英文概要
昭和35年5月24日チリ地震津波調査報告
The Report on the Tsunami of the Chilean Earthquake, 1960
A great earthquake occurred on May 22, 1960 in Chile. It was accompanied by a big tsunami and killed 909 persons and destroyed many cities and towns in southern Chile.
The tsunami which traveled over the Pacific Ocean hit the Pacific coast of Japan about 22 hours after the shock and caused much loss of life and big damage.
The origin time and the epicenter of the earthquake were determined by USCGS (United States Coast and Geodetic Survey) as May 22 19h llm 20 s (GMT), and 38ーS, 73.5ーW, respective-ly. Its magnitude was estimated by the Seismological Observatory at Matsushiro as 8.75, showing that it is one of the biggest earthquake in the world.
A group of big foreshocks began with a destructive earthquake near Concepcion at May 21, 10h 02m, and involved five shocks in all with magnitude of more than 7 which preceded the principal one. But the aftershocks are not so conspicuous as the foreshock.
The tsunami was caused by a crustal deformation of a tremendous scale along the coast of southern Chile. It is about 600 km long between Isla Mocha and Isla Guafo, where the upheaval of 1-2 m took place and the intermediate region between them subsided about 2 m near Maullin.
It seems that the sea water flowed towards the central region of the crustal deformation from the both sides and this motion of water resulted in the big wave with a period of about one hour.
The tsunami was propagated over the Pacific Ocean. The energy of tsunami was estimated at 3 x 10^23 ergs from the tide gauge record of Christmas Is. It is about the same with the energy of tsunami of the Kamchatka Earthquake, 1952. Therefore, the present tsunami can not be thought to be widely different in order of energy from those ever seen. But, many strange motions of sea water were seen here and there along the coast of Japan because of its long period.
Many mareograms were gathered from around the Pacific Ocean, and the arrival times and amplitudes of the tsunami wave were read. The arrival times were found in good agreement with the theoretical ones estimated from the refraction diagram. The wave fronts drawn in it showed the clear convergency of the tsunami energy to the northeast Honshu of Japan, as well as the coast between Okinawa and Philippine. This is principally due to the spherical surface of the earth. This fact explains the observational result of lowest heights at islands in the midst of the Pacific. But the Hawaii Island is an exception, where the special sub-marine topography near the island made the wave height high enough to assault Hilo of Hawaii killing 61 persons.
The average of the maximum height of wave (from top to bottom) in northeast Honshu of Japan was 3m and the highest one was observed at Hachinohe city attaining 5.8 m. Next, in the coast of Hokkaido the average value was 2 m and the highest one appeared at Kushiro city attaining 6.1 m. In western Japan the average height was 1-2m and the highest 3-4m at Omaezaki, Owase and Kochi.
The casualties in Japan caused by the tsunami were as follows: dead: 119, missing: 20, injured: 872, destroyed houses: 1571, half destroyed houses: 2183, houses washed away: 1259, houses flooded over floors: 24876.
チリ地震津波の概説*
まえがき
1960年5月23日(日本時間)にチリ共和国において近年まれな大地震が起こり,チリ南部の諸都市に多大の被害をひき起こしたが,この大地震は大津波を伴いチリ南部の沿岸の町や村落を荒廃に帰せしめたのみならず,はるばる太平洋を横切り,ハワイのヒロ港を襲って61名の犠性者を出し,さらにわが国の太平洋岸を襲い119名の死者を初め,各所において多大の被害を生ぜしめた。このように遠くチリに源を発した津波により,わが国が被害を受けたのは,1878年のチリ地震による津波以来82年目のことである。この津波は気象庁の津波警報組織が始まって以来はじめての大規模な遠地地震による津波で,従来近地地震による津波のみを目標としてきた気象庁の警報組織は大きな試練を受け,その後の組織の再編のきっかけとなったものである。
震源要素
本地震の震源における発震時はUSCGS(米国沿岸測地局)の発表によれば22日19時11分20秒(GMT)で,震央の位置は38°S,73.5°Wであった。その後USCGSは震度分布を考慮して震央を訂正し,41°S,73.5°Wとした。規模**Mは松代地震観測所によれば8.75であるが,Pasadenaの地震研究所によれば8.25〜8.5,またBerkeleyのカリフォルニア大学によれば8.5であった。
気象庁においては,岩井技官が54か所の気象官署の地震計記録と5か所の外国地震観測所の記録を験測し(第1章1.1.3),USCGSが発表した二つの震央について走時曲線を描いて検討したが,前者の震央,すなわち38°S,73.5°Wのほうがどちらかといえば観測値に合うという結果になった。以後本震とは前者をさすことにする。
前震と余震
次にUSCGSで定めた本地震の前後に起こった地震についてみると,まず本震の2日前にかなりの大地震が本震の近くに起こり,Concepcionに102名の死者をもたらしたが,その震源における発震時はUSCGSによれば5月21日10時02分50秒(GMT),また規模Mは7.5であった。これから本震までの33時間には7.5〜8までの地震が3回も起こったが,これらはいずれも前震ということができる。本震の後(同年6月末まで)の余震は大部分が,大きくてもM=6のオーダーであった。6月末までの余震域の面積は東西200km,南北800kmすなわち1.6×10^5km^2程度であったが,その後次第に南方に延び8月末に4×10^5km^2となった。前震および本震は余震域の北端に位置している。本震が余震域の一隅にある点は日本の地震の場合の性質と似ている。
震度分布
チリ大学の調査資料を見ると,本震の激震地は震央よりも約3°南へ下がった地点ValdiviaとAncudの中間あたりにあり,USCGSが訂正した本震の震央とほぼ一致する。有感半径は北方に計って約1,000kmに及ぶ。南方と東方はあまり資料がない。激震地区(気象庁震度VI)の広さは南北に約300kmに及んでいる。等震度線は南北に延びているように見える。この地震によるチリの人的被害は5月30日現在で死者909名,行方不明834名,重傷235名,軽傷432名であった。
地かく変動
チリ大学の調査によれば前震あるいは本震の震央付近において断層らしきものは発見されなかった。しかし大規模な地かく変動が起こったので,その地下には断層のごとき破壊が起こったものと推察される。地かく変動の起こった範囲は緯度38°Sから43°Sまでの沿岸に沿っているが,震度VIの激震地区はちょうどその中央に位置している。地かく変動の模様は,38〜43°Sの南北両端において1〜2m隆起し,その中央辺では約2m沈降した。その途中では中央に向かって傾斜しているものと思われる。また海岸ほどはなはだしく,内陸ほど変化は少ない。この南北の範囲は本震の起こった翌日一杯までの前震・余震地域とほぼ一致する。その余震域は海陸にまたがり細長く南北に延びているが,その中心線は海岸線よりやや海よりにある。一方,余震域がほぼ地かく変動域と一致すること,したがって津波の波源域ともほぼ一致することは日本の地震の場合に見られるところであるが,チリにおいても同様の関係があるものとすれば,津波は38〜44°Sの範囲の比較的海岸に近い海底に起こったものと考えるのが妥当であろう。
津波
チリ大学の調査によれば,この海域の地かく変動により起こされた津波は,この海域の沿岸に一様に、15〜20分後に約13mの津波をもたらした。大ぎな波は3回ありその最後が最大であった。しかしこの海域より少しでも北方へ行くと確然として津波の波高が小さくなり1〜2m(山から谷)となる。
ただしTalcahuano湾は古来津波の名所でよく遠来の津波に共鳴する所であるが,今回も津波の波高4m程度となった。北部チリにこのような差異が生じたのは,波源付近の海底の地形によるものと考えうれ,津波の長い周期もこの海域における長波の往復運動によるものと考えられる。
この津波がいかに太平洋を伝搬して行くか,久本技官は特製の地図を使用して,Huygensの原理により伝搬図を作図したので,それにより津波伝搬の状態を手に取るように見ることができた。ただし波源は1点とし,USCGSの訂正された震央を用いてある。
太平洋の周囲に多くの検潮所があり,その記録が気象庁および日本津波研究会により集められ,その数は日本143か所、外国82か所にのぼった。それらの読み取りは田口技官が行なった。その初動の時刻と上記伝搬図から読み取った時刻とを比較したがオーストラリヤを除き良好な一致を見ることができた。日本にはチリから約22時間半で最初の波が到着した。
この伝搬図を参考とし,太平洋上の島,Christmas島,およびJohnston島の検潮記録により津波のエネルギーを計算した結果、それぞれ1.3×10^23,3×10^23エルグとなり,1947年のヵムチャッカ津波(M:8.0)とほぼ同程度となり、チリ津波が特に超大形の津波ではなかったことがわかった。
*筆者:気象庁地震課 広野卓蔵
**Magnitudeともいい,通常Mで表わす。
Ancudの中間あたりにあり,USCGSが訂正した本震の震央とほぼ一致する。有感半径は北方に計って約1,000kmに及ぶ。南方と東方はあまり資料がない。激震地区(気象庁震度VI)の広さは南北に約300kmに及んでいる。等震度線は南北に延びているように見える。この地震によるチリの人的被害は5月30日現在で死者909名,行方不明834名,重傷235名,軽傷432名であった。
地かく変動
チリ大学の調査によれば前震あるいは本震の震央付近において断層らしきものは発見されなかった。しかし大規模な地かく変動が起こったので,その地下には断層のごとき破壊が起こったものと推察される。地かく変動の起こった範囲は緯度38°Sから43°Sまでの沿岸に沿っているが,震度VIの激震地区はちょうどその中央に位置している。地かく変動の模様は,38〜43°Sの南北両端において1〜2m隆起し,その中央辺では約2m沈降した。その途中では中央に向かって傾斜しているものと思われる。また海岸ほどはなはだしく,内陸ほど変化は少ない。この南北の範囲は本震の起こった翌日一杯までの前震・余震地域とほぼ一致する。その余震域は海陸にまたがり細長く南北に延びているが,その中心線は海岸線よりやや海よりにある。一方,余震域がほぼ地かく変動域と一致すること,したがって津波の波源域ともほぼ一致することは日本の地震の場合に見られるところであるが,チリにおいても同様の関係があるものとすれば,津波は38〜44°Sの範囲の比較的海岸に近い海底に起こったものと考えるのが妥当であろう。
津波
チリ大学の調査によれば,この海域の地かく変動により起こされた津波は,この海域の沿岸に一様に、15〜20分後に約13mの津波をもたらした。大ぎな波は3回ありその最後が最大であった。しかしこの海域より少しでも北方へ行くと確然として津波の波高が小さくなり1〜2m(山から谷)となる。
ただしTalcahuano湾は古来津波の名所でよく遠来の津波に共鳴する所であるが,今回も津波の波高4m程度となった。北部チリにこのような差異が生じたのは,波源付近の海底の地形によるものと考えうれ,津波の長い周期もこの海域における長波の往復運動によるものと考えられる。
この津波がいかに太平洋を伝搬して行くか,久本技官は特製の地図を使用して,Huygensの原理により伝搬図を作図したので,それにより津波伝搬の状態を手に取るように見ることができた。ただし波源は1点とし,USCGSの訂正された震央を用いてある。
太平洋の周囲に多くの検潮所があり,その記録が気象庁および日本津波研究会により集められ,その数は日本143か所、外国82か所にのぼった。それらの読み取りは田口技官が行なった。その初動の時刻と上記伝搬図から読み取った時刻とを比較したがオーストラリヤを除き良好な一致を見ることができた。日本にはチリから約22時間半で最初の波が到着した。
この伝搬図を参考とし,太平洋上の島,Christmas島,およびJohnston島の検潮記録により津波のエネルギーを計算した結果、それぞれ1.3×10^23,3×10^23エルグとなり,1947年のカムチャッカ津波(M:8.0)とほぼ同程度となり、チリ津波が特に超大形の津波ではなかったことがわかった。
したがって遠距離にもかかわらず日本に大被害を及ぼしたのは,日本が津波の波源に対して地球の反対の点(対せき点)近くにあるため波のエネルギーが再び集まってきたことが大きい理由に思われる。伝搬図を見るとよくこの点が理解される。
この津波は日本のみならずハワイのヒロ港に大きな災害をもたらした。
日本における津波の模様
気象庁管轄の検潮所の記録を見ると,チリ地震津波が日本の沿岸に最も早く着いたのは伊豆大島で2時33分,ついで北海道の根室で2時38分であったが,西にゆくほど到着は遅れ近畿以西では1〜2時間あとになっている。津波はまた日本海にも波及し,始まりは遅れて6〜13時ごろとなっている。最大波の現われたのは初動より1.5〜5時間経過してからであったが,振幅の大きい所では2〜3時間後であった。波高の最大は釧路で610cm,久慈で590cmで,その他三陸沿岸および北海道の太平洋岸が大きかったが西日本でも高知・潮岬・尾鷲が大きく,いずれも300cm以上を観測している。日本海沿岸の浜田では28cm,舞鶴では61cmとなっている。三陸および北海道は近地地震による津波に対して津波常習地として知られている所であるが,チリに起こった津波に対しても最も波高が高く被害を受けた所であった。(波高:山から谷まで)
外海に面した所では概して短周期不規則の波形であるが,東京湾のような湾内では波形はなめらかで周期が長い。津波の最大波高が日本に到着した4〜6時ごろは満潮時で,特に,遅れた西日本では両者が一致したので最高水位はそれだけ高くなり,被害を起こす一因となった。
現地踏査
津波の襲来状況の調査を主とした現地踏査が各管区によって行なわれた。特に津波の高さは重要であるが,各管区からの報告によれば,北海道の最高水位は浜中村で最高でその高さは4.3mであり,それより南西へ行くと釧路支庁内で約2m,日高支庁では幌泉の2.8mを除き約2m,さらに進んで胆振および渡島支庁では1〜2mであった。本州に渡り三陸沿岸でも一様に2mであるが,湾奥では一般に湾口より高く,野田湾・広田湾は6m以上となり特に野田湾でぱ8.1mが測られたが,これは今回の津波の最高値と考えられる。さらに渡辺(偉)技官が三陸沿岸につき1933年の三陸津波と今回の津波とを比較した結果によれば,(1)湾外の波高分布が全く異なっており,1933年のときは震央に近い海岸で高く,遠い海岸で急に低くなっているが,今回のは一様であること,(2)宮古湾・大船渡湾・広田湾のような大きな湾では1933年のときは湾奥は湾口よりも波高が低かったが,今回は逆で,湾奥のほうが湾口より高くなっている。これは1933年のときの津波のおもな周期は10〜20分ぐらいであったものが,今回のものは60〜70分であったためである。(3)同様に津波の周期の影響で陸奥湾は1933年のときは影響がなかったが,今回は2m近くの津波があった。
被害
今回日本を襲ったチリ地震津波により各所に相当の被害を出した。警察庁の発表によれば1960年6月6日17時現在で本邦がこうむった被害の総計は,死者119名,行方不明20名,負傷者872名,全壊流失家屋2,830むね,床上浸水19,863むね,被災世帯32,049世帯,被災者概数161,680名その他船舶の沈没・流失・破損,鉄道通信施設の被害,田畑の流失・埋没・冠水,木材・養殖真珠いかだの流失など,多大の被害を受けた。特に岩手県大船渡市および宮城県志津川町では集中的に多くの死者を出しており,大船渡市では50名(全国の42%),志津川町では37名(同31%)にのぼった。北海道では浜中村の死者行方不明合わせて11名が目だっている。地域的には北海道南東沿岸および岩手・宮城の三陸沿岸の被害が大きかった。前節に述べたごとくこの地域は津波が最も高かった所である。
大船渡市および志津川町で被害の大きかった理由は種々あるが,その一つとしてこれらの町が,三陸津波のときに被害が小さかったので,津波に対する関心が比較的薄かったことがあげられている。
過去の津波資料
1537年以来いままで遠海に起こった顕著な地震津波72を湯村技官が集録してみると,内訳は北米・中米は6回,南米は28回,千島・カムチャツカは9回,アリュ・一シャンは4回,南洋・ハワイ・フィリピンは23回,ハワイ近海は2回となっている。これらが日本に影響した程度を調べてみると北米・中米,およびハワイ近海のもので影響のあったものはなかった。これに反し,千島・カムチャツカ近海のものは大なり小なりかならず影響があった。南米近海の28例のうち半数のみが記録に残る影響を及ぼしている。しかし,南洋に起こった23例で日本に波及したものはわずかに4例で,しかも,それらのうち琉球近海の2例だけが人々に気づかれる程度のものであった。これらの結果から見ると,南米の津波はいまさらながら注目に値するものであることがわかる。最近ますます日本の太平洋沿岸における人口が増加し,また施設がふえてきたので,昔は「影響なし」のものも次第に影響を持つようになってきた。
警報発表の経過
気象庁の津波警報組織はもっぽら近地地震による津波を対象としてきたものであったので,今回のような遠地地震による津波にはかなりとまどった。今日まで経験された遠地の津波は,せいぜいカムチャツカやアリューシャンに起こったものであり,しかもそれらは弱いものであった。したがって今回の津波に対しては,その強さの推定ができなかった。そのため実際に警報の発表されたのは,第1波が来てからであった。近地の津波と違って最大波高は数時間遅れて到着したから,場所によっては警報が有効に働いた所もあったが,このような津波に対しては前に地震を感じないから,一般に用意された状態になく,急に警報を出されても実感がわかないのでいくらかの不手ぎわがあった。
ハワイのヒロでは津波の襲来する4時間前に警報が出ていたが,61名の死者を出した。その第1の理由は住民が統制のとれた行動を取れなかったことであり,これを見てもふだんから防災組織を作り,かつその訓練を行なうことがいかに重要であるかを知ることができる。
結語
今回のチリ地震津波により日本は多大の被害を受けたが,これを機会に気象庁の津波警報組織が強化され,また気象庁と太平洋の津波を監視するハワイの津波警報センターとの連絡もいっそう緊密にするとともに,今回のにがい経験を十分に生かして今後の遠地の津波の監視に努力したいと思う。
第1章地震と津波について
1.1地震について
1.1.1本震の震央および規模*
5月21日10時02分(GMT)**ごろの,かなり大きな地震に始まる一連のチリ方面の地震のうち、もっとも大きく,本邦の太平洋沿岸にも大きな被害を及ぼした大津波を伴ったものは、22日19時11分(GMT)ごろチリ中部の沿岸付近に起こったものであり,USCGSの報告によると、この地震は、震源時19時11分20秒(GMT),日本時間で23日04時11分20秒で、震央は38°S,73.5°W(最初の報告では,震央は38・S,731/20Wと推定されているが・あとで41°S、73.5°Wに訂正されている。1.1.2表および1.1.1図にはこの値が示してある)である。また、いろいろの観測所によって推定された規模Mは,次のとおりである。
M=8.75(Matsushiro,Santiago),8.5(Berkeley)、8.4(Moscow)、8.25-8.5(Pasadena)
1.1.2前震および余震*
この地震は,多数の前震および余震を伴った。1.1.2表に前震および8月末日までに起こった余震のうち,USCGSから報告されたものを掲げてある。震源時および震央は日本の観測では決め難いのでUSCGSの報告をそのまま転記した。松代における発現時は,松代で験測した最初の相の発現時を示すものである。規模は,USCGSの報告および各観測所からの地震報告によった値である。前震には規模の大きいものが多く,本震の約15分前に規模約8と推定されるものがあり,約30秒前にも7.5〜7.75ぐらいのものがあった。余震は5月中に24回,6月24回,7月9回,8月4回が報告されており,このうち規模6以上と推定される地震の月別回数は1.1.1表のとおりである。1.1.1図は,これら前震および余震の震央の分布を示すものであるが,図でわかるとおり今回の地震の余震は,37°Sから48°S,72°Wから77°Wにわたる広範囲に及んでおり,余震域の面積は約4.0×10^5km^2となっている。
*筆者:気象庁地震課長宗留男
**グリニジ平時。日本標準時は、これに9時間を加えた21日19時02分となる。
1.1.3地震観測資料*
日本およびニュージーランド・カナダ・アメリカの諸外国の原記録・複写記録により5月23日04時11分(震源時)の本震,この地震の前後約1か月間のおもな前震・余震すなわち,5月21日19時02分、22日19時30分,19時32分,23日03時55分,04時10分(震源時)の五つの前震,5月25日17時34分,6月6日14時55分,20日11時01分,21時59分(震源時)の四つの余震について各相,最大振幅などを読み取った。
日本の記録は主としてウィーヘルト式地震計(ウ式)で、そのうち松代地震観測所はべニオフ、ガリッチン,ウッドアンダーソン,1000kg長周期,電磁式短周期上下動の各地震計,長崎海洋気象台はウ式・電磁式,石巻・福島・小名浜・水戸の各気象官署は59型直視式電磁地震計によるものである。諸外国のものはウッド・アンダーソン,ミルン・ショーなどの機械光学式,ベニオフ,ウィルモー,ガリッチン,ウイリップなどの電磁式によった**。
本震は入手した観測所の読みうる記録の全部について読み取ったが,前震については,札幌・仙台・東京・大阪・福岡・松代・長崎・福島・石巻・水戸と諸外国の記録、余震は福島・石巻・水戸と諸外国を除いた上記前震の観測所のものについて験測した。
本震・前震・余震の最大振幅はウ式・電磁直視式の記録を読み取り,振動倍率の補正をした値である。前震・余震では最大振幅はL相以後に出現しているが,本震ではSS相付近にほとんどの観測所で出ているので,前震・余震の最大振幅と比較できるように本震についてもSS相付近の最大振幅のほかに,L相付近の最大振幅も読み取り掲載した。
震央はUSCGS発行のJ.M.Symons,B.D.Zetler両氏による津波報告書(暫訂版)によると,本震は41°S,73.5°Wとなっているが,震源時が不明であり,また震央距離に近い観測資料がなく,日本の資料から震央・震源時は正確に決めることができない。P、PKP(P1ダッシュ)に関する走時曲線より見れば,03時55分の前震はめいりょうに38°Sの震央のほうが41°Sのものよりよく合う。また04時10分の前震についても,日本の地震計では初動が03時55分の尾部にかくれて読み取りにくいが,外国の短周期の地震計では比較的めいりょうに読み取れ,やはり38°Sの震央に合う。また本震の初動部分は04時10分の前震より数十秒後なので,その尾部にかくれ日本のも外国のもはっきりしないが、主として外国の資料により,どちらかといえば38°Sの震央に合致する。そこでわれわれはこれを本震の震央とし,走時曲線はUSCGSで決めた38°S,73.5°W,震源時5月23日04時11分20秒を用いた。震央距離は38°S,73.5°Wと41°S,73.5°Wの場合の両方について求め掲載した。
*筆者:気象庁地震課岩井保彦・平岩幸雄
**これらの地震計の諸定数は8.3地震記録集の中に記入してある。
(1)本震の観測値・走時
各地の観測値を1.1.3表に,その走時曲線を1.1.2図(日本と諸外国),1.1.3図(日本のみ)に示す。図の走時曲線で表面波はGutenberg・Richter(25km),その他の相はJeffreys・Bullen(Okm)の走時を用いた。諸外国の観測所は震央距離が79〜85°の範囲に,日本のは150〜160°の範囲にあるが,いずれも03時55分,04時10分(震源時)の前震に重なりP、P1ダッシュはきわめて不めいりようで読み取りが困難であった。本邦では上下,東西成分が南北成分にくらべて比較的よくでていた。SS相は本邦各地で大きく出ているが,Jeffreys・Bullenの走時と比較して30〜60秒ぐらい遅く、1933年(M:7.6),1939年(M:7.8)のチリ地震のときも遅れて出ている傾向とよく似ている。このSS相付近で本邦のほとんどの観測所で最大動となっているが,振幅は1,000〜5,000μ,周期30〜50secぐらいで,東西成分が大きい所が多いが,このSS相付近はちょうど03時55分の前震の表面波,04時10分の前震のSS相が出現する部分にあたり,これら三つの相が重なっていることも予想されるが,これらを分離して読み取ることは困難である。
L相は本邦では発現時より42〜44分ぐらいの時刻に出現しており,最大振幅は500〜2,300μ,周期18〜30分ぐらいで,Macelwaneの走時より早く,Gutenberg・Richterのものよりいくぶん遅いが,前震と重なっていてたしかな判定はできない。USCGSの資料によれば,03時55分の前震がM:7.75,04時10分のものが7.5〜7.75となっており,04時10分のものは本震の数十秒前に起こったもので,これら規模の大きいものが三つ重なった記録なので,各位相はきわめて不めいりょうであった。
(2)前震・余震の観測値
本震の前後約1か月間のおもな前震・余震の観測表を1.1.3〜1.1.11表に示した。5月23日03時55分の前震の走時は1.1.4図のとおりで,表面波はGutenberg・Richter、その他の相はJeffreys・Bullenの走時を用いた。前震のうちで,03時55分,04時10分のものは諸外国の資料を含んでいる。
初動は前震・余震を通じて読み取れたものは,日本・諸外国の記録はすべて押し波で始まっているのが特徴で,日本ではP1ダッシュの次にP2ダッシュらしきものが現われた所もあるが,観測表ではi,eの欄に記入した。P2ダッシュの次にP2ダッシュ-P1ダッシュの間隔ぐらいの時間の部分にめいりょうに出ている位相,PP相の出現がJeffreys・Bullenの走時と比較して数十秒遅れているなど1933年,1939年のチリ地震と似ている。
表面波は発現時より50分前後より各地震とも出現し,最大動はこの表面波の一部に見られ,振幅は50〜300μ,周期は17〜50secぐらいで,本震のL相の最大振幅にくらべれば非常に小さいものである。ウ式の記録が微小なため脈動と区別できないようなものは,最大振幅の読み取りは行なわなかった。
今回の一連のチリ地震は大きい規模のものが群発し,その前震・余震の起こった範囲は南北に非常な広範囲にわたっており,そのなかでM:8.25〜8.5と思われる本震の記録は群をぬいてまったく大きく,Mが7以下の地震については日本のウィーヘルト式級では微小記録で,L相の最大でもその振幅は,記象紙上全振幅で約1mm前後のものであった。
1.2津波の状況*
1.2.1検潮資料について
1960年5月23日4時11分(日本標準時)のチリ地震によって起こった津波は,日本では北海道から九州南部にいたる全太平洋岸に,大きな被害を及ぼした。また外国資料を入手するにつれて,津波は太平洋全域にわたって起こっていることがわかった。
今回のような超遠距離の地震による津波の検潮記録は,実態を究明し,原因を明確にするための貴重な資料であるので,あらゆる方面から収集を行なった。日本においては,気象庁および他官署所管の検潮所計143か所,外国においてはU.S.Department of Commerce Coast and Geodetic Surveyの報告,JOTI(日本津波研究会)において集められたオーストラリヤその他の国々のものおよび,気象庁で集めたチリの検潮所計82か所を集めることができた。
以上の検潮所の一覧表,配置図および検潮記録の読み取り値の表などを掲げ,これらの津波状況を表示し,さらに地理的特性がわかるように,読み取り値の分布図を掲げた。また津波と地形とは密接な関係があるので,気象庁所管の検潮所については海図にその所在地を記して,あわせ掲げた。
*筆者:気象庁海洋課田口竜造
1.2.2験測法
現在のところ記録読み取り法については,副振動の読み取り法以外はきめられていないので,今回は一応下記の要領で読み敢った(時刻は日付のないものはすべて5月24日で日本標準時である)。なお,これらの記録は第8章にひとまとめに掲げた。
(1)初動(A)
初動の発現時刻は,原則として毎時推算曲線を基線として,この線との不一致が起きた時を発現時と決めた。特に発現時前に顕著な副振動があるときは,その全振幅の上下限の線を引いて,これらの線からはずれたときを初動とした。初動方向は押し(上昇)を(+),引き(下降)を(一)として表わし,その初動の上(下)動の平均速度(絶対値)が毎分1cm以上のときはi,それ以下のときはeの記号をつけた。験測に疑問のあるものはAダッシュとして読み取り記事欄に記した。
(2)最大動(M)
最大動は全振幅の最大のものを,副振動の読み取り法にしたがって読み取った。
特に弧立した振動で最大が現われたものは,Sの記号を時刻欄に付して示し,その周期は山(谷)から谷(山)までの時間を2倍してある。
(3)最高水位(MD,MT)
最高水位とは振幅に関係なく,基準面(D.L.)上の最高水位をさし,MDであらわし,もしD.L.の真高(東京湾中等潮位上の値)が既知の場合は,東京湾中等潮位上の値をMTで示した(日本のみに適用)。また平均潮位上の値はMTの欄にmをつけて示してあるが,ほぼ東京湾中等潮位上の値に等しい。
スケ一ルアウトで推測によるものは括弧をつけてある。
ところで津波の高さとしては,最大動と最高水位の両者が考えられ,前者は津波の大きさ(いわゆる最大波高)を表わし,後者は被害関係から見て,津波の大きさを表わすものと考えられる。さらに津波の高さのあらわし方の一つとして,推算潮位上からの水位をいうことがあり,主として予報に使われるが,推算潮位は限定された地点にとどまり,すべての海岸には適用され難い。
(4)型
各地の検潮記録を比較してみると,だいたい次の3種に大別される。すなわちくし状のいわゆる津波型と正弦型およびこの二つの混合型である。
さらにこれらの型も規則的なものと不規則的なものにわけられるので,結局6種の型に分類される。
これはほぼ脈動の型に類似している。右図に分類型を示す。後半で変化したものは矢印で示した。
掲載の記録のうち,4型の代表地点として宮古(Rt),東京(Rs),宇野(Is),外ノ浦(Rm)は2日間の全記録を示してある。
1.2.3津波に関する図表
付表
1.2.1表 気象官署検潮所一覧表
1.2.2表 他官署検潮所一覧表
1.2.3表 気象官署の検潮記録読み取り値表
1.2.4表 他官署の検潮記録読み取り値表
1.2.5表 外国の検潮記録読み取り値表
1.2.6表 チリ地震津波による顕著副振動表
1.2.7表 型分類表
付図
1.2.1図 日本の検潮所配置図
1.2.2図 日本における津波の初動図
1.2.3図 日本における津波の最大動図
1.2.4図 外国の検潮所配置図
1.2.5図 外国における津波の初動および最大動図
1.2.6図 MとT/T0との関係
1.2.7図 型分布図
図表について
1.2.1、1.2.2表
(1)検潮所の番号は気象庁関係は001から,他官署の分は101から,また外国のものは501からそれぞれ始め,百位の数字をもって区別示数とした。
(2)基準面:検潮所の観測基準面(D.L.,Datum levelの略)は,普通既往の最低基準面より若干下に任意にきめてあるので,検潮所間の連絡がつかない。そこでこの基準面の絶対値ともいうべき値が必要となるが,日本ではこれを満足させるものとして,東京湾中等潮位(T.P.と略称す)がある。表のD.L.真高とは,このT.P.下何mということをあらわし,各検潮所の潮位はこの値を差し引くことによって統一でき、比較することができる。もっともT.P.は東京で明治6年から6か年半観測した平均潮位であるから,地盤変動の少ないところでは平均潮位を代用してもよいわけである。
このT.P.の値は全国主要線路上の1等水準点に結ばれているので,地方でも容易に各検潮所間の基準測量により求めることができる。
(3)機械:気象庁ではブース型検潮器(日巻)を使用しているが,他官署ではいろいろの種類が使われている。中でも,ブース型,リシャール型,ロール型が最も多く,ケルビン型,スクリュー型がこれらについでいる。
(4)1.2.3,1.2.4,1.2.5表
読み取り値表中の欄でA〜M,A〜MDはそれぞれ初動発現時から最大動発現時と,最高水位発現時までの時間を計算したものである。記事の文献は読み取り値を引用したか,あるいは同文献の記録図から読み取ったことを意味する。
(5)1.2.1,1.2.4図
検潮所の配置図では,特に検潮所の密な所は拡大して別図に示してある。
(6)1.2.2図
日本における津波のおもな初動図として,気象庁関係の読み取り値およびブース型検潮器の読み取り値を主として載せてある。
(7)1.2.3図は日本における津波の最大動(全振幅)を,主要地点について図示したものである。
(8)1.2.5図は太平洋全域について,初動および最大動の時刻とその量をあらわしたものである。
1.2.4 日本における津波概況
この津波の特色としてあげられることは,まず津波の到着した時刻の2時から6時は,ちょうど,日本で満潮時にあたっていることである。次に,減衰が非常に少なく,海面の異常が相当長く続いたことである。初動は大部分押しで始まっているが,それ以前に引き波で始まっているような記録が若干認められる。最大動は初動から1.5〜5時間後,特に最大動の大きい地点では,2〜3時間後に現われている。
検潮器に現われた津波記録はだいたいめいりょうであるが,日本海沿岸においても異常は認められる。しかしその初動の験測は困難である。
(1)初動について
第1波の初動は,伊豆大島の2時33分に始まる南関東沿岸で,次に花咲の2時38分に始まる。北海道南西岸,三陸沿岸がこれに次いで起こり,西に行くにつれて次第に遅れ,南九州の枕崎では5時50分に現われている。太平洋の外海に面した沿岸およびオホーツク海沿岸では,この間約3時間内に起きている。そして九州西岸から日本海沿岸にかけてはさらに遅れ,6時から13時ごろになっている。日本海北部沿岸はその時刻から見て,宗谷海峡と津軽海峡を通ってはいったものであるが,詳細は後日の調査にゆずる。
初動の立ち上がり速度の緩急を見ると,だいたい外海に面した沿岸は急で,湾内,瀬戸内海や日本海では緩の性質が認められる。これは後述の型の分布とも一致する。
初動が不めいりょうでAダッシュとして読まれたものは,釧路・八戸・舞阪・和歌山であるが,このほか花咲・室蘭もこの傾向がある。これらのAダッシュは和歌山を除き全部緩の引きで始まり,Aに比べ10〜40分前におきている。
このように初動は必ずしも明確には決定されないので,さらに調査の上この問題を究明したい。
(2)最大動および最高水位について
最大動は前述のとおり,初動から2〜3時間後に現われているが,その全振幅の大きい所は,北海道南岸・三陸沿岸・東海道・紀伊半島および四国南岸などである。
すなわち,300cm以上の所は,花咲・釧路・浦河・森・函館・八戸・久慈・女川・湊門脇・塩釜・小名浜・銚子・御前崎・尾鷲・串本・高知などである。ところで,天文潮による5月24日の午前の満潮時を,主要地点について示せば1.2.8表のとおりである。これによると北日本ではほぼ,満潮時から2〜3時間後に,西日本ではちょうど満潮時に最大動が起きたことになる。
したがって,最高水位の発現時は,北日本ではだいたい最大動の発現時前に現われ,西日本では同時刻ごろに現われることが考えられる。もっとも,これは地形の影響などで整一にはいかないが,傾向としては観測と一致している。
また最高水位(MT)が20Ocm前後以上のものをみると,花咲194cm,函館218cm,八戸310cm,久慈352cm,月浜191cm,小名浜249cm,銚子209cm,御前崎201cm,尾鷲336cm,串本216cmとなっていて,被害の大きかった地域と合致する。このほか,油津・名瀬など被害のあった地域でも, 相当な値となったことは容易に想像される。もちろん,標高の低い海岸では100cmぐらいでも浸水することはありうる。
日本海沿岸および瀬戸内海では,最大動も小さく,全振幅20〜50cmを記録しているにすぎない。
(3)周期について
周期としては,最大動の周期と若干の平均周期が読み取られているが,非常に幅の広い値であり,個々の地点において周期分析を行なわなければ詳しくはわからない(文献(4)によれば,油津の平均周期は28.3分,卓越周期は17.5〜22.5分となっている)。
毎月報告される検潮概報の中から,チリ地震津波による顕著副振動のみを拾って1.2.6表に示す。
この表の平均周期は,いわゆる普通の副振動の周期とは違う値の所が多い。そこで固有周期を昭和34年8月から1年間,各地について調査して求め,これをT0とし,1.2.6表の平均周期をTとし,T/T0の値を計算し,Mとの関係を求めてみた(1.2.6図)。図中の○は津波型,●は正弦型の津波記録で,後述するごとく津波型のものが断然Mが大きい。また図のごとく,大略三つの群にわけられる。一番大きいものからI,II,III群とすれば,Mとの関係式,およびそれらの地点は次表のごとくなる(ただし和歌山は正弦型)。
これは一種の津波の特地性を現わし,規模の大きさとも関係あるようである。周期は固有周期の1.5,2,3,4,5.5倍である。
(4)型の分布について
1.2.7表に型の分類を示す。Rt型の記録は主として太平洋岸で外海に面したところに多く,It型は太平洋岸のうち湾内・半島などに多く,オホーツク海もこの型である。Rs型は大きな湾内および日本海に多く,Is型は瀬戸内海その他は湾内に,またRm型は日本海に主として現われている。Imは少なく,八丈島のみであるが,後半Imになったものは宇和島・仙法志・沓形がある。
後半変形したものは記事欄に書いてあるが,ほとんどはt型からs型またはm型に,またはR型からI型に変化したものである。
これらの説明として,外海では原形の津波型を記録するが,湾や半島などの地形の影響で波が変形され,一つは普通の副振動になるのと(たとえば湾内など),一つは反射・屈折などのため複雑な波形に変わるものとが考えられる。
また日本海のごとく混合型のものも同じように考えることができる。
したがって,津波の原形に近いものとしてはRt型があげられる。
1.2.7図にこれらの型の分布図を掲げる。
(5)その他
津波の減衰については3日間ぐらいが記録されているが,その減衰曲線は複雑であり,後日の調査に待つことにするが,内浦では53時間で影響が消えている。検潮記録のうち,験測不能のものは,時刻・潮位の読みとれないものや,津波が始まってからの記録などであった。地震研究所の江ノ島における津波計の記録やスケールアウトした所の検潮記録を実測を行なって完全な津波記録にしたのは貴重な資料である。
1.2.5 太平洋全域の概況
1.2.5図の津波の初動および最大動図と検潮自記記録によれば,南北米の西海岸,太平洋の中央部諸島,オーストラリヤ,アリューシャン列島および日本の太平洋沿岸全域において,津波はほとんど押しで始まっていて,最大振幅の最も大きいのは日本であり,次にアリューシャンの335cm,カナダの332cm,ハワイの293cm,南米の219cmの順になっている。その他は200cm以下で,震央に近いチリ付近は小さい。オーストラリヤの東海岸は初動到達時刻がまちまちであり,最大振幅,中央部の162cmを除ぎ比較的小さい。
震央から一番遠いホンコン(香港)までの所要時間は,24時間半である。
参考文献
(1)函館海洋気象台(1960):チリ地震津波調査報告,6月30日,39pp.
(2)チリ津浪合同調査班(1960):1960年5月24日チリ地震津浪踏査速報,870pp.
(3)名古屋地方気象台(1960):チリ地震津波概報,昭和35年7月,38pp.
(4)運輸省第4港湾建設局小倉調査設計事務所(1960):チリ津波の記録について,46pp.(5)福岡管区気象台(1960):チリー地震津波調査報告,昭和35年6月,12pp.
(7)東京管区気象台(1960):チリ地震津波概報(第2報),8月15日,53pp.
第2章 各地の踏査および調査報告*
日本各地を襲ったチリ津波の状況について,太平洋沿岸各地所在の気象官署では,直ちに現地におもむき諸調査を行なった。
これらの現地踏査報告および調査報告を次の4節に分け報告をまとめた。
第2.1節 北海道地方
第2.2節 東北地方
第2.3節 関東地方・中部地方(三重県を含む)
第2.4節 近畿地方(三重県を除く〉以南および琉球諸島
第2.1節に属する各沿岸については,下記官署が調査を分担した。
2.1.1 各地の最高水位 気象庁地震課
2.1.2 根室支庁管内 根室測候所
2.1.3 釧路支庁管内 釧路地方気象台
2.1.4 十勝支庁管内 帯広測候所・広尾測候所
2.1.5 日高支庁管内 浦河測候所
2.1.6 胆振支庁管内 室蘭地方気象台・苫小牧測候所
2.1.7 渡島支庁管内 函舘海洋気象台・森測候所
2.1.8 被害状況 札幌管区気象台
第2.2節に属する各沿岸については,下記官署が調査を分担した。
2.2.1 各地の最大波高(最大浸水高)仙台管区気象台
2.2.2 踏査ならびに状況報告
2.2.2.1 青森県上北郡六ヵ所村から岩手県下閉伊郡普代村まで 八戸測候所
2.2.2.2 岩手県下閉伊郡田野畑村から大船渡市合足まで 宮古測候所
2.2.2.3 岩手県大船渡市および陸前高田市 盛岡地方気象台
2.2.2.4 岩手県陸前高田市から宮城県本吉郡志津川町まで 仙台管区気象台
2.2.2.5 宮城県本吉郡志津川町から石巻市まで 石巻測候所
2.2.2.6 塩釜市以南の宮城県沿岸 仙台管区気象台
2.2.2.7 福島県沿岸 小名浜測候所
2.2.2.8 津軽海峡・陸奥湾および日本海沿岸 青森地方気象台・田名部測候所・酒田測候所
2.2.3 被害状況 仙台管区気象台
第2.3節に属する各沿岸については,下記官署が調査を分担した。
2.3.1 各地の最高水位 気象庁地震課
2.3.2 茨城県沿岸 水戸地方気象台
2.3.3 千葉県沿岸(東京湾を含む) 銚子地方気象台・勝浦測候所・富崎測候所
2.3.4 東京都沿岸(東京湾および伊豆諸島を含む)東京管区気象台・大島測候所・新島測候所・三宅島測候所・八丈島測候所
2.3.5 神奈川県沿岸(東京湾を含む) 横浜地方気象台
2.3.6 静岡県沿岸 静岡地方気象台・長津呂測候所・三島測候所・御前崎測候所・浜松測候所
2.3.7 愛知県および三重県沿岸 名古屋地方気象台・津地方気象台・尾鷲測候所
第2.4節に属する各沿岸については,下記官署が調査を分担した。
2.4.1 各地の最高水位 気象庁地震課
2.4.2 和歌山県沿岸 和歌山地方気象台
2.4.3 淡路島沿岸 洲本測候所
2.4.4 大阪府および尼崎市(兵庫県)沿岸 大阪管区気象台
2.4.5 四国地方沿岸 高松地方気象台・徳島地方気象台・高知地方気象台・室戸岬測候所・宿毛測候所
2.4.6 九州地方沿岸および南西諸島 福岡管区気象台・大分地方気象台・宮崎地方気象台・熊本地方気象台・種子島測候所・名瀬測候所・阿久根測候所
2.4.7 琉球諸島 琉球気象台
本章においては,現地踏査を主としているために,報告中にある津波の第1波については,そのほとんどが聞
き取り調査であり,信頼度は薄いけれどもそのまま記載した。また,検潮器を所有する現地官署の報告中には,検潮記録からの値を報告しており,これは第1章1.2節にも同様な調査があって,重複あるいは若干の違いがあるけれども,そのまま本報告中に記載したものもある。
その他,編集の都合上,報告を要約したり,省略せざるを得なかった部分もある。これらについては,本章の編集者の責任である。
本章を編集するにあたっては,各官署から気象庁地震課あての報告に基づいたが,その他各官署で発行した概報をも参考とした。将来の参考資料として,これら文献を以下に列記する(ただし,気象官署刊行のもののみ)。
札幌管区気象台(孔版):昭和35年5月24日チリー地震による北海道沿岸津波概報,5月24日,4pp.
札幌管区気象台(孔版):昭和35年5月24日チリー地震津波調査概報,6月4日,81pp.
室蘭地方気象台(孔版):チリー地震津波現地調査結果速報,5月26日,14pp.
室蘭地方気象台(孔版):「チリ地震津波調査報告」補足,9月9日,3PP.
函舘海洋気象台(タイプ印刷):1960年5月24日チリ地震津浪速報,5月28日,12pp.
函舘海洋気象台(タイプ印刷):1960年5月24日チリ地震津波調査報告,6月30日,39pp.
函舘海洋気象台(タイプ印刷):チリ地震津波写真集,10pp.
仙台管区気象台(孔版):昭和35年5月24日チリー地震津波について,4pp.
仙台管区気象台(孔版):昭和35年5月24日チリー地震津波について(続報),5月28日,5pp.
仙台管区気象台(活版):昭和35年5月24日チリ地震津波調査報告,昭和36年1月,91pp.
気象庁(孔版):チリ地震津波速報,5月25日,13pp.
気象庁(孔版):チリ地震津波速報,5月30日,43pp.
東京管区気象台(孔版):チリ地震津波概報-当台管轄地域の沿岸における-,5月30日,22pp.
東京管区気象台(タイプ印刷):チリ地震津波概報-当台管轄地域の沿岸における-(第2報),8月15日,53pp.
東京管区気象台(タイプ印刷):昭和35年5月24日のチリ地震津波,東京管区異常気象報告,1,No.2(1960),39〜53.
水戸地方気象台(孔版):チリ地震津波速報(チリ沖大地震による5月24日の津波),5月27日,13pp.
銚子地方気象台(孔版):昭和35年5月24日チリ地震津波概報(千葉県),6月6日,13pp.
御前崎測候所(孔版):昭和35年5月24日のチリ地震津波概報,6月1日,6pp.
名古屋地方気象台(タイプ印刷):1960年5月24日チリー地震津波概報,7月,38pp.
尾鷲測候所(孔版):昭和35年5月24日熊野灘沿岸に大被害をもたらしたチリー地震津波概報,6月1日,14pp.
富山・金沢・福井地方気象台 伏木・輪島・敦賀測候所(孔版):チリ地震津波概報(北陸地方沿岸における),6月20日,10pp.
大阪管区気象台(孔版):昭和35年5月24日チリー地震津波速報,5月25日,26pp.
和歌山地方気象台(孔版):昭和35年5月24日未明に襲来したチリー地震津波概報,6月5日,28pp.
高松地方気象台(孔版):チリ地震津波速報(昭和35年5月24日),6月6目,26pp.
徳島地方気象台(孔版):チリー地震津波概報,異常気象報告第2号,昭和35年,1〜19.
福岡管区気象台(タイプ印刷):昭和35年5月24日チリー地震津波調査報告,6月,23pp.
宮崎地方気象台(孔版):昭和35年5月24日チリ地震津波調査報告,6月,35pp.
琉球気象台(孔版):チリー津波速報,6月4日,21pp.
