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「稲むらの火」と史蹟広村堤防 西太平洋地震・津波防災シンポジウム(事務局:気象庁)

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写真 「稲むらの火」と史蹟広村堤防 西太平洋地震・津波防災シンポジウム(事務局:気象庁)

広村を襲う安政南海地震津波(1854年)の実況図

浜口梧陵(儀兵衛)
(1820-1885)


広村を襲う安政南海地震津波(1854年)の実況図(古田庄右衛門著「安政聞録」より)(養源寺蔵)
 高さ約5メートルの大津波が15世紀初頭に築かれた波除石垣を乗り越えて村を襲い、背後の田んぼに浸入している。特に村の南北を流れる江上川(右側)と広川(左側)に沿って激しく流入している様子が描かれている。浜口梧陵は、田んぼの稲むら(地元では「すすき」と俗称)に火を放って、暗闇の中で逃げ遅れていた村人を高台にある広八幡神社(右上の鳥居の奥)の境内に導いた。


広湾上空から見た広川町広地区の海岸の現況
 安政地震津波の実況図とほぼ同じ方向から見たほぼ同じ範囲が写っている。海岸に沿って細長く続いている松並木(防潮林)の背後に、安政地震津波の後、梧陵が私財を投じて築いた広村堤防(防潮堤)がある。広湾の埋め立てが進み、造成地の中央に町役場の新庁舎が見える。この写真が撮影された後に、その左右に体育館や分譲住宅が建てられた。津波や高潮に備えて、埋め立て地は、高さ7メートルのコンクリート護岸で囲まれており、右側の江上川河口には水門が設置されている。右側の白い大きい建物が紡績工場、その手前が耐久中学校の校舎とグラウンド。右手奥の小さな緑の部分が避難先の八幡神社。

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写真 浜口梧陵(儀兵衛) (1820-1885)
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写真 広村を襲う安政南海地震津波(1854年)の実況図(古田庄右衛門著「安政聞録」より)(養源寺蔵)
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写真 広湾上空から見た広川町広地区の海岸の現況

浜口梧陵の偉業

浜口梧陵の偉業
 安政地震津波の来襲時、稲むらに火を放って、村人を助けた梧陵は、被災者の救済や復旧にも尽力した。さらに、百年後に再来するであろう津波に備えて、巨額の私財を投じ、海岸に高さ約5メートル、長さ約600メートルの堤防を築き、その海側に松並木を植林した。(説明板参照)。梧陵は約4年間にわたったこの大工事に村人を雇用することによって津波で荒廃した村からの離散を防いだ。


感恩碑・津波祭(まつり)・梧陵像
 後世のため私財を投じて堤防を築いた浜口梧陵らの偉業に感謝するため、昭和8年村人によって感恩碑が、堤防中央部の海側の波除石垣の上に建てられた。毎年の津波祭はこの前の広場で行われ、小・中学生も式や堤防補修の行事に参加する。また、町立耐久中学校の校庭には、梧陵の銅像と「稲むらの火」の顕彰板が建てられている。これらを通じて、防災意識の次世代への継承の努力が続けられている。

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写真 浜口梧陵の偉業
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写真 感恩碑・津波祭(まつり)・梧陵像

広村堤防横断図

広村堤防横断図(北側から南向きに見た場合。海までの距離は埋め立て前)
 海側から(右から左に向かって)、18世初頭に畠山氏が築いた波除石垣(防浪石堤)、浜口梧陵が植林・築造した松並木(防浪林、防潮林)と土盛の堤防(防浪土堤)がある。


広村堤防・松並木・波除石垣 松並木・波除石垣
 いずれも昭和10年代の写真、これらが背後の市街地を昭和南海地震津波から護った。


広村堤跨の現状
 松並木は一度マツクイムシで全滅、2代目が育っている。


広村堤防中央部の鉄扉(通称・赤門)
 上は昭和南海地震津波の侵入を防いだ旧赤門(昭和10年頃の写真)、下は現在の赤門。

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写真 広村堤防横断図(北側から南向きに見た場合。海までの距離は埋め立て前)
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写真 広村堤防・松並木・波除石垣 松並木・波除石垣
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写真 広村堤跨の現状
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写真 広村堤防中央部の鉄扉(通称・赤門)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
(1850-1904)


中井常蔵が師範学校で学んだ英語テキストの表紙(遺品)


英語テキストの“A Living God”の第1ぺ一ジ


ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の“A Living God(生き神様)”
 1896年ラフカディオ・ハーンは、日本の神の概念は諸外国のそれとは著しく異なっていることを述べた作品(A Livi㎎ God)を著した。その中で日本では尊敬される人物は生きながらにして神として祀られることがあるとして、取り入れたばかりの稲むらに火を放って村人たちを高台に導き、その命を津波から救い、神として祀られた浜口五兵衛という人物の活躍を描いた。ハーンは、この年の6月に、三陸海岸を襲い2万2千人もの犠牲者を出した大津波のニュースをきき、かねて伝えきいていた安政南海地震津波の際の浜口梧陵の逸話をヒントにして、この感動的な物語を一気に書き上げたようである。実話とはかなり違っているところがある。実話の梧陵は祠られることを固辞した。(その他の相違点は次頁の表参照)


「稲むらの火」執筆当時の中井(三ツ橋)常蔵
(1907-1994)


