巻頭寫眞
序
序1
一昨年三月三日深夜の夢を破つて突如三陸地方に激震に次ぐ津浪の襲來あり爲めに幾多の人命財産を損し其の慘状實に正視するに忍びざるものがあつた 災害直後 畏き邊より侍從御差遣救恤の資を御下賜あらせるれた
聖恩廣大誠に感泣の外なかつた次第である
又縣下は素より國の内外に渉り深甚の同情翕然として罹災地に集り爲に慮急救護の實を擧ぐることを得たことは永久に忘れ難い感謝である
災害善後の措置に就ては地元町村縣廳其の他關係各廳青年團等の不眠不休に近い奉仕努力と殊に軍隊が最も迅速に救護復舊の端緒を開いて人心の安定に致された絶大の功勞とは全く涙なしには追想することの出來ない所である當時帝國議會は閉會に間近い頃であつたので予は特に取急いで復舊復興の案を樹て之を提げて上京
石黒岩手縣知事と共に追加豫算として補助費を計上されんことを政府に懇請したのであるが中には期日の餘裕少きの故を以て其の無理なることを極言せられた向もあつたが災害の現状を知悉して居る自分等としては素より斯る説に耳を籍す譯にはゆかなかつたのであつたが遂に關係各省の熟烈なる配慮の下に追加豫算の提案を見るに至つた時の喜びと鈴木、若槻の兩氏が自分等に對し政府さへ適當の案を提出するならば一時間ででも衆議院は議決して見せると言明せられた熟意に對する感激とを今に忘るることが出來ない
臨時議會への復舊復興の提案は理想としては不充分のものであつたらうが縣會に於て滿場感謝を以て迎へられたのであつて自分の長き地方官生活での空前のことであり如何にも地方官となつた甲斐があつた樣に深い感激に打たれたことであつた復舊復興の事に當りては轉禍爲編罹災地産業の振興と將來の災厄防止とを主眼とし殊に住家を安全地帯に移すことに重きを置いたのは災害に依つて痛切に訓へられた善後の一施設であつた
由來東北の地は天恵薄くして加ふるに災繭荐りに至る 今や東北振興の聲は天下の輿論たるの觀があるのも素より當然のことである 自然現象は人力の如何ともすべからざるものの如きも之れに基く慘害は智識と經驗との力に依つて其の程度を輕減することの出來ることは言ふ迄もない 科學の進歩限りなしとせば或は慘害の根絶も不可能で無からう
人は歡樂に死して憂患に生く 東北人の剛健にして我慢強き性質は我が日本の大きな誇の一つである
東北人は決して累年の災鍋に屈することの無いことを確信する 科學は東北の天地にこそ其の全威力を發揮すべきで無からうか やがて東北は東北人自身の不屈不撓の精神と科學の力とに依って立派に更生して希望の樂土と化することも不可能事であるまいと思はれる
之を北歐諸國に就いて見ても其の土地必ずしも豊饒ではない其の氣候必ずしも適良とは云ひ難い 而かも彼等は深く自ら信じて他に依頼せず能く自然を克服して文化を建設し天恵厚き土地を支配して世界を濶歩せるにあらずや
予は切に東北人各位の發憤奮起を祈望して已まないのである
本震嘯災害誌は繰返すことあるべき歴史の好資料とならずして繰返さない歴史の參考資料となり 東北人の感謝と奉仕努力の比類なき記録たらんことを切望する
自分は震嘯災害當時乏きを宮城縣知事の職に承け微力を災害善後の措置に致した關係より宮城縣震嘯災害誌成れると聞き需めらるる儘に當時を追想し所感の一端を述べて序に代ふる次第である
昭和十年三月三日 文部次官 三邊長治
序2
昭和八年三月三日、三陸地方を襲つた震嘯災害は、未曾有の慘害であつて、幾多貴重な人命を奪ひ、巨額の財産を海底に没し去つたのである。
恰も予の宮城縣に任を承けたのは、災害復舊事業の緒に就いた際であつて、不幸の罹災縣民をして、一日も早く其の堵に安んぜしむるを要した。然るに被害範圍は極めて廣く、その程度も亦數十年來甞て見ざる慘状にして、微力これが復舊の任に堪ふるを得るやを疑つた次第であつた。幸にして 畏くも上皇室の優渥なる恩澤に浴し奉り、又政府當局及國の内外より寄せられたる絶大なる支援同情に加ふるに、同僚各位の寢食を忘れたる努力と、罹災縣民の不屈の奮闘により、克く此の難事業の進捗を圖るを得たのである。此の間、特に感激に堪えなかつたことは、東久邇第二師團長宮殿下に於かれては、沿岸住民の身上に御心を垂れさせ給ひ、親しく駕を罹災地に枉げさせられ、復舊復興状况の御視察を賜つたことで、此の光榮と感激とは三陸沿岸縣民の永く膽に銘じて忘れ得ない所であらう。
由來東北の地は天惠に乏しく、加ふるに災害の頻發は、地方の史を繙くものをして驚嘆措くこと能はざらしむるものがある、然るに、如何なる災厄に臨みても、常にこれを克服し、克く復興し得たのは、地方民が堅忍不拔の精神を以つて倦まず撓まず努力せる結果に外ならない。
今日東北民の特徴とも言ふべき剛健不屈の精紳は斯くして培はれたものとさへ思はれるのである。
今累年の困憊に重ねて、復た天の試練に遭ふや茫然自失爲す所を知らざる感があつた、然るにこの偉大なる傳統的精神は、罹災民をして奮起せしめ萬目蕭條の荒野と化したる郷土に、黙々として復舊復興の鍬を攝り、或は孜々として建設の槌を振ひ・日夜を分たず不撓不屈、營々として勵みたる結果は、震嘯二週年を迎ふるに際して舊態略々回復し、新興繁榮の地たるも將に近きにありと聞くを得るに至つた。天時不如地利、地利不如人和とか、天時常に惠まれざる東北に於ては
人和の貴重なる一層大なるものがある。
今後一般縣民は益々一致團結、隣保相扶の精神を體して刻苦淬勵、以つて地の不利を克服する事を得ば、樂土と化するも至難の業でないと信ずる。
記念すべき日に當り、震嘯災害誌成るを知り、茲に些か所懷を述べて序に代ふる次第である。
昭和十年三月三日 社會局長官 赤木朝治
序3
東北の天地は天惠に乏しきに、由來災禍の相亞ぎて臻るの難を負ふ事多し。
就中、昭和八年三月の、強震に伴へる津浪の害は、明治二十九年の慘害にも比すべきものにして、その害の及べる處一道・三縣に渉れり。狂壽一度迫るや、忽焉一瞬の間に、寄るべきの肉親を喪ひ、住むべきの屋舎を、はるか海上に浮游し去り、或ひは無策にして拱手傍觀し、或ひは仰天俯地慟哭せるもの、蜿蜒數十里の浦汀に充ちたり。その慘状は忽ちにして我國津々浦々に報導せられ、世人士は多大の同情と愛憐の實を致されたり。
然れども烏兎怱々、二周年の歳月は白駒の隙の如く過ぎ去り、一見あらゆる生活機能を喪失せる如く思惟せられし、三陸沿岸の民は、今や嬉々として、平和なる朝夕を迎へ、更新せられたる生業に活きつつあり。
これ、もとより、天恩の厚きと、同胞の心よりなる暖かき扶翼の力に據る處尠からずと雖、又、一に罹災民が、天譴に對ふるの自力更生の此處に至らしめたるを認めざるべからず。
然り、天惠薄く、而も天災多き東北地方民は、この自力更生による協同一致の和合にのみ因りて、天災の禍を轉じて、再興の樂土の福と爲し、捲土重來の意氣に燃ゆるを得るなり。
しかも、年月と共に、過去の苦難を忘れて苟安に狎れんとするは人情なり。
而して、古きを温ねて、新しきを知るは、すべてに通ずるの眞理なり。
今や、「宮城縣昭和震嘯誌」脱梓して、博く世に頒つに當り、同胞各位の同情に應ふると共に、一は以て將來の鑑戒たらんを期するは、又以て、かかる意圖に出づるに外ならず。
此處にいささか所懷を述べて序に代ふ。
昭和十年三月三日 半井 清
例言
一、本誌は昭和八年三月三日、三陸沿岸を襲へる震嘯災害に關する被害・應急措置及救護・復舊・復興の状况記述を中心とし、それに、追弔・記念事業・表彰・褒賞・關係作文・美談・實話等の附随的記事を含め、更に此地方の震嘯災の沿革・特性等についても、能ふ限りの資料を收録した。
一、本誌は昭和八年五月末、資料蒐集に着手し、翌昭和九年四月より本稿執筆にかかつたが、その間編者は、次の點につき豫想外の難關に逢着した。
(イ)本誌の如き、主として縣廳内各課の調査と盡力を第一基本となすべきものについても、廳内當務者の絶えざる移動は、豫定し置ける資料の蒐集の困難を伴ひ、まま全然不能になる事さへあつた。
(口)着手當時、一ケ年以内に完成すべき豫定であつた爲、各方面共に、資料の簡潔主義を以て宗としてゐたが、半頃當局の方針にも變更を來して、内容の相當委曲を盡せるものを作り上げる事に一新した爲、資料の再研討をする必要に迫られた。
(ハ)各町村に同一事項につき照會・調査を乞へるものにも、町村によつては、一向回答を寄せられないものもあつた。資料蒐集期間は、編者自らも罹災地に出張して、それ等の事情を聞訊すを得たが、原稿執筆後は、つひそれも出來かねて、最初豫定して置いた「各町村誌」の執筆が不能となつたのは遺憾であつた。
(ニ)最初の内は、切角起稿の興昧が油然と湧いて來る樣な場合でも、資料の種類によつては、數字の機械的計算二同一事項の反覆的複寫・謄寫等の必要に迫られて、執筆の迅速を期するを得ない憾があつた。
一、本誌の編纂に先だち、内務省社會局・東京府・神奈川縣・靜岡縣・千葉縣・京都府・兵庫縣・鹿児島縣・熊本縣・北海道廳等の編纂に係る「大正震災誌」、「東京府大正震災誌」、「紳奈川縣震災誌」、「靜岡縣大正震災誌」、「大正大震災の回顧と其の復興」、「奥丹後震災誌」、「北但震災誌」、「櫻島大正噴火誌」、「昭和二年熊本縣潮害誌」、「十勝岳爆發災害誌」等を參照、参考に資した處が多い。此處に誌して敬意を表する。
一、本誌の編纂については、最初阿部勝雄氏の援助を得、後に石田五郎氏の助力を受ける樣になつた。特に、石田氏が校正期間、日曜なると休日なるとを問はず、晝夜を頒たず、眼の赤くなる迄校正に從事され、毫も倦まれなかつたのは、今に感謝して餘りある處である。
又、目録・附録被害表等についても、兩氏の盡力に負ふ處が多い。
一、本誌は寫眞及圖面の一部を除いて、本稿第一編より第四編迄は、縣附屬印刷所に於て印刷に附したが、製本の迅速を期する爲、第五編のみは、之を東北印刷株式會社に依託した。從つて、本稿全部にわたつての通頁を探る事を得ない不便がある。この點各位の御寛恕を願ひ度い。
一、本誌の序文を半井知事より賜つたのはもとより、何れも前知事の職をうけられ、震嘯災勃發當時本縣に在任されて、逸早く善後措置の寄る處を定められた三邊文部次官、復舊・復興について寝食を忘れて盡力されし赤木社會局長官よりも、各々同樣序文を頂戴出來たので、本誌の光彩を一段と添へる事になつた。此處に謹んで御禮申上げる次第である。
一、題筌「宮城縣昭和震嘯誌」は、三邊文部次官に特にお願ひせるもの、表紙漁船の陸上打揚竝背面の波形圖案は畏友小笠原哲治君苦心の意匠になるものである。
一、寫眞は、編者自らも能ふ限り撮影竝蒐集したが、各新聞社より貸與されたものを許可を得て再録したものも亦尠くない。それ等については、轉載を快諾されし各社に深甚の謝意を表する。
一、第五編雜録所收の震嘯災關係論文中、國富信一博士のものは中央氣象臺發行「三陸沖強震及津浪報告」より、今村明恒博士の「地震漫談」は雜誌「地震」より、石本巳四雄博士、萩原尊禮學士共編の歐字論文は東京帝國大學「地震研究所彙報別冊」より、何れも執筆者の御承諾を得て轉載した。
尚、中村左衛門太郎博士の「昭和八年三月大津浪の地球物理學的觀測」の一稿は、博士が、編者の乞を容れられ、本誌のため特に起草されしもの、渡邊萬次郎博士のものは、本縣教育曾に寄せられ、林喬博士のものは廣く學界に發表されたものを、乞うて收録した。
一、「海嘯」なる現象は、多く海水の上層面に於ける攣化であり、「津浪」は、地攣動に伴ふ海底よりの大動揺なりとは、寧ろ今日の常識であらうが、官廳・町村役場等よりの報告類は、殆んど今回の災害を「海嘯」と云つて居り、之を一々「津浪」と改攣するのは、頗る煩はしい事である。加之、支那の古典には、まま今日「津浪」と呼ばるべき現象をも、「海嘯」なる語を以て表現してゐる例が散見されるのに鑑みれば、必らずしも文字にこだはる必要はないと思はれる。從つて、本誌に於てはこれを併用する事にした。
一、印刷が終了して、最初から通讀して見れば、隨分、杜撰な點もないわけではない。しかし、この一編にも多くの人の汗と苦心とがこもつて居ると考へれば、一種敬虔な氣持にさへうたれる。
殊に吾人は、常に「理想と現實」の遠いものである事を知つてゐる。それだけに、曲りなりにも、あの大震嘯災の一つの記念碑を樹立し得たかと思へば、感謝の涙さへも禁じ得ないのである。
昭和十年三月三日
編者 室谷精四郎
第一輯
一、聖旨傳達
二、侍從・諸官の災害地視察
三、縣會議員の災害地視察
四、被害傍證
五、廳内關係會議
富田文書課長
渡邊教育課長
郡庶務課長
草刈勝衛氏
千石順平氏
吉田潤平氏
富田廣重氏
小島眞助氏
澤口一郎氏
熊谷泰事郎氏
庄治作五郎氏
遣水祐四郎氏
北村文衛氏
佐々木靜氏
菊地養之輔氏
今村治三郎氏
若生書記
松本水産課長
北條衛生課長
鈴木警察部長
樺澤敬之助氏
加藤豹五郎氏
中島徳治氏
小野寺廣亮氏
朝倉松吉氏
高橋幸市氏
佐藤彌代二氏
南條秀夫氏
今川正氏
粟野豊助氏
飯塚千尋氏
伊藤土木課長
財津警務課長
小川會計課長
熊谷誠一氏
清水谷學務部長
大槻儀十郎氏
小野惣助氏
高城畊造氏
大槻(茂)副議長
伊丹議長
三邊知事
二見内務部長
山田甚助氏
小野儀左衛門氏
松山平兵衛氏
安藤源治郎氏
菊地明夫氏
六、被害
(イ)唐桑村
(口)大島村
(ハ)大谷村
(二)階上村
(ホ)小泉村
(へ)志津川町
(ト)歌津村
(チ)十三濱村
(リ)大原村
(ヌ)鮎川村
(ル)女川町
(ヲ)十五濱村
(ワ)閑上町
(カ)坂元村
七、避難
八、救護及應急措置
(イ)縣關係
(ロ)陸海軍
(ハ)その他の團體
(二)救護品の配給
九、託兒所
十、追弔
十一、復舊・復興
十二、縣土木工事(災害當時と復舊後との比較)
第二輯
一、災害史
巖手縣 青森縣 宮城縣
大海嘯畫報
「明治二十九年六月十五日(陰暦五月五日)怒濤天を捲いて襲來し其勢ひ猛烈にして實に五千餘の家屋海底に沈み三萬餘の死屍波間に葬らる此悲慘の境界に一生を全ふする者あるも家無く食なく家族なく財産なし負傷者は痛に斃れ健康者は饑に迫る其の慘状實に酸鼻の至り也■に赤十字社の如きは夙く災地へ醫員を出張せしめ能く之を看護し四方の有志者は財を抛うって能く之を救恤せらるるも如何せん被害區域の廣き爲め未だ二分の潤澤も現はれず同胞相憐の情ある人は萬費を省略して罹災人民を救濟せられんことを切に勸誘する所なり」
明治二十九年七月 日印刷 日發行
臨寫印刷兼發行者
日本橋區長谷川丁九バンチ
福田初次郎
と、繪中に記載あり。
小國政
明治二十九年地震・津浪のポンチ繪(其の一)
明治二十九年
三陸大海嘯實况
「時は惟れ明治二十九年六月十五日岩手宮城青森の三縣海邊に起りし大海嘯は實に猛烈を極めたり此日は恰も舊暦の端午にて家族友人相會し宴飲歡を盡しつつありしが突然沖合に當つて巨砲を發したるが如き響あり人々怪み屋外に出んとする一瞬間數丈の狂瀾襲ひ來り三萬に近き人命を家屋と共に一掃せり幸に逃れしも或は爲に不具となり或は食ふに粟なく其慘憺悽愴たるの状能く筆舌の盡す所にあらず
弊堂今回稀有の大海嘯實況を出版して博く天下の仁人に照會し此同胞目前の急を救助するの義務を盡せられんことを希望す」
明治二十九年七月一日印刷 日發行
臨寫印刷兼發行者
日本橋區長谷殉丁九バンチ
福田初次郎
と、繪中に記載あり。
小國政(梅堂)晝
明治二十九年地震・津浪のポンチ繪(其の二)
二、他道縣
(イ)岩手縣
(口)青森縣
(ハ)北海道
三、震嘯災記念碑
特輯 東久邇宮第二師團長殿下の御視察
卷頭地圖・圖面・統計圖等
一、地圖
十五濱村雄勝ノ住宅適地造成關係圖
I.宮城縣十五濱村雄勝
本部落は雄勝灣に臨み、高峻なる山崖を背ひたる狹隘なる地に位し、縣道を挾み細長き帶状街衢をなす。明治二十九年津浪高滿潮面上3.6米、流失倒壞戸數119戸、死傷226人に達せしも、津浪災害豫防に關する全面的對策の講ぜられしものなく、昭和八年津浪(波高3.85米)に依り、流失倒壤361棟、浸水206棟、死亡9人を出せり。要移轉戸數226戸、本部落附近に之を収容し得る適當の地を選定し得ざるを以て、舊宅地を地上げし、敷地を造成す。雄勝灣は波高並に衝撃力共に此較的強大ならざる灣形なるを以て、敷地計畫高昭和八年津浪高と同高とし現地盤より最大3.00米の地盛をなし、盛土法面は凡て石積とす。敷地造成面積15,520坪、内道路、水路面積1,125坪なり。
II.宮城縣十五濱村船渡
舊部落後方高台畑地を昭和八年津浪面上8.05米に地均し、34戸を移轉せしむ。敷地造成面積2,702坪、内道路面積767坪なり。
十三濱村相川ノ住宅適地造成關係圖
宮城縣十三濱村相川
明治二十九年波高5.8米(平均滿潮位上)の津浪に依り流失、倒壤戸數42戸、死傷194人に建したるも復興防浪の施設に看る可きものなく、昭利八年波高4.1米の津浪にて流失倒壤40戸、死傷4人を算す、造成敷地は相川部落北方約500米を隔つる高地に選定し、面積約2,313坪の敷地を造成し、29戸を移轉せしむ。敷地計畫高滿潮面上31米。
- 幅:6681px
- 高さ:7481px
- ファイルサイズ:9.3MB
二、圖面
- 幅:3197px
- 高さ:8215px
- ファイルサイズ:3.5MB
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:4.1MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:4.2MB
三、統計圖
四、十五濱村荒部落罹災圖
本文
第一編 總説
第一章 概説
第一節 今回の地震と津浪
I 概觀
昭和八年三月三日の未明、午前二時三十二分に發せる外側帶性強震は、北、北海道より、南、近畿地方に至る地域に渉りて、人體に感ずる程度のものなりしが、これより約三十分後に「三陸沿岸」を襲へる津浪は、須臾にして、猛威を振ひ、堤防を破り、丘を越え、河川を溯りて、無數の家屋を流失・倒潰し、多くの人命を毀損し、財寳を喪はしめ、船舶を流失せしむる等一帶の地をして阿鼻叫喚の巷たらしめたり。其の被害の及べる處、北海道・青森・岩手・宮城の一道・三縣の六十七ケ町村三百六十二部落に渉り、死者三千に垂んとし、負傷者又夥しき數に上れり。
今回の地震の震度分布は、去る大正十二年九月一日の關東大地震に比して、規模廣大なるも、震源地は、陸を去る二百八十粁前後(石卷測候所調査)の海中に在りしを以て、陸上に及ぼせる影響は前者の如く激しからず。
山丘の崩壤、地割れの如きも數多からず、地震其のものにょる被害の如きは、仙臺市に於て、強震に驚きて心臓麻痺を起せし者一名、北海道石狩國三笠山村彌生炭坑に於て、地震による落盤の爲、其の下敷となりて即死せし者一名あるに過ぎざりしも、之に伴へる津浪こそ,慘害をして甚大ならしめたるものなり。
II 震嘯發生當日前後の天候概况
昭和八年二月二十八日夜半より三月一日畫にかけ、低氣壓は、北海道を通過してオホック海に入り、叉本州の南方洋上を二個の低氣壓相踵ぎて東に通過せる後、熱河方面に七七一粍の高氣壓現れ、一日夕刻の等壓線の走向は、臺灣より琉球内地に沿へる北東に走り、奥羽より北西に曲りて、黒龍江方面に向へり。この傾向は三月二日より三日早朝迄持續したり。
三月二日午後六時には、高氣壓の中心は依然として遼河流域にありて七七三粍を示し、カムチヤッカ南端には七五○粍内外の低氣壓ありて東進中なりき。
房總沖と北陸沿岸には小不連續線あり、鹿島灘と若狭灣沿岸にては小雨降り、秋田・青森にては小雪ありき。その他の各地は一般に晴曇相半し、等温線の走向は略西より東に向ひ、八丈島にて十度、福島にて一度、宮古氷點下二度、浦河氷點下五度、大泊氷點下十度なりき。
三月三日午前六時に於て、高氣壓の中心稍東に移動して、鮮滿國境にあり、低氣壓はカムチヤッカ方面に一つ、支那東海に新に發生せるもののみなりき。
天候は一般に曇なりしも、北陸より北海道西部にかけ小雪降り、關東地方北部より北海道西部にかけ小雪降り、關東地方北部より北海道東部に至る所謂「表日本」は晴天なりき。
地震前後の震源地附近に於る氣壓傾度、三月二日午後六時、三月三日午前六時の各地の氣壓、氣温表及び天氣圖を左に掲載せん。氣厭傾度は、宮古・盛岡・石卷各測候所測定の氣壓により算出せるものなり。(中央氣象臺豫報掛)
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.4MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
III 震嘯發生の前兆
古來、天災地變の發生前には、其の前兆屡ありと謂はるるものなるが、以下各方面の調査に基き、其の二、三を擧げん。
一、自然現象の異變
イ、井戸水の涸渇及び混濁
明治二十九年 岩手縣大槌町・同縣氣仙郡越喜來村・同縣同郡白濱村
昭和八年 本吉郡唐桑村大澤・同郡同村崎濱・同郡大島村の各地
ロ、潮汐の變化
明治二十九年 岩手縣宮古町 - 海嘯七時間前に大干潮
本吉郡御嶽村 海岸 - 海嘯四時間前に干汐、平時十尋水深の處迄干潟
同郡志津川町 - 海嘯二日前に灣内の汐流に大變化ありしが當日は大干汐あり。
昭和八年 本吉郡階上村・大島村・唐桑村 - 二三日前より干汐甚しくなり、海嘯直前には稀有の大干汐あり。なほ同地沿岸の小漁業者の談に據れば、二三日前より水温急に上昇すと。
ハ、音響及怪光
明治二十九年 青森縣百石町一川目にて、海嘯前、連夜海上に怪光あり。
同縣三澤村四川目にて、海嘯二日前に、大砲の如き音響あり。
岩手縣氣仙郡綾里村に、砲聲の如き音響を聞き、續いて、白煙の灣内上空を掩ふを見たり。
本吉郡唐桑村一帶に、沖の方にて、「ハッパ」の如き音を聞く。
昭和八年 本吉郡唐桑村・大島村・階上村一帶に二三日前沖鳴するを聞く。
同地方に海嘯三十分前、大音響を聞く。
同地方に、海嘯時、波頭に光物を屡認む。
二、水産生物の異變
一、鯰 地震前には集燥凡そ止むことなし。
鯰と地震との關係につきては、東北帝大理學部の畑井新喜司教授、目下研究中なり、
二、鰮 安政三年、明治二十九年共に大漁續き、今回は、昭和七年十月頃より昭和八年二月迄大漁あり。
三、いか 明治二十九年、昭和八年兩度共、海嘯後稀なる豐漁あり。仍て、「三陸地方」に、「いわしで倒され、いかで活き返る。」の俚諺あり。
四、鮑 海嘯前、鮑の海岸に掲りしものありしは、明治二十九年も今回も同じ。
五、鰻 明治二十九年海嘯前には、岩手縣上閉伊・下閉伊沿岸に、昭和八年には、海嘯前二十日位に鰻の密集を見たり。
六、其他 蛸、川菜等の來游・發生あり。
三、陸棲生物の變化
一、鼠 海嘯の二、三日前より、從來多かりし家鼠かげをひそむ。 (本吉郡鹿折村・唐桑村)
畑鼠急にかげをひそむ、 (本吉郡唐桑村)
二、猫 海嘯二日前より、猫戸外に出でず、家内にて平常より柔和なり。(本吉郡大島村)
三、烏 海嘯四、五日前より、烏、澤山集合して啼鳴す。(本吉郡唐桑村大澤)
四、雉 海嘯前日、雉さかんに鳴く。海嘯後は全く耳にせず。(本吉郡松岩村・大島村・鹿折村)
五、蜂、其の他 海嘯後蜜蜂、急に姿をかくす。(本吉郡大島村)
海嘯前、虫類澤山沿岸にあらはる。(本吉郡鹿折村鶴浦)
IV 震災地踏査班
(イ)-東北帝國大學-
東北帝國大學理學部地球物理學教室主任教授中村左衞門太郎博士は、震嘯直後、加藤助手を伴ひ、罹災地に出張、次の日程により、津浪現象の一般的性質の調査に當れり。
三月三日 閖上
三月四日 - 同六日 志津川-歌津-氣仙沼-唐桑
三月二十五日 - 同三十日 大谷 - 高田 - 廣田 - 盛 - 綾里 - 吉濱 - 釜石 - 鵜住居
四月四日 女川 - 雄勝
四月七日 八戸
四月十日 坂元
四月十一日 - 同十四日 大原 - 十五濱 - 十三濱
又、同學部地質學古生物學教室の田山利三郎講師は、江口・馬淵兩理學士と共に、三月四日出發、田山講師は岩手縣宮古より釜石迄、江口學士は、宮古・鮫間を、馬淵學士は、釜石以南、金華山、石卷に至る本縣下被害地を、同教室學生職員一同は、石巻以南阿武隈川口に至る區域を、各分擔調査にあたり、約八日乃至二週間の後、歸仙せり。之等は何れも、その結果を關係機關誌或は新聞を通じて發表する處ありき。
又、四月三日は、中央竝地方に於ける著名なる地震學者、東北帝國大學學士會館を會場とせる日本數學物理學會に集合せるが、その後、「三陸沿岸」の罹災地を、左の二班に分ちて實地踏査をなし、災害状况を充分調査する處ありき。
(A班)
中村左衞門太郎博士
林喬博士
箕作新六博士
田中舘秀三學士
小安正三氏
(B班)
石本巳四雄博士
松澤武雄博士
今村明恒博士
坪井忠二助教授
鈴木清太郎氏
伊藤陸之助氏
山口生知氏
三浦幸平氏
(ロ)-中央氣象臺-
中央氣象臺にては、「三陸沿岸」の震嘯災害を聽くや、直に國富技師を本縣下に、本多技師を岩手縣下の罹災地調査に、夫々出張せしめたり。國富技師は、竹花技手と共に、本縣下本吉・桃生二郡下の志津川・歌津・小泉・大谷・階上・唐桑・戸倉・十五濱等の各町村につき、約一週間に亘りて詳細に實地踏査をなし、別に鷺坂技手は牡鹿半島方面に、石川技手は唐桑村の一部及び大島村に出張の上、各踏査の結果を報告する處ありき。
第二節 罹災地の地勢及歴史
I 罹災地の地勢及歴史
イ「三陸地方」の地勢
所謂「三陸」とは陸奥・陸中・陸前三ケ國の總稱なるも、その沿岸一帶に、古來、地震・津浪の害多きを以て、「三陸」と云へば、直に此の三國を聯想するに至れり。
「三陸の沿岸」たるや、北、青森縣八戸市の東なる鮫岬より、南、宮城縣なる牡鹿半島に至る沿岸は、本邦に於ても、最も凸凹の激しき沿岸にして、西側は、直に北上の褶曲山脈迫りて、海中に沒し、ここに所謂「リアス式沿岸」を構成せり。
此等海岸に沿ひ、V字形をなして、太平洋に向ひて開口せる小灣は、灣口より内部に入るに從ひ、水深俄に淺くなるを以て、津浪を釀成し易し。
ロ、磐城國(宮城縣の部)の地勢
「三陸」以外の地にして、津浪の滲害を蒙れるものは、磐城國沿岸の一部にして、實に本縣管轄下亘理郡に屬する地域なり。この方面の海岸線は、金華山以北の、灣入、屈折島嶼碁布せる複雜なる海岸線に比して、全く單調にして、恰も双曲線の一をなすが如く、しかも砂濱相連りて、地位の高低尠し。
ハ、「三陸海岸」の特性
「三陸海岸」の特相は、この沿岸が古來屡次、地震に伴ふ津浪に惱まされたる所以を説明するに足るものあり。
仍て、次に、東北帝國大學理學部教授渡邊博士の之に關する記述を借りん。
-石巻の東南海上には、牡鹿半島が遠く南に突出する。これから以北、所謂「三陸の海岸」は、北上山地の、海に臨んだ部分であつて、等しく東北の東海岸でも、阿武隈山地の東を縁どる「常磐地方の海岸」とは、その趣を一變する。
「常磐地方」に於ては、挾い段丘地帶が阿武隈山地の東麓に續いて、眞直に續いた斷崖を以て海に臨み、壯年期に屬する隆起海岸の特徴を發揮してゐる。しかるに、「三陸海岸」に至つては、複雜に形成せられた北上山地の山谷、直に海に臨み、谷には海を入れて港灣となり、山はそのまま水に突き出して岬角となり、島嶼となり、「リアス式沈降性海岸」の特徴を具備してゐる。
但し「三陸海岸」と雖、必ずしも沈降のみを續けたとはいへぬ。例へば、氣仙沼灣の沿岸にしても、市街の南側から階上村方面、灣口大島の南半、唐桑半島の南端等には立派な海岸段丘が見られ、海蝕面が數十米も隆起した事を示してゐるが、この段丘面さへも、複雜なる沈降性海岸の一出一入に沿うたもので、且それ自身再び開析せられて沈降を繰返し、氣仙沼の神明崎では石灰洞が海に沈んでゐる。
要之、「三陸海岸」の最大の特相は複雜なる山地の邊縁が海中に沈降して生じた鋸齒の様な出入である。これがある爲に、「三陸海岸」は到るところ景勝に富む。牡鹿半島から金華山一帶、氣仙沼灣から廣田灣、大船渡灣と並んだ一帶、宮古に近い淨土ケ濱等、何れも、到底「常磐地方」には見られぬ景勝に富む海岸である。
また、この出入あるが爲に、「三陸海岸」には良港・深灣が多い。女川、志津川、氣仙沼、大船渡、釜石、山田、宮古、何れも灣内水深く、風波に對して安全である。大船渡灣の東岸にあるセメント用石灰岩の石切場で、三千トン級の船が、何等築港の要なくして天然の岸壁に横着けされる如きは、これを最も雄辯に物語るものと云つてよい。しかも一面に於ては、この出入あるが爲に、隣接諸濱、一々長角に隔てられ、その先端は斷崖をなして人を通ぜず、數里の近きにある港灣間の聯絡さへ、岬を廻る長い海路か、山腹を辿々と越ゆる山道に頼らねばならず、未だ充分なる沿海道路も鐵道も出來ない。加之、北上流域の交通路とは、北上山地數十粁の山道を以て僅に連絡せられるだけで、之を貫く鐵道としては、大船渡線が開通して居るに過ぎない。
これを以て、「三陸海岸」は景勝に富むと雖、未だ大いに世に知られたるもの少く、良港多數連りながら、未だ大に利用せられず、交通の不便と後方地帶の挾隘とは、之を産業の門戸たらしむるに至らなかつた。
然しながらその海上は塞暖二流の會する所で、魚族極めて豊富な爲、これ等の諸港は、漁船の根據地として重要性を保ち、「三陸汽船」の定期航行によつて、その相互の聯絡竝塩釜港との聯絡を保つてゐた。
然るに、今や大船渡線の北上山地横斷を見、山田線又宮古迄開通し、岩手輕鐵と釜石鐵道とは、將に政府の手に歸して、仙人峠のトンネルを以て連ねられんとし、久慈線、又北からこの海岸を延びるに至つた。「三陸海岸」の面目を一新する日も遠くはあるまい-と。
(渡邊萬次郎博士述「三陸の海岸」、新光社發行、日本地理風俗大系、關東北部及奥羽篇所收)
II 「三陸地方」の歴史
往古文献少く、叉、今日に傳はる處極めて尠きを以て、東北邊輙の事情の良く傳へらるるもの稀なり。
イ、古代
現在の「三陸沿岸」に起れる事實ならんと思惟せらるる史實の最も古きものは、續日本紀の元正天皇靈龜元年(一三七五年)冬十月丁丑(二十九日)の條の記事なり。
これに據れば、陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇彌奈等言。親族死亡子孫數人。常恐レ被二狄徒抄略一乎。請於二香河村一。造二-建郡家一。爲二編戸民一。永保二安堵一。叉蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來貢献昆布。常採二此地一。年時不レ闕。今國府郭下。相去道遠。往還累レ旬。甚多二辛苦一。請於二閇村一。便建二郡家一。同二於百姓一。共率二親族一。永不レ闕レ貢。並許レ之。
とあり。
この記事に關して、諸説あるも、要之、我國に馴服せる蝦夷が、水産物の豐富なる「三陸沿海」に於て建郡し、中央政府に封して、進貢せる事實を傳ふるものにして、十數世紀を隔つる奈良朝時代に於て、皇威の既にかかる僻地に迄遍ねかりしを示すものなり、嵯峨天皇の弘仁二年(一四七一年)三月、陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂は、陸奥・出羽兩國の兵二萬六千人を以て、爾薩體・幣伊二村の蝦夷を征伐し、同年七月、閇村の俘囚と貳薩體の村夷との間に内訌あり、出羽國司は、この機會を以て、「賊を以て賊を伐つ」の策により討夷すべきを献言せり。
なほ同年十二月の、蝦夷征伐戰捷報告の宣命には、「遠閇伊村乎極弓。略掃除……云々」とあり。即ち、王朝政治伸張の平安朝初期に於て、「三陸地方」たるべき閇伊村(或は閇村、幣伊村)は、夷賊の根據地たりしと共に、征夷軍の到達せし極奥の地方たりしなり。
而して、北海道方面居住の蝦夷ならんと想はるるものがこの頃「三陸沿海」に來往したるものならんと考へらるるは、次の記事に照して明かなり。
陸奥國言。渡島狄二百餘人。來着部下氣仙郡。非當國所管。令之歸去。狄等云。時是寒節。海路難越。願候來春。欲歸本郷者。許レ之。留住之間。宜レ給二衣粮一。(日本後紀、弘仁元年十月甲午の條)
此の地方の都市村落の分布は、到底近畿・中國の如く、聚落的分布を見る能はざりしも、水産物の豐饒なる、巨石・山神の崇拜多き、又は異民族の神をその儘同化せる等の關係、加之、此の地方に西國より移住せる集團が、各郷里より齎來せる氏神とも謂ふべきものを祭祀せるものの中、國家より奉幣せる「式内社」の分布状態より見れば、昔時に於て、現今の岩手縣氣仙郡迄に至る沿岸及び孤島に於て、地方民崇拜の對照となりし神の祭祀せられし事を認めらる。
その後この沿岸地方に關しては、見るべきの文献なきも、醍醐天皇の延喜年間(一五六○年代)撰進せられし「延喜式神名帳第九・第十」所載「東山道陸奥國の神社分布状態」によりて見るに、「三陸沿岸」に於ても、尠からず官・國幣神社の祭祀せられしを知るを得べし。
「式内社」の分布より觀たる「三陸沿岸」
奈良朝時代の正史に見ゆる海道は、現在の仙臺市に近き多賀城より、石卷市を經、北上川に沿ふ十數里に及べるものの如く、金華山以北の「三陸沿岸」は、自然、地理的制約によりて、この海道よりは幾分相距るものの如し。
されど、「延喜式神名帳」に於て、官・國幣の神社は、牡鹿郡に十座、桃生郡に六座、氣仙郡に三座見えたり。
之等「式内社」の位置は、文献の徴するもの尠く、且つ、十世紀を隔つる今日に於て、到底その眞僞を遽に決定し難きも諸學者の諸説を綜合して、關係神社の今日祭祀せらるるものを見ん。之等「式内社」を列擧すれば、左の如し。
之によつて見れば、金華山以北の交通不便なる「三陸沿岸」に於て、既に十世紀前、中央政府より奉幣せる神社の祭祀せられたるもの尠からず、漁業・鑛業等の生産物多き爲、畿内・東海・北陸方面の住民夙に移住したると、蝦夷を中心とせる先住民族馴服の必要上、山嶽、巨石等の自然物崇拜の風習をその儘遺存せしめたるものならん。
源順撰(一五八○年頃)の「和名抄」に據れば、所謂「三陸地方」と謂はるる方面の郷は左記の如く十を以て數へられたり。
ロ、中世
東北の歴史は、中世に於て特に不明の點多く、據るべきの記録、亦、散佚して多く傳はらず。殊に、「三陸沿岸」の如きは殆んど口碑・傅説を索ね、或は、實地踏査による綜合的史觀によらざれば、之を分明にするを得ず。
大小の灣入櫛比し、地形相入錯綜せる點より推して、全國を通じて現はれたる分散・割據的現象は、「三陸沿岸」に於ても遺憾なく現はれたるものと考へらる。沿岸には、内部山地に於けると同様、「舘」なる地名多く、その地には、空堀、土手等設けられ、地方民、それ等の地に、義家・秀衡等の傳説を附會す。
今、本縣「三陸沿岸」に於て、中世の豪族の據りし城郭の跡と認めらるるものを次に擧げん。
又、沿岸の地名、唐桑、唐丹、越喜來等支那の國名に倣ひしものある點と、この地方に、古來、歸化人不尠むねの口碑あるものとより合考すれば、何時の頃にか、沿岸住民と呉・越商人との間に、商賈の往來ありしものとも推量さる。
特に、一部學者によつて唱導せらるるは、平泉に於ける「藤原氏三代榮華」の經濟的基調は、「三陸沿岸」を通じて、支那商人との間に貿易行はれ、物資の供給盛んなりしが爲なりと。
その眞僞は、暫く措くも、本縣管内本吉郡下には、秀衡の傳説に富む處多く、殊に郡下の田束山は、本吉郡の總鎭守として官民の崇敬厚く、藤原秀衡は、この山顛に、七堂伽藍を建立し、四十八坊を置きたり(歌津村村誌)と傳ふるは、興味ある事實なり。
「吾妻鏡」を見るに、平泉倉庫内の寳物を擧げたり。沈紫壇以下唐木厨子數脚ありて、
「牛玉、犀角、象牙笛、水牛角、紺瑠璃等、笏、金沓、玉幡、金華鬘、蜀江の錦の直垂、不縫帷、金造鷄、銀造猫、瑠璃燈爐、南廷白、及錦繍綾羅」
を容れたり。之等は敦れも外國品なり。仍て藤原氏は宋と貿易したらんとの説起り、これは氣仙郡唐丹より貿易船出發したるものなりとの傳説あり。
萬一是を事實とせば、「三陸地方」唯一の難關たる北上背梁を東西に通じて、外國文明の輸入せられし痕跡を認むるを得ん。
ハ、近世
奥州方面に於ける葛西、大崎等の諸豪族は、伊達氏及び南部氏の勢力に併合され、近世に入りたるが、特に伊達氏は、海外貿易發展に志したるを以て、沿岸地勢の良好なるを利用して、これが根據地たらしめんとしたると同時に、水運利用に志したる處多し。
北上川の水路變更は、元和年間行はれ(或は、慶長年中、寛永年中とも云ふ。)、從來追波灣に注ぎし本流は、桃生郡鹿又より南に轉ぜられて石卷灣に注ぎ、本吉郡柳津より桃生郡飯野川町に南北に直流せしものは、西に迂回するに至りたり。
近世に於て、特筆大書すべきは、伊達政宗が、その臣支倉常長をして、海外へ派遣したる際の造船場竝解纜地が、共に、「三陸沿岸」にありし事なり。
伊達政宗は慶長十八年(二二七三年)九月十五日、家臣支倉六右衞門常長及、サン・フランシスコ派宣教師ソテロ(sotelo)等を使とし、信書音物を羅馬法王及西班牙國王に贈れり。常長等、陸奥月ノ浦を發し、七年後の元和六年(二二八○年)八月二十六日歸朝せり。(大日本史料第十二編之十二、後水尾天皇、慶長十八年の條)
「伊達貞山治家記録二十三」には
「慶長十八年癸丑、三月丙辰、十日戊辰、向井將監殿忠勝へ、御書ヲ以テ、船ノ義ニ就テ、仙臺ヘ大工共ヲ下サレ滿足シ玉フ、(中略)是ハ公南蠻國ヘ船ヲ渡サルへキ由、内々將監殿ト御談合アリ、因テ其御用意ノタメ、船ヲ造ラシメラル。」
とありて、政宗が南蠻へ遣使の爲、幕府海賊方向井將監をして、造船の事を請負はしめたる消息を窺知するに足るものあり。
「九月十五日、庚午、此日南蠻國へ渡サル黒船、牡鹿郡月浦ヨリ發ス。支倉六右衞門常長、竝ニ今泉令史、松木忠作、西九助、田中太郎右衞門、内藤半十郎、其外、九右衞門、内藏丞、主殿、吉内、久次、金藏(以上六人氏不知)ト云フ者差遣サル。向井將監殿家人十人計リ、南蠻人四十人計リ、都合百八十餘人、其外、商買人等、共ニ同船ニ乘ル、船中ニ商賣荷物数百箇積メリ。(中略)去ル比ヨリ黒船ラ造ラシメラル。其材木、杉板ハ、氣仙東山ヨリ伐出シ、曲木ハ片濱通リ磐井江刺ヨリ採ル。公義御大工與十郎及ビ水手頭鹿之助、城之助兩人ヲ、將監殿ヨリ差下サレ、彼船ヲ造ル、秋保刑部頼重、河東田縫殿親顯兩人、奉行シテ、頃日成就ス。右船、横五間半、長十八間、高十四間一尺五寸アリ、帆柱十六間三尺、松ノ木ナリ。又彌帆柱モ同木ニテ造ル、九間一尺五寸アリ。今度、公、南蠻へ船ヲ渡サル事、其他ノ樣子ヲ檢察セシメ、上意ヲ經テ、攻取リ玉フベキ御内存ナリト云々。」(伊達貞山治家記録二十三、慶長十八年九月十五日條)
とあるは、南蠻派遣用船の出發期日及地點、乘員、用船の船材切出先及規模等を窺知せしむ。
されど、かかるわが國外交史上、はた、造船史上の劃期的偉業も、當時のわが當局の政策たりし「切支丹禁壓」の影響をうけ、關係者、亦、世上の傳聞を避けて、史料の存在を秘密にせしかば、その船名、船種の如き曖昧模糊たるのみならず又、その造船地竝に船の發著點に關しても、異説乃至別考證の存するは否むべからず。
先づ、造船地竝に發船地を牡鹿郡荻ノ濱村月浦なりとする通説に、疑を挾みし最初のものは、幕末の蘭學者大槻玄澤著「金城秘■」にして、
「按ずるに、月ノ浦は遠島の中にして、今も其の名を呼びて、昔、葛西殿の船着岸して、着(ツキ)の浦(ウラ)と呼び初めしといふ。但し、此浦は、求めて新造船を發帆せしむべき所とも覺えず、恐らくは、此の邊へ蠻船漂着し、其の船は破れて役立たず、新造を西洋法に傚はせ給ふ事を、ソテロに相謀られ、向井殿と議り給ひ、即、其の着岸の所にて造らしめられしにはあらずや。」
と述べ、牡鹿郡月浦の解纜地として不適當のものなりとの見解を下せり。加之、造船地として、牡鹿郡月浦の灣入は、記録に見らるる如き、長さ十八間、幅五間半の巨船建造に適せざるは、その地形に通ずるものの意見の一致する處なり。
而して、桃生郡十五濱村雄勝には、同地の舊家山下氏に傳はる記録、村社熊野神社の別當寺淨月坊金剛院の籠堂に在りし繪馬、及同院傳來の記録「雄勝風土記」等ありて、之等は寧ろ、支倉一行の、南蠻遣使造船竝解纜の地は、桃生郡十五濱村「雄勝呉壼濱」なりしを裏書するに足るものなり。
之等資料中、明治二十九年の津浪その他の理由により、散佚、亡失せしものあるも、なほその寫書及拔萃によりて、その大略は窺ふに足るものなり。
乃ち之に據れば、十五濱村雄勝附近の灣入を、往昔「月の浦」と云ひし事あり。問題の「雄勝濱呉壺の地」は、その地形、汐の干滿等によりても、造船地として適當にして、用材は、現在の岩手縣管内の山林より切出し、元筋の北上川、即ち現在の追波川に流し、「大須崎」より「白銀崎」を經て、目的地に搬入せし方容易なりと觀る人多し。(樋畑雪湖氏「江戸時代の交通文化」五三〇頁、山下慶助氏説等)
船名は、「陸奥丸」と稱せしものの如し。以下その規模を誌さん。
館樣造船模樣
一、大黒船「陸奥丸」二本帆柱船也
一、船の形 異國名すくんねる造り(兩■船)といふ由なり
一、船敷 長十八間
一、肩幅 五間半
一、をや柱 檜一本、長十五尋也
一、子柱同、長十三尋半
一、館胴の間 居所部屋、春慶塗、青貝篏込、善美を盡す
一、海具
一、敷
一、間敷す 御用ひに罷成
一、槍出す 江刺郡産檜材
一、帆布木綿 松右衞門を用ひたり
一、御船印 日の丸、伊達家館樣紋所「丸に立引龍(タチビキリヨウ)」
かくして、今日の學説は、慶長年間、支倉一行の遣外使節乘用の船は、牡鹿郡荻ノ濱村月浦よりも、寧ろ桃生郡十五濱村雄勝にて造船され、ついで、海外に向け解纜せられしものなりとの見解に傾けり。
何れにせよ、近世初頭を飾るべき我國民海外雄飛の念の具體化せる舞臺が「三陸沿岸」に置かれし事を忘るべからず。
されど、かかる劃期的事件と共に、漸く發達し來れる海運も、對外的には貿易全く禁ぜられ、又國内海運の如きも、奥地の農産物の運漕には、北上、阿武隈の兩河川の利用により、主として、石卷灣以南に限られ、石卷、荒濱二港を以て、その根據地としたり。津輕方面の産物、多く日本海を經由する西廻海運に據りし爲、「三陸沿岸」にありては、良港たるべき素質を有せる幾多の灣入を擁しながら、僅かに、近村部落の交通、物資輸送の便に委ぬるに過ぎざりき。
しかも近世は、政治的にも徳川幕府の統合政策よく行はれて、地方的にも、中世に於けるが如き權力の爭奪なく、特に、諸侯の城下に遠ざかれる「三陸沿海」は、全く、平和なる漁村の點綴するに過ぎざる有樣なりき。
二、最近世
「明治維新」により、從來の行政權は一變し、一時措置をあやまれる仙臺藩・南部藩の領地は、多く、朝廷の直轄或は他藩の管轄下に屬せり。
乃ち、「三陸地方」たる現在本縣管轄下の本吉・桃生・牡鹿の三郡は、はじめ高崎藩、大河内右京亮輝照その取締を命ぜられしが、明治二年七月には、「桃生縣」と稱して、權知事山中献來任したり。間もなく、「石巻縣」と改稱し、後「登米縣」に併合せられしが、明治四年七月、「廢藩置縣」の斷行あるや、之を、「仙臺」・「一ノ關」の二縣にて治むる事となり、その後、多少の變遷ありて後、明治九年八月に至り、現行の「宮城縣」に包含されたり。時に宮城時亮縣令たりき。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
第三節 三陸三郡(宮城縣ノ分)の人口及産業
I 三陸三郡(宮城縣ノ分)人口動態
明治以前の事は暫く置き、昭和五年國勢調査によるものより明治十五年に溯る、約五十年間に於ける、戸口の動態を顧れば、次表の如き變遷あり。
これに據れば、明治十五年より昭和五年に至る四十八年間に、世帶に於て、一七、九六五世帶、人口に於て、一一○、三五六人増加し、共に八割九分強の増加率にして、殆ど二倍に近し。
これ、本縣全體に就き、明治十四年より昭和七年に至る、五十一年間に於て、約九割の増加ありたると略その率を等しうせり。
されど、この三郡は、明治二十九年の震嘯によりて、本吉郡に於て、被害戸數(流失、全半潰のみ)六四九戸、死者一、四八五人、牡鹿郡に於て、四七戸、二人、桃生郡一四一戸、五九人にて、三郡總計八三七戸、一、五四六人となり、此の三郡當時の總戸口、二萬四千戸、十六萬人の、戸數に於て○、○三四、人口に於て○、○○九の被害比率なるも、このためか、明治十五年より同二十三年に至る八年間に、世帶に於て、二、七四六世帶、人口三○、五七九人の増加ありしに、二十九年の海嘯被害を含める明治二十三年より三十三年に至る十年間の増加數一、六一七世帶、人口一六、三六四人に過ぎざるは、災害が戸口の増加に影響せしものかとも考へらる。
今回の災害による結果は、三郡合計罹災戸數、(流失倒潰のみ)一、六〇七戸、死者三〇六人にして、二十九年に比して、戸數に於て七七〇戸多く、人口に於て一、二四〇人少し。
今回の災害が、本吉・桃生・牡鹿三郡の戸口に、如何なる影響を及ぼし、數字の上に如何なる變化を與ふるかは、將來に殘されたる問題なるべし。
II 三陸三郡(宮城縣分)の産業
宮城縣の産業としては、東北地方一般を通じての如く、農業を以て第一に推すべきものなり。
されど、本吉・桃生・牡鹿の三郡は、北上山脈の脊柱、後部に迫りて、耕作に適すべき沃土尠く、全町村數三十一ケ所(内石卷町は昭和八年四月より市制を施行せり。)中、良港灣に富める「三陸沿海」に臨める町村、二十一ケ所に達したる地勢より見るも、水産業を以て生命となすべきは、謂ふを俟たず。
特に、本縣金華山沖は、塞暖兩流の會合點に當り、漁業の産出頗る多く、就中、鮎川の捕鯨、渡波の牡蠣の如きは、世界的名聲あり。
即ち、三都の水産業從事者總戸數は、昭和七年度末現在に於て、五、三九七戸にして、同地方の農業從事者戸數一五、一六四戸の、○、三五 - 約三分の一強なるに過ぎざるに、水産物生産額は、一○、九三○、二三九圓に達し、農産物生産額の七、九八五、四〇五圓を超過する事約參百萬圓に近く、本縣水産物生産總額一五、〇五一、八五八圓の三分の二強は、實にこの三陸三郡沿海の漁獲竝水産製造物に俟つ處なり。
農産物も、これに次ぎて多く、工産・林産・畜産・鑛産の順を以て、生産額を減じ、工産以下は、これを合するも、參百萬圓臺を出でず。三陸三郡の職業別戸數竝生産額次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
第四節 三陸を中心とする東北地方震災の沿革
I 津浪に關する口碑・記録類調査の注意
「三陸沿岸」の津浪の沿革を考察するに、往古は東北の僻遠なる事情の具にするを得ざりしと、記録の整備する能はざりしとによりて、天災地變あるも、これを今日に傳ふるもの極めて稀なり。加之、この自然現象を傳ふる記録そのものの、地震、津浪の災禍多き沿海の舊家に傳はれるものは、次の震災、浪禍によつて流失せらるるの危險に曝され、その保存率は一層少し。
又、一方、わが國も「明治維新」以後教育の一般に普及する迄は、災害の如き、之を記録によりて窺ふよりは寧ろ、口碑によりて後世に傅へられしもの多かるべし。從つて被害區域は漠然と知らるるに不拘、年月日の正確ならざるもの少からず。
慶安四年(二三一一)の宮城縣亘理郡の津浪の如き、元祿二年(二三四九)の陸中國の津浪の如き、何れも、現在より僅かに三百年以前の事に屬すれども、該地方に津浪ありし事實の知らるる以外、月も日も被害の程度も明瞭ならず。
而して、辛うじて搜し當てられたる古記録も、明治以前のものにありては、多く誇張・形容に過ぎざれば、神異・佛縁に假託し、或は、これを直に教訓的に利用せんとする爲政者の意志により、多く眞實に乖離せる事あり。
その例として最も適切なるは、慶長十六年十一月大晦日の「三陸大津浪」を傳ふる「駿府政事録」の記事にして、その主筋は、「伊達政宗、徳川家康に謁見して、初鱈を獻上し、その序に、- 甲乙兩士に命じて出漁せしめたるに、漁人、『汐色常ならざれば、舟出は危險なり。』と告げたり。甲はその言を聽き、乙は主命なればとて、舟出を敢行したるに、果して漁人の言の如く大津浪ありたるも、陸にありし甲士は溺死し、海上に船行せる乙士は却つて命を全うしたり。 - と語り、これを聞ける家康は、『彼者依重其主命而免災難、退得福者也」と、答ヘたりと謂ふ。」これ、津浪の記事は、主命の重んずべきを力説せんが爲の手段として引用せられしに過ぎず。
かく、記録に殘れるものも、明治以前のものにありては、一部民間の手になれるもの(例へば、桃生郡十五濱村雄勝山下恂氏所藏の「先祖代々記」中の「安政津浪に關する記録」の如き)を除きては、筆致そのものにも亦檢討を加ふべきもの多し。
されど、「三陸地方」の災害に關する記録は、その數に於て比較的尠きを以て、之等形容・假託多き記事も、「災害史編纂」に際しては重要なる資料となるぺきのみならず、邊輙地方民間に傳はる口碑は勿論、傳説に至る迄も濫りに却け去るべきものならず。
かかる見地に立ちて、從來「三陸」に襲來せる地震、津浪の歴史を顧みん。
II 三陸地方に於ける既往の震嘯
「三陸沿岸」に於て、從來、記録又は據るべき口碑により、「地震に伴ふ津浪」の起りしものを次に列擧せん。
(備考)括弧内の年代は昭和八年よりの逆算數なり。
(一)貞觀十一年五月二十六日(一千六十四年前)三代實録
陸奥國大地震家屋倒潰、壓死者多く、津浪は城下(多賀城か)に追つて溺死者千人餘資産苗稼流失す。
(二)天正十三年五月十四日(三百四十八年前)(口碑)
宮城縣本吉郡戸倉村の口碑に海嘯ありしを傳ふ。
(参考 同年十一月二十九日、畿内・東海・東山・北陸に大震ありて死者多し。)
(三)慶長十六年十月二十八日(三百二十二年前)御三代御書上
陸奥國地震後大津浪あり。伊達領内にて男女一千七百八十三人、牛馬八十五頭溺死す。又現在の陸中山田町附近・鵜住居村・大槌町・津輕石村等にも被害多し。
(四)元和二年七月二十八日(三百十七年前)
「三陸地方」強震後大津浪あり。
(五)慶安四年(二百八十二年前)
宮城縣亘理郡東裏迄海嘯襲來す。(口碑)
(六)延寳四年十月(二百五十七年前)
常陸國水戸、陸奥國磐城の海邊に津浪ありて人畜溺死し、屋舎流失す。
(七)延寳五年三月十二日(二百五十六年前)(口碑)
陸中國南部領に數十回の地震あり、地震直接の被害なきも、津浪ありし宮古、鍬ケ崎、大槌浦等に家屋流失あり。
(八)貞享四年九月十七日(二百四十六年前)
宮城縣内、鹽釜をはじめ宮城郡沿岸に海嘯あり、その高さ地上一尺五、六寸にして、十二、三度進退す。
(九)元祿二年(二百四十四年前)
陸中國に津浪あり。(口碑)
(十)元祿九年十一月一日(二百三十七年前)
宮城縣北上川口に高浪襲來、船三百隻を流し、溺死者多し。
(十一)享保年間(二百十七年、百九十八年前)
海嘯あり、田畑を害せしが、民家・人畜を害ふに至らず。
(十二)寳暦元年四月二十六日(百八十二年前)
高田大地震の餘波として、陸中國に津浪あり。
(十三)天明年間(百五十二年 - 百四十五年前)
海嘯あり。
(十四)寛政年間(凡百四十年前)
「三陸沿岸」に地震・津浪あり、宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水二尺。
(十五)天保七年六月二十五日(九十七年前)東藩史稿
仙臺地方大震ありて、牙城の石垣崩れ、海水溢れ、民家數百を破りて溺死者多し。
(十六)安政三年七月二十三日(七十七年前)宮城縣桃生郡十五濱村雄勝「先祖代々記」
正午頃「三陸地方」に地震あり、次いで大津浪起り、現在の宮城縣桃生郡十五濱村雄勝にて床上浸水三尺、午後十時頃迄に十四、五度押寄す。人畜の死傷は凡んどなかりしが、北海道南部にては、かなりの被害ありしものの如し。
(十七)明治元年六月(六十六年前)
宮城縣本吉郡地方津浪あり。
(十八)明治二十七年三月二十二日(三十九年前)
午後八時二十分頃岩手縣沿岸に小津浪あり。
(十九)明治二十九年六月十五日(三十七年前)
午後七時半起れる海底地震によりて、「三陸沿岸」は、午後八時十分頃より八時三十分頃迄に於て大津浪襲來し死者二萬千九百五十三人、傷者四千三百九十八人、流矢家屋一萬三百七十棟、内、宮城縣死者三千四百五十二人、傷者千二百四十一人、流失家屋九百八十五戸
(二十)大正四年十一月一日(十八年前)
「三陸沖地震」によるものにして宮城縣志津川灣に小津浪あり。
(廿一)昭和八年三月三日
午前二時半頃起れる外側帶性地震は、約三十分後、「三陸」及北海道日高國の沿岸に津浪を伴ひ、そのため、六十七町村は被害をうけ、死者千五百二十九人、行方不明者千四百二十一人、負傷者千二百五十八人を出し、流失・倒潰家屋七千二百六十三戸を生ぜり。
III 主なる地震、津浪
「三陸地方」に於ける既往の震嘯は、前述の如くなるが、その中、代表的のものを次に掲げん。
(一)貞觀十一年の震嘯
陸奥國地大震動。流光如レ晝隱映。頃之。人民叫呼。伏不レ能レ起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不レ知二其數一。海口■吼。聲似ニ雷霆一。驚濤涌潮。泝漲長。忽至二城下一。去レ海數十百里。
浩々不レ辨二其涯■一。原野道路。惣爲二滄溟一。乘レ船不レ遑。登レ山難レ及。溺死者千許。資産苗稼。殆無二子遺一焉。(三代實録、貞觀十一年(八六九)五月二十六日癸未條)
この際の地震に伴ひて、流光あり、明治二十九年・昭和八年兩度の地震の際、被害地に發光現象を認めし所尠からず。今回の如き、ひとり罹地地のみならず、茨城縣筑波山測候所、神奈川縣測候所にても同樣の現象ありし旨報告あり。その科學的説明は、之を学者の研究に讓るも、大地震・津浪と同時に、發光現象の古今を通じて起るは注意すべき點なるべし。
當時の城下は、前後の關係より推測して、恐らく國司駐在の「多賀城」なるべしとは、衆説の一致する處、現に、本縣下宮城郡多賀城村、大字八幡の地に、「末の松山」と呼べる個所ありて、往古の津浪の際、海波此處迄至れりと地方人の説くは、後の慶長年間の津浪を、名取郡千貫村の「千貫松」に附會せしものと共に、東北地方津浪の沿革調査に際して、興味ある事實なり。
「去レ海數十百里。浩々不レ辨二其涯■一。」の「數十百(○)里」は往古「數千(○)百里」に作りし事あり。十と千とにては、その相違甚だしきも、何れにせよ、當時の正史の筆法は、支那の形式を學べる處不尠、その形容の如き、誇張に過ぎしものさへあれば、貞觀年間の津浪の被害面積及び溺死者數の如きは、記録その儘を信ずるは早計なりと謂ふべし。
(二)慶長十六年の震嘯
封内地大ニ震ス、海溢レ男女一千七百八十三人、牛馬八十五頭溺死ス、是時公、兩士ニ命ジ漁セシム、漁人謂フ潮色常ニ非ズ、變測ルベカラス、甲士之ヲ諾ス、乙士聽カス君命ヲ如何ト、獨漁夫六、七人テ促シ船ヲ浮ブ、數十町忽チ波浪大二激シ、舟波上ニ泛浮ス、遂ニ千貫松ト云ヲ得テ舟ヲ繋グ、既ニシテ潮退キ其里ニ■レバ、一家ノ屋舎アルナシ、甲士亦溺死ス、舟ハ高ク松梢ニ懸ルト云フ、公、乙士ヲ賞シ祿ヲ加フ、東照公聞イテ日ク、主命ヲ重ンジ災ヲ免レ福ヲ得ル、天道果シテ非ナラズト。「駿府政事録參照」(東藩史稿卷之四世紀四貞山公三慶長十六年(一六一一)十月二十八日の條)
慶長年間の震嘯記事執筆の目的は既述の如くなるも、死傷者數の一千七百餘人、家畜被害八十五頭は三百年前の記事として、恐らく實數なるべし。
(三)安政三年の震嘯
安政三年七月二十三日午後一時頃、北海道南東部に強震ありて、發震後一時間にして津浪襲來し、北海道南部、殊に箱館にて被害あり。三陸地方にも津浪來りしが、被害尠し、と。
以上が、同年の震嘯に關する知識なりしが、今回管内桃生郡下より次の記録を發見し、「三陸沿岸」に於ても、相當被害を受けたりしものあるを知れり。
一、安政三辰年氣候能作物豐作に相成然るに七月二十三日書九ッ時(1)地震ゆり揚り併大地震と云にも無之候九ッ半頃(2)に相成大津浪急に押來り居家縁より三尺高く水押揚數度押揚夜の四ッ頃(3)まで十四、五度押揚誠に大變成事言語可申樣御座無く候。
何れに其節六十四五年先(4)の津浪よりは一尺位も高く水押揚候事に相見得申し候手前の婆妻子共抔揃ヘは別家忠太夫家に迯申し候。
縁板はなされ翌朝抔は家へはいる事不叶漸く二十五日朝より火をたき申候手前之者共は物置に止宿仕候隣地の人々は鹿込の畑へ火をたき二日目の朝まで家へ戻らず、其節は別家より飯抔貰へ漸々にくらし申候、若し此以後津浪も難計參り候はば、疊を何分にも早く高き所に揚申候方と存候。
一、當村極貧之者共へ手前より籾一俵宛貳拾俵手當仕候追々に相圖、御代官樣御出救、手前御庭に御鑑み御助救に相成候其後難澁之御百姓へ辻堂(5)御倉より籾四拾貳俵御手當に被下置候事尚亦追々水押揚者共五拾人江籾百俵辻堂御倉より御手當罷成候事、何れ年數過ぎに相成候へば又々津浪參者と心得、參候節は用心大切可申候事、其時之津浪は晝の事にて人畜に怪我無之、夜抔にては不叶事に御座候誠に聞傳にも無之候事之津浪と聞申候乍去明神濱・唐桑(6)抔は少々位之事に御座候手前は大痛位之事に御座候乍繰事も年數相くらし候はば、聞而氣を付可申候何年にも聞傳無之津浪に御座候。(桃生郡十五濱村雄勝、山下恂氏所藏「先祖代々記」)
(註)
1)正午
2)午後一時
3)午後十時
4)寛政年間(紀元二四四九 - 二四六〇)盛小學校ノパンフレツト、「氣仙郡誌」ノ中ニ記録アリ。
5)宮城縣桃生郡二俣村辻堂
6)桃生郡十五濱村にて雄勝に近き同灣内の部落
この記録の發見により、現在より七十餘年前に於ける、桃生郡十五濱村雄勝附近の被害程度及救護状况の詳細に亘りて知悉すると共に、更に次の事を知り得べし。
イ、この際の地震は、「大地震と云にも無之候」に不拘、「大津浪急に押來り」の現象を伴へり、これ、安政の津浪のみならず、明治二十九年、昭和八年の震嘯につきても、同樣なりとは、東北帝大中村(左)博士の唱導せらるる處と合致せり。
ロ、この記録に云へる「六十四五年先の津浪」とは、「岩手縣氣仙郡誌」に見ゆる寛政年間の津浪を裏書するに足るものならん。
要之、安政三年の震嘯は、或は明治二十九年、昭和八年兩度の被害よりも、尠きものならんも、桃生郡十五濱村上雄勝の十五濱村郵便局舎にては、滿潮時より七尺五寸高き床より、更に各、次の如き浸水をなせるを、同局舎の柱にのこれる海水の痕より判斷するを得るものなり。
安政三年 四尺七寸五分
明治二十九年 四尺三寸五分
昭和八年 二尺六寸五分
而して、特記すべきは、今より僅か七十餘年前の震嘯の如きも、その眞相を傅ふるに足るべき記録は、僅かに、この一事を傳ふるのみにして、他は散佚して傳はらざる事なり。
(四)明治二十九年の震嘯
明治二十九年六月十五日(陰暦五月五日)の大震嘯は、未だ吾人の耳朶に新たなるものあり。從つてこれに關する詳細は、次の諸冊子、資料に讓る事とせん。
第二章 今回の地震・津浪に關する觀測
第一節 縣内各地の觀測
I 石卷測候所
本所及仙臺出張所にては、強震を感ぜしが、その觀測次の如し。
震源は金華山沖、東北東約二百八十粁の「三陸沖」であつて、東徑百四十四度七、北緯三十九度一の本邦東方海上に横はつてゐるタスカロラ海底の極めて淺い個所に發生したものである。
尚本所管内氣候觀測所よりの報告を列記すれば、此の地震も、明治二十九年六月十五日に起つた地震同樣陸地では性質が緩慢であつたが、震源ではその勢力が相當強烈なもので、宮城、岩手の兩縣及福島の大半は強震にして、弱震程度の所は、北は北海道の根室、網走から、南は八丈島、濱松長野に及び、微震は遠く下ノ關にまで感じてゐる。此の樣に震域が廣いにもかかわらず、その地震による直接の被害が殆んどなかつたのは、震源が陸地から遠く距つた海中に存在した事と、震源が淺く、從つて、震度が震央を去ると共に急に減衰した爲である。
既に衆知の如く、東北地方の東方海上は、所謂外側地震帶に屬し、その上に頻發する地震は、年平均一千餘に及び、今までもこの地震帶から屡々大地震と大津浪が起つた事は、歴史に、年代記に、又は口碑となつて數多く今に傳つてゐる。
「三陸地方」に於ける近年の活動
次に近年の「三陸沖」の顯著地震回數は、
大正元年 十八回 大正二年 九回 大正三年 十二回
大正四年 廿八回 大正五年 廿一回 大正六年 十二回
大正七年 八回 大正九年 七回 大正十年 七回
大正十一年 十一回 大正十二年 九回 大正十三年 二回
大正十四年 五回 昭和元年 四回 昭和二年 九回
昭和三年 六回 昭和四年 四回 昭和五年 三回
昭和六年 五回 昭和七年 十回
となり、二十一年間に二百一回即ち年平均約十回の顯著地震があつた。
而して、「三陸沖」又は「鹿島灘」に發生する地震は、群生の傾向があり、殊に震源が淺く、且つ其の勢力が強い場合には、その特性が著しく現れるから、此の方面に小地震が頻發する時は、大體に於て、大地震の前驅と解しても強ち不穩當な獨斷とは言はれないであらう。その前驅的活動は、昭和八年に入つて著しくなり、一月中のみで顯著地震一回、稍顯著地震五回となり、無感覺の小地震は實に百四十一回を算してゐる。これは明に此の地震の前驅的活動を示してゐるものである。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:810.4KB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
II 東北帝國大學
イ、地球物理學教室
東北帝國大學理學部地球物理學教室所屬向山觀象所(仙臺市越路町、通稱八木山)に於ては、微動計、倍率二倍の強震計共に、描針紙外に逸し、或は重錘支柱に衝突して用を爲さざるに至れり。從つて、その最大震幅の絶對値は求め難きも、全振幅以上に達せる事明かなり。されど、振動の週期極めて長く、四乃至六秒以上にして、これが爲、震度僅かに、六○○乃至七〇〇粍/2秒、即ち震度○、〇六乃至七前後なり。木造建築を倒潰せしむるには、未だ半ばに達せしに過ぎず。
地震觀測の要點次の如し。
一、發震時 三月三日午前二時三十一分四十二秒四
一、最大振幅(全振幅) 南北八十四粍以上 - 東西七十四粍以上
一、初期微動繼續時間 (p-s)四十秒七
一、總繼續時間 一時間以上
一、震度 強震(弱き方)
一、性質 緩
一、震源地 仙臺の東北東三百粁
ロ、海洋水産化學研究所
主任林博士の研究に據れば、- 岩手縣久慈より、本縣金華山に至る「三陸沿岸」は、硬軟兩質の岩石地質よりなり、岩手縣沿岸の海灣は、宮城・青森兩縣のそれよりも深し。
津浪の被害程度は、岩手・宮城・青森の順序にして、震嘯による災害は、必ずしも、震源よりの遠近に據らざるものなり。
又、該地方の岩石の新古地質時代による硬軟程度及地方沿岸海灣の水深にも關係あり。
而して、災害沿岸を通じ、津浪樣式に二あり。岩手縣廣田灣より久慈灣に至る古生代地層の北部地帶と、氣仙沼灣以南の中生代地層及、青森縣の第三紀・第四紀地層の地域に起れるものと、之なり - と。なほ今回襲來せる津浪を、襲來樣式により次の三型種に分てり。
(1)廻し津浪(本郷型)被害激烈
(2)引き津浪(氣仙沼型)被害僅少
(3)潮吹き津浪(綾里型)被害甚大
ハ、地質學古生物學教室
「三陸沿岸」の津浪は、其特有の地形に支配せられ、明治二十九年のそれと同性質のものなり。田山理學士の報告によれば之を次の四部に分てり。
一、鮫 - 侍濱海岸(岩手縣)
海岸線は殆んど直線的にして、海岸に近く小島點在し、磯の發達を見、新鮮なる數段の「海岸段丘」の存在を見る。又、海底には「大陸柵」の發達廣く、遠淺の海岸よく發達す。
二、久慈 - 田老海岸(岩手縣)
稍直線的海岸にして、僅か二三、奥行淺き灣入あり、久慈灣・野田灣・羅賀灣等之なり。久慈・宇部兩河口を除きては、砂濱の見るべきものなく、其他の河口に近く沖積原は斷崖絶壁を以て直接海に臨む。北部には低位段丘良く發達するも、南下するに從ひて發達惡し。換言すれば、斷層海岸なりと謂ふを得べし。
三、宮古 - 綾里海岸(岩手縣)
大規模の灣入、半島と交互に配列し、北より、宮古・山田・船越・大槌・兩石・釜石・唐丹・吉濱・越喜來・綾里の諸灣あり。
段丘の發達最も惡く、山麓は直接海岸に接し、急崖をなして波に洗はる。深さも亦急に深く、百米の「大陸柵線」も著しく海岸に近づけり。宮古・山田兩灣には典型的斷層海岸あり。
四、大船渡 - 金華山海岸(宮城縣)
大規模の灣入たる、大船渡・廣田・氣仙沼・津谷・志津川・追波・雄勝・女川・鮫ノ浦等の諸灣に、更に重ねて大規模の灣入あり。從って、最も複雜なる海岸を呈し、「低位段丘」亦發達す。
要之、以上、四區域中、今回の津浪による被害の最も大なりし部分は、岩手縣管下の二、の久慈より田老に至る海岸、及三の宮古より綾里崎に至る海岸なりと謂ふを得べし。
第二節 全國各地の觀測
I 中央氣象臺
三月三日の未明に起れる大地震を、中央氣象臺地震掛にて驗測せる結果は次の如し。
(驗測)
發震時 午前二時三十二分十四秒
初期徴動繼續時間 六十秒
最大振幅 十七粍七
震度 弱震
性質 緩
總震動時聞 約一時間
(「三陸沿岸」の地形と津浪との關係)
「三陸沿岸」の三十近くの江灣は、多く東方に開口せるを以て、この沿岸に並行して沖合を略南北に走る外側地震帶上に起り、規模大にして、且震源淺く、海底面に地變を生ずる如き地震にありては、津浪を伴ひ、又、北東或は南東に開口せる灣にては、多く袋の如く陸地深く灣入せるため、灣奥にては著しく浪高を増して、津浪を生ぜり。
かく「三陸海岸」は外側地震帶上 - 即ち「三陸沖合に起れる地震」によりて、古來多くの津浪を蒙りたるが、又他の個所に於ても、大なる海底地震によりて餘波を蒙り、津浪を生じたり。今、歴史に徴するも、「三陸沖に起れる津浪」は、その數極めて多く、慶長以來約三百二十年間に十八回 - 即ち「十八年間に一回」の割合にて津浪の襲來を蒙れり。
(震源と震度)
震源は、岩手縣釜石沖東方、遙かなる海底に當り、その深さ、極めて淺く、僅か數粁に過ぎずと概算せらる。
「三陸地方」の中央脊髓をなす北上の褶曲山脈は、主として、古生層・中生層の砂岩及粘板岩より形成され、南方牡鹿半島及び仙臺灣は、第三紀及第四紀層よりなる。
かく、「三陸地方」の海岸は、堅牢なる地盤よりなるを以て、地震動に對しても、震度比較的少なり。
故に、今回の如き大規模なる地震に於ても、海岸の沖積層地にては、強震を感じ、壁に龜裂を生じたる處もありしが、古生層及び中生層の土地にては、強震(弱き方)及び弱震程度にして、地震による直接被害は殆んど見るを得ず、之に伴ヘる津浪によりて、沿岸地方に崖崩れ、石垣、堤防の决潰、地面の小龜裂等ありたるものあり。
各測候所或は管内觀測所の報告による震度分布を見るも、宮古・石卷・仙臺は強震なるも、他は凡て強震(弱き方)にして、却つて福島縣下に入りて強震を感ぜし所あり。尚、青森縣の下北半島にては弱震の個所多し。
斯樣に今回の強震は、震域頗る廣汎に亘り、且つ規模極めて大なるに不拘、震度の小なりしは、震央の遠きに因るのみならず、「三陸地方」を構成する地盤は、中生層及古生層にして、地震動に對し、極めて堅牢なりしが爲ならんと推測せらる。
II 各地測候所
イ、筑波山測候所
發光現象報告
三月三日午前二時三十二分の地震に伴へる光
一、見たる場所 筑波町大字筑波東山
見たる人 石井富次郎(筑波山測候所小使)
見たる時 震動中(最大動直後)
見たる方向 東南東と思はる。
光の形 不明(但し、パツパツと閃光あり、電光より傳播速度大なりと思はれたり。)
光の色 不明
光りし回數 二回
(備考)觀察者は激しき震動に吃驚、起き上りて表へ飛出せるが、其の瞬間前記の如き發光現象を認めたるものなり。
其の形竝色は、之を明瞭に觀察する暇なかりき。方向は、戸口の位置竝馳け出して立ち止りし表の位置より考察せし結果、東南東なりと判斷せられたり。
二、見たる場所 筑波町ケーブルカー宮脇停車場
見たる人 小池武男(宮脇驛助役)
見たる時 震動中
見たる方向 南(東京方面)
光の形 電光の如く明瞭ならず。パツパツパツとしたる閃光なり。
光の色 淡青色
光りし回數 三回
(備考)觀察者は地震に驚き、直に表へ飛び出せるが、其の瞬間關東大震災の事を想起し、先づ東京方面を望見したりしに、同方面の電燈の光は、平常の如く見られたるも、其の際、層積雲の後方と覺しき位置にて、前記の如き閃光ありしを觀察したるものなり。
ロ、水戸測候所
茨城縣下に於ける津浪の調査
一、縣土木課にて行ひたる那珂川河口に近き祝町下の川岸に於ける自記檢潮儀氣象に依れば、三日三時八分頃、○米二程減水後○米三六の浪一回あり、後三回に亘り著しきものあり、七時三十五分に最高○米七五を示し爾後漸次弱まりしが、二十時前後約三時間に亘り稍著しきものありたり。
二、同上稍上流なる字小川にあるものに依れば、三日三時四十分より水位稍上昇後、○米一八程度に減水し、後、著しきもの十六回あり、漸次弱まり十九時より二十一時三十分迄稍著し。
三、多賀郡大津町役場よりの報告、地震及津浪の被害なし。
四、同郡中潟町役場の報告に據れば、地震の被害なく、午前六時三十分に汐六尺強引きて後大潮となり、被害なし。
ハ、神奈川縣測候所
(イ)神奈川縣下地震被害報告
三月三日の「三陸沖強震」により、横濱市中區大岡川に架せる吉田橋の橋脚及橋欄の損傷最も大にして、橋脚には大龜裂を生じ、橋欄は前面にのめり出でたり。其の他の諸橋にも、阿元の龜裂・開口する損傷ありたり。
(ロ)稻妻樣の光に就ての報告
姥子 三月三日午前二時三十二分、地震と同時に戸外を見れば、東方の空に當り頻に光る稻妻樣の閃光を認む。強く光りて約四、五秒後震動強く、光ること弱ければ震動弱く、稍ありて光消ゆ。地震後に強くなり次に弱くなりて遂に止む。
箱根町 地震に付、東の方向にピカリと閃光を認めたり。
III 航行中汽船
イ、大阪商船株式會社「モンテビデオ丸」よりの海嘯報告
北米ロスアンゼルス(Los Angeles)より横濱に向ふ航海の途中、三月三日午前三時四十分(東徑百五十四度四十五分に於ける眞時使用)、突然強激なる推進機のレイシイング(Racing)の如き震動を約四分間繼續して感じたり。其の直後、當時の波浪と明かに區別せらるる階級四なる「ウネリ」を西方より受けたり。
ロ、農林省所管「ウルツプ丸」よりの海嘯報告
農林省所管「ウルツプ丸」よりの無電に依れば、「三月三日、午前二時三十分■崎より眞方位三十六度三十浬にして、約一分聞、強き震動を感ぜり。」と。
第二編 被害
第一章 人及家屋被害
第一節 人
I 人の被害
凡そ、天災地變に際し最も悲慘なるは、人のこれが犠牲となりて生命を失ひ、或は、生涯不具となるが如き事なるべし。
動産・不動産の損害の如きは、その額如何に莫大にのぼると雖も、當局の熱心なる支援と、地方人士の捲土重來の意氣との協調宜しきを得たらんには、恢復必ずしも困難ならず。されど、貴重なる人命に於ては、之を賠ふに由なし。
昭和八年三月三日の震嘯災害は、本縣下に於て、三一五の生靈を奪ひ、重傷七四(二週間以上醫師の治療を受けたるもの)輕傷七七を出したる、誠に痛恨事とや謂ふべし。
之等死傷者は、地震に伴ふ津浪の爲押流され、或は倒潰家屋の下敷となりて、痛ましき犠牲となりたるものの外、三陸の三月上旬、しかも未明にて、膚を刺すが如き寒氣に觸れ、凍死或は凍傷に冐されしものあり。
昭和十年三月、震嘯災害二週忌に際し、之等死者中未だ屍體不明者一○五を算するは、甚だ遺憾なる次第なり。
II 郡別死傷者調
死傷者を出せる郡は、亘理・桃生・牡鹿・本吉の四郡にして、之が關係町村十四なり。
名取・宮城二郡に於ては、家財・船舶・田畑等の流失・破損・冠水、その他産業上の被害を蒙れるものあるも、幸にして人の被害無きを得たり。
今、之を次の統計に據りて見るに、死者に於ては、本吉郡の一八二人最も多く、桃生の六九人、牡鹿の六四人之に次ぐ。
負傷者は本吉郡の六九人を筆頭に、桃生の四一人、牡鹿の二九人、亘理の一二人之に次ぎ、合計一五一人にして、死者總計三一五人(行方不明者を含む)の約半數なり。
死者及負傷者の被害前人口に對する比率は、桃生郡第一位にして、死者に於て、千人に付十人八分、負傷者に於て、千人に六人四分の割合なり。死者三郡平均千人に付一人七分、傷者四郡平均千人に五分の割合を占む。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
III 年齡別死傷者調
年齡別による死傷者の、當歳より七十歳前後に至るものを、十歳毎に區別せば、次表の如きものとならん。(昭和八年三月八日保安課調査)
これに據れば、死傷者中、十歳未滿の者男女共最も多く、合計一一七人に及べるが、内九割弱に當れる一○五人は、死者及び行方不明者なり。而して、この十歳未滿の死者及び行方不明者は男子に於て六三人、女子に於て四二人にして、男子及び女子、死者、行方不明者總數の各○、四二及○、二七に當り、何れも最高率を示せり。
ついで、男子に於て、六十歳より七十歳に至るもの二十名、女子に於て、五十歳以上六十歳未滿の者に、同數の犠牲者を出せり。
猶、二十歳より三十歳に至る婦人が、母性愛の尊き犠牲として二七名 - 即ち、女子總死者・行方不明者の一割七分を算するは注意すべし。非常災害時に際し、「先づ老幼婦人を避難せしむる。」の必要なるは、本表によりても、明かに首肯せらるる所なるべし。
1/4
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
2/4
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.2MB
3/4
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.2MB
4/4
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
第二節 家屋
I 家屋の破害
罹災地一帶の家屋は、主として茅葺の粗末なるものなれども、桃生・牡鹿一帶には、地方特産のスレートを以て葺けるもの、市街地には瓦葺のものも尠からず。何れも、大都市に見る如き耐震家屋には非ざれど、地震そのものにてよる被害は概して尠く、津浪によりて悲慘なる結果を生じたり。
沿岸の地勢、背面は山岳の聳ゆる所多く、流倒家屋は山際に押しつけられしものあり。又、大原村鮫ノ浦の如く、灣口狭く、之に連れる低平地に住宅多き被害地には、流失家屋、遠く海上に押流されて浮游せしものもあり。
特に、將來の鑑戒とすべきは、「三陸沿岸」從來の住家の構造が、津浪の如き災害に對し、最も危險なる樣式にありし事なり。例へば、女川町石濱の如き、多くの住宅は、海岸に面せる一方のみに、出入口を設け、裏口とも謂ふべき方面は、窓格子、その他の採光方面のみ注意せられ、出入すべき個所なき爲、津浪の急襲に際しては、背面の丘陵に避難せんとして多大の困難を感じ、中には、家屋流失せざるに不拘、激浪の爲め浚はれ、沖合八十間迄押流されて九死に一生を得たる者すらあり。又、津浪の特質として、苟も河流のある處必らず潮流溯上し、兩側に氾濫して、河岸に建てる家屋に被害を及ぼせり。
從つて、「三陸沿岸」に於て、將來河流に沿へる建築は、假令河口より三、四百米の距離にあるも、津浪襲來の際、絶對に安全なりとは斷言し難し。
II 住家の被害
イ、郡別住家の被害
住家の被害を受けたるは、亘理・名取・桃生・牡鹿・本吉五郡十七町村に亘り、被害總戸數、二、二八四戸にのぼれり。内、浸水家屋、住家一、六四五戸にして總被害戸數の七割二分に當り、その總建坪五○、九四○坪に及べり。最も悲慘なる住家の流失倒潰の厄を蒙りしもの、總數四七七戸なるが、これが過半數たる五割三分は、本吉郡内の被害に屬し、桃生郡一六五戸(三割四分)、牡鹿郡四八戸(一割)、亘理郡一〇戸(二分)にして、名取郡は流失・倒潰家屋一件も無し。
被害前住家戸數に對する罹災戸數比率は、總體的に桃生郡最も高く、その比率一、○○○戸に對する三九二戸を示せるが、流失・倒潰家屋の率も、一、○○○戸に對する一三八戸にして、半潰家屋をも加ふれば、その率實に一、○○○戸につき二○七戸に當る。
前夜迄平和なる漁村として、朝に漁り、夕に一家團欒して談笑せし「三陸沿岸」住民中、一夜にして家を奪はれ、茫然爲す處を知らざるもの、本縣下に於て六三九戸、三、八四〇人の多きを見るに至りしなり。
ロ、町村別住家の被害
罹災戸數を町村別に見るに、牡鹿郡女川町の五〇七戸第一位なり。されどその九割強は、浸水程度にして、就中、鷲の神・女川の二區は相接續して市街を形成し、商・漁業を營むもの多く、津浪襲來により店舖の表戸の硝子を打貫かれ、或は壁・疊等を汚損せられしもの大部分を占めたり。
これに次げるは桃生郡十五濱村にして、罹災總戸數四六九戸中流失・倒潰家屋一六五戸は、同村の總被害の三割五分に當れば、實質的の被害は寧ろ本縣隨一なり。こは、同村内、雄勝が、海岸に沿ひて細長き市街を形成し、人家櫛比したれば、類似灣形にある分散的部落よりなる他町村に比して、被害を大ならしめたるものならん。
住家の罹災總戸數及流潰戸數の多少を町村數に對比すれば、次表の如し。
流潰戸數を五〇戸以上出したる町村は、桃生郡十五濱村、本吉郡唐桑村及び歌津村なり。
III 非住家の被害
罹災町村五郡十七ケ町村に亘れるは、住家の被害區域と全く同じなり。
納屋及その他の非住家の被害は、本吉郡第一にして、納屋六二三棟、その他の非住家八四二棟合計一、四六五棟の多きに達し、桃生郡の納屋二〇五棟、その他の非住家三一四棟、合せて五一九棟これに次ぐ。
流失・倒潰家屋に於ても、被害の程度、本吉郡・桃生郡の順なり。
被害前非住家棟數に對する罹災棟數比率は、住家の際と同じく、桃生郡最高率にして、四割七分を示せり。流失・倒潰棟數に於ても同樣なり。
○なゐいみしくふり出て海の鳴ととろく
伊達自得
野に山にさまよふ見れば貧きも
とめるもけふはおなし世そかし
契なれや濱かせ寒き松原に
板戸かこひてなな夜ねにけり
假庵の軒のたれこも隙をあらみ
顏にきらめく夜半の月影
うつ潮は餘處にのかれし家さへや
薪とすらんかくつちの神
玉極(きは)るいのちの外にしろかねも
黄かねもけふはなき世なり
岩かねの動かすとても彌益に
國かためよとなゐはふるらし
註 伊達自得翁は、有名なる陸奥宗光氏の父君にして、之等は、「伊達自得翁全集」より摘録せりo何れも、安政元年十一月五日の大地震に關する、翁が寓居紀伊田邊にありての詠歌なり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
第二章 産業上の被害
第一節 一般状况
I 震嘯以前に於ける産業状况
本縣下罹災地は、本吉・桃生・牡鹿の三郡にして、その他、仙南に亘理郡坂元村あり。
之等町村の沿岸住民は、半農・半漁の職業に從事し生活を營むもの多し。之等町村の最近に於ける、産業別戸數竝に生産額次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
II 職業別による被害世帶
今回の震嘯罹災地は、海岸に近き關係より、自然、被害世帶、漁業者に最も多く、商工業者・農業者之に次ぐ。
第二節 農業
I 被害前の農業状態
「三陸沿岸」の農業從事者は、自作農大多數を占め、小作地面積の五割以上に及べる處なし。
耕地總面積に對する小作地面積の割合次の如し。(但し沿海諸町村のみを擧ぐ)
II 農業從事者被害世帶調
農業者の罹災世帶數は、總數二五八にして、漁業・商業從事者罹災世帶數に次ぎて第三位に在り、各職業關係者罹災世帶總數二、二八四の八分の一に當るに過ぎざるは、「三陸沿岸」が、水産業を以て第一となすのみならず、主なる農業生産地が多く津浪の害を受けざる地域に在り、從つて、之に從事せるものが、海岸よりも寧ろ、山丘の地に住居及び貯藏庫を設けたるによる。
被害世帶數、本吉郡一八○にして、農業從事者被害世帶の四分の三を占め、牡鹿・亘理・桃生の諸郡之に次ぎ、名取郡に於ては、漁業從事者の被害世帶六あるに對し、農業從事者の被害世帶皆無なり。
III 耕地の被害
三月三日未明に發せる強震は、狂暴なる津浪を伴ひ、縣下本吉郡・桃生郡・牡鹿郡及び亘理郡の十四ケ町村八十五地區に亘り、耕地面積、田に於て二百餘町歩、畑に於て百七十餘町歩に及び、六寸乃至二尺の耕土の流失あり。又、六寸乃至五尺の土砂の埋沒、又は、倒潰し、流失せる家屋の殘材及破片散亂するありて、被害甚大なり。
その被害額は、田に於て五萬餘圓、畑に於て五萬餘圓、耕地損害額合計約拾萬餘圓なり。
IV 建物の被害
農業關係建物の被害は、亘理一、桃生一、牡鹿三、本吉九の四郡十四ケ町村に亘り、流潰浸水棟數一、○○八にして、之が損害見積額は六三、六二○圓に達せり。
罹災町村中、激甚なる被害を蒙りたるは、本吉郡歌津村にして、その被害棟數一九四棟、損害額一二、○四五圓に及べり。
以下、牡鹿郡大原村の一○五棟、九、一三四圓、本吉郡唐桑村の四○八棟、八、三三○圓、十三濱村の三一棟、五、二六○圓之に次げり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
V 農具の被害
農具の被害は、本吉郡歌津村最も多く、被害數量三、九九一にして、損害額四、三七二圓を算し、小泉村は、數量一、三八四なるも、脱穀機・籾摺器等の高價なる器械の使用、不能に陥りたる爲、損害額は更に大にして、五千圓を超えたり。
罹災町村十二、内、亘理郡一、桃生郡一、牡鹿郡一、本吉郡九にして、被害總數量一八、○○五、損害額一八、九四四、四圓なり。その詳細次の如し。
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
VI 家畜の被害
家畜の被害は鷄を第一とし、四百羽に餘り、豚・馬各三十頭前後にして、牛は坂元村に於て三頭の犠牲を見たるのみなり。
頭・羽數に於て、十五濱村の二百二十七を第一とし、被害總頭・羽數の三分の一を超え、階上村の百二十三、十三濱村の九十六、坂元村の七十八、歌津村の六十一、之に次ぐ。
損害見積額に於ては馬・牛・豚・鷄の各種に亘りて被害を見たる坂元村の二、三四○圓を最高とし、大原村・歌津村・十三濱村・唐桑村は各五百圓以上千圓未滿の損額を蒙れり。
VII 農作物の被害
本縣「三陸沿岸地方」に於ては、大麥・小麥は、通例十月上旬播種して、翌年六月上旬・中旬の頃收穫し、野菜類は、越年生のものにありては、十月下旬播種し、翌年三月中旬收穫し、一年生にありては、三月下旬播種して、十月下旬收穫す。又、紫雲英は、九月上旬播種、五月下旬收穫するを常とす。
かくて、越年の野菜類にありては、三月上旬は九分通り、大麥・小麥・紫雲英の如きも六、七分通り生育して、收穫をまてる際、この天災によりて、收穫皆無五九、七五三・四畝、七割以上の減收三、九五一畝、五割以上の減收四、四六八畝、都合五割以上の減收より收穫皆無に至る栽培面積六八町一段二畝餘の被害を受けたり。この損害見積額二一、六四六圓に達せり。
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
VIII 種苗貯藏農産物・肥料及農用諸材料の被害
種苗の損害は、桃生郡十五濱村最も多く、全被害額の四割五分強を占む。貯藏農産物中には、總じて籾の被害多く、肥料及農用諸材料には、厩肥・堆肥・魚粕・豆粕等の損害多し。貯藏農産物の損害は、小泉村最も多く、唐桑村・歌津村之につぎ、何れも四萬圓以上の被害額なり。各町村被害額左の如し。
その内譯次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
第三節 養蠶業
I 約説
「三陸沿岸地方」に於ては、半農・半漁を以て生業となすも、傍ら植桑をなして、副業たる養蠶に從事せり。
桃生・牡鹿・本吉三郡の、養蠶業組合區域内養蠶戸數は、合計六、七八六戸、實行組合數は、二九八にして、組合員數は五、三二三人なり。(昭和七年現在)
II 桑園の被害
桑園被害中、最も甚だしきものは、桑株流失にして、その面積五十四町七反に及び、輕微のものに於ても、桑園の冠水七十三町六反に及びたり。爲に、土砂、桑園に入り、桑發芽前なりしにも不拘、發芽止まり、桑葉の收穫を見るを得ざりき。
その被害見積額八萬參千八百七拾壹圓に達したり。
又、蠶室及蠶具に於ては、一般家屋と同じく、流矢蠶室一二四戸、倒潰蠶室五一戸を數へ、其の被害見積金額拾六寓五千九百九拾六圓に上れり。
桑園・蠶室・蠶具の被害次表の如し。
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
第四節 水産業
I 約説
本縣に於ける水産業者總世帶數は、昭和七年末に於て、本業七、〇九四、兼業四、六〇六、計一一、七〇〇なるが、今回の災害に據り、罹災世帶一、〇一五(但しこれは本業のみ)を出したれば、水産業者總世帶數の約一割四分に當り、その影響する處尠からず。
漁船總數八、〇二六隻(昭和七年末)中、動力一五五隻、無動力二、一九二隻、合計二、三四七隻の被害を出し、他に運送船二九隻も、同じく損害を受けたり。即ち、漁船に於て、本縣下總數三割弱は一瞬にして、自然の暴威のままに海上はるかに流失し、或は、陸上に打揚げられ、使用に耐えざるに至りたるは、漁業を以て生業となす、沿岸住民への經濟的脅威は勿論同時に、沿岸近村部落への、唯一の交通機關たりし運脚を奪はるるの悲運に遭遇せるものなりと謂ふを得べし。
之等船舶の被害、八拾萬圓餘にのぼり、その他、漁具・漁肥等の損害、又四拾萬圓に近く、共同製造所・共同倉庫・共同販賣所・共同養殖等の被害額拾六萬圓に達し、船溜・船揚場及築磯等被害七萬圓を加算すれば、水産業關係の被害額實に百四拾參萬圓餘に上れり。
仍つて、昭和七年末及昭和八年末に於ける桃生・牡鹿・本吉三郡の水産業戸數竝水産業者、漁船、近海漁業、水産養殖、水産物製造額等の比較表を掲げ、表によりて、震嘯災害による水産業の影響を考察せん。
II 漁業者罹災世帶
漁業者の罹災世帶數は、總數一、〇一五にして、各職業關係者罹災世帶總數二、二八四の半ばに達せり。
總數に於ては、本吉郡第一なるも、町村平均に於ては、桃生郡隨一たり。
漁業者世帶の總被害見積金額一、二九一、三三〇圓中、その半數以上たる六五七、九一三圓が、桃生郡十五濱村、一村のものなるは注目に値す。
III 船舶の被害
發震時は、午前二時半といふ夜半にして、沿岸住民は、津浪襲來に遭ひ、辛うじて生命を全うしたるもの多き始末なれば沿岸陸揚中の漁船の如き、到底之を避難せしむる能はざりき。折から出漁の凖備をなし、岸邊に纜を解かずして待機中のものありしが、津浪襲來の爲、乘組員と共に陸上に打揚げられ、船體微塵に破壤せられしもの、又、近海航行中、俄かに怒濤の冐す處となり、暗礁に乘上げ、沈沒せしものもあり。之等震嘯災害による遭難漁船の種類及び船舶被害種別次の如し。
一般罹災町村以外として、石卷町・氣仙沼町・塩釜町に次の如き漁船の損害あり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
IV 漁具の被害
漁具の被害は、被害漁船登載中のもの約半數、漁船の流失破損とその運命を共にし、他の半數は、沿海漁村の家屋に置藏せられたるものなり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
V 魚肥の被害
VI 漁業組合の被害
漁村經濟の最大缺陷たる漁村金融逼迫緩和を一契機として生れたる漁業組合數は、本縣下を通じて一〇三に及べるが、今回の震嘯災害によりて被害を蒙りたる組合數二八、その他の團體三にして、之等共同施設たる共同製造場・共同倉庫・共同販賣所等、共同施設の被害個所數總計九八ケ所を數へ、被害額拾六萬圓に達せり。
◎漁業組合共同製造場各個別被害調
本吉郡唐桑村 穀田周藏外九名團體小野寺佐太雄外九名團體
同 大谷村 金澤要次郎外九名團體
同 歌津村 歌津漁業組合
同 戸倉村 戸倉漁業組合
同 十三濱村 十ケ濱漁業組合(大室、小泊、白濱、小指、大指、小瀧、長塩谷、相川)
桃生郡十五濱村 名振漁業組合 雄勝漁業組合
同 船越漁業組合 分濱水濱漁業組合
同 大濱漁業組合
牡鹿郡女川町 女川濱漁業組合 女川海産物製造組合
同 桐ケ崎漁業組合 出島漁業組合
同 大原村 谷川漁業組合 給分小淵漁業組合
同 鮫ノ浦漁業組合 寄磯漁業組合
宮城郡塩釜町 共立漁業共同組合
◎漁業組合共同倉庫被害調
本吉郡大谷村 及川彦左衛門外九名團體
桃生郡十五濱村 名振漁業組合 船越漁業組合
同 熊澤漁業組合 雄勝漁業組合
牡鹿郡女川町 女川漁業組合 桐ケ崎漁業組合
同 女川海産物製造組合 出島漁業組合
宮城郡塩釜町 共立漁業共同組合
◎漁業組合共同販賣所被害調
本吉郡歌津村 歌津漁業組合
牡鹿郡女川町 鷲ノ神漁業組合
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
第五節 商工業
I 商業の状况
「三陸沿岸」は、その地形・地勢の然らしむる處として、多く水産物は自供自足すれども、農産物は、地方住民の食料を充たすに足らず、之等は多く、石卷・塩釜等の物資輸送の大集散地を經て、交易せらるるものなり。
從つて、「三陸沿岸」の商業は、石卷・塩釜・氣仙沼・女川・志津川等の海産物貿易を除きては、沿岸に大規模に行はるる事なし。殊に山間僻地の漁村部落に於ては、日用品の如きも、女川・志津川・氣仙沼等の港市より行商に入り込みてその需要を充すの現状にあり。大小の灣内を航行する發動機船に、柴刈風に、販賣品を入れたる箱乃至風呂敷を背負へる行商人の必らず一、二名の見らるるは、この間の消息を充分物語るものならざるべからず。
II 工業の状况
「三陸沿岸」は、往古、金をはじめ、鐵・銅等の産出ありたるが如く傳へらるるも、その産出、程無くして絶えたるものの如く、ただ山金として、本吉郡大谷に採掘操業せられ、今日は、本郡屈指の産金地となれり。
從つて、金屬製品は、本吉・牡鹿等の諸郡に行はれ、鐵工業者の工場、沿岸に尠からず。又桃生郡十五濱村及牡鹿郡女川町一帶には、スレートの産出ありて、漸次工業製品としての販途多ければ、之等從業者は、一の工業組合を設立せんとの意志を抱けり。されど要之、本縣下の工業は、之を全面的に觀察せば、未だ手工業の域を脱せず。
III 商業の被害
商業從事者中、家屋流矢五七世帶、全潰一一世帶、半潰一四世帶及び床上、床下浸水三九二世帶を出せり。
この中最も甚だしきは、十五濱村にして、流失に於て、二六世帶、即ち全流失世帶數の半ばに近く、全潰七世帶にして、總世帶戸數の半ばを超え、その他、半潰・浸水等を加ふれば、總被害戸數七三世帶に達し、罹災總戸數の約一五%強に當れり。
流失に於ては、唐桑・歌津これに次ぎ、全潰に於ては唐桑二世帶にして第二位を占め、半潰にては、十三濱の四世帶次位たり。
浸水に於ては、女川斷然多くして、一九〇世帶を算し、志津川の八五世帶も有數なり。女川及び志津川の浸水戸數多きは海岸及び河流に面せる市街地に冠水ありたるが爲なり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
IV 工業の被害
工業從事者家屋(住家)の被害は、世帶數流失七六、全潰一二、半潰三六及び床上・床下浸水一一○にして、被害總戸數二三四に逹し、商業被害世帶の殆んど半なり。
工業從事者の家屋被害に於ても、商業に於けるそれと同じく、桃生郡十五濱村隨一たり。罹災町村工業關係家屋流失・全潰八八世帶中、七二世帶は十五濱村なり。その他、半潰・浸水等を加ふれば、同村のみにて、一五七世帶となりて、罹災町村總被害戸數の三分の二を占む。
第六節 其の他の被害
I 産業組合の被害
イ、事務所及倉庫の被害
産業組合事務所及び倉庫の被害は、桃生郡十五濱村にて、雄勝製硯販賣購買組合及十五濱村信用購買販賣利用組合所有のもの夫々流失したるに過ぎず。
なほ、倉庫に於ては、登米郡佐沼町に於て、地震そのものによる全潰一棟ありき。
ロ、組合員の被害
罹災地組合員の被害竝關係損害高次の如し。
II 鹽竝煙草の損害
仙臺地方專賣局にては、「三陸地方震災」と同時に大曾根副參事を現地に急行せしめ、塩竝に煙草の販賣、被害状况を調査せしめたり。
その調査報告によれば、宮古の塩取引所に貯藏中の塩二十萬サロが浸水せる爲、約壹萬圓の損失を受けし外、宮古・岩泉の煙草小賣人四名死亡せり。
而して、宮城、岩手兩縣を通じて、「三陸沿岸」に亘りて、流失せる塩八百五十俵、煙草壹萬八千參百餘圓と算定さる。
煙草及塩小賣人にして、流失・倒潰家屋を出せるもの左表の如し。
第三章 交通・通信機關及電燈の被害
第一節 道路・橋梁・河川・海岸
I 道路の被害
道路の被害は、一般被害程度とその割合を等しうし、本吉郡下に最も多く、牡鹿・桃生之に次ぐ。
「三陸地方」は、從來交通不便にして、近年縣道たると町村道たるとを不問、大いに改修せらるる處ありて、面目を一新せるものありし際なれば、震嘯當時、改修或は開鑿せられしもの尠からざりしに、今次の震嘯により決潰乃至路面沈下を來せるものあり。
本吉郡十三濱村月濱の決潰、同階上村波路上、及桃生郡十五濱村名振の海岸道路の崩壤、牡鹿郡大原村大谷川の路面沈下の如き、その著しきものなり。
被害道路の總延長、縣道に於て、六七九二・三米、町村道に於て、一、八二九・七米にして、これが復舊施行箇所及び査定工費左の如し。
因みに、道路復舊は、海岸に沿へ箇個所多く、實質的には、海岸護岸工事を兼用せるもの多し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
II 橋梁・河川・海岸の被害
激震に伴へる津浪の物凄き怒濤は、壓するが如く、脅すが如く、狂奔、見る間に灣口ヘと襲ひ來りて、北上・追波等の如き大河川は勿論、小流と雖、潮流急激に潮上し、或は堤防、或は橋梁等を悉く流失、破壤、破損せしめたり。爲に、人及家屋の被害、極めて僅少なる牡鹿郡鮎川町(鮎川、十八成)・同女川町・本吉郡志津川町の如きも、橋梁の流失、破損亦尠からざりき。
小流に架せる橋梁の流失、破損せるものに對して、假橋架設その他の應急修理は、第二師團より派遣せられたる「工兵第二大隊」の盡力に負う處大なり(第三編應急措置及救護第二章政府の救護・援助第二節陸軍の救援の條參照)
橋梁・河川・海岸被害延長
橋梁 縣工事 七五、五五米 町村工事 一七、四米
河川 縣工事 七二〇米 町村工事 一三五米
海岸 縣工事 七、三〇八、六四米 町村工事 三、七一六、九四米
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
第二節 郵便・電信・電話・ラヂオ
序
本縣下の郵便・電信・電話等の被害は、岩手縣下の激甚なる損害に比すれば、同日の談に非ざるも、電信・電話線の復舊には尠からざる費用と苦心とを沸へり。
I 郵便
イ、局舎・郵便物の被害及事務復舊
(1)十五濱局(局舎浸水)
十五濱局は、安政三年・明治二十九年兩度の津浪にも浸水するところとなりしが、今回も亦床上二尺餘の浸水を蒙り普通・通常二〇通、代金引換小包三個の濕潤被害を受けたり。なほ、郵便物取片附に努力せる從業員一名は、遂に波濤のため殉職するが如き悲慘事もありたり。
仍て三日午前八時雄勝小學校上手武山靜夫宅に假郵便局を開設し、電話通話事務は三日午前九時より、電信事務は同午前十時三十分より開始し、其の他の事務は、同日午後六時半本局舎に移轉の上開始せり。
(2)女川局(局舎浸水)
女川局の被害は、敷地が冠水せる程度なれば、郵便物の被害は全くなく、爲替事務は三日午前九時四十分より、保險事務は同日正午より開始し、其の他は平常通り事務を取扱ひたり。
ロ、郵便線路の被害
本縣下に於て、鐵道郵便線路及通常道路には、何等障害なかりき。水路郵便線路の塩釜・宮古線中・釜石・宮古間は、二日始點地發下便及三日始點地發上便に限り缺航せるも、次便より復舊せり。
ハ、從業員死傷竝家屋被害
遞信從業員中、十五濱郵便局從業員一名行方不明となり(既述、殉職せしものと認めらる。)大島郵便局從業員一名負傷せるが、從業員家屋被害は左表の如し。
II 電信電話の被害
イ、電信・電話線路の被害
ロ、電信・電話・器具・機械類の被害
仙臺遞信局管内に於ける電信・電話器の被害は、電信に於て地氣端子流失二、破損二五、以下ダニエル電池等都合一二一單位の被害を見、電話に於て磁石式加入者可鎔片管四二四個、加入者保安器二二四個以下、共電式加入者受話器・背面板・加入者デルヴエル送話器等合計二、一○○單位(個、板、臺)の撓失・流失・浸水・破損等の被害を受けたり。
ハ、震嘯災害直後八日間の電報取扱状况
此の表に於て見る如く、震嘯當日及び翌四日に於て、關係郵便局の取扱數平日の約七倍強より八・五倍の數にのぼれり。
二、簡易保險金及貸付金非常局待彿調
ホ、貯金非常沸取扱状况表(岩手縣の分を含む)
III ラヂオの聽取料免除及聽取廢止
震嘯罹災民救濟及慰安の一助として、日本放送協會東北支部にては、災害當日より五月末日迄、被害地域たる三縣・八郡四十六町村の聽取加入者に對し、聽取料の免除をなせしが、災害後聽取廢止を申出でたるものも尠からずありたり。各町村聽取料免除數及び聽取廢止數左の如し。
第三節 電氣事業
I 縣電の被害
イ、宮城縣電氣工作物被害状况明細表
ロ、宮城縣電關係配電不能箇所明細表
ハ、町村別配電系統被害状况調
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.3MB
II 氣仙沼水力電氣株式會社の被害
1、被害状况
被害地域は海岸一帶即ち、唐丹、吉濱、越喜來、綾里、赤崎、大船渡、盛、末崎、小友、廣田、米崎、高田、氣仙の各町村にして、配電線以下需要家屋内設備に至る被害次の通とす。
(イ)發電所 日頃市第一、同第二、世田米及盛各發電所共被害なし。
(口)變電所 高田、鹿折、兩變電所共被害なし。
(ハ)送電線 全線に亘り被害なし。
(ニ)配電線 支持物に於て四〇〇本折損又は倒潰(内流失せるもの三〇〇)せり。
(ホ)需要家屋内設備 需要家一、〇七〇戸流失し、電燈數に於て二、○○○燈(街燈を含む)電動機七ケ所六〇馬力の被害あり。
以上損害見積概算高 五、○○○圓とす。
2、復舊状况
吉濱、唐丹の兩村は十日、其の他は九日迄全部點燈の運びに至れり。
第四節 鐵道
「三陸沿岸」には、由來鐵道の敷設普からず。やや海岸に沿へるは、久慈線、山田線及釜石輕鐵の一部にして、本縣内の大船渡線を加へて、四線を數ふるのみ。
而して、今回の地震の震源地は、遠く海中に在りたるを以て、地震により、陸上に龜裂を生じ、或は、地層の陷落せる事等尠し。從つて運轉中の列車・貨車等の顛覆脱線の如きは皆無にして、鐵路の破損等の如きも甚だしく大ならず。ただ、久慈線種市、陸中八木間(青森縣)に於て、八木川架橋の橋梁の一部及び附近の築堤護岸張コンクリートの缺壤せしものを最なりとす。」
仙臺保線事務所管内にて、被害の甚だしきもの次の如し。
其の他、仙臺運輸事務所管内にて三十ケ所、本縣管下にて二十五ヶ所、驛舎・官舎・機關庫等に於て、煙突三個の破損をはじめ、壁瓦等の剥落、窓硝子の破壤等あれども、之等は極く輕微なる損害なり。
尚、全國各地より「三陸沿岸」の各地に、鐵道便を以て發送せられたる合計百十一個の貨物及小荷物は、罹災地にありたる爲に、流失或は、全部乃至一部濡損したり。
されど、之等は凡んど岩手縣下沿岸に於けるものにして、本縣下に於ては一件もかかる事なし。
第五節 警察電語
I 被害及應急措置
警察電話の被害竝に之に對する應急措置は、次の如くにして、當局は、假修理の爲、六五四圓四五錢を支出せり。
三月三日
一、十五濱巡査駐在所電話に被害あり。直に工夫を派遣、應急假修理を施し、開通せしむ。
一、志津川・伊里前・津谷・大谷方面線路の被害に對しては、應急修理の爲、工夫を派遣し假開通せしむ。
三月五日
一、十五濱方面の被害假復舊したるも、通信連絡上不便なるにより、十五濱巡査駐在所の電話を同村役場に假移轉し公私とも災害上便利なるを得たり。
三月七日
一、第二師團より軍用ゴム線及電話機を借入れ、自動車にて十五濱・船越間の警察電話を假架設せり。
一、氣仙沼線路被害復舊及架設修理の爲、淺水・米谷間及津谷・大谷間の線路復舊架設修理の爲、工夫・人夫を派遣し同工事を施行せり。
三月十一日米谷、淺水間
三月十三日より二十三日迄津谷、大谷問
II 復舊及新架設
縣當局は、復興費九、八三四圓を以て、前記警察電話の本修理竝今回の災害の結果、痛切に警察電話の必要を感ぜし左記罹災地への新架設費に充て、夫々實施完了せり。
新架設線
一、氣仙沼・唐桑間一回線架設工事施行(昭和八年四月十一日起工 同年五月八日竣功)
一、十五濱村巡査駐在所線路復舊工事施行(昭和八年四月七日起工 同年四月十四日竣功)
一、志津川・伊里前間一回線架設工事施行(昭和八年五月八日起工 同年五月十七日竣功)
一、橋浦・十三濱間一回線路架設工事施行(昭和八年五月二十四日起工 同年六月四日竣功)
第四章 學校・官公署の被害
第一節 學校
I 罹災學校數及校地校舎の被害
本縣二市二百町村二百八十八校中、災害を被れるは、亘理・名取・桃生・牡鹿・本吉の五郡二十ケ町村三十二校なれども、其の甚だしきは、桃生郡十五濱村・牡鹿郡大原村・本吉郡十三濱村・歌津村・小泉村・唐桑村の六ヶ村十一校なり。
小學校及其の他の校舎にして、倒潰・流失せるものなし。然れども、床上まで浸水せる學校二校あり。殊に桃生郡雄勝小學校は床上四尺餘の浸水にて、腰板・床板・壁・硝子窓等の破損甚しく、尚同校教員住宅二棟、使丁室一棟半潰せり。
II 罹災兒童及教員
災害地小學校の在籍兒童約一萬七千三百十八人にして、其の中罹災せる兒童約二千三百五十六人中死亡兒童二十三人、行方不明兒童十七人、負傷兒童十八人、又、災害地小學校に勤務せる教員にして、罹災せる教員二十三人なり。その詳細は次表の如し。
第二節 官公衙
罹災區域は、本縣下に於て、比較的行政的主腦部とも謂ふべき地方に非ざれば、官公衙の被害を受けたるものは、極く少數にして、被害程度も極めて輕微なり。
加之、神社、小學校等の村落信仰・教育の中心ともなるべきものは、多く山腹、高臺等に設けられ、災害當時罹災民の避難箇所と目せられたる程なれば、之等の損害として數ふべきものは、寧ろ焚出・罹災民收容による拜殿・教室等の汚損、摩擦等による間接的のものなり。
被害箇所及種類次の如し。
一、村役場
十五濱村役場
志津川町役場 (損害額) 一、一〇〇、円○○
一、三等郵便局
十五濱郵便局 (被害程度) 床上二尺浸水
女川郵便局 (被害程度) 敷地冠水
一、巡査駐在所
十五濱村雄勝巡査駐在所 (損害額) 一一六、円六〇
女川町尾浦巡査駐在所 (同) 三四、五〇
第三編 應急措置及救護
第一章 侍從御差遣竝御救恤金御下賜
第一節 畏き大御心
至仁至慈なる 天皇・皇后兩陛下におかせられては、三陸地方震嘯災につき、關係大臣の奏上を聽召され、畏くも痛く宸襟を惱まし給ひ、御内帑金御下賜の御沙汰ありたり。
依て、宮内大臣より本縣知事に對し、左の如く電報ありたり。
本月三日管下強震ノ爲被害尠カラサル趣聞シ召サレ御救恤トシテ
天皇・皇后爾陛下ヨリ金八千圓下賜セラル
宮内大臣(八年三月四日午後二時十八分着)
この電報に接し、知事は恐懼措く處を知らず、早速、宮内大臣宛、謹みて左記御禮の電報を發送せり。
縣下沿岸地方災害ニ際シ、罹災者御救恤トシテ
天皇・皇后兩陛下ヨリ特ニ金員ヲ下シ賜リ恐懼感激ノ至ニ堪ヘス
謹テ御禮申上ケ奉ル 右宜敷御執奏テ請フ
宮城縣知事 三邊長治
而して、同日聖旨の優渥なる、親しく侍從を遣して、罹災地の慰問竝に視察に任ぜせしめたまふの御沙汰あり。
其ノ管下震災ノ爲被害尠カラサル趣聞召サレ、思召ヲ以テ侍從大金釜治郎ヲ差遣ハサル同侍從ハ本日午後十時三十分上野驛發ニテ明五日午前七時仙臺驛着ノ豫定ニ付同所ニテ岩手縣知事竝青森縣知事ト萬事打合セアリタシ。
宮内大臣(八年三月四日午後三時着)
仍て、本縣知事は、直ちに、岩手、青森兩縣知事宛、五日午前七時迄に、來仙せられたきむね通知したり。
乃ち、石黒岩手縣知事竝多久青森縣知事は、早速列車にて來仙され、侍從と相前後して本縣廳に到着せられたり。
又、四日、縣下牡鹿、桃生郡下の罹災地視察をなし、五、六兩日本吉郡下に赴かんとせる三邊本縣知事は、この御沙汰を拜し、四日の族程を了ふるや、翌日よりの豫定を變更し、急遽歸廳せり。
第二節 聖旨傳達
尊き聖旨を奉戴せる大金侍從は、丹羽社會局長官以下帶同、五日午前七時仙臺驛着、三邊知事以下の出迎へを受け、針久別館にて朝食を攝りたる後、縣廳に向はれ、正面玄關に列立出迎への廳員に、輕く會釋を給ひて、四階貴賓室に入らる。
小憩の後、午前九時に至り、清水谷學務部長の先導にて、傳達式場たる正廳に入られ、やがて、三邊知事に對し、嚴かに聖旨を傳達せられしが、ついで次の順序により、御下賜金を傳達せられたり。
一、宮城縣
二、岩手縣
三、青森縣
ついで關係縣知事より、謹み畏みて、聖旨拜受につき奉答ありたる後、知事應接室に入られ、同所にて、本縣知事より、管下竝に被害状况報告を聽取せられたり。
第三節 侍從の罹災地覗察竝慰問
有難き 聖旨を奉じたる大金侍從は、三邊知事、二階堂秘書、野村保安兩課長、佐々木社會事業主事、吉野仙臺聯隊區司令官、出口仙臺憲兵隊長、上野第二師團參謀、庄司縣議等の案内にて、次の如き旅程にて、震嘯罹災の實地につき視察竝慰問の爲、出發せられたり。
第一日〔三月五日(日)〕
午前九時五十分 宮城縣廳發
同十時 電鐵仙臺驛發
同十一時四十分 電鐵石卷驛着
同十一時五十分 石卷町日和山着(晝食)
午後一時 石卷町日和山發
同二時二十分 大原村着
谷川部落
鮫浦部落
視察約二時間
同四時二十分 大原村發
同五時四十分 石卷町千葉甚旅館着泊
第二日〔三月六日(月)〕
午前七時 石卷町發
同九時 十五濱村雄勝着
同九時三十分 同所發
(途中十三濱村ノ状况聽取)
正午 志津川町着
晝食(常盤)
午後零時四十分 同所發
同一時 歌津村着
同四時十分 唐桑村只越着
同四時三十分 同所發
同六時 氣仙沼町菅原旅館着泊
第三日〔三月七日(火)
岩手縣へ
■第一日(三月五日)
午前十一時四十分石卷着の大金侍從は、石母田町長の案内にて、日和山迎陽閣にて午餐を攝られ、午後零時五十分、自動車にて牡鹿郡の罹災地視察に向はれたり。
この頃よりして朝來の雨は雪と變じ、渡波町を過ぎて風越峠に差しかかれば、ぬかるみ甚しく、八臺の自動車は車輪を沒する泥濘に難行を續けたり。
車窓を打つ雪を透して見る蛤濱、桃の浦、月の浦の風光に變りなく波穩かなるも、行く手の被害地を想ひて人々の心重し。
大原村の入口より谷川に向ふ田圃道のぬかるみは、遂に自動車の通行に難く、一同下車して漸く谷川に到着す。安藤同村助役、八卷石卷警察署長の報告を受けられたる大金侍從は、慘たる被害地を眼のあたりにして、今更の如き感に打たれたり。
谷川部落の入口早川醫院に負傷者四名收容中と聞き、大金侍從は同醫院を訪ね一々負傷者に對し、「不慮の御災難でお氣の毒でした。誠に御同情に堪へません。御加減は如何ですか。心強く治療して下さい。」と、丁寧に言葉をかけられたり。續いて阿部谷川區長宅を訪ね、同家に避難中の人々にも同樣慰籍の言葉を述べらる。
斯くて海岸に立ちて、三邊知事、野上宮内屬等と四方をながめ、倒潰せる家屋、流失せる屋敷跡等、そぞろに暴虐の跡を偲べり。ついで、石卷より廻航せる「貞山丸」に一行は移りて、第二の被害地同村鮫の浦に向へり。
下船せる刹那見るも哀れなる野邊の送りの樣を見たり。
聞けば、前日の四日午後四時頃掃海作業にて發見されし同部落の被害者阿部とめ(七九)、伊藤こう(五五)兩老女の死體埋葬行列なりき。數十人の濱人、僅かに青竹に提燈を吊せるものを持つのみなり。
大金侍從、三邊知事等は、この有樣に胸を衝かれ、しばし瞑目弔意を表せり。此處の被害状况も亦「悲慘」の二字に盡く。
大金侍從は同部落伊藤豐吉宅に收容せられたる避難民二家族中の負傷者伊藤仙太郎氏(五三)に對し、「思はぬ御災難でした。御加減はどうですか。」と、同じく慰問あり。伊藤氏の兩眼には感激の涙見えたり。
同家を辭し、再び貞山丸に乘込みしが、往路の泥濘より見て、自動車は非常に危險なりとて、豫定を變更し、貞山丸にて女川港に着きしは午後六時五分過ぎ、視察第一日を終へて、大金侍從ならびに知事の一行は六時半石卷に歸り、千葉甚旅館に投宿せられたり。
■第二日(三月六日)
午前七時、自動車にて石卷を出發、桃生郡十五濱村雄勝に向ふ。八卷石卷警察署長以下の警察官は、女川灣より、内務屬一行と貞山丸に便乘し、雄勝一帶の警戒に當れり。
一行は、夜來の寒さに、前日の泥濘も凍てつきたる爲、雄勝峠も難なく越えて、八時半雄勝部落に到着、成澤村長、鈴木飯野川警察署長等の出迎を受け、荒れ果てたる同村役場に於て該被害状况を調査せり。
大金侍從、三邊知事一行は悲慘なる状况に胸を衝かれながらも、復舊へと取片附を急ぐ多數の人々、應援の爲、出動中の伊藤工兵少尉の指揮する工兵第二大隊より派遣されたる三十五名の下士以下の兵、竝に賜暇を得て歸省したる遠藤兵曹外六名の海軍兵が、作業衣袴も凛凛しく立働く樣に、感激の色を示し、折柄通り合せたる鈴木兄弟 - 九人家族中七人を失ひて生き殘りたる二人 - に對し、種々、遭難状况及其の後の處置等に就いて質ねられ、或は慰められ、歸途大川村役場に出張中の十三濱村臨時出張所を訪ねられ、千葉村長より慘害の状况、今後の對策等に就き聽取せられ、次いで、志津川町にて午餐、午後一時出發、歌津村小學校にて、阿部村長より同村の被害状況報告を受けられ、屈曲の惡路を辛うじて小泉村へと急がれたり。同村には、松山・高橋の兩縣議出迎ふるありて、其の後兩縣議は一行に加はりたり。
氣仙沼を過ぎ、唐桑村に至れば、やがて、被害地近く、只越の峠に於ては、大金侍從、三邊知事の乘られたる自動車遂に進まず、困惑の末、惡路に下車し、車輪にチェーンを捲き着け、漸くにして惡路を脱し、只越部落に入るを得たり。部落の入口なる伊藤孫之助宅にて、龜谷區長より被害状况を聞かれ、大金侍從には、「死者の始末はどうしましたか。村費で埋葬しましたか。部落費で埋葬しましたか。罹災者の衣服、寝具には困りませんか。」等、詳細に渉りて尋ねられ、其の説明を聞かれては一々頷かる。やがて、被害地の海岸に立たれ、其の慘状には、暗然として心なしか兩眼を曇らせられたり。
折柄、地震と津浪の關係に就き、同部落の實地調査の爲、出張中なりし中央氣象臺の國富技師は、大金侍從の前に出で意外の久濶を叙せり。
聞く所に據れば、大金侍從と技師とは、高等學校在學當時の同窓生にて、計らずも、被害地に於て、各重大責務を持つての奇遇たりしなり。
其の傍に位置を占めたる、焼け殘りの材木にて、辛うじて急造したる假小屋は、之、九人家族中八人をば無慘にも奪はれたる吾妻徳之助の佗住居なり。
侍從は、入口に掲げたる莚を開きて、優しく中なる徳之助を慰められ、次いで、半潰家屋の中に、橋場きよの家族を慰められ、歸途不慮の死を遂げたる人々の家族を一ヶ所に集めて鄭重なる慰問の言葉を賜ひ、三邊知事は、「何んとも申上げやうのない御氣の毒な事でした。今回御内帑金の御下賜もあり、縣も出來るだけ將來の事に一層努力してゐるから、心を強く持つて下さい。」と諭し、再び只越峠を越え、氣仙沼に至り、菅原旅館に投宿、二日間に亘る宮城縣被害地の實状調査を終ヘらたり。
第四節 御下賜金傳達及交付要項
震嘯災害の翌日、御救恤あらせられ、罹災民を一刻も早く慰問せむとせられたる、大御心に對し奉りても、御下賜金の傅達を迅速になし、且つ忝き聖慮に副ひ奉るべく、愼重協議せる縣當局は、三月十七日、左記の如く、その傳達の儀竝に御下賜金交付につき關係町村長に對し通牒を發せり。
昭和八年三月十七日
宮城縣知事官房主事
罹災地關係町村長殿
御下賜金傳蓬ノ義ニ付依命通牒
本月三日縣下震災ノ爲特ニ
天皇
皇后兩陛下ヨリ御下賜アラセラレ候御救恤金左記ニ依リ傳達可相成候條別記要項ニ基キ貴町村ニ於テ災害當時罹災シタル者ニ對シ速ニ交付相成度
追テ交附完了ノ上ハ別記御下賜金交付標準別ニ拜受者住所氏名(御下賜金ノ交付ヲ受クル者ニシテ本人ニアラサルトキハ其ノ續柄等ヲ明記ノコト)及交付金額竝交付年月日遲滯ナク御報告相成度申添候
記
傅蓬金額金
傅達日時 三月二十日午時
傳達場所
傳達ノ爲出張スル者ノ官職氏名
御下賜金交付要項
一、御下賜金交付標準
1、死亡者、行方不明者 一人當 一〇
2、負傷者 一人當 四
3、住宅全流失 一世帶當 七
4、住宅全潰 一世帯當 五
5、住宅半流失若クハ半潰 一世帶當 二
6、住宅ノ床上浸水 一世帶當 一
備考
一、各罹災者ニ御下賜金交付スル標準ハ大體右ニ依ルコト
二、右標準ニ依リ算出ノ際圓位未滿ノ端數ヲ生スルモ成ルヘク之ヲ圓位ニ止ムルコト
二、御下賜金交付ノ方法
一、御救恤金下付ノ恩典ニ浴スル範圍ハ内外人ヲ問ハス今回ノ震災ニ遭遇シタル者ニ及ホスコト
二、死亡者、行方不明者及負傷者ニ付テハ罹災當時罹災地ニ在リタル者ニ限ルコト但シ世帶ヲ構ヘテ居リタルト否トヲ問ハス
三、負傷者ニ付テハ一週聞以上醫師ノ治療ヲ受ケタル者トスルコト
四、住宅ノ罹災ニ付テハ罹災當時罹災地ニ世帶ヲ構へ居リタル者ニ限ルコト但シ罹災シタル住宅ハ自家タルト借家タルトヲ問ハス
三、御下賜金交付手續
一、御下賜金交付ノ際ハ御沙汰書及知事ノ告諭寫ヲ交付シ克ク 聖旨ノ徹底ヲ期スルコト
二、御下賜金ノ交付ヲ了リタルトキハ別紙印刷ノ拜受證ヲ各人ヨリ差出サシムルコト
三、御下賜金ハ奉書紙ニ包ミ水引ヲ掛ケ各人ニ交付スルコト(奉書紙及水引ハ縣ヨリ送付ノモノヲ使用スルコト)
四、御下賜金ハ住宅ノ罹災者ニ就テハ世帶主ニ、死亡者・行方不明者ニ就テハ其ノ遺族(遺族ナキトキハ葬祭ヲ行フ者)
負傷者ニ對シテハ其ノ本人(又ハ世帶主)ニ夫々交付スルコト
第五節 御下賜金傳達
I 傳達の次第
御救恤金御下賜の御沙汰を拜し、直ちに罹災町村長をして被害状况を調査せる縣當局は、前記の如き、傳達の儀及び御下賜金交付要項に基き、三月二十日を期して、關係十七ケ町村に對し一齊に傅達を行へり。(別表、御下賜金交付種類及頒賜調參照)
傅達金額、日時、町村、場所、及傳達の爲縣當局より出張せる係員左の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
II 知事の告諭
三邊宮城縣知事は、今回の災害につき特に侍從を御差遣遊ばされ、同時に御救恤を御下賜せられたる 聖恩に答ヘ奉り、併せて罹災者の感奮自立すべき決心を促さんが爲、御下賜金傅達當日、次の如き告諭を發したり。
○告諭第二號
亘理郡 坂元村長
名取郡 閖上町長
桃生郡 十五濱村長
牡鹿郡 女川町長 荻濱村長 大原村長 鮎川村長
本吉郡 志津川町長 戸倉村長 十三濱村長 歌津村長 小泉村長
大谷村長 階上村長 鹿折村長 唐桑村長 大島村長
本月三日縣下震災ノ爲損害不尠趣被聞食 至仁至慈ナル天皇皇后兩陛下ヨリ御救恤ノ思召ヲ以テ金八千圓御下賜アラセラレタルハ恐懼感激ニ禁ヘサル所ナリ乃チ茲ニ其ノ傅達ヲ行フヘキニ付各位ハ此ノ鴻恩ニ感銘シ各罹災者ニ對シ迅速交付ヲ了スルト共ニ各拜受者ヲシテ齊シク克ク優渥ナル聖旨ヲ奉體シテ御救恤金ヲ最モ有效適切ナル方途ニ利用セシメ以テ自奮自勵家運ノ挽回ニ努メ進ムテ地方災害ノ復興ニ力ヲ致サムコトヲ期セラルヘシ
昭和八年三月二十日
宮城縣知事 三邊長治
第六節 有難き御下問
天皇陛下におかせられては、四月二十一日、折から地方長官會議に出席中の地方長官に對し、宮中豐明殿に於て、陪食仰せつけらるる旨有難き御沙汰ありたるが、その際、三陸震嘯關係地たる宮城・岩手・青森三縣知事に對し、震嘯災害の被害及復舊状况に關し、特に有難き御下問ありたり。
この光榮に浴せる三邊知事は、歸縣後大御心の有難さに咽びたり。
先には被害を聽し召さるるや直ちに、御救恤金御下賜及び侍從御差遣の御事あり、大金侍從の闕下に状况伏奏に際しては畏くも龍顔を曇らせ給ふた事を洩れ承るだに恐れ多き次第なるに、越えて四月の地方長官御賜餐に際して、重ねてこの御沙汰ありしは、聖恩の山よりも高く、海よりも深きに、縣民と共に感泣して措く能はざる處なり。
第七節 皇后陛下の御救恤品御下賜
先に、天皇・皇后兩陛下より多額の御救恤金御下賜ありて、聖恩の忝けなきに感激措く能はざりし罹災民は、越えて四月十一日、更に皇后陛下より、震嘯罹災傷病者及六十歳以上十四歳未滿の孤獨者に對し衣服地竝裁縫料御下賜の御沙汰あり。
重ね重ね下々を憐ませ給ふ御仁慈には唯々感激に耐へざる處なり。
仍て、十一日午前九時、本縣廳内正廳に於て、關係町村長參集の上、次の如き式順序を以て、御下賜品の傳達行はれたり。
式順序
關係町村長整列
各部局長各課長列席
知事出席
知事ヨリ御下賜品傳達(町村毎ニ)
知事訓示
知事退場
各員退場
尚御下賜品は關係町村長より、四月十五日より五月三日迄の間に役場若しくは小學校に於て罹災者に夫々交付ありたり。
本縣に於ける拜受者の種類別人員は左の如し。
傷病者 七十三人 六十歳以上の孤獨者 二人
十四歳未滿の孤兒 一人 計七十六人
第八節 各宮家の御仁慈
I 伏見軍令部長宮殿下の御下問
海軍兵徴募檢査御視察の爲、三月十五日午後四時三十八分、御來仙遊ばされたる、伏見宮軍令部長宮殿下におかせられては、同日、御族館伯陽閣に入らせられたるが、折から、御機嫌奉伺に參上せる三邊本縣知事に對し、三陸地方震嘯災害の状况を親しく御下問あらせられたり。
仍て、知事は恐懼措く處を知らず、縣下罹災状况を具さに奉答する處ありしに、殿下におかせられては、之に對し、有難
き御言葉を下し給へり。
II 各宮家の御救恤金
各宮家におかせられては、御救恤の御思召あり。
三月九日社會局社會部長より本縣知事に對し、次の如き有難き御思召を電報を以て傳達せらる。
「各宮家ヨリ震災ニ付、御救恤金御下賜相成タルヲ以テ、貴縣ニ對シ金四〇〇圓送付ス」と。
この旨を受けたる知事は、感佩措く能はず、謹みて次の如く、御禮申しあげたり。
各縣下沿岸地方震災ニ付宮殿下ヨリ御救恤金下賜アラセラレ感激ニ堪ヘス、謹ミテ御禮申上ク右宜敷御執成ヲ請フ
宮城縣知事 三邊長治
各宮家別當(事務官)宛
而して、同日社會局社會部長より本縣知事に對し、次の如き通牒あり。
震災御救恤御下賜金ニ關スル件通牒
今般各宮家ヨリ三陸地方震災ニ付御救恤トシテ別紙目録寫ノ通御下賜相成候ニ付貴縣ニ對シ金四百圓也別途送付候條御査
收ノ上御禮言上竝分配方可然御取計相成度
(寫)
金貳千圓
右三陸地方震災ニ付御救恤金トシテ御下賜
秩父宮
高松宮
閑院宮
東伏見宮
伏見宮
山階宮
賀陽宮
久邇宮
梨本宮
朝香宮
東久邇宮
北白川宮
竹田宮
昌徳宮
李鍵公家
李■公家
III 御救恤金の頒賜
各宮家御救恤の頒賜傳達については、縣當局は、愼重協議を遂げたりしが、一般義捐金の分配と時を同じうして、次の如
く頒賜の件を關係罹災町村長に對し通牒したり。
昭和八年八月二十三日 學務部長
町村長殿
各宮家御下賜金傳達ノ件依命通牒
三月三日三陸地方震災ノ爲思召ニ依リ各宮家ヨリ別紙寫ノ通御救恤金御下賜アラセラレ内本縣ニ對シ金四百圓御下賜アラセラレ候ニ付本日右傳達式擧行相成候處別記要項ニ基キ貴町村ニ於テ罹災者ニ速ニ御交付相成度
追テ交付完了ノ上ハ拜受者氏名(拜受者本人ニアラサルトキハ本人トノ續柄明記ノコト)及交付年月日遲滯ナク報告相成度
御救恤金交付要項
一、交付標準
死亡者、行方不明者、不具癈疾者、及二週間以上醫師ノ治療ヲ受ケタル傷病者一人當各一ノ割ニ依リ交付ノコト
二、交付ノ方法
1、御救恤金ヲ拜受シ得ル範圍ハ内外人ヲ問ハス交付標凖ニ掲ケタル者トシ罹災當時罹災地ニ世帶ヲ構へ居リタルト否トヲ問ハサルコト
2、交付ノ際ハ克ク御趣旨ノ徹底ヲ期スルコト
3、御救恤金ハ奉書紙ニ包ミ水引ヲ掛ケ各人ニ交付スルコト(奉書、水引縣ヨリ交付)
4、御救恤金ハ死亡者行方不明者ニ就テハ其ノ遺族(遺族ナキトキハ葬祭ヲ行フ者)傷病者ニ就テハ其ノ本人(又ハ世帶 主)ニ夫々交付スルコト
5、御救恤金ノ交付ヲ了シタルトキハ別紙樣式ニ依ル拜受證ヲ各人ヨリ差出サシムルコト
別記
拜受證
一金圓
各宮家ヨリ御下賜ノ御救恤金
右拜受候也
年月日 住所
氏名 印
町村長宛
大金侍從の謹話
畏き邊の御思召を奉じて、罹災地状况視察のため、來縣せられし大金侍從には牡鹿郡大原村鮫ノ浦より女川港に至る途中、貞山丸の甲板にて、次の如く謹話せられたり。
ほんの一部分の視察に過ぎず、纏つた事は申されませんが、私は津浪の被害の方ヘの御差遣は今度が初めてですが、海の力の偉大な事を染染感じさせられました。幸ひ避難者も落ついていよいよ復興に努力しようと意氣込んで居りますのを見て、心強く思ひます。
これも偏に東北の人達の特色であり、最も力強い東北の根底をなすものと感じました。
聖上に置かせられては東北地方が天惠に惠まれる事が甚だ乏しい事を御軫念あらせられ、如何にして東北地方に幸福を増すべきかについて御聖慮を煩はせられて居りました折、この災厄に對しては特に御軫念を煩はされたやうに拜します。
願はくは、當該地方の官憲の御努力と縣民一致の奮勵とによつて、復舊と復興とにいよいよ遺憾なきことを望む次第であります。
第二章 政府の救護援助
第一節 諸官の罹災地視察
I 被害報告
三陸一帶に亘る悲慘なる状况は、先づ、ラヂオ、新聞等によりて逸早く、全國同胞の耳目に達せしが、政府各方面ヘは、縣當局より、被害状况を打電し、三月四日には知事の名を以て、内務大臣・他道府縣長官・縣下各關係警察署長宛、縣下被害各村の稍詳細なる被害状况及警察官の召集竝救援、罹災民の慘状・救護状况を、次いで九日には、罹災者收容「バラツク」建設状况の報告をなしたり。
なほ、その後も、縣保安課調査に係る被害状况は、調査の都度、關係各方面に報告せり。
II 諸官の慰問・視察
内務省にては、三月三日の災害當日、東京日々新聞社及電報通信社共用の罹災地視察の目的を以て、飛來せる飛行機に、石川事務官を同乘來縣せしめたるを手始めとし、衛生局草間防疫官をして、來縣せしめたり。草間防疫官は同日直ちに罹災地に向ひ、特に同地方の家屋、井戸、便所等の防疫施設について調査せり。
丹羽社會局長官は、三月八日、小林社會局事務官、尾花屬を隨ヘ、岩手縣より本縣の罹災地に入り、本縣佐々木社會事業主事の案内にて、關係地方の視察をなせり。
山本内相は、この悲慘事を衷心より憂慮せられ、自ら沿岸の慘禍竝びに救護状况を視察せんと欲せられしも、何分の老體なればとて、齋藤政務次官をして、之に代らしめたり。
乃ち、同政務次官は、臨時議曾に於ける災害復舊費追加豫算計上を了りたるを以て、鈴木、本田兩内務技師外屬一名同伴四月六日午前七時仙臺驛着、八時三十分縣廳訪問、三邊知事、部長、關係課長等より災害及び救護復舊状况を聽取し、後、二見本縣内務部長、佐々木社會事業主事、相澤土木技手、新妻水産技手等の案内にて、第一日は、石卷町より、牡鹿郡大原村を視察せられたり。
翌七日(第二日)は、十五濱村雄勝、志津川町、歌津村田浦を視察後、氣仙沼町ヘ宿泊せられ、八日(第三日)午前、唐桑村只越を視察後、岩手縣へ向はれたり。
農林省にては、夙に三月四日、長久保農林技師をして、内務省谷口事務官と共に來縣せしめ、本縣よりは、大槻土木技師之が案内役として、罹災地に向へり。
又、同日午前、別に同省米穀部の佐藤事務官は、曾我農林省屬と共に來仙、二見内務部長と會見、政府米の拂下につき協議せし結果、拂下を政府に請ふ事とせり。
佐藤事務官は、直ちにそのむね本省に打電せるが、政府はこれに對し、快諾し、兩三日中にトラックにて、瀬峰驛に發送する事となしたり。
復舊豫算の臨時議曾提出通過を俟ちて、後藤農林大臣は、親しく三陸沿岸視察の事を決せられたり。仍て農相は戸田水産局長、田淵曾計課長、橋本秘書官、村田屬、村上屬、十川技手等を隨ヘられ、三月三十一日午前七時仙臺着、縣廳にて三邊知事以下の災害に關する説明を受け、知事、鈴木警察部長、松本水産課長、渡邊社會課長、中谷水産技師等の案内により、自動車にて、石卷を經由、十五濱村雄勝に到着せられたり。同地の被害状况視察後、俊鳥丸にて、海路三十五浬の唐桑村只越に至り、約一時間に亘り、災害地視察及状况聽取の後、同船にて岩手縣に向はれたるが、三邊本縣知事は、翌四月一日岩手縣釜石町にて、農相一行と別れ、同日歸廳し、農相一行は、岩手・青森兩縣下の罹災地視察後、四月三日、歸京せられたり。
陸軍方面にては、陸軍省軍事調査委員長谷壽夫少將、井出少佐、大久保大尉を隨へ、三月十日陸軍大臣代理として、來縣せられたり。
先づ第二師團司令部を訪問し、多門師團長に面談の後、倉茂第二師團參謀の案内にて、午前八時三十分、本縣廳に三邊知事を訪問、親しく災害の見舞を述べたる後、同知事より災害竝救護状况等につき詳細説明を受けられたり。
又、文部省にては、山崎事務官、乙黒屬三月五日來縣、本縣須藤視學の案内にて、五・六・七三日間に亘り、桃生・牡鹿・本吉三郡の雄勝小學校以下罹災地所在六校の視察をなせり。
尚、遞信省よりは、三月五日頃、川瀬事務官、拓務省よりは、三月八日、森重事務官來縣、各罹災地の被害状况竝びに善後對策につき聽取する處ありき。
第二節 陸軍の救援
序
凡そ震嘯災害に限らず、天災地變の被害に際し、その應急措置につきて最も效果あるは、日常非常時に於ける對策を事とし、あらゆる困難に打克つの訓練をなしつつある軍隊・消防組等の團體の力なるべし。
特に、軍隊の力は、活動の敏速にして規則的に有勢なる統合力の下にあるを以て、かかる災害に際しては、地方の期待甚だ大にして、其の効果最多なるや、言を俟たず。
I 第二師團の活躍
一、震災地偵察者の派遣
三月三日、師團は、「ラヂオ」放送及新聞社の通報に依り、震源地は金華山沖にして、海岸方面の被害甚大なるを知るや、直に海岸方面全般の状况偵察の爲將校以下を左の如く派遣す。
一、山田參謀 渡波町附近に到り追波川以南石卷間の海岸
二、瀧本少佐 志津川町に到り追波川以北津谷(含まず)間の海岸
三、谷地少佐 氣仙沼町に到り津谷(含む)以北縣境に到る間の海岸
四、土田大尉 閖上町附近
五、下士官 坂元村附近
二、救護班の派遣
師團は、右偵察者を派遣すると共に、直に第一救護班(師團司令部千田軍醫正の指揮に屬する三二名)を、牡鹿郡に、第二救護班(鈴木軍醫の指揮する六名)を氣仙沼に派遣し、次いで、偵察者の報告到着するや、第三救護班(佐藤軍醫の指揮する五名)を志津川・歌津方而に、第四救護班(小川軍醫の指揮する五名)を三日夜自動車を以て派遣し、各々其附近一帶の救護に任ぜしめたり。
以下各救護班の救護の状况を述ぶれば左の如し。
(イ)第一救護班の救護状况
第一救護班は三月三日午後一時宮城電鐵にて仙臺驛出發、午後二時五十分石卷町に到着せるが、石卷に於て警察署及町役場と連絡の結果、牡鹿郡大原村及桃生郡十五濱村の被害甚大にして、兩方面共、直に救護の必要ある爲、更に二半部に分れ、第一半部(千田軍醫正以下十七名)は十五濱村方面の、又第二半部(佐藤軍醫以下十六名)は、大原村方面の救護に任ずる事に決し、夫々自動車に分乘被害地に急行せり。