なお,神戸海洋気象台による踏査報告は,気象庁海洋気象観測資料第28巻または験震時報第27巻第1号に掲載予定である。
*編集:気象庁地震課 浜松音蔵・高橋末雄
第2章
2.1 北海道地方
2.1.1 各地の最高水位*
各官署の踏査報告中から,北海道地方太平洋沿岸の,津波の最高水位(平均潮位面よりの高さ)と時刻をまとめ2.1.1表に示した。踏査報告は大部分が聞き取りであるが,なかには目測のものもあり,最高水位については1割程度の誤差を含むと思われるものもある。またその時刻は踏査ではよくわからないものであるが,ほとんどの地点で報告されているので,参考のためのせた。検潮記録のある地点の値については第1.2節にある。
*編者:気象庁地震課 高橋末雄
2.1.2 根室支庁管内**
(1)根室港および温根沼(おんねつとう)海岸根室湾方面では,津波の現象が弱く注意していた人が少ないので,詳しいことは不明である。7時すぎに港内へ津波が進入退出するに伴い,白波が立つのが望まれた。
根室港にある開発局修築事業所の検潮記録に現われた津波状況は,第1波は2時56分ごろ,最大波高は11時10分で推算潮位面より36cm,引き潮の最大は16時15分で減水高53cm,最高水位は25日2時20分で62cmであった。
温根沼海岸の状況については(浜中漁業協同組合談),この地方は遠浅のため大潮のときに海岸線が約150m変化するが,24日午前はそれが200m以上になった。この朝7時ごろ,津波を知らない人が引き潮時に沖へ出て,貝を堀っているうち津波が来て帰れず水死した。
(2)納沙布(のさつぶ)・友知海岸納沙布・珸瑤瑁(ごよまい)・歯舞(はぼまい)・友知などの現地の住民の話によれば次のような状況であった。
(a)最初気づいたのは4時ごろの異常な引き潮である。
(b)津波が進入するより,引いてゆく現象のほうがはげしかった。
(c)当日の海上はきわめておだやかであって,海水が盛り上がるとか,波頭や,波の音などの現象は全く認められていない。みさきや水ぎわでは白波がたったが沖のほうを見ていると常と変わる点は何もなかった。
(d)珸瑤瑁・歯舞港では浮遊物によって津波の来た方向は,東または南東であることを知った。
(e)歯舞港では岸壁に上陸した以外に,平地で上陸したものはなかった。なおこの海岸には1〜3mの幅の小川があり,この川に沿って20〜50m侵入してあふれたが,被害は全くなかった。
(f)この海岸のうち友知だけは海岸の傾斜がゆるいので,人家の10mぐらいまで海水が近づいた。
(g)退水距離は友知で100m,歯舞西方で50m,その他は50mかそれ以内である。歯舞港の岸壁において目測された津波の高さは,最盛期は5時前で,岸壁上20〜30cmまで海水位が上がった。また11時ごろには最低水位を示し岸壁基準面(D.L.)下1mぐらいになった。最高水位166cm,最大波高185cm(周期約60分),最大減水高133cm,最大退水距離50m,上陸先端部までの距離は10mであった。上陸したのは5時前のもの1回きりで,それは第2波と考えられる。
**筆者:根室測候所 望月十三男・五十嵐光彦・林勝次・荒井久男・橋俊一・丑若幸男・佐藤靖義 5月24〜25日調査
(3)花咲
花咲港で潮位の異常に気づいたのは3時30〜40分ごろで第1波でなく,その後の引き潮であった。
津波の襲来状況は,港口(約40m)を通過する海水は,川の流れのようにかなり急(5ktぐらい)だった。上陸するときは船だまりの水が風呂水のようにあふれ出し,陸上を進むときは家と家との間や,曲り角などで波だっていたが,平地では床に水を流したときのように進み,速度は大人が小走りするくらいであった。地上からの高さは最も深い所で1.6mあったが,浸水家屋の最も多い地域では1.0〜1.2mぐらいであった。
上陸した津波は4時45分,6時,7時10分,11時25分の4回であり,4時のものは130m,6時のものは10m程度の上陸で6時以降では被害は生じなかった。
津波の上陸は,船だまりに面した陸地だけで,船だまり西方の海岸では干満の差が距離にして100mになったが津波の上陸するようなことはなかった。陸上から見ていて,海水の色が変わっていたので(光の反射の関係で)進入経路が知られたが,盛り上がるとか波だつとかの現象は全然認められなかった。沖合にいた船は全然津波に気づかなかったが,1〜2km沖にいた4〜5tの漁船はかなり強い潮を感じている。
被害は海岸岩壁付近に津波が上陸したため,床上浸水(約55戸)がおもなもので,工事中の家屋2〜3が移動した。海岸のドラムかんが多数流出したが,大部分は回収できた。当日港内には5tぐらいの漁船が約20隻いたが,4時45分ごろには港外に退避していたものが多く,潜水夫船が港口付近でてんぷくした以外は,損害をうけたものはなかった。
津波の高さ,最大波高の起時は4時45分で検潮記録はスケールアウトし検潮器室の水跡(函舘海洋気象台の測量によれば球分体下2.3cm)を最高水位として算出した。この結果最高水位191cm,最大波高210cmで周期は70分であった。この最高水位の直前の引き潮は最大で,その減水高は127cm,最盛期における上陸先端部までの距離は130m,その高さは140〜160cm,花咲港のある湾内の最高水位は北岸で100cm,東岸で191cm,西岸100cmであった。
(4)落石
この地方で津波に気づいたのは4時過ぎの引き潮であった。出漁する漁師がこれを知り,近隣に知らせあった。そののち4時30分ごろから湾内に潮が流れ込んできた。
流れの方向は沖のほうから来る流れが強いため確認できなかったが,湾内を逆時計回りに進んだ様子である。襲来時に海面が波だつとか,ふくれ上がるような現象はなく,水の先端部とみさきなどで白波が見えていたとのことである。
落石港付近は落石岬西方海岸と,落石岬けい部が遠浅であるほか,比較的海岸の傾斜が急なので,津波の最盛時にも上陸しなかった所が多かった。上陸したのは落石岬けい部の低地だけであって,時間も30分ぐらいだった。4時30分海面が先端で波うちながら徐々に上昇し,傾斜地にのり上げ,また護岸をのりこえて進んだ。浸水距離は30m,浸水の高さは最大50cmで建物のある所で最高40cm程度であったため,床下浸水5戸のほかは浸水の被害は全くなかった。
被害は海岸に積んであった魚箱約2,500個がこの津波で流出したほか,落石岬西方では建網が損傷した。漁船は,ほとんど陸上に引きあげてあったので,被害はなかった。
津波の上陸は4時30分ごろの1回だけであった。
津波の高さは平均海面を推定し,斜面に残った水跡や,住宅の目撃をもとに推定したところによれば,1.5〜2.2mである。落石漁港修築事業所が量水標で測定したところによれば,最高水位は286cmで最大波高は305cm,周期は約1時間ぐらいである。最大退水は,最大波の直前で退水距離は150m,最大減水高は213cmであった。落石湾における波高分布は,北岸180cm,東岸200cm,南岸286cm,西岸240cmとなっている。
2.1.3 釧路支庁管内
(1)霧多布方面*
(i)浜中村浜中湾・琵琶瀬沿岸**
(a)津波の概況
発見時の状況:各地とも3時30分ごろ異常な引き潮を発見しており,退水距離は浜中湾沿岸で200m,琵琶瀬湾沿岸では100m前後であった。
*筆者:釧路地方気象台 雨宮三郎・檜皮久義
**5月24〜26日調査
第1波,第2波:異常引き潮発見前に第1波として,満潮程度の津波が認められており,また第2波として4時すぎ津波の襲来が認められている。これらの津波は浜中湾・琵琶瀬湾からそれぞれ襲来し,内陸部とみさぎの部分をつなぐけい部を越えなかった。
最大退水:浜中湾沿岸では,最大波到着前の4時20分ごろの退水が最大退水となり,退水距離は湾の北側で約300m,南に下がるにしたがい多くなり霧多布大橋付近で500〜600m,霧多布港修築事務所で約300mであった。湯沸では,4時20分ごろ最大退水距離100〜150mとなった。琵琶瀬湾沿岸の,新川・中の浜では最大波到着前の退水が最大退水となり,退水距離約300mであった。水取場では最大波到着直後の退水が最大退水となり,退水距離300mであった。琵琶瀬O点では最大波到着前の5時ごろ最大退水距離250m,琵琶瀬郵便局では干潮時にあたる10時どう最大退水となり退水距離150mであった。
最大波浜中湾沿岸の幌戸・後静(しりしず)・浜中・暮帰別(ぼきべつ)・新川・霧多布では,4時40分〜5時ごろ浜中湾から襲来した第3波が最大波となり(4時40分ごろ津波襲来し,この波が完全に退水しないうちに次の津波が襲来した)琵琶瀬湾沿岸の中の浜・水取場ではややおくれて5時すぎ第3波が最大波となり,浜中湾からけい部をこえて襲来した。琵琶瀬では5時30分ごろ琵琶瀬湾から襲来した第4波が最大波となった(第4波はけい部をこえて浜中湾に流入した)。被害はこれら最大波によって発生した。
その後の状況を見ると,このあと霧多布では水位2〜3mの津波が浜中湾から琵琶瀬湾へ,琵琶瀬湾から浜中湾へぬけるものが数回襲来し,14時30分から徐々に振幅が小さくなり,そのほかの地域でも12時ごろから平常の満潮程度の水位に復帰した。
津波の襲来方向を見ると浜中湾沿岸のE点以北では,各波とも浜中湾口から襲来し,E点以南では第1波〜第3波まで浜中湾口から,第4波は琵琶瀬湾から襲来している。琵琶瀬湾沿岸では第1波,第2波は琵琶瀬湾口から襲来,第3波はN点付近までは浜中湾からけい部をこえて襲来し,第4波以降は両湾から交互に襲来している。N点以南では各波とも琵琶瀬湾口から襲来した。
昭和27年十勝沖地震に伴う津波に比べると,浜中湾沿岸および,琵琶瀬湾沿岸新川までは今回の津波のほうが大きく,中の浜・琵琶瀬では小さくなっている。
(b)各地の状況
幌戸(ぼろと)3時30分ごろ平常の波打ちぎわから約200m退水しているのを発見。この後1〜2回潮位の昇降があったようであるが詳細は不明である。5時ごろ最高波が南南東から襲来,この津波により海岸線から約200mある幌戸橋(木橋)は橋翼付近が削りとられ,両橋翼流出して渡橋不能となった。この付近での最高水位3mで海岸線から約400m浸水した。ついで6時すぎ再び津波が襲来したが水位約2.2mであった。この後2〜3回小津波が襲来したが,次第に昇降小となり11時30分ごろから平常の満潮程度に復帰した(ここでは十勝沖地震に伴う津波より大きく,家屋小破・床上浸水した)。
後静4時ごろから潮が引き始め約20分で退水し,この時最大退水となり,退水距離は400〜450mに達した。約10分後の4時30分ごろ最高波(第3波?)襲来し,最高水位は3.6mに達した。このあと約30分の周期で2.5〜3mに達する津波が4回ぐらい襲来,12時ごろ平常の満潮程度に復帰した。津波は南東から襲来し,ほとんど真南に退水した。潮の流れは霧多布方面から暮帰別・榊町の海岸に沿って移動するのが認められた(浸水は波打ちぎわから約20mで被害は全くなかった)。
榊町3時30分ごろ異常な引き潮を発見。この時の退水距離は約200m(これ以前に平常の波打ちぎわから50mぐらい潮のこんだ潮跡が認められており,これが第1波と考えられる),第2波については不明であるが,1時30分ごろ最大退水となり,退水距離300mであった。4時50分〜5時ごろ第3波襲来し,最大波となり,最高水位はA点3.7m,B点3.2m,C点ではほぼ東で反対の方向に退水した。津波はむくむくと海面がふくれ上がるように水位が増加し,ゆっくり波頭をみせずに侵入してきた。家屋はこの津波により流出・倒壊した。このあと家の地面付近に達する津波(水位約2m)が3〜4回襲来,さらに小さな津波は夕方ごろまで継続した。
浜中4時ごろ異常な引き潮を発見。4時30分ごろ最大退水となり,退水距離は約500mであった。5時ごろ東から最大波襲来し(第3波?)最高水位はD点3.9m,E点4.3mで,この津波により家屋が流出・倒壊した。このあと5時30分ごろ退水し,その後水位2〜3mの津波が3〜4回襲来し12時ごろから平常の満潮程度に復帰した。
暮帰別4時30分ごろ最大退水となり,退水距離500mぐらいでつづいて5時ごろから水位約2mの津波がほぼ東から襲来,これから5〜6分で折り返して最大波が襲来した。最高水位はF点4.2mに達し,この津波により家屋が流出・倒壊した。最大波は東の方向から襲来した津波が霧多布海岸で反射し,これが襲来している。ついで5時30分ごろには琵琶瀬湾から約3mの津波襲来し,このあと約2mの津波が東から数回襲来した。
霧多布(きりたつぷ)3時30分ごろに異常な引き潮を発見した。霧多布大橋付近(G点〉では最大波襲来前までは,琵琶瀬湾剣暮帰(けんぼき)島方向から小津波が襲来していたが,4時30分ごろ琶琵瀬湾で最大退水距離約300mとなり,4時40〜50分ごろに浜中湾から最大波(第3波)が襲来して,琵琶瀬湾に流入した。最高水位は4.2mでこの津波により家屋が流出・倒壊し,霧多布大橋・汐見橋は両橋翼の盛り土が削りとられ,のち倒壊流出した。H点では最大波襲来前までは浜中湾から小津波が襲来していたが,4時30分ごろ最大退水距離500〜600mとなり,ついで4時40〜50分ごろ浜中湾から最大波(第3波)襲来し,最高水位4.3mに達した。このあと浜中湾と琵琶瀬湾から交互に水位2〜3mの津波襲来し,14時30分ごろまで継続した(最大波以後の津波は浜中湾から襲来したものが,琵琶瀬湾から襲来したものより強かった)。霧多布港修築事務所(J点)では4時20分ごろ最大退水距離約300m(T.P.-2.Om以下)となり4時50分ごろ最大波襲来し,最高水位T.P.上2.85mに達した。I点では最高水位2.8mであった。水取場3時ごろに異常引き潮を発見した。4時すぎ小島・剣暮帰島間から津波襲来したが(第2波)防砂堤(T.P.上1.4m)をこえる程度であった。5時すぎ浜中湾から最大波(第3波)襲来し,K点で最高水位3.1m(K点家屋の地面まで到達)に達し,つづいて最大退水となり退水距離300mであった。このあと浜中湾・琵琶瀬湾口からそれぞれ津波襲来し,周期は約30分で12時ごろまで継続した(最大波以降は琵琶瀬湾口から襲来するものが浜中湾から襲来するものより強かった)。また最大5〜6mi/hrの発動機船が全速で押し潮に逆らったがほとんど進むことができなかったという。
新川3時30分ごろに異常な引き潮を発見した。波打ちぎわに直角においてあった漁船が平行になっており,波打ちぎわから,30〜40mまで津波の潮跡があったという(この津波は琵琶瀬湾口から襲来し,第1波と考えられる)。4時すぎ第2波が東南東から襲来し(琵琶瀬湾口から襲来した津波がけい部に反射して襲来したものと考えられる),L点地面付近(水位約1.9m)に達した。4時20分ごろ最大退水となり退水距離約300mであった。4時20分ごろ浜中湾から最大波(第3波)襲来し,琵琶瀬湾に流入した。最高水位3.4mで,この津波で家屋が流出・倒壊し,新川橋の両橋翼流出した。つづいて琵琶瀬湾南から津波襲来し,11時ごろまで浜中湾・琵琶瀬湾から交互に小津波が襲来した(引き潮の速さは5〜6mi/hr以上といわれている)。
中の浜M点では2時30分ごろから潮の状態が異常であるのが,認められていたが津波の第1波が3時15分ごろに水取場方向から襲来し,水位1.8m(新川橋橋台T.P.上1.75m)に達し,南に退水した。3時50分ごろ第2波が水取場方向から襲来,5時すぎ暮帰別方向から最大波(第3波)が襲来,最高水位3.1mとなり,引きつづき小島方向から津波襲来(第4波?)した。この津波で床上浸水し,新川付近からの流出家屋は新川付近まで流され,さらに新川にそって上流に押し返された。N点では5時すぎ暮帰別方面と小島方面から襲来した,津波はほとんど同時に到着し,最高水位2.2m(床下浸水)に達した。ここでは津波の来る前,海面が光り,浜中湾から上陸した津波は大きな音を立て,白い波頭をたてて侵入したという。
琵琶瀬O点では3時30分ごろ約100m退水しているのを発見し、た。その後,4時40分ごろ琵琶瀬川口の方向から津波襲来(第3波?)波打ちぎわから約80m浸水,5時ごろ最大退水となり退水距離約250mに達した。5時30分ごろ水取場方向から最大波(第4波?)が襲来し,最高水位20mに達し,約150mまで浸水した。このあと小津波は何回も襲来したが,浸水は波打ちぎわから80mぐらいであった。津波は水取場および,琵琶瀬川口の方向からそれぞれ襲来したが,琵琶瀬川口から襲来するものが多く,14時すぎまで継続した。琵琶瀬郵便局(P点)では4時ごろ南から小津波襲来したが平均潮位程度で,引き潮は大潮程度であった。5時30分ごろ東から津波襲来,局舎前(海岸線から約100m)に達し,最高水位1.9mであった。このあと小津波が数回襲来したが,潮の干潮はともに小さく,最大退潮は10時ごろに起こり,退水距離約150mであった。最大波襲来により,琵琶瀬川口のいそ舟2杯が琵琶瀬橋橋脚に衝突して破損した。
湯沸(とうふづ)3時30分ごろ,あい波(うねりの著しい状態)が認められたが,4時ごろ潮が引き始め,4時30分ごろには退水距離100mに達した。4時50分ごろほぼ東から津波が襲来し,最高水位2.5mに達した(津波は海面がふくれ上がるように水位上昇し,じわじわと侵入してきたが,高潮よりも水位は低かったという)。5時20分ごろ最大退水となり退水距離は約150mであった。このあと,約20分の周期で退水距離100mぐらいの引き潮が2回あったが,潮のこみ方は少なく,その後10回ぐらい小津波が夕方ごろまでつづいた。航路標識事務所では津波が海底から潮のもり上がるように侵入してくるのが認められ,東と南からみさきをだきかかえるようにして津波がみさき付近に集中し,三角波の起こるのが望見されたという。
*榊町・浜中・暮帰別・霧多布・水取場・新川・中の浜・琵琶瀬にいたる間の最高水位はおもに家屋の潮跡と地面高から算出し・地面高は釧路土木現業所で1960年6月1〜6日にこの付近の地面高を200mごとに道路・橋台・防砂堤の高さを水準測量しているのでこの測定値を利用した。
(c)被害の状況
浜中湾西部の沿岸および琶琵瀬湾沿岸の地面高はきわめて低く,かつ新川沿いは一面湿地帯となっており,湯沸岬と内陸部をつなぐけい部に当たる霧多布大橋付近は地面高T.P.上1mの所が多くなっている。霧多布はかつては島であったが,砂の堆積によって琵琶瀬湾側が閉じられみさきとなり,けい部の最短部の幅300mくぐらいである。またこの付近は津波が収束して波高が高くなる地形で,平常から高潮に侵されやすい地域となっている。
浸水域を見ると浜中湾沿岸で大きく,最大浸水距離は浜中付近で海岸線から約1,300mに達し,けい部に当たる霧多布市街3区,4区,水取場の大部分は12時すぎまで浸水がつづいた。霧多布市街1区,2区では約300m,幌戸で約400m浸水した。琵琶瀬湾沿岸では中の浜で約200m,琵琶瀬にゆくにしたがい少なくなりN点150m,O点,P点で120mであった。水取場K点付近は約70mで家屋の浸水は生じなかった(2.1.6図参照)。
被害の状況は2.1.4表に示すように榊町・浜中・暮帰別・新川・霧多布・水取場・幌戸・奔幌戸(ぽんぽろと)で家屋流出・倒壊・床上浸水を生じ,浜中湾・琵琶瀬湾沿岸に係留の漁船177隻が流出・沈没・破損した。また津波により,暮帰別・霧多布大橋付近・新川で道路決壊各1か所を生じた。霧多布大橋・汐見橋(コンクリート橋)は両橋翼
の盛り土部分が流出し,後倒壊した。新川橋・幌戸橋(木橋)は両橋翼が流出した。家屋は土台を残して流出し,その後柱を折られ屋根めみとなって漂流した(土台が布コンクリートの家屋は流出をまぬかれている)。また防砂堤の一部が流出した。津波による海岸の浸食はなはだしく,特にけい部に当たる付近(2.1.10図)や水取場付近で著しかった。けい部は津波により切り離されて霧多布は島となり,海と通じた部分の幅は最大120mとなった。死亡者は8名であるが,半数は小舟で海上に退避の際,津波の流速が早いため転覆し死亡したといわれている。
流出物の経路を見ると榊町・浜中の流出物は西におし流され最大約800mに達し,暮帰別の流出物は北-西-南西の間に流出し,琵琶瀬湾におし流されて新川川口に達し,さらに新川上流におし流されたものもあった。霧多布・水取場の流出物は琵琶瀬湾におし流され,一部は湯沸沿岸に達し,また一部は再び浜中湾におし返されて幌戸沿岸に漂着している。流出物の漂着の多い海岸は,幌戸・湯沸・琵琶瀬沿岸東部であった。
(ii)浜中村散布(ちりつぷ)沿岸*
(渡散布〜養老散布〜火散布〜藻散布)
この区間では津波による被害は全くなく,最高水位は大しけの時の潮位程度で十勝沖地震に伴う津波よりはるかに弱かったという。
渡散布3時30分ごろに引き潮を発見した。このあと5時30分ごろまでの状況は不明であるが,5時30分ごろに最大退水となり,退水距離は250〜300mとなり,6時ごろ最大波(第4波?)が襲来し,最高水位は約2m,海岸線から約50m浸水した。津波は南西からうずを巻いて襲来し,同方向に退水した。この後,水位約2mの津波が周期20分ぐらいで7〜8回襲来し,徐々に小さくなり,12時ごろまでつづいた。
養老散布2時30分ごろ潮がこんでいたが,3時ごろから潮が引き始め,退水距離は約100mに達した。3時30分ごろに津波が襲来しその後5時30分〜6時ごろ最大波が襲来(第4波?)し,最高水位は約2m,海岸線から約30mが浸水した。津波は南から波頭を立てず,海面がふくれあがるようになって侵入してきたが,大しげの時の潮位より小さかったという。最大退水は9時ごろに起こり,退水距離は約150mであった。小津波は14時すぎまでつづいた。
火散布3時30分ごろ引き潮を発見(この前に平均
潮位程度の津波が襲来した潮跡があったという)。このあとにも津波が襲来した模様であるが不明で,5時ごろ最大波(第3波?)南から襲来し,最高水位約3m(家の地面付近まで到達),海岸線から約50m浸水した。このあと退水まで約15分を要し,退水距離約200mであった。最大退水は10時30分ごろ起こり,退水距離約300mであった。小津波は24日終日継続した。津波の退水は襲来速度より早く,退水距離は浸水距離より多く,津波は水位が徐々に増加する状態で襲来したといわれる。
藻散布5時ごろ最大波が南東から襲来,最高水位約2m,海岸線から約50m浸水した。最大退水は9時ごろ起こり,退水距離約200mであった。藻散布沼から流れる川の川口は以前閉じていたが,この津波によって開口された。
*5月26日の調査による。
(2)釧路市周辺
(i)釧路市箭
津波は高さT.P.上2.1mの防波堤を越えて来襲しており,この高さのときの水位は港の内外での差異はほとんどなく,また検潮所位置の疑問もこの場合軽視してさしつかえないものと考えられる。したがって,釧路港内外
のだいたいの潮位は検潮記録そのままと考えてよいものと思われる。
実際測定の結果は次のとおりである。
新富士駅付近:駅後面に波返しのための,高さ4.2mの岸壁が設置されているが,潮はこれを越していない。約3.4mの箇所に潮跡を残している。
新釧路川河口付近:満潮面から約1.5mの高さの岸壁の上に,さらに0.8mの防壁を備えた防潮壁に囲まれた地域であるが,潮はこれを越し,低地域のため床上浸水している。潮は3.Omを越したものと推定される。
釧路川河口(釧路港内)最大引き波のときは釧路川では川底がほとんど露出し(消防署望ろう所見)押し波の場合は激しい逆流となり数多くのうずが発生し(6時,10時,13時所見),流木・破船材などが早い速度で逆行した。
川での押し引きはひんぱん複雑に行なわれ,大きくは検潮記録のとおりであるが,小さくは必ずしも一致せず,水位も地形,橋の存在から一様でない。弊舞橋(ぬさまい)上流100mぐらいの地域は床上浸水したが,この地域の岸壁は満潮面から約70cm,岩壁から住家までの高さ約50cm,土台から潮跡までの高さ70cmて満潮面から計200cmの上昇を認められる。
被害の発生を見ると潮が港内および川岸の岸壁を越したため,家屋浸水と漁具などの流出の被害が若干生じ,港内(主として川岸)の岸壁に係留した機船が係留索切断のため流動,逆流による橋への撃突沈没,他船との接触,岸壁へ乗り上げ,さらに流木との衝突などによって被害発生し,また材木そのものの流失被害が生じた。国鉄の鉄橋はこれらのため被害をうけ,一時不通となった。
*筆者:釧路地方気象台 金沢成太郎・佐々木三郎
(ii)釧路港および釧路川の状況*
釧路港は釧路川の河口に港湾設備をし,川と海を併用している港である。両者を一応分割して調査した。
(a)釧路港の状況
防波堤,ふ頭の構造を見ると外防波堤は南,北,西,東の4防波堤からなり,湾内には第1,第2波除堤と船だまりの西,北防波堤があり,またその他,係留ふ頭などが配置されている。防波堤,波除堤の構造ぱ2.1.5表のとおりである。
津波の来襲状況を見ると津波の第3波(4時45分最高水位を見たもの)は上記の各防波堤上を直接越えて来襲し,海水は護岸を越し浸水家屋を生じ,漁船・はしけ・いかだなどに流失按害を与え,また弊舞橋に衝突破損,あるいは護岸・ふ頭に乗り上げ破損した舶もあった。この後12時18分と13時00分に弊舞橋より下流の港口付近では,逆流が護岸をわずかに越えた箇所もある。その他のものは2.1.12図に示す航路(幅212.1m)と,北防波堤と西防波堤間の水路(幅30m)および西防波堤中ケーソン破損箇所から侵入しており,外防波堤を直接越すものは少ないようである。ただし,12時18分と13時00分には検潮所のある船だまり防波堤をわずかに越している。以下主として第3波の状況について述べる。
*筆者:釧路地方気象台 福島正久
港周辺の潮跡と浸水域を見ると,建造物や地物に残る潮跡および聞き込みによる潮跡の認定から測定した最高水位は2.1.6表のとおりである。護岸の高さが1.8m(T.P.上)未満の所ではほとんど海水が護岸を越えており,2.0m以上の所では海水は護岸を越えていない。護岸を越えての浸水域は多い所では護岸から150mにも及び,床上浸水などが起きている。またこのため船舶の護岸上乗り上げなどが多数起きている。
その他港湾関係者の言によれば,今回の津波により,a,aダッシュ,b付近の一部では土砂のたい積により,水深が浅くなったとのことであるが,湾内全般の状態については今後の調査を待たねば確かなことは判明しないとのことである。
(b)釧路川部分の状況
釧路川は下流20kmぐらいは釧路原野湿地帯中の東の周辺を流れ,河口から上流14kmの岩保木にはまっすぐ海に向かう放水路(新釧路川)が施設され,常時過剰水は放水されており,このほかに別保川などの小河川が流入している。また弊舞橋から上流約2.3kmまでは,川幅が100〜130mあり,川の中心部は幅約50m水深約2m(水路部基本基準面下。T.P.面下は3mとなる)のしゅんせつ工事がなされている。そのこう配はゆるく河口から約4kmまでの水位の変化は常時は潮せきの干満による変化が大ぎく影響している。また両岸は弊舞橋を基点とし途中2か所を除いて長さ2.3km,高さ約1.Om(T.P.上。平均満潮位画上は約0.5mとなる)の護岸が築かれ,上流約2kmの地点(日東化学工場)には長さ300m,高さ1.45mの船着き用護岸が施設されている。
津波の来襲状況を見ると釧路川には3か所水位観測所があるが,いずれも6時,18時の2回の実測値があるのみで時間的変化はつかみ得ない。ここでは護岸上にはんらんし,多少の被害を起こした第3波(最高水位を記録したもの)の状況についてのべる。
護岸付近の最高水位と浸水区域は2.1.7表のようになる。なお久寿里橋および釧路川鉄橋中央部には,それぞれ漁船が衝突のため破損または沈船し,また鉄橋および軌道に按害を生じ,鉄道保線側の調査によれば,正確ではないが漁船の喫水線上の高さなどから水位は1.5〜1.6m上がったと推定している。
河水の逆行状況について河口からの距離と最高水位の関係を図示すると2.1.13図のようになる。なお最終逆行点については目撃者や津波のこん跡などが不明のため確かめられなかった。しかし津波が川をさかのぼって河水をせき止める現象など,問接的な水位変化は相当上流まで及んだと推定されている。
参考のため釧路川および新釧路川にある水位観測所の5月平均水位,ならびに津波当日とその前後の観測値を掲げると2.1.8表のようになる。
また当日,日東化学工場護岸で津波の状況を目撃していた職員の話によれば,7時55分〜8時55分ごろまでの間に津波が川を2回もさかのぼり(間隔約40分,初めのものがやや大),いずれも護岸壁上縁*から30〜50cm下(T.P.上70〜90cm)の高さまで上がり,護岸を越すことはなかったが,潮が川をさかのぼる場合には,川幅一面にわたり波頭を一線に押し立ててくるような状態で,その速さは海辺に打ち寄せる平常のいそ波の速さより速く,またその規模が異様な不安を覚えさせるものだったとのことである。その後このような状態が大なり小なり夕刻まで数回続いたが,上記のものほどではなかったと語っていた。しかし弊舞橋付近の状況は,水位の高まりぐあいは「水がふくれる」という感じで高まってき,逆行の早い所は川の中央部であって,両岸付近は静水状,もしくは弱い下流への流れをなし,浮遊物や大きな木材などの流動する状況からこのことが認められている。
退水時,HおよびJ点での状況は平常,干潮時には見ることのできない川底(岸からの距離にして平常の2〜3倍)が見られた。しかし中心部の川底は見ることができなかった。また津波の激流(主として退水)によりKダッシュ点(材木置場)付近の川岸に組んであったいかだが解体し,その一部,ラワン材丸太(直径約1.5m,長さ約10m)が上流3km付近まで押し上げられるのを見,また燐鉱石を運ぶ80t積載用の平底船(から荷)が別保川と釧路川との合流点,河口より3.5km付近まで押し上げられたり,10〜15tの漁船3隻が3km上流まで運ばれ座礁しているものがあった。
津波の数日後(6月1日)日東化学工場の燐鉱石積載船(平底80t積み)が干潮時に倉庫付近岸壁に接岸不能の状態になったので長さ72m,岸から川へ向かって14mにわたり45点の水深測定の結果,多い所で0.8〜1.0m,少ない所で0.1〜0.3m土砂たい積により水深が浅くなっていることを確認している。これから推して相当量の土砂の移動があったものと推察される。なお釧路川鉄橋下の水位が両岸に比し,やや最高の感があるがこの原因については明確なことはわからない。
*上記釧路川護岸の高さは昭和26年以前の値で27年3月十勝沖地震以降は約30cm沈下したといわれているが実測はない。
(c)新釧路川の状況
上流11kmの岩保木までほとんど直線をなし,そのこう配は緩で,平常7〜8km付近までは潮せき現象の影響が認められている。鳥取橋付近より上流は,両岸(川幅約200m)からそれぞれ40〜50mの所は雑草のはえたかわらとなり,水は中心部(幅100〜120m,水深1.0〜1.5m)を流れている。護岸工事は高さ3〜3.5mのしっかりしたものが施行され,津波こう水などにより被害を受ける心配はほとんどないとされている。
津波の来襲状況を見ると護岸に直接隣接した人家がまばらなのと,また直接被害を受けるような住家もないためか,確かな目撃者も見あたらず当日の状況を聞き出すことがむずかしく,詳細なことについては判明しないが,
最高水位について調査した結果は次のとおりである。
河口の新川橋付近では高さ約2.2m(T.P.上,以下同じ),鳥取橋では約2.0mとなり,また仁仁恋別川下流(新釧路川分岐点より350m)の地点にある十条製紙工場用水ダム(高さ2.3m)の落ち口では1.7mに達している。開発建設部昭和地区水位観測所では津波のこん跡が1.9mに達しているのを認め,6時の観測時には1.3mを実測していた。この朝,管理人は津波来襲のことは知らず,6時の定時観測のため,川岸へ来てみると,すでにかわら一帯(高さ約1.lm)が浸水し,かわらの中に設置されている観測所に下りて行くのは危険とまでは思わなかったがやや不安な気持だったと語っている。
なお最大波が直接到達した逆行距離については明らかでない。また津波の流速についても各点の観測時刻が正確さを欠くように思われるので明らかでない。
(3)昆布森方面*
昆布森一般漁民は3時30分ごろの異常な潮の引き方で騒ぎだし,これが津波の第1番目の発見で,その際は平常の波打ちぎわより約300m沖(水深約9m)まで退水した。2.1.15図のL-J距離である。
4時30分ごろには最高水位となり,その際ゴーと異様な音響が聞えていたといい,その方向は真南という。波打ちぎわから沖へはかなり急なこう配で,砂浜もやや急こう配なため,平常時の波打ちぎわより12.5mほど寄せてきたが,しけの場合より多少増水した程度であった。
しかし東側にあるチヨロベツ川はかなり高く,川口より約250mの橋付近(H点)で最高水位となり平常より約1m高く,橋よりさらに250m上流の学校付近まで増水した。
CD点は岩礁で,干潮時でわずか頭部を見せる程度であるが,3時35分には全部姿を現わした。
AB点間は最大退水時の位置で,中央部では水深9mのところも見えた。
建物・橋・防波堤・船・人畜など全然被害無く,ただ異常な増水・退水を認めたに過ぎない。
チヨロベツ川に一番多く潮が侵入したのは第3回目の8時ごろという人もかなりいた。
十勝沖地震津波の時は,沿岸結氷が村道の橋まで寄せていたが,今回は学校付近まで侵入しているため,十勝沖津波の約2倍の潮が侵入したものと思う。
被害がない程度の津波のため,漁民はあまり関心を持たず,第何波が来たかもわからず,記録写真をとった人もおらずわれわれが調査したのみに終わった。
だいたい津波の周期は40分から45分という人が多かった。
(4)厚岸方面**
厚岸湾内では厚岸本町の被害が最も大きく,床上浸水によっていためつけられた。
また漁網の流失,小型船の流失破損があり,厚岸湖ではかきの流失で多大な損害をうけている。
せんぼうしもんしずしんりゆうとこたん今回の津波の状況をはあくするため,湾内の仙鳳趾・門静・厚岸町真龍・厚岸本町・床潭・幌万別の津波踏査をしたので各地の状況を最初にとりあげてみる。
*筆者:釧路地方気象台 清水為雄・長谷川俊男
**筆者:釧路地方気象台 野上孝治・太田良一
(i)各地の状況
仙鳳跡24日3時20分ごろに出漁したいそ船は出漁当時異常と認めなかったが,3時30分ごろさほど大きくない押し波の第1波を感じた。3時35分から40分ごろ大きな引ぎ波によって船を進めることがでぎず引き返した。
その後時刻不明だが,第3波で最も高くなり2.5mに達した。この時の引き波は遠浅の所で,200〜250m、遠浅でない所で150mぐらい引いた。
波の方向ははじめ湾の口より仙鳳趾に向かってきたが,ちょうど畑のうねを見るように湾の沖合まで,うねりの山が続いて見えていた。第2波,第3波……と波が来るにしたがって方向が,苫多(とた)・門静方面に変わっていった。
押し波は大きなうねりが数多く続き,非常に大きな音とともに来襲し,周期ははじめ4〜5分,午後は10分前後となった。引いた時は貝拾いをしていた人が多数おり,これからみて前記の周期がどれをいっているのか明らかでない。
余波は25日中続き,26日も多少あったが朝から出漁できた。
漁網が250反前後流失したが,建造物の被害はない。
門静沖合500mに出漁していたいそ舟が3時30分ごろ船底が完全につかえて進めず,降りて押しながら岸の方向に転換して帰ってきた。
また,当時流速が早く,前進できなかった発動機船もあった。
波の方向は大黒島より一直線になって襲ってきたように感じている。
また付近で護岸工事をしていた所では,4時20分から30分ごろ75〜100mの最初の引き波を認めたが,のち非常に短い時間(30秒ぐらい)で押しよせてきた。この時が最高水位4.1mに達し,その後15〜20分の周期で続いていた。またしぶきが9mも奥に飛んでいた。
10時30分ごろかなり大きな波が来襲したが,第1波より小さかった。津波はかなりの振幅で午前中続いていた。
波の動きは押し波は早く,引き波は比較的遅かった。押し波は引いてから押し始めると1分ぐらいで満ちていた。
波の方向は,湾の口から向かってきており,変化しなかった。また漂流物からみて,潮の流れが岸と平行に左右にかなり速く(人の走るのよりは遅い)動いているのが1日中認められた。
この付近では工事中の護岸のわくが20mと,漁網が流失しただけで建造物に被害はなかった。
水位が4mに達しながら建造物に損害がなかったのは,これらがそれ以上の砂丘の上に建てられていたからである。しかしあと30cm以上の波が襲ってきたならば,床下浸水や船の流失などの被害があったと考えられる。
真龍(厚岸駅より西方900mの海岸)3時過ぎ約300mの引き潮があった。大きなうねりの山は見えず,水面が一様に増水するような感じであった。押し引きは非常に早く,次第に津波は治まってきていたが1日中かなりの差で続いていた。
最大の引きは500mぐらいで沖合にいたいそ舟は底がつかえて進めなかった(時刻不明)。
最高水位は3.85mに達した。
波の来る方向は湾の口で1日中変化しなかった。15時ごろまで余波があった。
漁網と小舟数隻を流失したが,建造物に被害はなかった。浸水家屋がなかったのは岸よりかなり離れて建てられてあったためである。
真龍(厚岸フェリーボート護岸)3時30〜40分ごろ最初の引き波を認め,その後2〜3回干満があった。最高は4時55分でこれは第3波にあたる。
以後の状況は2.1.20図を参照されたい。
観測地点の状況は2.1.21図のとおりで計測点より適当な時間ごとに水位を測り2.1.20図ではこの値を東京湾中等潮位からの高さに換算してある(2.1.23図のH地点)。
この付近は厚岸湾と厚岸湖を結ぶ狭い所なので,流速は非常に早くものすごいものであった。
広い厚岸湖が本町の背面にあったため,波の一部を吸収したので厚岸本町では被害が割合少なかったといわれており,厚岸湖がなくて津波+反射波がまともにぶつかったなら,かなりの被害になったかもしれない。
この付近では一部低地で床下浸水しただげで陸上の被害はほとんどない。漁業関係では網を流失したのがあるが,ちょうどにしん漁からさけ・ますの漁期に切り換える時期であったため,あまり網を入れていなかったので全般的には大きな損害にはならなかった。しかし一部には流失によりかなりの痛手を受けている漁師もある。
厚岸本町4時ごろから異常な波を認めた。最大の押し波は5時少し前に来襲した。厚岸湾に面する一帯に1.15mの護岸があるがこれを越えて上陸したのはこの時刻1回限りで,波の高さは護岸を30cmも越え1.8mに達した。
また午後の満潮のころは85cmぐらいであった。この付近で浸水した状況は,護岸いっぱいに満水していたとき,門静方面から反射波(この時だけうねりの山が見えた)が来
襲して重なり,一時に上陸した。またこの時刻この地点より北方数十m離れた護岸では80cmぐらいの高さのところへ反射波が重なり同様に上陸している。
最大の引きはこの付近で200〜300m,周期は20〜30分であった。当時遠浅となったので多数の人が貝拾いをしているところからみてこの周期はだいたい誤りないと考えられる。
厚岸本町では広く湾沿いに浸水しているが,床下浸水区域内でも土台の低い家に床上浸水している。
宋上浸水区域が南部にかたまっているのは,この付近の土地が床下浸水区域よりも低いからである。
対岸の苫多・門静方面の海岸には1日中白波の立っているのが望見されており,津波がこの方面にさかんに衝突していたようである。
被害は床下・床上浸水が多く畳が多数汚損した。漁業関係ではかきの流失が多大で,復旧するのに3〜4年を要するといわれている。
床潭十勝沖地震の時は厚岸湾内で一番被害を受けたところであるが,今回は被害がなく平静である。
4時ごろ引き波を認めており,このころが最初でまた最大のものであった。押し波は比較的小さくだいたい暴風時に波浪がいそに上がる程度だったが,一方引き波は大きくて150〜200mに達している。
最大波高は1.8mであった。
押し波の来るに要する時間は短く,引き波はこれより
やや時間がかかっている。周期は5分ぐらいで押し波のときは水面全体が増水してくる感じでうねりの山は認められていない。
海岸と平行に左右の潮の流れを認めており,流速は早く船は進めなかった。この浜ではこの流れが主となり,浜に寄せてくる動きは小さかった。
この付近は波高が低かったことと,建造物が海岸線より離れて建てられていたため,ほとんど被害はなくこんぶ類が根をえぐられて流失した程度である。
幌万別4時ごろ,初め床潭から,すぐ続いて湾外から押し寄せ大黒島との問の海峡で衝突したような様子で来襲してきた。周期は短く海峡の流れは急流の川のように早かった。
この付近は平常湾外から,小島・幌万別間を通り湾内にはいる反時計回りの潮の流れがあるが,この時に限り停滞していた。いままで一度もこの付近に漂着したことのないこんぶが非常に大量にこの時に限り漂着していた。
これは津波のため海底深く流れた潮流によって根がえぐられたこんぶが,平常の流れと,津波の余波による異常潮流とがこの付近で衝突したため,いそに打ち上げられたといわれている。
最高水位は2.5m,引いた距離はだいたい幌万別と小島の中間であった。
アイカップ岬北大臨海実験所5時10〜15分ごろ発見した。さん橋の渡り板を海水がひたしていたが,最高の波はこれ以前に来襲したようで,これより高い護岸の上がすでにぬれていた。
その後午前中は周期の短い波と,午後からは30分以上の周期の波が続いていた。10時30分ごろに,また大きな波があった。
波の方向は海岸線に向かってくるのがほとんどであった。なお,5時40〜50分ごろバラサン岬の方向から反射波らしいうねりの山を認めている。またこのころアイカップ岬方面にうずを巻いたようなあわだった波を認めた。
最低潮位は-2〜-3mぐらいと推定される。
以上をまとめると各地の状況から総合して港内の津波の動きは次のように考えられる。
i)第1波は湾外南東方向から来襲し,大黒島と尻羽岬間の湾口から厚岸湾にはいった。
ii)3時30分ごろ仙鳳趾付近に向かった。
iii)その後方向はいくらか北により苫多・門静方面に衝突した。
iv)厚岸町には苫多・門静方面から来る反射波がくり返し襲い,その最大のものは4時55分ごろに来襲した。このため厚岸本町では床上・床下浸水によって被害が発生,また厚岸湖ではかぎが流出して全滅した。
v)一方湾内を時計回りの潮の流れが生じ,このため床潭方面は割合波が高くならず被害が少なかった。
(5)白糠方面*
(i)概況
この沿岸は一般に急深となっている地域が多いが,河口にあたる地帯はやや遠浅となっているので,津波の侵入したこん跡が認められる。2.1.28図,2.1.29図は概況図である。
白糠町石炭崎(築港)付近では地形的な影響でわずかながら被害が発生したが,白糠の茶路川河口は広く(約150m)逆流による増水は1.5mで,下流の比較的低い堤防の一部に侵入し,数十m冠水した。また庶路川の下流の新流が500m西方の旧河口に復した。人家は5m以上の高いところにあり,かつ海岸線からも500mないし1,000mぐらい離れていたので被害はほとんどない。また今度の津波では大津波の前兆としての退水が満潮時を2時間経過していたが,非常にめいりょうであったので比較的早く気づいた人が多かったので,警報前に処置された所もあった。また,襲来時の最高水位は2.5〜4.0mとなっている。しかし,各地ともに前兆と思われる音響は全然認めていないが,庶路海岸の住家では翌25日の日中は波の音(海鳴りとは異なったざわめき音)が大きく不安感を持ったくらいであった。津波来襲当初の各地の状況を2.1.9表に示す。
(ii)各地の踏査概況
音別音別の市街は海岸より800m離れている。これから東へ6kmぐらいは防波堤があり,その高さは水面より4mあり,この沿岸に来襲した最高水位は3m以下で,道路上に侵入した跡は認められない。この沿岸は急深であり漂流物が多く見うけられる。このおもなものは20km東方庶路川河口の湿原低地にあったくさった木,倒木が津波のため流出したものと推定される。
この東端は東西1.8km,南北1.5kmぐらいの馬主来沼となり,これから北西方2.5kmは湿地帯となっているが,これらの東側は標高60mぐらいの台地に囲われている。高潮になると沼が満水になり,道路道床が削られるおそれがあるので,この防止のため沼の海岸沿いに3mぐらいの土手が築かれ,一つの開口があり,平時はこれを閉じて馬主来川の水を沼と湿地帯に注ぎ,異常高潮などの際はまえもって開口して水を海に流出させているそうである。今回もこの実施で普通の高潮程度の増水しか示しておらず,被害も全くなかった。
白糠の市街の中心は海岸から300m離れているが東部は海岸に近接している。
茶路川の川口は海岸から約800mぐらいの点で,ほぼ直角になるように改修されていた。左岸には高さ約2mの築堤があり,海岸近くではやや低くなっている。津波による河水増で3mぐらいが破れ,100mぐらい侵入したようであるが,草原であったのでこん跡のみしか認められなかった。しかし白糠駅から南東1.1kmの石炭崎では,300m南へ突き出した南崎に築港が設けられているため津波の最高水位は4mに達した。
港内では岸壁に乗り上げた船は次の波で再び港内に自然に復した。海水は100mあまり侵入したので国道から海岸ぞいの住家はほとんど浸水した。この付近のみ24日の4時35分から,16時まで後方の台地に避難した。
被害は床上浸水5戸,床下浸水20戸,塩俵流失20俵,そのほかたこを取る漁具や,道路の破損などである。
庶路川河口は草原で湿地帯であるため,西庶路より2km東の庶路より河口地帯を調査する。この市街も海岸より約500m離れているので被害はなかったが,庶路川の河口が変わり,本流は海岸から300mぐらいの所から南に向かい,いままでの河口より800m西方で海にはいっている。
津波は,2〜3mの高さの天然の防波堤を乗り越え,庶路市街南東方にある牧場の草原地帯20,000m^2に侵入している。人畜には被害はなかったが,くさった木,倒木は相当流出した模様である。
庶路川下流の浸水面積は相当広く,また牧場の中央
部でもさくの針金に漂流物が引っかかっていたことから推定して,最高水位は3.5mと思われる。
(iii)発生当時の状況の聴取
白糠町24日4時5分ごろ300mぐらい平常の波打ちぎわから潮は後退した。この退水後20〜30分ぐらい経て津波が来襲し始め3回目が最大となり,5時過ぎにば平均水位より高さ3mの防波堤は全く見えなくなり,防波堤上の石の山(1.5m)をわずかに残していた。さらに道路付近まで侵入した津波は,20mほど船だまりより離れた,漁業会倉庫の窓ガラスに波浪の跡を残した。
波の速度は5〜6mi程度で(当時海上にあった漁船の機関長の談),小型船は4時ごろ出漁したが津波来襲とともに進路がとれず逆に押し返され,浜に乗り上げた。
役場日誌より要点をまとめると
(a)4時50分警察の指示によりサイレンで住民に危険を周知させた。
(b)津波警報受領は5時9分,その後石炭崎付近のみ鉄道線路沿いに避難を指示。
(c)消防署員が警戒に当たり,海岸線に5名を配置し,警察が協力。
(d)学校は休校させたが,正午より授業を開始し,海岸線の生徒のみ帰宅警戒に当たらせた。
その他情報はそれぞれラジオ・テレビなどによって周知されており,白糠小学校より石炭崎付近にいたる1km間の住民の恐怖感が大ぎかった。
音別村市街この地区の沿岸は急深で,音別駅より3.5km西方の尺別では4時ごろ約4m退水したが,増水は比較的少なかった。なおこの地区は,十勝沖地震のときも被害はなかった。
警報の受領は明確ではなかった(宿直員なし)が警察と消防が協力していた。尺別からの通報とラジオの警報,その他の情報により連絡員がそれぞれ配置について警戒にあたった。
馬主来沼の低湿帯も大しけの時の高潮とあまり変わらなかった。音別川河口は約1m弱の増水が認められたのみで津波による浸水はない。
庶路〜西庶路この付近の海岸には庶路川が平行に流れて海にはいっている。海岸線より約300mはいった地点が海岸に最も近い人家がある所で,この付近まで津波の侵入したこん跡が認められた。
24日4時ごろ退水距離が200mあり,その後20〜30分後次第に大ぎな津波が押し寄せた。
警報および情報はラジオにより聴取,役場よりの連絡はなかった(消防見張り所員談)。
市街は海岸より1kmぐらい離れていたので気づかなかった人も多く平穏な状態であった。
*筆者:釧路地方気象台 今井俊男・佐藤登
(6)釧路支庁管内の被害概況*
チリ地震に原因する津波による人・建物・船舶・土木その他の被害状況について,各関係方面でそれぞれ報告されている数量は必ずしも一致していないが,総括的にまとめると各報のとおりとなる。
*筆者:釧路地方気象台 福島正久
2.1.4 十勝支庁管内
(1)厚内〜浜大樹*
〔浦幌町厚内〕厚内では,第1波は5時3分,海水がふくれあがるような状態でもくもくと押し寄せてきた。同時に厚内川の増水と合流し川沿いの低地に浸水,最高水位約1.5m(目測),上陸先端部までの距離は海岸線より250m,川より60〜70mの住宅街に地上60cmの浸水をもたらした。第2波は12時15分でさっと水のつく程度,水位は約40mと思われる。
*筆者:帯広測候所 橋本直之・佐田喜雄・武石良雄・篠原馨・富永一彦
被害については比較的津波は弱く,川沿いの家屋にのみ被害があった程度。住宅の床上浸水1戸,同床下浸水5戸,魚加工工場半壊1戸,倉庫小破1戸。
十勝太(とかちぶと)第1波は3時15分に押し寄せる。水位は約30cm(目測)で,注意していた人がなく状態不明。第2波は4時00分引ぎ潮で始まる。退水距離不明(弱い)。第3波は4時30分(弱い)。第4波5時20分(弱い)。いずれも被害発生せず。第5波6時25分大津(後文参照)と同じ状態で押し寄せる(最大)。この時の最高水位約2m(目測),上陸先端部までの距離約200m,最大退水距離150m(目測)。来襲状況は穏やかな上陸浸水であったが,退水時には急流状となり一部床上浸水し,二,三の不良家屋は全壊または半壊した。特に音響発光現象はなかった。第6波時刻不明(弱い)。第7波8時5分(弱い)。津波が上陸したのばこの第7波までであった。
被害は床上浸水40戸,床下浸水10戸,全壊1戸,半壊6戸(非住家10戸),小破ば非住家のみ25戸。
大津4時前(時刻不明)約100〜200mの退水があり,第1波は4時20分に海水がふくれあがるような状態でもくもくと押し寄せてきた。水位は約1.5m(目測)で第1波は中州を越し,古川に達する程度で,中州に建っている家屋の床上浸水にとどまった。避難開始の5時50分ごろすでに第2波の退水約200m(目測)以上があり,この時は海岸にある地下約4mのポンプの水が出なかった模様。第1波と同じ状態で第2波が6時20分押し寄せた。津波の侵入に南東側中州を越えてきたものもあり,また大津川が逆流増水し,渡船場付近の低地から侵入,幅150m,先端部約200mの浸水地域を生じた。最高水位は約3m(目測),特に音響・発光現象はなかった。第2波による被害が最大であった。第3波は6時50分でこの時は津波の上陸はなかった。津波は40〜45分の周期で繰り返された。
開発建設部大津河川事業所で観測した大津川の水位観測資料を次表に示す。
被害については6時20分の第2波によって起こされたものである。大津対策本部の調査によれば,床上浸水(住家37戸,非住家54戸),床下浸水(住家105戸,非住家32戸),半壊(住家4戸,非住家22戸),流出(非住家22戸),船舶流出10,同破損11,道路冠水100m,畑冠水7haである。
浜大樹第1波は3時30分ごろであったが状況は不明である。津波の最大波は6時ごろに現われ,この時の陸上侵入は平常海岸線より90m内陸にはいり,70mぐらいの所までぱ5〜6回のこん跡があった。最高水位は平常潮位より約2mと推定された。退水距離は目測で70〜100mであった。被害は民家が海面より4〜5mの高さにあったため被害はなかった。
(2)広尾〜襟裳岬*
広尾港湾付近では,24日3時57分ごろに広尾町美幌(広尾町より南4km)の漁民から異常なる引き潮の通報を受け,引き続いてフンベ部落(広尾町より南2km)より同様の電話連絡があって海面の異常を察知した。4時7分ごろより測候所測風塔および港湾付近において観測した津波来襲状況を2.1.23表に示す。潮位昇降のめやすとしては北防波堤の先端部をとった。
港内への流入状況を見ると港口から侵入した津波による海水は南防波堤沿いに南流して,臨港内陸に侵入し,港湾事務所付近から流れの向きを変え,南東流となって港内を時計回りで港外へ流出,南防波堤の外側沿いの流れとなった。
津波の波高を見ると広尾港修築事務所管理の検潮器は,破損使用不能の状態で観測を中止していたので,津波の真の波高を算出することはできなかったが,たまたま検潮器小屋の窓ガラスに最高水位線とも見られるこん跡があったのでこれを測定して,基本水準面より360cm(ただし検潮器の高さは基本水準面より136cm,平均潮位は水路部35年度潮汐表より0.9mとなるので平均潮位面よりの高さは270cm)を得た。最大波の発現は目視観測の結果から5時ごろと判断されるので広尾港における当日の潮位は約80cm(ただし基準は釧路港とした)と推定される。すなわち津波の波高は当日の潮位面から2.8mと計算される。
音調津(おしらべつ)津波の状況を見ると,最初に海面の異常を発見(修築事務所職員)したのは3時30分〜4時ごろで築港北側防波堤に目盛ってある水深尺の読み取りによると(水深尺の基準の設定は基準面と推定される)2.1.25表のようになる。
8時以後は港湾付近の低地を除いて上陸しなくなり,観測を中止したが,昇降はなお継続した。港湾付近では特に被害はなかったが,付近の住民は5時ごろ一時高台に避難した。津波の高さ:津波の最高水位は平均潮位面(基準面より0.8m,水路部潮汐表による)より2.2m,当日の推算潮位面(釧路港を基準とする)から2.6mとなる。
目黒当日現場を目撃した一漁夫の談「最初の津波襲来時刻は全くわからず,4時過ぎ(4時30分過ぎと想像される)の強い押し波で平常より相当水位は高く異常であった。幸い人家は海岸より離れているため影響はなかった。しかしその後2度ぐらい強い波の襲来はあったが,いずれも影響はなく,引き押しの差は小さいが25日前半まで続いた。」
*調査:広尾測候所 泉原安吉・鈴木保・田中誠・高柳昭嘉
2.1.5 日高支庁管内*
1)庶野〜浦河*
*調査:浦河測候所 横山泰孝・白鳥秀雄
庶野(しやの)津波の状況:第1波の始まりの時間,および押しか引きかは明らかでないが,3時15分ごろには最低干潮面より約50cmぐらい低かった。その後2回弱い押し引きがあり,4時50分ごろより最大の津波が襲来し,最大波は5時20〜30分ごろに起きた。津波の侵入方向は,全体としては南東であったが,港の西側が少し入江になっているため,そちらにさきに襲来し,その波が同方向からあふれるように回ってきた。このため港口付近では特に水位が高くなり旧船だまりに侵入した波は,工事のため仕切っていたケーソソブロックの堤防を決壊して,新船だまり(工事中のため海水は全くなかった)に流れ落ちた。この時の水面落差は6.5mと推定される。最大波のときは旧防波堤基準面上3.1m)をこえ港内に水がいっぱいになったが,新防波堤(基準面上4.0m)は上部が約50cmぐらい見えていたという。新防波堤でも部分的に波頭がこれをこえて,海水が港内に流れ込んでいる。しかし港内の水位は最高時でも新防波堤を越えなかったことは,港内と港外の水位に多少の差異が生じていたことを示す。最大波は岸壁を乗り越え約40m程度侵入し,魚市場の建物が大破し,港内の流水は濁流となってうずを巻き急流となった。
この最大波に引き続き強い引き潮で港内が完全に干上がり,港口の岩が露出した。減水高は2.7m,最大退潮距離は300mぐらいと推定できる。6時10分ごろ再び襲来したが津波の上陸はなかった。津波の周期は最盛期で20分,その後は次第に長く40〜50分,夕刻過ぎから約1時間以上のようであったが判然としない。
津波の高さを見ると新防波堤上面下約50cmのところを最高水位面として算出すれば,平均潮位面上251cm,当日5時20分ごろの推算潮位面(浦河港を基準とする)より277cmとなった。
被害は動力船(5〜6t)沈没9隻,大破4隻,小破4隻,無動力船小破1隻,家屋半壊1戸,床上浸水3戸,床下浸水3戸,新旧船だまり仕切り壁50m決壊(庶野漁組調べ)。
襟裳岬始まりの状況を見ると,漁民は3時10分ごろ異常な引き潮によって津波と判断した。初めのころはだいたい20〜30分の周期で襲来していたが,次第に周期が短くなるとともに押し波の水位も高まっていった。強風や大しけ前の海鳴りと似た音響が沖合南東の方から聞こえてきた。しかし場所によっては聞こえない所もあった。
最盛期にはいり始めたのは4時ごろからで,4時30分ごろには最高水位に達した。最大波は港の防波堤を越えて港内に侵入した。この防波堤の高さは平常潮位から2mぐらい(当日潮位面上246cm)の高さであることから,津波の高さはほぼこの程度のものと推定される。この付近の砂浜では(この辺の浜は砂浜であるが,一般の砂浜にみるような平たんさはなく,多少複雑で海浜の傾斜もやや急である)平均して通常の波打ちぎわから50m,岸壁より25mぐらい上陸した。最大退潮は4時30分〜5時の間であって港内の海水はほとんどなくなり,海岸では目測によると平常の波打ちぎわから200〜250mぐらい後退,減水高は平常潮位より2m,当日の潮位面(浦河港基準)より236cm推定された。津波襲来時における港口付近ではかなりの急流となり,動力船が全速力で向かっても,押し返される程度だった。7時ごろから昇降差は次第に小さくなってきて周期も長くなった。
被害は家屋や人的なものはなかったが,港内漁船(4t)1隻全壊,4隻(2〜3t)中小破,沈没3隻の被害があった。
幌泉始まりの状況を見ると,3時30分ごろ引き波で,南方向より海鳴りのごとくゴーゴーという音響を聞く。この音響は津波の襲来する少し前に数名の漁民が聞いた。
最盛期の4時30分ごろ(第3または第4波)最大波が襲来した。この時はかなりの速さで押し寄せ,流れは川のごとくなって港内に侵入した。波の高さは防波堤の最頂部1/3ぐらいを残した高さまで達し,港内にあふれ,岸壁を乗り越えた水は約35m,海浜では50mぐらい上陸侵入した。波の来る方向は普通の波のようでなく,満干潮のように「じわじわ」と増水した。引き波はかなり早く,このため港内の船舶は波にほんろうされ被害を受けた。港口より100mぐらい沖合には波のうず巻いている所ができ,白いあわが立って引き波と押し波が衝突していた。
市街東部を流れる川付近では,川沿いに波が逆流し河面は1.4mぐらい水位が上がったが,橋を流すに至らなかった。なお港内以外の海岸では被害皆無で波の上がる程度もしけのときくらいであった。
一部の人は三陸沖大津波のときよりも大きかったようだといっている。押し波の最大は15時ごろにもあり,上陸した波は前後2回であった。
津波の高さは,4時30分ごろが最大で最高水位は平均潮位面より280cm,当日の推算潮位面(浦河港基準)より326cmとなった。
冬島3時30分ごろ引き潮の異状に気づき津波らしいと判断した。
津波の最盛期は5時45分ごろで,港口および港の西防波堤を回ってこの防波堤を乗り越え,港に浸水した。しかしこの防波堤が沈むほどでなく,低いほうの防波堤がわずか海面に出る程度であった。また最大干潮時には港は完全に水がなくなり,さらに港外の岩も露出した。最大減水高は250〜300cmぐらい,最大退水距離は20mであった。引き波は強く,流れは急で,海水は港内のどうのため濁ってうずを巻いていた。津波の周期は長い時も短い時もあったが,全般的に始めは15〜16分,後ほど長くなって30分ぐらいとなった。港湾以外の海浜でば強いしけの時程度で,道路上や岸壁にも浸水しなかった。十勝沖地震津波のほうが程度が強かった。港において舟の操業が可能になったのは18時ごろであった。
津波の高さは,防波堤を目やすにすれば最高水位(平常水位より)は265cm,当日の推算潮位面(浦河港基準)から約311cm。被害は,入港中の動力船6隻のうち,転覆中破1,小破1,漁具一部流失。
様似(さまに)町始まりの状況4時前ごろ引き潮の異常で津波とわかった。
最盛期ごろの最大波の襲来は6時30分ごろで,港口狭く,港の東側に向かってきた波が大きく回り,寄せ集まって港口から押し寄せて,工事中の東側岸壁を乗り越えて約50m以上も上陸浸水した。津波の周期は10〜20分で,種々に変化し後ほど周期が長くなった。最大の引き波はこの最大波の前後で,大きな引き波は3回ぐらいあった。
この時は港内の水がいくらか残る程度まで水がなくなり船底がみえ傾いた。最大減水高は230cm以上と推定される。このころの周期は約20分であったが,一定でなく変動が多かった。波は普通の波のごとく襲来せず,満干の強いときのように増水した。港内は水の濁りでどう水のようになりうずを巻いていた。
津波の高さについては最高水位は平均潮位より220cm,当日の推算潮位面(浦河港基準)より266cmであった。
被害は動力船沈没2隻,小破5隻,家屋,沿岸付近の施設に被害はなかった。
浦河始まりの状況:検潮器にあらわれた津波の始まりは3時5分ごろであるが,目視により防波堤内外の異常潮位に気がつき,これを明らかに見ることのでぎたのは4時20分ごろであった。その後海水の昇降を浦河測候所から観測した結果は2.1.27表のとおりである。
当所は海面上34mの高地にあって,海上の展望観側にば障害物がないため視界が広く,沖合まで海面状況を観測することが可能であるが,初期および最大時でも,水位の増減として認められる程度で,波浪の形状には達しなかった。
最盛期の押し波の最大は6時6分で6時ごろから海水はみるみるうちにふくれ上がり,南北防波堤を越え港内にあふれ,南防波堤の付け根の胸壁を残し防波堤は完全に海中に没した。津波は非常にゆるやかで,満干潮の繰り返しのごとくであった。波向については明らかでないが,南防波堤付近の岩礁から堤防,港内,岸壁とわずかながら水位変化には時間のずれが見られ,南西方向から波が押し寄せていることが観測された。最大波の波向を示すものとして漂流物を調べたが,南側造船所のまきが北側防波堤に流れ寄っていた。
浦河市場および保安署前岸壁は浸水し,海水は30mぐらい上陸した。また堺丘地区では海岸から100mも侵入し,浸水家屋がでた。なお海上保安署前岸壁を越えて上陸した波は5時2分(岸より5mぐらい)と6時6分の2回だけで,その後は漸次弱まりつつ翌日まで続いた。波の周期は最盛期のころで16〜17分であった。
保安署前岸壁における目視観測結果は2.1.48図のごとく5時30分の押し波最大は岸壁下20cm,5時44分の引き波では岸壁下2.5m,5時52分の押し波では30cm,6時6分の押し波では岸壁を越え,約30m上陸し,保安署は約1mの床上浸水をした。
津波の高さ津波最大波の起時は6時6分。最高水位については検潮記録のスケールアウトのため,これより求めることができず,当時検潮室に残った水跡より算出し,基準面から325cmとし,平均潮位99cm,6時6分の推算潮位を(基準面から)53cmとすれば最高水位226cm,最大波高272cmとなる。
これは港内検潮所における水跡から算出したものであるが,当日の目視観測および写真など多くの資料から,最大波来襲当時の水位を見ると,北防波堤胸壁(基準面からの高さ363cm,開発局築港事務所調べ)をわずかに越え,防波堤上部まで水位が達している。いまこの資料を用いるならば,基準面からの最高水位363cmとなるので,最高水位264cm,最大波高310cmとなり前記港内の値と38cmの差があり,港外の水位が高くなっている。これと同様の現象は庶野港においても観測されている。また,港内と港外の押し引き波の周期の位相がずれ,港外にくらべ港内が1〜2分遅く現われた。
浦河港における最大波到着時の推算潮位については,検潮自記記録(23〜24日)を一応基準とし,潮位表による釧路・室蘭の23,24日の潮位時刻と潮位を参考として24日午前の干潮時刻・満潮時刻は釧路・室蘭両港の平均時を用いた。潮位については23日午前の干潮位33cm(ただしD.L.より)から11cm低い22cm(D.L.より)を24日午前(8時39分)の干潮位とした。また最大波の到着時刻24日6時6分の潮位については釧路・室蘭の推算潮位を参考とし,前記潮位値を用いて推算潮位を求めた。
24日 満潮時 01時52分 潮位 +120cm(D.L.)
