表紙
チリ地震津波調査報告書
海岸地形とチリ地震津波
Report On The Survey Of The Abnormal
Tidal Waves Tsunami Caused By The
Chilian Earthguakes On May 24 1960
1961
建設省国土地理院
Geographical Survey Institute
Ministry of Construction
写真

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まえがき
1960年5月24日早朝チリ地震津波は突如として日本の太平洋沿岸全域を襲い、北海道、三陸などを中心に、死者・行方不明139名をはじめ、家屋、耕地、船舶及び水産関係に大被害を生じた。 今回の津波はチリよりはるばる太平洋を横断してきた極めて稀なものであるが、今までにも近海津波は明治29年、昭和8年の大津波をはじめ、明治以降だけでも16回も来襲している。
このように頻発する津波に対して、発生原因、あるいは発生地より海岸までの伝播状況についての研究は、気象庁、建設省土木研究所などでかなりなされてきている。しかし、津波が海岸地形によつてどのように形を変えるか、どのような地形の所から上陸するか、どこまで侵入するか、どこまでたん水するかなど、海岸地形と津波との関係についての研究はほとんどなされなかつたといつてよい。
建設省国土地理院に於いては、先に伊勢湾台風による高潮、洪水と低地地形との関係を調査し、高潮の侵入路、洪水型などを地形から類推することが可能であることがわかつた。
今回も、この高潮調査に準じて津波及び海岸地形の調査を行つた結果、津波の侵入路、到達限界、洪水型などが海岸の地形を分類すればある程度類推可能であることがわかつてきた。また、湾の地形と過去の津波の状況とより、ある程度将来の津波に対して危険な湾を推定することも可能となった。
この報告書が今後の海岸保全対策樹立の基礎として活用されることを期待する。
本調査は建設省河川局海岸課のチリ津波対策調査費によつた。
なお現地調査、報告書の作成に参加協力された各位に厚く感謝の意を表したい。
建設省国土地理院地図部長
中野尊正
目次
1. チリ地震津波……9
2. チリ地震津波と近海津波との比較……11
(1) 津波来襲地域……12
(2) 津波の形……13
(3) 津波の波長……13
(4) 津波の波高……13
(5) 津波の速度……14
(6) 有感地震の欠除……14
3. 津波調査の立場……16
4. 調査方法……17
(1) 空中写真調査……17
(2) 現地調査……17
5. 北海道の海岸地形とチリ地震津波……21
(1) チリ地震津波と北海道海岸の地形的類型……21
(a) 被災地の分布……21
(b) 太平洋岸地形の一般的特質……21
(c) 被災地の地形的類型……21
(d) 各類型における被災の特徴……23
(2) 各類型にあらわれた被災の特徴に関する考察……25
(a) I型……25
(b) II型……27
(c) III型……29
(d) IV型……31
6. 三陸の海岸地形とチリ地震津波……32
(1) 三陸の海岸地形の分類……32
(a) 北部海岸……32
(b) 南部海岸……32
(2) 湾の地形と津波型……35
(a) リアス海岸型……35
(b) 汐入湖型……38
(c) 大河川河口型……38
7. 常磐の海岸地形とチリ地震津波……39
(1) 常磐の海岸地形……39
(a) 平滑砂浜海岸……39
(b) 平滑岩石海岸……39
(2) 津波型……39
(a) 平滑砂浜海岸型……39
(b) 平滑岩石海岸型……39
8. 紀伊半島の海岸地形とチリ地震津波……41
(1) 紀伊半島の海岸地形……41
(2) 津波型……43
(a) リアス海岸型……43
(b) 大河川河口型……47
(c) 直線状砂浜海岸型……47
9. 四国南東部の海岸地形とチリ地震津波……48
(1) 四国南東部の海岸地形……48
(a) 平滑砂浜海岸……48
(b) リアス海岸……48
(c) 平滑岩石海岸……48
(2) 津波型……48
10. 四国南部の海岸地形とチリ地震津波……50
(1) 沿岸の地形の特徴……50
(2) 過去の津波……52
(3) チリ地震津波の概要……53
(a) 津波到達の時刻……53
(b) 津波の潮位……54
11. 九州南東部の海岸地形とチリ地震津波……55
(1) 九州南東部の海岸地形……55
(a) リアス式沈水海岸……55
(b) 平滑岩石海岸……55
(c) 直線状岩石海岸……55
(d) 直線状砂浜海岸……55
(2) 津波型……55
12. 津波と地形……57
(1) 津波の侵入路……57
(a) 湾の最深部に沿って……57
(b) 海岸に沿つて……57
(c) 河川に沿って……57
(d) 航路に沿つて……57
(e) 澪及び旧河道に沿つて……58
(f) 運河に沿つて……58
(g) 道路に沿つて……58
(h) 下水道に沿つて……58
(i) 排水樋管より……58
(2) 津波の断面……58
(3) 津波の到達限界……59
(4) 浸水深とたん水期間……59
(5) 地形変化……59
13. 地形要素と津波型……61
(1) 台地(段丘)と津波……61
(2) 谷底平野型……61
(3) 波蝕台型……61
(4) 砂丘型・砂洲型……61
(5) 自然堤防型……61
(6) デルタ・後背湿地型……61
(7) 埋立地型……61
(8) 海浜・河原型……61
14. 津波と高潮との比較……63
15. 集落の高地移動と津波対策……64
(1) 概要……64
(2) 明治29年津波被害による集落の高地移動とその成果……67
(3) 昭和8年津波による集落の高地移動とチリ地震津波による被害……68
16. むすび—地形より見た津波危険地帯—……77
寸記……80
文献目録……83
Resume……96
写真目次
1. 津波直後の志津川町
2. 〃大船渡市
3. 〃陸前高田市
4. 〃気仙沼市
5. 〃岩手県船越村
6. 水道となった霧多布砂洲
7. 津波におわれて逃げる人々(女川町)
8. 水路を侵入する津波(上雄勝)
9. 船戸における津波
10. 釜石市街を流れる浮遊物
11. 津波引潮の状況(気仙沼)
12. 尾鷲湾引本における引潮状況
13. 尾鷲湾引本における満潮状況
14. 鳥羽市浦村町、津波が浸水した校庭
15. 徳島県福井川大原堤防被災状況
16. 徳島県橘町南新田突角部の被災状況
表目次
第1表 チリ地震津波被害表……10
第2表 津波年代表……11
第3表 チリ地震津波調査表(塩釜)……18
第4表 〃(大槌)……19
第5表 北海道海岸被災地の類型……21
第6表 霧多布砂洲に於ける津波の襲来時刻と方向……26
第7表 カキ等養殖施設の被害(厚岸町)……29
第8表 明治29年津波被害……64
第9表 昭和8年津波被害……65
第10表 敷地造成面積表……65
第11表 海嘯罹災地建築取締規則……69
図目次
第1図 南米海岸略図……9
第2図 津波最大波高図(1960.5)……9
第3図 チリ地震津波と昭和8年津波との比較(石巻湾)……13
第4図 チリ地震津波と昭和8年津波との比較(宮古湾)……14
第5図 チリ地震津波による被災地の分布……21
第6図 IIIIVVの被害型式……22
第7図 厚岸町の浸水範囲とカキ礁の侵蝕……24,29
第8図 三陸海岸……32
第9図 宮古市地形分類図……33
第10図 久慈湾地形分類図……35
第11図 宮古市津波状況図……36
第12図 久慈湾津波状況図……37
第13図 船越—山田地形分類図……38
第14図 〃津波状況図……38
第15図 紀伊半島海岸略図……41
第16図 〃東岸津波最大波高図……42
第17図 五ケ所湾津波状況図……44
第18図 的矢湾各地点における潮汐の流速……45
第19図 チリ地震津波による的矢湾における養殖イカダの被害状況……45
第20図 太地周辺地形分類図……46
第21図 袋港平面図……46
第22図 袋港海底横断図……47
第23図 袋港海底縦断図……47
第24図 浦戸湾等深線図……51
第25図 尾鷲高潮津波状況図……57〜58
第26図 津波断面図……58,59
第27図 鵜住居川、片岸地形分類図……61〜62
第28図 鵜住居川、片岸津波状況図……61〜62
第29図 田老……66
第30図 唐丹本郷……67
第31図 雄勝……70
第32図 長部……71
第33図 綾里……72
第34図 小白浜……73
第35図 両石……74
第36図 田ノ浜……76
別冊付図目次
塩釜港周辺津波地形分類図
気仙沼津波状況図
気仙沼地形分類図
志津川津波状況図
志津川地形分類図
1. チリ地震津波
1960年5月21日6時2分、チリ(Chile)のコソセプション(Conception)の南、アラウコ(Arauco)半島の西方の海底に大地震が起り、コソセプション周辺は甚大な震災をうけた。ついで、5月22日15時40分、ヴァルディヴィア(Valdivia)の西方海底に更に大きな地震が起り、大津波を起し、震央付近の海岸では6〜8mの、局地的には10mの大波が押
し寄せ、海岸のポルト・サーヴェドラ(Porto Saavedra)、メウィン海岸(Mehuin Coral)では大被害を及ぼした(第1図)。この津波はチリ海岸だけでなく広く太平洋を渡り、アメリカ合衆国太平洋岸、ハワイ諸島、特にハワイ島のヒロ(Hilo)港などに大被害を与えた。このため、ヒロ港においては海岸の建物は多く流失、移動し、日系人を中心として死者は66人に達した。こののち、5月24日早朝には日本の太平洋岸のほとんど全域にわたり来襲した。このうち、北海道東部、三陸全域、常磐、紀伊半島、四国南部及び九州南東部の海岸では水位かなり高く(第2図)、死者119名、行方不明20名、家屋全壊1,571戸、半壊2,183戸、流失1,259戸に達し、このほか、耕地、船舶などにかなりの被害を出したのである(第1表)。この図及び表でわかるように北東日本で津波が高く南西日本で低かつたのは小笠原海嶺がある程度津波の伝播を妨げたためと云われる。また到達時刻が北日本で早かつたのは津波が東から来襲したためといわれる。
1) 現地時間 2) 規模M=7.75 3) M=8.75 4) 日本時間
2. チリ地震津波と近海津波との比較
今回の津波はチリよりはるばる太平洋を横断してきたものであり、このような遠隔津波で、これほど大きな被害を出したのは極めて珍しい例である。これに対し、日本海溝付近の地震により発生する津波は、昭和8年、明治29年をはじめ、明治以降だけでも16回に達し、しばしば大被害を起してきたのであり、869年以降記録に残つている津波51回中43回はこの近海地震、あるいは火山の爆発に伴う海底地震などによる津波である(第2表)。
遠隔津波と近海津波とでは、規模、形、性格及び被害などにかなり著しい差が見られる。
(1) 津波来襲地域
チリ地震津波の来襲した地域は、北は北海道より南は九州に至る日本の太平洋岸全域という広範囲にわたつている。これに対し、日本海溝で起る地震による津波はこれより小範囲の場合が多い。
また、チリ地震津波の来襲地域は日本の太平洋岸のほとんど全地域であつたが、波高が高く被害の大きかつたのは、志津川、女川、気仙沼、大船渡、陸前高田など比較的限られた海岸であり、他の湾、たとえば吉浜、綾里、田老などでは水位も低く、ほとんど被害を生じなかつた。ところが、志津川、女川、気仙沼などは、昭和8年の時は津波らしい津波は来襲しなかつた所だが、吉浜、田老、綾里などでは大津波が押し寄せているのである。
(2) 津波の形
今回の津波は海ぶくれという形で、よく絵に描かれるような鎌首をもたげて大波が押し寄せるという形ではなかった。昭和8年、明治29年には、鎌首をもたげた直立状の大波が押し寄せ、多数の家屋を押しつぶしたのである。もつとも、今回の津波でも、湾奥へ行くにつれ海底地形により変形され、河川流の如き形となり、河川を溯る時は小さいが直立した形の波を立てて進んだ(写真7)。
(3) 津波の波長
今回の津波は波長が長く、40分位の周期でゆつくり水位が上下した。チリ沖においても津波の周期は30分〜40分の所が多く、周期は比較的ゆつくりしたものであった。これに対し、昭和8年の津波の時には20分位の周期で上下した(第3図)。
(4) 津波の波高
津波の波高は、全般的には昭和8年、あるいは明治29年の方が高く、今回の方が低い。
今回の津波と昭和8年津波との著しい差は、昭和8年の時は湾の入口で高く、奥へ行くにしたがい低まっていつたが、今回の津波は湾の入口で低く、奥へ行くにしたがい高くなつていることである。
たとえば、宮古湾では昭和8年の時湾口で8.2mに達したのが、湾奥へ行くにしたがい高度を減じ、金浜村付近では3.5mとなつている。ところが、今回は湾口で1.4m、中央部で3m、湾奥で6mと次第に高くなつている(第4図)。また、大船渡湾では昭和8年津波の時、湾口の丸森茶屋付近で7.8m、湾奥で3.1mであつたものが、今回は湾口の長崎で10m、中央部の下船渡で2.5m、湾奥の大船渡では5.5mに達した。
(5) 津波の速度
昭和8年、明治29年の時の津波は、極めて早く、逃げるいとまもない程であつたが、今回は遅く、志津川を除いては大体かけ足程度の速度であつた。これが今回の被害の少かつた理由のひとつである。たゞし、湾奥より河川を溯る時はかなり速く、織笠川、あるいは塩釜などの水路では20km/hourに達した。海上では、四国では13ノツト以上、九州の佐伯では7ノツトであつた。
(6) 有感地震の欠除
今回の津波はチリ沖の地震に由来するものであつて、当然のことながら、日本の人々は地震を感じていない。これに対し、平常来襲する津波は近海地震であるため、必ず有感地震を伴つたものである。三陸を訪れる人は誰でも『地震、雷、それ津波』とか、『地震があつたら大津波が来るぞ』とか記した碑のあるのに気づく。たまたま、今回三陸調査中にも久慈沖で小さな地震があり、小規模な津波が来襲したが、その時も津波警報が出され、自動車の退避なども速やかに行われた。このように地震を伴つていれば当然海岸の人々は警戒したであろうと思われるが、地震がなかつたた
め、寝込みを襲われ死者が出た所があつた(大船渡、塩釜)。
このように、今回の遠隔津波は昭和8年などの近海津波と比較し、速度も遅く、水深も浅く、海ぶくれといえる穏やかな形のものであった。しかし、この反面、地震を感ぜず、かつ夜明前であつたため、昭和3年に襲われなかつた地域、すなわち、防潮堤、防潮林がほとんどなく、かつ、昭和8年の経験から津波に対して安心感を抱いていた地域が襲われたため、被害が大きかつたのである。このほか、今回の津波は洋上ではほとんど同じ高さであつて、海岸に到達した時高さが著しく異なつたのは、全く海岸地形の影響によるものであつて、地形の影響が特に大きく響いている点が特色であつた。
3. 津波調査の立場
従来の津波に関する研究はかなり多く、とくに昭和8年の津波に際し津波の研究は大いに進んだのである。しかし、これらの研究の多くは、発生原因、あるいは発生地より海岸までの伝播状態など海上における研究であり、津波が海岸に押し寄せて後海岸地形によりどのように形を変えるか、どこから侵入するか、どこで侵蝕するか、どこで堆積するかなど、津波と海岸地形との関係はほとんどなされてこなかつたといつて良い。そこで、国土地理院では、先に伊勢湾台風により惹起された高潮・洪水の際の地形と高潮・洪水との関係を明らかにしたが、今回はそれに準じ、海岸地形と津波との関係を明らかにすることを目的とした。前述の如く、今回は洋上での高さはほとんど同様であつたが、海岸に来ると、大船渡、志津川などのように、水位が高く、速度が速く、大被害を生じた所もあれば、常磐海岸のように水位も低く、速度も遅く、ほとんど被害らしい被害も生じなかつた所もあるなど、著しい差が見られた。この差は全く海岸地形により惹起されたものである。
このように、津波は海岸の地形の差により著しい相違を示すのであるから、この海岸地形と津波の状況とを調査すれば、今回の津波のみならず、将来、万一津波があつた時、地域別危険度の予報が或る程度可能となり、津波対策の基礎を確立することができる。
4. 調査方法
津波調査には、まず、災害直後撮影した空中写真により、津波状況予察図及び津波を受けた海岸の地形分類予察図を作製、次いで、現地調査でこれらの図を完成した。
(1) 空中写真調査
津波に襲われたのは5月24日早朝であつたが、アジア航空測量株式会社では、いち早くその日の昼に三陸海岸の被災地域ほとんど全部と北海道の函館を撮影した。これらの写真の縮尺は約1/15,000であり、極めて鮮明で、津波の侵入方向、津波到達限界、流失家屋、橋梁、破堤地点、たん水状況、流木堆積地域、侵蝕及び堆積地域などを知ることができ、(写真1.2.3.4.5.)これらの写真をもとにして津波状況図を作製した(付図)。
また、これらの写真により、山地、台地(段丘)、谷底平野、自然堤防、砂丘、後背湿地、埋立地、デルタ、干潟及び海浜、河原などの地形分類図を作製し(付図)、これらの地形分類図と津波状況図とを比較して津波と地形との関係を見ることができた。
その他、植生と津波、とくに防潮林と津波との関係、集落の位置と津波との関係などを見ることができる。
空中写真には、このほか建設省国土地理院が防衛庁に依頼して、北海道、三陸、紀伊、四国海岸などを撮影したものがある。このほか、地形分類には米軍撮影の1/40,000の写真をも利用した。
(2) 現地調査
1960年7月から筆者らは北海道東部、三陸、常磐、紀伊、四国南部及び九州南東部の海岸を調査した(付記参照)。
現地調査にあたつては、まず、各地方建設局河川計画課又は海岸課、各道、県庁などで、津波の全般的概況に関する資料(験潮儀記録、被害概況)、被災市町村の1/3,000〜1/10,000の大縮尺の地図、各漁港あるいは港湾の1/3,000〜1/10,000の大縮尺の等深線図を入手した。これらの図には、等高線あるいは等深線が1mから50cmおきに記入されており、津波の浅海底での侵入経路と水深との関係、上陸後の津波の高さ及び消滅限界と地盤高との関係などを知ることができる。
次いで、各市町村役場を訪れ、各市町村ごとの津波侵入状況及び被害状況を聞き、現地で聞き取り及び痕跡調査を行つた。各調査点については、第3表及び第4表の如きカード記入を行つた。
調査表のうち、時間は聞き込みにより、浸水深は痕跡調査により行つた。浸水時刻は漁業組合、消防署などで比較的正確な資料を得ることができた。
調査メモ
4時20分頃潮がひき,消防署下の新町川の水が全部干上つた。4時30分頃第1波が来襲して来た。そして,狭い新町川その他の川を溯つて来た。
第2波からは津波の進んで来るのが良く見えた。4時45分の第2波より床上浸水が出たので警戒を出した。
市場前の道は30cmほど浸水した。午前2時は満潮であるのにその時は非常に減水しぐいた。沖の船が急に方向を転じたのでこれは津波だと直感した。
津波は海岸では黒い泥水となつており第4波は魚市場より高くモクモクと前進して来た。
以上 児玉消防士談
第1波 北浜,千賀浦海岸の一部に浸水(1.78m)
第2波 北浜,千賀海岸新河岸の各低地域に浸水(1.85m)
第3波 干満の差が急であつた程度
第4波 (最高)市内海岸地区低地域全域に浸水(3.35m)
第5波 北浜,千賀浦海岸新河岸の各低地域に浸水(1.80m)
第6波 干満の差激しく津波の様相を呈す(1.50m)
第7波 同上(機械故障)
第8波 同上(〃)
第9波 同上(〃)
第10波 同上 1.35m
第11波 同上 0.70m
第12波 同上 1.25m
以下 23波まで
潮位は港橋験潮儀による。
干賀浦海岸の状態は望楼よりの観測による。
調査メモ
概況
吉里吉里漁業会に部落の代表者20数名が集まつており,当日の状況はその場で総括することができたので聞き取りは現地を歩いた時に2,3聞くことにとどめた。
浸水
沖より波が来るのはいわゆる波としての状態ではなく,むしろ川の水がドツト押し寄せて来る様な横波状態であつた。
第一回目の時は当日がワカメの解禁日であったので海辺に出ていたが「ナギ」と錯覚をする位で津波とは思えなかつた。しかし,約5分ののち急に水がひいたので,これは津波が来ると予感がし,警報を出し,ある家ではリヤカーに荷物を乗せて高台に移つた。その直後第2回目の波がやつて来た。この間約30分〜40分位である。この第2回目の浪がD.L.4.10mの土堤(潮位線から約80〜85mの距離がある)を約50cmの高さを以て越えて入つて来た。特に町村道,吉里六号線と土堤との交叉する所の土堤がD.L.3.60mと約40cm程低いため,この地点より土堤下の水田に入つて来た水が多かつた。これ以外は土堤を越える様な浪はなかつた。
被害
家屋—水産出荷場(漁業市場)近辺で一戸破壊されたほか,床上,床下浸水が見られる。全壊,流失は人家にはなく非住家が主で,中でも魚作業家屋(小屋)である。しかも土堤の海側,すなわち,海辺に建設されたものの内,5戸の浸水を除き全部が被害を受けている。土堤の内側で床上,床下浸水を受けているのは水田のふちに位置する低地か或いは土堤道下の家である。舟及び漁業施設—流失した漁業施設は定置網3,流失した船舶は3である。漁業市場にある高さ約5m位の水揚げタンクが倒れ,隣接する漁業市場の屋根を破壊した。浸水した工場—魚市場の東に位置する漁船製造所である。
冠水した所—田 7.8ヘクタール
畑 1.4ヘクタール
冠水日数—半日冠水深はアゼの下までとつているが,実際には水田に水が入つていたので不明確である。