一、第一半部は、三日午後七時十五濱村雄勝に到着し、同村荒屋敷の被害最も大なるに依り、同夜八時雄勝より乘船、出發、海上を經て同村大濱に上陸し、次いて船越を經て同日午後十時同村荒屋敷に到着し、直に救護に從事せり。
翌四日、午前中引續き荒屋敷の傷病者診療に任じ、救護人員二八名(延人員五六名)の内、重傷者十名に及べり。次いで四日午後船越に至り、三名を救護、更に雄勝に至り、救護所を開設し十三名を救護す。
以上の如く、第一半部は晝夜の活動に依り、良く派遣の目的を達成し、罹災者に多大の感激を與へ、翌五日仙臺に歸還せり。
二、第二半部は三日午後七時三十分大原着、直に駐在所竝役場と連繋し、同地に於て夕食を喫し、午後十一時三十分出發材料を臂力搬送の上、四日午後一時頃谷川着、直に救護に着手し、十五名の傷病者を診療せり。同日午前九時二十分同地を出發し、同十時三十分鮫ノ浦に到着す。大谷川及鮫ノ浦に於て、十名の傷病者を診療せり。午後零時三十分救護終了、午後一時二十分定期船に依り、寄磯其の他寄港地の被害状况を調査しつつ、午後三時頃女川港に上陸せり。同地には死者一名輕傷者一名にして、特に救護を要する者なき状况にて、直に自動車に依り、午後三時三十分出發、石卷着、午後五時十七分石卷發、宮城電鐡に依り、午後六時四十五分仙臺に到着せり。
(ロ)第二救護班の状况
第二救護班は、三月三日午後一時六分、列車にて仙臺驛出發、午後五時三十分氣仙沼に到着す。役場及警察署にて、本吉郡の被害の状况を承知す。即ち同町以南は、被害僅少なるも、同町以北は被害甚大にして、全滅に瀕せる部落あるを以て午後八時氣仙沼發の汽船にて唐桑村宿に到る。午後九時同地着小鯖に到る。午後十一時同地着。區長に就き實况聽取せるに輕傷三名のみなるを以て、午後十時同地出發夜行軍を以て四日午前三時石濱着。同地に於て重傷者一名を處置し、午前五時只越に到着し、同地に於て重傷輕傷計九名を診療し、午前九時大澤に向ひたり。同十一時同地着。同地に於て重輕傷八名を診療し、午後三時本縣最北端の診療を了し、爾後岩手縣高田町長部港廣田村等を巡回救護に任じ、六日歸仙せり。
(ハ)第三救護班の救護の状况
第三救護班は、三月三日午後十時五十分自動車にて仙臺衞戌病院出發。吉岡・三本木・佐沼を經て、三月四日午前二時五十分志津川町に到着し、同地警察署に於て、被害の状况を聽取し、午前五時同地出發。歌津村伊里前を經て、午前八時四十五分小泉村二十一濱に至り、二十七名の傷病者を診療せり。次いで、午後二時三十分同地を出發、歌津村港及田ノ浦に至り、四十三名の傷病者を診療し、午後七時伊里前に至り宿營せり。
三月五日伊里前出發。田ノ浦名足及石濱を巡回し、十六名の傷病者を診療し、同夜伊里前に歸還宿營せり。
三月六日午前八時伊里前出發。馬場中山及泊に至り、二十四名の傷病者を診療したる後、志津川町字細浦及清水に至り、七名の傷病者を診療し、午後七時志津川町に到着宿營。三月七日午前八時三十分同地出發、午後一時無事歸仙せり。
(ニ)第四救護班救護状况
第四救護班は、三月三日午後十時三十分、自動車に依り仙臺出發。四日午前二時三十分亘理郡坂元村字磯に到着。同地に於て十八名の傷病者を診療し、次いで、午前十時同地出發福島縣下の診療に任じ、同日午後二時仙臺に歸着せり。
三、工兵隊の派遣
(イ)第一作業隊
三月四日十五濱村雄勝附近震災被害者救助の爲、工兵第二大隊より伊藤少尉の指揮する作業隊三十七名を同地に派遣す。該作業隊は主として左記作業に從事す。
1、橋梁の架設・加工
2、各地に於ける障碍物の排除
3、船戸橋梁の加工
4、倒潰家屋の解體
5、電話架設
右作業の略々完了を得、三月九日午後一時無事原除に歸還せり。
地方官民一般に作業隊の派遣を衷心より感謝せり。
(ロ)第二作業隊
三月七日午前十一時、本吉郡歌津村管内交通路復舊の爲、工兵第二大隊より黒沼少尉の指揮する作業隊三十六名を同地に派遣す。該作業隊は、主として左記作業に從事す。
1、列柱橋の架設
2、築頭櫓の構築
3、橋礎の構築
4、橋梁の架設
右作業の略々完了を得、三月十二日午後八時十五分無事歸還せり。
歌津村の被害は、縣下に於ても甚大なる關係上、人心の動揺極度に達し、被害後數日經たるも、復興の途に就くの考慮なきのみならず官民共に統制なく、頗る困難なる状况に在りしも、作業隊の派遣に依り漸く安堵沈靜し、意氣頓に揚り、被害整理の途に就けり。
作業隊は、斯の如き状態に在るを知りたるを以て、極力官民の人心を振作する如く努め、且督勵しつつ作業を實施せるを以て、官民大に感謝し、益々軍隊の眞價を知り、尊敬其の極に達せり。
これを表示すれば左の如し。
四、通信器材
通信器材は左記の如く貸與す。
使用區間
桃生郡十五濱村雄勝-舟越-荒に至る問に通信網を構成し地方救恤の爲資する所大なり。
五、毛布配給状况
三月三日次の如く罹災地に對し毛布二、○○○枚を配給す。
本吉郡氣仙沼町 七〇〇枚
同 志津川町 三〇〇枚
桃生郡十五濱村 七〇〇枚
牡鹿郡大原村 三〇〇枚
計 二、○○○枚
三月四日次の如く罹災地に對し毛布五〇〇枚を配給す。
牡鹿郡大原村 五〇〇枚
三月八月次の如く罹災地に對し毛布二〇〇枚を配給す。
亘理郡坂元村 二〇〇枚
尚、配給の毛布は盡く、之を給與する事とせり。
六、司令部付少將以下の慰問竝視察
(イ)吉富少將
師團長代理として、師團司令部付吉富少將は、三月八日早朝出發、九日歸着の豫定を以て本吉郡被害救護の状况特に在郷軍人、出征軍人家族及遺族の状况を視察せり。尚聯隊區司令部付高橋少佐を吉富少將と同行せしめ、主として、在郷軍人出征軍人家族及遺族の被害救護の状况を視察せり。
(ロ)龜井軍醫正
師團軍醫部長龜井軍醫正は、三月四日出發同五日歸着の豫定を以て牡鹿、桃生、本吉郡に至り、第一・第二・第三救護班の救護業務を指導せり。
尚、同軍醫部長は其の際、衞生材料の一部を携行し各救護班に配給せり。
(ハ)沼田二等獸醫正
師團獸醫部長沼田獸醫正は軍醫部長と同行し同方面家畜の被害状况を視察せり。
七、罹災地下士官兵の救護救援及其れに對する戰友援助
(イ)震災地のものにして歸郷を許可したる者
准士官 三 下士官 五兵 一五一
(ロ)此等の援助の爲歸郷を許可したる者
下士官 一兵 八
II 仙臺憲兵隊の活動
一、約説
災害の報一度び達するや、仙臺憲兵隊に於ては、始終第二師團司令部竝に縣當局と連絡を取り、又中央新聞杜の通信隊と連絡し、罹災地方民の爲、機宜應變の處置に出で、陸軍の活動をして敏速且効果あらしむる處多大なりき。
從つて、この難事に當りたる仙臺憲兵隊隊員は、震嘯發生の三月三日より、同六日に至る四日間、或は本部にありて詰切勤務をなし、或は罹災地に出動して、直接救護事務に從事し、連日不眠不休にて震嘯善後の業務に服されたるは、一般の感謝する處なり。
二、災害状况の通知竝報告収受
災害當日午前八時三十分、縣警察部との連絡によりて漸く被害状况の大要を知り得たるを以て、之を直に第一報として憲兵司令官に電報すると共に、第二師團司令部竝在仙各部隊に急報したり。されど其後の状况は、激震による通信網の杜絶故障の爲、詳細を期し難く、從つて軍隊竝憲兵出動の要否を決定するの資料なかりしも、正午頃に至り、各方面の情報を綜合するに、被害の豫想外に大なるを知りたり。
三、軍隊の出動命令
仍て第二師團司令部に對し、軍隊救護班の出動必要なる旨を通報し、師團よりは取不敢第一回救護班として、四十名の將兵を午後一時八分仙臺發列車にて、氣仙沼・渡波方面に派遣する事となれり。
又、憲兵隊も同時に、下士官以下七名を同地方に分散派遣し、軍隊の行動援助と治安維持上の資料蒐集に任ぜしめ、現地より刻々被害状况を警察電話或は公衆電報により、報告の迅速を要求せしも、當時電信・電話共に混雜を極めし故、派遣者の報告迅速を期し得ざりしは、遺憾なりき。
四、新聞杜飛行機の飛來
三月三日午後二時、師團參謀より仙臺憲兵隊本部に對し電話を以て、「本日東京日々新聞杜竝電報通信社より震災による被害状况調査の爲、飛行機二機宮城ノ原に着陸許可を願出でたるを以て許可せり。尚内務省より石川事務官も同乘來縣の由なるを以て、憲兵は之等と連絡し、被害状况判明せば、師團側にも通報せられ度」との依頼あり。仍て、直ちに憲兵一名を宮城ノ原に派遣、同原に着陸の飛行機と本隊との連絡に任じたり。
五、三月三日夕刻の救護状况
午後に至り、憲兵隊本部副官は、師團參謀部に至り、師團の處置を通報し、災害状况の蒐集に就き打合せをなせり。午後四時に至り、福島縣下原町方面にも被害ある旨情報ありしにより、直ちに憲兵下士官一名を同地方に派遣し、被害状况を視察せしめたり。
午後八時に至り、午後一時八分仙臺發にて氣仙沼方面に派遣したる憲兵より、最初の被害状况の詳報を、公衆電話により通知あり。(本電話は局に申込みてより通話迄約四時間を要したり。)其後逐次詳報ありしが、それ等の報告は、罹災民に對する應急措置中焦眉の急を要するは、衣食にして、就中、餘寒嚴しき折から、衣類・寝具類の不足は、罹災民の痛心すべき點なることを力説し來れり。
この状報により、憲兵隊にては、其の旨師團司令部に通達したるを以て、司令部にては、毛布二千枚を縣當局の手を經て被害地に配給せり。
六、現役在郷軍人及軍人遺家族の被害状况調査
陸軍としては、災害による罹災者中、現役軍人家族被害及支那事變に伴ふ戰病死者遺家族の實状を調査せしめ、判明報告の都度、各所屬部隊長・聯隊區司令部に通報するの要あり。之によりて、罹災地方出身の軍人を歸郷せしめ、更に聯隊區司令部よりの依頼により、派遣憲兵をして、罹災在郷軍人の被害の實状をも調査せしむる救護資料を蒐集の上提供せり。
七、非常災害に對する將來の希望意見(憲兵隊)
將來震災等の非常災害に際し、通信機關例へば電報電話等を關係官廳に無條件優先權を與へ、逸早く被害の状况を承知せしめ、救護其他治安維持上の資料を報告せしむる如く、遞信常局と協定し置くの要あるは勿論、直接治安の責にある警察當局に於ても、軍隊出動の要ありと認めたる場合は、進んで具體的實状を軍當局に速に提供する如く便宜を圖り、以て軍民一體となり、救護共他治安の維持に當る要あるを切望するものなり。
八、仙臺憲兵隊本部の震災業務分擔表及震災地派遣人員要項
震災業務分擔表(仙臺憲兵隊本部)
隊長
副官-師團司令部トノ連絡意見具申
特務曹長
一、情報ノ蒐集ニ關スル事項
二、分隊ノ指導
三、警察部及軍隊トノ連絡
四、人員ノ派遣ニ關スル事項
警務係下士官
一、報告通報、起案淨書
二、震災日誌ノ記載
計手
一、詰切勤務ノ設備
二、旅費其他給與ニ關スル事項
附下士官
一、被害地派遣
二、全般本來ノ職務
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.4MB
III 仙臺衛戌病院の活躍
仙臺衛戌病院にては、震嘯災害の報により直に、軍醫・看護兵をして、救護班を組織せしめ、當日即刻災害地各方面に向け出發せしめしが、同救護班は災害による傷病者の手當を了し、多大の感謝を受け、それぞれ四日或は五日歸仙せり。
各救護班の編成及び救護方面竝日時次の如し。
第三節 海軍の救援
I 約説
横須賀鎭守府にては、震嘯災害による罹災地縣なる本縣及び岩手、青森三縣知事の要講と海軍省の内命とにより、驅逐艦を派遣する事となり、三月三日午前十時頃出動準備に着手せり。
而して、これが任務に當れるものは、驅逐艦神風、野風、沼風の三隻よりなる第一驅逐隊と、電・雷二隻よりなる第六驅逐隊の合計五隻にして、大湊海軍要港部より岩手、青森縣沿岸に出動せる第四驅逐隊初風、帆風、太刀風、秋風、羽風と相互に連絡して、救護應急措置の事に從事せり。更に、救恤品の配給の迅速・周到を期する爲、海軍軍需部在庫品を慰問品として登載、四日夜横須賀出港、六日早朝釜石に入港し、先着の第一、第四、第六驅逐隊諸艦に、慰問品を移載し、各災害地
に分配せしめたり。
一瞬にして家屋、財寳を失ひ、膚寒き三月初旬着るに衣なく、食料に缺乏せる罹災民が、茫然供手して爲す所を知らざる際、聞くだに勇しきプロペラの晋を耳にして我にかへり、我が海軍の偵察機を空に仰ぎ、海邊近く、帝國の鎭護たる浮城を指呼の間に望み得たる、如何に心強き安心の境地に達し得たりしかは論を俟たず。
加之、海軍の根據地より積出せる豐富なる救恤品、醫療品、慰問品の迅速なる配給によりて、衣食の缺乏を速に補ひ、混雜せる交通路の復舊を見たりし際、我等が海軍のかかる災害に當りて處せらるる恩惠の偉大なるに、感謝の念の禁じ能はざるものありしなり。
II 震災情報到達直後鎭守府に於ける對策
横須賀鎭守府にては、三月三日午前二時三十一分三陸沿岸に於ける強震と之に伴へる海嘯の爲、被害甚大なる諸情報竝岩手縣、宮城縣知事よりの救護依頼の電報同日午前七時過より相次いで到着せしを以て、直に館山及霞ケ浦兩海軍航空隊司令に災害地實情偵察の爲飛行機派遣を命ずると共に、第六驅逐隊(驅逐艦、電、雷)及第一驅逐隊(神風、沼風、野風)をして、必要なる救恤品及藥品類を搭載し、救護の爲災害地に急派するに決し、之が準備を急至各部に命じたり。
III 飛行機偵察
ラヂオ、新聞號外等の報導によりて、震嘯による災害地は、大略三陸沿岸なる事を察知し得たるも、詳細なる被害状况竝程度を迅速に知るの要あるを以て、館山海軍航空隊飛行艇二機、霞ヶ浦海軍航空隊水上偵察機二機、三月三日正午近く、相前後して、館山及び霞ケ浦を出發、罹災地一帶の上空を飛翔し、被害情况偵察に當れり。かくて充分なる偵察の任務を果したる後、同日夕刻及翌四日午後各原隊に歸還し、機上偵察の各地被害状况を報告する處ありき。
偵察機の行動日程竝偵察状况次の如し。
一、館山海軍航空隊飛行艇ノ偵察 (海軍大尉 西澤愼六 指揮)
午前一〇時、四〇分 舘山發
午後○、三〇 原ノ町
原ノ町以南沿岸被害状况ヲ認メズ。金華山ニ直行
同二、一五 金華山
爾後飛行高度四〇〇米ニテ、陸岸ニ沿ヒ北上ス。途中、氣仙沼灣、廣田灣一帶ニ流木、民家ノ多數漂流セルヲ認ム。
同三、○○ 大船渡港着
北上スルニ從ヒ、流木、流出家屋増加ス。當時、西ノ風約二〇米、氣流險惡ニシテ陸岸ニ接近スルヲ得ズ
港内ノ状况詳ナラズ。
同三、二〇 釜石上空ヨリ歸途ニ就ク。
平田町ハ其ノ大部流失セリ。釜石町ハ約五分ノ一流失シ、所々ニ火災ラシキ煙ヲ認ム。略鎭火セルガ如シ。又、此ノ附近一帶ニ、多數ノ發動機船救難作業中ナルヲ認ム。
同五、○○ 原ノ町通過
同六、○○ 霞ケ浦着
一番機燃料補給、二番機館山へ直行。
同七、二〇 一番機霞ケ浦發
同七、三〇 二番機館山歸着
同八、二〇 一番機館山歸着
二、霞ケ浦海軍航空隊水上偵察機ノ偵察 (海軍大尉 伊東藤雄 指揮)
(イ)行動
三月三日
午後○時、五〇分 霞ケ浦發
同二、二〇 塩釜着。二番機ノ燃料ヲ一番機ニ移載。
同四、○○ 一番機塩釜、釜石間偵察ノ爲出發。
同六、四〇 右塩釜歸着
同九、○○ 二機共代ケ崎日本石油會社支店海岸ニ錨泊。
三月四日
午前八時、○○分 二番機■釜、氣仙沼間偵察ノ爲塩釜發。
同八、五〇 一番機氣仙沼、宮古間偵察ノ爲塩釜發。
同一〇、五〇 二番機塩釜歸着
午後○、一〇 一番機塩釜歸着
同一、五〇 二機共塩釜發歸途ニ就ク。
同四、○○ 霞ケ浦歸着
(ロ)機上偵察ニ依ル各地被害ノ状况
被害地ハ、金華山以北ノ海岸一帶ニシテ、海嘯ニ依ル流失・倒潰及火災ニ依ル被害甚大ニシテ、只越、宮古間海岸各地殆ンド全滅ノ悲連ニ遭ヒ、附近海上ニハ流木夥シク、陸上ハ倒潰・燒失・流失無數其ノ状實ニ慘憺タリ。
1、殆ンド全滅セルモノ
雄勝、只越、志津川附近小部落(以上宮城縣)、細浦、泊、綾里、越喜來、光濱、小白濱、大槌、津輕石(以上岩手縣)
2、大被害ノモノ
釜石(損害1/2程度)宮古附近(損害1/4)
3、被害比較的輕少ノモノ
渡波、鮎川、女川、伊里前、小泉、津谷、氣仙沼(以上宮城縣)、高田、盛、山田(以上岩手縣)
IV 第一次救護
横須賀鎭守府司令長官より罹災地に向け出動の命令を受けたる第一、第六驅逐隊諸艦は、軍需品、救護品等の搭載、軍醫科士官、電信員等の必要人員の補充を了へ、第一驅逐隊は、釜石以南の岩手縣及び本縣下沿岸の、第六驅逐隊は、釜石以北の救護に從事する事と夫々分憺區域を定めたり。
かくして、三日午後二時四十分、救護出動の諸艦は舳艫相踏んで横須賀港を一齊に拔錨、時速二十四節を以て目的地に向ひたり。途中、罹災地の被害状况を綜合聽取しつつ北上し、岩手縣釜石を以て救護作用の基地と定め、四日早朝迄各艦を左記の配備に就かしめたり。
第一驅逐隊
「神風」盛以北釜石に至る沿岸
「野風」盛方面
「沼風」金華山以北、盛迄(本縣三陸沿岸の大部分)の沿岸
第六驅逐隊
「電」釜石方面
「雷」山田灣方面
第四驅逐隊(大湊要港部所管)
「太刀風」鮫
「帆風」久慈
「秋風」宮古
「羽風」釜石
而して、地方官憲と協議の上、實地に於ける被害状况を考慮の上、概ね次の如き順序により救護作業の實施に當れり。
イ、罹災地に於ける治安維持
ロ、差當り二日乃至三日を支へ得る糧食竝に寝具の配給
ハ、負傷者の應急手當及醫療品の配給
ニ、交通運輸機關の復舊作業援助
ホ、救護用品の運搬及配給
ヘ、被害状况の調査
本縣沿岸は、豫定配備の如く「沼風」之に當り、女川、鮫ノ浦、雄勝諸灣沿岸の被害調査及救護品の配給に任じたり。
而して、三月八日、第一驅逐隊氣仙沼入港の際、同隊司令小林海軍大佐は、三邊本縣知事に邂逅の際、海軍大臣竝横須賀鎭守府司令長官代理として慰問の辭を述べられたり。
V 軍艦「嚴島」の派遣と第二次救護
先に第一、第六兩驅逐隊の罹災地沿岸派遣を了したる横須賀鎭守府當局に於ては、四日更に横須賀海軍軍需部在庫の物品を輸送救護に從事せしむべき者、海軍大臣より訓令を受けたるにより、軍艦「嚴島」を派遣するに決し、次の如く出動凖備を整へしめたり。
出動命令に接してより、横須賀拔錨に至る迄僅々九時間半なり。
かくして、航行中救護品の積卸し凖備を完成の上、三月六日午前八時四十分岩手縣釜石沖に到着せるが、横須賀出港後無電により、第六驅逐隊司令河瀬海軍大佐と連絡し、「嚴島」搭載救護品の配給卸込を迅速正確ならしむべき目的の下に、三陸沖出動中の、第一、第四、第六驅逐隊の若干をして、六日午前九時迄、配給基地釜石沖に集合を命じたり。
而して、本縣及び岩手縣當局者と協議の上、救護品は宮城一〇、岩手三〇、青森一の割合に配給し、「嚴島」と驅逐艦間の救護品荷渡運搬用としては、宮城、岩手の兩縣より發動機船四隻を派遣使用せしむる事とせり。
かかる手順を經、釜石沖に於て、「嚴島」より救恤品、慰問品を移載の上、本縣下に向へるは、第一驅逐隊の「神風」、「野風」の二隻にして、「神風」は、氣仙沼に於て、「野風」は、女川に於て、各々毛布、軍衣袴、襦袢等の救恤品と、鑵詰、白米、砂糖、醤油、漬物以下の慰問品を陸揚し、縣當局より出張の官憲に手交し、配給方を依頼せり。
かくて、七日午前七時を以て、救恤品、慰問品の配給、一段落を告げたるを以て、同日午後九時「嚴島」は釜石沖拔錨、途中金華山沖にて夜間機雷敷設訓練、防備要地視察、溺者救助教練等をなしつつ、八日渡波沖に假泊せしが、その際「嚴島」艦長は、横須賀鎭守府司令長官代理として上陸、石卷町に赴き、同地官公署を訪問の上、震嘯災害慰問の辭を述べられたり。
九日午前七時、渡波沖を拔錨、途中夜間訓練を實施しつつ、横須賀に向ひ、十日午前十時、重大なる罹災地救援の任務を全うして、無事歸港せり。驅逐隊諸隊に於ても、「嚴島」と相前後して、横須賀へ歸港せり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
VI 第二次慰問品
軍艦「嚴島」より、本縣下罹災民に配給のため、驅逐艦「神風」及「野風」に移載せる救恤品及慰問品次の如し。
第四節 鐵道關係の救援及善後措置
I 約説
鐵道省にては、震災地行の救護班員及び救恤品復舊用建築用材に對し、鐵道省告示五六、六〇、六一、六四の各號を以て、制限附國鐵運賃の免除乃至割引をなしたり。
その結果旅客、關係運賃に於て、合計一五四件二、六八二人、三、二三〇圓一四、貨物關係運賃に於て、一四四件三、三六七、五四九瓩代運賃の減免を見たり。その大部分は岩手縣關係なるも、本縣關係亦尠からず。之により罹災地方の救助復舊に多大の便益を與へたる事謂ふを俟たず。
II 旅客に對する運賃の減免
イ、救護班員に對する無賃輸送
一、震災地行救護班員に對し、左の各號に依り無賃輸送の取扱を爲したり。
1、區間 上野驛と石卷・氣仙沼・花卷・平津戸又は久慈驛との相互間
2、等級 二、三等
3、期間 昭和八年三月四日より同年三月二十日迄
4、條件 無報酬にして官公衙發行の救護班員たることを證する證明書を所持すること。
三月三日より(1)の區間中上野驛の次に仙臺・盛岡・青森を追加せり。
救護班員無賃取扱調
備考 1、往復は件數、人員共二倍に計上せり。
2、運賃は省收得額とし、個人又は團體として收受すべかりし額を記載せり。
ロ、無報酬復舊勞務奉仕團に對する無賃輸送
二、震災地復舊に無報酬にて引續き三日以上勞務を奉仕する爲、大人十人以上一團となり乘車するものに對し、左の各號に依り無賃輸送の取扱を爲したり。
1、區間 宮城・岩手・青森縣下省線各驛と石卷・千厩・氣仙沼・陸前矢作・平津戸・仙人峠(岩手輕便鐵道を含む)・沼宮内・古間木・下田・陸奥湊・階上・陸中八木・久慈驛との相互間。
2、等級 三等
3、期間 昭和八年三月七日より同年三月二十日迄。
4、條件 官公衙發行の證明書を所持すること。
勞務奉仕團無賃取扱調
備考 1、往復は件數、人員共二倍に計上せり。
2、運賃は省收得額とし、個人又は團體として收受すべかりし額を記載せり。
ハ、無報酬復舊勞務奉仕團に對する運賃低減
三、震災地復舊に無報酬にて引續き三日以上勞務を奉仕する爲、大人十人以上一團となり、乘車するものに對し左の各號に依り、旅客運賃の五割を低減せり。
1、區間 宮城・岩手・青森縣下省線各驛と花卷・千厩・氣仙沼・陸前矢作・平津戸・沼宮内・古間木・下田・陸奥湊・階上・陸中八
木・久慈驛との相互間。
2、期間 昭和八年四月一日より同年四月十五日迄。
3、條件 官公衙發行の相當證明書を所持すること。
勞務奉仕團五割引取扱調
備考 豫定運賃欄には、個人又は團體として支拂ふべかりし額を記入し、收受運賃欄には、五割引に依る實際收受額を記載せり。
III 救恤品・復舊建築材料に對する運賃減免
震嘯災害にょる三陸沿岸の被害につき、まづ救恤品復舊建築用材の必要なるは謂ふを俟たず。これが陸上輸送機關の主要部を占むる國鐵が率先して、省線及連帶線各驛より、之等の輸送貨物に對して、運賃全免及び五割減免の處置を採られたるは、罹災民の救濟に便益ならしめたる處不尠ものありたり。
この特別扱を受くる貨物の範圍は、鐵道省告示を以て、次の如く發表せられたり。
鐵道省告示第五十六號
三陸沿岸震火災及海嘯罹災者用救恤品及復舊建築材料ニ對シ左記ニ依リ運賃減免ヲ爲ス
昭和八年三月六日 鐵道大臣 三土忠造
一、品名 甲 罹災者救恤用寄贈品
乙 復舊建築材料
木材、杉皮、竹、瓦類、煉瓦類、セメント、セメント製品、ブリキ及トタン板、針金類、釘類、建具、敷物類、疊、板硝子。
一、發驛 省線及連帶線各驛
一、著驛 甲 仙臺・一關・盛岡・沼宮内・古間木・下田・塩釜・石卷・千厩・氣仙沼・陸前矢作・平津戸・八戸・湊・鮫・階上・種市・ 久慈間各驛・仙人峠・遠野・米谷淺水・三陸汽船會社各取扱所
乙 一關・沼宮内・古間木・下田・塩釜・石卷・氣仙沼・陸前矢作・平津戸・八戸・湊・鮫・階上・種市・久慈間各驛・仙人峠・遠野・米谷淺水・三陸汽船會肚各取扱所
一、扱種別 甲 小荷物及各扱貨物
乙 各扱貨物
一、賃率 甲 省線・仙北鐵道・岩手輕便鐵道及三陸汽船會社航路無賃
乙 省線・仙北鐵道・岩手輕便鐵道及三陸汽船會社航路五割減
一、荷受人 甲 岩手・宮城・青森縣知事又ハ岩手縣九戸・下閉伊・上閉伊・氣仙郡下各町村長 宮城縣本吉・桃生・牡鹿郡下各町村長・青森縣百石町長・市川・三澤各村長
一、期間 甲 自昭和八年三月四日 至昭和八年五月三日
乙 自昭和八年三月四日 至昭和八年七月三日
一、條件 イ、甲ハ集貨及配達ヲナサズ
ロ、乙ニ對シテハ岩手・宮城・青森縣知事又ハ岩手縣九戸・下閉伊・上閉伊・氣仙郡・宮城縣本吉・桃生・牡鹿郡下各
町村長・青森縣百石町長・市川・三澤各村長ニ於テ震火災又ハ海嘯罹災者用復舊材料タルコトヲ證明シタル各書類ヲ提出スルコト
而して、この特別扱による救恤品及び復舊材料の詳細次の如し
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
IV 客車及貨車の増結
v東京より罹災地見舞客多數にして、且つ救恤品等輸送の必要上、東京發下り列車に三月三日より同十日迄の間に於て、次の如く十七輛の客車及び貨車を増結し、一般の便益を計れり。更に、制限外重量小荷物輸送二件ありたり。
第五節 國税の免除、徴收猶豫
I 約説
震嘯災害による被害者の負擔を輕からしめんが爲、大藏省にては帝國議會の協賛を經て、別項の如く法律第十三號を以て震災地に於ける昭和七年度分第三種所得税及地租の免除、減税、及び所得税、地租、營業收益税、相續税、酒造税、清涼飲料税等の徴收猶豫をなす事を公布し、更にその施行方法を大藏省令第六號を以て公示せり。
仙臺税務監督局にては、震嘯災害による免税、徴收猶豫等の法律及省令の發布を見たるを以て、三月二十三日、同局内に臨時震災事務處理委員會を設置し、委員長一人、委員二人及び幹事若干名を設け、罹災地の實情視察及び關係税務署員の監督は勿論、勅令に基く事務規程の編纂に從事し、苟も國税の免除、猶豫の標準認定の公正を期する事とせり。
II 減免税
罹災地たる三陸沿岸は、農漁業を以て主なる生業となすを以て、納税方面は、地租最も多く、商工業關係たる所得税・營業收益税の如き左程多からず。
從つて、國税の減免に於ても、地租殆んど大部分を占めたり。本縣關係にありては、減免總額五六、二一五圓中、地租の免除總額五二、五八八圓にして、減免税總額の九割五分強に當れり。昭和七・八年分第三種所得税の減免額二、四一八圓、昭和八年分營業收益税の減免額一、二〇九圓これに次ぐ。
本縣下に於て、間税の減免せられしもの皆無なり。
(イ)地租
國税減免の大部分を占むる地租中、一般土地及荒地を通じ、免除被害面積及免税額共、田租最も多く、一七、一二五畝、二六、八六一圓にして、地租免除額の殆んど半に達す。
宅地は一六〇、三三一坪なれども、免税額に於ては、二〇、○〇五圓にして、田の免税額に殆んど匹敵せり。
畑の被害面積一一、九八三畝、五、五一六圓之に次ぎ、更に被害面積、原野二、七六四畝、池沼一、二五九畝を數ふるもその免税額は些少なり。
(ロ)昭和七年度第三種所得税
法律第十三號第一條及大藏省令第二條の公布により制定せられたる、震災地に於て納付すべき昭和七年分第三種所得税第四期分の本縣關係免除分は、仙臺税務署管下には一件もなく、志津川・石巻兩税務署管下にて、合計三一人、税額四一九圓に達せり。その詳細次の如し。
(ハ)昭和八年分第三種所得税及個人營業收益税
宮城縣下の震災關係昭和八年度の第三種所得税及個人營業收益税減免額は、所得税に於て、輕減人員四七人、輕減額一、四三七圓、收益税に於て輕減人員五六人、輕減六七八圓なり。
輕減の結果、全額免除せられたるもの、所得税に於て、二九人、五六二圓、收益税に於て三〇人、五三一圓を算せり。その詳細次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
III 徴收猶豫
昭和八年三月發布の法律第十三號第四條及同月公布の大藏省令第十一條に該當する國税徴收猶豫は、最初の査定額中、調査の結果、免除となりたるものもありて、その額に於ては多少變更を來したるが、本縣管下の關係地-即ち志津川(本吉)・石卷(桃生・牡鹿)兩税務署管轄下の徴收猶豫種目は、所得税・地租・營業收益税・相續税の四種なり。之等は大凡徴收猶豫の最大期間たる昭和九年四月十五日以前に於て、全納せられたり。
徴收猶豫せられたる税種目及人員税額次の如し。
これによりて見れば、徴收猶豫税額總計六、三四四圓三四錢にして、その半數強たる、三、二七一圓三〇錢は田租(地租)にして、第三種所得税の二、六〇一圓〇二錢之に次ぐ。
尚、宅地の被害にして、被害調査の出來ざる爲に、納期の到來したる昭和八年度第一期宅地租あり。
これは、昭和八年三月發布の前記震災關係法律及大藏省令第六號に該當せざるを以て、別に國税徴收法第七條(納税人非常ノ災害ニ罹リ政府ニ於テソノ被害調査ノ爲、時日ヲ要スルトキハ、ソノ間税金ノ徴收ヲ爲サザルコトアルベシ)を適用し租税免除及徴收猶豫をなせり。
その免除及徴收猶豫額次の如し。
第三章 帝國議會に於ける決議
第一節 衆議院議事
I 山本内相の状况報告(官報、速記録)
三陸沿岸が震嘯災害に見舞はれし、三月上旬は、時恰も第六十四議曾開會中なりしを以て、三月五日の衆議院本會議に於て、次の如く、剪頭秋田議長の紹介ありたる後、山本内相のこれに對する報告ありたり。
三月五日 議長ノ紹介
○議長(秋田清君)是ヨリ會議ヲ開キマス諸君昨三日早曉東北三陸地方ニ於テ大震火災竝ニ海嘯ノタメ同地方民ガ不測ノ慘禍ヲ被リマシタルコトハ洵ニ同情ニ堪ヘヌ次第デアリマス又之ガタメ殃死者モ多數アリタルヤニ報ゼラレテ居リマス是等ノ人々ニ對シマシテ■ニ謹ンデ深ク哀悼ノ意ヲ表シマス(拍手)尚ホ其内ニハ滿洲派遣將兵ノ家庭モ數百ニ及ブトノコトデアリマス之ニ對シテハ國民ハ宜シク慰藉ヲナシ將兵ヲシテ後顧ノ憂ナカラシムルヤウ努メタイト考ヘマス(拍手)此ノ際内務大臣ヨリ東北地方震災被害状况ニ付キ報告ノタメ發言ヲ求メラレマシタ之ヲ許シマス 内務大臣山本達
雄君
(國務大臣男爵山本達雄君登壇)
○國務大臣(男爵山本達雄君)私ハ東北地方震災ノ大略ヲ御報告ヲ致シマス昨朝東北地方北海道關東地方及本洲中部地方ニ起ッタ震災ノ被害ノ情况ヲ申述ベマスレバ被害ハ強震地帶殊ニ岩手縣ニ於キマシテ甚シク宮城、青森、北海道之ニ亞ギ其海岸地方ニ於キマシテ何レモ海嘯ヲ伴ヒ又岩手縣釜石町ニ於キマシテハ地震ト同時ニ火災ヲ起シマシテ右以外ノ地方即チ山形、秋田、茨城、栃木、埼玉、千葉、東京、神奈川ノ各府縣ニ於キマシテハ被害ハ極メテ僅少デアリマシテ死傷者倒潰家屋ハナイトノ知事ヨリノ報告ニ接シテ居リマス地方ヲ視察セシメマシタ事務官ノ報告ニ依リマスト宮城縣金華山以北ヨリ岩手縣ノ海岸ニ亘リ一帶ニ其被害大キク倒潰セル家屋等相當多ク且ツ流失セル木材並ニ流失船舶家屋ノ破片等ガ海岸一面ニ浮ンデ居ル状態デアリマシテ取分ケ釜石町附近各部落ニ於キマシテ其情况最モ慘澹タルモノト認メタト云フコトデアリマス而シテ其情况ハ昭和五年北伊豆地方震災當時ノ被害ヲ遙ニ凌駕スルノ有樣デアリマス
今人及家屋共ノ他ノ被害ニシテ本日午前零時マデニ判明致シマシタル分ヲ申シマスレバ次ノ通リデアリマス死傷者等ノ數テ縣別ニ申述べマスレバ岩手縣ニ於キマシテハ氣仙、九戸、下閉伊、上閉伊ノ四郡ガ主デアリマシテ死者干三百八十名、傷者二百七十六名、行方不明ガ六百九十六名デアリマス宮城縣ニ於キマシテハ牡鹿、本吉、桃生ノ三郡ガ主デアリマシテ死者百三十六名、傷者二十五名、行方不明ガ二百二十七名デアリマス
青森縣ニ於キマシテハ三戸上北ノ二郡ガ主デアリマシテ死者八名傷者三十七名、行方不明ガ二十一名デアリマス北海道ニ於キマシテハ日高國ガ主デアリマシテ死者十一名、傷者ナシ行方不明ガ四名デアリマス以上ヲ總計致シマスレバ死者千五百三十五、負傷者三百三十八名、行方不明九百四十八名デアリマス次ニ家屋ノ損害ニ付キ申述べマスレバ岩手縣ニ於キマシテハ倒潰ガ九百七十一戸、流失ガ二千四百五十三戸、燒失ガ二百十一戸、浸水ガ五千四十四戸、計八千六百七十九戸デアリマス宮城縣ニ於キマシテハ倒潰ガ二百八十三戸、流失ガ四百四十戸、浸水ガ千二百二十九戸、計一千九百五十二戸デアリマス青森縣ニ於キマシテハ倒潰ガ十三戸、流失ガ五十九戸、浸水調査中、計七十二戸デアリマス。北海道ニ於キマシテハ倒潰ガ十二戸、流失十一戸、浸水七十戸、計九十三戸デアリマス以上家屋ノ被害ヲ總計致シマスレバ倒潰ガ千二百七十九戸、流失二千九百六十三戸、燒失二百十一戸、浸水六千三百四十三戸、計一萬七百九十六戸デアリマス
更ニ震災ニ伴フ海嘯ニ因リ左ノ如ク船舟ノ流失ヲ見マシタ宮城縣ガ千九十六隻、青森縣ガ三百七十隻、北海道ガ十四隻、岩手縣ハ目下マダ調査中デアリマス右ノ外漁具ノ流失モ相當多數ニ上ル見込デアリマス以上ガ昨日ノ震災ニ因ル被害状况ノ大要デアリマス
次ニ震災直後内務省ノ取リマシタ應急措置ヲ申シマスレバ取敢ヘズ事務官ヲ飛行機ニ依リ昨日震災激甚地ニ急派致シマシテ一般状况ヲ視察セシメマシタ又救護状况ノ視察ノタメ事務官ヲ現地ニ急行セシメマシタ尚ホ又本日ハ丹羽社會局長官ヲ同地ニ派遣セシメマシテ罹災地全般ノ救護實施上遣憾ナカラシメンコトヲ期シテ居ル次第デアリマス別ニ土木ノ事務官技師兩名ヲ現地ニ急行セシメ其方面ノ善後措置ヲ講ゼシメルコトト致シマシタ次ニ罹災地方ノ警備状况ニ付キマシテ申シマスレバ岩手縣ニ於キマシテハ地震發生ト同時ニ知事ハ非常警備規定ニ基イテ非常警備司令部ヲ設ケ縣下警察官ノ全員非常召集ヲ行ヒ罹災地ニ應援警察官百名ヲ急派致シマシテ警備ノ萬全ヲ期シマスルト共ニ極力被害状况ノ視察情報蒐集ニ努メマシタガ縣下一般ニ警備上何等ノ事故ハゴザイマセヌ唯情報ノ蒐集ニ付キマシテハ避遠ノ地デ而モ通信機關杜絶ノタメ極メテ困難ヲ感ジツツアル状况デアリマス宮城縣ニ於キマシテハ縣警察部ヨリハ直ニ應援警察官ヲ派遣シ警備及救護等ノ状况視察ニ當ラシメマシテ目下遺憾ノ點ヲ認メマセヌ尚青森縣及北海道ニ於キマシテハ主要地方ニ警察官ヲ派遣シ治安維持上萬遺憾ナキヲ期シテ居ル次第デアリマス
次ニ罹災者救護ノ状况ニ付キ申述べマスレバ罹災者ニ對スル應急救護ニ關シマシテハ目下各關係縣並ニ町村等ニ於キマシテ全力ヲ傾倒シテ救助ノ遺漏ナキヲ期シツツアリマスガ今其主要災害地ノ状况ヲ申述べマスレバ岩手縣ニ於キマシテハ縣職員ヲ各罹災中心地ニ派遣シ地元町村當局並ニ關係諸團體ト協力致シマシテ應急救助ノ方法ヲ講ゼシメマシタ其概况ヲ述べマスレバ各罹災中心地ニ救護本部ヲ設ケ炊出シヲ行ヒツツアリ又取敢ヘズ學校寺院等ヲ避難所ニ充當シテ罹災者ヲ收容セル外小屋掛材料ヲ取纏メ急速收容設備ヲ開設スル見込デアリマス又醫療ニ付キマシテハ縣醫師會ノ協力ヲ求メ特ニ同會ヨリ醫師ヲ罹災地ニ派遣シ負傷者ノ治療ニ努メツツアリ尚ホ東北帝國大學ヨリモ更ニ醫師ヲ派遣スル見込デアリマス
次ニ食糧被服共ノ他日用品ノ配給ハ縣ニ於キマシテ直接之ヲ行フコトトシ各地ノ警察ヲ通ジテ各罹災者ニ支給ヲナシツツアリマス
尚ホ義捐金金品ノ募集ニ付キマシテハ縣ニ於キマシテハ聯隊區司令部青年團在郷軍人分會愛國婦人會等ノ各團體ト協力致シ既ニ其募集ニ着手致シテ居リマス同縣ニ於キマシテハ罹災救助ニ要スル經費トシテ直ニ豫算ヲ追加シ罹災救助基金約十七萬圓ヲ支出ノ見込デアリマス救護ニ萬違算ナキヲ期シテ居ル次第デアリマス
次ニ宮城縣デアリマスガ縣ニ於テハ震災直後各町村當局青年團體在郷軍人會等ヲ督シ各罹災者ニ對シテ炊出シヲ行ヒ當面ノ食糧給與ニ遺漏ナキヲ努メツツアリマス尚ホ住宅ノ流失倒潰セルモノ相當多數ニ上ルタメ罹災地ニ於キマシテハ取敢ヘズ小學校寺院等ヲ避難所トナシ罹災者ノ收容ニ充テツツアリマス負傷者ニ對スル醫療ニ付キマシテハ恩賜救療施設カラ救護班ヲ出シ尚縣赤十字支部及第二師團所屬救護班ト協力シ罹災地方ニ救護所ヲ設ケ負傷者ノ應急手當ヲ行ヒツツアリマス更ニ救護物資ノ供給デアリマスガ目下ノ所罹災地方ニ於キマシテハ食糧品ハ特ニ窮乏ヲ告グルコトナキ模樣デアリマスガ海嘯ノ襲來アリタルタメ衣類防塞具ノ缺乏ヲ見マシタノデ第二師團司令部カラ毛布二千枚ヲ借入レ既二罹災地ニ發送致シマシタガ尚ホ衣類ニ付テモ縣ニ於テ急速現品ヲ調達送付ノ手配ヲ致シマシタ
青森縣ニ於キマシテハ罹災救助ヲ要スト認メルモノハ目下上北郡三澤村外一箇村ノ見込デアリマス縣ニ於キマシテハ直チニ關係職員ヲ派遣シ炊出シ衣服小屋掛等必要ナル救助ニ關スル手配ヲ了シ救助上遺憾ナキヲ期シツツアリマス最後ニ北海道ノ状况デアリマスガ目下判明セル罹災地ハ日高國ノ一部デアリマス
支廳長及地元村長ヲ督勵シソレゾレ罹災救助ニ努メツツアル状况デアリマス
以上簡單ナガラ昨朝ノ地震並ニ其被害警備ノ状况ノ大要ヲ申上ゲマシタガ尚復舊復興等ニ就キマシテハ關係道縣等ト協議致シマシテ萬遺策ナキヲ期シタイト思ツテ居ル次第デゴザイマス此點御報告申上ゲマス(拍手)
この、内相の報告により、滿場は、三陸地方の不慮の災禍に對する政府當局の應急對策を知ると共に、深く同情の念を湧起し、相協力して之が救護に當らん事を期したり。
II 租税免除猶豫の法律案可决
三月十四日の衆議院本會議には、政府より震災被害者に對する租税の免除猶豫等に關する法律案を提出上程して、第一讀會を開けり。
三月十四日
第一震災被害者ニ對スル租税ノ免除猶豫等ニ關スル法律案(政府提出)第一讀會
震災被害者ニ租税ノ免除猶豫等ニ關スル法律案
第一條 政府ハ震災(昭和八年三月三日ノ震災及之ニ伴フ火災又ハ海嘯ヲ含ム以下同シ)ニ因ル被害者ノ震災地ニ於テ納付スベキ昭和七年分第三種所得税第四期分ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ免除スルコトヲ得
第二條 政府ハ震災ニ因リ著シク利用ヲ妨ゲラレタル土地ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ地租ヲ免除スルコトヲ得
第三條 政府ハ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分ノ第三種所得税個人ノ營業收益税及乙種資本利子税ニ限リ課税ニ關スル申告及申請並課税標準ノ決定ニ關シ命令ヲ以テ特例ヲ設クルコトヲ得
第四條 政府ハ震災地ニ於テ昭和八年三月三日以後ニ納付スベキ租税ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ徴收ヲ猶豫スルコトヲ得
第五條 第一條第三條及前條ノ震災地ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第六條 第一條又ハ第二條ノ規定ニ依リ免除セラルル租税ハ法令上ノ納税資格要件ニ關シテハ免除セラレザルモノト看做ス
前項ノ規定ハ北海道地方税及縣税ニシテ震災ニ因リ減免セラルルモノニ付之ヲ準用ス
附則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
仍て高橋藏相は右、租税の免除猶豫等に關する法律案提出の理由説明をなして、之が協賛を求め、之に對し、議員菅原傳氏(宮城縣選出)登壇
右法案ハ今回ノ災害ニ對シ人情味アル案ナレドモ、更ニ岩手、宮城兩縣ヲ通ジテ死者數千、家屋ノ倒潰、流失無數ナレバ、ソノ復舊費ノ多額ヲ要スル事論ナシ。加之罹災東北三縣ニハ滿洲ニ出征セル軍人ノ家族モアリテ是等ノ事ニ想到スレバ實ニ感慨無量ナリ。
政府ニ於テモ、地租免除猶豫案提出ヲナセルハ結構ナルモ、更ニ物質的損害ヲモ考慮ノ上、コレガ復舊救濟ノ方法ヲ特ニ目下議曾ノ開會中ナル機會ヲ逸セズ計ラレ、是非追加豫算ノ提出ヲ計ラレムコトヲ。(大意)
と述べ、高橋藏相は
目下内務・農林兩省ニ於テ實状調査中ナレバ、該調査結了後、直ニ其手續ヲ執ラン。(大意)
と答辯し、本議案は、議長指名十八名の委員に調査を付託せられたり。
越えて三月十六日の本會議に於て、本案の第一讀會の續きを開き、八田調査委員長より、委員會にて、原案可決すべきものと認めたるむねの報告あり。希望條項として、災害の甚大なるに鑑み、之が復舊復興の爲、速に追加豫算を提出されたきむね申し述べたり。
以下、八田調査委員長の報告中、主要なる點を摘記せん。
今回ノ免税案ハ昭和二年三月、丹波・丹後方面ニ起リタル震災當時執リタル處置ト同一ノ法律ニテ免税スルモノナリ
昭和二年以前ニアリテハ、免税ハ主トシテ地租ノミニ止マリシガ、昭和二年ノ奥丹後震災後ハ、更ニ所得税、營業税、酒税ニ關シテモ免税セシヲ以テ、今回モコレニ做ハントス免税總額ハ凡ソ三十萬圓ニ達スベク、内所得税七萬圓、地租五萬五千圓、營業收益税五萬圓、酒税十萬圓ノ豫定ナリシカモ今回ノ震災ト云ヒ、奥丹後ノソレト云ヒ、等シク三月ナルモ、連日氷點下十度内外ナル東北地方ト丹波・丹後方面ニ於ケル慘状トハ異ルモノアリテ、一樣ニ律スルヲ得ズ
尚、丹波・丹後ノ震災ニハナサザリシモ、被保險者ニ對シ、政府ハ特ニ施設スル所アルガ如シ、又、震災地ヨリ滿洲ニ出征セル遺家族ニ對シ、内務省等ニテモ何等カ温キ施設ヲ以テ對策ヲ講ズベキナリト云フ質問ニ對シテモ、政府ニ於テハ目下調査研究中ニシテ、然ルベク希望ニ副ハントノ答辯アリ
カクノ如キ質問應答交換セラレシ後、討論ニ入リ、菅原傳君ヨリ希望ヲ述ブル處アリ、復舊、復興ノタメ追加豫算ノ提出ニッキ書面トシテ提議シタリ。
コレニ對シ、民政黨ノ内ケ崎作三郎君ヨリ賛成アリ、國民同盟ヲ代表シテ、菊地良一君ヨリモ賛成アリ、各委員滿場一致ヲ以テ、此法案希望條項ニ對シ、賛意ヲ表シタリ
以上大體ノ經過ヲ申上ゲタルガ、是非滿場一致ヲ以テ速ニ可決セラレン事ヲ希望ス(大意)
次に討論に入り
先づ田子一民氏(岩手縣選出)登壇
簡單ニ、只今議題トナリタル法律案竝ニ附帶希望決議ニ對シ、賛成ノ意志ヲ表明シタシ租税ノ免除猶豫ハ當然過グル程當然デ特ニ言辭ヲ用ヒズシテ賛成スベシ、復舊、復興ニ關スル追加豫算提出ヲ求メラレシガ、今回ノ海嘯ニハ死者、行方不明者多數、流失、倒潰無數ニシテ、日常生活ノ根本タルベキ漁船ハ税金ノ關係上、八千トナレルモ事實上ハ、コレノ五割増ノ多大ノ損害ナリ、東北地方中、青森縣ニハ凶作アリ、岩手縣ハ銀行破綻シテ、預金者ノ支拂ヲ受ケ得ザル金額七千萬圓ナリ
宮城縣モ比年水害等ニ加惱サレ、縣ノ財政極メテ窮乏ヲ告ゲタリ
此ノ三縣ガ財政的ニモ經濟的ニモ洵ニ悲慘ナル状態ニ在リシニ不拘、今回ノ如キ慘害ヲ受ケタルニツキ、政府ハ單ニ復舊ト云フ消極的ノ豫算ノミナラズ、復興ヲ含メル意味ノ豫算ヲ速ニ提出スベキハ最モ必要ナリト認ムルモノナリ(大意)
と述べ、之に代つて、内ケ崎作三郎氏(宮城縣選出)登壇
本議員モ本案ニ對シ賛成ノ意ヲ表スルモ、委細ハ田子君ヨリ述ベラレタル通リナリ政府ガ速ニ本案ヲ提出セラレシバ、我等罹災地ニ關係アルモノノ特ニ感謝スル所ナリ三陸海岸ハ世界第一ノ漁場ニシテ、世界著名ノ水産國タル我ガ帝國ノ運命ノ懸レル主ナル地點ナリ、然ルニ此地方ハ五十年乃至三十年ニ一回、週期的ニ大震害ニ遇ヒ、ソレニ伴ヘル海嘯ノ災害ヲ被レルハ、洵ニ遺憾ニ堪ヘズ政府當局ニ於カレテハ速ニ追加豫算ヲ本議會中ニ提出、是等ノ人々ヲ救濟スルト共ニ、ソレ等地方ノ水産業ノ復興ヲ圖リ、又將來ノ災害ニ對スル豫防ノ手段トシテ、相當ノ努力アラン事ヲ希望シ、本案ニ對スル賛成ノ趣旨トナスモノナリ終リニ臨ミ、此度ノ災害ニツキ、上ハ皇室ヲハジメ奉リ、下一般國民ニ至ル迄、非常ナル同情ヲ垂レラレシヲ感謝スルト共ニ、同僚各位ヨリモ、多大ノ義金ヲ寄セラレツツアル事ヲモ併セテ感謝スル次第ナリ(大意)
と述べて、重ねて、震災地方民に對する租税の減免は勿論、更に復舊復興につきても適當の措置をとられん事を希望せり。
ついで、菊地良一氏(青森縣選出)登壇、同氏の罹災地の實地視察慰問により、一層同情すべき實状なるを語り、復舊のみならず、將來のこの種災禍の豫防をなすべきを説き、免税案に對しては、滿腔の賛意を有するを述べたり。
かくて、秋田議長は、討論の絡局せるむねを宣し、直に第二讀會を開き議案全部を議題とし、その結果、原案可決を確定せり。
第二節 貴族院議事
I 田中館博士の希望質問
三月八日、貴族院本會議に於て、昭和八年度歳入、歳出總豫算案外一件上程せられたる際、議員田中館愛橘博士は、三陸地方震災につき滿腔の同情を寄せ、ついで次の三點に關する質問をなせり。
一、今度ノ震害地方ノ地形變化ノ調査ヲナサザルヤ
二、町村復興ニ對スル注意、乃至進ンデ或制限ヲ設クル必要ナキヤ
三、津浪・地震ノ觀測所タル測候所ノ分布ヲ整理スルノ必要ナキヤ
同博士の相當詳細なる右三ケ條に就いての希望質問ありて、政府の意向を求めたるに對し、山本内相、鳩山文相、大角海相相續いて登壇の上、各所管につき然るべく返答をなせり。
更に、同博士は、地形に對する陸地測量部の意見をきき、荒木陸相之に答ふる處あり、田中館博士は、諸閣僚の返答に謝辭を表し希望質問を打切りたり。
II 政府委員の免税案説明
三月十六日三陸震災被害者に對する租税の免除猶豫に關する法律案は、衆議院に於て可決したるを以て、貴族院に廻付し來れり。
劈頭堀切政府委員は登壇して、三陸地方震嘯災の悲慘なる状况を述べ誠に同情に堪へざる事、罹災民の國税納付負擔力の減殺せられしもの不尠事を語りて、これが救濟の一法として、是非共免税をなすの必要あるを力説せり。
これに對し、徳川議長は、地租法中改正法律案外五件を特別委員に付託する事とせり。
III 特別委員會の状况
仍て三月十八日、申御門委員長以下八名の委員及び、勝田・中島・石渡三政府委員出席の上、特別委員會を開會せり。まづ中島政府委員登壇し、免税猶豫に關する法律案の第一條より第六條に至る逐一の説明をなせしが、要之、唯サへ財政不况ニヨリ困憊セル沿岸漁村ガ、今回ノ震災ニヨリテ、拱手傍觀スルノ止ムナキニ至リタルモノナレバ、差當リ、三月末日迄徴收スベキ第三種第四種ノ所得税ヲ免除シテ、負擔力ヲ少シニテモ、輕減スベキモノナリ。
と、之に對し、加藤政之助氏登壇
今回ノ法案ハ、從來ノ災害ニ際シテ、政府ノ採リタル處置ト如何ナル異同アリヤ、又、目下ハ所得税徴收中ナランガ、コノ命令ヲ如何ニナスベキヤ、ナホ免除税額ハ如何程ノ金額ニ達スルヤ、等の諸點につき質問せり。
石渡政府委員は再び登壇し
今回ノ三陸震災ハ昭和二年三月ノ峯山ノ地震ト丁度時期ヲ同ジウセルヲ以テ、其ノ免税案モ、峯山ノ例ニ做ヘリ。唯三陸地方ハ漁業ヲ生業トセルヲ以テ、漁船・漁具ノ損害ヲ的確ニ見積リタシ。
本月納付スベキ所得税ノ納税切符ハ未ダ出シ居ラザル見込ナレドモ、仙臺税務監督局及震災地ノ税務署ト打合セノ上、被害著シキモノニツキテハ免除セシムベキナリ。而シテ免除及猶豫ノ總額ハ約參拾萬圓ニ上ル見込ナリ。
と、返答する處ありたり。
次いで、大橋新太郎氏は、わが國には十年に二度乃至三度の震災あるを以て、將來適當なる時期に於て、突發的事件に對應する立法をなさん事を希望し、中島政府委員は、これに賛意を表し、中御門委員長、討論採擇を宣したる結果、免税案は委員會一致を以て可決せられたり。
IV 免税案の可決
三陸地方震災被害者に對する租税の免除猶豫に關する法律案は、議長より付託せられし特別委員會の可決を經たるを以て三月二十日、貴族院本會議に再び上程せり。
即ち、中御門委員長は、衆議院に於て本案可決に至りたる理由を説明報告し、かくて全員賛成の内に、第二、第三讀會を開き滿場一致を以て本案を可決せり。
第三節 議員の慰問・視察及兩政黨の救護對策
I 議員の慰問・視察
三陸沿岸震嘯災害の報傳はるや、悲慘なる状况に同情せる政友・民政兩黨にては、其の詳細を實地に慰問・視察する必要ありとし、左記四議員を兩黨代表として、三月三日夜、東京を出發、本縣下へ向はしめたり。
四議員は、四日朝、本縣廳に來訪、知事に慰問の辭を述べられし後、村上屬(農務)、加藤屬(商工)案内の下に、罹災地を視察・慰問したり。
議員及び日程左の如し
政友會 上野基三氏(栃木縣選出) 大島寅吉氏(北海道選出)
民政黨 佐藤與一氏(新潟縣選出) 金井正夫氏(鹿兒島縣選出)
日程
三月四日 仙臺-大原(石卷宿泊)
五日 石卷-十五濱-志津川-歌津-小泉-大谷-氣仙沼(氣仙沼宿泊)
六日 歸京
その後、内ケ崎作三郎(宮城縣選出)、村松久義(宮城縣選出)、菊地良一(青森縣選出)、菅原傳(宮城縣選出)の諸氏も續々來縣、罹災地を視察・慰問せられたり。
II 兩政黨の救護對策
(イ)政友會
政友會の東北・北海道團體は四日午前十一時院内交渉室に集合の上、三陸沿岸震嘯災害善後策につき協議の結果、左の諸項を決定せり。
一、應急措置として米・衣類・寝具の配給を行ひ、その内、米につきては、政府より無料交付を受くる事
一、住宅資金の供給
一、應急復舊土木事業の急施
一、國税の減免(本件につきては、政府は國税の減免規定を速に議會に提案する旨、堀切大蔵政務次官の言明あり。)
一、岩手縣の財政建直しを政府に迫る件
一、貴衆兩院議長を發起者として義捐金の募集を行ふ事
一、四日の本會議に於て、三陸地方被害に關する山本内相の報告を求むる事
尚、之等の實行委員として、岩手縣選出代議士全部及北海道外五縣代議士二名宛を指名せり。
ロ)民政黨
民政黨に於ては、三陸沿岸災害救濟委員會を組織し、次の諸氏を委員に推薦せり。
内ケ崎作三郎 村松久義 柏田忠一 工藤鐵男 比佐昌平 鈴木寅彦 林平馬 手代木隆吉 大島寅吉 清水徳太郎 猪股謙二郎
救濟案は協議の結果、次の諸項に決定、政府に對し、その實行を迫る事とせり。
一、災害救濟方法は關東大震災の例による事
一、政府米の給與及廉價拂下
一、住宅材料・農具・漁具等の給與、又は廉價供給その他
一、災害地に於ける免租の件(地租所得税營業收益税の免除竝相續税の延納)
一、復舊費の補助及低利資金の融通
第四章 縣の應急措置及救護
第一節 震嘯災害當日の状况
I 災害周知迄の經過
東北地方に於ては未だ膚寒き昭和八年三月三日の午前二時半頃、本縣下一帶を搖り動かせる地震に、夜半の夢を破られたる人々は、近年稀なる激震に、仙臺市・石卷町の如き大都邑にありては、火災又は家屋・煙突の倒潰等の椿事の出態を恐れつつありしに、幸にして、それ等の事はなかりき。
されど、三陸沿岸に於ては、明治二十九年の地震に伴へる大津浪の襲來による被害甚しかりし經驗を有せり。
沿岸地方民は、この恐るべき過去の慘禍を知るも知らぬも稀有の激震に一抹の不安の念を懷けるは否むべからず。
剩さへ地方によりては、電光の如き怪光、雷鳴に似たる晋響のありて、唯事ならざる模樣を察すべきものあり。
午前六時三十分及七時三十分のラヂオ體操に續きて、仙臺放送局(JOHK)より臨時ニュースにより「今曉二時三十分頃、當地方に稀有の強震あり。震源地金華山東方、海底陷沒、北海道・東北・關東方面に、強弱震あり、三陸方面に四-七尺の津浪あり。」及び「今曉の地震により、宮城・岩手縣下の津浪及火災による被害甚大なるものあり。」との旨放送ありたり。
この報は、本縣内聽取者をして、驚愕せしめしが、縣當局へは罹災地及び附近警察・町役場及び、恰も同地方へ出張中の官公吏等の電信・電話による通報ありたり。以て、刻々、被害の豫想外に大なるを知るに至れり。
午前十時、本縣内務部農務課より、廳内各課に對し、次の如く通告したり。
今朝ノ地震
發震時 午前二時三十一分十秒
最大震幅 二十三粍
震源地 石卷ヲ去ル一五〇粁、金華山東南東沖
地震學上ニ於ケル所謂外側地震帶ニ依ル大地震ニシテ、牡鹿半島及岩手縣釜石地方ニハ相當被害アル見込、女川附近ニハ
四尺内外ノ津浪襲來シタリ。
尚今朝ノ地震ハ、北海道・關東地方ニマデ感ゼラレタル模樣ナリ。
昭和八年三月三日 内務部農務課
各課御中
しかるに、牡鹿郡大原村より災害第一報到着をはじめとし、各地よりの情報竝沿岸地方出張中の縣官吏よりの報告により、正午頃、被害は牡鹿半島一帶に止まらず、本縣下にて桃生・本吉・亘理・名取の併せて五郡に亘れる事分明するに至り、更に桃生郡十五濱村・本吉郡唐桑村・歌津村の如きは、人畜の死傷・家屋の流失・破損夥多に上れる事判明し來れり。
尚、一層の詳細なる被害状况を知るべく、仙臺放送局(JOHK)に依頼し、午後零時四十分以後の定時ニユースに於て、「ラヂオ聽取者にして、僻遠地方の被害状况を最寄の警察部に急報され度く、それに基き、救護方法を講ずる旨」の放送をなせり。
II 縣の應急對策
此處に、本縣は急遽救護組織を整ふる必要を感じ、三邊知事をはじめ、廳員一同は、鋭意之に當る事となれり。
乃ち、知事は、應接室に各部長・各課長等を招集して、緊急會議を開き、臨時應急措置を開始する事及其の事務分擔を定むる事、竝災害状况及救護状况を視察せしむる事等を決し、徹宵善後策を協議し、頻々として來る慘状に、一同は眉をひそめて罹災者の身の上を案じたり。仍て知事は、訓辭を與へたる後、官吏々員十六名と一齊に、左記關係町村(二十三箇町村)に向け急派したり。
社會課に於ては、午前八時半渡邊課長を中心に鳩首協議し、救護計畫を樹て、更に知事を中心に協議を遂げ、夫々の任務部所を定めて、廳員を急派し、慰問竝災害の調査救護等に努めしめたり。
尚、被害状况特に著しと認められたる町村に對しては、視察竝慰問の爲、別に廳内の課長等を特派し、併せて救護の徹底と復興計畫とに資する所あらしめたり。
視察竝慰問者及派遣官吏員名左の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.4MB
第二節 知事及各部長の罹災地視察
I 知事の視察
知事は三月四日別記の如き告諭を發して罹災民に對する縣民の協力を促し、更に同日應急救護の措置を了するを待つて、災害地牡鹿郡大原村(谷川、鮫の浦)、荻濱村、桃生郡十五濱村(雄勝)の視察を兼ね罹災者を慰問し、且つ死亡又は行方不明と爲りたる者の遺族に對し、弔慰金を贈りて弔問せり。
尚、知事は、三月五日、縣廳正廳に於て大金侍從より御下賜金拜受の後、同侍從の災害地視察案内をかねて、五・六の兩日牡鹿郡大原村(谷川・鮫浦)桃生郡十五濱村(雄勝)本吉郡志津川町、歌津村、唐桑村(只越)の災害状况を視察し、且罹災者の慰問・弔慰を爲したり。三月三十一日及四月一日は、罹災地視察の爲東下したる後藤農林大臣に隨行し、縣下十五濱村唐桑村の他、岩手縣氣仙郡・上閉伊郡の主要罹災地二、三を視察し、越えて四月七・八の兩日、木吉郡十三濱村(月濱・立神以下大指に至る各部落)戸倉村(寺濱・藤濱・長清水・波傳谷)志津川町(清水)、歌津村(伊里前)、小泉村(二十一濱)を、四月十三日は名取郡閖上町、亘理郡坂元村(中濱・磯濱)を順次視察、慰問せり。
尚、知事は、三月四日附を以て、告諭(第一號)を發し、救護慰問に遺憾なからん事を期したる旨竝救援慰問及復興の實を擧げんことを期せざるべからざる旨を諭す處ありき。
告諭第一號
本月三日午前二時三十一分過キ突如金華山東南東沖合海底ニ發シタル地震ハ最大震動二十三粍總震動時間凡ソ二時間ニ渉リ近年稀ニ見ル強震ナリ而シテ一度地震起ルヤ次テ忽チ海波荒レ爲ニ三陸一帶ノ沿岸ニ時ナラヌ海嘯ヲ生シ同日午後十時迄ニ達シタル情報ヲ綜合スルモ死傷者百六十餘名ヲ出シタル外行方不明者二百二十餘名家屋ノ倒潰約三百ニ上リ其ノ流失セルモノ四百七十餘船舟ノ覆沒流失セルモノ亦千百四十ノ多キニ達シ浸水家屋亦極メテ多シ而シテ就中本吉郡唐桑村、歌津村、十三濱村、牡鹿郡大原村及桃生郡十五濱ノ如キハ其ノ被害最甚大ニシテ罹災者ノ近状眞ニ察スルニ餘リアル所ナリ
即チ縣ノ巡察診療班ハ陸軍衞生班及東北帝國大學醫學部衞生班竝日本赤十字社宮城支部臨時救護班ト共ニ直ニ救療ノ任ニ就キ罹災者ノ救護ニ當ルト共ニ縣ハ各地ニ吏員職員ヲ急遽特派シテ具サニ其ノ實状ヲ調査視察セシメ救護ノ徹底ト復興ノ計畫ニ資スル所アラシムコトヲ期シタリ又第二師團ヨリ陸軍用毛布ヲ、日本赤十字社宮城支部ヨリ備付用毛布ヲ借入レ直ニ災害地ニ向ケテ發送シ或ハ本縣水産試験場ノ試驗船二艘ヲ沿岸罹災町村地先ニ派シテ救護ニ遺憾ナカラムコトヲ期シタリ又同日災害善後ニ關スル事務ヲ最圓滑機敏ニ促進セシメムカ爲縣廳内ニ新ニ臨時災害善後委員會ヲ組織シ更ニ又余ハ親シク災害地ヲ巡リテ實情ノ視察ニ併セテ不幸ナル遺族ヲ弔慰セムトス
當地方ノ災害ノ報一度天下ノ知ルトコロトナルヤ各方面ヨリ翕然トシテ深甚ナル見舞ヲ寄セラレ殊ニ横須賀鎭守府司令長官ハ特ニ驅逐隊ヲ急派シテ救護ニ努メラル洵ニ感謝措ク能ハサル所ナリ
災害地附近ニ於ケル縣民ハ必スヤ古來ノ傳統的精神ノ發露タル隣保相助ノ道ヲ盡シテ罹災者ノ救護慰問ニ萬全ヲ期シツツアルヲ信スサレハ斯ル災禍ヲ傳聞スルニ過キスシテ地異ノ身邊ニ及ハサル者ニ在リテハ不幸ナル同胞ノ爲ニ絶大ナル救援ヲ吝シムヘキニアラス即チ内ニ誠意ヲ披■シ外ニ■烈ナル愛縣ノ至情ニ愬へ相協力シテ救援慰問竝復興ノ實ヲ擧ケムコトヲ期セサルヘカラス若夫レ更ニ其ノ詳細ニ至リテハ日ヲ逐フテ實ヲ効サム切ニ自重奮勵アラムコトヲ
昭和八年三月四日
宮城縣知事 三邊長治
II 各部長の視察
内務・警察・學務の各部長に於ても、縣當局の應急措置事務確立を俟つて、中央政府よの視察派遣官の案内を兼ね、死者の弔靈、縣官吏々員の救護事務監督復舊事務促進等、各罹災地を巡察し、關係者の慰問救濟に關し萬遣憾なきを期したり。
各部長罹災地視察の日程次の如し。
第三節 臨時災害善後委員會の組織
三月三日、災害善後事務の圖滑にして、機敏なる促進を圖る爲、廳内に臨時災害善後委員會を組織し、同日廳訓第四號を以て、左記規程を發表せり。
臨時災害善後委員會規程
第一條 昭和八年三月ノ宮城縣下災害善後ニ關スル事務ノ促進ヲ期スル爲宮城縣廳内ニ臨時災害善後委員會ヲ置ク
第二條 委員曾ハ委員長一人、副委員長二人及委員若干名ヲ以テ之ヲ組織ス
第三條 委員長ハ内務部長ヲ以テ之ニ充ツ副委員長ハ警察部長及學務部長ヲ以テ之ニ充ツ委員ハ知事之ヲ任命ス
第四條 委員長ハ會務ヲ總理ス副委目員長ハ委員長ヲ補佐シ委員長事故アルトキハ知事ノ指定スル副委目員長其ノ職務ヲ代理ス
第五條 委員曾ニ幹事若干人ヲ置キ知事之ヲ命ス幹事ハ委員長ノ指揮ヲ承ケ庶務ヲ掌理ス
第六條 委員曾ニ部曾ヲ設クルコトヲ得部會ノ組織名及名稱等ハ別ニ之ヲ定ム
臨時災害善後委員會委員長副委員長委員
委員長 内務部長宮城縣書記官 二見直三
副委員長 警察部長宮城縣書記官 鈴木登
同 學務部長宮城縣書記官 清水谷徹委員 農務課長地方事務官 猪股博
同 地方課長兼商工山林課長地方事務官 横山一俊
同 教育課長兼社會課長地方事務官 渡邊信男
同 官房主事兼會計課長地方事務官 小川彌太郎
同 水産課長地方事務官 松本孝四郎
同 社寺兵事課長地方事務官 木村強
同 庶務課長地方事務官 郡祐一
同 警務課長地方警視 財津吉文
同 耕地課長地方技師 原田嘉種
同 衞生課長地方技師 北條光丸
同 土木課長地方技師 伊藤覈
同 統計課長地方銃計主事 鈴木清兵衞
同 秘書課長屬 二階堂三治
同 保安課長宮城縣警部 野村道夫
尚、三月五日、同委員會に、救護部、配給部及復興部の三部曾を設け、次の如く、各部の責任者を定むると共に、社會課の外に、義措金品係及物品の調達發送係を設け、救護事務の圓滑を期したり。
委員會部會(○印ハ幹事)
救護部 秘書課長 庶務課長 地方課長 教育課長
○社會課長 警務課長 衞生課長
配給部 統計課長 ○會計課長 杜會課長 社寺兵事課長
復興部 ○庶務課長 地方課長 土木課長 農務課長
水産課長 商工山林課長 耕地課長 社會課長
第四節 吏員駐在及臨時出張所の設置
I 縣官吏々員の災害地駐在
震嘯當日各災害地に派遣せる官吏吏員は、三月六日全員歸廳せるを以て、被害最も甚しかりし、左記六ケ町村に對し各屬、技手其他一名乃至二名、合計十一名の廳員を駐在せしめ、縣救護出張所と連絡を取り、救護に遺憾なきを期したり。
牡鹿郡 大原村
桃生郡 十五濱村
本吉郡 唐桑村、十三濱村、小泉村、歌津村
罹災地に駐在せる廳員官職氏名次の如し。
十五濱村 屬 岩井兵吉
雇 守谷俊夫
大原村 屬 場地精
十三濱村 同 窪田新吉
同 三塚武吉
石卷出張所と連絡
歌津村 技手 渡邊彦松
小泉村 屬 加藤平四郎
同 高橋授
主事補 大泉吉郎
志津川出張所と連絡
唐桑村 屬 加藤三郎
主事補 針生壽平
氣仙沼出張所と連絡
II 臨時出張所設置
救恤品の配分及救護事務の圓滑機敏の促進の爲、三月六日災害地方三ケ所に左記の通救護出張所を設け、主任以下職員を配置し、縣及町村其他關係方面との聯絡を緊密にし、應急救護に遺憾なきを期したり。尚救恤品を罹災状况に應じ適當に配分すると同時に、地方救護出張所をして敏活に配給せしむる爲、仙臺驛前に臨時出張所を設け主任以下十五名を配置し慰問品の配分に潰憾なきを期したり。
石卷救護出張所(石卷警察署内)職員十名
管轄區域 牡鹿郡女川町、大原村、荻濱村、鮎川村、本吉郡十三濱村、桃生郡十五濱村
志津川救護出張所(志津川警察署内)職員五名
管轄區域 本吉郡志津川町、小泉村、歌津村、戸倉村
氣仙沼救護出張所(氣仙沼警察署内)職員六名
管轄區域 本吉郡唐桑村、鹿折村、大島村、大谷村、階上村、松岩村、御岳村
罹災地中名取郡閖上町、亘理郡坂元村及桃生郡宮戸村に對しては、當初より縣直接救護事務を取扱へり。
尚三月末にて大體應急救護措置終了せるを以て、四月五日限地方救護出張所を閉鎖し、慰問品は仙臺驛前出張所より直接配給することとせり。又町村の駐在員も救護出張所の閉鎖と同時に廢止し爾後各町村に隨時官吏々員を派遣の上指導督勵を爲さしむることとなしたり。各出張所配置廳員の官職氏名次の如し。
○石卷出張所
一、出張員
イ、出張所
主任屬(文書課長)富田重盛 屬 池田政記
主事補 高橋順四郎 主記 高橋謙悟
雇 鈴木秀雄 雇 氏川英郎
同 渡邊文吉 防疫監吏 角泉二
同 日野鷹之助 蠶業取締吏員 丹野卓郎
ロ、駐在員
十五濱村 屬 岩井兵吉 雇 守谷俊夫
大原村 同 場地精 屬 三浦要人
十三濱村 伺 窪田新吉 同 三塚武吉
○志津川出張所
一、出張員
イ、出張所
主任 屬 加藤林藏 屬 三浦源内
同 阿部末吉 雇 今野利吉
助手 淺野正雄
ロ、駐在員
歌津村 技手 渡邊彦松
小泉村 屬 加藤平四郎
主事補 大泉吉郎 屬 高橋授
〇氣仙沼出張所
一、出張員
イ、出張所
主任屬(保安課長)佐藤東三郎 屬 木村忠吾
同 藤島眞平 雇 川西勝信
雇 鈴木一郎 防疫監吏 幸野政名
防疫事務囑託 岩槻新藏 雇 仙達■治
ロ、駐在員
唐桑村 屬 加藤三郎
主事補 針生壽平
○驛前出張所
出張員係長 郡庶務課長
係長代理 菅原總務課長
屬 安達保次
同 富田榮藏
同 今野龜十郎
同 鴇田駿
雇 庄司要藏
同 菅原泰壽
同 波多野正
農林技手 相馬芳二
主事補 須藤彌
雇 遠藤吾一
同 一條正夫
助手 安倍倫次
技手 吉田紀世志
同 富樫嘉之助
書記補 上原常雄
同 佐藤勝巳
第五節 縣指導船の救護出動
I 約説
宮城縣水産試驗場所屬指導船「宮城丸」及「大東丸」は、震災當日、縣の命令により沿岸各地の救援に出動せり。
「宮城丸」は三月三日より十一日迄九日間、「大東丸」は十日より二十七日迄十八日間、政府及び本縣廳・諸官廨關係者の罹災地視察・救護從事者の便乘、救護品の運搬、漁船・罹災民の救助、屍體搜索の從事等、殆んど日夜相つぎて三陸沖に出動活躍し、能ふ限りの便益を與へ、地方民より多大の感謝を受けたり。
II 「大東丸」の出動
「大東丸」は特別檢査の受檢及機關主氣■削正工事の爲、氣仙沼町村上造船所に上架修繕中今回の震嘯あり。
當日、知事より之が救護出動の電命に接し、急遽同船の應急假手入を行ひ、六日仙臺遞信局海事部の檢査官の檢査をうけ七日より機關取付け、船底手入、其の他の修理を急ぎ、八日進水、九日機關調節、十日より二十七日迄救護出動せり。その大要次の如し。
II 「宮城丸」の出動
三月三日 災害救助の爲、罹災地へ出動を命ぜらる。
三月四日 午前七時渡波出帆、金華山附近より牡鹿半島沿岸漁船を救助しつつ鮎川港入港、附近罹災民の救助に從事
更に大原村谷川・鮫ノ浦に回航し、漂流屍體の搜索及收容に從事。
午前九時十五濱村雄勝に急行罹災救助に從事。
三月五日 海軍救恤品を釜石在泊軍艦より受領、氣仙沼迄運搬竝縣内罹災地へ配給方沿岸救助作業中の本船へ電命。
三月七日 氣仙沼より女川に回航(午前一時女川着)
軍艦「野風」より左記救恤品を受領す。
毛布軍服其他食糧品 四、○○○點 内 所定數量を谷川・鮫ノ浦に配給す。
三月九日 前日に引續き、救恤品配給作業の爲、渡波出帆、石卷へ向ふ。
三月十日 前日に引續き十五濱村、十三濱村、相川に慰問品配給に從事。
三月十一日 前日に引續き救護品配給に從事、午前八時半十三濱村、相川に於て救護品陸揚修了、九時相川出帆、午後一時石卷歸港。
第六節 救護物資の配給
各地の被害情報入るや、縣は直ちに之等町村に對し電報を發し見舞を兼ね救護上に必要なる物品、數量等の申告方を照會すると共に、取敢へず被害最も甚しく、着るに衣なく寝るに寝具なき多數の罹災者を生じたる町村に對し、第二師團より陸軍用毛布を三月三日に二千枚同四日に五百枚の貸付を受け、敦れも當日トラツクを以て運搬し所轄警察署を經て左記の通貸付をなしたり。
陸軍用毛布貸付先
牡鹿郡大原村 八百枚 桃生郡十五濱村 七百枚
本吉郡唐桑村 六百枚 本吉郡十三濱村 百五十枚
本吉郡小泉村 八十枚 本吉郡歌津村 八十枚
本吉郡志津川町 四十枚 本吉郡戸倉村 三十枚
本吉郡大谷村 二十枚
尚三月八日亘理郡坂元村へ歩兵第四聯隊より毛布二百枚を借受け貸付したり。其の後右毛布は何れも陸軍より給與せらるることに決定せられたり。
又三月五日より同十二日迄の間に於て、各罹災地の情况に應じ、縣より應急救護に要する寝具衣類食料品等左記の通義捐金を以て調達配給したり。
更に縣は政府所有白米四八○叺(一九二石)の拂下を受け、三月七日之を配分給與し、尚必要の向に對し、九六〇叺(三四八石)の拂下を受け、三月十四日配給を了したり。
尚屋根用亞鉛引生子板六千枚を罹災町村の希望に依り東京より購入配給し、又三月十二日には、疊に代るべき薄縁一千枚及蒲團二百五十組を女川町の申告に依り送附せり。又桃生郡十五濱村に牡鹿郡農會の斡旋に依り白菜一千貫供給の手配をなし其の他の罹災町村に對しても野菜の供給を爲す等、罹災地に於ける生活必要品の購入斡旋送付に遺憾なき樣努力したり。
第七節 廳内各課の活躍
I 約説
縣下三陸沿岸に、三日未明の地震により津波襲來し、須臾にして、沿岸漁村は阿鼻叫喚の巷と化し、尊き幾多の生靈を奪はれたるものは勿論、辛うじて生命を全うしたるものも、住むに家なく、食ふに糧なきもの續出するの報を得たる、宮城縣當局は、三邊知事をはじめ、各部長、課長以下、全廳員は罹災民の身の上を案じつつ、直ちに救護凖備に着手せり。
直接外部の文書の收受發送に當りたる文書課をはじめ、秘書課、社會課の如きは、中央政府との交渉、廳内各課への通牒罹災救助應急施設等に次から次へと忙殺され、災害當日は、全課員徹夜にて執務し、土木課、農務課、會計課、商工山林課員等又、擔當主務者は何れも徹夜從事せり。内務部長、學務部長も翌四日午前三時迄勤務し、部課員の罹災状况調査、救護事務を監督したり。
尚十一日午後二時より罹災町村長を縣に招集し、知事以下部課長臨席の下に、震災事務打合會を開催し、次の如き各課の提出事項につき協議せり。
震災事務打合會提出事項
社會課
一、罹災救助ニ關スル件
二、救恤品竝復興材料配給ニ關スル件
三、罹災状况調査ニ關スル件
農務課
一、農具配給ニ闘開スル件
二、種苗配給ニ關スル件
三、政府所有白米ノ拂下ニ關スル件
四、被害調査要目ニ關スル件
地方課
一、町村會ニ關スル件
二、町村會議員選擧ニ關スル件
衞生課
一、罹災地醫療ニ關スル件
二、罹災地傳染病豫防ニ關スル件
土木課
一、町村工事災害補助ニ關スル件
二、個人ノ土木復舊ニ關スル件
II 知事官房
イ、秘書課
震災直後、縣廳の總元締として、小川官房主事、二階堂秘書課長統率の下に、晝夜兼行の活躍をなし、始終の緊張の下に執務せし隨一に推すべきものは秘書課なり。
畏くも上は皇室の御仁慈をはじめ奉り、知事の告諭、知事、各部長の震災地出張日程、中央高官の視察日程、救護組織、侍從の應接、災害見舞電報の受付より、中央各方面よりの救護打合、追弔會協議會開催の通知、廳内各課への通牒等縣廳當局の災害對策、應急措置及救護に、文字通りの奮鬪をなせり。
加之、今回の災害を永遠に記念し、將來この種の災害に際し、參考に供すべき目的を以て、廳内各課宛、三月七日左記照會をなしたり。
(各課宛)
記
一、貴課ニ於テ實施シタル事項
一、他官廳公署學校軍隊其他各種團體ト照復シタル事項
一、罹災地ヨリ申報アリタル事項
一、罹災地視察又ハ慰問ニ來縣セラレタル主ナル人名及視察地名
一、其他災害ニ關シ、將來ノ參考トナルヘキ事項
以上ヲ毎日午前十時迄、前日分ヲ記録シ、秘書課ニ送付ノコト。本月七日迄ノ分ハ日毎ニ別紙トシ、本月八日正午迄秘書課ニ送付ノコト
又、三月七日、石卷、志津川、氣仙沼の三ケ所に設置したる救護出張所の状况を、毎日、午前は十一時より、午後は三時より各一時間、その状况を聽取し、これを關係課に通報すると共に、各課よりの要求及通報を救護出張所に傅達するの役にも任じたり。
而して、之等震災善後事務その他被害報告、情報集の書類を蒐集累積せしものを分類して、「震災關係綴」、「災害日誌」、「諸情報綴」の三部として保存し、「震嘯誌」編纂の主要なる資料たらしめたり。
ロ、文書課
發震當夜の宿直は、文書課窪田屬、越後雇なりしが、地震後三日午前三時半、石卷測候所榴岡出張所より、當日今曉の地震觀測の結果報告の電話あり。
ついで、同五時二十分、更に同所より、今回の地震により、「女川ニ於テハ四尺内外ノ小海嘯襲來シ、浸水家屋アリ。幸ニ水ハ減水シタリ。鮎川附近モ多少ノ海嘯アリ。一般半島方面モ多少ノ被害アリタルモノト思惟セラル。(下略)」との通知ありしを以て、之等を直ちに、長官官舎、内務部長、土木課長官舍へ報告したり。
續いて、同八時五分には、亘理郡坂元村より、「午前二時半ヨリ三時迄ノ間ニ磯濱ニ津浪アリ。倒潰家屋約二十戸、浸水家屋約六十五戸、怪我人約十人、舟損害二十隻、漁具一切流失、損害約八萬圓乃至十萬圓、目下村會招集、救護對策中」なる電話あり。此處に於てか、こは、安閑となし居るべきに非ずとて、至急杜會課長に報告せしが、ついで牡鹿郡大原村及大谷村より、次の如き入電ありて、一層由々しき大事なることを覺るに至れり。
「海嘯被害甚大、救護ノ要アリ、調査中」(大原村)
「今朝三時、海嘯アリ、流失戸數六戸、舟一五〇人、怪我ナシ」(大谷村)
かくて各方面よりの情報續々到來したるを以て、用務増大するを豫想し、特に災害に關する電信、電話及文書事務の取扱方に關しては、正確且敏連に處理する事に協議し、宿直員一名を増員、義捐金品送付關係文書の迅速なる關係課配付の準備を整ふる等、萬遺漏なきを期したり。
ハ、統計課
災害による死傷者・家屋流潰・浸水は固より、漁船・漁網の流失、農用地、店舖業の被害に至る迄、迅速なる調査をなし各方面に、被害状况を明細に知らしむると共に、縣當局の、政府に災害救護費要求の基礎となるべき、基本調査をなせり。
一方、救護を以て、最大急務となせるを以て、兎角調査の事は、第二義となるの止むなき事情に直面し、しかも統計の設定に迫られ居り、この間豫期以上の苦心をなせり。
尚、三月五日よりは、罹災地に對する救護物品の調製輸送に當りたるが、就中、苦心を拂へるは、夜具の調製發送手續なりき。
即ち、夜具は、膚寒く、凌ぎ難き夜を過すに必須なるを以て、至急綿商組合、蒲團組合、愛國婦人會宮城縣支部等に依頼して調製せしめ、之等は出來次第、縣廳養賢堂に於て荷造りし、トラツク或は貨車積便にて、關係救護出張所經由、罹災町村に配給せしめたり。
三月七日より十三日に至る間、調製輸送せる夜具一、二一八組にして之が一部輸送の爲要せるトラツク十七臺なりき。
III 内務部
イ、庶務課
災害後最も緊急を要する罹災者の救助警備竝應急施設に關する計費一切の見積に任ずべき庶務課員は、震災後より四月六日の臨時縣會開催に至る間、大童の活動をなせり。
まづ統計・保安・警務等損害額竝復舊額の調査に關係せる各課と連絡し・四月八日今回の震嘯災による損失額竝復舊費大體の調査の完了を見たるを以て、九日、罹災者の救助警備竝應急施設費、昭和七年度に於て、四五、〇九六圓、同八年度に於て三五、〇六六圓を要するを以て、之に對し、國庫補助の申請を内務大臣に申請し、ついで三月八日現在の調査による損失額竝復舊費調を、内務、大藏、農林各大臣に報告せり。
ついで、救助警備竝應急施設費等、愼重なる考慮を經たる議案を作成の上、之を諮るべく十一日、災害後第一回の縣參事會を召集し、歳出臨時部、震災竝海嘯應急諸費三五、〇六六圓、罹災救助費限度外支出の件、その他を議決せり。
數年來の財界の不况により、本縣の財政は極度に逼迫せるを以て、到底復舊費を支辨する能はざる現状に鑑み、復舊費に對する國庫補助及無利子貸付資金供給申請を同日、政府の各大臣宛提出せり。
その他、縣税減免に關する調査をなし、被害者に對する縣税不賦課の條例を、災害の實状に照して決定する等、その功勞偉大なりと謂ふべし。
大正十四年五月廿三日の北但震災(兵庫)に對する救護竝復舊に關する經費の承認を求むる縣參事會は、六月三日に開會し昭和二年三月七日の奥丹後震災の應急對策經費捻出の府參事會は、同月廿八日開會し、前者は、災害後十一日、後者は二十一日を要せるに比して、災害後僅に、八日目を以て、參事會開會の運びに至れるを以て見ても、如何に迅速に、本課が救護應急對策及復舊に關する經費調査に對して盡力せるかを窺知せらるべし。
ロ、土木課
三月三日、午前より午後に亘り、所管仙臺、佐沼、石卷各土木工區及石卷港修築事務所より、關係震嘯災害各地の罹災状况報告あり。
これにより、家屋、橋梁、堤防、道路等の、破損状况を大體知るを得たるを以て、之が對策を講ずると共に、同日、午後十時、本課所屬、トラツク六臺をもつて、陸軍より急遽貸付を受けたる毛布二千五百枚の罹災地配給に任じ、尚石卷、佐沼兩土木工區のトラツクをして、建築材料運搬に從事せしめたり。
尚、四日以後は中央政府よりの派遣官續々來縣して罹災地の視察をなせるが、内務省より長久保技師及谷口事務官の派遣に際しては、災害を技術的方面より説明する必要上、本課大槻技師之が案内を爲したり。
越えて、五日には、齋藤・遊佐・伊藤・藤原各技手等を、罹災地各方面に被害調査及家屋調査の爲派遣、その結果、井戸復舊の緊急を要すべきを認め、尚、各地に於ける檢潮器記録の調製をなしたり。
同六日には、早くもバラツク建設用材料として亞鉛引生子板一萬二千枚(内、氣仙沼町五千百枚、石卷町六千九百枚)の購入及配給手續を了し、尚輸送の迅速を期する爲、震災救恤品なる事の證明書を、供給請負人株式會社大林組へ交付したり。
尚、罹災地へ出張せる藤原・伊藤兩營繕技手は、流失倒潰せる家屋に對するバラツク建築指導をなし、豫め作成せるバラツク設計にょり、移動村會を開催して、建築に着手せしめたる處もあり。又、町村にょりては、縣の設計より遙かに劣等なる掘立小屋の如きを建設したるものには、工事中止を命じ、所期の如く起工せしめたり。一方、罹災地の實状に應じてバラツク建築平面圖を決定し、尚倒潰殘材の利用、屋根板、障子板の斡旋、建築に對する打合等、晝夜兼行して、罹災民の生活
を安定せしめんとしたり。
ハ、耕地課
災害當日、耕地課員は名取郡閖上町及亘理郡坂元村の災害調査及罹災民慰問のため出張せしが、翌四日、更に罹災地及近傍町村たる名取郡六郷村、亘理郡荒濱村外三ケ村、宮城郡松島町外三ヶ村、又、桃生郡十五濱村外四ケ村、牡鹿郡女川町外二町三ケ村、本吉郡氣仙沼町外九ケ村に夫々課員を派遣せり。
又、同日、罹災各町村に對し、耕地被害の状况を照會したり。
五日よりの、農林省柴田農林技師の罹災地状况視察に際しては、本課員之が案内に當れり。
尚、仙臺・石卷兩救護事務所へは、雇員を出勤せしめ、救護事務所の援助に當らしめたり。
三月九日、本課にては、災害當時より着手せる罹災復舊工事見込額調査完了の次第、農林省へ書面を以て申報し、國庫補助或は低利資金融通の件を依頼せり。
二、水産課
災害の情報を聽くや、直ちに指導船「宮城丸」をして、罹災地へ出動、救護に從事せしめしが、(本章五節縣指導船の救護出動の俟參照)課員中谷技師・岩井屬・玉谷主事補をして、女川町・大川村・十五濱村・松岩村・階上村の各地に、二日乃至四日間の慰問及被害状况調査をなさしめたり。
水産物は今回の震嘯災に於て、被害額の隨一に位するものなれば、四日には、調査完了せる分の被害額を庶務課長に報告し、更に同日、罹災地町村時局匡救船溜、船揚場の被害報告をなせり。
又、本吉郡水産會の如きは、郡内の被害甚大なるを以て、援助方を電報にて懇請せり。
八日よりは、其の筋の出張員の本縣罹災地視察に隨行せる技師・技手等多し。
十日には、指導船「大東丸」も、修理を了したるを以て、即日氣仙沼出帆、初救護に從事したるが、「宮城丸」と共に、以後二週間に亘りて、救護に從事せり。
ホ、商工山林課
震嘯災害當日、商工山林課にては、早速山林關係調査員派遣の手配をなし、四日よりは、安部・大槻・吉岡・高橋の各助手を、本吉郡・牡鹿郡・桃生郡の各罹災町村に派遣せり。
五日には、農林省山林局より、災害調査員として、池部・西澤兩技師外三技手來縣したるを以て、本縣より高木技師・菊地技手同行、約四日間に亘り、山林被害竝防潮に關する調査に從事し、五、六日頃には調査員歸廳の上、調査状况の復命をなせり。
三月七日以後は、同課員數名宛交代して慰問品配給事務の爲、仙臺驛前臨時救護出張所に執務援助をなせり。
ヘ、農務課
三月三日午前十時、石卷測候所より、當日拂曉に於ける地震觀測に關し、農務課に通報ありたるを以て、取敢へず、之を謄寫して、各課に配布したりしが、その後、被害の甚大なるを知るや被害農家・耕地・農具・作物・蠶業各方面に渉りて、その被害につき調査したり。
また、食糧方面の救護は、緊急を要するを以て、四日縣の罹災救助基金支出による救助米として、政府米四八○俵の拂下を、農林省に電請すると共に、一方罹災各町村長に對し政府米拂下に關する希望竝手續につき通牒を發せり。
その結果、六日に至り、逸早く石卷驛に三二〇俵、氣仙沼驛に一六〇俵の政府拂下米到着したるを以て、吉目木技手・伊藤穀物檢査員をして同地に派遣、關係町村へ配給方を手配せしめたり。
同日、桃生郡十五濱村長より野菜千貫匁の配給方を申請し來りしものに對しては、縣農會熊野技手を石卷に出張せしめ、希望に副ふべく努力せしめたり。
かくて、四日頃より、農林省方面にては、伊藤事務官・曾我屬の來縣せるをはじめ、耕地課柴戸技師、米穀部田中農林技手、同半田技手等相ついで罹災地被害調査に從事し、産業組合方面より、中央會濱田主事、中央金庫井上參事、全國購買組合聯合役員等も視察に赴きしかば、本課より、砂金技手及蠶業取締支所職員の沿岸出張調査と相俟ち、罹災地の農業被害の大體を知得したり。
IV 警察部
イ、警務課
三月三日の地震竝海嘯の爲、氣仙沼・志津川・中新田・築館・若柳・飯野川・石卷の各署の警察電話不通となりたるを以て、至急縣下警察電話工夫を動員して、人夫十名を傭入れ、即時各方面に派遣し、復舊工事の手配をなし、特に海嘯災害地なる飯野川・氣仙沼・志津川・石卷各署に對する復舊に力を集中せり。
電話復舊の結果、飯野川警察署より管下十五濱村雄勝巡査駐在所の書類流失通知竝巡査派遣方の要求あり。
仍て、午前十時、災害地警察署なる・石卷・飯野川・氣仙沼・志津川・亘理各警察署へ、石卷警察署管内三町村へ、警部補、巡査部長等四名、飯野川警察署管内一村へ、巡査部長一名、志津川警察署管内二村へ、警部補、巡査部長各一名、氣仙沼警察署管内三村へ、警部補、巡査部長等四名、亘理警察署管内一村へ、巡査部長一名を被害調査竝救護として、急派したり。
翌四日には、罹災地附近警察署の不通電話復舊したれども、未復舊警察及巡査駐在所の電話開通につとめ、工夫・人夫を派遣せり。
又、五日には、大金侍從、罹災地視察を行はるるにつき、警衞計畫を作成し、關係警察署へ、其の日程及自動車の配置等を通知せり。
今回の如き非常災害に際しては、特に本縣三陸南部の警察根據地たる、石卷警察署と附近各警察署との連絡通話必要なるを以て、第二師團より輕便電話機を借り受け施設して便益を計れり。
而して、被害弛各警察署の警察電話は大率復舊したるも、氣仙沼・石卷等の警察署電話線は、將來二回線以上に増設するの要ありと認めらるるものありき。
ロ、高等警察課
災害當日、當課員全員召集し、直に罹災地の災害状况報告接受及救護其他の罹災地との連絡事務に從事せり。
尚、課員千葉・上野兩巡査部長は、罹災地實地調査をなし、又、菊地巡査部長は、大金侍從警衞の爲、福島縣及管下罹災地竝岩手縣氣仙郡に出張せしが、八日歸任せり。
四日以後に於ても、災害當日と同樣に多忙裡に執務せしが、六日には、各府縣より寄贈に係る義捐・慰問金品の接受及引渡に從事し、尚佐藤警部補は、鈴木警察部長の罹災地出張に隨行したり。
ハ、保安課
震嘯災害の報に、全課員總動員、警察電話を以て、罹災地各方面に被害内容を照會し、或は各警察署よりの報告に依り、罹災世帶數及人員、家屋其他、船舶の被害、バラツク建設等の調査をなすと共に、關係警察署をして、罹災者の心神を惑はすが如き流言■語の發動を嚴に戒しめたり。
又、五日・六日に亘り、宮内大臣・内閣總理大臣以下各省大臣、府、縣知事宛縣下各關係警察署長宛被害報告をなしたり。
爾來、日數を經て、災害後の整理、應急措置及救護の事、緒につき漸く被害程度の判明するに從ひて、その都度被害報告を印刷配付せり。
又、バラツク建設に際しては、風紀・衞生に差障なき樣留意し、六月三十日には、縣令を以て、今回の海嘯罹災地域及海嘯罹災の虞ある地域内に於ては、知事の認可を受くるに非ざれば、住居の用に供する建物を建築し得ざる事として、將來に於ける慘禍を未然に防がん事を計れり。
二、衞生課
三陸沿岸各町村に被害多しとの報を受くるや、鈴木警察部長は、衞生課救療巡回救療班に對し、被害地に出張、救療に當るべく下命せるを以て、當課にては巡査部長・醫師・藥剤師・看護婦各一名よりなる第一救護班は、午前十一時出發、當課備付自動車にて、本吉郡大谷・小泉・唐桑各村へ急行し、同一人員よりなる第二救護班は、午後零時貸切自動車にて、本吉郡十三濱村に急行せり。
北條衞生課長は、恰も桃生郡浦戸村に救療事務視察のため出張中なりしが、災害の報により、塩釜より直に、宮城電鐵にて石卷に向ひ、牡鹿半島方面罹災地の被害視察に赴き、飯田巡査部長は、午後二時出發、亘理郡坂元村に出張、被害状况を調査せり。
同四日、内務省より、防疫醫三名、防疫監吏五名二ケ月間、増配すべき旨電話令達あり。
北條課長は、罹災地の視察を了へ歸廳するや、直に、災害地方防疫竝衞生施設に關する協議會を開催し、差當り、罹災地の汚染せられたる飲料井戸の消毒實施を行ふ事を決定し、臨時に防疫事務囑託二名を採用し、技師技手と共に罹災地に派し防疫事務に携はらしめたり。(本章、第九節、醫療救護竝防疫の條參照)
尚、防疫事務の緊急に迫られ、且用務多端なる現状に鑑み、七日更に、防疫事務囑託三名を加へ、部落戸別診療を行ひ、將來に於て、罹災地に疫病發生の根絶を期したり。
かくして、五日以來七日に亘る間に、本吉郡方面に於て消毒をなしたる井戸のみにても七十五を數へ、牡鹿郡方面にて五十三、又、引續き共同便所及浸水家屋の消毒せるもの無數なりき。
更に各方面より送られたる慰問品に對しても、當初より配給に支障なき程度に於て、蒸氣消毒をなして、衞生の完備に努めたりしが、氣仙沼救護出張所一ケ所に於ける九日迄の消毒點數六、〇三九點なり。
三月十日、災害地復興防疫施設として、罹災地に對し、飲料井戸二〇〇個、(この費用一萬圓)、改良便所七五五(この費用二萬六千六百五十圓)の築造計畫を爲せり。
V 學務部
イ、教育課
災害當日、震嘯災による被害兒童を出せりと豫想せられし學校、桃生郡四、牡鹿郡一二、本吉郡一六、名取郡一、亘理郡二、宮城郡四、計三九校に對し、被害兒童報告の件、通牒を發したりしが、同日、桃生郡(十五濱村)雄勝小學校より、床上四尺に達したるも、御眞影は村内寺院に無事奉遷、同村船越小學校に於ても、同樣の旨通報し來れり。なほ、牡鹿郡(大原村)谷川小擧校より津浪にて被害甚大なる旨、本吉郡小泉小學校よりは學校被害なきも兒童一名死亡の旨、本吉郡(歌津村)名
足小學校より學校無事なるも、五日間臨時休業する旨、何れも入電ありたり。
その他、臨時休業を願ひ來れるものに雄勝・相川(十三濱村)の學校ありたるが、最大七日間なりき。
なほ、四日には、更に、牡鹿郡大原・谷川・鮫ノ浦(大原村)、女川(女川町)、本吉郡鹿折(鹿折村)、伊里前小學校分教場(歌津村)、大島(大島村)、小泉(小泉村)の各小學校長より被害状况の調査報告あり。その結果罹災校舍二、教員數二一、兒童數一、五〇〇と判明せり。
同日、縣教育會と協議の上、小・中等學校兒童・生徒・職員より義捐金募集の事を決したり。(別稿學校に對する救援の條參照)
三月五日、須藤視學をして、災害地小學校の視察を兼ね、來縣の丈部省山崎事務官・乙黒屬を案内せしめしが、七日には右義捐金の配給のため、香川視學を本吉郡へ、山本教育會主事を、牡鹿・桃生郡に派遣したり。
八日、災害地小學校三十二校長に對し、學務部長名を以て、罹災兒童の救護方に關し、遺憾なきを期し、給食兒童數及罹災教員の職氏名を報告せられたき旨通牒を發したり。
又、石卷・志津川・氣仙沼各小學校長に對し、慰問品配給方の援助を青年團員に依頼し、十五濱村々長に對しては、小學校々舍の復舊工事の經費及其支出計畫を、至急回答する樣電話したり。
ついで、同九日、市内在住青年團理事の來廳を求め、仙臺驛前出張所の配給手傅方を市青年團に依頼する事の協議をなせり。
十日に至りては、震災地復舊及救護費として、小學校々舍復舊費四、二五〇圓、兒童就學奬勵費一〇、七九〇圓の見積書を庶務課へ提出したり。
又、三月一日より七日迄、宮城縣青年製作品展覧會開催中なりしが、其の出品物中罹災者慰問品として適當なる物品は、出品者の回答を俟ちて、直ちに寄贈の手續をなすべしと、寄贈希望者の申出を慫慂せり。
三月中旬には、罹災地に救援出張すべき、青年團員の訪問を受け、之に對し、實地に就き心得ふべき件に關し訓示する處ありき。
三月十六日、小學校關係の震嘯災被害及兒童救護に要する費用に付、文部省に説明の爲、須藤視學上京し、種々接衡する處ありき。
ロ、社會課
罹災救助の第一線に立つべきは、當課本來の使命なれば、震嘯災の報告を受くるや、渡邊課長、佐々木社會事業主事、嶺岸主席屬以下全課員は異常の緊張裡に、救護凖備を整へたり。
即ち、課員を、慰問者應待其他庶務・情報・救護・義捐金品收受・配給・記録・電話・電信等の諸係に分擔して責任を頒ち、秘書・文書・保安・警務・衞生各課よりの報導と當課直接受信のものとを充分■酌し、救護品の種類竝緩急宜しきを得て應急措置を講ずるに遺憾なきを期したり。
一方、災害當日午前中、知事・各部長・各課長の應急對策鳩首協議により、その大綱決定し、續いて官吏々員の現地に向け出發せるものあり。
尚、陸軍より、取扱へず防寒具として、毛布二千枚を借受けたるを以て、被害状况に照合し、氣仙沼警察署管内七〇○枚志津川警察署管内三○○枚、本吉郡十五村濱役場七〇〇枚、牡鹿郡大原村役場三〇〇枚の割宛を定めたる上、至急トラック四臺を以て、現地に配給せしめたり。
なほ、被害の大略調査を俟ちて、杜會局長官・被害町村長宛、震災被害及處置状况を通知したりしが、社會局杜會部長、濟生會理事長より、罹災者應急救助の概略竝救療状况につき電報を以て問合せ來れり。
一方、罹災地各町村より、被害の詳細につき通知あり。之等は前後によりて、異動あり。この電信・電話の受付にても殆んど終夜に及び、尚義捐金品の受付相つぎたるも、課員は、この情報によりて、一喜一憂し、ひたすら罹災民の身邊を氣遣ひたり。
而して、同日、午後十時迄の調査によりて判明せる分は、死者一三八名、行方不明者二二七名以上、負傷者二五名、流失家屋四七四戸、倒潰家屋二八三戸、浸水家屋一、五三七戸、船流失一、一四〇艘なりき。
三月四日、義捐金募集の件につきては、數回協議の結果、原案を設定し、知事・仙臺市長・縣會議長・町村長會長・在仙新聞社長は廳内會議室に於て、協議の上、之を行ふ事に決し、直に募集を開始したり。(第六章第一節義捐金の募集の條參照)
六日には、罹災救助基金の前渡を斷行して、應急・救恤の實を擧ぐると共に、各方面より金品の義捐せられたる方面へ、謝禮状を發送し、又、大金侍從をはじめ後藤農相以下罹災地實地視察の高官及び中央政府關係各省へ、罹災竝救護状况報告書を作成して之を呈上せしが、その後も、各方面より、同一事項につき問合せを受くる事多きに鑑み、多忙の間に「震嘯災害救護概况」(菊版七四頁外に地圖・寫眞封入)二千部を發行し、或程度以上の義捐金寄贈者及必要とする向に頒ちたり。
ハ、社寺兵事課
社寺兵事課にては、震災の報を聽くや、直に、縣内社寺關係の損害を調査したりしが、幸にもこの方面には該當すべきものなかりき。
一方第二師團入營沿岸壮丁の滿洲派遣の事あるにより、陸軍當局と打合せの上、軍人遺家族及傷痍軍人の罹災者の調査をなし、普通一般的の救護に努むる外、別に帝國軍人後援會の軍人援護資金中、遺家族義捐金殘金千二百二十四圓の内より、夫々被害程度に應じて、見舞金を贈れり。
海軍より救恤品運搬竝に罹災民救助の爲、五日軍艦嚴島派遣の旨來報ありたれば、木村社寺兵事課長は、救恤品受領の爲岩手縣釜石町に到り、縣内の配給に關して、萬遺憾なく取計ふ事を得たり。
第八節 罹災救助基金の支出
罹災救助基金の支出については、災害當日より關係町村當局及本縣社會課を中心とせる派遣官吏・吏員をして、食料救助を始めとし、各種の救助に努めしめ、三月六日には、特に罹災町村十三箇町村に對し、取敢へず金一萬八千八百三十五圓の前渡を斷行し、救護上の便に供したり。
又、三月七日別に政府の所有自米百二十九石を罹災救助基金に依り、被害地の状况と罹災民の人員によりて、二十日間内外の食糧を一日白米五合見當にて給與する事とし、次の如く拂下を受けて配給したり。
桃生郡十五濱村 六十石 牡鹿郡女川町 四十八石
本吉郡唐桑村 二十九石六斗 牡鹿郡大原村 十六石
本吉郡歌津村 十二石八斗 同 志津川町 九石六斗
同 戸倉村 六石四斗 同 小泉村 五石六斗
同 十三濱村 四石
其他小屋掛材料の供給、被服・野菜類の配給竝治療等につき遺憾なき樣細心の注意を拂ひ、災害當日の三月三日より兩三日間は、本縣にても社會課をはじめ、關係諸課に於ては文書課・會計課・保安課等徹宵執務して、萬遺憾なきを期したり。
尚、災害の状况に鑑み、規定の限度に於ては、充分なる救助を爲し難きものと認め、特に縣參事會の議決を經て、小屋掛費・就業費等は規定の二倍迄の額に於て、救護を爲したり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
第九節 縣參事會
震嘯災害救護に要する諸經費の承認を求むべき縣參事會は、三月十一日開會、昭和七年度、八年度國庫補助金及昭和七年度電氣事業災害復舊凖備積立金繰入より財源を求め、救護に關する次の如き諸議案を可決せり。
A、震災救護費
震災竝海嘯應急諸費 七二、二二一圓
罹災地へ官吏々員の出張旅費臨時雇傭給、道路應急補修費等
震災竝海嘯警備費 七、二八二圓(警官の罹災地出張旅費、通信費)
震災竝海嘯災害電話應急補習費 六五九圓
電氣事業、災害復舊費 一七、二五五圓
合計 九七、四一七圓
右に對する財源は左の如し。
國庫補助震災竝海嘯應急費補助金(昭和八年度) 三五、〇六六圓
同上 (昭和七年度) 四五、〇九六
電氣事業災害復舊凖備積立金繰入 一七、二五五
合計 九七、四一七
B、罹災救助基金
食費 一七、三一二圓 被服費 二〇、九〇七圓
治療費 五八八 小屋掛費 二三、〇七〇
就業費 四三、四九四 學用品費 二、二五〇
埋葬費 三、〇三〇 運搬費 二、七七三
雜費 一、三八七
合計、一一四、八一一
右財源は、罹災救助基金繰入金より支出する事とせり。
第十節 警備
三月三日の海嘯に際し被害地管轄警察署(石卷・飯野川・志津川・氣仙沼・亘理)に於ては直に非番員の非常召集を行ひ海嘯地の警戒を爲し一面被害者の救護及調査等に當らしめたりしも尚署員に不足を生じ充分なる活動を爲すこと能はざりし爲警察部より警部補二名、巡査部長八名、巡査一名を被害地に即日派遣し瞥備應援に當らしめたる外被害最も甚しき町村を管轄する氣仙沼、飯野川署に對し各十名(飯野川署へ仙臺署、涌谷署より各五名づつ氣仙沼著へ登米著、佐沼署より各五名づつ)
志津川署へ五名(登米署より三名、佐沼署より二名)を急派し警備其の他の應援を爲さしめ更に同日警務課長は自動車を以て氣仙沼・志津川・石卷・飯野川各署の被害地に出張各署長を督勵して警備竝に救護の活動に當らしめ治安維持は完全に行はれたり尚各被害地に於ける警戒救護の状况左の如し。
一、氣仙沼警察署
氣仙沼警察署にありては午前三時頃管内大谷村に居住する防疫事務囑託より公衆電話を以て大谷村に海嘯襲來海岸線に相當の被害ある旨報告ありたるを以て管内全般に亘りても相當の被害あるべしと豫想し署所在地非番員竝に新月・鹿折各駐在所巡査に對しては直に非常召集を行ひ情報係巡査部長以下四名を殘留せしめ唐桑・大島・松岩・階上・大谷・小泉各村に急遣し警備救護等に當らしめたり。
更に午訪七時三十分管内全部の被害概况報告を受けたるを以て罹災地以外の各村消防組員、自警團員、青年團員等を召集し羅災地に急派現場警察官之を指揮して現場取片付救助應急手當等に從事せしめたり。尚氣仙沼警察署所轄罹災地唐桑・大島の兩村は交通通信機關不便なる爲、豫て警察署に於て飼育中の傳書鳩を使用通信連絡の便を得たり。
氣仙沼警察署管内に於て警備救護に從事したる警察官其の他の團體左の如し。
警察官 三三名
消防組員自警團員 三三〇名
青年團員六○名
一、志津川警察署
志津川警察署に於ては強震後海嘯襲來の虞あるを以て直に署所在地非番員竝に海岸に接せざる横山村、入谷村駐在所巡査の非常召集を行ひたるに各海岸に面せる十三濱・歌津・戸倉の各駐在所より海嘯襲來の報告ありたるを以て召集中の署員を各被害地に急派し警備救護に當らしめたるも署員の數僅少にして充分なる活動を爲すこと能はざるを以て被害地以外の消防組員、自警團員、青年團員等の應援を求め警察官の指揮に依り警備、救護等に當らしめたり。而して更に警察部、登米佐沼署等より急派したる應援警察官の到着を待ち警備救護の完全を期したり。
警備救護に從事したる警察官其の他團體左の如し。
警察官 二一名
消防組員 三一○名
青年團員 三五〇名
自警團員 六四〇名
一、飯野川警察署
飯野川警察署に於ては強震後十五濱村雄勝駐在所巡査より海嘯襲來の報告ありたるも其の後電話不通となり被害の状况全く不明なりしを以て署備付の自動車に署員四名を同乘、雄勝濱に急派せしめたるに其の報告に依れば被害甚大なるに依り警察部に應援警察官の急派を電報を以て要求一面消防組員・自警團員・青年團員の應援を得て警備救護に當らしめたり。尚十五濱村船越部落、雄勝部落は約二里の距離なるも交通不便にして通信連絡に最も困難なるを以て、第二師團工兵第二大隊より電用電話を借受け之を架設し、通信連絡の圓滑を得たり。
警備救護に從事したる警察官其の他團體左の如し。
警察官 二一名
消防組員 六一五名
一、石卷警察署
石卷警察署に於ては強震と共に町内の電燈消えたるを以て、署長は石卷測候所及北上川口見張番に對して電話を以て海嘯襲來の虞なきや否やを問合中、女川駐在所勤務巡査より海水に異状の干水あり海嘯襲來の前兆ならんとの電話報告あり更に幾何もなく同駐在所より海嘯襲來したりとの報告に接したるを以て、直に打鐘の上署及消防組員の非常召集を行ひ町民に海嘯襲來を警告せしめ河岸繋留船の警戒に當らしむると同時に渡波・根岸・流溜・女川・大原・荻濱・鮎川・矢本・野蒜・小
野の各駐在所をして消防組其の他の團體と協力し沿岸住民に之が周知方を取計しめたり、尚一面召集したる署員を沿岸駐在所に急派し、署長は署員三名を隨へ女川に急行罹災民の救護に從事中、大原村谷川、鮫浦地方は被害殊に甚しきを知り即時貞山丸の出動を命じ警備救護に任ぜしめたり。
警備救護に從事したる警察官其の他の團體左の如し。
警察官 一四名
消防組員 五〇名
自警團員 二〇名
石卷義勇團員 二五名
一、亘理警察署
亘理警察署に在りては三月三日未明管内坂元巡査駐在所詰巡査より警察電話を以て同村磯濱海岸一帶に海嘯襲來し住家の倒潰浸水、人畜にも被害多數ある旨の報告を受くるや、署長は警備救護の急なるを認め直に開業醫一名を依囑し在署員巡査部長以下一名を伴ひ自動車にて急行し、同伴せる醫師をして負傷者の應急手當を施さしむると共に、一面署員及既に現場に召集しありたる坂元消防組員百七十七名を督勵し之が警備警戒に當らしめ遺憾なきを期したり。
第十一節 小學校兒童の救濟
I 災害當時の状况
災害地小學校長に對して、罹災兒童救濟方に關し、通達すると共に、視學等を派して遺憾なきを期したり。尚一方に於て本縣教育會をして發起せしめ、災害地を除く他の小學校兒童及教員竝中等學校生徒より罹災兒童救濟義捐金を募集せしむることとし、同時に災害地小學校に人を遣し、罹災兒童一人に對して三圓、死亡或は負傷兒童一人に對して五圓の割にて配給し、罹災兒童の救護に努むると共に、教科書、學用品をも配給し、兒童の學習に支障なきを期したり。
II 其の後の状况
國庫より交付せられたる地震竝海嘯罹災學齡兒童救濟費一萬三十二圓を、別表の如く、夫々町村に交付し、學用品・被服の給與は、兒童就學奬勵資金管理規程に準據し、兒童給食臨時施設方法に據り、實施せしめつつあり。
又、地震竝海嘯罹災兒童及教員に對し、本縣に配給方を依頼し來れる學校、教育關係團體等(二十九)より寄せられたる義捐金七千百四十圓二十二錢を、別表の如く配當し、兒童及教員に對しては、左表に依り配給せしめ、施設費は震嘯災を永久に記念すると共に、教育に資する文庫設置に充當せしめたり。
因みに、兒童に配給せる義捐金は、成るべく現金にて交付することなく、個人別に郵便貯金となさしめ、必要に應じて受領せしむることとなし、該郵便貯金は、學校長の職印を以てせざれば、受領し得ざる手續を採らしめたり。而して、永久的施設として、機會ある毎に増殖せしむることとなせり。
次に、本縣教育會にて取扱ひたる義捐金第一回四千五百五十圓、第二回七千百五圓、購入の筆記帳三千六十一冊、寄贈にかかる教科書一萬二千二十三冊は、別表の如く、配當或は配給を了したり。
以上の外、縣外よりの慰問品中には、八千三百七十四個の學用品あり、夫々罹災町村に配給し、又、罹災救助基金より、一千五百九十二圓五十銭を支出し、學用品を給與せしめたるを以て、一般救護施設と相俟ちて、兒童の就學に支障なきを得たり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
第十二節 縣税の免除
I 縣税不賦課の議決
震嘯災害地に於ける被害者の縣税不賦課の件は、昭和八年五月十日の縣參事會に提案し、愼重審議の上、原案を可決せり。
その規定は縣條例第四號を以て、五月十七日の縣公報を以て、左記の如く正式に公布せられたり。
○宮城縣條例第四號
震災被害者ニ對スル縣税不賦課ニ關スル條例縣參事會ノ議決ヲ經左ノ通定ム
昭年八年五月十七日 宮城縣知事 三邊長治
震災被害者ニ對スル縣税不賦課ニ關スル條例
第一條 震災(昭和八年三月三日ノ震災及之ニ伴フ海嘯ヲ含ム以下同シ)ニ因ル被害者ノ震災地ニ於ヲ納付スヘキ昭和八年度分縣税ハ別ニ定ムルモノヲ除クノ外本人ノ申請ニ依リ本條例ノ定ムル所ニ從ヒ之ヲ賦課セス
第二條 前條ノ震災地トハ昭和八年大藏省令第六號第一俟ニ定ムル縣内ノ震災地ヲ謂フ
第三條 震災ニ因リテ著シク毀損シタル家屋及震災ニ因リテ滅失若ハ家屋トシテノ効用ヲ失ヒタル爲新ニ取得シタル家屋ニ對シテハ家屋税ヲ賦課セス
第四條 震災ニ因ル被害者ノ營業ニ對シテハ營業税ヲ賦課セス
第五條 左ノ各號ノ一ニ該當スル者ニハ雜種税ヲ賦課セス
一、震災ニ因リテ著シク毀損シタル物件及震災ニ因リテ滅失若ハ其ノ効用ヲ失ヒタル爲新ニ取得シタル物件
二、震災ニ因リテ死傷又ハ行方不明トナリタル爲新ニ取得シタル牛馬
三、震災ニ因リテ自用ノ建物又ハ其ノ敷地ヲ取得シタル場合ノ不動産取得若シクハ自用ノ爲ニスル立木伐採
四、震災ニ因ル被害者ノ爲ス代書人、雇婦、漁業採藻
附則
本條例ハ昭和八年度分ニ付之ヲ適用ス
II 見込額調査と低利資金の融通
縣庶務課にては、この條例により關係各町村に照會、免除すべき見込額を調査したるに、地租附加税二、〇三七圓、營業收益税附加税一、八四九圓、所得税附加税二、七一二圓、家屋税五、三一三圓、營業税二、五三四圓、雜種税二四、八五五圓にして、その總額三九、三〇〇圓に達したり。その他昭和七年度分未拂縣税一三、七〇〇圓の免除豫想額を加へ、五三、○○○圓の縣税免除必要額を認めたるを以て、別に町村歳入缺陷補填資金轉貸の爲、金五萬九千四百圓、合計拾壹萬貳千四
百圓を預金部資金より借入をなす必要あるを以て、早速、次の如き理由書を政府に提出して請願する處ありき。
その結果、政府より低利資金の融通を見たるを以て、別記の如き縣税の免除をなしたり。
理由書
(前略)
然ルニ一面災害ニ因リ納税義務者ノ資力ヲ失ヒタルモノ及課税目的物等ノ滅失シタルモノ等不尠シテ縣ニ於テハ金五萬參千圓、町村ニ於テハ金五萬九千四百餘圓、計金拾壹萬貳千四百餘圓ノ歳入缺陷ヲ生スル状况ナルモ縣町村共財政窮迫シ且各種復舊及救護等ノ爲費用ヲ要スル場合他ニ補填ノ途ナキヲ以テ止ムヲ得ス起債ニ求メサルヘカラサルニ依リ、縣歳入缺陷補填金五萬參千圓及町村歳入缺陷補填資金轉貸ノ爲金五萬九千四百圓、計金拾壹萬貳千四百圓ヲ預金部資金ヨリ借入ヲ爲サントスル所以ナリ
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
III 府縣制による免除
縣下三陸沿岸の縣税滞納は、昭和二年度分より同七年度に至れるもの、相當の額に達したりし内、罹災者より免除の申請ありしものに對しては、調査の結果、徴收免除するを適當と認められたるものを、昭和八年五月十日、同九月十五日、昭和
九年四月十六日三回の縣參事會にはかり、府縣制第百十三條(府縣税ノ減免若シクハ納税ノ延期ハ特別ノ事情アル者ニ限リ府縣知事ハ府縣參事會ノ議決ヲ經テ之ヲ許スコトヲ得)を適用して、免除せり。
その申請人員及税額次の如し。
第一回決定分
中請人 七七〇人
總税額 三、八六九円、八三
第二回決定分
申請人 一三人
總税額 七九二、三五
第三回決定分
申請人 七九人
總税額 八八、七七
計
申請人 八六二人
總税額 四、七五〇、九五
第五章 各方面の救護
第一節 縣下市町村當局
I 仙臺市
イ、義捐金の醵出
仙臺市にては、三月七日緊急市會を開催し、三陸罹災地に對する義捐金の醵出を決定したり。醵出義捐金總額は、六千五百圓にして、内本縣五千圓、岩手縣壹千圓、青森縣五百圓の割合なり。因に、本縣被害町村に對しては、一町村當り、拾圓死者行方不明者一人當九圓、家屋の流失倒潰一戸當貳圓宛分配せり。各町村別割當額左の如し。
ロ、慰問隊の派遣
仙臺市役所にては、罹災民慰問の爲、慰問隊を派潰する事となり、市長代理として各課長を漸次動員の上、該災害地に向け派遺したり。
即ち佐々木社會課長・鈴木市視學外一名は、先づ、吏員一同を代表して、五日午後零時十八分仙臺市出發、被害激甚なる本吉郡歌津村及志津川町に向へり。慰問と共に市内有志より寄贈せられたる慰問品をトラツクにて輸送の上、配給を了へ、六日午後四時三十分歸仙せり。
次いで、七日、第二回慰問隊として、杜會課長外一名は、牡鹿郡大原村慰問の爲、午前八時仙臺出發、任務完了の上、午後七時歸廳せり。
産業課長外一名は、九日、第三回目の慰問使となり、早朝仙臺出發、十五濱村に向ひ、該地に一泊の上、十日午前十一時四十分歸仙したり。外に、畠山衞生課長は、見舞金として、鮎川村に六〇圓、大原村に六五〇圓、女川町に一七〇圓携行慰問し、十日正午歸廳せり。又、内記課長は坂元村に見舞金一〇〇圓を携行し慰問するところありたり。
更に十日に於ては、社會課長外一名、午前七時三十分、十三濱村へ向け慰問のため出發、十一日午後零時十分歸仙したり。
十一日午前九時五十分、雪晴れ後の眩しき旭光を滿面に浴びつつ、唐桑村以下十箇町村に見舞使として出發したる高橋庶務課長以下七名の一行は、任務完了の上、十三日午後五時歸仙したり。
ハ、救恤品發送
仙臺市にては、五日午後零時十八分慰問隊派遣と共に、市内有志より寄贈の救恤品をトラツク二臺に積載の上、本吉郡志津川町・歌津村に發送せるが、その後も四回に亘り、トラツク便により救恤品を次の諸方面に發送せり。
なほ第一回の配給先及配給品次の如し。
その後も、市内有志より續々救恤品を寄託せらるる處ありしが、之等は梱包をなせる上、三月六日より開設の仙臺驛前本
縣出張所へ搬送の上、本縣へその配給方を依頼せり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
II 石卷町
石卷町に於ては、震嘯災害當日、即ち、三月三日、町會の緊急決議に依り、救援義金として一、○○○圓を支出し、食糧品・日用品及び其の他雜品を購入の上、縣内罹災地に慰問品として贈る事に決したり。次いで四日、町社會課の手に依り米・麥・味噌・炊事道具等の慰問品を多數購入し、且、被害最も激甚なりし十五濱村・女川町・大原村へ向け、吏員を急派すると共に、之等をトラツクに滿載して輸送、罹災地に於て配給をなしたり。
III 氣仙沼町
イ、救護事務の開始
三月三日、午前海嘯の報至るや、町村長以下吏員は、早朝登廳して、善後措置を協議し、偶々第一回町會議案調査會開會ありたるも、之れが會議を取止め、即日海嘯被害救護善後策に付、町會議員協議會を招集し、以て、罹災救護方法を諮り當町に於ける直接被害僅少なるも、先づ以て調査を爲し、一方他町村の被害甚大に付、其の罹災者救護に當る爲、取り敢へず之等の町村に對し、見舞竝被害状况視察として、助役以下吏員六名を特派し、其の報告に依り、夫々具體的救護に努むることとなれり。
ロ、罹災地慰問使特派
罹災地慰問使左の通り特派したり。
イ、本吉郡内(十三濱を除く) 助役以下吏員六名
ロ、本吉郡外
第一班 釜石町・唐丹・吉濱・越喜來・綾里・赤崎各村 町會議員一名 吏員一名
第二班 氣仙町・高田町・末崎村・廣田村 町會議員二名
第三班 郡内十三濱村・桃生郡十五濱村・牡鹿郡女川町・荻ノ濱・大原・鮎川各村 町會議員二名
ハ、第二師團・赤十字社支部・東北帝國大學醫學部・縣等救護班の活動斡旋
本吉郡地方に於ける罹災者救護の爲、第二師團・赤十字社宮城支部・東北帝國大學醫學部・縣及其の他より、連日連夜多數の救護班來町するに當り、直接災害區域をも奔走して、其の活動を斡旋幇助したり。
ニ、救護事務所の開設
救護物資竝慰問金品の募集配給の爲、救護事務所を役場竝魚町勞働共濟事務所の二箇所に設け、吏員を配置し、在郷軍人分會員竝男女青年團員等の協力を得、外に町會議員全員を委員とし、半數、隔日交代に兩事務所に出務して救護に遺憾なきを期したり。
ホ、救護物資竝慰問金品の募集配給
各地の慘状入るや、直に慰問竝救護上に必要なる物資を募集し、又町費を支出することとし、之が募集には、金員は各區々長竝有志百八十名を囑託し、物品な男女青年團に依囑したりしに、救護は極めて早急を肝要とするに付、先づ以て、右一般寄附收入竝町費を見込み、生活必需品を購入配給したるの外、右一般慰問金品多數に上り、之が配給に依り、救護の萬全を期したり。
其の状况左の通りとす。
尚、救護事務手傳の爲、吏員二名を、數日間唐桑村役場に出張せしめたり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
IV 鹽釜町
塩釜町當局に於ては、災害當日同町直接の被害を調査すると共に、縣當局と連絡をとり、町内各自警團長を招集して、義捐金品の募集斡旋に盡力せられん事を委囑せり。
その結果、總計九百貳拾壹圓五拾九錢の義捐金と、若干義捐品の募集を見たり。
仍て、義捐品は直接罹災地方へ送附し、義捐金は、内貳百六拾圓を、町關係、死傷者及び船舶破損被害者に惠與し、殘金六百餘圓は、縣當局へ發送の上、配給方を依頼せり。
尚、運搬船の修繕見込あると否とを問はず、復舊計畫を有するものに對しては、縣當局に依頼し、復舊に要する費用補助竝低利資金融通の盡力をされたきむね依頼する處ありき。
V 飯野川町
飯野川町は、縣下第一の被害地たる十五濱村に最も近く、且又、十三濱村に至るにも咽喉を扼するの地なり。
震嘯災害當時、應急措置の要衝に當れり。三月三日未明十五濱村雄勝よりの非常急報によりて、災害の激甚なるを知るや警察當局と打合せの上、吏員をして、醫療品を携帶同地に急行せしめたり。
ついで、六日に至り、町役場に桃生郡町村長會議を開き、郡下町村長召集の上、各町村長交互にて、七日より郡下罹災地十五濱村に出張の上、救護作業の督勵に當る事とせり。
第二節 青年團
I 約説
不時の災害に際し、罹災地に急行、破壞家屋・冠水による飛散物の取片附け、道路の修復よりバラツクの建設等に至る迄日常の團體的訓練を利用して奉仕盡力せるものに、陸海軍・消防組以外に、青年團あり。
その罹災地に出動せるものは、多く團服・卷ゲートル姿凛々しく身を固め、背嚢・外套・大工道具及數日分の食料品携帶の上、日頃磨きし腕を以て、献身的に救護事務に從事せり。
之等出動青年團は、凡んど本縣市町村のものなるが、その他遠く東京市よりも來援せし青年團あり。又本縣の青年團にして岩手縣釜石町に救援に赴きしものもあり。
又、義捐金品の募集の如きも、迅速、輕快に事を運ぶもの、青年團員の力に依らざるべからず。
而して、その醵出金品中には、男子青年團員が農業從事の傍ら、寸暇を惜みて製作せし藁工品の賣上代金を共同貯蓄し置きしものより、慰問金募集の映畫會開催により醵出せし尊き勞務の結晶によるものあり。又女子青年團が、日常の勞務を廢して、足袋・衣類・帽子等の裁縫に從事して、學用品、日用品等と共に暖き同情心を籠めたる手製品を贈りたるものあり。
II 宮城縣青年團及女子青年團
三月五日縣青年團長及縣女子青年團長より各市町村男女青年團長に對し罹災者救援に關する通牒を發し、各團をして自發的に義捐金品の醵出、勞力奉仕其の他適當なる方法に依り罹災者救護を促したる結果、或は義捐金品を送付し、或は現地に至りて勞力の奉仕をなしたり。尚三月一日より七日迄宮城縣青年製作品展覽會開催中なりしを以て、其の出品物中罹災者救護に必要なる物品を寄贈せしめ、又は本團に於て買上げ之を罹災地に送付せり。
本團に於て發送の品名數量左の如し。
品名 數量
農産物加工品 四二三點
木竹製品 四七點
水産物加工品 四點
金工手藝、食料品 三七點
計 五一一點
三月九日在仙理事會を開催し救護に關する協議をなし、仙臺驛前に設置せる縣の臨時出張所の手傳として仙臺市内各青團員二名を三月十日より十八日迄交替に出動せしめたり。
III 各市町村青年團及女子青年團
罹災地町村の青年團員にして災害を受けざるものは當時自警團、消防組等と協力し震災地の整理及避難所の建設に努力し女子青年團員は浸水のため汚損せる衣類等の洗濯に從事したり。其他の町村青年團にありては義捐金品を贈り、又は現地に至りて破損家屋の修理及障碍物の整理等をなし、若しくは義捐品配給事務に從事する等罹災者の救援に貢獻したる所尠からず。尚遙に岩手縣釜石町の罹災地に至りバラツク建築に從事し大いに感謝せられたり。
義捐金及勞力奉仕の状况左の如し
なほ罹災町村青年團にして、自救竝に近隣町村・部落の救援に赴きしもの左の如し。
VI 各青年團の活躍状况
イ、東二番丁青年團
仙臺市東二番丁青年團員十二名は、菊地團長に引率され、三月十四日午後一時半、宮城電鐡仙臺驛出發、災害最も甚しき桃生郡十五濱村に向へり。
一行は大工十名、トタン職二名よりなり災害地に於て、三月十四日より同十七日に至る四日間、小學校舍及巡査駐在所の官公廨、一般半潰家屋の應急修理、被害船の引下し作業等に從事せり。
作業に際しては、毎日午前七時より午後六時半に至る長時間、忍苦に耐へて勞働奉仕をなせり。
ロ、培根青年團
仙臺市培根青年團は、建設班を組織し、岩手縣下釜石町に出張、同地方の災害後の取片附け、バラツク建設等に從事せり。
一行は、大工八人、ブリキ職一人、鳶職一人、その他、合計十二名にして、三月十二日より七日間、小學校校舍に宿泊しつつ、同地の救護に從事せり。
ハ、共の他
なほ、罹災町村青年團の活躍状况を知らんが爲、唐桑村青年團員活躍の状况を記して、その一端を偲ぶ事とせん。
三月三日(出動員數總計五十六名)
一、海嘯により家屋の倒潰・流失等の聲を聞くや、宿班青年團員は定所に集合、東海岸方面の流出者救助の爲、高砂丸・八幡丸の二隻を動かして出動す。
一方に於て、倒潰家屋の整理・道路の復舊に努力し、夜は四名宛にて、徹宵警戒の任に當れり。
二、鯖立班にては消防組と協力し、流出物の拾收、負傷者の救護等の活動目覺しきものありたり。
三、各班も右に準じ、夫々活動せり。
三月四日(出動員總數八十四名)
一、班員全部にて漂流物・破損物の整理、午後より村役場に於て毛布の運搬配給、各方面への傳令を引受けたり。夜は屍體埋葬の爲、八時より十二時迄活動せり。出動員四十三名(以上宿班)
二、小鯖海岸漂流物の後片付に、二十六名の班員出動(中井班)
三、石濱青年會と協同作業(石濱班)十五名
三月五日(出動員數一〇六名)
一、各部落にて、各班員總出動にて、前日同樣、流失物・道路の修理に努力す。
三月六日(出動員數六十五名)
前日同樣に活動。
三月七日(出動員數九十五名)
一、前同樣の活動をなす。
二、一方宿班、鮪立班、石濱班は只越部落に出動し、片付方及び慰問品の配給等に盡力せり。
三月八日
一、小鯖區より手傳を求められたるにより、團員及び小學校高等科兒童と共に出動す。陸上に打揚げられたる舟を海に下し、ガラス破片其他の危險物の除去、材木の運搬等をなせり。(宿班)
二、一方一部團員は慰問品の運搬・配分等の仕事を擔當活動せり。
三月九日(出動員數二十四名)
一、陸上乘揚船の海上引卸及流失物整理等の仕事をなせり。
三月十日(出動員數二十二名)
一、前日同樣
之を總じて見るに、今回の震嘯災に於ては、人畜の死傷、往時明治二十九年のものよりは尠かりしも、家屋の流失・浸水、殊に漁船の流失破損極めて多く、從つて仕事も困難且多大なりしに不拘、團員は自發的に統制をとり、献身的に活躍せり。
且、新聞ラヂオ等所謂文明の利器により、災害状况は全國一般に知られたるを以て、同情慰問の品々多數にして、之が運搬・配給にても容易ならざる仕事なりしに、團員は連日深更に至るまで自己を忘れて活躍したるは、罹災地住民のみならず
關係各方面より深く感謝せらるる處なり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
第三節 消防組
I 公設消防組
三月三日、海嘯襲來するや、罹災地消防組は、非常召集を行ひ、又附近町村の消防組は自發的に災害地に出動し、連日罹災者の救護、倒潰家屋の整理、屍體の搜索、道路・交通復舊、食料品の供給等に努めたり。
罹災地町村の消防組にして、出動せるもの九組、その出動延日數五十二日、人員五、二九八人、他町村より出動せる消防組は十二組にして、その出動延日數二十八日、人員一、三二二人にして、その活動目覺ましく、罹災民の救護・復舊に盡瘁する處不尠ものあり。
その他、一日乃至二日、局部的に活動、救護に從事せるものに、新月村新月消防組、稻井村消防組等あり。
II 私設消防組
(イ)石卷義勇團
石卷町濱横丁・九軒丁・裏丁の商人・大工・出稼職人等六十名よりなる石卷義勇團は、常時消防その他の奉仕事業に從事するものなるが、災害と同時に、石卷滯留中の二十八名は、食糧品携帶の上、福田團長竝松谷副團長引率の下に、發動機船に便乘し、大原村・谷川及鮫ノ浦兩部落の救護作業に從事の爲急行せり。
罹災地に到着と同時に、災害後第一に要求せられつつありし、屍體收容の棺桶の急造をはじめ、破壞せる家屋の取崩し、浸水地域の取片付け、バラツクの急造等の救護作用に四日間に亘り、奉仕的に從事せり。
(ロ)その他の私設消防組
罹災地をはじめ附近町村に於て、日常團體的訓練をなせる、青年消防組、自警團消防組等にして、災害に際し、救護に從事せるもの不尠、之等の中、主なるものを左に掲げん。
第四節 帝國在郷軍人會仙臺支部
I 罹災地視察竝慰問
帝國在郷軍人會仙臺支部長吉野大佐は、三月三日午後一時六分發列車にて被害状况調査竝に救援の爲、志津川町方面に瀧本少佐を、閖上町方面に赤木曹長を、坂元村方面に伊藤曹長を、夫々派遣せり。
又、午後二時、被害激甚なる牡鹿郡大原村の災害救護の爲、石卷町・渡波町・稻井村各分會宛「郡下被害地の救護援助に當られ度」旨電報を發し、同地方への出動を促せり。
罹災各地に派遣せられたる者の情報綜合の上、三月四日朝、吉野支部長は、牡鹿郡・桃生郡の各罹災地へ出張、調査の結果、十五濱村へ工兵隊を派遣すべきむね、多門第二師團長に對し、意見を具申せしかば、工兵第二大隊よりは、作業隊三十八名、直に同地に派遣せられたり。
吉野大佐は大金侍從に隨行して、牡鹿郡方面に、佐藤中佐は帝國在郷軍人會副曾長中野海軍中將に隨ひ本吉郡に、高橋少佐は、聯合支部長吉富少將に隨ひ、同じく本吉郡方面の罹災地視察に任じたり。
II 慰問金募集竝配給
三月五日、吉野在郷軍人會支部長より、管下聯合分會長に對し、被害状况を通知すると共に、罹災地に對する慰問金を募集せり。
その結果、三月十三日第一回の〆切に於て仙臺支部の五〇〇圓をはじめとし、在郷軍人會本部・支部・聯合會・分會等より八八五圓の慰問金を、四月二十日第二回〆切に於て、一九一圓六一錢、五月三十日第三回の〆切に於て、二、一一〇圓六〇錢、九月二十一日第四回の〆切に於て、二三七圓六〇錢、合計三、四二四圓八一錢の金額に達せしが、之等は、その都度寄贈者の意志をくみて、左記の如く、罹災地在郷軍人聯合分會に配給、その處分方を一任せり。
第五節 帝國軍人後援會
I 軍人遺家族・傷痍軍人
今回の震災に際し、日支事變關係の戰死者の遺族竝戰傷者の家族及日支事變の爲出動中、傷痍を被りしものに對し、普通一般的の救護に努むる外、帝國軍人後援會より、四月八日、關係町村長を經て、慰籍料を贈呈慰問せり。
その金額一八六圓、慰問を受けたるもの三六名なり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
第六節 宗教團體
I 佛教關係
イ、宮城縣聯合佛教會
宮城縣聯合佛教會にては、震嘯災害直後、桃生郡十五濱村の雄勝・荒・船越・名振の各部落に罹災民を慰問し、なほ雄勝・荒の二箇所にては死亡者追悼會を施行して、生靈を慰むる處ありき。
ロ、東本願寺
三陸沿岸災害の報に接し、東本願寺當局に於ては、東北別院輪番粟津勸縁氏を本願寺慰問使として、災害地に派遣し、罹災状况を視察慰問せしむる處あり。同氏は、三月四日仙臺出發、同七日迄、主として、岩手縣沿岸の罹災地を巡回慰問して歸仙、直に仙臺市内大谷派寺院住職、東北別院總代、世話方、大谷婦人會幹事等を召集の上、緊急協議會を開催し、慰問品として、手拭三千本、日用聲明教本、佛教聖典各三百冊を贈り、且つ慰問班を組織し、罹災各地に出張の上、移動、追弔會・
讀經・法話等をなして慰問する事に決定したり。仍て、慰問班を二に分ち、第一班は釜石町以北、第二班は氣仙郡方面を分擔慰問の事とし、三月十三日出發、同十六日迄、沿岸各地を巡回せるも、之等は、何れも岩手縣下の事に屬するを以て、此處には詳述せず。
ハ、西本願寺
京都なる本派本願寺よりの命により、同派慰問使として、同寺仙臺別院輪番福永俊良師竝本山仙臺布教使橘實言師の兩氏は、三月四日仙臺出發同八日迄の五日間に亘り、本縣十五濱村より岩手縣釜石に至る各罹災部落を歴訪・慰問をなし、その情况を逐一本山に報告せり。
本山社會部にては、かねて、龍谷大學生・全國本願寺青年會員・婦人會員等に對して、災害義捐金幕集中なりしかば、この報告により、直に仙臺別院の慰問使を通じ、本縣・岩手・青森の三縣に對し金八○○圓の寄贈方を申込みたり。
内、本縣へ寄贈の分は三〇〇圓なりき。
ニ、曹洞宗大本山
曹洞宗大本山にては、三陸沿岸罹災民慰問として、宗務院人事部主事佐藤元惠氏を特派せり。
同氏は六日來仙、宮城縣同宗宗務所長三田村龜範氏と打合せの上、直ちに罹災地に出張、罹災民の慰問に當りたり。
II 神道關係
イ、金光教本部
災害直後の三月五日、岡山縣金光町なる金光教管長より慰問金三百圓を本縣に寄贈する處ありしが、なほ金光教本部にては、三陸沿岸被害激甚なる箇所に、五月上旬、弔慰祭を催し、弔慰金を贈る處あり。本縣下に於ては、五月四日、十五濱村雄勝小學校々庭に於て、弔慰祭を行ひ、弔慰金は、桃生・牡鹿・本吉三郡の八ケ村に四百六十圓を惠與し、別に十五圓宛を石卷飯野川兩警察署員に寄贈して、その勞を犒ふ處ありき。
又、右町村の遺族に對し、「偲草」としてネル二百反、甲種供物五〇個、乙種供物五〇〇個を寄贈し、その他、復興精神パンフレツト「芽のふく春」及び同樣の趣旨によるポスター等を寄贈して、物質竝精神の兩方面より慰問する處ありき。
ロ、金光教仙臺教會所
金光教仙臺教會所にては、慰問金一〇〇圓、慰問袋二七〇袋を準備し、三月十七日、亘理郡坂元村を振出しに、十八・十九・二十日の三日間は、牡鹿郡鮎川村、大原村、女川町、桃生郡十五濱村、本吉郡十三濱村等の諸町村を巡回、羅災者を慰問する處ありき。更に、その後、戸倉村・閖上町を加へ、慰問町村都合五郡八ケ町村に及べり。
慰問金は、村役場或は縁故者に惠贈し、自ネル布、縫針、ハガキ、鉛筆、ナイフ、堅パン等封入の袋の表面に慰問語を印刷せるものは、家屋流失或は倒潰の不幸なる罹災者に寄贈する處ありき。
ハ、大原村敬神自警主婦會
牝鹿郡大原村の字大原・新山・泊・前網等の各區に、主婦を以て組織し、敬神思想の普及竝火災警防を目的とせる各部落別敬神自警主婦會は、三月三日同村内谷川及鮫ノ浦部落が、震嘯により莫大なる被害を受けたるむね知るや、直に非常召集をなし、大原・新山の敬神自警主婦會は谷川部落に、泊のそれは、谷川・鮫ノ浦の兩部落に、前網のそれは、鮫ノ浦部落に出向せり。
而して、日常の敬神思想による奉仕の心を遺憾なく發揮し、罹災民の炊出、汚物の洗濯等、男子には到底爲し能はざる方面の救護、慰問に盡す處多かりき。
III 基督教關係
イ、救世軍本隊
三陸沿岸震嘯災害を受けたるむねの情報一度達するや、救世軍本隊より、司令官の電命各地に飛び、救護・慰問の運動開始せられたり。
即ち、同隊特有の「社會鍋」は、東京・大阪・京都の三大都市をはじめ全國主要要都市の街頭に立てられ、義捐金の募集に盡力せり。
又、罹災民に衣服を給せんがため、古着の寄贈・購買に當り、之等は、東京神田一ッ橋の救世軍本營にて荷造され、直に上野驛に送られたり。
その他、蒲團・毛布・盥・下駄・バケツ・林檎・ビスケツト・紙・柄杓・鍋等の日用品・食料品等、救世軍の手を經たる合計二百五十四梱の慰問物品は、氣仙沼・釜石の同軍救護本部へ急送せられ、此處にて各小隊員の手にて分類、直ちに罹災民に配給せられたり。
又、三月二十四日より同二十七日迄に鐵鍋二千個を、罹災三縣の被害地帶に向け發送せるが、内、本縣管内の受贈せる分は四四〇個なりき。
ロ、救世軍氣仙沼小隊
救世軍氣仙沼小隊にては、震嘯災當日、折柄小隊長仙臺の士官會に出席中なりしを以て、同地にて仙臺小隊とも打合せ、附近沿岸町村の救護計畫を立てしが、四日個臺第一小隊より杉原中校、七日、東京本營より特派士官を迎ふるに至り、全員を二隊に分ちて、罹災地に、暖き救援の手をさし延べたり。
自動車により沿岸各被害部落を慰問すると共に、東京の本營より送られたる義捐金を以て、ビスケツト・手拭・塵紙等の災害後應急用品を整へ、慰問品として、罹災民に配給せり。
又、三月八日・九日の兩日、同小隊中心となりて、唐桑村只越・小鯖・大澤・歌津村田ノ浦の各部落を巡回し、罹災民に汁粉接待をなし、精神的にも大いに慰問する處ありき。
因みに、同小隊の救護に從事せる範圍は、南、本縣桃生郡十五ケ濱村より、北、岩手縣氣仙郡越喜來に至る三十五里の海岸なりき。
ハ、仙臺牧師會
仙臺牧師會にては、三月六日、仙臺組合教會高橋牧師宅に、災害救濟に關する協議會を開き、その結果、震災救濟事務所を、仙臺市東六番丁日本基督教會内に設置せり。
而して、まづ第一に義捐金の募集をなす事に決定し、その趣意書を全國關係各方面の同情に訴へしが、その結果、全國基督教教會竝關係者より寄贈せられしもの一九〇ケ所、金一、三二三圓三九錢に達せり。
之等、應募金額中、内五〇〇圓は本縣下罹災地の託兒所開設の目的を以て、本縣社會事業協會に提供せられたれば、双方合議の上、之に仙臺友の會よりの寄附金を合せ、唐桑村只越及び十五濱村雄勝に震災臨時託兒所を開設し、地方部落民の便益を計る處多かりき。(別節、臨時託兒所開設の條參照)
又、三〇〇圓は、本縣・岩手・青森三縣の一般救濟金として、寄贈され、殘金を以て六月下旬、七月下旬、十月上旬の三回に亘りて、南、本縣十五濱村より、北、岩手縣釜石町に至る五十餘里の沿岸を、各部落につき慰問傳道する處ありき。
この間、機關新聞・キヤラメルの配布、幻燈の撮影等、あらゆる苦心を重ね、天災に痛められし罹災民の上に、限りなき慰問の贐を與へられたり。
三陸慰問運動の圖解(救世軍本營)
一、三月三日、三陸海嘯の報、一度達するや、救世軍では司令官の電命各地に飛び、救護慰問の運動開始さる。東京、大阪、京都の三大都市はじめ、各地の街頭には、社會鍋立つ。圖は東京丸ビル
前の社會鍋。
二、市民の同情、海の如く、鍋に投ぜられた同情金、山の如し。
三、一方、古着を集める爲、各小隊一齊に荷車もつて町々を縫ふ。
四谷の某呉服店で、番頭さん小僧を督促し、「子供ものを、もつと持つて來い!大人は辛抱も出來るが、子供は可哀さうだから!」と。かくて四、五軒も行くうち、荷車は山の如し。
四、慰問物品の集合所は、東京神田一ッ橋の救世軍本營、その地下室で荷造され、直ちに上野驛へ送らる。
五、合計二百五十四梱の慰問物品は、氣仙沼に於ける救世軍第一救護本部と、釜石の第二本部へ急迭された。
六、トラツクに積んだ慰問品は、衣類あり、蒲團あり、毛布あり。その他盥、下駄、バケツ、林檎、鷄卵、ビスケツト、紙、柄杓、鍋等。峠を越え谷を通り、目的地へ達した。
七、陸路不便の所は、海路を利用し、發動機船は毎日のやう、大波小波を蹴つて津々浦々を訪ねた。海風にひるがへる救世軍の三色軍旗、その美しさ!
