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津波記念誌編纂について
昭和35年5月24日未明地震の前兆もなく突如襲来したチリ津波は,我が国三陸沿岸に及ぼした影響は甚だしく瞬間にして幾多の生命と財産を失いました。幸い大槌町は死者はなかつたが精神的並に物質的にも非常な打撃を受けました。家屋,土木,農地,工業,商業,水産,関係等の被害が甚大でありました。一時混沌たる状態でありましたが直ちに災害救助法が発令され,救助対策が実施され,各地から義損金並に救援物資が送られました政府並に県当局の指導援助に依り,復旧の計画を樹立して専ら力をつくしました。町の人達も復旧から復興へと目指して仂き出しましたので,今や全く復旧事業の進捗を見るに当りまして往時の激甚であつた惨状を想起する時,まことに感慨深きものがあります。更に恒久対策として将来津波襲来に際し災禍を未然に防止する防浪堤の拡充強化並に新設事業は着手されて居ります。ここに当り御同情下さいました皆様に深く感謝の意を表すると同時に,将来のために記念誌を編纂致しました。幸い参考になれば本懐の至りでございます。
昭和36年4月25日
大槌町長
金崎節郎
津波災害対策について
津波襲来は,われわれ三陸漁村のその昔からのきびしい宿命であろうが,この度の津波はなんの予告もなく,太平洋全域の規模にわたる史上最大なものとされている。一瞬にして海岸一帯の財産を奪取したる様相は誠に惨たるものであつた。当日町議会が召集されて津波対策委員会が設置し,委員16名はその日からこのツメ跡からの復興をと,委員会開催数43回に及び,昼夜の別なく対策に行動を開始し,まず当面の被害家庭の寝具,食糧品ほか日用品の確保と環境衛生であつ
たその関係方面に連絡,陳情が先決でその後復興的対策を考えたのである。住む家は奪われ,生活の手段を失つた被害地は混乱を来たしたが,幸い私は昭和8年の津波の際は青年団長としてその復旧作業に従事した体験を充分に活用し過去の実例を思い浮べては復旧対策に自信を持ち,無我夢中に委員長の重責を
遂行した次第である。また委員の中で家庭と勤務する会社の被害復旧を捨てて黙々として町津波対策に専念したる行動は只々感謝感激そのものの外ないのであろう。全国からの温かい救援を仰ぎ,また被害者の皆さんの強い意思と友愛によつて早く復旧した事を感謝いたすと共にこれからの恒久対策に万全を期し,豊かな郷土建設を希望してやまないのである。
昭和36年4月25日
津波対策委員長浜田清五郎
津波襲来と警報解除
1.津波襲来の状況
備考…大須賀岩間健司氏が潮の異状を発見,常備消防隊午前3時15分に急報,常備隊並びに消防本部は監視の任につく。単独警戒警報発令〜3時40分(サイレン)
○避難警報発令〜4時10分,4時20分危険区域の避難完了。
○盛岡気象台津波警報受領〜24日午前5時10分。
○25日午後4時50分津波警報解除受領。
○当町は午後8時30分解除。
2.津波早期発見者に聞く
この津波は,全く無警告という特殊なケースであつただけに,事件発生は,白々と夜の明け初めた頃とはいえ,全く心支度のなかつた故,早期発見されなかつたとするなれば確かに人命にもその危害が免かれなかつた事が想像に難くないと思う。
この日は,当地沿岸では,ワカメの口開けとて,大須賀の漁家の人々の中には,早,午前1時,2時頃には,採藻出漁の準備などに取りかかろうと,目を醒ましていた人達もあつたらしい。
この津波早期発見者ともいうべき岩間健治氏も,またその一人であつた。氏の住宅は日頃よく上げ潮,退け潮の度毎海水の音を耳にする事の出来る程,海辺近くにあり,丁度この早暁2時頃,何時になき異様の海音に心打たれ,不審を抱き早速海岸に立ち出で,海水の動静を見つむるに,常ならぬ引き潮に,ハツタと胸をつかれた。幾分か見守るうち,まさしく津波襲来の兆と判断し,直ちに大須賀なる当町消防団副団長の内金崎氏に,その急を告ぐ,内金崎氏も,そは一大事とばかり,その言の確認を得,協力して消防署への急報とか,宮古測候所への連絡など,応急対策の第一歩を踏み出したのであつた。然るに宮古測候所からの通報は,津波襲来の危報なしとのことであつた。けれど海水の異様なる動きは,厳として安閑を許さず,その筋からの警報未だなかつたにもかかわらず,速刻,大槌町消防団としての本格的活動を促進する一面,遂に午前3時40分,当町単独警戒警報の発令を致し,4時20分迄には避難区域の避難完了を見たのであつた。最大波高を記録した第三波が押し寄せたのは4時50分頃であつたから,早期発見や消防部員の果断と敏速な臨機応変の処置が,尊き人命に異常なからしめた事の最大原動力をなした事が十分肯ずかれる所である。
警報解除とその後の異変
1.警報解除
24日午前2時40分第1回の津波兆候が認められてから,4時50分頃の4メートル50の記録を最高に,その後は漸次浪勢を弱め,25日午後4時50分に津波警報解除をうけたけれど,未だ当地は常態に復せず,津波の形勢が繰り返されるので,当町においては,午後8時30分に至つてようやく警報を解除し,どうやら民心も落ちつきを取り戻し,繁しき救援作業の行なわれている中に身を以て脱がれた避難者の人々は,それぞれ波に打ちのめされた言い知れぬ心なき大自然の仕業に痛恨を抱きながら,つねづねの上げ潮,引き潮の音にも脅威を感じつつ散乱した家財,道具を捜し求むる哀れな姿。こうした津波後風情の中にあつて,波高低きも,津波相貌が26日午前中まで継続。この日の午後から,ようやく海の動きの状態も不安なき平常に帰したのである。
盛岡地方気象台は,事件発生の24日被災地に加藤技術課長を派遣,津波の波高や,押し寄せた津波の回数など津波の規模について実態を調査した。
2.その後の異変
津波で水深が深くなる〜
「津波の襲来によつて,大船渡,大槌湾の水深が相当深くなつたことが海上保安庁水路部の調査船の測定で明らかにされた。」
水路部の調査船「かしお」(5トン)は塩釜以北の三陸の各港湾水深測定を行なつて18日(6月)帰港したが,大舩渡湾内は全般的に深くなり,大体7メートル平均のところで15メートル位になつている。また釜石港では,釜鉄の南桟橋きわに2メートル位のドロの山ができ,出入りの船舶の注意が必要となつている。
大槌港も全般的に深くなり,イカリのきかない場所が多く見られた。深くなつた理由は,沈でんしていたドロが一挙に洗い流されたためで,ドロさらいの必要がなくなつたわけだ。といつている。
解除後の人心動揺
津波警報解除の報に,一旦,人心の安定.ホツと平静の気を取り戻したものの,その後罹災者始め一般民衆は久しく神経過敏を来たし,僅かの微震にさえ直ちに津波来襲を連想して不安と憔燥,ただ恟々,やがては日本近海に起る地震津波発生の迷妄に捉われ,事件終焉2ケ月を経過せる後も,津波の際の避難態勢を解く事を怖れ,事変のあつた当時,知人の堅牢建築物に預かりし家財,道具をそのまま引続き預り居る人々さえ数えらる。
第二波がくるぞ!
南米チリで再び大きな地震(25日朝)があり,米民間防衛局では25日,ハワイ諸島に対して津波警報を出し,沿岸住民の避難を要請した。これらの外電により盛岡地方気象台は,25日夜から26日朝にかけて緊張の一夜を過ごした。
26日午前9時半現在「チリで25日午後5時35分新たな地震があり,日本に26日夕方前後来襲の可能性がある」の情報で30余人の職員が仙台気象台から,次々とはいる速報に耳をかたむけている。
盛岡地方気象台がこの間に出した津波情報は合計7回,夜通し新聞社をはじめ,ラジオを聞いた市民から問い合わせの電話が,ひつきりなしにかかり,台員は転手古舞した。過大な情報を流して県民を動揺させることも控えなければならず,さりとて警報を出しおくれて万一の事があつては大変と,26日午前中は,つかみどころのない津波の動向に気をいらただせていた。
太平洋に反射波
26日未明,北海道,三陸地方に"チリ地震津波"の反射波があつた。50センチから約2メートルの高潮で,被害はなかつたが,周期的に続いているので,各地とも警戒態勢をとつている。
気象庁は26日午後3時,次のような津波情報を発表した。
「26日午後2時現在,日本近海には,24日の大津波の余波が残つており,次第に衰えはするが,まだ幾日間はつづく。この間,海岸での作業や潮干狩はさけた方がよい。なお25日夕5時半ごろ,また起きたチリ地震による津波の影響はないとみられる。」
昭和35年中において津波警報発令調
3月21日午前2時26分,よわい津波
5月24日午前3時40分,チリ地震による津波警戒警報
5月24日午前4時10分,チリ地震による津波避難警報発令
5月25日午後9時45分,よわい津波
5月26日午前O時21分,よわい津波
7月30日午前2時49分,よわい津波
10月9日午後6時23分,よわい津波
津波の惨状
津波の惨状
天災は忘れた頃にやつてくるとか。こんどの津波は,何の予告もなしに襲来し,早朝人々の夢路をおどろかして一瞬の間に惨たる災禍を残し去つた。
罹災者の殆んどが,家財道具,その他を持ち出す間もあらばこそ,身を以て避難するのに勢一杯の状態であつた。
被害の大きかつた地帯は,雁舞道,安渡,大須賀,白石部落等で,被害地付近一帯は足の踏み場もない程,流木,家財道具が散乱して目を覆う程のざん状であつた。
その日から50日余り過ぎた昨今,あと片づけも終わり,ようやく落ちつきをとり戻して人々は再起のため立ち上がつているが,津波の恐ふは人々の記憶に永く残るのであろう。
小枕・白石方面
前兆もなしに押し寄せた津波は,白石・小枕方面にあつては,岸壁を乗り越え,海岸道路をおおい,立並ぶ民家へと侵入した。
昭和8年の三陸大海嘯後この地域一帯は人家稠密し,小枕如き大部高地を開拓して多数の住宅或いは,水産関係施設や,製材工場などが建設せられ,従来の地域相貌を一変された関係上,街道筋の各種商店などの被害高く,魚市場付近の建造物,製材所など機械冠水に伴なう機能不可,積みおかれし木材は完全に波にさらわれ,事務所への浸入にて執務不能など数々の被害が与えられた。流木なども翌25日に至るも整理つかず,警報解除後の異常なる寄せ潮に列をなして小鎚川を逆上するの呈であつた。
魚市場付近の波高は3.8メートルの痕跡が明瞭に残つている。
大須賀方面
大須賀は雁舞道,安渡とともにその被害甚だしく,特に当地域にあつては,前回(昭和8年)の海嘯後,町が津波防衛対策として施設された洲崎堤防を越え,一部堤防裏側を通じて決壊し,一帯の低地住宅殆んど全面的に浸害を与え流失,倒壊,床上,床下浸水の災害をうけた。この水,大須賀道路を跨ぎ,小鎚橋袂近き小鎚川堤防下なる東北化学工業株式会社経営のアルギンサンエ場所在地域も橋際の一部を越えたる水によつて同工場に於て,床上凡そ1メートル余りの浸水を見る。
洲崎堤防の上には,発動機船ののし上つているのを見ても津波の規模が察せられ,水の退いた後,この地一面泥沼と化し,或いは雨戸流され,或いは柱のみうつろに危うく屋根を支えるものもあれば,又,土台さらわれ,柱傾ぎ半壊の屋根のまさに倒れようとするものもあり,流失家屋の跡と思われる場所には未だ海水溜まり,地面の傾斜に従つて堰を生じ,残水の動きも見うけらる。
泥沼と変つた地面には,災害家屋の破れた戸障子,ガラス戸をはじめ,家財道具の散乱する状態に,その痛々しさを思う。床上浸水に罹る東北化学も,工場設備と材料との冠害により機械は完全に運転不可能となり,事変後凡そ1週間に亘つて作業停止と見るの有様となつた。若し,前回の大海嘯以後における防堤施設や,洲崎防潮林がなかつたら,この方面の地域の被害一層大きなものとなつたであろう。
小鎚橋北端の漁業協同組合付近の波高は3.9メートルで,すぐ裏手の防浪堤の天場より約80センチメートル高く越えて浸入したと考えられる。
雁舞道方面
雁難道は,大槌川河口を逆流した波浪が,埋立地全域をさらい,通路を越えて田植ずみの田地全域を襲うた。道に沿う堀割をまたぎ,埋立地に建ち並ぶ引揚者住宅は軒も余す所なく,街道北側の住家数棟や,漁船とともに,冠水田地域から山岸へと押し流され,完全倒壊,流失状態を極め,この走り水は遠く夏本部落前面にまで及んだ。
ようやく洲崎松原沿い,鉄橋下なる町営住宅のみは,その建築基礎の強固なるも一因してか,一部破壊,床上浸水にて流失の難を免かれたとはいえ,室内で2メートルもの浸水では,その被災少からざるものがあつた。
安渡へ通ずる雁舞道の路上には,倒壊家屋の破壊物資,流木などの積み重なるものあり,散失せるものあり,大型漁船の流坐するものありで車馬の運行は勿論,人の歩を進めるさえ至難の惨状を来した。この地域は,津波の浸水区域最も広く,従つて漂流物も他の被害地区よりは一層広汎に散乱し,津波の後,事後整理に随分と多大なる労供が続けられた。
安渡方面
安渡に至つては,その被害甚大であつた。道を狭んで両側の民家殆んど全体か床上浸水の災禍を被り,かつて昭和8年の大津波にもこの地区の被害甚だしく,死者24名(当町内被害部落中人命危害最大)を出した程であり,それでも床上浸水家屋は海辺に沿うた道の一方のみに止まつた。然し今回は高地住宅区域を除き,低地街路住宅の全面に床上浸水の災を及ぼし,罹災者の数はおびただしいものになつた。
当安渡地域は,当町漁業の中心部落として広大なる海域の埋立てや,繋船場の施設の竣工等,着々その整備を進めて来たのであるが,この度の津波に住宅の被害のみならず,埋立地の大槌川河口に直面する岸壁の一部決壊もあり,漁船の多くは流失,破損,加えてこの地一般零細漁民のコンブ・ワカメなどの海藻採取と共に現金収入唯一の施設たるカキだなの破壊流失となり,住家,生産両面に於て被害最大といわれる。
赤浜方面
赤浜は前時も当町沿海被害部落地区中にあつては最少限度に止まつた地域であり,その後の港湾施設により,岸壁の築工,蓬莱島への長堤竣成などにもより,今回の津波にも最も沿岸沿いの住家,僅かに数軒の浸水あるのみで,被害は至つて軽い。思うにこの地域の地盤は山手より海岸になだらかな傾斜をなし,民家の多くは道路を狭んで海岸から一段と高き地点より斜面に建てられてある事などの住宅設計等が難を免れた要因と思う。
今度の津波来襲の様相を目撃した人の語る所を聞くに,大波の押し寄せる前の引き潮,海岸岸壁より2,3メートルに及び,堤防の底側なる岩礁も常になく露出,海藻採取中の者もあつたとか。やがて押し寄せた津波は,この長堤防の突端,蓬莱島をめぐり安渡方面へと進路を進めたことが見得られたという。
吉里々々方面
この地域も昭和8年には10名程の犠牲者と105戸の流失戸数を数えながら,今次は僅かに倒壊非住家1戸を見るに止まつた。勿論前回に比し,津波の規模の差にもその一因が認められる所であろうが,此処にもまた三陸大海嘯後における港湾施設のよろしきを得た事が実証されたものと推測が大きい。即ち部落住宅街と海浜との境をなす長堤と金ケ崎方面に築かれし防潮堤のそれである。
この度の押し寄せた津波は,ようやくに部落に平行する長い防浪堤を越えたかどうかの程度で,波はむしろ金ケ崎方面より突出せる防潮堤による入江に沿う造船場付近の水産加工場等を倒壊し,他の住家1戸だに災禍を蒙らない実情であつた。
この地域において特別意の注がるる所は漂流物の漂着地点である。この漂着地点から当地沿岸部に押し寄せた津波の進行状況が一応測定し得らるる所がある。
罹災者は語る…新聞記事から
漁業被害を歎く
こんどの津波によつて当町生産生命の一大源泉としての漁業生産面への被害は実に大きく,これが零細漁民の生活に直結しているだけに最も悩みの種の一つである。これについて,大槌浦漁協組長倉沢繁雄さん(53)は次のように語つていた。「カキは全然養殖ができなくなつた。そのため,カキの養殖業者は現金収人の道がなくなつた。しかもワカメの最盛期を迎えて漁船や漁具を流され,手ぬるいものでは再起できない。全額補助以外に生きる道がない。」
苗と薬品を
当地雁舞道に沿うて水田一面は,すつかり冠水となり,その上流失,破壊物資におおわれ,それらの整理にばかりも並々ならぬ労作が続けられたが,さて一旦整理がついてみたものの一度冠水田となつたこの地を如何に盛り上げるかについて所有者の人々は頭を痛めている。松の下の農業佐々木圭介さん(62)の悲歎の声を御紹介しておこう。
「田植え最中とんでもないことになつてしまつた。水田,なわしろはすつかり冠水,目も当てられない惨状だ。どうしたらいいものか手をつけかねている。一日も早く起ち上がりたいので,苗や薬品が欲しい。なんとか日の経たないうちにおねがいしたい。」
救援物資が待ち遠しい
大波に打ちのめされ,住家を失ない,命からがら避難した人々は,忽ちに明日からの生活の窮乏という固い壁にぶつからなければならない。炊き出しの配給だつてそう永くは続くものではなし,生活必需品でも一日も早くと思うことが,こうした罹災者一様の願いであつたに違いない。この切実な感を雁舞道に住んでいた罹災者の一人,藤原悟さん(55)は,次のように述べていた。
「家を流したのでバラツクでもよいからすぐ家と寝具,衣服などが欲しい。打ちのめされた世帯の人々はみんな同じ気持だろうと思う。物資のくるのが待ち遠しい」。
漂流物について
大槌川安渡橋の少し下流にあつた見張りの家(平家35坪)は4時20分頃の津波で流失し,同じ日の朝9時頃,室浜に流れついた.この際家の中の物はフトン,タンスなど皆のせてそのまま少しも痛まず流れついたとの事である。また赤浜の埋立地にあるオツトセイ研究所の書類は白石に流れついたとの事であつた。
避難民の状況
当町でほ中央その筋から津波襲来警戒警報に先んじ,早期発見と消防団の機敏なる適応措置が効を奏し,一面来襲の最大危機の時刻は,早暁とはいえすでに東天も白んで物のあやめもはつきりする程の頃でもあり,尚また津波の動態も前回昭和8年の場合よりは緩やかな押せ波の速度,加うるに防波,防潮施設の構成などの諸条件から,幸い1人の死亡者をも出さなかつたけれども,被災地域における物的被災は予想外大きく,避難民は全く言葉通り着のみ着のままといつた状態で親戚,学校,公民舘その他の公共施設の安全地帯へと避難したのであつたが,その数400人余に達す。(親戚身寄りの家へ避難した人達を除く)前回の昭和8年三陸大津波の際は余震烈しく津波襲来の不安を予想されながらも,3月とはいえ遠山の雪消えず,骨を刺すような辛踈な寒風身に泌み,しかも全く闇の中の午前3時,加うるに震源地は三陸沿岸に近く,殆んど防波施設に乏しきなどの諸悪事態により,町全円にて死亡者62名を数え,避難する人達の窮状たるや実に悲壮そのものにして言語に絶する処であつた。
これに比し今次は前兆なき急襲とはいえ,季節的に,時刻的に,施設的に津波の動態など少なからず避難には有利な点があつたと想像される。然し食糧,家財等生活必需品の流没による生活の窮迫を救済する事こそと,第一の救助作業が講ぜられる事となつた。
(1)被災者の収容状況
施設,世帯,人員
大槌小学校,43,264人
大槌保育所,3,8
公民館,16,81
安渡小学校,9,35
水産センター,5,21
安渡青年会館,1,9
大仏殿,8,25
計,85,442
(2)痛ましき罹災者の姿
24日一たん避難した罹災者の人々も大波退き去りし後のまだ完全に津波兆候の収まらぬ事を知りながら,避難の場に居たまらず,時折りに鳴り響くサイレンの音に脅えつつも一片だに残す物もなく流され果てた住家の跡に,雨戸流され,柱倒れ,屋根かたむき見る影もなきまでに荒さ尽くした住宅に。痛む心にむせびつつ戻る人々,せめて一品たりと前夜まで使いなれし品ばかりもと,散り汚れし家財,道具の中にわが家の品を探し求むる女や子供,年寄り達の言葉なく無言のままに,カなくカなく一物を見つけ出してはありしわが家の方へ,坐るに座さえなき住居へ歩み行く姿,見るからにいたましい。
事変後二,三日はようやく雨を誘うばかりの曇り日和続き.せめて雨降らぬ間にもと,罹災者の人達は濡れた衣類やフトンを,或いは家根の上に,或いは立木にかけひろげ,背負つた赤子と一緒に,声なき涙に泣きくれているお母さん。道端にベツタリと坐り込んで,立てし両膝をカなき両手に抱え,あらぬ彼方を見やる老人。海辺に近き廃家の二階には,ただ青ざめて言葉なく,うつろな眼なざしを遠く沖の何処かに見やつたまま,おおい戸失せし窓辺に悄然と立ちすくむ若人。
この中にも,泥まみれの家具や畳を洗う人,リヤカーで泥を運び出す人々,何れもが黙々としてあえぐ姿が見うけられる。
(1)三陸沿岸壊滅す
大船渡市は地獄絵図 〜家屋の全壊流失800戸,死者不明32人〜800
24日早朝から,三陸沿岸一帯に4〜2メートル内外の津波が継続的に襲い,大船渡,釜石,宮古,久慈市にかけて沿岸各市町村全域に大きな被害が出ている。
津波は23日午前4時ごろ,南米チリに発生した地震波がまる1日かかつて太平洋を渡り,津波となつて,24日早朝から本州太平洋岸の北は北海道から,南は九州に至る全域を洗つているもので北海道,三陸沖がひどく,三陸沿岸のうちでも本県南部の大船渡市,上閉伊郡大槌町あたりも被害が大きい.津波の第一波は久慈市の24日午前3時半ごろから,大船渡市の午前4時半頃にかけてで,同午後1時現在断続的に続いており,仙台管区気象台は,午前4時三陸沿岸に津波警報を発し,各市町村はサイレンを鳴らしたりして高台へ避難した。
午後1時現在の県警本部集計の被害は死者,行方不明32人,負傷者25人家屋の全壊387戸,半壊743戸,流失383戸,床上浸水2,222戸,非住家流失69戸,ほかに船やカキダナの被害が大きい。沿岸部の鉄道,通信線の被害も大きく,県は小川県副知事を本部長に津波災害対策本部を設け,6市町に災害救助法を適用した。(5.24.岩手目報夕刊)
(2)4メートルに達す
釜石市民恐怖のどん底
釜石市と上閉伊郡大槌町地方は,午前4時8分に津波警報が発令され,同4時10分高さ約2メートルの津波が押し寄せ,さらに同4時35分3メートル50から4メートルの津波が来襲,釜石市の浜町,東前町,大町,只越町,松原須賀通り,鵜住居の両石など一帯に水びたしとなつた。また大槌町の安渡,唐舟町の本郷,小白浜など海岸線一帯の部落が波に洗われた。続いて津波は午前5時5分,同5時20分と続き,さらに午前9時迄に12,3回の津波が来襲,各被災地の人々を恐怖のどん底につき落としている。釜石市と大櫛町民約3万人は付近の山,高台,寺院などに着のみ着のまま避難し死者はなかつたが,重傷者1人のほか住家,船舶,港湾設備に大きな損害をうけている。釜石署が午前8時までにわかつた被害は住家流失10,倒壊10床上浸水1,901百戸,同床下浸水1,403戸,非住家流失30戸,船舶転覆1隻,岸壁決壊1ケ所,警電不通3回線,桟橋のプレーンの損害1,定置網3ケ統,船舶流失30隻となつている、(5.24.岩手日報夕刊)
(3)町中に座り込む船〜釜石・大槌〜
釜石,大槌方面を襲つた津波は午前7時ごろには一応おさまり,避難していた人たちも家に戻つて復旧がはじめられた。
特に被害の大きかつたのは,上閉伊郡大槌町,海岸に沿つた家はベツタリ波をかぶり,町の三分の二約1,500戸が被害をうけた。200メートルも流された家もあり,いずれも畳の上まで洗われた。町の真中を走る県道には,約20トンもある船が居すわり,たんぼのあちこちに船が上がつている。
避難命令が出たのは午前3時20分,やがて小さい津波が来て30分おきぐらいに続き,3回めと4回めの大きい津波にあつという間に洗われた。津渡の高さは約3メートル,「もう1メートルもあつたら全滅でした。」と被害者たちは津波の恐ろしさを振りかえつていた。(5.25.朝日新聞岩手版)
(4)チリ津波県沿岸工場の被害状況
チリ地震津波で本県沿岸の工場地帯の被害も甚大だ。ことに大船渡セメント工場は操業不能に陥つている。また富士製鉄釜石製鉄所も一時操業停止の状態に追い込まれ,26日からようやく操業したものの被害はかなり大きい。その他沿岸加工工場などの被害も相当額に上つている。各企業とも損害額の見積りを急いでいるが,今までわかつただけでも沿岸一帯の工場施設のうけた被害は,15億円を突破するとみられている。三陸津波当時は沿岸地帯の工場施設が発達していなかつたので,被害額は当時をはるかに上回るとみられる。
◎総額15億を突破〜小野田セメント操業不能
◎東北化学は材料,機械に冠水
東北化学が材料機械の冠水で,1億に近い損失を出したのではないかとみられている。また同町の水産加工組合は建物の破損,材料の冠水,流失で損害額は2億8千8百万円にのほるとみられている。(5.27.岩手日報)
大槌町被害集計
当町役場が25日まとめたところによると,津波の被害額総額は9億9千2百93万円に達することがわかつた被害集計は次の通り
復旧復興対策の概況
チリ地震津波の一大異変に対処し,早速町議会を召集し,種々応急対策を策定して町災害対策本部,津波対策委員会を設置する。県災害対策本部との連絡折衝の緊密を図って直ちに復旧復興対策に乗り出し一日も早くその実現に向かつて誠心誠意努力を進めたのである。その概況は次の通りである。
1.津波対策委員会について
5月24日午後1時より町議会臨時議会を招集し,取敢えず200万円を災害復旧費として支出することを決定と津波対策委員会を設置する。
委員長 浜田清五郎 副委員長 三浦宗助委員 里舘忠利 吉田石太郎 菊池輝太郎 菊池英三 臼沢千太郎 岩間誠三 徳田松一 岩間兼三 小島岩松 大下三之亟 加藤重蔵 道又泰三 菊池徳四郎
第1回委員会は24日午後2時から開かれ当分の間毎日午前10時委員会を開くこと,流木の処理,各部落に連絡所を設置を決定する。
その後特別委員会を開会すること43回に及び町,議会一体となつて応急対策(仮設住宅,救護物資の確保支給,復旧資材の確保,配分,陳情,保健活動等)につき協議し復輿対策に処した。
特別委員中には被災者もあつたが,一身一家も顧ず連日の如く参会し町当局を激励したことは,かくれたる美談と謂え得る。
2.町当局の応急措置
24日未明三陸沿岸を襲つたチリ地震津波のため各地は大きな被害をうけましたが,その中でも当町は水産業,商工業,土木農地,公共施設など10億円に及ぶ被害をうけました。
これらの災害に対して,直ちに町役場内に金崎町長を本部長とする災害対策本部を設け,一方対策委員会を組織し,罹災者達への炊き出し,消毒などの応急対策を講ずるとともに自衛隊の派遣を要請し,警察官,消防隊員,商工会,青年会,婦人会及び一般の協力を願つて治安維持及び漂流物の除去,倒壊家屋の撤去等連日復旧作業に従事致すことになりました。
午後1時から臨時緊急町議会を招集し,対策費2百万円を計上,復旧に乗り出し,被災者には救援物資や見舞金を贈るとともに,今後一切の生活相談に乗り出すことを決めました。
(1)応急米の供給
町当局においては,被災後直ちに応急米の供給を要請し,各部落有志及び婦入団体協力の下に3日間の炊き出しを行ない,更に4日分の配給を実施した。これに要した飯米は,10,106キログラム(68俵)である。
(2)環境衛生について
(イ)消毒及びし尿処理
県衛生課,釜石保健所と協議し薬品の購入,消毒日程等打合わせの上,翌25日より被害地全域にわたり,室内及び汚染区域の消毒並びにし尿処理に当つた。協力団体は次の通りである。
釜石保健所,遠野保健所,自衛隊東京予防衛生中隊,釜石市役所尚消毒に要した費用は65万円である。
(ロ)無料診療班の編成
5月26日〜国立養療所班 受診58名
5月28日〜大槌病院班 19名
5月30日〜同 24名
6月4日〜簡易保険局班 71名
6月5日〜NHK班 79名
(ハ)検便
釜石保健所管理の下に,伝染病防止のため検便を行ない,実施人員180名のうち赤痢健康保きん者5名と真性赤痢患者4名を発見し,町伝染病隔離病舎に収容した。大量集団発生がなく大事に至らなかつたことは幸いである。
(1)防疫に万全を期す
大槌町では各家庭の井戸など飲料水が泥水に汚染し,県にろ過装置器の発注を申請してきたが,県は早急には間に合わないので現地保健所と連絡し,汚れた飲料水を塩素減菌して消毒した上,一度煮て飲料に使うよう注意している。一方,対策本部は浸水家屋や住宅街の消毒のため,24日トラツク2台に消石灰を満載して被災地に急送,クレゾールなどは現地で調達させ,防疫に満全を期している。(5.25.岩手日報夕刊)
(2)防疫活動に全力
釜石保健所は,釜石市と上閉伊郡大槌町の災害対策本部と協力して,24日午後から被害地の薬剤散布や健康診断など,防疫活動に全力をあげている。24日は釜石市東前,松原,嬉石,浜町など市中心部と,鵜住居,両石町一体の浸水家屋約1千戸をクレゾール消毒し,BHC剤を散布した。
25日にも釜石保健所の職員10人と,保健婦4人が大槌町の最も被害のひどかつた安渡,大須賀の被害地で薬剤散布や消毒作業町民の健康診断を行つた。
赤痢予防注意事項
1.生水は絶対に飲ましたり飲んだりしないこと。止むを得ないときは必ず一度沸したものを使つて下さい。
1.喰物は熱を加えてから食べましよう。煮たり焼いたりしないものは食べないで下さい。
1.食器は面倒でも毎日5分間熱湯で煮沸してから使つて下さい。
1.食前や,便所から出た後は石鹸を使つてよく手を洗つて下さい。特に子供さん達の手洗いに気を付けましよう。
1.身体の具合が悪いときは成るべく早くお医者さんにみてもらいましよう。
(3)災害救助による対策について
(1)仮設住宅(バラツク)
伸松地区20戸(1戸5坪),雁舞道地区15戸(1戸5坪)
合計35戸を被害者の収容施設としている。
(2)補修住宅〜56戸
補修家屋について1万6千6百円の補助がありますが,若干の事務費が除かれ,現在補修中であります。
(3)生業資金申込者〜26名
(被災者流失者)に対し2年間無利子1万2千円の貸付を行なつた。(大槌町報から)
(4)世帯更正資金貸付について
(1)生業資金〜借入金5万円より10万円以内。
支払方法,1年据置4ケ年払(月賦,半年賦,年賦)利子年3分。
(2)住宅補修資金〜借人金1万円より3万円以内。
支払方法,1年据置,4ケ年払(右同)利子年3分。
世帯更正資金として,特別に県において融資の枠を得て7月分としては,一応2百80万円を融資することになりました。
被害をうけない方々にも貸付制度がありよすから詳しいことは民生委員に問合せて下さい。(大槌町報から)
(5)国庫債券買上について
引揚者並びに遺族国庫債券買上については,先に申込みをとりましたが,県への割当枠が決定にならぬため遅れております。もう少しお待ち下さい。(大槌町報から)
