§1.緒言
昭和19年12月7日熊野灘沖合に発生した大地震は有感区域北は東北地方南は九州に迄及び,地震動によつて生じた倒潰家屋の分布1)は愛知,静岡を始めとして山梨,長野,福井,石川,岐阜,滋賀,三重,京都,奈良,和歌山,大阪,兵庫,徳島,香川の16府県下にまたがり総計20,000戸に達した,此の地震の震央は中央気象第2)の発表によればλ=137°E,φ=34°N,即ち尾鷲南東約70kmの沖合とせられてゐるが,正に此の地域は今より91年前の安政の大地震(1854年)更に140年前の宝永の大地震(1707)の震央と推定せられてゐる地域と略々一致してゐて,この東海道の沖合100〜200km,遠州灘と熊野灘との境するあたりは昔より累次にわたり大地震の発生を見た所にあたつてゐる。今回の大地震も宝永,安政の大地震には及ばないとしても,有感区域より推定すれば昭和8年3月3日の三陸地震にも比適すべき大地震であつて,若し此の地震の震央が陸上にあつたならば,それによつてもたらされた震害は到底今回の震害の比ではなかつたであらうが,震央が海岸を距ること50Km以上の沖合にあつたため廣範囲に亘る甚大なる震害を免れ得たことは不幸中の幸ひとすべきであらう,併し,このやうに海底に震央を有する大地震の発生は,多くは大規模な海底の地形変動を伴ひ,之によつて生じた津浪のため海岸地方には多大の損害を生ずることは幾多既往の例に見る所である。
今回の地震も亦大規模な津浪の発生を伴ひそれによつてもたらされた災害も亦甚大であつて筆者は主として之等津浪の発生した地域の踏査を行ひ津浪現象の調査を行つたのでここにその結果を報告する次第である。
§2.津浪来襲の地域
津浪による海水面の異常な昇降は東は伊豆半島下田から西は潮岬に迄至る全ての海岸地域に於て肉眼で明瞭に観察せ
られた。中でも志摩半島の南岸及び紀伊半島の東岸等に於ては津浪は暴威を逞ましくし甚大な災害をもたらしたのであつた。
之等津浪来襲地域の概略の状態は第1図に示されてゐる。図に太線で記入せられてゐる海岸は津浪により浸水家屋を生じた地域であり,海岸に記入せられてゐる数字は来襲した津浪の概略の高さを米突であらはしたものである。この図を一見して明らかな如く,津浪の高さに関しては3つの地域を区別して考へる
ことが出来る。第1の地域は志摩半島の北岸,伊勢灘及び渥美湾の沿岸でここは直接震央に面してゐない地域であり津浪の高さは極めて小さく海水面の上昇1mに及ばない所が多いのが見られる。第2の地域は遠州灘の沿岸でここは直接震央に面してはゐるが海岸が遠浅の砂濱で海岸地形は極て単調な線を画いてをり,此の海岸での津浪の高さも僅かに1m乃至2mに止つてゐるのが見られる。第3の地域として志摩半島の南岸から紀伊半島の東岸の海岸線に眼を注げば,ここでは津波の高さ,いたる所で6m乃至8m,1部では10mにも及んだ所のあるのが見られる。此の地域の海岸は震央に直面してをり且つ海岸線の凹凸は極めて複雑であつて三陸地方の沿岸を想起せしめるものがあり,典型的1なRias typeの海岸地形を形成してゐる。之等の沿岸地帯で津浪の水位が著るしく上昇したことの原因の大部分はこの海岸地形に帰せらるべきであることは三陸津浪の場合に実証せられた幾多の事実に徴しても明らかな事柄であらう。
§3.津浪の高さ
津浪が陸上に奔溢した場合,水面がどれだけの高さ迄上昇したかを知ることは津浪対策を樹立するために必要であるばかりでなく,津浪現象の本質を究明するためにも亦必要な資料となすべきものであるので,筆者は成る可く多くの海岸を踏査し実際にその高さを見出さうと努めた。併し限られた日数で全地域を踏査することは不可能であり,又之等津浪により大災害を受けた地域は交通極めて不便の所であることは海岸地形からも推察せられる所であつたので,筆者は幾つかの湾をえらびその場所については成る可く正確な値を見出さうと試みた。筆者の踏査が行はれたのは地震後約1ケ月以上も経過した後であつたが津浪の痕跡は所々に明瞭に印せられてゐて津浪の高さを測定するのにあたり疑問を生ずるやうなことはあまりなかつた。
i)三重県,三重県警察部の調べによる町村別の津浪の災害は第Ⅰ表に示された通りである。之等の町村の位置は第2〜5図に見られるごとく,各町村は1つ1つ独立した湾の奥に位してをり,第I表で惨害の程度の甚だしい所程大体に於て津浪の水位も高かつたことを示してゐるので,どの湾に於て津浪の水位が高かつたか大略の有様を知ることが出来る。之によれば錦,吉津,島津等は被害最も著るしく,全村の殆ど90%以上が破壊せられる惨状を呈したことを知ることが出来る。志摩半島南岸に位置する湾の水位の上昇量は第1図に記入せられてゐるやうに8〜10mに及んでゐる。
錦町.之等の地域の代表として錦町の災害図を掲げれば第2図のやうになる。錦町は「コ」の字型の湾の奥に位置してゐた部落で,海岸のすぐ近く迄山がせまり,山と海岸との間に横たはつてゐる幅100m足らずの帯状の低地に家屋が建並んで街をなしてゐた。
津浪は平均海水面上6mの高さに上り海岸近くで地上4〜5mの高さに達し山の麓迄海水が溢れた。このために極く山麓に近い小数の家屋は浸水程度で難を免かれ得たけれども,低地にあつた殆ど大部分の家屋は倒潰流失してしまつたのであつた。錦町の調べによる災害は第Ⅱ表に示される通りである。この表について特に此の町で気付かれることは死者の数が多いことである。第2図にも見るごとくこの町の背後の山は極めて峻しいために道路は皆海岸線に平行で,高い所へ上るのは町の西端で小川に沿つて北上するものが唯一つ作られてゐたにすぎない。従つて地震後津浪襲来の声に人々は競つてこの一本の道路をたよりに高地へのがれんとした。併し,数米の水深を以て背後から追迫つてきた津浪は人々の避難の終らない中に早くも到達して街に浸水し,町の西端今少しで北方の高地へ上れるといふ辺りで多数の避難者を水の底に虜にしたのであつた。錦町は安政の地震津浪のときも甚大な災害を蒙つてゐるのであり,今後も幾年かを経過した後に於ては再び津浪による災害は免るべくもないのであるから,復興にあたつては道路の方向,更に徹底すれば家屋建設の場所等について正当な考慮が払はれねばならないであらう。