流路—現地ではまず波(水)は湾の中央部を真すぐに入つてきた。そして土堤に沿つて東方の水産出荷場方面に向つて,非常に速い速度で進み(この時に作業小屋は破壊されている),防波堤を越して物揚場(漁業市場)に入り,そこより再び5〜6m程沖を西に引き返したといつている。これは物揚場に固定していた漁船が流されて馬子女の鼻に到達しているし,又組合(漁業組合下)の加工場,作業場の倒壊した家屋の材木が同じく馬子女の鼻に到達していたことにより,ある程度まで信頼できるが完全とはいいがたい。
又,この波の流れに対し,一方では陸に向っての流れも激しかつたことはD.L.4.10mの土堤を越えて漁船が入りこんでいたことからもわかる。
明治以降の集落移動
明治29年当時,吉里吉里のいわゆる銀座といわれる所は現在は水辺となつており,昭和8年には現在の土堤の所に移つていたが,昭和8年の津波で破壊され,昭和10年には,現在の土堤の所から約1,000m〜1,500m上部に移動した。現地では高地住宅と呼んでいる移動住宅である。しかし,この場所にも明治29年には波が到達している。
明治29年 波高10m(33尺) 死者398名
昭和8年 波高5〜6m(15〜20尺)
流失180戸(この内160戸が高地住宅に移転した)
明治29年及び昭和8年に被害を受け,なおかつ高地住宅に移転しない者で,被害以前より多少後退したものの仕事の関係からなお海辺に近い場所に住んでいる人もいる。中には自費で堤防を作つた人もいる。〔製作者 田中組合長代理高さ2m(T.P.6m)長さ35.60m(18間)〕の堤防である。潮の引き潮はあまり引かず,せいぜい目測で5〜7/m位の所であつた。
作業小屋
作業小屋は主にサンマのひらきや,イカ干し等,あるいは漁業機材の格納庫である。
排水完了時刻
時刻についてはわずかずつ,低い所も伝わつて侵入しているのと,水田で田植前で水が入つていたので完全排水時刻は不明であるが,現地では3時頃には水田以外の所では排水したといつている。
5. 北海道の海岸地形とチリ地震津波
(1) チリ地震津波と北海道被災地の地形的類型
(a) 被災地の分布
北海道においてチリ地震津波の影響を受けたところは、太平洋岸、オホーツク海岸など広範にわたるが、災害をこうむった地域は、太平洋岸、とくに根釧、十勝海岸及び函館湾内であつた。被災地は第5図に示す如くこの沿岸の全域にわたって分散的分布を示している。
(b) 太平洋岸地形の一般的特質
北海道のこの地域の海岸は、一般に平滑な海岸線で画され、特に深い湾入はない。岩石海岸自体も大きく見ればまず平滑状態であつて、沖積平野や海岸段丘崖前面の砂浜海岸は端的に平滑線そのものを示す。内浦湾の大湾入はあつても、広く開いた広潤な水面は、むしろ遠来津波に対してそのエネルギーに変化を与える役割からは無縁である。このような地形的前提が、たとえば三陸のリアス海岸の被災とは異なった類型をつくる。すなわち、北海道では外洋に直面する平滑浜堤海岸、または奥行きの浅い平滑海岸線の湾入地帯の諸形態が主体である。
(c) 被災地の地形的特徴
被災地の地形的特徴からおよそ次の5類型を得ることができる。各被災地の地形的特徴と類型を要約して表示すれば第5表の如くである。
類型 I 陸繋砂洲型
II 汐入湖・大河川河口型
III (河口を有する)平滑海岸線(浜堤・砂丘)型
IV とくに河口を有しない平滑海岸線型
V 奥行きの浅い湾入型
(d) 各類型における被災の特徴
各類型ごとに被災状況の特徴を見ると、それぞれ次のような特有のタイプがある。
I 陸繋砂洲型
陸繋砂洲は両側に海をひかえる比高の極めて小さい砂地であるから、その上に載る集落は被害を最も受けやすい状態にある。多くの場合、両側の海面は奥行の浅い平滑な海岸線を持つ遠浅の湾入をなし、リアス式湾入に較べれば、はるかに津波の勢力の集中しにくい地形であるといえるが、津波の進行方向に口をまともにあけているような場合には、とくに湾内の副振動の影響によりかなりの波高に達することが認められる。両側からの津波は交互に低い砂洲上を越えるため、壊滅的な被書を及ぼす。霧多布砂洲の場合がこれであつた(付図)。
しかし、同じく陸繋砂洲であつてもやや標高の大きい規模の大きな砂洲の場合には、霧多布式の災害を受けるとは限らず、波高もやや小さい時には、津波の浸水型式としては盗水型ともいえるタイプで災害をこうむることもある。函館砂洲の場合がこれであつたが、砂洲の規模が大きく、都市としての発達の顕著なことが被害を大きくする原因となる。霧多布の場合を動的型式と称すれば、函館の場合は静的型式と称することができよう。この型式の上からみれば、後者はむしろIIの浸水型式と同様の性質を持っといえる。
いずれにしても、陸繋砂洲は北海道で最大の津波の被害を受けたところである。とくに霧多布では動的型式の激しい津波を受けたため、その惨状は目を覆わしめるものがあつた。動的型式では砂洲上の溝状侵蝕が著しい。最も顕著なものは陸繋砂洲を切断して島状に分離する。砂質の海岸線は一様に後退し、一帯に溝状の大小様々の侵蝕跡を残す。この侵蝕状態は、砂質、礫質、植生の有無などによって程度を異にする。
陸繋砂洲でも被害のなかつたところがある。根釧海岸の落石、日高海岸の様似、胆振海岸の室蘭はいずれも被害を見ていない。落石では洪積台地の崖が緩斜面となつて、その上に這い上つた砂洲の高度を高め、純粋の砂洲の部分もまた高く、その面積も小さいこと、様似では津波の方向に背を向けていたこと、室蘭では函館型式の小規模な段階でとどまつたことなどが被害をさけさせたのであろう。

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II 汐入湖・大河川河口型
比較的大きな川や湖がある場合には、津波はこれらを溯るので全般的に静的型式をとる。つまり、川や湖が緩衝地帯としての役割を果すものといえるが、この緩衝地帯では集中的な津波の営力を受けるので、局部的に動的型式の特徴をあらわす。したがつて、この型式の痕跡である顕著な侵蝕地形が残される。これは、川や湖の中での現象であるから、津波後の海底地形や湖底地形は津波前の状態と比較し著しく攪乱される。釧路における釧路川、厚岸における厚岸湖はこの役割をになつたものといえる。そのために釧路市街ではほとんど被害がなく、厚岸市街では静的型式の浸水を特徴としたが、後者では厚岸湖の動的型式による漁業上の被害が大きかった(第7図)。

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III (河口を有する)平滑海岸線型
北海道海岸地形の全般的特徴からこの型は最も多く見られる。平滑な海岸線は、低い砂浜、砂丘とその背後の低湿地または旧流路によつて形成され、流失する川の出口は海岸に発達する砂堆にさまたげられて曲流する。沖積低地の海岸に卓越する地形であり、十勝川口、大津川口などはその典型的なものである。これらの大きな川が、もし直流して海へ注いでいたら、あるいは釧路川の場合のようにIIの型式をとったかも知れない。IIIの型では、多くの場合、前面の砂堆を越えることは少いが、曲流した背後の部分から溢水の型式で後背湿地へ浸水するから、静的形式が特徴である。十勝海岸、津軽海峡沿岸などに点々と散在する被災地はこの型式のものが多く、被害の規模としては、一般にそれほど大きくはなかつた。
IV とくに河口を有しない平滑海岸線型
段丘崖が海にせまり、前面に砂礫浜から成るわずかの小低地が付着し、近くに川をもたない平滑な海岸線のところでは、まともに津波を受けるから動的型式をあらわす。しかも、北海道のこの海岸では小漁港の発達しているところが多い。施設の集まる港湾に対して津波のエネルギーは集中的に働くといってよい。花咲、広尾、庶野、浦河など、いずれも港湾ならびにその付近における被害を特徴としている。この点で、この型は港湾型とも呼ぶことができる。歯舞もこの型に入るが、ここでは被害がなかつた。
V 奥行の浅い湾入型
奥行の浅い小湾入に見られるタイプであり、北海道としては比較的三陸型に近いが、湾形、湾底などの状況などは大分異なつている。北海道被災地の中でも数が少く、伊達町有珠湾だけしか見られない。波高はあまり高くないが速度は極めて速く、瞬時の危険度はかなり高いのが特徴である。
(2) 各類型にあらわれた被災の特徴に関する考察
(a) I型
最も代表的な被災地霧多布の被害状況を付図に示す。
この地の最も基幹的な地形は海岸平野と陸繋砂洲である。
(1)海岸平野は低い浜堤列と堤間湿地列より成る。極めて低平な浜堤海岸が浜中、琵琶瀬両湾の湾首の部分を構成し、前面の浜堤上には漁家が点々と列状に配置されている。湿地列には、この列にそういくつかの潟湖が残存し、そのうちのあるものはわずかにジュンサイの採取などに利用されてはいるが、全体として湿地帯の景観をもち、土地利用のまったく進まぬ未開の原野をなす。したがつて、海岸平野面の冠水は内陸部へ1〜2kmの幅をもつたにしても、実被害の面から見れば、最前列浜堤上の点的列状集落だけに被害があつた場合と同じである。
(2)低湿な海岸平野は、浜中、琵琶瀬両湾の背後にひろがり、両湾の湾首をつくる浜堤列には点的列状集落が発達するが、浜中湾のそれでは家屋流失の大災害を受けたのに対して、琵琶瀬湾のそれは、琵琶瀬川河口付近のIII類型の地域で浸水をみた以外に、新川以西にはほとんど被害がなかつた。
(3)この海岸平野とかつての若い開析台地湯沸島とを結ぶのが霧多布の載る陸繋砂洲である。霧多布はこの付近最大の集落であり、最も大きな災害をこうむつた。砂洲は標高2m内外で極めて低平であり、海岸には防潮堤その他の護岸施設がない。しばしば津波に襲われ、1952年3月の十勝沖地震の際にも津波による大打撃をこうむつたことがある。
(4)浜中湾と琵琶瀬湾はともに平滑な海岸線を持ち、ほぼ同方向に開く浅い性質の湾入であり、規模は浜中湾が琵琶瀬湾に比して長径で2倍以上大きい。津波の受け方はほぼ同様であるが、今回の遠来津波の進行方向に対しては湯沸半島霧多布砂洲ならびに湾口を扼する嶮暮帰島などが有意義な存在となつた。加えて、両湾における副振動が各湾固有のエネルギーを作り出すので、結果的には浜中湾側からの津波の方が、琵琶瀬湾側からの津波よりも霧多布砂洲ならびに背後の海岸平野に対して大きく働くこととなつた。
(5)両湾からの津波は浜中村役場の調査によると12回にわたつて砂洲をこえる程度の大きさをもつた。10時45分、ついに砂洲は頸部において切断され、半島はふたたび島となり、中心市街は海中に孤立した。これを、地元では50年前に戻つたという表現をとつていた。切断部は古い川が砂の堆積で陸化した砂洲の最低の部分で、暮帰別、新川部落背後の沼地からの出口が海に注ぐところであり、地形的に侵蝕の弱部をなすところであつた。切断の最初は溝状侵蝕のやや大なるものの程度であつたらしいが、調査時には幅100m程度、深さ2mほどの水道部に成長していた。両湾の水は連絡し、完全に島となつたが、このような切断部の拡大は津波そのものの営力ではなく、その後の潮流による侵蝕の結果である。
(6)陸上に侵入した津波は、引き波の時強く土砂を侵蝕して溝状の窪みをつくる。大は幅40〜50m、深さ1m以上、小は幅20〜30cm、深さ10cm程度のものなど様々であるが、作用の大きい所では連続的に作られるので、かなり大きいひろがりをもつ。最も集中的に分布するのは、切断部を中心として新川河口から陸繋島基部に至る琵琶瀬湾口と暮帰別地区の浜中湾の浜堤である。この溝状侵蝕は海岸線を削つてその後退をもたらす。津波前の海岸線にあつた石固めが今や海中に残存し、もとの汀線をあらわすが、今日の海岸線は内陸側に数十m後退した。新川では浜堤上の列状集落の井戸の残骸が今の汀線上に浮き沈みしている。溝状侵蝕は砂質地域で最も強く作用する。礫質地域では概して侵蝕の程度が小さい。砂洲の基部では、汀線は侵蝕跡の連続で歩行も困難であり、内陸部へ入りこんだ侵蝕跡には多くの海水が浸水して、そのまま湿地のような状況となつている。内陸部の侵蝕跡は、多くの場合、もと草地であつて、規模はさして大きくないが地形の変化はかなり認められる。しかし、草地の場合は裸地よりも侵蝕が強くない。
(7)1952年3月の十勝沖地震に伴う津波は、霧多布と厚岸町床潭とに災害をもたらした。この時の津波は、日本列島外側地震帯の活動による襟裳岬東方、白糠南方に震源をもつ近来津波であり、今回の遠来津波とは襲来の状況その他に異なった様相を呈した。前回においては嶮暮帰島、琵琶瀬間を経た琵琶瀬湾からの侵入波が砂洲を越えて破壊したが、その回数は1回であり、浜中湾側からの影響はなかつた。
今回の遠来津波の両湾からの侵入は、湾内の反射波の跳梁によつて、往復移動に似た様相をもつたことが大きな特徴である。
霧多布砂洲に対し函館砂洲における津波の特異性は次の通りであつた。
(1)霧多布砂洲と同様の地形条件を有する函館砂洲では、霧多布とは違つた、いわば静的タイプともいうべき穏やかな浸水型式をとったことが大きな特徴である。被災地域は、函館湾側、函館港周辺の主な市街地である。津波の進行方向に対して直面的な東側の宇賀浦では、根崎、湯川地区の松倉川の河口の小部分だけに浸水地域がみられるが、被害はほとんどなく、函館半島の陰にあたる北西にひらく函館港に被害をみたのは、波にあたえる地形の影響がある種の法則性を示すようで、災害防止に対する示唆を多分に含むものといえる。つまり、(1)宇賀浦側ではさほど高くないが砂丘の発達と護岸施設とが直接的な波を受けとめた。(2)広く、大きな、ゆるやかな湾入である函館湾の副振動の影響がかなり大きく、波に対して陰にあたる湾内の低所に災害をもたらした(霧多布でもこれと同様のことがいえる)。(3)湾首に対して津波の勢力が集中する。
(2)静的型式では海面がジワジワとふくれあがり、溢水して穏やかに減水する。津波の到達時間の差、函館湾の副振動などにより、砂洲の両側の引きと上げは時間的にくいちがう(霧多布の場合も同様である)。このくいちがいが、霧多布の場合は砂洲を越えた津波の両湾の水位を平均化しようとするエネルギーを動的に働かせたが、函館では砂洲を越えることがなかつたので、片側だけの静的な運動をおこすだけで終つた。しかし、静的型式といえども、かなりの強さで波が侵入したことが漂流物によって知られる。また、それによって上陸した津波は、道路にそつて、これを通路として侵入することが認められる(霧多布でも同様である)。
(3)海岸線に直交する長さ120mの倉庫の観察によれば、函館港平均海面上約1mのところに位置するこの倉庫の最も海寄りの部分(海に面する)で浸水1.2m、それから80〜90m内陸へ入ったところで浸水0となる。両地点の標高差はほとんどないので、波高の低下は大体80〜90mで1.2mというところである。
(4)市街を宇賀浦へ直線的に貫流する新川に沿つては、砂洲基部の中央にある中ノ橋まで逆流したが、警戒水位2.5mに達せず溢水しなかつた。これは、タイプとしては釧路川の場合と同様のIIの性格を持つものである。
(5)市街の密集した地域であつたことは被害額を大きくしている。これはなんといっても都市地域の大きな特色であつて、函館砂洲の顕著な特性である。
市の被害総額4億5千万円のうち、海岸沿いの倉庫関係の被害は2億7千万円を超える。静的型式の津波で、倒壊流失の被害はなかつたが、倉庫内の貯蔵物の浸水による被害だけで上記の額に達しているのも、やはり函館の特色を打ち出している。
1) 最深部は6mという。
1) 波高3.2m 2) IIIの型
(b) II型
(1)厚岸湾頭は、背後に汐入湖である浅い厚岸湖を有し、湾と湖との移行部に砂嘴が発達する。厚岸町真竜は、この砂嘴上に発達した渡航ならびに駅前集落で、対岸台地前面の狭い砂質の沖積地上に載る本町と対向集落をなす。
厚岸湾は、尻羽崎と末広崎に扼された円形の湾入で、湾央部の水深15〜16m、湾口に大黒島があつて湾内を波の侵入から保護する役目をもつ。湾は海蝕崖にとりかこまれ、その前面に狭い砂浜を発達させる。
(2)大黒島と末広崎とを結ぶ海底は極めて浅く、また、尻羽崎と大黒島とを結ぶ海底にも尻羽崎から浅瀬が伸びており、深水部は幅がせばめられている。湾内への波の全面的な侵入は、この湾口を画する浅水部である程度さえぎられ、津波は幅をせばめて局部的に襲来する傾向があつた。東方からの遠来津波は、湾頭西部の門静、苫多、沖万別方面の海岸に向つた後、その反射波が厚岸湖口を襲ったものといえる。直接の波を受けた門静方面には被害がなかつた。
十勝沖地震の近海津波は、その起点が西方であったために湾口東部の床潭に害を及ぼしたが、今回の場合には床潭には無関係であり、反射波の作用により湾頭部に集中したことが一つの特徴である。
(3)真竜砂嘴とその対岸ノテト崎(フエリー発着点)との間、すなわち、厚岸湖の入口は水深10m前後の地溝状にえぐられているが、湖内に入ると急に浅くなり、水深はおおむね1m以内、澪筋でせいぜい2mである。湖内の浅堆は、海水の流路に沿ういわば自然堤防状の高まりで、海水の流路すなわち澪であるが、この水中自然堤防を利用して、地蒔法による牡蛎養殖(浅堆の上に人工的にカキ殻を積みあげ、その上にカキ種をまく)が行われる。これをカキ礁(カキ島)という。
(4)西方からの波高2m程度の反射波は、狭い厚岸湖口に集結して、真竜、本町の対向集落に浸水したが、湖内に侵入して拡散したため、市街地自体は砂洲によつて閉塞された霧多布におけるような壊滅的な被害は受けなかつた。この点は、波高の増大ならびに波のエネルギーを弱める緩衝的な役割を果す汐入湖の前面に発達した砂嘴が、両面に海を控える陸繋砂洲の場合と異なつたタイプを示すものといえる。
しかしながら、居住地の被害は、床上床下浸水程度にとどまつた反面、湖内の生産施設に対する被害は大きかつた。
(5)カキ礁の分布は第7図に示す通りであるが、湖口に近い部分では当然被害は大きい。湾奥の部分では災害を受けていない。礁上における津波の波高は不明であるが、かなりの高さに達したのではないかと思われる。澪に沿つて移動する波のエネルギーは、とくに引水時に働いたとみられ、湖口の地溝状深部に近いところでは流速も大きい。礁はおよそ20〜25cmの深さまで侵蝕され、養殖中のカキはほとんど流失した。流されたカキその他の貝類は、主として真竜海岸に漂着し、一時は貝拾いで時ならぬ汐干狩風景を現出した。また、礁と礁との間の澪中に流失したとみられるものも多い。
このような侵蝕により、海底地形には相当の変化があつたものと考えられるが不詳である。
津波は狭い湖口から湖内へ拡散したため、さほど広い範囲に被害を与えなかつた。湖北別寒辺牛川口の低湿地、湖東の低湿、地帯などでは被害の報告がない。
(c) III型
(1)III型に属する被災地は、いずれも小範囲のものであるが、その中では、大津、古川町(銭亀沢)、上磯あたりの被災がめだつたものといってよかろう。細部についてはそれぞれ若干の相違はあるが、全般的にみて、これらの地区には前述のような共通的な特性が認められる。厚内、十勝太、豊浦町向別川口、茂辺地などでは浸水範囲はさらに小模規か、実質的な被害はまったくなかつた。また、様似でもこの型の浸水がみられたようであるが被災はない。
(2)大津では、ほぼ2.5mの等高線によつて表現される砂丘の背後に、大津古川が砂丘すなわち海岸線に併行して東流する。大津古川はその名のように大津川の旧河道であり、今日ではむしろ廃川的な存在である。大津市街はこの大津古川を前面に控え、曲流する大津川を背後にもつ高度2〜3mの低平な沖積地上に載る。大津川に沿う地域では、大津川よりの溢水の型式で海抜2.2〜2.3m程度まで浸水をうけたが、海岸側の大津古川に沿う地域では、砂丘を越えて大津古川に入った津波は、強い水勢で海抜3.0〜3.5m程度杢で浸水した。市街の西端を限る低湿地では、橋梁、道路を破壊して侵入した前面からの海水と、背後大津川からの溢水による海水との両方から浸水をうけ、舌状に伸びた沖積地を分断するに至つた。たん水期間はこの地区において最も長く、2〜3日を記録している。
(3)曲流河川からの溢水は、比較的静的に水位を高める型式であり、低い砂丘を越えて浸水する動的な型式とは趣が異なる。しかし、大津では海岸に面した集落は強く波をかぶつたにしても、津波は大津古川におちこんで、ここでむしろ溢水型に近い状態に変化した。大津占川が強い波勢に対して緩衝的な役割を果したといえる。しかし、その反面、たん水時期を長引かせる点がある。
(4)大津と同じ様な型式で浸水した他の例は古川町である。地形的にやや異なるところは、ここでは、大津古川のような旧河道が砂丘背後にみられず、後背湿地と砂丘との間に直ちに集落があることである。砂丘を越える浸水は、現地での聞き込みによると、若干ながらみられたようであるが、大部分は汐泊川からの溢水によるものであり、被災はこれによる後背湿地の浸水にもとづいている。集落が小さいだけに大津ほど被災がめだたないが、津波被害のタイプとしては北海道に広く分布している。前述のように、霧多布地区の琵琶瀬もこの型式である。
(5)曲流河川、砂丘背後に並走する旧河川に沿つて被害地域をもつた上磯町の被害タイプは、全く大津と同様であつた。大野川、戸切地川が河口において合流し有川となる点では、戸切地川の旧河道が水を湛えて、波勢に対する緩衝的な意味をもったが、それでもかなり直接の津波によって破壊された。しかし、市街の地盤は比較的高いので、大野川や戸切地川からの溢水の範囲は小さく沿岸部だけにとどまったし、海岸に平行する旧河道からの浸水も道路によってとめられたので、浸水地域は海岸に沿つて帯状に伸びている。
上磯町の他の地区では、端ノ川、流渓川などの小河川の河口だけが浸水しているが、これらは、小規模ながら津波の集中する所が湾や河川のような切れ込みであることを示している。茂辺地地区では、まつたくこうした茂辺地川の河口だけが浸水しているにすぎない。
