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臨時増刊風俗画報第百十八号 明治二十九年七月十日 大海嘯被害録

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臨時増刊風俗画報第百十八号 明治二十九年七月十日 大海嘯被害録

海嘯の害人畜家屋を捲去るの図

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海嘯の害人畜家屋を捲去るの図

風俗画報臨時増刊第百十八号 海嘯被害録上編

●緒言

緑樹昼暗くして。家々煙雨の空濛たるは.。一従来黄梅の時節に於て。見る所の現象なるに。本年は点滴を聞くこと稀に青草池塘の蛙馨殆と将に渇せむとす。加ふるに東京湾のホウ魚(注・黒鯛のこと)。痴なるが如く。容易に身を漁夫の銛頭に委すと。白頭の人相話して災異の臻(いた)らむことを恐れしに。果せる哉。六月の十六日。東海岸より。悲惨なる電信は陸続として飛来せり。乃ち東京の現象は。其の余響たらしを知る。凶報によれば。宮城岩手県等沿岸の諸道に。大海嘯ありて。人畜の死亡無算なりと。一電は一電よりも惨に。人をして覚えず肌膚生粟の感あらしむ。是に於て官民共に人を派して。各々其の実況を探り。
皇室に於せられては。直ちに侍従を遣発し給ひ。救恤資金を下賜あらせらるゝに至れり。嗚呼傷しきかな。数丈の狂瀾怒濤。突然地を捲て襲い来たり。市街を呑み。家屋を奪ひ。人畜草木悉 皆浸し将ちて去り。亦一点影を留めず。其の幸に万死を出たる者も。父母を喪い妻子に離れ。昨日まで住居せし房室は。跡なくして砂碩茫漠の荒野に変し。家産蕩盡して片礫残皿も獲るに由なく。或は暴漲を避るの際。其の身負傷して流血淋漓。一家.の遺骸を尋ること能はす。空しく一領の濡衣を纏いて。海浜に呻吟し。昊天に号泣して飢餓に瀕する者あり。其の惨状実に意想外に在りといふ。是れ近世の一大災異といはざるべからず。幸に地方官早く己に倉を発きて之を賑恤し。人民も亦義捐して其の急を救うありと雖も。回復は容易の業にあらず。因て本堂は曩年発兌せる震災失火の記.事と同しく。其の実況を記述し。其の実情を図画して。爰に一冊と為し。臨時に発兌して。此の非常なる天災を吊慰し。兼て明治歴史の材科を作り。以て風俗画法の面目を全うせむとす。余は素より碁子を敲きて燈花を落すの閒ある者にあらず。偏に其の惨状を悲しむの余り。急に燭を剪りて緒言を草す。山下重民識

論説

●三陸海嘯の惨毒

目に天下の惨事を見耳に天下の惨事を聞き種々の惨事を閲歴し来ると雖も近世に於ては末嘗て今回陸前陸中陸奥の間に生じたる海嘯の如く其惨毒の甚しきものはあらざるべし。元来人世に惨 禍を爲すものは地震火災洪水大風の如きは天災となし又別に流行病兵乱の如き人を殺す甚しきものあり是皆惨毒の極なりと雖も大抵其区域に限りあり数十里に跨り数万人を殺すが如きは実に稀有に属す三陸海嘯の如きは延□凡そ五六十里殺人幾と二萬人実に洪大なる災変と謂うはざるべからず
災変、の大なるものを数うれば人心ず天明年間江戸大洪水又安政年間江戸大地震又同年間江戸大流行病を挙く此時の死人は或は百万と記す書あり然とも往時戸籍法の整はさる統計学の開けさる其果たして此の如き数に上るか或は百分の一にも満たざるか否やは今より知るを得す大都会の間非常の災変に際し、死人の多きは疑ふへかす即ち数万の死人ありとするも是より以来は何の災変か三陸今回の海嘯と比擬すべきものを見聞せさるなり抑々三陸の災は実に安政以後の大変と称すべきものなり。
嗚呼三陸海辺の民は何たる不幸そや何の因縁か斯る惨毒を被りたるか天道果して悪を懲らすものとするか三陵二万の男女は豈悉く悪人の集合とするか天道果して善に幸とするか三陸二萬の男女中豈善人なしとせんや噫々天道は是耶非耶釈氏の所謂る因果應報も是に至り我其れ之を知るに苦む然とも幽冥微妙の理義は予輩の窺ひ知るへき所にあらす性と天道とは聖者も明かに之を説かす且夫れ眼前に二萬の男女か性命を濁浪の中に喪ひ屍を蟲沙の邊に委ぬるを見は豈復た因果を説き天道を談するの暇をあらんや生を養ひ死に喪し生者死者をして各々某所を得せしむるより急なるはあらす故を以て官は官の職分を盡くして日夜敢て怠ることなく民は同胞の義に依り貨財を投して救済を事とするは洵に有道の行と謂ふへきなり鳴呼三陸海邊の民其死せるものは誠に悲むへしと雖も之を呼へとも返る時なし其生けるものをして波浪の難を免れて飢餓の患に斃れさらしむるものは偏へに志士仁人の恩恵に在り乃ち即今義捐の数を以て海濱五六十里の農民に恩給するを得へきか尚未た其善きを得さるの憾みなしとせんや
抑々惨毒の甚しきは水より甚しきものはあらす河水の暴溢に比すれば海嘯の激発を以て最も其甚しと為す夫れ兵乱悪疫は人命を奪ふに止まり物に及ほすは至て稀れなり或は乱に因て財貨を横奪せられ又火災を起すありとも施て田圃に及ほすに至らす且つ各之を前知するか為めに避くるの道なきにあらす或は地震の如きも屋外は無事の天地あり火災も亦猛烈なりと雖も人を殺すこと甚た稀れなり且つ共に園蔬田稲の依然として色を變せさるあり大風の如きは殆と水と同く天地の間に充塞すと雖も数十里を掃平し数萬人を殺傷するを聞かす殊に屋倒れ人畜厭死するありとも火災起らさる以上は財産は猶全きを得て生者をして幾分か餓を免るゝの資を得へし水に至ては浩々蕩々として其膨脹の高度内にあるときは人畜家屋に論なく一物も其全きを得るものあらす某局部に在りては乾坤悉く是れ水にして身と物とを托する所なきに至る然とも河水の膨脹は一時に来るは稀れなり霖霑先つ至て上流より膨溢し漸々に河川の量を増して陸地に横流するを以て常とす故に水邊の民は洪水の前兆を察し豫め準備して之を避け其炎を免るゝを得へく或は火山噴水して泥水膨流することなきにあらすと雖も其区域は山巒に経界するが為めに数里を變して海となすか如き洪水の事あるは嘗て聞かさる所なり海上は然らす極目平遠にして町村は概ね海?に就て家を為す故を以て海水十丈を増せは陸地百尺の高きに達すへし其水力のあらん限りは海?を逐て浸入するか為めに田圃となく人家となく激浪横行して飛鳥の外一も逸すへきの道なし且つ其起る地震と同しく前兆を知る能はす之か為めに海水人家より高きに及びては其災變は遂に極端に達する所以なり彼三陸の如きは實に其極端の惨禍を被ふるものなり
蓋し海嘯の人命を状害し家屋を流亡するの惨害は人の耳目に触れ易く各悲愴惻怛の情を動かすへしと雖も其以外に於て損害を世の経済に及ほすもの亦他の災變と同日の論にあらず夫れ己に海嘯高度内の陸地は一時悉く滄海に變するを以て此時稲苗の田に在るもの熟麥の圃に在るもの其他幾多の農作物或は穉林苗木等激浪の一掃に帰するものは勿論浸水の下底に没するもの退水の後鹹気の為に枯槁を免れさるへし殊に道路壊れ橋梁流れ堤防破れ川域變はり神社、寺院、学校、村庁、製造場の如き共有に属するもの人家、倉庫、船舶、農具、漁具、家具、牛馬、車輌、墳墓等の如き私有に属するもの悉く是れ此災地に新造するにあらされは人社を成す能はす乃ち海辺数十里の災地に對して已に国の版図を縮めて又新に版図を拓くに異なることなし其の既に失ふ所と其所に拓く所とを計算するときは幾許の費用に上るへきか今俄に統計するを得すと雖も細に之を算出するときは其損害は頗る莫大なるものあるへし前年濃尾の地震は人と家屋セを亡損して田圃樹木は害を受くること少し今回三陸の海嘯は海辺の平地を挙けて斥歯に変せしむるなり故に其害を以て濃尾に比するときは比較上幾層の甚しきに達するや亦知るへからさるものあらん
我大帝国は征清戦勝の余威に静り名誉既に顕揚し経済も亦発達の運に向ひ商工業駸々歩を進むるに方り比災変あり是未た国家の大経済を妨くるに足らさるへしと雖も災地に在りては百事の沈滞を来し幾分か国家の経済を害するは免れさる所にして之を救済して回復せしむるは独り災民の窮状を憐憫して賑恤の恩恵を施すに止まらす之を大にして国家の経済を整理するの道に於て其一部を助くるものたり況や災民の困難を聞くに於ては縦へ国家の経済に幾分の妨けありとするも亦之を救恤せさるへからさるの実あるに於てをや我風俗画報は三陸の変災を聞き其実況を文に画に採録して之を印行するものは独り史料として後に伝ふるか為めのみならす彼の惨状を詳悉し志士仁人に告訴して救済を求めんと欲するの微意に出つ世の済々たる多士一家団楽営業繁栄の間に於て此画報を披くあらは東北を顧みて豈思に悽然たるものなからんや

海嘯の原因

今回三陸沿岸の地方に起りし大海嘯に付ては種々の臆説を為すものあれども未だ専門家の報告なきを以て学術上確乎たる定説を下すこと能はす然れとも海上波浪を起すの原因は必ず海嘯、暴風、地震の三者のうち孰にか基かざるはなし今三陸地方の大海嘯は敦に基くかと云ふに海嘯と潮流と港湾の地形との特別事情に因り陸上より流注する河水と海上の潮流と相衝突して余勢陸地に氾濫するもの故其範囲極めて狭隘にして今回の如き大海嘯を生ずると能はず次に暴風は陸地に近く吹荒むときも無論或は海上遥に百里千里を隔てゝ通過するときは海面に波浪を起してその余勢一日若くは数日を経過し天候晴朗の日突然大海嘯を陸地に寄せ来たることあり故に不意の海嘯は暴風に基く場合尠なからず次に地震と海嘯との関係に至りては世人の好く知る所なれば管々しく云ふに及ばず唯地震は海底の地盤に凸起若くは陥落を生じ或は火山の噴火を促すことあれば其事情の異同に困り海面の波動にも種々の区別あることを知らさるべからす暴風地震共に恰好の原因なりとせば今回の大海嘯は孰れに属すへきか前顕の次第にて明言し難けれども大海嘯の前後被害地及び各地に数度の微震ありしを以て考ふれは其原因は海中の地震なりと云ふ説信すべきが如し而して其心中は何れの辺にありや是等は固より詳細の報を待ち精しく材料を得たる上に非ざれは容易に知ることを得ざるも地震区域は東京、銚子、宇都宮、長野新潟より、東北地方を包囲して山形、青森、函館、襟裳等に至り大抵数十回の微震あり海嘯の尤も激しきは釜石より志津川一帯の沿岸なるより観測すれは多分東経百四十六度、北緯三十八度に当れる沖合にあるならんと云ふ
宮古測候所の報告に云ふ  今回の海嘯につき宮古測候所の報告に日く十五日夜の海嘯は安政年代以来未曾有の一大海嘯にして本県管内東海岸地方は勿論隣県沿海地方孰れも多少惨害を蒙れり今を去る四十年前安攻三年七月廿三日(陰暦)正午頃のものは地震は甚だ強く且頻繁なりしも海嘯は這回程の惨状を呈せざりしと古老は云へり扨今回海嘯当時の模様を略記すれば前日来陰鬱の天候にして雨霧あり気厭及び温度共に例年より高度を占めしが午後六時三十二分三十秒稍や弱震し震動時間は五分の長きに亘り方向は東北東、西南西にして頗る緩慢なりし次で同時五十三分三十秒微震し尚人時零二分三十五秒八時二十三分十五秒八時三十三分十秒八時五十九分零秒に微震し其後九時より十時迄の間に四回十時より十十時の間に一回十一時より夜半迄に二回の微震ありて計十三回震動せり而して海嘯の起り始は(海水の減退し始し時刻)夜間にして精測し能はざれども凡そ七時五十分頃にして同八時頃に軒水し暫時にして稍や減退せしが八時七分に至りて最大の海嘯来り凡そ一丈四五尺の高さなる激浪轟々遠雷の如き響をなして襲撃し忽諸の間に家屋人畜を一掃し去れり爾後著しきものは六回にして翌日正午迄は幾分の増減ありしものゝ如し又地震は翌十六日は十三回十七日は十二回十八日は六回にして孰れも微弱震なりし云々
扨又今回の大海嘯に付其筋の人々に就きて聞き得たる意見の概要を挙くれば左の如し
震源地は何處なるか  今回の海嘯を地震の結果とせば其震源は何れの處にあるぞ事実の示す所に依れば其当りは大凡付け難きに非ず即ちタスカローラの深海こそ其震源に相違無し
タスカローラの深海 古伝説の如く地震を大鯰の動く結果とせば其大鯰の棲處はタスカローラの深海なり比深海は英船タスカローラ号が測量して発見したる結果として期る名前を付せられたる次第なるが位置は北大洋の日本陸地に併行する部分に在りて日本陸地を距ること最も近き處は僅かに三四十里に過ぎす其水源(四千メートル一万二千二百尺)にして加之断岸絶壁の如く其部分だけ急に深く成り居る事にして恰も太平洋中に東西幾十里南北幾十里に綿亘せる大なウ切堅の穴あるが如し比海の底より見れば普通の太平洋の底は恰も富ま由より殆んど一千尺も高き訳にして今日迄の處にては世界第一の深海と称せらる比の深海の四方は屏風の如く絶壁を以て囲まるゝこと故地滑り甚だ多きは数の免れざる所にして其地滑りの度毎に日本及び其近海は.多少の地震を感ぜざるを得ず従来日本に地震多きは実に比鯰の棲處に密接すればなり而して今回の地震も亦た其震原は比深海の方面に在り
震原推断の証拠 中央気象台の報告に依れバ東京に最も近き處にて津浪のありしは福島県標葉附近にして東京を距ること最も遠き所にて津浪のありしは北海道の東南端襟裳岬附近の地方なり比両極点は津浪と云ふの津浪にはあらざれども兎に角津浪と見るべき現象の有りしには相違無ければ仮りに之を両端とし而して津浪の最も激烈なりし陸中の釜石を中心として其形勢を案ずるに大約左の如し
       震源(タスカローラ海の辺)
        \  −  /
         \    −     /
    \       −       /
  襟裳岬      釜石     富 岡
右の如く震源に最も近き釜石にして其被害も多く襟裳と富岡は両端にして其被害最も少く而して富岡より震源に至るも襟裳岬に至るも其距離は大凡そ相匹敵し居も所より見れは震源は釜石と遥かに相対するタスカローラの深海見当に在りて之より諸所へ震動の影響を波及し両端に至りて漸く薄らぎたるを知るに足れり比推算は固より正確なるを保するを得ず又た果して地震源地盤の陥没に因るや若くは隆起せしに因るかを判し易からずと雖も比証拠物に依りて之を推すに当らずと雖も遠からざる判断なりとす

● 岩手県被害報告

本月十五日は天侯朝来朦朧として温度は八十度乃至九十度を昇降し平年に比すれは其暖きこと十度以上にして人々大に困めり然れども季節の不順なるは梅雨の常にして殊に時恰も旧暦端午の節なるを以て各町村落に於ては或は親戚訪問し相祝するあり或は友人相会し宴飲するありて各歓を尽しつゝありしが暮夜に至り数回の地震あり又午後八時頃東閉伊郡沖合に於て轟然一発巨砲を放ちたる如き響音のりたれど沖合の鳴動は普通のミ或は軍艦の演習ならんと信じ更に意に介する者あらざりき然るに其響音の歇むや未だ数分間ならざるに海嘯俄に至り狂瀾天を衝き怒涛地を捲き浩々として驀地押し寄せ来り市街となく村落となく総て狂瀾汎濫の没する所となり沿海一帯七十余里僅かに一瞬間にして人畜家屋船舶其他挙て殆んど一掃し去れり轍ち昨日まで家屋櫛比の市街も今や変じて平沙荒涼となり死屍は累々堆を為し家屋は流壊し満目一として悽寥ならざるなし其惨状実に戦慄に耐ざらしむ而して其狂瀾の高きは八十尺以上に騰れりといふ潮声の綬急は固より一定せずと雖も西南に面する處最も浸害甚だ多し
然るに当日沿海を隔て約三里の遠沖に於て漁猟せし漁夫等は稍や波浪の高きを覚えたるのみにして斯る兇災のありしを知らず陸地に到着して始めて海嘯の被害を知りたりと云ふまた奇と云ふべし
因て被難者救助の為め警部長をして各被害地を巡視せしめ且書記官を東閉伊郡地方に参事官をして気仙郡南閉伊郡地方に収税長を九戸郡地方に派出し指揮を司らしめ而して県属警部は気仙地方に九名、南伊閉郡東閉伊郡十二名、南北九戸郡に三名、西閉伊郡に一名、北閉伊郡に二名を派遣し巡査百十三名は被害地各地に配置し之に人夫四百五十八人を随はしめ夫々生存者救助死体取り方付等に従事せしむ其他各町村の消防夫及有志の寄附にかゝる人夫等を合せて四千余人を派遣せり
如比なるが故に医師の死亡も少なからず適々死を免れたる者あるも薬品機械等皆流失一も遺す處なし因て不取敢多量の石炭酸繃帯綿繖糸等急救用として送附したれども到底比等の医師のみにては完全なる救療を為すこと随はさるを以て医師十五名看護人十五名を臨時に雇上げ負傷者救治に事せしむるも負傷者の多数なる尚ほ不足を感ずると雖ども如何せん当地方医師の少数なるを以て大困難を来し居る處恰も好し第二師団より軍医十二、赤十字社より医師七名、薬剤師二名、看護人二十八名を派遣せられたるを以て大に便を得たり然れども之れを以て未だ十分なりと云ふを得ざりしに復々第二師団より工兵一少隊之れに軍医一名を附せられ又福島赤十字社支部より医師看護人一名差遣ありたるを以て工兵は宮古地方に向け医師も各被害地に向はしめたり其他尚被害地近隣の町村より医師数十名をして治療に従事せしめ且つ各被害地より夫々請求ある毎に薬品機具等を今尚送付しつゝあり去れども田園は荒廃し家屋は流亡し居るに家なく食ふに米なく今や饑餓に迫るを以て白米一千石余を被害各地に送附し窮民の救助に充てたり猶各郡の状況は左の如し
気仙郡は被害各郡中広袤最も強く被害の部分も少なからず広田村六ケ浦と称する所の如きは水面より高きこと五丈余の所にある民家を砕き数波の為め数丈の高き山頂に船を打揚げ巡査駐在所は流失し駐在巡査は重傷を負ひ家屋は皆流亡せり
未崎村に於ては巡査駐在所流失駐在巡査一重傷を負ひ家族六名皆死亡せり大船渡の如きは沿海十八町余間の電柱悉く折れ小友村は浸害田畑百八十余丁歩に渉れり
綾里村の如きは死者は頭胸を砕き或は手を抜き足を折り実に名状すべからず村役場は村長一名を残すのみ尋常小学校駐在所皆流失して片影を止めず巡査は家族と共に死亡せり
越喜来村は駐在所流失し巡査家族共に死亡し尋常小学も流失したるも訓導佐藤陳は妻子の死を顧みず辛ふじて 御眞影を安全の地に奉置せり
唐丹村は郡内第一の被害にして駐在巡査は家族と共に死亡し二千八百余の人口中死亡二千五百なるは悲惨の至りなり而して概数は左の如し
 各村合計死亡六千八百十六人負傷者三百十八人
南閉伊郡被害地面積は気仙郡に及はすと雖も其惨害は本部に於て激甚を極めたり乃ち気仙郡は一町十一ケ村にして六千八百余の死亡者を生ぜしと雖も本郡は僅に二町一ヶ村にして六千六百余の死亡者あり以て其惨状の如何に甚しきかを知る
釜石町は千二百余戸の市街にして人口六千余あり然るに海嘯の為め家屋僅かに百余戸を残し高處より之を望めば市街全く頽潰し片々たる家屋の破材積で堆をなし流屍は累々たる其間に露はる沿海の耕地は総て泥濘を以て填充し警察署郵便電信局及尋常小学校六ヶ所流亡し巡査一名死亡し署長以下皆重傷を負ふ郵便電信局員某僅かに身を以て遁れ数時にして予備器械を据付け為めに通信の便を得たり
大槌町鵜住居村の如きも惨状最も甚し其被害概数は左の如し
 人口一六、二五九死亡六、六六九負傷一、四一四戸数二、九
 二六流失家屋一、七九九半潰家屋未詳
東閉伊郡本郡中被害の最も多き處は田老村にして激浪の高きこと十余丈に達し潮流の勢最も強大にして沿岸にありたる二抱以上ある松樹凡そ百本余僅かに樹根を存するのみ又風帆船の海岸浪打際を上る二町余の山腹に打揚げられたるあり以て其惨状の一般を知る如此くなれば村役場尋常小学校員等皆死亡し巡査駐在所流失し駐在巡査一二名家族と共に死亡せり
重茂村重茂巡査駐在所々在地の如きは恰も平原と化し只村長の屋根の端に押付けられあるのみ船舶一隻も不残流亡或は破壊し巡査駐在所巡査一名家族と共に死亡せり船越村も亦被害少なからず村役場尋常小学校巡査駐在所皆流失し駐在巡査重傷を負ひ妻子残らず死亡せり
山田町警察分署は大破に及び海嘯の為め千余人を失ひ災後失火の為又々四十余人一片の烟と化したるあり実に酸鼻に耐へざるなり而して其概数は左の如し
 人口二八、三二八死亡六、七〇四負傷一、三七〇戸数五、三
 〇八流失家屋一、八〇二破壊家屋三三五
北閉伊郡普代郡は村役場書記一名死亡し又巡査駐在所流失し巡査家族死亡す小本村も巡査駐在所流失し巡査は僅に身を免れ家族は皆死亡せり同所概数左の如し    
 合計 死亡者千六百八十人負傷者四百二十五人流失家屋二百
   九十八戸同破壊二百三十人
南九戸郡野田村巡査駐在所流失し妻子死亡せしも巡査は身を免るゝを得たり
久慈郡は被害も多く村役場尋常小学校駐在所皆破壊し巡査の妻子死亡す其概数は
 合計 死亡千七十四人 負傷六百九十四人
北九戸郡種市村中野村の如きも亦被害少からす然れども気仙郡等に比すれば被害の少きは地勢の然らしむる處ならんと雖亦潮勢の激甚ならざるに依るなるべし而して被害の概数左の如し
 合計 死亡者三六六人負傷者一七五人   
右報告に及候也
 六月廿四日          岩手県知事

○記  事

○御救恤

本月十五日三陸地方非常海嘯の災に罹りたる趣憫然に思召され 天皇皇后両陛下より岩手県へ金一万円宮城県へ金三千円青森県へ金千円下し賜りたり

○侍従差遣

大海嘯の電報十六日午後三時内務省に達するや松岡次官は急ぎ宮内省に出頭し土方宮内大臣を経て惨状の次第を奏上に及びしに畏くも両陛下には痛く大御心を悩ませられ直に侍従試補男爵澤宣元氏を中央気象台に差遣はされ被害の模様を聞き質さしめ給へり

○侍徒を被害地へ派遣せらる

前項にも記す如く大海嘯に付ては 陛下は特に大御心を悩まさせ給ひ十六日更に左の御沙汰
                侍従子爵 東園 基
    宮城岩手両県へ被差遣
あり侍従は十八日の上野発の一番汽車にて被害地に赴かれたり

○皇族の御救恤

東奥海嘯罹災者へ救恤として各宮殿下御一同より岩手県へ金千円宮城県へ金五百円青森県へ金二百円下賜せられたり

○中央備荒儲蓄金の支出

海嘯に付大蔵省は中央備荒貯蓄金の内より去る廿三日岩手県へ五万円又廿日宮城県へ一万円孰れも支出せり右は焦眉の急を救ふ為めに差当り支出せしものにて尚ほ調査の上は増加する事となるべしと云ふ

●巡視及出張
○板垣内務の三陸地方被害地巡視

板垣内務大臣は曩に京阪地方巡回中なりしが三陸地方海嘯の報に接するや右巡回を中止し急行汽車にて廿二日午前八時十分帰京し当日午後二時三十分上野発の直行列車にて直に被害地へ出発せられたり

〇三崎県治局長の出張

三崎県治局長は左の辞令に據り属官三名を随へ被害地へ向け出発したり
             内務省県治局長 三崎亀之助
  岩手県下へ出張を命ず

○池田事務官の出張

被害地視察として逓信省よりは池田事務官出張の命を受け氏は属二名技手一名を随へ出発したりと

○久米内務参事官の被害地調査

大海嘯被害地調査の為め内務省よりは久米参事官に属僚二名を附し同地方へ向け出発せしめたり

○国債局員の出張

大蔵省国債局備荒貯蓄課にては状況視察の上中央備荒貯蓄金支出の議を決せん為め大蔵属市川氏を派遣せしめたり

○農務局の視察員

農務局は高等官一名を派出して三県下被害地農作場の実況を視察せしむ

○高大内務技師の出発

内務省衛生局は被害地視察の為め技師高木友恵氏を出発せしめたり

○若槻大蔵書記官

若槻大蔵書記官は岩手県下の被害地を巡視し夫より宮城県及青森県の被害地を視察する都合にて出張せり

○小澤赤十字社幹事の慰問

赤十字社幹事男爵小澤武雄氏は宮城外二県に於ける海嘯被害の状況視察併せて各地負傷者慰問として病衣千五百枚を岩手県に五百枚を宮城県に二百枚を青森県に寄贈する為め携帯したり

○池上気象台技手の出発

中央気象台技手池上稲吉氏は大海嘯実地視察の為め出張を命ぜられ直に出発したり

○逓信省技師の出張

逓信省通信局三根電信建築技師は宮城県以北東海岸海嘯被害実地視察として属官二名技手一各を随へ急行被害地に赴きたり

○震災予防調査会の被害地視察

文部省内に設置しある震災予防調査会にては海嘯被害地視察を理科大学地質学科第三年生伊木常誠氏に嘱託出発せしめたり

○海嘯調査員派遣

帝国大学にては理科大学地質科学生及び助致授神保小虎氏等を学術研究の為め海嘯実況調査の為め被害地に赴かしめたり

〇赤十字社支部員の出張

日本赤十字社仙台支部にては海嘯の為め負傷せる人民の救護として十六日事務員医員看護婦等を罹災地方へ夫々出張せしめたり

○南部伯以下出発

旧盛岡藩主伯爵南部利恭旧七戸藩主子爵南部信方旧八戸藩主子爵南部利克の三氏は今回旧藩地の海嘯被害に附き一方ならず心配し種々協議の上南部伯は一家の総代として同県選出阿部代議士等と共に被害地に赴かれたり

○自由党の特派員

自由党にては海嘯惨害の情況視察と地方党員見舞とを兼ね江原素六武者伝次郎の両氏外一名を特派せしめたり

○国民協会の視察員

国民協会にては海嘯被害地視察として幹事薬袋義一氏を派遣せり

○首藤代議士の被害地巡視

宮城県撰出代議士首藤陸三氏は先頃来島根県に遊説中なりしが撰挙区に於ける大海嘯の報に接し昼夜兼行にて帰京し進歩党本部に於て諸般の打合を為し直ちに被害地へ向け出発せり

○軍医憲兵等の出張

第二師団にては被害者救助の為め特に後藤一等軍医外陸軍々医二名、看護長二名、看護人十五名を去る十七日宮城県本古郡志津川町へ出張せしめ又仙台の憲兵隊よりも岩井憲兵大尉が曹長憲兵五名を随へて被害地へ去る十六日出張したり

○宮城県出張所の設置

同県にては罹災者救護等の為めに去る二十日一坂書記官を海嘯被害事務取扱委員長と為し且つ気仙沼、志津川の両地へ出張所を設けて山田収税長を気仙沼出張所長に、河村参事官を志津川出張所長に命じ属官警部数名づゝを孰れも其部員と為したるよし

○被害各方面の県官

岩手県庁にては応急處置に就て配慮する所あり樋脇警部長は気仙郡に村上参事官は釜石山田方面に出張し夫れく救助に尽力し警部一戸武雄氏は盛町附近に同高橋之善佐土原親則の二氏は高田今泉に同大久保政経氏は唐丹小白浜附近に同岩間重次郎氏は大槌町に同小崎順氏は宮古鍬ケ崎山田に同久深田和喜人氏は山田大槌南町に同高橋誠一郎氏は小本田老に同樋田秀実民は南九戸地方に何れも巡査数名を引率昼夜兼行にて出張したり

〇三県出身在京有志会

海嘯被害地宮城岩手青森三県出身の
在京有志者は去廿日午後一時より新肴町開花亭に集会して罹災民の救助方法を協議せしか当日出席者は武者伝次郎千葉胤昌吉田正章、佐藤琢二 (以上宮城)南部晴景(南部家々令)佐藤昌蔵、阿部浩、鵜飼節郎(以上岩手)藤田重道、原十目吉(以上青森)等其他数名にして左の救助手続を議決し千葉胤昌氏は即夜仙台に向け鵜飼氏は翌日青森に向け各出発したり
      三陸海嘯罹災人氏救助手続
一 宮城、岩手、青森県下の海嘯罹災人氏救助に関する政府への交渉及請願の運
 動は三県撰出の代議士諸氏主として之に任し他の有志者は之か応援を為すへし
一 事務所を東京々橋区南鍋町一丁目八番地に置き罹災上に関する調査を為し且
  其の事務を處埋するものとす
一 事務所の経費ほ代議士諸氏及其他有志諸氏の醸金を以て之に充つるものとす
一 事務所は代議士諸氏の意見に依り政府への交渉及請願の容れられたるを機と
  して解散すヘし
一 事務員は帝国済民会事務員之に当る

●軍艦の視察
○軍艦和泉嘯害地に向ふ

常備艦隊の軍艦和泉号は過般来日本海の各港湾巡航中の處、司令長官の命に依り海上に於ける救助及び状況視察として海嘯被害地に向け急航せり

○軍艦龍田

は海嘯原因調査等の為め三陸東海岸巡航の命を受け荻の浜に向け横須賀を抜錨したり

○軍艦筑紫号

も同じく海上視察の命を受け出発したり
     外国よりの見舞

○各国公使の電報

今回の海嘯につきて我国駐剳の各国公使が何れも其本国へ電報したりと云ふ

〇英国皇帝陛下の御傷悼

今回三陸地方非常海嘯の災に罹りたるに附き我、天皇陛下大に宸襟を悩させられしか早くも英国天皇陛下の叡聞に達し我 天皇陸下竝に我邦臣氏と感情を同くし痛悼に堪へざる旨本邦駐剳サール、アルネスト、サトウ公使に訓令して慰問の詞を寄せられたるに依り宮内大臣は之を奏上せしに 天皇陛下は英国皇帝陛下が我皇室の憂慮と国民の難苦とを以て念とせられたる友誼の懇到なるに対せられ睿感斜ならす思召され同公使を経て朝厚の謝意を英国皇帝陛下に致すへき旨御沙汰に附き宮内大臣は直に之を同公使に通知せり

○仏国大統領白国皇帝の御見舞

三陸の海嘯に付き仏西大統領及ひ白耳義より傷悼の意を表する旨各本邦駐在公使をして外務省に申出さしめられたり

○外人の視察

京浜在留の外人にて今回の被害地に到り親く視察せん為め旅行券の下附を出願するもの多き由なるが其重なるは宣致師なりと

○清国皇帝の悼詞

清回皇帝陛下は我東奥三陸地方大海嘯災害の電報を聞し召され我 天皇墜下並に我邦臣民と傷悼の情を同くし痛哀の至りに堪へさる旨同国公使裕庚氏をして我天皇陛下の叡聞に達すへき旨訓令ありしに付公使は六月三十日午後一時三十分宮中に参内し視く鳳凰の問に於て陛下に謁見右叡聞に達し奉りしに陛下には清国皇帝陛下が友誼の懇到なるに対し叡感斜ならす被思召旨直ちに同公使に御沙汰ありし

●義損
○各大臣の義捐

今回三陸の災変に付き伊藤首相は金百五十円其他の諸大臣及黒田枢相は各々金百円づゝ義損せられたり

●外国義損
○布畦公使の義捐

布哇国公使アーウキン氏は三陸海嘯罹災者の為め金二百円を義損せられたり

●追悼会
〇三陸災死者追吊会

遠州周智郡曹洞宗第四中学林にては三陸災死者の為め去る廿一日大迫吊会を執行せりと云ふ

○海嘯罹災者追吊会

何礼之、河瀬秀治其他諸氏の発起にて芝区愛宕下の青松寺にては廿七日午後一時より三陸海嘯罹災者追吊法会を催し尚大内青巒居士の追吊演説ありたり

○書洞宗の吊葬導師

今回の災害に付き曹洞宗宗務局よりは右吊葬の為め岩手県へ導師六名宮城青森両県へ各三名宛出発せしめたり

●訓令告諭
○県知事の訓令告諭

服部岩手県知事は去る十八日沿海の郡役所、警察署、同分署、町村役場一般へ退水後に於ける衛生上に関して相当の措置を為すべき旨訓令し尚ほ翌十九日沿海町村へも災後衛生上に関する心得十数條を添へて伝染病の誘因を防ぎ不測の災厄を招かざる様篤く注意すべき旨を告諭したり

○郡長の注意

南北岩手紫波郡長松橋宗之氏は今回釜石盛久慈等の惨報に接するや是等地方と取り引関係ある吏員を紫波郡日詰北岩手郡沼宮内両町役場へ召喚し此の際被害地輸出物の代価等に就て不当の利を貪らざる様商人に注意すべき旨諭達せり

●被害地の救護
○宮城の憲兵

宮城憲兵隊にては大海嘯の報に接するや即時準備を為さしめ第二回まで憲兵派遣をなし其被害地の実況並びに人民保護の任務に当らしめしが報毎に惨害を加ふるが為め爰に小笠原宮城憲兵隊長は東京憲兵司令部よりの急電により二十三日の夜同県管内各憲兵屯所に急報し隊長及び下副官黒部猪三郎氏以下乗馬憲兵三名は志津川に刈田郡白石町憲兵屯所長八木彦作、志田郡古川町憲兵屯所長篠原助次郎、宮城郡塩釜町憲兵屯所長小川仁吉、東二番丁憲兵屯所詰憲兵一等軍曹木村重次郎南材木町憲兵屯所長心得三上與助、八幡町憲兵屯所詰憲兵二等軍曹瀬川嘉平次氏外憲兵上等兵十数名は本吉郡気仙沼町に何れも戦時の扮装にて出発せしが之れにて総員三十七名の派遣となり目下管内各屯所には一名或は二名の留守番を置くのみにて全部被害地に出張せり

○単物七百反の救與

岩手県庁にては僅に身を以て免れて一枚の衣服さへ無き最も憫然なる者へ取敢へず単物浴衣七百枚を救與する事と為り盛岡市に於て至急仕立しめたる上各被害地へ発送せり

○負傷者の救議

浅田岩手県書記官は各被害地を巡視して負傷者には夫々臨時の手当を為し重傷と認むる者は廿二日より開始せる宮古仮病院に輸送する事と定め又負傷者多数ありて交通不便なる山田町船越村へは病院支部を設置して救護しつゝあり

○福岡県赤十字社支部

同部よりは應援として医員四名看護人二名を派遣し来り孰れも二十二日宮古気仙郡の両地に向け出発したり

○救助米

船越より田老に至る沿岸の被害地先づ困難を告るは生存者の食料なり実に一物も止めず洗ひ去られし事とて被害の翌日より飢餓に迫るもの数知れず幸ひに宮古町の助かりし為め米穀を徴発して南北に運搬し以て一時の急を救へり尤も廿二目は県庁に於て函舘より買入れし米汽船にて人港したれば今後は飢餓に陥ることはなかるべく又今後の善後策は未だ定まらざるも目下の急務とひふべきは罹災漁民に漁船と漁網とを與ふるにありと云ふ

○焚出

宮城県にては焚出は当初有志の救助に属する者少なからざりしが爾後盡く備荒儲蓄の救を以てする事となり目下救助を要するもの二千八百二十五戸此人口一万七千三百三十七人なり

○衣類寄贈者多し

本吉外二郡罹災の人民は食に焚出の支給あるも衣の着るべき無し依て宮城県庁は一面に仙台市役所をして市内に其景況を報道し金員に先だち衣服の必要成事を告げしめ一面には市内の三新聞に広告して其寄贈を促したるに慈善の心に富める人士は男女老幼競ふて己れの衣服を脱ぎて之を贈り一昼夜を出でずして県庁は殆んど寄贈の衣服器具を以て充され其数を検する者其荷造を為す者繁忙名状すべからず終に廿一日以て二千五百四十五点の衣服を三郡災害地に向け発送するを得たり爾後も尚ほ続々寄贈を申込むもの多きに依り県会議事堂に臨時部出張所を設け特に其取扱ひをなし居れり

〇罹災救恤事務所

岩手県庁内へ今度臨時に救恤事務所を設け委員を定めて執務せしめ居れり

○篤志看護婦

京橋区西紺屋町八番地看護婦会主幹山本里子には看護婦木村たを子、新尾つるよ子、江場かよ子、青木とも子、小宮よしえ子、福田たま子、伊佐治みし子、辻きよ子、星野きし子等十名を随へ自費を以て海嘯被害地へ出張致度旨岩手県知事へ願出たるに同知事より電信にて被害地盛町へ向け出発ありたしとの回答ありたるに依り上野発の直行汽車にて同県へ向け出発したり

〇宇都宮共立病院

の副院長永峯九郎医師平松孚之の二氏は今回の災害に特志を以て救護の為め去る二十四日盛岡に赴き直ちに同県属と同行被害地釜石に向け出発したりと

〇大学救護医員の派遣

今回三陸地方の海嘯に付負傷したる者の救護として帝国大学よりは医科大学附属医院の医員中医学士六名外二名に薬品及び治療用材科等を携へ被害の最も甚だしき岩手県へ向け既に派遣せしが大学職員諸氏は此挙を賛し若干の醵金をなし是等の費用を補充せられたり

〇第二師団の負傷民救授

第二師団より三陸被害地へ派出したる軍医以下看護人及び其方面は左の如し
  六月十七日本吉郡歌津、大谷、気仙へ
  陸軍一等軍医々学士鶴田禎次郎 同二等軍医岡田頴斎、同奥谷虎弥太 看護長二名 看病人十五名
  六月十八日宮城 遭難地方へ
  陸軍二等軍医飯田祐治 同三等軍医井上好 同三等軍医岡崎松太郡 同吉井虎之助 同医学士川島慶治
  六月十九日岩手県釜石へ
  陸軍一等軍医 斎城捨之助 同二等軍医松井昌親 同牧野康二 同正木春次耶 看病人四名
  六月廿一日岩手県気仙郡盛町地方へ
  陸軍一等軍医 中館長三郎 同三等軍医梶川兼三郎、同医学士加治安正 同井上精則 同郷右近輔四郎 看病人十五名
  六月二十日青森県遭難地へ
  陸軍一等軍医大橋豊吉郎 同中村常三部 看病人二名

○赤十字社派遣人員

赤十字社より三陸へ派遣したる人員は岩手へ医員七名、看護人二十三人、同婦人十八人、宮城県へ医員一名、看護人一人、育査県へ医員三名看護人四人なりと

○軍医学会

陸軍々医諸氏より成る同会は軍医五名、看護長以下二十七名を三陸被害人民救療の為め派遣したり

○赤十字仮病院の設置

赤十字社に於ては今回の遭難を聞くと同時に其地の支社をして仮病院を適宜の揚所に設直せしめ負債者を収容して其医療に奔走せるよしなるが其宮城県下に於ける仮病院は、相川、志津川、伊里前、名足、小泉、大谷、明戸、気仙沼、唐桑、宿、大澤等の各地に設けられたるよし

〇大日本私立衛生会の救護員派出

同会にては大海嘯地方の負傷者救護の為め元宮城県書記官同会役員後藤敬臣民にガーゼ及白木綿数百反を携帯して被害地へ向け出発せしめたり

●郵便及び電信
〇海嘯被害地方の郵便物

今回の海嘯につき被害地の各局にて流失せし郵便物は其調査頗る困難にて其筋にても未だ詳細の統計を製する能はざるも唯為替、貯金丈は逓信省の元簿にて判然するを得たりと扨其預人及預金高は左の如し(本年三月卅一日現在)
 預 入 二千四百二十五人
 預金高 五万四千三百八十七円七十六銭四厘

〇不通電線の延長

今回の海嘯は陸前、陸中、陸奥三国の東海岸一帯を荒したるものにして被害の度存外に甚しく未だ詳細を知るに由なしと雖も逓信省の当局者が接手したる電報に依りて打算するに不適となりたる被害地方の電信線路三箇所にして其延長大凡そ左の如くなるべしと云ふ
 志津川盛間 凡十七里二十一町三十二間
 釜石宮古間 凡十三里十七町五十六間
 八戸久慈間 凡十三里四十間
   合計凡四十四里四町八間

●海嘯被害見聞録

●宮城県牡鹿郡
●鷲神崎

牡鹿郡鷲神崎にては十五日午後八時三十分頃強震あり海上暗澹
として一大鳴動を発せり海嘯は多分比時に於て起りしならん比
大鳴動の音は仙台まで聞えたりしと

●女  川

全村六十戸の内浸害を被らざるものは僅かに十戸、浸害の最も手痛きは小字鷲の神木村八十八氏にして全家破壊の厄に遇へり次は同木村八右衛門氏にて氏が家は女川村中第一堅牢の家屋と称す而して此海嘯の為め前半部を嘗取られ跡へ追退けらるゝこと凡そ二間余為めに後半部の柱三本程中央より折られたり、其他浸水され若くは床、壁を洗ひ去られたるの外多少の家財を流失せしに過ぎず
溺死者は平塚とり(七十四)と呼ぶ老女にて体躯強健、独居を鷲の神海浜に構へ、若者の滌ぎ洗濯杯引受けて糊口とせし者の由比婆被害の夜は夕刻よりの雨模様とて早く戸を閉ぢ将に床に入らんとしける時大砲の響の如きもの一発二発程海の方に聞へければ雷にもやと念仏杯唱へ居ける比時早く驟雨の如き音して水は瀑の如く戸を圧し戸内は一面の水となりたれば婆は一躍して屋梁に飛付さ居たるに押寄せたる水勢に後ろの壁の打抜かるゝと同時に身も押し流され終に溺死せるに至れるなりとぞ其噛ぢり附き居しと聞く屋梁には瓜の痕のまだ生々しきものありき
之に反して万死に一生を得しは女川の方にて木村とら(六十)と呼ぶ老婆なり比婆の家は婆が孫児忠吉(十四)はる(五ツ)の二人との詑住居なり婆は二人の孫を抱き将に寝に就かんとする時例の海嘯に仰天し狼狽し居る中水はドシ?入り込むにが婆はイキナリ両孫をかゝへ己が首にカヂリ附かせ身は飛上りて屋梁にカヂリ附水を防ぎつゝある間に水は益々漲りてハヤ腰をぞ浸しけるコハ叶はじと思ふ一刹那天か運か軽き隠居家はフワ?と浮き出で後辺へ押流さるゝと二間余り石の井筒に喰ひ止められ兎角する間に水は引きければ婆は大急ぎに家を飛び出て両孫を引き壮者にても上り得ぬ後ろの絶壁に攀じ漸くにして老命及両孫を授け得たりと云ふ
又村の入口に漁舟の三艘打上られて所有主の分明ならざると二畝五歩許りの苗代の滅茶々々にされたると及一畝五歩弱の麦の右往左往に打ち拉かれ居るとは稍や人目を惹き更に村に入るに及んで村尽れの二階が三軒迄床を攫はれ壁の下半部を洗ひ去られたるを見るに及んでは稍や其勢ひの暴なるに驚かざる者なし比海嘯は午後八時卅分頃に起り卅五分にして終結せるものなる由然れど朝来の雨模様に怯ぢて皆早寝せし為め稍や不覚を取りし訳なりど而して女川の損害全額は二千円を下りざるへしといふ

●雄勝浜

〇雄勝浜の惨状
桃生郡雄勝浜は郡中第一の惨状を極めたり一村の家屋多くは流失し破壊し残れる家屋とて床板もなく障壁もなく荏は曲れるもあり捻れたるもあり歪めるもあれば折れたるもあり鍋釜の満足せるは僅に十五戸のみにて其他は箪笥衣類は勿論塵一本だになし死骸は波間に漂ふもあり砂中に埋もれるもあり濡れたる衣服を纏ふて叫ぶ孤児もあれば飢えたる腹を抱へて徨ふ老人もあり見るとして聞くとして波の種ならぬはなし生存者二三千人は残れる家屋に収容し濁水にて玄米を炊きて与へ居れり此部落にて最も哀れなるは荒谷材にて十六戸の中の十三戸流失し土までも押流されて地盤を顕はせりと云ふ
郵便局は悉皆流失せられ今は他の家を借りて僅に局を開けり、局長は杉山某と呼び六十恰好の人なり其長男に勝蔵(二十七)なるものあり語りて曰く海嘯の夜自分は局の几卓に憑り書類を検閲し居たるに?々の響に驚かされ何事かと窓を推すの一刹那水は驀地浸入しけれは卓上に躍り上り屋梁に取附きたり然る経に屋根は水の為に押し上げられたれば驚きながらも之れに匍匐上り屋根の流れ行くまゝに任せけり斯くて漂流すること殆んと三時間八ヤ生たる心地せす只舟やある、援舟々々と喚き立てしも陸上の喧噪のみ耳に響きて一物も目に見えず、是迄と覚悟を極め、運を天に任せ、念仏唱へ居ける時、天恩か仏恵か一隻の舟漂ひ来れり、しめたりな、有難やと之れに乗り移り屋根にありし竹を抜き、辛うして漕きつゝ来る程に海の那辺にあたりて、助けて呉れ?と絶え?に呼ふ声す、何者ならんと急き舟を廻したるに一人の男なり即ち引き上けけるに集治監看守部長三山省之助氏なり氏は引上けられて只「命の親なり」と一声喚ひたるまゝに打伏しけり、依て自分は之を陸に運ばんとしける時しも又水上に悲鳴の声を聞く因て之を援け上しに杉山そよ(二十三)と云ふ女にて湯巻もなく真つ裸にて漂ひしなり乃ち之に我衣服を脱ぎ与へて三山氏と共に陸に近かんとするに屡々波の為めに障へられ幾度か達せんとして達せず力も気根も絶え果んとしける時援船来り漸やく上陸するを得たり而して上陸し見れは家は土蔵納屋等六種の家屋は悉皆洗ひ去られたり、されと家族は皆無事なりし是れ不幸中の幸なり、勝蔵又曰く当浜中最も気の毒なるは皆川虎吉氏の一家なり氏は妻りつ、娘貞代甥清志の四人暮しなりしか今回の海嘯にて家と人とを合せて何處の波底にか捲き込まれ今に行方知れず


○御真影並に勅語謄本の奉遷
雄勝十五浜尋常小学校にては校舎傾斜して柱梁破壊し諸器機過半海水浸潤せる間にも拘はらす必死となりて御真影並に勅語謄本を安全なる場所に奉遷したりと云ふ至誠忠良の志実に成すへきことにこそ (挿図参看)


〇雄勝集治監出役所
雄勝の西南端に一寺あり天雄寺といふ、赤衣の人参差として徘徊す是れ雄勝集治監の避難所なり、囚徒三十七人、監守八名、茲に宿泊す、監守は総て軽傷を負ヘり監守部長は三山省三氏語りて曰く、本集治監収むる所の囚徒総計百九十五人、監守三十四名、署長は中村欣一氏なり扨十五日の夜は余等監守は監側の合宿所(独身監守十九名の寄宿所)に在り中三名は外出して在らず互に公余の清談に打ち寛ぎ居たるに軈て八時十分とも覚しき頃殷々の声遥に起りて風声雨声交々到るが如き物音を聞く扨は夕立かと思ふ間さへあらせす百瀑の一時に壓下せるが如き勢もて海嘯は監の外構ひを衝倒し見るくく合宿所倉庫、炊所、事務所を薙ぎ倒し本監を呑み了れり我等同僚は先づ囚徒を解放せんとて身を挺んて本監指し馳せ付けたるも未曾有の大海嘯の事なれば如何ともする能はず兎角する間に同僚男沢儀平、神野久太左衛門、片山則次、紺野久五郎、秋山孝義、小塚斧男、中津山忠之進、山崎栄太郎氏の七氏は影を失ひたり而して他の八人は孰れも負傷し自分の如きは押し流されて雄勝湾の河辺にあり、身を殺すは職務の為め毛程の遺憾なきも囚徒は如何にせしやと考ふれば考ふる程悲しくつらく漂ひながら先づ助を呼べり此時誰れとも知らず竿を投げ呉れたれば早速に其船に乗込み帰りて監を見れば早や病監其他の附属物構へ等は洗ひ去られ監の中には隻影なし扨ては何人か解放し呉れしかと歓び極まりて跡は夢の如く打倒れたり斯く語り来りて氏は他の同僚を指し自分の如きは軽傷なり他の諸氏は中中の負傷なり、自分は人の呼び生く處となり始めて気絶せる事を知り身体を改め見しに別段の事はなかりき云々
氏家監守又語り曰く本監は極めて堅牢に打立てられたれば幸にして破壊を少うし.たり解放は万巳むを得ずして少く遅れたるが是れ我等が過ちの功名なりき海嘯は急に来つて監を呑みしも囚徒等は皆な屋柱に攀ぢカ限り魂限り柱を死守しければ水は程なく旧に復しける、之を好し手の早く届き解放せんか恐らくは皆な溺死するか少くとも負傷は免れざりしならん然れど我等は同僚を失ひたるの外二人の囚人(高橋栄太郎、堀田平蔵)を溺死せしめたり、自分は其夜直に中村署長の家に馳せ附き、宮城集治監に打電の運びを為し翌日(十六日)に至りて始めて此寺に仮避難所を設け着のみ着のまゝにて引移れり此の解放の際、三人の囚徒は脱走しけるが翌日直に逮捕したり而して重なる罪囚は宮城本監より来着の監守に引渡し十八日送致、遣れるは三十四囚なり


○囚徒にも義気あり
雄勝村に阿部美和なるむのあり水に漂ふて気息絶する事数分囚徒朝田勝太郎なるもの水中に泳ぎ入り美和を扶け来り火を焚き水を与へて蘇生せしむ美和の娘某頻りに囚徒の義侠を説て其恩に泣く亦是れ一佳話と為すに足る
又感ずべきは集治監の囚徒浅山平太郎外三名なり彼等は解放後波を越へて山に駈け上らんとせし時一人の溺死者あり浪と浮沈せるを見しかば兵太郎は囚徒を促がし之を抱き上げ手を胸の辺にあて見しに尚ほ少しく暖気あり依て山上に昇上げ藁火を焼き水を吐かせ終に蘇生せしめたり

●荒屋敷

雄勝の損害実に右の如く大なり、而して之に次ぐものを荒屋敷とす、荒屋敷は十五浜の中なる船越の小字にして戸数十六人口百二十一なり内十戸流失、半潰れ三戸、破壊一戸、無害二戸、死傷二十七名中、二人は死体漸く発見されたるも余は皆分らず、又田畑にありては二丁歩の麦畠悉皆流ひ尽され、船舶は全字二十七艘の漁舟影も止めず又魚屋(魚を納むる小屋)七棟は礎迄余さず洗ひ去られたり、孰れ悲惨ならざるなきが中に高橋栄作程悲惨なるなからん彼れは今年四十七歳、妻某との間に九人の子あり貧しき中にも壮健に育て揚げしと聞くに此度め大海嘯にて家屋と共に妻と七人の子は行方知れずとなり只残れるは彼と二人の子なり、然れども此二人の内一人は負傷の為め生命の程も覚束なき有様なり

●本吉郡
●十三浜村の内大室

十三浜村は追波湾の南方一面の海岸にして追波、吉浜、月浜、立神、長釜谷、白浜、小室、大室、小泊、相川、小指、大指、小瀧の十三字より成る家屋の流亡せるもの三百八、破壊十家屋五十七、死者二百六、(内男九十三人、女百十三人)にして大室及大指の如きは全村の家屋殆んど破壊したり


