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写真

名古屋市港区

名古屋市内ニ於テ最モ被害ノ大ナリシ港区ノ一部ハ一般ニ地盤ノ軟弱ナル地域ニシテ地盤ノ不同ナル沈下、亀裂ヲ生ジ家屋倒潰セルモノ多シ(岡技師,片山技術員撮影)

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写真 港区港本町  住家ノ倒壊
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写真 港区幸町 住家ノ沈下状況
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写真 港本町 二階家ノ倒潰
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写真 港区西大手 道路沈下
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写真 幸町  沈下セル家屋ノ床下部分

尾鷲町、津市、桑名市

尾鷲町ハ地震被害トシテハ比較的軽微ナリシモ津浪ニヨリ大ナル被害ヲ受ケタリ(岡技師,片山技術員撮影)

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写真 尾鷲町  津浪被害地域全望
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写真 尾鷲港ニ碇泊セル船舶ハ津浪ノ爲陸上ニ押シ上ゲラレ家屋倒壊ノ一因トナレリ
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写真 津浪被害状況(津浪ノ水勢ニテ腰部ヲ破壊セラレ倒潰セル家屋)
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写真 津浪被害状況 一〇〇瓲級ノ船、海岸ヨリ約一五〇米ノ陸上ニ擱坐ス
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写真 津市舊岩田橋ノ崩壊
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写真 桑名市 吉之丸橋ノ崩壊
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写真 津市 神社石燈籠ノ轉倒
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写真 桑名市 神社境内ノ石燈籠ノ轉倒
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写真 桑名市外 揖斐川堤防崩壊
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写真 桑名市外 同亀裂ノ大サ最大ナルモノハ幅約五〇糎深サ約三米ニ達ス寫眞人ノ足ハ割目ノ底ニ達セズ
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写真 桑名市外 揖斐川堤防ノ亀裂
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写真 桑名市外 同堤防ニ続ケル田ノ亀裂
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写真 元町北端ニ在リシ百貨店丁字屋ノ崩壊 (四囲ノ家相対的ニ建全)
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写真 本町五丁目奈良林材会社事務所煉瓦建ノ破壊
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写真 元町南部波状的家屋倒壊ノ模様

半田市、他

半田市ニ於テ被害ノ大ナリシ地域ハ半田港ニ流出スル二本ノ河川ニ挾マレタル三角洲ノ内ニシテ従ツテ地盤ノ軟弱ナルニ原因スルモノト認メラル(岡技師,片山技術員撮影)

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写真 半田市山形新田  二階家ノ倒潰ト火見櫓ノ屈曲
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写真 山形新田被害状況
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写真 山形新田被害状況(同右)
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写真 河畔ノ倉庫ニ於ケル被害
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写真 半田市街(同ジ半田市ニテモ地盤ニヨリ家屋ニ被害ナキヲ示ス)
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写真 本町五丁目張リボテ式外装ノ破損
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写真 浦森---太地町間ノ橋梁流夫橋桁流失橋端破損目下修理中
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写真 大地町鯨工場附近ニ上陸シタ約八○噸ノ汽船
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写真 浦神駅前ノ小学校ヲ有スル小島ヘノ連絡道路津波デ欠壊
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写真 同上 A點ヨリ眺メシモノ岩塊其ノ他湾上方向ヘ流出セシニ注意
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写真 浦津駅構内監視所ノ浮流
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写真 那智港南側ノ模様(那智町浜ノ宮海浜ヨリ遠望)
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写真 那智駅直脊ニ在ル「山口熊藏君頌徳碑」倒レズ岩塊基盤破壊セシハ昭和十九年十月七日ノ暴風雨ノ波浪ニ據ル

地震調査私見 気象技監 藤原咲平

昭和十九年十二月七日 静岡、愛知、三重三県を中心として大地震起り被害大なり。殊に軍国重大なる時機に於て汽車不通を生じ、輸送力に対する影響甚大なると、各種軍需工場の破壊を伴ひ生産力上の障害大なる等より見て、其れ等に対する各當局の参考とすると共に将来の見透し及地震学上の研究に資せんが爲め、運輸通信大臣の鉄道被害御視察に随行して十二月九日十八時四十分東京駅発同夜静岡市一泊十日静岡より名古屋迄の沿線を視察し、同地に於ける吉野長官の地震関係懇談會に出席し十一日七時東京に歸着せり。その間視察調査せし所及愚見を綴りて以て報告す。

1. 静岡測候区内(静岡県富士郡以西大井川迄)状況

本測候区に於ては被害は一般に軽微なるも只清水港に於ては港湾施設其の他に若干著被害の稍著しきものあり。此理由は人工営造物の破壊し易きと及土地の他に比して軟弱なるとに依るものゝ如し。静岡測候所に於ける地震観測は本間寧技師の報文に示せるが如く、本震の初動方向は南々西の下動、震度は○にして余震の減衰は適度なり。

2. 浜松測候区内(大井川以西静岡県界迄)状況

東海道本線沿線に於ては掛川袋井間線路の撹曲沈下個所あり。附近民家中脆弱なるものの倒潰せるものあり。袋井附近被害稍大、同所岩田間に於て線路沈下約八米位汽車転覆、橋梁より墜落等の事故を生じ沿線民家被害あり。然れども附近に地震に依る本来の地變を見受けず。岩田以西は更に被害を増す。天龍川鉄橋の被害を見るに関東大震災當時に於けるが如き橋脚の沈下又は扛上等に見る地變的被害は認められず、被害は鉄橋の巨大なる、自己慣性により北方への衝撃に破壊面を生じ面に沿ひて上部が北方に數十糎移動したるを主なる破壊とし其他是に伴ふ竪裂及斜裂を生じあるを見る。此復舊は恐らく容易ならず、寧ろ複舊を企圖せず、此後補強固化する策あるべし。天龍川驛に於て上屋駅破壊建物傾く、鉄道沿線の中最大震度なりしが如し。他駅にては是れ程の被害なし、夫れより新井駅に至る間は日本樂器、鈴木織機等の工場に部分的破壊多きを見る。新井駅にはコンクリート床に亀裂あり、舞坂附近工場の被害大なり。舞坂に於て津浪と云ふ程のものなかりし由、辨天島より西方の国道低地に盛土して築造したる部分に道路に平行に亀裂あり。鷲津駅より西方に於て線路の沈下約十米に及ぶものあり。新生原駅の東方大盛土による線路上に於て土砂北側に崩壊約100米の田地を埋め盡し上り線宙に浮く。軍、警防團、鉄道工員等の協力日夜兼行して盛に復舊工事中なり。鈴木光学兵器の煉瓦、煙筒頂上に近く折損す。右鉄道被害の外其南方海岸沿ひには幾分被害大なりと想像せらる。浜松測候所は小破損あるに止る。所内も略被害なし。同所に於ける余震回數は本間寧技師報文第四圖を参照せられたし。

3. 名古屋測候区内(愛知県全部)状況

本測候区に於ては鉄道沿線の被害は殆んど顯著なるものなし。只苅谷駅附近民家に多少認められる程度なり。尤も調査すれば名古屋市内に於ても其他に於ても多少の被害はあり尚知多握美兩半島等に於ては被害大なる見込なり。名古屋地方気象台に於けるウィーへルト式地震計記象紙は本間正作技師の報文中にあるを以て参照せられたし。

4. 所感

右等及中央気象台に於て既に調査せし所より考へるに震源は遠州灘と熊野灘との境目附近と見るべきが如く三重県の沿岸に津浪ありたるは特に港湾の形状等に関係あるものと考へられる。又本地震の発震時刻、初動方向等の分布極めて複雑なる點より考ふるに或は二重地震ならざりしやの疑あり。又主震動の方向は前記踏査せる地方に於ては南北殊に南より北に向ふもの最大なりしが如く建物等の被害も此の方向に於てするもの多し、更に又陸上に地變の見るべきもの無く、被害は寧ろ構造物に限らるる點より見るに上記地方は既に震央に遠く震動は大振幅の緩動にして週期稍長きものなりしが如く天龍川鉄橋の如く重量大なるものに於て其慣性による破壊を逞くするを見る、又餘震分布に見たる茲數日の間に被害を伴ふ程度の大なる餘震は起らざるが如し。又本地震は安政元年十一月四日の東海道大地震に似たるも其震度大なる地域が四国を含む點より見て、或は既に安政地震に於ける十一月五日の南海道大地震に相當する地下不安は解除せられたりと見得るやとも考へらるるも尚此の點は精査するに非ざれば決定し難し。兎も角近年本邦附近に於て地震火山勢力の搴ュしある趨勢は之を察するに難からず、既に本年二月十日に三宅島附近其他の局部地震に関聯して警告し置きたる所なるが最近に於ても栗駒岳附近、月山附近、伊豆大島附近等に於て頻々たる地震勢力の発現を見るを以て、尚今後に於ても大震の発生に対し警戒を要す。又大正十二年九月一日の関東大震災の時には同十三年一月十五日丹澤山附近の強震あり、又安政地震の際は翌年の安政二年十月二日に於て江戸大地震あり。是等は總て外側地震帯に沿ふ大震に隨伴する枝地震帯に於ける小区域強震なるに依り此種の強震に対しても注意を缺くべからず。

5. 結 論

(1) 本地震は外側地震帯上遠州灘と熊野灘との境目附近に発生したる大地震なり。
(2) 震動週期稍長目にして陸上に於て建造物特に慣性大なるものに於ける被害顯著なり。
(3) 海底に起りたる浅層地震なるに依り津浪を伴ひたり。
(4) 餘震の発生は今の所順調なるに依り当分不安なきが如きも外側地震帯に沿ふ枝地震帯例ヘば
江戸川地震帯、姉川地震帯、富士火山帯等々の如きものの活動に対しては当局者は充分注意するを要す。

昭和19年12月7日の東南海大地震に就て 本間 寧

緒言。

昭和19年12月7日13時36分頃に遠州灘及び熊野灘の沿岸は近来稀な大規模地震に襲れて、相当な被害を生じた。特に熊野灘沿岸では発震後10分乃至15分して顯著な津波に見舞れ、同方面は其の爲に一層の被害を受けた。筆者は全国各測候所よりの驗測結果の報告に基づき概略の調査を行ひ得たので其の大要を報告する。但し細部に亘つては各地で得られた地震気象紙の精細な調査に基づかねば解らぬ事は言ふ迄も無い。

震央。

初期微動時間、初動方向、P波発震時、初動分布、震度分布、津波等よりして第一近似として震央は東径137.°0、北緯34.°Oと定められた。志摩半島南々東約20粁沖の地點である。斷る迄無い事であるがかゝる大地震を生ずるエネルギーが此の一點に凝集して居たと云ふのではない。エネルギーが集積した場所、即ち震源域は相当に大きなものである事は論をまたない。上述の點は云ゞ波の始発點とも云ふべきものである。震源の深さば極めて浅く十数粁であらうと考へられる。

震央に関する一、ニの疑義。

藤原気象技監の報文中にも記されて居るが、今回の大地震の震源は一個でなく、略々同時刻に他の處からも発震して居るのではないかと云ふ疑ひがある。
特に尾鷲測候所のウイーヘルト地震計の初動並びに強震計より測定せる初期微動時間より見れば紀州新宮市附近に一個の震源がある事も考へられ又浜松測候所のウィーへルト地震計の気象紙の寫し(本間正作技師報文参照)特に其のS波の初動等より見て他の震源が存在する疑ひがある。但し此等を決定する爲には各地で得られた地震記象紙の綿密なる調査による他は無いので、此處では單に
疑間を提出するに止めて置く。

震度分布。

等震度曲線は第一図に示した様に大體に於て震央の左右に対稱に且つ本州の島弧に沿ふて延びて居る閉曲線である。此の様な傾向は今迄の大地震でも屡々認められた處である。1)各地の震度は他の材料と共に別に表示してある。

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第1図 震度分布

異常震域。

震度分布図を一見すれば解る事であるが、處々に震度が異常に大きい處がある事に気が付く。これらは異常震域2)と呼ぶべきものであつて、深い地震では普通に見られる現象である。極く浅い地震の場合にも例へば昭和16年11月19日の日向灘地震の際に人吉に於て其の顯著な實例が見られて居る。3)今回異常震域で、僅少ながらも被害のあつた場所としては敦賀市、福井市、甲府市、諏訪市を挙げる事が出来る。例ヘば敦賀市で堤防に亀裂を生じたり又老朽建築物の倒潰が見られたりして居る。又諏訪市では全潰13戸、半潰49戸の被害を生じて居る。此等に就ては再説する。

初動分布。

第二図にP波初動り押し、引きの分布を示した。但し繁雑をいとうて初動方向は掲げなかつた。図中黒丸は押し、白丸は引きを示す。猶上下動の観測のない處でも、水平動の観測が明瞭なものは、それによつて押し、引きを判定した。図から解る様に押し引きの分布は複雑な形をして居る。即ち洲本附近を通り震央を中心とする半径約190粁の圓と同じく震央を中心とし名古屋附近を通る半径約120粁の圓及び中部以東を二分する様な一本の直線で境された内側は引を、外側(関西、四国、九州方面)は押しに成つて居る。これは明かに地下構造の不連続によるものであつて、不連続層の影響を示すものと考へられる。従つて此の境界は轉向圓と考へられる。水上博士は嘗て不連続層が初動分布に與へる影響に就いて種々な場合を発震機巧と共に論ぜられた。今回の地震は同博士の所謂Z-型の特殊な場合であり、従つて発震機巧としては圓錐型で、圓錐の軸は鉛直と或る角度を成し、圓錐の内部は押しであると想像される。若し然りとすれば、震央を圍む或る楕圓の内部が押しになる筈であるが、此の部分は丁度海中で観測が無い事が残念である。轉向圓が二種類表れて居る事は甚だ興味深い。
猶此の初動分布からしても震源は不連続面より上部にある事が明かであり、従つて浅い地震であると云ふ事が出来る。

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第2図 初動分布図

走時。

P波の走時曲線を第三図に示す。初動分布の特異性はP波の走時に影響を及ぼすであらうとは容易に想像される處であるが實際に走時曲線を畫いて見るとその状態がはつきりと解る。即ち関東方面の各點が乘る一本の直線と中国、九州方面の各點が乘る今一本の直線とがはつきりと区別され、然も前者は其の傾きから地震波の速度が約6.0粁/秒、後者は遙かに早く約7・4粁/秒となる。これ等は今迄の知れて居る事柄に比較するに関東方面の地震波の速度はP*層の速度に相当し、7.4粁/秒と云ふ速度は普通のP波の速さとなる。猶此等の外にP波の速度が約4.1粁/秒と判斷せられる走時曲線が一本引れる。これは更に上層に速度の一層遅い層のある事を示して居る。此の層を\overline{P}層と考へる爲には速度が少しく小さ過ぎる様である。

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第3図 P波走時曲線

規模。

此の地震の規模の大要を知る爲には有感半径や、震度の距離による減衰の状態を知る事が大切である。震度分布図から其等を測定して見ると、有感半径は620粁、震度Vの区域は190粁、IVは320粁、IIIは500粁となる。関東震災では有感半径は650粁で略々相等しいが、Vの区域は170粁、IVは270粁、IIIは380粁であつて今回の方が稍大であると云へる。以上を綜合するに今回の地震の規模は大體関東震災と同様或は稍大きいと考へられる。従つて其のエネルギーは大體7×10^22エルグ位と考へられる。

震動状況。

各地よりの報告によれば、震動は何處でも緩かであつたらしく、性質は何れも緩又は稍急と報告せられて居り(表参照)、区内観測所の報告を入れても性質急を感じた處は數箇所しか無い。従つて被害にも此状況がよく現れて居り、倒潰家屋の割に死者が少なかつた事は不幸中の幸であつた。内務省警保局の12月10日14時現在の調査から算出するに倒潰佳家と死者との比は右表の如くである。これを見ると和歌山三重が高率であるが他は夫程高くない。陸上に震源を有する大地震では此の比はずつと高く10〜5戸に死者1名の割である。土地によつては1軒に1人と云ふ事さへあつた。

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倒潰佳家と死者との比 各地報告

津浪。

既述の如く今回の大地震は東は銚子から、西は土佐清水に至る廣い範囲に津波を引き起した。此の精細は各地に出張せられた方々の報告にゆづるとするが、海図の上から極めて大雑把に海の深さをh米を測つて速度=√gh(gは重力の加速度)から津浪の到着時刻を算出するに地震から定めた震央位置で大體話しが合ふ様である。其の他津浪が志摩半島や其の他紀伊半島東岸(勝浦大地等)で大きい事も現在の震央位置で説明され、又津浪の押し引きの状態は地震初動の押し引きから推定される事實を裏書きする様である。

前震及餘震。

由来此の方面は有名な深発地震帯で、然も今回の地震は昭和4年6月3日に起つた深発地震の震源の大體眞上に震源が存在する事も興味を惹く。但し最近此の方面から遠州灘にかけては注目すべき浅い地震は殆と無い。即ち前震的なものは殆と認められ無い。たゞその前月11月10日に橿原では初期微動時間が約11秒程度の地震を観測して居る。一體に大地震の餘震が相当離れた或る土地で敏感に感ぜられると云ふ事があるので(井上博士が18年9月10日の鳥取地震に際して気が付れた事である—未発表—-、同様の考へ方をすれば前震もある特別な場所で敏感に現れる事があるのかも知れない。上述の橿原で観測された地震を直ちに前震であると決める譯には行かぬが参考の爲に記して置く。
餘震の減衰状況は第4図に毎六時間毎に御前崎、静岡、浜松の各測候所で観測した無感地震の有様で示した。有感地震は數が少くて大勢に影響を與へない。此の図で見ると減衰の状況は大體順調と見られるが、其の初期徴動時間を調べて見ると、非常に不揃ひであつて本震の初期微動時間に相應するものは寧ろ少く、數秒程度の短いものが極めて多い。これから見ると餘震の震源は極めて廣範囲に起つて居ると考ヘられ、比較的本震に近い区域から発した餘震の數はすつと少な目の様に思はれる。これは既往の大地震の餘震に較べると特異な現象である。但し餘震の報告は未だ充分に受け取つて居ないので、これ以上の事は謂れ無い。

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第4図 余震回数図
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表 余震詳細

歴史的考察。

此の方面に起つた既往大地震の中安政元年11月4日の大地震は規模は異るが今回の地震に酷似して居ると思れる。殊に異常震域の項でのべて置いた福井、諏訪の震度や又志摩半島の津浪の大なりし點更に又此の報文にはのべて居ないが掛川、袋井附近の被害の大なりし事等は其の例證である。

結語。

以上を綜合するに
l. 此の地震の震央は直径137.°0,北緯34.°Oに当り震源の深さは極めて浅く十數粁と考へられる。
2. 発震機巧は圓錐型では無いかと想像され、初動分布にも、P波走時曲線にも不連続層の影響が顯著に現れて居る。
3. 規模は関東震災と同様か又は稍大きい。
4. 異常震域が現れた。
5. 歴史的には安政元年11月4日の地震に良く似て居る。
6. 餘震の発生に特異性がある。
等と云ふ事が解つた。

参考文献

終りに臨んで本報文を綴るに際して常に御激勵並に有力なる御指導を賜つた中央気象台長藤原咲平博士、御鞭達を戴いた大谷業務部長、有益な御教示を賜つた井上博士、廣野技師並びに震研表助教授及び遙に書面を寄せて筆者を鼓舞せられた、森田仙台気象台長に対し厚い感謝をさゝげる次第である。
文献: 1). 例へば震災(岩波発行)にはかゝる例が澤山挙げてある。
1). 例へば験震時報、第三巻、佐藤秀雄。
2). 験震時報、第二巻、石川高見、異常震域。
3). 験震時報、第12巻、岡部龍信、昭和16年11月19日の日向灘地震實地踏査報告。
4). 水上武、震研彙報、第13號、Distribution des mouvements initiaux d'un seisme dout le foyer se trouve dans la couche superficielle et determination de I'epaisseur de cette couche.
5). 例へば松澤武雄、震研彙報第5號、Observation of some recent Earthquakes and their Time-Distance curve (Part. I)
6). 鷺坂清信:験震時報、第10巻、地震のエネルギー。

静岡県下震災地踏査報告 技師 井上 宇胤

I 緒 言

昭和19年12月7日13時36分頃中央気象台に於て微かな地震が始まつた。地震ではないかと云つてゐる内に段々と強い震動に成つて来たので急いで窓の外の東西の長さ約4米南北の長さ約2米の水槽を見ると、南北の方向に小さな波が立つてゐたが間も無く大きく東西の方向の波が重なり南西と東北の角より溢水し始めた。地震が緩やかではあるが大きく振動し続けるに伴つて水槽の振動は東西方向の振動のみとなり東西の縁より著しく溢水した。
室内の電燈は盛んに揺れたが南面して壁に掛けてあつた振子時計は止まらなかつた。髄感から南方の海底地震であると推定されたが各地の験震結県を整理すると遠州灘に震源を有つ地震である事が知れた。鉄道其の他の方面からの情報に依つて相当重大な被害のあつた事が知れたが8日に至つて警保局の報告に依つて始めて廣版囲に著しい被害のあつた事が知れた。早速く地震課員を4班に分けて震災地の調査を分擔する事にして筆者は静岡県下の掛川以東の地域の調査に出掛けたのである。
震源地は東経137°北緯34°の海底で約20粁の深さがあつたと推定される。初震の押し引きの分布は所謂るコーン型であつたらしい。
東海道南海道の大地震は歴史時代には相当の記録があるが明治中葉以後地震観測網が整備されて以来1回も此方面の海底に著しい地震が観測されてゐないので同方面の地震帯並に其の中に発生する地震の発震機構等に就いての知識が缺けてゐたのである。今村博士は數十年来此方面の大地震を警戒されて可能な版囲のあらゆる調査をされてゐた。尚博士の御意見に依ると日本に於ける過去1500年間の地震活動には西紀684年乃至887年の204年間と西紀1586年乃至1707年の122年間と西紀1847年以後今日に至る3回の大活動期があり夫々の活動期の始めと終りに東海道南海道の沖合の大地震があるとの事である。中央気象台に於ても勿論充分警戒はし昨年1月の伊豆大島の地震群、3月及4月の箱根山の地震群、3月の2回の鳥取地震、9月の鳥取地震、10月の長野県古間村地震に次いで12月には三宅島附近の地震群、櫻島附近並に熊本県金峯山附近の地震群が発生し、次いで北海道有珠岳の活動となり、有珠岳は今年の6月23日より噴火を開始して今に活動を続けてゐるが8月からは浅間山が噴火を始める等全般的に地震、火山の活動期に這入つた観があつたので、今年の2月10日に多少の警告をしたのである。
地震課に於ても新たに地震豫知に関聯した調査を積極的に始める爲に9月15日に地動掛が新設され地震資料の整理の外に地盤の變動地磁気並に地電流の異常等を調査する事に成つたのである。


従つて地震課としては地震豫知方面の調査を開始したばかりであり長岡式垂直磁力變化計及び特殊の磁力計に依つて地磁気の異常と地震発生との関係を試験的に始めてゐた處に今回の地震と成つたのは遺憾な事であつた。以上の兩磁力計は共に今回の地震前に多少の異常を認め得たのであるが、其の充分なる研究は後日にゆずりたい。
尚今年の8月以来日本全體としての地震回數が半減し顯著地震の數も減つてゐたので何處かに其の勢力が蓄積されてゐなければよいがと話し合つてゐたのであつたが今回の地震に関聯した事であつたかどうかは今後の調査に依らねばならぬ。
以下に12月9日より20日に至る調査の際に見聞した静岡県下の震災の概況を報告する。

II 静岡県下の震災概況

静岡市

9日夜静岡に着いた。途中鈴川にて地盤の悪い所に2,3軒倒壊家屋のあつた事を聞いた。
静岡測候所は観測塔上のダインス風壓計が移動し官舎の壁に僅に亀裂を生じた程度で被害らしいものはなかつた。地震計はウイーヘルト式上下動は無難であつたが同水平動は重錘の上部のポツチが抜上つて最上部に載せてある重りがずれた爲に重錘と擴大装置を聯結するバネが曲つたが直に修理された。
簡單微動計は箱型の空気制振器と重錘との接続部のバネが折れたが此れも直に修理された。従つて大地震並に餘震の記録が立派に取れてゐた。大地震では地震動の始めから北への傾斜動の様なものが記録されてゐたが或は南への緩やかな地動であるかも知れぬ。餘震は遠州灘に発生したと思はれるものと初期微動時間5秒程度の近地に発生した小地震とが記録されてゐた。強震計は故障を生じなかつたが2倍の倍率では大地震の地動の全振幅を記録する事が出来なかつた。従つて強震計としてはもつと低倍率のものが必要である事を更めて感じた次第である。尤も南北動丈は2.4糎の全振幅を記録出来た。
静岡市の建物の被害は極めて軽微であつて化粧壁の破損が見られた程度であつた。