八、陸路、自動車通ぜず。辛うじて馬に物資を滿載し海岸に達した所もあつた。その馬子、救世軍の義擧に感じ、「駄賃はいりませぬ」と無代で奉仕、トツトと急ぐ足並の早いこと。
九、只越に於ける子供のシルコ接待の光景、家屋は海に流されたが竈は殘つてゐる。それを拜借して軍人達は大車輪の活動。小鍋に盛られたシルコ、子供達の喜びは一方でない。食べたあとの小鍋
は、慰問品として家に持ち歸る。社會鍋に投ぜられた同情が小鍋シルコとなつて罹災者に渡された。これこそ文字通りの社會鍋。
一○、○印は、救世軍救護隊の慰問したる所、氣仙沼本部の受持だけでも、南へ二十五里、北へ二十里、都合四十五里の海岸線に亘つてゐる。
第七節 各種團體
I 日本赤十字社宮城支部
災害當日直ちに、日本赤十字社宮城支部仙臺診療所より一班、石卷町同社病院より二班、合計三班の救護班を組織し、次の如く、罹災各地に派遣せり。
又、愛國婦人會宮城縣支部と協力し、吏員を罹災地に急派し、被害状况の調査及慰問を爲したり。
尚被害甚大と認むべき罹災地八ケ村に對し、感冒豫防・下痢止・胃腸藥の家庭藥二萬二千錠を配給し、災害直後疲弊により、病人の續出するを未然に防がんと努めたり。
II 愛國婦人會宮城縣支部
(イ)災害地見舞と慰問品配給
災害當日日本赤十字社宮城支部と協力し、直ちに主事以下、吏員を災害地に急派し、被害状况の調査及慰問を爲さしむると共に、比較的被害甚大なりと認むべき町村に對し、麺麭二十二箱及足袋百足乃至三百足(總數一千足)を配給したり。又仙臺市内に於ける支部役員は、女子青年團員と共に、縣に於て配給すべき蒲圍の調製に從事し、六百枚を作製したり。
(ロ)義捐金品の募集竝に分配
仙臺市内諸官衙、仙臺市内愛國婦人會宮城縣支部支部役員及町村委員その他に對し、義捐金品の募集を依頼せり。
義捐品は、三千五百點を超えたりしが、義捐金は六、八九二圓餘に達し、之等は次の如く分配せられたり。
義捐金分配總數 六、八九二圓七七
内譯
香典 二八六円、○○
託兒所費 一九七、七〇
物品購入(救恤品) 一、一四三、九四
各罹災町村に分配 五、二六五、一三
坂元 一三〇、○○ 閖上 二〇、一三 十五濱 一、六五〇、○○ 女川 四〇五、○○ 大原 四七五、○○ 荻濱 六五、○○ 鮎川 五〇、○○志津川 一二〇、○○ 戸倉 八五、○○ 歌津 五七五、○○ 十三濱 三七五、○○ 小泉 一六五、○○ 階上 五〇、○○ 大谷 五〇、○○ 大島 六五、○○ 鹿折 五五、○○ 唐桑 九三〇、○○
尚三月七日以降、支部長以下各役員は罹災地を慰問し、死者の遺族に對し、弔慰料(一人につき二圓)を贈呈し、尚出征軍人の家族戰死者遺族及傷痍軍人の罹災者に對しては、慰問金(各金五圓)を贈呈せり。
(ハ)臨時託兒所の設置
愛國婦人會にては、募集せる義捐金の一部を割き、桃生郡十五濱村名振の滿照寺に臨時託兒所を開き、八月一日より約三ヶ月開所し地方罹災民より絶大の感謝の念を受けたり。(別稿 臨時託兒所開設の條參照)
III 水難救濟會宮城支部竝日本海員掖濟會宮城支部
水難救濟會宮城支部竝日本海員抜濟會宮城支部に於ては三月十二、三の兩日(桃生郡十五濱村船越に於ては更に二日間延期)に亘り左記により海嘯の爲行方不明となりたる者の搜索を爲したり。
區域竝搜索船配置 災害地を六區に分ち各區に搜索船一艘を配置す搜索員の乘込 各搜索船二十名を乘込ましめ搜索に當らしむ(各船に潜水夫一名宛乘込)
搜索の要領 災害地を中心に分擔區域内を警邏し行方不明者の搜索を爲す
報告連絡 搜索船は左記配置警察官に搜索の状况を報告し互に連絡を圖り遺漏なきを期したり
第一區搜索船 牡鹿郡大原村谷川
第二區搜索船 桃生郡十五濱村船越
第三區搜索船 本吉郡十三濱村相川
第四區搜索船 本吉郡歌津村田浦
第五區搜索船 本吉郡小泉村二十一濱
第六區搜索船 本吉郡唐桑村只越
搜索船は二十噸乃至二十五噸(三十馬力乃至四十馬力)の發動機船にして女川港、志津川港、氣仙沼港に各二隻準備し出動せしめたり。
搜索成績 桃生郡十五濱村船越に於て三月十四日三名同十五日一名の屍體を發見せり。
IV 宮城縣教育會
宮城縣教育會に於ては、震災の翌日、縣下各學校長に對し、罹災地に送る義捐金品の募集方を依頼すると共に、宮城縣教育職員互助會より取敢へず、四千五百五十圓の一時立替支出を受け、香川理事を三月七日より五日間、本吉郡下の各罹災町村に、山本主事を三月七日より七日間に亘りて派遣し、罹災各小學校長に贈呈し、兒童の應急救護費に充てしめたり。
教育會にて取扱ひたる義捐金品の配給次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
V 三陸汽船株式會社
(イ)慰問船の派遣
三陸汽船株式會社は、從來陸運に惠まれざりし、三陸沿岸輸送の任務を帶び來りしが、釜石町の本社をはじめ、沿岸各地の支店、出張所、代理店等は多く損害を受け、取引先にて被害を受けたるもの又多數あり。
三日午前、粟野縣議、尾上常務、山中支配人は鹽釜町の同社營業所に協議の結果、社員三名及び關東大震災救護に從事せる有經驗の仲仕十名を選拔、救護班を組織し、差當り金五千圓の慰問金の外、白米・食料品・衣類・雜貨多數を準備の上塩釜港碇泊中の「新東北丸」に積込み、山中支配人指揮の下に、午後一時、同港を出發せり。
翌四日午前六時、釜石港に入港、直ちに救護事務に從事せしかば、地方人士より多大の感謝を寄せられたり。
(ロ)救恤品・復舊建築材料に對する運賃減免
三陸汽船株式會社は、前記の如く、會社自身莫大なる損害を蒙りて、漁業も中止され、沿岸よりの物資なき状况となりしに不拘、この災禍に際し、海上交通機關の活躍は、罹災民にとりて、必須不可缺のものたるを自覺し、利害を超越して、斷然定期運航の外、山なす救恤品輸送の爲、臨時發航する事數日に及べり。
而して、救恤品に對しては、三月四日より五月三日に至る六十一日間、無賃輸送をなし、復舊材料に對しては、三月四日より七月三日に至る百二十二日間に亘りて、運賃半減輸送をなせり。
その結果、同社船便により、三陸沿山序に輸送せられしもの、總個數、救恤品二四、六四八個(約二、○○噸)、復舊建築材料三一、三七六個(九六一噸)に達せり。
同社のこの犠牲的行爲に對しては、各方面より多大の同情と感謝とを寄せられたり。
VI 鹽釜合同運送株式會社
三月三日震嘯當日、ラヂオを通じ刻々に判明する慘状を知り、早くも、當日出帆の塩釜含同運送會社定期船は、關係ある商人は勿論、見舞人にて滿員となれり。
塩釜合同運送株式會社にても、この定期船にて社員を震災地へ急行せしめ、罹災地の情况を視察せしめしが、その結果、取引先にて被害を蒙らざるもの殆んどなき事判明せり。
仍て、同社は、慰問品は無賃、復興材料は五割減として、之等救恤、復興品の輸送に任じたるを以て、全國よりの慰問品連日引きも切らず、一時は、沿岸各地の運搬船を全部使用するも、尚船舶の不足を來し、止置品山をなせり。
かくして、慰問品約一千噸、復興材料約三百五十噸を無賃竝びに五割減にて輸送せしが、同社にては別に五百點の慰問品を得意先に進呈したり。
第八節 臨時託兒所の開設
I 約説
震嘯災害の直後に於て、罹災地住民が最も心を痛めたるは、災害の後始末、家屋復興に從事の爲、多忙に取紛れ、小學校入學前の兒童の保護充分ならざる事なり。
この點に着眼せる財團法人宮城縣社會事業協會竝愛國婦人會宮城縣支部にては、施設必要ありと認められたる罹災地部落に臨時託兒所を開設し、地方特志家の應援を得て、多きは百數十日間、少きも九十數日間に亘り、鋭意罹災民負擔軽減の目的に副はん事を期したり。その結果、受託兒各八千名より千數百名(延人數)に及び、地方民より多大の感謝を受けたり。
II 宮城縣社會事業協會の施設
財團法人宮城縣社會事業協會開設の震災臨時託兒所は、牡鹿郡大原村に於て二ヶ所、桃生郡十五濱村、牡鹿郡女川町、本古郡唐桑村各一ケ所にして、託兒事務に當れる職員二七名、開所期間四五〇日、受託延兒數四、六六一名にして、一日平均受託兒數一二五名に上れり。其の詳細次の如し。
尚、仙臺基督教育兒院の、罹災民に對する同情と、本計畫に共鳴せられ特に保姆の派遣竝斡施に努められたるとは、同協會の深く感謝するところなりき。
1、大原村第一臨時託兒所
場所 牡鹿郡大原村谷川洞福寺内
所長 大原村長代理 安藤貞五郎
主任 洞福寺住職 石田■光
外に保姆二名、助手一名、囑託醫一名
開所期間 自昭和八年四月一日至同七月三日(八十八日間)
受託延兒數 一、六一二人
2、大原村第二臨時託兒所
場所 牡鹿郡大原村鮫浦 籠堂
所長 大原村長代理 安藤貞五郎
主任 大原村谷川尋常小學校長 伊藤文吾
外に保姆二名、囑託醫一名
開所期間 自昭和八年四月三日至同七月三日(八十六日間)
受託延兒數 一、一二九人
3、十五濱村臨時託兒所
場所 桃生郡十五濱村雄勝 天雄寺内
所長 十五濱村長 佐藤源治
主任 天雄寺住職 本多喜禪
外に保姆二名、助手一名、囑託醫一名
開所期間 自昭和八年五月二十日至同九月二十一日(百十日間)
受託延兒數 七、九九二名
本託兒所は、天雄寺住職本多喜禪師が震嘯災害直後より受託を開始し、私財を投じて拮据經營せしものを五月二十四日より縣社會事業協會にて引繼ぎ、閉所後再び本多師、常設保育所として獨力經營中のものなり。
4、女川町臨時託兒所
場所 牡鹿郡女川町石濱 元教員住宅
所長 女川町長 松川豁
主任 女川託兒所長 末永英郎
外に保姆及助手一名宛、囑託醫一名
開所期間 自昭和八年四月二十一日至同七月三十日(八十三日間)
受託延兒數 一、九六四人
5、唐桑村臨時託兒所
場所 本吉郡唐桑村只越 氏神祠内
所長 唐桑村長代理 男虎良雄
主任 氣仙沼パプテスト教會收師 若松守二
外に保姆及助手各一名、囑託醫一名
開所期間 自昭和八年六月二十日至同九月十九日(八十三日間)
受託延兒數 一、九六四人
十五濱村雄勝天雄寺保育園園兒募集のポスター
-保育園の開設-
津浪災害の後片付けから家々の復興までには少なからぬ努力が必要です。
此の時に當つて皆樣の御手足まとひになる御子樣方を保育して御家庭の御繁忙に御手傳ひ致さうと思ひます。
どうぞ御遠慮なく今日から是非御利用を願ひます。
一、小學校入學前の子供はどなたでも御出下さい
一、當分の内は御晝食や御やつを差し上げます。
一、皆で仲よくたのしく面白く歌つて遊んで大きくなりませう。
宮城縣桃生郡十五濱村雄勝
保育園主 本多喜禪
III 愛國婦人會宮城縣支部の施設
愛國婦人會宮城縣文部にては、昭和八年八月一日より十月末日に至る約九十日間、桃生郡十五濱村名振、滿照寺境内に、臨時託兒所を設け、毎日午前六時半より午後四時に至る間、附近罹災部落の幼兒を受託し、大いに部落民の利便を計る處ありき。
仍て、名振部落に近き、船越・荒部落の幼兒は勿論、開設期の前半は、暑中休暇なりし關係上、通學中の兄姉に手を引かれ、或は背負はれて、遠く雄勝方面よりも出席せるもの多かりし爲、男一、六二九人、女二、三八七人、計四、〇一六人(一日
平均四五人)の受託延兒數を見たり。
IV 臨時託兒所の時間配當及注惹要項
臨時託兒所に於ける時間配當及注意要項は施設箇所の状况竝部落事情の相違によりて、必らずしも同一規準に從ふを得ずと雖、震嘯災害にょる家庭の暗き氣分を些少なりとも忘れしめ、兒童本來の天眞爛漫たる氣分を味ははしめんと努めたる點に於ては、盡く一致せりと謂ふを得べし。
今、左に、その時間配當竝注意要項の一例を記し、以て全般を推さんとす。
イ、時間配當
ロ、注意要項
右表を標準として、時と場所とに依り、夫々適當なる樣配當せり。
(設備)オルガン、其の他の樂器・蓄音器・滑臺・ブランコ・シーソー・輪投・萬國旗・手技用品・藥品其の他。
(給食)幼兒に對しては、間食及副食物を給與せり。
○間食 せんべい・パン・焼餅・ビスケツト・林檎・甘蔗・ミルク・だんご等午前及午後の二回給與。
○畫食副食物 土地産物を適當に選擇給與。
(保健)幼兒の健康には特に留意し、時を定めて身體檢査を施行、恰も麻疹流行中とて、其の豫防に相當苦心すると同時に、凍傷・耳だれ・毛髪しらみの治療、驅除を行ひたり。
(慰安)託兒所開設地は概ね交通の不便なる土地にして、幼兒の慰安竝村民の爲に、運動會・お話會・遠足會等を催す一方保姆等の慰安にも特に慰問品を贈呈せり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:3.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
第九節 醫療救護竝防疫
I 約説
牡鹿郡以北及亘理郡方面に海嘯あるを聞くや、本縣は勿論、平素醫療を爲しつつある各方面に於ては、直に救護班・衞生班等を特に組織出動せしめ、尚又他府縣の醫療團體よりも來援あり。
罹災民の救療に、或は防疫等に努めたる外、災害地附近の町村の醫師も奉仕的に活動したる結果、醫療救護に遺憾なきを期し得たり。
尚、救護班等の活動状况次の如し。
II 醫療
一、應急救療の状况
(イ)縣の救護班
縣にては震嘯災害による被害、意外に甚大なる旨知るや、衞生課の恩賜金に依る巡回診療班、二班とも折よく在廳せるを以て、直に診療班の醫師一名、看護婦一名に、巡査部長一名、衞生技手(藥劑師)一名を加へ、急救治療に應ずる凖備を整へ、第一班は午前十一時、本吉郡小泉村・大谷村・唐桑村に、第二班は午後零時十分、本吉郡十三濱村に急行し、夫々罹災民の應急救療に當りたり。
(ロ)軍隊の救護班
第二師團より救護班四班出動せり。
第一班 桃生郡十五濱村・牡鹿郡大原村方面へ
軍醫正一名、軍醫二名、看護長四名、看護兵九名、兵一五名、主計一名、計手一名、計三十三名。
第二班 本吉郡唐桑村方面へ
軍醫一名、看護長一名、看護兵二名、兵三名、計七名。
第三班 本吉郡歌津村方面へ
軍醫一名、看護長一名、看護兵二名、兵三名、計七名。
第四班 亘理郡坂元村方面へ
軍醫一名、看護長一名、看護兵二名、兵二名、計六名。
(ハ)赤十字社支部の救護班
日本赤十字社宮城支部より救護班三班出動せり。
第一班 本吉郡唐桑村へ
醫師一名、看護婦二名。
第二班 桃生郡十五濱村へ
醫師二名、看護婦四名。
第三班 牡鹿郡大原村方面へ
醫師二名、看護婦四名。
(二)東北帝大の救護班
東北帝國大學醫學部附屬醫院より救護班一班本吉郡歌津村方面へ
内科醫一名、外科醫二名、産科婦人科醫一名、藥劑師一名、看護婦五名、事務員一名、各救護班は連繋を保ち傷病者の救療に當りたり。
(ホ)醫師會員の活動
罹災地所在郡醫師會に於ては會員にて夫々手分を爲し、救療に當りたり。中にも本吉郡醫師會の氣仙沼警察署管内にありたる醫師會員は毎日四班宛日程を定め救療の爲活動せり。
(へ)三月五日新潟縣日赤支部の救護班醫師一名、看護婦二名來援あり。桃生郡十五濱村荒部落の救護に當り三月七日引上げたり。
(卜)簡易保險局の救護班
仙臺簡易保險局にては、震嘯直後、醫師・看護婦等より成る救護班を桃生郡十五濱村に派遣し、診療所を開設し、負傷者、罹病者の診療手當に盡力したり。
二、爾後の救療竝防疫施設
三月五日迄に、應急救療は、大體に於て支障なく行はれたるも、其の後に於て、感胃、胃腸疾患等の發生を顧慮し、恩賜救療班の從來の日程を變更し又は救療場所の改廢を行ひ、罹災地に主力を注ぎ救療に當ると共に、一面特に内務省より罹災地の防疫の爲三月四日防疫醫三名、防疫監吏五名増配ありたるを以て、(三月、四月の二ヶ月間)取り敢へず、三月十日、防疫醫務囑託二名の増員を行ひ、志津川・氣仙沼兩警察署に各一名を配置し、氣仙沼警察署勤務の者は本吉郡唐桑村、志津川警察署勤務の者は本吉郡歌津村・戸倉村を各擔常し、罹災民の救療に當らしめ、更に三月十八日防疫醫務囑託一名を増員し石卷警察署に配置し、牡鹿郡大原村を擔當せしめ罹災民の救療に當らしめたり。四月に至りては、臨時縣會に於て、國庫交付金に依る震嘯災害救護費決議せられたるを以て、昭和八年九月迄、唐桑村に二箇所、歌津村、大原村各一箇所、計四箇所の出張診療所を開設し、且罹災地の巡回診療班一班を設置し(醫師一名、看護婦一名、事務員一名)震嘯地本吉郡歌津村、十三濱村、桃生郡十五濱村に月二回宛の巡回診療を行ひたり。
III 防疫施設の状况
震嘯の結果、家屋・井戸・便所等は、海水の浸入に依り凡て汚染せられ、保健衞生上は勿論防疫上憂慮に堪へざる状態なるに付、不取敢三月四日付衞第一、八九〇號を以て罹災地關係各警察署長に左記通牒を發し、應急措置の緊要を促したり。
海嘯罹災地衞生施設ニ關スル件今回ノ海嘯罹災地方ニ對スル衞生施設ニ就テハ夫々配慮計畫シアルベシト雖モ既往ニ於テ水害後其ノ地方ニ腸チフス、赤痢其ノ他ノ惡疫流行シタル事例アルニ鑑ミ、此ノ際特ニ町村當局ヲ督勵シ左記事項ヲ取急ギ實行セシメ以テ保健ノ實ヲ擧ゲラレ度追而浸水家屋ノ清潔方法竝井戸消毒ノ日割戸數等決定次第電話報告相成度
一、浸水家屋ハ全部消毒的大清潔方法ヲ施行スル事
二、浸水セル家具、什器、被服、農具ハ洗滌煮沸、日光、藥物等適當ノ消毒ヲ行ハシムルコト
三、飲料井戸ハ勿論雜用井戸ヲモ浚渫セシメ「クロール石灰水」又ハ「アンプレ入液體クロール」ヲ以テ消毒ノ上使用セシムルコト
四、屋外ノ下水肥料溜ハ浚渫シ、汚物ヲ停滯セシメザル樣處置スルコト
五、汚物ハ勿論塵芥ハ一定ノ場所ニ可成蒐集シ燒却シ得ザルモノハ消毒後土中ニ埋沒セシムルコト
六、檢病的戸口調査又ハ衞生状態視察ヲ間斷ナク勵行シテ部落民ノ健康ヲ監視スルコト
IV 縣直接の防疫施設
(イ)飲料井戸の消毒
罹災地に於ける汚染せられたる飲料井戸に對する消毒方法施行の爲、左の四班を編成し、消毒藥品携行の上之が實施に當らしめたり。
1、本吉郡唐桑村、大谷村、小泉村、歌津村方面へ
衞生技手(藥劑師)一名、防疫雇一名、巡査部長一名
2、桃生郡十五濱村、本吉郡十三濱村方面へ
衞生技手(藥劑師)一名、防疫事務囑託一名
3、牡鹿郡大原村、女川町方面へ
衞生技手(藥劑師)一名、防疫事務囑託一名
4、亘理郡坂元村へ
衞生技手(藥劑師)一名、防疫事務囑託一名
(ロ)臨時防疫職員の増配に依り防疫事務囑託五名を任命し、左の如き防疫事務に當らしめたり。
1、慰問品の消毒
慰問品中消毒を要すべき衣類等を消毒の爲、三月八日より左記職員を派遣し之に富らしめたり。
石卷救護出張所へ
衞生技手一名、防疫事務囑託一名
志津川救護出張所へ
防疫事務囑託一名
氣仙沼救護出張所へ
防疫監吏一名、防疫事務囑託一名
2、清潔法の督勵竝檢病的戸口調査
三月十日より左記の通防疫職員を派し、罹災地消毒的清潔方法の督勵竝健康状態の視察を兼ね傳染病不審患者の早期發見に當らしめ、病者發見の場合は救療班の診療を受けしむる等相連繋を保ちて活動せしめたり。
牡鹿郡女川町、大原村方面へ
防疫事務囑託一名、巡査部長一名
桃生郡十五濱村方面へ
防疫事務囑託一名。
本吉郡志津川町、歌津村、十三濱村方面へ
防疫事務囑託二名。
尚五月より九月迄防疫監吏二名の増配ありたるに依り、引續き防疫事務に當らしめたり。
(ハ)衞生施設の改善
四月十一日、十二日兩日に亘り、開かれたる罹災地關係町村長會議に於て、防疫施設の一端として、復興に際しては井戸の築造は、閉鎖式喞筒使用の構造とし、便所は内務省式改良便所の構築を普及する樣指示し、尚罹災地に於て復興に關する打合會の節、係員を派遣し之が指導を爲さしめたり。
第十節 保險會肚の應急措置
I 保險金の即時拂
天災による火災の保險金支拂に關しては、火災保險約■により、關係各會社は之を支拂はざる意向なるも、生命保險に於ては、多く支拂の斷行をなしたり。
安田生命・大正生命・仁壽生命、横濱生命・富國徴兵等の各社にては、何れも保險金の即時拂斷行を爲すを決議の上、その旨三月上旬の一流新聞誌上に發表し、該當者の最寄支活又は代理店に申出次第、社員をして、支拂手續を取らしめたり。
II 保險會社の救護・慰問
安田生命保險會社にては、三陸地方震嘯災の報に接し、東京本社より堀契約課長以下、仙臺支店より武市支店長以下、合計十數名を以て、救護班二班を組織し、毛布・シヤツ・足袋一千名分を携帶、加入罹災者慰問の爲、三陸沿岸に向ひ、大いに救護・慰問する處ありたり。
第十一節 新聞社の救援
I 義捐金募集
在仙日刊新聞社長・東京各新聞社仙臺支局長・在仙福島新聞支局長は、本縣知事・仙臺市長・縣曾議員・縣町村長會長と協同の下に、三月四日以來、三陸沿岸罹災者の爲に、義捐金品の募集をなせり。(別稿第六章義捐金品の募集竝配給の條參照)受付場所は、縣廳・市役所及町村役場を以て、之に指定したるも、尚從來の慣習により、義捐者中には、各新聞社に義捐金品を送附又は持參の上、之が寄託をなすもの尠からざりき。仍て、受託の新聞社にては、之を本縣社會課乃至市社會課に移送の勞を執られたるのみならず、義捐金品受領證に代へ、貴重なる紙面を割きて、義捐者の芳名掲載に當られたりき。
之等、義捐金募集發企をなせる新聞社名左の如し。
仙臺市及福島市日刊新聞
河北新報社 東華薪聞社
仙臺日々新聞社 日刊大仙臺社
東北産業日報社 福島民報社
東京市日刊新聞
東京朝日新聞社仙臺支局 東京日々新聞社仙臺支局
報知新聞社仙臺支局 讀賣新聞社仙臺支局
時事新報社仙臺支局 國民新聞社仙臺支局
II 河北新報社
報導
河北新報社にては、發震直後、ラヂオの臨時ニユース、災害地支局の至急報知により、急遽社員の總動員を行ひ、本縣牡鹿郡及岩手縣釜石町・遠野町の水火災状况第一報號外に續きて、災害當日三回、四日二回、五日一回の號外を發行し、仙臺市及附近町村民に對し、縣下災害の詳報竝實况(寫眞)を速報したり。
救援隊の出動
災害當夜、同社にては事業部員を總動員して、慰問準備を整へたり。食糧品・日用品を携へたる第一回第一班の慰問班は即夜牡鹿郡女川町・本吉郡志津川町方面に派遣せられ、遠く、岩手縣宮古・釜石・大船渡・盛・高田の各方面に急行せしものも
ありき。
この經驗により、五日夕刻發せる同社の罹災地慰問第二班は、災害地に於て最も必要なる次の如き品々を選定、トラツクに滿載、まづ女川町に向ひ、同地より海岸傳ひに北上せり。
白米二升入袋 二百袋
手拭 八百本
福神漬鑵詰 三百個
バケツ 二百個
メリヤスシヤツ 百五十六枚
足袋(大、小) 五千足
メンソレータム 百五十箱
風呂敷 五十枚
歯みがき及ブラシ 一梱
用箋 三百冊
ついで、八日更に第二回の同社罹災地慰問班は、本吉郡北部に派遣せられたり。同慰問隊は、午前八時半仙臺同社前發、十一時頃、本吉郡唐桑村に入り、同村各部落に對し、白米・漬物・鑵詰の食料品より、シヤツ・足袋・ヂヤケツ等の衣類、バケ
ッ等の日用品の配給をなしたり。
又、十日には、第三回の慰問班を派遣し、四日間に亘りて、女川・荻ノ濱・大原・鮎川・十五濱・戸倉・志津川・歌津・小泉・大谷・階上・氣仙沼・唐桑・大島の各地を通じて、仙臺市内各方面より寄贈せられたる慰問品と、同社寄贈の日用品とを配給せり。
III 東京朝日・大阪朝日新聞社
報導
災害當日、午前六時三十分、ラヂオの臨時、ニュースにより、「三陸沿岸」に津浪あるを知れる東京・大阪朝日新聞社にては宮城・岩手・青森各地所在の支局より續々到來せる慘害情報によりて、豫想以上の慘害あるに驚き、社員を總動員して、記事の蒐集につとめたり。
當日午前、逸早く號外第一報を出し、更に主要罹災地に向け特派員を派遣せり。同日の夕刊にも、各支局よりの電話によりて、關係記事を滿載せるが、五日には災害地寫眞所載の新聞紙二頁大の號外二回を發行せり。
又三月五日より、罹災地の慘状實况寫眞を、仙臺市・石卷町以下の縣下主要町村商店のウインドウに陳列し、報導をかねて、行人の同情を惹くにつとめたり。
慰問隊の派遣
東京朝日新聞社伊東通信部長は、朝日新聞社寄贈の二千圓及同社内震災共同基金會寄贈の二干圓計四千圓を携へ、取敢へず三日夜、東京出發、罹災地に向け出發せり。
ついで、東京・大阪兩朝日新聞社を通じて寄せられたる全國よりの同情による義捐金第一回配給をかね、罹災地慰問の爲東京本社より派遣の三慰問班中、第三班は本縣下罹災地に向へり。
八日午前、同班は、本縣知事訪問、見舞の辭を述べたる後、災害激甚なりし、牡鹿半島・大原村・荻ノ濱村・女川町の慘状を順次視察慰問の後、同胞同情の温き結晶たる義捐金を配給せり。
義捐金の募集及配給
同社にては、今回の災害に對し、廣く江湖の同情を求むる事となし、三月四日「三陸罹災者のため救援同情義金を募る」と題して、一口一圓以上の義捐金募集廣告を出せり。
然るに、之が反響は湧然として起り、同年五月末日迄、應募金額東京朝日、拾萬貳千七百貳拾參圓八拾錢、大阪朝日、拾壹萬二百七拾參圓六拾參錢、合計貳拾壹萬貳千九百九拾七圓四拾參錢に達せり。
而して、右金額の處分は、募集の際の條件に、兩社は配當方法を一任されたるにより、拾六萬貳千餘圓を一般罹災民に分配(三回に配給)なせると、貳千餘圓を出征家族慰問に配當せる他の、約五萬圓を以て、罹災各町村部落に「災害記念碑」を建設
し、今回の災害を永久に、記念せしむる事とせり。
映畫公開
災害の慘報至るや、東京朝日新聞社映畫班は、撮影凖備萬端の終了するを俟つて、至急災害地に赴き、實况を撮影の上、飛來中の同社の飛行機に託して空輸せしが、これを三月六日より東京市に於て、一般に公開すると共に、仙臺市に於ても、同日二ケ所に於て、數回に亘り映寫し、八日よりは引續き縣下各所(中新田・南郷・亘理)等を巡回公開せり。
これにより、多少災害に無關心なりし者も、同情心を刺戟せられ、義金應募に參加せるもの尠からざりき。
IV 東京日日・大阪毎日新聞社
報導
東京日日、大阪毎日新聞の兩社にては、三月三日の夜半、東日本は強震、關西に於ても弱震を感ずる程度の大地震により三陸沿岸に異變あるを洞察し、早くも關係各地に電話を以て照會したるに、仙臺支局にては石卷通信部の活動により、地震後津浪の襲來、慘害を蒙れるを知り、第一報を午前四時頃、東京本社に通報したるを以て、これにより、午前六時二十分、逸早く震災記事滿載の四ッ切不再録號外を發行したり。
一方、東京本社にては、取敢へず、電報通信社と連合にて、飛行機一臺を以て、災害状况を視察せしむる事とし、尚内務省の依頼により、石川事務官を同乘せしめたり。同飛行機は、一旦仙臺に着陸後岩手縣釜石町に飛行、罹災地沿岸を慰問旁々空中より、状况撮影に任じたり。
尚、同日、東京本社より、社員は寫眞班と同行、罹災地に向け出發したり。
仙臺支局にては、號外を發行すると共に、社員二名宛を主要罹災地に自動車にて急行せしめ、報導の確實を期し、その結果を續々四日夕刊以後發行の朝夕刊に掲載せり。
義捐金の配給及募集
東京日日・大阪毎日兩社にては、災害の報を知るや、四日取敢へず、金貳千圓を見舞金として、本縣及岩手・青森三縣罹災者に對して、寄贈すべく、伊藤内國通信部長をして、罹災地に派して、各町村を訪ね、慰問の辭を述ぶると共に、義捐金の配給をなせり。
翌五日、兩紙上に、義捐金募集廣告を發表し、大方の同情に訴ふる事とせり。
その結果、義捐金取扱締切たる三月十五日迄に、累計七萬參千七拾五圓五拾五錢に達せしかば、之が配給につきては、第一・第二現地慰問使配分の、壹萬參千餘圓を除き、他は關係道縣當局に一任する事とせり。
仍て、十六日正午、同社にては、折から上京中の、佐上北海道長官、本縣二見内務部長、森部岩手縣警察部長、木村青森縣土木主事の一道・三縣當局者に、各配分の義捐金を手交する處あり。本縣配分金額は、壹萬圓なりき。
映畫公開
兩社にては三月四日三陸沿岸に飛行機派遣の際、機上より罹災民の慰問をなすと共に、沿岸の悲慘なる實况を活動寫眞におさめたり。
まづ、東京に於て、同社「サンデー毎日」主催の「三陸大震災義捐小唄と映畫の會」を、日比谷公會堂に八日夜開催し、その席上、同映晝を映寫、關東震災の記憶未だ生々しき中央都人士に同情の念を惹起せしめたり。
尚、本縣下にては、同映畫を、滿洲熱河討伐關係映畫と共に、七日より十九日に至る間、各地にて公開したり。
V 報知新聞社
報導
三月三日拂曉、突如東北・關東地方を搖り動かせる強震の爲、三陸沿岸に津浪襲來し、岩手縣方面は水火災に見舞はるとの慘報は、報知新聞、仙臺・盛岡・青森の各支局より至急電話ありしを以て、同本社にては、特派員を各地に派遣せしが、本縣下に於ては、長谷特派員は氣仙沼・女川・大原方面に、佐々木特派員は石卷方面に向へり。之等の報導によりて東京及關係各支局に於ては、號外を印刷して、讀者に配布せり。
三日夕刊はもとより、四日朝・夕刊にも、紙面の主要部分を震嘯記事掲載につとめ、特に本縣地方版の如き、殆んど九分通り、縣下罹災の状况を詳述せり。
義捐金品の募集
今回の強震と津浪の災厄を蒙れる三陸沿岸地方は、近年凶作に惱まされ、又滿洲派遣部隊の出身地なるに、今又この天災に襲はれて慘苦は一層甚だしきものあり。この點に同情せる報知新聞社にては、三月四日、卒先して金壹千圓也を見舞金として罹災民に贈ると共に、廣く一般の義捐金品を募集する事となり、同社企畫部をして之に當らしめたり。
この募集に先立ちて、逸早く災害當日、同社に持込める義捐金品より、三月十七日締切に至る迄、殺到せる金品は、物品八萬四千八百五十六點、現金壹萬八千四百七拾九圓七拾八錢に達したり。
義捐品は主として、夜具・衣類・外套・タオル・バケッ等の災害直後使用の必要あるものより、通學用カバン・藥品・封筒等の日用品多かりしを以て、速に本縣他二縣の罹災地に向け發途せるが、一時は發送する後より後よりと同情者よりの集まる物品の爲、同社の企畫部のみにては收容する能はずして、同本社前道路に迄はみ出す状况なりしといふ。
VI 讀賣新聞社
報導
讀賣新聞社にては、三月三日三陸沿岸を襲來せる地震・津浪の災禍を、宮城・岩手兩縣保安課、仙臺・盛岡の各支局よりの電話等により知るや、之等を綜合して號外を發行し、東京市民に逸早く慘状を傳へ、同日夕刊にはその詳報を掲げたり。
續いて、四日、同社特派員の手になる慘害地寫眞及踏破記事滿載の號外を全國讀者に配布せるを以て、その同情を惹く處尠からざりき。
慰問品發送
震嘯災による罹災民の窮状は筆紙に絶するものあり。就中、同地方の物資缺乏は明々白なるを以て、讀賣新聞社にては、見舞品として、寒國の災禍に最も緊要なる木炭二千俵(郡山營林署製)を罹災地に急送せり。
義捐金品の配給
讀賣新聞社仙臺支局は義捐金募集をなせるが、これと別に、東京本社宛、義捐金品の寄託をなせるものあり。義捐品にはタオル・衣類・雜貨・マントの日用品より、温き同情の心をこめたる物品封入の慰問袋等あり。之等は、主務官廳を經て、適當に罹災者へ分配を依頼せり。
VII 時事新報社
報導
時事新報社は、災害即日、これに關する號外を發行せるが、同日夕刊には、「今曉三陸地方の大震災」なる見出しの下に、震嘯災害記事を以て、劈頭第一頁を埋め、翌四日朝刊には、「死屍を搖がす餘震」なる記事を載せ、讀者の心膽をして寒からしむると同時に、多大の同情心を喚び起さしめたり。又、同日の東北版は、盡く震嘯記事を以て充され、同社獨特の産業ぺーヂには、三陸漁場の損失が、我が國水産界に及ぼせる影響の甚大なる所以を説き、今回の災害の決して東北地方に限られたる問題に非ざるを強調せり。
慰問品の急送及慰問金品の募集
今回の震嘯災に對し、まづ第一に緊要なるは、罹災民の饑餓を救ふにありとし、時事新報社は、災害の報至るや、即刻多量の衣類・寝具その他日用品を罹災地に急送し、配給を開始せり。
加之、同社は更に社會の同情に訴ふる事とし、廣く慰問品を募集し、之等受託品は、迅速有効に、罹災民の饑寒防止に役立つる事とせり。
これに對し、各方面よりの同情翕然として集まり、義捐金品の蒐集多額にのぼれるを以て、三月四日午後取敢へず第一回分を、五日午後二時、衣類一千餘枚、その他雜品十數包を罹災地に向け急送せり。
之等、慰問品發送の經驗に鑑みて、罹災地にて、急に買入不可能にして、しかも必要なるは予供の衣類、男女履物及足袋なるを知り、同八日及十日これを讀者の同情に訴へたるを以て、篤志家の之に應ずるものありて、罹災民の感謝する處となれり。
VIII その他の新聞社
右の外、全國を通じて、今回の震嘯災害に同情し、被害状况の報導につとむると共に、本縣に向け義捐金品を發送し來れる新聞社尠からず。
之等の記事は、これを一々記述するは、困難なるを以て、その社名のみを記する事とせり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
第十二節 其の他の救護
I 宮城縣販賣購買組合聯合會
災害直後、縣に於て直接政府拂下米を被害地町村を通じ配給せるも、之等は一時的の處置なるを以て、更に飯米の必要起りたり。
此處に於て、縣販賣購買組合聯合會に於ては、安價低廉なる飯米を、被害地産業組合の組合員に供給するの必要を痛感し早速被害地組合と連絡を採り、全國米穀販賣組合聯合會と交渉、政府米の拂下を爲し、組合員の生活の安定を圖りたり。
尚、産業組合設置町村にして、被害甚大なる左記組合に對し、三、一三三俵の飯米を安價に配給し、災害後に於ける復興の一助に資したり。配給を受けたる組合及配給俵數左の如し。
II 井上組
大阪市の建築請負業井上組にては、從業者を本縣下罹災地に送る處あり。
内五名は、本吉郡唐桑村小鯖に來りて、バラック建築その他に從事せり。
III 其の他
イ 三月十一日の縣參事會に於て七年度に於て救護警備等に要する諸費四萬五千九拾六圓竝小漁船建造、耕地復舊、稚蠶共同飼育所設置等の費用に充當せしむる貸付金拾七萬九千六百圓の議決を經て、救護警備其他應急施設を促進するに遺憾なきを期したり。
ロ 縣電氣局に於ては罹災部落の樞要道路、海岸に災害直後十燭乃至二百燭光の臨時電燈を架設し一般の便に供し、又罹災者中生活困難なりと認むる者に對しては五月末日迄電燈料無料供給することとし三月二十八日迄決定したるもの桃生郡九十六戸牡鹿郡三百三十戸本吉郡二百八十二戸計七百八戸あり、尚電燈の流失破損八百十一戸、一千三百九十七燈、電柱の倒壞流失三百三十八本あり。之が復舊に付ては配電線路費壹萬七百五拾圓、引込内線費六千五百五圓計壹萬七千貳百五拾五圓の豫算を以て急速復舊に努めたり。
第六章 義捐金品の募集及配給
第一節 義捐金品の募集
I 義捐金募集の努力
今回の震災竝海嘯の被害殊の外甚大にして、之が救護に付ては廣く社會の同情に愬へ義捐金品を募集するの必要を認め、三月四日知事より全國各府縣知事、竝北海道廳長官に義捐金品の募集に關し、特別の御配慮を請ふ旨電報を以て依頼し、更に同日知事・仙臺市長・縣會議長・縣町村長會長・在仙新聞社長・同支局長等、縣廳會議室に參集し協議したる結果、罹災地以外の縣下一般より義捐金品を募集することに決し即時公告したり。
又、警察部長は知事代理として、三月四日午後六時二十五分仙臺放送局(JOHK)より、「三陸海嘯の被害に就て」と題し、宮城・岩手及青森縣下に於ける震災當時の状况、罹災地の現状及之に對する應急措置を述べ、全國の志士仁人の同情に愬へたり。
又、縣官吏々員は、何等かの方法によりて、管下沿岸罹災民の不幸を慰問せんと欲せし折から、次の如き回状に接し、一同卒先して、義捐金の醵出に應ぜり。
官第五〇號
昭和八年三月四日
知事官房主事
殿
義捐金醵出ノ件
本月三日午前二時三十一分過震源地ヲ金華山沖ニ發シタル強震ハ家屋ヲ倒潰シ海嘯ヲ起シテ多數ノ死傷者ヲ出シ流出シタル戸數船舟又夥シキ數ニ上リ罹災者ノ近状誠ニ同情ニ不堪次第ニ有之候縣ハ之力救濟ニ努ムルト雖亦以テ萬全ヲ期シ
難ク依テ各方面ノ同情ヲ希フコト切ナルモノ有之候ニ就テハ本縣職員ハ左記ニ依リ醵出ノ上救濟ノ資ト致度候條貴課(所)員全部御賛成相成候樣致度依命及通牒候也
記
一、醵出金額ハ高等官、同待遇者及年給者ハ俸給月割額ノ百分ノ三、判任官同待遇者及月給者(雇員ヲ除ク)俸給百分ノ
二、雇員ハ月給百分ノ一トスルコト
二、醵出額ハ三月三十一日迄官職氏名及金額ヲ記シ會計課長宛送付ノコト
その義捐金額次の如し。
高等官及同待遇者 四三円、八六
判任官及同待遇者 九七、七四
雇員その他 八、七八
計 一五〇、三八
尚義捐金募集の發表以前に於て既に出捐を申出たるもの件數十二件、總額四千九百拾圓に及び、その後各地方より絶大の同情を受け、近きは東北各縣より、遠きは、滿洲國・南洋・北米合衆國よりも續々として、義捐金品の寄贈あり。
中には、可憐なる小學校兒童の純情に依るもの、或は勞働者の時間外勤務になる金を集め、或は傷病兵が煙草代を節して出捐したる等、感激すべきもの枚擧に遑あらず。
縣に於て、昭和九年六月末日迄に受理したる義捐金は、合計一、三三〇件、參拾六萬壹千八百六拾九圓八拾六錢に達せり。
II 義捐金の寄贈先
尚、義捐金分配當時に於ける寄贈先別次の如し。
義捐金總額 金參拾四萬壹千貳百八拾貳圓參拾四錢(昭和八年七月二十日現在)
内
金四寓貳千百拾參圓九拾七錢 宮城縣分 金貳拾九萬百六拾八圓參拾七錢 其の他の分
III 罹災町村直接受領の義捐金
右の外直接罹災地町村に於て寄贈を受けたる義捐金額左の如し
IV 義捐品配給の状况
災害に依り罹災民の先づ以て必要とする所のものは、衣類・寝具及食料品にして、之等は、縣及罹災地附近町村其他各方面の救援に依り、纔かに飢餓寒威を凌ぐを得たりと雖、尚充分なりと謂ふを得ざるに付、義捐金の内より、罹災民の特に必要とする衣類・食料品等を購入調達し、之を罹災地町村に配給せり。其の總額九千七百四拾六圓參拾參錢なり。縣廳扱の義捐金に付ては、被害の程度竝今後に於ける生活の難易等を考慮し、適當なる分配標凖竝方法等を決定して分配し、之を最も有効適當なる方途に充てしめたり。
尚、縣に於て受領したる義捐品は、各救護出張所又は罹災地町村役場に送付し、各罹災民に迅速に配給せしめたり。因みに各救護出張所其他に配給したる數量左の如し。
石卷救護出張所 三千五百七十三個 志津川救護出張所 一千五百五十二個
氣仙沼救護出張所 一千六百八個 坂元村 四十個
罹災地町村へ直接送付(坂元村以外) 三百四十七個
右の内重なる慰問品の寄贈者及配給先左の如し。
又、石卷・志津川・氣仙沼の各救護出張所に於て、罹災地町村に配給したる慰問、救護品の種類別、數量及配給先左の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
第二節 義捐金品の配給
I 災害直後の配給
災害に依り罹災民の先づ必要とせるものは、謂ふ迄もなく、衣類・寝具及食料品等なれば、、之等は縣及罹災地附近町村其他各方面の救援に依り、纔かに飢餓寒威を凌ぐを得たりと雖、尚充分ならざるを以て、義捐金中より、罹災民の特に必要とする衣類・蒲團・食料品等を購入調達し、之を罹災町村に配給せり。共の總類九千七百四拾六圓參拾參錢なり。
II 義捐金配給の決定
各方面の絶大なる同情により、縣に寄贈せられたる義捐金は、昭和八年七月二十日現在に於て、總額參拾四萬壹千貳百八拾貳圓參拾四錢に達したり。之が處分方法に關しては、苟も寄贈者の趣旨に悖らざる樣數度愼重協議し、傍ら奥丹後(京都府)北但(兵庫縣)その他近年に起りし災害に對する義捐金の處分方法を參考とし、更に震嘯災害善後委員會にはかり、大體の腹案を得たる後、八月十八日義捐金募集主催者の協議會を開催の上、之が分配標凖及方法を決定せり。
III 義捐金分配の要項決定
義捐金交付に先立ち、八月二十三日付を以て、學務部長より關係各町村長に對し、左の如き通牒を發し、罹災者に分配するに際しては愼重處理せられたきむね希望する處ありたり。
義捐金交付ニ關スル件依命通牒
過般ノ震災ニ際シ罹災者救援ノ爲直ニ各府縣知事竝北海道長官ニ義捐金品ノ募集ニ關シ依頼スルト共ニ知事、仙臺市長、縣會議長、縣町村長會長及在仙新聞社長、同支局長等主催ノ下ニ罹災地以外ノ縣下一般ヨリ義捐金募集ノ處各方面ヨリ絶大ナル同情ヲ受ケ七月二十日現在ニ於テ總額參拾四萬壹千貳百八拾貳圓參拾四錢ニ達シ(内縣内五萬壹千壹百拾參圓九拾七錢)右處分ニ關シ本月十八日主催者ノ協議會ヲ開催シ別記ノ通決定相成候ニ付各要項御了承ノ上可然措置相成度尚弔意金及見舞金ニ付テハ別途送付候ニ付速ニ罹災者ニ交付シ各罹災者ヲシテ寄贈者ノ趣旨ニ添フヘク最モ有効適切ナル使途ニ充テシメ苟モ濫費等無之樣充分御留意相成度
而してその處分要項次の如し。
義捐金處分要項
義捐金總額 金三四一、二八二圓三四 昭和八年七月二十日現在
内指定義捐金 金二〇、二六六圓三五
1、朝日新聞社ヨリ記念碑建設資金トシテ寄託 一三、一一五圓一三
2、罹災教員兒童共ノ他ニ對スル分 七、一五一圓二二
右ハ指定ノ趣旨ニ依リ處分スルモノトス
差引殘額 金三二一、〇一五圓九九 一般義捐金
一般義捐金ヲ處分スルコト左ノ如シ
一、罹災民分配額 金二一八、五四〇圓三九
内譯
1、應急救恤品代 金一〇、〇一九圓三九(支出濟)
2、住宅適地造成費補助 金六〇、○○○圓○○(適地造成費ノ三割以内)
3、無動力船舶復舊利子補給 金一、三四〇圓○○
4、死亡者、行方不明者等ニ對スル弔慰金 金一三、六〇〇圓○○(四七九人分)
5、不具癈疾其ノ他ノ傷痍者見舞金 金一、二三二圓○○(一五五人分)
6、住宅被害見舞金 金一三二、三四九圓○○(二、一九〇戸分)
二、公共施設費分配額 金一〇〇、○○○圓○○
公共施設費ハ被害部落ノ戸數及被害程度等ヲ斟酌シ記念施設ノ費用ニ充當セシメ之ヲ非常時ニハ避難所トシ常時ニハ共同作業場及隣保事業ニ使用セシムルモノトス
三、差引殘額 金二、四七五圓六〇(第二回處分迄保留)
IV 義捐金分配標凖及方法
一、分配標準
1、死亡者、行方不明者 一人ニ付 三〇
2、傷病者
イ、不具癈疾トナリタル者
有資産者 同 五〇
無資産者 一〇〇
ロ、二週間以上醫師ノ治療ヲ受ケタル者 同 一〇
ハ、一週間以上二週間未満醫師ノ治療ヲ受ケタル者 同 三
3、一家ノ主働目者ヲ喪ヒタル者
イ、六十五歳以上十三歳未滿ノ遺族
有資産者 同 二〇
無資産者 同 四〇
ロ、其ノ他ノ遺族
有資産者 同 一〇
無資産者 同 二〇
4、六十五歳以上十三歳未滿ノ孤獨者
有資産者 同 五〇
無資産者 同 一○○
5、住宅ノ被害
イ、全潰全流失
建築スルモノ一世帶ニ付 一七〇
建築セサルモノ 同 一〇〇
ロ、半潰半流失
建築スルモノ 同 一二〇
建築セサルモノ 同 五〇
ハ、床上浸水 同 三五
ニ、床下浸水 同 三
備考
一、不具癈疾トナリタルモノノ程度ハ全然勞働能力ヲ喪ヒタルモノトス
二、有資産者、無資産者ノ區別ハ四月一日社第五八五號被害地町村長照會ノ第二表ニ依ル中流以上ノ者ヲ有資産トシ貧困者ヲ無資産者トスルコト
(二)分配方法
1、義捐金ノ分配ヲ受クヘキ者ノ範圍ハ内外人ヲ問ハス今回ノ地震・海嘯ニ因リ分配標準ニ掲ケタル災害ヲ被リタルモノトス
2、死亡者・行方不明者及傷病者ニ付テハ罹災當時罹災地ニ世帶ヲ構へ居リタルト否トヲ問ハサルコト
3、住宅ノ罹災ニ付テハ罹災當時罹災地ニ世帶ヲ構へ居リタルモノニ限ルコト 但シ罹災住宅ハ自家タルト借家タルトヲ問ハサルコト
4、縣ハ分配標準ニ依リ町村配當額ヲ定メ送付ス町村長ハ右分配標準ニ依リ各個人ニ交付スルコト
5、義捐金ノ交付ニ當リテハ産業組合預金帳又ハ郵便貯金通帳ニ預金或ハ貯金ノ上交付シ拂出ノ必要アル場合ハ町村長若シクハ助役ノ證印ヲ要スルコトトシ濫費ノ防止ニ努ムルコト
住宅ノ被害ヲ標準トシ義捐金ノ交付ヲ受ケタル者ニシテ住宅ノ建設ヲ行フモノニ對シテハ住宅ノ建設ヲ行フ際ニ拂出サシムル方法ヲ取ルコト
6、義捐金ハ住宅ノ罹災者ニ付テハ世帶主ニ死亡者・行方不明者ニ付テハ其ノ遺族ニ傷病者ニ付テハ本人又ハ世帶主ニ交付スルコト
7、義捐金交付ノ際ハ交付簿(交付年月日、金額、氏名ヲ記載シ種類別ニ作製スルコト)ニ受領印ヲ徴スルコト
交付完了シタルトキハ右交付簿ヲ添へ直ニ報告スルコト
V 義捐金各町村交付額
義捐金の各町村への交付額次の如し。
VII 義捐金第二回の處分
第一回の義捐金處分後、なほ震嘯災に對し、同情せる各位よりの義捐金あり、これが總額は昭和九年八月上旬現在に於て二八、六〇八圓五五錢に達したるを以て、之が處分法を社會課に於て立案し、各方面に協議の上、次の如く決定せり。
第二回處分額及處分方法
前記義捐金二八、六〇八圓五五錢及第一回處分確定額中使用殘額ヲ處分スルコト次ノ如シ。
(一)震嘯誌印刷費 二、八○○圓○○
(二)震嘯災臨時事務囑託手當 四七〇圓○〇
(三)無動力船舶復舊資金利子補給追加 二三一圓○○
(四)諸費(震嘯誌荷造、送料其ノ他雜費) 二〇〇圓○○
(五)震嘯災害地復興指導助成費(上記諸經費ノ控除殘額ヲ之ニ充當ス)
本費ハ財團法人宮城縣社會事業協會ニ交付シ特別會計トシテ震嘯災害地復興指導助成費ニ充當セシム
(註)同協會ハ從來ニ於テモ罹災地ニ託兒所八ケ所ヲ直營シ又同種事業ニ助成金ヲ交付シ或ハ生業資金ヲ貸付スル等相當ノ活動ヲ爲シツツアルヲ以テ本資金ノ交付ニヨリ其ノ活動ヲ助長スルヲ適當ト認ム。
第四編 復舊復興
第一章 知事以下の上京陳情
第一節 政府及議會への陳情
三邊知事は、大金侍從の罹災地視察隨行竝應急措置の大體の決定を俟ち、三月十一日の縣參事會終了後、同夜九時二十五分發の急行にて上京し、畏き邊りの救恤金御下賜と、大金侍從御差遣とに對する御禮言上をなし、更に各宮家の御救恤金御下賜に就き御禮申し上げたるが、政府に對し、縣下の災害状况と縣のとりたる應急各種措置を報告すると共に、罹災地復興計畫に就き諒解を求め、今回の災害復舊に關し、政府の方針、特に、各種國庫補助交付率、復興低利資金の融通等に就き、政府の最大限且積極的なる援助を懇望し、極力諒解を求むる事に力めたり。
越えて十三日、知事は、早朝より、石黒農林・潮内務兩次官を夫々官邸に訪問し、被害の實状を具陳し、政府の援助方を懇請したり。更に午前十一時半より、衆議院に出頭し、院内各派交渉室に於て、内ケ崎・菅原・守屋の縣選出代議士及岩手縣選出代議士同縣會議員其の他有志の一行等と親しく會見、石黒岩手縣知事と共に、委曲を盡して同樣懇請するところありたり。
之に對し、山本内相は、
「三陸の被害は、聞けば聞く程大きいので、誠に御同情に堪へない、未だ自分は、總理大臣、大藏大臣とも話をしてゐないので、近く相談の上、なるべく御希望に添ふ樣努力したい。」と、回答され、後藤農相は、
「漁船の被害は非常に大きいと承つてゐる。然し、今日、これに對する國庫補助の先例はないので、この點十分研究したいと思ふ。今回の問題に就ては、政府は縣知事と共に一致協力して善處するが肝要である。」と、極めて好意的の回答を與へられ、午後一時十分引續き齋藤首相も出席され、
「三陸地方の災害に就ては、自分も十分承知してゐる。豫算は内務・農林兩大臣ともよく話合ひ、大藏大臣とも相談の上兩三日中に追加豫算として、今議會に提案したいと思ふ。」と、言明されたり。よつて、一行は、更に、山口(政友)・松田(民政)兩黨幹事長・小山(民政)・濱田(政友)兩黨總務の出席を要請し、同樣趣旨の陳情を試みたり。
之に對し、兩黨幹部は、齋藤首相に、追加豫算の提否を確むる事となり、院内大臣室に於て、齋藤首相に尋ねたるに、首相は、
「明後日(十五日)の追加豫算と一緒に提案したいと思ふが、若し出來ぬ場合は、今期議會に於て解決する。」旨、答へられたるを以て、四氏は右を一行に報告するところありたり。
かくて、各方面に亘り、積極的なる運動を開始したる三邊知事は、伏見軍令部長宮殿下奉迎の爲、十五日朝、一先づ、歸仙したるが、十七日、更に上京、復興計畫の追加豫算の議會提出方實現を要求するところあり。又、關係各省と折衝の爲、十三、十四の兩夜にわたり、二見内務部長以下、庶務・土木・商工・山林・衞生の各課長竝水産・耕地・農務・養蠶關係技師等大擧上京し、夫々活動を開始せり。
第二節 知事の政黨總裁訪問
山本内相は三月十四日午前九時、鈴木政友會總裁をその私邸に訪問し、三陸地方震災救濟追加豫算につき諒解を求め、懇談する處あり。これと相前後して、三邊本縣知事は、石黒岩手縣知事と相伴ひて、同總裁を訪問し、三陸地方の復舊費を臨時議會の追加豫算として計上提出せられん事を懇請せしが、同總裁も、之を諒とせられ、極力希望に副ふ樣盡力すべしと答へられたり。
第二章 災害關係會議
第一節 臨時縣會の開催
I 約説
縣當局に於ては、今回の災害による事態の重大なるに鑑み、縣會臨時會の開催を、四月五・六日の兩日間召集して、震嘯災害復舊費等に關する豫算を附議したりしが、第一號より第六號に至る議案全部は、六日午後滿場一致を以て可決せられたり。
而して兩日出席の議員次の如し。
出席議員
一番(菊地養之輔) 二番(今村治三郎)
三番(山田甚助) 四番(佐藤彌代二)
五番(大槻儀十郎) 六番(朝倉松吉)
八番(粟野豐助) 九番(高城畊造)
十番(澤口一郎) 十一番(伊丹榮三郎)
十二番(小野儀左衞門) 十三番(庄司作五郎)
十四番(樺澤敬之助) 十五番(南條秀夫)
十六番(高橋幸市) 十七番(今川正)
十八番(中島徳治) 十九番(加藤豹五郎)
二十一番(遣水祐四郎) 二十二番(松山平兵衞)
二十三番(草刈勝衞) 二十四番(小野惣助)
二十五番(菊地明夫) 二十六番(小野寺廣亮)
二十七番(小島眞助) 二十八番(吉田潤平)
二十九番(安藤源治郎) 三十番(北村文衞)
三十一番(千石順平) 三十二番(熊谷泰事郎)
三十三番(飯塚千尋) 三十四番(富田廣重)
三十五番(大槻茂) 三十六番(佐々木靜)
三十七番(熊谷誠一)
缺席議員一名
七番(菅原壽左衞門)
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:3.4MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:3MB
II 議事進行の次第
四月五日午後二時三十四分、號鈴により開會を告げらるるや、三邊知事は、鈴木警察部長以下各部・課長を隨へ、縣會議事堂に臨場の上、登壇して、次の如き開會の辭を述べたり。
諸君■ニ府縣制ノ規程ニ基キマシテ、宮城縣會臨時會ヲ開會致シマス、開會劈頭ニ當リマシテ、謹ンデ各位ニ御報告申上ゲルコトガゴザイマス、天皇皇后兩陛下ニ於カセラレマシテハ今回ノ震嘯災害ノ激甚ナル趣ヲ聞召サレマシテ、三月五日特ニ侍從ヲ御差遣ニナリマシテ、御救恤ノ御思召ヲ以タレマシテ、御内帑ノ資ヲ下シ賜ツタノデゴザイマス、尚ホ四月一日ニハ皇后陛下ヨリ罹災地ノ罹災傷病者竝六十歳以上十四歳未滿ノ孤獨者ニ對シマシテ、御救恤品ヲ賜リマシタ、尚ホ又各宮家ヨリハ三月九日御救恤ノ資ヲ下シ賜ツタノデゴザイマス、皇室ノ御恩澤ノ宏大ナルコト寔ニ恐懼感激ノ至リニ堪ヘヌ次第デゴザイマス、今回附議致シマスル事件ハ告示致シテアリマスル通リ、先般ノ震嘯災害ノ救護復舊等ノ善後措置ニ關シマスル追加更正豫算竝之ニ伴ヒマスル各案デゴザイマス、罹災地ノ状况ハ洵ニ酸鼻ヲ極メテ居リマス、災害發生以來縣ト致シマシテハ直チニ臨時救護ノ衝ニ努力致シマスルト共ニ、一面復舊復興其ノ他ノ善後措置ニ付キマシテ、案ヲ得マシタノデ、直チニ政府ト打合セ、政府ノ補助モ決定ヲ致シマシタノデ、■ニ提案ノ運ビニナツタ次第デアリマス、各案共何レモ敏速ニ執行スル必要アリト存ジマシテ取急イデ縣會ヲ招集シタヤウナ次第デゴザイマス、願クハ各位ノ御協賛ヲ得マシテ一日モ速ニ此ノ復舊其ノ他ノ善後措置ヲ完了致シタイト切望シテ已マヌ次第デゴザイマス、之ヲ以チマシテ開會ノ御挨拶ト致シマス
ついで、同日午後二時四十七分、いよいよ本議題に入り、次の順序により、五・六の兩日に亘り、議事の進行をなしたり。
(以下、宮城縣會臨時會議事速記録による。)
(イ)四月五日の分
○議長(伊丹榮三郎君)出席議員半數以上デアリマス、是ヨリ會議ヲ開キマス、會議録署名員ハ前例ニ依リマシテ三名トシ
本會期中毎日議長ノ指名トスルコトニ御賛成ヲ願ヒタイト思ヒマス、御異議ガアリマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ガナイト認メマシテ右樣ニ決シマス、本日ノ會議録署名員ヲ指名致シマス、一番、二番、三番以上御三君ニ御願ヒ致シマス、知事ヨリ議事參與ノ任命通知ガアリマスカラ御報告致シマス、書記ニ朗讀致サセマス
〔若生書記朗讀〕
庶第三八八號
昭和八年四月五日
宮城縣知事
宮城縣會議長殿
縣會臨時會議事參與任命通知
昭和八年四月宮城縣會臨時會議事參與左ノ通任命候條及通知候也
記
宮城縣書記官 鈴木登 宮城縣書記官 二見直三
同 清水谷徹 地方事務官 猪股博
地方事務官 横山一俊 同 渡邊信男
同 小川彌太郎 同 松本孝四郎
同 郡祐一 地方警視 財津吉文
地方技師 原田嘉種 地方技師 北條光丸
同 伊藤覈 宮城縣屬 富田重盛
○議長(伊丹榮三郎君)チヨット此ノ機會ニ御報告致スコトガゴザイマス、二十番議員デアリマシタ大友平藏君ハ去ル二月十三日職ヲ失ハレマシテ、只今二十番ハ缺員中デアリマス、念ノ爲ニ御報告致シテ置キマス、尚ホ當臨時縣會ノ書記ト致シマシテ若生長治、後藤養治、木村忠吾ノ三名ヲ任命シ、速記者トシテ西村要治、月江匡ノ二名ガ任命ニ相成リマシタ、右御報ヲ致シマス、尚ホ此ノ場合御諮リヲ致シマス、先刻知事ヨリ震嘯災害ニ付キマシテ御下賜金竝御救恤品等ノ御報告ガァリマシタガ、此ノ優渥ナル御思召竝各宮家及公家ノ御厚恩ニ對シ奉リマシテ、縣會ノ決議ヲ以チマシテ御禮ヲ申上ゲタイト存ジマス、尚ホ其ノ文案ハ議長ニ御一任ヲ願ヒタイト存ジマス、御賛成ノ御方ノ御起立ヲ願ヒマス
〔總員起立〕
○議長(伊丹榮三郎君)總員御賛成ト認メマシテ、右樣ニ決シマス、ソレデハ御禮ノ文案ヲ朗讀致シマス、敬意ヲ表スル爲ニ總員ノ御起立ヲ願ヒマス
〔總員起立〕
文案
這般ノ震嘯災害ニ際シ御思召ヲ以テ特ニ内帑ノ資ヲ下シ賜フ、天恩優渥洵ニ感激ノ至リニ禁ヘズ、■ニ縣會ノ議ヲ經、謹ミテ御禮ヲ申上ゲ奉ル
右御執奏ヲ請フ
宮城縣會議長
宮内大臣宛
這般ノ震嘯災害ニ際シ御思召ヲ以テ特ニ内帑ノ資ヲ下シ賜フ、鴻恩優渥洵ニ感激ノ至ニ禁ヘズ、■ニ縣會ノ議ヲ經、謹ミテ御禮ヲ申上ゲ奉ル
右御執成ヲ請フ
宮城縣會議長
皇后宮大夫宛
震嘯罹災者ニ對シ御思召ヲ以テ特ニ御救恤品ヲ下シ給フ、鴻恩優渥洵ニ感激ノ至ニ禁ヘズ、■ニ縣會ノ議ヲ經、謹ミテ御禮ヲ申上ゲ奉ル
右御執成ヲ請フ
宮城縣會議長
皇后宮大夫宛
震嘯災害ニ際シ御思召ヲ以テ特ニ御救恤ノ資ヲ下シ賜フ御厚恩洵ニ感激ノ至リニ禁ヘズ、■ニ縣會ノ議ヲ經、謹ミテ御禮申上ゲ奉ル
右御執成ヲ請フ
宮城縣會議長
各宮家、公家、別當又ハ事務官宛
(宛名)
秩父宮附別當 犬塚太郎 高松宮附別當 石川岩吉
閑院宮附別當 稻垣三郎 東伏見宮附別當 川島令次郎
伏見宮附別當 本多正復 山階宮附別當 大石正吉
賀陽宮附別當 山田良之助 久邇宮附別當 高橋其三
梨本宮附別當 三雲敬一郎 朝香宮附別當 東乙彦
東久邇宮附別當 松本幹之介 北白川宮附別當 石川連平
竹田宮附別當 石原健三 昌徳宮附長官 篠田治策
李鍵公附事務官 末松多美彦 李■公附事務官 志賀信光
是ハ早速議長ヨリ執奏又ハ執成ヲ請フコトニ致シマス
〔總員着席〕
○議長(伊丹榮三郎君)次ニ御諮ヲ致シマス、知事ヨリ御提出ニ係リマスル臨第一號議案乃至臨第七號議案ヲ一括致シマシテ其ノ第一讀會ヲ本日ノ日程ト致シマシテハ如何デアリマスカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ガナイト認メマシテ右樣ニ決シマス、是ヨリ右各案ノ第一讀曾ヲ開キマス
○臨第一號議案 昭和八年度縣歳入歳出追加更正豫算
○臨第二號議案 震嘯罹災住宅復舊資金起債及償還方法
○臨第三號議案 震嘯災害土木復舊費竝同資金及住宅適地造成資金起債及償還方法
○臨第四號議案 震嘯災害歳入缺陷補填竝同資金起債及償還方法
○臨第五號議案 震嘯災害小學校舍復舊資金起債及償還方法
○臨第六號議案 震嘯災害産業復舊資金起債及償還方法
○臨第七號議案 震嘯災害商工業復舊資金起債及償還方法
以上第一讀會
附稿宮城縣會臨時會議案參照
○議長〔伊丹榮三郎君〕朗讀ハ省略致シマシテ差支ヘアリマスマイカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ガナイト認メマシテ、朗讀ハ省略致シマス、是ヨリ知事ノ御演説ガアリマス
〔番外三邊知事登壇〕
○番外(三邊知事)諸君■ニ縣會臨時會ヲ開會シ震嘯災害復舊費等ニ關スル豫算ノ御審議ヲ煩ハスニ當リマシテ、震嘯勃發以來ノ各種應急對策竝復舊其ノ他災害善後計畫ノ大要ヲ御説明申シ上ゲ度イト思ヒマス
至仁至慈ナル天皇皇后兩陛下ニ於カセラレマシテハ、震災ノ被害尠カラザル趣ヲ聞召サレ、三月五日特ニ侍從ヲ御差遣遊バサレマシテ御内帑ノ資ヲ下シ賜ヒ、惠撫慈養ノ道ヲ御示シ遊バサレタノデアリマス、天恩優渥洵ニ感激ノ至リニ堪ヘヌ次第デアリマス、侍從ハ御思召ヲ奉ジテ三月五日六日ノ兩日罹災地ヲ巡視セラレマシテ、被害ノ状况ヲ詳ニサルルト共ニ、宏大ナル聖恩ヲ傳ヘラレタノデアリマス、御下賜金ノ傳達ニ當リマシテハ聖旨ヲ體スルニ遺憾無キヲ期シマシテ、町村長警察署長ヲシテ愼重ニ罹災状况ヲ調査セシメマシテ、其ノ結果ニ基キマシテ、三月二十日夫々傳達ヲ致シタノデアリマス、此ノ聖恩ニ浴シマシテ罹災地方ハ申スニ及バズ全縣民ハ眞ニ感奮興起同心協力シテ賑恤救護ノ實ヲ擧グルト共ニ、災害地復舊ノ目的ヲ速ニ達シマシテ以テ聖恩ノ厚キニ應へ奉ランコトヲ誓フ次第デゴザイマス
震嘯災害ヲ被リマシタル町村數ハ二十、五郡ニ亘ツテ居リマシテ、特ニ本吉、桃生、牡鹿ノ三郡ノ沿岸地方ニ於キマシテ酸鼻ヲ極メテ居ルノデアリマス、死者、行方不明者合計三百九名、負傷者百六十一名、倒潰流失セル家屋一千四百五十四棟、床上床下ノ浸水ヲ合セマシテ實ニ三千三百八十八棟ノ多キニ達シテ居ルノデアリマス、罹災地方ハ本縣重要ナル漁業ノ根據地デアリマスルガ爲ニ、船舶ノ被害ガ特ニ著シク、運送船十七艘、動力付漁船七十七艘、無動力漁船一千九百七十一艘合計二千六十五艘ノ流失破損ヲ出シテ居ルノデアリマス、冠水又ハ土砂ノ埋沒シマシタ耕地モ頗ル廣ウゴザイマシテ、農家ノ被害モ尠クァリマセヌ、更ニ養蠶家、商工業者等各種ノ業態ニ亘リマシテ夫々復舊ノ要ガ極メテ緊切ナノデアリマス、道路、橋梁、河川海岸ノ破壞、警察電話ノ破損亦大ナノデアリマシテ、各種ノ損失總額ハ實ニ四百貳拾四萬餘圓ト
計算サレテ居ルノデアリマス
縣ニ於キマシテハ震嘯當日直チニ罹災町村ニ官吏々員ヲ急派シマシテ、罹災者ノ慰問被害状况ノ調査及ビ救護ノ指導ニ當ラシメマシテ、水産試驗場ノ所屬試驗船宮城丸、大東丸ヲシテ三日以來約二十日間罹災各地ノ救援ニ當ラシメタノデアリマス、災害當時ハ寒氣尚ホ烈シク、寝具衣類無キ罹災者ノ困窮ハ甚大デアリマスルノデ、取敢ヘズ第二師團ヨリ陸軍用毛布ノ貸付ヲ受ケマシテ、三日、四日ノ兩日罹災地ヘノ運搬ヲ了シタノデアリマス、廳内ニ於キマスル救護警備ノ事務ヲ敏活ニ統制アルモノト爲スガ爲、三日災害善後委員會ヲ組織シマシテ、救護ノ處理ト復舊事務ノ促進トニ遺憾無キヲ期シマシテ、一面救恤金品ノ配分ト救護事務ノ圓滑ヲ圖リマスルニハ、現地ニ於テ是ガ事務ヲ行フコトノ必要ヲ認メマシテ、六日石卷、志津川、氣仙沼ノ三箇所ニ救護出張所ヲ設ケマシテ、職員二十名ヲ配置シ、一方被害最モ著シキ六箇村ニ對シマシテハ官吏々員ヲ駐在セシムルコトトシマシテ、更ニ同日仙臺驛前ニ臨時出張所ヲ設ケマシテ救恤品ノ配給ヲ敏速ナラシムル方法ヲ執ツタノデアリマス
縣トシマシテハ死者ノ遺族ニ對シマシテ取敢ヘズ見舞金ヲ贈呈シマシタ、又食糧、被服、小屋掛等ニ要シマスル費用ハ救護上特ニ速ニ支出スルコトヲ要シマスルノデ、六日罹災町村長ニ對シマシテ罹災救助基金ヨリ壹萬八千餘圓ヲ前渡シマシテ、一方政府所有米五百四十石ノ拂下ヲ受ケマシテ是ガ供給ヲ致シマシタ、其ノ他建築材料、野菜等ノ供給等モ致シタノデアリマシテ、今日迄罹災救助基金ヨリ拾四萬餘圓ノ支出ヲ爲スト云フ見込ヲ以チマシテ、救護ニ當ラセテ居ルヤウナ次第デアリマス、罹災民ノ救療ト防疫ノ爲ニ三日午前直チニ巡回診療班ヲ組織シマシテ救療ニ當ラシメ、一方飲料井戸ノ消毒ト清潔法ノ督勵トニ努メマシテ、更ニ罹災直後ノ民心ノ安定ヲ圖ルガ爲ニ、罹災地警察署ニ對シマシテ警察部外各署ヨリ應援警察官ヲ急派シマシテ、盗難豫防、流言蜚語ノ取締ニ當ヲシメタノデアリマス、尚ホ三月十一日縣參事會ニ於キマシテ罹災救助ノ給與ヲ最高限度迄支出シ得ルノ議決ヲ經マスルト共ニ、之ニ伴ヒマスル罹災救助基金歳入歳出追加豫算ヲ提出シマシテ、更ニ七年度ニ於テ救護警備等ニ要シマスル諸費四萬五千九拾六圓竝小漁船建造、耕地復舊、稚蠶共同飼育所設置等ノ費用ニ充當セシムル貸付金拾七萬九千六百圓ノ議決ヲ經マシテ、救護警備其ノ他最モ急ヲ要スル施設ヲ速進スルニ遺憾無キヲ期シタノデアリマス
以上ハ縣トシテ行ヒマシタ急應施設ノ大要デアリマスルガ、縣内ハ申スニ及バズ全國ヨリ寄セラレマシタル同情ハ洵ニ甚大ナルモノデアリマシテ、陸海軍部ハ最モ敏速ニ衞生班ノ急派、道路、橋梁ノ修理、災害地現場ノ整理ニ當ラレ、横須賀鎭守府司令長官ハ特ニ三日驅逐隊ヲ急派サレマシテ救護ニ努メラレ、五日ニハ軍艦嚴島ニ依テ救恤品ノ分配ヲ行ハレタノデアリマス、醫療救護ノ爲ニハ第二師團、赤十字社支部、東北帝大、各地醫師會員等ガ夫々救護班ヲ組織セラレマシテ、應急措置ニ遺憾無キヲ期セラレマシタ、又宮内省其ノ他各方面ヨリ贈ラレマシタル救護品ハ六千餘個ニ及ビ、本縣廳ニ於キマシテ受理致シマシタ義捐金ノミニテモ九萬餘圓ニ達シテ居ルノデアリマス、是等ノ敏速ナル應援ト深甚ナル同情トガアリマセンデシタナラバ、救護施設モ應急對策モ容易ニ萬全ヲ期シ得ザルベキヲ思ヒマスルトキニハ、是等ノ同情ニ對シマシテ深ク深ク感激致シマスルト共ニ、今後ノ復舊ニ全力ヲ擧ゲテ邁進セネバナラヌコトヲ痛感スルノデアリマス
震嘯災害復舊竝豫防施設ノ根本ニ至リマシテハ自ラ應急施設ト其ノ趣ヲ異ニ致シマシテ、縣財政ノ逼迫特ニ著シキ縣ノ現状ト罹災地ガ由來必シモ富裕ナラザルニ加ヘテ、地震後續發シマシタ海嘯ノ爲ニ殆ド一物モ殘サザル有樣デアルノニ鑑ミマシテ、獨力ヲ以テシテハ如何トモ爲シ得ナイコトガ明デアリマスルノデ、被害ノ状况ヲ詳ニシ計畫ノ樹立ヲ急ギマシテ大體成案ヲ得マシタノデ直チニ政府ニ對シテ本縣ノ特殊事情ヲ明ニシ、極力其ノ實現ヲ期シタノデアリマス、時恰モ帝國議會開會中デアリマシタノデ他ノ罹災縣ト協力シマシテ復舊豫算ノ提案ヲ熱望シタノデアリマス、關係各省ニ於カレマシテハ到底常時ニ見ルコトノ出來ナイ敏速サヲ以チマシテ豫算ノ編成ニ當ラレ、御承知ノ通リ三月二十四日、二十五日ノ兩日滿場一致貴衆兩院ノ協賛ヲ得ルニ至ツタノデアリマス、斯ノ如キ短期間ニ於キマシテ追加豫算ノ提案議決ヲ見タコトハ殆ド前例ナキ所デアリマシテ、是偏ニ政府竝議曾ノ罹災地ニ對スル同惰熱意ト關係貴衆兩院議員竝縣會議員各位ノ熱誠ニシテ眞摯ナル御協力ノ賜ニ外ナラヌト存ジテ深ク感激シテ居ルノデアリマス
今回ノ震嘯災害善後豫算ノ編成ニ當リマシテハ、第一ニ本縣竝罹災地ノ現状ハ容易ニ自己資金ノ出資ヲ見込ミ得マセヌノデ、出來得ル限リ國庫補給又ハ國庫補助金ヲ多額ニ配當ヲ受クルコトヲ主眼トシテ事業計畫ヲ樹テタノデアリマス、第二ニ國庫補給又ハ國庫補助金以外ノ財源ハ總テ大藏省預金部ノ低利資金ノ供給ヲ受クルコトニ致シマシテ、是ガ供給ヲ受クルニ當リマシテモ成ルベク利子補給ニ依ル助成ヲ求メタノデアリマス、第三ニ利子補給ノアリマスルモノハ兎モ角利子補給ノ無イ低利資金ハ矢張リ將來ノ縣民負擔ト相成リマスルノデ、復舊ニ必要ニシテ且ツ充分ナル限度ニ止メマシテ、一時ノ便益ノ爲ニ將來ニ憂ヲ貽スコト無キヲ顧慮シタノデアリマス、第四ニ將來再ヒ海嘯等ノアリマスル場合、人命、財産等ニ對スル被害ヲ豫防スル根本施設ハ、所謂罹災地ノミナラズ本縣ニ於ケル百年ノ大計デアリマシテ、最モ是ハ必要ナルモ
ノト存ジマシテ、之ニ要スル費用ヲ政府ニ於テ支出サレルコトヲ熱望シタノデアリマスガ、之ニ付キマシテハ政府ハ調査ノ上ニ實施スルヲ適當トセラレマシテ、内務、農林、文部ノ關係省ニ於テ必要ナル調査ヲ實施セラルルコトニナツタノデアリマス、尤モ復舊計畫ト不可分デアリマシテ何人モ其ノ必要ヲ認メマスル住宅適地造成ト云フヤウナコトハ此ノ機會ニ於テ實現スルコトニナツタノデアリマス、以上ノ方針ニ依リマシテ出來得ル限リ完全ナル復舊其ノ他震嘯善後ノ措置ヲ講ジマスルト共ニ、是ガ爲ニ縣並縣民財政ノ將來ニ不安ヲ殘スコト無キヲ期シタノデアリマス
斯樣ニ致シマシテ決定致シマシタ復舊費、並之ニ關聯シテ必要ト致シマスル經費ハ合計貳百七拾七萬九千參百參拾五圓デアリマシテ、是ガ財源ハ國庫補助及補給金百貳萬八千六百九拾貳圓尤モ參事會ニ於キマシテ追加豫算ノ財源トシテ國庫補助ヲ豫定シタモノガアリマスルカラ、之ヲ加算シマスルト云フト今回ノ震嘯災害ニ對シテ國庫補助及補給金ノ合計ハ百七萬壹千六百九拾九圓トナル譯デアリマス、ソレカラ貸付返納金ガ參萬七千八百貳拾九圓、縣債ガ百六拾六萬九千八百圓及ビ一般縣費四萬參千拾四圓トナリマシテ、此ノ縣債ノ中デモ利子補給ノアルモノガ四拾壹萬八千五百圓デアリマス、利子補給ノ無イモノハ全部低利資金デアリマスガ、ソレハ百貳拾五萬壹千參百圓ナノデアリマス、此ノ復舊費及ビ之ニ關聯スル諸費カラ歳入豫算ノミノ追加更正トナツテ居リマスル縣歳入缺陷補填ノ爲ニスル縣債五萬參千圓ヲ除キマシタモノガ今
回提案致シマシタ豫算總額貳百七拾貳萬六千參百參拾五圓トナルノデアリマス
震嘯災害復舊費ハ五拾壹萬圓デアリマシテ、之ニ依テ道路ニ付キマシテハ土留護岸ヲ石垣或ハ混凝土トシ、橋梁ニ付キマシテハ出來得ル限リ鐵筋混凝土橋ニ架ケ換へ、海岸堤防ニ在リマシテハ道路土留護岸同樣石垣混凝土ト爲ス外、重要ノ箇所ニ付キマシテハ天端及ビ裏法面ニ張石ヲ施シマシテ、高サヲ高メ將來海嘯ニ對スル抵抗力ヲ大ナラシムルコトトシタノデアリマス、本復舊費ハ八割五分ノ國庫補助金、及ビ殘リノ一割五分ニ對シマシテハ利子補給ニ依ル低利資金ヲ支出セラルルコトニナツテ居リマス
震嘯災害復舊助成費ハ五拾八萬圓デアリマシテ、其ノ事業費總額ハ百拾五萬圓トナルノデアリマス、其ノ内譯ハ
第一ニ町村土木復舊助成費五萬七千圓デアリマシテ、此ノ事業費ハ六萬八千圓デアリマス、即チ八割五分ノ補助ト一割五分ニ當ル壹萬圓ノ利子補給アル低利資金トヲ以チマシテ工事ヲ爲スノデアリマス之ニ依テ町村費所屬ノ道路、橋梁、河川、河岸ハ縣工事ト同樣ノ復舊ヲ爲シ得ルコトニナツテ居ルノデアリマス
第二ニハ農事復舊助成費參萬圓デアリマス、是ガ事業費ハ五萬參千圓トナツテ居リマシテ、其ノ差額ハ低利資金デアリマス、全額ノ補助ヲ以チマシテ罹災農家ニ對シ自家食糧補給ノ爲ニ馬鈴薯ノ種苗ヲ、次季作付ノ爲ニ水稻、大豆等ノ種苗ヲ配付スルコトトシテアリマス、又二分ノ一ノ補助ヲ以チマシテ生業ヲ營ムニ缺クベカラザル農具ノ設備ト、農家經營上必要ナル納屋及ビ肥料舍ノ建設ヲ爲サシムルコトトシテアルノデアリマス
第三ハ蠶業復舊助成費壹萬七千圓デ、是ガ事業費ハ參萬四千圓トナツテ居リマス、二分ノ一ノ補助ト其ノ殘ハ低利資金デアリマスガ、之ヲ以チマシテ養蠶家ニトッテ蠶作ニ最モ關係深キ稚蠶飼育ノ安全ヲ期スルガ爲、罹災地ノ養蠶實行組合ヲシテ稚蠶共同飼育所ヲ設置セシムルト共ニ、養蠶家ノ蠶具購入ヲ爲サシムルコトトシタノデアリマス
第四ニ畜産業復舊助成費約貳千圓ヲ置キマシテ、同額ノ低利資金卜合セテ家畜ノ購入ト飼料ノ購入ヲ爲サシムルコトニシテアルノデアリマス
第五ニ水産業復舊助成費四拾萬八千圓ヲ置キマシテ、低利資金ト合シマシテ八拾四萬六千圓ノ事業ヲ行ハシムルコトニシテアルノデアリマス、今回ノ震嘯災ニ因リマシテ直接被害ヲ受クルコト最モ大デアリマスル水産諸施設ハ、特ニ漁業家ガ他ニ生業ノ途ヲ有セザル實情ニ鑑ミマシテ、極メテ敏速ニ且ッ完全ニ復舊ヲ了スルコトヲ必要トシマシテ、出來得ル限リ多方面ニ亘リマシテ其ノ計畫ヲ樹テタノデアリマス、漁船復舊費ハ參拾八萬九千圓デ、二分ノ一ノ補助ヲ以テ無動力漁船及ビ動力付漁船ノ復舊ヲ爲サントスルノデアリマス、是等ノ漁船ハ適當ナル造船所ニ於テ大量製造ノ方法ニ依リマシテ短時日ノ間ニ最モ經濟的ニ建造ヲ了スルガ爲、特ニ町村當局並漁業組合當事者等ノ細心ナル注意ヲ要スルト思ヒマス、漁具復舊費ハ八萬參千圓ノ補功ト拾四萬參千圓ノ低利資金トヲ合セテ貳拾貳萬六千圓デアリマシテ、半額若シクハ四分ノ一ノ補助ヲ以テ小漁具、曳網類、旋網類沖合漁業用刺網及ビ定置漁業用漁具ノ復舊ヲサセルコトニナツテ居リマス、共同施設費復舊費ハ拾六萬圓デアリマシテ、二分ノ一ノ補助ヲ以テ共同販賣所、共同製造所、共同倉庫及海苔ノ養殖場、海苔ノ乾燥場牡蠣ノ養殖場等ノ共同養殖ノ設備ノ復舊ヲ爲サシムルコトトシタノデアリマス、事業ノ鞏固、利益ノ配分、危險ノ負擔等ノ諸點ヨリ見マスルモ、個人ノ經營ニ比べマシテ共同設備ハ遙ニ有利ト思ハレマスルノデ、不測ノ災害ニ際會シマシテ將來一層ノ飛躍ニ備ヘマスルガ爲、是等ノ施設ニ對シマシテハ官民協力シテ其ノ遂行ニ當ラレンコトヲ切望スルノデアリマス、船溜船揚場復舊費六萬圓ハ四分ノ三ノ補助ト四分ノ一ノ利子補給アル低利資金ヲ以チマシテ、築磯復舊費九千圓ハ半額宛ノ補助及利子補給アル低利資金ヲ以チマシテ、夫々沿岸各地ニ亘ル被害箇所ノ復舊ヲ爲サントスルノデアリマス
第六ニ耕地復舊助成費貳萬六千圓ハ低利資金及一般縣費ヲ合セ四萬四千圓ヲ以チマシテ、三郡十四箇町村ニ亘ル被害耕地約八十町歩ノ復舊及ビ是ガ調査指導ヲ行ヒマシテ、本年ノ收穫ニ違算ナキコトヲ期スルノデアリマス
第七ニ商工業復舊助成費ハ參萬九千圓デアリマス、低利資金六萬八千圓ヲ合セマシテ拾萬七千圓ヲ以テ約四百戸ニ及ブ商工業者ノ工場店舖諸設備及海運業者所有ノ罹災運送船ノ建造ヲ爲サシメントスルノデアリマス、工場店舖ノ設備復舊費ハ九萬圓デアリマシテ、四割ノ補助、運送船建造費ハ壹萬七千圓デ一割八分ノ補助ガアリマス
以上ノ諸事業ノ遂行ニ當リマシテ町村及其ノ他ノ事業主體ガ自ラ財源ヲ捻出致シマスコトハ、今日ノ財政状態ヲ以チマシテハ素ヨリ望ムコトハ困難デアリマスルノデ、預金部資金ヲ縣ヨリ轉貸スルコトトシ、更ニ國庫補給又ハ補助ニ依ル助成ハアリマセヌケレドモ、復舊事業トシテ進ンデ遂行致サネバナラヌ、計畫並復舊事業ニ伴ヒマシテ必要ナル各種運轉資金ヲ、同ジク預金部資金ヨリ融通ヲ受クルコトトシマシテ、是等ニ必要ナル貸付金百五拾參萬圓ヲ計上シタノデアリマス
補助又ハ補給ヲ伴ヒマセヌ貸付金ノ
第一ハ罹災住宅復舊貸付金デアリマシテ貳拾七萬六千圓デアリマス、十五箇町村ニ亘ル罹災住宅五百五十三戸ハ到底自力ヲ以テ復舊スルコトハ不可能デアリマスルノデ、努メテ經濟的ニシテ而モ便利ナル家屋ヲ復舊セシメマシテ、各種ノ状態ニ應ジテ納屋肥料舍蠶室等ヲ同時ニ建築シテ遺憾ナカラシメントスルノデアリマス
第二ハ住宅適地造成費拾九萬五千圓デアリマシテ、是ニハ利子ノ補給ガアルノデアリマス、今回此ノ海嘯ニ因ル被害ニ稽ヘマシテ、特ニ本縣沿岸地方ノ地勢等ヨリ見マシテモ、復舊スベキ家屋ノ敷地ヲ滿潮位ヨリ相當高キ箇所ニ移轉造成セシムルコトガ最モ確實ニシテ安全ナル災害對策ト信ジマシテ、先般海嘯地各町村ニ臨時海嘯地家屋復興計畫委員會ト云フモノヲ組織致サセマシテ、縣廳ニ於テモ夫々準備ヲ進メテ居ルノデアリマスルガ、此ノ宅地造成ニ要スル切崩費、地均費及ビ道路ノ取付費等ヲ計上シタノデアリマス
第三ニ雄勝尋常高等小學校ノ復舊費四千圓ヲ計上致シマシテ、校舍、教員住宅、校具類ノ復舊ヲ爲サシムルコトトシマシタ
第四ニ町村歳入缺陷補填資金五萬九千圓ヲ置キマシテ、被害二十箇町村ノ七年度及ビ八年度ニ於ケル各種租税ノ減免課税標準ノ減少ニ因リマスル減收及ビ未納税金ノ徴収不能ナルモノノ補填等ニ充テシメマシテ、以テ町村財政ニ缺陷ナカラシムルコトヲ期シタノデアリマス、此ノ資金ニ付テハ利子補給ガ認メラレテ居リマス
第五ハ蠶室復舊費九萬圓デアリマシテ、蠶兒ノ飼育ニ十分ナル面積ヲ得ルガ爲ニ住宅ノ復舊ト併セテ蠶室ヲ作リマシテ相當多量ノ掃立ヲ可能ニシテ以テ現金收入ノ便ヲ圖ツタノデアリマス
第六ハ肥料資金參萬貳千圓デアリマシテ、春季水田ニ施スベキ堆肥ヲ備ヘシメ、流失、冠水ニ因リマシテ地力ノ減耗甚シキ耕地ノ施肥ヲ十分ナラシメントスルノデアリマス
第七ニ漁船復舊事業資金壹萬六千圓ヲ以テ漁船ノ修繕及ビ動力付漁船ノ第一回ノ出漁ニ必要ナル所ノ燃料餌料等ノ着業資金ニ充テルノデアリマス
第八ハ共同製造場復舊資金金四萬五千圓デアリマシテ、原料、燃料等ヲ購入セシメ事業資金ノ缺乏ニ因ル困難ヲ感ズルコトナク直チニ事業ニ着手セシメントスルノデアリマス
第九ニ共同養殖設備復舊事業資金貳萬圓ヲ以テ牡蠣ノ養殖場ノ復舊ニ伴ヒ之ニ必要ナル種牡蠣ノ購入費ニ充テサセマシテ全國ニ冠タル本縣ノ牡蠣ノ養殖事業ヲシテ一日ノ遲緩無ク益々進展セシメンコトヲ期シテ居リマス
第十ニ個人製造場復舊資金拾六萬圓ヲ計上致シマシタ、共同諸施設ニ依リマシテ共同事業ノ復舊ガ行ハレマスルケレドモ縣下多數ノ個人製造家ノ製造場製造設備乾燥場等ノ復舊ハ特ニ其ノ業態ノ小ナルニ鑑ミマシテ、是ガ資金ノ融通ノ必要ヲ認メタノデアリマス
第十一ニ工場、店舖運轉資金六萬圓ヲ以チマシテ工場、店舖ノ設備ニ伴ヒマシテ中小商工業者ノ當然運轉資金ニ困難ヲ感ズルコトヲ豫想シテ之ニ充テシメルコトニシタノデアリマス
以上ヲ以テ復舊諸事業ノ大要トスルノデアリマスルガ、別ニ災害調査及ビ復舊事業ノ促進、救護、救療、救助及ビ警備ニ要スル諸經費ヲ計上致シタノデアリマス、災害救護費四萬貳千圓ハ囑託四人ヲ置キマシテ、國費ニ依ル人員ノ増加ニ伴ヒマシテ、救護事務竝復舊事務ノ特ニ多忙ナル方面ニ活動セシメマシテ、其ノ他廳内官吏々員ノ救護調査ニ要シマスル旅費等ニ充テシムルコトニシタノデアリマス、警察關係ニ於キマシテ災害警備費九千圓、廳舎修繕費壹萬九千圓ヲ置キマシテ災害後ノ各種警察施設竝復奮事務ノ進行ニ伴ヒ、一層増大シマスル所ノ警察事務ニ備へ、又被害地電話線路ノ改善及ビ架設ニ依リマシテ復舊計畫上遺憾無カラシメントシタノデアリマス、衞生關係ニ於キマシテハ、六千圓ノ全額補助ヲ受ケマシテ診療班ヲ組織シ罹災各地ノ出張診療及ビ巡回診療ヲ爲シ、傷病者ノ救療ト防疫ノ徹底ヲ圖ルノデアリマス、又教育費
ニ於キマシテハ給食ヲ必要トシマスル兒童ニ對スル食費及ビ罹災貧困兒童ノ被服費合計參千圓ヲ、國庫補助ヲ財源トシテ計上シマシタ、更ニ利子補給ニ依ル縣ノ歳入缺陷補填資金五萬參千圓ヲ起債致シマシテ、震嘯災ニ因ル昭和七年度歳入缺陷額壹萬參千圓ヲ繰越金ノ中ヨリ減額シ、昭和八年度ニ於テ本税免除ニ伴フ減收、課税標準ノ減額等ヲ合計致シマシテ參萬九千圓ノ歳入缺陷ヲ見込ミマシテ、地租營業收益税、所得税、各附加税、家屋税、營業税及ビ雜種税ヲ夫々更正減額シテ、災害ノ爲ニ本縣財政ヲ直チニ壓迫スルコトノ無イヤウニ致シタノデアリマス、縣ノ豫算ニハ現レテ居リマセヌガ、國費ニ依ル災害善後人件費トシマシテ屬、技手、及ビ之ニ伴フ雇員其ノ他ヲ配當サレルコトニ決定シテ居リマスルノデ、縣ノ施設ト相呼應シマシテ事務ノ遂行上萬全ヲ期スルコトガ出來ルト考ヘテ居ルノデアリマス
諸君縣民協力シテ公私經濟ノ窮迫ヲ打開シ、將來ノ活動力ヲ培養センガ爲ニ、自力更生ノ一路ニ邁進シテ居リマスル時ニ當ツテ、不測ノ災害ガ突發致シマシタコトハ、直接生命財産ニ災厄ヲ被ムリマシタ罹災地町村ニ對シテ深甚ナル同情ヲ呈シマスルコトハ勿論、本縣全體トシテ大ナル試練ニ遭遇シタコトヲ痛切ニ感ゼザルヲ得ナイノデアリマス、而モ此ノ不幸ノ中ニアリマシテ震嘯災直後罹災各町村ガ、一齊ニ相互扶助ト災害善後措置ノ爲ニ奮起シマシテ、隣保相扶ノ美風ト不屈不撓ノ特質トヲ發揮セラレマシテ、周章セズ自棄セズ難局ニ處シテ居ラルルコトハ、縣下各地ノ同情ト援助ト共ニ私共ノ感激ニ堪ヘナイ所デアリマス、巨額ニ上ル物質ノ損失モ此ノ忍耐ト此ノ勤勞ノ精神等ノ存スル限リハ、遠カラズシテ償フコトガ出來マシテ、却テ一段ノ發展ヲ期待スルコトガ出來ルト信ジテ居ルノデアリマス、眞摯ニシテ剛毅ナル我ガ縣民ノ美風ガ克ク一時ノ緊張ニ終ルコトナク、完全ニシテ且ツ迅速ニ復舊ノ大業ヲ成シ遂ゲマシテ、以テ上ハ優渥ナル聖旨ニ副ヒ奉リ、下ハ熱誠ナル國民ノ援助ニ酬ヒンコトヲ各位竝百十餘萬縣民ト共ニ相信ジ相誓ヒ得ルコトヲ私ハ衷心ヨリノ喜トスルノデアリマス
附議致シマシタ諸案ニ付キマシテハ御質問ノ都度私及參與ヨリ詳細ニ御説明申上ゲタイト存ジマス、何卒御審議ノ上御協賛アランコトヲ切望致シマス、長時間ニ亘リ御清聽ヲ煩ハシマシタコトヲ深ク感謝致シマス(拍手)
○三十番(北村文衞君)附議セラレマシタ議案ノ調査ヲ爲ス爲ニ本日ノ日程ヲ明日ニ繼續致シマシテ、本日ハ之ヲ以テ散會セラレンコトヲ望ミマス、動議ヲ提出致シマス
〔「賛成」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)只今三十番ヨリ御聽及ノ通リノ動議ガゴザイマシテ賛成ガアツテ成立致シテ居リマス、右動議ニ御異議アリマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議無イト認メマシテ右動議ノ通リ決定致シマス、隨ヒマシテ明六日ノ會議日程ハ本日上程各案ノ第一讀會ノ繼續議デアリマス、本日ハ是デ散會ト致シマス
午後三時二十四分散會
(ロ)四月六日の分
午後二時二十八分開議
出席議員 三十五名
缺席議員 一名
七番(菅原壽左衞門)
○議長(伊丹榮三郎君)出席議員半數以上デアリマス、會議ヲ開キマス、本日ノ會議録署名員ヲ指名致シマス、四番、十三番、十五番、以上御三名ニ御願ヒ致シマス、本日ノ會議日程臨第一號議案乃至臨第七號議案ノ第一讀會ノ繼續議ヲ開キマス、御申込順ニ依ツテ-三十四番
〔三十四番富田廣重君登壇〕
○三十四番(富田廣重君)同僚同志各位ノ御指示ニ從ヒマシテ僣越ナガラ本臨時縣會ニ提案サレマシタ議案ニ對シテ賛成ノ理由ヲ表示致シタイト思ヒマス、言葉足ラズシテ意ヲ盡サズ、修辭拙クシテ趣旨ヲ明ニスルコトガ出來ナカツタト致シマスレバ、ソハ決シテ同僚各位ノ不徹底ナルニ非ズシテ、賛成理由ヲ表示致シマスル本員ノ責タルコトヲ豫メ御諒承ヲ願フ者デアリマス、過グル三月三日夜半、突如トシテ天地ヲ震ハセタル強震、續イテ起リマシタル海嘯ノ爲ニ、太平洋岸ニ位置スル本縣下五郡二十箇町村、特ニ本吉、桃生、牡鹿三郡下ノ被害ガ甚シク、倒壞流失家屋一千四百五十四棟、浸水家屋三千三百八十八棟、二千六十五隻ノ船舶ヲ失ヒ、其ノ他耕地道路、河川橋梁、電柱等ノ破損夥シク、損失四百貳拾四萬圓ト見積ラレテ居リマス、之ヲ本縣一箇年ノ歳入歳出豫算ニ比較致シマスト、須臾ニシテ殆ド其ノ半バヲ失ツタモノデアリマス、ト同時ニ復舊成リマスマデハ幾多ノ生産ヲ中絶致スノデアリマス、而モ是ハ再ビ求メントスレバ求メ得ベキ物資物件ノ損失デアリマス、是等物資的損失以外ニ貴重ナル人命ヲ失フコト三百九名、傷キ惱ム者百六十一名ヲ算シテ居リマス、中宵人靜マリ、天地寂寞タル時、俄ニ怒濤岸ニ飜リ、狂瀾巷ヲ侵ス一瞬間、斯ノ如キ多數ノ人命ト巨大ナル物資トハ、憐レ狂ヘル海神ノ犠牲ニ供セラレタノデアリマス、寓籟止ミ天地靜寂ニ歸シマスレバ、父或ハ母或ハ子或ハ兄弟ハ、冷キ骸トナツテ渚ニ斃レ伏シ、或ハ喚ビドモ再ビ應ヘズ、索レドモ再ビ得ラレナイ所ノ家族ノ歸リマサンコトヲ望ンデ渚ニ立ツテ居ル樣ヲ想ヒ浮ベナケレバナリマセヌ、住ムニ家無ク、纒フニ衣無ク、餓エテ食スベキ糧ダニ無ク、罹災民ハ無限無量ノ衷愁ノ裡ニヒシヒシト迫リ來ル寒氣ニ慄ヒ戰イタノデアリマス、滿目荒廢、滿耳悽愴、罹災現場ノ慘状、罹災民ノ苦難ハ眞ニ言語ニ絶スルモノガゴザイマス、此ノ凶報ガ一度傳ハリマスルヤ、天下ノ同情ハ翕然トシテ罹災地ニ集マリマシテ各方面ヨリ寄セラレタル救恤品ハ積ンデ山ヲ成シ、慰問ノ人、通信報導ノ人、視察ノ人、調査ノ人、踵ヲ接シテ罹災地ニ集マリマシテ、特ニ忝クモ天皇皇后兩陛下ニ於カセラレマシテハ災害直後待從ヲ御差遣下サイマシテ、御内帑金ヲ下シ賜ハリ、不慮不測ノ災厄ニ泣ケル赤子ノ上ニ御仁惠ヲ垂レ給フタノデアリマス、聖恩ノ鴻大無邊眞ニ感激ニ禁ヘマセヌ、次イデハ陸海軍當局ノ活動ヲ永久ニ記念スベキモノデアルト私ハ考ヘマス、惡魔ノ如キ狂瀾怒濤ガ其ノ暴威ヲ逞ウシテ去リマスルヤ、電柱ハ倒レマシテ一個ノ燈火ヲ得ルニモ困難ヲ致シマシタ罹災民ハサナキダニ暗イ心ニイトド暗黒サヲ加ヘマシテ困迷致シマシタ際ニ、派遣サレマシタ帝國ノ驅逐艦ガ其ノ雄姿ヲ灣頭ニ現ハシマシテ、照シ出サレマシタ「サーチライト」ガ如何ニ此ノ罹災民ニ對シテ心強サト明ルサトヲ與ヘタカト云フ事ハ、罹災民ガ親シク私ニ物語ツタ述懷デゴザイマス、又家屋船舶ノ破片ガ散亂集積致シマシテ交通ヲ阻害致シマシタル時、工兵隊ノ活動ニ依ツテ直チニ其ノ道路ノ整理ヲヤツテ呉レマシタ、是モ罹災民ノ等シク感激スル所デゴザイマシテ、本員ハ此ノ機會ニ於テ陸海軍當局ニ感謝ノ意ヲ表スル者デゴザイマス、其ノ他醫療救護班ノ活動ノ如キ洵ニ感謝讃嘆ニ値スルモノガ尠クアリマセヌ、斯ノ如キ不慮ノ大災厄ヲ管下二十箇町村ニ被リマシタル縣當局ノ應急竝恒久ノ善後策ニ關スル活動ノ賢明ニシテ眞劍適當ニシテ敏活ナリシ御精勵ニ對シマシテハ、衷心ヨリ敬意ヲ表シ滿腔ノ謝意ヲ献グル者デアリマス、爲ニ公安ハ聊カノ不祥事ヲモ發生スル事ナクシテ維持セラレマシタ、負傷疾患者ハ速ニ救護サレ衞生状態ニ不安ナク、救恤品ノ配給マタ比較的迅速ナルヲ得マシタ、小學校兒童ノ就學マタ比較的速カナリシコトハ特ニ慶ブベキ現象デアツタト本員ハ考ヘマス、交通機關ノ應急修理復舊敏速ナリシ爲メ運搬ニ便セラレマシタコトモ、私ハ當局ニ感謝スル一人デゴザイマス、勿論此ノ特別任務ニ鞅掌サレマシタ縣ノ官公吏、警察官諸君ニ對シ、出來ルナラバ特別ノ報勞慰問ノ志ヲ現シタイト思フ程デゴザイマス、殊ニ焦眉ノ急務タル應急策ヲ施シテ息ヲ吐ク暇ダニナク、直チニ上京致シマシテ、政府當局竝貴衆兩院議員等ニ對シテ折衝ヲ重ネ、限局サレタル日時ニ於テ能ク所期ノ効果ヲ收メテ歸廳サレ、今日■ニ震嘯勃發以來ノ各種應急對策竝復興其ノ他災害善後策實施ノ豫算ヲ編成シテ、私共ニ其ノ審議協賛ヲ求メラレタル、三邊知事ノ御勞苦ニ對シ特ニ感謝ノ意ヲ表シタイト思ヒマス、勿論今回ノ災害ノ如キハ、現代ノ進歩セル科學ニ依ツテスラ之ヲ豫知スルコト殆ド不可能ナル不測不慮ノ天災地殃デアリマス、而シテ其ノ災害ノ程度ハ餘リニモ巨大デアリマシタ、而モ地理的ニ交通通信ノ最モ不便不利ナル地域ニ發生シタ事件デアリマス、故ニ是ガ應急處置等ニ對シマシテ、事後ニ於テ之ヲ批判シ、或ハ直接ニ利害關係無キ第三者ヨリ冷靜ニ檢討致シマス時ハ幾分ノ缺陷ハアルカモ知レマセヌ、併ナガラソレハ國策ノ上ニ於テスラ非常時ト云フ言葉ガ用ヰラルル、今日デアリマス、幾分ノ缺陷ガアリトスルモ事後ニ於テ之ヲ當局ニ責メ立ツベキモノデハナイト私ハ考ヘテ居リマス、應急策ハ飽迄應急策デアリ、急施處置ハ何處迄モ急施處置デアリマス、故ニ本員ハ災害勃發以來今日マデノ縣當局ノ執リタル各般ノ處置施策ニ對シマシテハ、何等ノ質疑難詰ヲ挾ム者デハアリマセヌ、寧ロアノ忽卒ノ際、能クアレダケノ應急罹災救助ヲ爲シ得タモノト、其ノ沈着サト敏活ナルニ驚嘆スル一人デアリマス、例ヘバ昨日ノ知事ノ豫算説明ノ演説中ニアリマシタガ、「縣トシテハ死者ノ遺族ニ對シ取敢ヘズ見舞金ヲ贈呈シマシタ云々」トアリマシタガ、申上グル迄モナク罹災救助基金ニ關スル法律ハ、明治三十二年三月二十二日法律第七十五號ヲ以テ公布施行以來三十有餘年ヲ閲シテ今日ニ至ツテ居ルノデアリマスガ、過去ノ施行實績ニ鑑ミテ、一ハ道府縣ノ財政緩和ニ資スル爲、一ハ救助範圍ノ擴張ノ爲ニ、昭和七年九月八日法律第三十三號ヲ以テ改正サレ、本年一月一日ヨリ施行サレテ居ルノデゴザイマス、救助範圍トシテハ、從來ノ規程ハ其ノ費目ガ避難所費、食料費、被服費、治療費、小屋掛費、就業費、學用品費、運搬用具費及人夫費、此ノ九目ニ限定サレテ居リマシタノデ、災害ニ伴ヒ易キ死亡者ニ對シマシテ埋葬費ヲ給スルコトガ出來ナカツタノデゴザイマス、其ノ缺陷ニ鑑ミ今度ノ改正ニ依ツテ救助費目中ニ埋葬費ヲ加ヘタコトガ改正ノ重大ナル要點トナツテ居ルノデゴザイマス、然ルニ今回ノ災害ニ於テ當然死亡者タルコトガ明ナル者ト雖モ、屍體未發見ノ爲ニ行方不明者トシテ取扱ハナケレバナラヌ實情ナリシニ徴シ、縣當局ハ所謂法規條文ノ末節ニ囚ハルルコトナク、本法改正ノ根本精神ニ則リ、不幸ナル罹災遣族ニ對シ見舞金トシテ取敢ヘズ贈呈シタルガ如キハ、眞ニ是アリテコソ法ノ活用ナリト敬服讃嘆ニ堪ヘナイ者デアリマス、他ハ推シテ知ルベキデアリマス、唯本員ハ應急策ナラザル恒久策、換言スレバ本縣震嘯災害防止ニ關スル百年ノ長計ヲ樹立スル上ニ於テ、縣當局ノ賢明ナル復舊復興善後策ニ加フルニ、縣民トシテノ希望ト要求トヲ以テセバ、初メテ完璧ニ近キモノアランコトヲ慮ツテ居リマスガ、是ハ多分サウ云フヤウナ要求モ現レテ參ルダラウト思ヒマスカラ本員ハ之ニ言及ハ致シマセヌ、地球上ノ一大秘境トモ稻スベク又地體構造上世界一ノ危險箇所デアリマスル太平洋中ノ「タスカロラ海溝」ノ存在スル限リ、海中火山ノ解消致シマセヌ限リ、而モ多クV字形ノ灣形ヲ成セル三陸沿岸ニ今後再ビ今回ノ震嘯ノ如キ慘害ナシト唯ガ保證シ得ル者ガゴザイマセウカ斷ジテアリマセヌ、過去數千年來ノ記録ニ傳ハル所ノ事實ハ明ニ震嘯ノ連發ヲ物語ツテ居リマス、遠クハ一千六十三年前ノ貞觀十一年五月二十六日ノ震嘯、大浪多賀城ニ及ビ死者千人ト云フ事實ガ三代實録ト云フ本ニ記録サレテ居リマス、次ハ三百二十三年前ノ慶長十六年十月二十八日三陸沿岸ヨリ北海道東部一帶ニ及ビ、岩沼ノ西南方千貫山ノ松ノ上ニ船ヲ繋イダト云フ記録サヘモアリマス、ソレカラ二百五十年前延寳五年伊達綱宗公時代ニモ三陸沿岸ニ震嘯アリ、寳暦元年即チ百八十六年前ニモ牡鹿、桃生、本吉ノ沿岸ニ大慘害アリ、八十三年前ニモ同樣又元和二年、元緑二年、安政三年ニモ同樣津浪ノ慘害ノアツタコトガ明ニ記録ニ記サレテゴザイマス、明治二十九年六月十五日ノ大海嘯ハ御承知ノ如ク流失家屋一萬三千戸、死者二萬九百九人ト云フ慘害デゴザイマシテ、此ノ外記録サレナイ度數ハ幾許アルカ分リマセヌ、遠キ過去ハ暫ク措キ、明治二十九年ノ大海嘯以來三十九年目ニ今次ノ震嘯デアリマス、而シテ失ヒタル人命ハ二萬一千二百十八名ノ多キヲ算ス、流失倒潰家屋一萬四千四百五十戸ニ達シテ居リマス、其ノ損失ノ巨大ナル實ニ驚クベキモノデアリマス、明治二十九年ノ海嘯ニ於ケル死亡者ハ、其ノ前年ノ日清戰役ノ戰死者ヨリモ更ニ多ク四倍ニ相當シテ居ルト言ハレテ居リマス、今回ノソレハ滿洲事變ノ戰死者ニ相當スル非常ニ大キイ損失デゴザイマス、假ニ五十年毎ニ大慘害ガアリマシテ人命一萬ヲ失フトスレバ、一箇年二百人ノ貴イ人命ガ無慘ニ奪ハレルト云フ勘定ニ相成リマス、恐ルベキデハゴザイマセヌカ、明治二十九年ノ海嘯以來四十年ニシテ今次ノ災厄アリ、爲ニ四百貳拾四萬圓ノ財ヲ失ツテ居リマス、一箇年ニ割當テマスルト拾萬圓以上ヅツノ損害デアリマス、之ニ人命ヲ失フノデアリマスカラ眞ニ心ヲ寒ウセザルヲ得マセヌ、故ニ應急善後策、復舊策ニ引續キ眞劍ニ災害防止ノ長計ヲ講ズル必要ガゴザイマス、今回災害ヲ免レ、又ハ比較的災害程度ノ少ナカツタ地方ト雖モ、縣當局ハ必ズ御考ノ中ニ置カレルコトデアラウト私ハ信ジテ居リマス、更ニ私ハ是等ノ豫算ヲ見マスト云フト前申上ゲマシタヤウニ災害ニ對シテ應急ノ策ガ立派ニ講ゼラレテ居ルノデゴザイマスガ、更ニ又應急ノミナラズ復舊舊状態ニ復スルト云フコトニノミ止マラズ、更ニ更ニ災害以前ヨリモ生産多ク、又住民心安カレト云フ所ノ復興ノ策ガ、■ニ明ニ縣當局ニ依ッテ考案サレタコトガ推察ガ出來ルノデゴザイマス、故ニ私ハ餘リ長イコトハ申シマセヌガ、此ノ提案サレマシタ諸案ヲ通覽致シマシテ、總額貳百七拾貳萬六千參百參拾五圓ト云フ豫算ハ、縣當局ガ如何ニ苦心サレテ編成サレタカ、又如何ニ今後ノコトヲ御考ヘニナツテ編成サレタカト云フコトヲ推察致シマシテ、滿腔ノ賛意ヲ表スル者デゴザイマス、冀クハ此ノ豫算ノ一分二分ノ末節ニ拘泥セラルルコトナク、當局ノ苦心ト手腕トニ御信頼下サイマシテ、滿堂ノ御賛成ヲ希望致シマシテ不肖私ノ賛成演説ヲ終リタイト思フ者デアリマス(拍子)
〔二十二番松山平兵衞君登壇〕
○二十二番(松山平兵衞君)吾々ハ今回本臨時會ニ御提案ニ相成リマシタ震嘯災害復舊事業費ニ關スル豫算ニ對シ吾々同志ヲ代表致シマシテ滿腔ノ賛意ヲ表スル者デアリマス、今回突如トシテ起リマシタ震嘯災害ハ、天下ノ耳目ヲ衝動シタノデアリマス、罹災民ハ天恩ノ優渥ニシテ鴻大無邊ナルニ唯々感泣ニ咽ンデ居ルノデアリマス、又天下江湖ノ深甚ナル同情ニ對シ感激シ且ッ感謝ノ意ヲ表シテ居ルノデアリマス、可憐ナル罹災民ノ現在ト云フモノハ辛ウジテ寒氣ト饑餓ヲ免ルルコトヲ得マシタケレドモ、精神的ニ物質的ニ蒙リマシタ極度ノ打撃ニ對シマシテ、疲勞シナガラ其ノ復活ノ途ヲ辿リツツアル状態デアリマス、震嘯勃發以來縣當局ガ畫夜兼行ニ執ラレマシタ周到敏活ニシテ統制アル應急對策、竝復舊其ノ他災害ノ善後處置ニ對シマシテハ、罹災民ハ齊シク感激ヲ致シテ居リマスルコトハ勿論、吾々縣民ト致シマシテモ其ノ御奮闘ニ對シ感謝ノ意ヲ表シツツアルノデアリマス、知事ノ豫算案説明ノ御演説ニアリマシタ通リ、震嘯災害復舊竝豫防施設ノ根本ニ關シマシテハ、本縣財政ノ現状ト罹災地何レモ困窮ノ事情ニアルニ鑑ミラレマシテ、其ノ計畫ハ極メテ穏健着實ナル態度、眞摯的確ナル調査ヲ基礎トシテ樹立セラレマシタ事ヲ見出スノデアリマス、即チ水産復舊ニ重點ヲ置キ、其ノ積極的計畫ヲ企テ、又各種産業ノ復舊、土木事業ノ復舊ヲ初メ細大漏サズ網羅セラレテ居ルノデアリマス、其ノ豫算編成ノ内容ヲ檢討致シマスレバ、國庫補給又ハ國庫補助金ヲ多額ニ配當ヲ受クルヤウ努力セラレマシタルコト、及ビ大藏省預金部ヨリ低利資金ハ努メテ利子補給ヲ求メラレマシテ、利子補給ナキモノハ、低利ノ爲ニ一時的便益ノ爲ニ之ヲ利用シ、將來ニ憂ヒヲ貽スコトヲ顧慮セラレマシテ、或限度迄ニ借入ヲ抑止セラレマシタルガ如キ、又縣民ノ負擔ノ過重ヲ考ヘラレマシテ自己資金ヲ僅ニ四萬參千圓ノ支出ニ止メラレマシタガ如キ、豫算編成方針ハ縣ノ財政ト縣民ノ財政ノ將來ニ不安不利ヲ貽サザル堅實性ヲ帶ビタモノト思慮致シマシテ、縣當局ノ苦心ノアル所ヲ多トスル者デアリマス、復舊豫算ハ帝國議會ニ追加提案ノコトニ決定シ關係各省ニ於テ著々準備ヲ進メラレタノデアリマスルガ、最後ニ三月十八日大藏省主計局ノ査定ニ這入リマスルヤ、他ノ關係各省ニ於テ諒解決定セル原案ニ對シマシテ三四割方ノ大斧■ヲ蒙ッタ事實ガアルノデアヲマス、私ハ當時上京運動員ノ一人ト致シマシテ、手ニ汗ヲ握ツテ其ノ状況ヲ目撃シタノデアリマスガ、三邊知事初メ關係縣係員ノ不眠不休ノ努力ハ全ク其ノ時ヲ想ヒ起スダニ感激ノ外ハナイノデアリマス、三月十八日ノ大藏省ノ査定ニ於テ縣税及町村税ノ歳入缺陷補填資金ハ岩手縣ト差別待遇ヲ受ケタノデアリマス、即チ岩手縣ハ凶作アリ、其ノ次ニ銀行ノ破綻ガアリ、今回ノ海嘯ト云フ所ノ災害ノ三重奏ヲ被ツテ居ルト云フノデ、大イニ政府カラ同情ヲセラレマシテ、右資金ニ對シ二十箇年ノ利子補給ヲ認メラレマシタケレドモ、宮城縣ハ是ト事情ヲ異ニスルト云フ理由ノ下ニ之ヲ認メラレナカツタノデアリマス、併ナガラ知事ハ本縣財政ノ窮迫セル事情ヲ具體的ニ説明セラレマシテ、岩手縣ト同樣ニ三月十九日漸ク是ハ承認ヲセラレ、縣税、町村税ノ歳入缺陷ヲ合セマシテ拾壹萬貳千圓ノ利子補給ノ復活ニ成功ヲシタノデアリマス、又十八日ノ大藏省ノ査定ニ於キマシテ、縣土木工事及ビ町村土木事業ヲ、原案ヨリ岩手縣ハ三割減、宮城縣ハ四割減ニ査定ヲ
サレタノデアリマス、然ルニ十九日ニ至リマシテ、兩縣共之ガ復活ニ成功シ一割減ニ喰止メタルガ如キハ、知事初メ縣當局ノ苦心ノ跡歴然タルモノアルコトヲ認ムルノデアリマス、住宅適地造成ノ計畫ハ拾九萬五千圓ヲ計上シ、二十箇年ノ利子補給ノ案デアリ、三邊知事ノ創意ニナルモノト聞イテ居ルノデアリマス、之ニ對シマシテモ利子補給ヲ削除セラレタノデアリマスガ、低地ヨリ高地ニ移轉スル所謂將來ノ災害ヲ豫防スルノ案デアルコトヲ力説セラレマシテ、利子補給ノ原案ノ復活ヲ貫徹セラレタノデアリマス、御承知ノ如ク岩手縣ハ復舊ノ外ニ復興ノ豫算ノ編成方針ヲ取リマシテ、尨大ナル參千六百萬圓ヲ政府ニ要求ヲ致シタノデアリマスルガ、内貳百萬圓ハ自己資金デアリマス、此ノ自已資金ヲ除キマシテ政府ノ國庫關係及ビ預金部低利資金ヲ加ヘマシテ、壹千壹百萬圓ニ復舊事業費ガ决定ヲ致シタノデアリマスルガ、宮城縣ハ參百五拾萬圓ヲ政府ニ要求致シマシテ、五萬參千圓ノ更正分共加ヘマシテ、貳百七拾七萬圓ノ復舊事業費ガ決定ヲ致シタノデアリマス、即チ岩手縣ハ要求ノ七割ダケ削減ヲセラレマシテ三割ダケ殘ツテ豫算ニ現レ宮城縣ハ要求ノ三割ダケ削減セラレマシテ七割ガ殘ツテ豫算ニ現レタト云フ、洵ニ奇ナル現象ヲ見出スコトガ出來ルノデアリマス、即チ三邊知事ハ疲弊困憊ノ被害地、悲嘆ニ暮ルル所ノ罹災民ニ直面シマシテ、徒ニ理想ニ走ラズ、非常事變ニ適應セル實際ニ即シタル最モ合理的ニ無理ノナイ豫算編成方針ヲ樹立セラレマシタ結果ハ、政府ノ諒解スル所トナリ洵ニ良好ナル成果ヲ收メ得タルコトヲ考ヘルノデアリマス、吾々ハ眞摯ニシテ信念ニ堅キ知事ノ人格ニ對シ又其ノ行政的手腕、其ノ事務的才能ニ對シ深甚ナル敬意ヲ表スル者デアリマス、提出セラレマシタ復舊豫算ハ、短期間ニ編成セラレタル事實ノミヲ解釋致シ、觀察ヲ致シマスルナラバ、表面的ニ頗ル簡單ニ編成サレタルカノ如キ感モスルノデハゴザイマスルケレドモ、此ノ豫算編成ノ前提ニ於テ政府トノ間ニ行ハレタル其ノ基礎的折衝ニ於テ、知事初メ縣當局ノ涙グマシキ、血ニニジンダル尊キ奮闘ノ跡鮮カナルコトヲ思フ時ニ、私ハソゾロ敬虔ノ念禁ズル能ハザルモノガアルノデアリマス、吾々ハ豫算ノ甜執行ニ畳田リマシテ、萬違算ナキヲ熱望スル餘リ、希望ヲ述べテ縣當局ノ參考ニ資スルコトモ強チ徒爾ナラザルヲ思フノデアリマス、第一ハ復舊ノ豫算ノ執行ニ當リマシテハ、恒久的且ツ復興ヲ加味シタル性質ノモノハ、其ノ範圍ニ於テ之ヲ實施セラレンコトヲ希望スルノデアリマス、第二ハ被害町村ニ各事業ヲ按配スルニ當リマシテハ、各種事業ヲ大局ヨリ見テ適當ニ之ヲ按配シ、消化不能ニ陷ラザルヤウ希望致スノデアリマス、第三ハ資金貸付ニ當リマシテハ豫メ償還計畫ヲ樹テシメ、償還期ニ至リマシテ困却スルガ如キコト無キヤウ、豫メ御注意ヲ願ヒタイノデアリマス、殷鑑遠カラズ是ハ丹後ノ震災ノ直後ニ於テ、又豆相震災ノ直後ニ於テ屡々此ノ事例ヲ見タノデアリマス、第四ハ復舊事業ニ依リマシテ得タル所ノ勞働賃銀ニ依リマシテ、繰上償還ヲセシムルヤウ、將來ノ計畫ヲ立テシメ、成ベク負債ヲ少クスルヤウ豫メ御注意ヲ願ヒタイノデアリマス、第五ハ罹災民ニ對シ今日ノ精神緊張ヲ永續セシムルヤウ精神ノ作興ヲ爲シ、一時ノ救濟ニ依リ又一時ノ收入増ニ依リマシテ、奢侈ノ弊風ヲ馴致致サザルヤウ御注意ヲ願ツテ置キタイト思フノデアリマス、第六ハ縣自身及ビ被害町村ヲ督勵致シマシテ、事業ノ着手ヲ最モ速カニセラレムコトヲ希望シテ已マザル者デアリマス、三邊知事ハ昨日ノ豫算説明ノ御演説ニ於テ左ノ要旨ヲ述ベラレテ居ルノデアリマス、即チ堅忍不拔ニシテ眞摯剛毅ナル本縣特有ノ縣民性ニ信頼セラレマシテ、其ノ美風ガ克ク一時ノ緊張ニ終ル事ナク完全ニシテ且ツ迅速ニ復舊ノ大業ヲ成就シ以テ上ハ優渥ナル聖旨ニ副ヒ奉リ下ハ熱誠ナル國民ノ援助ニ酬インコトヲ各位竝百十萬餘縣民卜共ニ信ジ、相誓ヒ得ルコトヲ衷心ヨリ喜ビトスルト云フコトヲ御述べニナツテ居ルノデアリマス、洵ニ私モ同感デアリマス、併シナガラ震嘯罹災民ノ大部分ハ到底自力ヲ以テ更正シ能ハザル他力本願ヲ待望スル悲慘ナル境遇ニ置カレテ居ルノデアリマス、如何ニ自力更生ヲ爲スノ意氣旺盛ナルモノアリト雖モ全ク不可能ノ状態デアリマス、吾々ハ熱意ヲ以テ此ノ震嘯災害復舊豫算ノ協賛ヲ致シマスル所以ノモノハ、其ノ豫算ノ執行ニ當リマシテ縣當局ハ適正妥當ナル運行ニ依リ、初メテ罹災民ガ蘇生シ初メテ罹災民ガ活氣ヲ負ヒ、初メテ罹災民ガ復活ノ緒ニ付クモノデアルト云フコトヲ考ヘルモノデアリマス、私ハ衷心ヨリ吾々同志ト共ニ此ノ豫算案ヲ協賛致シマスルト同時ニ、三邊知事及ビ縣當局ガ益々奮勵努力セラレマシテ、此ノ善後措置ニ對シ最善ノ努力ヲ盡サレムコトヲ切望シテ已マザル次第デアリマス(拍子)
〔二番今村治三郎君登壇〕
○二番(今村治三郎君)本員ハ今回提出セラレマシタル所ノ昭和八年度追加更正豫算第一號議案竝第七號議案ニ至ル迄、一括シテ之ニ協賛ヲ致ス者デアリマス、三月三日ノ海嘯ノ爲ニ慘害ヲ被ッタ程度ハ頗ル慘澹タルモノデアリマシテ、今本員カラ特ニ申述ベル必要ハナイト思フノデアリマスガ、是等ニ對スル當局ノ應急ノ施設ハ極メテ適當ナル施設デアリマシテ、着々其ノ宜シキヲ得マシテ、其ノ効果頗ル見ルベキモノガアルノデアリマス、此ノ點ハ私カラ更ニ駄辯ヲ混ヘテ申述ベル必要ハナイト思フノデアリマス、今迄松山君竝富田君ヨリ最モ詳細ニ又最モ廣汎ニ亘ツテ當局竝各方面ニ對シテ讀辭ヲ呈セラレタノデアリマシテ、私カラ又駄辯ヲ混ヘテ之ヲ繰返ス必要ハナイト思フノデアリマスカラ、是ハ略シマシテ、唯私ガ一言申述べテ置キタイコトハ、是等ノ豫算ノ内容ラ見マスルト云フト、表面ニ現レタル所ノ現象ヲ對照トシテ計畫セラレタル感ガアルノデアリマス、此ノ災害ノ裏面ニ於テ一ツノ非常ニ慘憺タル苦ミヲ持ツテ居ル所ノモノガ存在シテ居ルト云フコトニ對シテハ、當局ハ何等其ノ點ニ御考ガ達シテ居ラヌヤウニ思ハレルノデアリマス、即チ鹽釜町ノ如キハ三陸沿岸ノ物資ノ集散地デアリマスルノデ、其ノ商取引又ハ土地ノ状態等カラ非常ニ關係ヲ持ッテ居ルノデゴザイマスルガ、是等ノ關係者ハ先頃ノ災害ニ對シテ直接ニ災害ヲ受ケタ者ヨリモ尚ホ以上ニ財的ニ於テハ打撃ヲ被ツテ居ルトモ言ヘルノデアリマス、一船具店ノ如キハ今回ノ災害ニ於テ約七萬圓ノ損害ヲ被ツテ居ル、其ノ回收ノ見込アルモノハ僅カニ壹萬五千圓ニ過ギナイ、斯ウ云フコトヲ言フテ居ルノデアリマス、又運送船ノ如キモ壹萬貳千圓乃至壹萬五千圓ヲ要スル所ノ船ガ二艘共破壞沈沒シテ居ルト云フヤウナコトデアリマシテ、鹽釜町全體ヲ通ジテ其ノ損害ヲ通算シマス時ハ、恐ラクハ貳百萬圓以上ニ上ルノデハアルマイカト言フテ居ルノデアリマス、斯ノ如キモノハ直接ノ被害者デナイガ爲ニ、今回ノ此ノ豫算ヲ適用スル所ノ恩典ニ浴スルコトガ出來ナイト云フコトニナツテ居ルト思ハレルノデアリマス、是ハ甚ダ遺憾ナコトデ、直接波浪ノ爲ニ家ヲ攫ハレルモ、財的ノ被害ヲ受ケテ其ノ家ヲ攫ハレルモ其ノ攫ハレル結果ニ於テハ同一ダラウト思フノデアリマス、所謂一種ノ罹災民ニハ相違ナイト思フノデアリマス、斯ウ云フ者ニ對シテモ何等カノ救濟ノ方法ヲ立テ、其ノ前途ヲ安ンゼシメルト云フコトガ縣當局ノ取ルベキ方法デハナカラウカト思フノデアリマスガ、今回ノ豫算計畫ヲ見マスト、唯表画ニ現レタ所ノ罹災者ニ對シテノミノ救濟方法ノヤウニ見ユルノデアリマス、是ハ見ヤウガ惡イノデアリマスルガ、兎ニ角私ハサウ云フ風ニ見エルノデアリマス、是等ノ點ニ付テ當局ハ若シ此ノ計畫ノ中ニ當テ嵌メ得ラレルナラバ、之ヲ當テ嵌メテ戴ク、若シ是ガ當テ嵌メ得ラレナイモノトスレバ、更ニ今後何等カノ方法ヲ以テ、是等ノ者ヲ救助シテ貰ヒタイ、斯ウ云フ希望ヲ申述べテ置クノデアリマス、此ノ豫算案ニ對シテハ全然賛成ヲ表スル次第デアリマス(拍手)
○三十番(北村文衞君)討論ヲ終決致シマシテ、上程中ノ各號議案ハ一括シテ之ヲ可トシテ採擇シ、第二讀會ヲ開クベキモノト決セラレンコトヲ望ミマス、動議ヲ提出致シマス
〔「賛成」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)只今三十番カラ御聽及ビノ通リノ動議ガアリマシテ、賛成者モアリ成立致シテ居リマス、右動議ニ御異議ゴザイマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ナイト認メマシテ、右動議ノ通リ本各案ヲ第一讀會ニ於テハ之ヲ採擇シ、第二讀會ヲ開クベキモノト決定致シマス、此ノ機會ニ御報告致シタイコトガゴザイマス、昨日御決議ニ基キマシテ罹災者御救恤ノ御召ニ對シ奉リマシテ、ソレゾレ御體ヲ言上致シタノデアリマスルガ、右ノ中李■公家志賀事務官ヨリ本日次ノ如キ電報ガゴザイマシタ、本文ノミ朗讀致シマス
殿下演習御不在ニ付貴電ノ趣傳達ス
以上御報告致シマス
○三十番(北村文衞君)只今第一讀會ヲ終ヘマシタ各號議案ノ第二讀會ヲ本日ノ追加日程トシテ上程セラレンコトヲ希望致シマス
〔「賛成」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)只今三十番ヨリノ御動議ニ賛成ガアツテ成立致シテ居リマス、御異議ゴザイマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ナイト認メマシテ、右樣ニ決シマス、即チ臨第一號議案乃至臨第七號議案ノ第二讀會ヲ本日ノ日程ニ追加致シマス、是ヨリ右各案ノ第二讀會ヲ開キマス
○三十番(北村文衞君)上程セラレマシタ各號議案ノ第二讀會ニ異議アリマセヌ、仍テ之ヲ可決シ尚ホ第三讀會ヲ省略シテ確定議トセラレンコトヲ希望致シマス
〔「賛成」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)只今三十番カラ御聽及ビノ通リノ動議ガアリマシテ、賛成者モアリ成立致シテ居リマス、右動議ニ御異議ゴザイマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ナイト認メマシテ、右動議ノ通リ上程中ノ各號議案ハ第二讀會ニ於テハ原案ヲ可決シ第三讀會ヲ省略シテ確定議ト致シマス、暫時休憩ヲ致シマス
午後三時十四分休憩
午後三時五十六分再會
○議長(伊丹榮三郎君)再開致シマス、■ニ議員伊丹榮三郎外三十四名ヨリ提出ニ係ル震嘯災害ニ對スル根本的防難方策樹立方要望ノ意見書ヲ提出シタイト云フ建議ガアリマス、日程ヲ追加シテ右意見書ノ第一讀會ヲ開クコトニ御異議ゴザイマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ガナイト認メマシテ右樣ニ決シマス、意見書ノ第一讀會ヲ開キマス
○震嘯災害防難方策樹立要望ノ件 第一、二、三讀會
○議長(伊丹榮三郎君)意見書ヲ朗讀致サセマス
〔若生書記朗讀〕
建議
別紙意見書提出致度候條御採用相成度及建議候也
昭和八年四月六日
提出者議員
伊丹榮三郎 大槻茂 菊地養之輔
今村治三郎 山田甚助 佐藤彌代二
大槻儀十郎 朝倉松吉 粟野豐助
高城畊造 澤口一郎 小野儀左衞門
庄司作五郎 樺澤敬之助 南條秀夫
高橋幸市 今川正 中島徳治
加藤豹五郎 遣水祐四郎 松山平兵衞
草刈勝衞 小野惣助 菊地明夫
小野寺廣亮 小島眞助 吉田潤平
安藤源治郎 北村文衞 千石順平
熊谷泰事郎 飯塚千尋 富田廣重
佐々木靜 熊谷誠一
宮城縣會議長殿
意見書
一、這般突發セル震嘯災害ノ甚大ナルニ鑑ミ本縣沿岸全部ニ對シ根本的調査ヲ遂ゲ速ニ有効適切ナル防難方策ヲ樹立セラレンコトヲ要望ス
理由
三陸沿岸震嘯ノ慘害ハ古來一再ニ止マラズ殊ニ去ル明治二十九年及今回ノ災害ニ於テ最モ酸鼻ヲ極メタリ震嘯ノ被害ヲ豫防スル根本施設ハ罹災地百年ノ大計ニシテ内務、農林、文部ノ各省ニ於テ必要ナル調査ヲ遂ゲ以テ寳施セラルル計畫アルハ洵ニ罹災地生民ノ至上ノ幸福ナリト雖今回ノ罹災地ニ止マラズ本縣百五十餘里ノ海濱曲浦ノ全部ニ亘リ悉ク之ヲ調査シ苟モ海嘯襲來ノ虞アル地域ニ對シテハ速ニ適切ナル防難施設ヲ完成スルニアラズンバ沿岸ノ生民ヲシテ其ノ堵ニ安ンゼシムル能ハザルニヨリ本意見書ヲ呈出シ其ノ實現ヲ要望スル所以ナリ
右府縣制第四十四條ニ依リ意見書呈出候也
年月日
宮城縣會議長
内閣總理大臣
内務大臣
大藏大臣
農林大臣 宛
文部大臣
宮城縣知事
〔伊丹議長議長席ヲ退キ大槻副議長著席〕
○副議長(大槻茂君)十一番
〔十一番伊丹榮三郎君登壇〕
○十一番(伊丹榮三郎君)私ハ唯今提出ニナリマシタ意見書ノ提出理由ヲ簡單ニ申述ベタイト思フノデアリマス、此ノ理由ハ意見書ニ付ケテアリマス通リデアリマシテ、殊更ニ私ガ登壇致シマシテ申述ブル程ノモノデモナイノデアリマス、併ナガラ聊カ附加ヘテ申シテ見タイト思フ點モアルノデアリマス、ノミナラズ私ハ同僚各位ガ御存知ノ通リ、幸カ不幸カ海岸ニ生レ海岸ニ育チマシテ、多少海岸ノ状態、沿岸住民ノ利害幸福ヲ知リ、又苦患ヲ嘗メテ居ル關係上、理由ノ説明ヲ致シマスル演説者ト致シマシテ考ヘマシタ時分ニハ、他ニ同僚ノ中ニ立派ナ御方々ガアルノデアリマスケレドモ、今申上ゲルヤウナ事情ヲ以チマシテ私ガ此ノ提案ノ理由ヲ申述ブルコトニ甘ンジタノデゴザイマス、申迄モナク我國ハ海國デアリマス、而シテ我宮城縣ハ一市十六郡中亘理、名取、宮城、桃生、牡鹿、本吉ノ六郡ハ沿岸地ニナッテ居ルノデアリマス、理由書ニハ本縣百五十餘里ト書キマシタケレドモ、此ノ里程ハ亘理郡ヨリ本吉郡ニ到ル海岸ヲ直徑ニ計ツタノデアリマシテ、其ノ間ノ海濱曲浦ヲ能ク計リマシタ時分ニハ、百七十餘里ノ長キニ亘ル海濱曲浦ヲ有シテ居ル本縣デアリマス、而シテ沿岸住民ノ利害ヲ考ヘテ見マスル時ニ、沿岸住民ノ多クハ漁民デアリマス、其ノ漁民ハ御承知ノ如ク板子一枚下ハ地獄ノ渡世ヲ致シテ居ルノデアリマス、住宅ハ皆悉ク海岸ニ設ケテアルノデアリマス、業務ハ今申上ゲマシタヤウナ板子一枚下ハ地獄ノ渡世ヲヤツテ居ル、家ニ殘ッテ居ル老幼婦女子ハ非常ナル危險地帶ニ設ケラレテ居ル住宅ニ起伏ヲシテ居ルノデアリマス、住家ナルモノハ吾々人世ノ城廓デアルノデアリマス、一虔此ノ城廓ニ身ヲ置ク時ハ安全デナケレバナラナイ
ノデアリマス、然ルニ此ノ沿岸住民ノ住宅ハサウハイカヌノデアリマス、決シテ城廓ノ安全ヲ成シテ居ラヌノデアリマス、何故カナラバ此ノ度ノヤウナ海嘯ガナクッテモ、年々歳々四季ノ變遷二起リマスル時化ノ時ニハ狂瀾怒濤ニ脅威サレルノデアリマス、其ノ心配タルヤ沿岸ニ住居ヲ持ツテ其ノ住ヒヲ爲シタ人デナケレバ容易ニ想像ガ及バザルモノアルノデハナイカト思フ程デアリマス、而モ此ノ危險地帶ニ年一年ニ人口ガ繁殖シ戸數ガ増殖スルト云フ事ハ聊力不可思議ナル感ヲ持タレルノデアリマス、御承知ノ通リ山村又ハ農村ニ比べテハ、左樣ナ危險ノアル土地ニ住ミ、危險ナル業務ニ從事シテ居ルニ拘ラズソレニ比例致シマシタ利得ハナイノデアリマス、是ハ論ヨリ證據山村又ハ農村ニハソレゾレ財産家、豪農等ハアリマスケレドモ、海岸地帶ニ財産家ハ殆ドナイノデアリマス、利益ガナクシテ危險ナ地帶ニ住ムト云フコトハ、前ニ申上ゲマシタ通リ、如何ニモ不可思議ナル状態デアルノデアリマスルガ、奈何セン耕スニ田畑ナク、商人トナラント欲スルモ資本ニ乏シイ、否資本ハ無イ、斯ウ云フ人々ガ詰リ集ツテソレゾレ村落集團ヲ成シテ居ルノデアリマス、今ヤ我國ハ人口ガ増殖シテ何レニカ植民地ヲ求メネバナラヌト云フヤウナ必要ニ年一年ト迫リツツアルノデアリマス、而シテ何レノ方面、何レノ地ニ植民地ヲ求メヤウトシテモ中々無サソウデアルノデアリマス、同僚諸君モ御承知ノ通リ排日ト云フ氣分ガ國外ニ盛ニナツテ居ルノデアリマス、■ニ於テカ私ノ考ヘマスルノニハ、沿岸地帶ナルモノハ危險地帶デハアルケレドモ、一種ノ植民地デハアルマイカ、斯ウ云フコトヲ常ニ思ツテ居ルノデアリマス、此ノ植民地ハ前段申上ゲマシタ通リ頗ル割ノ惡イ植民地デアリマス、アリマスケレドモ此ノ海岸ト云フモノヲ保全スルニ非ザレバ、大ハ國土保全ノ爲ニモナラズ、又吾々縣民ノ分業ノ精神カラ考へマシテモ、是非此ノ海岸ト云フモノヲ安全ニシテ、ヨリ良キ植民地ニ致シマスルコトハ、國家ノ上カラ考ヘマシテモ、吾々縣民ノ共存共榮ノ上カラ考察致シマシテモ、必要ナコトト考フル者デアリマス、然ルニ此ノ沿岸ガ、理由書ニモ書キマシタ通リ海嘯ノ慘害ト云フモノハ、記録ニ殘ツテ居ル所ニ徴シマシテモ、中々ニ尠クナイノデアリマス、殊ニ去ヌル明治二十九年ノ海嘯、其ノ翌年ニ又起ツタノデアリマス、次ニ又大正二年ノ激浪怒濤モ性質ハ海嘯デアルカドウカハ存ジマセヌケレドモ、甚大ナル怒濤デアリマシテ、非常ナル慘害ヲ見マシタ苦イ經驗モアルノデアリマス、其ノ後モ冒頭ニ申述べマシタ通リ、年々歳々ノ激浪怒濤ハ左程ニ生命財産ヲ失フマデデナクモ、其ノ海岸ノ住民ニ對シテ脅威ヲ感ゼシメルコトハ尠クナイノデアリマス、况ヤ今回ノ桃生、牡鹿、本吉ノ震嘯ニ因ル慘害ノ如キハ、私ガ■ニ改メテ申上ゲル迄モナク恐シイモノデアルト云フヨリ外ナイノデアリマス、被害地ヲ視察シテ見マシテ全ク吾々ノ心膽ヲ寒カラシムルモノアルノデアリマス、ケレドモ此ノ波ノ跡ハ河川ノ水害ノ跡ヨリハ、慘况ノ所謂痕跡ハ殘ラナイノデアリマス、波ハ靜カナル時ハ全ク鏡ノ如キ有樣ヲ呈シマス、一旦怒レバ龍神ノ怒ヲ爲セルガ如キ狂瀾ノ光景ヲ呈スノデアリマスガ、素々海面ノ性質トシテ、一旦左樣ナ光景ヲ呈シマシテモ、波ガ引イテシマツタ後ハ、矢張リ海ノ本性ニ歸リマシテ殆ド沼ノ如キ有樣ヲ呈シテ居ル、又波ノ爲ニ奪ハレタ家屋ハ、陸ノ水害ト違ヒマシテ遠ク流沒サレテシマヒマスカラシテ、其ノ慘害ハ見エナクナルノデアリマス、ソレデアリマスカラシテ、海ニ經驗ノナイ人ニハ左程デハナイヤウニ見ラレル憾モアルノデアリマスガ、其ノ慘害ガ見エナクナル程被害ガ甚シイノデアリマス、私ハ自分ノコトヲ申シマシテ、チヨツトオカシク聽カレ申ス虞モアリマスケレドモ、知ラナイ事ヲ申スヨリモ知ツタコトヲ申スコトガ皆サンノ御參考ニナルト思ヒマスカラ申上ゲマスガ、私ノ先祖ハ伊丹デス、其ノ伊丹ガ伊丹ノ城廓ヲ失ヒ、東京ニ於テ祿ヲ失ツテサウシテ磐城ニ這入ツタノデアリマス、磐城ニ這入ツテ遂ニ蓄ヘノ金モ無クナリマシテ、遂々宮城郡七ヶ濱村ノ菖蒲田濱ニ流浪シテ參リマシテ菖蒲田濱ノ海岸ニ住家ヲ設ケタノデアリマス、此ノ住家ヲ設ケマスル時分ニハ私ノ先祖モ餘程波打際ニ遠イ所ニ設ケタノデアリマス、此ノ位ノ場所ナラバ波ニ襲ハレル虞無シトテ家ヲ設ケタノデアリマス、焉ゾ知ラン波打際ヨリ餘程遠イカラ此ノ邊ナラバ波ニ襲ハレル虞ナシト見立テ、住家ヲ設ケタ所ガ、遂ニ其ノ場所ガ波ニ侵サレルコトニナリマシテ、其ノ低イ場所ヨリ部落ニ於テ一番高イ丘ノ方ヲ切開イテ家ヲ建テ直シタノデアリマス、■ニ於テカ私ハ考フルノデアリマス、若シ夫レ私ノ先祖ニシテ地方ノ即チ海岸ノ事情ニ當時通ジテアツタナラバ、假令波打際ハ遠クトモ、濱丘ガ高クトモ、此ノ邊ナラバ住家ヲ設ケテモ差支ナイトシテ、其處ニハ建テナカツタト思フノデアリマスガ、ソレハ即チ其ノ地方ノ海岸ノ状况ト云フモノヲ知ラザルガ爲ニ、其處ニ家ヲ設ケテアツタノダト思フノデアリマス、左樣ナ譯デアリマシテ、海岸ト云フモノヲ能ク見、能ク聞カズンバ、海岸ノ事情ト云フモノハ如何ナル博識賢明ナル御方ト雖モ神ニ非ザル限リハ分リヤウハナイト思フノデアリマス、私ノ先祖ハ不賢明デ或ハ設ケタノカ知リマセヌケレドモ、私ノ想像致シマス所デハ、何人デモ、サウ云フ誤ニ陷ル虞ガアルノデハアルマイカト考ヘルノデアリマス、其ノ高イ所ニ宅地ヲ設ケマシタガ、其ノ宅地ノ半分ヲ又此ノ前ノ、私ガ縣廳在勤中ニ波ニ攫ハレテシマツタノデアリマス、土木課ニ於テハ海岸即チ防波堤ヲ調査ニ行キマシテ、私ノ前屋敷ノ取ラレタコトヲ少シモ分ランデ、殘ツタ屋敷ヲ切下ゲテ其處ニ混凝土ノ防波堤ヲ造ツテ呉レタノデアリマス、私ノ弟ハ驚イテ私ニ急報シテ參ツタノデアリマス、縣廳ノ御役人樣ト云フモノハ、ドウモサツパリ分ラナイモノダ、畢竟スルニ、常ニ海岸ト云フモノヲ見タリ聽イタリシナイカラデアル、ドウ云フ譯デアルカト言ツタ所ガ、前屋敷ノ波ニ崩サレタ所ハ屋敷デナイト思ツタカ、殘ツタ所ヲ又切下ゲテ其處ニ防波堤ヲ築キマシタ、サウシテ其ノ築イタル防波堤ハ唯斜ニ築イタカラ此ノ次ニ大波ガ來ルト云フト殘ツタ屋敷ノ方ニ又波ガ上ル事ニナリマス、飛ンデモナイコトヲサレタカラ來テ見ヨト云フ急報ナノデ、私モ取敢ヘズ行ツテ見タ所ガ果シテ其ノ通リデアリマス、ソレヨリ私ハ當時ノ土木課ニ行ツテ御話ヲ致シマシタ所ガ、ソレハ飛ンデモナイコトヲシタ、アノ殘ツテ居ツタ屋敷ダケデ前ハ前々カラ濱ダト思ツタノデアリマスト、百方私ニ詑ビマスカラ咎メ立致シテモ、知ラナイデヤツタ官吏モ困ルト思ヒマシタカラ、ソレナラバ殘ツタ宅地バカリモ後波ニ流レナイヤウニ、即チ流沒シナイヤウニ何トカ君等ノ工夫ハアルマイカ、波返シヲ付ケルヨリ外ナイカラ波返シヲ付ケテヤルカラソレデ勘辨ヲシテ貰ヒタイト云フノデ、稍々波返シヲ付ケテ貰ヒマシタケレドモ、前ニ申シマシタ大正二年ノ大波ニハ矢張リ慘々傷メラレ、塀ヲ超エテ屋敷ノ上ニ波ガ上ツタ斯ウ云フ苦イ私ハ經驗ヲ持ツテ居ル者デアリマス、是ハ決シテ自分ノ爲ニ辯ズル者デアリマセヌ、我身ヲ抓ツテ人ノ身ヲ抓レト云フコトガアリマスカラ、自分ノ苦シイ思ヒヲシタコトヲ以テ私ト同樣、否私ヨリ以上ノ損害ト苦ミト甚シキニ至ツテハ取ツテ返シノ付カナイ命迄オ亡シニナツタ皆サンニ、私ハソゾロニ同情ヲ致シツツアル者デアリマス、勿論私ノ家ハ此ノ屋敷ヲ失ツタバカリデナイ、船モ失ヒ、其ノ船デ先祖ノ生命ヲ失ヒ、又私ノ盛ンナ年代ニ義兄モ海ニ於テ溺死致シマシタ、私モ大波ノ爲ニ一度死ニ瀕シタ例マデ持ツテ居ル者デアリマス、斯樣ナ苦イ經驗ヲ持ツテ居ル拙者デアリマシテ、海岸ノ住民ノ苦ミニハ滿腔ノ同情ヲ以テ何トカ皆サンノ御賛成ヲ得テ、此ノ危險ナル沿岸ヲ安全地帶ニシテ、沿岸住民ノ不安ヲ除去シタイト云フコトハ、何ゾ今回ノ海嘯アツテ初メテ考ヘタコトデハナイノデアリマス、是ハ當局ニ對シテ御氣障リニナルカモ知レマセヌケレドモ、事重大ナコトデアリマスカラ卒直ニ申上ゲマスガ、此ノ海岸ノ防波堤ヲ改築シテ貰フ爲ニ屡々地方ヨリ陳情書ガ參ルノデアリマス、其ノ虔毎ニ私ハ御係ニ向ツテ哀訴歎願ヲ致スノデアリマス、ケレドモ何時デモ此ノ海岸堤防ニ對スル豫算ガ缺乏シテ居ルノデアリマス、成程私ハ缺乏シナケレバナラヌト思フノデアリマスガ、何故缺乏スル筈ダト云フコトヲ考ヘマスカト申シマスナラバ、私ガ前回ニ縣會議員ニナリマスト、本縣ノ豫算ヲ調査致シテ見マシタ、所ガ海岸堤防費ト云フモノガ見エナイ、堤防費ハアルケレドモ、ソレハ河川ノ堤防費ト認メル外ナイ豫算ニナツテ居ル、ドウシテ海岸堤防費ト云フモノガナイカト云フコトヲ、當時ノ當局ニ質問致シマシタ所ガ、イヤソレハ無クトモ港灣費ノ方カラ出スコトニスルト斯ウ言フ、港灣費ニハ港灣費トシテノ使口ガアル、海岸ノ堤防即チ防波堤ノ費用トシテハ當ラザルモノト私ハ考ヘルノデアリマス、今尚ホ私ハサウ信ジテ居ル、是ハ竟畢スルニ我宮城縣ニ於テハ、河川ノ治水ニ急ニシテ海岸ノ方ヲ知ラズ識ラズ、勿論惡意デハアリマスマイガ自然閑却サレタモノデハアルマイカト思フノデアリマス、豫算ノ形式カラ致シマシテ左樣ニナツテ居ルノデアリマスルカラ、此ノ海岸ノ堤防費ト云フモノガ缺乏スルト云フコトハ免レナイノデアリマス、從ヒマシテ防波堤ヲ築クニ當リマシテハ、波ノ高サニ聞カズシテ豫算ノ高サニ聞イテ工事ヲ爲スト云フ憾ガアルノデアリマス、
