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紀伊洪浪の記

君の二の腕を見給へ
幾つかの花形の創痕があらう。
君の美しい顔を
あばた
醜い痘痕から守つた創痕なんだ。
この記録も一つの創痕だ、
あばた
人類の顔を、むごい痘痕から守るための、
一つの創痕だ。
だから、おもしろい読物でも
楽しい読物でもない。
ある人々にとつては追憶の苦痛の針だ。
ある人々にとつては他人事だ。
だが、誰も生きている限り、
地球の上に住んでいる限り、
不意打の天変地異と絶縁は許されない。
せめて、この創痕から、
余り大きな不意打にならしめないために。(吉村守)

はしがき

大東亜戦争は終つた。日本の敗戦といふ二文字で終止符を打つた。日本の人々は戦争といふ言葉にさえ慄然としたものを感じている時代である。
街にも、野にもジープといふ小型軍用車が走りまはつていて、若い人々は永い戦争から解放され、誰もアメリヵ風に頭髪を長くのばした。民主国家に変らうとし、人々に自由の日が迫り、新しい憲法が発布されようとしていた。
街々は、まだ空襲にただれた赤土の中にペンペン草が生へ。昔の市街のどまん中に麦畑ができていた。その中で、男女同権の小さいながらも明るい復興住宅が、ちらほら建ちはじめ、商店街は賑はつていつた。
しかし、敗戦といふ二文字は、その二文字をかむせられた民族の経済生活に大きな苦痛のかせがかけられていた。食糧事情は極度に悪く、一日三合の配給米を得ることを望むことすらできなく、白い米の飯を食つた夢を見ることさへあつた。老人は言ふ。今一度、腹一ぱいの白飯を三度三度食べる時代になつてから瞑目したいと。
外地からは幾十萬の同胞が着のみ着のままで引揚げてきた。在外財産一切を外地に置いて、寒風の中でふるへていた。返還物資の衣料が唯一の晴着であつた。戦災者もやつぱり、その中の一人であつた。極度に衣料に困つてゐた時代である。
住宅はいふまでもない。戦禍と引揚者で住問題も食事情に劣らない情勢で、家のない人は牛小屋や鶏舎ですら住んでいた。有閑住宅の解放が叫ばれても相手にする者は少なかつた。強権を発動して住宅解放を行へとの声さへ起つた。
物価は思いひきりあがつた。米一升百円、これが基本になつて総ての物価は鰻あがりにあがりきり、まだまだ上昇の気配を見せていた。蜜柑一個二円五十銭、本場の紀州がこれである。燐寸の小箱一個が三円、煙草が安もので十本十五円、人々の生活はこれで出来るだらうか。サラリーマンは五百円の枠でしばられた。景気のよいのは農村だけである。農村には新円がだぶついてゐるのも無理はない。甘藷一貫が六十円、しかも百円にならうといふ。百姓逹は豪華な生活をした。娘の嫁入り仕度に闇値の晴着が買ひあげられた。その晴着は都会生活をしてゐた者が生活難から中古衣裳品店へ新円と交換に出したものである。
都会人は、それで僅かな米を手に入れ、配給米の欠配、遅配を補つた。
闇屋といふ新職業がだいぶ前から開店されていて、最もぼろいもうけはこの人逹でやる。
ヤミ屋の親父が言ふ。大なり小なり皆んな闇屋でさ、今時、闇商売をせずに食つていける道理がないと。
駅には浮浪児の一群が乗客に物品をねだる。汽車は買出し人と闇屋ではちけさうである。
当局が取締つても、いつかな効果が見えなかつた。それでも、大自然は春から夏、夏から秋、冬へと移つていき、寒い風は少しの遠慮もなく吹きつのつた。
昭和二十一年十二月二十一日午前四時二十分。夜明けにはまだ少し遠かつた。突如、大地が大きくゆれ、沖からは大波が押せよせ、一瞬の間に紀南一帯(当県のみのこと)は一大被害をこうむつた。弱り目にたたりめである。引揚者、戦災者も、その他の人々も同じやうに災害をこうむつた。立ちかけた者は再び腰を砕かれた。立つていた者もがくりと不意打にうなだれた。
南海震災である。
近畿、中国、四国の海岸地帯はやられた。
進駐軍の飛行機はこの惨状を空から偵察して急援の声を大きくした。全国から急援の手は伸び、紀南の鉄道線路は流れたが給に急授隊が乗り込んだ。
罹災地は一町、大混乱に陥ちた。
夜が明けると大きな損失を発見した。
更に深く眺めると、その中に幾多の教訓や警告の埋もれてゐるのを発見した。
われわれは急援と一しよに、永い眼の援護に気がついて、埋もれているそれらを泥土の中から堀出すことを流失物を泥の中から拾ひあげるのと同時に行ふことを決心した。
それは、現代の人々、未来の人々のための一つの遺産として、この教訓、警告を実相を記録としてとどめる事実の中に含めようと決心したのである。
資料提供に努力してくださつた方々へ深く謝意を表して、はしがきとする。


恩賜財団 同胞援護会和歌山県支部

南海震災記録編纂趣意

(以下は資料提供方依頼文書につけたもの)
今回の震災に就いては、ここに改めて述べることを省略し、心から震災地区の人々に同情を捧げ、慰問の意を表します。
天変地異には同時に人力では抗し得ません。それは、ただ、悲惨と凄愴と、大いなる損失を遺し去つただけです。しかし、人類のたゆまない筋肉力と旺盛な精神力の裏付と、多くの才月は再建を為し果しましよう。たとい、再建をなし得ても、それは大いなる有形、無形の損失を総べてつぐなつたことにはなりません。ましてや人命の損矢においておやであります。
損失は、完全に損失となり、再び還つてはまいりません。だからとて、悲嘆に暮れているべきではなく再建へ強い鞭をあたへることこそ、人類永遠の続けなければならない大自然猛威への争闘であり、人類幸福を誕生する陣痛でありませう。それは又、人類の平和建設の礎石でもありませう。
天変地異は、たしかに人間社会に幾多の損失をあたえています、と、同時に幾つかの教訓と警告を、その中から拾うことの自由をもあたえています。この自由を無為にすることこそ損失中の最大損失だと思います。そして、この自由を捕へることは、大いなる禍を大いなる福に転ずる鍵を得ることだと信じます。そして、つぐない得ない幾多の損矢に偉大な価値をつけることとなりませう。いま、挫けることなく災害をこうむつた地区の人々の建設の歌声が聞えています。そして、幸にも震害をこうむらなかつた地区から人々の同胞愛の焔が高々とあがつています。
ここにも新日本建設の美るはしく、たくましい原動力と、一つの真姿を眺めることができます。
大白然のこの不意の仕ぐさの後片付けに人々が点々としていそしむとき、当支部は援護のかたわら、その作業の中から幾多の教訓を発堀し、それを禍を福に転ずる得がたい鍵として輯録しようとするものであります。天災地変を待つ心はない。しかも、それを予知することが出来ない限り、それを避けることの至難を想ふのは勿論、絶無だと断言は絶対にできません。
当支部は県の援助を得て、われわれの忘れ難い悲惨な記憶のため、又、われわれの子孫のための遺訓として、或は、ある意味の遺産として、ひいては人類への警告として、これを編纂し、社会ヘ頒布して援護事業の一端を果すべく計画したのであります。
何卒以上の趣意に御賛同をいただき資料提供に強力な御支援を賜りたく存じます。
昭和二十二年一月二十日
(恩賜財団同胞援護会和歌山県支部)

記録編纂にあたつて

公文書といふ形式によつて資料を蒐めにかかつた。しかし、資料の入手に卒直に言つて回答をいただけない所が多かつた。後片付に夢中になつていた日だつたからである。再び文書形式で提供方を催促した。しかし、結局、くれない所は今度もくれなかつた。その多くは、支部が今度の震災に特に慰問に伺つた所が多かつたのは何としたことであろう。
それでも、目的を果すため、人類の不幸を恐れ、幸福を得るために資料を必要とした。
そこで探訪をした。慰問のついでに資料蒐集に努力した。五度、六度、紀南の地をめぐつた。日数がたつにしたがつて人々の記憶はうすらぎ、資料入手が困難になり、資料がぼけてきた。が、誠意のある資料を多く提供してくれたところも多かつた。資料要望慾が余りに強すぎたために前記のやうな言葉や感じが生れたのかもしれない。
提供していただいた資料は一句、一行も貴重であるとして取扱つた。それは事実貴重なのである。どんな走り書きであつても貴重である。しかも、十年、五十年、百年、いや望んではゐないが、再び天変地異に見舞はれた時にこそ、本当の価値を発揮することを信じる。だから、その心組で、現代では愚にもつかないと笑はれさうな小記録ものせることにした。
ただ、公文書による回答といつた申訳的なものは応々味気ないものとなりがちである。
だが、味気ないものも多くの主観の含まれた資料よりまさつてゐる。まさつてゐるが、この出版物の持つ使命から言つて、後の世の人や現代の人々に読んでもらわなければならないのは言ふまでもない、そこで、主観を加へず、資料の意志をまげず。読みやすい文章表現に改めた。実は、これに就いても随分迷つたが結局は読みやすい。そして、現代の人々が常に表現する言語を用いることにした。それは、時代性を含めたかつたからで。古文書記録の中にもあるやうに、当時の文章表現が、そのまま示されてゐる方が、後の人々に実感が卒直に流れ込むだろうと思つたからである。
回答によつて、随分記録に疎密の差があるが、時間と経済から均等化することのできなかったのを残念に思ふ。
学校、青年団が意外に協力してくれたのには深い感謝を持たざるを得ない。
断片的な、これらの記録は尚ほ読みづらいことであらう、これは編纂者の力不足にもよるとの反省も忘れない。
一九四七年、五月
編輯者 吉村守

震災地説明略図

わが国の地震科学の水準では確たる予知ができるまでにいたつていない。
(大阪気象台観測課長 宮本正明技官)

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地図 串本と附近略図
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地図 新庄村中心部被害見取図絵
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地図 海南市略図
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地図 新宮市略図(市役所供)
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地図 塩津略図(青年団供)
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地図 大崎材略図(役場供)
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地図 廣村略図(広小供)
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地図 比井崎村略図(役場供)
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地図 白崎村(役提供)
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地図 切目村略図(青年団供)
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地図 印南町略図(役場供)
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地図 塩屋村略図(役場供)
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地図 古座町略図(役場供)
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地図 田並村略図
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地図 新庄村略図

一、古記録より

地震の八十年周期は京大佐々博士の、いはゆる周期説で、過去の記録的帰納である、

古記録より

     和歌山県立図書館蔵書


この記録は南海震災直後、その罹災者を対象に同胞援護会県支部が移動生活相談会と慰問品の頒布会を開催し、十二個市町村を巡回した折、各所で探訪し得たものである。

一、「洪浪記」抜粋(安政の大地震)

 比井浦、村上久蔵記
日高郡誌に是れ世に謂ふ安政の大地震にして、四日のものは全日朝、東海道の海底に震源を有して紀伊より上総に及び、五日のもの同日夕刻、南海道南方海中に発して、前日の継続地震と見做すべきもの云々。

十一月四日(つちのと己)午下刻
  潮の満干の差大なりき
同 五日(かのへ午)
  七つ前まで何事もなし、七つ時、四日のより強大の大地震起る。
—大地震ゆり、其の後、大筒の音よりも十増倍大鳴物三つ鳴り候に付云々。
 (中略)
—但し右鳴物致候節は沖の方海中より、火の柱三本立ち申候
(中略)
—津波の前々は順気も格別暖に有之候、洪浪の翌日は嘘をしたような結構な日和するもの也。夫より、彼此(かれこれ)小一年位も大小の地鳴、又は地震ゆるものなり。
(比井崎村拾記)

二、日高郡誌より

(前略)本郡沿岸にあつては四日辰下刻激震と共に早くも海水の変調を認め、老若相率ゐて避難せるが、この日は幸に津浪の襲来を見ず、人々安堵してありし程に翌五日夕、申刻過、昨日に増して大き且つ長く地震ひて屋舎傾倒するもの相継ぎ、須叟にして海底鳴動して洪浪寄せ来る。
第一波退いて第二波来り。第二波去つて第三波到り、更に第四、第五等断続数回に及び、第一波最も強く、第三波これに亜ぎ、第二波またこれに亜いで第四以下漸く、その勢衰ふ。

三、「ふしぎどめ」より

 日高郡印南浦桶屋与兵衛忰
  戎屋楠次郎記


【註】この文献は印南町塩田光実氏が蔵家の秘書ともいふべき祖父の記録を提供してくれたものである。祖父は戎屋楠次郎でその後塩田長三郎と改姓名してゐる。
記録は戎屋楠次郎一代中の異変を綴つたもので、表書きには


嘉永七年きのとの子十一月廿二日止
つなみことはじめなり
いろいろふ志ぎどめ日高郡印南浦桶屋与兵衛忰
戎屋楠次郎
十二才


と記され、津浪の本記録は十二才当時の筆跡である。しかも、子孫への遺調としての気持は全記録の各所にうかがはれ、末尾には、反古にすることをいましめて擱筆してゐる。時に七十数才で、約七十年間の異変を綴つたものであつた。


(抜粋)(原文のまま)括弧内は意味を明示するための仮名にて原文になし津なみの事をかきをき候嘉永七年きのとの寅、十一月四日の事、四つ時分より大ぢしんあり、それより川へすすなみとゆう(ふ)波が入こみ(入りこみ)これあり。又その夜は中ぢ(ぢ)しん九のつ(九つ)ゆりた。(ゆつた)それから夜になりた。(なつた)
同五日の日は、まことによき天気にあり候ゆゑ(よい天気であつたから)村の人がみなよろこびして山口の宮まいるなり。わしもまいた。(わたしも参つた)うちへもどうて(もどつて)八つじぶんから、又大じしんゆりだして、その日、はたのざきの方が大きくかみなりのよ(や)うになりてきて、それより津なみが入つてきた。
初は小。二つめは大。三つめは大。四つも大。もはや日も入、村の人は、よがい山(要害山)にてその夜あかす。その夜には中じしんゆりどうしなり。
又六日の日は、よろしく天気にあり候へども、村はせんちもみそもをなじ事なれど、内ゑ(へ)ようこず。(帰ることができず)まだ中ぢ(ぢ)しん、小ぢ(ぢ)しんがゆりどうしなり。それゆゑよがい山(要害山)で十六日ゐました。
これを止をき候。
又、井どの水もあり。又川の水もあり候ゆへなにぶん大ぢ(ぢ)しんゆりたら、はよう、よがい山ゑ(要害山ヘ)にげなされよ。(印南町拾記)
【註】山口の宮=氏神なり

四、嘉永七甲寅年津浪真記

(新庄村々誌より)
嘉永七年甲寅拾一月四日朝五つ時、大地震夫に付き、潮高く、又濁り、度々込入新田街道へ潮上り、是に驚き銘々手寄手寄の山上に荷物相認め罷登り其の夜山上に野宿仕候へ共其の夜も度々地震有之候へ共別而厳敷事も無之候
明五日朝、潮見定め候所、凡一時ばかりも潮早く候へ共、至つて小潮、海辺鎮り候に付皆々心持能く前日持出候荷物段々我が家に取込運び、近隣の人々無事成義悦合候て、相休み罷居候所、五日七つ半頃、又々、大地震、此度は至つて厳敷地震之内所々の家又は納屋ひさし所々の塀など崩れ、海道田地も大いにひび出来候所、何れより申出候哉、津浪来る由、夫れより追々山上ににげ登り候所、間もなく海鉄砲厳敷驚き候ヘば直に大潮込入、誠にこの潮の込入様子恐敷事申言葉なし、地震より津激込入迄で間なく、候故、何れも荷物持上げ候義出来申さず候、扨て又津浪大潮一番潮凡常潮より二丈ばかり高く此時も少々家流れ、猶二番潮同様の様子、参番潮は至面高く、二番潮より参番潮は一丈余も高く夫故村中新田より名切宮の脇、又は古や谷青木五反出辺平田迄で不残流れ候。一代辺北原長井谷筋も平地に罷在家は皆々流れ、橋谷は一軒も不残出井にては鷹の巣上地残り、是も家ばかりにて流同様の事、跡の浦も堂の坂にて三四軒残り申候共外惣流れ候
一、新田川口に七八拾石積み船一隻有之候所、彼一番潮に平田、長井谷岩本奥まで流込其の後は夜に入候故行衛不知従つて承り候得ば田辺江川口に流寄有之事に候
一、出井川新出川筋に居合せ候小船長井谷瀬田ヘ行くも有之又は出井生か谷池の大手乗も有様といたみ申候
一、森の港に居合候新徳丸一番潮に引出し跡の浦南谷に流寄無事にて候
一、内之浦にては家六軒残り皆流れ申候、同所喜右衛門殿六左衛門殿家敷潮上り申候右引潮の節、内の浦谷より鷹の巣江山打越候事に候
一、五日夜、四つ時頃、大地震猶津浪潮込引至厳敷八つ時頃静に相成申候
一、田辺御城下大地震より出火に付北新町東より長町、本町入ロ夫より袋町樹町孫九郎町南新町残り無く焼失仕り候
一、江川大橋半分流失、是は津浪の節大船込入秋津■き石迄で大船一隻流れ登り候
一、六日朝、村中流申候諸道具又は衣類等ひろひし人々罷出段々諸色拾ひ上げ其の木にて其の後、銘々小屋掛致罷居候所、御支配方御役人衆村方御役人衆同道にて小屋小屋御改相成拾ひ上げし諸代物庄屋元へ取寄させ、扨て其の後拾二月二拾一日村中流候、人々右取寄の諸道具自身所持し物御調べの上御下げ被下諸色有之候人も有、又は衣類諸道具少しも無之ものも御座候、其余何に不寄無主代品物は村中寄合入札致候事に候
一、御支配方並に村役人衆御道同にて小屋小屋之家内人夫御改の上村方にも流れ申候、米所々に拾ひ上げさせ、むし米にいたし、流れ出されし者どもへ御上様より厚い御恵み御放米此為仰付、一人参合づつ被下難有仕合乍恐大悦仕候
一、諸代品物拾ひ上げ、他村へ持越候者共急相調ベ候、猶又外村方より拾ひ候品々皆役元へ取寄候事に候
一、十一月末方には商人衆追々家普請いたし候も有、又は貸小屋に而、元の屋敷へ出るも有り十二月中頃には大阪和歌山通ひの船に米塩油諸代品物積み下り商相初め申候
一、今度不思議成事先年より段々聞伝え有之候事共度々風聞御座候、尚又、去る癸丑年度頃、毎夜西し方に大星一つ出て夜四つ時頃山場一反丈け相成候節舞下り入申候、扨て六月十四日夜八つ半頃、大地震、明けて十五日も度々小さき地震有之其の節も津浪来る事も油断不成と皆々用心いたし候人も有之候
一、参四か年已前より唐船御江戸表へ段々来候由尚寅九月十五日、田辺沖ヘ相見へ其の後和歌山沖淡路辺和泉沖を通船いたし、、大阪安治川口に滞船致候由、右に付、諸国御城下、津々浦々湊日に弓箭鉄砲をかまへ、用意厳敷御役人衆人夫をしたがえ出張致し誠に厳重の御備也
一、去る壬子年五月九日、大雨降大水に而、夫より呑気と相成、七月末迄で旱魃凡八十五日ばかり雨なし、依て稲作綿作畑ものまで申すに及ばず至て凶作甚だ難義に存候
一、同癸丑年も同様大旱魃にて百日の間雨なし至つて凶作
一、同甲寅年も同様大ひでり乍併当年は何れの村方にも新池又は大手に上置などいたし用意宣敷候所、五月田植後、六月さし入頃より稲作大にいたみくり入尚当年も大ひでり其上いたみ入候へば又々犬凶作と皆々心配致し居罷候所、七月さし入頃、大雨降り是にて諸作物大に見替え大豊年と相成大悦仕事に候、右参か年大旱魃田辺組にては子丑二か年凶作留田朝来組辺は格別の事も無之三栖秋津辺は中作位に聞及候、芳養、南部も大にいたみ申候、西東山中は畑物いたみ候へ共稲作至て宣敷事に候
一、寅拾二月に年号替り候事、明れば己卯正月と相成、年号は安政二年と定る先は目出度越年小屋にて仕候


【註】原文には萬葉がなを雑ぜてゐたが、読み易くするために現代仮名とした。尚ほ、原文中誤記と思はれる点、判読し難い文字は想像、類推によつて手を加へてゐる。
(原文は新庄村庄役場保管中)

五、飛鳥宮裡の文献より

東富田村飛鳥神宮に納置せる欅の板に記せる文献を役場助役が写せるものより。
欅の板に記録せる宝永四年の記録であるため所々不明の文字もあり宝永四丁亥歳夏六月無名ノ細虫云々
同冬十月四日午ノ剋大地震半時計リ、大地山河破烈シ、民屋人家崩損ス、天柱モ折レ地軸モ摧ルカ如シ、老少男女共ニ天地傾覆スルカト思ヒ神識迷乱シテ死生ヲ知ル者更ニナシ時ニ海上俄ニ淘々ト(一字不明)白浪踏天ノ勢イ山ヲ崩シ地ヲ穿ッ、於越テ衆人地震潮津浪入来ヲ聞イテ驚キ騒ギ気モ魂モ身ニ不添跣ニテ直ニ小倉山或ハ飛鳥山ニ逃登リ身命ヲ全フシ或ハ途中ニ(一字不明)浩波ニ漂流シ半死牛生ニテ山ニ附、幸ニシテ死ヲ免ルル者アリ、或ハ家財ニ心ヲ寄セ、家ヲ出ル事遅滞ノ輩悉ク濁浪ニ没溺シテ一命ヲ失フ者百数十人、凡ソ平地ニ有ル民屋富田ノ内、高瀬芝(現在の大宇富出)伊勢谷、溝端、高井、吉田、中村、西野、一字モ不残流失シテ村居、民屋忽野原ト成ス。
鳴呼前業ノ所牽乎抑将天運乎、今度ノ天災一業ノ所感ト言ナカラ前代末聞ノ珍事也。
后代若大地震セバ必ズ津波地震潮入来ルト知リ早ク覚悟不可油断者也。後人ノ亀鑑トセン為ニ地震津浪ノ万乙ヲ記シ置者也
宝永四年十月○○日記了也


