 四分
第八回一七時〜一七時〇三分 三分
2、大船渡市建物被害の状況
3、本校の災罹児童
4、罹災児章調査集計集
5、死亡児童並家族死亡状況調査表
6、生業罹災状況集計表
7、津波直後の登校(欠席)状況調査表
8、罹災児童生徒学用品配給
9、第一次学用品購入計画
10、罹災家庭の幼児調査集計表
11、給食米配給計画表
12、罹災児童学年(学級)別調査集計表
13、生活保護児童の罹災状況調査表
学校では津波をうけてから授業を始めるまでにどんな処置をとったか
五、二四 夲朝四蒔二十分頃チリ地震津波、大船渡湾岸に来襲、目を当てられざる惨状にあり。大船渡市に於いてぽは校に津浪対策本部を設置亦講堂キ罹災者収容所に当てるこき、したる為罹災者続々き来校学校に於いては再度津浪の襲来を恐れ民心動揺の中に緊急職員会議を、開催、次の事項を協議せり。1当分の間臨時休業とする。状況を把握しつつ召集を考慮する2授業開始は中学校と同時とする3死亡児童を確認する4罹災職員の状況把握と援助5早急に児童の転居先を調査しなお罹災概況を調査すること6罹災職員以外は毎日出勤とする7以上に基づき対策を協議イ死亡児童確認 ロ災害対策本部への協力 ハ罹災概況把握 ニ羅災児童の調査l概数調査罹災保護者の確認保護者名簿より児事調査罹災児童名簿作成と他学区学校の協力救済金請求(共済部)死亡児童弔慰金ホ教科轡学用品の徴達i市教委、組合を通じ夫々の管下小学校の協力を求めることに決定へ金品衣類の救援物資処線について1事務分担(金銭・物品・食品)をなし記帳の上地教委に報告するト死亡児童に対する弔慰金について1職員割人弐百円拠出する学級に於ては授業開始後処置するチ罹災見舞金l調査後段階に応じて処置する、り罹災家庭に対しての労力奉仕二十五日職員朝会で協議する ヌその他ー○PTA会費の徴集の見通しがつくまで支出を行わない○学級教材費の支出は一時停止する○速急に防疫対策を行う○宿直員は当分五名に増員する○葬儀に対する事項は後日協議する○他学区移動児童を調査する○講堂に収容された避難民の処置会議終了と同時に各部落担当教師により全学区罹災地を巡視すると共に市対策本部業務に全職員終日金面的に協力する。即ち炊出し弁当の部落配達。援護物資の運搬整理。病人の収容。罹災者の収容、その他雑務に当たる。午後五時までに確認したる死亡児童六名にして罹災職員は五名である。
五、二五本日津浪災害対策本部市役所に移転する臨時休業第二日目前八時四十分より職最朝会を行い本日の行動日程について協議罹災職員並PTA役員宅の整理応援に夫々出動、学校長総務は現地罹災状況を視察すると共に本校罹災職員宅学校関係、諸団体役員宅の見舞を行う。樹夕刻までに罹災家庭四十五世帯(内病人二名)、が講堂に収容される。又午後二時より木校々長室に於いて、市教委召集の緊急市内校長会議がもたれた。
五、二六前日に引続き職員は夫々分担罹災職員の家財整理手伝いに出動し一部は避難所整備避難民管理室の設置に協力をするとともに罹災児童移動先調査及び罹災概況調査を行なった又通信網は勿論、交通杜絶となった赤崎地区は漸く徒歩交通が司能となったので現地視寮を兼ね本校罹災職員宅見舞のため学校長が概地区に出張を行なった。この日より自衛隊が救援のため来市
五、二七本日も亦罹災職員宅の応援作業に出動すると共に救援物資運搬に協力、校長室に於ては午前十時より地教委召集の校長会議がもたれた。十二時交部省係官来校せるため学校長より羅災状況の説明を行なった。
五、二八臨時休業弟五日目罹災職員宅の応援作業を本日より中止し、全職員によって校内大清掃並整備をなし避難所との遮断を行なった午後職員会議を開催1三十日授業開始を日途に準備をすること2児童君集連絡方法は市広報車と広告による3引卒登下校とすること集合場所の決定4臨時部落担当者の決定5二十九日は日曜であるが定時出勤とする6教科書は古教科書を使用することとし蒐集促進すること7授業開始について市教青長より次の内容について要請あリイ家庭訪問に依り罹災状況を調査の上三十日迄に報告すること調査事項の一、児童の学用品の被災状況その二、家屋の損傷の程度ロ配給物資の受払いの明細を期すことハ大船渡小中学校は以上のことに従って児童の動静状況調査の上、六月一日を期して帆規授業を行なうよら努力すること 二学校設備々品の貸借を明確にし損傷度等減らさず記録しておくこと