(6)豊浦市街の西部には貫気別川が曲流し、その旧河道が市街と海岸の低い砂堆との間に平行して入り込んでいる。ここでも河口は津波の侵入路であり、堤防のない川は溢水して旧河道に入った。この付近では海抜1m未満の地域が浸水している。貫気別川西方の水田地帯への浸水は、貫気別川からの溢水が堀割りを逆流したもので、冠水0.3m程度、内陸へは貫気別川沿いに最も入り込み、鉄道でとまっている。
豊浦港の擁壁高は3.5mで、水はこの上縁スレスレに来たが越えることはなかつた。しかし、港内前面の一区画は浸水0・3m程度の痕跡を残している。市街はこれらの内側にあり、以上浸水をみた地区は散在的な居住地区であるため、被害は僅少であつた。
(7)静的溢水型に対しては、大津にみるように土堤の存在が浸水地域の拡大を防ぎ、上磯にみるように道路が堤防の役割を果す。茂辺地でも堤防内だけの浸水であつた。上磯では津波後旧河道の内側に沿つて路盤を高くとつた新国道の工事が始まつているが、これは堤防を兼ねることができるであろう。
III型の地形を示すようなところでは、その被災のタイプからみて、比較的防禦は簡単になしうることなのである。
(d) IV型
この型の例として広尾を挙げる。平滑海岸における動的タイプの津波のエネルギーは、人工施設物に対して集中的に働く。広尾港では、東南東より襲来した津波が防波堤をまともに襲つた時、基部南方の海岸を固める高さ5.9mの護岸、及び4.8m、5.Omの防波堤はこれを防ぐことができたが、防波堤の低い部分(3.8m)が破られた。港内へ侵入した津波は、突堤の数か所を破壊し、港湾主要施設のある湾内前面の陸地に浸水した。その限界は、ほぼ標高2.5mの等高線に一致する。広尾市街は高度30〜40mの洪積台地上に載り、急な段丘崖をもつて高度4〜5mの沖積地に降る。この沖積地は狭長で、漁業関係者の比較的密な集落を作つているが、浸水地域が防波堤に囲まれた内部だけに限られたのは、南東に面する海岸施設が良かつたためである。しかし、港内施設に対する破壊力は大きく、港湾型津波被災の特徴を端的に物語つている。このケースは、規模の差こそあれ、庶野港、浦河港においてもみられる。
(e) V型
有珠湾前面の不規則な海岸線(有珠山に起因する噴石丘地形が海に接する)をもつ袋型の小湾入(有珠湾)に入った津波は、湾頭の有珠部落以南の奥部に浸水地域を出した。この経過は厚岸湾にみられるような反射波の影響によるものと思われる。浸水の型式はむしろ高まりのかたちで、穏やかであつたと報告されているのは、狭い湾口を通ってきたにもかかわらず、この津波が太平洋を越えてきた遠来のものであつたからであろう。しかし、海水の盛りあがりは速く、津波来襲の急激なタイプを示している。波高は、満潮海面上約1.3mほどであったと見られる。
不規則海岸線の湾内には副次的な小湾入がいくつかあるが、これらの小湾入にもほとんど例外なく浸水地域を出していることは一つの特徴である。こういう場合にも、道路は河川と同様に津波の侵入路として選ばれやすい。有珠湾の外側ではあるが、向有珠の小湾入でもその例が見られる。
6. 三陸の海岸地形とチリ地震津波
(1) 三陸海岸の地形とチリ地震津波
三陸の海岸は山地が海岸にまでせまつており、湾の奥に僅かに小さな平野が開けている。この海岸の地形は北部と南部とでかなり著しい差があり、北部は隆起海蝕台地の発達した地形であるが、南部はリアス式の沈降海岸である。したがつて、北部の海岸線は出入りが比較的少いのに対し、南部は比較的出入りが多い。
(a) 北部海岸
北部海岸にはよく段丘が発達しており、第1段丘より第5段丘まで5段の段丘が見られる。段丘数は北部に多く5〜6段であるのに対し、南するにしたがつて数を減じ1〜2段となる。これらの段丘と海との間は部分的に小さな平野が開けているほかは段丘崖が直接海に面して海蝕崖となつている所が多い。海岸にはベンチが発達する。また、これら、段丘は著しく開析されて東西方向に峡谷を刻んで、下流側には谷底平野が見られる。また。段丘崖と海との間の細い海岸平野にも種市のように海岸砂丘の発達している場合がある。比較的平野の発達しているのは、久慈川のそそぐ久慈浜、宇部川のそそぐ十府の浦であり、半円状の平滑な海岸をなしている。海岸にはいずれも海岸に平行した砂丘が発達しており、砂丘と山地との問は後背湿地となつている。河口はいずれも南方より運ばれる砂のため著しく北へまげられている。
1) 田山利三郎(1931) 北上山地東斜面の海岸段丘について1.北部地方地理評VII5 337〜362PP,第1段丘(下閉伊段丘)300m,第2段丘(九戸段丘)200m,第3段丘(蒼前段丘)200〜130m,第4段丘(白銀一平段丘)100m,第5段丘(湊段丘)50m
2) この海岸は沈降地形であるが,入江を縁取つて段丘が発達しており,入江の奥では沈降当時落下してきたたい積物が隆起後段丘をなさず山麓斜面としてあらわれており,隆起海岸平野があり沈降当時島であつたものが海蝕台地で結ばれているなどの理由から単に沈降をくりかえしただけでなく、大きく沈降したのち少し隆起した海岸である。多田文男 リアス型海岸にあらわれた隆起地形 地理評XIV-6 558〜559PP
(b) 南部海岸
宮古以南は北部と著しい対照を示し、出入に富む海岸線で沈降地形を示している。すなわち、北より宮古湾、山田湾、船越湾、大槌湾、両石湾、釜石湾、唐丹湾、古浜湾、越喜来湾、綾里湾、大船渡湾、広田湾、志津川湾、追波湾、雄勝湾、女川湾、鮫の浦など多くの湾入がみられる(第8図)。また、宮古湾の南に十二神山(731m)、唐丹湾の南に鉄台山(520m)などの山が連続しており、高い準平原が急に海岸に終り、海岸には急崖が多い。湾入は昔の河川の形成した侵蝕谷が沈水したものであるため、昔の大河川の形成した谷、支川の形成した谷、小河川の形成した谷など成因によるいくつかの類型に分けることが出来る。
(1) U字谷(大河川の形成した谷)
宮古湾、山田湾、大船渡湾、気仙沼湾(付図)などは細長いU字型をしている。湾口より湾奥まではかなり長く、宮古湾などは10kmに達するが、湾口の巾は4kmにすぎない(第9図)。一般に渓谷底の傾斜は大きい河川ほど急速に平衡に達しているので、このような河谷が沈むと海水が渓谷底の勾配は平衡に達しない小渓谷の沈むのに較べて著しく陸内にまで浸水しているのである。しかも、このような大きな湾の海底は平衡に達した河川の沈んだものであるから、湾の方向に遠浅で、沈水谷と直角な方向では昔の支川が沈水したため、海岸から海底へ向つて急である。気仙沼湾などは大河川の沈水谷であつて、湾の縦断面をとつても湾底はゆるやかで3.5/1,000にすぎない。
これら湾奥にはかなり細長い谷底平野が開け、海岸には小規模なデルタの発達する所もあり、気仙沼、大船渡では更に埋立地が形成されている(付図)。
(2) V字谷、W字谷(小河川の形成した谷)
志津川湾(付図)、女川湾、萩浜、鮫の浦湾、御前湾、綾里湾、越喜来湾、吉浜湾、釜石湾、両石湾などは、昔の一本ないし二本の小河川の形成した渓谷が沈水したものである。これらの谷はV字型をなすが、二つの河川のそそいでいたところ、たとえば女川、志津川、釜石、唐丹などの湾はVの複合型すなわち、W型を呈する。これらの河川は、いずれも平衡に達しない前に沈水したので、海底の勾配は極めて急であり、志津川湾では9/1,000に達している。また、湾口より湾奥までの距離も短い。志津川湾などW字型の湾には、中央の岬より岩礁がのびているのが普通であり、この岩礁を入れればVの複合型であることがわかる。これらの湾奥には山地、台地(段丘)が海岸にせまり、谷底平野の小さいものがあるにすぎないが、志津川などには小規模ながら、デルタ、砂洲、埋立地などがある(付図)。
(3) 半円形湾
久慈湾(岩手県)、広田湾など、かなりの大河川が外洋にそそぐところには広く沖積平野が発達する。これらのデルタの先端及び内部には砂たいがあり、一部は砂丘となり防潮林が作られている。これら砂たいのため背後が湿地化しているのが普通である(第10図)。
(4) 汐入湖
北上川河口の東部には万石浦があり、この湖は渡波町で水道で外洋とつながり、汐入湖となつている。松島湾は隆起後断続的沈降により生じた湾であり、湾口の比較的広い汐入湖である。
(5) 平滑砂浜海岸
渡波町より北上川河口を経て鳴瀬川に至る海岸は平滑な砂浜湛岸で海岸には砂丘が発達し、砂丘の背後にはかなり広範にデルタが開け後背湿地となり沼が残つているところがある。
(2) 津波型
(a) リアス海岸型
(1) V字谷、W字谷型
志津川、女川など外洋に面した沈水V字谷あるいはW字谷では、外洋の波を直接受けるだけでなく、湾の巾と深さが奥へ行くにしたがつて急に狭くかつ浅くなるので、津波のような大きな波長振幅の波が来るとその押し寄せて来た海水の流れの勢力を徐々に費させることができず、流れは比較的自由な谷の奥と上の方をえらび、津波の高さと速度を増大する。そして、湾奥近くでは河川の流れのように乱流が著しく、河では波をたてて溯ぼつて行く(写真7)。志津川町はこのような湾の奥に位置しているため、今回の津波では最大の被害をうけ、死者40人、家屋全壊653戸、半壊364戸、流失312戸に達し、この他の物的損害は517,601万円に達したのである。志津川では津波の速度速く、他地域では大部分かけ足程度で逃げられたのに(写真6)、ここでは自転車で逃げた人が津波に追付かれるほど速く、水深も深く4.2mに達した所があつた。水位の上昇速度も速く、2〜3分で最高水位に達している。
(2) U字谷型
気仙沼、宮古などの奥まつたU字型の谷では、普通は外洋の波はうけないのでV字型の谷より波高が低いといわれている。今回は遠隔津波であつたため、湾の奥の方が波高が高くなつたのと、湾の奥にはかつての渓谷が作つたデルタが開けており、ここに大船渡、気仙沼などの集落が発達しているため被害を生じた(第11図)。大船渡では、第1波は海岸の小野田セメント工場付近で速度は8.3m/secと推定され、浸水開始より最高水位に達するのに5〜10分であつた。これに早朝であつたことが禍いして、大船渡町を中心としてかなりの被害を出し、死者48人、行方不明5人、家屋全壊437戸、流失340戸、半壊660戸、被害総額35億円に達した(写真1)。気仙沼は大船渡に較べてやや津波の速度が遅く、海岸でかけ足、内陸部では速く歩く程度であつた。被害は陸上では行方不明2人、家屋全半壊51戸、流失5戸であつたが、海上ではカキの養殖筏を流し、大被害を生じた(写真4)。
(3) 半円状型
広田湾、久慈湾(岩手県)など半円状の湾ではV字型湾のように津波の勢力が集中せず、かつ海岸には砂丘、砂洲などがあつて津波の侵入を妨げるのに大きな役割を果した。陸前高田市では、死者8人、家屋全壊63戸、流失86戸、半壊129戸に達したが、この被害は大部分高田市の南東のV字型の小湾に面する小反町の被害であつて、砂丘を前面にもつ高田市の被害は比較的少かつた。ここでは津波は最初気仙川より、ついで防潮林の欠けている海岸側から砂丘背後の湿地に侵入、防潮林をこえてきた津波と合したが(写真3)、砂丘をこえて引くことはなかつたため、他の地域でみられるような引潮の際の被害はまつたくなかつた。水深も海岸の防潮林地帯で175cm、その他で110cm以下であつた。たん水はかなり長期にわたり、気仙川の締切りの6月16日、海岸の松原の締切りの6月23日まで約1ヶ月に達した。久慈湾(岸手県)においては、津波によつて運ばれた砂で久慈川の河口がほとんど閉塞されたため、久慈川ぞいの自然堤防及び海岸砂丘と背後の台地との後背湿地にあたる水田に10日間たん水した(第10図、第12図)。このように、半円状の外湾では海岸に砂丘のあるのと相まつて水深も浅く、速度も遅く、引潮がみられないため、家屋の破壊などの被害は少いが、長期たん水による水稲の被害等が生じてくる。
(4) 陸繋砂洲型
船越村は東部の島と砂洲によつてつながつてできた平地の西側に位置している村である。
この細長い平地の北側は山田湾、南側は船越湾である。津波に際して、両湾は同時に水位が高くなることはなく、山田湾が高い時は船越湾が低く、又その逆の時もみられた。山田湾からの津波がとくに内陸まで侵入しており、長期間たん水した(第13図、第14図、写真5)。
(b) 汐入湖型
石巻市東部にある万石浦など、水道で外海と湖とつながつている所では、津波が海岸に来ても海岸に接続した湖に津波が侵入するので、海岸における水位はあまり上昇しない。ただ水道の狭さく部を津波が通過する際、水道の両岸及び底を侵蝕、これら侵蝕した砂泥を万石浦へ入つた所でたい積した。
(c) 大河川河口型
北上川、追波川などの大河川の河口部では、津波は河に沿つて内陸に侵入するので海岸での波高はあまり高くならない。しかし、川にそつて奥深く侵入するため、川沿いの低地はかなりの浸水被害を出す。そして、何回も浸水するので、侵蝕、たい積がかなり著しい。
石巻市は北上川の河口に位置している町であるが、北上川沿いに津波が侵入、海岸砂丘背後の後背湿地及び河川沿いの低地にあふれた。被害は大部分船舶であつた。当時、石巻港には60余隻の漁船、巡航船がいたが、引潮にもまれたり、干上つて河床のあらわれた所へ横倒しになつたり、更にそこへ津波が押し寄せて内海橋に衝突して沈没したり、船火事をおこしながら流失したり、転覆して木材を流失する木材船など大被害が続出し、捕鯨キャツチャーボートは転覆して死者さえ出すに至つた。
7. 常磐の海岸地形とチリ地震津波
(1) 常磐の海岸地形
常磐海岸の海岸線に平行して阿武隅山脈が北は宮城県岩沼より南は茨城県久慈町まで発達する。この山地は大分部花崗岩より成る山地であつて、古生層は日立鉱山及び原ノ町付近に見られるにすぎない。この山地の東縁北部にはジユラ系の細長い分布があり、更に東に南北性の大断層を隔てて海岸の低地には第3系が分布する。この第3系は海水の侵蝕に対する抵抗が極めて弱いので、海岸は平滑な岩石海岸をなし、120〜130m、50〜70m、30〜40mの上、中、下3段の海岸段丘が発達している。
(a) 平滑砂浜海岸
松島湾より岩沼に至る海岸、四ツ倉より夏井川河口を経て豊間漁港に至る海岸、小名浜より勿来に至る海岸及び久慈川河口より磯崎に至る海岸などは平滑な砂浜海岸で、海岸には砂洲あるいは砂丘が発達し、背後のデルタを後背湿地化している。
(b) 平滑岩石海岸
久慈川河口より磯原に至る海岸、大津港より勿来に至る海岸、小名浜港より薄磯に至る海岸及び四ツ倉港より富岡を経て長塚に至る海岸などは、海岸段丘あるいは丘陵が直接海に臨んで急崖をなす岩石海岸でベンチが発達する。海岸線の出入は比較的少い。
(2) 津波型
(a) 平滑砂浜海岸型
北上川河口より鳴瀬川河口に至る海岸、御殿岬より名取川、阿武隅川を経て松川浦に至る海岸、四ツ倉より夏井河口を経て豊間に至る海岸はほとんど直線状の砂浜海岸である。このような海岸では津波はV字型湾のように勢力を一点に集中できないためそれほど高くならない。また、海岸には一列ないし数列の浜堤あるいは砂丘があり、これらの地域にはたいてい防潮林が作られているため、被害らしい被害はほとんどおこつていないのである。せいぜい砂丘の海側を侵蝕するか、あるいは砂丘を切つて流れている河川を溯つて背後の後背湿地帯へ若干たん水する位である。
(b) 平滑岩石海岸型
茨城県久慈町より大甕、日立市を経て北茨城市に至る海岸は、海岸段丘が海にせまつて20m以上の海蝕崖をなしており、海との間にほとんど平野はない。また、小名浜より豊間漁港、四ツ倉より久ノ浜に至る間もともに海岸段丘が海にせまつている。これら平滑な岩石海岸では波高も低く、かつ平地がないので集落も少く、ほとんど被害が出ていない。日立港での観察では海岸の岩とか松とか指標になるものを見ていないと津波の来襲がわからないほど静かに海水が上下したそうである。
1) 北部は鮮新統,南部は中新統,山ぞいの一部は漸新統である。
2) 上,中,下3段はそれぞれ多摩面,武蔵野面,武蔵野面と後関東にローム通との中間面と対比されている。大倉陽子(1953)常磐地方南部の地形,地理学評論XX-VI 252〜262
8. 紀伊半島の海岸地形とチリ地震津波
(1) 紀伊半島の海岸地形
紀伊半島は、三重県南部で伊勢湾にそそぐ櫛田川の谷から、三重、奈良両県境の高見峠を経て紀ノ川の谷を過ぎる線より南部を指す。この半島は地質構造上南西日本の外帯に属し、地質及び地形上複雑かつ特色ある地域である。
地質構造は、古生層、中生層、第3紀層の各地層が北から順に整然と並び、地形もそれに伴い、山脈は東西の走向を有し、また、海岸においては、新旧地層の相違が、地震その他の内的営力のみならず、風向、波浪、その他の外的営力と作用し合い、複雑な海岸線と単調な海岸線の組合せになつている。
いうまでもなく、日本は地盤運動の激しい所であるが、そのことは紀伊半島にもよく見られ、海岸段丘や、リアス式沈水海岸が発達している(第15図)。
半島の西海岸、御坊付近より南へ追跡される海岸段丘は、印南までは海抜10〜20mのものが美しく沿岸を縁取り、連続的に見られるが、印南港より20〜40m、岩代で40〜60mと次第に高まると共に、分布も断片的となる。
印南より周参見を経て、江住、田並に至る付近は大きくはないけれども湾入があり、海岸線が、鋸歯状になつている。小島、岬角が数多く散在する所から、以前は顕著なリアス式海岸であつたものが、激しい風蝕、波蝕をうけて次第に後退していつたものと思われる。断片的に見られる海岸段丘はかつての隆起を物語り、南富田村のものは60mを越え、かなり広い。
このうち、白浜→新圧一帯の海岸は狭いやや奥深い谷が密に山地を刻むが、沿岸の山地の陵線が内陸部に比較して一段低く、ほぼ同一高度をなし(20〜40m)、かつ、旧段丘面と思われるものが断片的に残存することから、旧海岸段丘面が極度の開析を受けて後沈水したものと思われる。
湖ノ岬に至つて、海岸段丘は高度、面積共に規模は最高に達し、20〜40m、40〜60m、60〜80mの3段に分れる。
潮ノ岬より東岸を北進するにしたがい、段丘の高度、分布は再び減少してくるが、新宮を経て熊野灘に面する一帯まで砂丘は追跡され、阿田和付近で40〜50m、志摩の大王崎で50mに達する。木本→新宮間を直線状に伸びる砂丘は、串本の陸繋砂洲同様隆起砂洲である。これらの砂丘は津波の侵入を妨げている。熊野市より新宮市に至る海岸は、10m内外の高さの浜堤の内側は砂であるが、波打際は那智黒を含む礫から成つている。大半の河川の河口は流砂で閉塞される傾向がある。
木ノ本以北は満壮年的に開析された山地が沈水してできたリアス式海岸であつて、湾奥に平野の見られるのはほとんどなく、急な海蝕崖が海に臨んでいる。しかし、三陸のリアス式海岸が、主として、V・WあるいはUの比較的単純な形の湾の組合せであるのに対し、ここのリアス式海岸は支谷の多い樹枝状の湾が多い。英虞湾、五ヶ所湾、的矢湾、贄浦湾などは、湾口がせばめられ、湾奥が広がる樹枝状の湾型を持つている(第16図)。湾の中にこまかい入江が発達し肢節量は極めて大きい。浜堤はほとんど見られず、各入江の埋積もおくれ、湾奥に小さな三角洲が形成されているにすぎない。
南島町の贄湾、奈屋浦、神崎湾、万座浦などは湾口が広く、湾奥が狭くなる樹枝状的リアス海岸である。小島、岬など比較的多く、浜堤、砂嘴は部分的に発達する。浜堤の背後は後背湿地となつている所がある。
長島町の海岸は湾入の程度が著しく小さい。半島部が波蝕によって分離し、湾口や湾の前面に群島を形成している。浜堤がかなり発達している。しかし、島かげ、あるいは深く入りこんだ湾では浜堤はあまり発達していない。
尾鷲、木ノ本間は標式的なリアス海岸で、V・Wあるいは樹枝状の谷が発達する。湾奥の小さい平野には浜堤がある。湾入の浅いほど浜堤の高さは大きい。尾鷲のように最大風向から保護された海岸では浜堤の発達は不良である。
紀伊半島の平野は、一般に河川が山地から直接海に臨むため、比較的小さく、勾配の急な扇状地性平野であり、ほぼ海抜5mの線にデルタと谷底平野の境界線がひかれる。これが、ある時代の海岸線を示しているものと思われる。
平野の大きいものは紀ノ川下流の平野と日高川下流の平野にすぎない。紀ノ川下流、すなわち、和歌山市の位置する平野は、海岸及び内陸に数列の砂丘がある。内陸側の砂丘は一つの旧汀線と考えられる。津波は紀ノ川を溯つて堰まで達したが、波高がそれほど高くなかつたので両岸にあふれることはなかつた。海岸の砂丘は10mもの高さがあつて、津波あるいは高潮を完全に防いでいる。
日高川の河口にも巾約1,000mの砂丘が発達し、津波の侵入を完全に防いでいる。これら両平野とも津波はたいしたことはないが、高潮の害の方が大きい。そして、河川の洪水もかなりの被害が生ずる所である。両平野とも構造線沿いに扇状地あるいは段丘化した隆起扇状地が並ぶ。
これら河川の下流部では流路の変遷著しく、旧河道がデルタの至る所に見られる。紀ノ川を例にとれば、和歌川、水軒川を本流とした時代もあつたが、二里ケ浜の砂丘が突破されて後、現在の河道に落着いたという。この平野のデルタと谷底平野との境界を定めることは困難であるが、海抜7.5mの所に鳴神貝塚の存在することから、地盤運動がなかつたものとすれば、旧汀線をその付近に想定できるのではないかといわれている。