(6)水産関係
(図:水産関係被害)
被害額は非常に大きいので災害復旧のためには,伊勢湾台風と同様な特別立法措置の上,高率補助の適用をとられるよう関係被害市町村と合議し,政府に対し強力に運動を行なつたがその結果法案が制定し施行される事になつた。
各漁業協同組合と連絡し,精密周到な資料調製にあたり復興計画に万全を期している。
災害法は左記被害において特別措置を規定してある。
(1)共同利用施設
(2)かき・のり養殖施設
(3)小型漁船建造
(4)中小企業者に対する資金の融資
(7)土木関係
1.既設公営住宅補修工事
2.災害公営住宅建設工事
35年第2種住宅30戸,36年度2種住宅20戸を建設害(災)者の住宅に供す。
3.橋梁復旧
公営住宅橋コンクリート橋に架替工事。雁舞道木橋2ケ所。
4.安渡さん橋の復旧
5.県工事については堤防,漁港施設等着工の運びとなつていますが。海岸保全の重要性から改良復旧を要望いたしております。
(8)農業関係
(図:農業関係被害)
このほかに家畜の死んだもの,ぶた34頭,にわとり230羽ほどあります。流失埋没した農地及び農業用施設に対し,6月18日農林省の査定をうけた結果,次のような結果となり,農地に対しては5割,農業用施設に対しては6割5分の国の補助をうけ,復旧をすることになります。
以上の被害で苗代が被害をうけ,苗不足のため植付の出来なくなつた水田は約13町となりましたが,これらに対し町内からの強力により,植付を終つたものが約6町4反,遠野より4千束,紫波より1万8千束,計2万2千束の応援を得ましたので,残りの6町6反も植付を完了しました。植付も最初の中は塩分が多いため懸念されましたが,農家の皆さんの努力によつて除塩作業も順調に進み,思つたより早く6月14日には空田を解消することが出来ましたことを皆様とともに喜んでいます。被害をうけた皆さんの御苦労は申すまでもなく,町内各農家及び各関係機関の皆様の御協力に感謝しております。
お蔭様でその後生育も思つたより順調でありますが,今後もすくすくと伸び秋には立派な稔りを見せてもらうよう願つています。
尚ここで皆様に特に申上げておきたいことは,塩水の入つた時は急ぐ事なく十分塩分を除去した後にゆつくり田植をし活着を待つてすみやかに追肥をし,中耕,除草をする事がよい結果を得るということを添えておきます。
(9)林産関係
湾内に漂流した木材製品等については散逸盗難を防止するため,監視船を出し集積の上所有者に引渡した。(大槌町報から)
交通通信状況
(1)交通障害と国鉄の措置
敏速なる応急対策
仙台管区気象台からの津波警報発令に先だち,当町において午前3時半に津渡襲来のサイレンを鳴らし,これを早くも耳にした釜石保線区踏切警手佐々木治七氏(50)は直ちに野中大槌駅長と線路分区長に報告した。急報で大槌駅長は盛鉄局列車指令に報告,列車運転中止指令の基動力となつた。
当日,盛鉄局運転部,列車課の阿部,高屋敷,菊池,松尾氏(表彰をうけられし人々)の4課員が列車指令当局とし勤務中,野中大槌駅長からの津波通報をうけ,各地の状況を調べ予想災害地に発車する大船渡線,気仙沼午前4時40分発大船渡行き1457列車,同午前5時42分発461馴車,山田線,釜石午前4時51分発山田行き572列車見合わせを指令。不通区間はニヵ所鉄道高田−盛宮古−津軽石津波で寸断された沿岸地方の鉄道,バス路線は盛鉄局,自衛隊,地方消防団の努力で日を追うて復旧開通し,不通区間は,鉄道は大船渡線は陸前高田−盛間山田線は宮古−津軽石間を残すのみで,宮古−津軽石間は徒歩連絡,大船渡線の不通区間は28日からバスで代行運行する。一方,バスは盛岡のバスセンターの発表によれば,陸前高田−気仙沼間,山田−宮古間は6月以降になるほか,ほとんど開通,被災者の足の悩みは一応解消された。
鉄道 山田線の被害と大船渡線
○大槌−吉里々々間は道床流失で一時不通となつたが,同午後6時27分に開通した。
○宮古−豊間根間は道床流失,橋脚傾斜,路盤流失などで6ケ所も支障を来たしているので,復旧見込を立てるだけでも25日一ぱいかかり,応急復旧で全区間開通するには月末までかかる予定であるが,津軽石一豊間根間が27日午後5時開通した。宮古一津軽石間の復旧見込は6月10日頃になるので,この間バスの代行運行を計画したが取りやめ徒歩連絡する。
○陸前高田−盛間は道床流失などが多く,工事は新線建設と同様で長期間を要するので盛岡局はバスによる代行運送を計画,道路の修理も成つたので28日から鉄道代行のバスによる運行を開始する。また6月1日から運行予定の大船渡線,盛−仙台間デイーゼル準急「むろね」は当分の間仙台−気仙沼間となる。
バス
○釜石地方=ほとんど復旧,大槌−吉里々々間は,27日から運行をはじめた。
○宮古,山田地方=山田−船越間は日復旧したが,宮古−山田間は6月はじめとなる。
○大船渡地方=大船渡−釜石間は25日,大船渡−下船渡間,長崎−浦浜間が27日開通,三日市−小友間,細浦−泊里も30日頃開通するが,陸前高田−気仙沼間,大船渡−赤崎間は今の処見込みがたつていない。
支障をきたす沿岸貨物輪送
2百輌も立往生,復旧は長期化津波で沿岸貨物の輸送は全くとん座しているが,盛鉄局管内の輸送状況は次の通りである。
盛鉄管区内では全線不通,または一部不通となつた大船渡,気仙沼,山田,八戸の沼岸4支線区で合計263輌の貨車が立往生した。また函舘港の岸壁被害で24日の青函連絡船は上下運行が欠航し,東北本線は1,OO0トン輸送の貨物列車4本を含め6本が運休し手痛い被害をうけた。
盛鉄局の管内在貨は最近下向線をたどり,23日現在7万5千トンだが,これからまた滞貨が増加すると予想されている。盛鉄局貨物課の調べによると,立往生した貨車百輌のうち161輌が空車だが,その他は鮮魚,木材類を積んでおり,木材関係は別として鮮魚が腐敗の心配もあるが,天災なので国鉄の補償も期待できない。25日は立往生貨車230輌,使用車は千輌で平日よりも早くも200輌約3,000トンの減送を示している。
盛鉄局災害対策本部が25日発表した所によると,復旧は山田線6月10日,大船渡線6月30日で予想以上長期化する見込みである。また大船渡地方では送り込み貨物(物資)の杜絶から食糧品など生活必需品の不足が心配されている。このほか八戸線の磐城セメント,日東化学をはじめ,大船渡線小野田セメントなど主要工場の製品搬出支障を来たし,殊に大船渡における小野田セメント大船渡工場は,大船渡線の復旧見通しがつかないため,製品7,000トンの鉄道輸送が期待できない現状である。(5.26.岩手日報)
救援物資の運賃を減免
国鉄は青森,岩手,宮城県下の津波被害者に対する救援物資などについて,次のような運賃減免することを24日決めた。
1.被災者に送る救援物資は被災地の県知事,日赤支部長あての分に限り期間は6月23日まで。
2.被害者が復旧用に購入する物資の輸送費は県知事,市町村長の証明があれば5割引き,期間は8月28日まで。
(525.岩手日報夕刊)
(2)通信関係事情
当町郵便局関係被害の一般
チリ地震津波の悲報一たび各地に伝わるや,津波襲来の24日より忽ちにして見舞電報,通信が殺倒を極めたので,当郵便局がこれが処理のため局員臨時増
員の処置をとり,事務遂行の停滞緩和に一層の努力を払つたのである。
次に事件発生当時の概略を掲げてみよう。
○電信……故障がなく当日(24日)の受付件数は,発300通,着1,400通
○電話……当日午前4時より午後3時頃まで4回線不能,2回線普通であつたが,非常に混雑を極め当日の取次市外通信は294通であつた。
市内は加入者被害による故障104,流失3,その他浸水によつて電話線切断などがあつた。流失3は復興不振であるがその他29の整理は間もなく完了した。
○郵便……24日は未到着であつた。1日平均900通,小包40,書留26,速達27その他局員(配達3名,内勤3名)1週間増員して整理にあたつた。
電報障害
こんどの津波のため大船渡,釜石,宮古,久慈等への(被災地)見舞電報が殺到し,各局で1日3,000通から6,000通が停滞しているほか,そのシワよせが盛岡局にもおしよせ,1日15,000通から20,000通が影響をうけ,被災地同様遅れを見せている。これらの電報はいずれも盛岡局を経由するので,15,000から、20,000通も発信が出来ずにたまり大混乱を呈した。
郵便業務の態勢
仙台郵便局は24日津波対策を協議して,ヘリコプター輸送確保と情報連絡に当るほか次のことを決めた。
▼郵便業務=臨時逓送自動車便の開設で郵便輸送を確保,被害地でも1回は集配るを行う。
▼貯金業務=郵便為替,貯金などの非常時払いを実施して被害者の要求に応ずる。貯金通帳を紛失した者でも預金者と確認した時は適用する。
▼保険業務=災害死亡者に対しては保険金の倍額を支払う。加入者に対する非常即時貸付けの特例を講ずるほか巡回診療班を特派する。
救護来援団体の活動
被災地区は倒壊家屋を始め,漁船或いは家具,家財など雑多な漂流物の散乱は車馬の交通を遮断し,手の下しようのない惨状であつたが,消防団,自衛隊,警察官,隣接市町村からの派遣消防団,町内トラツク及び小型所有者,青年団,商工会,加うるに一般の積極的奉仕のお蔭でこれらの除去作業が続行せられ,1週間後には見違える程清掃され,この進捗ぶりは賞讃される所であつた。これに要した費用は80万円である。
次に,救護団体の活動実態の種例を掲げるとともに,その救護救援に対する献身的努力に対して深く謝意を表すべきでなければならぬ。
1.町内各種団体の状況
(1)当町消防団
当日(24日。)午前3時15分当町消防団員岩間健治氏から潮流の異変があり,非常電話通報をうけ直ちに本団常備隊は小鎚川側に出動監視の任に当る。潮流の激変が津波の虞れあると察知し,対策本部に情報を提供の旁ら数分後には2,3,4,5,6,7,8分団に津波対策計画に基づく非常召集命令を下すとともに,避難民の誘導順路,火災盗難予防に関する指示をなす。その後刻々激変しある潮流監視を致し,午前3時40分町自体による津波警戒警報の発令に協力,事故午前3時50分にはそれぞれ高台地並に安全地帯に避難が完了したのである。
避難後は上記同様各分団を手分け,監視と盗難,火災予防に努め,避難民対策本部に情報を提供す。引潮激変に伴い午前4時10分全町民に対する避難警報を発令せられたき連絡あり,当町対策本部においても各地区,各部所に配置しある機関吏員の情報を綜合し,町責任のもとに避難警報を発した。
その後数次にわたる津波来襲に伴ない,よく状況判断,各分団をして規律正しく沈着,冷静なる態度をもつて指揮指導をとり,消防機関としてよくその任を全うし,当日午前8時5分,1,5,10,11,12分団に出動命令を発令し,国県道路上にある大,中,小型船の除去,汚物,漂流物の除去に率先範を示し,翌25日には車馬の通路を容易にし,24日より28日まで昼夜監視巡回に努め,他市町村からの急援作業消防団とも緊密なる連絡をはかり,当町の復旧工事を進捗ならしめたのであつた。
□消防団員表彰者
当町及び県,消防協会,海上保安部は今次の津波に際会し,人命救助或いは早期通報などに功労のあつた消防関係者,消防機関に協力した一般人を現場功労および功績者として表彰された。その中消防団員として表彰された人々とその業績について記してみよう。
◎人命救助による人々
1.佐々木重夫氏(36才〉第4分団々員
氏は午前3時40分警戒警報発令と同時に大槌町消防第4分団の指揮下に入り,管内区型警戒と避難民の誘導中,被害の甚大なる雁舞道地内村岡日出夫さん(35才)が激浪に翻弄されつつあるを目撃し・敢然として水深2メートル内に身を挺し突進,折から漂流し来たつた小舟に便乗,操舟未経験な身も顧みず激浪に弄されつつ,夏本部落前まで舟を操りつつ,溺死寸前の被害者を収容して大槌病院まで操舟,同病院の職員の協力を得入院せしめ,応急処理により蘇生せしめた。
2.沢舘年男氏(29才)第6分団員
氏は同団員三浦浩氏と第6分団の指揮に入り,管内の区域と避難民の誘導中,第三波来襲の時に被害最も甚大なる雁舞道地内町営住宅に居住していた穴沢亀寿さん(62才)同妻ハナ子(44才)が漂死せんとする所を目撃し,三浦浩氏と協力危険をも顧みず流水に飛び込み救助,安渡小学校に搬出し,更に小川キクヱさん(77才)が逃げ場を失い水浸しになり喚いているのを発見,全身水浸しになり,両者協力し合い救助に尽力,第三波の引水強烈なため救助困難を来たしたが遂に搬出,安渡煙山健之助氏宅において家族に引渡す。
3.三浦浩氏(28才)第6分団員
氏は前記沢舘年男氏の協力者として同一業績による。
4.小国正康氏(37才)第6分団班長
午前3時40分警戒警報発令に伴ない第6分団の指揮下に入り,管内の区域と避難民の誘導,潮流の異変監視中第三波襲来,時に午前4時50分頃引水の際,大槌魚市場側岸で,被害甚大な所に当部落佐藤三郎さん(52才),同剛さん(25才)の2名乗組小型船が転覆,引潮に吸い込まれる寸前を発見,ロープを投げ出し救助に努めたのであつた。
5.平野洋氏(25才)第8分団員
午前3時40分警戒警報発令と同時に第8分団の指揮下に入り,潮流並に漁舶の警戒監視の任につく。出動漁船,避難民の誘導中折からの津波襲来に伴ない避難途上のところ,吉里々々須賀路上に逃げ場を失い,周囲を波に囲まれ狂気の如く喚き,救いを求めている芳賀吉一君(8才)少年を発見,身を挺し危険をも顧みず半身水浸しになり,荒れ狂う波浪に足をさらわれ乍らもこれを救助し,安全地帯に撤出知人に引渡し,其の後従前の任務服した。氏は入団僅か1年という未だ日浅い団員生活の中にあつて,よく消防部員としての実を発揮せられたりというべきである。
◎現場功労による人々
1.岩間健次氏(34才)第3分団部長
24日未明午前3時小鎚橋側にて潮洗の異変をいち早く発見,良く観察,判断のもとに津波の恐れ充分であることを知り午前3時15分大槌漁業協同組合より常備隊に非常電話通報を行ない,当消防団本部に連絡,その後刻々と激変し行く潮流を監視すると共に,附近の住家に対し警戒と注意を促し,海岸にある我が妻子を顧みず,本団常備隊到着後は同隊と挺身協力行動し,本団の指揮命令に従い荒れ狂う渡浪を監視し,本団をして情報提供午前3時40分には,当町長指令による単独自体の津波警戒警報を発令し,事前に注意と警戒が効を奏し,災害より当町20,000余の人命と,財産の被害を未然に防止したことであり,その事に処するに沈着,冷静なる行動によつて適切なる処置が執られたのである。
2.内金崎立太郎氏(48才)大槌町消防団副団長
氏は岩間健次氏より潮流の異変の非常電話,常備隊本部に連絡あるや直ちに小鎚川側に出動海辺に監視の任に赴く。刻々変る潮流に津波襲来を予想し,本団並に当町対策本部に連絡情報を提供し,旁ら2,3,4,6,7,8分団に対し津波対策計画に基づく指令を発し,潮流の監視,避難民の誘導,火災盗難予防処置に尽力したのであるが,此の間,沈着冷静なる態度と規律正しく指揮を執り,避難者をして動揺もなく行動を起さした奮斗振りは言語に絶するものがありました。激変した引水の観察が適切に午前3時40分,町自体単独の警戒警報を発令せしめた。その後も以上の行動をなし,最悪に接した津波来襲以前,午前4時10分避難警報を得べく連絡し,町責任のもとに避難警報を発令したため,当町にては1名の死者犠牲者も出さず,人力の及ぶだけの財産被害を未然に防止した。氏は職責柄とはいえ,此の事変に処するに自家被災にもかかわらず,その自家,妻子も顧みず自ら消防人とし,て団幹部として指導性は高く評価さるべきであり,災害後復旧作業に各分団をして,規律正しく暁献した事績もまた顕著なものがあつたのである。
◎県表彰(消防団員及び職員〉
△功労章〜佐々木重夫,沢舘年男,三浦浩,小国正康,平野洋〜5氏
△功績章〜内金崎立太郎,岩間健次〜2氏
◎県消防協会表彰(消防関係及び一般)
△竿頭綬〜大槌町消防団(団長古舘久雄氏)
△功労章〜県表彰△功績章授賞者と同人
(2) 大槌町婦人会
津波襲来後,被災者に対し昼夜の別なく炊出し搬出作業に奉仕し,一面,救援物資を贈り,被災者に多大の慰籍を与えた。
(3)安渡水難救済会
凡そ52年の古き歴史と幾多の実績を有し,海難防止,救済,人命,財産の保全に偉大な功績をあらわした同会は,会員一同殆んどが罹災者であつたにも拘らず,己れの被害整理を顧みず会長を中心に一致協力,昼夜兼行にて海陸の船舶整理作業は勿論,汚物の清浄などに従事し急速なろ整理作業を実施し,災害復旧の実を挙ぐると共に,今後に於ける海流の異変を考慮し厳重なる監視の任に当り人心の安定感をはかる。
(4)大槌小漁船勤番
発足以来50年の古き伝統と幾多の業績を有し,海難防止,救済,人命財産保全は安渡水難救済会と共同で津波後の復旧作業に献身的努力を払つた。
(5)吉里々々青年団
津波襲来とともに青年団員出動し,部落民の避難誘導に率先当たり,其の適切なる指導によつて1名の死傷者も無かつた。引潮後は消防団と相協力して,漁船の引下げ作業,湾内流失物の蒐集,倒壊家屋の残砕整理など適切な管理を行なつて混乱を防止し,所有者を集合して配分の処理などのことに当る。
(6)大槌高等掌校
大槌浦漁業協同組合事務所,販売所,倉庫など甚大な被害をうけ,之か整理清掃について当時は部落民の大半は被害をうけ,各自の整理に追われている実情にして,組合に於ては入不足のため之が整理しかねて居つた所へ,当組合の現状を知つた大槌高校にあつては,率先して筑後盛,北敏雄,斎藤光司,小笠原とみの各先生引率の下に,約90名からなる生徒が急援,2日間の雨天にも拘らず整理作業に従事,組合の復旧事務の促進,必需物資の整理の効を早からしめた。
(7)吉里々々中学校
津波の波状も終わり警戒警報解除後,高学年生徒全員教師引率指導監督の下に,災害現場の流失物の整理,運搬などに協力し,労力不足を補つて復旧整理の促進に尽力。
(8)安渡青年会
今回のチリ地震津波襲来後,泥土と汚に埋没したる排水路の除去作業と,被災地の清掃に率先奉仕し,伝染病予防と復旧作業進捗に一意努力が払われた。
(9)日興丸船員一同(赤浜)
津波襲来の折船員一同は繋船作業中,潮流の変化による津波来襲を予想し,部落民に警報注意を発した事により,当部落は人命,財産の損傷を未然に防止することが出来た。日興丸船員一同に岩手県知事より感謝状が送られている。
(10)太洋丸船員一同(大須賀)
事件発生の際,磯漁業操業中の各々1名乗組のサツパ船2隻が波浪に翻弄転覆という危急にあるを発見し,危険をも顧みず救助に赴き,沖合に曳行して船共々乗組中の人々をも救い得たのであつた。
2. 来援各種団体の活動状況
(1)自衛隊の出動と活動
自衛隊派遣隊の編成
岩手郡滝沢村一本木の自衛隊岩手駐とん部隊は,24日午前6時に藤沢駐とん地司令を対策委員長とする津波救援対策委員会を設け,知事の要請により24日には大船渡,宮古,山田,釜石,久慈に同部隊開設以来始めての宿泊準備を整えて出動,さらに25日は大槌には120人が出動した。現在同隊には施設隊ブルトーザー隊の100人と病者を残すのみで,全部隊あげて災害地の跡片づけ復旧作業に当たつている外,宮城県船岡駐とん地の103施設大隊83人,青森第9衛生中隊,同保安小隊40人も24日に大船渡市の防疫作業などに出動した。岩手駐とん部隊の指揮者次の通り。
大槌方面,米谷二佐,20人
釜石方面,小松崎二尉,95人
大船渡方面,小林二佐,375人
宮古方面,堀井二佐,230人
久慈方面,債察隊,8人
現場活動
当町には,24日先着した岩手駐とん第9特科連隊88名のほか,25日には,同隊3大隊の主力120人が加わり,機動力をフルに利用して木材,家具などの整理,陸上に打ち上げられた漁船の運搬や爆破作業で地元民から感謝されている。
同隊は大槌中学校講堂宿泊,一週間にわたつて同町安渡,大須賀,雁舞道の三地区の木材,家屋などや水田約IOヘクタールの復旧整理に当たるが,25日は雁舞道級国道に乗りあげた27トンの廃船をダイナマイトで処分した。津波発生後,26日からは殆んど1週間降雨という悪天候が続き,5月末とはいえ,まだ冷々する風雨の中をいとわず,雨合羽に身を固め消防団や救護各種団体と協力しつつ,一糸乱れぬ統制のもとに甲斐々々しく活躍する自衛隊員の懸命なる労作々業に対しては,真に心から謝意を表される。また6月1日より2日まで第301予防衛生中隊隊長一等陸尉安保暢人以下21名来町して伝染病予防に機動力を発揮して被害地防疫に協力した事は町民より非常に喜ばれている。
感謝状
第9特科連隊第3大隊配属支援部隊
第9特科連隊本部中隊衛生班大槌地区派遣班
第9武器隊大槌地区派遣班
東北方面調査隊岩手派遣隊大槌地区派遣班
第389会計隊大槌派遣班
第301予防衛生中隊災害派遣隊
岩手駐とん地業務隊大槌地区派遣班
昭和35年5月24日襲来せるチリ津渡災害に際し,貴隊においては被害地の
混乱と惨状の裡に派遣せられ迅速なる行動の下に復旧作業の進捗にあたり
民生の安定に寄与したる功績はまことに多大であります。
仍て茲に全町民挙げて感謝の意を表します。
昭和35年6月3日
大槌町長金崎節郎
日赤県支部の救援
日赤支部は24日午前11時過ぎ被害のひどかつた地区に救護班をそれぞれ派遣するとともに,県,岩手日報,ラジオ岩手などと合同して県下に救援物資寄贈を呼びかけ,集められた物資を県青年赤十字奉仕団盛岡分団(団長小田島久夫氏)の荷造り作業などの奉仕により,速刻を期して各地区被害地に向つて発送している。
助け合い運動盛んにおこる
同胞愛の精神は人間の至情であることは誰かこれを否定するものがあろう。従つてこの精神の発露たる「助け合い活動」こそ人間活動の尊い美徳であらねばならない。社会の共存と協和もこうした精神あつてこそ始めてその実を発揮するものであろう。
チリ津波の悲報一度伝わるや町内,県内はおろか全国各地に津波被災地に対する同情が寄せられ,救援活動が勃然として湧き起こつたのであつた。県中央部においては岩手日報社,岩手ラジオなどの報道機関を通じて「沿岸の津波罹災者を救え」と義捐金品の募集運動が呼びかけられたのである。
いち早くも両陛下には,被害県に対して御見舞金一封が贈られたのを始めとし,各種公共団体の街頭募金,各戸訪問寄付募集が開始され,岩手日報社寄託により,或いは日赤県支部経由により次々と金品は被災地へと急送され,罹災者の手に渡されたのである。
当町においては対策本部が寄金,救援物資集配に当り,罹災者を流失倒壊,床上,床下浸水の段階に区分してその都度役場の町広報車により配給事情を宣伝し被害者の集合をはかり,遅滞なきを期して各自に配給したのであつた。
異郷にある同郷人達の中にもこの運動を開始したもの多く,当町大槌中学校卒業生にして在京就職者100有余名も,郷土愛の発現,郷里の罹災者を救わんと相寄り,相図り,勤務の余暇を得ては募金活動に乗り出したのであつた。
(1)両陛下被災県へ金一封
今次の災事上聞に達し,天皇・皇后両陛下にはいたく御軫念あらせられ,津波被害地への御見舞金として27日,北海道,宮城,岩手の1道2県の各東京事務所な通じて金一封を贈られた。
県内の助け合い運動
(2)義捐金品を募集 〜岩手日報社〜
24日,岩手県,岩手日報社,ラジオ岩手,日赤岩手県支部,県社会福祉協議会,NHK盛岡放送局合同にて,岩手日報を通じて罹災者救援たる義捐金品寄贈の呼び掛けが発表された。その内容次の通り。
「24日,太平洋岸全域にわたつて襲つた大津波で本県沿岸は最大の被害をうけ,陸前高田市,大船渡市,釜石市,宮古市,久慈市,など本県主要都市をはじめ各市町村は死傷者多数,住家の全半壊,流失,浸水で被災者23,000を越えた。県は6市町に災害救助法を適用,現地に救いの手をさしのべていますが,岩手日報は,県,ラジオ岩手,日赤県支部,県社会福祉協議会,NHKとともに広く県下から義捐金品を募集,1日も早い復旧の一助とする考えです。県民の厚情あふるる救援を希望します。」
◇受け付け期間=5月24日から6月25日まで
◇受け付け機関=主催各機関
なお,寄付者の御芳名は本紙上に揚載いたします。
岩手県,岩手日報社,ラジオ岩手,日赤岩手県支部,
県社会福祉協議会,NHK盛岡放送局
(3)義捐金品募集状況
○1人1品や街頭募金
予想以上にひどい津波被害に内陸部の県民は救援に起ち上がり,各地消防団などが大船渡市はじめ沿岸部被災地帯に復旧手伝いに乗り込んでいるが,婦人会,社福団体などが街頭で各戸をめぐり救援金品の募集を開始し,美しい助け合い運動は各地に盛り上がつて来ている。
○大槌中学校卒業生の募金活動
当地の罹災で大槌中学校を卒業して東京で仂いている160人は,郷里がひどくやられたという情報で26日から募金運動をはじめている。
また,同中学校1,2年生300人は,学用品や小づかいを出しあい被災学友を救おうと活躍している。
○一ノ関商業高校生の街頭募金
沿岸津波被害に対し,一ノ関市は10年前の水害救援の恩返しにと27日から,市商工会議所のトラツクが各家から日用品などの物資を譲り受け,見舞品をどんどん被災地へ直送している。
この日市議会は全員協議会を開いて話し合ったが,区長会では一般市民から30円以上の義金運動をはじめている。
また,一ノ関商業高校生も26日から義叢の街頭募金をはじめ,市婦協は見舞金1万円を被災地に送つたほか,全会員が3,000人が茶ワン,ハシ,はき物などの寄贈を呼びかけている。市職員組合は衛生班をつくつて,第1班は28日に現地に向かう。
○岩教組の救援
岩教組は沿岸部の津波被害児童,生徒の救援のため,25日ノート300冊を被害現地に送つた。
また,こんどの津波災害と日教組の組織をあげて救援を急ぐため。29目から開かれる日教組盛岡大会に津波災害救援対策問題を緊急議題として提案することになつた。 さらに,津波被害者の救援カンパを県内小,中学校教職員と,児童,生徒に呼びかける。6月20日までをこの運動期間として,組合員から1人50円,児童生徒からは1人5円をカンパする。
○県高教組も募金遺動を決る
県高教組は25日,盛岡市加賀野新小路県高校会舘で緊急執行委員会を開き,津波被害の救援協力について協議した。津波の被害をうけた久慈,宮古,釜石,気仙の四支部に対して被害状況の報告を求めるとともに,同本部から現地に調査団が派遣,被害調査を行う。
また,県内高校教職員1,800人と高校生約10,000人に呼びかけて,被害者に義捐金品を贈る運動を進めるほか,全国各教組に実情を訴え協力を呼びかけ,さらに6月5日富山県で開かれる日高教組全国大会にも救援対策を進めるよう提案する。
○県市長会から見舞金
県市長会と盛岡市は,津波災害見舞に,盛岡市役所久保田収入役と大船渡と陸前高田,柴野産業部長を釜石と大槌,昆民生部長を宮古と久慈に26日出発させ,県市長会と盛岡市からの見舞金を贈つた。
○津渡被災加入者に見舞金
県共済農協連は,こんどの津波で被害をうけた加入者に見舞金を交付することになり,現在被害額を調査している。見舞金は従来火災被害だけが対象となつていたものを今年度に限り,風水害,雪害,または落雷,地震など自然災害に対しても交付するもので,対象は共済目的の被害割引は,その時の価格の100分の5以上のものだが,交付をうける手続きは,維持奨励金交付申請書に被害調査書,関係機関の被災証明書をつけて申請する。なお県共済農協連は約50件が該当すると見ている。
○生憂の家盛岡青年会でも寄金
生長の家盛岡青年会20人と同盛岡高校生連盟20人(責任者富山敬治さん)は,25日午後6時から9時まで同市中の橋大通りで,三陸津波被害救援街頭募金を
行ない,集まつた1万9千7百85円を岩手日報社へ寄託した。
○米軍三沢基地の家族から届く
「チリ地震津波による被災者達に贈つて下さい。」と,30日米軍三沢基地の米軍家庭から暖い慰問品がヘリコプター機で盛岡に運ばれ,待ちうけた日赤県支部に寄託された。
このダンボール入れ救援品27個は,ヘリコプターに同乗して来た三沢警察署通訳沢田栄一さんの語る所によると米軍用の物ではなく,三沢基地内の1,500の米軍家庭から自発的に拠出された事が明らかにされ,出迎えた人達を一層感服させた。救援品には子供用と大人向きのシヤツ,パンツ,セーター,下着類などはいつている。日赤支部ではさつそく沿岸の被災地に分けて送る手はずを整え,31日現地に米軍の好意を伝え送る。
○全国的に学童の愛の手握り合う
ラジオ,テレビ,映画と三陸沿岸の友達が津波に災された事を知り,先生困つているお友達にどうぞと握られた見舞の金が各校並に校長会の手を経て集めて送られて来た。災害に見舞われる事によつて熱い友情がたぎりたつたと云えよう。
○県P・T・A連の救援活動
「被災地の子供等を1日も早く救え」と全県下に呼びかけ思いかけなぐ惨事に戸惑う沿岸各校の生徒児童への親の情を集め,1日も早く正常の学習への復帰を願つて止まなかつた。
激励文続々来る
津波災害の報に全国から続々と見舞品,見舞電文やら書簡が到着し,町民を物心ともに復興に激励される。その主なる書簡は次の通りである。
大槌町民のみなさん。
さる5月24日の未明に太平洋岸一帯を襲つた津波により,大被害をうけた御地のみなさんに心からお見舞い申上げるとともに,みなさんがうけられた物心両面の大きな痛手から立ち上がり復旧の1日も早いことをお祈りしておりよす。本日お届け致しました金品はわずかではありまずが,みなさんの更生のための何かのお役に立てていただきたいと念願し,罹災地の救援運動を行つてお贈りする遠野市民のささやかな気持ちでございます。
どうぞ私たちの気持ちをお汲みとり下さいましてお納めのうえ,御活用下ざいますようお顧いいたします。
最後に重ねてみなさんのご健康とすみやかな復興をお祈り申し上けます。
昭和35年6月3日
遠野市民一同
謹啓
この度のチリ地震津波における御地の被害が,日を追うにつれてその悲惨な様相を逐次増大して報道され只々驚き入つて居ります。
罹災者の皆様に対しまして衰心より御見舞申し上げます。
尊職におかれましても大平洋岸一帯の全国的な被害にあつて政府援助も意のままにならず,復興対策には日夜御辛労の事と御察し申し上げます。
特に昨今雨期に入り,罹災の方々にも又一段と御苦労なされて居られることと御同情いたします。加えて伝染病の発生も見られつつあるとか,その防止施策もまた大変な事業と存じます。
何卒罹病者の最少限度に止まりますとともに,1日も早い御地の復興を心から御祈り申し上げます。