波ニ聞カズシテ豫算ニ聞イテ造ル防波堤デアリマスカラ、日和ノ良イ、防波堤ニ用ノナイ時分ニハ、此處ニモ防波堤アリト見マスケレドモ、本當ノ防波堤ノ効用ヲ爲ス即チ激浪怒濤ノ際ニハ何等用ヲ爲サナイ防波堤デアリマス、姑息ナル防波堤デアリマス、况ヤ這般ノ海嘯ノ如キ暴威ニ遭遇スルヤ忽ニ波ニ侵サレ、家屋ハ勿論、取返シノ付カザル生命マデ奪ハレルト云フコトハ免レザル状態デアルト私ハ痛切ニ考フル者デアリマス、尚ホ■ニ申上ゲテ見タイコトハ、日本海ハ陸地ガ海ニ取ラレ即チ沈沒シテ行ク、ソレニ反シテ太平洋沿岸ハ土地ガ隆起シテ居ル、斯ウ云フコトヲ學界ニ於テ説カレテ居ルヤウデアリマスルガ、大體論トシテハ左樣カモ知レマセヌ、ケレドモ私ノ知ツテ居ル限リニ於テハ我宮城縣ハソレト反對デアリマス、昔ヨリズツト此ノ砂丘ト云フモノガ減ツテ居リマス、昔ハ餘程砂丘ト云フモノガ高クテ、其ノ砂丘ニハ「ボウフ」ト云フモノモ生ジテ居ル、濱茄ナント云フモノモ生ジテ居ル、野蒜草、土筆サウシタヤウナ花卉草木ガ發生シテ居ル程、砂丘ガ高カツタノデアリマス、所ガ近來ハ其ノ濱丘ト云フモノハ激浪怒濤ニサラヒ取ラレテ、私共ノ少年時代ニ三丈モアツタ高サノ砂丘ガ今ハ一丈以下ニ減ツテ居リマス、從ツテ防波堤ノアツタ所ヨリ波打際ハ約百間モ遠イ所ニアツタノガ、段々陸地ニ迫ツテ參リマシテ十間ソコソコニナツテ居ルノデアリマス、ソレデアリマスカラ濱丘ガ低クナリ、波打際ハ近ク陸地ニ迫ツテ居リマスカラ、動モスレバ此ノ激浪怒濤ニ侵サレテ、年々歳々流沒スル家屋モアリ、ドウニカ更ニ適地ニ宅地ヲ設ケテ移轉スルコトノ出來ル者ハ、山ノ方ニ逃ゲルト云フヤウナ傾向ニナツテ居ルノデアリマス、所ガ逃ゲタナラバソレデ宜シイカト云フト、其ノ第一線ニ並ンデアツタ家ガ逃ゲレバ、其ノ背後ニアツタ家ガ又侵サレルト云フヤウナ状態ニ相成ツテ居ルノデアリマス、餘リ長クナル虞ガアリマスカラシテ、大概略スコトニ致シマスガ、■ニ序デニ付加ヘタイノハ三丈ノ砂丘ノ上ニ築ク堤防モ、五尺ノ堤防、一丈以下ニ減ツタ砂丘ニ築ク堤防モ復舊工事ナリトシテ五尺ノ堤防デアリマス、三丈ノ砂丘ニ築ク五尺ノ堤防ナラバ海拔三丈五尺ニナル譯デアリマス、ケレドモ一丈以下ニアリマス所ノ - 一丈ノ上ニ五尺ノ堤防ヲ築キマスレバ矢張リ一丈五尺シカナイト云フコトニナリマシテ、三丈五尺ヨリ一丈五尺ヲ引クト二丈低イコトニナリマスカラ、常識カラ考ヘテ見マシテモ當リ前ノ激浪怒濤デモ侵サレルト云フコトハ認識サレル筈デアリマス、ケレドモ奈何センソレハ激浪、怒濤ノ際ニ見タコトデナケレバ分ラナイノデアリマス、怒濤ノ止ンダ時、怒濤ノナイ時分ニ行ツテ見タノデハ役ニ立チマセヌ、ソレナラバ縣當局ハ如何ニスレバ可ナルカ、斯ウ云フ問題ニナルノデアリマスルガ、矢張リ此ノ學者ノ説モ大切デアリマスケレドモ、地方ノ人ニモ能ク聞イテ下サルト云フコトハ、今回ノ復舊工事ヲ致シマスルニ付テモ必要ナコトデアルマイカト私ハ存ズルノデアリマス、地方ノ人ニ聞キマスレバ必ズヤ分リマス、ドノ位ノ高サノ波ガ來ルカヲ聞カズシテ、波ノナイ時分ニ行ツテ見タコトデハ到底如何ナル博學多識ノ御方ト雖モ認識スルコトハ出來ナイノデアリマス、今回ハ此ノ海嘯ノ慘害ニ鑑ミラレマシテ、御當局ニ於テモ充分御注意ヲ以テ色々御盡力ニナリ畫策セラレ、工事モ以前ト違ヒマシタ、所謂脆弱ナモノデナクシテ堅牢ニ波ニ打勝ツダケノ防波堤ヲ造ツテ下サルコトト思フノデアリマスカラ、稍々私モ安心ハ致シテ居ルモノノ、思ヒ付イタ點ヲ御話シ申上ゲナケレバ、却テ此ノ復舊工事ヲ爲サレルニ付テモ御不便ガアルノデハアルマイカト云フコトヲ、老婆心ナガラ考フル儘御機嫌ニ障ルコトモ顧ミズ
以上申上ゲタ次第デアリマス、宜ナル哉此ノ今回ノ罹災地ニ向ヒマシテハ、知事サンノ御説明モ昨日承ハリマシタガ、將來再ビ海嘯等ノアリマスル場合、人命財産等ニ對スル被害ヲ豫防スル根本施設ハ罹災地百年ノ大計デアリマシテ、最モ必要ナルモノデアルト信ジテ之ニ要スル費用ノ計上ヲ熱望シタノデアル、之ニ對シマシテハ政府モ亦大イニ御考へ下サイマシテ、内務・農林・文部ノ關係省ニ於テ必要ナル調査ヲ實施セラレルコトニナツタト云フコトハ、吾々沿岸住民ノ洵ニ有難キ仕合セナリト、所謂天來ノ福音ナリト感謝ヲ致ス者デアリマス、(「時間延長」ト呼ブ者アリ)唯此ノ御説明ノミニテハ罹災地ニ限ラレルヤウナ憾ガアルノデアリマス、カルガ故ニ此ノ意見書ト云フモノハ詰リ生レタト申シテモ宜シイノデアリマス、今回ノ罹災地ニ止マラズ本縣百七十餘里ノ海濱曲浦ノ全部ニ亘ツテ悉ク之ヲ調査シ、苟モ海嘯襲來ノ虞アル地域ニ對シテハ速カニ適切ナル防難設備ヲシテ貰ヒタイ、斯ウ云フ意見ナノデアリマス、■ニ於テ何故罹災地以外ノ海濱曲浦ニ向ツテモ調査ヲ遂ゲラレテ防難設備ヲシテ貰ハネバナラヌカト云フコトヲ説明申上ゲタイノデアリマス、記録ニハ明カデアリマセヌケレドモ、此ノ罹災地以外ノ海濱曲浦モ古來屡々海嘯ニ遭ツタ例ガアルノデアリマス、況ヤ聞クガ如クンバ、海嘯ノ發生地點ハ二十九年ニ比シテ今回ハ約十里モ南下シテ居ルト云フコトヲ承知致シテ居ルノデアリマス、果シテ然ラバ金華山ノ眞沖、或ハ金華山ノ西ノ方ニ於テ此ノ度ノヤウナ海嘯ガ起ルコトガアツタナラバ、我宮城縣ノ被害ト云フモノハ今回ヨリ以上甚大ナルモノガアルト私ハ推察致スノデアリマス、決シテナイトハ限ラレナイノデアリマス、否私ハアルコトヲ不幸ナガラ想像致スノデアリマス、若シ私ノ此ノ恐怖ガ杞憂ニ終ルナレバ沿岸住民ノ幸福デアリマス、起ラザルニ拘ラズ此ノ防難設備ヲシタコトハ無駄デアツタト云フコトガアツタナラバ幸デアリマス、勿論起ラナイニ致シマシテモ、サウシタ防難設備ヲ致シマシテ此ノ危險地帶タル沿岸ヲ安杢地帶ニ致シマスト云フト、前ニ申上ゲマシタヤウニ一種ノ植民地トモ申スベキ此ノ海岸ニ、年一年ニ人口ガ移住シテ我宮城縣ノ水産ノ勃興ヲ見ルト云フコトニ相成リマスルカラシテ、其ノ意義ニ考ヘマシテモ此ノ罹災地以外ニ向ツテモ防難施設ヲ完成シテ貰ヒタイト云フコトヲ切望シテ止マヌ次第デアリマス、仍テ本意見書ハ此ノ點ヲ特ニ附加ヘタイト云ウ精神カラ致シマシテ、前ニ申上ゲマシタ通リ生レタト申シテモ宜シイ意見書デアリマスカラ御當局ニ於テモ左樣ニ御思召アランコトヲ御願ヒ致ス者デアリマス、尚ホ如何ニ政府ニ於テ調査費貳萬圓ヲ設ケテ、サウシテ調査ヲ致シマシテモ、縣當局ガ御熱心ニ、前ニ申上ゲマシタヤウニ各地ノ沿岸ノ状況ヲ能ク知ツテ居ル者ニ聞キモシ、實地ニ御見聞ヲ爲サツテ、サウシテ政府ニ献策シテ下サルヤウニ致シマセヌデハ、折角始メマシタル調査モ餘リニ用ヲ爲サナイヤウニナノルデハナイカト云フコトヲ心窃ニ憂ヘテ居ル者デアリマス
○副議長(大槻茂君)時間ヲ延長致シマス
○十一番(伊丹榮三郎君)(續)時間ヲ延長シテ戴イテ其ノ上ニ必ズヤ此ノ意見書ニ付テ賛否ノ御議論モアルコトト思ヒマスカラシテ、提案理由ハ之ヲ以テ打切ルコトニ致シマスガ、重ネテ申上ゲマスガ、ドウゾ罹災地ニ止メズシテ、罹災地以外モ御調査ヲ爲サレ、御調査ヲ爲サルニ付テハ繰言ニモ縣當局ニ於カレテハ充分ニ御注意ノ上ニ、成ベク速ニ此ノ防難設備ヲ實施セラレンコトヲ要望シテ提案理由ト致シマス(拍手)
〔伊丹議長議長席ニ着ク〕
〔三番山田甚助君登壇〕
〇三番(山田甚助君)私ハ只今ノ意見書ニ對シテ同僚ヲ代表致シマシテ賛成ヲ表スル者デアリマスルガ、其ノ賛成ヲ表スルニ付キマシテ少々意見ヲ申上ゲテ置カウト思フノデアリマス、私モ災害地ヲ視察シタ者ノ一人デゴザイマシテ、其ノ慘状ノ光景ハサツキ富田君カラ申上ゲタ通リ同樣感ジタ者デアリマス、而シテ私ハ全ク此ノ桃生・牡鹿・本吉ノ海岸ト云フモノヲ實地視察シタコトハ初メテデアリマシテ、又異樣ニ感ジタノデアリマスソレハ何故此ノ三郡ノミガ斯樣ナ災害ヲ受ケタノデアルカト云フコトヲ考ヘマスルト、第一ニハ海岸ハ悉ク皆山岳ナノデアリマス、山岳ハ矢張リ波ニ向ツテハ非常ナル抵抗力ヲ持ツモノデアルカラシテ、如何ニ大キイ波ガ來テ此ノ山ニ打チ當ツテ、サウシテ其ノ碎ケタ波ガ此ノ人家ヲ襲フタカト云フコトヲ想像サレルノデアリマス、故ニ私ハ斯樣ナル海岸ノ防難事業ト云フモノハ餘程考慮ヲセナケレバナルマイト、斯ウ思フノデアリマス、私ハ矢張リ堰堤モ必要トハ認メマスガ、總テ此ノ自然物ヲ防止スルニハ、自然ノ物デ防止スルコトガ一番大切デハアルマイカト斯ウ感ズルノデアリマス、ソレハ何デアルカト云フト、海岸ヲ形容致シマスト白砂青松ナドト申シマシテ、白イ砂原、青イ松原ト、斯ウ云フコトヲ申シマスガ、此ノ形容詞ハ至ツテ優シク出テ居リマスルガ、彼ノ怒濤ニ向ツテノ防難ト云フモノハ、又偉大ナル力ヲ持ツモノデアル、即チ波ヲ打碎クモノハ松林デアルト云フコトヲ感ズル、故ニ地形カラ言フト狹イノデアルケレドモ、アノ沿岸ハ矢張リ松林ヲ造ルベキモノデハナイカ、斯ウ感ズルノデアリマス、サウシテ松林ノ後方ニ向ツテ人家ヲ建テルベキモノデアルト云フコトヲ私ハ信ズル者デアリマス、斯樣ナ見地カラ見マシテ、實例ヲ擧ゲマスレバ、六郡ノ中宮城・名取・亘理ト云フノハ矢張リ昔カラ左程海嘯ニハ侵サレテ居ラヌノデアリマス、ソレハ海嘯ハナイ譯デハゴザイマセヌ、昨年ノ稻ヲ流シタ十月ノ海膨レハ矢張リ一ツノ海嘯デアリマシタ矢張リアノ沿岸ノスカヲ打超エ、サウシテ松林ヲ通リ拔ケテ、田面ニ行ツテ稻ヲ流シタノデアリマスカラシテ餘程宜イノデアリマスガ、唯此ノ宮城・名取・亘理ノ海岸ハ白砂青松デアリマス、矢張リ三百年來ノ鬱蒼タル松林ガ一ツノ防波堤ニナツテ居ルノデアリマス、故ニ如何ナル波ガ參リマシテモ、アノ松林デ一挫キ挫カレテシマフノデアリマス、サウシテ又北上阿武隈ヲ通ジタ所ノ即チ貞山運河ガアリマス、海嘯ナルモノハ塩水デアリマスガ、眞水ニ這入リマスト今マデ暴力ヲ逞シウシタモノハ直グ泡ノ消エル如ク消散シテシマフノデアリマス、即チ其ノ松林ヲ越エテ來ル所ノ海水ハ忽チ運河ノ水面ニ吸收サレテ、サウシテ南北ニ走ツテシマツテ、サウシテ常ニ其ノ水害ヲ自然ニ防イデ居ル、是ハ流石正宗公ノ貞山運河ナルモノハ三ツノ目的デ築カレタモノデアルト私ハ信ズルノデアリマス、第一ハ即チ船舶ノ航路、次ニハ名取・亘理・宮城ト云フ此ノ耕土ノ排水路デアル、又三ツ目ハ海水ヲ防グ所ノ貞山運河デアル、即チ海岸ニハ鬱蒼タル松林ヲ置キ、サウシテ此
ノ横斷スル所ノ掘ガアルト云フコトハ、最モ此ノ海嘯ヲ防グ上ニ於テ効果ノアルモノト信ズル者デアリマス、故ニ今後縣當局ニ於テモ貞山運河ハ最早航路ノ必要ハナイカラト云フテ、アノ埋ツタ儘ニシテ置クト云フコトハ所謂此ノ海嘯ヲ防グ上ニ於テモ甚ダ心細イコトデアリマスルカラ、ドウカ此ノ貞山運河ナルモノハ充分保護ヲ加ヘテ、一ハ海嘯除ケ、一ハ耕土ノ排水路、尚ホ船舶ノ航路ト云フコトヲ御認メニナツテ戴キタイ、斯ウ思フノデアリマス、聊カ感ジタ所ヲ申上ゲマシテ此ノ意見書ニ賛成ヲ表スル者デアリマス(拍手)
〔十六番高橋幸市君登壇〕
○十六番(高橋幸市君)本意見書ニ對スル賛成意見ヲ述べマス前ニ、本員ハ被害地ノ選出議員トシテ一應當局ニ對シテ、又ハ同僚ニ對シテ感謝ノ言葉ヲ申述ベタイノデアリマス、先程二十二番、三十四番ヨリ縣當局ニ對シマシテ充分ナル感謝ノ意ヲ表サレテ居ルノデアリマスルガ、私モ當局ニ對シマシテ一應感謝ノ意ヲ表シタイノデアリマス、ソレハ災害ガ發生致シマシテ三邊長官ヲ初メ縣當局ガ敏速ナル應急對策ヲ講ゼラレ、長官ハ尚ホ被害地ニ對シテ親シク現場ヲ御視察ニナラレタ、其ノ節ニ私ノ感激致シタコトガアルノデアリマシテ、此ノ機會ニ長官ニ對シテ感謝ノ言葉ヲ表シタイノデアリマス、長官ハ本吉郡ヲ親シク視察セラレマシテ、私共モ御案内ノ意味ニ於テ同行シタノデアリマスガ、其ノ時ノ御言葉ノ一節ニ「幸ヒ自分モ中央ヨリ歸ツテ在仙ヲ致シテ居ツタノデ萬事都合ガ宜カツタ」ト云フ御話ヲ爲サレタノデアリマス、私ハ此ノ短イ言葉ニ依ツテ長官ニ對シテ非常ナル感激ト敬意トヲ表シタノデアリマス、長官ノ此ノ御話ノ中ニ籠ラレテ居ル所ノ、縣民ノ休戚ニ對シテ長官ガ至誠ヲ盡サレテ居ル點ニ對シマシテ、恰モ一家ノ家長トシテ慈父タルノ態度デアラルルト云フコトヲ私ハ直感致シマシテ、長官ニ對シテ非常ナル感激ヲ致シタノデアリマシテ、此ノ壇上カラ長官ニ對シテ厚ク其ノ點ニ對シテハ御禮ヲ申上ゲタイト思フノデアリマス、又同僚ノ各位ニ對シマシテハ、災害勃發以來直接間接ニ非常ナル御努力ト御苦心トヲ爲サレマシテ、災害地ノコトニ付テ色々御心配ヲ賜ツタノデアリマス、取敢ヘズ在仙ノ議員ノ方々ガ具ニ現状ヲ視察セラレマシテ、其ノ善後對策ニ付テ考慮ヲ爲サレ、サウシテ縣當局ニ之ヲ進言シ、更ニ協議會ヲ開カレマシテ議會ニ運動ヲスベク、或ハ政府當局ヲ動カスベク、最善ノ努力ヲ拂ハレマシテ、此ノ度ノ此ノ對策ニ對スル豫算ガ提出ニナリマシタ、其ノ豫算ハ完全デアルトハ申サレナクトモ、至レリ盡セリノ此ノ豫算ヲ決議致スコトガ出來マシタコトハ、其ノ間ニ同僚各位ガ深甚ナル努力ヲ拂ハレタト云フ點ニ對シマシテハ、ドナタモ御認メノ點デアリマシテ、其ノ點ニ付テ此ノ機會ニ災害地ニ關係ヲ持ツ本員トシテ厚ク同僚ノ各位ニ深甚ノ感謝ヲ致ス次第デアリマス、尚ホ此ノ意見書ニ對シマシテハ、只今提案者トシテ伊丹議長ヨリ十二分ナル御説明ヲ下サレ、尚ホ三番議員ヨリ洵ニ適切ナル賛成ノ御意見ガアラレタノデアリマス、本員モ本案ニ對シマシテ、罹災地ニアツテ其ノ災害ノ現状ヲ具ニ知ツテ居リマスル關係上、此ノ度災害ヲ受ケザル地方ニ對シテモ何時斯ノ如キ災害ガ勃發シナイトモ限ラナイノデアリマス、斯カル故ニ縣百年ノ大計ト致シマシテ本案ヲ通過セシメ、政府當局ヲシテ是ガ施設ヲ爲サシメルコトガ、洵ニ適切ナルコトデアルト考慮致スノデアリマシテ本意見書ニ賛成ヲ致ス次第デアリマス(拍手)
○三十番(北村文衞君)上程中ノ意見畫ハ之ヲ可トシテ採擇致シマシテ、尚ホ第二讀會、第三讀會ヲ省略致シマシテ可決確定セラレンコトヲ希望致シマス、動議ヲ提出致シマス
〔「賛成」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)只今三十番ヨリ御聽及ビノ通リノ動議ガアリマシテ賛成者モアリ成立致シテ居リマス、右ノ動議ニ御異議ガゴイマセヌカ
〔「異議ナシ」ト呼ブ者アリ〕
○議長(伊丹榮三郎君)御異議ナイト認メマシテ右動議ノ通リ第一讀會ニ於キマシテハ之ヲ可トシテ採擇シ第二讀會、第三讀會ヲ省略シテ確定議ト致シマス
○二十二番(松山平兵衞君)只今ノ動議ト議長ノ宣告ガ少シ違フヤウデゴザイマスカラ御修正ヲ願ヒマス、只今三十番ノ動議ハ二讀會、三讀會ヲ省略スルト申シテ居リマスルシ、議長ハ二讀會ニ於テ原案ヲ可トシ、三讀會ヲ省略シテ確定議トスルト云フノデアリマス
○議長(伊丹榮三郎君)サウ云フコトハ申シテ居リマセヌ、速記録ヲ御調べニナルナラバ分リマスガ、第二讀會、第三讀會ヲ省略シテト申シテ居リマス
〇二十二番(松山平兵衞君)ソンナラ宜シイガ、アナタハ二讀會ハ原案ヲ可トシテ三讀會ヲ省略スルト言ヒマシタ
○議長(伊丹榮三郎君)ソレデハ訂正シテ置キマス、第一讀會ニ於テハ之ヲ可トシテ採擇シ第二讀會、第三讀會ヲ省略シテ確定議ト致シマス、- ソレハ速記録ヲ調べテ御覽ナサイ、間違ヒナイヨ、併シ惑ヒダカラサウ訂正シテ置キマス、君ガサウ云フカラサウシテ置キマス
〔「末梢事ダヨ」ト呼ブ者アリ〕
〇議長(伊丹榮三郎君)サウデス、末節ナ問題デス - 之ヲ以チマシテ議事ハ終了致シマシタカラ、次ニ知事ニ閉會ヲ求ムルコトニ致シマス、會議ヲ閉ヂマス(午後五時十二分閉會)
閉會式
三邊知事は參與員鈴木書記官以下を隨へて臨場登壇し、左の閉會の辭を述べ、此處に二日間に亘れる臨時縣會を閉じたり。
■ニ本縣會臨時會ヲ閉會スルニ方リマシテ、一言御挨拶ヲ申述ベタイト思ヒマス、此ノ虔附議致シマシタ諸案件ハ何レモ過般ノ震嘯災害ノ救護復舊等ノ善後措置ニ關スル案件デゴザイマシテ、其ノ内容ハ相當ニ複雜デアリマシテ、尚ホ其ノ金額モ巨額ニ上ツタニ拘リマセズ、各位ニ於カレマシテハ災害地ノ被害ノ激甚ナルニ深ク同情セラレマシテ熱心ニ御審議ニ相成リ、尚ホ又協調偕和ノ精神ヲ御發揮ニナリマシテ、議案全部ヲ極メテ短キ期間ニ於テ全部御議了下サイマシタコトハ當局ト致シマシテ深ク感謝致ス所デゴザイマス、罹災地地方民モ思ヒヲ同ジウスルコトト存ズルノデゴザイマス、尚ホ叉會期中代表議員ノ各位ヨリ私共ガ此ノ震災ノ救護、又善後措置ノ豫算編成等ニ當リマシテ取リマシタ行動ニ付キマシテ、多大ノ御讃辭ト感謝ノ言葉ヲ戴キシテ、寔ニ恐縮ニ存ズル次第デアリマス、併シ本縣ニ職ヲ奉ズル者ト致シマシテハ、深ク光榮ニ感ジマスル、私ハ此ノ讃辭ト感謝ノ言葉ヲバ將來私ノ努力ニ依リマシテ御酬ヒ致シタイト存ジテ居リマス、私ノ部僚モ恐ク感ヲ同ジウスルコトト考ヘテ居リマス、御議決ニナリマシタ諸案件ノ執行ニ付キマシテハ、細心ノ注意ヲ拂ヒマシテ遺漏ナク此ノ復舊其ノ他善後措置ノ完了ニ努メタイト思ヒマス、終ニ臨ミマシテ各位ノ連日ノ勞ニ對シマシテ深ク敬意ヲ表シマシテ、將來相變ラズ縣政ノ爲ニ御盡瘁下サランコトヲ切望シテ置キマス、之ヲ以チマシテ閉會致シマス
于時午後五時十五分
臨第一號議案
昭和八年度縣歳入歳出追加更正豫算
歳入
經常部
第一■ 地租附加税 金百四拾四萬八千六百四拾八圓
第一項 地租附加税 金百四拾四萬八千六百四拾八圓
但シ地租豫算金高百萬壹千百參拾九圓
本税壹圓ニ付壹圓四拾四錢七厘
第三■ 營業收益税附加税 金貳拾壹萬六千八百參圓
第一項 營業收益税附加税 金貳拾壹萬六千八百參圓
但シ營業收益税豫算金高貳拾七萬參千五拾貳圓
本税壹圓ニ付七拾九錢四厘
第四■ 所得税附加税 金參拾參萬六百八拾六圓
第一項 所得税附加税 金參拾參萬六百八拾六圓
但シ所得税豫算金高八拾萬六千五百五拾貳圓
本税壹圓ニ付四拾壹錢
第七■ 家屋税 金五拾參萬九千貳百拾五圓
第一項 家屋税 金五拾參萬九千貳百拾五圓
但シ家屋賃貸價格貳千貳百四拾六萬七千貳百九拾貳圓
家屋賃貸價格壹圓ニ付貳錢四厘
第八■ 營業税 金拾貳萬貳千九百參拾壹圓
第一項 營業税 金拾貳萬貳千九百參拾壹圓
第九■ 雜種税 金七拾六萬六千百六拾參圓
第一項 船税 金七千八百七拾參圓
第二項 車税 金參拾七萬參千七百七圓
第十一項 漁業税 金貳萬參百五拾四圓
第十三■ 雜收入 金百四拾七萬壹千貳百七拾五圓
第七項 過年虔收入 金百貳拾四萬參百貳拾參圓
經常部計金六百貳拾壹萬壹千五百參拾六圓
臨時部
第一■ 國庫補助金 金四百參拾七萬八千貳百九拾九圓
第十三項 震災竝海嘯應急費補助金 金○
第十四項 震嘯災害復舊費補助金 金四拾參萬四千參百貳拾七圓
第十五項 震嘯災害復舊助成費補助金 金五拾七萬七千五百參拾參圓
第二■ 國庫補給金 金拾七萬七千貳百五拾四圓
第一項 縣債費補給金 金拾貳萬九千五拾六圓
第二項 警察費補給金 金七千六百九拾七圓
第三項 震嘯災害救護費補給金 金貳萬壹千圓
第四項 警察廳舍修繕費補給金 金九千八百參拾四圓
第五項 醫療救護費補給金 金六千六百貳拾五圓
第六項 教育費補給金 金參千四拾貳圓
第四■ 縣債 金參百七拾參萬貳千四百圓
第一項 縣債 金參百七拾參萬貳千四百圓
第六■ 貸付返納金 金拾九萬八千參百四拾八圓
第一項 貸付返納金 金拾九萬八千參百四拾八圓
第十一■ 繰越金 金百貳拾八萬貳千貳拾四圓
第一項 前年度繰越金 金百貳拾八萬貳千貳拾四圓
臨時部計金壹千六拾四萬九千六百九拾七圓
歳入合計金壹千六百八拾六萬壹千貳百參拾參圓
歳出
經常部
第二■ 會議費 金參萬四千圓
第一項 縣會議費 金貳萬五百六拾八圓
第四■ 警察費 金七拾壹萬七千四百八拾九圓
第四項 震嘯災害警備費 金九千四百貳圓
第五■ 警察廳舍修繕費 金參萬壼千七百四拾七圓
第二項 震嘯災害電話補習費 金壹萬九千六百六拾八圓
經常部計金參百拾七萬六千百九拾六圓
臨時部
第四■ 教育費 金拾參萬貳百六拾壹圓
第八項 震嘯罹災兒童就學奨勵費 金參千四拾貳圓
第十五■ 縣債費 金參百四拾四萬七千五百四拾圓
第二項 利子 金九拾七萬四千五百貳拾參圓
第二十七■ 醫療救護費 金四萬八千五百九圓
第二項 震嘯罹災者醫療救護費 金六千六百貳拾五圓
第三十七■ 貸付金 金貳百五拾萬貳千七百貳拾五圓
第一項 貸付金 金貳百五拾萬貳千七百貳拾五圓
第三十八■ 震災竝海嘯應急諸費 金○
第一項 震災竝海嘯應急諸費 金○
第四十一■ 震嘯災害救護費 金四萬貳千圓
第一項 震嘯災害救護費 金四萬貳千圓
第四十二■ 震嘯災害復舊費 金五拾壹萬六千九百七拾參圓
第一項 土木復舊費 金五拾壹萬九百七拾參圓
第二項 土木應急補修費 金六千圓
第四十三■ 震嘯災害復舊助成費 金五拾八萬壹千四百七拾參圓
第一項 町村土木復舊助成費 金五萬七千九百七拾參圓
第二項 農事復舊助成費 金參萬七百七拾圓
第三項 蠶業復舊助成費 金壹萬七千四百圓
第四項 畜産業復舊助成費 金壹千九百八拾五圓
第五項 水産業復舊助成費 金四拾萬八千圓
第六項 耕地復舊助成費 金貳萬六千參百四拾五圓
第七項 商工業復舊助成費 金參萬九千圓
第四十四■ 利子補給金 金四千六百貳拾參圓
第一項利子補給金 金四千六百貳拾參圓
臨時部計金壹千參百六拾八萬五千參拾七圓
歳出合計金壹千六百八拾六萬壹千貳百參拾參圓
臨第二號議案
震嘯罹災住宅復舊資金起債及償還方法
第一條 震嘯罹災住宅復舊資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金貳拾七萬六千五百圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受ヲ受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓、五百圓、壹千圓、五千圓、壹萬圓ノ五種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ昭和八年度ヨリ同十二年虔迄五箇年度間据置昭和十三年度ヨリ同二十七年度迄十五箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ貸付償還金及縣一般歳入ヲ以テ之ヲ償還ス
臨第三號議案
震嘯災害土木復舊費竝同資金及住宅適地造成資金起債及償還方法
第一條 震嘯災害土木復舊費竝同資金及住宅適地造成資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金貳拾八萬七千六百圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受ヲ受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓、五百圓、壹千圓、五千圓、壹萬圓ノ五種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ昭和八年度ヨリ同十二年度迄五箇年度間据置昭和十三年度ヨリ同二十七年度迄十五箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ政府ノ利子補給金、貸付償還金及縣一般歳入ヲ以テ之ヲ償還ス
臨第四號議案
震嘯災害歳入缺陷補填竝同資金起債及償還方法
第一條 震嘯災害歳入缺陷補填竝同資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金拾壹萬貳千四百圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受ヲ受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓、五百圓、壹千圓ノ三種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ昭和八年度ヨリ同十二年度迄五箇年度間据置昭和十三年度ヨリ同二十七年度迄十五箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ政府ノ利子補給金、貸付償還金及縣一般歳入ヲ以ヲ之ヲ償還ス
臨第五號議案
震嘯災害小學校舍復舊資金起債及償還方法
第一條 震嘯災害小學校舍復舊資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金四千七百圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受ヲ受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓ノ一種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ昭和八年度ヨリ同十二年度迄五箇年度間据置昭和十三年度ヨリ同二十七年度迄十五箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ貸付償還金及縣一般歳入ヲ以テ之ヲ償還ス
臨第六號議案
震嘯災害産業復舊資金起債及償還方法
第一條 震嘯災害産業復舊等資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金八拾六萬六百圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓、五百圓、壹千圓、五千圓、壹萬圓ノ五種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ金五拾壹萬四百圓ハ昭和八年度ヨリ同十年度迄三箇年度間据置昭和十一年度ヨリ同十七年度迄七筒年度間ニ金參拾五萬貳百圓ハ昭和八年度ヨリ同十二年度迄五箇年度間据置昭和十三年度ヨリ同二十七年度迄十五箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ貸付償還金及縣一般歳入ヲ以テ之ヲ償還ス
臨第七號議案
震嘯災害商工業復舊資金起債及償還方法
第一條 震嘯災害商工業復舊等資金轉貸ノ爲昭和八年度ニ於テ金拾貳萬八千圓ヲ起債ス
前項ノ公債ハ債券ヲ發行シテ大藏省預金部ノ引受ヲ受クルモノトス
第二條 債券ハ百圓、五百圓、壹千圓、五千圓、壹萬圓ノ五種トシ其ノ樣式ハ別ニ之ヲ定ム
第三條 本公債ノ利子ハ年三分二厘トシ毎年九月一日三月一日ニ於テ各其ノ日迄六箇月間ニ屬スルモノヲ支拂フ但シ募集又ハ償還ノ際ニ於ケル一期ニ滿タサル端數利子ハ日割ヲ以テ計算ス
第四條 本公債ハ昭和八年度ヨリ同十年度迄三箇年度間据置昭和十一年度ヨリ同十七年度迄七箇年度間ニ毎年度九月一日三月一日ニ於テ別紙償還年次表ニ依リ償還ス但シ縣經濟ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ爲シ又ハ償還年限ヲ短縮スルコトアルヘシ
第五條 本公債ノ元金ハ證書引換ニ之ヲ支拂フ
第六條 本公債ノ元利金ハ貸付償還金及縣一般歳入ヲ以テ之ヲ償還ス
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
第二節 罹災地町村長會議
災害關係會議開催状况
震嘯災害善後措置に關し、四月十一、十二の兩日、縣會議室に關係町村長會議を開催し、知事より訓示ありたる後、左記の如き指示協議を遂げ、萬遺漏なきを期したり。
指示事項
一、更生精神ノ作興ニ關スル件 一、縣税免除ニ關スル件
一、町村税免除ニ關スル件 一、復舊町村補助工事ニ關スル件
一、宅地造成ニ關スル件 一、復興建築ニ關スル件
一、農作物種苗購入費補助ニ關スル件 一、農具購入費補助ニ關スル件
一、納舍及肥料舍等建築費補助ニ關スル件 一、肥料資金ノ供給ニ關スル件
一、稚蠶共同飼育所設置ニ關スル件 一、被害桑園復舊ニ關スル件
一、蠶室復舊低利資金ニ關スル件 一、蠶具復舊ニ關スル件
一、家畜購入補助ノ件 一、家畜飼料費補助ノ件
一、震災地ニ於ケル小作地ノ小作料ニ關スル件 一、産業組合設立促進ニ關スル件
一、商工業復舊施設ニ關スル件 一、災害耕地ノ復舊ニ關スル件
一、無動力船復舊ニ關スル件 一、動力船復舊ニ關スル件
一、漁船復舊資金ニ關スル件 一、漁具復舊ニ關スル件
一、水産共同施設復舊ニ關スル件 一、共同製造場復舊資金ニ關スル件
一、共同養殖設備復舊資金ニ關スル件 一、個人製造場復舊ニ關スル件
一、船溜、船揚場築磯復舊ニ關スル件 一、兒童就學奬勵費交付ニ關スル件
一、罹災住宅ノ復舊ニ關スル件 一、罹災救助ニ關スル件
一、罹災救助終了後ニ於ケル救助ニ關スル件 一、海嘯被害地ニ於ケル家屋建設ニ關スル件
一、罹災地ノ救療ニ關スル件 一、井戸便所築造ニ關スル件
更生精神ノ作興ニ關スル件
復舊ノ根本ハ更生精神ノ作興ニ存スルコト言ヲ俟タス宜シク復興計畫ヲ確立シ感謝報恩、相互扶助、協力諧和、勤儉貯蓄勤勞奉仕ノ美風ヲ馴致シ以テ更生精神ノ作興ヲ策セラレンコトヲ望ム
縣税免除ニ關スル件
三月三日ノ震災及之ニ伴フ火災又ハ海嘯ニ因ル被害者ノ震災地ニ於テ納付スヘキ國税ニ付テハ昭和八年三月法律第十三號及同日大藏省令第六號ヲ以テ夫々免除又ハ猶豫セラルルコトトナレリ
縣税ニ就テハ震災ニ因ル直接被害者ノ納付スヘキ昭和七年度分ノ未徴收額一三、七〇〇圓昭和八年度分ノ減免額三九、三〇〇圓ヲ豫算シ之カ補填財源ヲ起債ニ求ムルコトトシ過般ノ臨時縣會ニ於テ議決ヲ經タリ減免猶豫ニ關スル詳細ナル事項ハ追テ詮議ノ上通牒スヘキモ府縣制第百十三條ニ該當スルモノニ就テハ本人ノ申請ニ依リ縣參事會ノ議決ヲ經テ許サルヘキモノナルヲ以テ速ニ本人ヨリ申請セシムル凖備ヲセラレ度尚町村ニ於テハ被害ノ状況、程度、被害物件等詳細ニ調査シ特ニ復舊若シクハ復興セル物件ト然ラサル物件トノ區別ヲ明瞭ニセラレ度
町村税免除ニ關スル件
震嘯災害町村税ノ減免未納及課税標凖減少ニ伴フ附加税ノ減收等ハ惹テ町村財政運用ニ蹉跌ヲ來スヘキヲ慮リ其ノ補填トシテ五萬九千圓(利子補給)ヲ豫算シ希望町村ニ轉貸スルコトトシ過般ノ臨時縣會ノ議決ヲ經タルヲ以テ町村制第百八條ニ該當スルモノニ付テハ左記各項ニ付詳細調査ノ上報告セラレ度
記
(一)、町村税被害者未納税金額(別表)
(一)、昭和八年度豫算缺損見込町村税額ノ税目別調(昭和八年三月二十七日法律第十三號參照)
(一)、町村税未納金總額
(一)、戸數割一戸平均額
復舊町村補助工事ニ關スル件
一、震嘯災ニ依ル復舊工事ノ目的ヲ以テ町村ニ於テ該事業ヲ執行スル場合ハ其ノ事業費ノ百分ノ八十五ヲ補助スル見込ニ付罹災者救濟ト復舊工事ノ目的ヲ充分ニ達成セラレ度
二、震嘯災ニ依ル復舊工事ニ對スル町村負擔財源ハ二十箇年間利子補給ノ資金ヲ融通セラル、尚償還方法ハ五箇年間据置十五箇年ノ年賦償還ニ依ルモノトス
三、震嘯災ニ依ル復舊工事ニ對シテハ決定次第配當工事費ノ内定ヲ爲スニ付右内定ヲ受ケタル場合ハ速ニ町村會ヲ召集シ豫算議決ノ上直ニ補助申請書提出セラレ度
四、補助申請手續等ニ就テハ一般土木費補助規程ニ凖據セラレ度
五、震嘯災復舊工事ニシテ内務省ノ査定洩レトナリタル工事ニ對シテハ時局匡救事業費ヲ以テ之ヲ爲ス方針ナリ、右ニ關シ三月二十日附第一、九七四號ヲ以テ照會シ置キタルモ未タ回答ナキ町村アルヲ以テ速ニ回答セラレ度
六、震嘯災土木工事設計作成ノ方針トシテ設計ハ已ムヲ得ザルモノノ外原形復舊ヲ主眼トシ特ニ被害甚大ナルカ、維持至難ナリト認メラルル箇所ニ對シテハ再度ノ被害ヲ防止スル爲從來ノ工法ノ變更若シクハ改良ヲ加フルコトトセリ施行箇所ハ追テ通牒ス
宅地造成ニ關スル件
一、流失倒壞シタル家屋ノ復興ニ當リテハ舊位置ニ建築セス(防護施設或ハ地盛等ニ頼ラス)他ノ適當ノ高所ニ建築スルコト尚床上浸水家屋ニ於テモ可成ク右ニ凖スルコト
一、前項宅地ノ高サハ今回及ヒ明治二十九年ノ海嘯以上トスルコト
一、以上ノ目的達成ノ爲メ政府ヨリ拾九萬五千圓ノ金額利子補給付五箇年据置十五箇年償還ノ資金ヲ融通セラル右融通額ハ一戸當リ百六拾圓ナルモ場所ニヨリ平均額ヲ要セサル場所アルニ付彼此流用セハ必要ニ應シ相當多額ノ要求ニ應シ得ヘク別途ノ資金ヲ要セスシテ經理シ得ル見込ナリ
尚宅地ノ選定ハ最モ重要ナル事項ニツキ此ノ目的ヲ達成スル爲メ義捐金ノ配分ニ關シテモ多少考慮ノ見込ナリ
一、在來道路ヨリ新タニ選定セル住宅地ニ達スル道路ニ封シテハ此レヲ町村道ニ認定セラルルモノニ就キテハ匡救事業同樣四分ノ三ノ補助ト低利資金ノ融通ヲナシ個人竝ニ町村ノ負擔ノ輕減ヲ計ル見込ナリ
但シ造成宅地カ縣ノ指示ニ副ハサルモノニ對シテハ此ノ恩典ナシ
一、部落ヨリ高地ノ避難場所(學校、神社、寺院其ノ他ノ廣場)ニ通スル避難道路ノ新設ニツキテモ前項同樣
一、川口ニハ可成宅地ヲ設ケサルコト
一、崖ニ住宅ヲ設クル場合崩壞ヲ注意スルコト
一、宅地ハ六尺以上ノ道路ニ接セシムルコト
一、成ル可ク袋路ヲ造ラサルコト
一、一團地ノ宅地ヲ計畫スルニ當リ地區外ニ於ケル既設道路トノ連絡ヲ圖ルコト
一、今回及明治二十九年ノ海嘯ニヨリ危險卜認メラルル地區ニアル官公署及小學校移轉ニ付テモ其ノ敷地ニ付考慮スルコト
復興建築ニ關スル件
一、住宅
(一)、建物ハ質素ニシタ竪牢ナルコト
(二)、大サハ成ルタケ最少限ニ止メ將來増築シ得ル構造トスルコト
(三)、床ノ高サハ成ルタケ地上二尺以上トスルコト
(四)、土臺ト土臺石ハ「ボールト」ニテ取付クルコト
(五)、柱ハ上下柄付込栓打チトスルコト
(六)、柱間ニハ筋違ヲ堅牢ニ入レルコト
(七)、外部ハ成ルタケ板張トスルコト
(八)、屋根材ハ不燃質ニシテ成ル丈ケ輕量ナルモノヲ使用スルコト
(九)、火氣ヲ使用スル場所ハ不燃質材ヲ以テ施工スルコト
(一〇)、危險地域ニ假住宅ヲ建築シ本住宅トナス樣ニ見受ケラルルモノアリ是等ハ一般ヲ危險地域ニ誘導スル虞アルニ付必ス高地ニ移轉スヘシ
(一一)、便所ハ内務省考案(別樣式)改良便所トスルコト
二、特種建築
各種製造所、蠶室其他特種ノ建築ハ專門技術者ノ意見ヲ徴シ違算ナキ樣建築スルコト
三、材料
材料ハ成丈地方産ノモノヲ使用スルコト
四、注意
(一)、建築計畫ノ際住宅ト附屬建物トノ關係ヲ考慮スルコト
(二)、保安、衛生、交通上其ノ他ノ關係ヲ考慮スルコト
農作物種苗購入費補助ニ關スル件
一、震嘯罹災農家ニ對シ
1、自家食糧補給用農作物種苗トシテ馬鈴薯種薯ヲ給與スル目的ノ下ニ一戸當四圓ヲ豫算ニ計上セリ
2、次季作付用種苗トシテ水稻大豆等ノ種子ヲ給與スル目的ノ下ニ一戸當四圓九拾七錢ヲ豫算ニ計上セリ
一、給與スヘキ種苗ノ購入方法及其ノ給與方法
罹災農家數ニ應シ各町村毎ニ配當額ヲ定メ配當額ノ範團内ニ於テ町村長ヲシテ給與スヘキ種苗ヲ購入セシメ無償ヲ以テ配付セシム
右ノ内速急ヲ要スル馬鈴薯種薯種籾ニ付テハ其ノ一部ニ對シ縣ニ於テ既ニ現品給與ヲ終リタルモノアルヲ以テ今後本事業實施ニ當リ右經費ヲ差引計算スルモノトス
農具購入費補助ニ關スル件
震嘯罹災著シキ農家ニ對シ一戸當所要農具經費八○圓ノ見込ナルヲ以テ其ノ半額四〇圓(半額ハ低資融通ノ見込)ヲ補助シ之レガ購入ヲ助成セントス
農具購入助成方法
當該町村ヲシテ罹災農家ノ購入價額ノ二分ノ一以内ヲ補助セシメ之ニ對シ縣ヨリ全額ノ補助金ヲ交付セントス從テ本補助ニ要スル經費ハ町村費中ニ計上スルヲ要ス
右ノ内速急ヲ要スル農其ニ付テハ其ノ一部ニ對シ既ニ現品ニテ配給斡旋ヲナシタルモノアルヲ以テ今後本事業實施ニ當リ右經費ヲ差引計算スルモノトス
納舍及肥料舍等建築費補助ニ關スル件
震嘯罹災著シキ農家ニ對シ一戸當所要建物(八坪)建築經費八○圓ノ見込ナルヲ以テ其ノ半額四〇圓(半額ハ低資融通ノ見込)ヲ補助シ建設ヲ助成セントス
納舍及肥料舍等建設助成方法
當該町村ヲシテ納舍及肥料舍等ノ建設費ノ二分ノ一以内ヲ補助セシメ之ニ對シ縣ヨリ全額ノ補助金ヲ交付セントス從ツテ本補助ニ要スル經費ハ町村費中ニ計上スルヲ要ス
注意 種苗農具ノ講入及納舍肥料舍等ノ建設ニ對シテハ縣ハ夫々斡旋指導ヲナスモノトス
肥料資金ノ供給ニ關スル件
震嘯罹災農家ニ對シ耕作地反當五圓餘ノ肥料代ヲ貸付セントス
稚蠶共同飼育所設置ニ關スル件
被害地ニ於テ稚蠶飼育ノ完璧ヲ期スル爲稚蠶共同蠶室ノ設置ニ對シ設置費ノ半額(半額ハ低資融通ノ見込)ヲ補助スル見込ナルヲ以テ關係養蠶實行組合ヲ鞭韃シ其ノ目的達成ニ努メラレンコトヲ望ム
参考 助成棟數八棟 一棟(四〇坪)建設費二、六〇〇圓見當
被害桑園復舊ニ關スル件
被害桑園ノ復舊又ハ換地改植ヲ爲サムトスル養蠶實行組合員ニ對シ特別助成ヲ爲ス見込ナルヲ以テ之レカ周知ヲ圖ルト共ニ實施ニ當リテハ充分指導監督セラレンコトヲ望ム
参考 復奮反別八四町歩反當植付經費補助貳拾五圓
蠶室復舊低利資金ニ關スル件
罹災養蠶家ノ蠶室復舊費ニ對シ建設費トシテ流失セルモノニ對シテハ一戸當五三〇圓全壞セルモノニ對シテハ一戸當約四
七〇圓見當ノ低利資金ヲ融通スル見込ナルヲ以テ之カ利用ニ關シ遺憾ナキ樣措置セラレンコトヲ望ム
参考 一戸平均規模二十坪建築費八○○圓 - 七〇〇圓見當
蠶具復舊ニ關スル件
罹災養蠶家ノ蠶且ハ復舊費ニ關シテハ可成養蠶實行組合ヲシテ共同購入ヲ爲サシメ經費ノ半額(半額ハ低資融通)ヲ助成スル
方針ナルヲ以テ一般ニ周知ノ上蠶具ノ整備上遺憾ナキ樣指導督勵セラレンコトヲ望ム
参考 一戸平均設備費 約八拾圓見當
家畜購入補助ノ件
災害ニ依リ斃死シタル馬匹補充ノ爲馬ノ購入費ニ對シ約二分ノ一(二分ノ一ハ低資融通ノ見込)ノ補助金ヲ交付スル見込ナルヲ以テ當業者ニ周知ノ上罹災者ノ就業上遺憾ナキ樣措置セラレタシ
猶希望町村ニ於テハ四月二十日迄別紙樣式ノ調査表ヲ提出セラレタシ
参考 補助金交付頭數二〇頭一頭購入價格百圓見當
家畜飼料費補助ノ件
家畜飼料ヲ流失シ又ハ罹災者ニシテ飼料購入資金缺乏ノタメ家畜飼養ニ著シク困窮シ居ル者ニ對シ飼料ヲ補給シ家畜ノ飼養ヲ容易ナラシムル爲飼料費ヲ補給セントス
猶希望町村ニ於テハ四月二十日迄ニ別紙樣式ノ調査表ヲ提出セラレタシ
参考 補助金交付高馬一九七頭分一頭當五圓補助
震災地ニ於ケル小作地ノ小作料ニ關スル件
震災地ニ於ケル小作地ノ小作料ニ關シテハ被害ノ程度ニ應シ地主ニ於テモ夫々之カ減免方ニ就キ考慮中ノコトナランモ被害地ニシテ其ノ生産力カ恢復スルニ至ル迄ニハ相當期間ヲ要ス可ク更ニ其ノ間年々減收ノ免カレ得サルモノアルヲ以テ小作料ノ減免方ニ就テハ唯ニ本年度ニ於テノミナラス將來ニ亘リテモ地主ヲシテ充分考慮セシムル樣善處セラレンコトヲ望ム
産業組合設立促進ニ關スル件
災害地ノ復舊復興ヲ圖ルノ方途因ヨリ一ニシテ足ラスト雖就中産業組合ヲ設立シ國家ノ助成ト相俟チテ其ノ全機能ヲ發揮シ之カ活動ニ依リ其ノ町村民ノ金融ノ圓滑ヲ圖リ消費ノ合理化ヲ爲シ進ンテ生産販賣ノ統制ヲ確立スルハ刻下緊急ノ要事ニ屬ス因ツヲ産業組合未設町村長各位ニ於カレテハ一日モ早ク之カ設立促進ニ御努力アランコトヲ望ム
商工業復舊施設ニ關スル件
商工業復舊施設トシテ今次ノ臨時縣會ノ議決ヲ經タルハ左ノ如シ
工場店舖設備費貸付金九萬圓(内參萬六千圓國庫補助)
工場店舖運轉資金貸付金六萬圓
運送船建造資金貸付金壹萬七千圓(内參千圓國庫補助)
右ハ町村轉貸ニ依リ融通ノ豫定ナルヲ以テ之カ實施ニ當リテハ左記事項ニ留意セラレ適當指導監督セラレタシ
記
一、工場店舖ノ設備ニ付テハ徒ニ資金ヲ固定セシムルカ如キ計畫ヲ避ケシメ且工場ノ如キハ出來得ル限リ同業者共同シテ之ヲ設備シ經費ノ合理化ヲ圖ル樣勸奬セラレタシ
一、本件工場設備中ニハ水産製造場ヲ包含セサルモノトス
一、復舊ニ要スル諸材料ハ可成共同購入ニ依ラシムル樣勸奬セラレタシ
運送船建造資金ハ專ラ貨客ノ運送船ノミニ補助又ハ貸付ヲ爲スモノトス且之カ取扱ノ町村ハ船舶所有者ノ住所地トスルコト
一、補助金及貸付金ハ事業ノ進捗ニ從ヒ内渡ヲ爲ス見込ナルモ目的外ニ使用スルカ如キコト無之樣注意セラレタシ
災害耕地ノ復舊ニ關スル件
震嘯災害耕地ノ復舊工事ニ對シテハ工事費決算額ノ十分ノ五ニ相當スル補助金ヲ交付スルヲ以テ工事ハ直營ヲ本體トシ被害大ナル箇所ハ可成復舊耕地ヲ一團トスル共同施行又ハ耕地整理組合ノ成立ヲ促進セシメ速カニ之カ耕地ノ復舊ニ努力セラレ度尚復舊計畫ノ調査、事務指導、工事ノ監督等ハ縣ニ於テ助成スルヲ以テ四月一日付耕第一九六五號通牒ニ依ル災害耕地復舊踏査申請ヲ町村長ハ罹災土地所有者ニ代リ速カニ提出セラレ度
無動力船復舊ニ關スル件
無動力船ノ復舊ハ最モ急ヲ要スルニ不拘單ナル便宜上ヨリ地元ニテ建造セムトシ之カ爲ニ長日月ヲ要スルカ如キ罹災者ニ取リテハ莫大ナル損失ナルヲ以テ地元ニ於テ建造シ得ルモノ以外ハ縣ニ建造ヲ依頼サルル樣致度建造費ニ對シ半額ノ補助アリ他ノ半額ニ對シテハ低利資金ノ供給アリ其ノ利率ハ三分二厘ニシテ償還期限ハ三箇年据置七箇年賦トス
動力船復舊ニ關スル件
小型發動機ハ需要増加ニツケ込ミ不良機ノ浸入スル惧アルヲ以テ之カ購入ハ縣ニ依頼セラルル樣致度動力船モ亦急速建造ヲ要スルヲ以テ之カ建造モ亦直ニ縣ニ依頼サルル方迅速建造シ得ヘシ補助竝低利資金ノ融通ハ無動力船ニ同シ
漁船復舊資金ニ關スル件
本資金ハ漁船修繕費及動力船漁業ノ着業資金ヲ含ミ町村又ハ漁業組合ニ貸付ケ町村ハ之ヲ罹災者ニ轉貸スル樣致度低利資金融通條件ハ無動力船ニ同シ
漁具復舊ニ關スル件
小漁具、曳網、旋網、刺網、定置漁具ノ復舊ニシテ之カ補助率ハ定置漁具ハ二割五分其ノ他ハ五割トス
尚低利資金融通條件ハ無動力船ニ同シ
水産共同施設復舊ニ關スル件
共同販賣所、共同倉庫、共同製造場、共同養殖設備ノ四種類ヲ含ム災害ヲ受ケタルモノハ共同施設ニ非ストモ此ノ際共同施設ニ改ムルコトヲ得
事業主體ハ成ル可ク漁業組合タルヘシ漁村計畫上之等ノ設備ヲ海面ニ近キ場所ニ置キ海面ニ遠キ場所ニハ住宅ヲ置ク樣計畫セラレタシ然ルトキハ住宅ハ改善セラレ作業ハ便宜トナリシカモ津浪ノ害ヲ避クルコトヲ得ヘシ
本施設ニ對シテハ五割ノ補助アリ低利資金ノ償還期限ハ共同販賣所、共同倉庫、共同製造場ニ在リテハ五箇年据置十五箇年賦、共同養殖設備ニ在リテハ三箇年据置七箇年賦ニシテ利率ハ前記ニ同シ
共同製造場復舊資金ニ關スル件
本資金ハ材料費消耗品費等ヲ含ミ其ノ供給條件ハ無動力船ニ同シ
共同養殖設備復舊資金ニ關スル件
本資金ハ主トシテ種牡蠣購入費トス本縣養蠣業ノ盛否ハ本邦ハ勿論米國ノ養蠣業ニ影響アルノ故ヲ以テ特ニ供給ヲ認メラレタル資金ナリ(補助金ナシ)
融通條件ハ前記ニ同シ
個人製造場復舊ニ關スル件
水産設備ハ成ル可ク共同施設タラシムル方針ナルモ製造場ハ全部共同タラシムルコトヲ不可能ナルヲ以テ本資金ヲ融通スルコトトセリ從テ本件ニ對シテハ補助金ナシ
融通條件ハ其同製造場ニ同シ
船溜、船揚場、築磯復舊ニ關スル件
船溜、船揚場ニ對シテハ七割五分、築磯ニ對シテハ五割ノ補助アル點時局匡救ト同樣トス復舊事業トシテ本事業ヲ爲サムトスル向ハ急速設計ヲ作成シ申込ム樣致度
低利資金ハ五箇年据置十五箇年賦トス
兒童就學奬勵費交付ニ關スル件
右ニ關シ從來ヨリ毎年各町村ニ對シ交付金アリ更ニ時局匡救策ノ一トシテ七年度ヨリ缺食兒童ニ對スル學校給食費ノ交付アリタル處今次ノ震嘯災ニ依リ被害甚シキ町村ニ於テハ右救助ヲ要スヘキ兒童増加シ之カ爲就學ニモ支障多カルヘキヲ考慮シ特ニ國庫ヨリ之ニ對スル補給金ノ交付ヲ受ケ罹災町村ニ交付スルコトニ相成タルニ付右兒童ノ選定及給與ノ方法等ニ就キテハ學校長ト愼重協議ヲ遂ケ苟モ交付ノ趣旨ヲ沒却スルカ如キコト無キ樣特ニ留意セラレ度
罹災住宅ノ復舊ニ關スル件
今回ノ罹災住宅ノ復舊ニ關シテハ左記要項ニ依リ罹災住宅復舊資金融通可相成目下之力所要資金額調査中ノ處住宅ノ建設ニ際シテハ將來震嘯災害防止上適當ノ場所ヲ選定セシメ之カ復舊ニ遺憾ナキヲ期セラルヘシ
記
罹災住宅復舊資金貸付要項
(一)貸付資金額 一戸平均五百圓トシ最高壹千圓以内ニ於テ貸付ノ見込ナリ
(二)貸付ノ方法 縣ヨリ町村ニ轉貸シ更ニ町村ヨリ罹災者ニ轉貸スルモノトス
罹災者ニ貸付ニ當リテハ調査委員等ヲ設ケ愼重ニ調査シ出來形檢査ノ上現金ノ交付ヲ爲スコト
(三)貸付利率 三分二厘トス町村ヨリ罹災者ニ貸付ノ場合利鞘ヲ徴セサルコト
(四)償還方法 償還期限ハ昭和八年度ヨリ二十箇年以内(五箇年以内ノ据置期間ヲ含ム)トシ毎年度八月末日二月末日ノ兩期ニ於テ元利均等償還スルモノトス、但シ罹災者ヨリ町村ヘノ償還期日ニ付テハ回收ノ便宜上毎月又ハ月二回等町村ニ於テ適當ニ定ムルコト
(三)債權確保ノ方法 本資金ノ貸付ヲ受ケ建築シタル住宅ニ對シテハ資金完濟ニ至ル迄登記順位第一位ノ抵當權ヲ設定セシメ其ノ建物ニ對シ貸付金額ヲ限度トシ火災保險ヲ附セシメ其ノ受領人ヲ當該町村長ト爲サシムルコト
町村長ニ於テ適當ト認ムル保證人ヲ立テシムルコト
(六)住宅ノ規模 本資金ノ貸付ニ依リ建設スル住宅ハ大體罹災前ノ住宅延坪數以内ヲ標凖トスルコト
(七)住宅建設敷地 縣ニ於テ適當ト認ムル敷地以外ノ土地ニ建設スル住宅ニ對シテハ資金ノ貸付ヲ爲サス
罹災救助ニ關スル件
今回ノ海嘯罹災者ニ對スル罹災救助ニ關シテハ曩ニ本縣ヨリ官吏々員ヲ派遣シ貴町村ト協力シ應急救護ノ措置ヲ講シ更ニ三月三十一日本基金ニ依ル救助ニ關シ指令ヲ發スルト共ニ之カ執行ニ關シ通牒致置タル處ナルモ左記事項ニ關シテハ特ニ留意シ遺憾ナキヲ期セラレ度
(一)食料及小屋掛材料ノ外ハ現金ヲ以テ給與シ得ルコトニ致シタルモ可成現品ヲ以テ給與シ他ノ費用ニ充ツルカ如キコトナキ樣注意ノコト
(二)治療費ハ主治醫ヨリ三月末日迄分ノ請求書ヲ徴シ貴職ノ計算書ヲ添附シ請求ノコト尚藥價療養品代ハ傷病者一人一日金六拾錢以内診察料、手術料、看護人給料及其ノ他諸費ハ貴職ニ於テ主治醫ト協定ノ上實費額請求ノコト
(三)救助終了ノ上ハ罹災救助基金支出規程第六條ニ依リ精算ノ上遲クモ本月二十日迄諸經費ノ請求書及救助金品給與簿ヲ添付シ精算書提出ノコト尚給與簿ハ救助申請書ノ樣式ニ依リ作製ノコト
罹災救助終了後ニ於ケル助救ニ關スル件
罹災者中罹災救助終了後モ尚引繼キ救助ヲ必要トスル者ニ對シテハ其ノ要救護ノ状况ニ應シ救護法、大禮賑恤資金給與規程及恩賜財團濟生會診療規程等ニ依リ救助シ又軍人遺家族ノ要救護者ニ對シテハ軍事救護法ニ依リ救護ノ方法ヲ講スル等之カ救護ニ付遺憾ナキヲ期セラレタシ
海嘯被害地ニ於ケル家屋建設ニ關スル件
標記ノ件ニ關シテハ今次ノ被害状况ニ鑑ミルモ家屋建設ノ敷地選定ハ最モ考慮ヲ要スル緊要事ト思料セラレ曩ニ關係各警察署長宛本建築ニ着手セムトスルモノニ對シテハ豫メ町村當局ト打合セノ上災害ノ豫防上遺憾ナキヲ期ス樣一般部民ニ指示相成度旨通牒スル處アリ夫々御留意ノコトト信スルモ之力永久的對策トシテ斯種敷地ノ選定指示ノミニテハ到底萬全ヲ期シ難キニ付近ク罹災地域内ニハ住宅ノ建築ヲ禁止シ當局ノ指示スル地揚其ノ他ヲ爲スニ非サレハ許可セサル方針ノ下ニ縣令ヲ制定シ將來海嘯遜難ノ永久的對策樹立ノ見込ニ有之町村營局ニ於テモ之ヵ趣旨ヲ體シ最善ノ方途ヲ講セラレ度
罹災地ノ救療ニ關スル件
本件ニ關シテハ恩賜巡回診療ノ外災害發生直後ニ於テ臨時防疫職員ノ増配ニ依リ臨時職員ヲ任命シ該職員タル醫師ヲシテ唐桑村歌津村大原村等ノ罹災民救療ニ當ラシメツツアルモ右ハ四月末日限リ解職ノ筈ニ付更ニ九月迄ノ間災害地救療ヲ行フコトトナリ縣ニ於テハ巡回診療班一班出張診療所四箇所ヲ設置シ巡回診療ハ歌津村、十三濱村、十五濱村ニ於テ月二回出張診療所ハ唐桑村二箇所小泉村、大原村ニ夫々設置シ四日ニ一回ノ豫定ヲ以テ救療ヲ行フコトトナリタルニヨリ場所ノ選定竝罹災者名簿ヲ作成セラレ度
井戸便所築造ニ關スル件
罹災各地方ハ從來ノ事實ニ徴シ腸チフス等ノ傳染病ノ發生多キニ鑑ミ復興ニ際シテハ井戸ノ築造ハ閉鎖式喞筒使用ノモノトシ便所ハ可及的ニ内務省考案多槽式改良便所ノ築造ヲ普及スル樣御配慮相煩度
第三節 罹災地小學校長會議
震嘯により災害を蒙れる罹災地教育機關、主として小學校の復舊は緊要事なるを以て、罹災地小學校長を縣當局に召集の上應急對策を議ずる事となり、學務部長は、主務課に命じて、會議事項を決定せしめたり。
之によりて四月十四日、縣會議室に、罹災地大島小學校長以下關係二十六校長は參集し、縣側より清水谷學務部長以下渡邊教育課長・齋藤視學官その他出席、次の如き會議事項に入りたり。
罹災地小學校長會議事項(昭和八年四月十四日)
會議事項
一、震嘯罹災地方民精神作興ニ關スル件
一、學校給食ニ關スル件
一、兒童就學奬勵ニ關スル件
一、遭難者ノ慰靈法要ニ關スル件
一、復興ニ關スル部落懇談會開催ノ件
罹災地小學校長會議事項
一、震嘯罹災地方民精神作興ニ關スル件
(一)四月十日發セラレタル告諭及通牒ノ趣旨徹底ヲ期スルコト
(二)精神作興ポスターノ活用竝趣旨徹底ヲ企圖スルコト
一、學校給食ニ關スル件
(一)學校給食ハ左記訓令竝通牒ニ依リ實施スベシ
昭和七年九月二十四日本縣訓令甲第二十八號學校給食臨時施設方法
昭和七年九月二十四日教第二、六三一號通牒學校給食臨時施設方法ニ關スル件
昭和七年十二月五日教第三、六六六號通牒學校給食ニ關スル件
(二)給食ニ關スル交付金ノ一部ヲ給食ニ要スル設備費及人件費薪炭費等ニ充ツルコトヲ得ルモノトス
(三)給食兒童ノ決定ニハ細心ノ注意ヲ拂ヒ次ノ二種ニ大別スヘシ
1、學校給食臨時施設方法ニ依ル(貧困)兒童
2、震嘯災ニ依リ特ニ給食ヲ必要トスル兒童
給食兒童名簿ハ前二種ニ大別シテ整理スヘシ
(四)献立竝調理法ハ(一)項通牒參照スヘシ
調理ニ要スル設備費ニ給食ニ關スル交付金ノ一割以内ヲ使用スルコトヲ得ルモノトス
(五)給食ノ方法モ(一)項通牒ニ基クヘキモ給食兒童多數ナル學校ニ於テハ特ニ專任者ヲ雇傭シテ之ニ當ラシムルコトヲ得ルモノトス但シ雇傭人ノ人件費ハ兒童一人平均一日四錢ノ給食費ニテ支辨スルモノトス
食器ハ辨當ヲ使用セシムルヲ便宜トス
(六)給食上注意スヘキ事項
1、學校ニ於テハ給食主任者ヲ定ムルモノトス
2、學校ニ於テハ給食日誌竝兒童ノ給食一覽表ヲ調製整理スルモノトス
3、學校ニ於テハ給食主任者ヲシテ給食ニ關スル一切ノ會計事務ヲ掌ラシムルノ外献立表ノ整理ニ當ラシムルモノトス
(七)學校長ハ毎月ノ實施状况ヲ左表ニ依リテ翌月五日マテ知事ニ報告スルモノトス
記
備考 其ノ月中ニ於テ設備費ニ使用シタル時ハ詳記スルモノトス
一、兒童就學奬勵ニ關スル件
(一)給與兒童ノ決定ハ次ノ二種ニ大別シ更ニ三種ニ等別シ學校長、職員、町村吏員、學務委員、區長等ト協定シテ行フモノトス
1、貧困兒童
イ、救護法ニ該當スルモノ 一等
ロ、前號ニ該當セサル貧困ノ程度著シキモノ 二等
ハ、生活程度ノ前號ヨリ稍高キモノ 三等
2、震嘯災ニ依リ特ニ給與ヲ必要トスル兒童
イ、救護法ニ該當スルモノ 一等
ロ、前號ニ該當セサル貧困ノ程度著シキモノ 二等
ハ、生活程度ノ前號ヨリ稍高キモノ 三等
就學奬勵兒童名簿ヲ二大別各三種等別ニ整理スルモノトス
(二)本奬勵費ノ給與種目及標準ハ兒童就學奬勵資金管理規程施行細則第四條ニ據ルモノトス
(三)給與上注意スヘキ事項
1、學校ニ於テハ給與主任者ヲ定ムルモノトス
2、學校ニ於テハ兒童ニ對スル給與一覽表ヲ調製整理スルモノトス
3、學校ニ於テハ給與主任者ヲシテ給與ニ關スル一切ノ會計事務ヲ掌ラシメ常ニ整理セシムヘシ
(四)學校長ハ毎月ノ給與状况ヲ左表ニ依リテ翌月五日マテ知事ニ報告スルモノトス
記
一、遭難者ノ慰靈法要ニ關スル件
(一)主催 宮城縣佛教會及罹災町村共同主催トス
(二)期日 四月十九日、二十日兩日ノ豫定トス
(三)場所 各部落毎ニ罹災地ニ於テ擧行スルモノトス
(四)方法 現地ニ搭婆建設本縣佛教會理事竝關係地住職及隣接町村ノ住職參集供養スルモノトス
縣ヨリハ弔辭供物ヲ呈スルモノトス
(五)經費
1、塔婆建設 地元町村負擔トス
2、佛教會理事出張諸費 同會負擔トス
3、供物 縣ニ於テ負擔スルモノトス
(六)其他
設備其ノ他ニ關シ後援セラルヘシ
一、復興ニ關スル部落懇談會開催ノ件
(一)主催 宮城縣
(二)場所 罹災地部落毎ニ開催セントス
(三)出席者 罹災地部落各戸代表(戸主・主婦)男女青年各種團體代表
(四)懇談協議題
1、精神ノ作興ニ關スルコト
2、産業(農林漁業)ニ關スルコト
3、建築(住宅・臺所・便所ノ改善)等ニ關スルコト
4、衞生ニ關スルコト
5、公會堂(復興記念館)又ハ共同作業場建設ニ關スルコト
6、活動寫眞(自力更生)
7、經費 縣ニ於テ負擔スルモノトス
(五)講師 縣官竝地方有志ヲ囑託セントス
(六)其ノ他 右開催ニ關シヲハ協力後援セラルヘシ
第四節 其の他の會議
I 防疫及衛生施設に關する協議會(衛生課)
三月四日、縣當局は廳内に、災害地方防疫竝衞生施設に關する協議會を開催し、差當り災害地の汚染せられたる飲料井戸の消毒を實施することに決し、臨時に防疫事務囑託二名を用ひ、五日より左の組織に依り實施せり。
第一方面 高城技師 佐藤防疫事務囑託
五日より八日迄、桃生郡十五濱村・本吉郡十三濱方面
第二方面 大友技師 大友防疫事務囑託
五日より八日迄、牡鹿郡女川町及大原村
第三方面 向山技手 佐藤巡査部長、川野雇
五日より八日迄、本吉郡歌津村・小泉村・大谷村・唐桑村方面
II 漁船復興對策協議竝小漁船建造資金貸付に關する協議會(水産課)
縣は災害漁船復興對策協議竝小漁船建造資金貸付に關し、三月十三日午後二時より、廳内會議室に於て、關係町村長と協議を行ひ、次の如く、貸付金の割當を決定し、夫々同額の借入申込を徴し、同時に貸付内定通知を爲したり。尚、貸付金は造般契約締結次第貸付くるものとなせり。
小漁船建造資金貸付規程
第一條 本資金ハ町村又ハ漁業組合ニ對シ貸付クルモノトス
第二條 本資金ヲ借受ケタル町村又ハ漁業組合ハ本年三月三日ノ津浪ニ因リ發動機ヲ有セサル小型漁船ヲ失ヒタル者ニ對シ其ノ建造ノ爲ニ本資金ヲ轉貸シ又ハ自ラ建造シテ之ヲ貸付クヘシ
第三條 貸付額ハ前條ノ漁船一隻ニ付百圓以内トス
第四條 貸付金ノ償還期限ハ七箇年以内トス
第五條 國又ハ縣ヨリ本資金貸付ノ目的ト同一ノ目的ノ爲ニ助成金ノ交付若ハ低利資金ノ供給アリタルトキハ其ノ助成金若シクハ低利資金ト同額ノ貸付金ヲ直ニ償還スヘシ
第六條 貸付金ノ利息ハ昭和七年度及八年度ハ無利子トシ九年度以降ハ年四分三厘以内トス但シ元金ノ償還ヲ怠リタルトキハ支拂期日經遇後償還金百圓ニ付一日金參錢ノ割合ヲ以テ遲延利息ヲ徴收ス
第七條 借人ヲ爲サントスルモノハ第一號樣式ノ借入竝起債許可申請書ニ左ノ書類ヲ添附シテ知事ニ差出スヘシ但シ申請書ニ添附シ得サル書類ハ借入後速ニ差出スヘシ
一、貸付計畫書又ハ事業計畫書
二、貸付又ハ事業ニ關スル收支豫算書
三、起債及償還方法
四、議決ヲ證スル書面
第八條 借人ヲ爲シタル町村又ハ漁業組合ハ直ニ第二號樣式ノ借入證書ヲ知事ニ差出スヘシ
第九條 貸付金ノ交付ヲ受ケタルモノハ直ニ轉貸又ハ建造ヲ了シ其ノ結果ヲ知事ニ報告スヘシ
第十條 本資金ヲ借受ケタルモノ本資金融通ノ目的ニ違背スト認メタルトキハ貸付ヲ取消シ貸付金ノ全部又ハ一部ヲ返還セシム
轉貸ヲ受ケタル者ニ付前項ノ所爲アリト認メタル場合亦同シ
第一號樣式
小漁船建造資金借入竝起債許可申請書
一、借入金額
一、建造漁船隻數
右借入竝起債許可相成度別紙相添申請候也
年月日
町村長名
又ハ漁業組合理事名
知事宛
第二號樣式
小漁船建造資金借入證書
一、借入金額
一、償還方法
一、元金支拂期日
一、目的又ハ事業
右本日借入候ニ付借入證書提出候也
年月日
町村長名
又ハ漁業組合理事名
知事宛
第三章 縣會議員の活躍
第一節 罹災地視察
三月六日午後二時、伊丹本縣縣會議長は、縣會議事堂に在仙及近接郡部の縣會議員の參集を求め、罹災地救濟善後對策につき協議し、先づ被害状况を知り、罹災者の慰問をなさざるべからずとなし、議長以下議員八名は、三月七・八・九の三日間、左記の如き日程に依り、罹災地の視察をなせり。
視察員
議長 伊丹榮三郎
議員 山田甚助 粟野甚助 庄司作五郎
安藤源治郎 小野寺廣亮 富田廣重
大槻儀十郎 北村文衞
縣會議員視察日程
□三月七日
午前九時 縣廳發(自動車) 午後零時半 大原村着(晝食)
(谷川部落、鮫ノ浦部落 視察)
午後三時 鮫浦發 同四時三十分 女川着
同五時 女川發 同六時 石巻着(泊)
□三月八日
午前八時 石巻發 同九時三十分 十五濱村雄勝着
(雄勝荒濱 視察)
午後零時三十分 雄勝荒濱發 午後二時三十分 十三濱村月濱着
同三時 月濱發 同四時 戸倉村着
同四時三十分 戸倉村發 同四時五十分 志津川町着(泊)
□三月九日
午前八時 志津川町發 同八時三十分 歌津村着
午前九時 歌津村發 同九時二十分 小泉村着
(二十一濱 視察)
同十時二十分 小泉村發 同十時五十分 大谷村着
同十一時二十分 大谷村發 同十一時三十分 階上村着
正午 階上村發 午後零時二十分 氣仙沼町着(畫食)
午後一時 氣仙沼町發 同一時三十分 唐桑村着(視察)
同四時 唐桑村發 同四時三十分 氣仙沼町着(泊)
罹災地を一巡して、その實状に接したる議員一同は、今更の如く、惨禍の甚しきに同情し、協力して、救護・復舊につき盡力すべきを誓へり。
視察を了へたる伊丹議長は、一行を代表して、次の如く感想を河北新報記者に述べたり。「誠に聞きしにまさる慘状で、お氣の毒に堪へない。今後善後策を講ずるに當つて、我々のなすべき責務は、將來に渉つて、かくの如き慘害を繰返さざる樣人智・人力の最善を盡くすにある。縣當局には、縣當局の意見があり、各々御努力中の事は、我々縣民としては、誠に感謝に堪へないが、我々も不肖ながら、縣民の代表たる責めを汚してゐる以上、此地方最大の重要問題を前にし、供手して止むべきでなく、各方面から最非善後處置を攻究して見たい。
一部には縣會無用論もあるとの事だが、何と言はれても、我々の現在の心持は少しでも縣民將來の慘禍を輕減したいといふ考で一抔である、區々たる非難の如きは顧みる處ではない。勿論縣會召集をすべきや否や、皆さんにおはかりする考である。(下略)」
第二節 上京陳情
縣にては、三月十一日、今回の震嘯災復舊費に對し、國庫補助及無利子貸付、貸金供給申請書を内務・農林・商工・文部の各大臣宛提出せしが、縣會議員一同に於ても、同樣の趣旨を以て、三陸罹災地の復舊に關し、政府當局の救助を乞ふ事とせり。
仍て、同日、縣會議員一同は協議曾を開催し、復舊に關し、上京の上、内務・大藏・農林・商工・文部・鐵道各大臣に陳情する事とし、議長以下十二名の縣會議員は、縣庶務課若生書記同行の下に三月十三日仙臺出發上京せり。
因みに、陳情の爲上京せし議員次の如し。
縣會議長 伊丹榮三郎
縣會議員 高城畊造 松山平兵衞 遣水祐四郎
飯塚千尋 千石順平 高橋幸市
佐藤彌代二 菊地明夫 庄司作五郎
小島眞助 山田甚助
第四章 縣職員増員稟請
知事は、災害後廳員の用務漸次多端となれるに鑑み、災害救護竝復興に關しては、尠くも事務官以下十八名の増員を必要なりとし、三月九日、之が増配方を、次の如く内務大臣宛稟請したり。
災害救護竝復興ニ關シ職員増配ノ件ニ付稟請
本月三日午前二時三十一分過金華山東南東沖合海底ニ發シタル地震ハ最大震動二十三粍總震動時間凡ソ二時間ニ渉リ近年稀ニ見ルノ強震ニシテ是ニ因ル海嘯ハ三陸一帶ノ海岸ニ襲來シ其ノ被害絶大ナルモノ有之候 即チ今次ノ被害地ハ震源地ニ近キ爲海嘯ノ襲來極メテ迅ク而モ未明ノ突發事ナルニ依リ其ノ受クル所ノ災害モ亦大ナル次第ニ御座候 而シテ現在判明セル被害ノ状况ハ死者一六九名行方不明者一三八名負傷者一四五名倒潰家屋五四七棟流失家屋九八○棟船舟ノ覆沒流失セルモノ一、三七三艘ニ及ビ又浸水家屋一、五九七棟ニ達シ其ノ他大小ノ被害本縣海岸線全般ニ渉リ擧ゲテ數へ得ザル次第ニ御座候
就中最モ被害ノ大ナルハ本吉・桃生・牡鹿ノ三郡方面ニシテ此ノ方面ニ於テハ或ハ部落ノ全滅ニ瀕セルモノモ有之候 當耕地ノ被害ハ約二八○町歩ニシテ之等鹹水ヲ蒙リタル耕地ハ今後數年ノ作付ニ影響ヲ來シ將來特別ノ施設的指導ヲ要スル
次第ニ有之又道路橋梁及防波堤等ノ被害ニ至リテモ實ニ巨額ニ上ル見込ニ御座候
由來本縣ハ海岸線六二二粁餘ヲ有シ有名ナル金華山沖ノ漁場ヲ控フルガ故ニ縣ニ於テモ水産業ノ助成發達ニ對シテハ多大ノ意ヲ致シ來リタル次第ニ候 昭和七年本縣生産額ヲ見ルニ生産額八千參百餘萬圓ニ對シ水産總額ハ千貳百餘萬圓ヲ算スルノ状况ニ在リ水産業ノ隆替ハ本縣産業經濟ノ上ニ至大ノ影響ヲ有スル次第ニ候然ルニ今回ノ災害ハ有數ナル漁村ヲ根本的ニ破壞シ多數ノ漁具・船舟ヲ始メ製造加工貯藏ノ設備等ヲ喪ハシメタルニ依リ其ノ損害ハ實ニ甚大ナルモノニ有之候 仍テ之等罹災者ノ救護ト罹災地ニ對スル復興事業ノ遂行ハ刻下ノ急務トスル
所ニシテ事象勃發ヲ聞クヤ右取敢ヘズ廳内ニ臨時災害善後委員會ヲ設ケ罹災地ニハ關係職員ヲ派シ石卷・志津川・氣仙沼ノ三ケ町ニ臨時救護出張所ヲ置キ鋭意罹災者ノ救護ニ當ラシメ現ニ其ノ活動ヲ促シ居リ候へ共廳務又多端ナル爲多數ノ廳員ヲ之ニ專屬セシムルコトハ到底之ヲ許サザル實情ニ有之候
况ヤ今後復興計畫ヲ樹テ之ヲ遂行スルコトハ現在ノ廳員ヲ以テシテハ一層困難ヲ感ズル次第ニ付罹災者ノ救護及災害地ノ復興計畫ヲ樹テ之ヲ實施スルニハ少クトモ左記ノ通事務及技師ノ職員ヲ必要トスル次第ニ御座候條實情御洞察ノ上特別ノ御詮議ニ依リ右増配及之ニ伴フ豫算配當相成候樣致シ度此ノ段稟請候也
記
事務官 一名屬 六名 技手 三名 雇員 九名
第五章 精神作興の運動
第一節 約説
震嘯災による物質的打撃は、官民の一致協力により、逸早く、應急救護の實を遺憾なく遂行し得たるが、ともすれば等閑視され易きは、罹災民及附近部落民の不測の災害に遇ひて萎徴せる精神の復興にあり。仍て災害と同時に、三邊知事より災害に對する精神作興の告諭(第三號)を發し、又、罹災町村長・學校長・教化團體代表・男女青年團長・婦人團體代表宛、告諭の趣旨
徹底の爲通牒を出したり。
縣社會教育竝社會事業方面にては、罹災地の救護竝應急措置の一段落を期として、四月下旬より五月中旬迄、罹災地各町村に出張して、震嘯災復興懇談會を開催し、各地・各方面の復舊・復興に關し、懇談的に善後策を講じ、罹災民竝地方民をして精神的安定を得しむると同時に、災害による横死者の慰靈祭を催して、故人の靈を慰むる事に努めたり。
一方、縣は宮城縣教化聯合會の出資により、各罹災部落の毎戸に、地方民をして、困憊の底より、自奮更生して、再興の意氣を養ふに足るべき繪畫と標語とを載せたるポスター約三千枚を配布したり。(別紙ポスター參照)
又、宮城縣海外協會及海外移住組合にては、社會教育方面と提契して、一般文化機關の均霑に霑まるる事比較的尠き三陸沿岸部落を巡回して、映畫會を催し、罹災民の痛める心を、目と耳とより樂しましめて、幾分なりとも、餘裕ある氣分を保たしめたり。
尚、義捐金の一部を以て、罹災地三十二ケ所に建設せらるる震嘯災記念館は、震嘯災をして永く記念して忘れしめざると共に、隣保相助の精神を養ふを目的とするものなるが、これが主旨の徹底を計らんが爲、震災一周年記念事業の一として、縣竝記念館建設設置町村主催の下に、三月四日より八日間、縣下八ケ所に於て、復興講演會竝座談會を開催せり。
第二節 告諭竝通牒の發布
精神作興の告諭は、災害後約一ケ月を經たる四月十日、三邊知事より、罹災地町村長宛發布せられ、同日の縣公報號外を以て、次の如く公示せられたり。
〇告諭第三號
亘理郡 坂元村
名取郡 閖上町
桃生郡 宮戸村 十五濱村
牡鹿郡 女川町 荻濱村
大原村 鮎川村
本吉郡 志津川町 戸倉村
十三濱村 歌津村
小泉村 御嶽村
大谷村 階上村
松岩村 鹿折村
唐桑村 大島村
去三月三日三陸沿岸ニ襲來セル海嘯ノ慘害ニ對シテハ全國各方面ノ同情翕然トシテ集リ或ハ救恤品義捐金ノ寄贈トナリ或ハ勞力奉仕トナリ公共ノ施設ト相俟チテ災害善後ノ措置着々其ノ實ヲ擧ケツツアリ畏クモ我カ 至仁至慈ナル
天皇
皇后兩陛下ニハ本縣ノ災害ノ甚大ナルヲ聞召サレ罹災者ニ對シテ救恤金ヲ御下賜アラセラル
聖恩廣大恐懼感激ニ堪ヘス政府亦速ニ災害復舊ノ方策ヲ講シ國庫窮乏ノ際ナルニ拘ラス議會ノ協賛ヲ經テ多額ノ補助支出ヲ決セラレ本縣復臨時縣會ヲ開キ災害善後ノ方途ヲ議シ以テ復舊計畫ヲ樹立シ近ク其ノ實施ヲ見ムトス
惟フニ災害復舊ノ事タル罹災町村民ノ自奮自勵ニ俟ツ事最モ肝要ニシテ嚴ニ浮華放縱ヲ戒メ民風ノ刷新教育ノ充實生活ノ改善經濟機構ノ統制ヲ策シ協力一致更生ノ郷土建設ノ爲ニ邁進シ以テ所謂災禍ヲ轉シテ幸福ヲ招來スル永遠ノ復興計畫ヲ確立セサルヘカラス宜シク勤勉力行産ヲ治メ業ヲ勵ミ堅忍持久ノ精神ヲ振起シ戮力諧和家運ノ挽回ト堅實ナル町村再建ノ爲努力精進シ速ニ復興ノ大業ヲ成就シ以テ上ハ優渥ナル
聖旨ニ副ヒ奉リ下ハ熱誠ナル國民ノ援助ニ酬イムコトヲ期セラルヘシ
昭和八年四月十日
宮城縣知事 三邊長治
續いて、清水谷學務部長は、同日、更に、罹災地町村長・學校長・教化團體代表・男女青年團長・婦人團體代表宛、通牒を發して、右趣旨の徹底を期したり。
精神作興ニ關スル件通牒
過般ノ震嘯災復舊ニ關シテハ夫々計畫ヲ樹テラレ着々其ノ遂行ニ努力セラレツツアルコトト被存候處復興ノ要諦ハ精神ノ振作ヲ以テ第一義トスベキ儀ニ有之今回發セラレタル告諭第三號ノ趣旨モ亦此ニ存スル次第ニ候條其ノ町村社會教育委員又ハ自力更生委員等ト熱議ノ上戸主會婦人會男女青年團産業組合其ノ他ノ諸機關トノ聯携協調ヲ圖リ生活ノ改善教育ノ充實産業ノ更新經濟組織ノ改善統制ヲ畫スル等更生ノ新施設ノ下ニ溌溂タル新興精神ヲ振起セシメ以テ復舊ニ努力セシム
ルハ所謂禍ヲ轉ジテ福トナス所以ニ有之候條各々其ノ町村ノ事情ニ即シ適切ナル精神作興ノ施設ヲ確立實施セラレ候樣致度
罹災地町村長
同 小學校長 宛
同 男女青年團長
第三節 ポスターに據る運動
復興の精神的振作は、先づ目よりとの主旨より、縣社會教育關係者は、罹災町村に復興の意を表徴せるポスターを印刷配付する計畫をたてたり。
乃ち、凡そ半紙二枚大の紙に、上部に、「更生の郷土建設へ」と大書し、之に續きて、「復興は汗と力から」、「心は明るく氣は強く」、「辛棒強く浪費するな」等の標語を記し、その下に、洋々たる大海の、はるか彼方地平線上に、今や將に太陽は昇天せんとし、黎明の曉に、空には水鳥の飛び散るあり、近くの漁船は、雄々しくも將に纜を解かれんとする(別圖參照)、希
望と意氣とに燃えたる色刷のものにして、罹災民をして、覆滅の底より奮起せしむるに足るものなりき。
かくの如きポスター、約三千枚は、罹災地町村各戸の見易き場所に貼附せられ、地方特志家の精神振作のポスターと共に、關係地方民を力づくる處頗る大なるものありき。
因みに、この經費は、一枚約壹錢五厘にして、所要經費四拾五圓は、宮城縣教化事業聯合會の負擔する處なり。
第四節 復興懇談會
I 震嘯災復興懇談會
災害による混亂の一段落を俟ち、縣に於ては、罹災各町村に、復興懇談會を開き、活動寫眞の映寫を行ひ罹災民の慰安をなすと同時に、懇談的に復興の將來につき協議したり。
四月三十日、本吉郡鹿折村浦島分教場を皮切りとし、五月十三日桃生郡十五濱村船越小學校に於けるを最後とする迄凡そ十日間に亘り、十ケ所に懇談會を開催せるが、各會場は、何れも來會者を以て溢れ、如何に、地方民が、この擧に對し、熱心なる關心を有せしかを、窺知するに充分足るものありき。
各會場に於ける懇談會開催順序は、大約次の如く行はれたり。
一、主催者の挨拶 二、議師紹介
三、村長の挨拶 四、懇談
五、村長謝辭 六、映畫會
II 震囎災一周年記念復興懇談會
縣にては、震嘯災一周年を期し、三月四日より同十一日迄十日間、主なる災害部落に一周年記念懇談會を開催し、拓務省及本縣より派遣せられたる講師を中心にして、當時を偲び、併せて、轉禍爲福の目的を以て、復舊・復興に備へんとしたり。
(別稿第六編雜録第二章記念事業第三節震嘯災一周年記念事業の條參照)
開催箇所に於ては、部落民多く集り、特に、今回記念事業として、建設せらるる記念館に對する希望竝意見を開陳し、又勤儉貯蓄の必要を力説する等、災害一周年を迎へて、何れも眞劍なる態度に出でしは、精神作興の一助として、この種懇談會の無益に非ざるを知らしめ、力強き次第なりき。
第五節 罹災地映畫巡回
縣社會教育方面にては、社會事業方面と提契し、罹災地各部落に、復興懇談會を開催すると同時に、罹災民慰問の映畫會を開催し、自然の暴威にたたきのめされたる地方民の心を慰めしかば、開催部落に於ては、開催定刻以前より多數の観客押し寄せ、各地共豫想以上の好結果をおさめ得たり。
映畫の種類は、「自力更生」二卷、「海の世界」一卷、「鍬の光」四卷等にして、總て復興精神の作興に適切なるものにして、觀衆に多大の感銘を與へたり。
震災地復興部落懇談會開催要項
一、目的
震嘯災地ニ於ケル民心ヲ作興シ復興ノ氣分ヲ喚起セントス
二、場所
震嘯災地中被害ノ多キ町村ニ就キ可成部落現地ニ於ケル小學校、分教場又ハ公會堂等トス
三、協議懇談ノ方法
出席講師ヨリ一應復興ニ關スル説明ヲナシ左記項目ニ就キ協議懇談ヲスルモノトス
1、精神方面 2、産業方面 3、建築方面 4、衞生方面 5、記念館其ノ他ニ關スル方面
四、協議會出席者
町村當局、學校職員、町村會議員、學務委員、社會教育委員、經濟(自力)更生委員、町村農會職員、各區長、各種教化及産業團體幹部、奉仕委員、男女青年團役職員、在郷軍人、消防組員、其ノ他部落有志
五、日時(別表參照)
協議懇談會 午後一時ヨリ四時迄
活動映寫會 午後七時ヨリ十時迄(一町村一箇所又二箇所適當ノ所ニ電燈其他ノ凖備ヲナスコト經費は縣負擔)
六、協議懇談後ノ措置
協議ノ結果特ニ專門ノ指導ヲ要スル場合ニハ更ニ日時ヲ改メテ之ガ指導ノ徹底ヲ圖ル見込
第六節 復興記念館
沿岸地方は從來屡次震嘯の厄に悩まされたる苦き經験を有する地方なれば、今回の災害を機會として、各部落毎に、復興記念館を建設し、災害を永久に追憶し、將來の災禍防止避難を眼目とし、傍らこの種の天災に對する知識を獲得せしめ、更に部落民の會議懇談冠婚葬祭等の諸會合にも利用せしむる公會堂の一種となさんと欲したり。
即ち、將來海嘯等の被害尠き場所を選定し、神殿を中心に、圖書閲覽室・議堂・炊事場等を設け、平屋建坪貳拾圓當二十坪都合一棟四百圓の建築費による記念館を設置すべく計畫したり。
然るに、七月二十日の第一回義捐金の分配の際、當初計畫の豫算にては、到底所期のものの建設の困難なるを悟り、公共施設費拾萬圓を計上し、之を以て、記念館の建設費に充てたり。
而して、施設内容は本館と物置とよりなり、本館は、最大一〇〇坪より、最小五〇坪に至る四種とし、坪當り四拾圓の見當なり。
尚、設置部落も最初罹災部落全部に亘る豫定なりしが、内容の改變と共に、かかる施設が必須にして、且つ最も適當なりと認めらるる部落三十二ケ所を指定して、此處に設くる事とせり。(第六編雜録第二章記念事業第一節記念館の設立の條參照)
第七節 災害記念文庫の設立
教育關係團體寄贈の義捐金は、大體罹災兒童の被服給與・學用品購入竝學校給食に資せるが、尚ほ之等慰問金殘額は、罹災地各小學校をして記念文庫を設立せしめ、兒童・男女青年・成人を通じ、地震津浪に關するものはもとより、科學・歴史・文學或は各種辭書に至る迄、多きは三百冊より、少きも百數十冊を備へしめ、今回の天災を轉機として、三陸沿岸地方の文化進展の一助たらしめんとせり。
之等罹災地十六校は一律に、記念文庫を設立せるが、中にも本吉郡(歌津村)名足小學校に於ては、佐々木校長以下同校職員一同、此の方面に多大の熱意を有し、協力一致して、圖書の蒐集に當りたるを以て、昭和八年十二月下旬に至る迄、蒐集文庫に所藏せる圖書冊數二八一冊(この代金二九七圓七五錢)罹災慘状及復興途上寫眞各一一葉に達するを得たり。これが記念文庫圖書たるを明示せむが爲、各圖書には、下の如き文庫圃書名札と文庫藏書印を貼附・捺印せり。
尚、罹災記念文庫設置の各小學校に於ける圖書購入費・書棚設備費・其の他諸經費次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
第八節 漁村振興青年講座開設
災害に際し、縣青年團へ寄贈せられたる義捐金の内四百五拾圓を以て、沿岸罹災部落町村青年に對し、漁村振興青年講座を開設し、その精神作興及産業開發に資せんとし、罹災地中五ケ町村を選び次の如き日程を以て擧行せり。
議座科目及講師次の如し。
漁村經濟更生 農林技師 中谷熊楠
副業一般 農林技師 野崎正雄
同 農林主事補 簡野博志
竹林及椎茸栽培 柴田農林學校長 沼田清五郎
非常時青年ノ使命 社會教育主事 長瀬道郎
産業改善ノ要諦 實業補習教育主事 齋藤義一郎
尚、受講者は、男女青年及實業補習學校卒業生及生徒、更に青年訓練所生徒を合して、一ケ所二百名内外の豫定なりしが、一般のものにも希望ある際は、之が聽講を許したれば、各會場共聽衆者溢れ、大いに關係地方民の智能を啓發する處ありき。
而して、受講者にして三日間以上出席し、所定の科目を修了したる者には、本縣より修了證書を授與せり。
第六章 復舊事業の進捗
第一節 復舊事業費の計上
I 各省別豫算計上
今回の震嘯災に臨み、復舊の一日も忽にすべからざるは言ふを俟たず。
即ち縣に於ては、三邊知事・各部長・各課長以下關係課員鳩首協議の上、復舊に必要なる豫算の計上に取りかかり、其の大部分は、時下の實状に鑑みて、政府の援助に縋るの止むなきを知り、之を關係各省に提出したり。
其の結果、内務・農林・文部の各省に於ては、必要なる調査を實施し、次の如く、各省別の復舊費計上を見るに至れり。
之に據れば、農林省關係の一、三四九、五五〇圓、第一位にして、内務省關係の一、二六九、一〇九圓、之に次ぎ、この兩省の復舊豫算額は、全復舊費の九割四分強に當る。
各省別の復舊豫算内容次の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
II 震嘯災害復舊事業費
震嘯災害の復舊費は、土木復舊・農事復舊・蠶業復舊・畜産業復舊・水産業復舊・耕地復舊・商工業復舊等、各方面の復舊を始め、警備事務の整備・缺食兒童給食費竝就學兒童奬勵・醫療救護・震嘯災害救護事務費の計上、貸付金・縣歳入缺陷補填資金等の多方面に亘りて計上されたり。
其の内譯次の如し。
1 土木復舊
イ、縣土木復舊
事業費總額 五一六、九七三圓
内
國庫補助 四三四、三二七
低利資金(利子補給あり) 八二、六〇〇
縣費 四六
ロ、町村土木復舊助成
事業費總額 六八、二〇四圓
内
國庫補助 五七、九七三
低利資金(利子補給あり) 一〇、○○○
純自己資金 二三一
2 農事復舊
イ、農作物種苗購入費補助
事業費 八、〇一〇圓
内國庫補助 八、〇一〇
ロ、農具購入費補助
事業費 二六、四〇〇圓
内
國庫補助 一三、二〇〇
低利資金 一三、○○○
自己資金 二〇〇
ハ、納舍及肥料舍建築費補助
復舊費 一九、一二〇圓
内
國庫補助 九、五六○
低利資金 九、五〇〇
自己資金 六〇
3 蠶業復舊
イ、稚蠶共同飼育所設置費補助
設置費 二〇、八○○圓
内
國庫補助 一〇、四〇〇
低利資金 一〇、○○○
自己資金 四〇〇
ロ、蠶具購入費補助
購人費 一四、○○○圓
内
國庫補助 七、○○○
低利資金 七、○○○
4 畜産業復舊
イ、家畜購入費補助
購入費 二、○○○圓
内
國庫補助 一、○○○
低利資金 一、○○○
ロ、家畜飼料購入費補助
購入費 一、九七〇圓
内
國庫補助 九八五
低利資金 九五〇
自己資金 三五
5 水産業復舊
イ、漁船復舊費補助
復舊費 三八九、六〇〇圓
内
國庫補助 一九四、八○○
低利資金 一九四、五五〇
自己資金 二五〇
ロ、漁具復舊費補助
復舊費 二二六、八○○圓
内
國庫補助 八三、四〇〇
低利資金 一四三、四〇〇
ハ、共同施設復舊費補助
復舊費 一六○、○○○圓
内
圃庫補助 八○、○○○
低利資金 八○、○○○
ニ、船溜・船揚場復舊費補助
復舊費 六〇、○○○圓
内
國庫補助 四五、○○○
低利資金(利子補給あり) 一五、○○○
ホ、築磯復舊費補助
復舊費 九、六〇〇圓
内
國庫補助 四、八○○
低利資金(利子補給あり) 四、八○○
6 耕地復舊
イ、耕地復舊助成費
工事費 四四、八一〇圓
内
國庫補助 二二、四〇五
低利資金 一八、四〇〇
貸付返納金 三、九四〇
自己資金 六五
7 商工業復舊
イ、工場店舗設備費補助
設備費 九〇、○○○圓
内
國庫補助 三六、○○○
低利資金 五四、○○○
ロ、運送船建造費補助
建造費 一七、○○○園
内
國庫補助 三、○○○
低利資金 一四、○○○
8 警備事務の整備
イ、警備費の充實
警備費 九、四〇二圓
内
國庫補給金 四、七〇一
縣費 四、七〇一
ロ、警察電話補修費
補修費 一九、六六八圓
内
國庫補給金 九、八三四圓
縣費 九、八三四
9 缺食兒童給食費竝就學兒童奬勵
イ、罹災兒童就學奬勵
事業費 一〇、〇三二圓
内、國庫補給金 一〇、〇三二
10 醫療救護
イ、醫療救護費
事業費 六、六二五圓
内、國庫補給金 六、六二五
11 震嘯災害救護事務費の計上
イ、震嘯災害救護費
事業費 四二、○○○圓
内
國庫補給金 二一、○○○
縣費 二一、○○○
12 貸付金
イ、罹災住宅復舊資金貸付
復舊資金 二七六、五〇〇圓
全額低利資金
ロ、住宅適地造成資金貸付
造成資金 一九五、○○○圓
全額低利資金(利子補給あり)
ハ、小學校舍復舊資金貸付
復舊資金 四、七〇〇圓
全額低利資金(利子補給あり)
ニ、町村歳入缺陷補填資金貸付
補填資金 五九、○○○圓
全額低利資金(利子補給あり)
ホ、肥料資金貸付
肥料資金 三二、○○○圓
全額低利資金
へ、蠶室復舊資金貸付
復舊資金 九〇、○○○圓
全額低利資金
卜、漁船復舊事業資金貸付
復舊事業資金 一六、○○○圓
全額低利資金
チ、共同製造場復舊事業資金貸付
復舊事業資金 四五、○○○圓
全額低利資金
リ、共同養殖設備復舊事業資金貸付
復舊事業資金 二〇、○○○圓
全額低利資金
ヌ、個人製造所復舊資金貸付
復舊資金 一六〇、○○○圓
全額低利資金
ル、工場店舖運轉資金貸付
運轉資金 六〇、○○○圓
全額低利資金
13 縣歳入缺陷補填資金
補填資金 一七六、三〇〇圓
全部低利資金
總計 四、三三七、五一四圓
第二節 農業
I 事業進捗の經過
浸水以上の被害を蒙りたる農家戸數は、一、一六七戸に達し、又、耕地にして耕土の流失・砂礫の浸水・海水の浸水・水路作道の破壞等の被害を蒙りたる耕地面積は、田一四八町歩、畑一四六町歩、合計二九四町歩(耕地復舊より被害程度少きものを含む)に及び、外に、農業用建物・納舍・肥料舍の流失・倒潰せしもの四六一棟、坪數四、〇七五坪、農具の被害總數一八、四二九點其の他貯藏・穀物種苗・肥料等の流失損害額夥しく、罹災農家は農業經營に從事し能はざる状態にありしを以て、縣は國庫の助成を受け、就業に必要なる種苗の配給・農具購入、農舍・肥料舍等の建設に對し、助成の途を講じ、農事復舊施設を行ひ、農業經營上遺憾なきを期したり。
乃ち、昭和八年四月十一日、罹災地町村長會議(第四編復舊復興第二章災害關係會議第二節參照)開催の結果、決定を見たる震嘯災害農事復舊事業執行上の注意事項は、左の如くにして、之、五月十日附縣告示による震嘯災害農事復舊施設助成要項決定に、明確なる方針を與へし基礎事項となりたり。
震嘯災災害農事復舊事業執行上ノ注意事項 (於四月十一日罹災地町村長會議決定)
一、種苗ノ配給及農具ノ購入、納舍肥料舍等建設助成ニ付テハ罹災農家ノ被害程度ニ應ジ最モ適正且ツ公平ヲ期スル爲被害ノ状况、農家ノ事情等詳細調査スルコト
一、種苗ノ給與及農具ノ購入助成ハ原則トシテ現品ヲ以テ配給スベキモノナレバ、相當數量ヲ纏メ得ベキモノ、購入先ニヨリ優劣ノ差著シキモノ、高價ナルモノ、重要性ヲ有スルモノ、共同使用ヲナスモノニ付テハ購入先ヲ選擇シ共同購入ノ方法等ニヨリ現品配給ノ斡旋ヲナスコト
尤モ輕徴ナルモノト雖モ右ノ方針ニ基キ單ニ現金支出ヲナシ苟モ亂費ノ弊ニ墜ラザル樣注意スルコト
一、復舊事業ノ精神及事業執行等ニ付テハ洩レナク罹災農家ニ其ノ趣旨ノ周知ヲ圖リ罹災農家ヲシテ不安ト危懼ノ念ヲ抱カシメザル樣努メ事業ノ實施進捗ニ於テ厚薄遲速差別等ナク圓滑ナル遂行ヲ期スルコト
一、事業施行ニ當リテハ隣接町村ニ於テ相互連携ヲ保チ協調ノ上同種類ノ事業ニアリテ著シク懸隔等差ナキ樣心懸クルコト
一、事業施行ノ萬般ニ亘リ其ノ完壁ヲ期スル爲執行委員ノ如キヲ設ケ同時ニ農會産業組合等ノ團體ト連絡ヲ圖リ夫々團體ノ活動ヲ促ス樣ナスコト
一、種苗給與後ノ播種耕作ノ指導及農具購人納舍肥料舍等建設ニ當リ懇切ニ指導斡旋ヲナスト否トハ其ノ事業ノ成績ニ至大ノ關係ヲ有スルモノナレハ事業執行中並執行後ノ指導督勵ヲ遺憾ナク行フコト
一、種苗ノ給與、農具建物ニ對スル助成、肥料資金ノ供給ノ如キ表面ニ現ハレタル事業以外塩害地ニ對スル耕作上ノ指導肥料配合施肥上ノ指導、自給肥料増産ノ奬勵、農業經營上ノ綜合的指導等ハ此ノ際最モ重要ナル事項ニシテ表面事業ト相俟ツテ其ノ効果ヲ收ムル樣留意スルコト
一、配給臺帳補助臺帳支拂簿等ハ必ラズ備付ケ置キ事業ノ種類別ニ個人別臺帳ヲ設ケ事務ノ取扱ヲ定メテ明確ニ行フト共ニ見積書、請求書、受領證ノ如キハ事業別ニ整理シ置キ何時監査ヲ受クルモ差支ナキ樣ナシ置クコト
一、救護ヲ受クル罹災者ト非罹災者トノ間ニ待遇上ノ厚薄ニヨリ感情ノ疎隔等アラシメザル樣非罹災者ニ對スル指導接觸ヲモ充分考慮スルコト
一、災害復舊事業施行中ノ如キ救護助成等ノ事務ニ煩瑣錯綜ヲ極ムル時期ニ於テハ特ニ精神ノ緊張ヲ重要トスルヲ以テ自力更生ノ精神發揚ニ努メ各種事業ニ付キ良成績ヲ收メ且ツ其ノ効果ヲシテ永續性ヲ保タシムル樣ナスコト
○宮城縣告示第二百六十四號
震嘯災害農事復舊施設助成要項左ノ通リ定ム
昭和八年五月十日
宮城縣知事 三邊長治
震嘯災害農事復舊施設助成要項
第一、昭和八年三月三日ノ震嘯ニ因ル農事復舊ノ爲本要項ニ依リ豫算ノ範圍内ニ於テ助成金ヲ交付ス
第二、助成金ハ町村ノ左ニ掲クル經費ニ對シ全額ヲ交付ス
一、農作物種苗購入配付費
二、農具購入助成費
三、納舍及肥料舍等建設助成費
第三、町村ニ於ケル前項ノ助成ハ左ノ制限ニ依ル
一、農作物種苗購入配付費ニ付テハ町村ニ於テ種苗ヲ購入シ罹災農家ニ對シ無償配給ヲ行フニ要スル經費但シ給與スヘキ種苗量ハ種類別ニ反當所要種子量ヲ作付面積ニ乘シタル量ヲ限度トス
二、農具購入助成費ニ付テハ流失、倒潰農家ノ納舍及肥料舍等建設所要經費ノ二分ノ一以内トシ一戸八拾圓ヲ限度トス
第四、助成金ノ交付ヲ受ケントスル町村ハ助成金交付申請書ニ事業計畫書並別表ニ掲クル書類ヲ添付シ昭和八年五月二十日迄ニ知事ニ提出スヘシ
第五、助成金交付ノ指令ヲ受ケタルモノハ事業成績書及經費決算書ヲ前項ノ事項ニ凖シ昭和八年十月末日迄ニ知事ニ報告スヘシ
第六、助成金ハ事業完了後檢査ノ上之ヲ交付ス、但シ事業ノ進捗程度ニ應シ分割シテ之ヲ交付スルコトアルヘシ
第七、助成金ノ交付ヲ受ケタルモノ本要項ニ違背シ又ハ事業施行方法不適當ト認ムルトキハ交付シタル助成金ノ全部又ハ一部ノ還付ヲ命スルコトアルヘシ
(別表)
一、給與又ハ購入設備セントスル種類別數量調
第一表
1、種苗ヲ給與スヘキ農家戸數
2、給與スヘキ種苗ノ種類及數量
第二表
1、農具ノ購入ヲ助成スヘキ農家戸數
2、農具ノ購入ニ對スル助成金總額
3、購入農具ノ種類別數量及所要經費
(注意)鎌、鍬類、除草器、ホーク、連枷、肥桶、篩、籠、莚等ハ一農家ニテ二個以上必要トスル場合アルヘキモ唐箕脱穀器、
萬石及籾摺器ハ三戸以上共同ニテ使用セシムル見込ナリ
第三表
1、納舍及肥料舍等ノ建設ヲ助成スヘキ農家戸數
2、納舍及肥料舍等ノ建設ニ對スル助成金總額
3、納舍及肥料舍等ノ種類別棟數及所要經費
二、經費豫算書及事業施行ノ方法
三、參考資料
罹災農家調
1、農家戸數
2、被害農家戸數
内譯
流失戸數
倒潰戸數(全潰 戸、半潰 戸)
浸水戸數(床上 戸、床下 戸)
3、被害農家戸數中耕作地ニ被害ナキ戸數
4、無被害農家中耕作地ニ被害アル戸數
被害耕地調
1、耕地總面積(田畑 桑園)
2、被害耕地面積(田畑 桑園)
内譯
イ、被害農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
耕作不能面積(田畑 桑園)
耕作可能面積(田畑 桑園)
附 被害農家ノ耕作スル無被害耕地面積
(田畑 桑園)
ロ、無被害農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
耕作不能面積(田畑 桑園)
耕作可能面積(田畑 桑園)
附 無被害農家ノ耕作スル無被害耕地面積
(田畑 桑園)
ハ、他町村農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
一、農作物の種苗購入配付
罹災農家の耕作反別に應じ、各町村毎に配當額を定め、町村長をして種籾・馬鈴薯・大小豆・蕎麥種子及骨藷苗を購入せしめ、無償を以て配付せしむる事に決し、其の内、速急を要する馬鈴薯及水稻の種子は、一部を縣に於て購入し、現品を町村へ交付配給せしめたり。而して、種苗給與農家戸數は、一、一六七戸にして、其の金額八、〇一〇圓なりき。
二、農具購入の助成
當該町村をして、罹災農家の農具購入費に對し、二分の一以内を補助せしめ(一戸當平均四〇圓以内)、之に對し、縣は全額の補助金を交付することとし、内、急を要する農具に就ては、其の一部を縣にて購入し、現品を町村に交付の上配給し、又、共同使用の農具は縣に於て、其の他は可成郡町村農會をして斡旋せしめ、之が復舊に努めたり。
而して、農具の購入助成農家戸數は四一八戸にして、其の金額一二、二一六圓なりき。
三、納舍及肥料舍建設の助成
當該町村をして、罹災農家納舍及肥料舍等建設費の二分の一以内を補助せしめ(一戸當平均四〇圓以内)、之に對し、縣は全額の補助金を交付し、建設に努めたり。而して助成農家戸數は二八一戸にして、其の金額は一〇、五四四圓なり。尚本事業は罹災者の住宅は集團的に、海嘯に對する安全地帶を選定し建設せるため、住宅地の選定竝住宅の新設遲延せる等の理由により、昭和九年度に繰越の止むなきに至りたるも、昭和九年八月中に全く完了を見たり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
II 農事復舊事業成績
一、農作物の種苗購入配付
(一)種苗を給與したる農家
震災竝海嘯の爲、家屋の流失・倒壞を見、又は浸水の爲、自家用食糧農産物及種苗の全部又は大部分を亡失せる農家に對し、次季作付に要する種苗竝自家食糧補給用種苗を給與せり。
(二)町村別種苗給與農家戸數
種苗を給與したる町村別農家戸數左の如し。
(三)給與したる種苗の種類及數量
給與したる種苗の種類別數量左の如し。
(四)給與したる種苗の購入方法及其の給與方法
罹災農家數竝被害状况に應じ、各町村毎に配當額を定め、配當額の範圍内に於て町村長をして、給與すべき種苗を購入せしめ無償にて配付せしめたり。
而して、自家食糧補給用馬鈴薯種子及水稻種籾等は、播種期を目捷の間に控へ、早急を要せし爲、縣に於て其の一部分に付、購入斡旋現品の配給を行ひ、其の殘額は夫々町村に交付し、町村長をして種苗を購入せしめ、無償にて配付せしめたり。
(五)町村別種苗購入配付費
二、農具購入助成
(一)農具の購入を助成したる農家
震災竝海嘯の爲、家屋の流失・倒潰を見、農具の全部又は大部分を亡失せる農家に對し農具の購入を助成せり。
(二)町村別農具購入助成農家戸數
農具の購入を助成したる町村別農家戸數左の如し。
(三)助成したる農具の種類及補助率
助成したる農具の種類竝數量左の如し。
補助率
補助率は購入價格の二分の一以内とし、一戸當最高補助金額は八拾圓を限度とせり。
(四)農具購入助成方法
當該町村をして、罹災農家の農具購入價格の二分の一以内を補助せしめ、之に對し、縣は全額の補助金を交付せり。
但し、災害の當初に於て、急速に罹災耕地の復舊を必要とする向に對しては、便宜、縣に於て、町村の希望を徴し、助成金の一部を以て所要農具(平鍬・唐鍬・三本鍬・ホーク・シヤベル・鎌)を購入し、現品配給を行ひたり。而して、現品の給與を受けたる町村に在りては、其の額に相當する額以上、更に他の農具を購入せしめ、二分の一以内補助の趣旨の遂行を圖りたり。
(五)町村別農具購入助成費
三、納舍及肥料舍等建設助成
(一)震災竝海嘯の爲、流失・倒潰農家の納舍及肥料舍等の全部又は大部分を亡失せる農家の納舍及肥料舍等の建設を助成せり。
(二)町村別納舍及肥料舍等建設助成農家戸數納舍及肥料舍等の建設を助成したる農家戸數竝助成すべき農家戸數(繰越事業繼續中)左の如し。
(三)助成したる建物の種類及補助率
(イ)助成したる建物の種類左の如し(町村別)
(ロ)補助率
建設所要經費の二分の一以内とし、一戸當最高補助金額は八拾圓を限度とせり。
(四)納舍及肥料舍等建設助成方法
當該町村をして、罹災農家の納舍及肥料舍等の建設費の二分の一以内を補助せしめ、之に對し、縣は全額の補助金を交付せり。町村別助成金額竝助成豫定金額左の如し。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
第三節 耕地業
I 復舊前との比較
農耕地の復舊後の状態を觀るに、概して復舊の成績良好なり。殊に、集團地にして、耕地整理を爲さしめたる所は、區劃整然として、一層美觀を呈せり。
II 事業進捗の經過
復舊事業を實施せしむるに方り、施工個所の設計調査を急速に完了する必要あり。課員總動員を以て災害地に派遣、一齊に調査に從事せしめ、現地に於て設計書の作製補助、申請事務の指導等を爲さしめたり。
耕地の復舊事業季節は、恰も農閑期にあり、地方民は勞後に從事せん事を希望し、又、罹災者に勞銀を得せしむる爲、他より勞力の供給を仰がず、全部災害地住民を使役したり。
かくして、工事着手以來、縣の督勵により、工事は意外に進捗し、震嘯災害一週年に際しては、牡鹿郡大原村谷川に於て、耕地整理工事二ケ所を殘し、他は全部竣成したり。
耕地復舊事業實施に就ては、特に作業困難なりと認むるものなかりき。
第四節 蠶業
復舊事業の進捗
桑圍被害の最も甚しきものは桑株流失(流失五十四町七反)し、輕微のものに於ても、桑園に冠水(冠水七十三町六反)し、爲に、土砂入せるを以て、桑發芽前なりしにも不拘、發芽止りて、桑葉の收獲を見られざるに至りしを以て、其の被害見積八萬參千八百七拾壹圓に上れり。
又、蠶室及蠶具に於ては、一般家屋と同じく流失(蠶室一二四戸)、倒潰(蠶室五一戸)、潰滅し、其の被害見積拾六萬五千九百九拾六圓に上れり。
之等養蠶業者が不完全なる急造家屋に依り養蠶を營むに於ては、飼育上の不安不尠ものあるべきを以て、蠶作に最も關係深き稚蠶飼育の安全を期する爲、被害激甚なる桃生郡・牡鹿郡及本吉郡の養蠶實行組合をして、八稚蠶共同飼育所の設置を奬勵し、其の設置費平均一箇所貳千六百圓、總額貳萬八百圓の二分の一に當る補助金を交付すると共に、蠶具を流失又は全潰したるもの百七十六戸に對しては、蠶具復舊費平均一戸當八拾圓、此の總額壹萬四千圓の二分の一の補助金を交付せんとし、而して稚蠶共同飼育所設置費、蠶具復舊費及蠶室復舊資金に就ては、低利費金の融通を受け、資金の轉貸を行ひ、尚、流失・冠水桑園に對しては、之を速に整地新植の要あるを認め、之に對し(八十三町二反六畝)、一反歩當貳拾五圓、總額貳萬八百拾五圓の補助金を交付し、復舊せしめたり。其の状况左の如し。
一、稚蠶共同飼育所
稚蠶共同飼育所は、災害地に於ける養蠶實行組合をして、左の標準に依り設置せしむることとし、設置計畫八ケ所中、牡鹿郡大原村鮫ノ浦養蠶實行組合飼育所及同村谷川養蠶實行組合飼育所、桃生郡十五濱村名振・同村雄勝・本吉郡十三濱村相川・同郡歌津村伊里前・同郡戸倉村波傳谷各養蠶實行組合の各飼育所は、昭和九年三月二十日全部竣工を見たり。
稚蠶共同飼育所設置標準
梁間 四間五分 桁行 九間五分 木造平家建
一部中二階付屋根スレート葺
建坪 四十二坪七合五勺
二、蠶具
蠶具の復舊は、當年春蠶期に於て使用せる蠶箔・蠶網・蠶架・蠶莚等相當設備せるものあるも、未だ其の半を充すに足らざるを以て、各養蠶業組合及町村農會等に於て、同蠶具の共同購入斡旋を爲さしめ、昭和九年春蠶期より蠶兒の飼育を爲したり。
三、桑園
桑園の復舊は、冠水して桑園に土砂を搬入せられたるものは、直に其の土砂を除去し、根を洗ひ去られたるものは、直に履土を行はしめ、發芽に支障なからしめたり。
其の他、流失せるもの及發芽不能のものに就ては、其の株を堀り起さしめ、秋植を奬勵して、昭和八年十二月中に其の七割を新植せしめ、其の新植反別は八十三町二反六畝、總額貳萬八百拾五圓を補助せり。
四、蠶室
蠶室の復舊は、低利資金の融通に依り行はしむる豫定なるも、自力に依りて復舊せんとするもの相當多く、未だ低利資金の借入希望者數名に過ぎざる現状なるも、復舊は全部支障なきものの如し。
稚蠶共同飼育所設置調
牡鹿郡大原村鮫ノ浦 養蠶實行組合飼育所 桃生郡十五濱村名振 養蠶實行組合飼育所
同 郡同 村谷川 同 同 郡同 村雄勝 同
本吉郡歌津村伊里前 同 本吉郡十三濱村相川 同
同 郡戸倉村波傳谷 同
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
第五節 畜産業
復舊事業の進捗
家畜の被害を蒙りて、農事經營上困難を來し、爲に之が購入を爲さんとする者に對し補助せんとし、馬二十頭分、一頭當平均百圓、總額貳千圓、内半額は低利資金を融通し、他の半額は補助すると共に、又、罹災者の飼養する家畜百九十七頭の飼料五十日分、總額千九百七拾圓の半額は低利資金を融通し、他の半額は補助をなし、鋭意復舊に努めたり。
然るに、當初、馬二十頭の購入計畫を樹立し、農林省に補助申請を爲せしも、其の後二十七頭の購入希望者ありしを以て計畫變更の認可を受け、之に對し補助金を交付せり。馬二十七頭を産地別に見るときは、縣内産十二、岩手縣産十、青森縣産三、北海道産二頭にして、内、縣内市場にて購買せるもの九頭、亘理郡馬商より購入せる一頭、本吉郡内馬商より購入せるもの十七頭にして、被害を蒙りしもの全部、昭和八年三月中、補助金交付を了し復舊せしめたり。
又、家畜(耕馬)飼養費助成事業も、其の計畫に於て若干の變更あり、結局、次表の示すが如く、復舊を見たり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
第六節 水産業
I 復舊費の計上
昭和八年四月六日の臨時縣會の議決を經たる水産業復舊費は、百拾五萬八千七百五拾圓にして、内、金六拾七萬八千七百五拾圓(着業資金貳拾四萬壹千圓を含む)を起債し、國庫より金四拾萬八千圓の補助を受け、同年五月一日の縣令第二十五號を以て、水産業復舊補助規則を次の如く制定せり。
○宮城縣令第二十五號
水産業復舊補助規則左ノ通リ定ム
昭和八年五月一日
宮城縣知事 三邊長治
水産業復舊補助規則
第一條 昭和八年三月三日ノ震嘯ニ因リ損害ヲ被リタル水産業ノ復舊ヲ助成スル爲本規則ノ定ムル所ニ依リ豫算ノ範圍内ニ於テ補助金ヲ交付ス
第二條 補助金ハ損害ヲ被リタル漁船漁具ノ新調若シクハ修繕水産物ノ共同販賣所共同製造場共同倉庫ノ新築若シクハ修繕又ハ共同養殖設備船溜船揚場築磯ノ新設若シクハ修繕ノ費用ニ對シ之ヲ交付ス 但シ左ニ掲クル場合左ノ費用ニ對シテハ此ノ限リニアラス
一、外國製發動機關ノ新調
二、漁船ニ定著セサル發動機關ノ新調
三、吸入瓦斯發動機ノ新調
四、揮發油發動機ノ新調(機關發動ノ爲揮發油ヲ用フルモノヲ除ク)
五、新調費壹統壹萬圓ヲ超ユル定置漁具ノ新調又ハ新調ニ要シタル一統ノ費用壹萬圓ヲ超ユル定置漁具ノ修繕
第三條 水産物ノ共同販賣所共同製造場共同倉庫ノ新築若シクハ修繕(又ハ)共同養殖設備船溜船揚場築磯ノ新設若シクハ修繕ノ費用ニ對スル補助金ノ交付ヲ受クルコトヲ得ヘキ事業主體ハ左ニ掲クルモノニ限ル
一、市町村
二、漁業組合又ハ漁業組合聯合會
三、産業組合又ハ産業組合聯合會
四、水産組合
五、水産會法ニ依リ設立シタル水産會
六、十人以上ノ團體
七、以上ノ外特別ノ事由ニ依リ知事ノ承認ヲ得タルモノ
第四條 補助金ハ左ノ標凖ニ依リ之ヲ交付ス 但シ知事ニ於テ必要ト認ムル時ハ左ノ率ヲ超エテ之ヲ交付スルコトアルヘシ
一、漁具ノ新調又ハ修繕 費用ノ二分ノ一以内
二、漁具(定置漁具ヲ除ク)ノ新調又ハ修繕 費用ノ二分ノ一以内
定置漁具ノ新調又ハ修繕 費用ノ四分ノ一以内
三、水産物ノ共同販賣所共同製造場共同倉庫ノ新築若シクハ修繕(又ハ)共同養殖設備築磯ノ新設又ハ修繕
四、船溜船揚場ノ新設又ハ修繕 費用ノ四分ノ三以内
第五條 補助金ノ交付ヲ受ケントスルモノハ申請書ニ左ノ書類ヲ添へ昭和八年五月三十一日迄ニ知事ニ提出スヘシ
一、無動力漁船ノ新調ノ場合ニ於テハ漁船件名書(船材船體ノ長・幅・深・外板ノ厚サ、甲板ノ有無、竣工豫定年月日ヲ記載シタルモノ)及經費豫算書
二、動力附漁船ノ新調ノ場合ニ於テハ左ニ掲クル書類
(イ)漁船件名書(船種、船體ノ重要寸法機關ノ種類、馬力數、「シリンダー」ノ徑及數「ストローク」竝一分間ノ回轉數、起工豫定年月日、竣工豫定年月日造船者ノ住所氏名機關製作工場名稱ヲ記載シタルモノ)
(ロ)船體面圖(中央横截面圖、中心線縱截面圖、甲板平面圖、船艙内平面圖)
(ハ)發動機圖(重要部構造ヲ知ルニ足ルモノ)
(ニ)船體設計仕樣書
(ホ)發動機設計仕樣書
(へ)經費豫算書
三、漁船ノ修繕ノ場合ニ於テハ左ニ掲クル書類
(イ)漁船名書(無動力漁舶ニアリテハ一ニ、動力附漁船ニ在リテハ二ニ準スルコト)
(ロ)修繕設計仕樣書及圖
(ハ)經費豫算書
四、漁具ノ新調又ハ修繕ノ場合ニ於テハ左ニ掲クル書類
(イ)漁具ノ名稱及數
(ロ)漁具ノ構造概要
(ハ)新調又ハ修繕完了豫定年月日
(ニ)動力附漁船ニ使用スルモノニ在リテハ使用スル漁船ノ船型、噸數及馬力數
(ホ)從業人員
(へ)新調又ハ修繕費豫算
五、水産物ノ共同販賣所、共同製造所、共同倉庫ノ新築若ハ修繕又ハ共同養殖設備、船溜、般揚場ノ新設若ハ修繕ニ於テハ左ニ掲クル書類
(イ)工事計畫書
(一)工事計畫説明書(既設工事ノ大要及被害部明細竝復舊工事計畫ヲ説明シタルモノ)
(二)工事執行方法(直營又ハ請負ノ區別ヲ記載シタルモノ)
(三)起工及竣工豫定年月日
(ロ)工事設計書
(ハ)設計圖(施行箇所大勢圖、平面圖、縱横斷面圖、工事方法圖)
(ニ)工事費豫算書
六、築機ノ新設又ハ修繕ノ場合ニ於テハ漁礁、投石、磯掃除ノ種類別ニ左ニ掲クル書類
(イ)工事費豫算書
(ロ)施行數量
漁礁ニ在リテハ沈設スヘキ總船數(船ヲ使用セス枠其ノ他ノモノヲ使用スルトキハ其ノ總數)
投石ニ在リテハ總面積及總投石數
磯掃除ニ在リテハ總面積
(ハ)單價表(漁礁ニ在リテハ船一隻當單價、投石、磯掃除ニ在リテハ一坪當單價)
第六條 補助金交付ノ指令ヲ受ケタルモノ其ノ豫算又ハ計畫若ハ設計ニ重大ナル變更ヲ加ヘントスルトキハ知事ノ許可ヲ受クヘシ
第七條 補助金交付ノ指令ヲ受ケタルモノハ知事ノ指定スル期日迄ニ設備ヲ完成スルコトヲ要ス 但シ己ムヲ得サル事由ニ依リ豫メ知事ノ承認ヲ受ケタルトキハ此ノ限リニアラス
第八條 工事竣工シ又ハ設備完了シタルトキハ經費精算書ヲ添附シ檢査ヲ申請スヘシ特ニ檢査ノ時期ヲ定メタルモノニシテ其ノ部分工事ノ竣成シタルトキ亦同シ
補助金ハ檢査終了シタル後請求書ノ提出ヲ俟テ之ヲ交付ス 但シ部分拂ノ場合ニ於テハ其ノ出來形ノ十分ノ八以内ヲ交付ス
第九條 補助金ヲ受ケタル漁舶、漁具又ハ共同養殖設備ハ補助金ヲ受ケタル日ヨリ三箇年、水産物ノ共同販賣所、共同製造所、共同倉庫、船溜又ハ船揚場ハ五箇年間許可ナクシテ使用ノ目的ヲ變更シ、重大ナル變更ヲ加へ又ハ讓渡スルコトヲ得ス
第十條 知事ニ於テ必要アリト認ムルトキハ補助金ヲ交付シタル日ヨリ前項ニ掲クル期間内何時ニテモ當該官吏又ハ吏員ヲシテ該物件ヲ檢査シ又ハ其ノ状况ニ關スル調書ノ提出ヲ命スルコトアルヘシ
第十一條 本則ニ違背シ若ハ事業成績不良ナリト認ムルモノ又ハ不正ノ行爲ヲ以テ補助金交付ノ指令ヲ受ケ若ハ補助金ノ交付ヲ受ケタルモノニ對シテハ其ノ指令ヲ取消シ又ハ補助金ノ全部若ハ一部ノ返還ヲ命スルコトアルヘシ
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
水産業各種被害中、就中無動力漁船は、大衆漁民の日常生活上最も速に復舊せしむるの必要あるを認め、政府の低利資金融通に先立ち、取敢へず縣費より建造費の半額、約拾萬圓を一時貸付し、之に對し、別途利子補給を爲したり。又船型を統一し、其の建造に當りては、町村又は漁業組合をして施行せしめ、迅速復舊の途を講ずると共に、一面縣に於て共同造船の斡旋を爲し、一日も速に罹災民をして、生業に安んずるを得しむる樣努力せり。
II 事業進捗の經過
船と共に必要缺くべからざる櫓は、材料樫にして、東北地方に生産なく、從つて、其の供給の敏速を缺く憾あるを慮りて、特に縣に於て共同購入を爲し、縣指導船をして配給せしめ、復舊の促進を期したり。
尚、無動力漁船復舊最盛期に於て、船匠に不足を告げたる事あり、この際は他町村より船匠を招聘補充し、大體豫期の通り復舊進捗したり。
かくて、復舊工事は、殆んど縣の計畫通り遂行され、勞力供給の如き、別段支障を來したる事なし。
III 復舊前との比較
水産業の復舊を、震嘯災害以前の状况と比較すれば、その主なる相違點次の如し。
1、地方の漁業状態を斟酌し、船型を統一し、沿岸漁業の改善を期したる事
2、動力付漁船に在りては、特別の事情あるものの外、凡て農林省指定工場製の發動機關を据付けしめ、船舶運用上の不便を除くと共に、消費の節減に資したる事
3、散在せる船揚場を統一改善し、又は擴張して、作業能率を増進し、且船舶の保存性を長からしむるに至れる事
4、比較的多額の資金を要する事業の復舊に在りては、例へば、定置漁業、牡蠣養殖、揚繰網漁業、遠洋漁業及肥料製造、鰹節製造場又は各種倉庫等、從來個人の經營なりしものを、漁業組合若くは、同業者の共同を以て復舊せしめ、以て經營方法の合同化を期したる事
IV 水産復舊
水産業の被害は、三十箇町村に亘り(他町村に於て被害を受けたる罹災者の住所町村を含む)、漁船の被害二千餘隻・漁具の被害三萬六千九百餘件、漁業共同施設の被害九十八箇所、船溜・船揚場及築磯の被害三十四箇所に上り、其の被害總額百參拾九萬七千餘圓に達したり。
之が復舊費豫算は、總額百拾五萬八千七百五拾圓にして、内、金六拾七萬八千七百五拾圓を起債し、金四拾萬八千圓を國庫より補助を受け、五月一日水産業復舊補助規則を制定し、夫々補助指令を爲し、急速復舊の實を擧げん事を期し、又、無動力漁船は、罹災町村大衆漁民の日常生活上、速に之を建造せしむるの必要あるを以て、政府の低利資金融通に先立ち、取り敢へず縣費より建造費の二分の一(總額拾萬圓以内)を一時貸付し(一時貸付に對し、義捐金を以て利子を補給す)、補助金交付と相俟つて、速に起工せしむると共に、一面之が促進を期する爲、縣に於て、造船を斡旋し、更に櫓材の共同購入竝配給を爲したり。
而して之が復舊状况を次に示さん。尚復興に關しては、罹災漁民の大部分は、漁業組合の構成員なるを以て、將來一層漁業組合の指導督勵に全力を傾注し、漁業紐合をして共同販賣共同購買其の他共同施設事業を施行せしめ、漁業組合を中心として、漁村に於ける産業經濟の更生を期せんとし、更に、海嘯の豫防施設として、海嘯襲來の虞ある地域に對し、概略別記計畫の施設施行の見込を以て農林省と共同調査をなし、之が實行に關し審議中なり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
第七節 士木事業
I 復舊工事の調査
本縣下の主なる罹災地所管の石卷・佐沼兩土木工區は、三月四日より直に復舊工事の調査に着手すると共に、仙臺・塩釜の兩土木工區にも調査方を命じ、實施設計を十五日迄提出する樣督勵したるを以て、兩土木工區員は、晝夜兼行、不眠不休の努力を以て、實測に、製圖に從事せり。(別稿第五編雜録第六章震嘯災日記抄 第二節土木工區の條參照)
尚、石卷・佐沼兩土木工區には、他工區の優秀なる技手を三名宛増員し、事務の迅速を期したり。
復舊工事設計方針は、原形を程度とするも、直に破壞せらるる工法の如きものにありては、改良を加ふる事とせり。
然るに、其の後の提議により、縣の方針は復興を加味せる積極的方針を取りたるを以て、概算額は約壹百萬圓となれり。
II 復舊工事の實際
激震に伴へる津浪の波濤は、震源地よりの遠近により差あるも、平均干潮面上、二・五米乃至一二米に達せり。之等は多く灣入へ灣入へと激突し、沿岸濱浦の突堤、海岸堤防を浚ひ盡し、僅に存せるものも形骸を止むるのみにして、用をなさざるに至れり。
加之、灣入の深奥部に向つて突進する津浪の特異性は、北上・追波の如き大河はもとより、無名の小流に至る迄、河口數町に遡上し、兩側に氾濫して、堤防・道路を破壞し、橋梁を流失・破損せり。
縣にては、之等土木關係の被害に對し、應急措置を講ずると共に、四月十五日の臨時縣會に於て、震嘯災害復舊費五拾壹萬圓の豫算額決定を見、別に、町村費所屬の道路・橋梁・河川・堤防等の復舊のため、五萬七千圓を計上せり。而して、其の八割五分は國庫補助及利子補給による低利資金を財源とせり。
之により、道路は土留護岸を石垣或は混凝土に、橋梁は可及的鐵筋混凝土橋に架け換へ、海岸堤防は道路土留護岸同樣石垣混凝土と爲す外、重要の箇所に天端及裏法面に張石を施し、高さを加へて將來の海嘯に對する抵抗力を大ならしめたり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
第八節 商工業
復舊事業の進捗
商工業復舊重要事項たる工場店舖及運送船復舊事業の促進を計る爲、關係町村と協議の上、復舊材料の購入に際しては、出來得る限り、縣産品を利用せしめ、且、商工業者の更生策としては、商工業組合共同作業所等の設立勸奬をなす等、指導監督の任に當れり。
尚、之等商工業者復舊資金の財源として、縣起債をなし、工場竝店舖及運送船の復舊資金として、工場竝店舖設備資金五四、○○○圓、運搬船建造資金一四、○○○圓、工場竝店舖設備運轉資金六〇、○○○圓、合計拾貳萬八千圓を計上し、町村轉貸に依り、組合團體及個人に融通せしめたり。
土地區劃整理を行はざる町村に於ては、罹災直後、復舊に着手し、之が完成を見たるも、宅地移轉を實施せる十五濱村・十三濱村等は、其の事業の完成後、本建築をなさんとし、他町村に比し、著しく遲れたり。
而して、大部分は、從來の弊を脱し、店舖及工場は改良を加へ、面目を一新せり。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
第九節 宅地造成及住宅復舊
I 宅地造成及住宅復舊の計畫
海嘯に依り流失倒潰せる家屋の復舊に付ては、再び斯る悲慘事を繰返さざらんため、安全なる高地に移轉せしむる事に決し、宅地造成に關しては、四月十一日、罹災地町村長に對し
一、宅地造成の高さは今回及明治二十九年の海嘯以上となすこと
一、在來道路より新に選定せる宅地に達する道路に對しては之を町村道に認定せらるるものに付ては地方振興事業として改修をなすこと
一、部落より高地の避難場所(學校・神社・寺院・其の他の廣場)に通ずる避難道路の新設に付きても前項同樣取扱ふこと
等を指示し、之が目的達成のため、政府より一九五、○○○圓(全額利子補給)の資金の融通を受け、且、事業費の約三割の六〇、○○○圓を義捐金より補助することとせり。
又、海嘯罹災地に臨時海嘯地家屋復興計畫委員會を設け、宅地造成住宅建設計畫の審議機關たらしめたり。更に、六月三十日、海嘯罹災地建築取締規則を設定して、危險區域を指定し、住宅の建設を禁止し、又、住宅復舊資金として、金貳拾七萬六千五百圓の低利資金の融通を受け、町村を經て、各罹災者に轉貸したり。
II 宅地造成の進捗
かくて、罹災地十四箇町村、二十六部落に亘る大規模なる土木工事たる宅地造成の事は決議せられ、造成總戸數八〇三戸は一齊に鑿・槌の音も勇ましく着手せられたり。
其の間、山腹を切り崩し、畑地を均し、新道路を開鑿する等、苦心慘憺たる勞作ありしは勿論、場合によりては、先祖代々住み馴れたる海邊の地を離れて、深く山間丘陵の地に移住、新住宅造成の必要に迫られしものもあり。かかる場合、出來得べくんば、海岸に防波堤を築き、或は土盛などしても、舊位置を離れざらんとするは人情なり。又、罹災地住民の多くは半農・半漁に從事するもの最も多き關係上、生業の一たる漁業に從事するに、海邊に居住するの至便なるは謂ふを俟たず。
かかる事情よりして、舊位置居宅再建に關する諸種の陳情は引續き行はれたりしかども、縣當局は、從來の三陸沿岸の數度に亘る慘禍に鑑みて、作業場・倉庫・工場等の類の、海邊再建乃至新築は許可したれども、住宅のかかる危險地帶に建設せしむる事は、斷然之を禁ずるの態度を執り、四月十四日宮城縣訓令甲第十三號により、之を公示したり。
次に、同事業遂行に際して困難を感ぜしは、住宅造成は勢、數戸集團的に設くる關係より、相當廣汎なる土地を一括的に求むる必要あり。
これが買收につき、關係町村は並々ならぬ苦心を拂へるが如く、多くの町村が災害より一箇年間に造成を完了したるに、十五濱村・唐桑村等が、當時、尚、二百數十戸及八十數戸の未完成戸數を算したるは、全くこの方面の順調なる交渉を得ざりしが爲ならん。
尚、各町村別、造成戸數は次の如し。
III 住宅復舊の進捗
罹災住宅の復舊に就ては、將來かかる災害を再び蒙らざる樣、之が敷地の選定に特に注意し、昭和八年六月、臨時縣會を經て、海嘯罹災建築取締規則を公布し、海嘯罹災地域竝海嘯罹災の虞ある地域内の建築を取締らしめたるを手始めに、罹災地町村に臨時海嘯地家屋復興計畫委員會を設け、適當なる宅地の選定、其の他家屋の建築計畫に當らしめたり。而して、宅地造成は町村事業として施行せしめ、事業費に對しては、縣(義捐金の一部)より補助金を交付し、他は低利資金を借入らしめん事となせり、住宅に就ても、縣に於て、貳拾七萬六千五百圓の低利資金の融通を受け、轉貸(當時轉貸額二〇九、二一〇圓)し、復舊の迅速を期したり。尚、昭和九年八月一日現在迄の復舊の状况を示せば次の如し。
内、桃生郡十五濱村及本吉郡唐桑村に於ける復舊比較的遲延せるは、被害戸數多き爲、適當なる敷地の選定に相當の日數を要したる關係に據るものなり。
第七章 防潮林計畫
第一節 罹災地調査の状况
海嘯襲來直後、即ち、三月五日に於て、農林省山林局より池部・西澤の兩農林技師一行五名來縣し、牡鹿・桃生・本吉三郡海嘯災害地の林業に對する被害状况竝防潮林の効果に付調査せり。又、縣林務課に於ても、三月中旬より被害最も激甚なりし本吉郡地方に、三組より成る調査班を派遣し、海嘯防備林造成に關する調査を施行するところありたり。
蓋し、三陸沿岸地方に屡々突發する海嘯は、史の示すところ(第一編總説第一章概説第四節三陸を中心とする東北地方震災の沿革IV附東北震嘯災害史年表參照)に依れば、凡そ、二十數回を算し、而も一種周期的に來襲するものにして、今後も亦、此の經過を辿るならんと推定せらる。即ち之が豫防對策は、本縣沿岸住民の生活安定上最も必須の事に屬するものにして、就中彼の防潮林は、其の林木實に彈力性に富み、幹枝圓形なるを以て、甚だ有利なる條件の下に海嘯の來襲に對抗し、或は其の水平速度を減殺し、或は、其の幅員にして充分大ならんか、後方部は單に浸水の形となりて、被害は言ふにも足らざる程度に止まり、又は、林中にて全波力を失して後方に浸入せず退去するに至らんのみ。加之、之が造成經費の如きは、他の施設に比較せば著しく低廉なるのみならず、又、平常に於ては、絶えず防潮林の作用をなして、農作物及家屋を保護し、或は、風致林ともなり、或は、魚族を招致して、魚付林の用も辨じ、或は又、木材薪炭其の他の林産物に依り地方住民の生活に裨益する等、其の効果、利用甚大なるものあり。
此に於てか、政府は、昭和八年度に於て、津浪災害豫防調査費として、二〇、○○○圓を計上、内一〇、○○○圓餘を以て防潮林造成調査を施行する事に決し、先づ、農林省山林局は、本縣の防潮林調査を左記三名に命じたり。
山林局 農林技手 野村進行
宮城縣地方農林技師 石田茂穗
同 農林技手 石川■記
かくて、防潮林造成に關する調査要綱協議の爲、昭和八年六月十日、調査關係者の協議會を農林省に於て開催し、調査要綱を決定、次いで十二日、調査關係者一同は東京を發し、宮城縣廳に於て打合せを遂げたり。調査關係者の氏名左の如し。
林學博士 本多靜六
理學博士 今村明恒
山林局 林務課長 田中八百八
同 農林技師 橋口職
同 農林技手 井平正宗
同 囑託武 藤博忠
青森營林局造林課長 窪田圓平
宮城縣林務課長 高木種二郎
宮城調査班 三名 岩手調査班 六名
青森調査班 三名
打合せの結果、本多・今村兩博士の指導に依り、調査方法を統一する爲、先づ以て標凖地調査を施行する事とせり。
六月十四日 宮城縣牡鹿郡大原村谷川部落・鮫ノ浦部落
六月十五日 宮城縣桃生郡十五濱村雄勝部落
以上、二箇村に於て、三箇所の標凖地に付、調査を施行したる上、本吉郡に入りて、
六月十六日 宮城縣本吉郡志津川町・小泉村及大谷村海岸の實况を具に視察し、更に進み、岩手縣氣仙郡氣仙町及高田町高田松原を視察の上、
六月十七日 岩手縣氣仙郡廣田村泊部落・集蔀落に於て、標凖地調査を施行し、宮城調査班は、宮城縣本吉郡の縣界より愈々調査に着手の豫定を以て、一行と分袖したり。
かくて、諸般の凖備を了し、本吉郡唐桑村より調査を開始し、漸次南下しつつ、太平洋沿岸一帶の調査を完了したるは豫定の如く、七月十五日にして、實に、前後三十七・八日の日子を要せしなり。其の後、設計書を調製し、以て、農林省に提出したるは七月末日なりき。
第二節 防潮林計畫
農林省山林局に於ては、宮城・岩手・青森の三縣の調査復命書を取纏め、八年十二月上旬、山林局に於て、二日間に亘り關係者の協議會を開催し、三縣下に於て實施すべき防潮林計畫の内定を見たり。
右調査に基く、本縣分の防潮林設備計畫内容は大略次の如し。
尚、參考の爲、青森・岩手兩縣の分と本縣の分とを總括し次に掲記せん。
第三節 實施状况
此の如き、調査に基き、農林省山林局は、大藏省に對し、豫算を要求したるも、當局は、省愼重に研究の要ありとし、昭和九年度の豫算には未だ計上せられざる次第のものなるも、農林省山林局は、是非、昭和十年度より實現したき意向なり。
第五編 雜録
第一章 追弔
第一節 震嘯直後の追弔會
I 罹災町村・縣佛教會主催追弔會
四月十四日の罹災地小學校長會議に於て、同月十九、二十日の兩日、罹災各部落に於て、宮城縣佛教會竝罹災町村共同主催の下に、遭難者の慰靈法要を開催し、縣より弔詞、供物を寄贈すべく協議せり。
かくて、兩日、罹災七町村十五部落に、地元町村寄贈の塔婆を建設し、本縣佛教會理事並關係地住職及隣接町村の住職參集の上、供養をなせるが、なほ縣よりは、別記の如く、夫々係官の臨席する處ありき。
又、二十一日は、更に、女川町江ノ島に於ても、同樣供養する處ありき。
備考 法式差定概ネ左ノ如シ
一、隨喜寺院入場 二、燒香師入揚 三、鼓鉢三通 四、焼香師表白文 五、知事祭文 六、關係町村祭文 七、普門品偈讀誦 八、遺族及參列者燒香 九、鼓鉢三通 一〇、退散
本追弔會に於ける本縣知事の祭文次の如し。
祭文
本日■ニ宮城縣佛教會竝町村主催ノ下ニ震嘯災遭難者慰靈法要ノ式典ヲ擧行セラルルニ當リ謹ミテ一同ノ靈ニ告ク 惟フニ生者必ス滅シ會者常ニ離ル素ヨリ世ノ常ナリト雖モ天災地變ニ因リ人命ラ失フ程悲慘ナルハナシ 去ル三月三日未明當地方ニ激震アリ須臾ニシテ大海嘯ノ襲フ所トナリ 忽ニシテ家テ倒シ船ラ流シ肉親相呼ヒ知友相尋ヌルノ寸暇ナク幾多ノ生靈激浪中ニ逝ク昨日ノ團欒ノ樂ハ今日ハ孤獨ノ悲トナリ平和ノ樂土化シテ不安荒凉ノ地ト變ス 鳴呼悲シイ哉然リト雖モ此ノ悲報一度天聽ニ達スルヤ至仁至慈ナル
天皇
皇后兩陛下ニハ深ク御軫念被遊救恤ノ資トシテ御内帑ヲ御下賜アラセラル聖恩ノ鴻大恐懼感激ニ堪ヘス
全國民亦深甚ナル同情ノ下ニ義捐金品ヲ寄贈シ遺家族ノ救援ニ努ム 國・縣爲ニ費ヲ投シテ復舊ヲ急キ遺族亦協力一致復興計畫ヲ樹立シ家運ノ挽回、理想郷土ノ建設ノ一日モ速カナランコトヲ期シ以テ諸氏ノ靈ニ酬イントス 諸氏ノ靈宜シク地下ニ瞑スヘキナリ
今諸氏遭難ノ地ニ於テ一同相會シ壇ヲ設ケ供物ヲ捧ケテ香華ヲ供ヘ恭シク弔慰ス 諸氏ノ靈冀クハ髣髴トシテ來リ饗ケヨ
昭和八年四月十九日 宮城縣知事
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
II 築地本願寺の追弔會
東京築地本願寺にては、今回の震嘯により横死せる災害の犠牲者の爲、三月九日午後二時より、同本願寺に於て、追弔法要を營めり。
而して、同日午前、右に關し、同寺より知事宛次の如き入電ありき。
「錦地災害横死者ノ爲、九日午後二時法要ヲ營ム。遙拜ヲ乞ウ。」
第二節 震嘯災一周年追弔會
I 縣竝關係町村主催
昭和九年三月の震嘯災一周年記念に當り、縣に於ては、別稿(同編第二章記念事業第三節震嘯災一周年記念事業の條參照)の如く、各種記念事業を計畫したるが、追弔會は罹災關係町村との共同主催なるを以て、關係者と愼重に協議の上、次の如く、施行具體案を決定したり。
追悼會
震嘯災ノ當時ヲ追憶シ只管敬虔ノ念ヲ以テ不幸犠牲トナリタル人々ノ冥福ヲ祈ルト共ニ將來更ニ遺族ヲシテ轉禍爲福ニ精進セシムルコトヲ目的トシテ擧行ス
1、主催 縣並死亡者行方不明者ヲ出シタル町村
2、日時 三月三日午後一時ヨリ
3、開催揚所及參加町村 別記ノ通リ(六頁參照)
4、佛式ニテ擧行
僧侶ハ最寄開催地ニ居住スル向ニ依頼方開催地町長ニ委任ノコト
5、參會者
イ、招待者
A、遺族
B、災害當時救護慰問復興ニ盡力尠カラサリシ者又ハ功勞者
C、救護事務ニ關係深カリシ團體ノ代表者及個人
1、縣卜直接關係アル團體(愛國婦人會)ヘハ縣ヨリ招待状ヲ發送ス
2、其ノ他ハ共同主催ノ町村宛豫メ招待状各二十枚ヲ送附シ適當ノ向ヘ發送セシム
ロ、一般人
6、供物 追悼會終了後遺族並招待者へ贈呈ス
