序
昭和8年3月3日三陸地方沖合に發生せる地震は我國東半部に亘りて人體に感覺を與へたる程度の大地震なりしに拘らす最も震央に近き地方においても一般家屋に損傷を與へざりしは幸なりき.然れども地震發生後約半時間を經て同地方沿岸に來襲せる津浪は海水を陸上に奔溢せしめ數多の人命財産を奪ひ去れるは誠に遺憾に堪へざるものとす.
三陸地方沿岸は歴史上十數囘津浪の來襲をうけ多大の災害を蒙りたる所にして前囘明治29年の津浪は特に著しく其災害の著大なりしは今日なほ世人の記憶に新なるものあらん.前囘の津浪被害と今囘發生せる津浪被害とを比較するに所により前囘の浪丈稍々優りたる所無きには非ざれども被害分布より之を察すれば兩囘とも同一地域の災害を蒙れる所,該地方に亘りて頗る多し.勿論前囘の危に懲りて其後家屋の移轉を敢行せる部落の二三は存在するも津浪の陸上に奔溢せる有様は兩囘とも其軌を一にし以て津浪の來襲は同一地域に繰返すてふ感を深からしむるものなり.
津浪の原因は恐らく海底における地盤變動に歸せしめ得べく從つて斯かる自然現象を根本的に阻止する事の不可能なるは明なれども津浪の傳播して海岸に到達し海水を陸上に奔溢せしむる結果發生する災害は人力を以て囘避するに強ち不可能と爲すべきには非ざるなり.之は全く津浪本體の研究に立脚して對策を講ずべきものにして津浪現象を正確に認むる事より出發すべきは論を俟たざる所なり.
素より大規模なる津浪は數十年1囘程度の割合を以て發生する稀有現象なれば其本體を正しく認めんとするに當りては今囘の如き機會を逸する事なく津浪に關係して發生せる諸現象を具に觀察し其中より事實を摘出するを第1目的として努力すべきは當然の事にして地震研究所に於て第1に着手せる事も全く此の點なりとす.而して其等事實の蒐集と其後行はれたる諸研究とを以て津浪の本體に關し多く認識を深め得たるは全く各所員の協調的努力の賜物にして以下其概要について述べんとす.
津浪來襲直後地震研究所は數名の所員を被害地に派遣せし一方關係諸官衙に乞ふて檢潮儀記録複寫の送付方を懇請し又該地方各役場小學校等に囑して津浪來襲に遭遇せる人々の報告を能ふ限り蒐集せり.此等は何れも資料中に輯録せるものにして此機會に際し好意を寄せられたる關係者各位に厚く謝意を表するものなり.
三陸沿岸地方に出張せる各所員の行へる主なる調査は海岸に印せられたる最高水位,浸水區域,家屋の被害状況及び地形と災害との關係等にして猶ほ特種研究としては災害の著しかりし數個所の町村に就き測量器械を使用して水位の高低を測定せし事及び二三の港灣に就て其の灣内に生ずる二次振動及び表面波の消長を觀測せる事にして此等の研究は津浪の本體を闡明する上に極めて重要なる効果を齎せるものなり.
以上の多くは何れも現地における津浪諸現象の事實調査なれどもなほ進んで津浪現象を深く追究するに於ては之を實験的に再現研究する事の必要を感じ本所内實験室においては二三の模型實験を途行せるなり.即震央における津浪の發生状況或は港灣海底の状態に應じ津浪の變化進行する状況を再現せしめ之を觀察測定せり.此等の實驗は要するに自然に存する津浪と比較研究する事或は理論上得たる結果と照合して多く價値付けらるゝ事は勿論なりとす.
本冊子は以上の諸研究及び調査報告を輯録し地震研究所彙報別冊第1號として刊行するに決定せるものなり.其の内容は分ちて2篇とし第1篇には研究論文,第2篇には資料及び現地において得たる調査報告を載す.なほ津浪發生より今日に至る迄僅1ケ年の日子を經過せる許にて諸研究の中には漸く其緒に就きたる程度のものも無きに非ざれども此機會を以て津浪に關する一切の研究調査を一括して發表するも全く無意義に非すと信するまゝ敢へて上梓する次第なり.
なほ地震研究所に於ける津浪研究は之を以て打切りたるものに非ず將來隨時發表さるゝ津浪研究論文は今後發行の彙報中に載録さる豫定なり.
本冊子中輯録せる資料調査及び諸研究に關しては本學本部及び文部省より臨時費の援助を得て着手遂行せしものなる事又本冊子刊行に當りては財團法人服部報公會の多大なる補助を蒙りたるものに就き茲に甚大なる謝意を表するものなり.
昭和9年3月
東京帝國大學地震研究所長

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第1編 論文
1.三陸沿岸に於ける過去の津浪に就て
地震學教室 今村明恒
(昭和8年11月21日發表—昭和8年11月28日受理)

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I 緒説
三陸の太平洋沿岸は津浪襲來の常習地である.實に該地方は此點に於て日本一たるのみならず世界一と稱しても過言ではあるまい.即ち此地方に襲來した津浪を調べて見ると(第I表参照),遠くは貞觀11年に起つた大津浪,又中頃慶長16年に起つたものを初として,其以後に起つたものを數へると大小凡そ15囘程を氣附くのである.
而も此等の津浪は一々海底の地變に由つて起つたと考へられるものゝみを取つたのであつて,夫の低氣壓の襲來に伴つて起るが如きものは,それには加算してないのである.
三陸の太平洋沿岸が津浪襲來の常習地として斯く有名になつた理由には次の2項が數へられる.
第1 三陸の太平洋沖合にはタスカロラ海溝なる深海溝があつて,吐海溝若くは其斜面に於て,大規模の地變を起すことが頻繁なること.勿論,斯様な地變に伴つて非局部性の大地震の起ることも一般的ではあるが,併し乍ら嚴密に言へば,津浪の發生は斯様な地震の有無には關係しないのである.
第2 三陸の太平洋沿岸は沈下地帶に屬し,特にリア式沿岸の特徴を有するが爲めV字形或はU字形の港灣に富み,而も其れが多くは前記の地變發生位置に向つて開口して居ること.
過去の津浪につき,前記貞觀慶長兩度の如きは,其勢力絶大なりし爲め,其記録にも相當の信用を置くことが出來るが,其他に就ては確實性の乏しきものあり,隨つて一々嚴密な檢討を必要とする次第である.予は便宜の爲め,次の標準に依つて之を檢査して見ることにした.
(1) 津浪の高さ微小なるか若くは被害皆無なものは之を收録しないこと.收録すべき津浪の高さは最小限度を3米とすること.
(2) 低氣壓若くは暴風に起因したと解されるものは之を收録せざること.
(3) 火山爆發に先後して起れるものは之を收録すること.例へば寛永17年,及び安政3年駒ケ岳爆發に伴へるものゝ如きが其れである.後者は津浪發生が爆發に先だつこと1月以上であるから,之を採用するに何等躊躇の必要もないのであるが,前者は兩者相伴つて起つたことであるから,之を採用するには多少の考慮を要する.但しこゝに近海に於ける海底の地變が一方には津浪を惹起し,他方火山爆發と相關聯して起つたものと假定し,假りに之を收録することにした.
(4) 規模廣大にして且つ多數の餘震を續發せしめた地震につき,之に伴へる津浪は,假令其浪原が北海道に近き場合に於ても之を收録すること.例へば明治27年度のものは浪原が根室釧路兩國の沖合にあつたのであるが,津浪は北海道沿岸に於ては僅に4〜5尺の高さに止まつたに拘らず,三陸沿岸に於ては却て3米以上にも達した處があつた。又安政3年のものは其浪原寧ろ北海道に近く,惠山沖或は尻屋沖にあつたのであらうが,津浪は渡島,膽振,日高の沿岸に於て最高3米に達し多少の被害もあつたけれども,三陸沿岸に於ては八戸志津川等に於て稍著しく,其處での浪高は明治29年のものよりも却て高かつたと言はれて居る.
(5) 日本海の沿岸に於ける津浪は之を收録せざること.例へば寛政4年西津輕大地震津浪,天保四年鼠ケ關大地震津浪の如きがそれである.
右の外,今一つ斷つて置きたいことがある.それは天正13年11月29日大地震に伴つて起つたと稱せられる津浪を收録しないことである.元來此地震は其起因明治24年10月28日濃尾大地震と同じく,越中西部から飛騨白川谿を経て伊勢灣頭に至る大斷層,即ち本島を横斷せる斷層に沿うて起つたものであつて伊勢灣内に於ては或は小規模の津浪を起したかも知れないが,併しながら,假令そうであつても,それが熊野や土佐の沿岸に波及する程のものでなかつたことは此等の地方の津浪記録にそれが表はれて居ないことに依つて然か想像せられる.されば此ものは南海道津浪の記録
からも除くべきものであるから,隨つて三陸津浪とは全然縁のないものたることは是れ又明白である.
元祿16年11月23日關東地方津浪も亦其影響が著しくなかつたことによりて收録しないことにした.
以上の標準により,三陸津浪の記録を整理して見ると第I表の通りになる.
II 津浪各論
今順を追ふて此等の津浪を檢討することにする.
1. 貞觀11年5月26日大津浪.
此の地震津浪に關する記事は三代實録に表はれたのが唯一のものであらう.それは次の如く讀める.
5月26日陸奥國地大に震動し,流光晝の如く隱映す.須叟にして人民叫呼し,伏して起つ能はず.或は屋仆れて壓死し,或は地裂けて埋死す.牛馬駭き奔り,或は相蹂躪す.城廓倉庫,門櫓墻壁,頽落?覆するもの其數を知らず.海口哮吼して其聲雷霆の如く,怒濤漲潮陸地に溢れ,忽ちにして城下に至り,海を距ること數十百里,浩々として其際涯を辨ぜず,原野道路總て滄溟となる.船に乗らんにも其遑なく,山に登らんにも及び難く,溺死せるもの1000人許,資産苗稼殆ど孑遺なし.
以上の記事を見ると,先づ氣附かれることは,事變が夜間に起つたことゝ,地震が可なり激しかつたらしいといふことである.又發光現象もあり,地震と津浪との間に海鳴りのあつたことは寫實的ではあるが,津浪が海岸から數十百里の距離にまで侵入したといふことは正鵠を失つたものであつて,距海數十百里は沿海數十百里と讀むべきものであらう.
我國に於ける地震津浪は慶長以後のものに於て其記録が稍整頓して居る.三陸地方は其以前に於ても津浪が頻々に襲來したと假定し得べき根據があるのであるが,併し乍ら慶長を遡ること1200年間に於て,問題の津浪のみが記録上唯一のものたる事實は,如何に此津浪が絶群のものであつたかを想像するに難くない.人口稀薄であつた
上古に於て1000人の死者を生じたことも此事を物語るであらう.恐らくは次に記述する慶長津浪と共に,三陸津浪中最も激烈偉大なものゝ雙璧であつたのであらう.
2. 慶長16年10月28日大津浪.
此津浪に關する記事は駿府記,朝野舊聞衰藁,福山秘府等に載せてあるので,三陸及び北海道沿岸に於ける被害の概況を知ることが出來るが,猶ほ其外に,被害地に於ける口碑が處々に殘つて居るので,明治29年津浪との比較研究の出來る箇所がある.
駿府記の記事は次の通り讀める.政宗所領海岸津浪襲來して人屋悉く流失し,溺死者5000人に及ぶ.同日南部津輕の海邊人屋溺失し,人馬3000餘死す.
朝野舊聞?藁の記事は次の如く讀める.貞享書上に曰く,28日巳刻過,政宗領内大地震,津浪入り1783人死す.
福山秘府に曰く,慶長16年10月東部逆浪海水溢れ,人夷死するもの多し.
以上の記事に依つて見ると,變災は午前10時過に起つたものゝ様であるが,白晝の出來事としては人命の損失の甚だ多かつたことが氣附かれる.尤も南部津輕邊の溺死3000餘の中には馬匹まで加へてあるけれども,海濱の漁村に馬匹の僅少なことも明かであるから,此數字は主として人命の損失を示すものと見て差支ないであらう.下に記す通り沿岸數村の死人1O00といふ數に達することによりても然か首肯かれる.
人口現今に比較して遙に稀薄なりし當時に於て,白晝5000人にも達する程の死人を生じたのは,津浪が如何に激烈であつたかを證明するに足るであらう.
此の津浪に伴つて大地震のあつたことが記載されて居るけれども,其直接の被害に就ては記事が缺けて居る.恐らくは特筆すべき程のもので無かつたのであらう.
伊達領の津浪を記載した前記二書の中には政宗の臣が漁人と共に出漁して此津浪に出會つた挿話が載つて居る.それに據ると,政宗魚(恐らくは献上用の鱈魚ならん)を求めんが爲めに侍2人を遣はした.將に出漁せんとするとき,漁人は潮色常に異なり,天氣不快なりとして難色あつたが,侍甲は其言に從つたけれども乙は之を肯んぜず漁人6〜7人を促して出漁して,行くこと数十町,山の如き大津浪襲來したので,諸人魂魄身に副はず,運を天に任せて居た處,幸に波に載せられて,漁人の生所なる山上の松の木の傍に止まつた.そこで一行は麓の里に下つて見た所,人家1軒も殘らず流失し,侍甲を始めとして殘留の諸人何れも溺死して居たとのことである.挿話の要項は以上の通りであるが,舟の掛つた松の木を千貫松と謂ふことから,場處を名取郡岩沼の千貫松に取る人もあるけれども,それは恐らくは附會の説であらう.
次に本津浪と明治29年津浪との大小を比較して見たい.
一般の被害統計によりて本津浪は明治29年津浪級のものたりしことは想像に難くないが,三陸沿岸に殘つて居る口碑に據れば,本津浪の方が寧ろ勝つて居た様に思はれる.
田老村に於ては次の様な口碑がある.往古の大津浪のとき,日枝神社登山道に當る溪間の一小橋が浪の爲めに破壞されたと.日枝神社は田老本村の西南方に孤立した標高100米の丘陵上に立ち,問題の小橋は標高25米の邊にあつて,明治29年津浪の達した位置よりも更に2丈餘の高位置にあることだから,此時の津浪は明治29年のときよりも,少くも6米は高かつたらしく思はれる.此の往昔の津浪といふのが慶長年間のものたる實證はないけれども,之を肯定することに就ては恐らくは何人も異議を挾まないであらう.果して然りとすれば,田老村海濱に於ける浪高は慶長年度20米,明治29年度14・5米,昭和8年度6米として大差ないであらう.
船越村小谷鳥と同村大浦とは其距離約2粁ありて兩者の境界をなす分水嶺の標高は25米乃至30米である.小谷鳥は第2圖に於て見るが如く,標本的のV字形港灣を形作つて,其開口を東南方外洋へ向けて居るから,津浪は毎囘比較的に高い.即ち昭和8年度12米,明治29年度17・2米と計測され兩者共に分水嶺に達し得なかつた.傳説に據れば慶長16年のものは峠を越えて大浦ヘ侵入したとの事であるから,小谷鳥海岸に於ては25米位の高さであつたらしい.
次に山田町字關谷武藤六右衞門氏所藏古文書には,古來聞書覺のことゝして次の記事がある(伊木博士寫取りには遺漏あり).「慶長16年10月28日大地震3度仕,其次に大波出來候而,山田浦は房ケ澤まで打參り候由,2の波は寺澤に打參り候,3の波は山田川橋の上まで打參り候由に御座候.織笠は禮堂まで打參り候.扠浦々に人死申事,鵜住居,大槌,横澤800,船越男女50人,山田浦20人,津輕石150人.大槌,津輕石の多數死せるは市日の爲めとあり」.
同所に於ける口碑に據れば,慶長年間の津浪のとき,浪は手長の明神の處まで打上げた爲め,浪合の明神とも呼ばれる様になつたと言はれて居る.
右に記した房ケ澤は山田町海岸から西1200米程の處にあり,之に比較して明治29年津浪は1000米の距離に上り,昭和8年津浪は750米の距離に上つたのである.
叉織笠村に於ては慶長16年津浪は海岸から2100米の距離にある靈堂を浸せるに比較して,明治29年津浪は1100米の距離に達し,昭和8年津浪は700米の距離に上つたのである(第3圖參照).
三陸沖に起つた大津浪は其被害北海道沿岸に及び,特に襟裳岬を中心として其兩側の沿岸に於てそれが著しいのが通例である.然るに今囘の津浪は渡島の東部並に膽振沿岸にまで著しく,内地人及びアイヌ人の死者多かりしことが傳ヘられて居る.
以上の事實を綜合して見ると,慶長19年津浪は明治29年津浪に比較して40%,少くも30%程大きかつた様である.
3. 元和2年7月28日津浪.
史乘多くは單に大津浪とのみ稱して被害の有無を掲げてないのは恐らくは特筆すべき被害の無かつたことを意味するのであらう.但し大槌舊事梅荘録に,當所は市日に當り.在々濱々より人々寄集まり居たる爲め,男女大勢流死し,當所より鵜住居までの間に數百人の死亡ありし由とあるは慶長大津浪に關係するものらしい.譜牒餘録には巳下刻,政宗國許大地震し,居城石壁櫓等破損したと記してあるから,地震は相當に強く,而も日中11時頃の出來事なる爲め警戒も行届いたのであらう.
4. 寛永17年6月13日津浪.
前に述べた通り,此津浪は北海道駒ケ岳噴火に伴つて起つたものであつて,津浪は噴火灣内に於て特に著しく,昆布取りの小舟百餘艘殘り少なに津浪に引かれ,和夷人死するもの700餘人に及んだといふ.此の時,北方の有珠では浪が善光寺如來堂の後ろの山まで上りしも堂は幸に無事であつたといひ,又松前方面に於ても海水の異状を報じて居る.されば三陸の沿岸少くも其北部に於ては小津浪の波及は免れなかつたであらう.
駒ケ岳の噴火は同日正午頃に始まり,15日までは激しく續いたものと見える.同山の大噴火は其後安政3年,明治38年,昭和5年等にもあつたが,噴火最中に津浪の起つたのは此時のみである.是れ予が此の津浪の原因を,前述の通り,近海の海底變動にありと假定するに至つた所以である.
5. 延寶5年3月12日津浪.
此津浪につき,延寶日記には南部藩主からの幕府への3月24日附屆出が次の様に記してある.
地震は12日午後8時から始まり,曉までに24〜25囘あり.其中特に強きは午後8時並に13日午前4時頃のものであつて,同午前10時のものも強し.引續き15日まで晝夜度々ありしも12日夜程にあらず.城廻り損所なし.大槌浦にては12日夜大地震あり,夜半に至り,津浪海岸より4〜5町の距離にまで侵入し,60軒程の在家の中20軒破損した.又宮古浦にては12日午後8時から翌朝に至るまでに地震9囘あり,大波は13日午前0時から2時までの間に,3度押寄せた.此時鍬ケ崎の在家少し許り浪に浚はれ,殘餘のものに破損あり.幸に大槌宮古兩所共に人馬津浪前に高地へ避難したが爲め死傷なし.但し此外の浦々遠所よりは報告未着である.
以上は此津浪に關する第1報と見做すべきものであるが,大槌宮古兩所以外の場處に關する報告を逸せるは遺憾である.承寛襍録に,延寶5年3月12日南部地震津浪,在家20軒流るとせるは,恐らくは前記報告書にある大槌浦の破損家屋を指すものであつて,兩所以外の場所に關するものではあるまい.兎に角津浪の度毎に被害比較的に稍輕少なる宮古浦鍬ケ崎及び一層微小なる大槌浦に於て前記の如き浪災のありしは本津浪の輕くなかつたことを物語るものであらう.
6. 元祿2年津浪.
此津浪は,單に口碑として傳はつて居るのみである.輕小なるものであつたが爲めであらう.
7. 寶暦12年12月16日津浪.
小山内日記に八戸地方大地震津浪の記事があり,又維新前北海道變災年表に南部津輕激震津浪と註して,12月16日午後8時前代覺なき程の大地震に引續き潮汐の異常な干滿ありしことを記して居る(逢坂日記).葛西日記,平山日記は發震時を午後7時とし,村井舊記は青森に於て家屋1〜2軒潰れ,寺院にも少々宛の損傷ありしことを記して居る.何れの記録に於ても餘震年を踰えて止まなかつた點は相一致して居る.
糠部五郡(八戸地方)小史には次の記事がある.寶暦11年7月下旬より八戸井水涸渇,11月に至り小震時々.12月16日申の刻大震動,翌朝までに大小17度に及べり.爾後引續き小震止まず,正月19日大震,城中土手崩れ,城下の家屋破壞夥しく,2月朔日湊村津浪にて民家人馬の流亡あり,3月4月に至るまで止まずと.按ずるに右の寶暦11年は12年の誤寫なるべく,さすれば津浪の日附は翌13年2月1日に當る.記して後考を俟つことにする.
8. 寛政5年1月7日津浪.
此津浪に就ては大槌に於ける状況につき次の様な舊記(古廟山主翁記録)がある.即ち同日巳の刻大地震2〜3度あり,大津浪は珊瑚島の上を越えて押來り,町内下側は裏通り垣根まで寄せ,上側には變化なし.向川原は板敷の上まで潮水上り,須賀通は大變の由.兩石村にては家17軒流れ流死人12〜13人有之,其跡は川原の如くなりたる由.
地震は毎日2度も3度も有之,潮水も7日許の間は押來りたる故,海邊住居のものは南北共山に引移り,日夜家に歸らず.地震は3〜4月頃まで折々之れ有りたりと.
9. 天保6年6月25五日津浪.
日本災異志に,天保6年6月25日奥州仙臺領大地震大津浪にて民家數百軒流失し,死人數知れざる次第を記し(泰平年表),高田町にては此年洪浪の襲來せるを傳へて居る,又大日本地震史料に,根室測候所報告として,天保6未の年8月津浪あり,
各所の漁舎を流し,花咲最も甚だしく,同所に居住する蝦夷人小屋50餘戸,漁舎倉庫共悉く流失し,之れが爲め,蝦夷人は山越して現今のホニヲィに轉住したことを記してある.變災の期日に相違があるけれども,後者は土人の記憶に據つたのであらうから正確を期し難い.多分同一のものであらう.
10. 天保14年3月26日津浪.
此津浪は明治27年根室釧路沖に起つたものと其系統同じく,之に伴ヘる地震は其大さ略ぼ相等しきも,津浪は天保度のものが遙に大きかつた.されば三陸沿岸に於ける影響も天保度の方が大きかつたらうと想像される.
松前家記に據れば,26日曉,國後・根室・厚岸・釧路地方地大に震ぴ,津浪起り民夷溺死するもの46人,家を壞る75戸,船を破る61艘に及んだ.
大日本地震史料には厚岸町にある國泰寺の日記が載せてある.可なり悉しいものである.又釧路郡役所にて調べた報告書も引用してある.此等を綜合して見ると,最初の大地震は當日午前6時頃起つたもので震動可なり激しく,厚岸に於ては戸障子倒れ,家屋の移動したのもあり,處々地裂け其幅5〜6寸に及んだ.之に續いて海水漲縊し,眞龍村及び厚岸市街は一面の海となり,老幼男女相扶けて附近の高地へ避難したが不幸にして溺死したもの男女45名餘に及んだ.午前10時頃までに津浪の寄せること兩度,大地震は5〜6囘,餘震は猶ほ數日間繼續した.同所に於ては津浪は平水よりも15尺餘の増水であつたから,土人の家屋は何れも流失し,人畜の死傷も多かつた.同日根室國野付,渡島國龜田の沿岸にも津浪の襲來を見たが別段な被害はなかつた.
11. 安政3年7月23日津浪.
此地震津浪に就ては曾て其詳報を公にしたことがある(震災豫防調査會報告第95號).試みに之を摘記するならば,地震は當日午後1時頃のものを主要なものとし,渡島東部に於ては可なり強かりしも潰家を生ずるに至らず,却て青森に於て潰れたる倉庫3棟あり.此地震に先だつ4日間,日々2〜3囘の前震を發生せしめたが,餘震も其數頗る多く,津輕に於てすら,5月間に亘り50餘囘を算した.又渡島の東部椴法華村に於ては地震と共に海岸から沖合へ10町餘も干潟となり,出獵の漁船何れも陸に打上げられた觀があつたが,日没に近づいて海水復舊した.併しそれでも海底は多少淺くなつたといふ.是れ恐らくは本津浪を惹起した海底變動の一端であつたのであらう.
津浪は北海道に於ては渡島の東部最も著しく,口高の沿岸之に次ぎ,船舶の被害があつた.噴火灣に臨める八雲村に於ては正午頃強震,忽ちにして激浪起り,海水45間程陸地に侵入したと記録されて居るが,其他の地方に於ては激震と津浪との間に1時間位の時差があつたらしい.維新前北海道變災年表に據れば,函館に於ては水高きこと丈餘とし,又19日頃より數囘地震を感じ,23日午後1時頃に至り大地震を發し,尋で津浪襲來して市街を浸し,大町邊は海水土藏に入り,鶴岡町邊は500石積の船街路に上り,築島にては地上浸水5尺に達し家屋の漂蘯し去るものあり,斯くて海水退きて又襲來り,一進一退8〜9囘に及び,夜に入りて定まつたとしてある.
三陸沿岸の状況に關しては,南部史要に,南部海嘯,家屋流失倒壞百餘に及ぶとし,又伊木博士の調査に據れば,7月23日三陸沿岸一帶大地震あり,尋いで津浪が襲來した.此時海水は先づ大に干退して後,徐々に増水し,志津川の如き場處に於ては小舟に乗りて市中を徘徊したと言ひ(明治29年津浪のときは斯ることなかりしと),八戸近傍の海濱では其水量明治29年の場合よりも大きく,被害も多かつたといふ.但し浪勢は今囘の方遙に緩漫であつて,津浪退却した際,打上げられた魚族を悠々として拾集したとのこと.
同じく三陸沿岸に於て,高田町にても洪浪の襲來ありしことを傳へて居る外,閉伊郡海嘯記事には大槌船越等に於ける状況につき次の如き詳報が載せてある.
安政3年7月23日四つ過に地震兩度有之,9つ頃に大地震2度有之,尤も1度は長く有之候處間もなく津浪押來り,須賀通へは寛政5年の津浪位に押上り納屋は保ち居候處,5度目に大潮押來り,納屋殘らず浪に取られ候.八日町下側は板敷ヘ潮水上り,東梅社前へは5尺4〜5寸許,江岸寺の門内へは2尺許.同日船越村の様子承候處,前海より潮水押上り裏濱の方ヘ押抜候に付,流家は27軒,潰家は11〜12軒,流死は男女にて21人有之候.其後連日大地震有之候.
12. 明治27年3月22日津浪.
此の津浪に伴へる大地震は同日午後7時20分頃根室釧路兩國の太平洋側沖合に起つたものであつて,根室釧路厚岸の三市街に於て被害著しく,居宅全潰11棟,大破56棟,又土藏煉瓦造倉庫の破損も多く,土地處々龜裂した.此地震の特色としては當日數囘の前震を先發せしめたことであるが,餘震も亦著しく,數月を踰えて猶ほ止まなかつた.
此地震に伴へる津浪は北海道沿岸に於ては地震後20〜30分を經て押寄せたが最高4〜5尺に過ぎなかつたので,被害は漁舟の流失が些少あつた位のものであつた.津浪の週期は20分乃至30分であつて厚岸の沿岸に於ては23日午前2時頃まで繰返されたといふ.
津浪は北海道沿岸に於ては斯く微小であつて,天保14年のものに比較しても頗る小さかつたのであらうが,それにも拘らず,三陸のリア式港灣に於ては次の通り相當の高さに達した.
田老,水勢5尺以上を檜し,迅速なる干滿を繰返すこと23日午前9時頃まで數十囘に及んだ.
磯鷄,津輕石,重茂,山田,船越,潮水急速な干滿を繰返すこと翌日までに数十囘.
織笠,潮水の干滿7囘に及び,水位は織笠川に於て3尺高まつた.
大槌,地震後1時間を經て潮水の急速なる干滿を始めしも陸地に浸水するに至らなかつた.
鵜住居,22日午前11時頃地震緩く長く凡そ30秒時,其れから夕方までに小震5〜6囘,午後6時半頃大震1分間.海水の干滿異状は午後5時頃より始まり,大震後最も甚だしく,23日午後に至つて止んだ.
釜石,午後7時地震,40分か1時聞經過したと思ふ頃,津浪押寄ぜ,凡そ3時間に7〜8囘の干滿があつた.同港に於ては干潮時の水位,大潮のときは滿潮面下5尺3寸に過ぎないのに,同日の退潮は14〜l5尺に及んだと云ふ.此日滿月に當り,且つ津浪の最高に達すべき午後8〜9時は干潮の時刻であるから,津浪の高さは10尺程度であつて水位は滿潮面上5尺に上つたものであらう.
赤崎,津浪は午後8時半頃から翌朝4時半までに25囘繰返したが,第3囘が最も大きく,高さ6尺に及んだ.
高田町,地震によりて物置小屋1棟倒潰し,津浪に由りて漁船1隻破壞された.
大船渡,地震後30分を經て津浪來り,翌午前4時まで7時間に15囘繰返された.浪の高さ5尺餘.
13. 明治29年6月15日大津浪.
此大津浪は伊木博士,池上技師等の詳報もあり,予も亦曾て解読を試みた事もあるから,更めて茲に再説する必要を見ない.但し此津浪に依りて達せられた水位の最高記録は,吉濱に於ける80尺となつて居るけれども,最近精査の結果,綾里に於ける30米を第1位とし,集に於ける27米を第2位とすべきものゝ様である.
14. 明治30年8月5日小津浪.
此の地震津浪に就いては其詳報が震災報告第29號に載せてある.地震は當日午前9時頃に起つたが,強震ながら別段の被害はなかつた.三陸地方では其後凡30分間を經て津浪が押寄せたが,被害は家屋田地への浸水,堤防の缺壞等に止まつた.津浪の三陸沿岸に於ける發達状態から見た浪原の關係位置に就ては,昭和8年の場合は明治29年のものよりも4O〜50粁程南へ偏し,明治30年のものは更に其南方にあつたと解される.今囘の津浪に關し,各港灣に於ける浪高は第II表の通りであつた.
15. 昭和8年3月3日大津浪.
此の大津浪に就ては諸家の詳細なる調査報告が豊富にあることだから,茲に之を再
説する必要を見ない.
III 結び
以上は過去の三陸津浪に關する概論である.記録に誤謬や缺陥もあることであらうから,斯様な資料を基として推論を下すことは大膽過ぎるであらう.併し乍ら次の數件は甚だしぎ見當違ひではないかも知れない.
(1) 過去300年間,三陸地方に於ける津浪發生には一盛一衰ありしこと.詳言すれば17世紀に於ては慶長16年津浪を主要のものとして津浪活動の時期なりしが,元祿以後1世紀半は極めて不活?であつた.さうして明治29年津浪を主要なものとして最近活動の時期を再現したものゝ様である.
(2) 三陸地方に於ける大津浪の發生と,關東地方に於ける地震大活動とが略ぼ同時代に出現すること.詳言すれば關東地方地震大活動は弘仁9年(西紀818年),元祿6年(西紀1703年),大正12年(西紀1923年)に於て其絶頂に達したが,三陸に於ける大々的津浪は前記の如く,貞觀l1年(西紀869年),慶長16年(西紀1611年),明治29年(西紀1896年)に現れた.兩者共に我が太平洋側沖合にある地震帶上に在つて,餘り遠く隔たつて居ない位置に於ける大規模の地變に基づくことであるから,其處に多少の因縁のないことは否めないであらう.
(3) 明治年代の津浪は其の基調の波動週期概して2O分乃至40分の間にあつたが,古い時代の津浪に於ても此基調の週期を示すものがある.浪原遠きときは三陸のリア式港灣に於ける津浪の週期が主として上記のものに屬し,隨つて浪勢が比較的に緩漫である.
(4) 明治27年同29年昭和8年の津浪に於ては數時間前に海水に異變があつたことが氣附かれた.即ち明治27年の場合には前に記した通り鵜住居に於て津浪が本格的に始まる2時間前に既に異變を示し,又明治29年の場合には當日午後3時頃雄勝灣にては海水減退し,雄勝から對岸船戸まで徒渉が出來たといひ,本吉郡小原木にても同時刻から海水が20間乃至300間干退したと言はれ,又同郡御岳村の海濱にても同様のことが氣付かれた.昭和の津浪に於ては津浪前七八時間が暗夜であつた爲め,斯様な現象があつても之を認めるには不利であつたが,それでも潮流が異常の急變を告げたことが3月2日午後から夜半に至るまでの間に於て近海沿岸各處で氣附かれた.例へば山田釜石兩灣の間の洋上に於て急潮に伴ふ無數の渦流を認めたるが如き,釜石から兩石までの間に於て,よだ波の急速な進退を經驗したるが如き,又唐丹小白濱に於ては沖合に於ては同様の潮流異變を認めたるのみならず,同所棧橋に於ては,午後10時前後,よだ波に由る海水干滿の差1米程度に及んだことが氣附かれた如きがそれであつて,此事は同時刻に於て各地の檢潮儀に異常の長波が現れたこととも一致するのである.斯様な現象は日本海沿岸の大地震に經驗する通り,最後の大地變に到達するに先だつて發生する地變の存在を暗示するのかも知れないが,併し乍ら三陸沿岸に於ける往古の津浪に就ては之に相當する現象と認むべきものを見當らぬ.今單に之を記して後考を俟つことにする.
2.津浪を海水の陸上縊流としての考察
地震研究所 石本巳四雄
萩原尊禮
地震現象に伴ふ大規模の津浪は,海底の廣範圍に亙る地形的變動に依つて發生する一種の長波であると考へられ,實際には其の波長及び週期は比較的大である.斯様な長波は之を局部的に見るときは海水の運動は相當大なる速度を有する水流であるが,波長が大なることのために廣範圍の水が一様に運動するに過ぎず,沖に於ける船舶は何等波動の存在を關知しない場合が多い. 6) 銭塘江.
斯様な波動が海岸に到逹した揚合を考ふるに,沖に於ては上述の如き水流が存在しても波動に對する境界たる海岸に於ては水流は生じ得ず海水面の上下運動のみが主要なる現象となる.尤も淺所に於ては,平常我々が磯波に於て見る如く,波動の傳播速度は波高の函數となり,波の高部が前方の低部より比較的速かに進行する結果,波面の傾斜を次第に増加し爲めに破浪を生じ之がため幾分岸に向ふ水流を生ずる揚合も皆無とは云へぬが,津浪の比較的高からざる所に於ては斯様な現象は間題とならない.
海岸に於て單に水面の上昇が起る場合其の結果として陸上に海水の横溢を生ずるときは此處に水流を生ずる.今囘の津浪襲來の跡を見るに建築物被害は海水横溢に依る水丈と其の際に生じた水速とに依り最も適切に説明し得られる.然も後者が家屋破壞に密接の關係を有するのである.水流を生ぜしめるためには後方に水が流入し得る空間の存在することが必要條件であつて,斯様な條件を具へた場所にあつた家屋が破壞流失し,之と相隣した場所に於ても其の背後に丘等を控へ水の流動する餘地無き所に於ては家屋は殆ど損傷から免れて居り,一見奇異の觀を與へる現象は隨所に見ることが出來るのである.この事實は1896年6月15日の同地方の津浪被害の調査結果に照しても明かであつて,然も之と今囘の場合とを比較對照するに,被害の局部的分布は極めて類似して居り,等しく背後の地形の影響を受けて居ることが知られる.若し假に?々言傳へられる如く遙かに海中より水流が押寄せて來たものとすれば,其の背後の地形如何に關らず同程度の災害を與へねばならない筈である.
津浪の建物に與ヘる災害の要素としては建物を浸す水丈と水速とを擧げることが出來る.即ち水位と水速と結合したものが或る極限を越すときは家屋は損傷する.津浪當時の水面の最高の位置は岩壁,建築物に殘された痕跡より知ることが出來るが,之に反し當時の水速を直接に示すものは何物も殘つて居ない.從って水速の推定は或る假定に基く以外に道が無い.
海面が單に上昇する結果として,一様な傾斜面を有する陸上に海水が横縊する場合の水流の速度は計算に依り土地傾斜角の余切並に海水面の上昇速度に比例する事が知られるが吾々は之を釜石町の場合に當嵌めて最大水速1m/secを得た.釜石町の海岸附近の浸水は約2mであつたが木造建築物の破壞せるものと,之を免れたるものと其の數相半し,木造建築物に對する水の破壞力がほぼ其の限界附近にあつたと見做すことが出來る.從つて釜石町の場合よリ推定して木造建築物は約2mの浸水に依って破壞の極限に達し,1m/sec程度の水速に依つても全壞せしめられることが知られる.
津浪の被害は浸水の高さと水速に依るものであるから,此の災害より免れんと欲するならば,第1に高所を選んで住居するは勿論であるが,土地傾斜の緩かなる場所は同じく危険である.將來の津浪も恐らく同様のことを繰返すであらうから何等か適切な方法を講じて再び災害が繰返されない様に注意したいものである.

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3.津浪に伴ふ發光現象
地震研究所 寺田寅彦
1933年3月3日の朝三陸沿岸を襲つた津浪に隨伴して種々の發光現象が觀察され,それに就ては詳細な武者金吉氏の調査の結果が本誌別項に報告される筈である.それ等の發光現象の中で,特に釜石灣口に近き海面から發せられたと思はるゝものに就きては,多數の目撃者の證言が大體に於て一致して居て,その實在性に關する疑が少ないやうである.然るに此の光は,電光,火災,送電線のシヨ-ト,又山崩れの爲等によつて説明し難く,又地下裂罅の發生による放電や地下水移動による電位差に歸因する空中放電とも考へ難いので,殘る1つの可能性は發光プランク卜ンの群が津浪に因る海水擾亂の爲に一せいに刺戟されて同時に持續的發光をした爲ではないかといふことである.本篇はこの原因によつて凡そ如何なる程度の光を生じ得るかといふことを見積る爲に若干の假定に基いて概算した結果を述べたものである.その結果實際釜石で見られたやうな光がこの原因から生じても非常な不合理はないやうに思はれるのである.勿論當時さういふプランクトンの群が,その地方に居たといふ證據はないのであるが,他の可能性が考へられる迄は,この原因を1つの假説として提出することが出來るであらう.
尚,津浪の爲に海水が地球磁場内で動く爲に誘導される電流,又津浪による地下壓力傾度の爲に生ずる地下水移動に因る電動力と,これによる電流を概算し,プランクトンが此等電流により刺戟される可能性を論ずる際の参考として置いた.
津浪が灣口に到達したことを生物の發光によつて知ることが出來れぱ避難者の爲に1つの有效な信號として役立つであらうから,此種の現象の今後の研究は實用的見地からも決して閑却してはならないことゝ考へられる.

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4.昭和8年3月3日の三陸津浪
地震研究所 山口生知
昭和8年3月3日三陸の沿岸を襲ふて,大なる被害を與へた津浪は其の高さ20米以上に達したものもあつたと觀測されてゐる.而して浪源は中央氣象臺の報告によれば,東經144・°6北緯39・°2,又東京帝國大學地震研究所の觀測によれば東經144・°0,北緯38°・2の震源附近に在るものと看做されてゐる.
此の地方は古へより特に?々津浪の被害を蒙つてゐるが,それには何かそういふ理由がありはしないか.之を説明し得べき1つの手掛りを求めようとして先づ第1に此の沿岸の灣の副振動の週期について統計的に諸性質を調べて見た.
約10個の灣の週期に就いては,既に本多博士,寺田博士及び其他の方々に依つて計算されてあるから更に此の沿岸にて著しい灣は勿論のこと,外洋に面した小灣をも含めて合計45個の灣の週期を計算した.
次に港灣の形,若しくは近海の深さ,或は近海底の傾斜等が津浪の高さに及ぼす影響に就いても調べて見た.
其の結果は下の通りである.
(1) 此の地方には7・5分前後及び其の3倍の22・5分前後の2種類の週期を持つ港灣が,著しく多く羅列してゐることを知つた.之が此地方の特徴であつて昔より?々津浪の被害を蒙る1因をなしてゐるのではないかと疑はしめられる,即ち之等の灣が沖合の震源附近より進んで來た津浪の個有週期と,恐らく共鳴して其の浪の高さを増したものと想像される.
(2) 灣の長さと平均の深さとを,座標軸として畫いた圖(第3圖)に於て津浪の高さが10米以上もあつた灣は之を區別すべき境界線を引くことが出來る.而もこの曲線は一定の週期を表はす曲線と,或る角度を以つて交るように見える.又浪の高さが5米以下であつた灣についても同樣に他の境界線が引かれる.
而して昭和8年の津浪の場合(第3圖a,b)と,明治29年の場合(第3圖c)と2つの場合殆んど同樣の結果を與へたと云ふ事實は何か或る意味の存することを示すものと思はれる.
(3) 灣の深さが津浪の高さを支配することは勿論であるが,この外に灣の週期と云ふものも津浪の高さを支配する大切なる1因子であることを忘れてはならない.即ち廣田灣及び山田灣の場合がその1例であつて,之等の灣は他の灣と較ベて可なり深いのであるが,週期が大なるために津浪の高さは豫期される程高くならなかつたのである.
一般に灣の週期が長くなる程津浪の高さは低くなるような傾向をもつてゐる.
(4) 綾里灣及び集灣の如きV字形の灣は特に,津浪の高さが高かつたと云ふので,他のすベての灣について,灣口の幅,b及び灣の面積,Aを計算して津浪の高さと,A/bとの間の關係を求めて見たが,統計的には何等目立つた相關々係を見出すことが出來なかつた.
(5) 此の地方が度々津浪の被害を蒙る今1つの理由として,此の沿岸の海の深さが比較的深いと云ふことを擧げることが出來よう.
このために津浪の觀測された場所より100米水深までの距離を測つてその距離と,津浪の高さとの關係を調べて見た.その結果は第5圖に示される通り距離の大となるにつれて,津浪の高さが減ずる檬な傾向が窺はれる.即ち津浪が沖より海岸に達する迄に,近海の比較的淺い底の摩擦によつて幾分その勢力が減衰するように思はれる.
(6) 震源への方向に對する灣口の向きが,津浪の高さに及ぼす影響は餘り著しくないが或る程度までは之を認めることが出來る(第6圖).而して此の調査によつて浪源が中央氣象臺の報告による震源よりも100粁程南方に在るべき事を示してゐるのは面白いことゝ思ふ.

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5.津浪の勢力と防禦
内務省土木試驗所 松尾春雄
昭和8年3月3日の三陸津浪に依る被害状況より海岸各地に於ける勢力の推定を試み次に土木工作物に依り將來の被害の輕減を圖らんとする場合その強度を如何程にすベきかに就て概算を試みた.

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6.津浪の災害輕減に關する模型試驗
内務省土木試驗所 松尾春雄
内務省土木局に於ては今般の三陸大津浪の直後災害復舊豫算を計上して復舊工事を施したのであるが,將來の津浪の被害輕減の爲には積局的に災害防止設備を施す要ある事を認め,三陸地方に對しては之を計畫中である.然るに如何なる地點に如何なる構造物を設くれば最も有效であるか,又その強度を何程にすべきか等に關する研究が不十分である爲に,此等に關する試驗を行ふ事となり,目下内務省土木試驗所に於て研究中である.
茲にはこれ迄に行はれた試驗の中
1. 一定の底面勾配を有する水路中を長波が傳はる揚合の波形の變化.
2. 上述の水路中に種々の高さの阻壁を波の進行方向に直角に立てた場合の波形の變化.
3. 防波堤内に於ける波形の變化.
4. 波の傳播方向の轉換に依る波高の變化.
等に就て述べたものである.茲には主として試驗の結果のみを述ベ結果に對する檢討は試験完了後にする事として茲には差控へた.
これ迄の試驗の中最も顯著な結果は,海中に築造された築港用の防波堤の如き構造物は津浪に對しては效果が尠く,陸上に築かれた防浪堤が割合に效果が多い事,津浪は波が碎ける附近に於て非常に大なる破壞力を有する事,及構造物の此の線よりの距離が之に對する津浪の破壌力を決定するに主要な要素であるといふ事である.