島津村.3.5km位の細長い湾奥にある狭い海岸平野につくられた小部落であつたが海岸の平地に立つてゐた家屋は殆ど大部分流失,僅かに残つたものも倒潰,半潰の状態で惨害は極めて大きかつた。津浪の高さも錦町と略々同様と思はれる。
吉津村.地形は島津村と同様であり湾口が島津村の場合より廣く外洋に向つて開いてゐる。海岸平野の家屋は殆ど流失して,倒潰半潰となつた家屋は数軒も残らなかつた位である。錦,島津,吉津等同じやうな地形をもち同じやうに多数の流失,倒潰家屋を生じたのに対し特に錦町では多数の死者を生じたのは吉津,島津村では古老の言を守つて地震と同時に津浪を予想して予め高地に避難することを怠らなかつたからだとは云へ,錦町の道路の方向が前述の如く津浪の避難には極めて不都合な方向作られてゐたことも大きな原因の一つと考へねばならない。
二郷村・前記町村の場合と異り湾奥に位置してゐないため浪害は軽微である。湾奥の字名倉て流失家屋を生じたが元来住家僅少の所であるため数としては問題にならない。浪の高さは約3m足らずと思はれる。
長島町.二郷村と同一の湾の湾口に近い所に位置する町であり且つ湾に面した地域には高い石垣が築かれてゐて津浪は狭い口を通つて江の浦へはいり街へ浸水した。従つて浪の高さも高々3・5m乃至4mと推定せられるが元来街が低いために浸水家屋は100戸以上に達して損害は可なり大きい。
三野瀬村.直接に外洋に面した平坦な海岸線をもつ海岸にあるこの村では津浪の高さも3m位で被害もほとんどない。
三野瀬より尾鷲湾にいたる間の津浪の状態は第3図に示すごとくである。
尾鷲町.尾鷲湾奥に位置し人口稠密な市街をなしてゐたため津浪による被害も甚大であつた。地方事務所調べによる尾鷲町の災害は第Ⅲ表の如くである。尾鷲町の津浪浸入の有様は第4図に示された通りであり,図に記入せられた数字はその地点での津浪の高さを中等海水面から測つた高さである。県土木部尾鷲出張所職員の実見談によれば,地
震後略々10分を経た頃ずつと沖合の島のあたりで海が高くなつてゐるのが認められた,瞬く間に港の前面の防波堤を浪が超えて海面が1段高くなつたやうになり前面は白波をたてて巻き込みながら海岸へ向つて押しよせてきた。之等の波が未だ海岸へ到達するには200〜300mあると思つてゐる時海濱のカツターの小屋がピシヤピシヤと倒れた。気が
ついてみるとその時はすでに前波がきて海濱は浸水してゐた(この前波は潮が満ちてくるやうに静かに押してきて前面に白波が立たぬため水の増してゐるのに気がつかない)
第1図の波のとき防波堤の突端の燈台の中低い方のもの(高さ7m)は水中に没して見くなり高い方のものは上部の燈火の点く所のみ見えてゐた(丁度7m位の高さまで水につかつたこととなる)津浪は北川に沿つて上へ押しよせたがその上る速さは上へ逃げた人の走るのよりは少しく早い程度である。
筆者が測量を行つた結果によれば,津浪の高さは冷凍会社の岸壁のあたりで8m位であつたと思はれる。市街に奔入した水の高さはほぼ同一水平面にあつた如くで市街が西へ高くなつてゐる地勢であるため地表からの水深2mの線が流失倒壊家屋の限界線となつてゐる。唯北川の北方で倒壊家屋分布地域の限界線が異状に湾入してゐる所があるが之は湾内に碇泊してゐた100頓許りの発勧機船数隻が押上げてきて家屋に衝突し暴威を逞ましくしたためである。北川に沿つて浸入した浪は海岸から550m上流迄達してゐる千家山の南は人家点在する程度で主として平坦な砂濱及びそれに続く水田であり海岸での津浪の高さは明瞭に知るを得ない。中川及び矢ノ川に沿つて可なり奥まで浸入するのが見られた。
尾鷲湾に沿ふ各地点で測られた津浪の高さは第3図に見られるごとくである。高さは皆中等海水面からの高さである。之によれば湾口での津浪の高さは3m位であり次第に湾奥程高くなり最奥で特に高くなつたことが明らかに認められる。湾奥に近い天満浦での高さは精しく測量され,他の所よりは高く5m以上に達しほぼ尾鷲と同じ位である。
引木町.尾鷲湾の北引本湾の湾口に近く位してゐる引本町では津波の高さ2.5mにすぎず流失家屋皆無である。井土町長の言1鴨によれば被害は海岸地帯が数十坪海中に没した所があつたのみであり,之等の陥没した所は地震直後気がついて見たら二階家の屋根だけがわづかに水面に出てゐた由である。之に反し引本より5km距つた湾奥に位置する
字,矢口ては津波は8m近くの高さに昇り流失倒壊37戸海辺には何物も残らぬ程潰滅的な惨害を蒙つた。
尾鷲より南木本迄の津浪の状況は第5図に見られる通りである。
九鬼村,字九鬼,早田共に海面より2.5〜3mの石垣の上に人家建並んでゐるので被被害は比較的に軽微に終わった。
北輪内村及び南輪内村。輪内湾の北岸と南岸とに之等の村に属す部落が点々と散在してゐるのであるが各部落での津浪の高さは第5図に見られる如く,尾鷲湾の場含と異り場所により著るしく違ってゐる。之は各部落が輪内湾内に更に小湾を生じてその奥に位置してゐるため,小湾の大小深浅等による形状の影響により津浪の高さに差異を生じたものであらう。之等の中南輪内村字賀田で津浪の高さ最も高く7.1mに及び流失家屋151戸惨憺たる荒廃地と化し地震前の繁栄を想像することが出来ない。北輪内村字盛松に於いても津波は5.5mの高さに達し,殆ど部落の全部が流失する程の惨害を蒙つた。北輪内より木本迄の津浪による部落別の災害は第Ⅳ表に示されてゐる通りである。