紀伊半島は現在に至るまで、絶えず隆起と沈降とを繰り返して来ているが、とくに、中央構造線その他の地殻構造線の存在は、地震を伴う地盤変動を受けやすく、ある時は隆起し、ある時は沈降する。昭和21年の地震では、潮ノ岬を通る南北の線を軸に東岸は約1〜0・6m隆起し、西岸は約0.6m沈降の傾向であつたが、地震の結果、東岸では昭和19年の地震で沈降した所がもとに戻つた所もあるという。これらの地震に伴つて、かなりの津波が押し寄せているのである。ここで注目すべきことは、この近海津波でも波高が高く被害の大きかつたのは、今回の津波と同様、海南市、田辺市南部の文里港、串本西部の袋港、尾鷲などであつて、このようなことは、紀伊半島での津波危険地帯の設定に充分考慮さるべきことと思う。
1) 藪内芳彦
(2) 津波型
(a) リアス海岸型
(1) 樹枝状型
紀伊半島、とくに東部ではリアス式海岸が発達するが、三陸の海岸と異なり、湾口が狭く、湾奥が広く、樹枝状になつているのが多い。そして、湾内には多くの島が散在する。的矢湾、英虞湾、五ヶ所湾などはその例である(第17図)。
このような湾では、津波は水道の狭さく部では速く、広くなつた所及び肢浦の入江では極めて遅くなる。的矢湾を例にとつて見れば、平常時の流速は的矢水道で5.3〜10.9cm/secで最も速く、渡鹿野水道で3.2〜4.1cm/sec、三ヶ所水道で1.7〜1.8cm/secと速いが、その他の肢脈は宮潟浦の2.47cm/secを除けば、いずれも0.65cm/sec以下で第4位である(第18図)。津波による流速は潮汐流の約30倍で、的矢水道の流速は1.6〜3.3m/sec、渡鹿野水道1.0〜1.2m/sec、相通し水道0.51〜0.57m/sec、宮潟浦を除く各肢浦の流速は0.65m/sec以下で、これらの流速は筏の流出状況とも大体一致している(第19図)。狭さく部など流速の速い所は、丁度真珠の養殖に適している所であり、湾奥の流速の遅い所は真珠養殖の不適地であるため、どうしても被害が大きくなる。すなわち、このような湾の津波による被害は高波による直接の被害ではなく、水の水平運動、すなわち、急潮流によるものである。大体10m/secに達した所の漁場は大被害を受け、4m以上の所では中位の被害を受け、1m以下の所では大体被害はなくなつている。
1) 津波によつておこされる流速は振幅に正比例し,周期に逆比例するものとすれば,振幅は平時の潮差が1.2mに対し,津波の平均振幅は1.82mで1.51倍,周期は潮汐の745分に対し,37分で約1/20.1である。
(2) 陸繋島型
勝浦港を囲む湾は東部の島が砂洲で連繋された砂洲である。このような所では、砂洲の西側で津波が同時に高くなることはなく、一方が高い時は他方が低くなり、他方が高くなる時は一方が低くなる。そのため、砂洲の上を津波が横切ることがある。東海地震の時は、北より津波が砂洲を突き破って流れ、勝浦港まで流下した。
また、太地湾においては向島と陸との間は堤防でつながり一つの陸繋島の形をなしている(第20図)。今回の津波では、この島の北側と南側の水位が交互に高くなつたため、津波はこの堤防を乗り越えて流下した。
このような陸繋島での津波の型は北海道の霧多布と同様である。潮ノ岬は典型的な陸繋島であるが、この砂洲の高度が比較的高いため、砂洲を突き破つて流れることはなかつた。しかし、水位は同時に高くならず、西側の方が東に較べてはるかに高かった。
(3) 袋状型
串本西部の袋港、田辺の文里港、三重県下津港などは入口が狭く、奥の方が袋状に広がっている。このような所では、最も波高が高く大被害を生じているのであり、このような湾でなぜ高くなるかは充分検討を要する問題であると共に、これらの港市においては充分の津波対策を樹立しておく必要がある(第21図,第22図,第23図)。
(4) 鋸歯状型
印南より周参見に至る海岸は、かつてのリアス海岸が激しい風浪で削られて湾入が比較的浅くなつたものである。このような海岸は山地が海岸までせまり、谷を刻む平野も少い。したがつて、このような湾では、津波が押し寄せても津波の被害は比較的少いのである。
(b) 大河川河口型
日高川、熊野川、古座川などの大河川の河口では、津波はこれを溯るためあまり高くならない。
(c) 直線状砂浜海岸型
日高川、有田川の河口及び新宮より木ノ本に至る海岸などは直線状の砂浜海岸をなし、津波は勢力を一点に集中することがないので波高が高くならず、かつ海岸の砂丘が津波の侵入を妨げているので津波の被害はほとんど生じていないのである。
9. 四国南東部の海岸地形とチリ地震津波
(1) 四国南東部の海岸地形
四国で津波の被害を受けたのは、主に紀伊水道に面する海岸、とくに那賀川河口以南のリアス式海岸と、高知の浦戸湾より須崎にかけての海岸である。
(a) 平滑砂浜海岸
吉野川、那賀川の三角洲は平滑な砂浜海岸である。また、南部の海部川河口、宍喰町などの三角洲も平滑な砂浜海岸をなす。野根川河口より佐喜浜町に至る海岸は背後に山地がせまるが、海岸には狭い砂浜海岸が開けている。
(b) リアス海岸
四国山脈が紀伊水道に面している所は、急斜面が直接海に臨む海岸であり、椿泊浦、後戸浦、橘浦などの湾入がある。橘浦、後戸浦の間には、小勝島、高島などの島がある。これらの島も両湾を二分する半島の延長とみなすことが出来る。かかる場合、これらの湾入は、湾口の巾2km内外、湾入延長8〜10kmのU字型の湾となる。湾の方向は東北東を示す。
三湾における水深は、橘浦では大部分10m以浅であり、深い部分が湾の両部を東西に走つている。後戸湾では10〜20mの部分がほとんどで、5m以浅の部分は僅かに湾の周辺に付着するにすぎない。椿泊浦も後戸浦と同様10〜20mの部分が大半を占め、5m以浅の部分は湾奥部のみであり、橘浦とは著しい対照を示している。
橘浦と後戸浦とを結ぶ水道部は橘浦主部に比し深度大である。椿泊浦開口部外縁、舞子島、蒲生田崎間と水道部は7〜8mの浅さであり、後戸浦開口部外縁、野々島以北は小島の散在する瀬が存在する。
また、南部の浅川湾は、北東方向に開いた典型的なV字型湾である。湾岸には小さな平野が開け浅川の町が立地する。那佐湾は陸繋島があり、奥深いU字型湾をなす。水深は湾口で25mであり、朝顔の花弁型に浅くなる。
(c) 平滑岩石海岸
蒲生田崎より西南西へ続く海岸線は、ほぼ平滑で南東方向へ開口する日和佐など浅い部分があり沖には小島が浮んでいる。また、南部の佐喜浜町から室戸岬まではほとんど直線状の岩石海岸である。
(2) 津波型
蒲生田崎以北の椿泊浦、橘浦には、四国東岸において最大の津波が押し寄せており、浸水家屋について見ても、徳島県の総浸水家屋数1,549戸のうち82%にあたる1,299戸を占めている。
橘浦、後戸浦、椿泊浦の三浦を比較すると、後戸、椿泊で3.50〜3.80mであるが、橘浦では最高4.45mに達している。橘浦では福井川による堆積が進み、浅くかつゆるやかだが、後戸、椿泊は一般に深く、湾奥部で急に浅くなる型をとつている。また、後戸及び椿泊は、湾口に浅部があるが、橘浦にはそれがない。このような海底地形の相違によつて、上記のような差が生じたと思われる。
各浦ぞいの低地はほとんど浸水し、比較的広い谷底平野が連なる橘浦奥の福井川沿岸の低地が面積的に最も広い。
護岸施設の被害も橘浦湾奥部に最も集中している。海ぶくれ津波とはいえ、その主たる部分の侵入路の到達点であることが一原因となつている。三浦周辺の護岸施設の被害状況を見ると、前記の如くその分布は湾奥部に集中している。被災構造物のほとんどが、沖積低地前面の海岸堤防ないし河川堤防であり、一度津波が越流すると、施設背面をえぐり、破堤の可能性が大きいと考えられる所なのである。
家屋関係の被害は、浸水は多数あるが、倒壊あるいは流失したものはない。
水産関係の被害は6億円とされているが、真珠の養殖場の被害が5億5千万円に達している。
10. 四国南部の海岸地形とチリ地震津波
(1) 沿岸の地形の特徴
南四国としてここで取り扱うのは、東は室戸岬、西は足摺岬をそれぞれ東西の両端として、太平洋に面する沿岸の地帯である。全体として北にはり出した弧状の海岸であるが、浦戸湾以西には、宇佐湾、浦の内湾、野見湾、須崎湾、久礼湾などの小湾入が発達している。室戸半島の尖端部を、東にまわつた紀淡海峡にのぞむ沿岸も、一般に直線的な岩石海岸の中に、甲浦湾、浅川港などの小湾入をみる。これらに対して、足摺岬を西にまわつた西四国の沿岸は、日本としては規模の大きいリアス式海岸になつている。これらの大小の湾入の湾奥部には、いずれも小河川の下流部に発達した沖積平野が形成され、小都市や漁村が発達している。これらの都市のうち最も大きいのは高知市であり、そのほか須崎市、土佐清水市、宿毛市、宇和島市などがある。これらの都市をはじめ、各漁村は、いずれも津波発生時に、人的物的被害が甚大になる可能性を秘めている。
全体として岩石海岸であるが、岸本から柱浜、仁淀川下流部や四万十川下流など大中の河川の河口部には、沿岸に浜堤の発達する砂浜海岸があり、湾口部に砂嘴の発達するものとしては、須崎湾をあげることが出来る。岩石海岸をきざむ小河川の河口部には、延長の短い礫浜海岸が発達しており、しばしばこれら砂質浜堤や礫質浜堤は、防潮堤としての機能をも果している。
南四国の沿岸はさきにものべたように、過去においてはしばしば大津波の襲来をうけている。被害の特に大きかつたのは、前記したような湾の沿岸部、就中湾奥部であつた。
しかし反面、室戸岬や足摺岬などは、地震直後に、約50cmから1m以上も隆起する傾向があり、このことも関係して、津波の害はみられず、かえつて隆起による湾の使用不能化という現象がおこつた。土佐湾奥の部分は、半島尖端部が隆起するようなばあい、沈降を示し、このため、津波の規模や被害を増大する傾向がないのではなかつた。しかし、チリ地震津波のばあいには、地盤の変動は全く考えにいれる必要はない。地盤の変動は、大地震の発生後約30分の間におこるから、津波が沿岸に発達する以前に、隆起沈降の現象はほぼ終つていたと考えねばならないであろう。
以上のような特色を持つ沿岸の地帯から、浦戸湾、宇佐湾、野見湾、須崎湾をとりだして、その特性をのべておこう。
土佐湾の奥から、さらに北に湾入する浦戸湾はヒヨウタン型の平面形をもち、その湾口を東の物部川と西の仁淀川のはき出した漂砂によつてたえず閉塞されるため、水深は1〜2m前後にすぎない。湾内は、大畑山と烏帽子山を結ぶ山列によつて、南北の二つの部分にわかれ、北湾は鏡川、国分川などがそそいで、湾内を埋積しつつある。南湾も東西の両岸は泥土で埋積され浅くなつている。北湾と南湾をつらぬいて、一すじの深い水路が南北に走り、航路になつている。その頭部は、一つは烏帽子山列の北側を西につっこんでおり、一つは鏡川につづいている、この水路は一般に深さ10m位で、一部はさらに深い(第24図)。鏡川などの洪水流の吐出路に当り、同時に、津波の侵入路にもなつているようである。過去の津波は、この水路を北上し、国分川下流部のデルタ平野の上に氾濫し、一部は長期たん水した。長期たん水をみた原因として、地震の際、この地域が沈降することも関係しているが、もともときわめて低平なデルタ平野が、ほとんどOmに近い水準であつたことや、最近では高知市の東部にまでOm以下の地域が拡大してきていることが、津波の際長期たん水をみる原因として考慮されねばならないであろう。なお、Om以下の地域が発生、拡大している原因としては、今のところ、地下水汲上げだけを考えるわけにはいかないから、すみやかに、その原因を究明する必要がある。
須崎湾は、逆「く」の字型を示す。水深は浦戸湾に較べて全般に深く、巾は湾口で300m、広いところでは1,100mに達している。湾口部を15mの等深線が走つており、逆「く」の字型に北につつこむ沈水谷の最深部をつらねる線は、湾の東よりつらなつている。その頭部は、一つは湾内に注ぐ神田川、御手洗川などにつづき、他の一っは多の郷干拓地につつこんでいる。最深部は須崎内港の南にあつて17mをこえる。
多の郷干拓地は、神田川、御手洗川などの下流部に発達したデルタ地形であり、大部分が1m以下の低地であり、過去の津波にもしばしば海没したが、チリ地震津波のばあいにも、堤防をこえてナイアガラ瀑布のようになだれこんだ海水のために破堤し、長期たん水をみた。湾口に発達する浜堤は、主として新荘川のはこび出した土砂によつて構成され、須崎市街をのせる。この浜堤を南側から北にぬける津波は、過去には体験していないといつてよく、須崎市内に侵入した津波は、北から上陸したり、堀川をさかのぼつたりしたものである。新荘川にそうても、過去の大津波は侵入しているが、今回の津波では河口部の船だまりからも、津波は上陸しなかつた。
須崎湾の南側、浦の内湾と背中あわせに、西に開口する野見湾がある。湾内には沖積平野はほとんど発達せず、屈曲にとんだ沈水型の海岸線を形成している。湾内は一般に水深が大きく、過去の津波の際にも、沿岸の漁村はしばしば災害をうけている。とくに、白鳳の地震の時には、沿岸の漁村が海没するほどの地変があつたことで知られている。地変が何処で、どの程度の規模で起つたかについては、今にいたるまで確証されていない。チリ地震津波の場合にも、一部に海水が侵入しているが、これらは一つは防潮堤の角落しをしなかつたためであり、一つは排水口から逆流したものであつた。
野見湾と背中合せに東に開口する浦の内湾は、屈曲にとむ水深の浅い湾入であり、延長に対して巾が小さい。沿岸には小さい部落が発達するが、過去の津波できわめてひどい被害をうけた例は知られていない。この湾の湾口部の東側に、宇佐湾が発達する。湾入度の小さい、南に孤状にひらく砂礫浜海岸をなす。湾の東端には岩石が露出して岬角を形成し、さらに東側には浜堤の発達する砂礫海岸が、仁淀川の河口をこえて桂浜につらなつている。これらの浜堤を構成する砂礫は、大部分、仁淀川がはこび出した中古生層由来のものである。宇佐湾の浜堤は、その高さ2〜3m程度にすぎず、津波を防ぐ程の高さはない。
このため、過去の津波にあたつて、直接、浜堤をこえたり、浜堤をきつて吐出する小河川をさかのぼって、浜堤背後の低地に侵入し、きわめてはげしい被害を発生したことがしばしばであつた。浜堤の高度が充分高ければ、防潮堤のはたらきをすることは、桂浜以東の岸本までの浜堤において、過去の津波の際実証されているところである。
以上、東は岸本から西は須崎湾までの地形の特徴を津波との関連においてのべたが、浦戸湾、宇佐湾、野見湾、須崎湾、それらの間をうずめる平滑な浜堤海岸など、タイプや、湾形、湾向、湾内の地形などをことにする海岸線において、過去の津波やチリ地震津波の様相がどうであつたかについて、以下にのべてみたい。
(2) 過去の津波
過去において、はげしい被害を伴った津波は、いずれも近海津波であつて、南海道沖合に震源地をもつ地震に伴つて発生している。関東地震のばあいには、被害を伴わず、チリ地震津波に似た状況であつたと伝えられている。遠隔津波については、1906年8月17日のチリ地震津波に伴う津波が験潮儀に記録されているが、被害は全くなかつた。今回のように、遠隔津波によつて被害の発生したのは、南四国においては全くはじめてのことである。南四国各地を襲つた過去の津波のうち、代表的なものにっいて簡単に説明しておきたい。
白鳳地震は、白鳳13年10月14日におこつた。しかし白鳳の年号は、今日の史家の間では必ずしも認めておらず、天武天皇即位の12年(684年)が、この年に当る(10月14日については、11月29日としている人もある)。いわゆる白鳳地震は、その規模が大きく、津波発生の地域は、東南海地方の広域におよんでいる。
白鳳地震のあと、慶長地震までの920年間、南四国には記録に残る津波や地震は知られていない。全く津波や地震がなかつたということは考えられないから、記録に残る程の規模のものがなかつたといわねばならないであろう。慶長地震は、慶長9年(1605年)12月16日におこり、南海道各地に津波を発生した。高知県下でも、佐喜浜、浦分、甲浦、和喰などでは、多大の被害が発生している。被害をみたのはいずれも・室戸半島にくいこむ小湾入の奥に位する漁村であつたが、西岸の野根州では全く被害をみなかつた。
慶長地震のあと57年たつた寛文元年(1662年)10月19日に、記録に残るほどの地震があつたが、被害の詳細は不明である。
寛文地震のあと45年目の、宝永4年(1707年)10月4日に大地震がおこつた。この地震は、日本最大の地震ともいわれ、東南海道の広域に津波の発生をみた。津波は最高20mをこえ、沿岸地帯では地盤の陥没、隆起がおこり、浦戸湾の奥につつく国分川などの下流部のデルタは、長期間にわたつて海水の侵入をうけた。地震発生後1時間にして津波に襲われ、翌朝までに12回をかぞえ、湾奥のデルタ地帯は、山麓部まで一面の海と化した。これが世にいう亥の大変である。
宝永地震のあと、147年目の安政元年(1854年)は、「地震の当り年」ともいうべき年であつた。南四国では被害の記録はなかつたとはいえ、6月15日に畿内、東海、東山、南海道を含む広域に大地震があつた。11月4日には、関東、東海、畿内にかけて強震が発生し、一部に津波の襲来をみた。しかし・南四国では大した被害もなかつた。ところが翌5日の夕方、再び大地震にみまわれ、地震発生後約1時間にして、南四国の各地は津波に襲われた。浦戸湾では高知市東部の、宝永地震の際海没した地域が、ほぼ同じ範囲にわたつて海にのまれてしまつた。
須崎湾においても、4日の午前8時頃に地震があり、やがて津波が来襲したが、被害をみるにはいたらなかつた。5日には午後5時ごろ大地震がおこり、約1時間後には、須崎で約10m、久礼で約12mに達する津波が襲来し、甚大な被害を発生した。湾奥の干拓地も再び海没し、山麓にいたるまで一面の湾入と化したといわれている。これが「寅の大変」とよばれるものである。
92年間はおだやかにすぎたが、1946年12月21日午前4時15分、いわゆる南海地震が発生し、紀伊半島、四国の沿岸各地ははげしい津波におそわれ、人的被害は死傷者合せて3,000名をこえ、家屋の被害は6万をこえた。この地震は大正以後の地震では、三陸沖大地震につぐ大地震であつた。南四国のうち、浦戸湾、須崎湾、宇佐湾、野見湾などの周辺地域では、津波の規模も大きく、被害の様相は悲劇をきわめたものであつた。
過去の津波をみると、南四国各地の小湾入は、南海道沖合に発生した大地震のたびに、大規模の津波に襲われている。特に浦戸湾、宇佐湾、須崎湾、野見湾などでは、大被害の発生をみている。また浦戸、須崎両湾の湾奥部の低地には、海水が侵入している。これに対して、チリ地震津波のばあいには、須崎湾奥の干拓地は海水におおわれたが、浦戸湾では被害らしい被害をみていない。
(3) チリ地震津波の概要
(a) 津波到達の時刻
さきにもふれたように、沿岸の漁師たちが津波の襲来に気づいたのは、第2波と思われる4時半すぎのものであつた。しかし、験潮記録では3時半すぎに押し波として記録されており、その変化量は20cm程度であつた。しかし、中には4時半すぎのものに気づいた人もあつた。それは排水管をつたつて上陸、噴出したものであつたが、多くの人は別に気にとめることもなく、津波警報をきいて大さわぎをはじめるという有様であつた。
浦戸湾内でも、5時20分ごろ、五台山付近の住民から高知地方気象台に連絡してきたし、5時30分ごろには、桂浜からも、津波が襲来しており、その状況は関東地震の時のそれと類似しているという報告があつた。これらは桂浜の験潮記録からいえば、第3波に相当するものといえよう。
須崎湾では、須崎港の験潮儀は稼動していなかつた。しかし、湾奥の桐間干拓地に接する多の郷駅の駅員が記録したものが参考になる。第1波を4時50分として、18時20分までに18回、津波が堤防をこえて水田に流れこみはじめた時刻を観測している。これは験潮記録にかわるものとして重視してよい。
須崎湾については、県の須崎土木出張所の岡田技師の観測結果もある。その記録によれば、8時ごろから16時ごろまでの分をかくが、桐間干拓の堤防が破壊された7時30分の状況は記録されている。このばあいにも、第1波と思われる4時30分〜40分ごろのものは記録されていない。しかし住民の一部には、4時30分ごろ、下水路を逆流、溢水した海水が家の中にふきだし、海況に異状のあつたことを知つていた。たとえば、東又屋旅館では4時30分ごろ、池にふき出してきた海水のため泥水が庭にばらまかれ、5時すぎに再び浸水、7時ごろには床上まで浸水したという。7時ごろのは下水路をつたつてきたものと、堀川から溢流してきたものの両者が加わつていたと判断される。
このように、下水管を逆流してきたケースは、野見湾周辺にもみられ、浸水家屋として報告されたものの中には、こうして浸水したと判定すべきものが多い。
(b) 津波の潮位
南四国各地に到達した津波の最高潮位については、被災後、何人かの人々によつて調べられている。験潮記録のあるもの、痕跡から調べたもの、レベルをつかつて計測したもの、折尺程度の測定具で測定したものなど、数値の正確さは必ずしも一定ではない。
以上の各地点のうち、験潮記録がとれているのは、高知市の桂浜、若松竹、浦戸湾沿岸の3個所、土佐清水市下田の合計4個所にすぎない。最高潮位や最低潮位の出現時刻は各地それぞれ異なつている。たとえば、浦戸湾内でも湾口の桂浜でも最高潮位は7時49分の266cm、最低潮位は8時46分で記録されているのは-56cm、推定では-76cmとなつているのに対し、湾奥の若松町では5時35分が最高で216cm、12時12分が最低で149cmになつている。土佐清水市では7時35分の326cmが最大となつている。このようなちがいは、湾向、湾形、湾の深さ、湾の固有周期験潮所の位置などのちがいによると判断される。
11. 九州南東部の海岸地形とチリ地震津波
九州は全般に津波が弱く、被害らしい被害はなかつたが、南東部では比較的波高が高かつたので、佐賀関より志布志湾に至る海岸を調査した。
(1) 九州南東部の海岸地形
(a) リアス式沈水海岸