〇大室村佐藤兵之助
なるものは母らく妻みの(妊娠中)長男松助長女松代を失ひて孤身と為り海岸を捜索して死体の発見に力め居たりしが松助の屍を厩の下に発見して掘出し親族打寄りて何たる因果にて比死様を為せるぞ何の罰にて此有様とは為りつるぞと声を放て慟哭する様見るに忍びず恩はず同情の涙を注がしめたり

●相川

相川村は総戸数四十一戸の中三十九戸は流失し辛うじて残れるもの二戸あるのみ総人員二百四十人の中百五十七人は溺死し五十人は負傷す(微傷を負はざる者は殆んとなし)一家悉く溺れて全滅せるもの二戸あり一人づゝ生残りて家族悉く死せるもの五戸あり十三人の家族にして十一人を失へるあり一家老壮を喪ひて寄る所を失したる孤児あり壮幼悉く亡せて己れの生残りたるを憾むの老婦あり高地に残りたる二戸を除くの外は是れ悉く夫に離れたるもの妻に別れたるもの子を失ひたるもの親を流されたるものゝみなれば相泣き相慰め相扶け相携へて父母妻子の屍体捜索に従事し居れり此地は元来製塩を業とし兼て農桑を営み漁業に従事するものは少かりしが此惨状を呈したる事なれば家財道具は一物として残れるものなく塩田は悉皆洗ひ流され蠶兒は今十日にして上簇するの時に際し更に其隻影をも留めずなれり馬匹は六十五頭死し海濱に伏屍居並び其腐敗せし臭気と石炭酸もて消毒せし臭気と相合して一種異様の臭気鼻を撲ち殆んど立留りて見るに堪ざらしむ海嘯は一條の渓流に沿ふて泝る事二十丁許り渓流の辺りは幹の太さ三尺内外の桑樹を折り或は根抜にせる事計ふ可らず海岸にある丈余の樹の梢に幾十條となく昆布の掛り居れるは以て其海嘯の如何に猛烈なりしかを知るべく海汀に一帯に木材の重なり居りて恰かも幾千の筏を並べたるが如く見ゆるは如何に流失家屋の多かりしかを知るに足るべし村役場は相川を距る一里半白浜にあるが其出張所を相川に設け郡衙員憲兵巡査等出張し五六里乃至二三里の地より人夫四十名許りを徴発し来りて跡掃除を為し居れり田園などの外は全村の財産を失ひたる事なれば富者も貧者も一様に其日の食にだも窮せるより村役場出張所の傍に十三浜村にて賑恤所を設け炊出を為して飢餓を医せしめ生残りたるもの皆此救恤を受け夜は流され残りの二戸に雑然として同居すれど迚も入切れざる故或は流されし跡に星を挑めつゝ寝ぬるあり或は数里の外に親戚を頼り行くあり見るとして聞くとして涙の種ならぬはなし

●白 浜

〇一村残る者三名
宮城県本吉郡白浜は戸数十三人口九十九の村なりしが海嘯来りて家と人と悉く運び去りて残りしは唯纔かに三人のみ

●大指村

                、
大指村の其の母と姪と婿とは縄にてシカと結はれ一所になりてあがりたり。こは某は水練の達者故、放れ?になりては三人はとても助け得ねば、かくして皆救はんと結ふまでは結ひたれども、遂に力尽きて共に死するに至れるならんと其情実に察すべし。又父母を失へる小兒、我のみ残れる老人等.世人はこれをいかに思ふか

●戸倉村

戸倉村流失家屋六十二戸と死亡者六十三名ありされど前者に比すれば損害として数ふるに足らず


○戸倉村字清
清水浜の佐々木甚右衛門(三十四)同人弟五三郎(三十六)同彦右衛門(三十一)の三夫婦六人及び十二歳の子と雇木挽一名流失して死体さへ見えず跡に残れる六十二歳の老母と十三歳の倅のみ、

●志津川

宮城県下に於て最も惨状を極めたるものを本吉郡とし、本吉郡に於て最も悲惨を極めたるものを志津川町及び其附近の村落とす、今其状況を左に報道せん
海嘯の襲来  志津川町は新町、古町、沖の漬、埋立地の四字に分れ人口凡そ五千あり新町と古町とは高地にして郡役所、警察分署、収税署、学校電信局等は古町に在り去る十五日は朝来晴天にして海上も静穏なりしが午後五時頃に至り一天俄かに掻曇り大雨沛然として篠衝くばかりなりしが続いて十数回の地震あり人々不安の念を懐き居りし内午後八時とも覚しき境轟然として雷鳴の如き響きあり這は何事ぞと訝る間もなく海嘯々々と泣き叫ぶ声比處彼處に聞え沖の漬は三戸を余すのみにて四十余の家屋は瞬間に濁浪に捲き去られ同時に埋立地も人家尽く洗ひ去られたり、海嘯は僅に四五分間にて退きたれども今まで在りし市街は烟の如く消へ去りて唯荒涼たる悲惨の光景を留むるのみ死屍累々として比處彼處に横はり戦後の光景に比すれば惨更に惨なり
被害の大小 古町、新町は高地に在るが故に海水漸く床上に及びたるに過ぎずして格別の損害なかりしも沖の漬と埋立地とは僅かに敷戸を残すのみにて余は尽く破壊しバラ?となりて海の方より古町の裏手へ押流され多くは其所有主を定むるに由なけれど堅牢なる家屋は間々現形の侭にて押流されしもあり、街上の家屋物品は奇麗に洗ひ去られて一物をも留めざれば死骸を掩ふの藁もなく莚もなし
災後の手当 住民は家屋と共に押流さるゝもあり、逃げ出さんとして濁浪に捲き去ら与るゝもあり多くは無惨の溺死を遂げ幸ひにして生き残れるものも大概重軽傷を負はざるはなければ如何とも詮方なかりしに十七日に至り志津川附近のもの集まり来りて始末を付けたれども人足不足の為め十分に行届かず、県官、赤十字社員等も出張して救護に尽力し目下志津川病院に収容せる負傷者三十六名あり
悲惨の状況 海嘯の来るや妻る抱きて泳くものあり、子を負ふて流るゝものあり、流木に撃たれなから尚ほ父の死体を放さす抱き付きたるまゝ死せるもあり、妻や子を失ふて老人一人生残れるあり、其惨状目も当てられぬが中に或る婦人は足部を傷けたるに治療手後れし為め傷部腐敗して足部を切断せるものあり、或る七十余の老人は股まで腐れ込みたるも切断を拒み此侭我家に還し呉れよ死んでも構はぬとて家のことのみ心配し其心に掛る我家は疾くに押流されて老妻のみ生残りしに是れ又た負傷して病院に在りとは夢にも知らぬものあり、又本吉郡書記諏訪部勝治氏の妻女は二階に上らんとするとき二階観倒れて死去し、沖の漬にては芝居小屋が壊れて見物の老幼男女悲鳴を揚げなから或は溺れて死し或は踏まれて傷つくもありて一場の修羅場を演出したりと
劇瘍平砂と化す 同地の本吉座と称する劇場の如き可なりの建築なりしも大波の退きし直ぐ跡にて見れば忽ち平砂と化し居たりと
遭難婦の悲鳴 志津川町にては男子の死傷するもの多かりしか生き残れる婦人五十六名打寄り破壊せる家屋を指さしつゝ何事をか語りては涙に掻き暮るゝさま見るもの袖を濡さゝるはなかりしと、窶れ果た 一人の漁父潰れたる家根計の家より蹌跟と出で来り涙ながらに語るを聞けば当夜尤も酷かりしは阿部豊次なるもの子三人と母一人を死ろし佐藤利右衛門なるもの其老父母及び其嫁、及び其孫二人と共に死し又高橋重吉なるもの女房子供一同溺死したる等なりしと
被害の当夜は何れも皆夏の事とて象くの漁父は身に褌一つを纏ふもの多く或は浸水の際脱ぎ棄てたるものありて僅かに一命を拾ひ得たるものも衣るに衣なく昼夜裸体の侭なるものあり
町役場の書記某の妻アワヤと云ふ間に其下階を押し潰されブカリと浮き揚りたるに之は叶はしと子を背負ひたる侭二階へ登らんとしけるに段梯子の中程にて濁水浸入し来り子を負たる侭非命に斃れたりと又佐藤順之助なるものゝ長男某十二才なるが如何にしたりけん首切れて流失し胴のみ残りて目も当てられぬ有様なりしと志帯川病院に年の頃十四五許なる小娘か左手を負傷して繃帯し居るものあり試みに当時負傷の模様を尋ぬれば小娘は両眼にせぐり来る涙を払ひも得せず矢張海嘯の当夜柱に敷かれて負傷したるものなるが娘の両親と八人の兄弟は残らす溺死し自分と十二になる弟と二人のみ生存りたりと語りも挙らずしやくり上げて泣き出したり


〇海上に於ける状況
志津川町の漁夫は海嘯の当日海上に鮪獲をなし居りし為め此危難を免かれたるが其語る所に依れば十五日午後七時半頃海洋に於て大砲を打つが如き大なる響を発したるより何事なるかと其方角を眺むれば風もなきに海水山岳の如く高まりしにぞ何さま海中に異変めるに相違なからんと急に網を引揚げて帰航の用意をなせしが山岳の如く高まりたる海水は中間より二つに分れて南北に走り急に潮流烈しくなりしに間もなく南北沿海岸に打当りたる響甚だしく暫時にして南北海岸に篝火提灯の光を認め陸上大動揺の模様あるにぞ始めて海嘯ありしを悟り陸地に向けて船を進めしに唯潮流の速かなるを覚ゆるのみにて別に舟行に差支へなかりし左れども陸地に近つくに随ひ波浪益々大にして危険少なからざるより其夜は洋中に留まり翌日浪の静まるを得て無事に帰り来りしと云ふ
海嘯は岸に近く起りしか  志津川町大字清水の漁夫佐藤助七二十六は海船の当日午後六時頃流し網を携ヘ漁舟を操り例の如く海上四里程の沖合に漕ぎ出で、『シビ』、『アオ』等の漁獲に出でけるが此の日は例もと異り手心の違ひければ不思議の思ひをなしつゝ一夜を沖に明かしたりスルと家根、勝手道具等の夥しく沖合に流れ出でたれば助七は是れに亦不審を抱き急ぎ家に帰ればアナ無残家は粉微塵となり夫れさへあるに養父信之助、其他六人の家族は、一人も残らず壓殺され居たり、一時助七は気の抜けたるが如く茫然としてありけるが警官等の慰論に依り今は破壊の取片附に従事し居れり而して其語る所は右の如し然らば今回の海嘯は四里以下の近海岸に起りしものか

●志津浜

志津川町の北約一里半の地に当りて志津浜あり山其三面を囲みて前に海湾を控へ広袤一町四方許、戸数四十余戸村民多くは漁業を以て生を営みしが今や一面の荒れ野となりて柱軽横はり瓦甍破れ厨器覆へり樹木仆れ僅かに高地の上三四棟の民屋あるを見るのみ復た旧時の面景を存するなし満眼蕭條の有様は宛然曠原秋野の痩せ果てたるが如し其潰倒されたる家屋は何れも皆柱礎を奪はれて三角形の家根のみ空しく波上に横はれる屋上に復も波浪の打ち寄せ来りたるにやあらん其の茅茨さへ牢ば剥かれて棟梁のみを露出せる態は総て皆涙の種ならざるはなし又た仰いで遥かの高丘を望めば或は大破小破の漁船列を乱して横はるあり或は曩きに道路の左傍にありし庭樹の右傍に飛ぶあり或は破壊家屋の其位置を転じて道路の中央に坐せるあり独り枯木の梢に吊せる漁網の依然として猶旧時の観を存するは人をして更に懐旧の感を深からしむ
此の怒涛激浪の中より不思議にも天幸を得て助かりたる廿余の男女の或はむさくるしくほの暗き一室に爐を囲みて団楽し或は道路の中央に蓐を設け水の株に神祗を斎き祭りてそが下に小娘を相手に縫針に余念なき母親あり此の状を見ては常々情剛きものも誰か一掬の紅涙を催さゝらんや
○志津浜にては男子の負傷多く残れる五十余名の婦人が寄集りて涙ながら物語りせるに会ひ近よりて何気なく言葉を掛くれば彼等は唯だ潰れたる家屋を指したる儘一言をも出す能はず早や血涙雨の如く泣出せり

●細 浦

○細浦
戸数三十七、人口百五十三、此の内三十二戸流失、百二十一名溺死又其内全家挙りて溺死せるは八戸なり茲にも救恤所は設けられ災民の救助に怠りなし
少年あり就て海嘯当時の状を問へば少年は潜然涙を流して曰く当夜余は父と與に家にあり俄然怒涛咆哮の響起ると與に身は何時しか床より押し上げられ屋根裏にまで壓迫せられて身動きも為し得ず進退茲に谷まりしかば及ばぬながらも必死となりて漸く屋根を破り屋上に匐ひ登りて四辺を見渡せば桑田は忽ち大海原と化し去りて脚下の吾が家は今しも激浪に翻弄されつヽ山手の方に走り往けりかくして凡そ十分時も経ぬらんと思ふ頃には波和ぎて家は動かずなりぬ去れど水は尚ほ退かず茲に於て余は自ら勇気を鼓舞して水中に投じ七八間の處を泳ぎ脱けて遂に陸地に上りぬ余は之が為に用もなき命を全うしたれども予が父は如何になし給ひけん今日に至る迄行衛知れず余は寝食を忘れて三日の間捜索せしもそが影さへ見えず余りのことに力も脱け気も弛みて空しく?み居るなりと云へり
一家屋を取壊すとき偶ま一女の死体屋根裏より現はれたり巨大なる梁の間に挟まれ居たるが苦悶の情想像せらる役父帯を取りて外に引き出したるに右頸を負傷し血痕班々たり尤も既に一週間余を経過したることなれば稍腐敗して臭気を放てり娘は十二三の少女なりしも死体膨脹して殆んど二十二三位の者の如くなりし
人家ありし跡には一旦攫去られたる家屋が打揚げられて山を築き其下には可憐なる小児の遺骸の糜爛したる毛の抜たる壮丁の屍老婆の死屍馬の死骸犬の骨など狼藉たり之を目撃し若くは之を聞くもの誰か酸鼻せざるものぞ此死屍は大抵掘出したれど尚ほ見当らざる分若干あり

●清 水

○清水
戸数六十五、人口三百二十九、漁業は生民の正業なり
然るに其五十二戸は壓潰され其百六十五人は溺死せり残れる人々とて満足なるは僅に十二人に過ぎざれば志津川分署は急に巡査を増派し清水駐在巡査と共に救恤に従はしめ去る十六日を以清水て救恤所なるものを設け悉皆之れに災民を収容し又一方に於ては海嘯に無関係なる登米郡役所の応援を乞ひ人夫を徴発し潰家の取片附に着手せしめたりしが破壊家屋を取片附くる毎に生々しき死骸の顕はるゝより皆恐れ戦きて中には逃出さんとする者なきに非ずといふさもあるべき事なり
最も憫れなるは鈴木松次郎と云へる四十一歳の不具者が五人の家族を悉く失ひ渡辺彦左エ門と呼べる五十余の老人が六人の家族悉皆溺死し佐藤助七と云へるが漁業より帰り来り見れば八人の家族悉皆死没し居れる事等なり其他老人のみ生残りて倚る所を失ひ小児のみ取残されて昊天に号泣する等其惨状眼もあてられぬものあり
三十位と思はるゝ一女子あり此女子は歌津より清水に嫁せる者にて疾に所天を失ひまゝ子を育てゝ一家七人無事に世を送りありたる海嘯の日は、夕飯を了りたれば煙草を喫まんと煙管を持ちたる時凄まじき音して、アナヤといふ間に家は潰れ、其身は脛を挟まれて、水中に没せり。どうせ助からぬものと観念たるものゝ、さて呼吸つかで居ることの苦しさに、思はす口を開けば、何とも知れぬ臭き水口中に入りて、遂ひにこれを飲みたるが、其時の心特譬ふべきものなし。其中家は高みに打ぢ上られ涛亦勢ひを減じたれば、不思議に一命を助かり七十の老人亦無事なるを得たるは何よりなれども、たゞ十歳の小児継子とはいふでふ、手しほにかけて育てたるもの、遂に救ひ能ざりしはくれ?もと言ひさして、無器用なる手して涙を拭へり

●入谷村

入谷村にては田植の祝ひなりとて親族縁者打寄りて酒宴を催ほし居たる所へ海嘯に襲はれて四十余名の人々一時に溺れ死し、又一等卒小山寅蔵と云へる人は台湾より青森に凱旋し志津川に帰省せんとする、途にて家族五人尽く溺れ死ぜりと聞きて途方に暮れ居たりとなん
五丈の濁浪  歌津村に於ては轟然たる響音を聞きて軍艦の砲声にはあらずやと思ふ間もなく五丈余の濁浪渦巻き来りて家屋を捲き去り一村七十余戸の内僅かに十七人の生残れるのみ清水浜にては二戸を余して六十余戸押流され其他十三濱村、入谷村等皆非常の損害を被れり
歌津村字伊里前挙村殆ど崩壊し去て其道路は左右より将基倒しに倒れかゝりたる家屋もて遮断せられて来往の人は皆屋上を歩し居れり村民等は海嘯の退くと同時に各處の屋根を引き剥ぎ柱を取り除きて死屍を捜索すれども今尚は其拾集を終へず然るに右捜索人等は何れも皆疲労して復た事に耐ゆる克はず伏屍は台しく平沙の裡に埋もれて死者未だ泉下に瞑せざる者多し赤十字社病院派出員等は同所尋常小学校を以て救護場に充て奔走甚だ勉め居れり現今場にあるもの総計十七名他は多く死し去れり歎ずべぎ哉

●小泉村

小泉村は歌津と大谷との中間にある村落にして歌津大谷に比し被害少き地なり小泉の中最も惨状を呈したるは大字二十一浜なり二十一浜は東方に向ひたると土地平坦にして傾斜少き為め海嘯は一時に全村を捲込みて僅か二三分の問に二三戸を除の外悉く洗去りたりされば四十戸足らずの部落にて死者も百五十三人を出し石もて築かれたる礎は砕けて河原の如くなり家屋は後塵に為り了れり此地に翩翻たる一旋の旗あり到り見れば孤児引受所仙台市大町楽善館なる文字あり其名の如く善を楽むものと云ふべし二十一浜に次げるは織田浜歌之浜にして織田浜は十七戸の流失と五十九人の死者を生じ歌之浜は三戸の家屋と十五人の死者を生ぜり大字小泉は稍々大邑なれど只一人の死者ありしのみにて今朝磯も二名の死者あるのみなり死体の発見せられたるもの二十一


〇四個の茶碗は娘の供養
一老爺の四個の茶碗を負ふて入り来るあり名を齋藤某と云ふ曰く余に一人の娘あり年十三大谷村某の家に嫁し事を執らしむ某の家流失し全戸十二人中残れるもの四名のみ余が娘亦八名中の一名のみ今日は七日目に相当すれば仏因あらば死屍の寄付く事もあらんと捜索し居れり背に負へる四偶の茶碗は生存せる人に贈りて娘の死を恨まざるの意を証するものなりと潜然として泣き且語れり

●大谷村

歌津に次で被害の甚しきを大谷村とす大谷村は赤牛、前浜、日門、大各の四字より成れり赤牛は総戸数十戸の中三戸流失して六人死亡し前浜はこ十四戸の中十三戸流失して七十人死亡し日門は納屋一棟流失して三名死亡し大谷は九十九戸の中七十戸流失し総人員七百人の中二百四十五人死亡人す馬匹の死する者六十五頭船舶の流失せるもの八十一総家族悉く死亡して祀の絶るもの四戸老幼若くは婦女子のみ生存して途方に暮るゝものゝ如きは数ふるに遑あらず村役場は大字大谷にあれど高地にあるを以て幸ひに異状なかりしも郵便切手売下所は流失し戸主小野寺久蔵は家族三人奴婢線五人と共に溺死し生存せるものは東京巣鴨病院へ入院中なる久蔵の倅丈吉と二人の家族のみなり今日迄に死体を発見せるもの百四十二人同地の人民は漁業を営み兼て農桑を事とせるが田畑の害を被ること六十町歩之を全村の反別に比較すれば七分通りに当れり漁具等の存するものは更になし患者救済所は村役場の隣りに設置され収容患者八各と外来患者十三名ありて赤十字救護員三浦頭一氏担任し居れり救助を仰ぎて生命を継ぎ居れるものは八十四戸にして三百六十九人あり田植の祝宴中に溺死  大谷村の某方にては田植の日にて手伝ひに来れる親戚知人等と共に五十余各が視琴ど開き居る真最中に海嘯押寄せ来りて悉く惨死を遂げたりと

●階上村

明戸は固と一小漁村戸数八十余人口五百に満たず而して死する者実に四百十五破壊を免れし家屋僅かに高地の三四戸あるのみ唯々見る一面の荒野此處の端より彼處の端迄茅葺屋根、柱、壁の骨、畳、棟木、障子、臼、樽と凡そ一家の世帯道具人生の生活に必要なる物件を悉く集めて不秩序乱雑に並べ重ねたり此の有様は何にか例ふべき泥に塗れたる仏像倒になりてバラ?になりたる板子と雑居し其傍には味噌樽道作もなく列をなして並あれば鍔の欠けたる泥塗の大釜の濡蒲団に包まるゝもあり高かりしも低かりしも大なりしも小なりしも美しかりしも見すぼらしかりしも一視無差別三尺余の高さにゴタ?積み立てらる、此の乱雑なる荒れ跡の處々に薄黒き煙の登るは雑物を焼き払はんとて火を放つなり其間に長き柄つけたる鎌を荷ふて往来するは「十六才以上五十才以下」の徴発に応じて救助に来りし附近の土民なり遠き方に鞆の紋打ちたる慢幕を立て回はしたるは臨時救護員の出張所なり警官は草鞋脚絆にて縦横に駆け回はり有志家は家根を剥て鼠棒の捜索に従事せり

●大島村

漂着の家屋に両児生存す 大島村袖ケ浜沖合ヘ各村の流失家屋か二十余棟漂着し来りて孰れも其屋根のみ水上に現れ居りし由なるか救助船か甚内一級の屋根を破りたるに不思議にも男の児二人か生存し居たるを見出したれは之を聞乱すに同郡鹿折村鶴浦栄治なる者の子にて十一歳と五歳の兄弟なりしと云ふ

●暦象村

宮城県の北部に於て最も悲惨の情に堪へさるは唐桑村なり初め海嘯の起るや砲声の如き音二回ありしかは人々何事ならんかと思ひ居れる中八時半に至り高さ平水より六丈に上れる海嘯疾風の勢を以て浸入し来り瞬時に家を漂はせ数丁の奥に打揚げたり此間僅々こ二三分間なれは余く絶命しきらぬもありて翌朝に至るも尚悲鳴の声絶えず泣き叫ふ声を知辺に到り見れば髪を蓬に降乱し顔色蒼青となりたる上に煤を浴び楹に足を布かれ居れる婦女あり或ひは手を挟まれたるもの背に屋根を負へるもの腰部以下砂に埋るゝもの等あり実に人間界の有様とは思はれず漸く鋸もて楹を切るやら鍬を持ち来りて砂を掘るやらの大騒きを為して扶け出せるもの唐桑村のみにて十四人あり助かりたるものゝ中には頗ふる奇妙のものあり一例を挙ぐれは佐藤栄四郎の妻某は風呂に浴し居たりしに海嘯の為め風呂桶のまゝ谷奥に打ち寄せらるゝこと六丁許かりにて桶は顛覆したれとも潮水間も無く去りたれバ傷をも受けず一命を拾ひ取り鮪田の田村芳之助は猟師小屋の如き家に住へる者なるが腹部の辺まで水に浸されたれば最早是までなりと観念し居たりしに屋上に人声の聞ゑしより手を伸ばして屋を突破りたるに屋低くして直ちに出入に差支無き程の穴明き且屋上より引上げ呉れたる人ありて己れ先づ出て更に其穴より妻を引上げ一家難を免れたるが屋上の人は同夜共に酒を酌み居たる友にて其友は如何にして屋上に上りたるや自ら知らざるの類是なり救助を受くるものは二百六十戸にして千二百人余なり志田郡古川町の弁護士阿部鉄太郎なる人の主唱にて有志家相謀り此地に医員四名を派出し自ら薬品其他の費を弁じて負傷者の収容に尽力し居れり
屍体捜索の困難  唐桑地方は船舶悉皆流失破損して物の用に立つべきもの一艘も無きのみならす生存者も九死に一生を得たる事とて半死半生の有様なれば屍体の捜索極めて困難にして屍体の発見少なきも亦之か為めなりと云ふ


○海嘯中に突進す
唐桑村字只越の予備歩兵根口万次郎は日清戦争以後は護国の精神益々盛んにして何時敵国来寇するやも計かるへからすと治に居て乱を忘すとの古言を守り常に其準備をなし居りしか海嘯の当日大船の駛る如き響あると共に轟然たる大砲の如き音の聞えしよりスワ敵艦来れりと急ぎ用意の軍服を着け飯を提げて海岸に突進するや山なす怒涛に捲き去られて行衛知れす其後浜辺に死骸漂着せしに尚は剣を放さざりしと(挿図参看)


◎死人の鯱立
又同村にては遭難の翌日軍吏救壊に赴きしに田の中に倒まになつて立ち居たる死体ありしと(挿図参看)

●岩手県気仙郡
●気仙村及其附近村落

気仙沼、北に指して早馬山の険あり、馬背に依て之を越ゆれば岩手県の気仙村に入る気仙村は高瀬山の麓、広田湾の浜りにあり戸数五百四十二、人口三千六百五十一、漁村としては可なりの村落なり、されど被害は其一大字なる長部のみにて、流失戸数三十五、死亡十八を出ずに止まりしは不幸中の幸なり又高田は気仙村の北東に当り人口三千四百八十九、戸数五百六十四を有する小都会なるが被害は殆んど皆無にして流失一戸、溺死一人を出せしに過ぎずされば高田町の人民は力の有らん限り被害地の為めに尽さんとの心にて、赤十字社海嘯救恤事務所を設け人夫、馬匹等を無害地方より徴発招集し日々被害地に向けて派遣せり一
又米崎は戸数三百四十三の内十戸を流失し、人口二千四百六十の内十二を溺死せしめしに過ぎず

●末 崎

末崎村は大船渡湾の尽くる處にあり半、外洋に面する漁七郎三の部落にして戸数三百八十八、人口二千九百六十五を有す而して其流失若くは破壊家屋は百七十八、死亡人口は六百五十九実に驚くべきの大数なり其負傷人員の如きは重傷者のみにて百六人と称せらる之れに軽傷者を加ふれば二百人以上なるべし、されば沿岸一帯一里半の長き、破壊家屋の屋根、梁、桶其他布団家財道具の流失せるが、潮の為めに再ぴ此岸に打寄せられたるに填充せられ、馬匹の死体其の間だくに浮きつ沈みつ、隠見する様は一見酸鼻の外なし尚ほ屍体の発見せられざるが多ければ、此の屋根下、梁桷の底には幾多冤霊の群をなすことならん、想ひやるだに涙の種なり、又其残れる家々は、罹災者の遺族にて充満せられ、子供等が泣く声、老婆が咽び声、実に目も当られぬ惨状なり、又負傷者は小友村に設置されたる救済所に送致し目下手当中なり


憐れなる巡査
気仙の末崎駐在所に務むる山口と云ふ巡査は自分は負傷しつゝも助かりしが家族六人父母妻子を失ひ昨今は負傷の身なるにも拘はらず半狂乱にて巡査服を着せし侭頬冠して背には大なる風呂敷に握飯荷ひつゝ日々海岸を巡視して一家の死体を見出す外余念なしと


○藻の中より小供を発見す
米崎も亦難を被りて死傷多し海嘯後越えて三日人あり来りて田の中に堆積せる藻草を掻きのけしに一人の幼児十四五の少女に抱かれて眠り居れり少女は既に死して糜爛し居りしも其の懐にありし幼児は微かに呼吸通じ居りしかば直ちに療養を加へしに全快せりと云ふ (挿図参看)

●広田村

大金の流失
広田村の刈谷丈右衛門氏は家屋流失のため古金銀一箱、紙幣五万余円を失ひたりと


●船山に登る
広田村字六ケ浜にては帆船山腹に打揚げられたるもあり又数丈も高き高地の上鰹船の押揚げられたるもあり土蔵の敷石が皆遠く洗ひ去られたる亦船の漂蘯して人家を貫きたる皆被害の激烈を証するに足れり


○子を産んて海嘯に襲はる
同村佐藤某の妻は男の子を産みて一家喜び合ひしは束の間、僅か三分経つか経たざるに海嘯に浚はれしに如何にしてか岸に這ひ上り其後療養せし處今は健全の身となりしと


〇一網五十余人
同村にては海中の死屍を捜索するが為め漁網を卸ろして曳きしに網に罹りて来りし者五十余人余りに重くして曳き上ぐること能はず漸やく半分づゝに分ちて陸に上げたりと(挿図参看)


〇家を閉ぢて災を免る
広田村に小松駒次郎と云へる人あり此人は同地の水産家にて既に本年の四月頃遠海地業を企てたることあり今回の災変に就て此人の宅は海岸にありたる故危険言ふぺくもあらざりしが主人は泰然として動かず、驚き迷ふ家人を制し逃け迷へばとて逃得ざる運命なれば逃得べきにあらず運は只だ天にありとて家人の外出を禁じ固く窓戸を鎖し一同静まり返りて控へ居たるに好運にも波は其上を越ゑ行きて些の浸水をも被らず一家団楽の侭平穏無事なるを得たりとぞ

●大船渡湾附近

大船渡湾は長さ三里巾十七八丁許りあり湾の入口に近き大字石浜より対岸蛸の浦の方位に向ひ遠く望めば長さ五六町の堤防を築きたるが如く近く眺むれば一條の白洲の如く見ゆるものは是れ流失家屋の木材相集れるものにして木材の間往々交ゆるに人馬の伏屍を以てし湾の周囲七八里の間殆んど空處なき迄に波止場を築きたるが如くなり居れる物亦流失家屋の木材の寄れるものなるを見ても如何に海嘯の激烈にして如何に多くの家屋根を流したるかを知るを得ぺく原形の侭少しも破壊せざる屋の湾中に浮びて幾個の浮島を作れるは頗る奇観なり
大船渡の中被害の稍激きは下船渡にして五十六戸中三十六戸を流失し残余二十戸も村長某の家と他の二三戸を除きては大破せざるものなし下船渡、平、長井沢、笹ケ崎の四字は半ば漁業に従ひ半ば農桑に力むる地なるに田地は全反別四十町歩尺寸も剰す所なく荒廃し漁具も毫末残す所なく洗ひ去られたれば存するものは多少の山畑のみにして生存せる人民と雖も業を執るを得ず字茶屋前、缺之下の両字は湾底に位せるを以て死傷及び流失は少きも製塩を以て一年の生計を営めるに塩田悉く失せて是亦職業を奪ひ去られたり湾底を距る十丁許りの處に盛町あり戸数三百余郡衙あり警察署あり料理店あり旅籠屋ありて小市街を為し居れど今回は更に其害を受ず只大船渡辺道路破壊し電柱折れ北沿岸亦大破せしを以て一時交通の便を失なひしのみ県庁より出張するもの赤十字救護員の来るもの等陸続として投宿を求むるも容易に得べからず各旅籠屋とも上を下への大混雑なり人夫の如きも払底にて数倍の賃銀を払ふも応ずるものなし
大船渡村は二百九十五戸の村落中七十四戸を流失し二千三百四人の人民中八十三名を失ふ赤崎村に至ては此よりも更に全戸数三百八十三戸中二百五十戸を流亡し人口二千九百八十五人の中四百九十七人を溺れしめ大字中赤崎は八十戸の村落中僅かに一戸を来し人民も亦大半死滅せりと云ふに至ては天下の惨事之に過ぐるものあらんや

●綾里村

○午前十時に激響を聞く
海嘯当日綾里村の西北四里半許りの處にある五葉山(気仙郡第一の高山)に檜の木を伐採しつゝありし樵夫鮪船松魚船等に乗り組み気仙沼沖に掛り居たる漁夫は午前十時頃に於て太平洋上に雷の如く砲の如き激響の起るを聞き、又午後七時に於て激震に接触せり


○波高き事十余丈
綾里村字白浜、野々前に激触せる海波は十余丈の高さに達せり


○役場吏員皆死す
役場吏員は村長を除くの外皆溺死、死体すら末だ発見せず姓名は下の如し収入役松本一十郎、助役千田輿太郎、書記鈴木邦一、書記野々村善作


○村会議員
村会議員村上巳之作、熊谷三太郎、千田兵太郎、豊澤忠平、舘脇庄作、村上浦次、野村栄吉、野々村藤蔵、佐々木亀吉の九名も亦皆溺死せり


○役場
港に在り流失して一物だも残さず

●越著来村

○心懸よき致師
越喜来村は今回の凶変に最も惨状を極めたるが同校教員に佐藤陣なる人あり今しも激浪怒涛の凄しき勢ひにて渦まき来るや氏は直ちに校内奉置の御真影を数町距りたる安全なる場所に奉置し先づ安心と取返して見れば愛児某が水中にありて将に推し流されんとする處なるより奮躍して激浪中に飛び入り首尾よく之を救ひ出したりたりと云ふが天も亦此忠者に幸せしか(挿図参看)

●吉 浜

○昔は碧海
吉浜村大字川原の一部分は大海嘯の為め陥りて海原と化しぬる老人之を聞て曰く吉浜昔は葦浜と書し海の填まりて耕地となれる所今復た旧の如く葦浜となりたるは何等かの因縁なるべしと

●小白浜村

○寺僧の狼狽
小白浜の村稍尽の小高き所に一の寺院あり寄僧は大なる音響の聞えしに打驚き何事ならんと村内を瞰下したるに一面に白烟の立騰り一方ならぬ大騒動をなせる様子なるにぞ定めし出火ならんと察し無暗失鱈に梵鐘を撞き鳴らせり斯る所へ村民の誰彼ビショ濡れとなつて命から 逃れ来しより茲に始めて其火災にあらずして水災なるを知りたりと、亦た当時倉皇の状を想ひ見るに足る


○軍人の溺死
予備海軍水兵山崎久蔵氏は日清戦争の当時吉所なく荒廃し漁具も毫末残す所なく洗ひ去られたれば存するものは多少の山畑のみにして生存せる人民と雖も業を執るを得ず字茶屋前、缺之下の両字は湾底に位せるを以て死傷及び流失は少きも製塩を以て一年の生計を営めるに塩田悉く失せて是亦職業を奪ひ去られたり湾底を距る十丁許りの處に盛町あり戸数三百余郡衙あり警察署あり料理店あり旅籠屋ありて小市街を為し居れど今回は更に其害を受ず只大船渡辺道路破壊し電柱折れ北沿岸亦大破せしを以て一時交通の便を失なひしのみ県庁より出張するもの赤十字救護員の来るもの等陸続として投宿を求むるも容易に得べからず各旅籠屋とも上を下への大混雑なり人夫の如きも払底にて数倍の賃銀を払ふも応ずるものなし
大船渡村は二百九十五戸の村落中七十四戸を流失し二千三百四人の人民中八十三名を失ふ赤崎村に至ては此よりも更に全戸数三百八十三戸中二百五十戸を流亡し人口二千九百八十五人の中四百九十七人を溺れしめ大字中赤崎は八十戸の村落中僅かに一戸を来し人民も亦大半死滅せりと云ふに至ては天下の惨事之に過ぐるものあらんや

●綾里村

○午前十時に激響を聞く
海嘯当日綾里村の西北四里半許りの處にある五葉山(気仙郡第一の高山)に檜の木を伐採しつゝありし樵夫鮪船松魚船等に乗り組み気仙沼沖に掛り居たる漁夫は午前十時頃に於て太平洋上に雷の如く砲の如き激響の起るを聞き、又午後七時に於て激震に接触せり


○波高き事十余丈
綾里村字白浜、野々前に激触せる海波は十余丈の高さに達せり


○役場吏員皆死す
役場吏員は村長を除くの外皆溺死、死体すら末だ発見せず姓名は下の如し収入役松本一十郎、助役千田輿太郎、書記鈴木邦一、書記野々村善作


○村会議員
村会議員村上巳之作、熊谷三太郎、千田兵太郎、豊澤忠平、舘脇庄作、村上浦次、野村栄吉、野々村藤蔵、佐々木亀吉の九名も亦皆溺死せり


○役場
港に在り流失して一物だも残さず

●越著来村

○心懸よき致師
越喜来村は今回の凶変に最も惨状を極めたるが同校教員に佐藤陣なる人あり今しも激浪怒涛の凄しき勢ひにて渦まき来るや氏は直ちに校内奉置の御真影を数町距りたる安全なる場所に奉置し先づ安心と取返して見れば愛児某が水中にありて将に推し流されんとする處なるより奮躍して激浪中に飛び入り首尾よく之を救ひ出したりたりと云ふが天も亦此忠者に幸せしか(挿図参看)

●吉 浜

○昔は碧海
吉浜村大字川原の一部分は大海嘯の為め陥りて海原と化しぬる老人之を聞て曰く吉浜昔は葦浜と書し海の填まりて耕地となれる所今復た旧の如く葦浜となりたるは何等かの因縁なるべしと

●小白浜村

○寺僧の狼狽
小白浜の村稍尽の小高き所に一の寺院あり寄僧は大なる音響の聞えしに打驚き何事ならんと村内を瞰下したるに一面に白烟の立騰り一方ならぬ大騒動をなせる様子なるにぞ定めし出火ならんと察し無暗失鱈に梵鐘を撞き鳴らせり斯る所へ村民の誰彼ビショ濡れとなつて命から 逃れ来しより茲に始めて其火災にあらずして水災なるを知りたりと、亦た当時倉皇の状を想ひ見るに足る


○軍人の溺死
予備海軍水兵山崎久蔵氏は日清戦争の当時吉損二百三十七隻、田畑潰地二百二十二町五反余にして警察署一小学校三、郵便電信局一流失し牛馬の失せるもの三十一頭に及ぶ、以て其の被害の甚大なるを知るべし


海嘯の激烈
海嘯の起れるは十五日午後八時三四十分の間に在り其際大降雨なりしが海嘯は?忽に且つ激烈に襲ひ来れると分秒の間に二回に及び全市の家屋殆んど洗ひ去られ壊し尽くされしなり海嘯の高さは七丈にも及びしならんといふ


部長の負傷
釜石警察署詰の巡査部長は第一回の海嘯にて其家の倒れしより庇の下に蹲まり居れる所へ又もや、第二回の海嘯に襲はれて水底に沈みたるも漸く屋根を毀ちて其上に逃れ出でしに天運なるかな其家の山の端に打揚けられし為め負傷しなからも一命を助かれり其長男の死体は廿日発見せられたれども其妻の遺骸は未た見当らず、警察署長も亦た山に打揚げられて重傷を負ひしも生命には別條なし


少女の幸運(五日目に掘出さる)
十九日午後二時頃のことなりき人足等が潰家を片付くる折柄箪笥の下にて幽かに人声の聞えしより訝りつゝ引起し見れば意外なる哉意外なる哉死せしと思ひ居りし蘭崎よみ(十一)なる者箪笥の環(棒に挿す處)の突張りたる為め少しの空隙ある間に挟まれ息も絶え?の有様なるにぞ早速扶出して介抱せしに今は全く回復せしと云ふ遭難より五日目にして助かりしとは実に不思議なる話ならずや


石応寺前の悲惨
同寺は北方高地にありし為め今回海嘯の難を免れたれば今日までに発見したる屍体は悉く同寺に運撤し居れり、伏屍累々何れも水腫れに腫れ膨れ色変肉裂け皮膚爛れ或は腕の折れたるあり或は骨の挫けたるあり或は首のなき小児の遺骸あり一として創痍を負はざるはなく中には内股に膀胱のやうなる水嚢の出来居るもあり手足腹部の脹れ上りて廻り三尺以上の者もありて殆んど人体の格好を失ひ若し臭気なくんば下手の彫刻家の手に成れる人形かとも思はれん而して少なきは二三ケ所多きは七八ケ所も黒紫色斑々として桑の実の熟したるが如きもの体中に呈はれ居れり是れ木材などに打当られて黒血の寄りたるにやあらん見るからに毛髪堅立ちて思はず念仏を唱へぬ


◎石応寺門前の死骸
釜石なる石応寺の門前には此處後處より集め来りたる死骸を陳べて遺族の人々に示しけるが去る十八日夫婦と覚しき翁媼の来りて陳べ置きたる若き婦人の側に寄りてオヽお前は此處に居たかとて死骸を抱き起し経帷子の代りにとて白木綿を着せつゝ涙を泛へて生きたる人に物言ふ如く之れを持つて行けよ此帯をしめて行けよなど語りては時々其名を呼びて念仏を唱へけるが語々切々真情より出でざるなく他の遺族の人々も我身につまされて貰ひ泣きをなしたりとなん


仮警察署
当地警察署は影だも留めざるに至りしを以て仮に山の手なる山口署長の自宅を以て同警察署に充て岩手県警察本部及花巻、遠野等より派遣の警官数十名東奔西走罹災民の救護に鞅掌しつゝあり


桟橋の流失及鉄路の破壊
田中長兵衛氏の所有に係る釜石町字鈴子なる製錬所は何等の損害なかりしも同地より海辺に通ずる軽便鉄路約一哩許は海嘯の為め非常なる損害を被り殊に海中に斗出せし一百間の長桟橋は当夜流失して僅に柱杭の影を止むるに過ぎず且つ廻漕部にありし役員二、大工頭一、倉庫一、役員宅一、人夫長屋三棟と八十余名の人夫とは遂に影だも見ずなりぬ、然るに同様橋は偶然にも汽船三友丸の入港し居りし為め即時湾口より引来ることを得たりと云ふ


長安丸以下の船舶
田中工場の所有なる長安丸及製造中なりし三百噸の帆前船を始め幾多の日本形船舶は海岸若くは沖合に碇繋しありし由なるが一夜の間遥かの山手なる陸上に漂着し其多くは壊裂せり独り長安丸のみ船体破壊せず乗組員一同無事なり、と云ふ


石鳥居の流失
高さ二間半大さ五尺余なる石鳥居は同夜流失して百間余の所にまで漂はされたり、以て波浪の如何に激甚なりしやを窺ふに足る


町役場の安全
釜石町役場は高地なりし為め害を被らざるを得たり先づは不孝中の幸と云ふべし


港内の光景
釜石港内には民屋の破壊せしもの或は船舶の粉韲せしもの此處彼處に充塞して宛ながら秋風の落葉を吹き寄せたるが如し


水産補修学校員の無難
同校教員及び生徒は夜間小学校内に詰め居りし為め一同事なきを得たりと云ふ


飢虎の肉を争ふに似たり
生存者は自己の負傷を忘れて只管遺流品の収拾に狂奔し居れり是れ人情の然らむしる所とは言へ拾ひ取りたる漁網若くは物品を争ふて端なく口論を生じ果ては鉄拳の雨を降らすもの少からず浅ましの所為と謂ふべし
当時皆川虎吉なる者は当人并に妻と娘と孫と一家四人悉く死し、杉山安次なる者の妻は其二子を負ふて走る時、波に倒されて、二子を奪ひ去られたりと、悲酸の状実に察すぺきなり。


重もなる溺死者
岩手県会議員たる小軽米汪氏(三十五六)は細君并に書生三名と共に一家残らず溺死し収入役金崎祐蔵氏夫妻共に溺死して養女一名生存せるのみ又町会議員猪又勘三郎氏の家族九名皆溺死せしも氏自身のみは重傷を負ひながら一命を助かりて今赤十字社病院に在り


見す?捲去らる
釜石町字澤村に於ては十人ほども崩れし材木の間に挟まれつゝ頻りに声を揚げて助けを呼びしも何分激浪怒涛の中にあるのみならず人手少なくして力及ばず僅かに三人を救助せるのみにて其余は見す?逆浪中に捲去られたりと


○樹上に玩弄物を弄ふ
釜石町にては三歳の幼児か蒲団に包まれ玩弄物を持ちて戯れ居りしに俄然海嘯に襲はれて一家挙つて溺死せしに独り件の幼児のみは激潮に押流され蒲団と共に樹枝に懸りながら尚ほ玩弄物を持ち?々として遊び居たりと云ふ (挿図参看)


○溺死者金庫の鍵を持去る
釜石町役場の金庫は無事に拾ひ上げられたるも其鍵を預り居れる収入役某の溺死したる為め金庫の金は急場の用をなさず役員等は携拱手唖然


巡査致員の死亡者
釜石警察署は流失して署長以下十四名皆負傷し巡査一名死亡したるを首め各村駐在所は大抵流失せしが為めに其巡査多くは家族と共に死亡したれば巡査の死亡は総数十四名あり又各村の小学校訓導にして死亡したる者六名ありと


姉の首のみ残る
釜石町役場の書記某は当夜宿直なりしかば海嘯の引去るを待て我家に立帰りたるに案の如く全く潰家と為り居るにぞ責めて家族の遺骸にても引出さんと屋根を剥がし雑具を片付け見れば其姉の首のみ木材に挟まれて残れる外他の屍体一もあらざりしと(挿図参看)


遭難を知らずに助かる
釜石町字平田にて小学校教員照山某は大酔して前後も知らずにグッスリ熟睡し居たる折柄海嘯の押寄せ来りしかば妻が某を呼び起し置き己れ先づ外に逃出したり然るに某は一旦目を醒せしも酒に酔ひし癖とて其侭又も眠に就き斯る危急の場合を夢にも知らずして浸入し来れる海水に浮きつ沈みつ板の間に転々しありたる末漸く目が醒めて夫と心付き宅外に飛出せしが最早や此時は退水後の事とて其身は別條無きを得たりしも却て早く逃出したる妻は押流されて溺死したりと云ふ


姉、二弟を助けて惨死す
釜石町の質屋にて相応の財産家なる老人某は当夜其身のみ逃出でしも家族の事気に掛りて引返し来りたるに長女が水中より頭のみを出して「阿爺好く来て下さつた私は二人の幼弟を助けたさに片腕片足を失ひましたが弟等が助かればモウ死でも本望です」と涙ながらに気絶し居る二弟を渡せしかば父は先づ其弟二人を他に連出して水を吐せたれば孰れも幸に蘇生したれど憐むべし姉娘は暫し余命を保ちたるのみにて其翌朝死亡したるよし


少女四昼夜間潰家に在り
釜石町にて去る十八日の夕刻人夫等が潰家を発掘し居りたるに其足下に助けを呼ぶ声の聞ゆれば屋根材木等を取片附け見れば一二の死体の傍、箪笥や雑具の間に取囲れて十三歳位の少女蹲まり居るより早速之を救出して仮病院へ入れたるよし


樹上より両親愛子の最後を見送る
大槌町の小学教員道又某は当夜屋根を突破りて尾上に登りしが両親が尚ほ孫を抱き水に浸りて二階に在れば某が屋根の穴より疾く此處より登らるべしど勧めたるに両親は吾等は兎も角先づ此の孫を助けよと差挙ぐるをイヤ孫も孫なれど二方も疾く?と勧めて彼此する内に第二の波涛来りて忽ち家屋を持去り某は幸に尾上より樹木に取付て助かりしも樹上より助ける事もならずして両親と愛子が其家と共に流され行くを見送りたる時の心中如何にありけんと聞く者為めに涙を流さゞるは莫し(挿図参看)


帆船に押送らる
釜石町にて某家の手代は当夜火事と思違へて倉の屋根に上りたるに其倉と共に引浚はれて漂流しつゝありたるに一隻の帆船此方へ向けて勢鋭く流され来りしかば此船を打付けられては所詮逃れ難からんと危み居たるに却て其帆船の為めに倉を押送られて山腹に寄付きたるより直に樹の枝に飛付きて辛くも一命を全ふしたるよし


○鈴子製鉄所
鈴子製鉄所長の話に当夜海嘯の起る前震動の声甚しく尋で處々泣号の声聞えしかば走つて堤上に到るに電信柱に取付き助を求むるもあり橋の乱杭に取付くもあり其中に船舶材木等追々流れ来りし故最早や猶予ならずと帰つて職工をして所々に火を焼かしめ又釜石の方にも火を焼くべしとて数ケ所に篝火挙げしに之れを見て助かるを得しもの八九十人もあり其れより又た馬の飼料造る大なる釜にて粥を煮て所々に配付したり又製鉄所の備蓄米百石許り流され其外流されたる材木鉄鉱も夥しく此騒にて本製鉄所にての損失は四万二千円なりしと(挿図参看)

●水海、両石

水海は鳥谷坂の北麓なる一小村にして戸数十六、人口約一百あり毎戸多くは農を業とし傍ら製塩を営み居たる由なるが十五日の午後八時卅分頃俄然として大海嘯襲来し全村を壊滅し僅に八男一女を存するに過ぎす面も皆負傷せざるはなし当時潮高十余丈に達し怒涛岸を掠めて大木を抜き家屋を微塵にしたるの跡、尚は斑々として見るに余りあり吁是れ何等の悲惨ぞや
両石村は水海の北方両石湾に瀕せる一漁村にして戸数百廿九、人口八百四十なりしか辛うして流失の難を免れたるは民戸僅に二、危機一髪の間幸に生を拾ひたるも男女一百卅九人のみ、又建物の流亡せしもの百五十七、船舶の大破損四、流壊五十四なりとす殊に田中製鉄所の所有に係る伊勢丸(三百噸)は当日洗鉄を搭載し将に抜錨せんと欲せしも雲霧の為め果さすして同湾にありしに端なくも今回の時変に遭遇し恋峠の麓に簸揚せられ船体全く粉韲せし為船長以下乗組員一同に哀なる惨死を遂け十四歳の一炊夫のみ辛ふして一縷の命脈を継ぐを得たり想ふに釜石湾は尾崎、間蛇の両岬南北に斗出し湾形恰も嚢の如くなりしを以て幾分か潮水の浸入を遮?し潮高稍寛なるを得たりと雖も両石湾は漏斗状をなし直に外洋に面するを以て殊に潮勢激甚なりしならん屋材を劈き喬樹を摧きたるの光景は一目悽然人をして血涙に咽ばしむ


白木澤孝氏の奇話
両石村の開業医たる同氏も亦被難者の一人にして妻子眷族悉く流滅せしよしなるが同氏は自宅の屋根に縋り居りて遥かに二百間余の海上に押流され次で枚子に取付き幾多の苦楚を嘗め翌日午前十時頃まで破浪に揺れつゝも水練の素養ありし為め一破船に泳ぎ着き辛くも命を残さゞるを得たりと云ふ然れども全身殆んど傷ならさるはなし

●鵜住居村

南閉伊郡鵜住居村は水海、両石、桑の浜、仮宿、白浜、箱崎、根浜、鵜住居、片岸、室ノ浜の大字より成り全戸数四百七十四、人口三千百五十三人ありし地方なるが村長の談話に拠れば去十五日午後四時頃より八時までに微震二回小震二回を感ぜしが孰れも左まで気に留めざりしに八時二十分頃爆然たる一声轟き天柱摧け地維折くるかと思ふ瞬間に大海嘯は天を捲て来り両石、水海、箱崎の南部及片岸に於ける民家は一挙にして微塵に破砕せられ人命及家財の損害其幾何なるを知らずと云ふ
村役場に於て調査せし所に拠れば通貨の流亡せしもの約三千二百七十円、家具家財約二万二千七百余円、製塩釜八ケの代償一千六百円、耕地の荒廃せしもの十三町、船舶の破壊一百廿四、建物二百九十四、牛馬約四十頭、浸水田畑百三十五丁余ならんと云ふ、吁何ぞ夫作損害の莫大なるや


石川清分氏の奇特
同氏は遠野町の開業医なるが海嘯の謦報に接すると同時に匤々薬品を整へ昼夜兼行して氏の故郷なる鵜住居村を慰問し直に患者を収容して救急治療に余念なきものゝ如しこれ等を真の仁術家と謂ふべし


惨話二三
鵜住居村中海岸に瀕せる部落は殆んど全滅したるの悲況なるが殊に両石箱崎の如きは其最なるものにして挙家滅亡したるもの比々皆然りとす而して偶々事を以て他村に在りし為め難を免れしもの一家眷族幽明境を異にするあり或は廿人の家族中僅に一乳児を存するのみなるあり又箱崎の漁場に在りし漁夫八十五人は空しく海底の藻屑ど化了し残るは唯三人なるあり要するに是れ惑惨の一例に過ぎず被害の地見るもの一として皆暗涙の種ならざるはなし