荒坂村,二木島.津浪の高さ7.1mに及んだけれども住家の建並んでゐた所が比較的に高い所に位置してゐたため賀田のやうな惨害を被つてゐない。ここの村長の家の石段の所に前回安政津浪が達したと伝へられる記録があるが今回の津浪はそれより4〜5尺低い所迄しか上らなかつた。字甫母では3mの石垣を築いて海に接してゐるため津浪の高さは4.5mであつたが浸水程度で災害を免れてゐる。
新鹿村,字新鹿.新鹿湾奥で津浪の高さ8.4mに及び木本−尾鷲間を通じ最高の高さに達してゐる。新鹿の海岸では濱辺から200mばかり距つて高さ2m幅1m位の波止めの堤防が海岸線に平行して築かれ内側に家屋が建並んで街をなしてをり,それから50m後方に段丘状に人家が発達してゐたのであるが,第1回目の波が来襲した際には前面の波除けの堤防を超えて海水が浸入し,退浪の際造作の粗雑な納屋を流す程度で終つた。次いで第2回目の波が来襲したが之も大した事なく終つたが,第3回目に来襲した津浪の波高は極めて高く,少くとも6mを超えてゐたと推定せられ之により最前面に位置してゐた家は悉く浮出し,退浪の際に前面の堤防もろ共海中へ運び去られてしまつたのであつた。ここの波の高さは第5図に記入せられてゐる通り海面上略々6mに及び最奥では10mに達した所もあつた。この波の最高の所に近く安政津浪の高さの刻まれてゐる「津浪止め」と称する石があり此の石と比較すると今回の津浪は此の場所では安政のときより1.5m低かつたといひ得る。同じ湾内の字遊木では津浪の高さ新鹿より少しく低かつたとはいへ5.9mに達したが流失家屋はなく浸水家屋を生じたにすぎない,之は海岸のすぐ近くまで山が迫ってあるといふこの場所の地形にもよることながら一番低地にある家屋さへ石垣を築いて海面上4mの高地に構築せられてゐたためである。併し之等の家屋に於ても浸水1.9mに及び殆んど軒近く迄浸水した。
泊村.字大泊では津浪の高さ5.5m海岸低地の奥迄浸水したが,住家は多少高い所に建つてゐたため被害は僅少に終つた。字古泊でも波の高さ5.5mに達したが,殆ど4mに近い高い石垣が海岸に築かれてゐたため僅かに浸水した程度で災害は皆無に近い。
木本町.木本の海岸は外洋に面し全く単調な地形をもち,市街は石垣を築いて海岸より数米も高い所につくられてゐるので全然災害を受けてゐない。津浪の高さも明瞭には判明しないが3m位であらうと推察せられた。
ここより和歌山県新宮市迄の海岸は平坦な砂濱が連り津浪による被害は見られない。
津浪は砂濱へ押よせたのみで波の高さを知る痕跡もほとんど残つてゐなかつたが高々3m位の高さであつたらうと察せられる。
ⅱ)和歌山県、熊野川を超えて新宮市に至れば和歌山県にはいつたこととなる。和歌山県下の津浪による被害は第Ⅴ表に示されてゐる。
新宮市.熊野川が市内を貫流し,河口には巨大な砂州が発達してゐてその高さ略々3m津浪は漸く之を超えて,熊野川に沿つて朔上り河口より約4km上流の高岡迄達した程度であり人家に損害を与へるには至らなかつた。津浪来襲のときにあたり河口近くの川原にゐた2人の男が津浪の来襲を知り川上へ向つて川原を走つたが始め津浪の前面と少くとも1000mの間隔があつたがものの100m乃至200mも走らないうちに浪が追付いて2人共浪の中に巻込まれ1名は死に1名は重傷を負つたことが目撃せられた。
川原を走つたため人の走る速度は可なり遅かつたと考へられるのでここでの津浪の前進の速度は20m/s位であつたらうと思はれる。新宮市に於ては此の報文で問題としてゐる地域,即ち,志摩半島の南岸及び紀伊半島の東岸の地域の他の何れの地域にも見られなかつた地震による災害が極めて著るしく現れたのであつたが之については後に一括し
て述べることとする。
新宮市以南は海岸線再び屈曲に富み津浪による災害も亦従つて少くなかつた。ここより勝浦迄の津浪の高さは第6図に示されてゐる。図に見られるごとく新宮市より字久井村迄は津浪の高さもおほむね3m足らずで被害はなく僅かに浸水家屋を生じた程度である。
那智町,字那智及び天満の海岸は津浪により夥しい災害を蒙つた。那智湾の海岸には安政の津浪の後で造られたと伝へられる浪除けの堤防が砂濱の上2m位の高さでつくられてゐる。那智駅のあたりでは此堤防の高さは海面上略々3,5mであり浪は之を超えて駅に進入した。丁度此の時下り列車が停車中であつたが駅長の処置により旅客は既に背後
の川に避難した後であり又浪の高さもプラツトホームの上20cmに止つたため災害を被らなかつたのは幸であつた。那智駅での浪の高さは6mであつたこととなる,之等海岸の堤防を駅北方2ケ所で欠潰しながら乗越え更に鉄道線路を約1.5mの高さで乗越えた浪は駅の背後に展開してゐる平地へと奔入した。このあたりは駅より2m位低くなつてをり更に南へ次第に傾斜してゐたのでここに流入した水はそのまま南東の那智川の方ヘ流れ去つて行つた。水深はほぼ50〜60cmの程度であつたために流失家屋は生じてゐない。第7図は那智駅より50m背後の東西方向の道路に沿ふ家屋に印せられてゐた津浪の跡をsketchしたものである。之によれば海水は川の流れの如く水平面と略々10°位の傾をなして背後の低地に向つて一方的に流入して行つた様子がうかがはれる。一方那智川を朔上つた津浪は第6図に(a)と記した所迄達したことが認められた。古記録によれば安政の津浪のときには津浪は(b)と記した所迄さかのぼつたと伝へられてゐる。(b)は(a)よりも更に1000mの上流にあたり,高さの差は地図より推定すれば数m位であらうと思はれる。