右飛鳴宮裡納置焉
毎歳祭礼之節村中可見聞


本記録欅板は本記録を写す当時現物を見ることができなかつたが、東富田村助役の転記したものより再転記したもので氏の転写が大いに役立つたのは今回の津浪によつてであつた。

六、深専寺門前石文

湯浅町役場の隣に深専寺といふ一字がある。その門前、本堂に向かつて右側に一基の石文が建立されてゐる。碑面の右側面に安政辰三年十一月建立と刻まれて、世話人の一人に石屋忠兵衛と記されてゐる。嘉永七年六月の地震記録が碑文で題して「津浪心得の記」とあり、裏面には建立者の名が刻みこまれてゐる。
文面によつて、先人の子孫に遺した温情が幾百年後の今日、同じ天変地異に遭つてしみじみと感じる。
(碑文)原文中明瞭を欠く点は伏宇とし、文字は現代文字に改めた。文章は原文のまま。但し濁点を附け加へたる個所あり
大地震津なみ心得の記
嘉永七年六月十四日、夜八時下り大地震ゆり出し、翌十五日まで三十一、二度ゆり、それより地震ひとしきゆらざることなし。
廿五日頃、漸ゆりやみ人心もおだやかになりしに、同年十一月四日晴天、四つ時、大地震凡半時ばかり、瓦落ち、柱ねぢれたる家も多し。川口より来たることとおもひ○○かりしかども、其日もことなく暮る、翌五日、夜七つ時、きのふより強き地震にて未甲のかた海鳴ること三四度、見るうち海のおもて山の如くもりあがり、津浪といふや○○高浪うちあげ北川南川原へ大小大石をさかまき、家、蔵、船みぢんに砕き高波おし来たる勢すさまじくおとろしなんといはんかたなし。これより先地震をのがれん為、濱辺、あるひは船に乗り又北川、南川筋へ逃る人あやうきめにあひ、溺死の人も少なからず、すでに百五十年前、宝永四年の地震にも、濱辺へにげて津浪に死せし入あまた有しとなん噂つたう人もまれまれになり○○のなれこの碑を建ものそかし、又、昔より井戸の水のへり、あるひはにごれば浅波有べき事なりといへど、この折には井の水のへりも、にごりもせざりし、されば、井水の増減によらず、この後萬一大地震ゆることあちば用心いたし、津浪もよせ来べしと心得、かならす濱辺川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り、天神山へ立のくべし
恵空一菴書
【後註】
宝永四年の地震の実状を引例して、北川、南川へ逃げた者の溺死者、嘉永の地震津浪の際の北川、南川のすさまじい様を記し、避難場所としての危険を十分いましめ・最適の避難所天神山を明示してゐる適切な石文は、今度(昭和二十一年)の地震の大きな指針となつて湯浅町は人命の犠牲者を出さなかつたばかりか、示す通り、天神山へ避難したとは役場職員の言葉であつた。


南紀地震津浪年代表(旧記より)
天武天皇十三年十月十四日
近畿四国の大地震(日本書記)
一八九三年 貞永二年二月五日
紀伊及諸国の激震(由良蓮専寺内記)


(九八年度)
一九九一年 元弘元年七月三日
紀南の大震(参考太平記)
(二九年後)
二〇二〇年 正平十五年十月四日
紀州熊野より摂津兵庫に至る大地震大津浪
(一年後)
二〇二一年 正平十六年八月廿四日
紀伊裂震(大日本史)
(一三七年後)
二一五八年 明應七年八月廿五日
紀伊沿海の津波(年代記)
(八七年後)
二二四五年 天正十三年十一月廿九日
紀伊沿海の大地震大津波 (梵瞬記)
(一九年後)
二二六四年 慶長九年十二月十六日
太平洋岸の大震及大津浪 (当代記)
(一〇三年後)
二三六七年 宝永四年六月十四日(又は十月四日)
宝永の大地震
(一四五年後)
二五一四年 嘉永七年(安政元年)十一月四日
安政の大津浪
(九二年後)
二六〇六年 昭和二十一年十二月二十一日
南海の大震災


世間では百年目毎に大地震があるやうに言ふ。しかし、地震は決して定期便に乗つてはこない。南紀関係の地震年表を旧記録の中からあらまし拾つてみたのだが、なるほど百年め前後には、ちよつと定期的だと言ひたくなるほどの地震が記録の中から拾へるが、一年後、或は二十年後にも起つてゐる。
何れにせよ、地震は必ずあるといふことだけは言へる。それが、何年後か、何十年後か、何百年後かはわからない。必ずあることを信じればよい。あることに対する心構へが必要だといふことに、この年表は結論づける。


以上は旧記録からの拾ひものであるが、再び同じ災害をうけた今日、はつと胸にしみ入る強い言葉となつて追る。以下昭和の地震記録だが、幾百年かの後、望みはしないが、同じ災害に襲はれた時、この旧記録と同じやうな迫力が、又われわれの子孫の胸に湧くのではなからうか。

二、地震直前と地震中の記録

故東大大森博士は気候による地震の活動を研究された。気候と地震の関係もまだ定説になつていないそうだ。
一九四六年(昭和二十一年)
十二月二十一日午前四時十九分
(二一、一二、二一)記憶に都合よい数字。
震源地、太平洋岸沿い外側地震帯の一部、熊野灘、土佐沖にまたがる帯状帯


地震直前と地震中の記録
(括孤内は資料提供所或は者)


当日午前四時二十分頃以前の様子は平常に変らす、別段異状らしいものを認めることができなかつた。
当日は夜あけの月があり、地震のあつた昭和二十一年(一九四六)十二月二十一日(土)午前四時二十分頃、約四、五分間の強力な人体に感じる地震があつた。震動は上下動ではなく、南北の水平動のやうであつた。
(海南市役所)


地震前一週間ばかり、時期としては特に寒さが激しかつた。
農作物についてみると、麦は少し黄色味を帯びてゐた。これは、肥料不足(当時農村は肥料難の時代であつた)からではなく、気候が急に寒冷を加ヘたことと、四五日来の乾天続きの為であつた。かうした塞冷の厳しい日が過ぎると、こんどは、急変して暖かい小春日和がつづいた。気候の急変と地震の関係は別としても、地震の前兆のやうに天候不順であったことは事実である。
(新宮市廣角青年会)


未だ本格的な寒さになつてゐなかつた。厳冬を前にひかへて楽観視してゐる者が多かつたと思ふが、当日は、かなり寒さが厳しく、一ヶ月程前から降雨雪がなく、仲之町北側、三和銀行南側は終戦前より疎開してゐた建物(マーケツト)飲食店なぞ全市の各所に散立し、相当乾燥してゐた。(市宮市は火災の被害が甚大であつた)
(新宮青年団)


十二月二十一日午前四時二十分頃、突然水平動の地震を感じ、其の後約十分間続いた。
その間に北西方の上空に光のひらめくのをみた。
(塩津村役場)


震動は相当強く人体に感じたため一少部の人を除き、大部分の村民は、戸外に出た。
(塩津国民学校)


十二月二十一日午前四時二十分頃、突然、相当強度の水平動震動を感じ、約十二ー三分間続いた。この間に出漁してゐた者らが北西の空に光をみとめた。
(塩津村青年団)


昭和二十一年十二月二十一日、天候快晴、風なく、気温例年より稍高く、割合にあたたかかつた。急激な震動に大部分の者は戸外に避難したが、地震の終るまで一部の者は屋内にゐた。
(大崎村役場)


天候良く、気温高し。
(大崎村大東青年団)


地震の程度は震源地近くであつたが、比較的軽いやうに思はれる。(各地のその後の状況に較べて)
(廣国民学校)


地震の直前に西の空に火の棒の立つたのを見た者がゐるだけで大した変化をみなかつた。
(三尾村役場)


大震時、さかんに北方小浦崎方面に電光形の光を見た。光の数は非常に多く数へきれなかつた。
(比井国民学校)


常のと異つた激震だつたので人々は悉く夜着のまま、或は着物を被つて屋外にとびでた。
(白崎村役場)


地震発生前数日間の当地の気温状態は常態ではなく、村民の中には天候状態から推測して天変地異を、わけても地震のくることを予言するものさえあつた。しかし、それは何か変つたことがあると言ふ程度で、それに備へて避難の準備をするといふやうな度の高いものではなかつた。
又、海岸での潮の動をが活溌であつたといふことも伝へられた。発震当日は冬には珍らしく暖かな日で、其の夜の異変等念頭に浮かぶよしもなく、円かな夢を結んだ。それだけに発震時の狼狽も相当なものであつた。
しかし、漁業関係者で三時頃から起き、出漁準備をしてゐた家庭の人々は、天候そのものが六感に不気味な感じをあたへるものがあり、海面に発光を認めた者や、海鳴りを耳にした者がゐて、異変を直感して発震前に避難したものもあつたと聞いてゐる。
震動は近来体験したこともない程長時間のもので、倉皇床を飛びだした人、家中にひびく建物のきしみを耳にしながら待機してゐた者、共々に恐怖の底に落ちた。
(切目青年団)


地震前は非常に静かで寒冷を帯びた。
昭和十九年の地震と異つてその震動の度合が狹いやうで、非常に急激であつた。


(補記)
19年の振動
21年の振動


(由良村役場)


昭和二十一年十二月二二十一日午前四時二十分突然約五分間にわたる強震あり。
(印南町役場)


毎年の気候に比べて稍暖かく、降雨も比較的多く、強震の起る数日前には地響き海鳴りなぞの徴候があると昔から言ひ伝へられてゐるがか様な前兆は全然感じられず、かへつて静穏な天候と変異をみとめることができなかつた。
(塩屋村役場)


1、四国が非常に近くに見えた。 (前)
2、波なく高潮であつた。 (前)
3、南方海上に砲声に似た音を聞いた。 (中)
4、北方和歌山方面上空及南方に電光を見る。(中)
(塩屋国民学校)


二十一日午前四時二十七分予期しない大地震である。
(周参見青年会)


発震前二三日、夜間の静寂の中から(南方より)無気味な海鳴りの音が聞えた。
地盤が次第に沈下し東海岸にあつては砂濱が殆んど無くなり、満潮のときは波が県道まで達してゐた。
漁師の話によると二三日前から潮流の方向が頻繁に変化し且速かつた。
地下水に変化をきたし、井戸水が二、三日前から急に減少した個所が多い。
気温は非常に暖かく、レンゲ、櫻も咲いた。
以上の事によつて人々の間で近く大地震が起るとの予感を抱いたり噂があつた。
(串本国民学校矢倉教官)


最初上下震があつて直に電燈が消えた。それから大船にのつたやうな感じで南北に揺れた。
(古座町役場)




予感風聞


この資料は周参見青年団長の古田耕氏の提供によるもので、地震予知の科学的な資料とはならないが余談としては面白い風説である。
大阪の予言者女盲日の某按摩が戦災にあつて周参見町に疎開してきてゐた。大阪では一種の予言者として生計を立ててゐたのだが疎開後は二児を養育するため按摩業を行つてゐたのである。彼女は子供に手をとらせて仕事にしたがつてゐたのだが、二十日は近所の者に呼ばれて肩を揉んでゐた。この時、つまり、地震の前日、彼女は予言をしたのである。
彼女は客の肩に手を置きながら、何気なく、ふと脇に坐つて母の仕事の終るのを待つてゐた子供に、〃明朝、何事か異変が起る。若し地震でも起つたら、わたしを神社に連れて行くやうに〃と語つて。
女按摩は、仕事を終へて自宅に帰つていつた。彼女の住居は、海辺に近い川のほとりの古い小さな家であつた。いはば、津浪があれば、最も危険な場所なのである。
翌未明、地震と津浪が起り、数名の犠牲者を出したが、母親の手をとり、地震と同時に妹一人を連れて神社に逃れた女按摩一家は無事であつた。彼女の住居は流失して跡形もなくなつてゐたが、村人は彼女の予言を不思議に感じてゐる。
地震の前夜、某家の老婆が、家族の寝静まつてゐる時、新しい藁草履を、それぞれの枕もとに揃へて置き、明朝は何事か異変が起ると思ふから、その時は、これを履いて家を出よと言ひのこして寝入つたといふ。この予言は家族は勿論、近所の噂となつてゐる。
これは漁場の噺である。
某家の租母がーすでに故人であるー臨終の折、稲積島の沖に黒波が立つて、その波が鮫肌に見える時が必すある。その時は地震が起り、津浪が寄せるから注意をせよと遺言してゐた。
この遺言を記憶してゐた人々が、地震の前日、山からの帰路、稲積島沖の異変を発見した。そこで近在に警告し、警告にしたがつて船の始末をつけた人々は、全く無事に、その難からまぬがれた。


以上の資料によつて、地震の予知となるべき兆候は結論をつけることができないが、別記古記録等と綜合する時、天候の不順なぞを挙げることができるやうである。しかし、天候の不順必すしも地震の予知とはならないやうである。
地震中には各種の異変を生じてゐるやうであるが、やはり予知は科学的な面に立脚してでなければ出来ず、それすら設備、その他の点に於て幾多の困難があるやうである。
地震の予知が完全に行はれ警告が測候所から一般へ発せられ、人々は、それによつて事前に避難することが出来るやうになれば大きな人類の幸福である。特に地震国日本にとつて、この面への研究が明日への大きな課題として残されてゐるといふべきである。
今ここに、串本国民学校高二女子、五○名と初六男数名が矢倉達夫教官を中心に組織した地震調査班の調査資料を掲げよう。
(統計製作者矢倉達夫教官)


1、人体感覚


2、閃光


3、地面又は建物のゆれた方向


4、時計


5、地鳴り(一)


地鳴り(二)


6、墓石


7、家屋




田並国民学校児童(五、六年)調
(串本校の調査と比較参照されたい)


一、光りもの 見た人 七
見ぬ人 七九


二、墓石 倒れたもの 四二
倒れぬもの 一六六


三、家


昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分初震、初震最も強力で、震動時間長く、その後余震数十回ある。
(田並国民学校)


村民の大部分は空中の閃光現象を見なかつたが出漁中の漁夫の語るところによると、、初
震当時、海岸も海も山も一面に明るく照らされたとのことである。
(田並国民学校)


道路上の亀裂は最大輻十糎に及び、南北方向のもの特に多い。
(田並国民学校)


其の夜(八時半頃)南西の山頂一間余りの所に異様に輝やく星を見たといふ者もあり、或は未明の月が非常に明瞭であつたと後聞するが、実際は地震直前までは村民の誰もが、それを予知することができなかつたのは事実のやうである。
昭和二十一年十二月二十一日、午前四時十九分、突如として電極の火花様の放電があり、直に激震があつた。約五分間にわたつて地鳴りを伴ひ、水平線にあつて異音(ゴウゴウと遠雷の如き)を伴ふ発光があつた。
その日、漁に出てゐた者の話によると、海上ではドーンと船底にショツクを感じ、山々からは電光が出たと言つてゐた。
最初は南北の方向に上下にゆれ、棚の上のものが落ちた。次に障子ふすまがたふれ、出ようとしても戸が開かなかつた。この状態が五分間程続いた後、次第におさまつていつた。
(新庄村役場)




比井崎拾記


地震は二十一日の早朝だが、その前夜、つまり二十日の午後十一時頃、内原から、某氏が比井崎の自宅へ帰つていつた。勿論、月夜ではなかつたが、その途中、不思議な閃光に驚いた。
閃光の強さは、何れの方向であつたかは語らなかつたが、その瞬間、某氏の姿が、歩いている姿が、閃光によつて地上に、はつきりと影をうつし、某氏は、今頃いなづまでもないのにと不思議に思ひながら帰宅した。といふ話を、役場の職員が某氏から聞き、それを語つてくれた。
これが、事実だとすれば、閃光は大地震の前夜にもあつたといふことになるが、不幸にも某氏が不在で直接耳にすることのできなかつたのを残念に思ふ。
(編集者)


地震遭難の記


この手記は和歌山市の西、松江の忠淳寮の二階に収容されてゐた引揚者(本集編集者)の地震遭難の体験記録の一部で、当日の日誌より抜粋。


未明の深い睡りは私の習慣である。この深い眠りから醒めたときは、もう、かなり激しい震動であつて、それまでに、どれだけ震動があつたものかしるよしもない。夜具の上に上半身を起し、逃げ出さうか、このまま震動のおさまるのを待たうかと迷つたが、それも一瞬で、連続的な水平動(方向の記憶はない)が激度を加へるばかりで、棚の物の落ちる音が、何やら叫ぶ人声の中で各所から起つた。それでも激震の経験を持たない私は、まだ腰をあげず、動揺する室内を眺めていた。電燈は(笠のない)左右にはげしくゆれていた。
今度はたしか南北の方向に揺れていたやうに記憶する。それは、私の向いていた方向が西で、東西の震動なら、そのことがわかつたと思ふが、左右、つまり南北だつたと記憶する。
しかし、その時は、はつきりと南北だと感じてゐなかつたから、、確実なことは言えない。
ここは、もと住友工場の合宿所で、南北に長い二階建で、棟の長さは約五十間もある。
私は、二階の、ほぼ中央部に住んでいたのである。
その間に物の落ちる音、急いで廊下を走つて逃げ出す足音。寝入込んだ子供を起す声か、言葉短かな種々な叫び、(声といふより)これはいけない、危険だと感じた。二人の子供も目をさまして坐り込んだ。妻は、私の動作に従ふべく身がまへた。、逃げよう。私の声に、妻や子供は寝巻の上に外套を着ようとした。瞬間、電燈の火が動揺の中で消えた。暗くなると不安が一気に深くなつた。そして、しまつたといふ感情が湧いた。やられるかといふ不安が募つた。震動の中で中腰になつて、手さぐりで夜着の上に外套をかむり、室外に出やうとした。戸が開けにくかつたが、そんなことより、増々はげしくなる建物のきしみが恐怖を強め、押しあけると外は長い廊下である。まつ暗である。家族四人が廊下の闇の中を夢中で突走つたが、廊下の途中で水の中に足を突込んだ。が、すぐに、防火用水の水桶を廊下に置いていたのが、震動で、その水が溢れ出たものだと直感した。濡れて冷たい素足のまま急ぐと、平坦であるべき筈の廊下が大きくうねりをうつていることが走つていて感じる。震動による大異変だと恐怖が増し、急いで最も近い階段口までくる。
階段は急げない、足さぐりで一段降りると、ひどい傾斜だ、どうやら階段の片方が外れてしまつているらしい。ライターをつけるが消える。
その閃光で、足裏に神経を集めて、途中で一回踏り場のある、二折してゐる階段を下りきる。幸い履物を無意識の間に持つてきていたので、廊下を降りつめた土間に立つた。ここでは一部が炊事をしていた所である。早起連中だらう炊事の火をかまどに残したままである。火災—こう直感した。先づ家族を屋外に走らせ、私と年長の子と二人で、約四、五米先の流し場へ走つた。水をとるためである。水道の給水栓の下に水のはいつたバケッがあつた。幸いなことだ。それをかまどの上から三ヶ所にぶつかけて、出やうとした、屋外まで三間とない土間で、間口が一間だが、なんと、中央部が板かまぼこのやうに盛りあがつて、隆起のまん中がパンのやうに裂けていた。恐ろしいことになるものだと不思議にも思つて、一気に屋外に出た。土間の入口には硝子戸が二枚あつたが、すでに誰かが押破つていた。
この間の行動は、ものの五分とかからう筈はないが、行動中には震動を少しも感じなかつた。気がつかなかつたのかもしれない。それにしても、よく途中で火気消火に気がつき、行動がとれたものだと私のちよつとした沈着さも思つた。しかし、激震無経験者の、いはゆる盲蛇を恐れずの類であつて、今後は、もつとふためいて屋外に飛び出るかも知れない。
屋外に立つた人々は黒く長い建物を誰も黙つて眺めていた。恐怖が沈黙を残しているのだらう。東の方の社宅、南の方の社宅、住宅からもしきりに何やら人声が聞える。
この寮には約五十世帯と約二百名近い人々が住んでいたのである。、今に倒れるのでなからうか、火災を起さなければよいがと私は案じた。この五十世帯は戦災と引揚者で物質的には恵まれていない者ばかりなのだ、それが、火災にでも遭つたら根こそぎだと案じざるを得なかつた。
外気はひどく冷え、足先がじんじんと痛んだ。北方西よりの上空では、さきほどから閃光がしきりに見える。どうやら、和泉山脈の向ふ側下の方に光源があるやうで、恰度、大阪市街からのやうに感じた。不思議な異変だと思ふ。そして今にも一大変動がこの天地の間に起るのではなからうかと不安であつた。中天には冷たく星がまたたいている。東はまだ少しも白んでいない。
やがて、誰かが焚火を始めたが、人々は黙つて、その火に集まつていき、それを囲んで手をかざした。ぼつぼつと話声も聞えたが、再び二階にあがつて必要品を出す気持にはなれなかつた。やつぱり恐怖が強く働らいていたのだらう。
防寒具や貴重品を誰からともなく屋内へとりにはいつたのは、それから、かれこれ十五分か二十分もたつてからであらう。暗さに馴れた目と、焚火のもれる光で、地面の処々に淡く白いものの拡がつているのを発見した。誰かが地中から水が噴き出して、さつきから流れているのだと言い、うつかり足を濡らした者も幾人かいた。この建物は埋立地に建築されたもので、地盤は一帯に砂地だが地下水が高かつたからだろうと思つた。
東が白み、物の色がほのかに見分けられる頃になつて、長い建物の変り果てた姿に眼を見張つた。夜空にすかした長い棟が波うつていたように感じたが、明るくなつて大きく棟の湾曲していることを見た。そのことより、建物全体が地中にめり込んでいることの方がびつくりさせた。地面から一米程の高さの窓かまちが、地表すれすれになつていた。もつとも窓下の地面はその他の地面より盛りあがつてはいた。震動によつて、建物の重力が埋立砂地の柔らかな地盤に加はり震動とともに、めり込んでいつたように想像された。恰度、濡れた砂の上に重い石を置き、石を動揺させるにしたがつて」地中に沈下していくのと同じ理由のようだ。その結果、砂中に含まれてゐた水分が建物の周辺で噴出したのだらう。
廊下の土間が盛りあがつたのも、建物の周辺の砂土が隆起したのも、同じ理由による現象のようだ。
出がけにバケッをとつた水道栓のある流し場も、沈下し、給水栓が地表すれすれにまで降下し、階下の部屋では床の上に湧水がたまつていた。
建物には四枚のコンクリートの防火壁があつた。防火壁はそのまま南に傾むいて、その壁に接した部屋との間に大きなすきができ、大空に向かつて、あんぐりと口を開いていた。
建物から五十米ほど西の方一帯の道路や畑には十米にも余る長いひび破れが幾筋もでき、その深さは三十糎、いや、もつと深いものがあり、巾は廣いもので一米近いものがあつた。
畑は波うち、水溜りが隆起して、四方に流れた水が、暁の冷気に凍つていた。
(本文は当時の新仮名づかいによつたもの)