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7.昭和8年3月3日の地震に伴つた音響に就いて
地震研究所 井上宇胤
(昭和8年9月19日發表—昭和8年11月20日受理)

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1.
昭和8年3月3日2時31分頃の強震に伴つて各地に於て異状な音響を聞いて居る.此の事は明治29年の三陸津浪の際にも起つた事であるが,此の音響の大體の有様は國富技師の報告に依ると次の樣なものである.
「砲聲の如き鳴響を聞いた所は岩手,宮城,青森,秋田の4縣下に限られ,然も凡て地震後に聞いて居る.更に斯様な音を聽取した所で聽取時間を測り得た7囘につき平均時刻を求めて見ると大體發震後30〜35分となつて居る.又以上4縣下で地震前に地鳴を聞いた所は6個所で其の音は單に鳴響或は風聲の如く聞えた樣なものであつた.
之れは恐らく主要動の前に聽いたものであらう.更に遠距離の地方でも地鳴を聽いた所もあるが,之等は遠雷の樣な音或は風聲の樣な音が最も多く砲聲の如き音と云ふ所はない又砲聲の樣な音を聞いた所を調べて見ると其の中最も遠距離な所は秋田縣の大曲,花輪等であつて太平洋海岸から最短130粁も距つて居る.」
此の原因に就いては或は震源に發生した音波が直接空氣を傳つて來たのでは無いかとも考へられ或は叉津浪が海岸の斷崖特に灣口の斷崖に打當つた時の音響では無いかとも考へられて居る.然るに材料の不充分や不確實の爲にそのいづれとも解決がつかないで居る状態であるが,著者は石本博士の示敎に從ひ此處に此等とは全く別に此の音響を3月3日の強震並に其の餘震に伴つた地鳴であると解釋して見やうと思ふ.
1) 國富信一 驗震時報 7(1933),33.
2) 驗震時報 7(1933).
2.
中央氣豫臺に依つて發表された昭和8年3月3日三陸沖強震及津浪報告中の音響に關する記事に依ると,2時31分頃の強震に伴つた地鳴を聞いたと思はれる場所が數十個所あるが,其の幾らかの例を第I表中に示してある.
此の表によると,地震前に地鳴があつたと云ふ記事が所々にあるが,此れは人體に感じなかつた地の微動に伴つて居た音を聞いて暫くして地動が相當の大きさに達してから始めて地震と云ふ事を氣付いた爲であつて,此の事は筑波山に於ける地震に伴ふ地鳴觀測の場合に?々見られる處であつて,同所に於ては地鳴のみを聞いて地動を遂に感じなかつた場合も多々ある.
本多弘吉,竹花峰夫爾氏の報告に依ると,以上の外に同樣な地鳴は北海道の南部,東北地方,關東地方の大半及び中部地方の内陸方面で聽取されてをり,其の聽取地域は大體所謂異状震域とよく似てゐるとの事である.
此の強震は三陸の海岸から250粁程の海底に起つたものであるが,此の樣に相當の大きさの地震に伴つた地鳴が數百粁の遠方に於ても聽取された事は大正15年5月23日の但馬地震,昭和2年3月7日の丹後地震,昭和5年11月26日の伊豆地震の際にもあつた事で,此れは其の地方の地質及地殻構造に關係あるらしく地震波に依つて其等の場所に早い振動の波が誘發され其れが空氣に音波を起したものであらうと考へられる.筑波山は花崗岩の山であるが,此の山塊の中腹ではO・08秒の週期の個有振動が見られるが,此の倍振動の0・O4秒程度のものもあり,此等に依つて起された空氣波が地鳴として聞かれるものと思はれる.大森博士も既に地震の鳴響に關する調査と云ふ報告中に宮古測候所の地震記象の波の中にさざなみの週期としてO・04秒程度のものを認められて,此れが地鳴を起すものと御考へになつてゐられた樣である.
尚上の表から明かな樣に此の強震に伴つた音響は遠雷の樣に長く繼續して聞えるものが主であつた樣であるが,只青森縣の四川目の1個所だけは地震震動中に大砲の如き音響を聞いて居る.此の四川目では明治29年の津浪の時には地震前二三日前に大砲の如き音響があつたとの事であるが,此れは或は前震に伴つた地鳴であつたかとも考へられる.
次に本多,竹花兩氏の報告に依ると2時3l分頃の強震後9分,26分,55分していずれも顯著な餘震があつたが,此等の地震及び其の後の餘震の震央の大部分は本震の震央よりも数十粁程海岸に近寄つて居つた樣である.
本郷の地震研究所内に於ける石本式加速度地震計に依る歡測並に筑波山支所に於ける同樣な觀測に依ると,主震後6分20秒程に第1囘目の餘震があつた.
此度の音響中には,此の第1囘目の餘震に伴つた地鳴と思はれる記事があるので其等の幾らかを第II表に示して置いた.
三陸地方では主震の人體感覺に依る繼續時間は約4分から5分の間であつたから,地震直後と云ふのは發震後5〜6分程の事と思はれるので此の表中に入れて置いた. 或は其の中の幾らかは發震後10分程の事であつたかも知れぬ.
此の表を見ると,此の時の音響は砲聲の様な音と遠雷の如き音との兩方があつた樣である.
次に第2囘目の餘震即ち主震後9分の餘震に伴つた地鳴と思はれる音響聽取の記事を第III表に示してある.
此の表の外第II表に出て居るものゝ中或ものは此の部類に屬するものであるかも知れぬ.例へば青森縣の淋代,鹽釜及び天ケ森に於て聽取した音響は此の部に這入るものであかも知れぬ.尚此の外に岩手縣の吉濱,青森縣の尾鮫,平沼に於ては地震後15分に砲聲樣の音を聞いているが此れも或は此の部類に這入るものかも知れぬ.
さて此時の音も前の場合と同樣に遠雷の如き音と砲聲の如き音との2種類が觀測されて居る.尚此の場合の音は主として青森縣,岩手縣に於て聽取されて居るが,此れは主震後9分の餘震が主震及び他の餘震より遙かに北方即ち久慈灣の東方沖合に震源を有してゐた事とも符合して居るものと思はれる.
次に第3囘目の餘震即ち主震後26分に發生した地震に伴つた地鳴を觀測したものと思はれる記事を第IV表に掲げてある.
此の表の中で音響の聞ヘた時刻が知れてゐる代表的な所は盛岡市の發震後26分,松倉の發震後23分と25分の2囘,大曲町の26分と28分との2囘であつて,此等の平均は大約發震後26分となる.他の場所は震後20分から30分の間であつたと云ふ事になるが,其中25分と云ふ樣に5分と小切つてあるのは20分なり30分と大まかに云つて居るのよりも幾分價値が大であると見得るものとすると,まず此等の場所では震後25分して音響を聞いたと云ふ事になる.
此時の音は二三の場所をのぞいて殆ど全部砲聲樣の音であり,且1囘聞ヘた所と2囘聞いた所とあり,例外的に2,3囘聞いた所がある.2囘聞いたと云ふのは,三陸地方では地震の初期微動繼續時間が40秒程あつたので,P波の部とS波の部とで2囘音を聞いたのではないかと考へられる.此の樣な事は筑波山に於ても觀測される事を既に大森博士も述べられて居る.即ち明治38年8月25日の地震では初期微動繼續時間が99秒であつたがP波とS波とで2囘音を聞いた.其後昭和5年1月6日21時25分の地震の時は初期微動繼續時間が99・7秒あつたがP部とS部とで2囘音を聞き,P部に伴つた音の方が著しかつた.又同年5月22日0時40分の地震は初期微動繼續時間が82・9秒であつたが,やはりP部とS部とで2囘音を聞きP部で聞いた音の方が著しかつた.此の事は此度の地震に伴った音響が2囘聞へた場合は,2度目の音の方が弱かつた事とも符合してゐる.
以上の音響の外に宮城縣の雄勝,秋田縣の秋田市に於ては震後40分に大砲の如き音を聞いてをり,青森縣の木野部では震後1時間して砲聲樣の晋を聞いて居るが,此等は或は後の餘震に伴つた地鳴であつたかとも考ヘられる.尚主震に伴つた地震と第1囘の餘震或は第2囘の餘震或は第3囘の餘震に伴つたと思はれる地鳴と都合2囘の音を聞いた所は所々あるが,宮城縣の缺濱に於ては第II表中の記事から解る如く夫々第1囘,第2囘,第3囘の餘震に伴つた地鳴と思はれる3囘の音響を聽取した樣である.
3) 本多弘吉・竹花峰夫 驗震時報 7(1933),93.
4) 大森房吉 震災豫防調査會報告 57,64.
5) 本多弘吉・竹花峰夫 驗震時報 7(1933),61
6) F.OMORI, Pub. Earthq. Inv. Comm., 22 A(1908),26.
3.
以上に述べた如く,此度の三陸地震に伴つた音響は大體地震中と,震後約5〜6分,約10分,約25分,約40分及び約60分して聽取されて居りますが,其等は夫々主震,6分後の第l囘目の餘震,9分後の第2囘目の餘震,26分後の第3囘目の餘震
及び55分後の第4囘目の餘震等に伴つた地鳴と解釋出來ます.所でいずれかと云へば,主震に伴つた音は遠雷の様に繼續的であつたのに對し,後の音は砲聾の如く或はハッパの音の如く爆發的で短時間しか繼續しなかつたものゝ樣である.此れはlつには此等の餘震の震源地が主震の震源地よりも數十粁程海岸に近寄つて居た爲に早い波を餘計含んで居たせひもあらうし,又一般に規模の小さい地震程割合に早い振動の波を含んで居る(地動は振幅が大きくなると振動週期も延びるのが一般である)と云ふ事にも依つたのであらう.其の外大地震だと外の物音や驚愕の爲に地鳴を認めない場合も起り得る筈である.
筑波山支所に於ける大正14年3月から昭和8年8月迄の地震觀測中筑波附近に起つたと思はれる地震即ち初期微動繼續時間が5〜6秒臺の地震に就いて,地震の震度(中央氣象臺式)と地鳴を伴つた割合を示すと第V表の樣なものとなる.此の地方の地震は一般に30〜40粁の深さに發生して居るものであるから,此等の地震はます筑波山麓に發生したと考へて差支へないものと思はれる.表に依つて明かな如く,大きな地震の方がかヘつて地鳴を伴ふ割合が少くなつて居る樣な結果となつてゐる.然し地鳴を著しいものと微かなものとに分けると,大きい地震では地鳴を伴つた場合に其れが著しい音である割合は大きくなつて居る.
尚昭和六年9月21日11時20分の秩父地震及其の餘震を筑波山支所で觀測した時にも,主震では地鳴を伴はないで,かヘつて其の後の餘震に地鳴を伴つたのがあつた.
即ち主震は震度3であつたが地鳴を伴はなかつた.其の後の餘震も殆ど地鳴を伴はなつたが,同月23日21時46分の地震と同月24月21時11分の地震とは共に震度はlであつたが微かに地鳴を聞いた.又同月28日13時54分の地震は震度2であつたがゴーなる可なり著しい地鳴を聞いた.
此等の地震を筑波山支所で觀測したのでは其の記象型が極めて著しい特長を有して居つた爲,此等の餘震も主震と殆ど同じ場所から發生したものと思はれる.
次に大正12年9月1日の關東大地震の時は東京では地鳴を聞かなかつた人が多かつたが,其後の餘震では可成り著しい音を伴つて居つた.此れは東京附近に震源を有する餘震に依つたのであつたかも知れぬが,それにしても其後今日迄何囘となく東京附近に地震が發生して居るが,地鳴を伴はぬのが普通である.此れは或は大地震の爲の擾亂の爲に地殻内に材料の加工硬化に類した状態を生じ早い振動の波が餘り減衰されずに地表迄傳つたせいでもあつたかとも考ヘられる.もしそうだとすると,早い振動の波の減衰の程度に依つて地殻の状態を推察する手掛りを得るかも知れぬ.
尚一般に岩石地特に花崗岩の地は地震に地鳴を伴ふ事が多く,大森博士も既に石卷測候所管内に於ける明治35年から37年の3ケ年間の地震觀測に依り,荻の濱,石卷では有感地震の九割程,志津川,飯野川では3割から5割程は地鳴を伴つたと云ふ結果を示されてゐる.尚此の地鳴の時間は正確ではないが,數秒乃至十數秒の事が多かつたとの事であるが,筑波山支所に於ける近年の觀測でも同樣であつた.
4.
明治29年6月15日午後8時頃の三陸津浪の際にも,此度の場合と略同樣な音響が聞かれた.其の大體の有樣は伊木博士の報告に依ると,「宮城縣下本吉郡以南の地方に於ては東北の方位に鳴響を聞き其時聞は津浪襲來に先つ事大概ね數分内外にして,岩手縣陸前國氣仙郡沿岸にて鳴響あると同時に津浪押寄せ來りしを以て里人皆洪浪の器峭に激するの音なりと云ヘり.尚北位陸中三閉郡南北九の戸郡地方に於ては津浪に先つ少時東南方位に鳴響を聞けり而此音は遠く北上川沿道の地,山形,秋田に至る迄聞えたりと云ふ.」とある.術各地の音響の有樣の二三を第VI表に示してをいた.
此の時の津浪は發震後30〜40分して三陸海岸に達して居るから以上の音響は先づ發震後20〜30分して聞いた事になる.
此の時は午後7時32分に主震があり,其後宮古測候所の觀測に依ると,2l分,30分,51分,61分してから餘震が發生して居るので,或は此等の餘震に伴つた地鳴を聞いたものかとも思はれる.
7) 大森房吉 前出 61-63.
8) 伊木常誠 震災豫防調査會報告 11,9.
5.
昭和5年11月26日4時3分の伊豆地震の際にも此の地震に伴つた遠雷の樣な地鳴の外に發震後10分程して爆發的な音を聞いた場所が相當にあつた.
此等の場所は震央から百數十粁も離れて居つたので,震源地から音波が大氣の上層を傳つて所謂異常聽域の現象を呈したものと思はれたが,東京の地震觀測に依ると主震後11分に餘震が起つて居つたのと,異常音を聞いた土地は主として筑波山麓の器石地であつて普段に地震に伴ふ地鳴を聞く所であり,且?々異状震域を生ずる所であるので,或は此の餘震に伴つた地鳴を聞いたものかとも思はれる.尚此の時は此の餘震の外に主震後19分,23分,30分等にも餘震が發生して居つたから此等に伴つた地鳴を聞い所もあつたかも知れぬ.
6.
結局此度の三陸地震に伴つた音響は,各地の報告を總合すると,主震の震動中,主震後5分,10分,(15分),25分,40分,60分とに聽取した事になる.此等は其の時間的關係等から主震及び主震後6分,9分,26,55分等に發生した顯著な餘震に伴つた地鳴を觀測したものと思はれる.終りに臨み石本博士の御指導を深く感謝致します.
9) W.INOUYE and T.SUGIYAMA, Bull. Earthq. Res. Inst., 9 (1931), 168.
8.三陸津浪の發光現象について(第1報)
地震研究所 武者金吉
大津浪の際に發光現象が觀察されたと云ふ記録が本邦には少なからず存在する.筆者は1933年3月3日の三陸津浪に伴つた發光に關する多數の資料を蒐集し,其れについて些か檢討を試みた結果,過去の津浪の記録に記されてある發光現象は幻覺ではなく,實際に存在すること,並びに今囘の津浪の際に觀察された發光と過去の津浪の記録に見出されるものとを對比すると,色々の點でよく一致することが明らかになつた.
而してこの現象の大部分は,津浪の當時三陸地方の沿岸に夥しく繁殖して居た發光性浮游生物が,津浪のために刺戟を受けて光を發したのであると考へて大體に於て差支なさ相に見える.併し津浪のあつた時期は帶鞭類のやうな發光性浮游生物の夥しく出現すベき時期ではないので,其の異常出現の原因及び地震と發光性浮游生物の異常出現との間に關係が存するかどうか等の問題について,未だ研究の餘地が充分にある.これに關しては目下研究中であるから,追つて其の結果を第2報として發表する考へである.
併し兎に角これが1つの科學的事實である以上,寺田教授が地震の發光現象について述ベられた如く,この現象が明らかにされるまでは,我々は津浪について全部を知り盡したとは云はれない譯である.
のみならず,津浪の際に見られる光の中には,津浪による人命の喪失を減ずる上に幾分役立ち相なものもあるので,災害防止と云ふ點から見ても,この現象の研究は輕視しがたいものゝやうに思はれる.

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9.驗潮儀の記録による三陸津浪研究
地震研究所 宮部直巳
昭和8年(1933)3月3日,三陸沖に起つた地震は津浪を伴つたが,各地の驗潮儀がその津浪を記録したので其等の記象を蒐集するとともに二三の津浪に關する間題を考究してみた.
是等の研究に先だつて,驗潮記象の上から津浪の到達した時刻,最初の水面の動き方を讀みとらねばならないが,茲に,困難な問題がある.第1に,この津浪の起つた時刻は大體何處の記象を見ても上げ潮の中途に相當するので,津浪による最初の水面の動きが下方であつたとしても,その前に緩徐な上昇波が來たかのやうにみえるのである.加ふるに,第2に,多くの場合には各港灣の副振動が重つて表はれてゐるので,その爲めに,津浪による最初の水面の動きが,隱蔽されてしまふこともあるので到達時刻や,最初の波の形を比較的詳細に知らうとすることは,かなり困難な事になるのである.更に,記象紙を卷く囘轉ドラムの囘轉速度の不均一や,時計の不正確や,記象から時刻を讀みとる時の誤差等があり,結局,津浪到達の時刻については5分程度の誤差を許容しなければならないと思はれる.
以上の如き困難を冐して得られた各地の驗潮儀の資料から津浪の中心を定める爲に先づ津浪の傳播速度を√ghとする.tなる時間の間に津浪の傳播する距離は,從って
式
となる.そこで,各驗潮儀の所在地を假に浪の中心としてこゝから上記の速度で四方に浪が播つてゆくとすれば,tの種々なる値に對してそれに相當する wave front が畫ける.第3圖に點線で示したものは,釧路,室蘭,函館,月濱,氣仙沼,銚子,二見(小笠原)の諸島のデータを用ひて畫いた地震の發生した時刻に於ける wave front である.故に,地震の發生した時の津浪の wavefront は點線で示した假の wave front の envelope に一致してゐなければならない.即ち,若し,地震と同時に津浪が起つたものとすれば津浪の中心は,縞蔭を施した部分で示されるやうな廣い面積を占めることになる.この部分の徑は約600kmになる.そして,各驗潮儀の記録の始めに
現はれてゐるやうに津浪の週期が20分乃至30分であるとすれば,例へば30分の浪については,波長Lは速度を深さ6000米の場所のものをとれば L=vT=441km となり,大體に於いて,津浪の中心の面積に匹敵する.又津浪が地震の起る數十分前に既に起つて地震の起つた時刻には丁度,上述第3圖の縞蔭の部分全體に擴つてゐたと考へても差支はない.何れにしてもこの1波長以内の出來事は,理論的に想像することは難しいのであるが,津浪の中心がこの程度の大いさを持つと考へても大した差支はないやうに思はれる.
津浪の傳播速度についても色々な補正方法が考へられるが,何れも・本邦の記録にあらはれた著しい事實即ち,その結果から想像される津浪の中心が大きな擴がりを有するであらうといふことを根本的に變改せねばならぬ程度の補正を求めることは困難である.布哇,加州等の北米諸港への傳播速度に關する補正も太平洋の深さの分布が明かでない以上は,補正が充分意味あるものであるか否かは斷定出來ない.
伊豆小笠原等の諸群島,南太平洋の諸群島や,淺海が,津浪の傳播を妨げるであらうとは,記録の上から想像される.即ち,東京灣内の諸港,清水其他の本州の南岸の諸港に於ける驗潮儀の記録には,20分乃至30分程度の波でも記録されて居ないで,大體50分—60分程度の週期の波が主であり,その振幅も著しく小さい様に思はれる.又, Manila, Wellington (New Zealand) からは津浪が現はれてゐないといふ報告があり. Sydney の記録には津浪の到達するであらうと期待される時刻には現はれて居らず. Melbourne でも同樣である.之に反して, Honolulu (Hawai), San Francisco, Santa Monica はもとより,南米 Chili の Iquique 港に於いても尚相當の振幅を持つて記録されてゐる. Iquique の記録では全振幅20—30cmに及んでゐる.是等の事實は前述の如く,群島や淺海の作用と思はれるのである.

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10.昭和8年3月3日の津浪被害と三陸海岸の地形
地震研究所 大塚彌之助
(昭和8年3月20日及6月20日發表—昭和8年12月20日受理)
東北日本三陸海岸は1933年3月3日に大きな津浪の襲來で著しい被害を受け た.筆者は直ちに三陸地方の津浪の種々な現象を調査するために同地方ヘ出發した.
そして津浪の被害を見學した結果,このやうな所謂日本の "Riaskuste" と呼ばれてゐる三陸海岸に津浪が到達した時に津浪被害が著しく増大するやうに見えた.實際三陸海岸は津浪が度々襲來することで知られてゐる.
この論文は津浪被害がこの樣な地形に如何に關係あるかを考察してみた.

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津浪被害
津浪の高さ
三陸海岸は津浪の襲來を?々經驗してゐる.明治初年(1867)以來でも既に4囘の大津浪を經驗してゐて,その内1896年と今囘の1933年とが最も被害の大なるものであつた.
1896年の大津浪の時には,伊木常誠博士が津浪襲來の時に達した海水の高さを三陸海岸に沿うて測定されて,その詳しい,勞力ある結果が震災豫防調査會報告に發表されてある.
1933年の大津浪の際には中央氣象臺から速に報告が發表されて我々に益する處も少くなかつた.地震研究所でも石本所長始め,高橋,那須,宮部,西村諸氏及び筆者等が調査に赴き,重要な津浪の實驗も上記諸氏によつて行はれてゐる.これらの調査報告は本號末に發表される筈である.
筆者は主として八戸市と山田町との間の海岸を調査し,別に綾里白濱附近,大船渡灣,氣仙沼大島附近を見學調査した.この調査報告は前に述べたやうに本號に掲載されるので,その詳細は省略し,こゝには津浪襲來の時に達した海水の最高記録を各浸水地域で測定したので,それらの分布と津浪による最大浸水區域とを附圖として附けた.(津浪の高さの最高記録の數字は高橋龍太郎助教授によつて,津浪襲來時の高さに換算されたものを用ひた.故に筆者が甞て「地震」に記せるものとは稍々その數値を異にしてゐる.又た材料不足の部分は任意に他の資料から補つた.
即ち第1圖より第11圖までは筆者の主として調査した區域の津浪が陸地に侵入した最高の記録を示したもので,津浪が襲來した當時の海水面からの高さを示してゐる.
第12圖は山田灣と宮古灣との間の之等の値を垂直的に示したもので,津浪の最高水位を—・—・—線で示してある.但し霞露岳沿岸の材料はこの地方が交通困難であるため殆ど資料を得ることができなかつた.
之等の圖を見ると,著者は次の樣なことに氣付くのである.即ち津浪の時に達した海水の最高記録は侵入した海岸の地形に密接な關係を持つてゐて,一般に海洋に直接に面してゐる海岸では大きく,灣内の海岸では小さい値を示してゐる.そして灣の平面形からみて,海洋に直接に面してゐる海岸でも,稍?狭い先狹りの灣,即ち鋭角のV字形をなす灣では特にこの津浪の最高記録が高まつてゐることに氣付く.之によつて見ると津浪の最高記録なるものが海岸の平面形と密接な關係にあるやうに見える.
即ち宮古灣,山田灣,大槌灣の津浪の高さは僅かに1・7—5mに過ぎないのに,外洋に直接に面した重茂村海岸の如きは8—2Om以上にも達してゐる.又宮古以北の海岸も同樣に外洋に直接面した海岸で,之等の値は同樣に大きい値を示してゐる.
伊木博士の1896年の津浪被害の調査の結果に於ける津浪の高さも大體に於いて同樣の結果になつてゐる.
1)伊木常誠 震災豫防調査會報告 11(1887).
津浪の最大浸水區域
津浪被害を考へると,之等の被害の大部分は海面の一時的隆起による海水の氾濫によつて起されたと考へることができる.被害の大部分はこの海水の氾濫によつてゐるので,浸水區域の大小が直接被害の大小を決定してゐるやうに見える.
この觀點からして,津浪の最大浸水區域を調査して之を第1—11圖に網目で示した.第1—11圖は浸水區域を平面的に示したものである.この結果は當然一時的に水位の高められた水の流れ込み易い海拔高度の小い,低い土地の面積の廣さとこの最大浸水面積との間に密接な關係のあることを示す譯である.
大きな最大浸水面積を持つ地域は宮古灣の奥の津輕石附近,山田灣の奥の山田町附近,大槌灣等で,その他久慈灣,野田等も大きな値を示してゐる.この地方は地形圖(第1—11圖)で見られるやうに何れも大きな河流の沖積原で,勾配も極めて緩く海水面が僅に隆起しても,海水は大きな面積を容易に被ふことができる.
この地方の被害高が特に他の海岸に比して大きいことは調査報告に述べてある通である.
故に津浪の最大浸水面積と地形との間にも亦密接な關係を有する様に見える.
津浪被害で面白いことは,被害區域と無被害區域との境界が明瞭に區切られてゐることで,之は地震被害の場合と著しく異る點のやうに思はれた.
津浪の最大浸水區域と津浪の最高記録 或る浸水區域に於ける津浪の最高記録なるものは一定してゐない.
或る浸水區域では津浪の浸入し始めた海岸附近で最も大きな最高記録を示し,浸水區域の奥で最も小さい最高記録を示してゐることもある.
例へば野田,久慈,重茂村音部等では海岸で測定した値より,奥で測定した値の方が小さい.
又この反對に浸水區域の奥に至る程大きな最高記録を示してゐることもある.姉吉,澤の澤その地多くの例が知られてゐる,
或る狹い谷では兩側の谷壁で測つた最高記録の異る場合もある.例へば姉吉の兩側の如き,がその一例である.
そして一般に浸水面積の大きな處では津浪の最高記録が低く,最高記録の値の大きな處では却つて浸水面積は狹い.
之等の津浪に關する2つの値は前に述べたやうに,地形にかなりの程度に關係があるやうに見えるが,若し海面が極めて除々に陸地に對して高まつたとすると,どこでも一樣な水位の變化を見るであらうが,津浪の場合にはこのやうな一樣の關係が見られず,地形によつて支配されてゐることは面白いことで,津浪被害が唯だ水位が高まつたとするだけでは説明できない他の原因を含んでゐることを示してゐる譯である.
筆者は津浪の襲來する速さと,之に影響を與ヘる海底陸上の地形がこゝで考ヘられなければならぬ問題のやうに思ヘる.この間題は西村氏高橋氏の御研究により追々明にされると思ふが,筆者は地形學上の立場から考ヘて置きたいと思つてゐる.
2) 大塚彌之助 地震 5(1933),465.
津浪被害の考察
上述したやうに,調査によつて知られた津浪被害の資料は大部分は浸水區域の廣さ,津浪の浸入した區域の周縁に於ける,海拔高度で,浸水區域内の水の高さは,稀に殘されてゐる種々の樹木,建物で知ることができるのみである.從つて津浪の被害は之等の浸水による色々な資料で解釋する他はない.その結果は單なる水位の上昇ではなくかなり急激に上昇したために水が強い流れの形式になつたことも否まれない.その流れがその速度と流れる地形とによつて變化され,種々の單に水位上昇では説明できぬ被害を引起したやうに思はれる.
石本教授は津浪に於いてその陸上へ流れ込む際に海水が“流れ”になることを指摘されて次の樣な流れの速度を示す式を示されてゐる.
(但しθは地表の傾斜,hは海面上からの水の高さ)
之によると前述したやうな低平な地域では「流れ」の速さは極めて速くなり,低平な地域にある建物は容易に流失されるであらう.
津浪の週期は太平洋岸の各檢潮所の記録によると被害地附近では約10—20分で,須田氏によると普通の海波とは性質が稍異つてゐるやうに見える.
筆者はこの樣な長週期の振幅の大きい海波が陸地に達した時の現象は海面の除々に隆起するが如きものと思ふ.故に陸上へ浸入する時はこの週期に關係した時間陸上を浸すものと思ふ.この際に石本教授の述べられたやうな“流れ”が起るものと思ふ.
併し同教授の式で外洋に面した姉吉その他の波高の説明をするには津浪の襲來をかなり速なものとしなければならないと思ふ.
三陸海岸の地形
三陸海岸の地形學的考察は,その不規則極はまる出入と美しい段丘地形とによつて日本の地質學者,地形學者によつて多數研究が行はれてゐる.最近には今村學郎學士が地波の研究の對照として久慈附近の段丘を取扱はれ次いで田山利三郎學士の段丘論があり,又山口貞夫氏の海底陸上兩者に亙る研究もあり,多數の研究が行はれてゐる.尚佐々理學士も地質學的方面から久慈地方の段丘を考察されてゐる.
從來の研究者の研究によると,地質學的に三陸海岸は古生層・中生層(ジュラ系,三疊系)及び之等の地質系統を貫く火成岩類からなり,別に之等の岩層からなりたつてゐる複雑な構造の上表を被うて宮古,久慈附近には白堊系及び第三系がある.
日本の中生層・古生層は一般に硬い岩石からなつてゐる.例へば硬砂岩,砂岩,硅岩,石灰岩,頁岩等で新第三系の地質系統を構成する岩石に比べて遙に硬いものである.(この數量的比較を必要とするやうに思はれる).
故に前述したやうに三陸海岸は古生層・中生層又は火成岩からなつてゐるので,大體に於いて硬い岩石ででき上つてゐると考へて差支へない.
嘗て筆者は日本の海岸線の出入の程度と海岸線を作つてゐる地質系統とを比べて,平滑な海岸は主として軟弱な岩石からでき上つた海岸であるのに反して複雜な出入ある海岸線は大部分硬い岩石からなる地方であることを述べた.そしてこの關係の説明のために,著者は沖積世初期に異常の外廓を示し,複雜な出入ある海岸線を持つてゐたものが,軟い岩石地方では侵蝕が速で早く平滑化され,硬い岩石の地方では平滑化され惡く,現世まで保存されたものであらうと解釋した.そして平滑海岸にも沖積世初期の複雑な出入ある海岸線の證左が,試錐,貝塚等によつて證據立てられてゐることを示した.
日本の貝塚遺跡は今日の處,沖積世初期である新石器時代と考へられてゐるので,三陸沿岸の貝塚も關東地方の貝塚も,共に略ぼ同時代と取扱ふことが許される.(勿論先史學的に嚴密な意味の同時は今後の研究に依るより他に道はないが,地質學的な考へ方からは同時代と考へられるであらう).故に關東地方の貝塚分布から許される沖積世初期の複雜な出入のあつた海岸線も,三陸地方の複雜な出入ある海岸線も貝塚の形成される時代には同時に存在してゐたと考へられる.故に三陸地方の海岸線の複雜なのは岩石の硬度が大であるために少くとも沖積世初期に生じてゐた複雜な出入のある海岸線がその儘海蝕に抵抗して,保存されてゐるものと解釋することができるのである.
然るにこの樣な複雜な出入ある海岸線は,陸上に於いて河流によつて開析された起伏が沈降して,各溪谷に海水が浸入して生じたものと考へられてゐるので,この三陸地方の海岸線も同樣の成生順序を經て作られたものと考へることができる.
然るにこの開析された各溪谷は洪積世中に生じた平な地表に刻み込んだ溪谷地形で洪積世中に作られた平な地表は段丘の表面として現在の地表に殘されてゐて,之は關東地方にも,三陸地方にも保存されてゐるので,各溪谷の沈溺したのは洪積世中に作られた段丘の表面の形成時代よりは後に作られたものと言ふことができるのである.從て三陸海岸は硬い岩石からなる海岸で洪積世末か又は沖積世初期には既に複雜な海岸地形が作られてゐて,之は沈降の過程を經て作られたものであると解釋することができる.
故に三陸海岸の大きな入江は大きな溪谷の沈降したものと考へられるし,小さな入江は小さな溪谷の沈降したものと考へることができる.即ち宮古灣,山田灣,大鎚灣等の灣奥には過去の大きな溪谷を作つたところの大きな河流が注入してゐる.閉伊川津輕石川,大鎚川,橋野川,等は之等の例である.又之等の大きな灣の底は過去の溪谷底であつた證左を示してゐて,等深線で示された海底地形は陸上に見られる灣形と一致した大きな溪谷地形を示してゐる.故に小さい入江には又それに適當した沈溺谷の存在を示す海底地形がある.
一般に或地形區内に於いては溪谷底の傾斜は,大きい河流の溪谷底程速に平衡に達してゐるので,このやうな河谷が沈むときには海水は,溪谷底の急な,“平衡”に達せぬ小溪谷の沈むのに比べて海水が著しく陸内に迄侵入してゐる.而もこのやうな大きな灣の海底は“平衡”に達した溪谷底の沈んだものであるから,灣の延長の方向には遠淺と考へることが出來る.又沈溺谷の延長方向と直角な方向では,海岸から海底へ向つて急である.而も“平衡”に達せぬ溪谷ではV字形谷をなしてゐる.外洋に面した或る灣の内には平面形がV字形をなしたものが少くないが,之等は何れも“平衡”に達せぬ溪谷と考へることができやう.故に海底も急である.
第13圖はその一例として大鎚灣を選んだ.之によつてみても,主流の河底は勾配が緩いが,支流のは急であることがわかる.
3) 石本巳四雄 日本天文學及地球物理學輯報 11(1933).
4) 大塚彌之助 地理學評論 9(1933).
5) Y.OTUKA, Proc. Imp. Acad., 9-10(1933).
外洋と灣
上述したやうに三陸の灣は過去の浸蝕谷の沈溺したものが,そこを作る岩石の硬度が大であるためにその儘保存されてゐるものと考へられるから,灣はかなり複雜で,海は陸内深く入込んでゐる.
海の波の平均の高さは未だ實驗的に示されたものに氣が付かないが,外洋の波は規模が大きく,灣内に入ると狭い灣口のために,遮られ,且つ淺いことから波高が減じて行くことは普通に考へられてゐる.
最近高橋助教授は特別な装置で實驗的に外洋に面した海岸の方が波高の高いことを示した.
事實外洋に面した海濱は波浪が荒く,灣内は殆ど波浪がない.
之は三陸津浪の波高分布を調べて,外洋に面した海岸で一般に高く,灣内で低かつた一原因と考へることができやう.
地形と文化施設と津浪被害
上に述べたことから,三陸海岸を地形の上から,入江,外洋に面した沈溺V字谷外洋に面した稍?大きな溪谷の3つに區別してみた.
入江は外洋の波を直接に受けないから,平常は極めて靜である.そして灣の奥には低平な廣い地域が溪谷を作つた河流の滑岸に發達してゐるので,聚落が容易に形成され,港,陸上交通その他の中心地としての種々の家屋が密集して作られてゐて,之等は波浪の恐れがないから極めて低い位置に迄建てられてゐる.然るに1度津浪の襲來があると之等の地域は,たとへ灣内で津浪の高さが減ぜられてゐても,土地が低くて,種々の建物は低い處にあるので,僅な海面の隆起でも著しい面積に被害を與へ,而も海水は石本教授の示された式で相當の勢力を以て流れ込むので,その被害は單なる浸水に止らなくなるのである.海岸平野の廣さと聚落との關係は第12圖に示した通りである.即帥ち大きな平野のある處では建坪數が大きい.故にこの樣な灣内は僅な海水面の隆起でも被害は莫大な數字となる.
外洋に面した沈溺V字谷は外洋の波を直接に受けるのみでなく,幅さと深さとが奥に向ふに從て急に狹く,淺くなるので,津浪の樣な大きな波長・振幅の浪がくると,その押し寄せて來た海水の流れの勢力を除々に費させることができず,流は比較的自由な谷の奥と上の方とを選び,津浪の高さと速さとを増大するやうに見える.姉吉部落が逃れる暇もなく,全滅にされたり,“波の到着せぬ内に既に風壓で倒れた”と言はれてゐるのは恐らくこの樣な原因によるのではあるまいか.勿論この樣な譯で津浪の高さは奥で比較的高まつてゐる.この場合谷の兩側が急斜面であると海水は一層激しく,奥と上とへ突進するであらう.この樣な灣の奥の部落はかなり高い位置に建つてゐるが,津浪は灣内の場合より一層高まるので,この樣な地域の被害も亦著しいものである.幸このやうな地方は僻地であるため被害高は少いが,被害率と人畜の死傷率とはかなり大きい.
外洋に面した稍々大きな溪谷では既に溪谷底に沖積層が堆積して平な沖積原が作られてゐて,之が強い波浪のために高い濱堤を作つてゐるので,丁度海濱に防波堤を作つたやうになつてゐる.例へば重茂村の音部とか久慈灣のやうに濱堤があるものは津浪が之を越すやうなことがあつても,津浪の高さが濱堤の高さを超えて流れ込むやうな状態の續く時間は汀線から直ちに浸水を受ける場合に比べて極めて短い時間であるから被害の程度も比較的少くて濟むやうである.
上記のやうに三陸海岸はその地形の成因上津浪襲來があつた場合に被害を増大するに都合がよくなつてゐる.この事は三陸海岸が深い海溝に急に接してゐて,津浪を起す地震が比較的瀕繁に起ることと共に津浪被害が容易に起される地方と考へられる一因であることは否まれないと思ふ.併し“リアス海岸だから津浪が起る”と言ふことは無意味な事である.
他の地方に於ける津浪被害の増大しさうな地形.この樣に硬い岩石からなる地方の沈降海岸地形は津浪に對して危險な地域と言ふことができやう.紀伊半島沿岸,豊豫海峡等はこの危險性が充分にあり,若し三陸地方で起されたやうな地震津浪が之等の海岸に推し寄せたなら,相當の被害高に達するであらうことは言を待たない.
被害防止法
上記の樣に考察してくると,津浪被害の防止は一言にして言へば,“津浪の來ないところに避ける”に盡きる.併し之は耕作・住居・交通その他のためにも不便であるし,このやうな地形では利用できる高臺の面積も狭いし,それにこの地方が港又は漁村として生計をたてゝゐる關係上,殆ど實行不可能な事のやうに思はれる.
併し灣内は前述したやうに外洋に比べて,津浪の高さも低く,浸水は極めて短時聞に行はれるのであるから,灣内にある重要都會地の海岸に津浪防波堤を作ると言ふ考へも一案と思はれ,その高さも大して高いことを必要としない譯で流れ込むのをなるべく遅くする樣にすればよい.又た灣内で流れ込む海水の勢を増さぬやうに殖林することも決して愚策ではない.高い濱堤が相當に海岸近くの家屋を保護したことも堤防案に有力な援助を與へるであらう.
併し外洋に面した沈溺V字谷は灣内と異り襲來する波の勢力も甚だ大で,植林等ではどうにもならない.それに波高が高くなればなる程植林の防浸水力は弱くなる譯である.筆者が被害地調査で氣付いたことは紀念碑,石碑等の高い土臺の如きが??流失を免れてゐたことで,津浪も勢力を増大せぬ内なら相當に障碍物で防げるやうに思へた.併し姉吉綾里白濱のやうな處では全く高處に生活すると言ふより他に道はないと思ふ.津浪被害は前述したやうに地震被害と異り,被害區域と無被害區域との區別が明であるから,高いところにゐる人達は少くとも生命,住家に何等の危險がない.
11.津浪發生の機巧に關する模型實驗(第1報)
地震研究所 高橋龍太郎
a) 海底に地形變動を生じた場合には必ず津浪の發生を伴ふであらう.只其の津浪の波形,波高 等は地形變動の種類,大きさ及び其の速度等によつて決められるものであらう.若し吾々が地形變動の諸要素と,生じた津浪の諸要素との間にある關係を知り得たならば,檢潮儀による實際の津波の記録から逆に海底に起つたであらう地形變動に就て何者かを推知する事も全然不可能ではないであらう.本實驗は海底の如何なる運動に因つて如何なる波動が發生するか,變動を爲した海底附近の海面は如何なる運動を爲すかを明にしやうとするものである.
b) 模型實驗に於て當然問題となるのは相似律である.今Hなる深さの海底のRなる半徑の圓形面積がSなる衝程をT時間内に爲したと考へ,且tなる時刻に於ける變動量sは
(SanrikuChihoTsunami01_0179の数式を参照)
であつて何時も同じ函數Fで表されるとする.然る時は生成する波の波長λ,波高η,速度υ等は次の形で結ばれてゐる筈である.
(SanrikuChihoTsunami01_0179の数式を参照)
但しgは重力,dは浪源からの距離,μ/ρは海水の比粘性である.此の式から判明する通り,模型に於ける底の變動速度は實際のものより餘程早くなければ同じ割合の波は出來ぬのである.又粘性の關係から模型に於ては海水の粘性が非常に誇張されて影響して居る事が判る.
c) 實驗装置としては本文第1圖,第2圖,第3圖に示した樣なものを用ゐた.弧光燈Sから出た光は集光レンズL,細隙Sp1,鏡M1及M2,及び第2の細隙Sp2を經て水面に30°の角度を以て放射される.水面上には松脂の微粉が薄く散布してある.從つて水面上には輝いた眞直な線條が現れるのである.此の輝いた線條の斜上方1米の距離に,水面と60°方向に16ミリ活動寫眞の撮影機が据付けてある.今水面が假に1糎昇つたとすると第4圖に示した樣に撮影機の位置から見れば輝いた線條は2糎變位する事になる.從つて或る時刻に於ける輝條の形状は其の時の水面の斷面を示すものである.
Vは實驗水槽であつて長8尺,巾4尺,深1尺,木製である.水槽の底の中央,輝く條線の眞下にピストン筒及ピストンがある.ピストンは直徑10糎であつて最大6糎の衝程を爲しうる. ピストンとピストン筒との間には革パツキングが用ひてある.ピストンは連結棒Cによつて杆桿Rに連つてゐて,Rの一端は固定されてゐるから,杆桿の他端が上下するとピストンも上下する. 杆桿の動端近くにはピストンの位置を讀取る爲に目盛Eがある.
桿杆Rの動く端には螺旋状スプリングFが取附けてある.實驗の初めに於て此のスプリングは引伸されてゐるが,此の收縮する力でピストンを押上げるのである.ピストンの運動速度を加減する爲にはBなる仕掛を用ひた.桿杆Rの動く一端に結んだ琴絲の他端はBの軸に卷付けてある;從つてピストンの上昇はBの軸を廻轉させ乍ら行はれる事になる.B軸の廻轉は増大して慣性棒Jの廻轉になる.ピストンの運動の遅速は此の慣性棒へ重錘の附け脱しと重錘の位置の變化によつて加減された.Bの一番左側にはガンギ車と爪がある.Bの軸に琴絲を卷取る事に依つて發條Fを引伸しておいて爪を脱せば,Bは廻轉を初めてピストンは上り初めるのである.ピストンの運動は圖示の如き装置によつて電動機mに依つて囘轉する圓筒Wの上に音叉の振動と同時に書込まれる.
活動寫眞機Kの前には一端に豆電球l1を付けた彈性振子がある.實驗の初まる時は彈性振子は電磁石Aによつて引寄せられてゐるが,ガンギ車の爪が脱れてピストンが動き出すと同時に電磁石の電路が切られて彈性振子が振動し出す樣になつてゐる.此の振動は,鏡M3に依つて,水面の動きと同時にフイルム上に記録され,時刻標として役立つのである.
活動寫眞フイルム上に映つたものは本文第5圖に示す樣なものである.aは細隙Sp2,bは輝く線條,cは固定の豆電球,dは彈性振子の一端についた豆電球である.bの形は即ち水面の斷面の形を示すものであるが此は坐標コンパレーターを用ひ,aの細隙の像を零線として讀取つた.又ピストンが運動を初めてからの時間は次々の駒のdの位置を讀取る事に依つて知り得た.
各實驗に於て水層の厚さはマイクロメーターを用ひて測つた.ピストンの衝程と速度は圓筒W上の記録から讀取つた.
d) 此の樣にして知り得た波の斷面を順次に列べたものが第6圖—第20圖である,同圖中tはピストンが動き初めてからの時間(秒),Hは水層の厚さ(糎),Sはピストン衝程(糎),Tはピストンが動き初めてから止るまでの時間(秒)である.此等の圖の曲線の左端がピストンの略?中心に當つてゐる.ピストンの半徑は5糎であるから,各曲線の左端から測つて全長の1/6の所がピストンの縁になる.此の圖は皆ピストンが凹んだ位置から上に動いて,水槽底と同一平面に到つて止つた場合のものであつて,H,S,Tを色々に變へて實驗したものである.
圖に依って知り得る如く,ピストンが上昇するとピストン眞上の水面は高まつて山になり,山の底面積はピストンの面積よりも大きくなる.次にピストン上の部分丈凹んで來る.即ちピストンの周圍には環状の水の堤が出來る.ピス卜ン直上の水面は更に凹んで平衝の位置よりも低くなるのが普通である.
ピストンの周圍に出來た水の堤は其の形を多少變化しながら圖の右端,即ちピストンから外方へ進行する.平衝位置を越して凹んだピストン上の水面はやがて又上方に運動を初めて又前と同じ事を繰返し,再び環状の水の堤が出來る.
かくしてピストン直上の水面は數囘平衝位置の上下に振動し,其の振動が次第に小さくなつて静止する.而て其の度毎に環状の水の堤を生じ,此が圓形のピストンから外方へ進行する波となる. 振動の囘數は水深の大きい程多い樣である.從つて單なるピストンの上昇によつて出來る波も數個の波より成る波群である事は注意を要する.
波群の最先端即ち所謂ウェーヴフロントの速度は第1波の山の速度よりも著しく速いから,波の形は次第に伸びて,最初の斜面は段々に緩になつて來る.次に第1波の山の速度はピストンの極近所では√gHで與へられる長波の速度よりも著しく速く,ピストンからの距離と共に√gHに近づく.尤も進行する波はピストンの中心からピストン半径の2倍位距つた所で初めて出現するのであつて,ピストン直上では各點共同時に昇降する;即ち定常數の形を爲すから,速度は非常に大きいのである.
第1波の山より後の部分,即ち第1波の谷,第2波の山等の速度は,大體に於て第1波の山の速度と大差はなく,幾分其よりも遅いかの樣に見える.
波の高さは距離の-0.6乘に比例して減少する樣であるが確かではない.
此等の事柄を更に見易すくする爲に第6圖—第20圖中の代表的なるものを取つて第21圖—第25圖を作つた.此の圖はピストン中心から異なつた距離にある4つの點の運動を時間に對して畫いたものであつて,圖には相似律の考から横軸に√g/Htを取り,縱軸にη/H又はS/Hを取つてある.
次に第26圖はS,T,及ピストン直上の水面の上昇の極大値η0の間に如何なる關係があるかを示す圖であつて,縱軸にS/H横軸に√g/Hを取つた場合のη0/Hを表すコントルである.圖中黒點は1囘の實驗を表し,側に書いた數字はη0/Hを表す.
此圖に依つて見られる如く,或る與へられたTの値に對して,最大のη0を得る爲には丁度適當なSの値があつて,ピストンの衝程は餘り大きくても,又餘り小さくても不可なる樣に見える. 一般にはTの少さい程,又Sの大きい程,即ちピストン速度の大きい程大きなη0を得る樣である.
尚此實驗はピストンの沈降する場合,ピストンが楕圓形又は矩形の場合等に就て續いて行ふ豫定である.

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12.灣内に生ずる長波に關する研究(其の1)
地震研究所 西村源六郎
金井清
1つの波が灣に入る場合,灣頭で反射した波のエネルギの1部分は大洋へ擴つて行き次第に灣内の波のエネルギーは消失して濟ふものである.昭和8年3月の三陸津浪の時得た檢潮記録を見ると所謂津浪の爲め灣内に生じた海水の動搖は數日續いており,灣口でのエネルギーの消失は可なり少ないものであるので,本計算では全然灣口でのエネルギーの消失を考へに入れずに議論を進めてみた.
一般に切口が任意の形をしておる1つの灣に就て,その灣口の水位が何かの原因で時間的に任意な變化をする場合,その灣内には如何なる種類の長波が生ずるものであるかと云ふ事を明かにし,灣口で起る波の形,或はその周期等の爲め,灣内の水の運動はどの樣になるかを一般的に研究した.
具體的には1つの長方形をした深さ一樣な灣に就て,灣口での波高の變化を與へて,計算を進め,その結果を圖をもつて論じた.切口が色々の形をしてゐる場合の具體的な計算は次の機會に讓つておいた.

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13.大船渡灣及び其他の灣に於ける静振と海波(概要)
地震研究所 高橋龍太郎
津浪が灣内に進入した場合に,津浪の高さは或灣に於ては灣口に於て低く灣奥に於て高いのに反し他の灣では灣口に於て高く灣奥に於て低いといふ事實がある.此の事實に對する説明を得る一助として,著者は大船渡灣,綾里灣及び門ノ濱灣の3灣に於て静振及海波の觀測を爲した.此等の灣は夫々其の形が細長いもの,三角形なるもの,及び矩形なるものゝ代表として撰んだのである.觀測は主として6臺の携持用檢潮儀を用ひた同時觀測である.
携持用檢潮儀は第1圖に示してある樣なものであつて,此によつて潮汐,静振及海波を同時に記録する事が出來る.
觀測の結果は第5圖乃至第12圖に示してある.觀測の結果に依れば,大船渡灣の静振の周期は40分及び8分であり,綾里灣の静振の周期は18分,12分及び2分,門の濱灣のは4分,12分及17分であつた.
尚海波の高さが灣奥に行くに從つて減少又は増大する模樣を調べて,此れを我々が調査した津浪の高さの灣内に於ける分布と比較して見ると,第16圖a及bに示した如く兩者は全然同じ變化の有樣である事が判るのである.
從つて我々が調査して來た津浪の高さなるものは長周期の波による海面の緩昇の外に,普通の海波と同程度に短周期の波の高さを含むで居り,且其れが重要なる部分を占めてゐる事が結論されるのである.