清水市

静岡市と清水市との間には震害と云ふ程のものは見当らなかつたが只学校の校舎の二階建と平屋との接続部の屋根が破損してゐるのが望見された。清水市に這入ると静岡電気鉄道の相生町駅附近に倒壊家屋が見られた。市役所の調査に依ると第1表の如く市内の死者19名、重軽傷者110名、全潰住家840棟、半潰住家148棟、全潰非住家75棟、半潰非住家54棟に及ぶ災害があつた。建物の被害は特に巴川の右岸に沿ふて甚しく、岡上一丁目は全潰5割、半潰5割で全潰住家121棟、半潰住家111棟、全潰非住家6棟、同半潰1棟、死者3名、重軽傷者5名を生じた。
家屋は主として巴川に直角の方向即ち略々東西特に東方に倒壊してゐた。二階屋は階下のみ倒壊して二階を其の儘平家として使用してゐるものが多かつた。洋風の三階建の一階が一方に倒壊して二階以上は無事であつたが全體として傾いてゐるのがあつた。此三階に地震の時に人が居たが外に逃げ出す事が出来たとの事である。家屋の倒壊迄に相当の時間があつたので家の中に居た年寄子供も皆外に出られたが道路上で石造の倉庫が倒れ掛つて死亡したものもあつた。上一丁目に接してゐる横浜町では被害軽く家屋の半壊破損が見られる程度であつた。禪業寺、慶雲寺の寺の門は破損し本堂も破損してゐた。墓地内の墓石の若干個は主として略々東西に倒れてゐた。水平動のみに依つて倒れたとすると水平加速度300ガル程度で倒れるものであつた。倒れた方向は東西とは限らずN66°W,N5°Wに倒れてゐた圓筒状墓石もあつた。
萬世橋の東口には堤の沈下の爲に落差5,6糎の亀裂があり、西口にも堤の沈下の爲に亀裂があつた。
巴川の左岸の萬世町一丁目に於ける倒壊家屋はやはり巴川に直角に殆んど東へ倒れてゐた。住宅営團で建てたと思はれる新築の平家建の同型の家屋が4棟そろつて家の長手の方向に東ヘ倒壊してゐるのが目立つた。
上一丁目から巴川の右岸に沿ふて川下へ進むと被害は軽微となり僅に障子の破れが目に附く程度の所があるが仲町の邊から半潰家屋が見られ美濃輪町から被害甚大となり松井町幸町は殆んど全滅である。美濃輪町では死者1名、重軽傷者4名、全潰住家28棟、半潰住家27棟、全潰非住家6棟の被害あり、松井町では死者1名、重軽傷者12名、全潰住家116棟、半潰住家94棟、全潰非住家18棟、半潰非住家2棟の被害あり幸町では死者1名、重軽傷者7名、全潰住家92棟・半潰住家105棟、全潰非住家2棟、同半潰1棟の被害があつた。
此邊は上一丁目と共に清水市内でも最も震災の甚しい箇所であるが、上一丁目の被害と加へて全潰住家357棟に対し死者は僅に6名であつて、其の全潰住家に対する比率が60分の1と云ふ極めて低率のものであつたのは不幸中の幸であつた。此れは地震のあつた時刻にも依るのであるが家屋倒壊迄に充分の時間があつた事と火事もぼや程度に止まつた爲である。
港町日出町にも倉庫其他の倒壊家屋が見られた。波止場の周囲には地盤の沈下に依り地割れ著しく岸壁に接した多數の倉庫附近は50糎程沈下し岸壁は多少辷出してゐた。倉庫附近の沈下に伴ひ約10米置きに半圓状の沈下が一列に配列して奇異の感を興へたが岸壁の骨組の構造に依るらしい。
静岡県水産試験場の建物は殆んど被害を受け無かつたが二階の標本瓶が倒れて破壊した爲藥品が流出して室内に入れぬとの事であつた。試験場の技師の談に依ると震後30分程して津浪の爲に潮が引き始め岸壁に於て約30糎引いたとの事である。関所長の談に依ると同氏は相生町駅のプラツトホームに立つてゐた時に地震に遭つたが始めは立つた儘で調子を取つてゐたが其内に強い振動になつたのでベンチにつかまつてゐた。すると附近の二階家が倒壊したが倒れたとと思つたら最早や地震は弱くなつてゐたとの事である。従つて家屋が倒壊する迄には発震後1分間位時間があつた事と考へられる。
静岡県港務所の前の巴川の岸壁に沿ふても沈下の爲の地割が著しく三保行の新設の鉄橋も兩岸の沈下の爲に破損し鉄道線路も橋の北口附近に於て地盤沈下の爲に彎曲した。
港務所の検潮儀は1月程前より休止してゐて津浪の記録が得られなかつたのは遺憾であつた。港務所の技手の話によると折戸湾内の蠣の養殖用の垂下筏の綱が7日の朝に切れたので不思議に思つてゐると午後の津浪で流されたとの事である。此れは風其他の気象上の原因に依るのではないかと思はれる。
巴川の右岸の岸壁及護岸も沈下し著しく辷出したとの事である。
三保の砂洲に於る被害は比較的軽少との事であるが吹合岬附近には多數の亀裂陥没が生じ津浪の爲に砂が流されて擴大して相当幅の廣ひ長い溝が生じたとの事である。溝の中に噴火口状に深く凹んだ所も見られるとの事である。
清水市の家屋の被害は前記の巴川右岸の上一丁目松井町方面に次いでは入江岡、入江一、二、三丁目、下清水等が被害著しく巴川の左岸では中浜町、島崎、築地町が著しかつた。清水市全般としては中震から強震の程度であつたが以上の様な特定の箇所丈烈震地域を形成し地震動の加速度は400ガル以上にも達したものと思はれる。以上の箇所の家屋が特に他の地域より脆弱であつたとも見受けられぬので結局地盤の悪い爲と思はれる。
昭和10年7月11日の静岡地震の際にも清水市は相当の被害があつたが当時の沼津測候所長の島村技師の精密な調査に依ると家屋の被害の著しかつた箇所は主として巴川の左岸に当り必ずしも今回の被害地域とは一致しない様である。
巴川流域に被害が著しかつたと云ふ様に大観すれば夫れ迄であるが細かく見ると必ずしも一致しなかつた事は兩回の地震に於る地動の状況が著しく異なつてゐた爲では無いかと思はれる。静岡地震は近地地震である爲に比較的激しい波が卓越してゐたのに対し今回の地震は遠い海底地震である爲に地動は比較的緩漫な大揺れで長く続いたのである。従つて所謂る地盤が悪いと云つても如何なる地動に対して地盤の振動が著しく成るかと云ふ事が問題になるのだと考ヘられる。今回の地震の場合は軟弱表土の特に厚い地盤が不可であつたと考へられる。尚家屋全體として移動した例が見られなかつたのも地動が緩漫な爲であつたと考へられる。

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第1表 清水市被害(12月10日戸別調査集計)

藤枝町

静岡市より藤枝町迄は震害が認められなかつた。藤枝町にも被害は認められない。藤枝町から御前崎に南下する途中の大洲では家屋の破損石垣の崩壊等が見られた。

川崎町

川崎町では二、三丁目が被害著しく全潰7,8棟、残りは半潰程度であつた。中学校舎も著しく破損し国民学校も1棟は全潰残りの棟も半潰となつた。静波の郵便局前で煉瓦塀の下敷と成つて1名死亡した。
川崎町の北の坂部村外之久保は異常的に被害著しかつたとの事である。吉田村では井戸水の減水した箇所濁つた箇所があつた。
川崎町と相良町との間の軌道の枕木がずれて汽車が一時不通となつた。川崎町の南の堀切、大磯では被害軽少であった。

相良町

横町には多數の全半潰家屋があつた。郵便局前も向様被害が多かつた。
平田は震害軽微であつた。港の防波堤は平常水面上2米程出てゐるが津浪の時に始め潮が引ひて堤の脚部が現はれたが寄せて来た潮の爲に堤が陰れたとの事であるから此邊の津浪の高さは約2米あつた事と考へられる。尚津浪の爲に萩間川も相良町の内迄水■が増したとの事である。
小名ケ谷の浜での津浪は始め10米程沖迄潮が引き5〜10分を経て一列になつてざわざわと打ち寄せ之を數回繰返したとの事である。
相良町の南の地頭方村では2,3軒全潰家屋があつたが国民学校が半潰し外廊下が潰れた爲に其の下敷となつて2名の児童が死亡した。

御前崎村

御前崎測候所は建物に微かな亀裂が這入つた程度であつた。庭内の長さ4米、幅2米のコンクリートの水槽の水は著しく溢水したとの事である。
観測塔上のダインス風壓計は僅に移動した。地震計はウイーヘルト式水平動が土台との締附け用のボールト穴のゆとりのある方向に僅に全體として移動したのみで使用には差支へなかつた。強震計の記録に依ると最大振幅は4糎以上であつた。此處で記録された餘震は初期微動時間が9〜12秒のものの外3〜6秒の小地震が発生してゐる。即ち御前崎の極く附近にも局部的に餘震が発生してゐる事を示してゐる。
御前崎燈台は高さ17米であるが基礎から3米の所に亀裂が這入つた。燈台は煉瓦造りで表面はモルタル塗であるが関東地震には被害が無かつたとの事である。燈台長の談に依ると燈台下の浜が15糎程隆起したとの事である。
此の遠州灘に面した浜では津浪の際に汀線から約35米の邊迄潮が上つたとの事であるので浜の傾斜を100分の5と概測して津浪の高さは2.0米と成る。遠州灘の津浪を看視して居た警備隊員の談を綜合すると津浪は14時5分に引き波で始まり14時37分には可成りの沖迄潮が引ひた。其の内小波の寄せる様にざざと潮が増して来た。そして一回置き位に大小の津浪が數回あつたとの事である。従つて津浪は震後30分して始まつた事になる。
駿河湾に面した浜の津浪は村役揚の看視員の談に依ると津浪は西風が強かつた爲に地頭方より御前崎迄一直線に白波を立てて押寄せ17時頃迄に5回見た。波頭の高さは1米位あつた様で3回目のものが一番大きかつた。波は始めは1線になつて来たが其後は寄引が處に依り不規則になつたとの事である。
看視哨日誌を抄録すると13時37分半地震相当の振動あり(約3分間)。14時27分駿河湾内に津浪の状況を認む。14時50分、15時00分、15時30分、16時17分計5回あるも沿岸地帯被害なし。以上は波の寄せて来初めた時刻であつて地震後50分して第1回目の上潮が来た事になるが其の前の引き潮は震後30分頃に始まつてゐたと思はれる。
女岩の浜では引き潮で始まり3回目に一番高く潮が来て1.2米程の高さであつた。伊戸澤では高さ1.6米程の津浪があつて海岸の高さ90糎の石垣の上迄水が来た。3回目が一番潮が来たとの事である。引き潮の方が著しく沖の深さ2.5米程の浅瀬の岩が60糎程現はれたとの事で3米程の引き潮であつた様である。此浜では始め津浪を恐れたが1回目で程度が知れたので次からは潮が引くと走つて行つて魚をひろい沖に白波が立つと逃げ戻つて来たとの事であつた。
前記の燈台長の外に村役場の助役、廣澤の漁夫等が御前崎附近の海岸が隆起したとの事なので廣澤の浜から御前崎の岬を廻つて海岸を見て廻つたが浜に居た數人の漁夫に聞いて見ると浜が廣く成つたとは思はれぬとの事であつた。
御前崎燈台附近の汀に残つてゐる穿孔貝の跡の高さを測ると平均水位上約50糎となつたが昭和18年6月頃に今村博士が測定された際も同様な高さにあつたので此邊の地盤隆起の事實は疑はしくなつた。尚下御崎の浜の防波堤に於て14日16時の満潮時に於ける汀の位置は堤の前面4米程の所であつたが下御崎の漁夫に尋ねると今迄も普通の満潮時に於て堤の前面2,3間迄潮が来てゐたとの事であつたので此處でも隆起の事實は認められなかつた。尚菊川の右岸の遠江射場に於ては浜の隆起は認め無いとの事であつたが千浜村役場では浜が廣くなつたと云つてゐたが津浪による砂の移動の爲ではないかと思はれる。
御前崎では石塀の破損、壁の亀裂屋根瓦の破損等が見られた。辨天社の石碑が轉倒してゐた。水平動のみに依つて倒れたとすると340ガル程度め水平加速度で倒れるものであつた。
廣澤の道路には茶畑にかけて陥没に件ふ半圓形の著しい亀裂があつた。此邊は砂丘の砂地であり尚他にも砂地の畑に若干の亀裂が見られた。
廣澤では家屋の被害は見当らなかつたが北へ倒れてゐた墓石は水平動のみに依つて倒れたとすると夫々240ガルと260ガルとで倒れるものであつた。西へ倒れてゐた墓石は250ガルで倒れるものであつた。
漁夫の談に依ると廣澤の沖と伊戸澤の沖とに地震後海中から泡が出る様になつたとの事である。

白羽村

中原では水平加速度26Oガルで倒れる程度の墓石が轉倒してゐた。役場附近で倒れてゐた墓石は水平加速度で倒れたとすると310ガルで倒れるものであつた。中西神社の石燈籠は北北東南南西の方向に倒れてゐた。
白羽村では住家の全潰42棟、半潰53棟、破損79棟、倉庫の全潰1棟、半潰5棟、破損17棟、納屋の全潰29棟、半潰41棟、破損51棟其他の非住家の全潰25棟、半潰17棟、破損23棟の被害があつたが幸に死傷者はなかつた。
家屋の被害は第1図に示す如く大部分は中西川に沿ふた箇所であつた。其處では殆んど全滅であつて全潰住家36棟、半潰住家34棟を出した。此邊で地震の際に家の中に居た人は年寄も子供も皆外へ出て10間程逃げ延びた頃家が倒壊したとの事であつた。村役場の話では砂地を1,2米堀下げると土地でカツパと云つてゐる沼の地層が出て来るとの事であつた。昔の白羽港の跡ではないかとも云つてゐた。浜の隆起は気が附かないとの事であつた。
中西川の右岸は道路に沿ひ15米位の間が相当沈下してゐたし岸に沿ふて川岸の沈下のために地割が著しかつた。
女学校教諭栗林澤一氏の談に依ると安政元年11月4日の東海道地震の際も中西川に沿ふては震害が著しかつたとの事である。尚餘震が頻繁にあつたので小屋を建てて住み、11月15日の地神の祭迄家に這入れなかつたとの事である。
今回の地震で神子新田には半径1米程の泥丘が無數に生じて青砂を噴き水を1米の高さに噴いたとの事で其邊は水田を埋立てた所であるとの事であつた。

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地図 第1図 静岡県榛原郡白羽村全略図

池新田町

表通には家屋の半潰が見られた程度であつたが全潰住家5棟、半潰住家26棟の被害があつた。

三俣村、三浜村

此處は菊川の右岸の砂地であるが家屋の被害は軽微であつた。海岸寄の砂地の畑には沈下による亀裂があつた。

大坂村

菊川の流域の大坂村、千浜村、平田村、横地村等は家屋の被害甚大な地域であつた。大坂村では全潰住家81棟、半潰住家77棟、全潰非住家35棟、同半潰9棟もあつたが幸に死傷はなかつた。家屋の被害は主として菊川の支流の小笠川に沿ふて著しく然も川の兩側50米の版囲に限られてゐて夫以上離れると遙に被害が軽かつた。家屋の倒壊方向は北方であつた。川に直角の新設道路が崩壊して著しく亀裂が這入つてゐた。川の左岸の神社内の石碑が北へ倒れてゐたが水平加速度で倒れたとすると320ガルで倒れるものであつた。
菊川の支流の黒松川に沿ふても家屋の被害があり村長の家も同川の上流の山際にあつたが倒壊したとの事である。

千浜村

家屋の被害は菊川の流域と支流の高杉川に挾まれた版囲に見られ所々に倒壊してゐた。菊川の右岸の橋の附近に於ては家屋がまとまつて倒壊してゐた。高杉川の左岸附近は被害が軽少であつた。
住家の全潰は128棟、半潰は207棟非住家の全潰は80棟、半潰は296棟、死者4名、傷者3名の災害があつた。
浜に接した砂丘地帯には地割れ多く砂地の畑に噴砂丘が多數生じ青砂を噴いた。
菊川の川床にも附近の道路にも亀裂あり村の東部の県道上に亀裂を生じて田に辷り出してゐた。村役場では浜が廣くなつたと云つてゐた。

堀之内町

此處では家屋の被害らしいものは見られなかつた。旅館の石燈籠は全部倒れてゐた。

横地村

堀之内から菊川の谷を南下すると加茂村三軒家から家屋の倒壊が見られたが小川端は被害が多少軽少であつた。横地村に這入ると西横地、土橋、奈良野と道路に沿ふて多數の倒壊家屋があり主として北方に倒れてゐた。
此邊の井戸の水位は極めて浅く地表面下數十糎の所にあつて軟弱な地盤である事を思はせた。奈良野から岐れて東横地に至る道路に沿ふては家屋の被害が可成り軽くなつてゐた。東横地では一部に多少の被害があつた。山麓の三澤では殆んど被害が無かつた。横地村では住家の全潰157棟、半潰14棟、非住家の全潰172棟、半潰62棟、死者3名、負傷者4名の被害があつた。
村長の談によると此邊では地震の際戸外に逃出して彼方此方の家が倒壊するのを見てゐたとの事であつて家屋の倒壊迄に相当の時間があつた事を示してゐる。村長の家は東横地にあり安政地震の時には潰れたが今回は助かつたとの事で安政の時の方が今度より被害が甚しく且つ餘震が頻繁にあつた爲に1月程も戸外にゐたとの事であつた。

平田村

菊川と支流の牛淵川に挾まれた低地ば全般として家屋の被害甚大であるが新道の商店街が殊に激しかつた。其處は牛淵川の左岸に沿ふてゐるが大部分の家屋が北北西方に倒壊してゐた。新道では深さ30米程の掘抜井戸の水を使用してゐたが表土層が30米以上あつて比設的緩やかな地動に共振したのではなからうかと思はれた。家屋は北北西南南東の道路に沿つて家屋の長い方向に倒れた
のであるが主として北北西に倒壊したのは南南東方向の激しい地動があつたのに依るかも知れぬが或は家屋の構造に依り一方向に倒れ易かつたのかも知れぬ。家屋の長い方向に倒れ易いのは一般に見られる事であつて長い方向即ち間口の方向には比較的柱が少い事短い奥行の方向には壁體が多い事などの家屋の構造に依ろものと思はれる。尚二階家は一階と二階との境の部で柱が折れ平家も柱の頂部で折れてゐた。又倒潰家屋には筋違のあるのが見られなかつた。家屋が全體として移動したものは無かつたのは震動が主として水平の緩やかな大揺れであつた爲と思はれる。
新道では道路に沿ひ左右に50米程の幅の部が被害著しく牛淵川に近接した所は多少被害が軽かつたのは奇異に感じた。但し菊川に接した西ケ崎は殆んど全滅であつたとの事である。
村の北東部の山沿ひの部は被害軽少であつた。
平田村の住家全潰は324棟、半潰は266棟、非住家の全潰は201棟、半潰は335棟、学校の全潰1棟、半潰2棟であつて死者8名、傷者11名を出した。
従つて横地村平田村兩村の死者は全潰住家40棟に対し1名の割であつた。役場での話によると安政地震の時も被害が著しかつたとの事である。

三島町

堀之内より東海道線にて東上する車窓よりは家屋の被害は殆んど見られなかつたが清水市に這入ると被害が見られ袖師では工場の破損が見られた。興津では農林省園藝試験所の屋根が破損してゐるのが見え鈴川では屋根の小破損が見られた。
三島測候所は被害が無かつた。コンクリートの無線柱が激しく振れ直径1.5米、深さ2.5米の水槽の水が多量に溢出したが室内のバケツの水は溢れなかつたとの事である。伊豆長岡町の西方の三津に於て検潮儀観測をしてゐるが今回の津浪を立派に記録する事が出来た。其れに依ると13時50分頃から30糎程の引き波で始まり14時に20糎程の第1回の上潮が来次いで第2回目の上潮が14時20分頃に110糎程上げて来て最高の波であつた。次いで10分間に230糎程潮位が低下し結局120糎の最大の引き潮となつた。第3回目の上潮は15時5分頃で90糎程の高さであつた。結局津浪は地震後15分程して引き波で始まつてゐて他に比較すると早い様である。

下田町

家屋の被害はなかつた。7日の地震は長く続いたが9日朝の新島附近の餘震の方が激しく感じたとの事であつた。津浪に依つて住家の浸水186棟、非住家の浸水22棟を出したが稻生澤川の右岸の須崎町、長屋町、原町、大工町等で岸から80米程の幅の区域であり家屋内の浸水は最高70糎程であつた。
大工町の倉庫には地面上47糎、50糎、52糎の所に3條の浸水跡が残つてゐた。結局津浪の高さは須崎町の橋の附近が最高で2.1米、大工町邊が1.6米であつた。川の左岸にも地面上43糎程浸水した家屋があつたが津浪の高さは1.6米であつた。水面上2米の橋の上から須崎町の石垣にかけて8噸程の船が乗上げてゐた。橋の下手に一隻の小舟が沈没し其上に大型の船が乗上つて破損してゐた。橋の下手の欄干は破壊してゐた。川の左岸にも2隻の大型の船が破損してゐた。第2図参照。
原町の川岸に面した伊豆商事株式会社の山本彌右衛門氏の談に依ると地震後約30分して潮が引き始め港(稻生澤川口)内の船が押し合つてみりみり音がしたが未だ網は切れなかつた。15分位して潮が上げて来た時綱(直径4糎程のもの)が切れて橋迄押流されて行つて橋につかへた。此の第1回目の上潮は石垣の上迄上つたが家には浸水しなかつた。即ち約1米の高さの潮であつた。次いで潮が引いた時多數の船は全く混亂状態になつた。次に20分程して第2回目の上潮が来たが第1回目と同程度であつた。第3回目の上潮が最高であつて浸水家屋を生じたのである。津浪は4回繰返したとの事である。
引き潮の方が著しかつたらしく水深3.5米程ある川底が見えたとの事である。船の流れる早さは人の走る程度の早さであつたとの事である。港外にも3,4隻流れ出たとの事である。船の破損は80隻、沈没は6隻であつた。
9日朝の地震の時は錨を巻いて港外に出る用意をしたが潮が多少来たに過ぎなかつたとの事である。
下田港の奥の柿崎では2.5米程の津浪であつたが関東地震の時は中村博士に依ると4.6米の津浪があつた。腰越では1米程の津浪であり須崎では1米足らずであつたとの事である。
腰越の漁夫の話に依ると津浪は白波をあげて来たのではなく單に潮が満ち引きした丈であつたが湾内の水面は平面でなく場所により凹凸があつた。第3回目の潮が一番高かつたとの事であつた。

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地図 第2図 下田町

III 結言

1. 震源地は遠洲灘の西部で東経137°北緯34°の海底の深さ約20粁に発生したと思はれるが津浪を伴つた所より海底にも地盤の隆起陥没があつたものと思はれる。
2. 地震の規模は有感区域が震央から650粁迄の擴りがあつた事かち大體大正12年の関東地震の程度であると思はれる。従つて震源地も相当の擴りを持ち少くとも直径30粁位の大きな地塊に蓄積された歪力が斷層運動に依つて地震波を発生したものと思はれる。
3. 地震の前徴としては今村博士の調査に依ると御前崎附近の地塊が掛川邊を軸として南東に過去3,40年間傾動してゐたとの事であるが最近各地の火山地域が活動し噴火や地震群の発生が比較的頻繁にあつたが昨年の8月からは反つて日本全国の地震數が半減して居た事も何らかの関係があつた事ではなからうかと思はれる。安政元年11月4日5日の東海道南海道地震の13年前に駿河国久能山に地震があり今回の地震の9年前に静岡地震があつた事は全くの暗合に過ぎないとばかりは云へぬと思ふ。
4. 安政元年11月4日の東海道地震は震害の點から今回よりも大規模な地震で無かつたかと考へられるが餘震は割に少なく翌5日の南海道地震発生後餘震が多數発生し順調に減少した様である。
今回の地震の餘震は全體として數が少ない様である。御前崎では発震当日及び翌8日の餘震數は少なかつたが9日に多數発生し夫れからは順調に減少して居る。
尚餘震は遠州灘に発生してゐるばかりで無く極めて陸地に近く或は陸地内に発生したと思はれる餘震が相当にある。即ち静岡、御前崎、浜松の地震計では初期微動時間3〜6秒の近地地震を多數記録してゐる。
5. 今回の地震の特色としては廣い版囲に亘つて家屋の被害があつたが海岸寄の川沿ひの冲積地に局部的にまとまつた甚大な被害があつた事である。従つて静岡県愛知県三重県の各測候所からの報告の如く全般的には震度が中震から強震の地域に於て突然烈震区域が散在してゐるのである。
従つて比後は比様な遠方の海底地震の際には強震の版囲に烈震の地域がある事を推定す可きである。結局所謂る地盤の悪い所が家屋の被害が甚しかつたのであるが清水市の被害で見られる通り近地地震に対する地盤の悪い所とは必ずしも一致しない様である。軟泥の厚さの特に厚い部分が今度の様な長週期の地動には悪いと考へられる。
6. 家屋の倒壊迄には相当の時問があつたらしく少くとも1分間以上であつたと思はれる。家屋は段々と大きく搖れて柱の頂部が折れて倒れたのであつて全體として移動した例は殆んど無かつた。従つて地震の発生しれ時刻にも依るが菊川流域の平田村、横地村の様な烈震区域でも全潰住家40棟に対し1名の死者があつた割合もあり清水市の最烈震区域でも全潰住家60棟に対し1名の死者があつたと云ふ低率であつた。以上の地域に次いで烈震区域であつた白羽村、大坂村に於ては多數の全潰住家を出したにも拘らず死傷者は無かつたのである。以上の地域は安政元年の地震の時にも震害が甚しかつた。但し今回の地震で被害の最も甚しかつた大田川流域及び浜松市附近では全潰住家10棟に対し1名の死者を出した所もあつて相当早く倒壊したのではないかと考へられる。家屋の倒壊方向や墓石の轉倒方向は遠州灘に面する地域では主として南北であり特に北方に倒壊してゐたが川崎町清水市では地形にも依るのであらうが主として東西に倒壊してゐた。
7. 地割、沈下等は砂丘地や川に接した所にあつたが全般的には少なく、山崩れは無かつた。相良町附近の地盤は多少隆起し渥美半島では沈下したらしい。
8. 津浪は紀伊半島の東岸では5,6米の高さがあり特にリアス式海岸では波高大で相当の被害があつたが静岡県下では下田港に於て侵水家屋と船の破損沈没があつた程度で駿河湾でも遠州灘に面する海岸でも殆んど被害は無かつた。何處も2米前後の浪であり地震後15分から30分程して引き波で始まり2回目か3回目の浪が最高であつた。津浪の週期は10分から1時聞位迄あつた様である。
9. 測候所の観測塔上のダインス風壓計は地震の際に移動し易いし又百葉箱の内部の測器類は■倒する事があるから此等の固定法を考慮す可きであると思ふ。
10. 震源地に近い測候所の強震計は地動の全振幅を記録する事が出来なかつた。強震計はー層低倍率にする必要を更めて感じた次第である。
終りに臨み御指導を賜つた藤原台長大谷部長並に調査に御協力下さつた静岡測候所島村所長御前崎測候所伊藤所長三島測候所管原所長に厚く御禮申上げる。