私の体験
新庄村役場 橋本武一
地震のシヨツクに暁の夢が破れ、起きあがつた私の眼の前に額が落ちた。驚いて外に出様としたが、ふすまがゆれる度に、きしりをあげて思ふ様に開かなかつた。その中に箪笥の横に祀つてゐた仏壇が倒れ、更に驚き、ふためいた。きしむ戸をこぢ開け、屋外に飛び出したのは全く夢中であつた。
戸外には電極のスパークの様な閑光がひらめき、大地の動揺は連続してゐた。正味五分間ぐらゐの地震であつたが、一時間ほども続いたやうに思はれた。
地震が終り、屋内には入り、家族をせき立ててローソクをつけさせた、家の中はさして乱れても、倒ふれてもゐない様に思はれたが、襖は全部倒ふれてゐた。
その中、私は子供の時から、老人に聞かされた事は、大きな地震の後には必す津浪が来るといふことである。それを思ひ出した時、表の方で何やら、さわがしい声がする。落ちついて聞くと、「津浪だ」「津浪だ」と言つてゐる。驚いて家族に先づ津浪に家財道具を流された後の売ひにもと、着物の良い物ばかり持てるだけ持たして山へ避難する様にと命じた。津波後、約十分、最後に出た私の足もとにはもう溝をつたつて上つてきた。海水が溝をあふれて廣まつてゐる。
ひしめき合つて山に逃げたが目の下は真暗で、何も見えない。その中、どうどうと言ふ浪の音とみしみしと家のこわれる音がして来た。山に逃げた人々は所々に集つて寒さをしのぐために焚火をはじめた。
津浪はますますはげしく押寄せてゐるが、その異様な音によつて知られた。一回目が退き、二回目、三回、四回目頃にやうやく、あたりがうす明るくなつてきた。
やうやく恐怖からさめて来た人々は、各自の住居が心配になつてきた。私も山をおり、水際に立つて、自宅をすかしてみたが、どうやら流失してゐないやうだ。明るさが増してきて津浪の惨状がはつきりと見えて来た。
海水はまだ屋根下ぐらいで流れてゐる。家の流された人、残つた人、悲喜交々。あたりは一面材木と工場と家財道具が押し流されて何ともいへない惨状である。自宅の安否を見に行く人々の姿が見える。津浪は、まだ寄せたり退いたりしてゐる。。時刻は丁度、六時頃であつた。
ほのぼのと常に変らない太陽の昇りそめる頃は、ただ惨状の二文字につきると思ひ、自然の力の偉大さに愕然となるばかりであつた。

三、地震直後と津浪の記録

理論としては地かくの収縮が地震発生の原囚で、現在では一萬分の一まで地かくが収縮してゐる、一萬分の五までくると地球の寿命がつきるといはれてゐる。
大阪気象台 宮本技官

地震直後と津浪初期の記録

地震の後、約十分乃至十五分で第一回の津浪がきた。海岸線より最長距離は大凡二百メートルで、第二回めは、それから約五分後である。それが最も大きく、海面上約一丈あまり上にあがり、人家、海岸、県道筋は七尺ぐらゐまで浸水高を示した。海岸線よりの浸潮距離は五百メートルに及んだ。
第三回めは、それより約二分後で、第二回めにくらべて稍々小さかつたが、第四回めは第二回めと同程度であつたやうだ。第五回めより段々弱くなり、大小合計九回ほど来襲したが、当時は干潮時であつた。
(海南市役所)


震動終つて後、約四十分間後、轟々とひびく海鳴りの音と共に全被害都市の三分の一を津浪が襲ひ呑んだ。続いて約三分後、第二回めの最大の津浪が押しよせ全被害地を呑む。
渦巻く濁流と、人声の中に第三、第四回めの津浪がせまる。火災は起らなかつたが、浸水時間が短かく物資を移動させる時間がなかつた。したがつて家財家具は流失にまかせるより他なかつた。ただ、少量の衣類と寝具、食糧品を携行して、高所に逃げるだけがせきのやまであつた。
(海南市連合青年団)


昭和十九年の震災の時と同じく山に平行した馬町、元町筋が地震による被害が最も大きいやうである。以前はこの町筋は熊野川の河底であつて、土地がやはらかであるための被害だと考へることができる。津浪の心配はない土地柄である。
(新宮市千穂青年団)


震動がおさまつて約四十分後、一大音響とともに第一回の津浪が襲来した。その度合は海岸に海水がのる程度であつたが、約十分後、第二回の津浪がきた。この時は地上一尺ぐらゐの深潮度であつたが、更に十分後、第三回の襲来があつて床上二尺の浸水をみた。その後の津浪は次第におさまつていつた。幸に人命に被害がなかつた。
地震を感じた時は近年にない強さであつたため約二割程度の村民は戸外に出たが、津浪襲来との声に海岸通りの民家では大いに驚き、家財を片付ける者、高地に避難する者等で混乱を呈した。
(塩津村役場)


午前五時少し前、漁撈に出てゐた漁民が潮の高くなつたことから津浪を予想した。急いで船を濱にかへし、いち早く村民に漁浪来襲の警告を伝へた。その時、既に第一回の津浪が約一米二十糎の高さで押し寄せてき、濱通りの道路まで浸水した。村民は何れも高所の親戚、知己の家へ衣類、寝具等を運びはじめた。そこヘ、第二、第三回の最大の津浪が押し寄せたのである。そのために濱通りは非常な騒ぎとなつた。
(塩津国民学校)


地震がやんでから約四十分後に相当大きなうなりを伴つて第一回の津浪が来襲した。その程度は海岸に海水がのる程度(普通の大潮より稍大きめ)であつた。それから約五分後に第二回めの津浪が押しよせた。二回めの潮の程度は地上約一尺ぐらゐで、更に十分後に第四回めの津浪が襲来し、床上二尺の浸水をみた。この時、半壊家屋を三戸出したが、その後は大体おさまり人命に異状をみなかつた。
(塩津村青年団長)


地震による直接の倒壊家屋はなかつたが、四時四十分、第一回の津浪が来襲した。しかし、海上が静かであつたため大した事はなからうと避難準備に思案をした。続いて第二回めの相当大きな津浪があり、大字大崎部落は床下まで浸水した。そこで、人々は、皆俄かにあわてだし、物品の移動をはじめた。ややあつて、第三回の津浪が襲ひ来て、意外にも海岸地帯(大崎)は床上一尺乃至五尺余の浸水にあつた。
地震による直接の倒壊家屋はなく、死傷者をみなかつたが、これは不幸中の幸であつた。
ただ、大崎、方部落は津浪による浸水で家財家具をぬらし、一時呆然自失の状態であつた。
特に方部落は昭和二十年七月六日、七日、九日の空襲に相当の被害を受け、漸く復興の緒についたばかりの処で、今回の震災打撃は大きかつた。
(大崎村役場)


午前五時少し前に第一回の津浪があつたが、浪は静かで大した事がなかつた。
続いて第二回は相当大きい津浪があり、字大崎では部落の床下まで浸水し、急いで物品の移動を開始した。
午前五時過ぎ、第三回の津浪があり、海岸地帯と鉄道線路近くまで浸水した。その高さは一尺から深いところで五尺余の浸潮度をみた。
地震による直接倒壊家屋はなく、死傷者を出さなかつたが、空襲被害を受けてゐた方部落方面の重ねての災害は相当大きな打撃をあたへてゐる。全部落の水害被害者の九割までは空襲被害者であつた。
(大崎村大東青年団)


地震のみによる被害は極めて軽微である。発震後津浪を予想した者もゐたやうであるが、確実度については断定を下しがたいと思ふ。それは事前に避難者の少なかつた点より考へられる。
津浪襲来の声が伝へられて、安政の故事が甦へり、人々は八幡社に避難をはじめた。壮年者を除いて他はほとんどこの避難者群に加はつた。、稲むらに点火された安政の姿が再現された感じであつた。この時、避難に遅れて途中にゐた者は最も危険であつた。かへつて二階に待避して難を逃れた者もある。一学童は、自宅に二三寸の浸水であつたのを避難し、途中で溺死してゐる。
津浪は約二時間にわたつて数回来襲してゐるが、第三回めが最も大きく、最後の大きな津浪の襲つた時はすでに夜も明け放れた頃、恐怖にも慣れ、血気な者は防波堤上に立つて湾内の様子を眺めてゐたほどであつた。
梧陵翁の築かれた防波堤は、今度は、その効果を完全に示し、今更偉人の逹識を敬仰する次第である。
別表の廣村略図によつて知るやうに堤防のない西南、江上川に沿つての浸水は甚だしく、被害の最も大きいものである。日東紡の社宅は軒場近くまで来襲し、死者も多く、耐久中学校なぞは被害の程度が高い。
(廣国民学校)


地震と同時に屋外に屋外に飛びだした者も相当あつたが人畜に被害はなかつた。
地震が終ると同時に、一部の漁民は濱に出て三米(水深)程度の干潮をみとめ津浪を予知して津浪、津浪と連呼した。これによつて一部の村民は高所に避難したが、大部分は避難をしなかつた。この間の経過時間は約四分間で、津浪の回数は三回あつた。大波、中波、小波各一回で、大波の際の波の高さは約四米である。津浪と同時に濱に揚げていた船の大部分は流失した。
(三尾村役場)


大地震直後、私は津浪を予想して、すぐ海岸の波打ぎはに行き、様子を見てゐたが別に異状を認めず、すぐ帰宅して萬一津浪が来襲した時にはと待避準備をした。
今回は第一回から波が引かず、すぐ押しよせてきた。必ずしも最初から引いて、その後に押寄せるとは限らない。
(比井国民学校 林宗次郎)


余りにも水平動が烈しかつたから、震動が終つた後に津浪の襲ふことを予感した者もゐたが、昭和十九年当時の潜在意識が働らいたためか、(当時は大潮程度であつた)—簡単に津浪なぞくることもなからうと安心をし、かてて夜明け前の冷気から一たん外に出た者も床の中にもぐるといつた、様子であつた。これが、後に甚大な被害を蒙むる、原因となつたわけである。
しかし、心ある人々は寒冷をよそに転馬舟をかはしに行つた者もゐた。が、当時、何等海上に変化を認めなかつたが、間もなくゴウゴウ、バリバリと物を打ち破る音響が聞え、この音によつて津浪の襲来を知つた。海岸地帯の人々で畳が浮かんで、はじめて気が付いた者は半数であらう、神経が太いとか、大胆だとかといふより、一に油断であつた。
最初に予知した人々は提燈をふり、山手の方へ、津浪、津浪と連呼しながらかけ登つていつたが、これは少数で、大部分の人々は子供の悲鳴、人を呼びあふ声を耳にして、周章狼狽の上避難をはじめたのであつて、そのふためき方と、予知によつて避難しなかつたといふ事実は貴重品の携行も忘れて山へ、高地へ逃げのびたといふことから知ることができる。
津浪といへば、大きな浪が一気に襲来するものと観念されてゐたが、それは違つてゐた。
だんだん水が湧くやうに増大して、その前方に進行することは瞠目するばかりで、ほんの寸前まで緑色の麦、豆の植つた田圃も、またたく間に満々とたたへた海になり、木材、小舟なぞが打合つた。一分間程停水してゐたが、木材を残して引いていつた。美しかつた畦は跡形もなくなつた。津浪は間歇的に同じやうなことを繰りかへしたが、一回毎に一寸余りづつ水の深さがへつていつた。
(白崎村役場)


震動止み、燈が消えて、人々はほつとした。その時(約五分間位)は津浪が襲来してゐて「津浪」との声に低地部に住んでゐた人々は親は子、子は親を、さては牛馬を、物品をと混雑を極めながら高所へと避難を始めた。すでに、その頃は床下に潮が押しよせてゐた。
新月は空にかかつてゐたが、曉はまだ遠く、高所に集つた人々は続く余震と海鳴りに神経をとがらせながら焚火を囲んで暖をとり、古老等をかこんで話を聞いて、夜の明けるのを待つた。
(切目青年団)


地震後、約十五分ほどで海水は干潮時の約二倍ほど少くなつた。地震後、約二十分ほどして第一回の津浪がきが、第二回めは最大であつた。
高所に避難所を設けたり、避難所に通ずる廣い道を設けることが必要で、本村駐在の巡査部長と警防団長は、地震と同時に津浪の襲来を予知し、一般の人々へふれ回つた。
(山良村役場)


強震あつて約十分後、津浪の第一波があり、続いて九回に及ぶ津浪の襲来があつた。その間約十五、六分で終つたが、その中、第二波、第三波が最も激しく、最高潮面より六米に及んでゐる。
(印南町役場)


突如と起つた強震に、全く虚をつかれた有様で、丁度、二十一日午前四時二十分の初震後約十分して、地鳴りと共に潮鳴りが轟々と押しせまり、五分後には津浪が押寄せてきた。
以上の様な状況で全く不意を衝かれ、、電燈は消え、一面は暗夜であり、辛うじて避難した始末であつた。海辺に近い部落は、全く物品を搬出する暇もなく、只子供と老人を避難させる余裕だけよりなかつた。幸なことに、津浪の速さは子供の走る程度で村民の生命に被害のなかつたことは幸であつた。当時の浸水部落民は附近の民家と山に避難した。
(塩谷村役場)


津浪を予想せず、寝につく者多し。
関東震災の経験者は津浪来ると叫び回る。
約二十分後、津浪来る。
津浪の回数は明確ではないが五回から七回であつた。
北塩屋西岸に横たはる州の為か急激な津浪なく速度は子供の走る程度であつた。
(塩屋国民学校)


大地震のために町民は、この寒中を着る物も身につけず、持つ物も持たす屋外にとび出した。その時、古老が津浪が必ず来ると警告した、そのために更に恐怖を深めた。人々は無意識の中に近くの山や高所に避難した。
そして数分後、ごうごうという波音がして、津浪が押しよせた。津波は家を倒し、流していつた。この無惨な様子に婦女子は恐れ泣き叫んだ。そして、現在社会状勢と思ひ綜せて復興の至難を痛感する声すらあつた。
(周参見青年団)


晴天で頗る静穏で暖かつた。紀伊山脈の方向に閃光が見えた。町内各戸の石垣中特に南向のものは殆んど崩壊した。
安らかな夢から一瞬恐怖のどん底につき落された町民は、僅かな衣類を手に先を争つて附近の山々へ避難した。空は晴れてゐたが真暗で、いたる所の石垣は崩れ避難は困難であつた。
間もなく津浪が押寄せてきた。逃げおくれた人々は腰まで海水につかり、やつと目的地にたどりついた有様であつた。
見る間に上野の山、祇園の山、西の岡、国民学校、病院の山、駅上の山は、とりどりの服装をした人々で黒山をなした。親を呼ぶ子の泣き声、家族を求める人々の声なぞで、これらの場所は悲惨な姿を見せた。
中でも、漁師の家庭では沖へ漁に出た夫を、親を気づかつて、沖に点滅するいざり火へ血を吐く思ひの眼を注いだ。
この間にも幾度か余震がつづき、人々は種々の情報がはいる度に不安におそはれ、折からの寒気にふるへながら夜明けを待つた。上野の山では焚火の焔が暗の中であかあかと燃えた。
(串本国民学校)


突然の大地震に密集住宅地帯の人々は、人家の崩壊を恐れ、老人子供を引連れて戸外に飛び出し、避難しようとすると、数分間で津浪の襲来があつた。平地に避難した人々は更に山に、或は円光寺に難を避けた。この間に、田並村役場前につないでゐた漁船五十隻を所有者は必死の活動を続けて流失の難から避けた。
(田並村役場)


家の柱がめりめりと音を立てて棚から書物が落ち、テーブルの上で湯呑が倒れ、時計が止つた。戸外で「津浪」と呼ぶ者があり、附近町民は当町唯一の避難場、役場から程近い
青原寺坂に避難した。未明で暗く、無風状態であつたが暁の寒さを感じた。空には無数の星が明るくまたたき、沖の漁火も明滅してゐた。
地震後、約十分で第一波がおしよせ、つづいて、第二波、第三波が押しよせた。一般に第三波が最も大きかつたといふ。その時、古座町役場も床下まで浸水した。
(古座町役場)


別表は串本国民学校児童の調査であるが、津浪の来襲時刻については各地とも異つてゐて、激震が終つてから十分乃至四十分後に来襲したことが、各地の記録から言へ、津浪の大小は第二波乃至第三波が大きかつたやうである。
来襲の時刻は、被害地の人々にあつては混乱状態下の時であるから正確なものを知ることの出来ないのは当然であるが、地震終了、又は地震中に津浪を予想した地区と、予想しつつも待機しなかつたり、予想を軽視したりしたことがその後の浸水被害に大きな影響を及ぼしてゐることは事実である。
津波(串本国民学校児童調査班調)


津浪は数回襲来した。
第一回には満潮時の海水面より約一米二十糎の高さ、第二回は約二米二十糎の高さ、第三回には三米以上の高潮で、惨害を被つたのは第三回めの津浪によつてであつた。
(塩津国民学校)


波高は高満、普通満潮海面より三米九十の高さを示し、津浪回数は十一回で、大が四回中が四回、小が三回である。
(由良村役場)


瞬間的な地震そのものの記録の少なかつたことは残念である。

総括

各地区を綜合的に眺めると、かなり強震を感じたため津浪の予想はしてゐるやうだが、どちらかといへば、その予想を楽観視した傾向がある。これは、過去の経験の有無や、警告の発した様式や警告者によつて異つてゐるやうである。
そして、今回の震災地は、むしろ、地震そのものの被害は軽く、地震によつて起つた津浪の被害が大部分である。しかし、津浪の予想に待機準備をしてゐれば、更に損失を減少することができたであらう。
地震終了後、最短時間を十分としても、的確に津浪を予想し、避難を行つてゐれば、或は人命の犠牲もほとんど皆無に近かつたかも知れない。地震には津浪がともなふものとの警告が各地からの記録より拾ふことができる。
また、或る地区の人々は未明の津浪であつたために、人命の犠牲が少なくてすんだとも、うなづける説である。

津浪とその後の記録

火災は起らなかつた。津浪後の状況は、畳、建具は折れ、床板は流れ、、衣類は四散し、泥土は山積みになつた。床下には海魚類の死体、流れた衣料、廿藷、大根等が砂泥に埋もれて壁際近くに盛りあがり、其の惨状は目も当てられなかつた。
(海南市役所)


地震によつて水道管が破壊され、市内に一滴の水さへ出なかつた。飲料水はもとより、火災に対しては全く消火力がなかつた。井戸水の必要性が痛感された。
(新宮市廣角青年団)


第三回津浪の来襲があつてからは引続いて来襲の様子がなく、漸く人心は安定し、午前七時から一般に冷静となり後片づけに着手した。
(塩津村役場)


濱通りの家、約百戸足らずを除いては津浪には関係がなかつたが、親類へ見舞に行く者、濱の方の様子を見に来る者等多数で、村内は非常に混雑した。羅災家庭では流失物の捜査やら屋内の整理に忙殺され、又、和歌浦、海南方面に及ぶ和歌浦湾の海上には、海南市、
その他よりの流矢物で悲惨な有様であつた。
(塩津国民学校)


中震乃至強震程度の震動に戸外に出た者は二割位であつたが、「津浪来たる」の声に動揺した。特に海岸通りの民家では高所に避難する者、家財道具を片付ける者で非常な混乱を呈した。しかし、第三回め以後は大津浪も認められず、漸く落付き、午前七時半頃よりは一般に冷静となり被害あとの取片けにはいつた。
(塩津村役場)


今回の津浪で二戸(中西峯五郎、中野岩太郎)流失、床上、床下の浸水及農耕地に相当の被害をあたへたことは大崎、方部落に大きな打撃をあたへた。同地区部落民は一時虚脱状態におちたが、すぐに点々として復興に努力を払ふやうになつた。
(大崎村役場)


(廣国民学校は国語読本教材の「稲村の火」に関係深く、その主人公濱口梧陵翁の生地で、特に次の記録が送られた)
校舎は被害殆んど無く、児童は郷土の偉人梧陵翁の精神を範として坐臥忘れることなく、その防浪堤については又特に関心が深く、地震より津浪を同時に直覚した者が多く、父母を促して逸早く避難を勧めた者もゐた。児童の当時の行動は大凡沈着で科学的であつた。
ただ、この中に三人の犠牲者をだしたことは遺憾の極みである。
(廣国民学校)


津浪と同時に濱に揚げて置いた船の大部分は流れたが、津浪の終りと同時に、その拾得につとめたため流失してしまつた船はなかつた。
(三尾村役場)


生涯に一度も見ることの出来ないであらう、この海岸の一大異変を眼前にして、これが現実であらうか、悪夢ではなからうか、との思ひの域から人々は脱し得られなかつただらう。
人力では抗し得ない天災が去つた後、人々は己の荒廃した家や田畑を眺めて茫然自失の態であつたが、やがて、各自に課された任務のやうに、或は家を、或は田畑の後片付けに着手し始めた。
(白崎村役場)


津浪直後の大部分の人々は、まだ、おどおどと病的な神経質をみせてゐる状態であつた
が、その中には漂流物を漁るといふ者も少くなかつた。
縁故のある罹災者ほそれを頼つて行き、無い人々は寺院の堂宇に収容された。寝具など
は罹災者でない人々が貸し、食糧は一定の場で炊いた。夜が明けると非罹災者は親戚の羅
災者の家へ早速手分けをして手伝ひに働いた。
当時から一週間程、本村の津浪に襲はれなかつた家庭は、ことごとく吹井地区か、隣村
の被害地へ片付応援に出ていつた。食糧は一時的な措置として農家から廿藷の供出を行は
しめた。
(白崎村役場)


