はしがき
チリー地震津波!全く寝耳に水の恐ろしい出来事でありました。あれから数ケ月,明けても暮れてもみんなで津波事後対策に没頭したのであります。然しながら考えてみるとうつかり備えを怠つていた事も事実でありました。例えば毎年測候所主催で三陸津波記念事業の一つとして座談会が行われ,対策をあれこれと教え,又宿命の立地条件故いずれは免れることの出来ない運命にあつたが,30年に一度というようなことでどうも力が入らなかつたような次第であります。今回津波にあつて以前はどうだつたかと早速三陸津波の記録を探してみたが殆んどまとまつたものは見当りませんでした。今度の対策をたてる上にも三陸地震津波のデーターがあればと思いますが,今更どうにもなりませんので今度のチリー地震津波のデーターだけでも出来るだけ集めておき,何年先か将来のために残しでおく事が我々に課せられた務めであり,且つ有意義な事と考え既に発表されてある各種の文献中から八戸港に関したものを抄録させて戴き,又各方面より御厚意による新しい資料や写真等提供を受け,可能な限り取りまとめてみました。予算と時間に拘束されて思うにまかせず寄せ集めのようなものになりましたが,将来これを利用されます各面の専門の方々の御判読を願う事により有効な資料として活用される事を切に期待するものであります。
1961年3月
第二港湾建設局八戸港工事々務所
菅野 一
補足説明及び正誤表
チリ地震津波資料集覧を刊行したが若干の補足説明と誤植の訂正すべき点があつたので別冊として発行しましたから御利用戴きます。尚記録のデーター類は八戸港工事々務所に保管してありますから不明の点は,御問合せ下さい。
A. 記録写真
写真i
霧島号は白銀埠頭先端附近で浚渫中であつたのが,港界日出岩附近の岩礁に坐礁した。
写真ii 上段説明文誤植
霧島号主モーター浸(・)水状況
写真Vi 中段及び下段説明文誤植
(中段)八戸保安部における浸(・)水状況
(下段)引波状況海底(・)が露出している
削除→港務所
写真V. 中段説明文誤植
海底のみえる引潮時における蕪島船溜(・)
写真Vii. 説明文誤植
船溜(・),削除→2時23分
写真ix 上段説明文誤植
津波来襲における蕪島船溜(・)
写真XVi.
4号物揚場(艀荷役場)における引き潮状況はどれだけ引いたか立証する写真である(-2.5m)
写真XXVi. 河口防波堤(B)
河口防波堤の曲点より沖部,別図河口防波堤被災図参照。
写真XXV.
7時20分頃(中段)の写真を見ると津波の方向がわかる。即ち河口防波堤(A)の外部から堤体をオーバーして来襲している。
写真XXVii. 河口防波堤(A)
津波直後は異常がなかつたが,津波で流心部が非常に深くなつていたため数ケ月後になつて波のシヨツクで海底が安定勾配になつたため壁体が傾斜した。
写真XXXXi. 上段説明文誤植
裏込め土(・)砂流失…
写真XXXXVii. 中段説明文誤植
高周波K.K(手(・)前)及び…
写真Iiv, 中段説明文誤植
工業港奥部に打上つた漁(・)船群
写真Ixvi. 上段説明文訂正
午前5時30分頃県(・)港(・)務(・)所(・)前(・)道路の冠水状況
写真Ixvii. 上段説明文訂正
鮫引(・)込(・)側(・)線170mは完全に流された。
写真Ixxi. 中段説明文誤植
九戸郡漁連油槽(・)付近
B. 引用文献一覧表 追加
チリ地震津波記録映画所持者 (3)8mm八戸市水産課
C. 本文
P.12
最下行の附図は,別図附図 - 11
(八戸線湊臨港線下河原橋梁被害状況調査図)である。
P.24
附図4.1図の五戸川附近を断面測量したものが別図・八戸市八太郎海岸防潮林防波効果図に記載してある。+4.7mで浸入した波が33mの防潮林を通りぬけた時は+1.5mになつている事実は,注目を要する。
P.35
東大及び東北大の現地踏査波高調査図数値と八戸港工事々務所調査数値との関連は,別図・青森県八戸市平面図を参照のこと。
P.55
上10行
可口防波堤80mについては,別図,河口防波堤(B)災害状況図参照のこと。
下から12行目
津波のため深浅がどう変つたかについては,別図3参照のこと。
八戸工業港チリ地震津波前深浅図(昭35.4)
一八戸工業港チリ地震津波後深浅図(昭35.6)
八戸港検測図(昭35.10)
八戸港検測図は印刷不明解につき必要の際は,第二管区水路部の海図係に問合せのこと
P.56
上3行
白銀物揚場については,別図物揚場災害断面図参照のこと。
最下行
小中野魚市場岸壁倒壊については,別図小中野魚市場岸壁災害断面図参照のこと。
P.60
下3行1部訂正
……海岸より陸側まで約3(・)3(・)mであつたが……
附図
1,八戸線湊臨港線被害状況調査図
2.八戸市八太郎海岸防潮林防波効果図
3.青森県八戸市平面図(津波水位調査)
4.河口防波堤(A.B)災害状況図
5.工業港チリ地震津波前深浅図(昭35.4)
工業港チリ地震津波後深浅図(昭35.6)
八戸港検測図(昭35.10)
6.物揚場災害断面図
7.小中野魚市場岸壁災害断面図
以上補足説明並びに訂正を加いましたが尚疑問点や不明な点がありましたら御知らせ下されば幸いに存じます。
津波記録写真集
霧島号関係
水産研究所附近
蕪島附近
事務所附近
商港附近
白銀埋立地
白銀海岸
河口附近
湊町
小中野町
工業港附近
湊川口の慘状
鮫の慘状
引用文献一覧表
1. 昭和36年 5月24日 チリ地震津波報告 仙台營区気象台 編集 財法気象協会東北支部
2. 1960年 5月24目 チリ地震津波踏査速報 チリ津波合同調査班乱
3. チリ地震津波 特集号 東北研究 1960 No.5 No.6 東北開発研究会
4. チリ地震津波調査資料 八戸測候所
5. チリ地震津波調査報告 盛岡鉄道管理局
チリ地震津波記録映画所持者
(1)8m/m カラ一 八戸市小中野新丁38 弁天湯 森貝 巖
(2)8m/m 日曹製鋼K.K八戸工場総務課
1. 一般概況
昭和35年5月23日4時11分(日本標準時)南米チリー中部コンセプシヨン市西方沖38°S,73,5°Wに規模M=8.75とう世界最大級の地震が発生した。この地震の後22時間30分乃至23時聞を経て北は北海道から南は九州に至る太平洋沿岸一帯に,大津波となつて襲来し各地に甚大な被害をもたらした。この規模は,近年我が国附近に起つた昭和8年3月3日の三陸沖地震津波以上のものである。
特に八戸方面の被害が著しく,24日午前8時八戸市に災害救助法が発動され,高舘陸上自衛隊及び航空隊の出動により,入命救助,道路維持,給水等が実施され,更に三沢空軍による食料投下の協力があつた。
今回の津波で発生した主な被害状況は死者2名,行方不明1名,重軽傷4名の痛ましい犠牲者をはじめ,住家被害は,流失破壊122戸,半壊72戸,床浸水5,400戸,5,890世帯の被災を生じ,更に水産関係は漁期を控えて漁船の7,8割まで出漁体制が出来ているところにこの津波で,およそ半数にあたる動力船262隻,無動力船215隻が被災し,修理用の資材まで流失した。又漁業基地である八戸漁港の小中野魚市場,加工施設,漁網,漁具等の被害も甚大で水,産関係の災害は被害総額の65%にあたる33億1千万円に達した。
土木施設においては八戸港の工業港河口防波堤及内部護岸決壊及び河口浚渫,商港の白銀埠頭物揚場決壊,浚渫船
座礁等が大きく5億6千万円で,これに河川橋梁,海岸などの被害を加えると5億9千万円におよんだ。
更に八戸地区における製造工業事務所536のうち約7割位,又商店約3000のうち30%位が被害を受け,八戸火力,砂鉄利用工場,機械鋳物工場等の施設破損,原材料,製品流失ならびに一般商店における商品の流失,汚損は莫大で約5億7千万円に達し,これらに農作物,電力,通信,鉄道等の災害を加えるとその被災総額は50億3千万円をこえるに至つた。この被害は1道17県に及び,三陸沿岸の高田,大船渡の両市並に志津川町に於いては殆ど全市街が被害を受けた。この予期せざる大津波は,昭和8年3月3目の三陸津波による被害よりも広範囲に亘つており,この時の青森県の太平洋沿岸では八戸の鮫角以南を除いては概して被害も少かつたのであるが,今回の津波に於いては下北地方から陸奥湾に至る地域で大規模な被害を出している。
又津波記念日として指定されているあの三陸津波に於てすら当時の津波の最大波高も鮫港で2.3mを記録したにすぎなかつたのであつたが,今度のチリ地震津波に於ては莫大な損害を受けている。加えてこの津波は震源から広大な太平洋を約23時間もの時間を要し到達しており,又津波記録に於ても27日迄も続くという長時間のものであつた。この長い時間に亘る異常海面を見つめる沿岸住民は震源附近での再参に起る大きな余震の発生をラジオや新聞での報道を聞く毎に人心の動揺も極度に達し,加えて流言もとんだ為不安な数日を送つた。
今,過去に於いて当青森県に来襲した津波をふり返つて見るならば西暦869年(貞観)の三陸沖津波を初めとして今回の津波を加えて実に26回の多きに達している。勿論この中には小津波により被害程度も極く僅かなものもある。
近年に於いては明治29年6月15日並に昭和8年3月3日の三陸津波による被害が甚大であるが,最近では昭和27年3月4日の十勝沖地震,同年11月5日のカムチヤツカ沖地震,又昭和33年11月7日のエトロフ島沖地震,昭和35年3月21日の三陸遙か沖地震等小津波が起きている。今回のチリ地震津波は太平洋の向う側からの地震による大津波が起つたのは例を見ない。
特に本邦の太平洋沿岸は環太平洋地震帯に属し,大地震の発生し易い地域であり且つ又海底に起きている。それに加え三陸沿岸はリアス式海岸を構成して津波の被害を更に増大しているのが特徴といえるようである。
然しこの三陸沖で起きた過去の震源の位置からみても,又地形的位置から見ても津波は東南方面から来襲していた為,北に面した鮫角岬陰の八戸港では被害程度も概して少く,むしろ東や南東に面した三沢附近の海岸や鮫角以南の沿岸では被害が大きかつたのが特徴であつた。チリ地震津波の来襲に於ては予期に反し北又は北東からであつた。この為,八戸港では今まで被害を受けなかつた地域,即ち下北地方並びに陸奥湾までこの影響を受け被害を大にした。
津波が陸奥湾にまで影響し被害を出したということは今迄の類例を見ていない。
このように観測史上最大のチリ地震は津波を本邦太平洋沿岸にまで影響させ,尊い人命と莫大な財産を一朝にして海底の藻屑と化し生々しい痕あとを残したのである。
2. チリー地震津波の襲来状況
2.1 概況
東北地方太平洋沿岸に襲来した津波の第1波は,地震の発生後22時間27分の24日02時37分にまず宮城県女川町の島に到着し,ついで02時50分前後岩手県の三陸沿岸に到着した。それより10分〜20分遅れてその他の東北地方太平洋沿岸一帯に到着,一方陸奥湾ではさらに1時間30分近く遅れた04時24分に青森,約50分遅れた05時12分大湊に到着した。
この津波の最大波は05時〜08時に発生し,その高さは外洋では江の島の検潮記録から124cm(全振幅は277cm),外湾または湾口では北から南まで大体同じで2〜3m前後であつた。ただし青森,岩手の両県境の外湾では3〜4mの高さを示し,湾奥では一般に高くなり4m以上になつた湾もかなりあり,野田および広田両湾では9m以上になつた。
これを昭和8年の三陸地震津波と比較すると,外湾の波高分布も異なり,また逆の現象事現われた。即,今回の津波は昭和8年の場合と全く対照的な結果を示したのである。
被害は波高の最も高かつた三陸沿岸に最も多く,東北地方全部で死者107名,行方不明15名,負傷者791名,家屋の各種被害あわせて31,128戸,その他農業,漁業,商工業等の被害は多大であつた。被災者総数は127,233名,被災戸数31,128戸となり,中でも宮城県は最も多くその半分近くを占め,いかに津波の影響が大きかつたかわかる。
チリ地震による津波は,過去において東北地方に何らかの影響を与えたものは10回あつたが,そのうち多少なりとも被害を与えたものは5回あつた。然し今回などの規模の大きなものは一つもなかつた。
2.2 八戸港の津波来襲状況
八戸では午前3時15分押し波として第1波が振幅93.0mの異常潮位を示して押し寄せたのであるが,誰しもこの記録には関知することが出来なかつた。然し一漁民の適切な通報により海面の異状常態を知つたのは4時20分頃であつた。この頃から第2波として水が急激に引き始め,通常は砂浜の半ば頃迄(振幅103cm)来ているはずの水際が遥か沖合まで退き新井田川口の突堤の先まで(200m位)一面の黒い肌地を見せたのである。これから海面の異常を発見した人々はザーザーという異常音を聞き引きの早さは凄いものであつた。この様な状態は昭和8年3月3日の三陸津波では見られなかつたことで沿岸漁民は呆然として見守るばかりであつた。第3波の5時14分にはついに最大振幅850cmを記録この時に被害の大半が出たようである。其の後の第4波は6時58分で365cm更に第5波6時31分に2番目に大きい振幅で396cm以後は次第に減衰し海面の昇降状態が続いた。然し海面状態は依然として無気味な暗黒色を呈しこの状態は27日まで続いた。
上記の問に押し寄せた津波はいずれも引き波が強くその速度は最高約13m/secで5時14分〜5時55分に至る引き波のmaxの時は,鮫港の底が見え,単調な八太郎地区海岸一帯は沿岸より150〜200m位の沖合迄海水が引き-5.5mの新井田川の両岸はすつかり底を表し,中央部の流れがある状態で,河口前面に当る防波堤は工事中で,延長80mの北向の防波堤は既設防波堤と約150mの間隔があつたが,鮫港の沈船防波堤と同様に堤体,周囲は振幅最高6.0mから平均2.0mの波が上げ潮と引き潮の際に渦を巻く流れとなつて30〜40分毎に24時間反復襲来するという状況であつた為,河口に面した未完の島堤式の本防波堤は引き波に完全に翻弄され,渦と流れにより基礎の割石方塊は勿論ケーソン本体も飛散埋没するに至つたのである。
引き波に比べて押し波は比較的おそく8m/sec位で次第に4m/secとその後は底下している。
又昭和8年の三陸大津波では第2波がmaxを示しているのが特徴であるが,今回の津波記録の最大振幅は第3波で表われ,27日4時の振幅70cmを峠に次第に平静に復した。即ち,昭和8年には岸壁をわずか越した程度であつたものが東洋一を誇る第二魚市場から扇状に大通りまで海水が悠にあがつた為,この附近の住民は着のみ着の儘で逃げ新井田川両岸の繋留船は一瞬にして漁船の墓場と化した。
又一方当地方の低地帯である白銀,鮫方面は5時14分の時の波に依り流失家屋を出すのは勿論,多くの浸水家屋を出した。
その後も海面は無気味な暗黒色を呈し,27日迄続く長時間のものであつた。然もこの津波は24日7時以後昇降状態を続け海岸一帯は顕著な現象は見られずむしろ新井田河口からのものが際立ち押し波では浜須賀並びに三角地帯(火力発電所のある工業地帯)は太平洋海域から収斂する様に入つて来た様な状態でその後は海岸では大した変化は見られなかつた。従つて引き潮では底が見え,両岸は水枯し,川の中央部の深い場所(水深5m50cm)のみが小川のようになつた。
今迄の八戸周辺に来襲した津波は全て南東ないし東から来ていた為,東に面した海岸地帯(三沢沿岸)や鮫角以南では多くの被害を出した八戸港の様に北に面した湾では被害も殆どといつて良い位見受けられなかつたのである。然し今回の津波に於ては来襲も北又は北東からのようで北に面した当湾では被害も大になり,三沢沿岸では殆ど被害が出ていない。この被害の出ない理由の一つは津波来襲方向にもよるが,昭和8年の三陸津波による被害により砂防林の設置による効果も大であつた様に思われる。
尚当地方に来襲した明治29年6月及び昭和8年3月の三陸津波は第2波が最大であつた。
又当地方で最も浸水被害の多い鮫の当運輸省八戸港工事々務所,八戸海上保安部附近における津波来襲状況(目視観測)は,海水の異常と気がついたのは3時50分から4時20分迄に当所曳船の宿直員並びに巡視船「くま」乗組員等によつてである。その後4時20分迄に押し波が来襲したがこれらの陸上浸入はなかつた。
4時43分までに引いた波によつて停泊していた巡視船「くま」(水深7m位)が傾斜した。それから4時45分まで押し寄せた(目視観測による第2波)波によつて運輸省並びに海上保安部庁舎前の道路迄が浸水した。船が沖合へ待避したのはこの時である。第3波は5時頃でこれによる浸水は運輸省,保安部庁舎が垣根まで官舎は床上20cmの浸水。
第4波は5時37分で運輸省の庁舎並びに保安部庁舎附近の地面から約1.0〜2.Omの浸水である。
