文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

第一部 総論

第一章 チリ地震津浪の概況 武藤博忠

昭和35年5月23日午前4時10分頃(日本時間)南アメリカのチリ中部沖合(南緯37度、西経73度)で起った地震は世界最大級のもので、その規模(マグニチュード)は8,3/4と推定された。これは昭和8年3月3日の三陸沖地震の8.5、大正12年9月1日の関東大地震の8.2よりも大きい。
この大地震により発生した地震津波(チリ地震津波と命名された)は昭和35年5月24日、北海道から九州に亘る本邦の太平洋沿岸の全域を襲い、特に北海道、三陸地方に甚大な被害を与えた。
チリ沖で発生した津波が本邦に伝わった例は明治以来数回あるが、いずれも検潮記録に数10m位の振巾が計測された程度で、被害を伴ったことはない。日本は由来津浪の本場であり、1927年の万国学術研究会議で、“Tunami”(ツナミ)が国際学術後として正式に採用されており、またその研究も主として日本において発展してきたものである。殊に津浪防災の研究は、昭和8年の三陸津浪以来、急速に発展してきたが、これら研究は、日本近海にて発生した津浪に関するものであって、今回の如き遠地津浪による災害の研究資料は皆無であり、津浪研究の盲点でもあった。
古来わが国の地震津浪は、日本海側には少なく、あっても小規模で、太平洋側には多く、しかも大規模なものが発生する。太平洋側には地震津浪の多い区域が3つある。第1区は九州東岸から房総半島の西岸に至る太平洋沿岸、第2区は三陸の沿岸、第3区は北海道の東海岸である。而して第1区の大津浪は房総半島以北には被害を及ぼすことなく、また第2区の大津浪は房総半島以南には被害を及ぼさない。昭和以降では、昭和8年に三陸沿岸、昭和19年に東海道および南海道沿岸、昭和21年に南海道沿岸にそれぞれ大きな地震津浪が襲来している。これらは、無論日本近海に発生した津浪であった。これに対し今回のチリ地震津浪は、第1区、第2区、第3区の全域に洩れなく影響を与え、なかんづく、三陸沿岸(岩手県南部および宮城県北部)の被害が激甚であった。過去の資料により三陸沿岸と東南海道沿岸の津浪危険度を同一スケールで比較することが困難であったが、チリ地震津浪の伝播は日本の太平洋全域におけるエネルギーの配分を知る上に極めて重要な資料を提供した。同時に、従来近海津浪に対する対策樹立上重要なポイントとされた湾の形、その他地形に関する研究結果はチリ地震津浪には適用されず、時には反対の結果が生じることが明らかとなった。
つぎに、チリ津浪の最大波高を地点ごとに掲げておく。なお、過去の津浪、高潮時の最大波高(記録を入手しえたもののみ)を側欄に伴記した。
側欄の記号は次の通りである。
29 明治29年6月15日三陸津浪
8 昭和8年3月3日三陸津浪
室 昭和9年9月21日室戸台風による高潮
伊 昭和34年9月26日伊勢湾台風による高潮
南 昭和21年12月21日南海道津浪
東 昭和19年12月7日東南海道津浪
(備考)
チリ津浪の最大波高は次の諸氏の調査による。
番号1-56 北大理学部 鈴木健夫、清野政明、村瀬 勉
57-68 北大工学部 柏村正和、八鍬 功、高橋 将
69-81 北大理学部 大谷清隆、中村 勉
82-122 東北大理学部 高木章雄、伊藤三吉
123-133 気象研究所 宇野木早苗、土屋瑞対
134-154 地震研究所 表俊一郎、小牧昭三
155-170 〃 桃井高夫、黒木義弘
171-196 〃 笠原慶一、茅野一郎
197-248 地震研究所 平熊金太郎
東大理学部 平澤明朗
249-282 地震研究所 相田 勇
東大工学部 影山正樹
283-294 東北大理学部 福井英夫、藤原健蔵
295-306 地震研究所 羽鳥徳太郎
東大工学部 高 隆三
307-340 地震研究所 山口林造、岡田淳
341-344 〃 羽鳥徳太郎
345-363 東大理学部 寺本俊彦、永田豊
364-476 名大理学部 飯田汲事、島津康男、青木治三
熊澤峰夫、太田 裕、成瀬徳慈
このように、チリ地震の影響はほとんど日本太平洋沿岸全域に及んだ。
これに対し政府は、昭和35年6月27日、法律第107号を以て、「昭和35年5月のチリ地震津浪による災害を受けた地域における津浪対策事業に関する特別措置法」を公布して、積極的に津波対策に乗出した。また、この法律に関する施行令(政令第240号)が8月18日制定公布された。この施行令によって津浪対策事業施行地域は次の如くに決定した。
北海道厚岸郡浜中村
青森県八戸市
岩手県の海に面する市町村
宮城県の海に面する市町村
福島県双葉郡富岡町
和歌山県田辺市
徳島県阿南市
高知県須崎市
つぎに、青森、岩手、宮城3県につき、市町村別津浪災害調部落別津浪災害調を示しておく。

1/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:632px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:55.5KB
2/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:724px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:55.4KB
3/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:629px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:51.5KB
4/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:646px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:59.4KB
5/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:658px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:69KB
6/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:645px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:60.3KB
7/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:644px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:68.1KB
8/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:650px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:62.3KB
9/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:648px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:71.9KB
10/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:650px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:66.4KB
11/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:648px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:60.3KB
12/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:643px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:63.4KB
13/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:649px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:62.9KB
14/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:639px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:65.6KB
15/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:646px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:57.6KB
16/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:644px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:58.4KB
17/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:646px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:73.7KB
18/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:641px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:66.3KB
19/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:640px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:60.3KB
20/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:642px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:63.6KB
21/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:646px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:73.5KB
22/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:637px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:74.8KB
23/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:641px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:69.8KB
24/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:635px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:64.6KB
25/25
オリジナルサイズ画像
  • 幅:639px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:67.3KB
最大波高表
1/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:914px
  • ファイルサイズ:158.3KB
2/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:965px
  • ファイルサイズ:148.5KB
3/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:932px
  • ファイルサイズ:164.9KB
4/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:169.5KB
5/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:1003px
  • ファイルサイズ:197.6KB
6/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:173.1KB
7/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:175.7KB
8/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:203KB
9/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:184.8KB
10/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:182.9KB
11/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:154.2KB
12/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:152.1KB
13/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:909px
  • ファイルサイズ:173KB
14/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:153.2KB
15/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:155.1KB
16/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:151.6KB
17/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:163.2KB
18/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:156.2KB
19/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:144.2KB
20/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:159.9KB
21/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:154.8KB
22/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:890px
  • ファイルサイズ:168.6KB
23/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:99.2KB
24/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:804px
  • ファイルサイズ:91.8KB
25/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:80.9KB
26/26
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:134.5KB
市町村別津浪災害調部落別津浪災害調

第二章 地震津浪と高潮

この報告はチリ地震津浪に対する防潮林の効果を扱うものであるが、第一章にもふれた如く、従来、日本の太平洋沿岸に襲来した近海地震による津浪とは甚しく様相を異にしており、現象的には高潮に類似している面もある。そこで地震津浪と高潮に関する従来の知識を、ここに整理して掲げ、次にチリ地震津浪の特徴を論ずるのが順序である。
海底に地震があったり、火山の爆発があったり、あるいは海上に優勢な低気圧が現われると、海水が陸地深く侵入する。これが広義の津浪で、時には数十米の水壁となって押寄せ、人畜家屋、樹木等進路をさえぎるあらゆるものを破壊して大惨害を引き起す。
このうち、海底の地震、火山爆発のような地変によって生ずる津浪を地震津浪、低気圧の襲来によって生ずる津浪を暴風津浪と呼ぶ。
一般には地震津浪を単に津浪、暴風津浪を高潮と呼ぶ。

第一項 地震津浪

地震津浪に関しては、海底の地形変動、断層、陥没、隆起、津浪の生成、津浪の波高、波長、速度、週期、湾の副振動、津浪の初動と最大波順位等、重要な研究課題が多いが、災害対策の上から津浪を研究する場合予め心得ておかねばならぬ最も重要なことは、津浪は甚しい長波で沖合から移動性の波であること、津浪の速度は非常に早いこと、および海岸の形状、深浅と津浪高との関係の三つである。
津浪発生地点附近の津浪の波高は、数米程度であろうが、その波長は極めて長く、沖合における浪の勾配は極めてゆるやかで肉眼では認めがたい。これが海岸で暴威をふるう、最も主な原因は津浪は一種の長波であるためである。すなわち長波であるため、浅い狭い所に来ると、その波高が著しく増大すると共に波の頂点から海底まではげしい海水運動を伴う移動性の波となる。波高の高い移動性の波であるから破壊力は極めて大きい。無論、同一波高であれば速度の大きいほど破壊力は大きい。波高についてはグリーンの法則により、長波の通る水路の中をb水深をhとすれば波の高さは1/√b4√hに比例して変化し、すなわち水路の巾、水深の減少とともに波高は増大するのである。
津浪の伝播速度は、長波の伝播速度の理論式c=√ghで求めることができる。(gは重力の加速度、hは海深)また大洋を横断した現実の大津浪からも求められる。例えば明治29年の三陸津浪は7,970km距てたサンフランシスコに10時間57分で到達した。すなわち毎秒209mの速度である。また三陸沖−サンフランシスコの平均海深を5510kmとすれば√ghは234mとなる。いずれの計算法によっても毎秒200m以上の速度であり、またその他の大津浪について計算してみても180-230mとなるのであり、また今回のチリ地震津浪はチリから宮古まで18,000kmを23時間37分で渡っており、やはり毎秒200mの速度である。
これは恐るべき早さである。もしこのままの速度で移動性の長波である津浪が海岸を襲ったなら、その破壊力はおそらく如何なる防浪施設を以てしても防御しえないであろう。しかし実際にはさまざまの理由で沿岸に近づけばエネルギーが減殺されるので破壊力もかなり衰える。
海底の陥没または隆起は、一回でも海水の慣性のため平均水位の復するために何回か振動をつづける。そのため津波は唯一回ではなく、ある週期をおいて数回来襲し、初動は海底の陥没の場合は下げ波で始まり、隆起の場合は上げ波で始まる。週期は複雑であるが、卓越週期がみとめられ、卓越週期は10数分の場合も一時間以上の場合もある。面白いことは海洋は平常時でも僅ながら場所毎に一定の週期を以て水面の昇降が行なわれているのであるが、この週期と津浪の週期とがほぼ一致することである。すなわち、
(イ)同一浪源の津浪でも押しよせた場所によって週期が違う。
(ロ)同じ場所の津浪の週期は、別時代の津浪であっても、また原因が何であっても、すなわち、地震津浪でも、高潮でも、常に同一で、しかも平常現われる振動(副振動)の週期と同−である。
このことから、その海岸または港湾の固有の振動週期を知っておけば、津浪の場合、襲来する週期を予め知ることができる。
一例をあげると、
地名 固有の振動週期 大正12年関東大地震のときの卓越週期 明治29年三陸津浪のときの卓越週期 明治33年11月高潮のときの卓越週期
横須賀 22分 23.5分
串本 19.7分 19分
鮎川 7.3分及び24分 7.3分23.3分のものが混る 7〜8分及び24〜25分 7〜8分及び24〜25分
津浪の波長がどの位であるかは津浪の破壊力を知る上に重要である。水深、速度、週期が与えられれば、波長は次のように求められる。
このように週期30分の津浪は深さ4000mの大洋では波長346kmという驚くべき長さで、日米間に僅か12〜13個の波山があるだけで、この津浪は水深100mの沿海でもなお55kmの波長をもっている。このような長い波が海岸に襲来すれば、その被害は普通の大津波とは比較にならぬ深酷なものとなることを知らねばならぬ。
さて、このような津浪が接岸するとどのような様相を呈するのであろうか。津浪が湾内に侵入する場合を考えると、グリーンの法則により、波高は水深の四乗根と湾内の平方根に比例して高くなり、湾口に比し湾奥では著しく高くなる。その上湾奥は塞がっているから、そこで波が反射されて一層高くなる。この場合湾奥に川があれば波の一部はこれに沿って侵入する。このようなわけで湾奥の部落は大きな被害を受けるのが普通である。三陸沿岸の綾里湾はその典型的なもので、両岸がきりたった崖のV字形湾である。昭和8年3月の津浪のときは湾口では津浪波高6mであったのに、湾奥の白波では19mという驚くべき高さに達した。岩手県南部海岸に位置する吉浜湾、姉吉湾、合足湾、両石湾、唐丹湾、越喜来湾の如きもこの適例で、いずれもいわゆるV字形またはU字形の湾である。これに反し湾口が狭いか、浅いか、あるいは狭長屈曲している湾では湾口より湾奥の方が却って津浪が低くなる場合が多い。気仙沼湾、広田湾、大船渡湾、志津川湾、松島湾はこれに属し、これらの湾では津浪の反射、減衰が著しく、短い週期の波は途中で消滅し湾奥の津浪は比較的長い週期の波ばかりになる。
湾でなく外海に直面した海岸でも、ところにより波高の大小の違いを生ずる。それには種々の原因があるが、例えば著しい遠浅海岸では岸の遙か遠方で津浪波は高まるが砕けてしまい、完全な移動性の波となるが、遠浅がつづくため減衰作用が著く、高さも、速度も小さくなる。青森県八戸から尻屋崎に至る海岸線はその適例である。また海岸の暗礁の多い所でも同じことが起る。宮城県牡鹿郡大須はその適例である。次に外海で直面した深い海岸ではどうであろうか。この場合グリーンの法則のbもhも減少しないのであるから波高はさまで増大しない。従って中乃至小津浪の場合は被害皆無に近いが、大津浪の場合は前記のV字形湾奥以上の惨害を被ることがある。これは波高はさまで高くないが、津浪の速度は減来していないので恐るべき破壊力を発揮するからである。しかもこのような場所は概して平地に乏しいので、海岸の狭小な砂地に部落が成立しているので全滅の悲運に見舞われる。岩手県北部の田老、小本はこの適例である。
海岸に障害物がある場合、波長の短い波に対しては完全に障害物の役目をするが、波長の長い波に対しては完全な障害物とはならず、その裏側にも侵入してゆく。例えば高潮やうねりのような比較的波長の短い波は、大きな島や岬の裏側えは侵入しないが、津浪のような波長の長い波になると裏側えも侵入してゆく。いわゆる“廻り津浪”で、この点でも津浪と高潮の相違がみられるのであって、津浪対策として防波堤を取上げる場合充分注意を要する。またこのことは後に述べる如く、津浪に見舞われやすい海岸と高潮に見舞われやすい海岸とが区別される一つの要因でもある。
また同じ形の湾でも浪源に向って開いている湾に比べて大きな角度もなしている湾は被害が少い。三陸近海津浪の場合、宮古湾、山田湾週辺の被害が比較的小さいのはこのためである。
また海岸線の背後の地形によって波高の大小を生じる。例えば海岸線の直ぐ背後に丘陵がある場合と、背後が平坦地である場合とでは、波高は一般に前者では大きく後者では小さい。しかし被害の点では逆の場合が多い。すなわち、前者の場合は丘陵により海水の水平運動が遮断されるので波高は当然大きくなるが、水平流速が小さいため、破壊作用および建造物、船舶等を流失せしめる作用は大きくない。これに反し、後者の場合は背後が開いているので波高はあまり大きくならぬが、水平流速は激しく、将に川などがあると津浪のエネルギーの大部分は、ここに捌け口を見出して川沿いを猛烈な流速で、かなり上流まで遡って多大の被害をもたらす実例がしばしば見出される。
一般に津浪の波高の大小と被害の大小とは必ずしも比例するものではない。被害という見地からすれば波高よりもむしろ陸上に溢流する水流の水平流速の方がより重大な要素である。無論、波高が大きく水平流速も大きければ被害が最も激甚であるのは当然である。このことについては後に詳述する。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:490px
  • ファイルサイズ:71.8KB
波長

第二項 高潮

高潮は深厚な低気圧が海湾附近を通過する場合、その湾奥部に起こる異常な海面の上昇である。海面の上昇を来す原因は、
(イ)低気圧の中心の通過により気圧が低下し、その吸い上げ作用によって海面が平均水位よりも上昇すること。
(ロ)強烈な風のため海水が湾奥に吹返されて、そこに堆積されること。
(ハ)湾内に副振動が発達すること。
等であるが、このようにして上昇した海面上を、烈風によって生じた波浪が猛威をふるい被害を大ならしめるのである。その際湾奥が遠浅になっていたり、海面の上昇期が満潮時と一致したりすると高潮を一層助長する。しかし、高潮は地震津浪のように突如として起るものではなく、低気圧の接近と共に湾奥部の水位が徐々に上昇し、低気圧が湾奥部を通過した直後に最高水位に達し、次いで徐々に下降する。従って高潮は津波のように高波が反復来襲するのとは異り、いわば孤立波的な海面の全般的上昇である。津浪と高潮の襲来時の水位の変化を図式的に示すと次の如くである。
一般に何米の高潮が襲来した、という場合、平均海面よりの上昇高と、その上を波打つ波高の合計をいう場合が多く、これを総高と呼ぶこともある。例えば昭和9年9月21日早朝の室戸台風による高潮は大阪湾小津観測所により総高4.58米と観測された。この場合、大阪西の鼻における自記検潮儀の記録によると、海面の上昇が2mであるから、波高は2.58mということになる。大阪には明治44年6月と大正元年9月に高潮が襲来しており、海面の上昇が前者は0.97m、後者は1.67mと記録されている。また大正6年10月の台風は東海地方に高潮をもたらしたが高潮の総高は3.94mであった。このように高潮について、海面上昇、波高、総高を説明したのは、後に高潮被害の特徴を解明するのに必要だからである。
大きな高潮を起すのは、颱風が湾の西側を通過した場合である。昭和9年9月21日、明治44年6月19日、大正元年9月23日の大阪湾の高潮、大正6年10月1日、明治44年7月26日の東京湾の高潮、大正3年8月25日、昭和2年9月13日の有明海の高潮は、いずれも優勢な台風がその湾の西側を通過したものである。これは極めて注目すべきことであり、若し台風が湾の東側を通れば大した高潮は起こらないとみてよい。この理由は、元来台風の風系は中心の周りに反時計式に廻転する方向に吹き、特に南の象限において風力が強い。従って例えば大阪湾の場合には、台風が最も接近したとき南西あるいは西寄りの風が卓越し、恰度沖から大阪地方の海岸えと海水を堆積せしめる方向に吹くからである。
わが国では、過去において数多の高潮を経験しているが、常習地ともいうべき地方がある。すなわち、東京湾、大阪湾、伊勢湾、有明海が有名で、これらの湾の特徴は太平洋側にあって湾の方向が南西に向って開いており、またその湾内水深が比較的浅いということである。これは日本を通過する台風は多くは南西洋上から北東に向って進行することを考えれば当然である。
また高潮は、大潮時の満潮時に来襲すると猛威をふるう。逆に干満の差が非常に大きい有明海に干潮時に台風が来ても大きな高潮は発生しない。
東京湾、大阪湾は津浪による災害は殆どないが、高潮には襲われ易い。概して高潮の常習地には津浪は少く、津浪の常習地には高潮は少いといえそうであるが、その点については後述する。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:935px
  • ファイルサイズ:73.7KB
津浪と高潮の襲来時の水位の変化