昭和十九年十二月七日東南海地震調査報告 御前崎測候所

当所に於ける地震計観測に依れば
発 震 時 13時36分4秒3
初 動 南53度西
初期微動継続時間 17秒1
最大振幅(半振幅) 4糎以上
にして餘震は10日以後減少し餘震の初期微動継続時間は5.5—7.5秒に最も多い。当所に於て調査したる範囲は御前崎附近、御前崎より大井川河口に至る駿河湾沿岸の町村、御前崎より菊川河口に至る遠州灘沿岸の町村及び菊川流域の町村にして今其概要を述ぶれば次の如きものである。

(イ) 災害

災害は菊川流域に最も激烈にして各町村共一般に住家全潰は10O—150戸にして最も激甚な平田村に於ては住家全潰488戸、同半潰322戸の多きに達してゐる。其他の地方では川崎町及び白羽村に多く夫々住家全潰40—50戸、住家半潰は50—60戸を算して居る。
御前崎村に於ても處々に被害があつたが之等の町村に比較すれば被害軽微と云はねばならない。
死傷者は菊川流域に稍見られるも其他の町村に於ては比較的に少く、之は地震動が大きく歩行乃至直立する事が困難な位であつたのにも拘らず比較的に緩慢で家屋の倒壊するまで或程度の時間(30—60秒)の餘裕があつた爲と思はれる。
又地震後火災の殆んど発生しなかつたのは地震時刻の関係もあらうが各人が周到な注意を拂つた事にもよるものと思はれるが之は今震災に於ての不幸中の幸であつた。
尚白羽村の被害状況より見るに其被害は村全體に擴がつてをるものでなく、地震動に対して弱い区域に殆んど集中してをる。特に傾斜地に於て盛土をした様な處に多く其崖側の方に倒壊してをるのは今後注意すべき事である。
道路の亀裂、崖崩れ、橋梁兩側道路の低下、煙突、塀、墓石倒壊轉倒、貯水池の水の氾濫等は各地共處々に見られ井戸水池及び川の減水混濁、田畑に於ける水或は砂の噴出等の現象も處々に観察された。
其他藤相線、地頭方、川崎間は約24時間の不通、御前崎に於ては約3時間停電する等の被害をも伴つた。

(ロ) 津波及び海變

津被は御前崎附近に於て遠州灘駿河湾共に地震後約5分にして海水退き地震後約40分の14時27分に第1回の津浪の襲来を受ひ其後夕刻まで14時50分、15時0分、15時30分、16時17分の計5回あつたものの様である。
其の半振幅は約2米位で退いた時の方が稍大であつた様である。其最も高かつたのは3回目の15時及び19時頃との事、潮の退く速さは急湍の速さよりも速く寄せる時は速足程度であり第1回は白波を打上げ、1線をなして押寄せ其後は處により寄せ退きが不規則になつてゐる。併し津波による被害はなかつた。
又遠州灘、駿河湾共海岸より約2丁、深さ2—3尋位に海中より泡立つてゐる處があるとの事。地震後海水が濁つたと云ふ報告及び地震時舟に乗つてゐた人が海底が濁つたと云ふ報告等も見られる。

(ハ) 地變

土地の人々に聞けば地震後砂浜が廣くなつたと云ふものと變化がないと云ふ者とあり確實でないが相良港に於ける測定によれば約30糎土地が隆起した様に思はれる。
附記: 以上は御前崎測候所に於て爲された非常に大部な調査報告の概要である。此の報告には精細な調査結果が記されてあるのだが、印刷の関係上此の度の概報には止むを得ず割愛し、取敢ず上記の概要丈を收録した次第である。本文は別の機会に印刷をする豫定である。(地震課)

昭和19年12月7日 東南海地震實地踏査概報(遠江灘沿岸地方) 気象技師本間正作、齋蒔光太郎、山崎彦四郎、金原與四郎

掛川町

 掛川町は太田川、共の支流原野谷川及び更にその支流たる逆川等により開析され、遠州沿灘岸より樹枝状に入り込んだ低地の最東奥に位し、既に多分に台地の性質を帯びてゐる。逆川は町の中央より稍北に偏した部分を東西に貫通し、之に平行に南方約5〜600米の所を国鉄東海道線が走つてゐる。舊東海道は兩者の略■中央を東西に走つてゐるが、舊東海道と国鉄の中間部分に当る幅員300米位の状地帯域は田を埋め立てた極めて軟弱な表土の上にあり、且つ掛川町の中心街である爲掛川の被害度を近隣に比して高いものとしたものと思はれる。逆川兩岸では被害は割合ひに軽く屋根瓦の落下や壁の剥落其の他餘り重要ならざる損害に止つてゐる。中心街地方は南流して逆川に合する神代地川、新知川、東光寺川及び之等から分れて東西に走る小さい溝が甚だ多い。
 家屋の倒潰や傾斜方向には、間口が南北に向いた家に対して南北向きのものが甚だ目に着く。間口が東西のものは東西に傾いてゐるが前者程は著しくない様に見える。例へば神代地川東岸にある法全寺では柱の上部が下部に対し1尺程北に傾き、附属住家も北に傾いた。この寺の植木職某氏は地震当時枝の刈込みの爲墓地内の樹木に登つてゐたが、墓石は大抵南北に搖れて倒れた様に見えたと言ふ。而して墓場の東側の埋立地にある某年場(新築せるもの)は何回も南方方向(間口方向に当る)に搖れ最後に一寸浮き上つた様に見えたと思ふと、東側に向つて倒潰したさうである。尚同氏は家内に居る子息の事を心配し木から降り様としたが、中々思ふ様に手足が掛らないから後一丈位と云ふ所迄来て飛び降りたが恰も蒲團の上に降りた様にふわりとした感じであつた。而してこの頃は振動の最も劇しい時分であつたと言つてゐる。或ひは地動の上下加速度が相当大きかつた事を意味するものであらうか。扨て實際に倒れた墓石(100基餘りの中1/3〜1/4位)を調べて見ると南又は北に倒れたものが實際多いが、之は墓の正面が大體この方向に向いてゐる事にも依るらしく少數東西に向いたものの中には東西方向に倒れたものもあり、又丸い石碑で何れの向きにも平等と思はれるものには北西に倒れてゐるものがあつた。これは高さ40糎、直径18糎であるから簡單にウエストの公式で加速度を見積れば450ガルを超える事になる。但し圓筒の底には臍があつて受台の穴に入り込んでゐる事を無視する。逆川北側では掛川中学校南東隅にある正方形の常夜燈の頭部がS25°Eに落ちた。但しこの石燈の一邊の方向はS25°Eである。この頭部も下部に臍があつて受穴にはめてあるが、臍が折斷されてゐる。石は水成岩質の粗鬆なものである。
 町の南部上張地内の山手にある河井彌八氏邸では土蔵の壁が東西のものも南北のものも同様に裾が剥脱した外建て付けには殆ど被害が無かつたが、邸宅の土台石の所で見ると家屋が少しく南方ヘ辷つた形跡がある。
井水の變化は地震の前後を通じて気付かれてゐない様である。

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掛川町被害

掛川町附近

 掛川警察署調査に依る同署管内被害は別表の通りである。(袋井町のものは町役場調査の分が資料が新しいから若干差異がある。)掛川町の北に隣接する西郷村は逆川の支流倉眞川の流域低地であるが全壊に比し半壊家屋が頗る多い。舊東海道條では掛川西方より西ヘ向つて急に被害の度が少いが久努村地内に入ると全、半壊が甚だ多くなる。久努村の被害は北方山地部では僅少で殆ど全部東海道沿ひの低地が受持つてゐる。掛川町と久努村の中間低地で被害少き事實は興味ある點であらう。

袋井町

袋井町はその中央を略■東西に貫流する原野谷川を境にしてその南東方の台地と北西方の低地とに分れて居る。原野谷川は東方山地より半島状に凸出した台地の北邊近くを西流し袋井町の略?中央に於て南に折れ西方にある太田川の開折した南北に長い低地を走り、遂に太田川に合して遠州灘に入るのである。舊東海道は原野谷川北方低地を走り、国鉄東海道本線は半島状台地の先端を東北東西南西に貫いて走つて居り袋井駅は丁度国鉄が台地に差掛つた部分に位置して居る。

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袋井町被害

家屋及び人員の被害

 は別表の如くであつて、台地に当る蓄堤、法多、寳野、神長、大門、上石野、下石野、山田川等の被害率頗る軽微なる事低地に当る西田、土橋、木原、中町、西町、東町、川原町、東原、中央、新町等の被害率極めて高きことが如實に示されてゐる。西通、東通、掛の上、田端、小野田と云ふのはその中間地区に当つてゐる。全鱧としての被害率は1292世帯中全、半潰住家が717戸であるから66%に当るわけであるが、低地に於ては90%以上の町が頗る多い。而してこれらの部分に於ける家屋の傾斜及び倒潰方向は殆ど東西向きであつて南北のものは甚だ稀れであつた。町役場では東に倒れたものが最も多いと言つて居る。之は舊東海道が東西に走つて居る爲家の間口の方向が東西になり、週期的強制振動に対して家屋の構造が東西方向に弱い爲であらうが、昭和18年9月の鳥取地方地震(1)に於て奥行の方向に前のめりに傾斜、倒潰した家が多かつた様に見えたのや昭和16年7月の長野地震(2)でも同様であつた事實等に比較して注目すべき事である。然し原野谷川南岸の低地と台地の中間地域に於ては主要な道路は略■南北に走つてゐるが家屋の傾斜方向に対して方向性が認め難い。
尚ほ低地々域で家屋の損傷状況を視察するに土台の著しく辷つたものは見当らないで柱の上部の折損が多い。二階家では階下と二階の境で折れて居り、二階がそのまゝ一階となつた家も少くない。瓦屋根と藁ぶき屋根の潰家が多く、比較的軽微な被害で立ち残つて居るものの特徴としては
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(1) 鳥取地震調査概報(中央気象台)昭和18年11月
(2) 金井清、震研彙報19(1942)647
トタン屋根又は杉皮ぶきの屋根の平屋と言ふ事が出来る。特殊なものとしては袋井中央の原野谷川北岸附近で近所の家の損傷に較べて殆ど無傷の瓦ぶき二階家がある。この家は以前菓子舖で地下室が菓子蒸處になりここに太いコンクリートの台がある。この台上に太い大黒柱が立つて居て之が家の略?中央を二階の棟まで突き抜けて居るのである。又家の前面に当る部分の下もコンクリ一トの壁になつてゐてその上に柱を立てて居る。こんな次第であるから他の仕口も無論入念なものに違ひないが、瓦や壁の落下さへ認められない。建築後18年位経たと言ふ。この家の完全な耐震性は基礎が地下室の床に立つてゐる點と中央の大黒柱に依るものと思はれる。一階の部分に壁體は寧ろ少い。
この家の少し側の原野谷川支流の岸にもう一軒瓦屋根の丈夫に残つた商店作りの家がある。これは二階が物置で低い中二階になつてゐる爲、柱を中二階の棟まで貫かせる事が出来たので耐震効果を現はしたものと思ふ。15年位前に建てたもので風に強くする爲柱と梁の仕口は入念にしたが筋違ひの類は用ひてゐないさうである。この家も柱が屋根迄貫いて居る點が最も有効に作用したものと考へられるが、前の菓子舖と違つて基礎は一階からである爲であらう、一階の裾に当る壁は亀裂落下して居た。即ち上部が比較的剛く出来てゐた爲床部に於て却つて屈曲が著しかつたのではないかと思はれる。
井戸に就ては出の悪くなつたもの泥で埋つたものが多いと町役場の助役の方が語られたが同氏宅が下石野の台地であるから、之はその方向の井戸の傾向らしい。低地では大抵井戸の増水が多かつたらしい事は附近の町村で一致して居た。尚又同氏宅の方では餘震に於て爆撃様の音響を伴ふもの、もつと鈍いが矢張り衝撃的な音響を伴ふもの及び音響を伴はないものがあつたが町役揚(掛の上に在る)では音響を聞いた人はないと言ふ。本震には袋井町及び附近の何れの町村でも音響を聞いてゐない。
袋井町の東部の小野田附近は原野谷川流域の平地が南方に入り込んで居る爲国鉄東海道線は約500米の間盛土の堤上を走つてゐる。この堤は最も高い所で4米位で、崖の裾は北側は道路を経て田に面し、南側は直かに田に入つてゐる。この盛土の部分が沈下した爲列車が一時不通となつた。筆者が現場に達した時は既に殆ど原形通り復舊し列車は徐行で通し乍ら保修工事を続けてゐたが、盛土の土砂が兩側に流れた形跡がない處から見て、地震の振動に直接歸因する堤の崩壊ではなく、低地盤の基礎が沈下したのではないかと思はれる。北側の田の中には所々砂を混じた水を吹いた跡が見える。又沈下地区の西端は急に袋井町の台地に接し、能光寺と云ふ寺附近で切通しになつてゐるが、この切通しで見ると台地の斷面は河礫(磧)を粗に混じた粗なる水成岩でその下部に厚さ10糎位の固化した水成岩層を挾んで居り、その下に又前の様な粗な水成岩があると言ふ様な順序になつてゐる。夫故この山地が一般には割合早い速度で土昇しつゝあり原野谷川を北ヘ押しやつて居り、沈下した部分は元来原野谷川の河底であつたのではないかと思はれる。この附近に處々小さい池が残つてゐるのも原野谷川流路の跡と思ふ。尚沈下盛土の北側の道路に於ては亀裂等は見られなかつた。

袋井町北方及び西方。 

 久努西村は山添ひの部分と低地の部分で被害程度が全く違ひ、殆ど後者が被害の全體を受持つてゐる。被害表は下の如し。


全戸數487戸中微害209戸及び


         世帯數   住 家   非住家
   全 潰 186戸 197棟 222棟
   半 潰 90戸 59棟 69棟
    計 276戸 256棟 291棟


其の他に死者8、重傷6、軽傷8、牛2匹であつた。家屋の傾斜、倒潰方向は南又は北向きのものが多い。秋葉山電鉄可睡口停留場に於ける大石燈2基の?倒方向も北方であつた。村役場内での振動は初め上下動を伴つて搖れたが、次に南北の搖れを著しく感じ、遂ひに東西、南北の区別なく掻廻す様な動搖を感じたと言ふ。
田地に水を噴いた處があり、掘抜井戸は増水したものが多いと言ふ。

山梨町

 660戸中全潰246、半潰264、微害10で被害率は相当高い。主に南北振動を強く感じたと言ふ。壁の落下、家の側斜方向も南北動のものが多い。然し山梨町南端の山名神社石燈籠はN70°Eに落下した。家の倒潰迄は數十秒の間があつた様に思ふと言ふ。
井戸水は太田川畔の冲山梨では増水したが、山手の方では減水した。
本震には音響を伴はなかつたが、餘震は先づ短いドンと言ふ音がして、次にドシンと言ふ様な感じの地震を感じた。
沖山梨地内の太田川東岸堤防上の県道は亀裂が稍著しい。
山梨町より北方に当る園田村、飯田村、森町等では殆ど言ふべき被害がない。

向笠村

 この村は太田川を東邊とし、西は山地る含んで居るが中央は低い田地である。村では低地を里、山地を原と言つて区別してゐる。家屋被害表から分る如く殆ど被害の全部が里に屬する部分に起つて居る。この表中新屋の里の住家全潰34戸住家34戸全部に相当するもので最もひどく竹内の里の南部(太田川と支流敷地川に挾まれた部分で立合と言はれてゐる處)と笠梅の里が之に亜ぐものである。
振動の感じは西村の台地邊縁にある村役揚に於て始め南北の水平動を主として感じたが、後には上下動も伴つて大きく搖れたと言ふ。村役場の壁も南北に亙るものが、著しく亀裂して居るが、極めて古い建物なるに大した損傷は受けて居らず、隣の国民学校(間口方向南北の平家造り)も外見上損傷を受けてゐない。村役場の話では家の倒潰迄には待避するに十分の時間間隔があつたが概して瓦屋根の家は北に倒れたもの多く、藁ぶき屋根の農家は之より後にて倒れ南西向きに多く倒れた様だと言つて居る。以上から綜合して主要な振動は大體南北向きであつたらしい。
井戸水は濁つたものが多いが、増減に就ては餘り気付かない。然し田地ヘは泥水又は砂水が噴出した。
餘震中の若干にはドンと言ふ音を聞いた。
新屋北部で敷地川の支流小籔川に架した木橋の破損状況もこの附近に於て南北向きの著しい加速度のあつた事を示す。この橋は略■東西に走り長さ14〜15米、幅1米半位で厚さ15糎に土を盛つてある。兩岸は石を積んで段となし、その上に支へられ、あとは木柱で支へられて居るがその柱が腐つてゐる爲中央と西側の一基が折損して北に倒れたものである。橋に中央以西が南にずれて西岸では橋台が完全に積石の段の南側に脱出した。但し西岸の土手及び積石の段には損傷が無い。
類似な橋梁の損傷で交通上更に重要なのは舊東海道国道に架せられた太田川のものである。之は向笠村岩井地内にあり、兩岸はコンクリートの台に掛り中に13基の脚があるが西側の8基は流水中に立ちコンクリートで、東側の5基は河原の中に立つ爲木柱である。この木の脚と橋梁とはコの字型の釘で連結してある。東から1本目は倒れなかつたが他の4基は連結釘の所で橋梁と斜交して北へ側いたので橋台はこの
部分で沈下すると共に北方へ乗り出す形になつたものである。この橋も台上に相当土を盛つてある。
要するに之等の橋は頭部が重く脚部又は脚部と台との連結が不完全なる爲橋に直角向きの外力に対しては甚だ脆弱であつた所ヘ、偶々その方向即ち南北向きの優勢な振動が與へられて破損したものと言へる。勿論この場合に東西向きの振動力は有効成分にならなかつたから、之が少くなかつたとは言ひ切れないわけである。

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地図 向笠村略図
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向笠村(原:山地 里:平地)
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橋脚の連結部分

今井村

 は太田川の東岸でその流域の中央に位置し、全村322戸中304戸が全潰し、死者10名傷者50名を出した。ここでは東西方向の倒潰家屋が絶対多かつた事は山梨や向笠と違ひ袋井に類似する地震を感じてから少時の後大搖れとなつてから2往復振動目位で家が倒潰したと言ふ。東西
の倒潰の多い事は袋井町では家の向きにも関係すると考ヘられるが、今井村ではその様な説明では間に合はない。今井村の略■中央の横井附近の墓地では新しい墓石で土台とのセメン着けが完全なものを除いて殆ど全部東か西へ倒れた。一例を挙げると高さ60糎、東西25纏、南北27糎の立方形墓石は西へ■倒した。ウエストの公式で見積ると加速度は400ガル以上に当る。
井水は殆ど全部濁つて増水したものも、減水したものもある。
餘震はドンと云ふ音響が先に聞えたものが多かつたが音の聞えて来た方位は分らない。

太田川流域の沈下

 今井村、向笠村等に於ける状況から推察して、地震時に太田川流域地方の低地が比較的急激に沈下したのでないかと思はれる節がある。明瞭に沈下の認められる部分は向笠村の敷地川流域地帯の東西に走る道路に於て見られる。又同村篠原附近で太田川が西方の台地に接近した部分にある堤は地割れして中央が2米位沈下した。同村岩井附近の西側山地の麓に沼があり、その東岸は村道に接し、村道の東は田になつてゐるが、沼の水面は田の面より50〜60糎高く村道が丁度堤防の様な形になつてゐる。この状態では沼の水が道を経て田地へ滲透して仕舞ふ筈であるから、斯様な状態が保たれる爲には田地が山地に対し相対的に慢性的沈下をしてゐる事を考へねばならない。この種の沈下運動が地震動に依り促進されて急激な表土の沈下を来し、被害を局部的に増大せしめたのではないかと思はれる。
尚舊東海道太田川橋梁の北側に於て東岸堤防に延長約400米の沈下が起つた。堤防は砂礫質の土で數條の地割れになつて、東側田地方面に崩れ掛る傾向にずれてゐるが、土砂の流れ出しはない。地帯の幅は廣い所で15米位ある。一つ一つの地割れの深さは高々1米程度であるが堤に沿ふて波状に沈下し3箇所が谷部に当り、山と谷の振幅は最南のものは1米、他の2つは2米位である。陷没の北端はその対岸の向笠村岩井地内に現はれ、■には高さ4米の堤が西方田地ヘ扇状に匍出してゐる。ここでも多くの地割れが沈下帯を作り延長は70米位でその中部は2米足らず沈下してゐる。
田の方向への堤の傾角は30°位であるが、下部中央の堤の裾を中心に半径25〜30米の扇状地帯が田の中に乗り出してゐる。
之等何れて陥没も河床方向には崩れないで兩側の田地方面へ崩れる傾向にある事は田地の沈下性を示すものではないかと思はれる。

田原村

 袋井町西方で舊東海道、太田川、原野谷川に挾まれた低地に当つて居る。家屋の被害は別表より分る如く舊東海道に沿ふ玉越、西島で最も甚だしく、太田川、原野谷川中間の彦島、松袋 井、新池が之に亜ぎ、西方の三ケ野、明ケ島は半分が西方台地に含まれてゐる爲被害率は40〜50%である。村役場の某氏は地震と同時に東向きの出口から外へ飛び出したが、體が北へ曲つて倒されたので膝と手をついて起上らうとしたが立ち得ないでゐる中樹木は大ゆれに動搖して砂煙が著しく立昇つた様に思つた。その時家がバサバサ倒れた。恐らく砂煙は家の倒れる時のものだらう、と言つてゐる。
この邊では井戸は殆ど増水し、埋め井戸まで自然湧出す様になつたと言ふ。水の濁りは12月26日未だとれない。田に噴水せる處も多い。太田川では明ケ島附近、原野谷川では新池附近及び彦島東部の湾曲部の堤防上の道路が亀裂した。
国鉄東海道線では太田州鉄橋の東方盛土部で上り貨車が北方に■覆し車輛の火炎を起した。この部分は東方に向ひ緩い降り勾配なる爲相当の速度で列車が進行してゐたわけである。尚西隣の御厨村地内のカーブ附近でも貨物列車の■覆事故があり之も北側へ■覆した。