第5波は6時20分でこの時の水位が最高で地面より約1.5〜2.0mで庁舎のガラス戸中段迄で達した。
その後7時30分に第6波が来ているがこれは前の第5波より50cm位低く以後は大きな影響はなかつた。
3. 被害状況
3.1 三陸沿岸における被害状況
今回のチリ地震津波による東北地方の被害は津軽半島の北岸三厩から陸奥湾沿岸,三陸沿岸を経て福島県南部沿岸に及んでいる。そこで三陸沿岸の被害の大きい主なる港湾について市町村別の人的被害,被災世帯,破損住家,漁船被害,農作被害,定置網の被害の概要を述べると次の如くなる。
岩手県大船渡市が死者,行方不明53人,負傷者302人で死者は最も多く,これに次いで宮城県志津川町が死者38人,負傷318人で合計数は最も多い。青森県八戸市は被害地帯,漁船などの被害が多大であるにかかわらず人的被害が非常に少ない。
被災世帯は八戸市が最も多く5890世帯,次いで石巻市の2957世帯,気仙沼市の2096世帯が目立つて多く女川町志津川町,山田町,大船渡市,釜石市,大槌町,塩釜市などがこれに次いでいる。
住家の被害について全壊流失数の最も多いのが宮城県志津川町で455戸を数え岩手県大船渡市の383戸がこれに次ぎ宮城県女川町,岩手県陸前高田市,山田町がいずれも100戸を越している。半壊の最も多いのは女川町で542戸大船渡市の532戸,志津川町の223戸がこれに次ぎ大槌町,石巻市,陸前高田市がいずれも100戸を越している。住家の床上浸水の最も多いのは気仙沼市で1459戸,八戸市の1027戸,山田町の1007戸がこれに次ぎ女川町,石巻市,釜石市,大槌町,雄勝町がいずれも500戸以上である。床上浸水の最も多いのは八戸市で4088戸,石巻市の1739戸がこれに次ぎ,気仙沼市,釜石市がいずれも500戸以上,大槌町,宮古市がいずれも300戸以上であつた。住家の全壊,流失,半壊,床上浸水,床下浸水を総合すれば八戸市を別にしてだいたい宮城県北部沿岸から岩手県南部沿岸にかけて被害数が非常に多い。この一帯は住家9分布密度が割合大きいのと,沿岸の屈曲多く湾としての地形の出入が非常に多い所である。
漁船の被害は動力船の被害の多いのが八戸市で262隻,これは新井田川口と三角州船溜に入港していた漁船が,川をさかのぼつて襲来した津波にやられたのが大多数で山田町,大槌町,石巻市,釜石市がいずれも100隻以上である。無動力船の被害は志津川町の437隻が最も多く気仙沼の426隻,宮古市,山田町はいずれも300隻以上,石巻市,塩釜市,大槌町,青森県百石町いずれも200隻以上,大船渡市,八戸市,陸前高田市がいずれも100隻以上である。漁船は港外に避難し得たものは被害をまぬがれているが,在港のものは被災したものが多い。無動力船は津軽海峡および東北地方太平洋の全沿岸で被害を生じ,北は津軽海峡の南岸三厩町(青森県津軽半島北岸)および下北半島北岸の大畑港から三陸沿岸全般にわたり南は福島県南部沿岸平警察署管内まで被害が及んでいる。農作物の被害は北は陸奥湾沿岸から南は福島県沿岸に及んんでいる。水稲の被害面積は志津川町の180haが最も多く,陸前高田市,大船渡市,山田町,気仙沼市,宮城県鳴瀬町がいずれも100ha以上でこれに次いで畑作物の被害面積は大船渡市が最も大きく151haで,陸前高田市,宮古市,女川町がいずれも50ha以上でこれに次いでいる。
定置網の被害は陸奥湾沿岸の平館村が82統で最も多く,宮城県東部沿岸の牡鹿町,雄勝町,石巻市,女川町がいずれも50統以上である。
3.2 八戸港に於ける被害状況
第3.2図の様に各所に護岸等の決壊を生じ,家屋の流失損壞は直接外海に面した白銀地区に多く,津波は新井田川をさかのぼつて河口より約3Km上流迄浸水し,住家,非住家の浸水は新井田川河岸と三角州船溜周辺を含めて小中野地区で1.964戸の大多数を占めている。漁船特に動力船の被害は3.1図のように新井田川河口流域と三角州船溜に入港中のものが多く,ここだけでも流失沈没16隻,破損したもの318隻に上つた。鮫港内でもかなり動力船の被害があつた。
八戸地区を中心に上北地方及び三陸海岸沿いに久慈地方に至る沿岸の津波襲来状況並びに被害の概略は次の通りである。
上北地方砂森部落から南の方に一川目部落迄単純な海岸線であるが,津波による被害は軽微であつた。これは海岸沿いに防潮林で浸水が止つており最も水位の高い四川目部落で地面から150cmその他は50cm程度である。これは津波の来た方向が北成分で昭和8年3月の三陸津波の時の南東成分と異る点である。被害の大きかつた百石町川口部落は奥入瀬川河口附近にあり河口は北東に向つている。ここでは流失,倒壊家屋は住家非住家合せて15戸にものぼり床下浸水は浸水家屋合せて28戸(床上20cm)あり,八戸地区に次ぐ被害を蒙つている。流失家屋は河口から150cm位離れた低地にあり,水位は地面から2cm位である。八戸地方は被害も甚大で湊地区では新井田川流域にある工業地帯や民家は殆ど床上浸水で地面から130〜180cmの水位を示している。特に漁船の被害は大きい。白銀地区は民家の被害が一番多く流失(4戸),及び倒壞は住家非住家合せて200戸に達しその他は殆ど床上浸水で惨憺たるものであつた。水位は地面から180cm位となつている。鮫地区は埋立地から魚市場附近にかけて被害が多く民家の大部分が高台にあり,この地域は冷蔵庫等の比較的大きな建物であつた為,流失(1戸),倒壞は非住家が主で数戸に溜つている。然し殆どが150〜180cmの床上浸水で特に埋立地は物資の集積地であつた為漂流物の氾濫がひどかつた。
鮫地区から久慈地区にかけて海岸はいわゆるリアス式海岸で場所によつて水位の高まりに差異が認められた。即,湾口が北向きの所が水位の上昇も大きく南東向に比べて倍以上の水位を示している。この地域一帯住家は直接海から押し寄せた津波による被害は少く河川の逆流に依る浸水でこれは三陸津波の教訓を生かし,住家は高所に移つた事,港には防波堤をつくつた事等から被害は非住家(小漁具屋)の流失程度となつている。又船舶では盛漁期であつたので磯舟の流失は10隻,小型船3隻,その他漁網となつている。
鉄道施設の被害概況(八戸線)
チリ地震津波,国鉄施設に甚大な被害を与えたが,その被害概況を略記すれば次の通りである。
今回の津波により橋梁を始め各種構造物が津波の流入,流出に依り洗堀,その他の被害を受けたがそのうち被害の比較的大であつた八戸魚市場線一下河原橋梁の洗堀状況,袖石垣崩壊等を附図によつて示した。
4. 現地踏査報告
4.1 踏査目的
今回のチリ地震津波は,本邦の太平洋沿岸の全域を襲い特に北海道,三陸地方に甚大な被害を与えた。
過去においてチリ沖に発生せる津波が,本邦に伝わつた例は,明治以来数回あるがいずれも検潮記録に数10cm位の振幅が計測される程度で被害を伴つた事がない。
我が国における津波防災の研究は昭和8年の三陸津波以来急速に発展して来たが,上記の如き事情から皆,これら研究は日本近海に発生した津波に関するものであつて今回の如き所謂遠地津波による災害の研究資料は皆無であり津波研究の盲点でもあつた。
今回のチリ地震と近地津波を比較すると,遠地津波は太平洋沿岸の実に広範囲に亘る地域に津波現象が見られる事と,周期が一時間以上のものがみられ湾その他の地形による影響に著しい差異がある。
又過去の資料によると三陸沿岸と東南海沿岸の津波危険度を同一スケールで比較する事が困難であつたが,この遠地津波の伝播は日本の太平洋岸全域に於けるエネルギーの配分を知る上に極めて重要である。
此の津波は防潮堤とその他の防禦土木施設の効果を再検討するのに絶好の機会で三陸海岸に於て極めて有効な働きをしたものもある。
この津波の現地踏査の為運輸省八戸港工事々務所を初め八戸測候所では調査班を組織し津波当時の現況を把握すべく発生直後より6,月上旬にかけて現地に赴き聞き込みと痕跡よりその実態把握に努めた。又文部省より総合科学研究費が与えられたので各大学関係研究機関では速やかに調査班を現地に派遣し調査に当つた。
以下述べんとする事は主として八戸を中心とした三沢地区より久慈附近に至る八戸測候所並びに東大及び東北大調査班による調査報告を転載し当時の状況を回顧し今后の地震津波対策の研究資料とする。
4.2 八戸測候所調査班による踏査結果
4.2.1 波高の測定方法及び基準について
測定方法としては普通最も簡便な方法として用いられているクリノメーター及び巻尺を用い現地に残つた形跡や聞き込みにより,測定時に於る潮位よりその高さを測定した。中には既に東京湾中等潮位(以下T.P.の略号を用いる)のわかつている地点よりの高さを測定したものもある。これらの値から津波が最大になつた時刻の平常潮位よりの高さとT.P.よりの高さを換算した。この換算には附近にある検潮記録や推算潮位を用いた。然し各湾,各地区毎に検潮記録があるだけではなく,又あつても不正確であつた為厳密にいえば正確な補正をほどこしたとは言えないが現在の所,これ以上の事は不可能なのでやむを得ない。従つて測定時の誤差と合せると平均10%位の誤差はまぬがれないであろう。
4.2.2踏査内容
引用文献
仙台管区気象台編集
昭和35年5月24日「チリ地震津波調査報告」p.31〜37ヨリ抜
六ケ所村尾駮浜
付近の住民はラジオで津波のあることを知つた。津波の最も大きかつたのは6時ごろで,中位のしけ程度にすぎなかつた。また被害も全くない。
三沢市
平沼浜
小川原沼から続く高瀬川河口を工事中の田中建設株式会社の飯場や事務所が河口にあり,ここでは割合正確に状況をはあくすることができた。ここでも津波の最も大きかつた時は6時ごろで特に引き潮が大きかつた。水位の判定も防波堤の一点で水準測量による高さがわかつたため容易であつた。被害は同会社の資材流出で数十万円とのことで,その他異常現象はなかつた。住民の話では昭和8年の時より規模ははるかに小さい。事務所や飯場に浸水寸前まで水が来た。
六川目
この地区でも津波の最も大きかつたのは6時ごろで,被害は海岸にある非住家(船具小屋)に浸水した程度で被害らしい被害はなく,ほとんど防潮林でさえぎられている。古老の話によれば昭和8年の津波より少し弱いくらいであつた。もつとも当時は雪が相当積もつていたため波はあまり奥主で入つてくることはできず,また異常な雷のような音を聞いたが,今回は何もなかつたと言つている。
五川目
ここの海岸では砂鉄を堀つており,防潮林から海岸寄りに10mぐらいの所にある事務所は約1mの床上浸水で,その他砂鉄採堀のモーターなどが浸水した。住家には全く被害はなかつた,ここでも津波の最大時は6時ごろで,昭和8年よりも小さい。
四川目および三川目
この地区の海岸線は北北西に走る砂浜地帯で,有名な天然砂鉄が豊富に埋蔵されている地帯である。この海岸の四川目を中心に南北を踏査したが,概して損害は軽微であつた。これは昭和8年3月の三陸津波による体験を生かし,海岸線に砂防林を作つたことと,住家を水面より10m以上の高所に移したことなどによるが,今回の津波は現地の人の話によれば,三陸沖の津波と違つて津波は北成分の方向からやつてきた(三陸沖地震津波による場合は南東方向)もので,規模としては三陸沖津波の場合よりはるかに小さいものであつた。この地域の三陸沖津波による被害は多大であつたが,今回の津波は全く反対の現象が現われているこれは明らかに津波の襲来の相違を物語つているものと思われる(この津波による漂流物は北の方から流されてきた)。
各地における被害の概略は次のとおりである。
砂防林は海岸線より200〜300mの所に海岸線に沿つて延びているが,だいたい砂防林を越して10mぐらい先まで津波が到達している。住家浸水は全部で8戸で浸水の程度20cmぐらいのものであつた。砂防林の冠水は高い所で150cm(四川目)低い所で40cm(三川目)ぐらいである。三川目では川沿いの畑地(蕪麦)5反歩が冠水したが,海岸より300mぐらいの位置にある。次の磯舟の中破,小破合わせて5隻で,これに付随した船具類の流失は敷木,コロ,魚網6枚などである。
百石町(二川目,一川目,川口)
(1)被害状波
この地区で被害の最も大きかつたのは川口部落で,一川日と二川目の各部落は磯舟2隻中破,床下浸水は2戸にすぎず,被害はごく軽微なものであつた。川口部落は奥入瀬川河口付近にあるため被害は大きく,流出家屋3戸,非住家屋6戸をはじめ,全壊1,半壊4,床上浸水14,床下浸水8を数え,その他家畜若干,磯舟30,漁網1000問,堤防倒壊,家具,機械,器具,衣類などの流出があり,農地は田畑の冠水60町歩,埋没7町歩に及んでいる。このような被害があつたにもかかわらず人命に関しては軽傷一人で済んだことは不幸中の幸いであつた。
(2)津波襲来状況
川口部落は大部分半農半漁で,田植時でもあり,早くから起きて仕事をしていたため,津波のあることを早くから知つており,そのため人的被害は無かつたものと思われる。波の最も大きかつ時刻は5時から7時ごろまで,河口から300m離れた所では床上浸水60cmとなつている。流失,倒壊家屋は河口より100mぐらいの位置にあり,ほぼ海岸線に沿つて並んでいる家屋である。
冠水した田畑の水位は30〜50cmぐらいと言われるが,これは明神橋のある小川から浸水したものである。
川口部落は河口付近にあつたため,水位も非常に高かつたが,北上するとともに水位は低く,海岸線から200mぐらい離れた海岸沿いに防潮林が続いており,この防潮林で50cm程度であつた。このように津波による被害は昭和8年の三陸沖津波の場合と被害の起きた場所は逆になつており,北ほど弱く南ほど強くなつている。
八戸市
奥入瀬川口
新馬淵川口(市川)
新馬淵川橋を右に曲がる堤防は海岸まで突出しており津波は,海岸へ北方より打ち寄せてこの堤防にうち当り,八太郎方面に浸入した。しかし海岸より400mの県道まではいあがることがなかつたので,市川町橋向の部落以北は被害を受けていない。またこの辺は海岸線でも少し小高い台地となつているので,津波の浸入はまぬがれた。流れた材木を拾つていた人たちの話では,この日は波の音が普通と違つているので浜辺に出て見たらいつもの干潮より潮が引いているし,2,3年前に鮫港よりおし流されて沈んだ船の底が見えた。その海底は普通水面よりむしろ6枚分(41〜42尺)で12〜13mも水が引いたので,これは津波だと思つた。そのうちに第1波はが北方より白波を立ててやつてきた。次に第2波が南東側よりやつてきた。第3波は第1波と第2波の中間よりも北側の方よりやつてきて,この第1波と第3波の合成した波が陸地に浸入してきた。防潮林内まで達した時刻は6時30分ごろで,この人は津波と気付いて逃げようとした時は既に水中であつたといつていた。
この辺一帯は白銀,小中野方面よりおし流された材木,魚箱などが浜辺に散在していたが,台地なのでどの方面より津波が来ても被害は少ないとのことである。またこの地帯を北上すると防潮林まではごみが立木の中途にたれ下がつており,発動機船1隻が押し流されて海辺に座州し,またハシケ1隻が浜地に横たわつていた。市川部落の橋向に入ると県道より東側の市道の橋向浜通りの道路まで浸水し,この一帯の農地は冠水,また住家非住家が南に西ないし南西に押し流されて破損,また畑地に磯船が陸揚げされていた。水田,菜種畑は泥畑となつて,特に松林の中に流出物が点々と散在していた。
橋向部落は五戸川河口にあり,川沿いの両側は堤防になつておるので被害はなかつたが,堤防の側面および防潮林上手より浸入した海水によつて浸水または押し流されたものが多かつた。(4.1図)市川橋を渡り,川の堤防に沿つて川口まで行つてみると,この堤防は河面より7〜8mも高い所にあるので津波を受けておらず,防潮林のうしろの低い畑地は排水路より逆流した海水により冠水または浸水していた。
中山部落より海へ向かつた市道路の低地および防潮林におしよせた津波は道路を通つて道路の両側の非住家を押し流し,また磯舟を畑地におし流したが,この辺一帯は住家が台地にあるので,上記のような非住家および磯舟の流出,農地の冠水の被害が主である。
奥入瀬川には堤防がないので,開運橋付近まで津波が流入してきたが,この川沿いの田畑にわずかの被害を認めた程度である。
三角州工業地帯および小中野町
まだ大波の襲来する午前8時,避難民や自動車で身動きできぬ中を,三角州工業地帯や小中野方面の状況調査に向う。旧湊橋から第二魚市場に至る川岸は,打ち上げられた漁船や,転覆寸前の漁船の衝突により破壊された家々など,新井田川口より浸入した波をまともに受けた小中野護岸一帯は目をおうばかりの惨状であつた。第二魚市場の岸壁も大波をまともに受けて無惨にも200mにわたり決壊している。この付近の水位の高さは護岸より約180mぐらい,少い所でも130cmぐらいに達している。停泊中の漁船が打ち上げられ,あるいは転覆しているのが随所に見られる。