第三項 津波被害と高潮被害の相違

第一・二項に述べた如く津浪と高潮とは別のものであるから、そのもたらす被害様相が異るのは当然である。主な相違点について次に述べる。
(1)津浪は突然襲来するため人命の損失が多い無論、津浪は地震後に襲来するもので、三陸沿岸では大体地震後数十分で第一波が到来する。しかし地震に必ず津浪が伴うものがある、ということであって、しかも地震の強弱と津浪の襲来とは無関係のようである。明治29年6月15日の三陸地方の大津浪はやや長い微震後30〜40分に津浪第一波が襲来した。三陸沿岸の津浪の速度は毎秒6〜8m位であって、これは血気の青壮年が全速力で走る速さに相当する。それ故に沖合に津浪を認めて、直に取る物も取りあえず全速力で高地に向って逃げだせば逃げきれるであろう。しかし老令、幼弱の者、また青壮年でも財物を持出していると生命を失う。地震後、津浪を見ぬうちに、いち早く一家挙って高地に避難すれば助るが、数十年に一回来るかもしれぬ災害のため、殊に、夜中、寒中に避難することはいうべくしてなかなか行われがたい。結局地震津浪は数十分前に地震という予告があるにもかかわらず、突然襲来したのと同じ結果になる。明治29年の三陸津浪は死者約20,000人を生じた。人口稀薄な青森、岩手、宮城三県の三陸沿岸で20,000人の死者を生じたということは、信じ難いほど驚くべきことである。詳細な記録は残存していないので正確なことは知り得ないが、地震が地震であったので、恐らく避難することもなく、突然の状態で津浪に襲われたのであり、三陸沿岸一帯は全滅に瀕したであろう。宮城県本吉郡明戸部落だけで死者438人(男181、女257)馬72頭流失家屋91、浸水家屋102という記録が残っている。尚男の死者が女の死者に比して少いのは漁業のため海上に出ていたものが助かったためであるという。こころみに20,000人という死者を他の災害の死者と比較しておこう。明治以降、3,000人以上の死者、行方不明者を出した災害は次の8回である。
これでみると8回のうち、5回は地震または地震津浪である。日本で年々の災害被害金額の圧倒的に大きいのは台風であるが、人命の損失ということになると地震と津浪が圧倒的に多い。台風で人命の大量損失をもたらすのは、大都会に襲来して高潮を伴った場合である。
津浪が突発的であるのに対し、高潮は予め可成正確に知ることができる。台風の進行経路と干満時を注意しておれば数時間前に知ることができる。ある程度の財物と共に避難することは可能である。
津浪の常習地はリアス式海岸地帯である。このような地帯は広大の平野、良港に乏しく、大都会は発展せず、人口稀薄である。従って被害全額は比較的小さい。三陸沿岸、紀州沿岸、は適齢である。高潮の常習地は南西に開いた比較的浅い湾奥部である。東京湾、伊勢湾、大阪湾が適齢で、その奥部には東京、名古屋、大阪の如き大都会が発達し、その上年々埋立、干拓計画が進行するので被害はいよいよ大きくなる。しかし被害金額は小さくとも津浪被害は深刻なものである。
(2)津浪は10分乃至1時間の週期で時には一昼夜に亘って反復襲来するが、高潮は低気圧の接近とともに徐々に水位が上昇し、低気圧が去れば徐々に下降する。
高潮は一見波形を示すが、定常振動そのものではなく、いわば孤立波的な海面の全般的上昇である。
津浪の初動には二通りある。一つは地震後に何ら退水現象がなく、数十分後に突然大波が押寄せるもので、いま一つは地震後漸時にして一旦海水が退き(時には平常の引き潮では露出しない海底が現われる場合もある)それから大浪の襲来となるものである。古来日本の大地震津浪は後者に属するものが多く、世人は津浪といえば、まず海水の退潮で始まると心得ているが、験潮記録を検すると上述の如く二つの型がある。
津浪の最大波の順位は一定していない。第一波が最大であることが多いが、第二波、第三波が最大であることもある。最大波の順位を生ず原因は未だ不明であるが、大体において浪源に近く津浪のエネルギーの猛烈なところは第一波が最大であり、浪源から遠く津浪の微弱なところでは第二波、第三波、ときには、もっとずっと後の波が最大になる傾向がある。
高潮が津浪と根本的に違う点は、高潮は純粋の重力波ではなく、上昇海面上の吹送流であることである。吹送流は重力波と異り、上から下まで流れが一様でない。海面が一番速いが、時には深部に逆流を生じて高潮のエネルギーを消耗せしめる。逆流は深海部で発達し易い。そのため高潮は特に浅い海で発達するのである。
高潮は孤立波的な海面の全般的上昇であると述べたが、過去の記録によると、主要な大浪が東京湾の場合は2回、大阪湾の場合は1回現れている。これはその湾の副振動と関係があるもので、将来の高潮についてもこの習性は現れるものと思われる。
(3)津浪は主として機械的破壊力による被害をもたらし高潮は主として浸水被害をもたらす。
津浪は海上においては毎秒200m位の速度で伝播することは前述したが、もしこの速度で海岸を襲ったら大変である。しかし津浪は長波の性質をもっているので、海岸近くの浅海に入れば速度はC=√ghに従って激減し、同時に波長は短縮して波高は著しく増大する。
長波というのは水深に比べて波長の非常に長い波のことで普通の表面波と異り波の影響は海底にまで及ぶ。すなわち水分子の描く軌道は扁平な楕円形で、楕円の垂直径、従って波の高さは深さに比例して減じて海底では零となるが、水平直径、従って水分子の水平運動は表面も下層も殆ど変らない。つまり長波である津浪は沖合では波長の長さに亘って表面から下層まで水分子が運動しているのである。このような津浪が海岸に近づけば、前述の如く速度を減じ、波長を短縮するかわりに波高が著しく高まる。つまり速度と長さのエネルギーの相当部分が高さに転化するわけである。しかし速度を減じ波長を短縮したといっても普通の表面波に比べれば遙に速くまた長い。これに高められた波高が加わるから、その破壊力は極めて大きい。津浪の場合真に恐るべきは浸水被害ではなく、その機械的破壊作用である。津浪災害地を視察すると、微害地では浸水被害が強調される。中害地では家屋が傾斜、倒潰、分解して誠に惨澹たるものである。更に激害地にゆくと、津浪は家屋を木っ端みじんに粉砕して流去してしまうので、跡地には一木一草も残さず僅に家屋の礎石を残すのみで鬼気迫るという感じである。
高潮は広範囲に浸水して被害面積を拡大する。平均海面高が全面的に上昇するのであるから、殊にその襲来が大潮時の満潮時に一致すると大被害を及ぼす。浸水は大面積に及ぶが津浪の如き破壊力は発揮しない。台風通過後、浸水が引けば浸水家屋は復旧可能である。昭和9年9月21日の室戸台風の時、大阪湾の木津観測所では総高4.58mの高潮を被った。水嵩が天井に迫ったので観測所に避難していた人々は天井を破ってその裏に逃げこんだ。この出水は9月21日午前8時頃から午後5時40分までつづいたが、建物の倒壊、流失は免れた。また大正6年10月1日の東京湾高潮は総高3.94mに達し羽田燈台は水没したが破壊されはしなかった。高潮被害はその時の台風被害と混同されがちである。家壁の倒潰は多くは烈風によるものである。しかし高潮も機械的破壊作用を発揮する場合もある。高潮は平均海面が上昇し、その上を吹送流及び風浪が荒れ狂うのであることは前に述べた。この上昇海面上の浪はその波高が水深と一致するところで砕波する。この砕波時に破壊エネルギーを放出して破壊作用を発揮するのであって、砕波点附近の建築物は甚大な被害を蒙る。そこで高潮被害地を視察すると、一見奇異な現象に出合うことがある。すなわち海岸の汀線近辺はさまで被害が大きくないのに、それより遙か陸上部分に激害地を見出すことである。これは汀線近辺は海面の上昇により水没してしまい、その上面で荒れ狂った風浪は遙か陸上部で砕波したためである。
(4)高潮被害は遠浅海岸で大きくなるが、津浪の場合、海の深浅による被害の大小は一概にいえない。
高潮は日本の場合、南西部に向って開いた湾奥部に発達し、その上、■の水深が浅いと被害が甚大になることは前に述べた。津浪の場合はどうであろうか。
津浪は浅海に来ると速度、波長を減ずるかわりに波高は著しく高くなる。波高が高くなる地点附近に部落があれば、波高の高い津浪に襲われることになる。もし非常に距離の長い遠浅海岸で、しかも広大な砂浜をもっている海岸ならば、波高の高くなった津浪は更に浅海あるいは砂地を通過するため、ますますエネルギーを消耗して砕波し、部落に達することなく、また■しても、波高においても、速度に於ても殆ど無害の、軽微の浸水になってしまう。三陸沿岸につき過去の津浪の経験に基づき地区別に検討してみると次の通りである。
(i)外洋に面する海岸(八戸から宮古湾に至る海岸)
これはいわゆるリアス式海岸で、三陸沿岸では、八戸から宮古湾に至る近海地震の場合の津浪被害の常習地である。大体において絶壁沈降海岸で、僅かの平坦地に部落が成立している。この地帯に襲来する津浪は海岸附近も深海のため、速度、波長の減水が少く、波高はさまで高くない。もし、この地区に波高の高い津浪が襲来すれば、それは、速度も波長も減水していないのであるから、最も恐るべき津浪である。(明治29年の田老、小本は適例である。)
この地区の津浪は、破壊エネルギーが大きいので、波高が小さくても恐ろしい。波高だけで、大津浪、小津浪と区分するのは不合理である。次に岩手県下閉伊郡の田老と小本の明治29年と昭和8年の三陸津波被害の実例について説明する。
明治29年の波高は13.0mで問題なく大津浪である。殆ど壊滅的の被害を受け、死傷者1.623人家屋の被害345棟を出した。死者の数が、負傷者の数の約20倍に達しているのは、津浪の到達した地区の人々は殆ど逃げる暇もなかったのであろう。また家屋の被害は全部流失で、破損とか浸水という生易しいものは一棟もない。大津波中の大津浪である。
昭和8年の波高は8.0mで、これも大津浪である。流失家屋が明治29年よりも多いのは家屋数が増加したためであろう。また負傷者の割合が増加しているのは幾分避難の余地があったためかもしれぬ。
小本村の場合
明治29年の波高は11.0mで田老と同様に超大津浪である。注目を要するのは、昭和8年の津浪である。死傷者187人、家屋流失89棟であるが、当時被害地を視察した筆者の目には、海岸の部落は全滅していた。跡地には家屋の破損材もなく全くきれいに洗い流されていた。このような激害をもたらした津浪の波高が僅かに3.5mであったことに問題がある。これは、津浪被害、または津浪対策を論ずる場合、波高だけを問題にしたのでは不充分であることを証するものである。小本の場合、直接外洋の深海に面しい湾らしい湾もなく、小本川の生成した河口の小デルタ上に成立している。標高は海面に近く、ここに破壊エネルギーの減殺度の少い津浪が直接ぶっつけるのであるから被害は惨烈である。由来、津浪の激害地は(ii)に述べるV字型湾、U字型湾といわれる。綾里湾、吉浜湾、越喜来湾に見る如く、それは正しいが、小本、田老の如き外洋に直面した部落の被害は深刻なものであることw知らねばならぬ。この種の地帯は大都会、重要産業の発展する余地はなく、資本蓄積も僅少で、従って被害金額の点では莫大な額に達しないので、とかく忘れられがちである。余談であるが、昭和35年のチリ津浪が世人の注目を引いたのは、八戸、大船渡、気仙沼、高田、志津川、石巻等、三陸沿岸では最も人口過密な地域が襲われたからである。
昭和8年、3.5mの波高の津浪で被害を受けた小本は、昭和35年2.6-2.8mの波高のチリ津浪時には被害皆無である。これもまた、驚くべき事実である。これは田老、小本の場合、津浪が如何に破壊エネルギーを抱蔵していても、絶壁にぶっつけたり、あるいは部落に到達しなければ被害は発生し得ないのであるが、もし僅かでも陸上に襲来すれば大被害をもたらすことを物語るのであり、チリ津浪の2.8mでは被害皆無であるが3.5mの昭和8年津浪では激害をもたらすということである。小本の場合津浪の波高差1mが重要で、この意味においては津浪の波高は重大である。もっとも2.8mはチリ津浪であり、これと近海津浪の波高を単純に比較して結論を出すのは、軽率であるかもしれぬ。すなわち近海津浪の2.8mならば、あるいは多少の被害があるかもしれぬ。
この地区には殆ど高潮の被害はない。深海であるため高潮は発生しにくい上に、三陸沿岸を北上する9、10月の台風も北東に進路をとるため洋上遙か沖合を通過するからである。
(ii)V字型、U字型湾連続地帯(宮古湾から牡鹿半島に至る海岸)
この地帯には北から、宮古湾、山田湾、船越湾、大槌湾、両石湾、釜石湾、唐丹湾、吉浜湾、越喜来湾、綾里湾、大船渡湾、大野湾、広田湾、気仙沼湾、志津川湾、追波湾、名振湾、雄勝湾、御前湾、女川湾、鮫ノ浦湾とV字型、U字型湾及びこれに類する湾が連続し、古来津浪の激害常習地である。しかし、これらの湾のうち湾口が南に開いている大船渡湾、広田湾、気仙沼湾の湾奥部は従来近海津浪に対し殆ど無害で、北に開いている宮古湾、山田湾も被害軽微である。このような津浪被害の少い湾奥に大船渡、陸前高田、気仙沼、宮古、山田の三陸沿岸の主要都市が発展したのは偶然とは思えない。
さて、上記の例外を除いた諸湾はいずれも、浪源であるほぼ東に向って開いたV字、U字型湾である。外洋で発達した津浪がV字、U字型湾に到達すると、しばしば述べた如く、巾と水深の減少のため、波高を著しく増大して暴威をふるう。古来、「津波の高さが数10.0mに達した」といわれるのは、いずれもこの地帯である。(i)のリアス式海岸では波高はこれほど上昇しない。
この地帯のうち、明治29年、昭和8年津浪の波高の高かった地点につき、その被害状況を検すると次の如くである。
この表により次のことが推定できる。
(イ)過去において10m近い、あるいはそれ以上の津浪に見舞われた浪板、吉里吉里、片岸、箱崎、両石、平田、本郷、小白浜、吉浜、綾里白浜、長洞はいずれも湾奥部に位している。綾里湾でも最も典型的で、昭和8年には湾口で6mのものが湾奥の白浜では19mになっている。
(ロ)佐須は唐丹湾の湾口部にあるが、仔細に検すれば、唐丹湾内の小湾の湾奥部になっている。
(ハ)広田湾は様相を異にする。湾奥部の陸前高田市が常に無害であるのは前述した如く湾口が南に開いているためであろう。しかるに湾口部に位置する、泊、只越、石浜集、は明治29年、昭和8年ともに津浪が発達して大被害を被っている。
泊、集、は広田湾北岸の尖端にあり、実質的には広田湾内というより、外洋に突出した岬に位置していることによるのであろう。
広田湾の南岸は巨人の足の如くに太平洋に突出している。この突出部だけをみれば、リアス式海岸であり、只越、石浜はこの突出部の中心に位置して、しかも、浪源に直面しているのである。只越、石浜はむしろ前述の(i)外洋に面する海岸に入れるべきである。三好壽氏は岬のつけ根と尖端の中間あたりが被害が大きいと唱えている。
(ニ)赤崎は殆ど真南に開口した、しかも細長い大船渡湾の湾奥部に位置しながら、常に惨害を被り、殆ど接続している大船渡市が常に無害に近いのは説明に苦しむところで、特殊の原因が存するのであろう。
(ホ)波高においても、人命をはじめとする被害においても明治29年津浪は昭和8年津浪とは比較にならぬほど大きなものであったことは明瞭である。
この地区の高潮被害はどうであろうか。大体三陸沖の台風は三陸沿岸にほぼ平行して進行し、三陸沿岸に上陸することはまずないのであるから、大きな高潮は襲来しない。しかし、この地区は(i)区に比べれば台風は近海を通過し、時には接岸する。しかも、この地区は湾が連続しているのであるから、高潮の発生条件は具わっている。三陸沿岸の湾は東向して開口しているものが多く、これらが、津浪被害の常習地であるが、高潮被害については逆で、南東に開口する大船渡湾、広田湾、気仙沼湾の湾奥部、および石巻湾、松島湾が高潮の常習被害地である。ただ、いささか、おもむきを異にするのは志津川湾である。この湾は真東に開口しているのであるが、湾奥部の志津川は、従来、津浪被害は軽微または皆無であるのに高潮にしばしば襲われることである。
このように、三陸沿岸では、高潮に弱いところは津浪に強く、津浪に弱いとところは高潮に強いという原則がかなり顕著であるが、この原則は全国的にも大体あてはまる。
(iii)遠浅海岸(尻屋岬から八戸に至る海岸及び牡鹿半島から福島県界に至る海岸)
この地帯は遠浅海岸で、多くは隆起海岸であるので部落と汀線との間には広大な砂丘が発達しており、砂丘の害の甚しいところである。このような海岸の津浪は遙か沖合で波高が高まり、やがて砕波して完全な移動性の波となって押寄せるのであるが、浅海及び砂浜を通過するため著しく破壊力を消耗して到達するのであり、波高もさまで高くはならない。従ってこの地帯が津浪の大きな被害を受けるのは、よほどの大津浪、恐らく明治29年程度、あるいはそれ以上の大津浪の場合である。またこのような、なだらかな海岸では箇所毎に波高に大きな相違を来すことなく、殆ど一様である。
牡鹿半島から福島県界に至る海岸は、明治29年、昭和8年ともに多少の浸水家屋、農地被害を出した程度で無論人命の損失はなかった。また津浪の波高も明治29年は1m程度、昭和8年は0.5m程度であった。
尻屋岬から八戸に至る海岸は昭和8年の津浪高(明治29年は不明)2.3−3.0mであるが、明治29年、昭和8年ともに、北部の東通村、六ヶ所村では無害であったが、八戸市よりの三沢市、百石町でかなりの被害を出している。三沢市、百石町の合計被害を明治29年と昭和8年について示せば次の如くである。
この被害状況をみると、なだらかな遠浅海岸が被害が少いことは一概にいいきれぬ。殊に明治29年の場合は、人口稀芸のこの地帯で516人の死傷者を出し、家屋被害のうち7割までが、流出または全潰であることから、よほど大きな津浪であったことが想像される。このような地帯は後述するごとく防潮林が最も効果的に造成される場所である。
牡鹿半島以南の海岸と八戸以北の海岸で、このように津浪被害の様相を異にするのは、恐らく海底の状況の相違によるものと想像するのであるが、無論正確には不明である。
以上、三陸沿岸につき地区別に津浪被害を検討したが、従来、津浪被害を論ずる場合、津浪高のみを問題にしているが、これは不合理である。よって、次にほぼ同一波高の津浪が以上の(i)、(ii)、(iii)地区に襲来した場合の被害を比較してみよう。資料の関係で昭和8年津浪の際、3-5m程度の津浪の襲来した地点をとった。
以上(i)外洋に面する海岸(八戸−宮古湾)
以上(ii)V字型、U字型連続地帯(宮古湾−牡鹿半島)
以上(iii)遠浅海岸(尻屋岬−八戸)
(備考)牡鹿半島−福島県界については一様に0.5mで比較し得ない。
無論、各地区部落ごとの人口、部落の位置等さまざまの被害因子があるので、以上のような単純な比較は不合理であるが、外洋に面した深海海岸は、同じ波高の津浪なら他の地区に比して格段に被害の多いことは断定できよう。
尚、この報告で津浪は突発的の天災で、人命の損失が、他の災害に比して圧倒的に多いことが特徴であると考えるからである。
(5)津浪は高潮に比して海中の被害が遙に大きい。
三陸沿岸はノリの養殖がさかんで、沿岸一帯にノリシビ(直径3寸、長さ10−40尺の竹)が林立している。このノリシビが、津浪時にはザワザワと音を立てる。高潮のときにはこのような現象はない。また今次チリ津浪の際、気仙沼湾内で漁魚のため約50分漕ぎ出した舟が、津浪に遭遇して僅かに7〜8分で、出発地に逆送された事実が報告されている。これらの事例は、津浪は普通の波と異り、海中あるいは海底まで水分子の水平運動を伴っていることを物語るものである。高潮は海面が上昇して、その表面を波浪が荒れ狂うのであるが、津浪は海底まで水分子が実質的に運動し、しかも長時間に亘って数回襲来するため殊に海中(真珠養殖の如きはその適例)の被害は甚大である。三重県の鳥羽から紀州沿岸にチリ津浪が襲来したのは5月24日午前4時30分頃で、3m近い第一波が、その後3-40分の週期で同規模のものが終始襲来し、その間物凄いうなり(水分子運動に伴う音)を生じ、翌25日も尚海面は異常であった。当時現地にいた人は「台風は頭を下げていれば直ぐに過ぎるが、津浪は真におそろしい」といっていた。同地方では人命の被害はなかったが津浪による海水の撹乱のため渦巻を随所に生じ、真珠イカダは三重四重にもつれあい、ダンゴのようになって沖に流された。伊勢湾台風時に比し被害が深酷なのは、津浪が渦をまきおこし、イカダがキリキリ舞いして貝が筏からバラバラにまき散らされ、海水は独り、落ちた貝は砂に埋まって死んでしまったこと、また引き波でイカダが沖え持ち去られ、沖の海中深く貝が沈んだため貝の回収が困難であったためである。昭和34年9月26日の伊勢湾台風時には貝は陸上に打上げられたため回収率が多かった。
このようなわけで三重県沿岸の真珠養殖業に対しては伊勢湾台風高潮よりもチリ津浪の方が、次の2例に示す如く被害が大きかった。伊勢湾台風は室戸台風、枕崎台風と共に昭和時代の三大台風で、しかも三重県沿岸に上陸しているのであり、三重県沿岸の台風として最大級のものである。一方チリ津浪は三重県に襲来したのは、津浪としてはむしろ緩慢なものである。近海地震のもたらした過去の三陸津浪、南海道津浪に比すれば小津浪の程度である。海中の被害に関しては小津波でも最大台風よりも被害が大きいのである。
すなわち、この表によれば、
(イ)保有介数合計は伊勢湾台風時には289,952,000介、チリ津浪時には152,186,000介で、後者は前者に比し約52%を保有していたにすぎない。それ故に両災害が同じ性質程度のものとすればチリ津浪時の被害介数合計は伊勢湾台風時の被害介数合計の大体半分でよいわけであるが、実際の被害介数はチリ津浪時には107,450,000介、伊勢湾台風時には111,198,000とほぼ似た数字になっている。保有介数合計に対する被害介数合計の百分率はチリ津浪時には70%、伊勢湾台風時には38%ということになる。
(ロ)被害介数は伊勢湾台風時の方が3,748,000介多いが、チリ津浪時の方が被害程度が大きいため被害金額合計でみると、伊勢湾台風時4,017,570,000円、チリ津浪時、4,826,450,000円でチリ津浪時の方が約8億円多くなっている。
(第2例)これは三重県志摩郡虞湾内の御木本真珠養殖場における伊勢湾台風とチリ津波による被害を比較したものである。
風水害費 1.伊勢湾台風被害
本社・工場
固定資産の減失
□建物 1527,754
□機械設備 44,000
□器具什器 12,092
△給料振替 215,405
□固定資産修繕費 366,010
その他 194,606
養殖場
固定資産の減失
□建物 1,006,049
□機械設備 211,733
金網籠 292,459
浮樽 264,197
錨 11,809
枠 410,018
船舶 26,233
器具什器 16,666
棚卸資産の減失
黒介 4,514,918
母介 4,714,196
稚介 668,437
△給料振替 7,035,299
固定資産修理費 1,499,105
回収費その他 2,704,919
伊勢湾台風被害合計 25,735,905
□固定資(陸上)
△給料その他
風水害費 (ii)チリ地震津浪被害
養殖場
固定資産の減失
金網籠 901,196
錨 266,446
浮樽 505,076
枠 2,108,612
ワイヤロープ 409,379
棚卸資産の減失
黒介 15,057,086
母介 5,942,902
稚介 3,778,179
△給料振替 724,570
その他36,795
チリ地震津浪被害合計 29,730,241
このように伊勢湾台風時の被害25,735,905円に対し、チリ津浪時の被害は29,730,241円である。もし陸上の被害及び給料その他を除けば、伊勢湾台風時15,317,563円、チリ津浪時29,005,671円となり、海中の被害は高潮よりも津浪の方が遙に大きいことを示している。
また、北海道の厚岸では、海につづく厚岸湖で養殖していたカキ、アサリ、が外洋に流出して、2億円近い被害があった、と報告されている。
(6)津浪被害は津浪の進路だけであり、高潮の被害は遠隔地にも及ぶ
大きな波浪が襲来すると、砕波した海水の飛沫は相当遠隔地にも及び、農作物、樹木に広汎な被害を与える。高潮の場合には風も強く波も高いのであるから被害は特に甚大である。これ防ぐために古来防潮林が海岸に設置せられ、卓効をあげている。この点、防波堤の発揮しえない効果を防潮林は発揮する。
津浪の場合は、相当沖合から移動性の浪が押寄せるのであり、汀線附近で砕波することは稀で、風も特に強いわけではないので、津浪の発達しない農地の被害は皆無にちかい。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:917px
  • ファイルサイズ:162.8KB
明治以降の災害表
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:465px
  • ファイルサイズ:80.6KB
田老の三陸津波被害
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:448px
  • ファイルサイズ:77.3KB
小本の三陸津波被害
1/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:79.4KB
2/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:77.8KB
3/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:83.5KB
4/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:87.9KB
被害表
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:907px
  • ファイルサイズ:139.6KB
(第1例)三重県における「チリー地震津浪」と「伊勢湾台風高潮」による真珠関関係被害比較表(三重県水産課、全国真珠養殖漁業組合共同調査より作製)