24日 干潮時 08時39分 〃 +22cm(〃)
24日 推算潮位 06時06分 〃 +53cm(〃)
港口付近の流速の推定をすると最大波到着時以外は港口より流入していたので,港口付近の海水の流れはかなり速く,どうのため茶褐色に濁った水がうず巻いて,押し波・引き波を繰り返した。しかし港内の水流は激しくなく,浮遊物・係留船の動きから推測して河川の平常の流速(毎秒1m内外)であった。最大波直後の引き波の流速は,ちょうどその時港外に避難した漁船の速さ,および岸壁から浮遊したドラムカンの移動などから推定して毎秒3〜4mぐらいであったと考えられ,かなり速い河川のごとくであった(小型漁船の速さを7ktとし,全速で引き波の時を利用して港外に出たことから算出)。湾口付近のうず巻く水流の状況や,引き波のうずの水音などから,流速は全般的に引き波のほうが,押し波よりやや速かった。
最大波の水勢を示す一例として,中央突堤左側に係留されていた漁船(約4t)が波のため押し上げられ,防波堤を乗り越えて右側港内に落ちて沈没したが,このことは押し波もかなり強かったことを物語っており,また港内の水流の方向が,この付近では南から北に流れたことを示し,前記の波向とほぼ一致する。
被害は船舶沈没1,大破1,住家浸水床上6戸,床下16戸(おもに堺丘および海上保安署とその住宅)。船の操業が可能になったのは20時ごろであった。
(2)三石〜富浜菅*
*調査:浦河測候所 中谷滋・荻野芳明
三石(みついし)4時前に異常な引ぎ潮で津波に気づく。最盛期は15時30分ごろで,低気圧によるしけとほぼ同じくらいであった。波の上陸の先端は平常の波打ちぎわから20m侵入した。特に引き潮が大ぎく,漁業組合市場前の港内に係留中の漁船は,港内の海水がからになったため転倒しそうになった。8時30分ごろ最大退水距離は約100m,平均干潮面(三石築港事務所の実測による)下50cmの岩が露出した。この時の最大減水高は193cmとなった。
津波の高さは最高水位(平均潮位より)140cm,最大波高は当日の潮位面(基準浦河港)から140cm。
春立(はるたち)4時ごろ,異常な引き潮により津波襲来を知る。最盛期は5時40分ごろで2.5m(D.L.より)の岸壁上30cmの高さまで浸水した。この時の押し波は低気圧によるしけの時と大差ない状態であった。
津波の高さ,最高水位(平均潮位面より)は181cm,最大波高および最大減水高は当日の推算潮位面(浦河基準)からそれぞれ220cm,163cmであった。
被害は最低水位時には港底露出し,港内の船は座礁したが被害はなかった。
東静内4時ごろ,異常な引き潮を認めた。最盛期は5時30分ごろで,波打ちぎわから100mぐらい上陸し,岸壁上20cm程度浸水した。この高さは平均干潮面から220cmであった。11時〜12時30分ごろに最大の引き潮となり,波打ちぎわより100m退水し港内は毎回からになった。最高水位は平均潮位面(基準浦河港)より179cm,当日の推算潮位面(基準浦河港)より最大波高は220cm,最大減水高は205cmとなった。
被害は港内に係留中の漁船4隻大破,物揚場小港にて係留中の小舟3隻がロープを切り防波堤に衝突船体破損。
元静内4時20分ごろ異常な引き潮に気づく。この時の引き潮が最大退水(約200m)であった。最盛時は6時ごろで波打ちぎわより約10mぐらい侵入し,普通低気圧のしけのときと大差がなかった。
最高水位は平均潮位面(浦河港基準)より178cm,最大波高は当日の推算潮位面(浦河港基準)より224cmであった。
静内4時10分ごろの異常な引き潮により津波を知る。最盛期は7時5分ごろであって波打ちぎわより26m程度上陸した。最高水位は平均潮位面(基準浦河港)より175cm,最大波高は当日の推算潮位面(基準浦河港)より239cm,最高減水高は193cmとなった。上陸先端部は普通低気圧のしけの程度であったが,引き潮は異常であり,普通どんな引き潮でも見られなかった「かも岩」が露出した。
節婦4時ごろ,異常な引き潮に気づいた。最盛期は9時30分ごろ,普通低気圧のしけの時と同じ程度であった。最高水位は平均潮位面(油河港基準)より158cm,最大波高および最大減水高は当日の推算潮位面(浦河港基準)よりそれぞれ233cm,171cmであった。最大退水距離は通常の波打ちぎわから200〜250mで築港の南防波堤先端まで退水した。
厚賀4時40分ごろ,異常な引き潮に漁民が気づいた。最盛期は5時30分ごろで,海面の状態はふくれ上がるように押し寄せ,港内海水は毎回からになった。この最大波は住民の話によれば第3波ということである。
この波は平常の波打ちぎわより50mばかり上陸し,ほぼ平均干潮面から220cm程度であった。最高水位は平均潮位面(浦河港基準)より188cm,最大波高および最大減水高は当日の推算潮位面下(浦河港基準)それぞれ,225cm,246cmとなった。最大退水は8時30分で築港の平均干潮面下約0.7mで退水距離は100m,このため港底露出し船舶は座礁したが被害はなかった。
門別沙流(もんべつさる)4時ごろ,漁民は異常な引き潮に気づいた。最盛期は6時ごろで最高水位は平均潮位面(浦河港基準)より174cm,最大波高は当日の推算潮位面(浦河港基準)上220cmであった。最大退水距離は1,500m程度,いままで見たこともない岩が現われた。これは4時30分と9時ごろとの2回であった。なお12時15分ごろ波打ちぎわより45m上陸した。これらの押し波は普通低気圧のしけの時と大差はなかった。被害は定置漁場の一部が破損した程度である。
富浜4時50分ごろ異常な引き潮に漁民が気づいたが,その前に押し波があったようである。第2波の4時15分ごろが最大の引き波であった。このころにおける最大退水距離ば700〜1,000mで,普通見えている岩より4ひろぐらい下の岩が露出した。最盛期は6時ごろで最高水位は平均潮位面(浦河港基準)より272cm,最大波および最大減水高は当日の推算潮位面(浦河港基準)からそれぞれ318cm,約454cmであった。上陸先端部までの距離は21mであるがこれは,普通低気圧のしけの場合と大差がなかった。
2.1.6 胆振支庁管内
(1)鵡川〜苫小牧*
鵡川(むかわ)漁民からの聞き取りによれば,海鳴りはなかったが,4時ごろに急激に引き潮が認められ,最大(4時半)のもので波打ちぎわより300mぐらい沖まで引いた(これらの引き波は40分おきぐらいに反復していた)。
潮の増し方は大したことがなく,普通よりちょっと多いと思われる程度であった。異常な津波は認められず,退水距離100m程度のものが30〜40分おきにくり返された。出漁していた漁民は「海の異常は感じなかったが,網の引ぎぐあいが平常でない(重い)ので,8時ごろ仕事を中止して帰ってきた」と語っていた。
被害は鵡川町入鹿別川の川尻において魚つりの町民(61才)が引き潮時魚貝類を拾っていたが,後方からの波に逃げおくれ行方不明となった。事故推定時刻は8時ごろ。
浜厚真(はまあつま)古老により3時30分ごろ海面の異常を認めた。この異常は十勝沖地震のときに似たようなところがあった。4時30分ごろになって急激な引き潮が始まり,かつて見ることのできなかった海底が露出した。この地点は波打ちぎわから500m以上と見られた(普通の場合は20〜30m程度)。約1時間の後,5時半ごろより急激に満潮となり,通常船の引き上げ地点まで増してきた。
出漁中の漁民の話によれば,「海に出て網引きを行なったが,なかなか網が上がらず,潮の流れが異常に早い(うずを巻いていた)ので大きな地震があったものと判断した。別の網をおろす時網がもつれてどうしても作業できないので,やむなく中止して7時ごろ帰ってきた」。船が帰って約30分後の7時30分,第2回目の引き潮が始まり,第1回と同じぐらいになり,この引き潮は距離約500m以上,その深さは約2〜4ひろと思われた。これも40分程度で平常にもどり,その後100〜200mの引き潮は30〜40分おきに起こり次第に減衰し平常に復した。
勇払(ゆうふつ)4時ごろ,急に大きな引き潮があり,退水距離は100mぐらいだった。30分後急に増潮し,船着場まで上がってきた。5時過ぎにまた急激に引き潮となり300〜400mも引いたが,30分もたたないうちにまた満ち潮となった。この状態は約30〜40分おきに反復され,次第に減衰していった。退潮の最大は5時過ぎで,その後は退水距離100mぐらいのもので大きなものはなく,満ち潮は普通よりやや多い程度であった。
苫小牧3時ごろ,出漁準備中の漁民が海面の異状を発見した。4時ごろから次第に増潮したが,平常の波打ちぎわからやや侵入した程度であった。4時半ごろから再び潮が引き始め,約30分で波打ちぎわから約300mぐらいは引いた。これも10〜20分ぐらいで,再び増潮し第1回目より高所にまで侵入した。この距離は約50mぐらい(平均水面より約2m)であった。8時ごろ第2回目と同じ程度の引き潮があったのみで特別大きな増潮は認められなかった。苫小牧港建設事務所の調査によれば,状況は次のとおりであった。第1波到達時刻は4時ごろと推定。検潮器は漂砂のたい積により導水口がふさがれていたので,量水標によって得た観測では,最高水位は5時50分で平均潮位面(基準面より92cm)より208cm,最大波高は当日の推算潮位面(苫小牧港推算による)より254cmであった。また最大減水高は4時50分で当日の推算潮位面(基準面上72cm)より192cmであった。また量水標により2分間隔で測定した結果を2.1.54図に示す。
*調査:苫小牧測候所 佐々木一夫・高橋喜市
(2)糸井〜鷲別*
糸井付近糸井付近の民家の話によれば,異常な引き潮の起こった時刻はよくわからないが,6時前後にかなり大きな引き潮があり,ふだんより200〜400mも沖まで海水が引いた。また7時30分〜8時ごろにも大きな異常が認められたとのことである。そして12時ごろになり海面は普通の状態にもどった。
錦岡付近4時過ぎから異常な引き潮が認められ,普通より100〜120m沖まで退水した。古老の話ではかつてこのような大きな引き潮はなかったそうである。5時30分ごろ一番大きな高潮があった。その後30〜40分ぐらいの周期で干満を繰り返し,だいたい12時ごろまでに平常に復した。
社台より竹浦付近これらの地域ば海岸線は単調で,かつ遠浅の砂浜が一様に続いているため津波のこん跡の発見は困難な所である。沿岸住民からの聴取によれば,5時ごろ引き潮があり,平常海岸線より約20m退水,押し波の場合は平常海岸線より2m程度上陸した。なお15時ごろにも約5mの退水および2〜3mの進入があった。この海岸付近の水中の傾斜は0.07,陸地では0.18程度であるので潮位を求めると,2.1.28表のごとくなる。
ただし水位は平均潮位からのもの。
虎杖浜漁業協同組合職員談によると,4〜5時の問にかけ最も海面が低下した。この時平常は海面下3mにある岩礁の頭部が50〜100cm程度露出し,退水距離は60mであった。5時40分ごろおだやかな状態で海面が高まり,平均潮位より約100cmになった。苫小牧港を基準として当日の推算潮位を平均潮位下38cmとすれば,津波の最高水位は138cm,最低水位は約310〜360cmとなる。
富浦漁港漁業協同組合職員談によると,5時から6時にかけ最大の減水があって,この時には船だまりにはほとんど海水がなく露出し,防波堤突端まで退水した。この防波堤の底面は平均干潮面下(M.L.W.L.)300cmとされており,室蘭港のそれと合わせてあるといわれている。
津波の最盛期は5時40分ごろで,海水は防波堤下段の頭部を洗った。津波の最高水位は,平均潮位面(室蘭港を基準としている,なお平均潮位面上54cm)上196cm,当日の推算潮位面(室蘭港5時40分の実測推算値)上231cmとなり,同時に最低水位は329cmとなった。
幌別5時ごろ海岸線が平常に比べ約20m退水した。この海岸線付近の水深は約2mであるといわれている。最盛期は5時30分ごろで平常より約3m内陸に進入した。海岸傾斜(前出)から計算すれば,最高水位は55cm,最低水位は140cm程度となる。
15時ごろの海岸線の後退は平常より5mぐらいであった。
鷲別4時30分ごろ異常減水に気づいた。最大減水は5時ごろで平常の波打ちぎわより40m退水した。この付近の平常の深さは4mぐらいと推定される。最盛期は5時50分ごろで平常より約2m内陸に侵入しただけであった。海岸傾斜(前出)から津波の高さを計算すると,最高水位は35cm,最低水位は210〜280cm程度となる。
15時ごろの海岸線の後退は5mぐらいであった。
*調査:室蘭地方気象台 天谷政雄・塚越貢
(3)室蘭付近*
室蘭港検潮器によれば3時39分に第1波が始まり,最盛期は7時50分ごろで最大波高は117cm,最高水位は15時50分で101cmであった。周期は40〜50分のものと,3時問半〜4時間半の長周期のものとがある。
なお詳しいことは検潮器による津波観測の項にある。
室蘭海上保安部では24日6時30分から中央ふ頭西側岸壁で,臨時に簡易量水標を設け5分おきに海面の昇降を観測した。観測記録は2.1.29表に示すとおりである。
検潮器から求められなかった(スケールアウトした)最低水位を量水標観測から求めると,9時50分のマイナス50cmである。室蘭港における基準面はこの量水標の98cmに当たる(15時50分の最高水位の点で比較する)ので基準面下148cmとなり,当日の推算潮位をD.L.上14cmとすれば,最大減水高は152cmと推算される。ただし開発修築事業所現場作業員の話では,港内にあるケーソンの継ぎめが露出したということであるが,これから推定すると約255cm程度となる。
室蘭港口における流れの状況を見ると,港口B航路の幅は14.42m,水深は約5m,防波堤の幅は水深5mのところで7.4m,海面付近で6.5mである。目視観測によれば港内への海水流入時,防波堤内外の海面の高さには明らかに差が認められ,その差は最高50cmに達したという。
この場合二つの海を結ぶきわめて狭く短い水路の流速は,V=C√(2gh)(C<1)であらわされるから,くびれの効果を考慮して,C=0.6とすればこの航路には最大1.8m/secの流速があったと推定されることになる。この値は室蘭港内の海水面の変動は,遠くから押し寄せた津波がそのままの形で港内に進入したものでなく,津波はいったん防波堤でさえぎられ,その後あらためて港外との差に応じた傾斜流によって,狭い航路を通じて港内に流入した水量によると考えれば妥当のように思われる(ただし副振動は別とする)。
なぜなら,上のように考えた場合港内の海水面の最大上昇速度は,航路における最大流速すなわち1.8m/secに対応するはずであるが,これが比較的よく対応するからである。すなわち室蘭港内の海面の最大上昇量は10分間に30cm,港内面積は9,809,300m^2であるから,もしこの上昇量が港内に流入した水量によるとすれば,港内の水面の傾斜を無視しSは航路断面積,Vは断面積を通る平均流速とすればVS=0.3×9809300となる。
ところで港はA,Bの二つの航路があり,A航路は水深15m,幅350m,B航路は水深5m,幅14mであるからV=0.9m/secとなる。
すなわち航路を通るこの程度の流れがあれば,港内の海水面は10分間に30cm上昇しうることになる。この値は先の1.8m/secに比べると半分にすぎない。しかし0.9m/secというのは海底から海面までの平均流速である。流速の鉛直分布は明らかでないが,港内の海水変動の機構を上のように考えれば,港口では最大1.8m/secの流速があったと推定してもよいように思う。しかしことわるまでもなく,室蘭港内の海面の変動は直接の津波によるものでなく,港外における干満によって生じた傾斜流によると断定する資料はない。ただわずかに津波が東から西に伝わっていると考えられるにかかわらず,最大の発現時刻が,森・函館・豊浦より若干遅いこと,および全振幅が港外と見られる豊浦よりかなり小さいことがその可能性を示唆しているにすぎない。
(宝成丸乗組員談)10時15分室蘭港を出て地球岬沖合で流し網の試験を行なっていたが,12時ごろ南東へ向かう潮流を感ずる。しかし底潮は陸に向かっていた模様である。また航海中地球岬沖1海里付近でうず巻きの流れを目撃し,地球岬を境として,東方では大きなうねりがあった。午後室蘭港への帰途は毎時4〜5海里の地球岬から室蘭港に向かう潮流が目測され,15時ごろ室蘭港でかじがほとんどきかなくなるような港内への流れがあり7t未満の船では危険な状態になると思われるくらいの強さであった。
追直(おいなおし)浜追直浜漁港は室蘭の南側で,太平洋側に面している漁港である。5時30分ごろ,平常海岸線より80m退水し,防波堤の基部より80cm低くなった。この基部は室蘭港の平均干潮面に合わせてある。8時ごろの押し波では基部上180cmに達した。海面が最も高くなったのは15時50分ごろで,わずか5分ぐらいであるが,2mの防波堤を30cm越えた。これは基部より230cmにあたる。
波の上昇速度を追直浜に設置してある修築事務所のUDAI式波浪計から推定すると毎分15cm内外となる。
すなわち記録から波浪を消して上昇時,および下降時の海面の高さを求めてみると2.1.30表のようになり,その速度は毎分15cm内外となる。この速度は記録の精度からそのまま信じがたい。しかし付近の岩礁で,ひざがしらまでつかって「はぜ」をとっていた漁師が,あっという問に胸まで達した海水にあわてて泳ぎ帰った事実から,海面の上昇速度はかなり大きかったようである。
津波の高さ:最大波高の現われたのは8時ごろで平均潮位面(室蘭港基準101cm)上123cm,当時の推算潮位面(室蘭港基準D.L.上20cm)上207cmとなる。最高水位は15時30分ごろで平均潮位面上161cm,最大減水は5時30分ごろで当時の推算潮位面(室蘭港基準D.L.上65cm)下98cmとなった。
*調査:室蘭地方気象台 柿崎英一・上林尚治・野村斉・高谷喜一
(4)有珠〜大岸*
伊達町有珠湾有珠湾は胆振地区で被害の最も大きかった地区の一つである。その地形は図に示すごとく噴火湾に面した,湾口の幅200m,奥行500mの小湾で,湾口でさえ水深は3〜4m程度の浅いものである(現地住民談)。4時30分ごろ海面の異常に気づいた。この時の海岸線は約100m後退した。海面の上昇は特に水堤のような形をなさず自然にふくれ上がってきた。海面の最も高まったのは次の3回で,目測による平均潮位からの高さは次のとおりであった。第1回目2.0〜2.5m(24日7時25分),第2回目2.5〜3.0m(15時15〜25分),第3回目2.5m(25日3時15分)。
ただし観測点は2.1.62図のA点付近である。
国道わきの開発局専用水準点(標高2.54m)を利用し,民家の板べいにある最高水位の水跡を簡易トランシットで測定した結果(図参照),E点(畑)で148.5cm,B点(民家板べい)で154.5cm,C点(旧道路)で150.3cmを得た。これより当地方の最高水位は平均潮位面上約165〜170cm程度と推定される。建物の地面よりの浸水高は,G地区で平均80cm,最大180cm,F地区では50〜90cm,BおよびC地区は40〜50cmであった。
15時過ぎの増水時には10〜15分の問に急に増水し1〜2分間停止後急に減水した。
最大退水時は干潮と重なった9時ごろで,この時の海岸線は湾口近くまで後退し距離約500m,このため港内は全く露出し,わずかに中央水路(通常の水深6〜7m)を残すのみであったという。海図から推定するとこの時の減水高は平均潮位面下約450cmとなるが,この値はほぼ同時刻の豊浦のそれに比べてかなり大きな値となる。
被害は畑冠水1ha,床上浸水120戸,定置網流失および破壊8,かき養殖いかだ流失および破壊24,延べなわ流失50。
虻田町5時ごろ,岸近くの浅海漁場にいたものが,異常に速く,かつ変化が大きくなった潮流に気づいて引き揚げてきた(漁民談)。海面の最も低くなったのは6時ごろで平常より約150cm低く,海岸線の後退は約40mであったという。海面の最も高くなったのは15時半ごろで,平常より約100cm高く海水の内陸侵入距離は約10mである。
豊浦5時40分ごろ異常減水に気がついた。6時からの海水面の変動は豊浦漁港修築事務所職員が検潮所付近の量水標によって観測した。この結果は,2.1.31表に示す。海面が最も高まったのは15時20分で,これば前日午後ゐ満潮に比較して140cm高い(検潮記録比較)。この時の海水の内陸への侵入距離は平常に比べて約15mで,このため貫気別(ぬきべつ)川は逆流がはげしくなって河川がはんらんし,若干の田畑冠水,家屋浸水などがあった。
海面の最も低くなったのは9時7分であるが,これは前日午後の干潮より230cm低い(検潮記録の比較)。この時の海岸線の後退は約50m,築港内はわずか5分ぐらいの間であったが完全に露出されたという。海面の昇降の周期は大きいので約4時間,それに30〜40分の短周期のものが重なっている。最高水位時は1.8mの岸壁を越え岸壁沿いの道路のなかほどまで達した。
被害は床上浸水35戸,畑冠水12ha,河川決壊(50m)1か所。
津波の高さは検潮器記録の零,および量水標の零は室蘭港における基準面より9cm低い。このため室蘭港を基準として津波の高さを計算する場合は読み取り値から9cmを減じなくてはならない。最大波高は7時30分で平均潮位面(室蘭港基準)より120cm,当時の推算潮位面(室蘭港D.L.上25cm)上206cm,最大減水高は9時7分で191cmである。最高水位は15時20分で平均潮位面上163cmであった。
大岸大岸町で海面の最も低くなったのは6時30分ごろで,平常より約1m低く,最も高くなったのは15時30分ごろで,平常より約1m高くなった。このために,大岸川が逆流はんらんし,若干の水田(約1ha)に冠水を見た。
礼文および静狩豊浦町字礼文では24日7時から25時まで,礼文築港防波堤において,長万部保線区職員により静狩では10時より20時まで簡易量水標によって海面の昇降が観測された。観測方法は防波堤の突端付近に干潮時白ペンキで50cmごとにマークラィンを引き,約135m離れた線路わきの護岸上から8倍双眼鏡で海面の昇降を読み取った。読み取り値の零線は防波堤のコンクリート壁に付着している海草や,付近の漁民の言によって平常の海面に一致させるようにした。すなわちほぼ平均潮位面の位置と考えられる。最高水位は15時40分で165cm,最低水位は9時00分で250cmであった。
津波の高さを見ると,簡易量水標観測記録から最大波高を求めると,起時は8時で平均潮位面(測定零線を平均潮位とし,室蘭港のそれと等しいものとする)上100cm,当時の推算潮位面(室蘭港基準)上183cmとなる。
最大減水高は9時で159cmである。最高水位は15時40分で平均潮位面上165cmとなる。
*調査:室蘭地方気象台 畑山源二・野村斉・北見康男
2.1.7渡島支庁管内
(1)長万部〜鹿部*
長万部(おしやまんべ)長万部は噴火湾の北西方にあたり沿岸の標高は3〜5mで遠浅になっている。同市街の北東方に長万部川があり海岸より約150mの位置に旭橋(長さ60m,幅5.8m)があって今回の津波にあたって町民が一番注目した場所である。
(役場吏員談)10時30分ごろが最も低潮となり,海岸より約200mも引く。また15時30分ごろが最も高潮となり,旭橋で普通水位より2m高くなった。なお干満の差は230cmぐらいで周期はよくわからなかった。
(長万部警部派出所鈴木警部補談)5時35分ごろ潮の異常を認めた。海岸より約100mの干潮,7時ごろ最も引き潮になり海岸より約200mに達したという。また15時30分ごろ最も高潮となって旭橋では普通水位より約150m高くなった。なお,約20分の周期で昇降し,差0.5m程度のものを8時ごろから13時ごろまでの問目撃した。
(長万部漁業協同組合佐々木主事談)5時30分ごろ,約120〜150mの異常引き潮をみる。9時40分ごろは強い東よりの風の際に高まるぐらいの潮位(0.70〜0.80m)で干満の状態は午前3回,午後5回みているが,最高低のときの状況はみていない。
(漁師の話)3時30分漁船(5t以下)出漁のときは異常がなかった。4時30分から5時ごろが満潮で5時25分ごろから引き潮となった。7〜8時ごろの間,最も引き潮となり,海岸より250mも引いた。14時30分ごろは普通の状態で15時過ぎから16時にかけ最高潮となったが,その割に急激には寄せなかった。
(寿都測候所調べ**)津波の始まりはだいたい4時ごろで,この時の退水距離は約30m,減水高は約1mでいままでにない大きなものであった。第1波?は5時ごろで水位は約2m,周期は約80分で,きわめておだやかで波がしらなどはなく,感じない程度に増潮した。最高水位は平常潮位より150cmで15〜16時ごろに現われた。
最高の現われたのは5時ごろと15時20分ごろの2回でその継続時間は約50分であった。
海水の侵入は上陸の先端部まで30mで高さにして2mである。
森町森港修築事業所の検潮器は6時前から,引き潮のため井戸水がなくなり,欠測になっており,沿岸は約100m近く潮が引き沿岸に集まった人々は異常な干潮に不安を感じながらも潮干狩りのように海草を集める者,魚貝をあさる者もあった。
7時ごろには急激に潮が増して森港防波堤の8割のところまで達した状況が当所からも目視できた。9時ごろに引き潮となり,6時の引き潮のときより引き方が大きかった。10時30分ごろ検潮井戸はからになった。実測では-1.60mとなっている。15時過ぎの満潮時に7時ごろ同様急激に潮が増して森港防波堤まで高くなった。
森港修築事業所の検潮記録によれば,3時20分からかすかながら変動があり4時から上昇に向かい4時34分第1波の最高となっている。この最低は6時前後に起こり,第2波の最高は7時15分で(基準面上2.Om,平均潮位上1.3m)低潮は9時10分に現われた。
なおこの第1,第2波の引き潮で検潮井戸がからになって露出し,記録がとれなかった。9時30分実測によると-1.6mとなり,この時が森における最低水位となった。その後40分ぐらいの間隔で上下1m前後の高低を続け,15時、35分に最高235cm(平均潮位上1.65m)になり,町内森川の上門橋付近が海水の流入で増水,7戸の床下浸水があった。これを最高潮としてその後ば1m前後の昇降が40〜50分の間隔で続き,25日0時5分,第4波があってからは振幅が次第に小さくなり,25日3時前後に満潮時とかさなって一時2m近くまで高まったが,その後はいっそう振幅が小さくなり,5時00分からは0.20〜0.30mの昇降で平常に復した。
鹿部(役場吏員談)漁師は当目3時過ぎ出漁(5t船)に向かうとき引き潮に気がついた。その後4時半ごろから引き潮が急となり,海岸線がぐんぐん退いて行き,海辺が広がっていった。なおこのころ海岸よりの引き潮は約200mであった。その後20〜30分間隔で潮の干満を続け,10時近くに最も引き潮が大きくなった。
(鹿部巡査部長の話)当時5時5分から5時10分の間は海岸より300〜400mの干潮で,最も大きく潮が引いたのは,9時前後と10〜11時の間で海岸より約400mに達した。最高潮となったのは15時で同派出所前の高さ3mの防波堤の上部を30〜40cm余す高さまで増潮した。周期は30分前後であった。
鹿部港修築事業所の検潮記録によれば,第1波の始まりは3時10分と見られ,4時25分から急激低落して基準面下に達している。周期は30〜50分ぐらいで昇降し,差は4時5分から7時15分の間が最も大きく1m内外で,そのほかは0.58m前後,周期は20〜30分で,森港に比べると振幅は小さく周期はやや早い。被害はなかった。
*調査:森測候所 沢村成吉・佐藤正実
**寿都測候所 木村鉄嶺・村山吉男
(2)亀田郡下海岸地方*
■法華検潮所(■法華村元■法華漁港内開発建設部■法華港修築事業所)
当所のリシャール型検潮器の記録によれば,24日3時0分(満潮時1時40分,満潮位1.13m)より津波による水面の上昇が現われ,4時に極大に達している(第1波,この時の水位1.57m)。その後2〜3時間の周期で,津波による大振動が現われ,翌25日20時過ぎまで,計7回に達し,この間の最高水位は,第2波の6時2分1.73m,最低水位は10時40分0.36m,最大全振幅は1.37mとなっている。なお,修築事業所当直員および住民の言によれば,津波来襲時の水面の変化は,普通の満潮時より多少昇降が大きく生じた程度で,1959年の14号台風時より最高水位は低く,海岸道路にも全然海水は浸水せずたいしたことはなかったが,今回は引き潮がやや目だって,通常の干潮時より海岸線が約10m後退した。
戸井村戸井検潮所(開発建設部戸井港修築事業所)
本検潮所はリシャール型検潮器を備えているが,1959年より導水管が埋没状態となり使用不能であった。本事業所長の言によれぽ,最高水位は24日6時40分で検潮所基準面上2.1m,最低水位は同基準面下1.3m(24日10時30分),したがって最大全振幅は3.4mに達した。
各地の最高水位:主として住民より聞き込みにより,陸標から最高水位を確認し,その踏査時刻における海面との水準差を巻尺をもって概測した。なお,踏査当日は,まだ津波による異常振動が認められるので,推定潮位には0.30〜0.40m程度の誤差はまぬかれない。
*調査:函館海洋気象台 伊藤清吾・飯田隼人・内藤一郎・木浪茂(5月26日踏査)
(3)上磯・木古内方面*
調査は津波が押し寄せた最高水位を,確実におさえることに重点をおき実施した。主として,当時警戒のための見回りにあたった,消防本部員や警察署員を対象とし,消防署・警察署のない所は,部落民から当時の模様を聞き取り資料を得た。幸い,最高水位に達したときの地点は,割合明確に記憶しており,かなり正確な資料が得られたものと思われる。津波の最高水位の測定方法は,踏査を行なった時刻における水位より,津波の最高水位に達した所までの高さを測定し,後推算潮位の基準面からの高さに直し,さらに函舘港の平均潮位上の高さになおした。また,青函船舶鉄道局有川支所および函舘土木現業所当別築港事務所では割合,長時間にわたり潮の変化の状態を観測していたので,この観測値も函舘港の平均潮位上の値に改めた。津波の状況をみると2.1.73図のようになる。だいたい最高水位を
示した時刻は,6時30分から7時30分の間で,水位は1.50〜2.30mである。泉沢が多少高く出ているが,西方に行くにしたがい低くなっている傾向が見られる。周期では,小さい波についてはわからないが,大きな波では2〜3時間である。また第1波は小さかったので,その時の状況を認めている者はほとんどなかった。また,被害は上磯で浸水家屋107戸,木材流失20石,木古内で若干出したほかはほとんど被害はなかった。
青函船舶鉄道管理局有川さん橋における潮せき実測結果(函舘市港町94番地)
24日有川さん橋において測定した結果の測定基準面を,同所岸壁の上端になおし,さらに函舘港の平均潮位になおした結果を2.1.34表に示す。
函館検潮記録によると第1波は24日3時41分に到着し,7時7分に最高水位になり,平均潮位上213cm(1955年以降の既往高極潮位よりも137cm高い),最大波高221cmになった。このため,市内特に低い地区の港に面した地域では2.1.74図のように,上陸浸水し特に駅前付近では,第6波の7時7分の最高水位時には,路面上1〜1.5m浸水した。また西浜岸壁付近の倉庫地帯では倉内に水が侵入し,その高さ50cmに達した。付近には小型の船が打ち上げられた。森越海岸で同じころの最高水位は同日19時ごろの水位より280cm高かった。なお19時ごろの水位は大潮の干潮時よりさらに低いとのこと(漁民の話)であった。なお最低水位は10時31分ごろ平均潮位以下300cm(検潮器ではかれないので実測)で1954年4月以降の既往低極潮位より220cm低い。
函館における写真撮影時の状況
5月24日6時59分から7時30分まで,函舘さん橋駅前で撮影されたものである。函舘では6時17分に第1回の浸水があり,平均水面上1.7mに達したが,7時7分には第2回の浸水があって平均水面上2.1mに達し,これが今回の津波の最高水位であった。函舘さん橋駅付近は港内で最も低い土地なので,浸水も最もはなはだしかった。5枚の写真を比較すれば,津波による浸水が,いかに急激であるかがよくわかる。以下に撮影にあたった今久則技官の手記を掲げる。
6時50分過ぎ駅前に到着,広場全体に広がる海水と,右往左往する人,車の群れをぬって徐行しながら,さらにさん橋のほうへと進む。さん橋前の歩道は水浸しとなり,ほうぼうに水たまりが見られる。車を降り,これまで見た中で最大の浸水状況に驚きながらシャッターをきる。
水たまりを飛び越えながら人がきをかぎわけ,さん橋横の岸壁にたどり着く。海面には木箱・果物などが静かに浮かんでいる。やじ馬連中も物珍しげにゆうゆうと見物している。海面は急速度で上がってきているが,その速さはファインダーから適当な撮影場所を捜しているうちに,靴が水浸しになっているほどである。おりから付近では,朝市が開かれ車も多い。見物人も車も一せいに動ぎ出す。
警察・消防員の待避命令。命令者がすでにろうばいしているから混乱をひき起こす。シャッターをきるより,逃げるのに懸命,調査のためと申しでて消防員と残る。
北海道新聞社のジープの荷台の上には,3人のカメラマソががんばっている。便乗を依頼しようとしたが,ジープは急速度にしぶきを上げながら動き出す(7時4分)。さん橋へ向かう道路と,駅ホームとを区切っている金網のさくの上に登る。さくの上部には古いレールが使ってある。鉄製の自転車置場,バイクモーター,そして南京袋にぎっしりつめられた果物などが,なんの抵抗もみせずに金網に押しつけられては水中に没して行く。金網をとおして続く汽車線路にも,潮は濁流となって,白いあわを作りながら流れ込んで行く。すべてのものを苦もなく飲み込む水の力に,筆舌に尽しがたい威圧感を覚える。
浸水した海水は,道路沿いにうずを巻ぎながら流れ進んで行く。その速さは,人の駆け足以上である。周章ろうばいのあまり足をすべらした人が50cmたらずと思われるところで,懸命に泳いでいる姿は少々こっけいにもうつる。自動車も始動せぬうちに,濁流の意のままに流されて行く。まわりに人影もなく,ぽつんと取り残されてみると,かえって妙に落ちついてくるから不思議だ。
乗用車が軽々と水面に浮かんで流されて行く。三輪車は押し流されながら横転する。旅館のドアの大型ガラスは,予想以上にがんじょうで50cmほど没しても割れぬ。ところが,ほうぼうにぶつかりながら流れてきた乗用車がこのガラスをつき破る。濁流は流れ込む。
7時10分,ようやく浸水の行き先がにぶる。フィルムが2枚しか残っていないのを意識しながら,立ち往生している列車とさん橋正面の時計,それに函館山なども入れたん念にンヤッターをきる。
間もなく引き潮が始まった。上げ潮以上の速さと横暴ぶりを発揮する。完全に荷造りされた果物・魚など,それに屋台まで少しの容赦もなく持ち去ってゆく。自家の財産が奪われてゆくとぎ,二階や屋恨に陣どった家族の口から大きな嘆息が発せられた。
一度流されて,引ぎ潮で再び現われ,間もなく海中に持ち運ばれようとしている財産を,取り押えようと婦人までが飛び出し,腰まで濁流につかりながら,危険をおかしてがんばっている。
陸上に流れ込んだ濁流の引きとるを待たずに,潮は急激に進み,岸壁にはにわかに大きな滝ができ,ごうごうという音が響きわたる。岸壁上から6m以上もあろうと思われる海底は,露出してあわの白一色にぬりつぶされる。
海上では多くの船がエンジン始動のまま,潮のなすままに揺れているが,目だった被害は見られないようだ。
長靴ばぎのカメラマンがさん橋から出てきて,ズボンをぬらしながら引き潮に立ち向かっている。大声で呼び,名刺を渡して引き潮時の最高場面の撮影を依頼した。
フィルムなしのカメラを持って,じっとさくの上に乗っていることが耐えられなくなり,流れついている自転車・箱などを引ぎ寄せ,飛び石伝いにさん橋にたどりつく。
さん橋二階では,待合客で相当混雑しているが,窓から見物している人は案外少ない。荷物をまくらにぐうぐう眠っている者さえみられる。ようやく気象台に電話連絡することができる。フィルムを入れ,窓からシャッターをきる。浸水のため地上は逆光を受けてぎらぎらと輝いている。
7時30分,さん橋前はようやく長靴で歩行できるようになる。ひかれてゆく三輪車に飛び乗り,なんとか駅前にたどりつく。ここ函舘前に到着してから30分経過したに過ぎない。しかし,このわずかの間に残された自然のつめ跡は,あまりにも狂暴,残酷であった。
*調査:函館海洋気象台 石山耕一・沢田照夫・飯田隼人・木浪茂(5月24日踏査)
2.1.8 被害状況*
*編集:札幌管区気象台
国鉄関係
(釧路鉄道局)釧路川鉄橋の橋脚8個中3個破損(漁船などの衝突による),路線曲折
函舘路線浸水(80cmの高さ),さん橋一部破損,有川船だまり護岸倒壊71m,函館駅構内360,000m^2冠水
北電関係
(室蘭)様似:電柱折損3基
(函舘)上磯:〃2基
(釧路)霧多布:〃13基,倒壊21,流失35,傾斜23,合計92
高圧線断線70か所,低圧線断線67か所,高圧線流出4,300m,低圧線流失6,000m,
電話線流出2,700m,変圧器落下13,油入開閉器落下1,引き込み線切断342,がいし282
開発局関係
(1)港湾
霧多布:工事用資材流失,土砂埋没6,100m^3,防波堤3基流出
広尾:突堤倒壊・物揚場沈下・船場土砂流入・埋没工事用資材流失
幌泉:工事現場浸水・胸壁転倒・船舶流出
花咲:工事用資材流出
浦河:工事用資材流出
庶野:防波堤転倒50m,漁船18隻全壊(防波堤に衝突)
(2)道路
黄金道路:決壊194m,石垣根元破壊62m,被害総額418,9万円
広尾町ルベシベツのコンクリート露出150万円
広尾町キタタヌケのコンクリート露出80万円
函舘・松前間の国道,上磯町三石地内で材料流出5万円
(3)漁港
庶野:旧船だまり56m(高さ3m)倒壊1,400m^3土砂流入
2.2東北地方
2.2.1各地の最大波高(最大浸水高)*
われわれは津波発生直後から6月上旬にかけて,第1回の現地踏査を実施したが,かなり未踏査地域があったので,7月中旬第2回の現地踏査を実施した。現地踏査の際,大部分の地域で最高水位を測定したので,その結果を適当に補正し,整理を行ない,特に1933年の三陸沖地震津波の場合と比較して,その実体を明らかにする。
(1)資料
測定方法としては,普通最も簡便な方法として用いられている,クリノメーターおよび巻尺を用い,現地に残ったこん跡や聞き込みにより,測定時における潮位からその高さを測定した。なかにはすでに,東京湾中等潮位(T.P.)のわかっている地点からの高さを測定したものもある。これらの値から,津波が最大になった時間の平常潮位からの高さと,T.P.からの高さとに換算した。この換算には,付近にある検潮記録や,推算潮位(潮位表)を用いた。しかし各湾や各地区ごとに,検潮記録があるわけではなく,またあっても不正確であったため,厳密にいえば正確な補正をほどこしたとはいえないが,現在のところ,これ以上のことは不可能なので,やむを得ない。したがって測定時の誤差と合わせると,平均10%ぐろいの誤差は,まぬかれないであろう。
以上の方法によってまとめた結果を,2.2.1表に掲げた。
実際の観測値は,200点以上あったが,極端な誤差を含んでいるとわかったものは捨てたので,総計183点になった。備考欄には,1933年の三陸沖地震津波の値**を比較のため記入した。両方比較して大きいほうを区別し,ゴシックにしてある。またこの表に貴重な資料として,宮古湾内の4点で,感潮紙(120ページ注記参照)によって観測した波高を載せた。これはIGYの一環として,津波研究会で設置したもので,他の値よりかなり精度が高いものである。
検潮記録から計算した最大波高は,2.2.2表に示す。
われわれ以外の人が測定した値を表にしたものが,2.2.3表である。この表のなかには観測点が不明なものが若干あって,どのくらいの精度の値であるかわからないが,これらはわれわれの測定値がない地域だけ,採用することにした。
(2)各地の最大波高(最大浸水高)
2.2.1表から2.2.3表までを地図に記入したのが,2.2.1図から2.2.8図までである。また宮古湾については,測定値がかなり多いので,見やすくするため,2.2.8図に図示した。この図では,平常潮位からの値を記入し,基準不明の値は括弧に入れた。測定値は全部で210を採用した。
T.P.からの測定値を使用したものも,同様に図示することは容易であるが,あまり大きな変化はないし,また1933年の値が平常潮位から測定してあるので,その比較のため,平常潮位からの値のほうを図示した。
この図から,一般に次のことがいえる。
(1)太平洋沿岸一帯における,湾外あるいは外湾では,北から南にだいたい同じ値で,約2mの値となっている。ただし八戸の南から岩手県の中野のあたりまでは,3〜4mぐらいのところがある。
(2)湾奥では一般的に高くなっているが,野田湾・女川湾および荻の浜では,4m以上となり,6mを越したものに,野田湾と広田湾がある。ただし野田湾の玉川は,8.1mとなって,おそらく今回の津波の最大の値であると考えられるが,1点だけの値なので,この地域の代表性をあらわすかどうか,疑問である。否定すべき根拠もないので,そのまま採用することにしたが,全く異常なものとしか判断できない。
(3)1933年との比較
1933年との比較をすると,一般的に次のことがいえる。
(1)湾外(外洋)における波高分布が,全く異なっている。1933年の場合は,岩手県沿岸および宮城県北部一帯は,5〜10mであるが,青森県,宮城県南部および福島県沿岸では,かなり低く2m前後となっており,今回の場合は,前に述べたように,全地域ほとんど一定であった。これは明らかに波源の遠近の,極端な違いのためであることは,容易に理解できる。
(2)湾内においては,1933年の場合は綾里湾のように,23.0mという極端な波高を示したが,今回はそんなに高くはない。しかし大きな湾では,1933年の場合,湾奥のほうが湾口よりもかなり低くなっているが,今回の場合には,全く逆の現象が見られた。たとえぽ宮古湾・大船渡湾および広田湾などは,このよい例である。この原因としては,襲来した津波の周期が,1933年の場合には,10〜20分であったが,今回の場合は60分以上であったと考えられる。このため,湾の固有振動が,大きく左右したのであろう。
(3)陸奥湾においては,1933年の場合にはほとんど影響なかったが,今回は青森およびむつ(大湊田名部)市において,2m近くなっており,若干の被害を生じている。
注)感潮紙による波高観測器械の本体は2.2.10図のようなものである。これを湾内各所の,適当な場所につるしておく。津波が襲来するとビニールチューブのなかの感潮紙に記録され,これから波高を測定する。1か所に10〜20個ぐらい太い針金に15cm間隔で結びつけておいて,波であまり移動しないよう,上のほうは樹木の根もとに,下のほうは岩に結んでおく。
感潮紙は,硝酸銀8gを25gの水に溶かし,別にクロム酸カリ4gを25gの水に溶かした両方の液を混合して,紙に塗布したもので,海水を受けると,変色するようになっている。
欠点としては,しけで海面上が飽和状態になったときも感潮するため,時々交換しておくことが必要であること,特に大きな津波の場合は,流出することがあるなどである。今回は感潮紙交換後,間もなく津波が襲来したこと,津波のため流出することがなかったので,成功した。
*筆者:仙台管区気象台 渡辺偉夫
**中央気象台(1933):昭和8年3月3日三陸沖強震及津波報告.験震時報,7,別冊。
2.2.2踏査ならびに状況報告*
われわれは津波発生直後の5月下旬と7月中旬の前後2回にわたり現地踏査を行なった。その地域は太平洋沿岸のほとんど全地域および津軽海峡と陸奥湾の一部にわたり,一部の地域では地元関係機関より状況報告を受けた。
現地踏査にあたっては最高水位の測定のほかに,現地で聞いた津波襲来状況や特殊現象などの,なまなましい状況をはあくし報告書を作成した。これらを一括して,地域別に編集しなおしたものが,次の報告である。
編集にあたっては,担当官署の報告をできるだけ忠実に記載する方針をとったが,他と重複したり,不要と思われるものは,若干割愛または訂正せざるを得なかった。
以下の報告のうちのおもな地名の位置は,2.2.1図から2.2.9図までにほとんど示されている。
*編集:仙台管区気象台 渡辺偉夫
2.2.2
2.2.2.1青森県上北郡六カ所村から岩手県下閉伊郡普代村まで*
尾鮫浜(おぶちはま)付近の住民はラジオで津波のあることを知った。津波の最も大きかったのは6時ごろで,中くらいのしけ程度にすぎなかった。被害はない。
三沢市平沼浜平沼浜では,小河原沼から続く高瀬川河口に,河口を工事中の田中建設株式会社の飯場や事務所があり,割合正確に状況をはあくすることができた。ここでも津波の最も大きかったときは6時ごろで,特に引き潮が大きかった。水位の判定も,防波堤の1点に水準測量による高さがあったため容易であった。被害は同会社の資材が数十万円流れ出したことで,その他異常現象なし。住民の話では,1933年の時より規模ははるかに小さい。事務所や飯場には,浸水寸前のところまで水が来た。
六川目(むかわめ)六川目地区においても津波の最も大きかったのは6時ごろで,被害は海岸にある船具小屋に浸水した程度で,津波はほとんど防潮林でさえぎられている。古老の話によれば,1933年の津波より少し弱いくらいでおった。もっとも当時は雪が相当積もっていたため,波はあまり奥まではいってくることはできず,また異常な雷のような音を聞いたが,今回は何もなかったといっている。
五川目五川目地区における海岸では砂鉄を堀っており,防潮林から海岸寄りに10mぐらいの所にある事務所は,約1mの床上浸水で,その他砂鉄採掘のモーターなどが浸水した。住家には全く被害はなかった。ここでも津波の最大時は6時ごろで,1933年よりも小さい。
四川目および三川目この地区の海岸線は北北西に走る砂浜地帯で,有名な天然砂鉄が,豊富に埋蔵されている地帯である。この海岸の四川目を中心に南北を踏査したが,概して損害は軽微であった。
これは1933年3月の三陸津波による体験を生かし,海岸線に砂防林を作ったことと,住家を水面上から10m以上の高所に移したことなどによるが,今回の津波は現地の人の話によれば,三陸沖の津波と違って,津波は北成分の方向からやってきた(三陸沖地震津波の場合は南東方向)もので,規模としては三陸沖津波の場合よりはるかに小さいものであった。
この地域の三陸沖津波による被害はじん大であったが,今回の津波は全く反対の現象が現われている。これは明らかに津波の襲来の相違を物語っているものと思われる(この津波による漂流物を見ると,北のほうから流されてきている)。
各地における被害の概略は,次のとおりである。
砂防林は海岸線から200〜300mの所に海岸線に沿ってのびているが,だいたい砂防林を越して10mぐらい先まで津波が到達している。住家浸水は全部で8戸で,浸水の程度も20cmぐらいのものであった。砂防林の冠水は高い所で150cm(四川目),低い所で40cm(三川目)ぐらいである。三川目では川沿いの畑地(からすむぎ)5反歩が冠水したが,この場所は海岸から300mぐらいの位置にある。船の損害はいそ舟の中破,小破合わせて5隻で,これに付随した船具類の流失は敷木,コロ,魚網6枚などである。
*調査:八戸測候所
百石(ももいし)町(二川目(ふたかわめ),一川目(ひとかわめ),川ロ)
被害状況を見ると,この地区で被害の最も大きかった所は川口部落で,一川目と二川目の各部落はいそ舟2隻中破,床下浸水2戸にすぎず,被害はごく軽微なものであった。川口部落は奥入瀬川河口付近にあるため被害は大きく,流出家屋3戸,非住家屋6戸を初め,全壊1,半壊4,床上浸水14,床下浸水8を数え,その他家畜若干,いそ舟30隻,漁網1,000問,堤防倒壊,家具・機械・器具・衣類などの流失があり,農地は田畑の冠水60町歩,埋没7町歩に及んでいる。
津波襲来状況を見ると,川口部落は大部分半農半漁で,田植時でもあり,早くから起きて仕事をしていたため,津波のあることを早くから知っており,そのため人的被害はなかったものと思われる。波の最も大きかった時刻は,5時から7時ごろまでで,河口から300m離れた所では床上浸水60cmとなっている。流失・倒壊家屋は河口から100mぐらいの位置にあり,ほぼ海岸線に沿って並んでいる家屋である。
冠水した田畑の水位は30〜50cmぐらいといわれるが,これは明神橋のある小川から侵入したものである。
川口部落は河口付近にあったため,水位も非常に高かったが,北上するとともに水位は低く,海岸線から200mぐらい離れた海岸沿いに防潮林が続いており,この防潮林で50cm程度であった。このように津波による被害は,1933年の三陸沖津波の場合と,被害の起きた場所は逆になっており,北ほど弱く,南ほど強くなっている。
八戸市
奥入瀬(おいらせ)川口〜新馬淵(しんまぶち)川口(市川)新馬淵川橋を右に曲がる堤防ぱ海岸まで突出しており,津波は海岸へ北方から押し寄せてこの堤防に打ち当たり,八太郎方面に侵入した。しかし海岸から400mの県道まで,はいあがることがなかったので,市川町橋向の部落以北は被害を受けていない。この辺は,海岸線でも少し小高い台地となっているので,津波の侵入はまぬかれた。流れた材木を拾っている人達の話では,この日は波の音が普通と異なっているので,浜辺に出てみたらいつもの干潮より潮が引いているし,2,3年前に鮫港から押し流されて沈んだ船の底が見えた。その海底は普通水面からむしろ6枚分(41〜42尺)で,12〜13mも水が引いたので,これは津波だと思った。そのうちに第1波が北方から白波を立ててやってきた。次に第2波が南東側からやってきた。第3波は第1波と第2波の中間よりも北側のほうからやってきて,この第1波と第2波の合成した波が,陸地に侵入してきた。防潮林内まで達した時刻は,6時30分ごろで,この人は津波と気付いて逃げようとした時は,すでに水中であったといっていた。
この辺一帯は白銀・小中野方面から押し流された材木・魚箱などが浜に散在していたが,台地なのでどの方面から津波が来ても,被害は少ないとのことである。またこの地帯を北上すると防潮林まではごみが立木の中途にたれ下がっており,発動機船1隻が押し流されて海岸に座礁し,またはしけ1隻が浜地に横たわっていた。
市川部落の橋向にはいると,県道から東側にある橋向浜通りまで浸水し,この辺一帯の農地は冠水し,また住家や非住宅が,南南西ないし南西に押し流されて破損,また畑にはいそ舟が陸揚げされていた。水田・菜種畑はどう畑となって,特に松林の中に流出物が点々と散在していた。
橋向部落は五戸川河口にあり,川沿いの両側は堤防になっているが,堤防の側面および防潮林上手から侵入した海水によって,浸水または押し流されたものが多かった。
市川橋を渡り,川の堤防に沿って川口まで行ってみると,この堤防は河面から7〜8mも高いところにあるので,津波を受けておらず,防潮林のうしろの低い畑地が,排水路から逆流した水のため,冠水または浸水していた。
中平部落から海へ向かった市道路の,低地および防潮林に押し寄せた津波は,道路を通って道路の両側の非住家を押し流し,またいそ舟を畑地に押し流したが,この辺は住家が台地にあるので,上記のような非住家およびいそ舟の流出,農地の冠水の被害がおもである。
奥入瀬川には堤防がないので,開運橋付近まで津波が流入してきたが,この川沿いの田畑にわずかの被害を認めた程度である。
三角州土業地帯および小中野町まだ大波の襲来している午前8時,避難民や自動車で身動きできぬ中を,三角州工業地帯や小中野方面の状況調査に向かう。旧湊橋から第二魚市場に至る川岸は,打ち上げられた漁船や,転覆寸前の漁船の衝突によって破壊された家々など,新井田川口から侵入した波を,まともに受けた小中野護岸一帯は,目をおおうばかりの惨状であった。第二魚市場の岸壁も大波をまともに受けて,無惨にも200mにわたり決壊している。この付近の水位の高さは護岸から約180cmぐらい,少ないところでも130cmぐらいに達している。停泊中の漁船が打ち上げられ,あるいは転覆しているのが随所に見られる。
策二魚市場から三角州工業地帯にかけて浸水がはなはだしく,この方面から打ち上げた波は赤沼・入江町・船見町一帯をどう海と化している。
工業地帯の被害も大きく,日曹製鋼の岸壁が数十cm決壊したほか,東北電力火力発電所・八戸変電所・日曹製鋼などは50cmほどの床上浸水があり,日曹製鋼は完全にその機能がまひしたほか,岸壁に積み上げたコークス約200kgが流失した。なお三角州地帯の浸水は,主として新井田川口よりの岸壁から乗り上げた波によるもので,外洋から侵入した波は,土手のためにごく少しであった事実は注目されてよい。
湊町この湊町の海岸は,新井田川河口浜須賀から大沢部落まで,海岸線は約1.5kmの砂浜となっている。
4時25分と6時25分からの押し波で,海岸一帯は約100mの範囲にわたって,沿岸沿いにある3mの道路まで浸水し,道路上で20〜30cmの高さになった。また新井田川沿いの低地にある両岸の住家はほとんど130〜150cm床上浸水し,上流約1kmのところにある磐城セメント工場付近まで逆流している(同工場では5時14分および6時36分には,豪雨期の増水と似ていたといっていた)。
同河口にある当所検潮所では,平均水面から2mあまりもある,コンクリートベいを三方から海水が乗り越え,5時4分および6時36分にはどう水と化した海水に囲まれ,同所内にも浸水し,まったく危険な状態であったが,当所担当委員は危険をおかして保守に努めた。
同河口両岸に係留中の漁船(動力,無動力とも),および運河奥岸壁付近の八戸漁連の船上げ場にある船400隻あまりが,5時ごろの最高水位時に約90%流失した。
他は6時30分ごろに流失,または大,中,小破を受けた。その半数以上は,5時14分からの引き潮のため,他はその後繰り返された津波によるもので,波の押し・引き(特に強く)中には処置のしようがなかった,というのが実状であった。最高水位時に同河口正面にある,第二魚市場の岸壁上約2mの浸水があったことからも,この間の模様がわかる(2.2.12図参照)。
新井田川運河地の岸壁から浸水したのは,5時14分および7時20分ごろであった。小中野町よりも岸壁における流失船が多かったのは,外海の直接波(正面)のためであろう。いずれにしても,同川の両岸の漁船の被害は大きく,約350隻(動力,無動力とも)を数え,加えて第二魚市場岸壁の全滅,北防波堤決壊,同臨海工場関係の操業不能などは,津波被害の主要なところである(他は鮫岸壁付近)。