夜は明けた。余震は尚ほしきりである。古い家の倒壊二三。家の傾むいたもの、壁の落ちた家、浸水家屋、泥土に化した一部の耕作田、これらの姿を眺めて今更乍ら自然の偉大な猛威に茫然となつた村民であつた。
隣接町村をはじめ、かく地の被害状況がはいる。わけても隣、印南町の被害状況を耳にして、それを傷むとともに、村民の不安は募り戦いた。が、一たん自失した被害者も各自の後片付に手を着け、隣村への救援にも活動を始めた。然し、余震がしきりで、流言も飛び、待避の準備をし、物品の移動等も行はれ、人心の動揺はやまなかつた。平静になつたのは三日後頃である。
(切目青年団)


地震による被害は皆無であるが、津浪による被害は最も激しく、その被害区域は印南川口から印南橋に至る東岸の本郷部落の大半と印南橋西岸附近(濱東部落)が被害が大きく、町内七部落中、津井郡落を除く六部落の約六割程度が浸水の被害を被つた。
今度の津浪を印南港沿岸に調査の手を下してみると東の方では六米以上、西に向かふにしたがつて水高も低くなり、被害も比較的少なかつたのは津浪の進行を示すものである。
津浪の避難ほ印南川西岸は要害山(古文献、略図参照)上野山、学校等に、東岸は背後高地、束光寺、観音寺等に待避したが、約四割程度の町民は避難に遅れ、そのまま屋内に止まつて危く難を免れた始末であつた。
避難場所に至る道路が狭少であつたのと、高地に住む濱部落等では、一たん低地を経て避難場所に至らなければならない関係から、相当困難と危険であつたが、津浪の襲来は海


辺に住む町民として、常に注意を払つてゐ、強震最中に濱辺に避難した者が、一早く津浪の来襲を察知しそれを連呼しながら避難したために、一般的に早く津浪の来襲を予知することができた。これは人命の犠牲者を最少限度にとどめ得た原囚となり、不幸中の幸といふべきである。
罹災後、一時は、非常に困乱状態に陥つたが、当日正午頃までには、罹災者の約八割が町内の縁故や自宅に帰つたが、約二割は学校や寺院に収容しなければならなかつた。
其の後、余震の連続的な発生があつて、特に夜間にあつては人心の不安も深く、各自が避難してゐた。ようやく二十八日頃になつて民心が落着きを見せ、各方面の周到な資材斡旋と努力の来援を得て、家庭に帰り、復旧も進んだ。
なほ、流失、倒壊羅災者は、まだ縁故先に寄遇してゐる者もゐるが次第に励んで復興に力を尽してゐる(本資料作製当時)
(印南町役場)


直に後始末に着手する者半数。引続き地震ありのデマに迷ひ、避難準備をなすもの半数。
(塩屋国民学校)


夜が明けると共に人々は急いで家に帰つた。そして、変り果てた町の姿を眺めて驚くとともに、大自然の猛威を今更のやうに怖れた。
しかし、やがて町民は失望の中から勇気をとりもどし、早速道路、丘の障害物除去に取りかかつた。男子青年団員は終日、総出で必死の活動を続け、女子青年団員は国民学校で炊出しを始めた。
二十一日は頻繁に予震があり、人々は不安のため屋内にゐることができず、手につく仕事もなく、処々にかたまつては不安の中に種々な地震の噂話をして一日を終つた。夜は不安から殆んど人は山々に行つて眠つた。
地震以来数日間、人々の念頭から地震が消えず、二人寄れば地震の話でもちきりであつた。
(串本国民学校)


地震から津浪迄の時間が短かく、一般の動揺もはげしく、被害も大きかつた。
(有田村役場)


村民何れも避難場所より自宅に帰つて津浪の惨状に驚き、床上、床下に海水浸入し、衣
類、畳、道路等全く手のつけようもない始末にあきれた、衣食住共に困難をきたした。
(田並村役場)


浸水後の調査の結果、浸水家屋百十七戸に及んでゐた。
この混乱に当つて火災の発生しなかつた事は町民の沈着を証明するものであらう。戸締は充分でなかつたが、これは当時の情勢からやむを得ないことである。
大体は避難状態は良好であつたが、極度に怖れた一部は沈着さを失つてゐた。オーバー、毛布の携行を忘れ、寒さにふるへてゐる人、特に病人の苦痛が眼についた。
津浪の合間を利用して荷物を取りに帰つた者で傷をした人もゐる。
初震後、約十分を経過すると第一波が来襲し約十分後に第二波、同じく第三波と来襲した。第一波より第二波、第二波より第三波と次第に潮高が大きくなり、第三波は最大で、この時、漁船が川口から約六〇〇米上流の地点まで流され礁坐礁し大破してしまつた。この折最大潮高は川口から五〇〇から五〇〇米上流の国民学校で二米の水深を示した。
(田並国民学校)


津波がひくと直接被害をうけなかつた人々や軽い被害の人々は、にげおくれた魚類を拾ひまはつた。麦畑でいかが拾へたり、一貫めもある鯛を拾つたといふ話も産れた。拾つた魚類は主として海底に棲む魚が多かつた。
(新庄村探訪)

津浪襲来の実況

第一回めの津浪は地震後約十分ほどで押しよせてきた。海岸近くの製材所の倒れる音がみしみしと気味悪く、特殊な音響をたてて聞えた。材木の山が浪と一しよに崩れ落ち、浪に乗つて押しよせたかと見る間に潮道の人家が倒されていつた。
来るところまで来た津浪が、一時滞潮したと見る間に、これは非常な勢で退きはじめ、この退潮に、潮に浮き足立つてゐた人家が、材木や船、製材工場と共に、一気にせまい文里湾の入口に向かつて流されていつた。全くこの退潮の速度は想像以上の速さと烈しさをみせてゐたのには驚かない者はない。
第二回は第一回よりも大きく、第三回は第一回より少さく、第四、第五と次第に勢力が衰へていつた。
(新庄村役場)

新庄村拾記 (編集者)

新宮へ—被害甚大なりの眼が注がれたが、近い新庄は由良と一しよに忘れられた甚大被害地であつた。
しかし、新庄村の人々は、自力復興の方が旺んであつた。惨憺とした村役場の二階で、当時の助役は概況を語つてくれた。その中に、当村の死者は、この土地の、いはゆる生えぬきの人々ではない。土着の人々は祖先から口伝へに地震があれば津浪だといふ先入観念が強くしみ込んでゐて、いち早く避難をした。
しかし、外来者の多くは地震が起つて一たん屋外にとび出たが、津浪を予想せず、室内に再びはいつて寒冷でもあり夜具の中にもぐつて眠つたといふ。田辺市。文里の人に人命犠牲者の多かつたのは外来者が多かつたからだ。
との話が深い印象的な言葉として残る。

災害地慰問の記より

同胞援護会東京本部報道員
吉村 守


十二月二十六日、早くも本部から牧野援護課長、井上主事が見舞金と見舞品を携へて来県された。私は案内役として、海南、由良、新庄の三ヶ所を選んで供をした。その頃は新庄以南の鉄道が一部流失して、陸路では新宮まで足をのばすことができなかつた。、新宮への急援には県でも海路を選んだのである。
電車を降りると海南の市街は泥まみれで、まだごつたがヘしである。泥と汚物が山積されてゐる、伝染病の発生といふことを誰しも直感するが、幸か不幸か冬の最中だつたのでまだよいとしなければならない。
どの浸水家屋にも浸潮のあとが線をなして残つている。壁や塀に、泡か浮游の微粒子が、浸潮線を示すやうに筋を描いて残されてゐた。そのまま人影もない空屋、どこかへ避難したものらしい。土間を洗ふ者、濡れた畳を乾す者、ほされた畳はぐつしより潮を含んでゐる。古畳にいたつては腹をだして物の役に立つべくもない。
市役所まで行くと大変な混乱で、続々と罹災者が配給を受けにつめかけてゐる。見舞金を手交して、駅へ。
海南駅も紀南の見舞客で混雑してゐる。本県誰一人の女代議士齋藤てい女史は汽車待つ人々へ、紀南の災害状況を説明し、援護が伸びてゐるから安心せよと声を高めてゐる。一行三人は同女史と知己である。紀南の様子を聞いて、由良へ。
聞いた以上にすごい荒れ方だ。機雷のブイが潮に乗つて荒れ狂つたといふ。港に近づくほど浸潮線が高くなつてゐる。天井まで潮がとどいて、ぐしよ濡れになつた家、これで、よくぞ流れなかつたものだと意外でもある。陸上で船があぐらをかいてゐる。憎いやら、驚きやらで、津浪後の混乱さは見えても当時の模様は想像しかねるし、津浪の襲来する瞬間なぞ、ちよつと体験のない者には想像から遠い。
街の中は青年団の炊出しや警防団の活動で活気づいてゐる。あまり好ましからぬ活況ではあるが、かうした団体こそ、こんな時に必要である。
ある女子青年団員は、これで三日間洗濯をしつづけてゐると濡れた手で語つた。
役場もごつたがへしであつたので見舞をのべて新庄ヘ。
田辺で汽車を降りると雨だ、バスもハイヤーもない。三人は雨の中を重いリユツクを濡らして歩く。冷雨も歩いてゐると案外寒さを感じない。
とろとろと坂を下ると木材運搬の索道が見え、その先に新庄村が見える。潮は、紀勢線と山との間の田の中まで来たのだといふことは、全で数枚の田は貯木場のやうな材木の山積である。近かくの製材所から押流されてきた、おびただしい材木で、一大貯木場の水をかいだしたやうな情景で、材木は何れも泥んこ、折からの雨で多少は洗はれて木膚をみせてゐる程度である。
由良は機雷のプィの狂乱、ここは、造船所の船と木材の狂乱によつて荒されたといつてもよい。県道に馬乗りになつてゐる機帆船は、かれこれ十トンもあらうか。街のまん中ヘ、どつかと腰を据えて、荒れ狂ふだけ狂つて疲れ果てたといふやうに見える機帆船が二三隻、腰を据えた附近の建物は目茶苦茶にやられてゐる。柱の折れたもの、屋根の傾いたもの、全く跡形もなくなつたもの、いやはや、こ奴の狼籍ぶりにはあきれ果てたものだと感じながら役場にたどりつく、役場前の川は桶と流木の芥すて場といつた始末である。役場も浸
水していた。二階で仕事をすますと、引きかへすことにした。さき程は見落してゐたが、鉄道線路を乗り越え、山麓までのさばり込んだ狼籍機帆船がある。坐り込んだままの不逞ぶりである。全くあきれた存在だが、津浪といふか、大白然の猛威の前には人力では抗し得ないものもあることを痛感せざるを得なかつた。
学校は浸水したが校舎は無事である。そこが一たん、新庄村避難民の収容所にあてられたが、衛生上危険であるとの進駐軍の厚意から、難民は田辺市に収容されてゐた。
悲滲、ただこの一語につきる情況である。
人々は、もう復興にいそしんでゐたが、その痛む心中がよくわかつた。
私は、その後、別動隊を組織して慰問の生活相談に災害地を約一ヶ月の日程で巡回した。
詳細な一々の記録は挙げる紙数を持たないが、集つてくる人々は、何れも胸を塞ぐやうな悲惨な相談を持ちかけてきた。戦に敗れた民族の弱さ、それが今迄の生活相談の総ての内容であつたが、その上に天災といふ激しい鉄槌の一撃を喰らつたのだから、全く話にならない。親を失つた子。子を失つた親。老母を父を、妻を妹を物を家を、これらの悲惨をどうして完全に救ひあげればよいのだと苦しくなるばかりであつた。僅かな慰問金にも、物
資にも涙を流して喜んでくれたのは、本当に力を求めてゐる人々であつた。勿論、中には物欲しさに乞食根精を出した堂々たる壮年もゐるにはゐたが、にべもなく撃退することは、弱者の側に立つた私達の責任でもあつた。
その際の記録から、結論として、弱者は永久に弱者にならなければならなかつたのだと得た。未復員、夫の未引揚、夫の死亡した者、夫と生別した妻、しかも、子供を抱えてゐるこれ等の人々は、全相談者の約七十パーセントであることが相談日誌の中から得られた。
夫に異状のある者が、やつぱり震災被害者の中の最も困つてゐる一群で、しかも、相談に来た人々の約七十パーセントの高率を示してゐる。気の毒ではある。が男女同権の現在、女性は更に生活力を持つこと経済力を握る事が考へさせられる。
記述は余談にはいつたが、私は、津浪の休験がなく、津浪とはどんな風にして展開されるものであらうかと、幾人かの人々に聞いてみた。しかし、未だに納得がいきかねてゐる。
被害者で相談会に訪れた一老母は次のやうに説明してくれた。老母は老夫を津浪によつて失ひ、それまで老人二人きりの生活だつたのである。
わたし達は、地震と一しよに眼をさました。わたしは坐り直つて地震の終るのを待つて
ゐたが、その間に老夫は屋外に逃げ出す準備をしてゐた。荷物をまとめてゐたのである。
地震は静かになつたが、老夫は津浪が来るかもしれないと言ひ、あがりがまちで履物を探
してゐた。勿論、その頃は火が消えてゐたので手さぐりであつた。わたしは燐寸を手さぐ
りで探し求めたが、どうにも見付からない。その時、たしか、大きな音と一しよに畳の持
ちあがつたのを感じた。怖さから老夫の名を呼んだが答はなかつた。そのまま、わたしは
暗い中で念仏をとなへた。やがて、畳は、下へ、再三、再四老夫の名を呼んだが声がない。
わたしは、あがりがまちの方に動かうとしたが、どうやらまだ畳が持ちあがつてゐるやうであつた。
この老母は後に救助されたが、老夫は当時も行衛不明であつた。老母の語る眼には老の涙が光つてゐた。
主人は若いころ柔道をして、丈夫なかだら(からだ)でのし、潮で死ぬとは……かうなのである。
津浪の来襲は今だに私の納得外をうろついてゐる。それまでは、海岸で見る浪の高いものがどつと押し寄せてくるものであると思つてゐた。
東富田村かち徒歩でトンネルを越えて椿へ出る途中、道は鉄路から海岸道路に出やうとする所に、岩山が崩れて一屋が押しつぶされてゐるのを見た。危険だと思ふ。その家の主人は未帰還で、二人の子供を連れて主婦は、地震と一しよに家の表に出やうとした。が、すでに津浪である。仕方なく家の後の山にょぢのぼつた。とたんに大岩が崩れて、彼女の家は押しつぶされてしまつた。母子三人は、その惨状に、ただ唖然となるばかりであつたといふ。
その時、年長の娘は、お父さんの御守りだつたのだと、母をはつとさせたとも言ふ。
これは、東富田の役場で耳にした話で、実地を見ると、まことに驚くばかりの情景であつた。崩れ落ちた岩は大きく、そのままでは取去することも出来ず砕いて取り除くのだとの話であり、大岩のおもしで、流失物資は軽度ですんだとは喜べない幸であつた。
もう梅の蕾のふくらむ頃のことであつた。

地震直後と津浪の記録

地震が終り、戸外にとび出した時、村民の中には、ただ怖れ戦いてゐる者ばかりではなく、地震直後の重くるしく圧迫されるやうな気分の中を海辺に立つて潮を見に行く者もゐた。
地震後約十分、すでに第一回の津浪が非常な勢で押しよせて来てゐた。三十分後には、もう低地一帯が海水につかり、村民は恐怖のあまり、取るものも取りあへず、高所へ高所へと逃げたが、親は子の、子は親の名を呼びあつて未明の暗夜は全く惨状の二字と悲壮の二文宇に表現がつきた。
第一回は約一丈、第二回は第一回より大きく三回、四回と次第に小さくなり、段々と差引は少くなり治まつていつたやうだが、一週間位は低地に潮が来て平常にはならなかつた。
第一回より第五回迄位の間に海岸に近いほとんどの製材所が押し倒され、材木の山が崩れ流れて散乱した。
(新庄村役場)

急援記

同胞援護会県支部
庄田平丘


旧ろう二十一日未明、全県をおそつた地震、津浪、火災の被害は予想外に甚大を極め多くの人々を厳寒のさ中へ罹災者といふ名称をつけて、着のみ着のままで街頭ヘほうり出した。これは県としても非常な痛手であるが、又反面には従来援護面に鈍であつた当県に対する天の一大鉄槌であり、厳しい一鞭であつた。
二十二日夕刻、米七百俵、衣類等を満載した第一救援船は震災後初の便りとして串本に寄港した。望見すれぱ海沿ひの倒壊家屋のみが無惨な残骸をさらしてゐる。が、然し、通信杜絶から全滅を信じられてゐた串本町だけに、大休の輪郭を海上から認め得たことさへ欽びであつた。
道路上五尺の津浪に浸された串本町では、そこここに流れ来つた家具類が路上に散見され、恐怖に追はれ全一日山上に避難してゐた町の人々も、吾々が上陸した頃には、ぼつぼつ山を下つてきて、荒れ果てた自分の家の後かたづけをしてゐた。それらの人々の表情は今も眼の底に残つてゐて痛々しい。通信は全く杜絶し、全で陸の孤島のやうな、ここの警察署に現下の状況を聞きに行く。まつ暗な中にローソクの火が淋しくゆれ、気ぬけのした署内に落ちついた署長の指令がとぶ。死者七名、軽傷者一○二名、家屋の流失六○戸、全壊四七戸、半壊一〇一戸、床上浸水二○〇戸計一三一七戸、就中、袋港辺は全滅だ、戸数一八○○戸、当町としては、その過半数をやられてゐる。地震国のわが国でさヘ最大級とみなされてゐる。地震後、僅か二十分で串本節で知られた串本町も荒廃の町と化し去つた。ほんの一瞬に約四五〇〇の人が厳寒のさ中に投げ込まれたのだ。
流失物で埋まつた道路、屋根の中に抱き込まれた倒壊家屋、みるからに哀れな半壊、建物はあつても、がらんどうの浸水家屋、全くこれが幻滅の悲哀でなくて何であらう。
串本国民学校では約二○○名を収容してゐたが、その多くは全く寝巻のままで、如何に地震に続く津浪が急激であつたかを物語るに充分である。
尚ほ余震の続く中を苦心して探し求めた宿の二階に一夜を明かしたわれわれは、一時はなくなつたのではないかと想はれたこの地方を全く異国にでもきたやうな気持になりながら新宮へ向かつた。
港の関係から物資は勝浦へ一応陸あげすることに決心したが、果して勝浦町は、然し、それは杷憂に終つた。損傷の少いこの温泉町を眺めて、われわれは安堵の胸をなぜ下した。
津浪はどこへやら、大漁の旗が朝日に輝やいてゐる。秋刀魚が陸続と陸あげされてゐる。
勝浦町としては僅少な被害だ、全壊二戸、半壊一二戸、浸水三一戸、だが、道々新宮の火災が相当大きな被害を及ぼしてゐると聞く、やがて、吾々一番乗りの一隊は六台のトラツクに満載した援護物資と共に余煙尚ほ消えやらぬ新宮市に乗り込んだ。道々、近村から救援隊の帰りに出あふ。速玉神社の松のみどりが、一きは目につく、が、次の瞬間、ああこれがかつての新宮市なのかと視野一ぱいに廣がる焼野ヶ原に驚く。
あちこちから立ちのぼる余煙、映画館跡らしい所から、死体を掘り出してゐる。一団の人々の沈黙。総てを灰燼にしてしまつた焼跡に呆然と立つ人等々。
一塊の火の不始末は地震の助力を得て一気に二四○○戸全焼、全壊六○○、半壊一○○O計四〇〇〇戸を、目茶苦茶にした。罹災者の総計一九四○○、被害面積二萬坪、死者五○、負傷五〇〇の数宇を悲惨といふ言葉の上につくりあげた。二十一日未明の一ゆれが、そして、余りにも宿業だつた、一塊の火が、かうした結果となつて、吾々の前に、クローズアップされやうとは誰が予想し得たであらうか。
われわれは焼け残つた地方事務所に荷をおろすと、直ぐ焼けあとへとんだ。大阪、和歌山の戦災都市を眺めてゐるわれわれは、別に驚くほどの新宮市の表情ではなかつたが、しかし、駅前通りを残して新宮の繁華街は、のろひの焔になめつくされて、余燼をあげてゐた。死者を発見した人だかりが散在する。地震の通り道—そんなものが信じられるやうな気がする。地盤の硬軟に関係してゐるだらうが、駅前の方は大したこともなく速玉神社方面や勝浦に通ずる街道筋は目もあてられない惨状をみせてゐる。
つるはしを片手に後かたづけをしてゐる家族に心からの同情を贈り、当町、唯一の避難所だつた熊野川原に向ふ。冬枯のだだつ廣い、この河磧こそ、新宮市の生命を守つた処なのだ。
幾百人かの罹災者が僅かの時間をくぐつて運び出した家具の一部を風よけにして、寒さにふるへながら県の腕章をつけたわれわれを物珍らしさうに眺めてゐる。バスが五六台、火に追はれて河原に突込んだのが頭部を砂中にめり込ませたまま避難者の住居となつてゐる。われわれは、その間を見舞ひながら励ましながら進むと、折から熊野川名物プロペラ船がエンヂンの音高く水量のへつた水面を滑るやうに下つてきた。
周囲の山々は復興材を暗示し、対岸三重県には米国旗が市民よ挫ける勿れと呼びかけ、それまでの絶大な好意を土地の人々から聞いた。蓬莱国民学校では、もう新聞社の危救班が施療を開始してゐる。われわれは、これらの美しい情景を幾つか見た。その同じ眼で火災につけこんだ悪徳商人の聞くにたへない非人道的行為を見せつけられた。物価はとたんに三倍にはねあがつた。厳重な進駐軍の指令に叛いて、罹災者の弱味につけ込む一部悪徳商人の見さげ果てた行為に猛省を求めてやまない。
家を失ひ、親を子を失つた幾多の人々の悲惨な姿を見て、この難をまぬがれたわれわれの幸福を思ひ、最大の援助を惜しむべきでないことを痛感し、夕闇せまる新宮市を後に、再び勝浦へ向かつた。
(本記事は筆者が県厚生課の急援隊に参加した折の手記で、この帰路、海上で遭難し、あやふく一行は一命を拾ふことができたのであつた)

