はしがき
昭和35年5月24日未明,突如として襲来したチリ地震津波は,わずか数時問にして東北の東海岸一帯に無情な悪魔の爪跡を残したのでありますが,本県の被害は殊のほか甚大で,死者50名,行方不明4名,被害総額114億円という甚大なものでありました。殊に,三陸沿岸は,津波,高潮の常襲地帯で,常に危険にさらされているのであります。
県は,再びこのような惨禍を繰り返さないよう,学術的見地から恒久対策を計画することを考え,昨年7月宮城県チリ地震津波恒久対策研究会」を設置して,東北大学並びに関係行政機関の専門家にお願いして対策を検討して載いたのであります。
本編は,この研究会の委員である東北大学の諸先生が,それぞれの専門の立場において記録したチリ地震津波に関する研究論文を牧録したものであります。
災害は忘れぬうちにまたやってくるかも知れません。将来の災害に対する予防対策上の指針としての一助ともなれば幸と考える次第であります。
昭和36年3月
宮城県知事 三浦義男
チリ地震津波について
宮城県チリ地震津波恒久対策研究会
東北大学理学部教授
加藤愛雄
昭和35年5月23日4時15分頃(日本時間)にチリ国の中部西海岸でマグニチュードM=8 3/4という今まで世界で記録されたなかでは最大の地震が起った。(地震の震度を表わすマグニチュードというのはある地震の震央から100km離れた所で記録した特定の地震計の記録の振巾の常用対数をもって表わしている。)この地震は今まで世界で経験された最大の地震で,仙台の東北大学附属地震観測所で記録された長周期地震計の記録によると,この地震は5月23日以前数日前から可成り大きな前震があって,この日も4時15分頃の地震に引きつづいて15分位後にまた大きな地震が起っていて両方の振動が重なっている。津波を起した本震は後者の4時31分に起ったものである。
この地震の初動はチリと日本の間を約20分で到達している。この地震に伴う津波は三陸沿岸には5月24日2時50分頃到着した。従って日本とチリの距離約16,600kmの間を約22時間で到着した事になる。
地震に伴う津波は明らかに地震に伴って海底地形の変動によって起された所謂重力波であるので,その伝播速度Vは√ghで表わされる。ここにgは重力の加速度,hは伝って来た途中の海の深さで平均h=4,000mとすると速度は秒速約200mでほぼ実際と一致する。
三陸沿岸での波高は湾外で約2m位であると推定されるのであるが,湾奥では2〜3倍になっている。
今回のチリ地震津波の特徴はその周期が非常に長いのであって,昭和8年または明治29年の時の三陸沖地震に伴う津波ではもっと短周期の振動が含まれていたことに比べて今回の津波の著るしい特徴である。またチリに起った地震に伴う津波は決して今回が初めてではなく過去に3回も起っており,1868年8月13日(明治元年)および1877年5月9日(明治11年)に何れもチリ西海岸沖に起った地震によって北海道および三陸地方に津波が来襲した。前者の地震に伴った津波は8月15日函舘にいた船長T.Blakistonが波高3mの津波を観測して,その状況を地震学者のilneに報告書を書いている。
後者の津波は釜石で同様波高3mの津波を観測した。
このチリ地震に伴った津波については,故東北大学教授本多光太郎博士が詳細な報告を既に1906年に震災予防調査会欧文報告に書かれている。従ってチリ地震によって北海道おまび三陸沿岸に津波が来襲する事は当然考慮されねばならない事であったもので,今後の恒久対策を立てる上にも注意されねばならない。
三陸沿岸が津波の常習地であることは改めていうまでもなく極めて常識的の事であるが,三陸津波に対して,その地震の震央の分布から考えて次のように分類する事が出来る。
[I] 三陸沖地震に伴う津波,三陸地方で最も警戒すべき津波であるが,この場合でも三陸沿岸に比較的近い所に震源を有するものと百数十粁沖の日本海溝の西斜面に震源を有するものとに分けられる。
A 百数十粁沖に震源を有するもの。
明治29年,昭和8年の大津波はこの中に入るもので規模も非常に大きく大被害をもたらすものである。この場合震央の位置と湾の開口の方向によって被害の程度に差がある。
B 三陸沿岸沖数十粁以内に震源を有するもので地震は大きくてもそれに伴う津波はそれ程でなく,震源に最も近い海岸で若干の被害のある程度である。
[II] 十勝沖並びに千島沖地震に伴う津波
これは三陸沿岸でも可成りの被害を受けることがある。少なくともカキイカダ等の被害はまぬかれない。
[III] カムナャッカ沖地震に伴う津波
これも前者と同じ程度で三陸沿岸で可成りの被害が生ずる。
[IV] チリ西部海岸沖地震による津波
長周期の津波で三陸沿岸で比較的大きな湾の湾奥での被害は著しく大きくなる。今回の津波はその典型的のものである。
過去の三陸地方の津波を上記の分類によってあげて見ると次の表に示す通りである。
[I]-A 869年7月13日 三陸沖,大津波
1611年7月2日 三陸沖,大津波
1677年4月13日 (陸中南部沖),中津波
1793年2月7日 陸中沖,中津波
1896年6月15日 三陸沖,大津波
1897年8月5日 三陸沖,小津波
1933年3月3日 三陸沖,大津波
[I]-B 1616年9月9日 陸前沖,小津波
1861年10月21日 陸前,陸中沖,小津波
1938年11月5日 磐城沖,小津波
[II] 1640年7月31日 北海道沖西部,小津波
1782年8月23日 エトロフ島沖,小津波
1843年4月25日 北海道沖東部,中津波
1856年8月23日 北海道沖西部,中津波
1893年6月4日 色丹島沖,少津波
1894年3月22日 釧路沖,小津波
1918年9月8日 エトロフ島沖,小津波
1918年11月4日 エトロフ島沖,小津波
1952年3月4日 十勝沖,中津波
1958年11年7日 工トロフ島沖,中津波
[III] 1952年11月5日 カムチャッカ沖,中津波
[IV] 1868年8月13日 チリ西海岸沖,中津波
1877年5月9日 チリ西海岸沖,中津波
1906年8月17日 チリ西海岸沖,小津波
1960年5月24日 チリ西海岸沖,大津波
上記の表に示したように三陸地方沿岸は単に三陸沖の地震による津波のみならず千島カムチャッカ沖の地震による津波,更に今回の如く遠くチリ国西海岸沖の地震による津波によっても甚大な被害を生じている。
この事は三陸地方が三陸沖の津波を起し易い地震の震源に近い事の他に今回のチリ津波による被害でも明らかなように,三陸沿岸の海岸がリヤス式海岸である事の為に宿命的にその湾奥では津波の波高が高くなって甚大な被害を受ける事になる。この事は三陸沿岸にとっては誠に宿命的のことであって沿岸住民にとって誠に気の毒にたえない所であって,そのためにも恒久的の対策が望まれるのである。
今回の津波の特性はその周期が長く,約50分〜60分もある事で,昭和8年若くは明治29年の津波の周期が比較的短く約20分程度である事に比較して最も特異な所である。これは今回の津波が遠地津波としての典型的のものであり,従ってこれに伴った被害状況も著しく異なり,今回は気仙沼湾,志津川湾,女川湾等の比較的湾奥の深い湾でその湾奥の波高が著しく大となり,従って被害が大きくなっている。今回の津波が日本の各地の験潮記録に記録されたので,遠地津波として初めて完全な資料が得られたといえる。 この資料による遠地津波の研究が行なわれれば,三陸沿岸の津波対策も,近地津波遠地津波の両者に対して完全に行なわれるのであって,現在まで三陸沿岸では近地津波に対する対策が主として行なわれて来たのであるが,あわせて遠地津波に対して対策が行なわれる事になる。
宮城県ではチリ地震津波の恒久対策を立案する目的を以て,宮城県庁および東北大学,理学部,工学部の各権威を以て組織されたチリ地震津波恒久対策研究会が設けられ,慎重な審議を重ねてその恒久対策を立案した。この対策が実行されるならば三陸沿岸は初めて津波の脅威から解放されるであろうと信じられるので早急の実施が望まれる。
この調査報告は東北大学において行なわれた調査結果を特に宮城県庁の好意により将来の参考のために印刷したものであって,将来も必ず起るであろうと考えられる三陸沿岸の津波に際して重要なる参考資料となるものと信ずるのである。
気仙沼湾における津波調査報告
気仙沼水産高等学校 西城忠泰
1)緒言
昭和35年5月24日襲来したチリ地震津波の気仙沼湾における波高を,6月11日より6月15日まで(内13日は缺測)測定し,昭和8年3月3日の三陸津波の波高と比較検討した結果について報告する。
2)気仙沼湾における津波襲来時刻
津波襲来時刻を第2図に示す波路上にある検潮儀の資料から推定する。
第1図は5月23日午前7時50分から5月24日スケールアウトするまでの観測資料の一部であり,この検潮
儀は1日20分遅れるので資料の時間を補正し第1図のA,B,Cについて時刻を読み取ると
A:午前3時06分
B:4時13分
C:4時39分
以上によると24日午前3時06分前後に約40cm程度の第1波が襲来し,本格的引波は4時13分頃,押波は
4時39分頃始まっていると推定される。
3)気仙沼湾の最高波値分布
気仙沼湾の61地点について最高波高の調査を行ない,各波高値は東京湾中等潮位面を基準とした値に補正した。単位はmである。
測定点および波高値は第2図に示す如くであるが,( )内数字は信頼度の低い値である。
なお本校も津波によって甚大な被害を受け,その復旧作業に従事し調査期間が遅れたので,湾口においては信頼度の高い値が得られなかった。
4)昭和8年と昭和35年の最高波高分布の比較
第3図に示す。図中□,△および■,○は昭和8年,35年それぞれの波高値および測定点を表わ
し,●は8年,35年の共通測定点である。
なお■■■■は信頼度の低い波高値である。
主要部分の波高値を表にすると,