字天満の部落に来襲してきた津浪についても略々同様のことがいへる。天満駅では駅長の詳しい観察が行はれたのでここにその談話をそのまま引用する。
13時35分に新宮方向に地鳴をきき地震を感じた。38分迄強震がつづいた。しばらくして駅から見て水平線と海岸との40%位手前の所で海が1m位高くなつてゐるのに気づき津浪の来襲を知つた。此の時は既に当天満駅を13時43分に発車した列車が那智駅構内に停車してゐた故津浪の来襲を気付いたのは46分であると思ふ。来襲してくる津浪の前面は白波が巻込むやうにして進んでくるやうに思つたがやがて海岸に上陸し浪の高さも2〜3mに上り駅の前面60m許りの所にある堤防(高さ3m)を1mの高さで乗越えた。之と殆ど同時に線路が浸水してゐた。次で堤防を2mの浪が越え,之で堤防3ケ所欠潰した。その直後堤防の上に植ゑてある松(高さ10m)の梢のみ波の上に現れてゐるのを認めた。そのときの家内の浸水1尺位であつたが間もなく大きな浪がグ一ツと上り大きな浪の壁がきたので避難した。
津浪来襲の時刻は,列車が丁度那智駅に到着した時ではなく,既に到着して那智駅で族客を全部避難させた後であるので36分よりは後,恐らくは5分位は経過してゐたであらうと思はれるので59分頃とするのが至当かも知れない。さうするとほぼ15分して津浪がきたこととなる。
天満部落の前面の海岸沿ひには那智川に沿つて2〜3mの高さの堤防が築かれその上には防浪の松の木が亭々とそびえてゐた。この堤防を2〜3ケ所で欠潰した津浪は背面の水田を浸し,鉄道線路を浮かせながら鉄道築堤を乗越え天満の部落へ奔入した。天満の部落は駅北方は台地をなしてをり、南は勝浦町へ向つて次第に低くなる地勢をなしてゐる。ここへ奔入してきた津浪は勝浦の方へ向つて流下して行つた。前記鉄道は天満駅より勝浦駅手前の踏切迄の凡そ1kmの間浪のために枕木諸共浮上したが,浪が退いたあとでは上記二点を両端としで弓成りになつて水田の中へ置き去られてゐた(第12図(2)及び(3))弧の頂点のあたりでは旧の位置から40〜50m位も距つてゐた。この状態より察しても他の湾で普通に見られるやうに退き浪が強かつた形跡は全く認めることは出来ない。又水田の中には大小の石等が津浪と共に搬入散布せられたが,その周囲に沈澱してゐる砂の並び具合を手掛りとして流水の方向を追跡することが出来た。その結果からも海水が流れて行つた跡が明らかであり上に述べた事柄を実証することが出来る。
勝浦町.第Ⅴ表に示されてゐるごとく和歌山県下で津浪により最も大きな災害を被つた。併しここの災害の生じた模様は他の場所の場合と全く異つてゐる。勝浦は勝浦湾奥に位した街であり地震後程経て湾内の水位増大して床上浸水の程度となつた。人々は驚いて背後の地域に逃れんとし,家を出んとして振り返つたとき,始めて津浪が天満部落の方からも濁流となつて滔々と押しよせてきてゐることに気付いたのであつた。この勝浦湾から上つてきた海水は地上1〜1.5mを浸した後直ちに退いたが天満の方より来た海水は既に浮上倒潰した家屋の解体材を浮べながらあたかも洪水による濁流の押寄せる如く流れ下つてきて通路に当つた家屋は浮遊物の衝突により極めて多く破潰せられるに至つた。第6図に記入せられてゐる数字は他の図面の場合と同様津浪の海面からの高さを示すものであるが,特に天満勝浦間で括弧の中にいれて示してある数字は地表からの津浪の水深を示すものである。図に見られるごとく,之等の海水の水深は地上1m乃至1.5mに過ぎないので,単に水嵩が増したのみであつたならば恐らくは流失倒潰家屋を生ずることはなかつたであらうと思はれる。このあたりで多数の倒潰家屋を生じたのは浮遊物の衝突による破壊力によるものと考へられる。従つて堅固なる建物の背後例へば勝浦駅南東の地域にあつた家屋は,堅固な駅の建物のため浮遊木材の流下が制止せられたため1.5m位の浸水は被ったが倒壊を免れてゐる。このやうな事からも上に述べた事実を証拠立てることが出来る。勝浦港内には多数の発動機船が■座してゐるのが見られたが津浪の高さは略々3m位であつたと思はれる。
太地町.太地湾奥の太地町でも(第8図)津浪による災害は可なりに著るしいものがあった。街の前面には向島があつて街との間に200〜300mの幅の海峡を距てて相対してゐる。津浪も向島を回り太地の海岸へ寄せてきた時の高さは2.5mであつたが海峡に侵入した浪は3〜3.5mとなり南側から入つた浪と北側から入つた浪とは街の北部森浦へ通ずる道のあたりで出会ひ津浪の高さ5mに及んでゐる。而もこの地域は平坦な250m×200m位の廣場となつてゐため浪が退く時に多数の家屋を流失せしめてゐる。之に反し此所より少しく南では海岸のすぐ近く迄山が迫りその山の麓に沿つて家屋が1列に並んでゐるあたりでも津浪の高さ3m,即ち,殆ど軒の高さ迄の浸水があつたにも拘はらず屋は流失をまぬがれてゐる。字森浦に於ても湾奥で3.5m即ち家屋は軒迄浸水してゐるが流失を免れてゐる。
下里町.字下里に於ては津浪の高さ3.5m街も海面上可なりの高い所に建つてゐたため町の東側の低い水田に浸水したのみで川に沿つて上つてきた津浪は街に溢水するに至らなかつた。之に反して字浦神では浦神湾内の水位が湾奥程著るしく上昇し第8図に見る如く7.5mにも達したので沿岸には流失家屋を生じた。併し幸ひにもこの沿岸には人家が小数であつたため被害家屋の数は小数に止つた。湾奥より1/3位の所浦神駅の対岸のあたりに小島があり国民学校が建つてゐて駅の正面から学校迄の間に人工の築堤がつくられ長さ80間幅員1間の道路が出来てゐた。国民学校長の談話によれば津浪来襲の有様は次のやうであつた。