早速御見舞申し上げるべき処小職就任日浅く,何かと身辺俗事に追われ心ならずも遅延いたしていました。
略儀ながら書簡をもつて右御見舞まで申し述べます。草々
昭和35年6月13日
大迫町長村田柴太
大槌町長金崎節郎殿
急援物資義捐金について
配給基準並にその他
(1)倒壊流失被災者全急援物資の60%
半壊被災者同上の30%
床上被災者同上の10%
但し各階層ともA級B級に区分し,50%40%10%若しくは50%30%20%として配給した事もある
(2)配給日数
5月24日夜避難所に収容した世帯に毛布を貸付したその外は上記基準により配給したその日時5月25日29日30日6月1日4日7日8日9日10日13日14日16日20日22日26日27日30日7月4日20日を以つて終了
(3)配給に要した人員
町方,安渡,赤浜,吉里々々各配給所に要した職員平均6人より7人である
(4)急援物資選別に要した人員
婦人会,高校生徒,中学校生徒,役場職員の家族員,各地域部落婦人
役場男女職員,日平均20人延約400人(臨時職員を含む)
(5)輸送
殆んど汽車輸送なるも当町役場よリダンプ車が3回小型1回
治安維持活動
当町は現在釜石署管轄に所属し警部派出所が置かれ,菅原警部外8名が常時当地方の治安の維持に精務せられている。チリ地震津波発生の際は県警体系の打出した基本線に従い当派出所職員一丸となり,応援部隊及び当町消防団等と相協力し,連日殆んど不眠不休の活動を継続し,治安に万全を期したのであつた。次に津波来襲当時における当局の措置を掲げて見よう。
「チリ津波による災害警備活動の概況」
(1)釜石署の状況
5月24日被(害)発生後は自署員の全力を挙げて警備活動に入つたが,県本部員等逐次応援隊が到着し,同日の警備警察官の数は,所轄釜石署員93名,応援警察官等20名計113名となり,以来6月8日現在延959名の警察官等が不眠不休の活動を続けたが主なる活動状況は次の通りである。なお管内の被災激甚地大槌町に対しては,被害発生と同時に刑事課長菅原警部を派遣して常駐させ,警備活動を宰領させた。
(ア〉警ら活動……管内の被災激甚地大槌町に対しては自署員及び遠野署派遣の警備部隊を増派し,特に夜間パトロールを強化し,常に衛頭に警官の姿をあらしめる体制をとり,民心の安定を図つた。
(イ)交通規制取締活動
a.2級国道(仙台〜八戸線)上閉伊郡大槌町安渡地内350m区間の道路の啓開作業を推進するため,5月27日から5月30日迄復旧用作業自動車以外を対象として危験防止のため,一時通行禁止を行ない迂回路として海岸通りを指定し,警察官10名を配置して交通の円滑を図つた。なお該道路は,被害地帯の中心で交通量が極めて多い所であり,浸水による漂流汚物等が道路の両側に山積したため,同地域の復旧作業の障害となつていたため,警察作業班44名を配置して,消防団などの行なう障害物除去作業に協力させた。
b.交通規制を表示するため,通行禁止標識及び廻り道標識なそれぞれ大槌町安渡地区内4ケ所に設けた。
c.この外白バイ2台により,釜石市内及び同市〜大槌町間の取締りを実施した。
d.5月24日から6月8日迄の間に,被害地で発生した交通事故は3件である。
(エ)捜査,鑑識活動
標流物横領犯の捜査を中心に,内偵捜査を進めたが,5月24日から6月8日迄の間に被災地において発生した犯罪は、自転車盗2件,同居盗1件,計3件であるが,うち同居盗は職務質問により検挙した。鑑識活動は管内に人的被害が全くなかつたため,被害状況写真の撮影が活発に行なわれた。
(オ)防犯活動……一般犯罪の防止,特に被災地における暴利取締りに重点を指向して活動が行なわれたが,野菜類が一時4〜5割程度値上りしたので,他の物価の変動は目立つものがなく,暴騰などは予想されない。
(カ)広報活勤……津波襲来前の避難警告広報,あるいは集団避難所の案内など,初動活動から活発な広報を実施したが,その状況は次の通り。5月24日から5月29日迄水上派出所及び大槌派出所にそれぞれ設置したが取扱いは大槌派出所で住宅の借人れ斡旋の相談をうけた。2件のみであつたが,町役場に連絡し罹災者収容所に入所させ感謝された。
(キ)困リごと相談所の設置……被災地住民の民心安定と便宜を図るため,5月24日から5月29日迄水上派出所及び大槌派出所にそれぞれ設置したが取扱いは大槌派出所で住宅の借り入れ斡旋の相談を受けた。2件のみであったが、町役場に連絡し罹災者収容所に入所させ感謝された。
(ク)被災者の財産保全活動(お手伝い活動)……警察の基本活動と併行し第二次段階の警備活動として,5月28日から30日迄の2日間警察官42名を出動させ,男手不足で浸水家屋の跡片づけが出来ないで困つていた上閉伊郡大槌町安渡地内越田トメ外世帯の財産保全活動を実施し被災者から感謝されている。
(ケ)署災害本部の閉鎖……被災地における治安状況等は,大規模の部隊活動の必要ないものと判断し6月3日釜石署災害警備本部を閉鎖し,以後毎日6〜7名の警察官を被災地に派遣しパトロールの強化などの活動を行なつた。
県の津波災害対策の概況
1.県の応急対策
県は災害の発生した24日朝,災害救助法に基づく災害救助総本部な小川副知事を本部長として県厚生部長室に設け,緊急手配を行なつたが,救援活動も一応体制が整つたので,27日午後1時から同本部を県庁に移すとともに災害対策事務局(局長,中村総務部次長)と,救助対策事務局(局長,小川副知事〉に分け,災害対策事務局は災害復旧活動を,救助対策事務局は防疫と救援活動を強化することとなつた。
災害発生の24日からとつた県の対策を見ると次のようであつた。
1,災害救助対策本部の設置=24日午前6時発生と同時に災害救助法に基づく災害救助隊本部を厚生部長室に設置し,小川副知事を本部長として活動を開始した。
2.総合指導班編成派遣=災害現地の情報収集と出先機関の連絡調整のため4班編成で現地に派遣。
○総合指導班
第1班=九戸郡種市〜下閉伊郡田野畑までを担当し,班長は阿部労政課長。
第2班=下閉伊郡岩泉町小本〜同郡山田町船越間を担当し,班長は河田土木部次長。
◎第3班=上閉伊郡大槌町〜釜石市唐丹間を担当し,小池農林次長が指導。
第4班=大船渡市周辺一帯を受け持ち,班艮は細谷商水労部次長。
3.災害救助法の適用=24日午前11時30分,大船渡,陸前高田,宮古,釜石,山田,大槌の6市町に災害救助法を適用した。
4.避難所の設置=山田町は八幡神祉ほか7ケ所,大槌町は大槌小学校ほか3ケ所に避難所を設置す。
5.自衛隊の災害地派遣=知事は岩手駐とん部隊,仙台船岡建設大隊,青森衛生中隊,仙台方面総監部に派遣方を要請し,総員793人が障害物の除去,道路の復旧作業,防疫作業に活動,また岩手駐とん部隊が自発的に154人出動。
6.救助物資の調達及び輸送=緊急調達で大船渡,陸前高田地区に毛布4,300枚,シヤツ13,500点,大槌山田地区に毛布600枚を緊急輸送した。宮古地区では現地調達とし,宮古市に毛布200枚,その他2,1OO点を支給。
7.CAC(日本キリスト教会)=救助物資の手配輸送〜CAC救助物資配分を厚生省を通じて関係団体に要請し,自衛隊の協力で東京から松島飛行場まで輸送。さらに現地まではヘリコプター輸送。この物資は3,360ポンド,乾パン2,700食,衣料品9,035ポンド。
8.日赤による救援物資の輸送=25日から27日までに毛布1,517枚,タオル
7干余点の輸送を完了し,さらに救援品はふとんlOO枚,かんづめなど多量に輸送されている。
9.応急仮住宅の設置および修理=住宅被害の多い状況から住宅確保を重点とし,253戸を建設。
10.こんごの対策=被災世帯の実体判明と並行し,学習用品の給与,生業資金の貸し付けなどの手配を進める。
11.その他=医療救済,防疫,水道給水対策。
以上は緊急救助措置としてとつたもので,あわせて小川対策本部長らが26日上京,関係各省に伊勢湾台風(昭和34年)の際とつたと同様の特別立法で措置するよう要望した。(5.29.岩手日報社)
2.災害復旧に全力〜空から資料集め〜
県は災害復旧に全力を挙げているが,25日2台の自衛隊ヘリコプターに,第1班(宮古以南)小川副知事,菅原衛生課長ら3人,第2班(宮古以北)吉岡総務部長,菊池世話課長ら3人が同乗,空から災害地視察と航空写真の撮影など被害資料集めを行なつた。一方災害対策本部では,被害地の道路など関係方面と復旧対策の折衝に当り,現地指導を行ない,25日午後5時までに沿岸各地の漁港,漁船,カキ養殖など水産関係や道路,橋など土木関係,農産物の被害関係についてまとめている。25日の(午前)調ぺでは比較的耕作面積のせまい農産物の被害は少ないもようだが,水産関係には,かなりな被害があつたもようである。この調査資料や,現地の写真を携えて,小川副知事を班長に,各部からの代表が上京の際,政府や国会に災害融資など各種の対策を折衝する。
3.津波被害の集計
戦後(大東亜戦)の本県災害史では,アイオン・カザリン両台風にまさるとも劣らない今次の大規模な被害で沿岸被災者を悲しみのどん底に突き落した。とくに今度の災害は,零細漁民と中小商工業の個人施設,財産の被害は大部分を占めているだけに,復興には行政当局者の行き届いた対策が必要なわけである。
災害対策本部は26日以後にわたつたチリ地震津波被害を日まとめた。これによると,前回発表した82億3千万円より約14億円ふえ,96億5千2百58万1干円にのばる被害額となつた。これは商工鉱業関係の被害が約16億ふえて,28億4千万円になつたので,このうち約11億円は商業,工鉱業は5億円を占めている。この他建物の被害が1億ふえているが,水産関係は生産被害が下回ったため,約3億円減少した。同本部はこの資料を持つて,30日夜県議会と合流し,陳情第二渡として上京する。
4.被害状況
5.津波対策県議会〜復旧に県の総力〜
(1)県当局の災害追加予算〜総額約4億9千万円〜
県財政当局は,30日開く臨時県議会に提出する災害対策追加予算要求額を27日まとめ,同日から杉山庶務課長査定にはいつた。28日には吉岡総務部長,阿部知事査定を終わり,原案をまとめる。
これによると,要求総額は4億8千9百94万4干円で財源内訳は,国庫補助4千4百87万円,雑収入3億7千6百83万円,一般財源6千8百23万円となつている。歳出の内訳は,預託金3億6干万円が大部分を占め,漁信連,商工中金,その他の金融機関に預託し,被災漁業,商工業者に融資の道を講じようという計画,その他,土木,衛生,耕地関係の災害応急対策費5千万円,災害救助法に基づいて発動地区に援助する救助費,7千5百万円などが主なるものになつている。
(2)臨時県護会開会
チリ地震津波で大被害をうけた沿岸地方の復旧を急ぐために招集された臨時県議会は,30日午後1時20分から開かれ県が提出した「災害復旧に伴う35年度追加予算2億4千2百53万2千200円」を原案通り可決した。
本会議はまず全員が起立して犠牲者に対し黙祷を捧げ,ついで阿部知事から「今回の津波は一瞬にして,住宅,水産施設,道路,田畑,港湾などに甚大な被害を与えた。これは昭和8年の三陸津波にも劣らないものだ。県としても早急に政府に強い救護施設を要請する。」と挨拶があり,また,小川県災害対策本部長(副知事)は,「今回の被害総額は98億3百18万7千円にのぼる」と報じた。このあと,吉岡県総務部長が35年度の追加予算なで三議案を提出,趣旨説明のあと,山崎議長を除く会議室で災害特別委員会を設け,予算案を審議した後,本会議を再会,原案通り可決した。
議決された追加予算は次の通りだが,
1.被災の多かつた水産関係に8千万円,商工業関係に4千万円,農業関係に2千万円,計1億4千万円をそれぞれの関係金融機関に預託して被災者につ一なぎ資金として融資する。
2.水稲の種苗対策に2百万円,農地及び農業施設の復旧に1千百11万8千円
の補助を出すことなどが目立つた点である。
6.小川副知事らの陳情
県小川副知事,河田土木部次長,友野農椋部次長らは27日朝上京,椎名災害対策本部長はじめ,建設,農林,厚生等各省に早く復旧対策をたてる謙う陳情した。
◇陳情事項の主なるものを次に掲げてみよう。
(1)応急対策
▽融資措置及び融資のワクを拡げる。
▽農林漁業資金などの償還期間を延ばす。
▽学校教育,社会教育施設の災害復旧に4分の3以上の国庫補助。
▽被害の子弟に育英資金の応急貸し付け,給食費の補助。
▽被災農家の肥料,農業購入についての予算措置等。
▽国有林の特別払下げ。
(2)恒久的対策
▽海岸線保全事業の促進。
▽津波防止施設を公共事業で行なう。
▽沿岸漁業振興事業の拡充と強化。
▽漁港修築事業の促進。など
(3)財政措置
▽交付税の繰り上げ交付,起債の配分を多くすること。
(35・5.28.朝日岩手版)
三陸の土木災害について
われわれは特に被害の著しかつたと考えられる三陸地方を踏査し,特に土木災害に注目し,その災害の状況から津波の特性,並びに津波対策工事のあり方につき資料を得ようと考えた。踏査区域は石巻・志津川・気仙沼(以上宮城県)陸前高田・釜石・両石・大槌・船越・山田・宮古・田老・久慈(以上岩手県)八戸(青森県)並びにその近傍である。従つてその他の地方の状況は明らかでなく,或いはここに述ぺる事柄には三陸沿岸の局地的な特性が強く表わされているとも考えられるので,今後各地の状況についても検討を加える必要があると思われる。
土木災害の諸例
ここには,われわれが視察した土木災害の諸例を簡単に説明することにする。
(1)橋梁災害〜
津波が河川をさかのぽつて木橋を押し流した例は各地に見られるが,漁船の衝突によつて生じた被害も無視出来ないようである。また石巻市内万石橋のように昭和27年の津波により基礎の堀られた所を捨石して補強した部分は被害なく,前回補強を要しなかつた部分に万石,浦への流れが集中した事も原因して,洗堀が進み,津波襲来後1.5mにも及ぶ沈下を起した例がみられる。
(2)岸壁災害〜
岸壁の災害で一きわ注意をひいたのは,鋼矢板岸壁の倒壊である。一つは大船渡1万トン岸壁につらなる部分であり,他の一つは富士製鉄釜石製鋼所岸壁であゐ。何れも前回の洗掘と,長時間或いは何回にかわたる津波の襲来のために土が水により飽和して流動し易くなつている時に急速な引き波により,大きな動水勾配が生じ,土が矢板の先端を通つて抜け出て崩壊したのではないかと推測される。根入りの重要性に併せて,長時間浸水した時の土質の変化についての考慮の必要が痛切に感じられた。また施工の不良のために矢板の隙間から裏込土砂が吹き出した事実もあるのではなかろうか。特にコンクリ一ト矢板においては顕著と考えられる。
次に動式物揚場として釜石にての裏込の吸出しによると推測される矢端の沈下や八戸市魚市場においての津波浸人に伴う航路の深堀りに伴う物揚場前面の深掘れが原因になつて完全に倒壊たし例がみられる。
(3)道路護岸被害〜
道路護岸の被害状況は各所に見られ,波返し及び壁体の前面への倒壊,路盤の浮き出しが目立つ。土は飽和して流出し易くなる,一方引き波により裏よりの水圧作用が前面洗堀りとも相侯つてか破圧に導いている様子が各所に認められた。この場合に護岸背後地の貯水面程の大小が顕著な破壊に至るか否かに大きな影響を持つているようにも思われる。今回のように長い周期の津波によつては上記のような現象を呈する事は注目に価する。しかしながら護岸に仂く外力として前面より受ける波力は当然考慮すべきであろうし,三陸津波のように周期の短い津波の場合に前面に作用する動的な力も無視することは出来ないと考える。大槌町の道路兼防波堤は崩壊するに至らず,その役割は十分に果たしたが越した水が噴流のようにして斜面を洗い,場所によつては2m近くも深堀れしているのが認められた。しかしそのすぐ背後の家は被害をうけていないこと,また防波堤の前面に小屋のあつた所では,被害をまぬかれている等誠に興味深い。
その他,舶越の北,山田湾に面した所の石張り護岸の被害は維持の不備な個所から破壊されたもようである。
(4)防潮林の被災〜
最も顕著な被災は陸前高田の有名な松原の被災であり,昨年10月に筆者の一人が此の地を訪れたのであるが,様相の一変に一驚した程である。松原の中央部に気仙川河口に溢流堤がつくられ,松原の奥行が浅く,かつ松の木自体も他に比して小さかつたようであるが,この弱い個所に力が集中した感があり,松原が切れ,潮の出入り激しく,深い所は−6mにも達したという。
防潮林の津波に対する効果については,われわれとしても極めて関心の深いわけであり,その効果,例えぱ船・流木等をくい止め,また周期の短い津波に対してエネルギーを減殺する効果は、ある程度期待し得るにしても浸水を防ぐことは望むべくもなく,特に長い周期の津波に対しては然りである。従つて間接的・補助的な作用を期待し得るのみであり,その上高田松原の現実も念頭におくべきと考える。
(5)その他〜
防波堤ケーソンの傾斜,ブロックの流失,埋立護岸の破壊,或いは航路の埋没などの被害が見られる他に,流木或いは船舶による家屋の破壊等の現象も若干見られたようである。伊勢湾台風高潮後,大きく取り上げられている貯木場,或いは製材場内の木材の貯留については相当の考慮が払われねばならぬ事を感じた。
なお,防波堤に津波のように非常に長い波に対して何程の効果を期待し得るかは明らかにする事は出来なかつた。例えば両石港においては漁師達は防波提が少しでも伸びていたので被害が軽微であつたといい,広田湾長部港では防波堤が出来たのでかえつて高くなつたと称しているようである。研究さるぺき課題の一つである。八戸の鮫港においては,浚渫船が引き波により流され座礁したが,その時の速さは,目測の結果,10ノツト位はあつたのではないかといわれる。(八戸港工事事務所長談)
既往の津波対策
三陸沿岸は明治29年,昭和8年と大津波に襲われ,殆んど壊滅に頻した部落は各所に見られ,死者の数おびただしく,よつて津波対策は現地においては死活の問題として取り上げられてきた。
例えば,(1)警報伝達組織の完備,(2)住家の高地への移転,(3)避難道路の建設(4)退避訓練の実施,(5)防潮林の植林,(6)防浪堤の建設,(7)防潮壁の建設,(8)特に港湾では海に面した部分に永久構造物を建造する等々,各種の対策が取り上げられ実施に移されてきた。
しかしながら東北の僻地であるために,投資効果が低い事,非常に稀にしか(例えば30年に一度)津波の被害が起こらないこと,生業の便益のために次第に元の低地に移り住む等々の理由によつて殆んど無防備といつても過言ではない状況にある。
併しながら,例えば吉浜や田老の如く,見るかに雄大な防浪堤が建設され,末永く町村の住民を津波から守つていくであろう箇所も数少いが見うけられる。今回の津波に対しては吉浜の防波堤は見事にその機能を果した。また山田町の街中には防潮壁が建設されているが,特に漁港,港湾区域で港の機能の上から海岸に高い壁をつくり得ぬような所で採用し得る一方法であろう。岩手県下においては宮古湾奥の赤前・津軽石・高浜には海岸堤防の建設が計画され,一部施工を見,また普代に対しても防禦計画が進められていると聞く,これを機会にして国として恒久の対策を樹立し,根気よく実施に移される事を期待したい。
併しながら,津波対策は,技術的にも蔽い難い困難に直面している。つまりこの地点に何程の高さの津波が襲う可能性があるか,推断するることが出来ない点である。一応構造物の高さを決定するに当つては既往の津波の高さを唯一の根拠として定められる。そして既往の津波に対して越えない十分な高さを構造物が持つているとしても,津波の規模を予測し得ない現状においては絶対に越えないとは何人も断言し得ない。よつて最善の方法は退避にあり,ゆめゆめ防波堤を過信してはならない。三陸滑岸の津波常襲地の住民は,津波に対して極めて敏感であるが,稀にしか起こらない事と相俟つて,油断があつてはならず,技術者としても構造物の耐え得る限度を明らかにし,かつ住民に衆知させる必要があろう。漁業をもつて生活の糧とする者の多いこの地方においては,彼等の生活の真情をよく理解し,その上に立つて,高地移転なりの具体的処置を講じて行かねば遂には有名無実の施策に帰する惧れも多いと考えられる。
その他,鉄道線路の築堤も津波襲来の時には,効果的な防浪堤の役割を果たしている事が各所で認められた。
本調査を実施するに当つては,宮城・岩手・青森の各県並に運輸省第二港湾建設局その他多くの個所を見る事が出来たことを深く感謝する次第である。なお本調査は東北大学岩崎教授と行を共にして行なわれた事を付記する。
「遠地津波による災害研究」による
チリ地震津波踏査速報から抜萃
東京大学工学部 掘川清司,鮮干徹
被災地その後の状況
早かつた津波警報
三陸沿岸のうちでも天然の地形に恵まれた港湾として第3種漁港に指定され,将来を期待されていた大槌町は大船渡,陸前高田についで手痛い打撃をうげた。3,600世帯のうち1,251世帯が被災した。その大半が零細漁民や農民だから打撃は深刻だ。広い湾口の周囲に並んでいた大須賀,安渡,雁舞道,小枕などの80戸が全壊流失し,187戸が半壊,床上浸水639戸,床下浸水345戸を出し,被害総額10億円にのぼつている。このような大被害をうけながら死者が1人もなかつたことは,津波警報が早かつたためと津波が静かに水量が盛り上がつてスピードがなかつたためだつた。
やつと町らしい形
しかし安渡,雁舞道の県道には20トン級の漁船,電柱,破壊された民家の・板,柱など足の踏み場もなく,水田には家財道具,衣類が一面に散乱して目を覆うひどさだつた。またおびただしい種ガキが水田や道路に打ち上げられ,ノリヒビの竹が一帯に散乱して漁民たちはただぼう然とするばかり。あれから10余日,陸上自衛隊第9特科連隊第3大隊の130人が25日からめざましい活躍を開始したのをはじめ,地元消防団が総出で跡片付けに懸命となり,道路をふさいでいた漁船を爆破し,トラツク10台を毎日動員してゴミを片付け,ようやく町らしい形が整つた。
だが安渡地区漁民の痛手は余りにも大きく深い。安渡地区は大槌湾の奥でもV字形になつた大槌川河口で押し寄せた4mの大波に住宅はアツという間に,バラバラになつて流れ去り,漁民にとつて命の次に大事な船も大部分流失した。
現金収入断たれる!!ほしい明日の生活費
ここの漁民は大半が磯漁業で6,7年前までは全国一といわれたノリの養殖で1年の収入の3分の2を得ていた。ところが港湾の埋立てで河口が変更され,ノリの収穫はここ5,6年全くダメになり,1枚のノリさえとれない漁民が多い。それでも「あるいは」というはかない希望をもつて,5,6万円の費用をかけ,14,5張りのノリヒピをつくつて養殖しようとしたが毎年収穫がなく,辛うじてコンブ,ワカメ,ウニ,テングサなどで家計を維持してきた。いわば片腕がもがれたところにこの津波でコンブ,ウニなど磯漁業に欠くことのできない和船を流失して仕事ができず,いまコンブ,ワカメ,ウニのシーズンとわかりながらも採取に行けない。
これまでもその日暮しのところへ現金収入の道が断たれ,政府県あたりが動力船の融資,生業資金の貸し付けなどPRしてもこの人たちは明日の生活費が欲しいのが実情だ。津波後10日位は親類や友人から借りてなんとか食いつないできたが,もうなんともできないと訴える人が多い。
再びハダカ一貫に
立ち上がりの気力も失う
雁舞道地区も安渡同様大きな被害をうけたが,九戸の引揚げ者住宅は1戸も残らず流失戦後朝鮮から引揚げてきたセンベイ行商三ケ尻芳雄さん(61)は幼児を抱えてこの15年仂き続けてきた。3年前にようやく自分の家に住み,子どもたちも大きくなつてホツとしたのもつかの間,再びハダカになつてしまい,もう立ち上がる力は私にはない。
と語つており,同じような人はまだまだいる。雁舞道に小さなバラツクを建てた竹細工業阿部寅蔵さん(57)は昭和8年の津波に吉里々々で家を流されこんどまた流されてしまつた。
「どうしたらいいのかとボンヤリしている間に10日過ぎてしまつた」と物をいうのもおつくうそうな落たんぶり。
義捐金使いはたす
被災者のうち40世帯は親類などに移り,40世帯は公民舘,小学校に仮り寝の夢を結んでいるが,4人世帯でナベ,カマ,ヤカンとフトン1枚,毛布3枚をもらつただけ。2,3日前もらつた義捐金2,000円は,もうなくなつたという。
町としては津波から守るための堤防を安渡,雁舞道地区に約300mにわたつて築き,県道も高くする計画で県に折衝しているが,小手先だけの災害救助でなく,地方自治体全体の将来から割り出した強い援護の手が必要で同沿岸漁民に二度とこのような悲しみを味わせたくないと金崎町長は語つている。
(岩手日報より)
津波の科学
前兆を伴なわなかつたチリ地震津波によつて私達が今まで持つていた津波襲来に対しての一般的常識は一応くつがえされたといわれる。(勿論今度だつて地震によつて発生した津波には違いないけれど)。従つて今次の津波がもたらしたこの方面の専問家や,観測庁に投じた今後の課題は少なくない。即ち,観測施設の面に或いは国際協力の面に、ないしは警報伝達法の完備,充実などなどそれである。
しかし,これと共に大切な一面は,私達お互いの地震,津波に対する考え方であろう。それには,いわゆる私達が一平凡人として,この天災地変に対し,理解し得る程度の科学的,学術的面を通した常識の備えであらねばならぬと思う。
私達は,今迄は,地震を感ずるという前提の上にたつて避難という備えにのみ,重点をおいて身を処して来たことは事実である。尚後は,無警告の津波来襲あることをも合わせ考え,津波に対する宿命人としての一新生面に直面した私達は,それぞれの専問家,或いは観測庁の研究発表のあとをたずねて,その備えのより完璧を期せねばならんと思われるのである。そうした観点から「津波の科学」という一項をおこして二,三を記録して,私達が心構えの一参考にしたいと思うのである。
(1)震度8越えれば発生…(盛岡気象台長 山本正己氏)
大きな潮の引き方に比例
5月24日の早朝,北海遺から九州までも及ぶ太平洋の各地を襲つた大津波はいろいろ教訓を与えた。この津波は前日の早朝,南米チリ中部沖で起つた地震観測史上かつてない程の大地震に伴ない太平洋岸各地に及んだもので,今後の研究によつて,詳しい機構が解明されると思うが,従来の知識では,とても考えられない程大きな津波のエネルギーを持つていた。気象庁では今度の津波をチリ地震津波と命名した。
地震の規模を表わす指数として,マグニチユードという数字では今回の地震は8・75となつている。これは関東大地震の7・9をはるかにしのぎ,これまで最大級とされていた昭和8年の三陸沖大地震8・5よりも大きく上回つている。8・Oを越える地震では大津波を伴なつているものが多く,昭和19年の東南海沖地震は8・2,昭和21年南海道沖地震は8・1,昭和27年十勝沖地震は8・2となつている。本年(昭和35年)3月21日の三陸沖地震は7・5となつている。
しかし,震源の深さによつて同じ規模の地震でも発生する津波の程度が違い,浅い所に起つた地震程津波の激しいものが越る。これまでの地震,津波の史をひもといてみても,最大級の大津波でさえ,日本全土に及んだ事はなく,房総半島を境として,東か西かに分かれている。津波のエネルギーが,こんどのものは昭和8年のものに比べて2倍半にもなるだろうといわれているゆえんである。それにしても地震後23時間もかかつて,しかも,こんな大津波がやつてくるという事は,津波警報組織も日本のみではなく,国際的協力がなくては万全を期しがたいことを示唆したものと考えられる。
地震を感じた場合,津波ということをまず考えて,海岸では直ちに海面を監視し,海水が急に大きく引いた時には,大津波がやつてくるものと考えて間違いない。海水の引き方が大きいほど,大きな津波が来ると見てよい。その場合さらに満潮時か,干潮時かも計算に入れておくことである。地震を感じなくても,今度のようなことがあるので,消防の火の見張りと全く同様に,海面の常時観測員が必要になつてくる。ただ大津波はめつたにない為,なかなか此の制度化が困難である。海面の昇降を不断に記録している検潮儀はあるが,これは海岸にあつて,測候所,気象台から大分離れている。1日1回自記紙を取り換えに行くことになつている。今度の経験から見て,早急に無線ロポツト検潮
儀を整備して気象観測員が,絶えず見張り出来る現業室で監視するようにすべきことを痛感する。
津波警報は,いろいろな条件に支配されて人手不可能となる場合もあり遅れたり,出されなかつたりする場合も起こり得る。避難には相当の時間を要する。そこで深夜停電時のような最悪の場合でも,無事に安全地帯に逃げ得るための所用時間を調べておき,地震の起つた事がわかつて,津波の心配のある場合に,地震後,津波の到達するまでの時間と,避難所用時間との差が,待機出来る時間である。それが間に合わないことがわかれば警報がなくても逃げる必要がある。普通警報の発表されるのは,地震発生後20分前後を目標にしているが,伝達時間を考慮すれば,どうしても30分前後はかかる。それでは地震後,津波は何分ぐらいでやつてくるか調ぺてみると,北海道沖地震では海岸から60キロ沖で起つたので,平均の津波の伝わる速さが平均毎秒100メートルになつている。津波の伝わる速さは,深さによつて違い,深さ4,000メートルで,毎秒200メートル,1,000メートルで毎秒99メートルメ,300一トルの深さでは,毎秒54メートル位になる。
津波の山と山との間の長さを波長という。波長は300キロから400キロといわれる波長を津波の伝わる速さで割つたものは周期である。波長300キロとして,前に述べたように速さを毎秒100メートルとすると,周期は50分になる。実際には港湾に固有の振動があつて,その波と津渡とが重なつているため,津波の山と山との間は,10分から20分というような値もしばしば起つてくる。今回の津波でも宮古で湾の振動を消去すると,約40分という値が得られている。猛烈な台風や低気圧のために暴風と気圧の低いことや,港湾特有の振動などが加わつておこる海面の異常に高くなるのは,高潮と称している。地震による津波は,震源の深さ,地震の規模の大小,海岸から震源地までの距離,港湾の形や深さ,港湾の向きと,震源地の関係などが大きく影響して場所により,それぞれの地震によつて一様ではない。
従つて過去の経験が参考にはなるが,個々の地震によつて津波の高さ,被害の様相がそれぞれ違つてくる事は,特に銘記すべきことである.