夫妻のみ不思議に助かる
鵜住居村の道又某は其父と醉臥し居たるに海嘯の音に目を醒して父母妻子下女と共に二階に上りたるは其家の已に流出せし時にて某は黒暗なれど屋根裏に取付き母妻子等には其身にシカと取付かしめて漂流しつゝありしがイツか父の声も聞えずなりしのみならず屋根も次第に建物を離れんとするより已れ先づ屋根を突破りて上に登り母妻等をも其穴より登らしめんとする内山際に打寄せられしを幸に其山へ飛下り手を伸して母妻子等を救はんとする瞬間に又も襲ひ来れる波涛の為めに家は忽ち母妻子諸共持去られぬ然るに其妻が母等と共に又も漂流しつゝある時子を負せありたる下女が誤て水中に陥りしかば之を救はんとしたる機に其身も足を辷らして落ちたるに不思議にも山崖に打上げられて辛くも一命を繋ぎ留め茲に夫妻両人とも別條無きを得たりしも両親と愛子は孰れも無惨の最後を遂げしとなり

●大槌町

大槌町は大槌湾の奥に位し御箱、野島の両岬湾口を約す大海嘯の当日は同町出身凱旋兵の為に祝賀会を南端海岸の洲崎に開く余興として多くの花火を製造し昼は海中に船を浮べて狼煙を天に漲らし夜は会場附近に於て之を打上たり去れば全町の有志家は朝来の雨を厭はず子女を伴ふて会場に参集し名誉ある兵士を?待し一同興に入りて夜の八時頃となれり而して花火は第四発目を打上げ終りぬ折柄沖合に当りて百雷の一時に落るが如きを聞き人々奇異の想ひを為すうち大地微震を感ずると同時に第二回の海上鳴動を聞きぬ此度は第一回に比して響の高き事数層倍若しや海嘯には非ずやと疑ふ間に浜辺に在りし人の叫びとして海嘯々々と声を限りに呼立てぬ果然大海嘯は大山の崩れ来るが如く極めて速かなる勢を以て襲ひ来れりアレよと驚き逃る一刹那十数丈の狂瀾は洲崎の祝賀会場を一蹴して市街の東南端なる大須賀を衝き直ちに本通りの八日町に出でんとすアワや大槌市街は釜石同様至大の大惨状に陥らんとせしに八日町の隅に海産物の豪商古館武兵衛氏の大土蔵二棟と其居宅の儼然之を支ふるありしかば狂瀾之か為に其勢を割かれ一は市街の南方裏手を払つて西端の四日町に出で一は市街の北方を走りて大須賀の全部を破壊せり大須賀には四戸の妓楼ありて四戸共に破滅したれども娼妓等は二階に居りし為め辛くも一命を助かりたり又洲崎には五個の水産物製造所ありしかと跡なく破壊せられて一物を止めず大槌市街五百余戸の中破滅せしもの百余戸半潰れ百余戸合計二百五十余戸、三千五百余人の内死亡せしもの百三十余人死屍の未だ発見せられざる者卅余而して小児最も多しといふ蓋し海嘯の当夜花火見物の為に集り来りて逃場を失ひ悉く惨死を遂げたるなり死亡中には当日の名誉員たる近衛一等軍曹佐瀬富吉(白色桐葉章勲八等)の海軍火夫中村芳太郎(勲八等)の二人あり共に砲煙弾雨を冒して目出たく錦を故郷に着け空しく海嘯の為に斃る豈酸鼻の極ならずや又第二師団の騎兵たりし馬塲力雄(花火製造人)は危く捲去られんとせしも辛き所にて一命を助かりたり而して釜石其他に比し死者の比較的少なかりしは祝賀会のありしため早く海嘯の襲ひ来るを認め壮丁の逃たるもの多きに由るといふ


○海嘯の勢
大槌町は両石及び船越に比し海嘯の勢幾分か減ずるものゝ如し是れ襲来の海嘯御箱崎と野島崎との為に支へられ多少其勢力を殺がれたるを以て全力を両石及び船越に移されたるに由る而して御箱崎の南に在る三貫嶋を見ばれ海嘯の勢の激烈なる事非常にて波勢尚十四五間も高かりせバ仮宿村の後の山を踰えしならんとの事なり豈恐怖すべき限りならずや


○惨話一二
大槌湾の中央に蓬来島と名づくる明媚の一小島あり海嘯は之を越て来りしが其退き去るに臨みて波中に捲かれたる一人島上の松に縋り付き僅に一命を全ふせり又岩館儀助といふ大須賀の往人あり当夜八日町の本家に赴き居りて死を免かれたれど他の家族は三人全く惨死を遂げたる由

●東閉伊郡
●田の浜村

○田の浜の全滅
田の浜は大槌町の北に当る一漁村なるが此地は全村流失の大惨状に罹りたり


○田の浜の役場員も悉く流亡


○危く命を拾へる者少なからず
戸脇某は畳と共に子供を抱しまゝ天井に突上られたれば小児を梁に括り付け自らは船の流れ来りしに飛乗りて命拾をなし折笠長右衛門は家と共に流されし所へ舟が来りたれば之れに飛乗りて流れ八幡丸と云ふ風帆船に助けらる


〇二人の子を負ふて死せる婦人の死屍あり

●船越村

船越村は東閉伊郡の最南にして船越、田の浜大浦の三字より成る全村船越湾に臨み漁業を以て生活す此地の被害は比較的釜石
に勝るとも劣らざるの大惨状にして田の浜の如きは全部二百三十六戸一戸を余さず流亡し千三百人中惨死を遂ぐる者九百四十五人誰か其激烈なるに驚倒せざるものあらんや家屋船舶の破片は算を乱して湾内に漂ひ人の屍、牛馬の屍其間に交りて腐爛に任す船越亦山の内と称する丘上の小字を残すの外海岸全く破滅して一物を止めさる田の浜と同しく同胞及牛馬の屍は砂中各所より現れ出るも壮丁全く尽きたる事とて之を如何ともする能はす己むなく破片を集めて之を火き此處彼處に愁煙の異臭を放つを見る


地峡を躍り越ゆ
船越村と山田湾との間には小半島の両湾を劃断せるありて船越村は一地峡の如くなれり然るに海嘯は十余丈の高さを以て船越村を一掃し去り更に其地峡を躍り踰えて山田湾と相通じたれば右の小半島は宛然一孤島の如くなりぬ


○計らさりき我子ならんとは
船越村辺の漁夫なりとか当日海上に出漁し居りしか海嘯ありとは夢にも知らす流れ来る三人の子供を救ひ上けしに計らさりき其一人は我子なりしならんとは


船越村の飢餓
同村の民家は殆んど全域に帰したるが其僥倖にして一縷の命を維ぎおる遺氏も今は食ふに穀なく寝るに屋なく其窮境実に目も当てられぬ光景なり

●織笠村

織笠村は船越村の北に在りて山田湾に臨み戸数百九十、人口九百四十の一漁村なり是亦海嘯の惨禍に罹り家屋の倒壊九十五戸惨死者六十五人あり

●崎山村

崎山村流亡戸数六十五戸、死者百十五人、負傷者二十名

●磯鶏村

磯鶏村流失家屋百二十戸、死者八十名、負傷者百余名、船船は一隻を残さず悉く押し流されたり其数未詳

●重茂村

重茂村全村流失片影を止めざるの惨状にして死者七百余各其纔に生存せしもの過半は重傷を負ひて苦悶せり駐在巡査同く災厄に罹り死亡す船舶は片隻を止めず牛馬の死せしもの百頭以上なり

●山田町

山田町は戸数七百八十六戸の中潰家凡三百九十三戸位浸水家屋前同断位にして死者凡そ二百名以上負傷数知れず
此地は海辺に家屋あり家屋と後山との関に水田あり海嘯の来襲するや其物音を聞きて地出せるもの水田中に陥ゐりて進退自由を失へる所へ無惨にも激浪渦巻き来りて遠く海中に捲き去りたるもの多しと


○当日の模様
午後八時半(此地吏員の時間は時計の狂へるにや皆相違せり只聞くがまゝを記す)の頃大地水平動の軽震を感じて其時間極めて長く而も間断なく九時半頃迄震動したれば尋常の事に非ずと思惟して戸外に出でしに大釜崎(湾口に在り平日波の当る音釜の如く聞ゆ故に名く)の方に当て海の鳴るを聞く然れども平日の音と違ひてゴー?と一斎に継続して鳴る
ゆえ必ずや海嘯なるべしと思ひ慌てゝ人々を喚び起し早く逃去らしめんとするうち音は万雷の一時に落るが如く恰も山の崩るゝ勢にて十丈余の激浪矢を射る如く進み来りしかば俄に山に攀ぢ登りしも其時は已に第一回の海嘯飯岡の大半を嘗尽したり此第一回の襲来に逢ふて親は子を失ひ妻は夫に分れ兄は弟に離れたれば人間の情として早くも之を救ひ出さんと直ちに山より降りし折柄第二回の大海嘯は木を揉砕くかの響してバリ?ゴー?天を捲て来り飯岡の九分通りと山田の半ばを奪ひ去りぬ悲鳴は起れり叫喚は始まれり惨憺又惨憺而して悲鳴と叫喚は十一時頃に至りて止みぬ

●宮古町

去十五日は旧暦五月節句に当り市中は菖蒲飾をなし何れも思ひ?の扮装にて例の浜遊びを為さんと待ち構へたる甲斐もなく
朝来降雨霏々たりしが午後四時に至り雨漸く収りしも晴曇定りなく七時半頃異様の地震あり次て八時十分頃またもや長き不思儀なる強震あるや否や異常なる波音と共に大海嘯押し寄せ来り直ちに西南を指して石崎を襲ひ北に折れて宮古の東端字光岸寺を衝き又折れて東部に進み下浜を掃ひ更に転じて鍬ケ崎を洗へり其状恰も球戯の球の進行の如く数回の屈折にて漸次其勢を殺がれたれば激涛の高さ一丈二三尺の上に出でず随つて被害の度も他に比して軽く戸数九百八十七人口六千五百の中流亡廿三戸潰家三戸半潰家十戸浸水三百戸死亡十二名重傷六名あり他町村に往き居て死亡せしもの少からず


新晴橋の中断
新晴橋は宮古川に架する八十八間の長橋なり海嘯の当夜河岸に繋ぎありし材木其中央を横断して上流に進みたれば今は橋の前後止るのみ

●鍬ケ崎町

鍬ケ崎町は宮古町の東に在り船舶の出入する所なり町長中川清祇氏の語る所によれば当日は陰暦の端午なりしを以て尋常小学校長と相談し幻灯会を小学校に催せり軅て幻映十五枚に及びし時生徒の一人坐したるまゝ小便せしを以て一同を立たしめ便所に赴かしめんとするや門前俄に騒がしく暫くにして海上鳴渡り街頭忽ち叫喚の声を聞きしかば中川氏は慌てゝ出でし一刹那海嘯は猛然として襲ひ来りしを以て氏は直ちに引返し門口に立ちて生徒を外出せしめざるやう制し山を踰て村役場に来りし時は街上海に接する所悉く惨禍に罹りて目も当られず幸ひにも学校に留め置きし小児は助かりたれど家に在りし多くは横死を遂げたり調査の結果全戸数百七十四戸の内二百廿四戸破壊流亡し五十三戸半潰となり百十五戸浸水し人口三千七百八十七人の内死亡百廿八人重傷十五人あり船舶は二百十六艘破壊流亡し尚他より来りて碇泊せし帆走船宮瀬丸外三艘は陸上高く押上げられたり


○派出所と共に流る
市街の中央に在る派出所にては同時刻語合の巡査千葉三平氏派出所と共に流されしも不思議と命を助かりて現に職務に励精しつゝあり


○全家の絶域
鍬ケ崎にては一家十三名悉く死亡して絶滅したる家あり今回の変災には斯る惨害を被りたるもの此地にも随分多かるべしと云ふ

●田老村

田老村は宮古北四里の海浜に在る一大漁村なり十五日午後七時卅分頃二度の地震あり強からされども震動の時間長し既にして東北の海中に当り空砲の如き響きを聞くこと三回、村民等始て異常の事あるを知りし瞬間時は正に八時廿分の頃山の如き激浪轟々として襲ひ来り全村の残らすを浚つて之を背後の高地へ持上げ更に三回の大激浪来りて船舶家屋を粉砕し悉く蒼海の中に特去れり其勢の激甚なる実に被害地第一の惨状と為す而て翌朝迄総計七回の海嘯あり此間五回の地震を感じたりといふ田老は陸中海岸中の富裕なる村にして従て生計の度も進み土蔵、納屋蔵等堅牢のもの多かりしに全村三百廿六戸而も背后の高地に在りし民家迄拭ふが如く洗ひ去り影も形も止めず殊に地面を一掃して下郡地層を現はし何れが道敷なりしか何れが宅地なりしかを分別する能はさるに至りては只震慄するの外なきなり而して又惨死を遂たる者は実に千八百五十人生存せる者百八十三人に過ず生存者中六十人は漁業の為に沖合に在り難を免れ二三十人は牛馬を駆りて山に在りて害を被らずとすれは其全く生存せしは僅々九十名内外のみ若し七十余人の重傷者を引去れば僅々二十人の無事なるを見るのみ豈悲惨の極に非ずや


海に在て難を免る
此日同村の漁夫六十人は十五艘の鮪船に乗りて艮位二里許の沖合に漕出鮪網を曳てありしが陸地の方に当て不思議にも汽車の響きの如きを聞き訝かり怪む事大方ならす仔細ぞあらんと力を合せ船を陸へと引返す途中三回の大激浪に遭遇せり愈々怪しさに耐へされは必死となりて港口に漕寄せしに材木の流れ来るもの数を知らす然とも波は非常に高くして入港思ひも寄らされは碇を港口に卸して陸上を望みたるに如何なる故にや全村一点の燈火を認めず稍ありて岩の角山の上より助け声を聞く頻りなれども真の曙とて如何ともする能はず天明くるを待ちて港内に入れば昨日迄人煙繁華の處蕩然として一発土となり家族財産挙りて藻屑と消え居たれば七十人の落胆は云ふ迄もなく悲惨極まりて涙さへ出るものなかりしといふ


○不孝の巡査
同村駐在所詰巡査種市愛仁氏は明治九年以来二十余年一日の如く励精せし人にて県内第一の古株なりしに一家を挙て惨死を遂たり無惨々々、又同所巡査高橋為治氏も其妻子と共に激浪に惨殺さる


○警官の機敏
米良宮古警察署長は罹災者が遺物遺金を盗掠せんことを慮り巡査を派して其保管を厳にせしかば田老は山田の如くならずといふ


〇扇田栄吉
田老の財産家なり海嘯の当時波に浚はれ身は材木の間に介まりて海中に漂ひ動くことならざりしに第二回の激浪の然め材木緩みて其間より首を出す途端三回目の波にて沖に持去られ僅に岩に取付て助かれり而して一家十人の内残るは栄吉一人のみなる上全身負傷したれども聊か屈する色もなく村長不在中臨時代理を命ぜられたるを幸ひ生存者の救護に付非常にカを尽し居れり

●北閉伊郡
●小本村

小本村は田老の北三里に在る漁村にして小本川の口に在り其惨状亦激甚にして田老に亞げり今被害の統計を示せば大字小本に於て流亡家屋六十一戸、惨死者二百四十四人、字中野に於て流亡家屋四十戸、惨死者六十九人、字小成に於て流亡家屋九戸、惨死者二十五人あり海岸一帯を洗ひ去られし事田老に同じく惨状目も当てられず


巨巌と河底の変動
小本川の入口に一丈五尺程の巨岩ありしが大海嘯の為に三百間許の上流に飛ばされて水面に現はるゝこと五尺に過ぎず而して小本川の底も海嘯前に比して数丈の深さを増加せり


中野の変象
小本村の中なる中野にては沖の鳴るかと思ふ間もなく家屋破壊陥落し然る後海嘯の襲ひ来るを見しと云ふ


○並木と家屋の陥没
小本の内に洲賀といふ一部落あり二十八戸の漁村にして其南岸一帯に二百年来の松並木二百五十本許を有せしが家屋も並木も陥没して痕跡を留めず住民も亦其中に埋られて他に在りしもの五六名の無事なりしに過ぎす

●田の畑村

田の畑村は小本村の北に在り松前澤、平井賀、羅賀、島の越の四大字より成る其被害統計は松前澤に於て流亡家屋一戸、残余二戸、死亡四人、生存者十三人、平井賀に於て流亡家屋四戸(全滅)死亡十三人、生存者十二人、羅賀に於て流亡家屋十六戸、残余十六戸、死亡百二十二人、重傷十人、生存者百六十三人、島の越に於て流亡家屋二十七戸、残余二十八戸、死亡百二十八人、重傷三人、生存者百九十一人あり船舶は一艘を余さず流亡破壊し且又東岸に在る十三個の塩釜を失へり


○隣家の小児と共に助かる
田の細の或る漁夫の妻は六人の小児ありしか兇変の際誰一人助くる事出来ず僅かに身を以て戸外に出てたる際隣家の小供に帯に取つかれ二人共々波にゆられて漂ひたりしが漸く潰れたる家の屋根に這上りて一命を助かりたり(挿図参看)

●普代村、

普代村に於ては同村大字太田名部四十二戸の内一戸を余し人員十一人、(内男三人女八人)を余して他は悉く流失溺死小本普代の医師は皆不幸にして負傷臥床中なるを以て岩泉及び小川村より医師を迎へ負傷者を救護致し居れり


〇三日目にて堀居さる
普代村にては事変後三日目に生れて三四ケ月ばかりなる嬰児の頻に啼き立つるに何れにと捜索したるに全身泥砂に塗れロにも砂の埋もりたる故呼吸もたえ?にて僅に土中より頭を出し居たるを発見したるか体温のあるを便に種々介抱せし處漸く蘇生したりとは不思議の事なり 


木村総三郎氏
は普代村字太田名部の豪族なるが氏の家族も亦全滅し独り十五才の長子宮古町にありて免れたるのみなり


一歳未満の小児樹上に泣く
変災の翌朝字太田名部村の村民死体を捜索するや五丈余の樹上に小児の泣声を聴き之を救ひたるに幸にして身には些少の傷だになかりしも父母兄弟なく某氏の許に養育され居るといふ


海嘯の高さ十丈
海嘯は所々に五丈余の高さに通したる跡を留めて家屋等に激したる所にては明かに十丈に上りたる形跡を認む

●安家村

◎無罪と大海嘯
安家村島川直諒は同地有名の財産家なるか先頃或者より私林盗伐の告訴を受け盛岡地方裁判所にて無罪となりしを検事より宮城控訴院へ控訴されしも矢張り無罪の宣告を受けたれば喜んで帰家せし處去十五日の大海嘯にて直諒始め一家十余人残らず溺死せしと云ふ

●南九戸郡
●下安家村

下安家村
玉川村の南方一里の所に在りて此村も安家川に臨む川は此辺の大川にして川口を距る四五町の所に二大橋ありしも今は橋桁さへ留めず戸数僅か十二戸なりしが全村流失し死亡人員は四十五名なり傷者の数末だ詳ならず


島川文平氏
は下安家の人にして堀内村の熊谷善六氏と南北十五六里間に一二を争ふ財産家なり山林二千余町歩を所有し年々販売する材木少なからざりしが海嘯の当日不幸にも全家十七名挙げて死亡し今日まで屍体の発見されたるもの僅に六名に過ぎず文平氏の孫某(当年九才)宇部村の小学校にありしが為め一命を全ふしたるも齢未だ人生の何たるを解せず人をして特に膓を九回せしむ

●玉川村

玉川村
は野田村の南凡そ一里余、玉川河口にある二十余戸の村なりしに今は一戸だもなく一見すれば曾て村落ありし跡さへ認むる能ばず死傷人員三十余名を超ゆると云ふ惨と云ふべし

●野田村

野田村
は戸数百三十余戸なりしに二十余戸を遺して他は悉く流失し又は潰滅して其状久慈港に異ならず牛馬の斃死したるもの尚ほ所々に在りて臭気堪へ難し死傷人員を詳にせざれども四百余名を下らずと云ふ


佐藤貞次氏
は此村第一の富豪家にして酒造業を営み一箇年の収入四千余円を下らすと土民の語る所に拠れは年々三千余円を盛岡市の某銀行に預くると云ふ幸に家族に一名の死傷者なかりしは慶す可きなり此附近の豪家にして全家恙なきは佐藤氏を除きて一もなし

●久慈港

久慈港は十五日の午後九時十五分強震あり夫より十三分間に二回の響を聞き次で同三十分海上遥に凄まじき響せしと思ふ間もなく高さ五丈許りの海嘯起りて瞬間に八日町(港より一里)迄押上げたりしも僅々五分間にして濁水全く退きたり
濁潮の退くや八日町の消防夫、人民は救護の為めとして相呼び相叫び役場員、巡査と合して同夜十一時薬其他を携帯して被害の現場に駈付け救助に取掛りたれども真の闇夜にして咫尺を弁ぜず探し求むるに術もなけれぱ人々唯叫喚の声を月当てに駈け廻はる中折角見当る被害者も助け起せば心緩みてか早絶息の体なり周章て薬を与ふれば嚥み下す力もなくて其侭絶命したるもの最と多しと
当地の溺死者は三百余、生死不明の者百五十余名、家屋は僅に二戸を余すのみにて他は皆流失せり
生存者は難を山に避けたるものか或は木材の為めに壓せられて身動きの叶はざるものゝみにして山中に逸れたるものは絶食三日漸く他の救護に依て再生の心地せりと
溺死者の死体は席に包みたる侭今尚ほ海岸の此處彼處に散布堆積して臭気鼻を撲つに堪へず

●種市村

○妊婦の溺死
種市村にては臨月に近き妊婦二名溺死し爾かも其死体の同じ處に頭を並べて漂着せしは無残にも亦た不思議なり


○親子の死体
種市村近傍にて一人の男三歳ばかりの子供の襟を攫みたる侭死体浮き上りたりと恩愛の情左もこそと見るもの皆袖を絞りぬ

●青森県三戸郡
●八戸

湊停車湯
は一昨二十七年建設に際し四十一年前に襲はれし海嘯の様子を古老に聞き質して土盛の設計を為し余程地盤を高めたるを以て今回の海嘯も幸に災難を免れ僅かに八戸線の突堤一間半ばかり洗はれたるに止まり列車の運転には少しも差支へなしされば日本鉄道会社の線路中湊沢を除くの外は被害絶へてなしといふ

●湊町

〇漁船の舳屋内へ突入す
湊町は被害少なかりし方なるが湊川河口より浸入したる海水逆流して百石積の帆前船一艘は陸上に打上げられ又大小百余艘の漁船多くは其鼻先を以て家屋の羽目板を破り突入したる有様は実に凄じかりしと云ふ

●湊村

〇湊村は七八十戸の所全部流失せり其の死傷少なからさるとなん又電柱三十本流失せしに付久慈電信局にては臨時電信機を夏井村に設置し辛うじて通信をなせり、又湊村字銀にては民家四戸流失し八戸破壊し学校一棟亦た破壊し死者三名生死不分明の者二名あり船舶橋梁及び漁具の流失破壊せしもの数多あり、又市川村、階川村も害を受けたり


○二階家の胴切
海嘯の為家屋の胴切りとなれるか多し二階造りの家屋は海嘯のドツと押寄するや下座敷のみメリ?と押潰されて二階はま其侭に残れるもの各地にあり湊村の白銀小学校の如きも其一なり

付義損金募集

今回の災害に付義損金募集の幾何に達せしやは精確に調査すべからずと雖も各新聞社の本月三日迄に集まるものは
 四万三百三円九十三銭        時事新報社
 三万四千二百四十三円六十一銭八厘  日報社
 一千八百弐拾九円六拾八銭九厘    日就社
 三千五百十九円四十四銭六厘     中央新聞社
 三千九百五十八円二十八銭      都新聞社
新聞社外に各町有志者より罹災者へ義損金寄贈方府知事へ宛て出願する者陸続多きを以て自今右出願者は所轄郡区役所へ申出で郡区長より直ちに三県知事へ宛て送附すべきことに久我知事より夫々通知ありたれば直接に区役所に於て送金の手続等万端懇切に取斗ふよし又弊堂支店所在地なる神田通新石町にては逸早くも町内有志者は右の金額を醵集し之れか送金方を神田区長に出願せしに区長は万事懇切に取斗ひ又第三銀行にては該金為換高を無手数料に取扱ひたり
   通新石町義損金百八十五円
 内訳 〇岩手県、百十五円○宮城県、五十円○青森、二十円
世には今回の海嘯を奇貨として種々の名を附し切符等を強売する姦竪ありと云ふ此等は厳粛なる警察の眼下に於て逃れ得べしとも思はれされど無智の民に至りては或は其わなに陥るもの無しとせず深く注意を加ふべき事にこそ

大海嘯極惨状ノ図

長一尺八寸石版摺  幅一尺三寸着色密画
尾形月耕筆一枚  山本松谷筆一枚
一枚ニ付 定価金四銭 郵税金二銭
今回の海嘯たるや実に本邦未曾有の災害にして狂乱怒涛の逆捲き来り三陸沿海の地を一掃して極目数十里の間浦と云はず村と云はず無残にも家を流がし財を流がしあはれ人間も生きながらの水葬弊堂爰に尾形月耕山本松谷の両画伯に就て当時の実況を描出し各美麗鮮明なる着色石版に付して発売す被害の極惨憺の状観る者をして彷彿として現場に臨むの感あらしむ乞ふ一葉を購ふて以て憫然たる実況を知り玉はむことを
発売所 神田区通新石町 東陽堂

風俗画報売捌所

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●風俗画報定価

壱部金拾銭〇六部前金五拾七餞○拾弐部前金壱円〇八餞
注意
東京市外配送ノ分ハ一冊ニ付キ金一銭宛ノ郵税申受候
代価払込ハ神田郵便局へ宛テ為換ヲ以テ振込マルヽ事
郵便切手代用ハ必一銭切手ニテ定価ノ一割増
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広告料
五号活字二十八字詰一行一回金拾銭但シ行数回数多少ニヨラズ一切割引ナシ再版ノ節ハ別ニ広告料申受クベシ
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発行所 東京神田区通新石町三番地
東陽堂
発行兼印刷人 吾妻健三郎
神田区駿河台袋町十一番地
編集人 野口勝一
小石川区掃除町三十三番地

予告 海嘯被害録中巻

明治二十五年三月廿六日逓信省認可 明治廿二年二月十自初号発兌


     予 告
     海嘯被害録中巻
海嘯被害の報の達するや弊堂はいちはやく視察員を被害地に派遣して記事に絵画に其実況を模写し来りしが茲に風俗画報を臨時増刊して海嘯被害録と題し、之を世に公にするを得たり然れども被害の区割たるや莫大なるを以て一朝一夕に正確なる記録を編纂すべくもあらず故に該海嘯被害録は巻を上中下の三に分ち以て弊堂が世上の読者に被害の実況を報遺するの義務を終んと欲す尚中巻には有名なる理学博士巨部宜智郡忠承居が記述せられたる地震波浪に附き地質学上の考説並に全世界中最大最深の海底なるトスカロラ海床の暗闘を掲載すべければ上巻を繙き玉ふ者は併せて中巻下巻をも購読あらむことを乞ふ

風俗画報 上編

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幼児少女に抱かれて田間の海藻中に眠り居れるの図(米崎)
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一兵士海嘯を敵艦来襲と誤り海岸に突貫するの図(唐桑村)
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志津川赤十字仮病院内の図
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同県唐桑町の惨状
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雄勝郵便局長の男舟に飛乗り一命を拾ふの図
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宮古警察署長巡査を指揮して人命を救助するの図
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女川村被害の惨状
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雄勝浜宮城集治監出張所
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被害地死体運搬の図
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雄勝村家屋破損の図
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相川村の赤十字社出張所
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被害地死者発掘の図
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志津川被害の惨状
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釜石町石応寺門前伏屍相累なるの図
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唐桑村にて死人倒まふ田中に立の図
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広田村の海中漁網を卸して五十余人の死体を揚るの図
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越喜来の小学校教員御真影を捧げ出すの図
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篝火の為に命を拾ひ得たるの図(釜石町)
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唐丹の小学校教員某の幼児樹間に掛りて一命を拾ふの図
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浅野音松船板に縋りて三日間海上に漂ふの図(釜石町)
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綾里村の惨状
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釜石海岸の惨状
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樹上より両親愛子の最後を見送るの図(釜石町)
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釜石役場書記某の姉の首木材に挟まれたるの図
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山田町の人民出火の為めに焼死するの図
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漁夫の隣家の小児と共に波に漂ふの図(田野畑村)
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海嘯災後の夜景
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地中の人声を聞て救出の図(釜石町

臨時増刊風俗画報第百十九号 大海嘯被害録 明治廿九年七月廿五日

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臨時増刊風俗画報第百十九号 大海嘯被害録 明治廿九年七月廿五日

海嘯の惨害家屋を破壊し人畜を流亡するの図

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海嘯の惨害家屋を破壊し人畜を流亡するの図

風俗画報臨時増刊第百十九号 海嘯被害録中編

○雑説

●三陸地方地震津浪に附き地質学上の考説

余此未曾有の事変後凡半閲月病褥に在り諸新聞其他の報告を見て事毎に其災害の意外なるに驚き天を仰ひて歎息せずんばあらず回顧すれば去々年十月公命に依り陸中宮古以北陸奥八戸に至るの沿海を巡察し余が小本村に宿泊したるの日は正に酒田地震発作の当夜にして行程東西四十里を隔て日本海の沿岸地震は太平洋に枕める陸中の東西に於ても延ひて可なりの弱震を与へたり当時余は旅亭の階上に在り石油火燈の最も危険なるを慮かり強震の再来あらんには之を提て階下に降らんとして階下に団楽し居たる家族及投宿人を顧みたるに恬として意に介せざるものゝ如し是に於て余は此地方地質の構造上地震稀なるの地たるを以て震害に経験無きに由り斯く人々の従容たるものなるべしと推考したりき而して爾来二年を出てざるに酒田に幾層々の惨禍を此平穏の地方に発生するの不幸を見るに至れり曩時地方人の言容今尚藹然として余か耳目に在り想ふに幾多の知人は多少罹災者の中に数へらることゝはなりしならん
百般の事其事後に於て喋々弁を弄するは識者の取らざる所なれども学理上の事実は又自ち研窮の材料として他日に益すること無しと為さず且地震の学説に至りては猶ほ極めて幼稚にして学者は其事実の多々ならんことを望み以て斯学専攻の資料に供せんと欲するものゝ如し余や未だ実地に臨んで事実の探究に従はすと雖ども地学者の一人として又些しく地学上三陸の地震に関して見る所なしと為さず而して事変後二十有余日猶未た這般学説の出でたるを聞かず寧ろ大早計に過ぎるの謗を免かれざるも斯く連日病床に在りて諸般の報告記事を読み推敲幾番従て病熱と共に浮み出でたる所の卑見あり依て学説中の先登者として試に之を本誌に藉て江湖に紹介し以て高識の誨を乞はんと欲す大方の識者幸に高見を示すに吝ならざらんには又以て自己一身の研究に止まらず広く世上に利益を頒たんこと豈少小ならずとせんや
    以下事実

一 発作の年月日時

明治廿九空ハ月十五日午後八時二十分

二 当日の気象

朝来風無く陰鬱の天候にして雨、霧交も至り温度は八十度
乃至九十度を昇降し気壓も共に平日より昂騰す(宮古測候所長談話)

三 地震の数  宮古町

発震時間         震動     時間  方向
午後七時三十二分三十秒  微 潰家あり 五分  東北東 西南西
同七時五十三分三十秒   同 海嘯あり 
同八時〇二分三十五秒   同 続震あり 
同八時二十三分十五秒   同 同
同八時三十三分十秒    同 同
同八時五十九分      同 同
同九時三十一分三十秒   同 同
同九時三十四分〇五秒   同 同
同九時四十五分四十秒   同 同
同九時五十分十秒     同 同
同十時三十二分十秒    同 同
同十一時二十二分     同
同 十一時三十三分十五秒 同 同
                  宮古測候所報六月十九日官報
備考 以上合計十三回の地震ありしも孰も微弱震に過ぎざりし然れども七時五十分頃海潮は異常たる速力を以て干退し同時に遠雷の如き洪響を聞くや八時頃に至り海嘯襲来し一旦引退せしが八時○七分再び畏るべき海嘯は一丈四五尺の高さを以て捲き来り人畜家屋を一掃し去り爾後六回の海嘯襲来したるを見たり而して波動は翌日正牛頃まで続きしもそは左まで強勢にあらざりしと云ふ             仝測候所所長談話

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地震の数  宮古町
四 津浪襲来の状況

六月十五日暮方数回の地震あり午後八時頃東閉伊郡沖合に於て轟然一発巨砲を放ちたる如き響音あり其音響の歇むや未だ数分時間ならざるに海嘯俄に至り狂潮天を衝き怒涛地を捲き浩々として驀地に押し寄せ来り市街となく村落となく総て狂瀾汎濫の没する所と為り沿海一帯七十余里僅に一瞬間にして平砂荒涼死屍壊屋の累々たる満目惨憺たらざるなし

五 地震の有無

各地とも地震ありて而して後津浪至る函館室蘭に於けるも亦仝し

六 音響の有無

大砲の如き又は遠雷の如き響を聞くも各地皆然り独宮城県志津川於ては之を聞き得しものなしと云ふ日本新聞二四三九号に曰く前略而して彼の他の所にて何れも聞取せしと云ふ大砲様の奇響は独り此志津川に於て関き得しもの一人だになかりき是頗る寄談たり云々

七 浪の高さ

田老村以北数里の間は被害の最も激甚なりし場所にして浪の高さ十五丈余に達したりと云ふ

八 光明ノ有無

無数の怪火 野田駐在所の巡査遊佐某は海嘯の当夜所轄部内の宇野村を巡廻し午後八時二十分頃駐在所を距る十町許の所迄帰りしに海上異常の鳴動を聞き怪みながら野田に近づくや海潮は曾て見しことなき高處まで浸入せり真逆に津浪と思はざれば暫し佇み考ふる内に大さ提灯程の怪火其数幾十となく野田の民家の在る所より背後の山に懸て高低に幻光を発したれば云々
田老村字小港の山上に在りしものゝ話に時ならぬ涛声を聞く一刹那海水は三百間余退干して全く海底を露はし蒼白の異光燦然たるを目撃したり云々
(時将に闇夜にして退潮三百間を知るは頗る難し但し光明を発したるは他所に於ても海中にありし漁夫の認め得たる記事新聞紙に散見ぜり)

九 前兆

所謂前兆なるもの数件あり左に之を列記す
海嘯前に干潮とたりし報告は少なからず其一二例を挙くれは本吉郡御嶽村地方の海面は海嘯の当日牛後三時頃稀有の大干潮にて平時十尋余の深さある辺まても干潮となりたれは老人杯は異変の前兆ならんとて憂慮し居たりと言ふ
宮古に於けろ海嘯襲来は前後六回にして初度の襲来ほ牛後八時なり而して之に先だつ十分即同七時五十分海潮は異常なる速力を以て干退し同時に遠雷の如き洪響を聞きたりと
白浜と称する處の一老女災害の当日井水の退きたるを見て海嘯の前兆として人々に逃げ去る様告げたれども誰一人信するものなかりしが老婆のみは小供を負ふて逃げ失せたるより遂に一命を全ふしたるも他は皆死亡せり
宮古町にては去十四日より三十尋の深さの井悉く濁りしのみか井より其水白く若くは赤く変色したるより人々奇異の思を為し居たれども固より斯る大海嘯のあるべしとは考へ及ばさりしと
志津川附近に於ては去る十三日より流潮擾乱して定流を変し十五日に至り老人も曾て覚えざる程の干潮となり未た曾て見れることなき海底の凹凸を見たり而して其夕八時頃より三回の鳴動或は遠雷の知きもの起れり海嘯の襲来は実に八時十分なりしなり
 (此記事中には志津川に音響を聞くとあり執れか信なるや)
  参照 安政度の下田の大海嘯に遭遇せし人の話を聞くに其人は当時浦賀より下田へ行かんとて便船に乗し伊豆の伊東と大島の間に至りしに一天風全く絶えて海波少しも揚らず海面は宛から油の如くなりて漣波だもなし今までは孕んむが如く張りたる帆も萎れかへりてだらりと垂れしのみ一髪動かす一髪動かぬ光景なりしが斯くて在る事一時間ばかりの後忽ち船底に恐ろしき物音して船ほ上下に動揺し中天に投飜されんばかりなりしにぞ乗組の人々互ひに打驚這は何事ならんと船頭に問船頭は陸地に大地震のありしなるべしと云ひたり其後霎時して今迄の北風は忽ちに西にかはりて雲湧き風怒り船は伊豆へ寄せがたく風に任せて相州小網代に入りたり小網代は三浦三崎を去る一里半こゝに入り見れは海嘯の為めに船舶の覆りしもの港内に散在し家屋は悉く流失し居れり然れども其乗船は途中にて斯る災害のありしを知らざりしといふ又た其時伊勢より遠州灘を通りて来りし五百石積の船ありしが途中石廊崎の南二十里ばかりの処へかゝりし時遥か離れし海面に当り俄かに海波湧き立ちさながら海の柱とも云ふべき大なる山起るを見しが其山崩るゝと見る間に大なるうねり来りて船を覆さんばかりになりしと云ふ

十 三陸以外の津浪

函館 去る十五日北海道函館の住吉、大森、若松海岸各町の海浜にては午後十時より海水次第?に増加し十二時より翌十六日午前一時頃に至りては平常の波打際より四十間許も陸上に溢れ来りけれは人々は驚破や海嘯そ寄せつらめ前々夜より数回の地震は正しく此前兆なりしぞや中略四時の頃より水は徐に減し去り遂に平常に復したり
室蘭 海嘯の起りしは各地とも十五日の夜八時過にして其時ほ沖合より陸地にかけ甚しき夕立あり暫時にして晴れたる後劇しき地震あると間もなく沖合に黒雲の如きもの起りしかば又もや夕立かと思ふ中に黒雲と思ひしは海嘯なりしことを認めたる由にて室蘭にては翌日午前四時頃天気晴朗なるにも拘はらず突然高浪寄せ来り桟橋と突堤を洗ひ去れり
茂寄 北海道庁の報告に十勝国茂寄地方は十五日午後八時海上沖合に遠雷の轟くが如き響を聞き仝時に微震あり地響殆んと十五分間に亘る同十一時退潮時に際し俄然退潮平時より数十尺の差あり忽にして潮勢奔激六十尺乃至百尺の陸地に襲来し凄昔を発して去米すること四五回初回は尤も激なりしと云ふ

十一 津浪の波及

銚子港の増水 去る十五日午後四時頃銚子港地方にては微なる地震一回ありしか巳米同港及び高神村海浜にては平日に比し水量三尺を加へ一時ほ沖合の波濤も高まりしと云ふ陸地測量部にて備付ある金華山近傍の験潮器は凡七八尺の変動を享たりと云ふ
小笠原島小海嘯 小笠原嶋々司より其筋への報告に依れば客月十六日午前四時頃同島父島二見港は潮水異状を呈し同五時頃に至り非常に水量を増し平時に比すれは三四尺増加するのみならず潮水の進退烈しく全く常職と其趣を異にしたるを似て二見港に於ては夫々警戒を為し港内宮の港の如きは人民未た起床前にして簗の■亀七頭とカノー船一隻を流失せり釣浜界浦等も同時同上の増潮を見たるも人畜等に被害なし
又扇村洲崎東海岸初寝浦北袋沢小港南袋沢海岸及西海岸等に於ても同時著く水層の増加を認め又激浪の為め海岸に休息中の漁夫にして漁具を流失したるものあり或は潮水渓間に充溢するに至りたるも是亦人畜に死傷なかりしと弟島に於ても同時に三四尺の潮層を増加し南北に画する方強く東田に向ふ方弱く数回激浪奔蕩を見たるも人畜に異状なし
母嶋沖村及ひ北村港に於ては同時激潮襲来して沖村港の桟橋を破壊し僅に板割二三枚を残し余は悉く流出せり又た北村港は地盤最も低く人家近傍迄潮水の浸入を見たるも人畜に異状なし
布哇島の海嘯 近着の布哇新開に拠れは去月十五日の朝同島の海岸にも海嘯起りたれども差したる損害もなかりし由今その模様を記さん
にホノルヽ府近海 布哇の首府ホノルヽ近海に起りし海嘯は午前七時三十八分に始まり同しく四十五分に海潮の高さ一寸に達し八時には最低に下りしか五分を経て再び二寸の高さとなり其より二十五分間引続き八時四十八分に至て退き先づは安心なりと思ふ間もなく九時に及び重ねて三寸の高さに上り其後上りては下り下りては上り午後三時まで止まず十四時間に都合十四回の海嘯ありたり
カウアイ島沿岸の海嘯 又カウアイ(布哇の北西に在り)の近海にも前と同様に海嘯起り当日同島のカバー港に碇泊せし米船ジェームスマキー号の船長の実験談なりと云ふに拠れは午前七時三十分頃海上甚た穏かならず能く?注目せしに海嘯なる
ことを知り得たれは扨は一大事なりと早速避難の用意に取り掛りたり是れより先き端艇二艘は石炭を積みて埠頭に行きしに未だ荷物を陸上するに及ばずして此地異起り二艘とも砂上に押し上げられ或ほ覆らんとするの虞ありしかば水夫は力を尽して之を拒げり然るに之と同時に本船も浅瀬に乗り上げしを以て出来る限り早く此災を免れんと頻りに端艇を呼び戻せしに彼水夫等は死力を出して漸く漕ぎ付けたり兎角する中に海上はます?荒れ船体の動揺甚しく錨索二つ切れしかば若し此侭に棄置かんか忽ち他の索も断ち切れ果ては暗礁に触れて船諸共乗組員も微塵となり空しく魚腹に葬らる可しと思びしゆえ一同死を決して一層深き所に出でんとし九時に至り漸く目的を遂げし時には流石に気質荒き水夫も互に顔を見合せ詞はなくして唯万死に一生を得たる嬉し涙に暮るゝのみ但しマキー号の碇泊せし場所の水涛は十二尺同号の吃水は十一尺にして彼の引きし時船底を窺ひしに砂上に在ること屡々なり又その附近の摸様に由て察すれば海水は少くとも其深さ三尺を減じたるが如し尚ほ或る港は海波退きし後俄に四十尺の陸地を増したる由にてカウアイ島の古老に聞けば曾て斯る珍事に遭遇したることなく迷信深き人民は是ぞ世の乱るゝを予て天の知らする前徴なりと恐れ合へりと云ふホノルー府のコムマーシアル、アドヴアータイザー新聞は此事に就て日く当地方に於ては前に何等の異もなかりしに突然斯の如き事変の起りしは思ふに外国の何れかに地震ありて其影響を及ぽせし者ならん云々

十二 旧記

慶長年間宮城地方に大海嘯ありたる当時仙台藩より幕府へ死者一万二千人と書き上げたる由        
      
貞観十一年五月廿六(七月十三日)陸奥国地大震動、流失如レ晝、頃之人民叫呼、伏不レ能レ趣、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城郭倉庫、門楼墻壁、頽落顛覆、不レ知2其数1、海口吼弁、声似2雷霆1、驚涛涌潮、泝面漲長、忽至2城下1、去レ海数千百里、浩々不レ弁2其涯?1、原野道路総為2滄溟1乗レ船不レ遑、登レ山難レ及、溺死者千許資産苗稼殆無2子遣1(本朝地震考)(大日本史)(三代実録)

十三 津浪の時間

被害地実地検査の為三陸地方へ出張中なりし池上内務技手の談話に由れば今日まで正当なる海嘯の時間は分明せざれども先つ正確なる処は十五日牛後八時二十五分なるべし而して爾後続発したる回数は大小合計数十回にして其最も大なるものは第一、二、三、回目までとす其間隙は各平均六分時間と推断し得たれば二万の生霊を惨殺したる時間は僅に十八分乃至二十分の時間なり

十四 海嘯の波幅

海嘯の波幅は正確の事未だ分明せされども必ずや二三千間の長さに亘りしなるべし去れば其傾斜著しき鈍角を為して海上にある船舶には少しの動揺を与へざりしものにて海嘯の当時沖合に出漁せし者無事なりしは全く波幅の広かりし故なり

十五 池上技手海嘯談

此記事は実地踏査の談話に係り最も有益なりと信ずるを以て重複を顧みず全文を登載す三陸海嘯の変後直に実況視察の為め出張したる中央気象台技手池上稻吉氏は両三日前帰京し是より蒐集し得たる材料に依りて調査に着手する由なるが今回の海嘯たる突然の出来事と云ひ僻遠なる地方と云ひ精密に時刻を取調ぶるの便なかりしを以て海嘯の速度又は地震と海嘯との時間の差其他種々の関係を知ること難く従て精確なる調査を為すには多少の時日を要するに由て未だ詳細を聞くを得ざるも今一二聞き得たる事実を記すれば海嘯の最も劇烈なりしは第一回より第三回迄にして夫より引続き激浪幾度となく打寄せたるも其後は漸次に弱く被害は全く三回の海嘯にあり然して被害の甚しきは釜石なれども是は戸数多きが故にして海嘯の強きを示すものに非す実際劇烈なりしは釜石より南数里なる唐丹及び吉浜にして此辺或は海嘯の高七八丈にも達したらんか彼の十丈の高さある丘陵又は樹木に水痕を印し或は漂着物を打寄せたるは怒涛之に当りて激昂したるに依るものにて波の高十丈には及ばさりしか如し何様今回の海嘯は突然にして毫も前兆を知るに由なかりき彼の安政二年江戸の大地震の際にも海嘯を越したれども当時は水勢の押来りし始より避難する迄に充分の余裕ありしも今回の如きは潮勢一度に押寄せ人々海嘯を呼ぶや彼時早く此時遅く激流既に四面を蔽ふて避くるに遑なし或は最初雷鳴の如き音を聞きたりと云ひ又は大砲の如き響きを発したりと云ひて地震の響きにてもありしが如く想像し之を海嘯の前兆なりと一般に称ふれども右は震響にも非ず前兆にも非ず多分巨■に激したるか或は他の関係にて海嘯の押寄する途中の水勢にて斯る音声を発したるものならん現に船中にありし者は一人も其の音を聞かずと云ふを以ても知るべし又船中に在りし者が毫も海嘯あるに気付ざりしは斯る大海嘯は波状幾百間の大さを為すが故に仮令ひ波の高き百尺以上ありとするも其幅に比すれば傾料を為すこと極めて微なるが故に扨は動揺を感ぜざるものなり但し沿岸に於て傾斜の変動を感じたる区域は頗る広く金華山に近き沿岸に備へある検潮器は凡そ七八尺の変動を享け又銚子の如きも著しく感じ北は根室南は紀州の沿岸に於ても同じく海潮に変動を感じたりと云ふ
  以下源因説

十六 潮流の衝突を津浪の源因と勘定したる考説

論者曰此沿岸を流るゝ寒潮と暖潮との変更期は毎年春秋の彼岸にして秋より春までを寒潮の期節とし春より秋までを暖潮の期節とす毎年少しも異なることなし然るに本年は彼岸を過ぎたる今日に至るも猶依然として寒潮の為めに海岸を占領せられ之れが為めに鮪を漁する者は暖潮を尋ねて例年よりも遠く沖合に出で居れり之によりて見れば本年は潮流に変動あること疑ふべからず此度海嘯の原因も此潮流の変化より起りたるにあらざる乎予の考ふる所によれば寒潮暖潮の此近海に於て相衝突したるより起りたるものゝ如し何となれば海岸に打来りし波涛の勢普通の者と全く異にして上下に回転しつゝ来れり遭難者は皆一たび海底に捲込まれて再び波上に没し此の如きもの三四回なりしといふ是れ蓋し両潮の相衝突したる結果を以てなり又漁師の或る者は水柱の海中に立つを見たりといふ是れ又海嘯の衝突を証する一理由なり聞く氷を含みたる低温度の寒潮と高度の熱を有する暖潮と相合する時は氷の融解する際此の如き現象を呈することありと


評に曰く此考説に依れば津浪の源因は大洋中を走る温度に大差ある寒暖両潮流の衝撃したるより高浪を生したりと謂ふにあり論者は気仙郡の人なりと云ふ津浪の斯の如くして発するもの実に尠なからず海嘯の文字は支那の東南海口に於ける這い般の高浪を謂ふものなりと時事新報に見えたり然れども沿海七十里の長きに亘りて到る潮流の衝突斯の如くなるものなるや信じ難し且論者の眼中には地震なきもゝの如し各地々震を感じたるの報あり以て今回の天災には地震と津浪とは相ひ連繋したるものと信ず暖流更代期の本年に限り異変ありしは蓋し他に原由あらん

十七 源因を海底の陥落に帰すれば其中心に近き海上の船舶は何故に無事なりしや此源因説は薄弱なりと云ふ考説

人或は今回の海嘯源因を以て八十浬外の海底陥落に帰する者あり著し此の説の如くば其中心に近き海上の漁船は第一に此の災を受けざるべからざるに実際十里外の漁船は皆無事にして其海岸のみ害を被りたるを以て見れば此の説も頗る薄弱なるが如し云々と記して理学者の一考を煩はす
 評に曰く陥落地震の事は後に出す大津浪上に浮べる船舶の無事なることは第十五項池上内務技手談話の末段を読まば自から此疑を氷解すべし而して海上に在りしものゝ無事なりし先例は第十五項参照の條下田及遠州津浪の時にも此事あり

十八 海床の噴火作用隆起に帰したる源因考説

実地視察の為め被害地跋渉中なる外客イーストレーキ氏が海嘯の原因につき語る所と云ふを聞くに曰く余の見る所はトスカロラ海床に起りしにあらず陸地より五百浬乃至一千浬の太平洋中の海底に噴火作用にて急激なる大隆起ありしならん其理由は(一)所によりては海嘯の後に地震ありたることなり、若しトスカロラ海床の壊崩ならば地震の先にあるべきは論なきに其後にありし所なるを見れば其海嘯の起点は甚だ近からず、水は流動し易きが故に速に運動し、地層は動き易からざるか故に後れて運動したるあり(二)九戸郡辺の海岸に打揚げられたる貝売のうちに四百尋乃至四百尋の海底にあらざれば発生せざる所のものあるを見たり、是れ海嘯の余程遠距離の海底より起されたるものにあらざれば能はざる所(三)海嘯の時刻によりて考ふるに南の方陸前より北の方陸奥に重るまで殆ど皆同時刻なり、若し海岸より二十浬乃至六十浬他の辺に起りしもの浸りしものとせば近き所は早くして遠き所は遅き筈なるに四五百浬の間大概同時刻に起りしを見れば数百浬の遠方より起りしものなること疑ひなし唯余の一の憂慮する所は海底の隆起か如何なる摸様なるか若し急激に隆起したるが如く急激に復旧することあらんには前と同様第一の海嘯を起さん事にあり云々と此説は我小林特派員の説と同じからされども小林特派員の説も大に理由あれば或は互ひに脈を引きたるものにやあらん乎何れ専門家の定説も出づるならんが兎も角一説として記し置く
 評に曰く三陸海岸を距る五百浬乃至一千浬は恰も地球上最深深慮の直上に位する海上にして兎に角にとすかろーらの深海四千尋の区域を出でさる位置と知るべし一千里にしてとすかろーら以外にありとするも四千尋内外の深海にして陸地との間に四千尋以上の四千五百尋の長形なる深海とすかろーらを挟むや明かなり而して処によりては後に地震を感じたるにより海嘯の起点は甚た近からず其故水は流動し易きが故に速に運動し地層は動き易からざる故に後れて運動したるなりと云ふに至ては尋常物理学の端緒をも窺はざる野人の言と云はざるを得ず又曰く九戸郡に漂者したる介穀中には四百尋以外の海底に栖息する甲介あるを見たるを以て余程遠距離の海底より起されたる者にあらざれば能はず云々是れも赤地方海底の情勢を詳にせざるものゝ言にして三陸地方の海底は陸地を距る甚た遠からずして忽ち急斜の海床となると明瞭なれは四百尋以外は遠距離にあらずして此一條に於て即ち前項と自家撞着の説に非るなきを得んや亦陸前より陸奥に至るまで殆んど皆同時刻なり若し海岸より二十乃至三十浬の辺に起りしものとせば近き処は早くして遠き処は遅き筈なるに(又々無物理学的見解)四五百浬の間(陸前より陸奥に至る凡百五六十浬ならんに四五百浬とは何に拠りて算出したる数なるや但し北海道をも算入したるとせば同道は同時刻に津浪の起りしにあらず同夜九時乃至十一時間に起りたる報あり因てイーストレーキ氏は北海道を算入せざること自ら明白なり)大概同時刻に起りしを見れは数百浬の遠方より起りしものなること疑なし而して津浪の源因を地盤の隆起に帰したるは何の拠る処ありて此説をなしたるものなるや地震の源因一にして足らざるは喋々を須ひず然るに数因を排して海底の膨起に帰したるは津浪襲来の結果を見て氏特有の物理的思想より速了したるものならんか又隆起の地盤復旧の結果として更に第二の津浪を生ずるには非ずやと杞憂するに至ては氏の注意も亦至れりと云ふ可し

十九 地辷を源因と為し其中心を田老村沖合と定めたる考説

地辷の中心点 読者よ今回の大海嘯に就ては其道の博士学士が推測の説ありと雖とも未だ実地に就て明確に視察せしものあるを聞かず予は此中心点を得るに汲々とし曩には宮古測候所長の説を記し今又前数項に於て大に注意すべき事実を示せり此明示せる事実と以下に記せる事実とを以て予の断定せる中心点を示すべし
    地辷の中心点は田老村の海中二三里の間にあり
田老村を襲ひたる海嘯は実に南北より奔馳し来りし二個の大激潮なり此大激潮中南方の分は宮古湾頭の黒崎を掠めて田老沖に来り北方の分亦田老沖に来りて両潮相激し相激したるの大波涛は田老の民家より高き一丈余の勢を以て田老村を紛韲し以て背後の山に殺倒するや更らに其勢を高めて十数丈の空に漲れりといふ此一事実は最も予が説を確むるものにして田老沖の海底地辷りを為したるが為め其辷りたる部分だけ海潮を低からしめたれば低所に合せんとする南北の両大潮は其辷りたる部分に向って進み茲に一大激衡を起して其勢を猛烈ならしめしは理の尤も観易き所なるのみならず田老付近の海底は底を現す迄退潮せりと云ひ且又測候所長の当地と根室間に中心点ありて当地に近しとの説に徴するも中心点の田老沖に在る事は争ふ可らず況んや田老以北の漁岸に於て松島は其南部傾斜して海中に没せりと云ひ小本川口は其底を深くせりと言ひ洲賀の松並木は人畜家屋と共に陥没せりと言ひ一として予の説を確めざるはなし予地文学に暗しと雖とも事実は争ふ可らざるの理を示すを以て特に記して其道の人に質す
 評に曰く地辷は或る方向の線に依て発作するものなれば其中心点なるものは線の那辺を指しての語なるや氏か説を熟考すれば盤状陥落地震を指すものゝ如し(盤状陥落地震とは一定の地盤忽然として陥落する地震の謂にして東印度の陥落地震、浜名湖の陥落及十和田湖の陥落の如き類例なり)且中閉伊郡田老村は被害の尤も惨劇なりしを見又潮勢の動作に拠て直に震源を同村の沖合に定め陸前陸奥其他各地の大津浪を本地の余勢と臆断したるは又大早計の嫌ひを免れず地震津浪の三陸地方殆んと同時に発作したるを見ても田老沖は震動の中心点に非ざるとを証明するに足らんか

二十 火山の破裂を源困と認めたる考説

 評に曰く此国の津浪によりて浮石多く海岸に打上げられたる所あるを見て遠き沖合の海底に火山の破裂あり而して其火山より噴出したる浮石が津浪によりて漂着したるものとし更に歩を進めて津浪の根源を此の火山噴出に帰する人あり此説果して立証正確ならば又一新説たるを得べしと雖ども東北地方の往古を顧みれば火山盛に噴騰したる時紀ありて其時多量に噴出せし浮石は現今八戸以北千島に至る間に配布しては或は地層を構成し居れるが此時噴出されたる浮石の海中に沈積するものも亦少からざるべし此の浮右は此回の洪浪の為めに海岸に打上げられたるものなるべしと考ふるは蓋し至当なるべし故に浮右の漂着せしを以て直に海中に火山噴出ありと断定するは末だ以て信を措くに足らず

二十一 急斜海底の地辷を源因と為すの考説.