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田原村被害表

浜松市

 は西半は台地になつて東へ向つて降り、東半は下町になつてゐる。而して台地の北と南は急峻な崖を以て低濕地に落ち込み、北は市の中央を南北に流れる新川が西に折れた流域で元来田地を埋立てた處に当り池川町と呼ばれる所であり、南は浜名湖の東方入江の延長に当る低濕地で伊場町と言ふ箇所であつて共に甚だ地盤が悪いから、舊市内の家屋の大被害の大部分は之等兩町附近に集中して舊市内一般に於ける被害は一般に軽いものである。国鉄東海道線南方の新市街は馬込川と支流新川の分枝點に当り、兩者に挾まれた低濕地で今でも處々田の後が濕地となつて残つてゐる様な所である。寺島町、静禅寺町、砂山町等がこの区域にあり、何れも被害家屋が多い處である。更に南方の白羽町、中田島町一帯は馬込川とその東方芳川に挾まれた低地であるが、この附近も被害が比較的多い處である。特に新市街部には新興した軍需工場が多くその方面で国家的損害が比較的多かつたのは遺憾である。浜松市役所防衛課談に依ると工場の被害の原因としては次の2點を挙げ得る。(i)平地を擇ぶ爲埋立の軟弱地盤上に建築した事、(ii)時局の要講上附近の織機工場が多數重工場に轉向した事で、元来織機工場に於ては濕気を嫌ふから問仕切壁が澤山あるのであるが、軍需工場としては大きた機械類を設置する爲と採光の必要から柱や壁を除去し、之に対處する補強は却つておろそかにされてゐたので工場自體甚しく弱體になつてゐたのである。
浜松市北西富塚はその一部佐鳴湖北畔の低地に当る部分に被害が多かつた。
以上が主なる被害箇所で尚ほ詳細な所は市厚生課で鋭意調査中であるが、未だ整理が附いてゐない。
もう一つ注目された點は舊市内の中央に当る尾張町、田町、肴町、鍜冶町等に沿ふて石垣の崩れやコンクリート造りの家屋の隅部の裂傷及剥落等が比較的多い點である。この区域は西方台地からの降り坂の下端附近でその東の下町との境町をなしてゐるが、多分に山ノ手式の振動性を持つて居り、且つ市中の繁華街たる商店、観樂施設等堅い建築が比較的密集してゐる爲特に目立つたものかも知れない。
次に水の水道管の被害を見ると、池川町の家屋被害地で最も多く十數ケ所に給水管の損傷を受けた、内2ケ所は内径350粍の比較的太目の給水管である。もう一つは伊場町の東部の台地南崖下に当る菅原町で4ケ所の損害を受けた。ここでは350粍〜250の太目の鉄管が使つてある。何れの場所も台地の邊縁の崖下の地に当り給水管は大體崖に平行に走つてゐる。国鉄の南側の新市街方面に於ては給水管の被害が無い事も注意を要する。
市内一般の電燈は地震後3日間停電した。電線の被害は斷線と混線で之等は家屋の傾斜倒潰に引づられるものが多く、従つて家屋の被害地と一致した被害分布を示す。中部配電会社浜松支部取扱区内では浜松市新居町、気賀町区内が大體同程度で、小松町区内では遙かに軽微であつた。浜松支部では池川町、市外中ノ町、市外篠原村附近が最もひどく特に中ノ町が悪かつたさうである。二本の電柱間の斷線や混線もあり得るが、それらの分布状態は調査されてゐない。
石燈籠類の倒潰方向は色々であるが、南北向きに近いものが割合多い。例へば市内山ノ手地にある諏訪大明神の新しい角燈籠は同じ構造のもの2基中1基はN10°Eへ、1基はS50°Wを頭が墜ちた。但し之等は一陵が丁度南北に向いてゐる。下町の龍禅寺町にある龍禅寺では境内の四角の常夜燈中倒れたり頭の落もたりした方向北のもの6基南のもの1基、落ちないもの(小燈)1であり、同寺裏の小神社で四角な常夜燈中南へ落ちたもの1基落ちざるもの1基、丸柱の燈籠の北ヘ倒れたもの1基、N30°Wへ倒れたもの1基である。然し龍禅寺仁王門際の石燈籠は1基北ヘ、1基西へ倒れた。又構内鐘撞堂(錘なし)は幾分東へ辷れた形跡がある。
浜松市の北郊に於ては浜名湖畔の村櫛の如き所で倒潰家屋を出す程の被害を見たが、湖岸より距つた二俣町、気賀町、金指町等は極めて軽徴なる被害に止まつた。
東海道線天龍川鉄橋の破損も国鉄に於ける被害の大きいものと言へる。この破損の大部分は脚部の剪斷變位の爲周囲にはめ込んだ石塊が抜け出たもので、橋脚下部が最も傷み、或るものは中央邊までも傷んでゐる。之を鉄筋コンクリートの鉢巻で應急的に固めて補強工事を行つて居る。又一部では橋台の部分が台上で辷つた處もある。舊東海道の鉄橋では斯様な損傷を見てゐない。
天龍川、磐田町間の田地では砂水を頻りに噴出したがその配別に特異な點は見出せない。

浜松市東郊

全般的に此の地方は南北數粁の海岸平野の帯状地で北部の小笠山脈は袋井を西端としそれより東部へ走り海岸平野に迫つてゐる。この山麓の村落には殆ど被害なく、山が遠ざかり毎年雨期に氾濫する様な濕地の水田地帯に囲まれた村落が大被害があつた。古老の語る處に依れば昔は現在の山の鼻が海岸線であつた由、それに隆起と河川の土砂運搬に依り濕地帯を中心とする平野が成つたとの事である。
先づ袋井の東海道南側でも一部分ではあろが家屋倉庫が倒壊してゐた。
上浅羽村に於ては、中遠線芝駅の北側には台地なる故全然被害無く南側一帯は大被害を受け、浅名部落に於ては家屋の99%迄倒壊し方向は東西である。然し道は、東西に走つてゐる。
次に南に位する豊住部落も同様に90%位倒壊し方向は東西が多い。
又この附近一帯に掘抜井戸があるが水位は殆ど不變で濁水も無し。
その南部東浅羽村に於ても二階建の国民学校の東へ倒壊したのを始め90%の家屋が倒壊又は傾斜してゐた。又所に依り東北への支柱が大部見られた。
その東南幸浦村に於ては大體80%位全半壊し国民学校二階造り倒壊してゐた。この部落は東西に長く南側を「前川」と稱する巾10米位の川が東西に流れ、その流域が主として全壊が多い。倒壊方向は東西より少し南北に寄つてゐる。
同村に於ける水の變化認められず。然し東に寄るに従つて被害は少くなつて居る。猶同村は海岸線より約1000米の處である。
以上の袋井、上浅羽、東浅羽、幸浦は全部粘土質であり、幸浦に於ては当時赤濁の水を用ひてゐる。又亀裂は巾約20糎以下で東西、南北、何れの方向ヘも隨所に認められた。又「下地」部落に於て疊の下に障子が入つて居た事を聞いた。又音響に関しては、一人も注意した住民はない。以上磐田郡。
小笠郡に入り横須賀町は西部が多少傾斜(東西)せる程度で被害無し。
横須賀町の東大淵村に於ては西部には全く被害無く東部に東西に傾斜せる家屋數戸を認む。
猶大浜部落南部の海岸通の畠及田に多少の地變及噴砂有り次に之を述べる。

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地図 南遠地方一部略図

大淵村

 は138°E線上にあり海岸より山迄約2粁あり一帯に砂地である。海岸線に沿ふて約4米位の砂丘が3通りありそれ迄は畠でそれから北部に水田及村落がある。この砂丘を海岸より第
一、第二、第三砂丘と呼ぶ事にする。
汀より第一沙丘迄約100米、砂丘の巾約20米で砂丘の北側に巾3米の溝あり。その北側一帯の薯畠約(50×30)平方米の内に87個の噴水砂の跡あり(図参照)
新しい砂と共に水を噴出し盆の如く丸く中央に最大20糎の直径を有する噴出口跡あり、大きさは大少様々であつた。
第二第三砂丘の間は、變化認められず。
第三砂丘より北側の水田中にはその中を南北に通ずる巾1間の道路約1米長さ10〜20米にわたり三ケ所間没し兩側の水田約60坪が20〜30糎隆起し道路には之を横切る亀裂12本有り巾5〜5糎である。
猶土工の話に依れば菊川河口附近の溝に架したトロツコの橋の下に於て地震の発震前に溝中の土砂が1間(或は1尺)程沈下して行き不思議だと騒いで居る中を振動し始めたとの事である。
又音響に関してはそれを聞き分けたる者なきも爆弾に依る爆風だと恐ひ込んで臥せた者(国氏学校兒童屋外にて)多し確か■或種の音があつたものと思ふ。
又漁師の内当時海岸に居■た者の言に依れば感震と殆ど同時に潮が一町程沖へ引き再び寄せ来つたが一寸した高潮程度であつたとの事。猶海岸及海岸線には殆ど變化を認められなかつた。

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地図 大淵村図

中ノ町村、豊西村方面

 天龍川堤防には南北に走る無數の亀裂があり、その最長は50米以上に及び、その亀裂に依る地表面の喰ひ違ひは最深67糎であつた。尚ほ天龍河原の砂利運搬用のトロツコの南北に走る線路を築いてなつたらしい個所(現在は線路はない)で、一部分は全く田の中に崩壊して(高さ田より3米)ゐる所があつた。附近一面水田には無數の噴砂噴水地裂が認められた。そして井水は凡べて涸れて仕つたとのことである。
中ノ町村役場の調査に依る被害表は次の如くである。


全潰  半潰  中版
一般民家 97 137 157
〃 非住家 41 37 27
軍需工場 15 1 —
公 共 物 5 2 —
神 社 3 2 —
寺 院 1 4 —
計 162 183 184
但し全戸數は1060戸


天龍川に沿つて、亀裂の絶えない道路を北進し豊西村に行く。
北へ行くに従つて被害程度は弱化してゐる様である。次に豊西村役揚の調査に依る被害表を示す。


全潰  半潰  破損
住  家 10 18
23
非 住 家 15 13
計 25 31 23


橋梁2個使用不能、火葬場の煙突中斷、音響あれ共方向不明・・・・がその役場の人の語る所であつたが、又大きな農家でその家の中央部が隆起して、その周囲が沈降し、實に妙な破損の仕方をした家があつたといふが、どうもこのまま信用も出来ないと思ふ。

浜松市南西郊方面

浜名湖の一分枝に当る雄踏の入江の東方延長上に当る志都呂、西鴨江、入野村及び浜松市伊場町等は北方には急峻な崖を以て台地と境する低濕な埋立地なる爲處々に小規模の亀裂、陥没地を生じて家屋の損害を受けたが表土層が餘り厚くない爲か直接振動に依つて受けたと見られる被害は割合ひに少い様に思はれる。但しこの低濕地より更に北方に分枝した入江に当る佐鳴湖の南岸に位する入野村では相当の被害家屋があつた。佐鳴湖は東西兩岸は狹小な水田低地を残して台地の急峻崖に接してゐるが、崖崩れは餘りなく気付いたものは僅に北東隅小籔附近に於けるものがあるだけである。ここは以前から崩土の跡のある處で大體西面した崖の切り合ふ箇所に当つて居り崖上には大小の樹木が繁茂してゐるが崖面は切り合ひ箇所附近ではまばらに生とてゐるだけである。崩れた高さは最高20米内外で崩土の下底は米位の小規模なものである。
兩岸と崖の間の低濕地では部分的に道路の小亀裂や小陷没が散見されるが、この様な陷没は割合ひ短時間の間に行はれたものらしい。例へば西岸中央部附近で台地が少し西方ヘ入り込んでゐる部分の田が陷没浸水してゐるが、湖岸の畝上にある墓石の破損は、この附近の土地が急に約6°の傾斜を交へて30〜40糎沈没した事を物語つてゐる。然しその爲に佐鳴湖に特に振動が起つた様な事實は観察されてゐない。南岸入野村の低地でも湖水が打上げた様な事實はなかつた。
入野村の被害は別表の通りである。村社八幡宮の石碑は南ヘ倒れ、石燈籠は4基中2基は北、2基は南方へ頭が墜落した。石碑の高さ2米。水平切口30糎四方の單純なもので、南北向きの加速度が最小約150ガル以上なる事を示す。然し家屋の倒潰、傾斜方向を決した地動は寧ろ東西動に近いものを思はせる。
次に雄踏村では浜名湖及び雄踏の入江に近いだけに幾分被害家屋が多い。村役揚に依ると


住 家   非 住 家
全 潰 17 17
半 潰 52 43


で東西向きに傾斜倒潰したものが多い。石燈籠等の■落も東西のが多い。
雄踏村より東海道線舞坂駅に至る雄踏橋兩岸のコンクリート壁の土堤では亀裂及び陷没が續いてゐる。勿論地下の土砂が次第に洗ひ流されて空隙が多くなつて居る處ヘ地震動により振盪せられた爲による普通の現象であらう。
舞阪町及び舞阪駅附近では一般家屋の被害は殆ど見られないが工揚建築に於ては全壊したものがある。唯西端辨天橋際の岸壁上では破損した家がある。この點は東方高塚駅附近でも同様で工場には全壊したものが若干あるが、一般家屋の被害は寧ろ少いのである。例へば可美村では一般家屋約1,200戸にて被害は
住 家   非 住 家   計
全 壊 5 11 16
半 壊 2 13 15


に過ぎず、之等は東部明神野部落に集中してゐる。入員の損傷はエ場倒潰によるもの以外一般には皆無であつた。之等舊東海道條ぢ及び国鉄東海道線沿ひから海岸に至る地域は遠州灘沿岸の隆起地帯で砂質ではあるがよく固つて、比較的堅い地盤に当つてゐる。而してその北方が丁度前述入野村地区に当り浜名湖の入江の延長の軟弱地であり、東方が明神野及び浜松市南部で馬込川及び芳川流域の低濕田地に当る故、之等では可美村とは全く違つた被害状況を示したわけである。
可美村増樂地内某神社内石燈籠は6基中、頭部が北に落ちたもの2基、南へ落ちたもの1基、落ちないもの3基であり、又別の神社では4基中北に落ちたもの1基、北東に落ちたもの1基、落ちないもの2基であつたからこの邊で大きい加速度を持つてゐた地動の方向は南北に近い事が分る。
然し同村東部明神野に近い法枝部落の某神社では大體東又は西に倒れた。可美村の工場は元来織機工場であつたものが重工場に轉向したもので建築上非常に弱體であつた次第である。但し高塚駅と舞阪駅の中間に当る篠原村では雄踏の入江の延長上に当る国鉄東海道線の屈曲部附近に於て相当被害が多かつた。
餘震では音を伴ふ急激なものもあり、然らざるものもあつた。海岸に近い砂丘地方では餘り音を聞いてゐない。高塚附近では8日の日の餘震の時濁つた井戸があるが、本震の時は気が付かなかつた。畑では砂水を吹いた處もある。
津浪については沿岸新津村附近では餘り気付かれてゐない。遠州灘沿岸の堤防もこの附近では亀裂を生じた處はない。砂丘内にも砂の割れ等は気付かれてゐない。漁獲の異常の事もない。馬込川下流域でも海岸に近い所では殆ど被害家屋なく新津村六軒より浜松市中田島ヘ渡る木橋の兩岸土手(砂)に小崩れがあるに過ぎない。
辨天島では東岸の辨天橋際では多少破損家屋があるが一般には大した損傷を受けてゐない。舞阪町より辨天島に渡る辨天橋は箇所で沈下してゐる。橋は脚部はコンクリートで台は土橋であるが足の上端に近い部分が折損し、且つ北方へやゝのめつてゐる。それより上の橋梁の部分は脚に対して相対的に西方へ辷れて居る。この破損は水底に部分的に小沈下が起つて生じたものと推定される。
辨天島東部の北岸に在る静岡県水産試験所の談話に依ると、この邊では家屋は主として東西に揺れた。近来沖へ漁業に出る事は少いが附近の磯では釣漁が地震後一時無くなつたと言はれてゐる。(筆者の想像では辨天橋の沈下の原因と関係ある局部的現象ではないかと思ふ)地震後少時して2〜3尺位の高浪が2回許り寄せたと言ふ事を聞いてゐる。

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佐鳴湖田水の流図
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入野村被害表
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雑踏村被害表
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可美村被害表

新居町及びその附近

 東海道今切の長橋の西岸の突堤では道路が甚しく亀裂した。新居町では南方の浜名地域では殆ど被害がないが町の中央街なる南北の道路に沿ふて被害が最も集中してゐる。この道路は西は急に山を背負ひ、東はその延長らしい台地が切り離されて残つてゐ る。その中間の切通しの如き場所になつてゐる。この台地の西及び北側が主要な街であるが北側も西側に次いで家の損傷がある。家屋の振動は南北のが多かつたと新居警察署では言はれたが同署の壁の亀裂は南向きのものが西向きのに比し遙かに甚しく、其の他の家の傾斜等を見ても東西動で被害を受けた模様が多分に見受けられる。又町の南部の某神社では丸い柱の石燈籠がN27°Eに倒れたが、一稜がN30°Eに平行なる四角の石燈籠は4基中3基はその西側、1基は東側の稜の側ヘ頭が落ちた。
■で注意すべきは地震後直ちに警察では津浪の来襲を警戒したが、結局来なかつたと云ふ事である。来ないと言ふのは要するに注意を引く程度の現象にはぶつからずに濟んだと云ふ事で、辨天島水産試験所談の如く1米未満の潮の押引きはあつたかも知れないわけである。然し何れにせよ潮の異常の非常に微小であつた事は確かで勿論地盤の上昇、降下に相当する水位變化は認められてゐない。
地震に伴ふ音響現象も気付かれてゐない。
新居警察管内の被害は下表の通りであるが、新居町の東方の突堤上の道路亀裂(前記)や東海道線新居町駅の直ぐ西方で鉄道の崖南側新居町方面にが崩れ汽車が徐行してゐる被害が入つてゐない様に思ふ。この部分は低い土手上に鉄道が敷設してあるが崩れと云ふより寧ろ土手上が地割れして多少南方へ辷り落ちたものの様で延長は400米位である。駅ホームの沈下もその一部に当る。
新居町の西方舊東海道に沿ふ海岸地域は殆ど被害ないが家屋は東西に大きく揺れたと言ふ。田に噴砂した所の處々あつたが井戸水の濁り増減は気付かない。漁獲にも異常なく音響現象も浜名の西方松山(海岸の砂丘上の部落)では本震では聞かないが翌日の餘震では西から風聲様の音を聞いたと言ふ。又其の他の餘震にも音を伴つたものもあり、例ヘば16日朝の餘震ではドンと言ふ短音を東に聞いたと云つてゐる。
白須賀町は大體に於て台地上にある爲大した被害はない様である。
鷲津町の家屋被害はこの附近で最も多いがその大部分が東海道線鷲津駅を中心とした浜名湖沿岸の低地にある所謂鷲津町に集中して居て、之以外の近在の被害は
学 名  全 壊  半 壊   計
吉 美 1 12 13
古 見 2 4 6
坊 P 0 2 2
山 口 0 3 3


があるに過ぎない。
鷲津駅に近い方面では涸井に噴水したものや、田に砂水を噴出したものが各所にあり、井戸は大體濁つた。古見にある町役場では南北動が劇しかつた様に思ふが餘り確でないと言ふ。
古見地内では丸い石燈籠が北西に倒れ、又南東に面した平たい石碑が南東に倒れたのがあるが、一般に餘り倒れてゐない。斯様に鷲津駅附近の被害に比し、他の部落の被害が格段に違ふのは前者が湖水に極めて接近して居るのに対して後者が多く山上又は山際の台地にある爲であるが、尚ほ恐らくは鷲津駅附近の低地は地震に際し表土が可成り急激な沈下を起したのではないかと思はれる。鷲津駅より西方約1,500米の地點から約2粁の間東海道線の土手(高さ4,5米乃至20米)に大沈下を起し約2週聞国鉄を不通にした事件の原因も目下鉄道方面で愼重調査せられてゐる様であるが、この盛土区域の北側の浜名湖との間の低濕地の沈下があつたのではないかと思はれる節がある。この點については後の機会に十分調査致し度いと思ふ。實際の状況はこの2粁間の數ケ所が陥没し、北側へ土が流れ出した。その爲レールは處々垂れ下ると共に北方へ大いに引ずられて蛇のうねる如き形状になつた。流れた土地が最も遠くヘ及んだのはレールから水平に測つて100米位で他は40〜50米程度である。
豊橋市及びその附近は詳細に踏査する暇がなかつたが東方二川町に於ては殆ど被害を認められない。豊橋市東部の舊東海道條ぢは倒潰家屋を交へて相当被害を見たが市内に入る程瓦や壁の落下程度となり、東海道線豊橋駅附近では殆ど被害が無い。
国鉄東海道線の豊川鉄橋は脚部及び脚部を載せる圓台に放射状亀裂が入る程度の損傷を受けた。脚部は中央にコンクリートの心がありその周囲を練瓦で張つてあるが、下端に近い所で練瓦が崩れ落ちてゐて、この部に剪斷變形が大なりし事を示してゐる。
小坂井村では石燈籠の倒れた(南北向きのものが多い)位のもので家屋の被害は殆どないが愛知電鉄小坂井駅南西方では貨物電車が東方に■覆した。但しこの地點は盛土ではないが多少カーブになつてゐる。
小坂井村の西方字、平井附近も平坦な田地であるが同様な程度である。その西の前芝村に入ると初めて被害家屋がある。全壊6戸、半壊40戸で大體江川畔及び海岸に沿ふて被害を受けてゐる。河岸沿ひの道路は亀裂して多少岸の方に辷らうとする傾向がある。壁の被害や家の傾斜方向、石碑の倒れた方向等も南北のものの方が餘計目立つ。
蒲郡町、三谷町も全然被害なく、蒲郡の西方鹿島、形ノ原町等でも震災を受けた形跡は殆どない形ノ原の南の西浦部落に愛知県土木課験潮所があるが、ここでも引潮で始まつた小津浪を観測してゐる津浪の始まりは折柄の引潮期の記象に重なり餘り明瞭ではないが、地震後40〜50分の様である。同所管理者風谷悦治氏に依ると地震は大した事なく、地震前後に陸地の昇降ば認められな
いとの事であるが、験潮記象からは地震後比較的短時間に數十糎地盤が沈下した事を物語つてゐる。同氏は20年餘り此處の験潮儀を管理して居られるが、斯様な土着の人でも20〜30糎位の水位變化は中々見分け難いものである事が知られる。

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可美村被害表
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新居警察管内被害表
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鷲津町の家屋被害
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西浦津浪

渥美半島方面

 この方面に於ても震災は土地の軟硬に従ひ非常に部分的に散布してゐる。半島の中央は古生層の丘陵地で之は處々海岸迄迫つてゐる。斯様な場所では屋根瓦の落下さヘ見られないのに反し、それらの場所の間にある海岸の低濕地では倒潰家屋が少くない。
豊橋市より三河田原町に至る渥美電鉄沿線では、豊橋市の南郊高師附近迄は別段被害らしいものを見受けないが梅田川流域の低地に当る植田駅附近や、その南西大清駅附近、更に西方紙田川流域の泉駅附近、及び田原町東郊に当る谷熊駅附近等では軌道敷設の盛土の崩れや沿道の亀裂が散見される。然し沿線の家屋被害は少い。
田原町の家屋等の被害は別表の通りであるが、高率の倒潰を見たのは渥美電鉄三河田原駅北方の中心街だけで郊外地域では非常に少い。中心街たる萱町、本町等では一見被害を受けてゐない家屋が稀れの様に見ゆる程である。この部分では表中には含まれてゐないが、国民学校の損害もあつた。
振動は東西が主であつた。井戸は各所で溷濁し、田地や埋立地では泥水が噴出した。湖川と蜆川の岸は處々堤防が沈下し、又吉胡地内の凸出の低濕田地約250米×500米が海水面下に沈下した。
渥美半島の外洋側では赤羽根村、同村字西組等が被害甚だしく倒潰家屋を出してゐる。然し同村内でも若見、越戸、一色等は殆ど被害なく高松も軽い方である。赤羽根村の西に当る伊良湖岬村では大部分に互つて殆ど被害がないが、唯堀切地内に於てのみ集中的被害を生じ、全壊14棟、半壊105棟を出した。堀切附近に於ける振動も主要なものは東西動で家並みも、この方向であるから、家屋は間口方向に傾斜倒潰したものである。堀切西方の墓地の墓石■倒方向も東西のものが割合ひに多い。
地震時の音響現象に就ては村内では気付かれてゐないが、沖に出てゐた漁師の話で始めゴーツと云ふ音を聞いてから地震を感じたさうである(堀切国民学校齋藤公男訓導談)。
井戸は一時溷濁したものもあつたが、夫は側が崩れた爲に依るものである。田に噴水した箇所も
多少はあつたらしいが大した事はない。
地震後一時間位して(餘り確かではない)、潮が一町位引いてそれから15分位で増して来た。こ
の様な事を2回繰返した。
漁獲の變化の如きものは地震前後を通じてない。
陸地の上昇、沈下に就ても地震前後を通じて気付かれてゐない筆者も12月19日12時頃伊良湖紳社下の海岸に出て見たが近年著しい汀線變化があつたらしい證據は掴む事が出来なかつた。尚ほこの點は重要なので同地齋藤公男氏を煩はせて詳細なる調査を依頼中なので後日報告を頂く事が出来る筈である。尚ほこの方面では温室が多いが、之等が殆ど被損してゐないのが注目される。
福江町は田原町、赤羽根村と共に家屋被害最も著しい地域で亀山、山田等山寄りに近い部落を除いては總て倒潰家屋を出した。字別被害は別表に示す通りで、この中畠及び古田が所謂福江町をなしてゐて、この部分と北西方砂性低地の中山、小中山等の部落が最もひどい。海岸寄りの各地で小規模な地割れや岸壁の崩れが起つた。海岸に居た人の話では南東方向で澤の鳴る様な聲を聞く内地震を感じ、地割れが起り出したので驚いて逃げ出したと言ふ。本震に関して音響を聞いた報告は前記伊良湖村に於ける齋藤氏のものと之とがあるだけで注目に價する。室内にゐた者では音を聞いてゐない。
井戸は濁り、田では水を噴いた處がある。
土地の震動方向は家の被害から見ると非常に区々でよく分らない。傾斜した家は間口の方向に傾いてゐるものが多い。然し丸石燈の倒れたのや四角い石燈の廻轉から見ると南東—北西に向いた大いなる地動があつたらしい。特に注意すべきは福江町南部にある郷社内の御手洗の石鉢でその南西隅を中心に約40°北西方向に廻轉し、この時鉢の南東隅が傍に立つ杉の木に觸れたが、之が表皮に傷をつけて廻り込んで居る事である。この郷社は多少台地になつた場所にあり福江町の中でも附近の被害は割合ひに少ない。
福江町向山に在る愛知県土木課の験潮儀に依ると地震後30分位にして引潮に始まる津浪が観測されてゐる。験潮記録で最も注目すべき點は津浪の始まり前後から平均水位が急上昇した事である。14日の朝には高潮時にスケールアウトする様になつた爲ペンの位置を水位40糎位下げた。管理人たる原松三郎氏に依れば斯様な事は従来例を見なかつた。又当12月7日は朝来潮の記象が普通と異り動揺があつたと言ふ。但し之は同日の気象條件に依るものではないかと言ふ疑ひが多い。
福江町と田原町の中間に当る泉村及び野田村では至る處殆ど被害がない。同村伊川津にある東京帝大農学部附屬臨海實験所長の新海盛敏氏に依ると地震の時は外ヘ飛び出さない人も澤山あつた位で大した事はなかつたが、外へ出て見ると軟弱地盤が地割れして、夫が段々伸びて行くのが目撃出来た。同所官舎附近では地震後4,5日間井水が濁つて居たが其後清澄になつた。
本震に際しては音響はなかつたが、餘震では音の伴ふものがあり、例ヘば11日の餘震では南東方向に爆彈落下の如き音響を聞いた。
漁獲高の増減は聞かない。
尚新海氏の談に依ると例年なら足首位の處まで海水の来ないのに、膝まで来る様になつた場所がある事を12月13日に見出された。又江比間附近の海岸を通る際、海水に浸つて見えた岩礁は従来大潮の高潮時に於ても浪の来なかつた處であつた事を保證された。
要するに、この邊では地震後30〜40糎の陸地沈降が短時間内に起つた事が分る。恐らく伊良湖岬方面に於てもこの事があるに違ひないが沈降は上昇より汀線變化が見難いのとその分量が數十糎と言ふ程度の微量なる爲判別し難いのだと思はれる。
其後齋藤公男氏より次の如き地盤沈下に関する地方人の談話を報告された。
(1) 福江町中山学校附近の川口から2、3町上流の人の話によると、地震後潮が藪の近く迄満ちて来る様になつた(1尺2〜3寸)
(2) 同じく福江町中山西北海岸は地震前まで干潮時に海中に州が見えたが、夫が見えなくなつた。(1尺5寸位)
(3) 赤羽根村海岸地方では潮の満ち方が多くなり、干潮時でも以前より干らなくなつた。又潮の満ちる時の速度が増した様に思はれる。
(4) 福江町大字畠の福井酒造場の井戸水は、昔から殆ど水位變化がなかつたが地震後高くなつた。
(5) 福江町大字古田海岸では今まで満潮時でも水面上に見えてゐた石垣が見えなくなつた。
(6) 神戸村(田原町東隣)の人の話では以前は神戸村から赤羽根村と伊良湖岬村境に在る越戸大山(高さ300米位)は見えなかつたが、此頃は見える様になつた。之は田原町から赤羽根附近にかけて沈下した爲ではないかと思はれる。