佐賀関より臼杵、佐伯を経て、延岡の玉ヶ瀬川河口に至る海岸はリアス式沈水海岸をなし、海岸にまで山地がせまり、島が多い。臼杵湾、津久見湾は東北東を、佐伯湾は東を、佐伯湾から延岡までは南東を向いた湾である。湾の奥に小さな平野が開けるほかには大きな平野はないが、佐伯市などでは埋立地が造成されている。
(b) 平滑岩石海岸
青島から都井岬を経て志布志に至る海岸は、小湾入はあるが、比較的平滑な岩石海岸である。
(c) 直線状岩石海岸
小丸川以北の都農町南東部に流れる名貫川河口の海岸は、30〜58mの台地が海岸にせまる直線状の岩石海岸である。
(d) 直線状砂浜海岸
志布志から肝属川河口に至る海岸、清武川河口より宮崎の大淀川河口を経て高鍋の小丸川河口に至る長大な海岸、名貫川以北の美々津町以南の海岸、小倉浜海岸、土々呂より延岡五箇瀬川河口に至る海岸はほとんど直線状の砂浜海岸である。海岸には砂丘が海岸線に平行して数列発達しており、とくに宮崎海岸では高さ28mに達するものがみられる。海底も比較的遠浅であり、深度20mの線は海岸から約3km、50mの線は約16km、100mの線は海岸から約16kmの沖になる。
(2) 津波型
九州では、リアス式海岸でも波高はあまり高まらず、被害らしい被害はほとんど生じなかつた。佐伯市では、湾口の片白島と野崎鼻との間の距離3.65kmが、湾奥では1.85kmとせばめられているため、若干の水位上昇をきたし、大入島では満潮位上75cm上昇した。しかし、湾奥で、番匠川及び大入島西方水道に津波が二分されるため、津波はあまり高くならなかつた。被害はほとんどなく、若干ラワン材が流されたが、大部分回収された。
尾末湾及び細島港においても湾奥が広がつているため、津波も高くならず、漁船などに小さな被害を出したほかはほとんど被害らしいものは見られなかつた。満潮の時は海ぶくれ型で除々に増水したが、干潮の時はかなり流れが強かつた。しかし、このため侵蝕がおこるほどのことはなかつた。
九州では、リアス式海岸でもこのように波高が低く、津波の勢力の集中しにくい直線状の砂浜あるいは岩石海岸では、ほとんど津波の来襲に気づかれない状態であつた。
12. 津波と地形
(1) 津波の侵入路
津波の、海岸及び陸上の侵入路は、地形と密接な関係を持つている。
(a) 湾の最深部に沿つて
湾に侵入した津波は湾の最深部にそつて侵入して来るものが多い。女川、志津川、大船渡などでは、津波は三角形に盛り上つて進んで来ているが、この侵入経路と海底の等深線図と照らしあわせると、津波は湾の最深部を通過していることが多い。九州の外浦港、内海及び細島においても同様の傾向が見られた。
(b) 海岸に沿つて
志津川では、東方より弁天崎へ激突した津波は岩礁のため二つに分れ、一部は南へ、主力は北へ海岸沿いに進んだ。また、志津川港に侵入した津波は岩壁に沿つて回転している。九州の外浦においても海岸沿いに回転している。
(c) 河川に沿つて
津波にとつて、河川は大小を問わず内陸への絶好の侵入路であり、最も奥深く内陸部まで侵入しているのである。津波が最も奥まで侵入したのは、北上川の派川の追波川であり、河口から15kmを溯つて北上川本流との合流点の可動堰で停止している。また、中、小河川でも津波はこれらを溯り、志津川町では八幡川、新井田川に沿い(付図)、気仙沼市では大川、鹿折川に沿い、小名浜では小名川に沿つて市街地にあふれている。また、久慈川(岩手県)及び夏井川を溯つた津波は河から後背湿地にあふれ出ている。
紀伊半島の長島では、河川を溯つた津波のため浜堤背後のデルタは浸水している。また尾鷲でも河川にそつて津波は市街地に侵入している(第25図)。
四国の橘湾の奥には福井川がそそぐ。大原では約5mの高さの波が川を溯つてきたことが観察されている。この河口では、津波はあたかも壁の如き様子でせまつて来たといわれ、24日午後になつてからの弱い津波でも、河口から700m上流付近では4.5mの落差で津波が逆流している様子が観察されており、湾全体としてはいわゆる海ぶくれ型をしているが、川に入つてからは段を成して逆流している。引く時は川の流れのようであり河床が現われたといわれる。津波が川を溯つて内陸へ侵入する時は、前面に海岸堤防があつても裏の方から浸水している所がある。橘浦大波地区、日和佐川沿い、浅川、浦上川、牟岐の各河川はこの例である。
九州の細島、外浦などでも河川を溯つている。
(d) 航路に沿つて
塩釜では松島湾が浅いため、塩釜港より東方へ9mの航路用水道が掘られている(付図)。津波はこの航路に沿つてのみ侵入し、この航路の延長たる運河に沿つて塩釜市内へあふれだした。
(e) 澪及び旧河道に沿つて
気仙沼湾の大川は、かつては現在より北部に河口を有していた。このかつての河口の海への延長方向には澪が形成されている(付図)。津波はこの澪に沿つて侵入、澪の正面にあたる堤防を破り、上陸してからは旧河道沿いに内陸部へ進んだ(付図)。万石浦には水道から続く澪が形成されており、津波はこの澪に沿つて万石浦内部へ進んだ。
(f) 運河に沿つて
塩釜では運河に沿い、上雄勝では灌概用水路に沿つて津波は内陸部へ進んだ。紀伊半島の的矢湾、五ヶ所湾では排水路より侵入した。
(g) 道路に沿つて
宮古湾奥では、津波は砂丘地帯へ道路沿いに侵入している。 また、海岸線に平行に築かれた海岸堤に直角に、海岸から内陸へ道路が建設されている所では、大槌の吉里吉里、宮古湾の赤前のように、津波はこれらに沿つて侵入し内部に大きな被害を与えた。
(h) 下水道に沿つて
釜石市内では、市中央部へ下水道を伝わつて海水がふきだし、鮫までふきだされた。
(i) 排水樋管より
紀伊半島の南島海岸では津波は排水樋管より侵入し市街にあふれだした。
(2) 津波の断面
女川では、上陸した津波は内陸へ水平に進まず、海岸から遠のくにしたがい急速に水深を減じて行く(第26図)。この状態は伊勢湾台風時の高潮の濃尾平野への侵入状況と良く似ている。水深の減じはじめるのは、地形勾配の変換線付近であり、津波の侵入に対する地表面の抵抗の増大によるものと思われる。志津川のように速度大きく強い波の来た所では水深を減じながらなお斜面を這い上つている。
四国の橘浦地区でも、上陸後津波は徐々に低下するか、あるいは水平に近い状態で、内陸部に向つて増水するものは観察されていない。
(3) 津波の到達限界
津波は、三陸海岸では普通、デルタと谷底平野との境界、あるいは波蝕台付近で停止している。また、四国の橘浦の橘市街及び周辺の谷も同様のことが認められる。このような地形の変換線は津波の限界となりやすい。津波の到達限界の海抜高度で最も高かつたのは、陸前高田市の7.1m、宮古市の6mであつた。河川では、大抵用水樋などで停止している。三陸の追波川、志津川及び八幡川、四国の橘浦新浜などはその例である。
(4) 浸水深とたん水期間
陸上でのたん水深の最深は、陸前高田市の3.3mであつた。たん水期間は短く、普通20〜30分だが、海岸側に砂丘、砂嘴などがあり、内陸部が低まつている所では長期間たん水し、志津川では60日(付図)、久慈浜(岩手県)では10日、宇部川では20日、宮古湾奥部付近では20日間たん水した。このほか、織笠川河口では津波により落掘を生じ、24日間たん水した。
(5) 地形変化
塩釜では、航路が馬放島の狭隘部となつている所で2m以上侵蝕したが、堆積はほとんど見られなかつた。また、志津川では、津波が侵入及び排水した海岸沿いに深く侵蝕されており、海岸の礫洲の侵蝕も著しかつた。港内では岸壁に沿つて津波が回転したため、岸壁沿いは著しく侵蝕されたが、港の中央部ではかなりの堆積が見られた。久慈川(岩手県)及び宇都川では、津波の満潮及び干潮の際、河口は砂の堆積によりほとんど閉塞されてしまつたが、別の方向に流絡を取り、新しい河口を作つた。宮古湾の津軽石川河目の海岸側の侵蝕は著しく、河口の洲はなくなつた。しかし、これらの洲は間もなく元通りになるといわれる。海岸の砂洲には防潮林が作られている場合が多く、防潮林で下草の生えている所はほとんど洗堀されていないが、生えていない所はかなり洗掘されている。茨城県那珂湊では、港内がかなり侵蝕されて水深を増したため、船舶の入港がかえつて便利になつた。北海道の霧多布などの洲では、一方から一方へ津波が越す時かなり侵蝕し、数回の津波による侵蝕で霧多布は島のように孤立した。侵蝕溝は深さ1.5〜2m、巾30〜40mである。しかし、霧多布市街、浜中湾側など礫質の浜では侵蝕は少く30〜40cm位である。また、牧草のある所などは、砂の裸地に比較し侵蝕の程度が少かつた。また、海岸全体が一様に侵蝕された所では、海岸線の後退の形となり、暮帰別付近で80〜90m、新川方面も同程度に後退し、霧多布南西の琵琶瀬湾側では30m位後退している。四国の徳島港においては、300m^3の浚渫を要する土砂が、主として湾奥、船付場の付近に堆積したといわれている。れている。
茨城県那珂湊では、港内がかなり侵蝕されて水深を増したため、船舶の入港がかえつて便利になつた。
北海道の霧多布などの洲では、一方から一方へ津波が越す時かなり侵蝕し、数回の津波による侵蝕で霧多布は島のように孤立した。侵蝕溝は深さ1.5〜2m、巾30〜40mである。しかし、霧多布市街、浜中湾側など礫質の浜では侵蝕は少く30〜40cm位である。また、牧草のある所などは、砂の裸地に比較し侵蝕の程度が少かつた。また、海岸全体が一様に侵蝕された所では、海岸線の後退の形となり、暮帰別付近で80〜90m、新川方面も同程度に後退し、霧多布南西の琵琶瀬湾側では30m位後退している。
四国の徳島港においては、300m^3の浚渫を要する土砂が、主として湾奥、船付場の付近に堆積したといわれている。
13. 地形要素と津波型
(1) 台地(段丘)と津波
台地(段丘)は津波に対して絶対安全な地帯である。三陸地方には広く台地(段丘)が発達しているため、津波を避けてこれらの地域に部落が移転している場合がある。昭和8年、津波に襲われ大被害を出した吉浜湾の本郷、綾里、島越などはその例である。
(2) 谷底平野型
三陸、四国南部、紀伊半島などの海岸では海岸近くまで谷底平野が発達しているが、津波はこの谷底平野の末端部付近で消滅している。したがつて、これらの谷底平野の末端部では、たん水時間も短く、たいてい数分であり、浸水深も浅い。ただ、津波の到達限界であるため流木の堆積が著しかつた。
(3) 波蝕台型
三陸地方の段丘崖下には波蝕台が細くついている。したがつて、これら谷底平野の末端部ではたん水時間も短く、浸水深も浅かつた。
(4) 砂丘型・砂洲型
北上川河口にはかなり高い砂丘列が見られる。津波はこの砂丘に達し、砂丘内部の道路など低い部分を通り、後背湿地に侵入したが、干潮では砂丘を越えなかつた。陸前高田市では海岸に砂洲があり、松の防潮林が造られている。津波はこれを越えたが、干潮の際は越えず被害は少かつた。また、この砂洲の背後にもう一列占い砂洲があり、ここでは浸水したが、排水は速かで浸水深も浅かつた。岩手県久慈浜海岸、あるいは常磐の夏井川河口付近の砂丘、あるいは砂洲では津波は大部分防潮林で停止し、防潮林より海側が若干侵蝕されたにすぎなかつた。
このように、砂丘あるいは砂洲の地域では、浸水しても排水が速かで、浸水深も浅く、干潮の際はこれを越えず被害は少かつた。
(5) 自然堤防型
三陸北部の鵜住居川には河道にそつて自然堤防が発達している。海岸堤を破つた津波はかなり広範囲にわたつて浸水したが、自然堤防地帯は冠水しても排水は速かであつた(第27図、第28図)。
(6) デルタ・後背湿地型
デルタ、あるいは海岸砂丘背後の後背湿地では、津波でも長期間たん水した。これらの地域になると、津波の速度もやや遅くなる。大槌川右岸の平野、志津川の八幡川、水尻川に狭まれる間の松原公園(礫洲)、背後の水田地帯(付図)、陸前高田市の海岸砂洲背後の水田地帯、宮古湾奥の津軽石川河口付近の水田地帯、鵜住居川片岸の水田地帯(第27図、第28図)、北上川河口付近砂丘背後の平野などはこれにあたる。
海水の、長期かつかなりの水深でのたん水のため、塩害による被害大きく、水稲の減収、または全滅した所が多い。しかし、流速が速くないため、家屋倒壊、土地の侵蝕などの被害はやや少くなつており、また、海岸の砂洲あるいは砂丘を越えることのできた津波だけが侵入して来るため、津波の回数が少く、せいぜい1〜3回である。
(7) 埋立地型
大槌川河口左岸の安度、釜石港、志津川港(付図)、気仙沼港、大船渡港、塩釜港、小名浜港、四国の高知港、九州の佐伯港、外浦港などには、海岸に埋立地が造成されており、埠頭、造船場、魚市場、工場などに利用されている。
これらの埋立地は津波を最初に受けるため、水速が速く、回数も多いが、周辺部より地盤が高く、かつ海に面しているので速かである。また、埋立地がたいてい海抜1.5m以上のため水深も比較的浅い。大槌では、河口右岸のデルタでは水深3mであつたが、左岸の埋立地では最大1.4mであつた。水速が速いため、侵蝕あるいは家屋の倒壊などの被害が大きかつた。大槌川河口右岸の埋立地では、広範囲にわたつて侵蝕が行われて大きな被害を出した(付図)。
(8) 海浜・河原型
津波が引く時には河床が完全に干上ることがある。北上川の如き大河川でも、一時ほとんど水がなくなって河床が現われた。このような所では、侵蝕、堆積共に著しく、とくに侵蝕作用が著しい。
海浜でも、かなり遠方まで海水が引くのと、何回も津波が押し寄せてくるのとで、侵蝕、堆積両作用共に激しく、とくに侵蝕作用が著しく、海岸線の後退した所が多い。
14. 津波と高潮との比較
津波が地震によつてひきおこされるものであり、高潮が台風など低気圧によつてひきおこされるものであることはいうまでもない。津波と高潮とでは多くの点で異なった性格を持つている。第一に津波は数十分の周期で激しい干満をくりかえすので、験潮儀の記録は鋸歯状となる。これに対し、高潮では一つの盛り上がりが見られるにすぎない。第二に高潮は台風に伴うものであるため、激しい風が吹き、これに伴う高い波浪が加わるが津波にはこれがない。
これらの相違のほか、津波と高潮とでは来襲地域が異なつていることがあげられる。津波の来襲する所は高潮はあまり来襲せず、高潮の来襲する所へは津波はあまり来襲していない傾向がある。このような現象は海岸地形の差によつてひきおこされるものである。全般的に見ると、三陸海岸と常磐海岸とでは、三陸が津波の来襲地域であるのに対し、常磐海岸は高潮の来襲地域である。三陸、常磐の沖を10月21日に台風24号が通過した。このため、常磐海岸には高潮が来襲し、久慈港(茨城県)で3m、四ツ倉港で3.2m、小名浜港で7.8mに達し、かなりの被害を出した。しかるにチリ地震津波では久慈港で2.2m、四ツ倉港で28m、小名浜港で3.3mといずれも高潮より津波の方が低かつた。これに対し、三陸では、津波の方が高潮より高かつた。このような現象は、単に今回の津波あるいは高潮にだけ見られた現象だけでなく、過去何回もの津波、高潮でも見られた現象である。また、一口に三陸海岸といつても、久慈浜(岩手県)などの平滑海岸では高潮の被害が大きく、リアス式海岸のV字、U字型湾などでは津波の被害が大きい。これらの湾は周辺を山地で囲まれているため風がさえぎられ、かつ、湾が奥まつているため高潮のエネルギーが内部へ行くにしたがって消耗されることなどの理由にもとずくと思われる。
このように、海岸の地形によつて主として津波の襲う海岸と、高潮の襲う海岸とを分類することができ、地域によって海岸災害防禦の重点を津波におくか、高潮におくかを決めることができる。
15. 集落の高地移動と津波対策
(1) 概要
チリ地震津波災害対策は被災関係の各分野に於いて実施されているが、それら各々の相互関係、災害現象の基底となつている地形、土地条件と津波エネルギーの伝播との問題点等を解明することによつて対策の目的を達成せねばならない。
三陸沿岸地方に於ける津波対策として重要な問題の一つに被災集落の高地移動があげられる。日本の代表的な津波被害地域となつている三陸地方では古くから集落の高地移動が行われてきたが、この高地移動に関しては多くの問題を含んでいる。古い歴史時代は別にして、明治29年及び昭和8年津波後に於ける高地移動の概要とそれらの防災成果を略述すれば次の通りである。
明治29年6月15日津波の波高は7〜10mの地点が多く、広田の根崎、綾里の白浜、吉浜の本郷、久慈の待浜の如きは26m、あるいはそれ以上に及んでいる。その被害を見れば第8表のようになり、この大被害によつて多くの村では安全な高地移動を考えたが、実施したのは一部の部落に過ぎない。被災部落の大部分が漁村であるため、海浜より離れることが漁民意識としても、日常の作業上からも、また零細漁民が多いため、資金的にも困難を伴つた。また、村民相互の利害の不一致、宅地選定、買収に当つては地主との対立などの問題もあり、その上時代的に見て宅地造成の土地条件の調査、土木技術も今日に比較すれば低劣であつたため、高地移動を制約した。またこの地方の小市街部をなす所の移動は、その機能的特性上ほとんどなされなかつた。このような条件下で高地移動を実施した事例を見れば、各戸任意に移動した分散移動と部落が協同でして移動した集団移動に大別される。しかし大部分の被災部落が被災原地に復興し、その後なお移動部落の跡地には、移動者の一部、あるいはその分家、他村から居住者が占居したため、低地の危険地帯は、37年隔てた昭和8年3月3日の津波によつて再び甚大な被害を受けたが、移動村落の大部分は防災に成功した。
昭和8年津波の波高は、明治29年に比較すれば一般に低いが、物的被害は決して少くない。人的被害が少いことは、波高が低かつたことと、明治29年の経験により地震によつて津波を予知して避難したものが多かつたためである(第9表)。物的被害が大きかつたのは、人口の増加、生産施設、器材の増大発展に伴つて、それらの配置が災害を受け易い低地と、その海岸え拡大したためである。
昭和8年津波被害後集落の高地移動は防災対策の大きな事業の一つとして取り上げられた。県市町村に於ける復興事業も移動を促進し、政府も国庫補助並びに低利資金利子補給をもつてこれにあたつた。これに関連して被害地及び宅地造成地調査等災害調査に空中写真が利用されたことは画期的なものであつた。この時期に高地移動が計画されたものは、岩手県20ヶ町村42部落、宮城県15ヶ町村60部落におよんでおり、昭和9年3月末までに住宅敷地の全部を竣功すべく進められてきたが、昭和9年1月末現在の計画は第10表の通りである。
この様な大規模な高地移動を実施するに当つて、三陸の地形的特性に見られる通り適地が狭少であり、移動村落が漁業を主としているため、移動地と海浜との距離の問題もあつて、宅地造成地の選定は多大の困難を伴つた。地形的には危険な低地を避け、台地、段丘、山麓斜面が候補地として選定されたが、用水その他の生活環境はむしろ不便な土地が多かつた。また農地を転用することは農地の狭少な三陸地方では農業者の反対もあり、兼業漁業者も望むところではなかつた。一方、宅地買付に当つては地主の協調を得られない場合もあり、また白己資金分の調達不能な零細業者も多かつた。なお、日時の経過に従つて防災意識が薄くなり、被災原地の仮居住から元屋敷に復興するものも出てきた。
この移動実施に当つては多様な困難を伴いながらも各地で実施されて来た。移動の形式は一団地に造成された宅地に一村落の大部分が移動した型、数団地に分散して移動した型及び戸別に分散して移動した型に分けられる。なお、自己資金のみにて任意に移動した例は各所に見られることはいうまでもない。一方、他所に移動せず、被災原地に復興して強固な防災施設を造つた例としては田老の如きがその代表である(第29図)。かくして、移動した村落の元屋敷があつた危険な低地は移動した村落の分家、一部の復帰者、他村からの移住者等によつて再び占居されるところが多くなつてきた。たゞ唐丹の本郷の如き一軒の再占居者もない例は少い(第30図)。明治29年、昭和8年津波の経験によつて実施された村落の高地移動はそれなりに成功したと見られるが、昭和8年津波被害から、昭和35年チリ地震津波まで27年間に於ける三陸地方の変貌発展は、津波危険地帯に於ける人口の増加による村落の占居、地方都市の発展、生産諸施設の発展拡大、海上交通、水産業の発展、漁船の大型化等による港湾設備の増加によつて、津波に対して人命の危険度は過去の津波被害以上に増大していることはいうまでもないが、物的被害の危険度は昭和8年津波を基準にしても数倍におよぶと考えてよい。
このように、津波危険度が増している三陸地方に昭和35年5月24日来襲したチリ地震津波は、三陸沖地震津波の波長の短いか衝撃型と異なつた波長の長い浸水型津波であつた。したがつて、波高、浸水状況、被害型等について見れば、三陸沖地震津波と異なつた型であつたため、地震によつて予知することもできず、したがつて、予報、警報、退避も十分実行できなかつた。しかも、三陸沖地震津波の被害の割合少かつた志津川、陸前高田、大船渡のような地点に大被害をもたらしたことは、今後の長期防災計画に新しい問題を提議したことになる。したがつて、過去の高地移動村落はチリ地震津波による被害は少かつたとはいえ、これで集落に対する防災が成功したとはいえない。現在の津波防災事業がチリ地震津波を基準として実施されている点を考えれば、次の段階の津波防災対策事業は、明治29年、あるいは昭和8年津波被害も考慮して、三陸地方の津波防災永久対策を確立すべきである。
(2) 明治29年津波被害による集落の高地移動とその成果