(35.5.27.岩手日報)
(2)チリ地震津波について…二宮三郎氏 (盛岡地方気象台宮古測候所長)
こんどのチリ地震津波は地球の裏側のチリ国コンセプシヨン市沖に起つた超特大の地震津渡の余波で,いわゆる無警告津波として,三陸地方に地震の前ぶれなしに突然襲来した。これは極めて注目される所である。従つて警報も間に合わなく,予想外の被害を出した。まことにいたましいことで,沿岸では,「地震があつたら津波の警戒」といつ概念は,ここでくつがえつたわけである。
いろいろの丈献を調べてみると,普から三陸津波は,この350年間に,大小43回ばかり数えられる。今,この中から,今度のような地震の前ぶれのない,つまり記録に地震の記事を欠いたものや,地震が伴なわなかつたと考えられるものを調べると,およそ14回あることがわかつた。これらの津波は,地震がない上に現象も大きくなく,また被害もほとんどないので,あまり注意もされず,簡単に記されたり,中にはただ口碑として残つているものもある。今,その中の一つに,比較的詳しく観察された津波を岩手県災害年表から拾つて示す
と,「宝暦元年(今から210年前)5月2日(陽暦5月26日)大槌地方未刻(午後2時)より浦々に大潮7度,小潮5度指入り浦々民家へは敷板まで上り,田畑水の下に相成り,四日町,八日町,向川原裏道海の如く,酉刻(午後6時)潮引く,人馬怪我無之(岩手県誌資料写本大槌記録抄)というのである。
これを読むと,地震が感ぜられなかつたこと,大潮,小潮の襲来回数,また人馬にケガはなかつたが,海水が床上や田畑にわりあい静かに浸入するようすなどが感じられて,何か今度の津波によく似た所がある。
そこで東京天文台編の理科年表の本邦や世界の大地震によつて調ぺると,果たして特大地震として,「西暦1751年5月24日,チリ国コンセプシヨン市,サンチヤゴ市,大地震津波あり,このため,コンセプシヨン市移転」という記録があつて,宝暦の昔,この津波の余波が遠く三陸を襲つたに違いないことを裏書きしている。
このように残りの十三例を理科年表で詳しく調べて見ると,このうち,4回はどうしても該当する地震は見当らないが,他の9回はいずれも南米付近の地震津波の影響としか考えられないものがある。すなわち大正13年(1856年)5月14日の津波は,南米ペルーのリマ地震津波,慶安4年のものは,チリおよびペルーの地震津波,貞享4年(1687年〉9月17日のものは,同じくペルーのリマ地震津波,享保15年のものは,チリのコンセプシヨン沖,天明年間のものはメキシコのアカプルコ地震津波,そして今回のものも同じくチリのコンセプシ
ヨン沖であるから,いずれも,大体南米のチリかペルーの地震津波の影響で,特にチリのコンセプシヨン沖のものが目立つている。
このチリのコンセプシヨン沖では,理科年表によれぱ,最近400年間に10回以上の特大地震津波に見舞われ,さらに今回のものは超特大として,火山爆発や大きな地変が伴なつている。こんご何年か何十年後にまた起るだろうことを想像される。地球の裏側といつて無関心ではいられない。特にこの地方の津波の集中点か日本付近にあるとすればなおさら大きな関心事である。
さて,昭和8年3月の三陸大海嘯のキツカケに,三陸沖から北海道へかけての地震をおもな対象に,有感地震を前提として,研究発達してきた現行津波組織体制では今度の超遠距離津波の警報に間に合わない。たとえ理論的に検潮儀的には津渡の来る事がわかつていても現実の場合無理からぬ事であつたと思う。
しかし,今,過去にも被害こそなかつたが,事実人闇に認められる津波の記録のあることがわかり,さらに今回の貴重な体験を得た以上,一刻も早く現行組織を拡大して世界的機構,少なくとも現太平洋諸国との国際津波警報体制を確立し,同時に現在の検潮儀を改め,昼夜常に現業室内で観測者の目によつて海面の異常昇降をとらえるよう,自動通信式または,隔測式の検潮儀が本邦沿岸各所にすみやかに設置されて,今後の津波対策に万全を期すことが焦眉の急である。これこそ今回の犠牲をムダにしない転禍為福の方法と信ずる。
(35.6.4.岩下日報)
(3) 地理的(港湾)事情と津波
1.港湾はその地形,水深分布及び環境等により,その災害の状況を異にするをもつてその予防は地形・環境等を考えた上にすることが大切である。
2.港湾の形状及び海底の深浅と津波の加害状況津波は平常の水準面上に2.30メートルの高さになるので,その港湾の地形は増水により異なつて来るものである。当町の港湾の如きは,平常U字形であるが,一旦増水すると,V字形となるが如きである。斯くした港湾の地形によつて,加害状況を研究した結果は,左の如きである。
甲類=直接に外洋に向える湾。
第1.港湾の型V字をなせる場合。
綾里湾,吉浜湾,姉吉湾等の如く,外洋に向つてV字に開けているところは,津波は湾奥10メートル乃至30メートルの高さに達し汀近くにおいて一層浪勢を増して高所に打上げるものである。
第2.湾型U字型をなせる場合。
田老,久慈,小本,大谷等,U字型をなせる港湾にては,前者よりも波浪稍々軽きも,15メートルに達することがある。
第3.海岸線に凹凸の少なき場合。
吉浜湾,千歳,赤崎,長崎,大須等は,津波は前記第2に近くして,稍々低く12メートルに達することがある。
乙類=大湾の内にある港湾。
第4.港湾V字型にして,然も大湾に開く場合。
津波は第1の形式を取るも,波高稍々低く,15メートル位に達することがある。船越,両石港,十五浜村等はこの類である。
第5.港湾U字型をなして大湾に開く場合。
津波は第4に比して一層低く,波高7・8メートルに達することがある。広田湾に開ける泊,釜石湾に開ける釜石港,大槌湾に開ける大槌港等はこれなり。
第6.海岸線凹凸少なき場合。
津波は第5に比較して一層例く,4・5メートルに達することあり,又波浪することなく,単に水の増減を繰返すに過ぎないことが多い。山田湾に開ける山田港,大船渡湾に開ける大船渡港等は,これに類す。
丙類=
第7.細長く且つ比較的浅き場合。
津波は概して低く,波高ようやく2・3メートルに達する。気仙沼等はこの部類に属しているし,女川港はこれに近い型である。
丁類=
第8.九十九里浜型砂浜。
海岸の地形直線に近きところにして,毎底の傾斜比較的緩かなところは津波の高さ4・5メートルに達するに過ぎざることがある。
青森県東海岸,宮城県亘理郡郡沿岸は,これに類するものである。
港湾の形状,深浅による結果の実際状況の分類は,以上のようなものであるが,この他に湾側,湾底の地形が,津波の波高に影響を与えることも甚大であることは,軽観することが出来ないもので,屈折凹凸の甚だしい港湾は,浪勢を減殺するのが常である。
チリ地震津波について
地震というより地変と名付けられる方がいいかも知れないか。
チリと日本とでは地球の表裏の関係で距離17,000キロ。
チリ沖で起つた波は太平洋で一たん広がり日本近海で再び集まつてこんどのようなすさまじい破壊力をもつた津波になつたろう。
津波の速さについて。海の深い所ほど速く伝わる。
太平洋の平均の水深4,300メートル。
時速720キロ位の速さ。
チリ沖から日本まで〜23・4時間。
この津波で三陸地方,北海道が被害が多く,関西地方が大した被害がなかつたのは,
※津波が海岸に近づくと海の深さが浅くなる,従つて海水が上と下からせばめられるために,波の高さはだんだん高くなる。
ことにV字型やU字型の湾に波が入つていくと湾に入るに従つて湾の容積が小さくなるので,それだけ波の高さが高くなるわけ,結局,宿命的な悲劇は世界的に有名なリアス式海岸の三陸沿岸に起つたわけになる。
気象庁関係の観測
無警告に押し寄せた今次のチリ地震津波は近年に類例を見ないケースとして測候所,気象台などその関係庁において観測上種々の問題もあり,そうした事実の問題とともに将来,地震津波観測施設などを取り上げ,事件直後新聞報導を通じて発表された。
津波の襲来に直面の宿命をもつ我々海人として,この発表に対して深い関心をよせ,気象庁が要望する施設の完璧に対し,心からなる協力を惜しまない所であろう。現実のために,次代の人々の為に。
1.原因について
南米チリの地震による。
仙台管区気象台では午前5時17分,太平洋岸に弱い津波がある。(弱い津波4)と警報を出した。原因は23日午前4時15分,南米のチリに起きた地震による。(仙台管区気象台発表)
チリ地震の余波
盛岡地方気象台の話では,チリで発生した地震は,同気象台の地震計が過去何度も記録しているが,今回のように三陸沿岸に津渡を発生させたのは,はじめてである。三陸津波は,古くは貞観11年(西暦869年)5月26日が記録されており,水死体1,000人をかぞえ,浪源は三陸沖だつた。また慶長16年(西暦1611年)10月28日には,浪源は三陸沖で南部藩の被害記録は見えないが,仙台藩だけで死者12,000人を数えるという大被害だつた。
その後目ばしいもので,延宝,宝暦,寛政年間などに7回の津波が発生しているが,明治年間にはいつてからは,明治29年(西暦1896年)6月15日の津波は強烈悲惨で浪源は三陸沖で気仙,上閉伊,下閉伊,九戸全部に被害をもたらした。死者約22,000,流失全壊住家が9,300,最も大きかつた釜石(当時は南閉伊郡釜石町といつておつた)で人口約6,500人のうち,4,041人が死亡,635人が負傷した。このあと37年を経て,昭和8年(西暦1933年)3月3日の上下動の地震と,最高11メートルにおよぶ津波が押し寄せ,2,709人の命を呑んだほか,流失家屋2,920戸,全倒壊614戸,半壊532戸,焼失219戸,床上浸水2,209戸という被害を与えた。当時の惨状と恐怖は,いまだに老令者の語り草
となつている。
このように,過去の大津波の被害は,全部三陸沖を浪源としており,昭和27年3月の十勝沖,同11月のカムチヤツカ半島沖を浪源とする津波は,人的に被害はなく,こんどのケースは気象台でもはじめてのケースだといつている。
(盛岡気象台の話)
2.津波の消長
地球の裏側から一昼夜かかつて
気象庁の観測によると,この津波は非常に大規模なもので,まる24時間前の23日午前4時10分(日本時間)ごろ地球の裏面に当たる南米チリ付近に起つた大地震による津波が,はるばる太平洋を越え,途中ハワイを襲つた後,17,000キロ以上も離れた日本太平洋岸を洗つた。
▽この種の地球的な規模での津波は前例がない事ではない。明治39年同じチリ大地震による津波が日本に届いている。また安政元年11月4日の東海道地震による津波は,サンフランシスコに達した。しかし,どちらも検潮儀で小さな津波を観測したという記録だけで被害はなかつた。こんどのように,南半球チリの地震による津波で日本に被害をもたらしたのは,7,80年前日本で観測をはじめてから始めでのこと。
▽こんどのチリ大地震の強さは,長野県松代地震観測所の観測によるとM8・75(Mはマグニチユドで地震の大きさを計る単位)で,これが地震観測史上,世界最大といわれる。昭和8年三陸沖地震の時,M8・9と同程度のもの。大正12年の関東大地震は,M8・2ぐらいだつたといわれている。
▽太平洋を津波が伝わる速さは,平均秒速200メートル,チリ付近を震源地とする津波が日本まで届くのにちようど24時間ぐらいかかる。この場合,チリと日本とは,タライのような太平洋の地形の真反対に当たること,地球のちようど裏側付近に当たることなどから,物理的に一度,震源地から散らばつた津波が日本付近で再び集まり,被害を大きくすることが多いという。しかし,三陸沖大地震による高さ25メートルという大津波とは違い,遠地地震による津波は高さが低い。
津波規模は中位
〜被害を大にしたリヤス式海岸線〜
▽情報が不足だつた。〜広野地震課長の話〜
関東大震災(大正12年)を上回る大きな海底地震だつたため,思わぬ大被害となつた。経験,情報不足による技術の限界をついて奇襲された。
▽「寝耳に水」の大津波来襲で,表日本各地にかなりの被害が出た。こんどの災害の問題点は,気象庁の津波警報の遅れたことと,震源地までの距離が遠い割りに高い津波が押し寄せた事にあるようだ、
▽第一の点については,気象庁地震課の担当官も「確かにわれわれのミス」とはっきり認めている。
気象庁観測部が第1回のチリ地震をキヤツチしたのは,21日午後7時23分ごろ,地震計の記録から見て,規模約8の大地震であることが推定された。翌22日午後7時51分には第2回めの地震を観測,23日午前4時15分と,同31分には3回め,4回めの地震がキヤツチされた。このうち特に大きかつたのは4回めで,その規模は8・75と推定される。もしこの数字が正しければ,地球上における地震観測の記録上,空前の大地震だ。日本に津演をもたらした地震は,この4回めのものである。震源地は南緯37度,西経73度,チリ国コンセプシヨン市中の太平洋と推定される。日本からこの地点までの距離は1万8千キロ,この距離を津波が伝わるには,約22時間から24時間かかるが,津波来襲の判断を下していれば,おそくとも23日の夕方には警報が出た筈である。
気象庁観測部が23日中についに津波警報を出さなかつた理由は,新聞情報以外に現地の情報をつかむデーターがはいらなかつたこと。これまで日本と地震津波データーを交換する習慣のあつたハワイのホノルル沿岸側地局が,こんどに限つて沈黙を守り続けたことである。このためハワイで中継する南米チリのバルバライソ,コロンビヤのベルボア観測所からのデーターもついに気象庁にはいらなかつた。
気象庁に海外の観測所から初の津波情報のはいつたのは,23日午後7時ごろで「タヒチで1メートル」「クリスマス島変化なし」という内容であつた。
このため待機中の気象庁担当官は,警戒体制を解いてしまつた。
一方震源地までの距離は遠い割に,津波の規模の大きかつたことに,気象庁は次のように説明している。
震源地が日本からみて,地球のちようど反対側に近い場所にあつたため太平洋の真ん中へ一度ひろがつた波が,日本付近に集中したのではないか。
津波の到着時刻がちようど朝の満潮時に当つた。
日本の海岸線の様式はリヤス式が多く,V字型湾の奥で波高が急に高くなる。ただし,日本の津波の規模としては,今回のものは中の下のぐらいで大きい方とはいえない。本格的な大津渡は,三陸沿岸では高さ30メートルから40メートルに達するものだと気象庁ではいつている。
潮位の観測おくれる
被害地だけでなく,国内の観測所でさえも海の彼方の地震を観測できるだけの高位率地震機を設備していないところから,こんどのチリ地震だけは,観測することができず,僅かに高位率の地震機を持つている長野県松代の地震を観測したに過ぎない。このため,津波を告げる潮位の異常がすでに24日朝2時過ぎにあらわれながら,これを察知したのは,3時間以上も遅く,午前5時6分に,やつと仙台管区気象台から津渡警報が発せられる始末だつた。だから,釜石沿岸の住民の中には警報前に彼の異常を知る者が多いほどだ。
□津波の課題について広野理学博士との一問一答
24日朝の津波災害は,いくつかの悪条件が重なつた結果だつた。今までの津波には必ずあつた地震という前ぶれがなかつたこと。最高の津波が来た時,満潮と重なつて浸水を一層広く深くしたことなどである。しかし致命的だつたのは津波警報がおくれたことだ。
なぜ津波警報が遅れたのだろうか。24日夕,気象庁地震課長,広野卓蔵理博にもう一度念を押してみた。
(問)津波の原因であるチリ沖大地震の起つたのは,1日前の午前4時過ぎ,気象庁はどういう対策を立てていたか。
(答)1日後には,当然日本にも津波がやつてくると判断し,専問の津波予報官が終日警戒した。また確実な情報があれぱ出せる用意をしていた。しかし,こんな大きな津波が来るとは予想もしていなかつた。
(間)23日夜の警戒態勢は,—(答)地震計室に宿直員が2人,これはふだんと変りはない。しかし,確実な情報があれば,いつでも警報を出せる態勢がふだんから出きている。宿直員2人で手薄だとは思わない。
(問)ハワイにある「太平洋地域津波情報センター一」からの情報をとりあげなかつたのか。
(答)警報を出せるほど確実な情報ではなかつたからだ。
(問)しかし,台風の場合には,暴風雨警報の前に風雨注意報を出す。不確実だから何もいわないのは,サーピス機関としては不親切ではないか。
(答)こんどのような遠地の地震による津波の警報は「気象官津波業務規程」による業務外のことで,毎日の天気予報と,何十年に1回という大地震の違いだ。
(問)前例のない津波だというが,こんどのような場合,絶対に警報は出せないのか。
(答)その通りだ。それが技術の限界だ。
(問)では,おたずねするが,遠地地震による津波は,第一波から,2,3時間たつて最高波が来るとのことだ。検潮儀が第一波をキヤツチしてから,気象庁は何をしていたか。
(答)その検潮儀だが,たいてい測侯所から遠くにあつて,1日中観測員がついているわけではない。ふつうは1日に一回,記録紙を取り替えるだけだ。だから,こんどの場合も第一波をキヤツチしたという報告がおくれた。
(問)こんどの場合,23日夜だけは,1時間おきか,3時間おきにでも検潮儀のある所まで行つて観測したらどうか。
(答)測候所は人手不足で,それはとてもできない。
(問)では測候所の中にいても,検潮儀の観測が続けとれるような遠隔測定装置を備えたらどうか。
(答)そして,異常があれぱ,ブザーが鳴るような装置があればよい。アメリカには,この種の津波観測ステーシヨンがある。
(問)では,そういう十分な機械設備が整つていたら,こんどのような場合にも,適切な警報が出せたと思うが。
(答)できたと思う。

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各学校の応急対策
大槌小学校校長 後藤勝郎
1.当日は臨時休校とし,職員は全員学校に集合,職員会議の結果職員を5班に分け被害状況を戸別に調査した。
第1班小枕地区
第2班大須賀第1地区
第3班大須賀第2地区
第4班新町地区
第5班雁舞道地区
2.女教員は被害者への炊出しに手伝つた。
3.修学旅行隊への連絡……当日は修学旅行に出かけている6年生統導教員に電話連絡し,海岸の津波なることを知らせる。旅行隊は直ちに帰る由返事あり,然し途中津波警報等が出た為釜石に下車午後5時半頃ようやく乗車大槌駅に着,出迎えの保護者に児童をわたした。
4.講堂への被害者宿泊
被害者49世帯(214人)講堂に宿泊,6月22日3世帯引揚げまで1ヵ月間講堂を使用,その間学校教員宿直員を増員火気の取締り等に万全を期した。
吉里々々小学校 校長松崎孝之助
1.未明吉里々々漁協の部落放送をきく,「大潮か海岸砂浜に揚陸中の船が沖に流され出しているから早く回収するように」と,これが当学区内での海上異変の第1警報である。
2.4時警鐘により津波襲来の警報が出され学区民に避難命令が出された。学校は,大潮から津波襲来の事態に対処すべく校舎開放避難民収容の準備に当る。なお警報と同時に子供らの学校への避難は数を増す。
3.学校より2,3の教員をして海岸を一巡させ津波の被害概略をつかむ。が前回即ち昭和8年のものに比しその規模において極めて僅少である報告であつた。
4.右の資料と対策本部の消防団の津波の見通し等を基に職員会議を開き左の日程を決定し午前授業をする。始業9時,放課正午と午後は被害調査並び罹災家族慰問
調査結果は
児童の被害—床上浸水の者15名,床下3名程度
教員の被害—床上浸水3名(但し大槌安渡地区の在住者)
何れも海岸に接近する住家で浸水ひどく,子供らは教科書は大部分携えて避難して居り,教員は家具家財衣類は殆んど浸水の状態であること。
5.教育委員会との連絡は全く断たれ,(電話,鉄道ともに不通)学校長徒歩にて吉里々々坂トンネルを通じて概況報告をする。
6.5月25日より授業は平常に戻す。
安渡小学校 校長前川松蔵
1.罹災児童について
直接被害をうけた児童は全校の57%に相当する246名でその中,半壊以上の被害をうけた児童は180名に達する。職員も13名中大きく被害をうけた者3名あつた。
2.災害時学校においてとつた措置
災害発生するや全職員登校し,緊急職員会議を開催しその対策について協議する。
早速,臨時休校にする旨連絡をとり,教育委員会等の指示も得て全職員分担し,全児童についてその実情調査に出動する。その調査に2日間を要する。
その結果の資料に基ずき種々関係方面に連絡し救援態勢を整える。
調査の結果,罹災児童は極めて多数にのぼったが,1名の事故車も出なかつた事は不幸中の幸であつた。殆んどの児童は親戚知人宅に避難し,居住の心配も思つたより早く解決された。
学校に避難収容されたのは10世帯(37名)でその中に児童も数名あつた。
特に直後において考慮された点は,一刻も早く(精神的面を特に)平常に復させるようにということと更に災害時起り勝ちな伝染病についての予防対策であつた。これ等の点についても思つたより容易に解決する事が出来,臨時休業を2日間だけとし,1週間後には平常通り授業を進める事が出来た。
3.罹災について見舞金品
災害発生するや,処々方々から温かい救いの手がさしのべられ,多くの方々より見舞金品をうける。殆んどが教育委員会を通してきた物品であるが,現金については直接学校へ送られたものが相当数あつた。
その他として写生板,定規,辞典類,ソロバン,靴,スリツパ等少々。
以上の諸金品を出来るだけ公平の立場において配分する。なお金で直接配分したこともあつたが,多くの場合,雨靴とか,傘,下着類等購入して配分する。
県内は勿論,遠く九州地方からまで温かい手がさしのべられ,本当に感謝の気持ちで一杯であり,お蔭で児童も立派にたちなおることが出来た。
以下主な見舞金品について
赤浜小学校 校長台野健蔵
1.全校児童校庭に集合させ学校長より諸注意を与えた後下校させた。
2.従つて当日は全校児童臨時休校とした。
3、児童の中には全壊,半壊,床上及び床下の浸水,その他学用品流失など併せて40名あつたので,教師は午前中被害児童の家庭訪問を行つた。4.5,6年の大きい方の児童には友人被害者の手伝いをさせた。
5.全校児童に海岸に近よることを固く禁じ,大人の指示によく従うよう指導して家庭で学習をさせた。
6.教師の中にも全壊1名,床上浸水1名の罹災者を出したので教師は午後2班に分かれて,後仕末に手伝つた。
7.翌日から平常通り授業を衛つた。
吉里々々中学校 校長佐々木正三
5月24日朝,夜がようやく明けた頃津波襲来のおそれがあるという事が判つた。「海の水が狂つている」「大潮だろう。地震がないから津波が来る筈がない。」などの話のうちに,「潮がぐんと引いて海岸の水が沖の方まで底が見えたから必らず来る。」などとの情報があつて警鐘やサイレンが鳴り,漁業組合の拡声機で次々と報導されたのでそれまでに生徒たちも安全地帯に避難したようである。
学校の職員は8名で学区内居住者3名は津波襲来の報とともに学校に馳せつけたが,通勤していた教員5名中1名は被害をうけ他の教員は列車の不通や電話不通によつて学校との連絡がつきかね,吉里々々,浪板部落の様子が判らないまま徒歩で馳せつけた。
吉里々々の被害は堤防外や築港方面は稍被害が大きいが,その他は被害は少いので生徒の大部分は登校して来たので,直ちに状況調査をしたところ生徒の中には,流失家屋とか人にいたみ等なく,家屋の床上浸水程度であることをつかみ,学校長を先頭にして男子生徒は全員で,被害地の跡片付に出た。場所は須賀前より堤防に沿つて築港方面と大くぼ側,それに被害生徒の家の手伝いに手分けした。堤防外には納屋が押しつぶされたり薪が散乱していたり漁具や家具などが押し流されていた。
生徒職員が一体となつて倒れた納屋(水産加工場)の屋根をはがして,中から莚や萱?などを出して堤防に拡げて乾す作業や肥料製造用に積んだ薪を集めて積み直したりした。大くぽ海岸には築港方面から流れ出して漂着したものが沢山打ち上げられて大勢の手が欲しいというので1年生の外2,3年生の生徒が応援に行つた。流れ寄つたもので印のある物は持ち主が判るが,何の印もなく誰の所有か判らないものが大部分である。
午前中で大部分の片付け方が終つて学校長は被害者家庭の慰問に廻り,他は学校へ引きあげた。そして更に生徒の被害状況を聞き,諸注意をして全員放課とした。(後で教育委員会より臨時休校せよとの通知をうけた)
午後に職員全員で被害の実態の確認と被害者家庭への慰問に出かけた。調査の結果は次の通りで学区内には死者行方不明は1名もないし,負傷者も出なかつたことは不幸中の幸と申さねばならない。
ただ「衣類をよごしたので2,3日登校させられないかもしれないから」と申出た父母があつたが翌日から欠席するものもなく出校してくれた。
学用品のうち教科書を流した者はなく皆鞄に入れて持ち出したが,その他の学用品のうち若干流失した者もいた。
学校では直ちに被害状況を教育委員会に報告し指示を仰ぎ,更に調査洩れの者がないかを確かめた。
PTAでは役員会をひらき被害生徒の家庭に慰問を行うことを協議し,会長副会長校長が被害家庭を訪問して金壱封と学用品若干を贈呈した。
中学校の生徒会は被害生徒のため義捐金を贈ることにして,それぞれ学級のホームルームが活動してこれをまとめ生徒会長,副会長及び教師代表者が家庭を訪問いして贈呈した。
こうしてみんなで励まし合い,慰め合つて翌日からの学習に支障がないように配慮してきている。
大槌中学校 校長金崎孝志
1.罹災当日職員出勤,被害状況調査をした。
2.5月25日罹災生徒を除き全員登校,状況調査をなし親類知人宅に応援させるため直ちに放課とし,罹災職員宅にも各10名程度の2年生生徒を派遣し整理に援助させた。
児童,生徒,その他の津波の感想文
つなみ
安渡小学校2年金崎悦子
わたしは,うみがだいすきです。なつになると目のまえにあるうみにとびこんだりそれからけしきがいいのでだいすきでしたが,5月24日からうみをきらいになった。この日はわたしたちの町や村のいえをこわしたり,ふねをながしたりしたつなみがきた日でした。わたしのいえも水が2メートルも上り,水びたしになりました。でもながされていえがなくなった人たちからみるといいとおもいます。すぐいえのまえがうみなので,つなみのようすがはっきりわかりむかいのいえがながされたとき,わたしもおかあさんもおぱあさんもてをあわせていのりました。それからすこししてから,わたしのいえもだめだとみんながさけんだとき,わたしはなみだがでました。またみんなでてをあわせ,おばあさんはだたよりもたかく「なみあむだぶつ」といのつていました。そのためかいえはながされませんでした。つなみもおわり,みんながおなかがすいたといってもたべるものがなにもなくてこまっていると,たきだしがきてたべました。いつもよりおいしかった。いまはとてもうみがしづかです。
もうつなみがこなければいいとおもいます。
おみまい品
吉里小3年和田良子
おみまいどうもありがとうございます。つなみのときは,とてもこわかった。うちの中に水がいっぱいはいったが,まきなどたいていながされた。
家にねられないので,よその家に1ケ月ばかりとめてもらいました。よその家へとまってても,またあのおそろしい,つなみが来るかと思って,べんきょうがされませんでした。べんきょうどうぐはもってにげたので,まい日学校にかよっているうちに,なぐさめの手紙が来て,先生がよんでくれた。その時はとてもありがたいと思い,その人にあいたいと思いました。
ほうぼうから,たべものやきるもの,そのほかがくようひん,つぎつぎといただいて,ほんとうにありがたいと思います。みなさんからいただいたものは,たいせつにつかっています。いまではつなみのことはわすれて,いっしょけんめいべんきょうしています。でも,じしんがするとよなかにでもとびおきます。