地震が激しかつたので大部分の生徒は教室を飛び出した。全校生徒を校庭に集め津浪来るべしと注意を与へた。其時最後尾の男生徒3〜4人海を見に行き海水が20cm程退いたと報告した。併しあとで考へるとその報告は間違ひで波のしぶきにより海水面より上がぬれてゐたのを見過つたのであつたらうと考へられるけれども,当時はそこまでは思ひ到らず津浪来襲の前徴であるを判断して直ちに生徒を帰宅せしめることとした。1年から6年迄の150人の子供が幅員1間の道路を2列で走り去つて後1〜2分で津浪は既に道路に上るのが認められた。海がふくれ上るやうにして津浪の徴候を沖(湾入口近く)に見てよりもう直ちに海水が路に上つてゐた。地震後10分して津浪が来襲したと思はれる。道路は満潮面上5尺,津浪は3〜7尺の厚さで之を越えた。第1回の浪が退いたとき道路は既に浪にさらはれてなくなつてゐた。
浦神より南では津浪の高さは2m位に止り被害はほとんど認められない。
潮岬.潮岬での津浪の高さは僅に1.5〜2mで災害を及ぼす程に至らなかつた。併し津浪の来襲したことは海軍望楼の監視者により次のやうな観察が行はれた。
時刻 記事 備考
13時45分 地震 2分間継続
13時53分 津浪第1回来襲 この間で海水引く,海岸より20〜25m海岸の小屋
水につかつたが流れず,あまり大ならず
14時01分 津浪第2回来襲 中位
14時13分 津浪第3回来襲 此の時の退浪が大きく深さにして6m位,海岸より
40〜5りm干いた,桟橋の脚が見えた。
14時27分 津浪第4回来襲 最大水面上3m上る。
14時43分 津浪第5回来襲 小さい
15時19分 津浪第6回来襲 小さい
15時20分 地震
之によると津浪の高さ3m,発震時に10分の違ひがあるので時計が進んでゐたと考へれば津浪到達迄に約10分,地震が起つた時刻をあとで気付いて記したとすれは約20分を要したこととなる。
§4.伊勢湾及び遠洲灘等の沿岸で認められた津浪
之等の地域での津浪の高さは極めて小さく,陸上に溢れた所も殆どない。従つて津浪の来襲したことは僅かに検潮儀の記録又は特別な場合に認められたにすぎない。筆者の知り得た各場所での津波の高さは次の表に示す如くである。
§5.津浪による災害と地形の関係
以上述べたごとく津浪の来襲の模様は湾の形に支配せられること極めて大であり津浪の高さと湾の形との関係について昭和8年3月3日の三陸津浪のときに観察せられた様々な性質が今回の津浪の場合にも亦明瞭に見られたのは寧ろ当然のことといふべきであらう。而して家屋が流失するのは津浪の高さに関係することは勿論であるが,それと同時に海水流動の速度が重大な因子となることが充分にうかがはれた。例えば新鹿,賀田太地等流失家屋を生じた所は可なりの廣さのところに海水が溢れた所に限られてゐる。之は退浪に際し海水の流動速度が家屋を破壊流失させるに足る充分な大きさを持つためには或る廣さ以上の所に海水が湛へられることが必要であるからである。又勝浦の場合等に於ては勝浦の家屋を流失せしめた海水の流れの水深は多く見積つても道路の上高々1.5〜1.8mに過ぎなかつたと推定するの足る充分な材料があるにも拘はらず前に述べたやうな惨害を生ぜしめたのは海水が川のやうになつてその表面には天満から運んできた幾多の浮遊物を浮かべたまま而も可なりの流速を以て移動したためであると考へられる。之に反して新鹿村遊木,森鹿及び太地町の一部等に見られた如く水深2mを超えて軒先迄浸水する所となつても地形のため海水の急速な流動が止められた地域では家屋は流失を免れてゐるのが見られる。
§6.震害
津浪による災害が甚大であつた地域での震害の状況について簡単に1項を加へることとする。既に述べた如く志摩半島,紀伊半島沿岸は多くは山が海岸の間近迄迫つてゐて,細泥の沈積により冲積層が厚く堆積して出来てゐると思はれるやうな海岸平野が発達してゐる所を見ない。云はばどこでも地盤は極めて強固であると考へ得られる。従つて筆者が踏査を行つた大多数の場所に於て震害は極めて僅少であつて殆ど数へ上げるに困難な位である。新宮市の震害を除けば,倒潰家屋1軒もなく,屋根の一部が崩れ,又は壁に亀裂を生じた程度のもの2,3が見られたにすぎない。この事は略々同じ位の震央距離にある静岡県清水市,袋井町附近又は愛知県名古屋市南部等と較べて著るしい対象をなすものである。唯新宮市に於ては津浪による災害は殆ど皆無であつたのに反して次表のやうな災害を生じてゐる。之等の震害家屋の分布を調べるに街の西部にある千穂山の麓から50m程距つて山麓に平行に走つてゐる道路の両側の家屋に震害が見られることに気附かれる。現在の熊野川はここより西をぼぼこの通りと平行しながら流れてゐるが之等震害の甚だしかつた道路のあたりは古い河筋にあたつてゐるのであるかも知れない。いづれにせよ新宮市は熊野川の河口三角州の上に発達した街であり,このやうな洪積層の上にたつてゐる街は紀伊半島の沿岸ではただ1つこの新宮市のみであるので,震害を蒙つたのも亦新宮市唯一つであつたとしてもその理由の全部は此所の地盤の状態に基因すると考へれば少しも異とするに当らない。新宮市よりは震央距離寧ろ大である袋井町等の震害と較べれば3)ここの震害も甚だしく軽微であるといふことも出来るであらう。袋井町の地盤は太田川の細泥による沖積層よりなるに反し新宮市の地盤をつくつてゐる土砂は熊野川の急流が運んできた粗い粒よりなるため震害の程度も異つてきたものと考へられる。
紀伊半島,志摩半島沿岸地域の諸町村の中唯新宮市のみが地震動によつて著るしい震害を被つてゐる所から東南海地震が誘因となつて丁度同時刻頃別な地震が熊野川河口附近に発生したのではないかとの推定が一部に唱へられたやうであるが,筆者の考へによれば震害分布の特異性から別な地震の発生を推定しようとすることは全くあやまりであり地盤と震害との関係について深い考慮が払はれねばならないと云ひ得ると思はれる。