原因は大平洋の最深所と聞えしタスカローラと三陸に近き海底との傾斜間に一大地辷りを生したるものならん何故かと云ふに一昨年の根室の地震と相類似し断層も亦其部類なればなり其地辷りの在りし中心は根室と当地との中間に在りて大に当地に近からん
 評に曰く地辷の説は実に震因の一説として見るべき価値あるを信ず只根室地震と類似するは尤もあるべけれども断層も亦其部類なればなりと謂ふは其意義尽さゝる所あるが如し又中心点は宮古と根室との中間にありて大に当地に近からんとは地辷に中心点なるものあるが如く此点に於て箱十九項と同一の謬見たるを免かれず

二十二 陸に遠き海底の大隆起若くは地辷を源因と為す考説

去十五日午後八時前後に起れる福島、宮城、岩手、青森の東海岸即ち大平洋に面したる海辺大海嘯の惨況は別項にも記する所なるが今中央気象台員の話に依れは今回海嘯に伴ひ起りたる地震は十五日の午後六時頃より十六日の午前迄に青森に卅三回東京に廿六回、福島に十五回、甲府に十回、山形に七回、境に二回、彦根に二回、字都宮に二回、函館、根室、新潟、銚子、石巻の各所に一回宛の震動あり斯く数回の多きに拘らず其震力頗る微弱にして感動区域広大なりしより考ふれば蓋し陸上を距る甚た遠き海中に於て大隆起(陸上たれば噴火の意味)若くは大地すべりありて其余波遂に大海嘯となりしものならんと云へり
 評に曰く以上十五日午後六時より十六日午前迄に各地に発作したる地震を尽く三陸に起りたる地震と同因に帰したるは本邦の如き震地の頻繁なる地体に取りては少しく牽強の嫌なき能はず然るも其震力頗る微弱にして感動区域広大なりしより考ふれば蓋し陸上を隔る甚遠き海中に於て隆起若くは地辷ありて其余波遂に大海嘯となりしものならん云々は大に吾輩の賛成を表する処なり但し海中の大隆起を註釈して即ち海上なれば噴火の意味とあるは素人的臆説たるを免れず凡そ広大なる地盤の膨起するは地皮収縮の結果に由るものにして噴火作用の為めに膨起するは小区域に在りて然りとす将た極深の海底絶大に重壓を受くる処に於ては裂罅より墳吐せらるヽ流岩汁は水に泥交せずして其儘海底の上面に堆積するならんとの説あれども明かに海底に火山の存在を認定したる後に非ざれは固より之れに論及すべきにあらず

二十三 陸地に近き処に中心点を有する考説

曰く宮城県下の金華山の沖合なるべし曰く岩手県下岩手山の鳴動せるが為めなり曰く海嘯の原因は志津川を隔てること二十余里の海洋中に発見せられたりなど取り止めもなき臆想を臚列し来りて紛々盲議せるは世人の大変事に対する所謂なり然るに今や果然著るしき徴効地方の発見せるこそ不思議とも愉快とも申すべし
只今打電せる如く岩手県北閉伊郡宇利島と云ふは宇田の畑村の沖合に在りて其陸地を隔る海上凡そ三百四五十間の所にある一小島なり然るに今回海嘯の事変と与に此の一小島の方向は全く変じて左方のものは右方に傾斜せるを発見したり
此近辺に長さ凡そ八九間もあるべき大盤石は従来水面下に潜り居ること一尺前後のものなりしが大事変と同時に此大盤石は陸地に向ふこと七八百聞の箇所に転覆して飛落せるを発見したり
田の畑村小字島の越村の汀に盥島と称する三間四方の大盤石の一角は陸上に向つて約二百聞ばかり飛散せるを発見せり其地タツゴウ島(小本州附近)の側に在る大盤石は凡そ五百間以上陸上近く飛び来りて小本州の中央に屹立せり
此近傍一体地形全く変化して諸所に従来見ざりし大石の続々現出せると川底の全く浅くなりたるは事実なり而して当地海嘯惨害の時限は釜石、大槌、山田等に比して彼此一時間も早く震動せるのみならず当日(十五日)午後七時半頃と覚しき頃一大震動を始め末だ海嘯を見ざるに諸村の破壊人畜の死亡せるに徴しても今回の中心点は小本、田の畑、普代三ヶ村中の遠らざる沖合なるべしとの事なり当日海嘯潮勢の高まりしは正さに五十尺以上なりと伝ふ     
 評に曰く 大無量の掃蕩力を有する洪浪の触るゝ処縦ひ島嶼なりとて地質上の構造脆弱ならんには其底根の一部を刳り去り又は大盤石を甲所より乙所に転動する如き(本文飛落したりとあれとも信じ難し)又甚だ怪しむに足らざるものと為す唯末段小本近傍に在りては釜石大槌山田等に比して彼此一時間も早く動震せるのみならず十五日午後七時半頃一大震動を始め諸村破壊人畜死亡し是より後海嘯到れりとの事実に到りては単に此報あるのみ岩手県知事の報告に由るも此事なく宮古測侯所の地震観測表に依るも七時三十二分三十秒には微震とあり宮古は約七里を隔るのみなれば諸村崩潰する如き劇震にして観測に上ぼらざる理なしと信ず被害の最大なりしは此辺に在りしものゝ如くなれども中心点の其沿海を距る遠からざる辺にありと断定するは容易に同意し難し
                    (以下次号)

○記  事

●慰問使

罹災民 聖恩に感泣す  東園侍従 聖旨を奉じ三陸の地に至らるゝや道路猶ほ壅塞して通行自由ならざるも侍従は毫も意に介せず夙に起きて程を起し或は馬背に拠り或は草鞋を踏みて親しく被害地を巡り或は病院を訪ひ或は罹災人民を集めて 聖旨のある所を伝へ此不幸なる遭難者を慰諭せらる是を以て罹災者感泣して仰ぎ見る能はず潜然として涙を流したりき
国旗廃屋の軒に懸る 侍従一行の来らるゝや被害地の半潰半存の軒頭皆赤の水にしみさめたる日の丸の旗を懸けて敬意を表す惨憺なる光景と殊勝なる心根と両々相対し来れば一幅悲劇の図なり

●外国よりの見舞

澳国皇帝の御見舞 三陸海嘯の概況澳地利(オーストリア)国皇帝博下の叡聞に達し我 天皇陛下並に我邦臣民と感情を同くし痛悼に耐へざる旨本邦駐剳伯爵クリストップ、ウイデーンブルック公使に訓令して慰問の詞を寄せられたるに依り外務大臣は之を奏上せしに、天皇陛下は墺国皇帝陛下が我皇室の不幸と国民の難苦とを以て念とせられたる友誼の懇到なるに対し叡感斜ならず思召され同公使を経て親厚の謝意を致すべき旨御沙汰に附き外務大臣より直に之を同公使に通告したりと
独逸皇帝陛下の御慰問 独逸国皇帝陛下は今回の三陸地方海嘯の報告に接せられ七月二日電報を以て厚き慰問の詞を我宮廷へ寄せられたるに依り 天皇陛下には其懇到なる慰問に対し感銘あらせらるゝ旨電報を以て直に御答礼あらせられたりと来る猶今回此他三陸地方非常の海嘯の災に罹りたるに付き我 天皇陛下は我邦臣民と感情を同くし痛悼に堪へさる旨仏国大統領閣下、白耳義(ベルギー)皇帝陛下より各本邦駐剳公使に訓令して慰問の詞を寄せられたるに依り外務大臣は之を奏上せしに
天皇陛下は大統領及び両皇帝が我皇室の不幸と国民の難苦とを以て念とせられたる友誼の懇到なるに対し叡感斜ならず思召るれ各公使を経て親厚の謝意を致すべき旨御沙汰時に付き外務大臣より直に之れを各公使に通告せられたり

●追悼会

鈴ヶ森の追吊会 六月卅日午後一時より荏原郡鈴ヶ森沖に於て追吊会を執行し池上村日蓮宗四十ニヶ寺の僧侶及び信徒千二百余人伝馬にて乗出し施餓鬼を終りて題目堂に演説会を開きしに来会者は二千余名なりしと
本門寺の追吊会七月七日午後一時より荏原郡池上本門寺にて追吊会を執行し義損金を募集せりと
品川善福寺の追吊救恤演説会 六月卅日午後一時より北品
川本宿善福寺に於て追吊救恤演説会を催し来会する者夥たしく義損金を為せし者多かりしと云ふ
芝切通光円寺の追吊会 七月二日芝切通広町光円寺に於て迫吊法会を営み義捐金を募集せりと云ふ・

●工兵出張

罹災民救助負傷者治療の事は格ぼ其祷訂付ぎたるも道路開通死
体捜索等の事は人夫不足捜索等の事は人夫不足器械不揃の為か不行届なるを以て大半六月
廿一日左の如く工兵の出張を請ひたりと云ふ
    甲 の 組   四十人
一 本古郡志津川の内   清水浜へ
二 本吉郡志津川村の内  細浦 へ
三 同 同           戸倉村へ
四 同 十三浜村の内    相川 へ
    乙 の 組   四十人
一 本古郡歌津村の内   伊里前へ
二 同 大谷村へ
三 同 階上村の内    明戸へ
四 同 唐桑村の内    宿 へ

●宮城県下郵便電線被害報告

六月二十六日午後二時十五分仙台局長発にて昨日逓信省に達したる電報は左の如し
県下被害地の流失局は大谷、雄勝浜二局死亡は大谷局長家族四名同局集配人一名、電信工夫一人、負傷は電信工夫一名、流失郵便物は大谷局分凡そ九十通、雄勝浜局取調中流失電柱は志津川、気仙沼間五十三本、此破壊電線二里十町、気仙沼盛町間同じく六十八本一里半、釜石大槌山田間五十一本同じく一里十一町、山田宮古間三十三本同じく二里半久慈附近三十二本同じく一里半計二百七十九本比破壊電線十里二十町右報告す
又電信局の害を被りたるものは左の如し 但し女川大槌の二局は流失せず
女川局 山田局 吉浜局 大谷局 釜石局 大槌局 田老局 小白浜局 小本局

●宮城県小学校生徒の死傷

宮城県庁にて六月二十四月の調査に拠れば罹災地の各小学校生徒にして海嘯の為めに死傷せる人員は左の如しと
 死亡 三百七十二名 負傷 五十四名
右の死傷は男女両生徒を合算したるものにして両性の割合如何は未だ悉く調査を経ざれども兎に角男生徒の方は凡そ其三分の二より少なからざるべし又各校中にも右足小学校の如きは男生徒四十四名、女生徒廿三名の死亡者ありしと云ふ

○海嘯被害見聞録

●宮城県桃生郡
●船越浜

◎不憫の遺孤
船越浜に其父母と弟とを失ひたる五人の遺孤あり其僅かに語る所に依れば最初海嘯の襲ひ来るや父母は姉妹兄弟六人の子に互に手を引合はさせて家の鴨居に取付かせ只管海水の退くを待てる周一人の幼童手を放せし為め戸外へ流れ出されんとするにぞ母親は其を助けんとて水を潜りて行かんとするとき激烈なる海嘯に聾はれて母と子は押隔てられ共に空しく溺死したり残る五人の小供は必死となりて鴨居に縋り居る折柄一つの材木流れ来りて突当らんとするにぞ父は之を押除けんとして又もや逆潮に捲き去られぬ斯くて五人の小供は眼前に父母を失ひ心細さ謂はん方なけれど尚ほも互ひに鴨居に縋り居る内幸ひ海水も退きて一命を掛かりたるなるが今は頼らん方もなく小供ながら途方に暮れ居れりとなん

●雄勝

○雄勝出役所海嘯被害の詳報
六月十七日付を以て宮城集治監小泉典獄より板垣内務大臣に上申したる雄勝出役所海嘯被害の詳報は左の如し
 本監雄勝浜出役所大海嘯の為め流失の儀以電報昨十六日不取敢上申致置本官直に現場へ出張実地見聞の上取調たる顛末左の如し
 一 同所へ出役せしめ置きたる囚徒百九十五名看守三十四名なり
 一 出役所は湾を前に控へ殊に合宿所の位置は最も其附近に在りし為めに激浪の真向に蔽はるる処となり轟然凄まじき鳴動を発するや当夜休憩する所の看守十六名只事にあらずと各糾合戸外に出で上官の指揮命令に従事する途端激浪怒涛の間に捲き込まるゝ所となり其内八名は辛ふじて万死に一生を得たるも余は生死不明内一名の死体は翌朝に至り出役所より一丁程高所の叢の中より発見せり
 一 監房に於ては宿直看守前同様の鳴動を聞くと同時に一人が大海嘯来れりと報ずるや激浪襲侵板塀を押倒し立ろに監房の中に六尺以上汎濫したるを以て囚人は角格子に攣登し救助を求むるありしか看守は必死を極め辛うじて監房の扉を敷石の大なる者にて打破し水勢稍々緩慢に赴くの機を見悉く囚徒を開放せり(挿画参看)
 一 開放したる囚徒は殊勝にも看守長住居の近傍た蟻集し尋で不取敢同所山腹にある最高所なる寺院天雄寺に避難せしむ但死亡せし七名の内二名は死体発見せしも余は今に生死不明
 一 外構不残流失監房大破潰到底出役し置き難き状況なるを以て他日何分の御指揮を可仰考ふれども此際跡片付の為め二十八名丈暫時留め置き余は不残本監に引揚ぐることゝせり残りたるものは監房事務所炊事所のみ以上残りたる所のものは何れも水を合まず漏脱し易きにより僅かに支へたる事と思考せり其床板水に押揚られ湾形に膨揚し居れり又同地の有様を略記せば一丈有余の木の枝に衣頻等掛り居るものもあれは高処に夜具布団等夥多打揚られあるを見受け其惨状忍雑き次第に有之候未た確然せさる由なれども人民にも生死不明廿余名ありしとのことなり云々

●同県本吉郡
●相川村

海嘯の時、相川にて或家の家根の上に小児三人這ひ上り泣きながら助けてくれ?と叫ぶも如何とも詮方なくあれよ?といふ間に後ろの方より大屋根の浮き来りてブッッかるよと見れば屋根も小児もかくれたり、たゞ其声のみは今に耳に残るとて鼻うちかむ老人ありき
又小児は鐘を打ち小旗を振り陸軍万歳を打ち叫びつゝ嬉戯に余念なし、鳴呼惨といはんか痛といはんか(挿図参看)
赤十字宮城支部は十六日に此地に来り仮説病院に患者を収容し其重傷者は志津川赤十字出張本部に送附したり

●志津川町

勇婦四人を万死に救ふ 志津川町附近の荒戸浜に坂本良太郎とて当時郡役所の吏員たる旧一の関藩士あり変災の当夜は志津川町に宿泊して幸に何事も無きを得たれども其留守宅には老父母と娘某及び其二児のみありて濁浪押寄せ来るやアナヤと云ふ間も無く娘は忽ち懐なる乳児を浚れしに必死と為りて之を奪ひ返したる上手早く赤裸と為りて乳児を片手に辛くも屋外に泳ぎ出でたりしも視父母等の姿見えざれば乳児を高処の木根に縛り置き又も泳ぎて我家に達したる頃には幸に潮水も次第に退きて膝を浸す程と為りしかバ雨戸を押破りて闖入したるに家財道具は云ふ迄も無く人の姿さへ見えざればコハ何とせんと声を限りに呼はれば微に椽の下辺にて人声の聞ゆるに力を得て椽板を剥したるに祖父母并に長女(五歳)は存命にて蹲まり居れるにぞ何故に又斯る処にと問へば祖父は左ればなり我等は曾孫女を脇に抱へて屋内に泳ぎ居りたる時如何にしてか椽板覆へりて其下に陥り身動きさへもならざるより運を天に任せ居たりしに潮も引き其方も来りて斯く皆無事なるを得たるは何よりなりと物語りて一同喜びの涙に暮れたりしとぞ
一人あり其妻の波間に捲き込まれたるを認めて之を助けんものと続いて躍り入りたるも逆捲く波の力に敵す可くもあらず一旦妻の袖を捕へたるも激浪と共に埋立地より細き河筋の中に押流され古町と新町との間なる橋下をくゞり抜けて一層上手なる山崖近き処の製糸場に押附けらるゝや否や其乱杭にしがみ附き身体に幾箇所となく負傷したるも一命は助かりて独りその妻の死体何処に流失せしやを知らず其子は子守女と共に遥かの山の向ひに吹き附けられ両人ともに無事にて生命を全たふし居たる由斯の如く実際埋立地に到りて生残れる人々に逢ひ当時の模様を尋ぬれば何れも万死の中に一生を得たるものにて一言一語なみだの種ならざるは無し被害者の身に取りて考へなば全村埋没したらんにはまだ諦らめも附く可きに僅かに一二町を隔てたるまでにて槙木一本流失せざるものもあるに家財は勿論親子兄弟残らず掠め去られ誰とて共に語る可き人もなく又我家の建てたる礎はあれども塵ひとつ残りたるものなく今日より如何にして生活す可きや途方に呉れ居るも口には気の毒と挨拶するものこそあれ鐚一文合力するものも無し我家の災難に較ぶれば隣りの壁が落ちたりとて左までの事もあるまじきに家内中泣て騒いで被害の大なるを怒鳴る人もあればこの養蚕の大切なる時に人足どころではないとて余念もなく桑の葉を摘み居るものもあり見るから羨ましからぬことぞなきこの境界憐れは却て流失家屋の多からぬ所にあるなる可し
志津川より一里許距てたる所に折立と云ふ一村落あり戸倉村に属するものなるが同じく志津川に沿ひたるを以て同じく残酷なる浸害を受け甚しきは一家十三人中七名は溺死したるものあり雨して其死体は何れに洗ひ去られたるものにや今に発見せずと云ふ
折立附近の間道には巨大の材木縦横に横はりて其数幾許と云ふを知らず殆んど一里計も続きて果てしなかりしが是皆海嘯の為かゝる内地に押流されたる家屋の遺物にして其幾百たるや幾千たるや唯々悚然たるの外なし


○風声鶴唳に驚く
志津川町にて去る二十一日午前九時頃老若男女が異口同音にソレ海嘯が来たと騒ぎ出し全町到る処上を下への大騒動にて親は子を呼び子は親を尋ねつゝ先を争ふて逃れんと悲鳴する声の物凄く郡役所に詰め居る人さへ我れ先にと山上に駆出したる程なりしが時経て海面を望めば更に斯る気色の見えざるに孰れも不審の事よと噂し合へる折柄警察署の半鐘階子より警官が海嘯に非ず人々安心せよと声高らかに呼はりしかば一同漸く安心して蘇生の思ひを為したるよし去るにても何から又斯る騒動を引起せしものかと後に聞けば同町沿岸の近傍に碇泊中なる小気船が其気罐の湯を吐せしに其音の如何にも十五日の海嘯前に聞えたる響きに似たるより誰云ふと無く海嘯と訛伝したるが為めなりしと云ふ(挿図参看)
志津川江山亭と称する旅宿あり二十七八の主人一人切りにて殆んど八十人の宿客あるにも拘はらず女は一人もなく車夫の如きもの打集りて家事向手伝を為し居れり旅宿なるに男世帯にてもあるまじと隙を窺ひ主人に問へぼ主人悄然として語る様『元より男世帯には無之も海嘯の当日家内四人(妻と小供)の者等は沖の漬の縁家に赴きて種々家用の加勢を為し居たるに図らず災害に出で合はして四人共残らず溺死し内二人の者は今に死体も見当らず元々時の漬に住み居たることならば又々諦め様もあるべきに折も折とて丁度其日に加勢に出懸くるとは亦何たる因果ぞや全で死に往たも同然なり』と萎れ返りぬ
こゝに騒き中の滑稽ともいふべきは当町民某ドヲーソといふ響きを聞くやソラ敵の砲撃だぞと叫び飛び出して夢中に馬を引き出せしが既に己が家の流れしを知らずふりかへりて大なる屋根の浮ぶを見軍艦と思ひ違へ魯西亜(ロシア)が?と連呼しつゝ腰を抜かしたりとぞ

●清永村

渡辺清水男と呼ぶ者あり六月十五日の夕暮は或る近隣の友人と茶を汲み足を伸して談笑しつゝありたるに午後八時頃沖合俄に轟然として雷の如き音聞えしにぞ両人は期せずして談話を中止し暫く耳を聳てしに友人は『是りや海嘯じや』とて遽だしく立ちければ渡辺も共に飛び出でゝ沖合を眺めたるに這はそも如何に山なす大海嘯巻打て早や眼前に迫り来りたり『スハヤ一大事』と云ふ間もあらせず渡辺は兎も角一般に知らせんとて我家に帰るは第二とし『海嘯海嘯』と村中を叫び廻りさて飛ぶが如く我家へ帰りたるに家は早や一面水に浸されて妻子叫喚の真最中なりしかば狂気の如く内に躍入りしに此時遅く彼時早し家はメリ?と打壊され渡辺は梁に挟まれたる侭水中にアブ?し今にも往生と観念したるに大涛再び襲ひ来り之が為渡辺は運能梁の間を抜け出でゝ直様傍に在りし木の上に攣ぢ上り己れは漸く助命したれども哀れや妻子四人は見す?怒涛の中に捲込まれて相果てしと
右の如くなれば清水村の住民は渡辺の注意を聞て始めて飛び出し逸早く両側の山上に逃れ生命を全ふしたるもの多しと云ふ
渡辺の話によれば海嘯襲来の摸様は一時に打撃し来りたるにあらず初は低く漸次水嵩を増し中間両三度巨大の波涛淘湧して遂に此惨況を来したるものなりと此の如くなるを以て初め家屋は破壊せずして其侭浮き上り漂流して両山の間に持行かれ此所にてガブリと大波を受けたる為一時に尽く倒壊したるものなりと

●歌津村

〇八十の老婆路傍に徨う
歌津近傍に八十余歳の老婆只だ一人生き残りて子をも孫をも家をも親類をも悉く失ひたるものあり行先とてもあらざれば襤褸を纏ひたる侭風呂敷包らしきものを負ひてトボ?と徨ひ行く風情卒塔婆小町の昔も忍はれて見る入哀れを催ほさゞるものなかりしとぞ


○公務の為めに愛児を失ふ
伊里前駐在所詰の巡査八島平一氏は当日罹災民の救護に奔走中何時か我が住宅は流されて二度目の浪に打上げられたる時始めて夫と心付き大に驚きて家族は如何にと馳せ行き見れば妻は幸に其中に生存し居りたるも八歳の愛児は流失して屍体さへ見当らざりしと云ふ

●小泉村

○潮水五丈の高地に達す
小泉村の北に援子川あり此辺一面の高地にして海を披くこと殆ど四丈電線其上に懸る海面より電線迄の高さは優に五丈に余れり海嘯の際潮水は茲処に迄達したりと見え電線泥にまみれて藁之にかゝれり里人海岸にある十余間の松樹を指していふ潮の高さは実に松樹の梢と均しかりしと一少女の茫然として倒れたる木の根下に佇彳ずめるを見村の名を問ひしに答ふる気色だになし更に二回程尋ねしに漸く首を昂げ『ナンちふか忘れやした』と答へぬ又試みに其名を問へぼ相変らず、忘れやしたと答ふ、鳴呼何ぞ其れ惨なるや彼は此非常なる出来事の為に脳に大打撃を受て斯くは健忘症に化したるか
一人の男あり蓬頭黎面状貌宛も鬼の如し彼が語る所を聞けば曰く、『私しは此さきの御嶽材大字馬込の遠藤永次と申しやす、私しの娘のとりと申しやす者を小泉の三浦亀次といふ人の内に借して置きやしたそれを海嘯の為めにさらはれまして(泣きつゝ)私しは少しも恨みません亀次さんの家でも家内十人の何六人取られまして…私の娘許り取られたでは御坐やせんから亀次さんを恨みません(又泣きつゝ)只死骸だけでも見附たいと思ひやして今日で七日此の浜へ来やして御坐やす今日は七日目で御坐やすから仏様の御蔭で浮き上つて居るかと思ひやして…見附りません(此時肩に掛けたる風呂敷を下ろして)私しは今日亀次さんの家へ行きやす、恨んで来たかと思はれりや困りますから…私しは決してそんな者では御坐やせん…此茶碗…残つて居るものが四人ありやすから之をやる積りや持つて来て御坐やす』、且つ語り且つ泣く気の毒なる者にこそ

●大谷村

大谷村の産佐藤某とて当年七十三の老媼あり其語る所を聞くに海嘯の夜十歳の孫を抱いて床に就きしが無邪気なる小供の可愛さ何時の間に孫はスヤ?と眠りぬ妾は老人のこととて速かにねつく能はずして兎や角と昔の事を思ひ出しつゝありしに俄かに戸障子を蹴破りて躍り込みし大波にアと驚く間もあらばこそ妾は忽ち潮に捲き流され家と共に七八間漂ひしが此時孫の小供は畳と畳との間にはさまり乍ら手を挙げて『婆や助けて』と声を限りに叫ぴたり闇の中にすかして彼児を見し時其周りにある畳恰かも井側の如く見えたれば妾は彼児が井の中に陥りたるにはあらずやと疑ひぬ兎も角して助けやらん者をと心のみは逸れども老の体の甲斐なき上に己も種々の木材に壓せられて進退自由ならざれば『命計り持ちてよ』と二度三度繰返す其間に潮水はサツト高まり来りて口鼻の辺迄来れり左れど之を避くべき術なければ毒水とも知らず薬水とも知らず四口五口ガブ?と嚥み下しぬ此の時は気も半ば狂乱して辺りに何事のありしやは別らず唯妾は盲亀の浮木に上りし如く何時の間にか柱の上に取りつきて助けを呼び居りぬ是れより先き海嘯の来りし時娘の聟は直ちに表の方へ飛び出でしがやがて馳せつけ声を便りに屋根の茅を掻き除け掻き除けて妾を初め屋根の下に埋もれたる者五人迄を助け上げたり波の退きたる後妾は大桝に一杯(五升)の泥水を吐き出しね妾が此度の助命は全く聟の力なり妾は日日両手を合せて聟を拝み居れりとてポロ?涙を流して語れり

●階上村

階上村は大蛇、乙起、柳、小舟渡の四字より成る三戸郡極南の漁村にして二十一名の惨死者あり、当日小舟渡の漁夫沖合にて漁業し居たるもの一時船の水上に膠せしに驚き怪しと思ふ間に陸地に当り砲声の如きものを聞きたれば直ちに引返し来りし処夥しく材木の流れ来るに蓬ひ始て其海嘯なりし事を知しとい

●唐丹村

〇唐桑村にては海嘯襲来せし時の状況を気仙沼警察署長上田景安氏の談話によりて記さんに曰く
 十五日夜八時卅分、巨?の音の如きもの轟然として二度迄聞へたり、当地は其後何事もなかりしかば本官等は只遠雷の響とのみ思ひ居たりスルト十時過にもあらん唐桑より一人の男来り『唐桑に水が増しましたと』の報告を得たりされば何程位の増水にや分明ならず其男に推問すれば只キヨト?として少しも要領を得ず兎角する程に階上村役場より急使来り海嘯あり人畜の死傷無算との報告ありければ巡査部長を唐桑に派遣し本官は直に階上に向ひ救護の手続を了へ更らに唐桑に行きしに何ぞ図らん其の損害は非常にして目も当てられぬ有様なり依て急に救護の手続をなし本県への報告等をなせり、唐桑駐在所巡査の談話によれば当夜の浪は六丈余の高さなりしと翌朝本官が再び出張せし時、見るも惨ましき様にて話すも涙の種なるが、破壊家屋の下に壓伏され居る罹災者の尚生き存らへるが苦しき声絞り上げ助を呼ぶあり見れば顔色は青黒色に変り髭は振り乱して悪鬼羅刹の如く早く?と啼き叫ぶより急に鋸を取寄せ壓木を引斫らんとするも中々に斫れず其内に絶命せしも五六人ありき惨といふべきなり不思議の命を取留めたるは佐藤栄次郎の妻と田村芳之助夫妻のものなり、佐藤の妻は此時湯に入り居たるが突然の事とて逃る隙さへあらず其侭二三丁程の処に押流されドダンと音して地に落され ホツと一ト息吐く時浪は曳きたれば幸ひにして死を免るゝを得たり不思議の幸運といふべし、又田村は字鮪立の濁酒商なるが彼れは泳ぎも知らねばとて妻を戒め此海嘯に決して動くなと吩附て居る時誰れとも知らず屋根の上にて膽を確りしろと呼ぶものあり因りて田村は屋根を破り誰れぞと呼べば早く出ろといひつゝ田村の手を取れり田村は妻を顧み貴様も早くと催しつゝ己れ先づ屋上の人に引上げられ後ち妻をも引上る時浪は漸く逆巻き来れるより其屋上の人は其少し前迄田村の店にて濁酒を傾け居し客なりと、又赤十字社は出張所を唐桑に設け目下百余人の重傷者を収容せり茲に感ずべきは志田郡古川町弁護士阿部鉄太郎氏外有志者は特志赤十字団を組織し唐桑赤十字出張所へ医員高木亀三郎外三名を特派し薬品其他に至る迄悉皆自費を以てし阿部弁護士は世話掛として共に出張し来れり感ずべき事なり云々


○風呂桶に入りたる侭押流さる
唐桑村某の娘(十九)は入浴中に海嘯押寄せて忽ち風呂桶の侭に浚はれしも多少負傷したるのみにて辛くも一命を拾ひ得たりしが我家屋を潰されし事とて必定二歳の乳児は無惨の死を遂げたるならんと翌日泣く?死骸を掘出さんか為め家根を穿ちたるに乳児も不思議に生存し居たりと


○かたみの片袖
唐桑浜なる婦人某は頸と腕に大傷を負ひて倒れ居る所を助けられしか右手に麻の葉形の木綿の片袖を攫める侭放さぬに其仔細を問へは這は我子か紀念の片袖なり当時我子を助けんとて其袂を握りしに我子は忽ち波に浚はれて残れるは唯此品のみアハレ我子にして助かりなば我身は死すとも厭ふまじきにと潜然と泣き沈みたりとなん

●岩手県気仙郡
●小友村

○小友村唯出
全村略ぼ荒廃に帰す死する者二百余人実に全人口の半数を占む該地は広田半島の頸部に位する地にありて右に広田湾を控え左に太平洋と相対し地稍々低し是れを以て海嘯の際激浪内外より薄り来り中央に於て相激し其間にありし家屋は悉く蕩破されて僅かに若干の木片を来すのみ


○潮水の上ること三十尋
小友村唯出は潮水の升騰せしこと最も激甚にして該地の高丘は海上二十五尋なりしに潮水之を超えて走ること猶は五尋前後算じ来れば優に三十尋以上なるべし


〇鮭八本を得て妻子家屋を失ふ
唯出(気仙郡)の漁夫某漁船に乗じて例の如く沖合に漕ぎ出し網を下ろして鮪漁を試み居りしに平日になく八本迄得たれば其夜は沖合に泊し翌日船を廻へして喜ぶ妻子の顔を見ん者をと急ぎ帰れバ無惨や昨日迄ありし我家は何くに行きけん一夜の中に消えて妻子の影だになかりき

●広田村

○老婆孫に助けらる
広田村の漁師山田某は六七里の沖合に漕ぎ出して鮪漁をなし翌日未明帰途に就きしに遥か彼方にて助けろ?と叫ぶ者ありハテ不思議と耳を澄して聞くに愈々人の叫ぶ声に相違なければ声のする方に漕ぎ行きしに一人の老婆雨戸故の上に坐して波に漂ひつヽあり救ひ上げて見るに我が老婆なりきと


○広田村根崎
広田半島の南端にあり前には椿島松島の二島斜めに海門に横はり顧みれば大森山元として雲際にあり限りなき大海の水は洋々として此の岸を洗ひ茸々たる夏草は此の村を周りて栄ゆ若し夫春霞烟の如き夕秋月鏡の如き夜一葉の軽舟を茲に浮べて半宵の遊を試みなバ五十年の生命又情むに足らざるべし此桃源の地に居を占めて一張の網に生を継ぎし漁民海涛一昂殆ど三分の一に減ず死する者八十二人家屋の流失破壊せられたる者十四海岸の低地一帯田となく家となく皆砂原となる里の背後に一高丘あり水面より凡そ十余丈祠堂其上に安置せられしが是れ又悉く消えて礎石を止むるのみ祠前祠後の老松皮を破り肉を露はすは海嘯当時の乱木の打撃を受けたる者ならんか而して創傷の殆ど木心に達するを見れば如何に潮水の猛烈なりしかを察するに足る


○広田村大野
広田半島の東岸にありて南に一小澳を控ゆ未だ港湾と称するに足らざるも若干の小船を泊するに足らんか海嘯の前一日容量凡そ二百石積の一帆船碇を茲に投じて繋泊せしに海嘯の為め山巓に押し上げられ今尚は依然として其侭に存す此の地海岸の堤防十余間破壊せられ潮至れば河をなし潮退かば空濠となる破壊せられたる材木は森の中にタヽキ込まれて狼藉たり家屋のありし所は海草木片のみ重畳して乱鴉其間に飛び四顧茫々又人影を見ず


○海水退くこと七八町
広田村人の談に日く海嘯の起る前六ツが浦の潮退くこと七人町平素洋中にある小島陸地続きになりたればアラ不思議やと思ふ間もなく押し回へし来りし大波に村は微塵となれりと


○孰れをいづれ
広田村の教員熊谷大五郎氏は父母と一人の幼児を失ひしが翌日幼児の死体を見出し厚く之を埋葬したるに又た其翌日幼児の死体を見出し是こそ真の我子なりと再び之を葬りしに同日の午後又々幼児の死体を見認め此度こそ相違なき我子居なりとて葬りたり一般の死体の変相甚しきは此話しをもて推諒らるへし


○誰かと思へは祖母さん
広田村小西幸太郎なる者の直話によれは同人は海嘯の当日沖に在りて漁を為し居たるに陸地の方に当りて只ならぬ物音聞えしにぞ異変あらんとて急ぎ帰途に就きたるに向ふの方より床板の上に乗りて九十余の老婆波間に浮沈し来りたりさては海嘯かと之を熟視するに豈に図らんや是ぞ已が視母ならんとは早速引揚げて種々介抱し必死と為りて陸地に着せば妻子兄弟既に亡しといへり

●末崎村

○末崎字細浦
は大船渡湾口にありて前に太平洋を控ゆ海岸水深くして港を為し常に船舶の碇繋場なり人口凡そ六百八十余多くは漁業を以て生計を営む海嘯の日死する男女百九十二名家屋器具悉皆飛散したり


〇同村字泊
広田湾の東岸鼻尻岬の後へにあり湾内広からすも雖も大和船を泊するに足るべし全村皆多くは富民にして大厦軒を比べ他の貧弱なる漁村に似ざるなり海嘯の来るや低地にありし家屋は大と小とを問はず悉く破壊し去りて五十二戸瞬間に滅す今や粗雑乱堆の跡に十余の人ありて死屍を捜索すると数百の烏詳争ふて餌を求むるあるのみ


〇稚児布団に包れたる侭助かる
末崎村の某方は其家の流失と共に家族皆死亡せしに独り二三歳の稚児は布団に包まれし侭波浪に送られ来りて或る家の椽側に一命を全ふし居たる由

●大舟渡村

○大舟渡
は石浜より盛町に至る二里許りなる海岸一帯に家続を為し居たるものゝ如くなるに悉く流失して影を止めざるもあれば残るも碎破して用ふべきものあらず二里余の間には遭難者中にも種々ありて裸身にて僅かに其身を全ふしたれば着類一枚持たず何に丸裸なりとも死したるには優なる可し衣裳も何も要たものではないと力身居るもあり戸板両三枚を并べて仮屋を築けるもあり畳一枚に日頃の疲を慰め居るもあり中には逸早く柄に逢はぬ箪笥など流れ来るを引き上げて警官の取調べを受け居るもありと


○流れ家の灯光
大船渡村字小舟渡の島森義邦と云ふは二三里を距る某学校の教員を勤め居り海嘯の当日は我家に居合はせざりし故幸ひに危難を免かれたるも其妻と倅夫婦及び孫三名と都合六名は端午の節句とて二階屋敷にて酒酌交はし居る折柄俄然濁浪に押流されて溺死せしが暫時の間は二階の燈光消えもせでありしと、其際に於ける六名の心事如何なりしか思ひ遣るさへ腸の断るゝ心地す

●越喜来村

越喜来村は盛事来湾の北部と湾底とに有る崎浜、浦浜、泊、甫嶺の四字より成り家屋の流失せるもの百二十九戸にして死亡者四百三人を生ず就中最も猛烈なる勢を以て海嘯の襲来せしは崎浜にして七十五戸を洗去り残留せるものは高地にある史の十数戸なり此地に苅屋譲右衛門(南部屋と号す)なる屈指の豪家あり
龍神丸、勘正丸の二隻を有して沿海貿易に従事し漁舟漁具をも数多所持し之を漁夫に貸して漁業に従事せしめ資産は百万を超ゑ宛然当地方の王侯たり然るに今を距る三年前火災に罹りて南部屋始め全村を焼払ひ此頃に至りて漸く旧観に復せしに憐れむべし十五日夜の海嘯は再び此地を烏有たらしめ南部屋の如きは間口十五間奥行八間の家屋の外七棟の土蔵と五十人持弗箱一個及び三十人持弗箱一個とを流失し近村に貸付けありし漁船漁具も亦悉皆之を失ひ惟家の屋根のみ多く破壊せずして打揚られ居れるを見る崎浜全体にての死亡者は男八十八名、女百二十六名にして南部屋の家族も亦溺死せり他の三字は崎浜に比して被害甚だ軽く
 浦浜 流失家屋二十八戸、死亡者百十二名(内男五十三女五
    十九)
 泊  流失家屋二十八戸、死亡者二十九名(内男十二女十七)
 甫嶺 流失箱屋十八戸、死亡者四十九名(内男十八女三十一)
にして外に重傷を負へ.るもの六十三名牛馬の斃死百二十四頭船舶の流失百三十九あり此地方田園を有するもの甚だ少く重に漁業を営むものゝみなれば今後の困難想ふべきなり
及川惣三郎と云へるは崎浜の南部屋に次で村内第一の豪家なるが一人も残らず溺死し東京に遊学中の倅と盛町の支店に居たる弟のみ残りたれど後の始末を為すものなきに器物散乱して片附くるものもなし又及川仁右衛門と云へる家族四人のものは残らず家と共に押流されてそのまゝ家の壓潰れしため出る所なきに同じ彼此する内思ひ付きたるは烟突にて屋上の正面に突出したる所を破り三名とも助かりたりとなり又同沖合に馬の屋上に乗り跨りたるまゝ三日間漂流し居るを認め舟にて漕ぎ附け見れば梁の間に人の死したる者あれども馬は尚は存命して首を棟上に押立てゝ波と共に浮沈するも少しも騒がず依て畳両三枚を足掛りとして遂に之を助けたる由数多き中には種々の奇談もありて此方の浜辺より一の沖合を越えて彼方の浜辺に吹流されたるも一命を拾ひたる婦人もありとなり

●吉浜村

吉浜村は越喜来と唐丹の間なる吉浜湾に沿へる村落なり従来の戸数百三十七戸人口約千三百の中三十三戸を流失し百九十四人を殺せしに過きず尤も破壊家屋五十四戸と荒廃せる田畑三十一町二反あり漁船漁具の類も流失したれど本村は半ば農業を事とし田畑の如きも尚ほ存する処少からねば先づ幸福なる村落と云ふべし只特殊の被害として見るべきは河口の位置変動したる為め船舶出入の便を失ひたる事是れなり

●小白浜

鈴木トミは当年十九歳にて負傷者の一人なるが当時の情況を語るを聞くに轟然たる響を聞いたかどうかも能くは覚え居らぬ位にて何事かと思ひ庭先に駈け出す内に早や漫々たる波の上に在りハッと云ふ間に潮水を飲みたれば其侭体は簸弄翻揚され居たるも自分は何の覚えもなく暫くにして蘇息したるに依り四辺を見廻せば身は遥か向ひの断崖下に在り寒さは寒く胸は悪るく生きたる心地はなかりしが其中助け船来りて潮水を吐かしむる等種々の介抱を受け今は万死の中に一生を全ふしたるも八人の家内一人甘残らず生きたる甲斐もありませぬと物語れり

●唐丹村

唐丹村は釜石湾の南方唐丹湾の周囲にある村落にして陸前国の最北部に位し大字本邦より一山を超ゆれば則ち陸中国南閉伊郡たり湾口甚だ濶くして正東に開くるを以て被害の大なる事綾里村と共に三県下中第一に位す特に最も無惨なるは本郷にして本郷は海に瀬する村落なれば海嘯の起れりと思ふ間もなく総戸数百五十九戸は逆巻く波の裡に葬られ殆んど一人も剰さず溺死せり只だ統計上僅かに生存者を数ふるを得るは当夜漁業の為め沖合にありし漁夫の無難なりしと近村へ節句歩し居たる男女の少くありたるが為めのみ死者は男三百二十九人女三百九十五人にして生存せる者は男六十五名女十四名とぞ聞ゆ百五十九戸の中九十二戸は一家悉く死亡し亡状の海嘯に恨を呑みて死せる亡霊も数百年来の祖先も之を祭るの嗣を絶するに至ては天下の惨事之に過ぐるものあらんや本郷に次て悲酸なるは荒川及片岸にして此地方は水の上る事海面より二十余丁に及び荒川は総戸数二十七戸の中僅かに二戸を残して二十五戸を流失し死者は男四十五女六十四の多きに及び生存者は男廿五女二十(内他出者男十三女三)なり片岸は流失家屋二十六戸死亡者男五十女五十八にして男二十八女二十七(内他出者男二女一)生存せり是等の村落は石垣及樹木をも奇麗に持去りたれば若し海嘯ある事を知らずして通行せば只一の不潔なる海浜として看過し曾て村落ありし事を知らずして通過すべしされど此茫々たる一帯の海浜に家屋の櫛比せし事を想像せば当時の光景眼前に髣彿として六月の炎天尚ほ膚に粟を生ぜしむるものあり荒川片岸に次で惨なるものは小白浜にして流失家屋百十五戸あり此地は唐丹全体の中央に位し戸数も稍多きを以て役場学校郵便局等は此地に設置しありしが悉く流失したれば帳簿の類は片紙も留めず村長書記訓導等は悉く死し残れるものは助役一名と重傷を負へる収入役一名のみなり故に現今は郡衙より役員出張して村役場吏員の職を執り居れり家屋の流失せるもの百十五戸にして死者は男二百十七人女二百六十三人生寄せるもの男百人女六十四人(内他出者男十二女八)なり花露辺は流失家屋三十六戸死者男八十九人女十五人生存者男四十六人女十七人(内他出者男九女五)あり唐丹村中被害少きは大石にして大石は一戸の流失と男五人女五人の死者を出せるのみ絶家せるもの本郷は九十二戸の外各字を合して五十戸あり生存者の過半は小児なるが斯く多くの小児の助かりしは身体の小なるが為め破壊せる木材などの中ること少かりし為めにやあらん腰の屈れる老人のみを残し若くは独立する能はざる小児のみを存して他は悉く死亡せるものゝ類は絶家の類よりも頗る多し重傷を負へ釜ものは四十七名ありて赤十字福島主部の医員二名来り治療に従事し居れり
山崎善蔵氏、三十五六の男にて唐丹の収入役を勤むる者なるが手足から背腹まで八方に幾箇所となく負傷したるを繃帯にて取捲きながら当時の模様を語るを聞くに同人は妻を迎へて一子を設け許多の親戚を内に置き凡て十一人と共に暮し居りしが氏の家は海岸に石を築きて埋立てたる地に建設したる者なれば真先に押流され家族ちり?ばら?となりしを如何にしけん一枚の板子に縋り附きて波の上に浮びて見れば同じ板子に婦人の縋り附けるあり誰ぞと問へば不思議や最愛の我妻タケなり貴郎は怪我を為さいましたか肩から血が流れますと其身が躍れる波の上に浮つ沈みつしなから暗黒なれども夜目にすかして気遣ふゆゑ我は大丈夫なり其許はと云ふ間もあらばこそ何れにて打たれしか妻は血嘔を吐くこと二回に及びしかば善蔵は声を励まし何でも助からねばならぬぞ此処は中網(大綱を引く処にて善蔵宅前を離るゝ五六町の処の崖下なり)なれば泳いでも泳ぎ附くることが出来るから心を確にせよと呼べとも悲しや情なや心身既に疲れて一歩も泳ぐこと協はず左りとて一枚の板子到底夫妻両人を浮ぶる能はず妻は早くも良人の手疾重きを察して妾はまだどこも痛みは仕ませぬ貴郎はこの板子にてきつと助かつて下さい妾は別の板子に移りますと云ふを夫れはならぬと押へんとせしも力なく板子を離れて分れ別れになりしが善蔵は板子諸共岸下の砂上に吹上げられたれど婦人は板子を得ざるものと見え波に浮びては頻りに良人の名を呼びて助けを求め果ては返事のなきに貴郎は助から無かつたのかと怨める言葉も耳底に存するのみにて其時には之れに応ずる声さへ出でず到頭家内残らず失つて其身一人のみ斯くも一命を全ふせりと同人にして其当時を思ひ出してはさぞや見慣れし海上の白浪も怨めしかる可し


○小児木の股に懸りて救はる
唐丹の小学教員菊池某の幼児齢五歳父母と與に家にありしが潮来りて両親與に溺る独り幼児は隣家の庭前にある木の股に介まりて波と與に引攫はれざりき翌朝救護に来りし者其木を仰いで幼児の介在するを発見し直ちに助け下したり該児今現に同郡今泉にありと(図は上巻に出)


○畳上の小児
唐丹村字本郷にて一枚の畳の上に八歳許りの一男児ションボリと坐り付た侭山なす激浪巨涛の上を漂流すること一夜半日翌午後に至りて之を発見したるものあり走りて之れを畳上より救ひ得たりと


○落雷と間遠へて戸を鎖す
本郷の雲南治三郎は海嘯の起らんとするとき大なる音響を聞きて落雷なりと思ひ誤り周章狼狽戸を鎖して家内に蟄伏せしに家屋は怒浪に拍たれて粉韲し一家無惨の最期を遂げたりと

●同県南閉伊郡
●釜石町

○釜石電信局長の義奮
今回の事変にて最も惨害を極めたるほ釜石にて五千人の死者を生じたるが電信局長村井儀蔵氏は海嘯の為めに将に溺死せんとせしも辛くして九死の中より一生を得たるに但見れは其際同氏の家族は已に皆溺死の不幸に遭遇しありたるにぞ尋常のものならば悲嘆の極茫然為すことなかるべきに元来健気の同氏職務に殉することは斬る場合なり左るにても電信の不通は此場合甚だ不便宜なりと悲哀苦痛の身に余りあるにも拘らず奮励一番大に勇気を鼓舞し幸ひ流失の難を免れたる古器械を捜し出し遂に今日に至りて同地より発電するを得たるは実に同氏の芦義奮に依ると云へり感ずべきことにこそ


○陸上の魚類
釜石にては海嘯の退きたる跡其処此処の水溜には魚類溌刺として飛び水なき所には鱗介夥多散在し居たるより餓民は争ふて之れを食したりと


○陸上の船舶
釜石には銑鉄回漕の為め第三丸、長安丸、開城明神丸、金比羅丸の四隻桟橋近辺に碇泊し居りしに海嘯の為めに陸地に打揚げられし侭畑中に直立し居れり併し船体は案外にも無事にして唯少しの銑鉄を流失せしのみなりと


○漂流者の幸運
釜石町の前川某は屋根の上に取着きて流れ居る内家屋幾棟とも流れ来しより其中にて最も丈夫そうなる屋根に乗移れり然るに自分より先きに此屋根に登り居たるもの二人あり一人は少年にて他の一人は四十ばかりの男なりしが三人とも必死となりて取着き浪のまに?流れ行きしに大槌町の赤浜の方に近づきぬ時に浪荒くなりて屋根の崩れ掛らんとせしかば三人共に傍に流れ来る櫓櫂に取り付きたり然るに二人なれば浮び得べきも三人なれば沈みける故再び元の家根に乗りたるが前川は三人の中一人丈け泳ぎて赤浜に付き救助の策を講じては如何と云ひしに四十許りの男は然らば我れ行かん暫し待ち居れよと彼の櫂に取付きて赤浜に泳ぎ行きし跡にて波は次第に此家根を沖に持ち去れり然るに沖合には鯣船五六隻一所に漂ひ居りしかば前川等二人は声を限りに助を呼びしに船の漁夫等も耳敏く之れを聞き付け櫓櫂を押しつゝ漕ぎ来り終に屋上の人を救ひたりしが船中の人は皆知人にて前川の旦那なるかとて何れも其幸運なるを祝せしと云ふ


〇郵便局の流壊
澤村に在りし同局は海嘯の為に階下を粉韲せられ階上のみ僅に形を存し波のまに?中町に漂者し村井局長以下吏員眷族、為に危難を免るゝを得たり因て仮局を鈴子に設け今尚ほ公私の電報を処理しつゝありと