おみまいひんをくださいまして,みなさんたちいろいろどうもありがとうございました。べんきょうして,よい子になりたいと思います。
みなさんさようなら。
おそろしいつなみ
吉里小5年東谷豊
私たちはうちが,ちいさかったため,浜ばたのよその家をかりて,そこから学校へ通っていました。そのうちあのおそろしい5月24日の朝が来ました。組合(漁協)のかくせいきはまだはっきり夜のあけぬうちに,何か放送をしておりました。何を放送しているんだろうと思ってよく聞いてみますと「つ波がくるようだからひなんするように」とさけびつづけていました。
それでぼくたちはびっくりしました。おばあさんは一ばんちいさい妹の手をひき,にいさんはもう一人のいもうとをおんぶしてにげました。たかいところへひなんして海の方をみました。しおが引いて,ぽうはていがすっかりそこまで見えていました。それからすこしたつと波が高くなって来ました。そして見ているうちにていぽうをこえはじめました。それからまた,しおがひきました。二,三度おなじようにくりかえしました。
なみのひけたあと,父さんとぽくたちのいたところへいってみますと,うちはながれ,ふとんもぼくたちのきるいもながされてありませんでした。にわとりもながされて死んでいました。
しょうぼうの人たちと青年会の人たちは,いっしめけんめいながれたふねをひっぱっていました。
ぼくは,いつでもはまにあそんでかんがえてみますが,」こんな海からあんなおそろしいつなみがくるのかとおもいました。
いままで服やちょうめんやえんびつをもらいました。ぱくはこのようなあたたかいおくりものをもらって,心からかんしゃします。
おみまい品
吉里小5年和田英雄
おみまい品どうもありがとうございます。生れてはじめて見た津波なので,こわいというか,おそろしいというか,わからなかった。裏山へひなんして海の方を見たら,波が海の底が見えるほどひけていました。
そこでお父さんやお母さんや兄さんが,家具などを運び出した。大きな波は,がんぺきを越えておしよせ,家などに水がはいり,家がぐらぐらとゆれてきました。
波がひけたので家に帰ってみたら,家のまわりにあつたものは,さっぱりなくなっていました。家の中は手のつけようのないほど,みだれていました。
ぼくの家は船の電気屋なので,そのしょうばい道具はすっかり水をかぶりました。それからまた,かいふくしてかんばっています。
みなさんのあたたかい心にありがたくかんしゃします。おてがみ,おみまい品ありがとうございます。もらった学用品,おみまい物をたいせつに使い,勉強をし,これからがんばりたいと思います。
津波なんておそろしいものだとかんしんしました。それでもいまでは,津波のことはわすれています。
しかしときどき,じしんがすると,夜中でもとび起きます。
つなみのこと
安渡小4年倉田行雄
夜中にサイレンが,ボーボーと鳴りました。そのうちに外の方で「津波だ」という声が聞こえてきました。そこでぽくは,急いで起きて海の見える丘の上に行ってみたら,もう多ぜいの人が集まっていました。海の方を見ると,のりしばの所まで,潮がずっとひけていました。ぼくはそれを見て,ぞっとしました。下の方から,「にげろ一っ」というさけび声が聞こえてきました。おきの方を見ていたら波がどんどんおしよせてきました。見る見るうちに,安渡中に水がまわってしまいました。ぼくのそぱにいた年よりのおばあさんは,「なんまいだ,なんまいだ」と云っていました。見ていた人たちの話では,波がおしよせる時よりも,帰る時がこわいと云っていました。帰りの波にのって,船や材木などがおし流されてきました。2回めの波は少し弱かったが,それでも勘吉君の家の50メートルぐらい前までおしよせてきました。またどんどん潮がひ
けていったかと思うと,こんどは一番大きな波がおしよせてきました。1回目や2回目よりもいきおいよくきたので,波のまわり方が早いようでした。見ると道ろの上を,たるや,いろいろなごみが流されてうかんでいました。ぼくのそばにいた人は,「こんどは大きいぞ,大きいぞ。」と云っていました。ていぼうの近くにいたぜに高組のどろをあげる船は,その波におしたおされたり,はんたいにおこされたりして,とうとうめちゃめちゃにこわされてしまいました。帰りの波にのって,屋根だけ見える家や,大きなざい木や,船がたくさん,いきおいよく流されていきました。つ波がやんでから,下の方に行って見ると,どこの家を見ても,まどやガラスがこわされ,家の中には,たたみの上に,どろやごみが上っていました。また,家がまがったり流されたりした所もありました。つ波にあった人たちは,たたみを洗ったり,よごれた着物やふとんを,せんたくしたりして,みんなまっ黒になって,いそがしそうにはたらいていました。やく場の人たちは,ガンマーでよごれた所をしょう毒していました。電気会社の人たちは,切れた電線をつないでいました。しょうぼうの人たちは,いろいろとじゃまな物をかたづけていました。ぼくの家の人たちは,しんるいのかへいくんの家に行って,いろいろなしごとを手つだっていました。ぼくの家は,丘の上にたっているので,こんな時はいいなあと思いました。
津波
赤浜小4年飯塚令子
5月24日午前4時40分に,津波が来ました。「かね」が3時半ごろ鳴りました。私は4時ごろお父さんに「令子津波だ,おきろ。」と言って起こされました。
私はびっくりしてはねおき,いつものままスカートをはきましたが,さむいのでその上にズボンをはきました。外へ出ると,ゆう子ちゃんのおぱぁさんや私のお母さんが出て海の方を見ていました。私も見ているとしおがひいて来ました。するとべんてん島のそこの方の岩が見えてきました。
しおが上って来たと思う間もなく,ぼうはていをこしてしまいました。そしてクラスの明子さんの家のとこまで海の水が上って来ました。私は始めて津波というものを見たので,もうこわくなってお母さんのかたにつかまってブルブルふるえていました。
そのうちに5年生のよし子さんの家のうらにつんであった竹がガラガラとくずれてクラスの秀子さんの家の田の中へ流れて来ました。すると私はさっきよりもさむくなり服の上にねまきを着ました。それでもまだブルブルふるえていました。こんどは静作くんのお母さんのやっている店が流れて来てよし子さんの家のわきにひっかかってしまいました。はじめのうちは船かと思っていましたが,やっぱり静作くんのお母さんのお店でした。
しおがひいていってしまうとクラスの秀子さんの家の田には竹や大きな木のはこや材木がたくさん山のようにあつまりました。ぽうはていにひっかかったと思っていたボートはていぼうをこえて外がわの海に出ていってしまっていました。ぞう船所にいた大きな船は,ぽうはていの方へいってしまっていました。私は生まれて始めて津波のおそろしさをはっきり自分の目で見ました。
私が生まれて2回目の津波だとおお母さんに聞きました。その時は私の家は浜の方にあったそうです。だからお母さんが私をおぶって,トランクをさげてにげたそうです。その時私は赤んぼうだったのでわかりませんでしたが,もう大きくなったのではっきり自分の目で見たのです。私はほんとうにこわかったなあとつくづく思いました。
津波
大槌小5年吉見薫
5月24日の日,3時半ころ,急にサイレンがなった。
ぼくは,弟たちを,おこした。
はじめは,火事だと思ったが,にげてくる人が,「津波だ!」といった。
ぼくは,おどりでた。そして,カバンを,そって,すぐ,もと家をかりていたところへにげた。
お母さんが,あとから,ふとんをもってきたので安心した。
町にでてみたら,よその人が「八日町は,あまりさわがしくないが,大須賀の方は,戦争のようなさわぎだ」といった。
ぼくはだんだんこわくなってきた。
その時は,犬もつれてきたので,もと,家をかりていたところへ,犬をつないでいた。
道又やく店に,ぼくたちは,はいった。
道又のお父さんは,消防の人なので,「安渡はたくさんやられていた。」といった。ぼくは,ますますこわくなってきた。
にげてくる人は学校の方に,にげていった。
その日のよる,もと家をかりていたところへとまろうかと思ったが,家に水がはいらなかったのでとまらなかった。
その日の夜は,こわくて,こわくて,ねむれなかった。そして,ようやくねむった。
つぎの日は,小学校は休みで中学はいくのだときいた。
兄さんが,かえってから,安渡とがんまいどうが一番ひどかったと兄さんがいっていた。「げんいん」は南アメリカのチリ地震だった。
それから鉄橋をわたって安渡を見にいったら道のまん中に大きな船がうちあげられていた。しばらく安渡を見てかえった。
津波
大槌小5年倉田暁子
5月24日の朝3時30分ごろ,外が,がやがやしているので目をさましたら,かあさんが,「暁子,津波だよ。」とおしえてくれたので,いそいで服を着て外に出てみたら,外にはなべやかまをしょってとうさんや,かあさんたちが話をしていました。
私と同じ5年生の人もいました。
みんなが,山に登りに行ったので私も,姉さんたちといっしょに山に行きました。
山には,大きな荷物をせおったとうさんや赤ちゃんをだいたかあさんたちや子供たちが心配そうに町を見ていました。
先生たちもいました。
私たちが家に帰ると,となりの家に赤崎さんたちが来ていました。
それから少したって,姉さんが「中学校は休みだよ」と言っていました。
私も小学校も休みなのか聞いたら,小学校も休みだといったのでかあさんにおしえました。そしたらまたサイレンが鳴ったので山に登って海をみたら,べんてん島のぼうはていば,ところどころしか見えませんでした。
それから,後藤和子さんの家の果じゆ園の方を見たら,ていぼうのある所を消防自動車が走っていました。
その次の日,かあさんや姉さんと,雁舞道に行ってみました。安渡橋をわたっていったら,田んぽに大きな船がはいっていたり,家がぺしゃんこになって屋根だけになっている所もありました。
住宅の方に行ってみたら,土台ばっかりで屋根もなんにもない所や,形ばかりで中のものはみんな流されたという所もありました。
私は,こんどの津波は地しんもないのにこんな大きな損害をのこして。ひ害をうけた人は,なんて気のどくだなあ。こんな津波はもうこなければいいなあと思いました。
津波
大槌小5年田鎖幸子
5月24日の3時半ごろ大須賀のおばちゃんが私達がねていると,戸をたたいて「津波だ。」と言っておどろいたような顔をしていました。そのうちに,サイレンがなったので,足がわくわくして寒いようなきがしてきました。服をたくさんきて,弟や私のかばんを二階に上げていたら大須賀のいとこの人がみんなきて「かわった津波だじしんもよらないで。」などと話しています。
私といとこの和ちゃんとおはかに登って大須賀の方を見ると,道路にいろいろの木やごみがたくさんちらばり,家がこわされたりつぶれたりしている家もよほどありました。
家に来て見ると,納屋に行っていたとうさんが帰っていとこの人達にいろいろ話をしていました。その話では,とうさんの長ぐつの底から15センチくらい水にはいったそうです。それでも水はむくむと,量がゆっくりふえたからさらわれなかったそうです。
その話を聞くと私は大須賀にいきたくてたまりません。いこうとしても家の人にしかられるのでいきません。
そうしているうちに朝になりました。学校の事が心配になったので学校まで和ちゃんと聞きにきたら休みだといいました。学校の校庭や講堂にはたくさんの人が大きな荷物を持っていました。中には自動車に荷物を積んでいる家もありました。
家に帰って「大須賀に行ってもいい。」と聞いたら「大きい人となら行ってもいい。」と言ったのでおぱちゃんと線路の所まで行くと家はこわされ,竹などがたくさん流れていました。和ちゃんの家には船がぶつかり柱がおれていました。納屋にはとてもどろが多くていかれません。むりして納屋に行くと,あたりの家がぺしゃんこになっていました。でも納屋はこわされていないのでよかったと思いました。ていぼうは半分にわれて土がくずれていました。あたりは見られないようになつていました。
損害をうけた人達はないたりしていたので気の毒で見ていられないようでした。
雁舞道や安渡の方はひどいひ害だと言っていました。
私は津波は二度とこなければいいと思いました。
チリ津波
大槌小5年祝田紀代子
5月24日午前3時半ごろであった。私はサイレンがなったのもしらないでねていると,おかあさんがおきたので,目がさめた。外がなんだかさわがしい。ふと見ると,おとうさんも目をさましていた。ねぽけて,目がもやもやしていた。二階のまどから外を見たら,近所の人たちがおきて,自転車で海を見に行く人もあった。なぜさわいでるのとおかあさんにきいたら,津波だと言った。私はびっくりした拍子に目がさめた。すぐ弟をおこして,カバンに教科書を入れて,ふくをいっぱいきたらぶた見たいにふとった。またサイレンがなった。私はぶるぶるふるえてきた。ふろしきつつみをもった人や,カバンをしょった人たちが,かけ足でひなんしている。私と弟が「おとうさん早くひなんをしないと」,おとうさんが,地震もないのに津波がくるとはへんだと言った。でも子供たちはひなんをしていろと言った。おかあさんたちやおとうさんたちは,ひなんしないのと言ったら,おとうさんやおかあさんは,たたみやふとんなどを二階へ上げていくからと言った。私と弟は近所の親類の人と,松の下のお寺にひなんした。お寺の山の上から見たら,大須賀の方の家が海のように見えた。川が海とはんたいの方にながれていたのが,こんどと海の方に流れていた。ボートやドラムかんなどが流れていた。水がふえる時は,もりもりとふえて,ひけるときはもりもりとひけていった。サイレンが3,4回なった。でもおかあさんたちがこない,私はおかあさんが心配で心配でふるえたり,おかあさんは流されたかなとへんなことばかり考えたりした。午前7時ごろになった。植田病院のかんごふさんたちが,かんじゃたちをはこんできた。みんな山から下っていったので私たちも下っていった。帰ってから見ると,水がゆか下まではいっていた。おとうさんはいなかった。おかあさんからおとうさんはどこへいったのときくと,「大須賀の親類の家へ行ったよ」と言った。ごはんを食べてから学校がやすみなのと,きいたら中学校は休みだそうだと言った。小学校はときくと休みだと言っている。でも私は近所のたばこ屋さんの電話できくと,話し中だと言って出なかった。みんな休んでるので私も休んだ。こうして1日に6回ぐらいも津波があった。でも小さな津波だったので2回ぐらいにげない。お昼には親類の家におにぎりをこしらえてやりました。つぎの日も休みでした。ふとんなんかをリヤカーではこんだり自動車ではこんでる人もありました。25日の朝の2時ごろも津波でした。こわいのをがまんしてねていると,少したったらみんなかえってきたのでほっとしました。雁舞道に行って見たら,こわれた家や流れた家がありました。大きな船が道のまん中にありました。夕方ねえさんが修学旅行に行ったのでむかえに行ってきました。そしたら大須賀の人や雁舞道の人たちがないていました。とても気の毒だと思いました。
津波のこと
吉里小5年芳賀育子
私は朝にお母さんにおこされて起きたら,外で「津波がくる。」といっていたのでびっくりしました。そしてまさきを起そうとしてもまさきは起きがたいので,「これぁつなみがくっつうぜ。はやくおきろ。」といって起したら,「えっ。つなみがくるって。」といってまさきが起きたので,私は「すぐ,ガバン
さどうぐを入っべす」といっていたら,おかあさんが「はやくはやく」といいました。そしてうしろの山にのぽりました。その時,ほつとしました。1回目の津波は私の家のところまで来て,もどっていきました。2回目の時はサラサラと来ました。3回目は1番大きい津波でした。そしたら,ちぐささんえのおばあさんたちは,泣いていました。私は「これからどこでごはんくんぺえなあ」と思うと,私はちょっと心配になりました。そしたらもう一度津波が来ました。こんどのはきかたがとても早くて,うなりごえをはりあげて来ました。私はちぐさちゃんをおぶってあげていると背中のちぐさちゃんが,「ぺっぺいべっぺい水あいえさはいってぁ」といいました。私は「うんぺっべいのあネ」といってやったら,ちぐさちゃんえのおばあさんが来て,「いくちゃん,おもだがったあべえなあ。ほにほに」といって,ちぐさちゃんをだいていきました。私はちぐさちゃんがかわいそうになりました。そして,私はすずち々んちで,朝のごはんをたべました。
それからも「まだくるかもしれない」というので,私はお母さんのうちの中にいきました。私はとてもさむいので,毛布にかくるまっていたら,「つなみ
がまたきた」というのでみたら,また,しずかにやってきました。私は「なあしてこんなに津波がくるんだぺえ」とおもいました。
津波
安渡小6年高田節子
「津波だ津波だ」と言う近所の人達のさわぎに私ははっと目をさましました。水はもう道路の上までもきていました。荷物をくばっている人,しおの引き方をみている人達の心配そうな顔,私はほんとうに津波がくるだろうか,しおのくるいかもしれないと思いました。「おかあさん,どこの家でも荷物をくばっているよ,私の家でもくばったら」と言うとおかあさんは,ぢしんのないつなみなんてくるはずがないといってあたりのようすだけ聞いていました。1回目の水が引いてから1時間ぐらいたってろうか,「水がきたよう,早くにげて」とさけぶ声がしました。私はおどろいてとびだすと水が家の中にのこのことはいってきました。まるで大きな生物が,ノッスノッスとはいってきたようでした。茶色みたいな水の色,「かあさん早く,早く」とさけんでいるとなりの末子さんの声もすれば,「ぼくのものを持ってきてよ」とさけんでいる声もしました。私はかぱんをせおって水のこない所ににげました。そこからみていると,ガラスが「ガチャン」とこわれる音や家のメリメリとこわれるものすごい音がして水と一しょにながれて行きます。たる,たたみ,なべ,たらい,そのほかいろいろなものがゴーゴーと音をたててながれていきます。家のまわりをみる10せき位,船がながれてきてかこみ,ドカンとぶつかるとメリメリと家の柱などがこわれたりしました。「私の家がながされていく」とすすり泣きや,神様においのりしているような顔しか見えない。頭の中は津波のさわぎでいっぱいだ。私にはちかくの人の顔さえかすんで見えないくらいだった。水がひけてからもう朝になりました。私たちは,高台で3時間をすごしたのでした。6時の時計が打つてから岩手放送をかけるとこのつなみはチリで大きなぢしんがおき,それが24時間で岩手県,北海道などにきたとのことでした。あとかたずけをしようと思って家に入ると,たたみは浮き上り,その上にラジオ,タンスなどがよこたおしになってかさなり,私達の着物や服や本などはどろにくるまり,あ一っちに1つ,こっちに1つというようになげだされていて,どろが一ぱいにたまり,どろくさくてほんとうにいやなかんじがしました。あとかたずけをするのに2週間ぐらいかがりました。
つなみのときのできごとは,いつまでもわすれないでしょう。つなみはおそろしい,一度に何十人,何百人という人の命をうぱい,多くの財産をながしてしまう。このようなつなみなんもう二度とこなければよいがと思います。今では後かたづけもおわり,もとどおりの家になったのです。でも家までながした人達はどんなにこまっているでしょう。橋や鉄橋,そのほかのものも新らしく作りなおさなければならないでしょう。私たちは,全国のお友達にはげまされ、学用品やたくさんの衣服をいただきました。こんかんげきをいつまでも忘れないで一生けんめいべんきょうし,ごおんがえしをしたいと思っています。
津波について
吉里中1年和田芳美
6月24日の午前3時半頃,近所のおじさんに「大変な事がおきたからおきろ」といわれた。私がおきて見たら,もう海の底が見え水がなかった。私はカバンを持って,はだしで,はだかで逃げたので叱られた。また家にもどってすぐ服を着てから,先に裏山にカバンを置いて,まだ波がこなかったのでいろいろなものを山にくばりました。その中に,波が見る間に陸の方に上って来たかと思うと便所がこわれたり,たきぎが流れたり・家の中からは水がめが出て来た。私は大変こわかった。生まれて始めて見たので,身体がぶろぶるとふるえた。お母さんは昨日体の具合が悪くねていた。お昼の御飯等は食べなかったけれど,夜御飯を食へてねたので顔色が少しよかった。波がひいていったので家に行って見たら,家の中に水がいっぱい入って,畳もずぶぬれ,電機洗濯機がさかさまになって中に水がいっぱい入ってた。台所においた電機釜は,寝床の方に流れていって居り,ふろはひっくり返っていました。私と弟と兄さんと3人で,たきぎをひろったり,家の中をかたずけたりしている所に,よそのお父さんやお母さん達が手伝いに来てくれたので,家の中も早くかたずけ終った。
がお父さんの仕事は,船の電機関係なので,機械やモーター、バッテリー等はひどい損害でした。機械類は潮水がついたので,真水で洗って直したのですがそれだけでは直らないものもあった。それから家の中は,ぬれて寝られないので,家には,お母さんとお父さんだけ居て,兄弟5人は,よその家に1ケ月ばかりとめてもらいました。
これからは津波の事は考えないで,うんと勉強したいと思っています。ですから皆さん安心して下さい。
津波のこと
吉里中1年佐野信子
朝3時半頃ふと目をさますと,砂浜の方で人の叫ぶ声がしました。母は着物を着て渚に急いで出て行った。見ると小船はひっくり返り,全部の船が海に流されていた。すると間もなく消防団の人達が来て,「これはきっと津波にちがいない」と言うので,母はびっくりして家にもどり,子供達をおこして波が引けている中に避難させ,消防団の人達からは布団を運んでもらった。前に時々地震がよっていたので,大切なものは本家に運んでおいたし,さいわいに近所の人から注意を受けていたから,こんな事は日々気をつけていた。母は始め大潮位に思って,あまりにも気にせず,子供達に早くカバンをしまわせ,長くつ,かさ等を持たせて避難させた。そうしている中に波がやって来たので,波に追いかけられながら走ったと言う。その中私は4年生になる安徳,1年生の拓司,幼稚園の5つになる典雄や誕生日過ぎたばかりの登代子と,祖母の家に居た。
その間は私達は後に残った母の事ばかり心配でたまらなかった。あまり母の事が心配でたまらないので本家の家に行って見ると,母と姉さんがいた。母はがっかりしたような顔で元気がなかった。私は大変心配して海の方を見ると,とても母がかわいそうでならなかった。
その時は,父は船でマスナワに出漁中だった。父が居るとよいんだが父もいないので,私は父達が早くくればよいと思った。私の家には,家の中で5,6尺の水が上り,畳を敷いているところがすっかり根板がもり上っていた。それで私はもう家が流されてしまうんだろうと思った。道路は堤防より下は水が引けてしまうんだろうと思い,私の家は堤防より上の方にいればよかったと思った。
その中に半鐘が鳴り出し,だんだん波が来たので,私は自分の家へ行って見ると家の中は大水,泥水であった。母は,腰にたわいのない機にがっかりした様子であった。母も私と同じ考えであって,水が引けて行って元通りの家や道路に早くなればよいと思ったらしい。それは家に入れないし,外の家に居たってつまらない事を感じたからである。その時私達の中学校では運動会がせまって来た。朝早くから運動会の練習にはげんでいたのですが,練習をやめて先生を先頭にして中学校の男生徒達が手伝いに来てくれた。むしろを運んでくれたり,その他いろいろ仕事を手伝ってくれた。私はありがたい気持でいっぱいであった。そして母は,私の家には子供達が5人もいるので,ほかの家へ世話になってばかりいては他人に迷惑なので一番それを心配していた。本家で御飯を食べている時の顔は,何かしら気をつかっている様な顔だった。又食べている時津波の事を思い出してみると,おそろしい感じがした。災難に逢った私は,沢山の学用品その他の物をいただきました。それを他の人が「私も津波に逢えばよかったなアー」と言うのです。私は津波にあっていない人達はあの恐ろしさはまだわからないと思います。たとえば,地震がよったとします。私は気持よく寝て居るのを,起されて本家の家に走って行きます。そう云う事を言われると,とても腹が立って来るのです。それから組合(漁協),役場の方から沢山のお金,救援物資をもらいました。又学校や生徒会等からも貰いました。その後毎日毎日寝ながら皆で話をしますがその時はきっと「早く上の方に家をたて枕を高くして安心して寝たいなアー」と母は言います。子供達はそれを聞く度に「母さん,おらどあ一大きくなってから家を建てて,母さん達を楽にさせんがい」と言います。母さんはそれを聞くと,笑っています。それから皆さんからもお手紙をもらっています。ありがとう。ありがとう。
チリ津波
吉里中1年佐々喜一
母さんが,今朝はまだおきる時間でもないのに,人の歩くのが激しいと言っておきたら高潮だと言うことだった。海辺へ出て見たらどこもかしこもいつもより潮が引いていて,カレイの大きいの等あちこちで,ばたばたしていたと言う。母さんがさかんだ(叫んだ)のでぼくはすぐ行って4人兄弟でみんな学校道具をもった。ぼくは人の弟たちをおいてぽくだけ行った。母さんが「何より先に布団が大事だから布団をしょって行け、と言った。けれどもぱくは一度に何枚も運べないし,ひまがかかっても1枚ずつ運んだ。もうその時は半鐘も鳴ったし,大槌のサイレンも鳴り出した。又漁業会の放送もあった。けれどもぼくは布団を運ぶ気にばかりなって放送もろくに聞かない。だんだん引いた潮が逆に増して来た。津波なのだろう。ぽくは心配した。そしたら母さんが,ふろしき包をせおって,水の中を歩いて来た。勢いよくおしよせて来る海の水は遂にぼくの母さんをまいてしまった。母さんはまかれた水の中にころんだ,ぼくは大きな声で1回母さんと呼んだ。弟たちも呼んだ。母さんが早くこっちへ来ればいいとそればかり思った。海の水にまかれながら母さんはほんの少しずつ近くなった。そしたら近所の人々が長い棒で母さんを引っぱってあげてくれた。ぼくはただありがたいありがたいと思った。母さんはだまって水の来るのを見ていた。ぼくたちも見ていると波は引けていった。家にもどっと来て見ると店の物は全部なくなっていた。残ったものはよごれた何つもとのまんまではなかった。リヤカーは岸壁から落ちるところでした。小舟は岸壁にのしあがっているのもあれば,沖の方へ流れるものもある。家の戸を見つけに行ったが1枚も見つからなかった。津波は又やって来るかも知れないが,ぼくは又前の海辺の家に住んでいる。
津波について
吉里中3年和田伸幸
私は,4ケ月前のあの津波の朝の事を思い出して,南米チリ沖からきた津波が太平洋をこえてよくもこの日本の三陸まで来たものだーーとしみじみ痛感させられます。朝まだ皆んなが寝ている時に,近所の人に「津波だからおきろ」と戸をうるさく叩き起され,外を見ろと海の水は,魚市場の岸壁をあらわに見せる位の水の引けかたでした。これは大変だと思い,何が何でも荷を背負ってにげました。いくら5月とは言え夜明けの朝の空気はとてもつめたく,じっとして居る事が出来ず,それにも増して津波だと言う気持がいっぱいで,ひとりでに足がガタガタふろえてどうする事も出来ませんでした。そのぼう然としている時に」本当に津波なんて来るんだろうか。」又「昭和8年の津波の時の様子はどうだったろうか。」と疑問に思いました。私達はそれにもまして,ずうっと以前から吉里々々に住んで居たのでもないので,昭和8年の津波にっいて全く何も知りませんし,その本当の恐ろしさと言うものを知っていないのです。そんな事を考えながらだまって海を見ていると,吉里々々津波を経験した人達は,恐しさのあまり,男も女も山のすみの方でシクシクと泣いているようでした。