第三章 チリ地震津浪の特徴

昭和35年5月24日、日本太平洋全沿岸に到来したチリ津浪は、第二章に述べた近海地震津浪とはさまざまの点で様相を異にしている。その相違点を順次説明しよう。三陸沿岸の津波対策を考究する場合、今次チリ津浪を対象としたのでは、大きな手抜かりを生ずる恐れがあるからである。

第一項 襲来区域

今次チリ津浪は襲来区域が極めて広汎である。すなわち北は北海道歯舞から南は鹿児島県南端に及び、尚、伊豆大島はもとより八丈島、奄美大島、種子島、喜界島、徳之島等の離島にも一様に影響をもたらした。概して、東日本の方が西日本よりも津浪高が高く、房総以西で津浪高4m以上を記録したところはなく、熊野市以西では3m以上を記録したところはない。しかし、鹿児島では3-4mに達したところが多く、奄美大島の笠利村では5.6mを記録している。一方、北海道では、釧路支庁の尺別、十勝支庁の大津で4mに達したのが最も高かった。三陸沿岸は津浪高が最も高く、4m以上の地点は枚挙にいとまなく、青森県九戸郡玉川、宮古湾奥部、大船渡市、陸前高田市、宮城県本吉郡平磯、牡鹿郡大谷川、石巻市蛤浜では5mを越した。
このように日本の太平洋全域に亘って同一津浪が襲来したのは稀有の事例に属する。由来日本に津浪の常習地が3つあることは前述した。すなわち、日向−房総半島西岸、三陸沿岸、北海道東海岸であるが、従来の経験によれば、三陸津浪は房総以西に影響を及ぼすことなく、また房総以西の津浪は三陸、北海道に影響を及ぼすことはなかった。今次チリ津浪はこの3つの区域に万遍なく、しかも相当のエネルギーをもって襲来したのであり、多分、古今未曾有のことであろう。これは、今次チリ津浪は日本からみれば非常な遠海津浪であったこと、また、地震規模がとてつもなく大きかったことによるのであろう。

第二項 津浪被害地

三陸沿岸の津浪被害常習地はほぼ一定していることは第二章に述べた。ところが今次チリ津浪においては、これら三陸津波被害常習地は挙って無害または微害である。すなわち岩手県北部のリアス式海岸の外洋に面した普代、田野畑、小本、田老、および岩手県南部の船越湾、両石湾、唐丹湾、吉浜湾、越喜来湾、綾里湾の如き従来津浪被害の激甚なことでは札付きの地区が、今回は被害皆無に近いほど軽微であってこれらの地域を通じて死傷者は一名もなかった。これに反し、誠に皮肉なことに従来三陸津浪に対し無害かまたは被害軽微な岩手県北部の種市、久慈市及び宮古湾、山田湾、釜石湾、大船渡湾、広田湾、志津川湾、石巻湾、松島湾は相当な被害を被り、なかんずく大船渡市では53名、高田市では8名、志津川では■名の死者を出した。被害金額についてみれば今次の津浪は八戸、宮古、山田、釜石、大船渡、高田、気仙沼、志津川、石巻、塩釜等三陸沿岸の主要都市を襲ったので非常に大きくなった。岩手県の被害金額約98億円のうち、54億円は宮古、山田、大槌、釜石、大船渡、高田の6都市に発生したものである。これに対して従来の津浪被害常習地の被害金額は軽少で、町村合併で吉浜、越喜来、綾里を統合した三陸村が74,560,000円(大部分は水産関係被害)普代村約2,000千円(大部分は水産関係被害)田野畑、田老、小本は零または零に近い。津浪である以上、波高、流速の大小にかかわらず必ず水分子の水平運動が海中深く及ぶことは第二章で述べたところであり、沿海にノリ、カキ等の養殖を実施しておれば被害は免れがたい。すなわち、従来の三陸近海津浪の激害常習地の陸上被害は零に近いのである。つぎに、今次チリ津浪の波高の5m以上に達した地点の昭和8年、明治29年の波高(第1表)および明治29年、昭和8年津浪の波高の特に高かった地点の今次チリ津浪の波高(第2表)を示しておく。
このように、今次チリ津浪の被害地は北から、八戸−野田海岸、宮古湾、山田湾、釜石湾、大船渡湾、広田湾、気仙沼湾、志津川湾、追波湾、名振湾、雄勝湾、女川湾、石巻湾、塩釜湾であり、これは高潮の被害常習地とほぼ一致するのである。三陸沿岸の過去の高潮時の波高を知る資料の持合せがないので、数字で示し得ないのは遺憾であるが、概括的に、今次チリ津浪の被害地は、過去の近海津浪の被害地とは甚しくずれており、却って、過去の高潮被害地と一致する、といいうる。
最も適切な例として広田湾奥部の陸前高田市を上げておこう。高田市は今次のチリ津浪で5mの津浪に見舞われ、死者8名を出した。大部分は高齢者で、明治29年、昭和8年の経験から、高田には津波は来ないと信じて避難せず、いざ津浪が襲来したときには逃げおくれた、というのである。また高田市は高田松原と呼ばれる見事な海岸林でまもられているが、この松原は津浪防止のために造成されたものではなく、高潮の被害を防止するため寛文年間に造成されたものである。すなわち、松林内に次の如き石碑が現存している。
“高田松原は立神耕地の風涛を防がんため高田村菅野埜之助翁仙台藩主の許可を得寛文年間人夫を督して松樹を植栽し・・・・・・・・新沼三郎”撰書並篆”
また、チリ津浪被害は殆ど湾内で、外洋部の殊に深海海岸では殆ど被害をみない。これも高潮時の被害地と符合する。
チリ津浪は北海道太平洋岸にも被害を及ぼした。しかも、過去の三陸近海津浪の場合よりも大きいのであり、これもチリ津浪の一つの特徴である。
北海道の太平洋岸は大体においてなだらかな海岸で、津浪特有の苛烈な被害は生じないものと従来考えていた。
チリ津浪で津浪高3m以上に達したのは次の地点である。
(括弧内は津浪高m)
根室支庁 花咲(3.2)落石(2.9)
釧路支庁 ポンポロト(3.6)幌戸(3.5)
榊町(3.5)浜中(3.9)
霧多布(3.3)厚岸(3.5)
門静(3.5)苫多(3.0)
沖万別(3.4)尺別(4.0)
十勝支庁 大津(4.0)
日高支庁 幌満(3.7)
胆振支庁 白老(3.0)
これらのうち、花咲、落石はU字型湾奥部に、ポンポロト、幌戸、榊町、浜中、霧多布、は浜中湾奥部に、厚岸、門静、苫多、沖万別は厚岸湾奥部に位置し、これらの湾はいずれも南東乃至南向である。また、尺別、大津、幌満、白老はそれぞれ尺別川、大津川、幌満川、白老川の河口に位置している。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:943px
  • ファイルサイズ:127.3KB
(第1表)チリ津浪の高かった地点
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:59.6KB
(第2表)明治29年、昭和8年津浪高の高かった地点
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:77.2KB
(第2表)明治29年、昭和8年津浪高の高かった地点(続き)

第三項 津浪の襲来速度と破壊力

津浪の伝播速度は洋上では毎秒200m位である。今次のチリ津浪も浪源地のチリ沖から日本の太平洋沿岸宮古までの約18,000kmを、22時間37分で到達しているのであるから、毎秒200mということになる。しかし、津浪は無論このような高速で沿岸に襲来するのではない。浅海に来ればずっと速度はにぶり、波高と海深とほぼ一致する地点に到達すると、完全な移動性の波となって、更に速度を落として泡立ちながら襲来するのである。この海岸線から部落に向って襲来する移動性の波の速度を知るのは津浪対策樹立上非常に重要なことである。
過去の近海津浪の経験によれば、この津浪の襲来速度は、毎秒7-8m位で、沖合に津浪を見てから逃げ出したのでは、なかなか逃げきれない速度で、アットいう間に津浪が来たと形容される。これに比べるとチリ津浪は、その襲来速度がよほど緩慢であった。少くも避難する余裕は充分にあった。その時の状況を知るため、チリ津浪被害の最も甚しかった志津川町の志津川小学校生徒のチリ津浪に関する作文2つを示しておく。
(昭和35年6月20日朝日新聞掲載)
(1)6年生、山崎節子
「おかあさんと近くの東川へ見に行ったら、水がどんどんきて、船や材木が流れてくる。水がどっと東の道路に入ったので、あたりの人が、これはだめだ、といった。私はおかあさんの手をひっぱって一生けん命走った。そのあとを水がおっかけてくる。やっと家について妹を起したが、そのときはとなりまで水が来て、私ははだしで逃げた……」
(2)6年生、鈴木美知子
「------犬が死んだのも悲しいけれどあきらめて、家に行ってみたら、家は残っていたが中に入るとめちゃめちゃで、びっくりしました、水は天井まで入り、あたりをみると、二軒の家が私の家にのっかかっていた。材木などが水と一緒にドウドウと流れてくるのを見たとき、こわくてふるえがとまらなかった。」
また、気仙沼市の三浦定雄農林課長は、恰度上げ潮の大きいもののような状態で押し寄せてきた、と語っていた。
このように、チリ津浪の襲来速度が比較的小さかったことは不幸中の幸であったのであり、そのため、近海津浪特有の苛烈な破壊力を発揮しなかった。志津川湾内の波伝谷では津浪高は昭和8年よりも高かったが、家屋は流出しなかった。
襲来速度が小さかったという点では、今次チリ津浪は、昭和21年12月21日の南海道大地震による津浪と似ている。森田稔氏(当時仙台管区気象台)の南海道津浪の調査報告は津浪対策樹立上非常に参考になるので、その一部を次に揚げておく。
「日和佐では人の走る程度の速さであったと報告されている(福井氏)。また甲浦では子供の歩く程度だったと報告されている(田中氏)。一般に潮がじわじわと満ちてくるような感じだったという者が多く、胸までつかりながらも逃げられたという(田中氏)。浪災地において筆者が見聞したところもこれと一致し、例えば海岸の波打際にある家が二階の畳の上まで水につかりながらも流れずにいたり、(新庄、牟岐)また家のこわれた材木が遠くえ流れずにそのままその附近に残っていたり、二隻の大型漁船と一隻の中型漁船とが仲良く頭を並べて、町役場と隣家の間の空地に押し込んでいるのに家がほとんどこわれていなかったり(牟岐)するのは、これを裏書きする事実といえよう。
津浪の来襲が意外に早かったにもかかわらず、今度の津浪に被害が少かった原因は他にもあるが、この流速が小さく、津浪がすぐそこに来てからも逃げられたということが、一つの有力な原因と認められる」
森田稔氏は三陸地方津浪警戒上の参考資料を蒐集するため、仙台管区気象台から約2週間、紀伊水道にのぞむ地方に出張調査されたのである。森田氏は三陸津浪に関しては充分の知識をもっておられた。その森田氏の目に映じた南海道津浪の被害はむしろ軽微のものであったのであり、上掲の如き報告書が生れたのであろう。同様に、昭和8年三陸津浪を実査した筆者の目には、チリ津浪の被害は、津浪被害としてはさまで大きな被害とは映じない。さらに、筆者が昭和8年三陸津浪を実査したとき、親しく御指導を受けた今村明恒博士は、明治29年三陸の超大津浪を頭に描いておられたので、昭和8年三陸津浪被害さえ大被害とは受取られなかった。当時、昭和8年津浪を対象として防波堤、防潮林等の津浪対策が樹立されたのであるが、明治29年津浪が頭にある今村博士は、「このような施設の効果は零とは申しませんが、極めて微々たるものであります」といわれたのを、筆者は記憶している。
人間は自ら実見したものでないと、実感が伴わない。筆者には昭和8年以上の大津浪を想像することはできない。同様に、チリ津浪対策に従事した大部分の人々は、チリ津浪以外の津浪の知識がない。従て、チリ津浪被害は大津浪被害と映ずるであろう。今村博士の心配された明治29年津浪の如き大物はこの後65年間襲来しなかった。しかし、今後このような大物は来ないという保証はどこにもないし、貞観11年と慶長16年には明治29年以上の超大津波が三陸沿岸に襲来しているのである。チリ津浪を対象とした津浪対策は肝要であるが、もし、これで三陸沿岸の津浪対策は完成したと考えたら大間違いであり、また沿岸住民が津浪に対して安心感を抱いたなら、大怪我のものとである。
この項を終るに当り、チリ津浪は、本場のチリではどのような様相を呈したかにつき、一言ふれておく。昭和35年7月9日の朝日新聞は高橋龍太郎博士に随伴した林田重五郎特派員の次の如き記事を掲載している。
「5月22日の大地震で南チリの太平洋岸は津浪に襲われた。コラルもその一つである。『震源はカジエナジエ河口以南の太平洋であろう』と高橋団長は推定する。ランチが1時間半川を下って太平洋の河口に近いコラルえ近づいた。-------丘の上や古城の砲台の上の建物は別として船着場附近は何もない。唯一つ黄色い鉄筋の二階建ての骨組みだけが残っていた家があった。-------岬を廻ってアッと息をのむ。巾3-400m、奥行き1,000mの谷間に建っていた800戸が流失してしまっている。見る限り家の土台だけだ。映画館もあったのだそうだが何もない。高橋団長が『三陸と同じだ』とポツリともらす。------説には海岸で高さ5m、谷の奥で10mになったという見方もある。------何もなくなった津浪の町の表情は地震の町より沈痛である。」
チリ津浪は、チリの太平洋沿岸においては無論、近海地震津浪であって、津浪の襲来速度、従て破壊力は大きかったと思われる。林田特派員の文章中、コラルにおける津浪高5-10mとあるが、もしこれが今次の最高津浪高とすれば、昭和8年三陸津浪の破壊力に匹敵する津浪であろう。文中、高橋博士が、三陸と同じだ、といっておられるのは、当時博士は未だ三陸チリ津浪被害地を視察しておられぬのであるから、昭和8年三陸津浪と同じだ、という意味であろう。
蛇足を重ねるようであるが、チリ津浪の波高は、チリのコラル海岸で5m、日本の三陸沿岸の陸前高田市でも5mということになる。同じ5mでも、破壊力の点では雲泥の相違というべきである。
津浪の襲来速度は以上述べたように大きい場合と小さい場合とがある。如何なる場合に小さいかということは不明であるが、考えられることは、遠海津浪であり、海深の浅い海岸に押寄せた場合は、チリ津浪の如くに速度が小さいということである。しかし、すでに述べたごとく、昭和21年の南海道津浪は主として和歌山県のリアス式海岸を襲った近海津浪であったにもかかわらず、襲来速度が小さかった。将来の研究にまたねばならぬ。

第四項 津浪の浸水区域

今次のチリ津浪は襲来速度が小さかったので、人命の損失は過去の三陸近海津浪の場合に比して遙かに少なかったのは不幸中の幸いであった。しかし、浸水区域は遙かに大面積に及んだため、津浪による被害金額は、岩手県56億円、宮城県114億円、青森県50億円、と莫大なものになった。チリ津浪の一つの大きな特徴は、浸水被害が津浪被害の主体であった、といえることである。高潮は平均海面の上昇のため、浸水面積が大きくなる。チリ津浪の浸水被害面積の大きかったことは、その点で高潮の被害様相に似ている。但しチリ津浪の場合は、海水飛沫による潮風害は無論伴っていない。
過去の記録に乏しいので、明治29年、昭和8年三陸津浪の浸水面積とチリ津浪の浸水面積とを、数字を以て比較しえないのは遺憾であるが、宮城県庁治山課で作製した明治29年、昭和8年、チリ津浪の浸水区域を示した地形図は参考になるので、その一部(気仙沼附近、志津川附近、石巻及び塩釜附近)を掲げる。
何故このようにチリ津浪の浸水区域は広くなったのであろうか。チリ津浪の襲来状況を現地の有識者にきいてみよう。
気仙沼市役所農林課長 三浦定雄氏談
「今度のチリ津浪は昭和8年三陸津浪に比し、浪が上げてくる時間が長かった。したがって、陸上に上げた水量が多かった。」
岩井崎、祝崎金刀比羅宮宮司清原章二氏談
「今度のチリ津浪は、明治29年、昭和8年三陸津浪に比し、波高が低かったため、高い所は冒さなかったが、低い所の浸水面積は大きかった。」
三浦氏の談は気仙沼湾奥部についてであり、清原氏の談は気仙沼湾口部についてであるが、完全に一致している。すなわち津浪高は低かったが、一つ一つの津浪波(第1波とか第2波とか称するもの)が襲来し始めてからおわるまでの時間が非常に長かったということであり、大きな上げ汐の如くに押寄せたのである。したがって、陸上に上げた海水量は莫大な量となり、これが比較的低地帯に万遍なく広がったため、浸水面積が大きくなったのである。
このような現象がなぜ起ったのかについて定説はないが、筆者はチリ津浪のは長が極めて長かったことによるものと考える。チリ津浪は大体40分位の週期で襲来しているのであるから、平均海深4,000kmの太平洋上では、恐らく500km以上の波長をもっていたであろう。無論、接岸して浅海に来れば波長は著しく短縮するが、元来が超大長波であるから、浅海に入って完全な移動性の波となってからも相との長さであり、莫大な海水量を揚陸したわけである。
このため、チリ津浪は、従来からの津浪被害常習地である。狭小な農漁村部落地帯に、津浪特有の苛烈な惨害をもたらすことはなかったかわりに、人口過密で、財物の多い、経済活動の旺盛な低平地帯の大面積に侵入し、そのため被害金額が増大したのであり、これもチリ津浪の著しい特徴である。
津浪浸水区域地形図
今回は省略する