当時り津波の状況:4時45分,6時25分からの押し波は,河口を含めて浜須賀から鮫海岸と三角州地帯海岸一帯に大きく波が寄せた。その最大時からの引き潮の際も,同じく海岸一帯が大きく引いた。その後はこの河口にのみ波が出入するかのようで,海岸一帯は顕著な押し・引きが見られず,奇異であった。
河口での流失物の速さは(当時は満潮時から干潮に向かっていた),引き波の時は特に速く,5時14分,6時36分からの引き波時では13m/sec,この直前の上げ波時は,5〜8m/secを目視観測により推定した(西防波堤上の電柱間隔40mを目標とする)。午後は満潮・干潮時に関係なく,押し・引き波とも遅く,2〜3m/secであった。
6時ごろまでは,入り込む海水と流れ込む河水の区別ができたが,その後は黒(どう水)一色となって,川と沖の間を波の往復するのが見うけられた。5時55分ごろが最も潮が引き,河口東側防波堤から東の鮫港1万t岸壁までが一大砂原と化した。平均100m,最長幅300mと推定される。
その他八戸線鉄橋脚に再三はしけが激突し,同線路が川上に向かって約60mmゆがんだため(尻内保線区員6時33分ごろ警戒中発見),午前9時26分から16時まで,むつ湊駅小中野駅間は一時不通になった。
白銀(しろがね)町(三島)三島川付近が特に局部的といえるほど,家屋の流失・破壊が多大であった。
川付近の道路に面した家屋二,三が路上に乗り上げ,川沿いの道路までの密集した家屋は,約2割流失し,3割ぐらい破壊されていた。
地元の人の話によると,家屋の被害の80〜90%は,第3波の最大波襲来時に流失,または破壊されたものと思われる。弱い建物が波に押し流され,他の家屋を破壊したものもかなりある。
津波の襲来方向はほぼ北であり,この地域における水位は,地面より約180cmである。三島川を境として西方は,比較的被害が少なく,東方が多大であった。被害が三島川周辺に集中したことは,a)地形が海に面してややV字形をなしていること,b)同地区はこの付近でも最も低地帯である,c)小河川ながら,三島川が津波の勢力を助長誘導したらしい,ことなどのためである。
さめ鮫町(埋め立て地)八戸魚市場・東北冷蔵付近では,8時15分ごろ地上から約180cmの水位を観測した。
この辺一帯は水浸しの状態で,床上浸水100cmを記録している。海上保安部から蕪島付近にかけては,路上からの水位が約150cmで,付近一帯は完全に水浸しとなっていた。なお保安部職員の観測では,最も潮の引いた時には,波打ちぎわから約50mであった。
種差(たねさし)種差海岸においては行方不明2名を出したが,この海岸は両側にきり立った岩が沖合に出ていて,しかも間口が広く,岸で狭くなっている。平常の波打ちぎわから約50m離れた岩石上の標流物からみて,南浜海岸では一番ひどかったと思われ,地元民は15〜20尺の津波だったといっていた。
踏査時は干潮であったが,これを加味し,この岩石上の高さを逆算してみると,それほどでないにしても,平常水面上4mぐらいと思われる。またこの部落の船つき場の,波に洗われた岸壁端上に,1kgほどの三角の石が逆三角になっていた。
駐在所員(津波の時,腰綱をして救助にあたった)や部落民の話を総合すると,津波は5時20〜40分ごろに最大の押し波があり(この波の引きで2名行方不明),7時50分ごろが次に強かった。部落民は4時過ぎの海水の引き方を無気味に思ったが,押し・引きの時間が三陸沖津波に比べて長く感じられ,不安を感じながらも海草採りに浜に出たとのこと。いずれにしても,同海岸での今度の津波は,波の寄せ方が静かであったが,引きが急で,1933年に比べて水量が多い,という感じであったとのことである。
法師浜および大久喜この船つき場の入江は,その方向が北北東ぐらいの向きになっているが,今度の津波は1933年より50cmぐらい高い所まで浸水した。最大は5時10分ごろで波高150cm,法師浜では海岸防潮林へのはいり方から,波高200cmと推定されるが,種差寄りの高岩(森),南陰海岸(住家10軒ほどある)は1m弱と思われる。
階上(はしかみ)村
大蛇ここは1933年の津波の被害が大きい所であったが,今度はこれに比べて小さかった。
1933年以前は道路(山手側)沿いに住家があって,ほとんど流されたが,現在はその位置に漁具小屋があって,今度の場合床下を洗う程度。この地帯から八戸市金浜海岸の道路(県道)まで浸水,5時過ぎごろが最大で道路上までの浸水は2回,この最大時直前の引き潮もまた大きかった。最高水位は,岸壁からの浸水状態からみて平均面上約2mと推定した。
おつこし追越および榊追越および榊の海岸では,総じて津波は平常潮位面上250cmの水位を示しているが,両部落とも岡を一つ越えたところで水位1mぐらいの所もあり,入江や海岸の向きを吟味してみると,東から南東向きの場合は小さいことがうかがわれた。また岩石に囲まれた奥まった所では,異常に波が高くなっている。
小舟渡と榊部落の境にある泊川という小川の暗きょ(海岸から30〜40m)付近にある民家では,2回避難しているが,ここでは3mぐらいの高さになったと思われる。時刻は次に述べる小舟渡部落と同じころだが,幅120cmぐらいのこの小川の上流500mまで,逆流浸水したと思われる。倒伏した草が,所々に白く枯れているのは,これを示している。
この付近の家の人の話では,押し波は大したことはなかったが,引き潮で流出する雑物が,暗きょにふさがり排水されないため,長い時間浸水がひどく,海岸河川の暗きょは恐ろしいものだといっていた。
小舟渡(こふなど)今回の津波は夜明けのため,その被害を最小限にくいとめることができた。しかし小舟渡部落としては,1933年の時よりも津波としては大きかった。5時ごろ一番大きな寄せ波があり,平常潮位面上約340cmと推定,次に大きかったのは6時ごろであった。北岸壁(海面上約420cm)を越えた波は,上記の2回であるが,この岸壁のため,今度の場合助かった(1933年には,この岸壁がなかった)。引きの大きかったのは,5時少し前で,港内は全く海水がなくなり,外海側のテトラポット防波堤まで岩礁が現われた(北岸壁から40m)。
津波状況を見ると防波堤や岸壁を越えたものや,岸辺沿いに陸地に上がった波は,平均の波打ちぎわから約100mで,最も長い所で150mあった。
また道路が低地のため,波は道路上を左右に移動し,危険であった。住家はこの道路の上手に並んでいる。
また寄せ方が除々であったため,知らないうちに増水した,押し引きの時間間隔は,三陸津波より長かった感じで,びょうぶ波のような岸で折れる波ではなかった。
種市町
角浜および種市角浜および種市の海岸の津波襲来時刻は,次に述べる八木港とほぼ同じである。種市町役場裏の海岸では,最高水位推定2m,ただし同役場から北に約1kmのところにある川尻川は,河口が北向きであるが,河岸の浸水はなはだしく(6時50分ごろの最大時に,同地にある漁協倉庫流失,約100坪),上流に直線約300mはいりこんだ。この川の流れが曲がりくねっているためか,海岸から100〜200m付近の田畑も冠水した。この川沿いにある,半壊した小屋の浸水状況から,水位3mと推定した。
八木港海岸で24日の早朝にいく人かの地元民が海草採りに出かけて,3時半ごろ潮の引き方が異常なため、一時逃げ帰って消防団に連絡した。消防団は4時20分ごろサイレンで周知,地元民(種市・八木)が避難した。
目だった津波は6時5分ごろと5時12分ごろで,前者のほうが大きく,最大波高時には同港北防波堤が見えなくなり,同港各事務所のある埋め立て地は一面海と化した。この波は平常潮位面上240cmと推定した。
津汲状況を見ると沖からはいる津波は,はっきりしないが,速度はきわめてゆるやかで,岸壁や海岸の増水でわかるといった程度である。
また船だまり場や岸壁がこわされ,ここから300mぐらい浸水し,その間にある船具小屋などが津波で往復し,防波堤や埋め立て地の土砂が流された(岸壁面より平均20cmほど低い)。この岸壁から約50m離れた半壊した小屋で,地上140cmの高さに,海草がきれいに付着していた。
八木港では三陸津波より弱かった。ただし当時は現在のような防波堤がなかった。
なお初めは異常な引き方で,大地震があるかも知れないということを警戒した。
中野中野の一漁民から,その日の状況を聞く。津波の襲来を知ったのは3時半ごろで,波は北北東と東の2方向からやってきた。波の高さは1933年の時と比べ,問題にならぬほど小さかった。11時ごろには,小舟で漁に出かけたものもある。
久慈市
侍浜および横沼(部落会長越戸辺松氏談)侍浜および横沼の当時の津波状況は,普通のしけの時よりも小さく,船だまり場の堤防を波が洗った程度。波は東ないし東南東方向からはいってきたが,水面がじわじわふくれ上がってくるようであった。1933年の時のように,海鳴りを伴うようなこともなく,その日のうちに小舟で漁に出た者もある。
夏井(なつい)(久慈市会議員兼田忠吉氏談)兼田氏は過去の津波の資料なども多く保存しており,津波についての知識
もかなり詳しい。同氏の説明では,1933年の時と同様,南東方向から襲来したが,波の高さは当時よりもずっと小さく,夏井川と久慈川の合流点付近一帯が波に洗われた程度で,平常は橋脚が完全に見えているものが,最大時には橋げたまで水が上がった。
玉ノ脇港ここには岩手県建設事務所久慈港出張所があって,同港岸壁にロール型検潮器がある。
これによれば,2時55分に第1波押しが記録されている。一般漁民の発見は,3時40分からの引き潮であったが,こうした大事になるとは思わなかった。
検潮記録による最高水位は,4時35分で+4.0mをやや越え(潮位上350cm),ここでスケールアウトし,現場員が目視観測を15時まで行なっている(検潮記録の中で点線として記入)。
同港での津波の状況を見ると岸壁から約40m離れた,九戸漁連油タンクおよび付近の家屋は(通路から海岸寄り),地上から250cmの高さに水草が付着していた。また道路から山手にある建設事務所内の140cmぐらいのところに水跡があった(浸水した模様)。その他,埋め立て地にある道具小屋が破壊されていた。同陸地よりの岸壁は,底から150cm。
港内にあった中小型漁船2隻が,岸壁上に乗り上げていた。この時間は4時20〜30分の問である。
津波による浸水距離は,山手で平均70m,最大100m。この港に隣接する前浜は,平常の波打ちぎわから平均100m,最大200mまではい上がった(漂着物から見当)。
小・中型船係留内港から来た波は,徐々に押し引きしたが,大型船の係留岸壁を越えた波は急であった。
小袖この部落は海岸線が北に面し,海岸の東端には北に突き出したみさきがあって,海岸から急に高台になっている。部落民の説明では,波は北東からはいり,1933年より波高はずっと小さい。その日の午前中には,小舟で海草を採りに出かけたとのことである。
久喜当時の状況について,詳しく知っている人はなかったが,海岸に沿った道路にかけられてある橋の,橋げたすれすれまで水が上がったとのことである。海岸線から橋脚までの砂浜の傾斜は,目測ではほとんど傾斜がわからない程度で,海岸線から橋脚までは,歩幅で30歩あった。
野田村
野田玉川部落から約4km離れた地点であるが,野田港建設事務所の話によれば,波のはいってきたのは南南西方向(同港は湾口が南面している)で,4時12分ごろに最大が出た。この時は市場の屋根がわら3枚めまで水が上がった。
玉川今回の踏査で最も大きな波高を測定した。玉川漁業協同組合職員の話では,1933年の時と同じか,あるいはそれよりも若干小さめである。ただ海水面がじわじわ盛り上がるように波がやってきたとのことで,1933年の時のように沖合から海鳴りを伴って,波頭がくずれて来るような現象はなかった。
普代村津波は1933年の時よりはずっと小さく,東〜南東の方向より襲来し,午前5時ごろに最大波が来た。この時は平常の海岸線から4.5mの高さの砂浜を乗り越えた波は,普代川にはいったが,対岸を越えて侵入するまでにはいたらなかった(和村普代村長談)。この砂浜の北端にある岩に津波のこん跡らしいものがあり,これを測定すると,観測時の水面より2.5mあった。なお,同村では堀内に港湾建設の工事を行なっているが,この地点では,5月24日の午前6時から7時までの間に,最大1.7mを観測している(東京湾中等潮位上)。
2.2.2.2岩手県下閉伊(しもへい)郡田野畑村から大船渡市合足まで*
*調査:宮古測候所
田野畑(たのはた)村平井賀(ひらいが)および羅賀(らが)こん跡が全然認められない。3時40〜50分にかけて引き波が最大で,消防団長・漁協理事畠山氏がこれを認めて,4時0分サイレンを吹鳴し,全員を避難させた。海浜における侵入の程度はほとんど問題にならないほど少ない。押し波の最大は両地区ともだいたい1mと推定。なお羅賀の漁師が3時ごろ弁天崎に向けて出港したが,この人の話によると,弁天崎まで船が思うように進まず,海の中でうずが大きくゆっくりまわっているのを見た。この時(4時0分),平井賀のサイレンを聞き,初めて津波らしいことがわかった。急いで沖のほうに逃げたが,沖のほうでは,南東から来る波と黒潮が,ぶつかっているのを見たとのことである。
島ノ越4時ごろ波が引いて遠くまで海底が露出した。1933年の引き波と同程度(古老談)だが,速度も海鳴りもなく,あまり恐怖心が伴わなかった。26日早朝は濃霧のため確認できなかったが,押し波の最大は4時以後だいたい1mと推定,被害なし。
岩泉町小本この日はわかめの解禁日で,3時半ごろ出漁した人が,この時すでに第1波襲来後であることを確認している(サッパ船の位置が変わっていた)。駐在所に本署から,4時15分に情報がはいり,消防団が動員されたが,町が海岸から比較的遠いため,小本は割合冷静であり,また水位のこん跡もなく,潮位の確認の方法がない。漁師の話を総合し,最高水位は8時0分,小本川口で約1m(平均潮位玉),同時刻小本川橋付近は30cmの増水であった。逆流地点は不明である。被害は全然ない。
田老町摂待(せったい)(現地に行かなかったが,この村の人の話)
3時30分ごろに出漁した人が,この時すでに摂待川がぶくぶくとあわを立てているのを見た。ここでもやはり第1波は,3時30分前であることが推定された。押し波はだいたい1mぐらい。
田老ここの最高水位は302cmで,時刻1時20分,消防団副団長鳥居氏が,田老港北側堤防付近で目測した結果を,こん跡と照らし確認した。
津波の来襲状況(役場観測資料)は第1波押し波4時0分……2m,第2波5時23分……2m,第3波7時20分……3.02m最大,第4波9時50分……2mで第3波来襲前に引き波が大きいので役場に連絡,サイレンを吹鳴(7時)し全員を退避させている。
浸水区域は,2.2.13図のとおりで,1933年に比し範囲が非常に狭く,道路の冠水は1か所もない。
被害としては岸壁上に積んであった木材70石が流失した。
その他,3時ごろわかめの解禁日のため,20隻近くのサッパ船(0.3t無動力)が出漁しており,うち1隻は4時ごろの引き波により,湾口東側のみさきで転覆した。その他の船は津波であることを察知し,沖にこぎ出し,難をのがれた。この体験老談によると,波の方向は真東,舟の進退が困難だったが,潮の流れの音はなかった。
しかしこれらのサッパ船は,漁協の海王丸に,沖でロープを渡され,夕方まで避難していたとのこと。この間,親指くらいの太さのロープが切れたものもあり,やはり相当強いものであることが推定される。
宮古市藤原中央部の県道に冠水のこん跡を認めた。藤原海浜に,ラワン材がおびただしく打ち上げられていた。被害なし。
磯鶏田畑約6町冠水
高浜県道の東側にあった民家やその他の建物は津波のため一つも残っていない。西側の建物もほとんど山ぎわに押し寄せられて,つぶされている。民家が道路をさえぎり,また船が道にのし上げ,通行は困難であった。
高浜から金浜に曲がる途中のがけが,道路までつき出ていて,波のこん跡が歴然としていた。道路上からの高さは,160cmぐらい。海面が振動しているので海面上からは測定ができないが,突堤の高さ5mを目標にすると,高浜・金浜地区は5.3mと測定される。高浜中学校も,校庭は海と化し,近くの川にかかった県道の小さな橋は流
失し,門柱のみかげ石の一つは,横倒しになっていた。も一つは見当たらなかったが,いかにこの近くの波が強かったかが想像される。
金浜金浜の山寄りの県道に平行して,山田線が高さ7mぐらいの堤の上を通っている。この堤の約2mぐらいの高さのところに,津波による波の跡が見えた。この線路の東側の建物は全部流出,または全壊していた。西側でも,この堤のところどころにある切れ間から流れ込む波のため破壊されていた。のき下に達しているところも少なくない。鉄道線路の破壊は,ここから次の法ノ脇に至る区間が最もはなはだしい。原位置ばわずかにこん跡を止める程度で,鉄道線路はあめのように曲がって,山ぎわに寄せられている。
法ノ脇津軽石地区の入口になっているこの付近は,津波による破壊の率が一番大きい。津軽石川の河口に位置して,低地になっているためもあるが,一番湾奥で,海も浅いため,波が奥地まで到達したものと思われる。
この地区を踏査中,10時40分の押し波が県道を越え壊されている民家が,ふたたび水びたしになった。
赤前赤前では,3時前に第1波があったことを,漁師から確認した。ここは湾の奥に位置しているが,堤防があり,防潮林がその次にあるうえに,民家は比較的高く,海岸から遠く離れたところにあるため,被害ば少ない。なお,防潮林に波のこん跡があるが,近よれないので波高の測定は後日に行なった(6月2〜4日実施)。
立浜・鵜磯・音部・重茂・姉吉・千鶏および山田町川代これらの地区の海岸では,一般に人家が高い台地にあって,また海岸から離れているために,津波のなまなましい状況を直接聴取することが少なく,また被害も全然なかった。ただし川代・千鶏では,漁師が出漁しており,当時の状況がつかめた。
すなわち,千鶏では,舟足がとられ,自由を失って意のままにならず,潮の異状を感じとって陸に向かって津波の襲来を知らせた。また海岸では,いままで見ることのできなかった海底がみる入るうちに現われ,くぼ地では手で魚を捕えたくらいで,引き潮の大きかったことを如実に物語っていたとのことである。川代は地形が山田湾口の狭いところにあたっているため,押し波が白波を立ててゆくのが,多くの人によると非常によく見えたとのことである。
山田町10時40分に到着して,漁師から当日の様子を聴項した。当日はわかめの解禁日にあたり,3時ごろ海浜で船出の準備中のところ,海水の異常に気付いた。3時30分ごろには130cmぐらいまで海面が上昇し,続いて4時30分,5時10分,5時50分の3回にわたって,最も大きな波が襲来,海岸付近の家屋の大部分が被害を受けた。実測によると,海面からの最大波高は2.9mを示し,部落のはずれの,ほとんど垂直に切り立った岸壁に示された浸水跡によると,410cmが観測された。山田町市街地に近づくにつれて,惨たんたる光景は目をおおうばかりで,道路上にあふれた船舶や家屋のため,中心部を走る国道は完全に途絶しており,海岸の砂浜を通り織笠に向かう。ここはさらにその被害が大きく,1933年には浸水家屋41戸を出したのみであったが,今回は流出・全壊・半壊家屋あわせて221戸の多きを数え,町の大部分が被災した。
当町でも作業におもむく漁師が,2時50分ごろの上げ潮に気付き,きょうは潮がおかしいし,また波が荒いので,漁をとりやめいったん家に帰り,もう一度潮の様子を見に来たところ,岸に波が上げつつあるのをみて驚き,付近の人々に知らせ合い,ほとんどの人が着のみ着のままで避難した。時問ははっきりしないが,岸(1.8m)を越えたものは4回で,その中でも2回目,3回目が特に大きかった。
大槌町大髄町の浪板地区では,古老の話によると,1933年に比べる波の高さも浸水速度も半分程度で,1933年の時はどんな足の速いものでも,波の速度に及ばなかったが,今回は波をみてからでも逃げることができたとのこと。
赤浜では,オソトセイ調査船が,たまたま当日2時50分に入港し,第1回目の押し波に気づいた。4時10分ころから引き波,4時20分ごろ押し波となり,4時30分ごろには海岸にある漁業無線局に浸水した。局員は4時過ぎ半鐘を鳴らし,付近の住民に知らせた。
大槌町消防本部長の話によると,3時ごろ同町の漁師が潮の異常を常備員に通報,部長自身が直ちに知らせを受け,大きな引き波であることから十勝沖地震程度の津波と判断,4時10分サイレンを吹き鳴らして,町民を避難させた。1933年に比べて,波の高さは同程度であったが,海岸堤防や防潮林のため,市内中心部の被害は若干少なかった。当町では安渡が被害の最も大きい地となっている。最大波高は4.Omを記録した。
釜石市釜石市では,津波の規模は1933年に比べ,ほとんど大差がないとの助役談であった。
当日の状況:唐丹の漁師が駐在所に連絡,市には3時50分伝達され,4時30分までには市の首脳が全部集合し,4時32分サイレンを鳴らして避難させた。
流失および倒壊家屋は,他市町村に比べてきわめて少ないほうだが,市の中心部が低地のため,浸水戸数は多い。唐丹では高地移転が実施され被害が少ない。
箱崎地区では波高3.2mを示し,途中の道路が300mにわたって破壊されていた。
嬉石 嬉石では,1933年の津波後,海岸一帯に地盤を約2.5m盛り上げて高くしているため,今回の津波では,倒壊流失などの被害はない。海岸に最も近い岩手缶詰研究所入口では,道路上約120cm冠水している。最大波高出現時刻は,釜石港の検潮記録と同じで,4時40分前後,やぱり第3波,第4波が最大である。
平田(平田漁業協同組合中山氏談)平田在住の人で病身のため,毎朝養生の日的で早起きをし,海岸を散歩していた人が,3時半ごろ潮の異常を察知して,中山氏(漁業協同組合内居住)に連絡した。3時40分に戸外に出た時は,すでに道路上に波が上がったこん跡があり,漁業組合の拡声機で,直ちに部落民に急を告げた。最大波高時は4時30分,漁業旋同組合内には前後8回波が侵入した。平田は,県道までの地面の傾斜がゆるいため,海岸線から約100mぐらい奥まで波が侵入し,田畑が冠水しているが,水勢がなかったので被害が少なかった。中央を流れる幅3mの川は,約250m逆流した。
小白浜小白浜では,1896年と1933年の2度の津波で,民家はほとんど高所に移転している。小白浜は段丘地になっているため,浸水区域ぱ少ない。海岸線に平行にわずかに漁業協同組合や漁具置場の建物が並んでいて,これらの建物はほとんど冠水しているが,ここでもやはり水勢がなかったため,建物の按害はほとんどない。駐在所の松田巡査が,3時30分の巡回の時潮の異常を察知し,漁業酪同組合に通知したり,警察聞係の連絡をとるなど,適当な処置を講じたため,避難が早く行なわれた。小白浜漁業脇同組合に残っていたこん跡は,道路上153cm,中央さん橋付近では,道路上160cm,また南端の片寄川の近くにある木工場では,160cm冠水している。
大石大石には,すりばちの底におりてゆくような感じの地形の,下のほうに小さい入江があって,中央に50mぐらいの突堤があり,その南側に15mぐらいの堤防がある。これらに囲まれた中が船着き場になっている。
海岸近くに全然民家がないため,今回の津波については関心がうすく,漁師達の話もまちまちで,波高測定に苦労した。結局堤防工事中の人夫の話から,波高を推測した。中央突堤付近で,岸壁上1.6mぐらい波が上がった。
三陸村
吉浜吉浜は北を流れる白木沢川と,南の吉浜川とで囲まれた中にあって,この中間は防潮堤が砂浜に築かれている。防潮堤の内側は,すぐ水田になっているが,この付近は前2回の津波のため,高所に移転した。津波は最大波直時に,防潮堤2mぐらいのところまで到達しているが,水田冠水の被害はこの防潮堤によってまぬかれた。ただし,南端の吉浜川を逆上流した津波が,吉浜橋を越えて若干水田に侵入したが,ごく局部的にとどまった。
民家が海岸から遠く離れているため,津波襲来の状況を詳しく調査したり,聴取することは困難だった。
越喜来(おっきらい)越喜来の浦浜から,すぐその南にある泊に至る間は,防潮護岸となっているが,浦浜では中央を流れる浦浜川付近が若干決壊し,両側の防潮林の中に,サッパ船や小機帆船が散在していた。浦浜川の河口付近にかかっている橋が流失し,この付近の水勢のすさまじさを物語っているが,この付近で目撃している人はない。最大波高出現時は4時30〜50分で,第6波となっている。波高は岸壁北端で岸壁上約2m,押し波に比べて引き波は大きく,湾の南端の泊まで,海底が露出し徒歩で行けるほどだったとのことである。
泊は,山が海岸すぐ近くに迫り,岸壁に続くがけ下に,家が10数戸並んでいる。大部分が海の仕事に従事しているため,津波の観察はかなり詳しい。最大波高時は,4時30分第3波で,道路上約1m,最大退潮時には,沖合約100mの,平常潮位下7mの海底が露出したとのことである。事実とすれば,最大振幅はほぼ10mに達する(4時15分ごろ)。
砂子浜砂子浜には,バス時間の都合で寄ることができなかったので,バスに同乗していた砂子浜の先生に依頼し,波高を測定した。被害はない。
白浜白浜では,最大波高は,4時ごろに出現している。堤防を越えたのは,この時(第6波)だけである。
最大退潮は第5波の直前で,海岸から70mぐらい沖合の,平常潮位下約5mの海底が露出した。砂浜の中央部まで浸水した程度で,被害はほとんどない。ここは高所移転が完全に行なわれているため,津波に対しては,漁具の流失防止につとめる程度で,今回の津波に際して,特に避難や特別の措置はしなかったようである。
綾里(りょうり)綾里では,最大波高は4時10分ごろ,浸水域は川の両側の山ぎわまで,大きな波は3回,最大退潮時には,中の島付近の海底が露出した。以上は綾里の漁業協同組合で得たものである。中央を流れている綾里川河口付近で,津波は橋を越えて町の中に浸水した。また北側の田浜付近では路面上1.4m,中ノ島付近では最大波高時に堤防上を2m越えている。水勢が遅かったため,建物の流失などによる被害はほとんどない。また退潮の状況も非常に緩慢で,異常に退潮し,中ノ島付近まで徒歩で,波に置き残された魚をとりに行けるほどだった。
綾里港南端の石浜は,船着場に浸水した程度で,被害は全然ない。
大船渡(おおふなど)市合足(あったり)合足も高所に民家があり,津波に対しては全く冷静で,詳しく知る人はなかった。
バスを待ちながら農夫に尋ねたところ,砂浜の中ほどまでしか,津波は来なかったとのことである。
2.2.2.3岩手県大船渡市および陸前高田市*
(1)津波の到達した時刻
大船渡市
大船渡雷報電話局では置時計・掛時計がそれぞれ4時10分,4時45分に止まっていた。置時計の高さは,机上にあったが地上135cm,掛時計の高さは地上155cmである。したがって4時10分には,135cmより高く,155cmより低い波が襲来し,4時45分には,155cmより高い波が,襲来したことを示している。
魚市場付近(細川氏店舗)の聞きこみによれぽ,4時前後魚市場付近から津波だという声を聞き,子供らを起こし,こうり2個を荷造って避難した直後,海岸線を越した第1波が来た。第1波と第2波の時間間隔は30分ぐらい,水位は第2波が1m程度低かったとのことである。
前の電報電話局の時刻と大差はないが,水位は第1波と第2波で逆になっている。
永沢(統計調査員大平氏談)永沢では,沖から3時過ぎに帰ってぎたところ,亀井さん橋の上部すれすれまで水位が高まったのをみて津波と直感,半鐘をならして急を告げ,若干の家財と女・子供を避難させ,男は船を沖に出した。4時ごろ引きに変わり,亀井さん橋を目標にして測ったところ水平距離30m,高さ7.5ひろ(11.3m)も引き,いままで見たことのない岩が露出した。4時30分に最大波襲来,5時ごろ再び大きく引いた。その後は,ゆるく変動を続けた,とのことである。
陸前高田市(2.2.16図参照)
三日市における聞き込みによると,4時ごろ海上約2mの波第2波がやってきたといっている。
高田市助役の話によると,勝木田部落の漁師が4時少し前に,コウナゴの網をあげに浜に出て,潮が異常に引いているのに気づき,すぐ半鐘を鳴らして周知させるとともに,市役所に連絡した。連絡を受けた助役は,警報発令を指示した。4時25〜30分,初めの波がやってきたが小さく,4時30〜35分に引き波が最大となり,その後押し波の最大波が襲来した。また今泉の気仙橋付近の金谷氏(部落担当員)談によると,4時10分ごろ網をあげに行った漁師から,1m内外の異常な潮の動きを聞き,4時20分ごろに電話交換手に連絡した。4時30分過ぎに大きく潮が引いたので,電話交換手に,大津波が来ると連絡した。
(2)その他
広田湾では,湾内にはいってからの津波の動きは,時計回りに移動したことが推定できる。大船渡湾においても,市役所職員からの聞き込みによると,1万t岸壁付近では,同じような動きをしたという。
大船渡駅から岸壁に通ずる道路を境として,被害は北部に大きく,倒壊率は90%を越すものと思われる。特に2.2.15図の埋め立て岸壁のA延長線上では,1万t岸壁のB西側の幅3m程度の小河川Cを逆流した津波によって,この河口から北〜北西に広がる,赤沢および新田地区はほとんど全滅,大通りの東側でも,電報電話局を残すのみとなった。西側でも電報電話局に対し,津波の侵入方向のかげにある4むねの家は残った。この南北の被害形態の相違の原因はa)南部はモルタル建築のものが多いのに反し,b)埋め立て岸壁Aと1万t岸壁Bにはさまれた部分および前述の小河川Cの方向が津波の方向と一致したため,南部よりも流速が大であったこと,c)背後が平たん地であるため,津波の波高はむしろ南部より低かったが,速度は衰えることなく進入したことなどがあげられる。
背後にがけを背おっている,大船渡市永沢部落では,浸水はむしろひどかったが,古い木造の家屋でも,倒壊がきわめて少ない。この例は陸前高田市にも見られ,平地にある三日市では,ほとんど全壊,鉄道線路ぱ1kmにわたって30〜40mも流されたが,その隣接の両替では浸水のみで,倒壊家屋はほとんどなかった。
高田松原で6m以下の松が倒され,また松原の切れめからはいった津波に洗われて,鉄道線路の路盤は,両側の水田と同じ高さになるまで,完全にけずり取られた。線路は180〜2700も回転して地上に直立しているなど浮力を考えてもかなりの流速であったことが推定される。
5月26日5時10分から7時4分まで,気仙橋で津波を観測したので,その結果を2.2.17図に示す。図中の零点は,最も引いた6時55分の値を坂った。ただし,零点は橋の欄干基部から,547cmあった。
*調査:盛岡地方気象台
2.2.2.4岩手県陸前高田市から宮城県本吉郡志津川町まで*
陸前高田市(2.2.16図参照)
大野大野は幅の広く長い砂浜地帯で,2.5mの高さの堤防が一部にある。この堤防を乗り越えて,かなり浸水したため,田畑がほとんど黄色になっているのが目だった・しかし家屋のほとんどが高台にあるため,その被害はわずかである。
泊泊では,2.8mの高さの堤防すれすれに津波が達したため,それより低地にあった漁業関係の建物は浸水したが,それ以外にはほとんど浸水あるいは被害はない。押し寄せた前後の津波は,非常にきれいなものであったためか,こん跡は全くなく,漁夫の話では,1933年に比べるとはるかに小さく,またゆっくりしたものであった。
三日市三日市の地域においてもかなり被害を受け,浸水地域も海岸から1kmも奥まで及んだ。国鉄大船渡線小友駅までの最大の浸水高は,地図上でば8mと推定される。この地域では死者があり・家のなかで荷物の整理をしているうちに,逃げ遅れて死亡したとのことである。しかし,1933年にもかなりの被害を受け,今回も2〜3mの防波堤が完全に破壊され,同じような状態を繰り返していることは考えさせられる。
脇ノ沢脇ノ沢では,堤防は海岸に沿って,3.5mのかなり高いものであったが,津波の最大波高は6m近くに達したため,土台や柱の弱いものは倒壊し,またじょうぶなものでも,外観を残したにすぎなかった。この辺から三日市まで,国鉄大船渡線は全く破壊され,線路は10m以上も流されるといった状態で,津波の猛威をいかんなく発揮していた。新しい土蔵が,流木で壁がくずれ落ちているこん跡も見られた。
高田本宿高田本宿においては,この地域の陸上浸水は海岸より数kmに達し,被害も相当なものであった。
1週間を経ても整理がはかどらず,田畑に舟の破片が散っており,被害の大きかったことを如実に物語っていた。
この地域は,1933年にはあまり被害はなかったところで,今回と全く対象的である。高田市役所の対策本部で聞いたところによると,4時10分消防団員(米崎地区)から,津波らしいという情報を受けて,警戒体制にはいった。しかし,警報その他の正式情報は受けなかったとのことである。
長部長部では漁港の防波堤よりも,2m近く津波は高くなり,低地の家屋は,ほとんど倒壊し死者・行方不明者を出した。1933年より最大波高がかなり高く,同じようにかなりの被害を受けていること,護岸堤防がせいぜい2〜3mといった程度のものであることなど,将来の対策に考えさせられるものがあった。
*調査:仙台管区気象台
唐桑町大沢唐桑町大沢においては1933年の場合よりもかなり高く,最大4.8mの津波となった。堤防は4.5mに近いものであったため,堤防表面から,高さ30〜40cm乗り越えたにすぎなかった。しかし川を逆行した津波は,2.2.18図のとおり逆方向から低地一帯に侵入し,この地域のほとんど全部に,床下浸水または床上浸水となって被害を与え,農作物は完全に荒らされた。家屋の大部分は,堤防から1mぐらい低いところにあったが,小屋以外の一般住宅の破壊ば,ほとんどなかった。
津波が川を逆行する際川岸の草木をなぎ倒した跡が,流失物の破片とともに,いまだに残っていた。漁夫の話によると,潮の引き方は非常に大きく,数十mの沖合が露出し,1933年よりもはるかに大きかったとのことである。
只越只越では,1933年と比較すると,波高も低く,また被害も川から逆流して,田畑に若干の冠水を受けただけであった。この海岸は遠浅であり,護岸堤防も4m前後となっていたため,今回の高さでば,堤防すれすれのところで海水の侵入をおさえた。
津本今回の津波の高さは2.2mで,1933年に比較して非常に小さい。したがって,護岸堤防は全然乗り越えず,また被害は全く見られなかった。その最大波高は,海岸やごみの残したものからわかる程度である。
小鯖小鯖の津波は,2.7mの堤防より40〜50cm高くなり,床上浸水は二つの低地に主として起こり,他の地域は床下浸水にとどまっている。低地では,砂が押し上げられた形跡が見られた。
鮪立 鮪立における護岸堤防は2.7mの高さであるが,津波はこれより約30cm乗り越えた程度であった。
一部家屋は,この護岸堤防より若干低いところにあるため,床上浸水となっているが,大部分は床下浸水にとどまっている。これらのこん跡は明らかに発見できた。
宿宿では,護岸堤防の高さは約1.9mで,津波ばそれより0.7m高くなり,付近一帯は床上浸水となった。しかし,家屋の被害は大したことなく,田畑もわずかに冠水しただけであった。しかし,気仙沼港から宿までの船からみた漁業関係の被害はばく大で,ほとんど整理されていたい状態であった。
災害対策本部のある町役場の,総務課長の話によると,4時18分ごろ漁夫の情報により,潮の異常を発見したので,4時25分から3回にわたって,全町民に有線放送で,警戒体制にはいるよう伝達した。その後警察署や郵便局から,いろいろの情報や警報を受けたが,5時30分〜6時の問,停電となった。おそらくこのころ津波は最大となり,被害を受けたものであろう。気仙沼市気仙沼市においては鹿折・内ノ脇・一景島付近が被害はなはだしく,市全体で行方不明2(小舟操業中),流失1戸,全壊31戸,半壊40戸,床上浸水2,071戸をだした。湾内施設関係,被害のおもなものは,かきいかだ3,495台(約9割)のほか,のり養殖施設35万間であったが,確失かぎいかだの約3割程度は,回収されたとのことであった。
この津波は1933年の津波と比較して高く,そのうえ都市の発達とともに,埋め立て地拡張やそれに伴う低地住家の激増と相まって,浸水戸数が非常に多くなっている。しかし津波の周期が長く,潮の流れがゆるやかであったため,破壊は少なかった。ただこのような湾奥に発達した都市では,海水は油やどうなどで非常によごれているので,浸水の後始末はかなりめんどうである。
津波襲来の模様は,湾奥の気仙沼港では音もなく津波が侵入し,波頭などを見ることがなかったが,第3波では明神崎と柏崎の狭さく部で,海水は急流状となり大きくうずまいた。
港奥の旧魚市場付近の津波は,第1波は小さくさん橋に達する程度,第2波はかなり大きく,市街地に上がり,第3波の最大で,市街地の奥深く侵入したとのことである。第3波の時刻ば5時9分で,その後6時10分,7時20分,5時40分など5〜6回路上に侵入した。これによると,周期は1時間10分ぐらいと見られる。その後満潮時である14時43分,25日1時0分ごろにも,市街地に侵入する津波があった。東岸小々汐の行政区長の談によれば,小々汐では,津波が岸壁に上がったのは5回あり,海鳴りのような音が聞えたが,1933年の津波の時より音は小さかったそうである。ここの岸壁の高さは,小々汐検潮所潮位(基準面はT.P.-70cm)で220cmを示していた。
西岸の中央部にある尾崎では,津波の音は聞こえず,路上には5回侵入し,第2波が最大であった。退水の最大は,平常の潮位から約3ひろに達したとのことである。
地上の浸水高:1933年の津波と比較して,全般に高く,旧魚市場付近で50〜100cm高いといわれ,小々汐では地上140cmで,1933年の津波の際の,壁のこん跡と比較すると,85cm高く浸水していた。2.2.19図は地上浸水高を示したものである。
津波対策関係:気仙沼警察署で,最初に海水の異常の報告を受けたのは,尾崎・鹿折からで,4時15分ごろであった。それにより見張りを立て,4時50分最初の津波襲来信号(サイレン)を鳴らしている。また鹿折・大島では,これより以前に半鐘などにより一般に対し,津波襲来を知らしている。当台発令の津波警報は,警察署には警察電話により,6時20分に伝達されている。
本吉(もとよし)町大谷湾大谷湾に臨む気仙沼線大谷駅付近では,海岸を越すことなく,線路に達することもなかったので,全然被害はなかった。
歌津(うたつ)町伊里前(いさとまえ)歌津町伊里前の役場で同町の被害などについて聴取したところによると,流失住家1,非住家6,倒壊非住家6,浸水住家57その他を出している。そのうち伊里前では,流失非住家2,倒壊非住家4,浸水住家40戸を出している。
被害の状態を詳細に見ると,半島の形をなして完全に外洋に開いた小湾の石浜・名足・中山および馬場では,堤防や護岸に多少の被害をうけた程度であるが,小泉を中心とする大湾の南にある田の浦港・泊崎と神割崎を結ぶ線を湾口とする大湾に付属する泊浜・伊里前・寄木および志津川湾口の韮の浜などにおいて,比較的被害が多かった。これは石浜・名足・中山および馬場で被害の大きかった1933年の津波に比較して対照的に見える。
津波の高さについては,各湾について波高を測定していないので,数量的にはわからないが町長談によると,1933年の津波に比して,外洋に面した小湾ではかなり小さく,伊里前でもやや小さいとのことであり,やはり被害状態と対応するようである。同町の津波の波高の測定は1か所にとどまったが,伊里前の劇場付近で最大波高3.1mを得た。町長の話では伊里前の防波堤は約7割が完成していたため,かなりの効果があったが,未完了の地域は浸水家屋が多かったとのことである。伊里前における津波の最大波は,第2波で4時50分ごろ,続いて大きかったのは第3波で,合計3回県道を越して津波が侵入した。
津波警戒は,白浜で3時半ごろ,出漁のため舟に乗った漁師が,海水の異常に気づき役場に連絡し,これによって役場では,4時16分にサイレンを鳴らして,町民に周知した。
志津川町志津川町に近づくにつれて,被害のうちまず目についたのは,水田地帯に散乱する流木破片であった。ここは町の東側を流れる新井田川の流域で,湾岸から約800mの地点である。下流に行くにしたがって,漂流物が目だち,屋根のほかに木材や板などおびただしい量である。これは川口付近にあった,造船所の用材がおもであるということであった。東浜街道の新井田川にかかる束橋を渡った付近は,数むねの流出家屋で道が完全にふさがれた。被害の様相は,流失・倒壊の被害をこうむった1,000戸に余る無一物の被災者は察するにあまりあるが,流失・倒壊を免れた家々でも,2m以上のよごれた海水に浸され,全市街地の状況は惨たるものであった。立ち寄った志津川警察署の黒板には,2.2.5表のように書かれていた。
津波の状況:津波は,町全体にわたって押し寄せたのであるが,多くの流失・倒壊家屋を生ずるに至らしめた津波の侵入経路は,大別して三つの主流が考えられる。
その1は,新井田川河口およびその東方の防波堤を越し,埋め立て広場(大森地区)を経て,新井田川の右岸すなわち,市街地の東部をさらって上流に向かったもの。その2は,築港正面(本浜地区)から,市街地の中心部に入り込んだもの。その3は,水尻川と八幡川の間の防潮林(塩入地区)を越し,町の西部を襲ったものである。
第1の主流は,東橋から下流において,かなりの猛威をふるった模様である。下流では,家屋が土台のみを残して流失したものが多数あるが,漂流物は非常に少なく,その漂流物は上流地帯に山積しており,湾岸の地上2mの防波堤には,二つの屋根が越しきれずに残っており,海上に流れでた漂流物は,非常に少なかったなどの特徴があった。埋め立て広場東側の被災者の話では第3波が最も大きくその時自宅が流され,時計ば5時7分を指して止まっていた。引き波は穏やかであったが,押し波は沖からザーザー(誰にでも十分聞える程度)と聞え,何物の抵抗をも排除すろように,非常にダイナミックな感じで押し寄せた。また波の進行する先端の様子は見られなかったが,2〜3段になってきたという人もある。これは被害跡の状況とよく合致する。すなわち下流の家屋は,かなりの水量と流れに乗って押し流され,東浜街道の上流に達したが,引き潮がゆるやかであったため,漂流物は上流に打ち上げられたものと考えられる。
第2の主流は,築港から真正面に市街中心部を襲い,岸に近い家屋を押し流しつつ,家屋密集地帯に侵入しやや流速が弱められた観が昂るが,2m以上の水位を示しながら,本通りの十日町にまで達している。このため本通りに流れ出て,道を完全にふさいだ家屋は,10むねほどあった段様である。
第3の主流は,塩入地区から侵入したもので,家屋のややまばらな平らな低地を総ざらいにして,海岸から900mの水田地帯にまで漂流物を残しており,最も広範囲な地域を占めている。
2.2.2.5宮城県本吉郡志津川町から石巻市まで*
*調査:石巻測候所
志津川町
折立(おりだて)津波警報は,4時ごろから潮が引き始めたので,4時30分部落警報を出した。
襲来状況を見ると,5時ごろ第1波が襲来,最大波の時刻はまちまちで決め難いが,5時ごろではないかと推定される。
被害は部落総数約80戸のうち,流失4,半壊43,床上浸水27戸,床下浸水なし(5月26日12時現在折立災害対策本部調べ)。
波伝谷(はでんや)津波警報については某船頭が4時ごろ海面の異常を認め,消防団員に連絡し,5時ごろ部落警報を出している。
来襲状況を見ると3時ごろから徴候があったようで,4時ごろから潮が引き始め,4時35分ごろ引き終わる。5時15分ごろ最大波となったが,8時ごろからは堤防を越さないようになった。
被害は部落戸数70戸のうち死者1名,重傷1名,馬1頭,流失家屋11戸,半壊23戸,床上浸水9戸,床下浸水3戸(5月26日10時現在,波伝谷対策本部調べ)。
この海岸には堤防があったが,堤防より波が大きく,決壊したので全部落が浸水した。
北上村
大指(おおさし)来襲状況は,4時15分引き,4時30分押し,4時38分大きく引き,4時55分押し,7時15分最大波であった。
なお4時38分に大きく引き,小舟をつないでいるところまで歩き,舟を引きあげたとのことである。その後数回その地点まで引いたというので,小舟に乗って実測したところ,水面から底まで363cmもあった(7月20日11時5分測定)。
相川(十三浜を含む)
1933年より山手に集団移動したので,部落100戸のうち,海岸には30戸があり,そのうち床上浸水10戸程度の被害であったとのことである。
被害は田冠水1.2町歩,畑冠水5.5町歩,住家床上浸水10戸,床下39戸,小型船流失3,大破3,建網8,道路2か所,素材100石,護岸15m決壊(石巻地方津波対策本部,5月28日調べ)。
大室海岸線に高さ350cmぐらいの堤防が建設されており,部落は完全に守られた。一部から浸水し,畑6反の被害にとどまった。
月浜月浜付近の道路は,追波川沿いにあり,割合低く,台風による高潮でたびたび浸水している。
津波は7時20〜35分の間が最大であるが,追波川を盛り上げるようにして逆流して行き,川岸にはそのため浸水が少ないのではないかとのことであった。
被害は水田冠水12反,畑冠水3反。
雄勝(おがつ)町・名振(なぶり)津波の状況は,第1波は3時30分,第2波4時ごろ,4時20分には非常に引いた。第3波4時30分ごろ,鎗4波5時ごろ,8時ごろ最大とたった。
海岸線に高さ3mほどの堤防が完成したばかりで,今回の津波は,堤防すれすれの高さなので,全く災害から守られた。被害はない。
荒屋敷荒屋敷では,民家は両側の山の中腹にあり,海岸付近にあるのは,魚網を保管する納屋だけであった。しかし平地には,石がぎやいけがきの跡があり,1933年以後,高台に移転したことを物語っている。1933年の津波には,一家全滅した家が2軒もあり,住家27戸のうち21戸が流失したとのことで,想像に絶する。波の高さもいま説明されてもうそのようで,10mぐらいに達したようである。
今回は1933年と比較にならないほど小さく,浸水もなく,また小舟の被害もなかった。
大浜戸数48戸のうち床上浸水13戸,床下浸水16戸で,1933年より,約11mぐらい大きかったとのことである。
雄勝湾(明神・雄勝・船戸・唐桑)津波警報:1933年三陸津波の経験から,潮の引き方が異常のため,4時15分町独自の警報を出し,自動車ポンプのサイレンで周知に努めた。なお電話局からの津波警報は,5時16分に受信した。
襲来状況:海岸線を越した5時14分の波を第1波とすれば,それは平常潮位より290cm,最大波高は第4波の7時50分であった。12時30分ごろから津波は,海岸線を越さなくなった。
被害は田の埋没・流失1.5町歩,畑埋没・流失40.0町歩,住家全壊55戸,半凄93戸,流失32戸,床上浸水300戸,床下浸水145戸,非住家損害1,250戸,小型船流失20隻,層建網45,さし網10,かきいかだ流失135,橋破損3,道路20か所延べ8km,堤防1か所,護岸1か所,船上げ場2か所,素材2,000石,木炭124俵,まき969束,製材工場4か所,護岸林50m(5月28日現在,石巻地方津波対策本部調べ)。
人命に死傷のなかったのは波の周期にもよるが,町役場で自衛の警報を出したこと,3月3日に退避訓練をやっていたことによると思われる。
1933年には明神・唐桑部落に被害はなかったが,今回はあった。雄勝における住家の被害は,海岸ぞいのみが受け,山の手には被害はなかった。
女川(おながわ)町
御前浜襲来状況を見ると第2波4時20分ごろ小。第3波4時40分大。第4波5時最大。第5波5時30分小。第6波6時ごろ小で,被害は床上浸水10戸,床下浸水7戸,畑冠水4反,橋の流失7か所。
尾浦襲来状況を見ると4時前にかなり潮が引いた。第2波4時過ぎ,第3波4時30分ごろ,第4波5時ごろに最大波となった。
被害は床上浸水15,床下浸水10,かきたな8〜9割の損害。寺問(出島),被害なし。
女川襲来状況:岸壁を越えたものについては,次のとおりである。第1波3時55分,第2波4時25分,第3波5時12分,第4波5時56分,第5波6時30分,第6波7時13分,第7波8時36分,第8波11時58分,第9波13時27分,第10波14時14分。このうち最大波は,7時13分の第6波で,404cmである。
3時15〜20分に海面異常を認め,3時40分広報車のサイレンで退避勧告をしたため,人的被害は皆無であった。また漁船も,沖に退避したため,被害は軽少であった。しかし,建物の被害は大きく,町の70%が浸水し,女川町全体としての被害は,次のとおりである。全壊139,流失53,半壊543,床上浸水894,床下浸水99,非住家損害1,172。水産関係としては,かきいかだ2,500台,わかめいかだ1,000台などがある。
野々浜野々浜では,4時30分に最高の津波が襲来したとのことで,湾の真正面にある岸壁上で2mに達した。
当部落は女川と似た地形になっているので,全戸数28戸がほとんど浸水し,そのうち9戸の流失家屋があった。
牡鹿町
嵜磯4時30分ごろ海面の異常な引き潮を見て,間もなく4時40分〜5時に最高のものが襲来し,その波高は岸壁上155cmであった。
今回の津波は,1933年とだいたい同じ高さであり,1896年より2尺ぐらい低いとのことである(前網漁協理事,鈴木修二氏談)。
部落戸数は86戸であるが,すべて高地にあるため,被害は全然なかったとのことである。
大谷川大谷川では,鮫ノ浦湾の奥にある大谷川において,堤防の上端に達したとのことであり,7月21日9時5分現在の測定では,海面の水位は堤防下565cmである。襲来時刻は不詳であるが,当部落から約400mぐらい南にある谷川小学校において,学校当直者が観測した値は,次のとおりである。第1波4時20分,第2波5時,第3波5時40分(最高),第4波6時10分,第5波6時40分,第6波7時20分。なお今回の津波は,1933年より大きいが,その後海岸に堤防が完成し,人家には全然被害はなかった。
鮎川被害は家屋床上浸水39戸,床下浸水76戸であった。潮が最も引いた時間は,8時30分ごろで,水面から底まで330cmであった(6月11日13時26分測定)。潮の最も引いた時,魚取りをした中学生1人が水死した。
十八成(くぐなり)岸壁は普通満潮時から250cmぐらいの高さにあり,今回の津波は,岸壁上1mに達したとのことであるが,詳細不明。海岸沿いの家屋に,床上浸水37戸,床下浸水17戸の被害があった。
小淵小淵では,最大波高は8時ごろ到着した。被害は,床上浸水47戸,床下浸水8戸,全壊1戸,半壊2戸である。
大原大原では,波の最大は6時20分ごろで,岸壁上2mぐらいとのことであるが,波が岸壁につぎ当たって押し上げられただけで,陸地への浸水はわずかであった。したがって被害も,岸壁に沿った家屋のみで,床上浸水28戸,床下浸水13戸にとどまった。
小網倉最大波高の時間は,6時15分である。被害は,家屋全壊3戸,半壊16戸,流失2戸,床上浸水2戸,床下浸水3戸,無動力船の大破2,小破4である。
桃浦第1波不詳,第2波5時30分,第4波6時8分,第5波は6時30分に到着した。このうち最大は6時8分で最も引いた時は,普通の海面から5mぐらい低下したとのことである。
海面の異常な引き潮を認め,4時40分サイレンにより,警戒退避体制にはいったので,人的被害は全くなかった。被害家屋全壊10戸,半壊53戸,流失9戸,無動力漁船の流失沈没10隻,動力船は沖に退避したので,被害はない。
渡波町(わたとは)渡波港は,万石浦をひかえているため,波の勢力はかなり弱められたようであるが,最大波高は6時20分ごろで2.2.22図のような浸水を受けた。
被害は,家屋床上浸水220戸,床下浸水418戸,動力船の沈没流失11隻,無動力船の沈没流失112隻,大破60隻,中破40隻。
石巻港石巻港では,6時20分の最大波により,船舶は内海橋や岸壁に激突し,船火事を起こすなど,大混乱となった。波高は,2.2.23図のように,内海橋付近が大きくなっているが,これぱ船舶が内海橋付近で,波をせきとめるような作用をしたためと思われる。
潮が引いたとき川底で遊んだり,魚を取ったりしている光景が見られたが,これは非常に危険である。
被害:死者2名,家屋半壊4,床上浸水1,305,床下浸水1,169戸,動力船沈没流失27,大破4,中破13,小破19,無動力船流失沈没63。
2.2.2.6塩釜市以南の宮城県沿岸*
塩釜市塩釜港24日午前11時に塩釜に到着したが,この時刻でもまだ津波による潮位振動が続いており,周期は約1時間ぐらいになり,振幅はかなり減衰していた。塩釜港内魚市場事務所長武山氏による話をまとめてみると次のとおりである。
ただし,ここの波は主たる波を順にあげたもので,その波の問に2〜3回の波の来襲があった。第2波(4時ごろ)の起こった直後に,これはおかしいと思って塩釜海上保安部に報告し,その原因を問い合わせたが,わからぬとの回答があった。同所では,4時50分ごろに津波であることを感じて,場内の非常呼集を行なった。第3波来襲(6時15分ごろ)の時は上げ潮で,15分間ぐらいで最高となり,その後5分間ぐらいですっかり引いた。押しの場合は時間がかかり,引きの場合は非常に急速であった。また第3波の津波の全振幅は,約4mぐらいであったということである。
塩釜駅(仙石線)付近の商店街は浸水したが,このときの水位上昇のこん跡の高さを計ってみると,地上から70〜80cmになっている。これは,6時15分ごろの最高
波によるものと思われる。魚市場の岸壁における波高よりも,20cmぐらい高くなったようである。この時の潮面の高さは2.5mと推定される。
被害:塩釜駅付近一帯は,塩釜港岸壁および奥地からあふれた海水が,道路の低地商店街に流れ出し,駅前マーケットが床上浸水した。湾内最奥に停泊中の遊覧船3隻は,マーケットの道路に打ち上げられた(2.2.24図)。
武山氏の話によれば,塩釜港付近では,早朝5時30分津波来襲のサイレンを鳴らし,警戒体制にはいったが,気象台からの津波警報が連絡されたのは,6時近くであったとのこと。
6月16日塩釜消防署に寄り,消防司令補桜井氏から,当時の状況を聞いてみた。当番監視員が,望楼からの目視によれば,4時20分初めて押してきたが,この時は普通の満潮時の潮位で,その後再三潮の押し引きがあって駅前の道路を洗い,また床下浸水が起こるようになり,6時18分には最大となり,消防車庫床上3尺にも達した(満潮時より1.5m増水)。ここぱ湾最奥であるので,潮の押す勢いはものすごく,津波は船や,家の雨戸にぶち当たり,川の濁流といったものである。
津波警報は,塩釜電話局で5時3分に受け付けており,消防署では,市役所から5時32分に受けている。一方ラジオによる警報は,5時8分に聞いていた,消防署では,4時ごろの潮の異常によって危険を感じ,4時30分〜5時30分の問に「津波に注意」ということを,拡声して市内を回った。
七ガ浜町花淵塩釜市街から東方6kmにある花淵浜に,24日17時に着き,当時の様子を漁民や消防団員から聞いてみると次のとおりである。
潮が大きく引いたときは,港内の海底が露出し,貝取りなどやった者がおり,その後に潮が来たので,あわてて逃げ出したとかで,潮が引いてから上げるまでは,かなりの時間であったという。