先ず二つの場合の特徴を比較すると,8年の場合は湾口での波高が非常に高く且つ湾口と湾奥の波高差が大であるのに,35年は湾口ではあまり高くないが(湾口における信頼度の高い測定値はないが,聞き込みによると湾口では東湾西湾共普通の高潮の時より波高が高くないということから2m前後と推定される)それに比して湾奥の波高が割合高いことである。この関係を図示する為第5図の1のAA’,BB’で両湾を切りそれぞれの東岸西岸の波高を求め,局部的地形の影響の強い値を除いてその平均を描くと第4図の如くなる。
東湾と西湾の湾奥の波高についてのみ比較すると,東湾では8年の方が高いのに反して西湾では35年の方が高くなっている。
この波高分布を津波の周期の相異および湾の固有周期の違いから考える為,先ず第5図の2に示す如く東湾と西湾の湾長と平均水深を海図より求め,各湾の固有周期を計算すると西湾は約66分,東湾は約24分である。
なお西湾の固有周期が66分程度である事は,5月26日から5月27日までの検潮儀の資料(第6図)からも
確かめられる。
ところで8年および35年の津波の卓越周期は,前者は10数分であったのに後者は約60分位である。三陸津波の場合は津波の周期が湾の固有周期に比較して小さいから固有振動を励振するまでに時間がかり,また海底の摩擦抵抗で津波の勢力は著しく減殺されたと思われる。
第5図の2に示す如く西湾は東湾に比して水深が浅く、この減衰作用が甚しい上湾口と湾奥の距離も大であるので西湾の湾奥の波高が低かったものと思われる。
然るに今回の場合は約60分程度の長周期であった為湾の固有振動を十分に励振し,しかも西湾の固有周期に非常に近い値である為共振の傾向となり西湾湾奥の波高が高くなったものと考えられる。
ここで大島瀬戸では8年と35年の場合とで殆んど波高差がなかった事は興味深いことである。
5)海底地形の変化
大量の海水が湾内に流入した為,海底地形が著しく変化した部分がある。
それは蜂ガ崎附近の海底であるが,この部分は地形が非常に狭い所なので流速が増し,この水流によって海底の土砂が相当量運搬されたことによるものと考えられる。
第7図は津波前(昭和31年漁港修築事務所測量),第8図は津波襲来後(昭和35年6月水路部測量)の水
深図である。
第7図に異常な水深の部分があるが,これは内ノ脇附近を埋立てるに必要な土砂を計画的に海底から採取した為である。
津波によって導水堤の約8割程度が決壊し,また最大水深14.9mの部分が生じた。
なお変化の著しいと思われる部分の断面を示した。
6)浸水区域の比較
3)に述べた最高波高の比較からも解る如く,東湾と西湾の浸水区域についても,第9図(昭和8年)第10図(昭和35年)の如く大きな差異がある。
すなわち東湾においては8年程ではないが,西湾では非常に広範囲にわたって浸水している。
特に気仙沼市の鹿折地区,内ノ脇地区の浸水は甚しい。
7)かき垂下養殖施設移動分布
気仙沼湾にはかき養殖施設約5,000台が大体一面に分布しているが,ほとんど全面的な被害を受け,内
3,000台程度が沖合に流出,2,000台が湾内の各浜え破損状態で打上げられた。
第11図に示す移動分布図は津波襲来前の位置,打上げられた位置の明確であるもののみを記したが,移動経路は図示・・・・・・・・・・・・の如くではない。この移動で注意すべき事は,東湾湾口に全養殖施設の約8割が集中し,その後一部は沖合に流出,一部は風で大島東岸に打上げられ,残り2割が西湾に集り,流出或は打上げられた。これは引波の場合水深の深い大島瀬戸,東湾を通って大量の海水が流出したものと考えられる。
以上の如く殆んど全施設が損害を受けたが,全々被害をこうむらなかった施設がある。それは大島の小前見島の西側(図中被害なしと記入)にあった施設である。
この原因は
a すぐ東側に小前見島があり津波の影響が直接的でなかった事
b 施設様式が他と異っていた事
c 水流の方向が施設に対して平行であった事,の3つが考えられる。
他の施設は第12図の上部に示す筏(いかだ)式であるが,この部分の施設は下部の延縄式である。
もともと延縄式は波浪に対して幾分耐え得るように考案されたものであり,通常の海の状態では小前見島附近は外洋に近く内湾より波浪があるので,かかる様式のものを設置したのである。
被害を受けなかった原因の主たるものはacの2つであろうが,もしここに筏式のものが設置されていたとしたらはたして全々被害をこうむらずに済んだかどうか疑問である。
いづれにしろ養殖範囲が逐次外洋近くに拡張して行く現在,1〜2m/sec程度の潮流で被害を受ける現在の施設様式の改良,或はかき養殖方法の根本的変革を考える必要があるのではなかろうかと思われる。
8)結言
御指導いただいた東北大学理学部地球物理学教室加藤愛雄教授に深く感謝すると共に,本調査に便宜助言下された本校中村校長,並びに種々資料を提供された気仙沼市役所松山土木課長,漁港修築事務所佐藤所長,および佐沼土木気仙沼派出所細田氏に厚く御礼申し上げる次第である。
なお調査に協力した気仙沼水産高等学校生徒諸氏に謝意を表する。
街地の湛水分布と建物の被害
東北大学工学部建築学教室亀井勇
1.浸水状況および被害概況
チリ地震津波による東北地方の被害は表-1のごとくで,特に大きな被害をうけたのは宮城,岩手の両県である。リアス式の海岸線をもつ両県のいわゆる三陸海岸はその不利な地形に相まつて特に被害を大きくした模様である。三陸海岸一帯の市町村は,その市街地がほとんど凸凹の激しい海岸線の湾奥に位しており,一般に津波に対しては非常に不利な条件をもっている。宮城県の各市町村別の被害状況は表-2のごとくであり,三陸海岸に近い県北の地域に大きな被害が集中している。市町村別の浸水状況および被害概況は次のごとくである。
1.石巻市 市街地の中央を貫流する北上川の両岸が浸水され,その地域はかなり広い範囲に亘る。(図‐1参照)午前6時10分来襲せる津波は,平均水位より2.5m上昇し,仲町,浜横町などの大部分が浸水,急激であったたため,船舶は内海橋や岸壁に激突沈没するものがかなりあったが,市街地は地盤面より1m前後の浸水であったため家屋の被害はきわめて少ない。しかし浸水範囲が広いので床上,床下浸水が各々,1520,1530戸とかなりの被害をうけている。
2.女川町・女川町の市街は女川湾奥に位し,しかも背後に丘陵をひかえ,市街地は海岸線および狭隘な山間の低地に発達しており津波に対しては最も不利な条件の下にあるものと考えられる。そのため市街地の80%は浸水をうけ,宮城県下では志津川町に次いで大きな被害をうけた。(図‐2参照)海岸に直接面した建物は,鉄筋コンクリート,鉄骨の建物および新築の木造建物(モルタル,瓦葺き)を除き2皿強の波を受け,ほとんど全部全壊流失の被家をうけている。海岸線より離れた位置の建物も倒壊家屋の流木などにより柱を残して建具,家具,下見板,土壁などが流され,全壊に近い状態にある例が非常に多い。
3.雄勝町 雄勝町の市街地も女川町と同様な地形であるが,昭和8年の三陸津波による被害対策(住居地域を土盛りしレベルアツプした)が奏効し,一般住家の被害はきわめて少ない。しかしながら対策を無視して戦後低地に建築した一部の住家は大きな被害をうけている。(図‐3参照)
4.志津川町 志津川町の市街地は志津川湾奥の平地に発達し,津波は市街地を通過して背後の田畑に(海岸線より約1000血)浸水している。そのために市街地を通過せる津波はかなりの流速をともない,被害は甚大なものとなった。市街地は完全に浸水され,家屋の被害程度は90%が半壊以上である。(床上浸水1,756戸の内,半壊以上が1,536戸)また全壊流失家屋が1,172戸もあり被害程度は非常に激しい。(図-4参照)
5.気台沼市・気仙沼市の市街地は,気仙沼湾の湾奥に位し,海岸に面した市街地は大部分浸水した。特に家屋の密集した旧魚市場付近が浸水をうけたので床上,床下浸水家屋の数は4,000戸にのぼる。建物被害のはなはだしいのは,工業地帯として新しく開発された鹿析地区である。(図‐5参照)
2建築物被害概況
チリ津波による各種建物の被害例を次の写真に示す。
写真-1 海岸線に直角な街路に沿った木造建築は,街路に沿って浸入する津波により水流の方向に傾斜する。建具は流され,壁は破壊されている。(志津川町)
写真-2 津波により脚部を洗われた土蔵,剥離せる土壁により浸水高がわかる。中央部の柱は流木等の浮遊物のために折れている。(志津川町)
写真-3 流失建築物の基礎アンカーボルトはあるがナツトがない。土台が浮上して流失したものと考えられる。
写真-4 倒壊したコンクリートブロック塀,浸水高は約2m,鉄筋は挿入されてない。
写真-5 1階の建具,壁,柱が破壊されたが,かろうじて倒壊をまぬがれた木造2階建住宅。
写真-6 コンクリートの基礎底部を流され甚だしく頃斜した海岸のコンクリートブロック造公衆便所(高田市)
写真-7 アンカーボルトのために土台を残して流失した木造建物
写真-8 津波の圧力で,アンカーボルトのナットを引きちぎり折り曲げて水平移動した大船渡市の冷凍工場。
このように大きな壁をもつ建物は非常に大きな水平力をうけるものと考えられる。
(東北大教授 亀井 勇)
チリ沖地震津波調査報告
三陸沿岸南部,志津川湾を中心とする地域の
最大波高分布について
東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室
加藤磐雄,阿部正宏,島田呈郎,阿部宏
概説
チリ沖地震津波が,本邦太平洋沿岸を襲った当日早速に,東北大学理学部内の地学関係教室では,地球物理学教室と提携して現地調査班を組織し,三陸沿岸各地の調査を行った。筆者等はその一部を分担し,昭和25年5,月25日から31日までの間,本県下三陸沿岸南部について現地踏査を行なった。
調査に当って,共通の対象としたことは,最大波高と津波の浸入区域の観測であった。更に地質学的な立場からは,自然現象の1つとして,地質学に関連するいろいろの問題を含んでいることを期待して,そうした観点からの観察を行なうこともこれに加えられた。
例えば,港湾附近の海底砂・泥或いは生物などの運搬・堆積現象や,津波による侵蝕・崩壊などの破壊的営力等,広義の堆積学的な問題が予想されたわけである。