五、二九前日の職員会議及び教育委員会の要請に基づき全職員部落巡回を行ない三十日学校登校の通知徹底及び児童罹災状況の把握を行なった上帰校後世日の具体日程について夫々申合わせをなした。尚本日自衛隊衛生班によって校舎内外の大消毒を行なった
五、三○引卒登下校実施各職員は各部落に前八時までに集合九時までには全校生徒職員登校を完了罹災状況学級調査(罹災人員、非罹災人員、別紙AB表による調査同C表調査、家族死亡調査)部落児童会を開催臨時部落役員の決定により連絡網の強化後引卒下校を行ない午后より合同調査及び学年集計全校集計を甑みた。つなみに登校できなかった数は次の通りである一年三六二年二八三年二一四年一六五年一四六年九であり出欠は調査したが本日も臨痔休業の取扱をなした
五、三一引卒登下校第一百目第一校時津浪の歴史を印刷物中心に学級毎取扱い第二校時は罹災状況の実態再確認家庭調査実施。第三校時校舎内外の大清掃を実施の上十二時全員引卒下校午后は配給計画立案のための教科書学用品衣服材料等の需要数調査及び救援物資の整理照較を行なった
六、一本日より授業開始欠席者一〇二名であり只宿直員を一名とする第一校調査後の変更事情教科書の需要調査傘靴等の需要調査欠席理由調査特に下痢患者の調査実施学級活動として「津浪災害による復興に協カしよう。」のテーマで夫々学習清掃引卒下校午后より職員内合わせ会を開き臨時々、間割作成学年毎学習計画立案内容進度プリント等の準備について協議終了後古教科轡及び学用品の配給を行なう
六、二引卒登下校第四日目欠席長一〇二名第一校時中学校と同家族調査給食児童調査教科書学用品配給第二校時津浪作文指導十二時引卒下校とし午后衣料品配給を準備尚小中職員による罹災状況調査連絡会議をもっに
六、三引卒登下校五日目欠席者六十名三時間授業罹災状況イ給食児童再検討ロ教科書学用品の不足調査ハ被服実態調査を行ない又午后津浪罹災者見舞金給与給児童米配給準備被服配給準備をなした
六、四三校時授業引卒登下校を本日午後より中止することとし又六日より普通授業を実施することとした。尚本日配給米見舞金、長靴の配給を夫々行なった
六、六本日より各部落毎児童の自主性により集団登校欠席者は普通時と大差なく一応の状態を取戻したと考えられる。五校時授業後放課生業被害調査票配布学用品の配袷を行なう
六、七普通授業尚本日は生業罹災調査の集計救援物資中に幼児用の被服など相当数含まれであるので罹災家庭幼児調査、傘、爾合羽長靴の調査学用品特にクレヨン絵具習字用具の不足調査を実施
六、八普通援授業被服配給を行なうと共に未配給調査罹災状況確定数を決定
六、九諸物品不足実施
六、十一本日より罹災児童中特に生活困窮なる者に 対して昼食用パン牛乳の給食を開始
六、十三大船渡市主催の津浪死亡者合同慰霊祭が午前十時より大船渡町西光寺に於いて行なわれかので学校長及び生徒代表二百六十名出席いともしめやかに葬儀が営まれた尚午前十時を期し全校児童一分間の黙祷を捧げた
六、二三学級費調査を実施家計経済の打診を試みたのであるが結果は良好であっか。尚学用品の配給計画を立案
七、十八学用品の配給を行なう
七、二〇救援見舞金によって雨傘を購入中であったが本日ABC級六百三十四人に夫々一本宛配給を完了
七、二五ユニセフの布靴六百六十八足をABCD級に夫々一足宛配給終了
私達は永久に津波のために苦しまねばならないだろうか
三陸津波史年表並に状況と被害
一回一八六九年、貞観十一年五月二十六日陸奥国こ大地震起り家屋倒潰、圧死者多く津波ば坂下(多賀誠)に迫り濃死者千余人(三代実録)
二回一五八五年、天正+三年五月十四日七一六宮城県本吉郡戸倉村の言い伝えに、この年津波があったという。
三回一六一一年、慶長十六年十月二十八日二六年午後五時大地震陸奥国に地震あり大津波があった。伊達領内にて死者千七百八十三人、牛馬八十五頭溺死す気仙地方でも同日大津波ありとの記録あり。