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14.津浪の高さと構造物の被害
地震研究所 那須信治
今囘の津浪によりて被害を受けた地方を視察してゐた間に津浪の高さと地形及家屋の被害程度とには或る關係があることに氣が附いた.これ等の點を明瞭にするためには浸水區域と津浪の高さとを正確に知る必要が生じた,そこで平板測量と水準測量とによつて地形の測量及浸水の高さを正確に測定することゝした.
平板測量によつて1/1000〜1/2000の地形圖を作りそれに浸水區域を正確に書き入れた.測板の離心は10糎以下とした.
水準測量によつては地上の各測點の高さを潮汐干滿の平均海水面から測つた.又浸水高を測るには津浪の殘して置いた明瞭なる痕跡を見付けてその高さを矢張り干均海水面から測つた.斯くすることによつて津浪が或る地方で海岸から奥に進むに從つて高さを増すや否やを調べることが出來る.これには1目盛(2粍)水泡が動けば角1'を示す“Y”レベルを用ひた.
測量は5月に始まり6月に終つた.その間33日を費して下記14箇所で行はれた,釜石,嬉石唐丹村本郷,綾里,綾里白濱,山田,大槌,安渡,細浦,只越,吉濱村本郷,兩石,根岬,雄勝.
附圖中浸水區域はクロス,ハツチングを以て示してある.白丸につけてあるイタリツクの數字は標高を示し肉太で黒丸の近くに附けてある數字は浸水の高さを海面から測つて出した價である.
等高線は浸水區域の地形及び水の高さを表はすに十分なる程度に止めてある.
此の測量結果より次の事が判つた.
(1) 津浪は浸水區域の一番奥の所では必ずしも標高を増すとは限らない.V字型の谷に沿つては浸水點の標高は増す場合は確かにある.例へば綾里白濱の如きはそれである.然しある場合はこれと反對であることもある.
(2) 家屋の被害と浸水した高さを調べて見ると水が1・0〜1・5米の高さで家を浸すと家は大抵半壞程度に破壞される.又水が1・3米位になると土臺に密着してゐない家は浮き出す.
水の高さが2m以上になると1階は全く破壞され2階は地上に落ちる.1階家及構造の弱い家は大概破壞を免れない.
但し以上の事柄は水の速度が毎秒10米以下(恐らく今囘の津浪ではこの位であつたらう)の場合に就いて言ひ得ることで水の速度がこれよりも小さい場合にはもう少し高く浸水しても家の被害は輕少なこともある.今囘の雄勝の場合がこの例と思はれる.
(3) 地面の傾斜が速度を決定するに必要な要素であるといふことは石本教授の指摘されたことであるが,もし然りとすれば此の樣な測量によつて速度を推定することが出來ると思ふ.

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15.地震前に見らるゝ魚類の異常生態に就ての二三の觀察
農林省水産試驗場 末廣恭雄
筆者は彼の三陸大地震發生の當時,地震の前夕及び3日後,三崎近海の表層で,眞鰮,Sardinamelanosticta,の成魚を採集した.胃内容物を査定した所前者は表Iに示したる如く專ら多量の底着性硅藻類を,後者は表IIに示したる如く適量の浮游生物を攝取して居るのを發見した.然るに岸上先生の報告にも明かである如く,眞鰮は常時,少くも此季節では,浮游生物を適量攝取するのが普通である.してみると前者の場合,即ち地震發生に先立って,海の表層に多量の底着性硅藻類が出現して居たと考へなくてはならぬ.
又,地震發生後數時間を經て小田原海岸で,常時300尋以上の深海底に棲息すると云はるゝ珍魚Nemichthys avocettaが生きながらに採集された.若し此魚が斯る深海より岸邊まで泳ぎ來つたものとすれば,時問の關係上,魚は地震前既に其棲息地を後にして居なくてはならぬ.
では何が故地震に先立つて底着性硅藻類が海の表層に出現したか,何が故深海魚が其棲息地を捨てゝ移動したか.筆者は上記の事實を以て,地震が人體に感ずる以前,既に海底に或變化が起ったのではなからうかと推察する.

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16.津浪傳播に關する實驗的研究(其の1)
地震研究所 西村源六郎
高山威雄
昭和8年3月3日三陸津浪の後,これに關係して,海岸及び海底地形の津浪傳播に及ぼす影響を明かにする目的で模型實驗を始めた.
模型實驗で先づ第1に考へなければならないのはsimilitudeの法則を如何に適用するかと云ふ事である.灣の形,海岸や海底の樣子は全然similarにしなければならない事は勿論であるが,この他に灣の入口での波の形もsimilarにしなければならぬ.この2つの事柄に注意して所謂π-方程式より,求める目的物に關する實物と模型との或る關係式を求める事が出來る.それを利用して實驗結果より津浪當時の海水の流れの早さ,水の流れ模樣或は海水の津浪の爲め溢れる状況等に關する量的の關係を求める事が出來る.
本實驗報告は僅か1ケ月の豫備的な實驗結果の報告であつて,今後の模型實驗に對する準備實驗である事を述べておく.