第二魚市場より三角州工業地帯にかけては浸水がはなはだしく,この方面より打ち上げた波は赤沼,入江町,船見町一帯を泥海と化している。
工業地帯の被害も大きく,日曹製鋼の岸壁は数10m決壊したほか,東北電力火力発電所,八戸変電所,日曹製鋼などは50cmほどの床上浸水があり,日曹製鋼は安全にその機能がマヒしたほか,岸壁に積み上げたコークス約200kgが流失している。なお三角地帯の浸水として新井田川口よりの岸壁から乗り上げた波によるもので,外洋よりの浸入は土手のためごくわずかであつた事実は注目されてよい。
湊町
この地区海岸は新井田川河口浜須賀から大沢部落まで海岸線は約1.5kmの砂浜となつているが,4時25分と6時25分からの押し波で同海岸一帯は約100m岸沿いにある幅3mの道路まで浸水,道路上で20〜30cmの深さがあつた。また新井田川口沿いの低地にある両岸住家はほとんど130〜150cmの床上浸水し,上流約1kmの盤城セメント工場付近まで逆流している(同工場では5時14分および6時36分には豪雨期の増水と似ていたと言つていた)。河口より約500mの両岸住家および運河工場地帯は終日の津波襲来で流失をまぬがれたとしても生きた気がなかつたといつた現状であつた。同河口にある当所検潮所も平均水面から2期余りもあるコンクリート囲いのへいを三方から海水がのり越え,5時14分,6時36分には泥水化した海水に囲まれ同所内にも浸水,まつたく危険な状態であつたが,当所担当係員は危険をおかして保守に努めた。同河口両岸に係留中の漁船(動力および無動力)および運河奥岸壁付近の八戸漁連船上げ場にある船400隻余りが,5時ごろの最大潮位時に90%流失,他は6時30分ごろに流失,大,中,小破を受けた。その半数以上は5時4分からの引き潮,他はその後繰り返された津波によるもので波の押し,引き(特に強く)中には処置の仕様がなかつたというのが実状であつた。水位最高時に同河口正面にある第二魚市場の岸壁上約2mの浸水があつたことからも,この間の模様がわかる(第4.2図参照)
新井田川運河地帯の岸壁からの浸水は5時14分および7時20分ごろ岸壁に浸水している。小中野町より岸壁における流失船の多かつたのは外海の直接波(正面)のためであろう。いずれにせよ川の両岸漁船の被害は大きく,約350隻(動力および無動力)を数え,加えて第二魚市場岸壁の全域,河口防波堤決壊,同臨海工場関係の操業停止などは津波被害の主要なところである(他は鮫岸壁付近)
当時の津波の状況4時45分,6時25分からの押し波は河口を含めて浜須賀から鮫海岸と三角地帯海岸一帯に大きく波が寄せ,その最大時からの引き潮の際も同じように海岸一帯が大きく引いた。その後は浜須賀海岸の平常の波打ちぎわから約150mの東防波堤があり,同位置から対岸の西側防波堤が約500m沖にそれぞれ突き出ているが(防波堤口の向き北東),この河口のみ波が出入するかのようで,海岸一帯は顕著に押し,引きが見られず奇異であつた。河口での流失物の速さを見ていたら(当時は満潮時から干潮時に向かつていた),引き波は特に速く5時14分,6時36分からの引き波時では13msec^-1この直前の上げ波時は5〜8msec^-1を目視観測により推定した(西防波堤上の電柱間隔40mを目標とする)。午後からは満潮,干潮時に関係なく押し,引き波とも相当遅い速さとなり7〜8msec^-1であつた。
6時ごろまで入り込む海水と河水との水色の区別ができたが,その後は全然黒(泥水)一色となつて川から沖へ,沖から川へと波の往復が見うけられた。5時55分ころ最も潮が引き,東側防波堤(海岸線から約150m)から東の鮫港一万トン岸壁までで一大砂原と化した。平均100m,最長幅300mと推定される。
その他八戸線鉄橋脚に再三ハシケが激突,同線路が川上に向かつて約60mmゆがんだため(尻内保線区員6時33分こう警戒中発見),9時26分から16時までむつ湊駅-小中野間を乗客の徒歩連絡による折り返し運行を行なつた
白銀町(三島)
三島川付近が特に局部的と言えるほど家屋の流失,損壊が多大であつた。
川付近の道路に面した家屋2,3が路上にのり上げられたものがあり,川沿いの道路までの密集した家屋は約2割流失,3割ぐらい破壊されていた。
地元の人の話によると,家屋の被害の80〜90%は第3波の最大波襲来時に流失,また破壊されたものと思われる危弱な建物が波に押し流され,他の家屋を破壊したものもかなりある。
津波の襲来方向はほぼ北であり,この地域における水位は地面より約180cmである。三島川を境として西方は比較的被害が少なく東方であつた。この被害が三島川周辺に集中したのは,次のような理由によるものと思われる。すなわち,a)の地形が海に面してややV字形をなしていること,b)同地区は同海岸でも最も低地帯であること,c)の小河川ながら三島川が津波の勢力を助長誘導したらしいこと。
鮫町(埋立地)
八戸魚市場,東北冷蔵付近で9時15分ころ地上から約180cmの水位を観測した。この辺一帯は水浸しの状態床上浸水100cmを記録している。海上保安部から蕪島付近にかけては,路上より水位が約150cmで,付近一帯は完全に水浸しとなつていた。なお保安部職員の観測では最も潮の引いた時には,波打ちぎわより,約50mもあつた。
種差
種差海岸で行くえ不明2名を出したが,この海岸は両側にきりたつた岩が沖合に出ていて,しかも間口が広く岸で狭くなつている。普通波打ちぎわから約50m離れた岩石上の標流物からみて,南浜海岸では一番ひどかつたと思われ,地元民は15〜20尺の津波だつたと言つていた。踏査時は干潮であつたが,これを加味し,この岩石上の高さを逆算してみるとこれほどでないにしても,平常水面上4mぐらいと思われる。またこの部落の船つき場の波に洗われた岸壁端上に1kgほどの三角の石が逆三角になつていた。
駐在所員(津波の時,腰綱をして救助にあたつた)や部落民の話を総合すると,津波は5時20分〜40分ころ最大の押し波があり(この波の引きで2名行え不明),7時50分ころが次に強かつた。部落民は4時すぎの海水の引き方が不気味に思つたが押し引きの時間が三陸沖津波に比べて長く感じられ,不安を感じながらも海草採りに浜に出たとのこと。いずれにしても同海岸での今度の津波の波の寄せ方が静かであつたが,引きが急で昭和8年に比べて水量が多いという感じであつたという。
法師浜および大久喜
この船つき場の入江は北北東に向いているので今度の津波は昭和8年より50cmぐらい高い所まで浸水,最大は5時10ごろで波高150cm,法師浜では海岸防潮林への入り方から波高2mと推定されるが,種差より高岩(森)南陰海岸(住家10軒ほどある)は1m弱と思われる。
階上村
大蛇
ここは昭和8年の津波被害の大きい所であつたが今度はこれにくらべて小さかつた。
昭和8年以前は道路(山手側)沿いに住家があつてほとんど流されたが,現在はその位置に漁具小屋があつて,今度の場合床下を洗う程度である。この地帯から八戸市金浜海岸の道路(県道)まで浸水,5時すぎころ最大で道路までの浸水は2回,この最大時直前の引き潮もまた大きかつた。最大水位は平均面から約2mあつたがこれは道路からの浸水状態から推定した。
追越および榊
同海岸は総じて平常水面上250cmの水位を示しているが,どちらの部落でも岡を一つ越えて水位1mぐらいの所もあり,入江,海岸の向きを吟味してみると,東から南東向きの場合は小さいことがうかがわれた。
また岩石に囲まれ奥まつた所では異常に波が高くなつている。また小舟渡,榊部落の境に泊川という小川があるが,ここに海岸から30〜40mの所にこの川の暗きよがあり,ここの近くにある民家が2回避難したことから,3mぐらいの高さになつたと思われる。
時刻は次に述べる小舟渡部落と同じころだが,幅120cmぐらいのこの小川の上流500mまで逆流浸水したと思われる。倒伏した草が所々白く死んでいるのにはこれを示している。付近の家の人の話では押し波は大したことはないが,引き潮で流出する雑物が暗きよにふさがり排水されないため,長い時間浸水がひどく海岸河川の暗きよは恐ろしいものだと言つていた。
小舟渡
夜明けのため津波被害を最小限にくいとめることができた。しかし小舟渡部落としては昭和8年より津波は大きかつた。5時ごろ一番大きな寄せ波があり平常水面上約340cmと想定,次に6時ごろが大きかつた。
北岸壁を(海面から約420cm)を越えた波はこの2回で,この岸壁のため今度の場合助かつた。(昭和8年にはこの岸壁がなかつた)。引きの大きかつたのは5時少し前であつて港内は全然海水がなくなり,外海側のテトラポツト防波堤まで岩礁が現われた(北岸壁から40m)。
津波状況:
(1)防波堤や岸壁を越えたもの,および岸辺沿いに陸地に上がつた波は平均の波打ちぎわから約100m,最も長い所で150mあつた。
(2)道路が低地のため波は道路上を左右に移動し危険であつた。住家はこの道路上手に並んでいる。
(3)寄せ方が除々であつたため知らないでいるうちに増水した。押し引きの時間々隔は三陸津波より長かつた感じで,びようぶ波のような岸で折れる波でなかつた。
種市町
角浜および種市
津波襲来時刻は次の八木港とほぼ同じである。種市町役場裏海岸では最大水位推定2m,ただし同役場から北に約1kmにある。川尻川は,河口が北向きであるが河岸の浸水はなはだしく(6時50分ころの最大時に同地にある漁協倉庫流失約100坪),上流に直線約300m入り込み,メアンダーしたこの川の流れのためか,海岸から100〜200mの田畑も冠水した。この川沿いにある半壊小屋の浸水から水位3mと推定。
入木港
同海岸で同日早朝幾人かの地元民が海草採りに出かけていた。3時半ごろ潮のひき方が異常なため一時逃げ帰つて消防団に連絡,同町消防団で4時20分ごろサイレンで周知,地元民(種市,八木)が避難した。
目立つた津波は6時50分ごろと5時12分ごろで,前者の方が大きく,最大波高時には同港北防波堤が見えなくなり,同港各事務所のある埋立地は一面海と化した。この波は平常水面から240cmと推定した。
(1)津波状況:沖から入る津波ははつきりしないが,速度はきわめてゆるやかで岸壁や海岸の増水でわかるといつた具合である。
(2)船だまり場,岸壁がこわされ,ここから300mぐらい浸水し,その間にある船具小屋などが往復し,防波堤,埋立地の土砂が流された(岸壁面より平均20cmほど低い)。この箇所の岸壁から約50m離れた半壊の小屋,地上140cmの高さに磯草が付着していた。
(3)津波について地元漁師がおもしろい表現をしていた。「これは津波ではなく,昭和8年の場合は津波だ。元来津波はびよぶみたいなもので川の水の増すような今度の場合は『入り潮だ』」と話していた。
(4)同港は三陸津波より弱かつた。ただし当時は現在のような防波堤がなかつた。
(5)初めは異常な引き方で大地震があるかも知れないということを警戒した。
中野
一漁民からその日の状況を聞く,津波の襲来を知つたのは3時半ころで波は北北東と東の2方向からやつて来た。波の高さは昭和8年の時と比べ,問題にならぬほど小さかつた。11時ころには小舟で漁に出かけたものもある。
久慈市
侍浜および横沼
部落会長をしている越戸辺松氏より状況を聞く。当時の波は普通のしけの時よりも小さく,舟たまり場の堤防を波が洗つた程度。波は東ないし東南東方向から入つて来たが,水面がジワジワふくれ上がつてくるようであつた。昭和8年の時のように海鳴りを伴うようなこともなくその日のうちに小舟で漁に出た者もあつた。
夏井
久慈市会議員兼田忠吉氏より状況を聞く。同氏は過去の津波の資料なども多く保存しており,津波についての知識もかなり詳しい。同氏の説明では昭和8年の時と同様南南方向より襲来したが波の高さは当時よりずつと小さく,夏井川と久慈川の合流点付近一帯が波にあらわれた程度で,平常は橋脚が完全に見えているものが最大時には橋げたまで水が上がつた。
玉の脇港
ここに岩手県建設事務所久慈港出張所があつて,同港岸壁にロール型検潮器がある。
これによれば2時55分に第1波押しが記録されている。一漁民の発見は3時40分から引き潮であつたが,こうした大事になるとは思わなかつた。同地の検潮器の最高潮位は4時35分で+4mをやや越え(潮位上350cm),ここでスケールアウトし,同現場員が目視観測を15時まで行なつている。(口絵の検潮記録の中に点線として記入)同港での津波の状況は次のとおりである。
(1)岸壁から約40m離れた九戸漁連油そうタンクおよび付近の家屋は(通路から海岸より),地上から250cmの高さに水もが付着していた。また道路から山手の建設事務所に140cmぐらいの所に水あとがあつた(浸水の模様)。その他同埋立地の道具小屋が破壊されていた。なお同陸地よりの岸壁は底から150cmである。
(2)港内にあつた中小漁船2隻が同岸壁上にのり上げられていた。この時間4時20分〜30分の間。
(3)津波による浸水は山手に平均70m,最も奥の所で100m,この港に隣接する前浜は普通波打ちぎわから平均100m,最奥200mまではい上がつた(漂流物からの見当)。
(4)小,中型船係留内港から来た波は除々に押し引きしたが,大型船の係留岸壁を越えた波は急であつた。
小袖
海岸線は北に面し,海岸の東端には北に突き出した岬があつて,梅岸から急に高台になつている。部落民の説では波は北東から入り,昭和8年よりは波高はずつと小さい。その日の午前中には小舟で海草をとりに出かけたとのことである。
久喜
当時の状況について詳しく知つている人はなかつたが,海岸に沿つた道路にかけられてある橋の橋げたすれすれまで水が上がつたとのことである。海岸線から橋脚までの砂浜の傾斜は目測ではほとんど傾斜がわからない程度,海岸線から橋脚までは歩幅で30歩であつた。
野田村
野田
玉川部落より約4km離れた地点であるが野田港建設事務所の話によれば,波の入つて来たのは南南西方向(同港は湾口が南面している)で4時12分ごろに最大が出た。この時は市場の屋根かわら3枚目まで水が上つた。
玉川
今回の踏査で最も大きな波高を測定した。玉川漁業協同組合職員の話によれば昭和8年の時と同じか,あるいはそれよりも若干小さ目である。ただ海水面がジワジワ盛り上がるように波がやつて来たことで,昭和8年の時のように沖合から海鳴りを伴つて波頭がくずれて来るような現象はなかつた。
普代村
和村普代村長より普代海岸の状況を説明してもつた。津波は昭和8年よりはずつと小さく,東〜南東の方向より襲来,午前5時ごろに最大波が来た。この時は平常の海岸線より4.5mの高さの砂浜を乗りこえた波は普代村に入つたが,対岸を越えて浸入するまでにはいたらなかつた。この砂浜の北端に位置する岩に,津波の形跡らしいものがあり,これを測定すると観測時の水面より2.5mあつた。なお同村では堀内に港湾建設の工事を行なつているが,この地点では5月24目の午前6時か7時までの間に最大1.7m(東京湾中等潮位上)を観測している。
4.3 東大及び東北大調査班に依る調査結果
引用丈献
チリ津波合同調査班
1960年5月24日「チリ地震津波踏査速報」小川原湖から久慈に至る「区間」より抜すい
4.3.1 波高の測定方法及び基準について
各調査班の波高測定方法は,特別な場合を除き,いずれもハンド・レベル,巻尺及折尺を使用,測定値は各調査班同一規準に統一して整理した。次にその方法を記述する。
(1)測定対象及び信頼度
波高を測定する対象は家屋,構造物などに附着した泥,油などの痕跡(測定点附近に於る同一水面にある痕跡で最高水位にあるもの)を,そのときの海水面を基準にして測定する。
その他砂浜においては,色の変つた痕跡とか,ワラゴミなどの浮遊物の打ち上げ跡,或は津波が護岸面にも達しなかつた所では,目撃者から当時の最高水位を聞きこみ,前と同様に測定時刻の海水面から指示された最高水面までの波高を測定する。この際,最高水位は,ジワジワ盛り上つた水面で,護岸などに打ち上げられた波は除く。
次に測定値の信頼度は測定に際し,痕跡の明確度と測定誤差の大小により,3階級に基準を規定した。
A:信頼度大なるもの,痕跡明寮にして,測定誤差も小なるもの。
B:信頼度中なるもの,痕跡不明につき,聞きこみにより,周囲の状況から信頼ある水位を知るもの。測量誤差小
C:信頼度小なるもの,その他砂浜などで異常に波がはい上つたと思われるもの,或は測点が海辺より離れ測量誤差が大なるもの。
従つて測量値の精度は,ハンド・レベルの使用と,そのときの海面の模様などから±10cm程度の誤差は免ぬがれない。
なお附図に示した観測点の記号は上記の信頼度の規定に従い次の通り。
二重丸 検潮記録の読みとり値