他ニ愛國婦人會ヨリ遺族ヘ菓子及記念品ヲ贈呈ス
7、法話 宮城縣佛教會々員一名
8、經費 縣ニ於テ一切支辨ノコト
當日は、朝來雲低く垂れこめ、寒さ酷しく、激浪猛然として岸邊を噛み碎き、遙か海上より吹き寄する風は悲しげに餘韻を傳へて、恰も一周年前、災害當日の状况を偲ぶに似たり。
志津川、女川、氣仙沼の三會場には、前夜、縣及關係町村のしつらへたる祭壇嚴かに設けられ、香煙縷鏤として立ちゆらぎ、燈火明滅する中に、遺族、招待者、肅然として入揚すれば、やがて、開會の午後一時近く、知事代理以下の着席するありて、此處に開會は宣せられ、鼓鉢三通は、參列者をして、等しく、正面なる遭難者靈位に眼を注がしめたり。
先づ、燒香師の表白文は、參列者の胸を鋭くゑぐりて、知事弔辭(代讀)、關係町村長の弔辭は、一周年前の當時を迫懷せしめて餘あり、遂に感極りては、鳴咽の聲を發する者きへありたり。
次いで、縣佛教會々員の法話、普門品偈讀誦、遺族及參列者の燒香等豫定の如く進行し、最後に鼓鉢三通を以て、無事追悼會(この間約一時間)を了へたり。
尚、志津川、女川、氣仙沼三會揚に、知事代理として臨席せるは、二見内務部長、清水谷學務部長、小川知事官房主事なりき。
表白文 文隆布納
維時昭和九年三月三日宮城縣竝ニ四箇町村主催ニヨリ■ニ無遮法會ヲ設ケ震嘯災害溺死諸精靈等ノ爲ニ一周年ヲ追悼シ以テ各精靈ニ回向シ報土ヲ荘嚴セントス回顧スレハ昭和八年三月三日午前三時大震直後海嘯襲ヒ來リ桑田忽海トナリ家屋ヲ倒潰シ人畜ヲ奪ヒ陶鼻叫喚實ニ慘鼻ヲ極ム以今想之寥毛卓立實ニ悲痛哀泣ニ堪ヘサル所ナリ然レトモ聖恩鴻大社會同胞ノ救護ニヨリ今ヤ復興完成ニ近ク生民又更生ノ途ヲ得タリ雖然諸精靈等今ヤ再ヒ見ルヲ得ス誰カ之ヲ愍マサラン只冀クハ佛陀ノ慈航ニ乘シ長ニ彼岸妙樂ノ浄土ニ遊ヒ以テ菩提ヲ成セシ事ヲ■ニ一辨香ヲ燒ク一白何ヲ以テ一線路ヲ通セン
三界不安誰是免靈山佛會爲君開即今消息何以驗盡界幽香雪裡梅
知事弔詞
維時昭和九年三月三日管下本吉、桃生及牡鹿ノ各郡沿海町村ニ於テ震嘯災害ノ爲不慮ノ災厄ヲ蒙リ不幸ニシテ幽明境ヲ異ニセル諸子ノ一周忌ニ當リ宮城縣及關係町村ハ恭ク壇ヲ設ケ香花ヲ奠シ特ニ諸子ノ遺族ヲ請シテ諸子ノ靈ヲ弔慰セントス
回顧スレハ客年三月三日ノ未明三陸沖ニ起レル強震ハ須臾ニシテ津浪ヲ伴ヒ怒濤ハ沿岸ニ激突シテ堤防ヲ破リ川ヲ溯リ丘ヲ越エテ諸子ノ身邊ニ迫リ此ノ間髪ヲ容レス避クルニ遑ナク施スニ術ナク遂ニ幾百ノ生命ヲ葬リ巨萬ノ財寳ヲ呑ミ數百町歩ニ亘ル耕土ハ一朝ニシテ砂濱ト化シ無數ノ家屋算ヲ亂シテ流失倒潰シ避難ノ民住ムニ家ナク着ルニ衣ナシ人生ノ悲慘事何ソ之ニ過クルモノアランヤ悲報一度天聽ニ達スルヤ直ニ侍從ヲ御差遣アラセラレ畏クモ優渥ナル御沙汰ヲ賜ヒ御内帑
金ヲ下賜シテ諸子ノ靈ヲ慰メ併セテ救恤ヲ行ハセ給フ
聖恩鴻大洵ニ恐懼感激措ク能ハサル所ナリ又各宮家ヨリモ御救恤金ヲ下シ賜ハリ感激ニ堪ヘサル所ナリ
尚罹災地ノ慰問救護ニ關シテハ内外ノ同情翕然トシテ集マリ官民協力一致シテ事ニ當リ諸子ノ遺族竝罹災民ヲ賑ハセリ殊ニ政府當局ノ同情ト江湖各位ノ熱誠ナル後援トハ各方面ニ於ケル復舊事業ヲ著シク進捗セシメ罹災地住民又漸ク生業ニ安ンセントシテ往時ノ慘状ヲ偲フヘキモノナカラントス然モ諸子カ與ヘタル教訓ヲ長ク後昆ニ傳ヘ以テ將來ノ災禍ヲ未然ニ防カンハ予等ノ最モ期スル處ナリ
鳴呼災厄襲來シテヨリ■ニ一周年常時ヲ追懷スレハ感慨切々トシテ胸ニ迫リ哀愁ノ更ニ新ナルヲ覺エ長恨之ヲ久ウシテ轉タ禁スル能ハス謹ミテ諸子ノ冥福ヲ祈リ復興ノ爲更ニ精進スル所アラントス冀クハ英魂髣髴トシテ其レ來リ饗ケヨ
昭和九年三月三日 宮城縣知事 赤木朝治
II 東京の追悼會
東京にても、震嘯災一周年記念日を迎へて、追悼會執行の企圖あり。
宮城、岩手、青森三縣選出の貴衆兩院議員一同竝に有志の發企によりて、總裁に伊達興宗伯、副總裁に南部利英伯、南部利克子を推し、東京市後援の下に、昭和九年三月三日午後一時より、本所被服廠跡震災記念堂に於て盛大に擧行せられたり。
この日朝來の雪にもめげず、參會者は陸續として會場に詰めかけ、定刻前既に無慮數千を數へたり。
先づ仙臺市日蓮宗より特派せられたる導師川上上人の昇殿によりて、嚴かに式は始められ、數十名の僧侶等の和する讀経は、當時震嘯により横死せし人々の冥福を祈り、司會者舊仙臺藩士、貴族院議員菅原通敬氏の燒香に始まり、追悼會總裁伊達伯、副總裁南部伯、南部子、齋藤首相、山本内相、高橋藏相以下、各縣代表、各新聞社代表各々追悼文を朗讀し、午後二時半盛况裡に終了せり。
當日は、悪天候にも不拘、前記知名の大官、名士諸氏外、藤田貴族院議員、内ケ崎、田子、高橋各代議士出席し、非常なる盛會なりき。
尚、本縣知事も、主催者より懇切なる臨席招待を受けたるが、縣に於ても各種の記念事業を施行して用務多端の爲、次の如き弔電を發して、之に代へたり。
「三陸震嘯災一周年記念追悼會ヲ擧行サルルニ當リ、謹ミテ遭難者ノ精靈ヲ弔慰ス。」
第二章 記念事業
第一節 記念館の設立
I 設置計畫
三陸沿岸に古來震嘯の災禍多きは、これ歴史の明示する處にして、近きは、明治二十九年六月にも、これが爲、沿岸住民は多大の犠牲を拂ひたり。
縣に於ては、深く之に鑑みる處あり、今回の災害を契機として、各部落毎に災害記念館を建設せんと欲したるも、諸種の事情により、之が實現し難きものあり。仍て、配給方を縣に委任せられたる義捐金中、拾萬圓を以て、公共施設費とし、被害程度及び戸數等を斟酌の上、縣に於て指定したる部落三十二箇所をトし、之を設置する事となせり。(第四編復舊・復興第五章精神作興の運動第六節復興記念館の條參照)
即ち、その設置目的は、震嘯災の如き非常時に於ては、部落民の避難揚所とし、常時に於ては、共同作業揚及隣保扶助事業に使用するものなり。
而して、共同作業としては、節削、鹽干、乾魚製造、漁具漁網修繕、藁工品、竹細工、家庭木工等に從事し、隣保扶助事業としては、託兒、講習會、講演會、圖書館、職業教育、夜學、母ノ會、子供クラブ、活動寫眞、人事相談、その他各種集會に利用せしむるにあり。
その設置場所は、部落民の集合に便利にして、且つ高臺の地を選定し、経營主體は、之を該記念館の關係町村、又は、同上町村の社會事業協會に屬せしむる事となしたり。
公共施設費分配要項
(一)公共施設費拾萬圓ハ被害部落ニ別記施設ヲナサシムル爲被害程度及戸數等ヲ斟酌シ別記ノ通各町村ニ分配スルモノトス
(二)町村長ハ速ニ實施計畫ヲ樹テ設計書其他ノ必要書類ヲ添附シ報告スルコト 但シ別記以外ノ部落ニ設置セントスルトキ又ハ設置ヲ増減セントスルトキハ其ノ事由ヲ具シ知事ノ承認ヲ受クルコト
(三)町村長ハ本施設以外ニ於テ罹災者ノ保護並福利増進ニ必要ナル施設ニ分配金ヲ使用セントスルトキハ其ノ事業計畫ヲ具シ豫メ知事ノ承認ヲ受クルコト
(四)各町村ニ分配スヘキ金額ハ第二項ノ場合ニ於テハ報告ヲ受ケタル際第三項ノ場合ニ於テハ承認ノ際之ヲ交付ス
(五)施設完了シタルトキハ直ニ精算書ヲ添ヘ知事ニ報告スルコト
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.4MB
II 設計圖の提出
然るに、罹災各町村は災害後、産業並住宅等の復舊、復興の必要に迫られ居り、且又適當なる敷地の選定に豫想外の日子を閲する等、記念館の建設は自然遲れ勝ちの傾向を來し、震嘯災一周年を迎ふるも、縣に設計圖を提出せるもの唯僅かに、一、二に過ぎざりき。仍て、縣に於ては、係官を關係地に派して、建設部落の數地を檢討し、利害によりて敷地決定の請願をなすものを調停し、不適當なるものは之を變更せしむる等、百方奔走の結果、昭和九年春より夏にかけ、漸く建設豫定部落全部に亘り、設計圖を提出せしむる事を得たり。
III 諸規則の公布
かく、設計圖の出揃ふと共に、一方本建築着手に從事するもの出でたるを以て、此處に記念館の細則を決定し、一層精確に、この記念建築物本來の主旨をあやまらしめざる樣、一般の理解を深むるが肝要なりとし、七月これに關する條例準則竝に條例施行細則準則を次の如く決定公布したり。
記念館條例準則
第一條 記念館ハ非常災害ノ場合ニ於テハ避難場所トシ常時ニ於テハ協同ノ精神ニ基キ環境ノ改善近隣居住者ノ生活向上竝善隣關係ノ確立ヲ圖リ以テ昭和八年三月三日ノ三陸大震嘯災當時各方面ヨリ寄セラレタル芳志ニ應スルヲ以テ目的トス
第二條 本館ニ左ノ職員ヲ置ク
館長
書記
前項ノ外必要ナル附屬員ヲ置クコトヲ得
第三條 館長ハ町(村)長ノ命ヲ承ケ館務ヲ掌理シ所屬員ヲ指揮監督ス
第四條 書記ハ館長ノ命ヲ承ケ館務ニ從事ス
第五條 記念館ノ講堂又ハ集會室ヲ使用セントスル者ハ館長ノ承認ヲ受クヘシ
第六條 左ノ各號ノ一ニ該當スル場合ハ使用ヲ承認セス
一、公安又ハ風俗ヲ害スル虞アリト認メタルトキ
二、建物又ハ附屬物ヲ毀損スル虞アリト認メタルトキ
三、管理上支障アリト認メタルトキ
四 營利ニ關スルモノト認メタルトキ
五、其ノ他館長ニ於テ必要アリト認メタルトキ
第七條 前條各號ニ該常スル場合ニハ其ノ使用ヲ停止シ又ハ使川ノ承認ヲ取消スコトアルヘシ
第八條 使用者ハ別表料金ノ範圍内ニ於テ館長ノ定メタル使川料ヲ前納スヘシ
公用ニ供シ又ハ公益ヲ目的トスルモノニシテ館長ニ於テ特別ノ事由アリト認メタルトキハ之ヲ減額又ハ免除スルコトヲ得
第九條 既納使用料ハ之ヲ還付セス 但シ左ノ場合ニ於テハ其ノ全部又ハ一部ヲ還付スルコトアルヘシ
一、第七條ノ規定ニ依リ使用ヲ停止シ又ハ使用ノ承認ヲ取消シタルトキ
二、不可抗力ニ依リ使用不能ノトキ
三、使用三日前迄ニ使用承認ノ取消又ハ變更ヲ申出テ館長ニ於テ相當ノ理由アリト認メタルトキ
第十條 館長ハ使用者ニ對シ必要ナル設備ヲ爲サシムルコトアルベシ
使用者ハ館長ノ承認ヲ經テ工作物ヲ損傷セサル範圍ニ於テ特別ノ設備ヲ爲スコトヲ得
前二項ノ場合ニ於テ使用者ハ之カ返還ノ際之ヲ原形ニ復スヘシ若シ之ヲ怠ルトキハ館長ニ於テ施行シ其ノ費用ヲ使用者ヨリ徴收ス
第十一條 使用中建物又ハ附屬物ヲ毀損若シクハ滅失シタルトキハ何人ノ行爲タルトヲ問ハス使用者ハ館長ノ定ムル損害額ヲ賠償スヘシ
第十二條 本條例施行ニ關シ必要ナル事項ハ町(村)長之ヲ定ム
附則
本條令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
別表
使用料
講堂
晝間 圓
夜間 圓
晝夜間 圓
集會堂
晝間 圓
夜間 圓
晝夜間 圓
記念館條例施行細則準則
第一條 本館施設事業ノ概要左ノ如シ
一、震嘯災記念月ノ記念事業ニ關スルコト
二、震嘯災記念物並參考品ノ展覽ニ關スルコト
三、講演會講習會及青年教育等ノ施設ニ關スルコト
四、新聞雜誌及圖書ノ閲覽ニ關スルコト
五、活動寫眞會音樂會及演藝會ノ開催ニ關スルコト
六、體育武術旅行遠足等ノ主催又ハ奬勵ニ關スルコト
七、生活改善ニ關スルコト
八、公益質屋ニ關スルコト
九、授産並職業補導ニ關スルコト
十、託兒事業ニ關スルコト
十一、醫療又ハ法律身ノ上等ノ相談及諸種ノ紹介ニ關スルコト
十二、倶樂部ノ組織及其ノ指導ニ關スルコト
十三、浴場、理髪室等附設ニ關スルコト
館長ニ於テ必要ト認ムルトキハ隨時前項以外ノ施行ヲナスコトアルヘシ
第二條 本館施設ノ利用ハ別ニ定ムルモノノ外總テ無料トス 但シ特ニ費用ヲ要スルモノハ利川者ニ於テ之ヲ負擔スヘシ
第三條 講堂又ハ集會室ヲ專用セントスルモノハ左ノ書式ニ依リ申込ヲ爲スヘシ
(用紙半紙)
記念館使用申込書
一、使用ノ室名
一、使用ノ目的及方法
一、使用ノ日時
右使用致度候條御承認相成度候也
年月日
申込人住所
職業
氏名 印
年月日生
館長殿
備考(使用者團體ナルトキハ其ノ團體名ヲ記シ代表者ヨリ申込ムコト)
第四條 使用料ヲ定ムルコト左ノ如シ
講堂
晝間 圓
夜間 圓
晝夜間 圓
集會室
晝間 圓
夜間 圓
晝夜間 圓
第五條 開館時間ハ幼兒ニ對スル特別施設ヲ除キ午前九時ヨリ午後十時迄トス 但シ時宜ニ依リ之ヲ伸縮スルコトアルヘシ
第六條 休日ヲ定ムルコト左ノ如シ 但シ事業上必要アル場合ハ此ノ限リニ在ラス
一、祝祭日
二、震嘯災記念日(三月三日)
三、開館記念日
四、毎月二十日
前項休日中四大節ニハ奉祝行事ヲ震嘯災記念日及開館記念日ニハ記念行事ヲ行フ
第七條 館長ハ必要アリト認ムルトキハ入館ヲ拒否スルコトヲ得
第八條 左ニ掲クル者ハ入館ヲ許サス
一、精神病者、酩酊者又ハ他人ノ嫌忌スヘキ風體ヲ爲ス者
二、傳染性又ハ他人ノ嫌忌スヘキ疾患アル者
三、不具者ニシテ附添人ヲ要スト認ムル者
四、危險物又ハ他人ノ迷惑トナルヘキ物件若シクハ動物ヲ携帶スル者
第九條 館内ニ於テハ左ノ行爲ヲ禁ス
一、所定ノ場所以外ニ於テ飲食又ハ喫煙ヲ爲スコト
二、放歌吟誦其ノ他喧騒ニ渉リ又ハ他入ノ迷惑トナルヘキ擧動ヲ爲スコト
三、濫ニ設備ニ手ヲ觸レ又ハ毀損汚損シ若シクハ館内ヲ不潔ナラシムルコト
第十條 入館者左ノ各號ノ一ニ該當スルトキハ館長ハ退館ヲ命スルコトヲ得
一、公安風俗ヲ紊シ又ハ紊スノ虞アリト認メタルトキ
二、第八條各號ノ一ニ該當セルヲ發見シ又ハ第九條ノ規定ニ違背スルトキ
三、館員ノ指示其ノ他ノ注意ニ從ハサルトキ
第十一條 入館者建物又ハ其ノ他ノ物件ヲ毀損若シクハ滅失シタルトキハ其ノ損害ヲ賠償セシム
第十二條 本則施行ニ必要ナル事項ハ町(村)長ノ認可ヲ經テ館長之ヲ定ムルコトヲ得
附則
本則ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
第二節 記念碑の建設
I 建設計畫
東京朝日・大阪朝日兩新聞社にては、震嘯災直後一般より義金の募集をなしたる處、應募せる金額二拾餘萬圓の巨額に達したり。(第三編應急措置及救護第五章各方面の救護第十一節新聞社の救護III東京朝日、大阪朝日新聞社の條參照)
これを罹災各町村に分配したる殘額一三、一一五圓を罹災部落に記念碑建設資金として充當する事とし、之が實施方を縣に依頼したり。
仍て、縣に於ては、記念碑建設に適當なりと思考せらるる別記罹災部落六十三箇所を指定し、記念碑一基の建設費平均二〇八圓一七錢を一括して當該町村長へ交付したり。
各町村長は、縣より指示せられたる建設標準によりて、震嘯災害を記念するに最も適當なりと認むる場所を選定し、速かに建設し、其の状况の詳細並精算書を知事宛提出することとせり。
尚、知事より關係町村長宛指示せる建設標準並に建設豫定地次の如し。
建設標凖
一、記念碑ハ別記罹災部落ニ建設スルモノトス
但シ他ノ部落ニ建設スルヲ適當トスルトキハ豫メ知事ノ承認ヲ經ルコト
二、記念碑ノ大サハ高サ五尺、幅二尺五寸以上タルコト(臺石ヲ含マス)
三、記念碑ニハ寄託者ヨリ左記ノ依頼アルニ付之ヲ表示スルコト
三、記念碑ニハ可成被害状况及津浪ノ來襲セル地域等後世ノ參考トナルヘキ記録ヲ表示スルコト
記
御面倒をお願ひします。記念碑には朝日新開讀者寄託の意味を明かにしたいと存じます。例へば左の文案のやうなものはどうかと思ひまして御參考までに記しました。何卒よろしくお願ひ申上げます。標語は其の土地々々に適當なものをお選び願ひます。
(標語參考案)
地震があつたら津浪の用心
記念碑表面
昭和八年三月三日
大震嘯災記念
標語
同裏面
此の記念碑は朝日新聞社へ寄託の義金二十餘萬圓を罹災町村へ分配した殘額をもつて建てたものです
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
II 建設の實際
記念碑の建設豫定地は、以上の六十三部落なりしが、罹災町村は專ら日常生活上の復舊復興に忙殺され、自然、この種の建設は遲延する傾向あり。
されど、中には大原村の如く、震嘯災害一周年迄に、盡く完成せるものあり。
縣に於ても、災害一周年後、寄託者の意志を尊重して、一日も早く建設豫定全部落に亘り完成せしむべく督促、指導せる結果、昭和九年春に至りては、女川町・荻濱村等の各部落の建碑完成し、夏に入り、唐桑村部落の建碑除幕を見たるが、昭和九年度中には、全部竣功の見込なり。
之等記念碑には、寄贈者東京朝日新聞社が豫て、關係災害地に廣く募集せる標語-「地震があつたら津浪の用心」、「津浪が來たらこれより高い所へ」、「危險區域内に住居するな」等-を記銘し、以つて部落民に不斷の警告を發する事とせり。
第三節 震嘯災一周年記念事業
I 記念事業實施の決定
震嘯災一周年に先だち、慘禍の當時を偲び犠牲者の冥福を祈るに最も適切なる方法により、思出多き記念日を迎へんとし、二月十九日、縣廳學務部長室に關係課長及仙臺佛教會役員參集の上、相互に意見を交換し、次の如き記念事業實施の決定を見たり。
震嘯災一周年記念日開催要項
(一)ラヂオ放送
1、各方面ノ同情ニ對シテ謝意ヲ述ベルト同時ニ復興ノ現况ヲ報告シ併セテ縣民ノ覺醒奮起ヲ促ス
2、日時 二月二十八日夜間
3、放送者 知事
(二)追悼會(第一章追弔第二節震嘯災一周年追弔會の條參照)
(三)復興講演會竝座談會
今般義捐金ヲ以テ罹災地三十二ケ年ニ記念館ヲ建設シ隣保事業ノ本據ニ充テ部落民ノ精神的向上ト協力化トニ資シ其ノ復興ヲ促進スルコトトナリタルヲ以テ當該町村當局及關係者ニ本事業ノ理解ヲ深カラシムル目的ヲ以テ開催ス
1、主催 縣並記念館設置町村
2、講師 社會局ヨリ派遺ノ見込、縣ヨリ一名
3、經費 茶菓代其ノ他諸經費縣ヨリ支出ノコト
4、來會者 町村當局其ノ他各種團体幹部及有志家
5、其ノ他別紙參照
(四)避難演習
客年三月三日ノ災害ヲ回顧シ將來ノ危難ニ備フル目的ヲ以テ同月同日同時刻ニ警鐘ヲ打チ鳴ラシ且拂曉ヲ期シテ豫テ凖備セル最寄ノ避難場所ニ避難セシメ引續キ記念講演會ニ移ルモノトス
(五)功勞者ノ表彰竝感謝状贈呈
罹災救助ニ直接間接功勞アリタル個人竝團體ニ對シ追悼會終了後同所ニ於テ表彰状又ハ感謝状ヲ贈呈ス
打合事項
一、追悼會擧行ニ付テ
1、會場ノ準備ハ開催地町長ニ於テ配慮サレタシ(前日縣ヨリ準備員出張ス)
參考
塔婆(五寸角丈三物位)ヲ中央ニ青竹ヲ回ラシ施餓鬼旗ヲ張リ中ニ佛壇(三段トシ長サ一間位)ヲ設ケ最上壇ニ位牌ヲ安置スルコト
塔婆ニ記スヘキ文字次ノ如シ
表面 南無釋迦牟尼佛爲 遭難者精靈
裏面 時干昭和九年三月三日施主 宮城縣 村 建之
兩側適宜記入ノコト
2、供物ハ縣ヨリ供スベキモ尚適宜用意ノコト
3、會場ニ要スル費用ハ縣ニ於テ支出ノコト
4、追悼會順序
1、隨喜寺院入場
2、燒香師入場
3、鼓鉢三通
4、燒香師表白文
5、知事弔辭
6、關係町村弔辭
7、法話
8、普門品偈讀誦
9、遺族及參列者燒香
10、鼓鉢三通
11、退散
5、遺族並一般參列者 招待者ヘノ適知ハ各町村ニ於テ配意ノコト
二、表彰式擧行ニ付テ(感謝状贈呈式ヲ含ム)
1、表彰式ハ追悼會終了後引續キ同所ニ於テ擧行スルニ付佛壇ノ向ツテ右側ニ高段ヲ設ケ机一脚又ハ卓子一脚ヲ用意スルコト
2、表彰式順序
1、擧式ヲ告ク
2、表彰状並感謝状授與
3、知事挨拶
4、受賞者總代答辭
5、閉式ヲ告ク
II 知事のラヂオ放送
記念事業の劈頭たる知事のラヂォ放送は、仙臺放送局(JOHK)の都合により、災害一周年記念當日たる昭和九年三月三日を繰上げ、二月二十八日の午後八時二十分より廿分間の豫定を以つて行はれたり。
赤木知事は、同夜肅然襟を正して放送局に入り、八時よりの「追弔曲」につぎて、別記の如き放送を、諄々として試み、その熱誠なる態度は言外にあふれて、當夜の聽衆をして只管災害の當時を深く追憶し、更に縣當局の「轉禍爲福」の努力の大なるものあるを知らしむるに充分なりき。
尚、知事の放送の後を承けて、震嘯追憶の座談會あり。出席者次の如し。
(司會者) 室谷縣囑託
(出席者) 小野寺釜石町長、岩泉田老郵便局長、菅原米崎村消防組頭、佐藤大槌郵便局員(以上岩手縣)阿部歌
津村長、高橋雄勝駐在所巡査、(以上宮城縣)
知事のラヂオ放送
咋年三月三日の聞くも痛しきあの三陸大地震、それに伴ふ津浪の慘害がありましてから、早くも一ケ年の月日を送り、此處に各方面に於て、災害一周年記念の催しを企てられました事は、誠に意義ある事であります。
本縣に於きましても、來る三月三日の災害一周年に當りまして、縣下罹災の中心地とも謂ふべき方面に密接なる關係を持つて居りまする、女川・志津川・氣仙沼の三ケ所に於て、不幸にして災禍の犠牲となられました遺族及當時罹災地に在つて活動せられました各種團體の代表等を御招き致しまして、追悼會を開催し、其他當時を追憶するに適當と認めまする事業を行ふ事になつて居ります。
顧みますれば、昨年三月三日の午前二時半、突如三陸一帶を搖り動かした左地震に、人々は深更の安らかな夢を破られ、何かしら不吉な豫感に戰慄したのでありましたが、果せるかな、それより約半時間にして襲ひ來ました山の如き大浪は、宮城・岩手・青森・北海道の一道・三縣六十七ケ町村の、太平洋に臨んで居ります總數三百七十餘の漁業部落に迫り、逆捲く怒濤は、堤防を破り、川を溯り、丘を越え、村落を一呑にして狂奔し、忽ちにして之等至和の部落を阿鼻叫喚の■と化せしめたのであります、その迅速なる事は、實に間髪を容れずと云つた樣な状態でありましたので、親は子を助け、夫は妻を呼ぶに暇ないものさへありまして、その有樣は、さながら生地獄を現出したかと思はせる程であつたのであります。
その結果、一道・三縣を通じまして、合計、三千に垂んとする生靈を空しく狂濤の中に失ひ、負傷者一千五百を數へ、家屋の流失、倒潰、浸水約二萬の多きに上り、漁船の流失、破損亦五千の多きに達したのであります。
行方不明者は、災害常時死亡者の約半數に近かつたのでありますが、關係者の並々ならぬ苦心による捜索の結果、漸次屍體が發見されまして、只今までの行方不明者數は本縣に百五名、岩手縣に一干百名を數へて居るのであります。
この屍體の發見につきましても、親は死せる愛兒の遺骸に取り縋り、妻は夫のあまりにも變り果てた姿を見て、ヨヨとばかりに泣き叫ぶなど、到底涙なくしては見られない情景が、あの當時屡々三陸沿岸の各所に展開されたのであります。
然しながら、幸にして一命を全うしましたものも、杖とも柱とも頼む一家の主働者を失ひ、親・兄弟・子供・夫・妻に先立れて悲嘆の涙に唯打ち暮れ、或は家を流され、田畑を荒され、船をも無情に奪はれて、漫々たる泥海を眺めた儘、ただ佇立し、腕を拱いては呆然自失その爲す處を知らなかつたものも、決して尠くなかつたのであります。
斯樣な次策で、罹災者無慮十萬は、程度の差こそあれ、等しく途方に暮れたものと云つて宜しいのであります。
この悲しむべき災害の報が、一度天聽に達しまするや、畏くもわが至仁至慈なる天皇、皇后兩陛下に於かせられましては、痛く罹災民を御心痛遊ばされ、御内帑の資を下し賜はり、ついで大金侍從を災禍の現場に御差遣あらせられたのであります。
同侍從に於かれましては、災害各地に親しく足を運ばれ、親しく罹災民を慰問せられると共に、詳細な視察を遂げられその結果を歸京の上、逐一闕下に伏奏せられた次第でありますが、その際
陛下に於かせられましては、畏くも龍顔を曇らせ給うて、種々詳細に渉り、御下問あらせられた御由洩れ承はる所でありまして、民草の不幸を愍ませ給ふ大御心の程は、洵に恐懼感激の外はないので御座います。
又各宮家に於かせられましても、それぞれ御下賜金を下し賜りまして、その有難き思召には、罹災民一同感泣した次第で御座います。
尚ほ各方面よりの御同情は、翕然として集りまして、遠きは満洲國或は南米等よりも、尠からぬ義捐金品を寄贈せられました事は、特志各位の人類愛的の御厚情によるものと存じまして、ただただ感銘に堪へない所であります。
義捐金の總額は、一道・三縣を通じまして、百數十萬圓の多額にのぼつて居りますが、其内本縣へ寄せられました義捐金は、本日現在に於て、參拾六萬四千九百參拾四圓餘に達して居ります。此等が可憐なる小學校兒童の純情に依るものや、勞働者の時間外勤務の報酬の一部を割けるもの、或は傷病兵が煙草代を節しまして出捐したもの等の結晶である事を考へますならば、僅か一錢の義捐金でも、決して徒らには用ひるべきではないのであります。
つきましては、災害によつて先づ罹災民の必要とする衣類・寝具及食料品は、縣及罹災地附近の各町村其他各方面の應急手配によつて、漸く飢餓寒威を凌ぐを得ましたが、なほ充分と謂ふわけには行きませんでしたので、縣當局に於きましては、義捐金の中より約一萬圓を割きまして、取りあへず衣類、食料品等を購入調達し、之を罹災地町村に配給したのであります。
その後義捐金の牧受次第に増加するを俟ち、數回その處分案につき愼重協議致しまして、苟も義捐者各位の誠意に惇らぬ樣留意し、貳拾壹萬八千五百四拾圓を、應急救恤品代、住宅適地造成費補助、無動力船舶復舊利子補給、死亡者、行方不明者に對する弔慰金、不具癒疾其の他傷痍者の見舞金、住宅見舞金等、それぞれ罹災者に分配する事に決定しまして、既に昨年八月その策一回の處分配當を了へたのであります。
又、別に拾萬圓を割きまして、隣保扶助の精神に基き、罹災地中被害の激甚であつた部落三十二ケ所に、罹災記念館を建て、各方面より寄せられました御同情を永遠に記念すると共に、平素、兎角文化に惠まれる事の薄い、沿岸居住者の福利増進の一助たらしめようとして居るのであります。
震嘯直後の救護作業に就きましては、陸海軍を始め、赤十字社・愛國婦人會・東北帝大診療班等の援助多大なるものがあり、縣・市・町・村青年團・消防組その他諸團體の盡力と相俟つて、住むに家なく、着るに衣物のない人々に、頗る迅速に而も暖き慰問の予をさし延べることが出來たのであります。
罹災者をして、あの筆舌に盡し難い慘禍の底から、呼び雄々しくも再興すべく、固く固く決意せしめましたのは、實に、之等諸團體の献身的奉仕があつたからであると、申しましても、敢へて過言ではないのであります。
縣當局に於きましても、醫療救護班の派遣、救護出張所の開設、救護物資の供給、警備等救護慰問其他應急措置に全力を注ぎましたが、その後永久的復舊、復興策を講ぜんが爲に、臨時縣曾を召集致しまして、各方面に渉る復舊費其地の經費合計貳百七拾七萬九拾圓を計上したのであります。
この復舊費の約半額に當る百拾五萬八千餘圓を以て、三陸沿岸生業の生命とも謂ふべき、水産業の復舊に充てたのでありますが、今日では既に漁船・漁具は殆んど復舊豫定數に達し、築磯・船溜・船揚場等、震嘯災害將來の豫防上に必要なるものも三月末日迄に夫々完成せんとして居ります。
しかも罹災漁民の大部分は、漁業組合の構成員でありますので、漁業組合を中心とする漁村の産業經濟の更生を將來に期して居ります關係上、諸種の共同施設が考へられて居りますが、これもその七割の完成を見てゐるのであります。
次に上木方面に就きましては、道路・橋梁・河川・梅岸等、苟くも三陸將來の文化發展要素たるべきものの復舊を必要とするものは縣費事業八十七ケ所、町村費事業二十八ケ所、合計百十五箇所の多數に上つてゐるのでありますが、縣費工事は全く竣功し、町村工事も早晩完成せんとして居ります。殊に、明治二十九年・昭和八年二度の大慘事に鑑みまして、罹災部落の住宅地を災害に安全なる高臺に移轉せしめんとする、「宅地造成」の計畫は、關係者の熱心なる努力により着々効果を奏し、移轉計畫戸數八百一戸、工事箇所數二百四十八箇所中の八割弱の建造を見て居るのであります。
又、縣下十四ケ町村、八十五地區に亘る百餘町歩の耕地被害も、まづ第一に鹽分の除去に努めますと共に、直ちに復舊事業に着手致しまして、現在では大谷村に、二地區二拾町歩の未完成地を殘す外、盡く舊状に復しました。
その他、災害の打撃により、農業經營に從事する事が出來なかつた罹災民に對しましては、就業に必要なる種苗の配給・農具購入・農舍・肥料舍等の建設助成の途を講じましたが、之等も現在八割乃至十割方の完成を見て居り、蠶具共同購入及稚蠶共同飼育所の設備も、三月中旬を以て完了する見込であります。
かくて三陸沿岸には、生々しき木の香臭ひ、勇ましき木遣音頭や槌の音を耳にし、目には新しき装を凝らせる漁船の初乘りに、一家團欒してよろこび合ひ、部落民又之に和して、形ばかりの祝賀をなしつつある有樣々見ますと、一ケ年の月日の内に、かくも迅速に著しく、立直る状况に一驚を喫するのは、ひとり私のみではないと考へるのであります。
これと申しまするも全く、災害に直面しまして、政府當局が進んで多額の國庫補給及び國庫補助金を計上交付せられ、又低利資金の融通を計られました事と、江湖の厚き御同情とによる、多大の後援の賜物でありまして罹災地方民と共に、深く感謝致して居る次第であります。
かく、復舊事業は、災害後一年の間に、ほぼ所定の完了をなし遂げ得た次第でありますが、復興事業方面に於きましては、道路の完成・防波堤の築造・警報臺の設置・防潮林の植樹等、將來の震嘯に備ふる充分なる災害豫防の設備を施す必要があるのであります。
而して沿岸各地に之等復興事業を施します事は、やがて附近町村の振興と密接なる關係にありまして、怜も唇齒の間柄にあり、相互に因となり果となるものでありまするから、三陸沿岸の復舊・復興の完成如何は、取りも直さず、東北地方の文化發展の消長と相伴ふものが尠くないと思ふのでありますが故に、政府當局に對しましても、その間の事情を愬へまして、三陸沿岸の復興事業には從來格段の御援助を賜りたいと冀つてゐる次第であります。
以上は今回の災害の物質的方面を申し述べたのでありますが、精神的方面に於ても、幾多の學ぶべき教訓或は事實を示されたことは申す迄もないのであります。
即ち縣の社會事業協會及び愛國婦人會宮城縣支部等に於きましては、罹災地中、被害の夥しく且つ必要なりと認めました大原村・十五濱村・女川町・十三濱村・唐桑村等の各町村に震災臨時託兒所を數ケ所設け、震嘯災害の復舊に際しまして、罹災者並に部落民の手足纏ひとなる幼兒の受託に任じたのであります。その結果、縣の社會事業協會經營のものについて申しましても、五ケ所の托兒所の受託兒延人員一萬五千の多きに達したのであります。
之が爲に、唯さへ災害後の混亂甚だしく、困憊その極に達して居ります罹災民が、如何に可愛いいわが子とは云ひながら、充分之を監督し、危險區域に立入らぬ樣注意する事は至難事であつたのでありますが、さりとて之を放置する事も、親子の情としては、流石忍びなかつた處であります。
然るに、この託兒所施設こそは、突如として起つた自然の脅威の前に恐れ戰く純心な幼兒を、暖い保姆の翼に抱いて、しかも不規律に陷り易き混亂期の生活を、正しき授業遊戯の内に始終致させまして、前途に光明と希望とを抱かしめる事を得たのでありまして、その罹災地住民への精神的慰安は、物質の力ばかりでは、到底與へ得られない尊い効果を齎したものと信じて居ります。
又、社會教育方面に於きましては、罹災地各地に復興懇談會を催し、他力ばかりによらないで、自力更生が復興への最捷徑である事を知らしめると共に、他面、各地の活動班を巡回させて映畫會を開催し、慘害に悩まされました部落居住者の神經を和げたのであります。
之等の試みは、それだけでも、精神的に多大の効果を擧げる事が出來たのは論を俟ちませんが、更に不知不識の内に縣・市當局或は中央の都人士と沿岸居住者とを直接に接觸させて、相互の意志を通じさせ、その理解を深めました事は、爭はれぬ事實であります。
又、縣に於きましては、災害善後策を講じます爲に、關係町村或は小學校長會議を開いたのでありますが、之等は、地方指導の地位に在る人々をして、郷土の復舊發展策について、眞摯なる態度を以て、考慮させる機會を與へたものと云つても宜しいと思ふのであります。
加之、今回の災害を轉機と致しまして、沿岸部落居住者をして、勤勞の精神を助長、捲土重來の尚ぶべき事を知らしめ、又從來、その地勢的位置から、一村内であつても、兎角部落間に、折合宜しくない風を見て甚だ遺憾に存じて居りましたものが、一致協力して復舊の事に當るの美風を馴致するに至りましたことも尠くないのであります。
なほ、かかる突發事に望んでも、肉親の愛の死よりも強い、或はわが身の危險を忘れて將に溺死しようとしてゐる外國人を救助して、天晴日本男子としての氣を吐いたと言ふ様な、幾多後昆に傳へるべき、美談、哀話があるのでありますが、之等を今此處に一々述ぶる事は到底出來ないのであります。
ただ一つ、此處に是非共罹災地住民諸子に反省を促がさざるを得ないものは、この災害に際しまして、廣く江湖の同情により、義捐金品は次から次へと罹災者の手に渡されたのでありますが、一面これは罹災者をして、災害の不祥事である事よりも、寧ろ僥倖を與へる機會の樣な謬見を懷かせ、或は兒童給食及び學用品給與の樣な事が、頑是ない兒童をして、徒らに他力に依頼させる動機となるであらう事を、ひたすら恐れる次第であります。
復舊・復興の途上にある現在、何よりも戒むべきは輕佻浮華の風であります。古諺に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。」と云ふ事があります。俗にも、「咽喉元過ぐれば暑さを忘る。」の比喩があります樣に、年月と共に何時の間にか過去の不幸を忘れ勝ちになるものであります。關係地方民諸子に於かれましては、この記念すべき震嘯一周年に際しましてこれ等の事を三省される樣に希望して巳まないのであります。
最後に特に申し加へたいと存じますことは復興途上に於いて、昨秋十一月下旬 畏くも東久邇宮第二師團長殿下に於かせられましては、三陸沿岸罹災民の上を思召されまして、特に親しく駕を同地方に抂げさせ給うた事であります。この有難い御巡視を賜りました事は、地方民と共に私共の千載に忘るべからざる事であります。と同時に、その思召の萬一にも添ひ奉る樣將來の光明ある復興に向つて鋭意努力する事を期すべきであります。かやうに、昨年の震嘯災害は、未曾有の悲慘事でありましたが、上は皇室の優渥なる御沙汰を忝うした事を始めと致しまして、政府當局及び江湖の厚き御同情と縣民一致の協力に依りまて、此處に豫期以上の善後借置を講ずる事を得て、なほも今後の復興を急ぎつつある次第であります。
此處に震嘯災害一周年記念放送に際し、災審善後の概略を申上げ、各方面より慰問救護に御盡力と御同情とを下さいました方々に對しまして、厚く感謝の意を表すると共に、不幸犠牲となりました數百の生靈を、衷心から弔慰したいと存ずる次第であります。
以上
第三章 表彰竝褒賞
第一節 宮城縣消防協會總裁
宮城縣消防協會長
突如として震嘯襲來するや、直ちに、罹災地に急行、以て、不眠不休能く罹災民の救助及罹災地に於ける警備復興に努力し、其の功勞拔群にして、洵に一般の龜鑑たるべき、罹災地關係の消防組に對し、宮城縣消防協會總裁並同協會長は、災害直後の四月三十日を期し、盛大なる表彰状及感謝状贈呈式を擧行せり。
即ち、知事は、總裁として、坂元消防組以下十一消防組に對し、表彰状並金一封を夫々授與するところあり、警察部長は會長として、荻濱消防組以下八消防組に對し、感謝状を授與し、其の功勞を深く謝するところあり。仍て次の如き表彰状及感謝状を、總裁名及會長名を以て發送せり。
震嘯罹災地ニ於ケル活動消防組表彰
表彰状
組名
昭和八年三月三日三陸沿岸ニ突如トシテ震嘯襲來スルヤ直チニ罹災地ニ急行シ不眠不休能ク罹災民ノ救助及罹災地ノ警備復興ニ努メ其ノ功勞拔群ニシテ一般ノ龜鑑タルベキモノト認ム仍テ金一封ヲ授與シ■ニ之ヲ表彰ス
年月日 總裁名
坂元消防組 大原消防組 女川消防組
十五濱消防組 小泉消防組 歌津消防組
鮎川消防組 大川消防組 氣仙沼消防組
大谷消防組 鹿折消防組 戸倉消防組
感謝状
組名
昭和八年三月三日三陸沿岸ニ突如トシテ震嘯襲來スルヤ直チニ罹災地ニ急行シ不眠不休能ク罹災民ノ救助及罹災地ノ警備復興ニ盡カシタル功勞尠カラサルヲ認ム仍テ■ニ感謝ノ意ヲ表ス
昭和八年四月三十日 宮城縣消防協會長名
荻濱消防組 渡ノ波消防組 石卷消防組
中津山消防組 橋浦消防組 二俣消防組
飯野川消防組 御嶽消防組 志津川消防組
第二節 知事
I 警察官の表彰
震嘯災害に際して、罹災地關係警察官の執りし献身的なる活動は、或は、明知能く將に來らんとする危難を察知し得て、慘禍を未然に防止し、或は、災害の來襲に於て、咄嗟の場合、果斷克く機宜の措置を誤らず、部落民の避難を容易ならしむる等、其の功績洵に大なるものあり。就中、飯野川警察署所轄雄勝巡査駐在所勤務の高橋金雄巡査及び石卷警察署所轄女川巡査駐在所勤務の菅原慶五郎巡査の功勞拔群にして、其の功績は衆の龜鑑とするに足るものと思惟せらる。
乃ち知事は、災害直後の四月十二日を期し、兩巡査を表彰且金一封を贈りて其の功勞を賞せり。
(一)高橋巡査の功績
飯野川警察署所轄雄勝巡査駐在所勤務巡査 高橋金雄
三月三日午前二時三十五分強震アリ受持部内ニ不尠被害アリト思料シ直チニ所在地雄勝ニ出所被害調査中ナリシ處突如トシテ海面ニ激浪ノ起リシヲ認メ之レ津浪ナリト知ルヤ出動中ナリシ消防組青年團等ヲ督シ一面警鍾ヲ亂打シ非常ヲ告ケ住民ノ避難ニ努メ居リシニ益益波濤陸地ニ襲來シ浸水急迫ナリシヲ以テ急遽状况ヲ所屬警察署ニ電話報告スベク歸所
事務室ニ至リ受話器ヲ手ニスルヤ波濤浸水ハ既ニ陸地ヲ襲ヒ床上二尺餘ニ達シ刻一刻ト嵩ミ危險甚ダ急迫ナリシモ辛ウシテ津浪アリノ一語ヲ報告シタル際ハ身ヲ沒スルノ狂瀾怒濤(四尺餘)ニ襲ハレ戸ヲ破リテ裏口ヨリ■レタル刹那來襲スル激浪ニ押付ケラレ山腹ニ攀リテ辛ウシテ危難ヲ免レタル状况ナリ。尚同巡査ハ一家數名ノ家族ノ安否ヲ不顧津浪直後四方ニ起ル避難民ノ叫喚ノ聲ヲ聞クヤ奮然住民ノ妥否ヲ憂慮シテ迅速調査ニ從事村役揚ヲ督シ其ノ救護ニ盡瘁シタリ。
以上事實ニシテ身ノ危難ヲ不顧迅速機敏ニ住民ノ避難救護ニ力ヲ致シタル結果全町流失倒潰等殆ンド全滅ノ状態ナリシニ反シ僅カニ死者七名行方不明者二名ヲ出シタルノミニシテ他ハ悉ク安全地帶ニ避難セシムルヲ得タルハ與ツテ同巡査ノ努力二依ルモノニシテ其ノ功績ハ衆ノ龜鑑トスルニ足ルモノト思料セラル。
(二)菅原巡査の功績
石卷警察署所轄女川巡査駐在所勤務巡査 菅原慶五郎
菅原巡査ハ地震後職責感ヨリ女川町鷲神地帶被害調査ニ從事中海岸道路ニ差カカリタル際海面ヲ眺メタルニ平時海底ヲ見透シ得ザル岸壁ガ其ノ根元ヨリ洗ハレアルヲ以テ古老ノ言ニ海水ノ干潮ハ津浪襲來ノ前兆ナリトノ話ヲ思ヒ浮ベ萬一ノコトアラバ災禍ノ及ブ處計リ知ル能ハズトナシ如上ノ事實ヲ署ニ報告シ一面消防組頭ニ果リ英斷ヲ以テ警鐘ヲ亂打セシメ部落民ニ警告セリ爲メニ部民ハ津波ノ襲來スルモノト覺悟シ高處ニ避難シタルモノナルガ果セル哉幾何ナラズシテ津浪ノ民家ヲ襲フコト數回ニ及ビ遂ニ前記ノ如ク浸水家屋行方不明等ノ發生ヲ見タルモ右巡査ガ機敏ニシテ適切ナル措置ヲ採リシガ爲メ多クノ民衆ガ避難スルコトヲ得タルモノニシテソノ警鐘ヲ打ツガ如キコトナカリセバ死傷者又ハ流失ニヨル損害等モ遙カニ多カルベク思惟セラルルモノナリ。之レヲ要スルニ菅原巡査ノ行爲ハ一般ノ推賞スル處ニシテ旌表ノ價値アルモノトス。災害後ノ處置ニ就テモ同巡査ハ上司ノ指揮命令ニ從ヒ克ク精勵努力シ不眠不休活動セシモノニシテ町當局及郷民ノ感謝シ居ル處ナリ。
II 震嘯災一周年に際しての表彰
罹災救助に直接間接功勞ありたる個人並圍體に對する表彰並感謝状贈呈式は、最も記念すべき昭和九年三月三日震嘯災一周年記念日に於て、震嘯災の當時を追憶し、只管敬虔の念を以て、不幸なりし犠牲者への冥福を祈り、將來更に、遺族をして轉禍爲福に精進せしむるを目的として行はれたる追悼會終了後、氣仙沼町・女川町・志津川町の三會場に於て、知事代理として内務部長、學務部長、知事官房主事夫々臨席の下に嚴肅且盛大に擧行せられたり。
即ち、大震嘯災害に際し、或は災害の來襲を豫報し、以て、住民の避難を容易ならしめ、或は己が一身の危難を顧みずして、人命の救助に當り、或は救護慰問並善後措置に盡瘁し、或は各種の救援作業に努め復舊に貢献したる個人或は團體の功績功勞洵に大なるものあり。
仍て、知事は、其の勞を犒ふと共に、又、感謝の意を表する爲、縣下關係の個人竝團體に對し、夫々褒状、或は感謝状を授與したり。其の詳細は次表の如くにして、災害豫報九、人命救助五十六、救護慰問、個人五十六、圍體七十四を算せり。
尚、其の他、縣廳より直接授與したる分は、最終表に示せるが如し。
褒状(災害豫報)
昭和八年三月三日三陸地方大震嘯災ニ際シ災害ノ來襲ヲ豫報シ住民ノ避難ヲ容易ナラシメルハ洵ニ奇特ノ至リナリ
■ニ三陸地方大震嘯災一周年ヲ迎フルニ當リ其ノ勞効ヲ賞ス
昭和九年三月三日 宮城縣知事從四位勳三等 赤木朝治
褒状(人命救助)
昭和八年三月三日三陸地方大震嘯災ニ際シ一身ノ危難ヲ顧ミス人命ヲ救助シタルハ洵ニ奇特ノ至リナリ
■ニ三陸地方大震嘯災一周年ヲ迎フルニ當リ其ノ勞効ヲ賞ス
昭和九年三月三日 宮城縣知事從四位勳三等 赤木朝治
褒状(救護慰問等)
昭和八年三月三日三陸地方大震嘯災ニ際シ救護慰問竝善後措置ニ盡瘁シタル功績洵ニ大ナルモノアリ
■ニ三陸地方大震嘯災一周年ヲ迎フルニ當リ其ノ勞効ヲ賞ス
昭和九年三月三日 宮城縣知事從四位勳三等 赤木朝治
感謝状(縣下團體)
昭和八年三月三日三陸地方大震嘯災ニ際シ協心戮力克ク救護慰問其ノ他各種救援作業ニ盡瘁シ救護復舊ニ貢献シタル所尠カラス
■ニ三陸地方大震嘯災一周年ヲ迎フルニ當リ感謝ノ意ヲ表ス
昭和九年三月三日 宮城縣知事從四位勳三等 赤木朝治
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
第四章 罹災地小學校兒童及教員作文集 竝満洲國公主嶺公學校兒童の震嘯災見舞状
第一節 罹災地小學校兒童及教員作文集
所謂「桃の節句」として、樂しき一日たらんと期せし三月三日は、未明一瞬にして呪詛の日と化し果てたる、そは、罹災地小學校兒童及教員の心中、如何ばかり異常の衝動を與へし事たるか、思ふだに、同情の念翕然として起るを禁ずる能はざるものあり。左に、大震嘯遭難情况の充滿せる罹災地小學校兒童及教員の作文を示し、當時の一半を端的に窺知せんとす。
〇ツナミガキタトキ
本吉郡歌津村伊里前小學校 尋一 江島貞子
コンドノツナミニハ、大キナヂシンガユリマシタ。オトウサンガオキテキテ、オカアサントワタクシニ、「ヂシンダカラ、ハヤクオキナサイ。」ト、イヒマシタ。ワタクシハ、キモノヲキテ、オビモシメナイデ、エンガハノトヲアケマシタ。サウシテ、ヂシンガトマツテカラ、オカアサントワタクシガネマシタ。オトウサンハロニアタリナガラ、タバコヲノンデヰマシタガ、ソノウチニ、「モウスコシネヨウ。」卜、イヒマシタ。ソレカラスコシタツテ、オモテデ、「ツナミグカラ、ハヤクオキナサイ。」卜、イヒマシタ。オトウサントオカアサントワタクシトハ、ハヤクオキテ、エンガハノトヲアケテ、オトウサンガナガクツヲハイテニゲマシタ。オカアサンハゲタヲハイテニゲマシタ。ワタクシハタビバカリハイテ、ホゥヰンサンノヤマニニゲマシタ。サウシナ、ヤマデヒヲタイテアタリマシタ。ナミガヨセテキタノモキコエマシタ。ナミガヨセテキタノデ、ワタクシタチモ、スコシマチノホウヘオリテイツテミマシタ。ソノナミハ、ナンダカ、ピカピカト、ヒカツテキマシタ。マタアガツテアタツテヰルウチニ、ダングンヨガアケテキタノデ、ワタクシタチハ、ウチニカヘリマシタ。
○津浪
本吉郡歌津村伊里前小學校 尋五 渡邊春治
三月三日の夜のことでした。地震が搖れてから、まだねつかれないで、みんな齒がガタガタと合はさらないで、恐ろしくてなりませんでした。外は眞暗で、粉雪がサラサラと降つて居ました。寒いのと恐ろしさとで、うつらうつらして居ると、外で誰かの、「火事だ!」と言ふ聲がしました。直ぐとび起きて逃げようとする時、今度は「津浪だ!」と言ふ聲が聞えました。
津浪だと言ふので、足に何もはかないで逃げたので、とても冷たくてわからないのです。それから近くの高い山にあがりました。子供をせおつたお母さんなどが、片手に子供を引いて上つて來ました。上つて來る時に、半鐘がなりました。そちこちで火をたいてゐるのが見えました。沖の方は、暗くて見えませんでしたが、津浪のおしよせて來る音が聞えます。其の勢は、とてもすごいので、所々橋のいたまるのが、ミリミリミリミリといふ勢で、橋がこはれてしまひます。丘に登つた時は、物を着ないで來た人もあれば、かばんをせおつて來た人もあります。
上に登つても、大人の人々は、下に行つて見ては、上の人々に樣子を聞かせて居ります。向ふの方で、「ソレ又大きな波が來た。」と言つて、叫ぶ聲が聞えます。だんだん夜があけるにつれて、海の朝は見えて來ます。常に見て居る海とは違つて、黄色の泥海の樣です。上にはまだ大勢の人が集まつて、話を語つて居ります。だんだん荒波が靜かになつて、夜が明けて來たので、下の方に行つて見ると、火をたいて居る十人ばかりの人々が話をして居ります。川に行つて見ますと、材木や桶が流されて行きます。波が引いて行つた跡には、色々なものがころがつて居ましたが、後から來る波の爲にそれをひろふことも出來ません。波が押しよせてくると、石垣のところ一杯になります。舟は石垣の上までおし上げられて居ます。海岸に積んでおいた材木が、石垣に突き當つて橋もこはれました。其の日は、學校に行かなければならないので、行つて見ましたが、本やかばんを流された人は學校に來ませんでした。可愛さうだと思ひました。家の流された人は、朝に、どこで御飯をたべたでせう。次の日に、濱の方で死んだ人が三人見つかつたそうです、けがした人もあつたので、すぐ大學病院からお醫者さんと看護婦さんとが來て下さいました。兵隊さんも來て、橋をかけて行つて呉れました。みんな村中の人々は手を合せて有難く思つて居ります。
○津浪
本吉郡歌津村伊里前小學校 高一 渡邊なつよ
ああ、思ひ起せば、昭和八年三月三日は一生忘れる事の出來ない災難に遭つた日である。
午前二時半頃、人々が樂しく夢路を辿つてゐる眞最中大地震が起つた。家の人々は驚いて、皆んな床の上にはね起きた。
私は家が潰れるのではなからうかと、ビクビクして口もきけなかつた。お母さんが、「今夜の地震はぶんげえに(分外にとの意)強いもの(強いテ、だからの意)、何か來るかもしれねいぞ(何か來るかも知れないぞとの意)。」と言つたので、とても恐ろしくてたまらなかつた。
戸棚はガタガタ搖れる。家はミツミツと動いて、居ても立つても居られなかつた。一時はあまりひどく搖れるので、外へ出ようかとも思つたが、屋根から石が落ちて來ると大變なので、しかたなくジツと坐つてゐた。其の中に地震も止んで、靜かな夜の訪れが又やつて來た。柱時計もカチカチと安かに時を刻んでゐるので、もう安心と思つてゐる内に、思ひもよらぬ誰かの、「津浪だから、早くにげろー。」と一しきり外で叫ぶ聲を耳にしてハツと思つた。
私は、「お母さん津浪津波、早く早く。」と母を搖り起した。電燈は地震のためか消えて了つた。ランプが薄く家中を照してゐた。
兄さんや姉さんは、二階から飛び下りた。
私は着てゐた寝卷のままで、帶もしめずに家をぬけ出た。弟と姉さんとは、素足のままあの冷い銀世界の上を、一生懸命裏の竹藪へ走つた。私はお母さんの大きな下駄をはいてその後を追つた。其の時の恐ろしさは、とても筆舌では盡されない程であつた。方々からは、提燈や懷中電燈を持つて思ひ思ひの場所へ走つた。
海がゴーゴーとなつてゐる。丁度私達が山へ上つた時、橋がミリミリと物凄い音を立てて落ちた。一時の間に、山は人で黒山になつた。村を見下すと、電燈は消え、眞暗な闇の中に、提燈を持つて避難する人々の影がかすかに見える。向ひの權現山の方では、大勢の人々が火を焚いてあたつてゐた。何處かのをぢさんがまきを持つて來て火を焚いた。皆んな喜んで火にあたつた。素足の人もあつた。私は幸にも下駄をはいて來たので、そんなに冷くはなかつた。方々では、「おらへのおぢんつあんは何處さ逃げたべなー(家のおぢいさんは何處へ避難したろうなー)。」などと言つてゐた。私の家にも、七十五になるおぢいさんがあつたので、お母さんに聞くと、兄さんが背負つて學校に避難したと言はれたので安心した。
山は、子供が泣く、人々が騒ぐ。向ふの山の方では、「又來たぞー又来たぞー。」と、しきりに叫んでゐる。其の聲を聞くと、恐しさに胸がドカツとなる。
ああ、濱の人々は、どうなつたらう、友達はどうなつたらうか等と、次から次へと友達の事が思ひ出された。
時が經つにつれて、夜がほのぼのと明けそめた。鷄が、「コケツコー」と鳴いた。續いて又、「コケツコー」と。人々は家へ歸つた。さつきの事を思ふと、何がなんだか、半分夢のやうな氣持がした。あの、「又來たぞー。」といふ言葉が未だに耳に殘つてゐる。
田ノ浦では何人死んだ、中山では何人といふのを聞いて、人の運命は何時どうなるか慮り難いものだナと深く感じた。
○津浪
本吉郡歌津村伊里前小學校 高一 高橋三男
グラグラと、家が潰れる程搖れた。なんだらうと思つて、私は目をさすりながら四邊を見廻した。「風だらうか、馬鹿に強い風だ!」と、獨り言を言つてる内、ぐらぐらと長く大きく搖れた。父は、「地震だー。」と叫んだので、家の者は皆起きて、ラヂオのある所へ集つた。未だ強く搖れてゐる。父は間口の方へ行つて、すばやく戸を皆開けた。母は、「治夫や!」と言ひながら、店の方へ行つて探してゐたが、二階に寝てゐた兄は、なかなか起きて來なかつた。電燈はスーと消えて了つた。柱がキイキイと音を立てて搖れる。ゴーゴーといふ音がやうやく聞えなくなつた頃、兄はガタガタと梯子を下りて來た。そして「五分五十二秒搖れた。」と、自慢の腕時計を懷中電燈で見ながら言つた。
父が、「あとは來ないから寝なさい。」と言つたので、間もなく床に就いた。寒くて、慄へながら目をつむつたが、ゴーゴーといふ音が耳について、なかなか眠れなかつた。しばらくして、又、ゴーと聞えたので、起きようとしたが、母は、「精米所の音かも知れない。」と言つたので、安心した。
すると、横橋(私の向ひの店の家號)の方に當つて、「津浪だあー。」と言ひながら走つて來る人の足音が聞えた。私は足袋を履かうとしたが、父が、「逃ろー。」と鋭く叫んだので、私は足袋も履かないで、裏の戸を開け、學校の庭に走つて行つた。
唯も居なかつた。私は、仕方がないので、ポブラの木の根本に腰を下して父や兄などの來るのを持つてゐたが、少しも來なかつた。何時ついて來たのか、二年生の弟が私の側に居たのに初めて氣がついた。
私は、「今頃水が來て、家が流されたらう。家の者はどうしたらう。」等と思ひながら、一寸程も積つた雪の上を、居ても立つても居られず、歩み廻つた。
やがて、親類のおばあさんと一緒に、私は弟の手を引いて、新校舍の方へ一散に走つた。
私は、走りながら、私の後に當つて、しきりに、父を呼ぶやら、母を呼ぶやら、子の名を呼ぶやらする聲々を耳にしたがその聲々は此の世のものとも思はれず、かねて聞いてゐた、「地獄で鬼に追はれる亡者の悲鳴」にも似てゐる樣に思はれた。
私は、あの時程、恐ろしい目に遭つた事はなかつた。
○大震嘯災に對する感想
本吉郡歌津村伊里前小學校 高二 阿部定子
三月三日、「桃の節句」の日の午前二時半頃、突然家ががたがた搖れ出しました。私達はこの突然の大地震に驚いて、暖い寝床からはね起きました。お父さんや弟などは外に飛び出しました。私はお母さんや姉さんと、縁側の戸を開けて、今にも外へ飛び出る氣持で居りました。外は一面の雪でした。地震は一旦止みましたので、お父さんと弟とが家に入りました。私も戸を開けたままにして、爐邊に來ましたが、危險で火をおこすことも出來ませんでした。私は慄へる手で着物を着ました。
姉さんは妹に着物を着せてやりました。そのうちにまた搖れ出したので、私は姉さんと一緒に妹を連れて外へ出ました。
しばらくして、地震も止み、お母さんに呼ばれたので、家に入り、其の儘床に就きました。
電燈は消えたり點いたりしてゐましたが、やがて全く消えて、家の中が眞暗になりました。唯々、硝子窓や硝子戸だけが薄明るくなつてゐます。私は、蒲團を被り襟元をしつかり噛みしめて、ブルブル慄へて居りました。
丁度其の時、ゴーゴーといふ音が聞えて來ました。お父さんとお母さんとが何かお話をして居りました眞暗い所に、ゴーゴーといふ音が物凄く聞えて來ました。私は、蒲團の中に寝て居られなくなつて、蒲團の上に起き上り、ブルブル慄へて居りました。
丁度其の時、誰かが外の方で、「津浪だあー津浪だあー。」と叫びましたので、私は直ぐさま立ち上つてお母さんの側に行き、小さい弟をお母さんにおんぶさせてやり、私は寝卷を持つて履物を履きました。續いて弟や妹も履物を履きました。私は弟と妹
とを連れて、新校舍を目がけて逃げました。お祖母さんと姉さんも續いて逃げて來ました。後から後からと新校舍目がけて逃げ集りました。新校舎の各昇降口は開かれて居り、教室には電燈を點けてあり、佐藤先生は提灯を翳し、聲を嗄らされて、「皆さん、教室におはいりなさい。」と叫んで居らつしやるので、皆、教室に入りましたが、忽ちのうちに一ぱいになつたと見えて、教室の外に居る人も澤山ありました。やがて、火鉢に炭火を持つて來て、炭を澤山入れて下され、外にも盛に火が焚かれました。私は火鉢の側に居て、火にあたつて居たので、少しも寒くはなく、寧ろ暑くてたまらぬ程でしたが、唯妙にかう、顎がガタガタ、手足がブルブルして、いくら止めようとしても止りませんでした。
佐藤先生は度々廻つておいでになつて、「お湯が沸してあります。水も汲んでありますから、召上る方は、どうぞ遠慮なくおあがり下さい。」と言ひ言ひ、火鉢に一ぱい炭を繼いだり、蝋燭を替へたり等して下さいました。おばあさん達や、おかあさん方は、昔の津浪の話をして居られました。中には、乳を欲しがつて、鼻を鳴らす子供もありました。
其のうちに、東の空がしらじらと明るくなつて來ました。東の空に太陽が昇つて、昨夜の雪も解け始めました。姉さんとお父さんとは、直ぐ家へ歸りましたが、私達は太陽が高く昇つてから歸つたのでした。
姉さんが御飯を煮て居る時、「また來たー。」と叫ぶ聲に驚いて、三回火を燃すのを止めて、外に出たさうです。其の爲に、御飯はおいしく炊けませんでした、それが今でも三月三日の笑話の種になつて居ります。
不幸中の幸とでも言ふのでせうか、私達の居る伊里前には、人家の損害は全潰一戸、半潰數戸しかありませんでした。然し、東海岸の濱々には、非常に被害が多かつたので、男の人達が總出になつて被害部落に手傳に行くやら、伊里前の災害を被らなかつた家々から、米・味噌・漬物・着物等の寄附集めをするやら、石泉・中在・上澤・樋の口等に、濱方画の被害状况を報じて、手傳人を頼みに歩くやらして、非常な騒ぎでありました、私達も先生方に引率されて、六日から三日間、各濱々の跡片付のお手傳に行きましたが、本當に目も當てられない慘状でした。寒いカラ風に吹かれ、又時には、雪に降り被せられながらも、先生方に勵まされて、汗を流しながら、朝から日暮時まで手傳ひましたので、何處の部落でも有難がられました。
全國各地から見舞の方々や、見舞の金品が參りましたので、消防組の人達が協力して、見舞の方々を案内するやら、見舞の金品を配給するやら、種々世話を致しましたので、津浪で被害を蒙つた人達は、どんなに助かつたか知れませんでした。
然し、あの物凄い津浪の爲に、流されて死んだ村内八十四人の人達は、本當に氣の毒でなりません。
私は、今でも時々地震があると、胸が鳴り、身體がブルブル慄へてなりません。私の小さい弟までが、地震の話をし出しますと、「地震こなこな」と言つて、果は泣き出します。
○つなみ
本吉郡歌津村名足小學校 尋二 三浦源一
僕のおとうさんが、「つなみだ、つなみだ、はやくにげろ。」と、したの方からさけんで來ました。僕はびつくりして、おかあさんと高い方へにげましたが、とてもさむくて、ぶるぶるふるへました。その所に、ちやうど一けんうちがありましたので火をたいてもらつてあたりました。夜があけましたから、家の方へさがつてみますと、人が大ぜいしんだと、きかせられました。僕の友だちの四郎さんもしんだそうです。かはいそうでなりません。僕の家では、みなじやうぶですが、しんだ人々がほんたうにいとしくてなりません。
〇津浪のあと
本吉郡歌津村名足小學校 尋四 最知千代子
ここから被害地が一目に見えます。多ぜいの大工さんが、せはしそうに働らいてゐます。船をはぐ音が高く大空にひびきます。白い波が、沖から進んで來ては、しづかに岸をあらつてゐます。あの波を見ると、三月三日の大波がどうしておきて、どうしてよせて來たのかふしぎでたまりません。おぢいさんが、何かよせあつめては、煙の中にくべてゐます。あのおぢいさんは、ほんとうにかはいそうです。家はつぶされるし、色々のものを流したし。煙がユラユラゆれて流れ、屋敷の大空へしづかに上つて行きます。
○津浪の所感
本吉郡歌津村名足小學校 尋五 三浦みち子
三月三日の日には、私達の忘れる事の出來ないあの恐しい津浪がおこりました。私は、その時流れた家々や、死んだ人を見て、大さう、かはいさうに思ひました。こんどの津浪で、ほんとうに有難いと思つたことは、よその人達から食物や着物を澤山頂いた事で、そのあたたかいおなさけには涙がこぼれます。家を流され、家の人に死に別れた人達のかなしい姿、新に別れた人達の心を思ふと、何となぐさめてよいかわかりません。短い時間にあんな事になるのだから、ほんとうにあきらめきれないのでせう。然し、何時までもかなしんで居ても仕方がありませんから、私達は早く立派な人になつて、自分達の村をよい村にし、又御恩を受けた世の中の方々に、御恩返しをしたいと思つて居ります。
○津浪の所感
本吉郡歌津村名足小學校 尋五 三浦萬藏
ああ思ひ出すのも恐しいあの三月三日の津浪です。今でもあの津浪のことが目に浮んで来てなりません。私の家は、あの時津浪で流されて了ひましたが、家内一同無事で生き殘つたことは、まつ不幸中の幸といはなければなりません。あの津浪の爲に、親に死に別れたり、兄弟と死に別れた人達は、どんなに悲しかつた事でせう。私はそれを思ひ出す度に、泣き度くなつて來て、涙が獨りでに出てきます。今度の津浪で、ほんとうに世の中の人々のあたたかい心持がわかりました。そして私達に色々のものを送つて下さいました。その爲、私達はあまり苦まないで暮して居りますのも、皆世の中の人々のおかげです。私達はこれをいつまでも忘れない樣にして、よく先生の教を守り、一生懸命勉強して、早く世の中の方々に御恩を返さなけれはなりません。
○ぢしん
亘理郡坂元村坂元小學校 尋三 齋藤三男
昭和八年三月三日午前二時半頃に大地震がゆりました。おどろいて、うちの人みんなでそとに出ました。そとで見てゐると、家も木も倒れるやうにうごきます。私も倒れるやうに目がくるくるしました。そのうちに、ぢしんもよわくなり、よろこんでゐたら、まもなくかねがなるので、火事だと思つて外に出て見ると、表をかけて通る人々は、「磯濱がつなみになつた。」と、口々に言ひながら大急ぎで走つて行くのでした。私もすぐ追ひかけて行かうとしたら、お父さんに、「あぶない(危險だとの意)」と、言はれたので行きませんでした。お父さんが歸つてから、ききますと、家が流されたり、怪我人か出たりして、大さわぎであつたとのことでおどろきました。新聞で、外にも死人が出たり、家が流されたりしたところがあつたのをしり、ぢしんのおそろしいことをはじめて知りました。これからは、ぢしんのゆれた時のかくごを、今からしてゐます。
○つなみ
亘理郡坂元村坂元小學校 尋四 吉田忠正
今年の三月三日、思ひ出せば思ひ出すほど恐ろしい三陸地方の大津浪がありました、其の夜は、今にも家がつぶれさうに思はれる大地震でした。翌朝は磯に大津浪がありました。私たちがまだねてゐた時、半鐘がヂヤンヂアンと恐ろしくなりましたので、おどろいてとびおき、えんがはに出て見ると、消防の人がいそがしさうに走つて行きます。
すると、をばさんが來て、「夕の地震で、家がつぶれ、爐に火がのこつてゐて、火事にでもなつたのだらう。」等と、話してゐたところに、をばさんの家の、ひろしさんが來たので、「火事だつて」と聞くと、「磯の津浪だ。」と言ひ棄てて、自轉車に飛び乘ると、あはてて走つて行きました。しばらくして、ひろしさんが歸つて來て、「磯はたいした騒ぎだ。をぢさんの家は幸ひ無事だつた。」と、語りました。おばあさんはこれを聞いて、「やれやれ一安心」と申されました。學校に行つて見ますと、皆んな、津浪の話で夢中でした。校長先生のお話によると、磯ではたいした損害ださうです。ある所では、馬の脚がおられたり、家が潰されたり、神棚や戸棚が倒されたり、人々の泣き叫ぶ聲が方々から聞えて、本當にかはいさうだつたとの事でした。私達の仲間から色々のものを奪つて行つたあの大波、私は海に行く度にあの三月三日を思ひ出し、恐ろしさに身顫ひいたします。
○津浪
亘理郡坂元村坂元小學校 尋五 齋藤やいこ
私は、おばあさんの家に泊りました。其の夜は大地震が搖れました。私は驚いて、着物を手早く着るなり直ぐおばあさんを起しましたが、おばあさんはなかなか目を覺されませんでした。その内に、東の方からなんだか恐ろしい音がして來ました。私は津浪になるとは少しも考へてゐなかつたので、柱によりかかつてゐました。すると、おばあさんのところの長屋が潰れかかりました。そこへ水が一ぱいはいり込んで來ましたので、又、おばあさんを搖り起しましたが、まだ日を覺されません。今度は、室に眠つてゐる人達を起さうと思つて、室の内にはいつて行きましたら、そのとたん、雨戸がガタガタと凄い物音をたててはづれて了ひました。その時おばあさんの頭の近くに、戸が倒れました。おばあさんは、驚いて目を覺し、起き出さうとしましたがなかなかおきられないで、困つて居られるのを見て、足を引つぱつて起して上げました。
夜明頃になつてから、外へ出て見ますと、海邊にゐた舟は、おばあさんの前の土手に流れて來て居りました。私は今度は家の事を思ひ出して、家に行かうと思ひ、出かけて見ますと、水が出た爲、舟に乘らないと向ふ側に行く事が出來ませんでした、幸ひにも、直ぐ舟を見つけ出し、それに乘つて、おばあさんと私と二人で行きました。舟はなかなか家へとどきませんでした。私は舟から下りて、今度は舟を押しながら家に行きました、家の人々は未だ眠つてゐたので、大聲で起して、おかあさんや姉さんを舟に乘せ、おばあさんの家に戻りました。歸つて見ますと、おばあさんの家の小さい子が、「寒い!」と言つて泣いてゐましたので、私は火を焚いてあててやらうと思ひ、「ごんど(芥屑)」を子に抱へて來て火を點けようとしましたら、おばあさんが泣いてゐましたので、私は不思議に思ひ、「おばあさん、なにして(どうして)泣くの。」とたづねましたら、おばあさんは、「味贈から何から、皆流されて了つたんだよ。」と悲しさうに申されましたので、私は、「なに、味噌や何やよりも、命をなくさなかつたからいいでせう。」と、言ひました。
○津浪
亘理郡坂元村坂元小學校 高一 高橋すい子
「ハツ」として飛び起きた。其の場の光景、側に寝てゐた姉さん達は、着物を忙がしさうに着てゐる。家はギーギーと物凄く鳴る。電燈は左右に大きく搖れてゐる。私は足がブルブルと慄へて齒の根も合はなかつた。私は坐つて着物を着、足袋をはいた。母は雨戸を開けた。小さい子が急に泣き出した。姉さんは小さい子を背負ひ、いざといふ時の逃げ仕度をした。母はこはがる孫に、「こはくはないからぢつとしておいでよ。」と、宥めて居られた。
私は家が潰れるのではないかと思つて、柱にしつかり掴まつてゐた。と、だんだん震動が弱まつて來て、やがて止んだ。
姉が、「私は前から知つてゐたけど、皆んなが起きないので、こはかつたが、我慢してゐたの。」と言へば、母は母で亦、「私も知つてゐたが、こんなに強くならないだらうと思つて、起きないでゐたのだよ。」等と、皆んな話をしてゐるが、私は話をする事も出來なかつた。時々搖り返しが來た。其の度毎に、私が逃げ腰になるので、皆んなに笑はれた。しばらくすると、其所此所の半鐘が一齊になり出した。私は之を耳にして火事だらうかナと思ひながら、履物を履くなり、一氣に、「おたて(御舘-舊藩時代小名の造營した舘跡で、相當の高臺となつてゐる。)」に上つた。續いて母が上つて來られた。「おたて」から村を見下したが、火事らしい所も別に眼にうつらなかつた。母が恐る恐る、「確、津浪に違ひない。」と言つたので、海の方をズウーツと見渡すと、海岸は、もうもうと、恐ろしく一面に重吹が上つてゐるのが見えた。其の内に、附近の大々も上つて來て、母と色々話をしてゐた。津浪に遭つた濱の友達は、今頃、着物はぬれて、此の寒さに慄へてゐるのではないかと、沖を見つめて、其の事を考へてゐると、やつと止つた足の戰慄がまた始つて來た。學校へ行つて見ると、磯と中濱との人達は殆ど來なかつた。次の日も學校へ來なかつた。私はほんとうに氣の毒でならなかつた。やつと、三日目からボツボツ來始めた。そしてその事情を聞いたら、大抵は海水に入つた人々であつた。二、三歳の子供までも海水に入つて、水を呑んでゐたさうである。大人ですら。水に流されて、松の木に掴つてゐた人があつたとも聞いた。
私は、あの恐ろしかつた津浪を、一生忘れる事は出來ません。
○津浪の感想
亘理郡坂元村坂元小學校 高二 齋藤ももよ
去る三月三日の午前二時半の事であつた。私達はつかれた體を休めて、氣持よく眠つてゐた。其の時、グラグラと今にも家をもりかへさうと言ふ勢で、地震が搖れ出した。私達は、はね起きた。起きた所で、どうすることも出來ず、又蒲團の中にもぐり込んだ。すると、さきにもまして大きく搖れた。私は恐ろしくなつて、口をきくにもブルブル慄へるばかりであつた。
私達は、うらざ(蔭座敷)」に寝てゐたので、裏の戸をすつかり開け放して地震の止るのを待つてゐた。三十分程過ぎて、地震は仕方なささうに止つたが、私は又おこるのではないかと思つたので、眠られなかつた。うとうとしてゐる内に、何時の間にか眠つて了つた。それから一時間も過ぎたかと思はれた時、けたたましい半鐘の音が聞え出した。私は火事だと思つて、地震の時よりは驚かなかつた。すると、間もなく、「磯濱が津浪だ津浪だ。」と、誰やらの呼ばはる聲が聞えた。その内に、だんだん半鐘は強く烈しく早くなり出した。消防組の人達が走つて行く、俵を集めて歩く。今度は寝る所の騒ぎではなくなつた。私達の郷土磯濱に津浪が上つたといふので又驚いた。友達の家はどうなつたであらう、家などは流されたのではなからうかと思つて、其ればかり騒いでゐたので、父に、「この馬鹿ツ!」と叱られて、びつくりして我にかへつた。東の空が白むにつれて、津浪も弱まつたので、やつと安心したが、心を落ち着けてゐる事が出來なかつた。明るくなつてから自分の身體を視ると、私は着物を裏返しに着てゐたので、皆んなに笑はれた。でも、いくら笑はれても、其の日に限つて、少しも恥しく感じられなかつた。
○津浪
本吉郡鹿折村鹿折小學校 尋六 小林とくの
外へとび出した私達は、あんなに強かつた地農もやんだので、ホツとして床に入りました。けれども、胸がトカトカしてとてもねむれさうもありませんでした。
と、それこそ、何か大きな物のハレツするやうな音がして、やがて強い風のやうな音が、夜中の空氣をひどくかきみだすかのやうに、ドオーツと、無氣味に聞えました。
お母さんは寝卷のすそを引いて、外をのぞきに立ちました。
戸を開けるや、「津浪だあ!」と鋭く叫んで、床にかけもどるなり、小さな妹を小わきにかかへて、今開けた戸口へ御逃になるのではありませんか。私も妹も夢中で後に從ひました。一歩縁側へ足をふみ出した時、何と荒れ狂つた浪は、まつくらな中を、白い牙をむき出して押し寄せて來るではありませんか。私達は思はず後ずさりしました。一寸の間もありませんでした。雨戸の倒れる音-あのすさまじい音は、今思ひ出しても、ゾツとします。
何だかかうヒヤリとして、足が浮いたナと思つた瞬間、私のからだはもう家の中を流されてゐたのでした。何かに頭を打ちつけました。妹のかん高い聲と、お母さんのうなるやうな聲とが二度ばかり、あとは唯浪の音だけでした。強い強いすさまじい音だけでした。
家の中をグルグル流されては沈み、又流されて、それが四、五回もくりかへされたと思つたきり、後は何もわからなくなつて了つたのでした。
私は、氣のついた時には、からだの節々がまるでキリでつかれるやうに痛むのを覺えました。足の先も、手の先も、冷さの爲に、自分のからだではないやうな感じでした。それでも、しつかりと倒れかけた柱にしがみついてゐました。
ひつくりかへつたタンス、壁のおちた所にひつかかつて、中の綿の見えるフトン、それ等は遠いところのものでもあるかのやうに、私の眼にはぼんやりと(霞んで朧にとの意)うつるのでした。
夜が明けるにつれて、外の人聲がまして來ました。でも私のからだは妙に、かうガタガタワクワクと慄へるばかりでした。
お母さんはと思つて、ズーツと見渡すと、お母さんは押入の下に倒れア居られ、妹は押入の中で泣いてゐるのでした。私達親子は唯無言のまま、よその人達が見舞に來て下さつた時まで、抱き合つて泣いたのでした。
ああ三月三日、私は永久にあの怖しかつた日を忘れる事が出來ません。
○津浪
本吉郡鹿折小學校 高二 畠山あや
今年の三月三日夜二時頃大地震がおそつて來ました。びつくりして目をさますと、ずゐぶんゆれる地震でした。この大地震があつてから三十分位たち、震動が少し靜まつた頃、海の方から大砲の音に似た地鳴が聞え、海上に稻妻の樣な光がきらめきました。すると、海の水がスーツと減りました。其の時お父さんが、「おや變だぞ。」と、言ふと見る間に、突然小山の樣に高い波がおしよせて來たので、「それ津浪だ、にげろ。」と、さけんで、皆一せいに逃げました。逃げる途中、舟のこはれる音や 波の色々な物にあたる音が烈しく聞えます。私は山の上に居つて、家が流されなければよいがと、心配でなりませんでした。皆んなが山の上で、ブルブルふるへて居るので、寒いのだらうと思つて、お父さんが、のりほしばをこはして、火を焚いてあてました。みんなよろこんであたりました。夜があけてから家に行つて見ると、かなり高い家の土間まで水が
入つてゐました。私の家は、少し高い所にあつたのが、不幸中の幸でした。
○津浪
本吉郡鹿折村鹿折小學校 高二 小林よしみ
私は、生れてからあんな恐ろしいめに遭つた事は、初めてです。昭和八年三月三日の夜明け時分でした。私は、晝の疲れで、ぐつすり寝込んでゐましたが、ふと目を覺して見ると、私の寝てゐた側にある戸が、ガタガタ、ビシビシ、ガタガタビシビシと、物凄く搖れてゐるので、私はたんまげて(びつくり仰天して)跳ね起きました。家はミシミシミシミシと右に左に搖れてゐて、今にもそつくりそのまま倒れて了ふのではないかと思はれる程でありました。おかあさんや、甥達や、兄さんまで、皆んな青くなつて、縁側に出てゐるのでした。私も急いで外へ出ました。ところが、姉さんはまだ起きてゐませんでした。兄さんは、「これあ、起きねあのかあ(こら、起きないのか)。」と言ひますと、姉さんは青くなつて起きて來ました。地震もだんだん靜まつて來て、その後やつと止みました。皆んなは、「おお長かつた。」等言ひながら、又、床の中にもぐり込みました。床の中に入つてゐても、何んだか搖れてゐる樣な氣がしました。それからしばらくたつと、家の庭から聲がした。「津浪だ、津浪だあー。」と言ふ聲がしました。家のおかあさんは、「何、火事だつて。」と言つたが、とび起きると、「ううん、津浪だあ。」と言はれました。私も起きて行つて見ると、それは、私の家の下の、今年六年生になる、とくのさんの叫び聲でした。おかあさんは、「これあ、津浪だつあ(津浪だよ)、皆起きろ。」と言ふと、兄さんは、見に出て行くばかりに仕度をして起きて來て、出て行きました。とくのさんは、雪の上を履物も履かず、素足のまま縁側に上つて、「ああ、つみてあ、ああ、つみてあ(ああ冷い、ああ冷い)」と言つて、泣きさうになつてゐました。おかあさんは、「火を燃やしてあてろ(火を焚いてあててやれ)。」と言はれたので、私は火をどんどん焚いて、身體を温めてやりました。すると、下の家の人達は、皆んな眞青な顔をして、火にあたりに、上つて來ました。電燈はすつかり消えて眞暗なので、私は提灯を點けました。その内に、男の人達は皆んな出て行つたので、私達、女ばかりで火にあたつてゐますと、後の家の人が來て、「だれも男どあいねあのが(誰も男は居ないのか)。」と言つたので、「はい、何してさあ(どうしてですか)。」と言ふと、「何してもかにしてもあるものがはな(どうしても、かうしても、あるものかい)。この家見えねあし(見えないし)、おぢんつあん(おぢいさん)と、もらつたあんこど(養嗣子と)、よめさんどゐねえ。」と言ふと、皆んなは、たんまげて(びつくり仰天して)、捜しに出て行きました。次第に夜も明けて來ましたので、私も外へ出て見ましたら、未だ浸水は引きさうもありませんでした。津浪の爲に學校を休んで居ましたら、見舞人が大勢來て下さいました。私の家は、幸にも高臺にありましたので、被害はありませんでした。
○津浪
本吉郡鹿折村鹿折小學校 高二 尾形一夫
私は地震の震動に目が覺めた。弟は驚いて泣き出した。電燈は消えたが、私は、何、直ぐ點く位に呑氣に構へてゐた。母は中の間(中座敷)の戸を開けて、手早く着物を着た。父も着た。私はそれでも起きないで居た。間もなく地震は止んだ。しばらくすると、海岸の方で、人々の騒ぐ聲が聞えた。家では、津浪が來なければよいが等と、種々話をしてゐた。すると間もなく、二回、不思議な音がした。それと殆ど同時位に、漁舟の機械の回轉する音がした。租父や耐母は、「今んな、あの舟の音だかもしやねえー(今のは、あの舟の音だかも知れない)。」等と語つてゐた。すると、程なく波の物凄い音、それと同時に、「津浪だあ!」と、分家のお父さんが叫んだ。私達は直ぐ跳ね起きた。戸外を見ると、雪が少し降つて居た。私は燈を點けて外に出ようとすると、「危いから、家の中に居ろ!」と、父に鋭く言はれたので、私は仕方なく、家に火を燃して居た。避難する人々の、驚き騒ぐ聲、波の音、そして入り亂れて、「あれえ!」、「危い!」等言ふ叫び聲、私は其の樣子が見たくてたまらなかつたが、父に叱られた手前、それも出來ず、依然家の中にゐた。少し明るくなつた頃、浪のひけ時を窺つて、松はなに行つて見た。間もなく、舟に乘つてゐた人が、「出たあ出たあ。」と言ふので、私は「ハツ」と思つて眺めると、見えた見えた、潮が見る見るうちにかうグウーツとまくれ上り、無氣味なうねりを見せて、物凄く岸邊に襲來して來るのを鮮かに見てとる事が出來たのであつた。私は咄嗟に身を飜し、高所に上つて避難した。と、見るうちに、今度はひけるひける、急流の様に、強く早くグツグウーとひけるのであつた。私はこのあまりにも物凄い光景に、内心恐しくなつて、我が家に歸る途中、又、浪に襲はれた。友達の清志君と鶴藏君とは、向ひの山に上つて避難した。私は、全く度膽を拔かれて、又、母の注意もあつたので、山を迂回して家に歸つた。家に着いて見ると、家は、親類、縁故の避難者で一はいであつた。
○津浪雜感
本吉郡歌津村名足小學校訓導 梶原良雄
避難の事どもに就て一般にかうした方面には無頓着であり、常識がなく、常平生こんな事は一向心してゐない。機敏に何の時はどんな風に、何の時はどこへ避難するとか、防ぐとか何とか少しも計畫的でない。だから唐突の災禍にぶつかるとまごついてしまふのだ。
中には小ずるくて、何時も自分の身がまへのみに專心する者もある。外の場合は別として、津浪には全く一瞬の餘裕もない。
今回の災禍にも、多くは慾にひきずられて生命を失つたと稱される向も少くない。
また、直ぐ海岸の堤防の上に住んでゐた人達が、却つて速く避難して無事を得てゐる。これは常に普通の浪や嵐の時にも警戒し、心の配りが違つてゐた證據だ。油斷大敵で、不斷確つかりした覺悟と方法とを立てて置かねばならぬ。二十九年の場合から考へても、無暗と山の頂上に陣取つたが、非常の場合に困つてむざむざ手をつかねた實例は澤山ある。大正二年の山火事の如きそれを如賓に物語つてゐる。今度も確かそれがある。水に攻められ、火に攻められ、また水に攻められ、餘程反省し、考慮の上の樣だが、餘程位置を選定、工夫しなければならない。殊に生業の關係を慮つて計畫する樣主だつた方々が夫々斡旋してゐるが、結構な事だ。又次の事項についても相當考へねばならぬ。
(一)非常持出袋とか、トランク樣の簡單に持出す事の出來るものの用意がないし、行李、籠の如きも、名前も記してなければ、綱もかけてゐないため、紛失したり、互に奪ひ合つたりしたのである。
(二)家の構造に非常口がない。殊に奥座敷は開きもなく、多くは倉庫をかねて居り、また家の後側は、殆ど壁にぬりつぶされてゐたり、家の周圍を薪木でかこんであつたり、肥料溜にしておいたり、自分で自分達の活動を縛つてしまつてゐる。
そのため逃げおくれた者が隨分とある樣だ。
(三)家族に統一的な訓練をつけておくこと-兼ねて非常の場合には、老人は誰か世話をするとか、子供達は誰と誰とが方向は何の時は何處とか、重要書類は誰がどうするとか、豫め夫々分擔しておく必要がある。
(四)家具等の改良を要すべき點も、一々擧げるまでもなく澤山ある。
(五)常に寝卷「寝衣裳」の上にゆるく帶をしてゐるといふ樣な用心は、都會人と違つて殆んどない。從つて、非常用の燈火の用意も、履物の用意もない。殊に大切な足袋などについては一向關心がない。
災害後の結婚問題
結婚問題と言つても、主として再婚の意味である。これが今更ら申すまでもなく、一家、一村で言へば大きくなるか小さくなるか、盛衰にかかはるる甚大な事は、明治廿九年の災禍による當村の結婚状態の調査によつて實に驚くべき事が澤山ある。
當時は「流し網」と稱する漁に出船中の男子が多く生殘り、其の他は大部分一夜にして不歸の客となつた。從つて浦島太郎の如き者が多かつたといふ。この樣に一家殆んど全滅の慘たるものの多かりしため、女子著しく減じ、到底村内にては補充困難の状態となつた。此の機に乘じ、所謂結婚請負者が續出、一人で一日に五人も八人も引つ張つて來る。そうしては炊事、裁縫萬端困じ果てて居るところへ話をつけ、直ちに押しつける。一日に婚禮が十組も十五組もあつたといふ事だ(勿論大それた儀式も振舞もないが)。
これがため劣生の生が多數創造されそのおかげがとんだ結果となつた。一家揃つて不具者となつたもの、貧困の極に泣く今日の境遇にあるもの、其の他數へあぐれば各種各樣の話題になるものが澤山ある。これ等の多くは、山手の餘り者で、眼病、悪性梅毒、飲酒家其の他血統不良の者で、今其の子孫に罪なき罪が負はされてゐるのは實に氣の毒千萬である。昔親船までかけてはびこつた大家が、アイヌの山屋よりもひどい住居をして辛うじて煙を上げてゐるものもある。二十九年に比較すれば、大した心配はないが、兎に角充分心すべき問題である。
○津浪遭難雜記
本吉郡鹿折村鹿打小學校訓導 佐藤祐
三月三日の夜は明けはなれた。
一晩中、津浪と寒氣とにさいなまれた人々は、待ち焦れた曉の光の下に、自分等の住んで居る地上を見下ろした時、其の慘澹たる光景に、再びまざまざと津浪の恐ろしさに身ぶるひした。地上はすつかり泥水だ。小屋が倒れてゐる。船が山岸まで打ち上げられてゐる。家には皆浸水した。
恐る恐る山を下りて、家に入つて見ると、屋内は泥だらけだ。魚がそこここに死んで居る。
其の時隣部落の家が、一軒流失して、家族四人が行方不明である。僕は驚いて他の教師達と共に山を越えて急行した。
山を越えて隣部落の鶴岡灣に出た時、僕等は呆然とした。
屋敷跡には、部落の人々が悲痛な顔をして立つて居た。そして其の人々に、一家四名行方不明のこと及び其の中の一人は、二年生の、とし子であると言ふ事實も聞かされた。僕等の眼前には、昨月まで快活に學校に來た、丸ぼちやな、とし子の顔があざやかに浮んで來た。
僕達はその日、本校の教師達と兒童の家庭訪問をして、他に異状のないのを確め、夫れを學校に報告すると共に、氣仙沼に行つて、郷里に電報を出した。
町の要所要所には、新聞社の號外がべたべたとはられて居る。人々の心は皆重壓を感じた。この時早くも罹災地の上空を翔ける飛行機の勇姿-僕は無精に嬉しい力強さを感じて空を仰いだ。
遭難後の第一夜が訪れた。部落民は、今夜も津浪が來るかも知れぬと言ふ恐怖から、山や丘に天幕や莚を張つて、避難所を造り、必要な炊事道具や蒲團を持つて野宿した。
其の光景は悲壮とも凄慘であつた。
翌日、行方不明の生徒の死體が上つたと言ふ通知を受けたので、燒香に赴いた。死體は、流失した屋敷跡に、菰をかぶせて寝かしてあつた。如何に死體とは言ひ、凍つた地面の上に寝かしておくのが可哀さうで、思はず涙が出た。
「また死人があがつた。」
突然、さう言ふ叫び聲が海からした。見ると、前の灣内を漕ぎ乍ら網で死體を探して居た人々が、冷い冬の海から、まるで材木の樣に硬直した丸裸の死體を十げた所だ。僕は。そのいたましい有樣を正視することが出來ず、目をそむけた。身うちを冷たいものが走つた。
歸途、何氣なく峠の上から氣仙沼灣を見下ろした時、そこにはいつの間にか軍艦が二隻、堂々たる姿を横たへて黒煙を吐いて居た。「軍艦だ!」と僕は叫んだ。
僕達は參觀を願つて見た。すると快く許された後嬉んで上艦した。
艦上は冬の海風が寒かつた。親切な水兵さんの説明で艦を見學した。この軍艦は昨日横須賀を出港して釜石町に急行、そこで救恤品を給與して、たつた今ここに入港したばかりだと言ふ。なる程、軍艦上には罐詰や、洋服や、毛布等が滿載されて居た。
僕達は其の迅速な救助振りに感激し乍ら、やがて軍艦を辭し、雪混りの風に外套の襟を立てて、安心した氣持で岸に漕ぎ戻つたのであつた。
第二節 滿洲國公主嶺公學校兒童の震嘯災見舞状
突如、「三陸地方」に大震嘯襲來して、隨所に展開せられたる幾多の悲慘なる情報は、友朋滿洲帝國公主嶺公學校兒童等の童心に、痛く衝動を與へしものの如く、衷心より友朋國の悲慘事を痛むと共に、その復興の一日も速ならん事を切望して止まざる同校兒童等の見舞状は、多數、當該縣宛送付せられ、災害の■に立ち、ともすれば、拱手茫然がちなりし罹災民りて、男々しくも復興へと一路邁進せしめしところ頗る大なり。
ここに、同校兒童等の純眞溢るる見舞状を掲記し、些か謝意を表することとせん。
滿洲國公主嶺公學校 初級第一學年 滕凌雲
私は新聞の上で、貴方の地震の事を見ました。大變意外の事でした。私は毎日心配してゐます。あなたはどうぞ安心して下さい。私は貴方の國へ行くことが出來ません。それで手紙を書いて慰問します。どうぞ元氣でゐて下さい。皆さんさよなら
同 初級第二學年 高潤清
近頃私は聞きました、あなたたちの縣に地震がありました。私は大變心配してゐます。
同 初級第三學年 張■英
コノアイダ、ワタクシタチハキキマシタ。アナタノトコロニ、ヂシンガアリマシタトオモヒマス。アナタタチハ、キツト、タイヘンコマリマス。ミナサンゲンキデスカ。
同 初級第三學年 鮑萬江
私達は聞きました。此の間あなたのところに地震がありました。あなた達は大變困ります。私達は心配してゐます。
同 初級第四學年 王麟盛
拜啓 貴國の岩手縣と宮城縣は地震の災難に出會つた事を聞きました。大層心配してゐます。私は貴國の方へ慰問に行きたいけれども、私達の方からは道は遠いし、行く事が出來ません。それから大變失禮てすが手紙で慰問します。
同 高級第一學年 呂長安
拜啓 私は先生から、「日本の東北一帶の地方に地震があつて、其所の人は、住む家も食べるご飯も着る衣服もなく、大變困つてゐます。」と言ふ話を聞きました。私はこの悲しい事を聞いて、大層不安です。私は日本にゆきたいと思ひます。併し道が遠いので行けません。それでどうぞお許し下さい。今、この手紙をかいて受難の皆樣を慰めます。
同 高級第二學年 黄献貴
拜啓 貴方の地方で大地震があつた事を聞きました。又、大津浪の災難の事も、新聞で見たり、先生からお話を聞いて、私共は何時も心配しました。私共は小さいですから、貴方の所に行つて御手傳も出來ません。手紙でお慰めいたします。失禮のところ、どうぞお許し下さい。
同 高級第二學年 劉福順
皆樣御機嫌よう御座います。此の間は、宮城縣地方に大地震や大津浪があつて、火災を起したり、水に流されたり、この被害の大きなことは、口にも筆にも表すことが出來ないと聞いてゐます。皆さんの御災難のことを思ふと、何とも御慰めの言葉もありません。謹んで御見舞の言葉を申しトげます。
同 高級第二學年 ■慶祥
拜啓 東北地方災難の事は、數日前から新聞で詳しく承知致しました。私はこの慘状を聞いてから、とても心配致しました。この手紙お受けになるお宅にも澤山の損害があつたことと思ひます。樂しかるべきこの世に、天變地災のあるため、思がけない悲慘事の起ることを、心から恨めしく思ひます。皆さん其の後の御安否は如何ですか。謹んで御見舞申し上げます。
同 高級第二學年 王水章
三月三日のお目出たい佳き日に、東北地方には大地震と大津浪があつたことを、先生からお聞きして本當に驚きました。
私は日本の皆さんも滿洲の私達も皆姉妹です。日本の姉さまたちが皆かなしい災難にあつて、お困りになつてゐることを思ふと、私は悲しくなります。家を流された方もありませう。皆さんのお友達や御兄弟の失くなつた不幸な方もありませう。
この寒空に家もなく食べるものもない悲しい悲しい皆さまの身の上を思ふと、私は悲しくなつて、自然に泪が流れて來ます。
私は女の身で、年が若いために、御地へ參りたくても行く事か出來ません。只手紙でお慰め、お見舞申し上げる外ございません。日本の姉さま達、皆さん、この心の中を思つて元氣を出して、立派に昔の樣になつて下さい。皆さまのご幸福の來るお便りをお待ちしてゐます。さよなら。
同 初級第三學年 李烈
我們聽見先生説保們邦裏起了地震我的心裏很是憂愁的就給保們一封信我想保們一定不得平安了我用什■法了也是不能中慰保們了只得損錢封帛助保了
同 初級第四學年 ■效寛
敬啓者頃聞貴國的岩手縣和宮城縣發生了地震災難受災的足有之三千多戸人民死傷無數很是困難我着到這裏我心裏覺得十分不安我恨不得立時就要倒貴國去着々但我心有餘而力不足道路太遠我們又是青年學生所以不能去便用一封信特來慰問慰問
同 高級第一學年 劉清
日本災民殿
前週我們學校的先生説日本地震了我聽見這個事情我們的心裏很困難得很可是我們到貴地方去着々所以道路太遠不能去所
以就一封來安慰罷了 大同二年三月十八日
同 高級第二學年 王春茄
災民前幾日叔人聞聽貴縣起了不幸的事情我們聽見這事毎日坐不能安睡世不能穏■念的了不得也不能前去安慰大家所以用一封信安慰安慰大家表示我的心意祝保們身體健康不必優慮
第五章 震嘯美談・哀話・奇談・實話及其の他
今次の震嘯災害に當り、罹災者に關する幾多の美談・哀話・奇談・實話は、微笑まるる人情美の發露あり、悲慘人目を蔽はしめ心なき蟲魚も泣かしむるものあり、奇蹟實に解し難きものある等、枚擧するに暇なし。依つて、次には、特に顯著なるもののみ掲ぐべし。
第一節 美談
(一)
十五濱村大津浪の際、隣接部落の慘禍を逸ち早く知つて救護に死力を盡し、偉大な功をたてた部落がある。それは同村大須部落水難救護組合で、組合長阿部善助氏外十三名の組合員は、津浪襲來と聞くや、激浪を衝いて救助船を下し、同村被害部落中最も慘害を極めた荒部落沖合に出動し、押流されて漂流中の部落民十三名を救助し、更に屍體三個を發見、直ちにこれを引き揚げ、安全の地帶に送り届け、手厚い取扱をなし、引續き波浪治まらないのに、危險を冒し、全組合員必死の勇を奮つて、漂流物の捜査やら死體捜査に出動し、同部落から小船五十艘(見積價格五千七百圓)を拾ひ上げ、一般から非常に感謝されて居る。因みに、大須部落は太平洋に面した荒磯地帶であつて、明治二十九年大海嘯の際、兩部落を一呑みにされたところ。其の後、部落民申合せて、全部高所に家屋を移轉建築したため、今度の慘害から完全に免れる事が出來たばかりか、隣部落の荒部落に急援して素晴しい活動をしたものである。
(二)
牡鹿郡大原村の宿屋業渥美寛太夫(五四)の次男寛君は、仙臺の野砲兵第二聯隊に在營中であつたが、今度生家は流失兩親とも遭難して死んだ。殘つたのが幼い弟妹三人きりなので、親戚でも早速悲報を知らせ、「是非臨時歸休を願つて歸れ。」といつてやつたが、同君は折返し、「若し満洲へでも行つてゐたら、國家の干城で、家族の不幸に戰場から飛んで歸れるか、皇軍に捧げた身體だから、兩親の死は悲しいが、仕方がない。」と健氣な返事に、親類も感に打たれて遺族の世話に心を碎いた。之を傳へ聞いた、同君所屬部隊の隊長、大いに感激して、歸休を許したので、七日、やつと、災害地の生家に歸り、遺兒となつた弟や妹と涙の對面をしたといふ。
(三)
唐桑村大澤の伊藤平兵衛(四二)は、地震直後、急いで海岸に行つて見ると、既に一町歩ばかりの畠が浸水してゐるので驚いて逃げ歸らうとすると、水中に一枚の板にすがつて、救ひを求めてゐる村上親子(五〇及一三)を見つけ、暗夜を冒し我が身の危險も忘れて救助し、命の親と感謝された。
(四)
歌津村田ノ浦、三浦定雄君は、やはり海中を漂ふうち、これも半死半生で流れて來た「父と娘」-梶原雄三郎(五四)とみつえ(二五)を咄嗟の機智で付竿を差出し、兩名を救ひ上げた。同村から知事宛、表彰方を申請した。
(五)
登米郡淺水青年團員廿四名は、同本吉郡十三濱村へ、震災突發するや有ちに食料品をトラツクに滿載して馳けつけ、去る七日から三日間、勞力奉仕をしたと云ふので、大した評判だつた。
(六)
十三濱村相川は、前回の(明治廿九年の)大津浪に二百七十人の死者を出したのに今度は、タツタ一名丈で濟んだのは、同村の漁師阿部倉松(五六)さんが津浪を豫知して、逸ち早く部落民に知らせたためで、今更乍ら同部落民は命の恩人と感謝してゐる。
(七)
唐桑村只越部落の境十五番地藤田長次君は、地震あるや、海嘯の來襲を豫想して、鎌と提灯とを持參し、被害地帶に至つた。泣叫ぶ聲を聞きつけて、屋根の下に壓死しようとしてゐる、吉田慶吉(二八)と、其の母クラ(五九)の二名を救助したが、クラは三時間後には死亡し、慶吉は氣仙沼公立病院に入院後十日間で死亡した。
又、藤田君は、葉柴留藏の娘リヵ(三八)の死體の收容をなし、檢視を經て埋葬するなど、部落民の爲盡すところ不尠ざる功績があつた。(以上各新聞による)
第二節 哀話
(一)
本吉郡階上村松の下海岸では、家屋倒壞の下敷となつた、佐藤すぎ(七〇)は無慘な壓死を遂げた。其の現場は、大地震の猛威に蹂躙されたその家敷は慘澹たる光景である。庭一面には家財道具、壁土、瓦などが散亂し、その間にまじつて、大浪と共に押しよせて來たものであらう、二三尾の魚が鱗を光らしてヨチヨチと動いてゐるのである。
孫の森治君は倒れた家の下に横たはる祖母の死體を指しながら暗然として語る。
最初大きな地震があつたので、飛び起ると、家中がミリミリと無氣味な音をたててゐた。間もなく海水が家一杯に入り込み、戸障子がはづれ、續いて屋根が落ちて來たのです。思はず老祖母を助けようとしたが、もう其の時は崩れ落ちる壁や瓦にさへぎられて、とうとう助け出す事は出來なかつたーと。(三月三日東京日日新聞)
(二)
十三濱村相川部落唯一の行方不明者たる阿部重五郎(八)の死體は、災害後も永く見當らなかつた。丁度死體發見の當日、父親なる重太郎は、平常の性癖にも似ず、連りに釣漁したい氣分に驅られ、沖合約四、五百米許りの金比羅崎迄船を漕いで、釣糸を垂れた。と不思議や、其の釣糸の端に、片時も忘れる事が出來なかつた愛兒の着衣がかかつた。大津浪後實に百數日を經過し、愛兒の死體を、奇しくも父親自らの手に依つて發見したのであつた。
(三)
十三濱村小指濱の阿部作兵衛方では、不幸があり、家族、親戚、知人が通夜してゐた。さうして家ごと大浪にさらはれて、家は六十間後方の山に突き當つて、バラバラに崩れ、阿部方の家族四人壓死して、弔ひの死人は、棺桶だけ殘して、死人は行方不明となつて仕舞つた。(三月七日東京日日新聞)
(四)
歌津村中山部落の阿部忠二郎(三三)一家族五人、家諸共押流され、互に名を呼び合ふうち、岩に衝突、三名もあの世にやつた。妻みさほ(二六)を屋根の上に救ひ上げたが、じゆばん一枚の妻は危く凍死せんとしてゐるので、自分の着衣を脱いで着せ、屋根ぶきわらを束ねて體をおほひ、四時間漂流の後、やつと「照榮丸」に救助された。
(五)
一部落全滅に瀕した唐桑村只越の吉田丑五郎(五〇)の家族九名は、長男廣吉が足腰立たぬ母くら(五二)を背負つて逃げだしたが、浪に呑まれてしまひ、家族も家屋と共に流され、天井の梁にしがみついたが激浪に振り落されるので、互ひに助け合ひ、嫁みよし(二五)は妊娠六ケ月の身重に愛兒の一人を背に、一入を抱へ、その上、乳呑兒を口にくはへて、激浪と戰ひながら、梁にブラ下ること約五時間、夜明けに岸に泳ぎついたが、最後までわが子を護つたみよしの、神業にも等しい愛の力も哀れ空しく、二人の手供は死んでゐた。病母を背負つた慶吉も、夜近く板の上で九分通り死にかかつてゐるところを、同部落藤田長治(五瓦)に救助されたが、咳をしても砂を吐く程水泥を呑んでゐた。早速氣仙沼病院に入院したが、其の時は、既に、生命危篤であつた。
(六)
同じ部落の橋場芳吉(四二)方では、十五才になる娘が幼兒を背負つて、逸早く山へ迷げたが、芳吉夫婦と長男登(六)、祖父留藏の四名は家諸共行方不明となつた。生後三ケ月の乳呑子を背負つた娘は、父母や弟の名を呼んで海岸を歩いては泣き、歩いては泣く其の姿には、部落民も思はず泣かせられたといふ。
(七)
唐桑村小鯖の工藤新吉(四五)は、商用を果して歸つて見ると、妻はつを始め、五才と三才の我子が、家諸共に津浪に呑まれてゐるので發狂して了つた。
(八)
津浪にさらはれて、一旦溺死したが、奇蹟的にも蘇生した大原村鮫ノ浦の阿部とめ(七七)婆さんは、醫者の手當を受けて當時ピンピンしてゐたが、矢張り年のせゐと衰弱とで、二日目の去る五日、今度は本當にあの世へ行つて了つた。
(九)
唐桑村只越部落の人達、グラグラッとあの大搖れに、夜更の夢を破られたが、いつとはなしに聞かされてゐた古老の言葉がピンと頭に來て、その後に襲ひ來る恐しいものを豫期して、一同逃げ始めたが、部落切つての素封家の與七爺さんは、地震直後濱邊まで出て見て大丈夫と思つたか一人家に戻り重要書類や、シコタマ現ナマを持つて逃げんとするところを、ドドツと來た大津浪に呑まれておだ佛。黄金と心中した譯である。
(十)
亘理郡坂元村では大津浪で瀕死の重傷を負つた飯塚まさゑ(二三)は、隣縣の福島の新地村から先達つて、お嫁に來たばかりのホヤホヤ。新婚の夢まどかな深更、一丈餘りの津浪に、新郎と共に、松の木にしがみついてゐたが、漁船がつき當り、松の木が折れて、船の間にはまり重傷。又、姉の嫁入りに實家からついて來た、とみ子(一四)も共に重傷を負ふたのは、よくよくの因果だと村人達は氣の毒がつてゐる。
(十一)
歌津村中山部落の阿部忠次郎君夫婦は、家諸共沖合に引き出された。必死に兩人は、屋根草をぬいて、其の上にはひ上り體にまとひ夜明を待つた。やがて夜は明け初めた。流れて來た竹竿を拾ひ、それに衣類の端を結びつけてマテ(信號)を上げ救ひを求めてゐた。ところが、同君の家に飼はれてゐた豚が、一所に流されて來てゐて、しきりに豚は主人公の方にはひ上らうとする。爲に兩人の生命は危くなる。止むなく豚と縁を切り、海に放し、辛うじて屋根にしがみつきながら、マテを上げて救ひを待つてゐた。幸ひ信號が發見されて、無事に兩人共救助された。
(十二)
「津浪だ!」といふ一聲に、家族一同思ひ思ひの方向に飛び出した。その時、足の不自由な老婆が一人端座して動かない。
この老婆は、舊仙臺藩の但木家から、歌津村田ノ浦區の梶原甚兵衛氏の養母として迎へられた、きくゑさんである。夫は十數年前故人となり、實子なく孫の養育に專心してゐる。甚兵衛氏は幼女を一人抱き、長男の安壽君と共に、老婆を背負はんとしてしきりに促した。老婆は、「自分は、どうせ避難しても駄目だ、早くにげろ、家の中に居れば死體ばかりも發見が早い。逃げろ逃げろ‥‥。」とせき立て、どうしても動かない。もう浪は刻々近づいて來る、二人は、心ならずも、止むなく老婆を一人殘して避難した。
勿論脊負つて馳け出しては、途中小川の土橋を突き切らぬ内にさらはれたに違ひないと、安壽君が話してゐるが、橋を渡り切る踵に浪がかかる、橋が流されるといふ文字通り間一髪のところ夢中に高所を目ざして逃げおほせた。場所は三浦東右衛門氏宅の後山、焚火により家族は互に無事を語り合つた。然し一人殘して來た老婆と他に漁船に乘込んでる二男、家から飛び出した尋常六年の男の兒の三人は全く此の世に無いものと、生き殘つた七人が悲しく焚火に暖をとつてゐたのだ。
一方老婆は、神棚と佛壇の下に端坐合掌、「私も御一所させて頂きます。」と、神佛に祈りつつ押し流された。
ミリミリビシビシ、光る、鳴る、波頭が白い、光る‥一時夢中‥、氣がついて見れば屋根の隙間から明りがさし込んでゐる。衣服も敷布もぬれてゐない。體をさすつて見たが傷もない。何處に流されたのかは勿論不明だ。兎に角、不思議に生命拾ひをした。これも皆、神佛のお蔭と、思はず手を合せ救ひの手の一刻も早く至ることを念じてゐる。と、間もなく二、三人の人聲を耳にした。これこそ孫の安壽君と三浦貞雄君の兩名である。何としても一人殘して逃げて來た事に氣がとがめて、居ても立つても居られぬので、貞雄君の應援を求め、引き續き襲ふ浪を避けつつ家屋倒潰の平地を探し廻つた結果、眞心が通じ、奇蹟的にも微傷さへ負はずに生命拾ひをした。二人の弟も幸ひ無事、一家十名が不思議に全部生き殘つた隣家に、一家十各死亡のところがあるが、實に何といふ皮肉な事實だらう。この老婆の沈着、家族の孝養に對しては部落民等しく非常に感銘してゐる。(以上各新聞による。)
第三節 奇談
(一)
一家九名の家族中七名を奪はれ奇蹟的に命拾ひした雄勝濱菓子商鈴木求(三三)君は語る、丁度津浪が襲來したと聞いたので、母ちよの(六五)は、この前の(明治二十九年)津浪の時は、屋外に逃げたものは皆死んだから二階に上れといふので、私共も二階に上つて居たが、水は二階の上までぐんぐん浸水して、家諸共海中に流れ出し、浪の間に間に漂ひながら助けを求めました。その内に弟の武志(二二)は屋根の上に匍ひ上り、「兄貴しつかりしろ。」と、叫ぶのですが、老母や女房、幼い子供等迄が私の腰にすがるので、その儘死ぬのかと覺悟を極めて居ると、屋根の上から弟が、屋根板を破壞しここから上れといふ。私が先に屋根に匍ひ上ると、家は其一瞬間、其儘グウーツと、激しい水の流れに持ち去られました。私共兄弟二人は、夢中になつて激浪を泳いで、穴岬にやつと泳ぎつき、助る事が出來たのでした-と。(三月五日河北新報)
(二)
雄勝濱の阿部某といふ人、一金拾圓也を名刺入れに置いたまま、家財と共に流された。せめてあの金でも持つてゐたらと悲觀してゐたところへ、隣の大原部落から、ソツクリ還された。名刺入れが大原海岸に漂着してゐたのを、子供が拾ひ、拾圓紙幣と一緒にあつた名刺から持主が判つて届け出たからであつた。
(三)
唐桑村小鯖の磯から一町位、二階建の店舖を持ち、雜貨商を營んでゐた及川傳吉さんの家族達は、津浪襲來を豫知して裏山に避難した。押し寄せる物凄い波、メリメリといふ響も波音に聞きとれた。(家は流されたのだ!)家族の顔を暗闇の中に見渡したが一同無事である。生命拾ひしたのは何よりだと思ひ直して、不安の夜が一刻も早く明けてくれればよいがと念じつつ、樹の下で夜を明かした。
波の退くのも待ち遠しく、山をかけ降り見渡せば、向ひの山の下に數軒家が殘つてゐるだけだ。自分達の家は跡形もなく何所かに吹き飛んでゐる。足を奪はれながら破片を飛び越え、部落内を一廻りに出かけた。一丁も歩いた頃、見覺えのある家が田圃の眞中にチヨコナンと据つてゐる。
ハテナ‥‥-秘密の家でも探るやうな心持で-近づいて見れば、正しく我が家の二階である。中に入つて見ると、疊も大してぬれてゐない、壁も大丈夫使用に堪へる。
五日、田圃の中から殘つた二階家を引張つて來て元の家跡に据ゑ付、早速前の雜貸商を開業といふスピード振りである。
傳吉さんの店先を通つただけでは流失した家とは思はれない。先づ被害地としては堂々たる店舖である。
「津浪の奴は隨分激しく暴れ廻る奴ですが、こんな惡戯もするのです。」と、臺所にする板圍の仕事から一休みした傳吉さんは、いと朗に語つた。
(四)
志津川町の高野奥太郎さん、津浪を豫期して警察にかけこんだが、てんで相手にされず、大憤慨して歸宅したが、胸の内は治まらぬ。と、半鐘の亂打である。「オヤ」と、思つて出て見ると、埋立地のたき火を、火事と見過つて警報と知れたが、御蔭で町民は津波の襲來に逸早く避難する事が出來た。怪我の功名といふところか。
(五)
唐桑村長で小鯖部落の漁元、吉川良之助氏の所有漁船、甚生丸(四〇)トンが、永い遠洋漁業を終へて小鯖に歸港し、磯近く船を着けてから廿日目の午前二時半頃、例の大地震に揺れ、船内に寝泊りしてゐる乘組漁夫五名、流石に經驗から來る鋭い直感で、避難行動を起すべく機關運轉に取りかかつた。漸く運轉し始めた處、突如船が左右に急角度で傾斜したので、吃驚した乘組員一同、甲板に馳せ上つて見ると海水一滴もなく、船は動かない。船は陸上に乘上げてゐたのだ。「津浪だ!」と、五名は異口同音に連呼して、船上から飛び降り裏山に走り込んだ。それから間もなくである。物凄い響きを伴つた大津浪‥‥
東の空が白々と明けかかり、押し寄せる津浪の餘波も、漸く鎭つて來かかつてゐる頃、濱邊に出て見ると、自分達のホテルである「甚生丸」が、海面から數尺ある石垣を乘り越え、恰も大洋の眞中に浮んでゐる樣に、船首を北に向けて、陸上に乘り上つてゐたのだ。木造船なので、舷側を調べたが、一向破損したところがない。梯子をかけて船内隅なく見廻つても、機關から船室何れも異状無しで一同大喜び。ところが、何せ海面まで數尺あるので、進水するのに、並大抵なことではない。この點で、ハタと行き惱みとなつたが、四十噸もある木造船が無瑕である、こんな例は他にそう澤山は無いと、進水に頭を捻りながらも喜んでゐる。
(六)
唐桑村字瀧濱部落海岸には、大津浪のため、高さ四尺餘、經六尺餘もあり、重さは量りやうもないが一千貫以上もあると思はれる巨岩が打ち上げられてゐる。表面は藻、海草類で白色を呈し、貝殻及び微生物の附着跡が確然としてゐる點から見て、同部落沖合の海底で微動だもせず横たはつてゐたものらしい。寄せては返す磯浪に足元を洗はれながら、文字通り渚に聳立してゐる巨岩を目のあたりにして、部落民は今更底知れぬ津浪の力に、新しい戰慄を感じてゐる。(寫眞六、被害參照)
第四節 實話及其の他
唐桑村字石濱區海産物業小野寺佐太雄君(二八)は、母親、弟妹、妻子等八人を山の樣な大きな浪に呑まれ、唯一人、後の小山に馳け上つたばかりに生き殘つた。
大津浪の當夜(二日夜)、十一時頃まで働いて床につくと、夜半にあの大地震です。自分は起きて、二階からおりて來た弟と二人で外に出て二十分ばかり沖を見たが、何の變りもなかつたので、再び引きかへし、床に入つて、地震のあとに來るといふ津浪に就て家族と話合つてゐた。五分間も立つたかと思ふと、ガラガラツといふ大音響、恰もトラツクの走る音のやうだつた。今頃何んだらうと、又起きて庭先きに出ると、先刻とはまた打つて變つて、暗闇の波の上に、大きな赤い火玉が乘り、そのあかりに白い波頭がきばをむいた樣にして押し寄せて來る。アツ、これは大變津浪々々と叫んで、家の側を逃げて後の小山にかけ登り、わが家を振りかへつて見た時は、わが家も、母も、子も、妻も、弟も、妹も姿を見せなかつた。みんなやられたナと思つた時は、急に全身の力が拔け、悲しみと涙とがわくばかりで、夜もあけ、八時頃となつた時、近所の者が海上に浮ぶわが家の屋根から母が首を出して、水浸しになつてゐると、教へて呉れたので、直ぐに救助して醫療を加へたが三週間目に亡くなつたのです。」と淋しく語つてゐた。
(二)
唐桑村只越の葉柴留藏一家は、只越海岸の浪打際、ポプラ樹の下にあつたが、津浪の爲流失、一家十名中、三人死亡した。
留藏氏は語る、家屋流失の際、屋根に上つたが、其の儘沖合に押流され、四、五時間も海中に漂ひ、午前九時頃、青年團の船に救助された。そして、屋根の上にあがつて以來、海汐に潤された寝卷は凍結して、最後までひざを折る事が出來なかつた-と。
○遭難記
本吉郡氣仙沼町木山豐吉所有「第二農丸」乘組 鈴木家治
昭和八年三月二日、此の日は久し振りで好天氣であつた。本船は鮪延繩を終へ、一同、船主の心からなる馳走に舌鼓を打つて、意氣も新に、氣仙沼港を後にしたのは正しく午後九時であつた。
晝の好天氣も、流石に夜となつては變り出し、丁度その頃は、薄墨色の重い空から粉々として降雪も見るのであつた。かうした不吉そのものの樣な暗夜を衝いて、本船は駈けりに駈けり、やがて目的地なる唐桑村小鯖に無事投錨したのはそれから一時間後であつた。
船員達も皆自宅に歸り、船に殘つたのは、私と玉川君との二人だけであつた。
何時もさうではあるが、船番として殘つた時は、殊の外重大な責任を感ずるもので、當夜も船内を整理、巡視して床に就いたのは十一時過ぎであつた。
私は、晝からの疲れで、何時もの樣に、間斷なく耳をうつ、遙か沖合の荒浪の怒號を、慈母のあの優しい子守歌とも聞いて、深い深い安らかな夢路に入つてから、それが幾時間後であつたかを知らない。
突然、メリメリバチーン、(エンヂンルーム入口の硝子戸の破壞する音)ドドーツザワザワツといふ恐しい波鳴り、異樣な叫び聲等々、-總べて、私は夢現に聞いて居たのであつた。
「オイ、津浪だ起きろツ。」と、玉川君の鋭い叫びに、思はずギヨツとして、甲板に躍り出た私は、鳴呼あの時の恐しい光景を到底筆や舌で表し盡す事は出來ない。
あの時、私達の船は、既に第一回目の引波の渦の眞只中に、グルグルツと烈しく卷き込まれ、他の船諸共、右へ、そして左へと、流れつつあつたのである。
ドドツと渦を卷いては、ギキツと船を囓み、メリメリと破壞してはザワザワツと崩れるその物凄さ、猛烈さ!それは、恰も、敵にあの無氣味な體で卷きつき、火焔の樣な舌をチヨロチヨロ吐いては、これでもかこれでもかと、キリリキリリ締め上る、執念深い蛇の仕業にも似てゐた。更に錯綜して聞える救助を求める叫び聲、そして生き樣として必死に■く其の姿の數々、正に生地獄の光景であつた。私は、あまりの物凄さに、しばし、目前に迫る危險も忘れて、唯茫然と眺めてゐた、「オィ、機械をかけて沖へ出るのだぞ!」と、烈しい玉川君の叫びに、私は、ハツと、我に返へり、「ヨーシ、出るぞ」と、返事をした。然し内心は-誠に御恥しい次第であるが-この時ばかりは、未だ甞て經驗した事のない不安で滿ち滿ちて居た事を告白しない譯にはゆかない。
尊敬する玉川君の腕前はかねがね信じて居たが、本船の機械は非常に磨滅して居たので、何時もスタートするに手間取るのであつた。
然し、あの時、さうした事を省る暇はなかつた。幸ひ、未だエンヂンが暖つてゐたので、思ひきつて勢よく始動を與へた。そしてエンヂンの回轉を得て、舵機を握つたのであつた。だが、チラと前方を見渡しに時、私の眼を射たものは、復又實に慘刻な有樣であつだのである。先程まで向ひの造船場に其の威樣を誇つてゐた「丁丸」も、今は既に、猛烈な浪の渦に卷き下され、私達の船首の前方に、はかなく横はつて居るではないか。そして、船中からは頻りに救助を求めて居るではないか。
だが、私達も唯二人だけである。その上、漁撈の業も終へた船なので、ロープも無かつた。それに、私達には、本船を安全地帶まで出さねばならぬ責任があつた。ルームの中では、玉川君が、頻りに叫ぶ。「早く出せ、何をしてゐるか」と。
私は、後髪を引かれる思ながらも、心を鬼にして、既に決心をきめた。
思ひ切つて、推進機を廻轉させようとした一刹那、エンヂシがバツタリ停止した。
今はこれ迄と、覺悟を定めたが、數分後には、周到な注意と、最善の凖備、優れた腕とに依つて、エンヂンは再び調子よく廻轉し始めた。
今は、私達の航路を妨げる何物もない。ほんとに私達の思ひの儘であつた。私達は、八拾五貫の大アンカーを引きながら港外の安全地帶に、無事避難する事が出來たのであつた。
○歌津村海嘯記
本吉郡歌津村名足小學校訓導 梶原良雄
(イ)當時の状况
前夜近所に危篤の病人あり、見舞旁旁看護に手傳ひ十一時半頃小雪そぼ降る中を歸宅、何事もなく就床。明日の幸福を希ひつつ深き眠に入りし三月三日の午前二時三十五分。俄然!起つた強震に飛び起きて戸外に出た。家族一同恐怖の中に異變の起らざるかを見定むるべく約十分も暗夜の四方を見渡してゐた。近所隣も戸外で互に話し合つて居た。
何等の異状もなかつたので、皆んな戸内に入り夫々床に就き、地震の後に來るべきものは何?ハツと頭と頭にひらめいたのは津浪である。然しここまでは大丈夫と思ひ、明治二十九年の海嘯の事など話しながらウツラウツラとしてゐる時だ。突然海岸から「津浪だ!」といふ一聲がした。
「それ、津浪だ、逃げろ。」と裏の非常口から雪にすべりながら馳け出した。幸ひにも萬一を慮つてはいてゐた足袋と手さげ電燈が非常に役立つた。
然し七十になる老父は中風で半身不隨、三人の幼兒あり、其の難儀は話に出來ない。辛うじて全部後の元屋敷の高所に避難した。
近所の者もここまで機敏ににげて來た。私は更に引き返して戸内に人り警戒、いざといふ場合は西側の「さつき山」にとびのかうとしてゐた。
その時打らつけた第一回目の魔の浪!ひびき、音光、恐怖!反射的にとびのいた。と、追つかけ第二の大浪が襲つて來た。
それと殆ど同時に、「先生、津浪だ」、「助けてけろ」、「先生、津浪、助けて」等といふ人聲がした。私は自分の身の安全な場所から電燈で照して見た。
亡者の如く凄慘な人間の姿が二つ目にうつつた。「あつ、待て。」と叫んでマツチをさぐつたが無い。再び危險を忘れ戸内に入りマツチを取出し玄關から飛び出て焚火の用意をした。あたり一面の雪に咄嗟に焚物が見つからぬ。家の後に積重ねてあつた炭俵に救はれて焚火したが、危く屋根を燒くところだつた。全身氷のぶらさがつたのが解けて來たので、着物を取りに戸内に入り手當り次第にかかへこんで來て見れば一人が居ない(阿部英治君)。他の一人(阿部竹之助君)が「勝ア聲したので助けに行つた。」といふ。私も直ぐ捜しに行つたが、庭先の石垣の下には大きな發動機船が打ち上げられ、一面魔の海だ。これは駄目だとあせつて居ると、「助けて」と二人(弟勝治君との二人)がぬれねずみ、はりねづみの姿で前の方からやつて來た。
「しつかりしろ、氣を丈夫に。」とはげましながら火にあぶり着替させた。弟の方はブルブルふるひ出し危險な状態なので家に入れ夜具をかけて、三人で夜具の上から押しつけてやつた。その中に浪も引け、火を便りに親子兄弟の安否を尋ねに來るものがあつた(前は小川橋なく山越に)。
牛乳、湯タンポ、味噌、粥、衣服、賣藥、其の他種々手を盡した甲斐あり、三名共救助の出來たのは幸ひであつた。
(この三人は打ち上けられた漁船の水夫、この外二名は運よく前方神社の御坂にとばされ生存、他の一名は遂に死亡)
夜が明けた。白日の下に照し出された慘たる光景は實に目もあてられぬ。道もない、橋もない。山越えして漸く平地(被害の最も甚しい所)の方へ向つた。一物もなくなつた夢の跡、親に別れ、子に先だたれ、泣くに涙なく、茫然としてゐる罹災者の姿を見ては慰める言葉さへなかつた。意地惡な雪、寒さ、高所にはひ上つて凍死せんとしてゐるところを救はれし者、血だらけの負傷者、どう田の中の死體。倒れた家屋、全く手の出しやうがない。第一に死體捜査隊を七、八名集め手分をして捜し始めた。この頃他區から奉仕の人達が見えられた。
大體の仕組が出來たので學校へ向つた。途中山内校長始め男教員全部に出遇ひ、救護其の他調査等の打合を行ひ、自分は最も甚だしい田ノ浦區の救護、其の他に主として當る事になり、夫々手分の上部所につき、不眠不休の活動が續けられた。
三日の午前十一時迄に死體十二發見、死體捜査の傍救護法を部落契約會長佐々木友三郎氏、村議(學務委員)三浦東右衛門氏等と協議、差當り白米二駄、石油二ケ、炭二駄を罹災者に配給の手配をなし、直ちに救護事務所を森谷力藏氏宅に設け、夫々救護の任に當る。四日の夕刻まで二十二の死體を發見した。多くは潰されし家屋の前方にうつふして倒れ、如何にもがき苦しみしか二目と見られぬ慘状、殊に氷の破片、小舟等に押しひしがれたため一層慘めな光景である。
或死體の如き疊二枚位厚さ約一尺の氷の下敷となり、其の上に小舟が乘しかかつてあるなど實に無慘な有樣である。
四日午後八時、二十の柩を部落葬として祀ることにした。然るに一つの柩に二人では困難、二人宛としても四十人の人夫がいるのに、どうしても足らぬ。身體の動く老人までが手傳つて漸く型通りの葬儀が出來た。ただ涙、如何に自然の暴威とは言ひ、實に文字通り筆舌の盡す所ではない。せめてもの供養に、專心復興を早め、この靈達を慰めねばならぬと強く感じたのは、あながち自分一人ではなつたからうと思ふ。
(ロ)津浪の前兆と思はるる事項
一、井戸水の變化 一週間前から海岸附近の井戸水著しく白濁變化し、また非常に減水した。
二、鰯の大漁 近年稀な鰯の豐漁、到る所に肥料製造場が出來た。
尚二十九年の前後に比較して二、三年三陸地方には凶作が續いてゐる。
三、潮の干滿變調 潮の干滿時に變調があつたといふ。
(ハ)津浪襲來直前の變化
一、強震 稀な強震、始めての強震と言つてよい。
風なく暗く小雪。
二、發光 津浪襲來直前非常に明くなり海岸は殊に光つて見えた。この明に便して避難を容易ならしめたものがある。
三、潮が引いて川水が減じた 普通發動機船が碇泊してゐるところが海底の石ころをコロコロ音を立てて潮が引き、碇泊中の船舶が片方にまがつた。共の干潟を岸に馳け出し、浪にさらはれた者もあるらしいと想像されてゐる。
また、川水が著しく減じて附近の地上に水泡がブツブツ出てゐた。
四、音 ドーンといふ音がした。遠い程大きくひびいた。其の外星が盛にとんだ。
(二)浪の高さ其のほか(場所、地形其の他の關係上非常に差がある)
第一回目の浪の高さ 約五メートル位
策二〃 〃七メー下ル
第三〃 〃五メートル
其の後 〃三、四メートル
○小野寺新治郎被害状况
調査資料提出者
本吉郡小泉村小泉小學校今朝磯分教場 訓導 遠藤兼雄
小野寺新治郎宅は、二十一濱海岸にあり、今回の津浪のため、二十五才と二十二才との二人の娘を失つたのであつた。
氏日ふ、
三月三日午前二時三十分、強震に夢を破られて、起きて外に出た時は、積雪の後も清く、晴天無風、星の光も一段と冴え渡り、海には何等の異常も認められませんでした。又もや強震があるかと思つて、一旦は床に入つたが、眠られないので娘と共に、東京の震災話などをして居りました。其の内に、娘等は波の音を聞きつけましたので、起きて、海岸に向つた裏戸を開けて見ましたら、波は數米先に近づいてゐました。「夫れ、波が來た、逃げろ逃げろ。」と言つて、表戸を開けて、娘二人が出ました。自分も續いて出ようとした時、グラグラと家が搖れて、表出口に倒れました。其の時は第一回目の波で、家は倒れて浸水し、娘二人は出口で家の下敷となりました。一人は、數年前怪我をして、片足に義足をつけて居りました。娘達は悲鳴を擧げてゐる。自分は倒潰した家の中で、寝卷のまま、泥だらけになり、身動きも出來ませんでした。何とか出る工夫はないものかと考へて居る中に、壁の破れ目から、明るく空の見える所があつたので、やつと出ました。隣家は、其の時と同時に倒されて、前方數米まで流されてゐました。家の下敷となつてゐる娘達を、暗夜で自分一人の力では及ばないと思つて、五十米も離れてゐる隣家の若者を頼んで、開けて貰はうと、走り出ました。それから引返して途中まで來たら、第二回目の大波は、すぐ目の前に打ち寄せて來ましたので、二人の娘を見殺しにするのは可愛想だと思ひながらも、逃げ出しました。と、忽ち波に卷かれて泳ぎました。必死の努力で、流れてゐた便所の屋根に縋りつき、それから山に跳び越えて、附近の明神樣の鳥居に押し付けられました。全く明神樣に助けられましたので、私は、其所で合掌して拜禮しました。それから、裸體のまま、素足で、積雪の山を越え、寒風に吹き晒されながら、幾度か死ぬ思もしましたが、幸ひにも足傷に罹つた