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第2編 報告
凡例
三陸地方津浪の現地に於ける調査は主として那須信治,高橋龍太郎,宮部直巳,西村源六郎,大塚彌之助,高山威雄により行はれたるものなれども,報告編輯に當つては以上の外,小平孝雄,木村隼,保田柱二も之れに加擔せり.
那須信治は北海道,青森及岩手縣の一部.高橋龍太郎は青森,岩手及宮城縣.西村源六郎,高山威雄は岩手,宮城縣.大塚彌之助は岩手縣北部・宮部直巳は宮城,福島,茨城の一部を調査せり.地震觀測結果については專ら保田柱二擔當し,檢潮儀記録は宮部直巳の蒐集せるものなり.
現地調査は津浪來襲直後より約半ケ年に亘る間に行はれたるものにして,浸水區域,浸水高を主とし是等は全部卷末地圖中に記入せるものゝ原値となれるものなり.但し各調査員の測定値と雖も其の端數において異りたる値を示せる場合もあれども之れは止むを得ざる事とす.
卷末地圖中赤線は浸水限度を示すものにして,限度の判明せざる地域,或ひは狹小にして地圖上に表はし得ざる程度のものは事更に省略せり.又全部赤色とせる所は火災により燃失せる區域を示せり.地圖上の數字は津浪來襲時における海水面を基準とせる浸水高にして,米單位にて之れを示す.浸水高決定に關しては建築物の壁,柱等に殘されたる痕跡,樹枝,電柱,斷崖等に殘置せられたる海草,或ひは針葉樹の一部分海水に浸りて變色せるものを目標として,海面よりの高さを測定せるものにして,其の方法は掌中水準器と卷尺とを以てせり.勿論,其の高さは津浪來襲時に存在したる海水面に基準すべき性質上,測定時の値に潮汐表による補正を施せり.
而して津浪來襲時の海水面は,潮汐表によれば大約平均海水面に相當するを以て,津浪浸水高は平均海水面に基準せるものと爲すも大差なき結果を得.
なほ浸水區域の調査に當つては時日の經過によつて現證の湮滅せるもの少しとせず.此の場合には地方住民の教示により確實性ありと認めたる場合を採用せり.又地圖中記載なき部分は調査を行はざる地域,或ひは痕跡を認め得ざる地方なれども,多くは浪高の著しからず被害も僅少なる所と考へて差支無きなり.區分地圖中記載すべきものの無き場合には,單に番號のみを一覽表に止めて,省略を敢てせり.
津浪現地寫眞に就いては撮影者と撮影時日とを明記して参考に供せり.
資料としては各被害地の役場,小學校に宛て照會状を發せる答申書を以てせり.
報告の中にも答申書に基て作製せるもの存在する爲め,兩者の間に多少の重複はあれども止むを得ざる事とす.
索引は各部落別とし,北部より順次南部に及ぼす事とし,部落索引に順序を示せり.又索引中には寫眞,地圖等の番號も並記して各部落に對照せしめたり.
被害統計表は各官廳,町村役場,警察署の調査に基くものにして,調査の進捗に從ひ正確の度の變ずる事は當然の事にして,其の調査月日を並記しで參考に供す.
1.昭和8年3月3日本州東北部 海底地震觀測報告
昭和8年3月3日早曉本州東北部の海底に起つた地震は之に伴ふ津浪の爲め沿岸地方に著しき慘害を與へたおが其有感覺區域頗る廣く東京に於ても緩漫なれ共一般に人の眠りを覺す程度のものであつた.
(a) 東京本郷に於ける地震觀測 地震動の性質緩漫にして振幅大なりし爲め幾多の精緻なる高倍率變位地震計は地震の始めに於て間もなく描針記録紙より外れて其能力を發揮するを得ざりしが幸に縮率1/2強震計,2倍地震計及び1・5倍地震計に依りて完全な記録を取る事が出來た.以下述ぶる所のものは主として1・5倍地震計による觀測の結果である.東京本郷(東經139度46・0分,北緯36度42・7分)に於ける發震時は3日午前2時32分14・1秒にして初期微動繼續時間66秒の後主要動に入り約3分間震動尤も活溌にして振幅大に週期長く地震計記録による總繼續時間は約2時間に及べり.最大動は南北動にては初發より2分47秒後に現はれ其重振幅107粍週期14秒にして東西動にては初發より2分2秒後に現はれ其重振幅134粍週期14秒である.初動は南北動にて6・5秒間に1・13粍南に動き同時に東西動にて2・2粍西に上下動に於て0・05粍上方に動きたれば其方向は南50°西(地震計位置の修正を加へ)で同時に上方動を伴ふた.
南北動 大森式水干振子地震計(油制振装置)据付位置 北13度西 重錘の目方15瓩 振子の支點と重鍾の中心間の距離75糎 重錘の中心と描針尖端間の距離37・5糎 記録紙廻轉の速さは1分間に2・3糎 倍率1・5自巳振動の週期33秒 制振率1・5
初期微動は週期25・8秒なる緩漫な二つの波が主なるもので其上に13・5秒,12秒,10・8秒,94秒,5・4秒,4・1秒,3・1秒,1・2秒,0・8秒,0・5秒,0・3秒等の週期を有する波が重なり合ふて居る.主要動に於ては初めの11秒間は振幅小に其週期も1秒,0・8秒,0・5秒等の急激なものなりしがそれより振幅俄に増大し週期緩漫に約3分間繼續す今此等を順次に列擧すれば.
波動順序 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
振幅(粍) 一46・7 +101・5 -82・0 +80・2 -61・4 +32・7 -36・0 +64・7 -92・2 +106・3 -107・0 +85・8 -66・4
週期(秒) 20・8 19・5 21・3 10・4 11・7 17・6 15・6 17・0 15・6 14・O l1・6 10・4
(+は北方へ,−は南方へ動きたる事を示す)
終期に於ける週期は10・7秒,6・1秒,5・5秒等である.
東西動 大森式水平振子地震計(油制振装置) 据付位置 東13度北 重錘の目方
10瓩振子の支點と重錘の中心間の距離1米重錘の中心と描針尖端間の距離50糎
記録紙廻轉の速さ1分間に5・9糎 倍率1・5 自巳振動の週期50秒 制振率1・5
初期微動は週期29・5秒なる緩漫な2つの波が主なるもので其上に15・4秒,6・3秒,3・8秒,2秒,1・6秒,0・8秒,0・5秒,0・3秒等の週期の波が重なり合ふて居る.主要動に於ては初めの14秒間は振幅小に其週期も1秒,0・5秒,0・3秒等の急激なるものなりしがそれより振幅俄に増大し週期緩漫に約3分間繼續す今此等を順次に列擧すれば
波動順序 1 2 3 4 5 .6 7 8 9 10 11 12 13
振幅(粍) +79・5 -94・2 +114・0 -134・0 +101・0 -60・0 +34・7 -56・1 +78・0 -69・0 +56・5 -32・7 +33・7
週期(秒) 26・5 15・3 22・4 14・0 16・4 18・3 27・1 10・1 6・7 11・2 8・0 7・7
(+は東方へ,-は西方へ動きたる事を示す)
終期に於ける週期は11秒,6秒,5・5秒等である.
上下動 那須式上下動地震計(磁力制振装置) 重錘の目方45瓩 記録紙廻轉の速さ1分間に5糎 倍率7・5 自己振動の週期20秒 制振率3
初期微動に於ける主なる週期は25・8秒,20・2秒,15・5秒,14・3秒にして其上に8・9秒,2・6秒,1・4秒,0・9秒,0・5秒,0・2秒等の週期の波が重なり合ふて居る.初期微動の終りにて描針記録紙より外れ觀測不能となつた.
(b) 關東觀測網 關東地方に起れる地震を研究するため本所にては適當な地點に同型の地震計(今村式簡單微動計倍率50,週期7秒)を据へ付け地震學教室と協力して觀測に從事せり.今囘の地震を此等の地點にて觀測せる結果を次に示す.
第I表
震央 青森,秋田各測候所及仙臺向山觀測所(東北帝國大學所属)にて今村式2倍地震計記象より得たる初期微動繼續時間は夫々53・9秒,50・0秒及40・0秒にして此等及關東觀測網諸點に於ける觀測の結果を綜合すると震央は東經144度,北緯38・5度の地點で深さは10粁以内なるべしと推せらる.
餘震 本震は幾多の餘震を伴ふた.次表は東京本郷にて微動計によつて觀測した結果である.表中最初のものと主震との間には尚若干の餘震ある可き筈なるも此等は主震に妨げられ觀測不能に陷つた.
第II表
2.驗潮儀記録
全國諸方に在る驗潮儀によつて記録された三陸津浪の記象を蒐集した.本邦の記録の大部分は既に中央氣象臺の報告せられたものと同一である.第1圖には是等の記録された檢潮儀の所在位置を示してある.第8〜32圖に其等の記象が示してある. 第1圖は驗潮所の分布を示し,尚驗潮儀所在地附近の詳細な海圖は第2〜7圖にその判然してゐるものだけを示しておいた.
下關,佐世保,及び高雄の記象は,津浪の影響を認め難きこと,忍路,輪島,元山等の記象に等しいので,此處には割愛した.
是等の記象から津浪の到達せる時間,その初相等を判讀することは却々困難である.それ等の間題については,別項の論文を參照されたい.
外國へ照會したものゝ中, Mani1a と Wellington とでは,津浪らしきものを認めなかつた旨を書面で囘答してきた. America の Coast and Geodetic Survey でもSitka の分は記録不明瞭の趣で送つてくれなかつた. Sydney, Melbourne に於ける記象には津浪の襲來を的確に認められるやうな標識が見分けられない.潮汐の曲線に重つて灣の副振動らしいものも不斷に續いてゐる. Melbourne に於ける記象に對しては,灣の副振動等が氣象と關係するらしく,その頃の氣象状況が付記されてあつたので之も添付しておく.(第III表)
南米 Chili のIquique に於ける記録は時間のスケールが縮めてある爲めに週期を讀みとることが殆ど不可能である.この Iquique の記録は地震學教室の松澤博士の許に送られたもので,同博士の好意によりこゝに掲載されたものである.
第III表 Weather, Wind Tides.
3.津浪被害及状況調査報告
市町村索引
北海道之部
根室國之部
根室郡 記事頁 地圖番號 寫眞番號
(page) (Map No.) (Fig. No.)
根室町 29 I,(1)
根室 29
花咲 29
和田村 29 I,(1)
落石 29
釧路國之部
厚岸郡
厚岸町 29 I,(3)
釧路市 29 I,(4)
白糠郡
白糠村 29 I,(5)
音別村 30 I,(6)
十勝國之部
十勝郡
大津村 30 I,(6)
厚内 30
廣尾郡
茂寄村 30 I,(8).1.2
廣尾 30
濱フンベ 30
オナオベツ 30
音調律 30
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
ルベシベツ 30
タニイソ 30
日高國之部
幌泉郡
幌泉村 30 I,(8).4.5.6.7
ビタタヌンケ 30 210
オニトツプ 30
猿留 30
サクバイ 30 211〜213
庶野 31 217〜220,222
トセツプ 31 216,223
フンコツ 31 214〜215
ルーラン 31
チヒラ 32
小越 32
襟裳岬 32
油駒 32
歌露 32
歌別 32
幌泉 32 221,224〜225
樣似郡
樣似村 32 I,(8).(9).8.9
誓内 32
幌滿 32
エハオイ 32
冬島 32
樣似 33
浦河郡
浦河町 33 I,(9).11
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
荻伏村 33 I,(9).(10).12.13
三石郡
三石村 33 I,(10).14
静内郡
下下方村 33 I,(10).(11).15.16.17
新冠郡
新冠村 33 I,(11).18
沙流郡
厚別村 33 I,(11)
厚別 34
門別村 34 I,(11)
門別 34
膽振國之部
勇拂郡
苫小牧町 34 I,(13)
白老郡
社臺村 34 I,(13)
白老村 34 I,(13)
幌別郡
登別村 34 I,(14)
室蘭市 34 I,(15).(20)
ホロモイ 34
ベキリウダ 34
有珠郡
伊達村 34 I,(15)
エントモ岬 34
虻田郡
辨部村 34 I,(16)
禮文 34
山越郡 記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
長萬部村 35 I,(16).(17)
訓縺 35
八雲町 35 I,(17).(18).19.20
黒岩 35
遊樂部 35
山越 35
渡島國之部
茅部郡
森町 35 I,(19).22.23.24
石倉 35
濁川 35
鷲ノ木 35
砂原村 35 I,(20).25
鹿部村 35 I,(20)
龜田郡
錢龜澤村 36 I,(21)
根崎 36
湯ノ川村 36 I,(21)
函館市 36 I,(21)
上磯郡
木古内村 37 I,(22)
知内村 37
青森縣之部
下北郡(青)
東通村 38
小田野澤 38
白糠 38
尻屋 38
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
岩屋 38
大畑村 38
湊 38
正津川 38
上野 38
二枚橋 38
木ノ邊 38
釣谷濱 38
赤川 38
上北郡(青)
六ケ所村 38 II,(1)
泊 38
鷹架 38
三澤村 39 II,(4)
谷地頭 39
淋代 39
四川目 39 226
三川目 40
百石町 40 II,(5)
一川目 41
川口 41 227〜230
三戸郡(青)
市川村 43 II,(6)
橋向 43
下長苗代村 43 II,(6)
八太郎 43
八戸市(青)
八戸市 43 II,(7.8.9)
小中野 43
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
湊 44
白銀 44
鮫 44 231
白濱 44
深久保 44
種差 44
法師濱 44
大久喜 44
金濱 44
階上村 44 II,(9.10)
道佛(字大蛇) 44
追越 45
榊 45
小舟渡 45
岩手縣之部
九戸郡(岩)
種市村 46 II,(10.11.12)
平内 46
川尻 46
横手 46
八木 46 232
中野村 46 II,(12.13)
中野 47
小子内 47
夏井村 47 II,(14)
半崎 47
久慈灣 47 II,(14) 233〜234
長内村 48 II,(14.15.16)
二子 48
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
小袖 48
宇部村 48 II,(16)
久喜 49
野田村 49 II,(16.17.18.19)
廣内 49
野田 49
三日市場 49
米田 49
玉川 49
安家 49
下閉伊郡(岩)
普代村 50 II,(19)
堀内 50
澤 51
白井 51
力持 51
普代 51
太田名部 51
田野畑村 51 II,(21.22)
明戸 52
羅賀 52 239
平井賀 52 235
嶋ノ越 52 336
切牛 52 237〜238
小本村 53 II,(22.23)
小本 53
中野 54
茂師 54
田老村 54 II,(23.24)
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
攝待 55 240
青ノ瀧 56
重津部 56 242
乙部野 56 243〜244
田老 56 241,245
小港 56
崎山村 57 II,(24.25)
女遊戸 57
中ノ濱 57
宿 57
日出島 57
大澤 58
鍬ケ崎町 58 II,(25)
宮古町 58 II,(25) 246
磯鷄村 59 II,(25)
磯鷄 59
高濱 59
金濱 59
太田濱 59
白濱 59
津輕石村 59 II,(25.26)
津輕石 59
赤前 60
重茂村 60 II,(27.28.29)
追切 60
閉伊崎 61
鳥島 61
立濱 61
境神 61
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
鵜磯 61
荒卷 61
音部 61 247〜248
重茂 61
里 61 249〜250
與奈 62
種子刺 62
?(トド)崎 62 251〜253
姉吉 62 354〜266
千鷄 63 257
石濱 63
川代 63 258
大澤村 63 II,(29.30)
山田町 64 II,(30) 259,263,264
飯岡 64
織笠村 65 II,(30)
船越村 65 II,(29.30.31.32)
船越 65
田ノ濱 65 262〜264
船越村の地峽 66 261
大浦 66
上閉伊郡(岩)
大槌町 67 II,(32.33) 269〜270
吉里吉里 67 268〜269
浪板 67
赤濱 67
安渡 67 267
大槌 67
鵜住居村 68 II,(33.34.35)
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map. No.) (Fig. No.)
室ノ濱 68
片片 68
鵜住居 68
箱崎 68
白濱 69
大假宿 70
桑ノ濱 70
兩石 70 260
水海 70
釜石町 70 II,(31.36) 272,274〜285
越路 70
瀧ノ澤 70
釜石 70 273
嬉石 72 281,284,286
平田 72
石濱 73
白濱 73
氣仙郡(岩)
唐丹村 73 II,(36)
花露邊 73
本郷 73 287〜289
小白濱 75 290〜292
片岸 76 293
下荒川 76 294
大石 76 295
吉濱村 76 II,(38.39)
千歳 76
根城 76
本郷 76 256〜297
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
越喜來村 77 II,(38.39.40)
崎濱 77 299
浦濱 78 298,300〜301
泊 79 302
下甫嶺 79 303〜304
鬼澤 79
綾里村 79 II,(40.41)
小石濱 79 305
砂子濱 79 306
綾里灣 80
白濱 80 307〜309
野々前 82 310〜311
田濱 82 315
綾里 82 312〜314
石濱 83 316
赤崎村 83 II,(40.42) 320
合足 83 317〜319
長崎 83
千丸 84
小外濱 84
蛸之浦 84 320
清水 85 322,324
永濱 85 323
山口 86
生形 86
宿 86 325
盛町 87
大船渡町 87 II,(42)
大船渡 87 327
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
笹ケ崎 88 328
永澤 88
平 88 302
下船渡 89
珊瑚島 89
末崎村 89 II,(42.43)
船河原 89 330
石濱 89
細浦 90 326,331
小細浦 90 332
碁石 90
泊里 91 334
中井 91
門ノ濱 91
梅眞 91
廣田村 91 II,(43)
長洞 92
大野灣 92
大野 92
花貝 92
畑 92
六ケ浦 92
岩倉 92
根岬 92
集 92
金室岬 93 336
泊 93 337〜338
越田 94
大陽 94 339〜340
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
小友村 94 II,(43)
蛇ケ崎 94
唯出 94 333,335
獺澤 95
矢ノ浦 95 342
鳥島 95
鹽谷 95
三日市 95
兩替 96
米崎村 96 II,(44)
濱砂 96
脇ノ澤 96
沼田 97
高田町 97 II,(44)
長砂 97
高田松原 97 343〜345
氣仙村 98 II,(45)
長部 99 341,346,351
双六 99
要谷 99
福伏 99
宮城縣之部
本吉郡(宮)
唐桑村 100 II,(45.46.47)
大澤 100 347
館 100
載釣 100 352
堂角 101
只越 101 348〜350
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig.No.)
白濱 102
高石濱 102
石濱 102 353
馬場 102 354
中井 103
瀧濱 103
御崎岬 103
大立 103
下ノ濱 103
長濱 104
津本 104 355
神止 104
小鯖 104 358
鮪立 105 356
藤濱 105
宿 105
舞根 106
日向貝 106
大島村 106 II,(46.49) 357
外濱 108
廻館 108
長崎 108
通島崎 108
横沼 108
駒形 108
要害 108 360
淺根 108
高井 108
田尻 108
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
浦ノ濱 108
大水 108
磯草 108
鹿折村 108 II,(46)
鶴ケ浦 108
梶ケ浦 109
氣仙沼町 109 II,(48)
内ノ脇 109
松岩村 109 II,(46)
片濱 109
尾崎 109
階上村 110 II,(46.49)
臺ノ澤 110
川原 110
七半澤 l10
濱 110
波路上 111 359
崎野 111
岩井崎 111
旭崎 111
大谷村 112 II,(50) 362
大谷 113 361
明神崎 114 364
館鼻崎 114
日門 114
前濱 114
赤牛 114
御嶽村 115 II,(50)
大澤 115
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
風越 115
登米澤 115
小泉村 115 II,(50.51)
小泉 115 365〜366
二十一濱 115 363
今朝磯 116
藏内 116
歌津村 116 II,(51)
港 116 367
田ノ浦 117 368
石濱 117 370
名足 117
中山 118
馬場 118
泊 118 371
管ノ濱 118
伊里前 118 372
寄木 118 369
韮ノ濱 118 373
志津川町 119 II,(51.52.53) 374〜377
荒戸 119
平磯 119 375
袖ケ崎 119 376
志津川 119
戸倉村 120 II,(53.54) 378〜382
折立 120 378
波傳谷 120 380
津ノ宮 120
瀧濱 120
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
藤濱 120 381
長清水 121 382
十三濱村 121 II,(53.54.55)
小瀧 121 383
大指 121
相川 121 384〜385
小泊 122
白濱 122 387
長鹽谷 122
月濱 122
桃生郡(宮)
十五濱村 122 II,(55.56.57)
船越 122 385
荒屋敷 123 388〜389
大須 124 393
羽坂 124
桑ノ濱 124 395
分濱 125
立濱 125
大濱 125
雄勝 125 390〜392,396
石卷町 125 II,(64)
牡鹿郡(宮)
女川町 126 II,(57.58)
指 126
御前 126
桐ケ崎 126
石濱 126 399
宮ケ崎 126
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
女川 126 404
高白 127
江ノ島 127
出島 128 397
大原村 128 II,(59.60.61.62)
寄磯 128 398
前網 128
鮫ノ浦 128
大谷川 128
谷川 128 401
小淵 128 402
大原 129
給分 129
鮎川村 129 II,(62.63)
山鳥 129 406
鮎川 129 403,405
金華山 130
荻濱村 130 II,(63.64)
牧ノ濱 130
小積 130
萩濱 130
小竹 130
仙臺市(宮) 131
宮城郡(宮)
松島灣 131
鹽釜町 131 III,(1)
七ケ濱村 131
菖蒲田濱 131
松ケ濱 131
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
七郷村 131 III,(1)
深沼 131 407
名取郡(宮)
東多賀村 132 III,(1)
閑上 132
亘理郡(宮)
荒濱村 132 III,(1) 408
荒濱 132
坂元村 133 III,(2)
中濱 133 409
磯濱 133 410〜411
福島縣之部
相馬郡(福)
福田村 135 III,(2)
埒濱 135 413〜414
新地村 135 III,(2)
釣師 135 415〜416
今泉 135 417
松ケ江村 135 III,(2)
原釜 135
眞野村 136
鳥崎 136
福浦村 136 III,(2)
村上濱 136 419
前谷地 136 418
角保内 136
雙葉郡(福)
富岡町 136 III,(3)
佛濱 136
記事頁 地圖番號 寫眞番號
(Page) (Map No.) (Fig. No.)
富岡 136
木戸村 136 III,(3)
山田濱 136
石城郡(福)
小名濱町 136 III,(3)
茨城縣之部
多賀郡(茨)
大津町 139 III,(3)
北海道之部
根室國之部
根室國根室郡
根室町(根.根室) Map No. I, (1)
(根室) 根室港は北向きの港で直接太平洋には面してゐないので津浪に關しては何等得た材料はない.地震は相當強く當地としては珍らしく,人々何れも戸外に飛出した.
(花咲) 根室町花咲に於ては稍々津浪らしい現象を認めた者がある位で一般には津浪の襲來したことが感ぜられなかつた.津浪當時(踏査の時も)附近には積雪1・2〜1・5米あり,波打際にも1米以下積つておつたが津浪のため大分洗去られてこゝまで浪が來たのだらうといふ推定だけはつけることが出來たさうである.それによると少くも常時の海水面より1・2〜1・5米位の水位の變化があつたことになる.浪の襲來したときこれを見てゐた者の談によると檢潮所に通ずる突堤の上を水が越したさうである.津浪當時の海水面からこの堤防の上面までは約1米はあつたらう.それ故に津浪當時の變化は先づ1米前後であらうと思はれる.
和田村(根.根室) Map No. I, (1)
(落石) 0・6〜0・9米程度の波が最初徐々に押寄せたとのことである.
釧路國之部
釧路國厚岸郡
厚岸町(釧.厚岸) Map No. I, (3)
厚岸町は厚岸灣の一番奥にある町でこゝでは津浪の襲來したことを知らない者が多い.或人の話すところによれば當日の夕刻まで0・6〜0・9米の高さの潮汐の干滿があつたといふことである.
釧路市(釧.) Map No. I, (4)
釧路港は當時釧路川の河口附近に結氷してゐた氷が打ち上げられたので津浪のあったことはいち早く報知された.而し波の高さは0・6〜0・9米位であつたらう.被害の著しいものは皆無である.
釧路國白糠郡
白糠村(釧.白糠) Map No. I, (5)
音別村(釧.白糠) Map No. I, (6)
共に津浪は1・2〜1・5米位である.
十勝國之部
十勝國十勝郡
大津村(十.十勝) Map No. I, (6)
(厚内) 津浪は1・5米程度で僅かに流木等により津浪の高さを知ることが出來るのである.
十勝國廣尾郡
茂寄村(十.廣尾) Map No. I, (8). 1. 2.
(廣尾)(濱フンベ)(オナオベツ) この間に於ては3・0〜4・6米の津浪のあつたことを認めた.
(音調律)(ルベシベツ)(タニイソ) 津浪の高さは次第に南下するに從つて増して來る.音調律では約3・0米位であるがルベシベツでは4・6米,タニイソでは4・6〜6・0米になる.この間岩と岩との間を縫つてゆく惡路で干潮時にのみ通行し得る難所である.而も西側に100米乃至200米の斷崖が聳えてゐて,雪が頽れ落ちて1丈以上も波打際に積つてゐた.また斷崖の上の方を見上げると谷間に殘つてゐる雪は今にも雪が頽れ落ちて來るかと思はれてよい氣持はしない.但し足元が悪くて上ばかり氣にして見てゐることが出來ないので恐ろしい物を時々ヂロヂロと見るだけですんだ.
日高國之部
日高國幌泉郡
幌泉村(日.幌泉) Map No. I, (8). 3. 4. 5. 6. 7.
(ビタタヌンケ)(オニトツプ) 津浪の高さ大體4・6米位.
(猿留) この町では漁船數艘を流失したのであつたが,津浪もこの附近になると大分強くなつて來た.猿留,サクバイ間の新設コンクリート鋪道は數ケ所津浪の爲に破壞されて居た.鋪道が盡きると道路としてはなく足場の惡い磯濱を偉つて行かなければならない.この磯濱の所々には流木,海草の類が海面より4・6米位のところに打上げられてゐるのを認めた.
(サクバイ) 明治29年の大津浪の際はサクバイ川を津浪が溯つたため大被害を受けたのであるが最近川口を埋立て川幅が狭くなつたために今囘の津浪では何等被害はなかつた.
(庶野)(トセツプ)(フンコツ) 庶野は今囘の津浪のため被害を蒙つた主たる部落である.驛遞の主人郵便局長長岡氏の談によると,海拔8・7米の同驛遞の家屋土臺と略同一の高さにまで波は押し寄せたさうである.尚同氏の津浪實見談を記すと次の樣である.
この附近一帶の海底は100乃至150米位海岸から距つたところで約7乃至8尋で磯濱が可成沖の方まで續いておりそれより沖合は急に深くなつてゐるさうである.庶野に於てはシトマン川河口の2戸全潰.その他壁,腰板等を破られた被害は至る所にある.同氏は津浪當時の模様を更に詳しく説明されて曰く,先づ津浪で呼び起されたのは午前3時過で強震後40分であつた.地震は當地方でかつて經驗したことのない位大きく長びいた.第1囘の津浪は同驛遞の石垣の下(海拔7・5米)まで來りその後何囘も小さな波は襲來し最大なるものは午前3時30分過ぎであつた.第1囘目が襲來してから後暫くは波は來なかつたので何氣なしに海岸に下りた所大なる音を立てゝ水は凄い勢で引いてゆく.再び波は海岸に打寄せたがこれは第3囘目の比較的小さい津浪であつた.その後約10分間にて最大なる津浪となつて星明りに沖を透してみると波頭が一直線に白く碎けて進んで來るのを明瞭に認めることが出來た.波は眞南より押し寄せ同氏宅の下まで來たときには庶野部落の東端には未だ來てゐなかつた.それより非常な速度(同氏の談によれば急行列車以上)を以て海岸を東に廻り東端に近き家屋は全壞或は大破を蒙つたとのことである.これより先第1囘の津浪の來た時には前記シマトン河口の家屋は破損を受けず,直ちに警戒のためフンコツまで人を走らせた.トセツプまでは約1・5粁の距離があり夜道に雪が數尺も殘つてゐたのだが一生懸命走つた.トセツプに到着後間もなく最大の津浪が襲來し8戸中2戸のみを殘し全部流失してしまつた.然しこの警報のあつたため人々は無事避難することが出來た.但しフンコツまでは警報が間に合はなかつたため死者2名を出したる家1戸,1家6人中5人の死者を出し流失した家1戸を出したことは實に遺憾であり氣の毒であつたと同氏は暗然と語られた.
この2戸の家は海岸の岩陰にあり水際よりは相當高い所にあつたのであるが津浪は6〜9米の高さで襲つて來たのでどうすることも出來なかつたらしい.兩家屋とも家の裏は絶壁であつてよし津浪の襲來を氣付いてゐても避難することは不可能であつたらう.
(ルーラン) ルーランの南端に立つて見渡すと北端の民家は大半,戸,障子,腰板を打拔かれたためか新しく修繕されてあつたのが目についた.この部落の某氏の談によると道路面(海拔約2・4米)を越す位の波が強震後40分の後に來た.それに續いて2度同程度の波があり第4囘目の波は最大となり家屋の破損,船の流失等の損害をもたらしたさうである.第1囘目よりこの最大の波まで約30分間であつた.津浪が引くときには通常の干潮時の汀線より3倍も沖の方まで海底が現はれ,後暫くして再びゴーと恐ろしい音を立てゝ襲つて來たといふことである.
(チヒラ) ルーランよりチヒラの間は殘雪未だ腰を没する位,全部落浸水しその内2戸大破し,小兒1名はその下に壓死した.部落といつても全く淋しい寒村である.
(小越) 當部落にては津浪のため民家1戸流失,死者1名を出した.この附近は緩傾斜をなして家屋は雛段の如く順次に高い所に立てられてゐるが被害を蒙つた家は最も低い所にあつたのである.
小越より北約10粁の間は砂濱廣く,景色優れ,百人濱の名稱を以て知られてゐる所である.この間民家とては1軒もなく,幾條となく氷解の水を集めた河が滾々と海に注いでゐる.内には波を立てゝ相當すごい勢で流れてゐるものもあつた.海岸線は平坦で所々に津浪のため漂流して來た物が汀線に並行して散在してゐるのを認めた.
(襟裳岬) この附近では津浪の高さ約3・6米であつた.
(油駒) 2・4〜2・7米
(歌露) 3・0〜4・6米
(歌別) 4・6米
(幌泉) 幌泉は村役場の所在地であつて海岸に設けられた防波堤を越ヘ岸に襲來した波は漁船數十艘を破壞し民家は大概床下に浸水した.波高は2・7〜3・0米であつた.
日高國樣似郡
樣似村(日.樣似) Map No. I, (8). (9). 8. 9
(誓内)(幌滿)(エハオイ) 誓内にては2・4〜2・7米.幌滿,エハオイにては約2・1米の波が押し寄せたが民家は相當高い所に建てられてあつたために何等の被害はない.平常の汀線より約15〜20米の地點に雜漂流物がずつと並んでゐる.
(冬島) 冬島の漁業組合長の談によると冬島附近には海草が多く採集されるのであるが津浪のために岸の岩に打上げられ,約2・4米の高さの所に附着してゐたことを認めたとのことである.尚この2・4米の高さの津浪は僅かに1囘あつたのみで當日は晝過ぎまて潮汐の干滿があつださうである.海岸に乾してあつた海産物,磯船數艘流失の損害を蒙つた.
(樣似) こゝでは漁船の流失,乾魚の流失程度の被害を認め得た.樣似海岸にある一民家では干潮時の海拔約24米の所まで水が押寄せたといふことである.この家の人は津浪當時水の押寄せたことを知らず夜が明けてから津浪のあつたことを知り同日は晝頃までに著しい波が2〜3囘あつたことを認めた.先づ2・1米程度の津浪であつたことは確かである.漁船數艘流失或は破損した.それより東約4粁,サヌシベに至る海岸線に並行な道路上には所々津浪のために破損してゐるところを認めこの道路を越して水か押寄せたことが知られた.津浪はこの附近までは確かに大きかつたと言はれる.
日高國浦河郡
浦河町(日.浦河) Map No. I, (9). 11
こゝの海邊には別に被害はなかつた樣である.浪高1・5〜1・8米.
荻伏村(日.浦河) Map No. I,(9).(10).12.13
浪高約1・5米.
日高國三石郡
三石村(日.三石) Map No. I, (10). 14
前者同樣約1・5米.
日高國靜内郡
下下方村(日.靜内) Map No. I, (10). (11). 15. 16. 17
下下方(シモケホウ) 今は靜内といつた方が判り易い.町のはづれの染退川の河口,及び日高門別の門別川の河口に於ても氷の粉碎されたことが認められたそうである.
靜内から三石,荻伏に至る間,海岸には前にも述べた流木,藁屑等の漂流物が海岸に連續して打上げられてゐる.いづれも1・5米程度の津浪の襲來した事を示してゐる.
日高國新冠郡
新冠村(日.新冠) Map No. I, (11). 18判官館の舊跡で有名なる新冠の附近でも新冠川河口の氷が浪のために川岸に打上げられたさうである.
日高國沙流郡
厚別村(日.沙流) Map, No. I,(11)
(厚別) 厚別川の河口に張つてゐた氷は津浪のために川岸に打上げられて粉碎してゐたさうである.
門別村(日.沙流) Map No. I, (11)
(門別) 門別では津浪當時は1・5米位の波が數囘押寄せ,枯木の株,藁屑その他の雜物が滿潮時の汀線より高い所に打上げられてゐるのが連續して見得られる.土地の人も津浪のために打上げられたのだといつてゐた.
膽振國之部
膽振國勇拂郡
苫小牧町(膽.勇拂) Map No. I, (13)
苫小牧町の海岸では0・9〜1・2米程度で僅かに津浪の痕跡らしいものが認められる.
膽振國白老郡
社臺村(膽.白老) Map No. I, (13)
白老村(謄.白老) Map No. I, (13)
共に波高約1・2〜1・5米程度.
膽振國幌別郡
登別村(謄.幌別) Map No. I, (14)
前者同樣約1・2〜1・5米程度の波が認められる.
室蘭市(謄) Map No. I, (15). (20)
室蘭港に於ては何等の被害もなかつたが同港に据付けられた檢潮儀の記録によれば平均水位より0・5米位の波が明瞭に記されてゐるとの事である.
(ホロモイ)(ベキリウダ) 室蘭港の北岸にある兩地では全く津浪を認めることが出來なかつたらしいが0・3〜0・6米位の波は當然押寄せたらしい.
膽振國有珠郡
伊達村(謄.有珠) Map No. I, (15)
(エントモ岬) 虻田,西紋鼈の略中間にあるこの岬附近に於ては僅かに潮汐の不時の干滿が0・6米程度に起つたことを長流附近の人々が認めたそうである.
膽振國虻田郡
辨部村(膽.虻田) Map No. I, (16)
(禮文) 内浦灣の最も奥に近く存在する部落であつて禮文華川の河口に近く,砂濱に點在する漁民の家屋は海岸より相當高い所にあり被害は無論ある筈なく,人々は津浪の襲來を知らなかつたらしい.たゞ大きな波,高さ0・9〜1・2米のものが數分置きに數囘押寄せたのを見たものが2〜3名あつただけである.
膽振國山越郡
長萬部村(謄.山越) Map No. I, (16). (17)
(訓縫) 訓縫川の河口に於ては1・5〜1・8米の浪が來たことが橋脚に引懸つてゐた雜漂流物によつて認められた.尚土地の人の話を綜合しても矢張りこの程度の浪が押寄せたらしい.この地點より北方約1粁の地點では0・9〜1・2米位であつた.
八雲町(謄.山越) Map No. I, (17). (18). 19. 20
(黒岩) こゝには0・6〜0・9米程度の波が押寄せたのであるが津浪の痕跡は全く認められなかつた.
(遊樂部) 黒岩と同様であつた.
(山越) こゝでは0・9〜1・2米程度.
渡島國之部
渡島國茅部郡
森町(渡.茅部) Map No. I, (19). 22. 23. 24.
(石倉) 1・2米.
(濁川) 1・5米.
(鷲ノ木) 1・2米.
森町の東,停車場より約1粁,中の川の河口附近は0・9〜1・2米,これより僅か西の地黙では1・5米,森町の中央部の海岸では0・6〜0・9米位の波が押寄せた事が人々の話によつて想像することが出來る.
砂原村(渡.茅部) Map No. I, (20) 25.
駒ケ嶽の北麓,噴火灣の入口に近い部落である.津浪當時平常より干潮の程度が大であり平常より僅か強く大波が押寄せた位で被害は皆無である.土地の者の案内にて町の東部では1・5〜1・8米,町の中央部に於ては1・2〜1・5米位の高さの波だつたらしい.
鹿部村(渡.茅部) Map No. I, (20)
當村は噴火灣の南側入口にあつて多少津浪の押寄せた形跡でもあらうと思はれたが全く豫期に反し何等得る所なし.但し津浪の高さは直接外洋に面してゐるだけあつて同じ噴火灣の奥と比較すると稍高く1・5〜1・8米位であつたらうと思はれる.
以上で内浦灣の沿岸を一週したことになるがさて津浪の高さを見ると灣口に近い森,砂原に於ては灣内或は灣の奥に比較して稍高く,而も灣口より内部に入るに從て順次に波の高さは減少を示してゐる.又禮文より室蘭に至る海岸は對岸にくらべて殊に波が小さかつたことを認めた.内浦灣は灣口より内部に入るに從つて幅が廣くなってゐるために斯の如く津浪が灣に入つてその勢力が順次に減退してゆくのであらうか,注目に價することゝ思ふ.たゞ以上に述べ來つた津浪の高さが不確實であるために的確なる數量を以て津浪減退の状態を定めることが出來ないのは遺憾であつた.尚こゝに附記しておくことは上述の如く,0・6〜0・9米位の高さの波であると平常の潮汐の干滿と同程度或はそれ以下の水位の差である.それ故に津浪が押寄せた跡方は滿潮時に沫消されて仕舞つたのが多い.然し目撃者の談によつて高さを推定すると津浪の灣内侵入に從て高さの減少することのみは確實となつた.
渡島國龜田郡
錢龜澤村(渡.龜田) Map No. I, (21)
(根崎) こゝの海岸は磯濱で岸邊で押寄せた津浪は碎けて幾分湯ノ川海岸よりは津浪らしく見えたのであらう,この村の人々に聞けば水位は約1・5米位津浪の時に高くなつたさうである.附近の濱には所々莚を敷いてその上に木屑や小枝を集め乾してゐる,これは焚木に使はれるのであるが今囘の津浪のために幾つか流された.
湯ノ川村(渡.龜田) Map No. I, (21)
湯ノ川村の海岸,大瀧温泉の附近にては強震後津浪が襲來するだらうといふので用心して居つたが僅かに滿潮の汀線を少し上つた程度に波が打上げただけで何等被害は無かつたさうである.從つて強震のあつたことは誰でも知つてゐるが津浪を知らなかつたものゝ方が多い.
函館市(渡) Map No. I, (21)
函館市では3月3日の強震は相當強く感じたらしく熟睡中の多くの人々戸外に飛出したが地震のための被害は見當らなかつた.港の船大工に聞いたところ函館港では強震の約40分後0・6〜0・9米の潮汐の時ならぬ干滿があつた.囘數は7〜8囘までは數へることが出來たけれども,それより後は平常の波浪と區別がなくなつたので數ヘることが出來なくなつたさうである.
潮の干滿は約5分乃至15分位の時間をおいて行はれたとの事である.先づ最大の波の高さは0・9米位あつたらうと思はれる.船舶その他の被害は殆んど皆無であつた.
渡島國上磯郡
木古内村(渡.上磯) Map No. I, (22)
當村海岸にては津浪に對して何等得る材料もなし,但し或者の言によると地震後約1時間たつて海が時化の時のやうな音を立てゝ波が2〜3囘打上げるのを聞いた.
知内村(渡.上磯)
當村海岸部落に於ては木古田村と同様である.渡島國の沿岸各地に於ても何等破害がないやうであるから北海道の調査はこれで打切りとした.
青森縣之部
青森縣下北郡
青森縣の東北端尻屋崎を含む郡であつて當郡の部落の多くは海岸より遠く距りて存在する故家屋の被害は皆無といふべく僅かに海岸に繋留或は陸揚げせられてありし漁船の被害を蒙りたるに過ぎず.
東通村,猿ケ森,田代,尻屋各小學校よりの報告によるに何れも海岸より相當の距離にあるため津浪襲來の模樣を目撃する事は出來なかつた.然し何れの部落に於ても地震後10分時間後位に大砲或は遠雷の如き音響を聞きたり.
主なる部落に於ける被害は次の通りである.
東通村(青.下北)
(小田野澤) 地震は強かりしも津浪なし.翌朝平常より1〜2間海岸に浪の寄せたる形跡を認むるのみ.
(白糠) 小舟大破6,發動機船小破1.
(尻屋) 桐材100丁.
(岩屋) 小舟大破2.
大畑村(青.下北)
(湊) 小舟小破數4,(正津川)小舟大破3小破10,(上野)小舟大破2小破1
(二枚橋) 小舟大破3發動機船略小破1,(木ノ邊)小舟大破6小破10,(釣谷濱)小舟小破1,(赤川)小舟小破1.
青森縣上北郡
六ケ所村(青.上北) Map No. II, (1)
(泊) 津浪第1囘3時,0・8米;第2囘3時50分,3・6米;
津浪は潮が滿ちて來る時の樣であつたが一度寄せた波は再び下らず其の上に又量を増すといふ有樣であつた.
寄せて來る前には潮はズツと引いてゐた.
3時50分の大波は大うねりを爲し海岸近くでは波頭が折れて來た.
(鷹架) 當部落の津浪は至つて弱く損害も殆んど無く殊に眞夜中なりしを以て人々は翌朝起き出でし後,少し強き暴れ海であつたと小屋を見て思ひしのみにて誰も津浪の模樣等を見たるものなし.
海邊の納屋に納めし鰯粕多少浸水せるものあり.されど流されず舟等は冬期なるを以て時化を恐れて遙か岡の上に引上げて置きしを以て損害なし.(第33圖參照)
三澤村(青.上北) Map No II, (4)
淋代以北の土地は海岸に家數も少いがため統計に表はれる被害も少い.當時この部落より以北は積雪0・6〜1米あり.人々はこの積雪のため津浪勢力は緩和せられたといつてゐた.津浪の襲來は何囘も繰返したがこの方面では約20分の間を置いて來たといふことである.
(谷地頭) 地震後2囘の爆音を聞けり,津浪の模樣は一向不明.
(淋代) 津浪と知つたのは3時45分でしたが, 沖が暗くて何が何だか解りませんでした.飛出して見た時はもう私の學校の東端から10間餘りの所まで水が來てゐました.1囘目も2囘目も更に解りませんでした.最後の波かと思つたのが4時10分頃に一段と高く見えましたが,明方の空は曇りではつきりしませんでした.兎に角學校から浪打際まで平常395米ありますが,一帶の海となつて砂濱が見えなかつたのが事實であります.
津浪の15分位前に高い所から疊の上に飛下りた樣な音がしました.又午前4時頃八戸鮫岬の沖合に赤い火が探照燈の樣に見えた.何かゞ燃え上つた樣であつたと云ふ者があります.(淋代小學校 吉田訓導)
(四川目) 海岸は砂濱廣く遠淺にて津浪當時陸地には積雪0・3米程ありしため津浪の勢力を幾分緩和したと此の村の人達は言つてゐた.波打際から約200米もあらうか小高い崖に積つた雪の下方が津浪のために洗ひ去られてドス黒い線が殘されてゐた.あれが津浪の跡だといふ,海面からその線の高さを測定して見ると4米となつた.村民も1丈位だといつてゐた.この四川目部落では全戸51戸の中住家10戸,非住家18が流失され,住家10戸,非住家4が大破された.死者6名(男4,女2名).この部落には海に面した方に砂防があつて助かつたといふ家がある.幾分
第33圖
第34圖 淋代では舟の破損はあったが其他罹災者なし.海に一番近い家も波が近づいた丈.
廻りの地所よりは高いが浸水もせず完全に殘つてゐた.
(第35圖參照)
(三川目) 全戸56戸.
三川目部落は四川目よりは海岸の砂濱の傾斜が幾分急である.こゝでは浪の高さは約4米である.(第36圖參照)
百石町 Map No. II, (5)
(二川目) 地震後約40分頃「ドドン,ドン」と2囘大きな音がした.其後間もなく第1囘目の津浪襲來す.第1囘の浪で300米程浸水す.5分後第2囘目の浪襲來す.此囘は汀線より約400米浸水せり.第3囘目の浪は沖の方がノンノンノンノンと唸つて浪は青黒く土手の樣に見えた.浪は岸にのろのろと近づいて來た.今まで黒く見えてゐた濱は一面に眞白く雪の樣になつた.此の波が一番奥まで浸水した.津浪到着の時間及び浪高は第1囘,2時57分(浪高4・0米);第2囘,3時25分(浪高7・0米);第3囘,3時50分(浪高8米).
當部落の縣道より南にて5軒浸水,縣道の橋の兩袂の家2軒半浸水せり.暗夜の爲確實なる事は知り難きも沖一帶は低き黒雲の張りなびきたる如く見ゆるは盛上りたる浪なるべしその音もノンノンと聞ゆ.
砂洲に上りたる浪は殆んど崩れて白く光れば明白に襲來の樣を見得たり其の音は秋雨の強く枯草に注げる如し.
津浪の30分位前.地震の直前に遠方にて大砲を放ちたる如き音南東海上より聞えたり.睡眠中のものも驚きて立ちたる程の強さなりと.又2時32〜33分頃南南西の方位にて餘り高からざる空に電光に似て青白き光火事の如く見えて直ぐ消え失せたり消ゆるに際して西になびきて廣がりし如く思はると.光の強さは其邊一帶を明るくする程の強さなりと.
地震前後に井戸水の滅けたるもの2,3あり,津浪襲來前二川目川の水2〜3寸減けたり.
3日夜氣温は夜半より急降下し,星の輝き物凄き程の快晴となりたり.
(一川目) 第1囘の波は3時頃,波高4・5米;第2囘の波3時30分,3・6米.
津浪の前30分位に大砲の樣な音「ドン」と轟き地響がして障子や硝子戸はガタガタと音を立てた.方向は南東.
第2囘目の波の前約20分にも極低い音であつたが矢張り「ドン」と音がした.
又地震の最中に南西の方向に當つて3,4囘電燈の光よりもやゝ赤味を帶びた光が地面から眞直に上の方に7,8間の長さに上つた.
津浪は崩れて「ヂワヂワ」と來た.然し押波も引波も普通の波よりは非常に速い樣に見受けられた.
本村には倒壞家屋なく,破壞1,浸水5,流失破損附屬屋23,死體漂着2.
常には如何程汲んでも濁らなかつた井戸が津浪3日前には五斗樽で8,9囘汲んだら濁つたと云ふ.
(川口) 津浪は地震後約30分位大約3時00分頃に襲來した.津浪の來る直前に遠方から汽車でも走つて來た樣な音が南方沖合から次第に北方に移つて聞えた.大分強い音であつた.又第1囘の津浪の時,沖合に電光の樣な星の樣な光がピカピカと光つた.色は電光に赤味を帶びた色だといふ者もある.ピカッと光ると附近はボンヤリ明るく見えた.多分潮光りであらうと云ふ.
波の高さは明かでないが3米位.第1囘波と第3囘波の間は各波の間隔は5〜6分であつた.第3囘波と第4囘波との間には相當の時間があつた樣である.
小向仁助氏の實見談の一節.
波の音が「ハタ」と止んだ.はてなと思ひまして又家を出て沖合を眺めて居りました.ところが南の沖合から汽車でも走つて來た樣な音が北の方ヘ移りました.すると間もなく沖から藍青色の山の樣な大波が「グングン」やつて來ました.そして川口の砂丘(××印)を越える時浪は崩れシヤアシヤアと物凄い音を立てゝ一帶が眞白になりました.川上へ押流される船の速い事目に見えぬ位でした.云々.
第35圖
第36圖
第37圖
第38圖
部落内の井戸水は殆んど全部10日も20日も前から減水してゐた.
津浪の前兆と思はれる事は鰮の大漁であつた事,明治29年の津浪のあつた年も鰮の豐漁にて今年は29年以來の豐漁の年であつたので老人達は津浪があるから油斷ならぬと言つてゐたと.又嘗て此の地方にて獲れた事のない小鯛が昨年九月頃澤山とれた.又滿潮の時でも平素の干潮位しか水が上らなかつた事.
3月2日正午から午後1時迄の間だと思ふが川切替工事状況を見學に海岸に行つた所が,兩日以前から海水が5〜6尺も減じたと案内者は言つてゐた(海深が減).案内者は海底の砂が風で押寄せられて淺くなつたのだと説明してゐた.
青森縣三戸郡
市川村(青,三戸) Map No. II, (6)
(橋向) 流失家屋 非住家2, 半潰家屋 非住家9, 浸水家屋 床上 住家3, 非住家2,
床下 住家8, 非住家3,
船舶 小舟 流失3, 大破11, 小破4.
下長苗代村(青,三戸)
(八太郎) に於ては, 家屋半潰 非住家4, 浸水 床下 非住家6, 船舶 小舟 小破6, 浸水田畑 23町8段.
八戸市(青) Map No. II, (7.8.9)
八戸市地方の津浪は3日午前3時30分から5時30分迄約10囘襲來し同7時ごろ迄に約30分おきに緩漫に襲來した.水は平均水面より4・5米高くそれがため八戸港内の發動機船約150艘遭難し,小舟の行方不明となつたもの約50隻あり.外湊海岸の納屋及び家屋に浸水した.蕪島への橋は陷落し,湊海岸にある鰯しめ粕の流失,水浸しとなつたもの可なりあつた.
鮫港に踏査の節土地の人に聞いたところ津浪は初め小さいのが2囘あり,3囘目のは大きく岸壁(平均海水面より約2・5米と測定す)を越え,同岸壁附近にある共同販賣所(岸壁上と略々同じ高さの所に建てられてゐる)の床上にまで浸水した.これから津浪の高さを推測すると約4米となる.尚ほ蕪島棧橋は確かに流失して假橋が架せられてあつた.しかして第3囘の大きい津浪は3時少し過きであつたといふ.それから數囘小さいのが來て5囘目だか6囘目だかが又強かつた.この時はもう朝の4時を少し過ぎた頃だつた.地震のとき山の方に當つてドンといふ音が聞えたとの話.