志摩,紀伊両半島の湾奥に僅に発達してゐる小平野は急峻な山が海に迫つてゐるので極めて浅い砂の層をもつに過ぎず厚い沖積層の上に立つ新宮市の地盤に較べ全く比較にならぬ程堅固な地盤をもつであらうので,それら小海岸平野にある諸町村に較ベ新宮市にのみ特に著るしく震害が生じたといふ事に対しては少しも異とすべき事柄はないと断じても全く差支へを生じないと考へられる。
§7.地殻変動
筆者が踏査を行った地域の海岸では地震の前と後で水位の変化が認められると告げられることが屡々であつた。今回のやうな大地震の場合には地震に伴つて廣範囲の地殻変動の生ずべきことは予想せられる所であり地殻変動の見られた範囲と変動量とを知ることは津浪の発生とも密接に関係するので,集められた資料を一括して示せば第Ⅷ表のやうになる。
之等の変動量を現はす数字の中充分に信頼するに足るものは松坂の検潮儀記録より得られた沈下量40cmといふ数字だけである。而して検潮塔の建設の有様等から見て検潮儀の据ゑられてゐた場所でsettlingのやうなものがあつたとは考へられないので此の数字は地盤の沈下といふ一般的現象をあらはすものと考へられる。ここから鳥羽の海岸で満潮時の水位から数十糎の沈下が報告せられてゐるが30〜40cmの沈下があつたことは略々確実であらうと思はれる。紀伊半島勝浦附近でも少くとも20〜30cmの沈下があつたものと思はれる。潮岬では先の安政地震の場合には1m以上の隆起が生じたと推定せられてゐるけれども今回の地震では,少くとも隆起現象は認められなかつたといふことが出来るであらう。寧ろ幾分沈下したのではないかと思はれる。
渥美湾沿岸には所々に検潮所があるので,若し数十糎に及ぶ変動が起れば検潮儀記録から変動量を求める
ことが出来るであらうと考へられたので西浦の記録について地震の前後10日間の潮位の25時間平均をとり潮汐の影響をなるべく除いた結果を図示すれば第9図のやうになる。此の図を見ても地震に伴つて20〜30cm以上の昇降の現象がこの海岸で生じたとは考へ難いやうである。西浦のみでなく師崎,福江等に於ても検潮儀の良好な記録が得られてをり(第11図)いづれの記録にも地震動によるmarkも同時に記入せられてゐるが,例へば松坂の記録に見られる如く,若し地殻変動が地震発生の直後に生ずるものであるとすればそのやうな意味での地殻変動は渥美湾の沿岸では全く起らなかつたといふことが出来る。大体に於てこのあたりでは地殻変動はほとんど生じなかつたと推定せらるべきであらうと思はれる。
遠州灘の沿岸では海岸の隆起が認められたことが報告せられた所もあるが不明瞭であつて確認し難い。
いづれにせよ今回の地震に伴つて生じた地殻変動は若しあつたとしても陸地の部分での変動量はあまり大きくはないため肉眼で認められる所では甚だ不正確であることを免れない。東海道及び紀伊半島の沿岸に沿ふ大規模な精密水準測量が実施せられ地殼変動の全貌が明らかにせられることを希望する次第である。
§8.浪源の推定
多くの検潮所に於て記録された津浪の記録が第11図1〜14に示されてゐる。之等は各県庁の土木部,中央気象台及び其他の所の御好意により写しが与ヘられたものであつて,夫々当局の方々に対して深く感謝するものである。元来検潮儀の記録に記入せられてゐる時刻及び記録円筒の回転の一様性は充分に正確であると期待することは一般には困難であり,従つて検潮記録から津浪の発現時刻を決定する場合にも4〜5分の誤差を伴ふことは避けられないやうである。従つて地震後幾何の時間を経て津浪が到達したかを定める際にも此の程度の誤差を伴ふものである。三陸津浪の場合の如く津浪の到達する迄に少くとも40〜50分を要した場合には,3〜4分の誤差は必ずしもあまり大きな誤差とはならないかも知れないが,此回の場合の如く僅かに10〜20分位の所もある場合には数分の誤差が存在しては殆ど議論の材料とすることが出来なくなる。併し幸ひにも今回の地震は三陸地震の場合に比較すれば震央が陸地に近かつた為に幾つかの検潮儀の記録には地震動によるマークも同時に記録せられたものがあり従つて地震発生より津浪到達迄の時間は可なり正確に求めることが出来た。求められた値は第Ⅸ表(1)〜(5)に示された通りである。此の他海岸の数ケの地点では,測候所,学校,鉄道等の人たの注意深い観察により,又は当時設置せられてゐた軍関係の海岸監視哨の人々による監視等により津浪到達の時刻を相当正確に知ることの出来た場所がある。之等から津浪が海岸に到達する迄に要した時間を推定すれば第Ⅸ表(6)〜(11)のやうになる。此の値は検潮儀記録より求められた値に較べれば精度は劣るであらうが,それでも相当に信用するに値ひする数値を与ヘてゐると考ヘ得るであらう。