後記

当時の世相からみて、この惨憺とした南紀一帯の情況は、たしかに眼をおほうものであつた。戦災者や引揚者は生活難に追はれていた。この時、何といふ天の無慈悲な一撃であつたらう。国力の興隆のために、戦災、引揚の人を援護することに大童でゐた。しかし、新に被害者が加はつて、天の試錬に更に大きな努力を払ふべきほぞを固めなければならなかつた。

四、火災の記録

関東の大震災は、地震と火災を連結する丈夫な一つの鎖である。




火災記録


今回の地震、津浪によつての火災は新宮市を除いて皆無であつたことは、喜びである。その理由には幾多のことを挙げられるであらうが、朝食炊事前の未明であつた地震と、紀南の大部分の災害は地震直接のものでなく、多くは津浪の襲来によることより見て、地震にのみよつての倒壊家屋が少なかつたからであらう。しかし、朝食炊事時刻前であつたにしろ或は相当火気を扱つてゐた家庭もあつたであらうし、炬燵などもあり、季節的には火災の多かるべき寒冷の冬さ中であつたわけだ。
次の火災記録は、今回の震災で火災による大きな被害を受けた新宮市のものである。


火災発生時には、まだ朝食の仕度に早く、炬燵の失火か、叉は薬品の自然発火かと思へる。前者ならば地震前なりとの一説も成立し、後者ならば地震後なりとの一説が成立する。
(新宮国民学校)


普通薬店にて、全く火気のないところに於て自然発火をする薬品が常備されてゐるや否や (新宮市千穗青年交友会長 西口誠之助)


人々は驚き戸外に出ると、火の手はすでに江戸川料理店、切目屋薬局の附近から上つてゐた。しかし、大震の恐怖と、余震を怖れて火を消すことに意を払ふ者も、努力する者もなく、三軒隣りの千穗青年交友会長島田芳雄氏がバケツを持つて駆けつけた時は、すでにバケッの水では消火することのできないまでに燃え拡がつてゐた。
警防団も地震のために出足が悪く。地震と同時に断水し、防火の術は全くなかつた。
市民は大火災になるだらうとの気配に驚いたが、火勢はずでに元町を越えてうつり、南構の方向に拡がつていつた。
風は余り強くなく、防火用水に欠けたことが大火の最大原囚で、市民は徒らに右往左往して、声のみで手の下し様もなく、一致協力の精神に欠けてゐたやうに思はれる。
午前八時頃になつて、南郡、成川、鵜殿、市川、阿田和等、東郡、三輪崎、佐野、宇久井、那智方面から続々と救援隊が来て協力をしてくれた。
熊野川からホースを通したが、水力が弱く、殆んど用をなさなかつた。各所でダイナマイトをかけたが、家主と警防団の決断悪く、ためにかへつて悪影響を及ぼしたところもあつた。
三和銀行は鉄筋コンクリートの建築物であつたために残る。


避難民の多くは速玉神社(境内約二百平方米)河原及び大橋から成川方面へ逃げた。
避難民は河原、大橋上、千穗国民学校、蓬莱国民学校等で夜を明かした。
二十二日にも焼煙しきりに立上り、人心は不安と恐怖に包まれてゐた。
避難中盗難相当あり、手伝ひに来ては、あれを運び、これを持つて行かうと言つては、そのまま姿を消すものなどが多く、商店に押入つて混雑にまぎれて商品を盗む者なぞ相当多かつた
その中でも、尾崎酒醸造元の酒の盗難で、警察、警防団で問題として取りあげてゐるやうである。
午後四時頃になつて市繁華街は殆んど全滅した。
市内各単位青年団(会)は、それぞれの分野にあつて活躍し、青年団員の手によつて相当数の下敷となつた人々を救出した。市内各種団体中特に目ざましい働きを示した一団であつた。
(新宮市千穗青年交友会)


新宮市火災被害


新宮市人口 約三萬二千
全戸数 約七千戸
全焼 二千三百九十八戸
全焼罹災 八千三百名
火災延時間 十七時間
二十一日午前四時二十分過ぎより同日午後十時まで


(新宮市千穗青年交友会)

五、災害始末の記録

地震の予知に懸命になるより、地震に対する防御を考へるべきである。家を建築する場合、その建築費を二割増せば完全に耐震設備ができるのである。心の準備と共に住居の耐震設備こそ先決問題だ。
(大阪気象台 宮本観測課長談話)


災害後の対策、始末、援護記録


罹災民は其の後復興に努力してゐるが、一ケ月後の今日、いまだ畳、建具、資材等の入手が困難で整理も渉まず、大部分は仮寝の状態であり、人々は深く疲れてゐる。
(二二、一、一八記)


市当局は対策木部を中心に、復興土木課、経済課、援護課、学務社会厚生課と網羅し、海南市援護協会と緊密な連絡を保つて、海南市医師会をはじめ、農業会、青年団、羅災外町内会等の各種団体の支援をうけ、全面の援護に手をのばしつつある。
また、他町村、各種団体の救援物資に接し、市民はその同胞愛に感激し、市当局とともに感謝し、温情に応へるべく復興に努めた。
(海南市役所)


第一回救援物資乾パンは津浪が収まつて後、県より到着し、直に市役所非罹災係員、吏員分配の手配をする。しかし、配給態勢完全でなく、一方完備を計りながら活動に乗り出す。運送車の動員も次第に設ひ、これで各町内会に分配し、救援物貸の輸送を行つた。
各地区の避難民を三ケ所に収容して、炊出し救援に青年団員があたる。収容所は、各寺院と学校等で、ここで炊出しを行ひ、各地区罹災者に町内会を通じて配分する。急援物資の分配に当つては市内、市外の各トラックを動員して敏速化を計つた。物資は、その後、続々と到着し、衣類、食糧等を分配したが、その量は充分とはいはれなかつた。
又、燃料も生産地からの急援があつて配給した。
然し、津浪にょる市街の汚物、泥等については、日傭労働者が各地から応援にきてくれ、次第に整理していつたが、量が多く短時日には片付かなかつた。
援護については、市援護課が中心となり、その復旧については土木課が中心となつた。
何れも最善を尽した。
災害対策本部は直後警察署に置いていたが、後に市役所に置きかへた。
(海南市連合青年団長)


他地方からの援護状況は、先づ和歌山方面から震災直後の陸上交通の杜絶によつて、海路から米と廿藷等の主食の回送があり、人心の安定につとめた。其の他、近接各町村から相当数量の寄贈物があつた。
主な医療急護団は日赤大阪支部、和歌山支部、東京支部より派遣され、北九州学生同盟医療団の来訪もあつた。 (新宮市千穂青年交友会)


第三回の津浪の襲来があつてからは引続いて襲来の様子がないので、次第に人々の心が平静をとりもどしていつた。午前七時頃からは後片づけに手を着けるやうになつた。
一方警防団では団員全部を召集して、先づ、その対策を練り、その結果、第一対策として、海岸通りの道路の取片付けをすることにした。続いて、被害家屋の調査、被害家屋の後片づけを行つた。各担当区が定まり、その区内に分れて始末運動を行つた。
二十二日から一週間は、警防団員一同は海岸と海面の漂流物を拾ひ集めることにつとめた。この作業には各隣保班から一名づつ出動してもらひ、協力を仰いだ。
(塩津村役場)


二十一日地方事務所から二名の職員が見舞にかけつけてくれ、二十二日には地方事務所長や経済課長の見舞があり、金五百円の見舞金が贈られた。
二十四日には仁義村と加茂村から村長代理助役が見舞に来られ、各村より二百円宛の見舞金が贈呈された。又、和歌山市から一千円の見舞金も贈られた。
(塩津村役場)


県援護会より救援物資として食料品、日用品、衣料品の配給を受け、罹災学童四十七名には他村から慰問学用品と慰問文を贈られた。
(塩津国民学校)


警防団員全員と青年団員の一部を召集し、先づ緊急対策として海岸通りの取片付けを行ひ、被害状況調査、被害家屋の取片付け、一部修繕の応援等を実施した。
第二次対策として、二十二日から一週間、警防団員一同は海岸通りに出動して、飛散してゐたドラム缶、木材等の漂流物の収拾につとめた。尚ほ、この仕事には毎日、各隣組から一名づつ出動を求め応援をしてもらふ。この間に、、青年団員は流失した土橋の修理にあたつた。
連合青年団から蓆の無償配給があつた。(他は塩津村役場の記録と同じてある。)
(塩津村青年団)


津浪が方、大崎部落を襲ふの報に警防団と青年団は直に出動し、警戒と漂流物の整理等にあたつた。
無被害部落では炊出しを実施し、労力奉仕によつて極力浸水してゐる家々の取かたづけに全力を払つてゐた。
村長代理伊藤君雄氏は被害現場に急行し、浸水家庭を慰問し、激励した。一方直に班長会議を開き被害状況を調査する。
下津出張所恩地警部補の来援があつた。
(大崎村役場)


(イ)本村青年団は直に無被害部落から衣料と食糧品の供出を求めて救援する。
(ロ)仁義村青年団は薪を流失した家庭に対して急援。
(ハ)加茂村青年団と婦人会は衣料と甘藷を。
(ニ)和佐村と安原村青年団も衣料と甘藷を。
(ホ)県から衣料、食糧、その他生活必需物資を。これらの急援物資に接した羅災者は何れも感泣した。
(大崎村役場)


本団員は早朝から出動をし、男子団員は警戒と漂流物資の整理に当り、女子青年団員は炊出しに当つた。
警防団員も出動し、協力して始末に従事する。
(大崎村大東青年団)


村当局を中心に村民一致して急速に援護に乗りだす。村内外の精神的、物質的援護も適切でその詳細は村当局より資料を提供せられるであらう。(村役場より資料提供なし)
学校では急遽職員会議を開催して対策を決定した。犠牲児、罹災児童ヘの慰問、復旧援助(公私)の奉仕をなす。
恰度学期末休暇に近く、児童は休みを利用して自宅や近隣、友人の被害回復に尽力した。
諸団体からも慰問品を送られ、一同は感激を深くした。殊に、かつての疎開児受入校としての本校へ疏開してゐた大阪市玉出校からは熱誠な同情を寄せられ、その誠意には感泣した。
(廣国民学校)


近隣あるひは親類等互に相扶け、流失した船を探し、或は破損した船を安全な場所に引
きあげた。他に特筆する程のことはない。
(三尾村役場)


震災直後、村では村会を開き、それに対する対策委員会を開催し、全委員は罹災者に物資の給与をした。
青年団と婦人会は浸水家屋の始末につとめる。当時の炊出米は十俵で、物資を流失した者への応急米は五石余で、これを配給した。
他からの救援物資は次のやうである。


白米一俵(志賀村) 一千円(県知事) 大根他一車(志賀村) 百円(津久浦浜野省三) 一千五百円(和歌山市) 一千円(南部青年団) 八百六十二円六十九銭(日高文化協会) 七百五十円(旭化成工業株式会社和歌山工場住谷正平) 百五十円(御坊町岡本一枝) 百五十円(碓井彌太郎) 七十五円(小山恒雄) 七十五円(天野紀夫) 三十円(御坊保田屋旅館女中一同) 十五円((御坊文化車組合) 一円五十銭(日方司) 薪二百十束(比井崎村大字小浦) 薪百束(比非崎村大宇方杭) 十円(和歌山市吹上青年団保田満郎) 白米五升三合、白麦三升六合、衣類十六点、蓆十枚(那賀郡東部連合青年団狩宿村青年団長中西康仁) 衣類一包(那賀郡川原村青年団長土橋安一)
白米二俵(那賀郡中部連合青年団根来村青年団)(以上は一廿日現在)


尚ほ比井崎国民学校罹災児童へ日高郡内の国民学校生徒から廿藷大根等約二俵、有田郡国民学校から夫々慰問文をいただく。
(比井国民学校)


二十五日、毛布六十枚、上敷五十枚、バケッ四十五個、タオル百枚、足袋五十足、ローソク百七十一本、石鹸百個、煙草千本
二十九日、木炭五十俵
その後、各方面から見舞金、衣料品の配給を受けて感激する。
(白崎村役場)


被害あつて直に町会議員、部落会長、各種団体長、その他有志を召集し、緊急会議を開いた。協議の結果、復興対策委員会を設け、委員長に久保田芳造氏をあげ、町当局と協力し、全力を復興に傾けることにした。
県道、町道等の欠壊、倒壊家屋、其の他流失物等のために交通障害を来し、かつ、印南橋の流失堤防の欠壊等のため交通不能となつたが、町民をはじめ、近郊の警防団、青年団の応援によつて、除去し、修復作業が行はれ、道路の開通、印南橋の仮橋の架設を終つて二十四日はその開通をみるやうになつた。
日高地方事務所、御坊警察署の緊急かつ機宜の取計ひと行動によつて、復興資材も当日から続々と入荷して、活溌な応急復興をなすことのできたことは感謝に堪へない。
其の他、公共施設や農道、耕地の復旧等に就いても全力をあげてゐる。尚ほ、今後の津浪に備へて永久的防潮堤の築造計画を樹てたが、関係当局の絶大な協力を得て、実現の運にいたつたことは町民の斉しく嬉ぶところである。
救援物資については進駐軍の厚意と関係官丁の御尽力による最高度の配付を受けてゐる。
一方、山口県、京都府等の青年団をはじめとして、県内の各市町村や諸団体の絶大な同情を得て、数々の物品の恵贈を受けたことは羅災者はいふまでもなく、町民一同の感謝を深くしてゐる。この厚意に応へて一層復興に精進し、一日も早く再建の日を迎へるべく努力を続けてゐる。
(印南町役場)


浸水家屋には応急用として米三日分を床上浸水家庭ヘ、米一日分を床下浸水家庭ヘ配給した。その他、味噌、醤油、塩、薪を配給した。本村の浸水家屋は七十六戸であつた。
(塩屋村役場)


震災対策本部よりの急援物資名は次の通りであつた。
木炭。毛布。弁当。馬穴。缶詰。乾パン。ローソク。冬衣。夏袴。作業衣。作業袴。大人シャツ。子供用ハダ着。鎌。鍋。シヤモジ。箸。ナヂ。靴下。靴。石鹸。雨外套。巻脚絆。フライ鍋。ヶズリ節。その他生活必需物資。
(塩屋村役場)
(塩屋国民学校)


欠壊、流失道路の応急復旧工事と災害地整理のため附近町村より百名の応援労力奉仕があり、町内の百名を加ヘて二百名が活動した。
国立大阪病院白浜分院班の衛生救護班の出動が三日間あり、日本赤十字和歌山支部班が一日間活動された。
(白浜町役場)


応援物資名は次のやうである。
毛布。布団。婦人子供ジヤンバー。夏冬単衣袴。その他衣料品。
醤油。塩。梅干。漬物。缶詰。乾パン。廿藷。その他食料品。
マッチ。ローソク。薪。木炭。食器。煙草。蓆。その他日用品。
畳。釘。木材。その他復旧資材。
以上の物資を有償、無償で配給した。
(白浜町役場)


町役場に復興本部を置く。本部の機構は次の通りである。


総務部=復興事務の処理。立案。
町会議員。役場吏員。
復興部=実践方面の処理。
警察、青年団、警防団、各常会(?)よりなる各主脳部を復興委員として、流失物の整理、道路、電線、電話の復旧作業、流失、倒壊家屋の復旧作業に従事する。
救護部=救護全般の処理。
食糧の補充、負傷者に対する医師の回診、他市町村よりの援護物資の受配。


町内の非災害地区青年団員、町内会、警防団其の他各種団体の勤労奉仕が行はれた。
流失全壊家屋に対して見舞金を送り、仮収容所として公会堂と青年学校を開放した。
青年団の演芸会を開催し、劇場倒壊後の町民の慰安を計る。収益金二千円を義捐金に充てる。
(周参見町青年団)


食糧営団倉庫の米(一部浸水)を急據配給した。
女子青年団は炊出しを国民学校で行つた。
流失家屋の罹災者を国民学校に収容した。
(串本国民学校)


海岸筋、田並川に沿つた家屋で床上、床下の浸水は百三十戸で、その他、半壊家屋二十戸をだし、何れも、一時応急修理を施してゐる。この罹災者に物資、食糧を提配給して援護する
(田並村役場)


田並村役場前繋留場に繋留中の漁舟ケンケン舟五十隻、天馬船三○隻を、津浪の襲来をみて流失を防ぎ、必死の活動によつて目的を果したが相当の破損舟を生じ、目下修理を施してゐる。(二二、一、二七現在)


海岸、河川に沿つた人家百五十戸は浸水又は半壊で、半壊家屋は二十戸である。
田並川入口から田並上に至る十町くらゐまで津浪が押寄せたが流失家屋はなかつた。
(田並村役場)


被害の後を眺めると、道路に亀裂が生じ、その亀裂巾が約五寸で、高さに一尺程度の差ができてゐた。畑は耕作道具で起したやうに耕土が盛りあがつてゐた。
(廣角青年会)


一月九日 日用品 若干     (那賀郡下神野村)
〃    麦   五合     (同前)
〃    薪   若干     (同前)
〃    甘藷  五十一貫   (岡崎青年団)
一月十日 白米  二斗三升八合 (東貴志村極楽寺住職 加藤大秀)
〃    同   同      (那賀郡第一教区 井本滋廣)
同 十三日  甘藷  一四○貫 (那賀郡上神野村)
〃  莚  六六〇枚 (海草郡安原村)
〃  薪  一八○束 (同前)
同 十四日  見舞金  二○○円 (京都連合区京都教区)
同 十五日  藁  五五○束 (那賀郡岩出町青年団)
同 十七日  薪  一一○束 (那賀郡上野上村)
同二十四日 米(大豆を含む)七○袋 (長谷毛原村 大日寺)
二月四日  薪  トラツク一車 (東野上連合会青年団)
その他東山東村青年団、京都字治郡青年団
(右によつて、青年団相互間の慰問、激励等が想像され美しさが感じられる)


(その二) 海南市連合青年団調
一月五日 甘藷 三○○貫 (畑野青年団)
一月六日 莚  四三七枚 (巽村役場)
〃 木炭 五〇俵 (同前)
〃  薪  三七束 (那賀郡上神野村)
〃  木炭 一八俵 (同前)
〃  南瓜  一〇五貫 (同前)
〃  大根  一八俵 (同前)
一月七日 薪  六〇〇貫 (仁義村警防団)
〃  割木  六七束 (下神野村福田)
〃  薪  五○束 (同前)
〃  木炭  二俵 (同前)
〃  甘藷  二俵 (同前)
〃  束子  二三個 (同前)
〃  衣料品  若干 (同前)
〃  セトモノ食器 若干 (同前)
〃  見舞金  百円 (同青年団)


梅干  一五〇樽
乾パン  一九〇〇人分
缶詰  三〇箱
生パン  二七七四個
むすび  四三○○個
漬物  二〇樽
塩  一〇俵
毛布  五五○枚
布団 三九二枚
布団側  二包
手拭  一〇〇〇本
防寒面(マスク) 二○○○枚
石鹸  一五〇〇個
ローソク  五○○本
外套  六五八着
魚  二〇〇貫
小麦粉 一袋
(海南市援護協会調)


援護物資
(後の世の参考のため市部の一例として列挙してみよう)


海南市(一月十四日現在)


(その一)
薪  七九二七束
甘藷 四五七○貫
莚  三四五二枚
木炭 一七一枚
醤油 一二石
蔬菜 五八三貫
米  七石九斗九升八合
麦  三斗五合
衣料  若干
タワシ 若干
箒 若干
下駄  若干


震災地移動生活相談日誌より


同胞援護会和歌山県支部では、南海震災地移動生活相談会を一月下旬、下津をふり出しに一ケ月間、十二ケ市町村で実施した。この会への出席者は、今回の震災による生活困窮者が自らその対象にあがつてきて、相談総件数は約六百件にのぼつた。
帰会後、相談日誌をくつて、各種の統計をだしてみたが、その中、震災による特に生活困窮者を二〇〇件だけ選び、その類別帳を作製してみた結果、今回の震災のみによつて生活困窮者に加はつた者は少なく、従来市町村から要援護者として取扱はれてゐる者が大部分であつた。


いはば、弱者は弱いといふ至極平凡な結論に到逹したわけで、この二百件中六六・五パーセントは夫に異状のある妻の家庭、つまり、戦死、病死、病弱、生別等に分類ができる。
残りの大部分は老人の単身、又は老夫婦であることが解つた。
いま、左の表をかかげて少しく思ひをめぐらさう。
(下記の「夫に異状ある家庭」参照)


別表によつて生活困窮者中半数以上は夫に異状ある世帯であることは前記の通りで、特に注目に値するものである。
これらの家庭に就いての扶養家族は幼児及少年少女を大部分とする。この事実がまた、生活難の最大原因となつており、単身の未亡人の多くは自活してゐ、自活も亦平易である。
二十才以上の扶養者の中には不具者もあるが、その者の力量だけでは生活安定が計れないといつた現状にある。学齢期の少年少女は、彼女の場合、力ではなく、一つの負担としてかかつてゐるやうで、夫がゐない故に母性愛から学校に通はせて自分が犠牲になつてゐる。
老人孤独者の生活困窮者の大部分は子を有さない者で、その大部分を占めてゐる点は注目に値するとともに、もつともな話としてうなづくことができる。
引揚者が生活困窮者として本表に多くあがつてゐないことの理由は種々あるがこれも注目に値する。



津浪後数日、村では復興対策委員会を設け食糧、住宅、土木、衛生、産業、教育の各部門にわたつて次の対策をなす。
1、食糧、先づ被難民に対して炊出を行ひ、応急の処置を取る。
2、住宅当時高所に避難した災害者の流失家屋の家族を大瀉神社、東光寺、天理教会に収 容、又田辺市の天理教会に収容、之等の人々を二十日の後元田辺海兵団兵舎の一棟を借用し収容す、簡易住宅を二五戸、半分国費補助のもとに建設する事を計画す。
3、土本、道路、橋梁の復旧、防潮堤、防潮林の設置、護岸の復旧
4、衛生、神戸より医学生応援により腸チプス、パラチフスの予防注射、罹災地及び家屋、井戸水溝等の消毒をなす。
5、産業、各製材工場の復旧、農地の復旧、又、資材購入、復興資金等について対策す。
6、教育、流失せし内の浦分校は一時復旧迄同部落神社とす、同校舍の復旧には元海兵団の兵舎の払下を受けて復旧す。本校の修理復旧をす。
(新庄村役場)