又曰く第1囘目の浪は3時30分にて高さl・8米第2囘目は4時頃2・4米,第3囘目最大にして4時30分頃に襲來し高さ3・3米餘なりと.第1囘の津浪は最初に潮の引くこと最干潮線より甚だしく襲來するときは盛り上る如くして來る.第2囘目も初は潮引き襲來するときは折上る如く渦巻くが如し.第3囘は潮の引くこと少く波頭を折返して猛烈に押寄せたり.津浪の直前に波音を聞く.また5分位前に地響の如き重音を北方に聞く.又地震前に北方に赤く(青くといふ者もあり)ボーッと空明るきを見たり.
當市各部落の被害次の如し.
(小中野) 重傷1. 浸水 床上 非住家3, 床下 非住家12, 船舶 小舟 流失 大破小破18. 發動機船. 大破19, 小破14,
(湊) 浸水. 床上 住家2, 非住家7. 床下 住家9, 非住家28. 船舶. 小舟 流失16, 大破31, 小破21. 發動機船 流失1, 大破12, 小破25.
(白銀) 流失. 非住家3. 全潰 非住家7. 半潰 住家2, 非住家12. 浸水. 床上住家15, 非住家88. 床下住家8, 非住家30. 船舶. 小舟 流失18, 大破7, 小破31. 發動機船. 大破2, 小破4.
(鮫) 家屋. 全潰 非住家9, 半潰 非住家3. 浸水. 床上 非住家2. 床下 住家1,非住家5. 船舶. 小舟 流失4, 大破16, 小破7. 發動機船. 大破8, 小破6.
(白濱) 第1囘2時40分,24米;第2囘3時00分,2・7米;第3囘3時20分,3米.津浪の押寄せる直前はバツタリと波音絶えて静かになつた(不思議に思はれる位)そしてモクモクと盛上る樣に來て岸でドツト打付け大きな響がした.各囘共同樣.津浪の時音も聞かず又光を見たものもなし.津浪後井戸水白濁せるものあり.
(白濱) 家屋. 半潰4. 浸水. 床上住家5, 非住家32. 床下非住家5. 船舶.小舟流失11, 大破19, 小破3. 發動機船 大破3.
(深久保) 家屋. 半潰 非住家2. 浸水. 床上 非住家1, 床下 非住家2. 船舶. 小舟流失8, 大破11, 小破2.
(種差) 家屋. 流失 非住家3, 全潰 住家2. 半潰 非住家1. 浸水. 床上 非住家3,床下 非住家1. 船舶. 小舟流失17, 大破5, 小破4.
(法師濱) 家屋. 半潰 非住家2. 浸水. 床上 非住家1, 床下 非住家6. 船舶. 小舟 流失16, 大破7, 小破6.
(大久喜) 家屋. 流失 非住家5, 全潰 非住家1. 浸水. 床上 非住家2, 床下 非住家3. 船舶. 小舟 流失15, 大破11, 小破4.
(金濱) 家屋. 流失 非住家1, 全潰 非住家4. 半潰 非住家2. 浸水. 床上 非住家1, 床下 非住家5. 船舶. 小舟 流失21, 大破13, 小破6.
階上村(青.三戸) Map No. II, (9.10)
此村は青森縣下では最も被害多し.
(道佛字大蛇) 死1, 重傷5, 輕傷7, 行方不明1. 家屋. 流失 住家8, 非住家28.全潰 住家1. 半潰住家4. 浸水. 床上住家1, 非住家3. 船舶. 小舟 流失44, 大破3, 小破4. 發動機船 流失1.
(追越) 死1, 輕傷3. 家屋. 流失 住家1, 非住家6. 全潰 住家5, 非住家3. 半潰 住家1. 浸水. 床上 住家5, 非住家12. 船舶. 小舟 流失11, 大破5, 小破6.發動機船 流失2.
(榊) 家屋. 流失 非住家12. 全潰 非住家12. 半潰 住家1. 浸水. 床上 非住家4, 床下 非住家3. 船舶. 小舟 流失29, 大破7, 小破6. 發動機船. 大破1.
(小舟渡) 輕傷1. 家屋 流失 非住家2. 全潰 非住家19. 半潰住家2. 浸水. 床上住家2, 非住家14. 床下住家8, 非住家4. 船舶. 小舟 流失35, 大破21, 小破15. 發動機船. 大破5.
岩手縣之部
岩手縣九戸郡
種市村(岩.九戸) Map No. II, (10.11.12)
(平内)(川尻) 第1囘目,第2囘目の波は未だ暗かりし爲よく判らず.但し第3囘目以下のものは海底からモクモクと盛上つて來る.以後各囘とも同樣であつた.第1囘目の波は平内にては4時15分,1・5米;第2囘4時55分,2・1米;第3囘5時15分,3・3米であつた.川尻にても平内と同じであつた.
津浪の襲來前約35分東方に電鳴の如く又は遠方にて大砲を發射したる如き音を聞く,又川尻にて3時40分に東の方向に電光樣の光を見た.
川尻の津浪第1囘3時10分,3・6米;第2囘3時40分,4・5米;第3囘3時50分,6米ともいふ.
(横手) 第1囘3時10分,3米;第2囘3 時40分,3米;第3囘3時50分,4・5米.
津浪は下からモクモク盛上る樣に波は逆卷いて來た.第4囘目以下は潮の滿ちて來る程度の強い樣な有樣であつた.
横手にては海岸の人は音を聞かず5里も7里も山奥の村ではドンドーンと大砲を打つた樣な音を聞いたと云ふ.強さは就寝中の人の驚く程度であつた.又青白い光を東南方に見てゐる.
(八木) 地震津浪のため被害を蒙つた鐵道は八戸線(八戸久慈間)のみであるが沿線の被害夥しく就中種市,陸中八木間には海岸の民家は殆ど跡方もなく流失され,所々線路の砂利が浚はれ,八木川橋梁の兩岸の橋礎の裏約五米づゝ缺潰し一時列車運轉不能となる.この附近の海岸にては少くも3・5米乃至4米の高さの波が襲来したものと思はれる.八木濱は被害最も多く全戸120戸の内流失4l戸,納屋51棟,半壞の住家,非住家を合して5棟である.
中野村(岩.九戸) Map No. II, (12.13)
津浪の前20分頃大砲の如き音3囘程聞えた.又青白い光を見たもの小子内方面にある.中野部落に井戸渇れ,又は水濁りし所あり.
(中野)(小子内) 第1囘の波3時30分,第2囘3時40分第3囘3時50分頃に到着したる由.
夏井村(岩.九戸) Map No. II, (14)
(半崎) 第1囘波3時00分,6米;第2囘3時4分,4・5米;第3囘3時10分7・6米にて第3囘目の波最大なりき.此外に小なるもの2囘あり,津浪は潮の満ちて來る樣にジワジワと押寄せ波の前方は崩れて來た樣であつたが大きな石が押流されて來たので海底からかき廻して來た樣である.各囘共同樣である.津浪の25分位前(5〜6分前ともいふ)に南方沖合より恰も遠方を走る自動車の樣な音(強さは50〜100間程隔てゝ自動車の音を聞く位)が聞えた又午前2時30分から3時頃迄半埼海岸にて,南より東にかけて一線に通常の海面より高く光が見えた,色は青白く(暗夜に波の光る色)水平線上に探照燈を以て照らした樣に見えた.
久慈灘 Map No. II, (14)
筆者の觀察した時刻は3月14日午後2時〜3時頃である.
久慈灣は灣口を略北10°東の方向へ向けた灣で,灣の奥は高2米.内外の海岸線に平行な砂丘と中生代岩層からなる海岸とからなり,海崖は北部と南部とにある.津浪はこの砂丘を乘越えて久慈川の沖積地に浸水したのであるが,浪高は州河場の南方,久慈川氾濫原の出口南隅で測つた値は3米.(生のまゝ故潮汐干滿により換算を要す)で崖下の1階家屋の下部羽目板,土臺の一部を流失大破してゐる砂丘上にあつた仕事小舎,漁船の類は殆ど流失して,之等は海岸に積重ねてあつた材木や久慈川河口に結氷してゐた厚い氷の津浪で破壞された裂片等が一緒になつて,著しい破壞力を示したやうに見える.久慈灣築港事務所の見張小舎はかなり破壞し去られたが久慈砂鐵工場は一部分破壞されたが流失するまでには至らなかつた樣である.その當時の光景は物凄かつたらしく,若し砂鐵工場にゐる人が,外の浸水の景色を見たなら
ば,その恐ろしさのため必ず逃げ出して,却つて流されたであらうが,幸ひ工場にゐた人は外の景色を見ないで夜を過したので傷一つ負はずに助つたと言はれてゐる.
海水の氾濫は主として沿岸及び久慈川氾濫原上で,湊部落の背後から久慈川に沿つては久慈驛の東方1500米附近に迄達してゐる.津浪氾濫の平面形及び測定浪高から見て久慈川氾濫原では北半の方が稍々高度及び浸水分布が大きい.特に氾濫原南隅砂丘の陸地側には人家が相當に建つてゐるが,今囘の津浪では殆ど被害を受けてゐない.
久慈の海岸砂丘上の小舎にゐた人夫等が津浪の襲來で,裸足で湊町まで逃げたがその人達の話では津浪の夜は海岸は波が静であつたが,海に注意してゐると地震後30〜40分位たつと海が急に騒しくなり,外へ出て見ると久慈灣の全海岸の汀線が異常に白く泡立ち恐ろしい音をたてゝきたので,取るものも取り敢えず逃げたさうで,少し後れた1人の者は時々津浪に浸つたさうである.この邊では人が全速力で走る程度の速さで侵入して來たものと見える.久慈町より湊に至る途上松方製鐵所附屬發電所の溜池(閉伊川に連絡あり)の結氷厚さ20糎が割れて津浪のため運ばれ四邊の田圃中に散亂してゐる.道路を越して300米位奥まで見受けられた.氷塊の大きさ大なるものは疊1枚位である.同じく久慈の海岸に稻荷神社の祠がそつくり殘つてゐる,高さ約1米で2米角位に石で築き上げられた土臺にボルトで締めつけてあつた.その前に幾つかの木の鳥居(直徑20糎位の脚)が立つてゐたのであらうがポツキリと打ち折られて枯木の株のやうに地上僅か10糎位が殘つてゐた.又石の鳥居(第42圖參照)は片脚だけを殘してゐる.一方の脚(石材)は舊位置より約100米も陸地の方へ押流されてゐる.これはゴロゴロと轉つたらしく同鳥居の笠木及貫(いづれも石材にて作られてある)は脚より10米ばかり離れた所に轉落してゐた.いづれも舟又は小屋の材料等の撃突したゝめに破損したらしい.
長内村(岩.九戸) Map No. II, (14.15.16)
(二子)(小袖) にも被害があつた.
字部村(岩.九戸) Map No. II, (16)
久喜から野田を經て玉川附近に至る海岸は大體野田附近を基邊とした東向きの海岸で,所謂久慈堊白系が露出してゐるところで,海底は凹凸があるが餘り深くない.
(久喜) 海岸の斜面に住家があり,漁船,漁小舎が海濱砂上にあるので海岸際の數軒の家屋と海濱上のものとが破壞流失されただけで濟み,浸水區域も狹い.波高は部落中央部附近で測定したところによると4米内外である.久喜—野田間を結んでゐた電柱の内,濱砂中に立てられたものには流失したものがあつた.(3月14日調査)
野田村(岩.九戸) Map No. II, (16.17.18.19)
(廣内) 殆ど被害がない.廣内の澤の出口で,津浪の高さは同樣に4米内外である.
(野田) 宇部川と明内の澤との合しな大きた溪谷底は低平な沖積原が發達し,野田村は近時の林業の勃興により,その沖積原の上に發展しやうとしてゐた部落である.海濱はN10°E位で,宇部川口はその北端,港に開く.海岸には3米内外の砂丘横はり,汀線に平行してゐて,その陸地側には小松林があつた.
津浪は之等の小松林,砂丘を超えて海岸にあつた大材木と共に三日市場,野田部落の東端を襲ひ,港では波高6米に達した.(3月14日調査)
(三日市場) 三日市場及海岸砂丘の陸地側の人家には流失したものが相當にあつた.併し久慈灣と同樣に,樹木が全く薙ぎ拂はれてしまふと言ふやうなことはなかつた.
津浪侵入の平面分布は沖積原の低平地であつたためかなり廣面積を占め,久慈灣同樣に北部に廣く,野田村の中心地は辛うじて難を免れた.玉川野田間の海岸道路は野田町附近では津浪を被つたが,交通に差支へる程の被害はなかつた.
(米田) は野田に比して狭い沖積原であるが,極めて低平である.灣口はN45°Eの方向に開く.北隅の家屋が數軒流失してゐる.改修の新道は殆ど破壞されなかつた.流された漁船等が田圃の中に置かれた儘であつた.
(玉川) 10米以上の海岸段丘上に部落が存在するため,道具小屋,漁船の流失をみたのみである.この附近では津浪の高さは餘り高くなく,玉川の入口で約4米内外であつた.
(安家) 安家川河口は幅約200米程で,長さ1200米に達する潟があり,濱堤砂に堰かれてゐる下安家の部落は海岸から500-600米の處の北岸低い段丘上に分布してゐて,其の高度は海面上8米内外の位置を占めてゐるため,海水は陸の中ヘ1200米以上も侵入してゐるが,被害は殆どなく,改修新道の鐵筋コンクリートの橋も殆ど破損せず,津浪もこの橋を越えなかつた.
第39圖
第40圖
第41圖
第42圖 石の鳥居の損傷状態
海岸南側で測定した津浪の高さは5米で,そこにあつた家屋も流失を免れて,腰板が剥がされてゐた.河口の潟の結氷は破壞されて周圍に置き殘され,耕地の上に横はてつゐるが,徑10糎位の割木で作つた柵を破壞する程度でなく,後に記述しやうとする二つ,三つの例に比べて,稍々浪の速さが弱かつたやうに見える.
玉川から安家川入口までは花崗岩の急な海岸で,津浪の高さを知ることができなかつた.この海崖は久慈中生層の不整合線と略々一致するので沖には海蝕面が作られ易い中生層が存在すると考へられるので,海岸は野田附近と同樣比較的遠淺ではないかと思はれる.海濱の向きはN120°Eである.潟も津浪の勢力を費させる役に立つたやうに見える.
尚津浪の高さは奥で増してゐるやうに見えなかつた.(3月13日午後2時半前後調査)
岩手縣下閉伊郡
普代村(岩.下閉伊) Map No. II, (19)
津浪は第1囘2時50分,第2囘3時00分,第3囘3時15分頃に襲來す.第2囘目の浪が最も著しかつた.津浪はドツト水鐵砲の樣に打付けて來り見る間に一面の水泡となる.
地震後普代に於ては大砲の如き音を聞く,津浪襲來前4分(正確に)風の如き音何れも東南方より聞ゆ.兩方共弱音なり.又地震後約10分頃東北方一帶に明るく橙色に丁度火事の時の如くボーツとした光を見たといふ.
(堀内) 堀内の部落は50米の海岸段丘上に横はるので著しい被害はなかつた.
唯だ堀内の西北の海濱にある大倉庫はその腰板を破壞された程度に終つた.汀線からその腰板までの高さは約8米で相當高い.
堀内の段丘は礫層と久慈中生層の續きらしい軟弱な岩石からできてゐる.
第43圖
元村 太名田部 } 罹災 戸数85戸 人口553人 死 行方不明131人
(澤) 澤の部落は海岸から450米内外の奥の兩斜面にあつて,澤は狭く,沖積原等はない.出口は多少ラツパの口のやうで,左右に海の方へ突出して開く海崖がある.谷底は眞直ぐでなく,稍々S字状をなしてゐる.津浪は海岸からS字谷に沿つて,約450—500米も陸地へ侵入した.澤の各底海岸近くにあつた家屋は流失破壞した.津浪の高さは海岸で6・5米,海岸から200米の谷底で8米,325米近近で10米,末端で12米に達してゐて,海岸より奥の方が波高が増してゐる.入口の方では灌木はそれ程でもなかつたが大きな立木は薙ぎ倒されてゐる.海水侵入の末端には「そだ」その他家財破片が密集してゐる.
(白井) 白井の東南の澤は海岸で懸谷地形を示してゐるので津浪の侵入は極めて少く,海濱の納屋漁船等が流失した.
(力持) 力持の澤は澤の澤と同樣に狭く,河口は岩礁で,大きな高い岩が横はつてゐる.津浪の高さは出口で約6米で約250米ばかり侵入した.津浪の侵入した末端は10米で,奥で高くなつゐる.海岸にあつた漁船,薪等が流失した.
(普代) 普代の谷は普代川の沖積原で,極めて低平で約1・5%の傾斜である.谷幅は平均300米内外で,普代村部落のある位置は茂市や芦渡からの合流點で,氾濫原は更に廣まつてゐる.河口は砂丘があり,海岸へは稍急に迫つてゐる.
津浪は河口から約2000米の内部に入込み普代村郵便局附近は浸水した.河口で津浪の高さ約8米.
河口附近の海岸松林中にあつた家屋は粉碎されてゐた.河谷兩側の松林は地の上から約3米附近まで小枝の折られたものや,傷付いたものが見られた.普代川氾濫原が全く低平であつたため浸水面積は相當廣かつた.併し普代部落は海岸から2000米も離れた位置にあつたため,人畜,家屋の被害が甚だ尠かつたのは不幸中の幸と言はねばならぬ,普代村の被害高の大部分は太田名部の被害が占めてゐる.(3月13日調査)
(太田名部) 太田名部はこの附近で最も著しい被害を受けた部分で,全部落の大半は流失し,僅に普代元村に至る道路のある澤に建つてゐた數戸が殘されただけである.津浪の高さ約8米内外.(3月12日調査)
田野畑村(岩.下閉伊)
羅賀 戸數 11.
平井賀 戸數 61, 人口 430人.
嶋ノ越 戸數 65, 人口 360人, 死者18人.
(明戸) 明戸の澤も普代の澤と同樣に低平で,氾濫原は主として松林からなつてゐる.谷底の平均傾斜は1・13%,津浪の高さは河口北隅で8米,南隅の岩の部分で同樣に8米あつた.浸水範圍は河口から約1粁に達してゐる.津浪の高さは末端で高まつてゐるやうに見えない.小松の類は餘り折れてゐないが,丈の高い樹木は薙倒されてゐる.耕地は相當に荒された.明戸の部落は海岸から1750米奥にあるので殆ど被害がなかつた.(3月12日調査)
(羅賀) 羅賀は20米と40米との段丘上にあるので,海岸に沿つた家屋が少し被害を受けたのみでなる.
(平井賀) 平井賀の谷は約300米の奥行を持つた灣の奥にある部落で,近年冲積原にも人家が相當密集したが,こんどの津浪で著しく被害を受け,流失60戸以上にも達してゐる.併し斜面に在る家屋は殆ど被害がなかつた.筆者の調査した時は既に救護班が設けられ,食糧の分配等が行はれてゐた.津浪の高さ8米,浸水距離海岸から500米.平井賀と島ノ越との間の一つの澤では津浪の高さ出口にて約8米.上流の方稍高く海水侵入の距離500米.
(嶋ノ越) 嶋ノ越は平井賀と同樣に被害の大きな處であつた.部落は松前澤河口の沖積地にあり,一部は40米内外の高さの斜面に分布してゐる.海岸は廣い砂濱で,砂丘が谷の口を塞いでゐる.津浪はこの海岸を超えて,低い沖積地にある家屋を押し流すと同時に斜面の下部に在つた家屋をも破壞した.津浪の高さは海濱で4・5〜5米の間で,沖積原上の部落は殆ど全部流され,土臺だけ僅に砂中から現はれてゐた.二階屋の上半分が流し殘されて砂濱上に横はつてゐた.海水侵入の奥行は海岸から約500米で松前澤を溯つて入り込んだ津浪の高さは奥で6米位で海濱より少し高くなつてゐた.侵入區域の末端は少し高まつて松林になつて,破壞した家財が松林の根元に密集してゐた.流失戸數その他(計65戸)が比較的多いのに死者その他(18名)が少かつたのは避難が速かに行はれたためであらう.こゝも筆者が訪ねた時は配給船が着いた時で,漁船もないので小さな端舟で數囘となく物品を運んでゐた.
嶋の越の南の澤は狹い澤であるが約450米も入込んでゐる.
(切牛) 槇木澤の下流である切牛の南の澤は普代や明戸の澤と同樣に低平な沖積地である.從つて,その被害状況は殆ど前二者と同樣である.澤の出口σ)海濱にあつた數ケの納屋は殆ど影も形もなく,數囘となく押し寄せた津浪が次第に浪高を減じ,その都度汀線に破壞した物を殘して行つたのがよく追跡できる.出口附近の林の樹木(徑30糎)はすつかり根元から切られて何處かへ持つて行かれてゐる.
津浪の高さは8米乃至7米で,海水の侵入した奥行は海濱から850米に達してゐる.この850米附近では流れ込む海水の速度が漸く弱つたためか樹木は倒されてゐるだけである.筆者は浸水區域の最奥で有孔蟲を多數に含んだ濱砂を探集することができた.海水の流れ込む際,濱砂が多量に運ばれてくるやうに見える.(3月12日調査)
小本村(岩.下閉伊) Map No. II, (22.23)
小本村唯一の耕地,中野—小本間700町歩の畑地は津浪のため全部被害をうけたが本年度中の畑作は植付けるとも收入は皆無であらうと云はれてゐる.尚ほ大半は砂地となつた.死者160名.行方不明38名.家屋被害144戸に上り田老村と同樣一般の同情を集めてゐる村である.
津浪襲來30分位前,地震と同時に約1分間に亘り東南の方に非常に大きな地鳴を聞いた.津浪の時にはボーツと赤いほつそりした光を見たと云ふ.
(小成) 罹災戸數 9戸 人口 59人 死亡 36人
(中野) 1戸 7人 1人
(小本) 79戸 532人 死亡行方不明 112人
津浪の最初の浪は3時30分頃に襲來す.
(彌生澤の南)(水尻崎の澤) この澤は此附近一體にひろがる海岸段丘の薪炭積み出しの爲に歩行容易の小徑が作られてゐて,澤の出口,海濱には之等の積み出しの物置小舎が作られてゐるが,之は津浪で流されてしまつた.浪高5米.
(小本) 小本は小本川河口にある小都邑で,小本川は南方から突出した山嘴のために河口附近で大迂囘をして海に注いでゐる.小本の部落はこの南からの山嘴の内側即ち陸地側に大部分を占めてゐて,この山嘴の裾を海濱に迄達する新しい部落もあつた.海濱近くにはコンクリート土臺に金物を埋めて,上部の木造家屋をしつかり附着させたやうなしつかりした家屋等もあつたやうだが,之等は殆どすつかり押し流されてしまつた.無事だつたのは小本橋通以南の山嘴の内側にあつた部分だけで,小本橋通以北では橋の東裾にある3家屋が,その内の東端のものが土藏であつたために助つただけである.小本橋の欄干,橋脚の一部も海水の流入の際,流されて來た家屋その他のものに衝突されて多少破損した.
谷幅は650米ばかりあり,侵水區域の奥行は約1500米以上である.津浪の高さは3〜4米で,小本街道の桐の木に附着してゐる海藻,傷跡を調べると地表から平均2米位の高度である.(3月11日調査)
(中野) 東端の一部が被害を受けた.
海岸砂丘上に高さ1・5米の土臺を持つ記念碑があつたが碑は倒れてゐた.又海岸南側の崖の中途(約6米位の高さ)に木製の鳥居があつたが,之は流失せずに殘されてゐた.小舟の類は海水の流れ込むと同時に小本川の上流ヘ流されて,桑畑,河原等の中に數多くの漁舟が點在してゐた.
吹雪の暗い空に炎々と大焚火をして流失物の整理に活躍してゐる處は何となく陰慘な感があると同時に涙ぐましくもあつた.
(茂師) 茂師の南小成の澤は3月10日午後3時頃調査したが,谷底にあつた家屋その他は殆どなく津浪がこゝで著しく暴威を逞うしたことを示してゐる.谷壁の傾斜は甚だ急で,岩壁である.谷底は稍々傾斜を有し,階段状に盛土して家屋が20戸位並んでゐたのが,僅に土臺石のみ殘して,跡形もなく流失してゐた.死者も相當にあつた.電柱その他も全く浚はれて,岩壁に圍まれた谷と化してゐた.海水の侵入距離600米で津浪の高さは奥で高くなつてゐる.
筆者の訪ねた時は死者の供養をしてゐる時で,筆者も暫し默祷哀悼の意を表した.
田老村(岩.下閉伊) Map. No. II, (23.24)
田老,乙部に於ける津浪襲來の模樣を調査するに大體次の如く囘答を得たり.第1囘目の大浪は3時0分,6・7米位;第2囘3時1分〜3時2分頃6米以下.
最初小浪(此地方にて「ヨダ」と稱する程度)あり第2囘目最大にして(6米位か)其後は次第に衰へて數囘あり.6時頃にも小波の襲來を見たり.強大なるもの2,3囘にて其の浪間は凡そ1分位と思はる.
(以上は小學兒童及村民,職員其地多數より調査せる所なるも一人として判然たる答を爲すものなく,想像を加へて記したるものなり)(本村は全滅の厄にあひ各人極度の恐怖に陥り,人心動搖して,辛じて浸水せずに避難したるものも泣き喚ぶ者,凍えんとするもの,重傷者等の中にあり加ふるに暗夜の事とて浪の高さ,囘數など能く知りたるものなし.)
津浪は6米内外の高さにて浪の上表面だけ白波をけたてゝ,夫より下方は只黒く見えて押して來る樣に見えたといふもの多數なり.此の爲か風起つて浪に先立つて家が倒れたと云ふ.各囘共同樣の來方なり.1秒10米位の早さにて山上の木々を吹く暴風の如き音を立つて來れりと云ふ.
高臺なる部落にては音を聞きたりとも言ふも,此處にては波のよせる音のみ聞けり.光を見たといふものなし.
冬以來めつたに涸れた事等なき井戸や涌泉など涸渇せり.津浪後は暖氣加はりし爲か復活せりと云ふ.又減水の爲か濁つた井戸(小林の井戸)あり.(以上小學校長談)
南西方面より順にやられた即大平,小林,町の中央,川向,青砂里の順に襲來し,波と同時に自動車の前燈の如き青々とした光次第に岸に近づきたりとも云ふ.
漂流物は3日朝に港灣内3分の1を覆ひ居たるも後風の爲次第に沖ヘ流され行方不明.
當村に於ける重なる被害次の如し.
田老 乙部} 罹災前{ 戸數500 人口3000 罹災{ 476戸 3194人 死者950人.
下攝待 { 戸數 18 人口 126 { 3戸 21人
小港 { 戸數 7 人口 35 { 4戸 34人 死者 6人.
樫内 { 戸數 26 人口 185 { 2戸 14人 死者 2人.
(攝待) 攝待の澤は普代や,明戸の澤と同樣に低平な谷底を持つ澤で,平均傾斜は0・66%に達してゐて極めて緩い.河口にあつた家屋數戸と下攝待の部落の東端の2戸ばかりが被害を受けた.侵入距離は海濱から約1300米に達した.津浪の高さは海崖の貝砂の分布から約12米の高さを示すが,陸内ではそれよりずつと低くなつてゐる.
第44圖
この澤では明戸の澤のやうな森林の被害は見受けられなかつた.(3月11日調査)
(青ノ瀧) 青ノ瀧の南側の澤は比較的狹い澤で,澤口に小舍が1戸あつたが流失し.海岸は砂礫の濱でかなり急である.重津部からこの澤口ヘの下り道途中に漁小舍が4軒斜面に上下に並んで配列してゐたが,最下の2軒は流失し,眞中の1軒は破壞し,最上部のは何ともなかつた.谷底の殖林の-部は破壞されてゐた.津浪の高さは破壞された漁小舍の基礎の高さをそれとして約10米を示してゐる.
(3月10日調査)
(重津部) 重津部の澤は青ノ瀧の澤と同樣で,津浪の高さは7米,浸水奧行550米, 乙部野澤に至る海濱は殆ど津浪の被害跡をみない.
(乙部野) 乙部野は出口が廣く,河口には潟状の水溜があるが,そこに張つてゐた30糎位の氷は津浪のために破壞されて,押し流され谷壁の森林中に引懸つてゐる.又津浪浸水の末端には之等の破壞された氷が綺麗に汀線状に排列されてゐる.森林中には鰯らしい魚と鰻とが畑上にコチコチに凍つて死んでゐた.津浪の高さ河の出口で10米,浸水奧行約675米.森は餘り破壞されてゐない.
(田老) 田老は3月10日午前10時30分-11時に宮古からの汽船にのつて行つた.端舟がないので田老村の慘状を前にして暫く持たされたが漸く上陸することができた.
流された人逹の内,奇跡的に助つた人が數人あるが,その人逹は海水と共に押流され辛うじて岸近くに泳ぎつき,水に浸り岩にかぢりついてゐて助けられたとの事である.灣の北隅船着場には今迄無かつた大きな(徑2米内外)石塊が海中に露はれて來て,一寸船着けに不便になつた由である.
田老は全く正視することさへ出來なかつた.縣廳の地區整理の人が元の地劃區分を知らうとしても,尋ねる人もなければ,目標,痕跡もないと言ふ始末である.筆者も無鐵砲に山の端に向つて被害地を歩いて行つた.家畜類は大部分肛門より出血して斃死してゐた.何れも寒氣のためコチコチに凍つてゐると言ふ始末である.
(小港) 小港の澤は海濱から約370米位の處に4戸程の人家があり,澤の底は凹凸のある稍々傾斜した谷底で畑地が階段状に作られてゐたが,浸水區域は殆ど荒されてゐる.
津浪は谷の奧370米にある人家を襲ひ,東端にあつた2戸に被害を與へてゐる.畑地も殆ど荒されたが,階段状の盛土や道路には大した被害がなかつた.津浪の高さは海岸で10米.家屋のある位置で15米で,谷の奥で少し高くなつてゐる.
(3月10日調査)
崎山村(岩,下閉伊) Map No. II, (24.25)
津浪襲來の5分程前沖の方より音聞ゆ.女遊戸にては襲來3分前に同じく沖の方に赤色の徑2米位の光を見たと云ふ.最初の浪の襲來時刻は2時40分頃にして以後5〜6分の間をおいて第2,第3囘の浪襲來せりと.
(日出島)(中ノ濱)(女遊戸)(大澤) の各部落では下から盛上る樣にモクモクと來,宿では逆巻いて來たと云ふ.津浪前に鮑の陸に寄せられたものが多かつたのと,鰯が
第45圖
近年にない豐漁であつたのもその前兆ではなかつたかと云はれてゐる.各部落の浪高は前頁の表に示してある.
津浪の災害は地形の關係上宿の部落のみやゝ著しい損害を受けただけである.
(大澤) 津浪の高さ海濱約6・6米で,海濱の松葉の變色によつて知つた.
(5月12日調査)
鍬ケ崎町,宮古町(岩.下閉伊) Map. No. II, (25)
鍬ケ崎町では約25戸程住めなくなる程度に被害を蒙つた.鍬ケ崎の海岸には大型の發動機船が街を越して木造2階建の家に横付けに打上げられてゐるのが誰しも目につく.宮古橋(木橋)は奇麗に切斷されて交通することが出來なくなつてゐた.この橋の附近の或者に津浪が川を押上つて行く時の有樣を聞くことが出來た.即ち津浪が川を溯るときは河の中央部が盛り上り所謂中高の形となつて進んで行くが引く時は水面は略々水平であるといつてゐる.宮古橋の磯鶏村寄の方は2囘目の津浪のために又,宮古寄りの部分は第3囘目の津浪のために破壞されたのを目撃したといふことである.
第46圖
閉伊川を隔てゝ南にある藤原部落の海岸に面した家屋は約3・5米位の津浪の見舞を受け倒壞,大破可成りあるやうに見えた.宮古灣の一番奥にあたる津輕石では少くも浪の高さは5米位に達したらしく,この邊りは流木多く,津輕石より金濱に至る道路を波が越して山地に突き當つたらしい形跡がアリアリと見得られる.
津輕石川の海にそゝぐ點より約3粁上流まで流木の散亂してゐることからこの邊まで津浪が押し寄せて來たことは明かである.宮古灣に津浪が入つてから浪の高さは順々に大きくなつた割合は次のやうであらうと思はれる.即ち灣口では約3米,鍬ケ崎海岸では4米,閉伊川河口藤原では3・5米,高濱では4米,津輕石川河口では5米である.津浪は下からモクモクと水が盛上るが如く襲來し,第1囘目の浪の襲來時刻は宮古川口で3時11分,浪高2・4米;第2囘目は3時23分,浪高3・6米;第3囘目は3時35分,浪高2・4米であつたと云ふ.津浪の際海面點々と漁火の樣に光つた.但し光の色は漁火よりも青白く且つ明滅しなかつたと云ふ.被害状態は次の樣である.
宮古町
罹災前{ 戸數 2,210 人口 11,955 罹災{ 戸數 4 人口 12 死亡行方不明 1
鍬ケ崎町
罹災前{ 戸數 1,210 人口 6,170 罹災{ 戸數 25 人口 161 死亡 1
磯鷄村(岩.下閉伊) Map. No. II,(25)
當村の被害は次の如し.
罹災前 罹災 死亡及行方不明
磯鷄 戸數 127 人口 915 戸數 12 人口 84
高濱 戸數 97 人口 698 戸數 25 人口 180 5
金濱 戸數 51 人口 367 戸數 5 人口 36
太田濱 — — 戸數 0 人口 0
白濱 戸數 38 人口 273 戸數 0 人口 0
(白濱) 對岸の白濱は流失した小舍1戸,浸水1戸で,南の小澤出口では3戸程流れた.津浪の高さは2米位で部落人家には殆ど被害がなかつた.(5月10日調査)
津輕石村(岩.下閉伊) Map. No. II, (25.26)
(津輕石) 津輕石も浸水面積の大きなところで,津浪の高さは3米内外である.津輕石では浸水の奥行3300米以上に達してゐる.之は津輕石川の冲積原(平均傾斜0・5%)が極めて低平なため,津浪の高さがそれ程高くないにも關らず,廣大面積に氾濫したものと思ふ.
宮古灣の一番奥にあたる津輕石では少くも浪の高さは5米位に達したらしく,この邊りは流木多く,津輕石より金濱に至る道路を波が越して山地に突當つたらしい形跡がアリアリと見得られる.
(赤前) 津浪襲來時刻及び浪高は次表の如くである.(小學校調)
津浪は宮古灣より白泡を立てゝ襲來した模樣で,3時50分頃北方の灣口方面に仄かに青白く光るを海面上に見たと云ふ.
被害は次の如くである.
(津輕石) 罹災前 罹災
戸數 390 戸數4
人口 2,340 人口26
(赤前) 罹災前 罹災
戸數 156 戸數4
人口 986 人口28
(追切) 白濱東北部宮古の對岸の小部落で,こゝは漁船が流されたが,人家には殆ど被害がなかつた.津浪の高さ3・5米.(5月12日調査)
重茂村(岩.下閉伊) Map. No. II (27.28.29)
(閉伊崎)(鳥嶋) この附近は岩磯で,海岸が高く切立つてゐるので,津浪の跡が見出せなかつた.併し,東北隅のアカブ島に面した小溪谷では津浪の高さ10米餘に達してゐる.(5月12日調査)
(立濱) 立濱の澤は稍々口の廣い小澤で浪の高さは海岸で約9米で,最も奥で13米位で奥で高くなつてゐる.被害は漁船の流失等で人家には被害がなかつた.澤の奥の小籔の中には漁船の破片その他が散らばつてゐた.浸水奥行は約400米(この附近の地形は地形圖の精度が5萬分之1では物足りない感があつた).
(境神) 小さなラツパ状に開いた澤で,津浪の高さ10・5〜12・5米.漁具小舍流失.(鵜磯) 前と同樣の澤で谷底は相當に傾斜してゐる.北側斜面にあつた人家を流失した.津浪の高さは海濱で10・5米,奥で12〜13・5米で奥で高くなつてゐる.舊道の橋は破壤された.納屋4棟被害を受けた.浸水奥行約370米.
(荒卷) 荒卷の澤は小澤が3つばかり合流した出口の廣い澤で澤口には漁具小舍その他があり,廣い澤底は松林であつたが,津浪のために小舍2戸流失した.松林はすつかり取拂はれて,林の一隅に推しやられてゐた.津浪の高さ海濱岩壁で9米.谷奥で7・5米.浸水奥行330米.(5月12日調査)
(音部) 音部の里は?(トド)崎半島の中部から流れてくる音部川の河口にある部落で,「河口には多少の冲積地があり,海濱は約5米内外の砂丘堤で境されてゐた.津浪はこの砂丘を越えて音部の平地に流れ込んだが,砂丘のために充分に海水を流し込むことができなかつたやうに見える.津浪の高さは砂丘堤の外側で約9米.砂丘堤内側人家に就いて調べると7〜6・5米である.浸水奥行は約420米である.
こゝで注意すべきは砂丘内側にある人家の或るものは海濱に近く建てられてあつたにも關らず流失を免れたことである.そして北側は南側に比して被害が著しかつた.改修の新道路が砂丘に略々平行してあつたが之は多少破壞された.特に北側海崖に沿ふものはかなり損傷を受けてゐた.この海崖に於ける津浪の高さは約10・6米である.
(5月10日調査)
(重茂) 重茂の海崖の津浪の高さは獨立標高點7l・3米の東の海崖で10・6米(5月10日午後5時測定).避病院東の澤の海岸で10・6米,澤の奥で12〜13米,(5月10日午後2時30分測定).重茂部落の一小澤で14・2〜16・6米(5月10日午後2時測定)に達してゐる.
(里) 重茂の里の部落は?(トド)崎半島に於ける大きな澤の1つにあつて,出口の低平な冲積原上に發達してゐる.冲積原の平均傾斜1・7%.海濱は粗砂礫で,辨天島と云ふ岩島が横はつてゐる.この部落は相當人口密な部落で全體43戸の内住宅の流失27戸で全體の過半數である.死亡者も16名,行衞不明31名の多數に上つてゐる.危く逃れた人の話によると浪は谷中に擴がつて白い幕のやうになつて追掛けて來たと言つてゐる.
津浪の高さ8・5〜9米(5月10日午後1時測定)浸水奥行770米,津浪の襲來した地域は殆ど家屋も何物も殘さず,唯だ明治29年の大海嘯記念碑が荒野に淋しく殘されてゐるだけである.
(與奈) 津浪の高さ9米,谷の奥で10・6米(5月11日午前8時半測定),浸水奥行350米,住家1戸被害,木材が津浪の汀線状に美しく排列してゐた.與奈の東1400米の入江.津浪の高さ8・6米(5月11日午前9時30分測定)與奈の東1750米の入江.津浪の高さ10・6米(5月11日午前10時測定).
(種子刺) ?(トド)山(標高465・1米)の北1500米の澤.木材搬出のため巨材が積んであり,番小舎もあつたが津浪のため亂雜になつてゐた.津浪の高さ海濱で10・6米,中途で12・1米,末端で16〜14・2米に達し,奥で高くなつてゐる.
(?(トド)崎) この附近は海崖が急に海に迫つてゐて人口も稀なので,被害は殆どない.津浪の高さ8〜9米(?(トド)崎燈臺東北側の深い入江で).燈臺では殆ど津浪を知らなかつたと.又燈臺沖の漁船も陸に怪しい大きな音がしたのを聞いたのみで,津浪に氣付かなかつたと.(5月11日調査)
?(トド)崎−姉吉間は急な海岸のため殆ど津浪に關する調査が出來なかつた.
(姉吉) ?(トド)崎半島に於ける津浪被害の最も悲慘であつたのは姉吉であらう.姉吉は?(トド)崎の西南2500米に在る小灣で,灣の平面形はラツパ状で,兩壁は急な岩壁で,多少の屈曲はある.灣底もV字形で急に淺くなつて居る.陸上は7・5%の平均傾斜を持つた狹い谷で,谷壁ば急な岩壁である.この附近は絶好の漁場であるため相當な人口を有する部落がこの谷を占めてゐた.
重茂村役場の調べによると住家l5戸,附属建物34に達してゐたが家屋はすつかり破壞流失され,人口92人の内僅か3人が負傷生存したのみであつた.この樣な澤で,而も交通比較的不便なため,筆者が訪ねた際にも全く跡片付けもできてゐなくて,悲慘の状態をその儘そこに示してゐた.森林は無雜作に谷壁の一部になぎ寄せられ被害者の嘗ての心盡しのビール瓶の底で縁取つた地劃などが,土臺のコンクリートと共に淋しく殘されてゐるのみである.谷の奥で押し流した家材道具を狹い谷底に所狹いまで流し寄せてあつた.
要するに一つの荒れ果てた岩澤と言ふ状態であつた.津浪の高さは著しく高くなつてゐる.濱の岩壁で13米(南側)〜14・2米(北側).途中の谷壁で20〜2l米,最奥で21米に達してゐる.
姉吉で危く助かつた者の談として重茂駐在所で聞いた話に,地震後暫くして何だか物音波音がしてきたが,波は音と一緒に家より高く來てゐて,逃げることもできなかつたと言つてゐる.又?(トド)崎燈臺の人の話に,姉吉では波がくる前にもう家は風壓で倒れたと言つてゐる.この樣な地形の處の津浪襲來は大きな灣内のものに比べて性質がかなり異るやうに見える.(5月11日調査)
(千鷄) 千鷄は重茂に次で大きな部落であるが,住家は20米以上の段丘上にあるので津浪の被害は海濱に近い2戸及び納屋8戸流失しただけであもが,死亡行衞不明は10名に達してゐる.
津浪の高さは學校裏の澤では海濱寄りで10・6米,奥で13米,浸水奥行200米,千鷄の澤は海濱10・6〜12米,奥で12米,浸水奥行300米に達してゐる.
(5月9日調査)
(石濱) 部落は千鷄と類似の地形で被害状況も殆ど同じである.海濱・澤底に近い住家が流失又は被害を受けた.津浪の高さ海濱で9米,奥で高さを増してゐない.浸水奥行250米.
(川代) 川代部落も大體前と同樣な地形にあり,海岸線近くまで段丘があり,部落は主としてこの段丘上にある.住宅の流失1戸,死亡・行衞不明4名,津浪の高さ海濱竹籔で8・5米,奥で9米で少し高い.小學校の橋下まで津浪は來た.浸水奥行約150米.
大澤村(岩.下閉伊) Map No. II, (29. 30)
山田町の東北にある村であるが同村は殆ど全滅し慘たる光景であつた.こゝでは濱邊の家は殆んど建つてゐるものなく屋根ばかり殘つてゐた.すこし山の手の或る家の高窓の障子がずつと下半分だけ津浪のため破られた.この高さを海面上から測定すると約3米となつた.津浪の高さも大概この程度であつたのだらうと思はれる.大澤部落の人に聞くと今度の津浪は沖鳴りをしなかつたといつてゐた.
第47圖
罹災前 戸数 217 罹災 95戸 死亡 1人
人口 1385 617人
魚賀神社(部落の西端)下より役場下學校下ヘかけて浸水す.主道路の南側の家は全部倒潰又は流失す.部落西端にては主道路の北側の家4戸倒る.
第1囘の浪3時00分,6・1米;第2囘3時10分,6・7米;第3囘3時20分,3・0米.津浪前7〜8分頃遠くより自動車の走つて來る樣な音が東南海上より聞えて來た.又小學校庭(部落の北に接してあり)より眺めたるに午前2時50分南東に流星の如き光を見たと云ふ.寺(役場の北,學校の西)の境内の井戸數日前より減水尺餘且少々濁りたりと云ふ.(小學校調)
山田灣の北岸.山田町より明神崎に至る沿岸は山田附近で4米内外−熊ケ崎附近で2米内外,明神崎附近では3〜4米内外であつた.
山田町(岩.下閉伊)
山田灣の一番奥にある町であるが同町の南端飯岡が一番被害が多い.濱邊の電柱に海藻が引懸つてゐる.その高さを測定すると約4・50米であつた.この附近一帶の濱は遠淺で海苔を作つてゐた.これより北山田の町の略々中央の海岸に岸壁を設けて汽船の發着所がある.こゝでは浪の高さは2・50米,又關口川の河口で3米位であつたらう.この地の人に聞けば津浪は5分乃至10分時の間隔をおいて數囘押し寄せ津浪の襲來の時は音を聞かなかつたさうである.而しあの強震の時は週期が相當に早かつたらしく棚上の器物は棚上を點々移動し電燈のゆれるのも比較的目立たなかつた.倫ほ關東大地震の場合は電燈が大きく搖れたといつてゐたがさもあるべきことゝ思ふ.山田に限らずこの三陸地方は岩石上に立つてゐて所謂地盤の非常によい所であるから近い地震の場合には相當週期も早いのであらう.
津浪のためにさらはれたのは山田町川向町境崎で,可成り多くの家が浚はれ土臺石がズラリと殘されてゐる.約300戸といふ家が流されたといつてゐるが海岸からl0町も離れた岡まで發動機船が押し上げられてゐた.海岸には埋立工事中の護岸工事があつたが津浪はこれを乘り越えて猛威を振ひ前記の300戸を一掃してしまつた.しかしその割に死者の少なかつたのは皆な山手に逃げた爲だといはれてゐる.
織笠村(岩.下閉伊) Map No. II, (30)
此の村の前面山田灣中に大島,小島の二小島を控へて居る爲か被害比較的僅少にて罹災戸數1. 人口7. 行方不明3人にすぎない.浪高は約2米.
船越村(岩.下閉伊) Map No. II, (29.30.31.32)
(船越) 當部落は海面より可成り高い場所に位置して居た爲に津浪の災害は免れ,僅かに海岸の低地に建てられた納屋數棟が流失したにすぎない.
第1囘の浪3時05分,3・9米;第2囘3時12分,5・5米;第3囘3時20分,4・9米なり.津浪は潮の滿ちるが如くジワジワと來れり.
本村南端の井戸は津浪の3日位前より2日後まで濁つた.船越にては津浪の3分前に遠潮鳴の如き波の進行の音を聞けり.又此と同時にS60°Eの方向に青白き光り物横長に見えた.
(田ノ濱) この部落は全戸231戸の内220戸罹災したのであるから正に95%の被害を受けたことになる.しかし死者及行方不明を合して僅々數名にしか達しない.聞けばその夜灣の向ふ側の山内部落の崖に大浪のぶつかる物凄い音が聞えたので「それ!」とばかり部落民全部が我先にと電燈の消えた暗やみの細道を裏山に群をなして逃げた.それから約10分間も經つか經たぬ間に向ふ岸から跳ね返された浪が更に力を増し,高さ9・1米の大津浪が襲來して部落をたゝきつぶし,かき廻して約半分を沖へ持ち去つた.此の部落は鰯粕の本場で有名であるがこの方の損害も多大である.部落の南端,濱の崖に辨天樣が祀られてある.この邊では浪の高さは約3米位.船越との間の崖では3・5米位,田ノ濱部落に浪の上つたときは5米乃至6,7米位あつたらしく,船越灣を北上した津浪は船越半島の頸部に打上り一部の勢力は東にそれ,田ノ濱を襲つたものらしい.
又當部落にては津浪前3分位N70°Eの方向にうす赤き光を見た.横に長かつた.又同じ頃にハツパの如き音響を聞いた.方向は南西.
第1囘の浪3時05分,5・8米;第2囘3時12分,7・3米;第3囘3時20分,6・1米.津浪はモクモク盛上る樣に急速に來た.
(船越村の地峽) 此地峽の中央部に(船越湖とは別に)新しく湖水を現出す.地峽の北端山田灣に面せる所,家2戸高所にあるも被害なし,浪高3米位なり.地峽より織笠に到る間の澤の浪高2米,船越部落下の地峽部に漂流物多數あり.此の地峽を越えて海水大槌側より山田灘へ注げりと云ふ.左樣の形跡を認むること困難なれ共或は事實ならんか.
(大浦) 縦に長き光(黄色)を見た(方向N35° E,津浪前3分頃).津浪は第1囘3時10分,3・0米;第2囘3時15分,4・2米;第3囘3時20分,3・9尺にしてモクモク盛上る樣に來た.
(第49圖)
罹災前 戸數 179,
人ロ ——.
罹災 戸數 38, 死亡 0,
人口 247.
流失倒潰區域
流失物
浪の方向
變化ありし井戸
第48圖
(イ)の井戸
水量が津浪の來る時減つた
(ロ)の井戸
津浪後30日程濁る
▲は漂流物
第49圖
岩手縣上閉伊郡
大槌町(岩.上閉伊) Map No. II, (32. 33)
(吉里吉里) この部落は被害60%にも達したらうか,海邊の家は殆んど全滅し山間に木片が散亂してゐる.波打際より約100米,一本の樹の梢に海藻が引懸つてゐるのでその高さを測つて見ると6米位あつた.この部落の數人の漁夫は津浪當時沖で仕事をしておつたさうだが沖では津浪はなく村に歸つて來て初めて津浪のあつたことを知つたといふ話がある.又これは津浪の夜出漁準備中大浪に打上げられ顛覆した船で9人中7人は死し,1人ははね飛ばされて家にひつかゝつて助かり1人は船の中へとぢこめられ助を求める聲がするので穴をあけて見ると水一滴もぬれずに出て來た.「足をおろしたらジヤブジヤブするので引き込めた.どうやら水がひいたらしいので助けを呼んだのさ」といつた奇談がある.此部落では133戸倒壞流失し死者12名に及んだ.
(吉里吉里小學校長の談)
(濱板) 倒壞1戸を出したるのみにて道路面及家の所在地共に高き所にあり.
(赤濱) 倒潰3戸を出したのみである.此の部落は大槌を東に去る約2粁半大槌灣に面してゐる.
(安渡) 大槌灣の奥近く存在してゐる部落であるが被害は70%位.なかなかひどくやられてゐる.完全な家は學校,寺及高い所に建てられた民家位なもので浪の高さは3・50米位は確かにあつたらう.安渡より大槌町に至る間大槌川に架せられた橋床まで約3米欄干まで3・70米,5本の鐵桁を渡したコンクリートの橋は大槌町寄の橋詰からスツパリ落されてゐる.橋脚は無茶苦茶になつて橋軸線より上流約3〜4米の所に轉がつてゐて漂流物の撃突が相當激しかつたことを思はせる.橋詰に立つて西方をながめると一面の廣い田圃が大槌川の兩岸にひらかれてある.その中に小船があちらこちらに打ち上げられてゐる.一番奥まで行つてゐるのは橋から14〜15町もあらう.そうすれば屋敷といふ字の郡落近くまで潮が押寄せたものらしい.
(大槌) 大槌の町の被害は豫想以上であつた.世の注目が釜石町に集中されたため繼子扱ひにされてゐると土地の者がつぶやいてゐたが全く同情に價する.大槌町の主な通りは山手に軒を並べてゐて銀行もあれば郵便局もある立派な町である.町を巡つて見ると雨戸やガラス障子に津浪の跡がアリアリと殘されてゐるのが見える.高さも腰を沒する程度である.床上浸水による被害は相當に上る見込である.町の濱邊寄りのところはひどくやられてゐる.大和館といふ活動小屋の正面へ大型の發動機船が入口を塞いで打ち上げられてゐる.そのところから約150米,奥に不思議に殘つてゐる家があつた.見れば海岸とは反對の西側に丈夫な土藏があつた.この土藏と本屋とはつながつてゐたためか津浪にさらはれなかつた.その家の腰板に殘された數條のゴミで畫かれた水平線を認め,その線の高さを地上から順次に測つて見ると,140米,1・32米(?),1・20米であつた.本通りの入口の某商店の陳列窓ガラスに殘された數條の平行線の地上からの高さも序に記しておく.地上から0・80米,0・72米,0・64米,0・54米,0・40米のところにあつて明かに5囘の浸跡を認めることが出來た.大槌海岸の津浪の高さは約3・50米位であつたらう,町の者の2間位といふのに一致してゐる.
大槌町在(大字小鎚一ノ渡)の某氏の談によれば地震にて炭燒ガマの崩潰して火災を出す恐れあるを慮り炭ガマ見届けに驅付けての歸途,地震後12〜13分して強き雷鳴の如く大山崩の如き音を東北北の方向に聞きたり.又其後2分位の時薄青の光が探照燈の如く東より西ヘ續けざまに2囘走り,(南寄りの空特に光が強かつた)空一面に明るくなつたのを見た由である.
鵜住居村(岩.上閉伊) Map No. II, (33. 34. 35)
(室ノ濱)(片岸) 共に大槌より釜石町に至る途中の部落で大槌灣に臨んでゐる. 室ノ濱では浪の高さ5米,片岸では5米半位であつたらう.前者の被害を約40%後者のそれは約80%位と見たのであるが,無論後者の部落の方がひどくやられてゐて海に開いた澤の奥まで流木や家のバラバラになつたものが押し上げられてゐた.片岸の被害は50戸中23戸流失,半壞10戸位である.
(鵜住居) 片岸,鵜住居間の道路は大部分浸水したるも本村は地盤高き爲被害は僅少であつた.
(箱崎) 津浪襲來時刻及び浪高は次の樣である.
第1囘 3時5分 4・3米,
第2囘 3時15分 4・1米,
第3囘 3時25分 3・3米.
津浪は下からモクモクと盛上る樣に來た.第2囘目の浪は浪高低かりしも力強かりし浪と見え學校下まで襲來した.
箱崎にては津浪の約10分前遠雷の如き音東15°南の方向に聞ゆ,又音の少し前學校附近にて光を見たもの相當あり.東南方に當り山陰で探照燈を向けた樣にポーツと白くなつた由.
部落内の井戸全部濁り3〜4日飲用出來なかつた.但し津浪前には氣付かず,涸れた樣にも思はなかつた.
第50圖
(白濱) 津浪の襲來時刻は不明なるも大槌を襲ひし波よりも約10分早かりし事は,白濱部落の第2囘目の浪が過ぎてから大槌や安渡等對岸の電燈の消えたのを見た事より明な由.
第1囘目の津浪は高さ1・8米以上ドツト音響強く崩れたる模樣なるも怒濤の岩に激する勢には非ずと.引足早く干潮線を退く事10間餘と夜目にも認められた.
第2囘の浪は高さ2・4米以上.第1囘の浪引きてより數分後に來る,潮の滿ちるが如く下からモクモクと盛上る樣にも見えたり.一番大きく高く寄せて引波の早き事瀧瀬の如く騒然と引いた.
第3囘は高さ1・8米以上にて第2囘目の規模小なるに似たり.
第4囘以下も同じく次第に水勢弱まりて間斷なき平常の波に復歸せりと云ふ.
對岸大槌,安渡.室ノ濱の漂流物は3日朝6時頃に白濱大槌間の海を覆てありしも次第に沖と白濱へと漂流せり,明治29年の時も然りと云ふ.
白濱にては平家1軒流失す.
津浪前の音は聞かず,但し第4囘目の津浪のあたりにパツと南の山端に廣く一面にスパークの如く何囘も青白き光(弱き光)見えたりと,部落民は浪の光なりと云ひ居る由.
白濱部落は水道(山の水ならん)を使用し居るも前夜(2日夜6〜8時頃)水道の水少々混濁せりと云ふも詳ならず.
海水の色例年と異なり馬の小便の如くなり又混濁せりと.又干潮滿潮不規則にして時ならぬ浪あり又津浪の前日には潮汐尋常ならず,風もなきに浪荒く磯の採集も出來ず歸りたりと云ふ.
(大假宿) 立網の宿舎3棟倒潰す.
(桑ノ濱) 第2囘の波最も高く10米位と云ふ.
(兩石) 全戸數96の内殘存戸數3.被害甚しき部落なり.今囘の津浪の高さは10米〜10・5米なりき.
明治29年の海嘯記念碑の3・0米位手前まで浸水す.河(溪合の中央の)内に藁,ボロ切,木材など充滿せり.(29年の津浪は記念碑まで來りたる由).谷の兩岸の杉林潮の爲に水平に一直線にかれたる爲浸水區域甚明瞭なり.(4月19日調)
(水海) 兩石灣に面した小部落であるが海岸より水海川の流れにそつて溯れば傾斜は非常に緩漫である.この澤に並んでゐた民家は殘戸もなく綺麗に押流され,海岸より600〜700米の奥まで木材が散亂してゐた.後章の本郷部落と例を同じうする地形だけに波勢弼く津浪の高さは少くも7米位はあつたに違ひない.
釜石町(岩.上閉伊) Map No. II (34 36)
(越路)(瀧ノ澤) 何れも被害なく越路にては地震の強度は棚上の物を落下せしむる程度なりしと.津浪の浪高は夫々3・2米,3米,3米の程度なり.