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地図 渥美半島方面
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田原町被害表(昭和19年12月9日調)
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福江町家屋被害表
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郷社内の御手洗の石鉢
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津浪波形

要結

 以上を通覽して次の諸點を指摘したい。(但し遠江灘沿岸地方について)
(1) 陸地上で大いなる地變は認められないが、軟弱地盟が比較的急激に沈下して災害を大ならしめたらしい事が認められる。
(2) 地震後沿海地方で急激に數十糎沈下したらしい。この沈下は海に向つての傾動の如き形式を採つたらしい事は静岡、浜松、名古屋等の地震記象初動にも見られる。又浜松市の西にある佐鳴湖の水位観測にも調められる。(この點は本報告には觸れて居ない。)
尚宮部博士はこの數年間この方面の陸地が割合急な上昇を続けてゐた事實を験潮儀観測値より摘出報告された。(1)津浪は各地共引潮で始まり軽徴であつた。特に浜名湖附近ではやつと気付く程度である。
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(1) 尚ほ又東大農学部伊川津實験所の新海氏の後報によると渥美半島と知多半島の中間の篠島、日間賀島では地震後却つて土地が隆起せりとの報告があるさうである。
(3) 餘震は陸上各地に小規模にして急激なものが頻繁に起つてゐるが、海中の大餘震が極めて少く8日の曉に起つたもの位である。
(4) 音響は本震では渥美半島で聞いてゐるのみで他では聞いてゐないが、餘震は陸上のものでは短いドンと云ふ音響を各所で聞いた。
(5) 井戸は低地では大抵濁り、袋井附近と渥美半島では増水したものもある。
(6) 河川附近や海岸、湖岸の低地では到る處泥水、噴水を噴出した。
(7) 家の倒潰は大抵強制振動により間口方面の共鳴振動を起し、その内柱の上端の仕口弱點で折れて倒れたものと認められ、急激に奥行方面に倒れた昭和18年9月の鳥取地震と著しい対照をなす。
この様な場合の土地の振動は浜松以東の地では南北動が多かつた事が認められる。家屋の辷りをなしたものは少い。
(8) 家屋の倒潰は土地の堅、軟により非常な違ひがある。同じ町内でも被害を受けた部分と受けない部分とが入れ交つてゐるから、その中被害の地の激甚率を示す一つの目安は全壊と半壊の比であらう。
全半壊5O戸以上の町村に対するこの値は次表の如し。
即ち今井村、横地村が10以上の高率で袋井町の中村が之に亜ぐ。
(10) 一般に被害少き家屋は屋根の軽い事である。
終りに当り本調査に際し、多大の御便宜並に御高教を賜りました関係各市町村各位、名古屋鉄道局補修課長酒井立夫氏、東京帝大農学部伊川津水産實験所長新海盛敏氏、伊良湖岬村堀切国民学校齋藤公男氏、名古屋帝大宮部直巳教授、名古屋地方気象台、浜松測候所、静岡測候所の各気象官署其の他の方々に深甚の謝意を捧げる次第であります。

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各地の津浪波形
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全壊半壊値

昭和19年12月7日東南海地震踏査報告 気象技師 高木 聖 山之上昭和 奥村廣二

筆者等の調査範囲は伊勢海に沿うた地域であつた。先づ津波につき報告し、次に建造物の被害を報告し、最後にその他の現象につき報告する。

I 津浪に就いて

第1図に示すやうに伊勢海には西岸の南から、鳥羽、松阪、津、四日市、名古屋、大野、豊浜、と検潮所が並んでをる。それ等を一々拾つて来たのであつた。
鳥羽:こゝには神戸海洋気象台に屬してゐた検潮所がある。しかしこれは地震動のために記録装置の時計のベラベラが捻切れて了ひ、その上浮標との接合點が切斷したために振幅さへ読取る事が出来ない状態にあつた。それ故仕方なく番人の観測をこゝに傳ヘる事にする。しかしこれはあまり科学的とは言ヘない。番人の言によると震後30分程して5尺程の津浪を數回見たと言ふ。被害は大した事はなかつたが、護岸の沈下により満潮時に侵水する箇所を生じてゐた。
松阪:こゝには三重県土木部の検潮所が港湾にある。名譽の傷夷軍人、丹生良行氏の熱心な観測により第2図のやうな貴重な記象を得る事が出来たのである。これによると、震後22分にして僅かな押浪から始まつてをる。最初の週期は38分であるが、後のものは30分週期と1時間週期の複合と思はれる。最大全振幅は250糎である。この記象からも分るやうに震後間もなく38糎程急に沈下してをる。護岸も少しく損傷を得てゐた。因みに第3図として港湾と検潮所の位置を示す。
津:■崎町の検潮儀は人手不足のため8月以降観測中止中。従つてこれも傳言に過ぎないが、川口の車夫の言によれば、震後15分位にして4尺位の津浪が来たと言ふ。その始めは引き、暫くして白浪を立てゝ入つて来たと言ふ。そしてこれを4回程繰返ヘした。
四日市:千歳町の検潮儀は震前3日程前より故障し、観測なし。
名古屋:築港の検潮儀は地震のため故障し記録なし。
大野:地震動のため浮標の錘がからんで記象なし。
豊浜:2年前より中止してゐる。観測者は残念がつてゐた。津浪のやうなものが来たと言ふ程度のものであつた。
かくして伊勢海に沿ふ検潮記録は松阪た■一つのみであつた。次に知多湾に沿うては、西岸より師崎、武豊、一色に検潮儀がある。(第1図参照)
師崎:愛知県土木部の検潮所がある。第4図にその記象を示す。これによると押浪で始まつてをるがその始めはよく分らない。漸次に始まつてをるやうである。この記象より按ずるに10糎か20糎程沈下したものではあるまいか。週期は大體30分位である。最大全振幅は90糎位である。因みに検潮所の位置を第5図とす。
武豊:この検潮儀は地震のため針が飛び記象なし。この邊に沈下せし所あり。津浪は分らない位なものであつた由。
一色:こゝは検潮儀のみあつて観測は初めからやつてゐない。港湾事務所の人に聞くと震後1時間半位して唸を発し、泥水の高さ1尺位のものが物凄い速度で先行し、漸次5尺位となり、暫くして引き、これを4回程繰返へし、最後のものは震後3時間半位であつたと言ふ。しかし観測地點は海浜から1粁位入つた入江中である。
かくして知多湾も師崎た■一つのみ記象があつた事になる。

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地図 第1図 検潮所の配置
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第2図 松坂の検潮記象
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地図 第3図 松坂検潮所
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第4図 師崎の検潮記象
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地図 第5図 師崎検潮所位置

II 建築物の被害に就いて

今回の地震の被害範囲の中には工場が多く存在してをるので、その被害状況を詳しく調査しようと企てた。と言ふのは工場建築物は建築法により耐震構造にしてをかなければならない事になつてをるからそれがどうして被害を被るに到つたか調べてみたかつたのである。吾々は今迄の経験から巖丈に造られた建築物は地震動に対しても被害の程度が少ない事をよく知つてをるからである。さう言ふ目的を持つて調査に当つたのであつたが、防諜上の見地から工場内部を詳しく調査出来なかつたのは残念なことであつた。
名古屋:こゝは築港の一部分で倒潰家屋が相当あつた。その邊は曾つての溜池等を埋めた個所であつて、地質は確かに弱いと思はれる。しかし潰れた家をよく見るといづれも如何にも弱さうな感じのする家ばかりであつて、一寸丈夫さうな家はいづれも残つてゐた。工場も二三倒れてゐたが、いづれも弱體のものと思はれ、かなり弱さうな工揚も残つてをる所からみると、震動はさ程大した事はなかつたであらうと思はれる。要するに丈夫な家を造つてをけばこんな被害は全々出さないで濟んだのである。一般民家の倒れ方を見ると奥行の方向に倒れてゐるものは殆んどなく、長みの方向に倒れてゐる傾向を示してゐた。これはこの邊の家の構造が長みの方向には壁や柱等の抵抗となるものが少ないのによると思はれる。
関西線に沿うて;この線に沿うては鳥羽まで大體一様に少しづゝの被害を受けてをる。特に目立つたのは煙突の先が破損してをる事であつた。又壁の亀裂は普通斜めに入るものであるが、今度は中央部に垂直に入つてをるのである。
長島から桑名にかけては他より少し震害が大きいやうである。これは長良川口にあたつてをるからであらう。
富田では危いと思はれる川岸に建つてをる家も健在であつた。
四日市は埋立地の工場に少しばかり被害があつたやうであるが大した事はない。しかし橋の岸との接點がひどくやられてゐた。石原鑛業の大煙突は上から1/3の個所で折れた。
津は少數の弱い家が倒れたに過ぎない。有名な岩田橋は中折した。
松阪は寺の塀や墓石が倒れてゐた程度で大した事はない。
山田は少しく倒潰家屋を出した。
鳥羽、亀山、は殆んど被害なし。
一般に煉瓦の建造物は被害が大きかつた。
東海道線に沿うて;この線に沿うては少々被害を生じてゐた。
岐阜は30軒程の倒潰家屋を出したとの事であつたが、現地に行つてみるとそれを見付けるのに苦勞をする程度に過ぎなかつた。
大垣は地盤が非常に軟弱な所であるので、一寸した被害を生じてゐる。
瀬戸は陶器の被害がかなりあつた。倒潰家屋も相当あつたが大した事はない。
中央線に沿うて;この線に沿うては可成遠くまで被害が及んでをるが、震度はIV-Vの程度であつて大した事はない。目につくのは瑞浪以南であり、飛んで諏訪邊にも少し被害を生じてゐた。
知多半島:こゝも思つた程大した事はなく、た■半田街道に沿うて少し被害が大きい。面白い事には半島の先の師崎、豊浜邊の岩礁にある家は非常に弱さうな賎家も立派に残つてをるに反し、砂地にある家は弱さうな家は倒れてをる事である。即ちはつきりと地盤の影響が見える事である。
知多湾の一色にも少し倒潰家屋があるが大した事はない。

III その他の現象に就いて

鉄道蛇曲現象:岐阜から竹鼻に到る竹鼻線は柳津駅より南約300米の所に鉄道蛇曲現象を生じたと言ふ。この邊は恰度鉄路の一直線に走つてをる個所であつて、その方向は北々東から南々西である。この邊の人は南北動の震動を感じてをる所から考へ合はせて、この現象の起るのも尤もであると思はれる。即ち震動方向は北々東—南々西の方向の震動であつたに相違ないと思はれる。第6図にその位置を示す。
発光現象:名古屋では前夜光體の南方へ飛ぶのを見たと言ふ。
音響現象:名古屋、岐阜では前日ニブイ音を聞いたと言ふ。しかしこれ等は地震と関係のあるものかどうか分らない。
地形變動:松阪の検潮記象より確かに沈下してをる。又鳥羽でも沈下は明瞭に分る。大體にして伊勢海に面した部分は沈下してをるやうである。

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地図 第6図 鉄道蛇曲現象の位置

昭和十九年十二月七日 東南海地震の三重・和歌山兩県下實地踏査報告 気象技師 鷺坂清信 雇員 黒沼新一

12月10日より22日に至る13日間小官等は該地震の實地踏査を三重・和歌山兩県に就いて命ぜられ其の踏査概要を左に報告する踏査の方針として地震、津浪に特に注目した。其の理由は該地震は極めて擴範囲に倒潰家屋或は津浪があつて安政元年の地震を思はせるもので発震機構等も簡單ではない様であるから震源の位置の確定も稍困難である然るに津浪の有様は此の震源の確定に寄與する所が大であると考へられるからである。

鳥羽

 此處の検潮儀は地震で破損し用をなさなかつた、此の検潮所の前の補装道路は満潮時に全部浸水してゐて通行不能となつてゐた。夏の大潮のときは斯様のことがあるが冬では始めてであると其處に居住する大井藤吉氏は語られた。即ちその附近は少くも二三十糎の沈降が想定される。4震の震度は強震程度と推定され、餘震は毎日二三回はあるといふ。津浪は地震後15分乃至30分の間に襲来し波高は一二米位で鳥羽では浸水家屋が120戸程であつた。14時から約1時間餘りの間に地回程襲来したから週期は約15分位であらうとの事である。鳥羽警察署長の調によれば一般に志摩半島尖端の東側の湾の津浪の高さは約二三米位で浸水家屋はあるが流失はなかつたとの事である。

長島町

 地震動は中震と推定せらる。波浪も特別の地點を除いては、たいして高くはないが、町が低地にあり、床上浸水のため被害は相当のものである。町の部分での浪高は最高3米位であつた。次に長島警察署の調査による被害表を掲載する。この表に見るが如く錦の津浪の被害は甚だしい浪高も六七米に達したとの事である。

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長島警察署の被害表

尾鷲町

 尾鷲警察署の御調査に依れば此の町の被害、12月14日現在、下記の通りである。
死者29名、行方不明67名、全潰並流失家屋604棟、半潰139棟、浸水家屋1644棟、漁船流失42雙97噸及破損22雙其の他消息不明の定時漁船多數あり。是等の倒潰家屋は何れも津浪に依るもので、地震動に起因するものは皆無である。壁等も隅が抒れて土が少しく落ちた位で、亀裂の入つたものは稀である。墓石の轉倒や石垣等の破損も多少見受けられる。墓石の轉倒方向は一定しないが、大體から見て南又は北ヘ倒れたものが多い。又廻轉の方向は、各所とも反時計様であつた。又町の西南部の六十米の山上の忠魂碑の台の石垣は北東隅から北側にかけて破損し、又附設の記念碑(高さ2米、縦横1米の直方體)は時計様廻轉をなして居た。
図の海岸のA部からC部に至る護岸堤並に補装道路の石疊は、接合するコンクリートが破壊せられ特にA部附近が甚しい。Aは氷碎機の鉄粹にして、冷凍会社の支配人二郷氏の談に依れば、此の枠は基盤から築き上げられたもので、東方に傾斜(2度位)して居る處を見ると、土地の表面のみならず、基盤も變動したものと考へられ、且つ震後潮が増して居る故、土地が幾分沈降して居ると考へられると語られた。但し、その沈降の量については不明だと言はれた。又同氏は津浪の当時海岸の屋上で見て居られたのであるが、湾内の防波堤附の渦巻く波の様は恐るべき壮観であつたと言はれた。以上の事實から、此處の震度は強震の極弱い方と推定される。又地震前ゴーと云ふ地鳴を聞いたと云ふ者もあつたが、一般には聞かぬ者が多く、餘り明瞭のものでは無い様である。
次に津浪について述べる。検潮儀の記象は流失せる由につき、目測せるものを記す。先づ尾鷲測候所にて、震後屋上にて、湾内の防波堤の隠れる様より津浪を観測した。
第一波の極大14時2分にて、之より先測候所の屋上にて湾のE部の浅瀬に白波を立て押寄せて来る様を見る事が出来た。此の14時02分は防波堤が隠れ、第1波の最高の時間であると推定される時刻であるが、この波高が最大のものであつた事は後に記す駒橋大尉の談より知る事が出来る。
第1波の極大14時19分
第3波の極大14時45分
第4波の極大15時10分
第5波の極大15時45分 此の際は防波堤が隠れる程にならず。
第6波の極大16時25分 再び防波堤が隠れる迄に増大し、以後強い波は来なかつた。
以上の目測から順次の週期を挙げれば、17分、24分、25分、35分、40分である。従つて津浪の襲来の時刻としては、14時02分より幾分か前の時刻を取るべきである。地震は13時36分に起て居る故に、震後26分で第1の極大に達した。最初の週期が17分なる事と、次に記す駒橋大尉の話など考慮して、震後20分で到達した事に推定する。
津浪襲来の当時、駒橋大尉はF點のブイに連結された舟Gに乗つて居られたが、震後5分或は10分も経つかと思はれる頃、海水がジワジワふくれ出し、H・Iの間から流込み、遂に桟橋を越え、ザーと音を立てゝ押寄せた。此の間舟の方向は図の向となり、如何にしても變更出来ない。其の津浪の高さはと云ふにH・Iの燈台は平水面から6・8米であるが、それが隠れて、J點のものはそれより高いのであるが、上部のみが見ヘ、支柱の部分(6・8米)は隠れて仕舞つた。其の波が退く時は、防波堤の無い側、即ち図のKの矢の方向の流れが著しい。50米沖位迄海底が露れた。此の第1波が最高であつたが、第2の波の襲来で鎖が切斷され、辛じて図のK矢の方向に遁れる事が出来た。第3の波が未だ退けきらぬ内に第4が来たので、それは第2の波高位になつた。以後大したものは無かつたが、平水に復歸したのは2時20分間の後であつた。週期は第1波と第2波の間が15分間位で第3第4の間は短かかつたと云はれた。当時は干潮時なる故に、7米以上になる事になる。湾の内部に於ける波高が、次に記す湾奥の打上げられた部分より高いことは、吾々の常識と反する事にして、數理上の解説を要する注意すべき現象と思惟せらる。図に浸水並に倒潰又は流失地域を示した、各所の津浪の高さは種々の根跡により知ることが出来るが図のL地點では2・5米M地點では2・9米、N地點2・3米、S地點2・5米であり、之等は平水面からの高さであり津浪は干潮時に近く起つた故之等に約0・5米加ふべきである、又Q地點では異常に高く満潮時で4・6米なる故に約5・6米の波高であつた。斯様に地點により種々な高さが観測され尾鷲湾の津浪の高さは幾何と問はれたとき、その答へに困惑する。通常の常識に従つて特異の地點で異常に高くなつた處を除外し尾鷲湾の眞正面を考へ家を倒潰或は流失しその餘勢が低地に押し上げた最高の高さを取ることゝし、之を以つて尾鷲湾の高さを代表せしめ約5米とする。
又津浪は湾から陸に向つて右側に注ぐ川と左側即ちCの近くの堀に添ふて優勢に押し上げた従つて川添の家とC部の堀の奥が最も破壊された家が多く海邊から150米位奥まで倒潰した。その中関部はそれ程奥迄倒潰されてゐない。家屋の浸水は川添に400米以上も奥まで達した。浪高の著しいは一般に湾奥に向つて右側即ちQ側であつた、之には防波堤の影響がある様に考ヘられる。
今回の津浪では尾鷲に限らず一般に家の破潰された材木等が押上げられてゐて餘り流失しないことが特に注目される(岡技師の撮影された寫眞を參照されたい)之は湾形にも大いに関係するであらうが津浪の週期が一般に長かつた事も原因するのではないかと思ふ。石油のドラム罐が千家山を隔てたR點まで流されてゐたのを見た。E部に近い某工場では地震後津浪のある事は大低豫期してゐたが襲来を確認してから逃げたが追つつかれ水の中を逃げて多數の工員中一人の死者も出さなかつたとの事であるこの波でT部の道路は一ケ所決潰した、Bは魚市場であり最も津浪の強い位置にありながら何等の被害を受けてゐない、それば鉄柱にトタン屋根の家で自由に津浪を通したからであるが海浜の建築物として注目すべきことである。

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地図 第1図 尾鷲の津浪

吉津村

 津浪の被害が大であつて地震による被害は殆んど見受られず、4・5軒壁の亀裂をみるのみであつた。地震動は強震としては弱い方である。村の大半が津浪の被害を受けた、津浪は地震後約15分で5回押寄せ1回目と3回目が最も大きく被害殆んどは之によつて生じた、次に吉津警察の被害調査表を掲げる。
津浪の押寄せる状態は丁度湾内より潮の湧き出す如く水位が増大し、第1回目の津浪により海岸附近の家は土煙を挙げて倒潰流出し其の波高は6米にも達した、次いで第2回第3回目の津浪により学校、警察方面が倒潰し、或ひは流出した。其の津浪の週期は約10分位であつた。被害の最も大なるは海岸沿ひの家と村山川附近の家で倒潰流出した。
又場所により被害の大なる所も見受られ河口より10米程入込んだ場所が二方向に別れて倒潰流出の度が大であつた。村民は地震後津浪の来襲の豫想して附近の高地に避難したが逃げ後れたもの或は第1回の津浪後家財を取りに行つた爲死傷並に行方不明となつた者38名を生じた。家財船舶等は沖に流出せるものは少なく川添其の他に持運ばれて散亂してゐた。
押上げた奥行は村山の650米、伊勢地方面550米程度で村山3分の1程度床上浸水した。潮の高さは岸沿ひが5米、橋附近5米乃至6・5米の高さであつた。

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吉津警察の被害調査表
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地図 第2図 吉津村の津浪

島津村

 吉津と同様津浪の波害大にして地震による被害は殆んどなかつた。古和は幅の狭い南北一里もある湾の奥に位し、大半が災害を被り侵水地域も大にして地震後約15分で四回来襲した。週期は10分乃至15分で第一回と第三回が大であつた。流出家屋に250戸倒潰家屋167戸侵水家屋約300戸を出し死者21名であつた。学校・寺は侵水を免れた。堤防の崩れたものニケ所(橋附近)侵水地域は川に沿ふて延びこの大内山川に沿うた地域には家の倒潰が多く材木も川沿に運ばれ魚船の150の米程度離れた畑に押上られてゐるのもあつた。潮の高さは海岸において5米乃至5・5米最も高き所は橋附近の6米であつた。島津警察署の被害調査表を次に揚げる。

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地図 第3図 島津村の津浪
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島津警察署の被害調査表

新宮市

 此處では市の西北部なる元町、馬町、初の字等が極部的に烈震であつて、死者6、負傷者38、倒潰67、半潰146を出した。浮島町は埋立地で、南北の道路に沿ふ小亀裂があつた。市の警察の特高課長の談に依れば、埋立地ではあまり倒潰家屋は無く、尚地震動は初めゴーと云ふ地鳴を伴ひドヽドヽと二三十秒程揺れ、之は小さい振動で破壊は此の間には生じなかつたが、それが稍静まつたかと思つたら続いて烈しい水平動が起つた。被害は此の横振れに因るもので、上下動は余り強くなかつた。其の振動方向は西北西—東南東の向きで、従つて家の倒壊及び稍子障子などの破損も其の向きのものに多く、之に直角の向きのものには少なかつたとの事である。熊野の神社の大きな石燈籠は大部分轉倒し其の方向は南々東又は西北西のものが多かつた。又土壁は東北東の向きのものが破壊されて居た。
津浪では材木を1500石程流失したが、波高は2米位で大した事は無かつた。襲来時は震後10分と云ふ人も或は30分位経つてからであると云ふ人もあつたが、特高課長は震後15分のとき未だ津浪を認めずと云ふ電話を受けた。
人體に感ずる程度の余震は一日に一・二回位、數日間に亘つて起つて居るが屋外ヘ飛び出す位のものは二回しか無かつた。又地鳴は一般に伴はない。
さて尾鷲測候所の初動は南々西の下動で、初期微動8秒であり、又潮岬測候所の初動は北々東の下動で、何れもウイヘルト地震計で明瞭に新宮の向きを示して居り、熊野灘沿岸地帯は、一般に木の本以南の震度は中震であり、尾鷲以北は強震としては弱い方であるのに新宮のみが烈震であることからして、特に此處に一箇の震源を生じたのではないかとの疑ひを生ずるのであるが、前述の本震の地震動の有様並に余震の状態から見て、一箇の獨立した烈震の震源の様には考ヘられない様である。