この問題に関しては,特に地質学教室関係の調査者によって注目され,その中でも,県境の高田松原海岸において,海岸附近の微地形と関連して,これらの諸営力が,どのような形で重合されたかの基本的な例証があげられている。1)このことは,海岸地域が何等かの形で大なり小なりの人為的な施設が,既に施されている現在では,純粋な自然地質現象としてよりは,むしろ防潮波堤,防潮風林,水路,その他の建造物などを対象とする土木建築工学的な面との関連が見逃せないことと思われた。
何れにしても,全般的にみて,今次の津波による沿岸海底堆積物や生物などの打ち上げとか,新しい堆積物の形成,著しい地形変化などという点では,その規模においても,また分布においても,従前の場合に比べて,極めて微弱であったようである。この意味では,当初の期待とは,多少外れたことは否めないが,
このことが逆に従来の近地地震津波と今回のような遠地地震津波との基本的な違いを反映する事項の一つともいえるようである。
一方,津波による被害の状況については,特に地理学教室関係の調査者によつて,三陸沿岸中南部一帯の調査結果が,既に詳しく報告されており,海岸地形・防潮堤・防潮林・集落の位置その他と被害との関係,更に被害の分布と最大波高分布との関係が述べられている。2)この報告と筆者等の分担した地域は一部重復しているし,また構造物の被害や,土木工学的な対策については,夫々本学関係以外の専門的分野からの調査と,これに基づく考察が与えられていることでもあるので,これらの点については,夫々の報告書に多くを期待したい。
然しながら,今次の津波現象の殆んど全域に共通した特徴として,最大波高値の相対的に大きい地域と被害の量とは,結果的にその分布が一致し,しかも近地地震におけるそれとは全く対膝的であったこと,従ってかなりの防禦施設を持つていた個所は,今回は十分その機能を試験するまでにも到らなかったに反して,被害の経験も浅く,同時にその対策の未だ完備されてなかったような個所が,その被害量を累加したという一蓮の傾向が見出される点では筆者等の分担した地域もその例に洩れない。
本報告では,このような一貫した特徴で代表される津波現象の中で,本県下において最も大きい被害を被った志津川湾を中心とする波高値測定の結果を,それについての若干の考察を加えて述べることとする。
1)北村信他,チリ地震津波総合研究発表会,昭35,6月28日(要旨).
2)福井英夫他:三陸海岸中南部地域におけるチリ地震津波について,東北地理,12,80〜95,1960.
最大波高分布および侵入区域
侵入区域:調査地域は気仙沼湾の南口に位置する岩井崎から,小泉(津谷海岸),志津川,月浜を経て雄勝に至るまでの間で,小泉湾,志津川湾,追波湾および雄勝湾の一部に跨っている。
侵入区域は現地踏査によって確認したものである。その範囲は最大波高測点と共に第1図に記入した。志津川町では,水尻川,八幡川,東川の各河道に沿うて,山間部近くまで侵入し,また特に水尻川では河口に近い堤防を決壊して,その北東方に連る耕地の大半を冠水し,奥行が1km内外におよび,農地の冠水,流失,埋没だけでも気仙沼市と並んで,県下最大の面積を示した。追波湾では,追波川に沿い遙か上流6km
附近まで侵入したが,月浜附近で放牧地の一部に冠水した他は,被害面では僅少であった。
侵入の経路や機構,特に侵入時に比べ,引きの時の破壊作用が注目されることなど,他のどの地域にも共通した現象があげられているが,地域内の個々の資料は,他の報告に委ね,?では次に述べる最大波高分布が侵入区域を選択的に前記の各湾奥部に求めたため,結果的に被害の絶対量を増大した傾向があったことを指摘しておきたい。
最大波高の分布:測定の対象はすべて痕跡によった。ハンドレベルを使用して,海面からの痕跡の高さを測り,測定時刻を記録した。これをもよりの検潮記録によって平均海面(東京湾中等潮位,TP)よりの高さに換算した。その結果は第1表に示す通りである。既に知られているように,来襲当日から数日問は,なお余波が残存したため,異常潮位による多少の影響はまぬがれない。昭和8年三陸沖地震津波の資料と比較して図示すれば第2図の如くである。図上で明らかなように,
1)最大波高値は,最大6.1m,最小2.0mで,概して5m±から3m±の2段階がみられる。これに反して,昭和8年の三陸沖地震津波では,本地域内で10m内外から2m内外までの著しい差がみられる。
既に報告されたことでも判るように2)3),三陸沿岸を通じて木地域とほぼ同様の傾向のあること,即ち昭和8年には10m〜20mにもおよんだ個所があるのに比べて,今回は全体として値の小さいことが特徴の1つとして先ずあげられている。
2)以上のような違いを,小泉湾,志津川湾,追波湾の単位でみると.これも図上で明らかなように,互に隣接する湾の間に位置する部分,即ち湾口部や岬から直接外洋に面した崖浜部にある小さい(浅い)湾入部で特に著しい差を示しており,昭和8年では10m内外の波高値をもったのはこのような個所である。石浜10.5m,名足6.2m(3.0m-昭.35),十三浜7.8m(3.0m-昭.35),荒屋敷11.4mなどがそれである。
以上に反して,今回は湾口から湾奥に向って全く相反する傾向をもって波高が増大している。即ち波高値が,絶対値もまた地域差も昭和8年に比べて少ないながらも,湾入の深い湾程,その湾奥部に増大しているという傾向は,今次の最も著しい特微で,大船渡湾,広田湾,女川湾などもそうで,特に志津川湾では,図でみるように単的にこれを示している典型といえる。
3)小泉湾および志津川湾の一部或はその他でみられるととは,これらの湾の内部に更に一段低いピークが,小さい湾入部分でみられ,昭和8年のこの傾向に今回もやや調和的な結果を示しているようである。例えば,小泉湾では,旭崎6.2m(昭8)/3.6m(昭35),登米沢6.5m/3.9m,二十一浜5.9m/3.1mなどがそれであるが,これはこの次楷での微地形などが共通した因子として働いたものかも知れない。何れにしても,今後こうした個所にとっては注目すべき事の一つであろう。
4)また追波湾では,湾の北岸から湾奥部に向って低下している唯一の例であるとの報告があるが4),筆者等の資料では,昭和8年のそれに比べて,観測点の数が少ないので,その点は明言できない。ただこの湾では,広い川巾をもった追波川が湾頭部に連なり,その河口から6kmも上流まで侵入を許している点で,本地域の他の湾とは条件を異にしている。
1)地震研究所彙報,別冊,1号,昭.9,3月.
2)チリ地震津波総合研究発表会,東北大学,昭.35,6月28日.
3)チリ地震津波踏査速報,チリ津波合同調査班,東京大学地震研究所,昭.35,7月.
4)福井英夫他:前掲.
3.湾型と最大波高分布
昭和8年と今次の最大波高分布の以上のような違いを,一応三陸沿岸の地形区分の上からながめてみ る。三陸海岸には,沈溺V字谷,深い入江状に入りこんだ湾,および大きい侵蝕谷からなる湾が指摘されており5),また湾の形としても,その深さと傾斜,湾口部の巾と奥行,更に湾入の方向など考えられるが,主として平面形としての配列,方向から,本地域より北の方に向って,海岸線の型を4区分してみる。即ち
(A)小泉湾-津谷湾-追波湾:外洋にほぼ直交して南北に配列した湾で,大体等しい湾口巾をもつ
(B)気仙沼湾-広田湾-大船渡湾:北々西〜南々東方向に深い湾入をもつ侵蝕谷
(C)綾里湾-越喜来湾-吉浜湾:外洋に直交してほぼ東西,且つ南北に並列し,(A)よりはやや規模の小さいV字谷
(D)山田湾-宮古湾:北々東〜南々西方向で,(B)とは規模,形の上で類似し,しかも方向が相反する。
1)以上の4地区で,昭和8年の資料をみると,次のような著しい事実が指摘される。即ち,(B),(D)においては,外洋に面した急崖部と,湾の内側に面したその裏側と,更にその対岸の陸側とのそれぞれの間に,最大波高値が,大(10m±)-小(2m±)-中(4m±)と極めて統一された傾向がみられ,しかも湾奥部で波高が最も小さくなる。一方(C)地区では,湾奥部で波高を増大し,殊に綾里,越喜来,吉浜などでは10数mから20m±までの高い値を記録した。また(A)地区では,志津川湾で代表されるように(C)地区とも,また今次の結果とも全く相反する記録が示されている。
2)更に湾の方向乃至海岸線の方向性に関しては,昭和8年と昭和28年十勝沖地震津波の場合の比較によって明快な説明が与えられているように1),C地区を境として,その北部と南部とが,wave frontに対する関係から,湾の方向と波高比との間の相関関係をよく支配している。
3)以上のような著しい地域差が嘗つてあったにも拘らず,今回はこのような傾向は,殆んどどの地域からも指摘されていない。要するに今回は,震源からの距離,湾形,特にその方向などに差程左右されなかったことになる。
筆者等の分担した(A)地区についてみると,何れの湾も,ほぼ等しい湾口部のひらきと湾の方向とをもって,南北に並列した一群の湾であるが,その中で志津川湾が最も複雑に入りこんだ湾であり,小泉湾は半月形に近い形をもち,追波湾はその中間の型で且つ,追波川の広い河口を抱いている点で夫々違いがある。事実,これらの湾の固有周期は,志津川湾が45分内外,他は夫々25分内外である。一方今次の津波の周期は60分程度の長い周期をもつものといわれている。従って志津川湾が既に述べたように,今回の全般的傾向の典型としてあげられることが十分肯定される。
5)大塚弥之助,昭和8年3月3日の津波被害と三陸海岸の地形,地震研究所彙報,別冊,1号,127〜151,昭.9.
1)Suzuki,Z.,Noritomi,K.,Osaka,J.,and Takagi,A.,On the Tunami in Sanriku District accompanying the Tokachi Earthquake,March 4,1952,Sci.Rept.,Tohoku Univ.Ser.5,4,134138,1953.
4.各地点の津波現象の所見
(写真第1図〜第26図参照)
各地の津波現象を詳述することは割愛して,主として波高測定地点における津波の侵入状況,その他の所見を,以下写真およびその説明によってこれに換える。