(釜石) 釜石は逸早く被害の状況が報知され,東北屈指の繁華な町だけに被害を金高で表はしたなら一番多額に上るであらう.殊に津浪に加へて町の目抜きの場所が火災を起したのでその損害は岩手縣下の他町村の被害を總計したものに必適するであらう.釜石灣は奥で二叉に別れ北は釜石港として船舶ふくさうし製鐵所よりの臨港鐵道もあり仲々繁昌してゐるがそれに引換ヘ南方は平田といふ漁村が存在してゐるだけである.釜石町に押し寄せた津浪は水上派出所附近では4米位が最大であつたらう.同派出所の家屋内の壁,吊棚に殘された跡がそれを物語つてゐた.浪は主なものが3囘,大小合して14〜15囘襲來したらしい.當時釜石港に碇泊中の漁船約500隻は木ツ葉微塵に粉碎,或は陸に打ち上げられ尚大渡川を溯つて大渡橋附近まで打ち上げられたもの十數隻に達してゐる.港内は沈沒船多く,マストを僅かに表はしてゐるものや船腹を水面に横樣に倒覆してゐるものが數々認められた.
海岸近く尾崎神社の社殿が跡方もなく燒失しそれより町の方は全く焦土と化した.打ち上げられた船は火災のため燒けたもの數隻,そのエンヂンが燒野原に轉つてゐる.火事の原因に就て青年團の消防員に聞いて見たが地震後町の人々は一旦表に飛び出した.その時の焚火の不始末か又は漏電ではないかと思はれるとの答ヘであつた.又燒失區域の略中央にあたるところで恐ろしく電氣のスパークするのを見たさうで漏電説が有力だらうとの事である.又地震後大槌町より津浪の知らせ(實は津浪の有無の間ひ合せだつた)があつたので直ちに警鐘を亂打し,町筋を「津浪だ!津浪だ!」と呼びながら走つたので町の多くの人々は山の方に避難したので死者は僅か數名に過ぎなかつた.地震は如何と尋ねたら「いや大したことはなかつた.棚のものは落ちたが時計は止まつたり止まらなかつたりである」といつてゐた.丁度この話をしてゐた所のすぐ傍に消防自動車の格納庫があつた.コンクリ-ト造りで燒け殘つてゐたが津浪直後扉の前に色々な漂着物は盛り上つてゐたので戸を開いて喞筒を出すことも出來ず,火の手がすぐ前に上つたのに出動することも出來なかつたと殘念がつてゐた.その小屋の内壁に津浪がきれいに跡方を殘してゐた.地面から2・10米の高さにある.海水面からの高さ約2米を加へると約4米となる.燒殘つた家で津浪の猛襲を受けたものを見ると殆んど皆船或は其他の漂流木材が撃突し,撃突したところからポツキリ羽目板が折られて流されてしまつたり,其の儘に殘つてゐたりしてゐる.燒失區域では津浪の浸跡を尋ねるわけには行かないが同町只越といふ方面では家々の戸袋や,戸,障子の腰板に大槌町で見たと同樣の平行線が數條殘されてゐる.海岸に乾してあつた鰯粕が津浪で浮き出して塵埃に交つて町内一面に押流され,鰯油とゴミで黒くクツキりと線を殘してゐる.その高さを地上から測つて見ると0・95米,0・80米,0・65米,0・48米,0・30米(?)の5本の線であつた.恐らくこの一番上の0・95米が第2囘目の津浪の此邊での高さを示してゐるのではなからうか.只越より鐵道線路寄りの某製材所附近では鋸屑に例の鰯粕の油を含んでトタンの腰板にも數條の線が殘されてゐるのを認めた.こゝでは地上より1・50米,1・30米,l・l0米,0・80米,0・55米の5條の線を測定した.そのすぐ傍では1・72米,1・54米,1・32米,1つ置いて0・83米の4條の線を認めたが最後より2番目にあるべき線は不明瞭になつてゐた.地震後大雨や吹雪がなかつたため津浪の浸跡を逃さず測り得たことは幸ひであつたがこれ等の線は何か役に立つと思つてゐる.津浪の本當の浪の高さを出すにはその地點の海抜(津浪當時の海水面よりの高さが必要)を加へなければならないが精細な標高の數字的のデーターはないがいづれも3米位のところといつて大差ない.
(嬉石) 釜石港の南岸にある部落であるがこゝでは浪は高さ4米位.民家は殆んど全滅である.部落の東端に岸壁上に建てられた家が殘つてゐる.その壁は土臺より約1・50米の高さまで海水に浸された跡を殘してゐた.當部落にて屋根の廻轉せるもの或は家屋全體横倒れとなりたるものを認む.殘存全戸數約10ならん.嬉石,鎌ケ崎間は釜石灣の北岸より波高大なる傾向あり,釜石港口に直面せる爲か.
(平田) 村の敷地比較的高き爲被害僅少なり.十數棟倒壞,死者なし.地震後40分位にして津浪襲來し,4〜5分置きに押寄せたと云ふ.
第1囘の津浪は3時5分,2・1米;第2囘3時10分,3・6米;第3囘3時15分,3米にて第2囘目最大にて其後は極て小さいものが35分置きに襲來せる如し.
部落民の談る所によれば,津浪は想像外にて3囘ともモクモクと盛り上りて來れりと云ふ.誰に聞きてもこう言ふ.又津浪の5分位前大砲の如き音を聞きたり.又津浪直前には強風の如きゴーといふ音を聞く.漂流物は大抵石濱ヘ漂着,1死體のみ大向濱より發見せり.大向濱上にては翌朝まで津浪を知らざりしと云ふ.尚部落に於て光を見たりと云ふものあれども場所,方向,形状,色何れも判然せず.一致せず.且又後日になりて井戸の涸れたる事を思ひ當る由なり.當時は寒氣の爲井水凍りて出な
第51圖
いと思ひゐたる由.部落内の井戸全部なりと云ふ.平田の東にある部落戸數20位あり此部落にては被害大ならず.棧橋二箇の内一箇根元を破損流失す.浪高2・50米位なり.
(石濱) 白濱の直ぐ西,黒崎と白濱との間の濱なり,人家1軒もなし38年前の津浪の時も此の濱に澤山漂着物ありしと云ふ.今囘も然り.平田のものは大ていこゝに集る.一老婦人の死體のみは大向濱より發見.
(白濱) 浪の高さは3・50米位なり.
岩手縣氣仙郡
唐丹村(岩.氣仙)
Map No. II,(36)
(花露邊) 第1囘津浪2時50分頃,4・5米;第2囘2時51分頃,6・1米;第3囘2時52分頃,3・6米.
津浪は大うね形に潮の満ちる如く來りたり.
第52圖
花露邊より佐須へかけて海岸に一面漂着物ありしと云ふ.
罹災前 棟數 129 罹災 流失17 死者1
人口 397 全潰3 行方不明9
(本郷) 當部落の全滅の報は早くも傳ヘられてゐたが實地に踏査して文字通り全滅の有樣であることを知つた.家の土臺が原形を保つてゐるだけでバラバラになつた板や柱が散亂してゐて街がどう列んでゐたかさつぱり判らない.海岸より眞西に主道路が山に向つて走つて居つたさうだが海岸からは極めて緩傾斜で約1粁も奥に平地が開けてゐる.南北の幅は約300米である.全く荒野原と化し附近に人影もまばらで烏が群がり鳴いて淋しい事この上もない.
地震當日岩手日報社の記者が釜石を發してこの地を訪れた記事を手に入れることが出來たので抜萃してこゝに記述しておく.
「3日夜10時嬉石を經て海岸線傳ひに沿岸の状況を具さに視察し乍ら約4里の夜道を陸行で氣仙郡唐丹村に向つた.唯一つの提灯の光を頼りに餘震頻々たる中を濱傳ひに進む無氣味さ——松原は倒壞家屋35戸,嬉石では75戸行手の道に無殘に倒れた.これらの家屋が累々と重つて居る.柱を戸を屋根を電柱を踏み越え踏み越え進むこと約30分,時々電線が足にからんで轉がる.潮騒がゴーツゴーツと鳴つて居る.何だか又津浪が押よせて來たやうな氣がしてドキツとする.漸く街道に出ると左手は夜目にも凄い眞暗な海,右手の崖からは,ゴロゴロと大きな石が轉げ落ちて道を塞いでゐる.約2里行進平田部落に着いた.部落の某氏方に青年團員がこの夜を警戒のため集つてゐるので立寄る.この部落は倒壞家屋17戸,死者1名何でも死んだのはこの家の下手の方の某といふ婆さんで50歳になる嫁が背負つて運び出さうとした時には既に浪が押寄せて來たので嫁が婆さんを置いて逃げたのだと云ふ悲滲な話しだ.
庭先きの達磨ストーブに暖を取つて居ると3日の地震以來の疲勞が出てウトウト他愛なく3人とも倒れて仕舞ふ,目を覺ますと4時だ恰度花卷町の人が唐丹村の實家に急を聞いて急ぎ歸るのだとて立よつたので私等3人は此家を立ち行手はだんだん氣仙と上閉伊郡境の凄い平田峠にかゝる,奥州流血録に出て來る野田の百姓一揆が越した名だたる嶮所だ.
道には氷が張り詰め道はズルズルすべり何遍すべつて轉んだか涙が出そうだ.これも尊い報道の役目である.ひどい山坂を約l里登ると頂上から谷は南向きなのでもう立派な春だ雪を求めんとするならば曉の光を浴びて遙か眞南の中央に見ゆる鍬臺山脈あるばかり,道を下つて行く事約半里其處は唐丹村本郷部落のありし處——渺茫たる一面の曠野が唐丹灣に面して居る約100戸の部落は全部影も形もなく流失し流れ散りよくもこれ迄粉微塵に碎けたと思はれる木片の山,家の恰好が殘つたのはタツタニ軒其一軒の方から大漁半天を着た親父が出て來た,女房をなくしたと云ふ人が聲を立てゝ泣いて訴へるのだつた.誰が此大滲状を見て涙なしと云ひ得よう.然も救護班の縣廳員よりも誰よりも眞先きに此部落を訪ねた新聞記者は我々一行だつたのだ.聞くと3日地震後の夜明け浪打際に打上げられてウメキを立て救ひを求める瀕死の罹災者が10人餘りも居り其の凄滲さは二目と見られなかつたと云ふ.今はゴザをかけられて居る累々たる死體の山其數50を越すだらう鬼氣自ら迫るものがある.其あたひ倒壞した水浸たしの屋根の下に,バリバリ破けた唐紙,赤ん坊は何處に行つたのか嬰児籠,赤い鼻緒のポンポン下駄,出齒庖丁等を見ると薄氣味悪くゾクゾク寒氣が身に迫る,烏が群をなして居る.何を啄いて居るだらう.ゴロゴロした中を歩いて行くと大木の下からギロリと兩足が出て居る片方にだけ足袋を穿いた無殘な足.これらの家屋が累々と重つて居る.柱を戸を屋根を電柱を踏み越え踏み越え進むこと約30分,時々電線が足にからんで轉がる.潮騒がゴーツゴーツと鳴つて居る.何だか又津浪が押よせて來たやうな氣がしてドキツとする.漸く街道に出ると左手は夜目にも凄い眞暗な海,右手の崖からは,ゴロゴロと大きな石が轉げ落ちて道を塞いでゐる.約2里行進平田部落に着いた.部落の某氏方に青年團員がこの夜を警戒のため集つてゐるので立寄る.この部落は倒壞家屋17戸,死者1名何でも死んだのはこの家の下手の方の某といふ婆さんで50歳になる嫁が背負つて運び出さうとした時には既に浪が押寄せて來たので嫁が婆さんを置いて逃げたのだと云ふ悲滲な話しだ.
庭先きの達磨ストーブに暖を取つて居ると3日の地震以來の疲勞が出てウトウト他愛なく3人とも倒れて仕舞ふ,目を覺ますと4時だ恰度花卷町の人が唐丹村の實家に急を聞いて急ぎ歸るのだとて立よつたので私等3人は此家を立ち行手はだんだん氣仙と上閉伊郡境の凄い平田峠にかゝる,奥州流血録に出て來る野田の百姓一揆が越した名だたる嶮所だ.
道には氷が張り詰め道はズルズルすべり何遍すべつて轉んだか涙が出そうだ.これも尊い報道の役目である.ひどい山坂を約l里登ると頂上から谷は南向きなのでもう立派な春だ雪を求めんとするならば曉の光を浴びて遙か眞南の中央に見ゆる鍬臺山脈あるばかり,道を下つて行く事約半里其處は唐丹村本郷部落のありし處——渺茫たる一面の曠野が唐丹灣に面して居る約100戸の部落は全部影も形もなく流失し流れ散りよくもこれ迄粉微塵に碎けたと思はれる木片の山,家の恰好が殘つたのはタツタニ軒其一軒の方から大漁半天を着た親父が出て來た,女房をなくしたと云ふ人が聲を立てゝ泣いて訴へるのだつた.誰が此大滲状を見て涙なしと云ひ得よう.然も救護班の縣廳員よりも誰よりも眞先きに此部落を訪ねた新聞記者は我々一行だつたのだ.聞くと3日地震後の夜明け浪打際に打上げられてウメキを立て救ひを求める瀕死の罹災者が10人餘りも居り其の凄滲さは二目と見られなかつたと云ふ.今はゴザをかけられて居る累々たる死體の山其數50を越すだらう鬼氣自ら迫るものがある.其あたひ倒壞した水浸たしの屋根の下に,バリバリ破けた唐紙,赤ん坊は何處に行つたのか嬰児籠,赤い鼻緒のポンポン下駄,出齒庖丁等を見ると薄氣味悪くゾクゾク寒氣が身に迫る,烏が群をなして居る.何を啄いて居るだらう.ゴロゴロした中を歩いて行くと大木の下からギロリと兩足が出て居る片方にだけ足袋を穿いた無殘な足.
約4丈の大津浪だつたとの事で發動機漁船が二隻遙か山腹に腹を見せて覆つて居るその山に1頭の馬が主を失つた事を知つてか知らでか青草を食べて居る馬は獨りで逃げ出したのか.人の親ぽ大抵寝て居た子供を助けるために命を失つたと云ふ事で此部落丈でも海底の藻屑と消えたもの350人生き殘つたものは半數にもたらぬ205人で大抵男であつた.今はうちが倒れてそれぞれ他家に牧容されて居る有樣である.」
この海岸にての津浪の高さを測るに上手の森林に漂流物の引懸つてゐるのを目標にした.そしてクリノメーターを用ひてその高さを測定すると約10米となつた.
石塚峠道の曲り角に小高き所に稻荷社あり,其崖にて浪高ll米と目測せり.第1囘の浪3時00分,7・6米;第2囘3時01分,10・l米;第3囘3時02分,7・6米なりと.大3囘小1囘を數へたりと云ふ.
津浪は上部を卷き崩し乍ら押寄せ上陸してから渦流せりと.漂流物は山手へ押込まれ残りは花露邊海岸へ漂着せり.
海岸より約250米東に檜島といふ島があつて僅かに100米位の幅の所を通つて灣口に出るので唐丹灣の中に更に小さな灣の奥にこの小部落があつたのである.
(小白濱) 唐丹村では前記の本郷と共に被害激甚であつた.此の部落の大半は洗ひ去られて僅かに高い所に十數軒の家が殘つてゐるだけだ.海岸に集つてゐた村の一老人は當時の模樣を語つて聞かせて呉れた.此村は明治29年の大津浪にも全滅の憂目に遭ひ大正12年には火事で大部分燒失等全く浮かばれぬ苦難をなめて來た.今度の津浪は地震があつてから40分位經つてからやつて來た.而もジワジワと襲つて來た.濱の中央より北の民家は北へ,南の民家は南の方ヘ大略二手に別れて流されてしまつた.海岸一邊は水面より2米内外の護岸工事が施してあつたが船の激突のため損傷箇所多く,大龜裂所々にあり.部落の東端,赤土の高臺に海水に浸された黒ずんだ部分は津浪の跡である.この高さを測るに20米の基線を取り,その兩端に於ける仰角を測定すること通常の測量に於て行ふ如くし6・3度及8・4度とダイアルコンパス上で求めた.基線は略々水平で,測定當時の海水面上より3・05米の高さにあつた.尚ほ此時(3月6日正午頃)の海水面は津浪の時よりは約10糎高であることが潮汐表から求め得たのでこれの補正を行つて津浪の高さを算出すると11・64米となる.帥ち大略12米と見て差支へない.又片岸寄りの場所にて9・2米(4月10日午前10時10分)と測定す.
津浪第1囘2時50分頃6・1米;第2囘2時51分頃9・1米;第3囘2時52分頃7・6米.津浪はジワジワと但し上部が水鐵砲の樣に潮を吹き上げて來た.漂流物は海岸に近き所のものは沖ヘ,少し陸のものは寺の下へと押流され沖ヘ出たものゝ内幾分は花露邊へ漂着す.
地震前日3月2日午後9時40分頃遠雷の如き音(小さい)2囘,津浪の7〜8分前に小銃の如き音響(2粁位遠方にて撃つた小銃位)を東南方に聞く,都合3囘なり.
此の音響より一寸前に東南方に當つて稻妻の如く,下部は縱模樣にて,上部は横縞の,紅黄色より青色の光を見た.小白濱東部の井戸3,4日前より減水す.小白濱の被害は160戸中130戸流失,10戸倒壞,死者5名,行方不明4名と傳へられてゐる.
(片岸) 全戸數70戸の内62戸流失,倒壞3戸,行方不明6人.漂流物は皆沖或は山手へ押込まる.音は1囘ダイナマイト樣の底力ある音を聞きたり.光物も見たそうである.津浪は大3囘,小は無數ありたりと.浪高は龍神の石段にて9米ありたり而して海岸より1粁位奥まで浸水せり.
(下荒川) 浪高5・70米位なり.而して音は遠雷の如く地震後25分頃聞ゆ.其後15分で津浪來る.光物としては津浪の時ピカピカと稻妻の如き光沖合に見え段々明るくなつて來たのを認めた.而してその光の強さは逃げる足元が見えた位であつた.津浪は大潮の如くジワジワ縣道の橋まで來る.大2囘,小は多數.而して漂流物は山手へ押しこまる.第1囘の浪2時50分頃,4・5米;第2囘2時51分頃,7・6米;第3囘2時52分頃,3・6米.當部落は流失21戸,全壞2戸,死者6人.
(大石) 棧橋流失し海岸の納屋2〜3倒壞,半壞1戸.音は聞きたるも光物を認めず.津浪は大潮の如く3・5〜4・0米浸水したるのみにて破壞力全くなし.
吉濱村(岩.氣仙) Map No. II, (38.39)
(千歳) 吉濱灣の北岸にある千歳は海岸急傾斜にして砂濱もなく家は海面上約10米位の臺地上にあり,船は海岸の急傾斜面に引上げて綱にて引張りおく程なる故津浪に對しては至極安全なる地形なり.浪高6米なれども損害なく船の流失せるもの2〜3あるのみなり.こゝでは2度目の浪最大にして雷の如き音がして僅か數分にして津浪來る.光り物は別段認めたるものなし.船は沖合に漂流せる由.
(根白) 住宅は大低海岸の崖上にあり崖下に製造場など少々あり.浪高8米餘にて崖下の製造所2ケ倒壞流失,漂流せる船は根白の前を前に後に數十囘も往復し居たる由.雷樣の音がした後約10分餘で津浪來る.
(本郷) 家は道路の兩側にあり大部分は高所にありしため浸水せるもの少し.津浪は14・1米の水準點(寺院ヘ少し入つた所にあり)の下まで來る(浪の高さ13・6米).海岸の岩上の杉樹にて16米と測定せり.谷間の田圃には一面に石塊,砂を流入してゐる.また堤防(高5米長100間)は跡方もなく流失し所々に殘骸あり.
當部落某氏の談;—
「津浪前12分頃大砲樣の音突然したり.而してザーツと音がして後しばらく靜かになり約10分の後第1囘目の津浪來る.第1囘目の波はジワジワと來た.家中の人も浸水し來るを知らず,急に水が疊についたので驚いた.
第2囘目は第1囘目の浸水に驚いて逃仕度をして外に出ると忽ち顏に沫が當つた.ハツと思つた時は頭から潮をかぶつてゐた.第1囘目と第2囘目との時間差は不明なる由.
明治29年の津浪は今の寺(當時小學校なりし)の庭まで上る.寺内に海嘯記念碑あり.
今囘の津浪にては高位にある家の方が却つて潮をかぶつた所あり,引潮の際やられたらしく思はれる.又當日午前6時頃第數囘目の津浪來りしがツヽヽヽと浸水して來る有樣は大攣早いものであつた.」
小壁漁場の番小屋の人の談によると音より前に稻妻樣の光ピカピカとす.青白色の強き光ありたりと.
越喜來村(岩.氣仙) Map No. II, (38.39.40)
(崎濱) 今囘の地震は棚上の器物轉落する程度なりし由.地震後約30分にして津浪襲來せりといふ.而して津浪は大なるもの3囘小なるもの無數にて第2囘目のもの最大なりき.浪の襲來する模樣を見るに浪の先端逆卷き後部は平にして岸近くにて崩れたりと.
浪の高さは部落東端の家屋の石垣にて8・10米ありたり.
第1囘津浪は3時15分頃で約6・1米;第2囘目は3時20分頃,7米;第3囘3時27分5・5米位なりき,津浪は潮の滿ちるが如くヂワヂワと來た,然し結果から見ると水鐵砲のやうに打ちつけた樣にも見える.各囘ともさうであつたか否かは不明である.
又津浪前15分位底力あるダイナマイト樣の音響を聞きたる者もあれどもその方向は各人區々として一致せず.光り物として地震直後SEEの方向に當つて沖一面に夕燒けの如き光りを見たる由.(部落西端にて)
當部落の流失物は多く鬼間ケ崎附近に集中し居りし由.又或る物は對岸砂子濱へ漂着せしものもありたり.又部落の海岸には浦濱より流れたる家財類も相當ありたる由なり.大船渡,濱崎間の定期船員の談によれば越喜來灣の沖合に輕石多量浮游せるを認めたり.廣田村泊の船(積善丸)は同灣沖合に一面泡立ち居れるを見たる由なり.津浪當時崎濱地先に停泊中の船(1000噸)は津浪のありし事を知らず.錨鎖も切れず無事であつた.又當部落にて井戸水の混濁せしものあり正源寺(部落のWSW卍印地圖参照)の井戸それなり.
(浦濱) 地震は性質急にて6,7分一樣に強く持續し,時計は止れるもの止らぬものあり,棚上のもの落下せるものあり,間もなく餘震ありたれども弱し.
地震後東々北の方向に光り物あり青色にて探照燈樣に光る.瞬間的に光れり.光の後に音響あり2囘鳴つたるを聞きたるものあり,音を全然聞かぬものもあり.音は大砲を遠方にて打ちたるか又は雷の如き音であつた.
音の後10〜15分にて津浪來る,其時はサーツト風の吹く如き音を伴ひ後靜かになつてから電燈消え其後2〜3分にて人聲喧しくなる(津浪を報ぜるものなり,避難の人々の聲なり).第1囘目の津浪は小さかつたので學校の校庭まで來らず.第2囘目のは大にして強く田中少佐の追悼碑(碑の後の小山滿潮面より高さ10米)を越せり.
當部落にありたる明治29年の津浪の記念碑,臺石長さ7尺6寸5分,厚2尺2寸,幅3尺2寸5分,花崗岩で造られたるもの原位置より2米高き場所ヘ流さる.
第一囘の津浪2時58分3・0米;第2囘2時59分約6・1米;第3囘3時00分5・2米,大3囘小6囘.
井戸の番號
(1) 甫山嶺龍昌寺内の井戸渇水す
(2) 泊部落平田玉男の井戸津浪前三日ヨリ混濁
(3) 村社新山神社々務所の井戸"4,5日〃
(4) 浦濱及川義雄の井戸混濁渇水
(5) 浦濱熊谷與右衛門の井〃
第53圖
第1囘目のは潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと來た,第2囘目のと第3囘目のとは下からモクモクと盛上る樣に來た.各部落共同樣の如し.第l囘目の浪の來る前に甚しく潮が引いた.第3囘目の津浪が最大であつたと云ふものもあり.
當部落の流失物は大低川を溯上せしも一部は崎濱ヘ流れたり.井戸水の變化諸所にありたる如く.津浪前に涸渇混濁した.而して全村の井戸は皆多少變化があつたやうである.村社社務所の井戸は(海面上22米)未だ曾つて涸れたる事なきに(深さ11米)津浪前4〜5日より混濁涸渇す.津浪後數日にて恢復(第53圖の3#印)したる由.小學校雨天體操場は地上より2・50米程浸水.
(泊) 泊にては光り物を見たる者なし.たゞ音響を聞いた者があつた.津浪はこゝでは11・1米であつた.
(下甫嶺)(鬼澤) 兩部落にては光を見ず,音のみ聞えたる由,浪の高さは10米内外なり.
鬼澤にて浪高を目測するに12米,下甫嶺,鬼澤間海岸に金比羅の碑あり此處では浪高11米餘であつた.漂流物は崎濱(對岸の)に漂流せりと云ふ.下甫嶺龍昌寺内の井戸渇水せり.
綾里村(岩.氣仙) Map No. II, (40.41)
(小石濱) 海岸附近の家は皆流失せり.津浪は小川に沿つて奥の方まで浸入し奥の方の大きな家のみは外觀上變化なく殘りて目立ちたり.浪高は目測にて8米位であつたことを認めた.
(砂子濱) 砂子濱部落は家屋皆高臺にある爲流失せるものなく,海岸の納屋等2ヶ流失,製造場1ケ流失せり.砂子濱入口の澤にて津浪は7・50米,砂子濱海岸にて5・5米位あつたらしい.
砂子濱小學校長管野氏の談;—
「地震は水平動の後に上下動烈しくなり長くゆれたり其時間約8分間.強震後約10分位にて大砲の如き音聞ゆ.地震後約10分以内にて海上に當つて怪火見ゆ.雲に反映した如くに下の方明るく上部ぼんやりしたり.色は黄褐色にて長く續き明るくなつたり暗くなつたりした.方向は釜石の方向.音より約10分の後に津浪岸を噛む.
津浪の音はサーツと松林を亙る風の樣な音であつた.而して引浪が非常に急激で津浪は約10分おきに來た.小は無數大は3囘であつた.」
千田基久兵衛氏の談;—
「綾里にては低所よりも高所で音を聞いた人が多い.海岸近くの低地で音を聞いたもの無し,當夜星異常に明く光る.」
港小學校長千田久松氏によれば砂子濱部落内の湧泉津浪襲來の直前に全く止り,襲來後10分程にて再び涌出する事常の如しと云ふ.
砂子濱小學校長管野氏よりの囘答によれば,「砂子濱の浪高は9・1米,小石灣にては12米,大と數ヘ得べき津浪は5囘で最大は3囘,就中その3囘目のが最大であつた.最高の浪の高さ等は其の襲はれし痕跡に就き調べ且つ目撃者に據つて調査したから大體誤りないものと思ふ.津浪の洋上遠方から岸に來る迄はモクモクと盛上る樣に襲ひ來り岸に到り家屋等を上に浮し押上げ,引き波は極めて強く總てを拉し去る,是は兩部落(砂子濱.小石濱)とも同じであつた.
破壞せられたる建物等にして河川の上流に置き去りにせられたるものに就きて調ぶるも其の上頂部の全く濡れざる物多きに見るも尚此の事實を徴し得べしと.3月3日午前2時31分強震に入り此の強震の時間を約7分間とし其後20分にして津浪襲來す.
津浪の襲來當時は微風だに無かりしに海灣内蕭颯として宛も密林を亙る大風の如き音しつゝ波濤の到れるは岸を傳へて噛み來れるものか或は又波の捲き廻しつゝ洋下を渡れるものか定かならず,但し其の蕭颯むしろ淙々たる響を聞きしは何人も一樣とする所なり.
津浪の前7〜8分頃東方洋上釜石沖合に當つて大砲の如き音を聞く.同時に光を見たるものありと雖も定かならず.明治29年6月15日午後8時の時のは殷雷の如き音なりし」と.
綾里灣は所謂V字型でありその灣奥では非常に浪は高くなり今度の津浪で最高を示してゐる.調査は灣の兩岸は行はずに單に南岸だけにした.(北岸は時日の關係上調査出來なかつた).
(白濱) 灣奥の白濱は寫眞で見る樣な津浪の猛威を振ふにもつて來いの地形をして居り其上浪心に眞向つてゐるから浪高は25米に達してゐる.
被害も甚しく次表の樣になつてゐる.
罹災の多寡を論ずるには勿論家の在つた場所の海岸からの高さ等を明かにしない限り意味をなさないが,津浪の勢力を推定するに多少の參考になると思ひこゝに記入しておく.死亡(行衞不明)の多いのを見ても如何に猛烈に非常な勢力で津浪が襲來したかが窺はれる.實地に就て見ても.灣奥の兩岸には濱の小砂が24〜25米の所までも上つており,又その附近の雜木は水に洗はれて根を綺麗にむき出されてゐる.津浪に眞向ふた白濱の小山の木々は皆同樣に根を洗はれ,殊に綾里港に通ずる村道に沿ふた側の杉林は徑20糎以上もあるものが幾本となく根本から絶ち切られてゐるのが見える.勿論これは流れて來た家や小舟等が衝突して折れたものと解すべきであるがそれにしても如何に勢力をもつたものであつたかゞ窺はれる.尚明治29年の津浪の時には浪はこの村道に沿ふて宮前部落の方へ越したと云はれてゐるが今囘は將に越さんとする所で止つてゐる.この所での浪高は30米もあるだらう.恐らくこれが今囘の津浪に於ての最高と思はれる.
著者達はハンドレベルを用ひて高さを測つた關係上海岸よりあまり遠い所,殊に傾斜がゆるい所の測定値は誤差が可なり多いと思ふ.上記30米の値は海岸より可成り隔てゝ居る場所なる故に確な値ではない.
尚以上の樣に測定器の關係上出來るだけ海岸に近い所で,しかも傾斜が急な樣な所で,津浪痕跡のある所を撰んで高さを測つたものである.
白濱に於ては音響を聞いた.光は氣付かなかつた.海岸にては堤損壞し,大石打上げられてゐた.津浪襲來の大體の時刻及高さは第1囘3時05分,30米;第2囘3時10分,高さ不明;第3囘3時40分,9・1米.
第54圖
(野々前) 白濱近くの野々前も寫眞で見る樣な地形をしており家屋は幸ひ高地に多かつた爲め被害は割合に少いが,津浪の勢力は非常に強く海岸近くにあつたものは跡方もなく大洋に浚はれ,慘状を呈してゐる.
(田濱) 綾里港の東岸にある此の部落では浪高8米に達した所あり.後に山を控へた海岸近くの低地にあつた民家は津浪の爲に殆ど全部が引きさられてしまつた.損害は次の樣である.
(綾里) 綾里港の被害は下表の如く非常に著しきものであるが,しかし津浪の勢力は綾里白濱の樣ではなかつた事は明かで,たゞ民家が傾斜緩かな海岸近くに密にあつた爲め家屋は順々に將棋倒しに倒されて被害が大になつた樣である.浪高は海岸で8米,綾里港では引き浪で沖に浚はれたものは少く,大多數は押し浪で上手に流され潰された樣である.津浪の際,綾里港にては火藥爆發よりも寧ろ長く續きドーツと云ふ音を聞いた.而してこれは津浪の直前4〜5分位であつた.
海岸近くの宅地,田畑へは砂が厚さ0・3米位に堆積し,港の海底は2〜3尋深くなつたといふ噂あるも眞僞はどんなものかと思ふ.
綾里村小學校長千田久松氏よりの文書によると,「生死の場合ですから確かに之を眺めたる者なき筈です.兎に角波に追立てられ命からがら避難した者の話によれば下からモクモクと盛上る樣に,上部に白浪が立つてゐた樣に眺めた事は何人も一致してゐるやうです.津浪は第1囘目は小で第2囘目は大なる樣て話さるゝも第1囘目は確かに大なりと信じます.家屋其他の障害物を破壞した爲に餘程勢力をそがれたる爲,第2囘は水勢が強大なる樣に感じたものと思はれます.隨つて第2囘目は最も遠方まで水力衰へずに進行した.これを第2囘目の勢力が大なりと誤りたるに非ざるか.第3囘目は時間も遲れ勢力も全く減退して大潮の時の如くヂワヂワと來ました.流失物は其のまにまに上つたり下つたりして翌日午前10時頃まで海面一體に木材破片でうづまつてゐました.」
午前2時30分の大強震後20分程經て微音があつた.即ち津浪の來る10分程前になる.遠雷の響の樣にドドンと全く微音で感じた人が少い.方向は東方.但し底力ある音であつた.光り物を見た人もある樣なれ共確實ではない.強震直後に東方一體は電光の如く光つたといふことである.津浪襲來の直前に於て井戸水が涸れた事に氣がついた者があるから或は一帶に涸れたかも知れない.港に於ける津浪襲來の時刻及び浪の高さは第1囘3時10分,12米;第2囘3時20分,高さ不明;第3囘3時50分,3・0米.
(石濱) 田濱と相對して綾里港の西岸にある部落で浪高9米.海岸近くの低地の家屋は全部引き浪の爲に洗ひ去らる.
赤崎村(岩.氣仙) Map. No. II, (40.42)
(合足) 地圖で見る樣に小さい灣の奥にありて,土地の傾斜は割合に緩であり,海岸より可なり奥までひらけてゐる.部落の中央を流れる小川(水なし)の堤に沿ふて並木は寫眞で見るやうに川下に向ふて折れ,又寫眞に撮つてゐないが,一むらの竹籔も悉く川下の方向に倒れ伏して居る.川の兩側にあつた民家は8軒流されて全く跡型もない.流死20人.神社及び寺のみ殘る.合足は全く引き浪であらはれたものであり,浪高は海岸で12・5米の所あり.
(長崎) 背面に緩傾斜の畑を控え,海岸附近は相當急傾斜を爲して海に臨んで居る.海中 2. 光り物を認めた.それは逃げる時に明くなつたのでわかつた.色,形等は不明である.二番目の地震(2時40分頃の餘震か)の後1分もせぬ内にノンノンといふ音して津浪襲來す.
3. 津浪の囘數は大3囘小は無数なりと云ふ.長崎より下蛸へは立派な新道路が出來てゐる.自動車が通れる.
赤崎村の西側の部落は大船渡灣に臨んでゐる.大船渡灣に就いて以下略述するに海岸地形は全く東岸と西岸とで異り,東岸は小規模ながら非常に複雜な海岸線をつくつておるのに反し,西岸は割合に單調な曲線をなし且つ海の深さも東岸寄りは西岸よりも遙かに深くなつてゐる.從つて津浪の浪高も兩岸に於て差があり又その分布状態も異つてゐる.西岸は低く概して1〜2米程度であり,東岸は3〜4米程度で又西岸よりも浪高が複雜な分布を示してゐる.大船渡灣兩岸には山が海近く迄せまつてゐるので部落は殆ど海岸線に沿ふて發達し甚しきは海面より1米程度の高さの所に民家が見られる.從つて民家の被害も西岸よりも東岸の方に著しいものがある.
目黒盛警察署長談「津浪は一説によれば灣口より直眞に入つて來て丸森茶屋の下の斷岸に衝突し其後二つに分れ一つは細浦を襲ひ他は灣内を幾度も反射しながら奥へ進んだといふ.」
(千丸) 千丸は5萬分の1の地圖(盛)の尾崎岬の尾崎神社と記してある尾の字の右下の小砂濱にある.道路より谷ヘ下る所に家一軒あるのみにて谷間の中には人家なし.人家に異状なし,砂濱には平素あまり船を置かぬ所らしく船の被害もなく又浪跡も見るべきものなし.大體8米位ならんと思ふも確ならず.
(小外浦) 尾崎岬半嶋の北岸にて岬といふ字の上の小濱にて大船渡町笹ケ崎,永澤及下船渡の流失物此處に漂着せるもの多しといふ.
(蛸ノ浦) 蛸ノ浦は上下2つに別れてゐる.下蛸は背後に山を控えた狭い地面に發達してゐる.津浪はBの谷に沿ふて大部奥まで浸入してゐる.船などは流して來てゐるが,Aの邊では盛土して新道路を高く作つた爲に道路の下で波止る.Dのあたりは海非常に遠淺にて汚し.Dの所被害(浸水のみ)一番甚し.其の高さ海面より3・5米と測定(但し此の時引潮にて平均より0・9米海面低し)した.
下蛸Dの所の家にて聞きたる話によれば,津浪の際音を聞かなかつた.但し裏山へ仕事に行つて居て泊つてゐたものにて聞きたるものある由(海岸附近では聞かぬも山手の人は聞付けたり).
には岩礁多く,暗礁も相當に澤山あるらしい.部落は一寸した峠で東西2つに別れてゐる.東側の方は急峻な崖で海に臨んで居る爲に被害なし.船は多少流失せる見込あり.西側の方には小港あり.海岸附近の小屋及家屋2程倒壞流失せり(何れも地圖記載の道の曲り角の所).海岸(地圖に記載の道の曲り角)流失家屋び)すぐ隣に救護事務所ありたり.白梅の小枝を持つて海岸に遊んで居た小児數名に聞きただして次の事を知るを得た.
1. 浪の上つた極限の地點,ハンドレべルにて測定するに海面上7・5米(津浪當時の海面より直せば6・7米)であつた.
地震後潮が急に引きたる故2階(家根裏を2階にせり)や山へ避難した.而して津浪は下から盛り上げる樣に來り囘數は大なるもの3囘ありたり.又津浪の前日山にて沖合に當り火藥爆發の如き音1囘せるを聞きしものありと.光り物を見たるものなし.海岸の松の枝29年の津浪にては濡れて枯れたるも今囘は其れより0・5米位ひくし.
上蛸ノ浦 浸水高約5米(平均面へは4・2米位)道路丁字形になつてゐる所の角の庭に浸水.土手を少し流し壞す.津浪は半島を矢印の方向に突抜けたる由.A附近の家は矢の方向Cの方に流され,Bにあつた家は矢の方向に流されたものもある.Aには水が殆んど天井までとゞいた家があり(平均海水面より2・6米),その家は藁葺きで丈夫で大きいものであつたので少しの破損もなく,又流されもしなかつた.この家の裏手は直に山に接し前面には1軒の住家を隔てゝ海になつてゐた.此附近一帶に浸水可成ありたれども其割合に被害少し.Cにあつた家は破壞し流されたものが5軒あり,又26人位流死した.
E附近の家も殆ど全部が流され土藏のみ殘つており當時の慘状を物語つておる.この邊は矢の方向に岡を越した水が可なり猛威を振つた樣で,16人も流死してゐる.この附近での浪高は3米.
(清水) 蛸浦より北上すると北西に開いた小灣の奥に清水なる部落あり,浪高は4米に達し,低地にあつた民家は災害を受け,全壞流失6軒に及び,5人流死してゐる.尚全壞した家は山手の方即ち東南に倒されてゐた.
清水より北上して永濱コーラ寺に到る間,御前島を前にした所では浪高は3・3米あり目立つ被害は全くないが,水鶏島を前に控えた所では浪高は3米に過ぎないが8人流死し,15軒流失してゐる.
蛸浦及清水附近の入江にある海苔柴には何等の被害も見受けられない.水鶏島の所の半島の根本には田圃があるが大部高い所まで浸水して船が上つて居る.但し人家まで届かぬ.
(永濱) 琵琶島にかくれたコーラ寺では浪高3・2米あり.3軒流失,1軒倒壞,他の1軒は半壞,6人流死してゐる.
部落の南端V(第56圖參照)では浪高は4・5米あり,Wなる所は護岸工事よりも1・5米盛土した石崖(永濱の護岸工事はその高さ1米である)の上に家を建てゝあつた爲め人畜家屋等の被害は殆ど皆無で,たゞ岸が多少破損してゐた位である.
然るに永濱のXなる箇所では護岸工事も破壞され,附近の家屋も殆んど流失し,永濱部落中では此所が最も被害甚だし.
永濱では11人流死し,10軒以上流失してゐる.永濱の北端Yでは2階建の家でl階の天井裏まで水に浸されて流れないでゐたものもあるが,又1軒の家は矢の方向に流され壞れたものもあつた.そして津浪はYより岡を越して山口部落の方へ流れ出してゐる.Y及びXの所での浪高は3・8米.
(山口) 永濱を過ぎて山口に到る間の海は遠淺であり.被害も殆どなく護岸工事に多少の破損が見られる位である.この附近での浪高は2・5米である.
山口部落では2・2米の浪高を示し,人蓄には損傷なく,半壞になつた家が1軒あり又生形に近い家が1軒破壞されてゐる.
(生形) 3人流死し,71軒の内6軒流失,l軒倒壞し尚護岸工事も可なり破損を蒙つてゐる.
赤崎村役場にて助役鈴木養左衛門氏の談によれば津浪の前に大砲の如き音を1囘聞いた.津浪は前後3囘來た.又光り物を見たる人あり初め赤く後に青く最後に白くなつた由である.
浪の高さ約2・7米(但し津浪當時の海面から2・2米)と測定せり.海岸より約150米浸水せり.
(宿) よく開拓したる大きな谷に發達せる部落.非常に平坦なる爲,此の附近第1の被害地なり.浪高は約4米(平均水面へは3・5米)であつた.(パノラマ寫眞參照)
當部落では津浪に對する村民の警戒が行き届いた爲めであらう戸數64軒の内27軒流失し,1軒倒壞した程の被害を受てゐるに拘らず1名の死者も出してゐない.
宿を過ぎて大船渡村に行く途中大船渡灣の灣奥,盛川の河口では護岸工事が可なり破損してゐる.尚宿と盛川との間にあつたセメント會肚の倉庫が2軒壞され流されてゐるのが見られた.この附近での浪高は3・5米であつた.
盛川下流域は一面の田圃にて,堤防の兩側の田圃は海面と殆んど同高である.川を遡つた津浪は兩岸に可なりの損害を與へ,海岸より約1粁浸入.海岸に近き田圃は砂にて覆はれ,水は滿々と附近に湛へた樣である.津浪の朝は田圃一面にカレヒ,サパ,其他の小魚打上げられて居たる由.
盛町(岩.氣仙)
津浪に依る被害は更になし.
大船渡灣西岸に於ける津浪の状況について述べると,大船渡町より末崎村の船河原に到る間約7粁の間たゞ字平附近の被害をのぞいては殆んど見る可きものはない.浪高は大船渡の字須崎で1・8米,それより南下するにつれ浪高は増す傾向をとつており末崎村船河原附近で4・7米となつてゐる.平の3・1米は特殊の理由により局部的に津浪の發達せるもので例外である.
大船渡町(岩.氣仙) Map. No. II, (42)
(欠ノ下) 欠の下の茶屋前では浪高1・8米.この所で罹災した某氏の談によれば,附近に山と積んであつた製材所の材木が津浪の爲流され,それが家に衝突して家がこの通り半壞になつた.自分は津浪が來たのでのがれ樣として戸口に行くと流れて來た材木で戸口は閉されてゐるので仕方なくそれを押し除けやつとの事で屋根に這ひ上り,裏の木に登つた.水はだぶだぶとたゝヘてゐてあまり流れが激しく無いので水の中を歩いて山手の方ヘ逃れたとのことである.この家の他に今1軒新しい家で水が土間より1・1米位まで高く侵入しその爲め多少流されたものがある.以上の事實より察するに大船渡では津浪は可なり勢力を失つてゐた樣に思はれる.製材所のバラツク式の倉庫は流材の閉塞によるものか破壞せず.欠の下茶屋の井戸は地震前より濁り且涸れた.津浪は割合徐々に來たらしい.大船渡にては津浪前10分頃ドーンと大砲でも打つた樣な強い音が釜石沖の方面から聞えて來た.又津浪と同時に水の上つたのと同時に銀色に(銀と黒とのまぢりなりと云ふ)光つて上下動を爲しつゝ來た.水の上つた部分が光つて見えたと云ふ.欠の下の津浪襲來の時刻,浪高はの上の表樣である.
(笹ケ崎) 欠の下と地形,浸水,破壞の程度は略ゝ同樣である.時刻,浪高は次の樣である.
(永澤) 第1囘津浪3時13分,41・2米;第2囘3時l5分,1・5米;第3囘3時30分,0・6米と云ふ.井戸變化したる所2ケ所あり,滿潮なるにも不拘井戸水が渇れて水が出なかつた.又他所では水がつ濁た.漂流物は對岸清水(赤崎村内)へ流れた.
(平) 大船渡灣の西岸大船渡より船河原に到る間で唯一の被害を蒙つた所である.然し其の被害區域は極めて狭く海岸に沿ふ僅か160米の聞に限られ,家屋11戸が北より西へ40°位の方向に押倒され3名の死者を出した.浪高は3・1米即ちこの一劃は異常區域とも云ふべき状態を示してゐる.この區域を過ぎると突然浪高は低くなつて1・3米となる.第2囘目の浪高最大なりしと.
津浪襲來時刻及び浪高は次の樣である.
第55圖
第56圖
第57圖
平よりの漂流物は大抵對岸赤崎村蛸ノ浦尾崎神社下に漂着せり.地震前數日より津浪後數日に亘り井戸の涸れたるもの,増水したるもの數個あり.津浪は割合に徐々に増水したものらしく浸水(2・5〜3米)の割に家屋の破壞輕小なり.水は道路を越して後の山際まで浸水したりと云ふ.
(下船渡) 平より下船渡に到る間は平均浪高は1・3米であるが被害としては見るべきものは殆どない.たゞ平寄りの家が1軒北より西へ40°位の方向に倒されてゐるのが見られた.浸水高が小なる爲め流されることはなかつた.
下船渡の部落に入れば縣道は海岸から隔れて陸地に入る.道路と海岸との間は平坦地にて海面上高さ約2・0〜1・5米位で工場等多し.津浪の浸水高は水面上3・5〜4・0米にて地上1・5〜2米あり.其の割合に家屋の破損少し.但し半壞の家や全壞の家があつたが其等は皆元來貧弱な古い家である.下船渡の丸森寄りの區域では浪高は平均3・5米であるが全然被害はない,丸森と船河原の間の海岸の大部分は小規模乍ら絶壁をなしてゐて波高は4・7米.第1囘津浪3時05分,0・6〜1・5米,第2囘3時10分,1・5〜3・0米,第3囘3時20分,1・8米.
下船渡にて津浪の押寄せるのを見てゐたのには珊瑚島の方向に浪が見えた.其時は非常に大きな浪がモクモクと押寄せ其の浪の色は黒く,海岸に來り波が引ける時は銀色に眞白くつてハネ返つて行つた.滿ちて來る時は退いた水が一度にモクモクと恐しい樣に満ちて來た.浪の打ちつける時は自動車でも走る樣にゴーゴーと音を立てゝ來た.浪は逆卷いたり崩れたりせず下から盛上る樣に勢よく押寄せて來た.第2囘目の波にて損害を受けた.川を遡る津浪も矢張モクモクと盛上り涌き上る樣だつたと云ふ.下渡船の漂流物は對岸蛸ノ浦に漂着せるもの7割小細浦に漂着せるもの3割なりと.
(珊瑚島) 大船渡灣内にある島であるが,この島での浪高は概して西側が東側より高くなつており東側は平均2・6米で西側は3米を示してゐる.
末崎村(岩.氣仙) Map No. II, (42.43)
(船河原) 船河原へ丸森より下らんとする道の曲り角の東側に畑あり海水を冠る.海面より高さ9・0米(平均海面より9・1米).道路面は船河原橋の橋床面は河原より2米位高く,船河原の主部落は河原北側の山地にありて被害なし.
(石濱) 恰も綾里灣の白濱の樣な地形にあつた爲めであらう,大船渡灣へ押寄せた浪はその猛威を先づこの石濱に振るつて,18人の生命を奪ひ,家屋8戸を流失してゐる.浪高は海岸近くで7米,6・5米を示めしており,最高點は8・7米位まで達し海岸近くの3軒の家は海中にさらはれ,縣道の向ふ側山手にあつた5軒は矢の方向に押し流されて壞されてゐる.
(細浦) 海岸地形の關係であらう,この所での水の運動は非常に複雜で,その動勢を知るのには困難を感ずる.
細浦町北端石濱近くに位せる某家の主人の談を綜合するに(浪高は著者達の測定)圖Bでは浪高は4・5米,Bより僅か70米隔てたAでは2・5米あつて其の間に小さい石地藏がありそれは少しも波を蒙らない.防波堤の石崖は海面より約2米高い.從つてa,b,cなる家屋では浪高は0・5米であり,漸く縁側を浸す程度に過ぎなかつた.然るにaなる三軒長屋のバラツク建ては壞され家cの前まで流された.ac間は約20米.然るにEにあつた大きな石(約50糎)は約10米も反對方向のFに移動した.細浦の家屋は大抵山手ヘ押付けられたのに反し小細浦の流失物は大抵沖合へ流る.細浦にては出漁準備中の漁船が潮の引きたる爲顛覆したので津浪の來るを豫知して避難した.
(小細浦) 細浦の東側にある小灣に臨んでゐる部落であるが浪高は概して低くゝ灣の入口で3・8〜3・0米である.
灣口は大體北に向つて開いており細長い入江の樣になつてゐる.灣奥に位する家の所に津浪の爲めの破壞物や小舟等が流れて來,こゝにためられた樣に見えた.東側岸を歩くと,灣奥より灣にかけて岸に近く建てられ山を脊にした家は殆ど皆倒されてゐる.村民の話では「小細浦では灣口より津浪がジワジワと崩れずに押しよせて來た.小舟などが全然轉覆せずに波の間に流れてゐたのはジワジワ來た證據だと云へる」と.
小細浦を過ぎ碁石に至る間の海岸は人家殆んどなく浪高は5・5米,6・5米,7米.貝島を向ふにした海岸では12・5米となつて可なり高くなつており.外洋に面した所では波高も大きくなつてゐる事を示してゐる.
(碁石) 碁石濱では津浪の勢力は可なり著しく水は堤防を越し村道を浸し田圃の可なり奥まで進んでゐる.堤防の所で浪高は8米,又Jなる崖の上で6・5米である.
第58圖
第59圖
J附近に山を脊にしてあつた家は矢の方向に倒されてゐた.
碁石では人畜の被害は先づなかつた.
(泊里) この附近での漁村であるがM附近の家の内海岸近くのものは4軒その場所に倒され,L附近の住家はl0軒以上も矢の方向に山手に向つて流し倒され10人の死亡者を出してゐる.尚N附近にあつた3軒の家は海洋にさらはれ跡かたもなく,M附近では水は矢の方向に流れたと土地の人は云つてゐた.泊里では村の調べでは倒壞流失したもの40軒あるとの事なり.Mの所で浪高は5・5米,Lの所で6・5米,Nの所で5・5米となつてゐる.平時時化の時はMの方がL附近より波が荒く高いが,今度の津浪の時は反對でLの方がM點より1米も高く波がなつてゐるのは注意に値する.尚Nの所の流失した家の土臺の高さは海面上3・5米あつた.泊里の村民は地震後5〜10分位して底なりのするドーンと云ふ音を聞いた.その後東方に稻光の樣な光を見たと云つてゐる.泊里寺の金良虎氏は後光の樣な光を見たと云つてゐる.
(中井) 長方形の門之濱灣の東岸に位する部落である.此部落と館ケ崎との中間の海岸(圖でPの所)で浪高は5・8米であり,附近の岸壁Oの所で6・5米を示してゐる.
(門ノ濱) 當部落(Q)は家屋に可なりの被害を受け流失したものもある.村役場の調査では倒壞流失したもの15軒あり,この附近での浪高は8・5米である.
(梅眞) 海岸での浪高は最高9・5米になつてゐる.梅眞と門ノ濱の境Rの所での浪高は7・3米と出た.梅眞では全然被害を見ない.家屋が高地にあつた爲めである.門ノ濱の人は地震後,泊里部落の人と同じく,5〜10分位して底なりのするドーンと云音を聞きその後東方に稻光の樣な光を見た.
廣田村(岩.氣仙) Map No. II, (43)
第60圖
第61圖
(長洞) 小友村唯出の隣りにあり.灣奥に位し後方に小山を控ヘてゐる.浪高は9米に達し.この附近の家屋は倒され唯出の方ヘ山の手に向つて流された.後述の唯出での水の動きと比べて面白いと思ふ.
(大野灣) 大野灣の北岸は被害は僅少であるが浪高は7米,9・3米,7・3米である.長洞の白衣岩附近より海岸傳ひに惠比須崎に出る.海岸崖の上にあつた一軒屋と鰯粕製造場が津浪の爲めに流失した.この家の夫婦も共に流死してゐる.この附近での浪高は7・5米である.
(大野)(花貝) 大野灣の灣奥にある部落であるが海岸にあつた家が3軒陸地の方へ流され潰された.これ等の家と崖を境とした所にあつた納屋は引き波でその桂が取られ,その屋根は納屋より20米位離れた所に投げ出されてゐた.この附近での浪高は6・6米〜7・5米であつた.
(畑)(六ケ浦) 大野灣口にある六ケ浦では浪高は6米であるが大野に近い畑部落では11・3米となつてゐる.六ケ浦より海岸傳ひに岩倉部落まで行く.この間の海岸は地圖でも明かな樣に殆んど全海岸が絶壁をなしてゐるが,所々主に谷川に沿ふて海岸に降りて,浪高を計つてみた.黒磯岩附近で10・5米,黒崎神社の突端で8米,9米となつてゐる.
部落民の話では,4米の高さだけ水が引き,引くと殆ど同時に津浪が來たと.
(岩倉) この部落は根岬,集に隣してゐるが住家は高所にあつた爲め人畜家屋の被害は全撚なかつた.浪高は灣の入口で13・2米,10・5米,灣奥浸水區域の最高點は海岸から200米近くの所で,その浪高15米に達してゐる.
(根岬) 津浪の浸水の最高點は海岸より100米位離れた奥地になつており.その點の高さは18米に及んでゐる.
地震の後l2分位して大砲の樣な音が南方で聞え,後10分位して津浪が來たとの話である.根岬部落では75軒の内23軒は流失し,622人の内l6人流死してゐる.津浪は可なり猛威を振つたものである.
(集) 根岬の南隣り集は綾里灣の白濱と同じ樣な地形位置にあつた爲めと思はれるが浸水區域の最高點は海岸より100米足らずの點で24米に達してゐる.
外洋に直面しV字型灣の灣奥に位し,しかも灣の水深は急激に深くなつてゐた爲め津浪は猛烈な勢力で集を襲ひ寫眞にも見える樣に海底の大きな石塊を無數に海岸に打ち上げ又灣内の海底は外洋より運んで來た石の影響を受けて非常に淺くなり船發着場を變更しなければならなくなつた所もある.
危く九死一生を得た漁夫の言によれば,津浪とは思はれず,霧の樣になつて頭上に猛烈な勢をもつて折れ重なつて來た津浪は瞬時にして集を殆んど全滅させ,人畜は殆ど奪はれ,家屋又跡方もなく洗ひ奪はれたと.
尚海岸近くを走つてゐる村道には直徑30糎餘りの樹木(防風林)を一列に海岸に沿ふて植えてあつたがこれも根こそぎ奪ひ去つたとの事である.
津浪後一ケ月後に著者達は實地に此の地を見學したが,生地獄そのまゝの荒凉たる集の姿に接したゞたゞ自然の力の偉大なるに驚くと共に當時の状態を想像して身に粟の出るのを感じた.
村民の云ふ霧の樣になつた瓦斯とは思ふに海岸で猛烈な勢でくづれてのしかゝつて來た浪を恐怖せる夜の目に斯く感ぜしものと思ふ.
集でも全く根岬と同じく,12分位して大砲の樣な音をきゝ,音の後10分位して前述の樣な状態で津浪が押寄せて來たとの事である.
かゝる猛威を振つた津浪も集の突端廣田崎附近や青松島はては椿島に至るに從つて急激にその浪高を減じてゐる事を調査と共に知り得た.
即ち灣奥より海岸に沿ふて突端に進むに200米來た所で21米,更に200米の所で10・5米,更に150米の所で同じく10・5米と浪高が減じてゐるのを認めた.集より1000米位離れた青松島では8〜9米となつてゐる.尚この島では海面より8〜9米の高さの所に海底の砂が卷き上げられてゐるのがよく目についた.
尚更に進んで集より1500米位離れてゐる椿島では漁夫の言を參考にしてこの島での浪高を3〜4米と目測した.(波浪強かつた爲め實地に上陸して調査するを得なかつた事は殘念である.)
(金室岬) 集の慘状に目を側めながら村道に沿ふて金室岬附近に到る.此所では浪高9米となつた.金室崎より海岸に沿ふて約300米の間は津浪の痕跡が水面に平行に直線的にあるのがよく見られた.
(泊) 部落は海岸に向つて緩傾斜をなし浸水區域の最高點の高さは8米に達し海岸より200米以上の奥まで浸水してゐる.(郵便局の上100米位迄)泊は廣田村唯一の港であるが,海岸近くの家屋や製造場は倒壞或は流失してゐる.村役場の調査によれば,津浪前114戸,752人あつたものが,津浪のため,42軒流失倒壞し,7人の死者を出してゐる.
又村役人の話によれば.地震後12分大砲の樣な音を南方で聞き,更に10分位して,5・5米位海水が引き,更に5分位して津浪が押し寄せて來た.
尚地震の前日頃氣付いた事であるがある場所の井戸水が減水してゐた.そして津浪の後の井戸水は2〜3日間鹽辛かつたとの事である.
漁業組合の青年の談.「津浪の當時鮫船が出漁しやうとして居たが潮引きたる爲中々船が出せなかつた.」
火藥爆發か雷の樣な音がしてから後光る.音の後約15分で津浪となる.津浪は小鐵砲の樣に打付けて來たが逆卷いては居なかつた.まるで煙の樣になつてワツト押寄せた.流失物は明神の方から山手の田の方ヘ流された.
呼べは聞えるかと思はれる位の近い沖を赤い光が走つて居た由.又函館通ひの定期船に輕石降りたる由.又航海中岸近き所にて3囘衝動を感じ,海水の沸騰せるを見たる由なり.
廣田村郵便局長の談によると沖合に當時非常に輕石が浮遊して居て,岸に漂着せるものを郵便集配夫が探集せるものありと言ふ.(其のl片を貰ひ受けて歸京後鑑定せるに石炭の燃粕なりし.)
増水は割合に徐々なりし模樣なり(家の前に壁土をおき山になつて居たらば其れをよけて脇手の方から浸水して來た等と詳細に觀察して居るものあり.急激な増水ではこんな暇はあるまい.)
(越田) 浪高9米,村落は高所にある爲に損害なし.
(大陽) 浪高7米,4戸流失.
小友村(岩.氣仙) Map No. II, (43)
(蛇ケ崎) 門之濱灣の西岸の突端蛇ケ崎での浪高を調べてみた.半島の突端で前面に二つの大きな島を控へその影になつてゐるがZ附近で測れば長い波長をもつた津浪の眞の高さが出ると思ひ跡をさがし且つ漁夫の言を參考にして計つてみると5・5米と出た.