県の復旧対策(和歌山県震災対策より)


県の調査によれば、死者二三九名、、行方不明二七名、負傷者七二八名の犠牲者を産んでい、二二五〇四戸の罹災家屋と、八九九六二人の罹災者をだしている。
産業関係の被害額は三七二、一七○、九九四円の数字を示し、土木関係では一○二、九二六、六二〇円、公共施設関係では五七、○○二、七○○円で、一般家屋家財を除く被害数字だけでも、五三二、一〇〇、三一四円となる。
これらの損失を招いた災害にたいして、県では次のような対策を樹てた。
産業についての復旧対策としては、これを水産、耕地、農事、食糧、林業、製塩、商工の七つにわけた。
水産面えは、漁業組合、その他協同的組織によつて漁船、漁具の復旧をはからせ、必要な各種資材の配給と資金の融通をうけて、それを促進することとした。漁港、船溜、船揚場や、その他の共同施設については、必要な各種資材の配給を受けて復旧をはかることとした。
耕地面えは、水利組合管理の耕地とその公共施設は組合に、その他のものについては、なるべく市町村単位で協同的に事業を行はせることとし、必要な資材、労力を確保し、資金の融通やその他の助成をうけて事業を促進することとした。
農事面では、被害耕作地については、できるだけ麦の蒔き直しと移植を行はせる外、蕎麦、馬鈴薯、蔬菜等の適作物の作付転換を行はしめ、その技術指導に萬全を期することとした。肥料については特配をし、農機具は、県内産のものを優先的に配給する外、中央配給の動力用大農具を特配する。種苗は県内のものを充て、馬鈴薯のような不足種苗は速に県外から移入する。家畜は購入資金の融通、その他の助成をうけて、購入斡旋を行うこととした。農業倉庫や共同作業場の公共農事施設は、セメント、木材その他所要の資材を配給し、資金の融通、その他の助成をうけて復旧せしめることとした。
食糧面では配給に支障を来さないよう、極力県内供出を促進し、県外からの移入についても各方面の協力を得ることに努力する。政府の管理食糧で浸水したものは、直に一般ヘ配給したり、災害応急用として配給し、速にこれを処理することとした。
又、農家の所有食糧で浸水したものは、米で供出対象となつているものを政府に売渡手続をとり、直に一般配給に供することとし、保有米については、当該地区の関係機関の協議によつて一定の率を定め、食糧営団手持米と交換せしめることとした。甘藷は、干甘藷に加工せしめ、政府に売渡して綜合配給に充てることにした。
農家所有米で供出の対象となつていたものの中、流失、浸水等のため土砂の混入があつて食糧に適しなくなつたものは供出免除の措置を講ずることとした。
政府の管理になる米、甘藷、雑穀の流失したもの、食糧営団の流失米、罹災者救援及び特配米、復旧用加配米、供出免除を必要とするものなどについては、政府から新に補充割当をうけることとした。
農家で主食を流失したものへは一般の基準量で配給をすること、醤油、味噌については工場の被害と手持量の減少とにょつて自給が困難であつた。そこで、県外から相当量を移入するよう措置をとるとともに損失原料についても、特配補充を受けることとした。
配給指示ずみの砂糖、煉粉乳、食用品、缶詰等については、更に特配を受けて配給することとした。
林業面では林道の復旧を森林組合や関係者に、貯木場、流材防止施設については用材の流失を繰返さぬよう速に復旧すること、荒廃林地、防潮林、海岸砂防林の復旧、炭窯へは特別の助成にょつて復旧、製材工場、煉炭工場へは必要資材の配給と資金の融通を計つて復旧の促進をはかることとした。
製塩面では自給製塩工場へ罹災前や当時の事情を調べ、適切な補助金を交付し助成することとした。
商工関係では、罹災工場や店舗について、必要資材の配給、復旧と生業資金の融通をうけて、復旧をはからしめることとした。
土木施設についての対策は、土木事業と住宅とにわかつて樹てた。
土木事業面では、応急工事として、主に幹線道路と奥地連絡道路について、取りあえず崩土、その他の障害物の除却、干回仮橋の加設等を行い、重要物資のう輸送に支障のないようにすることとし、各種土木施設については、必要の資材や労務を確保するとともに、将来の耐震、耐浪を考慮し、潅岸道路の橋梁については、これを鉄筋コンクリートとし、港湾や護岸施設については、特に強靱なものとする等、これに対応する復旧工事を実施することとした。
住宅面では、国庫補助による応急住宅、庶民住宅等の割当をうけて、被害の甚大な市町村に、なるべく多く建設すること、用材伐出しのため国有林の払下げ、極力住宅営団手持資材の払下げ、一般住宅の新築、補修については資材の配給、資金の融通、その他の助成をうけるよう措置すること、又金融措置、建築許可手続、資材の配給等につき、特別便宜の取扱いを受けること等にした。



新宮市についての対策として、特別都市計画法の適用をうけ、根本的土地区画整理事業を行うことと、緑地貯水池等の設置を適宜に考慮することと上水道を速に復旧することである。住宅面では国庫補助による応急住宅、庶民住宅等の割当をうけて多数の建設をするとともに国有林の払下げによつて復興用材に当てること、又、金融措置、建築許可手続、資材の配給等につき、特別便宜の取扱いをうけることとする等の対策がたてられた。



公共施設への対策として
学校で使用できなくなつたものは、教育に支障のないよう適当な場所に収容して、一方復旧をはかるため資材の配給、資金の融通をうけるよう措置をとり、病院、官公衙、診療所その他も、支障のないよう前記の措置をとる。医療用器具、薬品の配給、上水道の復旧、警察電話等、適切な措置をとる



防災についての対策として、次の防浪堤、防潮林の築造が決定された。


防浪堤
海南市、由良村(由良港) 田辺市(文里港) 下里町(浦神港)に防波堤


勝浦町、那智町、天満海岸に防潮堤
その他の地区でも県下沿岸の必要個所に防潮林、砂防施設を築造し震浪の害に備えることとした。
又、国道四十号線の必要な箇所に拡巾と改良をすること、沿岸道路で被害甚大な箇所については、その区間をさける干回道路を整備すること、海南市と新庄村には区画整理を行ふと共に道路を整備すること。
これらの対策の促進について次の事項が決定された。




国庫補助


県及び市町村、その他の公共団体において負担する事業については、地方財政の窮迫してゐる現情から特に高率の国庫補助をうけることと、起債を必要とするものについては国庫から元利の補助をうけることとした。
その他罹災者で個々に負担する復旧事業についても、特に現在の経済事情にてらし、高率の国庫補助をうけることとした。
資材については特配をうけ、住宅、漁船の復旧用材は国有林の払下を受けることとした。
資金については、庶民金庫、復興金融金庫、一般金融機関から貸出しをうけ、罹災者へは簡易便宜な金融措置をうけること、輸送面では逼追の現情より、貨物自動車、ガソリン、自動車用タイヤチユーブ、輓車用飼料等の特配をうけて緩和をはかることとした。
その他、農業会、漁業組合等の活動を更に活溌にし、復旧の促進に協力せしめること、罹災者の税の減免、これによつて生ずる県、市町村の歳入欠陥については、全額国庫財源によつて補填をうけることとした。


復旧に要する経費
産業  一八九、五八五、七四一円
土木  一二〇、六九六、一一六円
新宮市復興に要する経費  二六、一〇〇、○○○円
公共施設の復旧経費  四三、四二九、七二九円
防災対策経費  三四五、七五○、三五○円
復旧促進経費  四、七五三、七七三円
総計  七三〇、三一五、七〇九円


復旧に要する資金県、市町村負担に要するもの、その他、公共団体負担に要するもの合計、七千萬円
その他、一般復旧用資金合計、二億、八千萬円




援護対策


応急援護対策


給食については、災害の発生と同時に、あらゆる手を尽して食糧品を急送し、罹災者には三日間の炊出しを行つた。なを、当面生活に困窮する一万五千名については約十五日間の食糧給与を行つた。
物資配給については生必物資二十万点を(手持)全部放出した。と同時に、中央と近府県の援護物資も機を外さず急送配給をした。
医療救護について二十班の救護班を現状に派し、学校、寺院、旅館を解放し約一万五千人の罹災者を一時収容した。
罹災死亡者で身元不明の者と生活困窮者については埋葬し、埋葬の扶助を行つた。
義捐金の募集は県内は勿論、近附県からも実施された。
尚ほ、その後の対策として生必物資の確保配給、生活援護、復興精神の昂揚等に努力を払つた。
生活援護については、一時生計の途をうばはれた者ヘは生活安定のため、生業の資金を給与し、生業の途を与ヘた。住宅を失つた者ヘの収容施設、、生活困窮者ヘは生活保護法の適用、生活困窮の児童生徒への学用品購入費の給与、その他、罹災者の再起更生を助けるため、生活相談所、託児所を設けた。尚ほ援護費総額は約三千八百万円である。

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夫に異状ある家庭

六、被害数の記録

その後、大地震近しの説が巷間に立つた。京阪神地区ではこの風説が乱れとんだ。
これについて大阪気象台では、巷間に伝ヘられる地震近しの説はわが国の地震科学水準が確たる予知が出来るまでにいたつてゐないから、デマとも片づけられず、風説を肯定する材料も亦ない。と言つた。


被害数字


この数字は絶対に正確だとは言へない、といふのは、調査日時の相違もあり、調査の方法も異つてゐたからだが、大きな誤りはないと信じるし、この記録集には、被害数字は参考程度にしか考へなかつたから、これでよいと思ふ。
しかも、これらによつて、被害度の大要が判明し、文章記述部を補ふものとなるであらうことを信じる。
数字については、県当局で精査されてゐる筈で、その方に正確をゆづることにしたい。


海南市援護協会調(二二・一・一八)


一、死亡 一二
二、行方不明 五
三、全壊 六九〇
四、半壊 八○八
五、床上浸水 一一、五五二
六、床下浸水 三、四八七
七、重軽傷者 三一二
八、浸水家屋 四、〇四三


海南市連合青年団調(二二・二・五)


一、地区別被害数
 (下記「地区別被害数」を参照)
二、橋梁流失 三ヶ所
三、堤防   十一ケ所 延長千二百米(全欠壊)
四、道路   三ケ所  全欠壊及破損
新宮市千穗青年交友会調(不明)
一、全焼 二三九八戸
二、全壊約 六〇〇戸
三、半壊約 三、○○○戸
四、全焼罹災者 約八、三〇〇人
五、全壊罹災者 約二、二八○人
六、半壊罹災者 約三、八○○人
計 約一四、〇四〇人


新宮市現人口 約三二、○○○人(三輪崎、佐野を含む)
〃 戸数 約七、○○○戸
全戸数の約半分は被害をうけ全人口の約半分弱は被害者である。
但し、罹災人員のうち半壊と認められたものの中そのまま居住してゐるものもあり実数はこれより少ないと思ふ。


塩津村役場調(二二、二、八)
一、午前五時(二一、一二、二一) 浸水家屋なし
二、午前五時十分頃 浸水家屋 三○戸
三、午前五時二十分頃 浸水家屋床上 六○戸 床下 六二戸


塩津国民学校調(不明)
一、床上浸水 六〇戸
二、床下浸水 三六戸
三、破損家屋 三戸
四、庭内のみ浸水 二六戸
五、漁船大破 一隻
六、人畜 被害なし
大崎村役場調(二二、二、一〇)


一、家屋被害
(下記の「家屋被害」を参照)


二、農耕地の被害
(下記の「農耕地の被害」を参照)


三、作物の被害(栽培中のもの)
(下記の「作物の被害(栽培中のもの)」を参照)


四、生産物の被害
(下記の「生産物の被害」を参照)


廣村役場調(二二、三、四)
但廣国民学校提供


一、死者  二二人(全部溺死)
二、負傷者  四五人
三、流失家屋  二戸
四、全壊家屋  二戸
五、半壊家屋  五四戸
六、床上浸水  九一戸(半壊も含む)
四五一人(右家族数)
七、床下浸水  一一九戸
五〇九人(右家族数)
八、橋梁流失  二ケ所
九、堤防欠壊  三ケ所 延長三百間
一○、耕地浸水  田 二六町六段
畑 一町六段
一一、表土流失  二〇町
一二、舟流失破損 未確定


廣国民学校調(二二、三、四)
右は学校調査
一、死者 三名
二、行方不明 二名(生存す)
三、児童の家族中死亡者 三名
四、児童所有物件の被害
A級 床上浸水にて衣料、日用品、学用品の
流失、汚損の著しき児童  六名
B級 浸水せるも前者より被害軽度な児童 五○名
五、職員被害
A級 児童のA級に相当する者 二名


三尾村役場調(二、三、六)


一、家屋(床下浸水) 一九戸 (大部分は庭に水の入つた程度)


二、農作物被害 麦(収穫皆無) 八反
減収見積量 七石
三、農耕地浸水反別 田 三反
畑 五反
水路 一五間
四、漁船の被害 動力付漁船 分損 二隻 一○、○○○円
無動力漁船 全損 二隻 二〇、○○○円
同 分損 二○隻 五○、○○○円
五、漁具の被害 定置網 分損 一統 八○○、○○○円
刺網 分損 一〇〇束 一○、○○○円
敷網 分損 一統 五、○○○円
其の他の漁具 一○、○○○円


比井国民学校調(一、二一)


一、被害数(村)
(下記「被害数(村)」を参照)
二、国民学校生徒職員関係被害調査
(下記「国民学校生徒職員関係被害調査」を参照)
職員九名中 女職員一名 床上浸水 衣類家具浸水


切目青年団調(二二、一、三○)


一、全壊家屋 住宅 二
非住宅 四
二、半壊家屋 住宅 二四
非住宅 二二
三、床上浸水 五
四、床下浸水 三○
五、船舶流失 二
六、橋梁流失 一 (村費支弁橋梁、延長約二十間)
七、田畑損害 (甚大)七町歩 (畦畔の決潰表土の流失等被害大なるもの)
一町歩 (作物枯死)
八、護岸欠壊 一二〇米 (切目川口よりの延長)
九、工場施設損害 クエン酸 三〇叺流失
石灰 五〇叺流失
大桶 二組流失
松薪 六五〇貫流失


由良村役場調(二二、三、六)


一、被害状況
(下記「被害状況」を参照)
二、由良村総戸数     一、一一五戸
     総人口     六、三一五人
     総世帯    一、三六二世帯
三、其の他の被害
い、防波堤欠壊 二○米
ろ、臨港鉄道護岸欠壊 四五米
は、県道護岸欠壊 三九○米
四、工場其の他の被害個所
い、掃海隊 3、川紀造船所 は、練炭会社
に、中和化学公社 ほ、製塩工場




印南町役場調(二二、三、一二)


一被害数
(下記「被害数」を参照)
二、公共施設  四ケ所(浸水中破)町役場、駐在所、登記所、漁業会
三、流失橋梁  一ケ所(印南橋)
四、堤防欠壊  三七○米
五、水路破損  六五〇米
六、耕地  一〇町歩
七、農道破壊  一五〇米
八、家蓄死亡  馬一頭、豚一頭、鶏一五〇羽
九、木材流失  二八○石
一○、船揚場破損 五ケ所
一一、小船  流失三、大破九、小破二三
一二、漁具流失  網八○○張 延蝿 五○鉢


塩屋国民学校調(二二、二、六)
一、負傷 三
二、住家被害 四
三、納屋 半壊  四 全壊 一
四、浸水  床上 四二 床下 三四


白濱町役場調(二二、三、一三)


全壊  一三
半壊  四六五
一 家屋 流失  一九
浸水(床上) 七四
浸水(床下) 四二
死者 一四
二 罹災者 重傷 五
軽傷 三一
三 耕地被害 四五町五反 畑八町五反
四、穀類被害 米一〇俵(政府所有のもの) 米一二五俵(農家保有米)
甘藷三○○俵(政)  米二○石(個人所有のもの)
麦一二石(個人所有) 甘藷八、○○○貫(個人)
五、道路被害 県道一町半 其の他四ケ所(延一町)
町道一八ケ所(延二十五町)
六、漁業被害 漁船 八○(其の後八割は収得)
漁網 二〇〇杷
七、木材被害 八○○石
八、温泉被害 八ケ所閉止(其の後湧出せるもの三ケ所)


周参見青年団調(不明)


一、死者 一四
二、行方不明 三(多分溺死)
三、負傷(軽傷) 九三
四、罹災者 二、一一○
五、全壊 一四
六、半壊 二○ 家屋
七、流失、 二一
八、床上浸水 一九九
九、床下浸水 二〇四 家屋
一○、流失全壊漁船 五八
一一、流失橋梁 三
一二、流失木材 八、○○○石
一三、田畑浸水 二一町歩(内耕作不能六町歩)


損害見積額 六千萬円


串本国民学校調(不明)
(下記の「串本国民学校調(不明)」を参照)


古坐町役場調(直後調査)
一、行方不明 一
二、家屋  住宅浸水一〇二(二十萬円)
非住宅浸水一五(二十一萬円)
三、港湾  四十一萬円
四、漁船  動力付三(全損)三一(大破)
無動力一〇(全損)二一(大破)
計 七十五萬五千圓
五、 漁具個人所有釣具外流失 十八萬円
組合所有定置網流失 十五萬円
六、工場 森口造船所 作業場 船舶用材等 三十萬円
植村造船所 四十萬円




田並国民学校調
死者 一名
流失家屋 なし
倒壊家屋 一九戸(全壊四半壊一五)
流失破損漁船(大破)五隻
浸水家屋 一三○戸
その他 村内 石垣、土塀の崩壊甚だし


被害数の報告新庄村役場調


罹災戸数 五一七
同人員 一、三九一
流失戸数 九二
同右人員 三九四
全壊家屋 一〇八
半壊家屋 三一七
床上浸水 五一
床下浸水 二三
死者 二二
行方不明 一



農地被害 九七町歩(内流失 五〇町歩)
麦作被害 五二町歩
耕牛溺死 二六頭
小舟流失 八五
橋梁流失 八
道路欠潰 一三箇所 延長 三、○○○米
工場流失 七 半壊 一五
木材流失 三○、○○○石


主ナル被害官公衙
新庄村役場、国民学校、紀勢西線新庄駅、郵便局、巡査駐在所、紀陽銀行出張所、農業会事務所及倉庫、紀州造船会社、紀南索道会社、県木聯田辺支所、釦工業会社、昭南物産会社、日東木材会社
和歌山県庁に報告せる調査(二二、一二末)
(直後の調査報告のためその後異動を生じてゐる)
一、市部
(下記の「市部」を参照)


二、海草郡
(下記の「海草郡」を参照)


三、那賀郡
(下記の「那賀郡」を参照)


四、伊都郡
(下記の「伊都郡」を参照)


五、有田郡
(下記の「有田郡」を参照)


六、日高郡
(下記の「日高郡」を参照)


七、西牟婁郡
(下記の「西牟婁郡」を参照)


八、東牟婁郡
(下記の「東牟婁郡」を参照)


和歌山県調(一二月末)
一、人事
死者 二二○人
負傷者 八四二
生死不明 五四
罹災者 一五、九九六
二、家屋
流失 四〇九戸
焼失 一六七二
全壊 一四四〇
半壊 二五二一
浸水家屋 一三、二二一
床上 八、五一三
床下 四、七○八

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地区別被害数
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家屋被害
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農耕地の被害
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作物の被害(栽培中のもの)
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生産物の被害
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下記被害数(村)
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国民学校生徒職員関係被害調査
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被害状況
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被害数
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串本国民学校調(不明)
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市部
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海草郡
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那賀郡
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伊都郡
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有田郡
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日高郡
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西牟婁郡
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東牟婁郡

七、警告と遣訓の記録

この章は短少だ、しかし、体験から割りだした貴重な部分となるであらう。いはば、本集の目的とする一つのエキスである。
これは、やがて先人の言葉として子孫の胸にしみ入る時が来るであらう。それを待つ心はないが。


警告と遺訓集
(今回の地震、津浪、火災より得た将来への参考資料)


天災への科学的知識をもて
(和歌山県立田辺中学校長 村上五郎)


一、地震、津浪に対する科学的智識の普及。
一般は勿諭、特に学校では震災記念日ともいふべき日をつくつて、必ず、当日、地震、津浪に対する講議を行つて科学的な智識をあたへることが大切である。


二、津浪の記念碑を建てること。
今回の津浪で死亡したものは田辺市文里と隣村新庄で、そこでも大地震や津浪の来襲を知らなかつた者の中、特に土着の人より、他地方からの移住者に多い。これは、安政の地震や津浪の被害に付いて知識のない人々のやうである。
これからみて、今回、被害の大きかつた地方では津浪の記念碑を立て、外来移住者であつても必ずわかる様にし、将来をいましめることが大切である。
そして、碑文は従来よくあるような漢文調の一般の人に読みにくく、親しみ難い、非実用的な文章ではなく。誰にもわかる仮名文で表し、津浪は地震後、何分ほど経て来たとか、更にどの方向から来て、どの方向へ逃げた者は助かり、どの方向へ避難しようとした者は死んだとかと、その実際を具体的に記すことが必要である。又、津浪の高さと、その回数や、この度のは第二回めが最高だつたと思ふが、第一回来襲後、退潮したので帰宅して死亡したといふ様に、その土地の地形と実際を綜合した説明を刻んで、なるべく多くの人に知らせ、非常の際は役に立つ知識をつくつておく必要がある。


三、火災について。
今度の新宮市の火災や関東震災及安政の地震に於ての田辺市の火災の被害等、全く恐るべきことをよく知らせ、しかも、これは沈着な行動によつて充分防ぎ得ることを知らせるべきだ。実例として大正十四年五月二十三日の但馬地震の時、田結村のことなどを話して聞かせるべきである。各自の家の火の始末に萬全を期するやうにさせたいと思ふ。


四、防潮林の植置
防浪と浪勢を弱らせるため、更に物の流失をふせぎ、殊に木材や船の流動を防ぐために是非防潮林が必要である。
今回、田辺市文里及新庄等で、木材や船の流動が家屋を破壊したものが多く、かつ印南町方面では流動する木材にあたつて死亡した者さへゐる。又、内の浦では家の周囲に森林を作つてゐたために流失をまぬがれたといふ例などがあり、防潮林の必要性は充分にあり、その効果は偉大である。