二重丸(中黒丸) 信頼度の大なるもの(A)
中点 信頼度の中くらいのもの(B)
二重丸(中大黒丸)又は(丸) 信頼度の小さいもの(C)
丸 地名
波高単位 m(T.P.上)
(2)波高の基準について
波高の基準面は測定点に近接する検潮所の記録上の東京湾中等潮位面(T.P)を基準として求めた。
即ち,右図の如く
アルファ:測定の値
ベータ:観測潮位
求める波高 h=a+b
以上の方法により,各調査班は同一基準で波高を求めた。
然し検潮所によつて,上記T.Pとの関係が明らかでない所では,その記録の平均海水面を基準とする。
又,測定点が二つの検潮所の中間に位置するときは,夫々の検潮記録のT.Pを重ね合せ観測潮位は右図の如く,A.B.検潮所の距離に比例配分して補正潮位を求め,波高を決定する。
その他,測定点に近接する地理調査所,県などの水準標石(B.M)及び港湾の工事基準面を基準としたものもあるがその場合は,但し書きを明記した。
4.3.2 踏査内容
地形,地質的に著しい特徴をえらび,特に津波の地質的作用に重点をおいて調査した。
波高は昭和8年3月3目三陸津波のそれに較べ一般にはほぼ同様か或はそれ以下であつたが八戸では2〜3m高かつた。
したがつて,浸水区域は八戸では著しく増大し,前回は被害僅少にとどまつたが小中野の工業地帯,漁港,家屋密集地域が広範囲に亘つて浸水し,湊,白銀,鮫地区も前回以上に及んだ。しかし,其他の地区では略,前回同様か,それ以下で,災害は少なかつた。
八戸以外の地域で災害が少なかつたことは,波高が低かつたことのほか,防潮林,護岸,防波堤等の施設,家屋の移転等によるものと考えられる。
津波の浸水区域の概要は昭和8年三陸津波のそれ(地震研究所彙報別冊第一号所載)と比較して図示してある。津波の浸水状況について現地の観察事項から要約すると次の通りである。
海岸線が直線上に走り,砂浜,海岸平野が割合に広く帯状に発達する海岸では,河流,潟湖状の旧流路に沿つて浸入するほか,砂浜内方に発達する浜堤の低部を越え,2列の浜堤の問の低地,間隔,河流につづく浜堤背石の低地等からも浸入している。細かな屈曲を有する海岸でも岬間の間隔が長く,砂浜の発達良好なところでは上記と同様の浸入状態を示しているが,岬間の間隔の短い湾入部では巾狭く,傾斜の急な砂礫浜を全面的に浸し,稀にはその後方の草地をなす一段高い海岸平野にも達している。突出部は岩石海岸をなし急崖の下に波蝕岩,岩礁を有するが,このような所では海崖に迄達している。
来襲前の異常の退潮のため,津波来襲の際港湾附近海底の砂泥が洗堀運搬,堆積され,また浚渫地域の埋没も起つたときく。浸水家屋の床下土台部の洗堀も注目されたが,河口附近の河底,海底では退水の際相当の影響を受けたと考えられ,それを明らかにするための測深が期待される。
しかし,本調査地域では標着物,附着物其の他比較的小範囲の土砂の移動,再積は見られるが,今回の津波により特に新に沖合遠くから運搬されたと考えられる堆積物や,地形変化をもたらす様な著しい浸蝕の跡は陸上には見当らなかつた。
鮫,入木,玉の脇(久慈)港のように,基盤からなる波蝕台,岩礁を利用して施設された港では浸水による附属設備の被害はあつたが,港湾の基礎施設には殆んど,域は全く影響はなかつた。しかし八戸港のように波蝕台,岩礁等基盤等の多くは破壊された。また久慈海岸では砂利採収のため浜堤に生じた低地が津波の浸入経路になつていた。ただし,浸入した海水は幸に低窪地に溜り,地下に滲透排水されたためただー箇所を除き後方の防潮林のある浜堤に達していない。

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4.3.3 一般踏査報告
I 青森県上北郡百石町
イ,川口(奥入瀬川河口付近)河口は北東に向いており,外洋側は砂堤状,内陸側は平担な砂地で,河口付近に高さ約2.5mの堤防がある。浸水地は河口から約130m離れた地域に迄達し,流失家屋及び全,半壊家屋は10数戸に及んでいる。最高波来襲時は05h〜07hであつた。昭和8年の三陸津波の時より1m高かつたという聞き込みがあつた
II 青森県八戸市
イ,中平(測定NO.6) 海岸線から約20mの所に比較的傾斜の急な砂堤があり,そのうしろは,防潮林を含め約300m位が殆ど平担な低地で田畑になつている。この附近は明らかに浸水の痕跡がみられるが,波高の推定は困難である。防潮林の後部約100mの畑の中に長さ約10mの漁船が打ちあげられていた。これは防潮林のすぐ後部に置いてあつたものである。
漁師の話 04h過ぎサイレンを聞いてわかつた。1回目は砂堤を越え,2回目は防潮林のところまで来たが(時間不明),この頃は引くのが速かつた。3回目(07h〜08h頃)最大波が畑まで来た。引くのは遅く,だいぶ長い間たまつていた。
ロ,橋向(五戸川河口) 河口附近まで川面上約3.6mの土手が伸びており,この土手の上まで達したようである。波は第1の防潮林を越え,第2の防潮林をも越えたことは確かであり,第2の防潮林の背後約50mの所の家屋は軒下まで浸水していた(海岸からは約300m)。家の生垣の変色しているところは,地面から約1.6mで,前記の五戸川土手より20〜30cm低い程度である。この附近での住家,非住家の破壊は4戸,床下浸水は90戸に及んだとの事である。
ハ,三角地工業地帯 馬淵川河口附近を埋めたてて流路を変え,流路は工業港となつて新井田川河口に続いている。工業港の外洋側が三角地工業地帯で,東北電力八戸火力発電所及び変電所と日曹製鋼八戸工場がある。三角地の外洋側には,海岸から約70mの所に高さ約5.3mT.P.(火力発電所の説明によれば,6.5mH.R.であり,これは5.7mT.P.に相当する)の砂堤に囲まれた火力発電所の灰捨地があり,この土手を辛うじて波が越したと思われる痕跡が数ケ所あつた。又,土手の傾斜面には,打ち上げられたゴミの列が数段になつて明瞭に残つていた。また,この砂浜に鮫から流れて来たと称せられる漁船1隻及びパイプ数本が漂着していた。この灰捨地のうしろは公安林で,ここは浸水したが大したことはなかつた模様である。三角地工業地帯への浸水は,外洋側からより,工業港側から岸壁をのりあげたものと認められ,日曹製鋼の護岸は10数m決潰,この附近は泥海化した。馬淵川の土手の三角地側に道路上から約1.2mの極めて明瞭な痕跡が残つていた。工業港の奥には,50〜60隻の漁船が上架されていたが,津波の渦に巻き込まれ,殆んどが破損した。東北電力八戸発電所技術課,戸部省三氏の話 朝会社からの電話で05h40m頃出社したが,その頃既に構内に浸水していた。途中馬淵川の土手を自動車で来るとき,馬淵川を白波を立てて水が逆流して行くのを見たが,これは第3波(八戸測候所検潮儀による05h14mの浪,最高波)によるものらしかつた。06h31mから07h03mに至る引き波の問に対岸の第2魚市場の岩壁が決潰するのを見た。日曹製鋼との境界附近の決潰は,その後の引き波によるものである。波は津波が押し寄せてきたという感じではなく,じわじわと岸壁を越え浸入した。押して来る時,下水道中の空気が圧縮された為マンホールの蓋がとび,3m以上も水を吹き上げてそばへ寄れなかつた。津波来襲時も工業港には余り多くの浮遊物は認められなかつた。尚,火力発電所で撮影した写真多数及び同所で測定した当日の水位表を頂いた。水位は,工業港側の荷揚岸壁(この高さは正確に分つている)に置いてあるアンローダーについてある水の痕跡その都度測定したものである。時間は07h30m〜19h20mまで。これによると,新井田川河口にある八戸測候所の検潮記録とはだいぶ違つている。
二,小中野 新井田川の旧湊橋から第2魚市場に至る一帯は,護岸上に打ち上げられた漁船,漁船同志の衝突で破損したもの,打ち上げられた漁船に押しつぶされた家屋など損害著しく,新井田川護岸からの浸水により,床上,床下浸水家屋は約100戸に及んでいる。特に第2魚市場は,工費5億5千万円で,昨年8月30日竣工したものであるが,この岸壁が殆んど全区域にわたつて決潰,殊に排水口の開いていた部分は完全に破壊してしまつていた。これは新井田川口から侵入した波をまともに受け,引き波によつて底からえぐられたものらしく,調査当日(5月29日)もなお決潰しつつあることがチヨークで記されてあつた。
柔魚釣漁業協同組合災害対策本部久保保三氏の話 04h少し前頃,高潮か何かが来て船が危険のようだから見に来てくれと若衆が呼びに来た。すぐ浜へ出て見ると(氏の住居は大沢附近),普通なら青々としている海が,どす黒い感じで何か常と様子が違つていた。04h頃から潮が引きはじめ,ぐんぐん引いていつた。地震もないのに変だなと思つたが,とに角も津波だと判断した。保安部のサイレンがなるのが聞え,それから20分位して第1波がやつて来た。第3波が最も大きかつた(海上保安部の話によると,蕪島突堤近くにあつた巡視船「くま」がサイレンをならしたのが,04h08m頃,保安部でならしたのが04h10mである。また,新井田川河口にある検潮記録では,第1波は03h36m,第2波は04h25m,最大の第3波は05h14mであるので,時間の点は多少疑問である)。04h30m頃船を沖に待たさせるようにとの命令が伝達された。漁船の多くはエンジンの整備中であつたし,しかも水がだいぶ引いてしまつていたので殆んどが動けなかつた。波が引いたときは,新井田川河口から外洋に出ている防波堤の下までも見えた。新井田川を押し上つて来るときには泥水のようになつて渦を巻き,音もなくもりもりと上つて来た。引くときも渦を巻き,共に相当速く駆け足でも追いつけない位である。ワイヤーで結びつけた船は波にまかれ滅茶苦茶だつた。繋留する閑がなく,橋にも衡突しなかつた船が波と共に沖へ持つていかれ助かつた例がある。一万屯埠頭建設に使用していたパイプが三角地や鮫港の方にだいぶ漂着しているようである。
ホ,白銀(三島川附近) 三島川は海岸線から約300mの所に真水の湧出口があり(飲料水になつている),そこから巾2mの川となつて海にそそいでいる川である。この辺は近接地に較べ砂浜が広く低地となつている為被害が大きく,波は湧水口のうしろの高さ4m(海面上)の補装道路を越え,国鉄八戸線の手前のところまで浸水し,小路には小さい打上物を多数遺棄した(近所の人の話)。殊に川の流域は殆どが流出或いは全,半壊し,その数60数戸,浸水家屋は1,000戸にも達している。
へ,鮫港附近 この附近の民家は殆どが八戸線後部の高台にあり(八戸線までは浸水していない),低地にあるのは会社関係の冷蔵室,倉庫等で,流出や全,半壊等の家屋は少い。鮫港内の水深は4〜7mであるが,最大引き波時は,多くの個所で底が見えたということである。港内の魚市場の柱の壁が護岸上約2.5m位の所迄崩れていた。
ト,蕪島附近 この附近の浸水状態は八戸海上保安部提供の写真を見れば一目である。この地区にある同保安部及び八戸港工事々務所は薯い浸水を蒙つた。蕪島突提に繋留してあつた保安部の巡視船「くま」が引き波の為に傾斜し,04h08mサイレンをならした。保安部は「くま」からの報告を聞き,直ちに警報のサイレンをならした。これが04h10mである。
八戸消防署鮫出張所西舘末蔵氏の話(同出張所は,保安部裏の岡の上にある) 04h30m頃引き波が大きく,蕪島突提と内防波提1号に囲まれた部分の港内(深さ3尋位)の水は殆どなくなり,海岸から約1,000m離れた所にある沈船防波堤の底まで見えた。三陸津波の時はさかまいて来たが,今度の津波ではそのようなことはなく,全体として海水面がじわじわと盛り上つて来るという感じであつた。鮫港の西に建設中であつた1万屯埠頭の所にあつた浚渫船霧島丸が流され,蕪島突提の外側を前後したあと,強い引き波によつて蕪島と北防波堤との間を通過し(ここは,普通は小漁船が辛うじて通れる程度である),約2kmはなれたえびす浜に打ち上げられた。尚,同消防署望楼で目視観測した津波の押し引き時は次のようである。
内防波提1号附近に設置してある八戸港工事々務所の検潮儀(フース型)の記録は,T.P.から2.50m以上及び-1.00m以下がスケール・アウトしている。T.P.で1.5m以上及び-1.0m以下の波の時は次の通りである。
チ,種差 此処で死者二名を出した。この附近の海岸は岩石で,すぐに急な傾斜となり,その上は平担で綺れいな野生の芝生が生えている。遭難者は,早朝,海岸に打ち上げられた海草類を採るため海岸で仕事をしているうち波がひき,それを干潮によるものと誤認して,その次の押し波が引くときの勢いで流されたということである。
種差小学校にてT.P.A.会長ほか5人のP.T.A.役員の方々の話 03h20m頃海岸に仕事に出た。03h30mから04h少し前までは引いていた。04h30m頃の引きは大きく,その後05h過ぎに大きな波が来た。最も引いた時は,4尋の深さの海底が見える位だつた。押して来る時は,たらいの水を傾けてまた元に戻したときのような感じてじわじわと上つて来た。押し上つてから2.3分位はその儘でいて,それから引いていくような感じである。押しより引きの方が多少速いが,ずつと速いという程ではない。
南浜中学校の(大久喜)女生徒の話(遭難者の一人は同中学校の女生徒で,この生徒も当時同じ所にいた)の話 04h30m頃(余り確かではない)海岸に行つた。海藻採りをはじめてから間もなく水が増えて来た。すぐ引くだろうと思つたらどんどん増えて来るので大きい岩にしがみついた。この波が引いて行つた時近くにいた人に棒を出して貰つて助けられた。それからは家に帰つて何も知らない。
リ,法師
浜漁師の話 03h40m頃海の様子がおかしいのに気がつき岡の上から見ていた。最初は引きで,04h20m頃寄せて来た。05h15m頃大きい波が来た。海の中に見える岩が丁度かくれる位の高さだつた。寄せて最高になつてからかえるのは30分位かかつたようであつた。白波などは立たずじわじわと寄せて来た。引いて行くより押して来る速度のほうが速かつたような気がする。波が北東(海岸線に直角な方向)から来たと思うが,じわじわと上つて来ため,でそうはつきりとは分からない。大きい漂着物は殆どなく,家も全然浸水していない。
ヌ,大久喜 大久喜は,海岸から70〜80mの所に岩山があり,海岸は10数m位の砂地を経て芝生の高台になつている。当時の模様を話してくれた人は,その高台に住んでいる漁師で,当時は家の裏手の更に高くなつている所で見ていた。
漁師の話 貝拾いのため02h過ぎに起き海の異常に気がついた。その後一度水が引いてから砂浜の上に寄せて来たので津波だと気づき,うしろの岡の上に逃げた。05h過ぎに一番大きな波が来たが,その前には向うの岩山との問の水が殆どなくなる位ひいた。又少し北の海岸線から60〜70間位の所に,干潮の時でも水面下10尺位の所にかくれている岩があるが,それが水面上10尺上に見えた。一番大きい波が来たときには,正面の岩山は八分通りかくれてしまつた。昭和8年の津波の時には,庭の前の所に鰯のカスをしぼるたまを40個位置いたが,そこに水がチヤプチヤプ来る程度だつた。今度は庭先を流れ去り,むしろを20枚位とられた。
以上,八戸市調査に当つては,市役所,消防署,測候所,海上保安部,八戸港工事々務所並びに東北電力火力発電所の方々に非常に協力して頂いた。
III 青森県三戸郡階上村
イ,追越 追越から大蛇にかけての海岸は,海岸線から約100mにわたつて岩石累々とし,その後部は稍高くバス道路になつている。追越のバス停留所近くの駄菓子屋の石垣が崩れていた。
駄菓子屋の主人の話 気がついたのは04h30m頃だつた。05h05m〜10m頃に第1波があり,06h30m頃第2波があつたが,その後はみな小さい波であつた。波は潮のようにもくもくと上つて来た。屋内には,石垣にあたつたしぶきが入つた程度だつた。
ロ,榊 国鉄八戸線階上駅近くの浜。海岸近くの岡の上に三陸津波の記念碑が建つている。
現地で働いていた漁師の話 03h40m頃潮が異常に引いたので津波だと気がついた。05h40m頃最大波が来た。ゆつくり,じわじわと白波など立たずに押し上つて来た。引くのは速かつた。北から稍東より方向から来たような感じだつた。
ハ,小舟渡 海面上から高さ約4.6mの防波堤に囲まれた小漁港である。
漁業協同組合での話 04h頃出漁の船が出たが,その頃だいぶ引いていた。しばらくして波が寄せて来たので津波だと気がついた。05h過ぎ最大のものが来た。このときには,前の防波堤を越えて侵入し,高さは5m近いのではないかと思われた。05h過ぎのが最大だつたが08h頃にも相当大きいのが寄せて来た。これは7波か8波位だつたと思う。押して来るのに較べ引く速度は速い。小さい波は間隔が小さく押し引きするが,大きいものは沖に引いてから押して来る波をじつと待つているような感じがする位間隔が長かつた。