(唯出) 大野灣口の一小灣の奥にある部落で一部は海岸に密接し一部は山手なり.海岸は砂濱にて海岸の家は皆流失し土臺のみ殘つてゐた.
津浪の高さを神社の下の海岸で測るに7・8米あり.津浪は海岸より約500米浸し郵便局のある十字路下まで入つた十字路下の家1軒半壊にて殘れり.其の下手には海
第62圖
岸附近の家の破片(柱,羽目板など)山積せり.
土民に當時の模樣を聞くに地震後20分にてドンと云ふ音1囘,其後l5〜l6分にて津浪襲來せり.初め潮引きたる爲船引つくり返る.第1囘の津浪にては前側2軒のみやられたるも第2囘目の津浪にて全部やられたる由なり.
浪は崩れて押寄せたりと言ふ.第1囘の浪の高さ3・0米.其後約5分で第2囘目來る.高さ3・9米其の後約5分にて第3囘目來る高さ3・9米,大3,小數囘といふ.
明治29年には唯出より這入つた津浪は唯出の家屋人畜をひとのみにして田を浸し廣田灣奥の三日市灣に流れ込んだと云はれるが,今度の津浪では海岸より500米位の所まで浸水しており,29年のに比して弱く約3・0尺低かつたと云ふことである.
又附近の海岸近く低地にあつた家は皆流されて影の濱の海岸に打ち上げられてゐた.影の濱では浪高は6米である.
(獺澤)(矢ノ浦) 共に廣田灣に臨み民家は高所にある爲全く人畜に被害はなかつた.
獺澤にてはドンと音がしてから25分矢ノ浦にては20分位で第l囘の津浪來る.其後獺澤5分おき,矢ノ浦6〜7分おいて第2囘,其後獺澤3分,矢ノ浦3〜4分にて第3囘來る.
獺澤 第1囘 3米, 第2囘 6・1米, 第3囘 4・5米.
矢ノ浦 〃 2・1米, 〃 4・5米, 〃 2・4米.
何れもヂワヂワと寄押せたといふ.北の佐五郎の鼻の浪高7米.
矢ノ浦にては浪高は6・5,6・0,5・0米あり.海岸近くの家が2軒その場所に倒壞されてゐる.
三日市灣の兩岸では被害は次表の通り,たゞ灣奥に位する緩傾斜地の田地が浸入した津浪の爲めにあらされ,村道をつなげる小橋が破壞されてゐるのが目立つた.今西岸に於ける浪高を檢べてみるに次の樣であつた.
(鳥嶋)(鹽谷) 鳥島で3・5米,鹽谷で2米,三日市灣奥での最高は4・5米の所あり.
(三日市) 全然被害はない.立派な高さ2米位の護岸工事がありその上を縣道が走
第63圖
つてゐる.地震後20分にてドンと音がし其後20〜30分にて第1囘の津浪來る.第1,第2,第3の津浪襲來の間隔は約14〜15分で波はジワジワと音を立てて來たと云ふ.浪高は第1囘24米.第2囘24米.第3囘2・4米.
第64圖
(兩替) 地震後音を聞き.其後40分位にして津浪の襲來を見る.津浪の間隔12〜13分位.浪高第l囘2・1米.第2囘2・4米.第3囘2・4米で三日市と大體同樣なり.
當村に於ける大字別被害表
米崎村(岩・氣仙) Map No. II, (44)
(濱砂)(脇の澤) 濱砂,脇ノ澤は何れも皆浸水床上の程度なり,道が海岸に沿ひ,海面より2米位高く,家は道路の山手側にある爲に更に大低1米位地盤高く,浸水區域は狭いけれども浪高は大である.
濱砂では護岸工事の破損があるが村民の言では津浪の爲め損したのではないとの事.濱砂より縣道をはなれ,海岸づたひに米崎を通つて脇ノ澤に出る.米崎では5・5米の高さを示してゐる.脇ノ澤は浪高は4・0米で,全然被害は見られない.
脇ノ澤の津浪襲來時刻及び浪高は右の通である.
(沼田) 此處は家屋皆浸水.半壞せるもの甚だ多く附近にて一番の被害地である.波高4〜5米と推定す.第1囘の浪は3時0分;第2囘3時15分;第3囘3時20分に襲來せりと云ふ.沼田部落の海岸住宅地よりも高く.浸入せし水は引くことなく所謂引浪なくして濱田川の下流にある沼の方と古川跡の川原崎方面とに押寄せ浪は2つに分れて前者は沼を通りて氣仙川に入り後海に入る.故に其の途中に流失物置去りにされてあり.沼田では地震後,津浪の3分程前にゴーといふ音高く(終始一樣に)沖の方より聞えたり.井戸の變化,光り物なし.
高田町(岩.氣仙) Map No. II, 44
(長砂) 道路の片側浸水せる形跡あるのみで,目立つた事なし.
(高田松原) 松原の東端古川沼の東にある温泉宿は完全に破壞し古川沼に流れ込んだ.後日沼から死體3個を發見す.この所での浪高は4米.松原に沿ふて西方に進むと寫眞で見る樣な松林の松苗の保護柵が可なり長く續いてゐる.この柵はカヤで出來てゐるが柵の柱(柱は約60糎毎にある)となつてゐる直径約8糎位の松は根元から折られてゐる所が所々に見られた一般には松樹は幹にやゝ傷あるか,小枝の折れたるとか,小松の折れたる外には大して被害なし.松原の内部に小さな寺があり,本堂も庫裏も可なり津浪の爲めに損害を被り,庫裏の雨戸は中央より2つにわられており,壁なども落ちて本堂の床(海面上2米位)にも砂を一面に流し込んでゐた.
住職の話では地震後再び寝床に入つたが凡そ30分位の後に非常な勢で音をたて松
第65圖
原を縫ふて進んで來た水は床下を洗ひ去つた,それに驚いて床よりはね起き着物を着換へ帶を結ばんとする時第2囘目の流れは雨戸障子を破壞し,火鉢,疊等を押流し,部屋にねてゐた2〜3人の者を疊ごとおし流した.自分も流されたが柱につかまり他の人達も同じく怪我がなく助かる事が出來た.3囘目に今1度來たがこれは1囘目と同じく2囘目よりは弱かつた.3囘目の津浪が床下を流れ去るのを見ると,非常にはげしい勢で流れてゐた樣だと.松原のつきる所氣仙川の近くの松原のなかに宿屋(料理屋)がある.この附近の土地は割合に高く海面より3・6米位の樣であり,流れはこの家の縁より5寸位高く上つたと云ふ.この所での浪高は矢張り4米あつた.この宿屋の主人の實驗談,「この家は砂地の上にあつたが,地震は非常にはげしかつた,しかし棚の物1つ落ちる事なく,時計は地震の終り頃にゆつくりとまつた,壁もおちなかつた.止つた時計をすぐ動かしそして寢床に就いたが,まだ眠らない内即ち地震後20分位して津浪がやつて來た.第1囘目の津浪は床下を流れ去つたが,2囘目の水が縁から5寸位上まで來た.そして3囘目のものは1囘目のものと同じ程度であつた,結局津浪は2〜3分おきに3囘來た.1囘目の津浪が少し引いて地面より5寸位の高さになつた時2囘目の津浪が來,2囘目のが5寸位引いた時3囘目のものが寄せて來た.3囘目の津浪が來て全く水が引いて仕舞ふまでの時間ば約7分位要した.即ち1囘目の津浪が來て第3囘目が引いて仕舞ふまで15分を要してゐる.
氣仙村(岩.氣仙) Map No. II, 45
高田松原の西端て氣仙川が流れてゐるが松原の附近では津浪後少しく淺くなつた所もある.松原の對岸縣道に沿ふた所で浪高をはかると1米と出た.津浪はこの氣仙川を溯り松原後方の高田町との間の田にあふれ,又松原をつらぬいて這入つた海水もこの田に浸入してゐる.
(長部) 氣仙川を渡つて縣道に沿ふて長部に至ると,港口のコンクリートの防波堤は破壞され又港奥の護岸工事も津浪の爲全く破損してゐる.
港口では浪高3・0米あり,浸水區域中のある點では5米に達した所もあり海岸から100米位入つた所でも5米となつてゐる.
住民の流死も相當にあつて又海岸近くの製造所や又民家の流失破損したものも可なり多い.
こゝでは地震後25分位してドンと云ふ音を南方に聞きそれより10分位して高さ2米位海水が引くのに氣がついた.引く時にはザワザワと云ふ音は聞えず静かに引いた.間もなく津浪がジワジワと浸入して來たとの事である.
長部湊より海岸傳ひに長部白濱に至ると,此所では浪高3米であり,白濱には舟大工の假り小屋が岡の下海岸近くにあつたが,津浪の時には水を可なり天井近くまでかぶつたが破れず又流れなかつた.其當時この小屋にゐた2〜3の人の話では,第1囘の津浪をかぶつたので目が覺め,水の中を裸で泳いで直ぐ後ろの山の手の方にのがれた.津浪はさしたる勢力はなかつたと.
(双六) 波高は6米で,海岸にあつた2軒の家が破損した程度でさしたる被害なし.
(要谷) 双六の南隣要谷では海岸近くにあつた家が6軒だけ半壞の損害を受けたが死者なし.浪高は矢張り6米.
(福伏) 福伏の海岸に出ると津浪による被害の跡全くなし,漁夫の言によれば,たゞ製造場に入れてあつた肥糧が流された位だとの事.浪高6米.
第66圖
宮城縣之部
宮城縣本吉郡
唐桑村(宮.本吉) Map No. II, 45. 46. 47
大澤部落の北.岩手縣との境は概ね絶壁で調査困難で漸く海岸2〜3點で浪高を測定することが出來たが5米程度である.
(大澤) 灣奥の兩岸で津浪の高さはE點で6・2米,F點で6・7米であり南側の方が多少高くなつてゐる.
漁夫の言でも津浪當時北側の方が津浪が高く來たとの事である.
又大澤は半島の頸部に當る爲め,津浪に南北兩方の海からせめられた.南側の海岸G,Hでそれぞれ浪高は5・5米,5米となり.北側の方より1米位低くなつてゐる.
村落は主に北海岸と小川に沿ふて發達し南海岸にはG附近に1軒あつた位で主に畠である.浸水區域は圖に示してあるが,16軒の家が津浪の爲被害をうけ,5人の死者を出してゐる.引き浪でさらはれた者はないが,家の流れた方向を矢で示めすと圖の様になりFH線の中間にある家或は小川に沿ふた1軒の家も無事であつたのは不思議であると村人は云つてゐた.圖の矢の尖端は流れて來た最後の位置を示してゐる北岸より入つた津浪が勢力のあつた事は浪高よりも知られるが,土地の人もこの北より來た浪が南方よりの浪よりも早く浸入して來たと云ふてゐる.
大澤の部落は中央部分の土地が幾分高くなつてゐたので兩側から浸入した水は漸くそこを越した程度で家屋や人畜を海に攫ふまでの勢力は最早持つて居なかつた樣である.
(館) 人畜の被害なし.たゞ製造場が2軒だけ流失したとの事.
(載鈎) 岩井澤を過ぎ載鈎に來て海岸に出る.小田濱の海岸で津浪を見てゐた村民の談によればジワジワとおして來て1囘目はひどくなく,2囘目のが最高で,3囘目は1囘目と同じ位だつたとの事.
2囘目,3囘目の津浪の浸水區域の境が明かに殘つてゐた.2囘目の高さを測つてみると5・5米,3囘目はそれより1米低くゝて4・5米となつてゐる.
尚地震直後海岸に出て見ると海水が海岸から30米も引き,間もなく第1囘の津浪が寄せて來たとの事である.
(堂角) 浪高は6・8米,7・1米である.
(只越) 第36圖で見る樣に灣奥にある村落であるが灣の北岸は殆んど絶壁をなしてゐる.灣の入口Iで浪高7・0米,灣奥Jでは6・5米,K附近で白濱に通ずる坂路の上り口南側の斜面に船の破片あり,異状に高き故測量せしに高さ約l0米ありたり.
灣の南岸は白濱,出月の2部落であるが白濱(L)の浪高は5・5米,出月(M,N)點では夫々6・5米,6米である.
只越はこの附近での主要な部落であるが津浪の爲め42軒だけ破壞され,内36軒は流失し,殘り6軒は山手の方に流され倒された.
倒壞せる家屋跡の一番海岸に近き所は奇麗に流失.其の次に海に近き所は家の破片,柱,板など一面に山積す.更に其の次の區域にては半壊の家となる.此の半壞家屋は流失物の衝突の爲に半壞となつたと見らるゝもの多し,大部分は柱の接手より折損す.半壞區域の次は浸水區域にて只越にては此の區分が海岸と並行してよく見られる.
只越は人家が密なる上に上手山に逃げる道が狭く且つ少かつた爲め避難に當り非常な困難を
第67圖
第68圖
第69圖
第70圖
極めた跡があり,23人死んでゐる.死者は大體海岸線に並行に走つて逃げやうとした人であるとの事であつた.土地の人の話によると地震後20分で音2囘せり,音の間隔は約5分.其後20分にして津浪來る津波は約10分置きに約3囘.初め引浪で中の浪最大なりし.音のせる後海面は花火の樣に光り海岸通りは明るくなり避難するのに足元が見えた.又別の人に聞きたる談によれば,音の後潮光りあり其のまゝ何にもなかつたが15分位して津浪來る.津浪は走るのと同じ位の早さであつた.又津浪の2〜3日前より海濁り居たり.(漁夫の言)
(白濱) 2°30'位の傾斜をした田畠が主に津浪の爲め洗ひさらはれたが道路と海岸との中間に1軒ある民家は床上まで浸水したれども破損せず.浪高は海岸では5・5米位であるが,浸水區域の最高點は7米になつてゐる.Pの所では浪高8・6米であり.1軒屋が流失してゐる.
或る者の話によれば,地震後10分にして大砲樣の音2つ聞え,其後20分して津浪來る.津浪は濱鳴りを伴つて來る.巨浪2つまで見たれども其後は判然せず.津浪と判つてから小供等を起して上の路まで逃る時既に足元まで海水が來てゐた.
(高石濱) 浪高は9〜10米である.先づ被害はない.
(石濱) 浪高は7米.海岸近くAにあつた3軒の人家は皆浪にさらはれ,6人の人が流死してゐる.村道より奥山手の方にあつた人家Bは津浪の爲め山手の方ヘおし流された.音3つ聞ゆ.高壓線のスパーク樣の青い光沖合を一直線に走る.津浪は大3囘.
石濱區内砂子濱で石濱より來る村道は海岸より離れ宿の方に向つてゐるが,村道の通つてゐる田は津浪の爲めに可なりあらされてゐる.海岸に築いた石堤も可なり破壞され田圃には海底の小石が澤山運び込まれたのが見える.
田地は海岸から緩な傾斜してゐるので可なり水は奥まで浸入し,最高點は海岸よひ200米の所で高さ7米.
この附近にある人家で當時の模樣を聞くに「地震後7〜8分してドンと云ふ音をきゝ,21〜22分してザワザワと云ふ音と共に津浪がよせて來た.3囘來たが2囘目が1番高かつた.津浪はひく時が可なり足が早かつた.」
(馬場) この所は外洋に直面してゐるので津浪の勢力も可なり強かつたと思はれる.海岸の波打際の砂濱は,可成りの大さを持つて馬蹄形にえぐられ,それが幾つか並んで居り,その上にある2米の高さをもつた崖が津浪の爲め可成りまで破壞されてゐる.尚この崖を越して崖上にある麥畠をあらしてゐる.浪高の最高點は海岸より70米の處で1l・2米である.圖でAより浸入し崖上の畠をあらし岡を越して海Bの方に流れ去つたと土地の人は云つてゐるが調査しても矢張り越した痕跡が明かに認められる.Pの所で浪高は8・1米であり.そこのl軒屋は跡かたもなく流されており,士地の人に聞いて始めて家があつた跡だなと頷かれた位である.この家に住んでゐた家族5人の内4人は家と共に浪に呑まれ,小兒l人が不思議にも家の裏にあつた松の木に引かゝり漸く助かり水が引いてから逃げ出した.尚その小兒は事あまりに急であつたので父母は自分を顧みる暇もなくいづれヘかのがれたものと思つてゐたとの事.
(中井) 村道傳ひに中井に來る.海岸に降りてみる.外洋に面してゐるので波も可なり荒く津浪當時の恐しさを思はせる.
浪高は非常に高いが,高所に家があつた爲めに1軒流失したのみで人畜の被害なし.土地の人の話では明治29年のものは今度のより3米も高かつたと言ふ.
浪高は海岸で18米,18・5米となり.浸水區域の最高點では22米を示してゐる.
(瀧濱) 中井の隣であり矢張り押し寄せた津浪の勢力は非常に強く海岸近くではあ
るが15米も高所にあつた人家2軒は跡かたもなく大洋に洗ひ去られ,僅かに數箇の破片が山手に殘てゐた.幸にして人畜には被害がない.浪高は海岸で15米,13米,15米であり.津浪は海岸より300米の奥まで浸入してゐるがこの所の高さは20・5米であつた.
(御崎岬附近) 廣田灣の突端であるが地形圖を見ても明かな樣に草木の全くない絶壁であり.從つて痕跡を探すのが甚だ困難であつたが海草を少し隔てゝ3ケ所の岩の上で見出し得たので,案内の漁夫に質せば正しく津浪で打上られたものに相違ないとの事であつた.其浪高は9米である.
(大立) 漁船が1隻津浪の爲め陸上に押上げられてゐる.浪高8米.
(下の濱) 漁夫によれば平均1・4米立方の磐岩が津浪の爲め19米もおし流されてゐる.この所での浪高矢張り8米.
第71圖
第72圖
(長濱) この附近での漁船の港であり.津浪當時港に16隻の發動機船がゐたが,その内l3隻が陸に衝突し或は船と船との衝突の爲め破壞されて仕舞つた.
(津本) 住家は高所にあつた爲め床下に浸水したものがあつた位で人畜共被害はない.崖が非常に津浪の爲めにくづれてゐる.この所での浪高7米.海岸近くに住せる土地の人の言では地震後稻光の樣な光を2度南方に見,大砲の樣な音がした.地震後しばらく經て海水が引き,間もなく津浪が來たが2時間位の間に4〜5度押し寄せて來た.最初の浪が大きく,ザクザクと音をたてゝ來たと.
(神止) 高所にあつた爲め全然人家の被害はない.たゞ舟が3隻港のなかにゐたのが,内2隻だけ津浪の爲めにこはされ,乗つてゐた人が4〜5人死亡してゐる.
(小鯖) この附近では甚しく被害を蒙つた部落である.20軒位流失してゐる.小鯖は圖で見るやうに港の奥には小山が突出てゐてその兩側の開地に展開してゐる部落であるが北側の奥より南側の奥の方が浸水區域の最高點は高くなつており.從つて被害も港の南寄りの方が大きかつた.勿論北の灣の奥にあつた人家は南側同樣に流失してゐるが,灣奥の突出部にあつた民家は高所にあつた2〜3の家を除いては全部が流失或は破壞しその状態慘たるものがある.灣の北岸b附近の人家は破損程度のものが多いが南岸a附近のものは殆ど破壞流失してゐる(尤もb附近のものは家が大きく頑丈なものが多かつた).浪高を測つてみると,aでは4・2米,bでは3・5米,cでは4・5米,そして,浸水區域は南奥では海岸より160米の所まで及びその所の高さは5米,北奥での高さは4米である.d附近の田のなかに家具や疊などの破片が未だに取片附けられずに散ばつてゐるのが見られた.
土地の人の話では「地震の時外に飛び出したが何も光の樣なものは見えなかつた.地震後20分位してドンと云ふ大砲の樣な音を聞きそして2〜3分してサーと云ふ音と共に水が引いた.港の深さ1・5米位の所にゐた舟の底が海底に着いたので舟に寝てゐた人は驚き飛出して山手の方に逃げた.港奥の海岸から12米位も水が引いたものと思ふ.水が引いて後1分位して水がはげしい勢をもつて押寄せて來た.最初押し寄せたこの波の爲めに瞬時にして家は恐しい音と共に押し流されて壞されて仕舞つた.その時の恐しさは例ヘ樣がない.水の引くのと同時に自分達は先きを争つて裏山に逃
第73圖
れたが,最初の波が來てから20分間位の間,それが未だ引ききらぬ内に幾囘も小さい浪が來た.約2時間位して平常の高さに復した.又朝の6時頃縁の下を浸す位の浪が來たがその後は津浪らしいものは來なかつた.」又他の人の話では「地震後15〜20分にて火藥爆發の如き音1つせり,其後約15分にてザーツと音して潮が引けたそして津浪來る.津浪は大きなもの3度來たが小さいのは夜があけても未だ來てゐた.」
(鮪立) 小山1つ隔てた北隣の部落であり.地形も見掛上小鯖と似てぬるのにこの所は全然被害がないと云つてよい位で,岸に建てられた貧弱な納屋すらも壞れない程度であつた.海岸に2・5米程度の護岸がある.流失家屋1戸.其の外はたゞ半壞程度の所が1〜2ケ所見られた位である.前者と比較して眞に不思議に堪へない.浪高を灣口から灣奥まで測つてみるに3・0米,2・9米,3・0米で灣口より灣奥に至る間で浪高の變化は先づ見られない.土地の人も津浪はただジワジワと押寄せて來た位でさしたる勢力はなかつたと云つて居た.
(藤濱) 鮪立から海岸傳ひに浪高を計ひながら藤濱に來る.その間浪高は2・2米,1・9米,1・7米,2・7米藤濱で3・0米となつてゐる.この附近では殆んど被害は見られない.たゞ海岸にあつた貧弱な家が津浪の爲めに潰されてゐる位である.
(宿) 灣奥にある爲め被害が多少ある.海岸にあつた人家が4軒だけ破壞され流失してゐる.この邊りでの浪高は3・2米,3・4米,3・1米,34米である.
第74圖
第75圖
地元の話では宿の港に泊つてゐた發動機船が地震後20分位經て船底が海底に着き傾いたので驚き丘に避難した.海岸から12米も水が引いたのだらう.海水はザワザワと云ふ音をたてゝ退いて行つたが間もなく津浪がゴーツと云ふ音をたてゝ堤防の樣な形をして押寄せて來,この浪の爲めに海岸にあつた家が壞され引波に浚はれた.津浪はその後2〜3囘來たが1度來た津浪が引き終らない内に次の波が押し寄せて來た.夜明け頃まで常時の海面より1米位水位が高まつてゐた.當部落では津浪の前約20分西南方に爆音が聞えた.可成り強大な音であつた.又午前2時半沖の方に青い光が渦状に見えた.
(舞根) 宿より村道づたひに舞根に來る.途中さしたる被害は見られない.たゞ1軒岸近くにあつた家が倒された所があつた.舞根は小さい灣奥の低地にある部落であるが半壞家屋が4軒あり,倒壞したものが1軒見られた.半壞家屋の内1軒は,津浪の爲め2米位山手の方ヘ流されたが家の裏にあつた杉柵の爲め危く倒壞するのを免れた.舞根での浪高は平均3・3米である.
東舞根に於ては第1囘の津浪は3時30分頃で2・1米,第2囘は4時00分高さ24米,第3囘は4時10分1・5米であつた.
一時干潮のときよりもずつと潮が引いて海底はブジブジといふ音を立てゝゐる内に(約30分間)海水は少し逆卷いて下からジワジワと音を立てゝモクモク盛上つて來た.津浪の押寄せる度毎に同樣であつた.
(日向貝) 大島瀬戸を舟で廻る.兩岸の所々で浪高を測つたが先づ一樣で1・9米,鼎浦の入口で2・0米,2・1米位となつてゐる.日向貝で海岸にあつた某家は全然壌されてゐない.この家は明治29年の時も壞されてゐなかつたと.この瀬戸の兩海岸では何等崖崩れ等もなく津浪があつた樣な痕跡は見當らない.
大島村(宮.本吉) Map. No. II, 46. 49
大島は東側と西側で浪高も又被害の程度も異つてゐる.又浪の押寄せ方も本島の東側と西側とで稍其の趣を異にす.
第76圖
東側即ち外洋に面した海岸では一旦海水がズーツと沖の方まで引いて間もなくドウツと逆卷いて打付けて來た浪は2囘目3囘目と囘を經るに從つて緩かになつた.
西側即ち氣仙沼灣に面した海岸では灣の入口へ可成り大きな浪が寄せて來たが次第に浪の高さが低くなつて,潮の滿ちる樣に,然し勢強くゴーゴーといふ異樣な音を立てゝ押寄せた.
一般に東海岸の方が浪高も高く從て被害も割合に大きい.たゞ南端に近い兩側の海岸は外洋に面してゐるので浪の勢力も同程度であつた樣で,浪高も先づ同じ位であり,被害も同程度である.同島北端大島瀬戸の海岸では前述の如く全く被害なく浪高も概して低く1・9米であつた.
津浪到着時刻及高さは次の通りである.
當村に於ては津浪前20分位に北東沖合よりドーンと大砲の樣な強き音響を聞いた.是と同時に北東海上に青色の光見へたが形其他は人により一致せず.
津浪の前後に井戸水の濁つたもの2ケ所.
1つは東側に1つは西側にあり,雨上りの水の樣になつたさうである.
津浪の2〜3日前より毎晩7〜8時頃遠方にて大砲を打つた樣な音がした.然し附近に鐵道工事,石灰岩爆破等の工事があつたので津浪の前兆とは思はれなかつた由.
當村全體の被害は流失4戸,半潰3戸,死人村内になし.(出稼,出漁中のもの15人)負傷2人,道路破損2000米,船及小舟70隻,床上浸水8戸,床下浸水19戸,
第77圖
田畑浸水85町歩.
(外濱) 大島北東端の村落である.浪高1・8米.全然被害なし.
(廻館) 外濱より海岸に沿ふて廻館に着く.この附近での浪高4・2〜4・4米と出る.
(長崎) 浪高5・9米,海岸近くの家が3軒流失してゐるが人畜の被害は全然ない.長崎附近の海岸には小松林があるが,これが津浪の爲め殆んど全部枯れた.
(通島崎) 長崎より船で松崎に行く,この所の浪高5・2米,船を尚進めて通島崎に上陸する.この所は外洋に直面してゐるので浪高も可なり高くなつてゐる.全く人家はない.崖壁であるが海底の砂など高く岸壁上に打ちあげられてゐる.壁上の松も枯れてをり,海草などが引掛つてゐる.これ等から浪高を測つてみると8〜10米となる.
(横沼) 大島の南端龍舞崎,黒崎島を横に見て舵を轉じて西海岸に出で,横沼て上陸する.大島最南端の部落である.海岸には可なり海底の石が津浪の爲めに押し上げられてゐて,津浪の勢力も強かつた樣だ.被害の見るべきものはない.たゞ海岸近くに(家が高所にある爲め)あつた家が1軒山手の方へ押しつぶされてゐる.その所での浪高は5・9米,横沼の西入口で6・4米あつた.
(要害)(駒形) 横沼の北隣の部落で全然被害なし.駒形をすぎ要害に着く.被害の見るべきものなし.此所で浪高は西ノ鼻の南側で4・6米,北側で4・1.
土地の人の話では,水が引いて間もなく,白浪を立て,非常な勢で津浪は要害をかすめて氣仙沼の方へ進んで行くのが見られたと.
(淺根)(高井)(田尻) 要害より北上し淺根の海岸を通り高井の海岸での浪高4・3米を測る.全然被害は見られない.高井より田尻に行く.此所も被害なし.浪高は4・3米.
(浦ノ濱) 氣仙沼灣に開く小さい灣の奥にある部落であるが,灣奥の護岸工事も無事であつた.浪高も低くて2・4米.
(大水) 浦ノ濱より大水に行く,この所浪高は2・3米
(磯草) 全然被害なし.浪高は2・8米.磯草より磯草崎をかすめて船を大島瀬戸の入口の絶壁に着ける.この所では浪高は2・1米となつてゐる.
鹿折村(宮・本吉) Map. No. II, 46
(鶴ケ浦) 大島瀬戸を越す途中鶴ケ浦に入る.浦の入口では前述の樣に1・9〜2・4米であるが,奥に入るに從つて浪高は高くなつてゐるのが見られた.灣奥の岸では4・2米となり,浸水區域は底地の爲め可なり奥まで(目測による)及び居り海岸より300〜400米山手の方に達してゐる.
最初の浪はドツと押寄せて來たが,2囘目からは波が逆卷き崩れ乍ら盛上る樣に寄せて來た.鶴ケ浦は灣深く入込んでゐる爲に先の津浪が未だ引かぬ内に次の津浪が來るので灣内は他部落よりも高くなつた.灣奥の兩岸にあつた家の内,東岸では納屋が3軒共流され西岸にあつた人家が1軒流され,家族4人が流死してゐる.海岸から100米以上奥に入つた所の家が1軒流されてゐる.この所での浪高は4・5米である.一囘目の浪は3・6米2時40分,3米;第2囘3時00分,3・6米;第3囘3時20分2・0〜2・5米.大3囘,小は十數囘襲來す.
津浪前20分砲音を聞く,同時に青い光を南方沖に見る.
(梶ケ浦) 浦の入口の海岸で浪高1・9米.この所では奥の方で多少壞された家もあるが先づ被害はないと云つてよい位.
第1囘2時40分,2・1米;第2囘3時00分,3・0米;第3囘3時20分,2・5米なりと云ふ.
氣仙沼町(宮・本吉) Map. No. II, 48
(内ノ脇) 鹿折村梶ケ浦より船で氣仙沼に行く.途中の兩海岸には全然被害は見られない.浪高も低く1〜2米と目測する.縣の水産試験場のある内ノ脇には,全然被害はない.浪の力もこの附近へ來ては全く弱つてゐたらしい.浪高も1米位と思はれる.土地の人の話では津浪は上潮の樣にヂワヂワと來,引く時もユルユルと引いたさうである.
松岩村(宮.本吉) Map. No. II, 46
(片濱) 被害全くなし.浪高は1・7米であつた.
(尾崎) 海面より5〜6米の高さの所にある部落であり.浪高は3・5米であつたので津浪は丘を越える事が出來なかつた.この附近より千岩田部落に至る海岸一體には海苔柴を一面にさしてある.この柴は丈3丈もある木の葉を拂ひ枝を適宜に拂ひこれを海底岩磐に1・5米位の穴を穿てそれにかたく差込んだものである.土地の人はこれ等の柴のために津浪の勢力を弱らされて,その爲め尾崎部落は助かつたと云つてゐる.この柴を植ゑない頃は普通の荒の時でも浪が丘を打ち越す事が屡々あつたが,これを植ゑてからは可成りの時化でも浪が宅地にはいる樣なことはなくなつたと云ふてゐる.この柴の植ゑてある總面積は200間平方であると.
階上村(宮.本吉) Map. No. II, 46. 49
(壼ノ澤) 部落背面は田圃にて東濱街道に接す,前面は數間の砂濱にて海に臨む.部落の地盤は海面上2・5米位なり.
地震後40分にしてガラガラと云ふ音と共に沖合30米程まで潮引く(高さにて1・8米程),其後直ちに津浪襲來す.浪の高さは4米位であつた.光り物.音響は氣がつかなかつた.
(川原) 臺ノ澤の直ぐ南に接す.部落の地盤は海面上1・5米位にして海岸に高さ約3米の堤防あり.津浪は此堤防を越さゞるが如し.堤防直後の家等大した被害もなし.途中排水の爲堤防の切れて居る所あり,此處では海面上2・5米位は浸水したらしい.
(臺ノ澤) 川原共津浪はジワジワと増水したものらしく浸水したるも破損せる家少なし.
(七半澤) 浪高3・7米.被害なし.
(濱) 浪高4・4米.被害なし.
第78圖
第79圖
第80圖
(波路上) 波路上杉ノ下の間の道路の東は岩井崎の丘を除けば,非常に緩起伏の低地(海面上約4〜3米)であつて一面の麥畑である.字明戸には昔鹽田に用ひられた沼がある.此沼の南部を過ぎて岩井崎まで救濟工事による道路が出來た.
此邊一帶風光明眉なり.津浪の爲沼の堤防(高2・6米輻2・5米位)約9米程決潰石積鹽田中に押し流さる.棧橋を洗ひ流さる.棧橋前の雜貨商方にては床上少々浸水す,海面上高さ2・8米なり.棧橋の元にありし製造工場の半建のもの洗ひ流されて溜池のみ殘れり.Jでの浪高は3・4米であつた.當所にては津浪の前に大砲樣の音を聞きたるものもあり,又熟睡して居つて聞かぬ者もありと云ふ.津浪の前に潮3〜4米引きて底を現す.其後ジワジワと増水して來た.大浪は前後3囘にて第3囘日のもの最大にして其後次第に少なくなりしと云ふ.
土地の人は前記破損せし堤防のために杉ノ下は被害をのがれ得たと云つてゐる.
(崎野) 海岸近くにあつた家が1軒潰されてゐた.此所では浪高3・3米であつた.
(岩井崎) 氣仙沼西灣入口を扼する所にあつて風光明媚なる公園あり.神杜及岩井館といふ宿屋及燈竿信號所あり.周圍海岸は斷崖をなし海中暗礁,岩礁多し.燈竿看守を尋ねたるに招魂祭にゆきたりとて不在なりし故,岩井館主人に就きて當時の模樣を聽取するに,非常に強い地震が長く10分聞も搖れた.其後約15分にして爆音の樣な音が聞へて來た.此處は明治29年の津浪にも大丈夫であつたから大丈夫とは思つたが津浪が來るかも知れないと思つて起き出して屋根へ上つて海を見てゐると眞黒な潮が押寄せて來た.間もなく近所の部落で半鐘を鳴らして人々に警報を發して居るのが聞へて來た.津浪は10分置きに3囘來たが3囘目が最大であつた.
岩井館では宿屋稼業の外に海苔の製造をやつて居るが海に置いた海苔の枠なども少しも流失せず.津浪の高さは3米であつた.
岩井崎より新道路に出る.道路は南海岸より押し寄せた津浪の爲め破壞され,津浪は此道路を越して田に浸入し此附近での浪高5・3米であつた.此の濱から上つた津浪は西側の御伊勢崎,大谷間の濱から浸入した波と合體し旭崎の高所のみを殘して一帶に浸入.杉ノ下部落附近の田圃中にまで船を押して來た.旭崎の高所は大きな砂丘であるが津浪は意外な高所まで浸して居た.御伊勢崎附近での浪高は9・3米であつた.(旭崎) 津浪の數日前より井戸水濁り涸渇せりと.旭崎にて土民に聞くに2番目の地震の後潮音激しくなりたる故船を見に海岸にゆくと船は最早や流されて了つて居つた.津浪は3〜4囘來たが別段に光り物や音は氣付かなかつた.
シヨーガ磯の側から杉ノ下に浸入した津浪は可なりの勢力をもつてゐた樣で,3軒の家が押し倒され,或はつぶされてゐる.又海岸より村道を越した所にあつた家を1軒押し流してゐる.海岸近くにたてられてあつた掘立小屋は津浪の爲め壁板を破壞されたきりであるが,この小屋よりも陸地の方,岸より遠い所にたてられた人家は完全に破壞されてゐる.この附近での浪高は7・0〜9・1米.
當時に於ける津浪の時刻及び高さは次の通りである.
又津浪襲來當時の模樣に就いて次の囘答を得た.
津浪の約20分位前沖の方からゴーツと物凄い音がした.又浪の押寄せる音はドンドンと地響を立てゝ15分位續いた.方向SEの沖合,室の内で太鼓を打つのを10丁位離れて聞く樣であつた.
津浪は潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと來た.然し早さは急でモクモクと盛上る樣に來た.第2囘目は折れて來たと思はれるが,第2囘目以後はモクモクと同じ樣に來た.
波路上地福寺前より明戸濱を一目に眺めたが1囘目の浪が岸を打つ時浪が光つて明るくなつた.光るといふよりも明るくなつたと云ひ度い.薄白くなつたのである.本村の漂流物は皆本村内に漂着したれども,和城前濱には大谷村の物多數漂着せり.
大谷村(宮.本吉) Map. No. II, 50
旭崎より大谷に至る海は綺麗な砂濱にて海水浴場らしく濱の中央に小屋あり,下部をすつかり打抜かれて居る.大谷部落の北入口の少し手前の海岸,斷崖の處,通稱牛コロバシと云ふ所では崖に垂れ下つた松の枝が潮にて枯れたり崖の草が抜かれたりして居る.浪の高さは崖の爲に異状に高くこの所では6・5米,8米,6・5米となつてゐる.津浪當時この附近は雪が積つてゐたが,津浪の朝,この所を通ると雪の解けてゐた所がある.これは津浪のしぶきの爲めに解けたのだらうとの事.その所より海面までの高さを測ると18・5米となる.大谷川に入る直前の小崖には4・5米位の浪高を測定せり.
(大谷) この部落は明治29年津浪に死者200人以上を出し,50戸の家が流され殆んど全滅した.其後部落の大部分を高所に移轉した.そのため今囘の津浪では被害は少なかつた.
明治29年の時にはUの方より浸入した津浪の勢力が強くて,部落を一呑みにして,シヨーガ磯の方ヘ流し去つたが今度の津浪ではW附近にあつた人家6軒,工場3がWの方より入つた津浪の爲め西の方におし流され破壞されてゐた.そしてWより入つた水は縣道を越して,200米餘り西の方まで浸入してゐる.
Uの方より岡を越して浸入した水の爲めにはあまり荒されて居ない.W側にあつた小舟などがab附近まで流されて止まつてゐた.W附近での浪高は6・5米,Uの浪高は7米,6・9米である.
街道の曲り角(地圖の大谷の谷の字の東300米)に明治29年の津浪記念碑あり.津浪の當時に積雪ありしが記念碑の上部15糎程殘して水に浸りたる事判明した.其れ程水に浸つても顛覆せずにゐたことは不思議である.然も平らな面が海と並行な方向になつてゐる.
大谷にての聽取したところによると津浪は大3囘にして2囘目のもの最大なりし.地震後暫して引潮の音ガラガラと激しく鳴り,それが止んで靜かになると共にズズツと潮が寄せて來た.津浪は逆卷いては來なかつた.浪が浪に重なる樣になつて水嵩が増えて來たとのことである.又沖合の暗礁に津浪の當つた時浪は崩れて光つた.多分夜光蟲であらうと云つて居た.
其他電光より少しく赤き光一瞬聞パツと東南方にて光れりと.津浪後に井戸水の溷濁したものもあつた.
當方よりの照會に對する囘答によれば,第1囘の浪3時4・5米;第2囘3時10分,5・2米;第3囘は時間不明,2囘目のよりも小さかつた.浪の主力は第2囘目で,津浪の來る直前には潮が3囘とも急にザアザアと川鳴の樣に澤山引いた.
津浪襲來の直前普通干潮の數倍も干潮せりと見る内に大浪となり押寄せ來る.海は次第にモクモクと盛上る樣に増水して陸地へ上つた.2囘目,3囘目も同樣なり.
ドーンと爆發の如き音津浪より30分位前に聞ゆ.地震より5分位後なり.山の方でも音せりと云ふ(多分反響ならん),方向は東微北又は東南沖合であつた.又津浪と共に東南より浪の上にかたまつて青い光がギラギラと押寄せた.井戸水は(津浪後)1週間位涸れた.又他の井戸は津浪後3〜4日經て減水して淡白色に濁つた.津浪後蛉蜊多數腐敗した.
(明神崎) 大谷より明神崎に至る.明神崎附近は椿甚だ多し.明神崎では浪の高さは6〜7米,Uの側では8米となつており,斷崖の樅の小木は枯死してゐた.
明神崎,館鼻崎間は小松林を押倒して津浪浸水し大谷の方へ濫入したらしい.
(館鼻崎) この近くでは浪高は7・7米と出る.Uの側は矢張り外洋に直面してゐる爲だらう浪高が高い.館鼻崎を廻れば大谷の海水浴場がある.この附近での浪高は4・5〜4・7米となり急に低くなる.
(日門) 道路は海面より約10米位の高所を走つてゐる.海岸の絶壁の所で浪高を測ると6・2米となつた.道路と海との間に人家1軒あり,其處にて當時の模樣を聞取るに大きな地震後間もなくザーツと音して灣の中程まで潮引きたる故これは津浪と思つて小供等を呼覺して逃げ仕度をして居ると津浪が來たので跣足で逃げた.其後の事は判明せぬ.
日門の灣は隣の旭崎より明神崎を含んだ大谷の灣と殆んど同じ形で半圓形をなしてゐるが,大谷の灣に比して,概して浪高は低くなつてゐる.
(前濱) 海岸石濱にて傾斜割合に急なり.流失1戸,浸水數戸.此附近海岸波高4・2米あり.第1囘の浪3時05分,第2囘3時08分,第3囘3時12分にして浪高は通常の滿潮より約3米高し.浸水田畑の土の流れ具合より推測するに去る29年の時の浪は押浪も引浪も實に強かりしも今囘のは押浪強きも之に比して引浪は幾分弱しと云ふ.此の引浪弱き爲と當夜は南の微風ありし爲流失物は沖合に流れず日出迄には大既岸に漂着せり,但し漂着物は何れも同部落なるも幾分北の方へ漂着せりと.
津波の前日午後1時頃南西沖合にて雷聲1囘聞ゆ.津浪の前に大きな音が聞えた.當時の空模様は風なくどんよりと曇りて厭味を帶ぶ.雷聲は底鳴の樣に聞えた.空は一帶にどんよりと曇り無風鬱々たる日に雷あるときは必ず天變ある事多しと云ふ由なり.津浪前の地震で外へ出たときは空は氣味惡い程澄んで星が異樣に輝いてゐた.
津浪後2〜3日間は潮の干滿に不拘(海水上下し)小さな津浪と思はれる樣なのが4〜5囘あつた.數日前より井戸渇れたりと云ふ.
(赤牛) 津浪の大なるものはl囘のみであつた.津浪の前に大きな音響を聞いたが光り物は見なかつたさうである.
御嶽村(宮.本吉) Map. No. II, 50
(大澤) 大澤は登米澤と共に近在での木材集散地らしく大澤海岸(1/50,000の地圖の大澤の東)には巨材が打列べてある.海岸は漬物石位のゴロゴロした石多く急傾斜の荒濱で平常でも波は高い.浪の引く度にガラガラと云ふ物凄い音を立てゝゐる,海岸の木材は津浪前からあつたのださうだが1つも流失しなかつたのだそうだから津浪の高さは約6・0米であらう.
(風越) 風越及登米澤海岸は澤庵石大のゴロ石の荒濱になつてゐて非常な急傾斜で海に入つてゐる.背後は直ちに急な山腹となつてゐる.崖になつてゐる所もある.山腹に所々津浪の痕跡を認める事が出來た.其の高さは大凡5〜8米である.何分海岸がゴロ石の急傾斜故浪が非常に荒くて海に近寄れないから0・5米は誤差があるかも知れない.
(登米澤) 登米澤入口は小さな谷になつてゐて木馬道(木材搬出の爲の橇道)がついてゐる.此處に小杉が拾數本樹の頂だける殘して下枝は皆潮をかぶつて枯れてゐるのがある.其れで津浪の高さを測ると6・8米.津浪は海岸から150米も陸地ヘ入つたらしい.
小泉村(宮.本吉) Map. No. II. 50. 51
(小泉) 小泉川の海に注ぐ所は長さ約1粁の松原になつてゐて,前面は砂濱,背面は沼澤地を狹んで田圃である所,高田松原と同樣な地形を爲してゐる.
高田松原と松の年齡は略同樣であるが,高田松原が下生皆無であつて町民の好遊歩場であるに反して此處は小松や磯狎れの孫生曾孫生が密生してゐて一寸原生林の趣あり.松原の中は多くは歩かれない.然し津浪は此等下生の十重廿重の防寨を押破り押倒して裏の沼や田に押込んでゐる.
津浪の高さを松の枝にかゝる海草や松枝の損傷等から測定して見ると北の方程高く南の方程低く約2米程の差がある.
(二十一濱) 小泉の東南約1粁,1/50,000の地圖の二十一とあるは廿一濱の誤である.地圖で見る樣に恰も唐丹村本郷に似た然し幾分本郷より谷が廣い地形を爲して,平坦な谷底を有する長い谷に發達した部落である.津浪は谷に沿つて約600米も浸入し,流失17戸,死者15名を出してゐる.
義足をはめてゐる青年に當時の模樣を聞くに,「2囘目の地震と共に東北の方角に當つて,大砲でも打つた樣な重苦しい音がし,間もなくゴーザーザーといふ音と共に第1囘目の津浪が來た.此の津浪で一番海に近かつた2〜3軒がバリバリ壞される音が聞えた.私は不具であるので早速逃出して(彼の家は橋の袂にあつた)一町も行くと第2囘目の津浪が來て私の家もすつかり流さてれ了つた.私は杉の木にしつかひつかまつてゐて流される事を逃れた.此の2囘目の浪が一番大きかつた.親爺の死體は此の沖合で上つたが,舎弟のは歌津村の石濱の崎ヘ行つてゐた」とのことである.光り物は別段に見なかつた由である.
1/50,000の地圖の二十一の十の字の縱棒の下に金比羅樣や湯殿山等の碑が5〜6建つてゐる所がある.此處で津浪の高さを測るに6・0米あつた.
(今朝磯) 家の敷地何れも高く6〜8米あり,海岸は斷崖にて小舟の置場にも困る程なれば,津浪にては小舟少し流されたる外には一向に被害なし.海岸の崖にて浪高4・2米.
(藏内) 海岸に沿ひたる小部落,海岸に2米程の護岸あり.浪高4・4米程にて大凡の家は皆浸水せり.
歌津村(宮.本吉) Map. No. II. 51
(港) 附近地勢は非常に細長い谷で入口狹く奥却つて廣し.津浪の勢力比較的緩なりしが如く浸水の割に流失せざる家もあり.海より衝當りの崖にて浪高3・4米.第1囘の浪2時58分,4・0米;第2囘3時00分4・8米;第3囘不明.
第81圖
第82圖
津浪襲來の模樣は下の方からモクモクと盛上る樣に來た.そして近海底の砂を多量に運んで來て浸水區域一面に多い所で厚さ30糎位,少ない所で7〜8糎平均に砂が置き去りにされた.
同夜は丁度小雪3糎位あつたが波が押寄せて來る時に雪を解かして來るのでよくわかつた.堰き止めてゐた水が水量が増した爲1度に堰を崩して押流して來る樣に水がモクモクと流れて來る樣であつた.
第2囘目の大浪によつて家等破壞されて山手に山積されたそして引浪がさらつたもの丈沖ヘ流失した.
津浪の20分位前遠方で大砲でも打つたかと思はれる音が2囘聞えた.先の音は強く後のは弱かつたといふ事である.但し山手の人は明瞭に聞いたさうだが學校では聞かなかつたさうである.又2時40分前後に東北方震源地の方向の空がサツと青白くなつたのを見た人がある由.
(田ノ浦) 入江の奥に發達した平坦な廣き谷で一面田圃である.家は谷の北側稍小高い所にあつたもの多く,大多數は庭に浸入したる程度なるも田圃と同じ水準で海岸近くにあつた家及納屋は流出せり.倒壞流失26戸,死人29人あつた.
津浪の高さは海岸にて5・0米.海岸より少し内にて4・5米であつた.
此處で聞くに津浪は浪の上に浪が重なり合つて水嵩がどんどん増して來るのであると.津浪の前約30分に音が聞えた由.光り物を見た者もありと云ふ.
(石濱) 海岸は小石の急傾斜の濱で成る程石濱といふ感じがする.船を修理してゐる老爺に當時の模樣を聞くに津浪は最初のが一番大きくドーツと勢よく打付けて來たさうである.地震後20分頃大砲の樣な音2囘聞えたが第2番目の地震後忽ち津浪が襲つて來た云々.
當部落の漂流物中下手半分は沖へ運ばれ,山手にあつた家や其他の物は山手へ運ばれてゐた.
津浪の高さは異状に高くl0・5米あつた.
(名足) 強い地震後約25分,2番目の地震の後1〜2分にして津浪襲來す.津浪襲來の模樣は沖の方からモクモク盛上つて押寄せて來た.津浪の來る10分前にサーチライト状の青白い光が上に昇つた.大砲の樣な音を聞付けたものもあり.又言ふに地震直後に薄赤い光見ゆ,又津浪前に連續的に大きな音がした.第2囘目のが一番大きかつた.1日程前より井戸減水せり.
海岸に鯨の頭骨砂の中より半分露出して居る.今度の津浪にて洗はれて出たるものなりと.29年の津浪の際にも鯨骨現れたりと云ふ.
津浪の高さは石濱より名足に下る口にて6・2米あつた.
(中山)(馬場) 津浪は大3囘で第2囘目のものが最大であつた.津浪は潮の花咲かずに黒く盛り上つて押寄せて來た.別段に大砲の樣な,或は雷の樣な音も聞えなかつた又怪しき光を見たる者もなし.但し當時沖に居つて陸の方で見慣れぬ光があるのを見掛けたる者ありと云ふ.津浪の高さ中山にて6・0米,中山と馬場の間通稱牛コロガシにて8・2米,馬場にて5・0米.
(泊) 地震後30分程にて大きな音ドーンと轟く,其後20〜30分にて津浪襲來す,津浪は2度目のもの最大であつたといふ.
(管ノ濱) 管ノ濱は平坦なる海濱にして道路と海面の高さは餘り差はない,此の道路と濱との間に田圃及製造工場1個あり.
製造工場は周圍に高さ1米位の上に小松を植えたる堤を周らす.製造場で聞いた談によると,
2囘目の地震の直後に津浪が來た.其の前に大砲の樣な音が1囘聞えて來た.海上が津浪の時は赤黄色に光つてゐたといふ.
津浪の高さは小松の堤防を越えた程度で3・2米位であらう.
(伊里前) 伊里前町は伊里前川北岸に沿つて高さ約3・6米の堤防あり,津浪は此の堤防を2ケ所破損し少々之を越したれども町家の浸水は大した事なし.
橋1個流れて約200米移動せり.
津浪の高さ宮下の崖にて3・9米,堤防にて4・0米.
(寄木) 地震後14〜15分でワラワラと音して津浪が來た.當夜は星の光が特に強い金光りす.津浪前に雷又は大砲の如き音聞えず又別段に光り物をも見た事なし.津浪の囘數は大なるもの3囘小は無數なり.而して津浪は引潮を以て初まる.井戸の變化せるものなし,舟は大部分沖へ流さる.
(韮ノ濱) 地震後20〜30分頃ゴーツと沖鳴して引潮となり後津浪來る.津浪は第2囘目のもの最大にてヂワヂワと増水して來た.津浪の爲漸く床とスレスレ位に浸入す.高さ2・9米位なり.大砲の樣な音を聞いたと言ふものもあり.
韮ノ濱海岸の石垣,スレート石の中にアンモナイトの化石あり.
志津川町(宮.本吉) Map No. II, 51. 52. 53
(荒戸) 2度目の地震後見る見る内に津浪襲來す.即ち最初の強震より40分後であつた.津浪はジワジワと盛上つて前後4囘來た.第2囘目のもの最大で,ノンノンノン(方言水の流れる樣)とやつて來た.又或る人の言によれば津浪は最初に潮が滿ちて來る時の樣に小波がヂワヂワと來て,それから約2米位後方に高さ2・0〜2・5米位の大浪が小波に乘つて滑べる樣に來た.これは各囘共同樣であつたさうである.津浪より35分位前に南々東沖合にゴーゴーといふ音(餘り強いとは言ヘない)聞ゆ.又光り物南方沖に青白く強い光に見え可成り長く光り續く.第1囘浪3時02分,3米;第2囘浪3時26分,3・6米;第3囘浪4時05分,2・4米.大なるもの3囘小5囘といふ.
(平磯) 津浪は數囘15分置きに襲來した.初めの津浪は地震後30〜40分であつたらう.大砲の樣な音は別に聞かなかつた.津浪は丁度川の堤防が切れた樣に來た.但し最初に引潮あり.平磯にては別段井戸の變化もなし.南々東の沖に青い光を見たる人もあり(午前2時50分頃)多分夜光虫ならんと云ふ.當所の海は夜光虫が多いと云ふ.
(袖ケ崎) 別段音は聞かなかつた.浪の崩れるのより外には別段光り物を見なかつた.津浪は3度目位までは小さかつた.
(志津川) 志津川は志津川灣の一支灣に沿ふ町であつて.此の支灣は遠淺である.町の海岸には平均水面上約1・2米の護岸あり.1/50,000の地圖の志津川町の町の字の左に250米角程の埋立地あり.此の高さ平均水面上1・4米程である.更に町外大森崎に陸地と島を連絡する堤防を作りつゝあり.
第83圖
津浪は海岸護岸附近にて1・4〜1・5米の高さで埋立地は全部浸水し,護岸少々破壞せらる.埋立地に入る手前のところは梢々地盤低く,此處に浸水家屋十數戸あり.津浪の高さは1・3米であつた.家の床上0・5米程浸水したるものあれども一向に破損したう所なく,緩漫に浸水したる樣に見ゆ.津浪は此處より川筋を傳つて更に奥に,町外新井田に至る道路の西側田圃中に浸水した.浸水距離海岸より約600米である.津浪は更に海岸通り幅約100米及町の西端の川に沿ひて約500米程奥まで浸水せり.
志津川松原(中ノ瀬町の海岸)にては波高1・7米あり.地震直後青白色の怪光を認めたものがある.地震後約20分大砲の樣な音が1囘した.其後約20分で津浪襲來す.
戸倉村(宮,本吉) Map No. II, 53. 54
(折立) 折立入口(志津川より)の海岸側の家少々浸水し海岸にある工場は浸水小破した,海岸の堤防所々決潰す,浸水は學校の裏手までであつた.浪の高さ約2・7米であつた.
此處では津浪は夜明までに總計l0囘來たが最初のものは最大で次第に小さくなつた.但し夜の明け方一寸大きいのが來た.大砲の樣な音も聞えず.光り物もなかつた.井戸にも變化なし.
(波傳谷) 波傳谷は松崎の東側及西側にあり.西側にては田圃に少し浸水し,又水戸邊在方面へは600米位浸水し小流中に漁船を押込んだ.浪高2・0米,東側にては浪高稍々高く2・8米あり.津浪の前大砲の樣な音したる由.津浪は夜明までに6囘あり.6囘目が最大であつたと云つてゐる.津浪の押寄せる時はゴーゴーと音がした.又津浪の水は大層温かであつたと言ふ.又植物には毒なものを含んでゐるのか杉其他の樹が平素鹽水がかゝつても枯れないのに津浪をかぶると枯れると言つてゐた.
(津ノ宮) 津ノ宮海岸は稍々急な濱で浪高は3・5米,道路に沿ふ海と反對側にある.家に浸水したものがあるが一般に地盤は高い.
(瀧濱) 一般に地所低く殊に地圖の瀧の字の所低し,此處にあつた家へは甚しく浸水した.浪高は2・3米.
津ノ宮,瀧濱兩部落共に大砲樣の音のみ聞きたりと言ヘども其他の事は一切不明なり.
(藤濱) 幅狭く且傾斜急なる谷に沿ひたる部落である.津浪は道路(海面より4・5米距離50米)を越して向ひ側の雜貨店に吹付けた.其の高さ海面上5・5米.店にては床上約0・5米位浸水した.
此所では地震後30分位後に津浪襲來し,たゝき付ける樣に來た由.其地は就寝中にて一切不明なり.
(長清水) 稍廣く平坦なる谷に沿ふ部落で津浪の高さ約5・0米あり.道路より海岸に近き所の家は殆んど全滅した.但し部落の一番西北の家は土地高き爲海岸側にある臺所床位まで浸水しただけであつた.
地震後約20〜30分頃飛行機の樣な音がし出し段々強くなり.終に雷の如き音となつた.そして津浪が襲來した(ドンといふ音だつたと言ふ者もあり).第1の津浪後約10分位にて第2の大津浪襲來せる由なり.
十三濱村(宮.本吉) Map No. II, 53. 54. 55
(小瀧) 小瀧は海岸から少し離れた部落で昨年11月の火災で部落全燒し,未だに昨日燒けたかの樣な慘状を呈してゐる.小瀧濱は小瀧の少々北,地圖に記載してある小徑を海の方ヘ下つた所である.海岸は約30°の急傾斜を爲してゐる.
津浪の高さは側壁で7・8米であるけれども小灣の最奥では9・6米となり納屋2棟は0・3米餘浸水した.
津浪當時の模樣を聞くに,海上遠くダイナマイト樣の音がして,東南海上に光を見た.津浪は第3囘目のものが最大であつた.津浪は奔流の如くに押寄せたといふことである.
(大指) 海岸の小平坦地に密集してゐる部落である.海岸に一番近い家は骨組丈夫で且地所及床が高い爲大した事なく,其の前の老朽家屋(2階建)は階下一面に浸水し階下は殆んど破壞された(但し倒壞するに至らず主に浸水の爲戸,障子,襖を拔かれたのである).津浪の高さは3・8米であつた.
住民に當時の模樣を尋ねるに東南海上に當つて電光(稻光り)があり,後同方向から大砲の樣な音が聞えて來た.地震後10分位にて津浪押寄せ浪は何囘も來たが囘數は不明であるとのことである.
(相川) 追波灣の北側の入口にある小灣の奥にある部落で地圖記載の小径の里道に合する所に2階建の家あり,前面及側面に杉木立がある.此の家は1階の天井まで浸水したるも倒壞せず.津浪は此處にて5・5米あつた.
第84圖
當時の模樣を聞くに地震は上下動が激しくて寝床から起上らうと思つたが起きられなかつた.此の地震後約10分にて搖返しがあつた.其の後10分程するとドンドンとダイナマイトの樣な音が連續して2囘聞えた.其後20分で津浪が襲來した.浪は3つ重なつて眞中のものが最も大きかつた.地震の最中に稻妻の樣な光が海上に當つて見えた.津浪は海岸より約300米浸水せり.
(小泊) 津浪は5・0米あつた.