〇警察署の紛失
低地にありし警察署は憐れ海嘯に簸弄せられ一たびは湾内に奪ひ去られて当直巡査は悉く海上に漂ひしが辛ふじて屋材た縋り附き漸く山麓に着し九死の中一生を得たるも何れも皆負傷せざるはなし而して官帽、帯剣、書類等は悉く流失せりと云ふ殊に山口署長は当夜故ありて他家に在りしが咄嗟の災厄に重傷を負ふて現に赤十字社委員救護医の手にて治療中なり多分生命には別状なかるべしと


○宣教師の死亡
耶蘇旧教の宣教師レセップル氏は同夜大槌より此地に着し某旅亭に投ぜし当夜海嘯の為に何所にか流亡し今尚死体分明ならずと


○小軽米県会議員の惨死
前にも記したる小軽米汪氏は当町第一の豪家にして現に岩手県々会議員たりしが同夜警察署長山口良五郡、町長服部安受の両氏を請じて小宴を催し恰も盃を手にする転瞬に叫喚の声起れり或は失火ならんと云ひ或は来鯨ならんと推し服部町長は後方の高地に登りて火元を確かめんとし山口署長は水の雨戸を鼓つ音を聞き急ぎ屋前に出るや山成す激浪に倒されて前記の災厄に出逢ひ小軽米議員及家族は皆逃出づるに遑なくて遂に無惨の死を遂げ空しく泉下の怨鬼と化し了りぬ、古老の言に拠れば今より四十三年前即ち安政年間の海嘯に小軽米氏の本家は浸水せざりし為今回もそを当て込て同家に駈付し男女五六十人は孰れも皆不帰の鬼となりたるこそ哀れなれ


○永澤亀吉なる者あり
元と東京小石川辺の産なるが先年当地に来りて金物商を業とせり平生極めて酒を好み日として酔はざるはなきに況して当日は旧暦五月節句のことなれば夕餐に一杯を傾けて熟酔せる折柄突然海嘯襲ひ来りて家内残らず濁浪の中に包まれたれば亀吉は驚きながらも妻つゆと長女つる(十四)を両手に攫まへつゝ頻りに末女かめを呼べども更に答へもあらざるにぞ幼稚なる小供のこととて定めて激浪に捲き去られしならんと思ひ諦め只管妻と娘とを扶けんとせる甲斐もなく三度迄浪に巻倒されし塗炭に長女つるは逆潮に押流されて浮つ沈みつ流れ行き続て妻つゆも亦激浪に浚はれて空しくなりぬ、亀吉も海水に押倒され起上らんとすれば又押倒され足を立んとすれば又浚はれ果ては身体疲れて殆んど沈没せんとする一刹那幸ひ流れ来れる一木に縋り付けるまでは覚え居たれど其後の事は少しも知らず程経て人声のするに不図心付けば潮は既に退きて罹災者救護の為めに人々の奔走する所なれば声を揚げて助けを呼びしに直に立退所に連れ行かれたり、然るに死せしと思ひし末女かめの此処に居るにを亀吉は夢かとばかり打喜び如何にして助かりしやと問ばかめは激浪に揺られ居る内戸板三枚流れ来しかば其上に乗りて流されなが何時かスヤ?と眠りたるに其内余所の叔父さんに呼起されしと語りたりと、其長男金蔵(十三)も幾度か浪に巻かれて苦み居る内流れ付きし家根に取付き居りしに大只越と云へる所に打揚げられて生命を助かりし由亀吉自から物語れりと


○釜石町内大町の村井辰五郎氏
は自分の家屋流失したるにも拘はらず家族無事に満足し居れば倉庫に残りし米三十石を遭難者に寄附したりと云ふ奇特の心懸と云ふ可し


○業務に熱心して難を免かる
釜石町の山崎ゑん(六十二)及び長男徳松(二十六)の両人は養蚕熱心家にして木年も多分に掃立てたり此頃は三起の時分なりしが居宅を以て蚕室に代用せることなれば畳は尽く引きめくりて一隅に積立て置き床板の上にて飼育し居り海嘯の当時は母子余念もなく桑葉を給し居りて復た四隣の騒動を知らず、折柄不意に激動ありし為め積立てありし畳の傍に倒れたるに家屋は忽ち倒れて身は其侭溺死すべしと覚悟し居りしに幸ひ家屋の木材と畳との間に囲まれ居たるを以て海水にも捲去られずして無事に生命を助かりたり又徳松の従弟為蔵(十七)外十七名は他の小供の節句なりとて休業せるにも拘はらず同地より少し隔てし高地なる水産夜学校に往きて勉学し居たるを以て是わ亦た比大厄難を免かれたり


〇老婦山に在り
釜石の一老婦海嘯に持行かれて尾根の上に取り付き又材木に取付き杯して転々し居りしが大なる手水鉢の如き者流れ来るを見付け其中に這入り込しが何分覆へらんとせし故傍りを見れば又一つの材木流れ来れり其れに大なる穴ありしかば是れ幸ひと其穴に両手を入れて掴まりつつ運に任せて流れ居たり暫くして足に障る者あり何物ならんと探しに確に地面なりしかば蘇生の心地にて這上り夜の明るまで其処に居りしが何ぞ図らん山の絶頂なりしと


○釜石の宿屋
の主人新沼嘉藤治といへるは逃場を失ひ家屋と共に流れ行きしが尾崎神社の拝殿跡に顛覆したる家の中に無残や二人の幼き孫を抱きし侭に死し居たりき


○抜手工夫辛ふじて一生を得
釜石に在る航路標識用の立標修繕の為め先頃同地へ派遣されたる航路標識管理所の技手二名及び工夫等の一行は釜石町の旅舎に投宿中折悪しくも今回の海嘯に襲はれたれは一行相呼んで孰れも其屋上に逃れ出でたる時はハヤ山なす波に引かれて家と共に沖の方へ流され掛りしも幸に万死の中に一命を拾ひ得たる由にて一と先つ帰京する趣其筋へ通知ありたるよし尤も斯る危急の場合なれば修繕用の機械器具等は流失したるなるべしと云ふ


○盲人の幸運
高橋清松は夫妻ともに盲目にして二三歳の一子あり海嘯来れると聞くや否や暗夜を苦にせぬ盲人の身なり妻子共々町役場の高地に匍ひ登りて一家残らず危難を免かれ今現に赤十字病院に於て救護を受けつゝあり盲目者亦た明目者に優る所あるを見る


新沼屋の隣家に一人の老婆ありけるが 海嘯の来りたる時恰も新沼屋にて遊び居たるにスワ海嘯と聞くや否や前後を顧みる暇もなく裏の窓より飛出しけるが裏には倉庫の建列び居りて老婆の身体は恰も扉の前に当りたるにぞ必死となりて扉に取縋り居たるに海嘯はドッと押寄せ来りて件の扉を打破りつゝ滔々として倉内に浸入せしにぞ老婆は此勢につれて自ら倉の内に入り一命を拾ひたりと又た潰象の間に挟り或は材木の空隙に打込まれたるため命を全ふしたる人もあり此等の人の談に依れは潰家又は材木の下に壓されつゝ泥水を呑み居たるは五分間に過ぎずと云ふ海嘯の陸上に上りたるは五分間位なりしを知るべし


○七十七の老婆
釜石なる石應寺に至らんとする途中にて腫れ上れる頭部に繃帯なしたる白髪の老婆杖に縋りてトボ?と歩み来るありけり其姓名を問へば磯田じゆんとて今年七十七なるが此度の災難にて幸ひに一命を助かりたれども此通り頭に疵を負ひて疼痛耐へがたし寄辺なき身の寧そ死したらんが優しなりしとサメ?と泣き沈みぬ


○何事も涙の種
口は物言ふ為にはあらで泣く為めに出来居るものかと思はるゝは昨今災民の有様なり、男子は兎も角もとして婦女子の如きは屍骸を見てはオヽ死んだかと云ふてはサメ?と泣き、生きて帰れる人に逢ふては能く助かつたことよとて又サメ?と泣く、死しても泣き生きても泣き、聞く人見る人亦た皆な没く、災後の天地尽く涙ならぬはなし


○漂着者の救助
釜石より二里余の沖合に三貫島と云ふ小嶼あり此処に遭難者百五十余名漂着し居たるを発見して直に救助したりと


○身を擲ちて人を救ふ
釜石鉱山の役員赤星武雄と云ふは元陸軍の軍人なるがソレ海嘯と聞くや否や三之橋際まて駈出したるに水は既に膝の上まで来りて左右前後に助を呼ぶ声の聞えけるにぞ暗さは暗し鳥羽玉の何れをや助けんと惑ふ中に水は忽ち乳の上まで及びたれども武雄は少しも屈せず水の中に突立ちながら流れ来る人々を救ひ上けるが其中に三之橋際にて篝火を焚きたれば被難者は其火を見当に泳き来りて一命を拾ひたるもの多く武雄も又た一生懸命に働きて暁方迄に九人の被難者を助け上げたるが其中一人は不幸にして死亡したりと云ふ


〇三日間海上に漂ふ
浅野音松なるものあり海嘯の際荒浪の為に捲き去られて浮きつ沈みつ悶へ苦しむ折柄幸ひにも船板の流れ来りしより之れに取縋りて海上に漂ふこと三日間或時は逆潮に浚はれんとし或時は流木に撲たれんとし幾度か生死の境に出入せしかど幸ひに一命を全うして海岸に漂着せりと云ふ天幸とや云はん神助とや云はん


○死体の発握
死体を握出せるも其何人なるやは村内の者と雖とも知る能はず相貌変り皮膚爛れ全身皂白色を呈し足部に打折りたる傷敷き挫きたる疵数ケ所あり溺死者の死骸は唯さへ薄気味わるきものなるに況して大怪筏を為し居るものなれば二目と見られたるものにあらず之れを取扱ふ警官人夫等の労大抵のことにあらず


○遺骸の陳列
死骸を掘出すも其何人なるやを知る能はざれば之れを石應寺、澤村、只越等に集め『心当りの者は就て見る可し』との掲示あり災後の始末困難なる此一事にても察すべし り


○巡査部長
某は海上の鳴動を以て海嘯なりと推測し手早く屋根に這出でたれば其妻と愛児とを家根の破壊と共に海上に持ち去られて南端の岸に漂着し其侭気絶したれども後にて人の介抱により蘇生し今は共に治層を受け居れりと


○麦畑の中に座し居る帆船小安丸乗組房州人渡辺某の直話
に依れば同人は十五日の夜上陸して宇澤村に在りしに沖合に天地も崩るゝ如き響せしを以て立出見たるに(八時頃)五六町の間潮水一時に退き砂を現はしたれば奇変あらんを察し大音に海嘯々
々逃げろ?と云ひしに聞きたる者は忽ち高台に上りたる間もなく僅か一分間許にて沖合に真黒に山の如く高き浪逆立ちドー?と音して進み来り一面に押寄せたりと又同船に乗り居りし水夫の話に船は二挺錨にて止め置きしに忽ち押流され一挺は切断し一挺にて麦畑に止まりたり実に肝を冷やし生きたる空はなかりしが船内の人には何の異状なかりしと


○帆走船畑の中に直立す
釜石なる田中鉄長組の工夫某が釜石より帰京し語る処によれば銑鉄等回漕の為め釜石の桟橋に繋泊せし第二長安丸、開城丸、明神丸、金比羅丸の四艘は海嘯と共に陸地に篏蕩せられ遂に烟の中に陥り其侭坐礁の姿と為りしが波の去りたるを待ち之を見れば船底泥濘の中に没し山の如く直立せる有様は実に惨状の中にも奇妙謂ふ可らず然るに船体は案外にも無事にして只少量なる搭載の銑鉄を流失せしに止まれり云々


○孝心の為めに死す
大和田與手松と云へるは家族十二人なりしが其老母及び妻もよ長男助松、次男勝之助、三男虎松、長女りう外一名都合七人溺死せり中にも長男助松は如何にもして母を助けんと逆捲く浪に揺られながらも必死となりて救護せしかど終に力及ばず母子諸共溺死せしこそ無惨なれ與手松は右の足に大釘を打着け頭部をも打割られたれども幸ひに一命を助かり其父清十郎も負傷しながら生命を拾ひ得たり十二人の家族中七名まで死せしことは無惨は無惨なれども全家尽く死去せるものに比すれば寧ろ幸運の方なるべし


○仏国宣教師の遭難
在盛岡の仏国宣教師アンリウスバル氏は兼て釜石地方に出張し兼子技手等と同しく海岸の新沼方に投宿し居たるが当日は未だ晩餐を喫せず料理番は台所に在りて頻りに西洋料理を調べ居たり下女は茶を運ばんとて宣教師の居間に行きしに忽ち海嘯よと聞きて仰天し茶盆を其処に擲ちて駈出せしかば宣教師も怪しみながら後より出んとせしに此時早く彼時遅く百丈の大波は岩の崩るゝ如き勢ひにて海岸の方より押寄せ来りたれば何かは以て耐るべき宣教師は怒れる波の間に埋められ行衛も知れず成り行きたるが其死体は今に見当らず仏国宣教師イロードジャッケ、デフレンヌの二氏は伝教師吉田喜一氏と共に日々来りて災余の地を憑吊す其亡友を懐ふて悲嘆の備に耐えずやあらむ哀悼の意眉宇の間に現はる古山氏はアンリウリスバル氏と共に難に遭ひしが辛うじて一命を助かりしと氏自から物語れり


○助けねば崇るぞ
釜石町の或る商家の雇人に十三歳ばかりなる少年あり海嘯の来るや否や水を潜りて逃げ出せしに背後より其手を取る婦人あり少年は遽てゝ振放さんとせしに婦人は水中より顔を出し『我を助けねば崇るぞ』と云ひしも兎角して少年は自分のみ逃れ出でしが今に其声の耳に残りて忘れられずと其少年自から語れりとなん


○白砂の惨状
釜石町の内にて字白砂と云へるは当湾の南部に遠く海中に突出せる尾崎の側に在り釜石本町を距ること殆んど二里以上の山腰に近く海に枕みて一部落をなせり其家屋六十三戸の内僅かに二戸を残して余の六十一戸は流亡し住民二百八九十名の内幸うじて生命の助かりしもの百六人其余は悉く海嘯に浚はれ死体の海岸に打揚げられしもの僅々二十人のみ、其幸ひに生存せるものも十中の九迄は多少の負傷を受けざるはなく其最も甚だしきものに至ては人をして一見悚然たらしむ今其一二を挙けんに久保石松(三十)なるものは鷲の小獣を引裂きたらんが如く両脚共に関節まで裂け断ぎれ肉落ちて脚骨を露はし臍の下には釘の突込みたる跡あり。能くも是れにて生き居らるるものかなと思わるる程なり。又久保芳太郎なるものは左の肩を打落しエイと云える婦人は一眼飛出し肛門と陰部との間裂けて同穴となれり、此類実に枚挙に遑あらずして実に憫然とも気の毒とも言いようなきなり。


○小童樹に攀じて命を拾う
釜石町附近の平田と云える所に一人の少年あり。海嘯と聞くや否や猿の如く杉の樹に攀じ上りて僅に其難を免れしと云う。

●両石村

白木澤孝という医師あり。就て被害当日の景況を問えば曰く当夜
患者の家に出診し帰りて席に就くや否や百の砲門を開きしかの
如き響きして海の湧くを聞きしかば扨こそ海嘯と呼びも敢ず細
君の手を取る。此時遅く彼時早く数十丈の洪涛天を蔽うて到り。今
は我一命危ければ急ぎて家根に飛び付きぬ。然るに一枚の板子剥
落し来りて氏を助くる者の如く之に取付きて波の間に間に海へ
と送り出され翌日十時頃始て救助せられて一命を拾いぬと。然れ
ども医療器械は悉く奪い去られ其職を尽すことの出来ざるのみ
ならず其身も負傷して人の介抱を受つつあり。又久保清次郎とい
う者は海嘯当日遠野に赴き帰り来て見れば家財は更なり妻子眷
族悉く死亡して泣くにも泣かれず意外の事に気を失わん計りな
りしという

●箱崎村

○御真影の為めに
箱崎村の教員朽田泰吉氏は我勤むる小学校危しと見るより駈入り御真影を取出して遁出しに時を費し其折受けし重傷の為に落命したりと。

●大槌村

○二階屋と海嘯
当地の二階家屋は下層を奪い去られ上層のみ残れるもの多し。四戸の貸座敷中皆上層は存在し上層にありし娼妓また押流され恙なかりしと云う。其他上層に進入せるものを見ず。


○鳴動と進潮
沖合に音響ありし後約五分以上七八分の後海嘯来りしが如しと云う。又潮の高さは刈宿山(海岸に突出したる山にして左まで高からず)も今十四五間にて打越されたる程なりしならんと。


○東梅社
此地に菊池左惣太と云者あり。其祖先に兄弟の学者あり。兄を慈泉と云い本家を相続し屡々大宰府に行きしことあり。金剛石を石聴山に埋め天明の比に死せり。此金剛石今珍らしき訴訟となれり。弟を祖晴と云う。仏に志し又菅公を信じ一回大宰府に行き菅公の遺物を齎し帰り社を作りて之れを納む。其名を東梅社と称し宝庫に菅公の円座片飛梅の枝などあり。境内頗る広く花卉泉水の結構見るべきものありしも維新後子孫零落して廃頽せるを当地の有志者回復せんとしつつありしに今回の海嘯に荒らされ宝庫崩れ水泉埋まり見る蔭もなしと。


○当夜当町長某の発起にて軍人歓迎会あり。
此日朝より或降り或は霽れ陰晴常なかりしも一同は大槌より十余町離れ最海岸に近き安渡に於て祝宴を開き狼烟を打揚げ夜に入りては烟花を大槌町の直下の海岸にて土人洲崎と唱うる処に移して打揚げ一二三発と進む中海上俄にガアーガアーと大瀑布の下るに髣髴たる音響あり。烟火師三名人夫二名居合せ其側に見物に来れる小児等十四五名あり。烟火師の一人に馬場力雄とて陸軍騎兵上りの人、人夫にコンナ音がすることがあるかと問いしに人夫は珍しくありませぬと答う。左らばと安心し四発目の烟硝を詰代えんとしてある間に天地も崩るる計りに怒涛侵襲したれば居合せたる一同は津浪々々と号呼する間に押流され馬場のみは十余町の陸に流され家屋の屋根を抜けて助命の幸を得たれども他の烟火師人夫子供は藻屑となりて死体すら分らずと。
此時津浪々々と叫べる声は他の遥かに離れ見物せし人々に偉大なる注意をなせり。之が為め生命拾をなしたる者極めて多しとなん。現に当町の有志者倉田安之助氏の如き此声に依り蒼皇逃走して助かりしと云えり。


○巨砲を海中に聴く
大海嘯当日大槌町の漁師遥かの沖合にて漁業に従事せしが午後六時とも覚しき頃大洋中に於て巨砲の響を聴きしかば眸を凝して四方を見渡したれど茫々たる蒼波の外大鑑を見ざりしかば奇異の想いを為しながら帰港し来りしに果然此大海嘯あり。漁師は一命を助かり居り。彼の巨砲の如き響こそ海底に大異常ありし時にぞ大海嘯の原因も茲にありしならんと震摺せり。


○生存者は孫一人
大槌の越田林兵衛は一家十人の家内なりしが其九人は悉く惨死を遂げ孫一人(八歳)は不思議にも蓬莱島に押流されて助船に拾い挙られたり。呱々乳を求むるのに処之を哺育する者は誰か思うて茲に至れば血涙潜然。


○唯一人助かる
吉里吉里の前川善右衛門朋友の宅に居りて酒宴の最中忽ち流されて珊瑚嶋に於て助船に助けらる。他の朋友は皆死亡したりと。


○漁者の言
当夜漁業に従える人あり。曰く常に魚を採る少し前にて鉄砲の如き音したり。船かと見れば船はなし。帰れば忽ち海嘯ありしと。


○兵士畑の中に落つ
大槌町の某旅店に宿泊し居たる帰休兵士某と云うは海嘯の当日同行三人と共に舟遊びを催うし海上に泛び居りしに忽ち海嘯の為めに掀翻せられ身は舟を離れて波と共に陸地の方へ打揚げられ町を越えて己れの宿泊したる宿屋の畑に落ちたりと。不思議なる事にこそ。


○嬰児一名の生存
大槌町の某と云うは婢僕を合せ一家十一人の暮しにて変災の当日逸早く嬰児(昨年十二月出生)を背負いて高処に逃れしも他の家族等一人も来たらざるより之を救出さんものと嬰児を其処に置きて取て返せしに其甲斐無く家族諸共孰れも溺死して嬰児一人のみ生残れりと云う。


○妊婦の僥倖
三浦ナカと呼べる妊娠中の一婦ありけり。此亦当日流亡者の一人なりしか。此婦人は海浜に生育ちたるだけに水練の心得あるのみか気も猛猛しき性質なりし為め板子に泳ぎ付き浪のまにまに蓬莱島に漂着し製酒桶に取付き岸に上らんと欲し幾度か九仭の底に沈みつ又た浮き上りて又も板子に取縋り漸く同島に登りて一命を完うするを得たりと云う。誠に僥倖なる婦人と云うべし。当時同婦人は中村機関兵の逆巻く激浪の間に救を叫ぶの声聞きしも女の身とて如何とも詮術なく見す見す溺れしめたりとて今尚お歎息し居れりと。


○大槌人青麦を食う
米塩共に不足。生存住民飢餓に瀕し遂に青麦を食うものあるに至ると。


○両軍人の惨死
近衛師団第三連隊第三中隊西郷中尉の部下にありし一等軍曹佐瀬富吉氏は二十七八年の戦役勲功に依り勲八等白色桐葉章を下賜せられ今回予備籍に入りて帰郷し又軍艦赤城の機関兵中村芳太郎も同じく勲八等を下賜せられたる予備兵にして共に当日催おしたる凱旋祝賀会捷会の主賓たりしがあわれ海嘯の敵を払うに由なく空しく冤鬼と化しぬ。悲哀なる遺族の恨事さこそと思いやられて憐れなり。


○取引滅尽
大槌町の内字四日町及び八日町に住居する者は多くは半商半農を以て生活し居るより今回の凶変に際し其家屋生命には別條なきも田畑は荒廃に属し物品は捌所なし。殊に両石吉里嘯の為め巻込まれしも幸にして微傷だも負わず上陸するを得たりと云う。奇運と云うべし。


○安渡は町村制に由て大槌町に組入られたる一部分なり。此地は被害の度極て甚だしく高処の小部分を残せし外殆ど全滅の姿となり。惨状目も当てられず。死亡九十八人ありと。


○吉里吉里は赤浜、浪板の二小字を合して成り。安渡と同く大槌町に組入れられたるものなり。此地も損害極て甚だしく死亡の夥しきこと枚挙に遑あらず惨禍敢て安渡に譲らず。吉里吉里は百六十戸の内流亡百二十戸死亡二百八十八人。赤浜は六十戸の内流亡十二戸死亡二十七人。浪板は二十七戸の内流亡十五戸死亡五十八人生存者三十八人なりと。


○夫婦一流星に邂逅す
大砂賀の漁師何松助と云える者当夜老母を負い其妻は二歳計りの乳児を負うて逃出すや夫婦別々になりたるのみか松助は怒涛の為めに母を奪われて辛くも一棟の漂流家屋に取付きたる処へ其妻も流され来たりて不思議に夫婦邂逅し両人とも助かりたるは好かりしも老母を失いしのみか妻が其家屋に攀上らんとする一刹那、無惨や背負える乳児は激浪に浚われてヒーと叫びし啼声を名残りに忽ち姿を隠し見えずなりしと云う。


○一三だけは助けたい
大砂賀の貸座敷佐々木末吉方の家は激浪に揉れ揉れてグルグル廻りて流れ行くに十三人の家内(此内娼妓六人)二階の欄干柱などに犇と取付き神仏を念じて生死を運に任する内松助といえる漁師老母を負うて流れより二階の■に取付く途端老母は浪に捲去られアワヤと見る間に松助の妻も二才になる子を負うて流れつき同じく■に取り付く折子はヒーッと一声悲鳴を挙げて又も怒涛に奪われたり。夫婦再会の奇縁の中にも母と幼子を同時に失う悲しさに殆ど狂気の如くなるを末吉は甲斐甲斐しく二階に引入れ介抱せしが末吉の長女おさき(十七)は危き中にも弟の一三(十五)が一時間前近所へ遊びに行った侭にて帰らねば兎ても命は助かるまい。私は覚悟を極めたれば死んでも善けれど一三だけは助けたいとワッと泣けば末吉の背に居る妹のつね(六つ)はそんなら兄さんは死んだのかい。己ァ是から悪戯を仕ないから助けて呉ヨー。お父さんとシクシク泣けて縋付く一同相抱きて泣叫ぶ内浪は盆す。怒りて家はミリミリと壊れ始めて最早覚悟を極めし折図らず陸地に打揚げられしを四日町の赤崎某釜石の東梅某の二人が駆つけ助け上げしが死せしと思いし一三も山手の方に逃居りて目出度き再会を喜こびしと。

●同県東閉伊郡
●船越村

○船越村の大惨状           、
生残の民は一粒の食一滴の醤油一握の塩だに得る能わずして青麦を取り喰えど斯くては数日ならずして餓死すべきを以て大槌町より夫々救助の手続中を為せりと。


○樹枝上の婦人
船越村近傍にては海嘯の為めに山上に打揚げられ岩石に触れて脳を砕けるもあり。樹木に掛りて身体を傷くるもあり。中に一人の婦人は大木の枝に懸り腹を枝にて裂かれながらも尚お翌日午前十時頃まで存命し居りたりと(挿画参看)

●重茂村

○重茂村
は宮古湾の南方七里に延亘せる十余の部落より成れる漁村なり。直接に外海に瀕するを以て海嘯の襲来極て激甚なりしが如し。即ち大字重茂は六十余の民家を全滅し二百余名の同胞を殺到し剰すは僅かに二十名に過ぎず。又同音部に於ては四十二戸の内山間に在りし一戸を存するのみ。流亡者二百零三人、他村よりの来客四人、生けるは僅かに二十三名のみ。其他各部落も亦同一災害を被らざるなく一村二百三十二戸の内実に一百六十を滅亡破損し一千五百六人の居民中憫むべし。其七百三十三人は海神の逆殺する所となり。五十一人は重傷を負いぬ。且つ海岸にありし道路は悉く壊裂せられて岩石を露出し老樹巨木は洪波の為に捲き去られ屋材の破片は岸上岸下に堆積せり。嗚呼重茂七里の海岸黯として風悲しみ日暗し思うに同村の如きは当分町村を成立し能わざるならん。


○田村巡査の惨死
同村駐在巡査田村泰次郎氏は頗る精勤の聞えありし由なるが一朝海嘯の襲殺する所となり妻女と共に不帰の客となりぬ、吁痛しい哉。


○漁夫四人の無難
同村大字荒巻と称する所の漁夫四人は故舟を浮べて三里半内外の沖合にあり。鮪を漁しつつありしに八時頃陸の方面に当りて轟音を聞き次で潮流不穏を感ぜしのみにて四人共に災厄を免るるをえたり。乗組漁夫の語る所に拠れば同夜出帆の際天候何となく穏ならざりしを以て今夜の如き時は船幽霊の現わるるやも測られず若し亡霊現われんか一同口を噤み決して其救を請うの声に応ずべからずと確く相約し五六里の沖にて鮪を釣りしに可なりの獲物もありたり。然るに百雷の墜下せし如き怪音陸地の方に聞ゆると間もなく船は三段の巨浪を浴しも其後何の異状なかりし。翌朝船を廻らし居村に近くや救助を叫ぶの声あり。ソラこそ船幽霊ならんと一同片言の答もなさざりしと。是れ幽霊に応答すれば己れも共に捲き込まるると云う故老の伝説を信じ居りしを以てなり。(挿画参看)


○山崎助役の好運
同村助役山崎松次郎氏は当夜巨浪に掠られ三哩余の沖合まで浮きつ沈みつ漂流しながら流石海岸に成長せし丈けに水練の素養ありて翌暁迄海上に漂い居りしが恰も好し此時前記の漁船来るに会し声を限りに救を喚びしも漁夫等は例の船亡者なりとし敢て応ずる気色なかりしかば大声あげて助役山崎某なりと叫びしに漁夫等は始めて船を漕ぎ寄せ氏を救助したりとなん。若し船亡者云々の言い伝えなかりせば或は尚数多の人々をも救い得たるならんと漁夫等は談り合えりと云う。


○漂流者伊藤萬蔵氏
同村舟子に伊藤萬蔵と呼べるものあり。今より十四五年以前北海道に航行の途中颶風の為に船休覆没し八十余人の乗組員悉く海底の藻屑と化了せし。当時彼は殊勝にも十数日間食わず飲まず海波に漂わされ居たるも仏国郵船某号の発見するところとなり万死の中一生を得たる由なるが今回も亦二哩余の海上に漂わされながら狼狽もせで悠々として一夜を波上に徹し翌日岸上に泳ぎ付き岩を攀じ上りて難なく生を拾い得たりと。萬蔵年齢四十五六歳、骨格逞しく力量八人を兼ぬという。


○小崎警部の努力
氏は数名の巡査を従え同村に出張し東奔西走人夫を督し殆んど寝食を忘れて善後の事に努力しつつあり。勿論此の挙動の如きは職責の然らしむる所なりと雖も一片義侠の心あるにあらずんば何ぞ夫れ然るを得ん。


○溺死者の屍骸
同村は全村尽く流亡せしか死体は波のまにまに海上に漂い居れども船舶は一隻をも残さず尽く流失又は破壊せし為め陸上より此有様を目撃しながら之れを引揚ぐるに由なく其岸に打揚げらるるを待て取片付くる始末なりと。


○小使
尊影を捧持して免る  
重茂村役場の小使畠山亀次郎なるもの海嘯の当時同役場内に安臥し居けるに遽然怒涛の襲来を被りアレー津浪よと言う間もなく早くも役場崩壊せり。亀次郎は斯る時にも尊王の志堅く先ず役場内に安置しありたる 御尊影を捧持して逃げばやと其額縁に手を掛けたる一刹那憐れ洪波の為めに捲き去られ暫らくは海上に漂いしも再び逆巻く巨浪の為め更に陸上に打ち揚げられ 御尊影と共に事なきを得たりと聞くもの 陛下の御威稜なりと感激せざるはなく被害地の民伝えて以て美談となせり。

●大浦村

○不思議の助命
今回の海嘯に就ては多数の住民無惨の溺死を遂げたるが中にも不思議に一命を助かりたるもあり。大浦村漁夫某の妻は家根に乗りたる侭十二三町も沖合に流されし折柄一隻の小舟陸の方より流れ来りて家根に突き当りたれば神の助けと喜んで其舟に乗移るや否や第二の海嘯襲い来りて舟と共に大浦山に打揚げられて運よく一命を助かりたり。又同村平沢権兵衛方の隣家某方は下座敷のみ潰れて他は海辺に流失せしに同家の妻は流家と潰家との間にて衣服を柱に挟まれたる為め溺死を免れたり。又同郡織笠村にて六十七八の老人家屋と共に沖合に流されしに第二の海嘯にて山上に打揚げられ幸に一命は助かりたりと。

●山田町

山田町は四百五十六戸及数多の建物を粉韲し八百十五人余の同
胞を殺到し、五十五人の重傷を生ずるに至れり。蓋し潮勢の激烈
なりし地方は多く断崖絶壁に激衝し弾動の為め物の見事に流し
去られたるも大槌、山田の如きは緩勢なる為め家屋の多数は殆
んど旧位置に残留せるを以て殊に凄絶愴絶を感ず、而して百隻
余の漁船は陸上の樹枝に繋り或は幾多の男女は全身挫裂し四
肢流散して壊材の下に枕を並ぶるもの累々として山を成し異臭
粉々花を撲ち暗澹たる光景誰か為に涙を濺がざるものあらんや。


○糧米と医療
罹災の翌朝は全町殆ど一粒の乾米だも存せざりしを以て止むなく浸米及玄米等を以て辛くも飢を凌ぎ偶々善祝丸の石巻より入港せるあり。因て米穀の供給を得僅に露命を維ぐことを得たりと。又患者の救護に当時頗る困苦を訴えたり。是れ同地開業医四名中二名は流亡し他は皆罹災者たりしを以てなり。後ち赤十字社救護医員同地に出張して重傷者を役場に収容し不完全ながらも之が救急治療を施すを得たりしが、二十二日更に赤十字社医士看護人数名出張し同地に仮病院を置き附近の重傷患者を施術することとなれりと。


○一族五十三人の惨死
同地資産家の一人たりし田村某の如きは当日端午の節に際し来客少なからざりし由にて本分家を合せ一族五十三人悉く惨死し残るは他出中なりしもの一人のみと。


○母子の惨屍
同町に貫洞マンとなん呼べる女ありき。同夜愛児を抱き乳を含ませつつありしに突如として非業の惨死を遂げぬ。死体を発見するに及び依然乳口を小児の口にあてありしこそ無惨と云うもなかなかなり。


○漁夫の危難
同地の漁夫熊五郎というもの当夜怒涛に捲かれて海底に没せしも流石一枚の船底に貴重なる生命を託するの漁夫の事とて巧に危き中を切抜け大島に泳ぎ寄せ危命を完うするを得たりと云う。


○神分署長の熱心
山田分署長神警部は頗る温厚篤実な人なるが被災後は曽て一睡をだも貪らず非常なる尽力を以て窮民を救助し非違を戒めつつありしに其内目下花巻、水沢、河井、黒沢尻、盛岡等より数名の警部巡査出張し力を合するを得て盆す救済に余念なしと。職務とは言いながら義侠心に強きにあらずんば焉ぞ此の如きを得む。


○土蔵の大惨劇
飯岡の中小字川向と称する処にて罹災者寒気を防がんと欲し家屋船舶の破片折重りたる上に於て焚火を始めたり。何ぞ知らむ。其下には神保おたみなる者の土蔵ありて最も堅固の建築なりければ海嘯の起りしと。同時に茲に逃込みて辛き一命を繋ぎ得たる者三十名あり。然るに頭上より火を付けられたれば何かは以て堪るべき三十一名斉く叫喚して悉く蒸焼にせらる火は翌日に亘るも固より消防すべき道なければ此三十名を併せて他の惨死者と共に白骨と化し了りぬと。


○惨死者二回目の海嘯に多し
一旦逃延びたる者第一回の海嘯退くを見て子供を救い又家財を持出し来らんとして引返せし一刹那第二回の大海嘯来りければ惨死者は此時に於て其数を倍せしという。


○全滅者
一家一人を残さず全く没滅せし者小字川向のみにて二十三戸あり。其他推して知るべきなり。


○山田町の旅宿本宿弥八郎方
に止宿したる旅客甘木(二十四五)は海嘯襲い来りしと聞て逃出さんとするときは海水早や胸の辺に及び単身にて歩行するさえ困難せる折柄四名の婦人右左より取縋りたれば愈々進退谷まり『放せ危なし』と制せど婦人は盆々搦み着きしより終に水中に打倒れ男女五人一塊となりて五六間も押流されしに運よく潰家の上に止まりて孰も一命を助かりし由。


○一惨事
山田の白戸仙太郎は一家三夫婦流屋に追詰めらるること三回なれど遂に免れたり。されど老父は腰が利かずなり妻は流産して三日目に死せりと。


○田圃中の死骸
災後田圃の泥を浚えたるに乳呑子を抱き居りし婦人の死骸出でたり。其相貌こそ変じ居れ衣類等に依りてマンと云える婦人なること判然せり。此婦人は海嘯の襲来するや否や一目散に逃げ出したれども乳児を抱き居ることとて誤て泥濘中に陥いり進退自由ならざる所を怒涛の為めに拍たれて此最後を遂げしものならんと云う。


○愁絶
山田に当年四十歳になる後家あり。良人に死別れてより三年越し五歳の娘と二歳の男の児をたよりに思い其成長を楽み居りしに此度の海嘯に出合い五歳の子は逃出す処を涛に引かれ母は二歳の子を抱きながら田の中へ打込まれ親子三人前後になりて死し居りしは実に気の毒の至りなり。


○釜屋洞の惨状
山田の北端の小字なり。人家は破壊して死屍到る処に散在し近傍の水田全く流れ果て惨状目も当てられずと。


○遺物遺金の窃取
一命を助かりしのみにて衣食住の之を欠くの大悲境に陥りしため貧民の常として直ちに其良心を失い流失を免れて山麓に打上げられたる箪笥等を見るや直ちに其中より金銭衣類を窃取する者多く斯る大変災の折とて警察の力是迄届かざるを以て其処置非常に困難なりと云う。


○助役貫洞勉也
は流亡し収入役阿部照治は就任後三日間にして流亡し外に書記二名も同一の運命に遭えりと。


○山田の内被害甚しき川向いに種々の惨話あり。
関源達という医者は家族十三人流亡し自身のみ恙なし。工藤源貞は家族九名全滅、鈴木善之助は全戸五名死し本人のみ助命、田村平五郎は一族十五名の内養子の茂八一名の外滅亡し太田五郎右衛門は家内十六人の内助命二名なりと。


○被害地の模様
飯岡は山田町南部の低地に在りて海嘯襲撃の衝に当りしを以て其海に接する部分は人畜家財を一掃し其の高地に接する部分は幾百の家屋船舶微塵となりて重なりしが上に積み重なり其惨状形容に辞なし。山田は東北低地の部分被害の状大抵飯岡と同じく惨状目も当てられず其処彼処より掘出す死屍は既に日子を経たる事とて面部手足共に腐爛し何処の誰なるやを知るに由なく一見覚えず血涙を迸らしむ。

●大沢村

大沢村は山田湾の北岸にある漁村にて戸数百八十人口八百五十三ありしが大海嘯の為め其百七十四戸を破壊流失し其四百七十四人を惨殺せり。而して村長藤原熊吉氏夫婦を始め収入役阿部五郎三郎氏等悉く死亡し書記欠員中なれば無政府なり。即ち臨時村長を作れるも簿書悉く流亡したれば手の下すべきようなしと。

●宮古町

○海嘯前の減水
古来地震あらば井水の増減に注意せよとの諺あり。海嘯前には必らず井水の減ずるものなりと云う。今度も亦同一の事あり。宮古に於て端午の祝に歩るく人午前に於て或人に語て『今日は私共の井戸の水が大層無くなって困ります』と云えるを確かに聞きたる人ありき。又織笠村の今半次郎は潮の干べき時にあらずして干たるを見必らず海嘯あらんと一時間前に仏事の為め自宅に集りし百人計りの人に告げしも一人も信とせざりしが兎に角とて山に上りしに果して大海嘯となる為めに此家にありし者は一人も損ぜず此人生まれて以来海嘯に逢うこと五回なりと云う。


○タダではいやだ
宮古郵便局長波浪に凌われて新晴橋の際に至り橋杭にカジリ付一生懸命に避け居る時橋上に救助者来る。助けろ助けろと呼びしに誰れだ誰れだと云う。タダだタダと答えしにタダではいやだと云う。オレダ郵便局長だと答えしに左様かと直ちに縄を下ろす依て腹へ三捲き回しソレに縋りて引上られしと。


○警官の英断
宮古の米商等海嘯被害と同時に在米を隠匿するの風説あり。人民大に激昂し打殺せと云う者さえ現わる。警察署長米良祥二氏其奸悪を憎み巡査一名と共に奸商の宅に出張し厳重に在米を調査し家宅捜査を行なわんとす。奸商恐れて宝を吐きしを以て直ちに売買を差止め臨機の処置を為す。町民其恵に依る。極めて大なりと。


○下斗米巡査の冒険
海嘯依然として宮古湾に襲来するや市街は忽ち修羅の巷と変じ或は屋材に挟まれ或は水上に漂いて救を叫ぶもの挙て数うべからず。そが中に十二才の一少年の激浪の簸弄する所となり。辛うじて新晴橋に取付き居たるを発見し下斗米巡査は之を救い上げんと欲したるも少年の衣服は海水の為めに孕み膨れて容易に引き上ぐべくもあらず。己むを得ず剣を抜て衣服を引き裂き水を出して救い上げたり。己にして又も第二回の海嘯あり。二人とも既に危く見えしが巡査は堅く少年を脇に抱え必至となりて其場を遁れ出でたりと云う。職務柄とは云え感ずべきことにこそ。


○機敏なる商業家
宮古の豪商菊池長七東京に在りて海嘯の報に接し直ちに石の巻に打電し米二百石を買入れ同時に帰郷し一升十銭以上には騰貴せしめずと公言す。是に因り同港の買占連大に挫折し一時町民其恵に浴するを得たりと。


○宮古消防夫の義挙
宮古の豪商菊池長七東京に在りて海嘯の報に接し直ちに石の巻に打電し米二百石を買入れ同時に帰郷し一升十銭以上には騰貴せしめずと公言す。是に因り同港の買占連大に挫折し一時町民其恵に浴するを得たりと。


○赤子を置いて看護婦を志願す
宮古警察署長米良祥二氏の細君は生後三百日計りの赤子あるに拘わらず之れを里にやり自身は赤十字社の看護婦たらんことを出願したりと


○憫れなる遺孤二人
盛岡市八日町の横田吉五郎は家族を引纏めて宮古町に寄留し居たるに今度の災変にて老母、妻、四男と都合四名溺死し辛くも生存し得たるは二女サト(十三)三男寅蔵(十一)の両人のみなれば町役場にてサト等の兄吉蔵が盛岡に奉公し居る由を聞き早速遺族扶助の為め出張し来れど市役所へ照
会したるに其兄と云うも本年漸く十五歳の小供なりと分りしかば目下町役場にて扶助し居るよし。

●鍬ヶ崎

○巡査千葉三平氏の奇幸
氏は同夜派出所内に在りしに突然海嘯の為め派出所と共に激浪に捲き去られ暫し海中にありしが再び陸地に簸揚せられ幸に微傷たも負わず生を全うするを得たり。洵に天幸というべし。


○幸不幸
鍬ヶ崎の或る家にてソレ海嘯と云うや其家の内儀お何は我れを忘れて戸外に飛び出でしがフト気が付けば肝腎の一女子お何(三つ)を忘れたり。其の悲泣の声又ありあり聞ゆ。左しも危急の場合ながら恩愛の絆は又格別の事とて母お何は取て返し件の女児を引かかえ或る高所に辛くして辿り付き先ず安心。母子共に此の凶変を免れしよとホッと云う太息の下に我児の顔を眺むれば箇は如何に身にも家にもかえがたき可愛の我が子ぞと思い詰めたる此の子こそ我が子にあらで其の宵さり縁家の方より来合せ居りし余所の小供なりしかばハッと驚き呆れて須臾茫然たりしが斯うしては居られずと気を取り直し立ちあがれば悲しい哉滔々山をも崩す大浪は此時早く彼の時遅く我が子なつかしの我家諸共引き浚われ名残りも留めずなりたりしと。一児は幸運一児は非運。是亦天なる哉。


○本宿直子
故本宿宅命氏の老母直子は昨年来三男道又金吾氏と共に鍬ヶ崎に在り。当夜七歳と三歳との二人の孫に伴われ小学校の幻燈会に臨みしに忽ちヨダだヨダだと云う声あり。人々皆奔逃す。直子は其何故たるを知らず茫然として在りしに小学校教師が津浪ですからと注意し呉れたるに驚き山に逃上がりて無事なることを得たりと云う。


○海嘯の前兆
大災の前兆に就ては確たる原因と認むべき異状なかりしも当日鍬ヶ崎の漁夫等が女遊沖に出で漁業に従事し居たるに沖合に幽に鳴動聞えたれば気味悪さに帰途に就きたるが同所よりは常に二時間半を費すにあらざれば帰着し能わざるに僅かに三十分間にて帰着せしは奇怪なりと云い居たるに果して海嘯来りたりと云う。

●田老村

岩泉田老村長は先般赤十字社の総会に出京したる為め此度の難には罹らざるも役場員皆死亡したれば差向き村治を取扱う者なく混沌たる無政府なるを以て生存者の一人なる扇田永吉なるものを仮村長に押し立て村治に当らしむることとなせり。同村小学校職員皆な死亡し先月転任となりたる盛岡市の人赤沢長五郎氏一族も亦皆無惨の死を遂げしと云えり。


○海嘯の現況
田老村の漁夫林壮蔵なるもの当日同業者十二名と共に小湊に赴き網打卸して漁猟に従事し居たるに午後九時前とも覚しき頃海水俄かに減退するもの三百余間に及び同時に陸地は烏羽玉の闇夜と化し去りて咫尺を弁ぜざるに至りぬ。巳にして海面及び退潮せし海底は蒼白なる光輝を発して其色宛かも皎月の地上に落つるが如く四辺の樹草を明視するまでに照り輝やけり。こは只事ならず必ず異変あらんと周章しく傍への高地に攀じ上り僅かに二間程進みしと思う頃凡そ十丈余の大波は峯頭尖れる山岳の如く又た轟立千尺の屏風の如く非常の速力を以て押寄せ来り。憫れや同業者の八名は海の藻屑と化し去りたり。同人は之を見て盆々悚毛立ち一生懸命に岩角を攀じ登りて僅かに一命を拾い得たりと云う。


○救護の実況
山腹に仮役場、仮駐在所、仮病舎を設け宮古警察署よりは熊谷警部外数名直に出張し赤十字社よりは立川方鈴田崎邦之助の両救護医外数名の看護人出張し警官は流失財物を保管し或は死体の発見及火葬其他の事務に鞅掌し医員は病者を収容して之が救療に従事しつつあり。


○三奇特者
同地の医師佐々城英信氏は高地に住せし為め辛くも生命を拾いたる一人なるも其眷族家屋は凡て行く所を知らず然るも尚涙を忍び寝食を忘れて患者の救護其他に尽力し鳥居金兵衛、落合庄三郎の両氏は共に翌日宮古より見舞いの為め来りたるものなるが其窮状を黙視するに忍びず或は警察官を助け或は仮役場員を助て尽力一方ならざりしと云う。奇特の至りにこそ。


○効徳丸の陸上式
同船は字小湊と称する地の法華信徒の新造したる帆前船にして同日端午の佳節を卜し進水式を挙行し頗る盛会なりし由なるが夜に入るや否や忽然海嘯の襲撃する所となり。陸上遥に打ち揚げられ今は僅に其船体を存せり。村民等は之を見て進水式遂に陸上式となる。何の徴ぞやなど言合いて一同苦笑したりと。


○百五十六名の内四名
田老村の小湊にて帆前船進水式を行うに付其景況を見んが為め山奥より来りしもの百五十六名ありしが海嘯は残酷にも之を惨殺して僅に四人を生存せしめしに過ぎずと。


○海嘯を見る
小湊の人海岩の高所に在りて異様の波の音を聞くと同時に海潮退くこと三百間余明かに海底の光るを見るや否や轟然たる響と共に十丈余の激浪岩を砕きて陸上を襲い碇泊の帆前船を陸上に打ち上げたりしが其勢の凄まじきは言葉に尽し難かりしと聞く。


○芸妓の幸福
海嘯の当日小湊にて帆前船の進水式を行うに付鍬ヶ崎より四名の芸妓を聘せしが其一人は式場近くに来りし時下駄の鼻緒を切れり。由て之をたてつつあるうちに他の三人は式場に入れり。此瞬間海嘯は其三人を始め参列者一同を浚え去りしも他の一人は鼻緒の為に其一命を助かりぬ。不思議というべし。

●同県北閉伊郡
●小本村

○一村の生存者十一人
小本村大字大田は四十二戸の内一戸を余せるのみにて其他の家屋悉く流失したる程なれば辛くも溺死を免れて生存せる者僅に十一人(内男三人女八人)あるのみなりと云う。


○簪にて僅に妻たるを知る
同村の某は家族皆流亡したるを以て其死体を捜索したるに我が妻の如きは激浪に揉まれ面皮剥脱して誰たるを知るに由なかりしも髪留の簪にて僅に之を知り得たりと。


○逸馬の為めに助かる
同村の某方にては当日牧場の馬奔逸せしかば長男某(十六七)は之を捕えんと追行きたる後間も無く海嘯来りて全家悉く死亡したりと。


○分娩の子を置て波にまかる
小本村の某婦人は兼て妊娠中なりしが今回凶変の為に必死となりて家を馳せ出でしに途中に於て産気付き直に出産したるが無惨にも寄来る怒涛の為めに母子共にまき去られ又も寄せ来る波の為めに不思議にも小供は山の中腹に打上げられて命には別状なく母は千尋の底に沈みて帰らぬ人となりたりと。


○小本附近の惨状
小本附近にては海嘯の為小本村の中小本并に小成は悉皆流失役場書記及巡査某の妻は溺死したりと。

●田の畑村

○松島の傾斜
田の畑村字島の越の海岸に孤立せる松島は海嘯の為北より南に傾斜したりと。同島の周囲、二丁余、水面を抜く一丈五尺計なり。


○巨岩波に砕かる
田野畑村字羅賀にては海中の前面にありたる巨岩(殆ど三十人位を隠しうる物)は一丁余も隔たりたる丘の上に打上られ又長さ二十三間巾一間半(平日沖の日和を観望するに供する物)の巨岩は半腹より潰欠したりという。

●普代村

同村は田の畑の北方約五里計の海浜にありしを以て罹災地の一たり。大字普代の全戸数五十六の内三十二を流亡し全人口三百零九の内九十五を流喪し負傷一百六人を生じ健全者一百六人を残せり。同堀内は幸に高地なりしを以て六戸流亡、十一名の死亡、負傷十四に過ぎざりしも太田邊にては四十一戸の内僅に一戸を半壊して他は悉く流亡破壊し実に二百十八人を虐殺し万死の中に一生を得たるもの十一人あるのみ。顧うに子は親を失い親は子を失い最愛の妻子眷族相流離する。是れ既に人事の至惨なり。然るに太田邊の如きは全村の民命家屋を挙て奈落の底に沈倫せり。噫

●同県南九戸郡
●野田村

久喜、野田、久慈湊より南方二三里なる久喜、野田の両村も亦非常の害を被り野田村の小学校教師某、巡査某の家族都合十余人は悉く溺死す。又家族の全滅したるもの少なからず久喜は六十三戸の小漁村なるも漁民皆富みて極貧のものも尚お常に五十六円の貯蓄あり。最も富む者は万金の財産ありて八日町の商人に融通すという。然るに今回の変に家族全く死亡したるもの多し。


○四人の子供のみ助かりしも皆重傷
久喜にて全家死亡せしに運好く十五歳を頭に六歳までの兄弟四人のみ助かりたれど孰れも重傷を負わざる無く一室に枕を並べて呻吟しつつ憐れにも最早や此の世に無き両親を呼で苦痛を訴う。何人も能く正視する者なしと。

●久慈湊

○海嘯の襲来
最初地震ありたる時土民は少しも意に介せず。次に震動ありたるも亦海嘯の襲来を思わず。咫尺の間に激浪を見て猶お水底に葬らるると知らず濁浪に簸弄されて始めて生死の岐に在るを知りたりと。故に三四分時早く逃げたらんには生命を全うし得たるもの数多ありしならんという。


○一点の燈火なし
土民みな旧暦端午の酒に酔い激浪に醒めたるも既に遅く剰さえ目印とすべき一点の燈火もなく午後十一時頃救助に赴きたるもの箒火を焚きたり。避難したるもの機敏に火を挙げたらんには溺死者大に減少したらんと云う。


○負傷者某の家族
負傷者某は偶ま知人の家に在り。変を見て家に帰り右手に愛妻、左手に寵児の手を執りて戸口を出でんとしたる時激浪に妻子を奪われ纔に身を木材に托し後に屋根に登れば忽然として潰裂し再たび屋根を得れば復た潰れ斯の如くすること三四回にして纔かに命を全うしたるも痛く足部を傷りて起つ能わず。某の家族五人にて寵児の屍体を発見したるのみ。今に愛妻を得ずと云う。


○母、両子を捨つ
某の妻左腋に長子、右腋に次子を抱え流水に乗りて外海に流され数度の激浪に堪えずして先ず長子を捨て次に二子を捨て纔に身を全うし得たりと。斯の如き悲話尚お多かるべし。


○死して尚子を放さず
九慈町邊にて日々海岸に漂着し来れる屍体の中にも一人の父らしき男が三歳計なる子供の襟をシカと攫みたる侭浮上りたるよし。今わの際にも何卒我子を助けんものと斯くは攫みたるにやあらん恩愛の情左こそと思遣られて最と憫れなり


○漁民の器具
久慈湊を始め附近の漁民は漁舟は勿論網等の器具一切を流失したる為め変後此地方の人は生魚を口にせず漁民の損耗額は未だ調査を畢られざれば知るに由なきも蓋し莫大
なる可しと。