のみで助かりました。
地震の事ばかり考へて、津浪の襲來を豫期しなかつた爲か、この災難に會つた譯です。妻は、丁度他出不在中の出來事故娘二人の死につき、氣も狂はんばかり嘆いて居る次第です-と。
○海岸に於ける津浪襲來直前の状况
調査資料提出者
本吉郡小泉村字二十一濱六十三番地 及川善之助
地震直後、海面は平浪の樣に見えたが、只ザアザアと潮鳴りの音は、常よりも間近く聞え、降雪があつたが、丁度その頃は、空は晴々とし、星は常よりも光が増して見えた。地震後約二十分位經つて、第一回目の津浪が寅の方向から鳴り渡る音に、再び海面を見ると、平常よりも二、三十間も沖へ、汐引きの現象を見た。自分は、之は津浪だと感じて、避難の用意をさせる爲、數回高聲で叫んでゐたが、第二回目の津浪が聾來して、海岸の堤防を越したが、幸ひ人家には被害がなかつた。
引汐の迅速な事は驚く程であつた。私は、大津浪の襲來を豫想して、「津浪々々、避難しろ避難しろ。」と叫んで居る内、第三回目の津浪は渦を卷き、山の樣に高くなつて、物凄く海岸に押し寄せて來た。この時二十一濱二十二戸の住家、非住家は、一時に三百五十間以上も流失して、津浪は、川傳へに當部落住宅の倒潰して居る所よりも尚二百間以上の上まで浸水したのであつた。
○地震直後津浪襲來の状况
調査資料提出者
本吉郡小泉村字二十一濱七十二番地 齋藤豐治
大地震が襲來したので、私は家族一同に向ひ、「こんな大地震の後には、きつと津浪が來るから、充分用意をして居る樣に。」と言ひ聞かせてゐる内、突然、何とも形容する事の出來ない、ゴーウツと言ふ音が聞こえたので、「それ、津浪だ津浪だ、逃げろ逃げろ。」と、大聲を出して、其所此所に聞える程絶叫した。私は直ぐ家族を逃げさせ、山の上の四方から見える所に火を焚かせ、まもなく提灯を手に持つて、我が家の門口に行つて見た。石垣で作つた門のところには、家屋が五、六軒流出して潰れて居たが、其の一つの中から誰やら救助を求めてゐるので、咄嗟に、聲のする邊を破壞して見ると、それは、日野長四郎妻はつであつた。見れば、はつは、子供を背負つて、全身砂だらけとなり歩む事も出來なかつた。私は助けて私達の避難所に伴ひ、家族に、直ぐ二人に着換へさせ、粥を焚かせ、能く看護する樣命じたのであつた。私は又、引き返へして
流失家屋を調査した際、日野長四郎長女あき子(八)も救助したのであつた。
○津浪襲來前の海况異變の調査
調査資料提出者
本吉郡小泉村六十三番地 及川善之助
津浪前、平常から小波氣味で、濁流の續いた事は近年稀に見る程であつた。海の音は、常とは異り低くなり、引汐は早く漁のない事も近年稀に見る程續いた。
○地震津浪膝栗毛
石卷測候所長 野口篤美
大地震だ、津浪だと、すぐ實地踏査に出掛けた各々、膝栗毛に鞭つてクタクタとなつて歸つて來た。踏査報告を一氣呵成に書き上げて、ホツと一息ついてお茶でも飲むと、我々同僚の間に出るのは先づその道中で拾つたネタである。拾つたネタは結局拾つたネタであるから、一つのトピツクには過ぎないが、然し又こんな話の中に、或る種の澁い暗示が合まれてゐないものでもない。
◎志津川町ではこの前の三陸津浪に懲り懲りして、高さ四米余のコンクリート堤防をつくつた。そのお蔭で被害もなく、大いにその賢明さを誇つたわけだが、同じ堤防でもお氣の毒なのは雄勝で、お隣りの明神で堤防を築いた爲かどうか、兎も角お手前の方がすつかりやられてしまつた。二軒分一緒に頂戴した樣なわけで、それにつけても斯うしたものは共同して愼重考慮しないと、とんでもない結果になり勝ちである。頑丈な堤防を造るのも確に一方法でせう。これが大仕掛になつて支那の堅壁清野の計と云ふのにならなけれはよいが。
◎注意してゐた爲に助かつたのと、太く構へてやられたののいい標本は大谷と谷川で、大谷では漁夫が津浪を知らせた爲に家はひどく壞されたが死者は出さずに濟んだし、反對に谷川では地震で飛び起きた連中が何を感違ひしたのか又寝てしまつた。この寝込みに皮肉にも大きい奴がドツと御出でなすつたので、一舐めにやられてしまつた。地震や津浪の智識を吹き込む事は目下の急務である。
◎鮫ノ浦で死んだ人の中で七十歳位の婆さんがあつた。すつかり冷たくなつてゐるんで、皆と一諸に火葬にする事に決まつた。さて念佛も濟んで愈々と云ふ土壇場に、親戚がもう一目と棺の蓋を取つて見たら死んだ筈の婆さんが後れ毛を掻いて居た。ヒヤツと叫んだままこの人は卒倒してしまつたが、婆さんは生き返つた。危く鳥邊山一片の煙となる所であつたが。
◎本吉郡の或る部落の話だが、魚で儲かつた一萬二千圓の現金が欲しくなつて結局金庫と心中、遂に魚の餌食となつてしまつた。一諸に手を引いて逃げた盲人を途中で置きつぽりにして、殘した家財を取りに行つたまま、津浪に命まで取られたと云ふ話も同じ本吉郡である。盲人嘆じて曰く「さてさてめあきは不自由なものだ」と。誠に好一對愼むべき事だ。
◎或る新聞に龜裂した地面の寫眞が出た。踏査した連中、自分の見て來た所にはハテなかつた筈だと思つても、若しやこいつやられたのではないかと思ふと余りいい氣持ちではない。ところが何んぞ知らん、よく見ると、これがカメラトリツクである。直ぐ分つたからいい樣なものの一寸一杯喰はされる手だ。
◎以前の津浪でひどくやられたのに拘らず、のこのこ這ひ出して來て全部又やられたのが雄勝。以前半分、今度に半分と、半分宛濱に下りて結局一通りやられたのが谷川。これも漁村故の運命だ。高所建築誠に結構だがせめて納屋位なりと濱に置きたいもの。
◎田圃に鹽水が一度入つたら、三年位米は大丈夫出來ないらしい。ありあまる程の「鰯」が田に埋つた所で何の肥料にもならないと云ふ事。
◎強く大きな家よりも、小さくて安いつぽい家がやられ易いのが當然でせう。谷川の渥美某と云ふ人の家なんか確にガツチリした家で、裏手に太い樹木と藪とがある。海岸に一番近い所にありながら、一軒だけキチンと殘つてゐる。偉い人達の議論の種になりさうです。
◎桃生郡の名振峠と云へば、昔から狐の出ると云ふ處、本所々員が三日の眞夜中、何分泊るにも宿はないので、徹夜で歩き通して丁度此の峠に差し掛つた時、御多分に洩れず變な男に出喰はした。だが何しろ本人は、甞つてマニラで十數人のフイリツピン人を手玉に取つて投げたと云ふ程の剛の者、變な奴など近寄らうとしたつて仲々寄せ付けない。後から喰つ付いて來てはわけも分らない事ばかり話しかけてゐたさうだが、果して狐の化物か、恐らく津浪が生んだ狂人ではないかしら。
◎本所では逸早く津浪に對する流言蜚話を取締る爲めに、ラヂオでその心配のない事を放送して置いたに拘らず、或る部落では又津浪が來ると云つて蒲團を脊負つて山に逃げて行く人が多かつた。實地踏査より流言蜚話の取り締りの方が忙しい。今後踏査の際は、「もう津浪の心配なし」とでも書いた赤ビラを、リユツクサツクの底へ藏つて行つて貼らせる事だ。ラヂオがない部落は相當多いんだから。
◎本吉郡名足濱では、今度の地震、津浪でアハビが澤山浮び上つた。他の魚族が浮ぶ事なら珍らしくはないが、アハビの死は前代未聞との事。
第六章 震嘯災日記抄
第一節 縣關係
極めて突發的なりし大震嘯災に對する縣當局直接の罹災地救護對策は、既述の如くにして、萬遺漏なきを期せり。左に縣
直接關係の震嘯災日記抄を録し、其の活躍の一半を示すべし。
三月三日(金)晴
○午前二時三十分 三陸沿岸地方、外側地震帶性大地震搖れ、死者 三、○○八人 傷者 一、三五二人
流失及倒潰家屋 七、二六三戸に上る
○牡鹿郡大原村より災害第一報到着す。
○仙臺放送局(JOHK)より、ラヂオ體操に引續き臨時ニユースとして、災害略報を放送す。
○縣廳各課員徹宵執務、以て、災害關係地の應急措置事務に當る。
○災害救助の一手段として、先づ縣指導船、「宮城丸」を罹災地に出動せしむ。
午前七時、上司の期待を一身に擔ひ、萬里波濤を蹴つて男々しく渡波港を出帆したる「宮城丸」は、漸次金華山附近より牡鹿半島沿岸漁船を救助しつつ、鮎川港入港、直に附近罹災民の救助に從事し、休む暇もあらばこそ更に活動範圍を擴げて北進、大原村谷川鮫ノ浦廻航、漂流死體の捜索及收容に從事、午前九時、十五濱村雄勝に急行罹災救助に從事したり。
○廳内にては、内務部長室に、知事、各部長、各課長集合の上、震嘯災害應急措置の對策をなせり。
○内務部長は、正午より午後二時まで、知事應接室に於て、被害各地へ出張の官吏、吏員に對し被害調査及救護指導に關する訓辭を與ふるところあり。
○災害状况調査竝救助指導の爲、縣官吏、吏員派遣。罹災町村二十三ケ所に廳員十六名出張し、外に被害著しと認められたる町村に視察竝慰問の爲、廳中、課長等を特派したり。
○電信、電話を以て被害調査を開始し、教育課にては、震災被害兒童報告の件通牒を發したり。
○午後十時、土木課に於ては、トラツク六臺にて、罹災地へ毛布運搬を行ひ、石卷、佐沼兩土木工區貨物自動車は、建築材料運搬に從事す。
○歌津村名足小學校より、學校には被害なきも、五日間臨時休業をなせる旨電報あり。
○震嘯の爲、警察電話不通となりたるを以て、縣下の警察電話工夫を總動員、其の他、臨時雇入人夫十名をして各方面に派遣し復舊工事の手配をなせり。
○罹災地附近各警察署は應援警官を派遣す。
○縣の救護班第一、第二班は、本吉郡大谷村、小泉村、唐桑村、十三濱村の各方面に急行し、其の後(三月七日頃)十五濱村にも向へり。
○廳訓第四號を以て、臨時災害善後委員會規程公布す。
○各種衛生班の派遣を行ふと共に、防寒具の配給も亦行ひ、縣に震嘯災害善後委員會を設置したり。
三月四日(土)晴
○北條衛生課長、罹災地より歸廳後、災害地方防疫及衛生施設に關する協議會を開く。
○災害地の汚染せる飲料適井戸の消毒實施方決定し、五日より八日迄消毒實施の豫定。
○午後二時半宮内省より次の如く入電あり。
本月三日管下強震の爲 被害尠カラザル趣聞シ召サレ御救恤トシテ
天皇 皇后兩陛下ヨリ
金八千圓
下賜セラル
宮内大臣
○午後二時半、宮内省より入電ありて、震嘯地視察のため侍從大金益治郎氏御差遺の旨報ぜらる。
○教育課にては、教育會と協議の上、災害地外の小學校兒童より三錢乃至五錢、教員より俸給月額の二百分ノ一、中等學校生徒よりは五錢乃至十錢の義損金竝各小學校より各學年各種一部宛の教科書寄贈に決す。
○救恤品の配給竝救護事務の圓滑を圖る爲、石卷、志津川、氣仙沼の三箇所に、縣救護出張所を設置す。
○第二師團工兵第二大隊にては、桃生郡十五濱村に工兵三拾名を派遺し、被害復舊に從事せしむ。
〇三邊本縣知事、各府縣知事宛義損金募集方依頼す。
○長久保農林技師及谷口内務事務宮罹災地視察に來縣し、縣土木課の大槻技師案内す。
○縣の罹災救助基金支拂に依る救助米として政府米四八○俵拂下方電請す。
○氣仙沼警察署より警察電話復舊の旨申報あり。
三月五日(日)雨
○午前七時、大金侍從仙臺驛に到着せらる。
○本縣正廳に於て、大金侍從より、宮城、岩手、青森三縣知事に對し御下賜金傳達式擧行せらる。
○大金侍從、知事より震災状况を聽取す。
〇三邊知事は、侍從と同行、牡鹿郡大原村以下桃生郡十五濱村、本吉郡志津川町、歌津村、唐桑村等各關係罹災地視察に出發す。時に午前十時なりき。
○内務省衛生局草間防疫官來縣し、後被害地方の視察に向ふ。
○山崎文部省事務官、乙黒屬、紀本濟生會救療部長、岸本日蓮宗宗務院社會課詰氏等來縣し、災害地を慰問するところありたり。
○須藤視學、災害地小學校の視察を兼ね、來縣したる文部省山崎事務官、乙黒屬を案内す。
○文部省山崎事務官等一行、牡鹿郡大原村、女川町、桃生郡十五濱村、本吉郡歌津村、唐桑村、鹿折村順次視察の上、岩手縣に向ふ。
○海軍救恤品を釜石在泊軍艦よ婬受領、氣仙沼迄運搬の上、縣内罹災地へ配給方を「宮城丸」へ電命す。
○土木課にて、各地に於ける檢潮器記録の調製に從事す。
三月六日(月)晴
○仙臺驛前に、救護出張所を設け、所長以下九名配置し、本日より事務開始せり。
○大金侍從一行、桃生郡十五濱村、本吉郡志津川町、歌津村、唐桑村等を視察し、大川村釜谷にて十三濱村の状况を聽取す。
○齋藤内務政務次官來仙し、内務部長以下の案内にて本日より三日間、大原村、十五濱村、志津川町、歌津村、唐桑村各關係町村を視察せり。
三月七日(火)晴
○伊丹縣會議長以下議員九名は、本日より九日迄三日間、災害地視察に出發したり。
○鈴木警察部長は、罹災地慰問竝實地調査の爲出張し八日歸廳の豫定なり。
三月八日(水)晴
○丹羽社會局長官、小林社會局事務官、尾花社會局屬隨行、岩手縣より來縣し、災害地を視察す。
○全日本私設社會事業聯盟常務理事、拓務事務官、千葉、富山、山形の各縣社會課長、東京府社會事業主事、救世軍、日蓮宗宗務院慰問使、本願寺布教使等災害地慰問の爲來縣す。
○宮城丸を氣仙沼より女川に回航、軍艦「野風」より、毛布、衣服、其の他食料品四、○○○點の救恤品を受領、内所、定數量を大原村罹災部落に配給せしむ。
三月九日(木)晴
○朝倉東京府會議長、安原東京府學務部長等、東京府より見舞の爲、來縣し、見舞金三、○○○圓を寄贈せり。
○罹災者救助、警備竝應急施設費として昭和七年度に於て四五、〇九六圓、同八年度に於て三五、〇六六圓の國庫補助請申を内務大臣に提出す。
○各宮家より御救恤金四〇〇圓下賜(全部にて二、○○○圓)あり。
○午後二時東京築地本願寺にては、震嘯災害による横死者の爲、法要施行せり。
三月十日(金)晴
○社會課にては、救助費豫算編成竝住宅復興に係る資金所要額調を庶務課に提出す。
○睦軍大臣代理谷少將、東京市社會局保護課長高島信一氏、災害慰問の爲來縣す。
三月十一日(土)晴
○震嘯災害救助、警備竝應急施設費議定の爲、縣參事會を招集す。
○沿岸各町村長召集、小漁船建造資金貸付に關する協議會を、縣會議室に開催す。
三月十二日(日)曇
○第二師團より歌津村に派遣中の工兵は、大小二十の架橋作業を了し、本日原隊に向け引上げたり。
三月十三日(月)晴
〇縣會議員十二名、罹災地復舊に關し、政府當局並各省に陳情の爲上京す。
○午前九時、養賢堂内にて、夜具九十八組を二十四個に荷造りし、零時四十分仙臺驛發、貨物積の手配をなしたり。
○午後二時より縣曾議事堂に於て、災害漁船復興對策協議並小漁船建造資金貸付に關し、關係町村長と協議す。
○小漁船建造資金貸付規程公布す。
三月二十日(月)晴
○御下賜金傳達の爲、各部長、課長(書記官三、事務官四、警視一)關係町村へ出張す。
三月三十一日(金)晴
○後藤農相、戸田水産局長、田淵會計課長一行、三邊知事の案内にて、縣下、十五濱村、唐桑村を視察し、次いで岩手縣に向ふ。
四月一日(土)晴
○皇后陛下より罹災傷病者及老幼者に對し、衣服地及裁縫料下賜あらせらる。(七十六人分)
四月五日(水)晴
○臨時縣會開催す。
四月十一日(火)晴
○午前九時、縣廳内正廳に罹災地町村長召集の上、皇后陛下より罹災傷病者及六十才以上十四才未滿孤獨者への御救恤品傳達式擧行す。
四月十三日(木)晴
○午前十時、三邊知事は、廳員に對し、震嘯災害善後措置に就き訓話するところあり。
昭和九年
二月二十六日(月)晴
○縣參事會室に罹災地關係各町村長、宮城縣佛教會々員集合、社會課より課長、事業主事以下出席「震嘯災害一週年記念日開催要項」に就き協議せり。
○東京日々新聞主催、「震嘯災一周年記念座談會」を東北帝國大學學士會館にて開催し、縣より、赤木知事、二階堂秘書課長、佐々木社會事業主事、橋本農林主事、室谷囑託出席す。
大學の本多總長はじめ、理學部、醫學部、法文學部の各職員及、羅災地各町村役場の代表者との間に、種々談話の交換ありて、會は午後三時より午後七蒔に及べり。
第二節 士木工區
罹災地の現場にありて、縣土木工區員の献身的活動は、或は測量に、或は設計に、罹災地の速かなる復舊を目標として晝夜兼行、眞に涙ぐましきものありき。
次に、當事者の震嘯災日記を掲げ、其の勞を偲ばん。
I 仙臺土木工區
三月三日 午前八時亘理派出所ヨリ被害状况報告アリ同所ニテ縣ノ自動車ヲ歸庫セシムル樣手配ス。
午後八時半高地運轉手貨物自動車ヲ運轉シ王城寺ケ原ノ陸軍廠舍ニ至リ毛布三百枚ヲ積載シ被害地ヘ出動凖備ヲナス。
三月四日 貨物自動車午前一時王城寺ケ原ヲ出發、同八時被害地十五濱村雄勝ニ至リ積載毛布配給ニ從事ス。
三月五日 工區貨物自動車午前氏時歸廳ス。
三月八日 亘理派出所高崎技手、鈴木、今野助手、鳥ノ海海岸堤防ノ被害アリシタメ同所ノ測量ニ從事ス。
遠藤技手、佐沼土木工區應援ノタメ佐沼ヲ經テ氣仙沼ニ出張ス。
三月九日 亘理派出所員鳥ノ海測量ニ從事ス。
遠藤技手、唐桑只越海岸測量氣仙沼ニテ圖面調製ニ從事ス。
三月十日 亘理出張所員鳥ノ海災害復舊工事設計ニ從事ス。
違藤技手大澤裏ノ濱ニテ測量シ氣仙沼ニテ設計ニ從事ス。
三月十一日 亘理派出所員鳥ノ海災害復舊工事設計ニ從事ス。
藏敷肋手同工事設計應援ノタメ派遺ス。
三月十二日 亘理派出所員鳥ノ海災害復舊工事設計ニ從事ス。
遠滕技手大合村測量ニ從事ス。
三月十三日 亘理派出所員災害地磯濱測量ニ從事ス。
遠藤技手佐沼工區ニ參區ス。
三月十四日 亘理派出所員災害地磯濱測量ニ從事ス。
遠藤技手佐沼町ニテ設計圖調製。
三月十五日 内務技師亘理郡下被害状况ヲ視察セラル。
遠藤技手打合セノ爲參廳ス。
三月十六日 加藤工區主任、遠藤技手、高崎技手氣仙沼町ニ出張ス。
三月十七日 加藤主任、遠藤、高崎技手氣仙沼町災害地復舊工事ヲ應援ス只越、大谷村調査。
三月十八日 加藤主任、遠藤、高崎技手鳴子町ニ至リ災害復舊工事ノ設計製圖ニ從事ス。
三月十九日 高崎技手歸廳ス、加藤主任、遠藤技手鳴子町ニテ災害復舊工事ノ設計製圖ニ從事ス。
三月二十日 加藤主任、遠藤技手、鳴子町滯在、災害復舊工事設計製圖ニ從事ス。
三月二十一日 加藤主任、遠藤技手歸廳ス。
五月十日 亘理出張所員磯濱震災地調査ニ從事ス。
五月十八日 同
七月十七日 亘理出張所員鳥ノ海工事監督ニ從事ス。
七月十九日 同上
七月二十日 同上
七月二十一日 亘理出張所員磯濱ニ出張ス。
七月二十二日 亘理出張所員鳥ノ海ニ出張ス。
七月二十三日 同上
七月二十四日 亘理出張員磯濱出張。
七月二十五日 亘理出張所鳥ノ海出張。
七月二十六日 主任鳥ノ海ヘ、加藤工區主任出張ス。
七月二十八日 亘理出張所鳥ノ海ヘ出張ス。
七月二十九日 同
七月三十日 亘理出張所員磯濱ヘ出張ス。
七月三十一日 同上
八月二日 亘理出張所員磯濱ヘ出張ス。
八月三日 同上
八月四日 亘理出張所員鳥ノ海ヘ出張ス。
八月五日 大槻技師鳥ノ海磯濱ヲ視察ス。
八月八日 亘理出張所員鳥ノ海ヘ出張ス。
八月十日 同上
八月十二日 亘理出張所員磯濱ヘ出張ス。
八月十四日 亘理出張所員烏ノ海ヘ出張ス。
八月十五日 同上
八月十六日 同上
八月十八日 同上
八月二十日 長宮、烏ノ海磯濱ヲ視察ス。
八月二十一日 亘理出張所員鳥ノ海ニ出張ス。
八月二十二日 同上
八月二十四日 亘理出張所員磯濱ヘ出張ス。
八月二十六日 同
八月二十七日 亘理出張所員磯濱ヘ出張ス。
八月二十八日 同
II 鹽釜土木工區
三月三日 午前二時半頃ヨリ約三分間ニ亘リ、水平動大ニシテ上下動ヲ交ユル強震アリ、正午過ギニ至ルモ餘震止マズ。
出勤後直チニ區員一同手分ケノ上夫々管内被害状况調査ニ當リ海岸線ヲ除キテハ特ニ被害ナキヲ認ム。
海岸線ニ於ケル被害左ノ如シ。
以上十五ケ所ニシテ被害見込高一万餘圓ト推定ス。
三月八日 石卷、佐沼兩工區管内ニ於テハ被害殊ノ外甚大ナルニ依リ本課ヨリノ指示ニテ、區員鈴木技手向フ二週間石卷工區ニ出張應援ス。
三月十四日 災害設計書提出、内容左ノ如シ。
三月十五日 内務省査定官一行來縣本工區管内ハ吉田内務技手査定ノ任ニ當リ、本課ヨリ粟野工師工區ヨリ西海主任鈴木技手、針生技手、安達助手隨伴國庫補助ヲ受クヘキ現地査定番號六七ヨリ七七ノ十一被害箇所ヲ實地踏査ノ上同夜石卷ニ至リ千葉甚旅館ニテ査定ヲ受ク。
三月十六日 午前西海主任、鈴生技手、安達助手石卷ヨリ歸區、鈴木技手ハ石卷土木工區ニ留リ應援ス。
三月十八日 鳴子町菅原旅館ニ於テ最後的現地査定取纏ヲ行フタメ粟野工師ノ指示ニ依リ、西海主任鳴子町出張
三月二十日 現地査定完了取纏ノ上西海主任歸區
査定ノ結果左ノ如シ
三月二十二日 縣單獨ノ分四ケ所ニ對シ夫々左記ノ者ト隨意契約ヲナス。
堤修 一一 鈴木源助 三月二十二日着手
同 一二 同人 同
同 一三 同人 同
同 一四 太田市郎 同
三月二十五日 査定設計書整備ノ上本課提出
其ノ内容左ノ如シ
三月三十一日 堤修四ケ所共竣功届出
四月二十二日 堤修一一、堤修一二、堤修一三ノ三箇所ノ竣功檢査ヲ了ス。
四月三十日 堤修一四ノ竣功檢査ヲ了ス。
六月二十六日 午前十時工事番號甲七二、甲七七ヲ除クノ外全部即チ八ケ所ニ付キ夫々一般公告入札ヲ行フ。
其ノ結果左ノ如シ。
備考 現場ノ變動或ハ違算誤測ノ結果左記ノ通リ不得己設計變更ヲナス。
右工事ハ主トシテ鈴木左佐技手之カ指導監督ニ當リ、針生技手、安達助手之ヲ補助ス。
七月十日 午前十一時工事番號甲七二及甲七七ニ對シ指名入札ヲ行フ。其ノ結果左記ノ者ト契約ヲ了ス。
備考 現場ノ變動、違算誤測等ニ依リ左記ノ通リ不得已設計變更ヲナス。
七月十五日 現在ノ事業進捗状况左ノ如シ。
七月三十一日 現在ノ事業進捗状况左ノ如シ。
八月一日 甲六九竣功
八月十日 甲七〇、甲七二竣功
八月十一日 甲七一竣功
八月十三日 甲七二、大槻技師竣功檢査ヲ了ス。
八月十四日 甲七〇、甲六九、甲七一、西海主任竣功檢査ヲ了ス。出來形普通。
八月十五日 現在ノ事業進捗状况方ノ如シ。
八月十八日 甲七六 竣功
八月二十四日 甲七六 西海主任竣功檢査ヲ了ス。出來形普通。
1/2
- 幅:7067px
- 高さ:5033px
- ファイルサイズ:1.6MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
III 石卷土木工區
三月二日(舊二月七日) 天候 晴
匡救事業町村補助工事期日が切迫せるため町村でも眼を廻してゐる。それだけに工區員の監督も多忙だ。精算も三月十日迄には完了せよとのキツイ御達しである。然し三月三十一日迄の工事期間を認めて置きながらそれ以前に精算せよとは矛盾も甚しい。
今日は産道第五五號の公告入札があつたのでなんとなく落付きがなかつた。
此の頃は未だ寒いには寒いが、然しその中にも初春らしい何となく和かな氣分が漂つてゐる靜かな夜だ。近くの海の波の音も靜かに響いてくる。
三月三日(舊二月八日) 天候 晴
ガラガラガラガタン何事だ。暫らくはボンヤリして仕舞ふ。未だ曾つて經驗せる事のない程の地震であつた。家外へ漸く飛び出したが中々止み相にもない、然し五、六分して兎に角幾分か靜かになり十分位で以前の靜けさに返つた。
それから約二十分も過ぎたかと思ふ頃、ドン、ドンドンと丁度大砲でも遠くで打つ樣な音を耳にした。然しその音もそれ程大きなものではなく微かなものであつたので、あまり氣にも止めずに寝てしまつた。
地震には時として海嘯が伴ふと言ふ事は聞かないこともないが、今日の場合海嘯なんと言ふ事は毛頭考へなかつた。
午前八時何時もの樣に悠悠と出勤、出勤して見て驚いた。方々から被害報告が來てゐる。
鮫ノ浦の縣道改修工事が海嘯の爲殆と全滅せる事が請負人菊地兵治の報告で解つた。同人の話によると、地震後三十分位にして矢張り變な音を聞いた相だ。そして其音の終るか終らぬ内に海水が二三丁も沖の方まで退いて行つて、直ぐ海嘯となつて襲つて來たとのことだ。然し暗闇のこと眞僞の程は解つたものではないにしても、相當被害を受けてるらしい。
早速工區主腦部を集め前後策を協議す。其の結果震嘯災害調査分擔區域を左の樣に取極めた。
主任 堀技師 情報係 佐竹書記 岡書記補
第一班 女川町 今野技手 飯島技手補 山路助手 山口助手
第二班 大原村表 今野技手 菅原(文)技手補 三浦助手
第三班 鮎川村荻濱村大原村裏 菅野技手 佐々木助手
第四班 十五濱村 菅原(新)技手 市川技手補 渡邊助手
第五班 十三濱村 大友技手 佐々木(禎)技手補 井上助手
第六班 概算設計取纏方 武田技手 伊藤技手補
此の擔當者決定には隨分苦しんだ。飯野川出張所と工區間との聯絡、各調査員と工區及出張所との聯絡を考慮に入れなければならず又其報告を可及的早く纏めるためには色々な方法を講じた。概算を纒める爲に、重大要素となるべき各工事の單價決定に就ては相當考慮を拂ひ其の方面は、武田技手、伊藏技手補に當らしめた。
午前九時頃トラツクに第一、第二、第三班とを乘込ましめ出動せしめた。其の日の調査を其の日の中に總める爲に渡波荻濱、大原、鮎川とトラツクより下してゆき、午後調査の了るを待つて再び同一路を歸り、各調査員を集め其結果を工區に持寄ることにした。
本日の調査要項は各町村又は警察派出所にて被害の概况を質ね、次に實際の災害箇所に至り總括的に被害の程度其の大體の延長等を測る方針の下に進んだ。
十五濱方面は雄勝、船越、荒屋敷。等全滅と言ふ報導が頻々として傳へられた。
第四、第五班は相當嶮岨な箇所に當るがトラツクは一臺よりなし又自動車を傭はんとしても應ずる店もなく、且費用もないと言ふ状態なので致し方なく自轉車によつて苦しい調査を遂行することとなつた。
各班の出發後本廳と電話によつて復舊工事に就ての大體を打合せる。
午後電話にて明日内務省の長久保技師と大槻技師と現場視察に來られるとの報告があつた。
斯くして各班の報告を得たのは午後十一時頃であつた。それによれば人畜の被害の大きいのは十五濱村雄勝、荒、大原村鮫ノ浦にして又我々の工事關係では大原村の谷川、大谷川が最大のものらしかつたが、今日の報告だけでは未だ概算を立てる迄に至らなかつた。最初の方針が總括的と言ふことでもあつたし、又それは地方としても精査し得ない樣な混亂状態に置かれて在るのだから致し方あるまい。然し兎に角全般的の被害状况を察知し得る材料は出來たのであるから、明日
からいよいよ概算設計及復舊設計を急ぐべく方針を授け、明日の爲英氣を養ふことにして別れたが午後十一時三十分であつた。
今迄にない程寒い晩だ。多くの被害者の爲に明日は少しでも暖くなつて呉れ。
三月四日 天候 晴
昨日に劣らない寒さだ。
黎明を衝いて第一、第二、第三班は工區へ、第四、第五班は飯野川出張所に集合し、ポールを手にハンドレベルを肩にして各受持地區に向ふ。實際土木屋としての戰爭の樣なものだ。第一、第二、第三班は矢張りトラツクによつて連絡を取る
事とした。其の點四、五班の方は苦しかつた譯だ。各班の出發に先だつて工區主任より尚本日の調査要項に對しての注意があつた。飯野川出張所に對しては武田技手が工區より出張して同一要項を傳へ、尚調査中の連絡に當り、午後十一時迄に飯野川の第四、五班關係の分を工區へ持ち寄ることにした。
午前九時頃大槻技師は内務省の長久保技師と來區された。大體の此後の方針を打合せ直に自動車にて大原村に向ふ。
此の時最も有難く思つたのは渡波の萬石橋である。あの橋が完成した時、その以前白動車を渡船で運んだ事等忘れてあの地方にはあれだけの橋の必要はないなどと考へることもあつたが、今日初めて其の橋の實現による有難味を知つた萬石橋の設計者にしても工事監督者にしても架橋當時の色々な失敗の苦杯を甞めた事などを考へ合せて、感慨無量なものがあつたであらう。
次に嬉しかつたのは道路の良い事であつた。金華山道路は今日此の如き事の爲にではなかつたが、カーブが他に類のない程多く且つ勾配も急であるから、萬一の場合を慮り相當完全に修繕して置いたのが此の場合役に立つ樣になつた。此の事から考へると管下全體の道路面を早く完全にしたいと思つた。
小積より修路夫に案内させ、大谷川へ越へる。大谷川から鮫ノ浦迄十七、八丁、先年度の殘金にて工事中の海岸道路は海嘯の爲數ケ所破壞されて交通さへも出來ない。仕方がなく、海岸を通る波打際に寄せてる夥しき流材を見る時、被害が如何に大きかつたかを想像するに充分であつた。鮫ノ浦に着いたとき、大小十箇ばかりの棺桶が燒香の中にけむつてゐるのを見て全く暗然たらざるを得なかつた。
鮫ノ浦より大谷川へ通り、其れより谷川へ向つた。大谷川、谷川の海岸堤防は全潰で相當被害も大きい。大谷川、谷川の海岸堤防は殆んど砂にて築造せる爲に、斯る災害を受けたものらしく、此の結果から考へ、少くとも復舊工事には砂質土砂は使用すること不可なることを知つた。
丁度光山峠まで貨物自動車が來てゐたので、それに乘り込んで大原を經て小積に歸つた、其間各班は大體災害箇所の調査を了り、歸廳の上其の結果をとり纏めることになつた。
第四班、第五班も隨分苦闘したらしかつた。
第四班の如きは早朝飯野川を出發し、海岸方面調査の爲、大川村尾崎より徒歩にて樵人さへもあまり通らない樣な尾崎峠の嶮により名振に到り、船越、荒、大須を經て熊澤、羽坂より桑ノ濱に至り、好便を得て立濱、大濱、水濱、小嶋を調査し雄勝へ着いたのは午後八時三十分。それより飯野川に急ぎ歸廳したのが十一時頃であつた。その日の行程六十粁、全くの強行軍だ。
調査した中で工事關係の被害としては、甚大なる所はなかつたが、唯人畜に對しては荒等は全く全村全滅の形で氣の毒であつた。
策一、第二、策三班は午後六時、第四班は午後十時三十分、第五班は午後九時三十分、夫々各根據地に引き上げた。飯野川方面の情報は、武田技手が總括し工區へ歸つたのが午後十一時三十分、全く夜を日に次ぐ奮闘だ。多謝、多謝。
大川村より災害報告が入つた、あまり大したこともないらしい。
寫
昭和八年三月三日 大川村長 柴桃正實 印
石卷土木工區主任殿
被害報告ノ件
昭和八年三月三日午前三時頃海嘯襲來左記被害有之候ニ付報告候也
記
一、長面、尾崎間橋梁悉皆流失セリ
一、海岸堤防(須賀)表腹付約二十間餘欠潰
一、海門口防波堤約三十間流失埋沒セリ
追而電話同朝ヨリ不通ニ付書面ヲ以テ申上候
本課よりの命令で、明日概算設計書を出す事になつた。然し箇所も相當多いし明日だけでは到底纏らないと言ふので午後十二時頃から復舊概算書を作ることになる。
各班は明日の英氣を養ふ爲に歸宅した、それも午後十二時である、それから工區主任と佐竹書記、武田技手、今野技手岡書記補等によつて概算調書原稿の出來たのは午前三時頃、全く樂ではない。然し此れも國に對する御奉公だ。兎に角幾分纒まつた安らかさも手傳つてグツスリ疲れを休めることが出來た。
三月五日 天候 雨
寒い上に雨とは何事だ。天を眺めて其の無情を詰つた。
大槻技師、長久保技師は昨晩干葉甚旅館に宿泊、午前八時頃自動車にて出發、女川方面の災害状况視察の上一旦石卷に引返し再び雄勝に向ふ。實に本省の手廻しの早いのは有難き極みだが、然し矢張り御客樣は御客樣だから樂ではない。
女川方面視察中に、書記の方で昨晩作つた概算設計書の整理を急ぎ、午後からそれの再調査に當つた。
此の時最も考へさせられたのは、復舊工事として選擇すべき工事の被害と、それに對する復舊の程度であつた。此度の樣な震災工事に對しては、少くとも八割の國庫補助がある筈だ。此の八割の補助から考へ、又現在の縣經濟の状態から考へ、此の際條件に叶ふ處であつたならば、其箇處が實際に此度の震災によらざる箇所であつても、復舊工事として採擇すべきであるかどうか。又採擇するにしてもそれを何如なる程度によつて計畫すべきか、此の二つの問題に對して工區とし
て可及的多くの仕事を取り入れ、且復舊程度は完璧を期することに方針を一定した。其の結果として纏つた概算集計表はこんなものだつた。
震災復舊概算集計表
復舊概算が拾八萬五千九拾五圓に纏まつたが、これを纏める迄に困つたのは工區員の中一人も未だ曾て災害に遭遇した者のなかつたことだ。その爲に各係から出て來るのを見ると、實際貧乏人根情とでも言はうか、苦しい經常費のみを取扱つてゐるものであるから、復舊の方法程度の總てが姑息なものであつた。此點ではやはり日頃の修養の必要を痛感せしめられた。拾八萬五千圓の復舊費概算もあまり完全なものではないかも知れないが、出して置くことにした。
午後工區主任宛の電報が入つた。「オホツナミコウツウトゼツオホシク」、さあ解らない。「大津浪交通杜絶」迄は解るが「オホシク」は何うしても解せない。工區全員鳩首協議した結果「オホスク」大須區だらうと云ふことになつて鳧がついた。
工區員はいよいよ復舊工事の實施計畫準備にとりかかつた。測量にも相當日時を要するだらう。兎に角設計だけは間に合ふにしても浄書と圖面謄寫等と云ふ方に對しては、到底間に合ひ相にもないので、臨時修路夫として圖工を傭入れることにして、明日のこともあり午後十一時三十分を限度として引きあげた。
三月六日 天候 晴
漸く雨も上つて相當に暖かさも加はつてきた。
工區全員測量の爲に休む暇もない位だ。
復舊箇所全部で四十七ケ所、それに町村關係の分を入れると五十ケ所からの設計だから、それを各係に分担せしめ何日何時迄設計を完成せよとの命令を發し督勵した。三、四、五の三日間の測量も尚不充分なる箇所もあり技手級の區員は多く設計に當つてゐるので、現場踏査には多く助手級を派遺した。然し時には泊らなければならぬこともある。斯る時は實際經濟的に樂ではなかつた。工區主任は何か考へる處があつたのだらう。其わ等の助手に對しては宿料の實費を支給する
とのことであつた。
本廳より電話で實施設計を爲す場合、應援者の必要はないかと言つてきた。現在の人員をして今日の如き奮闘を續けるならば完成し得ない事はあるまいとは思つたが、萬一期日の十五日迄間に合ない時には、腹切り事だと思ひ三人だけの應援者を頼んだ。但單獨して測量設計を纏め得る者と言ふ條件を附けた。こんな條件を附けたのも、今迄に辛い經驗を持つて居るからだ。何故なれば昨年の暮から今年の初にかけて新しい技手補、助手等が隨分入つてきたが、役に立つ者は數へ
る位よりゐなかつたことがあるからだ。然し誰が來ることになるのやら。
渡波町より防波堤災害の報告に接した。
寫
昭和八年三月五日 牡鹿郡渡波町長 菊地明夫 印
災害報告
牡鹿郡渡波町根岸字長濱
一、長濱防波堤
右海嘯ノ爲枠並詰石左記ノ通リ流失シ、難捨置状態ニ相成候條至急御踏査ノ上復舊工事御施行相成度此段及報告候也
記
一、防波堤根元ヨリ先端ニ向ヒ 六十二間ノ箇所兩側 二間
一、同 七十五間ノ箇所東側 五間
一、同 九十間ノ箇所兩側 十間
一、同 百二十間ノ箇所東側 二間
一、同 百六十間ノ箇所〃 五間
一、同 二百六十間ノ箇所〃 五間
一、同 三百五十間ノ箇所〃 四間
一、同 三百八十間ノ箇所〃 七間
一、同 四百間ノ箇所兩側 十間
一、同 四百二十間ノ筒所〃 七間
一、尖端詰石流失及混凝土電柱倒潰
全く長つたらしい報告だ。此れによるとあの長い防波堤も、全滅の樣だが然からず。これは昨年十一月十四日の時受けたものなのだ。拔目のない町長此の際漁夫の利を占めんとしてゐるらしい。然しなんとしても此後多額の工事費を投ずるよりは條件に適合するのだから復舊工事として見込むのも有利かも知れないので、復舊工事として入れることにした。
大槻技師の一行は昨日女川、雄勝を視察し、佐沼工區被害箇所調査に向はれた。
午後氣仙沼の大槻技師より各工事箇所の寫眞を撮影し、十日迄縣廳に届けるべしとの電話があつた。十日と言ふと間三日よりない。一寸面倒かも知れない。兎に角寫眞屋と相談すべく阿部寫眞館を招いで打合せた。そして、一刻を爭ふのであるから、午後女川附近だけでも撮影することにした。災害に對する寫眞は初めてだから、何んな風に出來上るか一寸心配だ。工區員も相當疲勞して來たらしい。今日も歸つたのは午後十二時。
三月七日 天候 晴
震災地としても、且復舊工事を急ぐ吾々としても好天氣は何よりのことだ。もう暫らくは續いてくれ。
昨日本廳からの命令によつて被害甚大なる箇所に至る主要道路、石卷金華山線、大原女川線、船越線石卷線、雄勝飯野川線等の一部に對し直營にて路面修理橋梁復舊をする事になつた。然し大原にしても雄勝にしても、斯る非常時に當つて人夫を募ることは不可能なる爲に、石卷、渡波方面より人夫を集めトラツクにて運搬した。大原谷川間の光山峠は縣道としての幅員は相當にあるが、放任してあつた爲に崩土は路面を埋め、自動車等は通行不可能に近いので、救恤品の運搬に便ならしむる爲に峠に全力を注ぐことにした。大谷川の橋梁復舊にも其材料が地元では全然購入し得られないのには、一番困窮した。その爲殆んど全部石卷からトラツクで運搬する樣な仕末、大川村の尾崎橋も假橋を架けることになつた。
此度災害設計を組むに當つて最も考へさせられたのは、鮫ノ浦の道路復舊工事であつた。其工事は縣道改修工事として參千五百拾七圓の工費で起工し、菊地兵治氏が、貳千六百圓で請負ひ十月二十六日着手一月四日の期限であつた處が、折惡しく十一月十四日の災害に遭遇し相當被害を受けた。請負人にして見ると、全く弱り目に崇り目の感があるが、工事中の事であるから致し方がなかつた。期限は一月四日と言ふ契約であつたのに其後本課から何うしても本年中(昭和七年)に
竣功せしめなければなぬと言ふので、其の期限を十二月三十日に更正した。本課でも何うしてるのか解らない。處がそれ迄には何うしても竣功の見込は立たない。それで災害を理由に一月三十一日迄の期間延長を許した。然し其の間近になつても尚ほ出來さうにもない。違約金とも思つたが災害の爲に相當損失を蒙つて居るのであるから、第二回目の延期を苦しい理由を附けて許すことにした。其の期限が三月二十五日、運の惡い時には惡いもので、又しても三月三日の海嘯に襲はれた譯だ。構造物は跡型もなく流される、土留石垣の大部分は破壞される。全く慘めなものであつた。請負人としては、最近落目の者であり、資産とてもなく二回も災害を受けて居るので、工區主任も佛心を出し、何とか彼を救つてやりたいと考へた工事としてもあのままの計畫では、此後到底維持は不可能らしい。それで此の仕事を災害復舊工事の中に組入れる爲には、三月三日以前に於て竣功したことにするか、又は打切りにするか二つの道よりないのである。それで請負人には、其れを完成させる能力なしとして二月二十八日で打ち切つて了つた。こんな面倒な手續をしなくとも、既に一月二十二日に於て全工程の六歩參厘の出來型を認め、貳千參百拾圓だけ内渡してあるのだから、考へ樣によつては内渡を認めると言ふ事はそれ迄の仕事の出來型を認めると言ふことになり、それに對する災害に對しては補償し得る樣にも思はれた。
然し此れもあまり煩雜になるから打ち切りで進むことにした。かうして置けば災害復舊として取り入れても、別に問題はない計りでなく、道路そのものにしてもより以上利用價値のあるものにすることが出來るだらう。
主任は早朝寫眞屋を伴つて大原に向つた。小積から峠を越へ大谷川に下り鮫ノ浦に至り、それより谷川に歸り其處から自動車によつて歸廳した。現状寫眞を本當らしく大きく撮るのは面倒なものだ。谷川に來る時石卷から救助に入つて居た義勇團とかが寫眞屋をつかまへて撮影を依頼してゐた。自動車迄傭つて連れて行つた寫眞屋に無斷で依頼するのは不届だ。
然し時が時だ許してやれ。
飯野川の災害工事箇處撮影に對しては電話で命令して置いたが、場所が不便なのだから間に合ふまい。
今日電話で實施設計は遲くとも十五日一ぱいに完成させよとの命令が來た。又明日應援者の來ると云ふ通知があつた。
鹽釜の鈴木左佐技手、大河原の加藤長兵工技手、櫻井宜知治技手の三人ださうだ。工區員も助かることだらう。
三月八日 天候 晴
三人の應援者來る。で、更めて各受持箇處をきめる。加藤技手には飯野川出張所の應援を頼む。工區員も此處四、五日の努力で相當憔悴してる樣だ。十五日迄元氣を持ち堪へてくれる事を祈る。
用地問題で高野技手來區、此の忙がしいのに用地も冀もあるものかと思つたが、本廳でも精算に對して相當憂慮してるらしい。
工區主任は午後飯野川に行き、設計の状况と其の内容とを調査した。此の時考へたのが例へ出張所が、幾つに別れて居ても斯る非常時にはそれ等の各員を一ケ所に纏めるにあらざれば設計の完全を期する事も困難な樣だ。こんな事も一つの經驗になるだらう。
補助工事精算の爲に町村吏員が出かけて來る。邪魔にはなるが、追ひ返す事も出來まい。
三月九日 天候 晴
外業に内業に多事多端だ。十五日迄殘す所一週間、兎に角何んとかなるだらう。然し此の多忙の時に通路修繕や、應急工事に人をとられるのは苦しい事だ。それで其の方の監督に行つてる間に其の附近を調査して歸廳し、他の區員と交替して設計を纏める樣な方法をとる事にした。
各被害箇處の復舊概算を出して置いたのだが、いざ實施設計となると、今迄實際の經常費を取り扱つて居た氣持より考へどうしても消極的になるらしい。中々豫算迄に到らないのもある。谷川、大谷川等大膽に設計する方針なるに關はらずどうしても豫定通り行かない。明日また再測量させることにした。
大原村の直營應急工事の監督に行つて居た菅原技手補の話によると、光山峠の崩土整理は餘程ついたらしく、自動車の交通も支障ないとの事だ。
本日粟野工師來區せられ、種々打合せる處があつた。
用地係の高野技手、和田技手補も來られる用地關係は實際うるさい。庶務の方は精算の整理で多忙だつた。
今晩も皆歸つたのが十二時、實際湯にも入れない樣な仕末。未だ寒い位だから續く樣なものの、夏の暑い時でもあつた
なら、到底體力も持ち堪へる事が出來ないかも知れない。一日一日と疲勞の色が見える樣だが、其の中にも又設計の纏つてゆくのを樂しんでゐるのは他から見ても氣の毒の樣だ。
三月十日 天候
本日は現場撮影の寫眞を本廳迄届ける約束の日だ、出勤早々電話をかけて見たが、現像だけは終つたが未だ乾燥がしてないとのこと。工區から助手をして手傳はせ十時の電車でナマ乾しのままを持たしてやつた。午後電話でそれに對する御小言があつた。あんな撮り方はないとのことだ。だが現場へ行つて見ると餘りよい所とてもないのだ。あれくらゐで我慢してくれ。
現在石卷工區にだけでも全部で二十人からの人が働いて居る。その各自が設計や製圖に從事して居るのであるから、今迄に、これ程狭隘を感した事はない。何うかして一日も早く工區建築の方針を立てなければなるまい。石卷關係の設計も相當纏つて來る。飯野川の方も電話での報告によれば大分進んでゐる樣だ。全部で五十ケ處の中、飯野川には約二十ケ處を分擔せしむることにした。但橋梁等の構造物に對しては全部工區に於て設計する方針を取つた。
谷川方面へ再測量に出かけた。兎に角今度の災害で最も被害の大きいのは谷川、大谷川方面だ。可及的完全なものにすることにしやう。
本廳と打合せの結果、昨年十一月の災害箇處に對しては、それを全部燒き直して此度の分に編入することになつた。然し其れ等の設計は普通の復舊計畫としてのものであつた爲に、それを災害設計書に書換へるのは相當面倒なものだが人手はなし、主任がその方に當つた。然し當時の計畫は餘り大きいものはないから、工事費としてもそれ程の額にはならない
だらう。
仕事を打ち切つたのが矢張り午後十二時、外は未だ寒い。區員よ、もう少しだ。頑張れ頑張れ。
三月十一日 天候
工區員の眼を見ると何れも皆充血して居る。可哀想なものだ。
設計の方も小さいのは大部分纏つた。殘つた大ものさへ十五日迄に完成すればよいことになる。
午後金華山の奥海社掌來區される。金華山でも海岸に在つた小屋が流されたとか。吾々の心配した龜島の防波堤は微動だもしなかつた事を聞いて安心した。話によると、防波堤の北側に停泊してゐた發動機船が、津波の爲に防波堤を越へ、南側迄何等の損傷もなしに動かされたとのことだ。あの防波堤は滿潮時約一米、干潮時には約二米七〇から三米位はあるが、それを越へるのだから恐ろしいものだ。船の「ドラフト」を約一米五〇としても全然損傷がなかつたことから考へる
と、防波堤より水面迄約二米、あの時は滿潮に近かつたのだから、津波の高さが滿潮より約三米高と云ふ位になる。障害物の少い處でさへこれだから、それが海岸にブツつかつたら五米なり六米の水位となるのだらう。
設計の方も曲りなりにも片付いてゆく。退廳午後十二時。
三月十二日 天候 晴
設計は着々進んで行くが、困つたことに設計用紙と、感光紙のないことだ。こんな場合の爲に本廳としても準備をして置いて欲しかつた。今日も山口助手を參廳させて洗ひざらひ、用紙類を持つて歸らせた。
後二日、一寸あぶな氣だが、やれる迄やつて出來なければそれ迄だ。
主任飯野川に出かける。飯野川の方も兎に角一通りは目鼻がついたらしい。
午後女川町長が災害の陳情に來る。何だ今頃、此處でやつてる計畫を説明してやつたら默々として歸つて行つた。
退廳午後十二時。
三月十三日 天候 晴
設計の爲に晝も夜もない位だ。無我夢中で働いて居る。こんな處本廳の暇な人間に後學の爲、見せてやりたい位だ。
外業の方は全部終へて居るので、工區の中はまるで戰場だ。明日一日それが終へたら二日でも三日でも許す限り休養させることにしやう。今日迄の努力は實際その衝に當つたものでなければ解るまい。
三月十四日 天候 晴
いよいよ今日一日だ。仕事の方は豫定したより可なり進んで居るので一安心、全く涙ぐましい奮闘だ。夕刻には飯野川の區員全部が設計書を携へ工區に來る。斯くて工區全體の設計の纏つたのが午後十時、疲勞し切つた顔にも何となく喜びが溢れてゐる樣だ。吾々は地方の爲、宮城縣の爲、ひいては國家の爲働いたのだ。吾々の此の働きの恩惠を受ける人間も相當多いことだらう。萬歳だ。皆一室に集つて心から乾杯たし。
鹽釜の鈴木技手、大河原の加藤、櫻井兩技手には明日任地に歸つて頂くことにした。
それからは主任と庶務の方で明日提出すべき箇所付表の作製を急いだ。完了したのが午前二時三十分、全くきはどい藝當だ。
出來上つたのを見ると、
これにしても無事完結したのはなによりと、曉の星を何んともたとへ樣のない氣持で仰ぎながら家路を辿る。
三月十五日 天候 晴
早朝菅野技手と飯島技手補に、それら設計書を持たせて參廳させ、主任は午前十時の電車で參廳した。縣廳へ行つて見ると、その時には既に査定官として砂治技師一行が來仙されて居り、課長室で設計單價の協定中であつた。石卷、佐沼、鹽釜、仙臺、各工區より持ち寄つた。復舊費は總額で五拾萬圓計りであつた。その中で石卷が一番大きい樣だ。
査定官は三班に別れて行くことになつた。
第一班 吉田技手 第二班 杉村技手 第三班 砂治技師
吾々の方は第二班にブツつかる事になつた。今日の單價協定の時の様子から考へると、第二班は一番苦手らしい。
工區から持ち寄つた設計は、先づ大槻技師の査定を受けた。其の結果設計全體に對し、尚完璧を期する爲に空積を練績にしたり、捨石を増加したり、又は處によつては「パラベツト、ウオール」を設ける等相當の變更を加へる事になつた。
設計書の訂正も汽車の時間迄に終らなければならぬ。然し一々算盤に當つてゐたのでは、何うしても出來上る可能性がない。それで設計書によつて概算的に工費を決定する事にした。それが纏つたのは午後七時頃、議會の閉會期も間近かに迫つて居り、從つて災害復舊費として追加豫算を上程するのにも相當急を要することとなり、其の爲に現場査定の終了によつて復舊費の決定を俟つだけの日時の餘裕がなくなつた爲に、實施設計書により内務省で机上査定をも受ける事になつ
た。大槻技師と佐沼工區主任と、石卷の圭任の三人が午後九時の汽車で上京する樣命令が出た。
石卷工區の中でも、雄勝に對しては工區主任の發案に基いて「コンクリート、ブロツク」により護岸を整備することになつた。處が縣廳へ來てから此迷案? なる爲に其測量がしてなかつた。それで早速電話にて明日迄纏める樣命令した。
大槻技師は査定官に對して全設計箇所付表の完成する迄、仙臺に滯在することを求めたのであつたが、どうしたものか馬鹿に先を急いで居られる第二班等は午後一時の電車で石卷に向つた。石卷方面の案内者は廣岡氏と、齋藤技手とのこと何んなもんか、一寸あぶなつかしい樣な氣もするが、今となつては仕方がない。
査定官が出發してから、いよいよ設計書の訂正にとりかかつた。石卷分の設計書は一括してあつたのだが、いざ調査を初めると、女川關係の分がない。工區を出る時も又縣廳へ來てからも工事番號によつて對照してるのだから、忘れる筈はない。隨分探したが見當らない。大槻氏は變な顔をするし全く閉口した。然し附近の人の話等、色々聞き合せて見ると齋藤氏がその包から拔いて行つたらしい。廣岡氏に對して全部纏つたのを御渡して置いたのに、無斷で持つてゆくとは全く
どうかしてゐる。何うすればよいのだ。實際此の時は馬鹿野郎とでも言つてやりたい位であつた。
早速工區へ電話をかけ、九時の汽車に間に合ふ樣設計書を持つてくることを命じた。
午後七時頃大體の訂正を終へた。斯る點に至つては大槻技師は古強者だけに相當の圖々しさと言はうか、糞度胸と言はうか、何かしら持つて居るのには敬服した。
主任は停車場で山口助手より女川關係の設計書を受取り九時の汽車にて上京した。
査定官は工區事務所に立ち寄り、今野技手の案内にて女川に到り、現場を踏査、石卷に歸つて千葉甚旅館に泊ることになつた。その晩は女川方面の設計査定だ。飯野川派出所からも全部呼び寄せて變更に當らせた。
本省の査定を受けるとは始めてだが、あんなものだらうか。あの横柄な態度は何うだ。如何に本省からの査定とは雖もあれではあんまりだ。惡い所は惡いで、査定されるのは決して無理ではないにしても、それを決定する前に當方の意見も聞いて貰いたいのだ。彼等が如何程地方の状况に通じてゐるか。査定と言ふものは設計を粗雜にし以て其の工費を減少するものの如く考へてゐる樣だ。本當の査定はそんなものではあるまい。不足を補ひ多きを減ずるのが本當の方針な筈だ。
鉛筆を持つて來い、朱墨を持つて來い、蝋燭を持てには全くうるさいものだ。それにしても縣から來た隨行は、一體何うしてゐるのだ、理由のある所に對しては頑張つたらよいのではないか。然し御二人にはとても出來ないらしい。唯平伏して其の命令を聞き、疲れ切つた區員を怒鳴りつけるのが能ぢやないんだ。工區主任は上京して居るし、明日は何うなる事やら兎に角鳧をつけて歸つたのが午後十二時過ぎだ。寒い、旅館には實に氣の毒だ。
三月十六日 天候 雨
査定官一行は大原に向つたが雨の爲に小網倉迄で歸石、工區の方は設計訂正に多忙を極めた爲、單なる案内者として助手をつけた。案内人としてつけた助手が、完全なる説明の出來樣筈がない。廣岡氏も齋藤氏も默々として居る、これでは査定官も手のつけ様もあるまい。其の爲でもあるまいが小網倉の漁岸工事一ケ所削除された。
主任からの命令で雄勝の護岸測量を爲し、仙臺發十時三十分の急行に間に合ふ樣に其の圖面を縣廳に山口助手をして持參せしめた。
午後千葉甚旅館なる廣岡氏より東京の大槻技師のもとへ電話をかけ、此處の査定の概要を傳へ其の減額の甚大なる事を報告する。大槻氏よりは査定宮の意の儘に任せて置け、此方は机上査定によつて現場査定をおさへて行くと言ふ事になつた。
訂正方を打ち切つて歸つたのが午前二博頃だ。
三月十七日 天候 晴
雨も霽れた、査定官雄勝に向ふ。道路の惡い爲に隨分苦しんだらしい。今野技手、市川技手補案内にあたる。雄勝の被害は相當に大きいので査定官も一寸驚いた樣だ。然し雄勝だけで歸つたのは殘念、裏海岸迄引つぱり廻せばよかつたのに區員の中で、一番押しのきき相な今野技手を案内につけたのだが、受持以外の所であつたのであまり成功しなかつた。
各分擔をきめ、設計書訂正にあたる。面倒なものだ。兎に角今晩一晩で、今迄の分を纏めなければならぬ事になつたので到頭徹夜して了つた。
査定官もあまり樂ではなかつたらう。
三月十八日 天候 晴
大原村は一部分だけしか踏査をして居らなかつた爲に、再び出かける。今野技手案内。大原に到り大原女川線に架かつてる橋梁二ケ處失格する。此れは火事場ドロ式だから仕方があるまい。
光山峠の崩土も地震の爲として一萬圓ばかりの設計をして置いたのだが、此れは最初から疑問であつた爲に除いて置いてよかつた。あの調子なら失格したかも知れない。谷川を通り大谷川に行つた。打切つた縣道の上を通しては、具合が惡いので隨分苦心した。丁度干潮だつたので海岸を通り、鮫ノ浦に到り同じ路を歸つた。大體踏査も終へたので石卷へ向つた。
査定官は三班とも最後に一所に集つて集計することになつてゐたので、汽車で鳴子に向ふことになつた。處が小牛田で一時間からの待合せ時間があることを話したら、それでは自動車で行かうと言ふことになり、自動車で鳴子へ向つた。然し會計の方をやつて居た園田書記等は汽車で向つた爲、結局鳴子の方へは自動車の方が先に着いた。室も取つてなかつたので杉村氏は大いに憤慨、相當皮肉られた。
第一班及第三班と鳴子引上げの時間打合せの爲菅原(文)技手補をトラツクで氣仙沼に走らした。
氣仙沼關係はとうに査定も終り、昨晩はユツクリ休養したとのこと。石卷は全く貧乏籤を引き當てた様なものだ。鳴子に着いてから殘部の査定を受けた。鳴子には武田、今野、大友、菅野の四技手だけ出張することになつた。一ケ處を四、五回訂正させられるには閉口した。筆を加へる餘白のなくなる事もあり、別に紙を張つて訂正した程だ。
東京より大槻技手、主任等歸る。話によると机上査定は豫定通り終り、其の儘大藏省へ回付することになつたとか。先づ其の方は此れで安心。その爲に現場査定の方は何うでもよいと言ふ樣に考へられた。十八日は到頭一睡もすることが出來なかつた。
三月十九日 天候
朝から騒動だ。此度一番困つたのは、人夫賃の歩掛が一人九〇錢になつた事であつた。一人一圓と言ふのなら計算にも簡單であつたが、九〇錢となつた爲に、總べてに動きを生じたのだ。此の點は他のこととは違つて總てに影響するのだから、もう少し何とかならなかつたものだらうか。
査定の方も幾分見當がついて來た。査定官は本廳と電報で其の額を打合せて居るらしい。
午後十二時一先づ床に入つた。
三月二十日 天候 晴
午前三時再び起こされた。又々不合格の箇處が出來たのだ。區員を起しても全く夢中だ。坐つて居ても、居眠りする位だ。無理もない。主任は一人でやるつもりであつたらしいが、佐沼の主任にすすめられて、皆を無理に起した。區員には感謝する他はない。
午後になつて又一問題起きた。それは机上査定と、現場査定の結果とがあまりに違ふことであつた。杉村技手には内密に砂治技師の室に集合して善後策を議じた。然し佐沼關係には増額を必要としない程完全な査定がしてある爲に、動かす事が出來ず、結果石卷の分のみ又々動かさなければならぬ事になつた。然し今迄に精根をつかひ果してゐる區員に、此れ以上の事を強ゆるのは無理だ。
間もなく杉村氏に呼ばれ増額する所はないかとの事、事情を知つて居るので最初はないと頑張つたが、暫くして折れて出た。早く決めて區員を休ましてやりたい、それで細い所に影響のない海岸工事の中でも、捨石と言つた樣な關係のみを増額して纏める決心をした。その爲に工費の増へた所もある譯だ。
三月二十一日 天候 晴
午前四時漸く設計を完了した。
縣工事 四六ケ所 二八七、六四九円
内
道路復舊 二〇ケ所 一九三、六六六(セメント三六、一四八)
橋梁復舊 五ケ所 一一、五三三(〃 二、六一三)
海岸復舊 二一ケ所 八二、四五〇(〃 八、九一九)
町村工事 五ケ所 四、○八〇
總計 二九一、七二九
午前十一時の汽車で苫しかつた思出を殘し歸廳を急いだ。
査定設計書は三月三十一日迄に淨書の上提出することになつた。まま暫くは休養の上仕事につくことにしやう。
IV 佐沼土木工區
三月三日(金) 晴
午前二時三十一分突如トシテ響ク地震ト、之ガ反響トハ附近人々ノ耳朶ヲ破リタリ。佐沼附近ニ於ケル地震ニヨル被害ハ少ナカシガ、管轄區域中、本吉海岸ノ不安ト區員一同ノ一致スル所ニシテ、損害ノ調査ハ夜明ケヲ待ツコトトセリ。午前七時ラジオノニユースニヨリ岩手、宮城兩縣ニ跨ガリ、三陸海岸ノ津浪ノ暴擧ハイチ早ク報ゼラレタルヲ以テ、津浪及ビ損害ノ程度ヲ志津川、氣仙沼出張所ニ問合セシモ電話不通ノタメ判明セズ。僅カニ午前八時志津川出張所ヨリ「地震、津浪ノタメ被害甚大ナリ」ノ電報アリシモ詳細不明ナリ。右旨本課ニ至急報告セントスルモ、電話輻輳シ、午前八時至急電話申込ミシモ相當時間ヲ要スルトノタメ、警察電話ニヨリ報ゼントセシモ之亦不通ナリ。止ムナク第一信左記打電セリ。
午前八時半 土木課長宛
「地震津浪ノタメ志津川歌津損害甚大ノ見込、目下調査中。」
之ニ先ダチ工區主任縣外出張不在ノタメ、主任代理トシテ小野木技手、三浦技手、同道、氣仙沼、志津川ニ出張セルモ區員總出動中ニテ交通不便ナル僻地ニ幾多存在スル海岸地ノ動靜未詳ナルモ、大體ニ於テ唐桑、歌津ノ被害甚大ニシテ氣仙沼、大谷、志津川、戸倉等ノ沿道ニ於テ損害十萬圓ノ見込ヲ以テ、午后五時第二信ヲ土木課長宛左記打電セリ。
第二信
「只今午後ノ損害判明概算十萬圓ノ見込唐桑、歌津ノ分追テ報告」
其内新聞號外ハ刻々ト岩手、宮城兩縣被害慘状ヲ報ジ、之ガ調査對策方針ヲ定メントスルトキ、土木課ヨリ相澤技師、高橋(甲)技手、應援ノタメ午后九時半來區、一同ノ鳩首協議ヲ求メタリ。
氣仙沼出張所ノ動靜
午前四時十分大谷村駐在庄司修路夫、大谷海岸海嘯ノタメ縣道(氣仙沼志津川線)浸水、家屋流失、交通杜絶セル旨報ジタルヲ以テ、之ガ復舊ニ人夫ヲ招集セントスルモ、之ニ應ズル者ナク、階上、氣仙沼修路夫ヲ以テ之カ應急復舊ヲナサシメ、佐藤助手ハ大島ヘ、加藤技手補ハ唐桑ニ出張、佐々木技手ハ松岩、階上、大谷ニ出張、夫々被害概略ノ調査ヲナセリ。
志津川出張所ノ動靜
強地震ニ見舞ハレ、其後約三十分ニシテ津浪襲來ノ聲ニヨリ内藤技手、尾形助手、直チニ八幡川口ニ到著スルトキ河口ニ停泊セル漁船ノ總テハ上流部ニ押流サレ、潮見橋ノ高欄、町裏及松原海岸堤防ノ破壞ニツキ應急對策ヲ講ジ夜明ヲ待ツ
午前七時伊里前駐在山内修路夫、伊里前津浪ノ状况及ビ之ガ沿道志津川町細浦、清水附近縣道危險ノ報ニヨリ内藤技手志津川ヨリ北方、小泉ニ至ル。尾形助手ハ志津川南方戸倉方面ニ出張、損害ノ概略ヲ調査セリ。
工區主任ノ勤靜
管外出張中ノ工區主任ハ途中、新潟ニ於テ午前七時ラヂオノニユースニテ管内被害状况ヲ知リ、急遽歸廳セントスル途中、磐越線ノ猛吹雪ニ遭遇シ、列車後レテ午后八時半仙臺着、各工區ヨリ招集中ノトラツク四臺ヲ指揮、加美郡王城寺原陸軍材料庫ヨリ毛布二千枚ヲ借受ケ、午前五時佐沼ニ到着、志津川、氣仙沼、石卷方面ニ夫々途中ノ行程ヲ示シテ下車ス。
三月四日(土) 晴
午前五時工區主任歸區、昨夜應援ノタメ當地ニ出張、工區ニ轉寝セル相澤技師、高橋(甲)技手ト協議ノ上、工區主任ハ工區ニ止リ、第一班高橋(甲)技手、木村技手、遠藤助手ト共ニ氣仙沼方面ニ、第二班相澤技師、小地木技手、柏原技手補ト共ニ志志川方面ニ出張、同夕刻迄被害調査概算ヲ整ヘ歸區ヲ約セリ。昨日ニマサル被害状况ハ新聞ニ報告セラレ一方本朝ヨリノ餘震ハ十數回繰返サレ、ヨリ以上ノ慘禍ヲ想像スル不安ハ定マラズ、胸ハ波打ツ。午后十時第一班第二班全部歸
區。被害状况ノ細部ニ渉ル報告調査表ヲ集メ、被害箇處附表損害概算表ノ作製ニカカリ午前二時終了。
右ニヨルトキ唐桑村ノ損害第一位ヲ占メ、歌津、小泉之ニ次グ。
總被害額現形復舊ヲ主眼トシテ二十萬圓ナリ。
三月五日(月) 晴
前二日間ノ調査ニヨリ之ガ對策方針ヲ定メ、實施ノ測量設計ヲナスベク、左記ノ通リ應援者ヲ定メ、直チニ現地ニ出張ノ命令ヲ發セリ。
氣仙沼出張所 三浦技手 對馬助手
志津川出張所 柏原技手補 遠藤助手
内務省ヨリ震災地調査ノタメ、長久保技師現地出張ノ通知アリ。工區主任隨行志津川、氣仙沼方面ニ向フ。
長久保内務技師ノ行程次ノ如シ。
大槻技師案内、三月五日午後二時戸倉村折立着、同地ヨリ志津川灣一帶ニ點在セル被害箇所ヲ視察、折立、毒川、松原、八幡川口、清水、細浦、伊里前、大谷ノ實地調査ヲナシ、午後六時氣仙沼着菅原旅館泊。
三月六日、午前七時氣仙沼發、只越、大澤ノ破害箇所實地調査ノ上岩手縣ニ向フ。
三月六日(月) 晴
畏クモ 天皇陛下御差遣ノ大金侍從ハ午後一時半、歌津着、大谷ヲ經テ唐桑村只越ヲ視察、夫々災害状况ヲ聽取セラレタリ。三邊知事侍從隨行ニツキ土木關係被害ノ報告、其他ヲ考慮シ、工區主任日夜氣仙沼ニ出張滯在セリ。
午後六時、土木課ヨリ縣道應急災害復舊費トシテ金二千圓配當ノ通知アリシニヨリ、之ヲ實施被害ノ復舊ト災害地トノ交通頻繁ニシテ不完全ナル路面修理費ニ充ツル見込ヲ以テ、氣仙沼高田線、雄勝、志津川線及實地ノ被害箇所大谷、志津川ニ使用ノ旨夫々志津川、氣仙沼ノ出張所ニ通牒ヲ發セリ。
工區所屬トラツクハ、救護班ノ救護品輸送應援ニ關シ土木課ノ許可ヲ得テ、夫々急ヲ要スル地ニ特派出張セシメタリ
三月七日(火) 晴
志津川、氣仙沼兩出張所ニ於テハ工區ヨリノ應援者ト協力、本格的實地測量ニ從事ス。震災地ニ於テハ各救護班ノ活動ヲ歡迎求ムルハ上ムヲ得ザルモノナルモ、土木關係測量ニハ全ク無關心ニシテ、餘計ナルコトト厄介視シ、或ハ罵倒スルモノサヘアリ。アラユル辛酸ヲ以テ當ル、苦心想像以上ノモノアリ。
工區主任大島ニ出張震災地ノ調査ヲナス。
午後十時土木課ヨリ測量調査ノタメ左記當工區ニ應援トシテ出張セシムル旨電話アリ。
築館工區 遠藤留吉技手
仙臺工區 遠藤久造技手
本課 菅野眞三郎技手
三月八日(水) 晴
前日電話ヲ以テ通知セラレタル災害調査測量應援者ノ所屬分擔左記ノ通リ決定セリ。
志津川出張所 遠藤留吉技手 菅野技手
氣仙沼出張所 遠藤久造技手
工區主任歌津村小泉村志津川ニ出張現状測量査定ヲナセリ。
三月九日(木) 晴
出張所ニ於テハ連日ノ外業ト夜業トヲ繰返ス。第一回設計書類志津川ヨリ到着。工區ニ於テハ、査定ト圖面ノ謄寫ニ全員夜業、出張所ト工區トノ打合電話頻繁ナリ。
工區主任戸倉村ニ出張、現場測量ノ査定ヲナセリ。
三月十日(金)晴
三月古陸軍記念日ニ相當スルモ、震災地ニ於テハ各地ヨリノ救護班ノ應援卜バラツク復興ノ氣ニ溢レ、記念日ニ相當スル等ハ勿論打忘レタカノ感アリ。
出張所ニ於テモ工區ニ於テモ測量ニ設計ニ圖面ノ作製ニ餘念更ニナク、刻々ト過キ行ク時ノ早サヲ恨ムノミ。
設計用紙再三督促セルモ未着、頗ル困難ヲ感ジ、互ニ氣立ツ結果ハ寧ロ本廳用度係ヲ恨ムノ感情ニ出ヅルモノアリ。
三月十一日 晴 (土)
測量内業共前日ト略同樣ニシテ午前零時迄夜勤ス。
三月十二日 曇 (日)
土木課粟野土木工師、災害復舊ヲ加ヘ、爾後ノ復興計畫箇所並ニ對策方針ヲ持シ參區ス。
土木課ヨリ應援ニ出張中ノ菅野技手、連日ノ外内業ノ疲勞ニ神經衰弱ノ氣ヲ覺エ靜養ノタメ歸仙ス。
午後六時氣仙沼、志津川出張所ニ對シ外業終了ノ上ハ、明十三日全員工區ニ參集方命令セリ。
來ル十五日午前中迄取纏ムル全設計ニ對シ、工程豫定書ヲ作製、各員ノ興奮緊張、共ニ夜ノ靜寂ニ、珠算ト時計トノ音ヲ聞クノミ。
三月十三日 晴 (月)
一昨日急遽歸廳セル菅野技手ノ代理トシテ、熊谷技手來區セリ。各出張所ヨリ午後全部集合、全員ヲ以テ内業ニ從事セ
午前十一時土木課ヨリ震災ニヨル津浪ノ高サ、來ル二十日迄調査報告方ノ電話アリ。依ツテ十六日ヨリ各出張所詰員ニ對シ之ガ調査方ヲ移牒セリ。
夜勤午前零時二十分迄、主トシテ設計書及圖面ノ謄寫ヲナセリ。
三月十四日 曇 (火)
午前中ヲ以テ設計書ノ作成全部終了。青寫眞ノ作業設計書ノ取纏メヲナシ、午後十一時全部設計書ノ作成終了ス。
午後四時土木課ヨリ明十五日午前十時、佐沼發ニテ設計書持參工區主任ハ本廳應援者ト同行參廳方ノ命令アリ。
三月七日ヨリ本日ニ至ル八日間、否震災當日ヨリ十二日間日夜不眠不休、撓ミナキ活動ノ結晶ハ此設計書ニアリト、明日持參スル設計書ノ包ノ周圍ニ圓坐シ、過去ノ苦勞苦心談ヲ賛スコト久シ。
三月十五日 晴 (水)
午前十時災害設計書持參、工區主任參廳セリ、爾後工區主任ノ行程左ノ如シ。
三月十五日午後十時仙臺發内務省土木局ニ出頭、三日間内務省ノ災害机上査定ヲ受ケ、十九日内務省査定官ノ駐在地鳴子ニ向フ。
午後九時土木課ヨリ左記電話アリ。
明正午迄内務省査定官志津川、氣仙沼ヘ出張ニツキ、技手補以上同所ニ出張セシメ置クベシ。
三月十六日 雪 (木)
内務省査定官砂治技師、一行相澤技師、高橋(甲)技手隨行正午來區直チニ夫々現場ニ向フ。
査定官隨行トシテ志津川方面ヘ、
木村道路技手 柏原技手補
氣仙治方面ヘ三條技手補、菅原技手補出張セリ。
災害工事査定事務調査ノタメ、内務屬廣住久、園田書記同行、佐沼ホテルニ滯在ス。
査定官ノ動靜次ノ如シ。
砂治査定官
佐沼-志津川、八幡川口、荒戸、歌津、田ノ浦、大谷村、午後八時氣仙沼町菅原旅館泊リ。
實査箇所査定開始、終了午前二時。
吉田査定官
十三濱ヨリ志津川ニ出張、午後十時志津川蔦屋旅館泊。當日ハ霧或ハ雨ト化シ、査定官及隨行員共ニ頗ル難行セリ。
三月十七日 晴 (金)
内務査定官動靜左ノ如シ。
砂治技師
午前八時氣仙沼發、唐桑村只越現場査定、松岩村、階上村、大谷村被害箇所現場査定、氣仙沼菅原旅館泊リ。實査箇
所査定終了午前二時。
吉田査定官
午前八時志津川發戸倉村全部ノ査定了ス。
志津川蔦屋旅館泊リ、實査箇所藤定終了午前一時半。
三月十八日 晴 (土)
午後一時査定官來區、實査箇所設計書取纏メノタメ鳴子ニ向フ。
小野木技手以下(雇員以上)全部鳴子ニ出張。
峻嚴ナル査定ニ對シ、各擔當員ノ説明設計書訂正等ニ當日徹夜勤務ス。
三月十九日 晴 (日)
鳴子町ニ於テ査定設計ノ取纏メニ從事ス。
工區主任内務省ノ机上査定ヲ終ヘ直チニ鳴子ニ向フ。
土木課ノ技術幹部總出動、二十有餘名夫々ノ薀蓄ヲ傾ケ、査定ノ第一線ニ立チ奮勵同日各員貝徹夜。
三月二十日 晴 (月)
前日同樣
三月二十一日 晴 (火)
前日迄管内全部ノ査定終了、小野木技手以下鳴子十時發ノ列車ニテ歸區。工區主任事務打合ノタメ鳴子ヨリ査定官隨行仙臺ニ向フ。
三月二十二日 晴 (水)
工區主任震災査定事務全部終了ヲ俟チ歸區ス。佐沼工區分震災復舊査定額次ノ如シ。
縣工事 一五七、〇三一圓
町村工事 六〇、二六三圓
合計 二一七、二九四圓
唐桑村罹災民一同トシテ左記請願アリタリ。
請願書
今回ノ海嘯罹災者ニ對シ不便ヲ感ジ候ヘシハ陸路ノ不便甚ダシキモノアリ唐桑村役場ニ通ズル縣道ノ改修速進アランコト切ニ嘆願仕候也。
右ハ現在氣仙沼唐桑線ノ府縣道認定アルモ、幅員勾配ニ於テ到底現在路線ノ改修覺束無ク、タメニ鹿折村昭和七年度匡救工事トシテ海岸四ケ濱道路ヲ利用、連絡ノ意味ヲ以テ本年度ノ匡救工事ト合セ、着々進行中ナリ。右ト同一ノ意味ヲ含ムモノニ、同ジ震災地トシテ本吉郡歌津村、小泉村、戸倉村アリ。何レモ昨年度ヨリノ匡救工事トシテ、之ガ利便交通ノ開發ニ努メツツアリ。
三月二十三日 晴 (木)
縣土木課ヨリ災害工事設計書、仕樣書二通ヅツ調製ノ上、三月末日迄進達方電話アリ。
依テ右調製ニ對シテハ工區諸員ヲ以テ、全部之ニ當ルコトトナシ、一方震災地出張所ニ對シテハ、災害査定洩ノ箇所其他海岸工事トシテ捨置難キ部分ノ測量調査方命令セリ。
三月二十四日 晴 (金)
土木課長震災地視察ノタメ戸倉、志津川、歌津、大谷ヲ經テ氣仙沼町宿泊工區主任隨行。
工區主任本吉郡唐桑村小泉、歌津、戸倉村臨時海嘯地家屋復興計畫委員ニ委囑ノ發令アリ。
三月二十五日 晴 (土)
土木課長唐桑村震災地視察ノ上、氣仙沼十時發歸廳ス。工區主任隨行。
三月二十六日 雨 (日)
曩ノ内務省査定官砂治技師ヨリ本吉郡歌津村田ノ浦ノ實測圖、竝ニ被害面積、津浪ノ方向、高サ等調査方依頼アリ。即日志津川出張所内藤技手ニ對シ、四月十日迄調査測量ヲ命ズ。
三月二十七日 雨 (月)
志津川出張所ヨリ雄勝、志津川線本吉郡戸倉村、小濱、波傳谷地内震災復舊假工事竣功ニ付檢査方電話アリ。
三月二十八日 晴 (火)
工區主任雄勝、志津川線震災復舊假工事竣功檢査ノタメ戸倉村ヘ出張。
三月二十九日 晴 (水)
戸倉村波傳谷地内地方有志、村長ト同行、海岸工事施行ニ對シ陳情アリ。要スルニ今回ノ査定洩ノ箇所ニ於テ家屋及ビ耕地保護ノ目的多ク縣工事トシテノ施工ヲ求メタリ。之ニ對シ縣費支辨海岸堤防並ニ今回ノ査定目的ヲ種々説明ヲ與ヘタリ。
三月三十日 晴 (木)
工區主任唐桑村地方振興町村工事竣功檢査ノ命ヲ以テ小鯖、鮪立、宿地方今回ノ震災ニ對シ、實地調査ノ上地方ノ實際的信頼ヲ問ヒ、合セテ同村瀧濱ニ至リ、今回ノ津浪ニヨル想像以上ノ力ノ實際ヲ視察セリ。視察状况次ノ如シ。
瀧濱ハ東海岸ニ面スル砂濱ニシテ、コノ地ニ津浪ニ打チ上グラレ、四噸以上ノ大岩石ガ、高一、五米徑二米アリ、全面ワカメ其他ノ海草附着セル點ヲ見ルトキ可成ノ遠方ヨリ運バレシヲ覺リ。浪ノ力ヲ示ス實標本タリ。(寫眞六、被害參照)
土木課ヨリ明日農林大臣唐桑村震災地視察ニ付氣仙沼、只越道路ノ状况ニツキ照會アリ。尚災害工事事務打合ニ關シ明三十一日工區主任參廳方電話アリ。
三月三十一日 晴 (金)
三月二十三日土木課ヨリノ通牒ニ基ヅキ設計書仕樣書ヲ携帶、午前九時工區主任參廳ス。
四月一日 晴 (土)
工區主任縣廳ヨリ歸區。
本年度時局匡救工事ト震災復舊工事トヲ合セ、工事費總額本工區管内四十四萬餘圓ニ達シ、現在ノ職員ノミニテハ底到完全ナル成果ヲ期シ難キニヨリ、監督係員ノ増員ニ關スル意見ヲ具申ス。
四月二日 晴 (日)
震災事務打合セノタメ明三日志津川、氣仙沼出張所員參區方通知ス。
四月三日 晴 (月)
午前十時出張所員參集ヲ俟チ、區員ノ協議會開催ス。
四月四日五日 記事ナシ。
四月六日 晴 (木)
工區主任震災道路復舊檢査ノタメ大谷村ニ出張。
四月七日 晴 (金)
齋藤内務政務次官、氣仙沼ヨリ只越ニ至リ震災地ノ視察ヲナス。
四月八日 晴 (土)
戸倉村海岸堤防築造ニ關シ同地關係者ヨリ陳情書到著アリ。
四月九日 晴 (日)
前日到著ノ陳情書ノ内容ニツキ不備不審ノ點アリ。一應志津川出張所ニ對シ調査方ヲ命ズ。
三月二十六日砂治内務技師ヨリ依頼ニヨル歌津村田浦ノ測量調査書、志津川出張所ヨリ到着ニツキ、内容調査ノ上同日砂治技師宛送付セリ。
四月十日ヨリ十二日ニ至ル震災關係記事ナシ。
四月十三日 晴 (木)
曩ノ具申ニ基ヅキ震嘯災監督員ノ増員トシテ天野土木助手着任。
工區主任戸倉村、震災道路復舊竣功檢査ヲナシ尚曩ノ請願ニ基キ護岸工事箇所調査ノ上同日歸區ス。
四月十四日 晴 (金)
戸倉村海岸工事陳情ニ對スル調査設計完了ス。
四月十五日ヨリ十六日ノ二日間震災記事ナシ。
四月十七日 晴 (月)
震嘯災害監督員ノ増員トシテ平賀技手補着任ニ付明十八日志津川出張所詰トシテ赴任方ヲ命ズ。
四月十八日 晴 (火)
震災工事査定洩並ニ追加施工ヲ要スル箇所、調査完了ニツキ之ガ箇所附表内務部長宛發送セリ。
四月十九日 晴 (水) 記事ナシ。
四月二十日 曇 (木)
震嘯災害工事監督増員ニ伴ヒ、熊谷技手着任ニ付氣仙沼出張所勤務ノ命ヲナシ、同日任地ニ赴任セシム。
震災工事ニ對シ之ガ施行方法ニ關シ、内務部長ヨリ照會アリ。
四月二十一日 晴 (金)
前日照會ニカカル震災復舊工事施行方法ニ關シ、各出張所ノ意見ヲ求ムル必要ヲ認メ、明二十二日參區方ヲ志津川、氣仙沼ニ通知ス。
四月二十二日 雨 (土)
午前十時各出張所ヨリノ來區ヲ待チ、施行方法、請負人ノ選定ニ關シ協議會ヲ閑キ、工區ノ意見トシテ同日内務部長宛回答セリ。
四月二十三日 晴 (日)
震災復舊氣仙沼高田線道路、修繕檢査ノタメ工區主任唐桑村、鹿折村ニ出張ス。
四月二十四日 晴 (月) 記事ナシ。
四月二十五日 晴 (火) 記事ナシ。
四月二十六日 曇 (水)
震嘯災害將來ノ對策樹立ノ必要上各震災地ニ於ケル津浪ニ對スル參考資料調査ノ件來牒ニ付夫々正月七日迄ノ回答期限ヲ附シ志津川、氣仙沼出張所ニ移牒セリ。
四月二十七日 晴 (木)
本日ヨリ各出張所ニ於テハ夫々ノ調査方針ニ則リ調査ヲ開始ス。
四月二十八日 晴 (金)
志津川出張所ヨリ曩ノ調査方針ニ對スル疑義ノ點打合セ電話アリ。
四月二十九日 晴 (土)
明三十日工區員全員ノ震災對應其他ノ研究協議會開催ニツキ來區方ヲ命ズ。
四月三十日 晴 (日)
午前十時全區員參集。曩ノ震嘯當時ノ状况、津浪ノ性質、特ニ東北帝大林喬博士研究ノ津浪ニツイテノ實際、今回ノ震嘯對應策ニ當リテノ實驗ニ付種々意見ノ發表ヲナシ午後四時散會ス。
五月一日 晴 (月)
工區主任、會議ニ出席ノタメ參廳ス。
特ニ打合セ事項トシテ震嘯工事施行ニ關スル點ノ調査書携行ス。
五月二日 晴 (火)
工區主任參廳滯在中。
五月三日 晴 (水)
工區主任歸區。
參廳中種々打合セ事項ニツキ區員ニ指示スル所アリ。
五月四日 晴 (木)
震災對策調査資料ノ作成ニツキ調査中ノ處、土木課ヨリ重ネテ嚢ノ指示以外ニ明治二十九年、津浪當時ノ状况モ合ヒテ調査方ノ通牒アリ。
五月五日 晴 (金)
震災復舊町村工事施行ニ關シ、低利資金ノ融通ノ有無及ビ之ガ手續ノ點ニ付、本吉郡小泉村長ヨリ照會アリ。
五月六日 晴 (土)
本吉郡戸倉村有志海岸工事施行ニ關シ、再ビ陳情アリ、依ツテ之ガ施行及ビ將來ニ對スル計畫ニツキ、工區主任ヨリ縷鏤説明スル所アリタリ。
五月七日 晴 (日) 記事ナシ。
五月八日 晴 (月)
震災復舊工事中、縣工事町村工事トノ區別、時局匡救事業トノ關係ニツキ、本吉郡大谷村長來區。
各出張所ヨリ震災對策調査資料到着。
五月九日 晴 (火)
志津川、氣仙沼、各出張所ヨリ提出ニカカル調査資料ノ調査開始。
五月十日 晴 (水)
前日同樣ナリ。志津川、氣仙沼ニ對シ調査書疑義ノ點問合ス。
五月十一日 晴 (木)
前二日間ノ調査完結ヲ俟チ、之ガ取纏メヲナシ内務部長宛回答ス。
五月十二日 晴 (金)
五月五日小泉村長照會、震災工事ニ對スル低利資金ノ件ニツキ回答ス。
五月十三日 晴 (土)
震災工事對策及之ガ區員ノ増員ニ伴ヒ、受持分擔變更ノ決裁アリ。左記ノ通リ一週間以内ニ夫々赴任スベク通牒セリ。
(震災地關係ノ分)
志津川出張所
木村技手 平賀技手補 對馬助手 鈴木技手 高橋助手 千葉助手
氣仙沼出張所
熊谷技手 加藤技手補 小針助手 内藤技手 元野助手 佐藤助手
津谷出張所 佐々木技手、澤田技手補
五月十四日 晴 (日) 記事ナシ
五月十五日 晴 (月)
志津川出張所 鈴木技手、木町技手、高橋、對馬、千葉助手夫々赴任ス。
津谷出張所開設 佐々木技手赴任。
五月十六日 晴 (火)
今回震災地トシテ代表的ノ箇所飛行機ニヨリ寫眞撮影ニ付、夫々關係町村ト打合セ、之ガ準備方ノ通牒アリ。
右旨夫々各出張所ニ移牒ス。
五月十七日 晴 (水)
氣仙沼出張所、内藤技手其他全部ノ赴任ヲ了ス。
五月十八日 雨 (木)
本日ヨリ三日問工區主任會議ノタメ工區主任參廳。
五月十九日 晴 (金)
震災事務ニ付志津川出張所ト電話打合セヲナス。
五月二十日 晴 (土)
工區主任會議終了歸區。
五月二十一日 晴 (日) 記事ナシ。
五月二十二日 一時雨後曇 (月)
震災地調査ノタメ内務技師松尾春雄一行、粟野工師、木村技手隨行、戸倉村、志津川町ノ調査ヲナス。志津川泊。
五月二十三日 晴 (火)
松尾内務技師、歌津、大谷、唐桑村災震地調査、氣仙沼泊リ。佐々木技手、熊谷技手隨行ス。
五月二十四日 晴 (水)
松尾技師一行歸廳ス。
五月二十五日 晴 (木) 記事ナシ。
五月二十六日 晴 (金)
今回ノ震災工事ハ近ク着工ノ運ビニナルニツキ、曩ニ工區主任參廳打合セタル設計變更ノ取扱範圍ヲ示シ、豫メ之ガ對應策ノ調査方ヲ各出張所ニ通牒セリ。
五月二十七日 晴 (土)
木村技手歌津村ニ出張、同地ヨリ伊里前地内設計變更ノ件ニ關シ電話ヲ以テ打合セアリ。
五月二十八日 晴 (日)
工區主任災害事務ニ關シ氣仙沼、志津川ヘ出張。
五月二十九日 晴 (月)
震災事務打合セノタメ小野木技手參廳ス。
土木課ヨリ震嘯對策復興計畫トシテ唐桑村大澤、小鯖兩ケ所ノ防波堤、築造ノ基礎材料トシテ縦斷深淺測量ノ件通牒アリ。即時氣仙沼出張所ニ對シ測量調査方命令ス。
五月三十日 晴 (火)
氣仙沼出張所ニ於テ前日ノ通牒ニ基キ、夫々手配調査ニ午後七時迄ノ外業及午前零時迄ノ内業ヲナス。
五月三十一日 晴 (水)
氣仙沼出張所ヨリノ調査書到著ス。
氣仙沼、志津川、津谷、各出張所ヨリ夫々主任者參區事務ノ打合セヲナセリ。
六月一日 晴 (木)
五月二十九日通牒ニナル唐桑村復興計畫ノ調査材料、持參中澤土木助手參廳ス。
六月二日ヨリ同五日迄本關係記事ナシ。
六月六日 晴 (火)
震災事務打合セノタメ志津川出張所木村技手參區ス。
震嘯災害地寫眞撮影ノ件ニ關シ土木課ヨリ電話アリ。
六月七日 晴 (水)
震災事務打合セノタメ氣仙沼加藤技手補參區ス。
六月八日 晴 (木)
午後一時ヨリ震嘯災害地寫眞測量飛行機飛來、志津川ヨリ氣仙沼方面ニ向フ。
六月九日 晴 (金) 記事ナシ
六月十日(土)
震嘯災害地設計變更現場調査ノタメ工區主任志津川ニ出張。
六月十一日 晴 (日)
工區主任前日ニ引續キ戸倉村ニ出張ス。
六月十二日 晴 (月)
震嘯災害復舊町村工事施行方法ニ關シ小泉村長來區、氣仙沼出張所加藤技手補、來區、唐桑村鮪立地内海面縦斷測量ノ結果説明アリ。
六月十三日ヨリ十七日迄 記事ナシ。
六月十八日 晴 (日)
甲第四三號、志津川町八幡川口突堤復舊直營工事起工ノ通牒アリ。同日直營工事トシテ變更ノ要旨ヲ示シ、志津川出張所鈴木技手宛移牒ス。
六月十九日 曇 (月)
震災復舊町村工事事件ニ關シ工區主任階上、松岩ニ出張ス。甲第三號、三八號、四五號、四〇號工事請負入札執行ニ闕シ通牒アリ。
六月二十日 晴 (火)
甲第四三號志津川町八幡川河岸復舊工事用浚渫船廻送ノ件ニ關シ、部長宛具申ス。
六月二十二日 晴 (水) 六月二十一日記事ナシ。
氣仙沼出張所内藤技手ヨリ震嘯復舊設計變更ニ關シ電話照會アリ。
六月二十三日 晴 (金)
災害工事現場調査ノタメ、工區主任氣仙沼、志津川ニ出張。
六月二十四日 晴 (土)
甲第四三號、志津川町八幡川河岸復舊直營工事着手報告。
六月二十五日 晴 (日) 記事ナシ。
六月二十六日 雨 (月)
甲第四三號、八幡川河岸復舊直營工事設計變更伺提出。
六月二十七日 晴 (火) 記事ナシ
六月二十八日 晴 (水)
震嘯災害復舊町村補助工事資金割當額決定通牒アリ。氣仙沼、津谷、志津川出張所ヲ經テ小泉村、戸倉村、志津川町、歌津村、階上村、鹿折村、膚桑村、大島村ヘ夫々移牒ス。
六月二十九日 雨 (木)
甲第三、三八、四五號震災工事請負契約締結ス。
六月三十日 雨 (金)
震災復舊補助町村工事左記ノ通リ内定通牒即日發送ス。
唐桑村 一ケ所 階上村 二ケ所 小泉村 四ケ所 鹿折村 一ケ所
戸倉村 三ケ所 志津川町 一ケ所 大島村 四ケ所 歌津村 七ケ所
午後二時本課島津屬ニ對シ、震災復舊町村補助工事補助申請手續上ニ關シ電話打合セヲナス。
七月一日 曇 (土)
震災復舊左記工事指名入札通牒アリ。(入札日七月十日)
甲二、五、三九、四七、三二、三四、三五、二九、三〇、一、四、四八、以上十二ケ所海岸復舊並ニ道路復舊工事。
震災第十二號道路修繕工事請負契約締結ス。
七月二日三日、記事ナシ。
七月四日 晴 (火)
甲第四〇、三三號震災復舊工事請負契約締結ノ件通牒アリ。
粟野土木工師ヨリ震災復舊町村工事追加分設計書進達方電話アリ。十日迄進達スベキ旨回答ス。
七月五日 晴 (水)
前川技術課長管内震災地視察トシテ出張ニ付、大槻技師ト共ニ工區主任、同行ノタメ氣仙沼町ニ向フ。
七月六日 晴 (木)
前川技術課長管内全部ノ視察ヲ了シ、志津川經由石卷土木工區管轄ニ向フ。
工區主任歸區。
七月七日 晴 (金) 記事ナシ。
七月八日 晴 (土)
甲第四六號工事請負契約締結ノ件通牒アリ。
甲第四三號工事設計變更決裁通牒アリ。
工區主任震災工事監督トシテ歌津村、志津川町ニ出張。
七月九日 晴 (日)
前日ヨリ引續キ戸倉村ニ出張歸區ス(工區主任)。
七月十日 晴 (月)
午前十一時指名入札執行甲第二號、甲第五號、甲第三九號、甲第四七號、以上工事即時開札落札者決定。
土木課郷古書記ト、甲第四七、四八號震災復舊工事用セメント設計内容ニ關シ疑義ノ點電話打合セ。
甲第四一號、三七號工事請負契約締結ノ通牒アリ。
小泉村震災復舊補助申請提出アリ、即時進達ス。
工區主任震災復舊町村補助追加工事設計書携帶參廳ス。
七月十一日 晴 (火)
工區主任震災工事事務打合セヲ了シ歸區、即時打合ノ要項各出張所ニ通牒ヲ發ス。
七月十二日 晴 (水)
土木課粟野土木工師ヨリ震災復舊工事事務打合セノタメ、明十三日午前九時工區主任參廳方電話アリ。
七月十三日 曇 (木)
工區主任前日電話ニヨリ參廳(用務震嘯災地平面測量ニ關スル事項)。
甲第三六號震災復舊工事請負契約締結ニ關シ通牒アリ。
七月十四日 曇 (金)
工區主任歸區直チニ指示セラレタル事項各出張所ニ通牒ヲ發ス。
小野木技手、志津川町地内震災復舊工事監督ノタメ出張。
七月十五日 雨 (土)
震嘯災害地豫防調査測量班來區。
第一班 仙臺高工實習生 川村美雄 山司六郎。
第二班 同 赤間信 萱場修。
第三班 磯技手補 富永助手 横關六郎 渓戸敦雄 即日夫々震災調査地ニ向フ。
甲第三五號請負契約締結ノ件通牒アリ。
七月十六日 雨 (日)
木村技手、震災復舊工事甲第四七、四八號工事ニ關シ打合セノタメ土木課ニ參廳。
氣仙沼漁港事務所小幡技手ヨリ甲第四三號、直營工事用浚渫船廻送ノ件ニ關シ電話アリ。
七月十七日 晴 (月)
木村技手打合セヲ了シ歸區ス。
甲第四三號直營工事石積船賃借方曩ニ依頼セルニ對シ、石卷工區主任ヨリ見合セタリトノ電話回答ニ接ス。
甲第三三號、三〇、二九、四八、四二、震災復舊工事請負契約締結ノ件通牒アリ。
七月十八日 晴 (火)
甲第一號震災復舊工事請負契約締結ノ件通牒アリ。
甲第四一號同 工事設計變更具申。
七月十九日 晴 (水) 記事ナシ。
七月二十日 晴 (木)
甲第四五號工事設計變更具申。
震災復舊工事用支給セメントノ卸賃支出ニ關シ通牒アリ。
七月二十一日 晴 (金)
工區主住震災工事監督ノタメ大谷村ニ出張。
七月二十二日 晴 (土)
甲第三五號震災復舊工事設計變更具申。
七月二十三日 晴 (日)
震災道路復舊工事監督並ニ實習生震災豫防調査測量指導ノタメ唐桑村、鹿折村ニ出張。
七月二十四日 晴 (月)
大島村、鹿折、唐桑村分震災復舊補助申請書提出ナキタメ、氣仙沼出張所ニ對シ電話ス。
震災工事監督トシテ工區主任歌津村、志津川町ニ出張。
七月二十五日 晴 (火)
震災復舊、補助申請ノタメ階上村書記來區、申請書即日進達セリ。
七月二十六日 晴 (水)
震災復舊直營工事(甲第四三號)火藥購入手續打合ノタメ志津川出張所、同警察署ニ大泉書記出張。
七月二十七日 晴 (木)
志津川町ヨリ震災復舊補助工事申請ニ付即日進達。
七月二十八日 晴 (金) 記事ナシ。
七月二十九日 晴 (土)
午後二時氣仙沼漁港修築工事擔當者小幡技手ヨリ、甲第四三號震災直營工事用浚渫船及土運船三隻明三十日、天候次第廻送方電話アリ。
七月三十日 晴 (日) 記事ナシ。
七月三十一日 晴 (月)
氣仙沼漁港修築事務所小幡技手ヨリ廻送ノ甲第四三號、震災復舊直營工事用浚渫船松島丸、及土運船三隻午前十時三十分志津川町八幡川口ニ到着ス。
本日現在震災復舊工事報告書發送ス。
八月一日 晴 (火)
一、震災復舊工事監督、並震嘯地方豫防調査測量實習生指導ノタメ、工區主任歌津村、志津川町ヘ出張。
一、甲第四三號震災復舊直營工事人夫賃、三〇〇、四三〇圓請求書進達。
一、甲第三號震災復舊工事設計變更具申。
八月二日 晴 (水)
甲第四三號震災直營工事積石採取箇所保安林解除具申。
工區主任震災復舊工事監督トシテ戸倉村ニ出張。
八月三日 晴 (木) 記事ナシ。
八月四日 晴 (金)
甲第三一號第三八號震災復舊工事設計變更決裁通牒、小泉村震災復舊補助工事補助指定アリ、即日發送。
八月五日 時雨 (土)
階上村補助申請(震災復舊)書豫算議決書ニ缺陷アリ、大泉書記同村ヘ出張。
淺野セメント仙臺出張所ヨリ甲第四、同第五號震災工事用セメント注文數量ニ關シ電話アリ。
八月六日 時雨 (日)
戸倉村、志津川町震災補助工事補助指分アリ。即日各村ヘ發送ス。
八月七日 晴 (月)
工區主任震災復舊工事監督ノタメ大谷、階上、志津川ヘ出張。
八月八日 晴 (火)
甲第四〇號同第三三號震災復舊工事設計變更具申。
八月九日 晴 (水)
甲第四三號震災復舊直營工事岩石採取用火藥購入ニ關シ具申。
右工事人夫賃請求書ニ關シ、志津川出張所ト電話打合セヲナス。
八月十日 晴 (木)
甲第四三號直營工事用浚渫船及土運船引受ニ關シ氣仙沼漁港事務所ヘ引受通牒、及内務部長宛報告ヲナス。甲第四四號工事竣功ニ付工區主任檢査即日復命書進達一通。
八月十一曰 晴 (金)
震災復舊補助工事施行方法承認申請ノタメ小泉村書記參區、該申請書即時進達。
八月十二日 晴 (土)
歌津村震災復舊補助工事補助指令アリ、即時發送。
八月十三日 晴 (日) 記事ナシ。
八月十四日 晴 (月)
工區主任志津川町甲第四三號直營工事用材料檢査ノタメ出張、同日右檢査復命。
八月十五日 雨 (火) 記事ナシ。
八月十六日 晴 (水)
氣仙沼出張所ニ對シ震災工事状况報告方雷話ス。
本月十五日現在震災工事進捗状况報告書進達ス。
八月十七日 曇 (木)
小泉村震災補助工事施行方法認可指令アリ、即時發送。
大島村同工事補助指令アリ。
志津川町同工事着々竣功並施行方法承認恥請書提出アリ、進達。
甲第三三號震災復舊工事設計變更決定方通牒。
八月十八曰 晴 (金)
甲第四三號震災直營工事用火藥購入決裁通牒アリ。
志津川出張所ヨリ震災豫防調査測量人夫賃至急交付方ニ關シ電話アリ。
八月十九日 晴 (土)
甲第一號震災復舊工事設計變更決裁通牒。
八月二十日 晴 (日)
内務部長ヨリ震災復舊工事ノ取扱ニ關スル通達アリ。
内務部長ヨリ同工事設計變更ノ場合ニ於ケルセメント取扱ニ關スル通牒アリ。
甲第三一號震災工事設計變更決裁通牒。
唐桑村震災補助指命アリ。
八月二十一日 晴 (月)
甲第四三號震災復舊直營工事人夫賃四六二圓七〇錢請求進達。
八月二十二日 晴 (火) 記事なし。
八月二十三日 曇 (水)
震災豫防調査測量班指導監督ノタメ工事主任小泉村ニ出張。
明二十四日震災工事現場調査ノタメ大槻技師出張ノ旨電話アリ。
震災豫防調査測量第二班現場引上ゲ參區執務。
八月二十四日 曇後雨 (木)
大槻技師、午後三時半來區直チニ降雨ヲ冒シ自轉車ニテ工區主任同行氣仙沼方面ニ向フ。
唐桑村地内震災復舊各種工事監督事務所賃借方内務部長宛具申。
八月二十五日 雨 (金)
雨中ニ不拘前日ニ引續キ大槻技師、工區主任ハ震災復舊工事現場監督並調査(自轉車ニテ)。
甲第四六號震災復舊工事竣功届出アリ。
八月二十六日 晴 (土)
鹿折村震災補助工事補助指令アリ、即日發送ス。
甲第三七、及甲第四號設計變更決定通牒。
甲第四五號震災復舊工事竣功届出アリ。
災害防護調査測量第三班現場引上參區。當事務所ニテ執務。
大槻技師、工區主任ハ前日同樣自轉車ニテ震災復舊工事現場調査並ニ監督。
八月二十七日 歸 (日)
大槻技師、工區主任、歸區。
八月二十八日 晴 (月)
甲第二號震災復舊工事竣功届ニ付檢査方申請(竣功届進達)。
當工區事務所ニテ執務中ノ震災防護調査測量第二、第三班六名内業終了シ歸廳ス。
八月二十九曰 晴 (火)
震災防護調査測量第一班外業終了、現場引上參區、當事務所ニ執務。
甲第三八號震災復舊工事設計變更決裁通牒。
八月三十日 晴 (水) 記事ナシ。
八月三十一日 晴 (木)
各出張所ヨリ區員全部參集、震災復舊工事ニ關シ種々鳩議セリ。
第七章 震嘯災に關する諸法令
第一節 法律・省令・勅令
法律
朕帝國議會ノ協賛ヲ經タル震災被害者ニ對スル租税ノ免除猶豫等ニ關スル法律ヲ裁可シ■ニ之ヲ公布セシム
御名 御璽
昭和八年三月二十五日
内閣總理大臣 子爵 齋藤實
大藏大臣 高橋是清
内務大臣 男爵 山本達雄
○法律第十三號
第一條 政府ハ震災(昭和八年三月三日)及之ニ伴フ火災又ハ海嘯ヲ含ム(以下同ジ)ニ因ル被害者ノ震災地ニ於テ納付スベキ昭和七年分第三種所得税第四期分ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ免除スルコトヲ得
第二條 政府ハ震災ニ因リ著シク利用ヲ妨ゲラレタル土地ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ地租ヲ免除スルコトヲ得
第三條 政府ハ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分ノ第三種所得税、個人ノ營業收益税、及乙種資本利子税ニ限リ課税ニ關スル申告及申請竝ニ課税標準ノ決定ニ關シ命令ヲ以テ特例ヲ設クルコトヲ得
第四條 政府ハ震災地ニ於テ昭和八年三月三日以後ニ納付スベキ租税ニ付命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ徴收ヲ猶豫スルコトヲ得
第五條 第一條第三條及前條ノ震災地ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
第六條 第一條又ハ第二條ノ規定ニ依リ免除セラルル租税ハ法令上ノ納税資格要件ニ關シテハ免除セラレザルモノト看做ス
前項ノ規定ハ北海道地方税及縣税ニシテ震災ニ因リ減免セラルルモノニ付之ヲ準用ス
附則
本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
省令
○遞信省令第十一號
昭和八年三月三日ニ於ケル三陸地方ノ震災(震災ニ伴フ火災及海嘯ヲ含ム)ニ因リ郵便爲替證書、郵便貯金通帳、證券保管通帳、郵便貯金拂戻證書又ハ郵便振替貯金拂出證書ヲ亡失シ又ハ毀損汚斑シテ不判明トナリタル爲、之ガ再度交付ノ請求ヲ爲ス者アルトキハ郵便官署ハ其ノ料金ヲ免除スルコトヲ得
前項ニ依リ料金ノ免除ヲ受ケントスルモノハ昭和八年五月三十一日迄ニ再度交付ニ關スル請求書ヲ最寄郵便局ニ差出スベシ
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
昭和八年三月十八日
遞信大臣 南弘
○遞信省令第十六號
簡易生命保險東北地方震災非常取扱規則左ノ通リ定ム
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
昭和八年五月五日
遞信大臣 南弘
簡易生命保險東北地方震災非常取扱規則
第一條 昭和八年三月二日以前ノ保險契約ノ保險契約者ニシテ昭和八年三月宮城縣岩手縣及青森縣ニ於ケル震災ニ罹リタル者ニ對シテハ其ノ請求ニ依リ昭和八年八月三十一日迄ニ拂込期ノ到來スル保險料ニ付昭和八年九月三十日迄ノ間ニ於テ二ヶ月間拂込ヲ猶豫ス
前項ノ特別拂込猶豫期間中ハ延滯料ヲ徴收セズ
第一項ノ特別拂込猶豫期間ハ簡易生命保險規則第二十二條第一項ノ拂込猶豫期間ニ先立チ之ヲ適用シ、昭和八年三月三日ニ於テ簡易生命保險規則第二十二條第一項ノ拂込猶豫期間中ニ在ルモノニ付テハ其ノ猶豫期間ノ始メニ遡リテ之ヲ適用ス
保險契約者第一項ニ依ル保險料拂込猶豫ヲ受ケントスルトキハ保險料拂込ヲ取扱フ郵便局ニ其ノ旨ヲ申出ヅベシ
第二條 前條ノ保險契約者ニシテ簡易生命保險規則第五十一條又ハ五十二條ノ規定ニ依ル貸付ヲ受ケタルモノニ對シテハ其ノ請求ニ依リ昭和八年八月三十一日迄ニ辨濟期ノ到來スル貸付金ニ付一年間辨濟ヲ猶豫ス
前項ノ期間ハ昭和八年三月三日ニ於テ既ニ辨濟期ノ到來セルモノニ付テハ辨濟期ニ遡リテ之ヲ適用ス
保險契約者第一項ニ依ル辨濟猶豫ノ請求ヲ爲サントスルトキハ保險料拂込ヲ取扱フ郵便局保險料拂込ヲ取扱フ郵便局ナキトキハ住所ノ集配受持郵便局ニ其ノ旨ヲ申出テ保險證書ニ辨濟期日ノ訂正ヲ受クベシ
第三條 本規則ニ依ル非常取扱ニ關シテハ前各條ニ規定シタルモノヲ除クノ外簡易生命保險規則ノ定ムル所ニ依ル
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
彙報
○宮城縣 助成金交付、宮城縣ニ於ケル震災地農事復舊助成費ニ對シ昭和八年度ニ於テ、金三萬七百七十圓ヲ宮城縣ニ交付スル旨去月三十日指令セリ(農林省)
○宮城縣外二縣 助成金交付、三陸地方震災ニ因ル水産業ノ災害復舊ノタメ、昭和八年度ニ於テ左ノ通助成金ヲ交付スル旨指令セリ(農林省)
縣 指令月日 金額
宮城縣 五、五〇 四〇八、○○○圓
岩手縣 五、一〇 二、○〇五、一〇五圓
青森縣 五、二三 一〇一、九五〇圓
○大藏省令第六號
昭和八年法律第十三號(震災被害者テ對スル租税ノ免除猶豫等ニ關スル件)施行法左ノ通リ定ム
昭和八年三月廿七日
大藏大臣 高橋是清
第一條 昭和八年法律第十三號第五條ノ規定ニ依リ震災地ヲ左ノ如ク定ム
北海道 幌泉郡 幌泉村
音森縣 下北郡 大奥村 風間消村 大畑村 東通村
上北郡 六ヶ所村 三澤村 百石町
八戸市 三戸郡 市川村 下長苗代村 階上村
岩手縣 九戸郡 種市村 中野村 侍濱村 夏井村 久慈村 長内村 宇部村
野田村
下閉伊郡 普代村 田野畑村 小本村 田老村 崎山村 宮古町 磯鷄村
津輕石村 重茂村 大澤村 山田村 織笠村 船越村
上閉伊郡 大槌町 鵜住居村 釜石町
氣仙郡 唐丹村 吉濱村 越喜來村 綾里村 赤崎村 大船渡村 末崎村
廣田村 小友村 米崎村 高田町 氣仙町
宮城縣 本吉郡 大島村 唐桑村 鹿折村 氣仙沼町 松岩村 階上村 大谷村
御嶽村 小泉村 歌津村 志津川町 戸倉村 十三濱村
桃生郡 大川村 十五濱村 宮戸村
牡鹿郡 女川町 大原村 鮎川村 荻ノ濱村
名取郡 閖上町
亘理郡 坂元村
第二條 震災(昭和八年三月三日ノ震災及之ニ伴フ火災又ハ海嘯ヲ含ム以下同ジ)ニ因リ自已(同居ノ戸主又ハ家族ヲ含ム)ノ所有ニ係ル其ノ住宅若シクハ家財又ハ其ノ漁業ニ必要ナル漁船及漁具ニ付、著シキ損害ヲ受ケタル者ノ震災地ニ於テ納付スベキ昭和七年分第三種所得税第四期分ハ之ヲ免除ス
前項ノ規定ニ依ル免除ヲ受ケントスル者ハ被害ノ状况ヲ記載シタル申請書ヲ昭和八年五月三十一日迄ニ所轄税務署ニ提出スベシ被害ノ事實顯著ナル者ニ付テハ前項ノ申請ナキ場合ト雖モ税務署長ハ其ノ認ムル所ニ依リ第一項ノ規定ニ依ル免除ヲ爲スコトヲ得
第三條 震災ニ因リ著シク利用ヲ妨ゲラレタル土地(荒地ト爲リタル土地ヲ除ク)ニシテ左ノ各號ノ一ニ該當スルニ至リタルモノニ付テハ被害ノ實况ニ應ジ宅地ニ在リテハ昭和八年ヨリ三年以内、其ノ他ノ土地ニ在リテハ昭和八年ヨリ五年以内其ノ地租ヲ免除ス
一、水路若シクハ溜池ノ破壞又ハ井戸ノ湧水涸渇等ニ因リ灌漑又ハ排水ノ便ヲ失シ收穫ヲ減損スルニ至リタル田畑
二、地下ノ變動等ニ囚リ水持ヲ害シ又ハ濕地ト爲リ收穫ヲ減損スルニ至リタル田畑
三、建物ノ過半ガ滅失又ハ倒壞シタル宅地
四、其ノ他震災ニ因リ著シク利用ヲ妨ゲラレタル土地
前項ノ規定ニ依ル免除ヲ受ケントスル者ハ土地一筆毎ニ被害ノ状况ヲ記載シタル申請書ヲ昭和八年六月三十日迄ニ納税地ノ市町村ヲ經テ所轄税務署ニ提出スベシ
第四條 震災ニ因リ荒地トナリタル爲昭和八年六月卅日迄ニ免租年間許可ノ申請ヲ爲シ其ノ許可ヲ受ケタル土地又ハ、前條ノ規定ノ適用ヲ受クル土地ノ地租ニ付テハ昭和八年三月一日以後ニ開始スル納期分ヨリ其ノ地租ヲ徴收セズ。
第五條 震災ニ因リ所得額著シク減損スベシト認メラルル者ノ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分第三種所得税ニ付テハ所得税法第十四條第一項第六號ノ所得ハ豫算ヲ以テ之ヲ算定ス
第六條 自己(同居ノ戸主又ハ家族ヲ含ム)ノ所有ニ係ル其ノ住宅家財又ハ所得ノ基因タル家屋其ノ他ノ築造物、船舶、機械、器具等ガ震災ニ因リ滅失又ハ毀損シタル損害ノ見積金額ハ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分第三種所得税ノ所得金額(同居ノ戸主又ハ家族ノ分トノ合算額)ヨリ之ヲ控除ス
前項ノ場合ニ於テ同居者一人毎ノ控除額ハ各其ノ所得金額ニ按分シテ之ヲ計算ス
同一人ニシテ山林ノ所得ト山林以外ノ所得トヲ有スル場合ニ於テハ前二項ノ規定ニ依ル控除ハ先ヅ山林以外ノ所得ニ付之ヲ爲シ不足アル時ハ山林ノ所得ニ及ブ
第七條 震災ニ因リ營業ノ純益著シク減損スベシト認メラルル者ノ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分個人ノ營業收益税ノ純益金額ハ豫算ヲ以テ之ヲ算定ス
第八條 營業ノ用ニ供スル自己所有ノ家屋其ノ他ノ築造物、船舶、機械、器具等ガ震災ニ因リ滅失又ハ毀損シタル損害ノ見積金額ハ震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分個人ノ營業收益税ノ純益金額ヨリ之ヲ控除ス
第九條 第六條又ハ前條ノ規定ノ適用ノ結果所得金額千貳百圓(同居ノ戸主又ハ家族ノ分トノ合算額)ニ滿タザルニ至リタル者、又ハ純益金額四百圓ニ滿タザルニ至リタル者ニハ所得税又ハ營業收益税ヲ課セズ
第十條 震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分乙種資本利子税ニ付テハ資本利子金額ガ第六條ノ規定ノ適用ノ結果ニ依ル山林所得以外ノ所得額ヲ超過スルトキハ其ノ超過額ハ資本利子金額ヨリ之ヲ控除ス
策十一條 震災地ニ於テ納付スベキ所得税、地租營業收益税、相續税、酒造税及清凉飲料税ニ付テハ、左ノ期限迄其ノ徴收ヲ猶豫スルコトヲ得
一、所得税
昭和八年三月二日迄ニ終了シタル事業年度分ノ第一種所得税昭和九年四月十五日限、昭和七年度分第三種所得税第四期分昭和九年四月十五日限
二、地租
北海道
昭和七年度分宅地租以外ノ地租第二期分 昭和九年四月十五日限
北海道以外ノ地方
昭和七年度分田租第三期分 昭和八年十二月十五日限
昭和七年度分田租第四期分 昭和九年四月十五日限
三、營業收益税
昭和八年三月迄ニ終了シタル事業年度分ノ法人ノ營業收益税 昭和九年四月十五日限
四、相續税
昭和八年三月二日迄ニ開始シタル相續ニ對スル相續税(延納年賦金ノ年割額ヲ含ム)昭和九年四月十五日限
五、酒造税
昭和六年度分酒造税第四期分 昭和九年四月十五日限
六、清凉飲料税
昭和八年二月分清凉飲料税 昭和八年十二月十五日
第十二條 震災ニ因リ地租名寄帳ノ滅失シタル町村内ノ地租ニシテ、納付未濟ニ係ルモノ及地租名寄帳改調迄ニ納期ノ開始スルモノニ付テハ其改調後一年以内ニ於テ税務署長ノ適當ト認ムル時期ニ之ヲ徴收ス
第十三條 第一種所得税、法人ノ營業收益税、相續税、酒造税、及清凉飲料税ニ付第十一條ノ規定ニ依リ徴收猶豫ヲ受ケントスル者ハ納税告知書ヲ受ケタル日ヨリ十五日以内(本令施行前納税告知書ヲ受ケタル者ニ在リテハ本令施行後十五日以内)ニ申請書ヲ所轄税務署ニ提出スベシ
前項ノ申請書ニハ税目、税額及被害ノ状况ヲ記載スベシ
第十四條 震災地ニ於テ納付スベキ第三種所得税個人ノ營業收益税及乙種資本利子税ニ關シ昭和八年三月十五日迄ニ爲スベキ申告及申請ニ付テハ其ノ提出期限ヲ昭和八年四月卅日トス
震災地ニ於テ納付スベキ昭和八年分ノ第三種所得税個人ノ營業收益税及乙種資本利子税ニ關シ本令施行前ニ爲シタル申告及申請ニ付本令ニ依リ變更ヲ來シタル場合ニ於テハ前項ノ期限迄ニ之ガ更生ノ申告及申請ヲ爲スベシ
第六條又ハ第八條ノ規定ニ依リ控除ヲ受クベキ損害見積金額ハ所得ノ申告又ハ純益ノ申告ニ之ヲ附記シテ申告スベシ
第十五條 石卷、志津川、盛、遠野、下閉伊、久慈、野邊地、八戸及浦河ノ各税務所轄内所得調査委員會ニ付テハ所得税法
第五十一條ノ期限ヲ昭和八年ニ限リ六月卅日トス
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
〔參照〕
大正九年 七月三十一日公布 法律第十一號所得税法抄録
第十四條第一項
第三種ノ所得ハ左ノ各號ノ規定ニ依リ之ヲ算出ス
一、營業ニ非ザル資金ノ利子竝第二種ノ所得ニ屬セザル公債、社債及預金ノ利子ハ前年中ノ收入金額
二、山林ノ所得ハ前年中ノ總收入金額ヨリ必要ノ經費ヲ控除シタル金額
三、賞與又ハ賞與ノ性質ヲ有スル給與ハ前年三月一日ヨリ其ノ年二月末日迄ノ收入金額
四、法人ヨリ受クル利益、若シクハ利息ノ配常又ハ剩餘金ノ分配ハ前年三月一日ヨリ其ノ年二月末日迄ノ收入金額(無記名株式ノ配當ニ付テハ支拂ヲ受ケタル金額)ヨリ其ノ十分ノ四ヲ控除シタル金額
五、俸給、給料、歳費、年金、恩給、退隱料及此等ノ性質ヲ有スル給與ハ前年中ノ收入金額、但シ前年一月一日ヨリ引續キ支給ヲ受ケタルニ非ザルモノニ付テハ其ノ年ノ豫算年額
六、前各號以外ノ所得ハ前年中ノ總收入金額ヨリ必要ノ經費ヲ控除シタル金額、但シ前年一月一日ヨリ引續キ有シタルニ非ザル資産、營業又ハ職業ノ所得ニ付テハ其ノ年ノ豫算年額
第五十一條 五月三十一日迄ニ所得調査委員會成立セザル時ハ政府ニ於テ所得金額ヲ決定ス
所得調査委員會開會ノ日ヨリ第四十六條ノ期間内又ハ五月三十日迄ニ調査結了セザルトキハ、政府ニ於テ調査未濟ノ所得金額ヲ決定ス
勅令
朕震災ニ因ル宮城縣及岩手縣災害土木費國庫補助規程ヲ裁可シ■ニ之ヲ公布セシム
御名 御璽
昭和八年五月十九日
内閣總理大臣 子爵 齋藤實
大藏大臣 高橋是清
内務大臣 男爵 山本達雄
勅令第百十九號
震災ニ因ル宮城縣及岩手縣災害土木費國庫補助規程
昭和八年三月ノ震災ニ因ル宮城縣及岩手縣ノ災害土木費ニ付テハ國庫ハ災害土木費國庫補助規程ニ依ラズ豫算ノ範圍内ニ於テ縣工事費ノ八割五分以内及下級公共團體ニ對スル縣補助費ノ十割以内ヲ補助スルコトヲ得、但シ縣補助費ニ對スル補助ノ割合ハ下級公共團ノ災害土木費ニ對シ其ノ八割五分ヲ超ユルコトヲ得ズ
前項ノ規定ニ依リ補助スベキ災害土木費ソ範圍及補助額ハ内務大臣之ヲ定ム
本令ニ依ラズシテ補助金ヲ受ケタル災害土木費ニ付テハ本令ニ依ル補助金ハ之ヲ交付セズ
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
第二節 縣令・訓令・告示
縣令
○宮城縣令第十八號
震嘯災害復舊土木費補助規程左ノ通定ム
昭和八年十月十四月
宮城縣知事 三邊長治
第一條 昭和八年三月三日ノ震嘯災害ニ因ル市町村災害土本費ニ對シテハ其ノ工事費ノ八割五分以内ヲ補助スルコトアルヘシ
第二條 前條ノ補助ニ關シテハ大正十年三月縣令第十九號土木費補助規程(但シ第三條ノ規定及策六條中補助工事査定申請書提出期限ニ付テノ規定ヲ除ク)ヲ準用ス
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
○宮城縣令第二十一號
震嘯災害耕地復舊工事補助規程左ノ通定ム
昭和八年四月二十一日
宮城縣知事 三邊長治
震嘯災害耕地復舊工事補助規程
第一條 昭和八年三月三日ノ震嘯ニ因ル災害耕地ノ復舊工事ヲ施行スル者ニハ昭和八年度豫算ノ範圍内ニ於テ本規程ニ依リ補助金ヲ交付ス
第二條 補助金ハ工事費決算額ノ十分ノ五以内トス但シ決算額ニシテ設計書記載ノ豫算額ヲ超過シタル場合ハ其ノ豫算額ニ依ル
第三條 補助金ハ出來形檢査ノ上之ヲ交付ス但シ工事ノ出來形五割以上ニ達スルトキハ補助金ノ内渡ヲ爲スコトアルヘシ
第四條 補助金ノ交付ヲ受ケントスル者ハ第一號樣式ニ依ル申請書ニ左ニ掲クル書面ヲ添附シ工事着手前知事ニ之ヲ提出スヘシ
一、補助金交付ノ事業ニ付認許議決又ハ同意ヲ要スルモノニ在リテハ之ヲ證スル書面ニ數人共同シテ事業ヲ行フ場合ニ在リテハ事業施行ニ關スル契約書ノ謄本數人共同シテ事業ヲ行フ場合ニ在リテハ代表者ヲ定メ其ノ正當ナルコトヲ證スル書面ヲ前項ノ申請書ト共ニ提出スヘシ
第五條 補助金ノ交付ヲ認メタル者ニハ指令書ヲ交付シ工事施行ニ關スル條件ヲ指定ス
第六條 工事竣功シタルトキハ遲滯ナク第二號樣式ニ依リ出來形檢査ヲ知事ニ申請スヘシ
補助金ノ内渡ヲ受ケントスル者ハ請求書ニ第三號樣式ニ依ル工事出來形調書ヲ添付シ之ヲ知事ニ提出スヘシ
第七條 補助金交付ノ指令ヲ受ケタル者第四條ノ規定二依ル申請ノ事項中事業施行ニ關係アル事項ヲ變更セントスルトキハ其ノ事由ヲ具シ知事ノ認可ヲ受クヘシ
前項ノ規定ニ依ル申請書ニハ其ノ變更ニ付認許議決又ハ同意ヲ要スルモノニ在リテハ之ヲ證スル書面ヲ添付スヘシ
第八條 工事ニ着手シタルトキハ遲滯ナク之ヲ知事ニ届出ツヘシ
第九條 左ノ各號ノ一ニ該當スルトキハ補助金交付ノ指令ヲ取消シ又ハ補助金ノ交付ヲ停止若ハ廢止スルコトアルヘシ
一、工事ノ成績不充分ト認メ手直ヲ命スルモ實行セサルトキ
二、本令又ハ本令ニ依リ發シタル命令ニ違背シタルトキ
三、事業施行ニ關シ不正ノ行爲アリト認メタルトキ
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
第一號樣式
震嘯災害耕地復舊工事補助金交付申請
別紙設計書ニ基キ災害耕地復舊工事施行致度候ニ付補助金交付相成度震嘯災害耕地復舊工事補助規程ニ依リ此段申請候也
年月日
住所 氏名(又ハ代表者)印
知事宛
記
一、工事施行地ノ名稱
二、工事着手豫定期日
三、工事完了豫定期日
四、工事施行豫定
第二號樣式
震嘯災害耕地復舊工事出來形檢査申請
昭和何年何月何日工事完了候ニ付御檢査相成度別紙決算書及事業成績書相添ヘ此段申請候也
年月日
住所 氏名(又ハ代表者)印
知事宛
工事費決算書
工事施行成績書
第三號樣式
工事出來形調査
備考
第一回補助金受領高 金何圓 受領 年月日
第二回補助金受領高 金何圓 受領 年月日
○宮城縣令第三十三號
海嘯罹災地建築取締規則左ノ通定ム
昭和八年六月三十日
宮城縣知事 三邊長治
海嘯罹災地建築取締規則
第一條 昭和八年三月三日ノ海嘯罹災地域竝海嘯罹災ノ虞アル地域内ニ於テハ知事ノ認可ヲ受クルニ非サレハ住居ノ用ニ供スル建物(建物ノ一部ヲ住居ノ用ニ供スルモノヲ含ム以下同シ)ヲ建築スルコトヲ得ス
前項ノ地域ハ知事之ヲ指定ス
建物ノ用途ヲ新ニ定メ又ハ變更ノ上住居ノ用ニ供スルトキハ住居ノ用ニ供スル建物ヲ建築スルモノト看做ス
第二條 前條ノ場合住居ノ用ニ供スル建物ノ敷地竝構造設備ハ左ノ各號ニ依ルヘシ
一、建物ノ敷地ハ安全ト認メラルル高サ迄地揚ヲ爲スコト
二、建物ノ腰積ヲ設ケ又ハ之ニ代ルヘキ基礎ヲ設クルコト
三、建物ハ土臺敷構造ト爲シ土臺ハ前號ノ腰積又ハ基礎ニ緊結スルコト
四、建物ノ土臺及敷桁ノ隅角ニハ燧材ヲ使用スルコト
五、建物ニハ適當ニ筋違又ハ方杖ヲ設クルコト
土地ノ状况ニ依リ支障無シト認ムルトキハ前各號ノ制限ニ拘ラス認可スルコトアルヘシ
第三條 第一條ノ認可ヲ受ケントスル者ハ左ノ事項ヲ記載シタル申請書正副二通ヲ提出スヘシ
一、申請者ノ住所氏名(法人ニ在リテハ其ノ名稱主タル事務所ノ所在地及代表者ノ住所氏名)
二、敷地ノ位置(見取圖添付ノコト)
三、地揚施行方法竝高サ
四、建物ノ構造種別用途
前項ノ申請人ニシテ未成年者禁治産者又ハ妻ナルトキハ法定代理人保佐人又ハ夫ノ連署ヲ要ス、申請者ハ所轄警察署ヲ經由スヘシ
第四條 第二條ノ地揚及建物ノ工事竣功シタルトキハ十日以内ニ所轄警察署ニ届出ツヘシ
前項ノ建物ニハ見易キ場所ニ樣式第一號ノ標示ヲ掲出スヘシ
第五條 第一條ノ地域内ニ於テ工場倉庫其ノ地住居ノ用ニ供セサル建物ヲ建築セントスル者ハ口頭又ハ文書ニ依リ最寄リノ警察署派出所又ハ駐在所ニ届出ツヘシ其ノ竣功シタルトキ亦同シ
前項ノ建物ニハ見易キ場所ニ樣式第二號ノ標示ヲ掲出スヘシ
第六條 第一條第一項第四條第一項及第五條第一項ノ規定ニ違反シタル者ハ拘留又ハ科料ニ處ス
前項ノ罰則ハ其ノ者カ未成年者、禁治産者又ハ法人ナルトキハ之ヲ其ノ法定代理人又ハ代表者ニ適用ス
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
樣式第一號(紫地ニ文字白拔) 樣式第二號(赤地ニ文字白拔)
住家 警察署
琺瑯燒付板(徑八糎)
ココニスンデハ
非住家
キケンデス
警察署
訓令
○宮城縣訓令甲第六號
市役所
町村役場
大正十五年八月縣訓令甲第八十五號罹災救助基金支出規程中左ノ通改正ス
昭和八年三月三日
宮城縣知事 三邊長治
第一條第一項第二號中「町歩」ヲ「ヘクタール」ニ改ム
第三條中治療費ノ支出細目及限度ノ次ニ左記埋葬費支出細目及限度ヲ加ヘ被服費ノ支出細目及限度中(十二歳未滿半額)トアルヲ(十三歳未滿半額)ニ改ム
埋葬費
一 診斷書料 金四拾錢以内
二 棺代 金貳圓以内
三 運搬費 金貳圓以内
四 土葬(假埋葬ヲ含ム)火葬料
五 墓標代
六 其ノ他雜費
金貳圓六拾錢以内
第五條中第一項「被服」ノ上ニ「埋葬料」ヲ加ヘ第二項第一號ヲ第二號トシ以下順次繰下ゲ左ノ一號ヲ加フ
下
一 埋葬料
災害ノ際死亡シタル者ノ埋葬費ニ窮スル者又ハ埋葬ヲ爲スヘキ者ナキ場合其ノ埋葬ヲ爲シタル者ニ對シ之ヲ給ス
第七條第一項中第八號式ヲ第十一號式トシ以下順次繰下ケ治療費計算書ノ次行ニ左記ヲ加ヘ簿書ノ樣式ヲ別表ノ通改ム
埋葬料給與見込調 第五條第一項 第八號式
埋葬料給與簿 第五條第三項 第九號式
埋葬費計算書 第六條 第十號式
附則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ適用ス
第一號式
避難所開設報告
一 避難所
一 何郡(市)何町村大字何々何番地 何某宅又ハ何々學校寺院
一 開設年月日
一 收容豫定日數(六日以上ニ亘ル場合) 何日
一 收容見込人員 何人
一 借入料 一日何錢
右及報告候也
年月日
市町村長 氏名 印
知事宛
第二號式
避難所費計算書
市町村
避難所 大字 番地 所有主 氏名
避難所 開設年月日
同 閉鎖半月日
避難所收容人員
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
備考
一 避難所毎ニ調製スルモノトス
第三號式
食料救助見込調 市町村
第四號式
食料(焚出)(食品)給與簿 市町村
備考
一 調印ヲ得ルコト困難ナルトキハ拇印以下同上
第五號式
食料費計算書 市町村
被救助者數
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第六號式
治療救助報告
右之通治療救助施行候間此段及報告候也
年月日
市町村長 氏名 印
知事宛
第七號式
治療費計算書 市町村
傷病人員
男 人
女 人
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第八號式
埋葬費給與見込調 市町村
備考
一 死亡者ト埋葬者ノ親戚等ノ關係ナキモノナルトキハ埋葬ノ理由ヲ備考欄ヘ記入スルコト
第九號式
埋葬費給與簿 市町村
第十號式
埋葬費計算書 市町村
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第十一號式
被服給與見込調 市町村
第十二號式
被服給與簿 市町村
第十三號式
被服費計算書 市町村
被救助者
男 人
女 人
幼者 人
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第十四號式
小屋掛材料給與見込調 市町村
備考
一人毎ニ小計ヲ附スルコト
第十五號式
小屋掛材料給與簿 市町村
備考
一人毎ニ小計ヲ附スルコト
第十六號式
小屋掛費計算書 市町村
小屋掛材料交付數 人
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第十七號式
種籾給與見込額 市町村
第十八號式
種籾給與簿 市町村
第十九號式
就業資料器具給與見込調 市町村
第二十號式
就業資料器具給與簿 市町村
第二十一號式
就業費計算書 市町村
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
第二十二號式
學品用給與見込調 市町村
第二十三號式
學用品給與簿 市町村
第二十四號式
學用品計算書 市町村
交付人員
男 何人
女 何人
右之通相違無之候也
年月日
市町村長 氏名 印
訓令
○宮城懸訓令甲第十三號
唐桑村 小泉村 大原村
戸倉村 十五濱村 十三濱村
女川町 荻濱村 歌津村
今次ノ海嘯ニ因リ住宅ヲ新設又ハ移轉セントスル住宅適地ノ選定ニ付テハ其ノ選定地ノ計畫書竝圖面ヲ添ヘ知事ノ認可ヲ受クヘシ
昭和八年四月十四日
告示
○宮城縣告示第百四十四號
縣參事會ノ議決ヲ經タル豫算ノ要領左ノ如シ
昭和八年三月三十一日
宮城縣知事 三邊長治
昭和七年度縣公園費歳入歳出追加豫算
歳入
第五■ 繰入金 金六千圓
第一項 基金繰入 金六千圓
歳入合計金六千圓
歳出
第三■ 運用金 金六千圓
第一項 運用金 金六千圓
歳出合計金六千圓
------------------------------
昭和八年度縣歳入歳出追加豫算
歳入 臨時部
第一■ 國庫補助金 金參萬五千六拾六圓
第十三項 震災竝海嘯應急費補助金 金參萬五千六拾六圓
臨時部計金參萬五千六拾六圓
歳入合計金參萬五千六拾六圓
歳出 臨時部
第三十八■ 震災竝海嘯應急諸費 金參萬五千六拾六圓
第一項 震災竝海嘯應急諸費 金參萬五千六拾六圓
臨時部計金參萬五千六拾六圓
歳入合計金參萬五千六拾六圓
------------------------------
昭和七年度電氣事業費歳入歳出追加豫算
歳入 臨時部
第四■ 災害復舊凖備積立金繰入 金壹萬七千貳百五拾五圓
第一項 災害復舊準備積立金繰入 金壹萬七千貳百五拾五圓
臨時部計金壹萬七千貳百五拾五圓
歳入合計金壹萬七千貳百五拾五圓
歳出 臨時部
第八■ 災害復舊費 金壹萬七千貳百五拾五圓
第一項 災害復舊費 金壹萬七千貳百五拾五圓
臨時部計金壹萬七千貳百五拾五圓
歳出合計金壹萬七千貳百五拾五圓
------------------------------
昭和七年度縣歳入歳出追加豫算
歳入 經常部
第十三■ 雜收入 金七拾壹圓
第九項 雜收 金七拾壹圓
經常部計金七拾壹圃
臨時部
第一■ 國庫補助金 金六萬六千百八拾九圓
第二項 教育費補助金 金貳萬壹千九拾參圓
第十三項 震災竝海嘯應急費補助金 金四萬五千九拾六圓
第二■ 國庫補給金 金六百八圓
第一項 縣債費補給金 金六百八圓
第四■ 縣債 金百貳拾參萬壹千六百圓
第一項 運用金 金六千圓
第十二■ 運用金金六千圓
第一項運用金 金六千圓
臨時部計金百參拾萬四千參百九拾七圓
歳入合計金百參拾萬四千四百六拾八圓
歳出 經常部
第四■ 警察費 金七千貳百八拾貳圓
第四項 震災竝海嘯警備費 金七千貳百八拾貳圓
第五■ 警察廳舍修繕費 金六百五拾九圓
第二項 震災竝海嘯災害電話應急補修費 金六百五拾九圓
經常部計金七千九百四拾壹圓
臨時部
第五■ 教育補助費 金貳萬壹千九拾參圓
第一項 教育費補助 金貳萬壹千九拾參圓
第七■ 勸業補助費 金六千圓
第一項 勸業費補助 金六千圓
第十五■ 縣債費 金百五萬貳千六百七拾九圓
第一項 元金償還 金百五萬貳千七拾壹圓
第二項 利子 金六百八圓
第三十二■ 貸付金 金拾七萬九千六百圓
第一項 貸付金 金拾七萬九千六百圓
第四十八■ 震災竝海嘯應急諸費 金參萬七千百五拾五圓
第一項 震災竝海嘯應急諸費 金參萬七千百五拾五圓
臨時部計金百貳拾九萬六千五百貳拾七圓
歳出合計金參拾萬四千四百六拾八圓
------------------------------
昭和七年度罹災救助基金歳入歳出追加豫算
歳入
第一■ 罹災救助基金 金拾壹萬四千八百拾壹圓
第四項 繰入金 金拾壹萬四千八百拾壹圓
歳出
第一■ 罹災救助基金 金拾壹萬四千八百拾壹圓
第一項 救助費 金拾壹萬四千八百拾壹圓
歳出合計金拾壹萬四千八百拾壹圓
○宮城縣告示第百五十一號
縣參事會ノ議決ヲ經タル豫算ノ要領左ノ如シ
昭和八年四月一日
宮城縣知事 三邊長治
昭和七年度歳入歳出追加更正豫算
歳入 經常部