宮城県唐桑の大沢では、明治29年の波高6.5mで、低地の57戸が流失倒壊し、死者187人を出したので被災者が組合組織によつて段丘上に宅地造成を行い移動した。昭和8年は波高3.9mで段丘崖下まで達したが、移動したものは無事であつた。しかし、低地に再建したものは流失倒壊71戸、死者5人を出している。旧大谷村大谷では明治29年の波高4.9m、流失倒壊69戸、241人の死者を出す大被害を受けたので、村営事業として段丘をくづして宅地造成を行い移動した。昭和8年には2.9mの波高で、低地に再建したものが27戸流失したのみで、高地の移動集落の被害はなかつた。
唐桑の只越では明治29年8.3mの波高で、51戸流失、237人の死者を出したので、北の山麓に宅地造成を計つたが、基磐岩が固いため避難道を建設したのみで、移動を断念して原地に復興した。昭和8年は波高6.6mであつたが、流失倒壊107戸、死者24人の大被害を受けた。
岩手県三陸村崎浜は明治29年波高11.6mの津波に襲われ、部落はほとんど全滅した。そこで、部落民共同のもとに原地の低地に地方部落としては珍しく整然とした区画整理を実施して復興再建した。昭和8年は7.8mの津波で、原地に再建された部落の大部分が大被害を受け、流失倒壊31戸、死岩50人であつて、原地再建失敗の例である。吉浜(三陸村)本郷は明治29年波高26mの津波で部落は全滅に近い被害を受けた。そこで、海岸に延長523m、高さ8.2mの防潮堤を構築した。その構造は前面法を扣45cmの割石をもつて法三分に積立て、裏法2割として土羽打芝張を施し、天場幅3.6m、裏堤却に接し、幅10mの防潮林を植えた。昭和8年には波高14.3mの津波の来襲によつてこの堤防は中央部より欠壊して全延長を流失し、被害は流失倒壊37戸、死者行方不明17人であつた。上野部落が被害をまぬかれたのは堤防による波頭損失のためであり、また各々自力で高地に移動したものは被害をまぬかれた。
唐丹小白浜は明治29年波高14.60mで、流失倒壊50戸を越え、約120人の死者を出す大被害を受けた。そこで、部落では200m背後の山麓に義損金を利用して宅地造成を行い移動したが、海岸への道路も不完全であり、漁業者は遂次元屋敷に復帰してきた。また、大正12年9月1日の山火事のため、高地住宅は灰燼に帰したため、高地住宅の大半は危険な低地に復帰した。そのため、昭和8年には波高11.6mの津波により107戸流失倒壊、2人の死者行方不明の被害を受けた。
船越(山田町)では古くから低地居住の非を教えられた伝説が残つていた。明治29年には波高6.6mの津波で砂堆上の部落はほとんど壊滅した。その部落では自主的に高地移動の計画をたて、段丘上に敷地造成して集団移動を実施した。したがつて、昭和8年の津波は3.5mであつたが、高地移動村落は被害をまぬかれた。しかし、低地の新しい占居者は流失倒壊24戸、死者2人の被害を受けた。
田ノ浜(山田町)は明治29年、9.11mの波高の津波に襲われ、部落は全滅に近い被害を受けたので、前記の船越と合併して高地移動を計画したが、意見の統一を欠いたため、田ノ浜は独自に800円を支出して背面の傾斜地に敷地造成を行つたが、時間が経過するにしたがつて防災意識が低下し、元屋敷に復興するものが多くなり、原地再建に終つた。昭和8年には波高6.08mで低地の再建部落は256戸のうち185戸流失倒壊し、死者2人を出した。
(3) 昭和8年津波による集落の高地移動とチリ地震津波による被害
昭和8年三陸沖地震津波による甚大な災害の復旧、対策として集落の高地移動が実施された。政府は村落都市計画確立のため国庫補助及び低利資金利子補給を決定した。この条件にもとずいて、宮城県では15ヶ町村60部落、宅地造成面積64,678坪、移転戸数801戸、岩手県では20ヶ町村42部落、宅地造成面積87,580坪、移転戸数2,199戸の高地移動計画をたてた。
これらの部落の住民は漁業を主とするものが多いため、移動位置の選定及び用地買収には多くの問題を含んでいた。しかし、一般条件としては、海浜に近いこと、既往の津波に於ける最高浸水線以上に位置すること、海を望み見得ること、南面の高地であること、飲料水の取得容易なこと等であつた。移動部落の構成は、集団で全部落が移動する場合は町村役場、学校及びその他の公共施設は造成宅地の最高所に位置せしめ、団地の中心部には部落民共用の広場、集会所、浴場等を設けるとにした。また部落の一部が移転する場合は残存戸数も遂次移転可能な広さの宅地を造成する計画をたてた。海浜に接する低地の元屋敷区域は納屋、倉庫、工場、事務所その他の非住家地区並びに網干場、船曳場等として利用することにした。また、造成宅地と低地の作業場、あるいは幹線道路を結ぶ道路建設が村落計画に付帯する大きな事業であつた。一方、部落が高地に移動できない場合は、防浪堤、護岸、防潮林、避難道路などの新設が計画された。
しかし、明治29年津波後の移動村落にも見られる通り、一度高地に移動しても、漁業活動に不便であるため一部の者は元屋敷に下り、分家あるいは他村からの移住者が安易な低地に占居して、昭和8年津波によって再び大被害を受けた経験によつて、宮城県の如きは県令(第11表)によつて建築禁止区域を設定した。
第11表 海嘯罹災地建築取締規則(昭和8年6月30日宮城県令第33号)
第一条 昭和八年三月三日ノ海嘯罹災地域並海嘯罹災ノ虞アル地域内ニ於テハ知事ノ認可ヲ受クルニ非ザレバ住居ノ用ニ供スル建物(建物ノー部ヲ住居ノ用ニ供スルモノヲ含ム以下同ジ)ヲ建築スルコトヲ得ス
前項ノ地域ハ知事之ヲ指定ス
建物ノ用途ヲ新ニ定メ又ハ変更ノ上住居ノ用ニ供スルトキハ住居ノ用ニ供スル建物ヲ建築スルモノト看倣ス
第二条 前条ノ場合住居ノ用ニ供スル建物ノ敷地並構造設備ハ左ノ各号に依ルヘシ
一 建物ノ敷地ハ安全ト認メラル高サ迄地揚ヲ為スコト
二 建物ノ腰積ヲ設ケ又ハ之ニ代ルヘキ基礎ヲ設クルコト
三 建物ハ土台敷構造ト為シ土台ハ前号ノ腰積又ハ基礎ニ緊結スルコト
四 建物ノ土台及敷桁ノ隅角ニハ燧材ヲ使用スルコト
五 建物ニハ適当ニ筋違又ハ方杖ヲ設クルコト
土地ノ状況ニ依リ支障無シト認ムルトキハ前各号ノ制限ニ拘ラス認可スルコトアルヘシ
第三条 第一条ノ認可ヲ受ケムトスル者ハ左ノ事項ヲ記載シタル申請書正副二通ヲ提出スヘシ
一、申請者ノ住所氏名(法人ニ在リテハ其ノ名称主タル事務所ノ所在地及代表者ノ住所氏名)
二、敷地ノ位置(見取図添付ノコト)
三、地揚施行方法並高サ
四、建物ノ構造種別用途
前項ノ申請人ニシテ未成年者禁治産者又ハ妻ナルトキハ法定代理人保佐人又ハ夫ノ連置ヲ要ス申請者ハ所轄警察署ヲ経由スヘシ
第四条 第二条ノ地揚及建物ノ工事竣工シタルトキハ十日以内ニ所轄警察署ニ届出ツヘシ
前項ノ建物ニハ見易キ場所ニ様式第一号ノ標示ヲ掲出スヘシ
第五条 第一条ノ地域内ニ於テ工場倉庫其ノ他ノ住居ノ用ニ供セサル建物ヲ建築セムトスル者ハ口頭又ハ文書ニ依り最寄リノ警察署派出所又ハ駐在所ニ届出ツヘシ其ノ竣工シタルトキ亦同シ
前項ノ建物ニハ見易キ場所ニ様式第二号ノ標示ヲ掲出スヘシ
第六条 第一条第一項第四条第一項及第五条第一項ノ規定ニ違反シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス
前項ノ罰則ハ其ノ者カ未成年者、禁治産者又ハ法人ナルトキハ之ヲ其ノ法定代理人又ハ代表者ニ適用ス
附則 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
市街地をなしている都市地区では市街地の全面移動は不可能であるため、防災のため、市街地土地利用の再編成が実施された。すなわち、海岸低地の危険地区には、港湾関係施設、倉庫、事務所等の非住家地区として、住宅は後方の安全高地に宅地造成して移転せしめることにした。道路は市街地の道路の防災的整備のみならず、移動地との連絡道路あるいは移動出来ない住宅地の避難道路建設等の諸計画がたてられた。市街地防浪施設としては、その土地の津波波高その他の条件によつて、地上げ、防浪壁の建設、護岸の嵩上等の諸事業を計画した。
雄勝町(第31図)は2m以下の低地に位置していたため、明治29年波高3.6m、流失倒壊119戸、死者32人に達した。被災後原地復興のため、昭和8年には波高3.85mで、流失倒壌361戸、死者9人の被害を受けた。高地の宅地造成の適地がないので元屋敷を地上げして宅地造成を計つた。すなわち、昭和8年津波高と同高とするため、低地地盤より最大3mの盛土をして15,520坪の宅地造成を実施して被災低地を住家建築禁止地区とした。しかし、非住家地区も次第に住宅地化され、とくに戦後は安易な低地は住宅地化が進んだ。チリ地震津波は約4mの波高で来襲したので、地盛上の住宅は無事であつたが、低地上の建物は全壊及び流失87戸、半壌90戸、床上浸水191戸、の多きに達した。高地移動集落は被害をまぬかれたが、波長の短かい三陸沖地震津波を想定すれば低地とともに積極的防浪対策を必要とする。
長部(陸前高田市)は明治29年には波高4.95mで流失27戸、死者42人を出したが、原地復興を計つた。昭和8年は3,85m波高の津波で102戸流失倒壊し、死者32人の被害を受けた。波高の低い割合に被害の大きかつたのは長部川の低位デルタに集落が立地していたためである。漁港施設との関係を考えて高地移動を行わず、原地に約2mの盛土をして地盤高3.5mを保つて、前面及び側面を防浪堤(高さ6.5m)で囲んで、5,364坪へ宅地を造成して86戸を収容することにした(第32図)。チリ地震津波は意外に高く4.6mの波高で来襲し、防浪堤内には道路より浸水し、堤外の低位デルタと埋立地に位置した建物は流失倒壊し、死傷者さえ出す被害を受けた。したがつて、長部は三回の津波に三回の被害を受け、その較差の少いことは他に例が少ない。これは湾口の位置と地形、集落立地の地形面に原因している。今後の津波対策は三回の津波エネルギーの伝播を考慮してたてられるべきである。
綾里(第33図)は明治29年、昭和8年の津波の激甚地である。明治29年には1,347人(流失186戸)の死者を出しながら個人的に数戸高地移動をしたのみで原地復興に終つている。昭和8年には再び湊で9.Om白浜では18.Omの大津波に襲われ、低地の危険地区に復興した部落は249戸流失倒壊、死者178人の被害を出している。明治29年と比較すれば波高が低い割合に家屋被害が多いのは、人口の増加、生産諸施設の増大に伴つて危険地区の居住者が増大したことを意味し・また家屋被害数に対して死亡者が少いのは、地震によつて津波を予知して避難したためである。これらは明治29年津波と昭和8年津波被害とを対比する場合、三陸沖地震津波被害型の一般的傾向として注目されよう。
昭和8年の大被害の後に高地移動計画を実施して、湊では南側の谷壁に7,287坪の宅地を造成して136戸を収容し、地盤高は明治29年の津波線上より1m高く、また田ノ浜では集団移動戸数18戸に対して898坪を造成して地盤高は明治29年津波線上6.8mの高さにした。
チリ地震津波の波高は3.5mで、最大波は4時10分頃であり、三回大きな波が来て、最大退潮線は中ノ島付近の海底が露出した。浸水区域は地盤高約3mの線まで達したが、浸水速度が急ぎ足程度であつたため被害はほとんどなかつた。防災上の問題点はチリ地震津波程度では現在の防潮計画で問題ないと思われるが、谷底の危険地区には昭和8年当時の応急住宅さえ残つており、また、その後の占居者の増加によつて被災危険度が高まつていることを見れば、明治29年、昭和8年津波被害を考え、次期の津波対策が実施されねばならない。
小白浜(第34図)では昭和8年波高11.6m、107戸の流失倒壊、死者行方不明2人を出した。高地移動の計画は、北の山麓県道沿いに4,168坪の宅地造成を行い、85戸を収容する計画をたてた。危険な低地は非住家としたが、次第に宅地化してきた。チリ地震津波は約3mの波高で被害は少かつたが、この低地が宅地化していることは三陸沖地震津波の対策を考慮すべきである。
唐丹本郷(第30図)は明治29年、波高14.50mの津波に襲われ、約300戸あつた集落は流失倒壊し、出漁中の15〜16人を残してほとんど死亡したといわれている。そこで、背面の谷壁に高地住宅を建てて4戸は移動したが、その他は海浜に便利な谷底の原地に復興した。大正2年五葉山麓より発した野火で、この復興した部落は6戸を残して全焼した。この火災後も部落は谷底の危険地区に再建された。昭和8年には波高9.30mで、谷奥の1戸を残すのみで、101戸流失倒壊、326人の死者を出す大被害を受けた。そこで、村では高地移動の計画をたて、谷壁に5,673坪の階段式の宅地を造成して101戸収容した。谷底の危険地区は非住家地区として今日まで1戸の住家も復帰していないが、このような例は非常に少い。チリ地震津波は波高2.2mで船曳場に達した程度で何等の被害もなかつた。そして、この模範的集団高地移動集落は、明治29年、昭和8年程度の津波でも防災できると考えられるが、海浜の作業場との交通が不便であり、住居から船曳場までの見通しが困難である点で住民は日常不便不利であることは、高地住宅保護のためにも何等かの対策をたてるべきである。
両石(節35図)は狭長な開析谷と古生層の岩石海岸からなり、昭和8年津波後に建設された護舞によって現在の海岸前面ができた。
地形は平面も横断面もV字型で、津波エネルギーの集中し易い形状をなし、過去の津波の大被害地となっている。チリ津波も波高3.7mでV字型湾としては高い方に属する。また縦断面図をとつて見ると、護岸前面水深3〜5mの間に海底地形の変換点があり、津波の上昇地形線をつくり、護岸の背面は埋立地(昭和8年空中写真判読と聞き取り)であつて、谷底の傾斜は主谷より支谷の方が多少急である。
チリ地震津波の第1波の時間は不明であるが、3時50分頃異状な引潮を見たので直ちに動力船は沖へ退避し、谷底の住民は高地に避難した。4時10分頃が最低干潮で-4.3mに達し、4時30分頃最高波3.7mの津波が来た。その状況は、この小湾の外では徒歩よりやや速い程度で盛り上り、湾口で南の「水海」方向と二分され、防波堤付近で次第に速くなり、盛り上りながら湾入方向に突進して来た。これは、湾の海底地形を見れば津波の集中伝播の型を示し、ここの防波堤は波浪の防波には役立つが津波エネルギーの損失の役は小さいことを証明している。護岸線に盛り上つた津波は「速がけ」程度で湾入方向前面の崖に突当り、二分して一方は主谷へ、他方は支谷へもみ上げた。主谷の方向では谷底の小川—棧橋—道県沿いに、前進して来た津波と前記の分波とがもみ合いながら次第に弱くなり、地面の最高浸水地点3.8m、小川4.5mに達した。一方支谷では、衝撃物が少いので、谷底傾斜面を這い上り最高浸水地点は5mを越えている。干潮は速がけより多少早く、岸壁では滝状になり、たん水時間は1回約10分、津波の周期は25〜30分で第8波まで見られた。被害状況は、小船、棧橋、木材、網干場材等を流し、特に湾入正面に位置する家屋は1戸を除き全壊、あるいは半壊、流失し、小川の木橋も一つ流失した。棧橋—道県沿いの方向からの水勢は前者よりやや弱く、棧橋のほか三戸流失したにすぎない。全体として、全壊流失6戸、半壊12戸、床上浸水41戸、床下浸水3戸(無居住共同9戸、非共同29戸)となつている。湾入正面で1戸残つた建物はコンクリート台にアンカーボルトがついていて他の建物より重量があつたため残つた。谷底は危険な地区であり、明治29年、昭和8年津波でも数戸残し全滅に近い大稼害を受けた。明治29年は波高7m、浸水高12mで、浸水2戸を残して144戸倒壌流失し、住民の大部分は死亡した。当時も高地集落移動の意見もあつたが原地再建に終つた。昭和8年は波高6m、浸水高9.14mであつたが、明治29年の経験により地震感知後の避難が早かつたので、人的被害は死者2人、不明1人、負傷9人であつたが、家屋の被害は3戸の浸水を除き88戸全滅した。
両石地区に於ける高地集落は、地盤高7m以上の谷壁を切り崩し、1〜4号地までの宅地を開き、簡易水道を設けて模範的高地集落を建設した。その後も人口の増加に伴つて高地住宅は開いたが、住民は、漁港との距離、宅地造成の経費、約30年に1回の津波、地震による予知等の条件を考え再び谷底の危険地区に一部の復帰者、分家、他村からの移住者などが住家を再建した。したがつて、この谷底の危険地区については、明治29年、昭和8年津波も考慮に入れて防災対策をたてるべきである。
田ノ浜(第36図)は、明治29年津波後高地移動に失敗しているので、昭和8年津波後は全部集落高地移動を決定した。約300m背面の斜面に地盤高14.7m以上の高さを保ち、12,197坪の宅地を造成し、被害戸数196戸に対して240戸収容可能にした。整然として方形の区画をとり、理想的高地住宅を建設した。チリ地震津波は波高3mで被害はなかつたが、他地区と同様、危険な低地居住者及び諸施設の防災対策を必要とする。
田老(29図)は明治29年には波高15mの津波に襲われ、田老—191戸流失、1,407人死亡、乙部—94戸流失、40人死亡の大被害を受け、生存者37人といわれている。この大災害によつて、防災対策として、義損金を基金として2mの盛土により宅地造成の計画をたてたが、意見の不一致と資金難のため、道路沿いに約50cm盛土することに終つて原地復興の型となつた。昭和8年には波高7.6mで、田老、乙部総戸数503戸、人口2,950人のうち、流失倒壊503戸、死者行方不明889人の大被害を受けた。そこで、防災対策としては高地移転の意見もあつたが、500戸を収容する適地がないので、原地の区画整理(耕地整理)により宅地を造成し、防浪堤によって囲む計画を実施した。防浪堤は900mまで完成して戦時中に中止されたが昭和33年、延長1,350m、上幅3m、根幅最大25m、高さ地上7m、海面上10.65mの大防浪堤を完成した。チリ地震津波は波高3.5mで、浸水区域も狭く、被害はサツパ船20隻程度であり、最大浸水高も大防浪堤に達しなかつた。今後の防災対策としては大防浪堤の補強を実施し、堤外の危険地区に対する対策を早急に確立すべきである。
本稿のチリ地震津波の波高はT.P.に換値した値を使用しているが、昭和8年および明治29年津波の波高は既存の資料によるものが多く、その測定値の根拠が明白でない。
16. むすび —地形上より見た津波危険地域—
チリ地震津波直後、北海道東部、三陸、常磐、紀伊、四国南東部、九州南東部の海岸を調査したところ、津波と地形との間に次のような関係のあることがわかつた。
(1)今回の津波は洋上においてはほとんど同じ高さであつたが、海岸に打ち寄せて後、8mもの高さになつた所もあれば、1m未満というような低い所もあつた。また、速度も一般にかけ足で逃げることができる程度の遅いものであつたが、志津川のように自転車で逃げる人を追い越すような速い所もあつた。このように、津波の型に著しい地域差が見られたが、これは海岸の地形の差によつてひき起されたものである。
(2)今回のような遠隔津波と、昭和8年あるいは明治29年の津波のような近海津波とでは多くの点で著しく性格が異なる。来襲地域は、遠隔津波は太平洋岸のほとんど全域にわたつているが、近海津波では三陸あるいは紀伊半島というように比較的限られた範囲が多い。
津波の形は、遠隔津波は海ぶくれといつた形であるが、近海津波は蛇が鎌首をもたげた形で押し寄せる。波長は近海津波の方が小さいようである。
速度は近海津波の方が遠隔津波より速い。波高は近海津波の方が高い場合が多い。近海津波は湾口で高く、湾奥へ行くにしたがつて低くなるが、遠隔津波では湾口が低く、湾奥の方が高くなる。
一般的にいえば、遠隔津波の方が近海津波より穏やかである。
(3)津波の主たる侵入路は地形によつて決まつており、だいたい推定することができる。澪、旧河道に沿つてきており、海岸に激突した場合は、海岸線に沿つて、あるいは湾内では岸壁に沿つて流れる。
上陸後は、河川、運河、旧河道、道路、下水道に沿つて溯る。とくに、河川及び運河は津波にとつて最も容易な侵入路であるため、河川ぞいはその危険がかなり内陸部まである。運河で、門のある場合はこの津波の侵入をとめることができる。
(4)上陸した津波は水平には進まず、内陸部へ進むにしたがい、地上との摩擦、あるいは障害物によつて著しく水深を減ずる。このような現象は高潮の場合と同様である。津波の内陸部での到達限界は、デルタあるいは埋立地と谷底平野との境である場合が多い。ただし、河川ではこれよりやや内部まで進む。河川に用水堰などがある場合はたいていここでとどまる。
(5)上陸した津波の型、すなわち、たん水期間の長・短、たん水深の深・浅、たん水範囲、侵蝕、堆積の有無などは地形要素によつて定まつてくる。
今回の津波調査において次の津波型を設定することが出来た。
谷底平野型、波蝕台型、デルタ型、砂洲型、砂丘型、自然堤防型、埋立地型、海浜型、河原型。
したがつて、海岸の平野の地形を細分類しておけば、将来津波が襲つて来た場合の、それぞれの地域での津波の状態を予知することができる。
(6)海岸線の形により、津波に著しい相違が見られ、次の如く分類できる。
リアス式海岸型、汐入湖型、大河川河口型、陸繋砂洲型、直線状砂浜海岸型、平滑岩石海岸型。
一般的にいつてリアス式海岸型は津波の勢力が一点に集中するため、波高、速度共に高くなるので津波に対しては危険地域である。これに較べて汐入湖、大河川河口型は内部に水が溯ることができるためそれほど高くならず、直線状の海岸では津波の勢力が一点に集中せず、かつ海岸に砂洲があつて侵入を妨げるため被害が少い。また、岩石海岸では津波は上陸できないのでほとんど被害かない。
(7)リアス式海岸の中にも津波の受け方にかなりの地域差がある。小河川の沈水谷であるV字型湾、あるいはこれの複合であるW字型湾、大河川の沈水谷のU字型湾、半円状の湾、樹枝状の湾など、湾の型により津波の型が著しく異なる。一般的にいつて、V字型及びW字型湾は近海津波、遠隔津波とも、波高も高くかつ被害も大きい。U字型湾は、近海津波では湾口で波高が高くても湾奥へ行くにしたがつて波高が減ずるので、被害はやや少くなるが、遠隔津波では湾奥が高くなるため、湾奥の平地ではかなりの被害が出る。