被害については,海岸の平らな所にあった家は,床上まで浸水しており,海岸ぶちの津波を受けた家は,破損している(破損した家は7戸ぐらいあった)。なお,海岸線に沿っているバス道路は,少し高くなっているが,この後面にある密集した家屋は,道路よりも20〜30cm低くなっており,海面からの高さは,わずか1m内外であって,津波の際は簡単に浸されたもようである。
5時30分にサイレンを鳴らし,避難命令がでたが,サイレンが鳴ったころは,床下まで海水が侵入したということである(津波警報の知らせはわからなかった)。
仙台市蒲生25日18時過ぎに現地に到着したので,聞き込みは十分できなかったがここではほとんど被害がなかったようである。外洋の海岸線から陸地へ約400mのところに,高さ約2mの堤防があるので,津波をおさえることができた。津波の最大波高は,6時過ぎとのことであり,堤防に残ったもくずから推定すると,砂浜から1mぐらいであって,最大波高は,2.0〜2.2mぐらいであったと推定される。海岸にいた人の話によれば,最大波高の時刻は,24日6時30分ごろであった。部落の南側には,七北田川があるので,津波はここをのぼっていったため,被害は生じなかった。
名取市閑上(ゆりあげ)25日10時閖上海岸に行き,閑上漁業組合の専務理事相沢氏にあって聞き込みをした。その結果は次のとおりである。
波の押し・引きの周期は日中は40分前後で,夜には周期は長くなり,振幅も小さくなってきた。なお潮がやってくる0〜3時ごろの間に(睡眠中で,はっきりした時刻はわからなかったが),平常と違った異様な海鳴りがあり,家内の人々を起こしたという者がいく人かいた。海岸線から700mの河口に,名取川量水標(地建所属)があったが当日は観測者はるすであったので,後日仙台工事事務所から観測値の報告を受けた。
表 35年5月閖上量水標観測値(名取川)
24日の6時には,2.1m(T.P.からの波高0.94m)の高い波高を観測しているが,実際の津波の最大波高は,これ以上あったと推定される。岸壁のこん跡から最大波高を推定すると,2.3〜2.5mである。
被害を見ると土地が高く,また防波堤の高さは3mもあるので,住家には全く被害がなかったが港内入口の岸壁が9m^2ぐらいくずれ落ちていた。また早朝(4〜5時)出漁の際,港出口で引き潮にあい,船底が海底に接して,動きがとれなくなっているうち,大潮が来襲して転覆し(亘理や荒浜でも,同様な事故があった),死者2名,行方不明5名を出した。なお部落の東側に,200m幅の名取川があったため,港内にはいる津波は大きくはなかった。
津波警報ガ閑上警察署へ入電したのは,5時58分であったが,入電前にサイレソを鳴らし警戒体制にはいっていた。
亘理町荒浜荒浜では,25日14時,浜の住民および消防団員の話によれば,津波に気付いた時刻は4時40分ごろで,押し波がやってきた。30〜40分周期で繰り返し,6時15〜20分ごろ,最大波高1.7mぐらいに達した。
その後も押し引きを繰り返し,16時ごろから振幅が小さくなった。25日6時ごろ少し大きな(30cm)押し波がやってきた。津波の来る方向は,やや北寄りの方面から来襲したように感じられたといっていた。
河武隈川河口右岸に,防潮林が100mにわたってあり,根元には津波によって運ばれたもくずがひっかかっていた。このもくずの高さは,地上から80cmぐらいであった。また津波の来た夜は,海鳴りがはなはだしく,異様に感じたといっていた(閖上でも同様であった)。部落の大部分は阿武隈川右岸にあり,津波は500m幅もある河をのぼったので,港内の津波の波高は,特に大きくならなかった。津波の来襲して来るときは,沖の海面は黒ずんで,逆波(目視の感じでは1mぐらい)を立てて,どんどん押して来た(2.2.25図)。
津波警報が一般住民に周知された時刻は,6時近くであった。
部落の前に高さ2mぐらいのコンクリート堤防があり,住家には全然被害がなかった。しかし4時ごろ出漁のため出港する船(17t)が,港の出口(外洋への入口)で引き潮にあって,船底が川底に接し,横倒しになって転覆し,1名死亡,4名行方不明となった閑L港の漁船の転覆と同様)。
*調査:仙台管区気象台
2.2.2.7福島県沿岸*
薪萢村釣師浜現地漁業組合および村役場から聞いた話を要約すると,次のとおりである。24日4時ごろに異常な引き潮をみてすぐ組合に連絡するうちに,4時30分第1波が襲来し,その波高約1mに達した。この第1波により,浜の川口にあった小型漁船(動力船2〜3tおよび和船)は,川に押し上げられ,約500m上流の漁業組合裏側の浅瀬に上げられて,一部は大破した。津波は,その後約1時間40分ぐらいの間隔で襲来し,特に強い波が来たのは7時ごろ,波高150cmに達した。しかし堤防(砂浜からの高さ4〜5m)のために,市街地には全然侵入せず,主として川口から侵入し,川沿いの一部住家に床上・床下浸水したが,村では砂袋によって流失を防いだとのことである。
被害は漁船,2〜3t動力船5隻,和船5隻いずれも大破。負傷2名。床上浸水5戸,床下浸水15戸。田畑冠水8ha。かきだな流失5,網・ロープ類多数。
相馬(そうま)市松川浦相馬市松川浦の松川漁業協同組合で聞いたところによると,第1波は4時20分来襲し,特に大きいのは7時10分ごろで,波高1mぐらいになったが,港内で水かさが増した程度で,被害は海上・陸上とも全然なかったとのことである。
請戸(うけど)村請戸漁業組合で聞いたことを要約すると,次のとおりである。
4時10分ごろ,漁師が海に出る準備のため浜にやってきて,引き潮に気がついたが,それほど気にもかけず,6隻の漁船(2t程度で3人乗り)が出港した。港は浜の前方約300m沖に,180mの防波堤を築いた程度のものであるが,最後の1隻が出るころは,防波堤まで海水がほとんど引いて,防波堤の底は露出してしまい,船は港の中間で座礁転覆し,浜の人に救助を求めた。4時30分,この異常な引き潮で津波と判断し,漁業組合のサイレンで村人に知らせ,転覆した1隻の船を救助にあたり,浜に引き上げたころに,第1波が襲来したので,この船は大破した。この時間は4時50分ごろであった。
その後,断続的に来襲したが,それほどのこともなく,夕刻16時ごろの満潮時に近い時,最大波に近い高さの津波が襲来し,その高さは2mぐらいであった。津波は,単に浜に押し上げた程度で市街地には全然侵入しなかった。
大久(おおひさ)村久ノ浜4時ごろ異常な引き潮が起こり,4時20分には,引き潮の最大となった。5時ごろ,最大のものが押し寄せ,その後も断続的に襲来したが,被害は全然なかった。
磐城市江名底引協同組合および江名急難事務所から聞いた話を総合すると,次のとおりである。
第1波到着は不明であるが,4時過ぎ干満の差が小さくなり,4時30分ごろから次第に大きくなって,4時50分〜5時にかけて,漁市場前の防波堤上部近くまで上昇したので,最大時にはだいたい3mの津波が来襲したものと思われる。
4時30分ごろ地元で津波と判断して,緊急サイレンを鳴らした。また小名浜海上保安本部から,津波警報を5時20分に受領,内容を書いて,漁市場前に掲示した。一番潮が引いたのは8時20分ごろで,普通の干潮面より2mぐらい引いた。人家の被害はなかった。
小名浜第1波は,誰も目撃していない。最高水位は5時15分ごろ,D.L.上375cmで,こん跡から測定した。また最低水位は9時15分ごろ,D.L.より-129cmで,海底露出面から測定した。海底露出面は,当日水産試験場の船に乗船していた者から聞いて,25日17時10分,実際に測候所員が乗船して,水深を測り推定したものである。
被害は小名浜湾1万t岸壁舗装損壊15m,死者1名である。
勿来(なこそ)市九面(ここづら)勿来漁業組合および付近の漁夫から聞いた話を総合すと,下記のとおりである。
4時30分ごろの第2波が大きく引き,港の底は3分の1露出した。5時10分ごろになって津波と判断し,半鐘を鳴らし,漁民の注意をうながす。その時の津波の高さは2.5〜3mで,一番大きく感じた。
護岸決壊は5時20分ごろで,潮の引いた時である。松川磯で,5時10分わかめ採り中,上げ潮でのまれ,1名死亡した。
*調査:小名浜測候所
2.2.2.8津軽海峡・陸奥湾および日本海沿岸
(i)津軽海峡*
この地域は,一部を田名部測候所で現地踏査を行なったが,その他,現地からの報告は,青森地方気象台でまとめたものである。
東通(ひがしどおり)村入ロ最大振幅3m,満ちる時はゆっくり,引いてゆく時は急速であった。立て網は引き潮の時引っぱられて,被害を受けた。
むつ市関根納屋押し寄せる時はゆっくりであったが,引く時は急速であった。
烏沢鳥沢では平常より少し高い程度であった。水位不明。
大畑町湊大畑町湊では,引き潮の時は,平常の海岸線から50m沖まで引いた大川畑河口で海面の異常を最初に知った。その時刻は4時10分ごろであった。4時30分-210〜-230cm,4時50分150〜170cm,7時30分135cm,10時30分-200cmと推測された。引き潮の時川底が見え,岸につないであったいかつり船が転覆したが,その数ははっきりしない。
木野部(きのつぶ)5時ごろ最高水位となった。
佐井村村役場の松橋金蔵氏が,佐井築港岸壁で測定した値は,次のとおりである(2.2.26図参照)。
水位のmax,minはそれぞれ平常時の満潮水位および干満水位の差を取った。
音響はなかったが,第1回目の潮の増した7時20分ごろ,うねり波がやってきたが,大したことはなかった。
三厩(みんまや)村村役場裏埋め立て岸壁で小野寺信男氏が測定した値は,次のとおりである(2.2.27図)。
小泊(こどまり)村(観測所からの報告)4時30分ごろ70〜90cmの干潮となり,約40分後満潮,その差は平常の波面から60〜70cmの高さになった(築港作業員の話)。
潮の流れについては,特別に変わったこともなく,俗にいう大潮の時と変わりなく,ただ干満の差の大きいことは,近年見たことがない。
小泊港内の船舶は,浅瀬になって船腹を見せ,30〜50°傾くものもあったが,別に被害はなかった。早朝から出漁した船舶は,8時ごろ龍飛燈台の指示により,いっせいに引き揚げてきた。
午後には干満の間隔1時間30分ぐらいになり,その差も小さく,夕方には目測では見わけがつかなくなった。2.1.28図は青森県土木課小泊出張所(築港)の人が,当日測定したものである。
*調査:青森地方気象台・田名部測候所
(ii)陸奥湾*
踏査地域以外の報告は,現地から直接報告を受けたものと,青森地方気象台でまとめたものである。
むつ市
田名部(たなぶ)川河口第1回の最も引いた時刻は,7時30分前後で,このころから潮が増し始め,白波が立ち,線状になって上流に進みながら,対岸に押し寄せて行くのが見えた。この付近一帯は浅く,普通の干潮時でも,右岸から川の中央部まで,歩いて貝などを採りに行ける。左岸岸壁近くが,やや深くなっているだけである。以後急激に増水し,8時ごろに岸壁すれすれの最高水位となり,上流の橋から冷蔵会社の前までの間は,津波が岸を越えて10〜15cm陸地に浸水したこん跡があった(2.2.29図)。
8時の最高の後,減水し始めたが,その割合は1m引くのに15分で,岸寄りにうずができたほど早かった。最低は9時ごろで,全振幅は3m近い。その後振幅2mぐらいの波が,3〜4回押し寄せた。
田名部川の大橋のたもとの水位標で,県土木出張所員が測定した値は,2.2.6表のとおりである。
下北駅前の警察駐在所員が,5時ごろ外出した時に,引き潮の異常を感じた。6時30分津波警報を受領し,伝達に走り回ったといっていた。
古川古川では,第1回は7時30分〜8時の間で,第2回は10時ごろで,第1回より25cmぐらい低かった。第3回は13時ごろで,第1回より15cmぐらい低い。浸水したのはこの3回だけで,ちょうど川のような流れとなった。
曙町田名部川にそそぐ小さなせきがあふれて,浸水家屋が出る。
大湊駅および下町付近木村鉄工所長から聞いた状況は,次のとおりである。
6時30分ごろ引き潮の異常に気がつき,7時ごろ最低となった。海水は岸から約40m後退,その後急激に増水し,岸壁上約30cmまで上がる。上昇があまり激しいので,次の上昇(10時25分)にその割合を測定したところ,5寸上がるのに2分30秒であった。その後数回押し寄せたが,初めほどではなかった。第1回の上げ潮の際,岸壁のそばを流れる小川があふれ,海岸から120m上流の低地で,床下浸水家屋がでた。
下町付近の床上浸水を受けた人の話では,6時ごろ平常よりも潮が引き始め,6時30分に最も潮が引いた。7時30分ごろ最高水位となり,畳がぬれるところまで押し寄せた。その後は1時間ごとに,上下を繰り返した。23時ごろ,一度大きく引いたとのことである。
川守および宇田川守および宇田の両部落で,津波の被害が最も多くなっているが,これは海面と岸との上下差が少なく,低地に家が立っていることがおもな原因である。被害は8時ごろの上げ潮で発生し,最も浸水したところで畳の上約30cm,陸地浸水は海岸沿いの大通りを越え,道路上35cmの高さで,約40mぐらいまで侵入した。床上浸水もかなり出たが,大半は畳がぬれる程度であった。
宇田部落の陸奥湾水産増殖研究所は,第2管区海上保安本部の検潮器自記紙の取り換え,保守を依託されているところであるが,当日朝の宿直員および宇田居住の同所職員に当時の状況を聞いてみると,次のようであった。
(1)8時の上げ潮の際,2.2.31図イ,ロの方向から潮が土手状になって押し寄せてきたように見えた。イのほうがさきで,ロのほうがあとであった。
(2)潮の引く場合,ハのところに三角波の潮目が立つのが見えた。ただし湾内では見られなかった。
(3)海草が二の所を,潮の干満につれて矢印の方向に流れた(平常では海草など流れることはない)。この潮の流れは,上昇する時が早かったようである。
(4)ホの所にブイがあり,10時の上げ潮の時,約10度傾いた。平常はせいぜい2〜3度ぐらいである。
(5)湾の中央部へ付近に,潮ぶくれが見られた。これは部落の多くの人も認めている。
(6)自衛隊の給油船(時速8mi)が湾外に退避する際,なかなか進めなかったとのことである。
川内町川内町の沿岸では上昇は少なく,強風時の波浪が押し寄せる程度しか上がらなかった。引き潮はかつて見られなかったほど大きく,川内川は歩いて渡れるくらいであった。潮位の変動は,3〜4回あった。
当日脇ノ沢まで行った人の話では,引き潮は平常よりはるかに引いたが,上げ潮は満潮時の程度であった。また下北半島南西端とその沖にある弁天島との間で,引き潮の際,うずができたのが見えた。さらに沖を航行していた動力船(最大7kt)が,潮に流されて進めず,1回転したといっている(2.2.32図)。
横浜町(観測所からの報告)6時30分ごろ干潮でないのに潮が引いたので,津波であることを知った。7時40分警報のサイレンが鳴った。その後すぐ漁業組合に電話して,生徒に潮の測定をさせた。その結果は次のとおりである。ただし水位は,平常時の水位からの差である。
潮が増すとき南方に流れ,ゆっくりした速さであった。引き始めてから止むまで15分ぐらい,増し始めてから止むまで10分ぐらいで,増す時水が小石にあたる音がした。
野辺地(のへぢ)町(町役場から報告)最も早く海面の異常を知った時刻は,5時ごろで引き潮であった。
十和田土木事務所,野辺地方面主任横浜茂氏が,野辺地港岸壁で測定した潮位は,2.2.33図のとおりである。第1回の谷は6時ごろで,第2回の9時10分の時よりも引いたようである。
青森市青森市の青森港連絡船さん橋の水位標で,青函船舶管理局青森出張所の石田勇氏ほか3名は5時から18時過ぎまで,目測による連続観測を行なった。この観測は非常に正確なものであることは,第2港湾建設局青森工事事務所の検潮記録と,10時以後はほとんど一致していたことでもわかる。それでこの検潮記録の,スケールアウトした6時から10時までの部分は,さん橋の目測をそのまま使用し,記録中に点線で示した(検潮記録参照)。
青森工事事務所の検潮所において,目視観測を行なったが,その状況は次のとおりである(青森地方気象台百足・石橋両技官)。
10時22分水位は最低となり,堤川護岸防波堤の捨石が露出し,付近の人が多数手づかみで魚・かに・こんぶを採っていた。
12時8分水位は高極に達し,堤川防波堤がかくれ,最高の満潮位の高さになった。
14時1分水は非常に高くなり,築港石油タンク前の岸壁付近まで水が上がる。消防団の指示により,一応退避した。満潮高極上,約60cmぐらいと推定した。
15時ごろから周期20分,振幅10〜25cmの副振動が引きつづき観測されたが,大きなものはなかった。
*調査:青森地方気象台・田名部測候所
(iii)日本海沿岸*
酒田市酒田港南防波堤付近にいって,魚つりをしていた人から聞いた状況は,次のとおりである。
早朝からうねりが高かったが,また防波堤(高さは普通水面から250cmぐらい)を越すようなうねりはなかった。その後次第に高まり,7時ごろから周期20〜30分ぐらいで,大きなうねりが出てきた。そのうち周期40分ぐらいで,防波堤を越す大きなうねりが来るようになり,防波堤上に置いた物は,流されるようになった。うねりの高さは約4.5mぐらいで,海底の大きな岩は露出するほどであった。以上9時ごろまでの状況で,それ以後は不明である。
*調査:酒田測候所
2.2.3被害状況*
(1)資料
今回のチリ地震津波による東北地方の被害は,津軽半島の北岸三厩から,陸奥湾沿岸および三陸沿岸を経て,福島県南部沿岸に及んでいる。被害資料は,被害を受けた青森・岩手・宮城の各県県庁が発行した被害統計資料が大部分であるため,主として市町村別の一覧表となっている。そこで被害の大きいおもな:る港湾については,その市町村当局発表の被害資料を用いて,部落別の被害分布を図示した。福島県は,警察署所管別の被害資料を用いたが,他県に比し,被害は少ない。また同一市町村の被害数が,図によっては,多少違う場合があるが,これは,あとの日付の分が正確である。
2.2.34図から2.2.40図までは,それぞれ東北地方における市町村別の人的被害・被災世帯・破損住家・浸水住家・漁船被害・農作物被害・定置網被害の分布図である。
2.2.41図から2.2.48図までは,部落別被害表を入手した,むつ(大湊田名部)市,八戸港付近,陸前高田市,歌津町および志津川町の各種被害を図示したものである。
また2.2.49図は,宮城県内の土木関係被害の,発生箇所を図示したもので,資料は宮城県から得た。
国鉄関係の被害は,2.2.50図から2.2.53図に示したが,資料は東北支社および仙台・盛岡鉄道管理局発行の報告書によった。
今回の津波は,多くの河川では,その河口よりかなり上流までさかのぼって浸水し,被害を及ぼしているので,上記図面には,大部分の河川を記入して参考にした。なお被害の多大であった岩手県大船渡港の,部落別被害表および被害分布図は,7月末日までに資料としてそろわなかった。
(2)東北地方における被害状況
人的被害は2.2.34図のように,岩手県大船渡市が死者・行方不明53入,負傷者302人で,死者最も多く,これに次いで宮城県志津川町が,死者38人,負傷者318人で合計数は最も多い。青森県八戸市は被災世帯・漁船などの被害が多大であるにもかかわらず,人的被害が非常に少ない。
被災世帯は2.2.35図のように,八戸市が最も多く5,890世帯,次いで石巻市の2,957世帯,気仙沼市の2,096世帯が目だって多く,女川町・志津川町・山田町・大船渡市・釜石市・大槌町・塩釜市がこれに次いでいる。
住家の被害については2.2.36図のように,全壊流失の最も多いのが宮城県去津川町で455戸を数え,岩手県大船渡市の383戸がこれに次ぎ,宮城県女川町・岩手県陸前高田市山田町がいずれも100戸を越している。半壊の最も多いのは女川町で542戸,大船渡市の532戸,志津川町の233戸がこれに次ぎ,大槌町.石巻市・陸前高田市がいずれも100戸を越している。住家の床上浸水の最も多いのは気仙沼市で1,459戸,次いで八戸市の1,027戸,山田町の1,007戸がこれに次ぎ,石巻市・塩釜市・釜石市・大槌町・雄勝町がいずれも500戸以上である。床下浸水の最も多いのは八戸市の4,088戸で,石巻市の1,739戸がこれに次ぎ,気仙沼市・釜石市がいずれも500戸以上,大槌町・宮古市がいずれも300戸以上であった。住家の全壊・流失・半壊,床上浸水・床下浸水を総合すれば,八戸市を別にして,だいたい宮城県北部沿岸から岩手県南部沿岸にかけて被害数が非常に多い。この一帯は住家の分布密度が割合大きいのと,沿岸の屈曲が多く,湾としての地形の出入りが非常に多いところである。
漁船の被害は2.2.38図のように,動力船の被害の最も多いのが八戸市で262隻,これは新井田川河口と三角州船だまりに入港していた漁船が,川をさかのぼって襲来した津波にやられたのが大多数で,山田町・大槌町・石巻市・塩釜市がいずれも100隻以上である。無動力船の被害は,志津川町の437隻が最も多く,次いで気仙沼市の426隻,宮古市・山田町はいずれも300隻以上,石巻市・塩釜市・大槌町・青森県百石町いずれも200隻以上,大船渡市・陸前高田市がいずれも100隻以上である。漁船は港外に避難し得たものは,被害をまぬかれているが,在港のものは被災したものが多い。無動力船は津軽海峡および東北地方太平洋の全沿岸で被害を生じ,北は津軽海峡の南岸三厩町(青森県津軽半島北岸)および下北半島北岸の大畑港から三陸沿岸全般にわたり,南は福島県南部沿岸(平警察署管内)まで被害が及んでいる。
農作物の被害は2.2.39図のように,北は陸奥湾沿岸から,南は福島県沿岸に及んでいる。水稲の被害面積は志津川町の180haが最も大きく,陸前高田市・大船渡市・山田町・気仙沼市・宮城県鳴瀬町がいずれも100ha以上でこれに次いでいる。畑作物の被害面積は,大船渡市が最も大きく151haで,陸前高田市・宮古市・女川町がいずれも50haでこれに次いでいる。定置網の被害は2.2.40図のように,陸奥湾沿岸の平館村が82統で最も多く,宮城県東部沿岸の牡鹿町・雄勝町・石巻市・女川町がいずれも50統以上である。
(3)各港の部落別被害
(i)むつ市(大湊田名部市)
陸奥湾の北岸むつ市(大湊田名部市)では2.2.41図のように大湊港のほうに数十戸の浸水家屋を生じ,また田名部川をさかのぼった津波は,河口から3kmぐらい上流まで達した。その河岸に20数戸の浸水家屋を生じた。
(ii)八戸港
2.2.42図のように各所に護岸など』の決壊を生じ,家屋の流失損壊は直接外海に面した白銀地区に多く,津波は新井田川をさかのぼって河口から約3km上流まで浸水し,住家および非住家の浸水は,新井田川河岸と,三角州船だまり周辺を含めて,小中野地区で1,964戸の大多数を占めている。漁船特に動力船の被害は2.2.43図のように新井田川河口流域と三角州船だまりに入港中のものが多く,ここだけでも流失沈没16隻,破損したもの318隻に上った。鮫港内でもかなり動力漁船の被害があった。
(iii)陸前高田市
広田湾に臨むこの市では2.2.44図から2.2.46図のように,住家・非住家の流失倒壊は,湾奥の海に面した高田町・米崎町に多く,津波は気仙川の河口から3km以上もさかのぼって浸水した。浸水の最も広い地区は高田町で,約100haに達し,小友町地区がこれに次いでいる。漁船の被害は米崎町地区が最も多く,大部分を占めている。
(iv)宮城県歌津町
2.2.47図のように伊里前湾奥に位置し,伊里前川河口流域にある伊里前地区は,田畑の被害,および建物の被害が集中し,漁船の被害は館浜・韮浜港に生じている。
(v)宮城県志津川港
2.2.48図には志津川港における主として土木関係などの被害を図示したが,この港には新井田川・八幡川・水尻川の三河川が流入し,八幡川は河口から約1.5kmまで津波がさかのぼって両岸に浸水し,標高10mの等高線に囲まれた地域はほとんど浸水している。護岸・防波堤などほとんど決壊し,河岸も河口から1kmぐらい上流まではほとんど決壊している。2.2.48図は志津川町の志津川港付近のみの被害図であるが,志津川町全体ではもっと被害が大きく,この町の人的・家屋・漁船・農作物などの被害がいかにじん大であったかがうかがわれる。
(4)宮城県沿岸全般の土木関係被害
2.2.49図は宮城県沿岸の海岸・港湾・漁港施設および土木関係の被害図で,主として県北沿岸に被害多く,その中でも特に志津川湾沿岸が最も多く,気仙沼湾沿岸・女川町沿岸・石巻市などがこれに次いでいる。海岸林は各海岸に散在して被害を生じている。松島湾は宮戸島・桂島・野々島・寒風沢島・馬放島などに割合被害が多く,これらの島が防波堤的作用をしたためか,湾内の土木関係被害は非常に少ない。
(5)国鉄の被害
2.2.50〜2.2.53図に図示したように,国鉄の被害もやはり各港湾の湾入した付近に発生したものが多く,八戸線の八戸港付近,釜石線の宮古湾沿岸・山田湾沿岸・大槌湾沿岸,大船渡線の大船渡湾沿岸・広田湾沿岸,気仙沼線の気仙沼湾沿岸,石巻線の女川港付近,塩釜線,仙石線の塩釜港付近に被害を生じている。
*調査:仙台管区気象台藤沢正義・佐藤煙・小林勉
2.3関東地方・中部地方(三重県を含む)
2.3.1各地の最高水位*
各官署の踏査報告に基づいて,各地を襲った津波の最高水位・周期などを2.3.1表にまとめた。検潮器を有する官署の資料は,第1章1.2津波の状況と重複するので,本文の報告の中には記述してあるが,この表には割愛した。
数値は踏査によるもので,そのほとんどが聞き取りあるいは目測であるため,資料としての信頼度は少ないと思われる。また,基準面も統一を欠いているけれども,だいたいの様子を知るには益するであろう。
神奈川県沿岸については2.3.4〜2.3.6表に,愛知県沿岸については2.3.7,2.3.9および2.3.10表にくわしく掲載してあるので,この表には除いた。
*調査:気象庁地震課 浜松音蔵
2.3.2茨城県沿岸
平潟港付近
県北部の平潟港は北東方がひらけた小さな湾で,さらに湾口に東北東と西北西に防波堤のある小規模の港である。
最初に津波に気づいたのは4時20分ごろの退水で,その後4〜5分で最高水位になった。退水したときの極は柱の岸壁から約30m沖に「亀石」があるが,それが現われた。したがって,港内の半分くらいの海水が引いたことになる。港内に停泊中の小型動力船数隻は底をついたが,水位の上昇で再び浮上した。最高水位は道路面すれすれに達したから,全振幅で5mぐらいである。
津波はその後40〜50分おきに数回あったが,水位の高さは次第に小さくなった。14〜16時ごろまでの海水の状態を観測したところ,周期は約10分で水位は1.40〜1.50m(全振幅)の変化があった。この時間中に,特別な波はなかった。
小型船30隻,中型船28隻は津波前に漁労のため出港していたために津波による被害ばなかった。魚市場は道路から約1.30m低い場所にあるため,第1回の水位の上昇で魚箱が流失し,また近くで造船中の材料が流失したが,後にほとんど回収したので被害は軽微ですんだ。しかし,定置網が5か所被害を受けた。
大津港付近大津港は南にひらけた小さな湾内に,南西と南東に防波堤がある小規模な港である。
3時30分ごろより飛行機の爆音に似た海鳴りがあった。4時30分ごろ退水し,約5分ぐらいで最高水位になった。退水した時の極は,岸壁から約20m沖にY.P.-2.70mの標石があるが,そこまで退水した(港内の約7割)。その後7〜8分で海水は増し,Y.P.+2.00mの岸壁を1mも高く越し,岸壁から約10m離れたところにある協同組合の建物まで海水が来た(2.3.2図参照)。漁業組合長の話を総合すると,最高水位のときの全振幅は5.70mとなる。
第1回の津波の後,30〜40分おきに数回おしよせたが,水位は次第に小さくなった。10時30分ごろから12時ごろまでの海水の状態は,6〜8分の周期で水位は1.30〜1.40m(全振幅)の変化があった。この時間中に特別な波はなかった。
近海漁船のモーター船約80隻は津波前に出漁していたので,津波による船舶の被害は少なかった。おもな被害は,漁船3隻が大破し,漁網流失(防波堤上に置いたもの),定置網が破損した。漁民は退水時には大きな「かき」を取ったという話である。また,出漁中の船は津波の現象を感じなかったということである。
日立市会瀬(おうせ)港会瀬港の津波の第1波は4時少し前と推定され,最大波は第3,4波にあたり,この波は突堤を越し,海岸に引き上げてあったてんま船40隻が流失した。港内にあったいけす箱が突堤上の網干しだなの上に打ち上げられていることから,津波の最大波の高さは平均潮位上約3mぐらいあったと推定される(2.3.3図)。
波の周期ははっきりつかめなかったが,だいたい40〜50分ぐらいであったと思われる。
この津波のため,ひき船(約1t)1隻が大破し,またモーター船4隻およびてんま船6隻が小破した。
日立市久慈港付近第1波は4時少し前で,これから5時30分の間に4回の津波が来襲した。5回目は6時15分,6回目は8時20分にあり,第4波,5波が最大を示し,約3mであった。久慈港にある検潮器が故障のため,詳細はつかめなかったが,周期は会瀬港と同じくらいと考えられる。
ここでは,津波のために2〜3t級の漁船が2隻大破し,ドラムかん(あきかん)が15〜16本流失し,魚のカス干し(肥料用)約675kgが流失した。
那珂湊市付近那珂湊では4時50分ごろ最も潮が引き,5時過ぎに満ちた。津波の大きな山は5時10分,6時10分,7時10分および8時00分で,だいたい1時間ぐらいの周期であった。最大波の全振幅は約2mあった。
那珂川河口から約700m上流に,東那珂地区建設事務所所属の検潮器があり(2.3.4図参照),この記録から第1〜6波までの山と谷の時間と水位を読むと2.3.2表のとおりである。
これによると始まりは微小であるが引きを示し,周期は第1波付近で約40分を示している。最大波は第4波,5時34分ごろでT.P.上126cmを示し,全振幅は212cmと計算される。
那珂湊観測所付近では,退水の大きいものは4時50分ごろおよび5時15分ごろで,退水距離約100mと推定される。最大波高時は5時30分ごろで,全振幅は2mぐらい(導流堤により目測)あった。また,12時前後の津波の周期は約20分,退水距離は約30mあり,水位の全振幅は約1.3mと目測された。
平磯港4時30分ごろ大きく潮が引き,防波堤突端まで潮が引いたことから,退水距離は約50mと推定される。防波堤から最大波高を推定すると全振幅約2.50mと考えられる。
磯崎港では4時30分ごろ港内の水が引いてなくなったとのことである。退水距離は約50m,最大波高は突堤まで波が来たことから,全振幅で約3mあったと推定される。
大洗町付近磯浜港では4時30分ごろ退水し,その距離は突堤の先端まで歩けるようになったことから,約100mと推定される。最高水位は5時30分ごろで,海岸線が平常よりも約100mぐらい陸にはいり,海水浴場
付近の民家4軒ぐらいと漁業用小屋数軒が床下浸水となった。この時の水位は防波堤から目測して,全振幅約2.50mと推定された。
大貫では最大退水距離は約100mと想像される。
大洗町夏海から鹿島町明石まで大洗町大貫以南の海岸は鹿島町明石まで大きく弓なりに湾曲した,単調な砂浜が続いている。砂浜につづいて約10mの高さの砂丘となり,耕地や部落は海面から10〜20m高い台地にある。
大洗町夏海では6時ごろの波が最も大きく,その高さは約3mで,護岸まで上ったとのことである。
鉾田町大竹は海水浴場で古い脱衣所らしい小屋が1軒あるだけで人家はない。津波の最高時は6時ごろで25日10時30分現在の海岸線より80mぐらい上陸したようである。
大洋村下沢は砂丘(高さ10m前後)上に数軒の人家があるが,朝まで津波のことば全く知らなかった。
大野村武井釜で最高の水位になったのは,5時半〜6時の問で約2mの高さになった。最も引いたときは25日13時現在よりも,さらに5m引いていたそうである。
鹿島町明石では6時ごろ2mに達し,9〜10時ごろ最も引き,護岸堤防(工事中)より150〜170mも砂浜になった。周期は30〜45分ぐらいであった。
2.3.3千葉県沿岸
銚子市付近銚子市の利根川沿岸には,利根川下流工事事務所の検潮所がある。ここの記録(ローノレ型)をよみとると,第1波の山の時間は2時56分,最高水位は4時40分に1.87m(D.L.)を示し,最大波高は全振幅で1.60mあり,潮位が1.20mを越えたものは5回あった。津波の周期は初めから10波までを平均すると47分と計算される。退水距離は平常の海岸線から20〜50mと推定される。
4時ごろ,波崎町では南の方向に海鳴りを聞いている。5時30分ごろ,利根川河口から侵入した津波は,急上昇して,岸壁および堤防につないであった漁船が,沈没(3),横転座礁(1)した(2.3.6図参照)。
大岩町名洗名洗港にはフース型検潮器がある。この記録をよみとると,津波は2時42分に始まり,第1波の山は2時52分に到達した。5時32分に最高水位を示し,D.L.上3.20m(平均潮位上2.14m)に達した。最大全振幅は3.80m以上と推定され,最大波高はこの時の推算潮位よりも2.27m高かった。
津波は堤状をなして来襲し,5時32分ごろの最高時には避難港の堤防を乗り越えて港にはいるものと,堤防を回って侵入してくるものがあり,急激に上昇した(2.3.7図参照)。周期は初めから10波までを平均すると50分ぐらいである。退水距離は平常の海岸線から150mぐらいあった。
外川港付近外川港では津波は2時40分ごろ始まり,第1波の山は2時50分ごろ押し寄せた。潮目が判然として,混濁した海水が堤状に湾内に押し寄せた。急速に水位が上昇したため,出漁準備中の漁船(3t)が岸壁に激突,横転し,漁夫1名が行方不明(5時30分)となり,湾内にいた漁船の多くが激突した。
最高水位は5時32分に示し,D.L.上3.2m(平均潮位上2.14m)であった。退水距離は200〜300mぐらいであった。
黒生3時30分ごろ南東方向に海鳴りを聞き,その直後に第1波が来襲した。長崎でもB29の爆音のような音を聞いている。退水距離は黒生で150mぐらい,長崎では300mぐらいであった。また,長崎では床下浸水10戸を出し,その浸水高は約30cmあった。
飯岡町飯岡町では3時ごろ始まり,第1波の山は3時10分ごろであった。津波はほぼ南方より1線をなして来襲し,堤防に当たり西に移動し,堤防の端より再び南流となり湾内にはい,り堤防に当たり折り返して押し寄せてくる。波は底より沸騰するようであった。1回の津波で2回最高を示す所がある。
最高水位は堤防から推定すると3.5m(堤防の高さはT.P.上4.15m),最大波高は2.7m,最大全振幅は4.15mと推定される。これらの時刻についてはわからない。
周期は6時ごろまでは50分ぐらいで,その後は30〜40分であった。退水距離は80〜100mぐらいと考えられる。
5時5分ごろジエット機音のような無気味な音を聞いた。
今回の津波で,テトラポット流失200個,漁船の沈没1,大破4,中破6,小破2,日那川流域の田1.5町歩および矢指川流域の田1.0町歩浸水などの被害があった。
九十九里町〜白里町第1波は3時30分ごろで,4時ごろに海鳴りが聞こえた。津波は盛り上がりながら来襲し,そのまま海岸を急速に上昇後退して行った。このため砂浜上に引き上げてあった漁船が方向転換したり,流れたりするものがあった。
最高水位は2〜3m,最大全振幅は3mぐらいと推定される。周期は6時ごろまで40〜50分,9時ごろ28分であった。退水距離は70〜100mぐらいあった。
栗山川下流で漁船沈没6,大破2,真亀川下流で増水のため床上浸水3戸(30cm),田冠水2町歩などの被害があった。
白子町(南白亀(なばき)川)第1波は3時30分ごろであった。ゴーという音を聞いており,特に5時50分ごろが大きく,これとともに津波が押し寄せてきた。津波は段階状に川をさかのぼり低地に侵入して行った。
最高水位は2〜2.5m(旭ガラスK.K.のC15坑井所より調査)最大全振幅は3〜3.5mであった。周期は6時ごろまでは50〜60分,退水距離は50〜70mであった。
南白亀川下流は湾曲しており,堤防は砂のため海水が約600m侵入した。海岸から300m付近で1mの高さあり,床上浸水14戸,床下浸水9戸,そのほかに大破した家屋があった。漁船
は大破2,中破2,小破5を数え,水田冠水50町歩,畑冠水26町歩に及んだ。
一宮町第1波は5時ごろであった。津波は段状になって河口より来襲した。最高水位は一一宮橋から推定すると2mぐらい,最大全振幅は3〜3.5mと推定される。退水距離は50〜70mぐらいであった。
大東港および大原港付近始まりの時刻は大東港では3時30分〜4時ごろ,大原港では3時前後(減水時刻)であった。
第1波到着時刻は大東港では4時少し前,大原港では4時〜4時30分ごろ。
音響は大東港では南東方向でゴウゴウ,大原港では東方向でザワザワ,ゴウゴウという音を聞いている。
波頭は大原港では約200m前方で段階状に来襲した。
最高水位は大原港では防波堤内で2〜3m(最大波高は約50cm)。
周期は大原港防波堤内では,きわめて顕著な第1波からさらに大きい第2波までの時間は90分ぐらいあり,その前後は20〜30分ぐらいであった。
退水距離は大東港では約100m,大原港では約300mであり,水深2.5〜3.0mの防波堤内の船着き場が全く干上がった。
被害その他の状況は,大東港では船の枕木20組が流失し,船のスクリューおよび船底板6が破損したが,住居その他の建物には被害はなかった。
大原港では,船着き場の魚入箱20個流出,友綱径10cmのマニラロープが退水時に切断された。退水時には,堤防内にもどる漁船(30t)が,140馬力で全回転を行なっても前進することができず,停止状態であった。第2回目の津波時には,高さ5mの堤防を越えて外海から内港に侵入した。
勝浦付近(勝浦・串浜・松部各漁港)始まりの時刻は勝浦・串浜・松部とも4時前後で,第1波はいずれも3時30分〜4時ごろであった。湾内では盛り上がるように至極なめらかであったが,陸地に近づくにしだがって堤状となり来襲し,引き潮の際ザーザーという音が高かった。
最高水位は2〜2.5m,最大波高は約20〜30cmと推定される。周期は勝浦で第1波から第2波までの時間は1〜1.5時間ぐらいであった。
串浜では波打ちぎわにつないであった漁船が津波のときに互にぶつかったり,ロープが切れたのもあった。海岸近くの畑が冠水したところもあった。退潮時にはあわび・さざえなどが拾えた。小阿川では5〜8時ごろ,海水が逆流し,2mぐらい増水したということである。鴨川付近津波は3時30分ごろの減水で始まり,第1波は3時30分〜4時ごろまでに来襲した。最高水位は4時30分が最高で平常より1.5mぐらい高く,最大波高は20〜30cm程度であった。周期は長いもので1時間,短いものは15〜20分程度であった。退水距離は100〜150mぐらいであった。
津波のため漁港内につないであったアグリ船の友綱が切れ,岸辺に打ち上げられたが,家屋の浸水,田畑の冠水などはなかった。
前原海岸では退水時にかきなどが拾えた。漁港内も退水時にはほとんど海水がなくなり,仁右ヱ門島付近も歩いて渡れるようになり,加茂川河口も対岸まで渡れるようになった。
布良〜木更津間
布良港ここには富崎測候所所管のフース型検潮器がある。この記録をよみとると,津波の始まりは2時39分で押し波であった。この津波の前日,すなわち23日5時46分ごろから弱い津波らしい異常潮せきを観測*,この現象は24日の大津波まで続いた。
最高水位は256cmあり,これは5時9分と15時41分の2回あらわれた。最大全振幅は7時42分243cm,最大波高は173cm(潮位からの高さ)であった。周期は変化が多く一定しないが10〜20分ぐらいである。
布良港の岸壁での退水距離は,潮位にして布良の平均水面より110cmも低かった。退潮時には港内が真黒な汚水と化し,いたる所でうず巻状となり,激流といった感じであった。
潮位200cm以上の比較的大きな津波は,午前中8回,午後5回を数え,いずれも満潮時前後であった。
館山津波の始まりは不明,最高水位は7時40分ごろあらわれ平常満潮時の潮位よりも1.0〜1.5m高かった。最大全振幅は,館山さん橋で目測したところでは2.5〜3.0mと推定される。館山湾および船形における当時の潮位を,土木出張所が調査した結果は上表のとおりである。退水距離は,北条さん橋の長さから推定して約180mぐらいであった。
周期は20〜30分ぐらいで繰り返したようである。
津波は押し波のときはおだやかな上昇を示したが,引き潮の流れは早かった。このため,館山湾のあぐり網の飼いいわしが流された(損害約1,000万円)。
和田津波の始まりは3時45分ごろと推定される。最高水位は5時過ぎに現われ,和田港の海底面より280cmあり,平常満潮時よりも約70cm高くなった。10時ごろ全振幅160cmを実測した。周期は20〜30分ぐらいであった。
和田港の出入口は南向きで,津波は穏やかな昇降を示し,引き波のほうが押し波よりも流れが早かった。退水距離は平常の海岸線より10mぐらいまでであった。午後の満潮位は平常時の高さとあまり変わらず,15時過ぎから津波は目ではっきり認めることができなくなった。和田港沖3kmのところで操業していた漁船の船長の話では,平常時13mぐらいの透明度があるものが,6時ごろから海水が濁り7〜8mぐらいになった。
津波による目だった被害はなかったが,定置網漁は網が変形し,入網の条件が悪くなり漁獲がなかった。
平館4時30分ごろ引き波を目撃したのが初めである。最高水位は4時50分ごろ現われ,当日の満潮位よりも90cm高くなった。最大波高は4時30分ごろ全振幅で190cmを港内で実測した。周期は20〜30分ぐらいであった。
白浜始まりは5時5分ごろと推定。5時25分ごろ第2波(推定)を目撃したものがいた。最高水位は5時25分ごろ現われ,全振幅で2.Omぐらいあった。周期は目ではっきりわかる顕著なものは,約1時間ぐらいのものであった。退水距離は50mぐらいであった。
港の出入口の向きは南東で,昇降時は川の流れのように激しかった。
富浦〜富津岬始まりは3時半ごろ。天羽町海岸における最高水位は2.2mだった。この基準は不明であるが,年間の最大満潮位で1.7mぐらいで,これとT.P.との比較を推定してみると1.5m前後高かった。金谷港も同様で,平常の平均潮位より1.3mぐらい高かったようである。総じて,河川付近で潮位が高かったようである。最大全振幅は金谷港で標尺によると2.5mぐらいであった。天羽町では,湊川河畔にある町営住宅5戸が床下30〜50cm浸水した。周期は20〜30分ぐらいのものであった。退水距離は富津岬・勝山・岩井など遠浅海岸では20〜30m,金谷および富浦港の岸壁では1.2mぐらい潮位が下がった(金谷港は標尺によりほぼ確実)。
津波が押し寄せるときは,波という感じではなく,沖に向かってゆるやかな坂道のような感じで,退水の時は港湾内の各所にうず巻状の急激な流れが見られた。各地とも,4〜7時まで4〜5回大きな津波があり,天羽町では17時ごろにも午前中と同程度のものが1回あった。
天羽町湊川,勝山町加知山川および保田町七面川流域の人達はゴーッという音響を聞いた。方向はともに河口方面からの音響で,潮が川に逆流する時の音らしいとのことである。
木更津木更津では始まりぱ4時20分ごろと推定。最高水位は5時55分ごろで,平常の満潮位より1m高かった。最大全振幅も5時55分ごろで,2.1mぐらいと推定される。周期の顕著なものは1時間ぐらいであった。退水距離は満潮時の海岸線よりも350〜400mと推定される。
矢那川河口付近の住民は,6時ごろゴーッという音を聞いている。そして間もなく真黒な濁水が逆流して,上流200mぐらいの地域が床下30cm浸水した(50戸)。その侮桜井海岸でも7戸が床下浸水し,江川地先のスダテおよび金田堤防の一部が破損した。津波は4〜7時までに3〜4回,16〜18時までに2〜3回目測され,午前中の第3波が一番大ぎかった。
千葉市千葉港の検潮器は故障中で,8時30分作動したので,その以前のことは推定である。始まりは4時40分ごろで,第1波は5時10分ごろと推定される。最高水位は浮遊物より推定すると,5時10分ごろ2.2m(A.P.をD.L.とする)ぐらいであった。最大全振幅は8時以前で1.6m(推定),8時30分以後は94cm(実測)であった。周期のおもなものは60〜75分で,最大は100分,最小は25分である。津波は70cm以上のものが7回以上あったが,浸水したところはなかった。
*これは後日地震課において,その周期・振幅など調査の結果,チリ地震による津波ではないことがわかった。
2.3.4東京都沿岸
東京港東京港月島には東京管区気象台所管の検潮器がある。この記録から観測した結果は次のとおりである。
副振動の始まり:4時30分
最大全振幅:139cm(7時50分)
周期:71分
最高水位:279cm(5時23分)
なお,都港湾局所属の第3台場の潮見標で5時25分最高水位212cmを観測した。
東京港付近では,船舶・橋・港湾施設には被害はなかったが,24日9時10分〜14時30分の問,出入港船舶全部の航行はストップし,航路標識のブイのうち,12番と14番が流出した。品川・深川方面ではいかだ約500本(5,000石)が海上に流出した。
東京都大島岡田港には大島測候所所管の検潮器がある。その記録によると,津波は2時25分ごろ始まり,3時ごろから8時半ごろまでが最も顕著で,この間4波を数え,周期は70〜80分ぐらいであった。最高水位は250cm(3時44分)であった。東海汽船さん橋長の談では,元町港さん橋で約1m,岡田港で約1.5m上下があり,最高水位時でも普通満潮時の水位と比べてあまり大差なかったとのことである。
本島では,津波による被害はなかった。
東京都新島黒根港防波堤さん橋で目視観測したところ,7時40分引き潮となり,このころにおける平常潮位より約230cm下がり,この状態が3〜5分ぐらい続いて押し波となって平常潮位にもどり,8時00分平常潮位より20〜30cm押し波となり,この状態が3〜5分ぐらい続いて,再び平常潮位となって8時25分引き波となった。このような状態を繰り返しながら次第に弱まり,昼ごろにはほとんど平常にかえった。観測値は次のとおりである(防波堤さん橋基準)。
引き潮時 押し潮時 目視観測値
7時40分〜8時00分 200〜250cm
8時25分〜8時40分 約200cm
9時05分〜9時30分 150〜200cm
10時40分〜11時10分ごろ 約150cm
東京都三宅島
大久保港(測候所の観測)9時から9時30分までの間,波高および潮位を観測したところ,最大波高1mぐらいの津波が6〜11分間隔で押し寄せた。この間の風による波高は20〜30cmぐらいのものである。
伊ガ谷港(漁協調べ)5時ごろ1.5mぐらいの津波が観測され,9時以降は波高50cmで,7〜10分間隔で潮位が高くなったが,16時以後はほとんど衰弱した。
坪田港(漁協調べ)6時ごろ1.Omの津波が,5分間隔ぐらいで約4回来てはしばらく弱まり,再び同じような状況をくり返すという状態が10時ごろまで続いた。その後は次第に衰弱し,917時ごろには特に注意しなければわからない程度となった。
阿古港(漁協調べ)8時現在,平常よりやや潮の引きが大きいと思われる程度で,津波らしい現象は認められなかった。
東京都八丈島
三根港(神湊港)第3管区海上保安部所属の検潮器があり,記録観測された。また,その観測責任者が同港で目視による下記のような観測手記を寄せてきた。
観測場所:神湊港船だまり入口
観測時間:5月24日5時30分〜6時00分
観測者:東京都港湾局工務部島しょ工事課
工事第3係長 佐藤良二
観測手記
神湊港自記検潮器の記録によれば,津波の最大波高は5時ごろであった。
筆者(観測者)は5時ごろ商港矢竹岸壁付近にいたが,異常潮位に気づかず,ただ当日は海上が常になく平穏で,八丈島としては珍しい気象状況であった。しかし,海上に出漁した小舟がある時間海面からその姿を没する現象があった。いま考えると,これが津波特有の周期の長いふろしき波であったのである。
5時30分ごろ,東海汽船K.K.の椿丸が入港してきたので船だまり入り口に行くと,入り口付近の海水が平常の波のある時よりも荒々しいので,海水の動きに注目していると,たまたま沖から「カヌー」がたまりに入港してきた。また,町役場の引き船(5t,焼玉30馬力)が沖に向かって,全速回転しても停止状態であった。引き潮になると,競走用のモーターボートのように,沖に向かって押し出された。漁港入り口では大きな円錐状の海面がつくりだされた。
8時ごろおよび16時ごろの2同にわたって,八重根港にて測定した結果は下図のとおりであった。
2.3.5神奈川県沿岸*
津波の第1波はおだやかで波高も低く,発光・音響現象も伴わず,また一般に就寝時のため,沿岸の大部分の人が津波に気づいたのは,第2,第3波の波の来襲のころのようで,潮位や潮流の異状で津波を知ったようである。
県下全沿岸には,幸い津波は上陸せず,人的被害はもとより,陸上の施設その他にも被害はなかった。
神奈川県の沿岸を東京湾沿岸・東京湾口および相模湾沿岸の3地域に大別して津波の概況を述べる。
東京湾内横浜および川崎港において,津波現象が一般に認められたのは,ほぼ4時前後のようであった。検潮器によれば,横浜における第1波は3時42分23cmの上昇,第2回の上昇は4時38分で,このころには潮位や潮流の急変に気づいたものが多かった。
顕著な波は5回,平均周期は72分,緩慢な昇降でこの間における港内の潮流の変動は大きく,特に京浜運河や堀割川では流速は大きく5ktぐらい(推定)となり,はしけや小型船の航行が困難となったが,貯木場の木材や舟艇の流失衝突などの事故はなかった。横浜港の水位の最高ば4時38分(満潮時は3時50分)で281cm,当日の満潮位より39cm高く,既往(1927年から)の高極潮位323cm(1958年台風第21号による)より42cm低かった。この最高水位はT.P.上1.07mであった。
川崎港の第1波は横浜より5分遅れの3時47分で,最高水位は4時43分(満潮時は4時14分)264cm(満潮位より61cm高),既往(1954年から)の高極潮位267cm(1958年台風第22号による)より3cm低かった。
横須賀港では第1波の到着時刻は3時10分,最高水位ば4時00分320cmであった(2・3・6表参照)。
湾内の津波は検潮器の記録では押しで始まり,最大波高は1mを越えず,最高水位は第2波に現われていた。
振幅10cm程度,周期60分ぐらいの津波は,28日午前中まで顕著であった。
東京湾ロ久里浜の検潮記録によれば,第1波は3時00分で横浜より42分程度早くなっている。顕著な波は第5波で,最高水位は6時19分297cm,T.P.+1.20mであった。
各地の最大波高は,北下浦で1.2mのほか,三崎・浦賀方面で1m,油壷で0.8mと浦賀水道方面が高い。海永が平常の海岸線より退いたのは,下浦海岸では50m,江奈湾では100m程度であって,顕著な波は4〜5波が認められている。
剣崎以北では格別津波の被害は認められないが,三浦市では最高水位は北条湾の岸壁をあますこと50mに達し(T.P.約+1.5m)各地に多少の影響があった(2.3.5表参照)。津波の周期は60〜70分で,顕著な波の継続時間は5時間程度であった。
相模湾沿岸相模湾沿岸で津波に気づいたのは4時30分〜5時ごろで,油壼の検潮記録によれば,潮位の著しい変化は引きで始まり,第1波は3時24分となっている。逗子ヨットハーバーの週巻き検潮器の記録も引きの3時20分ごろのようである。西部沿岸の福浦の漁業組合の話では,4時30分ごろ増水で始まったとのことである。
一般に,第三1波の到達時刻は不明である。津波の昇降は,いずれもおだやかで,格別異状を認めた所はなかった。
最大波高は,油壷0.86m,長者ガ崎1m,由比ガ浜1.3mと北に高くなっていて,平塚の0.5mが最も低い。湾の西部では真鶴の1.8mが最高で,福浦の1.3mと低くなっている。
潮流の異状は,各地で認められた。目だった津波の来襲は4回ぐらい,周期は1時間ぐらい,その継続時間は5時間ぐらいであったが,海中の工作物や小舟の流失などの被害の報告はなかった。
*調査:横浜地方気象台
2.3.6静岡県沿岸
熱海市網代町付近始まりば2時過ぎ,第1波到達時刻は3時30分ごろと推定される。津波は,湾内の海面が徐々に盛り上がったように寄せたが,ほとんどの地区が海岸堤防であるために,浸水ばみられなかった。最高水位は,岸壁から推定すると,平均潮位よりも約1mぐらい高かったようである。比較的卓越した波が3回ぐらい来襲したようである。
網代漁業関係者の話では,4時ごろは平常と変わらなかった。4時30分ごろは引き潮となったが,岸壁であるため退水距離は不明である。5時40分ごろ,岸壁では満潮時の最高水位より50cmぐらい高くなった。以後30分ぐらいの間隔で潮が昇降したが,海水はまき波の状態にはならず,徐々に海面が盛り上がったとのことである。
伊東市付近始まりは2時4分,第1波到達時刻は3時20分であった。最高水位は3時40分ごろ約1m(新井海岸の平均潮位上)を観測した。卓越した波の周期は1時間20分ぐらいで,このような波は4回来襲したが,弱いものは25日午後も現われていた。
水産試験場伊東分室,その他漁業関係者の話によると,最高時には海面が全般に盛り上がり,7時ごろの干潮時には湾内から外海へ(東から西へ),海水が流れ出る様子が見られた。伊東市を流れる大川(川幅約20mぐらい)では,海岸線から約50m上流へ海水が逆流,高さは約70〜80cmとのことである。
伊豆半島南部(主として下田港)
津波の始まりの時刻は下田湾の一漁師が,ちょうど4時ごろ船の準備にとりかかったところ,水位が異常に上り始めたとのことである。また,下田町が浸水し大騒ぎになった時刻が,4時20分ごろであることから,発現時刻を4時4分ごろという話は,かなり信頼できるものである。これ以前の津波現象については発見者が見当たらない。
第1波到着時刻:上のことから,4時15〜20分と推定できる。
波頭:穏やかな上陸浸水であり,また水位の上昇も比較的小さいために,特記すべきほどのものはなかった。
退水距離:距離は海底の構造にもよるが,砂浜で測定したところ,平均約20m程度である。
状況:津波状況階級2(津波は上陸したが海面は穏やかに昇降,陸上の被害は床下浸水程度)が最も適当で,かつ十分に表現している。
最高水位:潮跡が岸壁上の建物に残っており,下田港の岸壁を基準にして測定し,T.P.+114cmを得た。
最大波高:下田港の岸壁を基準とし,推算潮位から時間的変化を調整して算定した最大波高は107cmである。
これは関東震災時の津波よりも約70cm低い,下田港以外の外海における最大波高は約86cmであった。