今仮にこの表に挙げた各地点を夫々出発点として,地震発生と同時に津浪と同じ性質を有する長波がここから沖へ向つて進んで行つたとする時,夫々の観測点について津浪が到着する迄に要したと等しい時間が経過した瞬間に各観測点を出発した津浪が到達してゐる波面を求めることは出来る。此のやうにして求められた仮想の波面は第10図に夫々の地点に対応する記号を附して短い曲線で示されてゐる。之等の波面の位置を算出するにあたり第1に問題となるのは津浪の進行速度であり,ことに検潮儀の設置せられてゐる地点の近くの水深の浅い海を伝播する時の速度分布が如何様であるかといふことである。併し之等津浪の速度の詳細な吟味は後の機会に論ずる事として,ここでは単に津浪の速度vはv=√gh(弦には海の深さ)できまるものと考へ海図から各場所々々の深さhを求めて速度を計算した。このvを用ひて,第10図の波面A,B,‥,Fが画かれたのであるから,今之等の波面の包絡線を求めればそこから津浪が出発したと考へられる地域の境界線が得られる。この線は第10図に破線を以て画かれてゐる如くほぼ一の円となる。此の円で囲まれる地域は直径略々200kmの拡がりをもつたものとなるが,津浪の全勢力がこの円に囲まれる全地域から送り出されたものかどうかについては俄かに結論を導くわけには行かずその意味からは之を浪源と呼ぶことは出来ない。併しながらこの円は少くともこの地域の周辺から津浪が出発したとすれば夫々の観測点に到達する迄に要すろ時間は観測された値と略々一致するのであるから,津浪を送り出したと考へられる地域の周辺を界するものであると考へることは出来る訳である。そのやうな意味で仮りにこの円で囲まれる地域を浪源と呼ぶこととする。浪源の大きさは三陸地震について宮部博土4)が求められた場合には直径600kmの地域となつてをり,今回のは之にくらべれば可なりに小さいといひ得る。而して今回の津浪の週期について各観測点で観測せられた値は第Ⅹ表の如くであり,この中和歌山の検潮儀は津浪の始まりの時は時計が停止たため第1波の週期不明,潮岬は目測によるものであるので除外し検潮儀の記録より第1波の週期を求めれば30分となる。浪源の附近での海の深さを大略3000mと推定すれば浪源附での波長LはL≒300kmとなり略々浪源の大きさと同等となる。併しながら図に見られる如く,此の大きさの浪源をもつてゐたと考へることは,三陸津浪の場合のやうに沖合遙かに震央をもつ地震津浪の場合には大した不都合を生じないけ
れども,今回の如く比較的に陸地に近い所に起つた地震の場合になると少しく考へ方に無理を生じるやうである。併し概略に於て浪源の中心はほぼこの円の中心であると推察して過りでないと考へられ,又海底に地殼変動が生じて津浪が発生した地域の中心は略々震央と一致すると考へることが許されるとすれば之から震央の位置を推定することも
出来るであらう。図から求められる浪源の中心はλ=137.1°E,ψ=33.7°Nとなつてゐる。
終りに此の調査をなすに当り種々便宜を給与せられた関係当局の各位に対し深甚の謝意を表す次第である。又戦時中之等の研究をなす事を許し筆者を激励せられた地震研究所長津屋教授に厚く感謝する次第である。
4.The Tunami the Earthquake Sea Waves, that Accompanied the Great Earthquake of Dec. 7, 1944. By Syun'itiro OMOTE,Earthquake Research Institute.
1). A grate earthquake took place on December 7,1944, the epicenter of which was announced by the Central Meteorological Observatory to be at λ=143°E, φ=34°N, in the Kumano-nada, a long way off the coast of Mie Prefecture.
With this erathquake a violet tunami or earthquake sea wave was generated, and its effect was noticed in unusually high tides that occurred as far as Simoda harbour in the east and thd cape of Siwonom'saki in the west. General idea of the heights of water at the occurrence of the tunami will be obtained from Fig.1, in which it is apparent that, along the coasts of the Ise and the Atumi Bays that do not directly face the open sea, the heights of the tunami water amounted to only two meters or so. Along the coast of the Sea of Ensyu-nada too, the heights were quite insignificant, owing to the monotonous contour of the coast. Along the coast of Sima and Kii Peninsulas, on the other hand, the tunami swept with the heights of over eight meters, causing extensive damages to the coastal regions. The coast of these districts is highly indepented, forming a typical topography of the Rias coast, and it can safely be said that the unusual heights of the tunami waves along this coast were largely due to this circumastance.