勝浦町及び那智町大字天満

 天満駅を13時43分に発車した汽車が那智駅に丁度到着した頃、津浪が来襲した。此の兩駅間では汽車は二・三分しか費さない。地震は13時36分に起つた故に、此の地への津浪の襲来は地震後約10分間であると推定される。但し天満の某駅員は確かに津浪は13時50分に襲来したと強調してゐたとの事である之を信ずれば震後14分といふことになる。
下に勝浦並に那智警察署の被害調査表を掲げる。上の表中倒潰家屋は津浪によるもので、地震動による直接の被害は無く、此の邊の震度は中震程度であつた。天満から湯川へ通ずる大きな隧道の中にも變化は無かつた。那智駅の附近には殆ど被害は無く、那智の瀧などにも何等異常を認めなかつたとの事である。那智町の被害は大部分が大字天満に生じたもので天満でも駅の北側は浸水程度だが、駅から勝浦駅に至る天満村の殆ど全域が津浪に襲はれその波高約5米と推測される。此の天満の湾に襲来せる津浪は、堪防をAB二箇所で數米決潰し、他にも破掲箇所あり、鉄道線路は勝浦、天満兩駅間の殆んど全部が海と反対側ヘ押流され、特に決潰箇所では二十米にも及んだ。勝浦湾に面した家は、湾内の水面が漸次ふくれ上り、爲に床上浸水程度となり、直ちに退き始めたのであるが、此の際人々は天満村の方ヘ遁れんとした。然るに天満の優勢なる津浪が勝浦の脊後より襲掛つた。勝浦町の家屋の破壊流失は、皆此の天満から迂廻せる津浪によるものである。之亦人命の被害の割合に多かつた所以であらう。津浪は五回程押寄せて来たが、最初のものが最強であつた。天満から勝浦の町に通ずる道路は破壊されなかつたが、湯川へ通ずる道路は盛土の新道にして、津浪に依り決壊した。亦勝浦の外洋に面せるE部落には被害はなかつた。

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那智警察署の被害調査表
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地図 第4図 天満勝浦の津浪

湯川

 此處では温泉が一時的に多少湧出量を増加した様であるが、其の後復歸し、又温度等にも變化は認められない。一方、海の潮が増された事は明瞭に認められる。某温泉では満潮時には流し場迄は潮が来るとの事である。自分が見た時は、浴漕の上10糎にも達して居た。之から見て少くとも二・三十糎の沈下が推定される。地震動は中震と推定される。

桑名市

 桑名市は郡部も入れば家屋全潰116棟、半潰230棟となつてゐるが完全に倒潰した家は稀であつて内部の破損が甚だしい、従つて死者も僅か2名で其の中1人は工場の煉瓦煙突の倒潰によるものである桑名の桑名神社の石燈籠は約10個の中過半數轉倒し其の方向は南又は北ヘ倒れたものが多いが一定せず南30度西のものもあつた。又公園附近の長さ約30米幅2米程の土橋は落ちてゐた。桑名市の震度は強震の強い方で烈震ほどでもない様である。次に此處で記録された検潮記象を掲載する、津浪は震後約2時間で到達し押し波から初まり振幅50糎週期約1時間である、尚又和歌山県下津の検潮記象をも合せて此處に掲載する、発現は震後50分で週期は20分で第5波から大きくなつて4回大きく以後減衰した。

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第5図 内務省土木桑名出張新験潮記録
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第6図 和歌山縣下津検潮新記録

揖斐川の堤防

 桑名市の北方で揖斐川の西岸に櫻堤といふ長さ1粁半、幅は上面か3米、下底が10米程の堤防があるが之が甚だしく破壊した。此の堤の走向は處により多少違ふが大低北徴西—南徴東でありその走向に沿ふ亀裂の大なるものに幅四五十糎、深さ二三米、長さ數十米に及ぶものがあつた。大小無數の亀裂は此の堤防全部に亘るものであつて數十糎沈下した部分も多數見られた。或は玩具の積木を崩したやうにメチヤメチヤに破壊され道路面が四十度も傾斜し種々の向きをとつた所もあつた、(岡技師の寫眞參照)勿論堤を横切る亀裂もあり其の顯著のものは堤の中程で北40度西の走向をとり田や畑を通して陥没隆起或は水と共に青泥土を吐く等の地變が70米も続いた所もあつた。然し更に其の延長には變化はなく何處迄も川岸に沿ふ地變であつて櫻堤の北方約二里の七取村の堤防も大破損を生じたとのことである又櫻堤の西方の矢田町には倒潰半潰の家屋多く烈震の部類である。
堤防の破壊は揖斐川に限らず之と並行に走る長良川・木曾川等の堤防も同様に破損してゐる尚是等の川の三角洲には一般に地變多く泥土を吐く箇所も多い。揖斐川・長良川及び木曾川等の下流域は東側の平野と西側の山岳地帯との境界の所である、従つて地震動による土地の變動等も多かるべきことが推測される。

津市其の他

 津市では東南—北西に走る辨財町の被害が最も甚だしく完全なる倒壊は數戸に過ぎないが内部の破壊が甚だしく全潰と見做さるべきものが市全體で100戸にも達した。煙突の倒潰、屋根瓦の剥落、壁の亀裂等は到る處に見受けられる。舊岩田橋は破壊され此處では津浪による増水が1米位であつたとの事である。震度は烈震の部分もあるが全般から見て、強震の強い方であると測定される。石燈籠その他の轉倒物の方向は一定しない。
宇治山田市・四日市・松阪町等の震度も大低同様で津と同じく強震の強い方である、三重県の伊勢湾に臨む沿岸及び之に注ぐ川の河口附近等では一般に亀裂、崩壊、陥沈等の多少の地變が見受けられる、之等の亀裂線等は例外なく海岸線に沿ふか川に沿ふ方向であり特別のものはない様である、松阪の海邊の検潮儀記象については高木技師の調査報告を參照されたい。
字治山田市の北部の海岸の大湊町及び神社町等では津浪は12米で被害はない、四日市の石原産業の高さ600尺の東洋一といはれる鉄筋コンクリートの煙突は上から三分の一の處から折れた、それは後に継き足した継目の處であつて鉄筋のためにじわじわ折れて死傷者など生じなかつたとの事である。
次に三重県警察部警防課の御調査による被害表を掲載する。

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三重県下警察署管内別被害表

總括

 三重県並びに和歌山県の津浪の高さ及び地震後幾分間で到達したかを次に表示する。又之を図示した之によつて見れば熊野灘に津浪は最も早く地震後10分乃至20分で到達した。次に伊勢湾、紀伊水道、大阪湾の順序になつてゐる。浪高もその順序になつてゐる即ち大體から見て熊野灘の湾では五六米伊勢湾で一二米紀伊水道では一米、大阪湾では50糎位である。尚志摩半島の東部の湾では3米位である。従つて津浪の波源は熊野灘沖或は遠州灘西部遙南方沖と云ふことになる。
熊野灘及び伊勢湾に面せる一帯は約30糎程波降したのではないかと見られる。表の沈降の欄で括弧をつけたものは検潮記象より推測せるもので他は沿岸の潮の道路其の他に対す増水状態より推定したものである。
震度は三重県の伊勢湾に臨む方面では強震の極強い方で三重県及び和歌山県の熊野灘に面する地域は強震としては極弱い方か中震の程度であつた、只新宮のみが異常的に烈震であつた。

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地図 第7図 津浪の高さ及び其の襲来時期
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地域別震度、浪高、津浪の走時、沈降

昭和19年12月7日13時36分頃の遠州灘地震被害踏査報告(兵庫県、大阪府、和歌山県、三重県南部) 神戸海洋気象台 気象技手 酒井 乙彦

§I まへがき

12月11日中央気象台長より神戸海洋気象台長宛標題の件に就き筆者の派遣方電報あり、中央よりの依頼は大阪府及和歌山県新宮市迄の範囲であつたが筆者は尾鷲測候所迄の命を受け12日未明出発、18日夜歸廳した。掲帯物20萬分の1地図。ライカ寫眞機、傾斜計附磁石、2米の鋼製巻尺等を主とし外に食糧若干及懐中電燈を用意した。地図は5萬分の1が無かつたので止むを得ず、大阪憲兵隊に出頭大阪府及和歌山県下に於ける軍機保護法及要塞地帯法適用区域外の寫眞撮影の許可を得た。三重県は京都憲兵隊の管轄である事を現地で知り止む無く現地警察官の指示で撮影した。
兵庫県下の被害は兵庫県廳に於いて尋ねるに第一表を得、而も仄聞するに地盤の極めて軟弱なる地に於ける脆弱建築物或は煙突等に限られ居る模様とて時間の都合上實地踏査は割愛した。大阪府下の模様は同様にして第二表を得、最も酷い大阪市大正吉岡築港各地区を大阪管区気象台大橋龍太郎氏に同伴視察するに止めた。和歌山県下は新宮警察署管内のみに限られ他は窓硝子等の破損を處として見らる程度なる由とて第三表を與へられ該地籍へ直行、潮岬測候所春日技手に隨伴熊野灘側を踏査した。三重県南部は木本警察署管内(第四表)に九鬼村を加へた海岸沿ひに各部落を尾鷲町迄踏査するに止めた次第である。
大阪管区気象台にて築港検潮儀の記録を閲覽するに小規模乍ら然し美事な津浪潮候を見、各所の検潮儀を訪ねる事をも志す事にした。和歌山測候所で下津検潮所の模様を閲覽するに下津湾の静振状の美事な津浪潮候を見■。著名な安政大震に当り酷い津浪を受けた和歌山県湯浅湾由良湾日高湾特に三尾村に於ける潮候に関心せるも軽度の津浪潮候なる事と推察、時間の都合上之等は後日に廻し田邊湾へ直行、官公署も訪ね検潮儀を八方探せしも遂に見当らず而も対震研究で有名な松平氏を訪ねしも不在にて全く無爲に了つた。潮岬測候所串本検潮儀はケルビン式なる爲地震動で起動器停止し用を爲さざりしは止むを得ざるも浦神検潮儀はリシヤール式なるも自記紙無く既に六ケ月程前より休止しありて用を辯ぜざりしは痛恨の極みであつた。之は過般神戸海洋気象台より中央気象台へ移管後事務上の都合が不整備なりし関係で不可避事之も知れざるも、仄聞するに之が自記紙は中央気象台に於いて在庫品多數あるのに潮岬測候所に於いて再三再四に亘り自記紙の入手に盡力せられ果ては神戸海洋気象台へも願ひし程にも不拘遂に入手出来ざりし由、関係当局の猛省を希ふや切なり。
和歌山県田邊町にて該地震後屡々地震ある模様は日次の関係上神戸及び大阪等に於ける餘震の人髄感覺地震状況に比し相当異常である様に覺えたりしが、潮岬測候所にて餘震記象紙を閲覽するにP〜S3秒内外の地震多數続発し居るを見て該地震を契機に遠州灘より熊野灘に亘り一蓮の関係あるのか震源より200餘粁も距たる此の附近にも餘震的状況に局発的規模の地震を発生し居るものと認めらる。更に東に遷り那智町に於いて該地震を沖の方向にて異常な海鳴を頻々と聞き又地震動を感ずる事もあるとて住民の不安の念に驅られ居りし事は、曩の餘震群が那智町沖合に発生するものやも知れず、併前記地震象は常識的に見て同所直傍の地震の様相に映りしものがあつた事と併せ考へれば、相應な範囲に発生して居るらしい。此の異常海鳴は浦神附近より宇久井附近迄で新宮市では聽かず更に東して三重県木本町に到りては微體感の地震は屡々感ずるも海鳴は知らざる模様であつた。併、筆者が16日夜更に東なる南輪内古江に泊りたる夜、16日20時21分頃震度2,17日0時31分頃震度3,同33分頃震度1,同2時24分頃震度2等4回の地震を観測し、第二者は該地震の餘震らしく性質緩漫なるも震動稍々酷く一般に戸外へ飛び出し津浪の再来すら虞れし者多數あり、最大の餘震とすら稱す者もある程であつたのに対し、残る3者は等しく性質急にして局発地震的體感で地鳴は沖方向にて遠雷状のものが地震動と同時或は僅に早く聞をし類であつた。又17日11時27分項北輪門村三木浦より九鬼村早田に到る三木峠の分水嶺に小休止せし折砲聲に似たる音響を聞いたと同時に震度2なる極めて急激な地震動を感じた。之等より此の附近にも局発的餘震が発生し居るのでは無いかと察した次第である。尚、異常なる音響に就いては斯様な山塊櫛立をる處に於いて飛行機が山峰を縫ふ如く飛ぶ時は物凄き唸聲を起すもので筆者は最初異常なる地震来と瞬間覺えし程とて異常海鳴と時に疑似混同の虞が考へられた。筆者は教養ある住民に教えられ且飛行機を認め納得出来以後兩者の判別は容易に出た。幸ひ斯様な捻聲は震前より屡々起り既に住民は馴れ捨て出来て居るらしく海鳴と混同し恐怖感に襲はれる如きは全く耳にしなかつた。尚又、海中へ爆雷を投ぜし際は其の物凄を音響とこだまは人をして恐怖せしめるに充分なる趣なれども之又住民は馴れ染んで居るらしいから異常海鳴と混同する事は起るまいと察せられた。共に山塊急峻を以て海に迫る地勢の三重県木本町尾鷲間の漁村に於ける記事である。
地震動直接の被害は津浪来襲地に於いて全く聽かず、震動の體感は孰れの地にても緩漫にして感覺時間の異常に長かりしを謂ふのみにして地鳴の如きは全く知らない模様である。新宮市の如き震害のみ比較的卓越したる處にても同様な観測であつた事は注目すべき事と思ふ。尚、木本町尾鷲町間の部落を結ぶ山路は時に駄馬すらも通り難き悪路と峠の連続であつて、此の山腹に沿ひ設けられた山路へは孰れも1〜10立坪程度の小規模な岩礫崩れが無數に見られ、又山腹を耕し岩礫を以て石垣を作り段階状柑橘畑が一帯に発達して居るが此の石垣の崩壊又多數にして回復には相当な勞力を要する由であつた。斯様な小崩壊の起つた際の土煙が海上より眺めた山腹一面に擴がり舟體の激動と共に舟上の人をして異常な恐怖感を起さしめたものと符號する處がある。因に此の岩礫は此の邊一帯の地殼らしき雲母花崗岩の腐蝕せしもと認められ、大體直径30〜50糎大のもの乍ら内部迄浸蝕され居り甚だ胞く小塊を指にて押せば忽ち砂状に碎けた。住民はシブ石と呼んで居るらしい。岩表の耕土を洗ふか割れば無數の白色斑紋が中心に小粒を有し放射状に擴がり直径5粍内外に見受けられた。尚、気附く限り墓地を訪ねたが石碑の倒れは勿論移動したものすら認めず僅に曾根部落脊後の山腹に於いて後述の如きを見たのに過ぎない。尤も尾鷲町の墓地では全石碑が倒れしと仄聞する。以上の記述より該地域一帯に亘る地震動の加速度は甚だ小さかつたものと推察され、後述倒壊家屋其他破損は夫れ自體の固有週期と地動週期とが共鳴的現象を起せし結果地盤の軟弱も禍ひし地震動直接の震害を起したと見倣され、一般震災と別視野のものとすら考へ度い。
従而、筆者踏査地域は津浪に據る災害が大部分を占め、僅に大阪府下及新宮市に於いて地震動に據る被害を見た丈である。
以下記述に潮高とあるは大體の満潮面より津浪最高位迄の高さにして、海岸直傍の家屋等の津浪跡を便りに筆者の直接計りたるものは米單位で示し、海面より水平距離が大なる地點では測定せず住民の指示の値を尺單位で記した。又過般の暴風雨とは昭和19年10月7日の熊野灘沿岸を洗つた大暴風雨を指す。

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第1表 兵庫県下の被害状況(兵庫県発表)
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第2表 大阪府下の被害状況(大阪府発表)
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第3表 和歌山県下の地震被害調(八日牛後十時現在)(和歌山県発表)
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第4表 三重県南牟婁郡木本警察署調べ

§II 實地踏査概要

 1. 大阪市大正区市岡区築港方面。被害は等しく、地震動に據りしもので津浪に據るもの無く、家屋の破損と埋没水道管よりの洩水程度にして常識上より察せらる地盤の極めて軟弱たる事の効果と認められ甚だしきは当時泥水を噴出せし處もあると謂ふ。家屋の破損は一般に屋内外の壁土の脱落無數、倒壊せし家は地盤の特に軟弱と見るよりも建築上の點より顧慮さるベきものと認めらる。例へば往時所謂「手抜き家屋」なるもの流行せし模様にて四隅の柱其他を除けば外面には相應に柱見ゆるも實際は柱無く、其他一般に體裁のみの家屋にして建築上の堅牢さの缺除せる爲である。第二表大正区に於ける倒壊家屋中注目すべき事は一階二階別世帯なる文化住宅式1棟のもので15〜20年前建築、平常より空襲被害軽減の見地から危懼され併し外見は四邊の家より勝るかに見えた壊の際隣接平家二軒を押し潰し之が更に隣家平家建ヘ倒れかかり半壊を起して居た。尚、此の反対側隣家5軒も同様な建築機巧とて、倒れざりしも立ち乍ら分解した模様で倒壊家屋として取扱つた由。即、此處丈けで47世帯が全壊、幸ひ前記の次第なり空屋なりしもの半數餘とて罹災者は136名内病者のみ3名死傷せるに止まつた模様。従而、大正区の全壊家屋の大半は此處に在る事になるが他面半壊784とは云ふものゝ踏査に当りて一般家屋の外見震害は他に比し酷からず寧ろ築港より八幡尾町附近の方が損傷が目立つて居た。又、尾根棟のみ倒壊或は「張りボテ式」外装の破損等矢張り手抜きならんと窺はれた。尚、家屋稠密を極め居り四周道路に囲まるものは全體が恰も一棟の家屋の如き振動を行ふらしく、四隅的関係位置のものが倒れかゝり或は倒壊して居る其の対照は目立つて居た。


2. 和歌山県串本町。大體4〜5尺の潮高にして床下浸水すら僅かで濟み県道を洗ひし程度と謂ふ。


3. 浦神。地図にて一見せらる如く東西に細長き湾の兩側に民家あり、湾奥より大約3分の1の地點に小学校其他を有する小島が在る。北側より此の小島ヘ通ずる3米巾の石垣造り盛土の道路があつたのであるが津浪に據り其の中央部が湾口方向へ洗ひ崩され海水を通じ恰も低下せし如くに變化した。(寫眞參照)此の小島に津浪が衝突した爲かと察せらる位迄の北側家屋群のみが俘上流失倒壊を起し慘状を呈す。南側の同位置は家屋疎なるも床上浸水或は倒れかゝりし程度と謂ふ。之より湾奥方北側に浦神駅在り其の東に接して石原産業浦神出張所事務所あり其の一階天井裏間近迄浸りたる由にて明瞭な跡あり、之で潮高を計るに4.1米。尚駅構内同所門衛所と覺しき間口5.6米、奥行2.8米、高さ2.5米の家、海面上の高さ約3米のも北々東方向(歸り潮方向)ヘ8米其儘移せしが見られた(爲眞參照)。津浪潮候は震後10〜15分頃静かに昇りたると謂ふ。同湾最奥部手前は一軒家在り(海面上約1.5米)のもの浮上湾奥方ヘ約70米流れ分解す。此の湾最奥部を囲む山壁草木の枯死物を便りて潮高を計るに5.5米。尚、此の地にては潮候異常とて警戒中であつた。


4. 太地町。森浦部落に在る太地駅より順路に従ひ太地町に向ふに、森浦湾へ入る小川に架る橋脚鉄筋混凝土製の橋其の橋脚を残し流失、橋端盛土崖破壊(寫眞參照)。湾地勢より案ずるに太地町は小学材其の他官衙の在る南部々落こそ津浪害酷き事と推察せしに事實は部落北部の鯨工揚附近一帯が全部倒壊流失、約80噸程度の汽船約1米餘上陸せるを見る(寫眞參照)。潮高約5.0米、町民は30尺と謂ふ。斯くなりしは津浪は東方より来り丁度向ひ袋的関係位置の北部細湾ヘ入り発達し他方太地湾南部ヘ入りし津浪は向島南西細路を通り北西方に奔流し該災害地點にて前記津浪と衝突し更に災禍を増せし模様にて住民も又之を訴ふ。因に太地町南部は浸水程度で了りしと謂ふ。矢張り潮候異常を聽く。


5. 湯川。湯川駅附近は入り海を西方に有するも住家は海面より3米内外高き地勢から被害皆無、只、入り海へ異常に潮高くなり田畑の浸水を見たる程度。潮高8尺位と謂ふ。尚、駅より北方約1粁の山間に在る著名な湯川温泉の湧出状況には異常無し。


6. 勝浦町。相対的に災害の最も酷き處にして、勝浦駅を中心とし僅に東南側のみ浸水程度で免れたに過ぎず他は直傍より以遠の地域に亙り震前の民家街状たりしを偲ぶべくも無き一面の泥流乃至家屋分解材の原と化すの慘状たり。第三表と対照し被害の意外に小なるは勝浦駅構内西側を界とし西方一帯は那智町地籍なるに依る。他面、那智町災害の一見より酷きは實に勝浦町接続地域に於ける被害である。此の地域への津浪は勝浦港方向より来襲したるに非ず實に同町北方1粁の地形に在る那智湾ヘ昇りたる津浪が其の南西部海浜の比較的低く且つ其の背後地帯が勝浦町に亙り海浜高より低き爲湾口へ歸らず其の儘勝浦町へ流下せし事實に據る。尚、那智湾四周を踏査するに南西部海浜松林の潮に隠れしと謂ふ住民の話より察するに確に那智湾一帯に4米前後に潮候発達せし模様なるも津浪は湾に対し略北東より来たりて特に此の南西部に於いて稍高きを招きし如く察せらる。
尚、勝浦町民に依れば勝浦港にも津浪軽度乍ら来撃之と那智湾より上陸せし潮と海岸にて衝突せしと謂ふ。併、災害の模様よりすれば左様な効果認められず、流下せし潮は勝浦駅に向ひ流失家屋の分解物が駅構内貨車及び乗車ホーム等にて停められたる結果一は西側を一路勝浦港へ、一は北側住家を浸し或は流し進んだものらしく、之に対する駅脊地域は浸水程度で了りし模様。潮の流下地域に立ち残れるは家は一般に堅牢なる建築と察せられ、破壊せし家全部が他津浪災害地に於ける如く浮上分解せしには非ず、流下の途中破壊分解されし家の材が共に流下之に依り破壊を更に倍加せし模様にて單なる津浪現象に非ず寧ろ水害的災害と見るべきものと推察した。潮高15尺とも謂はれるも不確實なり。尚、勝浦温泉の湧出震後停止したりと謂ふは注目に價する。尚又、災害結果としては和歌山県下最大の地とて調査も又他に於いて詳細を極め居る事と推察し以上にて打切り先を急いだ次第である。


7. 那智町。災害部落は南より勝浦町接続地、天満、浜の宮の三者にして前者は那智町地籍被害の約2/3を占め他は天満部落に起り後者では小舟の流失乃至上陸或は石垣造り築堤の破壊乃至耕地浸水程度にて難を免れて居る。前者の耕地流失或は盛土鉄路約500米流失破壊及び家屋の流失乃至破壊浸水は等しく前項勝浦町水害を起せし水路に相應し人家密なりせば其の慘状想像の域を越ゆるとすら恐はしめた。天満では天満駅天井迄浸水、人的損害の比較的多きは那智湾に昇りたる津浪が前記の如き水害状を起す事必條なる地勢にも不拘、古老之を経験せざりし爲か或は津浪現象を注意する事少なかりし爲海浜より相当な距離ある事の錯覺も手傳ひて震後直ちに逃難せず、潮迫りてより漸く待避せし結果と見做せる。今後最す心すべき地勢である。天満那智駅間盛土鉄路約80米流失鉄路は枕木を附けし儘陸方向に約20米投げ出されし形に在る。之の天満駅側にて海に入る小川の人橋流失。那智駅は浜の宮の南端に位し約3.5米の高さを以て海に接す。駅は乗車ホーム0.3米浸水、結局潮高3.8米、第一回の潮昇りたるは13時50分なりし由。此の附近より浜の宮部落を防ぐ約2米の石垣築堤上に樹齢凡そ500年と覺しき防風林あり、津浪は此の築堤を越え背後耕地の廣範囲に隘れし跡あり、ボートの類も之を乗り越へ盛土鉄路の堤に懸るあり、石垣上邊小崩壊を起し小川の出口に当り約8米欠壊す。尚、同駅直脊海浜に立つ高さ2.5米、巾1.5米、厚さ0.4米の黒色頁岩造「山口熊野君頒徳碑」は寫眞に見る如く岩を混凝土で繋ぎし岩塊上に在り、之は過般の暴風雨の際其の波浪で岩塊が碎け石碑も多少傾きて居りしものなるが東南東方へ32度傾いて居た。一見の如き夫程不安定で無いのかも知れないが倒れざりしは此の地震動の強さを窺ふものにして記録し度い。尚又、此の地にて異常海鳴を震後頻々と沖方に聽く由を聞く。浜の宮側より勝浦町方へ津浪上陸せし那智湾南西部海浜の模様を寫眞で示す。潮は稍右方點在防風林の頭部を僅に残す程度に隠し陸内へ溢れしと謂ふ。