- 幅:1280px
- 高さ:570px
- ファイルサイズ:131.6KB

- 幅:1280px
- 高さ:546px
- ファイルサイズ:125.7KB

- 幅:1280px
- 高さ:535px
- ファイルサイズ:138.5KB

- 幅:1280px
- 高さ:494px
- ファイルサイズ:140KB

- 幅:1280px
- 高さ:555px
- ファイルサイズ:127.9KB

- 幅:1280px
- 高さ:523px
- ファイルサイズ:132.8KB

- 幅:1280px
- 高さ:534px
- ファイルサイズ:127.8KB

- 幅:1280px
- 高さ:611px
- ファイルサイズ:130.5KB

- 幅:1280px
- 高さ:570px
- ファイルサイズ:143.2KB

- 幅:1280px
- 高さ:507px
- ファイルサイズ:146.9KB

- 幅:1280px
- 高さ:538px
- ファイルサイズ:118.8KB

- 幅:1280px
- 高さ:538px
- ファイルサイズ:142KB

- 幅:1280px
- 高さ:545px
- ファイルサイズ:162.3KB

- 幅:1280px
- 高さ:592px
- ファイルサイズ:147.7KB

- 幅:1280px
- 高さ:558px
- ファイルサイズ:109.5KB

- 幅:1280px
- 高さ:566px
- ファイルサイズ:141.1KB

- 幅:1280px
- 高さ:584px
- ファイルサイズ:135.5KB

- 幅:1280px
- 高さ:531px
- ファイルサイズ:121.9KB

- 幅:1280px
- 高さ:545px
- ファイルサイズ:142.6KB

- 幅:1280px
- 高さ:559px
- ファイルサイズ:134.4KB

- 幅:1280px
- 高さ:1189px
- ファイルサイズ:209.4KB

- 幅:1280px
- 高さ:565px
- ファイルサイズ:135.2KB

- 幅:1280px
- 高さ:562px
- ファイルサイズ:156.3KB

- 幅:1280px
- 高さ:551px
- ファイルサイズ:130KB

- 幅:1280px
- 高さ:581px
- ファイルサイズ:150.3KB
チリ地震津波踏査報告
東北大学理学部地球物理教室
加藤愛雄,鈴木次郎,中村公平,高木章雄,江村欣也,伊藤三吉,石田治子