第五項 津浪の初動、週期、最大波、順位及び継続時間

(i)津浪の初動
チリ津浪は地震という予告なしに襲来した。このことはチリ津浪の一つの特徴である。
日本では、いままでは、地震を感じないで大津浪が襲来した例はなく、不幸中の幸とされた。津浪に予告が伴うのは世界共通の事柄ではない。例えば、ハワイ島は、しばしば、4,000kmも離れたアリューシャン列島附近の地震に起因する津浪に襲われるのであるが、地震を感知できる範囲は、1,000km位であるから、ハワイ島には地震の予告なしに津浪が襲来するわけである。
従来、日本太平洋岸では地震と津浪初動との間にどれくらいの時間があったかを記録により調べてみよう。
古い所では、宝永4年10月4日の畿内東海南海津浪は地震後一時間で高知へ、安政元年11月4日の東海道津浪は地震後15分で下田え第1波が襲来したと記録されている。
明治29年6月15日の三陸津浪はやや長い微震後30-40分で襲来している。大正12年9月1日の関東大震災の津浪は地震後5-6分で10mの津浪が熱海、伊東に押寄せた。昭和8年3月3日の三陸津浪は30余分後となっている。
昭和19年12月7日の東南海道津浪は熊野灘が中心であったが、地震後、10分位で勝浦え、15分位で島沖、吉津え、20分位で尾鷲え到達している。また、昭和21年12月21日の南海道津浪では、下津、湯浅、御坊、田辺には20-30分で、東富田には10分で、周参見には3-4分で、江田には2-3分で、徳島、高知海岸には10-20分で到達している。この津浪のとき、高知県須崎市野見では、地震の震動が終らぬうちに第1波が襲来したと伝えられているが、事実とすれば稀有の例である。
東条貞義氏は明治5年以後の資料により、地震後、津浪が海岸までくる間の余裕時間を次のように示している。
津浪の初動はなかなか正確を期しえない。聞き取りによれば無論個人的誤差を免れない。験潮儀記録によるときは、どんな小さな振幅でも最初に現われたものを第1波とするか、被害を与える程度の最初の大きな振幅を第1波とするかによって余裕時間は異るわけである。現に明治29年三陸津浪は地震後30-40分で襲来したことになっているが、その前に、地震後18分にしてすでに海水に異常を呈していた。また、地震後間もなく相当大きな余震があった場合には、余震から起算すれば余裕時間は短くなるわけであり、余震最中に津浪が襲来すれば、地震の終らぬうちに津浪が来たと感ずることもあろう。
さて、チリ津浪は当然のことながら、地震の予告なしに襲来した。過去のチリ地震津浪で日本まで伝播したものは2回である。すなわち、明治39年8月17日のパルパライソ地震と大正11年11月11日のアタコマ地震とであるが、いずれも験潮儀に記録を印したに止まり、大被害をもたらしたのは今回が始めてである。
今次のチリ津浪は昭和35年5月23日午前4時10分頃(日本時間)チリ中部沖合(南緯37°、西経73°)を浪源とするもので、約22時間半を費して翌5月24日午前4時前後から日本の太平洋岸一帯に襲来した。第1波の襲来は八戸3時15、久慈3時00、月浜3時05、気仙沼4時30、志津川4時40、雄勝4時42、女川4時25、となっている。この津浪は週期が長いため、波の傾斜が非常にゆるやかで、そのため遠浅海岸に達しても磯波のように波の前面がけわしくならないで、満ち潮のように海面全体がもり上がるような印象を与えた。波が引く時は平素の干潮時よりもずっと沖まで海底が露出した。この潮が上がる時砕波した所と砕波しなかった所があるように考えられる。砕波しなかった場合はエネルギーの一部はそのまま上陸して陸上の被害を大ならしめ、残りのエネルギーは反射して沖に向うことになる。
このような津浪が予告なしに、しかも、午前3-4時に突如襲来したのである。文字通り寝耳に水であったであろう。
チリ津浪はハワイを通過し、それから約10時間で日本に到達する。地震の予告はなくとも、ハワイの津浪情報を入手できれば将来は気象庁によって津浪警報がかなり正確に発せられよう。
(ii)津浪の週期
津浪の週期は、その湾固有の副振動に一致する傾向のあることは第二章第一項で述べたとをりである。普通、週期といえば卓越週期を意味する。実際には週期を異にする小振動も交っているのであるがこれらは省略される。
チリ津浪の週期は、八戸36分、久慈42分、月浜36分、気仙沼37分、志津川46分、雄勝32分、女川46分で、大体において40分程度であった。明治29年三陸津浪は週期20分といわれるので、その約2倍である。また昭和21年12月21日南海道津浪は室戸で3-4分、細島で42-50分という異常な数値を示しているが、10-15分の所が最も多かった。昭和19年12月7日東南海道津浪の時は10-60分であった。以上のように津浪の週期は従来の経験によると、三陸地方では大体似たような数値を示すのに対し、東南海道の場合は地点によって著しく相違するといえる。
チリ津浪の週期が概して40分であったということは、チリ津浪全体として週期が長かったということであり、これが(i)に述べた如く、全般的に満ち潮の如き性格の津浪となった主要な原因と考えられる。
(iii)津浪の最大波順位
津浪の最大波の順位は何によってきまるか不明であるが、浪源からの距離、津浪の強さによるらしい。すなわち、浪源に近く、猛烈な津浪であると、第1波が最大になりがちで、浪源から遠く、微弱な津浪であると、第2波、第3波、あるいは、更にずっと後の波が最大になる傾向がある。例えば、対象12年9月1日の関東大震災による津浪は、熱海、伊東では第1波が最大であったが、遠距離の串本では第6波が、鮎川では第十数波が最大であった。
過去の津浪について最大波をしらべてみると、古くは、宝永4年10月4日畿内東南海道津浪の最大波は第3波であったといわれる。明治以降の大津浪については、明治29年三陸津浪では第2波が、昭和8年三陸津浪では第1-3波(湾により異る)が、昭和19年東南海道津浪では第2波または第3波が、昭和21年南海道津浪ではところにより第1、2、3波が最大であった。
チリ津浪については、現地では第2波が最大であったとの話にしばしば接した。また津浪直後そのように発表した学者もあった。しかし、検潮儀記録を検すると観測地点により全く千差万別の結果を示している。一例として宮城県についてみると次表の如くである。
この表でみると最大波または最大波に次ぐ波は、大部分は第1、2、3波ではなく、ずっと後の波であったことが判る。気仙沼では最大波は、津浪初動後約9時間を経過した12時45分に第10波として襲来している。最大波に次ぐ波は2回にあって15時30分(第14波)と翌25日の1時15分(第25波)に襲来している。最も以上なのは塩釜である。最大波は第27波で翌々26日の2時10分に到達し、最大波に次ぐ波は翌25日の3時30分に到達している。
このように、今次チリ津浪においては、最大波が著しく後の波になっているのが一つの特徴で、これは、チリ津浪が、遠距離津浪であること、および日本太平洋沿岸では猛烈な津浪ではなく、場所によっては緩慢な津浪であったことを証明するものといえる。
(iv)津浪の継続期間
チリ津浪は継続期間が非常に長かったものも一つの特徴である。各地域と、24時間以上継続した。仙台管区気象台によればチリ津浪は二昼夜継続したという。現に(iii)で述べたごとく、塩釜では津浪初動後約46時間を経過してから最大波が出現しており、海面の異状は26日6時45分まで継続しているから、二昼夜以上ということになる。
チリ津浪の継続時間の長かった原因は二つあると考える。すなわち、湾内の反射と外国からの反射である。
(イ)湾内の反射
チリ津浪のような週期の長い津浪は、波の傾斜がゆるいため、海底の状況によっては、砕波しないでそのまま上陸する場合がある。この場合、上陸した破壊エネルギーは陸上被害を大ならしめるが、エネルギーの一部は反射して沖に向う。湾奥と湾口でこの反射現象が起ると、津浪のエネルギーの一部が湾内に閉じこめられて、湾岸の各地に長時間に亘って何回も波が押し寄せることになる。
(ロ)外国からの反射
チリ津波は日本だけでなく太平洋全域に伝播した。日本以外に伝播された津浪は一旦外国を襲い、これが反射されて日本を襲うものもあるわけで、この場合日本に到達する時間はおくれる。このような外国からの反射の到来が、今次チリ津浪の継続期間の長かった主因であろう。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:308px
  • ファイルサイズ:44KB
津浪が来るまでの余裕時間

第四章 津浪防御施設としての防潮林

防潮林の津浪に対する効果その他については、鎌田藤一郎(防潮林の史的考察)、中野秀章、樺山徳治(防潮林の効果事例及び防潮林整備に関する問題点)、玉城哲(防潮林の経済効果)の諸氏がそれぞれ詳述しているので、なるべく、これらとの重複を避けながら、統括的に津浪防御施設としての防潮林を検討してみたい。
今次のチリ津浪においては、防波堤の効果が非常に高く評価された反面、防潮林の効果については、地元市町村民の間においてさえ、懐疑的となり、防潮林の整備については熱意を示さない傾向が現われた。この辺の事情に重点をおいて考察してみたい。

第一項 昭和8年の震災予防評議会の「津浪災害予防に関する注意書」

かつては、津浪に対する防潮林の効果は疑問の余地はないものとして受取られた。チリ津浪後の一般状勢は防潮林の真の効果を再認識せねばならぬことを痛切に感ずる。そもそも防潮林は津浪に対して果して、古来伝える如くに効果があるものかどうか、この点から始めねばならぬ。
そこで、まず「津浪災害予防に関する注意書」を照会するのが便利である。昭和8年3月3日の三陸津浪は世人の注目をあつめた。それは明治29年以来約40年ぶりの大津浪であったこと、大正12年9月1日関東大震災以降、さまで大きな災害がなかったこと、満洲事変は始まっていたがまだまだ戦争えと拡大していくとは考えられなかったこと、等概して平穏な社会状勢下の大災害があったためで、津浪災害に対する応急並に復旧対策は速急に着手せられた。この時地味な存在であった震災予防評議会は「津浪予防に関する注意書」を発表した。この注意書は当時今村明恒博士が中心となって作製せられたもので、昭和8年三陸津浪対策の根本となったものであり、今日に至る迄、これ以上のものは発表されていないのであるから、チリ津浪対策を樹立するためにも貴重な資料である。
この注意書においては、海岸線の形状及び海底の深浅と津浪の加害状況との関係を知るために、港湾の地形を次の如く甲、乙、丙、丁の4類に分けている。
甲類、直接に外洋に向える湾
第1 湾系V字をなせる場合
津浪は湾奥に於て10m乃至30mの高さに達し、汀線に於ては一層勢を増して浪を更に高所に打上ぐるを通常とす綾里湾、吉浜湾、姉吉、集、十五浜村、荒等此の部類に属す。
第2 湾形U字をなせる場合
津浪は前者に比較して稍々軽きも高さ15mに達することあり。田老、久慈、小本、大谷等此の部類に属す。綾里湊は其の変形と見るを得べし。
第3 海岸線に凹凸少き場合
津浪はその高さ前記第2に近くして稍々低く12mに達することあり。吉浜村千載、赤崎村長崎、十五浜村大須等此の部類に属す。
乙類、大湾の内に在る港湾
第4 港湾V字形をなして大湾に開く場合
津浪は第1の形式を取るも波高稍々低く15mに達することあり。船越、山田の両湾に連なれる船越、両石湾に開ける両石港、十五浜村相川等此の部類に属す。
第5 港湾U字形をなして大湾に開く場合
津浪は第4に比較して一層低く波高7.8mに達することあり。広田湾に開ける泊、釜石湾に連なれる釜石港、大槌湾に連なれる大槌港、追波湾に開ける船越湾等此の部類に属す。船越湾等此の部類に属す。
第6 海岸線凹凸少き場合
津浪は第5に比較して一層低く4.5mに達することあり、又破浪することなく単に水の増波を繰返すに過ぎざる場合多し。山田湾内に於ける山田港、大船渡湾に於ける大船渡港等此の部類に属す。
丙類
第7 湾細長く且つ比較的に浅き場合
津浪は概して低く波高漸く2.3mに達す。気仙沼湾此の部類に属し、女川湾之に近し。
丁類
第8 九十九里湾型砂浜
海岸直線に近く海底の傾斜比較的に緩にして津浪は其の高さ4.5mに達することあり。青森県東海岸、宮城県亘理郡沿岸等此の部類に属す。
(参考)(筆者の意見)
(イ)この分類には海底の深浅を要求として取り入れていないのは遺憾である。
(ロ)この分類は第1から第8まで浪高の順に並べてあるが、本報告の第二章、第三章に詳述した如くチリ津浪の場合はむしろ逆になった。すなわち、チリ津浪のときは、第1の綾里湾2-3m、吉浜湾4.6m、集3.1m、第2の田老2.6m、久慈3.8m、小本2.8m、大谷2.1m、第3の赤崎2.0m、大須2.7m、第4の船越3.8m、両石港3.8m、相川3.7m、第5の泊2.4m、釜石港3.3m、大槌港3.8m、船越湾3.4m、第6の■港3.5m、大船渡港5.2m、第7の気仙沼湾2.9m、女川湾4.2m、第8の青森県東海岸4.6mとなった。このように震災予防評議会の港湾の地形分類がチリ津浪に合致しないのは、チリ津浪が遠海津浪だからであり、将来襲来を予想される三陸近海津浪に対しては依然として金科玉条であると信ずる。
さて、この注意書は、次に浪災予防法として、10項目を上げている。すなわち、高地えの移転、防波堤、防潮林、護岸、防浪地区、緩衝地区、避難通路、津浪警戒、津浪避難、記念事業である。しかし猛烈な津浪に対しては、高地えの移転以外に方法はないとし次の如く述べている。
「第1の如き港湾においてはもとより、第2、第4の如き場合に於てもまた、津浪を正面より防御するは実際上殆んど不可能に属す。斯の如き場所に於ける浪災予防は津浪進路の正面を避け、其の側面の高地、適当なる移転場所を求めるを唯一の策とすべし。実に船越村、山ノ内の如きは古来此の方法を実行し、千数百年来未だ曽て津浪の害を被りたることなし」
このように防浪施設の限界を認め、次に防波堤と防潮林については次の如くに述べている。
防波堤−−−−−−防波堤とは津浪除けの堤防の謂いにして、海に設くるものと陸に設くるものとの別あり、普通の防波堤は風波を凌ぐに足るも、大津浪に対しては其の効果を期し難し、之を津浪に対して有効ならしめんには、其の高さに於ても、将又其の幅に於ても、更に幾倍の大きさに増さざるべからず、費用莫大なるため実行困難ならん。
防潮林------防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり、海岸に広濶なる平地あるときは海浜一帯に之を設くるを可とす。
以上述べたところによれば、綾里湾、吉浜湾、姉吉、集、荒、田老、久慈、小本、大谷、綾里湊、船越、両石、相川の如き三陸津波激害常習地においては、防波堤、または防潮林で津浪を防ぎ切ることは実際問題として不可能であると判決したのである。津浪の波高以上の防波堤、その高さに相応する幅員を持つ防波堤の築設は費用莫大なため、実行困難ならん、としている。これに対し、防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり、としている。無論防潮林により津浪を完全に防ぎきるというのではなく、津浪の勢力を減殺する効果が認められたのである。
防波堤、防潮林ともに単独では猛烈な津浪を防止し得ないが、他の施設と適宜併用すれば有効であるとしている。すなわち、田老村の場合、「港湾は外洋に面してU字形をなし、津浪の高さは今回は6mなりしも、明治29年の場合に於ては15mに及べり。
住宅地を北方斜面12m以上の高地に移す、このためには多少の土工を要すべし。若し次の如き防波堤を築き、且つ緩衝地区を設くるを得ば、住宅地を多少(例えば5m)低下せしむるも差支なからん。田老川及びその北方を流るる小川の下流をして、東方え向う短路をとって直ちに田老湾に注がしめ、別に防波堤を築き其の南方地区及び上記2川を以て緩衝地区とする。防波堤を築き難き場合に於ては防潮林を設くべし。両者を併用するを得ば更に可なり。」と述べている。
筆者はこの震災予防評議会の注意書は津浪の性質を充分に把握した上での注意書であり、今に至るもこれ以上のものは出ていないと信じる。それ故将来の津浪対策にも貴重な資料である。防潮林については、「防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり」といっているが、結局、防潮林の津浪に対する機能、効果はこの一語に尽きるのである。防潮林を過小評価しても過大評価してもいけない。要する防潮林は津浪の勢力を減殺する効果はあるが、津浪を完全に防ぎ止めるものではない。しかし、防波堤が無力であるような大津浪に対してもその勢力を減殺する効果を発揮するのである。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:853px
  • ファイルサイズ:163.7KB
最大波(宮城県)

第二項 防潮林の津浪防御施設としての機能

防潮林の津浪防御施設としての機能については、しばしば発表されている。ここにはその2、3を掲げる。
昭和9年3月、農林省山林局刊行の「三陸地方防潮林造成調査報告書」はつぎの如くに述べている。
「防潮林は其の林本弾性に富み、幹枝は円形なるを以て甚だ有利なる条件を以て津浪に対抗し、其の水平速度を減殺し、其の幅員にして充分大なる場合には、後方部は単に浸水の形となりて被害は言うに足らざる程度となるか、又は林中にて全く波力を失して後方に侵入せずして退去するに至るべし。-----中略------但し特に津浪の被害大なる所にして其の地形上充分なる幅員を有する防潮林を造成する余地なき場合は他の施設と併行するを要するや言を俟たざるなり」
昭和24年、鷺坂清信氏(当時気象庁在職)は、その著「地震と災害」において、津浪対策として防潮林、防波堤、望ましい住宅の位置の3つを上げ、防潮林については、
「これは津浪の常習的に襲来する湾の奥に、海岸に沿って松林などを作るのであります。徳島県の宍喰などでは昔から幾回も大津浪に見舞われていますが、防潮林を作ったため、昭和21年の南海道地震の場合は大変役に立ったようであります。従って、波高も破壊力も減少するわけであります。また材木などの流れも止めますので、流木のための家の破壊も少なくなります。」
また防波堤については
「これは海岸に防波堤を造るのでありますが、今までの大津浪の最高記録の高さのものを必要とします。-------後略」
つぎに昭和35年3月、科学技術庁資源調査会刊行、「伊勢湾台風における防潮林の効果について」によれば、防潮林の津浪高潮の軽減機能として
「防潮林のような林帯に津浪や、高潮が作用するときの林帯の防浪機能については、まだ理論的な説明が出されていないが加藤愛雄氏は次のように述べている。『津浪に対し防潮林は摩擦抵抗の役割をなし、そのため水勢を減ずる。この効果を表す公式はないが走常流が一列の杭列によって水頭を減ずる式が利用できる。
Headloss h=1.73(S2/B)V2/2g
Vは水流の速度 gは重力の加速度
Sは幹の直径 Bは樹木の間隔
Vは4m/slc、Bを2m、Sを0.3mとすれば、水頭は約1/100減ずる。すなわち、一列の樹木によってさえ、若干水頭が減ずることになる。密生林の場合はさらに効果が大きい。』
加藤氏の論述は防潮林の機能を数学的に検討する端緒を提供したもので、敬意を払うものである。津浪を走常流として、一列の杭に遮られた場合水頭が減ずるというのであるが、水深に比して波長の著しく長い津浪が、整備された相当幅員のある防潮林に衝突する場合はどうであろうか。防潮林は津浪に対し、ダムのようなブロックに類する機能を発揮するのではあるまいか、とすれば水頭は高まり、津浪波は砕波して著しく勢力を消耗するのではあるまいか。
防潮林の津浪に対する機能に関する解説は以上3つの引用文で尽きている。要するに、破壊力を減殺するのが目的であって、浸水を防止するのが目的ではない。それならどれだけ破壊力を減少するかということが重大であるが、それを数量的に示すことができない。第一非常な長波で移動性の波である津浪の破壊力自体正確に知り得ないし、その上防潮林のそのような破壊力に対する抵抗力も計算し得ない。それ故に現在のところでは、「防潮林は津浪の機械的破壊エネルギーを減殺して後方の津浪被害を緩和することは確実であるが、どの程度に緩和するかは数字で示し得ない。またその緩和能は、津浪の波長、速度及び防潮林の幅員、密度、樹高によって異る」としかいえないのであって、この点についての防潮林の研究は明治以降全く進歩していないともいえるのである。しかし、一地方をとってみれば、数十年に1回襲来する千差万別の津浪に対し、これまた千差万別の林相の防潮林が対峙しているのであるから、このような防潮林の機能を正確に数字を以て示すことは、将来といえども困難なのであるまいか。
鷺坂清信氏は前掲の文中、防潮林は津浪の波高を減少するといっておられるが、これはどうであろうか。大津浪の場合は防潮林に遮られて津浪の速度はにぶるから、波高は一時的に高まるであろう。。速度が高さに転化するのであり、この場合、もし波長が著しく高まって砕波すれば、破壊エネルギー、大きな部分を空中に飛散せしめることになり、後方住宅地に移行する破壊力はずっと緩和されるわけである。破壊力は緩和されても、大津浪の場合は原則として浸水区域は減少しないし(小津浪の場合は、垂直的にも水平的にも理想的に整備された防潮林なら殆ど完全に津浪を防止する)、防潮林の位置によっては垂直的に被害面積を増大することさえ考えられる。しかし、浸水面積は減少しなくとも、また時には増加してもその浸水区域内の被害程度は遙に軽減するのである。すなわち、沿岸住民に避難の余裕を与えることにより、人命を救助し、全潰流出すべかりし家屋を単なる浸水に止める等の効果を発揮するのである。
しかし、このような防潮林の効果は実際問題としてなかなか理解されない。当然のことながら、人は誰れでも災害を完全に防止しなければ満足しない。例えば、津浪により家屋が浸水した場合、前面に防潮林があれば、防潮林があったのに被害を被った、と考えるのである。誰れも、防潮林のために全潰流失を免れたということには気がつかぬし、また気がついてもそれだけでは満足しない。今一つ防潮林にとって不利なことは、以上のように津浪の破壊力を減殺するが、その結果、大津浪の場合は、防潮林自体は見るも無残な様相を呈する。例潰するものもあり、折損するものもあり、時には完全に破壊してしまう。防潮林自体が波滅することにより、津浪の破壊力を減殺したのであるが、視察者の目には防潮林は津浪に対して弱い、としか映らない。
防潮林は完全に津浪を防ぎ切れない。それ故に地元に於てさえ、その効果を高く評価されないのは止むを得ぬことかもしれぬ。しかし防潮林に対する評価の低いことは結局、津浪の真の恐ろしさを理解していないことに起因すると筆者は考える。現在においては、大津浪を正面から防止得る施設は皆無である。高さ数10mの防波堤を三陸沿岸の津浪激害常習地に築設することなどは思いもよらない。この間の事情を充分に理解すれば、恐るべき津浪の破壊力を減少せしめる防潮林の効果は高く評価されねばならぬ。もし津浪が防波堤を乗り越えた場合、防波堤は無効である。これに対して防潮林は樹高20mとすれば、波高20mの大津浪に対しても破壊力を減殺する作用を発揮する。
防潮林と防波堤はそれぞれ得失がある。前掲の震災予防評議会の注意書、田老村の場合の中に「防波堤、防潮林両者を併用するを得ば更に可なり」とあったが、妥当な見解である。両者を適切に併用すれば、防波堤によって中小津浪を完全に防ぎ、それ以上の大津浪は防潮林によって破壊力を減殺することができる。