8. 宇久井村。住宅は宇久井半島の附中根部分より首部に亙り街状をなす。幸に海浜に直接せるも宅地が海面より自然的に3米程度の台地を爲す関係上一般に宅地上ヘ潮昇らず、僅に半島頭部附中根附近が相対的に稍低地なる爲此の地域にて海浜沿ひに道路を洗ひし程度なり。若し此の地域が0.5米低きか或は潮高0.5米高ければ宇久井北東湾に昇りし潮は南西湾へ耕地を横斷流下せしものと考へらる地勢である。之等より潮高を求むるに約3米弱と見做せる。


9. 三輪崎町及佐野。宅地が一般に海面より稍高き地勢より潮高8尺程度昇りたる由なるも數舟を流失せし外に被害無しと聞き踏査は割愛した。


10. 新宮市。被害は殆ど地震動に據るものにして津浪に據るは流失船のみである。被害の最も酷きは元町で被害域は本町五丁目附近より南北に互る元町附近及び天然記念物たる浮島南側周邊なり。大體新宮市全家屋の模様は壁土脱落等一般に他より震動強かりしを示すものが散見されたのであるが、被害地の様相に対し格然と無被害状たるは奇態の感を覺えしめ、被害地域の極く小範囲なる事と共に近傍の地籍に倒壊家屋が起りしとは覺えざる程であつた。昭和18年9月10日鳥取市附近烈震の際烏取市被害地域にて注目されし波状的倒壊家屋の介在は元町通りを通じて見当り、被害點と被害點との距離40米内外と目測した(寫眞參照之は元町の南部区裁判所附近であり、此邊に到れば最激地より被害は甚だ少なくなつて居る)。同市著名な百貨店と聞く丁字屋の粉碎状倒壊は家屋としての堅牢さに疑問が懐かれ、本町五丁目奈良林材会社事務所の二階崩落(寫眞參照)は外装の凝似混凝土状なるに対し實際は四壁の煉瓦積み其他に據つたもので之又堅牢さに欠け居りし事も一因を爲すと思考せられ、大體煉瓦造り建築の耐震上如何に脆弱であるかを示唆せるは鳥取烈震の際も隨所で起りし事である。同所向ひ側の堅牢らしき張ボテ式の大家屋も寫眞の如く外装破壊す。浮島は沼澤地にて特に其の南接地域は道路に亀裂を起し或は斷層状に上下喰ひ違ひを生じ軟盤側が低下せし等地盤の軟弱に大半の責を負はすべきは直傍家屋の健在さより明らかである。
以上の如く同市の震災より此の地乃至近傍の地に震央を有するの説が或は可能ならんも震動性質の他と同様なりし事より地盤の軟弱に見込みを置き地盤の調査に費す。住民の談では該被害地は西に千穗ケ峯東に永山なる山塊を有する南北の地域とて宅地は兩山塊の連絡にて堅固の筈と謂ふ。新宮中学校を訪ひ先生方より地理学上よりの教示を受けしも明確ならず、併し昔時熊野川は現在の如き流路で無く速玉神社附近(五萬分の一地図參照)にて屈曲し元町邊を南下、爲に俘島及附近の沼澤地を形成し海に入りしものと謂はれ、該被害地は昔時の川底乃至河原に相当するものらしい見解を聽く事を得た。


11. 三野県南牟婁郡木本町。地図にて案ずるに新宮市より之に到る海岸線の地勢は津浪の現象を回避し得る理想的な存在と推察さる。古来一帯に津浪の災害傳はらざる由、今般も河川口より潮侵入耕地を浸せし程度にて住民は何等問題として居らず、寧ろ過般の暴風雨に際しては異常な海浪昇り被害ありしと謂ふ。震害としては屋根瓦の飛びし家數十軒を數ふも其の程度は軽微なりし由。潮
高10尺と謂ふ。


12. 泊村字大泊。湾奥に小川流れ込み相当廣き耕作地あるも家屋少なく且つ宅地は相対的に稍高き台地に在る関係上、津浪は海岸沿ひ約2米の盛土築堤兼郡道を約40米に亙り決潰橋梁上部を破壊し侵入耕地を浸し數軒の住家床上を浸らすも相対的に被害軽徴、林道石垣に残る潮線より潮高約3.5米を測る。海面より約5米の砂丘上に在る木造船所内100噸位のもの被害無し。他の如く此の低地に家屋密なりせば新鹿乃至賀田程度の被害発生せしは想像に難からず。


13. 泊村字古泊。海岸に高さ約3米の石垣を築を其の上を家屋密に港を囲む。潮高4.2米を測り、流失家屋2、浸水十數軒を出す。津浪は5分後に来り2回目の干き潮には港底を露出せると謂ふ。


13. 新鹿村字波多須。海岸直傍には家無く全然被害無し。過般の暴風雨には波浪物凄く海面より10米餘もある段階状小畑ですら潮害を受けし由、潮高12尺と謂す。


14. 新鹿村字新鹿。海浜に2米高の石垣造り築堤と個入植林になる防風林あり、家屋は里川一帯に稠密(450戸)。津浪は此の築堤を破り或は防風林背後の低地へ流れ込み里川に沿ひ約700米遡行、海浜寄り157戸を倒壊乃至流失し195戸を損ずるの慘状を惹起。宅地は割合海面より高き模様なるも極めて緩慢なる斜面とて潮の侵入は容易乃至は3回位の潮の干満と家屋分解物の衝突で斯くなりしと思はる。津浪来襲は5〜10分後、潮高は最奥部にて15尺と謂ふ。防風林の効果を訊せしに今回は防風林は湾奥一部を遮斷する程度なる爲左程云々出来ざるも若し海浜一帯に完備し居れば被害は餘程軽減せしものと謂ふ。尚、当時新鹿と遊木間を舟にて航し居り丁度其の中間地點にて激動を感じ四周山腹に物凄き土煙を認め異常感と津浪来を虞れ急ぎ漕ぎ歸りし人あり其の談では、新鹿遊木間の航行所要時間は大約20分、舟は稍遊木方に近く成り急ぎ漕ぎし爲恐らく10分で新鹿南端に着き、舟を繋ぎ止めし折は既に潮昇り来たりしと謂ふ。之より推察すれば地震動の體感3〜5分間として約10〜15分にして津浪の第一波来たり、而も一般に最初酷く潮干したりと謂ふも事實は最初僅に上昇し、之が干てから津浪の来襲となりたるものと考ヘらる。尚、激動の際は櫓を操る事出来ざりし程にて海面も稍小波立ちたるも海況は危険感を起さざりし由。又、海面の昇降は實に物静かに行はれたのが眺見出来たと謂ふ。


14. 新鹿村字橋間。新鹿と殆ど蓮続せる部落なるも此處にて流入する小川の流域一帯の耕地は浸水し或は橋梁流失せるも家屋は高き山腹に在る爲被害起らず、50噸程の汽船が海面より2米高の盛土道路を破壊しつゝ乗り越え上陸し居るを見た。大體の潮高を測るのに5米弱。


15. 新鹿村字遊木。小さき入海を囲む海面主3.0〜4.0米の石垣を以て直ちに海面に接する地勢に家屋密。潮高5.5米。古き家乍ら建築材の良き家は天井裏30糎邊迄潮跡を残すのに俘上せし模様無く流木類の衝突で多少變位移動乃至歪んだ程度なりし例數多し。


16. 荒坂村字小向及二木島。兩部落は事實上家屋連なり湾奥部の南側が小向にして北側に二木島が在り兩者の間は村役場其他家屋で連る。小向部の海浜のみ一部傾斜地を以て海に開き居るも他は2米内外の石垣で海を囲み宅地となす。従而小向には比較的容易に潮昇り得て流失倒壊家屋25戸を出すも他は二階腰板邊迄漬る。小向の潮候20尺と謂はれ役場直傍で6米、二木島海岸沿ひ家屋街西端に小川流入し居り其の出口直傍の郵便局二階潮跡より測るに6.3米。小向側西方300米に在りし石油鑵3〜4000個入り油タンク過般の暴風雨で設置場所より離脱し在りしもの當時空なりて小向海岸約1.5米の高さの傾斜面迄流れ着き上陸。


17. 荒坂村字補母。約3米の石垣を以て海面に接し家屋海岸に密なりて床に接觸する程度の浸水にて濟む。潮高4.5〜4.8米。


18. 南輪内村字曾根。補母より曾根に到る急峻なる峠の曾根側中腹に在る墓地に於いて隣在小型石碑異常無きも最近建立と覺しき高さ1.08米、底面0.31米^2の英靈石碑10糎、北東方へ移動せるを見る。海面上1米弱の低地の家屋倒壊流失13戸、潮高5.3米を測るも津浪の来襲勢力穏やかなりし爲か他の模様に比し被害少なくて濟みしを覺ゆ。


19. 南輪内村字賀田。震前は木本町局鷲町間隨一の街状を爲し町工場の類すら相当存在せし模様で混凝土床に諸鉄製機械類の据附け残れるもの散見され補装道路も海面すれすれに残るあるに対し、一見果して先般迄街在りしを想像し得ざる迄に荒廢し家屋分解材の山積擴がり或は直径5糎位迄の球形の石が河原の如く流れ敷き筆者の踏査中最も酷き災害地なり。併、斯くなりしは餘りにも低地迄耕地を潰し家屋群発達せし爲で津浪自體の卓越より寧ろ地勢上当然の歸結と推察さる。分解材は他の孰れに比しても比較的新しく、古老の傳を忘れ低地に街並発達せしと同時に此の災害を受けしとすら稱する者ありしは實相に觸れ居るものと認められた。津浪は古川流域を約7町も遡行し潮高30尺と謂ふ。流失172戸、半壊36、浸水150以上、残りしは古き家のみの観あり。


20. 南輪内村古江。家屋群は海岸に迫る緩傾斜面に稠密し海岸には家屋相対的に少なく宅地は海面上約2米位なる関係から浸水家屋27戸を出せしのみにて潮候2.7米を測る。


21. 南輪内村字梶賀。家屋少なく且海面上高きに在り被害無しとて踏査せず潮高15尺と聽く。


22. 北輪内村字三木里。八十川が湾奥に於いて流入し下流域耕地廣く大泊新鹿賀田に類似したる地勢而も海浜に相当美事なる防風林あり。津浪は湾奥南部の防風林無き處より八十川に沿ひ遡行防風林堤一部決壊し胴廻り6尺に及ぶ松約2町上陸。南部海岸沿ひに海面上2尺位に岩礫にて盛土せし上に設けられありし林道用鉄路約30糎海中に没する事數町に及ぶ。相対的低地に家屋左程発達せざる爲流失20戸、半壊15戸、中破15小破48外に耕地18町歩を流失して濟む。潮高15尺と謂はれ其の浸水程度より低地の家屋群賀田新鹿の如くなりせば其等に比敵せん災害生ぜしならん。防風林の効果稍見当るも一部防風林堤を乗り越え且決壊部より裏面ヘ潮廻り防風林背後の家屋群にも相当な被害を生じて居た。


23. 北輪内村字名柄。津浪の潮高4.0米に及びし如きなるも低地に家屋少なかりて耕地の浸水程度にて濟む。


24. 北輪内村字小脇。數軒の家屋海浜邊りに散在せるも、陸地稍高き爲家屋床上僅の浸水にて濟みし由。潮高3.3米。


25. 北輪内村字三木浦。海岸沿ひに1米の石垣を以て海に臨み之に家屋群在り海岸寄りの家一階天井直下迄浸水、流失6戸、大破13戸、中破20戸、小破79戸を出すも過般の暴風雨時より軽度なりしと謂ふは津浪の来襲は暴風雨の際の波浪の如きを呈せざる爲ならん。尚、此の地に安政大震に據る津浪を柱に標せる家あり今回は未より稍低きも、逆に稍高く来りし家もあると聽くも検證出来ず。潮高4.0米。又、地震動と共に津浪来を慮り直ちに発動機船にて湾上ヘ乗り出せし教養ある木ありて談を聽くに、地震後10分位にて稍■潮昇りたる模様なるも左程明瞭ならず次いで大いに潮干き魚類の騒ぐ模様すら窺はれ、恰も映畫に見入りし場合の如く海面静穏なるも忽ち眼前の家屋群一階屋根を没せん迄寧ろ家屋群が沈みし如く又忽ち干き更に潮上昇し来る之湾内中央附近で干き潮と満ち潮と衝突し恰も龍巻の底部の如く約5米程局部的に海面ヘ凸起出来、其の中に魚類の群がり亂れる模様明瞭に見られ素晴しかつた模様である。潮の干満は大體5回程で後も多少続いたが僅に海岸邊道路を漬ける程度。尚、渦が相当以後迄残りし模様とて秋刀魚の群が潮の色を替ヘて湾内に群集し或は鴎が群をなし海面に群がり魚類の群集が窺はれた由である。又津浪時陸上の慘状は海上餘りにも危険感無かりし爲左程気に懸らず他面海岸上に在りし家數軒綺麗に消失海面分解材で埋まりし模様で之等の爲船の操作が僅乍ら不便なりし程度と謂ふ。津浪後1日目の踏査当時未だ湾中央部に家屋分解材の群が見られた。


24. 北輪内村字盛松。大正三年版20萬分の一地圖の盛松には現在住家無く十餘年前頃より漸次三木浦北方近接地域へ移轉し戸數40を數ふ内、大多數が流失倒壊し慘状を呈す。三木浦と略■同地籍と見倣せるにも不拘斯様な被害を起せしは、前記談中の津浪の衝突に據るかも知れず、或は湾奥方に近き爲とも知れず潮高30尺と謂ふ。


25. 九卑村字早田。港には海面上約2米の石垣造り防波堤あり住家は海岸沿ひに約2.5米の石垣を以て海面に接す。潮高5.3米を測り倉庫10棟流失浸水48戸。防波堤の爲被害は比較的軽くて濟みし事を強調する住民多し。


26. 九鬼村字九木。湾の腰部に当り海岸1米餘の石垣を以て海に接し潮高3.8米を測る。56戸流失半壊4戸、浸水247戸。尚湾奥部にては大體15〜18尺の潮高と謂ふも住家少なく耕地の浸水程度で濟む。


27. 九鬼村字名古。湾奥部に当るも住家少なく潮高18尺と謂ふも災害ば輕度にて濟む。

§III 結び

1. 津浪災害地は勿論地震動にて被害ありたる地にても歩行こそ不自由乃至困難を来せしも性質は急激ならず可成り緩慢なりと謂ひ得る程にして、地鳴は全然聞かず又他の異常現象を知らず、體感時聞は一般に狼狽せし實情より不確實なるも3〜5分間は確實の模様、震災では特には電柱頭部或は尾根棟の1〜2尺程も動揺せしを聞く。


2. 震災は地盤の特に軟弱なりと認めらるゝ地に見られ破壊乃至倒壊家屋を極言すれば当然倒れるべき家とすら謂ひ得る程の脆弱建築物に限られ建築の新舊では考へられ無い。即、手抜き式建築、外装甚だ堅牢らしきも張りボテ式家屋、煉瓦積み建物等。倒壊は其の建物の固有週期と其の地に於ける地震動週期の特に符合せし處へ震動時間の長かりし事も関與し強制振動の卓越を来せし事も考へられる。即、破壊せし家と其の四邊の家の健在との餘りにも甚だしき対照が注目された。


3. 従而、建築物の破損状況より直ちに震度を決定する事は不当なりと考察され一般に震度4〜5とするより3〜4程度と推定した。


4. 津浪災害地では附近の山腹小崩壊多かりしも石碑類の異常見当らず又地震動で破損せし物全く聽かざりし事は注目に値する。


5 津浪現象は熊野灘北部程酷く南下するに従ひ稍軽くなりし模様あるも災害地を通じ左程相異無く、僅に串本町古座町附近の特に軽度なりしを異とした。紀伊水道にも津浪潮侯入り大阪湾にすら及んで居る。併、全然津浪災害無し。


6. 津浪の各湾内潮高は其の腰部にて4米内外湾奥部にて5米内外と見倣せ、湾口の方向其他湾形に據り二次的な支配を蒙つて居ない乃至は寧ろ一見発達するものと推察されさうなものが却つて卓越せざりし等詳細なる研究調査の要も覺ゆる事あり。


7. 津浪現象の到達は一般に地震動後5〜7分位と強調されしも災害者の狼狽せし模様認めず極めて不確實なり。震災当時の他環境に在りし者の行動より或は沈着なりしと推察される者の言より地震動後15分内外或は時に20分位経過せしには非ずやとすら推定出来る節がある。


8. 津浪の到達模様は一般に最初潮大いに干たりと謂ふも多くは津浪来の豫感で避難し、避難場所に到り暫時後意識安定せし折海況を眺めたるに左様であつたと謂ふのが實情らしく疑問。實際は多少潮界り次に住民の未だ知らざる程にも酷く海底を露す程潮干て、次に昇りし潮により災害せし模様なり。最初の干潮と次の干潮とは大體同程度らしく或る人は前者が酷いと謂ひ或る人は後者こそ尚酷かりしと謂ふ。災害を起せし満潮は又同様最初とその次とでは大差無かりし如く多少後のものが勝れて居た模様である。災害発生と同時に人心無我夢中に陥りし模様にて以後の模様さつぱり不明、潮の上昇3回位と不審勝ちに語る程度。大體5回位らしい。


9. 津浪現象は最初僅に潮昇りしと假定し、津浪の到着時間の対象が次の干潮時のものとすれば津浪の模様が混亂して不合理の様になる。此の點を確實にせんと訊問を重ぬれども益要領を得なくなり遂には確實なりと信ぜられし値すら不明瞭となる。従而、干満の週期を推定せんと企つれども亦空し。災害者に左様な判別の出来る筈無しとすら訴ふる次第又無理からず、大體15〜20分位ならん節覺ゆ。


10. 併、輪内湾?の如き湾形の不整甚だしき處では湾内にて潮が衝突現象を起せし模様とて週期は意外に小さきやも知れず又津浪現象自體も單弦運動的理想波形より餘程亂れて了ふのが實際やも知れない。


11. 批度の津浪現象の規模は孰れの地にても古老より聞き傳へる安政大震の際のものより格段に小さきものらしいと謂ふ。僅に三木浦に於いてのみ匹敵せし模様なるは異とする。


12. 津浪災害地では等しく今回の海況と過般の暴風雨に際しての海況とを比較され謂ふを普通とし津浪災害と暴風雨災害とは一致せず寧ろ逆なる模様にて、前者の酷き處後者軽く特に前者の軽き處程後者の猛烈なりしを訴ふる傾向ありしは、津浪の到来海況と風浪時の海況と趣を甚だ異にせし事が窺はれた。例へば津浪は潮の昇降週期相対的に非常に長き爲大洋に対し其の湾形左程関聯せざりし如く影的地域も影とならず寧ろ袋に水を詰めし場合の如く湾奥は湾口乃至湾腰部的関係位置よりも潮高卓越せし傾向がある。


13. 併、災害の實相は部落が湾奥部に位置せる傾向と其處に於いて河川の流入あり一般に耕地が相対的に低地に構ヘられ居る等の爲災害程度と津浪の卓越度とは勿論直接相関するが主として人家及住民の災害は極宅地の海抜と家屋の密度とに相関すると見倣すベきである。


14. 尚、津浪現象の湾内海況は潮の昇降が極めて緩漫に行はれたるは實相らしく、他面海浜住居者乃至海浜附近にて望見せし者は潮静かに干るも水位昇るに当つては海底宛も沸騰する如く物凄き泡立ちで昇り上陸して陸上を進むに従ひ加速する模様である事より、海岸に山塊迫りて住家密なるも宅地の海面近く狭き地域に亘る處では尾根棟を殆ど没する迄も潮に漬りたるに不拘倒壊は比較的に極く少なく倒壊せるは浮上分解なりしのみで濟みしに対し、河川流域状地勢地域では潮の流勢で流失の勢を加へ破壊物の流動で更に災害度を増大せし模様である事は見逃し得ざる點である。


15. 尚又、災害酷き地域では、古老より津浪の慘状を聽き傳へ居り住家は海面より相当高き處に造られる傾向がありしが、其の悲痛観は人の代るに従ひ漸く薄れ次第に低地ヘ住家出来初め低地の住家増すに従ひ此の傾向更に進み、或は田地域の漸く住家で満ち果てんとする時機に当り今回の津浪に襲はれし由である事を聽いた。歴史は繰返さるべく今後の戒めたる事項ならん。


16. 因に、古老の言ひ傳への中に「逃げる場合脇道するべからず眞直ぐに山へ昇れ」或は「大地震ありたれば井戸を覗け津浪来襲する時は水必ず干す」等あり、後者に就いて一般に津浪は最初潮大いに干くものと盲信して居るらしく、今回も又直ちに潮干しと謂ふ者多かりき。前者に就いて、新鹿部落の駐在巡査が遭難されたのは住民は殆ど地震と共に津浪来を豫感し本能的に避難し被害の酷い割に人命に損害は無かつた程であるのに同巡査は最近同地に轉勤となりたる爲か津浪来の警聲となつて漸く待避せる模様にて親族3名と共に遭難された由である。尚、其の屍體はもう10間位待避せば事無かりしならんと察せらる位置で発見された模様である。一般に津浪来の豫感が古老よりの言ひ傳へで生ぜし模様にて津浪来と共に避難しては既に手遅れなる程潮の来襲は速かなる見聞を隨所で得た。又、若し夜間なりせば罹災者の8割は人命を失ひしならんと信ぜられて居る。


17. 家屋の浮上破壊に就いて、一般に8割程度時に屋根棟迄潮に漬らざれば浮上分解乃至破壊は行はれざる模様にて就中堅牢なる建築なれば屋根棟を没するも破壊せざるとすら謂はれ居り逆に比較的近代の建築乃至老朽家屋は其の半を漬せば破壊せし模様が随所で散見され其の談が信ぜられた。


18. 防風林は防潮林で無く其の効果卓越せるを認めなかつたのは、防風林なる爲防潮林状なるが其の防ぐ地域に対し完全に未を遮斷する如き延長を有さざる爲其の不存区域より潮が廻り込み或は其處を缺壊して効果を減ぜし模様である。従而、低地を護るべく対岸に延長して設けられしならば相應な効果ありし事は否めない。今回より之を軽視する事は不当にて、寧ろ之を機会により完全なる防風林の完備を希ふ。


19. 河川の出口に当る海岸は此の點が水理工学乃至土木学的には最弱點らしく海岸石造り築堤の破壊は一般に其の點で初まつて居るらしい。尚、石造り或は混凝土鋪装築堤でも浮流物の衝突が行はるれば案外脆く破損を蒙るものらしく、一度被損個所を生ずれば數回の潮の昇降で殆ど破壊し盡されるらしい模様を聽き又信ぜられた。


20. 橋梁は其の上部を没するや忽ち橋桁の流失を起すらしく災害地で残りし橋一つだに認めず全部橋材のみ残れる坊主頭状橋梁の名残を示すに過ぎなかつた。又、橋端部が弱點らしく茲より其の堤の破起りたると斷ぜらる節は随所で見られた。


21. 以上より津浪は不可避なりとも災害の軽減は可能にて少なく其人命は勿論家屋の倒壊の如きの防遏は期待出来る。先づ低地に家屋造らざる事、風雨さヘ凌げればよいとてバラツク式の脆弱住家は作らず狭く共堅牢な家を主旨とする事、海岸には防潮林を完備する事、古老の戒を再反省すると共に今回災害の次第は永久に遣し後輩を戒むべき事。


22. 従而、筆者は機会ある毎に今回の各人各部落に於ける事實を詳細に記録し置き、部落或は村役場が責任を持ち部落誌乃而村誌の如きを以て後世に遣し置く事を慫慂した次第である。住民又斯様な慘事は孫子の代迄も繰返し度く無い旨口に々痛感し居れり。


23. 今回の實地踏査に於いて最も関心事なりしは潮候異常なり。之は和歌山県田邊湾に於いて県立水産試験場長より既に聞き熊野灘沿岸全部落にて主張された處である。潮候異常とは和歌山県下に於いては干潮時刻なるに干潮たらず満潮時刻なるに潮況は干潮状で一般に潮が干ないと謂ふ程度でありしものが、三重県下に到りては明らかに潮位の高き事を述べ、該地方にては秋の大潮とて該時季は最も潮の高い事を普通とするにも不拘其の最高満潮面より津浪後は2尺程度は高く来て而も干潮時は以前の如く潮面降らずと謂ふのである。2尺なる値は各部落に於いて共通な値である事は注意を要する。筆者は前者の潮候異常を聽し折は説明出来ず多分当時は月齡よりして小潮期間なる爲干満の差相対的に小さき事よりの錯覺と解釋した。然るに後者に到り2尺程潮位高き事實を聽くに及び前者に於いても同様潮位高ゆれば前述異常潮候的に映る事を推定、此の潮位高くなりたる地ば域は既に紀伊水道田邊湾にも及びし事を察した次第である。偖、潮位が2尺程高くなりたりとす或は他に解説あらんも筆者は陸地が海面に対し低下せし事と假想し、假令海岸一帯のみが低下せれしにもせよ熊野灘一帯より紀伊水道に亘る廣範囲に起りたる現象とて之に依り発生せしエネルギーの如何に尨大でありしかを想つて驚歎した次第である。詳細なる研究調査を希ふ。
擱筆するに当り本實地踏査に種々便宜御配慮被下し各当局及び住民各位に衷心より御禮を申上げる次第である。(昭和20年1月3日記)