中井常蔵が学んだ大正時代の耐久中学校と広の海岸
 中井は朝夕広村堤防の上を歩いて通学した。校舎は元は堤防内にあったが、明治39年に堤防外に移転した。


不朽の防災教材「稲むらの火」
 昭和12年から10年間小学国語読本(5年生用)に掲載され・これ、を学んだ児童に深い感銘を与えた。現在でも不朽の防災教材として高く評価されている。中井常蔵が昭和9年に文部省の教材公募に応募、入選した作品が採択されたものである。中井は、広の隣町・湯浅町の出身で、梧陵が創立した耐久社の流れをくむ耐久中学校を卒業した。師範学校で郷土の偉人を題材にしたラフカディオ・ハーンの“A Living God”を学び深く感動し、その真髄を小学生にも分かる短い作品に凝縮したものである。応募時は南部小学校の教員であった。(次ぺ一ジは、その全文)

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写真 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) (1850-1904)
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写真 中井常蔵が師範学校で学んだ英語テキストの表紙(遺品)
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写真 英語テキストの“A Living God”の第1ぺ一ジ
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写真 「稲むらの火」執筆当時の中井(三ツ橋)常蔵 (1907-1994)
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写真 中井常蔵が学んだ大正時代の耐久中学校と広の海岸

稲むらの火

尋常科用
小学國語讀本 巻十
文部省


第十 稲むらの火


「これは、たゞ事でない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた・しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無氣味なものであつた。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大變だ。津波がやつて未るに違ひない。」と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出未ない。
「よし。」
と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛出して来た。そこには、取入るばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ。」
と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。續いて、老人も女も子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。
 高臺から見下してゐる五兵衝の目にはそれが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言つた。
「うつちやつておけ。─大變だ。村中の人に来てもらふんだ。」
 村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人々々數へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。
 其の時、五兵衝は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やつて来たぞ」
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて来た。
「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫ったと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。
 人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高臺では、しばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなった村を、たゞあきれて見下してゐた。
 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのたと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひぎまづいてしまつた。

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尋常科用 小学國語讀本 巻十 文部省 第十 稲むらの火
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表 実話と「生き神様」の主な相違

安政南海地震津波の浸水域  昭和南海地震津波の浸水域

安政南海地震津波の浸水域
昭和南海地震津波の浸水域


両図とも羽鳥ほか(1983)の調査結果を参考に、昭和40年代の地図に概略の範囲を描いたものである。地図は、津波来襲時のものでも、現在のものでもはないことに注意。(津村,2003)


昭和南海地震津波における広村堤防の効果と教訓
 安政南海地震から92年後の昭和21年12月21日の夜明け前4時20分頃、昭和の南海地震が発生し、約30分後に高さ4-5メートルの大津波が広村を襲った。浜口梧陵らが次の大津波に備えて築いた広村堤防は、村の居住地区の大部分を津波から護った(右図)。村全体が浸水し、死者36人の大被害をこうむった安政地震津波の場合(左図)と比べてみれば、その効果は歴然としている。しかし、堤防にさえぎられて南西側にエネルギーを集中した津波は、江上川とその支流の小川にそって侵入し、堤防の外側(南西側)に建てられた中学校や紡績工場とその社宅(県外からの入居者が多かった)を襲い、さらに村落の背後の田んぼに流れ込み、逃げ遅れた人々を押し流した。この時の広村の死者22人の多くはこの付近で亡くなっている。この立地条件の危険性は、1930年代から南海地震の再来の可能性を指摘し、その予知研究と防災啓発に奔走していた地震学者今村明恒によって、地元にも伝えられていた。このような地形条件による津波のふるまいについて十分考慮して対策を立てることの重要性を改めて認識させた。


江上川付近の津波被害
100トンほどの機帆船が川岸に打ち上げられ、橋が流失している。


注意!「津波の前には必ず潮が引く」とは限らない!
 「稲むらの火」では、津波の前に潮が引き、海底がみるみる現れてくる光景が印象深く描写されている。全国的に、津波の前には必ず潮が引くと信じている人が極めて多いが、地震の起り方によっては、潮が引かないで急に高い津波が襲うこともあるので注意が必要である。「稲むらの火」を教える方は必ずこの点に注意していただきたい。逆に、地震を感じなくても、異常な引き潮に気付いた場合には、津波が来ると考えて迅速に避難する必要があることは、「稲むらの火」の教える通りである。

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地図 安政南海地震津波の浸水域 昭和南海地震津波の浸水域
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写真 江上川付近の津波被害

南側(浜口山)から見た広川町の海岸

南側(浜口山)から見た広川町の海岸


上:昭和南海地震の約十年後(昭和30年頃撮影)
 正面に長く続く松並木(防潮林)の背後に広村堤防があり、その後ろの街並みを昭和南海地震津波から護った。しかし、堤防に阻まれた津波はその外側、特に江上川沿いに浸入、グラウンド右に見える中学校校舎や、右端に見える紡績工場とその社宅を襲った。広村の死者22人の多くがこの付近で亡くなった。


下:現況(平成14年撮影)
 広湾の埋め立てがすすみ、造成地に役場庁舎や分譲住宅が建っている。手前左に江上川河口の水門と住宅地が見える。


 このたび、インドネシア及びフィリピン両国の地震・津波の専門家及び防災担当者をお招きし、東南海・南海地震対策の最前線である和歌山県において「西太平洋地震・津波防災シンポジウム」を開催することとなりました。この機会に、津波防災の先駆者である当地出身の浜口梧陵とその献身的な活躍などを知っていただきたく本冊子を作成しました。地震・津波防災を考える際の一助としていただければ幸いです。
西太平洋地震・津波防災シンポジウム(事務局:気象庁)
発行:平成15年3月
制作監修:津村建四朗(和歌山県広川町出身、元気象庁地震火山部長)

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写真 昭和30年頃撮影された広川町の海岸
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写真 平成14年に撮影された広川町の海岸