○桟橋工夫
八日町の村田幸七郎氏は昨年来門前、宮内の両炭山及び三梨金山の採鉱に従事し湊に桟橋(長五十間)を築き未だ落成せざるに今回の変あり。桟橋は柱のみを留めて流失せり。氏の損害高は一万円余に上るという。又桟橋工事に従事する人夫四十名の内十六名溺死したりと


○不思議の助命
岩手県土木技手酒井鉄二郎氏は久慈町に出張中去る十五日午後八時十分頃戸外にピストル発射の如き声を聞き同十五分頃海岸に鳴動を始めし海面を見ている中数十丈の怒涛襲い来りて氏は忽ち其中に捲き込まれ土蔵の如きものに衝突して三四回水中に回転し泳ぎ出んとするも木材塵芥上を蔽い益々水底に圧されながら濁水を呑まざるよう呼吸を絶つこと五六分にして水面に頭を出し三四回呼吸せしも又々一大家屋の前面に横わるありて身体疲労し三四回濁水を吸収するや苦痛煩悶措く能わずして人事不省となりしに幾分かの後一里余も隔りたる字門前にて救われ不思議にも一命を助かりたりと。

●久慈町

○土蔵に立籠りて皆死亡す
久慈町の海産問屋兼田イワ方にては海嘯の来るや土蔵なれバ安心ならんと全家十七八人土蔵内に立籠りて錠前さえ卸したるに終に其土蔵潰裂して皆惨死し却て他に逃出でたる後見人のみ助かり又海産問屋松前岩蔵方にても土蔵内に入りて同じく全家溺死せりと。


○負た子は死し抱いた子は助かる
久慈町の海産問屋兼田イワ方にては海嘯の来るや土蔵なれバ安心ならんと全家十七八人土蔵内に立籠りて錠前さえ卸したるに終に其土蔵潰裂して皆惨死し却て他に逃出でたる後見人のみ助かり又海産問屋松前岩蔵方にても土蔵内に入りて同じく全家溺死せりと。


○海岸の死屍
久慈港邊にては他方よりの雇われ人多く溺死したる為め其誰彼を弁しがたく今尚お死屍累々山を成せりと。

●門前村

○東警察署長の談話
大川目警察署長東直左氏の談話に拠れば十五日午後七時頃より軽震一時間計に亘り身体を上下に動揺せらるる心地し八時二十分に至り時ならぬ鳴動起り恰も万雷の一時に轟が如く覚ゆるや忽ち叫喚の声、耳底に徹したるを以て急ぎ巡査部長に命じ道を分て湊に趣かしめたるに此時潮水は既に道路田園に侵入し泥濘脚を没するを以て巡査等は辛くも山麓に沿うて門前に達したりと。乃ち急を聞き同氏も自ら出張して救護に努力せんとしたるも門前、長久寺一帯の家屋は早く粉■せられ一面の泥田と化了し殊に咫尺を弁ぜざる暗黒なりしかば行歩頗る困難なりしは勿論なるが悲鳴号叫を便りに辿り辿りて幾百人を救済し之を庵寺に伴い来れり。去れども孰れも身体冷却して殆んど絶息せんとしたるを以て此の庵寺の幕を以て身体に纏わしめ次に篝火を焚き其救護を為し一方には炭山の坑夫百余名を督して罹災者を収拾せしめたり。当時悲惨の状言辞の到底能く悉す所にあらざるなり。云々。


○屍体の鑑定
遭害の翌日には八十余名の流亡者を発見し屍体の累々陳列せしもの多くは裸体のこととて甲乙何人なるを知る能わず。依て水を濺ぎて泥土を洗い落し生存者を集合し各之が鑑別をなさしめたるも中には四肢裂滅し或は頭部を粉砕せられ居りしを以て遂に之を確むるに由なきも少からざりしと。


○死馬の処分
当地にては牛馬の斃れたるもの甚だ少なからざることとて伏屍累々途に横わり異臭鼻を衝て来り。殊に漁村倔強の男子体躯長大之を運搬し之を焼委するに頗る困難を極めたりと。


○淋しき笑を此世の名残
門前にて無惨に潰れし家の下より助けを呼ぶにぞ起し見れば一人の婦人六才計りの女児を背負い三歳計の男子を抱き腰の邊まで泥に没して息たえだえなるが背なる女児は早や縡切れ母も救いの来りしに心弛みてや抱ける幼児の無事なるを見て嬉しげに淋しき笑を名残とし三魂忽ち去て返らずなりぬ。

●大須賀村

○妊婦のみ辛うじて助かる
大須賀の三枚堂ナカ(四十四)は妊娠して巳に六ヶ月に及べる身なるが其当夜幼児を背負い老母と一人の子供とを両手に引きて戸外に逃出すや忽ち激浪の為めに背負える幼児を抜取られアナヤと驚く途端に手の離れて老母も一人の子供も押流されて溺死せしがナカは三人を失うと間も無く遠く沖合に引流されて材木に取縋りたる侭蓬莱島の岸に打上られヤレ嬉しやと思う甲斐無く又も足を浚われて海上に漂い今や気息庵々として最早や頼み少くなりたる折柄幸にも岸邊に打上げられて殆んど気絶し居たるを翌朝に至りて他人に救われ不思議に一命を繋ぎ留め得たりと云う。


○何楽みに生存うべき
種市村字八木にて一家挙りて流亡し生残りしは七十六歳の老婆一人折きし左手の傷軽からず苦悶の状の見るに堪兼ね人々懇ごろに治療を勤むれば天道様も情なし。何故若き者共の命と代えて呉ざりしぞ老さらばいし身の上が何楽みに生存うべき一時も早く死ぬるが増しと一切承引くけしきなく死出を急ぐは左もあるべし。

●青森県三戸郡
●市川村

市川村は八戸の北に在り。海嘯の害を被ること強く六十余人の惨死者を出せりと。

●鮫村

鮫村は港村の東に在りて鮫湊の在る所なり。白浜、深久保、法師浜、大久喜、金浜等の諸部落より成る全村四百十二戸の内流亡七十六戸、三千〇七十二人の内死亡二十人あり。船舶二百五十四艘を流亡し大なる引網二十六七を失えり。而して其網は一個二千円以上を要するものなり、又村役場員の話によれば全村の損害凡そ五万円乃至八万円の間に在りという。
龍田艦は去二十三日午後三時頃入港し陸中九戸郡の海中にて七十余の死骸を引上たりと云えり。
被害前の大漁 当地は此年不漁にして居民頗る嘆息し居りしに被害前約一ヶ月前より大鰯の群集するもの夥しく稀有の大漁なりと人々愁眉を開き居りしに俄然として喜憂処を異にするに至れり云々と遭難者の一人は物語りぬ。

●湊村

湊村は八戸の東にありて、湊小中野、白銀の三字より成る。而して小中野には湊停車場前の小川に小船の打上げられし外損害なく白銀に三戸の潰家二名の死者二名の負傷者あり。湊に三戸の潰家四名の死者あり。全村に於る漁船の流亡破壊百三十八艘外にアグリ網一、地引網一を失う、村役場員の語る所によれば海嘯当日午後七時五十分頃南方に当りて二回の砲声を聞きしが間もなく八時三十分頃に至りて大海嘯前後四回迄襲い来り村吏熊石某の如きは纔に身を以て免れたりという。

変災前知 身体保全法概要

今回陸前陸中陸奥三国の海邊に起りたる大海嘯は実に未曾有の大変にして驚愕悲歎に堪ざる所なり。夫れ此等の如き変災を前知
するの一奇法は兼てよりあることなるを世人の知るもの少なきは惜しむべき事と思い小生十五歳の時より経験せし実譚を録して
過る明治二十五年施印数万枚を配布したる故自然三陸の間に於ても之を今回に実験したる人ありぬべし。扨此法の起りは何時なる
や詳かならざれども或隠医が伊豆の国海岸に起りたる海嘯を前知して数十人引連れ山に逃げ上りて大難を免がれたることあり。
其方法たるや至て簡易にして何人にても之を行うを得べく其順序は図に掲ぐる如く
第一図
第二図
先左手の大指と食指とにて(第一図の如く)奥の下歯の
左右の根にある(大迎の穴)動脈を診し次に(第二図の如く)右
の手を以て左の手の脈度を診するなり。(之を自身に行うも
他人を診するも同様なりとす)而て奥歯の根左右の手共三箇所の
脈動同一なる時は無難の證にて之を反し脈動
乱るる時は二十四時間内に一命に拘るべき大難
あるの前兆なりとす。
斯るときには速に其所を立退き
脈動同一なる所に至て止まるべ
し若し何方に往きても一人のみ脈動乱れ他の人々は平脈に
復したるときは是れ一人丈け別に災難のあるか又は病災に罹るものと知るべし。兎も角此度の大海嘯の前に於て此方法を広く試
みたらんには非命の死を免れたる人も必ず多かりしならん。時節未だ至らずして神術を普及し得ざるは小生の遺憾に堪ざる所な
り。茲に概要を録し世の人々の身体を保全するの一助となさんと欲す。冀くは一読の上試験せられんことを請う。
東京市下谷区池之端仲町二十七番地
明治二十九年丙申六月吉辰  宝丹本舗   十世  守田治兵衛
                      父  守田長禄翁謹述
二白此方法に付ては曾て身体保全法と題する一小冊を発行し杉宮内大夫閣下の賛成を賜わり題字を手書せられたり。又諸氏
の確報をも収録したるを以て神術の実歴を知るを得べし。此書一部金弐十銭なれとも此際に限り郵券代用を以て求めに応じ
且つ郵送料は申受けざるべし。

オリジナルサイズ画像
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第一図
オリジナルサイズ画像
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第二図

●三陸地方大海嘯写真帖

●カビ子形十二枚ハリ込帖 一冊 金一円五十銭 郵税六銭
●同  二十四枚ハリ込帖 一冊 金弐円八十銭 郵税十銭
●  (郵便為替払渡局東京芝口支局●郵券代用一割増)
●此写真帖ハ今回ノ被害地ヘ特ニ写真師二名ヲ派遣シ撮影
●セシモノナレバ一帖ヲ御求メノ上古今未曾有ノ惨状ヲ一
●見セラレン■ヲ希望仕候
● 東京新橋南金六町十三  丸川商店
● 番地(電話七七四番)
●府下ハ電話又ハはがきニテ御報知次第御届ケ申上候

大至急広告

海嘯罹災者救助ノ一大急務ハ義捐金募集ナリ。而シテ義捐金募集ノ最
自方法ハ幻燈ニテ被害ノ惨状ヲ写シ一々説明ヲナシ世人ニ義捐心ヲ起サシム
ルノ外ナシ。弊店今回宮城、岩手、青森ノ三
県下へ特ニ写真師ヲ派遣シ被害ノ真状ヲ写真ニ採影セシメ之ヲ幻燈映画ニ調製シ左ノ一価ニテ販
売致候。又タ右義捐金募集ノ為メ御購求相成候御方ノ分ニ限リ幻燈器械并ニ映画共凡テ売価ノ一割
引ニテ差上可申候。
●海嘯罹災実況幻燈映画  ●大形三十六枚一組金九円五十銭(説明書付)
             ●大形十 二 枚一組金三円六十銭
             ●大形二十四枚一組金七   円
●同運転映画(海嘯ノ来襲ヲ初メ種々ノ惨 六枚一組大 形 金三円
状ヲ運転画に仕組ミシモノ)           小 形 一円半
●五十年間保険付大形幻燈器械直径一丈五尺写一箇金三十円●一丈ニ尺写一個金二十三円●同一丈
写一箇金二十円●同八尺写金十五円●小形幻燈器械直径六尺写一箇金十円●同五尺写一箇金五円此
右ハ御送金次第御送リ可申候。  (郵便為替払渡局ハ東京芝口支局)
    (電話七百七十四番) 東京新橋南金六町十三番地  丸 川 商 店
  ●教育、宗教、衛生、風俗、景色其他各種映画ノ定価表ハ御報知次第御送リ申上候。

大海嘯極惨状ノ図

長一尺八寸 石版摺
         幅一尺三寸 着色密書
尾形 月耕筆 一枚
富岡 永洗筆 一枚 一枚ニ付 定価 金四銭
山本 松谷筆 一枚      郵税 金二銭
今回の海嘯たるや実に本邦未曾有の災害にして狂瀾怒涛の逆巻き来り三陸沿海の地を一掃して極目数十里の間浦と云わず村と云わず無惨にも家を流がし財を流がしあわれ人間も生きながらの水葬弊堂爰に尾形月耕富岡永洗山本松谷の三書伯に就て当時の実況を描出し各美麗鮮明なる着色石版に付して発売す。被害の極惨憺の状観る者をして彷彿として現場に臨むの感あらしむ乞う。一葉を購うて以て憫然たる実況を知り玉わんことを。
発売所 神田区通新石町 東 陽 堂

風俗画法買捌所

大買捌書  京橋区尾張町二丁目   東 海 堂
      神田区表神保町     東 京 堂
      京橋区鎗屋町十四番地  北 陸 館
      麹町区上六番町     日 成 堂
      神田区錦町       武 蔵 堂
      京橋区鎗屋町      良 明 堂
      京橋区南鍋町      信 文 堂
      麻布区長坂町五十番地  旭  堂
      大坂備後町四丁目    岡島支店
      京都三條通富小路角   便 利 堂


      京都仏光寺通烏丸東入  東枝律書房
      神田区裏神保町二番地  文 錦 堂
      神田区新保町      吉岡書店
      本郷区元富士町     田中書店
      本郷区元富士町     盛春堂
      横浜弁天通四丁目    丸善書店
      京都市寺町通ニ條下ル  山田直三郎
      京都寺町四條上ル    文求堂
      北海道札幌区南三條西二丁目 広目屋新聞舗
      北海道札幌南一條西二丁目 玉振堂
      京都河原町ニ條下ル二丁目       大黒屋書舗
      陸前国仙台国分町五丁目        佐勘書店
      北海道函館末裏町           愛心軒
      羽後国酒田上台町           鈴木喜八
      越後国新潟市古町通九番地       板津新聞舗
      新潟市並木町             荒川新聞店
      金沢市石浦町             宇都宮書店

●風俗画報定価

一部金十銭○六部前金五拾七銭○拾弐部前金一円○八銭
  注意東京市外配送ノ分ハ一冊ニ付キ金一銭宛ノ郵税申受候
    代償払込ハ神田郵便局ヘ宛テ為換チ以テ振込マルル事
    郵便切手代用ハ必一銭切手ニテ定価ノ一割増
広告料 五号活字二十八字詰一行一回金拾銭但シ行数回数多少ニヨラズ一切
    割引ナシ再版ノ節ハ別ニ広告料申受クベシ


発行所 東京神田区通新石町三番地
         東 陽 堂
    発行兼  吾妻健三郎
    印刷人   神田区駿河■袋町十一番地
    編■人  野口勝一
          小石川区掃除町三十三番地

予告 海嘯被害録下巻

明治二十五年三月二十六日逓信省認可   明治二十二年二月十日初号発兌
予告
海嘯被害録下巻
今回の海嘯たるや実に本邦未曾有の災害にして狂瀾怒涛の逆捲き来り三陸沿海の地を一掃して極目数十里の間浦と云わず村と云わず無惨にも家屋を流亡し田園を破壊し三万の生霊を挙げて一夕不祝の鬼と化せしめき弊堂此報に接するや逸早く視察員を派遣し記事に絵図に其実況を模写し来り他日の史料にもやと風俗画報を臨時増刊して海嘯被害録と題し之を世に公にするに及びて意外にも非常の喝采を以て迎えられ其上巻の如きは数版を重ぬるに至れり況んや今日再び中巻発兌の栄を得たるも偏に弊堂が忠実熱心なると読者諸君の夙に同情を表して被害者を憫み給うの一■に外ならじ。猶其下巻は来る八月五日を期し引き続て発兌すべければ上中二巻にも増して愛読玉わんことを請うと云う

風俗画報 中編

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トスカロラ海床略図
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宮古町の下斗米巡査橋上の少年を救ふの図
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雄勝浜出張所の看守監房を破りて囚徒を開放するの図
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歌津村の老婆襤褸を纏ひ途上に彷徨するの図
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釜石の県会議員小軽米某氏惨死の図
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広田村の老婆雨戸板の上に坐し漂ひて漁夫に救ひ上げらるゝの図
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相川村被害後村児鉦を鳴らし旗を翻して遊び戯るの図
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船越村の婦人大木の枝に懸りて腹を裂かるゝの図
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釜石の前川某鯣船に救助せらるゝの図
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釜石被害後仮小屋の図
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臨時救済所の図
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大槌にて軍人歓迎会を催すの際海嘯の害を被るの図
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大槌にて軍人歓迎会を催すの際海嘯の害を被るの図
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唐丹海角の森林中に打揚げし巨石の図
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吉浜村字甫領の雷神杉の抜かれし図
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溺死者の葬式の図
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綾里村火葬場の図
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鍬ヶ崎上町貸座敷高島楼前惨状の図
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末崎村救護事務所の図
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久慈門前の海辺に遺族者をして溺死人を引取らしむるの図
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気仙郡沿岸死体漂着の図

臨時増刊風俗画報第百二十号 明治二十九年八月十日 大海嘯被害録

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臨時増刊風俗画報第百二十号 明治二十九年八月十日 大海嘯被害録

釜石町の医師鈴木琢治氏遭難者を救うの図

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釜石町の医師鈴木琢治氏遭難者を救うの図

風俗画報臨時増 海嘯被害録下編 刊第百二十号

○雑 説

●地震津浪に就き地質学上の考説(続)

以上列記する所の第十六項以下第二十三項に到る八様の源因説其中十九、二十三は帰する所一なれば都て七項中余が大に賛成を表するは二十一、二十二及第十五項地上技手の海嘯談中の数節と為す。而して地学上の見解に依て源因の存する所を論ぜんとするに先づ三陸地方及其海底の地質構造如何を知るにあらざれば正鵠を得る能わず。由て佐に地質の構造を略述せんとす。地質調査の成績に依て考定したる所に由れば北上山系即ち北上川以東に錘子形を画する山地は三陸の最古地盤を為す所にして陸前仙台近傍を中間に介して南の方阿武隈山系と全一の地文を書けり。阿武隈山系は常陸の久慈川磐城岩代の阿武隈川を堺し大平洋に連り又南北蜿蜒たる山列の惣称にして其地質の構造も亦南北の山系に全一の状態を現す。乃ち以上二大川(北上川阿武隈川)は実に新古地質の分界を決流し其沿路に於て一條の凹谿を刻み(之を地学上縦谿と云う)自から地勢の趣向を標示し川の東西に崛起する山容の異様なるが如く其之を構成する所の地質も亦全く殊別なるものにしては新成にして火山質に富み東は旧成にして火山質は稀に見るのみ。火成岩及び古代の水成層岩より組成せられ片麻岩層を最底として結晶片岩古生層岩中古層岩等の累層花崗岩閃緑岩等の火成岩地の間に起伏し火成岩は中古代の結成に係るものありとするも北上山系の地盤が噴出性の熔岩の為に刺衝せられて多少の地変を生じたるは西部の山地に於ける火山活動の変異に於けるよりも杳かに前代にありしものにして従て近来慣用の熟語と成れる。所謂噴火の作用には極めて縁遠き土地柄なり。蓋し間接には其余勢に感じたらんこと彼の八甲田、岩鷲駒ケ嶽より蔵王に連なる噴火山脈の其西方に駢立せるに由り推察せらる。而して地球の縮小する結果として地盤自然の起伏屈曲の大勢は火山岩地方水成岩地方の論なく平等に其威力を逞ましくするか故に故原田博士が北上山系の海岸は土地陥入の跡ありと論じたるも即ち此大勢に拠れる徴證なりとす。今参照として原田博士の高説を左に抄述せん。
 前略此屈曲甚だしき北上山系の東面は如何なる固有の性質を帯ぶるものなるやの問に答えんとす。爰に種々の事情の考うべきものあり。第一此山系を阿武隈山系と比較せば第三紀層の絶無なるに心附くべし。第二此海岸に於ては到る処絶て昔時汀線の著しき痕跡なし。第三此険しき沿岸にある無数の湾澳は一部分深く内地に切り込み恰も谿壑の状を為す。若し雄勝或は女川湾に航入せば海水は昔時の谿間の下部を満たすものたるの感を起すならん。此事実と海岸の状態絶壁峭立の状を成すを見れば此邊は一般に汀線の隆昂(即ち土地陥入)の地にして云々。
是に依て之を観れば北上山地は地学上既に歴然として土地の降下したる痕を止むるものにして其降下したるは地辷の結果と見做すを妥当となすべし。何となれば陥落地震の際に発作する地盤地層の地に於てするものにして土地降下の結果に於ては地辷に由れるものと陥落地震に依れるものと均しく在来の位置より地面の降落したるには相違なきも其源因に於ては全く其起点を異にす。即ち簡単に其殊別なる事を次に摘示せん。
爰に地震と陥落との説明を為すに読者をして容易に之を了解せしめんが為めに左に数箇の図を掲ぐ。図中第一第二は造山力に由て生じたる地体の異動にして第一図は六箇の劈裂線ありて地層を断裁し其断面の傾斜は中央部より左右に背斜し此背斜の方向に左右の両翼を成せる各箇の切り離されたる地が辷り落ちたるものにして第二図は八箇の劈裂線あり。中央に向斜し中心に楔子形の地に生じ前者に反して中央部に各箇の地体か左右の両翼を離れて辷り落ちたるを見るべし。是れ断層一名地辷の標式の一二にして地震の源因を茲に発作するものとす。
第三図以下の図は凹陥沈落せる土地の形成を示すものにして陥落の地震の中心此処に発動し其震動の波及は中心より圏線に由りて周囲の地に感ぜらるること猶お地中に石を投じ其中心より震波の動揺すると全一の理に帰すと知るべし。故に此般の地震には中心点なるものあれども地辷地震は線路に沿い発動するものなれば中心点なるものなし。下に述る十和田湖の如きは実に第六図に示せる標式に該当する凹没の痕を存すと故原田博士は説かれたり。
地辷  地辷とは地皮に生じたる裂面に於て地体の転位するの謂なり。抑も地皮の収縮は地球体の造山力に由て自然に地層の彎屈皺起を生じ其屈折するや多少の劈裂線は圧力に直角を為して地皮中に成生し而して此収縮の地動力は恒常依然として無体の運動を為しつつあるを以て斯く裂罅を生じたる。地の殻中の脆弱なる部分は忽ち之れか圧排を支ゆる能わざる処に於て裂面の向方直立にして第二図の左方の如くなるものも又は方向に傾斜ありて楔子を上下より組み合せたるが如き第一図及第二図に示すものも或は押し上げられ或は押し下げらるることありと知るべし。斯の如く劈裂を生じたる地の一部が各箇に地平線の上下に昇降するを地辷とは謂うなり。我邦に於ける大地震の多数は此地辷の余勢より発するものにして濃尾大地震の原因は実に此般地辷に帰することを小籐博士は詳に之を説明し大に泰西諸大家の賛称を得られたり。斯の如き地辷は之を英語にFault若くはDislocationと号せり。即ち位置の変転する義にして地学上之を断層と訳す。然るに先年奈良、和歌山、徳島、兵庫の各地に大雨の後山の一部辷り落ちて其処より多量の地水を吐き出し谿谷に押し来りて村落を圧し多数の生命財産を損じたることあり。俗に之を山抜と謂う。又東京附近の地に於て府内道路用の砂利を採掘する場所あり。通例砂利層は粘度砂等の間に介在するを以て之を採掘するに充分の注意を為さざれば往々崖足を掘り穿つこと深きに達すれば上部の地層は遂に其自重を支ゆる能わざるに到りて俄然として墜落することあり。又河川洪水の際決流の為めに其堤防又は岩崖の下部を削り去らるるも亦之れは同様の現象を見ることあり。
以上山抜以下三件は又地辷の一にして造山力の結果より生ずるものとは大に性質に於て異なりて其区域も亦一帯の地に連発するもの外は大ならざるを常とす。這般の地変を英語にLaud-Slipと謂う。即ち地辷の義なり。
此地辷は小区域に発作するが故に地震動を興すの勢力なきものの如しど雖ども実際に於ては大震動を生ずることあり。彼の希臘国の南部コリンツ湾内に於て?々発作したる水中崖懸の崩潰落下するの場合の如きは湾を囲繞する部落に於て必ず大小の震災あり。此湾は弓形の狭小なる水域を有し長さ三十哩幅ニ哩乃至十三哩にして中央部の水深百尋以上五百尋を示し湾底の傾斜は随て急峻なれば懸崖の所多しと知らる此崖足の一部地水及び水の化学的作用に依り漸次融脱せられ其上盤水中に突出し後遂に挫折して?頽落下するに到る此際地上及湾内に震動を生じ一千八百八十八年九月の地震には数箇の町村を破壊し海水混濁し海底電信線は転墜したる岩塊の下に埋められ二百尋の海底に於て全く切断せられたることあり。此現象は全地にては数回の経験に由て其原因を究めたるものなりと云う。以上陳べたる如く地辷は一様の原因より発作するものにあらざれば地震の原因を説くに単に地辷と称じたりとも猶お之を以て其性質と状態を悉したるものと為すべからず。故に三陸地震の原因に就ても容易に之れか断案を下す能わざるものと知るべし。
次に陥落地震なるものを説明せん。
地体の一部其周囲の聯絡を断て俄然として凹陥するに際し其四周の地に地震を発すること之を陥落地震と云う。而して此地変の発作するは火山地方若くは第三紀層の如き軽鬆の地層より成れる地方に多し本邦に在りて土塊凹陥の例證中火山地方に属するものの最も顕著なるは陸中国和賀郡十和田湖と為す。北海道猶お之れに類するものあらん。又軽鬆の地質を有する地方に在りては遠州浜名湖の陥落是なり。此二者共に其発作の当時に在りては地震を生じたらんことは論を俟たず之を英語にSubsidence of landと謂う。土地陥落の義なり。
火山地方にありて土地の陥落するは其火山の活動しつつある当時若くは爾後に於て生ずることあり。此陥落を為すの理解を如何と言うに第一火山は其火口より噴出したる物質を堆積して宏大の嵩に達するときは其舗地の地体は之を蓋覆するところの重量を支持し得ざるに至り其地の陥落するは当然ならん。第二火山は其噴火孔に由りて地中より山嶽を成生するに足る程の洪量物質を吐き出すを以て地中自から大空隙を生ずべければ地上の堆積物は其重量に耐えず沈降するの理あり。誠に看に富士、鳥海、開聞の如き標準的噴火山にして其側面の傾斜に美麗なる弧形を描き出せるもの是れ其山体の陥下したる結果なることを。
第三紀層の如き新成なる水成岩より構成せらるる地質の地にして火山に関係なき地に発作する陥落地震は欧米大陸に於て其例多しと云う。元来此地層は砂、粘土、砂利、石灰等の水底に沈澱堆積し層累を布き列ねたる水底の地盤なり。斯の如き地盤は造山力若くは他の他動力の為に隆起して今陸地を形成するとは雖も其之を掀揚したる地力の衰耗減退するか或は全地温線の沈下するに従て及び自重に由て各分子の擬集緻密と為るに依て地層全体の収縮を醸し此に劈裂の層を生じ終に地盤陥落の起因を為す是亦其地方に地震を発動す。即ち火山に因縁なき陥落地震是なり。
新聞紙上に現われたる三陸地方地震に関する原因説は一にして止まずと雖も陸地地質の構造、陸地と海底との関係、海底の形勢、海底の地質(仮想的)、震動区域、発震時、井水混濁に由る前兆、洪浪の襲来、洪波の大さ、洪浪の波及等の如き此地妖に伴い顕れ来れる処の諸般の事実を参量するときは其原因たるや地震に在ること明瞭なるべし。而して地震の種類も亦一にして足らざれば何種の地震は能く此現象を発生したる原因として適合するやを安定すること必要なり。火山力に由て生ずる海底の隆起若くは陥落即ち火山地震に起因するものと為さんか。克く三陸地方沿海七十里の長に亘り全時に且稍、全様の震動力を波及せしめんには其焼点たる地動の中心点は此沿海を距る大約四百海里の外太平洋中四千尋内外の深底を有する処にしてトスカローラ海底の東邊に在るべきものと為す。然るに著しき地震動を初めて感じたるは午後七時三十二分三十秒にして全七時五十三分三十秒に於て津浪あり。其問実に二十一分にして此洪浪は四百海里を走れる割合となる。安政の地震は日本大半を震撼せる大地震にして当時洪浪の太平洋を横ぎりて桑港に達したるは一時間三百七十海里又是より一層の速度を以て布哇島に達したる一千八百六十八年南亜米利加南岸の洪浪は一時四百五十四海里なりしと云う。此両者に比較すれば三陸の洪浪か襲来せる速度は殆ど三倍なり。然して地の強弱は如何と顧れば固より微震にして安政度大地震強烈の比にあらず。且単に噴火性に属する海床の変動のみにては到底洪浪彼が如き絶大の地勢を発動せしむるを得ず。之を為さんには必ずや造山力即ち大々的地体の変動之と併発するにあらずんばならず加之ならず三陸罹災地方には噴火山は八の戸以北の地を除ては絶無の地にして其東面の海洋中には従来の火山脈の存在することを知られざれば火山活動を此海底に揣摩するは些しく牽強の嫌なき能わず故に三陸地質の原因を火山力に帰するは其当を得たるものと謂うべからず。斯の如く諭し来れば三陸地震の原因は自から余すところの地辷地震即ち地体の大勢に変化を生ずる造山力の活動に由て発作する断層地震たるを知らる地辷地震の状勢は既に之を説明したり。依て其活動の形成を左に陳述して以て本篇を結ばんとす。
海底の地質構造を探らんことは水路測量の洽ねからざる地方に於ては容易の業にあらざらば之れに近接せる地質の構造と山脈の趨勢、海床の深浅及水陸相互の関係を考量し以て之を推察するに外ならず。前項に於て阿武隈北上両山系の地質の大要は之を述べたり。乃ち阿武隈山系に発達する所の地層中最深の片麻岩層は北上山系に露われずして北上山地は地質年代より観察すれば阿武隈山地よりは一段上位の地層準に在りて其片麻岩層は山足に延て海中に入るに至りて露出するものの如し。而して本篇附図の深浅線及び甲乙、丙丁の両断面図を以て示すが如く三陸より北海道及千島に到る陸地東面の海床は汀渚線より水深百尋に達するは十里内外の遠きに及べども百尋以下一千、二千、三千、四千の深淵に達するは極めて近邇にして遂に地球上最深海床の一たるドスカローラ長溝の域に入れり。千島列島中得撫島の東面海中の最深なる処は四千六百五十五尋(二万七千九百三十尺即チ二里五丁三十五間)あり。実に富士山の高さに二倍余の凹地が我東海に於て東北より西南に横わるを以て日本国の東北に連なる地脈は其東面の海底に甚だ急峻の地勢を為すことと知るべし。
夫れ斯の如き奇態の地勢を生じたるは又地体の大々的変動に由るや言を俟たず。之を反言すれば地球縮収の結果より生じたる一大断層(大地辷)の曾て発作したる證拠なり。現に亜米利加大陸に於けるアッパラキアン山脈中には断層の大いなるもの多く其勢 裂線は廿乃至八十哩の長きに到り其垂直の転差二万乃至四万尺の大数を示すものあるに由ても是れは之れ素より準拠なき臆説にあらずと知るべし。断層に由て此地勢を構成したるものならんには当初地体の圧迫せらるるや数多の劈裂線を生じたるべきも亦理の当さに然るべき所にして此破れ目の走向は東北より西南にして自から陸地と並行したるなり。即ち前項第一図及第二図に示せる結果を生ずべし。地体の弱点は斯の如くにして成り。此海床の痼疾となりぬ。故に一朝地動力の其威力を逞うするあらんには此脆弱なる線路に沿い地体に変動を惹起せしむるものなれば輙ち今回の大惨状を三陸地方に演じたる洪浪の原因は該地の東面急斜の海床に発動せる地辷に由て生じたる地震なりと考定するを得たり。
篇末に於ては猶数言を費さんことを欲するものは三陸地震に就き中心点は何村の沖合に在り。何村は被害の地に比して大なるに由り中心点は近からん等の説を散見したり。前にも謂える如く火山又は陥落地震にありては中心部より震波を四周の地に伝播するに由り震源に中心あるは勿論なれども地辷地震は劈囲線に由て長形に活動し其震波の伝播する方向は圏状を画して四周に及ぼすにあらず。其活動の方角に沿い長距離に及び此方角に直角の地には短距離にして止むものと為す。即ち長さに比して幅狭き地動を生ずるものと知るべし。是を以て中心点なるものあること無し。次に海底地震に伴う洪浪之を沿海の陸地にしては津波と称するものの性質に就て一言せん。
地球全身に於て陸界と水界との率は一と三なれば地震の水底に発動するも亦陸地に於けるより多かるべき理にして殊に水陸接界の処に近き海床に在りて然るを見る。乃ち此場合に於ては地震の外に洪浪を惹起して現象の煩雑するなり。
性質の何たるを問わず海底に於て一種の大地震発作するとせんか固形体の地盤は速に之を伝播して陸地に及ぼすべし。而して流動体の海水は地動に撼攪せられて動揺を始め茲に洪浪を発揚し更に全様の浪は踵を接して起り遂に之れか斑列を形成するに到る。又其波幅は数百海里に到り波長の高さ最初に於ては五十尺乃至六十尺に達することあり。斯の如き宏大の津浪は海洋中に在りて潮流を生ずるにもあらず。亦船員も却て之を認識し能わざるものなり。然れども進んで浅渚ある陸地に接近するや水底の摩擦に由て其行路に障碍を生ずるを以て彼れが如く波幅の潤大なる山嶽大の水量は海面より滔々として押し来れる集積の勢力を以て山の如く丘の如き五十尺乃至六十尺以上の洪浪と為りて激怒狂奔其道に当る所の諸物を掃蕩し去るなり。之を津浪と称す。而して其体の絶大なるに由て之れが進行の速度も亦大なりとは雖ども地震波の速力より遙に劣るものなれば初め僅に地震の災害を免がれたる高楼厦屋も此第二の襲撃に遭うて敗滅に帰することあるを常とす。
一千七百五十五年葡萄牙国の都市リスボン府の大地震には震災より三十分時の後府民の騒擾も漸く鎮静に帰したるに洪浪続々として殺到し来り。全府を蘯尽したり。此際浪の長高きは六十尺に達したるものありしと云う。三陸地方に於ても洪浪は数回の襲来ありたり。之れ地震の続発したるに由るなり。
ダルウヰン博士の南米紀行に曰く津浪の被害は遠浅の海岸に於ける部落に劇甚にして却て深淵に枕める大海洋畔のワルバライゾ府の如きは其地震を感じたるは一層類多なりしにも拘わらず軽少なりしと。故に三陸地方に於て洪浪の被害最も大なりしを見て直に其地は震源に近しと云い地震の中心沖合に在りと断定するを得ざるなり。且海底の形勢は恰も陸上に於けると一般山嶽あり、丘阜あり、谿谷あり、平地あり。故に洪浪は陸上に見る海岸線の凹凸即ち岬湾の形勢に由て其殺到ずる方位を紊すのみならず這般地底の形状に由ても多少の変位を生ずるものなり。
本篇に附する地図はトスカローラ海床に連なる日本北部の海陸の位置を示すものにして陸地の東面は如何なる傾斜を以て此深海に接するや深海の区域及方位は如何等を示し又仮りに断面図二箇を附して大勢を窺うに便ならしめたり。  (完)

○記事

●追吊会
○大海嘯横死者追吊大施餓鬼

浄土宗の末寺なる城南六十ヶ寺は七月五日午後一時より輪番なる芝三田台町の正泉寺に於て三陸大海嘯横死者の追吊大施餓鬼会を執行し増上寺の名代天徳寺の朝日方丈出席して大導師并に教化を勤むる由にて当日の布施金は悉皆罹災民に義捐するという。

○横浜長者町九丁目常清寺の追吊会

七月三四の両日盛んなる追吊施餓鬼を執行したりという。

○海嘯被害見聞録

●宮城県本吉郡
●白浜村

○不思議の命拾い
白浜に浪の為め妻と母と一時に神棚に投上られたるあり。一人の孫下にありて叫ぶを「トテも助からぬ是れまでの約束と諦らめろ」と引導を渡し妻と母とは助かりたり。翌日朝来りて木材を片付けしに何事もなし。正午頃に片付けかけしに下より「カカアナアナア」と云う声あり。「オオ生きて居たか」と狂気の如くなり木材を跳退けて救い出せりと(挿図参看)

●志津川町

○飯ばかりでも喰せたかった
志津川の近傍にて小供の死体を発見し母親に引渡せしに悔しきことをしてけりと声を揚げて泣悲しむに傍の人々慰め問えば海嘯の日は重五の節句とて夕餐の為に種々の菜を調えしを此子がお腹が空た故早くお飯にしてとせがむを今日は五月のお祝いなれば爺と一所にたべる故おとなしく待て居よと父の帰りを待せ置く内表の方の物音にそれ津浪ぞという一声が母子此世の別れにて両人共に浪に捲れ其後は唯だ夢の如く惜からぬ。我は生存えて生先長かれと祈りし子は浅猿しき姿となりけり。斯と知りせば彼の夜喰べたいという者を飯も菜も沢山に喰せしものをと泣悲しむ母親の恩愛実に左もありなん。


○阿母起きろ
志津川病院に四歳計りの小児の右の手に繃帯して釣を掛けたるがあり。此児に就き最憐れなる談話ありとて主任医師の語るを聞くに彼の夜児の母は海嘯と聞くより児を背に負うて家をば遁れしが材木にや打当りけむ児を負いし侭道に倒れて息絶ぬ、或人小児の泣声を聞き附け馳来りて此体に驚き介抱せしも其甲斐なし。然るに背上の小児は母の死したるを知らずして母の襟を確と攫みて引起さんとしお母起きろ寝てはイヤだと泣叫くに立集いし人々顔を背け涙を流さぬはなかりしと、此児も右の二の腕を挫き居りし故病院に連れ来りて治療せしに幸い軽快に赴きたり。但彼は海嘯の

●清水浜村

○聞くも悼わし
志津川町字清水浜の岸邊なる潰れ家の下にて「おっかあさん起きぬか起きぬか起きぬか」泣々呼ぶ声の幽かに聞えければ其処を通りかかりし人々は此中にも人ありと直に其屋根を引めくり中を見れば母は木材に腰部を挟まれ且つ十分水を呑で死し居たる其背に負われたる小児は左腕を挫かれつつも命を全うして母の死も知らずに呼び醒し居たる惨らしきには誰とて顔を上るものなかりしと。此母は三浦とみえと云い小児は梅吉と云うものなり。


○死して尚お子を抱く
清水浜の佐藤ふじ代は当日非業の死を遂げたるが其長女千代は死たる母の乳房をしゃぶり母は死しながら之を抱き居たるを翌朝堆積したる塵芥木材等の中より発見し抱きたる母の腕を漸々引き離して助けたるが其児も翌日死
亡したり。


○孝子天助を得
清水浜に一の孝女現れたり。盲人佐藤長次郎の一女蓮は当時沖合にて百雷轟く如き声を聞き長女某を抱きたるまま戸を開き見れば五丈余なる大浪の寄せ来る有さまに抱きたる我子を捨て盲目なる父を背負い昨年夏頃より病蓐に呻吟し居る母よしの片腕を引き之れを救い出さんとするに母は蓮や私は死んでもよろしいから早く坊を抱て逃ろと云えど蓮は子供抔はいくらも出来る。早く逃ろ逃ろと父を負い母を引出さんとする時怒涛一撃家屋と蓮の長女を捲き去るに孝子の一念天亦之れを助けしか父を負い母を引きたる侭水浅の方へ打上げられ一子を失いたるも両親と自分は遂に助かり遠近聞く者其孝行を賞賛せざるはなし。(挿図参看)


○漁夫海嘯を知らず
清水細浦地方は皆漁村にして当時は重もに流網なるものを張りて四五里の沖合に鰤と鮪とを漁り黄昏前出でて翌朝帰るを常とせり。同夜も黄昏前は海上穏かなりしかば例の如く漁業に出でたるに海嘯の当時も激動などは少しも感ぜざりしが同夜に限り何故か流網の落付かぬに一同不審を起したれど斯る異変のあらんとは露知らず翌朝帰る途中に於て膳椀さては材木桶樽などの流れ来るに遭うて始めて只事ならぬを知り帰り来り。此有様を見て喫驚したりと云えり。

●歌津村

○幼童老杉に縋りて助かる
歌津村馬場の某方が挙家激浪に浚わるるや九歳の男児は浜育ち丈ありて必死に泳ぎ回れる内何か障るものあるより之に取付きて間もなく潮水は引きしかど暗さは暗し何処とも分らねば其侭一夜を明したるに何ぞ図らん其身は四五丈もある老杉の梢頭に縋付き居るにて程無く救助の人々に漸く取卸されたれば一命に別條無きを得たりしも両親始め全家八人悉く死亡したるよし。


○盲人二名屋上に助かる
同村に盲人二名あり。海嘯と聞くや手探りに屋根へ攀登りて其侭高地の方へ押流されしも其家屋の全く崩壊せざりしが為め孰れも負傷だに無く其生命を全うしたるよし。


○親子田畑を捨てて命を拾う
同村の小野寺治作とて相応の金満家が当夜家族と共に流されて辛くも流材に取付きたる折柄幽かに佐藤団助なる者が其子と屋上に登りたるを認めてアワレ人々自分等を救い給わば後日我が田畑は望みに任せて参らせんと叫びたれば団助父子は万死を冐し激浪の中を泳ぎ着きて治作と八歳の男児とを我が屋上に救い揚げたりと云う。


○土器の音の如し
去る六月二十五日早天より大谷村にて発見せし死骸八つ。其中小野寺亀吉の妻みよといえる者手足灰白色となり。叩けば土器の如き音する程に堅くなり目より額にかけボッボッ穴明き血痕点々喰しばりし歯を現せる口と右の耳の間の皮剥げたる有様二目と見られざりしと云う。


○大谷局長遭難の実況
大谷村の郵便電信局長小野寺久蔵氏の遭難せし実況を聴くに海嘯の襲来せしは十五日午後七時なりしが当日は旧暦節句なるを以て各戸祝酒を傾け海嘯襲来の頃には酔倒したるものもあり。小野寺局長の如きも充分酔気を帯び居りたり。其家族は食事中にて海嘯の来るべしとは夢想だもせざることなれば遠雷の如き響きを聞きて雷ならん杯と評し居たり。長男丈吉の妻某なるもの台所の戸を明けしに海水漫々たるより大声に水なりと叫びたれば局長は驚きて跳起き雨戸を開きて逃出んとしたるも最早逃出すべき道なければ家族のものには自分に取付けと言い付け戸袋の柱に取り付きたるに忽ち家屋は山の方に押し流さるると思う中又海中に引き去られたり。家族共は何処へ流されけん行衛知れず。局長自身のみ柱を抱き居たれば遠く海中に引去られたるも再び海岸に打揚げられて漸く一命を助かり。
溺死したる家族は局長の妻、長男丈吉の妻と孫二人及び雇女三人、雇男一人、集配人一人にして都合九人なり。家族の中にて被害を免がれたるは目下発狂して治療の為め上京中の長男丈吉及び気仙沼に赴き居たる二男某の二人なり。局長は柱を抱え居たる為め助命したるも何物に触れたるにや身体に痘痕の如きもの斑々として全き所なしと云う。(挿図参看)

●階上村

○兄弟二昼夜を経て漂着す
六月十七日階上村尾崎の海邊に漂着せし潰家の中に小児の泣声聞ゆるにぞ鈴木菊治といえるが水中に飛入り差覗けば果して二人の小児あり。十二歳になれるが右手にて梁に取付き左手にて六歳なる弟の襟先を掴み居り右手を放たば二人共に忽ち底の藻屑となるべき尤も危き際なりしに鈴木は両人を救取りて救護所に引渡せり。この兄弟は唐桑村小鯖浜の漁師の悴なりしとぞ。

●岩手県気仙郡
●小友村

○屍骸を争う
小友村の某三歳の幼児の死骸を見出し全身の泥を洗い清めて葬らんとせし折其隣村の某も屍骸を探して此に来り。此屍骸を見て是こそ我子に相違なければ返されたしと述ぶるを小友の男は否正しく我子なり。何條おん身に返すべきと争い果しなかりしとぞ焼野の雉子夜の鶴親の心の闇なるぞ憫れ。(挿図参看)


○元寇の記念日
小友村の小学校訓導板垣政治氏は海嘯当日は午前中に二時間の授業を為せし後ち生徒に向いて彼北條時宗が神風飆々の下に十万の元寇を筑紫の海角に殲して国威を八荒に輝かせし偉績は実に今月今日なり。左れば諸子は皆な此佳節を祝すべしと説示せしが焉んぞ知らん。其夜折角祝杯を挙げんとなせし際津浪に捲去られて九死一生の災に遭わんとは氏頸部左眼下右中指其他数々処に負傷して療養中なり。


○小友村の訓導
上田貞政といえるは盛岡の人にて職務に勉励せるのみならず殖産の道に意を注ぎ大日本農会員となり農家一致協会の同盟員となり村民の信用厚かりしに今回の海嘯にて令閨令嬢諸共に激浪の為に無惨の死を遂げられたり。氏風雅の嗜ありて仙洞庵一水と号し近詠あり。「悪き蚊のたたかれはせず児の寝顔」の一句思いきや辞世となりぬ。去二十七日盛なる葬儀を営まれたりと。


○洪波の逆襲三回に及ぶ
小友村に黄川英次と云えるあり。前年より同郡唐丹村字片岸に飲食店を開き傍ら一の関間を往復し専ら商業に勉強し居けるが海嘯当日は恰も帰村の途次予て懇意にする唐丹村字荒川の某方に立寄りしに刻は午後七時頃とて主人は旧端午の祝いに酒打ち酌みてありけるが黄川の入り来れるを見、一杯飲まずやと献るをば黄川は此清水峠一ツ越せば御方(妻と云うこと)が待ってる、又御馳走になりましょうとて仇口交りに某方を出で軈て清水峠に差掛りたるに遥かの邦邊に当りおどろおどろと鳴り響く声の起りければ黄川は夕立にもやと気遣いつつ峠を越え見れば一穂の青燈細く我家を認めたり。ハテ嬉しやといそぐ程に来る程にコハ抑も如何に轟然一発巨砲の声搗て加えて一面の大海原煌々たる白色光を顕出し雪山の一時に頽れ落ちたらん如き有様となるにぞ茲に始めて大海嘯の襲来なるを知り大に驚き呆れしが斯くてあるべきにあらねば気を落付海面を眺むれば今迄荒れに荒れたる大浪頽はパツと■江て跡方もなく妻が夜業の燈影すら如法闇夜となりにけり。茲に黄川は半ば狂気の体にて吾知らず歩を進むる中誰とも知らず呻く声の聞ゆ。誰ぞと問えば長吉(黄川の隣人)と答う。因て仔細を聞て始て大災害を知り気も折れ心も摧けアツと許りに倒れけり。扨て翌日に至り家の所在地に来着けばアナ無惨家も妻も悉皆何処の浪の花となりしか見る影もなし。尚彼の目撃談とて後日人に語るを聞くに第一回の涛勢は慥に六丈余に達し第二回は第一回に比し凡そ一丈位は低く又第三回は第一回と甲乙なかりしとぞ。

●綾里村

綾里村は綾里湾の周囲及び綾里岬の南方に位する小湾の周囲にある十二字より成り四百十戸の人家と二千五百八十七の人口を有す内流失若くば破壊せる家屋実に三百十九戸溺死せるもの千三百二十六人の多きに達す。其無事なるを得しものは小路打越野形清水等山手にある村落のみにして綾里村中最も多くの戸数と富者とを有したる湊町の如きは全町烏有に帰して一戸の存在するものなく総人口四百八十六の中辛くも命を拾いたるもの僅かに六十一名のみ、其他田浜の如き白浜の如き亦殆んど全滅せりと云うも可なるべく目も当てられぬ有様なり。
十五日午前十時頃なりき。綾里村を距る約十里の地にある五葉山に於て官林払下の檜樹を切り居たる木挽は綾里村方向に当り砲声の如き響を発せるを聞き午後七時頃再び山岳の鳴動ありしかば何事ならんと不審の念を起し居たるが当日は恰も陰暦端午の節句に当りし故村民は各々祝酒を傾け或は親戚の家に到りて団欒の楽を為し居たりしに八時半頃に至り波光の映ぜしにやあらん白煙の如きもの湾の一面を蔽しと見しが忽ち四丈乃至五丈の海嘯一時に寄せ来たり。未だ三分ならずして山手を除く外は全村悉く水中に包まれたり。従来の例に依れば海嘯は分又寸と順次水嵩を増し来り。浪の引際に家屋を持去るが常なるに今回は一時に浸潮し来り。
之と同時に家屋を一回転せしめて山際に打寄せたり。二三分にして海嘯の引去りたる後は家屋は皆無と為り宅地は忽ち石礫と変じ泥沼と化し或いは谷間に打揚げられ或は湾内に流されて救助を叫ぶ。哀れなる声四方に聞えしかど生残りたる者も殆んど夢中にて茫然為す所を知らず。殊に船舶の如きは隻影を留めざれば遭難者を救助するの術もなく再び難に罹らん事を畏れて山中に逃避せしと云う。


○三教員の溺死
千田栄太郎、千葉直広(以上綾里小学)橋本宗左エ門、小石浜分教場の三教員も亦溺死。


○巡査夫妻の不幸
綾里巡査駐在所は字港に在り。駐在巡査菅原熊六は海嘯当日前七日始めて就任したるものなるが今回の凶変にて妻子ともども溺死せり。


○赤児三日目に助けらる
罹災当日の後三日生存者及び人夫が死屍発見の為め且つ材木取片附の為め田浜川の上流二三丁の処に至りしに赤児の啼声あり。驚て之を探れば材木の下に一児あり。即ち坂本万太郎の女とめなり。熊谷教員の妻之に乳を与えたるに飽くまで之を飲めり。人々奇異の思いを為し其幸運に驚けり。然れど父母兄弟とも溺死しければとめは親族に預けられたりと云う。


○遭難者の実話
綾里村字湊に住みし医師木下良斎は遭難者の一人なり。当時の実情を語て曰く午後八時半頃なりき。大津浪よと云う声を聞きしが席を起つに遑あらずして潮水は早や家屋を充満したれば目を閉じ口を塞がんとする間もなく身は家屋と共に山手の方向へ押寄せられしか二三分を経たりと思う頃身体は両三回顛倒されしと覚ゆ。今にして思えば此時こそ潮水の引際にて家屋の砕けしものならん。此時に当て身は是れ生き居るや死し居れるやを知らず素より余と共に数分前迄団欒せし妻や子の安否は毫も念頭に浮ばざるなり。漸く心付き頭を擡げ見れば四面闇黒にして咫尺を弁ぜず。手を仲えて四邊を探れば材木と死屍は周囲に充ちて身は半ば泥土の中に埋れるものの如けれど物音の更に聞ゆるなかりしかば試に指を耳に入れしに泥土は耳腔を填め居るを以て之を掻出せしに忽ち処々に泣叫びつつ助けを求るの声を聞き始めて其万死の中に一生を得たるを悟れり。されど尚お妻子の事は心付かざるなり。斯くて数分を経し後ち無数の燈光は山畑に点々し叫喚の声は益々聞え身も亦た傷を負わざるを知りしかど海嘯の再び来らんことの恐ろしさに他を顧みるの遑なく丘上に這上れり。翌朝検すれば可愛き妻可憐なる児は家と共に影も形も見えずなれりと。尚同人の家族として残れるものは東京にありて独逸協会に入り居れる長男あるのみなりと。


○幸か不幸か
盛村の少し離れたる綾里の一村に俗に舘脇家と云えるもの数軒あり。何れも旧家にて可なりの財産家なる由なれども此度の海嘯に一家一人も残さず流亡したる中に天幸なるは其内の一戸主は東京へ所用の為め出がけ居りて海嘯を免れ一村にて只一人残りし次第なれど是れとても着の身着のまま財産一つなき身となりたる事なれば此先の方法に困り居ると云えり。