IV 岩手県九戸郡種市町
イ,角の浜 青森県,岩手県の県境に二十一川という小川が流れ,青森県側に無人灯台がある。この附近から川尻に至る間は海岸線近くに野生の芝生が非常に良く繁茂している。この辺は海岸線近くには殆ど人家がない。
吉田峰雄氏(氏の家が1軒だけ二十一川のほとりの海岸近くにある。岩手県側)の話 05h10m頃家人に起された。そのとき潮は引いていた。海岸線から100〜150m位離れた所まで引いているような感じだつた。間もなく(05h20m頃)最大波が来た。3段位になつてもくもくと潮のように上つて来た。外洋からの津波による被害はなかつたが,二十一川が溢れ,それでちよつとした漁具が流されてしまつた。
ロ,平内 海岸線から約20m位の所まで芝生の土手が張り出しており,今回の津波のためその土手の下部がえぐられ至る所崩れていた。海岸線から約10m位は石浜であり,附近の人の話によると,昭和8年の津波では,芝生の土手の上まで少々水が上り,明治29年の津波が最大で土手を大きく乗り越えたとのことである。
ハ,川尻 平内と続いている海岸であるが,この辺は芝生の土手はなく,川尻川河口では砂浜からすぐ平担な芝生となり,そのうしろは防潮林,国道となつている。津波は川尻川を溢れ,相当上流まで浸水したが痕跡は不明である。
漁業協同組合長の話 04h30m頃最初の波が来襲し,次のは弱く,3番目(06h30m頃)のが最大であつた。川尻川河口附近の倉庫が流され,その屋根は鉄橋の上流まで押し上げられた。
川尻から種市まで海岸線伝いに歩いたが,絶壁で砂浜は全くない。
ニ,鹿糖
漁業協同組合長の話 04h頃海岸の小屋に宿つていた人が波で足を洗われ眼をさました。その後引いていつたので,昭和8年の津波を経験した人が津波だといいました。06h40m頃最大の波が来たが,その前に川が流れるように勢いよく引いて行つた。干潮のときでも3〜4尋位の深さがある所まで底が見えた。波は30〜40分位の間隔で平らにじわじわと寄せて来たが,満潮の時の水位くらいになつてから急にもくもくと押し上つて来る感じだつた。昭和8年のものより稍小さいようだつた。
ホ,玉川
漁業協同組合長の話 大部分の場所は大時化程度の高さであつたが,窓岩(海面上20尺位)のあるあたりでは,それが隔れてしまう程大きい波が来た。
へ,八木 八木は北港と南港があり,共に埋立地で,両港の問には砂浜で海岸近くを国鉄八戸線が通つている。八木は昭和8年には相当の被害を受けたが,今回は殆どなかつた。北港は昭和9年以前に築かれたもので,漁業組合長の話によると,この辺の被害は,防波堤約40m決潰(但し,この防波堤は大部古く相当侵蝕されていた),網などを入れた小屋に浸水した程度だつた。南港は新しい埋立地で,コンクリートの護岸に囲まれ,現在ドライ築港中であつた.漁業協同組合の事務所は南港にある。
北港で漁師の話 04h過ぎに第1波が来た。07h〜08hの問に最高の波が来たと思う。最高波の前の引きの時は,海面下7尺位は下つた。干潮の時の水面よりずつと下で,海の底岩が広く露出した。
漁業協同組合事務員の話 当日は宿直で,事務所の二階で04h25m頃目をさました所,潮が異常に引いていた。05h過ぎに押し波が来て,事務所の北側の護岸を少し越えた。その波が引いた時は,干潮のときの水位より更に3m位下までさがつた。大きい波としては,07h頃(事務所の床には入らなかつたが護岸をこえた),08h45m頃(最大波で,床上50cm位入り,屋外では窓の上の方まで上つた)である。これらの波は,護岸に衡突してその勢いで越えたのではなく,じわじわと上つて来た。最大波後も何度も繰返して来たが,そう大きい波は来なかつた。
測点点の記
No.1 岩屋
痕跡は全くなく聞き込みによる打上げ線を測定した。精度は悪い。
No.2 尻屋お前浜
打ち上げられたゴミの列を測定した(余り明確ではない)精度はあまり良くない。
海岸より20m位の水深約2mの底が見える程引いたという。
No.3 尻労
引きの際は港内の水が全部なくなり,押しの際は満.潮時汀線より1m位上つた。
No.4 白糠漁業協同組合附近
*2m〜3m水深の海底が07h30m〜08h位の問完全に見えた。
**押しの際水がかぶつた。
漁組員の話に従つて測定した。精度はあまり良くない。
No.5 奥入瀬川河口(百石町)
道路上約1mの台上の家の痕跡を測定した。川面を基準にした。精度は悪い。
No.6 中平
No.7 橋向(五戸川河口)
八戸側の土手の上に痕跡があつた。川面を基準に測定した。精度は悪い。
No.8
聞き込み及び土手上の働から測定した。精度はあまり良くない。
No.9
海岸より約150mの防潮林に引掛つているゴミを測定した。精度は悪い。
No.10 三角地外洋側土手
この土手上数個所で浸水の痕跡が認められた。
左図の如く,ゴミの列が出来ていた。この列は土手の面に沿つて付いてめた
No.11 三角工業港側(東北電力八戸火力発電所)
東北電力火力発電所内重油装置場小屋の痕跡を測定した。
No.12 第2魚市場附近
太陽軒食堂の痕跡魚市場の岸壁まで約100mある。道路上の高さを測定した。
No.13 第2魚市場
建物の壁及びボイラー等の痕跡が明瞭であつた。
No.14 新井田川護岸
湊橋から約20mの「東京ロープ」のウインドガラスに痕跡が,2段明かであつた。
No.15 川口検潮場附近
建物の壁に痕跡があつた。
No.16 白銀
海岸線から約300m,高さ4mの道路を越え,八戸線路の手前約250mのところまで浸水した。
No.17 八戸税関支所
建物の壁に痕跡があつた。精度はあまり良くない。
No.18 人形沢出光興産
出光興産の黒トタン塀に4本の痕跡があつた。地上よりの高さを測定した。
No.19 鮫港セメント倉庫
倉庫の板壁を測定した。太洋冷蔵の痕跡も同レベルであつた。
No.20 鮫港魚市場裏の理髪店
鮫港内の理髪店の屋内の棚に明かな痕跡があつた。
No.21 八戸海上保安部
玄関の痕跡を測定した。痕跡は全部で4つあり,海面上それぞれ4.61m,4.45m,4.35m,4.13mであつた。
No.22 種差海岸
海岸附近の芝生上に打上げられたゴミ鮒いていた。岩石が汀に突出ているので海岸線が不明確である。精度はあまり良くはない。
No.23 法師浜海岸
痕跡の測定と,聞き込みによる海岸から約50mの岩頂とは大体等レベルであつた。(聞き込みでは,最高波はその岩頂をかくしたとのことである。)
当日は海が時化であつたので,精度は余り良くない。
No.24 大久喜海岸
目撃者は最高波で岩山が8分通り隠れたという。神社の鳥居だけ残つていた。
No.25 大蛇
聞き込み及び道路側の竹垣の痕跡により測定した。
No.26 追越
追越のバス停留所附近の駄菓子屋店主の聞き込み及び石垣の崩壊から測定した。
海岸は割合平坦であるが,岩石に富んでいる。
No.27 榊,追越の境
この入江内の海水が全くなくなつた。物置の下まで浸水したというが,痕跡不明である。精度はあまり良くない。
No. 28 榊
聞き込みにより指摘された附近に打上げゴミがあり,草が変色していた。
No.29 小舟渡
聞き込みにより,店の土台を測定した。精度はあまり良くない。突堤は完全にのり越えた。
No.30 角の浜(県境)
海岸まで芝が生えており,その上に打上げられたゴミが列になつている。
No.31 平内
土手の痕跡は不明であるが,聞き込みに従つて測定した。精度は悪い。
No.32 川尻,種市の間
測点附近は石が約200mも平坦に埋めてあり静かである。精度はあまり良くない。
No.33 種市
聞き込みにより防潮林までを測定した。精度は悪い
No.34 八木南港漁業協同組合
聞き込みにより測定した。津波当時事務所に宿直した人の指示に従つた。
No.35 八木南北港間の浜
聞き込み及び土手の草の変色から測定した。
4.3.4 宮城,岩手,青森県下の土木災害について
I はしがき
我々は特に被害の著しかつたと考えられる三陸を踏査し,特に土木災害に注目し,その災害の状況から津波の特性,並びに津波対策工事のあり方につき資料を得ようと考えた。踏査区域は石巻,志津川,気仙沼(以上宮城県),陸前高田,大船渡,釜石,両石,大槌,船越,山田,宮古,田老,久慈(以上岩手県),八戸(青森県)並びにその近傍である。従つてその他の地方の状況は明らかではなく,あるいはここに述べる事柄には三陸沿岸の局地的な特性が強く表わされているとも考えられるので今後各地の状況についても検討を加える必要があると思われる。
II 土木災害の諸例
ここには我々が視察した土木災害の諸例を簡単に説明することにする。
(1)橋梁災害
津波が河川をさかのぼつて木橋を押し流した例は各地に見られるが,漁船の衡突に依つて生じた被害も無視出来ないようである。また,石巻市内万石橋のように昭和27年の津波により,基礎の堀られた所を捨石して補強した部分は被害なく,前回補強を要しなかつた部分に万石浦への流れが集中したことも原因して洗堀が進み,津波襲来後1.5mにも及ぶ沈下を起した例がみられる。
(2)岸壁災害
岸壁の災害で一きわ注意をひいたのは,鋼矢板岸壁の倒壊である。一つは大船渡一万トン岸壁に連なる部分であり,他の一つは富士製鉄釜石製鋼所岸壁である。何れも前回の洗堀と長時間あるいは何回にもわたる津波の襲来の為に,土が水により飽和して流動しやすくなつている時に急速な引き波により,大きな動水勾配が生じ,土が矢板の先端を通つて抜け出て崩壊したのではないかと推測される。根入れの重要性に併せて,長時間浸水した時の土質の変化についての考慮の必要が痛切に感じられた。又,施工の不良のために矢板の隙間から裏込土砂が吹き出した事実もあるのではなかろうか。特にコンクリート矢板においては顕著と考えられる。
次に重力式物揚場として,釜石にこの裏込の吸出しによると推測される天端の沈下や,八戸魚市場においての,津波浸入に伴う航路の深堀れに伴う物揚場前面の深堀れが原因となつて完全に倒壊した例が見られる。
(3)道路護岸被害
道路護岸の災害状況は各所に見られ,波返し及び壁体の前面への倒壊路版の浮き出しが見立つた。土は飽和して流出し易くなり,一方引き波により裏よりの水圧作用が前面洗堀とも相俟つてか,破壊に導いている様子が各所で認められた。この場合に護岸背後地の貯水面積の大小が顕著な破壊に至るか否かに大きな影響を持つている様にも思われる。今回のように長い周期の津波によつては,上記の様な現象を呈することは注目に価する。然し乍ら護岸に働く外力として前面より受ける波力は当然考慮すべきであろうし,三陸津波の様に周期の短い津波の場合に前面に作用する動的な力を無視する事は出来ないと考える。大槌町の道路兼防波堤は崩壊するには至らず,その役割は十分に果したが,越した水が噴流の様にして斜面を洗い,場所に依つては2m近くも深堀れしているのが認められた。
しかし,そのすぐ背後の家は被害を受けていない事,又,防波堤の前面に小屋があつた所では被害をまぬがれている等誠に興味深い。その他,船越の北,山田湾に面した所の石張の護岸の被害は維持の不備な個所から破壊された模様である。
(4)防潮林の被災
最も顕著な被災は陸前高田の有名な松原の被災であり,昨年10月に筆者の一人はこの地を訪れたのであるが,様相の一変に一驚した程である。松原の中央部に気仙川旧河口に浴流堤がつくられ,松原の奥行が浅く,かつ松の木自体も他に比して小さかつた様であるが,この弱い個所に力が集中した感があり,松原が切れ,潮の出入り激しく深い所は,-9mにも達したという。
防潮林の津波に対する効果,例えば船,流木等をくい止め,又,周期の短い津波に対してエネルギーを減殺する効果はある程度期待し得るにしても,浸水を防ぐことは望むべくもなく,特に長い周期の津波に対しては然りである。従つて間接的補助的な作用を期待し得るのみであり,その上高田松原の現実も念頭におくべきと考える。
(5)その他
防波堤ケーソンの傾斜,プロツクの流出,埋立護岸の破壊,あるいは航路の埋没等の被害が見られる他に,流木あるいは船舶による家屋の被壊等の現象も若干見られた様である。伊勢湾台風高潮後,大きく取り上げられている貯水場あるいは製材場内の木材の貯留については相当の考慮が払われねばならぬ事を感じた。猶防波堤に津波の様に非常に長い波に対して何程の効果を期待し得るかな明らかにすることが出来なかつた。例えば両石港においては,漁師達は防波堤が少しでも伸びていたので,津波の力を幾分でも反射させたから,昭和8年に比して低く,被害も軽微であつたといい,広田湾,長部港では防波堤が出来たので却つて高くなつたと称しているようである。研究されるべき課題の一つである。八戸の鮫港においては浚渫船が引き波により流され座礁したが,その時の速さは目視の結果,10ノツト位はあつたのではないかといわれる。(八戸港工事々務所長談)
III 既往の津波対策
三陸沿岸は明治29年,昭和8年と大津波に襲われ,殆ど壊滅にひんした部落が各所に見られ,究者の数おびただしく,よつて津波対策が現地においては死活の問題として,取りあげられて来た。例えば(1)警報伝達組織の完備,(2)住家の高地への移転,(3)避難道路の建設,(4)退避訓練の実施,(5)防潮林の植林,(6)波浪堤の建設,(7)防潮壁の建設,(8)特に港湾では海に面した部分に永久構造物を建造する等々,各種の対策が取りあげられ,実施に移されて来た。しかし乍ら,東北の僻地であるために投資効果が低い事,非常に稀にしか(例えば30年に1度)津波の被害がおこらないこと,正業の便益の為に次第に元の低地に移り住む等々の理由によつて,殆ど無防備といつても過言でない状況にある。
しかし乍ら,例えば吉浜や田老の如く,見るからに雄大な防波堤が建設され,末永く町村の住民を津波から守つて行くであろう箇所も数少いが見受けられる。今回の津波に対しては吉浜の防波堤は見事にその機能を果した。又,山田町の街中には防潮壁が建造されているが,特に漁港,港湾区域で港の機能の上から海岸に高い壁をつくり得ぬような所で採用しうる一方法であろう。岩手県下においては,宮古湾奥の赤前,津軽石高浜には海岸堤防の建設が計画され,一部施工を見,また普代に対しても防禦計画が進みられていると聞く。これを機会に国として恒久の対策を樹立し,根気よく実施に移されることを期待したい。
しかし乍ら,津波対策は技術的にもおおい難い困難に直面している。つまり,この地点に何程の高さの津波が襲う可能性があるか推断する事が出来ない点である。一応構造物の高さを決定するにあたつては,既往の津波に対して越えない十分な高さを構造物がもつているとしても,津波の規模を予測し得ない現状においては,絶対に越えないとは何人も断言し得ない。よつて最善の方法は退避にあり,ゆめゆめ防波堤を過信してはならない。三陸沿岸の津波常襲地の住民は津波に対して極めて敏感であるが,稀にしか起らぬことと相俟つて,油断があつてはならず,技術者としても構造物の絶え得る限度を明らかにし,かつ住民に衆知させる必要があろう。漁業をもつて生活の糧とする者の多いこの地方においては,彼等の生活の真情をよく理解し,その上に立つて高地移動なりの具体的処置を構じて行かねば遂には有名無実の施策に帰する惧れも多いと考えられる。その他,鉄道路線の築堤も津波襲来の時には効果的な防堤波の役割を果している事が各所で認められた。
5. 被害とその対策
1. 概況
今回のチリ地震津波は太平洋沿岸一帯において死者,行方不明合せて140名前後を含む莫大な被害を与えた。中でも三陸沿岸では津波の波高において日本の太平洋沿岸で最も高く場所によつては5m以上の大津波となつて死者,行方不明も合計120名に達し,目本における被害の大半を占めるに至つた。従来からも三陸沿岸は津波の常襲地帯として良く知られているが,いわゆる三陸沖地震津波による場合に比べると今回はかなり異つた様相を示し,有感の地震の前触れのないまつたくの無警告津波であり気象庁の業務外の,技術の限界をこえた津波といわれた極めて特異な津波であつた。
そのために,一度津波が発生するや,関係官庁や大学研究所機関はもとよりの事,極めて多様な人々が現地調査に殺到し,ために現地では応待に忙殺された。しかしチリ地震津波に対する特別立法が35年6月に成立し,応急対策恒久対策ともそれぞれ順調に措置を講じられつつある事は,被害地のために誠に喜ばしい事である。
われわれはこの段階に於いて,一層チリ地震津波を含めて津波の特性と,構造物に対する作用を探究し,今後の対策に寄与したい。