外側地震帯中部より発する大地震 武者 金吉

本邦島弧の外側即ち太平洋側に外側地震帯と稱する往々大規模なる地震を発する地帯の横たはつて居る事はよく知られて居る所である。筆者は外側地震帯を北部(犬吠崎以北の部分)、中部(犬吠崎九州南端の間)、南部(九州南端以南)に三分し、中部を豆南諸島を境としてABの二地区に分つ概本文に於て叙述する所は中部B地区から発したと推定せられる地震に関して■ある。
古来この地区より発したと推定せられる大地震は次表に掲げる通りである。其等の各々につき。説を試みやう。

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古来中部B地区より発したと推定せられる大地震

(1) 天武天皇12年10月14日の地震

この地震は日本書紀によると山崩れ河湧き諸国郡の官舎及び百姓の倉屋寺塔神社破壊されたる類勝げて數ふべからず。是に由りて人民及び六畜多く死傷す。時に伊豫の温泉没して出です、土佐の国の田苑50餘萬頃没して海となつた。この地震に続き沿海の地には大津浪が襲来し、調を運ぶ船が覆没した。なほ其夜伊豆島(大島?)噴火を始め多量の熔岩を流したやうである。
陷没した50餘萬頃は11.3〜13.7km^2の地積で、其の位置は今村博士によれば高知市の東に接する地であらうと云ふ。

(2) 仁和3年7月30日の地震

この地震は五畿七道の大地震で、京都に於ても家屋の倒潰せしもの多く、夥しい壓死者を生じた。津浪は海邊を襲ひ、就中攝津の沿岸は被害が甚しかつた。これによつて見れば震原は紀伊半島附近ではなかつたかと想像される。

(3) 仁治2年4月3日の地震

鎌倉に於ては震動強く、由比ケ浜大鳥居内の拜殿が津浪のために流失し、岸にあつた船10餘隻が破損したと吾妻鏡にあるのが唯一の史料である。震原は遠州灘か然らざれば相模湾ならんと思はれる。

(4) 正平15年10月4日の地震

10月4日紀伊国地震強く、翌5日24時頃再び強震、6日6時頃に熊野尾鷲より攝津国兵庫に至るまで津浪打寄せ、人馬死する者その數を知らなかつた(蓮專寺記)。史料が唯一であり且つ同書には翌正平16年の大地震の記事を缺いて居るので餘り確實ではない。若し蓮專寺記の記載に誤なしとすれば、震原は紀伊半島遙か沖あたりであらうか。而して翌正平16年の大地震の廣い意味に於ける前震であつたかも知れぬ。

(5) 正平16年4月24日の地震

この地震は攝津・大和・紀伊・阿波・山城の諸国に震害を生じた。攝津に於ては四天王寺の金堂潰れ(後愚昧記)、紀伊熊野社頭の假殿其他悉く破壊し(愚管記)、湯ノ峰の温泉湧出を止め、奈良では藥師寺金堂の二階傾き、同西院倒潰、其外諸堂破損するものが多かつた(斑鳩嘉元記)。沿海の地は津浪の襲ふ所となり、土佐に於ては香美郡田村下庄正興寺の古丈書は其時流失したと云ふ(土佐国編年紀事略)。この時攝津国難波浦の澳數百町乾上り、次いで津浪が来襲した、阿波の由岐湊では在家1700戸餘流失し(参考太平記)、当時の流死者60餘名を合葬し供養の碑を建立したのが康暦碑であると云ふ(阿波海嘯誌略)。此等の被害状況より見るに震原は紀伊水道の南方あたりかと思はれる。

(6) 應永14年12月14日の地震

この地震は紀伊国熊野及び伊勢で強く感じ、津浪を伴ひ、本宮の温泉は80日湧出を止めた(伊勢
記、校定年代記、南朝紀傳)。震原は多分熊野灘であらう。

(7) 明應7年8月25日の地震

是より先き延徳3年(1491)及び明應元年(1492)に伊勢に強き地震があり、明應2年(1493)に渥美半島に強き地震2回、更に明應7年(1497)4月5日同半島で強き地震を感じた。此等はすべて8月25日の大地震の廣き意味に於ける8前震と云ふべきであらう。8月25日の地震は震央を距ること遠き京都に於ても震動相当に強かりしものゝ如く、實隆公記に"五十年以来無如此事云々、予出生以来未知如此之事"とあり、和長卿記にも同様の記載が見出される。震度の強かつたのは紀伊より房總に至る沿海の諸國並に甲斐であつた。紀伊熊野に於ては本宮の社殿倒潰し、那智の坊舎も崩れ、湯蜂の温泉は10月8日まで湧出を止めたと云ふ。其他の諸国の震害については全然知る事が出来ないが、被害がなかつた譯ではあるまい。併し震害が浪害に比べて甚しく輕かつた事は疑ふ餘地がない。津浪に襲はれた区域は紀伊より房總に及んだ如く、静岡県志太郡誌によれば、同地方の流死者二萬六千人、内宮子良館記に記す所によれば、伊勢・志摩で約一萬人溺死したと云ふ。此等の數字は誇張されて居るかも知れぬが、容易ならざる災害であつた事は否定しがたい。就中伊勢大湊に於ては流失家屋一千戸、溺死五千人に及んだ。なほ其他二三の土地について記せば、伊豆仁科郷では津浪が海岸から18〜19町の地に達したと云ひ(佐波神社上梁文)、鎌倉由比ケ浜に於ては洪浪大佛殿に達し、200人の溺死者を生じ(鎌倉大日記)、安房小湊の誕生寺もこの津浪のために流失し、御朱印もこの時失はれたと云ふ(安房郡誌)。震原は東海道沖であらう。

(8) 永正7年8月8日の地震

この地震を強く感じたのは攝津河内兩国で、四天王寺の石の鳥居崩れ、河内藤井寺の本堂倒潰した(尚通公記、拾芥記、古文書類纂、多聞院日記略等)。海邊の地は津浪に撃はれ、浪華で人家の損失があつた(年代記抄節)。
震原は紀伊半島附近ならんか。

(9) 永正17年3月7日の地震

震害を被つたのは紀伊で、那智如意輪堂捩れ、浜の宮寺、本宮の坊舎、新宮の阿闕堂倒潰、海岸には津浪押寄せ民家の流失するものがあつた(校定年代記)。震原は熊野灘であらう。

(10) 慶長9年12月16日の地震

この地震は古来有數の大地震であるが、震害について具體的に記されたものがない。僅かに房總治亂記に"山崩海埋テ岳トナル"とあり、淡路草に淡路島千光寺の"諸堂倒る、其時佛像堂前に飛出すといふ"とあるのみである。併し前者は軍記であつて文字通りに信用する譯にはゆかず、後者は後世記されたものらしく、且つ他の大地震と混同して居る疑がある。斯くの如く震害が記録されて居ないのは、或は震原が陸地より相当距つて居たために震害が比較的輕微だつたためかも知れない。其れに反してこの地震に伴つた津浪は、故大森博士が其の区域の廣大なること我が地震史上稀に見る所と云はれた如く、東は犬吠崎より西は九州南部に及び、八丈島の如きも非常なる損害を被つた。房總方面の被害状況については房總治亂記に"海上俄ニ潮引テ卅餘町干潟トナリテ二日一夜ナリ。同十七日子ノ刻沖ノ方夥ク鳴テ潮大山ノ如クニ巻上テ浪村山ノ七分ニ打カクル。早ク逃ル者遁レ遲ク逃ル者ハ死タリ。先潮先ハ逢シハ邊原(現名部原、勝浦の東北)、新宮浜(新宮、部原の南)、澤倉浜(勝浦の東)、小湊、内浦、尼津(天津)、浜萩(浜荻)、前原、磯村、名太(波太)、尼面甫(天面)、大夫崎、江見、和田、白古(白子)、邊楯(平館)、骨戸(忽戸)、横桶(横樋)、御宿、岩和田、岩舟、矢指戸、小濱、澁田、目安里(日在)、和泉、東浪見、一ノ宮、名萩(南白亀)、一松、牛込、反金(剃金)、阿負濱、方貝(片貝)、不動堂、都テ四十五ケ所也。"とある。津浪が地震の翌日になつて襲来したと云ふ事は今村博士が嘗て指摘された通り、信用しがたいが、津浪の撃來前に潮が引いたと云ふ事は他の方面に於ける記載と比べて矛盾しない。なは房總方面については当代記に"上總国小田喜領海邊取分大波来テ人馬數百人死、中ニモ七村ハ跡ナシト云々"と記されてある。伊豆仁科郷では津浪が海岸より12〜13町の處まで達したと云ふ記録がある(佐波神社上梁文)。浜名湖附近の橋本では戸數100戸の中80戸流され、死者も多く、船が山際まで打上げられた(当代記)。伊勢の浦々では地震の後先づ數町沖まで潮が引き次いで津浪が襲来したと云ふ(当代記)。志摩並びに標式的なリアス式海岸なる熊野灘沿岸の浪災は定めし甚大なるものがあつたらうと想像せられるが、記録が悉く滅び去つて今は知る由もない。紀伊半島西岸の廣村では戸數1700戸の中700戸流亡した(有田郡地震津浪の記事)。阿波の鞆浦では浪高10丈m、100餘人の死者を生じたと云ふが(鞆浦碑文)浪高は幾分誇張されて居るかも知れぬ。宍喰では浪高約7m、1500餘人の流死者があつた(宍喰浦舊記)。土佐に於ては甲浦で死者350人餘、崎浜50人餘、東寺西寺の浦々400人餘と記されてある(阿闍梨曉印置文)。九州南部に於ては東目(大隅)より西目(薩摩)の浦浜に大浪が寄せて来たと傳ヘられる(薩藩舊記後篇)。また八丈島に於ては谷ケ里の部落流亡し、57人溺死、島中の田畑過半損亡したと云ふ(八丈島宗福寺古記)。
この地震の震原は、大森博士によれば、安房南東海岸を距ること遠からざる海底だらうとの事であるが、今村明恒博士は東海道南海道沖を以て震原なりと主張された。筆者は今村博士の説に左袒する者である。
なほこの地震の翌年即ち慶長10年9月八丈島の西山が噴火し、同年12月に至り同島附近に海底噴火が起り、遂に一火山島を形成した。この火山活動は前年の地震と無関係ではあるまい。

(11) 貞享3年8月16日の地震

遠江三河の兩国で強く感じ、遠江国新居の関所番所並に町家少しく破損、渥美半島の田原では城中の矢倉破損、士屋敷町家にも多少の被害があつた(甘露叢)。今村博士は渥美半島の東北端あたりを震央と考へられる。或はさうかも知れない。併しまた遠州灘から発した地震で、次に記す地震と共に寳永4年大地震の廣い意味での前震ではなかつたかと云ふ想像も許された相である。

(12) 寳永元年の地震

紀伊の沿岸に津浪が襲来し、三輪崎及び太地で民家30戸流失した(熊野年代記)。この津浪が地震津浪か風津浪か明かでないが、若し地震津浪とすれば震原は熊野灘で、寳永4年大地震の前震であらう。

(13) 寳永4年10月4日の地震

慶長9年の地震と同じく東海道沖より南海道沖に亘る海底より発したと思惟せられる地震は本邦有史時代に於りる最大の地震で、故大森博士によれば、家屋の倒潰を見た地域は駿河の中央部、甲斐の西部、信濃の南部より東海道及び畿内諸国、紀伊・美濃・近江・播摩に亘り、四国の全部及び九州の東部を包含すると云ふ。併し其後に発見された史料によると、備後三原に於て城の石垣孕出し、城門一ケ所崩れ、家屋の倒潰したものが多かつた(三原志稿)。出雲に於ても倒潰家屋130戸を生じ(出雲私史)。加賀■聖寺では死者はなかつたが、潰家があつた(聖藩年譜草稿)。強震程度の区域もまた大森博士の図示せられた所よりも一層廣く、即ち安藝に於ては舎屋破損多く(藝藩通志)、廣島では酒屋醤油屋の槽中のものは半ばを失ひ、城壕の水路上に溢れ、石壁の崩壊したものもあつた(廣島市史)。因幡に於ても破損多く(因府年表)、越中富山では六十年来未曾有の強震で、市内屋上の天水桶が悉く轉倒したと云ふ(富山市史)。就中震害の甚しかつたのは東海道、伊勢湾沿岸、紀伊半島で、興津掛川間の宿駅は倒潰家屋頗る夥しく、袋井は全滅、見付・浜松・舞坂邊は半ば潰れ(谷陵記)、尾張は在々所々民家の倒れたもの多く、地裂けて泥水を噴出し田畑を一面に被ふた所もあつた(尾陽見聞記)。紀伊半島の震度は田邊町の被害により推測し得べく(田所氏記録其他)、阿波に於ても徳島で士屋敷230戸民家400戸が倒潰した(谷陵記)。
この地震に伴つた津浪は九州の南東部より伊豆半島に至る沿岸を悉く襲ふたのみならず、一方は紀伊水道より侵入して大阪湾及び播摩に達し、また一方豐後水道より侵入した浪は伊豫の西北岸、防長の海岸に達した。大阪に於ては地震そのものに由る被害は潰家1061、死人734、津浪のために流失せる家數603、同橋梁61、大小の船1300餘、水死7000餘人に達し、木津川口に碇泊中の大船道頓堀川に突入し日本橋に至つたものさへあつた(今村博士による)。就中甚大なる損害を蒙りしは土佐の沿岸で、幕府に呈出したる報告書によれば、流家11170戸、潰家4863戸、破損家1742戸、死人1844人、怪我人926人、流失米穀24242石、濡米穀16764石、流失並破損船768隻、亡所の浦103ケ所、半亡所36ケ所であつた。浪の高さは、今村博士の調査によれば、室戸町6.5m、安藝町5.6m、種崎23m、久禮25.7m、と推定されると云ふ。特に種崎は浪高大なりしのみならず、附近に避難すべき場所が全くないので、一木一草をも残さず、溺死700餘人、死骸海際に漂泊し腐臭忍び難かつたと云ふ(谷陵記)。紀伊熊野もまた浪害甚しく、中にも尾鷲の如きは千餘人(小河嘉兵衛記、寳永津浪碑文)一説に530餘人(見聞闕疑集)の死者を生じた。
この地震に伴つた一の著しい現象は室戸半島、紀伊半島及び遠江東南地塊が南上りの傾動をなした事である。今村博士によれば、室戸崎附近は1.5m、紀伊半島の南端串本で1.2m、御前崎附近に於て1〜2mの隆起を見たと云ふ。其の結果土佐に於ては津呂・室津の兩港は大船の出入は不可能になり、遠江に於ては横須賀の港は港としての機能を失ひ、現在では往時の入江は水田と化して居る。
また高知附近に於ては地盤の沈下が見られた。即ち高知市の東に接する約20km^2の地積が最大2mの沈下をした。地震直後この部分に侵入した海水は長く引去らず、そのため潮江・下知・新町・江之口から一宮・布師田・大津・介良・衣笠に至るまで一圓の海となり、漸く舟で通行したと云ふ。また屋頭・葛島・高須では潮が檐を没したまゝ冬を越したと傳へられて居る。今村博士によれば天武天皇12年の大地震に際し陷没して海となつたと云ふのは蓋しこの地域であらうと云ふ。
この地震の後約1ケ月を経て富士山爆発し寳永火口を形成した。

(14) 安政元年11月4日の地震

11月4日9時頃遠州灘東部海底から発したと推定せられる地震も規模頗る雄大である。家屋の倒潰を見たる範囲は、伊豆・駿河・遠江・三河・尾張の全部、甲斐・信濃・美濃・伊勢・志摩の大部分、近江の東半部、越前の南西部を包含し、面積約36000Km^2に及ぶ。就中伊豆の西北端より天龍川口に至る地帯は被害最も激甚で、中でも掛川の如きは全潰した上に全燒、"宿内何壹つ無之、如原成る"と当時實況を目撃した人の書状にある。袋井もまた同様で僅か2〜3戸を残すのみであつたと云ふ。天龍川口附近では堤防崩潰して殆ど痕跡を止めない所もあつた。また伊勢国津及び松阪附近、甲斐国甲府附近、信濃国松本附近も局部的に震動激烈であつた。
津浪は房總半島より土佐の沿岸を襲ひ、莫大なる損害を生じた。駿河湾沿岸は浪害比較的軽微であつて、清水港で大船が破損した位に過ぎなかつたが、遠州灘及び伊勢湾沿岸に於ては、家屋船舶の破壊流失、堤防の破損等大なる被害があつた。特に浪害の著しかつたのは伊豆国下田と志摩より紀伊国熊野にかけての沿岸であつた。下田では總戸數859戸の中816戸流失、25戸半潰、残つたのは僅か18戸に過ぎず、85人の死者があつた。当時同港に碇泊中の露国軍艦デイアナは津浪のため艦體大破し、27日に至り遂に沈没した。志摩に於ては流失家屋、荒廢に歸したる田畑多く、死者も少くなかつた。一二の例を挙げれば、甲賀村では浪高約10m、鳥羽では比較的に浪高小さく5〜6mなりしものの如くであつたが、村方によつては10〜20mの所もあつたと云ふ。古和浦では死人は少なかつたが、250戸の中僅か20戸ほどを残して他は悉く流亡した。熊野に於ては長島で浪の高さ5〜6m、800戸の中80戸を残して他は流失、二木島・新鹿(あたしか)・大泊は孰れも8分通流失した。尾鷲は浪高6m位であつたらしいが、人口多きと道路系統の複雑なために145人の死者を生じた。吉信英二氏及び筆者が先年實地について調査した所によると、遊木浦・二木島・甫母等は浪高最も大なりし如く、孰れも約10m、二木島湾の奥の部分は其れより稍高かりしかと思はれる。並この地震に因る被害の全數量は正確には分らない。記録に明記されて居る所を合計すると、倒潰に流失家屋約8300戸、燒失約600戸、壓死300人、流死300人となる。この數字は地震の大さに比し小に過ぎるやうである。恐らく實際の被害はこれより遙かに大きかつたであらう。
この地震に際し遠江東南部の地塊は南上りの傾動をなした。其の隆起量は今村博士によれば御前崎に於て80〜100c.m.であると云ふ。相良附近では地盤隆起のため干潟となること數十間、従来見えなかつた岩礁が現はれ、萩間川は水深3尺も減じ、以後500石以下の船にあらざれば出入が出来なくなつたと云ふ。(引用文獻餘りに多きため煩を厭ひて一々挙げず。次項また同じ。)

(15) 安政元年11月5日の地震

11月4日の大地震より32時間を経て5日17時頃南海道沖より再び大地震を発した。震動の強かりしは東は伊勢湾の周邊より西は九州の東北端に至る間で、紀伊・阿波・讃岐・土佐・伊豫・淡路・和泉・河内・大和・伊賀・伊勢・志摩・安藝・出雲の全部或は殆ど全部、及び豐後・周防・石見・備後・伯耆・備前・山城・近江・美濃・尾張の約半部、播摩・攝津・三河の一部分を包括する地域である、就中土佐・阿波及び紀伊の南西部は震動頗る激烈で家屋の倒潰するもの甚だ多かつた。この地震に伴つた津浪は恐らく房總半島より九州の東岸に至るまでの間を襲ふたであらうが、紀伊の西岸及び土佐湾沿岸は非常なる損害を蒙つた。紀州領の被害は倒潰・流失・破損・燒失の住家合計26000以上、同寺社72、大小船の流失破損1992隻、流死699人、怪我人33人、荒廢に歸した田畑168000石餘、紀伊田邊領では家屋の倒潰・流失・燒失合せて1228、土藏の燒失264、死者24、また土佐に於ては市郷の潰・半潰・流失・燒失合せて18000餘、土藏納屋同3960、亡所4ケ村、田地の荒廢20000石以上、死者372、怪我人180。土佐沿岸で浪害の特に甚しかつたのは、宇佐浦・須崎・手結・浦屋須浦・下田浦・下ノ加江等で大部分流失した。浪の高さの知られて居る所では久禮の16.1mが最大、ついで種崎の11m、室戸町では3.3mであつた。津浪はまた紀伊水道と豐後水道とから大阪湾及び瀬戸内海に侵入し、大阪は其れがために莫大な損害を蒙つた。即ち木津川及び安治川の川口に碇泊して居た大小の船舶は矢の如く川上に押上げられ、橋に衝突して橋を落し、船は覆つて多數の死者を生じたのである。
この時室戸・紀伊兩半島は、寳永地震の場合と同じく、南上りの傾動をした。今村博士の調査によれば、前者に於ては室戸町邊で1.2m程隆起、甲ノ浦邊で約1m沈下、また後者にあつては田邊町邊を東西に走る線を軸として南側が隆起し北側が沈下したので、南端串本で約1.2m隆起、和歌山市外の加太で約1mの沈下を見た。
なほこの地震の後紀伊半島の鉛山・龍神・峰等の温泉は一時湧出を止めた。

(16) 明治32年3月7日の地震

この地震の震源は故大森博士によれば熊野灘で33°50′N、130°30′Eの邊だと云ふ。紀伊・大和及び大阪は地震強く、多少の被害があつた。木本尾鷲兩警察署管内を通じて潰家35、破損62、死者7、三重県全般の負傷者199に達した。

(17) 明治42年11月10日の地震

震域は安政元年11月5日の南海道沖地震に酷似するが、震動は激烈でなかつた。震原は土佐国南西端の南方約80km。宮崎市附近には多少の被害あり、海岸地方には半潰家屋もあつた。東臼杵郡日平鑛山では落石のため住家の全潰並に破損があり、大分県の南部沿海地方、鹿兒島市、屋久島にも被害があつた。四国では高知市に若干の損害あり、岡山県味野地方に軽微な被害、都窪郡撫川町では全潰1、死者2を生じた。其他上房郡高梁町、吉備郡庭瀬町、御津郡福澤村、白石村、廣島県賀茂郡吉川村、及び熊本県人吉町等にも損害があつたが、孰れも軽微であつた。

(18) 昭和19年12月7日の地震

省略。

上記の地震の中、古代の地震は史料の煙滅したのも少くないであらうと考へられるので其等を除き、正平16年以後の特に大なる地震のみについて、某等が何年の間隔をおいて起つたかを調べて見ると、
正平16(1361)〜明應7 (1498) 137年
明應7 (1498)〜慶長9 (1605) 107年
慶長9 (1605)〜寳永4 (1707) 102年
寳永4 (1707)〜安政元(1854) 147年
安政元(1854)〜昭和19(1944) 90年


となり、平均は117年である。大地震の発生に週期はないと云はれて居るが、この地区より発する大地震は可なり週期的である。將来も100年に1回位は上記の如き大規模地震がこの地区から起る事を覺悟しなければならぬであらう。
次に外側地震帯全般から発する大地震について見ると、單獨発生の場合もあるが、多くは各地区から相ついで発震する。單獨に発生した大地震は全體の4分の1に過ぎない。続発した地震を一括すると次の8群になる。
外側地震帯の中の或る地区から大地震が発した場合に、次にはどの地区から発震するかと云ふ事が豫め知られて居れば、震災豫防上至極好都合である。そこで外側地帯に於ける大地震発生の順序に法則と云ふやうなものがあるかと云ふに、上記の表によつても知られる通り、震源の位置が次第に南に移る場合もあり、其の反対もあり、また同一地区から続発する場合等があつて、不規則である。次の表は一目で分るやうに順序を數字で表はしてある。
次に外側地震帯から発する大地震と他の方面から発する大地震との関係についても一應調べて見た。一般に地震は可なり廣範囲に亘る大規模な歪力の現れとして起るものとすれば、続発する大地震の間には密接な関係があるであらうと思はれるからである。そこで外側地震帯から発する大地震の前後にどの方面に大地震が起つたかを調べて見た。

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続発した地震(8群)
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続発した地震(8群)の順序

(1) 畿内大地震と外側地震帯の大地震

畿内に大地震があると其れに次いで外側地震帯から大地震を発した事が6回ある。
上記のAB兩地震の間に本邦のどの方面にも大地震は起らなかつた。併し畿内地方の大地震の後外側地震帯から大地震を発しなかつた事もあり、また正平16年、寶永4年の如き外側地震帯の大地震の前には畿内地方は静穏であつた。

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畿内大地震と外側地震帯の大地震

(2) 濃尾方面の大地震と外側地震帯の大地震

濃尾方面の大地震は3回あるが、其の中の2回については甲は19年、乙は18年後に外側地震帯から大地震を発した。偶然かも知れぬが面白い事である。

濃尾方面の大地震と外側地震帯の大地震
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(3) 山陰方面の大地震と外側地震帯の大地震

山陰地方から発した大地震は其の回數が少いが、明治5年の浜田地震を除き、他は悉く其の前後に外側地震帯から発震して居る。而して次表のAB兩地震の間に本邦のどの方面にも大地震は起らなかつた。

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山陰方面の大地震と外側地震帯の大地震

(4) 甲斐越後の大地震と外側地震帯の大地震

外側地震帯中部地区の大地震に続いて甲斐、ついで越後に大地震の起つたことが2回ある。特に前者は2年づゝを距てゝ恰も割目の進行する如くに震原が北に移つて居る。
外側地震帯中部地区から発する大地震の前後に富士火山帯に屬する火山の活動することが往々ある。次の表に於て見られる通り天武天皇12年、慶長9年、寳永4年の如き特に大なる地震の直後に火山活動を見る事は著しい事實である。

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甲斐越後の大地震と外側地震帯の大地震
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地震の直後の火山活動