(8)湾の形と海岸の平野地形との状態及び過去の津波との状態を見てみると、比較的危険度の高い湾を次のように設定することができる。このうち*は、今回の津波、すなわち遠隔津波でかなりの被害を受けた湾である。
霧多布*、函館*、厚岸*(湾奥)、大津*、厚岸(湾口)、トコタン、広尾港湾。
三陸海岸は津波の常襲地域であるが、津波をとくに受ける湾は次のような地域である。
八戸*、久慈*、小本、田老、宮古湾、山田湾*、船越湾*、大槌湾*、両石湾*、釜石港*、唐丹湾、古浜湾・越喜来湾、綾里湾、大船渡湾、広田湾*、気仙沼湾*、志津川湾*、追波湾、雄勝湾*、御前湾、女川湾*、鮫の浦湾、鮎川町、荻の浜*、渡波町*、石巻市*、塩釜市*などである。
今回の津波の被害の大きかつた所、すなわち*の所以外でも、上記の湾では、過去の津波、あるいは地形より近海津波に対して充分危険性をもつものといえる。
常磐海岸は全般的に津波の被害は小さいが高潮による被害が大きくなる。
紀伊半島では、遠隔津波、近海津波とも波高が高くなる所は比較的限られている。
海南市*、文里港*、袋港*、大津港、尾鷲港*、勝浦港、太地港、このほか志摩半島の五ヶ所湾、英虞湾、的矢湾など、津波による波高はそれほど高くなくても、急な流れによつて真珠の被害をかなり生ずるから注意を要する。
四国では橘湾、牟岐、浅川、須崎、浦戸、宇佐、野見湾などである。九州では地形的には油津海岸などである。
(9)大規模な津波がしばしば来襲する傾向のある所はあまり大きな高潮がこない所であり、大規模な高潮が来襲する所は津波があまりこない傾向のある所である。この現象の一因は海岸地形の差であると思われる。三陸海岸あるいは紀伊半島にみられるようなリアス式海岸は、津波に対して危険な海岸である。これに対し、常磐海岸のような平滑な海岸は、津波に対して安全な海岸であとなる。
(10)津波対策として集落の高地移動が部分的に実施されてきたが、人口の増加、生産施設の増大、都市及び村落によつて危険地帯は遂次拡大されている。今後の都市村落津波対策は、チリ地雲津波のみならず、明治29年及び昭和8年三陸沖地震津波の被害地の地形、津波の伝播、被害型も考慮して、防災都市村落計画も確立すべきである。
このように、津波と海岸地形との関係は極めて密接であり、海岸線あるいは海岸の地形を分類すれば、今回の津波だけでなく、将来万一津波があつた場合の地域別の津波の型及びその危険度をある程度推定することができる。これは、今後海岸を津波から守る対策をたてるのに最も大切なことである。この意味で、海岸の地形調査は津波対策の基礎ということができる。
付記
1.この調査は、建設省国土地理院地図部において2年間にわたつて行われた調査のとりまとめである。予算は建設省河川局海岸課のチリ津波対策調査費を用いた。
2.現地調査の分担は次の如くであつた。
総括 中野尊正,高崎正義
北海道海岸 山口恵一郎,武久義彦,蓮見勝広
三陸北部海岸 中野尊正,池田正友,大矢雅彦,村田護,鈴木正三
三陸南部海岸 池田正友,大矢雅彦
常磐海岸 大矢雅彦,村上成夫
紀伊半島海岸 小谷昌,大矢雅彦,矢田修
四国海岸 中野尊正,武久義彦
九州海岸 佐野一応,浅田成夫
3.本報告書は、上記の調査資料をもととして下記のような分担で執筆した。
はしがき 中野尊正
第1章,第2章,第3章及び第4章 大矢雅彦
第5章,山口恵一郎
第6章,第7章 大矢雅彦
第8章,大矢雅彦,菊地カヨ子
第9章,大矢雅彦
第10章,中野尊正
第11章,第12章,第13章,第14章 大矢雅彦
第15章,池田正友
第16章,大矢雅彦
付図 松山泰子,菊地カヨ子
文献目録 池田正友
Summary 大矢雅彦
なお、報告書全体の企画編集は大矢雅彦が当つた。
4.本調査研究の実施について関係各省、各機関、とくにつぎの各機関及び各位には一方ならぬ御
援助、御協力をいただいたので、ここに厚く謝意を表する次第である。
東京
建設省河川局海岸課長 安芸元清
建設省河川局海岸課長補佐 山田専一
北海道
北海道総務部地方課
〃土木部管理課
〃十勝支庁
〃釧路支庁
〃根室支庁
〃函館支役所
〃浜中村役場
〃厚岸町役場
〃根室市役所
北海道開発局開発計画課
同局釧路,帯広,室蘭,函館の各開発建設部
上記各開発建設部の霧多布港,広尾港,浦河港各修築事業所
浜中村,厚岸町,広尾町,浦河町,伊達町,豊浦町,銭亀沢村,上磯町各役場
北海道日高支庁
北海道開発局開発調査課 竹内一雄
北海道釧路開発建設部 阿河正光
霧多布港修築事業所 高田郁也
帯広開発建設部 佐々木哲彦
函館開発建設部 中静頼彦
三陸
東北地方建設局鈴木河川計画課長
宮城県総合開発室
宮城県河港課
石巻土木事務所
迫土木事務所
石巻漁港事務所
気仙沼漁港事務所
石巻市役所企画審議室
女川町役場
志津川町役場
牡鹿町役場
雄勝町役場
北上村役場
歌津町役場
唐桑町役場
気仙沼市役所
岩手県河港課
〃大船渡建設事務所
〃釜石建設事務所
〃宮古建設事務所
〃岩泉建設事務所
〃久慈建設事務所
大船渡市役所
釜石市役所
宮古市役所
三陸村役場
大槌町役場
山田町役場
田老町役場
野田村役場
種市町役場
岩泉町役場
青森県河港課
〃八戸土木事務所
八戸市役所
百石町役場
青森県八戸港務所
常磐
小名浜港務所
福島県庁土木部河港課
紀伊半島
和歌山県土木部河港課
〃土木部河港課 梶垣心一技師
〃和歌山土木出張所
〃御坊土木出張所
〃串本土木出張所
〃新宮土木出張所
三重県土木部河港課
〃熊野土木事務所
〃新宮士木出張所
尾鷲土木事務所
〃尾鷲土木事務所長島出張所
〃志摩土木出張所
四国
徳島県土木部管理課・河川課
〃阿南土木出張所
〃日和佐土木出張所
〃海南町牟岐町役場
高知県士木部河港課
〃須崎土木出張所
第3港湾建設局高知港工事事務所
高知市都市計画課
高知地方気象台
九州
宮崎県土木部,土木部管理課
〃企画調査室
大分県港湾課,河川課
建設省佐伯工事事務所
津波調査文献目録
目次
1.総記……84
2.北海道……85
3.三陸……86
4.関東,東海……89
5.西南日本……90
6.日本海岸……92
7.国外……93
この文献目録は現地調査の参考資料を検索するため、逐次記録したカードと本院所蔵資料および現地調査のさい入手した資料(含未刊資料)のカードを分類したものである。従つて未利用資料も含まれているので多少の遺漏は免れないので今後の資料調査によつて増補訂正する必要がある。
1. 津波総記
編著者, 表題, 発行所又は書・誌名, 発行年次
震災予防調査会, 本邦津波に関する調査第一回報告, 震災予防調査会報告第34号, 1900
文部省震災予防評議会, 津浪災害予防に関する注意書, 三秀舎, 1933
〃, 大都市に於ける津浪災害予防に関する注意書, 〃, 1935
農林省山林局, 津波災害予防林(防潮林)造成に関する技術的考察, , 1935
日本海洋学会, 津波(海洋の科学特輯号), , 1942
鷺坂清吉, 地震と津波, 目黒書店, 1949
山口生知, 地震と津波—予知は可能か—, 古今書院, 1952
和達清夫, 地震と津波, 同和春秋社, 1955
資源調査会, 高潮予報に関する報告, , 1959
毎日新聞, チリ地震津波特報毎日グラフ1960年6月12日, , 1960
チリ津浪合同調査班, チリ地震津浪踏査速報, , 1960
佐川栄太郎, 地震の話, 地質学雑誌3巻34号, 1896
伊木常誠, 津浪の最高点, 〃3巻35号, 1896
, 既往の海嘯, 〃3巻36号, 1896
佐川栄太郎, 津浪論に就き今村氏に望む, 〃4巻38号, 1896
大森房吉, 日本に於ける津浪に就きて, 震災予防調査報告34号, 1901
本多光太郎, 津浪の予報, 気象集誌32巻10号, 1913
中村左衛門太郎, 津波について, 〃38年7号, 1919
今村明恒, 日本津浪史, 海洋の科学2巻2号, 1924
秋岡武二郎, 諸地方に於ける地震津波警告碑, 地理学評論1巻3号, 1925
, 津浪の記録, 地震1巻6号, 1929
松沢武雄, 津波偶感, 〃5巻5号, 1933
川瀬三郎, 津波に就いての二, 三の事, 〃5巻8号, 〃
中野猿人, 地震に伴う津波に就いて, 産業気象調査報告4巻7号, 〃
〃, 地震津浪の話, 地理教育18巻6号, 〃
岸上冬彦, 昭和8年以前の津波に関する論文, 地震6巻6号, 1934
高橋竜太郎, 津浪の話, 〃6巻11号, 〃
中川順三・中野猿人, 地震津浪の経路に就いて, 中央気象台彙報7巻, 〃
〃, 〃, 気象集誌2輯11巻10号, 〃
竹田達二, 津浪の発達に関する問題(予報), 科学4巻2号, 〃
, 津波地震の余震か, 地震7巻1号, 1935
石本巳四雄, 津浪と高潮とに就いて, 〃7巻8号, 〃
藤原咲平, 津浪に就いて, 地震7巻10号, 〃
Nakano, M. Nakagawa.T., On the Path Propagation of Sea-Waves (Tsunami) Originated by Earthquakes, Geophy.Mag.9巻2号, 〃
西村源六郎, 地震津浪の発達に関する研究(1-6回), 応用物理4巻5〜10, 〃
高橋竜太郎, 津浪の話, 地理学4巻1号, 1936
松沢武雄, 津浪の方向性, 地震9巻1号, 1937
, 津浪に関する国民教育, 〃10巻1号, 1938
早川正已, 津浪の研究(1)深さ一定の短形型海湾の振動の実験について, 海と空21巻7号, 1941
〃, 津浪の研究(2)深さ一定の短形型海湾の振動の理論に就いて, 海と空21巻9号, 〃
〃, 津波の研究(3)特殊湾型海湾の振動の実験に就いて, 海と空21巻12号, 〃
早川正己, 津波の研究(4)特殊湾型海湾の振動の実験に就いて, 海と空22巻2号, 1942
〃, 津波の研究(5)実在する海湾振動巻号の実例の就いて, 〃22巻3号, 〃
妹沢亮雄, 津浪はどのようにして起るか, 海洋の科学2巻2号, 〃
高橋竜太郎, 地震津浪, 〃2巻2号, 〃
今村明恒, 津浪綺談, 〃2巻2号, 〃
〃, 本邦津波に関する旧記の整理に就いて, 地震15巻11号, 1943
荻原晰二, 津波の模型実験における粘性の影響, 気象集誌2輯27巻8号, 1949
市栄誉, 津波論(III), 海と空27巻3号, 〃
大矢雅彦・村田護, 津波の調査, 地理, 1961
2. 北海道
編著者, 表題, 発行所又は書誌名, 発行年次
地震研究所, 昭和8年3月3日三陸地方津波に関する論文及び報告(北海道資料), 彙報別冊第1号, 1934
北海道庁, 十勝沖震災誌, , 1953
十勝沖地震調査委員会, 十勝沖地震調査報告, , 1954
盛岡測候所, 昭和27年11月5日カムチヤツカ半島南東沖地震に伴う津波踏査報告, , 1953
北海道, チリ地震津波による被害状況, , 1960
〃, 〃災害対策の概要, , 〃
根室支庁, 〃災害状況調査書, , 〃
花咲港, 自記検潮記録, , 〃
厚岸町, チリ地震津波被害状況, , 1960
道路公団, 厚岸フエリー管理事務所水位記録, , 〃
北海道浜中村, 浜中村チリ地震津波災害救助実施状況報告書, , 〃
釧路支庁, チリ地震津波による被害及応急対策, , 〃
〃, チリ地震津波被害状況, , 〃
釧路市, チリ地震津波被害, , 〃
北海道渡島支庁, チリ地震津波災害の被害状況とその対策について, , 〃
函館市, チリ地震津波概況書, , 〃
函館海洋気象台, チリ地震津波調査報告, , 〃
中村左衛門太郎, 得撫島の地震津浪に就きて, 気象雑纂1巻5号, 1918
北海道開発局, 歯舞漁港修築計画平面図(1/5000), , 1956
〃, 花咲港平面図(1/3000), , 〃
〃, 霧多布港平面図(1/1000), , 〃
〃, 落石漁港修築計画平面図(1/3000), , 〃
北海道, 浜中災害復旧各種施設図(1/25000), , 1960
浜中村, 昭和35年5月24日発生チリ地震津浪災害被害概要図, , 〃
北海道, 北海道浜中村被害状況図(1/50000), , 〃
厚岸町, 厚岸町都市計画図, ,
〃, 厚岸町東町平面図, ,
3. 三陸
編著者, 表題, 発行所又は書・誌名, 発行年次
新渡戸蓬雨, 新渡戸蓬雨 地震年表 慶安2〜文化15, , 1888
風俗画報社, 大海嘯被害録3巻(3冊), 東陽堂, 1896
博文館, 三陸大海嘯 海嘯詳報三陸地方のつなみ, , 〃
震災予防調査会, 三陸津波及陸羽地震に関する報告, , 1896
南閉伊郡役所, 南閉伊郡海嘯紀事(岩手県陸中国), , 1897
平田成・大森房吉, 宮古地震の験測, , 〃
林喬, 三陸津波襲来の動向, , 1933
大槌尋常高等学校, 昭和8年3月3日大槌海嘯略誌, , 〃
大垣春吉, 三陸大海嘯印象記, 釜石実科高等女学校校友会, 〃
三陸大震災史刊行会, 三陸大震災史, 友文堂, 〃
釜石尋常高等小学校, 三陸大海嘯記録, , 〃
岩手県立盛農学校, 気仙郡海嘯誌, , 〃
盛岡測候所, 三陸津浪調査報告, , 〃
岩手県, 地震海嘯に関する概況, , 〃
東京市小学校長会, 三陸地方津浪慰問報告, , 〃
笹間一夫, 防浪漁村計画, , 〃
岩手水産試験場, 三陸津浪襲来の動向, , 〃
森嘉兵衛, 岩手県津浪史, , 〃
中央気象台, 三陸沖強震及津浪概報, , 〃
〃, 〃報告, , 〃
杜都文化杜, 三陸震嘯誌昭和8年, 嶽麓書院, 〃
岩手県, 岩手県昭和震災誌, 岩手県知事官房, 1934
岩手県教育会, 震災資料, , 〃
山林局, 三陸地方防潮林造成調査報告書, , 〃
水産局, 三陸地方津浪災害予防調査報告書昭和9年3月, , 〃
地震研究所, 昭和8年3月3日三陸地方津浪に関する論文及報告, 彙報別冊第1号, 〃
内務大臣官房都市計画課, 三陸津浪に因る被害町村の復興計画報告書, , 〃
田老村尋常高等小学校, 田老村津浪誌, , 1935
室谷精四郎, 宮城県昭和震嘯誌, , 〃
岩手県土木土木課, 震浪災害土木誌, , 1936
山口彌一郎, 津浪と村, 恒春閣書房, 1943
岩手県教育委員会, 三陸沿岸地方の津浪対策, , 1951
小松恒夫, カムチヤツカ地震と三陸, 朝日新聞社, 1952
盛岡測候所, 昭和27年カムチヤツカ半島南東沖地震に伴う津波踏査報告, , 1953
チリ津波合同調査班, 1960年5月24日チリ地震津波踏査速報, , 1960
, 東北震嘯災害年表, ,
青森県, 伊勢湾台風及びチリ地震津波被害並びに復旧現況, , 1960
〃, チリ地震津波による災害対策について陳情書, , 〃
〃, 被害調査, , 〃
〃, チリ津波災害資料(気象の大要), , 〃
岩手県, チリ地震津波災害対策に関する陳情書, , 〃
〃, チリ地震津波災害対策費及び復旧事業費等調, , 〃
三陸沿岸津波災害対策本部(岩手県), チリ地震津波災害に伴う被害に伴う被害額調書, , 1960
盛岡地方気象台, 岩手県におけるチリ地震津波概報, , 〃
岩手県宮古建設事務所, チリ地震被災状況調書, , 〃
岩手県宮古市, チリ地震津波災害による被害調査, , 〃
釜石建設事務所, チリ地震津波被害調査, , 〃
大船渡市, チリ地震大津波による都市災害報告, , 〃
陸前高田市, 被害状況書, , 〃
田老町, 津波と防災, , 〃
盛岡測候所, 岩手県災異年表, 日本積雪連合岩手県本部, 〃
宮城県知事, チリ地震津波による被害対策に関する要望書, , 〃
宮城県土木部河港課, チリ地震津波潮位図表集, , 〃
宮城県農林部, チリ地震津波に伴う農林関係被害調並に要望書, , 〃
仙台管区気象台, 昭和35年5月24日チリ地震津波について, , 〃
東北地方建設局, 石巻市門脇自記量水記録写, , 〃
志津川町, 津波による被害対策についての陳情書, , 〃
志津川警察署, チリ津波災害警備実施状況, , 〃
歌津町, チリ地震大津波による被害状況調, , 〃
気仙沼市, チリ地震津波による被害概況並びに要望事項, , 〃
石巻土木出張所, チリ地震津波波高観測表, , 〃
石巻漁港修築事務所, チリ地震津波による各検潮所潮位比較表, , 〃
塩釜市, チリ地震津波による被害概況三陸の海嘯, 地質学雑誌3巻34号, 1896
伊木常誠, 三隆地方津波実況取調報告, 震災予防調査報告11号, 1897
, 三陸地方津浪彙報, 震災予防調査報告11号, 1897
大森・今村, 三陸津浪取調, 〃29号, 1899
今村明恒, 三陸津浪に就いて, 地学雑誌11巻132号, 1898
〃, 三陸津浪に就いて, 〃12巻135号, 1899
高橋竜太郎・那須信治, 昭和8年三陸地震津波雑報(1), 地震5巻4号, 1933
那須信治, 三陸地震津浪雑報(2), 〃5巻6号, 〃
大塚彌之助, 昭和8年三陸津浪雑報(3), 〃5巻8号, 〃
武者金吉, 三陸津浪の跡を訪ねて, 〃5巻6号, 〃
岸上冬彦, 昭和8年三陸津浪に関して, 〃5巻12号, 〃
今村明恒, 地震漫談(3), 〃6巻6号, 1934
武者金吾, 岩手県郷土読本の研究の記事, 〃7巻3号, 1935
宮部直已, Tsunami as sociated with the Sanriku Earth quake that occured on November 3 昭和11年11月3日の三陸地方の地震に伴つた津波, 震研彙報15号3冊, 1937
森田念, 三陸沿岸に対する津浪警報, 海洋の科学2巻11号, 1942
荻原晰二・大喜多敏一, 三陸津波の研究・志津川港の津波の模型実験, 気象誌2輯23巻9号, 1950
山口彌一郎, 津浪常習地三陸海岸地域における集落の移動, 東北研究第10巻2号, 1960
三浦武亜, 地震と防災, 〃第10巻5号, 〃
渡辺偉夫, 昭和35年5月24日のチリ地震津波特異性と問題点 特に三陸沿岸を中心として, 〃第10巻5号, 〃
宇野木早苗, 東北近海に見られる海の波動, 〃第16巻5号, 〃
加藤愛雄, チリ地震津波について, 〃〃, 〃
岩崎敏夫, チリ地震津波による土木災害の概況と津波対策について, 東北研究第10巻5号, 1960
武田進平, 防潮林の効果に関する考察, 〃〃, 〃
吉田稔, 耕地の塩害について, 〃〃, 〃
菅野一, チリ地震津波による八戸港々湾施設の被害とその対策, 〃〃, 〃
浪瀬信義・長崎明, チリ地震津波災害に関する調査研究第1報 耕地について, 〃〃, 〃
福井英夫・他, 三陸海岸中南部地域におけるチリ地震津波について, 東北地理第12巻3号, 〃
竹内俊雄, チリ地震津波による災害を見て, 防災18号, 〃
三浦武亜, 津波について, 〃〃, 〃
関周三・有泉文雄, チリ地震津浪の緊急調査「岩手県」「宮城県」, 〃114号, 〃
山口彌一郎, 三陸の津波, 日本地誌ゼミナール, 1960
岩手県土木部総務課, 明治29・昭和8年チリ地震津波浸水状況図(八木, 久慈, 田老, 宮古, 大槌, 釜石, 綽里, 盛気仙沼)1/50000, , 〃
八戸市役所, 八戸市浸水状況図1/20000, , 〃
久慈建設事務所, 久慈浸水状況図1/3000, , 〃
〃, 野田漁港浸水状況図, , 〃
〃, 野田浸水状況図1/25000, , 〃
〃, 太田名部漁港浸水状況図1/2000, , 〃
岩泉建設事務所, 嶋の越漁港浸水状況図1/4000, , 〃
〃, 田老浸水状況図1/2000, , 〃
宮古建設事務所, 宮古港浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 宮古市音部浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 宮古市金浜地区浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 赤前浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 山田海岸, 浦の浜地区浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 山田海岸, 大浦地区浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 山田海岸, 大沢地区浸水状況図1/5000, , 〃
〃, 大沢漁港浸水状況図1/1000, , 〃
〃, 山田漁港浸水状況図1/2000, , 〃
〃, 織笠漁港浸水状況図1/2000, , 〃
〃, 船越漁港浸水状況図1/2000, , 〃
釜石建設事務所, 吉里吉里浸水状況図1/10000, , 〃
〃, 大槌浸水状況図1/10000, , 〃
〃, 白浜漁港浸水状況図1/2000, , 〃
〃, 箱崎漁港浸水状況図1/2000, , 〃
〃, 鵜住居川浸水水状況図1/2000, , 〃
〃, 室浜漁港浸水状況図1/1000, , 〃
気仙沼市役所, 気仙沼都市計画図1/3000 1/10000, , 1959
気仙沼市, 気仙沼漁港修築計画平面図1/10000, , 1956
〃, 長浜海岸地先深浅図1/10000, , 〃
女川町, 女川港実測平面図1/3000, , 1959
〃, 女川町1/3000 1/10000, , 〃
渡の波町役場, 渡の波町1/3000 1/10000, , 1956
志津川町, 志津川漁港修築計画平面図1/9000, , 〃