以下に転さいする事項は東北開発研究会発行の「東北の研究」第10巻第39号チリ地震津波特集号の文献で,工学的見地から見た被害とその対策について報告されたものを沙録させて載いた。
チリ地震津波による土木災害の概況と津波対策について
引用文献
東北開発研究会発行「東北の研究」第10巻第39号
チリ地震津波特集号より抜
チリ地震津波による土木災害の概況と津波対策について
東北大学教授工博 岩崎敏夫
1. チリ地震津波による人と家屋の被害
いまここに,東北地方のチリ地震津波による一般被害のうち,人と建物の被害を表示すると第1表,第2表のようになる。
また,昭和8年,明治29年の三陸津波被害の概要を,松尾博士の報告より摘記すると第1表,第2表末尾に示したようになる。
三陸津波の時に焼失家屋があるのは,地震を伴つた為と思われる。明治29年の津波では建物の破壊流失合せて実に10,370戸であり,昭和8年には,これが5,784戸であつた。今回のでは,5,352戸であつて,建物自体の損失は昭和8年に優に匹敵する。しかるに,死者行方不明者の数は,第1表に示すように極めて少なかつたのが,今回の被害でまず挙げ得られる特徴である。これは,気象庁の津波警報に先立つて,沿岸住民特に漁業に従事する多くの者が,海面の異常な後退に気づき退避の措置を講じた為であつて,時恰も出漁準備に忙しい午前3時半乃至4時40分の間であつたのである。その直後の高潮は低極時より20分乃至30分後に起つており,住民の大部分は退避が可能であつた。今次の災害に関し,津波警報の遅延を責める声が一部にあつたけれども,三陸沖地震による津波の場合は,地震発生後,津波来襲迄にやはり約30分の時間しかないのであるから人的被害については,その遅延を責めることは毫も当らない。ただ,ハワイよりの情報入手時に警報を出しでおけば,船舶,家財などでもつと被害が軽減できたであろうことは確かであるが三陸津波退避のことのみ考えていたのであるから,或程度の慰めにはせねばなるまい。だだし,こういつたからといつて,津波対策は万全であつたといつているわけではない。われわれは,1人でも多く尊い人命を守らねばならない。さきに第1表,第2表をあげた真意は,むしろ,どの市町村にどのような対策を講ずべきかということを知る為に示したのである。本講において土木災害の概況を説明し,津波対策について若干の私見を述べようとするものであるが,土木構造物自体が安全に堅固に出来ていても,何等見るべき防潮施設がなく,人や建物に被害を与えたのでは,本末の顛倒になる。勿論,土木構造物は主として公共の利益の為に設けられるのであるから,防潮施設でなくても,土木構造物の被災は公共の利益を阻害されるものであつてその安全は図らるべきであるが,津波災害を考えるかぎり,終局的には,常にその対策に指向した立場を保つべきである。さて第1表によれば,死傷者は,大船渡,志津川に於て集約的に多い。これはこの両者がいずれも三陸津波時に大体被害が少なく住民の関心が薄かつた為と思われる。引き潮時に海浜に出て魚を拾つておつて逃げ遅れた者もおり,津波に対する警戎心があつて常に備えておれば,よほど人的被害は少なくなるのではないだろうか。
次に第2表によると,家屋の被害は,かなり万遍なく各地区に生じている。これは,別の論文で説明されていると思うが,今回のチリ地震津波が,目本に,平面波として来襲したことと周期が約1時間という長いもので従つて波長が長いので,湾の方向や形状にあまり著じるしくは影響を受けず,各地の波高がほぼ一様であつた為であると思われる。ただ,湾の固有周期と津波の周期との関係で,特に共振したり,或いは,湾奥が高くなつたりした湾が宮古,底田,大船渡などにあるので,これらの湾については,特に考慮が払われねばならない。
2. 土木災害の概況
つぎに土木災害の主要なものについて例をあげながら説明を加えよう。
津波は沖合に於ては割合に小さい波高であるが,湾に侵入して来ると,Greenの法則によつて波高を増大する。またKaplanの実験式によつて一様な浜勾配をうち上げる津波の遡上高を計算することも一般に行われている。しかしなお湾内における波高の分布は,湾内の副振動に大きく支配されることはさきにのべた通りである。津波は長波であつて,その伝ぱん速度Cは水深をHとした時にsqrt(gh)で計算することができることはすでに一般に認められている。長波理論の示すところによると波高の小さな波の場合には,水粒子は一鉛直断面で一様の速度Uをもち,
U=C(zeta/H)
である。ここにzetaは静水面よりの水面の変位量で上方に正にとつている。だから,波が静水面より高い間は,水実質部分は,波の進む方向に,水面より水底まで一様の速度で「流れる」こととなり,波が低い時は沖に向つて「流れる」こととなる。波が低い時は沖に向つて「流れ去る」ことになる。このことが,「津波の来襲時には,海中に川が出来たようになる」という目撃者の談を説明する。かつて,先人は,砕け波の後の遡上波になぞらえて,津波の流れを説明しているが,大船渡港において日産土木の橋本光栄氏が撮影された津波の来襲写真を見ると,一様に水が溢れ出るといつた感じであつて,砕け波は生じていない。湾によつて多少の差はあるが,波の周期は40分乃至70分であつて,その半分の時間は流れが,一方に進んでいたわけであるから,構造物に対する作用はこの面から判断すべきであろう。ただし,流れと異つて,微小水平距離を挾んだ垂直二断面を通る流量の差によつて,この二断面にはさまれる部分の水量に時間的に増減が生じ,水位の上昇又は降下が生じるのであるから Kinetic energy は potential energy に変換されるものと考えてよく,長波理論の示す通りに,圧力は,静水圧分布で考えてよいと思われる。(Fig.1)
これは沿岸構造物に対してであるが,水位上昇時に津波がこの構造物を越流すると,そのfrontでは V not equal 0 であるから,その境界条件より,このfrontは真の流れの性質を帯びることとなる。従つて陸上の工作物に衝突する場合は,津波は,その有する Kinetic energy を圧力による仕事に変換させる。すなわち動水圧を考えねばならない。しかし, velocity head はたかだか岸壁直前の水面の高さまでであつて,この量を考慮しておけばよいこととなる。
建築物が,多く陸側に倒れ,又は,土台のアンカーポルトが陸側にねじ曲げられているのは,建物が,押し波時に移動したことを示すが,これは,建物に浮力が作用して,移動を起したものである。Fig.2のように,海岸堤防を越流する際には点Aに支配断面が生じてここの流速が限界流速となり,これより陸側は射流となる。だから点Aが最も早く破壊される。天端高T.P. 3.20mに対し,痕跡調査ではT.P. 3.70m。よつて冠水高0.50mであつた。裏法が最初に崩れるが,冠水高が低かつたことから,冠水時間が短かかつたことが考えられ,越流水位はすぐ低くなつて水は天端のコンクリートから直下に落下し,洗堀を生じたものと思われる。このことはすぐ背後の家が破壊を免れておることからも裏付けられる。
つぎにこのように越流した水の引き方が問題である。Fig.3は大川出口の海岸堤防の欠潰を示す。図に示すように,ここの痕跡高は,T.P. 2.72mと思われ,天端高1.75mであるから越流高は0.97mとなる。堤防背後の土地迄の堤防高は2.35mであつて,越流高は上の大槌の例より高かつたから,越流した水は一旦,堤内に貯められ,低潮時に図示の水門を通つて排出されようとしたと思われる。しかし,この水門と土堤との問の間隙が突破口となつて堤防はここから破堤し,それが広がつたものと思われる。牡鹿半島小積の海岸堤防も同様な被災状態を示した。このような例から,堤防裏法もできたら,コンクリート張りとし,また,堤内地の排水については,できるだけこれを阻害するか,排求口を堅固に設けるかする必要がある。つぎにFig.4のように,道路護岸又は,船着岸壁であつて背後の陸上が高い場合には,一旦越流して陸上に浸入した水は海面の低下に伴つて今度は海に落下する。この際当然海水の低下速度の方が早く,陸上にはかなりの水量が貯められる。背後地が開けていてかつ冠水高が高いと十分な水量が陸側に貯溜されているので,海に落下した場合に岸壁の根元を按堀しFig.5のように岸壁の全面倒壊に導びく。護岸パラペツト天端はT.P. 2.90mで高水極位はこれより1.46m高かつた。女川湾小乗浜道路護岸も同様な倒壊をしており,このような例は数例ある。
この結果より,護岸基礎の根固めの為に拾石,又は根固めコンクリートプロツク等の配慮は絶対に必要であり特に軟弱地盤のところでは,下に粗朶単床又は粗朶沈床を敷くことが望ましい。この根固めのしかしFig.4の場合でも背後にすぐ山がせまつていて陸上に貯溜される
水量が僅かであれば,落下の継続はすぐ終るから,被害は少ないか,まつたく被害がないからこのような背後関係も考慮すべき項目である。
天端高T.P.1,65m,高極水位T.P.3,85m冠水高2.2mであつて約20分間冠水した。その直後の波では約0.70m冠水しその後は岸壁天端高より低かつた。シートパイルはほぼ11mの根入があつたと思われるものが,引水の時の前述の落下水による洗堀によつて裏の土砂が抜け出たものと思われる。(最低水位時,海面はT.P. 2.35m以下で水深は1m以内となつた。)
このような例は,富士鉄釜石製鋼所のシートパイル岸壁でも起り,この例では,パイルの倒壊に至つた。根入はこの例では3m位しかなかつた様である。
八戸工業港の鉄筋コンクリート矢板も,同様に裏込めの抜け出しを生じ,矢板相互のかみ合せが弱く脆弱にくずれていた。
以上は越流が起つた時の破壊例であるが,次に八戸小中野漁港物揚場護岸の例を示す。この場合にはFig.6の泊渠の中を津波が前後に往来し,護岸の前面が深堀れして倒壊した。同様な被災例は閑上港入口の護岸にも生じていた。
この外志津川港,女川港及び釜石港で岸壁の天端沈下が生じていたが,裏込め吸出によるもののようであつた。
3. 津波対策について
津波の対策としては,三陸津波で最も被害の大きかつた岩手,宮城両県に於て,昭和8年後,種々の施策が講じられていた。本格的な防波堤としては岩手県田老のそれがあり,これはFig.7に示すように,昭和8年の浸水高10.6mを天端高とし,延長1,220mで,町を城壁のように囲み,その前面に巾330m程度の耕地及び船着場,倉庫地帯をへだてて海に面し,この仕事場地帯と町との出入には2コのマイターゲートを有する陸閘によつている。今回の津波においてはT.P. 2.84mであつて津波は防波堤まで達しなかつたけれども非常に安心感のあつたことは疑いない。Fig.8は吉浜の防波堤であるが,ここでは,天端より2m下まで津波が来たので,これは,今回最も有効に津波を防いでくれた例となつた。
これら2コの例によつて見る時は,三陸海岸の湾奥部及び湾岸主要部は,防波堤を張りめぐらさねばならぬこととなる。しかし,現地を視察した時に感じることは漁業を生業とするこの地方にとつて,生活圏と居住圏を防波堤で断ち切る点は果してどうであろうか。疑なきを得ない。さらには経済効果的にも許されないことであろう。
ここに一歩を退いて,山田町のほぼ中央に海に平行に設置せられている防波堤を見よう。この場合は,Fig.9に示すように構造は大分簡単であり,かつ,壁は途中が切れていて,今回はこの壁の裏側迄津波は浸入した。しかし,その勢は非常に弱められ,また引き潮のときには水を貯溜し,漂遊物を掩留して被害を減少せしめた。
ここにわれわれは,現実の生活と,防波対策の融和点を見出すことができるのではあるまいか。さきに,2項で述べたように津波の冠水が1m程度であれば,被害は殆んどいうに足らぬものであり,これを実際の堤防高で考える場合,生活の利便を与える上に相当なものがありはすまいか。陸上に浸入した津波の掃流力を減殺するためには,浸水高の1/3〜1/5程度の阻柱を設けては如何。防潮林は巾1,00m以上で根つ子にbushを密生させねば効果がないといわれる。海岸第1線に防潮林を設けるのは高田松原の例もありかなり維持に困難であり,陸上にかなり引込めて勢が弱まつた辺に,あちこちに設けるといつた,高次の設置の仕方はどうであろうか。いわゆる水をだましだましして温和にすること,水に逆らわぬこと,といつた考え方が望ましいのではなかろうか。チリ地震津波に関して波高は7m以下であり,大半は6m以下であつたから,この考え方で行けるところが大部分であろう。ただ問題は三陸津波で水位10m以上を示した地点である。
そのような地点では高地移転が,やはり最上の策ではなかつたろうか。ただ,東北の三陸沿岸は経済力に乏しく,漁業も小規模で自宅からごく近くの浜に船をおいて,常に荒天時その他の管理を行なう必要があるといわれる。
ここになお研究を要すべき事情が伏在している。ただ従来の施策に一言批判めいた評をいわしてもらうならば高地移転は,敷地造成,住居制限のみでは実施され難い。住民の生活指導,津波に関する具体的な教育を不断につづけて,住民の自発的創意と工夫による協力を得る必要がある。それと同時に住民の福祉を増進し,富裕ならしめることまた,津波保険といつた対策を強化することなど,行政的に打つべき手が相当にあると思うのである。
チリ地震津波について首題の問題を若干考察した。時日なお浅く,資料の検討も不十分で,かなり独断的で読みづらい点も多いことと思われるが,東北地方の発展と繁栄を願う一員として,意のあるところを汲んでいただければ幸いである。
チリ地震津波による八戸港々湾施設の被害とその対策
引用文献
「東北の研究」第10巻39号
チリ地震津波特集号より抜
チリ地震津波による八戸港々湾施設の被害とその対策
第二港湾建設局八戸港工事々務所長 菅野 一
1. 前がき
昭和35年5月23日朝チリのコンセプシオン地方に起つた海底地震により翌24日未明から日本の太平洋沿岸一帯に大きな津波が発生し三陸沿岸に甚大な被害を与えた。本論はその中の港湾施設災害としては最も大きな傷を受けた八戸港について被害の状況を述べ,これが復旧についての対策と今後再び起ることがあるかも知れない津波に対して港湾技術上考えられる2,3の問題点について検討を加えたものである。津波に対する港湾建設技術はデーターが非常に少いので今後各方面より研究される成果にまつべきものが非常に多いのである。例えば津波の種類を考えてみただけでもチリに起つたものと三陸海底に起つたものとは性質を異にするものでありその発生の状況により非常に多様のことが考えられる。然し今回発生のチリ地震津波の現象を調べてこの対策を研究してゆくことは今後の港湾建設技術の点から考えて大きな意義を持つていると思われる。津波の現場を終始目げきした関係上相当私見も入つており必ずしも正鵠を得てない点があるかも知れないが各方面より充分の御批判を戴きたいと思う。又記録,数字等で既発表のものと異る点もあろうが当工事々務所調査のものを採用してある。
2. 津波の発生状況
八戸市内鮫にある第二港湾建設局八戸港工事々務所構内のフース式自記検潮器の記録よりみると24日午前3時30分にはその前兆ともいうべき異常高潮が表れている。海図基準面(東京湾中等潮位以下(-)0.757)より(+)1.70mという平常潮位より80cmも高くなつている。これは勿論全く被害を与える程度のものでないが記録上はつきりと異常が分る。ロボツト検潮器又は特殊自動警報装置のようなものがあつたならば警報->対策->被害軽減ということに非常な成果をあげていたことと考えられる。次の4時20分(+)1.55mというのがあつてから4時45分には誰の目にも分る異常な引き潮が発生した。丁度早朝漁師が出漁しようと準備している時刻であつたので津波を予知し各人が夫々対策に没頭した。被害を起した津波は第3波で15時10分(+)3.85m,続いて6時25分(+)4.55m,7時40分(+)4.05m(以上何れも検潮器がスケールアウトしていたので事後痕跡を測定したものである。)にて周期が丁度45分宛になつている。この3波の大きなものの間に副振動とみられる小さなものが2,3記録に出ている。津波の引き潮については検潮がスケールアウトしている上痕跡も不明であるので明確には分らないが,目撃者の見解を総合してその水深を測定した結果海図基準面下(-)2.50mと推察される。