浸水高:下田港の岸壁を基準として測定した高さは約30cmである。
周期:だいたい12分から15分ぐらいであるが,20分ぐらいとする人もかなりあった。特に大きかった波の来襲は,4時15分,5時15分,6時10分ごろであるから,約1時間程度のものもあったわけである。
継続時間:25日夕刻まで,わずかながら目視できた。下田港では,24日11時30分ごろと17時30分ごろの満潮時に2回岸壁を15cm程度越えており,朝の時よりわずか小さかった。船の業務は25日から平常に復した。
来襲回数:午前は4時15分,5時15分および6時10分ごろの3回,午後は16時30分および17時30分ごろの2回が顕著なもので,いずれも下田港の岸壁を越え浸水した。この他にも顕著なものはあったと思われるが,引き潮のため大事にいたらず,人々の観測や記憶にはないようであった。
経路:津波の来襲方向は東ないし南東ということである。当地方の津波の移動経路および津波減衰の原因となった海底の状態は,2.3.19図のとおりである。
その他:第1波は4時15分ごろであり,下田港の当日の満潮時も4時15分となっている。町民は4時15分の津波が最大といっているが,6時10分の時もほとんど同じ高さであり,この時は満潮から約2時間の引き潮中で,約40〜50cm潮位が下がっているはずである。したがって,6時10分ごろの津波が,この地方では最大のものと考えられる。
当伊豆南部海岸地方では,海面は穏やかな昇降に加え,来襲方向が東ないし南東の方向であり,同方向には大小の群島に囲まれ,50〜60kmの遠方まで海底が浅く,津波の勢力が極度に消耗して来襲したため,水位の上昇が抑制され大事にいたらなかったことは特記すべきことである。
伊豆南部海岸地方の被害は,下田町で床下浸水約50戸(下田警察署調べ)が発生したのみで,その他には注目すべきものは全くなかった。
内浦今回の津波で,西浦海岸で床下浸水5戸,その他養殖真珠に若干の被害があったようである(沼津警察署調べ)。
清水港
第1波:始まりは2時53分,第1波到達時刻は3時19分。
最高水位:4時13分275cm(検潮器による)を記録した。
2.3.20図A点付近の波打ちぎわでは,大潮の満潮時より約1mぐらい高かった(潮跡は積み上げたかきのから,および竹がきにつるしたむしろにっいていたものから目測で計る)。
最大波高および周期:4時13分80cm(検潮器による)を記録した。周期は第1〜2波の退水(検潮器による)から測ると,55分である。
浸水の高さおよび退水距離:2.3.20図B点付近では最大50〜60cmを,板べいについた潮跡から計った。D付近では10cmぐらいの浸水であった。退水距離は,折戸湾の南側(1.2.20図A点付近)で大潮の干潮時より約40mぐらいであった。
状況:津波時には,海面は穏やかに昇降したが,静かで波はなかった(漁師談)。折戸湾の奥および塚間・三保本村付近では低地に浸水し,かなりの床下浸水家屋をだした。2.3.20図のC,D点付近では,津波のために川水がせき止められて,水位が上昇し,低地に川の水があふれ出て,床下浸水を起こした。また,巴川は第2の退水時には,ほとんど底が見えた。
漁市場(2.3.20図E点)で,漁船から魚を降ろしていた人達の話では,水位が高くなったり低くなったりしたのは感じたが,特に異常は感じなかったとのことである。
貯木場の木材が流れ出して,この流木のために真珠さくがほとんど全滅した。
田子浦港田子浦港では第1波が達したと思われる時刻に,ざわざわと潮鳴りが聞かれた。
最高水位は,平均水位より1mぐらいであったが,上陸はせず被害はなかった。周期は30〜40分くらいであった。
2.3.21図に田子浦港において,海中に標尺を立て,1分ごとに読み取った値を示す。図中,港外とあるのは,防波堤の外側で測った値で,港内とは,海岸線から約350m隔たった未完成の港内で,河川が流入しているために,平常は港外と港内では1m程度の水位の差があり,港内のほうが水位が高い。
当日は,夜間作業中であったが,潮が時ならぬときに引くと感じた程度で,堤防工事は支障なく作業を続けることができた。
焼津港第1波は2時50分ごろ到達した。最高水位は213cm(潮位読み取り基準面はT.P.-90.Ocm),最大波高88cm,周期約30分であった。
津波は上陸せず,被害はなく,海岸工事中の場所で潮の高まりを感じた程度であった。
御前崎港付近御前崎港では津波は3時21分引き波から始まり,第1波は4時12分到達した。最大波高は7時44分ごろ現われ,推算潮位上226cmであった。周期は,津波の最盛期前後の6〜14時ごろまでの10回を平均すると,21分であった(検潮記録より)。
当日,海面は風速2〜3m/secで,沖合にはところどころ白波が見える程度であった。津波時は,海水全体が押し寄ぜ,また引くという感じであるが,御前崎港入り口付近ではまき波が現われた。すなわち入り口付近の潮の出入りは激しく,はいってくる場合は防波堤先から西方約120mぐらいの間,高さ30〜40cmの白波が立ち,港内の防波堤側から14.5mのところでは,流速1.1〜1.4km/hrの沖へ向かう波が観測された。下げ潮の最盛時には,防波堤先から西方へのびる約120mの波頭は,上げ潮の時の半分ぐらいになり,その反対に防波堤側14〜15mの所の流速は速くなり,7.2km/hrぐらいに観測された。
湾内の検潮所付近で,上げ潮・引き潮の表面流速を8回観測した平均は,2.2km/hrであった。また,津波の上昇および下降の速度は,7〜10時の間だいたい52cm/minであった。
12時15分ごろの退水は急で,みるみるうちに検潮所付近は砂浜と化し,干潮時でもあったが,検潮所より沖合へ76m,平常のなぎさから173mまで退水した。
大井川河口付近から御前崎周辺および遠州灘海岸沿いに菊川付近まで聞ぎ込み調査を行なった結果は下記のとおりである。
吉田町住吉海岸漁船(しらす船)は4時30分ごろから出漁したが,2〜3人の人が潮加減が異常だと思っただけで,平常どおり出漁している。ここでは20分ぐらいの間隔で,勝問田川河口付近で1.5〜2.Omぐらいの波が来襲したが被害はなく,退水距離はなぎさ線から300mぐらいであった。
相良(さがら)町海岸および萩間川付近この付近の漁業者の一部は,5時前萩間川の水かさが,平常と違うことに気づいた者もあったが,そのまま漁に出かけている。沿岸および萩間川川岸では8〜9時ごろ全振幅2mぐらいの波が20分おきに繰り返され,17時以後は1.5mぐらいになっている。また,退水距離ばなぎさの線から250mもあった。
地頭方(ぢとうがた)海岸7〜9時ごろまでが津波の最盛期で,地頭方海岸では全振幅2mぐらいの波が,20分ぐらいの周期で来襲したが被害はなかった。
浜岡町海岸漁業者の話では,平常は大人の背たけぐらいあるところが,わずか5分間ぐらいで潮が引いたということである。潮位の変化は1.5mぐらいであり,9時ごろ最も潮が引いて,なぎさから70mに達した。被害は皆無であった。
大浜町海岸この沿岸では,8時30分から9時ごろまでの間に潮位が最も高く,潮位の変化は1mぐらいになり,津波の周期は40〜50分であった。菊川河口に施設された水制工事のタシが,海水の侵入により脚部がさらわれ,一部崩壊した程度で,他に被害はない模様である。
御前崎町におけるおもな被害(町役場調べ)は,シラ流失36,ドラムかん(重油)流失5,シラス網流失1,スクリュー破損1,揚陸用モーター破損17,小型船小破1,ワイヤロープ流失1,シラス加工場破損2,モーター小屋破損5などである。
浜松市〜豊橋市舞阪検潮所の検潮記録によると,津波は2時35分に始まり,第1波は3時35分に到達した。最高水位は135cmで,比較的卓越した振幅50cm以上の波についての周期は,約50分ぐらいであった。振幅15cm以上の波は27日4時過ぎまで記録している。
聞き込み調査(浜松市〜豊橋市の海岸線,5月25,26日調査)による海岸線の状況(平常時)を見ると浜松市〜豊橋市間の海岸線は,全体にわたってなぎさより陸地までの間は,砂浜となっており,その間の距離は,遠州平野付近の広いところでは500m,狭い所で200mぐらいある(2.3.25図参照)。渥美半島では,100mから150mぐらいで,陸地は急斜面となり,高台(70〜100m)に続いている。なお,遠州平野付近は東西,渥美半島付近は南東に面した海岸線である。
ごみの打ち寄せられている範囲(2.3.26図参照)を見るとごみのこん跡の線は各所とも一線になっており,これは波が一回しか越えなかったものと考えられる。このこん跡は,西に行くほどなぎさより遠くに達していることから,平常の満潮時より米津付近では水位が50cm,新居町元町付近では60〜70cm,二川町細谷付近では80cmぐらい高かったと思われる。
被害状況を見ると,米津および新居町元町付近のなぎさおよび砂浜には,なんらの変形も認められなかった。
二川町細谷の海岸では,砂浜に多少の変形(住民の話により確認)があったが,海岸線における被害は全然なかった。また,豊橋市の渥美湾に面した箇所も高さ40〜50cm程度で,被害はなかった。
新居警察署署員の話では,漁船のうち,かつお漁船は出漁したが,浜漁業のシラス漁は中止し,警察署前の堀り割り(浜名湖内)は,24日7時ごろから30分ぐらい逆流したが,たいしたこともなく,また,元町海岸では,感じとして大潮ぐらいであったとのことである。
米津消防団員の話では,当日の波の状態は,平常の遠州灘より静かに感じられたとのことである。
浜松市芳川(小河川で天龍川の西方約1km)においては,4時30分ごろ40cmぐらい増水し,その後数回このような現象を繰り返した。
検潮記録では,豊橋土木出張所の調査による潮位の読み取りは2.3.7表のとおりである。
2.3.7愛知県および三重県沿岸
(1)概況*
*調査:名古屋地方気象台
東海地方や熊野灘の沿岸に,第1波が押し寄せてきたのは3〜4時ごろであった。しかし各地の検潮器の記録を詳しく調べてみると,舞阪・尾鷲などにおいてはそれ以前の2時35〜45分ごろに,すでに海面の異常が認められている。
最大波高があらわれたのは,地域や湾の形状によってそれぞれ異なっているが,熊野灘沿岸では5時30分ないし6時ごろ(第3波か第4波)で,波高は3mを越え最大振幅は5mを越したところもあった。
このため,この地方一帯では家屋の倒壊・床上浸水をはじめ,船舶や木材の流失,堤防の決壊など多数あり,このほか養殖真珠いかだの流失被害もはなはだしく,伊勢湾台風でうけた害を上まわった。しかし人命の損失が全くなかったことは,不幸中の幸いであった。津波は伊勢湾・渥美湾内にも侵入してきたが,波高はいちじるしく低くなり,そのうえ最高波が到達した時刻が干潮時にあったために,水位はあまり上らず,被害は一部に床下浸水をみた程度ですんでいる。
(2)各地の状況
伊勢湾は形かほぼV字形になっているため,湾奥の名古屋においては最大波高は割合高いが,渥美湾は入口が狭い袋状であるため,湾奥の形原では最大波高はあまり高くならず,波の減衰も早くなっている。また的矢湾においては,津波による最高水位が現われた時刻は,他と違い午後の満潮時に近い18時2分ごろで,このときに家屋の浸水被害をだしている。
しかし,今度の津波は全般に来襲の勢いがあまり激しくなかった模様で,特に渥美湾・伊勢湾内および渥美半島の太平洋岸では,ごくゆっくり穏やかに潮位が上がったため,一部では全くこれに気がつかなかったものさえある。
もちろん熊野灘沿岸ではこれにくらべると勢が強く,特に退水のときの潮流は激しかった。津波の上陸した回数は,最も回数の多かった熊野灘沿岸,尾鷲町・海山町などの海岸付近では3〜4回ぐらい(津波の最盛期5〜7時)であった。
この方面の津波の侵入状況を図示すると,2.3.27図のように考えられる。この図は各検潮所の記録から,第1波(ピーク)の現われた時刻を求め,同時線をかいたもので,伊勢湾・渥美湾の平均海深はだいたい15〜20mであるが,津波の速度√(gh)はあまり問題にしないでかいた。
(3)踏査報告
(i)鳥羽港
4時50分ごろ急に水の流れる音がして目がさめ,外を見ると下水道から水が逆流してあふれ出してきている。あっという間もなく床下浸水した,と話す人もおれば,なにか外で騒がしくなったと思って,まだ床の中にいると,急に水がはいり始め,布団をあげるのも間に合わない状態であったと話す人もいた。
ともかく,第1波は予告もなく押し寄せたので,どうにも手のほどこしようがなかった。
24日早朝の鳥羽港は,潮の上げ下げが川のようで,一時は激流のごとぎ状況で流速10ktぐらいであった。伊勢湾台風時には,なんということなく過ぎた港の燈浮標も,鎖が切れて流失した。
また市内の巡航船(木造船8t)の1隻が,8時50分ごろの引き潮で船底をついて浸水してしまった。
真珠いかだは港内から流失して一団となり,どれが誰のものかその区別さえつかなくなった。
鳥羽市鏡浦町本浦町から相差町池尻湾まで(鳥羽市本浦町字今浦今浦漁協職員談)
いま思うと,4時ごろすでに津波は来ていた。最高水位は4時40分ごろで,普通の水位より200cmぐらい高く,4時45分ごろにはいかだが流された。第2波が最高で250cmほど,周期は40分から50分ぐらい。最初津波とは知らず5時前舟を出したが,40分ぐらいしたら異常潮位に気がっき津波とわかった。海岸近くの家屋は床上浸水80cm,4時半ごろに老人や子供を山へ連れて行き,その他の者は漁具を流失させないよう作業していた。
その間,押し引ぎの差が約400cmあって,いままで見たことのない岩を見いだした。退水直後は魚や貝がたくさん取れた。魚は浅水と中水との間にいるいか・たこ・かれいの類が,海草にまきっけられていた。最初はこの津波をこわがっていたが,3回,4回と回を重ねるにしたがって,退水時に魚貝を:販るのを楽しみにしている人さえあった。退水速度がゆるいと次の襲来が大きく,退水速度が速いと次の襲来がそうたいしたことがないと思った。24,25日はもちろん,引き続き26日も余波があった。
鳥羽市本浦町(漁業組合において)24日3時半ごろなんとなく異常を認め,4時ごろ第1波が襲来した。30cmから50cmぐらいの波高で押し寄せ,水の増すのは早かった。海面は静かであった。この時,湾内のいかだは岸に流れ込んで,すでにこわれていた。8時半ごろの第6波でいかだは3kmぐらいの地点まで,おれたり形を変えたりして流された。いかだは全部で1,300台(真珠700台で1台30万円程度,かきいかだ600台で1台5万円程度)流失し,28日9時現在3割程度しか見かけていない。いかだ1台の大きさは6m×8mの物で,竹いかだと木いかだとあるが竹いかだのほうが流出距離が大きく,速い流れに弱い。このように被害が多かったのは,湾が東向きでまた奥湾であることの条件が重なったからである。津波は海岸より約100mぐらい上り,海岸近くの家屋で床上浸水20cmぐらいの家があった。老人子供は山へ避難した。防波堤の効果として,イケス舟の流失はまぬかれた。死傷者はない。
鳥羽市石鏡町(漁業組合長談による)24日の5時20分ごろ退潮の速いのを見て,異常であることを認めたところ,保安庁から5時半ごろ津波の連絡があった。ラジオでは6時ごろ聞いた。最高水位は6時前,高低差の大きかったときは8時半ごろで,その差は150cm,周期は15分から30分ぐらいで24日中続いた。しかし25日も余波はあった。襲来時はただ水かさが高まった程度にしか見えなかったが,退水はすごく速く,普通の干潮位より約100cm退水した。ここの防波堤は一字型で,その両端があいているので,被害が少なくてすんだといっている。
鳥羽市国崎(くざき)町(国崎漁協組合員談)24日5時半ごろ,あまりにも潮位が平常より低いので,これは異常と思った。それから20分ほど過ぎると,急に潮位が上り,これを見て津波と気がっいた。そのころ相差のほうからも"津波だから注意せよ"との電話をもらったが,海面は波らしきものがなく静かなものであった。津波警報にっいては,6時ごろラジオで聞いた。
最高水位は普通の満潮位より約120cm高く,最大減水は普通の干潮より150cmほど低かった。周期は15分ないし20分ぐらいであった。
潮の色は黒色で横一すじの波となり襲来してきた。この国崎は太平洋に直面し,湾というものはなく,伊勢湾台風では大変被害を出したが,今度は少なかった。最大波高は第3波の6時ごろで,津波の山と谷の差が大きかったのは,8時ごろから9時,また津波は24日中続き,25日もまだ余波があるように見えた。
鳥羽市相差(おうさす)町池尻湾相差漁業協同組合員の話第1波襲来は4時45分ごろ,普通の満潮位より約100cm高く,顕著な津波は24日の夕方ごろであり,周期は30分から40分ぐらい,最高水位は第2波で,普通の満潮位(15,16日)よりも150cmぐらい高く,退水速度は襲来の時に比べて速く,4馬力の発動機船ではなんともできなかった。退水の時は,普通の干潮時よりも150cmぐらい低く,いままで見たことのないところまで減水した。
最高水位は,伊勢湾台風の時よりも150cmぐらい低かった。津波警報については,ラジオで6時ごろ聞いたが浸水はなく避難する者もなかった。損害は定置網28統流失破損,いかだ(真珠)流失量不明,津波時間は2日間ぐらいで,3日目もまだその余波はあった。
(ii)的矢湾・伊雑浦,およびその沿岸的矢湾24日4時40分ごろ第1波来襲を漁協職員が察知して,各方面に異常潮位を通報した。しかし,こ
の時は津波であることに気づかなかった。ちょうど漁協職員の家の裏が,伊勢湾台風で護岸がくずれているため,そこに潮の侵入する音で気がついたと話していた。それから30分間ぐらいの間隔で,潮の昇降があって,最干潮時の9時20分ごろには平均潮位から180cmぐらい潮が引き,いつも現われたことのない海底が,岸から20mぐらい沖まで見え,逃げおくれたたこ・いかおよび魚類を手て取ることができた。夕刻の満潮時のちょうど18時ごろに最高水位を示し,平均海面から1.5mぐらい上昇した。時間は短時間であったが,これによって部落各所で床下浸水が起こった。的矢小学校は校庭に浸水し校舎は全部床下浸水したために24日は休校した。
この湾内には真珠・かきの養殖場がありこれらのいかだの材木および竹の折れたものが多数あった。24日早朝から夕刻にかけて,30分間隔ぐらいで潮の昇降があり,その流れが急のために,いかだがいかりを引きずって流れながら折れた。特にひどかったのは,的矢港と渡鹿野の間のいかだと,渡鹿野と安乗の間のいかだで,これはメチャメチャにからみ合ってその中に小舟さえ巻き込まれて沈没している。この両所は図でもわかるとおり,特に潮の流れが早かったと考えられる所である(2.3.28図参照)。いかだは印の所にまとまっている。その他の箇所のいかだは,表面から見るとなんら変わらないように見うけられたが,つってある養殖の貝類は,大部分落ちているとのごとであった(的矢漁協組合長の話)。
伊勢湾台風時には,落ちた母貝を拾って,中から真珠を採ることができたが,今回はまだ母貝に核入れをしたばかりのため,どうにもならないのではないかと話していた。また,この津波の最中に流されるいかだを引きもどすため,いかだ引きの船がでて,いかだをつないで引いているうちに,流れる潮と流れてくるいかだにはさまれて,沈没してしまったという事故もあった(乗員は無事救出された)。
潮の流速は時速10ktぐらいあったらしい。
渡鹿野(わだかの)ここは的矢湾内の小島(周囲約4km)で,島全部が遊覧観光地にならている。ここも前年の伊勢湾台風により,浸水したところであるが,今回も観光旅館のある南東部海岸の大通りは,約20cmぐらいの浸水があり,海岸通りの民家はほとんど床下浸水した。ここでは4時40分ごろ大工が異常潮位を認めて,消防分団長に通知し,5時10分ごろスピーカーで部落全体に通知し対策をたてた。6時過ぎに,ラジオでこれが津波であることを聞かされた,と島の農協の書記が話してくれた。
三箇所ここは陸上にはなにも被害がなかった。
磯部・木場・穴川この方面では,24日朝6時ごろと夕刻18時ごろ2回浸水があった。特に穴川の養魚場(うなぎ)は浸水により大きな被害があった模様であるが,詳細な数字は明らかでない。
陸上施設および民家・耕地などについては,たいした被害はなかった。
(iii)英虞(あご)湾
志塵郡志塵町和具
津波来襲後すでに6日も経過しているので,途中の海上も被害を受けた真珠いかだが所々に見られるくらいであった。
長年気象官署に在職し,現在は和具農協に勤務しておられる,浜口左門氏から当日の状況を,次のように説明していただいた。
和具の南海岸は熊野灘に面した港になっており,最高水位は防波堤と比較して2mぐらいと目測された。これは6時ごろと思われるが,はっきりしない。当時は麦秋のため,海岸で早朝から脱穀の準備をしていた者が,5時ごろ潮位の異状に気がついた。英虞湾側と違って,南海岸には真珠いかだもなく,港に舟もはいっていなかったから,特に大きな被害はない。また最大波高時の津波の上陸先端部は平常の海岸線から約100mと目測された。
当日早朝の急激な変化によって,真珠いかだが上下する音や,いかだを係留しているワイヤロープが,切断するパシッ,パシッという激しい音によって,異常に気づいた。
台風による養殖真珠の被害はどちらかといえば,主として海面上で起こるのに対し,津波の場合はいかだの上下運動に加え,うずをまいた急速な潮の流れによっていかだが流失・大破して母貝が海底に落ちてしまうことである。潮の流れは水深の深いところでも激しいから,海底の砂やどうも含めて海水全体がかきまわされ,海底に落ちた母貝の上に砂やどろがつもって,貝を窒息死させてしまう。潮の一番高いときは,港の近くの道路をのりこえ住家まで達したが,浸水による被害はない。
被害はほとんど海上の真珠にかぎられ,浸水などによる陸上の被害は少ない。しかし,真珠関係だけでも2.3.14表のように,ぼう大なものである。
間崎地区津波を最初に気づいたのは,真珠いかだが破損するパシッという音で,4時30分から5時ごろまでの間と思われる。潮の高さは1.5mから2mぐらいとのことである。
志摩郡阿児(あご)町神明(神明漁業協同組合理事三橋進氏談)4時45分ごろ潮が高くなってきて,異常だと気がつき,各関係方面に電話で報告した。
第2波と思われる高潮が6時ごろきた。この高さは,いつもの満潮よりも1mぐらい高かったと思われる。この第2波は,第1波よりも相当高かったようで,陸上すれすれのところまで来たらしい。部落内の低い所は,多少浸水した所もあったようであるが,詳細は不明。
真珠いかだの被害は,第2波の高潮によって流れはじめ,第3〜6波と9時ごろにはほとんと流され,神明の港の南南西約700mの多徳島に流れ着き,その模様は被害が非常に大きく,惨たんたるものであった。引き潮のときは,約4mぐらい引き,100mぐらい海底が見之た。いかだの一部(約20%)は,外海へ流れ出した。
神明支所主任中北氏の話では,3時ごろ一部では,異常に気づいた人があったようである。4時30分ごろ第1波が来て,人々が騒ぎはじめたが,この潮の流れは10ktぐらいの速さであったとのこと。
阿児町神明方面における今度の津波は,台風と違って海水をまるで洗濯機の波のようにかき回し,時速10ktの速い潮がうず巻き,激流のように湾内で荒れ狂ったため,真珠いかだば海流に押しびしゃがれ,ぶつかり合ってメチャメチャにくだかれてしまった。このため母貝も折りかさなって沈んでしまった。
伊勢湾台風の場合は,真珠いかだが岸に打ち寄せられて,落ちた母貝は通路のようにならんでいたため,さがすと大半は見つかり,70%が回収されたといわれているが,今度の場合は,回収不能ということである。
今回の津波では,係留いかりやいかだを結んだロープが切れてしまい,速い潮に押し流されて移動したので,どの漁場でもいかだが交じり合って,所有権さえわからないという。外海の神島には,何百ものいかだが流れついていると,現地ではいっている。
浜島地区5月24目5時40分の波が最も高く,満潮よりも1mぐらい高かった。そのためこの地区でも床下,所によっては床上にも浸水した。しかし英虞湾に特に多い真珠の被害は,いかだが湾口付近で1か所に固まっただけで,大きな被害がなかったのは不幸中の幸いであった。結局このことは英虞湾被害状況図にも示したとおり,津波の主力が湾内の間崎島・四ケ島方面へと向かったので,津波による直接の影響はなく,むしろ二次的な影響だけにとどまったからであろう。このように津波の主力が等深線に向かったことが,被害が少なかった原因であろうと考えられるが,このほかに浜島湾は,その外海と比べてたとえば2.3.30図の湾口部水温分布図でもわかるように,0.5〜2.3°Cぐらい水温が低く,このために浜島湾では,潮流が停滞しがちになることも,その一因と考えられる。この地区での特異な被害は,防波堤の捨て石が流されて穴が開き(一つは直径3〜4mぐらい,他の一つは2mぐらいのもの)トンネルのようになったことである。激しい干満による,湾内と湾外の水位の差が大きな圧力となって,ついに抗し切れなくなったものとみえる。
(iv)五ヵ所浦から伊勢路まで
五ヵ所浦地域津波が床下に浸水して始めて気づいた人が多く,だいたい4時30分ごろに第1波が来襲したものと思われる。しかし漁業協同組合の職員や漁夫の一部には,4時過ぎ潮が大きく引いたのに気づいており,退水速度も早く,水面にあったタンポがぐんぐん遠のき,獅子島付近の浅瀬が2/3ほど現われ,この付近の潮流は一番強かったように思われたとのことである。過去の津波時と同様に大きく退潮してから,津波が来襲したようである。
1944年12月の津波の経験もあり,第2波の大ぎいことを予測して背後の山に避難したが,その時津波報告のサイレンが鳴った。
約30分後の5時過ぎ,第2波が来襲したが,大きな波頭もなく,海面が一様にぐんぐん上昇し,波打ちぎわで大きな音をたてた。
またたく間に床上に浸水したが,これが最高波で平均潮位より4mぐらい上昇していたが,土木事務所の調べもほぼ同様である。
第3波は7時ごろ来襲したが,第2波に比し約1mぐらい低かった。その後は1〜2回道路まで浸水した程度で,夕方の満潮時に1mぐらい上昇したが浸水ばしなかった。
初めのうちは,ほぼ30〜50分ぐらいの周期で来襲したが,その後ぱ不明。なお土木出張所長が津波襲来時刻を観測した結果を2.3.11表に記載する。
紳津佐地域異常現象発見から警報発表までをのべると,(イ)神津佐橋入り江付近の農夫は,2〜3日前から海水に赤潮現象のような感じがしたといっていた。
(ロ)川村光三氏裏2池(4坪,水深50cm)の水が赤土色ににごり,なかなか澄まなかった。過去の大雨時,一時にごることもあるが,雨上がりとともに澄んでしまうとのことである。
(ハ)村の市川つる氏が4時ごろ神津佐川畔で米とぎ中,潮流の異変に気づき,わずか数分で3段から8段まで水位が上昇した(階段間隔約1尺ほど)。このため巡査派出所に急報した。
(二)4時20分ごろ異常潮流を放送,警戒に当たった。
次に津波来襲状況を見ると,警報を出すと同時に第1波が来襲し,道路から床下へ浸水したが,約10分たらずで退水し始めた。退水速度はきわめて早く,ザーという音とともに不安定な物体は,湾のほうへ運び去られた。
引き潮の時はみるみるうちに退水し,海底は約300mぐらいのところまで真黒な地はだを現わした。
約30分後の5時ごろ第2波が来襲したが,海面は大きく浮かび上がりながら海水が上陸し,一瞬にして床上1mぐらい浸水した。橋のたもとの民家は屋根まで浸水し,水中に電流が流れておそろしかった。
その後も2回ぐらい道路まで浸水したが,第2波退水の速度は第1波に比べさらに速く,橋はこのため流出した。この時前回同様海底が現われ,魚を取る土工や海底を渡る人があった。
初めのころの周期は,30〜50分ぐらいであったようだ。
過去の高潮との比較をしてみると,1944年12月の津波のような波もなく,被害は少なかった。また伊勢湾台風時より1mぐらい高かった。
下津浦,木谷地域(漁業組合長談)4時過ぎ津波を観測したが,冠水したのは1〜2回程度で,その周期は30〜40分ぐらいであり,第2波が一番高かった。なお潮の満ち引きはきわめて静かに,海面全体がふわりと浮き上がってきた。引き潮時は満ち潮時の速度より速く,海岸側の海底が現われた。夕方の満潮には浸水しなかった。
1944年12月の津波や伊勢湾台風時に比し約1m高かった。
相賀浦地域(巡査派出所)時間的な潮位の変動は不明だが第1波(おそらく4時ごろ)来襲,前線に激しい海鳴りを聞いた。浸水したのは,湾奥の道路のみで2回程度。
五ヵ所湾口は激流で台風時の濁流を思わせ,真珠いかだに付いているタンポ(タル程度のもの)はみるみるうちに沖に流れ去り,魚の監視所の話ではいかだが列をなして外海に流れ去ったとのこと。24日午後保安庁の巡視船が,贈浦沖1〜2miにこの群を発見した。なおいかだ探し中,あちこちで海底からどう水が吹き上げ大きなうずを巻いていた。
議論(さざら)(巡査派出所および漁業組合長談)異常現象発見から警報発表までをみると,(イ)埋め立て地で地層が荒く,3時ごろに水道の水の流れ出るような音がしたので,水道を調べたが異常なく,家のまわりで水の吹き上げるように感じた。この時地下に浸透していた水が,干潮に伴い地層のすき間から流れ出たものと思われる。
(ロ)3時30分ごろ押し寄せた波のため地下から噴水のごとく水が吹き上がった。
(ハ)4時ごろ漁業組合で津波の有線放送をした。
津波来襲状況と潮流を見ると,第1波は4時15分ごろ,激しいゴーという音を伴って来襲,村中はこのため浸水した。数分後再びゴーという音とともに退水したが,礫湾内の水深7〜8mぐらいのところが2mぐらいまで退水し,あちこち真黒な地はだを現わし,湾の中央付近に水たまりが残った。その後5時前にも第2波が来襲したが,第1波と同じような状況で,退水速度はきわめて早かった。五ヵ所湾口側の潮流はあたかも鳴門の激流を思わせ,大きなうずを巻きながら岸壁を引き流してゆくようであった。
満ち引きには海鳴りをともない,退水時は上げ潮の2倍ぐらいの速度で,いかだのロープは切断され,列車が走るように南方に流れ去った。沿岸ぞいはどう水がうずを巻き,また諸所で噴き上げていた。
浸水したのは第1,2波ぐらいで,その後数回は40分ぐらいの周期で来襲した。
迫間浦地域(役場職員談)4時20分ごろ第1波が去ったが(最初は干潮であったように思う),潮位は春の大潮より2mぐらい低かった。周期は30分ぐらいで次の波が来襲したが,第3波(第2波のように思う)が最大であった。浸水は10時ごろまで繰り返したが,夕方の満潮時には浸水しなかった。
伊勢路川,川口地域4時30分ごろ高浜沖合で漁をしていた漁夫が,東方に大きな白波の押し寄せてくるのを見たので部落に急報したが,その時には第1波が来襲,床下まで浸水していた。40分後第2波が来襲したが,大きな海水が静かに浮かび上がりながら,一瞬にして床上まで浸水した。この時が最大で,内瀬漁業組合員の目測では,波の差は1mぐらいあったとのこと。退水時はザーという音とともに急速に移動したが,この時いかだの群が南方に流れ去った。
浸水は第1,2波だけで,その後周期はだいたい1時間ぐらいであった。
(v)熊野灘沿岸
熊野灘沿岸で第1波が押し寄せたのは4時20分ごろ,最高は第3波の5時30分ごろ(2.3.32図参照)で,沿岸地方では床上に浸水し,昨秋の伊勢湾台風以上の被害を受けたが,人的被害はなかった。
尾鷲市付近当地方は熊野灘に面したいわゆるリアス状海岸であり,湾口の幅がだいたい9km,奥行もまた9kmの袋状となっており,一方北側の入り江は今回最も被害の大きかった海山町引本港と尾鷲港とに分かれた湾を形成し,津波の被害を受けやすい地形となっている。
今回の津波による被害は,早朝で一般家庭が起床時前であったこと,不幸にして満潮時が重なったため,被害を大きくしたと思われる。当地方で人的被害がなかったのは,1944年12月7日東南海地震による大津波を経鹸しているため,津波の恐怖感が先行して,家財道具などにわき目もくれず避難したためである。また港内に停泊中の保安庁巡視船「もがみ」が,異常潮流,すなわち第1回の引き波に気づきサイレンで市民に警告したこともみのがすことはできない。
尾鷲港の検潮器によると,第1の引き波は3時44分から始まり,第1波の襲来が4時24分,第2波の5時10分のとき尾鷲港の海岸線陸上に浸水,海岸線付近の住宅では約50cm浸水した。第3波(最高波)5時40分のときは,陸上80〜100cm(T.P.上336cm)の浸水があり,海岸線付近はほとんど床上浸水し,また市内北部を流れる北川からの逆流で,市内繁華街の一部まではんらんし,民家にかなりの被害を出した(2.3.33図参照)。
また,長浜および天満町付近で,道路上約150cmの浸水で,海岸線に沿ったほとんどの家では,家財道具を流失してしまった。
一方,矢ノ浜方面では,海岸付近にある貯木場を完全に洗い去り,付近の水田を木材で埋め,あるいは湾内に流失し,相当の被害を出した。なお,当市の南西部にあたる九鬼町・三木里・賀田および曾根方面は,津波の波高が割合低く,被害も割合少なかったようである。
今回の津波による潮の侵入速度は,1944年の津波と比較すると非常に遅く,感じとしては海水がジワジワふくれあがるようであったが,退水の際は非常に早く,前の津波と変わらないとの一般人の話であった。最大波高も,1944年のときは,防波堤付近で7mあったから,今回の最大波高はこのときの約半分である。
海山(みやま)町付近第1波(4時20分ごろ)から第3波までが被害をもたらしたもので,第1波以前はいつごろ兆候があったものかわからない。第2波はいつごろか不明であるが,第3波は5時30分ごろで,海山町管内の各町村では,この波高が一番高く,このときの波で相当の被害をこうむった。
第3波襲来時の各町村の浸水状況は,2.3.34図のとおりで,最大波高ば引本3.16m,矢口4.07m,島勝2.81m,白浦2.81mで,矢口が最も高く,浸水区域も海岸から約200mに及んだが,民家が密集していなく,その点引本が,民家の密集度および海岸と民家との距離上から,最も被害をこうむったものと思われる。
長島町付近津波来襲時は,避難するのがせいいっぱいで,5〜6時であったとしか判明しない。津波は3〜5回のものが大きく,中でも3回目のときが被害が大きかった(2.3.35図参照)。
町民の話を総合すると,周期は20〜30分ぐらいと思われる。
津波来襲の様子は,漁師の話によると,始め異常な引き潮に不審をいだき,小舟を沖に避難させたということである。また,陸上にいた人の話では,川の水(水深3.5〜5m)が約1/3ぐらいまで引きはじめ(5時前後),その後20〜30分たって,沖の防波堤下の水面がみるみる盛り上がるのを望見したとのこと。来襲の速度は,寄せるときはゆっくりであったが,引き潮のときは相当の速さで,おそらく発動機船でも流されたと思われるほどであった。
川岸にいた人の話では,3回目(6時近く)のとき,ゴオーと雷鳴に似た,ものすごい音が5分間ぐらい続いたので,びっくりして避難した。引くときは,右にせんかいしてうずを巻いて引いたため,家の軒下や防波堤のわきが広く堀り下げられたとのこと。ゴオーという音は,おそらく,大きな波が防波堤に打ち寄せて,防波堤ぞいに流れてきたための音と考えられる。長島土木出張所では,沿岸各地の最大波高を,波のこん跡から調べた(2.3.35図)。最大波高はいずれも5時30分ごろの第3波で,呼先の3.685mが最高であった。
紀勢町錦(役場・駐在所調べ)錦町の地形は,海岸より1.6mの高さで,海岸に沿って長い平地となり,奥は300mぐらいで山となっている。
津波の始まりとしては,3時40分ごろ異常の干満を認めている(漁師談)。その後の津波は,下表のとおりであった(正確な時刻ではなく,だいたい自己の時計での記憶による)。
第3波が最大波高で,それ以後1・5mぐらいの高さで6回程度襲来している模様。それ以後は,25日の朝まで約30分ごとに50cmぐらいの潮位の干満があった。
南島町付近(役場調べ)全般的に南部より被害は少ないようである。ただ,古和浦・方座浦および神前が比
較的に浸水程度が大きかった。これは伊勢湾台風による堤防補修が未完成のためと,他地区に比しやや低地になっているためで,中でも神前が一番低いようである。また本町の最も大きな真珠養殖組合のいかだは,被害多大というのみで真相は判明しなかった。
いかだの流失は伊勢湾台風のときと反対で,沖合に流失したらしく,そのほとんどは回復されたが,つり下げた養殖かごが相当切れ,またもつれているようで,阿曾浦が最も被害多大とのことである。
町内の各部落はそれぞれ湾口が異なるので,始まりの時刻は一定しないが,ほぼ4時20分前後と回答するものが多く,だいたい尾鷲港の検潮器の観測時刻と一致している。
退水距離は古和浦50m,神前50〜100m,贅浦50〜100mで浸水高は各湾とも1.5〜2.0mぐらいのようである。
周期は,各湾とも20分前後のようである。
浸水状況は2.3.37図のとおりであるが,浸水家屋の詳細を上表に示す。
(vi)被害総括*
今回の津波による被害は,三重県南部,熊野灘沿岸の市町村に限られ,その他のところではほとんど被害らしい被害はなかった。津波来襲の2日後の26日,名古屋地方気象台では,さきの伊勢湾台風により大きな被害をうけた伊勢湾北部をはじめ,知多・三河・渥美地区の海岸を調べたが,津波が上陸して被害がでた所はほとんどなく,ただわずかに三河海岸の平坂港付,近で,若干の浸水家屋があっただけである。
熊野灘の沿岸一帯の地形は非常に複雑で,湾口が直接外海に向かってV字型に開いた,いわゆるリアス状の海岸が多く,津波の被害を受けやすい地形となっている。このため沿岸各地では2.3.38図および2.3.13〜14表のとおり,かなりの被害があった。最もはなはだしかったものは養殖真珠に関する被害で,被害総額はさきの伊勢湾台風によってうけた被害をはるかに上回り,この地方における主要産業に多大な打撃をあたえた。
*調査:名古屋地方気象台
2.4近畿地方(三重県を除く)以南および琉球諸島
2.4.1各地の最高水位*
各官署の踏査報告に基づいて,各地を襲った津波の最高水位・周期などを2.4.1表にまとめた。検潮器を有する官署の資料は,第1章1.2津波の状況と重複するので,本文の報告の中には記述してあるが,この表には割愛した。
数値は踏査によるもので,そのほとんどが聞きとりあるいぱ目測であるため,資料としての信頼度は少ないと思われる。また,基準面も統一を欠いているけれども,だいたいの様子を知るには益するであろう。
和歌山県および徳島県沿岸については,2.4.2〜2.4.3表および2.4.13図にくわしく掲載してあるので,この表には除いた。
*調査:気象庁地震課 浜松音蔵
2.4.2和歌山県沿岸*
和歌山県を第1波が押し寄せたのは4時5〜10分ごろ(2.4.1図参照)で,8時までに5回にわたり3〜4mあまりの津波におそわれ,海岸地帯,特に海南・田辺・白浜付近の床上浸水,道路・堤防・橋,特に水産関係の真珠養殖,施設資材などに多大な被害を与えた。
以下調査の結果を図および表に示す。
*調査:和歌山地方気象台
2.4.3淡路島沿岸*
(1)淡路島福良(ふくら)湾沿岸の状況
鳴門フェリー事務所・阿淡汽船事務所・福良巡査派出所・福良警察署・南淡町役場・福良漁業組合および福良湾沿岸の一般住民から津波来襲時の状況について聞き諏りを行なった。
(i)津波襲来の状況
第1波:海岸にいた人の話。朝の満潮時は静かであったが,平常より潮位が高く不思誼に思っているうち,岸壁すれすれまで潮が高まり,これは変だと感じた(5時20分ごろ)。津波とは思わなかった。
浸水地域の家内にいた人の話「炊事場に水がたまるので,下水が詰まったと思っていたが,下水口から水が逆流してくるので不審に思っていると,"潮が上げて来るぞ"というので,驚いて外に出た。道路わきのみぞにどう水があふれたり,床下に浸水していた。海岸では岸壁の上まで潮が上がっていた(5時半ごろ)が,それ以上は上がらず,防潮堤まではまだ50cmはあった。10分ぐらいの後,潮は急に引き始め,約30分後には岸壁の底が現われ,6時ごろには2mぐらい沖まで潮が引いた(高低差約2.0m)」。
第2波,第3波,第4波:第1波が引いて約10分後にふたたび潮が満ち始め,6時20〜30分には第2波が岸壁下約10cmぐらいまで上ってきた。5分ぐらいで引き始め10cmぐらい引いてから急にまた満ち始め,第3波は7時ごろ第1波の時よりわずか低い程度まで満ちてきた。この時も排水口から低地に潮が逆流し,床下に浸水した家があった。この時も約10分ぐらいで潮は引き始め,30〜40分後に,第1波の時よりさらに1mぐらい沖まで潮が引いた(高低差約1.5〜2.0m)。第4波は8時20分ごろ,岸壁下約30cmのところで止まった。その後も40〜50分の周期で,満干が繰り返されたが,退潮時となったので潮位は低く,干潮の大きさが目だつようになった。
大干潮:第4波以後は,干潮の大きいのが目だった。10時40分,11時30分,12時30分ごろの3回が特に大きく,大潮時にも現われない海底が見えた。それで時ならぬ潮干狩り風景が見られた。貝を堀る時間は15〜20分ぐらいで,特に11時30分ごろの引き潮は大きく,このころの満潮時で3ひろぐらいの沖合まで潮が引いた。
12時35分着のフェリーボートは,大干潮のためさん橋に着岸できず,しばらく沖合で潮待ちをした。また貨物船1隻がこのため瀬に乗り上げ,潮の満ちるまで動けなかった。
沖合の状況:福良港口の洲崎島と煙島の間の瀬戸は,平常でも干満の際潮流が速いが,24日は特に潮が速く,激しく方向が変わり,出入りの船は非常に難航した。沖の漁船も潮流がたびたび変わり,不審に思った者が多かった。また鳴門のうず潮は,この日何回となくうず巻が見られ,奇観を呈したという。
(ii)被害状況
第1波および第2波の際,岸壁の排水口および河口から海水が低地に侵入(2.4.8図参照),床下浸水家屋約70戸を出したが,わずかに土間がぬれた程度の所が多く,たいした被害はなく,海岸倉庫および商店で土間に置いてあった木炭や商品がぬれ,約25万円の損害があった程度である。船舶の被害はなかった。
(iii)潮位の推定
24日午前中に潮位を実測したものはなかったが,最高水位の現われた時刻が満潮時に近く,こん跡がわずかに岸壁に残っていたので,平時(このころ)の満潮面潮位を推定(聞き取り),2.4.9図から当日の水位を推定した。
(iv)津波来襲時刻および潮位
以上の踏査結果を総合すると,次のように推定される。
第4波以後40〜60分の周期で干満を繰り返したが,退潮時であり,上げ潮よりも引き潮の大きさが目だった。
(v)実測潮位
福良巡査派出所では24日18時40分ごろと25日5時40分ごろの各満潮時に標尺を立て潮位を実測した(2.4.5表)。
(2)淡路島東岸(津名町・淡路町)の状況
淡路町岩屋24日岩屋フェリーにおいて聞き取りを行なう。24日の早朝の津波については誰も気づかなかったようで,当時6時が満潮時であったにもかかわらず,いつもと同じ潮位とのこと。フェリー発着所は明石の対岸で島の北端に位置し,東から南にかけて堤防があり,津波を認めがたいところと思われた。ラジオによって津波の事実を知り,その後注意していたが,著しい時間的な変化(常時潮流が変化し明石の対岸と逆流の場合もある関係か?)はなかった。しかし24日昼前30分ぐらいに,30cmあまりの潮位変化を認めたとのことであった。
淡路町仮屋磁気測定所(海上自衛隊)仮屋では24日11時ごろ,潮の引くのを認め,30分ぐらいして潮の押すのを認めているが,潮位については確実な回答は得られないが,相当沖まで一時引いたようである。磁気測定所は海岸にあり(海岸線は北東〜南西に伸びている),40〜50mのところがなぎさで海に対していて見通しが良く,傾斜のゆるやかな砂浜であるところから考えて,やはり30cm以上の振幅はあったようである。
津名町志筑(しづき)(関西汽船荷客扱店)津名町の志筑関西汽船荷客扱店は,毎朝6時30分(洲本6時発)に沖の汽船まで小型木造船を使って連絡荷客を運ぶ関係上,木造船を5時30分に海水におろすことになっており,当日も同じように作業したとき,あまり風もないのに波だっていたのに気づいた。6時ごろ沖の施設中の堤防(満潮時には海水から少し出ている)が急に海面にかくれ,30分ほどしてふたたび海面から現われ,その高低の差が1尺ぐらいあった。その後6時30分の本船まで,荷客を運び浜に帰る途中,6時50分ごろ海面が少しく波だって張っていた。浜へ来てラジオで津波のニュースを聞き,始めて少し影響を受けているなと思った。その後気を付けていたが,潮はいつもと同じように満干潮を示し,平日とくらべ少し海面が小さく波だっている程度で,異常は認められなかった。
津名町塩尾(漁師福岡善太郎談)塩尾は東ないし北に向かって海面をもち,南は蔭となっている関係か,なんら異常は認められなかったが,あとから考えるとおだやかなのに,沖合は割合に張っていたようである。
その他佐野・生穂(津名町)について調査したが,早朝であったこと,またはあまり海面の状態がわずかな変化のためか,聞き取りは得られなかった。
以上をまとめると,津波は東浦においてあまり高く現われず,せいぜい30cm前後でなんらこん跡はなく確実な値は得られなかった。しかし潮位の変化は志筑のように第1波と思われる波を認めており,また昼前に(洲本では10時から11時にかけて)は岩屋・仮屋においても波(振幅)の変化を認めている事実が判明した。なお被
害は皆無で,海岸線の国道に海水の流れた箇所も,全くなかったようである。
(3)淡路島西岸(西淡(せいだん)町・五色町・一宮町)の状況
西淡町阿那賀津波は,7時ごろ少し引き,80cmぐらい(最大らしい)満ち,小潮の満潮時ぐらいの高さであった。8〜9時の間に4回ぐらい潮の満ち引きがあり,海岸で約10〜15mで,深さにして70〜80cmぐらい,以後2時間ぐらいの周期で10〜15分,特に13時ごろから2回大きな満ち引き(振幅約80cm)あり,これは大潮時よりも引き,16時ごろには大潮時以下30〜40cmの潮位となり,港から船を出すことができなかった。付近海上は潮の干満のため濁る。
鳴門海岐7時ごろいままで北流であったのが,1〜2分間のほんの少しの間南流となる(洲本では2波の谷にあたる時間)。以後4回ぐらい潮の逆流があったように思われる。
12時30分ごろ南流であったのが,一時北流となりふたたび南流となる(洲本では干潮で振幅50cmぐらいの津波の山にあたる)。16時30分ごろいつもより30分ぐらい早く北流となる。
西淡町丸山7時ごろ干潮であったのが,急に満潮になり始める。8時30分〜9時ごろは20分ぐらいの周期で,最大50cmぐらい振幅があったようである。10時〜10時30分ごろは,ちょうど満潮時であるが,普通より早く干潮になり,海岸で8m引き,6m満ちる現象が続き,その最大は12〜13mで,振幅にして70〜80cmぐらいであった。17〜18時ごろには大潮時の干潮より多く引いた。しかし津波の振幅はめいりょうでない。丸山沖は潮の移動複雑で,海面はいつもより波だっていた。
西淡町津井干潮は6時ごろであったが,7時ごろいつもより早く潮が満ち始め,8時ごろ満潮となった。海面は10〜20cmぐらい上下し夕方まで続いた(周期30分ぐらい)。
西淡町湊満潮は平常より少し高いように思われた。16時ごろの干潮は大潮時より引いた。
西淡町松帆干潮であったのが,7時ごろわずかに満ちる。10時ごろ満潮となる。午後の干潮は大潮時より少し強く引く,夕方17時ごろ平常の時刻より早く満ちてくる。
五色町鳥飼8〜9時ごろより急に海水上昇波だつ。約20〜30cmで1回目より2回目のほうが高く40cmぐらいで,その後20〜30分ごとに海水が上下していた。
五色町都志ほとんどわからなかったが昼の満潮時間がいつもより長く,2時間ぐらい引くのが遅かった。25日は平常どおり早く引いた。
一宮町郡家(ぐんけ)6〜7時ごろより潮が満ち始め,以後20分ぐらいの周期で潮が上下していたようである。最大振幅は第1波で20cmぐらい。江井検潮所の記録では,第1波は6時前で8cmぐらいとなっている(2.4.11図)。
*調査:大阪管区気象台 岡野敏雄
2.4.4大阪府および尼崎市(兵庫県)沿岸*
(1)泉南海岸
岸和田で聞き込みをしたが,付近一帯も異状ない模様。ただ当地では,潮の流れが早かった。付近の海岸もそ
の程度と思われる。
(2)大阪市内
住吉区で貯木中の木材が,一部漂流した(2か所,約5,000石)。
(3)尼崎市(兵庫県)
引き潮の潮流が早く,港門を閉じるのに苦労したとのことである。また,潮が引いたときは,川底が見えるほどであったとのこと(港門担当者の話)。
*調査:洲本測候所
2.4.5四国地方沿岸*
津波の第1波が四国地方に到達した時刻は,高知県南岸・紀伊水道南部・豊後水道南部では3時過ぎ,豊後水道北部で4時ごろ,伊予灘で4時30分〜5時ごろで,紀伊水道北部で3時30分ごろ,大阪湾で4時〜4時30分,播磨灘で4時30分〜5時ごろと推定されるが,津波の第1波の到達時刻を厳密に推定することは非常にむずかしい。
津波振動の最大全振幅は,高知県の浦戸湾および須崎湾では特に大きく,高知検潮所では約320cmと推定され,土佐清水では268cmであって,高知県南岸では250〜350cmと推定される。愛媛県の豊後水道沿岸では,宇和島162cm,八幡浜145cmであり,豊後水道南部では200〜250cm,北部では150〜200cm,徳島県の紀伊水道沿岸地方では,小松島160cm,鳴門117cmであって,紀伊水道南部200〜300cm,中部150〜200cm,北部100〜150cmと推定される。津波が瀬戸内海にはいると,津波の勢いは急激に衰え,松山では40cm,高松で41cm程度であり,燧1難方面の検潮記録ではほとんど認められないようである(2.4.12図参照)。
津波が強くなり始めたのは,高知県および紀伊水道方面では4時30分過ぎ,豊後水道方面では5時過ぎであるが,ちょうど満潮時刻に近いときであったので,被害を助長したようである。
潮位が最も高くなったのは,紀伊水道方面では一般に6時前後のところが多く,高知県南岸および豊後水道方面では7時ごろから8時ごろの間である。
*調査:高松地方気象台
(1)徳島県沿岸*
徳島県下の津波状況は2.4.13図に示す。
津波の第1波の時刻は,小松島検潮所の記録では3時30分であり,第1波の山の発現時刻は4時10分ごろである。
県南で第1波の山の現われた時刻は4時30分である。第1波は小松島の記録では振幅15〜20cm程度であり,見落しやすいので県南での第1波の時刻は,第2波を示すものではないかと思われる。なお小松島の第2波の山の時刻は5時8分である。
津波の振幅の最大であったのは,最大の被害のあった橘湾であろうと思われるが,正確な記録はない。ついで県南の浅川で4.0mであった。その他太平洋岸一帯は,2.4〜3.0mとなっている。一方,紀伊水道海岸の県北部では,津波の勢いは弱まり,小松島1.62m,徳島1.40m,鳴門1.15mと次第に小さくなっている。
一方,津波の被害に直接の関係をもつ最高水位時の正常潮位からの高まりは,県南の太平洋岸で1.3m以上,特に橘で2.5mから2.9m,牟岐では2.35mに達したが,紀伊水道沿岸の県北部では0.6m以下になっている。
もっとも,県南部では天文潮と重なって,最高波を示したのは第3波(あるいは第4波かもしれない)であり,県北沿岸では第2波であった。
小松島検潮所で観測された津波状況を略記すると,最大振幅1.62mは7時ごろの第5波であり,津波の最高水位は,5時10分ごろの第2波3.06m(T.P.-1.81mをOmとする)であった。
これは朝の満潮時にあたり,当時の平常満潮位より0.57m高い。しかし,この3.06mは年間の大潮最高水位と同じくらいかまたは多少高い程度であるので,徳島県北部では,浸水による被害はなかった。
津波の周期は40〜50分で,20分あまりの問に1mから大きい所は4mの潮位変化があったので,船の衝突や流失による被害が各地で多かった。また,橘の海岸付近では,24日朝夜の満潮時に10回も浸水した。この津波は次第に衰えながら続いたが,平常に復したのは4日後の27日夜であった。
(2)高知県東部沿岸**
(i)概況
津波の第1波は高知県東部の甲浦港で4時50分ごろ,津呂・室戸港でも5時前後に到達した模様で,高潮の最大起時は,甲浦港で6時20分,津呂・室戸港では6時30分ごろから,約1時間にわたる異常高潮を観測した。
最大振幅は実地調査による推算では,甲浦港の3.98mが最大で,津呂・室戸港の2〜4mとなっている。
この高潮による浸水は,甲浦地区で魚揚げ場上23cmの浸水があり,その他下水口からのいっ水によって道路が若干浸水した。その他,被害としては下げ潮のため小型漁船の転覆3,船舶小破1の程度であった。
甲浦港甲浦港に設置されている検潮器は故障中で記録がないが,甲浦漁業組合宿直者が津波襲来当時観測した。魚揚げ場の浸水状況および最大下げ潮時に海中にくいを立てて調べた潮位をもとにして,検潮器井戸の目盛りに換算した結果は,2.4.9表のとおりである。
室戸港・津呂港室戸港の検潮器は故障のため,主として聞き取りおよび当時の状況から推定する。津呂港における最大振幅は遠洋漁船が上げ潮・下げ潮のさい船尾小破したものから推定する。
(ii)各地の津波の状況および被害(2.4.11表)
(iii)その他参考事項
今回の津波による甲浦漁業組合の浸水状況から,同所の過去の記録と比べてみると,伊勢湾台風によるものよりも低く,南海地震の津波にくらべ264.5cmも低くなっている。
*調査:徳島地方気象台
**調査:室戸岬測候所
(3)高知県南西沿岸*
(i)概況宿毛湾沿岸地方では,片島地区では床上・床下浸水と,ところどころで幅6mぐらいの岸壁兼道路が半分ぐらい浸水し,大島地区では床下浸水があり,片島港内養殖真珠に大被害を受けたが,人的被害はほ
とんどなかった。検潮器がないため,確実な潮位はわからないが,各地区の実地調査の結果を総合すると,満干潮位差は3〜5mで,大部分は4mぐらいであった。
浸水は地面の高低にもよるが,10〜20cm程度であった。
(ii)被害(宿毛市役所調査)
(a)家屋床上浸水10戸,床下浸水198戸
(b)農作物関係田浸水85反,畑浸水3町4反
(c)水道関係栄喜水道決壊および新田,水門1か所,小筑紫で堤防決壊92m
(d)道路関係市道大島〜北線延長50m
(e)漁港関係大海ほか4か所,護岸決壊282m,港湾しゅんせつは藻津ほか5か所掃底を要す。真珠は栄喜組合ほか7か所で6,000万円
*調査:宿毛測候所
(iii)実地調査
(a)宿毛市片島地区大島地区での目測観測によると津波の第1波は5時20分,第2波6時25分(潮位は最高で第1波より3cmぐらい高い),第3波7時15分,第4波8時5分である。