第三項 防潮林を最も必要とする海岸(附)防潮林の幅員

本章第二項に述べたごとく、防潮林は津浪の破壊力減殺を目的として造成されるのであるから、津浪の速度、波高の大きい海岸に最も必要である。
第二章第三項に述べたごとく、津浪の来襲速度の最も大きいところは、八戸から宮古湾にいたる外洋に面した深海海岸であり、波高の最も大きいのは宮古湾から牡鹿半島にいたるV字型U字型湾連続地帯である。この海岸一帯は、いわゆるリアス式沈降海岸であって、随所に絶壁海岸を交え、海岸線附近は平地に乏しい。この数少な平地に漁村が成立しており、漁民の大部分は背後の丘陵地帯を耕作して農業を営んでいる。半漁半農といえるが。無論、沿海漁業に重点をおいている。したがって、海岸に面する数少な平地は、住宅地として、漁業作業用地として貴重な地域であり、しかも、沈降海岸であるため、年々この貴重な平地が減少してゆく傾向にある。このようなところには防潮林を大面積に造成するのは困難である。すなわち、最も防潮林を必要とする地域には、防潮林を造成する余地が少い、というのが現実である。三陸沿岸の津浪被害常習地に対しては、作業場を共同作業場として海岸に残し、住宅地は安全な高地に移転することが、しばしば勧告されるのであるが、日常生活の不便は容易に克服できず、一旦高所に移転しても、津浪は一向に来ないので、やがて海岸平地に戻り再び津浪に襲われる、という経過をくり返しているのが一般であって、高所に住宅地をいおて、千数百年来津浪の被害をうけたことのない船越村、山ノ内および昭和8年津浪後、ほとんど完璧な津浪対策を強行した田老村のごときは、むしろ、例外である。
海岸の狭小な平地に防潮林を強行しても、その維持管理がむずかしい。関係者の異常な努力によって実現した防潮林ではあるが、年とともに林相悪化して、つぎの津浪来襲時には、ほとんど機能を喪失している場合がある。最も多いのは防潮林の一■開墾および通路の開設である。日常生活に不便だからといって防波堤を破壊または除去することはめったにないが、防潮林はいくらかでも残せばそれだけの効果があるとの考え方からだんだん縮小されてゆく。極端な場合、気仙沼市のある部落では、防潮林を海岸線と平行に一列だけ並木のように残して、開墾してしまった実例がある。結局、現地の人々に津浪を充分に理解してもらい、出来るだけ整備された防潮林を造成維持するという以外に名案はない。
これに反して、津浪の速度も、高さも、さまで大きくない八戸以北の海岸および牡鹿半島以南の海岸には、広大な砂浜が発達し、すでに充分な海岸林が造成されている場合が多く、また新たに海岸林を造成する余地も多い。従来、防潮林の津浪に対する効果が高く喧伝せられるのは大概この地帯であるが、この地帯は大体において隆起遠浅海岸であるため、津浪の勢力は小さいのに対して広大な海岸林があるため、津浪を完全に防ぎきることになる。しかし、この地帯の海岸林は、むしろ、飛砂防止林、高潮防備林(潮害防備林)として重要な意義を有するのであって、たまたま津浪が襲来すれば、防潮林の機能をも発揮するわけである。
八戸以北の海岸は、明治29年津浪で大きな被害をうけた。この地帯は防潮林を造成する余裕は充分にある。しかし、この地帯には背後に保護に値する何物もない場合がある。海岸に面した大面積の不生産地である。このような地帯では、防潮林というよりも、むしろ、不生産地を生産地にするための海岸砂地造林である。
(附)防潮林の幅員
防潮林は津浪の破壊力を減殺することを目的とするのであるから、相当の幅員を必要とすることは自明の理である。どのくらいの幅員が必要であるかということになると、これまた、判然と示すことはできない。従来、防潮林の幅員は少くも10m、あるいは20mを必要とすると主張した人もあるが、全くなんらの根拠もない。防潮林の津浪破壊力緩和機能が、本章第二項に述べたごとく、数字をもって示し得ない以上、防潮林の最小必要幅員も算出できない。防潮林の津浪防御機能の性質上、事情の許すかぎり、幅員を広く、といえるだけである。三陸沿岸の津浪激害常習地においては、現実に認められる防潮林の幅員は、これで充分といえる場合はまずない。充分な幅員というのは、非常に広い幅員(例えば50mとか100m)で、猛烈な津浪が襲来した場合、その防潮林の汀線に面した大部分は津浪と戦って破壊されることによって津浪破壊力減殺の役割を果し、防潮林の部落に面した部分は存立して、津浪の残存した破壊力を防止して後方部落を単なる浸水被害に止めうるに足る幅員である。しかも津浪は数回襲来するのであるから、猛烈な津浪を完全に防止するためには非常に広い復員を必要とする。相当の幅員があれば防潮林は津浪を部落の正面から他えそらす作用も発揮する。
それでは、幅員狭小な防潮林は無意味に近いか、というにそうではない。猛烈な津浪の場合は、その部落民全体が非常な危険に瀕するのである。もし防潮林が砕破されることにより、津浪の来襲速度を減少せしめた結果、部落民の非難の余裕が生じたとすれば大きな効果である。しかし、前述のごとく、この種の効果は高く評価されない。生活水準の向上、資本蓄積の増加、社会の近代化とともにいよいよ評価されなくなる。しかし、三陸沿岸津浪常習地帯のごとき、後進性の強い、投資効果の極めて低い地域においては、数十年に1回くるかもしれぬ津浪に対し、莫大な経費を以て近代的な津浪防御施設を講ずることは、東京都でさえ充分な高潮対策ができぬ現在、実際問題としてほとんど実行不可能なのであって、その意味から防潮林の津浪に対する機能を再認識せねばならぬ。

第四項 チリ地震津浪の場合

チリ津浪は従来の三陸近海津浪とは著しく様相を異にし、津浪被害常習地でなく、むしろ高潮被害常習地に襲来し、その波高も速度もさまで大きいものではなく、いずれかといえば緩慢な津浪であったことは、さまざまの観点から、くり返し詳述した。
このような津浪に対しては防潮林は如何様な働きをなしたであろうか。無論、防潮林は随所で津浪破壊力減殺の機能を発揮しており、特に幅員の広い大面積の整備された防潮林は完全に津浪を防御した。防潮林が津浪を吸収してしまったといった感を抱かせたところもあった。一方、防潮林と相隣接している高さ3-4mの防波堤も完全に津浪を防いでいる。防潮林と防波堤とでは上地占有面積が防潮林の方が遙かに大きいため、平地が貴重な沿岸地帯では、防潮林は土地の集約利用上、不経済であり、海岸線に平行した一連の防波堤の方が望ましい、ということになる。沈降海岸の場合、防潮林はその高さにおいて防波堤にほぼ匹敵する根止工を附帯施設として必要とするのであるが、防潮林を要望する人々のなかには、防波堤に類する根止工が真の要望である場合が多かった。つまり防波堤が最も望ましいが、それが実現困難な場合、次善の要望は根止工であって、これに防潮林が伴うというわけである。これが大部分の三陸沿岸住民のいつわらざる気持である。三陸沿岸は農地も狭小であり、農地に対する潮風害は防潮林によって著しく緩和されて農作物の生産量が著しく高まることは、沿岸住民自体、充分に承知していながら、潮風害防止機能皆無の防波堤を選ぶということは、住民の大部分は漁業に主体をおき、農業は副業であるから、漁業関係の施設、作業場面積を縮小する防潮林、また、日常の漁業活動を制約する防潮林は何としても好ましくないのである。
幅員の狭い防潮林の場合も津浪勢力減殺の効はあったが、津浪を通過せしめて後方に浸水被害をもたらした。チリ津浪の被害の主要な部分は浸水被害であるから、浸水を完全に防止しえない防潮林は、“かなえ”の軽重を問われることになる。のみならず、チリ津浪は揚陸水量が多く、浸水時間も長く、しかも継続時間が長くて約40分の週期で24〜48時間襲来したので、防潮林の林木のなかには倒潰するものも多数生じ、津浪後の視察者の目には極めてぶざまな姿に映じた。これに隣接した防波堤は厳然と存立して一滴の水も洩らさぬというのであってみれば尚更である。
防潮林は浸水被害防除を目的とするものではない。非常に広大な防潮林に小津浪が襲来すれば、これを吸収してしまうこともあるが、これはむしろ例外で、一般に津浪は破壊力を防潮林によって減殺されながら防潮林を通過して、住宅地、農耕地を浸水せしめる。それ故、波高も速度も大きくない津浪を対象とするなら、防潮林よりも防波堤の方が効果的であることは明瞭である。チリ津浪は大体波高3-5mであったから3-5m程度の既設の防波堤のあるところでは防げた。そこでチリ津浪対策事業では、次に示す計画潮位表を基礎として工事が進められるのであるが、もし防波堤の高さが4-6mということになれば日常の産業活動の大きな制約となることを恐れる現地の有識者もある。防潮林は不便であるといっても、林内の随所を随時に通り抜けられるし、また津浪を考慮して林内に蛇行道路を設けることもできる。大津浪を防御するに足る巨大な防波堤は、その被害保護地帯の産業活動を窒息せしめる場合もあり、その不便なことは防潮林の比ではない。防波堤には築設経費が巨額であるということのほかに、このような制約があるのである。
今次チリ津浪は防波堤の効果を強調するためには恰度手頃な津浪であったのであり、この程度の緩慢な津浪であったことは真に不幸中の幸であったが、防潮林の効果を強調するためには誠に都合の悪い津浪であった、いえる。
三陸沿岸には昭和8年以来、27年ぶりに津浪が襲来した。昭和8年津浪後、関係者の大きな努力により沿岸の要所に造成された防潮林の多くは、漸く津浪の恐怖を忘れてその管理が不良となりつつあったのであるが、チリ津浪の襲来により、沿岸の人々に、やはり津浪は不時に来襲するものであるから防潮林の整備は必要であることを再認識せしめたことは有意義であったが、上記の程度の津浪であったため、一面において、防波堤を設置すれば大面積を塞ぐ防潮林は除去してもよいという風潮が芽生えたのは遺憾である。
政府の実施するチリ地震津浪対策事業は、災害費と対策費をあわせて14,354,552千円で、北海道、青森、岩手、宮城、福島、和歌山、徳島、高知の1道7県で実施されるが、このうち13,030,028千円は青森、1,327,466千円は岩手、7,581,676千円、宮城4,120,886千円、3県の三陸沿岸で実施される。この事業の内訳は、農林省農地局1,099,178千円、水産庁5,823,203千円、運輸省2,021,872千円、建設省5,232,863千円となっており、工種は従来の各省の慣習によって海岸堤防、河川堤防、防波堤、防潮堤、導流堤、離岸堤、突堤、胸壁、護岸、水門、■門と呼ばれるが、いずれも津浪防止を目的として海岸に設けられる土木的工作物であり、これに対し、予算の上ではほんの刺身のつまともいうべき177,436千円が林野庁所管防潮林として認められた。チリ津浪を対象とした対策事業であるから防波堤と防潮林のバランスが、このようになったことは当然といえる。これらの対策事業実施に当って基礎になるのは計画潮位であるので、つぎにチリ津浪対策事業計画潮位表を掲げておく。
津浪対策事業の実施されるところは、大体において猛烈な近海津浪のこないところである。このようなところにとっては、チリ津浪は古今未曽有の大津浪であった。この種の津浪の来襲は稀有の事柄に属し、将来も、三陸近海津浪の襲来に比すれば遙かに可能性が低く、また今次チリ津浪以上のものが襲来する可能性は一層低い。それゆえに、前掲計画潮位表に基いて防波堤が設置されれば、その地帯はまず安全である。またこの地帯には高潮がしばしば襲来するから、立派な高潮対策が実施された、と考えてもよいであろう。しかし、重ねて強調しておかねばならぬのは、この対策はチリ津浪のみを対象とする対策であって、三陸地方津浪激害常習地に対する対策ではないということである。もし三陸沿岸全体の津浪対策がチリ津浪対策で完了したと考えたら大間違いである。
最後にチリ地震津浪対策事業のうち、林野庁所管防潮林造成事業計画を掲げておく。

1/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:833px
  • ファイルサイズ:123KB
2/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:68.5KB
3/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:68.7KB
4/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:69.5KB
5/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:725px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:64.5KB
6/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:791px
  • ファイルサイズ:113.5KB
チリ津浪対策事業計画潮位表 35,10,10(チリ地震津浪対策審議会事務局作製)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:904px
  • ファイルサイズ:102.5KB
林野庁所管防潮林造成事業計画

第2部 防潮林の史的考察 鎌田藤一郎

第1章 防災の一般的考察

人間の災害に対する斗いの歴史は、時代の経過と共にその様相をかえてゆく。それは、災害防止の技術の発達のめんからもみられるし、社会経済の発展過程からも認める事が出来る。社会経済の発展と技術の進歩とは関係が深いので、之等双方から災害防止の一般的経過を眺めてみる。
自給経済体制化における災害に対する人間の態度は、逃げる型のものであった。自然災害の起る地域は略々限定されるので、之等危険地域を避けて住宅を建て、農耕を営んで来たのである。しかし乍ら人口の増加により更に多くの食糧の生産が必要となり、その上、藩政時代の財政的基盤が農業におかれ、農地の拡大の必要性に迫られ−(徳川末期には既に今日に略々近い水田の開拓がなされていた。)−農耕地は、それまで洪水等の領域であった下流〜河口附近に向って急速に拡大していった。−(我国では最も多く人口を養いうる作物が米であったため、すなわち農業の主体は水田であったため、利水の便を求めて農地は低地に伸びていった。)−これ等洪水の乱流地帯は、洪水の都度土砂の堆積によって前進し高さを増し農業適地を作ってゆくのであるが、農地の拡大は自然の推移を待つ程悠長ではなかった。とは云っても、これ等農地造成は災害に対し、全く無防備ですすめられたわけではなく、藩の政策として、流路の固定や土盛り等が行なわれたのである。しかし、それも、あくまで藩財政の向上を目的とする限度で行なわれたのであって、十分の施策であったとは云えない。
農地の拡大と防災施設の発達の関係は明治以降、時の経過と共に■の様相を変えてはゆくが、達観的に云って、農地の拡大が先行し、防災がこれを追うという傾向は、今日までつづいていると見ることが出来る。
都市の発達と防災についても略々これと同様で、川が首を振ると云われるところに多く位置する城下町の膨張は洪水領域に足を踏み入れ、経済発展に伴って勃発した新米の商工業都市は、水運の便を求めて、河口、海岸等に多く発達し、災害の頻度は加速度的に増加の傾向をたどってゆく。すなわち、産業資本自体としては、無防備に近い状態で洪水や、高潮、津浪の領域に伸びてゆき、防災を公共投資に求めてゆくが、都市の発達を追いかけるに十分な財政投資は困難であったとみられる。
しかし、農地の拡大や都市の発達は、このような事情を顧りみず災害の頻発は、より高度の技術と投資による防災施設を求めつづける。すなわち、逃げ型から護る型に必然的に移行してゆくが、明治中葉までは、いわゆる低水工事が支配的であって、水に対して徹底的に対抗するという考え方ではなく、低いが堅固な堤防と、部分的に洪水の越堤に対処して要所へは流路を定めて、被害を避けまたは、軽減するという型をとってきた。すなわち、被害対象が主として農地であり被害が腐敗型であったため、時として侵入等により生産が中断されても、決定的被害(生産基盤の喪失)は避けえたのであり、その限りでは財政投資は、更に高度の防災施設を完備する迄に至らなかった。しかし乍ら、このような施設が、由来の素朴な設備にとってかわっても、災害は増加するのみであった。これは先にものべた防災施設が、社会経済のすすみ方におくれをとった事にもよるが、技術に総合力が欠け、自然を無視した形もあった事にもよるのではないかとも考えられている。
次いで、技術の発達が、鉄鋼やセメント等の使用等と相伴って、格段とすすみ、いわゆる高水工事がとられるようになった。しかし高水工事が災害を減少したかと云うには必ずしもそうではなかった。すなわち、その頻度は若干減少しても一度発生すれば、非常に大きな被害となってあらわれることとなる。高水工事とは云っても、施工を正確に計算することがむづかしく、また時として財政的負担に堪えない事や、一度構築されると条件に変化が生じても容易には改築することがむづかしく、施設が陳腐化老朽化する傾向があるので、高水工事一辺倒がのぞましい防■方式であるかどうか疑わしい。このようにして科学や技術の発達した今日と雖も災害は果てることなく、忘れられた頃に大災害は、決定的破壊力をもってあらわれる。高水工事の徹底した形はいわゆる万里の長城を築く事であろうが実現性に乏しく、到底のぞみかたいものと云わなければならない。被護対象が農地主体から、工場や宅地等価値の高いものに向い、被害も破壊型に向う。したがって、一般的傾向としては高水工事が一段と勢をえてゆく事は否定しえないところであるが、その実現には自ら限度のあることは云うを待たない。したがって最近は洪水については、多目的ダムによる洪水調整等が考えられるようになってきたが、そこにも色々残された問題が多い。
斯くして、社会経済の発達に伴う土地利用、被害型、被護対象等の変化に伴う防災対策をどう考えるかという事と、絶対的な防災施設が現実的に完備しえないという観点から、忘れられた頃やってくる大災害の軽減をはかる方式はどうかという事が名題となる。

第2章 防潮林の史的考察

防潮林についてもその社会経済的背景の中におかれている防災施設としての立場を眺めることなしに、その造成や維持をはかる事はむづかしい。
防災施設としての防汐林の価値判断は、時代の経過に伴って変化してゆく事は一般防災施設の場合と同様である。また、社会経済の発展は地域的に可成りことなった形をもっているので、防汐林自体もそのおかれている地域によって相対的価値が変ってくるのは当然である。ここでは主として、我々が調査した三陸沖に視点をおいて歴史的に防汐林の立場を考察してみる。
藩政時代の重農政策は農地を海岸まで押出してゆくが、海岸の米作りは屡々塩風の被害によって減収を余儀なくされ、これを防止、軽減する手段として防潮林が登場する。その当時は、労働力がその限界生産力を無視しても投下される傾向があったが、塩害防止には林帯以上の適当な施設が見当らなかったこともあって、防汐林造成が可成り重視されていたもののようである。(塩害防止については今日でも未だ防汐林に代る好い方式が見当らない。)この段階は可成り耕地化がすすんだ段階であるが、我々の見た現地では、わずかに高田の松原等のこれに相当するものであった。しかし、仙台藩の歴史をみると、他にもこの種の類例をみとめることが出来る。これら防汐林は津浪防禦を目的として造成されたものではないが、津波時においては、それ相当の効果(農地や宅地の決壊喪失防止等)があったものと考えてよい。
すなわち、高田松原は寛文8年(1668)〜延宝元年(1673)の間に完成されたが、寛文7年〜10年の間に海浜における田地風除松林の手入れについての盛岡藩の令達があり、気仙町の松原は、享保10年(1725)に植栽され「天保年間(1830〜1843)の凶年に際し、海岸筋は須賀松立のため、田畑指障り等の事もあり、その伐採を戒め、同時に諭示を与えたり」とあるをみても、この地方における海岸防汐林の歴史は相当古いものとみとめることが出来る。また、防汐林という名ではないが、飛砂防止林によって農地の決壊や埋没を防止しつつ防風、防汐の役割を果すものとして、仙台藩では旧くから随所において設けられている事実がある。例えば慶長17年(1611)の桃生郡浜須賀の砂防林等がそれである。この種海岸防災林には明治以降も可成り長い間海岸防災の主役を演じていた。この段階では海岸の施設については、河川堤防(洪水防止)よりも発達がおくれていたという事も云えるし、海岸の被害対象がそれ程高い価値を持っていなかったとも云えよう。昭和8年の三陸沖大津波は大惨害を与えたが、その後山林局の調査にもとずいて、略全面的に要所要所に防汐林の造成をみた。この防汐林は海岸の未利用地に造成されたものもあるが、その多くは、住宅の移転、農地の転換によるものであり、当時としても津波に対する防汐林の評価は相当高かったものとみることが出来る。昭和10年以降防汐林の造成と前後して堤防が構築されるようになり、場所によっては堤防と防汐林が補完的に配置されているものもある。すなわち、この頃から津波に対しても堤防による防災工法がとられるようになったとみてよいようである。しかし、一般的にはやはり防汐林が支配的であり、かつて伊勢湾台風(昭34年)の現地調査をした際、伊勢湾海岸では昭和28年の台風災害を契機にして、防災施設として、大巾に堤防が構築され、一挙に防汐林とおきかえられる場所もみられたが、ともかく一般的に海岸防災が専ら堤防にのみ頼る事が出来る状態には至っていない。今度の津波は幸に比較的小規模のものであったため、堤防の多くは津浪の越堤を許さなかったため、堤防論が一段と強く主張される傾向があり、そのため時としては、堤防用地を既設の防潮林用地に求めようとするものすらあるが、津波の本質を考えると、慎重を期す必要があるように思われる。