The details of the height of the tunami waters with respect to the individual villages inspected by the author are shown in Fig.2〜5. As we see in these figures, in such bays as Owase, Atasika, Nisiki and Yosizu that are open to the outer ocean, the tunami water rose to an enormous height. Especially the damages done to the village on Nisiki and Yosizu Bays were such that almost 90% of their dwelling houses had been swept away.
2). The disturbance of the sea waters caused by the tunami left goot recors at various mareograph stations. Such records collected by the author are reproduced in Fig. 11. Among these mareograms, those four that were obtained by the stasions that happened to be near the epicenter recorded clear by the biginning of the tunami as well as the disturbance of waters due to the earthquake motions. So it was easy to know from these mareograms the length of time that had elapsed between the occurrence of the earthquake and the arrival of the tunami at the station. Moreover, even in some stations where mareographs had not been installed, thanks to the watchfulness of the observers, this lapse of time had been measured.
From the mareographic records or from the data offerd by the chful observers we were able to know the time needed by tunami waves to reach the places denoted A,B,…,F in Fig.10. Then, taking each station as an imaginary wave-source, and imagining that the tunami waves start from this point into the offing, we obtain a curve representing the imaginary wavefront after the la se of time that is equal to the observed travel time needed by the acutual waves to reach each station. These curves are shownby small
curves denoted as A,B,…,F in Fig.10. The enveloping circle to these curves is shown by a dotted line in Fig.10, and has a diameter of ab ut 300km. It will be a problem for further discussion whether or not the area that is enclosed by the dotted line would represent the true boundary of the origin of the disturbance from which the tunami started. If we take the velocity V of the tunami to be V = √gh, where is the depth of the ocean and has the value of s me, 3000 meters, the wave length of the tunami wave having the period of 30 minutes will be calculated at 300 km, which is of nearly the same value as the liner dimension of the area of the source of the tunami
震研彙報 第二十四号 図版 表

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