●越喜来村

○地中より古金銀を発掘す
越喜来村崎浜に南部屋なる者あり。財産殆ど五十万円と称す。昨年該村に大火あり。南部屋の倉庫亦た将に災にかからんとす。主人里人に伝えしめて曰く汝等協力して我が倉庫を全うせば全村仮■烏有に帰するも後悉く之を再築し与うべしと。里人即ち全力を注ぎて該倉庫を守る因て全きを得たり。災止むの後類焼の家屋を悉く再築し与え又己れの本宅を新築す。工事数月を費し六月十四日初めて成を告ぐ。壮宏輪奐鄰閭第一たり。翌日海嘯至り倉庫家屋悉く流失す。倉庫内蔵する所二十一万円入金庫(古金銀)十万円入桐箱(大黒札十万円武内宿禰札三万円)其他古書画の最も高貴なる者等頗る多し。災害の翌日主人此構内に縄張を打ち里人を集め倉庫及古金銀の散乱せし者を捜索せしに南部家の門前一溝あり。幅三尺深さ四尺有余なりし者海嘯の為めに埋没す。工夫鍬を以て該溝を発掘し居る中五匁三分、三匁三分、三匁の小判其他二朱金一分銀等十数個を発見せり。是れ皆箪笥、箱等に蔵し置きし者なりという。二十一万円入の金庫は今に発見せず。主人は五十円の賞を懸けて捜索し居れりと。


○同村白浜
湊と山を距てて越喜来湾の南岸にあり。此地潮水の減せし事尤も甚だしく殆ど七八丈の高さに及べり。潮の走りし所一帯線を劃して其以下は草木悉く枯槁し岸に聳つ岩石悉く土砂を洗い去りて研々たり。小屋四戸高丘に残り他の二十九は悉く彼底に没せり。死する者百七十五人実は全人口の三分の二強に当る。

●松ヶ崎村

○家に帰て腰を抜かす
越喜来の邊りなる松ヶ崎の大工某と云うもの石の巻へ出稼に行き居りしが海嘯の一日前母の訃音に接せし為め急ぎて松ヶ崎の実家に帰らんとする途中高田迄来りし時労れて気も絶々となりたれば是ではならぬと気を強くせん為め酒を飲で又一走りと出かけしに身体の労れたる上に酔の廻りたるものと見え延岡峠にて足踏みはずして茨の中へ転げ落ち剰さえ根株の中にありし石にて頭を打ち気絶して居りしを通りかかりの人に救われ漸く松ヶ崎に向て進みたり。此に又大工の家にては母は死したれども倅が遠く出稼ぎに行きて留守中の事故今にも帰り来るかと念仏講の連中集り来りて通夜をなし家内は人にて一杯なれば子供は邪魔になるとて二歳になる女の児を十一歳になる他より貰いたる男の子に背負わせ何処へなりと行て遊んで来いと出しやりたれば児供は山の高き所へ登りて遊び居りしに其際海嘯襲い来りて小供二人は不思議に助りしが念仏講に来り居りし人々其他家内のものは一人も残らず流亡したり。斯くとも知らず其跡へ倅の大工は帰り来りて又々腰をぬかせりと。
土地の人の物語りなり。

●吉浜村

吉浜にては激浪百尺以上に達し抱囲の巨木半バより折れて海に向て倒れ丈余四方の巨巌崖下に落ちて路上に横わり砕破せる二三の藁葺屋根は山中の高所まで吹き寄せられたれども其他は悉く流失して激浪と共に海中に嘗め去られたるならん。僅かに一二の木片を存するのみ。家屋らしき影も形も見えず潮流氾濫の痕跡は樹木の枯れたると藻屑の樹梢にかかり居るとに依て判別し得れとも海岸は三四丈の高きに過ぎざるにも拘わらず両岸の入口より家屋ある処に闖入して次第に高処に達したる。其勢は斜にしたる戸板に逆上る激浪の如く百尺以上百五十六尺にも達したるべく思わるるものあり。
吉浜村より越喜来に至らんとする途中に三軒家を為せる家屋あり。酒屋へ三里の趣はあれども家内の勉励にて不自由なく暮し居たるに其中の一富家たる橋本興右衛門なるものは家内十三人ありて其主人は四十五六の人なるが轟然たる響と共に海嘯の押寄せ来りたるに心附きて逸早く家人に逃げ出せと云いつつ自分独り真先に裏口より飛出したるも家族は一人も未だ出で去る能わざる内早や其家は押潰されたるのみか自らも多少の手疵を負いたれども家族の潰家に在りて泣き叫ぶ声を聞き其侭に立ち去り難く藁屋根を押破りて暗黒の間を手探りに呼ばわる声を知るべとし一生懸命材木を取片付け漸く一人を助けて見れば最愛の我妻なり。夫より両人力を尽して又もや興右衛門の弟を助け出す。その内に絶息したる五才の娘が蘇生したりと見え助けよと泣き叫ぶに心附き之をも助け得て都合六人助かりしも其他は悉く溺死したりとなり。

●唐丹村

○鈴木琢治の義侠唐丹村大字川目に鈴木琢治なるものあり。
年歯
正に三十四五。妻子を始め下男三人下女二人と間口六間奥行十二間計りの大廈に住居し家世々医を業とせり。彼の大海嘯の夜琢治家に在り。妻子と共に雑談時の移るを知らざりしが八時の頃洋燈のブリブリと震うを見て地震ならんかと訝かりしも差したる震動なかりしより引続き談話せるに八時半頃隣人息気せき来りて「先生つい其の邊迄海嘯が来ました。」と急報せしも琢治は少しも怪まず。されど隣人は顔色変えて「何でも先生ヨダに違い御座いません。私は今海嘯を見て来ましたから。」と語る様子の常ならぬより琢治も茲に稍や疑いの心を起しつ急ぎ提灯を点させ下男三人を先に立てて我家の門を出で行く事凡半■計り提灯の光に透して地上を見れば海嘯襲来の痕跡最早や争われず。所々に魚鱗の溌剌として地上に躍べるものあるより三人の下男は心を奪われ「や旦那様明日はこりや好い肴で一杯飲めます。」とて地上の魚を拾い集つめつ余念なし。
琢治は心急ぐまま三人の下男を叱り飛ばしつ海浜さして急ぐ事一町計り。号空悲鳴の声闇に徹して凄まじく逡巡する下男を励まし声を知るべに辿り行けば或は老媼の潮水にむせびて早や虫の息気なるあり。或は若者の壊材に打ち敷かれて起きんとすれど深傷の痛みに力弱りて唯苦しげに唸るあり。千態万状深浅軽重の差別はあれど皆一様に半死半生の体となって算木を乱し倒れ居るより琢治は恰も狂気の如く三人の下男を指揮して此負傷者を己が邸宅に運び入れさせ猶隣家の若者をも叩き起して手伝わせ其が邸宅は玄関とも云わず大広間とも云わず書院も寝室も全家挙りて病院に充て箪笥長櫃よりは夫婦の晴衣袷綿入単衣の別なく片端より取り出して夫婦の衣類悉皆を負傷者に着せ己れ幸い医師なれば一々傷所を療治して是に繃帯を施し夫婦徹夜少しも眠らず猶翌日も引続き負傷者を集めたれば救難の傷者殆んど八十余人さしもに広き邸宅も遂には傷者の置場に狭隘を感じ今は殆んど夫婦の衣類も皆負傷者に着せ果てて夫婦が今着せし衣類の外に一物なし。琢治つくづく思うよう。猶此上に幾多の死傷者あるやを計らず是が運搬飲食にも今後幾何の人手を要し又幾何の米穀衣服を要するやを知る可らず。されど今此村役場なく警察なく郡役所なく殆んど無政府同様の場合に当り尋常一様にては臨機の救難を為し遂げ難し。よしよし我れ仮りに数條の規定を設け是に従わざるものは我命を賭して是を決行せしめんと。救難憲法七章を作り此憲法に違反するものは銃殺す可しと決心す。七章の救難憲法左の如。
 一総て男子は各家に幾人あるを問わず悉く人夫に出づ可き事
 一順番に依り婦人五人宛負傷者の看護に従事す可き事
 一人夫の内より五人を撰宿直せしめ非常に備うる事
 一順番に毎日豆腐三十個を製し負傷者に供す可き事
  但大豆不足ならば種子用大豆を用いる事
 一各戸より蒲団一枚宛を出し負傷者に給する事
 一畳も前項に同じ
 一人夫総数を左に
  内十二人は負傷病者の運搬に従事す可き事
  内五人は炊事其他雑役に従事す可き事
  其他は悉く屍体捜索及其所置を為す事
 右之命に違反する者は直に銃殺す可き事
琢治が遭難の負傷者を救うに急なる真実以上の憲法に違反するものは之を銃殺するの考えなりしならん。彼が愛せる猟銃に銃丸こめて床の間に飾り置き生存の家族を呼び集えて一々是に厳命を下すに豫て名望ある数代の医師とて誰ありて其命に背くはなく皆琢治の義侠を身倣い快よく負傷者運搬看護に尽力せしかば琢治も大に力を得て唐丹一村は残る隈なく捜索させ負傷者は之を我邸宅に運び入れさせ屍体は之を一所に集め引取人あるものは引渡しなきものは厚く之を葬り兎角する間に琢治が貯蔵の薬品繃帯尽き果てたり。此第一の困難に屈せず琢治は馬を飛ばせて薬品買入れの為め釜石に至る。釜石の惨状亦激烈にして薬品どころにあらざれば早速鐵長組の鉱山に馳せ付け鉱山医に惨況を説て薬品繃帯の幾分を借り受け一ト先ず安堵して家に帰りしが第二の困難は間もなく来りて負傷者に給與す可き紙類悉皆尽き果てぬ。障子襖も之を剥がして骨を顕わし今は早や詮方なければ命じて数代の蔵書を出させ四書五経を始めとして其他の珍書を引き破らせ之を負傷者に給与して漸く第二の困難を凌ぎぬ。而して最後に来る一大困難は琢治が貯蔵の米麦雑穀悉皆尽きて今は一同餓死せん計りの難況に陥るに至れり。噫琢治は如何にして此難境を切り抜け得たる乎。如何にして此難境を凌ぎ得たる乎。
一家八人の家族に八十余人の負傷者を控え各戸より徴発せし人夫にも夫れぞれ飲食せしめざる可らず。是が為に貯蔵の米麦悉皆尽き今は如何ともする能わざれば八里の山路を越えて使者を気仙郡役所に送り危急を報じて米穀の補助を仰ぎしも郡役所は是に応ずる能わず。■々迫で■々却けられたればさらばとて負傷者に供与すべき薬品の補給を請求したるも是れ又応ぜず。寶丹にても給与せられたしと請い亦其希望を達する能わざりしより琢治は茲に進退谷まり以下にして此八十余名の負傷者を飢餓の内より救い得んかと熟考中一駄馬米三俵を付けて通過せりとの報知に接す。琢治即ち床の間に飾りたる銃丸込めし猟銃執りて駄馬の跡を追い行けり。
「コリヤコリヤ馬夫其米を此方へ寄越せ「否如何致しまして是は遙々遠野から此唐丹村の大石に運ぶのでモウ買済の品物です。「ナニ大石に行く。大石は同じ唐丹の内にありても唯一戸の外流失せず又一人の負傷者さえなき所に何とて焦眉の急用あらん。我等の内には唐丹全村の負傷者八十余名を集め今や此負傷者が飢餓の境に瀕し居れば希くば此米を我らに譲りて八十余名の傷者を救え馬夫は諄々として其送り先の状況を説き容易に聴入る模様なきより琢治は赫と憤り「愚図愚図吐すな。己の命に従わねば是だぞ。」と猟銃執りて彼に擬すれば遉がの馬夫も周章てて琢治の命に従い馬上の米を琢治の家に運びける。噫彼れ琢治は八十余名の負傷者を救護せんとの考に切にして三俵の米を道路に要し銃器を用いて強奪し以て漸く一時の急を救いしなりき。
強奪の三俵亦尽きなんとしたれば琢治は再び釜石の鉱山に馳せ付け危急を告げて米十五俵を借り入れたれば茲に始めて稍や安堵の思いを為せる所に郡役所より六俵の米を齎らし来る。
是にて最早食物の心配なければ琢治は一向力を傷者の治療に尽すと雖も治療の手を下すは唯一人のみ。加うるに薬品欠乏の為め負傷者の肉腐り骨爛れ傷所に所に蛆を生じ悪臭芬々且つ昼となく夜となく是等の負傷者が苦悶呻吟する声凄じく到底尋常人の能く忍ぶ能わざるも琢治は少しも厭倦の色なく妻も亦夫を助けてねじり鉢巻襷がけ甲斐甲斐しく立働くより徴発せられし人夫共も夫婦の義侠に感奮せられてまめまめしく立働き為に幾多の負傷者は薬品材料の不足勝なるにも係らず其経緯頗る見る可きものありしと云えり。
負傷者中或者は海嘯を避けて山間に逃げ込み絶食四日間にして出て来れるに両方の睾丸脱し去り一方の耳腐りて蛆を生じ居たるあり。又或る男子は五人の家族を失い漸く一人の幼児を救わん為にいたく胸隔を撲ち為に肺掀衡を起しながらも尚其幼児を抱きて放さず。余程の重患なるより琢治は厚く諭して病床に就かせ置けるに一朝此病者床を離れて起き上り琢治に向いて其幼児の安否如何を問えるより琢治はわざと之を叱し「小児の事は心配なさるな。大丈夫だがお前はトテも起られる様な病気じゃないから早く行って寝て居なさい。」と試に彼れの脈を検ぜば手足冷え去り既に脈搏なかりしが我児の無事てう言葉を聴きて己が臥床に帰ると同時にバッタリ斃れたりと。
琢治の邸宅は今其台所に迄床を張りて負傷者を容れ猶足らずして十二人の傷者を隣家に移し更に徴発の人夫に命じ去月二十二日の夕より工を起し二十三日に至りて一軒の仮小屋を落成し茲にも十数名の負傷者を容れ居れりと云う。
我邦未曾有の大災害に会して邸宅を捨て衣服を捨て己が貯蔵の書籍米穀何くれとなく抛ちて能く一百の人命を救い臨機応変救難憲法を作り己れ強奪の汚名を負う迄も一意専心負傷病者の為に計る琢治の如きは寔に稀代の義侠者にして又全村生存の住民が能く琢治の命に従い秋毫も違わず琢治をして能く全村の負傷者を蘇生せしめしは是れ唐丹全村の名誉として永く後代に伝うるに足らむ。

●唐丹

○山澤鶴松
唐丹の漁夫山澤鶴松は当夜崖の上の庵寺に遊びに行き庵主と雑談抔しける内此の海嘯にて一家は失いたるも一身丈けは取留めたり。而して鶴松は庵にありて翌朝波にて打ち上げられたる通貨を拾い上げ四十余円程を得ければ之を救恤の費に充て且つ漁獲より帰り来て家族往来家の破滅に落贍せる。漁夫等を督し死骸其他の取片附に従事したりと感ずべき事にこそ。

●小白浜

○感ずべき事
小白浜の豪商磯崎富右衛門氏は海嘯襲来の前日仙台より米百石其他の物品を買い入れ崖上の倉庫に積み置きけるか其翌夜海嘯の為め家屋家財家族等悉皆流蕩せられ今赤條々の身たるに拘わらず倉庫を発きて其米其物品を罹災者の救恤に充てたりと。奇特というべし。(挿図参看)

●同県南閉伊郡
●釜石町

○他人の子を救う
釜石町字只越の佐野重太郎と云うは海嘯に襲わるるや六歳と四歳との小供を両腋に抱えて漂える折柄大木に突当りて思わず我子を手放し無念遣る方なき所へ忽ち小供の浮上りしより直ちに引上ぐれば我子にあらで近所の小供なりしかば一時は呆然たりしも危急の場合見棄てがたしと我身の危難をも忘れて終に救い得たるが此小供の宅は家族全く溺死し纔かに此子の生き残れる為め一家の断絶を免がれたりと云う。


◎掌中の珠を失う
東前なる菊池春吉と云えるはおよし(十五)と呼ぶ一人の娘あり。生れて六十四日目に母親の死去せしより春吉は後妻をも娶らず我が手鹽にかけて養育し早や三五にもなりたれば行々善き婿を迎えんものと其れのみ楽み居たるが十五六日以前より田中製鐡所構内桟橋に居住する土井某方へ手伝い遣わし置きける。海嘯の当日は五月の節句なればおよしは衣服を着換えて今や我家に帰らんとするとき無惨にも海嘯に襲われて溺死せしにぞ春吉は天にも地にも掛替えなき一人の娘を失い狂気の如くに歎き悲しみ居れりとなん。


○養女を救う
宇澤村の浅田弘二と云えるは海嘯と聞くより戸外に飛び出でし時隣家は忽ち推潰されて我家もアワヤ破壊せんずる折柄養女おさめが逃場を失いて助けを呼びしにぞ我れを忘れて我家に飛込みて助け出さんとする一刹那表の方は早や塞がりて出ずるに由なし。今は親子此に死するの外なしと覚悟は定めしももの逃れる丈けは逃れんと不図上を見めぐれば家根破れて少しの隙間ありしりにぞ漸く此処より外へ逃れ出て余りの嬉しさに親子手に手を取りて暫し涙に掻き暮しとぞ。左もありなん。


○幸運の小児
釜石町に於て最も惨状を極めたる字只越町に澁谷賢之助と云える海産商あり。其弟なる七歳の小児は祖母に抱かれて臥し居りしに突然海嘯に襲われて一家十二人家産と共に押流され二百五六十間もあるべき西方の田畑に打揚げられたり。
翌朝に至りて此小児は眼の覚めたらんが如き有様にて破屋の中より這い出でしを助けられしが他の家族十一人は尽く溺死せりと云う。去りとは幸運なる小児かな。


○幸運の一家
後藤亀之助氏方は居宅土蔵共に破壊せられて二十四人の家族二階の下に敷かれて潮水を含みたれども唯だ母親一人負傷せるのみにて其他は少しの怪我もなく尽く救い出されしと云う。


○奇特の米商
今回の大珍事を奇貨として不当の私利を網せんとするの奸商多きが中に是れは又た珍らしき奇特者なり。西閉伊郡上郷村の米商細川熊吉なるものは此度の災害を聞くや同胞窮厄を救わん為め自宅より夜通しに米穀を釜石に運び来り。海嘯以前よりも価格を引下げて販売し又大工の不足を憾み自村より十二三名の大工を派遣して一時の急を救えりと実に感ずべき行為にこそ。


○憫然の小児
釜石町字只越町に太田亀三郎と云える人あり。
性質律儀挙止快活にして侠気に富めるを以て衆人に称挙せられ推されて同組消防長となりぬ。妻との間に二男二女ありて楽のしき月日を送り居りしが憫れや今回の海嘯の為めに其身を始め長男長女とも無惨にも海中の藻屑と化し其死体さえ今に発見されず危くも生残りしは其妻と次女(十二)次男(五つ)の三名なるか。妻は不運にも身に傷を受けて目下赤十字社病院に通い治療を受けつつありと。幼なき次男は父の死せしことを知らねば病床なる母に向て「父は何故在らざるか、父は何れに行きしか、父の処に連れて行けよと。」迫るにぞ母親はそれとも言い兼ねて程能く慰論め置けども食事の度毎に「父が居らねば児は飯は食べぬ。父を呼んで呉れ。」と言い様食箸を取って投付けヨヨと斗りに泣き出すに母親は不憫さ堪えやらず声を放て歎き悲しむさま哀れと云うも中々に愚かなり。


○鈴子地方の人士も周章狼狽一時全く途方に迷いしが
いしが釜石工場の監督横山某は殊勝にも篝火を揚ぐるの急を知り諸人を叱して数ヶ所に火を点ぜしめたるに辛うじて屋根に縋り或は板子に取附き居りたるもの篝火を便に漂着し来り為に一命を拾いたるもの百余名なりしと云う。


鐵長組大坂出張所員辻島宗助氏は
大海嘯の当時釜石鉱山に出張中なりしが幸いに危難を免がれ翌十六日帰坂の途に上り東京に立寄れる時或人に語りたる実話を聞き得たれば左に掲ぐ。初めて海嘯を見たる人  六月十五日は昼より降雨あり。薄暮頃四五回の地震さえありて海上一面に墨を流したる如く午後八時頃と覚ぼしき頃大砲の爆発したる如き音を聞きたるが折りしも釜石鉱山所有船の艦長土井某は海岸に出で居りしに濃霧朦朧と立篭めたる海面の一層暗黒となりて見るも恐ろしき浪柱の現わるるを認めしかばスワ海嘯よとて遁出でんとせしに此時早く彼時遅く山なす大波ドットばかりに押寄せ来りて艦長をも巻き去らんとせしにぞ船長は咄嗟の間に流れ来れる材木に縋りて波のまにまに漂いて小高き方へ泳ぎ行き辛うじて一命を拾い得たりと云う。材木のお蔭にて命を拾いたるは此船長のみならず。一本の松の木にて十人の命を助かりたるものもありと。


○海嘯の来りたる区域は
海岸より十二三町にて三之橋際迄なり。海嘯の来りたる時は大砲の如き音の聞えしより少しく後にして若し此音を聞きたる時海嘯の来りたるを認むれば或は遁れ得たるやも計られず海嘯の地面を襲いたる際は頗る激甚にして二分間も経たぬ間に釜石全村は流亡し数千の死傷者を出したりき。
現に釜石町長服部保受氏は其夜四人の友人と会談しつつありしに海嘯の来りたりと聞きて一人の者と共に急ぎ二階より飛降り高台の方へ遁れたるに他の二人は然かせずして階段を降りたるため遂に逆巻く波の間に葬られたりと。海嘯の来りたるは都合三度にして第一の者最も甚だしく次第に弱くなりて翌日の午前三時頃には全く退き去りたりと。


○釜石町の惨状
今回の海嘯は湾口の東南より来りて西北の高地を襲い鉄道線路を越えて再び東南に去りたるものの如し。当夜は混雑に取紛れて何事とも見分け得ざりしが翌朝に至りて見れば目も当てられぬ惨状にて釜石全町は殆んど流亡し只だ高台の所に人家十数軒の存するのみなりき。此に不思議なるは斯る惨況の内に土蔵の三棟残り居たる事なり。這は建築の良好なりにや将た水勢の弱かりしにや判然せざれど兎に角一奇なりしと謂うべし。又た海岸の桟橋は微塵となりて其影を止めず海岸には杭柱のみ残りて木片等は十余町離れたる高地に打上げられたり。此桟橋は鉱山より出る所の鉄を運ぶために設けたるものにて上にはニ條の鉄軌を敷きて汽車の往復し居たる堅牢のものなりしに斯る有様となりたるを見れば其浪勢の激甚なりしこと知るべし。又た鉄道線路は平地より高きこと七尺なりしに浪は其上を越えて線路を崩壊せしめ鉄軌は土手の下に押流され線路に架したる小橋は悉く流れ去りぬ。尚お一層甚だしきは海岸に繋ぎありたる鉱山用の船舶二隻が薬師堂の近邊に打上げられたる事にて這は最初東南の方より海嘯の来りたる為め海岸より西北の方なる薬師堂の邊に持ち来られたるものなり。


○釜石町の位置
釜石町は海岸に在りて鉱山事務所までの距離十八町なるが道はタラタラ上りとなりて其勾配は三十尺に過ぎざれば殆んど平地と云うも不可なし。釜石の住民は重に漁業を営み閑暇なる際には鉱山の人夫となるもの多し。家屋は漁家の事とて藁葺柱葺如きの粗造なるもの多けれども中には立派なる建築をも見受けたりし。海岸は岸際まで水の来りて小さき船は横付となすを得べく平常にても満潮の際は陸上に侵入するほどなりき。此回最も多く害を被りたるは湾口の左右に当りたる所にて却って洋中に突出せる所には被害少なしと云う。釜石鉱山は被害を免れたるため構内に居るものは一人の怪我人もなく只海岸に在りし。桟橋係甲子川岸に在りし水車等係四十余名流没したるのみなりと云々。


○又釜石地方に於て
大海嘯に逢い九死に一生を得たる航路標識所の技手山本才三郎氏が遭難の実況を語るを聞くに左の如しと云う。


○海上には異変なし
山本技手等の一行は釜石湾口に横わる暗礁を認識せしむるため立標を建設するの命を帯びて同地に出張し居たるが去る十五日も例の如く他の技手と共に潜水夫、人夫等を引卒し海上を距る一里ばかりなる暗礁に至りて仕事をなし居りしに海上には何の異変をも認めず只だ瓦斯の深く蔽うのみなりしが是れとて東北地方には珍らしからぬ現象なれば誰とて心に留めるものなく其日は午後五時迄仕事をなし尚お日没に間あれども折柄五月の節句に当りたれば人夫等の請願に任せて右の暗礁を引揚げたるが神ならぬ身の災害の来るをも知らざれば互いに明日を約して立別れたり。


○技手身を以て免がる
山本技手の旅宿は海岸を距る五町ばかりなる津村と云う高台の所にありたるが技手は旅宿に帰りたる後入浴をなし晩酌を傾むけなどして居たるに午後八時過と覚ぼしき頃何やらん怪しき響の聞えたれども同日は雨天なれば空気の■梅にて鉱山通いの汽車の響くならんと思いたるが響は益々激しくなりて人の叫び声さえ雑りけるにぞ二階に出でて外面を見やりしに暗さは暗し。何事なるやは分らざれども汽車と思ぼしき響は鉱山の方に聞えずして却って手近なる海岸の方に聞えたれば偖ては海岸の地の割けて水の湧出したるならんと思う間もなく旅宿の家内は水が来た水が来たとて大騒ぎをなすより技手は其侭二階より飛下りて後の崖に攀登りたりき。技手が崖に登るや否や浪の音は蚊龍の吼ゆる如く人家の壊る音物凄く助を呼ぶ悲鳴の声は恐ろしき響の間に雑りて天地も茲に覆りたるかと疑われ気も魂も身に添わず暫時茫然として居たりしに凡そ三十分ばかりを経て浪の退きたれば海岸に在る立標事務所を見舞わんとて件の崖を降りて三十間ばかり行きたるに這はそも如何に釜石町の人家は悉く浪に引かれ行きて柱とも云わず閾とも云わずバラバラとなりて高丘の下に堆積し道も容易に通せざれば余儀なく元の旅宿に帰りたるに旅宿は幸いに損傷なく下町より遁れ来りたる人々にて座敷も犇しと埋められたりき。
屋根に乗りて浪中を漂う  釜石の立標事務所は海岸際なる新治嘉東治と云える旅宿に設けありて此処には兼子技手以下五名投宿し居たるがソラ海嘯と聞くや否や潜水夫の一人大橋藤助と云えるもの最先きに屋根に上りて同人の息子にて同じく潜水夫なる初次郎と云えるものを引上げたれども他の四人は屋根へ出ずる暇なく家内に打込む浪のために天井へ打上られしかば之れ幸いと棟に取付きて屋根を破り辛うじて上部へ這出でたるが此時家は礎を離れてブクブクと浪中に漂いたれば人々生きたる心地なく運を天に任し一生懸命に屋根に縋り居たるに折よく家は沖の方へ流れ行かず陸の方へ漂い行きて海岸なる村社の杜に懸りたりき。此杜の木は高さ五間、廻り五尺ばかりあれば屋根に上りたる人々は此樹に移らんとて一人々々尻押をなし漸く樹上に上りたれども只だ潜水夫のみは最後に残りたる枝まで手の届かず幹を抱きたる侭浪の退くを待ち居たるに間もなく浪も退きたれば件の樹を下りて壊れたる材木を拾い集め之れをば仮楷子となし他の人々をも下ろしたるが此時隣の木にも三十四五才の女子ありて頻りに助を呼びけるにぞ再び材木を拾いて此婦人をも救い下し高地に連れ来りたりと。此家は間口六間桁行十間もありし大家なりしゆえ浪のまにまに漂いつつ幸いに破壊を免れたれども他の小さき家は漂流中互いに衝突し見る間にメチャメチャとなりたるもの多しと云う。


○新沼屋一家の惨状
兼子技手等の止宿し居たる新沼屋は釜石第一の宿屋にて家内は主人嘉藤次夫婦、悴夫婦、孫三人、下女二人なるが海嘯の当日悴の妻は小供の小用をなさしめんとて店先の便所に出でたるに沖の方より怪しき浪の押寄せ来るを見しかば小供を抱きたる侭高地の方へ駈け行きしに夫も亦た妻の走るを見て何事ならんと後追い行きしに此時早や海嘯は後の方より襲い来りければ夫婦は這々の体にて己が親族なる山本技手の止宿せる宅まで遁れたりき。其中に屏風の如き大海嘯押寄せ来りて叫喚大叫喚の惨状を現わしたれば夫婦は身も世もあられぬ心地して我家は如何になりけん。家族は如何にしけんと頻に思い煩い居たる折柄兼子技手等は半死半生の体にて山本技手の宅まで遁れ来りて遭難の概略を物語りつつ新沼の家は村社の杜に漂着したる由を談しけるにぞ夫婦は大いに驚きて外面に飛出で山邊に焚やす篝火を頼として山なす潰家の間を踏越えて件の村社に行きたるに見るも無惨や家は微塵に砕けて父の嘉藤次は二人の孫を両脇に抱きたる侭破材の下に倒れ母も同じ枕に伏し居たれば夫婦は気も転倒し父母の亡骸に取縋り又は死したる我児を抱き上げて共に死せざりしを悔みつつ悲嘆の涙に暮れたりと。

●大槌町

○馬喰宇助
馬喰業の宇助と云える者海嘯当夜激浪の中に漂わされ辛うじて樹枝に取付ながら一生懸命助を呼び居りしが只見れば樹下一匹の馬あり。方向を失いウロウロし居たるを宇助は早くも樹より飛下り件の馬に打跨り山の手方へ逃延て人馬諸共無事なるを得たり。


>○盲と聾
盲と聾とには一人の溺死者を見ず。蓋し不具者は不具者だけに平生の用心周到なる結果なりと或は然らん。


○虚空を掴んで死す
海嘯の翌日累々たりし死体の中にて最も惨悽を極めたるは一婦人の小児を負いたるまま仰向けに仆れ■が上に角材の横わりて咽喉を締めつつあり。婦人は虚空を掴んで白眼天を睨むる状二目と見られず無惨というも愚かなり。


○無量の功徳
大槌町の寺院住職渡邊耕山と云るは凶災当夜其の方丈の間にあり。折から町方にて物騒がしく聞ゆる物音に何事ならずと跳ね起きて東向なる庫裏の障子を引明け見るに早くも第一の激波勢込んで板根四尺以上を浸すと均しく向河原の各家ミリミリバタバタと凄じき音して境内近く漂流し来る有様此処彼処に老弱男女声を放て悲鳴号泣助けを求めて急なり。同氏はそれと言いさま先ず小僧の耕雲といえるを呼び大蝋燭を寺内東北の椽側に五六十挺を鴨居焦るる計りに点火させて遭難者の目当てとなるべき燈台に代え己は直に赤裸となりて勝手覚えし畑道に出で胸切りなる潮水を打超え行きて潰家の中に挿まれて身動きもならず居たる老婆或は太く悪水を呑みて僅に方廡に取付き気息庵々たる老爺或は場所不案内の為めに凹処に足を踏外してガブフガブ水を呑んで苦み居る婦人小児等を一人毎に背負って来ては寺内に入れ入れては出出ては入れ瞬く間に二十人余を救い揚げ尚お己れは寺の北裏手へと取って返えし其周囲の垣根に懸り居たる小供四人公葬地山岸に疲労してノタクリ居たる男女六七人及び林森坊といえる按摩子供を高く肩の上に背負い其脇に妻のみわ(是も盲目なり)背に乳呑児を背負い右の手に十二歳計りの子供を携え方角知らず手のみ掻捜りて悲鳴し居たるをも救い揚げ軈て同氏は一同を引纏めて寺へ連れ帰らんとせしが石塔道に横りて危険なれ雁繋ぎに一人宛後へ列べ己れは提燈を高く掲げて先導を為し寺に入りて大にタキ火を燃やして一同の身体を煖め又は衣類を貸して之に着せしめ手厚く介抱を為したりとぞ。尚同氏は凶変の翌日より寺門に運び来る死骸に対し一々引導を施し七日目には供養塔を建てて餓鬼を供養せりとぞ。


○老女物語
海嘯の翌朝大槌八日町を六十前後の老婆ユモジ一枚にてぶるぶる慄えながらビショ濡になりたる十二歳許の孫の手を引き来るに此方よりも亦面部衣類泥だらけになり足は少しく怪我をせしものと見えてビッコを引きたる五十前後の婆とハタと出遭い両人互にオヤ能くも生き居ましたなと言いつつ泣き出したり。孫を連れたる老婆涙ふき敢えず彼の時海嘯来る音は雷様のように聞えたから私は驚いて一番小さい孫を嫁に負わせてから此孫と一所になって永らく病気で寝て居る息子を呼起し外に連れ出そうとすると山のように波がかぶさって来て嫁は孫と共に流れ出し息子と此孫とは見えなくなりそれから私も何処ともなく流されて行ったところ幸い或る家の屋根に引懸り漸々命を助かったれど途方に暮れて屋根の上で只泣てばっかり居る折から直ぐに脇の屋根に子供の声でお婆さんお婆さんと呼ぶ者があるから近寄て見ると此孫が其所へ流れ来たを幸い四日町の人が来て救て呉れ二人共不思儀に命が助かりましたといえば此方の婆も泥水にしみたる袖引絞りながら私の家は直海の傍らなれば水は早くも乗込で逃るにも逃られず家内七人残らず死果て私一人不思儀に助ることは助かったがせめて孫の死骸一目なりと見たいものと所々を捜して歩いたところ直彼所に孫と嫁が手と手を握り合うて死で居ましたが私は昨日孫の頭を芥子坊子にスッタのが泥も付かず其侭で居る可愛さ不憫さと又も両人一度に泣出したりと。


○死相のいろいろ
大槌町にて一両日間を経たる死体の形相を見るに大人の如きは枯痩し或は水腫紫斑を見わせど二三才より五六才の小児に至ては痩もせず膨れもせず宛然生時の如し這は大人の如く藻掻き苦んで潮水を呑むこと少く水を被ると同時に窒息すればなり。而して又四五日乃至一週日を経過したる死体は眼球突起全身潰爛して容易に其誰たるを知るべからず。只衣類若しくは所持品等にて判別するなり。又溺死者に限り死後遽に顎鬚延長すと云えり。其実例を挙ぐれば凶変後六日目のことなりしが上田某の死体を発見し之を遺族者に一見せしめたるに遺族者一瞥して這は人相稍や某に似たれど某は海嘯の起る四時間前アゴ鬚をを剃り落したるに斯の鬚の発生し居るこそ不審しけれど怪みつつ死骸を引取る様子もなかりしが既にして去る道理あることを聞き始めて其某たるを知ると同時にワッと計り泣出したりと云う。海嘯の翌日累々として夥多なる死骸の中にも最も凄絶を極めたるは一婦人の小児を背負いたる侭仰向けに仆れ■が上に角材の横わりて咽喉をシメつつあり。婦人は虚空を握んで白眼天を睨むる状二目と見得られず四苦八苦もだえ苦しみ当時の有様思遣られて哀なり。


○大鼓を叩きながら死す
大槌町大字吉里吉里は従来法華信
徒の多き所にて海嘯の当夜信者の一人芳賀某は難を山路に避け
んともせず爰が古来例しのある妙法の功力を顕わし玉へと団扇
太鼓を叩きつつ南無妙法蓮華経々々と叫びしが固より然る事の
あるべき筈なければ遠く海中へ押流され遂に惨死せりという。


○日蓮の像を罵倒す
大槌町字安渡の越田徳四郎も亦法連信者なるが海嘯の為め徳四郎一人を除くの外家内八人悉く海底の怨鬼となれり。其後数日を経て徳四郎は家族の屍体を捜索せんものと浜邊を徘徊する折柄偶ま我家に安置せし日蓮の木像漂着し来れり。斯くと見るや徳四郎は血相変え木像取て足下に踏え汝多年我が一家を惑わしながら遂に一度の加護を与えず面かもムザムザ八人を殺すとは何事が一家の怨敵思い知れと口を極めて罵りながら木像に大石を括り付け海底深く沈めしとなん。


○無惨なる死骸の一団
低吉里々々の或家にては海嘯の夜端午の祝宴を開き大勢打寄りて同地に行わるる擂木舞を為し居たるに無惨や一人残らず惨殺され日を経て其居宅の跡より擂木及三味線の撥を手にせる男女数多の死骸を発見せし由。酸鼻の極というべし。

●同県東閉伊郡
●船越村

船越村は船越湾と山田湾とに周囲を包まれ居れる村落なれば其被害最も大にして田老村と相并びて東閉伊郡第一の被害地たり。総戸数四百五十四戸の内流失せるもの三百六十七戸人口二千二百八十二人の内溺死せるもの九百三十六人にして重傷を負える者七十名、軽傷者百九十二名全家死滅して家名の断絶せるもの六十一老幼のみ生残りて生活の途なきもの三十戸あり。尚お此外に小学校、役場、巡査駐在所は流亡し寺院は潰頽せしが死亡者の割合に少き所以のものは同村は今を距る四十一年前に大海嘯あり。其害の及ぶ所今回の如く甚だしからざりしと雖も数戸の破壊家屋を生じ浸水の害を受けたる事あるを以て経験ある父老は午後六時過雷鳴の如き響きあるや否や海嘯の前兆ならんかと早くも逃支度を為し壮幼亦之に従て小山に登りたるも多かりしに由るなり。本村は元来漁業を以て其日を送るもののみにて田畑とては殆んど之れなく此地方中の貧村にてありしのみならず家具漁具等も一切流失したる事なれば生存者の多き丈けに寧ろ道途に呻吟するもの多き訳なりと。


○海を睨んで絶叫す
三十前後の男あり。海に向て演説を為しつつあるかの如く見ゆ。怪みて之を見れば彼が双眼よりは熱涙をハラハラと流し
 オレのおカタ(女房の事なり)に何咎ある。オレのワラシ(男の子の事なり)に何恨ある。ヨタ(海嘯の事なり)を起した海が恨めしい、海め海め。
と繰返しつつ人目も愧じず泣叫ぶ其身家に在らざりし為め僅に災を免れたりと雖も家に帰れば最愛の妻子と家財とを合せて之を毒浪の為に持去らる。彼が半狂乱となって絶叫する。亦宣ならずや、惻怛の極其名を問えば『名なんぞは御じゃりやせぬ』と。嗚呼彼は自らの名を忘るるまでに其神を狂わせたり。之を聞くもの誰か一掬の涙なからんや。


○巨樹の根こぎ
震古未曾有の大海嘯とて沿岸到る処の巨樹而も三抱え四抱えあるものが悉く根こぎにされて其処彼処の岩角に打付らるるや何れも四ツ五ツに切断され其勢の凄じき形容ずべきの文字を知らず。

●重茂村

重茂村の内小字姉吉と称する所は激浪家屋より高き事百尺に及び全戸数十一戸悉く流失し総人口七十八名の内七十二名は溺死し僅かに七名のみ生存したれど是亦重傷を負える為め今日迄に五名死亡して残り二名のみ病床に呻吟し居れり。


○海に水なし
宮古の漁夫にて重茂の小字根瀧という所へ鮪網の出稼に赴き居るもの三十二三人あり。監督者の高橋治之助は夕飯の際沖合の鳴ること頻りなりければ戸を明て之を窺いしに不思議不思議海の極て深き処まで一滴の水だになかりしかば扨こそ海嘯に相違なしと慌しく之を一同に伝えて後の山に逃上りしも十三名は無惨や万仞の海底に葬られたり。又治之助が戸を明けて見し時は夥しき漁船の隻影を認めざりしとなり。


○大木と大石
重茂村大字重茂の中央に高さ六十余ある槻の大木あり。村民は之をカクラの神と祭り居りしが海嘯は其槻の上を越せしという。又同村金毘羅前に五十人持の大石ありしが海嘯の為め四十間の高所に飛ばされたり。其他大石数個海底より投上げられ一見其勢の猛烈なりしに驚かざるはなし。


○重茂村長助かる
重茂村長西舘富弥氏は八人力ある大の男なり。当夜は早く寝床に入りしが其妻異なりたる響きありとて西舘氏を呼起し先ず雇人をして戸外の様子を伺わせしに同人は一見するや否や逃出せり。依て更に子供をして伺わせしに是亦雇人と同様なりしかば氏は訝りながら起出ずる。此時遅く彼時早く高さ二十四五間もあらんかと思う激浪居宅を指して襲い来り。氏の体を梁の上へ持上げたれば氏は僅に之に縋りて辛き命を助かりたり。又氏の姪は当歳の小児を負うて逃出せしが垣根の処にて材木の為め其首を押付られて惨死したれど小児は無事にてありしという。


○村長泣て怒る
前項に記したる如く西舘富弥氏一家悉く滅亡し自身亦数ヶ所に軽傷を蒙うりしかど一村の惨状に杖を力に奔走指揮する所あり。医者もなし人夫もなければ患者の救護も心に任せず。向う脛を打砕かれたる患者あり。痛苦に堪えず偃臥して飲食皆他人の手を待つ。西舘氏態と声荒らげ其位の疵で飲食に人手を仮る馬鹿があるか。自分で飲食が出来なきゃ死ぬが宜い。ト怒罵して泣く。患者之れに激まされ翌日より泣きながら痛を忍び起上り飲食するに至れり。村長傍人に語りて曰くコンナ無慈悲を言うのも生残ったからだ。オレは死んだ方が宜かったと。


○妻子を棄てて書類を全うす
重茂村は海岸に突出したる半島にて村民等は一定の区域内に於て漁業の権利を有せるに近来他村の漁民暫次侵入し来り。漁業をなすより其迷惑一方ならず斯くては一村の盛衰にも関ずべしとて同村の組長田畑友次郎というが頻に憂苦の末旧来の書類を集め出京して東京弁護士某の鑑定を乞いまた其筋に嘆願する抔重茂村のために尽すこと身を忘るるまでになりし折柄大海嘯にて同人の住家は水に浸され今にも流失せん計りとなりたれば友次郎は妻子を携え逃れ出でんとすれど見れば大切な書類あり。此書類流失せば村民の困難以前に勝るの道理なれば如何せんと狼狽する中妻子等は吾等は死すとも全村のために書類を全うされよと一斉に叫びて健気の決心容易に動かすべくも見えざりしにぞ友次郎は意を決し左らば妻子を失うも全村の困難には代え難しと件の書類を一括して頭に紮り附け妻子の叫び流るるを見捨て身を捲き来る大浪の中に投じ浮きつ沈みつ高地に泳ぎつき遂に書類丈を全うせしが妻子の死体は今に発見せずとぞ。


○釜石の宿屋
の主人新沼嘉藤治といへるは逃場を失ひ家屋と共に流れ行きしが尾崎神社の拝殿跡に顛覆したる家の中に無残や二人の幼き孫を抱きし侭に死し居たりき


○小児畑中に助かる
重茂に淡路万蔵という者ありて宮古より二才になれる子を貰えり。海嘯襲来の節は自身は宮古に在りて稼ぎしが事変の翌日帰郷したるに不思議にも小児が無事に畑の隅に在りしを得たりと。

●山田村

六月十五日高さ三丈内外の海嘯の起るや南部過半は瞬間に洗流されたり。警察分署の統計に依れば家屋の害に罹れるもの四百五十四戸(三百五十二軒)町民の死せるもの千二百八十三人傷を負うもの二百五十八人漁船の流るるもの五十三艘田の荒るるもの七十五町八反二十五歩畑の廃せるもの二丁歩警察署潰れ郵便電信局流れ助役収入役書記町会議員(二名)等死す。何分夜中なると警察署人員の不足なりしと。混雑の甚しかりしより救助も十分に行届き兼ねたれど警官などの尽力に依り翌朝までには或は土中に半ば埋れたるを堀上げ或は息絶々に呻き居れる者に手当を施し或は海中に漂えるを救上げたるもの四十一人あり。現今発見されたる死体の数は五百五六十名あれど海中に浮みたるものは五六名にして他は皆谷底に堆くなれる材木の下より出たる者なり。


○孝子のまごころ
山田町川向といえる処の横田某病気に罹り其枕邊に打集いて介抱し居たる妻子眷族十二人皆諸共に激浪に捲去られ長男清二のみは逸早く家を駈け出で泳ぎ行く中自宅の漂い来るを見て必定両親此中にと満身の勇気を鼓しヒラリと其家に上りて見れば案に違わず両親の救を呼ぶ声聞ゆるに運能く廻合しよと勇み喜び屋根をめくりて左右に救出せし折から天も孝子の誠心を嘉しけん。一艘の鰹船の流れ来るにぞ是ぞ勿怪の幸と件の船を辛うじて引寄せつ先ず両親を乗移らせ続て自身も飛乗らんとする途端無惨や激する大波に推流されしが猶も屈せず泳ぎ廻りて漸く陸地に打揚げられ両親も恙なく山手の方に漂着し安堵の息をつきたれども他の家族九名はあわれ魚腹に葬られ了ぬ。


○警官の精励
山田には宮古警察署の分署あり。署員は八名ありしが海嘯の為め巡査一名は惨死し一名は急を報ずるため遠野に派出せしめたれば跡は僅かに六名に過ず分署長神貞庸氏は夜も睡眠せず能く部下を指揮して被害地の取片付に従事し死屍は大抵火葬せしめ遺族又親戚の懇請する分のみ土葬せしめ以て流行病の萌芽を防ぎたり。斯る急変の際に於て氏の如きは実に職責を全うせし者という可し。


○負傷者手当
当町にて四名の医師ありしが内二名は海嘯の為に攫われ残る二名の内関玄達と云える医師は十三名の家族を失い其身も負傷して其事業を取扱う能わざりしも既に平癒して他の重軽傷者を治療しつつありと。


○漂着者の救助
釜石より二里余の沖合に三貫島と云ふ小嶼あり此処に遭難者百五十余名漂着し居たるを発見して直に救助したりと

●宮古町

○宮古湾内の海嘯
は午後八時三十分に起り前後十二回の激浪ありて此間一時間余に亘る最初の浪は高さ五丈余に上り第二回は之に次ぎ漸次に低かりしも最後の狼猶は平時には見るべからずと。第一回目に海上に押流されたるもの数百人声を限りに号泣して救を求めたるも第二回の浪至るや号泣の声全く消失せて唯鼕々たる声ありしのみなりという。


○古老海嘯の前兆を知る
本年三月に湾内の沿岸到る処鰻多く二百余尾を捕獲したるもの尠なからず。甚だしきは鳥さえ沙を掘りて之を啄みたりと。古老之を見て海嘯の必ず襲来せんことを預言したるも一人の信を措くものなかりしと。又古老は当日午後七時頃海潮俄に二百余間(平時は五六間)退きたるを見て海嘯の数刻後に迫まれるを知り豫め警戒したるも普く人に告ぐるの暇なかりしは今に於て遺憾極まりなしと言い居れりと。


○海嘯の前兆
宮古町にては去十四日より三十尋の深さの掘井戸悉く濁りしのみか井戸により其水白く若くは赤く変色し人々奇異の思を為し居たれど固より斯る大海嘯のあるべしとも考え及ばず又十五日(正午十二時)の干潮は平日の干潮に比し其減退せし事非常にて曾て見えざるの島又は岩迄現われたれば海浜に居たる小供等は何心なく其間に戯れ居たり。是は是れ大海嘯の前兆たるに相違なきも考慮の到らずして端なく大惨禍を沿海に被らしめしは質に大遺憾の次第という可べし。


○人を見て泣出す
宮古警察の巡査徳田氏当夜囚人監守のため監獄に在り。変を聞き馳せて鍬ヶ崎に到るや二階屋平屋船舶ゴタゴタになり通行すべからず。因て屋蓋に飛上り屋根伝いに二三丁走り一貸座敷の窓より二階に飛入る時に娼妓一名戸主の婦一名ボンヤリ座してアッケに取られたるが如くなりしが氏の来るを見嬉し泣きに泣出したりと。


○巡査の働き
宮古警察署長以下皆良く其職を尽せるは人民の感賞する所。鍬ヶ崎に下宿したる非番二人物音に驚き正服を着けんとするにハヤ水は床に上る。急に二階に上りて着装し屋根伝いに走り人を救うこと幾人なるを知らず。翌日に至り人の恩を謝する者多きを以て自から驚きたりと云う。


○不幸の娘
宮古の駒井吉三郎の妻は田の浜の黒澤六蔵の妹なり。夫婦の中に子一人あり。カヲと云う。共に田の浜に往き生活す。当夜妻は子を負い材木に推伏せらる吉三郎六蔵共に之を助けんとせし処「カヲはとても助からないし妾もコンナにされては助からない。オ前達二人は助かれるものなら逃げて下され。」と泣く。両人泣きながら材木を取り除けんとする中第二の高浪来り。遂に妻は仏名を唱えつつ波浪中に没せりと。


○決別して死す
宮古の字旧舘に尾本興兵衛というあり。材木に寄りて押流され新晴橋に至り救助を乞う。橋の上の人「今少し泳げ左すれば縄を下げるからと。」云うに興兵衛は苦しき声を揚げ「とても手足利かぬ故泳ぐこと能わず。後を宜しく頼む。オレは尾本興兵衛なり。」とて其まま波浪に没入せりと。


○癲病者無事
宮古附近の被害地に二三の癲病者ありしが是等も亦盲者と同じく始終木材に由りて悉く無事なるを得たりという。


○挨拶が此世の終り
帆走船は宮古の平山直次郎なるものの所有に属し直次郎の父母は其進水式に列せんとして当日午後八次頃同所に赴き一同に挨拶するや否や激浪の為め捲去られて惨死を遂げぬと。

●鍬ヶ崎村

○篤志家
鍬ヶ崎町の鈴木甚左衛門と云えるは同県有名の篤志家にて数万円の資産ある人なるが当夜氏一人助かりしのみ。其家族十三人を失い且又財産の全部を流亡せしにも拘わらず東奔西走寝食を忘れ漁民今後の生活に付熱心に考慮を費しつつあり。町民一同其篤志に感激し居たりと。


○右と左り
一家尽く流れ去りし鍬ヶ崎の海藻仲買人重吉といえる者の死屍を見出せしに左の手には百円束の紙幣と右には六十余歳の老母の襟を掴み居たりと。


○海嘯実験家の老練
鍬ヶ崎の大須賀興平治は音に聞えし漁夫なり、当夜宮古湾内にて地引網を曳き居りしか俄に水退くこと常より五十間に及べるを以て早くも海嘯なるを知り自己は沖合より声を掛け「ヨダだヨダだ逃げろ逃げろ。」と曳子を逃がし曳子は其まま綱を棄ててヨダだヨダだと言いつつ逃げたり。此声の為め鍬ヶ崎人は非常に助かりたり。斯くて曳子の逃げるを見て興平治は沖を振向きドーセ助からないのかと思いつつ高浪にて向船を乗せ斯けしに忽ち覆えさること三回に及びしが船を離れず四回目には材木に取付き第二の浪にて市街の土蔵の屋根に推し寄られ高運にも一命を拾えりと。


○九死中に一生を得
鍬ヶ崎の船大工にて千徳壽八は田老に赴き居たりしが物音に愕き窓より眺めしに沸くが如き浪の来るに逃ろ逃ろと云いつつ走る途中大浪を冠りしかど首尾能く陸上に達しホッと一息する間もなく忽ち浚われたれば最早叶わぬとニ丈余りも底に沈み死を決したるに忽ち浮み出で拍子よく木のある処に持来られたり。此時迄左の指二本を損じたる事及腰の抜けたるを知らず左の手を出して草を掴まんとせしに利かず是非なく右の手にて芝を掴み口にてクワへ又右の手にて芝を掴み口を左手に代え天明までに五間計りも山へ上りしを他人に助けられしという。


○水を呑で活く
宮古光岸地の盛合十吉は三歳の子を負い自宅より十四五町も推上られて柳の樹に取り付き材木の流れ下るに遭えば頭を水に突入れ突入れて遂に助かりたりと。


○冒険漁夫の死
鍬ヶ崎に有名の漁夫ポンポン松という男あり。暴風雨に銚子の港を泳ぎ船を繋ぎ止めしが磁石なしに遠州灘を乗りしとか。非常に強胆の男なりしがナニ海嘯なんどに恐れるなと一杯機嫌にて自若たりしが遂に自分は石に頭部を打たれ妻も一旦免れしが銭を忘れたりとて引返したる為め子を抱きたるまま流亡す。人々大に惜み合えりと。


○葭ヶ洲の大石
鍬ヶ崎町の尽頭に在る葭ヶ洲には沖合遙かの海底に在る四五貫目の大石幾個となく投上げられ其石には諸種の植虫類附着し居て一見海嘯の勢の猛烈なるを證するに足る。