それから大体30分位したのでしょうか,海の波がうねり出して海岸におしよせて来ました。こんなことを見たことのない私としても家の方に来た時は「あっあっ」と大声を出しました。もう付近に積み重ねておいた材木が家にぶっつかったり,便所がひっくり返ったり,造船所の古い大船が流されて動き出したり,あちこちの家がミチミチとゆれて傾いたりし始めたのです。そして突然海は泥海となり,木やごみやいろいろ流れていくのを,私達は又他の人達も見て居て「あア」と気を落してしまった。ような声をあげて,我も我もと家にかけもどったのです。
一波すんだ後の私の家は回りに置いたものは全部波にさらわれ,自転車もあったはずのがなく,家の中の物までさっばりでした。特に私の家は,船の電気屋なので,商売道具は大損害でした。家の人達はすっかり気が抜けてしまったようになり,これからどのように立ち直って行ったら良くなるんだろうと思い悲しくなりました。私は中学校も今年だけなので,一生懸命頑張り進学しようと思って来たのを,この津波でさっぱりぶち壊された気がして,これからの自分について悲しくなりました。
然し又新聞を見たら吉里々々等よりもひどく,やられたところがあり,宮城県の志津川町等は何人となく人の死んだ事もわかり,私達よりも苦しい人もあるんだと云う事を知り勇気がわいて来ました。それで今日まで頑張って来ました。然し以前までは希望に燃えて張り切っていましたが,つい最近までは前のようなしっかりした気持をとりもどせず生活していました。以前の様に明るい安心した生活が出来る様に,自分自身にもむちを打って途中でたおれおちない様に家の人達と共にやって行きたいと思います。
チリ津波に思う
大槌中3年倉沢恵
あの日,何の前ぶれもなくおしよせてきた大津波は人命と物資とに危害をおよぼし,人々を恐怖のどん底におとしいれました。
私達はその津波のあった日,修学旅行で東京に居りました。最後の都内見学に行くという時に,その津波の事を聞いて心配で心配でなりませんでした。先生方より大丈夫だから心配しないでと言われていくらか気を落付けて1日の見学も無事に終ることができました。その晩は長いようで短かかった東京での楽しい思い出を残して上野をたちました。
車の中砥疲れるから休みなさい,といわれて,本当だ,休まなきやならないんだと思い窓によりかかって目を閉じましたが,なぜか心配でねむれませんでした。時々車の音や汽笛に目をさましました。私だけではないようでした。
クラスの友達や先生方,みんな家族の事やしんせきの事,友達の事など考えて深く沈んだ顔をして居り,今日までの美しい東京の面影を忘れたかのように,楽しく語り合う者もなくなりまして,楽しげな声も笑い声も聞くことが出来ませんでした。やがて郷土も近くなってきた頃,風呂敷包みをしょったり,持ったりしてあわただしく車中に入って来る人が多く目立って来ました。はじめはたいして気にもしませんでしたが,この人達が津波のあったところに見舞品を持っていくのだと聞いて,そんな大きな津波だったのかと思いました。
やがて釜石市も近くなって大槌の津波の状況を知らせてくれました。それによると人命にはさしさわりがなかったと云うことでした。私ははじめて「ああよかった」今まで体の不自由な年寄り二人と幼い弟妹だけしか家に残っていませんでしたので,もしや流されてしまったんじゃないだろうかと何回も何回も考えて来たからでした。
大槌駅に着いた時の出迎いの父兄の姿は,今でも忘れることができません。
家に急ぐ途中多くの惨害を目の前にして,自分の家もこんなになっているだろうかと悲しくなりました。そして家へつくやいなや,ただいまもそこそこに「みんななんともなかったか」と聞きました。一同見まわすとみんな思ったより元気で,津波のあとかたずけをしていました。
その日からしんせきの人達もみえて,応援して下さいました。洗濯や掃除をしたりして手伝ってもらいました。又全国の人々からの手厚い贈り物を山というほど沢山頂きました。毎日毎日感謝の気持で一ぱいでした。
私は災害だといっては,こんなに沢山の見舞品や育英金が送られてきましたが私達がよそに災害があったらこんなにできるだろうかと疑間に思いました。こんなにできないんじゃないかしら,いややらなければならないんだと強く感じました。
私はその日からこの人達の好意を無にしてはいけないと考えました。善良なる社会人に心配をかけてはいけないということを強く心にきざみこみ,毎日学校で勉強に,家の仕事に精を出してやっています。
二度と再びみたくない,聞かせたくないこの天災のいたでを深くかみしめそれに負けない強い人間になるために頑張っていきたいと思います。
波は七つの海を越えて
大槌中教諭小菅雄幸
幾月か間をおいて振り返ってみると,誠に嫌な夢を見た時の気持と同じであるが,5月24日は気持の晴れない朝を迎えた。家の中に入れば,家具類はゴチャゴチャに転び,悪臭は鼻をつき,めくれた畳の間には黒い泥が一面に床をおおっている。すぐ前の白石の海岸の道路に出れば,道路が所々くずれ,材木がゴロゴロしている。家の位置がメートル余も変ったところもあれば,斜に傾いている家もある。これから幾日か家の内外の整理に苦労しなければならないと思うと全くウンザリして,元気も出て来ない次第であった。
被害状況を後で見ると,実に惨怛たるものであったが,それにしても山に育ち,従って震津などの予備知識のない私にとっても,被害の大きさの割合には意外に緊迫感の薄い津波の襲来であった。24日未明,置時計で4時少し前だったと記憶しているが,「津波が来るそうだ」という叫び声が耳に入った。3月20日にも津波避難の経験があるので,(この時は幸い地震だけで何事もなかったが)又かと思いながらもシブイ眼をこすって起きた。さて,地震が無かったようだがと首をかしげながら,身一つで外に出てみた。すると海が河鳴りのようにザアザア音を立てて外海に流れている。はてこれは妙だと裏山に登った。その辺にはもう殆ど夜具などを運んでしまった近所の人達が屯している。
当夜は神様が田植の手伝いに行ったばかりの晩である。ただでさえ荷物運びなどの嫌なタチである。とてもこのことに1人では布団の2,3枚を運び出すのがやっとである。ええ,めんどうくさいと云うものぐさな気持とこのように潮が引けばいつ押し寄せてくるかも知れぬと云う不安と,或いは精々道路を越す位のものかも知れぬ。そうすれば皆のように運ばないですむかも知れぬと云う希望的観測と入りまじった複雑な気持で海を眺めてぱかりいた。
15分位も経ったであろうか,波が静々と押し寄せて来た。アレヨ,アレヨと見ている内に海岸の道路を越え,ピチャピチャと地面を浸して来た。こうなって来ると床下位で引いてくれと祈る外ない。所が,その願いも空しく,遂に背を沈して余りある水量となり,製材所の太い丸太がプカプカと流れる有様になってしまった。
こうして「アレアレどんどん波が寄せて来る」が「オヤオヤ家の中の品物が全滅じゃないか」と緊張しない内に気落ちさせた津波が押し寄せて来,そして去って行ったのである。その後は前に書いた如く「惨怛」の一語につきるものであった。
しかし,被災の後は惨たるものではあっても,緊迫感がない程の,地震もない,ゆるやかな津波であったれぱこそ,大槌には死者もなく,流失家屋も比較的少ないと云う割合めぐまれた(?)被災状況であったというぺきであるかも知れない。それはそうだとしても,私などはどうせ被害を受けるなら,命からがらという体験のあった方が,濡れた物を諦めるにはあっさりした気持を持てたかも知れない。なまじ静々と音もなくお越しになったので,品物にも未練が残るのである。
さて何年に一度の津波被害も大分復興したようであるが,この復興には数えれば限りない程の援助があったようで誠に有難いことである。失われたものは諦めて新しいものを求めて行く意欲を起させるきっかけを作ってくれた。苦境に立ってみて,始めて知る「暖かい手」の存在である。
津波は遠く七つの海を越えてやって来たというが,救援の手も七つの山を越えてやって来たのである。その裏に或いは途中に仮に何かモヤがかかっていたとしても,我々被災者には関係のないことであり,ただ有難いと御礼を云うばかりである。
なおこのチリ津波では,沿岸に来た記急も脳裡に焼きつけたし,暖い手の存在も心に留めたし,はるばる南米の果てからやって来てくれた津波様に御苦労さまと敬意を表しておこう。
チリ地震津波について
県議会議員後藤力
昭和35年5月24日早朝,北海道及び太平洋沿岸,特に三陸一帯をおそつた大津波は,まさに近年まれにみる事態を惹起した。我が岩手県においては,宮古市山田町,大槌町,釜石市,大船渡市,高田市に及ぶ4市2町に亘つて災害救助法に因る救済の対策が樹立せられ,各郡市に県主脳部並びに県議会からの見舞或いは現地調査がなされた。顧ると昭和8年3月3日の三陸大津波の時は人的損害も莫大であつたので,よもや今日の津波においては人的損害は皆無であるだろう事を信じて居つたのですが大船渡をはじめとして数名の犠牲者を再び三度くりかえした事は重々痛恨事である。乍併我が郷里大槌町においては産業経済,各般に亘る損害額が9億9千万円也に上つたのであるが,過去の大津波における教訓によつて人的損害が皆無であり,1人の傷害を受けた人を除いて,町民各位が不幸中の幸と申しましようか恙かつたと云う事は誠に良かつたと云う外はない。亦当時を回想して銘記せられる事は町長,町議会は勿論,町各界の皆さんが災害を受けられた方々に対して,不眠不休の救済活動をせられ町民一致団結して,津波復興対策に精進した姿は今もつて忘れ得ざる事柄である。此の緊張と感激を将来とも持続して,地域社会の後進性打破と町百年の大計達成の日まで全町民の行進をしますならば,如何なる障害が前途に横わるとも断じて初一念を貫徹出来るものであると確信して居ります。扱て御案内の通り国に於いては,その後津波対策の為の特別立法を八つ制定され,目下対策事業及び災害復旧事業が進行中であるが,県全体として,公共事業だけでも35年より6ケ年で64億円と云われて居りますし,制度金融災害融資等まがりなりにも各機関より関係方面におろされつつあるのです。大槌町に於いても津波関係公共事業だけでも6ケ年間で4億1千万円也で,県並びに県議会は困窮して居る沿岸住民,町公共団体漁協団体の負担軽減のため割の地元負担を一切返上させ,国並びに県に於いてこれが全額を責任をもつ事に相成つて居るのです。従つて,町に於いては4千1百万円也の負担額を免除されたのであるから,総合行政の一環として復旧対策の一助にも充てるべきではなかろうか。
最後に古老の言を借りるならば我々住民は一生に3回の津波を経験すると云われて居るが,これで私ども若い世代でも2回の経験をもつて居る。もうこれ以上この様なむごたらしい惨害を見たくない様な気がする。併し天災地変が何時訪れるのでしようか。我々の科学をもつてしても図り知れないのです。故に我々は常に思わざる事象に対しても常時物心両面の備えを志れてはならない。
津波の美談と美挙
チリ地震。津波の無警告に押し寄せただけに,当地にも予想以上の被害をもたらしたが,貴重な人命に1人の異常さえ見なかつた事は,事件発生の早期発見による警告や,その場に及んで身の危険をおかし,救助の功を全うした当町消防団員の人達の献身的業績にあつた事は前に掲げておつたが,そうして団体員以外に一般民衆の中にもこうした義挙的行動に出た人々のあつた事を忘れてはなるまい。次に,その人達について簡単ながら筆を進めてみよう。
◎佐々六助さん(65才)漁業〜大須賀
今日(24日)は昆布の口開けの日とて,六助さんはこの朝,午前2時30分頃採藻準備を整え,海岸へと出かけられた。さて,未だ明けやらぬ暗い海潮の状態に一応目を放つた。これは勿論漁業生活者としての常識ではある。しかるに幼少の頃から海辺に住居して漁を本業として来た六助さんの目に異様に映つたものは波のゆれ方であつた。それは常になく余りにも異変な迄に激しく「これは」と心が緊張した。最初は単なる高潮現象かなと考えつつも,しばし見守つたが,やがて見る間に潮がぐんぐん大きく引き始めた。さすがに海を我が家として生きて来た人だけに,この異現象に対し直ちに津波である事を速断し,採藻出漁は断念,身をひるがえしてすばやく部落の人達に警報の伝達をはかり,部落の住民達を安全な場所へと避難誘導の労をとつたのであつたという。
◎佐々木清吉さん(57才)鉱山師〜吉里々々
予震もなく比較的静かな波に,部落民の心は恐の怖中にも緊張を欠く所があつたろう。(この波浪状態が今次の津波の一特徴である)海辺に住居する佐々木ツエさんは取急ぎ避難の準備に取りかかるも,数多き子供達の身仕度と,店に余る商品に聊か取りおくれ,背に多分の荷物を背負い,小高い山へ避難せんとしたのであつた。
家の前に海を横にせきを控えている関係上水の勢いは急に強くなり,堰(せき)の橋は流失し,刻々と増す水に危うく溺れる所となり,高所に避難した人々は「あれよ,あれよ」と声を上げて只喚くばかり。津波の強襲を予想しては誰一人としてツエさんの急場を救おうとする人はなかつた,ツエさんもあせる心に身の動きをまかせず一度は遂に転倒し,引き潮のために堰に押し流さるる危険に迄さらされたのであつた。
この時,自己の身を顧みず水に浸り,棒を手渡し,ツエさんを漸くにして引き上げこの危急を救助したのである。佐々木さんは,永らく病気のため大槌病院に2年位前迄殆んど1年間も入院加療し,日頃自分の身体を大切にしていた人であつた。
◎一青年の美挙
6月6日の夕方救援物資受付係へ,一抱えの包みを差し出した一青年があつた。
彼は,岩手県滝沢村の開拓地に妻子と三人で農業を営んでいたが,一昨年は出火で全焼し,各地から寄せられた同情のお蔭で再起された方であつた。津波の被害を新聞で知り,自らを省みて何か慰問したいと考えると,矢もたてもたまらなくなつて単身自転車に乗り,朝早く滝沢村を出発,遠野を経て笛吹峠を越え.わざわざ見舞に参られたという事であつた。山と積まれてある慰問品の数々は,このような人の情けがこもられていて,おろそかな扱いは出来ないと係員はつくづくと話していた。
珍談・奇談
とかくこんどのような天災事変には,よく禍い変じて福をなすといつた一寸常識では考えつきそうもない珍らしい話や神の助けか仏の業かといつた,人間業では到底果し得られない様な話がつきものように思われる。声を限りに呼べど叫ぺど救いの手もなく全く絶体絶命,もう根も力も尽き果
て,今を限りと観念した者が奇しくも思いかけず,心なき何物かのお蔭で九死に一生を得たなどという話が伝えられているものだ。
今次の津波にも,被害地の各市町村のなかにそうした一,二がよく見受けられた。
当町からもそれに類した二,三を拾いあげて,僥倖とはいえ,こうした幸運に恵まれた人達を祝福して然るべきと思う。
(1)珍談
被災地域大須賀の話〜養鶏舎にいた鶏270羽は飼い主たちが身の難を避けるのに精一ぱいという有様であつたので,無惨にも海水に沈み全滅。約7万円の損害となつた。このまま捨てるのももつたいないと食肉業者が譲り受け,大なべに湯をわかし,6人がかりで5時間もかかつて毛をむしり,立派な食肉に化けた。そして,それが被災者や復旧作業に来町した自衛隊員の食膳に供され,水難の鶏が動物タン白質資源として二度のご奉公で面目をほどこしたという。
(2)奇談
その1かもいにしがみついて〜
津波が大地震のあとに来るという定説をくつがえして,何の前ぶれもなくやつて来たこんどの津波によつて,当町被害地域の一,雁舞道に約2千平方メートルの空地がぽつかりと出た。引揚者住宅10戸と,一般住宅20戸が建つていたのが,こつそり流され跡かたもない。付近は,大槌川から逆流した海水があふれて,津波の猛威に輪をかけたという。
町営住宅34戸もカモイまで浸水,ガラス戸がメチヤメチヤにこわれたが,辛うじて流失な免れた。町営住宅に住んでいて水死寸前に,流れついた漁船で九死に一生を得た荷沢ハナさん(45)は,当時の恐怖のもようを次のように語つた。
「主人はカゼ気味で寝ており,サィレンの音で表へ飛び出したが,その時は家の近くまで水が来ていて逃げられなかつた。間もなく水がさがどんどん増し,水圧や流木などで窓ガラスがばりばりと破れ出し,家具や畳が浮き出してしまい首まで水が来たが,主人と二人でカモイに必死にしがみついた。間もなく水が引け表へ出たら,家の近くに漁船が流れていたので近所の人達と一緒に乗り移り消防団員に助けてもらいました。
その2松の木にすがつて危うき命を〜
早時,津波の兆と聞くや,ただちらに自分只一人で自家用小漁舟を操り,漁網始末にと湾内へと乗り出した。大須賀なる古沢初太郎さん(62)は,その目的を終えぬうちに小山のような津波の来襲をうけ,浜辺へ引き返さんとした時はすでにおそく,海辺に居並ぶ人々は,初太郎さんの身を気遣い気は気でなかつた。初太郎さんは,小舟もろとも忽ちにして波に翻弄され始め,大波のうねりの中に見えつ隠れつ。誰かこの状態を見る人,生きるとも思われず,高波は何の容赦もなく岸へ岸へと押し寄せ来たる。浜辺にありし人々も急遽避難した。救助のため舟を出すべき術もなし。かくして避難した人の誰が初太郎さんの生存を予想した者があろう。人皆人,哀れ彼氏が舟と共にあの魔水に呑み果たされたものとおもっていたのであった。
さて,高波に弄ばされた此の小舟は海底に埋もることもなく,この寄せ波に押し流され洲崎まで流れついた。しかし,植え込まれし防潮林の松林だけを残して,前面から周囲は全く水を繞らし,舟から脱し下りる足場もなし。救いを求むるも救いの手一つだに見当らず,加うるに4メートルの高波,あわやそのまま,またも引き潮とともに沖へ流れ出さるるを待つのみ,二度沖へ流れ出されては,今度こそ一命の助かる事十中の八九まで覚束なし,生きんとするに躁感に矢も盾もたまらず,わめきにわめくうち,それこそ天の助けか,神の業か,その乗小舟,完全に一本の松の根方に流れつく。見れば幸い,この木に取りすがる道も見出だされたれば,畢生の気力を込めて,この松の木に飛びつきて舟をのがる。まずは危うき命を1本の松の木に救われたものの,常なれば砂地たる筈の眼下は満々たる海水にて跳び下りるにも下りられず,しばし樹上に波の退き去るを待つ。しはらくにしてこの水引き始め,やがて舟から跳び下り得る足場の地あらゆる。“この引き波のうちにこそ”と樹上から一飛躍,その後は只一心不乱,水引きし後にあらわれた砂地続きを必死の力を出して鉄橋へとひた走りに避難す。
自家にては,家内の人々誰一人として初太郎さんの生きていると思う人もなく,只々悲歎のどん底にくれていた所へ,ぬつと顔をつき出す。暗たんとした心境に打ちふさがつていた家族の人々の喜びは如何ばかりであつたろう。ホツと思いも寄らぬ明かるい灯火がともされたとか。
余聞 チリ国の惨状
◇太平洋をまたいだ津波
〜観測史上最大の記録〜
チリ地震津波の震源地である南米チリのチエロ島沖,南緯36度,東経74〜75度の場所は,日本のちようど裏側にあたる事がはつきりする。つまり日本から一番遠い所で起つた地震である.
地震が起つたのが日本時間にして23日の午前4時10分頃,表日本一帯が津波に襲われたのがちようど一昼夜たつた24日の未明である。だから,この津波はほぼ24時間で,1万8千キロの太平洋を渡つて日本に災害をもたらしにやつてきた計算になる。
一体,震源地から一番遠い所にある日本が,なぜ,こんな大きな被害をうけたのだろう。
まず,考えられる事は,こんどの地震が史上まれに見る大地震だつたということだ。長野県松代地震観測所の観測によると,M8.75(Mはマグニチユードで地震の大きさを計る単位)であるが,チリ発のAFP電では,M9.2という数字を報じている。これまで観測されたうち,世界最大といわれる昭和8年の三陸沖大地震がM8.9だから,それと同程度,あるいはそれ以上の大地震だつたのである。大正12年の関東大地震でさえ,M8.2程度といわれてるから想像がつくことである。
チリは日本同様,むかしから地震の多い国だが,これまで気象庁で記録したチリの地震の5倍の振幅を地震計は示しているのである。池や沼に大きな石を投げこめば,小さい石を投げた時より大きな波紋がわくように,地震が大きい程,それに伴う津波も大きい理くつである。
しかし,目本よりよほど近いハワイの津波が1.8m位のもので,サンフランシスコなどは,30cmにすぎない事をご承知のはずである。
なぜ,チリから一番遠い日本の津波が3〜4mもあつたのか。実は一番遠いからこそ,津波も大きかつたのだ。日本とチリは広い池のような太平洋の反対側にある。しかも,ちようど正反対の地点なのだ。震源地から広がつた津波は地図のように一旦円形に拡がつていくが,たとえば北米,アラスカ附近で反射した津波や,ニユーギニア,フイリピンあたりに当たつた津波も,直接太平洋を横断して日本へ直角にぶつかる強い津波と一しよになつて日本へ殺倒する。
つまり物理的に一旦,チリから散らばつた津波は,日本の近辺で再び集まつて大きい被害を与えたのである。だから,仮りに今度の地震の震源地がチリでなく,サンフランシスコ沖あたりならば,地震の規模は同じとしても,日本への津波は,こんなにも大きな損害を与えずにすんだかも知れない。
もう一つ,太平洋が深い事がいけなかつた。海が浅けれは摩擦も大きく,津波のカも衰え易い。また津波のスピードは海が深いほど,地震が強い程速いので,長時間かかつてそのエネルギーを失わないうちに日本へ到着してしまうのである。現にこんどの津渡はたつた24時間で1万8千キロの太平洋を横断している。時速750キロというちよつとしたジエツト機なみのスヒードであつた。
ここで,表日本の被害は北海道,東北が大きく,例外を除いて南西日本が比較的小さかつた事が思い出される。これには理由がある。
伊豆七島から小笠原諸島に連なる富士火山帯が,日本の中央から太平洋を南下しているが,深い太平洋の中で,この一筋は,いわば堤防のように海底から盛り上がつているわけで,表日本一帯に押し寄せた津波は,この富士火山帯という海底の防波堤にさえぎられて力を失なつて南西日本へは東北日本程の被害を与えなかつたという考え方がある。たしかに南西日本への津波は1〜3.5mで東北日本の2.3〜5mより小さな数字を示している。
もつとも,これには異説があつて,何しろひと波120キロという大波長の津波(普通の海の波は数m)だから,わずかな幅の富土火山帯など,ひとまたぎしてしまう。というのである。
それでは,なぜ,東北日本の被害が大きかつたかといえば,北からの津波の力が,南から力より強かつたのだという。前に池のような太平洋といつたが,正確にいうと,チリから南の方は,南太平洋ががらあきで,いわば一部フチの欠けた池である。北日本の方が大きな津波をうける理くつである。
勿論,北日本,南日本も区別なく,三陸地方,紀伊半島沿岸のような入江の入りこんだ,いわゆるリアス式海岸地帯は,津波の被害の大きい事はご承知の通りである。
明治29年の三陸の大津波の時,4キロほどの沖に出ていた漁船が港に帰つたら,村は跡形もなく津波に洗い流されていたという話も残されているほどだ。
海上では30cmか50cm程度の小津波も,こうした地形にぶつかると,3〜5mの大津波になる事も珍らしくないのである。最もこんどの津波では那珂湊(茨城県)のようなノツペリした地形でさえ2mの津波が押し寄せているし,付近の海浜も150mもなぎさが後退している。こうしてみると,この大津波は今までの常識を遙かに越えたスケールを持つていたことがよくわかる。このチリ津波が日本に押し寄せることを,ハワイの地磁気観測所から,日本時間23日午後1時9分に,「ハワイに津波がくるとすれば,23日午後7時ごろ」という第1報が入つていたにもかかわらず,津波警報は,実際に津波が襲来してから出されている。
「太平洋の彼方で,どれたけの地震が起つたら、どれ位の津波が日本で起るか,という点で今までの記録もなく,こんな災害がおこるとは思わなかつた。」のである。
◇天変,地異,続出のチリ
〜外電の伝える大地震詳報〜
一瞬のうちに同胞百数十人の命を奪い去つた大津波,———これを捲き起したチリ国の地震の惨状が通信の回復に連れ,ようやく明らかになつた所によれぱ,次の通りである。
相次ぐ烈震,鳴動する火山,沈み行く島々,押し寄せる丈余の高潮と,10日問に亘つてチリ南半の住民2百万人を恐怖のどん底にたたきこみ,地形を一変した天変地異は,まず21日未明,首都サンチヤゴ南方約400キロのチラン・コンセプシヨン地方を震源地として始まつた。
コンセプシヨン市の被害は特にひどかつた。
「まるで,大海原に浮く小舟にいるようだつた。揺れているなと恩つたら,ぐらぐらときた。駐車してあつた乗用車,トラツクが数メートルもすべつていつた。大きいぞと直感した。午前6時5分だつた。」
(米地質学者セイントアマンド氏)
「恐ろしい震動に,夢中で飛び出した。たれもが着のみ着のままで狂気のように広場へ,畑へ,森へと駆け出した。道という道が荒海のように大きくうねつていた。しかも冷たい雨のドシヤぶりだつた。真つ暗な中を古い建物が頭上にくずれ落ちて来た。」(ある被災者)
あちこちで火事が起つた。どうしようもない。余震はやまない。全壊200戸,電気,ガス,水道,通信の杜絶,死傷者数百,——これが晩秋の冷雨にたたかれ,抱きあつて不安な一夜を戸外で明かしたコンセプシヨン市民の知つた被害だつた。
付近の鉱山町コロネルでは全戸の半数が倒壊,ほかに周辺の10ヵ町村が大きな損害をうけた。電信電話が通じない上に豪雨のため被災地から連絡の飛行機も飛べないので,死者,行方不明は125人とひとまず内輪に発表されたが,連絡がつくのに連れて犠牲者数はみるみる殖えていつた。だが翌22日には,より大きな不幸が待ちかまえていた。
それは,この暗い日曜日の午前6時15分と午後3時15分の2回に亘つてチリ南半全域を揺るがした烈震である。前日の強震にからくも残つたコンセプション市の建物は,これで殆んど全滅し付近一帯到る所で家屋倒壊,火事,死傷など惨をつくした。
しかし,この日最大の被災地はサンチヤゴから約千キロのプエルトモント・アンクード両市を中心とする南部一帯だつた。チロエ島の州都アンクードでは激震のあと,急に5,600メートルほど潮が引いた。と,見るより早く10メートルを越える大津波が海岸ぎわに襲いかかり,ありとあらゆる建物が粉砕し去つた。これが3回くり返された後,同市の大半が深さ5メートルの海水につかり,死者,行衛不明100人,家屋倒壊全戸の60%の惨害をうけていた。津波による死者,行衛不明は主なもので,ケウレン村の住民800人中,630人,アレタ村100人,カレランプ村に至つては全人口850人が,すべて死ぬというひどさである。
一方,プエルトモントのある被災者は地震のすさまじさを,こう語つている。
「あんなに恐ろしい目に遭つた事はなかつた。全市が恐怖に襲われた。道路はふくれ上がり,建物はがらがらと崩れ落ちた。通りへ駆け出したが,とても立つていられない程だつた。石や瓦が降りそそいでくる中を,揺れる舗道で踊つているようなものだつた。親類も友達も沢山死んだ。全市は廃墟となつてしまつた。」
25日には,チエロ島に再び強震があり,アンクードは全滅に近い打撃をうけた。21日未明以来4回に亘る激震,——いずれも関東大震災と同じ位のエネルギーの烈震によつて,チリ南部は壊滅的打撃をうけた。
「コンセプション,アンクード,プエルトモントのように被害甚大な市町村は,復興というより全部新しく建設した方がいいだろう。」という外務次官の言明によつても想像を絶する災害の一端がうかがやれよう。当初4日間の損害は推定3憶5千万ドル(約1千3百億円),26日現在の死者,行衛不明は推定6千人,被災者は50万人とみつもられている。しかも余震はまだ止まず,29日にも相当の激震があつたと外電が伝えている。