五、防波堤の施設
今直ぐにとはいかないにしろ、時期を見て、地形に即した防波堤の設置の必要があることは防潮林と同様である。


津浪は予知できる
(海南市役所援護協会)
海南市に於ての津浪の予知は、地震の直後、井戸水及び海水、主として海水は乾き上り、平常の干潮時より何倍かの干潮をみた。今回は黒江湾一帯は干あがり、その異状は一目でわかつた。しかも、平常の潮なりよりはるかに大きく、かつ早く、強く、近づくやうであつた。その方向は西南沖のやうである。
避難場所は高所でも山際を避け、八尺位の根の充分張つた太い幹の根元を最適の所と考へる。今回の地震津浪から推して浸水地域外に避難所を選ぶべきで、平常から心組み、物品なども、至急の間にあふやう準備して置く心構ヘが必要である。
V形、U形、W形の湾に面してゐる海岸一帯は特に警戒し、早く逃げる様注意されることを望む。




床を高く建てよ
海南市連合青年団長 浅野一麿
木造建築物は耐震的だが、浸水が、すぐ床に及んで物資の移動を行ひ得ない家庭が多かつた。考慮して建築すべきである。
避難場所は高地の建物がよい。寺院がよかつたと思ふ。
かうした震災の場合には、充分な、しかも確かな連絡網の下に、市民に刻々の実況を知らせ、その準備に怠りのない様に連絡網の完備を希望してやまない。


地震即津浪
塩津村長代理助役 寺本義了
本村は地盤は堅牢で、耐震力は強いから家屋の地震による直接の倒壊等は予想できないが、地震には津浪が伴ふものであるといふ事を平素から考ヘの中に入れて置く必要がある
今回の津浪も安政元年にあつた津浪に較べては軽度であつたとは古老の言葉によつて知ることができるのであるが、百年昔の事を忘れてしまつてゐたのが今回の被害を防ぐことができなかつた原因と思ふ。だから、平素から常に胸にしてゐるべきことは「地震即津浪」といふことである。


地震と津浪の科学的知識を
塩津村青年団長
本村は第三紀層の地質で耐震力は相当大きい。勿論、油断は許されないとしても、地震にはまづ大丈夫だらう。然し、地震に伴ふ津浪こそ科学的知識を平索から養つて置くべきである。
安政の地震に較べて、紀南の地震は相当軽度だつたと古老は語るが、被害は今回も相当


大きかつたことはどうしたわけであらうか。いはば油断は地震と津浪の相関的な科学知識が足りなかつたからによると思ふ。
又、当村のやうに海に低く接してゐる海岸地帯は特に建築上考慮すべきであつて、常に地震と津浪といふ考を持たなければならない。そして、被害を最小限度に喰ひとめるべきである。
尚ほ、地震予知のできない現在であるから、常に地震に対する関心を抱いて科学的に而も合理的に平素からの用意が必要である。
その他、非常用の燈火(懐中電燈の如きもの)は常に用意してゐなければならないと思ふ。


入江と湾の附近は警戒
大崎村役場
震源地の位置にもよるだらうが、地震後は必ず津浪のあることに注意し、特に入江や湾のU字型附近の被害が大きいから注意を払はなければならない。
防波施設は海岸附近に三尺から四尺位のコンクリートの堤が必要である。又、これと共に防潮林の必要性も痛感する次第である。


高塀の効果
三尾村長代理助役
本村はU字型の湾に臨んでゐたが津浪の高さが割合に低く、その上、常に波の荒い土地柄であつたために、海岸線の家は数尺あるひは十数尺の塀を築いてゐたためと、海岸線に沿つて県道があつたため、防潮の役目を果し、被害は少なかつた。


岩石は上から落るち
比井国民学校長 林宗次郎
津浪は必ずしも最初一たん潮が引いて後押寄せるものとは限らない。今回は第一回目から波が引かずに押しよせた。
地震後の観察だが、岩石の多い急斜面から大きな石塊が下の水田中に転落(四個程)していたが、こんな所は避難所としても、住宅建築地としても不適当である。危険この上もない。
家が流れない限り逃げ遅れた者は家の中に居る方が安全だと思ふ。津浪が来襲して来た時、浪の中を逃けようとして本村では二名の死者が出たが、家の中に残つてゐた者は無事であつたことから考へられる。


激震後は海を見よ
白濱村長代理助役 濱中勘一郎
海岸に住んでゐる人々は激震を感じたら、半時間位は海に注意を払つてほしい。杞憂、無駄であつても不注意のために今回のやうに被害を大きくする場合があるから。この怖ろしい被害を思へば、僅かなこの努力は何でもない筈である。


防潮林の偉力
切目青年団長
本村は昭和九年、同十三年に防潮林を設けてみた。そのために今回の津浪による被害を最少限度に喰ひとめることができた。
田畑の被害の大きかつた場所は、多くは防潮林のなかつた場所が多く、防潮林の偉大な効果を充分認めることができる。
将来、現在の防潮林を延長し、海潮の被害を最少限度に喰ひとめる必要性を痛感する。


建築には津浪を考慮に入れよ
周参見青年団長 古田耕一
海岸線の防波堤は今少し高くし、約一米造の頑丈なものとする必要がある。今回の津浪によつて、その偉大な力を物語る幾多の実例がある。幾百貫といふ鉄材も五十米余りも流されてゐるし、曲げられた個所さヘ発見することができる。
津浪の避難場所は、高い所であるべきは言ふまでもなく、山手の際は大岩石の崩れ落ちないところを選ぶべきである。或寺院の墓地に転落した石は何十石といふもので、その重力は大きなものであるに相違なく、墓石が粉砕されてゐたのである。人々は推定五萬貫と言つてゐる。避難場所の適当な所を地震国日本にあつては前もつて設けて置く必要は充分にある。
建築の場合は山手に近ければ必ず山上を調べる必要がある。岩石の転落についての細心の調査をなすことである。海岸沿ひに建築する際は地盤の堅い所を選び、建築物の基礎地盤を高く、頑丈な塀をめぐらす事は絶対に忘れてはならない條件である。
地形や家建によつて浪の来る筋がわかるのである、いはゆる強い潮流の来る方向や位置がわかるのだから、其の波の筋を研究して建築をすべきである。
災害後の始末については罹災地に監視人をつけ、被害者を調べた上溺死者、流失物資等を被害者全員立合の上渡すべきである。


地震に津浪はつきもの
田並村長代理助役
地震には津浪がつきものだといふことを忘れてはならない。


地震に火の用心
古坐町役場
地震後、津浪のくるまで約十分位の時間があり、ごう、ごうといふ音を伴ひ、その前に潮が引くから予知できる。
平素から避難場所を考へておくとよい、山ならどこでもよいと思ふ。
又、家屋で川に支柱を立て「出し屋」をつくるが、あれは危険である。出し屋の流されたものが二三軒ある。
古坐下の丁の堤防は貧弱なものであるが、これによつて危険をまぬがれた家が相当あることは先人の遺功として有難く思はれる。新築の折は地盤を考ヘ、建築に工夫が必要である。
古坐川筋も流失したが是非とも鉄橋が必要である。
又、漁夫の話によれば地震時、海上に発火を見たといふ。
何より大切なことは、火の用心であり、隣家たがひに助けあふ心である。また、沈着、冷静に事を処理し、津浪に対しての警戒を充分にすることが緊要である。
第一波が去つても油断はならない。第二波、第三波がくるからである。冬は避難にオーバー、毛布の用意を出来るだけ忘れてはならない。
浸水した家は、悪病の発生しないよう衛生に注意することも大切だ、崖下の家は山崩れに注意し、被害状況は速に役場に通報しなければならない。
ありふれたと言へば、ありふれた言葉、しかし、この平凡と通俗が、喉もと過ぎれば
の諺になりがちで、大きな失策の種子となる。一度やつたばかりだ、まあ当分はない、と思ふのも人情だ、その中に防波堤でもと思つてゐると、明日に地震がしのび寄つているやら。


印南拾記
印南神社神官 濱崎為一作
○   ○   ○
大鯰いなみのいの字をつにかへて襲ひ来たるぞ恨らめしきかな。
セウニヒトセシワス
昭二一歳十二月の廿一日津浪のありし日と皆ぞ知れ
  ○   ○   ○
大鯰いなみのいの字をつにかへて紀州灘よりひいき(比井来)して由良の湊にくるぞ恨めし。


探訪にいつてゐると、濱崎氏は右のやうなものを記し、笑ひながら手渡してくれた。役場の玄関には、まだ泥土がたまつて、印南橋も仮橋のままであつた。


南紀大震災川柳(課題吟)
山良村文化協会川柳部
(二二、一、二五作)


作者 網代七二五 山下斗世
同  鈴木舟人
同  山名隆司
江ノ駒  榎本凡平
里  川口静流


一、大地震起る
曉のだ眠截ち切る大地震  舟人
跳ね起きた眼に電燈がゆうらゆら 斗世
役立つた頭巾の上の落ち瓦  静流
【註】後のために—この頭巾は一きり空襲のあつた頃にかむつたものである


二、津浪くる
親は子を子は親を呼ぶ浪の中  凡平
逃げのびた怖さへぐつとくる余震 斗世
大津浪なにが怖くて親を捨て  降司


三、津浪の光景
大兵舎町の上にてのたを打ち  凡平
怖ろしや千石船が町の中  同
すさまじい潮の速さをドラム缶 斗世


四、津浪去る
千石船町の真中にあぐらかき 凡平


五、復興
炊出しを貰ふ顔々無事をのべ 斗世
津浪一過大工左官に羽が生え 隆司


六、後世へ
天の灸は余りにも大きすぎ  凡平
震災は無言で科学しろとあり  斗世
子孫まで伝へて置けと津浪去り 静流
過去帳へ津浪の記事を書き加へ 斗世


七、有田郡廣村を救つた濱口梧陵翁の業績—防波堤に
梧陵翁蓮の上から無事祈り 斗世
(山下斗世寄稿)

八、震災実話小束

地震、津浪中の美談に類する実話の資料に相当の期待をかけてゐたが、予想に反した結果であつた。時代は人情をうすくし、敗戦は国民の道徳をうばつたといふ現代の反映であるとするならば悲しいことである。そして、余りにも悲話の多いのは更に痛ましいことである。
以下の実話は資料の事実をまげないやうに脚色したもので、どこまでも実話としての値値を傷つけないやうにつとめた。
そして読むためにも。

第一話 悲運の嵐

  (海南市)
ごうごうと味気ない人生の嵐は、十八の美代子(仮名)の胸の中を絶えず吹き抜けて、死んでしまひたいと思ふことすら幾度となくあつた。しかし、その度に、美代子は、ぞつとするほどの恐ろしさを身内に覚えて、老母の横顏を眺めるのであつた。とんでもない考へだ、萬一、あたしが、そんな途を選んだら、誰が、たつた一人の母を養つて—と、今は、亡い二人の兄の写真を仏壇の前に眺めなほすのである。
兄さんさへゐたら、いいえ、二人とも揃つてなぞといふ欲は少しも申さないのです。たつた一人、一人だけでも生きて還つてくれてゐたら、かりに不具の身になつてでも、還つてゐたら、どんなに心強い毎日が送れることかと、心の中で繰返しながらも、老母の手前、弱音も吐けず、じつと歯を喰ひしばつてゐる美代子であつた。
〃お母さん、元気をだすんですよ、今にきつといいことがめぐつてきますわ、戦死なすつた兄さん方だつて、必ず守つていてくださると思ふわ老母は美代子の励ましてくれる言葉の中から、わが娘の本当の気持を想像することができた。だが、それすら言葉にしてはかへつて美代子の心を痛め崩すだらうと、母娘は、たがひに胸の中で泣きあつて、めつたに不幸な立場については触れ合はなかつたのである。
だが、それだけに、かへつて苦痛が内攻していく、声をたてて泣けることは、声をしのんで泣くより楽であるとは母娘の近頃の気持であつた。
〃すまんのう〃
口癖のやうに老母が美代子に言ひ、美代子はそんな場合、強ひて笑を示し、何でもないといふ素振をみせた。
〃いいのよ、お母さん、二人の兄さんに代つて働らくわ、」
とは言つてみたが、激しいインフレは美代子の細腕一本では、決して楽な生活に向かはせてはくれなかつたし、美代子自身が負けてしまひさうなことが度々あつた。
〃ねえ、お母さん、それより、病気をしないことよ、この冬は、やつと、ここまで乗り切つたんです、もう一いきよ。あたし、お母さんが兀気でいらつしやることが何より嬉しいの〃
老母は美代子の言葉を嬉しいと思ひながら、遊んでいてはと繕ひものなぞをするのである。かうして、か弱い母娘二人きりの生活が、すさまじい世相の荒浪の中で、やつとの態で続けられてゐた。しかし、それは、倒れかかつた樹を、細い一本の柱でやつと支へてゐるに過ぎないものであつた。
十二月が来、寒空と一しよに二十日も過ぎてしまつた。戦前の師走の街を美代子は追憶した。その頃は、父もゐ、二人の兄もゐ、年末の大売出しで賑はつた海南の街の様子が憶ひ出されて胸がうづいた。楽しい一つ一つの追憶が冷たい夜具の中でも、ぬくぬくと浮んでは、冷たく、鋭く美代子の胸に喰ひいつたが、やつぱりその一つ一つを追はずにはゐられず、追ふ瞬間だけでも楽しかつた。そして、いつしか、夢路にはいつてしまつた。
時間は、人間の寝入つてゐる間にもすすみ、二十一日は母娘の円かな夢の間にめぐつてゐた。そして、午前四時、二十分過ぎには、この弱い二人の生活を支へてゐた支柱がぽきりと無惨に折られてしまふ、悲運が、めぐつてきてゐた。
地震、津浪は矢つぎ早に起り、海南市舟津北町内会も泥潮に呑まれてしまひ、美代子の生きてきた張りあひの対象だつた母も、その犠牲に加へられてしまつた。
戸口で溺死してゐた老母の姿へ、美代子は泣く声すら出なかつた。あまつさへ家財家具一切は悲運の嵐に奪ひ去られてしまつたのであつた。

第二話 二つの花

  (大崎村)
〃よし、わしの家に来るがよい。困つた時にや助けあふ、これが人間の道ぢや、ちつとも遠慮はいらんぜ〃
硯太一郎氏のふとつ腹な義侠心が持前の気象として頭をあげた。
〃なるほど世間の人情は紙のやうにうすい、社会は師走の風より冷たい。だがな、わしのやうな馬鹿者の一人ぐらゐも今の世間にや必要だ、まあ、何も運命だとあきらめるんだ、流れた家や物は還つちやこない。なんぼくやんだところでな。人間は諦めることもかんじんぢやよ〃
大崎村大字方部落の警防分団長だつた太一郎氏はかう言つて相手の二人を励ましてゐた。
〃それからみりや、あんたら二家族を引取つて、面倒を見たからつて、わしの家がそれで流れてなくなる訳ぢやなしさ〃
流失家屋の二家族の人々は、この言葉を地獄の仏の言葉のやうに聞いていた。そして、硯一家の親切な家族に守られて元気をもりかへしていつた。
硯太一郎氏は、それから、その復興に全力を傾けて努力をした。
〃いやさ、一つの病気といふか、世間の連中の面あてといふわけぢやないんだが、これが、人間のあたり前の道だと思ふてな。いつ又助けられることにもならんとも限らんし、人間生きてゐる間は、隣組の唄の文句ぢやないが助けられたり助けたりさ〃
太一郎氏は、明るく心から笑へた。
世間の人々も、この純粋な隣人愛に頭のさがるものを感じゐのであつた。
〃わしは、お前さん、たつた二家族の人を助けただけだが—いや、それも助けるといふほどのものでもないが……〃
と同じ村の大崎に話題を移すのであつた。
そこでは、こんなことがあつた。
〃何を言ふんだ、自分の家のことばかりにかまつてゐられるかい。お前達で始末をしとけ〃
と家族に言ひ残してぷいと家を飛び出したのは田廣信三氏であつた。
〃おーい、津浪だぞ、はよう逃げんとあぶないぞう〃
信三氏の声は、まだ早い明未の闇の中をすつとんだ。
〃おーい、津浪だぞう。はよう逃げんと〃
この声に部落の人々は、屋外に飛び出た。まだ浪は浅い。
〃おーい、津浪だぞう……〃
信三氏は次から次へとどなつて駆けた。
人々は次から次へと避難をはじめた。知らせ終ると信三氏は自宅に引きかへした。もう、そこには浸水の自宅があつただけだ。しかし、ほつとした喜びが信三氏の胸に湧き、避難者の群に自分も加はつていつたのであった。
大崎村に咲いた二つの美談として津浪あとの村に噂が高い。

第三話 光と星

(1) (山良村)
彼は表に出ると職業意識が、ピインと働らいた。治安維持。冷たい闇の中を敏捷にかけめぐつた。人々は非常な混乱にはいつていた。
〃潮が来るつ、避難はこつちだ〃
ふためいた人々を導いていたのは由良駐在所の木下(仮名)警官であつた。
潮は、ぐいつと高くなつていつた。荷物を持つた者、持たない者、寝巻のままの者、男、女、若い者、老人、子供、そして、闇の中で呼びあふ声と声。
一瞬の間に静寂から天変動地の一騒ぎへ。
木下警官は危険地帯に足を運んでいつた。それは逃げおくれた者はゐないか、危険にさらされてゐる者はゐないかと案じる心からであつた。と、その時である。救ひを求める声が潮の中から聞えたやうである。暗い潮の中で誰かが流されてゐる気配である。
次の瞬間、暗い潮流の中へ木下警官が飛び込んでいつた。師走の、しかも未明の津浪の中へである。しかし、彼には冷たいといふ感じが来なかつた。冷気を通りこしてゐたのか、それとも救助に夢中であつたのか。
潮流は早い、腰から胸、胸から首、木下警官は、いつの間にか泳いでいた。しかも、かなりの力泳を続けなければ流されてしまひさうである。夢中で泳いだ。
やつと一人の腕を捕へた。が、今一人、溺れてゐる者の姿を発見した。
彼は、どうして、どんな努力を払つたか、そして、どれだけの時間を費したかわからなかつたが、二人の溺死しようとした老婆を無事に救ひあげることができたのであつた。
"おお冷たい"
彼は、ほつとした気持の中で、はじめて冷気を感じたほどであつた。


(2)
〃家族は全部で?〃
〃、四名でございます、それが女ばかりです〃
〃なるほど、御主人は、あちらで亡くなられたんですね〃
〃はあ〃
澄江は眼を伏せて、小声で答へた。
〃御親戚は?〃
〃はい……〃
と、言ひよどんだ彼女は、引揚げたままの服装の襟をあはせるやうにして。
〃永い外地生活で、すつかり疎遠になつてゐまして〃
〃そうですか〃
皆まで言はせるまでもないと、役場吏員は言葉の先をとつた。それは、今までの引揚者の中にはそんな人々が多かつたし、そうした人々の気持も充分理解してゐたからであつた。
〃いや、そんな方も多いのです。日本の人情がこんなにまでなつてしまつた理由は幾多ありませうが、やつぱり同居といふやうな生活には無理もあるからです〃
役場職員はペンを置いて澄江にまつすぐ視線をそそいで言つた。
〃深い事情もありますが、そんな事を申しては親戚をけなすやうに聞えるでせうし、そこは、やはり親戚の間柄ですから〃
〃いや、わかりました〃
〃それで、何とか住居について御骨折願ひたいのでございますが〃
それから、澄江達一家族四人は、元海軍の兵舎跡に生活をすることになつた。そこは、引揚者の収容所になつてゐたのである。
女手ばかりの生活は楽ではなかつた。住問題は、どうやらけりがついても衣食の問題は四人の上にきびしい態度で迫つてきた。それでも、気丈な澄江は、血みどろになつて働き生き抜かうと、外地生活の華やかで幸福だつたことを咋日の夢のやうに追憶にのせるだけで生活態度もかへてしまつた。
しかし、人間が不幸の魔の手にひとたび捕へられると、重なる不幸にさいなまれるものであつた。
十二月二十一日、暁にはまだ早い冷えきつた朝、突如、地震が起り、大地が、あやしく大きくゆらいだ。そして、ものの十分の後には一大音響と一しよに津浪が押しよせた。すさまじい津浪の猛威は、町々を呑んだ。その中に元海軍の兵舎跡も加へられ、あまつさへ同所は流失してしまつた。
この一瞬の大白然の不意打は幾多の不幸な人間をつくつた。澄江は愛児を失つたのである。四人の女手ばかりの一家では、瞬間の猛意に抗する力はなかつた。愛児は、この無慈悲な地異に奪はれるより他なかつたのである。
〃許して〃澄江は三児にかう詑びるのも心の中であつた。泣けてもこなかつた、泣いたとて涙もでなかつた。愛する者を失つた痛手は、深傷をうけた時と同様だ、その瞬間や直後には痛みさへ感じない。しかし、刻々と本当の痛みが彼女に迫つた。澄江は悲担の底に沈んでいつた。夫に対して申訳ないことや、どんなに苦しんで逝つたことだらうと亡児の最期を思ふ気持が、ぎしぎしと彼女の胸をしめあげるのであつた。
〃御心中よくわかります。そして、簡単に諦められるものでもありません。しかし、余り心を痛めてばかりいては、あなたの健康を傷つけます。あなたこそ、残つた三人の家族の中心、大黒柱ぢやありませんか。ねえ、元気を出しませう〃
親戚に引きとられた彼女を役場職員は心から慰め励ましたのである。
〃よくわかりますとも、だから、生活の保護も役場として出来るだけのことはいたします生活援護の手が澄江の上にのべられたのはそれからであつた。