●田老村

田老村は田老乙部摂待末前の四字より成る。末前は山間にある部落にして農を以て業と為し毫も海嘯の害を被らず。摂待は海面に遠き家屋あるを以て多少被害を免れたるもあれど田老と乙部に至ては蕩然洗い去て一物をも留むるなく今は只礎石の点々存在せるあるのみ
田老と乙部とは相隣接せる部落にして田老は総戸数二百四十二を有し乙部は九十三戸を有せしが十五日の海嘯は水高平水より高き事七十尺に及び五分間を費さずして全戸数三百三十五戸は微塵となりて海岸に浚い出され男女相合して老幼千八百六十七名は海底の鬼と化し畢んぬ。当時纔かに身を以て免れたるものは約二千の人口中三十六人に過ぎずして是れも多少の傷を負い微傷だも負わざるものは当夜一里余の沖合に鮪漁に出で居たる船十五艘の乗組員六十人と北海道へ出稼中の漁夫若干あるのみ。村役場小学校巡査駐在所郵便局等も固より流され助役落合安兵衛は十二人の家族中次男某が鮪網に出で居りて難を免れたる外は悉く死滅し収入役根守常永書記閉伊定七同菊地正一は全家死亡し巡査種市愛仁(一家八人)同高橋為次(三人)小学校長赤坂長五郎(三人)訓導乳井清安(三人)同坂牛万(家族なし)郵便局長坂本模保(六人)も亦全家流亡して絶家となれり。村内の公吏及職員にして健全なる者は赤十字総会に臨みて帰村の途にありし村長岩泉政夫と訓導及川正助の二人あるのみ。町会議員は八人(末崎撰出を除く)中六人は死亡し二人は重傷を負いぬ。絶家となりし者は以上諸氏の家を合せ百三十戸の多きに達せり。


○船舶の流失せるもの
五百三十(流失せざりしは鮪網に出て居りしもののみ)田園の害を被ること五十歩十数丁の石磧に間口五間奥行三間位の三個の仮小屋と二間四方位の一個の天幕を見る。一は即ち役場駐在所及び患者室を合置せるものニは則ち生残りたる村民一同が寂しき夢を結ぶの所にして天幕は則ち赤十字病院診療所たり。現今見る所の家屋は只だ是れのみ。アア只だ是れのみ。


○田老の鳥居傳右衛門
田老に鳥居傳右衛門といえる豪家あり。六万円余の財産を有し近傍の漁民を始め宮古町民の中にても鳥居を資本主として大に漁業上の便利を得来りしが同家は今回の海嘯に遇うて其家蔵を洗い取られしのみならず一家を挙て惨死の不幸に陥りたれば之が為に被むる宮古邊の間接の損害は実に僅少ならずという。


○下摂待の惨禍
下摂待は田老村に接する十戸の小部落なり。其戸数の少なきに似ず二十七頭の牛を飼養せしが海嘯の為め其全部落と牛の残らずとを持去られ村民は四十三名の中十七名生存せしに過ぎず。惨又惨。


○出漁者の断腸
田老村の内大字乙部に於て該夜四人乗十五隻にて流し網に出たる者あり。二里以内丑寅の沖にて網を張り居りし処陸の方にて汽車の走るに似たる音せり。浪は至極穏なれども兎に角網を引上げて帰る途中大浪に出逢うこと三回。同時に流木夥しく来り始めて海嘯なることを知り港口に来りたれど浪高くして入るべからず。翌朝再び港口に居りたるが最も奇なるは此夜田老全村一個の燈明もなく山下岩上に救を乞う声あれども暗夜なれば其故を知らず迂闊に手も付けられず心配の中に一夜を送り翌朝に至りて見るに全村一戸もなく流れたるに又々悲嘆に咽びしと云う。

●同県北閉伊郡
●小本村

○箱石籐右衛門
は小本村の酒商にて近村に隠れなき豪家なれば其家屋の構造と云い土蔵の堅牢と云い宮古町にも少なき建物なりしに土台石の下幾尺まで洗い取られて其痕跡を止めずと云う。


○紙幣を掴みし侭死す
小本村字中野に工藤長左衛門と称する酒造家あり。戸主長左衛門死亡して海嘯当夜は恰も二七日なれば親戚十七名集りて仏事を営み居りしに無惨や十七名其惨禍に罹りて横死を遂げぬ。中にも長左衛門の一子某は八十円の紙幣を掴みたるまま砂中に埋もれて絶息し居たりと。

●普代村

○誰が子なるらむ
普代村にて水練に達せる某激浪を避けて岸に達せしに出産後四五ヶ月の赤児が泥土の中より顔を出して呱々とばかり泣居たるを救い置しが父は誰ぞ母は誰ぞ。


○かたみの袖
三十四五才の婦人二子の袷の片袖を抱しめてさめざめと泣き居れるを問えば此婦人遠方に嫁し居りて偶々実家を訪いし折此災難に一家十三人尽く骸も止めず唯だ此妹の片袖のみぞ片見となりぬ。


○遺骸を惜む兵士の心
普代村の大田邊に坂下某及高浜栄太朗とて共に二師団兵にして台湾帰りの者あり。入浴中大砲の音を聞き「必定軍艦の空砲演習ならん。一見せばや」と着物を着て山に上り四方を見回せしも何のこともなしと思う間に逆捲く浪の起るを見て「死んでも死骸は無くすまいと」両人共手早く帯を解き木に身体を括りて待ちしに山までは来らず為めに不測の変を免れたり。普代は三十戸もありしが一戸の外流亡せり。

●同県南九戸郡
●野田村

○野田村
は大字野田玉川の二より成り農三漁七を以て生計を立つ。久慈町を距る南の方三里南端は北閉伊郡の普代村に連る全村の戸数四百五十其内流亡破壊せし者二百七十九戸、浸水五十三戸にして海嘯の害を免れしは海蔵院と称する寺院附近の高地に過ぎず而も大字野田は半潰二戸を余して殆ど全滅の惨況に陥り横死を遂たる者極て多し。船舶は百四十四艘流亡破壊して一艘だも止めず。五十一町歩の耕地は激浪の為め洗い去られて収穫皆無の姿となりぬ。


○無数の怪火
野田駐在所の巡査遊佐左仲氏は海嘯の当夜所轄部内の宇野村を巡廻し午後八時二十分頃駐在所を距る十丁計の所まで帰りしに海上異常の鳴動を聞き怪みながら野田に近くや海潮は曾て見しことなき高処まで侵入せり。眞逆に海嘯と思わざれば暫し佇み考うる内に大さ提灯程の怪火其数幾十となく野田の民家に在る所より背後の山に懸けて高低に玄光を発したれば愈々訝り怪みつつ是れこそ正しく世俗に伝うる狐か狸の悪戯なるべしと。其まま進み往きけるに不思議不思議四方に家屋の倒壊する音最と物凄く聞え叫喚救を求むるの声耳に徹したれば扨は海嘯にてもあらんかと正に野田に入りし頃は全体破壊の惨況に陥り氏の妻女と二人の愛児とは無残の最期を遂げたりとなん跡にて調査すれば怪火の見えたる処は被害の部分に止りて怪火なき高処の民家は何等の異状なかりしとぞ。


○書類泥中より出ず
村役場は半潰の惨状に陥り公けの簿書類何れにか紛失せしが人夫を促して取片付中泥の中より発見し僅かに無事なるを得たりという。


○小学校の流失
同地小学校の教員某は当夜久慈町に在りし講習に臨みし為め生命を全うするを得たりと雖も家に在りし妻女の身を以て免れし外其愛児は横死を遂たり。


○玉川の岩崩る
野田の玉川は野田の南一里に在り。河幅八九間の流れなり。其入口には二個の巨巌屹立して大に雅致ある所なりしが一は自然に波の為めに磨滅せられ一個のみ其形を留めたりしも今回の海嘯に逢うて是亦全く崩壊に帰せり。噫。


○助けられて安心して死す
野田の一女子折重なりたる材木の下に圧せられ声を限りに救を求め居りしが一たび救い出さるるや気を打ちし事の甚だしかりしと見え安心すると間もなく死去したりという。


○宮本村長の惨話
同村長岩本武慈太氏亦同夜遭難者の一人にして氏は津浪の叫喚を聞き早くも家族を促し最愛の二小児を小腕に抱き戸外に出るや激浪の為に足を払われ遂に海上に漂い浮きつ沈みつ苦悶の際何時しか愛児を奪われ身に数ヶ所の傷を負いたりしも再度怒涛に押し揚げられ辛くも岸に取り付き万死の中に一生を得たり。殊に尤も悲惨なるは同氏の妻某が折角初度の海嘯を免れ高地に駆け上りしも跡に残せし小女の身の上心元なく我家に回り其安否を尋ねばやと赴き行く途中端なく再度の襲来に襲い遂に空しく溺死しぬと。然るに天幸にも尋ねんと欲せし小女は疾く免れて高地に避難しありと。


○天罰踵を旋らさず
野田村大字城内に佐藤何某といえる人海嘯の当日海面にて轟然たる響を聞きスワこそ日露の開戦よと二十余人の妻子眷族を引つれて海蔵院といえる小高き寺院に駈つけて危うき難を逃れしが此佐藤氏は村内屈指の豪家にて日頃盗賊の覗い居たりけん。同氏家族が今しも周章して海蔵院に引き退きたるを早くも見て取り一人の曲者斧を携えて押し込みつ。箪笥の錠前を打ち破り衣服其他の目ぼしき物品を攫み去らんとする其一刹那狂瀾怒涛の驀地に押し寄せ来りて差しも堅固なる同家もグワラグワラと粉微塵に潰れしかば何かは以てたまるべき此の悪漢は吾れと我が携えたる斧を以て見るも無残なる迄に自分の頭上を立ち割り鮮血に塗れて箪笥の前に倒れ死し居たりと。

●宇部村

○激浪山を踊り踰ゆ
宇部村の内小字小袖は海岸の高地なるが南方より襲い来りし激浪は其山を踊り踰て山後の家屋を倒潰したりと。勢の猛烈なる驚倒するに堪たり。

●久慈町

○山に投上げらる           、
久慈にても二人の子供納屋の中にて遊び居たるに海嘯は納屋諸共子供を山に打付け而も子供を残して納屋のみ奪い去りしかば子供は不思議にも命を助かりし由。


○大頓智
久慈町門前なる肴問屋の雇人沖に流されしが泳げる馬のあるを見て其尾に縋り漸くにして其背に跨り平手を以て必死と其尻を鞭打ち僅かに山に逃れ出たりと。近頃の機転者という可し。(挿図参看)


○地中に声あり
海嘯の翌日警官は倒家の下より傷者死者を出すに際し地中よりして助を求むるものあり。怪みながら其声の在る所を尋ぬれば正しく藁屋の下なり。急ぎ人夫を指揮して之を救出せしに一家六人或は棟に圧され梁に伏せられ呻吟苦悶してありしかば速に手当を施せしも二名は遂に絶命せりと。


○罹災者の救助
門前の高所に残りたる庵室を以て臨時事務所と為し郡吏、警吏、町吏昼夜交る交る茲に出張して罹災の民を賑恤す。老女婦女の飯器を携えて集り来る者二個の握飯を施与されて欣々拝謝し去るの状悲愴の極。人をして■然たらしむ。


○仏旗を纏わしむ
沿海一帯の習俗として臥床に入る時は老幼男女を問わず赤裸となりて衾中に入るが故にソラ海嘯と聞くや否や皆赤裸のままにて飛出したれば潮退きて後着るに衣なく纏うに帯なく惨憺の状言語に絶せしかば事務所に充てし庵寺の中より数多の仏旗を取出し来りて一時之を纏わしめたりと云う。


○死屍の陳列
海嘯の翌日七十人計の死骸を掘出したれど何処の誰か判然せぬ故数多の検視人を集めて之を調べ一々札を付て遺族に引渡せりとなん。惨又惨。


○牛馬の屍に窮す
災後始末に窮せしは牛馬の死屍なり。何をいうにも大高のものなれば一頭に十四五人の人夫を附し之を遠隔の地に持運びて埋めたり。之が為に要したる手数は実に非常なりという。

●種市村

種市村は戸数六百五十三、人口四千五百八十一の一大漁村なりしが瀕海の地は痕跡なく洗い去られて四十三戸の家屋と百二十四棟の建物とを流亡破壊し百八十二人の惨死者と三十四名の負傷者とを出せり。加之二百二十六艘の船舶全く破滅して沖に在りし一艘の無事なるに過ぎず。今郡長浅沼介朗氏の直話を記して惨況の資と為すべし。


○馬乗ながら一家全滅
字カヌカという所の者一家親子三人して其妻の里なる八戸に赴き帰路即ち陰暦端午の日には妻と子とを馬に乗せ自身之を引きて日暮後居村に入りたるに残酷なる海嘯は此和気靄々たる一家族を馬と共に波涛の中に持去り挙家全滅の非運に陥らしめたりと。実に惨憺の極という可し。


○涙の種
大字八木と大字宿戸との間なる道路の隅に二十六七歳の婦人の死骸あり。脛もあらわに惨状を呈し居たれば浅沼郡長は人夫をして筵を懸けしめたり。又八木と大字小子内との間に三歳計の男の子死し居たるが眠るが如き死顔は一層の哀を増して一行をして惻然たらしめぬ。扨取片付の都合あれバ其小児の死骸をば右の婦人の死骸の傍らに持往しに折柄小子内の者にて五十歳計の老婆娘と孫とを尋ね来りて郡長等の一行に逢いたり。郡長等は右の死骸を示せしに『是で御座る。娘と孫とで御座る。』とて人目も愧じず泣伏したれば郡長等は奇異の思を為し母子の魂魄此土を去らず其死骸を一つ所に寄せしめたるかとて仏者の因縁などいう事思い合せ座ろ涙に暮れけるとなん。


○帰れば家なし
小子内の漁夫一艘の船に乗じ遥かの沖合に出でて鮪漁の従事し居たるに十五日の夜八時過に至り何故か網を覆えされて折角の獲物を逃せしのみか異常の濁潮流れ来るに驚き翌朝に至り帰り来れば海岸全く洗い去られて家の何れに在りしやに惑いたりと。


○流材に助けらる
カヌカの漁夫父子二人して海岸の納屋に往き夜番を為して居りし所へ大海嘯襲い来て納屋と諸共山手に押流されたるが納屋は引汐に持去られたるも父子二人は山に取残されたり。然れど頭の上には夥しき茅の重なり居るにぞ子を抱きながら之を取除んと逸れど随て除けば随て被さり今一回海嘯の来りなば無論海底の藻屑とならんと覚悟せし折柄巨材流れ来て茅を排し去りしかば僅に山に這上るを得て父子をば九死の中に救いたりという。

●湊 村

一破屋の下より小児の死骸を発掘せるあり。身体膨張して赤銅の金錆を帯びて古びたるが如く胸腹太鼓の皮のように腫れる上に巡査が石灰乳を注ぐ都度々々蠢々として無数の小虫出で散じ顔面の四宮は僅かに痕跡を止め柱材にや砕かれけん右腕は影をも止めず。直腸にぢり出ること一二寸。具さに惨虐を極む。翁媼爺嬢相集て見る壮丁あり。一婦人を呼で曰く「是れ汝の児にあらずや。」婦人は茫然として見詰め居たりしが「然り。妾が愛児なり。」答え了つて猶茫然死体を見詰むる事初めの如し。巡査乃ち注意を与えて曰「速かに持ち去りて懇ろに葬るべし。」婦人は宛ら機械人形の如く唯唯として死体に近づき敷きたる荒筵の両端を右手に握みてサッサと持去れるさま手桶の水を運ぶに異ならず。動作総て平気毫も感情を害せざるものの如し。惨痛も亦茲に至て極まれりと謂べし。

●遭難者酒井技手の実況

岩手県の土木技手酒井鉄二郎氏は六月十五日大海嘯に捲込まれ万死の中に一生を得たるが氏が六月二十日付を以て同県知事に具申したる詳報に云く六月十五日は朝来陰雲暗憺として時々降雨あり。梅雨の候とはいえ如何にも鬱陶敷非常に人意をして不快を感ぜしめたるも市中家々旧暦五月五日に相当するを以て端午の祝酒を催さんと別に意に介する所もあらざりしが晩暮七時五十分に水平の微動あるを始とし八時頃に至りて再び動揺あり。晩食に就く凡そ五分にして震動の大を感じたれども其度合は釣ランプの動揺は左程にはあらざりしなるも之に反して身体の震動は益大なるを感じ漸く其食を終んとする頃(凡八時十分頃)忽然戸外庭前に於て「ピストル」を発射したる如き音響を耳にし益奇異の思を起したるが八時十五分頃となるや東方海岸に当りて俄然鳴動を始め汽船据付の機関振動の如き感あり。大ならず小ならず上下一定の微動にして震動愈々益々強きを加えたり。依て蹶起して東方の海面を見るに牛島と称する島嶼の方面に当りて大空朦朧として薄赤面を呈し鳴動の方位も同一にして右方々面には此の暴状なし。是れぞ天変地異の徴ならんと立退の用意に掛るや否や寄州中建設しある数十の納屋小屋轟然破竹の勢を以て壊倒し来りたれば海嘯なり海嘯なり。速に戸外に出づべしと叫びて懸け出たるも如何せん。四邊暗黒にして事物を識別する能わず。躊躇する中に身は既に数十丈の怒涛に襲われ両足を払われて激浪に捲き込まれたるが会々流失の土蔵らしきものに衝突して頭部を僕ち此時身体の三四回回転するを覚えたり。水上に泳ぎ出てんとすれば頭上には巨材と塵芥の満ち満ちて身は益々水底に押流さるるのみ。依て到底水面に泳ぎ出る能わざるを覚悟し呼吸を止めて濁水を口にせざることを勉めたり。
夫より五六分過るとぞ覚うる頃は水面に頭首を擡げ出し三四回呼吸するを得るや否や又々大家屋の前面に横わるあり。激流に逆らう力なく再び此廻転中に吸い込まれたる後は只管身体の疲労を防がんことをのみ考えしが併し最早此時に至りては呼吸を止め得ず窮迫の余り二三回濁水を吸収するや苦痛煩悶小時も措く能わざりしが此時既に身体の疲労甚しく人事不省となりしが如し。後微かに人の呼ぶ声を聞くと感ぜしが偶人の来りて大材の間に夾まりしを救い揚げられたるが最初宿泊し居たりし湊村より一里以外の久慈町大字門前琴比羅台の上にある一小寺に在らんとは顧みて四邊を窺えば只悲鳴慟哭の声あるを聞くのみ。暫らくして人肩に憑り久慈町病院に向わんとし下門前に至るや警官数名に出遇い警官等最早や医師の来る筈に付暫時待つべしと告ぐるあり。一農家に憩い午前二時頃に至り医師出張負傷の検査を受け再び人肩に憑りて午前六時頃に久慈町病院に着したるが実に不思議にも万死の内に一生を得たり。
同僚雇佐藤内蔵治氏は大字門前兼田和吉方に寓居せし当日も朝より降雨に付酒井氏の宿所に於て事務を執り夕方に帰宿せしが遂に此夜の出来事に非業の死を遂げ泥土中に埋もれ居たる死体をバ漸く翌十六日の夕方に及びて発見し得たり云云。

○雑聞

○海嘯の前兆

海嘯の起る数日前より屡ば地震あり。東北より西南に動揺す。而して其動揺の状普通の地震に異なり。今より之を思えば実に海嘯の前兆なりしなりという者あり。

○南部の潮勢と北部の潮勢

南部の志津川町邊りにては最初の一波非常に猛烈にして第二回第三回は緩慢なりといい北部の広田村邊りにては第一第二の波は緩慢なりしも第三回の波頗る猛烈にして人家は之が為めに流失せりと。

○節句と人の心

節句祭の為めに助かりし者あり。死せし者あり。死せし者の遺族は節句の無情を怨み助かりし者は節句の幸を説きて相慶吊す。節句心なし。人に心あるのみ幸を不幸とは実に意外の処に生ず。

○海嘯前の大干潮

古来の前例に徴するに海嘯の起る前には必ず海潮の非常に減退する由は兼て聞及び居りしが現に本吉郡御嶽村地方の海面は海嘯の当日午後三時頃稀有の大干潮にて平時十尋余の深さある邊までも干潟と為りしかば老人抔は変災の前兆ならんとて憂慮し居たりと云う。

○海嘯の潮流に就て

岩手県の水産家小松熊次氏の談話によれば今回海嘯の節十里以上の沖にありて漁撈に従事し居りし者は毫も海嘯を感ぜざりしが一里以内の沖にありし者は北の方より一條の大波海岸に際立ちて疾風の如く奔騰し来るを見ると思う間もなく己れの船は遥に南の沖に押し流されたりと。又或る漁師は綾里村の沖に当りて一個の大水柱雲の上迄立ちて山の影をかくすや否や忽ち又砕けて之と同時に一声の轟音を聞けりと。

○海嘯と音響

今回の海嘯に就ては何処にても音響を聞けり。宮城県牡鹿郡にては雷鳴の如き響を聞き歌津村にては砲声の如き音を聞き又志津川町にては大雨に続いて地震あり。間もなく雷鳴の如き響きを聞きたり。岩手県下久慈港にては当日午後八時半頃に烈風吹起り地震の如く雨戸鳴響き間もなく三四回凄まじき音聞えたり、又釜石町にては晩餐頃海上遥かに凄しき音せしが其声次第に近づき且つ大砲の如き響き三回程あり。人々驚きて海上を見渡すに濃霧一面に立塞がりて咫尺を弁ずる能わず。何れも驚き慌てる。折しも山なす海嘯襲い来りしなりと。

○海嘯と鰯漁

青森県鮫港より湊に至る沿海にては四十一年前に鰯の大漁ありしに其年大海嘯あり。本年も亦た鰯の大漁なりしに此大海嘯ありたれば人々奇異の思いをなし居れりと。

○海嘯と火光

青森県下上北郡一川目村邊にては海嘯の起る前連夜海上に許多の怪しき火光を見たりと。

○海嘯と保険

今回の海嘯にて奥州海岸人畜の死傷は随分夥しきが今府下二三生命保険会社に就て同地方被保険人の概数を聞くに内国保険株式会社は釜石宮古間に四百二十一人を有し此保険金高六万九千二百五十円、帝国生命保険株式会社は久慈に十一人、遠野町に二十六人、盛町に五十人、高田町に二十二人を有し此保険金高二万四千円、尚お此外に明治生命も数千円の約束あれど仙台集金所若くは代理店よりは夫々出張取調中にて未だ其詳細を知るに由なしと云う。

○西洋形船舶損害なし

今回の海嘯に就て所在の和船は運走船漁船の別なく多く破壊されし事明かなれど西洋形の船舶には更に被害の沙汰なしという。

○海嘯の豫言

磯鶏村の字赤前という処にては四十一年前即ち安政三年の海嘯の時。磯に川菜と称する海草を生ぜしが其後曾て之を見ず同地の老人等は本年一二月頃より磯の邊りに右の川菜の発生せしを見て必ず海嘯あるべしと期し居たりしに其豫言通りに来襲せり。又高浜にては鰻の死するもの夥しく土人等亦海嘯の前兆となせしに果して豫言の適中せる不幸を見るに至りたりと。

○又

青森県下三戸郡百石村字二川目の田中惣十郎とて今年六十余の老人は何故か海嘯の前日今に大海嘯が来るから用心せよと村内に普く告げて警めたるに果して翌日大海嘯起りたるが被害の割合に人畜の死傷少かりしは全く惣十郎の豫言の為めなりとか。

○漁夫海嘯を知らず

九戸郡八木宿戸にて其当日沖合に出漁し居たる者四十余名ありたあるが一條の黒線北方より南方の沿岸を突きたりと。見る間に張り置ける網は頻りに揺動きて網内の魚類悉く逸出せしにぞ余りの不審さに薄気味悪けれどさり迚別に風波の虞もあらざれば同夜は其侭漁猟に従事し翌朝帰り来たりて変災の事を聞き扨は前夜の不審も之が為めにてありしかと。孰れも大に驚けりと云う。

○漁業の損失約二百万円

岩手県下に於て毎年漁業より得る収穫高は約七十万円と称すれどもこは表面上官職に対する計算にして実際収穫高は三倍以上なれば本年の損失のみにて約二百万円を下らざるべし。

○島嶼飛び岩角出づ。

北閉伊郡小本村の海岸より五六百間を隔離して一の龍甲と云える島あり。百雷の一時に轟くが如き響と共に此島五百間余を隔つる小本川口に転落し其水面より顕れたる岩の高さは一丈五尺程もあり。而して同川口は水の深さ平常は七八尋もありしかど俄に浅瀬となり。■が中より地盤の岩石突出せり。又同郡に島の越といえる海岸を距る三四十間先にありし宇利島は南方に傾斜して島の根突出せり。宇利島より北方に在りしタラヒ島は半ばは欠けて半ば北方二百間計り飛去て見ゆ。宇利島を離るる五六百間沖合に当り陸地より臨めば長さ七八間もあらんと覚しき島あり。此島転覆して上下位置を異にせりとぞ。

○船舶漁具

にして存せばよしや家屋器物を絶滅せられたりとて左まで歎くを要せずとは被害各地の声なり。由来釜石以北一帯の沿岸は鮪、■、鰹、鮑、鰈の魚族群集しさながら人の来りて漁するを待つあるに似たるの状態にて年々の収益亦頗る巨額に達し漁業税三万有余円を納付したる地方なり。彼の無情なる大海嘯は船舶、漁具、民屋、建物、財物を流亡破壊し去り彼等の中折角万死の中に一生を得たる幸運児も命の親と頼む船舶漁具を失うに於ては到底自活の途なしと天を仰で流涕し居れりと云う。

○夜行するものなし

幾万の死者を数分時に出せし事なれば海岸一面には亡者出ると称し壮丁と雖も夜行するものなし。若し余儀なき要用のあるありて数了の外に人を派せんとせば幾十倍の賃金を払うて三四名以上を傭うに非れば能わず。怯に似たりと雖も彼等の心事寧ろ憫むべき者あるなり。

○裸体の者多し

死屍を検するに裸体のものは半ば以上を占む。激浪の為め衣服を剥去られしもの歟毛髪抜け皮膚悉く剥落せるもの多きを以て親子兄弟と雖も之を見別ること能わず。故に衣服の附着し居りて其縞柄を見識れる人の生存するに非れば何人の死屍たるや判明するものなしと。

○人肉を好む魚

海栗と云う魚介ありて到て人肉を好むよしなるが近頃処々の海岸に漂浮する死体には「カゼ」一面に吸い着て全身真黒なるあり。又近頃引揚ぐる分に毛髪一本だに見えざるあり。是れ亦魚類に喰い去られしならんと云う。

○死体発掘の経験

人足が死体を発見するに始の中は何の見当もなく堆き雑具の間を掘り出せるより有ることもあり無き時もありて為に時間を徒費して取形付捗々しからざりしが近頃は経験熟し来りて掘る処必ず死体ありと云う。其は水を流すに其上に油を浮ぶ。之れを徴となすと。

○喪家の犬死屍を争い食う

各被害地海浜は日々死体の漂着せざるなく男女の識別さえ出来難き迄に腐爛し居る有様見るに忍びず喪家の群犬は食なきに苦み日夜海邊を駈けめぐりて死体を捜し争うて之を食い人の之を見て追わんとするあれば犬は却て人に向い来り其勢い当る可らざるにぞ之を退治せざれば遺民の危険は云うべからずとなり。

○両三年は漁業中止せん

漁夫の十分の九は溺死しけるが此一分は生存せるに拘わらず此処両三年間は漁業を営まざるの考えなりと。漁夫等の言によれば父兄妻子皆海底の藻屑となれり。自分等仮令い餓えて死すとも父兄妻子の肉を啖える魚介を採って生計を営むの惨酷なる能わずと。

○船舶被害

岩手県内の漁船は九分通り破壊せられ偶々船体を存するものも多少の損傷あらざるなし。人皆飯椀を無くなしたりといい居れり。所謂飯椀の数は地引網船建網船小漁船を合し六千八十一隻(二十六年末)其後本年まで三割の増加として約八千隻一隻三十円平均にて二十四五万円の損害に当るが如し。

○製塩場の被害

岩手全県の釜数約六百、産額二十四五万石に達し是れ皆一朝流亡して痕跡を存せず。

○義侠なる哉

一の関の人にして目下気仙郡世田前に寄留せる開業医佐々木寛治氏は事変を聞くや否直に薬品其他を携え綾里村に行き仮病室の主任医となり居れりと。世には他の勧誘さえ拒絶するものあるにさりとは義侠の至りにこそ。

○井水減ず

海嘯前井水の減じたるは事実なれど人多く心付かざりしなり。八戸の白金村に於ても当日井水の減少に心付きたる老人ありて故旧親族に戒告しオサオサ用意に怠りなかりしが居村の地盤高かりし為め激浪浸襲せざりしと云う。

○水火の責

八戸の近村に於ては当夜端午の祝宴最中ソックリ家を激浪に捲去られ次第に沖の方に持出されしがランプにても損じたりと見え忽ち一団の大火と変じ叫喚の声遠く聞えたりと云えり。

○葬式

死者生者よりも多き処あり。葬式なんどというが如き固より為し得べきに非ず。ドコでも構わず死屍の在る所に於て石油を注ぎ漂材を積重ねて焼くと。

○男女の割合

海嘯の為め死亡せるは概して男の百に対し女は百二十五の割合なりという。

○海嘯襲来の時刻

唐丹村は六月十五日午後八時十分頃に起り釜石町は八時三四十分の間に起り山田村に於ては九時頃に起れりと云う。其北方に至るほど時刻の遅きを見れば海嘯の南より漸次北に向えるを知るべし。又其来襲の模様にも差異あり。唐丹は極めて大きく激烈に一回来襲し釜石は僅かに間を隔てて二回の来襲あり。山田町は一回の来襲幾分の猶豫ありて二回目の来襲ありしなりと。

○経験者多く死す

今より四十一年前の海嘯は其来ること緩にして二階に居たるものは潮水の退くを待ちて緩々降り来り。無事に一命を助かりたるが故に此度の海嘯にも敢て驚かず。概ね油断せしが為めに助かるべきものも溺死したり。之に反して其の経験なきものは慌てて逃出したるが為めに生命を全うせるもの多しと。前後の海嘯大に其趣を異にせるを知るべし。

○越喜来より釜石に至るまで

外洋に向て相対する各村落は皆損害を受けたるにも拘わらず其間に於て南に向える根白、千歳及び北に向える大石の如きは左したる災害を受けず殊に大石は小白浜と相距る。遠からず海上一里とも離れざる。同じ唐丹湾に在りながら僅に一戸を損せしのみとは奇に似たれども波勢の及ぶ所横に受けるよりは正面に受くるの激烈なること通常の海浪に於ても知る可きなり。

○助命者の疾病

一たび海嘯に捲き込まれて不思議にも一命を助かりしものは生命こそ助かることは助かりたれ。概ね全身に重傷を負い且つ濁水を呑みたる為め胃病を起し或は非常の激動をなせし為め肺掀衝を起して気息奄々たるもの多し。釜石仮病院に収容せる患者の如き大抵皆此類なりと。

○宣教師靴を穿ちて死す

耶蘇宣教師仏国人某当夜海嘯ありと聞き或る一人と共に周章逃げ去らんとする時某は靴を穿たんとて波に浚われ他は跣足にて一歩早く逃げ出でたるが為めに命を拾う。靴人命よりも重きか。沈着も時にこそよれ。

○夢に海嘯中に漂う

胆の大なるが為めか将た寝坊の習慣あるが為めか一人の男は当夜寝し侭波に簸弄せられて或る山腹まで持ゆかれフト目を覚まして四邊を見廻し始めて其海嘯ありしを知りたりと云う。

○子故の闇の物狂い

岩手県気仙の駐在巡査山口某二人の子を抱きて波に捲かれ何時しか子供を取り去られ家族六人皆死失せて己れ一人生残り哀傷の余り心の狂いしにや官服を着せし侭頬冠をなし大風呂敷に握飯を包みて背負ながら此処彼処に死体を探して歩き居れりと。

○一念弥陀仏

浮世の望みと楽みの絶果てし哀れさは魂も藻抜の売となりし一人の老婆いずこより得来りけん。一個の鉦を持来り。地上にベタと座りて打鳴しつつ終日海上を望みて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

○生者生を希わず

帰るに家なく食うに米なく着るに衣なく頼るに人なし。此劇災仮令療せられたりとて何の甲斐かあるべき。なまじい生き長らえて人の助けを仰がんよりは寧ろ死する方よからめとて嘆くもあり。或は負傷して床に就き乍らつらつらと行末の覚束なきことを思うて病を増し之が為め遂に死に至る者も少なからずという。

○遭難と挿秧

一方には死屍累々として釜瓦乱堆し一方には少女田にかがみて苗を挿む之を詰る者あれば答えて曰死者如何ともすべきなし。然れども生者は明日の事を計らざるべからず。妾家を失うて旦夕の儲えなし。人の惨を哀まざるにあらず。妾の性命を如何にせんと情憐むべきなり。

○死体漂着

死屍は風次第にて処々に漂着す。或は一つ或は二つ。時として七つ八つ。一時に波打際に横わる男女老幼争いて走り行き我子か我親かと腐爛臭気あるをも顧みず争い索め居れりと。

○牛馬の死屍

何れも十二分に張り太り肛門広がり四足緊張し眼を剥出し睾丸膨れて小樽に似たる者ブラリブラリと波打際に在り。鳶鴉時を得て啄み居れりと。

○魚油を呑む

青森県被害地の民は皆漁業に従事し海嘯の五六日前は連日鰯の大漁あること百二十余年来曾て見し事なき程なれば之より搾り取りし魚油極て夥しかりしが此魚油は海嘯の為め悉く持去られて海面に充満せしにぞ。激浪の中に漂わされて辛くも一生を得たる負傷者は何れも魚油を呑しより医薬も之に妨げられ頓には其効を奏せず。赤十字社其他より出張せし医師治療上困難を極めたりと云う。

○寧ろ明放を善とす

戸を閉れば水の圧すること激しきを以て直ちに破壊せられ或は洗去らる。戸を明放に為し居たる家屋は却て流失せざるもの多しと罹災者は語れり。

○漫   録

●つなみの意義

一童子あり。問うて曰く。三陸地方の沿岸に海水の暴溢せるは先生の己に知り給う所なり。世人之をツナミという。ツナミの名義如何先生手を拍ちて曰く。善哉汝の問えること。是れ文学を修る者の知らざるべからざる所なり。今汝の為めに之を説む。夫れ津をつというは人のあつまるよりいえるにて。口津のつは。唾のあつまるよりの称なり。此の義は集字を。ツともツメとも訓むに照して明かなれば。ツナミは集り来れる波浪にて。即ち暴溢の大涛という意義なりと知るべし。童子又問うて曰く。ツナミというの外別名なきか。先生曰くあり。タカシオ(高潮)という。海潮の高く満ち来りて。陸に上るの義なり。増鏡に「そのころ波風ふきてたかしおというものいりていとおそろしく屋どもみな流れて」とあるを證とすべし。童子欣然として曰く。国語の意義幸に聞くことを得たり。漢名之を海嘯という。其の出処等如何と。先生曰く。海嘯の文字は名物六帖に拠れば。泊宅編に見えたり。同書にいう。海溢又謂二之海嘯一吏只云二海毀一と。又品字箋には海■とありて。海水徒作謂二之海■一と見ゆ。字書に峻波本作レ■也とあり。前の海嘯の嘯はウソブクと訓し。説分には吹声也と解せり。もと海の鳴るより称せるならん。ツナミはもと海面鳴動して襲い来る者なれば。差支なきも適当の熟字とはいいがたからん。海■はむずかしければ用うべからず。 実際は海溢の文字地震に対して適当なり。但少しく海嘯よりも
勢なきが如きの感あれば。海嘯の文字のみ。盛に行わるると知らる。又海立ともいう。海笑というは称異なり。草木子に。大風海舟吹上二平陸一高波上レ人謂二之海笑一とあり。博物類纂には。海笑者海水忽然分二開両邊一是也とあり。とにかくツナミの一種なるべし。吾は爾雅、■名、佩文韻府、五車韻瑞、韻会等の諸書を検せしも海嘯等の文字見えず。されば古くは用いたる者なきを知るべし。六帖に引ける泊宅編など。或は古き方か。以上説く所を以て漢字の意義を領すべし。童子大に喜び。得々として去る。乃ち書して画報の漫録に充つ。
 大田多稼曰く余頃者海嘯の字義に就き諸書を渉猟して考證する所あらんと欲ししに山下氏余に先だちて鞭を着けられたり。今之を閲するに其問答の義甚だ明瞭にして余蘊なし。所謂鬱して開かざるを開き塞ぎて流れざるを流すというに庶幾し然るに此者一二の新聞紙を閲するに海嘯と称する語に就きて頗る異聞に渉れるものあり。其説の当不当は姑く置き之を抄出して以て氏の遺を補うと云爾。
 海嘯という語は支那より伝来せしものにて支那に在りては別に此語を適用すべき事情あり。其顕象の常に起る所は抗州の抗州湾にして同湾の地形は鋭三角形を為し其二邊突頂の所に抗州府ありて銭塘江の可水此に注ぐ湾形已に以上の如くにして且つ遠浅なるゆえ東海面より寄来る潮流は此に至りて銭塘江の河水を堰止め二流相衝突して其堰止められし河水は余儀なく附近の低地を氾濫するに至る。此顕象は程度に差こそあれ毎年普通の出来事にして春秋二期特に劇しく沿岸の地は一面に水浸しとなり災害を被ること少なからず。其河流潮流共に相激して咆哮泡沫を飛ばすこと恰も海の嘯くに似たるを以て支那人は之を形容して海嘯とは云えり。即ち西洋にては eager or Wasserkrigと称するもの是れなりと。

●大海嘯年代記

海庭地震の結果は常に恐るべき海嘯となりて陸地に襲来し田園家屋を流亡し数多の生霊をして沈溺せしむるに至る。今此恐るべき海嘯被害の最大なるものを万国に照して索むるに千八百六十八年八月十三日ペリユ及びエクワードルの大地震には海浪天に漲りてペリユ南部なるアリカ府を覆滅し港内に碇泊せる船舶は簸弄飜揚之れを破壊し或は覆没して一隻の無難なるはなかりき。就中堅牢を以て多少自負したる軍艦の如きも一は陸上数町の地にまで押揚げられ他の一隻は全く覆没して更に形跡を認めざりしと云う。次で千八百八十三年八月クラカタウ裂震の際には高さ百呎程なる大浪サンダ海峡を横流して是れが為めに溺死したるもの無慮三四万人の多きに達したりとぞ。又本邦に於ては寛永四年の頃なりき。層楼の如く突起せる海嘯は観る観る東南部なる沿海の地を一掃して数万の居民を引き去り船舶の覆没するもの算なく其惨状目も当てられざりしとなん。之れに次で最強なるものは今回の海嘯とす。
三陸大海嘯の原因に就ては未だ精細なるを知るに由なしと雖ども蓋し海底の地盤は滑りて地層の墜落せしに依るならんと。而して其震源のタスカローラ深海に在りしは一般学者間の確説なるものの如し。此タスカローラ海とは先年英船タスカローラ号の発見測量したる世界第一とも云うべき深所にて東奥海岸を離るる五十里内外より始まり其面積は幅凡百里長三百里計にして北は北海道千島択捉沿岸より南は石巻附近に渉れり。其中尤とも深き凹所は四千六百五十五尋あり。此地層は概ね堅牢なる岩石より成立したる石垣の如きものなりと云う。今古来より本邦に於ける海嘯中顕著なるものを左に列記せむに
白鳳十三年十月十四日      (天武天皇)
  土佐 蒼田変じて海となるもの凡五百万坪、其他諸国に海
     嘯あり。
天平十六年五月         (聖武天皇)
  肥後 地震海嘯の為め民屋水に漂没す。
天平神護二年六月五日      (孝謙天皇)
  大隅 神造新島附近海水溢れ民皆流亡す。
貞観六年七月十七日       (清和天皇)
  駿河 此附近民家海に没す
貞観十一年五月二十六日     (■  上)
  陸奥 海上咆哮の声雷霆に似たり。驚涛涌潮泝洄漲溢し忽ち
     城下に迫り海を距る数百十里森々として際涯を知ら
     ず溺死するもの数千人陸産土毛殆んど遺なし。
仁和三年七月十日        (光孝天皇)
  摂津 最とも甚しき損害あり。其他七道諸国にては海潮陸に
     漲り溺死するもの挙て算うべからず。
天慶元年六月二十日       (朱雀天皇)
  摂津 海嘯あり。
元弘元年七月三日        (後醍醐天皇)
  紀州 千里浜に於て海嘯起り海中二十余町陸となる。
正平六年六月十八日       (後村上天皇)
  阿波 雪港海溢れ民家千七百戸流失す。
■年七月二十四日        (■  上)
  阿波 鳴戸潮洄き陸となり巨皷あり。石上に見はる。
  摂津 難波浦海溢れ死する者数百人。
弘和三年十一月五日       (後亀山天皇)
  摂津  大物浦に海嘯来る。
明応七年八月二十三日      (後土御門天皇)
  伊勢 大いに震い海水激し溺死する者一万余人。国崎島没す。
  相模 鎌倉地震一書夜凡そ三十回江島地峡海となる。
  安房 海嘯あり。内浦誕生寺為めに破損す。
  紀伊 海嘯あり。
天正十三年十一月二十九日    (正親町天皇)
  遠江 今切邊湖水溢れて死人夥し。震動十日間程止まず。
天正十八年二月十六日      (後陽成天皇)
  安房 海嘯甚しく山崩れ海埋る
慶長六年十二月十六日      (後陽成天皇)
  上総 海嘯あり
  安房 山崩れ海埋り潮洄ること三十余町明旦海大いに鳴り
     海水溢れて人畜死するもの算なし。
■十九年十月二十五日      (後水尾天皇)
  安房 海溢れ死するもの多し。
  上総 ■じ。
寛文二年十月          (後西院天皇)
  大隅 大震海嘯起る。
元禄十六年十一月二十一日    (東山天皇)
  武蔵 江戸城廓等壊れ茅屋一も全きものなし。
  上総 海嘯あり。其他関東諸国に死人算う可からず。
  安房 海嘯尤とも甚し。千余の家屋を一時に■仆流亡せり
  相模 箱根山崩れ海水暴溢し溺死者頗る多し。
寛永四年十月四日        (東山天皇)
  摂津 此日風少しも吹かず空晴れ一点の雲を見ず。暑きこと
     三伏の如し。暫くありて東南より搖出し大地二三尺も
     搖り裂け人家将棋倒しの如く潰れ次で海嘯襲来し民
     家共に流没し大坂殊に甚し。
     大坂にて溺死せし者を諸書に就き調ぶれば左の如し
      月堂見聞集には     一万二千人余
      塩尻には        一万二千人
      続談海には       三万六千人余
      師英記には(圧死共)  一万人余
      谷陵記には(■)    一万五千二百六十人
     兵庫鳴動劇しく船を覆し浜を破り溺死するもの算う
     る能わず。
  和泉 堺の在家全きものなし。夷島崩れ潮海となる。
  伊勢 桑名高波にて流され潰家多く行方知れざる死人多し。
  志摩 鳥羽松平和泉守の領分城共に津波の為めに流失し人
     馬ともに行方知れざるもの算え難し。
  尾張 知多郡の海邊海嘯起る大野邊の建家多くは流失す。
  三河 二川汐来て湊を破る。
  遠江 荒井十二町水没し地形大いに変ず。
     白須賀浜松共に高波の為め民家流さるるもの数多し。
     荒井の関所は形跡だになし。
  駿河 津波海岸に甚し。
  伊豆 下田津波起り民家多く流失し人畜死傷甚し。
  紀伊 和歌山の民家数千軒海嘯の為め流没し溺死するもの
     幾千人と云うを知らず。
     熊野高汐にて民家■倒溺死者頗る多し。今其大略を挙
     ぐれば
      長島村   民家残らず流失男女百余人没す
      尾鷲村   民家千余戸  男女総て溺死
      桂 村   五六十戸   人皆死す
      白 村   三十戸    人皆死す
      大本村   六百戸    人皆死す
      大泊、小泊村  五十戸  人皆死す
     右四日より六日まで汐満ち埜尻村より船にて通路
  阿波 徳島潮入り溺死夥し浅川の在家概ね流失す。
  伊予 宇和島大潮打込み家財悉く流失。吉田浦の民家五十戸
     計流失。此邊潮の高さ八九尺程なりしと。
  土佐 高潮にて溺死者男女千七百七十人。負傷者七百人。牛馬
     の斃るるもの四百頭。
  豊後 臼杵に津浪あり。
  日向 高鍋高汐
      因に記す。以上記する如く諸国に波及したるは此歳
      寛永山噴火の結果ならん。
正徳二年三月          (中御門天皇)
  越前 勝山に於て山岳崩れ海水溢れて人畜多く死す。
■ 九年四月          (■  上)
     得撫島海嘯あり。露国船を飃蕩して山上に打上げ再び
     海に下すこと能わず。露国人船を捨てて去る。
享保十一年二月二十九日     (中御門天皇)
  越前 勝山領殊に甚しき津浪あり。民家田畑を没し泥水湧出
     て大河の如く人民牛馬無数溺死す。
天保六年六月二十六日      (仁孝天皇)
  陸前 仙台領大地震城壘大破す。海邊大津浪にて民家流失す
     るもの数百戸。死人数知れず。
弘化四年十一月四日       (孝明天皇)
  伊豆 下田港溢れ十八ヶ村荒野となる。
  紀伊 湯浅の民家千余戸を破り大島を沈没し島民皆死す。
  伊勢 山田の町家数百を破り人多く溺死す。
  摂津 大坂の市民七百余人道頓堀に溺死す。
  和泉 播磨諸国の海岸洪波に洗わる。
安政元年十一月四日
  伊豆 下田港悉く破壊す。当時露国の軍艦ヂャナ号該港に在


     りて退潮の際破損す。
  紀伊 尾鷲浦、林浦、中井浦、共に津浪あり。溺死百六十三人
以上記するものを以て明治以前の顕著なる海嘯とす。

●守田氏の身体保全法

人生貴賎の別なく誰か性命を愛惜せざるものあらん。然りと雖も人に不虞の災無謀の変なるものありて貴重の性命も或は免ること能わざる場合あり。若し夫れ不虞の災無謀の変之を前知することを得べくんば天変地異必ずしも恐るるに足らざるなり。彼の寶丹を以て有名なる守田氏が著わせる身体保全法なるものは所謂災害前知法にして氏が四十余年間実験して一も愆らざる所の奇法なりと云う。然り而して其法や敢て氏の捏造せるものに非ず。蓋し我が軍法の奥義より得たるものにして古来相伝せしなるべし。
 地理塚物語巻八赤松律師兵書之事 江州高島郡二尊寺という寺に赤松律師が兵書のうつしなりとて巻物侍り。その中にむかし九郎判官義経くらま山にて天狗より相伝せられ侍るといいて兵法口舌気という事しるし侍り。即ち一ツ書にして云々おとがひと手の脈を一度にうかがうに和合して同じようにうつは吉ちがいたるはいむべし。是を生死両舌の気といえり。
 傍廂中巻三脈の法 今大路道三大人始て思い得られし法なれば医書になく師伝もなければ医師は絶て知らざる事なり。明応の頃遠江荒井の今切の災を未然にしりてその駅を立のかれしもこの三脈なり。道三大人の門弟に三脈を伝えられしが一子相伝にて他にゆずらざりしを其筋いたくおとろえて軽く商人となりしが我門弟にてありけるをいたく貧しければ諸物のなきを恥るさまなるに我方よりはさる事にかかわらずまめやかに怠りなく学びなばそれを諸物として精学怠るべからずといいしに猶あかずやありけん。家に秘め伝えたる三脈の法あり。是を諸物の代りにとて我に悉くゆるしをしえたり。其者木曽の山中にて杣人の大木を切かけて置しに大風にてその木倒れておしにうたるべきを未然に知りてのがれしとぞ。其時のさままで我におしえたり。そは眉陵人迎扶陽也火難盗難劔難落馬破船病難死亡など未然にしるにたれり。我この法を受しより六十余年の間たびたび其験見えたり。
窃に思うに此二書に載する所は即ち守田氏が伝うる所の秘法にあらざるなきを得んや。然れども此法や之を支那に求めて固より有らず。之を西洋に求めて亦有らず。所謂古今東西未だ曾て有らざるの奇法と称すべきのみ。古人は之を一子相伝として他に譲ることを欲せざりしに守田氏此法を得てより之を秘するの不可なるを知り之を天下万衆に頒ちて人命を安全の区に措かんと欲す。是れ固より慈恵の意に出でたるもの吾人は速に其法を講じ以て性命保護の策を為さざるべからず聞く。頃者茨城県那珂郡の坂本辰彦氏書を守田氏に寄せて其書四千七百三十部を注文したりという。此奇法にして巳に世に出でたりとせば購読者の日に月に多きを加うるは敢て怪むに足らざるなり。想うに世の此法に因りて其恩恵を蒙る者多々あるべく三陸地方の人士にして今回の海溢に此恩恵を蒙れる者も亦多々ありしならん。然らば即ち保全法は家々欠くべからず人々宜しく備うべきの神書なり。嗚呼守田氏は■者寶丹を調して広く人を済い今又此法を著して天下の万衆を済いつつあり。守田氏の如きは所謂仁人君子にして世を済うに志ある者是れ吾輩の特筆して世上に広告するに吝まざる所以なり。
頃者守田氏より身体保全法二部寶丹五十個及び自筆の日課観音福人の図を弊堂に寄贈せられたれば茲に紙上を以て其厚意を鳴謝す。


変災前知 身体保全法概要
今回陸前陸中陸奥三国の海邊に起りたる大海嘯は実に未曾有の大変にして驚愕悲歎に堪ざる所なり。夫れ此等の如き変災を前知するの一奇法は兼てよりあることなるを世人の知るもの少なきは惜しむべき事と思い小生十五歳の時より経験せし実譚を録して過る明治二十五年施印数万枚を配布したる故自然三陸の間に於ても之を今回に実験したる人ありぬべし。扨此法の起りは何時なるや詳かならざれども或隠医が伊豆の国海岸に起りたる海嘯を前知して数十人引連れ山に逃げ上りて大難を免がれたることあり。其方法たるや至て簡易にして何人にても之を行うを得べく其順序は図に掲ぐる如く
第一図
第二図
先左手の大指と食指とにて(第一図の如く)奥の下歯の左右の根にある(大迎の穴)動脈を診し次に(第二図の如く)右の手を以て左の手の脈度を診するなり。(之を自身に行うも他人を診するも同様なりとす)而て奥歯の根左右の手共三箇所の脈動同一なる時は無難の證にて之を反し脈動乱るる時は二十四時間内に一命に拘るべき大難あるの前兆なりとす。
斯るときには速に其所を立退き脈動同一なる所に至て止まるべし若し何方に往きても一人のみ脈動乱れ他の人々は平脈に復したるときは是れ一人丈け別に災難のあるか又は病災に罹るものと知るべし。兎も角此度の大海嘯の前に於て此方法を広く試みたらんには非命の死を免れたる人も必ず多かりしならん。時節未だ至らずして神術を普及し得ざるは小生の遺憾に堪ざる所なり。茲に概要を録し世の人々の身体を保全するの一助となさんと欲す。冀くは一読の上試験せられんことを請う。
東京市下谷区池之端仲町二十七番地
明治二十九年丙申六月吉辰  宝丹本舗   十世  守田治兵衛
                      父  守田長禄翁謹述
二白此方法に付ては曾て身体保全法と題する一小冊を発行し杉宮内大夫閣下の賛成を賜わり題字を手書せられたり。又諸氏の確報をも収録したるを以て神術の実歴を知るを得べし。此書一部金弐十銭なれとも此際に限り郵券代用を以て求めに応じ且つ郵送料は申受けざるべし。

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第一図
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第二図

風俗画報 下編

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志津川にて孝子天助を得るの図
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小白浜の磯崎富右衛門氏倉庫を開きて窮民を救うの図
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志津川にて小児死母を抱き起すの図
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歌津村の某婚礼を行う時海嘯に遇うの図
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小友村の人漂着の死体を争うの図
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大谷郵便局長遭難の図
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相川村被害後村児鉦を鳴らし旗を翻して遊び戯るの図
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志津川の人民流笛を聞て騒擾するの図
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釜石の永澤某遭難の図
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重茂村の漁夫海上の漂民を幽霊船と為して救助せざるの図
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志津川の江山亭男世帯にて旅客を遇するの図
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大舟渡の民被害後仮屋に疲労を慰むるの図
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大浦村某家の妻女衣服を柱に挟まれたる為め溺死を免がるの図
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釜石町海嘯被害後の図
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溺死者追吊法会の図
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大谷にて一小女臼中にて助命を得るの図
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久慈町魚問屋雇人流馬に跨り逃るるの図
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白浜村の一小児神棚に圧せられて母と祖母とに別るるの図
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久慈町の被害民寺中の仏旗を取出して身に纏うの図
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唐丹村惨況の図
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釜石町被害後惨況の図
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宮古下浜被害後惨況の図
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吉浜村にて海嘯の際大石二分して欠落たるの図