交通の杜絶している辺地からの難民の話によると,飢えに狂つた野ネズミの大群が,放りつぱなしの人間の死体を食いつくし,黒山のかたまりとなつて食糧庫に襲いかかつたという。各地でチフス,天然痘,コレラなど発生の危険もある。政府筋は否定しているが,すでに20人位の火事泥棒や,地震泥棒が射殺されたという。
震波があつた南アンデス火山系の全火山が活動し出した25日,首都サンチヤゴで急に温度が下がつたかと思うと,空は紅紫色に変わり,濃い霧が立ちこめるという不思議な現象が起つた。サンチヤゴ以南の地形は一変した。西南岸に点々と連なる1万5千余の小島が浮かび出てきた。そのため新しい海図の出来るまで,マジエラン海峡への航行は危険になつたといわれている。
湖の水位が不気味に上昇し,到る所に地すぺりが突発した。
プィエウエ火山が突然爆発,7千メートルの沖天に巨大な火柱を噴き上げた。オソルノ火山も地軸をゆるがして鳴動,何千何万トンの土砂をふらし,熔岩は山腹をのたうち流れた。このためにもまた死傷者が出た。両火山の中間地帯の全住民が急いで避難した。1ダース近い新火山が生まれた。ある目撃者は“新火山創生記”の一節を次のように語つている。
24日正午だつた。バルジバ北方のリニウエ川沿いの広大な地面が動き始めた。空は急に暗くなつた。万雷のような恐ろしい地鳴りとともに,地面が物すごく熱くなつて盛り上がり,ついで,がくんと落ちた。あたりの木という木はみんなめらめらと燃え上がり,数分のうちに灰になつてしまつた。その時,長さ45キロ,幅5キロはあろう深淵がぼつかり口をあけた。とみると奈落の底から熔岩と火山弾と煙と火の巨大な柱が8千メートルの高空に噴き上がつた。70キロ以内の一帯は火山灰におおわれて新火山が生まれた。
◇海へ運び去られた村
チリは,1536年,デイエゴ・デ・アルマグロの発見にはじまり,1850年のドイツ系をはじめとするヨーロツパ移民の大量移住までチリ南部はチリ土人とでもいうべき少数のアラウカーノ民族が住み,日本のアイヌのような存在で年々純粋な者は減つていくが,テムーコの町の周辺には,まだ,沢山の人間が住み,農業や特殊な民芸品を作つては,ささやかに暮らしている。彼等の社会には,まだ特殊な信仰があり,その一つに,天変はすべて彼等の信ずる神の怒りの現われであるとして,イケニエを供えて神の怒りを静める風習がある。あの地震,津波の時,コジレウフーに住むアラウカーノが,ついに,ホセ,パイネクール君という6歳の男の子を犠牲にしてしまつたのだ。
6月5日,まずこの一族の巫女がノリトを唱え,荘厳な儀式とギジヤトウーンという踊りをやり,そしてこのかわいい子供を殺し,その心臓をとつて,サ一ベドラの沖合に流した。その結果,その巫女は殺人罪で逮捕され,いまや大きな反響を呼んでいるのである。
震源地近くのテムーコから行くサーベドラ村こそ死の村である。突如押し寄せた津波は3千人の住民を抱えていたこの漁村を一なめし,約100人の行くえ不明者と32人の死者を出し70%の家を押し流されてしまつたのだ。海岸から山の方へ千5百メートルから2千メートルも津波が食い込んだ。なんでも災害のあつた前日の5月21日は,チリの海軍記念日だそうだ。この村人も晴衣装でこの祝日を送つたことだろう。雨にぬれたチリ国旗が,さびしくそここにあつたそうだ。
バルジビアの外港である各村々の津波の損害は,山の上にある僅か数軒だけ残して流れた。この村を襲つたその時の恐怖を兄弟,両親を一瞬にして失つた15才の少女マリーアは次のように語つた。
「津波が押し寄せてきたでしよう。で一目散に山の上に逃げました。フト,気がついて家の方を見ると,ちようど私の家が海の方へひき込まれている所でした。屋根には妹のイルダ(10才)と弟のフアン(13才)と,おかあさん(アウローテ),おとうさん(ペドロ)がいました。みんなこつちを向いて手を振り,『助けて』と叫んでいるようでしたが,それも,ちよつとの間のことで,あとはみんな海の中へ消えていつちやつたの。」
チヤン,チヤンという漁村に十人兄弟の末つ子で18才になるエンリケータ,クラツセンというお嬢さんがバルジビア,マリキーナの上流階級に属して津波の前までは百万長者の家族の一人として裕福な生活をしていた。しかし自然の暴威の前には,人間の富などというものは何の価値も示さなかつた。昨日の百万長者の一人も,今日は身にまとつただけの洋服と,自分の五体だけだつた。
とはいえ,彼女の口から出た次の言葉は「この災害で,私の兄弟たちは私に援助の手を差しのべてくれていますし,政府からも救援物資がくるだろうと思いますが,私は,これをありがたく辞退したいと思つています。
私の父はオランダ移民で,裸一貫で今の地位を築いたのです。私達には父の血が流れていますから,父にできて私に出来ないことはありません。さあ,これから振り出しに戻つて,私の手一つで再出発してみせてよ。」
このお嬢さんの住んでいた漁村には,病気の子を抱えて,毛布一枚なく,動くに動けない人が沢山いるという。で,彼女はバルジビアの赤十字に訴え,早く政府の援助の手が差しのべられるように要請するといつていた。端整な美しいその横顔に,先祖からの開拓精神をみせて,彼女は静かに次の歌を口ずさんでいる。(モミの木,モミの木,いつも緑よ,あつい日も,寒い日も,モミの木,モミの木,いつも緑よ。)
(週刊朝日より)
津波の教訓
心なき路傍の一木一石にも求むる心あれば無言の訓えを垂れてくれる。今次の不意打ち津波の惨禍に直面しては,生きとして生きる者の,しかも沿海民として何時かはまた此の異変に遭遇する事の運命におかれるものとして,良きにつけ悪しきにつけ,何らか人生教訓の身に泌みこたえたものがあつたであろう。
「災難は忘れた頃に」とは,よく古くから言い慣らされている事ながら,今回の津波も昭和8年にあつて28年め,明治,大正,昭和の三世代を生き貫いた長老の中には,すでに三回もの大災禍を経験している人々も幾多あるに違いない。時によつては,三陸沿岸の近くに,或る時は今回の如く1万有千キロも距つた遠隔の地に,この事変発生の起因が存在することは今や否定する事の出来ない事実として,我々は経験したわけである。
前兆なき地変,無警告津波,類例少なき今異変からの幾多数々の教訓の中から,前回の場合(昭和8年)のものとを綜合して,四.五を拾いあげ,尚後の心構えに備えたいと思う。
その1.無感津波に直面して
常識として津波の規模の大小に関らず,有感地震を伴なうものの如く考えられておつた事が,今度のケースによつて,無警告津波にも大規模なもののある事に直面して私達の津波襲来の一般的常識に新生面が展開せられた事により,沿岸人としての異変発生に処すべき日頃の心構えを新たにせざるを得なくなつたことが,まず以て今回の最も大きい教訓の一に数えあげ得られよう。
その2.津波を甘く考えることが大禁物
前回(昭和8年)における当地の流亡者や,今度の人的被害の最も大きかつた大船渡市の犠牲者の中には,他地方からの移転者にして実際に津波経験なく,それがこの事変に対する関心を弱め,津波を甘く考え過ぎ,これが延いて事件発生への対処宜きを得ずして,あたら一命を魔海に呑みさらわれたといつた例は少なくない。
自分達は“恐るべきものは恐れ”毫もこれを軽視することなく事態の規模の大小,緩急の如何を問わず,その筋の警告,誘導に対して率直に,而して敏速なる対処行動を執るべきの心溝えを平素持ち備えておくぺきであろう事が考えさせられる。
その3.「身をもつてのがれよ」を信条に
災事に際会して,せめて「一くさ」なりともと思うのは人間の情である事には違いない。然し時によって,この物欲が思わざる尊き生命を左右する最大動因となることを考えておかねばならぬ。
津波の来襲に遭い,一度は家から出で立ちて危機を逸しながら,一旦の潮引きし間をうかがい,再襲を考慮することもなく,衣類なり,布団なり,鍋,釜
の一つもと未だ完全に流れ去らぬ我が家に立ち戻り,持ち出ださんとする間に,前波をしのぐ高波の再襲にあえなく一命を捨てし人あるを聞く。
中には,単なる物欲からの行動ならず,明日の学業を思い,せめて学校道具ばかりもと,これを求め整える間に,災を被り遂に波浪にさらわれ,惜しき命を猛波に奪い去られし学童の話。危険地域にある人々の特にも宣しく心すべき戒しめと語る。まず,「身を以て安全地帯にのがれよ」の信条こそ。
その4.津波避難訓練を重んじよう
「咽喉元過ぐれば熱さ忘る」は常人のつねである。私達には,万一の災害に対していざとなると,とかくに事変適応の行動を執りかねるのが一般的通弊である。
昭和8年の津波罹災沿岸都市にあつては,毎年3月3日を記念し,避難訓練行事を実施している市町村があるが,些やかなこの模擬的訓練の効果が,今回の津波によつて,高位にその実を発揮されたと,岩手日報が情報を発表している。
普通お互いは,知的理解にのみでは,その実効を奏し得がたい恨みがある。
一旦知的に訴えられたものが行動に実現する事により,確実性を深めるものであろう。凡夫たる悲しさ,急変に当つて周章狼狽はつきものの如く,その為,思いも寄らぬ不覚を招く事は充分に有り得る事実である。これが只一年一度の行事によつて心新たに,その事件に対処し得るの心の準備を整える事を思えぱ,この訓練は人事ならず。今次の災害によつて愈々その意義の深く且,大切である事を諭された事と思う。
その5.サイレンの警笛に
沿岸都市としての当地には時報用のサイレン(非常時用にも供される)の外に魚市場用のものもあり,これが混同を来すことも考えられる事があり,また町備付サイレンにあつても.火災警報と津波警報との警笛様式の別が劃然と立てられ,民衆の各自がそれをよく認識しておく事の必要性を感じられる。警笛に目を醒まし,確かに事変の発生であることを知りながら,即座に,その災事の何れかに戸惑う。現にこんど釜石市にあつて,罹災者中には,釜石製鉄所の時報か,警報かに迷いし人々もありしと聞く。これは決して他所事ならんと思う。
その6.建築の基礎工事は堅牢に
今次当町にあつて最大被害地域の一つであ雁舞道埋立地について一考される所がある。この埋立地に建ちし引揚者住宅十軒は空しく流失跡形もなきに,同地域中,鉄橋下近き方向にある町営住宅は床上浸水,一部破損に止まりたる現象につき,その因る所を考察するに,その原因の一つではないにしても,確かに建築工事の差にある事が思われる。即ち町営住宅はその建設基礎工事が特に堅牢建築法によつた事に思い当たるのである。今後,防波防潮施設の完壁が期せらるるにつけ,特に沿岸近くの津波災害に見舞われ易い地域への住宅建設は一層十分なる考慮が要せられる所以であろう。
その7.防波,防潮施設の第一試練
昭和8年大海嘯における当地の防波,防潮堤の施設,洲崎防潮林の造成第一試練期であつたといえよう。最大波高4メートルとすれば,如何に急激なる波状にあらずとも決してこんどの被害位に止まる筈はない。将来とて完全に津波の被害を阻止する事は不可能ではなかろうか。要はその災禍を最少限度に食い止める方策と施設の充実に待たねばなるまい。明治29年,昭和8年両度の津波に甚大な被害をうけた吉里吉里地域の痛手の僅少にしてすんだ事は,最もよき例証ではなかろうか。軌を一にして前回は殆んど全村壊滅に頻した県北田老村が今度は全く殆んど被災を見なかつたことである。これ一に,防波,防潮施設の宜しきを得た賜物というを得ぺく,私達,罹災地区民として,今後,町のこの方面への深き配慮ある施策に対して万腔の賛意を表するとともに,他面,これが永久に保全愛護の精神を持すべき事を諭さるる所があつた。
津波被害予防法及び地震津波に対する心得
ここ最近明治年間から昭和時代に亘つて当三陸沿岸は,明治29年,昭和8年の二度の大海嘯に見舞われ,ともに人的物的に甚大な被害を被むり,その後当町にあつても苦しい町財政の中からこれが災害予防に対して防浪,防波,防潮林など,いろいろな施設に費が投ぜられ,その実現が図られたにもかかわらず三度,今次のしかも休感地震を伴わない津波という類例の少ない現象に直面したのである。これについて今後復旧,復興対策の一環の中に,町としての津波に対する施策も講ぜられる事であるが,今迄に研究或いは実施された津波予防法と地震津波に対する心得を左に掲げて宿命人としての心構えに供したいと思う。
1.津波予防法
1.住宅地高地移転
2.防浪堤の設備
3.防潮林の設備
4.護岸の建設
5.防浪地区の設定
6.緩衝地区の設定
7.避難道路の建設
8.防潮壁の建設
9.警報伝達組織の完備
2.津波の警戒
津波襲来は予知することは困難というが,その副現象に注意することによつて幾分でもその被害を滅少することが出来る。
(1) 津波には大規模の大地震を伴うもので,その地震動はこれに緩急種々の区別があるであろうが,概して大きく揺れ,且つ長く継続するものであ
る,(昭和35年のチリ地震津波は特殊な事情にあつて無感津波であつた。)
(2) 地震と津波とは同時に発生するものであるが,その伝播速度に差があつて,その発生より海岸に到着するまでに,地震が30秒程度であるが,津波は30分乃至40分を要するものであること。
(3) 津波の襲来の時には,遠雷或いは大砲のような音を数回聞くこともあるが,それは地震後5,6分乃至十数分後に来ることが通例である。
(4) 津波は三陸沿岸においては引潮後をもつて始まるのが通例ではあるが,何時も左様だと思つてはならない。例外の場合もあると思わなくしはならない。
(5) 海水の引潮に影響されてか井戸水の減退の徴候現われ,その速度,或いは大,小は,引潮の大小によること大きいもののようである。
以上のようなことを自分達の常識として,それぞれの準備と心構えとを怠つてはならぬと思う。若し一朝,不幸にして今時のような災害に遭遇した場合はびくともせぬ訓練を積んでおく事は大切だと考える。
3.地震,津波に対する心得
▲あわてるな、先ず落ちついて……
(1)丈夫そうな机,タンスなどの蔭に身を寄せて,桁,梁の破壊の危険からのがれよ。
(1)地震か起きたら先ず出口を開けて,逃げるに便利な交通路を見つけておけ。
(1)家屋の倒壊するのは余程の強震であるから,あわてて飛び出して怪我するな。
▲避難する時には……
(1)あわてずに,地割に落ち込む心配のない空地などに避難せよ。
(1)瓦などが上から落ち込む心配があるから気をつけよ。二階などが却つて安全である。
(1)屋内の火には灰をかけるか水を注ぐかして,その上に,鉄瓶,鍋,釜でもかけて飛出すことを忘れるな。
(1)電灯は安全器によつて電流を遮断して,漏電による失火を防げ。
(1)塀,塗壁,煉瓦,建物,煙突,石垣,石灯籠、石塔,崖の下等は,倒壊,崩壊する危険があるから近寄るな。
▲山聞の人は……
(1)崖崩れ,山津波の危険があるから注意せよ。
(1)長雨後の地震や,地震後の大雨のときは、特に気をつけよ。
(1)土砂,岩石の崩壊が河水の流れをせき止める恐れがあるから気をつけよ。
(1)迅く安全な所に避難せよ。
▲海岸の人は……
(1)緩慢な長い大揺れの地震(時計の振子が止り,棚のものが落ちる程度のもの)があつたら,津波襲来の虞れがあるから,少くとも1時間位は警戒せよ。
(1)家財に目をくれず,身一つで家族を連れてのがれよ。
(1)直ちに高い所,安全な所へ避難せよ。
(1)避難する時は,川添えを逃げると危険。
(1)夜には灯火を上げ,警鐘を打つて警告せよ。
▲平素の心得……
(1)常に非常用のマツチ,ローソク,懐中電灯,履物等を用意し,一朝事が起きたら,あわてぬ準備が必要。
(昭和8年3月3日,大槌海嘯略誌を参照)
〜大槌尋常高等小学校臨時海嘯調査部発行
津波災害記念碑について
幾星霜の長い間無情な風雨に晒されてねむる路傍の津波の石碑にも厳然とした歴史が大河の如く悠々として流れて果てることを知らないのであろう。
それは大自然の動きによる大変化とそれから生じる我々に与える大きな試練の結果を重点的に石材に彫刻したのが津波の石碑である。本町にも苔むした自然石に海嘯溺死精霊塔や明治29年6月の津波惨状記録,昭和8年3月の津波に各所に建てられてある大海嘯記念碑に刻まれた教訓がある。
道行く人々よ!しばらく歩行を止めてもう一度石碑を一読されるならば、その当時の津波の襲来の断末魔の声が聞え,その様相が目に浮び自から溺死者の霊に黙祷を捧げ教訓を更に深く銘記することであろう。
そして此度のチリ地震津波災害記念碑が災害激甚地の確舞道入口の安渡橋ふもとに,津波の教訓と記録を伝え罹災から敢然と復興して更に新しい構想の建設に邁進せんとすることを誓つて建立したのである。
石碑は黙として語らないのであるが、無言の石碑に数多く教えられることであろう。
大槌町の藩政時代からの津波記録の古文書が数あるが特に,安政3年7月津波記録には,当時の年寄りからの言伝えでは青葉のころには津波がない!この程の地震には幾度もあつたが津波がなかつた!と油断中に恐しい津波が来たから四季にかかわらず地震が数回あつたならば油断をするな!これからの人々の為に書いて置く!と記してある。
この我々の先人が書いた教訓も守らなければならない。
天然の良港と絶景の国立公園を持ち,それに沖合の海流は黒潮暖流と親潮寒流及び津軽海流分枝の三海流が相交して両系の多種に亘つて魚族が豊富の三陸漁場を有し恵まれたる大槌漁港にも一瞬にして人命を藻屑と化し巨額な財産を奪い去る津波の襲来は忘れてはならない。
この稀有のチリ地震津波災害を深く顧みて災害対策に完全を期することが第一である。それからこの世界に誇る太平洋の富源を更に更に開拓し我々の幸福が長く続くことこそ最も幸いであると祈念して止まないのである。
チリ地震津波災害記念碑の教訓
1.地震があつたら津波の用心せよ。
普から強い地震があると津波が来るとされている。
震央からの距離等又は諸環境による津波の大小は別として,地震があつたならば津波に対する用心が第一としなければならない。
1.地震がなくとも異常引き潮は津波と思え。
三陸沿岸民が常に津波におびえているその第一予感が地震である。昔から地震だ!津波が来ると直感しているのに地震がないと案外津波に無関心である。
しかし,南米チリの地震津波の余波で地震がなくとも津波が来ている。津波には必ず異常引潮が起るから常に引潮に注意が必要である。
今度の津波の際は,幸い早朝に出漁する人々の発見により早期警報で特に人命に損傷がなかつた事が不幸中の幸でもあつた。
1.津波があつたら高い所へ逃げよ。
津波警報があつたならば最も近くて高い場所に逃げなけれはならないから不断,津波だ!と言う時の逃避訓練が必要である。そのためには避難道路の施設も必要とする。どうしても高台に逃避が困難の場所は庭に大木等を植える事も考えなければならないのであろう。
過去の津波
津波の歴史
三陸海岸は魚族が豊富なるため本邦有数の好漁場に特有の海岸線豪壮を持つ「国立公園」は,あまりにも有名であるが,それに加えるものは「津波災害地帯」が有名である。
その昔から三陸漁民は津波災害で「被害』……「復興」を繰り返されて息つくひまもなく,文字通り裸一貫から次の新時代を企画しなければならなかつた。
一代に2回或いは3回と津波に遭難することがあるので、過去の津波を各資料によつて現わすと次のとおりである。
地震津波について
貞観11年5月26日(西暦869年)
震源地三陸沖津波の階級4
陸奥国地大いに震動し流光昼の如く隠映し,少頃して人民叫呼伏して起る能はず,或は屋倒れ圧死し或は地裂け,牛馬駭き走り或は相昇踏し,城
廓倉庫門墻垣,頽落顛覆するもの数を知らず,海上哮吼の声雷霆に似たり。
驚濤涌潮沂漲溢し忽ち城下(地名不明)に至り海を距る数百十里浩々其涯際を知らず原野道路随つて隠濘したり,船に乗ずるに遑あらず,山に
登るに及び難く溺死するもの数千人資畜産苗稼殆と子遺なし。
正嘉元年8月23日(西暦1,257年)
震源地房総沖津波の階級1
久慈および野田に津波あり。
天正14年5月14日
震源地ペルー
震央は三陸沖に非じるも陸中地方にまで津波あり。
慶長16年10月28日(西暦1,611年)
震源地三陸沖津波の階級4
三陸の地大いに仙台及南部,津軽,松前,諸領の沿海嘯を賜ぐ。
大津波ありて伊達正宗領内にて溺死1,783,南部,津軽にて人馬溺死3,000余あり。
大地震三度仕其次大波出来致候て山田浦は房ケ沢(山田町の西20丁許りの処)まで打参候由この波は寺沢(山田町小丘の後当れる小文字)まで参候外織笠村礼堂(織笠の西10数町)打参申候 偖浦々にて人死数知れず鵜ノ住居大槌村横沢の間にて20人津軽石にて男女150人大槌津軽石は市日にて数多く死申候。
口碑によれば此津波は小鳥谷より大浦に越したと云う。
慶長19年10月25日(西暦1,614年)
震源地越後高田沖津波の階級1
越後国高田津波を伴い死者多し。
元和2年10月28日(西暦1,616年)
震源地陸前沖津波の階級1
大槌地方は大津波,其の日八日町市日にて朝より度々地震,波押上候,前沖の方「どんどん」となり候ひ大波山の如く参り川には汐水上げ引汐には大松古木家引崩し申候,市日なれば慾に離れ候者は命助かかり大慾の者は老若男女大分死明神様の下迄汐水上り候由。
寛永元年11月23日
相州小田原地方にて大海嘯,三陸沿岸地方余波を受け死傷あり。
寛永17年6月13日(西暦1,640年)
震源地北海道噴火湾津波の階級0
北海道駒ケ岳噴火し,内浦湾に津波起こり死者多く出す。
慶安4年
震源地チリ
陸中亘理郡に海嘯襲来。
寛文2年9月9日(西暦1,662年)
南部領大震海嘯。
延宝5年3月12日(西暦1,677年)
震源地三陸沖津波の階級2
陸中国南部,地大いに震ひ大槌浦,宮古浦,鍬ケ崎浦等海嘯暴溢し家を破る。
3月12日の戊刻(午後8時)より地震同夜中24〜5度あり又同13日己刻(午前10時)強震あり同15日まで昼夜度々あれども何れも弱し城廻破損等
無し,大槌浦20軒余流失。
宮古浦12日戊刻より13日の朝まで地震9九度子丑刻(午前2時)まで大波三度上る。鍬ケ崎浦にて在家少々浪にとらる。
大槌地方,夜子刻(午前零時)より大地震隙もなく子の半時(午前1時)に大汐津浪共可申程の汐さし人,浦々騒動,浜端の家々余程損山々に諸道具穀物取くばり其月中騒動致し家の敷居まで水上る。
3月12日〜26日まで地震が続く。またIO月9日にも津波あり。
貞享4年9月17日
震源地ペルー
陸前亘理郡に津波襲来す。
西暦では1,687年10月20日にペルー地震が発生し22日に到着している。
元禄2年
震源地三陸沖
陸中国海辺津波あり。
元禄9年6月27日
震源地メキシコ
磐城小名浜に津波があり多数の死者を生ず嵐強く船破損多し。
元禄9年11月1日
石巻河口に高汐襲来船300隻を流し溺死者多し。
元禄12年
大槌地方,この年極月(陽翌年1月20日)夜九ツ(午前零時〉に大汐さ
し海辺大分騒ぎし人馬怪俄なし。
元禄16年11月(陽12月9日)
江戸上方々面殊の外地震此地(大槌地方も11月22日の晩四ツ(午後10時)過大地震大騒ぎす。
註11月22日申子丑刻(午前2時)武蔵,相模,安房,上総諸国地大いに震い就中江戸,小田原被害最も甚し続いて海嘯暴溢し関東の沿岸其災を被り余震年を超えて止まず。
享保15年5月25日
震源地チリ
陸前国,宮城県本吉牡鹿桃生等四郡に津波あり,田畑に被害を生ぜり。
西暦1,730年7月8〜9日にチリに地震が発生し9日に日本に津波が到達している。
寛保元年7月18日(西暦1,741年)
震源地北海道大島周辺階級3
大島噴火人家20余軒漂沈死者1,467人。
宝暦元年5月2日
震源地チリ
未の刻(午後2時)より浦々大汐七度指入り民家へは敷板まで田畑水の下に相成り四日町,八日町,向川原,裏道海の如く,酉の刻(午後6時)潮引人馬怪我無之御目付所御勘定所へこの段訴へる。(大槌地方)南部藩五度の津波中最も弱いものの如し。
(震源地チリ国コンセプシヨン市移転〉
(西暦1,751年5月24日のチリ地震が26日に津波が到着している)
宝暦12年9月15日(西暦1,762年)
震源地越後沖階級1
震後津波あり,鵜島村の人家26戸流失。
宝暦12年12月16日
震源地陸奥東方沖階級1
八戸津波を伴えり。
安永3年5月3日(西暦1,774年)
大地震箱崎浦(南部領)にて端午の節旬の用意に海草魚介採取中の女
子供の死亡多数あり。
天明2年7月15日(西暦1,782年)
震源地相模沖階級1
陸中津波のため被害あり。
天明6年
震源地陸前沖
(宮城,岩手県海岸に津波襲来)
寛政4年4月24日(西暦1,792年)
震源地北海道積丹半島沖階級1
後志津波にて家屋流失し死者あり。
寛政4年12月28日(西暦1,793年)
震源地西津軽沖階級1
鰺ケ崎町付近に津波あり。
寛政5年1月7日(西暦1,793年)
震源地陸中沖階級2
大槌地方,午刻(正午)大地震浦々え大汐押入騒候に付,早速一先御目
付御勘定所え御訴申上ぐる。両石村にて流失破潰家屋家71軒痛家8軒流失,船舶19艘溺死者男女9人釜石村にて流失船舶2艘川岸通所々損大槌村にて流失船舶3艘人家不尠破損,右の大地震以来此年中日昼夜8,9度位又は5,6度位宛地震有之候珍事と諸人中唱候。
御手当壱軒御代物壱貫文御味噌壱貫下被,外高作御役銭半分御免。
大槌湾の珊瑚島海中に沈す。
大横須賀通り死者13名。差水も7日ばかりの間は押来り3,4月までは大小の地震毎日折々之あり
文化元年6月4日(西暦1,804年)
震源地出羽国象潟階級1
羽前羽後両国津波襲来し,死者333名を生ず。(地震と合わせて)
天保4年10月26日(西暦1,833年)
震源地佐渡羽前沖階級2
出羽国庄内および佐渡国津波襲来し流失水死者等あり。
天保6年6月25日(西暦1,835年)
震源地陸前沖階級2
磐城陸前等民家数百軒流失し死者数知らず。
天保14年3月26日(西暦1,843年)
震源地釧路,根室沖階級2
津波の被害多し。(根室,釧路,陸奥国)
弘化4年7月17日(西暦1,847年)
震源地チリ
陸前海岸,気仙,本吉郡方面汐溢れ大小の船75流失,漁夫335人死せり。
安政元年11月(西暦1,854年)
(いわゆる安政の大地震のは,サンフランシスコ,サンデイエゴに15.6cmの小津波を送つている。)
安政3年7月23日(西暦1,856年)
震源地北海道渡島西方沖階級1
此度之地震は7月16日頃より月々一,二度づつ毎日震ひ日増に相成20日頃に至り候所昼夜に七,八度21,2日に相成昼夜に十二,三度23日に相成朝五ツ頃(午前8時頃)より九ツ頃(12時頃)迄五,六度目下刻(12時半)に至り三度程強く震ひ候得共先年より老人衆之申伝には青葉節は汐」,り不軸前齪喉通却・(鰍2年〉7月3日同10月2日之地蹴雌より余程強く震ひ候得共汐も上り不申殊に我等も当年64才に相成候得は此度程の地震には幾度も会侯得共年寄衆之申伝之通何之騒敷事にも会不申殊に我等居宅は恐るる場所に無之故安心之所少数有之候間油断いたし居り扨夫に付能々相考見候得は全く地震の大小に不相抱候儀と被思候7月は盛んに青葉之節に候所大汐押上候は四季地震の大小にも不抱数日いたし時は必油断不可致又は浦々破損は浦口に依り汐南北へ之差引東より差入て浦口に依り破損可有之候此度之大汐は沖は南江差海岸筋は北江差候其訳は先年両石浦は荒増破損之所此度は少茂障り無之其時之汐の差引に依り浦々に寄り破損可有之候間必々此度の汐障り無之心得在以此末共に障りなきものと思ひ候者油断之専一也何れの浦方にて茂汐の差引に寄り候四季に不相抱地震日数いたし候はゞ油断不可有之候後年之少敷心得にも相成哉と書記し置もの也。
大槌町向川原は床の上5,6寸水上り光岸寺の前迄水押行候須賀之長兵衛居家は勿論諸道具は不及申納屋不残裏田江流込五十集桶は明連院裏へ流行家内立之儘に而逃れ去外に茂痛候得共同人は可申様無之大痛成。