四回一六一六年、元和二年七月二+八日五年三陸地方に強震あった後、津波があったと伝えられている。
五回工一六ニ七年へ寛永四年正月一一年この年、正月に大地震あり高潮押し寄す。六回一六五一年、慶安四年十月二四年この年宮城県亘理郡に津波があったという。
七回一六七六年延宝四年三月十二日二五年常陸、水中、陸奥、宮城の海辺に津波があり、人畜多数溺死せり。気仙地方の記録では翌一六七七年三月十二・十三・十五の三日間強震ありき。また宮古大槌方面に家屋の流失があったという。
八回一六八九年、元緑二年月日不明二二年陸中の沿岸に津波があったと口碑に伝えられている。
九回一七三〇年、享保十五年五月二十五日四一年本吉、桃生牝鹿、宮竣諸郡に海嘯あり、封境を破り田畑を損す》記録あり(東藩史突稿)
十回一七五一年、宝暦元年五月二日一二年。気仙郡一帯に津波来襲す「東藩史稿」には「気仙高田大地震の余波として陸中に津波が起る」と記されている
十一回一七六四年、安永三年五月三日一三年大地震あり、地割れ、岩崩れ甚し、大なる津波はなし
十二回一七八O年、天明年間一六年三陸地方に海嘯があった。
十三回一七九三年、寛政四年正月七日一三年大地震三日間続く後火津波あり。大槌の珊瑚島海中に没す。とある「雄保記録」によるき桃生郡十五浜雄勝下床上浸水二尺とある。
十四回一八量七年、天保八年十月十一日四四年気仙、本吉、牝鹿郡及び宮城郡沿岸に、海潮溢れて田畑の損署多し、な艶前年に仙台地方に大地震あり、民家数百死者多数を川した。
十五回一八四七年、弘化四年七月十七日十年気仙、本吉、牝鹿、桃生、宮城五郡に津波おこり、大小船七十五隻流失、漁夫三百三十五人溺死しか。
十六回一八五六年、強震霧間もなく津波来襲あり。雄勝「先祖代々記」正午頃、三陸地方に地震津波あり、雄勝では床上浸水三尺、午後十時頃十四、五回押し寄せたとあり。
十七回一八六八年、明治元年六月 一二年明治元年六月本吉郡戸倉村に地震があった。
十八回一八九四年、明治二十七年三月二十二日二六年岩手沿岸に小津波あり。
十九回一八九六年、明治二十九年六月十五日二邸同日、午後七時三十二分頃強震、午後八時七分を第一回として七、八回の津波あり、第二回の波が最も強く最高波二十四米(古浜湾)。気仙郡内の溺死者六千七百十人、田畑半作三陸一帯の死者二万一千九百証十二人、負傷者四千三百九十八入。流失家屋一万三百七十棟。
二十回一九一五年、大正四年十一月一日一九年三陸沖の地震が原因で本吉郡志津川湾に小津波あり。
ニ一回一九三三年昭和八年三月三日一八年
午前二時三十分突如として強震起り約三十分を経て三陸沿岸一帯に津波の襲来となる。
気仙地方の被害は死者行方不明五百十一人流全半壊家屋二千二百戸。
最高波二十三米(綾里湾)三陸一帯及び北海道の総被害ば死者千五百二十九人、行方不明千四百二十一人、負傷者千二百五十八人。流失倒潰家屋七千二百六十三戸。大船渡剛の状況
当町に於ては津波によって百戸も倒潰したが僅かに死者二名であり綾里村、越喜来村等と比較して被害は少かっか。当夜は消防組所属の木下清之亟氏、伊藤金三郎氏、木下信次郎氏、及川栄助氏が夜警勤務中地震と共に番小屋を飛び出し引潮の甚だしきを悟り浜育ちの弟六感から津波襲来を直感して、一里に余る長い町を避難するよう警告をして回ったので町民が比較的早く避難することが出来た。
当町被害
死者二名、重傷六、軽傷一九、流出三一、全壊五九、
半壊八九、小学校児童死亡なし。
むすび
将来このような惨禍に二度と会いたくも合わせたくもない気持ちが一杯で編集を致しました。この拙い資料が世の多くの皆様に、何かのお役に立てばと念じております。
くろいうみ編集に当たっては大船渡市教育長さん初め関係各位の積極的なご支援をいただき一同感謝しております。
被災地図もより詳しく、写真、諸統計ももっともっと掲載するつもりで準備いたしましたが、紙面の都合で割合のやむなきにいたりましたことを残念に思っております。
津波後七ヶ月、ようやく上梓の運びとなりましたが、この編集をしている中にも、冬空で寒さにおののいている子供たちや大人の人たちを思うとき、尚いっそうのご激励をお願いいたします。