当日の推定満潮時刻は5時2分で,新月の前日にあたり潮位もかなり高く,津波は満潮と重なったためいっそう高くなったようである。第2波前後の潮位の変化は,風もなく大きな波もたたず,5分ぐらいの短周期で変化し,海面が海底からふくれ上がるような感じであった。第2波と第3波の問の最大全振幅は後で測定したところによると304cmであった。この時の最高水位は大潮平均満潮位より110cm高く,最低水位は大潮平均潮位とほぼ同じくらいであった。11時30分ごろの干潮時には,現在まで大潮干潮時でさえ引いたことがないほどの異常な干潮となり,第2波の最低水位よりさらに130cmぐらい下がった。したがって第2波の最高水位との差は434cmぐらいになる。このころもやはり5分内外の短周期の変化と1時間内外の長周期の変化であった。
片島港内養殖真珠いかだは第1波で綱が切れ,うず巻状にちりぢりになり,約5分の1が港外に流れ出た。片島地区の大島寄りにある大島小学校では,岸壁を越えた海水が校庭の5分の3,約50m浸水した。また測候所北西下の岸壁兼道路はところどころ浸水した。
大島地区の大島小学校対岸では,岸壁をところにより10〜20cm越えて50mぐらい浸水したところもあり,同地区の家屋密集地帯は凹面鏡状に岸壁より低地となっているため,排水こうから侵入してあふれた海水により床下浸水家屋がでた。
(b)宿毛市樺から愛媛県脇本まで*
宿毛市樺津波の第1波は早朝であったため,ほとんどの人が知らなかった。第2波は6時30分ごろきた。潮位は平均満潮位よりも60cmぐらい高かったが,岸壁より30cm下であった。最低水位はその直後で岸壁より4mぐらい海底が現われたという話であるから,全振幅は4m以上であったと推定される。浸水箇所はなく,被害なし。
宿毛市宇須々木(うずすき)6時30分ごろの第2波の潮位が最も高く,さん橋すれすれまで上がった。平均満潮位よりも50cm高かった。最低水位はその直後で岸壁より4〜5m沖まで海底があらわれ,全振幅4mぐらいであった。
浸水箇所なく被害なし。
宿毛市藻津(もくず)6時30分ごろの第2波の潮位が最も高く,平均満潮面より1m高く,その直後に平均低潮位より1mぐらい下がったので,全振幅は4m以上と推定される。最大干潮時は岸壁より4mぐらい沖まで海底があらわれ,満潮時は岸壁すれすれまで潮位が上昇した。床下浸水家屋10戸。
愛媛県脇本(県境)脇本海岸は遠浅の海水浴場であるが,人家が海岸からはるか高い所に散在しているため,当日の津波の模様を詳細に話してくれる人はいなかった。わずかに第2波の直後に約20m沖合まで海底が現われたということで,推定最大全振幅4mぐらいのようである。
(c)宿毛市田ノ浦から幡多郡大月町まで**
宿毛市田ノ浦田ノ浦では第1波は早朝のため気がつかない人が多かった。第2波の潮が最も高く,平均満潮位より約30cm高かったが,南海道地震のときより比較的大であった。岸壁の低い所ではすれすれまで潮位が上がり,高い所では1mをあましていた。最も潮の引いた時刻は12時ごろで,遠浅の海岸でもある関係で,岸壁から30m以上の海中まで海底が現われた。最大全振幅3〜4m(4m近くあったという人のほうが多かった)。
宿毛市小深浦小深浦では,津波の第1波はほとんどの人が知らなかった。岸壁の高い所では潮位は約1m下であったが,岸壁の低い所では浸水家屋が6戸でた。平均高潮位より30cmぐらい高く,昼ごろ干潮となり,岸壁より約5m海中まで海底が現われた。最大全振幅は3〜4mであったが,大部分の人は4mといっていた。
宿毛市大海(おおみ)第2波の潮位が最も高く,平均高潮位より約60cm高く,岸壁より20cm下まで潮位が上がった。12時ごろ最も潮位が下がり,約30m先まで海底が現われた。40年配の人の話によると,このように潮の引いたのは生まれて初めて見たということであった。最大全振幅は約4〜5mで,高潮時には入り江の最奥部では浸水し,浸水家屋が30戸あった。
宿毛市小筑紫小筑紫は7時20分ごろの第3波の潮位が最も高く,岸壁を30cmあますくらいまで潮位が上
がり,平均満潮面より50cm高となった。最低水位は12時ごろで4m先まで海底が現われた。最大全振幅4mぐらい,浸水箇所なし,被害なし。
宿毛市福良福良では第1波以後,ほとんど高潮位の変化せず,第3波の潮が最も高く,平均満潮位より高かった。遠浅の海岸で,最も潮位の下がった時刻は12時前後で,岸壁から50m先の海底が現われた。最大全振幅約4mで部落にいたる間の中学校・住宅などでは床下浸水があった。
幡多郡大月町古満目(こまめ) 第1波はほとんどの人が気づかなかった。第3波が最高水位を示し,平均満潮位より30cm高く,岩壁より30cm下まで潮位が上がった。港内は水深が深いため,最低水位のときでも海底は見えなかった。最大全振幅約2mであった。浸水箇所なし,被害なし。
幡多郡大月町柏島 柏島において約30名のあらゆる職種の人に尋ねたが,最高水位よりいくらか高かったというだけで,ほとんど人は津波に気づかず,状況は不明であった。ただ高所で農作していた人の話によれば,昼ころ海が異常に見え,岸壁より十数m海中まで底が現われたが,上げ潮のときは平均満潮位くらいまでしか高くならなかったように思うが,高所で望見したにすぎないので,よくわからないということであった。地形から見ても柏島は孤島であるため,来襲した津波が比較的ゆるやかに四囲の海を通り抜けたものと考えられ,島をめぐるりっぱな防波堤の高さは,屋根の高さと同じくらいあり,また堅固であるという安心感から,当日の津波には関心をもっていなかった。
幡多郡大月町安満地(あまじ) 護岸が堅固で,平均満潮位よりも3mも高く築いてあり,人家はさらに数mも高い所にあるため,状況を尋ねることができなかった。
しかし,真珠の養殖場があるが,なんらの被害を受けていないところをみると,津波は案外弱かったのではないかと思われる。
*宿毛測候所 西尾清重・島村稔(5月27日調査)
**宿毛測候所 西尾清重・橋本恒治(5月28日調査)
(4)愛媛県沿岸*
南予沿岸に被害があったが,佐田岬以北では全く被害はなかった。特に被害の大きかったのは,南宇和郡御荘町沿岸であった。その他,北宇和郡北灘村三浦町周辺でも,多少の被害があった。
*調査:高松地方気象台
2.4.6九州地方沿岸および南西諸島
(1)大分県沿岸**
検潮器による津波の第1波および最大波の読み取り値は,2.4.12表のとおりである。
津波が最も大きく,かつ被害を生じた県南部には,検潮器がないので,参考のため佐伯市および高田市付近の状況を調査した。
**調査:大分地方気象台
(i)佐伯市付近(佐伯市消防本部からの文書回答) 佐伯港では6時9分の満潮時には,平日より約1m高い潮位を示し,港付近の低地に浸水し,人々を驚かせた。佐伯海上保安署の調べによると,6時40分,7時30分,8時5分,8時50分とそれぞれ40分ぐらいおきに潮が満ちている。満潮と干潮の差は約2〜3mで,潮流も時速6miということであった。
市内長島川塩屋橋付近(市中央部)では,午前の満潮時からひき続き30〜40分おきぐらいに,潮の動きが激しく干満し,10時ごろまで5〜6回起こった。潮位は50cmほどで,なお余波が続き,川が干上がり,また濁水のため魚が浮き,河岸近くの市民が手で魚をつかまえていた。
津波のため最も被害を受けたのは,真珠養殖業者であり,そのおもなものは,養殖いかだと貝(玉入貝)などである。
(ii)豊後高田市付近(大分県水産試験場高田分場からの文書回答)高田港の満潮時刻は豊前海潮汐表(西国東干拓事務所発行)では8時5分潮位1・1mとなっているが,当日の観測結果では8時5分0.8m,8時30分0.96m(最高),8時45分0.84mを示し,潮汐表よりば満潮位で0.14m低く,時刻には25分の差があった。その後の潮位には異常はなかった。
(2)宮崎県沿岸*
この調査は,宮崎地方気象台職員が直接現地におもむいて聞き取った資料のほか,県下の沿岸各市町村長あて配布した調査カードについてとりまとめたものである。
なお,聞き取りは,いずれも6月2日以後に実施されたものであり,また,6月18日までに入手したもののみを記述した。
五力瀬川河口東海検潮所における観測によれば,津波を認めたのは24日3時ごろ,第1波は押し波,波速5〜6ktであった。また地元の聞ぎこみによれば,24日5時30分ごろが一番ひどく,船(大型30t程度)の出退が困難であった。海面には段波の型は見うけられなかった。24日7時ごろ(漁師の話)引き潮のとぎに,海去に向かう(深さ2m)径1m程度のうず巻が見られた。なお,検潮所では海鳴り有りと報じている。
須怒江(すぬえ)海岸第1波の到達時刻は不明。周期は初め15〜20分だったが,時間の経過とともに長くなった。最高水位は約2m(時刻不詳),海面は護岸を越すほどにはならなかったが,満ち引きの強さのためか,工事用の既完了部分の防潮堤(コンクリート石積みのもの)延長約20mが基礎を洗われ,倒壊寸前にかたむいた。
方財島津波を発見したのは24日5時ごろで,高さ1〜1.5mの波が15〜20分の周期で,速さ5ktぐらいで押し寄せた。海ぶくれの状況はゆるやかであった。
島野浦24日9時ごろの観測による,島野浦港内における潮の引ぎは急速(速さ不明)で,干満の差は大きく,約2mあった。
土土呂(ととろ)港津波を発見した時刻は24日4時30分ごろである。第1波は押し波であった。このときの状況は,土土呂湾一ぱいに海水が満ちて,ちょうど大潮のときのようであった。引き潮ば,大潮の干潮時より余計に引いた。干満の差は約3m,周期およそ30分,波速は人間が走れば追いつくくらいの速さであった。
細島港第1波を認めた時刻は,工業港で3時40分ごろ,商業港でもほぼ同時刻である。第1波は押し波で始まり,約20分の周期で,海面全体が盛り上がるように満ち,谷川のように引いた。干満の差は,湾口付近で2.5m,湾奥部付近で3m程度である。潮の色は黒色をおび平常と変わらなかったが,かつて(1952年11月カムチャツカ地震津波?)赤土色に変わったことがあった。津波の来襲にさきがけて海鳴りを聞いたものはない。24日朝(早暁か),沖に出漁中の漁師も津波を感知していない。
都農(つの)港津波を認めたのは5時ごろ,押し波で波速ば大人の歩く程度。干潮時の正午ごろに,異常干潮を認めた(潮位不明)。
富田港津波現象の最もひどかったのは,24日9〜10時ごろである。一ツ瀬川河口付近の潮の色は黒く濁っていて,押し引きの間隔は10分ぐらい。潮位は平常より50cmほど高かった。
赤江港最高水位の時刻は不明であるが1mぐらい(平均海面上),全振幅は3mぐらい。台風時の潮位(いつの台風か不明)よりは低いが,津波としてははじめての高潮位である。満ち引きの周期は5分ぐらい。
木花海岸清武川河口付近の最高水位は,護岸のこん跡より2m(護岸天端5.648m,今回の潮位3.14m,0位はT.P.-1.14m)。
曾山寺(そさんじ)海岸津波の押し引きの強さはかなり強く,加江田川河口にあった州(長軸20m,短軸3〜5m)が60mぐらい沖に移動してしまった。全振幅ば約3m,その周期は20〜30分であった。最高水位は1.5〜1.8mぐらい,1946年12月21日の津波(南海道)より大きかった。
青島港24日2時に青島を出港し,8時ごろ折生迫漁港へ向かった漁船員の言によれば「折生迫において大きな引き潮にあって転覆した」と。
折生迫(おりうざこ)港岸折生迫海岸の突浪川河口付近の漁船員は・5時30分ごろ波の状態の異常を感じた。干満の差ははなはだしく,2.5〜3mぐらい,周期は30〜60分であった。干満の速度ぱ早く(台風のこう水よりも速い,速度は不明),うずを巻いており,川水は濁った。引き潮では川底が見えた。
内海港第1波,第2波を認めた時刻は,それぞれ24日4時ごろ,5時ごろである。最高水位は7時ごろで,平均海面上+150cm(荷揚げ場天端より一20cm),最低水位は8時ごろ,平均海面下-200cm(海底まで30cm),満ち引きの間隔約30分,満ち潮はいつとはなしに上昇し,引き潮は自動車が走るほどの速度であった(100馬力のエンジン船では逆航困難)。1946年の南海道地震津波にくらべ,今回の潮位は50〜70cm高く,最低水位も50〜70cm低かった。流速はほとんど変わらない。
油津港津波を認めた時刻は24日4時20〜30分で,第1波は押し波であった。波速は自動車の走る程度で,最高水位は5〜6時ごろ現われ約2m,周期は西岸壁における観測者は10〜15分,堀川橋の観測者は約30分と報じている。津波の現象は25日夕刻18時ごろまでであった。今回の津波は1946年の津波より大きい。なお,堀川橋の観測者は海鳴りありと報じている。
外ノ浦港2.4.25図は南那珂郡南郷町栄松岸壁で。潮位の目視観測結果を示したものである(観測者:南郷園芸高校杉元安弘)。観測は24日12時30分から始め,18時10分までの間1分ごとに測定した。この間の最高水位は,18時5分130cm(T.P.上),最低水位は12時40分に-200cm(T.P.下)を示した。最大全振幅は,12時56分に225cmとなった。
栄松・外ノ浦・脇本下の津波状況について,油津測候所長,南郷高校杉元氏,県港湾課渡辺技師の話を総合した結果は次のとおり。
津波の第1波は24日5時30分ごろ,ザーという音とともに来襲し(一般に朝食時であったので,時刻は不正確),一瞬にして栄松では床上浸水(T.P.上190〜250cm),外ノ浦では床下浸水となった。この津波もやがて引いたが,また襲来し浸水した。この状態が7時過ぎまで続いた。
脇本下の水田は,5時30分ごろから8時ごろまで浸水(脇本下の標高は250cmぐらい)した。
17時ごろ,ふたたび道路上まで浸水(標高160cm)した。
*調査:宮崎地方気象台
(3)種子島*
津波の起こったのは,24日4時ごろから25日2時ごろまでである。海水の異常に気づいたのは,24日6時30分で,大潮の満潮時よりやや潮位が高く,みるまに潮が引いて,6時44分最高となった。振幅は約1mで,30分ぐらいの間隔で繰り返していた。9時ごろからしだいに弱くなり,干潮のためもあるが,午後にはほとんどおさまった。
県土木事務所の検潮器によると,6時30分最高水位2.95m(推算潮位は1.90m)を示し,また最大全振幅は2.60mあった。
(4)奄美群島
(i)奄美大島**
概況:24日早朝,本邦太平洋岸の各地を襲ったチリ地震による津波は,これと前後して当地方にも及んだ。
このため多数の人家が浸水するなど,被害が大きかった。
名瀬港では,満潮時の6時ごろがもっともひどく,最高水位4.4m(最大干潮面より)を記録したが,9時ごろから次第に平静に復し,その後多少の振動を繰り返しながら,夜にはいっておさまった。
津波の状況:名瀬海上保安部の検潮記録によると,最初に異常が認められたのは4時55分である。4時55分〜6時10分の間は4時55分にいたり急に潮位の変動が激しくなってきた。6時までに押し引きは4回に及び2m以上の潮高に達した。しかし振幅は小さく,最大0.8mであった。6時になって,にわかに潮が引き(潮位0.7mとなる),6時10分急速に最高水位に達した。この時検潮器が故障したが,後の調査によってこの潮高は4.4mとわかったが,時刻は不明。なお,この高さは当時の満潮位より2.5m高くなっている。
6時10分〜7時30分の間は検潮器が故障したため正確なことはわからないが,この間の初めに潮位は最高に達した模様である。また,目撃者の話を総合すると,大きな周期は約30分が卓越し,潮高は4m内外と思われる。
7時30分〜8時10分の間は潮高はやや低くなり,2.0〜2.5mぐらいになった。
8時10分以降は振幅もほとんど1mを越えることもなくなり,9時以降は干潮時でもあり,危険はなくなった。しかし,干潮が大きくなり12時12分に-0.35mを記録した(実測値)。このような状態が14時ごろまで続いたが,その後は夕刻の満潮時も大きな変化はなく,夜にはいって平静に復した(2.4.27図参照)。
(ii)阿久根市***(阿久根測候所の調査による)
漁業組合職員の報告によれば,18時から19時までの間に3回ぐらい増減して,その差約2mぐらいとのことである(いずれも目測)。
(5)各地の被害****
(i)大分県(大分地方気象台の調査による)
南海部郡米水津(よのうず)村大字色利(いろり)港護岸決壊2か所,48m,58万円。
同郡蒲江町および米水津村,漁網流失2統4万円。破損11統。真珠いかだ138台。
同郡蒲江町猪の串港舟だまりの堤防損傷35m(中腹流失)。
また佐伯港で,つないであった木材が流失しかかったが,ほとんど回収した。
(以上は5月28日現在,県警察調べ)
(ii)宮崎県(宮崎地方気象台の調査による)
被害は特に県南部に多く発生している。そのおもなものは,青島港・内海港・油津港および細島港における船舶の破損または沈没など32隻,南那珂郡南郷町栄松における岸壁決壊(150m)に伴う同町床上浸水・床下浸水など家屋合計313戸,被災者総数800名を数えた。
5月25日現在,宮崎県警察本部調べによる被害状況は,下表のとおりである。
(iii)鹿児島県
(a)奄美大島(名瀬測候所の調査による)
この津波による被害は奄美群島が多かったが,特に奄美大島本島が最も大きく,その中でも名瀬市と笠利村が被害のほとんどをしめている。
被害内訳は2.4.15表(大島支庁調べ)のとおりで,その他名瀬市内において,商品の損害が相当額にのぼると患われる。
また,名瀬測候所でも次の被害があった。
水素ガス実管52本,空管110本,レーウィンゾンデ5個が冠水。このうち実管37本は海中に流出したが,2日後に全部海中から引きあげた。
(b)種子島(種子島測候所の調査による)
負傷者1,船の破損5,水田2町歩(海水流入)
(c)枕崎市(枕崎測候所の調査による)
床下浸水3戸。
(iv)熊本県(熊本地方気象台の調査による)
熊本県では,天草方面に被害が発生した。同方面は太平洋岸ではないので,津波警報は出ていなかったが,潮位の上昇で八代海に面した地方が被害をうけた。
本渡(ほんど)市(本渡警察署管内)床上浸水3戸。床下浸水3戸。
天草郡新和村(本渡警察署管内)床下浸水10戸。水田冠水10ha。坑木流失27.8m^3。
たきぎ流失600束。
本渡市下尾戸(しもおど)(本渡警察署管内)ひ門決壊。バス道路浸水のため一時交通しゃ断1か所。
牛深市魚貫(牛深警察署管内)真珠養殖用いかだ流失約50万円。
*調査:福岡管区気象台・種子島測候所
**調査:名瀬測候所
***調査:福岡管区気象台
****調査:福岡管区気象台
2.4.7琉球諸島*
(1)概況
24日朝,沖縄本島では空前の津波に襲われた。特に,久志村・羽地村・石川市その他中北部では5時半ごろから数回にわたり津波があり,6時30分ごろが最も高く,このため,2.4.16表のような大ぎな被害を生じた。水位の一番高かったのは久志村で,満潮面から約3.2m,羽地村では約2.3mであった。なおこの津波は,琉球各島で観測され,宮古島でも被害を生じたが,その他の島では被害はなかった。
(2)観測資料
(i)那覇港における異常潮位観測
那覇港琉球水産株式会社北側突堤の先端において,気象台職員が9時15分から11時30分,14時5分から16時30分までの間,5分ごとに潮位を観測した(2.4.30図参照)。
津波の最盛期を過ぎた9時以降においても,周期は30〜40分,潮位変化の最大125cmを観測しているので,石川・大浦・真喜屋などにおける津波の高さが2〜3m以上あったというのも,ほぼ見当づけられる。
市内十貫寺橋に設置してある気象台の水位計(スクリュー式)は,潮位変化の最大(前々日の満潮面よりの偏差)76cmを記録している。これから推定すると,那覇港・泊港では,当日満潮時に約76cm,潮位が異常に上昇したことになる。
各測候所からの報告によると次のとおり。
久米島6時ごろ具志川村鳥島および仲里村真泊で,異常潮位があった。仲里村奥武(おいくぶ)島では約45cmの異常潮位があった。
石垣島6時30分ごろ約136cm(満潮面から)の津波があり,数回続いた。
西表(いりおもて)島満の干満の現象ひん発,潮位変動約50cm。
宮古島平良市6時48分3.48m(基本水準面から検潮器による)。さん橋突堤で約1.4m。床下浸水33戸。
与那国島および南大東島異常潮位は認められなかった。
(ii)被害総括
被害は主として沖縄島中・北部に生じ,特に真喜屋・大浦・石川・屋慶名(やげな)ではなばだしく,その他各地の海岸で小被害を生じた。真喜屋では水死者3名をだしたほか,校舎その他の建物に大きな被害を生じた。警察局公安第2課でまとめた,村別の被害内訳を2.4.16表に示す。
なお,水田などの浸水は,直接海からの大波ではなく,川を逆流した所が多い。
(3)沖縄島内踏査報告
(i)久志村浸水区域は2.4.31図に示した(村役所調べ)。これで見ると,波は直接護岸を越えて来たほかに,川をさかのぼってはんらんしたのが多い。たとえば福地川の場合,なぎさ付近ではんらんし,一応中断してさらに三原付近で川の流域の水田にはんらんしている。また,字久志でも,海岸近くはなんともなくて,川をさかのぼった奥のほうではんらんしている。海岸にサンゴ礁のリーフのある所も,潮は護岸を越していないようである。
直接波が護岸を越えて来る場合の方向も,各地で同じではなく,海から陸に向かって直角に近い角をなしていた。たとえば,大浦では南から北にはいって来たのに,杉平では北から南に向かって侵入して来たようである。
津波の来襲状況を総合すると,だいたい次のとおりである。
第1回5時30分ごろに二見・大浦間の海岸線の道路を越えて,潮が上陸した。
第2回6時ごろに部落内に侵入し始めた。
第3回6時20分ごろ最も高く,災害はこのとき生じた。その後も,約30分の周期で数回来襲し,4,5回までは部落内に少しはいったが,以降はたいしたことはなかった。
各部落を踏査して調べた結果は,次のとおりである。
大浦大浦は,西は大浦川,東は南北に走る標高70mの山にはさまれた,東西の幅約150mの細長い部落である。海面からの高さは低く,川の堤防から約1m下で,土質は砂であることから,昔は川か海であったと思われる。2.4.33図の各地点の最高水位を,満潮面から測定した結果は,次のように推定される。
A点:海岸から約50mのところで,波の高さは地面から70cmぐらいと推定された。
B点:海岸からの距離約43mのところで3.1m。
C点:ここにある家が,津波のため北北東に約1.3m移動した。
D点:3.0m
E点:部落内のため,満潮位からの高さはわからないが,地上約1.5mあった。
F点:2.3m
G点:2.2m
H点:3.2m。大浦湾の東半分は破壊されてしまったが,当時,杉平でバスを止めて目撃した運転手の話では,ちょうど6時20分に大津波が来て,橋の欄干は見えなくなり,約10分たって波は引いたが,その時にはもう橋の半分は跡かたもなく壊されていたそうである。
楚久(そく)(二見)楚久は海岸の方向(南東)だけ開いて,三方が山に囲まれ,真中を小さな川が流れ,その流域に水田がある(2.4.34図参照)。部落入り口A点(海岸から約40m)で話を聞くと,第1回は5時30分ごろで,地面から約60cm(平均満潮面から約1.2m)まで津波が来たので,避難した。津波がおさまってから,最高水位をさがしてみたら,屋根がわらの下から2枚目ぐらいであった。この点は地面から2.3m,満潮面から2.9mであった。ここでは,直接護岸を越えて来た波は,B点(海岸から約130m)まで侵入し,川をさかのぼったのは,さらに70m奥のC点まではいったそうである。ここでは川の堤防を越したのはなかった。
杉平(二見)杉平のA点では,12坪ぐらいのわらぶき屋根の家が,60cmぐらい南南西に移動していた(2.4.35図参照)。その北側にある家(B点)は,同方向に5.2mも移動し,道路側のコンクリートベいがこわれていた。
ここでの話によると,5時30分ごろ床下まで(ここでの地面は,平均満潮位から約1m)浸水したので,裏の山に避難した。6時ごろには軒下(地上2.1m),3回目の6時半ごろには約2.3mまで上って来た(満潮位から約3.2m)。この3回目にコンクリートベいが倒れ家が移動したそうである。この家の北隣の家(C点)は,コンクリート・ブロックで壁を造ってあったので,全然動かされていなかった。杉平橋東側にあるわらぶぎの家は,軒まで水が来てほとんど使用に堪えなくなっていた。杉平橋は橋の上面近く(水面から約3.3m)まで,海水が上がったそうである。なお,海水は杉平川を約200m上流までさかのぼったとのことである。
石川市石川警察署および市役所の調査した津波による浸水状況の概要は,次のとおりである(2.4.36図参照)。
6時30分ごろ,潮が少し上がって来たがたいしたことなく,7時ごろ最も高く,石川橋北側の海岸べりの家の井戸わくを越え,床上10cmまで上がった。7時25分ごろ,市内に浸水し始め,低地帯では大人の肩の高さまで浸水(15分ぐらい),7時50分ごろ,海岸よりの一家屋(9区)は,道路に流され,他の民家も浮いた。海岸線の堤防が決壊し,砂が流失した。7時53分ごろも潮が上がったが,前より高くはなかった。
その後も数回,小さな波が寄せて来たが,たいしたことはなかった。直接海から来たのは,道路をわずかに越えた程度で,川をさかのぼったのが,流域の水田にはんらんした。
ほぼV字型をした湾奥に,石川市は位置しているため,かなり高い潮位になったが,測定の結果,満潮面からの津波の高さは,2.6〜2.8mぐらいと推定された。
真喜屋(羽地村)海岸近くにある真喜屋小学校が,最もひどい被害を受けたので,そこの先生に津波来襲の状況を聞いた。
第1回,5時30分,運動場に浸水,約40cm。
第2回,6時15分(学校の柱時計が止まっていたことから推定)。
その後,約40分の周期で何回も打ち寄せたが,2回目が一番大きく,被害はこの時発生した。第6回の9時までは,運動場に浸水したが,後はたいしたことはなかった。波は壁をなさず,ゆるやかな傾斜であったが,波頭はくずれていた。
調査に行った24日午後,14時過ぎたまたま海岸にいた時,潮が急に寄せて来始めた。時刻は14時35分で,みるみる寄せて来たが,14時43分にはやんで引き始めた。この間の潮の上がった高さは約75cmあった。ここで最も高かったのは満潮位から2.26mあった。運動場の木麻黄には,地上約1.9mのところに枯草などがくっついていた。
付近の住民は,第1回の高潮で津波とわかり避難したが,老婆2人と少女1人は逃げおくれておぼれ死んだ。
潮は海岸から200m東の道の近くまで寄せたようであるが,破壊されたかやぶきのかやや,家財道具があちこち水田の中にちらばっていた。学校近くのかわらぶきの小さな家が,1軒西のほうに300mぐらい流されていた。
人の話によると,津波の直後,木麻黄の枝にやどかりがたくさんついていて,海岸ではカニがたくさん,ぞろぞろはっていたとのことである。また,津波のあと,近くの海には魚がいなくなったと話していた。
*調査:琉球気象台
第3章 チリ地震現地踏査報告*
3.1まえがき
1960年5月24日わが国は太平洋岸を襲ったチリ地震津波により多大の被害を受けたが,この津波に対する気象庁の警報業務は十分にその目的を果たしたとはいえなかった。これは全く,このような遠地津波に対する知識の不足によるものであった。筆者は命により現地に津波を起こした地震の跡を視察していささかでも将来の遠地津波警報に資するものを求めるため,8月10日チリに向け東京を出発し,約30日にわたり,現地の資料集収および現地踏査を行ない9月15日に帰着した。現地においては地震および津波の資料はチリ大学地震研究所(主任代理Kause1教授)およびチリ気象台(台長B.Flores氏)で,また被害表は日本大使館(大使矢口麓蔵氏)を通じチリ国会発表のものを得た。
さらに震災地の視察はチリ大学地震学教室のGajardo助教授に案内していただいた。ここにこれらの方々に深謝の意を表する。
3.2前震・本震・余震
1960年5月21日10時22分ごろ(GMT)チリ国Concep-cion付近に大地震が起こり相当の被害を生じた。米国沿岸測地局(USCGS)の決定によれば,震央は37.5°S,73.5°WでConcepcion市南方50kmの地点にあたり規模Mは7.5であった。この地震が始まりで,その余震ともいうべき地震が次々に起こり,そのうちには規模が最初の地震ど同等あるいはそれ以上の地震が3回もあって,初めより33時間の後,すなわち22日19時11分20秒(GMT)に日本に津波をもたらした大地震が起こった。
USCGSの速報によれば震央は38°S,73.5°Wで,それはConcepcionの約100km南方の陸上にあたる。しかしその後,同じUSCGSにより震央の位置が震度分布により暫定的に訂正され41°S,73.5°Wとなった。その位置はValdiviaの南方約100kmの陸上の地点にあたる(3.2.1図)。気象庁の検討によれば前者のほうが験震上正しい。
さて,その後に6月末まで起こった余震ではMが7を越すものはなかった。5月21日以後に起こったおもな余震の震央の位置を,USCGSの資料に基づきプロットすると
3.2.1図のようになる。図に見られるように余震域は37°Sから47°Sまで,すなわち距離にして南北約1,100km,東西約300kmの大陸と海洋にまたがった細長い地域を占めていて,速報された震央がその北端に,また訂正された震央はほぼその中央に位置している。本震が余震域の一端に起こるということは日本の地震についていわれているが,速報の震央はそうなっている。また余震域がほぼ地かく変動の起こった地域と考えられるから,津波はこの海域から起こったものと思われる。
日本の三陸地震の余震域は8.7×10^4km^2といわれているから,このチリ地震によるものはその約4.6倍となり,その規模の大なることは驚嘆すべきものがある。
*調査:気象庁地震課 広野卓蔵
3.3震度分布
5月21日のConcepcion地震および22日の本震の各地の震度については,チリ大学でアンケートにより各地の地震動の模様を知り,それによってメルカリ震度階による震度を決定したものがある。まだその値を2で割りチリ震度としている。これらチリ大学が収集した資料をもとにしてチリ震度で描かれた前震および本震の震度分布は3.3.1図のようになる。
メルカリ震度階は12階級あるからチリ震度は6階級となり日本の震度階の数と同じになるが,実は全く似て非なるものである。いまメルカリ震度階をI(M)とすると,それに対応する加速度A(ガル)との関係はGutenbergによれぽlogA=I(M)/3-1/2であるから,チリ震度階を1(C)とすればlogA=2I(C)/3-1/2となり,震度1増加することに10^(2/3)ガルずつ加速度が増加する。一方日本の震度階I(J)に対応する加速度は(I(J)-1)/2<logAI-log(0.8)<I(J)/2,400ガル<A7の関係があるから,震度1増加することに10^(1/2)ずつ加速度が増加する。そこで上の関係を用いてチリ震度による3.3.1図aの震度分布を日本の震度階による震度分布に作りなおしたのが3.3.1図bである。
等震度線は東方の山岳地帯の資料が十分ないので正確なものは引きにくいが,南北に長くなるような傾向がある。また改正された震央の位置がちょうど激震地区の中央にきているのは当然であるが,この震央より北へ測った最大有感距離は約1,000kmになっている。これは1933年の三陸地震の場合とほぼ一致する。ただし三陸地震の場合は震央が海岸から約200kmの沖合にあったため地震による直接の被害が軽微であった。
地震動のありさまを示す一例としてChiloe島Chacaoの気象通信員からチリ気象台に報告されたものをあげる。「22日の午後Sergio Duranの酒場でトランプ遊びをしていたとき14時57分に地面がゆらゆら揺れ始めたので,わたしの仲間は外へ飛び出したがわたしは動かずにいた。すると急に事態が悪化し,酒・飲料・ラジオなどを載せたたながもう床に倒れているのでわたしも外へ飛び出し,立っていようとするとてんかん病のように踊って仕方がないから地面にかがみ込んだ。地震は震度9(メルカリ震度であろう)で,しかも6〜7分続いた。そして地面の回転運動の結果だれも立っている者よなく皆よつんばいのまま動けなかった。そして結局皆地震が過ぎ去るまですわっていた。いくつかの家が倒壊したがみな木造で,学校の防火壁がくずれ隣りの家の上に落ちてそれを破壊した。(後略)」

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3.4地かく変動
この地震に伴って大規模な地かく変動が起こった。そのありさまはチリ大学の資料によればほぼ3.4.1図に示したようになる。すなわち,北はLebuから南はCeiloe島の南端Isla Guafoまでの約700kmの海岸に沿うて変化が起こった。Lebu付近では約1m*,この沖合Isla Mochaでも1.5m,またIslaGuafoでは3〜4mの上昇があり,その中間は全部沈降となっている。太平洋沿岸の沈下の最大はMaullin付近の2mである。また海岸より約20kmの内陸にはいったValdiviaでは1mの沈下があったが,80km離れたPto.Monttでは沈下はほとんど気づかれていなかったので地かく変動はそれほど内陸までは及んでいないように見える。ただしChiloe島のQuellonにおいては約2mの沈下があったと報ぜられている。しかし,この広い震源域に一つの検潮器もないので,正確な昇降量はもちろんのこと,その後の変動の推移を知る手段がない。
当初沈下地域ばかりのように見えたので軟地盤が地震動によって収縮する影響も考えられたが,この地方は変成岩が分布している地帯で筆者は特にValdiviaおよびCorralについて注意してみたが岩盤が露出している所が所々に見られ軟地盤の沈下でないことがめいりょうであった。
なお,これだけの大変化に対して陸上では断層らしきものはついに発見されなかった。しかしこのような大変革が短時間にして起こるためには地表に現われると否とにかかわらず断層のごとき破壊現象が地下において起きなけれぼならないと考えられる。
*Lebuから南50kmの海岸は砂浜で地かくの隆起のための海岸線が約1km沖に前進したといわれ,飛行機よりよく見ることができた。
3.5津波
津波の最も激しかったのはPto.SaavedraからIsla Guafoまでの約550kmの海岸で,約10mの高さの津波が押しよせた。チリ大学の測定によれぼ,Mehuin,Corra1,Ancudの波高はいずれも約13mであるが,東京大学の高橋教授・堀川助教授らの測定によれば,Pto・Saavedra,Mehuin,Corral,Ancudで8〜9mとなっている。
この間の沿岸には検潮記録は一つもなく,以前Corra1にあったものも津波で流失した。この津波の最も激しかった地において起こった大波の回数はすべて3回で,最後のものが最大であった。
Lebuより北の海岸では一様に津波が小さく,Lota,Araucoではチリ大学の資料では1m程度,堀川氏の測定でも2〜3mとなり,さらに北方ではTalcahuano,Valparaiso,Coquimboなどの検潮記録を見ても(3.5.1図)最大波高(山から谷まで)はそれぞれ4m,1m,1.5mというように小さくなっている。かくのごとく地かく変動地域を少し離れるとすぐ波高が小さくなっていることは注意すべきことである。
津波襲来のありさまを示す一例として現地の新聞紙上に現われた当時Corra1港に停泊していたSantiago号のR.Rierce船長の談話を紹介すると,「最初小さな地震が,次いで大きな地震を感じた。太陽の美しい日であった。多くの船がCorra1の湾内にいた。突然船が動き出した。われわれは船上からCorra1市を見ていた。人々が叫ぶのが聞こえた。建物が倒れ始めた。そのとき海水が引きつつあり,説明のつかない雑音を聞いた。海水は急速に引いていた。そして船が海底についたかと思われたとき,その瞬間に海面が上昇し,信ずべからざる方法で波止場のほうに引き付けられ,波止場を越えて反対側に行って綱が切れた。自分は全機関で後退を命じた。これでわれわれは助かった。なぜなら,われわれが水に抵抗しているときにいま1隻の船(Carlos Havenbeck号)がわれわれに向かってきて,すぐそばを通り抜け,市のほうへ流れて行ったからである……」と。
前記Chiloe島Chacaoの気象通信員の報告によればChacaoでは「潮は引き潮であったが,しかし平穏だったのに潮に逆らって荒れ狂ううず巻きで真白になってあわの海水が上ってきた。これは2時間ぐらい続き,この海水の突進を恐れて人々は高い所へ避難し,岡にある家に1週間以上も逃げていた。結局,津波はChacao水道には起こらなかった。潮位は平常よりも1m高くなったが,その下がりかたは非常にゆっくりであった……。」すなわちChacaoでは津波が起こらなかったが1m程度の沈下があったことがわかる。
なお,Corra1もMaullinも津波が来たのは地震後約15分といわれているが,その前に前記のごとく地震と同時に引きがあったものとすれば,陸地よりも海底において,沈下がより激しかったことまた波源が岸近いことを示している。また津波の最も激しかった海岸が地かく変動を起こした沿岸に限定されていることは,津波の波源が岸に沿って細長く横たわっていることを示している。
この付近の海はチリ北部のような深海の海こうではないが,2,000〜3,000mの海こうが陸地に沿って延びている所である。この場所で10m近くの津波を発生せしめ,しかも日本まで伝わってきて危害を加えるほどの強力なものとなることは意外とするところであるが,これについて次に考える。
まず検潮器記録について見るに,3.5.1図はTalcahuanoの検潮記録で,その上半は21日の前震による津波を記録したものである。21日の地震の震源地は陸地ということになっているが,地かく変動が海底にも起こったため小津波が起こったと考えられる。TalcahuanoはConcepcion湾の湾奥にあり,湾の105分周期の振動がよく現われていて第2〜3波が最大となっている。津波は地震(06:02現地時間)より約30分遅れて始まっている。湾の周期より見て,湾内に侵入してから湾奥まで達する時間は約26分であるから,地震とほぼ同時に外海から侵入したものと見られる。この津波はVa1-paraisoやCoquimboにもわずかながら現われている(3.5.3〜4図参照)。
次に本震の津波は地震(15:11)後約1時間にして第1波がTalcahuanoに始まっている。湾内は26分かかるとし,外海の深さ約1,000mとすると波源はLebu沖あたりになる。ここは地震とともに隆起した所でその流れ出しが第1波となったものと思われる。Talcahuanoの第2波は第1波から約2時間遅れて起こっている。ValparaisoやCoquimboにも第1波から2時間ぐらい後に新しい波が来ている。日本の北海道から東北海岸にかけての検潮記録にも同様に初波から2時問ぐらい後に顕著な波の始まりが見られる。これを見ると,これらの第2波は波源においてすでに発生していたものであることがわかる。これについて考えるに,前記の如くLebu付近から南方に行くほど海底が沈下しており,Maullinあたりで沈下量最大となりそれから次第に上がってIsla Guafo付近で再び降起していると思われるが,北方のLebu付近から南方はあたかも海底が南方に傾斜したのと同様であるから海水は南方に向かって流れ込むであろう。流れ込みながら次第に波形となり波動となって伝搬して行くであろう。また同様に南方Isla Guafo付近の海底隆起による海水の流れは北方に向かって起こり,それが波動となって北方に伝わって行くと考えられる。Isla GuafoからLebuまでの距離は約700kmであり沿岸から数十km沖合の平均深度1,000mとすれば長波の平均の速度は6km/minとなり700kmは約120分で来ることになる。すなわち実測と合う。かように津波の初めは沿岸に沿う流れとして始まったものと思われる。堀川氏によればMocha島における津波は南西から来たといわれているが,上の説明に合う。
さて,次の問題はこの主要な津波がなぜ1時間の周期をもったかであるが,上記の海水の南北運動があるときその南北両端に海底の浅堤があれば,そこで一部反射し一種の振動を起こすようになるであろう。3.5.2図は震源地付近の深さ分布であり老れは不満足な資料であるが,38°S線付近に浅い所が堤防のように突出しているように見える。また南方44°付近にも浅部がありそうである。いまここに浅部があるとすると,この両端を北はMocha島から南はGuafo島までとるとその距離は約550kmとなる。初め沿岸に沿って生じた流れは,両端で反射し,帰りはもっと沖の深い所を進むであろう。その速度は沿岸から沖合100kmの深さ2,000〜3,000kmを取ると約9km/minとなるから,この間の長波の進行に要する時間は約60分となり1時間周期を説明することができる。チリのLebuより北方の海岸で津波の高さが小さかったのも北辺の海底堤防による波のしゃ断によると考えれば説明される。またこれによりいくぶんでも津波のエネルギーが方向づけられたこともあるであろう。
次噂波のエネルギーの顯を行なう。津波を長波とすれば全エネルギーは180Σ((ρg)/2)An^2・λn^2・Sで与えられる。ただし,ρ:海水密度,g:重力加速度,An:洋上の島の検潮記録で相続く振動の片振幅,λn:島の付近の波長,S:波源において1°の角をなす相隣れる波線が島の付近において開く距離,また,波源が海岸にあるとし,かつ波は一様に発射されるとして180を乗じてある。USCGSによるChristmas島の検潮記録および第4章の津波伝搬図からλとSを読み取ってエネルギーを計算すると1.3×10^23エルグとなる。また同様にJohnston島の記録より計算すると3.8×10^23エルグとなる。1952年のKamchatka地震(M=8.25〜8.5)による津波をMidwayその他の検潮記録より上記と同様の計算によって求めた結果は約4×10^23エルグであったから,今回のものはKamchatkaのエネルギーとほぼ同程度であった。したがって,今回の津波がけたはずれに大きかったとは思えない。したがって日本に津波の大きかった理由は地球の球面のために波のエネルギーが収束したためであるといえるであろう。
Talcahuano,Valparaiso,Coquimboの検潮記録を見ると1日および2日あとにも海面の振動が大きくなっている。そのおもな極大値および発現時を表にしたのが3.5.1表である。余震表を見ても本震の次の2日間には規模(M)が6以上の地震は起こっていないので,これは本震のときの津波がどこかで反射してきたものと考えられる。第5章の津波の伝搬図より見れば,チリより北進した津波が日本付近で反射したものと,西進したものがニュージーランド付近で反射したものとの二通り考えられ,それぞれの往復時間はほぼ44時間と24時間となり,よく極大波のいくつかを説明することができる。
被害チリ国会において5月30日に発表された被害表によれば当日までの総計は死者909名,行方不明834名,重傷235名,軽傷432名で,建物の被害は%で表わされているので数は不明である。
おもなる市町村の死者数と全壊家屋め%を3.5.5図に示した。道路・橋・鉄道・通信線などの被害はいうまでもないが,津波の被害が非常に大きく,北からPto.Saavedra,Mehuin,Corra1,Maullin,Ancudなどの都会地は特にはなはだしかった。また地震によっては前震で破壊されたConcepcionを除き,Valdivia,Pto.Montt,Ancudの各都市の被害が特に大きい。これら都会地の被害状況は全面的なものではなく,川べり・海岸・凹地などに人工的に作られた地盤のみはなはだしく破壊され,したがってその上に建てられた構造物は不等沈下のため大被害を受けている。また木造家屋が相接する所に設けられたれんがやコンクリートの防火壁,あるいはそれらのへいは倒壊したものが多い。かなりの建物でもその基礎はくい打ちせず,簡単にコンクリートのわく,ないし板を作って基底としているので地盤の破壊による不等沈下にはきわめて弱いのである。被害の最大のものは沈下による浸水で失った土地と家屋であろう。
3.6結語
今回の現地踏査によりよくわかったことは,浅い海でも規模の大きな地震のときには大きな津波が起こり得るということであった。これについて思い出されることは,本地震に似ているといわれている南海道地震であるが,安政元年(1856)にも同様の大地震があり,そのときに津波の高さ最高16mその他11mなどの記録があるが,昭和の南海道地震では5mとなっており,なぜ昭和の津波が小さかったか疑問とされていたが,安政の地震のほうがはるかに規模が大きかったためであり,また今後もそのような大津波が起こる可能性があることがはっきりと知ることができた。
次にわかったことはチリが遠隔の地ではあるが地球が丸いために,日本に災害をもたらすのに非常に好都合の位置にあるということ,したがってチリ地震は油断がならないということである。
第4章 津波警報の発表*
4.1まえがき
チリ地震津波の襲来にあたり気象庁を初め各津波予報中枢では津波警報を発表した。その警報は津波の第1波が日本の沿岸に到着してから急いで発表されたものであったが,津波の最高となる時刻がさらに遅れてきていたので,警報が効果を発揮した所もあるが,場所によっては間に合わず,115名の大きな犠牲者を出したことは誠に遺憾に耐えない。
このような大きな遠方からの津波に対しては今まで十分な知識がなく,したがって,気象庁の警報組織も,もっばら近海の津波にのみ対処するようにでき上がり,警報発表技術も近海津波を仮想してでき上がっていたのであった。このような状態にあるところにチリ地震津波が来たのであるから,各中枢とも全く寝耳に水のようなできごとであった。以下に記するようにチリにおいて大地震が発生してから津波警報が発表されるまでの経過を見ればこの点の事情を明らかにすることができるであろう。
この苦き経験にかんがみ,遠方の津波に対する組織の強化および,米国津波警報組織との連絡の緊密化を現在推進しつつあり,再び今回のごとき災害を繰り返さぬよう努力している。
*編集:気象庁地震課 酒井乙彦
4.2本庁地震課の処置
昭和35年5月23日チリ地震発生とともに,地震電報など順次次のごとく情報の出入および処理が行なわれた。
23日
時,分,地点日付,発震時,P〜S
O4,56,札幌発 412 23 9 04 29 51 614 4 099 3 (地震電報)
05 20 東京観測 662 23 9 04 15 52 999 4 099 3 (〃)
06時30分 AP通信社から電話。
「05時15分チリ国務大臣発表。チリに大地震。ポートモント1建物倒れ,火事発生,被害詳細不明,レブー市津波,被害不明。」
06時47分 尾鷲発 663 23 9 04 25 53 340 4 099 3 (地震電報)
07 20 清水発 885 23 9 04 31 18 256 4 099 5 (〃)
07 38 広島発 765 23 9 04 15 41 678 4 805 3 54054 (〃)
07 49 鹿児島発 827 23 9 04 31 22 617 4 099 3 52536 (〃)
08 29 宮崎発 830 23 9 04 16 03 927 4 099 3 52334 (〃)
08 35 長野発 610 23 9 04 15 55 929 4 099 3 53530 (〃)
08 58 福岡発 807 23 9 04 31 18 618 4 099 5 52210 (〃)
09 36 秋田発 582 23 9 04 15 52 999 4 099 3 91528 (〃)
08 30 津波警報今週当番調査官出勤
08 50 前夜当直者地震計室(皇居内)から地震課へもどる。「21日19時32分全国に記録したチリ方面の地震(前震)と類似。これのマインカ地震計の最大全振幅約6cmなりしに今朝のものは12cm,どこがPやら不分明」を報告。
津波があったらしいので震源を調査しようとしたが,前述の入電資料では調査不能。今朝配達のJapan Timesに前震の人的被害数が発表してあるのを利用し,この分布からだいたいの震源として37°S,73°Wを推定。両者は前震-本震の関係にあるものとみなす。
09時50分 各管区気象台,名古屋・新潟両地方気象台,松代地震観測所へ次の震源電報を打電。なお松代へはMの推定を依頼する電文を付す。
シンゲン」23 04 15チリ南部ナ 37 セ 073(訳23日4時15分にチリ37°S 73°Wに地震あり)
10時09分 グアム島から入電。EP 22 04 15 24(S)19 19
10時20分 米軍から入電。「ホノルル地磁気観測所(HMO)は次の津波に関する注意を発表した。36時間前にチリで大地震発生,災害を起こすような津波が発生した可能性がある。現在バルパライソとパナマのバルボアに津波観測を照会中,このような津波が発生したとすれぽハワイにはだいたい今夜半,オアフ島には30分遅れよう。われわれは有用な報告を得てできるだけ早く必要な勧告を発表するつもりである。」*
12時ごろ,米軍横須賀基地から照会あり,下記脚注のむね応答。
12時18分 松代地震観測所からMはだいたい8.75と回答あり。
13時10分 米軍からの情報入手。「津波勧告。23日04時南緯37度,西経73度に地震発生,次報を待て。」
13時19分 米軍から10時20分と同文のもの入電。
18時57分 次の米軍情報が入電。
「14時16分の情報参照。次の報告をHMOから受けた。勧告した海面異常かRapaで14時,Tahitiで15時と15時10分に観測した二つの波は津波が太平洋に広がっていることを立証している。Papeeteサンゴ礁で15時に観測したものは1m,Christmas島では17時現在まで海面異常はない。ハワイに予想される津波の程度はまだ予想できない。」
次いで次の情報が入電した。
「次のMessageをハワイ州のKuniaから受けた。市民および軍へ与えられたものである。津波警報。チリに起きた大地震は太平洋を広がっている津波を発生させた。第1波の到着推定時刻はハワイ島にはハワイ時間の夜半,オアフ島には30分後である。危険は数時間後であろう。津波の程度は予想できない。ハワイ島の南部が最初に襲われ,ハワイ諸島の他の島に予想される災害の初めのものとなるだろう。太平洋上の他の島々の津波到着推定時刻は次のとおりで,これらは正確なものではないが,最も権威ある報告に基づいたものである。Tahiti:19時,Christmas:17時,Samor:19時,FijiとCanton:19時,Johnston:20時,Midway:21時,Tahiti訂正:15時(GTM)。」これは日本時刻16時45分米軍電報局受け付けとなっており,同文のものが24日12時にも入電した。
*震源は一応陸地になるが大地震らしいこと,および前述AP電やこの米軍情報などから津波発生のおそれが考えられ,津波が発生し日本まで伝わるとすれば何時ごろになるかをあたる。USCGS発行Seismic Sea Wave Travel Times to Honolulu(Communication Plan for Seismic Sea Wave Warning System)および昭和8年3月3日三陸沖大津波の南米への伝搬図などから所要時間約22時間,だいたい明朝2時半ごろになることを知る。ついで津波の程度はどのくらいになるかを当たる。この地震は最大級のものとして津波の発生規模も三陸沖大津波および安政元年の大津波などが考えられ,後者のサンフランシスコにおける検潮記録約30cmからだいたい50cm内外を見積る。以後は津波発生の事実の確認と太平洋に広がっているかどうかである。発生したかどうかはHMOの検潮網によるバルパライソおよびバルボアからの報告に基づく米軍情報,伝搬状況はホノルル諸島特にハワイ島における観測に基づく米軍情報である。津波が発生し太平洋に広がっておるならば,当然日本の太平洋沿岸には海面異常が起こるであろうからそのむね情報として発表する必要があると心用意をする。
24日
04時26 分広尾から入電「広尾港において相当海水の引く現象がある(約4mぐらい引いている模様),また各沿岸よりも電話連絡あり,津波などの傾向なきや至急お伺いす」。
04 27 宮古から入電「4時ごろより海の津波波襲来中,4時ごろより引き潮中,かなり大規模なものらしい」。
04 37 宮古から第2報「宮古海岸付近津波で避難中,詳細不明(両石全員退避)第2波に備える」。
04 50 広尾へ返電「津波は23 04 15チリ中部の地震によるものと思われる」。
04 53 仙台から照会(電文後出)。
04 55 仙台へ回答(電文広尾へのものと同文)。
04 56 八戸から入電「高潮58 1 24 10 3 15押し波」*現在非常に引いており,引き潮による舟の被害起きている」。
05 10 釧路から入電「高潮襲来中。検潮室へ近寄れない。高さ約3m,24日04時現在」。
05時10分ごろ当番調査官へ当直者から電話連絡。調査官は前日の次第からチリ地震による津波と即断。各管区・名古屋地方気象台あて注意をうながす電報の打電方指示。即刻出動。上記各電を当たり関東・東海道沿岸も津波警報発令の要あるを断定。
05 20 津波警報発令「7区8区弱い津波」。
4.3各管区気象台の処置
(1)札幌管区気象台
23日04時29分感震器鳴る,地震発生を知る。
04 52 本庁へ地震電報打電(電文前出)。
10 11 本庁から震源電報入手(電文前出)。
24日04時17分 広尾から入電「広尾湾において相当海水の引く現象がある(約4mぐらい引いている模様)。
また各沿岸からも電話連絡あり,津波等の警報なきや至急お伺いします」。
04 25 調査官出勤,異常潮の原因調査,該当地震記象なく,また天気図上からは高潮のおそれもなし。
04 32 広尾から再び入電「十勝沖地震のときよりも潮の引き方が多く沿岸住民が心配しているので大至急返こう(なおこの引き潮は第2回目)」。
この電文からこの異常潮は津波現象ではないかと判断。
04 41 広尾へ指示「日本付近では津波を起こすような地震は観測されていないが本庁に照会中,詳細調査中なるも注意を厳重にされたい」。
04 41 浦河へ照会「検潮器による状況を至急お知らせこう」。
04 42 仙台へ照会「本道太平洋沿岸で異常潮位の現象あり,貴管区にても同様現象なきや至急お知らせこう」。
04 45 浦河から入電「当地沿岸3時30分ごろより異常干潮起こり始め,4時30分現在まで干満潮2度目で庶野方面で船だまり干潮時には干上がる程度で3時ごろより現在まで2度目で当地現在満潮の状態になりつつあり」。
襟裳岬方面でも異常潮位が反復されている事実からこの異常潮位は津波現象と断定。