- 幅:1280px
- 高さ:1016px
- ファイルサイズ:327.5KB
序言
1960年5月24日未明,本邦太平洋岸は17,000kmも離れたチリ地震による津波の来襲を受け,日本海沿岸
においても,この津波が認められた。特に三陸・北海首地方の被害は甚大で,過去の日本近海に発生した津波の場合に匹適する程であった。南米西海岸の地震に因る津波の記録はかなりあるが,現在まで本邦にはさ程の被害が生じなかった。然し,今回の規模の津波が経験された以上,今後遠地津波の危険性が新たに認識されねばならないと思われる。東北大学・地球物理教室では,今後の津波研究および災害予防の基礎資料を得る為,関係者一同が直ちに三陸海岸の踏査を行った。これら資料に基づく研究は現在続行中であるが,ここでは最大波高を主とした測定資料を公けにし,且つ,この津波に関する二三の考察を述べることにする。
1.最大波高の測定結果
踏査範囲は,北は四川目(青森県)より南は相馬中付(福島県)におよび,ハンドレベルおよび巻尺によ
る最大波高の測定を主として行なった。波高の基準面は東京湾中等潮位面とした。即ち第1図に示したように,実測値aに観測時の潮位bを補正項として加減したもの,hを採用した。基準検潮記録およびhの値は潮汐表に記載されている最寄検潮所のものを用いた。これらの結果は表および図で示した。表には実測値a,補正値hの外に測定の信頼度を大なるものからA,B,Cの順に示し,また測定対象等も記した。
地図番号は第2図に示したものを表し,測定点番号は客附図毎に北から海岸線に沿って時計廻りに順序付けた。島の場合は最東端の測定点から時計廻りに示した。附図の縮尺は第19図以外は全部5万分の1である。赤い数字は米単位で表わした最大波高hである。一般に測定波高は海岸線の地形により異る故,地図から分る地形と波高を比較して考えると有益である。
波高以外に,第一波の来襲時刻と押し,引きの区別,最高波の来襲時刻,各波の川期,湾水の運動状況等も聞き込みを主として調査した。然しこれらの事項は何分,緊急事態において観察,判断されたもので,兎角正確を敏き易く,更に応答者の主観も入って報告され得る故,信頼度は低いと見ざるを得ない。従っ
て,これらに就て遂一報告することは避けた。ただ一つ述べておきたいのは,可成りの応答者が三陸津波(1933)に比して極めて緩慢に来襲し,また湾水運動もゆったりしていた事を報告したことである。これは後述するように,津波の周期が非常に長かったことを裏書きするものである。
2.波高分布の特徴
沿岸の波高測定の結果から,波源が極めて遠い事に起因すると思われる波高分布の特微を2つ挙げることが出来る。
(a)湾の存在を無視して海岸線における波高のみを考えると,その分布は大略第3図のようになり,四川目-久慈間では他の区域より可成り波高が高い。このことは三陸津波(1933)においては見られなかった現象で,これの説明として次のような考察が可能と思われる。
先ず,八戸,宮古,鮎川の各検潮所における第一波の来襲時刻を参照し,外洋に向って逆に廻折図を画く。(第4図参照)所が4,000mの等深線近くの波面は,波源から作図した廻折図※の一波面と大体合致することが分る。そこでこの波面を源として海岸に向って廻折図を作図し,更に源の波面を等距離に分割する点から出る波法線を画く。この波法線の収斂の状態から明らかなように,四川目-久慈問では波高が高くなることがいえる。一方,三陸津波(1933)における廻折図(第5図)では,宮古近傍で波高が大きいことが分る。
(b)次に三陸津波(1933)と比較して興味あることは,牡鹿半島の東西両岸における波高分布である。
今回の津波では波源が遠い為,波面は三陸沿岸には殆ど平行に入射したと考えてよいが,三陸津波(1933)では波源が近く,且つ波長が短い為,半島の東西両岸での波高の相違が予測される。実際,両津波の測定結果から明らかにこの相違が分る。第6図はほぼ同じ観測地点で,両津波時の波高を西岸の値を1として比較したものである。但し三陸津波における波高は地震研究所彙報に報告されたものを採った。※ チリ地震津波調査報告,仙台管区気象台,1960,10
3.湾の影響
三陸沿岸には数分から数十分に至る種々の固有周期を持つ湾がある。固有周期が入射した津波の周期に近い湾は当然波高炉大きくなる可能性が考えられる。
第7図は湾の固有周期T0に対する,湾奥と湾口の波高の比の変化を示したもので,白丸は今回の津波,黒
丸は三陸津波(1933)を表わす。三陸沿岸には不幸にして50分以上の固有周期を持つ湾が無い為,チリ津波では共鳴現象が明確に見られないが6三陸津波の場合は明らかにT0が十数分の所で波高が最大となっていて,来襲した津波の周期がこの程度のものであることがいえる。今回の津波では,女川湾外,江ノ島にある震研の検潮所の記録によると,周期は60〜70分であった。
一般に湾内の水の運動は,津波の周期,津波の中に含まれる波数および湾水運動の渦動粘性とによって大体の様子が決まると思われる。大船渡,高田,宮古湾等では,三陸津波の時には波高が湾奥より湾口で高かったのに対し,チリ津波ではこれと逆の現象が見られたが,この事実は上記三要素の値を検討することによって説明出来ると思われる。
4.今回の津波の特徴
チリ津波は厘々本邦太平洋岸を襲った近地津波と比較して,種々の点で異っている。その特微を記すと次のようになる。
(i)波源が遠い為,津波が途中の島や海深の変化により反射,屈折を行ない,その結果,波数が増し,周期ものびたと思われる。三陸沖に発生する近地津波の場合は周期10〜30分程度で,波形が一山一谷程度の衝撃波的のものであるのに対し,今回では前述の江ノ島の検潮記録からも見られる通り,周期は1
時間程度で,波数は数箇になっている。その結果,湾内の波高分布は近地津波の場合に較べてかなり様子が違った。
(ii)波源が遠い為,波面が殆ど三陸海岸に平行になって入射したので,各地の波高分布には来襲方向の相違による異常は見られなかった。また海深の変化の為,久慈以北に波の収斂が見られ,一般に波高が高くなっている。
(iii)津波の周期が長い為,湾内の水の運動は緩かで,また検潮記録によると,湾水の自由振動の継続
時閥が三陸津波に較べてかなり長かった。
(iv)各地の海岸における反射波によると思われる小津波が継続して現われた。
5.結語
今後の津波の調査,更に被害予防の為に是非必要と思われる事項を二三述べておく。
(1)波高測定は出来る限り,岬の突端に至るまで,広範囲に行ないたい。その為,津波来襲直後,波の痕跡の残っている中に自動中1,舟艇等により機動力を高めて調査する必要がある。
(2)外洋における津波の様子を知る為に江ノ島以外にも検潮所を島に増設したい。
(3)津波来襲時の客湾の特残地形による湾水運動の性質,また津波の周期,波数の波高におよぼす影響等を模型実験に依って予め調査しておくことは防災的見地から必要と思われる。