津波の最高潮位は場所により異つており今後の対策を立てる上からみても位置と潮位の関係は重要なことである。当工事々務所及び大学の研究班が痕跡によつて測定した結果を図示すれば右の通りである。工業港の内部は入口の狭窄部で潮の流入を阻まれるので外面している鮫,白銀地区より約1m程度低くなつている。津波が八戸港を如何なる方向より襲つたかについて主要なる波について目撃者の観測より図示すれば平面図記載の通りで北方,北北東,北西と各々異つている。場所により又目測の誤差等によつてこの方向が必ずしも正確とはいえないかも知れないが被害家屋に対して海水の流入方向が夫々異つていたこと又河口防波堤を越入している写真等によつて略正当性が裏付けされる。今次津波は特に遠隔地の地震によつて起つたものであるので波長が大きく,周期も長い。伝播速度はチリー,日
本間を17,000kmとし所要時間を24時問とすると720km/hになる。
3.津波による港湾施設被害状況
前記の通りであるが本年度の工事予算は直轄1億8,500万円,補助工事1億2,000万円,計3億500万円であることから考えると予算的に1年以上後退させられたことになり,更に利用遅延による空白期間及び災害復旧完成までの支障等数字上表われない損失を加えると津波による被害の莫大さに驚かざるを得ない。従来港湾構造物は防波堤においては波浪に対し,岸壁,物揚場等は土圧に対抗出来るように計設されるのであるが,今回の津波によつての被災状況は水位の昇降に伴う流速によつて地盤の洗堀,異常低潮による土圧力の増加及び流動船舶の衝突等が原因となつているものである。工業港入口の流速は特に著しく引き潮時最大13m/s,上げ潮時最大8m/sに達しこのため小中野魚市場岸壁は(-)3m構造のものの前面が(-)9mにも洗堀され基礎が全くえぐりとられ加うるに背面の土圧が異常低潮によつて次々に基礎を破壊してゆき凾塊8基,80mのものが中心部2基,20mを残して転倒又は沈下し5基水没した。最大の洗堀深さは7mに達するものであつた。工業港の内部護岸はコンクリート矢板の簡易構造であつたが予期しない漁船の流動衝突によつてコンクリート矢板が折損しその部分を突破口として浸水し背面の埋立土砂を流出させ矢板の背面から破壊を大きくして行つた。又沈船防波堤も河口防波堤の流速よりは少かつたがやはり両端及び船の継目を洗堀され基礎の沈下が見られるので将来に備えて原形に復旧すべきものと思われる。今回の津波によつて一般に洗堀されたので水深は流心においては深度を増加したが工業港の奥部及び流心より離れている部分等は埋没の現象が生じた。更に船舶機械の被害としては国有ポンプ式浚渫船1隻,県有起重機船1隻を始め曳船,潜水船,運搬船等があり附帯して営繕その他施設等も海に面し地盤が低いため大きな損害を受けた。
4. 港湾施設災害復旧方法
災害復旧の方法として原形復旧を原則とし,原形にては再度災害をうけ易いと認められる場合は最少限度の範囲で改良する。又被災カ所の復旧を完全にし機能を充分に発揮させるため隣接部分を災害関連事業として採ることに大綱方針が決定された。災害査定の結果は下記の通りであつた。
〜商港〜
(イ)白銀埠頭裏側物揚場については工事中であつて効用を発揮してないので本年度既定工事費による手戻り工事と決定した
(ロ)白銀埠頭基部埋立護岸は木枠の中に割石を填充する原工法による復旧になつた。
(ハ)三島川船溜護岸の復旧はコンクリート簡易矢板工法を上記の石枠式と同じものにする。
(二)沈船防波堤については原形の断面になるまで石材を補充し,方塊の流失カ所は原形のもので復旧する。
〜工業港〜
(イ)河口防波堤は転倒又は沈下のケーソンを引き揚げるか,新規に製作するかの方針については比較設計を行なつた。ケーソンの引き揚げについては現場の海上気象が非常に悪く,冬期間は潜水作業可能日数が1カ月について5,6日という状況にある。ケーソン内部に鉱滓と砂の中詰がしてあつて上部に厚さ50cmの蓋コンクリート及び120cmの上部コンクリートを施行してあるので潜水作業によるコンクリート除去,中詰取除き等時日を要する工事多く蓋をつけて排水浮揚以外の工費が多い。比較設計の要点を記すと次の通りである。
本表で分るように新規に製作した方が返つて工費が少い。又作業の工程から考えても早いので新に凾塊を製作して防波堤法線は直線にならないが旧画の沖側に接続して据えつけることとし,上部コンクリートを打ち足すだけで復旧する一凾だけを原形のままで場所打施行をすることとした。
(ロ)内部護岸は工法を改良する仕方をとつた。即ち再び流船によつてコンクリート矢板が折損しないようにシートパイル工法とした。又現在被災しなかつた部分についても将来に備え災害関連事業として全体をシートパイルにし上部にもコンクリートで覆い洗堀を防止することとした。
(ハ)埋立護岸については工事中の手戻りとして事業費による施行と決定した。
(二)土砂埋没に関しては復旧工事として原水深まで浚渫することとなつた。
(ホ)公共物揚場は非常に緊急を要したので応急復旧が認められ背面に土俵を利用した埋立を行い,前面に土砂流出防止のため土留板を打つことと決定した。
〜漁港分〜
(イ)小中野市場岸壁
本岸壁は壁体が前面に倒壊しているのでこれを除去しなければ原位置に復旧することは出来ない。壁体の破片は重量が300t程度あり,これを水中で吊上げ可能の小片に破砕して除去するには工事期間を多大に要する。まして津波のため艀船は全体の3分の2を損傷しその他作業船舶を沈没又は破かいしている状況で軌道に乗るまでに時日を要する。一方魚市場の状態は昨年の盛漁期には鮫市場及び小中野市揚がフルに使用されて辛じて処理し得た程で8月中に一部分100mの使用可能を八戸全漁業界より産業上の要望として切実に叫ばれた。以上の諸点を満足させるためには工程のあげ易いシートパイル工法を採用し,而も倒壊破片の前方に法線を9m移すこととすることが考えられた。一方本地域は対岸に石油配分基地を扛え目下一部工事中の状況で航路巾員を縮少することは操船の仕方に多大の問題点があつた。航行碇泊の大型船としてはペタルマ型タンカー(ジエツト機用燃料輸送米船)3,000t,船長110mがあり,巾員を縮少した場合操船をどうするか種々考究の結果大型油槽船入港の際は対岸の漁船が一時移動するか,繋船方法を変えるかしてターニングベーシンとして支障を与えない様にすることになり己むを得ない処置として考案を採ることになつた。市場の床版を成可く破壊しないようにするため打桿を短かくする必要あり,錨定版として背後にシートパイルを打ちこむ方式に決つた。このようにして法線を前に出すことは市場利用船舶から見ると漁獲物の陸揚げの時横持ちの移動量が多くなることと氷の積込設備の利用に支障を来す不便がある。然し早期利用の必要性が優先したので既述の案になつた。本復旧工事に於て改良された点として将来の倒壊を防止するため工業港の湊深深度(-)6.5mまで洗堀されても充分耐えられるような構造としたことである。
(ロ)蕪島護岸の復旧について略原形にすることとなつた。
船舶機械及び施設
この中で特に大きな国有ポンプ式凌諜船の災害について述べてみる。岩礁地帯に坐礁した船の浮揚か放棄かは製造年が昭和17年であるが年々修理費を注ぎこんで相当良好な状態にしてあつただけに問題があつた。然しサルベージの調査結果95%以上の浮揚成功率があるということ及び救助費,修理費を併せて4千万円前後の費用ということが判明し,新造価格1億5千万円に対し浮揚に値すると判断されてサルベージ作業を行うことに決定した。現在浮揚に成功しドツクに於て修理中である。その他の大小船舶,工事用施設の復旧については何れも工事費による手戻り的な考え方で実施された。
以上災害復旧費として認められた金額は農林省関係2億7千9百万円,運輸省関係1億6,460万円及び霧島号(国有浚渫船)救助費2,880万円で計4億7,240万円(但し災害関連事業を含む)であつた。
5.あとがき
よく災害は忘れた頃にやつてくるといわれているが此度の津波も全くその通りであつた。八戸は地形の関係で湾が北東に開いており従来三陸の津波には被害が比較的少いところといわれて来た。従つて津波による港湾施設の被害は殆んど無く構造物の設計についても条件に津波という要素を考慮されていなかつた。今後港湾構造物の設計々算に津波の現象をどれだけみるかは非常に困難性がある。今回と同じ強度の津波を対象とした場合は防波堤,岸壁共に工費の増大が予想以上のものとなり設計単価の面から難点があり経済性から妥当なものとならない。要は津波の頻度と強度の想定に帰する。従つて今回以上の強さの津波も有るか否か予想の出来ない事項である。津波の起る位置の遠近により強度,周期に関連し又速度にも影響する。津波そのものの基本的性格も夫々異なつている。台風の様に毎年でなく30年に1度というように極めて間隔が長いことが対策上問題点を多くしている。津波の基本的対策として防潮堤を陸上に構築して海水の浸入を防止することは勿論必要なことであるが平面図記載の西防波堤を構築して鮫と同様に二重堤にすることは今回のチリ地震のような場合には水位の上昇を止める効果は少ないかも知れないがエネルギーの,強い近距離震源の津波の時はこれによつて襲来波の勢力を減殺する効果は大きいと思われる。更に本計画は全体計画の一環でもあり地元の熱望しているところである。今回の津波を体験し基本的な設計条件の変更は前述のような問題点のため困難であるにしても可能なる範囲において洗堀性に対する力を増加するように設計されるべきである。例えば基礎杭を長く,根固割石は大材に且つ構造物の端部は特に充分な量を用い,埋立地の地盤度は高く,施設の基礎は上げることを出来る限り実施するよう計画することは直に行い得る事柄と思われる。特に津波の基本性が分析され設計に取入れられるべき適切な条件が学界において決定されることを東北開発という問題点の基本的解決策の一つとして津波予報技術の進歩向上と共に切望してやまない。
防潮林の効果に関する考察
引用文献
「東北の研究」第10巻39号
チリ地震津波特集号より抜
防潮林の効果に関する考察
岩手大学農学部教授 武田進平
はしがぎ
今回のチリ地震津波の調査結果から防潮林の防災林としての検討やあり方を述べる。
研究の方法
去る5月24日三陸海岸を襲つたチリ地震津波被災地防潮林を見聞し得た資料と,昭和8年3月3日の三陸沖津波被災報告書文献を読み合せて海岸保全工学を研究し得た事項とを総合し考察を試みるが,測定は行わなかつた。
調査の結果
1.今回のチリ地震津波はおしなべて4〜5mの高さに来たので,波高からしては前回のように場所によつては20mにも達するということはなかつた。即前回ではV字形の湾は奥になる程波高が高くなつたというけれども今回はその様な現象は殆んど起らなかつた。
2.津波の押し寄せて来る時よりも引き潮の時の方が速度が速く従つて水圧力も強いと観察された。
3.河川が入つている所が侵入水の範囲が広くなり被害をも多く与えている。宮古,大槌,大船渡等に見られる。
4.防潮林は単に津波に対して防災的効果を発揮するばかりでなく平時海風によつて送られる塩分を捕捉して内陸へ送られる量を減じ又その濃度をも減ずる所謂塩分阻止効果があるにも不拘,漸次それが軽視されている様に見うけられる。又防風的効果あることは割合に軽視されぬ様である。
5.防潮林の根固め的護岸でも波返しをつける方がよい。それをつけると少くも約50cm位はoverしようとする高潮をはね返すことが出来るものと観察された。
6.岩手県の高田松原の防潮林などは平時は名勝観光地となつてその方面からの宣伝がきいて観光客の来ることが多くなりその人達は防災的考えは無く,下木を伐つたり一般に落葉や腐植を無くしたりして下水は減じ地味は瘠悪化の傾向にあつたことが津波の侵入を容易にした。その他防潮林帯の内でも道路等のため切れ目が存在するとか若木の部分とかの弱点と見られる部分が破られた。特に高田松原では300年生の林の大部分は海水が侵入し,その最前線にある林縁木は根こそぎ倒されたが林帯としてはよく津波のEnergyを減殺し波高をも低めたのであるが,弱点たる40〜50年生の部分約100mの区間だけが破壊された。この様にこれからの防潮林の管理経,営上考慮すべき事がある。
防災作用の検討
1.「防潮林は津波の波浪のエネルギーを分散し波高を低下させる」ことについて
防潮堤或は防波堤の方はその設計に当つて波圧に対抗する様にしてあり,防潮林設計も之にならつている様であるけれども大体防潮林は完全に津波を防ぎとめるものではなく自らは多少犠牲になつてもその後方内陸の耕地建物等を保護するものでありそれは津波の波圧に対抗するものでなくてEnergyを減殺するものである。津波のEnergyは次式で表わされる。
E=1/8(rho)gH^(2)L
但(rho)は単位重量,gは重力加速度,H:は波高,Lは波長
波高の自乗と波長とに比例する。
之によつて分ることは前回も波高は約5mと同じであるとしても前回の波長は240km位,今回のそれは約480kmで丁度倍になる。Eは前回は7,357t.km/sec^2,今回は14,715t,km/sec^2 換言すれば前回は毎秒約1億馬力,今回は約2億馬力の仕事をした勘定になる。この様な破壊力に対しては土木工作物は高さが高くなる程余程厚い壁体構造を要することとなり,莫大な工費を要することとなる。科学技術庁資源調査会報(1)によれば海岸沿いの巾40m内外ならばm当り1,500円位で造成されるが,防潮堤は4万乃至15万円,裏をコンクリート張にするとこの倍も要るといつている。これに比べると防潮林はこれを通過することによつて速度を落し結局波長を遙かに減じてEnergyが減少することになる。果して何分の1に減少するかは未だ不明であるけれども数分の1乃至場合によつては何十分の1に減ずる程大きい作用をなすものと推定される。
この様にして減殺されたEnergyが当る時に工作物は可成り安全なものとなる。従つて若し汀線に近い前線に防潮堤があつて直接津波の破壊エネルギーを受ける時被害が大きく,先ず防潮林でエネルギーを減殺して後に防潮堤又は防波堤で受けるならば効果的であるということがいえる。
又headを低める程度如何というにKirchmerによれば,h=1.73(t/b)^2((V^2)/(2g))但t=樹木の直径,b=立木間の間隔,例えば樹木の直径30cm,立木間の間隔2mならば流速4m/secの時0.03mであり,流速6m/secならば0.07mとなる。これは杭について実験した式であるが,防潮林に適用出来ると考える。
2.「防潮林の塩分阻止効果について」
今回防災的に検討すれば防潮林はそれ自体では平時海風中の塩分を捕捉する効果がある事は判明していたのであるが更に林業試験場で宮城県北釜海岸及び青森県横浜海岸でクロマツの雛形防風林(高さ1.5m)のと実際のクロマツ林(平均樹高12m)のについて海岸林帯が海風中の塩分の飛散をどの程度に阻止するかについて調査した報告があるので要旨をあげると
a.実験方法は林帯の風上,風下及び林内に塩分捕捉器を設置し,それぞれの箇所の空中塩分を捕捉した。捕捉器はガーゼを枠に張り,その面に風が直角に当る様に設置した。
b.防風林の無い時は,塩素附着量,空中塩素濃度は海岸が最大で,内陸に進むに従つて最初は急に減じ,その後は徐々に減ずる。
c.防風林が存在するときは,附着塩素量は林内に入ると急激に感じ,風下林縁直後が最も少ない。林帯を風下に向つて離れるに従つて増加するか,樹高の25〜30倍付近で増加は止まる。この位置が林帯の塩分ろ過効果範囲と考えられる。
d.林帯の空中塩分の捕捉率は,実際の防風林では0,88雛形防風林では0.72の結果をえた。
e,林帯の風下における空中塩分の減少は,林帯の塩分ろ過効果と風速の減少による単位時間に通過する塩分を減少せしめることによる。両作用共林帯の厚い方が効果が大きい。風速の減少による効果はろ過効果より遙かに少ない。
f.林帯が海風を上昇攪乱せしめ,渦流拡散を大ならしめて,塩分濃度を減少せしめる効力がある。この影響は遙か後方まで及ぶものであるが,平時は効果微弱である。暴風時には大きな効果を表すものと考えられる。
次に林帯が風速を減少する機能については,多数の測定や実験が行われているが,風速減退効果の範囲は大体風下では樹高の25倍,風上では6倍程度とされている。
3.「防潮林の強さ」について
非常時津波,高潮等の破壊力軽減機能について前述の通り津波の破壊力或は波圧が推定されるし,海水々頭を低下させる程度も算定出来るが林木が動水圧に耐えられることが望ましいのでその動水圧Pは単位長について
P=k(gamma)a(v^2/2g)
kは係数で円形断面積では1.0aは杭の巾,(gamma)は水の単位容積重量,vは流速,gは重力加速度,で判明する。