志津川町, 志津川町都市計画図1/10000, , 1956
大湊田名部市, チリ地震津波災害図, , 1960
牡鹿町, 網地漁港実測平面図1/4000, , 〃
〃, 鮎川漁港修築計画平面図1/5000, , 〃
本吉町, 本吉町全図1/25000, , 〃
石巻土木出張所, 雄勝1/10000, , 1956
雄勝町, 雄勝町漁港修築計画平面図1/5000, , 1957
石巻市, 渡の波漁港修築計画平面図1/5000, , 1959
〃, 石巻漁港修築計画平面図1/5000, , 1955
〃, 石巻市1/10000 1/3000, , 1959
塩釜市, 塩釜市1/10000 塩釜市西部1/3000 東部1/3000, , 〃
〃, 塩釜漁港修築計画平面1/5000, , 1960
〃, 荻浜港平面図1/3000, , 〃
釜石建設事務所, 両石漁港浸水状況図1/24, , 〃
久慈建設事務所, 平内川尻浸水状況図1/2000, , 〃
種市町, 種市町明治29年浸水図1/2000, , 〃
久慈建設事務所, 種市八木港浸水状況図1/2000, , 〃
アジア航空測量K.K, 空中写真チリ津波, , 〃
4. 関東・東海
編著者, 表題, 発行所又は書誌名, 発行年次
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編著者, 表題, 発行所又は書・誌名, 発行年次
宮崎県, 細島港臨海工業地帯造成計面概要1/10000, , 1959
宮崎市役所, 宮崎(都市計画図)1/10000, , 1953
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外の浦港修築事務所, 南郷町新開地附近及び外の浦港平面図1/4000, ,
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串間市, 串間市管内図1/5000, , 1959
, (海図)109号豊後水道諸分図, ,
, (海図)157紀州大島至鹿児島海湾, ,
, (海図)181号油津港及外浦港内海港附近, ,
, (海図)1225号尾未湾及細島港, ,
, 宮崎県及大分県検潮記録, ,
, 外の浦港潮位観測記録, ,
, 油津港潮位観測記録, ,
, チリ大地震による高潮の状況, ,
, 油津港検潮所記録, ,
, 細島検潮記録及高潮目撃記録, ,
, 延岡港(東海, 北小路, 鷺島, 十員計8枚), ,
, 細島港湾検潮記録, ,
, 福島港湾検潮記録, ,
, 建設省九州地建宮崎港検潮記録, ,
, 宮崎県宮崎港検潮記録, ,
, 北浦港検潮記録, ,
, 建設省佐伯工事々務所検潮記録(番匠川), ,
, 津久見港検潮記録, ,
6. 日本海岸
編著者, 表題, 発行所又は書誌名, , 発行年次
宮部直已, 昭和15年8月2日日本海北部の地震津浪(略報), 地震12巻12号, , 1940
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飯田汲事岸上冬彦, 昭和14年5月1日男鹿地震の津浪に就いて, 〃17号4冊, ,
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武者金吉, 富山湾の津浪に関する資料, 〃2巻10号, ,
巨智部忠承, 明五石見の震災, 地質雑誌第1集2巻, , 1889
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石田雅生, 島根県下の海嘯, 気象集誌34年4巻, ,
武者金吉, 笈埃随筆所載の石見の津波, 地震16巻7号, , 1944
7. 国外
編著者, 表題, 発行所又は書・誌名, 発行年次
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保田桂二, 太平洋をよぎる津浪の速度, 地震1巻12号, 1929
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日高孝次・彦坂繁雄, 1946年4月1日ハワイ諸島を蓋つた津波について, 日本海洋学会誌5巻1号,
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小倉伸吉, 支那抗州湾の潮津波, 地理教育2巻6号, 1925
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大森, 1883年クラカトフ大破裂に伴へる津浪に就きて, 震災予防調査会報告56号, 1906
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Resume
Report on the Survey of the Abnormal Tidal Waves 「Tsunami」 caused by the Chilian Earthquakes on May 24th, 1961
The relationship between abnormal tidal waves 「Tsunami」 caused by the Chilian earthquakes and topography of the coasts
Geographical Survey Institute Ministry of Construction
Resume
On May 24 th, 1960, early in the morning, the abnormal tidal waves caused by the chilian earthquakes visited the Pacific coasts of Japan. As a result of a disaster striking the coasts of Sanriku and other places, 119 persons were tragically drowned, 20 persons were missing, 5,013 houses were destroyed and many ships were sunk.
Directly after the Tsunami, we surveyed coastal areas of the eastern Hokkaido, Sanriku, Joban, Kii peninsula, south-eastern Shikoku and southeastern Kyushu. The writers have drawn up the Topographical Survey Map of the Coasts showing classification of 「Tsunami」 stricken areas and Map showing the State of the Abnormal Tidal Waves 「Tsunami」 by means of the above mentioned field survey and aerial photographs taken just after the 「Tsunami」 visited these coasts
From these I have leaved the following relationship between abnormal tidal waves 「Tsunami」 and topography o」 the coast
(1) No regional differences exist on the wave-height of the 「Tsunami」 on the ocean. However, there are distinct regional differences on the wave height and the velocity of the Japanese islands. For instance, the maximum height of the Tsunami was over 8m in Tamagawa located in the northern part of the Sanriku Coast, but were less than lm in many other places. Generally speaking, the velocity of the Tsunami was as slow as walking. But in the case of Shizugawa-machi, the velocity was as fast as a bicycle.
(2) There are distinct differences between the abnormal tidal waves coming from afar and those from near. The area attacked by the former is wider (namely, almost all the Pacific coasts of the Japanese islands) than that of the latter (namely, the Kii peninsula and Sanriku coasts).
In the case of the former, the water surface was relatively calm. In the case of the latter, uprighted waves came surging upon the coasts.
Generally speaking, the wave height of the former is higher than that of the latter. In the case of the former, the wave height at the entrance of each bay is lower but becomes higher in each bay bottom, and in the case o」 the latter, vise versa. Generally speaking, the abnormal tidal waves coming from afar are more gentle at the coasts than tidal waves which develop near the coasts.
(3) The main routes o」 the abnormal tidal waves are determined by the topography of the coasts and the following landforms are convenient for 「Tsunami」 to encroach on.
a) Submarine canyon, water routes, and the deepest part of the bay make convenienient routes for the Tsunami to proceed on the sea. When the 「Tsunami」 strikes against the coasts, it invariably proceeds along the quay-walls.
Rivers, canals, ancient waterways, roadways, and drainage systems are convenient routes for the Tsunami to proceed inland. The rivers and canals are particularly convenient routes for 「Tsunami」 to proceed inland. Therefore, the drainage areas of rivers are dangerous areas up to their upper courses.
(4) The abnormal tidal waves which intruded on the inland area did not proceed horiz- ontally. Because of the great resistance of the land surface to the current of the abnormal tidal waves, the depth decreased rapidly as they invaded the inland area.
The line where the 「Tsunami」 disappeared was found at the boundary between the deltas and valley plains or filled in land and valley plains.
(5) There are distinct regional differences of the abnormal tidal waves. These pheno- mena are caused by the topography of the coastal line. We classified the types of Tsunami into the following 7 types by the relationship between topography of the coasts and the state of Tsunami.
(a) Ria shoreline type
(b) Lagoon type
(c) Large river mouth type
(d) Land tied island type
(e) Flat sand beach type
(f) Smooth rock beach type
Generaily speaking, the 「Tsunami」 were violent in the coasts of Sanriku or Kii because the coasts are Ria-shorelines. Conversely, they were gentle along the coasts of Joban because they are flat and smooth.
The Ria-shorelines of Sanriku may be further subdivided into V-shaped bays, U-shaped bays and semi-circular bays. V-shaped bays are formed as a result of the submergence of the land dissected by small streams. W-shaped bays consist of double V-shaped bays and U shaped bays result from the land dissected by large rivers.
(6) The types of flood caused by the Tsunami ...... the depth of the stagnant water, its period of stagnation, the velocity of the current, the erosion and deposition ...... vary remarkablyto the type of landforms . Here the following ...... the wave-cut bench, the delta, the sand-spits ...... have a decisive influeuence upon deciding the types of Tsunami. We classified the types of flood caused by the Tsunami into the following 8 types.
(a) valley plain type
(b) wave cut bench type
(c) delta type
(d) sand-spits type
(e) sand-dune type
(f) filled in land type
(7) Based on my topographic research of the coast devastated by the Tsunami and the characteristics of previous Tsunami, I believe that the following bays and harbors are dangerous to the 「Tsunami」 in the future :
Hokkaido district ...... Kiritappu, Hakodate, Atsugeshi, Otsu
Sanriku Coast ...... Hachinoe, Kuji, Omoto, Taro, Miyako, Yamada, Funakoshi, Ozuchi,
Ryoishi, Kamaishi, Toni, Yoshihama, Otsukirai, Ryori, Ofunato, Hirota, Kesennuma,
Shizugawa, Otsupa, Ogachi, Omae, Onagawa, Sameno-ura, Ayukawa, Oginohama,
Watanoha, Ishinomaki, Shiogama.
Kii Peninsula ...... Kainan, Mori, Fukuro, Otsu, Owase, Katsuura, Gokasho, Ago.
Shikoku ...... Tachibana, Mugi, Asakawa, Suzaki.
(8) There are two types of tidal ways, A and B. As is common knowledge, tidal Wave A is caused by earthquakes and B is caused by typhoons, In the places where tidal wave A type is seen, tidal wave B type is hardly seen, and vice versa. The above mentioned phenomena are attributed to the difference of the topography of the coasts. The Ria shorelines (Sanriku or Kii coasts) are dangerous to the abnormal tidal Waves caused by earthquakes. However, the flat and smooth shorelines (Joban coasts) are safe from them, but dangerous to those caused by typhoons.
(9) As a countermeasure of 「Tsunami」 some villages located along the coast were safely relocated in the highlands. However, because of a substantial increase in population and indu- strial expansion, many people migrated back to the coast and many houses and factories were constructed.
Hereafter, planning of cities and villages to be located along the coasts will be influenced greatly by a considuation of the coastal topography and the type of Tsunami to be expected in the area.
Thus, the type of abnormal tidal waves can be determined according to the shorelines and the microtopography of the plains along the coasts. If we have abnormal tidal waves in the future, it is possible for us to foretell what kind of tidal waves can be expected and how much damage they may do by studying the topography of shorelines and microtography of the plains along the coasts.