第四話 浪間に咲く華

  (印南町)
〃おい、こりや、津浪だぞ〃
漁船の中でかう叫んだのは、印南町の漁師、中西吉郎(仮名)である。夜明け前の暗い海面は無気味に盛りあがり、潮流が激しくなつてゐた。
〃さつきから変だと思つてゐたが、やつぱり、こりや津浪ぢや〃
相手の漁師坂口辰助(仮名)は、濱の灯を望んでゐた吉郎に答へた。
〃あの灯を見よ、こいつあ、ひどいこと流されてるぞ〃
〃さうだ、えらい流されてる〃
二人は急いで漁具を収めて、陸の灯を見あてに漕ぎはじめた。しかし、船は一定の方向にただ押し流されていて、いつかな思ふ方向に進路がとれなかつた。
二人は永い海上生活に馴れた者である。がそれだけに海の怖さもしつてゐた。遭難—こんな言葉が漕いでいる二人の頭をかすめないでもなかつた。
〃おい、こりや、たがひに家の方もやられてゐるかも知れないぞ〃
〃うん〃
潮鳴りの中で辰助が暗い返事をした。
〃腕つぷしが折れるまで漕げつ〃
吉郎はかう叫ぶと力漕を重ねた。船の進路はきまつた。多年海で練へた腕前が物を言つた。二人は黙つて暗い海上を濱の灯目あてに漕ぎに漕いだ。
その時である。
辰助は、ふと漕ぐ手を止めた。
〃どうした、反助〃
吉郎はふしんに思つて声をかけた。
〃いや、何でもないよ〃
が、しばらくすると、こんどは、吉郎が漕ぐ手を止めた。それを見た辰助は
〃やつぱり、—気のせいぢやなかつたか〃
吉郎の方を見あげて言つた。
〃いや、たしかに女の声が聞えたやうだ、お前にもか〃
〃うん〃
二人は棒立になつて耳を澄ましたが、ごうごうと潮鳴りが高く続くばかりであつた。船は、もう進路を外して、流れてゐた。そして、聞えたやうな女の声が聞きとれなかつた。
女房、子供の身の上を案じてゐた二人にとつて、それは気のせいだと思ふよりなかつた。
〃女房、子供が気をもんでるだらう、急がうぜ。二人の力漕がはじまつた。
しかし、間もなく辰助は、
〃いや、たしかに女の声だ〃
〃うん〃
こんどは、まがふかたなく二人の耳にはいつたのは、女の救を求める声であつた。しかし、それは、弱り抜いたかすかな声である。
〃流されてきたな〃
吉郎はかう言ふと、辰助も、
〃濱ぢや、女房子供も待つてゐやうが、これを見すてるわけにやならん、吉つあん、助けてやらう〃
〃おう〃
声を求めて、暗い海上で力漕を続けた。しかし、声は杜絶えがちであり、潮音は募るばかり、しかも暗い海上では視野がせまかつた。この悪條件を征服して、やつと、浪間に出
没する女の姿を発見したのは、それから、どれだけたつてからかわからなかつた。しかも、二人の胸を常に去来するものは濱で津浪に追はれてゐるであらう家族の姿であつた。
〃おーい、気をしつかりするんだぞ、板を放すんぢやないぞ〃
〃もう、いつときだ、しつかり板をつかまへてろよ〃
流木につかまり、浮き沈みしてゐる浪間の女に二人は元気づけるやうに声をかけた。
〃女一人ぢやないぞ、背中に子供をせ負つてるぢやないか〃
暗い海面をすかしてみると背中に子供を負つて流木につかまつてゐる姿がどうやら見えた。
やつとのことで、この母子は、二人の船に救ひあげられた。が、師走の未明の海に幾時間か漂流してゐた母子の五体は冷えきつていた。そればかりか、救助された気ゆるみから、船に引きあげられると母子は人事不省におちてしまつた。
吉郎と辰助は、自分の家族のことも気になる。一時も早く濱まで漕ぎつけたい気持で一ぱいであつた。しかし、折角救ひあけた母子が冷たさに人事不省におちていく姿を見すてるわけにもいかなかつた。
〃火を焚いてぬくめてやれ〃
どちらからともなく声があつて狭い船内で焚火をはじめた。船を潮流に委せたまま、母子が正気にかへるやうにと努力を払つた。
〃かまはん、あるだけの物を焚いてぬくめろ〃
二人の努力と美しく貴い人間愛の精神は、人事不省の母子を蘇生させた。
〃おい気がついた、ついた〃
〃さうか、よかつたぞ〃
二人は、わが事のやうに喜びあつた。
〃さあ、こんどは、濱までだ〃
船は沖の方遠くまで流されてゐた。
力漕と力漕、人間の最大の努力を払ひ、やつと海岸に漕ぎ寄せたのは、もう画前であつた。
陸では二人の家族も無事であつた。
母子の家族逹は無事な姿に涙をながして喜んだ。世間では二人の行を神技だとほめた。
〃仲々できることぢやない。今時の人間にや、とてもできることぢやない〃
かうした二人への賞讃の声が、津浪に荒らされた濱から村へ。村から村へと廣がつていつた。

第五話 老練の偉勲

  (白濱町)
〃これが漁船繋留場でさ〃
湯の町、白濱町の海岸に大小三十余隻の船が静かに繋留場に浮んでゐた。案内の漁師は、
〃さあ、こつちへ腰でもおろして、ゆつくり、話しませうぜ〃
と先に砂地の上に腰を据えた。そして、煙草を煙管にゆつくりとつめこみ、すぱりと煙を吐いた。煙管を持つ指の太さに漁夫としてのたくましさが見える。
清やんといふのは、西清市(仮名)といつてな、たしか、今年は五十六才ぢやよ。それから幸つてのは大江幸八(仮名)ちゆうて、清よりは一つ年下ぢや、そりや、二人ともわしよりは十も若いが、まあ、年寄組の方ぢや。
二人とも海で生れて海で育ち、漁師で暮してきたが、気性の剛気な連中ぢや、しかし、なんぢやのう、昔者は、昔者で一徹ぢやが、昔なりにええところがあつて今時の若い者にや真似のできんところがあるぞ。
あの日は、あんたも知つてるぢやろうが夜明け前で、まだ、まつ暗だ、地震といや、昔から津浪だつてことは濱の者は、みんな心得とるが、家をとびだした清と幸は、なんのこたない。いきなり、この船留ヘかけつけた。もうその時にや、津浪がきてゐてよ、折角、陸揚げしてた船が—さうぢや、やつぱり、これくらゐはあつたらう。—波に持つていかれるところぢやつたさうな。
二人や、いきなり、手近の一ぱいに飛び乗つて、船と船をつなぎ、溜場から流されるのを防いだんぢやよ。一口にかう言つてしまや、なんでもないやうだが、素人にやちよつと、できん芸当ぢや、浪が荒れりや、お前、船と船がづつけかまし合つて砕けてしまふぢやないか、そいつを防ぎ、おまけに一ぱいの船も流すまいとの、いはば大奮闘ぢや、それも、三十分や一時間ぢやない。船から船へ燕のやうに飛びまはつて、なんと三時間ぢや、
こりや、ちよつと人間放れのした手柄話ぢやて。ええ、それでお前、一ぱいの船も流さず、半ばいの破損船も出さなかつたといふにいたつちや神技ぢやよ。今時の人の言葉でいや、操船技術、多年の操船技術が物を言つたわけぢやよ。なんといふか、老練の手柄ぢやのう。落ちつきもいるが、胆つ玉も太くなけりや、ちよつとできんことぢや、あが丈の船ならいざしらす、この溜りの船をまんべんなく操つて、津浪からすくひあげたといふ手柄は大したものぢや。いや、こりや、少し賞めすぎたやうぢやが、まあ、わしの事をわしが賞めてるんぢやなし。のう、今の時代にやちよつと珍らしい話しぢやろうが老人はかう言つて煙管に煙草をつめ直した。船溜りには平和な陽に漁船が輝やいていた。

第六話 悲喜の曲

  (古坐町)
古坐の町は、古坐川をはさんで、西向、高池の二ケ町と鼎のやうに並んでできた町である。風のやうに、魔のやうに、人々の噂にのぼつた話が、横笛の音を耳にするやうな淋しさを、聞く人の胸に残して去る。いはば、一つの悲曲のやうに古坐の町に立つた噂は大津浪の直後のことであつた。
噂の主は、この町のたつた一人の津浪犠牲者岡田乙吉氏である。
漁師だつた乙吉さんは、地震の夜は早くから烏賊釣り沖にでていた。これは事実だが、さて津浪にあつてから、どんなめにあつたかは知るよしもなく、多分、ああだらうと想像されるだけであるが、とも角、行方不明になつたことだけは、津浪後も帰宅しないことから間違ひはない。行方不明といふことほど頼りなく感じることは先づあるまい。ましてやその家族にとつては割り切れないことおびただしいのである。そこに噂の温床があり、また、たつた一人の犠牲者であるだげに、惜しみ同情するの余り、ひよんな喩が枝葉をつけていくのである。
〃いや、たしかに、古坐大橋の下で助けてくれと叫んでゐた声—あれは乙吉つあんに相違ない〃
〃たがひに逃げるのに夢中だつたからのう〃〃いや、全く気の毒なことだ〃
それから、また。
〃わしや、中之町の川端の、あの石垣の下で、助けてくれえといふ声を聞いたが、やつぱり乙吉つあんにちがひない〃
との噂もたつた。人々の胸に一種の怪談じみたひびきとして聞えるが、気の毒に岡田乙吉氏は、そのまま帰つて来なかつた。町の子供は古坐大橋を気味悪がるが、仲々人助けも、あんな場合容易でないといふことを、この一悲曲の調べが人々に思はせるのである。
同じやうに、西向町の川原まで打ちあげられたのが日高市太郎氏である。多分河口辺まで漕ぎもどつていたであらう岡田氏は助からなかつたが、市太郎氏は古田の川原で救ひを求めた。もつとも、救ひを求めたとはいへ瀕死の状態であつたが、運のよい者は、附近の者に救ひあげられ、焚火の暖で生きかへつてゐる。岡田氏の噂は悲しい横笛の一曲だとすれば、市太郎氏の一曲こそめでためでたの欽びの一曲であるといふべきである。
宿命論者でなくとも、宿命的なものを感じないではゐられぬ二つの曲ではある。
しかも、かうした種類の話題は津浪の後に幾つとなく噂立つてゐることであらう。そして、人間の幸、不幸への出発は、ほとんど一枚の紙の厚みから次第に廣がつていくのではなからうかと思はせられるのである。

第七話 美はしき責任

不意に起つた天変地異に、夢から現実へかヘつた葉糸正昭君(二十二才)は、ゆれ動く座敷で、ふためいた。逃げよう、倒ふれる、物の落ちる音。
正昭君の若い頭の中を電光のやうに、つつ走つたものは—職場—であつた。
屋外では、すでに、人々の叫びが聞える。耳を澄ますと、—津浪、津浪—と連呼してゐる。
さうだ、このままではならかい。再び、ひらめいたものは、村長や上司の日常の言葉である。正昭君は、とつさに自宅をとびだした。もう、彼の胸中には何ものもなかつた。ただ、あるものは職場への強烈な責任観念だけである。
闇の中にも、白く押しよせてゐる浪頭がみえる。が、家の事も、ちらりとかすめる。しかし、自宅には二人の兄と一人の弟がゐる。今、この職場への青任を果さないで誰が果し得るだらう。彼は、再び、家への思ひを消しとつた。
往来は高い、そして速い潮に埋められ、人々は右住左往し、絶叫をあげてゐる。正昭君は夢中で、潮の中を役場へ駆けた。約半里の道は千里のやうに長く感じられた。もどかしい気持を若い足の速さに委かせてひた走りに役場にかけ込んだ。
彼は、かけ込むや、いきなり、三冊の戸籍簿をかかへ込み、高所へ、高所へと避難し、戸籍簿を安全地帯に持ち込んだ。貴重な村の記録である。萬一潮に奪はれたなら、それは永久に得ることのできない記録である。正昭君は、この貴重な簿冊三部の安全を計り終るとほつとした。
ふりかへると全く夢中の行為であつたが、よくも果し終つたとほつとした思ひで胸が塞がつた。
葉糸征昭君は熊野林業学校の出身で、熊林の助手を勤め、開拓事業にしたがつて、その年の八月から新庄村役場吏員となつたのであつた。
昭和二十二年七月十六日、彼は司法大臣から名誉の表彰をうけた。
突嗟の間に、沈着、しかも重大な責任を果し得たことは、日常の彼の胸裡に深く根を張つてゐた旺盛な責任感のいたすところであつたに相違なく、村人からも、彼の行動に就いては非常な好評である。

九、震災直後の新聞記録抜粋

新聞報道は、一つの当時の社会情勢を写した文字による写真である


震災直後の新聞報道(主として地元新聞記事より)


罹災民にお言葉
  竹田宮殿下御来県


天皇陛下の御名代として竹田宮恒徳王殿下には木県下の災害御慰問のため三十一日午前十一時四十分和歌山市駅御着で御来和、大阪まで御出迎えの川上知事、高見警察部長の御案内で十一時五十分県庁御着、千種内務部長以下各部課長の御出迎えをうけられて知事室に入られ、川上知事に聖旨を御伝達、知事より県下の災害状況を御報告申上げ、かくて殿下には十二時二十分県庁御発川上知事の案内で自動車に召されて紀三井寺駅御着、十二時四十三分同駅発の特別仕立の列車に御乗車、午後三時四十分紀伊田辺駅御着、新庄村長の御案内で同村の惨たんたる津浪の跡を親しく御視察、荒凉たる赤肌の各所に早くも小屋掛けにいそしむ罹災民に御慰問の御言葉を賜り、四時三十五分田辺文里港御着、田辺市長の御案内で同港災害地を御視察の後、五時二十五分白濱町御着、同町長の御案内で同町を御


視察、御慰問ののち五時四十五分御泊所桃の井に入らせられた、二日は新宮市を御視察の予定




聖旨にそ
い奉らん
川上知事謹話
(省略)


竹田宮殿下
新宮御視察


二時十分着の列車が一時間遅れて三時二十分新宮駅に着いた。一般の乗客と御一緒に降り立たれた殿下の御姿は国民服にゲートルを巻かれ、中折帽にねずみ色のオーバを羽織られ側近者も余りなく至つて御簡素な御服装であらせられた。
(中略)
四時御徒歩にて丹鶴国民学校にお成り被害を蒙つた罹災民を懇に御慰問種々御質問あらせられた後、お側の人々のおすすめになるにも拘らず、小雨降る市街を御徒歩にて大橋附近へお成り惨状を審さに御覧遊ばされ、お側の人々に細かい所まで御質問なされ側近者を感激させた。
その後、再び御徒歩にて千穂国民学校へお成りになり羅災してうちふるへている人々に一々厚いおねぎらいの言葉を賜り云々
(後略)




救恤金六万五百円
天皇陛下、本県へ下賜


天皇陛下には本県の震災についていたく憂慮され、さきに竹田宮殿下を御名代として御差遺、親しく現地を御慰問になつたが今回更に救恤金六萬五百円を下賜された。
(後略)


本県の産業被害
  商工省現地震災対策本部発表


南海震災による各府県の産業関係被害状況は近畿商工局に臨設された商工省現地震災対策本部で調査の結果和歌山県下の被害は甚大で左の通り判明した。
(括孤内は損害額)


一、土木関係
海岸  一〇キロ(三○○萬円)
道路  二○キロ(二五七〇萬円)
橋梁  四、四六○平方メートル(九七八萬円)
河川  八、○○Oメートル(一八○萬円)
港湾  一五港(四、七五七萬円)
砂防  五ケ所(二五萬円)
市町村道 八キロ(八○○萬円)


二、水産関係
漁港  三ケ所(四、○○○萬円)
船、漁船揚場  (四五〇三萬円)
製塩工場  一〇八工場(二、三七一萬円)
重油タンク  二○基(四〇〇萬円)
製氷工場  三ケ所(一、五〇〇萬円)
漁船  二、六〇〇隻(六、七五七萬円)
漁具  (二二、八五八萬円)
水産物加工場 (五、○○○萬円)


三、山林関係
林道  一二キロ(二九萬円)
貯木場 六(一六○萬円)
防潮林 三一六町歩(七三二萬円)
製炭窯 一、六八○基


四、耕地関係
耕地(五、一〇〇萬円)


五、主要食糧関係
供出米(流失、浸水) 五、○○○石
保有米(流失) 一〇、○○○石
営団保有米(流失) 五、○○○石
甘藷(流失、浸水) 二○○、○○○貫
保有甘藷(流失) 三、○○○、○○○貫


六、農林作物関係
麦作 一、○○○町歩
野菜 一〇〇町歩
肥料 五七トン
木材 一七二、○○○石
薪木 二五、六五○石
木炭 八七、五〇〇俵


七、工場関係
日東紡廣工場三棟 流失破壊外六工場
関西地震死者  一、六〇〇名
(渉外局発表)




道路河川橋梁の損害
復旧工費は千余萬円


新宮土木出張所の調査による東郡管内の災害状況は道路欠壊を最大とし、次いで河川橋梁等二百七十九ヶ所に及んでをり、復旧工費は大ざつぱに見積つただけで、ざつと千二十二萬五千円程度とみられてゐる




約十五億円
  本県の震災総被害


県で調査中であつた県下の今次震災の被害は民間の家屋、家具、商品の焼失、流失、倒壊などによる被害を除いて産業関係、土木関係のみでその総額は五億二千七百四十三萬六千七百余円にのぼつているが民間の被害についてはまだ正確な調査ができていないが、まず十億円を下るまいとの見込で、加算すると十五億円と予想




震災地の物価高
  県が断乎取締りへ


こんどの震災と同時に被害地方の大工賃金やその他の闇物価が暴騰し、復興を阻害するものとして何等かの対策がのぞまれてゐるが県では現地からの報告に接し、足元につけ込んで不当の暴利をむさぼるものは同業組合の協力を得て取締る方針でゐるが、いま、新宮、田辺方面の闇賃金や闇値格をみると次の通りで、その後だんだん高くなる傾向にある(括孤内は震災前の価格)(一日の賃金)
大工賃百円から二百円(八十円から百二十円)
佐官百円から三百円(百円前後)
屋根職二百円前後(六十円から百円)
 屋根瓦一枚二十円(五円)
 セメント一袋二百五十円(百三十円)
 炭一俵百円(五十円)
 酒四百円(三百円から三百五十円)
 餅米一升八十円から百円(六十円から八十円)
 米一升八十円(六十円)
 サンマ十七、八円(十円)
 大根十円(六、七円、貫当り)
 白菜十五円(七円、貫当り)




紀南に大防潮林
  今度の津浪に訓えられて計画


(前略)
防潮林が大いに役立つていることがわかつた。この実蹟にかんがみ津浪の多い本県では今回さらに増植をはかるべく、津浪でいたんだ防潮林の復旧費三百二十萬円とともに新設造成費一千五百萬円を計上、将来VU字形の湾岸に黒松を植えて防潮林線を築くことになつた。




県の直接復
旧費四億円


震災の被害は既報の如く一般民家を入れて十五億円以上に達するものとみられているが、このうち県が直接復旧に当る産業、土木関係の復旧費は四億二千七百余萬円である
(後略)




復旧対策出来上る
  中央と打合せて決定(一月九日)
  新宮市の復興対策(一月九日)
  復興の息吹も新た(一月五日)
南海市




罹災
新宮 復興は快速調
     早くも住宅三十戸完成(一月六日)




新宮復興二題 住宅百数十戸完成


  復興は点燈から(一月十二日)


地震予知の風説
  海南市民戦々兢々(一月八日)


(前略)
南海大地震このかた海南市民は極度に神経質になつているが、最近では「十二月までに大地震がある」といふ何処かち流れてきたのか地震予知の風説が乱れ飛び、夜ともなればフトンや衣類、はては高地の知人の家まで泊りにゆくといふふうに市民は戦々兢々として、来るぺき?大地震にふるへおののいているが和歌山測候所に訊いてみると地震はどこでも予知できないので正式に発表されるはずはありません
(後略)




大地震説根拠なし
  余震は安全性をえがく


南海大地震以来、余震の連続に「また大きな地震がある」「今明日中に京都に大地震がある」とのデマが乱れ飛んでいるが、かかる心配があるかどうか、大阪管区気象台吉澤技官に聞いてみる。
去る二十一日の大地震の震源地は太平洋岸沿いの外側地震帯の一部熊野なだ、土佐沖にまたがる帯状のものであつたが、この余震は相当長く続くものと予想される、しかし、余震には再び危険を予想されるものと、そうでないものの二通りがある。前者は強烈な地震後の余震の減衰状態が不規則であり、後者は順調に減衰をみる場合である。これを北伊豆地震と今回の南海地震に例をとつてみると、北伊豆地震の場合は本震の二十日前の十一月七日震度三の強震があつた後、震源地に集中する余震が八日一回、九日同、十日なし、十一日十五回、十二日三十四回、十三日五十六回、十四日九回、十五日百二十七回、十六日百八十五回、十七日百十三回、十八日、四十九回と不規則な線を描いており、果然二十六日震度六の強烈な地震を発生した。これに反し、今回の南海地震は十九日ごろから微震があり、二十一日の大地震となつたが、その後の余震の減衰は順調で、洲本測候所の報告によれば有感をも含み、二十一日百四十七回、二十二日百二十九回、二十三日五十四回、二十四日三十五回、二十五日三十八回、二十六日四十三回、二十七日三十七回、二十八日二十九両日三十回、三十日十八回、三十一日十四回(何れも無感記録)と下り坂一方の弓状カーブを描いている。しかも、これら余震は七日朝の地震をも含み、すベて震央が本震より相当離れており従つて本震に引続き大きい地震が起きることは今のところ予知できない。
最近学界から種々研究発表されているようだが気象台としては今までの根拠に基き近く京都附近に大地震がおきるという如き論拠はどこにも見当らない。
なほ、南海地震の有感距離は一千キロに及び今までの最大のものであるが、震源地が地球の表面に近いほど有感距離は長くなる(一月十日)


第一回分八萬円
  きのう県へ伝達   県下震災者第二次配給


本社募集震災援護資金


関西地震の死者千六百  罹災の新宮に悪徳商人




製塩被害一千五百萬円


那賀郡の震災救援 一万九千戸 本県震災家屋


震災復興の儲け大将
 大工さんの日当三百円




火元は果してどこか
新宮市劫火の原因に不審
昭和二十三年七月一日印刷
昭和二十三年七月十五日発行 (発行部数一○○○部)




編集者 吉村守
発行所 同胞援護会 和歌山県支部


印刷所 株式会社 和歌山印刷所




和歌山県立図書館
 昭和 年 月 日