樹木の被害は根倒れが多いが,根系の引張りに対する強さは根の張り方によつて違うので,一定の動水圧に耐えられる樹高,直径を算定することはむづかしい。そして前線の樹木が水圧を受けて倒れても林帯の巾が相当あれば後方の樹群によつて充分防潮林用を果し得るから,健全な森林を造成することに努めればよい。又高潮時暴風が起るので,風倒の危険を考えねばならぬが,伊勢湾台風の経験では,風上部に於て現存林帯の風倒率が多くも20〜30%であり,風下の部分は殆ど風倒が起らなかつたと記されている(1)のは参考とすべきである。
4.「引き潮の時防潮林のある方向へは流れが弱く,ない方向へ集中して流れる」。
「防潮林は流木,船舶等を林内に止め,背後地を守る」。
これ等は自明の理で特に説明を要しないと思うが今回は特に後者の事例を各地で見た。その一例を写真で示しておくに止める。
5.防潮林の巾員何程を要するかについては未だ十分研究されてはおらぬが,現在の研究過程では流速に最も関係をもつものと考え,流速5m位の時の100m位から流速15m位の時の200mはほしいものとなつているが,用地の得られない場合は止むを得ないものとして最小限40m〜50mと考えられる。而してこの流速は海浜の傾斜によつて異り,傾斜ある程緩かとなる。
むすび
防潮林の防災的効果の判定には未解決の事も多いが,それ等は将来の研究に侯つこととするが今回の地震津波によ
つて相当程度効果発揮せるものや一般の被害状況が判明したから今後の恒久対策にこの経験を活かすべきである。
文献
(1)科学技術庁資源調査会:伊勢湾台風における防潮林の効果について科学技術庁資源調査会報告第17号(昭35)
(2)飯塚肇他:雛形防風林試験報告(第1報)林業試験場研究報告45号(昭25)
附記
附記 八戸地方 防潮林の津波防波効果について
八戸工業港の北西部に位する願淵川を境として八太郎より五戸川に至る海岸は添附図の様に防潮林が分布している樹令は一般に34年の黒松で海岸より陸側迄約330mであつたが,津波後の痕跡を調査した結果海側と陸側の潮位差は約1.066mであり,今回の津波に対しては,本防潮林により津波の波浪のエネルギーを分散し充分に防災効果を発揮したことになるわけである。
6. 三陸沿岸に襲来せる過去の地震津波
6.1 概要
三陸沿岸は津波の常襲地としてわが国でも有名で地震津波による被害はかなり多い。津波の原因としての地震(海底火山を含む)の震央の大部分は太平洋沿岸にあるが,日本海や今回の場合のように南米沿岸にある場合も無視できない。従来の三陸地震津波の通念を破つて現地では直接地震を感じないで,突然津波のみ襲つた事が今度の津波の特色であり,且これによつて今后の三陸津波警報組織体制の拡大充実や,無線ロボツト検潮観測の必要性が問題になつた意義の深い津波であつた。
さて以上のように,過去における大小の三陸津波中,体感地震を伴わないと思われる津波の中で今迄あらゆる地震津波資料に明らかにされている16ケの津波について調べた結果,5回の暴風津波と考えられるものの外に,5回に上る南米太平洋岸に発生した地震津波の余波と確実に実証出来るものと,更に4回のそれを推定するものの存在が判つた。しかもこれ等の震源がチリ沿岸に圧倒的に多く,三陸沿岸への被害こそ少なかつたが,今回の5月24目のそれと全く同系のものであることを知つた。そして今この様な南米の津波を伴う特大型地震が過去5世紀に亘つて屡々繰返され,その半数以上が,わが三陸沿岸に津波を及ぼした事実から,当然今后もその影響の可龍性を暗示するものとして注目されてよい。ここに転載する報告書は相のチリ膿津波について過去の新事実の発掘を行いあらゆる文献資料を元として,ここに総括し今后の地震津波対策の強化発展への埋れた1資料となれば幸いである。
6.2 使用した文献資料
表の作成に当つて使用した文献資料は次のとおりである。
(1)東京天文台編(1960年):理科年表,地震の部,地128〜218
(2)石川高見(1933):二三陸沖強震の習性,験震時報,7,163〜166
(3)今村明恒(1934):三陸沿岸における過去の津波に就て,震験彙報,別冊1,1〜15(昭和8年3月3目)
(4)仙台管区気象台(1951):東北地方の気候,津波の部,103〜41
(5)二宮三郎編(1938):岩手県災害年表
(6)今村明恒(1942):日本津波史,海洋の科学2,74〜80
(7)杉浦次郎(1990):北海道を襲つた既往の津波について(第1部,明治10年以前のもの),凾舘海洋気象台旬報,第231号,235−244
この文献の南米地震津波の項に,中野猿人:津波と高潮,北海道気象報文:凾館の部(明治30年),本多,寺田,吉田,石谷(1908)潮汐の幅振動について,東大理学部紀要第24冊,j.Milne(1913):Earthquake and Other Earth Movement,Chapter 10 Disturbance in the Oceanなどが引用されている。
(8)気象庁(1952,1953):十勝沖およびカムチヤツカ南東沖地震津波調査報告,験震時報17,18
(9)気象庁(1960):チリ地震津波速報
(10)二宮三郎(1960):東北地方の資料から見たチリ地震津波,昭和35年度宮城岩手地区気象研究会で発表。
(11)渡辺偉夫(1960):昭和35年5月24日のチリ地震津波の特異性と問題点,東北研究,10,No.5,7〜12
(12)杉浦次郎(1960):明治元年および明治10年の南米地震による津波について,凾館海洋気象台旬報,第229第,213〜216
6.3 過去の津波
以上の文献資料を使つて,まず,近地地震津波と遠地地震津波に分類し,遠地地震津波についてはa)エトロフ島沖からアラスカ方面まで,b)南米方面の二つに分けた。その他の地域たとえば米沿岸ではほとんど地震津波はなく,また東南アジア方面については東北地方ではほとんど影響はなく,したがつて記録もなかつた。その結果作成したものが第6.1表,第6,2表および第6.3表である。
この表の各要素について説明を加える。
津波の到達した年月日については明治6年を境にして目本の暦と西暦とは異なつてくる。すなわち明治6年以前は年月日全部が異なつているので両方掲載したが,明治6年以後は年号のみ異なるので,西暦の方の月日を除き年のみにとどめた。
津波の階級とは前節の文献(6)に記載してある次のものである。
解説からわかるように地震では震度に相当するもので,津波そのものの規模ではない。したがつて津波の浪源(地震の震央とほぼ同じ)からの距離や途中の伝播経路の地形効果その他によつて異なるものがあるが,われわれは東北地方中心に考察し直した。そのため前節の文献の値と異なつているところが若干ある。
以上の津波を伴つた地震の震央を第6.1図,第6.2図および第6.3図並びに第6.4図にそれぞれ記入した。1893年以前のものについては正確な震央の記録がないので,だいたいの位置を示し区別しておいた。
6.4 若干の考察
(1)近地地震
陸地を中心とした太平洋沿岸が大部分である。ことに昭和8年より大きい津波が過去に3回(日本全域で4回と言われる)もあつたという事実は注目すべきである。また目本海沿岸でもかなりのものがあつた事実は考慮に値する。ことに火山性と思われるNo.9は注目してよい。
(2)遠地地震津波a
環太平洋の北部一帯の列島,半島に沿つて存在する数も少なく,東北地方への影響も小さい。昭和27年のカムチヤツカ沖のものが最大である。この方面の津波はハワイで非常な被害を受けており,波高も相当大きいのであるが,東北地方では何ゆえに小さいのか大きな問題である。
(3)遠地地震津波b
この場合はかなり数多いが,多少なりとも被害を生じたのはチリに地震があつた場合だけである。しかし津波の程度(階級)は今回が最も大きい。今回とだいたい同じような震央にあるのはNo.2,No,3およびNo.4であるが,No.5およびNo.6は凾館においてかなり詳細な記録がある。
7. チリー地震
7. チリー地震
引用文献
仙台管区気象台編集
昭和35年5月24日「チリ地震津波調査報告」チリ地震より抜
7.1 チリにおける地震活動
チリにおける地震活動は環太平洋地震地帯の一環として,日本と同様かなり活発な地域である。第7.1図に南米における浅発地震の震央分布を示した。この図は地震の規模(magnitude:M,注記参照)7以上で期間は1900年より1952年の53年間である**。この図から浅発地震の分布は海岸線に沿つてMが8以上の大地震がかなり発生しており,なかなか活溌である。この期間に津波が日本に多少なりとも影響があつたのは1906年2月,1906年8月,1922年1943年の四つであつたが,いずれも今回に比べかなり小さい津波であつた。しかし前の三つは8(1/4)以上の最大級の地震であり,また一つはエクアドル沖,二つはチリで起きたものである。逆にMが8以下では日本に実質的な津波の影響はなく,あつても検潮記録にわずかながら見出されるにすぎない。
また陸に入るにしたがつて深発地震が分布しておること***なども日本とかなりよく似た現象を呈している。しかし津波の発生と同時に陸地でも地変や相当の被害があつたことから,震央が半分海(あるいは陸だな),半分陸地といつた所に存在していることは,三陸沖地震のように完全に外洋にある場合と異なつており,津波の実体にもかなり変化をあたえているものと考えられる。
7.2 今回の地震
第7.1図には今回の震央の位置もあわせて示しておいた。今回の地震で非常に特徴的であつたことは2日前から大きな前震が発生したということである。第7.1表に東北管内に記録した一連の今回の地震を表にした。これらはすべて震央周辺でかなりの被害を生じたものと考えられ,いかに地震活動が活発であつたかわかる。特に本震を中心とした記録を見てわかるように15分前と1分前に二つの前震があり,このため記録はきわめて複雑で,地震波の各相を判別することがむずかしい。つぎに本震のみについて最大振幅を読み取つたものが第7.2表である。ここで実動全振幅とは読取全振幅を幾何倍率で割つたものである。これを見ると実動全振幅は500〜100uでだいたい東北地方全部が同じような値を示しているが,南北動より東西動がすべて大きい。いずれにしてもかなり大きな振幅であり,世界最大級の地震の一つであることはまちがいない。
次に仙台から震央距離は17,010kmで,走時は19分55秒である(東北地方全般について震央距離は17,000km前後,走時は20分前後で,観測所によつて大差はない)。したがつて第1波の平均の速さは14.2km/sec^-1となりかなり早いもので,おそらく地球の核(core)を通つてきたいわゆるPKP(あるいはP')であろう。
その他,気象庁松代地震観測所では5月22日に2回,23目に15回,24日に2回,25目に3回,26日に2回記録している。松代地震観測所の地震計の倍率は1.000倍以上なので管下の観測所よりかなり数多く記録しておると考えられるが,それにしても17,000kmも離れた観測所でさえかなりの地震を記録しておるのであるから,震央附近ではおそらく1,000回以上はあつたものと考えられる。
注)地震の規模(magnitude:M)
普通にいう「地震の大きさ」という言葉は二通りの意味に使用されている。一つは地震そのもも大きさ,つまり地震が放出する全エネルギーに関係したもので,これを規模(magnitude:Ml)という。もう一つは地震が起つたある地点におけるゆれ方の激しさでこれを震度といつている。したがつて一つの地震があれば多くの地点で計算した規模はだいたい一定しているが,震度は震源地に近いほど大きく,遠くなれば小さくなる。
震度階級は各国まちまちであるのに反し,規模の方は各国共通の尺度が使われている。これはアメリカの地震学者リヒター(C.F.Richter)が1935年に提案し,グーテベルグ(Gutenberg)およびリヒターが発展させたもので,その定義はつぎのとおりである。
「震央から100kmのところにある標準地震計(ウツド・アンダーソン地震計と呼ばれる基本倍率2,800,固有周期0.8秒,減衰定数0.8のねじれ地震計)の記録上の最大振幅(ミクロン(u)単位)の常用数の値をその地震の規模とする」
たとえば100kmのところで標準地震計の最大記録振幅がlcmのときはlcm=10,000uであるから,この地震の規模MはM=log10,000=4となる。実際には震央からちようど100kmのどころに地震計が置いてあると限らないので,任意の距離(delta)における最大記録振幅Aをあたえた時,ただちにMが求められるような換算方法が決められている。たとえば目本附近に起つた浅い地震については1954年提出された坪井の式M=logA+1.73log(delta)−0.83がよく用いられている。このほか震度を使つた河角の式がある。
規模MとエネルギーEとの関係は学者によつてかなり異なつた換算式が発表されているが,第7.3表の中のEは1956年にグーテンベルグが出したlogE=11.8+1.5Mを用いたものである。Mの値に対し若干解説を試みたのが第7.3である。
最大級の地震M=8(1/2)のエネルギーは4×10^(24)ergであるがこれは水爆4個分に相当する。しかしこの比較では両者のエネルギーをそのまま比較したわけであるが,実際にそれだけの火薬を地下に埋めて爆発させた時,そのエネルギーに相当する規模の地震が起こるわけではない。火薬爆発の時地震波のエネルギーになるのは1/100以下といわれている(あとは熱エネルギーなどになる)ので,水爆では400個以上要することになる。
8. あとがき
今回の津波は全く奇襲の一言につきると云つて過言ではない。然しもし仮りに何んらかの方法で連絡が事前に取れ末端の気象官署まで情報を流す態勢を指示していたら津波の来襲の発見も早く,又津波による被害も最小限度に喰い止める事も出来得たのではあるまいか。この観点から情報網の充実を望むのである。
次に検潮儀であるが,どの官署も同様に検潮所の充実と近代化を計るべきである。このような非常事態に電話(公衆)連絡は不可能(外部からの照会で殆んど電話はあく暇がない)である。又,今回の津波のように水位295cmとなると人的にも危険な状態となる。この様な事からして津波の常襲地である三陸沿岸官署には早急に隔測自記検潮儀の設置が望ましい。又異常水位の発見も早く出来たのではあるまいか。これは吾々三陸沿岸に位置する官署,住民の切実な願いである。
幸い今回は沿岸-漁民の通報により知つたのであるが,これらは今迄の津波記念日行事として全所員により沿岸附近の小中学校(13校)を対照として地震津波の講演を行い,又新聞,ラジオの報道機関を利用し沿岸住民に津波の普及に努めた事も実に効果的であつたと思われる。このようにして海面の異常状態を察知,関係機関に通知されたため当地方の低地帯である沿岸住民は人的損失も最少限度に喰い止められた。八戸測候所では消防車の配置がなされ電話不通時には本部及び外部との情報連絡に当つたことは警察の連絡車と相俟ち効果的であつた。
加えて幸いに津波の来襲は夜明けであつたこと,又当八戸港に目下繋留中の船は保安部並びに気転のきく漁民により沖え避難したのであるが,その他は殆んど大破以下の損障を受け漁期を目前に控え暗たんたる状態を示したのである。
若しこの津波が漁最盛期の時であつた場合には被害も大になつた事は必至である。即ち当地方の漁期には350隻のイカ釣り船,又サバ釣150隻その他含めても大小約600隻位の船が集中される。又その船員にしても莫大となり被害も激大されたのではないかと思われる。発展途上にある八戸港の海岸地帯の港湾工事についても今回の津波に於いては一万屯岸壁以外は全く無抵抗に近い程弱く一考を要する点がある。
尚24日夜以来の情報は随時発表し沿岸住民は再度の余震発生と長時間に亘る異常海面のため恐怖におののいていたが之等の情報は効果的であつた。
何れにしても,今回のチリ地震津波に於ては吾等沿岸に従事する者においては尊い経験であり,この貴重な体験を生かし,津波警戒に万全を期すべきである。
ここに於て本報告書は,八戸港を中心として,今回のチリ地震津波の実態を後世に伝え,今後も充分発生塗予想される三陸沿岸の地震津波の対策研究の1資料として役立てば幸いである。終りに本報告書は事情により極めて短時間に於いて集録せねばならなかつたので編集技術の未熟で,誠にまとまりのない文章になつた事をおわびすると共に,各位の辛辣なるご批判とご鞭撻をお願いする次第である。
尚,本報告書作成にご協力下さつた地元八戸測候所二部技官,始め津波記録写真をご提供下さつた青森県庁及び八戸港務所,八戸市庁,海上自衛隊八戸航空隊,尻内保線区,水研八戸支所,並びに東奥日報社,デーリー東北社民間各工場各関係各位め全面的なご援助に対し,ここに衷心より深甚なる謝意を表する次第であります。
(八戸測候所々感を含む)
編集子