第3章 防災施設としての防潮林の位置

津波に対する災害防止施設の計画に当っては、洪水防止等の場合と同じような考え方で対処する事は必ずしも妥当ではない。津波は洪水とは可成り違った性質をもっているからである。その主要な点についてみると、1.津浪の高さは予測することが出来なく、時としては20m以上にも及ぶ事もあるので、完全を期した防災施設を構築する事は容易でないこと。2.津波の被害は、洪水に比べ徹底した破壊型であり、腐敗型を併せ伴う。3.津波の頻度は洪水等に較べると可成り低いし、特に大津波は数十年に1回という具合であるので、巨大な施設を設けて、遊休させる事は相当無駄があり、このような施設を設置しうる地域は、その被護対象の価値が非常に高い、限られたところになること。4.津波の起り易い地域はやや判別しうるが、今次のように広範に及ぶ事もあり、また高潮等をも含めると、相当広域に及ぶ海岸線が危険にさらされるので、その万全を期すには財政的負担が大きい。
したがって、一般的に云って、津波や高潮の防止施設として、海岸堤防にのみ保存することには問題がある。堤防をどの程度まで高くしても経済的にペイするかという事については、多くの仮定を設けて想定しうるとしても、完全に防止しうるような施設は多くの場合少なくとも経済的にはペイしないと考えてよいであろう。また、之等施設の長い平時における利用の問題をも考慮する事が適当であろう。防潮林については、塩風の害を防除、軽減するのに非常に有効であることが知られているし、また、都市が集化し、我々の生活水準等が向上してくると、周辺の海岸が、風致、保健、衛生等の面から価値が上昇し、海岸林の活用度が、多面的で、高く評価されるようになる。堤防は平時、ややもすると、堤内・外の交通を遮断し、運搬その他に不都合を来しているような例もなしない。すなわち、長い海岸線の中には、港湾あり、工場あり、倉庫あり、住宅あり、耕地ありで、ところによって被護対象をことにするのみならず、その背後の自然的、社会的、経済的条件も相違するので、堤防、防潮林、および、その組合せの度合、または移転といった対策を適切に採択することは頗る困難である。しかし、ここでは、現時点において、我々が調査した地域について達観的ではあるが、いくつかのケースに分けて対策の方向をのべることにする。
1.港湾施設と工場、住宅等が海岸迄押出し、海岸線まで、土地が高度に利用され、一部海の埋立て等によって土地造成をしているようなところ。・・・・・・大船戸、釜石、大槌等、がそれであり、このようなところでは、防潮林によって防災効果を補足するような用地がない。また施設を移動して防潮林を増成するには、余りにも土地の利用が高度化し、地代が高騰している。したがって、ここでは出来るだけ高い堤防によって被害を避けなければならない。時として津波が、この堤防を越えて大惨害を起すことも免れないかも知れないが、経済的に、財政的に許す限りで万全を期す外ないであろう。勿論この場合でも、堤防に付帯して防潮林を設けることはのぞましいが、多くの場合それはのぞめないであろう。ただ、その中でも部分的に、例えば、大船渡の赤崎のように堤防築設等のため、住宅が新に造成された高所の宅地に移転する計画のあるところでは、防潮林としては十分の余地を持ちえないとしても、堤防に併せて、相当巾の林帯を設置することによって、非常時の災害防止、軽減を図る計画があり、これはのぞましいことである。このようなケースは大船戸の小細浦や大槌町の安渡等においても期待される。
2.現在のところ都市化がすすんでいないが、近い将来、急速に住宅、その他産業施設が設けられる見通しのところ・・・・・・鵜住居等がそれであり、ここについて言えば、現在は釜石の観光遊覧地として、海岸が利用され、海岸には一部、海岸林が仕立てられているが、これは可成り不十分のものであり、今のうちに完備したものを造成することがのぞましい。すなわち、釜石市の膨張と狭小な土地は、鵜住居との間のトンネル工事により、連結し、鵜住居を釜石の住宅地として発展せしめる計画があり、実現の可能性が大である。現在のように海岸線に土地を確保して防超林を設けうる状態の間に、相当広い巾で林帯を設け、背後の農地を塩害、飛砂による埋没から防止し、住宅が増加し都市化した暁には、堤防を設けて、防災効果を補強することがのぞましい。
3.現在は農業が中心となっているが、徐々に都市化がすすんでいるとみられるところ・・・・・・宮古市の津軽石や陸前高田等がそれであり、このようなところは防汐林と堤防を併設することがのぞましい。堤防は高いにこした事ははいが、高いよりも高田松原は老令で、その後新植により巾を増し、かつ更新もはかられているが、部分的には相当疎開し、これ等疎開部分が突破口となって、背後に大惨害を及ぼしたものである。ここの松原は観光遊覧地として知られるが、そのため、老木疎開のままにしたり、林内に施設を設ける等により林相が破壊されることはのぞましくない。林相を維持しうる限度で、効利的利用を図るべきであろう。
4.海岸の狭い入江に臨んだわづかの平地と海と山で農林水産業を基盤として安定しているが、発展性の乏しい地域・・・・・・三陸村の吉浜、釜石市の片岸等、この種の地域は、三陸沖には非常に多い。このようなところの多くは、昭和8年の津波で相当大きな被害をうけ、その多くは、住宅を高いところに移している。即ち逃げる型がとられている。住宅が高所に移転する事が可能であり、低地は専ら農業に使われ、海浜は水産用地となって安定している。
このようなところについては、大体住宅の移転と、海浜の防潮林を主体とした防災施設を考えるのがよいように思う。之等の多くは、前回の津波災害後、昭和10〜14年頃積極的に防潮林の造成が行なわれ、現存するが、それ等の多くは、必ずしも優良な林相であるとは言えない。その整備がのぞまれる。また、之等の防潮林と共に、堤防の構築をみたものが多いが、之等堤防は、海浜との交通を著しく妨げているものが多い。堤防の存在は必ずしも好ましくないものではないが、堤防を構築するために防潮林や耕地をつぶす事については、それ程の価値を認めがたい場合もある。住宅の移転は長い目でみると、耕地と宅地のふりかえであり、狭い入江等ではむしろ積極的にも好ましい事が多く、逃げる型のこのような移転の後に考慮されるべきことは、平時の塩風害 防止と非常時の田畑の決壊流失の防止に重点をおき、海岸の利用等をも考慮するならば、必ずしも堤防を必要としないようにも考えられる。非常災害時のみに限定し、平時の生活や産業上の犠牲を避けると共に、災害時の決定的破壊を防止する程度の防災施設を重点にして考え、無駄な投資は避け、防汐林と、その決壊を防止する程度の防浪堤を設ける程度で十分のように考えられる。
勿論、これ等についても被護すべき土地や施設の広狭、自然条件等に差があり一律にはゆかないであろう。例えば、山田町船起の前須賀および浦の浜をむすぶ低地は細長く可成り広い農地であるが、これを災害から防止するために、両端に設けられている林帯に付随して、低い堤防を設けている現在の形は、むしろのぞましいし、この堤防は道路としても必要なものであり、低くても、もっと堅固なものにする必要があろう。また釜石市の花露辺のように住宅が移転しなければ防潮林や、堤防の用地がないが移転して了えば、外に被護すべきものが殆んどないという場合等は必ずしも防潮林の設置を必要とするかどうか疑問で、むしろ、逃げ型のみに頼り、防潮林数は他の利用に当てるか、防潮林を、他の目的と併せ利用するのがよいであろう。
5.広い砂浜の地域・・・・・・八戸の北部海岸一帯等がこれに相当する。このような地域は海岸線に接した砂地の背後が農耕地となる場合が多く、海潮防災の主体はこれ等農耕地の保護に通じる。このようなところ一般に、津波や高汐の被害は余りないから、常時または台風時などの塩害、風害を防止し、飛砂を防止するという面に重点が注がれる。したがって、このような箇所は専ら巾の広い防風林、防潮林が海岸保全の役割を担うのが妥当である。三陸海岸ではこのような場所は余り多くないが、日本全口をみると、このようなケースが非常に多い。
以上のように極く大雑把にみても、防災のいくつかの型・・・・・・逃げ型から完全堤防・・・・・・の中で、防潮林は、いろいろのウエイトでその立場を保つこととなる。しかし、細部的にみると、防潮林の技能と構造について更に深い研究を必要とし、合目的々対策も、そうした理論的研究の結果をまって樹立されるべきものであるが、今の段階では叙述のようなやや達観的抽象的にすぎるう■みはあるが、或る程度わり切った考え方で対処してゆくの外ないであろう。
以上

第3部 防潮林整備に関する問題点

第1章 中野秀章
第2章 ■山徳治

第1章 防潮林帯の弱点

−幅員、密度、保護管理−
三陸海岸の防潮林の大部分は昭和8年三陸津波後昭和11〜14年に造成されたクロマツ林である。したがって現在20〜24年生で、樹高10m前後、胸高直径5〜10cm、ha当り立木本数6000本内外の林帯がほとんどを占めている。
近時における三陸津波のうちでは明治29年および昭和8年のものが波高も高く、勢力も強かったが、これらに比較して今回の津波はかなりおだやかであったと言えるようではあるが、当地方の防潮林は各所でよく津波勢力の減殺と漂流物の阻止により津波の破壊力をよく軽減する効果を発揮したと認められる。しかし一部には部分的に不備な点があり、この部分では充分な効果が発揮されなかったことにより、一林帯全体としての効果、甚だしきは一般的に防潮林の効果そのものをさえ疑問視するような意見の出る原因となった林帯のあった事も事実である。宮古湾大須賀、山田湾浦浜、広田湾高田、志津川湾折立の各防潮林をはじめこのような例はかなり多い。これらは林帯の他の部分でかなりの効果を示し、あるいは示すはずであったといえそうであるにもかかわらず林帯の一部になんらかの弱点があり、津波の主勢力がこの弱点に集中したためその附近はもちろん林帯全体としての効果をさえ低下させたために外ならない。あくまでも弱点の故と考えられる。この点が今後における既存林帯の補強整備と防潮林新造成における重要な問題点の一つであろう。
弱点にはいろいろの種類がある。
まず林帯が川・道路・区画線によって切られている場合であり、これらは概して汀線に直角に、したがって林帯に直角方向の切目をつくっていることが多く、林帯の全面に向って津波が押し寄せてきた場合周囲の林帯では阻害された海水流の主勢力はとかくこの切目に集中して内陸に流れこみ、この奥で大きな被害を起し、時には林帯全体の裏側にまわって全体としての効果をも低下させている。この例はきわめて多い。
同様のことが林帯の一部に巾のうすい所、あるいは立木密度の低い所についても言える。またリアス四季の三陸海岸では湾奥で砂浜海岸が両端の高地にはさまれている場合が多いが、このような場合両端の高地に林帯が接続していないとここが切目となることもある。この典型的な例は宮古湾大須賀防潮林、山田湾浦浜防潮林である。前者では一端は津軽石川で切られ、他端は低湿地のため林帯は消えていた。しかもこの消えた地域に隣る部分(漁業組合有林)はその他の部分(国有林)より格段に巾がせまい。またここでは漁業組合有林帯と国有林帯の境界は農道を中心として約5m巾の切目となっていた。水田・畦畔の流失・埋没などの被害は津軽石川の沿岸地域・両林帯の境界線、巾のせまい漁業組合有林中でとくに疎開した部分、林帯の消えていた部分のそれぞれ直後方に生じている。境界線自体も巾25m、深さ1m位洗掘され、林木も流失している。一方国有林帯の直後方は冠水のみで水田の流失を見ていない。これらの事から津波の主勢力は津軽石川と両林帯の境界の切目、翼端の切目から侵入し、林帯背後にもある程度ひろがったため林帯全体の効果を低下させたと考えられる。
山田湾浦浜の場合も同様で、一端が元来低湿地であり、これにつづく沼からの排水路もあって林帯が造成されなかった。大須賀同様この部分に主勢力は集中して背後で防潮堤(道路)は欠潰され、附近の耕地は流失、埋没の被害を受けた。林帯の後方では防潮堤の被害もなく、水田も冠水のみで災害後間もなく「塩抜き」をして田植され、ほぼ平年に近い生育をしているといわれる。
この両防潮林の場合、翼端の林帯欠如部分は地盤も多少低く、かつ湾内の最も深い部分に連っていることが一層悪い条件となっていた。
広田湾高田松原の場合も同様である。湾内の最深部、したがって津波勢力が最も強くなる部分の正面に極端に巾せまく、かつ疎開した林分があった。この部分はもと河川敷だった所で地盤も多少他より低かった。しかも地下水位が高いため生育までも不良であったようである。このためやはりここに主勢力は集中して破られ、後方には家屋の流失・破壊、水田の流失などの被害を集中的に発生した。その他の良好な林帯の背後では冠水被害にとどまった。
以上から今後既成林帯の補強整備、新林帯の造成にあたってはこのような弱点を無くし、あるいはつくらないようにすることが最も重要である。そうでなければ一部の弱点のために他の良好な林■■効果さえ減じ、防潮林全体としての効果が不当に低下されてしまうおそれがある。
川による切目の弱点を除くためには河川堤防を充分な規模に施設し、できる限りこれにならんで林帯を造成する以外に実際的な方法はなかろう。かくして川から逆流侵入する海水をできる限り阻止し、あるいはその勢力をそげば、逆に河川自体には一の緩衝地帯としての効果が活きることとなる。
道路については、内陸から汀線に出るのに最短距離をとる便があるため、とかく林帯に直角に、直線的に切る場合が多いが、防潮対策からすればできる限り斜めにあるいはS字型につけかえ、もちろんできる限りせまい巾にとどめておくべきであろう。
林地の一部に低地があることは問題で、かならず盛土して全帯の地盤を一様にしておく必要がある。この低地に川・道路などの切目が重なることも多く、とかくここに浸入海水の主勢力が集中してこの林帯部分とその背後に甚だしい被害を生じ、往々にして林帯全帯の背後に被害を拡大して林帯全帯の効果を著るしく減退させることを思えば、当初かなりの経費を要するとしても看過できない問題であろう。
さらに重要な事は林帯の巾と立木密度に関する弱点である。
防潮林の効果は津波による侵入海水の水勢を減殺し、漂流物を阻止して結局津浪の破壊力を軽減することであって、覆水を阻止することは期待できない。ただ浸水位を低下して冠水面積を減少させることはある程度期待できよう。効果の主体はやはり破壊力の減殺にある。このためには林帯巾と立木密度は大きければ大きいほどよいことはたしかであろう。しかし一方林帯に要する土地をできるだけ少なくしたい要求があり、林帯巾はせまくて済むことが好ましい。これには保護対象によって家屋ならば流失・倒壊、耕地であれば流堀流失、できれば生育している稲などの農作物の流失をおこさず単なる浸水にとどめるには、海水流の水勢すなわち流速をどの程度までおとすような巾と立木密度であればよいか、その最小限度を知る必要がある。しかしこれはいまだ解決されていない。
津浪の伝播速度Vは√gHであらわされる。gは重力の加速度、Hは海深である。Scott RusselのV=√g(H+h/2)、RankineのV=√g(H+0.25h)などの実験式がある。hは波高である。いま湾内の海深を10mとすればVは大体10m/sである。小湾の水深はこの前後の深さとし、岸に向って次第に浅くなっているものと考えられる。したがってVも減少する。いづれにしてもこの伝播速度に近いが、これより小さい速度を受けついだ海水流が内陸に侵入すると考えればよかろう。すなわち通常の砂浜海岸では5〜6m/sの流速の海水流が浸入すると考えてよいのではなかろうか。実際にも目撃者の話によれば中学連位の走る程度であったちおうからほぼこれ位のものと想像される。
したがって、この流速を保護対象によって家屋の流失・倒壊をなくし、土地の洗堀流失をなくして単にしづかな冠水のみにとどめるように、さらにこのしづかな冠水の水位をできる限り低くするような林帯巾と立木密度にすればよいこととなる。被害面から見た限界の流速(例、きわめて大ザッパであるが、日本建築規格から推定すると通常木造家屋の倒壊は1t/m^2のオーダーでおこると見られるから2.2m/sが限界の流速となる)を知れば5〜6m/sの流速をこれまでに低下するような林帯巾と立木密度の限度を調べればよいことになるが、この問題はなお未解決であり、今後の研究にまつ外ない実状である。また林帯巾の削減を立木密度や下木の導入で補えないかという問題や、林帯更新面から見た最小限必要な巾の問題なども今後の研究成果によらねばならない。
宮古湾大須賀の固有林の背後で、水田の流失が起きず、巾のうすい組合有林の背後で洗堀流失がおきているが、これは立木密度その他に差はあるとしても100〜150m(固有林)と25m(組合有林)の巾の差をある程度物語るものかも知れない。もちろん最も甚だしい洗堀流失は林帯の切目におきている。
効果と更新の両面から考えれば数百mの巾があれば好ましいことは間違いないが、現実には仙台市海岸、石巻市海岸、青森県の大平海岸などの広大な砂浜地帯を除いて、一般に100m以上もの巾を確保することは困難であろうし、また保護対象との関係からも、立木密度と関連をもった必要林帯巾に対して確たる根拠をもたないと用地を確保し、あるいは既存林帯を維持することは容易でなかろう。この意味で今後とくに推進すべき研究課題であろう。
以上から適切な林帯巾と立木密度による整備は今後の問題で、さしあたってはこれらに関する弱点をなくすことであろう。すなわち、林帯の一部にとくに巾のせまいところ、あるいは立木密度の疎な部分があればここに浸入海水流の主勢力が集中して破られ、その後の来襲波はこれより集中的に侵入し、次第に附近に被害を拡大し、他に巾の充分な部分があってもその背後をおかされるから結局林帯全体としての効果を低下せしめるからである。低湿地であるためにこのような弱体部分を生じた例が多いが、充分の排水施設あるいは盛土を行なって補植、整備すべきであろう。そうでなければごく一部の弱体部分のために全林帯の存在意義に疑問をいだかれるような事態にもなりかねない。
なお林地が洗堀されない限り、津波勢力で倒木を生じた例はほとんど見られないが、いったん洗堀がおこると容易に倒れる。平常の高潮で次第に林線部が侵蝕され、林帯がせばめられている例もある。当然のことながら林帯にはかならず充分な附属工作物が附設さるべきである。とくに海深の深い海に面する部分では厳重な設計にすべきであると考えられる。
三陸沿岸の防潮林の主林木はほとんどクロマツであるが一部にアカマツのものがある。今回冠水した防潮林ではクロマツはほとんど枯死木を見ないのに反し、アカマツは相当の枯死木を出している。本多博士による明治29年津波後の調査によっても、伊勢湾台風における三重県地方の調査例によってもアカマツはクロマツより明らかに冠塩水害、塩風害に弱いことが知られる。三陸地方は海岸線に優良な天然アカマツがある特殊な地域で、その理由には諸説あるがとにかく概して生育がよいようであり、また当地方は春雪のある地方でクロマツが冠雪のため枝折れなどの被害を受け易いのに対し、アカマツは比較的これに強いことなどから防潮林の主林木としてアカマツも悪くないという意見もある。しかし上述のように防潮林としてはクロマツが適当で、今後現在あるアカマツはクロマツに交替させてゆく必要がある。
いづれにしても今後既存防潮林を適切な巾と立木密度で整え、必要な海岸にできる限り新造成を考えるべきことはもちろんであるが現状ではまず既存林帯について以上のような際立った弱点の補強こそ先決問題であろう。
同時に平素の保護管理に一層の考慮が払われるべきであろう。岩手・宮城両県下の一部防潮林ではかなり荒廃しているものがあり、なかにはほとんど消滅に近いものさえ小数ながらあった。これらは、平素低湿地に造成されて生育も不良の上にその後の排水管理が不充分で次第に消滅したもの、平素の高潮による頻繁な冠塩水により次第に枯死木を出し、あるいは林線を侵蝕されて、いつのまにか林帯がせばめられたもの、林帯附近での土木工事によって荒されたものなどである。また林帯内に不当に建築物が侵入したり、農水産業の作業場と化し、あるいは材料置場となり、海水浴場のため人の出入がはげしく生育を圧迫されている例も見られた。岩手県では大部分が県有地に、宮城県では地上板設定地に林帯が成立し、それぞれ県材務関係当局が所管している。よって維持管理管理について充分な予算的配慮が必要であることももちろんであるが、やはり保護を受ける地元民の誠意による常時の保護管理が最も重要であろう。宮城県の海岸砂地造林地には行政機関とは別に保護組合なる申し合せ組合が組織され、県が指導しているが、このような組織が愛村思想の徹底、応旧的、簡易な林帯の保護処置、作業員の供給などに貢献していること多大のようである。防潮林についてもこのような組織の普及をはかって、常時管理の徹底を期し、少なくとも不当な林帯の使用による荒廃を防ぐことは最も望ましいことと考えられる。