第十■ 財産收入 金拾五萬六千百六拾五圓
第一項 不動産收入 金拾參萬五千參百參拾參圓
第十三■ 雜收入 金百貳拾六萬參千參百四拾八圓
第九項 雜收 金七萬七千四百七拾八圓
經常部計金六百九萬九千四百四拾圓
臨時部
第一■ 國庫補助金 金參百四拾壹萬九千五百七拾貳圓
第一項 衛生費補助金 金壹萬五千五百拾參圓
第二項 教育費補助金 金七萬九千貳百九拾四圓
臨時部計金壹千貳百四拾七萬八千貳百八拾五圓
歳入合計金壹千八百五拾七萬七千七百貳拾五圓
歳出 經常部
第四■ 警察費 金七拾貳萬四千八百貳圓
第三項 機密費 金五千八百圓
第九■ 勸業費 金五拾壹萬參千七拾壹圓
第八項 蠶業試驗場費 金六千四百拾參圓
第二十■ 恩給金 金六萬八千四百八拾參圓
第一項 恩給金 金六萬壹千貳百八圓
第二項 恩給分擔金 金七千貳百七拾五圓
經常部計金參百拾九萬八千八百貳拾八圓
臨時部
第三■ 市町村衛生補助費 金五萬貳千七百貳拾七圓
第一項 市町村衛生補助費 金五萬貳千七百貳拾七圓
第四■ 教育費 金參萬參千八百八拾八圓
第六項 盲唖學校及聾唖學校費 金壹千貳百拾五圓
第六■ 勸業費 金參拾萬四千百八拾貳圓
第十五項 蠶業試驗場費 金六百九拾四圓
第十五■ 縣債費 金五百參拾參萬九千四百貳拾圓
第二項 利子 金百壹萬五千六百七拾六圓
第三項 諸費 金貳萬五千六百九拾八圓
第二十五■ 雜支出 金拾八萬百五拾八圓
第一項 雜支出 金拾八萬百五拾八圓
臨時部計金壹千五百參拾七萬八千八百九拾七圓
歳入合計金壹千八百五拾七萬七千七百貳拾五圓
------------------------------
昭和七年度電氣事業費歳入歳出追加豫算
歳入 經常部
第二■ 雜收入 金八千六百拾七圓
第一項 物品賣拂代 金八千六百拾七圓
經常部計金八千六百拾七圓
歳入合計金八千六百拾七圓
------------------------------
昭和八年度電氣事業費歳入歳出追加豫算
歳入 臨時部
第二■ 繰越金 金五萬壹千四百八拾六圓
第一項 繰越金 金五萬壹千四百八拾六圓
臨時部計金五萬壹千四百八拾六圓
歳入合計金五萬壹千四百八拾六圓
歳出 臨時部
第五■ 擴張並改良費 金參萬七千五百四拾參圓
第一項 擴張並改良費 金參萬七千五百四拾參圓
第八■ 災害復舊費 金壹萬參千九百四拾參圓
第一項 災害復舊費 金壹萬參千九百四拾參圓
臨臨部計金五萬壹千四百八拾六圓
歳出合計金五萬壹千四百八拾六圓
------------------------------
昭和八年度石卷魚市場費歳入歳出追加豫算
歳入
第三■ 繰越金 金貳萬五千貳百圓
第一項 前年度繰越金 金貳萬五千貳百圓
歳入合計金貳萬五千貳百圓
歳出
第一■ 市場費 金貳萬五千貳百圓
第二項 建設費 金貳萬五千貳百圓
歳出合計金貳萬五千貳百圓
------------------------------
昭和八年度縣歳入歳出追加豫算
歳入 經常部
第十三■ 雜收入 金百拾貳萬七千百五拾五圓
第一項 納付金 金參百七拾六圓
第七項 過年度收入 金百拾貳萬六千七百七拾九圓
經常部計金百拾貳萬七千百五拾五圓
臨時部
第一■ 國庫補助金 金五萬參千九百四拾七圓
第三項 勸業費補助金 金四萬六千七百四拾七圓
第十一項 農業土木事業費補助金 金七千貳百圓
第三■ 寄附金 金壹萬八千四拾九圓
第一項 寄附金 金壹萬八千四拾九圓
告示
○宮城縣告示第二百三號
縣參事會ノ議決ヲ經タル豫算ノ要領左ノ如シ
昭和八年四月十九日
宮城縣知事 三邊長治
昭和八年度縣歳入歳出追加更正豫算
歳入 經常部
第十三■ 雜收入 金百五拾萬貳千六百六拾壹圓
第四項 物品賣拂代 金拾六萬參千八百參圓
第七項 過年度收入 金百貳拾四萬六千七百九圓
經常部計金六百貳拾四萬貳千九百貳拾貳圓
臨時部
第一■ 國庫補助金 金四百六拾八萬八千四百五拾八圓
第三項 勸業費補助金 金拾七萬九千六拾壹圓
第四項 土木費補助金 金四拾九萬五千圓
第六項 用排水改良事業費補助金 金貳拾八萬五千參百參拾壹圓
第十項 地方振與土木事業費補助金 金百四拾四萬七千百六拾六圓
第十一項 農業土木事業費補助金 金九拾七萬七千參百九拾九圓
第十二項 産業開發奬勵費補助金 金拾八萬九千七百六拾壹圓
第二■ 國庫補給金 金拾八萬四千拾貳圓
第一項 縣債費補給金 金拾貳萬八千八百貳拾四圓
第六項 教育費補給金 金壹萬參拾貳圓
第三■ 寄附金 金貳拾五萬四拾九圓
第一項 寄附金 金貳拾五萬四拾九圓
第四■ 縣債 金參百七拾壹萬七千九百圓
第一項 縣債 金參百七拾壹萬七千九百圓
第五■ 負擔金 金參拾六萬九千貳可八拾壹圓
第一項 河川費負擔金 金拾六萬八千貳百八拾壹圓
第二項 用排水改良事業費負擔金 金拾六萬四千百貳拾圓
臨時部計金壹千九拾九萬六千貳百六拾圓
歳入合計金壹千七百貳拾參萬九千百八拾貳圓
歳出 經常部
第十三■ 選擧費 金九百貳圓
第二項 縣會議員選擧費 金七百參拾圓
經常部計金參百拾七萬六千九百貳拾參圓
臨時部
第四■ 教育費 金拾參萬七千貳百五拾壹圓
第八項 震嘯罹災兒童就學奬勵費 金壹萬參拾貳圓
第六■ 勸業費 金參拾萬貳千丸百拾壹圓
第四項 蠶業奬勵費 金七千貳百九拾參圓
第九項 漁業組合指導奬勵費 金貳千八百九拾貳圓
第十二項 水産試驗場費 金貳拾萬八千貳百貳拾七圓
第十六項 種畜場費 金貳千八百圓
第七■ 勸業補助費 金拾萬壹千貳百七拾壹圓
第十一項 勸業費補助 金拾萬壹千貳百七拾壹圓
第十五■ 縣債費 金參百四拾四萬七千參百八圓
第二項 利子 金九拾七萬四千貳百九拾壹圓
第十八■ 用排水改良事業費本年度支出額 金參拾六萬四千八百六拾壹圓
第一項 用排水改良事業費本年度支出額 金參拾六萬四千八百六拾壹圓
第二十五■ 雜支出 金八萬七千七拾七圓
第一項 雜支出 金八萬七千七拾七圓
第二十六■ 産業振興土木事業費本年度支出額 金八拾萬圓
第一項 産業振與土木事業費本年度支出額 金八拾萬圓
第二十八■ 地方振興土木事業費 金六拾萬壹千圓
第一項 道路改良費 金五拾萬壹千圓
第二項 砂防事業費 金拾萬圓
第二十九■ 地方振興町村土木事業 奬勵金 金百拾貳貳萬貳千八百參拾四圓
第一項 地方振興町村土木事業 奬勵費 金百拾貳萬貳千八百參拾四圓
第三十一■ 農業土木事業奬勵費 金八拾九萬五千六百四圓
第一項 蠶業奬勵費 金拾萬五千五百拾六圓
第二項 畜産業奬勵費 金七萬四千八百六拾貳圓
第三項 林業奬勵費 金拾貳萬六千百八拾四圓
第四項 水産業奬勵費 金貳拾壹萬四千六百貳拾圓
第五項 耕地改良奬勵費 金參拾七萬四千四百貳拾貳圓
第三十二■ 産業開發奬勵金 金貳拾五萬四千貳百九拾八圓
第三項 蠶業奬勵費 金拾貳萬貳千四百九拾四圓
第七項 製炭奬勵費 金壹萬六千參百六圓
第三十三■ 地方振興河川改修費本年度支出額 金拾萬圓
第一項 地方振興河川改修費木年度支出額 金拾萬圓
第三十六■ 荒廢林地復舊費本年度支出額 金四萬八千八百八拾六圓
第一項 荒廢林地復舊費本年度支出額 金四萬八千八百八拾六圓
第三十七■ 貸付金 金貳百四拾九萬參千七百貳拾五圓
第一項 貸付金 金貳百四拾九萬參千七百貳拾五圓
臨時部計金壹千四百六萬貳百五拾九圓
歳出合計金壹千七百貳拾參萬九千百八拾貳圓
告示 (九一四號 四月二十七日(金))
○宮城縣告示第二百三十三號
三陸地方震災ニ依ル既設測量標復舊ノ爲左記ニ依リ三角及水準測量施行スヘキ旨陸地測量部ヨリ通知アリタリ
昭和八年四月二十八日
宮城縣知事 三邊長治
期間 昭和八年四月下旬ヨリ十一月上旬ニ至ル
區城 遠田郡 一等三角測量
牡鹿郡 一等三角及水凖測量
本吉郡 一、二等三角及水凖測量
桃生郡 二等三角及水準測量
仙臺市 名取、宮城郡水準測量
○宮城縣告示第二百六十四號
震嘯災害農事復舊施設助成要項左ノ通定ム
昭和八年五月十日
宮城縣知事 三邊長治
震嘯災害農事復舊施設助成要項
第一 昭和八年三月三日ノ震嘯ニ因ル農事復舊ノ爲本要項ニ依リ豫算ノ範圍内ニ於テ助成金ヲ交付ス
第二 助成金ハ町村ノ左ニ掲クル經費ニ對シ全額ヲ交付ス
一、農作物種苗購入配付費
二、農具購入助成費
三、納舍及肥料舍等建設助成費
第三 町村ニ於ケル前項ノ助成ハ左ノ制限ニ依ル
一、農作物種苗購入配付費ニ付テハ町村ニ於テ種苗ヲ購入シ罹災農家ニ對シ無償配給ヲ行フニ要スル經費但シ給與スヘキ種苗量ハ種類別ニ反當所要種子量ヲ作付面積ニ乘シタル量ヲ限度トス
二、農具購入助成費ニ付テハ流失、倒潰農家ノ農具購入所要經費ノ二分ノ一以内トシ一戸八拾圓ヲ限度トス
三、納舍及肥料舍等建設助成費ニ付テハ流失、倒潰農家ノ納舍及肥料舍等建設所要經費ノ二分ノ一以内トシ、一戸八拾圓ヲ限皮トス
第四 助成金ノ交付ヲ受ケントスル町村ハ助成金交付申請書ニ事業計畫書竝別表ニ掲クル書類ヲ添付シ、昭和八年五月二十日迄ニ知事ニ提出スヘシ
第五 助成金交付ノ指令ヲ受ケタルモノハ事業成績書及經費決算書ヲ前項ノ事項ニ準シ、昭和八年十月末日迄ニ知事ニ報告スヘシ
第六 助成金ハ事業完了後檢査ノ上之ヲ交付ス但シ事業ノ進捗程度ニ應シ分割シテ之ヲ交付スルコトアルヘシ
第七 助成金ノ交付ヲ受ケタルモノ本要項ニ違背シ又ハ事業施行方法不適當ト認ムルトキハ交付シタル助成金ノ全部、又ハ一部ノ還付ヲ命スルコトアルヘシ
(別表)
一、給與又ハ購入設備セントスル種類別數量調
第一表
1、種苗ヲ給與スヘキ農家戸數
2、給與スヘキ種苗ノ種類及數量
第二表
1、農具ノ購入ヲ助成スヘキ農家戸數
2、農具ノ購入ニ對スル助成金總額
3、購入農具ノ種類別數量及所要經費
(注意) 鎌、鍬類、除草器、ホーク、連枷、肥桶、篩、籠、莚等ハ一農家ニテ二個以上必要トスル場合アルヘキモ唐
箕脱穀器、萬石及籾摺器ハ三戸以上共同ニテ使用セシムル見込ナリ
第三表
1、納舍及肥料舍等ノ建設ヲ助成スヘキ農家戸數
2、納舍及肥料舍等ノ建設ニ對スル助成金總額
3、納舍及肥料舍等ノ種類別棟數及所要經費
二 經費豫算書及事業施行ノ方法
三 參考資料
罹災農家調
1 農家總戸數
2 被害農家戸數
内譯
流失戸數
倒潰戸數(全潰 戸、半潰 戸)
浸水戸數(床上 戸、床下 戸)
3 被害農家戸數中耕作地ニ被害ナキ戸數
4 無被害農家中耕作地ニ被害アル戸數
被害耕地調
1 耕地總面積(田畑 桑園)
2 被害耕地面積(田畑 桑園)
内譯
イ 被害農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
耕作不能面積(田畑 桑園)
耕作不能面積(田畑 桑園)
附 被害農家ノ耕作スル無被害耕地面積
(田畑 桑園)
ロ 無被害農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
耕作不能面積(田畑 桑園)
耕作可能面積(田畑 桑園)
附 無被害農家ノ耕作スル無被害耕地面積
(田畑 桑園)
ハ 他町村農家ノ耕作スル被害耕地面積
(田畑 桑園)
○宮城縣告示第二百六十五號
震嘯災害家畜復舊施設助成要項左ノ通定ム
昭和八年五月十日
宮縣縣知事 三邊長治
家畜復舊施設助成要項
第一 昭和八年三月三日ノ震嘯災害ニ因ル家畜復舊ノ爲本要項ニ依リ豫算ノ範圍内ニ於テ助成金ヲ交付ス
第二 助成金ハ左ニ掲クル經費ニ對シ二分ノ一以内ヲ交付ス但シ農耕馬ノ購入費ニ付テハ一頭五拾圓、家畜飼料購入費ニ付テハ一頭五圓ヲ限度トス
一 農耕馬ノ購入費
二 家畜(馬)飼料購入費
第三 助成金ノ交付ヲ受ケントスル者ハ樣式第一號又ハ第二號ニ依ル申請書ヲ五月二十日迄知事ニ提出スヘシ
第四 農耕馬購入助成金交付ノ指令ヲ受ケタル者ハ購入先、購入月日、購入價格及馬籍謄本ヲ添ヘ知事ニ報告スヘシ
第五 助成金ノ交付ヲ受ケ購入シタル馬ハ交付ノ日ヨリ三箇年知事ノ計可ナクシテ他ニ讓渡スルコトヲ得ス
第六 助成金ノ交付ヲ受ケタル者本要項ニ違背シ又ハ適當ナラスト認ムルトキハ交付シタル助成金ノ全部、又ハ一部ノ還付ヲ命スルコトアルヘシ
第七 本要項ニ依リ知事ニ提出スヘキ書類ハ所轄町村役場ヲ經由スヘシ
第八 町村長農耕馬購報入告書又ハ樣式入二號ノ書類ヲ受理シタルトキハ馬籍謄本又ハ樣式第三號ノ證明書ヲ添付シ直チニ知事ニ進達スヘシ
樣式第一號
耕馬購入助成金交付申請
震嘯災害ノ爲斃死シタル耕馬補充ノ爲左記ノ通購入致度候間助成金交付相成度此段及申請候也
年月日
住所 氏名 印
知事宛
記
一、購入豫定先
一、購入豫定月日
一、購入豫定頭數
一、購入豫定價額
第二號樣式
耕馬飼養助成金交付申請
震嘯災害ノ爲耕馬ノ飼料費ニ對シ左記ノ通助成金交付相成度飼養明細書相添此段及申請候也
年月日
住所 氏名 印
知事宛
樣式第三號
飼養明細書
右耕馬飼養ノ事實相違無之證明候也
年月日
町村長 印
○宮城縣告示第二百六十六號
震嘯災害蠶具復舊施設助成要項左ノ通定ム
昭和八年五月十日
宮城縣知事 三邊長治
震嘯災害蠶具復舊助成要項
第一、昭和八年三月三日ノ震嘯ニ因ル蠶具ノ復舊ノ爲本要項ニ依リ豫算ノ範圍内ニ於テ助成金ヲ交付ス
第二、助成金ハ養蠶實行組合又ハ養蠶家ノ左ニ掲クル經費ニ對シ之ヲ交付ス
一、蠶箔、蠶架、蠶莚、蠶網ノ購入費
二、前號ノ外縣ニ於テ適當ト認ムル蠶具ノ購入費
第三、助成金ハ蠶具ノ購入費ノ二分ノ一以内トス
第四、助成金ノ交付ヲ受ケントスル者ハ樣式第一號ニ依ル申請書ニ蠶具購入豫算書ヲ添付シ昭甜八年五月末日迄ニ之ヲ知事ニ提出スヘシ
第五、助成金交付ノ指令ヲ受ケタル者ハ知事ノ指定スル期限迄ニ設備ヲ完成スルコトヲ要ス但シ已ムヲ得サル事由ニ依リ豫メ知事ノ承認ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラス
第六、設備完了シタルトキハ遲滯ナク經費精算書ヲ添付シ其ノ旨知事ニ報告スヘシ
助成金ハ設備状况ヲ檢査シタル後適當ト認ムルモノニ之ヲ交付ス但シ事業ノ進捗程度ニ應シ分割シテ之ヲ交付スルコトアルヘシ
第七、助成金ノ交付ヲ受ケ設備シ々ル蠶具ハ助成金ノ交付ヲ受ケタル日ヨリ三箇年間許可ナクシテ使用ノ目的ヲ變更シ又ハ他ニ讓渡スルコトヲ得ス
第八、助成金ノ交付ヲ受ケタル者ハ助成金交付ノ年ヨリ三箇年間樣式第二號ニ依ル成績ヲ毎年十二月二十日迄ニ知事ニ提出スヘシ
第九、知事ニ於テ必要アリト認ムルトキハ助成金ヲ交付シタル日ヨリ要項ニ掲クル期間内何時ニテモ當該官吏、吏員ヲシテ該物件ヲ檢査セシムルコトアルヘシ
第十、助成金ノ交付ヲ受ケタル者本要項ニ違背シ又ハ事業施行方法不適當ト認ムルトキハ交付シタル助成金ノ全部又ハ一部ノ還付日ヲ命スルコトアルヘシ
第十一、本要項ニ依リ養蠶實行組合ヨリ知事ニ提出スヘキ書類ハ所屬養蠶業組合ヲ其ノ他ハ所轄町村役場ヲ經由スヘシ
樣式第一號
蠶具復舊奬勵金交付申請書
蠶具復舊奬勵金交付相成度左記書類相添ヘ此段及申請候也
年月日
郡町村
(養蠶實行組合長)
(理事) 氏名 印
知事宛
記
備考
購入豫定年月日ヲ記載スルコト
樣式第二號
蠶具復舊竝蠶兒飼育状况報告
(イ) 設備成績 (何々養蠶實行組合)
(ロ) 蠶兒飼育成績 (何々養蠶實行組合)
告諭
○告諭第三號
亘理郡 坂元村
名取郡 閖上町
桃生郡 宮戸村 十五濱村
牡鹿郡 女川町 荻濱村
大原村 鮎川村
本吉郡 志津川町 戸倉村
十三濱村 歌津村
小泉村 御嶽村
大谷村 階上村
松岩村 鹿折村
唐桑村 大島村
去ル三月三日三陸沿岸ニ襲來セル海嘯ノ慘害ニ對シテハ全國各方面ノ同情翕然トシテ集リ或ハ救恤品義捐金ノ寄贈トナリ
或ハ勞力奉仕トナリ公共ノ施設ト相俟チテ災害善後ノ措置着着其ノ實ヲ擧ゲツツアリ
畏クモ我カ 至仁至慈ナル
天皇
皇后兩陛下ニハ本縣ノ災害ノ甚大ナルヲ聞召サレ罹災者ニ封シテ御救恤金ヲ御下賜アラセラル
聖恩鴻大恐懼感激ニ堪ヘス政府亦速ニ災害復舊ノ方策ヲ講シ國庫窮乏ノ際ナルニ拘ラス議會ノ協賛ヲ經テ多額ノ補助支出ヲ決セラレ本縣復臨時縣會ヲ開キ災害善後ノ方途ヲ議シ以テ復舊計畫ヲ樹立シ近ク其ノ實施ヲ見ントス
惟フニ災害復舊ノ事タル罹災町村民ノ自奮自勵ニ俟ツ事最モ肝要ニシテ嚴ニ浮華放縱ヲ戒メ民風ノ刷新教育ノ充實生活ノ改善經濟機構ノ統制ヲ策シ協力一致更生ノ郷土建設ノ爲ニ邁進シ以テ所謂災禍ヲ轉シテ幸福ヲ招來スル永遠ノ復興計畫ヲ確立セサルヘカラス宜シク勤勉力行産ヲ治メ業ヲ勵ミ堅忍持久ノ精神ヲ振起シ戮力諧和家運ノ挽回ト堅實ナル町村再建ノ爲努力精進シ速ニ復興ノ大業ヲ成就シ以テ上ハ優渥ナル
聖旨ニ副ヒ奉リ下ハ熱誠ナル國民ノ援助ニ酬インコトヲ期セラルヘシ
昭和八年四月十日
宮城縣知事 三邊長治
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:950.7KB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:945.2KB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1019.9KB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1019.9KB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.1MB
- 幅:7058px
- 高さ:5021px
- ファイルサイズ:1.2MB
第八章 震嘯災に関する學術的論文
一、三陸沖強震及津浪に就て 中央氣象臺技師 國富信一
緒言
昭和八年三月三日午前二時三十二分頃北は千島、北海道、東北地方、關東地方の全般、本州中部地方の大半より近畿地方に亘り人身感覺があつた程の大規模な地震があつた。其の震度分布は本報告「三陸沖強震驗測結果」中に圖示してある如く頗る廣範圍に亘り、去る大正十二年九月一日の關東大地震に比し規模の廣大なる事優れりとも劣らぬ程度であつた。而して中央氣象臺地震掛にて驗測した結果は左の如くである。
發震時 午前二時三十二分十四秒
初期微動繼續時間 六十秒
最大振幅 十七粍七
震度 弱震
性質 緩
總震動時間 約一時間
扨強震發現後直ちに全國各地方測候所及觀測所より電信によつて報告せられた材料から此の地震の震源を求めて見た處釜石束方遙かなる海底に當り、震源の深さ極めて淺く數粁と概算された。從つて三陸沿岸には津浪襲來の虞ありと思ひ其の旨を各地方測候所ヘ打電すると共に中央氣象臺長よりは岩手、宮城、福島、茨城各縣地方長官宛此の旨打電した。
斯くして東北地方の各測候所からは相次で沿岸各地の津浪を報じ來ると共に内務省警保局よりも釜石町始め各地の被害状况を本臺に報告され、一方本臺よりも侍從職を始め總理大臣外各國務大臣、各省、警保局、警視廳、社會局、諸官廳、各高官宛強震及津浪報告を逐次發送すると共に各新聞社へも發表した。
かくて盛岡及石卷測候所等よりの報告は一報毎に津浪による縣下の被害状况甚しき事を報ずるので、中央氣象臺長は命を發して著者及竹花技手を第一班として宮城縣下へ、本多技師及田島技手を第二班として岩手縣下へ出張調査せしむる事となつた。依つて各調査班は即日出發災害地へ向ひ、石卷及盛岡兩測候所と協力の上直ちに調査を開始し一週間に亘る調査後歸京した。次で此の強震及被害を各地へ報告する目的を以て三月十四日三陸沖強農及津浪概報を發刊するに至つた。
更に詳細なる調査は此の概報發刊後より始められ、各地方測候所の協力と相俟ち逐次強震の驗測、津浪の調査に着手したが一先づ概括的調査を終へたので之を第一報告として印刷することとなつた。勿論個々の現象に關する立入つた調査は目下尚進められつつある故、之等に關しては他日再び發表することとする。而して此の報告中には各調査員の踏査報告を悉く載せてあるが強震直後に著者及本多技師が、調査した分は何分にも早急の事ではあり交通の便も極めて惡く且概報發
行も急いで居たため尚見殘した點も頗る多かつた。故に具の足らざるを補ふ目的にて三月下旬更に鷺坂技手を宮城縣へ、石川技手を岩手縣へ出張せしめて詳細な調査をなさしめた。
之等鷺坂、石川兩氏の報告及石卷、盛岡、青森、浦河等各測候所の報告、更に著者等の報告を總括して、今回の強震及津浪に關する種々な現象を處理して見たのが本文である。以下種々な現象を各項目に分ち一々調査した結果を記して見た。
三陸沿岸の地形
北は青森縣八戸市の東なる鮫岬から南は宮城縣牡鹿半島に至る海岸は本邦に於ても最も凹凸の激しい海岸である。即ち北上褶曲山脈の尾根が太平洋に沒する所が此の海岸となつて居り所謂「リアス式海岸」を構成して居る、此の海岸は北上山脈が多くの枝谷を海岸へ向けて居る所へ、地盤の沈降が起つて水準を高め其の結果として海水は深く之等枝谷の谷間へ浸入して複雜な海岸形を形成するに至つたものである。一般に斯かる海岸にある灣にあつては灣口の水深は極めて深いが灣内ヘ入るに從つて急に淺くなつてゐるのが常である。然も北上山脈の如く枝谷が多い樣な所にあつては小灣が極めて多い。
而して三陸の「リアス式海岸」ではV字形をなして太平洋に向ひ開口せる小灣が灣口から内部に入るに從ひ水深が急に淺くなるため津浪を釀生し易い。即ち三陸海岸にあつては大小の江灣極めて多く其の主なものでも三十近くある。先づ南方から見ても牡鹿半島西岸には荻ノ濱灣、大原灣、十八成灣、鮎川灣、東岸に鮫ノ浦灣、女川灣、雄勝灣があり、更に北へ向つて追波灣、志津川灣、小泉灣、氣仙沼西灣、同東灣、廣田灣があり、岩手縣に入つては、大野灣、門之灣、大船渡灣、綾里灣、越喜來灣、吉濱灣、唐丹灣、釜石灣、兩石灣、大槌灣、船越灣、山田灣、宮古灣、久慈灣等がある。
之等江灣の多くは東方に開口してゐるため、三陸海岸に沿ふて沖合を略南-北に走る外側地震帶上に起る地震中規模大にして且震源淺く、海底面に地變を生ずる如き地震にあつては津浪を伴ふものである。又北東或は南東に開口してゐる灣では多く袋の如く陸地深く灣入して居るため、灣奥にては著しく浪高を増して、津浪を生じて居る。斯樣に三陸海岸は外側地震帶上即ち三陸沖合に起つた地震によつて古來多くの津浪を蒙つて居るが又他の箇所でも大なる海底地震によつては餘
波を蒙り津浪を生じて居る。今歴史に徴しても三陸沖に起つた津浪は次の如く其の數極めて多く、慶長以來約三百二十年間に十九回即十八年間に一回の割合で津浪を蒙つてゐる。
三陸沿岸に於ける津浪の歴史
(一) 貞觀十一年五月二十六日(一五二九年七月十三日)
陸奥國大地震家屋倒潰、震死者多く且津浪襲來して溺死者千餘に及ぶ(三代實録)。
(二) 天正十三年五月十四日(二二四五年)海嘯ありたり。本吉郡戸倉村口碑に、天正十三年十一月二十九日、畿内、東海、東山、北陸大地震後津浪あり、溺死者數多しとあり。(二)の津浪は之れと同一のものなるか。
(三) 慶長十六年十月二十八日(二二七一年十二月二日)陸奥國地震後大津浪あり。伊達領内にて溺死者千七百八十三人。
(3) 慶長十六年十一月三十日大地震三度後津浪あり、伊達領内溺死者五千人(駿府政事録)。或は此の津浪は(三)と同一のものなるかも知れず。
(四) 元和二年七月二十八日(二二七六年九月九日)三陸地方強震後大津浪あり。
(五) 慶安四年(二三一一年)宮城縣亘理郡迄津浪襲來す(口碑)。
(六) 延寳四年(二三三六年)十月常陸國、陸奥國、磐城海邊津浪あり人畜溺死、屋舍流亡(弘賢筆記泰平年表)。
(七) 延寳五年三月十二日(二三三七年四月十三日)陸中國南部領に數十回の地震あり。被害なきも津浪あつて宮古、鍬ケ崎、大槌浦等に家屋流失あり。
(八) 貞享四年(二三四七年)九月十七日、鹽釜を始め宮城沿岸に津浪あり。(蓋し地震による津浪か暴風による津浪か判然せず)肯山公綱村治家記録目録。
(九) 元祿二年(二三四八年)陸中國に津浪あり(古老口碑)。
(十) 元祿九年(二三五六年)十一月一日石卷河口に高浪襲來般三百隻を流し、溺死者多し(肯山公綱村治家記録)。
(十一) 享保年間海嘯あり。田畑を害せしが民家人畜に被害なし(宮城縣本吉郡階上村波路上古老小野寺彌平太氏所藏小割帳による。蓋し享保十六年九月七日岩代國強震あり、夫れに該當するものか)。
(十二) 寳暦元年四月二十六日(二四一一年五月二十一日)高田大地震の餘波として陸中國に津浪あり。
(十三) 天明年間に海嘯あり。
(十四) 仁孝天皇六年六月仙臺地方大いに震ひ城壘壞れ津浪あり。民家數百を破り、溺死者算なし(十三朝記聞、蓋し天保七年、二四九六年七月二十五日の仙臺強震か)。
(十五) 安政三年七月二十三日(二五一六年八月二十三日)午後一時頃北海道南東部に強震あり。震後一時間にして津浪襲來、北海道南部、特に箱館にて被害あり。三陸地方にも津浪來りしが被害尠し。
(十六) 明治元年六月(二五二七年)宮城縣本吉郡地方津浪あり。
(十七) 明治二十七年(二五五四年)三月二十二日午後八時二十分頃岩手縣沿岸に小津浪あり。同日午後七時二十四分根室南々東約百二十粁の沖合に起りたる海底地震によるものなり。
(十八) 明治二十九年(二五五六年)六月十五日午後七時三十分頃に發せる海底地震によるものにて、死者二萬千九百五十三人、傷者四千三百九十八人、流失家屋一萬三百七十棟。
(十九) 大正四年(二五七五年)十一月一日三陸沖地震によるものにして宮城縣志津川灣に小津浪あり。
(二○) 昭和八年(二五九三年)三月三日午前二時三十一分頃に發せる三陸沖強震によるものにて死者三千八人、傷者千百五十二人、流失及倒潰家屋七千二百六十三戸。
三陸地方の地質及震度
三陸地方には其の中央に脊髓として北上の褶曲山脈がある。此の山版は東は太平洋に面し、西は北上川及馬淵川により中央山脈と境し、略紡錘状をなして南北に走つて居る。而して此の山脈は主として古生層、中生層の砂岩及粘板岩より形成されて居るが所々に石灰岩、礫岩、凝灰岩等存在し且古期に迸出した花崗岩をも含んで居る。但し南方牡鹿半島は第三紀層によつて形成されて居る。又北上川及阿武隈川に涵養せらるる宮城野平野は仙臺灣に臨み、第四紀層より成つて居る
が、第三紀層の丘陵が所々に介在してゐる。
斯樣にして三陸地方の海岸は堅牢な地盤であるが爲め地震動に對しても震度が比較的小である。故に今回の樣な大規模な地震にあつても、海岸の沖積層地では強震を感じ壁に龜裂を生じた樣な處もあつたが、古生層或は中生層の土地では強震(弱き方)或は弱震程度であつて地震による被害は殆んど見る事が出來なかつた程である。但し沿岸地方では崖崩れ或は石垣、堤防の決潰、地面の小龜裂等もあつたが夫等は凡て露後に襲來した津浪によるものであつた。
即ち各測候所或は管内觀測所の報告による震度分布を見ても、宮古、石卷、仙臺は強震であるが他は凡て強震(弱き方)であり、却つて福島縣下に入つて強震を感じた所がある。尚青森縣の下北半島では弱震の箇所が多い。斯樣に今回の強震は震域頗る廣汎に亘り且つ規模極めて大であるにも係らず、震度が小さかつたのは震央が遠いと云ふばかりで無く、三陸地方を構成する地盤が、中生層及古生層であつて、地震動に對して極めて堅牢なるによるものである。
津浪の高さ 一概に津浪の高さと稱しても之れは解釋の仕方によつて一定したものではない。即ち夫れを測る方法により先づ三種のものが考へられる。其の第一種として考へられるのは驗潮儀の自記記象から測つたものである。之れは驗潮儀の種類、構造によつても異るが大體海面の高さを與へるものであつて岸に打寄せた高浪とは異なるものである。故に同一場所で津浪の高さを測つても目測で見た高浪と驗潮儀の記録に出たものとは大に異なり一般に後者は小さい。
第二種の浪高は岸に打寄せた大浪の高さであつて之れは實際津浪が押寄せた際に測れば大差ないものを得られるが、其後の調査では海岸の地物に殘された痕跡から見る外は無い。併し平坦な海岸で津浪の痕跡を止める樣な地物が無い樣な場所では當時の目撃者の談を綜合して之れを定めねばならぬが、之れには大なる誤差を許容せねばならぬ恨がある。例へば津浪が寄せて來た當時の有樣を或る部落の人々につき尋ねて見ると或る人は山の樣な大浪が四、五十尺も盛上つて來たと
云ひ、又或る人は二十尺位の浪だつたと云ふ、何しろ生命財産に對し非常な脅威を感じた際の事であるから此の位の目測の差があつても致し方が無い。
又海岸の地物に印された痕跡から見ても夫れが絶對的な浪の高さを與へるものとは思はれない。即ち斯樣な場合に津浪の押し寄せ方を考慮せねば果して海岸の地物に印された痕跡が眞の津浪の高さであるか何うかは判定出來ない。先づ津浪の寄せ方を所々で聽いて見るとそれは江灣の形、深さ、地貌によつて大いに異る事を知る。即ち或る灣では「ウネリ」の如く寄せて來た所もあるし、又或る處では暴風津浪の如く極めて徐々と押寄せた處もあり、又或る處では單獨波として單一の高い波が押寄せ海岸へ來るに從ひ高度を増し、波打際で碎けて一部落を一呑にした處もある。
前二者の場合は海岸の地物に印された痕跡から見て津浪の最大の高さを知る事が出來るとしても後者に於ては波の碎けた場所と地物の位置との距離も考へねばならず、嚴密な意味に於て種々疑念を挾む事が出來る。一方に於て、海岸に存在する地物にしても樹木の樣なものでもあれば津浪の高さを定めるのに可なり適して居るが、崖の樣なものであると又其處に疑點を生ずる。即ち兩側が懸崖に圍まれた江灣であると此の懸崖が刻された痕跡は果して正面の海岸に打寄せた浪の高
さと等しいものであるか何うかと云ふ疑點がある。一般に斯樣な江灣では兩側の懸崖に印された痕跡の高さは正面の海岸に打寄せた浪の高さより高い樣である。
次に第三種の浪高と云ふのは津浪が打上げられた最も遠い地點の海面からの高さである。之を津浪の高さと定義する人もあるが著者は之を「浸水地域の最高度」とでも稱し度いと思ふ。斯樣な高さは海岸の地形によつて大いに異り海岸に河口を有する樣な處では津浪は此の川に逆流して可なり奥深い流域迄浸水地域を生ずる。斯かる際に浸水地域の最高を測れば思ひがけぬ高さとなるものである。實例としては宮城縣追波灣に注ぐ追波川の流域などが夫れである。
又海岸が遠く迄平坦である樣な土地と背面に山を負ふ樣な地形の所とでも亦浸水地域の高さは大いに趣きが異つて來る。
前者では津浪が可なり奥の方迄進み、夫れによる被害も亦著しいが、後者では山に遮られ被害も比較的尠い。更に外洋に面した懸崖の海岸などでは夫れに打當つた津浪は可なり高所迄も上ることがある。斯樣な場合に懸崖に刻せられた水痕などから測定した津浪の高さは、賓際の浪の高さとは可なり異つたものを示すと考へられる。
斯樣にして實際の津浪の高さと云ふものは嚴密に云へば到底測り得るものでは無い。只其の定義と測り方とによつては或る基準となる可き浪の高さと云ふものを與へることが出來る。併して斯樣な考へのもとに浪の高さを測定し相對的の値を個々の灣につき比較して見るのは決して無意義な事では無いと思ふ。斯くして著者は海岸に打寄せた際の津浪の高さ即ち
前の定義で第二種のものを浪高として其の高さを取ることとした。而して此の高さは各調査員によつて測定されたものであるが、主として海岸の地物に印せられた痕跡より測ることとした。又時には海岸に適當な地物等が無い場合、止むを得ず住民諸氏の觀察による目測に從つたものもある。併し此の場合には成る可く多くの人々から聞き最も確からしきもの或は平均値を以て浪高とした。
第一表は斯くして測定された各地に於ける浪高であつて、宮城縣は石卷測候所野口所長外所員諸氏、本臺鷺坂技手、竹花技手及著者の調査により、岩手縣は盛岡測候所員及宮古測候所員諸氏、本臺本多技師、石川技手、田島技手、青森縣は青森測候所猪狩所長外所員請氏、福島縣は福島測候所員、北海道は浦河測候所北田所長等の調査結果を綜合したものである。尚調査員によりては浪高を尺單位にて測定された向もあるが、便宜上之れを几て米に換算した、又同表に明治二十九年六月十五日の三陸大津浪の際の浪高を米に換算して並記し、今回のと比較してあるが、其の數値は伊木常誠博士、及宮城縣土木課の調査によるものである。
此の表で見る如く今回の津浪の高さは宮城縣下に於ては平均三米一五、岩手縣下に於ては五米九であつて岩手縣沿岸の方が平均として一・九倍となつて居る。試に明治二十九年の大津浪の高さを伊木常誠博士及宮城縣土木課で調査したものにつき調べて見るに、宮城縣下に於ける平均浪高は四米四七であり岩手縣下に於ては十米三であつて矢張岩手縣下の方が高く其の比は二、三であつた。
今明治二十九年の際の津浪の高さと今回の浪高との比をとつて見ると宮城縣下では一・四となり、岩手縣下では一・七となる。即ち明治二十九年の時でも、今回のでも何れも岩手縣の方が宮城縣下より高い浪を蒙つたが、宮城縣下では今回の津浪が比較的高いと云ふ事になる。此の原因に就ては先づ考へられる事實は今回の地農の震央が前回のに比して稍南方へ偏し官城縣の方に近くなつて居ると云ふ事であゐ。併し不幸にして明治二十九年の際には地震觀測の設備が不完全であつたため推定された震央位置は極めて誤差大きく、今回のと比較し得られぬ程度であるため此の事實を立證し得られぬのが遺憾である。
次に主なる灣及沿岸に於ける平均の浪高を求め之を明治二十九年のものと比較して見ると第二表の如くになる。勿論或る灣に就て見ると一般に灣奥では浪高が高く、灣口附近では低い故に夫等の平均を求めると其の灣に於ける最大浪高よりは餘程低いものとなる。又綾里灣の如きは灣奥一箇所の値しかない故表中飛拔けて大なる浪高を示してゐるが之れは材料の寡少なためで仕方が無い。然し他の灣では相當多く材料がある故其の灣の平均浪高として先づ適當なものと考へられる。
扨津浪の高さと云ふものは震央距離、水深、灣の形及び灣の向き等の函數である。一般に灣が震央方向に向いて居れば其の灣に於ける津浪は高い事が考へられる。此の事實を確めるため灣の主軸の向きと灣口からの震央の方位との差を求め之れと其の灣に於ける平均浪高との關係を調べて見た。先づ灣奥から灣口の中心へ引いた線を灣の主軸として其の方位角φを測つた。此の場合女川灣の如く灣奥から更にV字形をなし北西と南西へ技灣が出て居る處では技灣の主軸の交點から灣
口の中心へ引いた線を灣の主軸とした。
更に灣口に於て震央の方位角θを測定した。而してφとθとの差を求めた。第三表に與へたものは之れである。併し浪高はφ-θのみの函數では無く前述した樣に震央距離及水深灣形なども考察せねばならない。此の内震央距離は可なりの影響を平均浪高に與へるものであるから、之れと浪高との關係を見るために灣口から震央迄の距離を測定した。表中のΔが之れである。
又φ-θは假に正(+)、負(−)を附して置いた。之れは灣口から震央への方位角に對し灣の上軸が南方に偏してゐる場合之れを負として北に偏して居る場合之れを正とした。又φもθも共に北から東の方へ測つた。角度を以て表はす事にした。
同樣なことを明治二十九年六月十五日の津浪についても行つて見た。但し此の場合の浪高は伊本博士の測定値及宮城縣土木課の測定値即ち第一表に掲げたものを用ひ、之れも各灣につき平均したものを以て其の灣の平均浪高としたのである。
但し明治二十九年の津浪を起した地震の震央は前述した如く、確かなものでなく、或は今回のより稍北に偏して居るかも知れないが假りに震央は今回の強震のと同一場所であるとして見た。
第三表は斯くして求めたφ、θ、φ-θ及震央距離Δ平均高等を表示したものである。
扨φ-θ及Δと浪高との關係を見るために直交坐標軸上縱軸に浪高をとり横軸にφ-θをとつて前表の値を書き入れて見た。此の際其の灣に相當する震央距離を書入れた點の傍に記すこととする。而して前表に見る如く震央距離二百四十粁及び二百八十粁内外に相當する灣が大部分を占めて居る故夫等に相當する點を結ぶ樣な曲線を描いて見ると第一圖の實線の如くになる。
尚此の外に明治二十九年六月十五日の津浪に就ても同樣各灣の平均浪高とφ-θとを圖中に書入れて見て震央距離二百四十粁及び二百八十粁に相當する曲線を畫いて見ると、圖中波線の如きものが得られる。
此の圖で判明する如く震央距離が小なる程、津浪の高さは高く、φ-θが小なる程浪高は大となる傾向がある。而してφ-θと浪高との關係は材料が寡ない故確かとは云ひ難いが數的關係を有し、φ-θが小くなる程津浪の高さは急激に増すと云ふ傾向がある。
此の關係は極めて重大なものの如く明治二十九年の津浪に於ける釜石、吉濱、今回の津浪に於ける釜石、田老等が特に著しい被害を蒙つたのも此の關係から明かになると思ふ。
又明治二十九年の津浪と今回の津浪との浪高を比較して見るに圖に於て明かな如く、明治二十九年の津浪の高さは明かに今回のよりも大である。即ち之れによつて見るに明治二十九年の津浪の勢力は今回のものよりも、大きかつた事を斷言し得ると思ふ。
人體感覺による地震の繼續時間
今回の強震を人體に懸じて居た時間に何分位であつたかと云ふ事を調べて見た。始め調査の途次部落の人々に尋ね歩いて見たが同一の部落でも人によつて大に異り一般に非常に長い地震だと云つても、時間を聞くと二分位と云ふ人もあるし十分以上だと云ふ人もある。何しろ平常時間と云ふ觀念かち遠ざかつて居る人々の談であるから、極めて大なる誤差を豫期せねばならない。夫れ故止むを得ず各測候所附屬の管内觀測所の觀測結果による事にした。此の方は常に氣象及地農の觀測をして居る關係上時間も可なりの程度迄正確に測り得るし又其の結果も信頼し得ると思つたからである。
斯くして各測候所から報告された管内觀測所の有感時間を平均して見た。而して其の平均値は各測候所の管内毎にとつて見たが結果は左の如くである。
此の表中の有感覺震動時間を圖に記入して、其の値の等しい所を結ぶ線を畫いて見ると第二圖の如くになる、圖に於て便宜上震動時間は分位及其の十分數を以て表はし當該測候所の位置に記入してあるが、併し等震動時間線を描く時は管内面積を考慮に入れて引いた。
此の如き震動時間は一見粗雜なものの如く考へらるるが夫れを多數とつて統計して見ると、其の間に或る關係を見出すには充分な正確さを有する事が判る。例へば圖に於て判る如く震央から遠ざかるに從つて有感覺震動時間も、次第に減じて行く。又關東地方に於て特に異常的に震動時間が長い事も判る。此の事實は關東地方に於て深發地方に於て或は襟裳岬沖、三陸沖に起つた地震により異常震域を呈する事と照合して興味ある現象である。
即ち關東地方は他の地方に比して常に地震の震動時間が長い而も地震計記象を驗測すると異常震域を呈した際には常に初めに短週期の波がP相或はS相を蔽つて居る。而も第二圖に見る如く震動時間は他地方に比して長いのであるから地震の勢力は、異常震域内に於ては特に著しく大なる事を知る。之れは著者が度々云ふ如く異常震域なる現象は其の地域内に於て別に勢力を給供されるため起るものであると云ふ假定に新らしき證明を與ふるものと思はれる。
尚關双東方に反し靜岡縣東部、或は襟裳岬等に於ては震動時間が比較的に短かくなつて居る。之れに反し關東地方の如く著しくはないが震動時間が比較的長い地方は山梨縣下、新潟縣東部長野縣中部、靜岡縣西部、京都府及北海道中部であつて之れが如何なる事實を暗示するか只■には事實のみを記して後の參考とする。
又一方から考へて見ると關東地方、北海道中部等に於て特に地震の震動時間が長いのは、此の地方を構成して居る地盤が散逸性(dispersive nature)を多分に持つて居るとも考へられる。併し之れは單なる假想であつて、此の地方に於ける地震計記象から見て震波の週期が他の地方に比し短かいと云ふ事實と牴觸する故、尚詳細に記象紙を吟味した上でなければ判然たる事な斷定し難い。
扨前表に記した有感覺震動時間を縱軸に各測候所の震央距離を横軸にとつて直交坐標軸圖中に記入して見ると、第三圖が得られる。而して震央距離をとらねばならぬが■では近似的に測候所の震央距離をとつた。斯くして圖表中に記入した點を連ぬる曲線を畫いて見ると二本のものが得られる。圖中A及Eが夫れである。
曲線Aは普通のものであつて有感覺震動時間が震央距離と共に如何に減少するかを示して居る。又Bは異常震域に當る地域に於ける關係を示すもので關東地方新潟、長野南部、靜岡西部、京都、北海道中部等が之れに屬する。然もAB兩曲線が略平行し且判然と分離せる事は異常震域なる現象に對し興味ある事實を示すものである。
扨有感覺震動時間が三陸地方に於ては何の位であつたかと云ふ事は後に述ぶる津浪の到達時間を定むる上に必要である故、青森、岩手、宮城、福島四縣の管下の管内につき特に詳しく調べて見る。即ち之等四縣下の管内觀測所で測定した有感覺震動時間を表示すると左の如くである。
今第五表中の總震動時間の平均を各縣下に就て求めて見ると岩手縣下では四分五十六秒、宮城縣下では五分三十五秒、青森縣下では四分十三秒、福島縣下では四分三十二秒であつて平均四分四十九秒となる。故に三陸地方に於て地震による震動を感じて居た時間は五分間と見れば宜しい。勿論局部的には地質の相違等により震動時間も可なり違ふが、之れは目下考へぬ事として平均をとつた譯である。
津浪の來た時刻
津浪の來た時刻を踏査の際地方住民につき一々尋ねて見たが、之れも平常時間の概念があまり無い人々から聞いたのであるから可なりの誤差を許容せねばならない。一方驗潮儀で記録したものから讀取つたものは中野氏の報告文中にあるし、著者自身でも一々驗潮儀記録から讀取つて見た。然し之れも可なりの時刻差があり、震央に近い箇所で地震による地動を記録した處では其の時刻から補正出來るが然らざる所では矢張り大なる誤差を認める。
又各部落の人々から聽取した津波襲來の時刻は大抵地震後何分位と云ふ。此の地震後何分と云ふのは、地震がすんでから何分と云ふ意味であるから、前項に於て地震の繼續時間を算出して見たのである。而して有感覺繼續時駕は前述した如く三陸地方では約五分であるから之れる考へに入れて、各地に於ける津浪襲來の時刻を算出して見る。材料は本報告中に記載してある各調査員の調査結果による。
第六表 津浪襲來の時刻
午前四時三十分 (福島)四ツ倉、(宮城)小積
同 四時十分 (北海道)廣尾
同 四時 (宮城)磯、中濱、閖上(青森)蛇ノ浦
同 三時三十分 (福島)富岡、豐間(宮城)小淵、小網倉、鮎川、尾浦(青森)四川目、天ケ森、尾鮫
同 三時二十五分 (福島)久ノ濱(宮城)荻ノ濱
同 三時二十二分 (岩手)赤前
同 三時二十分 (岩手)綾里
同 三時十八分 (宮城)鮫ノ浦(岩手)宮古
同 三時十五分 (宮城)大谷川、女川、雄勝、桑澤、名振、大指(福島)中村請戸(岩手)白濱、小白濱(北海道)樣似
同 三時十四分 (宮城)欠濱
同 三時十分 (宮城)前網、寄磯、立濱、船越、小室(岩手)越喜來、湊、八木(青森)小舟渡、鹽釜、砂森(北海道)小越
同 三時七分 (宮城)鮪立(岩手)根崎
同 三蒔五分 (宮城)大原、網地、谷川、寺間、出島、御前、大濱、小泊、相川、小指、月濱、志津川、伊里前名足、歌津村石濱、只越(岩手)高田、田老、吉濱、野田(青森)川口、二川目、大蛇、六川目
同 三時零分 (宮城)唐桑村石濱、宿(岩手)千鷄、兩替
同 二時五十五分 (岩手)音部、唯出
以上は各調査員が個々の部落の住民諸氏から聽取した津浪襲來の時刻であるが、之れを地圖上に記入して等時線を畫いて見ると三陸沿岸中青森縣鮫港から南は金華山に至る迄、沿岸では殆んど三時十分津浪襲來をうけた事になつて仕舞ふ。つまり地方民諸氏から聽取した時刻は地震後三十分位に浪が來たと云ふのが最も多いと云ふ事で、結届時刻の正確な測定は一般の人には難かしいと云ふ事を裏書する事になつて仕舞つた。如何となれば、此の結果を三陸地方沿海の水深を考慮して津浪襲來の時刻を算出した精確な結果と比較して見ても善き一致を見ない。故に此の結果は只參労として茲に載せる事とした。
只之れから津浪が大體地震後三十分乃至四十分で三陸沿岸に到達したと云ふ事實だけは云ひ得ると思ふ。
津浪襲來の状况
(一)津浪前の退潮
津浪が襲來した時の状况を調べて見る。之れは三陸沿岸各地の驗潮儀記録で見ても判る如く、始め僅かな上潮で始まつて居る。然し地方住民で此の上潮を見た人は極めて少ない。只僅かに岩手縣大野潮の灣奥に當る所で見て居た人が「津浪の前に潮が二、三尺寄せてそれから五分にて退いて行つた」と云つて居たのと宮古及細浦で「地震後三十二分滿潮面より三尺増水した」と云つて居ただけである。要するに驗潮儀に現はれた初潮の上潮はあまり小さく且徐々に寄せて來たらしいので、それを見た人はなかつたと思はれる。
津浪の前に潮が退いた事は非常に多くの場所で觀察して居る。其の状况を次に列記して見る。
宮城縣
大原 午前三時頃潮が三尺位退いて居た。
鮎川 津浪の前に潮退く。二間程の長さの棧橋の橋脚が悉く見え、捕鯨船の赤腹も見えた。
女川 津浪の直前ザワザワと音を立てて潮が退く。
小泊 津浪の直前海岸から五十間位潮が退いた。
名足 津浪の前五十米迄潮が退く。
大谷 波路上、前濱、尾崎、片濱、七半澤、臺の澤。津浪の前一時干潮となり十分後に大浪來る。
小々汐 地震後三十五分位經つて潮引き後十分して大浪が來る。
岩井崎 地震後十五分潮退く。
鶴ケ浦 地震後三十五分して潮が引き其後五分して浪が來る。
梶ノ浦 地震後三十分して潮が退く。
小鯖 地震後二十分位して十尺位潮が退く。
只越 三時頃潮が退いて居た。
欠濱 海水殆んど灣口迄退いた。
岩手縣
長部 地震後三十五分海水灣口迄退いた。
根崎 地震後二十五分潮退く。
綾里 地震後三十分約一粁の灣口迄潮が退く。
小白濱 地震後二十四分で潮が退いた。
釜石町 地震後十分底力ある音が聞え、其後數分で延長百六十間の棧橋の先端迄潮が退いた。
鵜住居 地震後十分音響聞え間もなく潮退く。
千■ 二時五十五分十二間位潮が退いた。
傳作鼻 地震後約二十分海水退いた。
音部 津浪の前五分、海水七、八間退いた。
白濱 三時十分頃潮が退いた。
赤前 三時十五分頃海水急に退いた。
宮古 津浪の前水深七、八尺退いた。
磯■ 津浪の前五十間程潮が退いた。
青森縣
鮫 三時十二分一米六位潮退く。
二川目 津浪の前、二川河水三糎程減水した。
小船渡 地震後三十分ゴロゴロと音を立てて平常の干潮面より三倍半も潮が退いた。
易國間 津浪前潮が退いたのを見た人がある。
下手 節句の大潮以上に潮が退いた。
福島縣
久ノ濱 二時五十分港内の海水防波堤迄退き一面干潟となる。
北海道
小越 津浪の前三米六位潮が退いた。
樣似 律浪前の浪の高さ二米位潮が退いた。
以上記載したのは各調査員の報告全部であるが、津浪の前に潮が引いた事は驗潮儀の示すが如く確實であつて、此の現象は三陸沿岸から北海道迄も觀察されて居る。而して退潮の減少も非常に顯著であつたらしい。さうして津浪が押寄せたのは潮が退いてから平均五分位後となつて居る。併し此の間隔は灣の形や水深によつて異なり一定してゐない。
(二)津涙の寄せ方
津浪の寄せ方は海岸の地形、江灣の水深、形によつて異るし、又震央距離、灣口の向きによつても異る。其の押し寄せ方は徐々と來たのもあるし、突如大浪が殺到したのもある。先づ徐々と押寄せた所を擧げると左の如くである。
宮城縣
荻ノ濱 押寄せる時は徐々と靜かであつたが引潮は強い。
小網倉 津浪は強くなく、大潮が押よせて來る樣であつた。
飯子濱 寄せ方も退き方も極めて徐々であつた。
出島 徐々に水が増して來る樣であつた。
船越 比較的靜かでザワザワと寄せて來た。
名振 同前。
岩井崎 徐々に押寄せて來た。
浦ノ濱・田尻 勢極めて弱い。
磯草 勢極めて弱い。
岩手縣
自濱 水深深いため緩漫な波來る。
青森縣
榊 水位のみ高まり波浪はなかつた。
以上であつて、津浪が徐々と來たのは牡鹿半島西岸の如く廻り込んで來た所とか、水深の深い所とか距離の遠い所である。仲には金華山、山鳥ノ渡、■崎の如く外洋では注意して見て居ても津浪み氣付かなかつた所もある。之れは恐らく水深が深く浪高小で氣付かぬ程度であつたためであらう。
又突如として大浪が押寄せて來たにしても其押寄せ方は灣形、水深、灣の方位等によつて可なり異つて居る。即ち各地に於ける押寄せ方は次の如くである。
宮城縣
磯 海面白光を呈し見る間に來る。
小淵 泥を交へ波の先が切立つた屏風の如く、速度大にして汽車より速い。
谷川 押上つた樣になつて來る。
立濱 靜かに來たが防波堤の所で急に高くなる。
白濱 コンモリと高く盛上つて來る。
小室 波頭が碎けて重なり合つた樣に寄せて來る。
伊里前 浪が幕を張つた樣になつて來る。
名足 器内の水が溢れ出る樣になつて來る。
石濱 泥色の水が泡立つて來る。
大谷 眞黒な波が盛上つて來る。
鶴ケ浦 黒い潮が大なる速度で來て岸ヘ來るに從ひ青白く光る。
欠濱 黒い潮が高まつて來て岩に碎けると青白く光る。
岩手縣
根崎 黒い潮が盛上りながら迫つて來る。
泊港 下から押上げる樣に來た。
下船渡 黒い潮が盛上つて來る。
青森縣
三川目 薪を横に並べた如く重なり合つて來る。
四川目 眞黒な波が空に届く樣に盛上つて來る。
五川目 ヂヤヂヤと云ふ音を立てて來る。
淋代 黒墨を載せた如き浪が來る。
砂森 眞黒になつて盛上つて來る。
津浪の押寄せ方は以上の如くであるが、大體之れを三樣に分ち得ると思ふ。(1)は波面が屏風を立てた如くなつて來たもの、(2)山の樣に盛上つて來たもの、(3)海岸へ打寄せた浪の如く泡立つて來るか重なり合ふ樣に來たものの三種である。
(1)は水深が大なる場所で觀測されたものが多く、(2)は灣口から急に水深が淺くなつた所で觀測され、(3)は淺い所即ち遠淺の場所で多く觀測されて居る。即ち浪の押し寄せ方は色々な地形其他條件によつて異なるが、水深が最も大なる影響を與へる樣に思はれる。
(三)津浪の回數
地震によつて震央附近に生じた波は理論上から單獨波であらうが、實際灣内や沿岸に押寄せる津浪は一回でなく數回に亘つてゐる。中には十數回も反覆して押寄せた所もある。又事實震央に生じた波も振動性のものとして數回の波が引續いて起り、之れが沿岸へ波及するとも考へられる。併して理論上から之等波群は第一のものから次第に高さを減じてゆく可きである。然るに沿岸各地で經驗した津浪の中には第一の波より、第二或は第三の波の方が高かつた所もある。今沿岸各地に襲來した最高の波は第何回目のものであつたかを各調査員の報告によつて記して見る。
第一回の波が最高であつた場所
(宮城)荻ノ濱、谷川、大谷川、鮫ノ浦、寄磯、尾浦、雄勝、立濱、荒屋敷、大指、伊里前、欠濱、高石濱(北海道)小
越、樣似 即ち宮城縣の南部と外洋に面した所及北海道だけは第一回の浪が最も高く且大きかつたと稱してゐる。
第二回の波が最高であつた場所
(宮城)出島、寺間、船越、名振、白濱、相川、小室、鶴ケ浦、梶ノ浦、小鯖、鮪立、石濱
(岩手)長部、兩替、泊港、大船渡、吉濱、小白濱、釜石、千■、傳作、鼻、白濱、堀内、赤前、磯■、田老、八木(青森)大畑
即ち岩手縣は殆んど全部第二回の浪が最高であつたと云ふ結果になつて居る。又宮城縣の方でも北部では、二回目の波が最高となつて居る所もある。
第三回目の波が最高であつた場所
(宮城)大原、鮎川、網地、大濱、桑澤、小々潮、岩井崎
(青森)榊、二川目、小船渡、大蛇、六川目
即ち第三回目の波が最高となつてゐるのは宮城縣南部と青森縣とであつて共に遠距離の地に當つてゐる。
第四回の波が最高であつた場所
(宮城)小積、小淵
共に牡鹿半島西岸であつて半島を廻つて來た波によつて生じた所である。
斯樣にして岩手縣下の各江灣及沿岸では第二回の浪が最高であり、宮城縣下の南部牡鹿半島東岸では、大體第一回の波が最高であり、青森縣及宮城縣北部では第三回の浪が最高となつてゐる。斯く何回目の浪が最高であつたかと云ふ事は其の江灣の形状水深及び震央迄の距離によつて異るものであらう。而して此の問題の徹底的調査は驗潮儀の記録を精査し、江灣の形状、水深等と比較せねばならぬ。又一方其の江灣の靜振とも關係するものであらうと思ふ故、立入つた調査は他日に譲り■には只事實を記するに止める。
(四)津浪の回數と週期
今回の津浪を體驗した人々の談によれば、津浪は單獨波で無く數回に亘り大浪が手寄せたと云ふ。其の回數も各江灣によつて異なるが、之れも江灣の形状、水深等が主な要素となつて其の回數が決定されるらしい。
今各調査員の踏査報告につき、各江灣ヘ押寄せた津浪の回數を測つて見ると左の如くである。
宮城縣
荻ノ濱 三、四回寄せて來た。
小積 二、三分の週期で二、三回の津浪があつた。
小網倉 五、六回繰返す。
大原 十分位の週期で六回。
小淵 十五分位の週期で大きいもの四回。
十八成 十分位の週期で數回。
大谷川 強いものが三回あつた。
寄磯 七回位來たが週期は始めて七分位次第に長くなる。
女川 午前八時頃迄に十四、五回も押寄せた。
出島 十分乃至十五分位の週期で來た。
尾浦 大なるもの三回、三十分位の週期。
御前 大なるもの三回。
雄勝 強いもの三回。
大濱 強いもの三回、五分位の週期で來る。
立濱 大なるもの三回、五分乃至十分位の週期。
桑濱 大なるもの三回。
船越 強いもの三回、五分位の週期で來る。
名振 強いもの三回、五分位の週期。
相川 強いもの三回。
小室 強いもの三回、十五分乃至二十分の週期。
伊里前 大きいもの二回來る。
岩井崎 大きい浪四回來る。
鶴ケ浦 大きい浪四回。
宿 大きいもの二回來る。
鮪立 五回寄せたと云ふものあり、六時迄小津浪多し。
御前 三、四分の間隔を置いて三回。
石濱 約四分の間隔にて三回。
高石濱 大きい浪四回來る。
欠濱 大きい浪四回來る。
岩手縣
高田 大きい浪三回來り、五時半頃常態に復す。
長部 五回程來る。第一回と第二回との間隔五分。
兩替 前後六回來る。
泊港 二回大浪來る。其の間隔三分位。
綾里 五回も押寄す。
越喜來 十五分間隔にて三、四回。
下甫嶺 二、三回繰返す。
小白濱 數回の浪來る。
鵜住居 大浪二回、其の間隔十分位。
千鷄 大浪三回、週期十分位。
傳作鼻 十分間隔にて三回。
重茂 大浪三回、夫々五分及十分の週期。
音部 大浪三回、夫々五分及十分の間隔。
白濱 大きい浪二回來る。
赤前 十分の間隔にて三回。
宮古 三時二十三分、同三十五分、同四十五分と前後三回。
磯■ 十分間隔にて三回來る。
田老 大浪三回、夫々二十分及十五分の間隔。
八木 三回來る。間隔十五分。
青森縣
榊 十五分間隔にて三回。
鮫 大浪三回。夫々九分及十五分間隔。
川口 大浪三回、夫々十五分及五、六分間隔。
小船渡 大浪三回、十五分乃至二十分間隔。
大蛇 大浪三回、十分乃至二十分間隔。
二枚橋 五時半から六時迄に四回來る。
北海道
廣尾 三、四回大浪が來た。
小越 大浪三回、約三十分間の間隔にて來る。
樣似 大きい浪三回來る。
即ち以上の津浪の押寄せた回數を調査した箇所三十六箇所中、大浪が三回押寄せたと稱する所は三十箇所であり、二回と稱する所が五箇所、四回と云ふ所六箇所、五回、六回、七回と稱する所が夫々三箇所、二箇所、一箇所と云ふ割合になつてゐる。
此の、外二、三回と云ふ所二箇所、三、四回と云ふ所三箇所、五、六回と云ふ所一箇所、數回と云ふ所一箇所と云ふ割合である。
即ち多くの所で高い浪は三回來たと云ふ結果になつてゐる。而して大浪が來た數回を判然と觀測した箇所、四十八回につき各回數の百分率をとつて見ると二回十二、三回六十二、四回十三、五回六、六回四、七回二、八回○であつて、三回と云ふのが最も多い。第四圖は此の關係を圖示したものである。
此の圖の如く津浪の回數は三回と云ふのが最も多いが、之等三回の大浪を受けた處二十一箇所に就き第何番目の波が最も高かつたかを調べて見ると、第一回の波が最高であつた所は六箇所、第二回目の波が最高であつた所は十一箇所、第三回目の波が最高であつた所は四箇所となつてゐて、第二回目の波が最高であつた所が特に多い。
併し同じく三回の高浪を受けた所でも最高浪が、斯樣に異るのは灣の形状、水深等が異るためであらうが、之れも興味ある問題として後日の精査を俟たねばならない。
曾て佐野、長谷川兩氏は、一樣な深さの海底面にて圓筒形の部分が突然陷沒した結果として生じた波動が、遠く距つた沿岸に達して起す津浪の状態を理論的に求めて居る。それによると矢張り第二回目の波が最高となる結果に到達し、■に述べた結果と一致して居るのも與味ある問題である。
次に津浪の週期、即ち第一回目の波と次々に來た波との間隔であるが驗潮儀を精査した所では、之れは其の灣の靜振と密接な關係がある。各地の驗潮儀記象から著者及本臺地震掛竹田建二氏が讀取つた津浪各波の平均週期は左の如くである。
而して此の週期は驗潮儀に現はれて數十回の振動の平均週期である。
曾て本多、寺田兩先生其他は本邦の各江灣につき靜振を測定され、其の週期の理論上から算出したものと比較して居られる。不幸にして兩先生方の測定された江灣は前掲表には尠いが、宮城縣鮎川、東京府父島など、兩者の週期を比較して見ると、鮎川では靜振週期六分乃至八分九に對し、同所に於ける津浪の週期は平均七分八となつて居り、丁度平均の靜振週期と一致して居る。又父島に於ても靜振週期十六分乃至二十分に對し津浪の週期は十九分四であつて、之れも善く一致して居る。
即ち驗潮儀によつて測定した津浪の週期は其の江灣に於ける靜振週期と一致するものである。從つて、此の週期は江灣の形及水深が主要なものとなつて決定せられる可きである。
更に今回の津浪にて、各踏査員が調査した津浪中の大浪の間の週期を調べて見ると次の如き結果となつて居る。即ち■に各週期を以て津浪が現はれた場所の數を現はし、其の百分率を以て示すこととする。統計に利用し得た場所は全部で四十四箇所である。
扨之等津浪週期の頻度を圖に表はして見ると第五圖の如くになる。圖は縱軸に週期の頻度をとり、横軸に各週期をとつたものである。此の圖に依つて判明する如く、津浪の週期は十分内外のものが最も多い。即ち第一、第二等の高浪は約十分位の間隔で來たと見られる。尚五分位の週期も可なりの頻度を示してゐるが、之れは各部落の住民諸氏から聽取したものの統計であるから其處迄正確であるや否やは保證し難い。而して此の週期は特に大きな浪の週期であるから驗潮儀から讀取つた浪の週期と一致するものか何うかは判明しない。
然し若し之れが驗潮儀から讀取つた各波の週期と一致するならば、各江灣に於ける固有振動靜振の週期と一致すべきである。然るに本多、寺田兩先生其の他が實測された三陸沿灣の各江灣即ち、宮古、大槌、兩石、釜石、小白濱、吉濱、越喜來、綾里、大船渡等に於ける靜振の週期は十八分乃至四十五分即平均二十八分となつてゐる。故に津浪の際の高浪の間隔十分余とは異つた値が出てゐる。
之れによつて見ると津浪の際に數回に亘つて押寄せた異常な高浪は浪の靜振とは殆んど無關係に約十分内外の間隔にて次々に襲來したと見ることが出來る。而して此の波は震央に於て、次々に發生したものと見ることが出來やう。尚之等異常な高浪の外に現はれた小振動は、之等高浪が浪に強制振動を與へた結果として靜振の一種とも考へられる。此の點に就いても尚詳細な調査を要するものであつて、■には事實に就き一推理を與へたに追ぎない。
音響と海鳴
強震後各地に於て異常な音響を聞いた所が多い。此の音響は大砲を打つた樣な響と云ふのが多く、而も多くは海岸で聞かれてゐる。其の爲或は津浪が海岸の斷崖に打當つた時の響では無いかとも考へられる。今此の音響が、如何なる原因によるものかを明かにするために各調査員の報告及三陸地方の各管内觀測所の報告によつて調査して見やうと思ふ。
岩手縣(五十三箇所中三〇)
盛岡(震前地鳴、震後二十七分東方に鳴動)、猿澤(震前地鳴)、大原(震後東方に鳴動)、若柳(震後東方に砲聲の如き音三回)、岩谷堂(震後鳴動)、永岡(震後鳴動二回)、湯田(震後砲聲の如き音)、澤内(震後遠雷の如き音南東へ三回)、岩根橋(震前に地鳴、震後三十分南東に砲聲の如き音二回)、附馬牛(震後五分砲聲の如き音三回)、西山(震後北東へ砲聲の如き音二回)、大志田(震前遠雷の如き音二回)、雫石(震後遠雷の如き音)、松尾(地鳴あり)、御堂(震後遠雷の如身音)、葛卷(震後地鳴)、淨法寺(震前地鳴)、田山(震後三十分南東方に地鳴)、荒澤(震後大砲の如き音)、一戸(震後卅分後砲聲の如き音)福岡(震後地鳴)、金田一(震後三十分砲聲の如き音)、種市(震後地鳴)、久慈(震前地鳴)、宇部(震後三十五分砲聲の如き音)、山形(震後地鳴)、山田(震後十分鳴動)、釜石(震後砲聲の如き音)田子(震後砲聲の如き音)、盛(震後三十分南東に砲聲の如き音を聽く)
宮城縣(十三箇所中七)
氣仙沼(震後五分音響)若柳(二時三十四分、同五十分、弱音二回、二時五十分砲聲の如き音)、登米(砲聲の如き音)、吉岡(東方の雷鳴の如き音三回)、大河原(音響らしき音)、(松倉二時五十四分、同五十六分南東に爆音)、湯ノ原(暴風の如き音)
青森縣(二十箇所中八)
三厩(震後四十六秒雷鳴の如き音響)、蟹田(發震直後地鳴)、金木(發震後三十秒風聲の如き地鳴)、泊(地震終る頃午砲の如き音響)、黒石(發震直後風聲の如き地鳴)、七戸(震後直に雷鳴の如き吾響)、休屋(震後雷鳴の如き音響)、三戸(東方に大砲の如き音響三回)
福島縣(二十三箇所中六)
安積(地震前車橋上を走る如き音響)、三阪(音響甚多)田島(音響激し)、川俣(遠雷の如き音響)、上遠野(聲響あり)棚倉(發震數秒内聲響あり)
秋田縣(十五箇所中九)
毛馬内(震後爆發樣音響)、花輪(二時五十分ドドンと音す)、大館(震前南西より風聲の如き響あり、地震直後遠雷の如き音)、鷹の巣(聲響あり)、船川(地鳴あり)、角館(弱き地鳴)、大曲(二時五十八分に一回、三時に連續二回、東北東方向に大砲の如き音)、本荘(聲響を伴ふ)、矢島(音響あり)
北海道(五十七箇所中十一)
靜内(震後聲響)、士武佐(東西方向に地鳴)、納沙布(地鳴西より東へ)、西別(弱き地鳴)、舌辛(音響を伴ふ)、標茶(風聲の
如き昔響)、大津(震前二秒、強風の如き地鳴)、夕張(地鳴あり南西方)、森(車橋上を走るが如き音響)、石狩燈臺(弱き地鳴)
惠山岬(地唸の如き地鳴)
茨城縣(十七箇所中五)
大子(地鳴あり)、眞壁、結城、水海道、守谷、(何れも地鳴あり)
干葉縣(四十箇所中一)
多古(震前車橋上を通る如き地鳴)
栃木縣(九箇所中二)
佐野、矢板(何れも地鳴あり)
埼玉縣(二十五箇所中三)
岩槻(自動車の走る如き音響)、槻川(發震十五秒前東方に風聲の如き音)本庄(西北西より遠く地鳴)
神奈川縣(十四箇所中一)
姥子(ゴーゴーと云ふ地鳴を聞いたものあり)
群馬縣(二十二箇所中一)
萬場(地震と同時に風聲の如き地鳴)
山梨縣(二十三箇所中一)
山中(僅かに地鳴を聞く)
長野縣(二十二箇所中二)
境(鳴響あり)、上田(地震前風聲の如き響)
岐阜縣(八箇所中一)
高鷲(地鳴あり)
以上報告を總括して見るに砲聲の如き鳴響を聞いた所は、岩手、宮城、青森、秋田四縣下に限られ、然も凡て地震後に聞いて居る。更に斯樣な音を聽取した所で、聽取時刻を測り得た七回につき平均時刻を求めて見ると、大體發震後三十分乃至三十五分となつてゐる。又以上四縣下で、地震前に地鳴を聞いた所は六箇所で、其の音は單に鳴響或は風聲の如く聞えた樣なものであつた。之れは恐らく主要動の前に聽いたものであらう。
更に遠距離の地方でも地鳴を聽いた所もあるが、之等は遠雷の樣な音或は風聲の樣な音が最も多く、砲聲の如き音と云ふ所はない。又、砲聲の樣な音を聞いた所を調べて見ると、其の中最も遠距離な所は秋田縣の大曲、花輪等であつて、太平洋海岸から最短百三十粁も距つて居る。若し此の砲聲或は爆音の如き音が海岸の斷崖へ巨浪が打當つた音と假定しても、夫れが百三十粁の遠距離迄聞える位大きかつたと云ふ事は極めて疑はしい。
又秋田縣下で此の音を聞いた時刻は二時五十分、乃至三時であつて、丁度津浪が三陸沿岸へ襲來したのは同時刻或は夫れより少しく前である。然も音響は三陸沿岸から秋田縣下迄十分位の走時を要するから、之れから見ても各地で聽取した砲聲或は、爆音の如き音は波浪が斷崖に激突した時に生じた音とは考へられぬ點である。
次に各踏査班が調査した三陸沿岸各地に於ける音響聽取状態を音べて見る。
宮城縣
小積 砲聲樣の音三回。
小網倉 砲聲樣の音二回、津浪の少し前に聽く。
大原 津浪の少し前砲聲樣の音更に十五分後微聲一回。
小淵 震後東方に砲聲樣の音三回。
十八成 震後三十分東方に砲聲樣の音二回。
鮎川 震後三十分東方に砲聲樣の音。
大谷川 震後二十五分砲聲樣の音、更に十五分後微聲。
女川 震後東方に汽車の如き大音響、更に北方に銃砲樣の音二回。
雄勝 三時十分東方にゴーと云ふ大音響二回。
立濱 地震と津浪との間にゴーと云ふ音
荒屋敷 地震直後東方にゴーと云ふ音。
小泊 津浪の五分前沖の方で砲聲樣の音二回。
大指 津浪直後砲聲樣の音沖に聞ゆ。
小指 同前。
志津川 地震直後砲聲あり。
小泉大澤 地震後東方へ音を聞く。
前濱 震後二、三十分大音響あり。之れから五分後微音あり。
尾崎 片濱、七半澤、臺ノ澤、浪板、氣仙沼、同前
小々汐 震後音響聞ゆ。
岩井崎 津浪直前ダイナマイト爆音の如き音東方に聞ゆ。
鶴ケ浦 津浪直後爆音あり。更に五分後微音。
梶の浦 震後二十分音響。
宿 震後二十分爆音。
小鯖 三時頃ドンと爆聲
安波山燈標 二時三十六分頃音響。
只越 津浪前引汐と共に爆音二回あり。後のもの稍稍小。
唐桑大澤 震後二十分音響。
缺濱 震後八分東北東に砲聲樣の音を聞く。後五分稍稍小なる音。更に二十五分後稍稍大なる音あり。
岩手縣
長部 震後二十五分音響。
高田 震後二十分南々東から底力あるドンと云ふ音二回。
根崎 震後二十分東方に爆聲あり、更に八分後微音。
兩替 震後二十分ダィナマイトの如き爆音。
泊港 震後二十五分東方にハツパの如き爆音。
唯出 震後二十分砲聲の如き音二回。
碁石 震後十分乃至二十五分爆音二回。
泊里 同前。
細浦 震後二十五分西方に音響。
大船渡 震後三十分東方に大きくないが強い音を聞く。
綾里 震後二十分東方にハツパの如き音。
砂子濱 震後二十分砲聲の如き音東方に二、三回。
吉濱 震後十五分沖合に砲聲の如き音。
釜石 震後十五分東方に底力ある遠雷の如き音三回。
鵜住居 震後十分沖合に遠雷の如き音。
傳作鼻 震後十分砲聲の如き音一回。
湊 震後三十分遠雷の如き音。
青森縣
鮫 震後二十五分南東方に異状音を聞く。
三川目 震後十分北方に砲聲樣の音。
四川目 地震中砲聲の如き音。
五川目 震後十分乃至二十分地響ある砲聲の如き音。
淋代 震後間もなく砲聲の如き音。
六川目 砲聲を聽く。
織笠 震後ドーンと云ふ音地中より響き來る如し。
鹽釜 震後間もなく雷の如き音。
天ケ森 震後ドーンと云ふ音聞ゆ。
尾鮫 震後十五分砲聲の如き音。
平沼ケ濱 震後雷鳴の如き音二回。
平沼 震後十五分ドンドンと音聞ゆ。
木野部 三時半頃砲聲樣の音聞ゆ。餘韻あり。
以上調査した結果を綜合して見るに音響は殆んど全部砲聲或は爆音の如きものを聽取して居り、其の時刻は凡ての箇所にて津浪襲來前、即ち海水が退いた前後にドーンと云ふ音が聞えたと云ふのが多い。さうして聽取時刻は、最も遲い所で三時十分、速い所で二時三十五分であり、全五十二箇所の平均は二時五十二分となつてゐる。而して之等各地の震央距離の平均は二百七十四粁であるから、之れから算出すると音波速度は秒速度約二百三十米となつて、グーテンベルヒの走時表中最も遲いものとは一致するが、通常のものの三分の二強にしか當らない。然し之れは平均の値であるし、又材料が不正確の嫌ひがある故、之れから音波速度を論ずるのは無理である。
又音を聽取した状態を見ても、二回或は三回も聞いた處がある。而して二回目或は三回目の音は微かなものであつたと云ふのが多い。之れから見ると二回目或は三回目の音は反射音であらうかとも考へられる。
要するに、地震と津浪との間に於て聽取した砲聲或は爆音の如き音響は地鳴であつて、斷崖へ巨浪が激突したために生じたものでは無いらしい。此の音の走時曲線も、各地の震央距離を測定して畫いて見たが、何しろ材料が住民諸氏の談話を綜合したものであるため正鵠を缺き、適當なものが得られなかつた。
次に海鳴或は潮音であるが、津浪が押寄せる頃には沿岸各地で多く海鳴或は潮音を聽いて居る。其の樣な音を聽取した状况は左の如くである。
宮城縣
坂元 震後三十分乃至一時間海鳴強し。
荒濱 震後十分、三十分に海鳴あり、四時頃甚だ強し。
網地島 第一回の津浪來る時、金華山方面にザアーと云ふ音を聞く。
伊里前 津浪が來る時ゴーツと云ふ音聞ゆ。
名足 潮が引いた時ゴーと云ふ音が聞ゆ。
岩手縣
唯出 震後三十分乃至四十分海鳴二回聞ゆ。
千鷄 三時ゴーゴーたる音聞えて津浪來る。
重茂 三時ゴーゴーたる波音聞ゆ。
赤前 三時八分遠方にゴーゴーたる音聞え次第に高くなる。
宮古 三時二分強風吹荒む如き音聞ゆ。
野田 震後三十分強風の如き鳴動と共に津浪來る。
八木 雷の如き音と共に津浪來る。
青森縣
小船渡 震後三十分ゴロゴロと石を轉ばす如き音と共に汐退く。
細谷 震後三十分ゴーゴーたる音聞ゆ。
要するに海鳴と思はるる現象は津浪襲來の際の浪音であつて、巨浪の押寄せる前に遠く沖合で聞えた音或は海水が退いた
時の浪音であつたと思はれる。從つて氣象學上で云ふ如き海鳴の現象は觀察されて居ない。
津浪の前兆
津浪の前兆とも見らる可き異状現象が所々に於て觀察されて居る。其の樣な現象としては(1)魚類の棲息状態の變化、(2)土
地の沈降及び(3)井水位の變化である。今各調査員の實地踏査による之等諸現象は左の如くである。
宮城縣
大谷川 汐が退いた後井戸の中は空になつて居た。併し地震の最中には尚水があつた。
名足 津浪により魚類、章魚、鮑迄も打揚げられて居た。鮑が打ち上げられたと云ふ例は今迄なかつた樣である。
氣仙沼 改修事務所では二日前より潮位低下し工事渉つた由。同所潮位は平常四・○乃至三・○米である可きが○・七米であつた由。
大島 二月中旬から井水減少、海苔製造に故障を生じた。今迄井水は期節降水量によつても、減少する事はなかつたが、今回始めてにて特に要害(地名)で著しかつた。
西海岸沈降しつつあるものの如く、海岸に沿ふ村道は十年間に三回陸地の方へ改修した。八十年前と現在の村道の高低差は二米に及ぶ。
缺濱 四季を通じ今迄減水した事もない井戸が二月中旬から目立つて減水した。
岩手縣
越喜來 小學校長小原氏の調査によれば、本村高所にある井戸にて直接津浪による被害其他無き六箇所の非戸は凡て異常を呈した。即ち何れも渇水混濁したが其の期日は一定してゐない。二十日前よりのもの一、四五日前よりのもの一、三日前よりのもの二、三四日前よりのもの一、二月中旬から一週間に亘つたもの一等であつた。
釜石 地震後井水著しく減少し、殆んど渇水状態となつたが四日常態に歸る。
船越 數日前から井水減少し津浪後渇水した。
織笠 地震後井水半減した。
大澤 地震減少したと稱するものがあつた。
千■ 昨昭和七年四月上旬から中旬に亘り鞭藻類群集浮流した。
重茂 昨年二月頃から厄水(フノリを溶した樣なもの)流れ來り昨年五、六月頃最も著しく八月頃に止んだ。
鵜■ 鰈、アブラメ、スィ等が打揚られた。
赤前 赤貝等多數打場られた。
金濱 鰈、ドンコの類が打揚られた。
田老 冬期鰯の大漁があつた。
青森縣
川口 強震二日前から潮位一米下る。井戸渇水した。
以上の如くであつて前兆と見做さる可き現象としては、
(一) 二月頃から井水の水位減少した。
(二) 二日前から潮位が著しく低下した。
(三) 十年來陸地の沈降が起りつつあつた。
(四) 昨春鞭藻類が群集浮流した。
(五) 昨冬から今春にかけ鰯の大漁があつた。此の現象は三陸沿岸至る所で觀察された現象である。
右の中井水位の減少所々で觀測されて居るが、之れは明治二十九年の大津浪の際にも現はれた現象であるため特に注意して觀測されたものである。併し宮城縣大原、十八成では震後直ちに井水を檢査したが水位の變化は認められなかつた由である。兎に角所によつて井水位に變化を來した事は何によるものか判らぬが注意すべき現象である。それと共に潮位の變化が又關聯して居るとも見られる。
即ち潮位變化は二、三日前から起つたと稱する所もあり、氣仙沼の如きは驗潮儀にも現はれて居るから先づ確かなものと見られる。之れは相對的現象であつて海水の減退によるものか陸地の隆起によるものか判明しない。然るに一方宮城縣大島村々長の談によれば、大鳥沿岸の陸地は十年來次第に隆起しつつあつた由である。此の兩者の減少は全く反對なものであるが、今迄長年月に亘り徐々に隆起しつつあつた陸地が發震直前急激な沈降に移つたとも考へられる。
陸地沈降の現象は又本臺鷺坂清信氏が宮城縣南部に於いて津浪が打上げた高さを調査し、之れを明治二十九年の際のものと比較した結果から立證してゐる。果して地震前に於て陸地の隆起沈隆等の現象が起つたか何うか、之れも興味ある現象として尚今後の精査に俟たねばならない。
昨冬から今春にかけて鰯の大漁があつたと云ふ現象は明治二十九年の大津浪前にも同樣觀測された事である。此の現象から鰯が地震を豫知して移動したと稱する向もあるが、著者は夫れよりも一月來頻々として、發現して局發性前震のために、鰯が移動したと考へる方が合理的で無いかと思つてゐる。尚鞭藻の浮流に就てはそれが約十ケ月も以前に起つた現象であるから何とも云ひ難い點がある。
以上今回の強震の前兆とも見做さる可き現象には數種あつて何れも前回、明治二十九年の大津浪の際にも觀察された現象と一致して居るのは興味ある事で、何れの現象も今後更に注意して觀測する事を要すべき事柄と考えれる。
發光現象
武者金吉氏によつて特に注意された此の現象に就ても著者は各踏査員に依頼して現象の現不現を確める事とした。各調査
員の踏査結果は左の如くである。
宮城縣
亘理、荒濱、角田、閖上
川崎、鳴子、鎌先、荻ノ濱 認めず。
小積 無し。但し海面キラキラと光つてゐた。
小網倉 認めず。
小淵 地震と津浪との間に於て北東方に二、三回稻妻樣の光を見る。
鮎川 一般に認めず。但し山火事の如き光り物を北西方の空に見たものあり。
渡ノ波 南西方の空に南から北へ亘り稻妻樣の薄蒼き光を見た者あり。
金華山 燈臺看守震後徹宵して觀測したが發光現象なし。
川渡 東北東の空に蒼光あり。二、三度漏電の如き怪光あり。
前網 寄磯、飯子濱、光認めず。
女川 特別な光なし。津浪の波頭碎けて淡く光る。
出島、尾浦、御前、立濱
桑濱、小泊、小室 光を認めず。
雄勝 東方に稻妻樣の光を見たと云ふものあり。
第一回爆音と津浪との間に沖の方薄明るくなる。
志津川 發震疽後光あり。最初青光にて間もなく赤色に變じ尾を引いて消ゆ。
長崎 認めず。
安波山燈標 震後南二度東の空に薄い青白色の光あり。
只越 浪が岩に碎ける時青白く光り放電光の如し。
欠濱 光を認めず。
岩手縣
碁石、門之灣奥、泊里 光を認めず。
大船渡 震後青光を見る。
生形 震後東南東に明るい青光を數回見る。
下甫嶺、泊、浦濱、■崎燈臺 光を認めず。
川代 震後西空に青色光象を見たものあり。
千■ 強震後一回ピカツと青白色眼前に光る。
重茂 強震後發光現象三回あり。
青森縣
二川目 地震と共に南方に電光の如き光を見たものあり。直ちに停電す。
三川目 地震後南方に放射状光映る。
四川目 南方空薄明るくなる。津浪の波頭光る。
五川目 砲聲の如き音の後、窓にチラリと稻妻樣の光が映るのを見る。
織笠 光を見る。
天ケ森 電光の如き光あり。
尾鮫 稻妻樣の光を見たと云ふものあり。
平作ケ濱 電光樣の光を見たものあり。
神奈川縣
姥子 地震と共に稻妻樣の閃光東方の空だけに見ゆ。電氣のスパークの如く青白くピカツピカツと頻りに斷續す
箱根町 東の空にピカツと光つた樣に見ゆ。
茨城縣
筑波東山 震動中東南東にパツパツと二回光る。
筑波ケーブルカー宮脇停車場 震動中南方へ雲あり、其の後でパツパツと三回光る。色薄青し。
右の外、測候所及管内觀測所で發光現象を認めて之れを觀測した所は僅かに左の三箇所であつた。
秋田測候所 二時三十五分即ち發震後三分、構内にて北方に當り青白き電光の如きもの二條を見る。
同所管内大曲 二時三十五分東南東の空に青白き電光の如きものを見る。
盛岡測候所 本震最中南方に發光現象あり。
此の外個人にて發光現象を觀測報告せられた分は左の二件である。
窪田瀬吉氏報告(東京市大森區新井宿四丁目。本臺宛)
本震にて家族一同戸外に飛出しましたが、最大振幅を感ずると同時に、北西(寧ろ北よりに)の空より電光一閃致しました。普通はピカピカと瞬きますが、昨夜のはピカツと一閃したのみの樣でした。先年箱根地方大地震の時は、西南方の空にピカピカ致したのを見ました。
中井友三氏報告(茨城縣平磯町電氣試驗所。藤原技師宛)
發光現象發見當時の經緯 地震を感ずると同時に起床、暫し樣子を伺ひ居り候ひしも、繼續時間長くして終熄の樣子も見えざる故に萬一の場合逃出しの準備として雨戸(南向き)を一枚開け暫し外を見て居る内に南方の空に發光を認め候。
發光の時刻及光の繼續時間 大體の見當で、最初に地震を人體に感じ始めてから約三、四分後、光は殆んど瞬間的。
方向及光度 南方、暗夜のこととて對照物無きため精確のこと不明なれど、大體の見當で、距離約十米の廣場を隔てて存在する平家の屋根の少し上位、比較的低き空間に發見。
形及色 形は一つの線よりなる。色はアークの色に近い樣な淡青緑色、恰も虹状で只色が單色であると云ふ點が虹と違ふ。圓弧の半徑は大體の見當で普通の半徑と同等か。線の幅は虹の七色の線全體の幅よりも細い樣に感じた、線は相當はつきりした。線光度は弱い方當夜は晴天にて星光を諸所に認めた。
前述の如くして此の光が電力線、電燈線の切斷等により生ずる火花或はアークに依るものに非ざることは光の形よりして容易に想像し得らるることにして、又當地は水戸に候へ共、其の光を認めた方向には斯かる電力線、電燈線は無之候。
(但し當家より南へ數町先迄は電燈線有之候。以上は小生の住家水戸市上市備前町に於ての記事に候。)同日平磯の役所にて此の話を致し候處、平磯でも同時刻頃に南方に光を認めたと云ふ者一名有之候。但し平磯に於ける光はサーチライト状の光だつたと申候。但し平磯の方の話は確信を以て御紹介出來不申候 以上。
扨前述した報告中各調査員が踏査した箇所合計二百六十六箇所中發光現象を認めたと云ふ箇所は僅かに十九箇所であつたが其の光は電光樣のものと云ふのに一致して居る樣である。又金華山燈臺の如く徹宵注意して見て居たが光象を認めなかつたと云ふ樣な處もあり、斯樣な所さへ二十二箇所もある。更に以上發光現象を觀測したものにつき大體其の性質を見るに
色 判然と色を指摘した所十一箇所中青白色と云ふのが七、青色が三、青緑色が一であつて大體青味がかつた色である事に一致してゐる。其の外電光樣と稱するのが多いから先づ凡てが青味勝ちの色と思はれる。
形 形を指摘した十六箇所中稻妻状と云ふのが六、電光状と云ふのか六、山火事の如き、放射状の如き、尾を引いた如き弧状の如きと云ふのが各一であつた。稻妻状と電光状と云ふものの差は何うであるか判らぬが先づ電光状と云ふのに一致してゐると見る可きであらう。青森縣二川目の如き電光樣發光現象後に停電したと云ふ所もある。
方向 方向は全く一致せず、あらゆる方向に認めて居る。宮城縣南部では北東、北西、南西、東北東各一であり、岩手縣では東南東、西、北各一で更に眼前に光つたと云ふものあり、青森縣では南方三、茨城縣では南方二、東南東一、東京市では北西、神奈川縣では東方二となつてゐる。即ち震央の方向とは殆んど一致せず寧ろ震央とは反對の方向に見たものが多い。
斯樣にして見ると發光現象と云ふもの、は少くとも今回の三陸強震では電光樣のものが多く、高壓線のシヨートによると見られる場合が多い樣である。併し尚此の現象の本性に就ては今後の調査によらねばならない。
尚津浪の際沖合の方の海が青白く光つたとか、波頭が青白く光つたと云ふ樣な觀測をした向も多いが、之れは海面に浮游するプランクトン(plankton)の如き微生物による光であらう。
被害状況
沿岸各地に於ける被害状况は本報告中に各地被害表を掲げてあるし又各調査員の踏査報告によつて明かであるから■には記さない事とする。只或る部落にて特に著しい被害を蒙つたのは何故であるかとか死傷者が何うして災厄を蒙つたかと云ふ點は、今後の用意として是非知らねばならぬ事である。併し此の點に就ては尚充分資料が集まつて居らぬ故今は其の概略を記すに止める事とする。先づ死者が如何なる原因、徑路をとつて災厄を蒙つたかを各調査員の報告から調べて見る。
宮城縣
雄勝 明治二十九年の津浪の時地震は長かつたが小さかつた。然るに今回のは遙かに強かつた。強震には津浪なしと思つて浪に浚はる。
鮫ノ浦及船越 寒い時には津浪なしと思ひ厄に遭ふ。
谷川 漁のため疲勞してゐて厄に遭ふ。
荒屋敷 強震には津浪を伴はずと思ひ厄に遭ふ。
名振 朋治二十九年の時は三十分以内に律浪が來たが今回のは三十分を經ても來ぬ故安心して再び就寝し厄に遭ふ。
岩手縣
泊港 津浪襲來の警告に耳をかさずして死す。
越喜來 地震の強さを明治二十九年のと比較し、津浪來らずと思ひ波に浚はれし人あり。
以上の如く、死者の中には明治二十九年の強震と比較して津浪がないと信じて災厄に遭つた人がある。又之れと反對に、矢張り明治二十九年の際の強震と比較して殆んど同じ樣な状態であるからと思つて警戒して助かつた人も尠くない。處で、強震後津浪の來る事を豫想し得た爲めに助かつた人々は何によつて津浪を豫期したかを調べて見ると、大體
一、地震の強さによつて豫期したもの
二、異常な退潮によつて豫期したもの
三、海鳴によつて豫期す
四、直接沖に見えた高浪を見てから逃げたもの
等にて、第二の異常な退潮によつて津浪を豫期して逃げたものが最も多い。
又被害を蒙つた地域を見ると平地の所が最も多く、背後に山を背負つた土地は少い。
防波堤を作つても其の位置が適當でなかつたり又は粗惡なものであつたため被害を蒙つたものがある。
川の流域に沿うては可なり遠距離迄浸水家屋を生じたが、巨浪に呑まれた所は殆んど無かつた。
部落三方崖に圍まれ避難する事が出來ず災厄に遭つた所及び町内の道路が複雜で逃げ道を失つて厄に遭つたものも尠くない。
明治二十九年後、高所へ家を移す申合せをしたが、不便なため次第に低所へ移つて來て再び災厄に遭ふ。
灣内遠淺であり、干潮時には二三町干潟となる樣な灣であるため、浪高大にして厄に遭ふ。
更に被害が極めて僅少であつたり、又全く被害がなかつた土地を見ると、
高い斷崖の上に建てられて居る爲津浪を知らず
堅牢な防波堤を作つてあるため被害なし
防波林海岸にあつたため被害殆んどなし
遠淺の灣を埋立てたため被害尠し
高所に住家を移したため被害なし
平常より津浪の時の注意をなし、舟等は必ず繋留せるため被害なし
等であつて、要するに、平常から津浪と云ふ事を念頭に置き、萬一を豫期して用意を怠らなかつた處は大した被害を見ずに濟んだ樣である。又灣の形状、水深等が津浪に對し最惡の條件にある處でも、堅牢な防波堤等を建設したため、殆んど被害のなかつた例もある。故に津浪なる現象は、三陸沿岸の如く、沖合に年々夥多の地震を頻發する外測地震帶を控ふる所では今後も再來を豫期せざる可からざる状態にある。加ふるに、三陸沿岸の地勢は津浪に對して最惡な條件を具備するに於ては、今回の災厄に鑑みて今後各江灣に適當な設備を施し、此の禍を再び反復せざる樣努めねばならない。依つて以上調査の結論として、今後再び津浪が來る事を豫期して、夫わが對策に如何にせば宜しきか、些か私見を述べて見ようと思ふ。
結尾
三陸沖合は所謂外側地震帶に屬して居て、其の上に發する地震は大小合せて年々五百回乃至千回を算してゐる。今昭和二年以來、北は襟裳岬、尻屋崎沖合から南は金華山、鹽屋崎沖合に至る間に發現した顯著地震(有感覺震域の半徑三百粁を越ゆるもの)及稍稍顯著地震(有感覺震域の半徑二百粁乃至三百粁に及ぶもの)の回數を本台竹花峰夫氏が調査した所によると
昭和二年 昭和三年 昭和四年 昭和五年 昭和六年 昭和七年 昭和八年二月迄
十五回 十回 六回 六回 八回 十回 七回
即ち六年二ケ月に合計六十二回の顯著並びに稍稍顯著地震を發して居る。
斯くの如き夥多の地震を發する三陸沖に於て、稀には地震源極めて淺き地震を發することもある故、津浪發生は三陸沿岸にては到底避け得可からざる事實である。然も度々云ふ如く、三陸の沿岸の地形が又津浪を蒙り易き形となつて居る故、今後と雖も何時再び今回の災害の如きを反覆するか計られない。故に此の沿岸に對しては、特に津浪による災害を防止或は輕減せしむる樣な設備を施す事は目下の急務と考へられる。然らば、如何なる手段によつて津浪による災害を防止、輕減すべきかと云ふ問題は輕々には論ぜられぬが、筆者の私見を左に掲げて大方の御示教を仰ぐ次第である。
(一)防波堤
灣口に防波堤を設くる事は誰しも考へ得べき事であるが灣の形状、水深を考慮して建設す可き位置を決定せねばならない。宮城縣雄勝の如き防波堤を作つたため今回は明治二十九年よりも大なる波を蒙つたと稱せらるる所さへある又防波堤も充分堅牢なる事を要する。何れにもせよ津浪が灣口に達した時は遠度尚大なるために相當なる運動量を有する故、灣口に設けられた防波堤でも基底から掘拔かれたものさヘあつた程である。但し海岸ヘ設けられた防波堤は頗る效果があり、志津川町始め數箇所に於て其の效力を發揮して居るのを見る。
(二)防波林 海岸に相當廣き地域を有する所では防波林を波打際に植ゑるも一策であり、又今回の津浪の際にも斯かる林或は立樹が波を防いで被害を尠なからしめた實例も尠くない。
(三)望潮樓 今回の津浪の際沿岸各地にて異常な退潮或は灣口に來襲した津浪の波頭を見てから避難して全村完きを得た箇所も尠くない。故に海岸に望潮樓を設けて地震後尠くとも一時間は此の樓内で灣内及灣口を注意して居り、若し海水に異變があらば警鐘等によつて急を報じて住民を避難せしむるも一法と思はれる。實際灣内に於ける津浪の傳播速度は秒速十米位故、灣口に來た巨浪を見てから避難するも充分である。又斯樣にして人命を失はなかつた實例も今回の津浪にて尠くない。
(四)地盤を高める事 明治二十九年の津浪によつて以來盛土をして地盤を高めたため今回被害を輕減し得た處も尠くない故此の方法も考へる餘地がある。
(五)避難道路 本台岡田臺長の私案であつて、各部落内に於て道路が不完全のため逃げ場を失ひ厄に遭つた例がある故之れを避くるために考案されたものである。部落内に完全な道路を作り、非常時に際し直ちに附近の丘上へ逃がれ得る樣な道路を作る事である。而して丘上は神社、神域或は小學校庭として廣場を設け、避難民を充分收容し得る樣にするも一法である。
以上の外住家を小高き所に移すなどの方法もあるが、夫れは職業によつて不便な點もある。又江灣も改修して遠淺の灣は埋立るなども一法であるが、江灣の改修に就ては尚今後充分なる研究をなし、萬全を期する策を取る事が肝要である。
(昭和八年七月於中央氣象臺)
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.6MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7049px
- 高さ:5008px
- ファイルサイズ:1.7MB
1/2
- 幅:7049px
- 高さ:5008px
- ファイルサイズ:1.7MB
2/2
- 幅:7140px
- 高さ:5138px
- ファイルサイズ:2.1MB
1/2
- 幅:7140px
- 高さ:5138px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7049px
- 高さ:5009px
- ファイルサイズ:2.1MB
1/2
- 幅:7049px
- 高さ:5009px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:3.4MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
二、地震漫談 理學博士 今村明恒
A、役小角と津浪除け
昔、村一番の物識りと言へば、檀那寺の和尚さんにきまつて居た。其れ程、人智が開けて居なかつたことがわかる。今日では最早左樣なことはない。それでも外國では今猶ほ僧侶の中に偉大な學者、特に科學者がある。天文學や、地震學の國際會議に坊さんが牛耳を取つて居るのを能く見受ける。
天台宗の僧侶は好んで高山、名岳に其道場を建てる。隨つて往時に於ては、氣象、噴火、藥物に關する物識りが彼等の仲間に多かつた。
鳥海、阿蘇、霧嶋の古い時代の噴火記事は大抵彼等の手に成つたものである。
役小角は恐らくは當時に於ける日本一の博物學者であつたらう。彼が呪術を能くしたといふことと、我邦の彼方此方に殘した事蹟と稱するものが今日の學理に合致するもののあることとから然か想像せられる。
史を按ずるに役小角、或は行者ともいふ。大和の人、佛を好み、年三十二のとき、家を棄てて葛城山に入り、巖窟に居ること三十餘年、呪術を善くし鬼神を使役すと稱せられた。文武天皇の時、伊豆の嶋に流されたが、後赦されて入唐したといふ。
此の行者が、一日、陸中の國は船越ノ浦に現はれ、里人を集めて數々の不思議を示し、後戒めて言ふには、卿等の村は向ふの丘の上に建てよ、決して此の海濱に建ててはならない。若し此戒を守らなかつたら、災害立どころに至るであらうと。
明治二十九年の大津浪後予は度々夫の地に行脚したが、船越で右の傳説を聞き、是こそ津浪の害を防止する最良の手段と感じたのであつた。成程、津浪の侵入を阻止する積極的手段として防浪堤を築くも良からう。併し四五十尺乃至七八十尺の水壁の侵入に對して果して有效な施設が出來るか否か此は大なる疑問である。假りに可能としても、斯くまでして守らなければならぬ經濟的價値のある場所は極めて少い筈である。幸に繁華な港は多少津浪の低い場所に發達して居るから、此所では問題の防浪堤を築くに左程の困難を感じないかも知れぬ。現に和歌山縣廣村には濱口梧陵の築いたものがある。予は大阪の如き場所に第二第三の梧陵が現はれんことを祈つて止まないものである。
津浪を阻止する一法として、海岸に防潮林を設けることも惡くはあるまい。沼津の千本松原の程度になると多少効能のあることは明治三十二年十月七目の田子の浦津浪の場合に證明せられた通りである。三陸沿岸に於て之を實行して然るべき場處は先づ田老村邊りであらうか。
田老村は去る二十九年の場合に於ても高さ四十八尺の津浪の爲めに全村一呑にされたが、今回も亦二十五尺の浪に襲はれて再び同じ悲慘な運命に陷り、人口三千の中其の三分の一を失つたといふ。其の地勢を按ずるに、三面に丘陵を負ひ、唯東南の一方だけ外洋に面し、土地平坦に稍々廣く、細長く立ち列んだ村落と海岸との間には高さ十尺内外の砂丘があつて、平常の場合、漸く海波の侵入を防いで居る。斯樣な村落が大津浪の度毎に一呑にされる運命に曝されて居るのは理の見易き所であるが、之に對して安全なるべき唯一の策は船越式の村を立てることにある。之を警告しなかつた學徒にも、將又其儘に放任して置いた當局にも責任はあるが、津浪の自働的警報たる地震に對して即時自衛の手段を取らなかつた村民の不覺も亦甚しいと言はざるを得ない。安政の南海道大地震津浪の場合、土佐に於ては百四十七年前の經驗に鑑み、自働警報を感ずるや否や居民盡く丘陵上に避難して殆んど一人の死者を出さなかつたが、此の見事な手際に比較すると實に雲泥の差がある。
船越式の村落建設は津浪襲來の常習地に取つては實行最も容易な、而も最も安全な改造方法であらう。實に津浪の暴威を奮ふは唯僅に漏斗の底に當る彈丸黒子の地面であるから、欺樣な位置を避けることは極めて容易であつて、而も問題がこれで全く解決するのである。但し運送業者、漁業者の如く、海岸に假設的の事務所、倉庫、納屋等を絶對に必要とするものもあらうが、それにしても住宅は必ず津浪の魔手の届かない位置に選ぶべきである。海岸に望樓を設けることが近頃推奬されて居るが、此問題も自然に解決される。
因みに記して置く、明治二十九年大津浪後、船越式に復興した村落は吉濱村東郷、崎山村女遊戸などであつたが、今度の震災に於て吉濱は三十尺といふ最高の津浪に襲はれ乍ら、全く無難であつたことは特筆すべきであらう。予は三陸沿岸行脚中力めて船越式村落建設の利益を宣傳して見たが、然し乍ら、一夜、越喜來村に於て、旅宿の主人の身の上話を聞いて、宣傳の甲斐なきを覺るに至つた。
當時、災後日尚ほ淺く、交通不便な爲め、復興も遲々として進まず、漸く二里に二三棟、三里に四五軒といふ状態であつて、泊り宿とても十里に僅に一軒の商人宿を見出し得るに過ぎなかつた。斯くして辿り着いたのが越喜來の宿屋であつたのである。
越喜來灣は漏斗の口が比較的に狡く、隨つて北隣の吉濱灣、南隣の綾里灣に比べて津浪の高さは半分程度にも達しないで三十四尺に過ぎなかつたのであるが、併しそれでも二百戸程の一村を一呑にするに十分であつた。
夕の食膳の後、予は遂に我慢し切れないで主人夫婦に身の上話を聞かして呉れとせがんだ。實は主人は二十才位の若人であつたが、主婦は最早四十の坂を越えた人の樣に見えたからである。予が請に應じて主人は淋し氣な笑を湛へて語り出した。
彼の家は村の網元でもあり、十一人の大家族に、多勢の僕婢も使つて繁昌して居た。丁度其日は端午の節句であつた爲め内でも皆に祝酒を饗し、太平樂を謠つて居たが、午後七時半頃長い大搖れの地震を感じてから凡そ三十分も經過したと思ふ頃、海上急に噪しく、續く疾風急雨に雨戸が破れさうな模樣を認めたから、彼は直ぐ防禦に駈出したけれども、戸口に達するや否や、戸は破れ彼は其處に打倒されて意識を失つて仕舞つた。軈て正氣づいて見ると第一に感じたのは何とも言ひ樣のない總身の痛み、次に意識したのは片足が巨材に挾まれて、身體は鮭の樣に逆に吊されて居たことである。時最早夜半の時刻と見え、萬籟寂として■犬の聲すら絶え、唯幽かに渓水のせせらぎを聞くのみであつた。そこで始めて前夜の出來事が津浪の襲來に由つたものと覺るには悟つても、總身の痛みに堪へ兼ね、死に由つて一刻も早く此苦患から救はれんことを念ずるのみであつた。幸に翌朝始めて救出されるに至つたが、其節肉を殺がれた脛は此通りと大小不揃の兩足を竝べて見せるのであつた。
彼は溜息を繼ぎ乍ら附加へた。幸か不幸か、昨日の樂しき大家族の中、此世に取殘されたものは、哀れ私一人であつたと。
數奇な運命に弄ばれたのは彼ばかりではなかつた。主婦も亦幸多き家の人妻ではあつたが、最愛の夫や子女を盡く浪に浚はれて此世に取殘されたのは彼女一人であつた。唯幾分幸であつたのは引潮の爲め、竹籔に取殘されて、彼の如き甚だしい傷を被らなかつたことである。
斯樣に彼方に一人、此方に一人と取殘された男女幾組を、村役人が結びの神となつて組合せたのが、斯樣な家庭を形作つたのだといふ。
彼は更に附加へた。現在の家は斯く粗末なものであるが、地所は正確に祖先傳來の場所に相違ない。浪に取殘された立木や、庭石に依つてそれが證明されると、此點だけは得意氣に聞いた。
身の上話は以上の通りであつた。予はそれに悉皆打ちのめされて仕舞つた。舊物への日本人の強い執着は全く道理を超越して居る。此事は後年、熔岩で埋められた櫻島の村民に於ても認められた。此の強い執着は旅館の主人夫婦を二度目の災厄に導いたに相違ない。此度の津浪で越喜來の死者四十五、行方不明八十六、流失家屋二十を數へて居る。
爾來、予は、船越式村落の宣傳を思止まつて居た。然しそれも一時であつた。伊太利震災の復興に際し、ムツソリーニ政府の取つた手段を學んで、往年の宣傳熱は再び盛返して來たのである。
昭和五年七月二十三日伊國中央部に大地震が起り三千の死者を生じた。予は當時パリに滯在中であつた爲め、震災の状况復興振りについては比較的に詳細に知ることが出來、感じたままを大阪朝日にも通信して置いたが、其中、予が最も感じたことは、政府が果斷にも、地震に對して特に不良な地盤の都會地は之を見捨てて、不良な地盤の新位置に復興せしめたことである。之に對してメルフイ市其他に於ては市民の反對もあつたが、それにも拘らす、政府は斷然之を押切つたといふ。此は一見苛酷な處置の如く考へられないこともないが、大所から之を觀察するとき、實に百世に亘りて幸福を齎すべき一大仁政たるに相違ない。或はムツソリーニ政府が此地震につき、外國からの同情金を斷つたことを感心した人もあつたが、予は寧ろ此仁政の方を禮讃するものである。
今日に於ては最早力を以て此仁政を敷くべきときであらう。
最後に津浪除けの記念碑に就き一言して、本篇を結びたい。
寳永四年十月四日の南海道沖津浪は地震としても我國に於ける最大記録であるが、津浪としても、其分布の廣かりし點に於て、將た又、其全勢力の偉大なりし點に於て、是れ亦、最大記録であらう。幸に、近畿、南海道方面に於ては、三陸沿岸に見る如き漏斗形の港灣が比較的に少い爲め、港灣の奥に於ける波の高さは最高の記録を示さなかつたけれども、土佐の種ケ崎の如き殆んど一直線をなせる海岸に於て七十尺の高さに達したことは此津浪の勢力の絶大なりしことを物語るものであらう。
土佐に於ては溺死者の多く漂着した高處に供養の記念碑を建て、兼ねて津浪除けの指標とした。之は今日猶沿岸各地に保存されてゐるが、安政度の地震津浪のときは、居民は地震を感ずるや否や此指標以上の高地へ逃げ、其處へ一時餘り辛抱して居た爲め、幸に遭難者を出さなかつたのだといふ。大阪に於ても同じ機會に建てた津浪の記念碑が今尚ほ殘つて居るが、此處ではそれが旨く利用されなかつたと見え、安政度に於ても寳永度同樣の被害があつた。
此度の三陸津浪に於て東京、大阪朝日新聞社が取扱つた義損金二十萬圓に及んだ。其の大部分は罹災者に贈られたが、一部分は右に記した樣な記念碑を立てる資に充てることとなり、碑面に刻む注意書の草案を予に求められた。但し其文案は標語的のものたるを要すとのことであつた。それに對して予は次の通り答へた。
一、住宅學校役場などは津浪の來る水準以上の高處に立てよ。
二、長く大きく搖れる地震は津浪の警報と心得地震後十五分から一時間までは安全地を離れるな。
三、津浪に追はれたら近くの高地へ避け、若し平地であつたら浪を後ろにして逃げよ。
右の備考として、次の説明を加へた。即ち第一項に就いては、事務所、倉庫、納屋など海濱の危瞼區域に立てるなど止むを得ざる場合ありとするも、住宅は必ず高地に立てるべく、又津浪の來る最高の水準は明治二十九年と今回の場合とに鑑みて定めることとし、記念碑は其水準線上に立てることにする。此爲めに場所を開拓し、直通の道路を設ける必要の生ずる場合もあらう。
第二項に就ては、三陸津浪の特徴として、津浪の最初の襲來は地震後二十分乃至五十分の間と見做し得られる。問題の地震に出會つたら、逸早く避難すべきであるが、然し乍ら餘りに慌てて火の用心を忘れてはいけない。人と場合とによりては重要な物品を安全地へ移す餘裕があるかも知れない。津浪はひき潮で始まるから。それを警戒すれば良い。但し稀にはさし潮で始まる場合もある。
第三項に就ては、海岸村落の常として道路が多く海岸線に平行について居る爲、津浪の接近を見乍ら、徒らに此道路を走つて遭難した人もある。斯る危險を除く爲め、安全地への近路を豫ねて用意して置く必要もあるが、咄嗟の場合、道なき處を走る位の覺悟は有つて居なければならぬ。
予は斯くして津浪襲來の常習地が船越式に改造されんことを切に祈つて居る次第である。
B、地震計の寃罪
日本國の國民が一入殘らず、地震學者であつて欲しいとは國富さんの述懷であつた樣記憶する。曾つて地震學教室を訪問し、予が一時間足らずの不十分な説明に動かされたヘボン夫人は、地震知識が常識養成にも役立つとし、紐育にある母校にも其講座を設けさせると意氣込んで居た。實際地震に直接縁のない國に住んで居ても、注意深い人は斯く感ぜざるを得ない
然るに物事に無頓著な我同胞は如何で御座る、彼等は常識養成どころか、日常生活の實際に必要な知識を他人の事の樣に考へ、敢へて此知識を求め樣としないのみならず、却つて之を所有することを恥辱として居る樣にも見える。さうして一旦、地震や津浪に見舞はれた場合、己の無知不用意は棚に上げて置いて、先づ地震學者を責める、嘲る、辭職勸告をやる、はがき匿名書、新聞紙の讀者欄等を利用して。今回の三陸津浪が豫報されなかつたとして予にまで辭職の勸告文が到來した。天下の浪人に辭職せよとは人間界を止めろとでもいふ意味だらうか。
地震豫知を震災豫言と間違ヘ、其研究を呪ふ人さへある。地震と震災との區別が普く有識階級に解る樣になるのは何時のことだらうか。
震火災防止に關する積極的精神の振作は震災國日本の國民一般に必要であるから、之に關する一文を尋常小學校教科書に挿入されたしとは震災豫防評議會の豫ねての主張であるが、此は啻に大地震或は空襲を受けたときの如き非常時に於て、災害を輕減防止する力の根抵となる許りではないのであらう。
新聞紙の讀者欄には次の樣なものもあつた。中央氣象臺では震原が鹿嶋灘にあつたと言ひ、帝大では常陸沖だといふ。醜い震原争ひはよして呉れと。斯樣な見事な一致までも、不一致と見るのは醜であるが、之に雷同する世間は更に醜である。
中央氣象臺では今朝の地震の振幅が二糎だつたと言ひ、帝大では一糎だつたといふ。こんな喰違があつては誠に困るといふ非難。此の非難は遂に帝國議會の問題にもなつたが氣の利いた風なのが之に答へて曰く、抑振幅といふ術語には普通の振幅と全振幅即ち二倍振幅との二つの意義があり、術語の不統一の爲め斯樣な喰違が生じたのだと。群盲象を撫でるとは此樣な事を云ふのであらうか。鎌倉の由比濱では、半里しか離れて居ない雪の下に比べて、通常四五倍の大きさに搖れ、稀には十倍にも搖れることがあるが、これには何と答辯するか。
去る三月七日、東京朝日の鐵箒欄に「地震計の針」と題して次の一文が表れた。
「國富技師の談として、『今度位の地辰になると、地震計も一緒に動くから、觀測が出來なくなる。』と新聞に出てゐる。學者や枝師にはそれが當然かも知れぬが、我々凡人に取つて、これくらゐフケのわからぬ話はない。
いつの地震の時でもさうだが、被害の一番多い最初の激震では、きまつたやうに地震計の針が外れたり、飛んだりして居る。そのくせ人體にも感ぜぬ樣な微震は一分間に何百回の何千回のと、馬鹿に詳細らしく報道して、科學的觀測の精密と正確さとを誇つて居るやうだ。
別府市外の京都大學地球物理學研究所を參觀したところ、各種の地震計があつて、擔任の學者先生の説明で、その精巧さとすゑ付上の細心なる注意とが、とても素人などの想像以上のものであることを知つたが、恐らく東京帝大や中央氣象臺あたりの器械も同樣なものであらう。
右研究所は市から數十町離れた高原に設けられてあるから、電車その他市街地から影響を受くべき震動は全く避けられてあるやうだ。然るに地震計の針は瞬時も靜止して居ない。絶えず微妙な運動を繼續しながら、時計仕かけで動く黒紙の上に振動の存在を記録して居る。擔任者の説明では數町離れた道路上を自動車が疾走したり、其他大地は常に極微な震動をして居るから、それが記録されるのだと、得意の體であつた。
一體數十數萬の死傷者をだす大地震には針を飛ばして觀測が出來ないが、數町離れた自動車の走る震動などを記録して、それが何の役に立つといふんだ。學者、技師先生などといふものは何でも微細なことさヘ論じて居ればよいものと心得、人生に影響のある程の大きい事を忘れてゐるらしい。研究のための研究、理論のための理論も結構だが、蚤の脳髓を研究して醫學博士となつても病入を治す術を知らない醫師は人間の社會生活に縁が遠いと同樣、地震計の針ばかり飛ばしてゐる地震學者なんといふものは地震國日本にとつてどうかと思ふ。(郡山護堂生寄)」と。
尋いで三月十一日、同じ鐵箒欄に、「地震計の寃罪」として、次の文章が表れた。
「髭を剃るに剃刀あり、箸を削るに小刀あり、薪を割るに斧あり、家を建てるに鋸あり、鉋がある。物と品とによつて之に用ふる刃物がおのづと違つて來る。
近い地震にも、大震あり、強震あり、弱震、微震、極微震等いろいろある。遠い地震や、中距離地震にも、また大小緩急色々ある。これら緩急大小の相違した地震の爲には、一々違つた地震計が入用である。だから、凡百の地震を漏れなく觀測しようとするには少くも十五臺の地震計が必要となる。
過日の本欄に『地震計の針』と題して、地震計を嘲けられた護堂氏はあいにくまだ東大の地震計室を覗かれたことがないと見える。そこには我も許し人も認めた世界一の地震計測設備がある。運轉中の地震計ざつと三十種にも達するであらう。
三百年に一度位しか起りさうもない大地震にも役立つ大震計もあれば、一粍の一億分の一の大きさの震動をも立派に記録する超微震計もある。又一粍や二粍の短距離を往復するに一分も二分もかかる樣な、のろい振動でも觀測し得る長週期地震計もある。地震と一緒に振出す樣な地震計ばかりではない。この間の三陸大地震についても、その完全な記象の寫しが東朝や東日の紙上に現れたが護堂氏の御目には留らなかつたか。
若し人間の原始生活に唯一本の刃物を許されたとしたら、何を選ぶであらうか。剃刀か、小刀か、斧か、■か、將た鋸か。
貧弱な觀測所に唯一臺の地震計を許されたとしたら如何。まさか三百年に一度、十年に一度の爲の大震計や強震計でもあるまい。
唯一臺の微動計しか備へて居ない觀測所の如きは、斯く人體に感ずる程度の地震しか觀測し得ない樣に運命づけられて居るのである。しかしそれでも日々の研究には役立つ、たとへ世界の果から來たのろい地震、十年に一度の強震、三百年に一度の大震には役立たずとも。
護堂氏のお叱りは小刀一本で大伽藍を建て得ない大工を嘲るにも似て居る。(鹿嶋洋々寄)」と。
C、四度三陸沿岸を巡りて
緒言 三陸沿岸と言へば直ちに夫の特徴のある海岸線の凹凸を思ひ出す。スペインの西北部ラコルニヤ及びポンテヴエドラ地方の沿岸が丁度此の通りである。海深二三十米乃至百米で此點亦相似て居る。斯樣な形式の沿岸を「リア型」といふ。
此は西語のリア即ち河口なる語から取つたのであつて、其等の港灣が大抵大きい川の出口に相當して居るからだといふ。
さもあらばあれ、我が東北日本の「リア式沿岸」は世界に於て最も有名な津浪常習地となつた。地元に取つては誠に迷惑千萬であらう。交通不便な此地方へ、前後四回二月に餘る予の行脚も、人道の爲、將た又、學徒に取つて世界の靈地だとの意識がなかつたならば、徹頭徹尾陰鬱な旅行に終つたに違ひない。
最初の二回は明治二十九年大津浪、翌三十年小津浪の研究の爲、後の二回は今回の津浪後、浪災豫防法研究の爲、四月と六月とに行つた。其前後の間隔三十四五年、一は人生行路の首途に於て、他は其の沒落に近き日に於ての行動である。多少の感なきを得ない。特に最後の旅行は本多靜六博士を始めとして其他若い林學者二十名許と行を共にし、誠に賑かなものではあつたが、車上に其頽齡を勞はられ乍ら、脳裡に徂徠するものは、險路に難む昔の淋しい姿であつた。即ち感じた儘、見聞した儘を記して同好の士の一粲を仰ぐことにする。
舊知の人人 二月目の再會でも中々に懷しい。此四月の行、東道の主であつた岩手縣水産講習所の長岡技手、海路を案内して呉れた「早池峯丸」の船員、釜石町、宮古町官公署の誰彼、旅館の人々、六月の折には袂を分ち難い思をした。況んや三十幾年目の再會や思出には、實に感慨無量に堪へないものがあつた。
宮古の小學校で講演を頼まれた。行つて見ると三十餘年前にも其處で講演した記憶が蘇る。實に其の通り、老校長は當時最年少の訓導であつて、新任した許りであつたから、此席で二度も貴方の請演を聞くものは僕だけでせうと言つて居た。其節予を聽衆に紹介したのは水産學校長小笠原嘉壽君だつたと云へば町長伊東元介氏は其時水産學校の生徒だつたと自白する。
三十餘年前船越で役行者の奇蹟を語り聞かせて呉れたのは村長吉田愿次氏であつた。それに豫れば船越の山内、小谷鳥など行者の戒を守つて高地に住宅を建て、千數百年來津浪の害を免れて居るものらしい。有徳の老人八十の坂を越えて今尚ほ健在とは目出たし。
石卷では毎度千葉甚旅館に泊つた。其處には其昔姉妹の看版娘が居た。先頃適適其處へ泊つたので、何は扨置き、娘達の行方を尋ねて見た。此問に、血の氣の多い連中は好奇の眼を瞠つたが、姉娘は東京に縁づいて、今は五十路餘りの媼となり妹娘は最早此世に在さずとの答に、若者達はあなやと許りにて興を醒まして仕舞つた。
二十九年の大津浪は三陸の沿岸を荒廢せしめ、其翌年の旅行にも五里や十里に一軒の安泊りを見出しては漸く雨露を凌ぐに過ぎなかつた。斯くして辿りついたのが越喜來の宿舍である。當時宿の主は年齡漸く二十二三なるに細君は四十路許りとも見えた。兩者何れも夫れ夫れ繁昌した大家族の一員たりしに、無情な津浪は殘りの家族全部と家とを奪ひ、主人は巨材に脛を挾まれて逆に吊るされ、細君は竹籔に引懸つて助かつたのだといふ。斯く一緒になられたローマンスはと問へば、否、彼處に一人、此處に一人と生殘つた男女の幾組を役場で組合せて呉れたまでと誠に淋しい答であつた。
爾來幾十星霜、予は傷ましき當夜の物語を忘れることが出來なかつた。今回の津浪にも越喜來の死人八十七名と注せられたから、仲々に氣懸りであつた。越えて六月十九日同處に行き、村役場にて用を足した後、右の次第を村長に打明くれば、佐々木盛治と云ふ旅館主がそれらしいといふ。家は浸水したが足が不自由な爲、佛檀の前に端座して動かなかつたのださうだ。紹介によつて面會して見ると長い白髯をしごく所、別人らしくもあるが、面影には慥に見覺えがある。兩脛を捲つて貰ふと左方は例の疵跡、齡は六十歳、愈愈間違なしと言へど白髯翁覺なしとて肯じない。稍稍暫くしてハタと膝をたたき、思
出した、あの時貴方は海に沈める器械を持つて居た筈、私が彼方此方と案内して上げたと云ふ。なる程さうであつた。それはヨダ波を計る爲の檢潮儀であつた。愈愈それに相違ないとて互に手を取つて無事を祝し合つた。
始めて會つたときは壮丁、二度目には白髯の翁、こんなのを今樣浦島とは言ヘないであらうか。
珍らしき見聞 金庫は重いものだから、水には沈むものと許り信じて居たが、大金庫が津浪に浮んで遠方に運ばれたのを目撃した人がいくらもある。成程、計算して見ると空氣を密閉した大金庫は其比重が一よりも小さい。小金庫はそれ程でもないが、それにしても津浪に浚はれては、くらげの如く彼方にふわり、此方にふわりと泳ぎ廻つたことであらう。細浦の二萬圓入り金庫の行方搜索が如何に困難を極めたかが首肯かれた。
今秋リスボンで開かれる津浪研究會の國際會議に出陳の目的を以て、浪災の慘状を示す寫眞を用意しつつあつたが、最も悲慘を極めた場所の寫眞は却つて朗かな氣分を唆り、浪災輕微な場所の方が却つて凄慘を極めると云ふパラドツクスに逢着した。例へば釜石町の如く、津浪の高さは僅に四・五米、死人も三萬の人口中三十八人に過ぎないといふのに、浪に流され損つた家か、或は倒れ、或は近所の家に衝突し、それに大小の船舶まで上陸雜居してゐるのだから、誰が目にも凄い。然るに田老の如く又唐丹本郷の如く、全村流亡したのは跡に一物をも留めて居ないから、單に一幅の風景畫たるに過ぎないのである。
廣田村に集と云ふ部落がある。位置が太平洋に面したV字形の灣頭にある爲、津浪の高さ明治二十九年のときには二十七米、今回は二十三米に達し、綾里灣に次ぐ最高記録を出したのである。斯く海水が高く集まる爲、部落名が出たのかと思つたら、さうではなかつた。
此のV字の左邊は長さ一粁、右邊は一粁半もあるが、長い方は處々缺損して點々たる島嶼をなしてゐる。其大なるもの二つ、沖にあるのが椿島で、陸に近いのが青松島である。何れも文字通りの樹木が繁茂して一絶景たるを失はぬ。
椿島は津浪の高さ三乃至四米、青松島では八米、さうして灣奥では二十三米。灣幅がせまり、海底が淺くなるにつれ、浪高が次第に上つて行つた状態が面白く觀察されたが、もつと興味を引いたのは、産卵の爲此等の島嶼に幾萬とも數へきれぬ程に集まつて來る海猫(鴎の一種)の大群である。元來集の字は木の上に鳥を配した會意の文字であるが、實に此文字通り廣田の集は海水の集まりでなくて、海猫の集りであつた。
浪災豫防上の障害 土地の人々に津浪の常識の乏しいのは遺憾であるが、過去の悲慘事の忘れられ勝ちなるは殊に恐ろしい。
釜石町は今回の罹災地の中、最も殷賑な都會のことだから、震災豫防評議會でも最大の關心を有ち、手落のない樣に浪災豫防策が立てられた。其骨子は大渡川及び左岸砂洲の地を緩衝地區とし、此處に津浪をおびき入れて其勢力を殺がんとするにあつたが、縣當局に於ても、地元に於ても、其效能を認め乍ら、之に逆行する施設を採用せんとするものの樣である。それは防波堤を主體とする築港計畫であつて、例の砂洲の地は廣大な住宅地とならうと云ふのであるが、吾々の所見では、其の防波堤は明治二十九年程度の津浪の前には殆んど何等の效果なきのみならず、却つて侵入の津浪を北方へ轉向せしめて、町の最も大切な商業地區を一層危險に陷れる虞がある。
明治二十九年の津浪は慶長十六年のものよりも稍稍輕かつたが、それでも釜石町の人口六千五百五十七人の七割一分に當る四千七百人を溺れしめるに十分であつた。此時津浪の高さは二十七尺であつたが、それが三十五尺となり四十尺となつたら果してどうであらうか。
津浪常習地に於ては住宅地を高處へ移轉することが最も賢明安全な處置である。特に浪高十米以上、二三十米にも達する村落に於ては、實際問題として、これ以上の浪災豫防法はないであらう。それにも拘らず、實行の段になつて色々の障害が起つて來る。
第一は日常の生業に不便だと云ふ。特に漁村に於てさうである。
或る地方識者は斯くも論じた。田老の如き漁村の人々に、海岸を離れて山側に移住せよとは、其の海上利用を捨てて陸産に轉業せよと云ふに等しと。(四月九日岩手日報)
さなきだに、舊物に執着の強い、又低地に住みたがる日本人の性質に、これは一段の煽りを與へる議論である。終に或る漁村では高地移轉反對の示威運動すら起つた。
何も漁村全部を引越せと云ふのではない。生活休息睡眠の場所と、製造所、漁具格納修繕の場所とを區別し、前者即ち住宅のみを高處に移し、後者即ち業務所は海岸便利の位置に、共同の施設として殘したが良い。さすれば其筋の補助も出よう。業務所と住宅地との間に避難にも役立つ便利な道路も出來ようといふのである。一方、生活の向上であり、他方、百世に亘る仁政である。
高地居住は呪ふべきでない。香港、長崎、神戸などを引合に出すまでもなく、船越村の山内、小谷鳥、崎山村の女遊戸に好例がある。
予は特に綾里湊を睥睨せる丘陵上の二棟を高調したい。一は醫家で他は土地の成功者だと云ふ。綾里湊の復興計畫が我々の理想に一致したのも、陵上の二棟が好範を示して呉れたことにも因るであらう。
釜石町では町を圍める丘陵四箇所を開拓して、八十戸分を收容する住宅地を得る計畫を立てたと云ふ。現戸數五千六百に對して階上からの目藥であらう。但し之れ無きに勝ること萬々である。少くも他日夫の陵上の二棟の役割を演じ得る性能を有つてゐる。
三 津浪を海水の陸上溢流としての考察(The Tunami considered as a Phenomenon of Sea Water overflowing the Land)
3. The Tunami considered as a Phenomenon of Sea Water overflowing the Land.
By Mishio ISHIMOTO and Takahiro HAGIWARA, Earthquake Research Institute.