- 幅:717px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:108KB

- 幅:687px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:116KB

- 幅:688px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:121.5KB

- 幅:680px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:115.8KB

- 幅:702px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:121.2KB

- 幅:695px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:95.1KB

- 幅:700px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:119.5KB

- 幅:697px
- 高さ:1024px
- ファイルサイズ:119.9KB

- 幅:1280px
- 高さ:633px
- ファイルサイズ:91.2KB
チリ地震津波による三陸沿岸の土木災害と津波対策における問題点について
東北大学教授工学博士 岩崎敏夫
1.緒言
昭和35年5月24日未明に起ったチリ地震津波による三陸沿岸の土木災害について筆者はその直後の5月26日より6月12日まで,調査を行ない,その後,宮城県津波恒久対策委員会の一員として宮城県内主要港湾の被災地を再調査した。またこの調査の結果にかんがみさらには宮城県津波恒久対策の審議に関与した上において疑問を抱くところがあり,筆者の実験室において防浪構造物の機能について若干の実験を試ろみた。これらの調査結果や実験結果はその都度公表して来たのもあるし1)2)3)4),なお進行中のものもあるが本稿においては,これらの諸報告の内容を綜合し,未発表の分を追加しかつあらためて再検討を行なった結果を合せ一部の重複を省みず述べることにした。
2.チリ地震津波による人と家屋の災害
まず東北地方のチリ地震津波による一般被害のうち,人と建物の被害を表示すると第1表,第2表のようになる。この表にはまた昭和8年,明治29年の三陸津波被害の概要を松尾博士の報告より摘記した。
三陸津波の時に焼失家屋があるのは地震を伴なった為と思われる。明治29年の津波では,建物の破壊流失合せて実に10,370戸であり,昭和8年にはこれが5,784戸であてた。今回のでは5,352戸であって,建物自体の損失は昭和8年に優に匹敵する。ところが,死者,行方不明者の数は,第1表に示すように極めて少なかったのが,今回の被害でまず挙げることのできる特微である。これは気象庁の津波警報に先立って,沿岸住民特に漁業に従事する多くの者が,海面の異常な後退に気づき退避の措置を講じた為であって,時恰も出漁準備に忙がしい午前3時半乃至4時40分の間であったのである。その直後の高潮は低極時より20分乃至30分後に起っており,住民の大部分が退避することに成功した。しかし,もし来襲の時間が今少し早く,午前0時附近であったとしたら,果して被害はこの程度ですんだであろうか。誠に冷汗の感をおぼえると同時に,津波の対策としての緊急避難の重要な意義を指摘したい。
次に第2表によると家屋の被害はかなり万遍なく各地区に生じている。これは別の論文で示されていることと思うが,今回のチリ地震津波が,日本に平面波として襲来したことと,周期が約1時間という長いもので従って波長が長いので,湾の方向や形状にあまり著しぐは影響を受けず,各地の波高がほぼ一様であった為と思われる。ただ,湾の固有周期が,40分乃至60分となるような大きい湾では,共振の為に湾奥の波高が高くなった。その為に宮古,山田,大船渡,広田,気仙沼,志津川,女川の二諸湾では被害が,比較的多かった。また大槌,釜石,雄勝などの中程度の湾にも被害が見られるが,田老,船越,吉浜,越喜来,両石,綾里など,三陸津波で波高7mをこえた湾で被害がなかったのも今回の著しい特微である。
3.津波の性質に関する水理学的考察
つぎにチリ地震津波による土木構造物の災害例をあげながら,それらの例より帰納される津波の作用について考察を進めて見る。
津波は沖合においてはごく小さい波高である。しかし湾に浸入して来ると波高を増大する。そのような津波の変形を計算する場合には一般に,長波理論を適用する6)。これは津波の波高波長比(steepness)が明らかに1/25より大きいことから,妥当である。また周期的な波が湾口より浸入する場合,湾内の反射波との合成によってセイシュが生ずる。しかしセイシュの計算は同じく長波の波動方程式を数値積分するのであるが,湾形や湾内の地形が,簡単な場合に限って,数種類解かれているのみであって,実際の湾については,湾形や湾内の地形によっては上記の結果を利用し得るものもあろうが一般には解析は極めて困難である。今後,模型実験の技術が進歩して来れば,或いは実験の結果によって湾内各地の波高を推定することも可能になるかも知れないが,それはまだまだ将来の問題であって,われわれも実は,その為の努力を払いつつあるのが現状である。複雑な形状の湾において,振動のループやノードの位置が何処に存在するかを明らかにすることは,しかし湾内に構造物を設ける場合に決定的に重要な意味を持っている。何故ならループに相当したところでは,水分子は垂直方向に大きく変位し,水平方向には移動しないのに反し,ノードではその逆であるから,船舶の繋留,桟橋その他の構造物の維持などは常に前者において有利である。しかし,湾内副振動のエネルギーを減殺する為には,ノードに設ける事が有効であろう。ただその場合,その構造物は水平方向に移動する水粒子の運動を阻害するのであるから,かなりな外力をうけることになる。
岸壁,護岸などのように海に直面し,かつ,越流を許さない構造物での津波高は,やはり,セイシュの模
様によって,局所的に変化がある筈である。
しかしながら一般に,上述したようにセイシュの計算や,模型実験などが,どこでもまた容易に行なわれるものではないので,沿岸構造物の設計に当っての津波高さは,既往最高痕跡にとっている。写真1−aは長波が陸岸を進行しつつあるところで写真1−bは防潮壁で反射しつつある状態を示す。また写真1−cと1−dは衝突直前と直後の長波の形態を示している。
これより津波が遡上する直前,遡上後,および陸上構造物に働突した時においてそれぞれ著しい波高の変化を示していることが分る。これより見ると,既往最高痕跡を津波高さにとることについては一考を要する。
またこの写真より分るように,陸上を遡上する津波のfrontは流れとなって陸上を走る。明瞭ではないが大船渡港における津波の時の写真を写真2に示す。陸上構造物に対する津波の作用は開水路不定流の立場から論ずることができる筈である。周期がごく長いのであるから,その間は擬似定流(quasi−steady flow)として考えてよいであろう。
まず,Fig.1のように岸壁を越流せず,かつこの岸壁が湾奥にあって,振動のループに存在すれば,ここでの波高は浸入波波高の2倍となり,圧力は静水圧のみを考慮すればよい。しかし,岸壁を越流すると,波
高はI,II問で成立つ運動量方程式を満足する程度に,急激に小さくなる。しかしそのI,II間の水位差だけの速度ヘッドを得て,その速さで,陸上を掃流する。
4.海岸堤防に対する津波の作用
陸上での津波の速さは岸壁附近の断面変化に大きく支配される。前節でのべたようにして陸上での流速が推定されると,陸上構造物に対しては静水圧の外に動水圧を考慮する必要がある。この大きさは,たかだか岸壁直前の水面の高さまでであってこの量を考慮しておけばよいこととなる。