第二章 海岸線直線状の遠浅海岸の場合

青森県三沢市天森−八戸市間の地域は、八戸市港湾部を除けば、海岸線がほぼ直線状の遠浅の海岸で、年年上昇することが認められており、平坦な砂地がよく発達している。海岸林は、汀線から100〜200mを隔てて、長く帯状に続いている。三沢市海岸では、各部落を囲うように固有潮害防備林が存在し、その間を民有林が結んでいる。このうちで、細谷−淋代間のみは私有地に三沢市が植栽した幼令林で、その他は県有防風林である。それより南部は、八戸市橋向−八太郎間の一部防衛庁所管林(演習地)を除けばすべて県有防風林である。林帯は切れ目なしによく連続しているが、上北郡百石町字−川目海岸のみは、前線に人家があって施行困難のため、林帯が切れている。海岸林の幅は、北部の三沢市天森地区の幅約1000mを最大にして、大体は100mを越えている所が多く、一般に100〜200m幅となっている。このうちで前線側林分は、戦後の海岸砂地造林事業によって造成された幼令林である地区が多く、残余が戦前の植栽で樹高6〜10m程度・幅50〜100m前後で、一般に内陸側に続いている。樹種はもっぱらクロマツである。
この地域は地形の影響で、過去の三陸津波の際にも、また今回のチリ地震津波の場合も、被害は比較的軽微であった。したがって、将来の津波の場合も被害の程度はさほど大きくはならないと考えてよいかと思われるうえに、連続した林帯の整備が上記のようにすでに相当進捗しているので、この地域の津波対策とし考慮する必要があると考えられている問題は、比較的少ないようである。現在の段階でさしあたって考えられる問題点としては、海岸林の幅の問題と固有林の取り扱いの問題とが取りあげられよう。
八戸市港湾部は、その東の鮫平の岬が北へ突き出ている地形の影響をうけるらしく、過去の三陸津波の被害は少なかったが、今回の津波では大被害をうけているので、将来の防潮対策は十分に考慮される必要があると思われる。
a.海岸林帯の幅について
この地域の海岸林は、樹高3〜4m以上・幅50m前後程度のものでも、今回の津波に対して相当の効果を示したことが認められている。しかしながら、将来の津波を想定する場合には、当然今回よりも波高が高く破壊力も大きいものの来襲も予想しなければならない。その場合に備えて、潮害防備林としての林帯の幅の限度をどのように定めるかが問題であるが、現段階ではこれについて定説がないのが実情である。海岸防風林としては、この地域の常風の風速が比較的小さいことから、前線林帯の幅は成林状態で数十mの程度、したがって将来の更新を考慮しても150m程度でよいかと経験的に考えられる。一般に流体の速度をV、密度をfとして、単位体積あたりの運動エネルギー1/2fV2について津波と風の場合を比較すると、fは水の方が1000倍程度大きいので、速度の差を考慮しても、来襲時の運動エネルギーは津波の方が風よりも100倍程度大きくなる。そのうえに、風は林帯の抵抗によって比較的上昇しやすいのに対して、津波は表面を持つためもあって上昇しにくい点の相違もある。したがって、津波の破壊エネルギーを十分に減殺するためには、林帯の幅を防風林の場合よりも相当に広くする必要があると考えられる。このような見地からすれば、この地域の現在の海岸林の幅は、将来の津波に対してはまだ十分とは言えないであろう。
林帯の幅を増すためには、この地域でも実際上は汀縁側へ造林するほかはないが、土地は建設省所管の固有海浜地であるので、その点では実行上の困難はないであろう。しかし一方において、この地域では前線造林地の高潮被害が近年になって頻発し、昭和30〜32年冬季には毎年低気圧で、また昭和33・34年には台風によって、それぞれ相当の被害を生じている。これについては、気象条件の変化もあろうが、海岸砂地造林事業施工地が次第に前線に移って来ている影響も見逃せないと思われる。したがって林帯の幅を拡げるには、高潮被害防止策を必要とする地区が当然多くなるであろう。防止方法としては、堆砂工による人口砂丘が、この地域では飛砂が比較的少ないためにあまり高くならないことから、何等かの構築物を設けることが必要であり、そのため造成経費の単価が増加することになろう。この点と、内陸側に高度の経済性をもつ保護対象が少ないと思われる点とを考えあわせると、一途に林帯の幅を拡げることは、経済効果の点から問題であると思われる。
以上の諸点を統合して考えれば、県当局の方針が、全地域にわたって成林地の幅を100m■することを当面の目標とし、幅が100mに足りない地区の林木造成と、高潮侵入常習箇所の造林不成続地の回復とに重点を置いているのは、妥当な考え方と言えるであろう。
今回の津波による林地被害の実態に照らして、県当局の計画している造林地高潮被害防止工事としては、盛り砂の防潮堤設置がある。これは、堆砂工による人口砂丘の高さの限度が2m程度であり、しかもこの高さに達するには相当の年月を必要とするため、この方法にはあまり期待が持てないので、一挙に簡単な堤防を設けようとするものである。その施工方法は、砂地造林施工地区の最前線に、サンド・ポンプで砂を盛り上げて堤防を設置するもので、堤の高さは2〜2.5m、頂上幅1m、斜面勾配は1割5分にして附近に自生するハマニンニクを植栽する。海側斜面下部は蛇篭で押え、坑を打って蛇篭を固定し、高潮による洗堀を防止するものである。堤防内側の林地への植栽は、必要に応じて深さ1m程度の盛り砂を行なって実施することになっている。必要経費の単価は防潮堤10000円/m・盛り砂200円/?・造林300000円/haであって、これを植栽地の幅60m・盛り砂の深さ80cmとして、施工地延長1mあたりの経費に換算すれば合計で22000円弱と見積られている。当面の実施計画地区は別表防潮林設備調に示すように、八戸市市川町・上北郡百石町・三沢市南部の各海岸で計7地区となっている。この地域では百石町字二川目地区に昭和33年に施工された高潮防止工があって、盛り土造林地の汀線側に蛇篭を2改に積んで護岸としたものであるが、新植のクロマツの生長は良好であり、今回の津波によっても造林地の被害は完全に防止されているという。以上の点からみると、工法としては適当と思われ、経費も比較的安価であり、計画地区はこの地域としては比較的高度の保護対象の多い区域であると認められるので、この計画は当面の第一目標として妥当であると考えられるので、早期の実施が望ましいと思われる。
ただしこの地域の海岸林造成は、以上の計画が達成されれば十分であると考えるのは誤りであって、内陸地区の経済性の進展がある程度見透せる段階に達したならば、なるべく早い時期に造成事業を続行して、最小限150m幅の連続した林帯を完成しておくことが、防潮対策上からもまた防風対策としても必要であると考えられる。
b,国有潮害防備林の取り扱いについて
この地域にある国有林は、昭和8年の津波災害後に、三沢市天森−鹿■間の部落保護のため、土地は内務省から受領したほか一部は民有地を買い入れ、各部落を囲って海側に飛び飛びに造成された潮害防備林である。林帯の幅は植栽当初は100mであったが、現在の成林地は24〜25年生で幅100mに足りない所が多く、50m幅くらいの所もある。ただし、天森北部の旧御料地を譲渡された林地146,56haは、防衛庁燻裏演習地(もと米軍基地)になっているため、立木は存在しない。その他の地区では、昭和33〜35年度に実行された林政協力に伴う造林事業による新植地を含めると、林地の幅は50〜200mになるが、新植地は5月の雪解水滞水、高潮による海水浸入などもあって、成績はあまり良好とは言えない点に問題がある。
成林地の幅を拡げる必要のある点については前項の通りであって、そのためには植栽成績をあげることが重要であるが、成績が必ずしも良好でない点については、林地の管理に不十分のところがあるのも一原因と見られている。これは管轄が三本木営林署であって、担当区事務所が十和田市にあるため、現地が遠く離れていることの自然の帰結であろう。したがって管理の点を重視すれば、この地域の北に隣接する野辺地営林署平沼担当区事務所が現地に近い点からみて、管轄をこちらに移すことも考えられる。また、この地域の県有林面積合計707,23haと国有林面積(要補修地12,45haを含み、防衛庁演習地を除く)96,42haの比率と、県の林務出張所が現地に近い三沢市内にあって事業を続行している点とに注目すれば、現在の国有林を全面的に県に移換することも一法と思われる。
いずれにしても、管轄の問題は林帯造成事業の実行と既設林の維持管理上もっとも便宜のように決定されればよいのであって、要はこの地域の全海岸林が、一貫した方針と計画のもとに造成・管理・維持され、将来の災害を未然に防止できる体勢が一日も早く確立されることが重要であると考えられる。この点を考慮して、関係当局の間で早急に協議が行なわれることを望むものである。
C,八戸市港湾部の防潮対策について
八戸市は馬渕川旧三角洲の工業地区から商港部の一帯にかけて、今回の津波によって甚大の被害をうけ、被害額は青森県下総被害額の90%を超えている。この地帯は過去の三陸津波の場合に被害が軽度であった影響もあって、防潮施設はあまり重視されていなかった模様である。しかし火力発電所・製鋼工場等の林立する工業地区から家屋の密集した商業地区に続く高度の経済性をもつ保護対象の存在と、今回の被害状況とに照らして、将来の災害に備えて十分な防潮対策を講ずる必要があることは、言うまでもないであろう。
この地区の対策としては、商港部はほとんど汀線まで建物が密集している現状からみて、防波堤・海岸堤防・護岸等の土木的施設によるほかはないであろう。工業港部も同様の施設を必要とするのは勿論であるが、そのほかに、この地区は汀線沿いに比較的広い砂地が続いており、馬渕川右岸寄りには小面積であるが林帯も存在しているほどであるので、この地区に可能の限り幅広く林帯を併設造成することが将来の災害に備える良策であると考えられる。林帯に土地をさくことについては問題もあろうかと思われるが防潮対策として土木的施設のみにたよることは万全の策ではない点の理解が得られれば、問題の解決はさほど困難ではないであろう。この点について、関係当局者が力をつくされることを望みたいと考えるものである。

第4部 防潮林の経済効果

はしがき
津浪、高潮にたいする防災施設のひとつである防潮林の経済効果を考察するにあたっての最大の困難は、それら災害の発生時における防潮林の背後地防禦の機能が、かならずしもあきらかにされていない点である。その原因は、津浪、高潮の総合的破壊力の測定、および、植物体によって構成される防潮林林帯の複雑な波浪防止力を測定が、きわめて困難な問題であるところにある。したがって、現在のところ、防潮林機能の確定的な標準値を採用して、本考察の前提とすることは不可能といってよいであろう。
そこで、本稿では、公共的防災施設のなかで、防潮林自体がいかなる特殊な性格を有しているかという点を考察し、それによってその経済効果の意義を検討してみたいと思う。経済の高度化、発展の過程で、公共事業の意味もかわり、その特殊な分野の役割も当然変化するものと考えられるからである。とくに、防潮林のような局所防災施設の役割は、単純な技術的見地からだけでは判断することのできない、幾多の複雑な問題をはらんでいると考えられるのである。したがって、経済効果の数量的、具体的測定は不可能としても、現状の社会、経済条件のもとでのその位置づけをおこなうことは、なお無駄ではないと思われるのである。

第1章 公共的防災施設の一般的性格

1,公共事業の一般的性格
防災施設の建設およびその維持は、通常公共事業としておこなわれることが多い。もちろん、公共事業は、防災事業以外の各種の性格の異なった諸事業をふくんでいるわけであるから、公共事業の一般的性格のみで防災事業の規定をおこなうことはできない。しかし、現実に防災事業が公共的に実施されなければならないということは、現在の経済社会においては、公共的性格こそが防災事業の一般的、本質的性格となっていることをしめすものといえるであろう。このような意味で、日本における公共事業の性格の考察からはじめることが必要となる。
ひとくちに公共事業といっても、きわめて種々雑多な諸事業がこれにふくまれていることはいうまでもない。しかし、それらをつうじて基本的にいえることは、それが近代経済社会において確立した概念だということである。
すなわち、近代社会においては、経済活動は基本的には私的企業の利潤獲得のための競争の原理に基礎をおいている。個々の私的企業の盲目的な活動の総体として、社会的再生産が構成され、維持されるのである。そして、このような原理から生ずる重要な特徴のひとつは、資本と労働力の社会的配置が、利潤率、すなわち個々の企業にとっての収益性の高さによって規定されるということである。なんらの利益を生まない、あるいは生んだとしてもその社会的平均よりいちぢるしいひくい産業部門、経済分野には資本投下は原則としておこなわれえないこととなるのである。
だが、現実の経済社会において、このような資本配置のアンバランスが存在する場合、社会的再生産の順調な発展が阻害されるという事態が発生することもありうる。通常の商品にあっては、もし国内においてそれを生産するための資本投下がおこなわれない場合にも、輸入貿易によってこれが供給され、再生産過程に重大な混乱を生ずることはないであろう。そして、その商品の国内に消費市場が存在するということは、いずれはこれを生産する産業部門へも必然的に投資がおこなわれることを意味しているものである。
いっぱんの商品生産の分野にあっては、それが公共事業としておこなわれることは、原則としてありえないこととなるである。
しかるに、近代的経済社会における総生産を維持するにあたって、このような通常の意味での商品の生産と流通のみがその全体を構成しうるとはいえない。たとえば道路を考えてみよう。いうまでもなく、道路は、交換経済を前提とする近代社会にあっては、交通を媒介する不可欠の一条件であるが、これは通常の商品として無限に生産し、どこにでも供給しうるものではない。それは、一定の土地の属性を変え、その土地の新たな属性としてそこに固着することによってのみ、本来の機能を発揮しうるものである。これを工場などにおいて生産したり、輸入貿易などによって供給しえないことは明白であろう。しかも、道路をいったん建設しても、特殊な場合をのぞいて、その利用は不特定であり、道路建設に必要とした資本の回収および収益を実現することは不可能といってよい。私的な資本が道路の建設に投下されることは、近代経済社会においては、一般的には行なわれえないのである。
だが、それにもかかわらず、道路は社会的再生産の円滑な進行あるいは発展にとって不可欠な条件であるとするならば、その建設投資は誰かによって行なわれなければならない。道路の不備は、特定の交通条件を有する特定の私的企業−たとえば、重要航路の寄港地となっている港湾の近傍とか鉄道便のすぐれた地域とか、道路交通に代替する交通手段の特別の便宜を有するもの−には特別の高い収益をもたらすであろうが、他の大部分の企業にとっては、多かれ少なかれその収益を低下せしめる原因となるであろう。のみならず、これを社会的総資本の見地からみれば、交通、輸送費の過大な負担を強いられることによって商品原価を高騰せしめるばかりでなく、企業の成長、資本、労働力の自由移動をさまたげ、社会的再生産の発展の障害となることはあきらかである。そこで、総資本の立場にたつところの国家が、国家資本をもって、すなわち、公共的上木事業として、このような道路を建設しなければならないこととなるのである。
歴史的にも、このような事情は、該当している。資本主義の成立期にあっては、個別資本の集積はなお不十分であり、社会の総生産においてしめる資本の比重も相対的に小さい。このなかで、急速な資本蓄積をすすめるには、まだ弱小な私的資本の投下対象とはならない部面に国家資本が投下され、公共事業が社会的再生産の不可欠の補完部分とならなければならないのである。個々の資本主義国家によって多少の差異はあるけれども、道路、鉄道、港湾施設などの一部は、このように国家、地方自治団体によって開発されたものが少なくない。
資本主義の成立期をすぎても、このような公共事業は維持されるばかりでなく、かえってその主要性は増大し、その意義にも若干の変化を生ずる。とくに、社会の再生産規模の急激な拡大、生産技術の急速な高度化がすすむ場合、物的な生産基盤がそのような新たな生産力に照応しないものとなり、これを放置するならば、再生産に大きな混乱が生じたり、再生産自体の発展をさまたげるという状況が発生する。生産基盤の整備、改善が公共事業としてますます大規模に実施されなければならないこととなる。
それのみでなく、巨大な都市の集中、工業地帯の形成の結果、労働者の生活環境の悪化が生じ、労働力の正常な再生産をさまたげることによって社会の再生産に重大な影響をおよぼすこととなる。この生活環境整備のための投資も、個々の私的企業の負担には限界があり、国家、自治体の公共事業として実施されざるをえない。
さらに、公共事業は、国家資金の支出によって有効需要の増大をはかり、とくに雇傭の増大をもたらすという意義をも有することとなる。1930年代以降、アメリカのニューディール政策をはじめとして、世界的にみられる公共事業の新たな姿は、とくにこの性格をつよくもっていたことは周知のとおりである。
以上のように考えるならば、公共事業の基本的性格はほぼあきらかとなるであろう。いまこれを要約して列記すれば、つぎのとおりいうことができる。
(1)公共事業はあくまでも、社会の再生産の円滑な進行にとって不可欠の部面でありながら、私的企業によって資本投下が行なわれえない分野にたいし、国家が資本を投下するものであって、個々の私的資本の企業活動を社会的に補完しようとするものである。したがって、公共事業投資の対象となる具体的な分野は、個々の資本主義経済の構造、発展の水準、方向によって規定されてくるものであるから、国々により、また歴史的にも差異が存在する。
(2)だが、このような差異が存在するにもかかわらず、公共事業の中心をなすものは、いっぱんに土木的諸事業である。道路、港湾、場合によっては鉄道、自然災害にたいする各種防災施設などの建設、維持、大都市の物質的、文化的諸施設の整備などがそれである。これらは、いずれもその建設にあたっては巨大な資本投下を必要とするにもかかわらず、その資本価値は直接には資本の循環過程にはふたたびもどって来ない性質を、多かれ少なかれ有しているのである。したがって、本来、自己増殖をとげ、一定の収益を実現することを本性としている私的企業にとって、このような資本投下は、きわめて困難であるか、または不可能なのである。
(3)しかも、生産力の不断の発展の過程において、土地および自然条件によって根本的制約をうけるこれらの土木的施設は、日ごとに新たな生産力に照応しないものとなり、その発展を阻害することとなる。そこで、ますます大規模な公共事業の実施が必要となるのであって、これを客観的にみれば、ますます大きな社会的、国家的資本の補完なしには、私的資本による企業活動自体が成立しえなくなることを意味しているのである。
2.日本における公共事業の特殊性
さて、以上公共事業の一般的性格を考察したのであるが、これらは、基本的には日本の事情にも該当する。しかし、日本の資本主義経済は、その成立から現在にいたるまで、一貫した特殊な構造を持続し、それによって、公共事業の意義と形態にも、特殊性をつよく打刻されているのである。その詳細な分析は本稿の課題ではないが、基本的性質を述べれば、つぎのようにいうことができる。
日本資本主義の構造上のもっとも大きな特徴は、資本蓄積の相対的不足であり、過小資本ともよぶことのできるものである。もともと、日本の資本主義が、すでに発達した西欧資本主義諸国による世界市場の形成過程において、外部から刺激されつつ、急速に蓄積をすすめなければならなかったことは周知のとおりである。したがって、民間の私的資本の蓄積はきわめて不十分であったにもかかわらず、近代的諸産業を移植、成長せしめるために、明治政府の保護、育成政策が必然化した反面、小所有、小生産を全面的に駆逐し、社会的生産の大部分の分野を資本制生産が占領することに失敗したのである。この明治政府による諸産業の保護、育成政策は、当初から経済構造全体のなかで国家資本の役割がきわめて大きかったことをしめすものであり、その後の発展の過程においても、この特徴に大きな変化は生じなかった。私的企業の成長にもかかわらず、国家資本による再生産の補完部分が大きく、とくに生産の物質的基盤にかかわる事業の多くは国家が相当することとなったのである。公共事業、公益事業と称せられるものが、諸外国にくらべて日本においては、とくにひろい分野にわたっていることは、このような理由にもとづくものであった。
すなわち、家族労働力によってささえられる多数の零細農家をはじめとして、経済のあらゆる分野、全国のすべての地域に小営業が分布、密集し、経済全体の盲目性、無政府性をいちじるしく助長し、かつ特殊化した。かれらは、自力で営業上の環境を整備する力をもたないばかりでなく、場合によってはかえって大企業にとっての環境を悪化させることもある。しかも、いうまでもないことではあるが、このような小営業の群が、社会全体としての再生産にとっては不可欠の要素となっているのであるから、それらの破滅を防止するための措置が、政府、自治体の課題の一つとならざるをえないのである。また失業者の雇庸促進の意味をつよくもっていることは、戦前、昭和7年から開始された救農土木事業、戦後の失業対策事業を思いおこすのみでも十分であろう。このように、日本の公共事業、とくに公共土木事業は、社会救済的性格を多分にふくんでいることに注意しなければならない。
だが、日本における公共事業の特殊性は、以上にとどまるものではない。すなわち、公共事業の中心をなす土木事業の内容を考えれば、きわめて明白であるが、防災事業の比重がきわだってたかいのである。
防災事業の比重がとくにたかい原因の第1は、やはり日本の自然条件に帰することができるであろう。アジア、モンスーン地帯特有の台風の季節的常襲、火山帯の広範な分布による地震、津浪の頻発等、やはり日本特有の災害発生条件を数多く備えているといってよい。そして、これに第2の原因たる歴史的、社会的条件がつけ加わっている。すなわち、河川下流部河口附近に形成された無秩序、無計画な都市、そして密集する脆弱な可燃性の小家屋群、極度に集約化し、ひしめきあう零細農業等々、これらは、前述の自然条件のなかで、災害を極度に拡大し、深刻化する条件となっているのである。
このような、日本の防災事業はさらにいくつかの特殊性を有している。
その第1は、防災事業が継続的、恒常的におこなわれなければならないということである。もちろん、全国的にみて、同じような気象災害−台風災害を中心とする−が毎年繰りかえされ、防災施設等の災害復旧事業があとをたたないということは、一面ではそれら事業の実施方式、政治、行政機構などに幾多の問題をはらんでいることをしめすものではあるが、やはり他面では、前述の風土的諸条件と社会的諸条件の存在なしには考えられないものであろう。
その第2は、このことからあきらかなように、ある種の防災的事業は、日本が近代国家を形成する以前から、つねにそのときの統治者によって“公共的”におこなわれてこなければならなかったものという側面をもっていることである。たとえば、日本における代表的な防災事業である治水事業は、歴史上つねにそのときの統治者−全国的であると地域的であるとをとわず−の責任において、遂行されてきたものであった。しかも、このことが、統治の経済的、社会的条件の強化という役割をはたしてきたものと考えられるのである。また、防災以外でも、農業水利事業のように、概して統治者の責任においておこなわれた、“公共的土木事業”とでもいうべきものを想起することができるであろう。そこに、日本の公共事業の歴史的特殊性の一つが存するのであって、その実施の形態、機構などの面でふるい伝統的性格を維持しているのである。明治期以降、これが近代的制度のもとに再編されながらも、前述のような資本にとってこの再生産の補完という形態に純化しえなかった原因もこのようなところに根ざしているものと考えられるのである。
第3に、これも前2項の諸特徴と関連していることであるが、自然災害の発生にさいしてもっとも抵抗力の弱い部分は必然的に都市および農村の小所有者、小営業者たらざるをえない。かれらの大部分は、近代的大企業と違って、営業それ自体が生計の条件になっているのであるから、作物、耕地、生産設備、家屋などの破壊はただちに経済活動の混乱と停止および生活の困窮をひきおこすこととなる。したがって、社会的にみて再生産の大きな混乱の原因となるばかりでなく、社会不安発生の誘引ともなりうるのであって、経済的要請からばかりでなく、“治安維持”の観点からも、その防止の必要性が生ずるのである。
さて、日本の公共事業、とくに公共土木事業が、以上のような特殊性を有するため、それが個別企業にとっての環境整備、総資本にとっての産業基盤の改善、再生産の補完という形態に純化しえないことは、すでに簡単に指摘したとおりである。このことは、その資本投下の客観的意義を不明瞭なものとし、事業実施の方式、機構などに多くの問題をはらみ、投資の経済効果を理解し難いものとしている原因となっているのである。
3.防災事業の経済効果
公共事業投資の経済効果の意義を理解するためには、上述のように、それが一般の私的資本の投下と大きな差異を有していることをまず確認しなければならない。
すなわち、くりかえして要約すれば、一般の私的投資がつねに一定の収益の実現をもとめるものであるに反し、公共投資は、そもそもこのような収益は期待できないが、しかも総資本の再生産にとって不可欠の分野に、社会的性格の資本が投下されるということなのである。とくに、公共的土木事業の場合は、その資本投下は、資本価値の流通範囲から出て、ふたたび還流してくることのない性質のものが多い。したがって、この種の投資が効果として、一定の収益性を考えることは本来、見当がはずれているといわなければならないのである。
それでは、公共事業投資の経済効果は、いかに考えるべきであろうか。
周知のように、それは通常、“公共の収益”の発生、すなわち“公益効果”とよばれるものの発生とされている。そしてその効果を数量的に測定するために、各事業分野において種々の算定方式が採用されている。たとえば、土地改良事業においては、事業実施の結果生ずるであろう農産物(とくに米■)の増加生産量を推定し、これの価格評価をもって、経済効果として来た。この方法は、いうまでもなく、社会的総資本の立場、いいかえれば国民経済の立場からいって、主要食糧の生産を急速に増加せしめることが必要であったある特定の時期における公共的土地改良投資の効果の合理性をしめすにすぎない。したがって、国民経済の立場からの農業生産にたいする要請のなんらかの変化を想定するならば、この合理性はほとんど失なわれてしまうのである。
そこで、その投資の本性からいって、直接的な結果のみを算定するのみでは、その経済効果を客観的に把握したこととはならないのである。やはり、社会の再生産総体の発展にとっていかなる意義を有するか、ということが認識されなければならないであろう。このため、多くの場合、直接効果の他に、“波及効果”とよばれるものが、測定されている。しかし、それも、測定ないし算定できる間接的事項をただ並記するだけのことが多いようである。とにかく、いずれにしても、経済効果の測定にかんしては、完成された客観的方式は存在しないというのが実状であろう。
いうまでもなく、防災事業においては、その事業の意義は消極的なものである。たとえば、道路の建設、土地改良、水資源の開発などという場合は、いわば積極的な投資であって、社会的生産力の発展を促進するための生産基盤の整備という意味をもっているに反し、防災事業の場合には、発生しうべき災害によって社会の再生産が撹乱されないように、被害発生を予防しようとするものである。したがって防災事業は、原則として現状の経済活動とその物質的諸条件を保全することを目的とするものと考えてよいであろう。経済効果の問題においても、この相違は当然反映せざるをえない。
すなわち、前者にあっては、社会的生産の発展の形態を想定し、それを達成するための生産基盤の改善、環境の整備を意図するものであるから、いかに新らしい再生産のための条件をつくり出し、それを促進したかということが効果判定の基準となる。これに反し、後者にあっては、災害の発生時において、いかに有効に現況を保全したかという問題である。
さらに、防災事業にあっては、自然災害の発生の時期、規模を正確に予知することはできない。したがって、その防災施設が、いつどのていどの機能を発揮しうるかということは、厳密にいえば不確定なのである。防災施設の設計、あるいは投資の規模が、過去のその災害の発生頻度を基礎にした確立計算によっていることは、周知のとおりである。ここから二つの問題が生ずる。第1に、その防災施設は、災害の発生した瞬間以外には、現実にその機能を発揮していないのであって、平常時にあっては、貨幣経済の観点からすればまったく“遊休施設”と同様である。そして、自然災害は、現在のところなお発生について不確定なのであるから、資本の本性からすれば、そのような不確定な災害のために多額な防災投資をおこなうことは、きわめて経済性のすくない事業といわざるをえないのである。そこで、防災投資は、場合によって無駄な投資とみられることがあり、投資の規模はできるだけ圧縮しようとする要請がはたらくのである。
だが、第2に、災害の発生頻度が不確定であるのと同様に、その規模も不確定である。通常、防災施設の設計は、既往の最大規模を参考とした計画基準によっておこなわれるが、つねに災害それより小規模であるという保証はないわけである。そこで、いったん、計画基準を上まわる規模の災害が発生した場合は、その防災施設はほとんど無力となり、その投資はなんらかの効果を発揮しえなかったいう結果になるのである。であるから、施設自体の効率からいえば、できるだけ余裕のある設計であること、したがって、より多額の投資のおこなわれることが望ましいこととなる。
このように、防災投資には、矛盾する二つの要請がはたらいているといえるのである。現在の経済関係のもとにおいては、この矛盾を完全に解消することは不可能であろう。ただ、相対的に緩和することができるだけである。技術、とくに土木技術の発達が、この矛盾の相対的緩和を媒介する手段となりうるのであって、同額の投下資本によって、より機能の大きい施設をつくりだし、結果として投資の効率をたかめることができるのである。防災事業の歴史をみれば、土木技術の発達がより完全な施設の機能を追究し、投資の効率をたかめるために、大きな役割をはたしてきたことを明らかにみとめることができるであろう。
このように考えるならば、防災投資の経済効果ということ、および、そのような機能を発揮せしめるための投資効率ということの二つである。そして、この二つの要素がかならずしも調和しないものであるがゆえに、現実の事業実施にあたって、どこかにその合理性の根拠をもとめなければならない。“経済効果”というあいまいな概念は、実はこのような矛盾の調整において求められる形式にほかならないことが多いのである。であるから、経済効果の内容はけっして絶対的なものではなく、保全対象の社会的性格、土木技術の水準、公共投資の総わくなどによって変化しうる相対的なものであることを理解しなければならないのである。