(Read May 16, 1933. - Received Dec. 20, 1933.)
In the early morning of March 3, 1933, about half an hour after a very strong earthquake that occurred at 2h.31m. a. m., the Pacific coast of Sanriku (the three provinces), consisting of the prefectures of Aomori, Iwate, and Miyagi, were visited by tunami. As these regions consist of hard Palaeozoic, Mesozoic, and volcanic rocks, the earthquake itself practically caused no direct damage, but the tunami did extensive damage by washing away a large number of houses and boats and killing a number of people.
Such tunamis that accompany seismic phenomena are believed to be a long wave, resulting from extensive topographic changes occurring on the sea floor. In fact the wave lengths and periods of these tunamis are comparatively long. In the recent tunami the period was observed to be from 10 to 20 minutes. When a wave of this kind advances to fairly shallow places it is only natural that the wave height should increase and that its form should change, provided of course that the energy of the waves remain undiminished.
When a tunami propagates, the motion of the sea water, just as in the case of an ordinary long wave 1), is parallel to the direction of progression and is the same for every particle in a vertical line. Consequently, if we pay attention to only certain parts of the wave, it appears like water flowing with a fairly large velocity, but as its wave length is extensively long, it is nothing more than an extensive region of water flowing uniformly 2); so that vessels out to sea are seldom feel the wave motion.
In considering a wave of this kind that has reached the shore, although a flow such as mentioned above, could exist out to sea, at the shore where there is a limit to further wave motion and the reflection of wave occurs, there can be no more flow and the only motion possible is rise and fall of the water level 3).
In the case of coasts indented with bays, as in the Sanriku, when the waves enter the bay the wave height may increase or decrease according to the depth and other characteristics of that bay, as indicated by the actual observations. But in any event, so long as the sea at the shore does not overflow the land, all that will happen is rise and fall of the sea level.
It must be said however that the wave velocity in shallow places, becomes a function of the wave height, just as we see at the seashore, and on this account the crest of the wave travels at a relatively heigher velocity than that of the trough that proceeds it, and the wave slope gradually increases its inclination to such a extent that it breaks, in which case a flow towords the shore can be considered. But the places where the tunami does not reach so great height, these phenomena do not come into the question at all. Even in the case when only a rise and fall of the water level occur at the shore, a flow shall be produced by the overflow of the sea water upon the land.
Examinations made of districts devastated by the recent tunami, vividly brought out the fact that damage to buildings and other structures was caused by the water height and water velocity of the overflow of sea water 4) upon the land: the latter is in fact most intimately related to the damage to houses. If there are any space which is to be filled up by the water then the water moves towards it and the flow is occurred. We have noticed many facts that the houses that stood where a flow formed were destroyed or washed away, whereas even houses adjoining it but which had hillocks behind it, owing to there being no space for the water to fill up were practically undamaged. At Ootuti, Yamada, Ryoisi, Kamaisi, Hongo (Toni), etc., in particular, where the tunami was not so high, the phenomena just mentioned was more clearly evident than elsewhere. This is noticed also in the case of the tunami that visited the same region on June 15, 1896, and upon comparing the two tunamis the local distribution of damage is found to be very similar. In both cases, houses build in the places that rave no back spaces for the water flow to, suffered least.
If, as has been frequently believed, the flow had come in from quite a distance out to sea, then every house would have been damaged in the same way and to the same extent regardless of the characer of the topography behind therm.
The elements of the damage that tunami cause to structures are, as has already been said, water height and water velocity. When a combination of these two elements exceed a critical state, damage results. Although the maximum height of the tunami may be known from traces left on piers, walls, buildings, etc., there is nothing to enable us to know directly the velocity with which the water flowed, so that all we can do is to estimate it with some assumption.
Let us now consider the case when the sea oveflows the land simply as the result of the rise in level of the water at the shore, and try to ascertain what velocity the water would develop. For simplicity, we shall regard theproblem as onedimensional, and as shown in Fig.1, suppose that the sea overflows the land which has the angle of slope θ, and that the condition that the sea always maintains a horizontal level is not disturbed. Then letting dt be the time in which the level rises dh, and v the velocity of the water at the distance of x from the place reached by the water, then we get the following relation,
xdh = vdt・x・tanθ,
Whence v = cotθdh/dt.
The velocity of the water v is independent of x. And the smaller the angle of slope and greater the velocity with which the water rises, the greater will be the value of v
We shall now select for illustration what we observed at Kamaisi. Although at Kamaisi the tunami advanced and receded several times, the level reached its highest point at its second onslaught, and was 3.9m. higher than the normal sea level at that time, while its period is understood to have been 10 minutes.
Assuming now the change of sea level at the shore of Kamaisi to be of the harmonic type, we shall after substituting numerical values into the above equation, graphically express the relationship between the water velocity v and its height h with respect to various of θ, see Fig.1. The road on the Kamaisi waterfront stood 1.4 meters above the sea level at the time of the tunami, so that this height substracted from h gives the tunami height above the road on the waterfront. It was possible to know the maximum height attained by the tunami at this place by the large quantities of sardine fertilers adhering to the various structures in the town, which had been drying near the waterfront at the time of the tunami and were carried there by the water. The numerals in Fig.3 denote the maximum heights of these marks left by the waters as measured from below the foundations of houses and other structures, and since we may regard that when the water height attained its maximum the water surface was in the condition of perfect horizontal level 5), we can get an idea of the topography of the district by reasoning backwards from these numerals.
According then, it follows that angle of slope near the Kamaisi waterfront is about 1/50. Then from Fig.1, it may be deduced that the velocity of the tunami at Kamaisi was at maxinum about 1 m./sec.
Fig.2 gives the distribution of damage at Kamaisi. As will be seen from the figure, the number of houses demolished equal the number of these that were not. From this it may be concluded that the power for demolition of structures was near its critical limit, so that structure was demolished or not according as conditions exceeded this limit or otherwise. According to Fig.2, the stone, brick, and mud structures escaped damage. Moreover, the wooden houses that stood on the places where the ground is relatively high and accordingly the water was low, or those that received the water of low velocity, owing the presence of such a structure as stone building in the behind, escaped demolition.
In Fig.3, parts A and B are depressed ground and the water was high compared with their vicinities, so that the houses in these places are severely damaged. At C and D, owing to the presence of stone structures behind it, the velocity of the water was curbed to a certain extent, so that they escaped demolition.
It follows from the foregoing that the wooden structures reached the critical state owing to the water having reached a height of 2 meters and were demolished with such small water velocity as of the order 1m./sec, whereas most of the stone and brick structures were quite safe.
The above is a discussion based on the effects on structures due to the tunami, in which the process of inundation was supposed to be extremely slow, and the water level at all times maintained horizontal plane. In practice however, when we deduce the velocity we should take into account the depth of the water and the inclination of its level, and bottom friction. And for this purpose the hydraulic formulas of Basin or Cutter are usually employed.
According to Basin
v = 87√RI/1+r/√R,
where v is the water velocity, R = A/S(here A is the sectional area of the water channel and S the length along the bottom in the section vertical to the flow) which, in our case, corresponds to the depth (H); I = the inclinationn of the water surface, and r = a variable coefficient for roughness of the bottom, ranging from 0.65 to 1.65. If now
we neglect r/√R,
we have v = 87×√HI,
and puting v = 1 m./sec., H = 2m., the inclination of the water surface I bacomes approximately 1/15,000, and may be regarded as a perfect horizontal plane. In other words, in the case of the velocity of the tunami, until it reaches a number of meters per second, the surface may safely ba regarded as level. In the onslaught of a tunami, so long as the waves are not very high, there is practically no change in the wave form, it advances without forming any breakers, and if we observe tunami at one spot there is only the phenomenon of gradual rise and fall of the surface.
And even if the waves are very high, since a tunami wave is exceedingly long, there is no such breaking up of the entire waves as we see at the seashore in the cases of ordinary sea waves; and as in the tidal bores of Whangchow 6) in China, only a front part of the wave surface break. But the places where this condition prevailed is confined where the water was very high or where the ground had very little slope, such as along rivers.
Since as just mentioned, the damage from a tunami depends on the height attained by the water and its velocity, in order to avoid its effects, high ground needless to say is the safest place for residence, and it would be dangerous to build on ground with very small slope.
It is a great pity that in the Sanriku region, owing to the particular topography, most of the large towns stand where the ground is low and the slope gentle. Since in the event of a future tunami, all the phenomena above mentioned are likely to be repeated, the facts observed and here discussed should be borne in mind if a repetition of the disasters is to be averted.
---------------------------------------
1) The wave velocity of long wave is given by ,√gh, where g is the acceleration of gravity and h is the depth of the sea.
---------------------------------------
2) The velocity of water particles is given by v = √g/hη, where g is the acceleration of gravity h the sea depth, and η
the wave height. For instance, let h = 100m and η = 10m, then v = 3m/sec.
3) This phenomenon is equal to such case as when we observe an ordinary seiche of a bay or lake at the shore. In this
case we can notice only the water level rising and falling.
Mr. T. WATANABE, engineer of the Department of Railways, who was standing on a high hill and witnessed the tunami at
Odawara in the time of the great Kwanto eathqnake of 1923, likens the tunami to the water in a cup gradually tilted.
---------------------------------------
4) In Chinese, tunami is called as "hai-i" (海溢), the meaning of which is overflow of the sea water.
---------------------------------------
5) According to Mr. Nasu's determinations, the height of the water in the middle of the town of Kamaisi itself was
somewhat lower than at the beach. In this paper it is presumed that the maximum height of the water was everywhere the
same.
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.8MB
四、理學博士 中村左衛門太郎
A、昭和八年三月大津浪の地球物理學的觀測
一、地震觀測
昭和八年三月三日未明に三陸及北海道沿岸を襲ふた津浪はその原困勿論地震である。津浪の襲來に先立つ事三十分許性質緩慢ではあるが震幅の非常に大きい強震があつた。震幅が非常に大きい爲めに微動計等は多く用を爲さなかつた。向山觀象所(仙臺市越路町通俗八木山)に於てさへ微動計は勿論倍率二倍の強震計すら遂に描針紙外に逸し、或は重錘支柱に衝突して用を爲さざるに至つた。從つてその最大震幅何程なりしか、これを知るに由ないのである。南北動に於ては全振幅八十四粍、東西動に於ては同七十四粍以上に達した事は確かである。然し乍ら振動の週期は極めて長く四乃至六秒以上であつた。從つて震度は割合小さく最大加速度僅に六、七百粍/秒2即ち震度○・○六乃至七位であつたと思はれる。即ち木造建築を倒潰せしむるには未だ半に達したに過ぎなかつた。地震觀測の要點を記せば次の如くである。
一、發震時 三月三日午前二時三十一分四十二秒四
一、最大振幅(全振幅) 南北 八十四粍以上 東西 七十四粍以上
一、初期微動繼續時間(P-S) 四十秒七
一、總繼續時間 一時間以上
一、震度 強震(弱キ方)
一、性質 緩
震源地は仙臺の東北東約三百粁と推定せられる。
二、地磁氣觀測
地磁氣の觀測を向山觀象所で閉始したのは昭和七年八月からである。第二回極地觀測に協力する目的であつたが、幸か不幸かこの大地震に遭遇し、地震に先行して著しい地磁氣の變化の存する事を確め得た。然し乍ら事前に之を察知するの明なかりし事を謝せざるを得ない。左に記すは昭和七年以降毎月一回施行せる地磁氣の絶對値觀測の結果である。
これを以て見れば明かに前年八月頃より年末まで地磁氣に一種半永久的なる變化が起つた事を示して居る。從來地磁氣の變化が地電に伴ふや否やと云ふ問題に就て明確な結論を得られなかつたのは、主として地電直前の變化のみに著目した爲めであつて、今回の地電の如き大規模なるものに於ては既に數ヶ月前に於て地下深處に於ける變化を起すものと思はれる。
三、地電氣の變化
地磁氣の著しい變化は地震の起つた時に於てはこれを認められないが、地電氣即ち地中に流るる電流に於ては地震と伴ひ、その前後に變化あるを常とするのである。場合によつては變化が非常に大きくして記録するを得ない程の事もある。而して今回の地電に於ても、他の場合の例に漏れずして地震の數日前頃より不規則な變化が始まつた。然し乍らそれは決して著しいものではなかつた。三陸沖の地震に伴ふ地電氣の變化は仙臺に於ては一般に著しくないのが普通である。但し大きくはないが、甚しく不規則な不連続的な變り方をするのであつて、今回も亦その通りのものてあつた。
この變化の起り初めは二月二十八日頃であつて地震に先立つ約三日である。
四、津浪調査
津浪の状况調査の爲めに行つた踏査は今回宮城縣及び岩手縣南部のみに限られた。それは單に津浪現象の一般的性質を知る事を目的としたのと、時日の經過は現象の踏査に當つて資料の消滅する事とによるのである。踏査は大體次の如く行はれた。
三月三日 閖上町
同四日-同六日 志津川町-歌津-氣仙沼-唐桑
同二十五日-同三十日 大谷村-高田-廣田-盛-綾里-吉濱-釜石-鵜住居
四月四日 女川町-雄勝
同七日 八戸町
同十日 坂元村
同十日-同十四日 大原村-十五濱-十三濱
以上の踏査の結果灣外に於ける津浪の高さを三乃至四米位と推定し得たので目下更に模型によつて灣内の状况を再現する實驗を準備中である。津浪襲來が夜間であつたから目撃者からの話はそれを全部信用するには充分でないから是非これを實驗によつて確める必要がある。
五、地磁氣變化の調査
地磁氣が地震の前に仙臺に於て著しい變化を呈した事を述べたが、更にこれを中央氣象臺柿岡磁力觀測所に於ける觀測に於て見ても多少平行した變化が見られる。この變化が東北各地に於て如何に分布されたかを見る爲めに地磁氣の伏角に就て數ヶ所の觀測を行つて前に田中館博士や海軍水路部に於て行はれたものに比較して見た。
その結果伏角の變化は次の如くであつた。伏角の値は別に何等特別な事が起らない場合にも多少の變化があるものであるから、その一般的變化を除去する爲めに青森縣野邊地の値との差を取つてその差の變化を見る事にした。從つて野邊地は常に標準に取つてあるから、變化はない事になる。各地の變化は次の通りである。
明治二十八年と大正元年との間には前回の大津浪があるが、この時は久慈及宮古に於て伏角が増し、その他に於ては減じた。然るに今回は遂に久慈は減じ、仙臺は増加し、その他女川、米ケ崎(高田町附近)に於ても増した。又前回僅かの減少を呈した水澤に於ては今回著しい減少を呈した。これを此圖に記入して見ると前回と今回とが全く正反對の變化を呈した事を知るのである。
この事は津浪の模樣でも分るのである。前回は津浪の初めが著しい引き潮によつて初まつて居るのに今回は遂に少しく高潮を呈して居る事が驗潮儀で記されて居り、又注意深い人々の認めた所である。勿論これは三陸沿岸の話であつて前回にも銚子、花咲(北海道根室附近)等では最初に高潮を示した。又今回も房州布良では初めから引き潮が現はれて居る。
この樣な變化が地磁氣に現はれる事は地震の直前又は直後ではなく既に數ケ月前からの事である事は前に述べた通りであるが、更にこの變化が甚しく廣區域に亘つて居て、今回の場合に於て伏角の減少の極大は恐らく宮古附近であり、その増加の極大は金華山沖かと思はれ、その距離實に百五十粁以上である。伏角の減少はそこに北の磁極が現はれた事であり、その増加は南の磁極が現はれた事を示すのであつて、その樣な磁石の深さと亦百數十粁で無ければ成らない事が分る。從つてこれらの事實から考へて地磁氣の變化は地震の原因たる地殻の運動に直接關係したものではなくて、その運動を起さしむる樣なる、更に深い所にある他の原因に歸せしむるものと思はれる。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
B、津浪災審輕減私案
今日の地震學は未だ地震を豫知する事の出來ない幼稚な状態にある。從つて津浪も亦これを豫め知る事は出來ない。然し
乍ら海岸地方特に我が三陸沿岸に於ては緩かな長い地震の後に津浪が襲來する虞れのある事は大體動かし得ない原則の樣
に思はれる。私はこの原則の下に津浪の災害を輕減する方法に就て考へて見た。災害後復興に向つて進まんとする沿岸地在
住諸兄に愚案を提示して御參考に供し併せてその體驗による御教示に與り度いと考へこの私案を發表する次第である。
津浪の豫知と災害防止の原則
津浪の災害を防止する方法の原則は第一に津浪襲來の豫知とその被害輕減の方法を講ずる事の二つに歸するのである。而して津浪の豫知は今日相當困難な事業であつて、完全を期する事は出來ない。現に今回の如きも沿岸各地の諸君は地震直後多く津浪の襲來を豫知されたのであるが、直ちに避難の行動を取る決心の付かれた方々は極めて少なかつた。安全なる位置から見る第三者の目には少しく行動が緩漫であつたと考へられないではないが、自分がその場に居合せたとして震源が何處かも分らない地震に津浪を豫知して直ちに避難すると云ふ事が出來るとは思へない。沿岸の諸君が海水の減退を見てから避難されたと云ふ事は正に當を得たものと思ふ。この樣な場合に直ちに海水に注意する事は必要な事である。その爲めに特に望樓の如きものを設けるのも一案であるが私はその必要は無いと思ふ。單に消防手等二三の人々が海岸へ出て見ると云ふ事丈けで充分目的を達し得る事と信ずる。
次に海面注意の時間であるが、三陸沿岸に於て津浪は地震後大體二十分乃至一時間位の後に襲來するものであるから津浪の警戒は地震が起つた時から二時間位後迄でよろしい。その位の時間は確實に海面を注意して居なければならない。
そこで津浪豫知の方法としては長く續く地震の後には二時間位海面を注意して急に退潮又は高潮が起つたならば直ちに警鐘等によつて全部落民を高處へ避難せしめる事である。
これは消極的に津浪の災害を防ぐ方法であるが、人命の損害丈は充分に防止し得る筈である。然し財産をも多少保護しやうとすれば更に災害輕減の積極的方法を講ずる必要がある。
人命及び家屋家財の災害を防止する事のみを目的とする考案としては部落を高處ヘ移轉する事で、ある部落が沿岸の急斜面に近い場合に於てはその地方に於て經驗した最高潮を基礎として高處へ部落を移す事によつて住家及び人命を保護する事が出來ると云ふ事は何人も直ちに氣付く事である。然し乍らこれは決して理想的な案とは云へない。
この案の缺點は四十年五十年目に一回の津浪を防ぐが爲めに毎日の業務たる漁業に對しては非常な不便を忍ばなければならない。從つて長い間にはこの不便に耐へ兼ねて再び低地へ移轉すろ人々を生ずるのである。又この方法によつても船舶の亡失を防ぐ事は不可能である。沿岸に於ける實情から見ると住家の流失よりも船舶の破損による損害の方が大きいのであるから單に高處へ移轉したのみでは理想的だとは云へない。
部落が附近に高地を有しない場合に於て是非低地に居住する必要のある場合又は高地移轉による不便を好まない場合に於ける津浪豫防上の方法を如何にすべきであるか。
この場合先づ人命に就ては直ちに多數が避難し得べき高地に學校、神社、佛閣等の如きものを選定して置いて平常火災に對する消防演習の如くそこへの避難を迅速にするやうな訓練をして置く事である(各自貴重品又は必要品を携帶してそこへ避難するやう)。
次に家屋の損害を輕減する方法としては船舶其他の漂流物が家屋に激しく衝突する事を防ぐ爲めに屋敷の圍り特に海岸に面した測に於て密生した生垣又は防風林の如きものを設ける事が有效である。樹木は必しも太い事を要しない。密生した生垣の如ものでも充分に目的を達し得るものである。この方法は又漁船等が家屋に衝突する事を防ぐからその破損をも防ぐ事が出來る。これは各戸に家屋に接して設けるべきものであつて部落全體を圍むのではない。生垣はそれ自身で漂流物を全く受け止める力はないがその衝突で家屋が破損するのを防ぐ爲めの緩衝物として必要なのである。部落全體を圍む植林は土地の状况によつては不可能な場合が少くないが各戸に生垣を設ける事は困難が少ないと思ふ。
船舶の保護は最も困難であり、且つ必要な事である。大形の漁船等は出來得れば地震と共に沖へ避難して行くべきである。
安全であるとは云へないが海岸に居るよりはよいと思ふ。小形のものは出來得れば部落の直ぐ前面に置かないやうにしたい土地と經費とが許すならば部落から離して舟溜又は泊地を設け度い。今日の實状に於て家屋一戸を(人命を除いて)救ふよりも船一艘を救ふ方が大切であると思はれる。それは船一艘の方が家一戸の財産より大きいのみならず復興の第一歩に家よりも船の方が必要であるからである。沿岸ではそれが生計の基でもあり又輪送機關でもある。
それ故災害防止の輕重から云へば甚だ極端な云ひ方かも知れないが、第一に人命である事勿論だが、第二に船、第三に家である。それ故最惡の場合には人命のみを救つて家と船とを棄てるのであるが、次には船丈けでも多少保存し度いのである少くとも家と船とを同樣な程度に保護すべきであり、家と、船とが衝突してこれらを共に失ふやうな事を成るべく少くし度いのである。
以上の樣な考へ方を基として種々の場合を考へて見ると土地の事情によつて種々の設計を必要とするのである。以下二三の場合を考察してそれに適應すべき方法を提示して見やう。
第一案 海岸が平坦で比較的廣き平地を有する場合にして經費を許し得る場合
この場合には部落を成るべく高地に設けるが理想的ではあるが、平常の不便の爲め、又は高地が近くに無い時、例へば高田町の海岸の如き地形の時に於ては避難すべき土地丈けでもこれを高い處に求め置き成るべく早くそこヘ避難し家屋は萬一の場合に放棄するの他に方法がない。
然し單に放棄するのでは面白くないから、波浪によつて流失する事を防ぐ爲め、必ず海岸へ植林して波の勢力を防ぎ、且つ生垣及び樹木を以て各戸の周圍を防ぎ、家屋、家具の流失及び萬一植樹又は船舶が漂流し來れる場合の防禦とすべきである。
市街地に於てはその前面に防波堤及び護岸を設けて津浪の勢力を減少せしむべきは勿論である。その場合にも出來得るならば海岸に砂濱を殘してその後に先づ植林して船舶が護岸に衡突破損する事を防ぐべきである。
更に小型の舟の爲めに部落の側方又は後方(海の方から見て)に丁度鹽釜の内港の樣な舟溜を作る事を得ば幸である。
それに依つて舟が家に衝突し又は流失する事を防ぐであらう第一圖はその樣な一例である。
第二案 同上の場合にて經費少き場合
一個の部落がその經費を支出して充分の設備をなし得ないとすれば第二圖の如く少くとも納屋等を殘して人家を少しく海岸から後退せしめ海岸に松等の植林を爲して波の勢力を減ずるやうにし、小高い處に神社等避難の場所を用意し置くに止めるの外に方法がない。この場含に於ては前に記した通り人家の周圍に生垣を設けて置き流失物を防ぐべきである。生垣は
既に述べた通りそれ丈けで流失物を完全に喰止める力はないから同時に植樹又は家の助けを借りなければならない。從つて家から餘り離してはいけない。家と生垣とが協力して流失物を防ぎ止めるやうに第三圖の如くに家の近くに生垣又は植樹を設けるがよい。これは大正六年十月東京灣内に起つた津浪の際に非常に實效のあつたものである。
第三案 海岸に平地が少く高地への移動可能の場合
海岸植林の餘地の無い場合が三陸沿岸に多くある。その中で第一に居住者が平常海岸との交通を必要としない農家や商家の場合は勿論、多少日常の不便を忍ぶ事を覺悟する場合に於ては全部落を高い處へ移轉せしむべきである。その具體的方法を爲政者の考慮に讓るが、部落移轉の後漁船等に對しては出來得るならば植林にて圍まれた舟溜の設備をしたが良からう。多少出漁等に不便であり經費も要するが舟の流失を防ぐ事が出來る。然し舟を破損せしむる恐れがあるから、既に部落を移轉した後には海岸に護岸等を施す必要はない(第四圖參照)。
第四案 海岸に平地少けれども高地への移轉も不可能なる場合
海岸に平地が少く植林も出來ず、又高地へ移らんとしても土地を得られざるとか海岸への交通不便で移轉後の困難を考へて移轉を欲しない場合には家屋及び船舶の被害を覺悟して人命のみの安全を期して山上に避難し得るやうな神社、寺、學校等を設け置くに止める。但し家の周圍に生垣を設け船と家との衝突を防ぐ事を得ば或は家屋の流失を萬一にも防ぐ事が出事やう。
海岸線の護岸
海岸線の護岸は小津浪に於ては確かに有效である。志津川町の如きは其好例であるが、護岸の高さには自ら制限があるから大津浪に對しては役に立たない。從つて護岸のみに依頼
する事は出來ない。津浪の事を考へると從來行はれては居ない樣であるが第一案に示した樣に護岸を松林等の後方に設け津浪によつて海岸に打ち上げらるる船舶が直接護岸に打ち付けられ破損する事を防ぐ事を提議したい。
津浪防禦線の構成
津浪防禦の戰線は以上述べた通りにその第一線は防波堤である。然しこれは何處にでも設け得るものではない。第二線は植林である。これは事情の許す限り必要である。第三線の護岸は大津浪には必要でない。第四線は生垣の屋敷内の植樹であつてこれは最も有效且必要である。第五線は避難所であつて學校又は病院等であれば半永久的避難所となり得るの便があるが公園、神社等でもよい。
結語
以上は自分が直接視察し得た大正六年十月東京灣内の津浪及び今回宮城縣沿岸の津浪の實况に基き考察した机上論である。商業地を兼ねた市街地に對しての第一案乃至所謂一個の寒村に對する第四案迄多少實状に適するものがあるならば望外の幸である。自分は津浪を體驗したのではないから體驗者諸兄から充分の御教示を給はらん事を希望して止まないものである。
五、仙南・仙北兩海岸の特質と津浪の影響 理學博士 渡邊萬次郎
仙南と仙北
本縣の地勢を大觀するに、明らかに南北兩半に分れる。南は即ち亘理・宮城を兩翼とし、名取の耕土を中心とする海岸平野を前景とし、伊貝・柴田・刈田の諸盆地を背景とする仙南六郡の山野であり、北は即ち大松澤の丘陵地帶を中心として、これを環状に繞つた黒川・遠田・加美・志田・玉造を含む大崎五郡の環状盆地と、之と同心環状に、旭山、箆嶽山の線を隔てて、その外側を更に繞つた牡鹿・桃生・登米・栗原の四郡に亘る葛西盆地とを含んだ仙北の平野で、その東側には北上山地の南端部を配して、遙かに牡鹿半島に達する。
この兩半を分つものは、泉ケ嶽から東に延びて、松島灣頭に達する丘陵帶で、その高さこそ著るしくないが、いかに天然の障壁であるかは、東北本線が之を越えるに、利府北方の高勾配と、松島驛附近の大灣曲とを要する点でも明らかであり、奈良朝の昔、ここに北狄防衛の線を布いて、多賀城の本據を設けたことも意義深い。彼の英傑政宗が、覇を東北に稱へんとするや、この線に近い仙臺城に居を定めて、右に仙南、左に仙北の野を望み、阿武隈・北上二川の流域を双手に收め、奥州の野を縱斷するに便ならしめ、更に貞山・野蒜の運河でこの兩翼を連ねんとした大眼光は、流石に敬嘆に値すべく、仙臺市が、今も東北の首都たる位置は、その礎をこの達識に置いたのである。
因みに往々宮城の一郡を仙北に加へ、仙南五郡を仙北十一郡に分つが、宮城・名取をその中間で分つことは、地文的にも人文的にも意義は少ない。但し海岸の地勢上、仙南を代表するものは、菖蒲田以南の平岸地であり、仙北を表徴するものは牡鹿半島以北のリアス式地帶であつて、松島灣は却つて後者に、渡ノ波、野蒜間の石卷灣岸は前者に類する点が多い。
仙南式海岸の特質
菖蒲田以南海岸の特質は、立體的にも水平的にも極めて單調なことであつて、平坦に近い海岸平野が、弓なり形の極く平滑な曲線で遠淺の海に接するに過ぎない。そこには砂丘の發達も少なく、また海蝕斷崖もなく、河は何れも海岸に沿うて、暫らく平行に滯流しつつ、辛くも海に脱出し、三角洲の發達もなければ喇叭河口の現出も見ない。これらの地方は平らに土砂に被覆せられた海底が、そのまま上昇した區城で、河流の吐き出す土砂はそのまま沿岸流に運び去られて、岸の平滑を増すのみであり、しかも上昇後猶ほ日淺く、砂丘も充分發達せねば、波浪の蝕磨も殆んど及んでゐないのである。
かくの如く海岸線が單調で、平野がそのまま遠淺の海底に連なるから、風を遮る入江もなく、船を近づける港もなく、漁船は僅かに阿武隈河口の荒濱や、名取河口の閖上に入り、或は長汀白砂の上に辛らくも揚げ卸しせられるだけで、海上の交通に不便多く、貞山堀の運河によつて僅かに之を補はれる。加ふるに、海の底質一樣であるから、水産物の種類にも乏しいその代りに、背側地帶は海岸平野の常として、沃野を連ねて農産に富み、交通便利で聚落の分布稠密である。
この種の海岸に若しも津浪が襲來すれば、ただ急激な増水によつて、家を浸し、船を浮べ、その退く際にこれらを渫つていく丈で、被害の程度も比較的少なく、謂はゆる「引き津浪」の現象を呈する。今次の津浪に坂元、閖上等を襲つたものはこれである。
右と類似の特質は、仙北の一部即ち野蒜と渡ノ波との間の石卷灣岸にも見られる。但しここでは背側地帶が唯の上昇海底ではなく、寧ろ特殊の同種環状盆地である。この盆地の成生は比較的近代の出來事の如く、北上川が甞て柳井津、飯野川の線から、追波川の斷層谷に脱出したのも、當時は却つてこの方面が低かつた爲めである。然るにその後地盤の緩慢な傾斜によつて、葛西盆地が沈降したため、江合、追の停滯に加へて、北上本流の浸入によつて、本縣治水の最大患たる今の混亂を生じたのである。この種の傾斜運動は極めて小規模なもので足り、若し現在の石卷灣岸を不動としてその北側が僅かに三干分の一即ち一米に就て三分の一粍ほどの割合で沈下すれば、佐沼附近まで海水に沒し、逆にその南側が六百分の一、即ち一米に就て二粍ほどの割合で上昇すれば、海岸線は六粁以上も南に移つて、荻ノ濱濱も松島灣も全部涸上つてしまふのである。
しかもこの種の微弱な變化は、短かいと言つても幾萬年を數ふる大地の歴史中に於ては、極めて容易に起るのである。土地の上昇或は沈降を考ふるには、必しも大規模の陷沒や、地變を聯想するを要せぬのである。
仙北式海岸の特質
以上に反して、牡鹿半島以北に於ける仙北東部海岸は、立體的にも、水平的にも、極めて複雜な出入に富む。即ち水平的に見れば萬石浦、荻ノ濱濱、大原灣、鮎川灣、鮫ノ浦濱、女川灣、雄勝灣、追波灣、志津川灣、小泉灣、氣仙沼灣、唐桑灣等の彎入部と、十五濱、十三濱、歌津、階上、唐桑等の突角とが、鋸の齒のやうに交錯し、その海上には網地島、山鳥渡、大島等の水道を隔てて、田代島、網地島、金華山、江の島、大島等の島嶼碁布する。之を垂直的に見ても、金華山、龜山、早馬山等、峰頭高く海を睥睨する部分もあれば、唐桑半島及び大島の南半、大谷海岸、歌津海岸、田代島等の如く、段丘坦々高所に擴がる部分あり、鹿折、追波の河口に近い低濕地もあれば、岬の突角は斷崖となつて、下には屡々荒磯を列ね、入江の奥には狹いながらも折立、志津川灣頭のやうな、白砂の濱も連なれば、大川(新月川)末端の三角洲をも見、激浪金華の山脚に碎けて、噴潮岩井崎に咽べば、細波鼎が浦に湛へて、碧漂唐桑の灣頭に臨む。水陸の交錯ここに極まり、景勝一々數ふるに耐へない。
加ふるに、海底の形状複雜を極め、多くは喇叭形に深まり、深淵屡々山脚に迫る。これ河流の侵蝕を受けて、谷深み、峰峙つた北上山地の東斜面が沈降して、海水の浸すに委せた爲め、谷は溺れて海灣となり、峰は免れて半島となり、岬角となり、或は島嶼となつた結果で、この沈水は甞て今日以上に及び、現在歌津、大谷、大島、唐桑の南半、網地島、田代島等に見られる平坦な段丘地帶は、當時波浪の侵蝕によつて、今日十三濱の東方海上や、岩井崎南方等に見られるやうな平磯となり、部分によつては砂礫に覆はれた區域である。しかるにその後今見る程度に上昇した爲め、海上高く臺地を成し、再び河流の侵蝕を受けて、多くの谷に貫ぬかれるに至つたのである。然しながら、この上昇もなほその前の大沈降を償なふに足らず、所によつては更にその後の沈降をも加へたので、溺れた谷の一部分は、猶ほ海水の下にあつて、港灣となり、海峽となりそれらの間の岬角、島嶼は再び波浪の侵蝕に會して、斷崖を生じ、磯をひろげるに至つたのである。
これら多數の灣のうちで鹿折、新月二川を入れる氣仙沼灣は、底を砂泥に埋沒せられて水淺いが、その他は今なほ水深く錨地に富み、地形甚だ港灣に適する。加ふるに、その位置東に位するため、寒暖二流の接觸部に近く、沿海の底質また變化に富む。從つて、大は鯨、鱶の類から、小は鮑、海苔の類まで、水産の種類と量とに富み、之に漁るに舟の出入便利であるから、ここに水産業榮え、その産物の集中を見るため、鰹節、竹輪蒲鉾等、水産工業また興るのも自然の勢である。
加ふるに、水陸の交錯複雜であるから、到る所景勝に富み、牡鹿半島から金華山の一帶、氣仙沼灣から唐桑灣の一帶の如きは、天下に推賞するに足りる。ただ憾むは長角一々海灣を隔てて、山脚直ちに海に臨んでゐるために、陸上の交通甚だ
第二圖 仙北海岸概圖
數字は今回の津浪に於ける死者及行方不明者數、括弧内は全潰及び流失家屋總數
不便で、景勝徒らに偏輙に隱れ、良灣空しく漁村の散點するに委せる。また海濱に平野を欠くため、農耕の業ことに振はず鹿折、大谷等の諸金山が、榮枯の變を山中に辿つて、製炭製材の林産業が、疎らに人煙を漂はす外は、後方地帶の發展に乏しく、加ふるに、東北交通の幹線とは、山を背にして隔たる爲め、良灣空しく商港たるの機を逸し、近年大船渡線開け、また女川に交通の便繁くなるまでは、氣仙沼、荻ノ濱等の港灣さへ、ただ石卷、鹽釜等への中繼港としてその存在を許された結果、仙北海上の漁船さへ、その根據地を多くは却つて後者に求めた。
× × × ×
規模こそ異なれ、右と類似の特質を有するものは、松島灣の一帶であつて、前記北上東海岸の歌津、大谷の段丘面が、水面上に隆起した頃、ここも一旦上昇して、今見る灣岸の丘陵となつたが、それが河流に侵蝕せられて、近年再び沈降した爲め、水陸複雜に錯綜し、特に現在の鹽釜と、野蒜運河の入口附近を連ねる線で最大の沈降を生じたため、彼の特殊の灣を生じ、その兩側に八百八島を配列するに至つたのである。ただその島影の變化に富み、千態萬状を呈するのは、この島々を構成してゐる岩質の變化と、浪の侵蝕作用とにより、一島分れて二峯となり、或は懸崖島壁をめぐつて、水に映じ、松籟に和した結果である。加ふるに、その位置東北の要關に近く、人口に膾炙するに便であつたため、その規模小なるに拘らず、夙に天下の景勝として知られ、また最近はこれに人工を施して、東北主要の商港として、鹽釜港を生まんとしてゐる。これ皆沈降性海岸の特質に負ふ所であり、沿岸の民多くは水産によつて立ち、既往の交通主として水運によつた事實も、またその源をここに發する。人文の大勢また決して地文の特相と離れ得ないのである。
圖式模の式樣降昇岸海北仙 圖三第
代時降沈大半後紀三第 I
代時起隆性動變末紀三第 II
代時降沈半後世積洪 III
代時起隆牲動變末世積洪 IV
代時動運的別差小の近最 V
津浪の影響と今後への道
前記海岸の特質は、之に對する津浪の影響にも大差を及ぼす。元來津浪は波長數十粁に達し、例へば明治廿九年の三陸大津浪の場合の如きは、八十五粁の大に達した。從つて、假令高さが百米に達したとしても、波面の傾斜は殆んど之を知り難い程で、これ海上の船舶が、津浪の通過を感じ能はぬ所以である。換言すれば水は殆んど水平のまま高まるので、この種の波が仙南式の平滑な海岸を襲つても、被害は單に浸水によるものと、減水の際の家屋の倒潰等を主とし、その損害は比較的少ない。これ即ち林喬博士の謂はゆる「引き津浪」である。
之に反して仙北式の海岸に向つて東方海上から津浪が寄せれば、水は大きく口を開いた各灣に集まり、喞筒の吹管を出る水のやうに、非常な勢で灣濱即ち最も奥の部分を襲ふ。これ即ち林博士の「汐吹き津浪」で、この状態がいかに水勢を強むるかは平生でさへ洞窟或は岩の割目に寄する浪が、非常な勢を生ずることでも察せられ、先般雄勝、鮫ノ浦等を襲つたものは主としてこの種の津浪である。但しこの際若し灣底に岩礁多く、或は水が淺ければ、津浪はここに勢を殺がれて、志津川灣に見られたやうな寧ろ穩かな増水となる。
また若し灣の方向が、津浪の方向と高角度を成せば、浪は灣側に激突して、斜めに對岸に轉向し、林博士の謂はゆる「廻し津浪」となり、唐桑灣を襲つたものはその例である。この種の波の轉向に際して、いかに勢を加ふるかは、河流の轉向に際してその正面に斷崖を生じ、水が急激に溝の彎曲部を流れる際、その外側で急に水面を高めること等でも察せられる。但しこの種の場合にも、灣内の水淺ければ、津浪は急に勢を減じ、彼の氣仙沼灣に見られたやうに、輕微な被害で免れ得る。
然るに仙北海岸は、前記のやうに東に開いた深灣に富み、「汐吹き津浪」を招き易く、稀に南に開いたものも、「廻し津浪」を生じ易い。加ふるに、前記の如く水産業を最も主なる生業とし、且つ平地に乏しいため、部落は主として灣の最も奥に近い、僅かの濱に集中し、津浪の勢の最も大きかるべき部分に位する。これその被害をいやが上にも多からしめる所以である。しかるに本縣の東方海底をば、世界最大の海溝即ち日本海溝がほぼ南北に貫ぬいて、深さ八、三○○米の深淵さへ、金華山の東方二五○粁に位する。
この海溝の意義に就ては明かでないが、眞の太平洋底と、亞細亞の大陸邊縁とを界する一大弱點たるは疑ふに由なく、これに沿うて、大規模の地體變動を生じ、以て海底地震となり、津浪を生ずる機會多く、貞觀十一年のもの以來だけでも、少なくとも八回を數へ、前記仙北東海岸は、之に對して被害の最も多い状態に在るのである。
仙南地方は震源に多少遠い上に、津浪の被害少ないやうな状態にあり、また仙北海岸中、渡ノ波、野蒜間の石卷灣岸は、同じ状態にある上に、その外側を牡鹿半島に護られて、津浪の被害更に少なく、東に面した宮戸島の一部等に、僅かにその害を受けてゐる。
今後重ねて今回のやうな津浪の被害の無かるべきはわれ等の望んで己まざる所で、しかも期待し難いところである。ただしその再來の時期に就ては、之を到底豫測し難く、この後數十年の間は、むしろ却つて安全ならんと認められるが、それさへ斷言することは出來ない。從つて、その災害を除かんとせば、少なくとも、鮫ノ浦灣、雄勝灣、追波灣、小泉灣、志津川灣、唐桑灣、只越灣等、東或は南に向いた水深の大きな灣岸では、一切の營遺物を海拔少なくとも一○米以上に移さねばならぬが、かくの如きは望んで能はざるところ、特にそれらの津浪の恐ろしい地帶ほど、漁業を主なる産業とする地理的聯關は、この計畫を困難ならしめる。せめて住宅を高所に移して、船舶、倉庫、漁具等をのみ濱に留め、或は防波林を植ゑ、或は防波堤を設けて、水勢を減ずるの計を要するが、濱々一々分在してゐるこの地帶では、それさへ必ずしも容易でなく、津浪の被害を一掃することは不可能である。一村でさへ十三或は十五濱、その一々にかかる設備が出來ようか。それ故平素津浪に對する訓練と、それに要する知識とにより、一朝津浪が襲つた場合に當らねばならぬ。先づ第一に津浪は概ね地震に伴ひ三陸沖の海底地震は特にその因となり易い。これは本縣沿岸に於ては、通常むしろ緩慢ではあるが、長く繼續する水平動となつて現はれ、平らな場所では東西動を生じ易い。現に今回の津浪に先立つた地震でも、東西に振る時計の振子は仙臺でさへ大部分止つた。但し時には地震が割合に弱くとも、津浪の大きい場合があり、前回即ち明治廿九年の如きその例であるから、地震の強弱にのみ重きをば置けない。
次に津浪はその襲來に時間を要する。その進行は廣い洋上に於てさへ、時速四〇○乃至六○○粁程度であり、その原因となる震源は、三陸の場合には海上多くは二○○粁程を隔てるので、その襲來には凡そ三〇分を要する。
且つ津浪の襲來に先んじ、汐が却つて減退するのが常であり、地震の後に特に非常な引潮があれば、津浪の前兆と認めてよい。また若し一旦増水を見ても、唯だ一回では終了せず、二回、三回と繰返されて、始めて最高調に達する場合もあるから初期の増水後の減潮を以て、津浪の去つたものと認めてはならない。
津浪が灣内に侵入すれば、速度は一層低減し、少しく長い灣になると、灣口を入つてその奥に達するには、二三分乃至五六分を要するから、地震の後には充分海上を警戒し、萬一、灣口に津没を見たら、至急警鐘を亂打して、多少なりとも人命の救助に努めねばならぬ。今後若し灣口の突端或は海上の島嶼等に、高潮の襲來を自動的に記し、その壓力で自動的に色煙火を揚げ、或はサイレンを鳴らす装置でも發明せられれば、一層有效であらうと思ふが、この設備には有線電力を用ふることは不可である。何となれば、電線が地震の爲に破壞せられ、その職責を空うし、人を却つて安心せしめて、慘害を一層大ならしめる危險が多いからである。
之を要するに、若し津浪の多い地方に於て、強い緩慢な地震に會せば、特にその後の潮の増減に注目し、若し特別の變調を見れば、先づ警戒の半鐘を單打し、避難の準備に取りかかり、更に津浪の兆候に接して、警鐘亂打の擧に出づる等、平素充分の協定を遂げ、一般住民に充分徹底せしめて置き、避難の際には成るべく周章狼狽せず、第一に老幼、第二に貴重品、第三に寝具等を搬出するやう、目頃訓練せられねばならぬ。いかなる知識も訓練を伴はずには其效を失する。而してこの訓練は、特に小學兒童に對して有效であり、必要である。何となれば、今後津浪の再來を見るのは、恐らく今の小學兒童が壮年となり、古老となつた時であり、しかも誰しも小學時代の印象ほど、深刻であり、根強いものは少ないからで、ここに教育の眞面目あり、當事者の努力と見識とが、最大の意義と效果とを發揮するのである。余が本篇を請はるるままに本誌に掲ぐるに同意したのも、かかる各位に力を協せんとする微衷からに外ならない。
六、昭和八年三陸津浪襲來の動向 理學博士 林喬
(I) 三陸律浪襲來の状况は三陸沿岸の特異的地形に關係あり。
三陸津浪被害地の沿岸に就て著者が甞て踏破調査した材料によると、該地方を構成する地殻岩層の地質時代は大體古生代と中生代とである。而して所々中生代迸入による火成岩が露出してゐる。試みに其試料(理化學研究所彙報第十二輯、第一號一八八頁)を表出すれば次の如くである。
採集場所 岩石種類 地質時代
鮫(唐島)(青森) 粉岩 中生代迸入による火成岩
鮫(弓はじ)(同) 同 同
鮫(小湊大島)(同) 同 同
田老(岩手) 石英斑岩 同
三貫島(同) 粘板岩、石英斑岩 古生代
釜石(同) 粘板岩 同
唐丹(同) 同 同
廣田(同) 花崗岩 中生代迸入による火成岩
氣仙沼(宮城) 粘板岩 中生代
船越(同) 同 同
女川(同) 砂岩 同
江ノ島(同) 粘板岩 同
渡ノ波(同) 同 同
荻ノ濱(同) 同 同
鮎川(同) 閃緑岩 火成岩
即ち青森縣三戸郡鮫港の鼻を廻つて太平洋に出た地點より久慈に至る間については特徴はあるが大抵砂濱である。この久慈より以南牡鹿半島並に金華山に至る地域は主として山岳、丘陵が急峻な絶壁を作つて海に臨んだ砂濱のない海岸であることが特徴である。この絶壁に向つて、太平洋の波が日夜其攻撃力を礎揮してゐる。この波を防禦してゐる絶壁を構成してゐる岩石は大體上に表出した樣な種類であつて、大體北殊に岩手縣沿岸の岩石が硬くて南程軟く、氣仙沼、女川地方に於ては殊に軟い樣である。讀者は先づこの岩石の硬さと云ふ點に注意を置いて貰ひ度い。
一地方の岩石は一種であるとは限らない。例へば釜石灣の絶壁を構成してゐる岩石は大體次の樣であるが、主として粘板岩より成立つてゐると云つてよい。(理化學研究所彙報第十二輯第一號一六九並に一七二頁參照)
釜石灣を圍繞する岩石
岩石の種類 地質時代
硬砂岩 古生代
粉岩 中生代の迸入による火成岩
粘板岩 古生代
珪岩 同
變質粘板岩 同
千枚岩 同
花崗岩 中生代の迸入による火成岩
さてこの硬い岩石の絶壁からなる海岸の地形が又東北地方特有で非常に屈曲が多いのである。其の重なる灣を擧げると、北より八戸(青森縣)久慈、宮古、山田、船越、大槌、兩石、釜石、唐丹、吉濱、越喜來、綾里、大船渡、廣田(以上岩手縣)氣仙沼、伊里前、志津川、追波、雄勝、女川、鮫ノ浦(以上宮城縣)の順序であつて、先に申し上げた岩石の硬さと云ふことを考へに入れると、岩手縣の岩石の硬い地方程灣の水深が大きいのである。即ち前表によつて、灣の深さと地質構造とを考へると、中生代地質の地方の灣の深さは古生代地質の地方の灣の深さより淺いのである。
又北の方八戸附近から下北半島尻屋岬までの地は殆んど灣のない砂濱の接續した海岸であつて、其地質は主として新しい第三紀並に第四紀の地層に屬して、下北半島の中央部には太平洋岸へ火山岩が噴出せられてゐる。この海岸地域の海も古生代の岩石より成立してゐる海岸地域の海より淺い。之を他の言葉で云ひ表はすと岩手縣沿岸の海岸の海灣は青森縣並に宮城縣沿岸の海灣より非常に深いと云ふことになる。而も岩手縣下に於ける津浪による災害は最も激甚で、宮城縣下に於ける該災害の比ではない。尚宮城縣下に於ける津浪の災害は青森縣下に於ける涼浪の災害より大さい。即ち津浪による被害程度は岩手縣、宮城縣、青森縣の順序でよく當該地方の岩石の新古地質時代による硬軟と、當該地方沿岸に於ける海灣の水深にも關係があつて、一概に震源地よりの遠近によつて輕く片づける譯には行かない。
今自ら岩手縣水産試驗場の「早池峰丸」に乘つて視察研究した結果と他人の視察談とより考察すれば、津浪災害の樣式は明かに大別して二つに區別することが出來る。岩手縣下廣田灣より久慈灣に至る地域に分布せられた津浪災害の一樣式と、宮城縣下氣仙沼灣以南の地域並に岩手縣久慈以北及び之に續いた青森縣下尻屋岬に至る地域に分布せられた津漉災害の一樣式とは明かな相異がある。この二つの津浪襲來の樣式を其分布地域の地殻を構成する地層の新古による時は、第一の樣式は古生代(岩手縣)地層の地域に起つたもので、第二の樣式は、中生代(宮城縣)、並に第三紀、第四紀(青森縣)地層の地域に起つたものと云へる。然るに宮城縣氣仙沼灣より牡鹿半島の突端金華山に至る地域の海灣は、青森縣八戸より下北半島の突端尻屋崎に至る地域沿岸の海より深いので、其津浪襲來の樣式は後者の樣式より多少複雜である。この原因に就て陸地沿岸海灣の水深を考慮に入れると或は地殻運動に關係があるのではないかと云ふ疑間が起きて來る。これに就て當大學(東北大)地質學教室に於て矢部長克博士指導の下に研究せられつつある地殻運動の方向について教を乞ひしに氣仙沼以南金華山の地域並に久慈以北、下北半島の地域に於て最近地質時代に地殻の隆起があり、この中間區久慈より廣田に至る地殻は沈下の傾向を取つてゐる由である。之を水路部の海圖によつて調査するに地殻沈下の地域に於ける各灣は非常に水深が大きいのであつて、地殻隆起の傾向ある氣仙沼灣以南金華山の地域に於ては各灣が非常に淺いのが特徴である。久慈以北の地殻が隆起の傾向を取る地域は概して砂濱が多い。
本編に於て三陸津浪襲來の特異性を述べたいと思ふのは、地殻沈下の傾向ある地域即ち廣田灣を起點として北へ大船渡、越喜來、吉濱、唐丹、釜石、兩石、大鎚、船越、山田、宮古、田老の各灣に於ける波の動向並に其破壞力である。地方的に考ふれば岩手縣の津浪による慘害が最も甚だしいのは、この特徴ある津浪の襲來に基くものであることを特記し度い。
此の津浪を他の津浪と區別するために津浪襲來の樣式に依つて三つの型種に分ち度いのである。
(一) 廻し津浪(本郷型) 被害激烈(一村全滅の例あり)
(二) 引き津浪(氣仙沼型) 被害僅少
(三) 潮吹き津浪(綾里型) 被害甚大
(I) 津浪の各論
(A) し津浪(本郷型)
(。1) 本津浪襲來の地域
之は地殻運動に於て沈下の傾向ある三陸の沿岸即ち岩手縣久慈より廣田に至る地域の各灣に主として起つた津浪で其の特徴とすることは次の如くである。
i、各灣について灣口並に灣内の水深の深度が非常に大きく概して灣口に於て七〇乃至八○米、灣奥に於ても多くは三〇乃至四○米の水深である。
ii、灣の周圍は主として古生代の岩石か火成岩によつて成立する斷崖絶壁によつて取り圍まれて、相當高い山が海岸まで迫つてゐる。
iii、本津浪の被害殊に激甚なる地は必ず灣口より波浪の進入する直面に波の進む方向に對して、多少の角度を有する斷崖が存在する。
iv、本津浪が灣口より進入して一度び灣口に直面した斷崖に突き當ると、この波は恰もホースから出た水の樣な勢を得て、斷崖より反射された樣に一つの方向を得て突進し其進路に部落が存在すれば粉端微塵に打ち碎くのである。
v、東北地方の地圖を試みに擴げて見よ。釜石灣口が假りに正東に向つたものとすれば、釜石灣以北の各灣の口は少しづつ、東北に向つてゐて北に位置する灣程其灣口の方位の傾きが大きくなり、宮古灣に於ては其灣口は殆んど正北に向つてゐる。釜石灣以南の灣口は東南に向つてゐて、南に位置する灣程其灣口の方位の傾きが大きくなり、廣田灣に於て其灣口が殆んど正南に向つてゐることに注意して戴き度い。本津浪はこの地域の灣内に、激烈に押し寄せたものである。而して中央氣象臺の發表によると本回の震源地は釜石正東約二三○粁の由である。この震源地の位置と、宮古附近より廣田に至る各灣の灣口の方位並にこの地域に本津浪の起つたことを考へると、正に地殼運動によつて沈下した形跡の地域に起る特徴ある津浪であると云つても差支はない樣である。
vi、本津浪の襲來に於て例外はあるが慘害の甚しいのは釜石灣を中心として北方に於ては主として右廻りの浪で、南方に於ては主として左廻りの樣である。これによつても地殼運動の差に因る海灣形状深淺の差が本津浪の由來に關係する所多きものと思はれる。
vii、本津浪の起つた地域について廻し波の方向を考へると釜石と今回の地震の震源地とを結んだ線が、過去の地殻運動の軸に當るのではないか。
viii、綾里灣邊より田老灣邊にかけて、所謂例年の厄水と異つた形式に於て厄水の襲來があり、鮑の斃死並に活力の減退著しく打上げらるる率が多くなつて來た。この厄水の害は三月より徐々に甚しく五月六月には相當著しく、八月迄繼續した樣である。この厄水の鮑に及ぼした慘害地域と本津浪襲來地域とが殆んどよく一致してゐること、並に厄水の鮑に慘害を及ぼした時期が、本津浪襲來の時期の約一年前であることは特に注意し度い。尚ほ明治二十九年の津浪襲來の前年に於て鮑に對する厄水の慘害のあつたといふ記録が宮古にあると云ふ話を附記して置く。
ix、地殻の沈下運動をした地域に本津浪が襲來して、この地域の兩翼にある地殻の隆起運動をした地域に引き津浪が來るものとすれば、津浪襲來の形は岩石の硬軟又地質時代によると云ふよりも地殼運動の結果たる海岸地形の影響と見てよい。即ち廻し津浪は三陸沿岸殊に岩手縣沿岸特有の津浪と云つてよい。
x、本津浪は引き波の際に慘害を及ぼさず、押し寄せた時にホースから出た水の樣に一撃に家屋等を粉碎する。其力は越喜來、釜石、末崎村等に於て一號金庫を二○○乃至四○○米以上の地に飛ばしたり、本郷に於て秋保石で作つた土藏等を粉碎して山寄りに破片を飛ばしたりする程強いものである。其進路の樣子は、玉突の球がクツシヨンに打ち當つて反射的に運動する樣に灣を圍む斷崖の地形に從つて恐ろしい勢で突き進み、勢の弱つた地點に破壞物を大抵は委棄して退却するのが特徴である。
(。2) 本津浪を廻し津浪と稱するの理由。
田老(釜石より北)に襲來した津浪は灣口に面した斷崖に打ち當つて其儘右廻りの波(漁夫の所謂廻し波)となつて田老部落を一撃の下に粉碎した。
唐丹灣(釜石の南、第一圖)に於て花露邊と本郷との兩部落は山一つを隔てて相隣り而も灣の入口は一つであり、花露邊が灣口に近いのである。而もこの兩部落を襲つた津浪が時間的に相異して、奥の本郷が先に襲撃せられ全滅の悲運に遭ひ其の引き波の一部が花露邊を襲つて同部落の一部を斜に破壞してゐる。其波の徑路は破壞物並に殘留物に由つて左り廻りに運動したことがよく分る。
大船渡灣(釜石灣の南、第二圖)に於ける津浪襲撃の徑路は顯著で灣に内進入した津浪は進路の正面にある丸森茶屋の斷崖に於て二分せられ一は右廻りの波となつて其主流は珊瑚嶋に於て再び二分して一は右して清水部落を左廻りに襲撃して對岸の下船渡の一部に突入してゐる。珊瑚嶋の左を通つた浪は辨天崎に於て三度目の分派を生じ右したものは永濱部落を左廻りに襲つて其餘波は對岸の平に突入してゐる。辮天崎に於て左側を通つた津浪は山口、生形の兩部落を左廻りに襲ひ餘波は矢張り對岸の大船渡村に突入してゐる。この間大船渡灣内灣口より向つて左側の地域は廻し津浪の突入部を除けば被害は單なる浸水程度である。即ち大船渡村に屬する下船渡、平、永澤、笹ケ崎、大船渡の各部落の被害は安全牽が非常に多いのである。然るに右岸の蛸浦、清水、永濱、山口、生形の各部落赤崎村に屬するものの左廻りの津浪による慘害實に大なるものがある。
丸森茶屋に於て左廻りとなつた津浪襲撃の威力は猛烈で石濱部落の沖を直進し、末崎村細浦部落の埋立地(細浦港入口より港の奥に向つて松島の右側)コンクリート作りの岩壁に衝突してコンクリート壁を破碎して、完全にV字型に抉り取つた上斜に埋立地に東南の方向に溝を作つて細浦灣に雪崩れ落ちたために、この部のコンクリート壁は海底地盤の落盤によつて海ヘ崩れ落ちてゐる。この細浦
灣内へ雪崩れ込んだ廻り津浪の勢は盛んで對岸の民家漁船を一撃にしたまま、細浦東南隅の山地の腹を左に廻つて細浦部落西南隅の民家を襲撃した後東岸に沿つて退去してゐる。よつて殘留した民家は細浦港口の松島より港奥に向つて、埋立地岩壁のV型破壞地の右に當る數軒と右岸中央部の數軒のみの慘状である。
■に述べた例が三つの灣に限られてゐるがその津浪の襲撃の徑路が如何に明確に追跡出來るかと云ふ點と波の動きがホースから出た水の樣な勢と破壞力とを持つて、玉突に於て打たれた球がクツシヨンの上を壁や球に衝突しながら、反射的に運動する樣子によく似てゐると云ふことを了解せられたならば、この津浪に廻し津浪といふ命名が如何にも適當と思はれるだらう。
この例に這入る津浪の災害地は前にも述べた樣に、三陸沿岸の最近地質時代に地殻沈下運動をつづけたる地帶にのみ存在してゐるのであつて、其災害は最も甚大で、部落の痕跡をも止めないのみならず廻し波の徑路を最もよく遺留物によつて示してゐる點で本郷を代表の名として、本郷型の津浪の災害と稱し度い。
(。3)廻し津浪の模型は存在する。
岩手縣上閉伊郡釜石灣の灣口に鷲ノ巣崎と云ふ岬がある。この岬の突端は灣外に向つて凹字型になつてゐる。平常沖合から來る表面波はこの凹字型の岩角で所謂廻し波の現象を起して、其の波の右廻りの進路に當る岩壁に穴が穿たれて波の去來する毎に音をたててゐる。これによつても廻し波の破壞力がよく分ると思ふ。
本津浪の廻し津浪と稱する所以が一般論として後章の説明によつて一層明かになると思ふ。
(B) 引き津浪(氣仙沼型)
(。1)本津浪襲來の地域並に其の特徴
本津浪は前項に於て己に述べた廻し津浪襲來の兩翼にあたる地方、即ち地殼運動に於て隆起の傾向ある地域、主として氣仙沼より南へ牡鹿半島に至る地域、並に久慈より北へ下北半島に至る地域に襲來したものである。本津浪の特徴は大體次の如くである。今報文短縮の便宜上氣仙沼より金華山に至る地域を氣仙沼地帶、久慈より下北半島に至る地帶を、久悲地帶と稱する。
i、氣仙沼地帶各灣の灣口並に灣内の水深の深度は大ならず、灣口は一五乃至三〇米、灣奥に於て二乃至七米の水深である。久慈地帶は概して砂濱續きと云つてよい。
ii、氣仙沼地帶は主に中生代の岩石より成立して海岸まで山が迫つてゐても大體丘陵型が多い。久慈地帶は主に新世代の地層から成立してゐて砂濱續きの陸地が多い。
iii、本津浪の襲來は徐々にやつで來て其災害は津浪退去の時に及ぼすのが特徴で、家屋被害の多くは浸水程度であつて器物、小船等を持ち去ることはあるが人命に害を及ぼすことは少ないと見てよい。
(。2) 本津浪を引き津浪と稱するの理由。
後章説く所の津浪一般論に於て一層引き津浪と云ふことが理論的に分ることと思ふが、■に其代表的の一例に依つて説明し度い(第三圖)。
氣仙沼灣は本津浪襲來の代表的のものであるのみならず、最近地質時代に幾分地殻隆起運動の行はれたる地帶と地殻沈下運動の行はれたる地帶の隣接地であり、地質的には中生代と古生代との地帶が隣接するの地である。而し一層面白いことは氣仙沼灣は大島によつて西灣と東灣とに分離せられてゐて、階上村、松崎部落より氣仙沼に至る西岸地帶は古生代の地質構造で大島及び東岸唐桑半島は中生代白亞紀の地質構造である。即ち氣仙沼灣は津浪襲來の條件に於て西灣は引き津浪襲來の地域であり、東灣は廻し津浪襲來の地域であるといふ興味百パーセントの地帶である。
今東灣と西灣の水深を比較すれば一層面白い事實が存左することに氣付かれると思ふ。東灣は灣口の水深約七〇米、それより灣内に入るに從つて淺くはなるが概して三〇乃至四○米で東灣の奥より西灣の腰部に通ずる大島の瀬戸に於ては鶴ノ浦迄約三○米の水深を有する。然るに西灣の入口は水深約一五米にして、灣内に入ること約一粁にして水深は急に減じて約七乃至九米の水深である。灣奥に近つけば蜂ケ崎の地峽部を經て鼎浦に達するのであるが、この蜂ケ崎地峽の附近に於ては水深二乃至三米にして目下浚渫中である。鼎浦は概して六乃至八米の水深を有する。即ち東灣は地殻沈下地帶の灣に類する水深を有し、西灣は明かに地殻隆起地帶の海灣に特有な淺海であることが其特徴である。
この氣仙沼灣を襲つた津浪の動向が如何樣であるかを知るには其被害程度、波浪の動いた徑路を知ることが必要である。よつて西灣より其徑路を記して、東灣に及び度い。
灣口より早池峰丸を入れて西灣の東岸地帶大島村の西灣に接續する各部要害、淺根、高井、田尻、浦濱、大水、磯草を見るに被害の顯著なるものなし。岸邊に築造された葭簀製のノリ簀はその儘存在してゐる、西灣の西岸地帶階上村の各部落を經て松崎部落に至るに之また特筆すべき被害を見ず矢張りノリ簀は原位置に安置された儘である。灣奥に近い蜂ケ崎地峽部に於て小々汐部落の岸を迂廻した津浪が該地峽部を經て鼎浦へ溢流する際其の一部が水堤を越えノリ養殖場へ流入したために丁度水害後の稻田に於けるが如く粗朶が西岸地帶へ向つて雜然と打ち靡いてゐる。又このノリ養殖場へ鼎浦西南部に於て作業をしてゐた浚渫船一艘が津浪退路の方向に水堤を越えて置き去りにされてゐる。蜂ケ崎地峽部に於て作業をしてゐた浚渫船は其儘で原位置に於て目下差障りなく作業に從事してゐる。鼎浦並に氣仙沼港内の被害は絶無と云つてよい程である。
鼎浦に於ては垂下式牡蠣養殖の桴が悠々と原位置に鎭座してゐるのを見ても如何に津浪の襲來が靜々と押し寄せるものなるかと云ふことが首肯出來なければならない。この津浪の襲來を受けた氣仙沼住民の多くは三月三日早朝に於て魚市場に海水が押上つた形跡のあるのを發見し、初めて地震後に津浪の襲來があつたことを知つたといふ報導が該地に上陸した著者の手元にある。
この氣仙沼西岸の津浪襲來の模樣を見るに、押し寄せる時に如何に靜かであつたかは、地峽部蜂ケ崎小々汐に於て波打際に築造されたノリ簀が安全百パーセントで存在してゐることである。而してこの津浪の引き波の作用は押し寄せた時より勢ひが猛烈であるから鼎浦の浚渫船を其退路のノリ養殖場へ持ち去つたものと見てよい。即ちこの型の津浪の作用は重力の作用を受けることが非常に大であるから其性、其作用に因んで引き津浪と命名する所以である。
さて氣仙沼東灣に於ける津浪襲來の模樣に就ては己に上に述べた樣にこの灣が地殻沈下地帶の性質を帶びてゐるがこの灣の西岸地帶大島は地殼隆起地帶に屬してゐるとみてよいし、地殻隆起の作用と地殻沈下の作用とが働いて地殻に歪みの作用を及ぼして所謂皺を作つたのが大島瀬戸であるから、この灣の性質は廻し津浪と引き津浪の中間の浪が來たと見てよい。其被害を見れば東岸地帶に屬する唐桑村部落に多少廻し津浪と思はれる津浪があつて漁船の損害も相當にあつた。
しかし灣奥の藤濱、舞根部落にはノリ簀が存在してゐた。この灣の最大の被害地は小鯖部落であるが、この被害は裏の丘陵地帶を越えて廣田灣に沿うた部落の被害と雲泥の差がある。即ち廣田灣は純然たる地殼地下運動の地帶に屬する灣で、此處に襲來した津浪は廻し津浪に屬する。それで、氣仙沼東灣は丁度兩津浪の中間の如き襲來模樣とみてよからう。
以上の例によつて明かな如く、引き津浪の襲來地は地殻隆起運動の地帶に來るもので其災害の型が又特別に廻し津浪による災害の型と明かに區別することが出來て、陸上の器物が引き浪によつて攫らはれるのが特徴である。之れ女川、志津川等に於て鰯締め粕の被害が多額の金額に上つた所以である。よつて其災害の最も少かつた代表を名として氣仙沼型津浪の災害と稱するも異議はないものと思ふ。
(C) 潮吹き津浪(綾里型)
(。1) 本津浪襲來の地域並に其特徴
本津浪は主として大船渡灣口より牡鹿半鳥に至る中生代の地質構造を有する地域に疎らに襲來したもので灣口の方位には無關係である。その特徴とする所は次の項によつて示し度い。
i 本津浪の襲來する灣は細長いのが特長である。
ii 灣の兩岸は灣口より灣奥まで大體屏風の樣な絶壁が並列してゐる。
iii 灣口の水深は大きく灣奥に向つて急に深度が減じてゐる。
iv 灣奥の部落は大抵V字型の谷合に沿つた河段丘に民家がある。
v 本津浪襲來の模樣は恰も龍の昇天する如く地峽の灣へ襲來した激浪が灣奥の部落へ奔騰して山上の方向ヘ民家を吹き上げるのである。
(。2) 本津浪を潮吹き津浪と稱するの理由(第四圖)。
大船渡灣口東岸に於て外洋に近い部分に立石山が存在して其山陵の太平洋へ向つて走つた突端が綾里岬となり、西南に向つて海中へ沒した突端が小黒岬である。この小黒岬に對して、對岸の八ケ森の峰が南方へ延びて、小路岬を形成してゐる。小黒岬と小路岬の中間に於て陸地が凹部を形成して深く灣入してゐる。この灣の最奥の陸地は山岳で谷間のV字型になつた地域即ち綾里川の河段丘に沿つて民家がある。この灣は小黒岬と小路岬を結んだ線より灣奥へ進むこと約五○○米で急に細くなつて灣の中は殆んど同じで高い絶壁が相平行して灣奥ヘ連つてゐる。灣の水深は大船渡灣口に於て約八○米でこの小黒岬と小路岬の中間に於ても約七○米である。而して灣奥へ向つては水深が急に減じて灣奥近くには殿見嶋が存在してゐる。
この綾里村へ襲來した津浪は丁度潮吹きの如き状をなして全村を粉碎し、小學校と二三の民家を殘留したのみである。
之れ潮吹き津浪と呼ぶ所以である。
本津浪の例は地殻沈下運動地帶には少く綾里は特例と見てよいかも知れない。地質的には中生代、而も地殻隆起運動地帶である宮城縣沿岸に於て津浪の慘害が相當甚大であつたのは一重にこの型の津浪襲來の結果であつて、山田灣外姉吉、歌津村の田ノ浦、十五濱村の雄勝、大原村の鮫ノ浦は之に屬する。この津浪襲來による慘害の特徴を其代表名綾里を選んで綾里型と呼び度い。
(。3) 潮吹き津浪の模型は存在する。
宮城縣本吉郡階上村杉ノ下部落の地續きが一部括れて岩井崎となり、氣仙沼灣の西口を扼してゐる。この岩井崎の一部で太平洋に直面した箇所が岩礁となつて海面へ突入してゐる。この岩礁が複雜な破れ目を作つてゐて、其一つの岩の罅隙が深く岩盤の横部の上向きに凹入してゐる。この凹入部へ突入した海洋の表面波は長年月の間に岩盤に次第に上向きの穴を穿つて遂に岩の上部へ天井穴を突き拔いた結果、今日では波の押し寄せた模樣によつて約五米の水柱を奔騰せしめる。
この水柱の奔騰は大抵三乃至五回目に押し寄せた、海岸の表面波によつて起るから大體周期的と見てよい。之によつて益々潮吹き津浪の存在が明かであり、且つ引き津浪襲來の地帶に疎らにして猶ほ獨立に廻し津浪に似て非なる津浪の襲來したことが了解出來るだらうと思ふ。
〔III〕 津浪襲來の樣式は主として地殼運動による海岸地形並に震央の位置に關係あるものの如し。
(A) 各型種津浪の襲來地と其地理的分布(圖參照)
前編に於て今回の三陸津浪襲來の模樣を三つの型種に分類した。この三種の津浪が地理的に如何樣に分布してゐるかは海洋學上の問題としても、津浪被害豫防の方法を講ずる上からも重要な問題と思ふ。
廻し津浪襲來地を航海による調査の結果より地圖上に記入すると、該被害地は廣田灣より久慈に至る間のみに限られてこの地域には引き津浪の襲來がない。今中央氣象臺發表の震央釜石の東方二三○粁(東徑四四度六、北緯三九度二)の地と遠野盆地(該盆地を中心として北は藥師岳より東へ躑躅山、天狗森、白森、南ヘ老野ケ森、片羽山、仙人峠、西へ六角牛山、笛吹峠、赤羽根峠、蕨峠北へ宮字町を經て藥師岳を結ぶ線内は其地質構造が總て、中生代迸入による花崗岩の大地塊から構成せられてゐる)の中心地大體遠野とを結ぶ線を地圖上に引く時は釜石は丁度この線上に來るのである。模型圖に於て遠野をF、釜石をC、震災をOとすれば、FO線を中心として廻し津浪襲來の地域に於ける津浪運動の旋回の方向が明かに南方と北方に於て區別せられる。即ち釜石より久慈に至る北部地域に於て襲來せる廻し津浪は洋上より陸地に向つて、右旋廻で、丁度時計の針と同じ方向に旋回運動をする傾向が著しく、釜石より高田に至る南部地域に於て襲來せる廻し津浪は左旋廻の運動をしてゐる。依つてこの廻し津浪の旋廻方向と其襲來地域を一目瞭然とする樣に模型圖に記入した。
引き津浪の襲來せる地點を地圖上に記入して、其地理的分布を檢討するときは、氣仙沼以南の宮城縣、福島縣の海岸地域並に久慈以北の岩手縣、青森縣、北海道(太平洋沿岸)の海岸地域に該津浪が襲來してゐる。之を便宜上模型圖についてA金華山、B氣仙沼、D久慈、E尻屋崎として矢によつて引き津浪の襲來地を記入した。
潮吹き津浪襲來の地は、金華山より大船渡に至る區間、模型圖に於ける彎曲部に於て、彎曲の甚しい地點に引き津浪に混在して孤立的に分布してゐる。而もこの地域以外の福島縣、久慈より尻屋崎に至る彎曲部並に北海道の海岸地域に於てこの種津浪に類する慘害の報には接してゐない。そこで潮吹き津浪の襲來地を模型圖に記入して三陸に襲來した津浪の樣式が該地方に起つた特異的のものであることを明かにし度いと思ふ。
(B) 三型種津浪襲來の樣式發生原因に關する考察(第五圖)
前項に於て述べた遠野盆地を中心とする花崗岩地塊の中央Fと今回の震央Oとを結ぶFO線の北方CD彎曲部に右廻しの津浪が襲來し、南方CBの彎曲部には左廻しの津浪が襲來した。而してこのBD彎曲部の兩翼AB及びDEの部分に引き津浪が襲來した。この津浪襲來地分布の模型圖と之に附隨せしめた地圖を對照してABCDE彎曲部に相當する金華山より釜石を經て尻屋崎に至る海岸地形をよく注意すれば釜石灣の開口は遠野と震央を結んだFO線の方向にある。
而もこのFO線を中心として北へ兩石(一)、大槌(二)、船越(三)、山田(四)、宮古(五)の各灣を辿る時は各灣の開口はFO線に對して、一、二、三、四、五、の順序に次第に傾斜の度を増し、FOの方向から時計の針の運動と反對の方向に廻轉した樣に順序よく列んでゐる。又FO線を中心として、南方へ唐丹(一)、吉濱(二)、越喜來(三)、綾里(四)、大船渡(五)、六ケ浦(六)、廣田(七)、氣仙沼東灣(八)、の順序に其開口はFO線に對して、傾斜の度を増してFOの方向から時計の針の運動の方向に廻轉した樣に順序よく並んでゐる。斯樣な灣口排列の地形と地質構造の状を比較すると一層面白い事實がある。
しかし、著者は地質學又は地形學專門の研究者ではない。單に海洋化學の研究に從事してゐた結果、三陸津合の海况殊に釜石を中心とした海况に就いて多少の知見を有してゐたこと、長年月に亘つて三陸沿岸並に沖合を航海したり北上山系の山を踏破してゐたこと、並に今回津浪後に海洋觀測をなす可く岩手縣水産試驗場早池峰丸によつて災害地を親しく調査觀察するの機會を得たことの三者によつて、觀察せる津浪襲來の徑路について一樣でないといふ事實を發見することが出來たのである。而してこの事實の原因を究めやうとしたのであるが■に端なくも地殻運動によつて形成せられた海岸地形が主因であるといふことが分つた。而してこの海岸地形の形成については地質構造と云ふことが間接的に問題となる。しかし細い地質學、地形學の問題は別として高所から見た津浪襲來の樣式について地質構造と地殼運動による海岸地形とを考慮に入れて瞥見して見たい。
そこで明治三十五年訂正農商務省地質調査所の出版にかかる大日本帝國豫察東北部地質圖(矢部教授より貸與)による時は岩手縣東半海岸に及ぶ地域に亘りて、著しい古生代の地質構造が發達してゐる。此地域を地圖上に辿るならば、大體青森縣東南部岩手縣に近い階上岳、名久井岳を結合した線から南へ下つて、岩手縣に入り笄岳、沼宮内、川口、盛岡、乙部、土澤、黒谷、鳥兎ケ山、七日町を經て宮城縣に入り、登米に及ぶ。この地より方向は轉じて、東方海岸に向ひ、大體海岸傳ひに小泉、大谷、氣仙沼、を通過し、岩手縣の海岸となる。即ち高田、盛、唐丹を經て宮古地方遙かな黒崎より再び階上岳に歸る。斯樣に廣汎な地域の北に第四紀(更新統、新世統)又は第三紀層の地域が連接して、久慈以北尻屋崎に至る地形を造つてゐる。又この古生層地域の南には中生層地域が連接して南端牡鹿半島に至る地形を造つてゐる。
三陸津浪による被害の最も甚しかつた岩手縣、宮城縣次いで青森縣の各地方に關する地質構造の大體を了解して次は最も重要なる海岸地形の問題に移り度い。
ABCDE地帶に於て地殻隆起の傾向著しい地方は氣仙沼地方(B點に相當する地方)並に八戸地方(DE中間の彎曲部に相當する地方)であつて、水路部の海圖(No.七二)による時は氣仙沼灣附近の海は約六米、八戸附近の海は約四米であつて他の部分より非常に海が淺いのである。BCD地帶は大體沈下の傾向があるが釜石灣(C點)に於て共灣口の深さは最大で約八○米である。BA並にDE地帶もその突端に向ふに從つて多少沈下の傾向があつて、牡鹿半島の突端近くでは海の深さ約三〇-五〇米である。下北半島は大體第四紀の地質構造であるから海岸が渚續きで沿岸の海は概して淺いが尻屋崎附近に於ては深さ約二○米に近い。
上に述べた樣に地質構造と地殻運動とが三陸地方に於て特有な海岸地形を造つてゐるのであつて■に再び第III章のA項に記した三型種津浪襲來の地理的分布を考慮に入れて、特殊な三陸の海岸地形と津浪との關係を檢討するときは興味ある事實の存在に驚くのである。
廻し津浪は全く三陸地方に於て最も古い地質時代(江ノ島列島の一部を除く)に成立した地域の而も陸地沈下の地殻運動による結果出來上つた海岸地形の地方に襲來したものである。其右旋回と左旋回の方向に襲來する模樣と各灣口の方位とを考ふれば震央と紡錘状をなした古生代の地層よりなる地域の中央に迸入した火崗岩塊の地とを連結する線によつて明かに南北に二分せられてゐる點を特に注意し度いのである。
引き津浪は三陸地方に於て(模型圖によつで説明する時は)AB地帶並にDF地帶にのみ襲來してゐる。其襲來による被害状况を見るに、地殻隆起の運動によつて形成せる海岸地形の著しい氣仙沼地方、八戸地方に於ては引き津浪襲來の模樣が代表的である。
AB地帶には主として引き津浪の襲來があるが、旋廻運動のない點に於て引き津浪に似てゐるが、押し寄せる力の猛烈さ並に家屋破壞の方向に於て廻し津浪に相似たる潮吹き津浪が疎にら襲來した地體がある。AB地帶即ち宮城縣沿岸の被害が青森縣沿岸の被害より大なるは主としてこの潮吹き津浪の襲來によるものである。それで海圖によつてAB地帶に於ける引き津浪と潮吹津浪の襲來の地を檢査すると、潮吹津浪襲來の地は灣口の水深が引き津浪襲來の地より大きいのである。而も其灣形が第II章C項に説明した樣に大體綾里型になつてゐる。潮吹き津浪襲來地鮫ノ浦(三五米)、雄勝(四○米)、田ノ浦(五○米)等の灣口の水深より引き津浪襲來地(水深三○米以下)の灣口の水深が小い。これは海圖によつてよく窺はれる。
以上述べたことを摘録すれば津浪襲來の樣式に就いて三型種の存在を認めたが、其原因は主として地殻運動の結果形成せられた海岸地形と震央の位置によるものらしく、地殻運動によつて海岸地形の定まることに就ては地質構造にも關係があるから地質構造は津浪襲來の樣式に二次的の關係があるものと思はれる。
斯く三陸津浪の樣式に就て發表の形式を急いだ所以は地震並に津浪襲來の跡が生々しく殘存してゐる間に各方面の學者が徹底的に調査せられ、其周到なる研究の結果が我國海岸に住居する漁民の津浪に對する恐怖心を徹去し、安んじて其業に就くことを得しめ、我國水産業の發展する基磯の確立を願ふがためである。
七、津浪の到達時刻に就て 石卷測候所長 野口篤美
津浪の到達した時刻に就ては、同一部落で聽取したものでも人に依つて可なりの相違があるので、勿論正確と云ふわけには行かない。幸ひ本縣下には海洋氣象臺の鮎川檢潮所を始め、内務省鹽釜港修築事務所の花淵及尾島檢潮所、北上川改修事務所の石卷及十三濱村月濱檢潮所があり、此處の記録は幸ひ全部完全に記象されてゐるから、これで測定した時間は勿論正
確なわけである。只色々の原因に依つて、時間に相當の喰ひ違ひはあるが、これも幸ひな事に各記象紙共大地震の跡を殘してゐるので、筆者はこの地震の根跡を、二時三十二分と見做して時間測定の基礎とした。
津浪の傳播状態を調べるために、模型其他に依つて色々の實驗をやつて見てゐるが、此の方はまだ纏りがついてゐない。そこで長波速度の一般公式 v = √gh (但しvは傳播の速度、gは重力の加速度、hは海の深さ)を採用し、水路部發行の海圖その他の地圖に依つて、海の深さを第一表の如く取り、各深さの所に於ける浪の傳播速度を計算した。
勿論震央に於ける浪の擾亂は、地震と同時に起つたものと假定した。而してハイゲンスの法則に從つて、震央(束經百四十四度七、北緯三十九度一)から一分置きの浪の等到達線作圖を試みた。
即ち本文中最後の圖がその作圖で、×印は震央を示し、實線は浪の等達線(數字は分を示す)、破線は海の深さ(數字は米を示す)を表はしたものである。灣内の作圖は鮎川附近のものと雄勝灣のもので、他は遺憾ながら印刷の都合上割愛してしまつたが、大體の模樣はこれで充分窺はれる事と思ふ。潮流の状况は水路部發行の水路要報に依つて、日本近海の海流三月分
全部と二月分の一部を圖示したもので、潮の方向(圖上矢で示す)、速度(矢の上の數字で單位○、○一粁/分)等をそれぞれ考慮して見たが、作圖上殆んど誤差の範圍内程度のものであつたから、本問題からはこれを省略した。
津浪の傳播速度は、勿論海の淺い所に來れば著しく減じて來るもので、灣内各部落の近海では大抵は深さ十米内外のものであるから、遠度も平均秒速十米位のものとなつて來る。そこで津浪が灣口から海岸まで達するには大抵四、五分乃至十分を要し、而も地形上多くはすぐその後面に小丘を控えてゐるので部落民は灣口に津浪の襲來を見てからでも、充分逃げあふ
せる事が出來る。例へば大谷部落では、出漁準備中の漁夫が津浪を見てから村民に急報避難せしめたものであつて、同部落では一名の死者も出さなかつた。
偖て此の作圖の結果得たる津浪の到達所要時間と、檢潮自記紙から得た値とを比較して見ると、第二表の如くなり、この間僅少の喰ひ違ひはあるが、此の程度の相違ならば先づ一致したものと看做して差支ヘはあるまい。即ち言葉を換へて云へば、津浪の起つた場所は地震の起つた場所である事を立證するものである。假りに然らずとして、一部の人の説の如く、津浪の發現場所を東經百四十三度、北緯三十八度三分の地點なりとすれば、同樣な作圖法の結果は同表で示す如く、平均約十一分餘の誤差を生じて來る。
尚次に示す第二表中の津浪の高さは各驗潮自記紙より測つたものであるが、第五圖の波高圖に表はした津浪の高さは實地踏査に依つて測定したものと、その部落民に就いて聽取したものとを纏めて圖示したものである。
更に此の作圖法に依つて得たる各地の津浪襲來時刻を北から順次列擧して見ると第三表の如くなる。
即ち津浪が震央から海岸に達するまでの經過時間は、金華山から北の本縣東海岸では地震後平均三十七分弱となる。而して之等の地方の住民から聽取した平均經過時間は二十九分弱であるが、聽取した方の時間が多小少なくなつて來るのは蓋し當然な事である。第二回目の津浪の強かつた所が相當多い樣であるが、何分夜分の事で輕微な初波は見逃し易く、而も東海岸に於ける津浪の最初の週期が十二、三分程度のものとするならば、八分内外の相違は見方に依つては寧ろ適當と見做す事が出來やう。
偖て以上の作圖から得らるる大體の結果を■に要約して見ると
(一) 此の作圖に依つても、長波速度の公式 V = √gh は實際に適用され得る事が立證出來る。
(二) 津浪の起つた場所は地震の起つた場所である。
(三) 金華山から北の本縣東岸に於ける津浪襲來までの所要時間は、平均約三十七分弱であるから、此の邊に於ける津波の速度は平均秒速百二十米乃至百三十米程度である。
(四) 津浪の傳播状况は内陸に近づくに從つて次第に海岸線と平行になり、灣内に於ては殆んど海深線の型に近くなる。
(五) 潮流の遠度は津浪の速度に比して極めて小さく、(一〇○○米の所でその二百分の一程度)殆んど作圖上誤差の範圍内程度のものである。灣内に於ける干滿潮流に就きても同樣である。
(六) 更に津浪の影の現象について一言述べるならば、勿論同程度の障害物に對しては、暴風雨時の激浪の如き波長の短い場合は影を生じ易いが、津浪の如き長波長の場合は影を生じ難いもので、例へば本吉郡波傳谷は、外洋に對してその前方海上に椿島を控へ、暴風雨時の安全地帶をなして漁船に對しての避難繋留場であるが今回の津浪に對しては殆んどその効なく繋留漁船は全部流失、最近敷設せられた高さ一丈二、三尺余の縣道に依りて、辛うじて住家の被害を免れたる状况にして島は殆んど効果はない。而し極めて海岸に接近した津浪は、波長が短かくなつて來るので多少有効の場合もある。
尚前記各檢潮自記紙に依れば、今回の津浪は全部大津浪襲來前に數分程度の可なり顯著な上げ潮が表はれて居り、各部落に就いても注意深き人でこれを認めた所が所々ある樣である。此の點特に注意に値する所であらう。
八、被害地土壤鹽分調査成績及考察 宮城縣立農事試驗場調査
海水の浸入及び冠水により土壤はその理學的性質及化學的性質に惡影響を及ぼすは勿論なれ共、直接作物に影響するものは食鹽の含量其の他海水に溶存する鹽類及び濃度の如何である。
一般に鹽化物の植生に及ぼす有害作用は組織を破壞し、水分の吸收利用を減じ從つて養分の利用も少く、植物は萎凋の状態となり枯死するものである。莖葉部に於ては接觸せる溶液が濃厚となれば細胞の原形質を破壞し、その生活機能を奪ふ爲白色化し來るものである。從つて是等は、土壤の種類・排水状態・雨量・淡水灌漑等により異り、又作物及品種によりても差異を生ずるものなれば、抵抗性の大なる品種を選ぶべく、又比較的生育の進みたるもの影響小なるが如し。
土壤の化學的に及ぼす影響は、主として曹達、及苦土等にして其の他種々なる鹽類を含む爲、粘土含量比較的多い土壤では固結を促し、透水性及通氣を小となし爲めに酸素の缺乏を來し、又停滯水を生ずる等土壤中に於ける還元作用を助長する爲有害となり即ち亞酸化物の成生の因となる嫌がある。又鹽化物は土壤中の可給態養分にも影響し之を流亡せしむるが如き作用を爲すものである。
細菌學的に見る時は土壤をアルカリ性となすを以て、酸性を好む細菌は生活をとどめ、又濃厚なる時は殺菌的に働く場合がある。
斯くの如く上壤が細菌學的に不良なる状態となるを以て有機質肥料の分解が遲れ、漸次黒色を與へ酸性腐植生じ、氣温上昇と共に急激なる分解をなす爲水田にては稻の成育を遲らしめ、病害の發生を多くし減收の原因をなす場合が尠くない。
今海嘯冠水地土壤の水素イオン濃度を測定せるを以て之を示せば次の如くなる(食鹽を定量せるものと同一土壤十二點を選び測定す)。
備考 土壤一、水二の割合とし混濁液を用ふ。
即水素イオン濃度は大部分七、○以上にして七、○以下にても六、五を下るものがなかつた。これにより見るも海水の浸入地は概してアルカリ性に傾くものである。
(一) 第一期調査成績
海水の浸入は右に述べたるが如く土壤に惡影響を來すものなれば海嘯により冠水せる耕地中代表的の箇所として左記の如き場所を選び土壤の第一期採取をなし鹽化ナトリウムの含有量を調査した。その成績は次の如くである。尚採取期日は諸種の都合により一定に出來ざるは殘念であつた。
備考 海嘯の退去と共に自然に排水せる箇所より採取せるものである。
右の表に依れば水田に於ては鹽化ナトリゥムの含量大なるは唐桑村石濱の表土にして○、九三七%を示し次いで階上村明戸の○、六〇六%最も僅少なるは表土に於て大原村谷川の○、一七三%下層土にては○、○三六%の亘理郡坂元村磯であつて、この儘の状態にては植生に影響する濃度を有するものあり。然し水田にては灌水により濃度小となり、又挿秧迄には相當の時日を經過するを以て應急處置として肥料石灰の撒布及び淡水灌漑につとめ除鹽に意を用ふる時は影響無きものと考へられるが、海岸地方の田圃は一般に排水不良にして除鹽に困難を來し從つて鹽拔けの状態不良となり且又潮流の關係にて又々海水の浸入を受くるが如き土地はよく留意し排水を計り鹽拔きに努力すべきである。
右の如き含鹽量にては苗代として勿論不適當なるも播種當時の鹽分含量を調査する必要がある。
畑地に於ける含鹽量の最高は作土及表土にて歌津村港の○、九六五%唐桑村石濱部落の○、五〇二%にして、下層土及心土にては唐桑村石濱の○、五〇%である。最低は亘理郡坂元村磯の○、〇三一%にして無被害土壤と大差なく、心土も亦その含量少し、概して砂質土はその脱滷早く爲に含鹽量僅少となり多少粘土の含量多き土壤にては三月三十日の採取では既に表土の含鹽量少く、却つて下層土に含まるる量大となつて居る。之水田に於ても同樣に見らるる所である。從つて土性降水其の他により滲透の速度に差異を生じ、その結果採取時期により表土、下層土に含まるる鹽化ナトリゥムの比率が變化するもので五月上旬採取土壤の分析成績と相俟つて是等の關係が一層明かとなる。即ち透水性毛管性が自然除鹽に大なる關係を有するものである。
採取期日三月十八日頃迄の畑地の含鹽状態では植生に影響するが如く見らるるも、一般に海岸の畑は砂質系統の土壤多く從つて透水性大に毛管性に乏しければ鹽類の脱滷相當急激に行はるるを以て鹽分の含量低下するものの如く考へられ、大、小麥の生育も氣候の温暖となるにつれて漸く活溌となる爲、根部の枯死を免れたるものは新莖葉を生じ、これが生長を始める時は表土中に於ける鹽分僅少となり、却つて刺戟を作物に與へ生育を促したるが如く見られる。以上含鹽量を總括的に考ふる時は田にありて苗代地の如く耕起しありたるものにありては、鹽分は深層迄滲透せるも表層凍結せるものに於ては含鹽量少きを認め、畑地にありては海嘯前土壤乾燥膨軟となり居たるを以て鹽分は比較的深く深層迄滲透せる傾向がある。田畑浸入程度激甚地にありては植生に影響あるが如く考へられたるを以て應急處置として次の如く事柄を勵行せしめた。
(一) 田畑を通じ海水停滯せるもの相當多きを以て極力之が排水に努むること。
(二) 田にありては耕起して淡水(河水、池水等)を灌漑(掛流)し鹽拔を行ふこと。
(三) 苗代は海水の浸入せざりし地に設け海嘯浸入苗代は本春之を苗代として使用せざるを安全とす。
(四) 畑及淡水灌漑の便なき田にありては深く耕して降水(雨雪)に依る鹽拔をはかること。
(五) 堆肥は極めて完熟のもの反當二百貫位施用のこと。
(六) 石灰は十五貫乃至三十貫位を加用すること。
(七) 速效性の肥料を田ひ肥料不足を起さぬ樣に努むること。
尚右の成績を表土及び下層土別に平均すれば次の如くなる。
即ち採取時期の遲るるに從ひ表土の含鹽量少く、下層土の鹽分含量増加するものの如く畑地に於て著しい。これ降水其の他により滲透する爲めにして、畑地にては透水性大なる爲水田に比しその流去速かならん。總平均にては田に於て下層土は約半量を示し畑地にては略々等しき傾向を有して居る。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.4MB
(二) 第二期調査成績
斯して時日の經過は應急處置の結果著しく鹽分を低下する傾向あるを以て、第二期の鹽分調査を五月上旬に行ひたるに其の結果は次に示す通りである。採取地は可及的に第一期と同一箇所にした。
備考 深さ中上表とあるは海嘯により地表面に運積せられたるものにして、尚大原村小淵「上表」は三月中旬には海泥停滯し其の後徐々に流去し泥土沈積したる後五月上旬に至りて乾燥せるものである。
海水により運積せられ生じたる「上表」土は別として一般に第一期調査成績に比し著しく鹽化ナトリウムの含量少く○、一%に達するものは水田では十一點中四點にして、海泥の下層をなせる大原村小淵の作土(砂壤土)○、一六五%にて最高を示し、次いで海砂の運積せられその下層をなす階上村杉ノ下の作土(砂土)は○、一二五%、同村明戸の○、一一九%の順にして畑地にては最高○、一○三%にして歌津村町向の土性土壤なる心土である。畑地にては其の他○、一%に達するものなく同村港部落の心土である。砂壤土は○、〇九九%で約一%を示すのみである。僅少なるものにては畑地の○、○一八%最も少く、水田は○、〇三○%の尠少にして無被害地に類似したる含量を示して居る。
土性別に見れば粘土含量を示して居る。
土性別に見れば粘土含量の多い壤土程脱滷小となり鹽分含量多き傾向を有して居る。水田は概して畑地より含鹽分量多し二、三の壤土を除きては水田、畑地兩者を通じかくの如き程度の鹽分にては本田として、又一般畑作の栽培に於て大なる惡影響あるものとは思はれない。從つて生産物の品質には多少の影響あるも枯死を招ぐことなく生育を遂げ得るものである。
今是等の成績を田、畑別に平均すれば次の如し。但し「上表」に屬する壤土はのぞくこととする。
第一期採取期白より經過する事約一ケ月半乃至二ケ月にして表土、下層土の含鹽量を見るに田地にては第一期の畑地と同樣の割合となり、畑地は更に表土の鹽分の含量少くなり下層土の減少割合表土に比し小なる爲その割合は約一、八倍を示して居る。勿論鹽化ナトリウムの絶對含量は第一期より兩者著しく減少して居る。平均値にては田、畑共に無被害土壤に比し數倍の含量を示して居るに過きず、表土に於ては田地は畑地の約倍となり、下層土は略同樣にして、第一期の場合と同じ傾向を有して居る。即ち表土に相當量の鹽化ナトリゥムを含む時はその流去は下層土に影響し、水田、畑地共同じ傾を呈するものの如く思考せられ主として上層に於ける含鹽量が降水及び其の他の應急的處置に直ちに影響さるる如くである。
以上第一期及第二期の採取土壤では前述の如く著しく鹽分の含量に差異あるを以てその同一箇所より採取せる土壤に就て流亡の割合を見れば次の如くである。
備考 鹽分は鹽化ナトリウムを以て表し、經過日數とは第一期採取時期より第二期迄の間の日數を云ふ。
右表によれば減量の最も大なるは畑地の九六、二%にして唐桑村石濱の砂壤土、次は田地の九四、六%にて歌津村町向の砂土である。次いで畑地の砂土で九四、五%を示し、最低田地にありて四四、九%で砂土なるも之は上層に海の砂覆蓋せる爲である。畑地にては五六、三%にして歌津村港の心土で土性は砂壤土である。土性との關係は調査點數少く傾向判然しない。
概して畑地に於ては四十日乃至六十日の經過により八、九割の減量を示し、水田地にてはこれより稍低下するものの如し是等減量に就て、表土、下層土等の關係を窺知するに次の如くである。
即田地、畑地兩者共その減量割合は表土に多く下層土少く、然して畑地に於ける下層土の減量は田地の表土略等しく又表土に對する下層土の流亡状况は畑地に於て大にして八八、七%を示し田地にて七七、六%を示して居る。田地に對し畑地は表土に於て約一一%、下層土にては二六、七%を平均に於て約一八%多く鹽分を流失して居る。
田畑兩地の平均流失量は七九、六三%にして鹽化ナトリウムは、石灰の加用降水、灌排水の善用等により五、六十日にしてその八、九〇%迄は除鹽し得るものの如く、田地は畑地に比し長時間を有するものと思考せられる。
今宮城縣水産試驗場氣仙沼分場の調査せる昭和八年三月以降十月迄の降水量を參考の爲記すれば次の如くである。
備考 單位は粍である。
右表より經過日數中に於ける降水量を概算すれば五十九日間は一五四、一粍、五十三日間は一四〇、九粍、四十日間は六〇、二粍となる。是等の點より考察すれば四、五十日間に於ける降水量と、土性、土層の構造如何により鹽分の脱滷に著しく影響するものの如くである。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
四、畑作物に關する試驗成績
前項に於て述べたるが如く海水の浸入を受け、又停滯の長時間にわたりたる畑地に於ては其の栽培せられたる大麥、小麥は地上部全く枯死し全圃灰白色に變じ僅かに根部は枯死を免れ、之等は降水應急處置等により除鹽につとめたる結果、氣候温暖となるに從ひ新芽を發生し相當見らるべき状態に回復し、中には成育頗る良好なるものも認められた。泥土及び砂を以て覆はれたる畑地は之を掘り起し馬鈴薯の如き春蒔蔬菜の植付を行つたものである。
勿論本調査は震嘯災害後特に設定せるものにして馬鈴薯も亦播種後に試驗區を選ぶこととなり同一なる設計のもとに之を施行し能はざるも可及的之を同樣に行ひつつあるものを選定し施行した。故に被害區、無被害區間に於て絶對的の比較困難なるも、大略相互間の關係よりして粗對的に比較し得るものと思ふ。
本試驗は早春海水の浸入が大麥、小麥等の生育收量に及ぼす影響を調査せんとし、試驗區は海水浸入程度により之を定めた。即ち左の如くである。
試驗區名 海水浸入程度
第一區 無被害區 浸入地附近の畑地にて被害なき場所
第二區 被害激甚區 被害の最も甚しき場所
第三區 同 甚區 被害程度中庸なる場所
第四區 同 輕微區 被害程度輕微なる場所
右の内該當する試驗區について調査した。
供試作物は大麥、小麥及び馬鈴薯の三種類とした。第一區無被害區は標準となり、被害區と可及的同種土壤區に於て調査する樣にしたのである。
畑地に於ける調査場所及作物は次の如くである。
(一) 大麥(四ケ所)
(1)本吉郡唐桑村 (2)階上村 (3)歌津村 (4)牡鹿郡大原村
(二) 小麥(三ケ所)
(1)日本吉郡唐桑村 (2)歌津村 (3)階上村
(三) 馬鈴薯(三ケ所)
(1)本吉郡唐桑村 (2)歌津村 (3)階上村
以上十箇所に於て夫々調査せるを以て之等試驗地に於ける耕種梗概の大要及び成績は次の如くである。
(一) 大麥
(1)本吉郡唐桑村(擔當者 柏木松三郎)
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の概算要素量は窒素一貫一八○匁、燐酸九三〇匁、加里六〇〇匁である。
施肥法 ■汁は追肥として十一月中旬二十貫、三月中下旬に二十貫宛施用し、■汁以外は全部基肥とす。木灰と鰹荒粕と混合し堆肥の上に撒布し、人糞尿は週燐酸石灰と混合し覆土せる上に施した。
尚■汁は木灰と混合貯藏し脂肪分の鹸化に努め肥效の増進を計つた。
(ロ) 生育状况(穂數は一尺間を示す)
(ハ) 收量調査
右成績に依れば生育調査に於て草丈は無被害區最大に分蘗本數も亦多く成熟期早く、被害程度輕微なる場合即ち葉の先端變色し灰白色を呈せしも三週間位にて回復する程度では莖數に於て無害と大差なく、唯草丈は劣り又被害の甚しき場所にては草丈はよく伸長するも莖數著しく少く、熟期も亦相當遲延を見減收を來すものの如し。
斯くの如き生育状况なればその收量は總收量に於て被害の程度に應じて減收し、種實收量之に同じく、被害區は稈に對する種實重多く、甚しくなるに從ひ大となる。然るに無被害區は稈收量大にその比率は○、七六八を示してゐる。種實重による收量比を見るに、被害の甚しき區は二割乃至二割二分程度の減收、輕微區は小量の減收で無害區と大差がない。
(2) 本吉郡階上村(擔當者左記)
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の概算要素量は、第一區及び第二區は、窒素一貫、燐酸一貫一○○匁、加里六○○匁にして、第三區は稍稍多く窒素一貫二五○匁、燐酸一貫三二五匁、加里六○○匁である。
擔當者 第一區 同村杉ノ下 三浦宅次郎
同 第二區 同杉ノ下 三浦市次郎
同 第三區 同杉ノ下 三浦市次郎
施肥法 備考に記載の通り
(ロ) 生育状况
(ハ) 收量調査
右成績によれば被害の激甚なる區は生育頗る不良に、草丈僅か一尺五寸に過ぎず。收量も亦約五斗にして無被害區に比し一二、八%にして、八割九分の減收を示して居る。然して稈に對する種實の割合は被害激甚區最大にして○、九三八を示し
無被害區に比し稈一定量の生産に對する種實の生産大となる。粃重は被害の程度により減少を來して居る。
(3) 本吉郡歌津村(擔當者 阿部孝治)
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の要素量は、窒素五〇〇匁、燐酸五○匁、加里は第一區になく、第二區は九〇○匁である。
施肥法 備考の通り
(ロ) 生育状况
(ハ) 收量調査
被害區は草丈 穂數共に無被害區に比し劣り、收量は二石四斗四升にして、二割三分の減收である。粃重を含む稈重に對する種實の割合を見るに被害區種實の收量多し。
(4) 牡鹿郡大原村
(イ) 耕種概要
註 施用窒素量は二貫、燐酸三〇○匁である。
施肥法 備考の通り
(ロ) 生育状况(穗數は一尺間を示す)
(ハ) 收量調査
備考 坪刈より換算す。
右諸表によれば生育状况無被害最もよく、草丈に於ては約四尺、然るに被害激甚區は二尺七寸、輕微區は三尺二寸にして穂數も之に準じて居る。
收量は被害輕微區最もよく無被害區に比し約六割増加を示し、稈に對する種實の比も前記三箇所と趣を異にし、被害區稈の收量多し。即ち海水小量の浸入は却つて麥の生育を刺戟したるものと考へらるるも、尚本試驗の無被害區は倒伏せるを以て收量の減少を來せしものと思考せられる。從つてその收量比は被害區の倒伏せざるもの收量最も良好となりたる物である。
要するに、以上の諸試驗地成績より見れば、大麥作に對する海水浸入の及ぼす影響は、生育に於て草丈、穂數共に減少し、甚しきは無被害區の半分に達しないものもある。勿論枯死せるものも相當見らるる状態なれば、如何に生育不良とは云へども萠芽し生育せしものは良好と考へ得られる。成熟期は稍稍遲延の傾がある。收量に於ては普通の栽培の場合被害區は明に減少を示し、稈に對する種實收量の割合は大となり、種實一升重も亦大となる樣である。
牡鹿郡大原村試驗地の如く、無被害區窒素過多となり倒伏せし場合は、被害區の如く肥料の流失を招ぎ、適當の肥料用量となり、收量の増加を示し居る。然し海水の小量の浸入は生育を促進せしめる傾向がある。
海水の冠水浸入により地上部殆んど緑色を呈せず、灰白色乃至黄灰色を呈せる大麥も、鹽類の含量減少と共に回復し、新芽を萠出し、之等の生育等により相當量の收穫を擧げ得るものの如くである。
(二) 小麥
(1) 本吉郡唐桑村(擔當者 柏木一郎)
(イ) 耕種概要
小麥に對しては、無被害區として設定すべき場所なく、被害區のみとす。堆肥以外の要素量は、窒素一貫六一〇匁、燐酸一貫四○○匁、加里六○○匁である。
施肥法 同郡唐桑村、大麥の場合と同じく、■汁は鰮を原料とせるものにして、三十貫は十一月上旬第一回追肥とし、殘り三十貫は、海嘯後第二回追肥として施した。其の他は大麥に準ず。
(ロ) 生育状况
冠水當時の影響、大麥に比し大なるが如く認められたるも、回復状况は頗る良好に、大麥より鹽害に對し抵抗性大なるが如く思考せらる。
(ハ) 收量調査
(2) 本吉郡階上村(擔當者 三浦市次郎)
(イ) 耕種概要
註、堆肥以外の要素量 第一區は窒素一貫二五〇匁、燐酸一貫一二五匁、加里六〇〇匁、第二區は窒素一貫三六五匁、燐酸七五匁、加里九〇〇匁、第三區は窒素四一〇匁、燐酸一貫二〇〇匁、加里三〇〇匁である。
施肥法 備考に準ず
(ロ) 生育状况(穂數は一尺間を以てす)
(ハ) 收量調査
(3) 本吉郡歌津村(擔當者 阿部孝治)
(イ) 耕種概要
註、堆肥以外の要素量 第一區は窒素五〇○匁、燐酸五〇匁、加里六〇〇匁、第二區は加里一貫二○○匁である。
施肥法 備考に準ず
(ロ) 生育状况
(ハ) 收量調査
右三ヶ所に於て調査せる成績(耕種梗概に變化あるも傾向を窺知し得るに足る)によつて小麥の海水浸入地に於ける状態を見れば、海水浸入地草丈穗數共に劣り、從つて收量は無被害區最も大にして被害の程度により減收を示して居る。階上村にては激甚區は、無被害區の一四%の收量を示すに過ぎず、歌津村にては七割余を示して居る。稈重に對する種實の割合は大麥の如く明かならず、階上村の無被害區は○、五○○にして稈の半ばの種實重を示すに過ぎない。被害區中にて收量の大なるは唐桑村試驗地にして二石四斗四升を示し、小なるは階上村の激甚區にして僅か三斗の小量である。
小麥も大麥と同樣海嘯の冠水により地上部黄灰色を呈せしも其の後の降水により畑地の鹽類流亡し作物に適する如くなり、其のうちに根部より新芽萠出し繁茂せるものなればその收量二石乃至三斗を示すは大麥の生育回數と共に期し得ざる好結果である。
(三) 馬鈴署
(1) 本吉郡唐桑村
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の要素量は、第一區、窒素一貫、燐酸一貫一四○匁。加里八○○匁にして、第二區は、窒素三○○匁、燐酸六三〇匁、加里一貫二〇○匁にして別に肥料石灰を用ふ。
施肥法 第一區に於ては■汁、堆肥、過石は基肥とし、木灰は■汁施用後撒布す。人糞尿は追肥として用ふ。第二區は全部基肥として木灰は最後に施し、肥料石灰は耕耘前全圃に撒布した。
(ロ) 生育状况
第一區と第二區とは施肥量を異にし、比較困難なるも、無被害區は生育普通にして、被害區は冬作を掘取りその跡地を利用せしものなれば、被害程度激甚なる所である。生育状况は、播種後早天續き土壤固塊となり、且土壤面白色となり鹽分の集積を來し、發芽遲延し六月中旬一齊に發芽を見た。其の後の莖葉の繁茂状况は、無被害區に比し却つて良好と思はれる。
(ハ) 收量調査
(2) 本吉郡階上村(擔當者 左記)
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の要素量 第一區に於ては窒素一貫七五〇匁、燐酸三貫一七五匁、加里一貫八○○匁、第二區は窒素一貫、燐酸一貫一〇〇匁、加里六〇○匁、第三區は窒素七五○匁、燐酸一貫、加里六○○匁である。
施肥法 備考に準ず
(ロ) 生育状况
(ハ) 收量調査
(3) 本吉郡歌津村
(イ) 耕種概要
註 堆肥以外の要素量 第一區は窒素七五〇匁、燐酸一○五匁、加里一貫八○○匁、第二區は窒素八五○匁、燐酸一一五匁、加里一貫八○○匁である。
施肥法 すべて基肥とす。
(ロ) 生育状况
第一區無被害區は普通の生育をなし、第二區被害土壤區にては發芽齊一なれ共萎縮病的外觀を呈した。其の後の生育は不良にして、草丈の伸長に比し莖細く軟弱に生長せし樣である。
(ハ) 收量調査
右馬鈴薯に關する成績を見るに、耕種法其の他を異にする爲、絶對的の比較困難なるも、比較的無被害區の栽培的に良好並に施肥量の稍等しき場合に於て、之を比較し得るものと思考せられる。
歌津村に於ては被害區は約半量の減收を示し、其の他二村に於ても施肥量は稍僅少なるも唐桑村にては約八割六分にして
一割四分の減收を、階上村にては約六割減である。即ち總收量に於ては被害區勿論減收するも大薯(二〇匁以上)及び中薯(二○匁ー五匁)の割合は前者大薯多く後者中薯少き傾向を有し、無被害區と反對である。故に此の場合に於ても多少鹽類は刺戟となり着薯數尠少なるにも係はらず莖葉の作用旺盛となり爲めに貯藏物質の量大となり薯の肥大せるものの如く勿論被害激甚なる場所は枯死をも招くに至るべし。されど鹽素の比較的多量に土壤中に存する時は、生産せられたる作物の繊維を増加する傾がある。
今試驗地に於て生産せられたる馬鈴薯と當試驗場原種圃(宮城郡廣瀬村作並)生産のものとの分析成績を示せば次の如くである。(乾物百分中)
備考 粗繊維はヘンネベルヒ及びストーマン氏法を、糖類はベルトラン氏法にて定量した。糖類は一%鹽類にて處理し轉化種として算出す。
即ち粗繊維の量は、鹽害地に半産せるもの比較的多く、糖分に對する比を見れば明かに繊維に比し糖分量少く三七乃至三八を示し、作並産のものは四三前後を表して居る。かかる點よりして鹽分の比較的大なる土壤に生産せる馬鈴薯は品質稍劣る。
馬鈴薯は大麥、小麥の被害の最も大なる土地を掘り起し、その跡地に栽培せるものである。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/2
- 幅:7054px
- 高さ:5015px
- ファイルサイズ:2MB
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:5.9MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
五、水稻に關する試驗成績
海嘯の影響を受け易き海岸地帶の水田は概して排水不良にして、浸入せられたる海水の滲透惡く、又停滯する場所もあり鹽分の脱滷思はしからず。爲に水稻の生育收量に影響すること大である。又海嘯と共に泥土を運積せるものは、鹽分の含量大に砂粒を運ばれたるものは土性の變化を來す等理學化的に土壤に及ぼす變化は相當大なるものがある。
一般に海水の浸入せる土壤はその反應中性に近くなり、更に微アルカリ性を呈することあり。從つて、中部集團耕地とは趣を異にし、微生物學的に、或は土壞膠質に與ふる現象は、酸牲土壤とは自ら大なる懸隔を有するものと思はれる。
尚海水浸入地の植生に及ぼす影響は土壤溶液の直接の濃度に左右さるること多く、海岸地帶は砂質土系の土壤多く膠質の含量僅少なれば浸入されたる海水の濃度は直ちに吸着現象の少い土壤では影響するを以て、土壤溶液との關係に留意すべきである。
普通水稻は之を水耕する場合食鹽○、四%の溶液で萎凋を來し、一、○%では枯死の状態となり、○、二%では影響僅少なる樣である。
今參考の爲鹽化曹達の濃度と發芽との關係を調査せる熊本縣立農事試驗場徳永氏の研究成績を引用すれば次の如し。
(一) 苗代状態
(二) 本田状態
二萬分の一植木鉢を用ひ一株三本宛挿秧を行つた。
即右成績に見るが如く、挿秧前に食鹽を加用せるものは○、一%にて害を認め、活着後では○、二五%、穂孕期では○、七五%で害を生ずるものの如し。苗代の場合では○、二五%で有害である。
本調査は海嘯に依り冠水せる土壤に於ける無機質肥料及び有機質肥料の水稻の生育状况及び收量に及ぼす影響を調査せんとし、一區面積を十五坪とし、一區制にて施行し、一株本數、一坪株數は其の試驗地の慣行により行つた。試驗區名及肥料種類並に用量は左の如し。(反當貫を以て示す)
三要素量
窒素 一貫五○○匁
燐酸 一貫二○○匁
加里 一貫匁
但し唐桑村及大原村第四區慣行地の施肥量は次の如し。
備考 冠水區とは被害激甚なりし所に淡水灌漑を行ひ鹽分の除去につとめたる區で、無處理區とは放置せるものである。尚堆肥以外の要素量は、第一區に於て窒素一貫一七○匁、燐酸八七○匁、加里六八○匁にして、第二區は窒素九九○匁、燐酸八○○匁、加里六八○匁で、大原村は窒素一貫八○○匁、燐酸七○○匁である。
施肥法 石灰窒素は挿秧十日前に施用、又肥料石灰は石灰窒素を除く其の他肥料施用二三日前に用ひ、堆肥は十二、三日
前に撒布し敷込を行つた。石灰窒素、堆肥、肥料石灰を除く其の他の肥料は、各區名量配合し、植代掻當時撒布し、代掻後三、四日は落水せざることとした。
本試驗地設定場所(六ケ所)及び擔當者氏名左の如し。
(1) 本吉郡階上村 三浦又右工門
(2) 同 同 菊田儀一
(3) 同 唐桑村 村農會(調査法特定)
(4) 同 歌津村 牧野興次
(5) 牡鹿郡大原村小網倉 阿部寅次郎
(6) 同 同 小淵 水野米治
以上四ケ村、六ケ所に於て夫々前記施肥設計を以て試驗を行ひたる調査成績及び施肥以外の耕種概要は次の如し。但し唐桑村は特殊の調査をなした。
(イ) 耕種概要
備考 挿秧期は旱魃の爲め遲れた。
(ロ) 生育状况
備考 大原村は九月初旬の暴風雨により海水の浸入及び機械的傷害を受け、成熟期不明瞭となり、又成熟せずして枯死せるものもあつた。
(ハ) 收量調査
以上の如く海嘯により海水浸入せる水田に肥料石灰堆肥を施し、海水の浸入による惡影響除去につとめ、之に有機質、無機質肥料(窒素肥料)を施し、窒素質肥料の形態即ち速效性及び遲效性兩種混用肥料の肥效を檢するに右つ成績の加くである。
即ち住育状况にては、階上村に於て草丈莖數共に第四區石灰窒素最もよく、次いで第二區有機質肥料にして、第一區無機質肥料稍稍惡し。石灰窒素は出穂成熟の期日を遲延せしむる傾向がある。
大原村に於ては、第四區慣行區は他區より稍稍窒素量多く、爲めに草丈勝れたるも、之に伴ふ他の要素不足の爲か、莖數穂數少く、標準區は良好なる成績を示して居る。標準區は肥料種類の混用良好なる爲か、土壤の理化學的性質を效果に利用せしによるものなるべし。第二區有機質肥料は、慣行區と同樣に出穂成熟をおくらしめ、養分の吸收が不規則となり、風雨に對する抵抗力を減殺し倒伏を招來した。從つて收量にも影響を及ぼすものと思はれる。
歌津村は挿秧後活着伸長し始めたる時、海水浸人を受け、其の後數回の海水浸入の爲遂に枯死し、調査不能となつた。挿秧當時は苗黄褐色を呈し、その影響は鹽害浸入程度と並行して居つた。
收量に就て見るに速效性即硫酸アンモニヤの如き肥料は、海岸地帶に多き砂質土系の土壤に對しては極端なる鹽害地を除き、一時的海入の浸入を蒙るが如き土地にては流亡の爲、肥效を減じ、壤土系の土壤にては生育は稍稍良好なる成績を納め得るものの如く、又砂質土の如き吸着能力の弱き土壤にては、可溶性の化學肥料のみの施用は海水の浸入のもたらした鹽類と相和して土壤溶液を大ならしめ、植生に惡影響を來し收量を減ずる場合も考へられる。石灰窒素は最も良好にして籾收量一四三貫を示して居る。これ石灰窒素中には石灰を含み、窒素の脱滷に好影響を及ぼし、更に肥效が比較的持續的にして硫酸アンモニア、大豆粕の中間にある爲め、適當の養分の供給となりたる爲ならんと思考せられる。これと同樣なるものが標準區にして硫安、大豆粕の配合に堆肥の加用があり、肥效を維持し硫安の缺點を補ふに大豆粕を以てし、水稻の生育を良好ならしめ收量に好結果を與へたるものである。
唐桑村にては海水の浸入甚しき田圃に冠水の處理をなし鹽分の除去を行ひ、一方無處理にし放置せるものを比較せるに、冠水區は施肥量僅少なるにも係はらず、九一、六貫の籾收量を示し、多量に施肥せし區と同等の收量を示して居る。
階上村、唐桑村の收量は普通土壤に近き價を示せるも、大原村の多量は僅少にして改良の餘地あるものと認められる。
尚玄米の品質調査成績次の如し。籾摺歩合は指頭脱■により行ひたるものである。
右の成績によれば、有機質肥料區は青米・死米粒數多きも、不完全米含有重量の割合は比較的僅少である。石灰窒素は概して青米・死米粒數多く、且不完全米重も多きを示し居るも、土壤によつては標準區と大差ない場合がある。
大原村土壤に生産せる玄米は品質惡く不完全米の含量著しく多く、これ倒伏等の影響するものと思はれる。又慣行區は水稻の生育遲延を來し、窒素過多の生育をなしたるが如く見られる。籾摺歩合は稍稍小なれ共大なる差なし。玄米の千粒重は階上村生産のものは稍稍輕きも、普通玄米に近く肥料種類による差少し。大原村生産のものは極めて輕く標準區比較的重し。
一般に有機質肥料は産米等級低く、大原村生産玄米にては無機質肥料亦惡く、良好なるは標準區である。されば、肥料は如何なる場合に於ても、適當に有機質及び無機質の各種肥料を配合し且三要素を完全に施すべきである。
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
1/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
2/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
3/3
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.6MB
1/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.6MB
2/2
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
六、摘要及び結言
昭和八年三月三日襲來せる海嘯により冠水せる耕地に於ける作物の生育状况及收量を調査し、併せて土壤に含まれたる鹽分の移動脱滷を調査した。
鹽分は降水及び石灰の撒布・灌水等の處置により、約一ケ月の間に於て、畑地にては約八六%、田地にては約七三%の減量を示し、表土に對する下層土の除鹽歩合は、田地は約七七%、畑地約八八%を示し、畑は田に比し鹽拔けが早い。
海嘯冠水直後の鹽分含量は、最高○、九六五%にして、約一ケ月後にては○、一六五%を示して居る。
畑作收量に於て、無被害區を百としたる指數を平均すれば次の如し。耕種法に差異あれば直ちに鹽害が收量に影響せるものと斷定するは、妥當を失する嫌あるも、是等成績より鹽害を窺知するには充分である。
即ち被害激甚區は、大麥に於て三割七分、小麥五割七分、馬鈴薯四割三分の減收、又被害輕微區にては、大麥五分、小麥二割の減收を示して居る。
鹽水浸入地に於ける水稻栽培に施せる肥料種類を、無機質肥料、有機質肥料及び標準區と是等の收量關係を見るに次の如し。
即ち標準區に比し、何れも減收を示し、特に高價なる有機質肥料の施用は一割四分の減收を、無機質肥料は約八分の減收を示して居る。石灰窒素は他肥料に比し稍良好である。勿論石灰窒素は、窒素の二割を硫安を以て補ひ、殘部八割を該肥料で施して居る。
玄米の品質は標準區良好に、次は無機質肥料である。
馬鈴薯は鹽素を含む土壤では粗繊維を増加し、糖原質類を減ずる傾向がある。
之を要するに、海水の浸入は土壤を理化學的に不良ならしめ、且泥土の搬入は鹽分量を大にし、土壤溶液の濃度を高め、作物の生育を不良ならしむるものなれば、降水による除鹽及び石灰等の撒布・淡水灌漑にて可及的除鹽を行ふ時は收量の減少は止むを得ざるも、相當の收穫を收め得べく、大、小麥は播種期の適當なるもの程早春の海水の浸入に對し惡影響僅少となるものの如くである。
海水の冠水にて(早春)大、小麥の地上部殆んど黄褐色乃至灰白色に變化せしも、之等は鹽分の除去と共に、三週間乃至四週間にして根際より新芽を萠し、生育を續け、よく繁茂し、普通の畑地と何等變りなき外觀を呈すれど、莖數等僅少にして、前記收量成績の如く減少すれど、無被害區に比し七八割の收量を擧げ得たるは全く豫想に反したる好結果にして、貴重なる材料である。
泥土の覆蓋を受けたるものには、枯死したるものも相當見られたるも、一方被害輕微なるものは却つて收量の増加する傾向がある。
被害を蒙れる水田に對する肥料種類は、極端なる砂土を除いては、無機質肥料を用ふる時好結果を招ぎ得べく、又諸種肥料は三要素完全に配合し用ふべきにして、肥料の偏用は避くべきである。されど無害區に比すれば、收量少く、栽培の改良と相俟つて海水浸入地の克服を期すべきである。
海水の浸入地は、前記諸種方法にて、除鹽に努め作物を選擇し、施肥に留意し、栽培管理を周到に行ふ時は、普通作を望み得るものにして、この際最も注意を要するは、鹽分の土壤中含有量の多少如何である。
九、津浪災害豫防に關する注意書 震災豫防評議會
第一章 緒論
港灣は其の地形、水深分布及び環境等に於て千差萬別あるを以て、津浪罹災地の浪災豫防法を講ずるにも亦其の規を一にすること能はず。但し三陸太平洋沿岸に見るが如き港灣は、其の大同小異に從ひて之を若干個に分類し得べし。本注意書に於ては其の各部類につき標式的のものを選擇し、之に對する津浪の加害状况を考ヘ、之に適すべき浪災豫防法を講究することとせり。
惟ふに今回の津浪に於ては罹災町村部落二百を以て數ふべし。其の地理的状况一々相異なるべきも、小異を捨てて顧みざるに於ては何れの一を取るも其の前記標式的のものの何れかに近きを發見するに至るべく、從つて其の地に適すべき罹災豫防法も亦之を類推するに難からざるべし。末段數個の實例を擧ぐ、是れ其の類推を容易ならしめんが爲なり。
第二章 海岸線の形状及び海底の深淺と津浪の加害状况
津浪は平常の水準面上二三十米の高さに達することあるを以て次に記す港灣の地形は各々の場合に相當する高さを修正して考ふるを要す。例へば平常の水準にてはV字形ならざるものも、水準を若干高めるときは其の形式に近づくものあるが如し。三陸沿岸に普通見るが如き港灣に於ては、灣口の深さ甲、乙類に於ては概して三四十米乃至七八十米なりとす。
甲類 直接に外洋に向へる灣
第一 灣形V字をなせる場合 津浪は灣奥に於て十米乃至三十米の高さに達し、汀線に於て一層勢を増して浪を更に高處に打上ぐるを通常とす。
綾里灣、吉濱灣、姉吉、集、十五濱村荒等此の部類に屬す。
第二 灣形U字をなせる場合 津浪は前者に比較して稍稍輕きも高さ十五米に達することあり。
田老、久慈、小本、大谷等此の部類に屬す。綾里湊は其の變形と見るを得べし。
第三 海岸線に凸凹少き場合 津浪は其の高さ前記第二に近くして稍稍低く十二米に達することあり。
吉濱村千歳、赤崎村長崎、十五濱村大須等此の部類に屬す。
乙類 大灣の内に在る港灣
第四 港灣V字形をなして大灣に開く場合 津浪は第一の形式を取るも波高稍稍低く十五米に達することあり。
船越、山田の兩灣に連なれる船越、兩石灣に開ける兩石港、十五濱村相川等此の部類に屬す。
第五 港灣U掌形をなして大灣に開く場合 津浪は第四に比較して一層低く波高七八米に達することあり。
廣田灣に開ける泊、釜石灣に連なれる釜石港、大槌灣に連なれる大槌港、追波灣に開ける船越灣等此の部類に屬す。
第六 海岸線凸凹少き場合 津浪は第五に比較して一層低く四五米に達することあり。又破浪することなく單に水の増減を繰返すに過ぎざる場合多し。
山田灣内に於ける山田港、大舟渡灣に於ける大舟渡港等此の部類に屬す。
丙類
第七 灣細長く且つ比較的に淺き場合 津浪は概して低く波高漸く二三米に達す。
氣仙沼灣此の部類に屬し、女川灣之に近し。
丁類
第八 九十九里濱型砂濱 海岸直線に近く海底の傾斜比較的に緩にして津浪は其の高さ四五米に達することあり。
青森縣東海岸、宮城縣亘理郡沿岸等此の部類に屬す。
港灣は其の形状深淺に從ひ以上の如く數種に分類し、各々の場合に相當する波高限度の概數を記載せるも、灣側及び灣底の凸凹屈曲等の津浪に與ふる影響も亦決して輕視すべきにあらず。凸凹屈曲甚しきときは浪勢之に由つて減殺せらるるに至るべく、從つて同型に屬する港灣に於ても其の環境の如何によりて波高限度に多少の差違ありと知るべし。
第三章 浪災豫防法
高地への移轉 浪災豫防法として最も推奬すべきは高地への移轉なりとす。尤も漁業或は海運業等の爲めに納屋事務所等を海濱より遠ざけ難き場合あらんも、然れども住宅、學校、役場等は必ず高地に設くべきものとす。三陸沿岸の町村部落は概して山岳丘陵を以て圍繞せらるるを以て多少の工事を施すに於ては適當なる住宅地を得るに甚しき困難を感ぜず。但し漁業者にして往々高地住居の不便を唱ふるものあれども、業務上の施設を共同にし且つ適當なる道路を敷設するに於ては其の不便を除くを得べし。實に船越村山ノ内の如きは古來此の方法を實行し、千數百年來未だ會て津浪の害を被りたること之れなしと稱せり。
第一の如き港灣に於ては固より、第二、第四の如き場合に於ても、亦津浪を正面より防禦するは實際上殆んど不可能に屬す。斯の如き場所に於ける浪災豫防は、津浪進路の正面を避け、其の側面の高地に適當なる移轉場所を求むるを唯一の策とすべし。船越村山ノ内、吉濱村本郷等適例とすべし。後章、綾里村、兩石、田老、釜石等に關する案を掲ぐ。
安全なる高地は鐵道、大道路の新設或は改修に當りても之を利用すべく、特に鐵道驛に就て然りとす。
其の他浪災豫防法として推奬すべき諸方法を列擧すること次の如し。
防浪堤 防浪堤とは津浪除けの堤防の謂ひにして海に設くるものと陸に設くるものとの別あり。普通の防波堤は風波を凌ぐに足るも大津浪に對しては其の效果を期し難し。之を津浪に對して有効ならしめんには、其の高さに於ても將た其の幅に於ても更に幾倍の大さに増さざるべからず。費用莫大なる爲め實行困難ならん。後章、釜石、田老等に關する案を掲ぐ。
防潮林 防潮林は津浪の勢力を減殺する効あり。海岸に廣濶なる平地あるときは海濱一帶に之を設くるを可とす。高田町沿岸に於ける松林の如きは此の好例たり。後章、田老、釜石等に關する案を掲ぐ。
護岸 津浪の餘り高からざる場所に於ては津浪を阻止するに足るべき護岸を設くるに難からざる場合あり。山田、長部等此の好例たり。後章、釜石、泊等に關する案を掲ぐ。
防浪地區 繁華なる街區が海岸形式第四或は第五の如き津浪の餘り高からざる海濱にありて而も多少津浪の侵入を覺悟せざるべからざる場合に於ては防浪地區を設置し區内に耐浪建築を併立せしむるを可とす。基礎深く且つ堅牢なる鐵筋コンクリート造は最良の耐浪建築なるべく、之を第一線に配すべし。海岸に直角なる壁を多少強固に築造せば一層好果を收め得べし。又家屋が木造なる場合に於ても基礎を深く堅固に築き土臺を基礎に緊結せば相當の效果あり。防浪地區の背面に配列せしむるに足るべし(本會編纂「家屋新築及び修理に關する耐震構造上の注意書」參照)。後章、泊、釜石等に關する案を掲ぐ。
緩衝地區 津浪の侵入を町止せんとせば必然の結果として局部に於ける増水と隣接地區への反射或は氾濫を招來するに至るべし。川の流路、谿谷或は其の他の低地を犠牲に供して之を緩衝地區となし以て津浪の自由侵入に放任するに於ては隣接地區の浪害を輕減するに足るべく、若し又投錨の船舶を此の緩衝地區へ流入する津浪に委ねるに於ては其の被害を多少輕減し得べし。緩衝地區には住宅、學校、役場等を建設せざるものとす。鐵道、大道路も亦之に乘入れしめざるを可とす。
後章、釜石、田老、兩石、綾里湊、雄勝等に關する案を掲ぐ。
避難道路 安全なる高地への避難道路は何れの町村部落にも必要なるべし。釜石の如き都會地にありては、此の種の道路をして將來の住宅地たるべき高地へ通ずる自動車道路をも兼ねしむるを得策とすべし。
津浪警戒 津浪豫知の困難なるは地震豫知の困難なるに等し。然れども津浪の波及は緩漫にして其の發生より海岸に到達するまでに三陸東沿岸に於ては通例少くも二十分間の餘裕あるを以て、器械或は體驗によりて其の副現象を觀測し、之に依て津浪襲來の接近を察知し得べし。
津浪の副現象は左の如し。
(一) 津浪の原囚たる海底變動によりて大規模の地震を伴ふ場合多し。地震動は之に緩急種々の區別あるも概して大きく搖れ且つ長く繼續す。
(二) 地震と津浪とは同時に發生するものなれども傳播速度に差あり。其の發生より海岸に到達するまでに地震は三十秒程度を要するに過ぎざれども津浪は二十分乃至四十分を要すべし。
(三) 遠雷或は大砲の如き音を一回或は二回聞くことあり。地震後五六分乃至十數分目に來るを通例とす。
(四) 津浪は三陸沿岸に於ては引潮を以て始まるを通常とすれども然らざる場合あり。爾後海水は一進一退を繰返すこと多次なるべく、多くは第一波が最大なれども、第二波或は第三波が最大なることもあり。潮の進退は其の速かなるときは毎秒十米に達することあり。
津浪は概して以上の如き順序によりて起るを以て、單に體驗のみに依りても警戒の手段あり。若し之に加ふるに地震計測、各部落を連ぬる電話網、團體組織等を以てせば一層有效なる警戒をなすを得べし。
津浪避難 地震の性質其の他によりて津浪の虞之れありと認むるときは老幼虚弱のものは先づ安全なる高地に避難すべく、其處に一時間程の辛抱をなすを要す。又強者特に健脚のものは海面警戒の任に當るべく、津浪襲來の徴を認めたる場合、警鍾、電話等に依る警告を發するに遺憾なきを期すべし。
避難の爲め家屋を退去するに當りては津浪到着までの餘裕を目算し、火の元用心、重要なる物品携帶等機宜に適する處置をなすを可とす。雨戸を開放するは津浪破壞力の減殺に有效なることあり。
船舶は若し岸を二三百米以上離れたる海上にあるときは更に沖へ出づること却て安全なり。若し然らざるときは固く之を繋留すべく、若し又緩衝地區へ流入の児込みあらば投錨のまま之を浪の進退に任せること避難上の一法たるベし。
記念事業 浪災豫防上の一大強敵は時の經過に伴ふ戒心の弛緩なりとす。明治二十九年大津浪の直後、安全なる高處に移轉したる村落は其の數十指を屈するに及びしも時の經過に伴ひ再び復舊して今回の災厄を被むるに至り、唯僅に吉濱村本郷及び崎山村女遊戸の如き一二の部落のみ能く此の浪災豫防上の第一義を遵守せり。惟ふに今回の災厄に對する記念事業多々あらん。就中浪災豫防に關する常識養成の如きは之を罹災地の一般住民に課して極めて有意義なるものたるべく、特に之を災害記念日に施行するに於て印象最も深かるべし。
記念碑を建設するも亦前記の趣旨に適するものたり。是れ不幸なる罹災者に對する供養塔たるのみならず、將來の津浪に對し安全なる高地への案内者となり、兼ねて浪災豫防上の注意を喚起すべき資料ともなり得べきを以てなり。
第四章 浪災豫防法應用の例
(一)田老村(第一圖) 港灣は外洋に面してU字形をなし、津浪の高さ今回は六米なりしも明治二十九年の場合に於ては十五米に及べり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を北方斜面十二米以上の高地に移す。此の爲めには多少の土工を要すべし。若し次に記すが如き防浪堤を築き且つ緩衝地區を設くるを得ば住宅地を多少(例へば五米)低下せしむるも差支なからん。
田老川及び其の北方を流るる小川の下流をして東方へ向ふ短路を取つて直ちに田老灣に注がしめ、別に防浪堤を圖の如く築き其の南方地區及び上記二川を以て緩衝地區とす。
防浪堤を築き難き場合に於ては防潮林を設くべし。兩者を併用するを得ば更に可なり。
(二)兩石(第二圖) 兩石港はV字形をなして兩石灣に開けり。津浪の高さ今回は十一米なりしも明治二十九年の場合に於ては多少高かりき。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を十二米以上の高地へ移轉せしむ。其の第一候補地を舊部落地の西南方高地とし、第二候補地を北方高地とす。兩者を併用するも可なり。共に多少の土工をなすを要す。
舊部落及び水海川の兩谿谷を緩衝地區とす。
(三)釜石(第三圖) 釜石港はU字形をなして釜石灣に開けり。津浪の高さ今回は四米なりしが明治二十九年の場合に於ては八米に達せり。
浪災像防法案次の如し。
北方山腹を開拓して住宅地とし自動車を通ずべき避難道路を設く。
須賀の一地區は住宅の建設を止めて臨海の遊園地とし、兼ねて大渡川と共に緩衝地區たらしむ。
鐵道線路を利用して陸上の防浪堤となし防潮林を設けて其の外廓たらしむ。又出來得べくんば、海上にも防浪堤を設けて前者と共に略ぼ一直線上にあらしめ其の北方に内港を抱かしむ。
護岸を内港及び大渡川右岸松原等に設け、内港護岸に接する一帶の街區を防浪地區とす。
護岸の高さは五米程度とすべく、若し海陸に防浪堤を設くるを得ば北方の護岸は多少(例へば一米半)低下せしむるも可ならん。
(四)綾里湊(第四圖) 南方に開ける細長き港灣にして津浪の高さ今回は八・五米なりしも明治二十九年の場合に於ては十一米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を西側十二米以上の高地に移すべく、此の爲に多少の土工を要す。
港灣の延長部たる舊部落地一帶の低地を以て緩衝地區とす。
(五)泊(第五圖) 泊港はU字形をなして廣田灣に■めり。津浪の高さ今回は八・六米にして明治二十九年の場合は十一米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
泊は其の住宅地概して六米以上の高地にあるを以て、若し一歩後方の斜面に退却せば津浪の追及を免かるるに難からず。
但し現在に於ける漁業組合事務所等の位置は大津浪の場合を免れ難かるべく、此の一帶海面に向ヘる線を防浪地區として完全なる耐浪建築を竝立せしむるを要す。
(六)雄勝(第六圖) 雄勝灣は細長く且つ屈曲したる入海にして雄勝港は其の末端にあり。港に於ける浪の高さ明治二十
九年の場合は三・四米なりしが今回は稍稍高く四・七米に達せり。
浪災豫防法考案次の如し。
住宅地を北方の丘陵地へ移すを可とす。本所は工業地のことなれば漁業地に比較して移轉容易なるべし。
護岸は現在二・七米の高さを有せり更に二米築き上ぐるを可とすべし。
雄勝港の延長部たる川筋の低地を以て緩衝地區とす。
特輯
東久邇宮第二師團長殿下の御視察
昭和八年八月御着任以來、地方指導の根源となり給へる、東久邇宮第二師團長殿下におかせられては、先頃三陸地方に襲來せる震嘯災害の悲慘なる状况に對し、痛く御同情を寄せ給へるが、十月下旬、同地方に御成の郷内意あり、十一月二十三、二十四日の兩日、本縣下牡鹿郡大原村、桃生郡十五濱村を、同三十日は、岩手縣より本縣下に入らせ給ひ、志津川町を御巡視の上、扈從申し上げたる本縣知事、學務部長、社會課長、秘書課長等に對し、種々有難き御下問を下し給ひたり。折から、同地方民は、復舊事業に鋭意孜々として從事しつつありしが、畏くも、皇族殿下の御成をはじめて拜せる事とて、その感激、奮勵は彌が上にもあがりたりき。
尚、三十日は、本吉郡小泉村、歌津村御視察の御豫定なりしが、御宿所たる氣仙沼町に疫病の發生を見たる爲、御成御取止めとなりたれば、關係罹災地町村長は、志津川町に伺候の上、震嘯による被害竝其の後の復舊復興状况につき、謹みて、具に言上せり。
東久邇宮第二師團長殿下宮城縣下御巡視
御日程
十一月二十三日
午前七時、一二分 官邸御發(自動車)
同七、二二 仙臺驛御發(電車)
同八、四五 石卷驛御着
直ニ御發(自動車)
同九、○○ 渡ノ波町御着
宮城縣水産試驗場御視察 約三十分
同九、三〇 渡ノ波町御發
同一〇、四〇 大原村谷川御着
谷川 鮫ノ浦 罹災地御視察
同一一、四〇 大原村鮫ノ浦御發(船) 約一時間
御晝食
午後一、二〇 十五濱村雄勝御着
罹災地御視察 約一時間
午後二時、二〇分 十五濱村雄勝御發(自動車)
同三、一○ 飯野川橋御着
飯野川可動堰御視察 約三十分
同三、四〇 飯野川橋御發
同四、一〇 柳津町御着
閘門 洗堰 御視察 約二十分
同四、三○ 柳津町御發
同五、三〇 石卷市御着
御旅館(千葉甚)御泊
十一月二十四日
午前六時、五〇分 御旅館御發(自動車)
同七、四○ 女川町御着
海洋水産化學研究所御視察 女川灣御展望(丸子山) 約四十分
同八、二○ 女川町御發
同九、○○ 石卷市(住吉小學校)御着
青年訓練査閲御視察 約二時間
午前一一時、○○分 住吉小學校御發
同一一、一〇 石卷測候所御着
御視察 約三十分
同一一、四〇 石卷測候所御發
同一一、五〇 日和山御着
石卷灣御展望 約五十分
御晝食
午後○、四〇 日和山御發
同一、三○ 北村旭山御着
御展望 桃生郡青年訓練所生徒御親閲 約一時間
御休憩 約三十分
同三、○○ 北村御發
同四、三〇 御歸邸
十一月三十日
午前八時、三○分 一ノ關町石橋ホテル御發
午前一〇時、三〇分 志津川町御着
御晝食 約五十分
午後○、三○ 査閲所(松原公園)御着
青年訓練査閲御視察 約一時間
同一、三○ 査閲所御發
同一、四〇 鮭孵化場御着
御視察 約四十分
同二、二○ 鮭孵化場御發
同四、○○ 新田驛御着
同四、〇二 同 驛御發
同五、五八 仙臺驛御着
同六、一〇 御歸邸
宮城縣昭和震嘯誌 終
附録 震嘯被害表
1/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
2/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
3/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
4/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2MB
5/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
6/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
7/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
8/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
9/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
1/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
2/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
3/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
4/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
5/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
6/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
7/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
8/8
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
1/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
2/9
- 幅:7062px
- 高さ:5027px
- ファイルサイズ:1.6MB
3/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
4/9
- 幅:7058px
- 高さ:5021px
- ファイルサイズ:1.6MB
5/9
- 幅:7058px
- 高さ:5021px
- ファイルサイズ:1.5MB
6/9
- 幅:7058px
- 高さ:5021px
- ファイルサイズ:1.6MB
7/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
8/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
9/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
1/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
2/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
3/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
4/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
5/10
- 幅:7054px
- 高さ:5015px
- ファイルサイズ:1.6MB
6/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
7/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
8/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.5MB
9/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB
10/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
1/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
2/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
3/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
4/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
5/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
6/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
7/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.4MB
8/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.1MB
9/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.3MB
10/10
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
1/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:2.2MB
2/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
3/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
4/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
5/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.8MB
6/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.9MB
7/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
8/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.7MB
9/9
- 幅:7015px
- 高さ:4960px
- ファイルサイズ:1.6MB