四日町に住居罷在候松之亟と申家大工其親安渡に住居親介抱之為道中にて汐に流れ溺死4,5日過死骸洞の前稗畑に有て候外人馬に怪我無之田畑之捨候四日町過迄水押上り候。
安渡浦は五十集道具並に家具稀に相流し候者有之春木薪類は相応に相流れ申候格別之痛無之徳右工門所之230石積之船志和明神前へ流行里屋忠兵衛所之305,60石積之船洞之近所之田形の中江流行下ケ方に五十両茂相掛り可申候。
吉里々々は此日天気宜敷波静故小漁船は不及申鰹船3艘出船いたし候間男共は留守故女子供之忽々敷事可申様無之如何様申諭侯而茂親を思ひ子夫を思ひ歎騒き候故供に心細く相成申候家具等舘の稗畑申に不及小舘田中庭や大勢居候実家へは名子共道具喰物等持運び8,90人昼夜居候煮焼は銘々外にて致し28,9日迄居候地震は8月11日迄昼夜に二,三度づまゝいたし候故心配も,もつともの事に候。
津波後快晴の日が幾日も続いたので罹災者は毎日幾度となく襲う地震におびえて裏山に逃げ上リバラツクを立てたり避難していたが,なかなか地震が納まらないので小鎚神社に群衆が集まつて御祈?を上げて地震の鎮まるのを祈つた8月になつて雨が多く3日頃になつてから代官の救護の手が延びて困窮者にのみ1人に付御米2升2合当貸付された。
須賀通り藤屋借家住居の者に玄米3升宛福島屋五兵衛より籾5升宛施与す。
明治元年6月(西暦1,868年)
震源地チリ(ボリビヤ地震)
宮城県本吉郡に小津波が襲来す。またハワイにも被害ある。
明治10年5月11日(西暦1,877年)
震源地チリ
函舘において明治10年5月11日午前10時30分頃より汐の干満異常を呈し,同時刻の乾度平日より3〜4尺低く満度また4〜5尺高く13〜14分間毎にかくの如く進退すること4回に及ぶ遂に漸次増加して午後2時30分頃には平日より6〜7尺高く船場町および月見橋近傍は汐あふれて海の如し,同3時過より追々鎮静し同7時30分全く静まる。
明治26年6月4日(西暦1,893年)
震源地北海道色丹島沖階級0
震後根室釧路沿岸に2,5メートル程度に津波あり。
明治27年3月22日(西暦1,894年)
震源地釧路根室沖階級2
陸中に死者あり。田老波高1.5メートル
明治29年6月15日(西暦1,896年)
震源地三陸沖144.2。E,39.6。N階級4
午後7時32分20秒弱震あり約18分を経て海水干退し,後約10分増水少時に再び稍々退潮,同8時7分に至り大激浪轟々遠雷の如き響をなして襲来し,其の後相次いで凡そ10分位の週期を以て前後8回顕著なる高浪の反覆来襲あるも次第に其勢減殺され,其後海水増水の浪跡は翌日正午頃に及びたり。本震後引続き余震あり25日までに59回の微弱震を続発するも概ね微震のみなり。
津波は第2回の巨浪最も強く幾多の生命財産を一掃し去りたるものにして岩手県沿岸被害最も甚しく最高浪は気仙郡吉浜にて24メートル4を示した。
死者2万千9百53人負傷者4千3百98人流失家屋1万3百70棟。
ハワイ諸島にも被害を及ほす。
南閉伊郡海嘯紀事によると次の通りである。
明治29年6月15日津波概要
1.事実
(1)発作ノ年月日時〜明治29年6月15日午後8時20分
(2)当日ノ気象〜朝来風ナク陰欝ノ天候ニシテ雨露交々至り温度ハ80度乃至90度ヲ昇降シ気圧モ共二平日ヨリ昇騰ス
(3)地震ノ数〜13回
(4)津波襲来ノ状況
6月15日暮方数回ノ地震アリ午後8時頃東閉伊郡沖合二於テ轟然一発,
巨砲ヲ放チタル如キ響音アリ,其ノ音響ノ歇ムヤ未ダ数分時間ナラサルニ
海嘯俄カニ至り,狂瀾天ヲ衝キ怒濤地ヲ捲キ浩々トシテ陸地二押シ寄セ来
リ,市衛トナク村落トナケ総テ狂瀾汎濫ノ沈スル所トナリ沿岸一帯70余里
僅二一瞬間ニシテ平砂荒涼,死屍壊屋ノ累々タル満目惨怛タラサルナシ。
2.南閉伊郡沿海町村海岸罹災ノ状況
本郡痢閉伊郡)郡長一ノ倉貫一氏ハ6月27日ヲ以テ被害ノ状況ヲ県庁二向ヒテ左ノ如ク報告セリ。
(1)羅災ノ状況
明治29年6ヌ115日朝来曇天ニシテ午後第4時頃ヨリ降雨アリタレドモ海波静穏ナリシガ午後第8時ヲ過ギ大雨トナリ,前後1,2回ノ震動アルモ微弱ニシテ知覚セサル者多キカ如シ,午後第8時20分頃二至り突然異様ノ音響アルヤ否湾内怒濤ノ如シ,海水一時二暴漲シ其ノ高サ約40尺以上二達ス,即チ海嘯ノ第1次ニシテ此時過半ノ家屋ヲ倒シ,瞬間ニシテ再ヒ激浪襲ヒ来ル,之レ第2次ナリ。此ノ第2ノ激浪ヲ以テ現在ノ如キ惨害ヲ与へ海水ノ達セシ部分ハ殆ンドー掃シ去り,更二前形ヲ止メサルニ至り,暫時ニシテ平水二復セリ。
此ノ日ハ恰モ陰暦5月5日二当り所謂端午祝ト称シ,戸々多少ノ酒餅ヲ供へ祝意ヲ表スルノ習慣アリテ,当時ハ尚ホ灯火明灼タリシモ,第2次ノ襲波二依リテ被害地全部ハ悉ク暗黒トナリ,僅カニ命ヲ保ツモノ其ノ破壊セラレタル屋上二,床下二,或ハ海水中ニ在テ悲声助命ヲ呼フ,其ノ悲惨ナル実二名状スヘカラズ,依テ助命ヲ為サントスルモ如何セン,陸ニハ破壊家屋ノ残材一面二横ハリ或ハ積テ山ヲ為シ加フルニ泥土深ク覆ヒー歩タモ通ス可カラス,海ニハーノ船ナク良シ之アルモ破砕ノ木材及家具等一面二漂流シ,船全ク進行スル能ハス,然レトモ素ヨリ其ノ儘看過スヘカサルカ故二,或ハ焚火ヲ以テ漂流者ノ目標二備へ,其他為シ得ル限リノ手段ヲ尽シ,町民吏員及非罹災者協力辛フシテ救命セシモノ鮮少ナラス,災害後雨霽レ海波稍々常二復スルカ如クナレトモ時々震動アルヲ以テ再ヒ災害ノ起ランコトヲ恐レ人心恟々トシテ止マス,父子兄弟互二其ノ所在ヲ捜索スルモノ四方二彷復シ,絶叫ノ声払暁二至ルモ尚絶ヘサリシ,今其ノ被害ノ概況ヲ挙クレバ別表二掲グルカ如ク,釜石町,大槌町,鵜住居村2町1村
総戸数2千7百5十1戸,其ノ人口1万6千7百9人ノ内,罹災戸数千6百5十1戸,死亡者5千7百1人ニシテ現存セルモノ戸数千百戸,入口1万千8人ナリ,就中被害ノ最モ甚シキハ釜石町ニシテ戸数千百5戸,人口6千5百2十9人ノ内,罹災戸数8百9十8戸,死亡人口4千4十1人ニシテ現存セルモノ僅カニ2百7戸人口2千4百8十8人二過キス,又鵜住居村大字両石ノ如キハ戸数百4十4戸,人口9百5十8人ヲ有スル部落ナリシニ全部流亡二帰シ,其ノ余ス所僅カニ戸数3戸,人口百3十4人ノミ。以テ其ノ惨状推知スルニ足ラン。
(2)罹災後ノ状況
罹災者食料給与二関シテハ務テ敏速ヲ要スト難トモ被害町民ハ元来米穀欠乏ノ地ナリシカ故其ノ供給ノ足ラサラン事ヲ慮リシニ,幸ヒ被害町村中貯蔵穀ノ存スルモノアルト,隣郡二其供給ヲ需ムル等ノ準備ヲ為シタル為メ給与上毫モ支障ヲ来ササリシ,爾来今25日迄十日間ニ焚出米ヲ給与セシ人員ハ6千8百2人ニシテ其穀数百83石9斗4升1合ナリ,其内有志者ノ寄贈二係ル者28石6斗6升ナリ,今後引続キ食料給与スヘキ人員ハ
5千9百76人,其穀数2百39石4升ナリ。
負傷名救護二付テハ地方医ヲシテ施治セシメントスルモ,従来被害町村ハ医師二乏シク殊二釜石町ノ如キハ,1名ヲ存スル外災害ノ為メ死亡セルヲ以テ他ヨリ医師ヲ招傭シ,一時急ヲ救ヒシモ,充分ナラサリシカ日本赤十字社岩手県委員部ヨリ救護医以下ノ派遣アリ,又第2師団ヨリ特二軍医及看護人等ノ出張アリシヲ以テ釜石町ハ臨時病院ヲ尋常小学校内二設ケ患者ノ種類二依リ,入院セジメ,其他大槌町,鵜住村ハ地方医及赤十字社岩手県委員部派遣ノ救護医二於テ巡回治療シ,尚ホ第2師団ヨリ出張ノ軍医ノ施治ヲ以テ救護中ナリ。
罹災後死躰ノ蒐集及埋葬二関シテハ西閉伊郡遠野町消防組4百人義挙,来襲ヲ機トシ,之力蒐集発掘二着手シ,継テ附近ノ町民及ビ西閉伊郡各町村ヨリ人夫ヲ募集シ,警察官卜協カノ上、各所二散在セル死躰ヲ蒐集シ之ヲ埋葬セリ,爾来人夫ヲ使用セル入員5千24人ナリ,而シテ本日マテ死体ヲ埋葬セシモノ千5百人ナリシモ死亡人二対シ4分ノ1二過キス,過半ノ死骸ハ海中二埋没シ去ラレタラン。
3.大槌町の部(安渡,赤浜,吉里々々,波板)
(1)当日の情況
大槌町ハ大海嘯ノ当日ハ,同町出身凱旋兵ノ為二祝賀会ヲ南端海岸ノ洲崎二開キ,余興トシテ多クノ花火ヲ製造シ,昼ハ海中二船ヲ浮カヘテ狼煙ヲ天二漲ラシ,夜ハ会場付近二於テ之ヲ打揚ゲタリ。
去レハ,全町ノ有志家ハ朝来ノ雨ヲ厭ハス子女ヲ伴フテ会場二参集シ,名誉アル兵士ヲ歓待シー同興二入リテ時頃トナシリ,而シテ花火ハ第4発
目ヲ打揚ゲ終リヌ,折カラ沖合二当リテ百雷ノー時二落ルカ如キヲ聞キ人々奇異ノ思ヒヲ為スウチ地震ヲ感スルト同時二第2回目ノ海上鳴動ヲ聞キヌ。此度ハ第1回二比シテ響キノ高キコト幾層倍,若シヤ海嘯ニハ非スヤト疑フ間二浜辺二在リシ人ノ叫ビトシテ,「海嘯々々」ト声ヲ限リニ呼立ヌ。果然大海嘯ハ大山ノ崩レ来ル如ク,極メテ速ナル勢ヲ以テ襲来レリ「アレヨ」と驚き迯る一刹那,狂瀾ハ洲崎ノ祝賀会場ヲー蹴シテ市街ノ東
南端タル大須賀ヲ衝キ,直チニ本町通リノ八日町二出デントス。アワヤ大槌市街ハ釜石同様至大ノ惨状二陥ラントセシニ,八日町ノ隅二海産物ノ豪商古舘武兵工氏ノ大土蔵ト其居宅ノ厳然之ヲ支フルアリシカハ,狂瀾之力為メニ其勢ヲ殺カレ,一ハ市街ノ南方裏手ヲ払フテ西端ノ四日町二出テ,一ハ市街ノ北方ヲ走リテ大須賀ノ全部ヲ壊セリ,大須賀ニハ戸ノ妓楼アリテ戸共二破壊シタレトモ娼妓等ハニ階二居リシ為メ辛クモー命ヲ助カリタリ。又タ洲崎ニハ5箇ノ水産物製造所アリシカトモ,跡ナク破却セラレテー物ヲ留メス。
扨テ当日ノ名誉員タル近衛一等軍曹佐々木留吉(白色梧葉章勲八等)海軍兵中村芳太郎(勲八等)ノ人ハ共二碑煙弾雨ヲ冒シテ目出度錦ヲ故郷二着ケ,空シク海嘯ノ為メニ斃ル。豈酸鼻ノ極ナラスヤ。
4.大槌町被寄報告〜(原文ノママ)
本日15日午後8時20分,突然大海嘯起リ本町内小鎚ノ内中須賀,大槌ノ内向川原,安渡及吉里々々内吉里々々,赤浜,浪板ノ七ケ所二於テ人畜,家屋大半流亡致侯二付調査候越,別紙ノ通リニ有之候条此段及報告候也。
明治29年6月19日
大槌町長後藤直太郎
西南閉伊郡長一ノ倉貫一殿
5.当町ノ人的被害
(1)一家全滅シタル者
岡本徳蔵 梅谷勘之助
木下徳次郎 東谷半兵衛
砂賀前六松
田中駒吉
三浦永吉
芳賀富右工門
(2)寡婦トナリタルモノ
三浦みね 川原はん
(3)孤トナリタル者
吉見運治 小国しゆん
越田雪郎 越田賢吉
堀谷大次郎 東谷勘助
小国とよ
小国兼蔵
門崎まさ
越田兵衛
竹沢きく
門崎たい
(4)独身者トナリタル者
岩舘儀助
佐藤三四郎
藤原とめ
佐々木三蔵
岡谷松右工門
小川文次郎
吉田富太郎
岩間元治
越田源之亟
里舘与太郎
西村みね
岡谷徳治
佐藤清吉
倉本久之助
菊池佐惣太
砂賀前留之助
阿部梅之亟
平野清五郎
6.宮古測候所概調
(1)梗概
明治29年6月15日午後8時頃ノ海嘯ハ,近代未聞ノ一大津浪ニシテ北ハ北海道及青森県ノ一部ヨリ南ハ福島県二波及シテ殆ント数百里二亘レリ。
就中,被害ノ首タル地方八本,県沿海一帯及宮城県北部沿海ニシテ其残酷ナル瞬間二許多ノ生命産財ヲ蕩尽セリ。然り而シテ本県沿海各町村ノ惨害ハ実ニ名状スヘカラス,本所々在地近傍二於テモ亦惨毒ヲ蒙ラサル所ナク其甚シキハ全村流亡セシ所アリ,其他被害ノ状況ヲ一々記スレハ枚挙二遑アラス,又其棲槍タル有様ハ殆ント形容二辞ナク唯酸鼻ト云フノ外ナキナリ。而シテ斯ノ如キ惨状ヲ呈セシ首ナル地方二於テモ被害ノ度二軽重アリ,本所々在地ノ如キハ割合二少キ方ニテ此等ハ他二一,ニノ理由アレトモ,概ネ港湾ノ地形二関係スルモノノ如シ。
古来ヨリ太平洋沿岸地方ハ海嘯ノ害ハ免レサルモノノ如シ。而シテ未タ旧記ヲ調査スルノ暇ナキヲ以テ当地方ノモノニ於テハ未タ明瞭ナラスト雖モ,去今280年前元和2年(月日不明)二大海嘯アリシト,又40年前安政3年7月23日(陰暦)正午頃二起リシモノハ所二依リ(青森県八戸地方ハ甚タシカリシ由)被害ヲ蒙リシモ這回ノ海嘯二及ハサルコト遙カニ遠ク尤モ地震ハ強ク且ツ頻繁ナリシト云ヘリ。今這般ノ海嘯二就キ本所二於テ観測セシ要領ヲ左ニ
(2〉当日ノ異常ニツイテ
(1)地震ノ有無〜各地トモ地震アリテ而シテ後津浪至ル,函舘室蘭二於ケルモ亦同ジ。
(2)音響ノ有無〜大砲ノ如キ又ハ遠雷ノ如キ響ヲ聞クモ,各地皆然リ,独り宮城県志津川二於テハ之ヲ聞キ得シモノナシトイフ。
日本新聞2439号二日ウ(前略)而シテ他ノ地ノ所ニテ何レモ聞取シトイフ。大砲様ノ音響ハ独リ此ノ志津川二於テ聞キ得シモノ1人タニナカリキ,是レ頗ル奇談タリ云々。
(3)波ノ高サ〜田老村以北数里ノ間ハ被害ノ最モ激甚ナリシ場所ニシテ,浪ノ高サ15丈余リニ達シタリトイフ。
(4)光明ノ有無〜無数ノ怪火,野田駐在所ノ巡査遊佐某ハ,海嘯ノ当夜所轄部内ノ宇部村ヲ巡回シ,午後8時20分頃,駐在所ヲ去ル10町許リノ所マテ帰リシニ海上異常ノ鳴動ヲ聞キ,怪ミナカラ野田二近ツクヤ,海潮ハ曽テ見シコトナキ高所マテ浸入セリ。其逆二津浪ト思ハサレバ暫シ佇ミ考フル内二大キサ提灯程ノ怪火其数数十トナク野田ノ民家ノアル所ヨリ背後ノ山二懸ケテ高低ニ幻光ヲ発シタレハ云々。
田老村字小港ノ山上ニアリシモノノ話ニ,時ナラヌ濤声ヲ聞クー刹那海水ハ300間余リ退干シテ全ク海底ヲ露ハシ,蒼白ノ異光燦然タルヲ目撃シタリ云々。
(3)前兆〜所謂前兆ナルモノ数件アリ左ニ之ヲ列記ス。
(1)海嘯前ニ干潮トナリシ報告少ナカラス,其一,二例ヲ挙クレハ,本吉郡御嶽村地方ノ海面ハ海嘯ノ当日,午後3時頃,稀有ノ大干潮ニテ平時10尋余リノ深サアル辺マテモ干潮トナリタレハ老人杯ハ異変ノ前兆ナラントテ憂慮シ居タリトイフ。
(2)宮古二於ケル海嘯襲来ハ前後6回ニシテ初度ノ襲来ハ午後8時ナリ,而シテ之ニ先タツ10分即同7時50分,海潮ハ異常ナル速力ヲ以テ退干シ同時二遠雷ノ如キ洪響ヲ聞キタリト。
(3)白浜卜称スル所ノ一老女災害ノ当日,井水ノ退キタルヲ見テ海嘯ノ前兆トシテ人々ニ逃ゲ去ル様告ケタレトモ,誰一人信スル者ナカリシカ,老婆ノミハ小供ヲ負フテ逃ケ失セタルニヨリ一命ヲ全フシタルモ,他ハ皆死亡セリ。
(4)宮古町ニテハ去ル14日ヨリ30尋ノ深サノ井悉ク濁リシノミカ井ニ依り其水白ク若シクハ赤ク変色シタルヨリ人々奇異ノ思ヲ為シ居タレトモ,固ヨリ斯ル大海嘯ノアルヘシトハ考へ及ハサリシト。
(5)志津川附近ニ於テハ去ル13日頃ヨリ流潮擾乱シテ,定流ヲ変シ15日二至リ老人モ曽テ覚エサル程ノ干潮トナリ,未タ曽テ見タコトナキ海底ノ凹凸ヲ見タIJ,而シテ其夕8時ヨリ3回ノ鳴動或ハ遠雷ノ如キモノ起レリ,海嘯ノ襲来ハ実ニ8時10分ナリシナリ。
6.南閉伊2町1村字21部落に於ける海嘯潮高,溢潮及海面概調
(山奈宗真氏ノ調査二依ル)
→ 表
7.海波ノ現象及其原因
今般ノ大海嘯ノ起始ハ(海水ノ始メテ退減シタ時刻)夜間ノ如キハ観測シ能ハサレトモ凡ソ午後6時50分頃ニシテ最初ノ地震後約18分ヲ経タルナルヘシ,其後10分時間ヲ過キ午後8時頃増水シ,零時ニシテ稍々退減シ,同8時7分二至リ最大劇烈ナルモノ真二轟音ノ如キ響ヲナシテ襲来シ其後8時15分8時32分,8時40分,8時59分,0時16分及9時50分ノ6回二著シキ増水ナリシ勢力ハ漸次減殺セリ,而シテ一大惨状ヲ呈セシハ第2回目ノ激浪ニシテ忽諸ノ間ニ幾多ノ生命財産ヲ一掃シ去レリ。爾後翌16日正午頃マテハ慥カニ海水ノ増減アレトモ頗ル軽少ニシテ,精密ノ観測ヲナサヽレハ知ルヘカラス,又其著明ナル増減ハ往復8回,其ノ往復振動期ハ約10分内外ニシテ最大波浪ハ湾内二於テ約1丈5,6尺ナリシ。
元来津浪ヲ起ス原因二2種アリ,暴風及地震是レナリ。而シテ海嘯当時ノ気象ヲ通観スルニ,連日高気圧ハ太平洋二低気圧ハ日本海方面二拡張シ,且ツ其差ハ僅少ニシテ暴風ノ兆候ナリ。又,当時ノ地震二依リテ捜索スルモ,其ノ原因ハ暴風ニアラスシテ全ク地震津浪ナリシコト明瞭ナリ。
抑々震原ノ海中若クハ海岸ニアリテ強キ震動発起スルトキハ,海水二激動,ヲ与へ,水震(所謂津浪)ヲ時トシテハ沿岸ニ非常ノ災害ヲ為スコトアリテ即チ這回ノ如キ現象ヲ発見スルモノナレハ海中二大震アリシハ疑ヒナキモノノ如シ。
8.海波前後の地震及震源
当地方ハ平常地震多キ方ニアラス,本所創業以来ノ観測ニ依レハ平均1年間ニ15回ナルモ27年及28年ハ共ニ平年ヨリ1倍余ノ多震ニシテ,即チ2ケ年トモ32回ヲ観測セリ,而シテ斯ク震数ノ増加セシハ27年3月22日根室地方ニ於ケル大震ノ余波ヲ蒙リ所謂余震(俗ニ揺リ返シト名ヅクルモノ)スルヤモ図ラレサレトモ亦,這回ノ災害ヲ起ス原因ナリシヤモ知ルヘカラス。尚本年1月以降,概ネ平均以上ノ多震ニシテ就中4月ニ至リ16回ノ非常ノ震数ヲ示セリ,是或ハ今回ノ前兆ニアラサルカ,兎二角異例ノ現象ヲ呈セリ。爾後ハ別ニ異状ナカリシカ,6月15日午後7時32分30秒ニ至リテ稍々弱震シ,殆ント東西ノ方面ヲ以テ5分間水平ニ震動シ頗ル緩慢ナリシ。次テ同7時53分30秒ニ微震シ,爾後頻繁続震シ,8時ヨリ9時ノ間ニ4回,9時ヨリ10時ノ間ニ4回,10時ヨリ11時ノ間ニ1回,11時ヨリ夜半マテニ2回ノ微震アリテ計13回ヲ観測シ,翌16日ハ13回,17日ハ12回,18日ハ6回,19日ハ2回,20日ハ4回21日ハ1回,22日ハ3回,23,24日ハ各1回,25日ハ3回ノ徴震アリシモ就中,微震最モ多ク又,上下動ハ甚タ稀ナリシハ,上来述デル所二依テ観ルモ,這般ノ災変ハ地震津浪ナルコト明瞭ナリ。
然り而シテ震原ハ何処ナルヤハ未タ十分ノ材料ヲ得サソハ推算シ能ハサルモ,概ネ海岸ヲ去ル30里乃至35里辺リニアリシモノノ如ク即チ本所ニ於テ観察セシ結果,並ニ一昨年根室大震ノ際,本所ニ影響セシ地震津浪等ノ成績ニ依テ概算ヲ施ストキハ本所ヨリ東南東ニ方リ,大凡東径145度北緯39度辺ルニ震災アリシモノノ如ク,尚地震ノ性質及トスカロラ,海床ノ関係等ヨリ観察ヲ下ストキハ根室大震ノ時ノ如ク地辷リナリシヤモ知ルヘカラス
(宮古測候所発表)
明治30年8月5日西暦1,897年
震源地三陸沖143.7°E38.0°N
広田,越喜来,女川各湾3メートル
明治34年8月9,1O日西暦1,901年
震源地八戸沖141.5°E40.5°N
大正4年11月1日西暦1,915年
震源地三陸沖143,1°E38.9N
石巻一帯震後小津波襲来,女川にて2,3尺程度
大正7年9月8日西暦1,918年
震源地ウルツプ島沖
陸前鮎川にて約1メートルに達す。
大正11年11月12日
震源地チリ
チリで津波あり日本の太平洋沿岸に津波あり
大正12年2月4日
震源地カムチヤツカ沖
津波あり4月14日にもあり
昭和8年3月3日西暦1,933年
昭和8年3月3日大槌海嘯誌(抜萃)
1.津波襲来期日〜昭和8年3月3日未明午前3時
2.大海嘯記念碑
大海嘯後大槌町向川原なる江岸寺境内に犠牲者の人々の霊を弔うと共に永く此の大事変を記念し,尚後の災に備えんとして堅牢なる花崗岩を以て左の如き記念碑が建てられたのである。
記念碑文(表)
昭和8年3月3日
大海嘯記念碑
地震の時—午前2時30分
津浪の襲来〜午前3時
津浪の高さ〜13尺
1.地震があつたら津浪の用心せよ。
1.津浪が来たら高い所へ逃げよ。
1.危険地帯に住居するな。
被害状況
流失倒壊戸数大槌町622戸
溺死者数同上61名
耕地浸水67町歩余
其の他漁船,漁具,農具,家具,多数流失
石巻市石井敬三郎刻
同碑(裏)
本碑東京朝日新聞社,読者ヨリ寄託セラレタル義捐金ヲ同社ニ於テ
罹災各町村二分配セシ残余ヲ重ネテ分配セラレ其金員ヲ以テ建
立セルモノナリ
昭和9年3月3日建設
上閉伊郡大槌町長後藤忠太郎誌
3.原因震源地〜
各地方測候所より電話により報告せられたる所に依ると,震域頗る広範囲に亘り,岩手県,宮城県,福島県の海岸では強震を感じ,震央は東経144度6,北緯26度2金茎山東北280粁,釜石の東方約230粁の遠い沖合に当つている。
此の位置は所謂外側地震帯上に位し,常に頻々として地雲を発する所である。即ちこの地帯に発する地震の回数は毎年1,000回を越ゆる位である。此の地帯に発する地震としても今回の如き大規模の地震は稀に見る大地震である。
4.津浪の来た時刻
津波の来た時刻は各地に於て可なり違つている。之は各部落の住民から聴き取つたのであるから勿論正確なものではない。只,鮎川検潮所で測定したものは検潮儀によつたものであるから,正確という事が出来る。而してそれによると,地震後40分にして潮が急降した事を示している。然しそれより9分前に徐々に上潮を記録している故,此の上潮が津波の初波であるとすれば津波は震央より31分にして鮎川に到達したことになり,平均約160メートルの秒速で伝播したことになる。然しこれは震央に於ける浪の撹乱が地震と同時に起つたと仮定して推算したものである。
左記の如く,大体分乃至40分を要し其の平均は30分強となつている。之より平均速度を算出して見ると,秒速約150メートルとなつている。鮎川の材料から算出したものと似た結果を得る。
1.宮城県鮎川〜4O分後小網倉〜20分後
2.上閉伊郡(岩手県)大槌〜30分後釜石〜33分後
3.下閉伊郡(同)宮古〜39分後田老〜28分後
5.音響と海鳴り
地震後に音を聴いた所は頗る多い。処によつては2回も音を聞いている。
そうして2回目の音は極めて微かな音であつた。此の2回目の音は,恐らく第1回目の音の反射波であろうと思われる。
又,第1回目の音響も地震後10分以上を経てから聞いた所が多いが,之は震央から沿岸まで平均250粁もあるから地震と同時に震央にて音を発しても早い所で12分,遅い所では15分を経たなければ其の音を聴く事は出来ない。
各部落の音響,海鳴りは次の如くである。
○震後15分砲声の如き音響を聞いた。
○3時10分寅艮方に大音響を聞いた。
○震後20分沖合に音を2回聞いた。
○東方沖合に汽車の如き音を聞いた。
○地震後東方にゴーという音を聞いた。
○津浪の直前ドンと音がして浪が退いた。
6.被害状況(概況) 〜当町分
→ 表
7.本県の分(附 被害道府県の被害状況)
→ 表
7.三陸地方の地形
南は牡鹿半島から北は青森県八戸町の東なる鮫岬に至る海岸は本邦に於て最も凹凸の著しい海岸である。即ち北上山脈の尾根が太平洋に没する所が此の海岸であつて所謂リアス式海岸を構成している。
此の海岸は北上の褶曲山脈が多くの枝谷を海岸へ向けて居る所へ地盤の沈降が起つて水準を高め,其のため,海水は深く谷間に浸入して形成されたものである。此の如き海岸にあつては,湾口の水深は極めて深いが,湾内に入るに従つて浅くなつている。然も此の場合,北上山脈の如き枝谷の多い所では小湾が極めて多くなつている。
斯かるリアス式海岸は,V字形をなした小湾が太洋に開口せることと湾口から海岸に至るに従つて次第に浅くなることによつて津浪を生ずる恐れは充分にある。岩手県に入つて門之湾,綾里湾,越喜来湾,吉浜湾,唐丹湾,釜石湾,大槌湾,船越湾,山田湾,宮古湾,久慈湾等がある。
之等各港湾は概ね東方に開口して居るため,今回の如く三陸海岸に平行して其の沖合を走る外側地帯上に発した地震にあつては,其の震源極めて浅い場合に津波を生ずる恐れがある。又,北東或は南東に開口している場合では多く袋の様になつて,深く湾入して居るため,矢張り浪高を増した津波の災害を蒙つている。此の様に三陸海岸は,其の構造から見て,極めて津波を生じ易い形式を備えている。故に古来津波の災害を蒙つた事が頗る多い。歴史に徴して見ても有史以来11回の津波を挙げる事が出来る。
8.三陸地方の地質
三陸地方は其の脊髄として,日本外帯山脈の北半たる北上山脈がある。此の山脈は東は太平洋に面し,海岸はリアス式になつているが西は北上及び馬淵川の渓谷によつて中央山脈と境されている紡鍾状をなしている。此の山脈の地質は大体古生層からなつて居るが。南部牡鹿半島は中生層によつて構成されて居る。而して其のうち所々に花崗岩の迸出がある。
斯くして北上山脈の地盤は古く且つ堅牢であるため,地震に対して震度は比較的小さい。故に今回の如き大規模の地震にあつても海岸の沖積層上では強震を感じたが,他の処では強震(弱き方)或いは弱震程度であつて,地震による被害は殆んど見る事が出来なかつた程である。
昭和18年4月7日西暦1,943年
震源地チリ
日本の検潮儀に記録
昭和21年4月2日西暦1,946年
震源地アラスカ方面
ハワイで大津波あり
昭和27年11月5日西暦1,952年
震源地カムチヤツカ沖
三陸沿岸で若干の被害,津波の高さ1〜3メートル
昭和33年3月9日西暦1,957年
震源地アリユーシヤン列島
ハワイで被害
昭和33年11月7日西暦1,958年
震源地エトロフ島沖
昭和35年5月24日西暦1,960年
震源地チリ津波の階級2
◎津波の階級とは次の通りである
→表
編集後記
○記念誌の編集の中で災害の記念誌ほど心痛いものはないし,今後は二度と再びこんな仕事に当りたくないとつくづく思う。
あの朝,わが命だけを意識し,励むこともなくはずむこともなく,唯々茫然自失虐げられるだけ虐げられた町民の苦悶をこの記念誌にまとめるに当つての第一声であつた。
〇三陸沿岸民の宿命,それは明治29年の三陸地方大海嘯の呪いの一夜から今次のチリ地震津波の襲来の夜明けまで,行く年来る年の潮騒は穏やかなものでなく,昭和8年の大津波に見舞われた痛恨の潮騒もあつた。大槌の世の中はまだまだ明治つ子の人達の仂く町だが,明治,大正,昭和の三世代に跨がり津波による三度の大惨禍を被つた事になる。
而かも三陸沿岸民の宿命づけられるものは今回のケースを加えて,世界的というか国際的というか,俗に舶来の津波までも襲うところとなつたのである。我々沿岸民にとつては全くの寝耳の悪水であり,何等の来襲予想の前兆さえ感じ得なかつた無感体無警告の津波であり,新しい災害の特殊性の一つを加えたものと言えよう。
○「災害は忘れた頃にやつて来る」と言う寺田博士の名言と言われるこの国造りへの警句を一拠点としてこの記念誌を編したことを諒とされたい。新生日本の国造りに当つてわれわれには各種の災害が忘れる暇もなく襲いかかつて来ている実情である。言うならば今次の津波に叩きのめされた大槌町の泣き面がどんなであり,何時になつたら常の顔に復し慶びの顔に開くかが問題であろう。
一文に述べられてあつた
天災と言う言葉の裏には,災害は天ケンであるという意味が暗に含まれ
ていると思われる。即ちなすべきことをなさないでいるから災害を被ると
言うことで,古くシナには政治が悪いと天ケンがあるという思想があつ
た……そこには自然科学的な因果関係は必ずしも必要ではなかつた。……
と。
チリ地震津波から丸一年経つた。
災害復興と防衛の姿が目覚しく見えて来た。軒並みの新しい家,高く頑丈な防浪堤の着工等々。然しどうかするとあの当時の泣き面の涙を碌に拭いきれないままに……天災ならざる人災の誘いをしてはいないだろうか。本誌の内容については災害の爪跡を記録しつつも,禍を転じて福となすの精魂の逞しさの匂いを盛りたかつたのである。
再び一文を借りる。
我々に災害を誘発するような計画をやつているのではなかろうか。それを充分防ぐ対策を講じているだろうか。天災に対し真におそれ,人災に対し真に反省する事がなければ,我々の築いたものは砂上の楼閣に過ぎなかつた事になる。
と。
○各種の資料をお寄せ下さつた方々には以上の一文を念頭に本誌を通じて深く感謝の意を捧げる次第であります。
尚編集に当つては諸種の事情で編集子の独走であつたことを詑び,且つこの記念誌をお読みになる方々へは明るい悔いのない国造りに逞しい精魂をたぎらせる様期して止まないところであります。
松崎 記
○編集室の顔触れ
編集主筆 菊池忠義
大槌教育委員会教育長 斎藤金之助
大槌小学校長 後藤勝郎
安渡小学校長 前川松蔵
赤浜小学校長 台野健蔵
吉里々々小学校長 松崎孝之助
大槌中学校長 金崎孝志
吉里々々中学校長 佐々木正三
大槌町役場主事 前川清一
大槌公民館主事 三浦光男
○主なる編集資料
1.大槌町津波対策本部調査資料
2.岩手日報,東京朝日新聞,週刊朝日記事
3.盛岡地方気象台提供資料
4.岩手県警察本部提供資料(チリ地震津波による災害警備活動の概況)
5.チリ津波合同調査班編纂(チリ地震津波踏査速報)
昭和36年5月20日印刷
昭和36年5月24日発行
チリ地震津波誌
編集 大槌町教育委員会
発行 大槌町
印刷 川口荷札株式会社