第2章 防潮林の経済効果

1.局所防災施設の特殊性
防潮林は、通常、高潮、津波など海岸において発生する波浪による災害にたいし、背後地を保全するための防災施設である。したがって、それは一定の公益効果の発生を目的としているとはいえ、背後地保全の機能する範囲はごくかぎられたせまい地域であることが多い。広範囲にわたる地域の、不特定な生命、財産を保護するために設けられる河川堤防などとちがって、防潮林が、“局所防災施設”の一つにかぞえられているゆえんは、ここにある。
前章において考察してきた公共的防災事業の一般的性格は、いうまでもなく、このような局所防災施設を直接念頭においたものではない。むしろ、不特定の公益効果を発揮しうるような防災施設の形態を念頭においたものであり、それらが公共的防災施設の一般的性格ないし本質を、より明確にしめしているからである。もちろん、局所防災施設といえども、それが公共的におこなわれるかぎり、その本質においてはそれとかかわるところはないのである。ただ、局所防災の場合には、その一般的規定のみでは十分に理解できない特殊性を有するのであって、防潮林の経済効果を考察するにあたって、見逃しえないところのものである。そこで、以下簡単に、局所防災施設の特殊性を考えてみよう。
さて、すでにしばしば指摘したように、そもそも防災の必要性、あるいはそれにさきだつ災害の発生ということ自体が一定の経済活動の存在を前提とするものであった。たとえば河川の氾濫にしても、津浪の襲来にしても、そこになんらの社会生活が営まれておらず、経済活動が展開されていないならば、それらの自然現象はあくまでもたんなる自然現象であって、災害とはならないであろう。ましてや、その自然現象に人為的な干渉をくわえる必要はまったくないであろう。もともと保全対象が存在しないからである。
そこで、防災施設の機能を考える場合、まずもっとも直接的なことは、それの保全対象は何かということである。そして、つぎに必要なことは、その保全対象の質と量が、国民経済(二社会の再生産総体)においていかなる意義を有しているかということである。この第2の点は、国家的な公共的防災事業投資の総額がきまっている場合、その投資の順位と範囲をきめる条件となる問題である。
このように考えた場合、通常の防災と局所防災とのあいだには、本来本質的な差異が存在するものでないことはあきらかであろう。不特定の公益効果を発揮するもっとも典型的な例である治山事業にしても、その公益効果を発揮しうる範囲は、基本的にはある一水系の流域を出ないのであって、ただその効果のメカニズムと量を明確に評価、算定し難いにすぎない。これに反し、局所防災施設とされている防潮施設の場合には、その保全対象地域がごくせまく限られているために、本来“不特定多数の利益”を対象とした公益効果として理解されがたいだけである。両者の差異は、いわば量的な差異にすぎないものといえるのである。
だが、この量的差異がまったく意味がないというわけではない。資本制経済においては、この量的な差異はかなり重要な意義を有しているからである。
すなわち、第1に、保全対象地域がせまいということは、その地域で営まれる経済活動の国民経済全体の中でしめる比重が小さいことを通常しめている。
第2に、その保全対象地域内で営まれる経済活動が、どのような性質のものであるかということであり、ごくせまい地域においては、通常近代的経済の中での重要な産業は成立しえないことを意味している。
この2点を、やや具体的に解説するならばつぎのごとくいうことができるであろう。
すなわち、災害が発生しても、その被害範囲がごくせまい地域にかぎられ、しかも、社会的再生産の継続に大きな支障とならないような性質の経済的損害ならば、その被害の発生を防止することは、大きな公益効果を有するものとはいえないであろう。そのうえ、その地域に、近代的基幹産業およびこれに付随する市街地、諸施設などが存在せず、おくれた第1次産業だけが存在するにすぎないとすれば、これを多額の投資をもって保全することは、いかにも社会的に意味の少ないこととなるのである。
さて、局所防災施設が、このような制約をうけるものとすれば、その事業の実施にあたっても、特殊な要請がはたらくこととなる。すなわち、第1には、その投資の規模をできるだけ圧縮しなければならないという要請が、通常の防災事業にたいしてよりもはるかにつよくはたらくであろう。国民経済の立場からすれば、特定、少数の利益しか確保しえないことのあきらかn投資は、しばしばその“経済効果”に不相応な“過剰投資”とみられることがあるからである。また、第2に、局所防災の場合には、部分的に受益者の意思を反映せざるをえないことである。不特定多数の公益効果をもたらす事業の場合には、いわば公益性という超越的立場を貫徹することができるのに反し、利益をうける者がかぎられた少数の場合には、種々の理由によって、かえって有効な防災施設の設置をのぞまないこともありうる。超越的な公共性の貫徹がこの場合困難となることはあきらかであろう。
このようにみてくると、局所防災施設自体が、そもそも公共事業としてはおこなわれえないかのごとくみえるかもしれない。だが、これにたいしては、自然災害にたいする施策は、原則として統治者の責任であることが強調されなければならないであろう。
とくに、相対的に少数であるにせよ、その地域に生業としての営業をいとなみ、他への移動の困難である居住者がいるかぎり、かれらの生活と営業の諸条件を保護することは、公共的におこなわれなければならないのである。
2.津浪被災地域の特殊性
津浪対策としての防潮林が設置されなければならない地域は、いうまでもなく津浪災害の常襲地域である。チリ地震津浪の襲来した三陸海岸地帯が、この津浪常襲地帯とされていることは周知のとおりである。
この地域は、地形的ならびに経済的にみて、かなりいちじるしい特殊性を有している。津浪対策としての防潮施設を考える場合、この特殊性による制約を理解することが、ぜひとも必要である。前項で述べたとおり、局所防災施設は、地域の特殊な諸条件によって規定される側面を有しているからである。
まず、第1の地形的条件を要約していえばつぎのとおりであろう。長く続くリアス式海岸と、海岸線近くまで迫った山地、したがってごく狭い平地。このような条件は、筆者が調査した宮城県石巻市以北の海岸について多かれ少なかれ共通して存在していた。岩手県の全域および青森県南部の海岸線すなわち、三陸沿岸地帯が、わが国でも代表的なこの種の地形をしめす地域なのである。
この地形状の特徴によって、第2の経済的諸条件も大きく制約されている。これによって生ずる特徴を列記すれば、つぎのとおりであろう。
(1)耕地がきわめて狭小であり、大きな農業地帯を形成することができない。
(2)漁業基地としては、条件は比較的良好で、とくに沿岸浅海漁業成立の可能性にめぐまれている。
(3)用地その他の点から、近代的大産業ならびに大都市の形成されうる条件はほとんど存在しない。
つぎに、これらの点を、宮城県の実情にもとづいて具体的に検討してみよう。厳密な意味で海岸線のみの事実をしめす統計資料はえられなかったので、海岸線をその区域内にふくむ11ヶ市町村(石巻市以北のみ)の事実であることに注意していただきたい。このため、多かれ少なかれどの市町村も、内陸部の集落をふくみ、正確に海岸線の経済条件をしめすものとはいえないのであるが、ごく大ざっぱにはその傾向をしめしうると考えられるのである。
第1表は、これら11市町村の土地面積、耕地面積、山林面積などをしめしたものである。このうち、石巻市および気仙沼市は著名な漁港都市であり、かなりの人口を擁する市街地を形成しており、かならずしも上述の諸特徴をしめすものではない。しかし、これは局地的に比較的ひろい平地や、とくにすぐれた漁港条件などをそなえていたという立地要素から生じた特殊性とみることができる。
こういう考慮をはらえば、この表からみられる一般的傾向は、つぎのとおりである。
すなわち、まず、耕地率(統土地面積にたいする耕地面積の比率)がきわめてひくく、がいして宮城県の平均数字をかなり大幅に下まわっている。これに反し、山林率は比較的たかく、ほとんど県平均を上まわっている。
山地が多く、平地の少ない地形状の制約をかなり明瞭にしめているわけである。
さらに、農家一戸あたりの耕地面積をみると河北町の1.2haをのぞいて、すべて県平均の1.1haを下まわっている。河北町は、海岸部のしめる割合が少なく、大部分は内陸部の集落によって構成されているものであるから、この数字は当然であろう。他の市町村は、0.3ないし0.9haであるから、農業生産のみでは生計をいとなみえないていどの規模の農家の割合が圧倒的にたかいことは想像にかたくない。また、したがって、総人口1人当りの平均耕地面積もきわめて狭く、この地帯が農業地帯とはいえないことをしめしている。
このように、農業生産の条件にとぼしく、特別に大産業も存在しないとすれば、沿岸の集落にとって重要な営業は漁業とならざるをえない。いま、漁業種別の沿海漁業経営体数をみると第2表のとおりであって、採貝、採藻、かい養殖、のり養殖などの小規模な浅海漁業がもっとも大きな比重をしめていることはあきらかであろう。漁船漁業の多くは無動力船で、あわび、わかめなどを採集するものが大部分である。また、のりの養殖は、近年韓国からの輸入減少によってあさくさのりの価格が高騰しているので、その養殖はかなり増大しつつあるようである。宮城県下の、昭和33年における沿岸漁業に従事する漁家(企業体準漁家などをのぞいたもの)の漁業生産高は約12億円であるが、このうち漁船による採貝額は約6,500万年、採藻は約6,000万円、かき養殖が3億8,000万円たらず、のり養殖が5億6,000万円たらずとなっている。
このように、漁業活動は活発ではあるが、その大部分が零細漁家による沿岸漁業ないし浅海養蚕業である。このような漁業が、三陸地方の海岸線の地形的特性と切りはなしがたい関係にあることはあきらかであろう。外洋に直面する単調な海岸線地帯にあっては、これらの沿海、浅海漁業の多くは成立しえないのであって、津浪災害の発生しやすい地形こそはこれらの漁業の良好な立地条件になっているともいえるのである。ここに、津浪惨害をくりかえさなければならない"宿命"の基礎が存在するのである。そして、この宿命を現実化する条件が、漁家の零細性といえるのである。つぎに、その零細性を検討してみよう。
第3表によって、宮城県下の沿岸漁業経営体の年間漁獲金額別分類をみると(主要な漁業種別のみ)、大部分が年間50万円以下である。とくに1万円以上20万円未満ていどの漁獲しかあげえないものが圧倒的多数である。このような年収入(漁獲高であるから、粗収入をしめすものであろう)ではほとんど純収益をあげえないであろうことはもちろん、十分に家計をささえないことはあきらかであろう。そこで、当然、かれらの多くが専業者でないことを想定することができるのである。
備考 前掲「沿岸漁業臨時調査」による、漁家と個人企業世帯の合計
そこで、第4表によって、漁家および個人企業体の専兼業別をみると、このことが、実に明確に裏がきされている。すなわち、石巻市以北11ヶ市町村における漁家および個人企業体の漁業経営の総数は5,557であるが、このうち、専業はわずか248世帯にすぎず、残りの5,309世帯は兼業なのである。この兼業の詳細な内容はあきらかでないが、その主要なものが農林業であることは想像にかたくない。実地調査のさいの観察からいっても、この大部分の地域が典型的な半農半漁の集落によってしめられていたのである。
以上の検討によってあきらかなように、この地域における経済は、零細な半農半漁家によって主としてささえられているものと考えられるのである。このような諸条件は、津浪災害とどのような関連をもってくるかという点が、つぎに考察しなければならない問題であるが、これは防潮施設の問題とともに、次項で述べよう。
3.津浪対策としての防潮施設と経済的諸条件
前項で、以上のような地域においては、津浪災害は、いわば宿命化せざるをえないと指摘した。本項では、まずその理由から説明しよう。
第1に、津浪の発生しやすい地形的条件が、同時にこの地域住民のもっとも重要な経済的条件になっているということである。すなわち、前項であきらかにしたように、津浪被害をうけやすい三陸地方のリアス式海岸が、かき、のりなどの浅海養殖業にとっては不可欠の条件となっているのであって、しかも、その浅海養殖業が、この地方にとってはもっとも重要な産業のひとつになっているのである。したがって、この浅海養殖業をつづけるかぎりは、いかに津浪発生の危険が存在しても、経営者はこの地域からははなれることはできないのである。
第2に、これらの漁業者の大部分が零細な兼業業者であることが、第1の問題をさらに極端にしていることである。すなわち、かれらの大部分は、零細な農業と漁業との結合によって、ようやく生計を維持している小生産者層であって、かれらは経営活動だけでなく日常の生活をも、現在の場所から他へ移動することは不可能に近いのである。かれらに、この津浪の被害をうけやすい海岸の集落からはなれて、どこか他の地域に移住せよということは、まったく生活の根拠を失なうことを強制するにひとしいであろう。いかなる惨害をうけようとも、かれらの大部分は、この地域からはなれることはないであろう。
第3に、小生産者特有の無秩序および生産設備、生活状態の劣悪さからくる災害にたいしての抵抗力の弱さである。これらは、災害の悲惨さ深刻さをつよめる条件であって、このような生活状態が再生産されるかぎり、津浪災害による大きな被害を完全に消滅させることは不可能であろう。
第4に、以上のような諸条件のもとでは、いろいろの理由によって完全な防潮施設の建設が困難であるということである。たとえば、巨大な防潮堤の建設は、その物資の経済性からくる制約をのぞいても、大部分の住民にとっては、日常の漁業上の作業の大きな障害となるものであり、あまり歓迎されない。作業をさまたげないていどの防潮堤ならば、いつ発生するかわからない強大な津浪にたいしては、あまり有効なものとはなりえないだろう。防潮林にしても、有効な機能を発揮しうるようにするためには、長くかつ厚い林帯の形成を必要とするであろうが、そのような用地を取得することが、前述のような地形的、経済的条件のもとではたして可能であろうか。
さて、以上のような状況のもとでは、津浪による惨害はいつくりかえされるかわからないのであって、それが、今後は未然に防止されうるであろうという保証は、ほとんど存在していないのである。そこで当然のことではあるが、津浪の襲来が正確に予知されず、しかもこの地域の居住と生活とを存続せしめなければならない以上、「宿命」をたちきるためには完全な防災事業が必要となるのである。
この防潮施設を技術的にのみ考えるならば、津浪襲来の可能性のある海岸に、巨大な防潮堤を連続して建設することがのぞましいであろう。完全に津浪による被害を防止するのも現代の技術をもってすれば、けっして不可能とは思われない。
だが、前述したとおり、公共的防災事業には、その投資にある制限要素がはたらくことを忘れることはできない。この場合には、津浪発生の確率と、局所防災という性格からくる投資の経済効果をどう評価するかという問題となる。
まず確立については、ほぼ30年に1回といわれているが、今後、詳細な資料の蒐集によって、正確な検討をおこなう必要がる。ただ、いえることは、大規模な津浪の発生頻度は、あまり高くないことはあきらかであるから、莫大な公共投資は現在の財政状態からみて困難であろう。まして、損害は激甚であるのに、背後地は局限された狭少な地域であるから、巨大な施設の建設は投資効率が比較的低いものとみなければならない。
そのうえ、巨大な施設は、前述したように、日常の漁業作業の障害となるために、地元民にあまり歓迎されない。そこで、もっとも大規模な津浪から背後地を完全にふせぎえないとしても、少額の投資をもってもっとも効率的な、しかも、地元住民の日常の経済活動の障害にあまりならないような防災施設の建設が要請されることとなるのである。もちろん、このように焦点のあいまいな事業の内容は、「局所防災」という性格からくるものである。
このような観点から防潮林をみるとき、いくつかのすぐれた点と、同時にいくつかの欠点をも見出すことができる。
防潮林のもっともすぐれている点は、その経済的な点にある。すなわち、植林と適当な管理というきわめて少額の投資によって、かなり大きな林帯を30年前後の期間に造成することができるのであって、経済性の点からすれば、防潮堤はこの比ではないであろう。また、適当な計画性をもって造成されるならば、漁業作業にも、さほど大きな障害となることもないであろう。
だが、この反面、防潮林の欠点は、その機能がかならずしも完全でないだけでなく、機能の内容が不明な点である。このため、どのていどの防潮林(林帯の幅、厚み、植栽密度、樹令など)が、どのていどの津浪にたいしてどれほどの抵抗力を発揮しうるかという計画上の根拠が十分にあたえられず、したがって、地元の居住者にも十分な安心感をあたえ、その建設についての説得性をもち難いのである。
そして、もう一つの重要な欠点は、用地取得の困難である。すなわち、前述のように零細な兼業小生産者が密集する地域においては、必然的に自給食糧生産のための耕地需要がつよく、公共施設のための用地取得につよい圧迫をあたえざるをえないのである。現在のところ、農業生産は漁業生産の零細性と不安定性にたいする補完的安全装置の意味をもつものであるから、漁業生産がさらに発展し、安定するならば、耕地需要も弱くなる可能性はある。しかし、近い将来に、そのような見とおしをたてることは困難であろう。用地取得の困難は当分解決されないであろうし、しいて用地を入手しようとすれば、莫大な用地費の支出を覚悟しなければならないであろう。そして、もし莫大な用地費を支はらって防潮林を造成するならば、そのもっともすぐれた特色である経済性を大きくそこなう結果も生じうるのである。
このように、防潮林のみならず、現在考えられうる防潮施設には、それぞれ、一長一短があるものとみなければならない。そしてこの問題を根本的に制約しているものが、「経済効果」なのである。たんに、技術的観点からのみ津浪対策を考えることのできない根拠がここにあるのである。したがって、津浪対策としての防潮林を評価するにあたっては、それがもっとも経済的な施設であるということを前提として、地域の個々の特殊条件との関連において、具体的に確定されなければならないであろう。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:1215px
  • ファイルサイズ:239.6KB
第1表 宮城県下三陸沿岸地帯の耕地面積と耕地率
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:1208px
  • ファイルサイズ:200KB
第2表 宮城県下三陸沿岸における漁業経営体の概況
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1280px
  • 高さ:622px
  • ファイルサイズ:135.6KB
第3表 宮城県下における漁家による主要漁業、漁獲全額別経営体数
オリジナルサイズ画像
  • 幅:969px
  • 高さ:1024px
  • ファイルサイズ:114.9KB
第4表 沿岸漁業の専兼別世帯数

むすび

以上、公共事業の一般的性格から津浪対策としての防潮林にいたるまで、かんたんな考察をこころみた。これを要約すれば、つぎのごとくいうことができるであろう。
津浪対策のための防災事業が公共事業としておこなわれるならば、それが局所防災という特殊性を有するとしても、十分に効果を発揮しうるものでなければならない。防災事業が、たんに国土保全という意味をもつばかりでなく、自然災害から国民の生命、財産を保護することは、基本的には統治者の責任だからである。とくに、その地域に定住する以外に生計の方法がない小生産者を保護することは、たとえ社会的生産の発展のために積極的寄与はないとしても、統治者の責任でなければならない。この場合、「経済効果」というあいまいな概念にこだわって、公共投資の規模によい制限をくわえることは、このような基本的な責任を回避する危険をふくんでいる。
だが、実際にある制限がさけられないものとするならば、資金のわく、地域の諸条件、各種防潮施設の技術的有効性などを統合的に検討し、本来の目的が行政機構などによって屈折されず、有効に実現されるようにしなけれあならないであろう。