建築物が,多く陸側に倒れ,または土台のアンカーボルトが陸側にねじ曲げられているのは,建物が押し波時に移動したことを示すが,これは建物に浮力が作用して移動を起したものである。Fig.2のように海岸堤防を越流する際には,点Aに支配断面を生じ,ここが限界流速となり,これより陸側は射流となる。点Aが,脆弱であれば,ここが最も早く破壊される。写真-3は大槌の防浪堤であるが,天端高T.P.3.20mに対し痕跡調査ではT.P.3.70mであり冠水高は0.50mであつた。冠水高が低かつたことから,冠水時開が短かかったことが考えられ,裏法の法萠れが起った頃には越流水位はすぐに低くなって水は天端のコンクリートからすぐ直下に落下して写真に生じたような洗堀を生じたものと思われる。このことはすぐ背後の家が破壊をまぬがれておることからも裏付けられる。写真-4は,気仙沼湾大川左岸堤防で,右側が堤外地,左側が堤内地であり,裏法肩の破壊が始まったところで,水が引いている。
しかし,越流水位が高く冠水時間が長いと,陸上に浸入する水量は,それだけ多い。Fig.4は大川出口の海岸堤防の決壊を示す。図のように,ここの痕跡高はT.P.2.72mと思われ,天端高1.75mであるから,越流高は0.97mである。堤防背後の土地までの堤防高は2.35mであって,越流した水は一旦,海岸堤防の内部に貯められ低潮時に図示の水門を通って排出されようとしたと思われる。しかし,この水門と土堤との問の聞隙が突破口となって堤防はここから破堤し,それが広がったものと思われる。写真-5はその状態を示す。写真-6,7は牡鹿半島小積の海岸堤防であって同様な原因で破堤している。
写真-8は塩釜港要害浦埋立地の海岸堤防であるが,天端T.P.2.29mで,推定高極水位T.P.3.10m。
したがって越流高0.81mである。さきの大川左岸堤防と殆んど同じ位の越流であったが,構造物が脆弱な為に堤防全体が決壊し,積石が陸側に約50m飛散した。
写真-9はその状況を示している。このような例からできたら堤防裏法もコンクリート張りとし,また堤内地の排水については十分に意を払うことが必要である。写真-10,11は津波対策として設けられた船越北南防浪堤で同様に被災している。海岸堤防でも,水が越流しなかった堤防は大部分破堤していない。Fig.5は津波対策として築造されていた吉浜の防浪堤の設計図であるが津波は,この天端より2m下までしか達しなかったが,堤防は全く無傷で,背後の水田では津波直後であったにかかわらず,田植が平和に行なわれていた。この例は津波対策として効果を発揮した最も顕著な例であると思われる。Fig.6は田老防浪堤の設計図である。この防浪堤は三陸津波対策として,当時の壊をまぬがれておることからも裏付けられる。写真-4は,気仙沼湾大川左岸堤防で,右側が堤外地,左側が堤内地であり,裏法肩の破壊が始まったところで,水が引いている。
しかし,越流水位が高く冠水時間が長いと,陸上に浸入する水量は,それだけ多い。Fig.4は大川出口の海岸堤防の決壊を示す。図のように,ここの痕跡高はT.P.2.72mと思われ,天端高1.75mであるから,越流高は0.97mである。堤防背後の土地までの堤防高は2.35mであって,越流した水は一旦,海岸堤防の内部に貯められ低潮時に図示の水門を通って排出されようとしたと思われる。しかし,この水門と土堤との問の聞隙が突破口となって堤防はここから破堤し,それが広がったものと思われる。写真-5はその状態を示す。写真-6,7は牡鹿半島小積の海岸堤防であって同様な原因で破堤している。
写真-8は塩釜港要害浦埋立地の海岸堤防であるが,天端T.P.2.29mで,推定高極水位T.P.3.10m。
したがって越流高0.81mである。さきの大川左岸堤防と殆んど同じ位の越流であったが,構造物が脆弱な為に堤防全体が決壊し,積石が陸側に約50m飛散した。
写真-9はその状況を示している。このような例からできたら堤防裏法もコンクリート張りとし,また堤内地の排水については十分に意を払うことが必要である。写真.10,11は津波対策として設けられた船越北南防浪堤で同様に被災している。海岸堤防でも,水が越流しなかった堤防は大部分破堤していない。Fig.5は津波対策として築造されていた吉浜の防浪堤の設計図であるが津波は,この天端より2m下までしか達しなかったが,堤防は全く無傷で,背後の水田では津波直後であったにかかわらず,田植が平和に行なわれていた。この例は津波対策として効果を発揮した最も顕著な例であると思われる。Fig.6は田老防浪堤の設計図である。この防浪堤は三陸津波対策として,当時の高極水位T.P.10.00mを天端高に採用した。この堤より海岸までは約300mあり,防潮林,倉庫,舟着場,水田などがある。今回は津波の高極水位はT.P.+3.00mであったが,海岸より,この堤までの間に波高は減衰し,堤まで到達しなかった。しかし越流しなかった海岸堤防で破堤したものがある。これは山田湾大沢にある内部が真土で前面石張りの構造のもので,水は河を遡上して背後より堤塘を襲い破堤させたものである。この例で指摘されることは隣接河川の堤防高の不足は厳にいましめるべきであって,施工官庁同士の連絡を密にすべきである。
5.道路護岸岸壁および物揚場護岸に対する津波の作用
道路護岸,岸壁,および物揚場護岸のように,構造物の天端高が,背後地の地盤高と等しい場合に津波が岸壁をこすと,Fig.1(b)のようになって陸申深く浸入する。その水はFig.7のように引潮時に岸壁の根元に落下して滝のような現象を呈する。写真-12は釜石港岸壁での引潮時の写真であるが,その現象をよく捉えてある。もしFig.7のように護岸の基礎の施工が不完全であるると,護岸の基礎が洗堀され,さらに護岸背後の間隙水圧などの為に,護岸は前面に倒壊するに至る。Fig.8は志津川湾波伝谷,水戸辺問道路護岸の設計図であり,今回の津波はこの護岸パラペット天端より1.49m高いT.P.4,36mの高さに高極水位があったことが,痕跡調査の結果判明した。
写真-13はその被災写真である。
女川湾小乗浜道路護岸においても同様な倒壊をしている。
この2例では背後の土地が開けていて,十分な水量が陸上に遡上した為に,引き潮時の落下する水量も多く,その継続時間もかなり長かつたことが考えられる。しかし,山際にすぐ接して護岸があれば,貯溜さ
れる水量は少ないから,洗堀もさほどでないわけで,前記2例とも,それに隣接した山際の護岸は安全であった。
この結果より護岸基礎の根固めの為に捨石,または根固めコンクリートプロック等の配慮は絶対に必要であり,特に軟弱地盤のところではこの根固めの下に粗朶単床または粗朶沈床を敷くことが望ましい。
次に写真-14,15は,大船渡港1万トン岸壁の裏込土砂の流失状態を示す。ここでは天端高T.P.1.65m,高極水位T.P.3.85mで冠水高2.20mであって,約20分間冠水した。その直後の波では約0.70m冠水し,その後は岸壁天端高より低かった。シートパイルはほぼ11mの根入があったものと思われるものが引き水の時の前述の落下水による洗堀によって裏の土砂が抜け出たものと思われる。最低水位時,海面はT.P.-2.35m以下で水深は1m以内となった。
写真-16,17は富士製鉄釜石岸壁の倒壊例である。
この場合は長さ11mの鋼矢板で根入は3m位しかなかったようである。かつまた施工年度も昭和12年で老朽化していた。このような悪条件が重なって前方に倒壊した。
写真-18に示す八戸工業港の岸壁は鉄筋コンクリート矢板であるが,これも同様に裏込めの抜出しが生
じ,矢板相互のかみ合せが弱いので脆弱に崩れていた。この例では,漁船が衝突して矢板を折損した箇所もあり,船舶の乗り上げ,働突による被災例としては,石巻東西内海橋の高欄の被災と共に僅少な例の1つとなった。写真-19はその状況を示す。
以上は津波が,岸壁法線に直角に来た場合の被災例であるが,津波が岸壁法線に平行に往復した為に生じた洗堀の為にもまた被害を生じている。
写真-20に示すものは,松島湾入口の西浜護岸の例である。この謹岸は馬放島と相対してその間が松島湾の狭い開口部に面し,その開口部には塩釜港の外港航路が深さ-9mに維持されていた。従って津波は早い流速を維持してこの前面の航路内を往復した。
写真-21は代ケ崎発電所より,この航路を望んだ津波時の写真であるが,航路にはダムの余水吐に生じる衝撃波が発生しているのが見られる。このような高流速の為に,護岸の基礎捨石は容易に移動せしめられた。写真-21は引き潮時にとられた写真であるが,護岸のずり落ちが明瞭に認められる。
Fig.9は八戸港内旧馬渕川の泊渠内で,津波が往復した状態を示す。このような往復の為に泊渠前面が深堀れし,Fig.10の小中野岸壁は写真-22に示すような倒壊をしたものである。