観測課長出勤検討協議。津波の原因となるべき地震はチリ地震しか該当せず,M:8以上あるものと判断。津波が来るとすれば今朝と推定。
04 56 広尾から第3報「第2回目の増水で防波堤埋没す(約3m増水)」。
本道太平洋沿岸に津波来襲は確定となったが津波の規模を判定する資料がないため津波警報としては「津波おそれ」を使用。
05 00 津波警報発表「2区津波おそれ」。
(2)仙台管区気象台
23日本庁からの震源電報によりチリ地震の発生を知る。Mの報告はないがウィーヘルト地震計の記録から「有史以来の大地震ではないか」「津波があるのではないか」など話題になる。秋田以外には転送せず,関係者以外にも伝えずでおわる。
24日04時18分 仙台電話局から電話「釜石で2〜3m引き潮津波ではないか」(予報当番電話をうけ観測当番へ電話連絡)。
04 20 県警から電話「気仙沼で7〜8尺の高潮」(予報当番受話「すぐ調べる」むね回答)。
04 22 宮古から入電「4時ごろより津波襲来中4時ごろより引き潮中かなり大規模らしい」。
04時19〜25分 観測当番は即刻地震計室へ走り,地震記象を認めず,ブザーで拘束調査官召集。仮眠中の観測員召集。
調査官は情報を分析,八戸へ状況照会
04 28 県警から電話「石巻・女川で2m引く」。
04 30 石巻から電話「舟が横になって流される程度」。
04 30 女川町役場から電話「女川・出島で6m引く」。
04 35 雄勝町役場から電話「4時10分現在引く」。
04 35 該当地震なく,気象潮の可能性もなく,事情を技術部長へ電話連絡。
04 36 宮古から第2報「田老4mぐらい」。
04 36 水位資料収集指示電発信。
04 39 宮古から第3報「4時30分推定2mぐらい,いま検潮所に行っている」。
04 41 宮古から第4報「釜石避難O4 26完了」。
04 47 小名浜から入電「今朝4時20分ごろより漁業組合より異常引き潮について報告あり,現在検潮所へ行き調査中」。
沿岸各地からの照会連絡多数。以下時刻不詳。
八戸「5〜6m引く」。塩釜海上保安本部「4時20分八戸海上保安部からの連絡によると現在非常に引いているのでこのあと津波がくるのではないか」。女川「4時45分押し」。気仙沼町役場「4時30分押し引き」。七ガ浜「4時40分現在まだ引いている。7〜8尺」。これらおよび一般照会には「現在調査中,危険だと思われたら急いで退避するよう」を回答。事態急迫。
04 53 本庁へ照会「今朝4時20分ごろより東北沿岸に異常潮位あり原因を至急おしらせこう」。
04 55 本庁から入電「津波は23日04時15分チリ中部の地震によるものと思われる」。
非拘束調査官も04時35分召集され,地震計に該当地震のないことを確認,前日のチリ地震に疑をかけ地球儀により到着時間を見積り約22時間を得,これを技術部長へ報告「弱い津波」発令の指示を受く(04時55分)。
04 59 津波警報発令「4区弱い津波」。
05 08 NHKへ伝達(発表文の内容を大幅に書き換えなくてはならなかったので手間どる)。
(3)名古屋地方気象台
05時ごろ津から電話「三重県南西部熊野灘沿岸に異常高潮あり」。
05 30 津から再び電話(その後の情報を報ず)。
05 45 本庁へ報告「津気象台からの報告によれば24日4時40分過ぎ三重県南部の伊勢で津波らしぎ異常潮位1m,浜島3m,吉津から長島にかけては3〜4m」。
05 57 本庁へ照会「9区沿岸に既報の津波らしき高潮観測しつつあるについては津波警報を発する要ありやお指示願いたい」。
06 00 本庁から回答「弱い津波の警報発令する必要あり」。
06 07 津波警報発令「9区弱い津波」。
(4)大阪管区気象台
05 05 和歌山から電話「白浜通報所からの電話連絡によれば,白浜町綱不知湾に4時40分前から異常干潮起こり津波の徴候があるが津波襲来のおそれはないか,白浜町民は続々避難しているがどうか」。
当直者は即刻地震計室へ走り点検。該当地震記象なし。調査官宿舎へ走り報告,指示を受く。
05 15 和歌山から再び電話「白浜から処置について催促あり,当台にては原因不明。とりあえず臨機の処置をとるよう指示せり」。潮せき関係であるから神戸海洋気象台へ照会せんとす。
05 28 本庁から指示(電文前出)。
05 30 徳島から入電「日和佐湾・牟岐付近4時30分ごろ1〜2mの津波あり」。
05 50 観測課長へ報告。管下への指示を得。06時登庁。
05 50 高知から入電「今朝浦戸湾・須崎湾に津波あり」。
05 59 名古屋から入電「4時40分過ぎごろ三重県南部の伊勢湾で津波らしき異常潮位1m,浜島3m,吉津から長島にかけて3〜4m」。
06 02 室戸岬から入電「今朝4時半ごろより甲浦方面は潮位1mの情報あり室戸方面あまり顕著でない」。
06 05 大阪築港分室へ電話照会「検潮器では05時40分ごろ第1波現われ,O6時過ぎまた上昇のけはい見ゆ」との回答を得。
以上技術部長へ報告。
06 06 本庁からの指示を管内へ流す。
06 08 高知から入電「今朝浦戸湾・須崎湾に津波現象あり」。
06 09 管内へ状況をJM109通報式で報告方指示。
06 19 宿毛から入電「5時20分ごろ異常潮位あり2m,床下浸水家屋出た模樗」。
以上を検討し台長へ報告。
06 35 津波警報発令「11区12区弱い津波」。
(5)高松地方気象台
05 35 高知から電話「今朝浦戸湾・須崎湾に津:波現象あり,桂浜付近では関東震災当時の状況とのことである」。
05 43 徳島から電話「徳島,日和佐付近に1m余の津波あり新町川の水位が上昇中とのこと」。
06 05 観測課長召集。
06 10 観測課長登庁。非常態勢にはいる。
06 10 高知から再び電話「津波来襲中であるから至急手配方要請」。
06 15 徳島から入電「日和佐・牟岐付近に4時30分ごろ1〜3mの津波あり潮平常より引きつつあり」。
06 15 宿毛から入電「5時20分ごろ異常潮位あり(2m)床下浸水家屋を出した模様」。
06 15 高知から入電(前出電話文に同じ)。
この津波の原因は前日のチリ地震によるものと仮定。津波の速度を太平洋の平均水深4.5kmとして計算,所要時間22時間半となりだいたい一致することから断定。津波の程度の予想資料なく困難。津波の最盛期は第1波(前記入電中から4時30分とす)からかなり遅れる,持続時間が非常に長い,瀬戸内海沿岸は約50cm,太平洋岸の最悪地は最大振幅3〜4mなどと推定。
06 20 大阪経由本庁からの指示電入電。
06 30 津波警報「15区弱い津波」。
(6)福岡管区気象台
05 29 本庁から指示(電文前出)。
06 14 宮崎から入電「NHKの情報によればハワイ付近の地震により三陸は避難命令が出たよし。当地方の土土呂で満潮時にもかかわらず異常潮位で潮が引いているそうです。対策いかん」。
06 19 鹿児島から入電「今朝6時ごろから名瀬・宇検・任用・龍郷地方に高潮あり床下浸水多数あり,他の地方もあるかも知れぬが不明,今後の指示をこう」。
06 28 宮崎から第2報「異常高潮。土土呂0530ごろ1m引く。日南市細田高潮(高さ不明)あり油津検潮器調査中」。
06 51 大阪から入電「弱い津波11,12」。
06 51 高松から入電「弱い津波15」。
上記の各資料から判定し太平洋沿岸に異常潮位が起こりつつあることが判明。しかし過去に前例がないので昨年2月南西諸島に異常高潮があった程度のものと推定。
06 55 大分・宮崎・鹿児島・屋久島へ注意指示「チリ中部の地震に伴い太平洋沿岸に弱い津波ある模様。
警報は出さぬが注意されたい」。
07 19 油津から入電「1周期34分最大振幅182cm(06 04)」現在継続中,被害は浸水なく,堀川に係留中のいかだが切れて浮遊している。最大偏差プラス90cm(05 05)」。
07 45 津波警報発令「弱い津波16」。
4.4沿岸気象官署の処置
次に各気象官署で津波警報入手までに処理した分を各署の報告に基づき,同じ要領に編集したものは次のとおりである。ゴシック書体のものはそれぞれの処理時刻である。
(1)根室測候所
04 00 ごろ,花咲港漁協漁民から電話。引き続き 歯舞・落石などから電話多数。札幌の照会電,札幌から地震計記象有無照会電。無記象を返電。札幌から情況照会電(これらはバタ電のため時刻内容不明)。
05 03 津波警報入手。
(2)網走地方気象台
05 10 帯広 04 50 発表の高潮注意報受信。気象状況から電文内容に誤りがないかを札幌へ照会電。誤りがないだけの回答に不審感。6時のニュースで解明。
(3)釧路地方気象台
03 50 厚岸床漂郵便局から電話「潮引く」。
04 00 昆布森・霧多布から同。
04 10 調査官へ連絡・地震計点検。根室へ照会電。異常なしの回答。
04 20 調査官検潮所へ。このころから電話照会多数。
04 30 広尾から報告。台長・技術課長へ連絡。登庁。風力塔からは不明,検潮記録を期待。
04 45 広尾から「津波襲来中」の報告。
04 50 調査官と連絡不能,オートバイ故障遅れて帰台。検潮所浸水で入室不能,目測3m。札幌へ第1報。
05 00 津波警報入手。
(4)帯広測候所
04 10 広尾から電話。
04 20 現象確認のため広尾へ照会電。現在3mの回答。
04 27 釧路へVHF(超短波)で照会。
04 45 釧路へ再照会。詳細不明なるも3m内外は確実との回答。
04 50 高潮注意報発表。
05 03 津波警報入手。
05 15 高潮注意報取り消し。
(5)広尾灘候所
03 57 黄金道路美幌部落長から電話「十勝沖地震より引き潮が大きい」。
03 59 フンベ漁民からも同。
04 05 所長浜辺へ。波打ちぎわから300〜400m退潮中。
04 18 札幌へ照会電。帯広へVHFで釧路に連絡依頼。
04 20 漁業組合,警察から連絡。帯広へ電話照会。
04 30 札幌へ連絡。
04 38 釧路へ照会電。
04 41 札幌から回答。漁組・警察・役場へ伝達。
04 43 帯広から釧路・根室の状況入手。
04 50 帯広から高潮注意報入手。
05 02 津波警報入手。漁組・警察・役場へ伝達。町民山地へ避難中で連絡不能。海上保安部浸水ひどく伝達不能。港湾修築事務所へは役場から連絡方依頼。
(6)浦河測候所
03 40〜50 警察から庶野で潮異常,津波来たると騒ぎおると連絡。地震計点検。
04 00 町内から照会。以後照会間断なし。
04 15 庶野から電話。
04 17 構内居住調査官登庁。
04 20 浦河港の潮位異常見ゆ。
04 30 第一技術係長登庁。
04 45 札幌へ連絡。無線気象報傍受態勢とる。
05 00 所長登庁。塔上から海上観測撮影,津波ではないかと判断。
05 04 津波警報入手。海上保安署・日高支庁・警察・電報電話局・駅へ連絡(役場・漁業無線局は出ず)。
(7)苫小牧測候所
05 02 富川住民から照会。所長応答。
05 03 津波警報入手。
(8)室蘭地方気象台
04 50 イタンキ浜漁民から電話。海面監視。
05 03 津波警報入手。
05 20 札幌・浦河へ情況打電。警報伝達(05 30〜40)電務区・消防署・胆振支庁・市役所・警察署・海上保安部・港湾修築事務所。
(9)森測候所
04 50 警察から鹿部沿岸200m退潮中と連絡(漁民一巡査派出所一森警察一森測候所)。
04 57 尾札部沿岸300m退潮。連絡経路同前。
05 00 所長登庁。
05 09 津波警報入手。警察・役場・消防署・漁協組・駅・港修築事務所へ伝達。
05 25 NHKニュースでチリ地震津波であることを知り,前記各機関へ伝達。
(10)函館海洋気象台
04 59? 〜測候課へ津波警報入電。直後,戸井漁民から照会。警報を回答。原因不明。
05 15 予報室へ海上保安部から「道東で高潮があった趣であるがこちらはどうか」と照会。「気圧配置からは高潮のおそれなし」と回答。以後,椴法華・尾札部・下海岸・市内山背泊町などの漁民から電話(測候課と予報室と連絡がつく)。
05 28 警報伝達。
05 40 海洋課長検潮所へ。
(11)宮古測候所
当直者2名は3時の定時気象観測通報後日本放送深夜番組を聞いていたところ3時半ごろのニュースでチリ地震のためハワイが被害を受けているむね放送。
03 40 津軽石漁協から「法ノ脇に波が上がった」。
03 49 大槌役場から「潮位が高い」。
03 55 不明箇所から「藤原に水が上がっている」。
04 01 警察から警報の有無照会。
04 04 山根漁協から同。
04 09 山田役場から同。これらにはチリ地震によるものと思われるが公報がないので詳細不明のむね回答。露場から海上を監視したがうす暗く不分明。電話照会あいつぐ。4時の定時観測通報後直ちに第一技術係長・調査官に連絡。第一技術係長は海況監視,調査官は官舎居住者全員召集の手配。
04 20 引き波が異常に大ぎくなりつっあるを知る。
04 23 「津波襲来中4時ごろ引き潮,かなり大規模なものらしいの第1報仙台へ打電。市のサイレンは4時5分ごろ吹鳴。このころ全員登庁,第一技術係長非常勤務体制組織。
04 24 仙台へ第2報「宮古避難中,両石全員退避」。
04 30 2名検潮所へ派遣(2時間交代)。仙台へ第3報「押し波宮古岸壁へのぼる」。
04 33 仙台へ第4報「田老4m」。
04 37 仙台へ第5報「推定水位04 30 2m」。
05 00 仙台へ第6報(04 49までの検潮器水位)。
05 15 津波警報入手。警察・電話局・無線局・放送局・消防署・救難所・駅・福祉事務所へ伝達(05 28完了)。
(12)小名浜測候所
04 47 仙台へ第1報「今朝4時20分ごろより漁業組合から異常引き潮の報告あり,検潮所へ行ぎ調査中」。
04 56 仙台へ第2報「4時40分ごろより目視観測により小名浜港内異常高潮(約3m)」。
(13)水戸地方気象台
23日1625震源電報(チリ地震),職員に周知。
05 10 常澄村民から電話r澗沼川約60cm水位上昇」。
05 15 那珂湊気象観測所から電話「湊海岸5時までに4分間隔で5回干満を繰り返す」。
05 30 久慈町民から電話「潮が堤防を越えた」。津波警報入手。日立消防署・県庁・各新聞支局・県警・那珂湊気象観測所・建設省水戸出張所・東電水戸給電所へ伝達(06 15〜06 30)。
(14)銚子地方気象台
04 35 外川漁民から連絡。直ちに名洗検潮所へ電話するも宿直者津波のために混乱20分を要す。技術裸長へ連絡。
05 10 までの間に鴨川警察・茨城県鹿島警察消防団・波崎漁業会など10余か所から照会。検潮器で3時35分ごろ(+)226cm,(-)5cm(スケールアウト)を確認。
05 29 非常報で本庁へ打電。
05 34 津波警報入手。県警本部・銚子海上保安部・銚子漁業用海岸局・消防本部・土木出張所・犬吠燈台へ伝達。
(15)津地方気象台
23日1027チリ地震震源電報入手。
04 44 南島町から電話「約3mの高潮あるも原因いかん」。
04 46 伊勢警察から電話「五ヵ所湾方面異常潮約3〜5m避難開始原因不明」。
04 53 鳥羽警察から電話「管内数か所で1〜3mの高潮」。
05 00 名古屋へ電話報告照会。尾鷲から照会。名古屋へ照会するよう回答。
05 05 名古屋から電話「チリ地震による津波らしい」。
05 08 浜島町から電話「異常潮約3m」。
05 10 鳥羽警察から照会。
05 15 南勢町から電話。
05 20 南島町から電話,原因説明警戒要望,沖合操業は安全を回答。
05 26 大台警察から電話「錦浦で約1.5〜2m」。
05 30 名古屋から本庁では7区,8区へ津波があるかもしれないとの注意報を出したと知らさる。
05 39 名古屋からVHFは金華山中継所の電源がはいらないため通話不能と入電。
05 40 鳥羽検潮所から予報官私宅へ電話(当台電話混雑して通ぜぬ由)検潮器観測報告。予報官この報告を持って登庁。
05 43 浜島から電話「今後の推移P」。厳重警戒を要望。
05 45 伊勢警察から電話同前,被害情況入手。
06 10 名古屋へ以上の情報電話。
06 19 津波警報入手。
06 20 県警へ伝達。
06 40 県警から電話「6時ごろの津波により被害じん大,今後の推移?」。「確信はもってないが干潮に向かっているので徐々に好転の見込み,厳重警戒要望」。
(16)尾鷲測候所
04 30 ごろ市民から異常潮照会。津・名古屋へ照会せんとするが不能。当直者単車で検潮所へ。検潮器調整の上帰所。
06 00 津波電報打電。6時のラジオニュースで各地の実状承知。
06 10 本庁・名古屋・大阪へ情況打電「津波あり第1回04 20 市内海岸浸水,第2回05時ごろ。第3回05 40 次第に強まる傾向あり」。
06 22 津波警報入手。海上保安署・消防本部・市役所・警察・駅・漁協2,農協3,漁業用海岸局・熊野商船KK・紀北駐在室・鰹鮪協組・尾引巡航船・土木事務所・熊本市役所・海山町役場・長島町役場へ伝達(入手からだいたい30分間で完了)。
(17)潮岬測候所
05 15 古座漁業組会から異常潮の電話照合。
05 20 串本製氷会社から同。
05 25〜30 当直者調査官・第二技術係長に連絡。第二技術係長応答に当たり,調査官は串本検潮所へ。所長・技術課長にも連絡。
06 00 大阪から本庁発の指示報入電。
06 20 串本検潮記録持参。直ちに検潮。大阪・神戸へ打電せんとするも混雑してなかなか通ぜず。
06 30 情報文発表「只今津波襲来中,昼前から弱まり,6時ごろの津波が最高でこれ以上は高くならない見込であるが海岸では特に注意されたい」串本警察・串本海上保安署へ電話。町役場出ず。
06 35 津波警報入手。前記と串本駅・勝浦漁業無線局・串本漁業組合へ伝達。町役場・太地漁業組合出ず(07 05完了)。
(18)白浜気象通報所
04 25 ごろ,地上30cm,道路浸水。消防団「津波」を連呼し回る。
04 55 和歌山へ電話で指示をこう。
05 12 和歌山へ再び電話,要領を得ず。
(19)和歌山地方気象台
04 55 白浜から照会(内容大阪処理参照)。
05 05 当直者大阪へ電話照会。調査官・技術課長へ連絡。
05 10 調査官地震計室へ,技術課長天気図を当たる。ともに原因を得ず。白浜から再び電話。
05 15 大阪へ電話,要領を得ず。
05 22 神戸海洋気象台へ電話,本庁へ照会中との答。
05 27 再び大阪へ電話。
05 30〜06 00 海南冷水町民から国道1mの津波,和歌浦漁民から2mの津波小型漁船2流失,和歌山市松江漁民から津波でいかだ流さるなどの通報あり。
06 00 台長へ報告。台長指揮をとる。大阪から本庁指示入手。白浜から電話「津波さん橋岸壁から町内へ浸水」。
06 10 白浜へ指示,白浜から床上浸水出るを伝う。
06 25 大阪からJM109報告の指示入電。
06 27 大阪へ前記津波情報打電。
06 30 潮岬から「串本検潮記録0250津:波始まり
04 50 最大となる。スケールアウト推算約3m周期22分0630極大なお振動中」入電。
06 35 津波警報入手。和歌山電報局・NHK・県庁・白浜・海運局・駅などへ伝達(06 40〜07 01完了)。
(20)神戸海洋気象台
05 45 関西気象協会から照会。
06時過ぎ神戸NHKから「気象庁と保安庁間で重大なる情報交換をしている内容いかん」照会。
06 00 津波指示入電。
06 20 JM 109 通報指示入電。
06 40 津波警報入手,第五管区海上保安本部へ伝達。
(21)徳島地方気象台
04 40 ごろ海南町浅川地区警察から電話照会。地震計に記録なきもチリ地震による津波かも知れないむね回答。
04 50 ごろ日和佐通報所から電話。高松へ電話。
05 20 ごろ県警本部から牟岐の状況連絡,高松へ電話。
05 30 日和佐・牟岐の状況を高松・大阪へ打電。一般からも二,三照会電話。
06 00 早朝予報概況中で「今朝徳島県沿岸で1〜1.3mの津波,県南部で一部被害を生じているが県北部ではたいした被害はない見込」を発表。
06 50 津波警報入手。日和佐・県警・小松島海上保安部・県庁・徳島NHK・四国放送・徳島新聞・牟岐漁業組合へ伝達(牟岐を除き07 10完了)。
(22)室戸岬測候所
04 50ごろ日和佐通報所から連絡。甲浦漁業組合へ電話照会。「4時半ごろ1m」の回答(5時過ぎ)。津呂・室戸港方面へ電話照会。
05 45 潮岬から2〜3mの引き潮があったむねFM電話で確認。
05 59 大阪・本庁へ情報打電。
06 43 本庁情報入電。警察・市役所・漁業無線局・漁業組合へ「津波警戒注意」を促す。
06 49 津波警報入手。関係方面へ伝達するとともに海面状態監視を依頼。
(23)高知地方気象台
05 20 高知市五台山市民から電話。津波と判断できなかったが消防本部へ連絡。
05 30 ごろ桂浜から情報。
05 38 高松へ警報要請。
05 50 本庁・大阪・高松へ情報打電。
06 04 高松へ警報再要請。
06 15 NHK・ラジオ高知を通じ注意を喚起。
06 24 大阪へ連絡。
06 50 津波警報入手。電報局・電話局・NHK・県警本部・ラジオ高知・海上保安部・県河川課・駅電信室・消防本部へ伝達(07 03伝達完了)。
(24)清水測候所
06 20 ごろ宿毛から異常潮通報を傍受。検潮器の記録・清水港の状態から高潮を発見。
06 35 JM 109 通報文作製するも混雑のため打電。
06 58 (本庁・大阪・神戸あて)。
06 40 大阪から情報入電。
06 45 津波情報発表「今朝4時半ごろから2回高潮,チリ地震による津波。現在潮も引いておりこれ以上の心配はない」。
06 50 津波警報入手。分室・市役所・警察・保安部・西南汽船・窪津漁会・大清水漁協組へ伝達(07 13完了)。
(25)宮崎地方気象台
06 10 異常潮情報発表「海岸地方では波に異常現象が出ていますから十分注意して下さい」。
06 14 福岡へ照会。
06 28 福岡へ第2情報打電。
06 5× 津波第1情報発表「県下の津波はチリ地震による。油津では182cm,大堂津・土土呂で1m前後に達している。この津波はこれ以上大ぎくはならない見込ですが,今後4〜5時間は続くと思われるから海岸では引き続き注意して下さい」。
07 56 津波警報入手。
*訳文:「高潮,八戸,24日,03時15分,押し波」
第5章 津波の伝搬についで*
1960年5月23日4時20分にチリ沿岸に発生したチリ地震津波は,雄大な波動となり,太平洋中に広がって日本・ハワイに大被害を及ぼしたが,太平洋岸に沿った多くの港に設置されている検潮器にも貴重な記録を残した。これは津波の伝搬の理論を検討するのに絶好の資料を提供している。
津波の伝搬についてはこれを長波と考え√(gh)(g:重力の加速度,h:海深)で進行するものとすれば,よく事実に一致することはすでに知られているところで,実際にはHuygensの原理によって地図上に伝搬図を作図することによって走時を計る。また津波のエネルギーの沿岸における分布については,伝搬図上で波面に垂直な曲線,すなわち波線をえがき,その収束発散の模様によって知ることができる。
このような伝搬図は遠海に起こった津波に対し,警報を発表する場合の参考として欠くべからざるもので,特に今後の太平洋の津波に対しては,その発生場所のいかんを問わず,ここに新しく作った太平洋全域の地図が大いに役立つものと考えられる。
さて,この地図について一言すれば,地球は球面であるが,球面もその微小部分をとれば平面と見なしうる。しかし,球は展開面をもたないから,太平洋全域にわたる作図を試みるときは地図を選ばねばならない。すなわち,いかなる投影法(projection)による地図を用いるべきかということである。Huygensの原理を適用するためには,球面上の円が地図上の円に対応し,かつ,等角の保存されるものがよい。このため,かつてステレオ投影法の有効なることを示したが(1),その時用いたのは南北両極を中心とする2枚の図で,全ぼうを見るに不便であった。この欠点を補うため,太平洋全域を見おろすことができる投影図として,(0°,150°W)を中心とするものを新たに作成した。**
北極を中心とするステレオ地図上においては,波面をえがく場合の要素波の半径rはRsin√(gh)Δt/(cos√(gh)Δt+sinψ)で表わせる。ただし,ψは要素波の中心緯度,Rは地図の中心から赤道までの距離Δtは次の波面までの時間差を表わしている。新しい地図ではψは中心点(0°,150°W)からの距離におきかえられた。しかしてΔt=30分とし,30分ごとの波面をえがいた。
波源としては,USCGSが最初に発表した震央38°S,73.5°Wではなく,震度分布を考慮して訂正された震央41°S,72.5°Wを点源とし(陸地内にあり,第3章参照)この点を中心として平均海深を2,500mとみなしたときの幾何学的円をもって最初の30分目の波面とした。
かようにしてえがかれた伝搬図は,5.1図のようなものである。なお,ここには参考のため,震央と対震央(ゴビさばく)とを結ぶ10°ごとの大円がえがいてある。
海岸付近では急に海が浅くなり,津波の速度も急に落ちるので,図面では十分にえがくことができない。この部分の時間は推算することによって補足し実測と比較した。各検潮所との比較の結果は5.1表に掲げた。またその食い違いの程度を5.2図に示した。図に見られるように太平洋上の島々,北米大陸,日本などでよく実測と計算が一致するが南米がやや遅くなっており,またオーストラリアが不ぞろいである。第3章において説明したごとく,北部に向かって発射された津波の第1波は41°Sではなく,38°S付近から出たものと考えられるから,南米沿岸における計算値より早い到着はそのためと考えられる。また,オーストラリアは,ニュージーランド,ニューカレドニア島などの島々のために波が乱され,記録の始まりがめいりょうでないことなどによるものと思われる。
5.1図を見て著しいことは,チリ津波の波面が東北日本に正面から進行して来ていること,波面がここに収束していることである。同様に沖縄付近およびニュージーランドにおいても,波面が正面から入射しているのが見られる。沖縄においても今回の津波により,大被害を受けたことはよく知られている。
参考文献
(1) T. Hirono and S.Hisamoto (1952) : A Method of Drawing the Wave Fronts of Tsunami on a Chart. Geophys, Mag., 23, 399〜406.
*調査:気象庁地震課 久本壮一・村山チエ子
**地図:(O°,30°E)に視点を,(0°,150°W)に接平面を置くステレオ投影法で,地球の直径を60cm(原図〉としたときのもの。
水深:水路部海図No.806,808,813,814,830,838,6080による。
第6章 ハワイの津波
6.1ホノルル地磁気観測所(ハワイジ馨皐波警報中枢)の処置*
ホノルル地磁気観測所のSeisrnicSea Wave Warning Logを得たので関係のある部分を抄訳して参考にしたい。なお,時刻は日本時刻に更正した。
1960年5月23日(JST)
0438 第2回目前震にっいて津波警報業務執行中に感震器鳴奏,第3回目で最大である遠地地震の発生を知る。第2回目前震に対しては津波注意および警報の発表は必要なきものと認め業務を打ち切り,この新地震に対する津波業務へ転換。
0445 〜50 上下成分および長周期水平成分記象紙交換。
0459 Fairbanks,Sitka,California大学,Pasadena,Tucson,Suvaへ新地震の験測依頼。
0514 Sitkaから入電「PP:04h15mO8s,SKS:21mO2s,PS:24m24s,SS:30m20s,距離:12,000km」。
0516 California大学から入雷「P:04h23m38s」。
0520 ハワイ火山観測所へ地震観測依頼。
0527 Valparaisoへ04時以降の異常潮照会。
0527 Tucsonから入電rP:04hO8mO3s,・:18mO2s,P:04h22m40・,S:32m36s,距離:9,000km.」。
0533 Fairbanksから入電「・P:04h16moos,is:23m40s,距離:6,144km」。
0559 Balboaへ12時半から14時までの津波観測依頼。
0608 Fairbanksから訂正報。「eP:04hllmlls,ePP:16mOOs,iS:23m40s」。
0620 Suvaから入電「P:04hO9m12s,X:13mO4s」。
0650 ハワイ州庁へ次の注意文を具申「津波勧告。大地震がチリに発生。過去36時間内に同地域で発生した第3回目の地震。災害を起こすような津波が発生した可能性がある。現在不明であるが津波観測報告がValparaisoとBalboa(ハワイ時刻正午過ぎ)から来るであろう。もしそのような津波が発生したならばハワイ島にはハワイ時刻夜半に到着し,オアフ島へはこれより30分過ぎになろう。各位は有用となるような情報を知らされるであろう」。
0659 この勧告をHonolulu警察へ通報。
0704 Valparaisoから入電「地震報告。04時10分の地震の後Talcahunao港南方のLebu港に津波があったむねラジオアマチュアやCorral港から報告。Osornoに近いCoveMansaでは水によって大破壊があり,最後の地震の震央は多分Chiloe島のAncud港であろう」。
0718 Valparaisoから入電「06h25mLebu港で3m上昇」。
0719 市民防衛団へ前記津波勧告を通報。
(これより電話照会絶え間なく殺到し処理状況記録不可能となる)
0749 Kunia天気予報中枢へ前記津波勧告を通報。
0803 市民防衛部と情報発表の最適法について検討。
0817 ValparaiSoから入電rValparaisoに異常潮発生」。
0818 KHVHラジオから「まだ津波警報は発令されていない」ことの確認を受ける。
0934 Christmas島へ15時以降の津波観測依頼。
1035 Tahiti島へ15時以降の検潮器観測依頼。
1040 KHVHラジオから次の情報を発表「チリにおける一連の地震のうち最大のものが今朝ハワイ時刻9時に起きた。当観測所は津波警報組織内の各検潮所へ照会した。Valparaisoからの報告によれば津波はチリ沿岸に沿って観測されている。この津波はハワイに到着するかどうかわからないが到着の可能性がある。もし到着するとすればその推定時刻はハワイ島には今夜半,オアフ島には約30分遅れる。この津波のハワイ島における程度は予想することができない。今夜の他検潮所報告に期待している。もしハワイ諸島に津波警報が必要であるならぽ津波到着推定時刻より数時間前に発令されよう。まだ,このような津波警報は発令されていない」。
1048 KGUラジオも上記情報を発表。
1318 ハワイ州庁へ発令すべき津波警報について勧告。
1324 市民防衛部へ同上。
1347 太平洋司令部へ次の公式警報文を発令「津波警報。チリに起きた大地震は太平洋を広がっている津波を発生させた。第1波の到着推定時刻はハワイ島でハワイ時刻の今夜12時,オアフ島で約30分後。危険は後数時間であろう。津波の程度は予測することができない。ハワイ島の南部が最初に襲われ,ハワイ諸島の他の島々にも予想することができる災害の最初のものとなろう。太平洋の他の島々に対する津波到着推定時刻は次のとおりで,これらの時刻は精密な値ではないが最も有力な報告によったものである。Tahiti:15h30m,Christmas:17h,Samoa:18h,FijiとCanton:19h,Johnston:20h,Midway:21h30m」。
1348 Balboaから入電「現在まで海面異常なし」。
1348 警察へ前記津波警報発令。
1408 連邦航空局ヘテレタイプで津波警報伝達。
1418 LaJollaへ17時から18時半まで津波観測依頼。
1424 Balboaから入電「12h30m〜14hOOm異常なし」。
1508 Christmas島から入電「10h30m〜14h36m異常なし」。
1723 Tahitiから入電「Tahitiに異常潮」。
1755 Samoaから入電「18h30m異常潮」。
1839 Christmas島から入電「17h58mから異常潮始まる」。
1911 LaJollaから入電「18hO5m lft上昇」。
1923 Samoaから入電「17h30m海面異常始まる」。
1927 SanPedroから入電「18h20m海面異常始まる」。
1935 Hiloで海面異常始まるという放送をするのを聴取。
1946 Suvaから入電「19h10m遠くで海面異常」。
1948 太平洋検潮所から連絡「第1波19h39m lft上昇」。
1956〜2138 Hiloでの津波被害状況を放送を通じ聴取。津波警報業務中枢を他へ移すことが賢明であると決定。構内居住家族を最初に退避させ,この時間係員も安全地帯へ避難す。
2322 太平洋検潮所から連絡「Honolulu検潮器では第1波到着19h39m,最大波第3波21hOOm,約8.5ft(山から谷までの高さ)」。
24日0036 太平洋司令部と津波警報解除について検討。
0050 太平洋検潮所から連絡「津波減衰,急速に平静に帰しつつあり」。
0111 市当局によって津波警報解除。津波警報業務終了。
なお,ハワイ地方新聞から関係のある部分を抄訳すると次のようである(時刻は日本時刻)。
23日6時30分第1回津波勧告が出された。15時35分Hawaii島で津波警報サイレン吹鳴。Hilo,Puna,Kauで住民退避開始。16時30分Oahu,Maui,Kauai各島津波警報サイレン吹鳴。危険区域の住民に退避を命ずる,かねて指定されていた緊急対策本部はHawaii島の避難者受け入れ準備完了。市民防衛団談話発表「この津波は災害を起こすのに十分な大きさであり,Puna海岸が今夜半ごろまず襲われるであろう。Maui島は15分,Oahu島は30分,Kauai島は45分それぞれ遅れて襲われよう。津波を起こしたチリ地震の震源はSantiago沖である。この波は池に石を投じた時発生する波のように全方向へ広がりつつある」。Maui,Hawaii両島では警察自動車が拡声器で辺ぴな地域に次のように警報を放送してあるき、さらにこれを確実にするために若干の地区には電話でも通報した(注:Hawaiiでは全家庭に電話あり)。16時32分。
Tidal wave action expected.
Move to high ground.(注:この句3回繰り返し)
Inform your neighbours.(注:この句3回繰り返し)
Hawaii市民防衛団副長談「このサイレンは危険地域の住民は即刻高地へ退避すべしというものだ」。HiIo市では恐慌ろうばいは見られず,多数の住民はサイレン吹鳴前すでに自発的退避を始め,貴重品を乗用車や貨物車に積み,かねて定められていた避難道路で退避した。Kaui,Oahu両島の当局は主にラジオで警報を伝達したが,サイレン吹鳴と同時に辺ぴな地域に警≡告するための用意をした。HawaiiではM:8.25と非公式に登録され,第1回前震のConcepcion市を揺り動かし143名の死者を出した地震よりもかなり強いものと信じられた。群島諸港の船舶にも夜警報が伝えられ,Maui島では潜水艦2と貨物船2が港外へ脱出準備をし,Honolulu港では大船は1隻も港外へ出なかったが小舟数隻は泊地から深い海域へ出た(注:以上のように完全と思われる処置がとられたにもかかわらず61名の死者が出,その氏名から推察するのに33名は日系人らしい。なお,Hiloではこれまで最大の津波であった1946年4月1日Aleutian地震津波もこの津波に比べると,まさに幼児に類する由である)。
*調査:気象庁地震課 酒井乙彦
6.2ハワイの津波について*
今回のチリ地震津波によりハワイのヒロ市では61名の死亡者を生じたが,津波警報が発令されていたのに,なぜかくも多量の死者を生じたか。その原因を調べ今後の対策などに資するためにハワイ科学アカデミーでは調査団を組織し被災者を個々に調査した資料(1)があるが,その結果は,わが国の遠地津波に対する警報や情報を発表する場合にも大いに参考になると思われるのでその要点を紹介する。
調査は1)津波警報の末端ではどうしたか,2)災害に会った人間の行動はどうだったかの2点に重点を置いて行なわれた。調査はあらかじめ調査表を作成し,調査員が個々の人に面接して,表の項目を説明しながら行なわれた。面接した人々は災害地に住んでいた代表的な人々327名であった(6.2.1表)。
津波警報はサイレン・ラジオ・テレビにより放送された。調査された327名のうち309名が20時35分にサイレンを聞き18名が聞いていない。後者は映画を見ていたか熟睡していた。サイレンを聞いた人のうち127名は避難し182名は避難しなかった。サイレンを聞いた人のうち18名が何のためのサイレンであるか知らなかった。しかし残りの291名といえどもその解釈がちがっていた。警戒,警報避難信号,避難の前の待機信号・後報を待ての信号,用心せよの信号,その他いろいろ異なる意味に取っている(6.2.2表)。これはサイレンの公式の意味が,単なる警報であって,人がそれを聞いたときになすべき行動についてはなにも指示していないことによるものであって,これを聞いても何もしなかった人が44名,避難した人が94名,待機した人が131名あった(6.2.3表)。6.2.2表を見るとサイレンの意味を正しく取った84名のうち74名が避難している・したがって一般の人がサイレンの意味を正しく取るように訓練されていたならばずっと犠牲者は少なかったであろう。
サイレンを聞いても何もしなかった44名の人々のうち29名は自分は安全であると信じていた人で,残りの15名は映画を見たり,病人・老人あるいは疲労し過ぎた人々であった。
131人のサイレンを聞いて待機した人のうち60名は次のサイレン信号を待ち,18名はラジオかテレビによる詳しい情報を待ち,また18名は避難の車や,役人が回って来て避難の時を知らせに来るのを,あるいは近所の人が避難するかどうかを見るために待機した。36人はまだ自分が安全だと思い,また20名は古い警報組織がまだ生きていると思った。
これらの結果からわかることは現在のサイレン組織は検討しなおす必要がある。すなわち,サイレンを聞いたら適当な行動を起こすよう公衆を訓練する必要がある。そして教育運動を活発に起こすことはたしかに重要であるが,しかしラジオ・テレビなどを持たない人も多くいるから,サイレンー本で警報を知らせ,後は全くラジオ・テレビにまかせてしまうことは問題である。
サイレン以外よりも津波の情報を得ている人が261名いる。そのうち206名がラジオとテレビから情報を得ている。その他は友人や役人から得ている(6.2.4表)。
なぜ信号にしたがって行動したり,しなかったりするのかにっいては信号の内容があいまいのためで,個人個人で判断せざるを得なかったからだ。ラジオ・テレビの中ではただ一つの包括的な権威ある情報源が必要であるように見える。
34人の英話を解しない人がいた。そのうち7名だけが避難した。英語を解するもの293名のうち避難したものは123名で前者よりも比率が高い。
23日午前1時5分(ハワイ時間)に第3波の大波がヒロ市の低地に流れ込んだ。このとき85名が家で寝ていた。また,95名は家で起きていた。寝ていたうちの26名と起きていたうちの11名は警報サイレンが鳴ったときに何もしなかった人達である。寝ていたうちの30名と,起きていた人々のうちの61名が警報サイレンが鳴ってから待機していた人々である。これは彼らが状況が重大であると判断し,おそくまで起きていることを当然と考えていたのであるから,この期間こそ,ラジオ・テレビで,あるいは家ごとに警官が回って断固として避難をすすめて行なわせるときである。
14人が津波を見物していたというが,これは警察が強く禁止しなければならない。
逃げなかった197名のうち112名が漂着物の中におり47名が負傷した。この数字は津波警報中は完全に避難することが必要であることを示している。そしてヒロに津波が来れば,危険地域に残っている人の半分が破壊物の中に埋まり,1/4が負傷するか死亡することを示している。
参考文献
(1) William J.Bonk et al (1960) : A Report of Human Behaviour during the Tsunami of May 23, 1960. Hawaii Division of the Hawaiian Academy of Science, Hilo.
*調査:気象庁地震課 広野卓蔵
第7章 過去の遠地地震による津波の表*
環太平洋の地震帯に属する地震のうち,津波を伴った地震を記録のある限り集録し,津波地震に関する過去の実態をはあくすることは,今後の津波地震に対処するための重要な資料となるであろう。しかし紙面のつごうもあるので,今回は遠地地震による津波のうち記録のあるものにかぎり集録した。ここで遠地地震として含まれるものは環太平洋のうち日本近海を除くもので,北海道近海から九州近海までに起こった地震を除いた。これら近海地震津波に関しては後日収録するつもりである。このような企画は過去においても多くの研究者が行なっているものもあるのでそれらを参考にし,できるだけ正確を期したつもりではあるが,なにしろ短時日にまとめたために後日あるいはその誤りを指摘されるもの郵ないわけではない。すなわち,本邦における津波の記録はかなり古い昔から残されているが,古記録のものは,はたして地震に原因する津波であるか,気象条件による高潮であるか不明のものもある。また中には,本邦における地震記録がなくて単に「高潮」とか「津波」とか記してあるものもあるが,それらの中にも襲来の状況から,明らかに地震による津波と判断されるものもある。これらについては,できるだけ関連すると思われる外国の地震記録を調査して波源を明らかにした。しかし中には津波か高潮か全く不明のものもあるので,それらについては,波源不明として後日の調査にまつように編集した。このような趣旨で集録した津波地震を7.1表に示す。
同表における地震の規模Mは,古いものについては理科年表を参照した。
「津波の階級」は津波そのものの大きさを表わすものでなく,本邦沿岸に対する影響の大小を表わすようにした。これも前例(参考文献1)にならい下記のようにした。
津波の階級 被害程度(本邦における)
0 波高1m内外のもの
1 波高2m内外のもので,海浜の家屋を損傷し,あるいは舟艇をさらう程度
2 波高4〜6mの程度に及ぶもの,多少の家屋を流し人畜をおぼれしめるもの
3 波高は所によっては10〜20mの程度に達するもの
4 波高は所により30mを越え,被害区域は沿岸500km以上にも及ぶもの
収録した数は全部で76あるが,このうち,波源が明らかなもの71,波源不明または津波か高潮か不明のものが5記録ある。
上記71記録を大別して,7.2表に示すとおり北米および中米,南米,千島・カムチャツカ近海,アリューシャンおよびアラスカ近海,南洋(フィリピン近海を含む),およびハワイ近海の6地区に分類してみるとそれぞれ6,22,9,4,22,2となっており南米近海の地震による津波が最も多く,南洋におけるものがこれに次いでいる。これら各域に波源をもつ津波を,本邦へ影響のあったものとなかったものとに分類してみると,7.2表のように北米および中米,ハワイ近海に波源をもつ津波で本邦に影響があったという記録は1例もない。一方千島・カムチャツカ近海に波源をもつ津波は必ず,大なり小なり本邦沿岸に影響を及ぼし,南米近海の地震による津波28例のうち半数は影響を及ぼし半数は波及しなかったかあるいは記録に残るほどの影響を及ぼさなかったということになっている。さらに著しいことは,南洋に波源をもつ津波22例のうち本邦沿岸に波及したという記録のあるものはわずか4例にすぎず,かつこの4例中2例は比較的本邦に近い琉球近海のものである。この2例を除けば津波の程度も海面にわずかの異常昇降を呈した程度である。
このような過去の記録は,年代により,文化の発達程度により,記録はもちろん,被害の程度も異なるから一概には言えないが,最近の観測施設が充実された期間は,それ以前に比して微々たる期間であるから,このような統計的結果の傾向に対してはあまり影響をもたないものと思われる。
しかし前にも述べたように,本邦への影響については,記録の上からは「影響なし」となっていても,それらがはたして実際に来なかったのか,または来ても認識しうる程度のものでなかったかの区別は明らかでない。また昔は「影響なし」の程度であっても,文化が発達し,人口密度が増えた今日では経済的あるいは人命の上に影響のあるものもあるようになるであろう。したがって,かかる歴史的統計事実のみによって今後の津波予報のあり方をうんぬんすることはできない。
過去の資料から見ても地震の規模と津波の大きさとはめいりょうな関係はない。統計的には概略Mが大きくなるにしたがって津波の程度も大きくなる傾向は見られるが,これを数量的にうんぬんすることはてきない。また一般に震源の深さが増すとともに津波の程度も小さくなるといわれているが,さらに海域の関係もあり,一一概に地震の規模が大きいからといって津波の程度が大きいとは限らない。これらは今後の研究にまつよりほかに方法がないが,ただ一つ,津波を起こすような地震の起こる場所がほぼ限られているために,過去の津波記録を参考にすることが現在の津波予報でとり得る最良の手段であると思われる。この意味において過去の津波の状況から災害を主にして波高を図示して参考とした。
参考文献
(1)今村明恒(1949):本邦津波年代表・地震,2nd Ser.,2,23〜28.
(2)三好寿(1956):津波.自然,11,3〜11.
(3)田山実・大森房吉(1908):日本地震史料目録・震災予防調査会報告,No.26,3〜112.
(4)大森房吉(1908):日本地震史料の調査.渓災予防調査会報告,No.26,113〜155.
(5)今村明恒・大森房吉(1899):三陸津波取調.震災予防調査会報告,No.29,17〜32.
(6)高木聖(1958):地震年表.通信教育テキスト,気象庁研修所,25pp.
(7)札幌管区気象台(1960):チリ地震津波調査概報,81PP.
(8)武者金吉(1953):北海道の地震活動.験震時報,17,123〜129.
(9)石川俊夫(1954):北海道の:主な地震記録.十勝沖地震調査報告,164〜168.
(10)北海道産業気象協会(1952):北海道気象災害年表.北海道の気候,第6編.
(11)今村明恒(1942):日本津波史.海洋の科学,2,No.2〜8.
(12)河野常吉(1913):北海道の津波に就きて.札幌博物学会会報,4,190〜194.
(13)河野広道(1932):維新前北海道変災年表.
(14)開拓使編(1884):北海道志.
(15)河野常吉(1918):北海道史.北海道庁.
(16)大森房吉(1919):本邦大地震概表.震災予防調査会報告,No.88乙,71pp.
(17)田山実(1904):大日本地震史料.震災予防調査会報告,No.46乙,595pp.
(18)島本英夫(19eO):琉球の地震と津波年表.沖縄気象教育研究会報,No.16,8〜12.
(19)武者金吉(1951):日本地震史料.毎日新聞社,1119pp.
(20)気象庁地震課:日本附近におけるおもな地震の規模表(1885〜1950),地震観測法付録,85PP.
(21)気象庁地震課(1958):日本付近の主要地震の表(1926〜1956).地震月報,別冊1,91pp.
(22)気象庁(1959):エトロフ沖地震調査報告・験震時幸艮,24,65〜89.
(23)気象庁(1960):チリ地震津波速報,43pp.
(24)山口生知(1951):地震と津波・古今書院,79pp.
(25)B.Gutenberg&C.F.Richter(1954):Seismicity of the Earth,1st Ed.,Princeton Univ.Press,273pp.
(26)中央気象台(1952):地震観測法.
(27)宮崎地方気象台(1960):チリ地震津波調査報告,35pp.
(28)和達清夫(1935):我が国の大地震の実例.震災.防災科学,2,岩波書店,45〜70.
(29)高橋龍太郎(1935):津波,水災と雪災.防災科学,3,岩波書店,1〜68.
(30)中野猿人(1950):津波と高潮.気象協会,45pp.
(31)勝又 護(1949):地震津波の話.科学技術普及班,20pp.
(32)森田 稔(1946):津波のよけ方.仙台管区気象台,32pp.
(33)K.Iida(1958):Magnitude and Energy of Earthquakes accompanied by Tsunami,and Tsunami Energy. J.Earth Sci. Nagoya Univ.,6,101〜112.
(34)田口克敏(1927):古記録に依る安政大震津波の考察.和歌山県地震調査報告,1〜13.
(35)中央気象台(1933):昭和8年3月3日三陸地震及津波概報.験震時報,7,111〜370.
(36)井上宇胤(1951):津波警報について.地学雑誌,No.679,19〜22.
(37)東京天文台編:理科年表.
(38)気象庁:地震月報.
(39)気象庁:気象要覧.
(40)G.A.MacDonald(1950):The Tsunami of April 1,1946. Bull. Scripps Inst. Oceanogr.,Univ.California,5, 391〜528.
(41)仙台管区気象台(1951):津波.東北地方の気候,103〜106.
(42)二宮三郎編(1951):岩手県災異年表,132pp.
(43)C.Bobillier(1933):Resumen historico de los principals maremotos acaecidos en Chile,Bol.Servlco. Sismologico, Univ. Chile(Santiago),No.23,34〜41.
*調査:気象庁地震課 湯村哲男
第8章aチリ地震津波資料集
8.1被害表
人的被害道県市町村別内訳表(8.1.1表),都道府県別被害表(8.1.2表)はいずれも下記資料に基づいた(昭和35年6月6日17時現在までの集計である)。
警察庁:チリ地震津波と災害警備活動の状況.昭和35年8月17日,74pp.
8.2検潮記録集
ページ
気象官署所属検潮所位置図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・258
(図中の●印は検潮所の位置を示す)
検潮記録
001〜045 : 気象官署所属の検潮記録・・・・・・・・・・・ 269
101〜184 : 他官署所属の検潮記録(i)・・・・・・・・・・・285
527〜582 : 外国の検潮記録(ii)・・・・・・・・・・・・・・・ 307
(i)これはページ数の関係上,ぎわめて小さくせざるを得なかったが,マイクロフィルムは気象庁地震課にある。
(ii)チリ共和国以外のものは,日本津波研究会で集められたものを借用した。このうち527より562までは米国沿岸測地局管内のもの,572以後はオーストラリヤのものである。

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8.3 地震記録集
8.4 写眞集
写真の提供を受けた撮影者名で,わかっているものについてはその写真説明に記載し,不明のものについては記載できなかったが,ともにここに感謝の意を表する。特に北海道・東北両地方の沿岸の航空写真はすべて陸上自衛隊の提供によるものである。
頁
北海道地方・・・・・・・・・・325
東北地方・・・・・・・・・・・・336
近畿地方以南・・・・・・・・380
チリ・・・・・・・・・・・・・・・・383
幌泉町庶野港における津波来襲時の状況写真No.19〜No.32
この写真は5月24日最大波到着前後4時50分〜5時30分ごろ連続撮影されたものであるが,個々の写真について正確な時刻は記録がなく明確でないが,最大波の来襲状況と,港湾の決壊,船舶の被害状況を時々刻々に示している。番号順に時間経過を示す。N0.17参照。
付録用語の説明
前震・本震・余震世界各地でこれまで起こった大地震では,ただ1回だけで終わることはない。
その大地震の前に起こる地震は大地震が起こってからわかることであるが,前震という。大地震後に起こるのを余震という。これらの震央は1群をなしているが1点ではない。人体に感じる程度の前震はある場合もあり,ほとんどない場合もある。
これらの中で一番大きいのを本震という。
地震の規模(またはマグニチュード,ともいい符号Mで表わされる)これは大地震か小地震かという目安になる尺度で,一定の震央距離での地面の揺れ幅から決められる。M:8.Oは大地震で関東大地震(大正12年)級で,チリ地震は松代地震観測所ではM:8.75と推定した。M:6.0より小さい地震では被害があまりない。
震度
これは上の地震の規模とよく混同され,外電でもよく間違えられる。これは人体に感じた度合いを表わすもめで,気象庁では無感の0から,激震のVIIまで8階級に分けてあり,外国では,改正メルカリ震度階(12階級)その他いろいろあるが,小数以下はない。
地震波地中を通る波には縦波・横波があり,地表面を伝わる表面波があり,反射波などでいろいろ複雑な波が生ずる(P,S,L......などの符号を使う)。
一番早いのは縦波で毎秒約10kmの速さを持っている。しかし深さによっても異なる。
津波の伝搬速度 津波は深海では速く,4kmの海深の太平洋では毎秒約200m,岸に近い浅い海では,40mの深さでは毎秒20mとなるので,浅瀬ではかなり遅くなる。
津波の高さ津波(港の波)は港で大きく,沖ではほとんど感じない。波の上昇から次に上昇するまでの時間は数分〜1時間以上のものがあり,遠い地震による津波であるほどこの時間間隔が長い。港のある湾形によって波は高くなる。しかし太陽や月の引力で起こされる潮の干満との関係で,被害を大きくしたり小さくしたりすることがある。
時間 GMT+9時間=日本標準時(JST)
ハワイ地方時=GMT-10時間
チリ地方時=GMT-4時間
検潮器記録の水位は井戸ごとに決めた点(Datum Lineという,D.L.)より測られる。
水位の基準にはこのほか,東京湾中等潮位(T.P.),荒川ペイル(Pei1)(A.P.),大阪ペイル(0.P.)などがある。
昭和36年3月20日印刷
昭和36年3月25日発行
編集兼発行人 気象庁
東京都千代田区大手町一ノ七
印刷者花崎実
東京都中央区新富町ニノ十九
印刷所 大東印刷工芸株式会社
東京都中央区新富町ニノ十九

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