古江の漁村生活史
東南海地震と津波
昭和19年(1944)12月7日午後1時35分熊野灘(新宮沖)の海底をM8.1
の激震あり、北は仙台南は宮崎に至る迄この地震を感じた、震害の最も大きかったのは
静岡、愛知の両県でその他倒壊家屋があった府県は、三重、大阪、和歌山、滋賀、京都
、兵庫、徳島、香川、山梨、長野、福井、石川で規模が極めて大きな地震で
あった。 震央(震源の真上にあたる地点)に近い熊野地方で被害が殆どなかったのは
堅い岩盤の上にあるためといわれている
震害よりも西は高知の清水から東は銚子に至る海岸を襲った津波による被害の方が甚大
であった。 古江では海岸通りの家は浸水したけれども賀田では人家流失176戸死者
24名、曾根人家11戸流失し、その他海岸通りは全部浸水しその中には半壊の家もあっ
た。梶賀は漁具等流出したようであったが古江は大過なく被害は軽微であった。
第1回目の津波は地震が止んで約10分後に来襲したともいわれ、大方干渇になった後
に二階建ての公会堂の屋根よりも高い(7−10M位)波が奥へ奥へと進み家いえは土
煙りをあげて将棋倒しになり、波しぶきと土煙で海も空も見えなかったといわれ、大垣
(鈴河の奥の方)から700Mの奥まで押しよせ低い所の家は全部流失した。
第一回目の津波から5分後に第二回、第三回と来襲し飛鳥神社下から対岸の [深津呂]
にかけて一線をかくし第二派が上段になり沸き立つように荒れ狂い、前面の滑らかな
引潮海面との落差が3Mに達するという異常現象が見られたという。
かくして5回目の波が引いて海は平穏になった。
古江では大川福松氏の娘(すま)が役場からの帰途、賀田郵便局前(現在の農協支所
付近)で津波にさらわれて行方不明となつったが4日目に大垣の付近で死体となって
発見された。
賀田では郵便局で3名の死者があり、この時古側橋の鉄筋コンクリートの橋も崩壊した
この時の津波の状況について父(半蔵)が賀田の百五銀行支店で用を達した後、途中で
出会った体験を「家録」に詳しく書き残しているが、その末尾に次ぎのように書き添え
ている。
「地震、津波、ノ来襲ヲ考察スル時ハ、安政ノ大地震ヨリ明治32年迄46年間、同
33年度ヨリ昭和19年迄約46年間、津波ハ安政ヨリ昭和19年迄、約92年間ナリ。
コレヲ考ヘルニ46年等ニ大地震アリ92年ニ津波アリト考ヘ用心スベキナリ」と。
これまでの大地震が発生した年月の間隔は90−147年間のようであるが地殻変動を
起こすエネルギーが蓄積されるには、約100年前後かかることになるといわれている。
しかしながら必ずしも周期的に起きるものとは限らないようで、この [東南海地震] の
2年ご、すなわち昭和21年(1946)に地震と津波が発生しているのである。
従って地殻が不安定であるならば、安定するゑで短期間のうちに何回か地震が起こりう
る可能性があると見なければならない。 又注目すべき点として、熊野地方の過去の
大地震の発生の状況をみると10月頃から12月にわたる間に起つている場合が多い
事で、見逃すことの出来ない点ではないかと考えられる。
安政の大地震と津波(嘉永7年(1854)6月13日大地震)
同年11月4日朝9時大地震と大津波。(東海道沖地震)約32時間後に [南海道地震]
から5日17時大地震あり、同年11月2日に[安政]改元されたので一般には安政の
大地震、津波と呼ばれている。
東は伊勢の周辺から九州の東北端に至る間、家屋の倒漬も甚だ多く、津波は房総半島
から九州東岸に至るまでの間を襲った。
熊野灘(大和、紀伊)地震
明治32年(1899)3月7日午前9時40分に烈震。震源北緯33度50分
東経136度30分の海底。
この日は朝から蒸し暑いような気圧の高い日で屋根の雀は、あえぎながら軒下へ落ちて
くるのを見たと記録されているが異常日であったのであろう。
尾鷲、木本管内で倒壊家屋35、破損62、死者7で三重県全体の負傷者は199人で
あった。地震直後の状況は土煙りが立ち、あたりが暗黒のようになり安政の津波を思い
出して避難したが幸いにも津波はなかった
東南海道地震と津波
(昭和19年 [1994] 12月7日午後1時35分発生。
東南海道地震と津波
昭和21年(1946)年12月31日午前4時19分潮岬南南西約50KMの海底を
震源地とするM8.1の南海地震があり、津波が来襲した。昭和19年の地震よりは
一層雄大な地震であり損害を覆った範囲は一府24県にわたっている。
地震による被害は比較的少なく、主として津波によるものであったが、約1時間後に
津波が来襲した。
熊野灘沿岸の津波は一昨年のものより約1.5M速力も弱く前回より被害は少なかった。
即ち賀田、曾根、古江とも死者は無かった。
流失18戸、床上浸水26戸、床下31戸、倒壊6戸の被害と麦畑も3分の1が収穫不、
能、山林その他にも被害があった。
古江では12−13軒浸水があった。
以上概略より
著者のプロフィール
著者 、大川俊平
略歴
大正元年11月23日生
平成5年1月24日没 享年80歳
農林省水産講習所 (現東京水産大学)卒業
昭和16年東京府庁、(現 都庁)に入庁
昭和41年迄勤務。
昭和41年都水産試験場長(部長職)を最後に退職。