なおFig.9に示す河口防波堤は,津波後9カ月を経た昭和36年2月現在においてもなお泊渠側に傾倒しつつある。津波直後,および昭和35年10月の水路内深浅測量図を見ると,この防波堤を横切る断面において,約2/3の急勾配な水路が津波の為に形成されている為であって,早急の対策が望まれている。また津波の往復によって某礎が洗堀せられ構造物が被災した例として写真-23に示す万石浦橋がある。
6.津波対策としての防浪堤と防波堤
明治29年や昭和8年の三陸大津波では,震源地がタスカロラ海溝であったので周期は12分前後であった。
それで湾の固有周期がその程度の小湾において顕著な波高を示したが,今回は周期が60分前後であったので,大きな湾において著しい波高を示した。
前回被害を受けた小湾に対する津波対策としては湾奥に防浪堤を設けて津波の陸上遡上を許さないような施策がとられ,本稿にのべた田老,大槌,吉浜の外に,船越,越喜来に防浪堤が設けられた。(このうち船越は被災した。)また岩手県では普代と宮古湾奥の津軽石に防浪堤の築造が進行中であった。宮城県では,前回の津波高は比較的に低かった為か,大規模な海岸堤防の築造はなく気仙沼湾片浜護岸が著しい例であるが,一般に道路護岸にパラペットを設けた程度であり,湾奥は防潮林を施こして,津波の遡上を許しつつかつ,そのエネルギーを減殺する方式がとられ,岩手の剛に対し,宮城の柔という印象を与えている。
防浪堤の場合は,波の越流を許さないでこれをはね返すという考え方に立っているのであって吉浜のように見事に成功した例もあるが,一旦越流された場合に対する顧慮に欠けていた為に,大槌,船越のように被災した例もあり,防浪堤に限らず,海岸堤防の場合は,天端や裏法の保護,堤内排水に十分の考慮が必要である。この点では田老も吉浜も不安である。
さてこのような防浪堤を湾にめぐらすという考え方について検討を加えて見ると,直ちに経済効果上,防浪堤は有利かどうかという疑問を生じる。高さにもよるが,防浪堤の建設費に見合うだけの背後地域の経済的価値があるかということである。かなり高度に開発されていて,経済的価値の高い地域ほど海岸とのつながりが漁港,工業港,商港,火力発電所などといった形で密接につながっている。防浪堤は,このつながりを断ち切る作用を行う。また経済力の弱い寒村や,背後に山が迫つて平地の少ない地域では,防浪堤を設けても日常活動に差し支えがないよも知れないが,(吉浜では,高地に人家は移転しており,防波浪の背後は水田である)そういう地域に巨大な防浪堤を設けて水の浸入を許さないということ自体がナンセンスに感じられる。人命には代えられないという主張もあると思うが,人命保護のためには予報警報技術の向上,集落や避難道路の構成,方法の研究,家屋の堅牢化等を進めるべきであり,万一の被災に対しては,津波保険といったものを設定するようにして,その災厄を軽減するというように他にたてるべき方策はかなり多いと思われる。
このように考えて来ると,津波対策はやはり宮城県でとられているような柔らかい対策が妥当ではあるまいか。すなわち,湾奥において防潮林を設けて津波の浸入を許すけれども,その流勢を殺ぐのである。また漁村や工場が小さな湾や狭い平地に点在するようなところでは道路護岸のパラペットでよく流勢を殺いで被害を軽減することができる。
宮城県桃浦においてパラペットの有つた地域と無かった地域とで被害に著しい差違があったことが認められた。木造家屋は1.5〜2.0mの冠水に耐えており,モルタル造りでは2.0mに対し無傷であり,堅牢な構造にすれば3.0〜4.0mまで全壊を免がれ得る可能性がある。従って,海岸第一線の構造物で完全に水を阻止するのでなく,低くて越流を許してもよいから,その背後の流速を減少させ,かつ波高を低下させるという考え方が望ましいと思う。出来れば,河川において古くから用いられていた二番堤,三番堤の思想を取り入れて,低いバラペツトを数段Fig.11のように設けるようなことも考えられる。このようにしたら,Fig.12のように堤背の浸水高は著しく減少し,しかも流速を(特に引き水時の流速を)減少して防災に著効があることが考えられ,この点に着目して,現在著者の実験室で実験を進行させている。
漁港,商港,工業港などの大規模な港が,湾奥にあって,沿岸構造物のために経済活動が著しく阻害される場合については,当然防波堤の考えが出てくる。これは津波の用期が永かった今回のチリ地震津:波において始めて表面化した問頭であって,その例は,大船渡湾,気仙沼湾,志津川湾,女川湾に生じた。これに匹敵する湾として広田湾,宮古湾があるが,いづれも湾奥に都市が存在せず,問題化するに至っていない。著者等は予備実験として気仙沼西湾を対象とし水平縮尺でその1/3000垂直縮尺でその1/100の模形を作り,単一の押し波,および引き波を湾の固有周期に等しいか,これより短かい周期で起し,防波堤の効果について実験を行なった。その結果によれば,防波堤を湾口に設けた場合には,押し波,引き波とも湾内波高の減少効果が認められた。すなわち,押し波では波高が低くなり,引き波では水面の下り方が少なかった。防波堤を湾奥の気仙沼港入口附近に設けた場合には,防波堤の効果は認められず,この結果より,(a)防波堤はセイシユの振動のNodeに設けること。(b)有効な津波周期は,防波堤に囲まれた区域の固有振動周期に等しいか短かいものに対してのみである。(c)波高減水率は(a)(b)の条件に対してのみ次式で与えうる。6)
η=4m/(1+m)^2
ただし,防波堤のない時の防波堤位置での断面積をA0とし,防波堤のある場合の防波堤間の開口面積をAとし,開放率をm=A/A0で計算する。ηは防波堤のある場合の任意点の波高hと同じ点で防波堤のない場合の波高hoとの比である。この実験は現在単一の押し波,単一の引き波に対しのみ行なったものであり,周期波については今後実験を進める予定であるが,大体の計画として採用してさし支えないものと思っている。
この見地からすれば,防波堤は通常湾口の水深の深いところに設けねばならなくなる。このために防波堤の建設は従来の技術者の観念では不可能ということになる。しかし幸いにも暴風による波浪は表面波であって,水中深いところでは静穏なのであり,通常の堤の維持はそう困難でない。湾口に設ける場合も津波は長波であるから,水分子速度は全断面ほぼ一様であり,従ってその効果をあげるには断面積さえ狭めればよい。だから,Fig.13のように水面下にかくれた潜堤であっても一向差し支えないのであって,従って水深30mといっても何等築造上の支障を来たさないと考えられる。
7.結語
津波対策としては,なお海中構造物に対し考慮すべき点が残っているα特に外航航路のような深い溝に沿って津波が浸入する場合には流速が早く,従って洗堀が進んで八戸の河口防波堤に見るように海中構造物が傾倒するに至る。この場合の対策についてはいまなお検討中であり結論に至っていない。
本稿に於て土木災害の実体報告とその水理学的検討を行った。従来の考え方に一応整理を加えると共に,津波対策として新らしい提案を行なったが,今後も逐次,解析と実験を重ねて実地に有用な資料を提供したいと思っている。
(昭和36年3月7日)(以上)
参考文献
1)岩崎,堀川"チリ地震津波とこれによる三陸地方の災害の概況"土木学会誌45-8
2)岩崎"チリ地震津波による土木災害の概況と津波対策について"東北研究10-5
3)lwasaki and Horikawa, "Tsunami caused by Chile Earthquake in May,1960 and Outline of Disasters in Northeastern Coasts in Japan." Coastal Engineering in Japan. Vol.IV, JSCE.
4)Iwasaki,Miura and Terada, "0n the Effect of the Breakwater in case of Tsunami. Report 1." Tech. Rep. of Tohoku Univ. Vol.25-2
5)松尾春雄"三陸津波調査報告"内務省土木試験所 報告第24号,昭和8年6月
6)Lamb,"Hydrodynamics" 6th ed.