(外濱) 海岸道路に沿つて2・0米位の高さの護岸がある.道路上にやゝ浸水したるかと思はれる位にて被害皆無である.
(長鹽谷) 道路から海岸までは廣い砂濱である.道路は海面より約2・8米の高さにある.此の道路の海と反對側の地盤は0・3米位低くて家屋がある.この家は床下に浸水した.尤も此家のすぐ脇には小川があつた.津浪の高さは海面上3・2米.地圖の警報標の印のある所の2階家屋は道路の反對側に流失し階下は破壞流失して2階が1階になつてゐた.これは小事務所風の建物で元來構造が弱かつたらしい.
(月濱) 殆んど浸水せず,津浪は地上に少し上つた位である.浪の高さは2・0〜2・5米位である.
宮城縣桃生郡
十五濱村(宮.桃生) Map No. II, 55. 56. 57
(船越) 船越の部落は海岸にすぐに接近して(10米位汀線より隔るのみ)家屋あり浪高もAの所にて3・7米,Bにて4・0米を測定し得,地上よりの浸水にてはA1・8米,B2・5米位なれども家屋の倒壞せるものなく,破損の程度割合に輕少なり,たゞし海岸にては柱のみ殘して家の内を洗ひ流されたるものも無きには非ず.家屋一般に柱太く頑丈にして且規模大なるもの多き爲か,又はCの防波堤のありし爲か.A(パノラマ寫眞を撮した所)の家は地盤他の所よりも約0・5米高く海面上(平均水面上)2・0米位あり,家は殆んど破損なし.
地震直後大砲の如き音を1囘聞きたり其後約15分にて津浪襲來せり.金華山の方角に當つて光り物を見たるものあり.津浪の囘數其他不明.地震の直前に井戸涸渇したるものあり.第1囘3時30分,2・4米;第2囘3時35分,3・6米;第3囘3時40分6・0米.
第85圖
汀より10間の地所に住む者が實際目撃せる實話(船越部落武田榮左衛門(48歳)の談),「午前3時の強震に起床し焚火をして就蓐せずに居りました處戸外にて津浪だといふ2〜3人の聲を耳にし戸外に出でゝ汀に立つて沖の方を見た.然るに暗夜なりしも音もなく沖の方にある小島を見れば平素より海面が非常に高く見えたあの黒く高く見えるのが何だらうかと考へてゐる内(1分か30秒位と推定す)に自分の立てる汀の水が沖に向つてガラガラと引いた(ガラガラは砂礫の音)其の引方が生れて見た事のない程沖に引いて行つた.汀の小舟が引かれて行き其の高さが汀の家の屋根よりも高い位に沖の方に見えたので此は津浪だと感じ飛ぶが如くに家内に入り家族を起した時はもう既に浪が戸を破り家内に入り家族は膝切り水に入つて逃げた.裏山に登つてからガラガラと家屋が壞れて沖に引かれ行く音が實にすさまじい有樣であつた.其後約5〜6分置き位に右の樣なすさまじい音が繰返した.」
漂流物は沖へ出ず灣内に止る.
午前3時の地震後約10分ザーツと云ふ風の吹く樣な音が聞えた其の後約10分で又前と同樣の音が聞えた.其の後,津浪の來襲より5〜6分前に大砲の樣なのが唯l度ドウツと聞えた其の方向は東北の方.光り物に就いて見た者なし.
(荒屋敷)唐丹村の本郷式の細長き谷にして谷底の傾斜も緩なり.此處は平素より波荒くして附近の巡航の汽船も寄港する事稀なる由なり,外洋に直面せり.
津浪は海岸より約500米浸入して海岸附近の家(圖の道路より海へ近き家)は礎石のみ殘り皆流失し,中程の家は半壞といふ位に破壞す(此の邊にて一番浪の勢強かりし樣なり).全部落28戸中23戸流失,死者90名.山手に近い處にては地震の後大砲樣の音を聞きたるものあれども大抵は平素波荒き關係上聞かざりし由なり,津浪は最初のもの最大にして之にて皆やられたる由なり.數人のものに聞直すに不意に津浪襲來して逃げる間もなかりし故,當時の模樣の觀察など思ひもよらずと口を揃へて言へり,唯一度にて山崩に遇ひたる如くに突然に家屋が破壞倒潰したものらしい.大風の樣にたゝき壞されたとも言ふ.波高A點で1l・4米,B點大椿のある所で12米を計る.C點の大岩水面上7・4米あるものは水をかぶり,岩上に砂を殘してゐる.
(大須) 部落は全部高さ8米以上の所にあり,住家にて浸水せるものなし.1番海岸に近い所に納屋あり,土間ヘ少々水つく,其の高さ海面上3・8米なり,被害なし.
海岸は部落よりの出口を除く外皆斷崖なり,部落の出口はやゝ崖ひくゝ海中に突出して防波堤あり狭く入江を作る.海中暗礁多し.地震後30分にて津浪來る.津浪は第2囘目のもの最大なりし.津浪は上げ潮の急激なるものと同樣にして別段逆まいては居ない.但し下の方が少々まくれて押寄せて來た.地震後北の方に當つて大砲の樣な音が聞えた.
(羽坂) 第1囘浪3時30分,4・0米;第2囘浪3時37分,4・0米;第3囘浪3時45分,3・6米.大3囘,小3囘,
津浪の寄せて來る前に潮がドツと引き,それからモクモクと盛上る樣に來た.岩の附近は渦卷いて丁度繪本にある鳴戸海峡の潮の樣になつた.斯樣にして滿ちたり干いたりして浪が寄せなくなつても渦卷をしてゐた.家屋の流失なし.舟のさらはれたるものは灣の中程から沖の方を漂つてゐた.地震後大砲の樣な音がした.これは津浪より15分位前で方向は南方沖合,強さは野砲の空砲位であつた.其他空模樣常と變りてどんよりし,日入,月入が至つてボンヤリして居た.又海水の流れが南の沖に非常に早かつた.
(桑ノ濱) 地震後約10分にて津浪來る.地震直後に海上に火事の樣な火を見た.地勢.部落の最低地盤は海面上2米位なれども浸水家屋なく,寫眞中央の家の前の井戸まで潮上りしのみ.浪高2・3米.灣内に臨むを以て浪平素より靜かにして津浪も亦低し.
第86圖
第87圖
第88圖
ワキ
( 分 濱) 津浪の高さ約1・8米,海岸に近き所少々浸水したる程度,多くの人は津浪も知らざる如し.但し地震前より井戸の水全部濁れりと言ふ.
(立濱)(大濱) 何れも雄勝灣に臨む小部落にして地盤水面上2・0米内外にして浸水高も亦2・0米なるを以て海岸に一番近き納屋等に少しく浸水したる程度,被害なし.
(雄勝) 雄勝は雄勝灣の最奥部の海岸に發達したる部落にして全戸數約400.背後は直ちに山地となる.但し灣奥に平坦なる畑地海より約1粁位發達せり.
被害程度はBの邊最も甚しくA,Cと順に被害減少せり,A及Bの邊にては倒壞流失せるもの多くACにては道路海岸側の方に流失せるもの多く道路の反對側(山側)は半壞乃至浸水程度なり.流失,倒壞せるは平家建の小家屋多き樣に思はる(2階建は割合に丈夫).郵便局,役場附近は家の地盤道路面より高くなつて居り,浸水程度も比較的輕微であり家屋の被害なし.
Aの所に(寫眞)前(道路を隔てゝ)及左右の家は倒壞したり流失したりしたのに倒壞もせず殘在して居る家があつた.但し家内は柱及壁のみ殘して建具等大部分流失,家は山手へ20〜25糎押し付けられて移動,椽側床下の柱挫折して居た.浸水した高さは異状に高く座敷の鴨居上まで(寫眞臺所の入口上の欄間の明障子に浸水の跡あり),地上約2・6米.こんなに高くまで浸水して倒壞せぬのは珍らしい.家が柱貫など太くて頑丈で重かつた爲めと裏が直に山であつた爲水の流れが弱かつた爲か.一般に見て雄勝は浸水の高さが大でも倒壞しない家が多い.
地震後大砲の如き音2囘聞いた人あり,津浪襲來の時刻は3時12分で第1囘の浪が最大であつたと言ふ.家は皆第1囘目の押浪にて山手に押寄せられ倒壞し其後の引浪にて沖へ流失したのだと言ふ.津浪の來方は今度のは床下から盛上げて來た.明治29年のものは雨戸ヘ打付けて來て雨戸を脱したが今度のは雨戸は其儘で床板がはがれて來たと言ふ.5〜7分置きに津浪が來た由,大3囘.
石卷町(宮.桃生) Map No. II, 64.
當町は地震のため土藏の壁落剥したものが數戸あつた程度で外觀上に表はれた被害はない.
第89圖
津浪の翌日石卷警察署を訪れたるも署員の大半被害地に赴きたるためか情況等知る由もなかつたが石卷町の津浪被害は全然無かつたことだけは知り得た.
北上川河口の改修事務所の檢潮儀は3時15分頃0・10米の緩昇で始まる津浪の襲來を記してゐた.
尚ほ附記して置くのはこの改修は鹿又附近の灌漑排水のため行はれてゐることである.津浪のあつた時刻に大砲のやうな音を聞いたといふ者もある.
宮城縣牡鹿郡
女川町(宮.牡鹿) Map No. II, 57, 58.
(指) 被害は少ない,浸水高海面上2・5米位なり,第1浪3時05分,1・8米;第2浪3時20分,2・1米;第3浪3時35分,1・5米.
(御前) 御前灣の奥の部落である海岸線に並行した道路を越して津浪が田圃を濕してゐる.棧橋は半壞,浪の高さは2・5米位に思はれた.第1囘浪は3時05分に來り高さ1・8米,第2囘目は其後15分後3時20分に襲來す,高さ2・1米,最大なり.其後又15分して第3囘浪來る1・5米,大3囘,小20囘程.3時00分頃40米も潮が引いた,すると潮の満ちて來る樣にヂワヂワと津浪が來た.各囘共同樣.
津浪の1週間前から井戸水濁り且つ半分位に減少した.
(桐ケ崎) 部落全部浸水,浪高2米位なるも被害なし.
(石濱) 女川附近にて一番被害多し,スレート屋根1,藁屋1戸倒壞せり.浸水高地上1・5米.海面よりは3米.海面より割合に急傾斜にて家の敷地に到る,護岸なし.家は浮いて漂流せり,壁の下部洗はれて小前をあらはせるもの多し.家屋は殆んど全部床上以上浸水せり.
(宮ケ崎) 宮ケ崎部落はスレート石塊をつみたる護岸工事あり,護岸工事破損せる所あるも大したことなし,石濱に至るまで道路の破損殆んどなし.
(女川) 此の町を訪れたのは津浪の翌日4日の朝であつた.町の人々は家財道具の運搬や掃除でごつた返してゐた.家々の壁や襖の水浸しになつたのが町の到るところに見受けられた.この濱での津浪の高さは2米位に思はれる.女川灣に沿つた女川の海岸一帶は比較的緩漫に津浪が押寄せたと云ふ話であるが海岸向のガラス障子などは水浸しになつただけでガラスも壞れず丁度大水に見舞はれた樣で破壞されたものは僅かであつた.當時避難民や見舞客等入亂れて町を行き交はして非常に混雜してゐた,附近の舟は津浪のため被害を受けしため舟の數少く,定期船もこの混雑では何時出るか全く當もなく待たなければならないので舟で調査することは到底望まれなかつた.神社前の通は土盤も低く兩側の民家へは泥土が流入して慘澹たる有様を呈し道路も泥濘にて歩き憎い.魚市場の横の溝には船が流れて來て丁度船渠にでも入つた樣に止つてゐた.郵便局は特に地盤低く土間上數十糎浸水した模樣である.
津浪直後に此の町の調査をした時にはあの混雜のため土地の人々の話を聽取ることが出來なかつた,2囘目にこの町を訪れたとき某校の生徒に當時の模樣を話して貰ふことが出來た,それによると津浪は大きなもの3〜4囘で何れも高さ3米位.小さいものは無數あつたさうである.
又他の人によると初め3囘強くその2番目に來たものが最大であつた.そして浪の週期は初は8〜10分,後になると浪の高さも減じ週期は10〜15分位になつた.
(高白) 當部落では2・0米位の高さに水が押寄せたらしい.
(江ノ島) 本島(江島)の海岸は急傾斜を爲し家屋は島の中腹にある.浸水區域も極小部分で家屋の流失はなし,併し海岸に繋いであつた舟十數隻流された.
第1囘浪2時50分,6・0米;第2浪3時10分,3・0米;第3浪3時30分,1・5米.大きなものは3囘限りであつた.或人は4囘ありたりとも云ふ.
津浪は潮の滿ちるが如くジワジワと來た.通常の潮汐と異なる所を擧げれば其のジワジワと來る中に畠のウネのやうな小さい波が幾つもあつたと云ふ.而して津浪の引く時は急激だつたと云ふ.各囘共同樣であつた.津浪の20〜30分位前に大砲の如き音東東南の方向に聞えた.夫はボンとボンヤリした音であつた.又2時30分頃南東東海上に廣く赤くボーツと大きく光りが見えた.津浪數日後に井戸濁る.前日(2日午後6時頃)遠くて大砲を打つ如き音聞えたりと云ふ.墓石地震の爲移動す.
第90圖
第91圖
(出島) 地震後30分位にて津浪襲來す.津浪は大なるもの15分置きに3囘,其の内最大な浪の高さは海面より2・2米,夜明6時頃やゝ大なもの1囘ありたり.光,音等特種なる現象を見聞したることなし.津浪は急激に潮の上げて來るときのやうであつた.
大原村(宮.牡鹿) Map No. II, 59. 60. 61. 62
(寄磯)(前網) 急峻なる階段状地形に寄る部落.海岸に2・5米位の護岸あり.家屋には殆んど浸水せず.浪高多分2・6米位ならんと推測す.
(鮫ノ浦) 鮫ノ浦灣の小支灣に發達せる細谷にある部落.津浪の高さ4・8米程にて谷に沿ひ田圃へ500米浸入す.引潮にて西側の住宅地を掃へりと云ふ.
(大谷川) 谷川の直北にある細長き谷にある部落.海岸に高さ水面上約4米幅上端3米程の堤防あり内側は田圃にして北に偏しやゝ高き地盤に住宅あり,堤防中央部全潰.田圃へ約500米浸水せり.津浪の高さ5・0米なれども家屋は大低床下浸水程度なり.津浪は地震後30〜40分で襲來し大3囘といふ.
(谷川) 鮫ノ浦灣の奥の平地に發達した部落で,海岸は砂濱を爲し住宅地との間に堤防あり.高さ水面上約3米,幅は上部で3米程ある.其の内側は一面田圃で一部に住家が1ケ所に櫛比してゐる.津浪は住宅の海岸寄りの約3分の2を掃失し,北側の田圃中には海岸より約500米程も浸入し小舟を田圃中に置去りにしてゐる.堤防は數ケ所決潰流失した.Aの位置にある渥美といふ家は周圍の家皆倒壞して流失したにも不拘小破したるしみで殘存してゐる.構造頑丈なる爲か,但し家の前の物置などは皆流失した.(Bの位置にて矢の方向を向きて取りたる寫眞に見るべし.)
當の渥美氏其他數人に就き聞くに津浪は地震後約30分に來り前後約6〜7囘襲來したが,第2囘目のものが最大であつた.(第1囘目が最大であつたとも言ふ)津浪の直前東の方に當つて大砲の如き音2囘せる由.浪高は第3囘目よりはずつと小さくなつたと云ふ.渥美氏の家で浸水高を測るに5・0米(屋根裏2階の床まで)津浪の週期は約10分.逆卷いて水鐵砲の如く來れりと.
(小淵) 網地嶋に向つて開いた細長い淺い灣の奥の小平地にある部落で構への割合に多きな家が多い.浸水高は此の附近としては非常に高く,灣の突當りで2・9米の所に浸水の線をくつきり殘して土壁を有する物置があつた.此線は地上よりは約1米である.此の物置を初め其他の住宅の床上まで浸水したもの數戸あるも何れも損せず.救濟金を頂き勿體ない樣な氣がするなどゝ云つてゐるものもある.浸水は割合に緩であつたらしい.土民に尋ねると地震後40〜50分で海水200米余りも引けた(海淺く深さにて2尋位)其後に津浪が來た.津浪は水の頂上が滑る樣に早く來るのであると言ふ.津浪の囘數は6〜7囘で3囘目だか4囘目だかゞ最大であつた.6時頃となつて大きなのが1囘來た.大砲の如き音を地震後15分頃聞いたものあり.
(大原) 郵便局前の食品店にて聞くに津浪は都合3囘來たが2囘目のものが最大であつたと云ふ.津浪の高さは2・1米乃至2・3米にして護岸を少しく越して海岸側の家では床下に浸水するかせぬかの程度であつた.
(給分) 大原に殆ど同樣なるも道路の海の方の側の特に低いところに家2〜3軒あり,こゝで床上0・6米まで浸水した.但破損した所はない.浪高は2・1米であつた.
鮎川村(宮.牡鹿) Map No. II. 62. 63
(山鳥) 急峻な崖に寄り海面から20米の高さに渡船切符賣場がある.海岸にはコンクリートの高さ2米程の桟橋があつた.其の袂の崖に植ゑられた小松に浪に洗はれた痕があつた.然し津浪の高さは詳かではないが多分3・5米位であつたらう.渡船の船の船夫に尋ねたるも當時津浪を知らずに寝てゐた由なり.
(鮎川) 海岸には海面上2・5〜2・8米程の岩壁あり,其の中央部より稍西寄りに港川の口がある.津浪の高さは棧橋附近で3・2米(此處は異状に高し),港川河口で2・3米.
Aの捕鯨會社の工場は浸水して半壞,Bの橋の袂の家は地盤低く且河に接せる爲浸水多く床に上る.其他には浸水家屋なし.(第93圖參照)
土地の者の言によるに,地震後約40分にして津浪襲來す.初め引浪にて次に押寄せて來る.夜明までに7〜8囘襲來す.3囘目のもの最大なりと云ふ.
地震後20分程して大砲の樣な雷の樣な音を聞いた.方向東南海上.光り物は見ざりし由.
第92圖
(金華山) 山鳥よりの船のつく所にコンクリートの棧橋あり.其の袂に渡船事務所がある.津浪は事務所前の道路まで上つたと云ふ.其の高さを測るに水面上3・6米である.津浪は數囘襲來せる由なれども囘數,當時の模樣等不明である.金華山燈臺は海面上高さ30米程の斷崖上にあり.
燈臺看守に就き當時の模樣を聞くに2時30分強震があつた.燈臺の廻轉装置の水銀溢出して,レンズ廻轉不能となる.朝になつて無電により津浪のあつた事を知つたが當時當番で起きて居た人達は津浪らしい物も認めず.又別に特別な音や光も認めなかつた.燈臺下の斷崖は平素でも非常に波が荒いから判らなかつたのであらうと云つて居た.燈臺下の斷崖を海に下つて見たが何等津波の痕らしいものもなかつた.
荻濱村(宮.牡鹿) Map No. II, 63.64
(牧の濱) 午前8時1囘高さl・5米位の浪襲來せるを認めただけである.本部落錦木トクヨの井戸は津浪前3〜4日より濁り次第に甚だしくなつたが,今までの白濁(蛤汁のような)が津浪後急に赤味を帶びた泥水になり,5〜6日飲用出來なかつた.
(小積) 地震後20分頃沖の方で大砲を打つた樣な音がした,津浪は5時頃になつて襲來したが最初のもの一番大きく3囘位やつて來た.別段に光り物には氣付かなかつたと云ふ.浪高は灣の最奥にて2・5米,小積の小といふ字の所にて2・8米,住宅に少しく浸水した程度である.午前8時頃にも襲來す.浪高不明なるも濱より6・0米(?)高き地に上る.午前5時或は8時といふと最初の津浪とすれば襲來の時間は餘りに遲過ぎると思ふ,恐らくこれは後に來た浪を見たのであらう.
(荻濱) 海岸通り,川筋に沿ふ家l0戸程床上0・3米程浸水した.津浪は夜明になつてから襲來し大きなものはで前後3囘,2囘目が最大であつたと云ふ.浪高1・8米位.
(小竹) 第1浪2時40分,1・2米,第2浪3時40分,1・8米で大2囘小1囘であつたといふ.
津浪は潮の滿ちる樣にヂワヂワ來た.各囘共同樣の來方であつた.但し其度毎に部落西南の灣口(水深普通干潮にて1米位,口廣約330米)で浪が崩れてザワザワ音がした.津浪より30分位前に爆音が北東方に聞えた.石油タンクの爆發の樣な音であつた.
仙臺市(宮.)
仙臺市にては地震の爲に電燈は消えなかつた.地震は皆屋外に飛出す程強かつた.
但し時計は止つたのもあり止らぬのもあつた.棚の物落ちた.地震終ると共に石卷方面に當つて光り物あり.色は光輝ある黄色にて少しく緑がゝつてゐた.持續時間は1〜2秒,形は横に帶状を爲す.又一般に音は聞かなかつたやうである.
第93圖
宮城縣宮城郡
松島灣 灣内何等の異状なく津浪當時の模樣等知る由もなし.
鹽釜町(宮.宮城) Map No. III, 1
鹽釜附近では表によつても知られる通り浪の高さは大體2米内外である.松島灣に面した海岸は殊に低く,別項檢潮記録によれば大體0・3米程度であつて土地の人々でも津浪の襲來に氣付いた人は殆ど無かつたのである.太平洋又は石卷灣に面して浪の高さが2米内外に及んだ部落でも,津浪の來襲を認めた人は僅少であつて住家の被害は勿論漁船の損傷も見られないのである.海岸は大體40〜50米の間砂濱の緩傾斜になつて居り,その後に砂丘があるので,2米程度の高さの浪では到底それより内陸に浸入することは出來なかつたであらうと考へられる.
七ケ濱村(宮.宮城) Map No. III, 1
(菖蒲田濱)(松ケ濱) この海岸では3米位の岸壁が築いてあるので,之を越えて部落内に浸入するには恐らく更に數米高い浪でなければならなかつたであらう.比較的多く浸水したと思はれるのは,菖蒲田濱より花淵濱に至る間の海濱の一部で,此處では砂丘らしきものはなく,波打際から100米位の間砂礫の濱でその傾斜も緩である.此處では漂流物の散亂状態から推して海濱から70〜80米は浸水したであらうと思はれるが,附近に住家がなく確かめることは出來なかつた.
七郷村(宮.宮城) Map No. III, 1
(深沼) 深沼は仙臺市の東南約2里の太平洋岸で夏は海水浴場となる.此處に於ける津浪の高さは前表の如く2米餘であつた.こゝでは津浪の來襲を認めた人々も少くない.時刻は午前3時頃と言ひ或は3時過ぎと言ふが3時過ぎといふのが多い.波打際から約100米の緩傾斜の砂濱を隔てゝ高さ5〜6米の砂丘があり,住家はその内側に建てられてゐるので勿論被害はなかつた.砂濱に海水浴用のよしず張の小屋の骨組だけが立つてゐるが,之についても殆ど損傷らしきものを認め得なかつた.海水浴の浴客用の便所であるよしず張りの小屋では内部が幾分か砂に埋められてゐた.被害といへばこの位のものである.漁船の流失等のこともなかつたやうである.
來襲した津浪は數囘といふ者もあり,3囘又は4囘と明瞭に言ふ人もあるが,其等の中のある者の如く“逃げてしまつて解らなかつた”といふのがむしろ眞相に近いのではなかつたかと思はれる.併したゞ1囘のみではなかつたであらうとは推定出來る.
宮城縣名取郡
東多賀村(宮.名取) Map No. III, 1
(閖上) 東北本線陸前中田驛から約8粁,名取川の河口に閖上の町がある.此處では津浪は3月3日の午前3時過ぎに來襲したといふことである.浪の高さは約2米と推定出來る.それは,名取川の河岸は南岸に於て石の岸壁が築かれて居りその高さは川の水面上約2米であり,津浪はこの川岸から溢れん許りの有樣で押寄せたといふことから推定出來るのである.當時河岸に繋留してあつた發動機船は數丁の上流まで押流されたと言ふことである.南岸に立つて北側の對岸を望めば,岸壁を築いてないその岸は處々崩壞してゐる様子が見える.
家屋の被害は殆どないのであるが,若し強いて擧げるとすれば,圖に示す樣に河口の砂洲に抱かれた入江の奥部に面してゐる春日館といふ旅館の床下に多少浸水した.併しそれも實際水位がそれだけ昇つたといふよりは寧ろ,泡沫の尖端に洗はれたといふ程度に過ぎない樣である.
津浪の勢力は名取川の存在する爲めに陸上の構造物に被害を及ぼす程度には至らなかつた樣にも考へられる.
宮城縣亘理郡
荒濱村(宮.亘理) Map No. III, 1
(荒濱) 常盤線亘理驛の東約8粁,阿武隅川の河口に位する荒濱村に於ける地形は前述閖上に於けるものに甚だ似たものがある.阿武隅川に沿うては高さ約4米の土堤が築かれて居り,河口には砂洲に抱かれた沼がある.たゞ,河岸に大小の松樹の繁茂してゐる點が少しく異り,村落も岸上に於けるよりは海岸から距つてゐる.津浪の痕跡としては,河原の一部にある倭松の枝に漂流物の懸つたもの及び堤防の一部が崩壞してその跡に堤の土とは全く異る砂が堆積してゐること(寫眞參照)などにより津浪の高さは2米足らずと推定される.
第94圖
津浪の來襲した時刻についてははつきりしない,午前の3時過ぎとも3時半とも言はれてゐる.又,朝8時頃にも小さな津浪が來たと言ふ者もある.この後のことは多くの檢潮記録にもあらはれてゐる樣に海面の振動がかなり後までも繼續してゐたことを示すものであらう.
坂元村(宮.亘理) Map No. III, 2
坂元村は宮城縣内で太平洋岸に面する南端の村であり,海岸に沿うて,中濱,磯濱の2部落がある.この村は,鹽釜以南に於て津浪の被害最も激しかつたところである.そのlつの理由として,海岸に堤防乃至砂丘の無かつたことが擧げられる.
(中濱) この海岸に於いては,波打際から約100米の平坦な砂濱を經て防潮休がある(寫眞參照).この防潮林の外側(海の側)に數軒の漁家があって,これは勿論海水に浸されたのであつたが,特に破損はしてゐない樣であつた.海水は防潮林を浸して,その内側の堤防迄到達した.此處に於ける津浪の高さは別表にある通り3米を越えてゐる.海岸の砂地に破船が埋められてゐるのが寫眞にも見える.
(磯濱) 磯濱部落は前述の如く鹽釜以南に於て被害の最も甚だしき處である.倒潰家屋11,半潰傾斜又は移動せるもの數棟,漁船は盡く破壞せられ,筆者の訪れた3月29日に數隻の船の修理成つて津浪後初めて出漁したといふことであつた.此處で津浪の害の甚しかつた理由の1は,屡々繰返した樣に防浪施設の無い海岸に接近して住家が建てられてゐたことである.勿論津浪の高さも比較的他の場所よりは高かつたのであるが,それだけ前述の如き状況は津浪の害力を逞うさせるのに一層都合のよい條件となつてゐる.下圖は磯濱部落に於ける倒潰家屋の分布の略圖である.これで見るやうに部落の中でもことに海岸に近く津浪の防禦物の殆どない北部に於いて6棟の家屋が全く破壞されてゐる.他に南部の小川に沿ふた所で2棟,それ等の中間で3棟となつてゐる.中間部に於て倒潰家屋の少なかつたことの理由として次のやうな事實が認められる.その1は中間部では住家が直接に海に面せず.數戸の網小屋があり,是等の小屋は土墓との緊結が比較的ルーズであつた爲めに何れも30〜40糎位陸方に移動してゐる.その爲めに津浪の勢力は幾分減殺されたであらうと思はれる.その2は,この附近(圖の×の位置)に堤防を築く爲の砂利が積んであつた.その高さが約2米で津浪の時は海水がこの砂利の堆積物の上を漸く越す程度であつたと言はれて居りそのすぐ後の家は何の損傷を被つてないのでこの砂利層は津浪を防ぐのに充分役立つたと認められるのである.
第95圖
津浪は激しいものは前後3囘來襲し,第1囘目は午前3時過ぎに來たといふことである.又,全潰家11棟の中1棟は最初の津浪で倒され,他のl0棟は2囘目の浪で倒潰したといふことである.その倒れ方も巨浪が衝突してその場に倒されたといふのでなく,家がそのまゝ流されて,松林(防潮林)にたゝきつけられて潰れたものゝやうである,
この部落での人畜の被害は,婦人1名流れてきた舟に挾まれて胸部に打撲傷を負うたものと,馬が厩舎と共に流されて防潮林に打ちつけられて死んだのと2件のみである.
第96圖
福島縣之部
福島縣相馬郡
福田村(福.相馬) Map No. III, 2
(埒濱) 坂元村磯濱の部落から南ヘ丘を越えると,もはや福島縣に入る.此處から更に南方原釜港に至るまでは磯濱に於けるものに次いで津浪の高さが高かつたやうである.埒濱部落の北方宮城縣に接してゐる部分では,海岸の砂濱に徑0・6米位の岩塊が散亂してゐる.其等の岩塊は一部防潮林の中にも見られた.(寫眞參照).是等の岩塊は恐らく,宮城縣と福島縣との境界附近の斷崖をなせる海岸の崖下に崩落してゐたものが津浪によつて運ばれてきたものであらうと想像される.埒濱の南部海岸では海濱に砂丘が發達し,その高さ4・5米乃至5米であつて,津浪は之を越ヘることは出來なかつた.砂丘の背後に少し許り畑が作つあつてそこにあるものは少しも害を被つてゐない.
新地村(福.相馬) Map No. III, 2
(釣師) 釣師は埒濱の南約2粁の海岸である.此處では海岸の地形は埒濱に似て砂丘が發達してゐる爲めに津浪の被害はなかつた.部落の北の外れで1ケ處砂丘の稍々低いところが破れて浪の流入した形跡がある.
釣師より南方今泉の小部落に至る間の海岸は,砂濱と斷崖とが交互連續してゐる.其等の砂濱では大抵津浪の流入した痕跡を認めることが出來る.特に釣師から2つ目の谷の砂濱では,汀線の距離南北約300米陸上又は水田の中に砂を押し上げ,漁舟を押し上げてゐる.
(今泉) 用水溝がコンクリートで築いてあるが,その用水の海へ注ぐところに閘門があつて,その附近で,コンクリートの用水溝壁が一部分崩壞してゐる.土地の人々は,この崩壞は地震の數日前の嵐の時に崩壞したのであつて,地震津浪で崩れたのではないと言つてゐる.その嵐のことは次の原釜に於ても聞いたのであるが地震前後の頃の天氣圖を見ても其れらしいものは見當らず未だに不可解に思つてゐる.地震津浪による被害は勿論無いと言ふことである.
松ケ江村(福.相馬) Map No. III, 2
(原釜) 原釜部落の北のはづれに海岸に沿うて墓地がある.この墓地内は砂濱の盡きるところに粗朶を結んだ垣に圍まれてゐたのであるが,津浪の浸入により大半砂に埋もれてゐた.原釜の町は,併し乍ら,砂濱から一段高く築かれた石垣の内にあり,津浪の際多少の海水は浸入したが,津浪の痕跡はなく,從つて津浪の被害といふものもない.たゞl軒網小屋の傾斜してゐるものがあつたが,それは前項にも一言した樣に津浪前の暴風によるものであると土地の人々は主張してゐる.此處では津浪は午前3時半より5時半迄の間に4囘來襲し,2囘目の浪が尤も大であつたと去つてゐる.
原釜以南の眞野村(鳥崎),福浦村(村上濱),同(前谷地),同(角保内)等の各沿岸部落では海岸に,高さ5米位の高い土堤又はコンクリート堰堤が築かれて居り,部落はその内陸側にあるので,津浪の襲來を知つてゐるものは殆どない.又氣付いてゐるものでも,多少浪音が激しかつたといふ程度である.勿論被害などは無く,海濱に打上げられた漂流物から浪の程度をやうやく想像する位である.たゞ前谷地で,コンクリートの防波堤に砂が12〜13糎の厚さに打ち上げられてゐたことゝ,前谷地から角保内に至る途中の土堤の一部が崩壞して砂礫が500坪許りの區域に浸入してゐるのが特に目立つた程である.
福島縣雙葉郡
富岡町(福.雙葉) Map No. III, 3
(佛濱)(富岡) 相島郡眞野村,福浦村の各部と地形も略同じて津浪當時の模樣を知つてゐる者もなく從つて津浪も大した事はなかつた.
木戸村(福.雙葉) Map No. III, 3
(山田濱) 上記の諸部落に比し,山田濱は低平な砂礫の海岸で防波堤が築かれてゐない.部落と海濱とは一帶の防潮松林で隔てられてゐるのみである.併し,こゝでは津浪の努力が最早左程強くなかつたのであらう.防潮林の中に砂礫が運びこまれたのと,砂濱に建てられた.某の堂宇の礎石が0・3米程砂に埋もれたのみで,住家に被害はない.津浪の勢力がもう少し強かつたら防潮林を越えて部落内に浸入したかも知れないと思はれる.
福島縣石城郡
小名濱町(福.石城) Map No. III, 3
小名濱町に於いても,又その外港江名に於いても.具體的に津浪の被害と言ふべきものは一つもなく.海岸に殘されたと見られるやうな痕跡も甚だ不鮮明である.津浪の高さは大體1米位と推察されるが,この港にあつた檢潮儀が1昨年(昭和7年)秋の颱風の時に流失してその後復舊されず1時間毎の定時觀測であつたので,津浪の來襲の事實は確かであるがその時刻などは明かでない.
その觀測値及びその觀測値によつて畫いた潮汐の曲線は夫々第IV表及び第97圖
に示してある.
第IV表 小名濱に於ける水位の觀測(小名濱築港事務所)
第97圖
小名濱に在る福島縣水産試驗場につき地震前後の海並びに漁業の状況を聞いた所を並べてみると次のやうなものである.
i). 毎月2囘港口及び口外1浬の沖で海面及び下層(6米乃至l0米下)に於ける水温及び比重を調査してゐるので,その結果を掲げてみると第V表の如きものであつて,地震前後で多少の變化もある樣に見えるが,これが地震又は津浪の影響であるか否かは速斷し得ない.
ii). 底引網による300尋の深さに於ける漁獲高が,地震前後に多かつたがこれも亦必ずしも地震のみに依るものとは考ヘられないといふことであつた.
iii). 鰯の漁獲高が津浪に關聯して著しい差異を示すことがあるとは屡々注意されたところであるが,三陸津浪前に於ける小名濱附近の漁獲は殆ど變化がないと言つてよいと言はれてゐる.昭和6年4月以降の毎月の鰯の漁獲高として次の第VI表に示すやうな値が得られてゐる.もう少し時の尺度を長くして,短時日の統計を以て示したならば何か津浪の影響らしきものが見出されるかも知れないが,この表にあらはれたところでは地震,津浪の影響らしきものは殆ど見えないやうである.
第V表 小名濱港内外の海水の温度及び比重
(福島縣水産試驗場調査)
I. 港口.
II. 港外1浬沖.
第VI表 小名濱に於ける鰮毎月漁獲高(マイワシ)
茨城縣之部
茨城縣多賀郡
大津町(茨.多賀) Map No. III, 3
大津港では港灣工事事務所員の談によれば3月3日午前8時頃工事場に出てみると,滿潮時であるのに,平常よりは0・45米程潮位が低かつたといふことである.是は明かに津浪を認めたものであると考ヘられる.其他の津浪の痕跡らしいものは殆ど認められない.
大津港以南では津浪の痕跡は益々不明瞭で,海岸近くに住つてゐる人々でも,地震は感じ乍ら,津浪に對する懸念を持つた人々は殆ど無かつたやうで,從つて津浪の痕跡らしきものが多少殘されてゐたとしても,それが果して三陸津浪のものであるか否かを判斷する資料が無いのである.
4.答申書
津浪襲來地域に關しては別項の如く所員の實地踏査による報告あるも,更にこれを完壁なしらめる目的を以て,當研究所は北海道,青森縣,岩手縣,宮城縣,福島縣の太平洋沿岸各地の主として小學校に對して次表の如き5項の調査報告を依頼した.これに對して約108校より貴重なる答申を寄せられた.この項はこの答申書を其の儘發表したものであつて全く手を加ヘて居ない.但し第5項に關しては大部分上記調査報告の部に挿入してある爲除外したるを以て同報告を參照されたい.尚答申を寄せられた各校に對しては厚く謝意を表す.
1. 津浪は凡そ何分置きに,何囘位襲來したか.各囘の津浪の高さ,來た時刻を部落別に書き入れて下さい.
2. 津浪の押寄せて來る模樣はどんなでしたか.潮の滿ちて來る様にヂワヂワと來ましたか.ドツト水鐵砲の樣に打付けて來ましたか.浪は崩れて來ましたか.逆卷いて來ましたか.それとも下からモクモクと盛上る樣に來ましたか.各部落とも皆同じ模樣で來ましたか.津浪は各囘共同じ樣な來方でしたか.左の餘白に詳しく書きこんで下さい.
3. 町村内各部落で流失した船,家屋,家財等は何村何部落へ漂着しましたか.左の表に一番多く漂着した所から順に書き込んで下さい.若し同部落内に漂着したのなら流れた方向を第5項の圖に矢で書き示して下さい.
4. (イ) 音 a. 津浪の前に何か音が聞えたか.
b. 津浪より何分位前に音が聞えたか.
c. どんな音がしたか.
d. どの方向に聞えたか.
e. 音の強さは.
(ロ) 光 a. 津浪の時光り物が見えたか.
b. どんな風に見えたか.
c. 光の色は.
d. 光のも模樣は.
e. どの方向に見えたか.
f. 見た場所と時刻は.
(ハ) 井泉 津浪の數日前から數日後までの間に井戸水や涌泉が涸れたり濁つたりした所はありませんか.あつたらその井戸の位置と變化の模樣を書いて下さい.
(ニ) 前兆 津浪の前兆と思はれる樣な事があつたか.
(ホ) 其他御氣付の點何でも御知らせ下さい.
5. 左の餘白に村内の略圖を大きく書いて,浸水區域,家屋の流失倒壞した區域,家屋の流れたり倒れたりした方向,變化のあつた井戸の位置を朱で書き入れて下さい.
目次
北海道之部
釧路國之部
釧路郡
頁
釧路村 149
鳥通尋常高等小學校 跡永尋常小學校
日高國之部
幌泉郡
幌泉村 150
庶野尋常高等小學校
浦河郡
荻伏村 150
荻伏尋常小學校
三石郡
三石村 151
三石尋常高等小學校
新冠郡
新冠村 151
新冠尋常小學校
沙流郡
門別村 151
佐瑠太尋常小學校 慶能舞尋常小校學 賀張尋常小學校
膽振國之部
勇拂郡
苫小牧町 152
西尋常小學校 錦多峰尋常小學校 樽前棏
白老郡
白老村 152
白老第一尋常高等小學校
幌別郡
頁
鷲別町 152
鷲別尋常小學校
有珠郡
伊達町 152
長流尋常高等小學校 有珠尋常高等小學校
山越郡
八雲町 153
八雲尋常小學校 野田生尋常小學校 山越内尋常小學校 黒岩尋常
小學校 山崎尋常小學校
渡島國之部
茅部郡
落部村 154
落部尋常小學校
砂原村 154
砂原尋常高等小學校
鹿部村 154
鹿部尋常小學校
青森縣之部
下北郡
東通村 155
尻屋尋常小學校 猿ケ森尋常小學校 田代尋常小學校 小田野澤尋
常高等小學校
六ケ所村 155
泊尋常小學校 出戸尋常小學校 鷹架尋常小學校
三澤村 157
谷地頭尋常小學校 淋代尋常小學校
頁
百石町 158
二川目尋常小學校 一川目尋常小學校 百石尋常高等小學校
三戸郡
下長苗代村 163
下長苗代尋常小學校
八戸市 163
鮫尋常小學校 白濱尋常小學校
岩手縣之部
九戸郡
種市村 165
平内尋常小學校 種市尋常高等小學校 城内尋常小學校
中野村 167
中野尋常高等小學校
夏井村 168
平山尋常小學校 夏井尋常高等小學校
下閉伊郡
普代村 169
普代尋常小學校
小本村 170
中島尋常小學校
田老村 171
田老尋常高等小學校 田老尋常高等小學校小田代分敎場
崎山村 173
崎山尋常高等小學校
宮古町 174
宮古尋常高等小學校
津輕石村 175
赤前尋常小學校
大澤村 176
大澤尋常小學校
頁
織笠村 176
織笠村白石分敎場
船越村 176
船越尋常高等小學校
上閉伊郡
大槌町 177
大槌尋常高等小學校一ノ渡分敎場
鵜住居村 178
箱崎尋常高等小學校 白濱分敎場
釜石町 181
釜石鑛山尋常小學校 平田尋常小學校
氣仙郡
唐丹村 183
小白濱尋常高等小學校
越喜來村 184
崎濱尋常小學校 越喜來尋常高等小學校
綾里村 186
砂子濱尋常小學校 綾里尋常高等小學校
大船渡町 188
大船渡尋常高等小學校
小友村 189
小友尋常高等小學校
米崎村 190
米崎尋常高等小學校
高田町 191
高田尋常小學校
宮城縣之部
本吉郡
頁
大島村 192
大島尋常小學校
鹿折村 193
鹿折尋常小學校 浦島分敎場
氣仙沼町 194
氣仙沼中學校 九條尋常小學校 九條分敎場
階上村 197
階上尋常小學校
御嶽村 198
馬籠尋常小學校
歌津村 l99
伊里前尋常小學校 港分敎場
志津川町 200
志津川尋常小學校 荒砥分敎場
桃生郡
十五濱村 201
船越尋常小學校 船越尋常小學校大須分敎場 羽板尋常小學校
赤井村 202
赤井尋常小學校 南赤井分敎場
鷹來村 202
鷹來尋常小學校
牡鹿郡
女川町 203
尾浦尋常高等小學校 御前分敎場 江島尋常小學校
石卷市 204
湊尋常小學校 門脇尋常小學校 釜分敎場 住吉尋常小學校
渡波町 204
渡波尋常小學校
荻濱村 205
竹濱尋常小學校 小竹尋常小學校
頁
大原村 206
大原尋常小學校
宮城郡
七ケ濱村 207
亦樂尋常高等小學校 松ケ濱尋常小學校
高砂村 208
高砂尋常小學校
仙臺市 209
南小泉尋常小學校
名取郡
六郷村 209
六郷尋常高等小學校
亘理郡
吉田村 210
長瀧尋常小學校 吉田尋常高等小學校
山下村 211
第二尋常小學校
坂元村 212
坂元尋常小學校 坂元尋常小學校眞庭分敎場
福島縣之部
相馬郡
福田村 213
福田尋常高等小學校
飯豐村 214
飯豐尋常高等小學校
眞野村 214
眞野尋常高等小學校
福浦村 214
福浦尋常高等小學校
石城郡
頁
草野村 214
草野尋常小學校 絹谷分敎場
豐間村 214
豐間尋常小學校
小名濱町 214
小名濱尋常高等小學校
北海道之部
釧路國之部
釧路郡 釧路村 鳥通尋常高等小學校
1.
2. 午前2時30分頃の地震と共に海上の氣配が一變し同3時40分頃となるや平穏だつた海面は俄に荒れ見る見る海水は河口目掛けて逆流し鐵橋下流方面の流送材と思はしきもの約300石,發動機船,天馬船等20隻を引攫つたまゝ橋をくぐつて上流に押し流し一擧3尺餘の増水を見たが忽ち凄槍なる勢ひを以て減水しこれを8時前後までに數囘繰返し遂に釧路市港灣附近の河口にありし船舶,流送材は斷氷と共に狹い河口を汜濫しつゝ無慘に港内に吐き出されたと言ふ状況.我釧路村は釧路川とは言ひ上流なりしを以て河口(釧路市)附近のそれに比較して被害甚少なるも材木(筏に組みし)は氷を破りて河口に流失せるものあり.
3. 天寧 釧路市河口(釧路川)
4. (イ) 音 a.海鳴が釧路港沖合に於て起つてゐた.
b.40分位前.
c.海の暴風雨の徴候の如きゴーゴーたる音がす.
d.釧路港西南の沖合方向.
e.港灣より市内に海水の逆上せしが如き程度の音.
(ロ) 光 見えず.
(ハ) 井泉 見受けず.
(ニ) 前兆 見受けず.
(ホ) 其の他
跡永賀尋常小學校
春暖の候御清榮之段奉賀候陳者今囘5月8日付を以て御照會の趣校長及次席5月10日過當校へ拜命に付右の調査詳細に記入致しかね候故御承知相願ひ度此段及用紙
御返送申上候.
日高國之部
幌泉郡 幌泉村 庶野尋常高等小學校
1.
2. a. 約2丁位(平常の大干の3倍位)干潮し地鳴りを生じて押し寄せて來た.
b. 見て居る内に滿ちて來た.
c. 遙か沖より一帶に水嵩を増して浪の上部は崩れて白波を見せ岸を指して一
直線に押し寄せ其の凄さは到底言ひ表し得ぬ.
d. 上部だけ崩れて白波を見せて居た.
e. 能くは判らぬが100貫以上もある昆布の生えた石を岸ヘ打ち上げた所から
考へ逆卷いて押し寄せた樣に思はれる.
f. 南東から押し寄せたものと思はれる.それは部落の南東に面した沿岸は被
害が殊に甚大であつた.
g. 浪は何れも南東より押し寄せた樣であるが沿岸に來て岩礁と衝突して南西
に方向を變へたものもあつた.
3. 襟裳沖若くは南部沖に流失しつゝあることは漁船の人に伺つた,何處に漂着し
たか判然しない.
4. (イ) 音 a. 海鳴りがありました.
b. 30分位前に.
c. 荷馬車が板橋を通る時の樣な音.
d. 襟裳沖に.
e. 遠雷の樣に.
(ロ) 光 見ず.
(ハ) 井泉 不明.
(ニ) 前兆 地震が地鳴して而も3分以上搖れた.
(ホ) 其他 地震の搖は鈍かつた.
浦河郡 萩伏村 萩伏尋常小學校
オコシ オギフシ
當村は最初のニユースに 小越 と 荻伏 と誤られて報ぜられ相當被害あるらしく世間に傳はりしも殆ど無被害の状態にて御照會の各項に該當すべき事項極めて少く左に沿岸部落につき調査せし事項囘答致します.相當時日を經過したると當時津浪なることを自覺せざりしため正確なる數字を得ず概略的のものです.
第1囘 朝5時30分 約5尺 果して第1囘なりや第2又は3囘な
りや不明なるも第1囘と思はる.
第2囘 6時20分 〃
第3囘 7時 約8尺
第4囘 7時20分 約5尺
沖の方は4時30分頃より發動機船の音と同じ音を聞けども皆毎日聞く發動機船の音と思ひ居たりしに前記の津浪襲來せり.引浪は約1丈位と認めたり.浪は逆卷來たれりと.其他各項御記載の事項は沿岸に於ても認めざりし模樣なり.
三石郡 三石村 三石尋常高等小學校
當地方該當事項無之候此段及御囘答候也.
新冠郡 新冠村 新冠尋常小學校
本校通學區域は海岸を去る2里の地域にあり先般の津浪は何等の影響無く從つて何等の徴候をも認め得ませんでした.
沙流郡 門別村 佐瑠太尋常小學校
當夜(3月3日拂曉)可成りの激震を感じましたが後の津浪は幸にも當地方に累を及ぼしませんでした.
内地方面に比して僅少では有りますが日高として最も災害の甚しかつたのは私達の
シヤマニ
部落から凡そ20里以上も南東に當る樣似幌泉方面でした.
當地方としても余波が全然なかつた譯でも有ませんが一體に當地方の海岸は全く地圖の示す如し出入のないノツペラ捧な海岸線を持つ爲單なる高浪で終つたのが多い樣です.
海岸に佳む者の話では終日普段より3尺程高い浪が氣味悪く岸をかんだとの話です.
最も地震直後(その當人も地震後の時間判然せず凡そ1時聞程との事です)に來た大浪には水邊近くの森の家屋に浸水し當家族は夢中になつて避難し來りたる事あり.のち歸つて見た所が折柄の寒さに疊も何も凍結して爾後2週日程市街の親類に居りし模樣でした.
地震は今囘のが初めでなく小生當地赴任以來4ケ年間遂年數を増加しつゝある樣子です.
タルマエ
海岸の段丘性と云ひ,附近に活火山 樽前 を持つ事と云ひ北海地方の地震は概ね當地方の海底に震源を有するとの事普段は繁忙に忘れてゐますが事ある毎におびやかされてゐます.當地より海岸傳ひに北西に上るにしたがひ浪の高さも小さくなつて終止してゐる樣です.
慶能舞尋常小學校
當地方はやゝ大なる地震を感じたる程度にて取立つべき被害も無之候.
從て津浪に關しては御囘答の材料無之候(津浪災害地より北方約36里の地點なり).
賀張尋常小學校
當校の通學區域内には津浪はありませんでした.隨つて模樣について囘答する資料の何物もありません.
膽振國之部
勇彿郡 苦小牧町 西尋常小學校
當地方は津浪無之從つて參考となるべきものも無之候.
錦多蜂尋常小學校
本方面には襲來不致候條此段及御囘答候也.
樽前棏
津浪來襲せず翌朝それらしき點ありたるも感ぜず.
白老郡 白老村 白老第一尋常高等小學校
當地方幾分津浪模樣有りたる樣子なるも微少にして被害無く而も夜中なる爲め各項調査事項不明なり.
幌別郡 鷲別町 鷲別尋常小學校
當地元老につき間合せ候處當地方に於ては50年來津浪の襲來等無之由に候.
有球郡 伊達町 長流尋常高等小學校
1. 不明.
2. 潮の滿ちて來る樣にヂワヂワ來ました.
有球尋常高等小學校
1. 不明.
2. 深夜の事とて其の瞬間より委曲申上げられず.且被害は皆無.家屋,漁舟,井戸等に至るまで.唯終日,3〜4尺位の高さの程度に於て,反覆して居りました.附近の部落に於ても亦然り.其他に就ては特に申上げる事なし.
4. (イ) 音 a.大暴風襲來の如き音.
b.1分位前.
c.
d.西の方.
山越郡 八雲町 八雲尋常小學校
該當事項ありません.
野田生尋常小學校
1. 影響なく殆ど調査不能,
2.
3.
4.
(ハ) 井泉 津浪の慘害の報導傳はりたる後井戸水が5寸乃至1尺位減じありたるに氣付きたる位なり.それも2〜3人の話に止まる.
(ホ) 其他 津浪の慘害のありたる當夜干潮の時でないのに少し干潮したる由なるも判明せず.當時の地震の影響は殆んど無かりき.
山越内尋常小學校
1.
2. 潮の滿干に影響を及せり.差—大.不定時.潮流—急激.
3.
4. (イ) 音 不明.
(ロ) 光 不明.
f.無し.
(ニ) 前兆 不明.
黒岩尋常小學校
黒岩は内浦灣に望める小部落なり.當部落には何等の影響無之條及此段報告候也.
山崎尋常小學校
調査資料は當地方には無之候條御囘報申上候也.
渡島國之部
茅部郡 落部村 落部尋常小學校
1.
2. 浪の高さ2尺餘にて水勢ゆつくりと,白波が岸に寄せる樣に襲つてきました.
3. 落部 同部落に漂着.
4. (イ) 音 a.地震の襲ふ音.
b.10分位前.
(ロ) 光 不明.
(ハ) 井泉 井戸の飲料水濁る.呑まれない程度.(5〜6日前)
(ニ) 前兆 なし.
駒ケ岳を中心とする小地震常に頻々たり.
(ホ) 其他 なし.
砂原村 砂原尋常高等小學校
本海岸(噴火灣南海岸)に於ては津浪無し隨つて其の影響もなし.但し三陸地方に津浪ありし際本海岸にては平常より干潮の程度が大であり又平常よりも僅か強く大浪がありし程度に過ぎず.
鹿部村 鹿部尋常小學校
1.
2. 夜間のことゝて詳に目撃せるものなきも漁師等の話を綜合するに午前3時頃よき凪なるに拘はらず4尺位の浪3囘,引續き普通の波の如くに押寄せたるに過ぎざるものゝ如し.
3. 流失物等なし.
青森縣之部
下北郡
東通村 尻屋尋常小學校
地震後程なく東南方に大砲のやうな音がしたといふ人もありますが小職共は知りません.又海岸へ最短約10分の距離がありますので海水の模樣は不明何も被害はありません.被害物のやうに思はるゝ漂着物は1つもありません.
猿ケ森尋常小學校
3月3日の地震による津浪に關し調査方御依頼相受候處當所に於ては僅かに其の餘波として磯浪14間も陸に上りたる程度のものにて之も部落と海岸とは半里以上も隔て居る關係上數日後に發見したるものにして全然津浪あるを知らざりし状態に有之候依て貴問に對して乍遺憾御答ひ致し兼候條不惡御了知被下度尚津浪前にも何等の變化異状を認めず只地震直後雪崩れでもしたかと思はるゝ音響を1囘聞きたるのみに有之候右御囘答迄.
田代尋常小學校
當校通學區域内は30町も海岸から離れて居ますので何等被害がありません.
地震は1時30分頃でしてそれから10分程してから遠雷程度の音響を聞いたのみです.
小田野澤尋常小學校
1. 地震は強かりしも津浪なし.
2. 翌朝平常より1〜2間海岸に浪の寄せたる形跡を認むる位に過ぎず.
3. 當部にて流失せし家屋,船等なし.他より流れ來れるものもなし.
4. (イ) 音 何等の音響なし.
(ロ) 光
(ハ) 井泉 津浪の前日井水少しく涸れたりと思はると古老の言なるも不明.
井は海岸近くの井.
(ニ) 前兆
(ホ) 其他
上北郡
六ケ所村 泊尋常高等小學校
1.
2. 潮が滿ちて來るときのやうでしたが,1度寄せた波は再び下らずその上に又量を増すといふ有樣でした.
寄せて來る前は潮はずつと引いてゐました.
他の部落までに3里半もあります故當村とは異ると思ひます.
3時50分の大波は大うねりをなし海岸近くは波頭が折れて來ました.
3. 流矢したものはありませんでした.
4. (イ) 音 聞えません.
(ロ) 光 見えませんでした.
(ハ) 井泉 一切變化はありませんでした.
(ニ) 前兆 ありませんでした.
(ホ) 其他
出戸尋常小學校
1.
2. 當所は別段に何も思ひませんでした只隣村の三澤村に被害があつた位でしたから翌日被害の話を聞いた位で,尚新聞で他方面の被害を知るに至つたのである.
3. (イ) 音 a.
b.
c. 地震後5分程經ると地響して落雷の音がした.
d. 東南.
e. 強し.
(ロ) 光 見えず.
(ハ) 別に氣が付きませんでした.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
鷹架尋常小學校
1.
2. 當部落の津浪は至つて弱くして損害も殆ど無く,殊に眞夜中なりしを以て,人々は翌朝起き出でし後,少し強き暴れ海であつたと,小屋を見て思つたのみで,だれも模樣や浪の盛上る樣などを見たるものなし.
3. 當部落には流失物なし.
只海邊の納屋内に納めありし鰯粕に浸水せるものありたり,されど流失せるものなし.舟等は冬季なりしを以てシケを恐れて遙か岡の上に引上げて置きしを以て損害なし.
4. (イ) 音 聞かず.
(ロ) 光 見たるものなし.
(ハ) 井泉 氣がつかなかつた.別段變化なかつたと,誰でも云ふ.
(ニ) 前兆 氣がつかなかつた.
(ホ) 其他 新聞で見て始めて,あ,それではあれが津浪なりしかと思つたのが,大部分の人にして,他にてさはぐので,自分の方も,大きく見た樣なものでありました.
三澤村 谷地頭尋常小學校
谷地頭は海岸より1里も離れ居るため津浪の模樣は全く不明なり只だ午前2時頃地震あり加ふるに2囘の爆音を聞けり.
淋代尋常小學校
1. 津浪と知つたのが3時45分でしたが沖が暗くて何が何やら解りませんでした.飛出して見た時既に私の學校の東端から10間餘の所まで水が來て居ました.1囘目も2囘目も更に解りませんでした.最後の浪かと思つたのが4時10分頃に一段高く見えましたが明け方の東の曇ではつきりしませんでした.兎に角學校から浪打際まで平生395米位ありますが一帶の海となつて砂濱が見えなかつたのが事實です.
2. 私の部落では皆襲來の状況は知つた者がありません.唯家の側まで浪が見えたので津浪だと叫んだ時は皆寝て居たと見えて自分が村中をおこしたやうなものでした.自分も右のやうな問に對して一々詳しくお答がつきません.
4. (イ) 音 a. 高い所から疊の上に飛下りたやうな音がしました.
b. 15分位かと思ひます
c. aの答を御覽下さい.
d. 不明.
e. 強さといつても餘念がなかつたのでaの答によられたし.
(ロ) 光 a. 村の者が八戸の沖合に赤い火の光が見えたといひます.
b. 何かどつと燃え上つたやうだといひます.
c. 赤い火の光.
d. 探照燈のやうに.
e 八戸鮫岫の沖合.
f. 午前4時頃だといひます.
5. 井泉 少し不足になつた話はありましたが他には何も氣がつきません.
6. 前兆 あの大地震で老人達は津浪が來るかも知れないといつてゐたさうですが所謂前兆と思はれた樣な事が前の音以外には何も認めまん.
7. 其他
百石町 二川目尋常小學校
1.
2. 本校の通學區域は二川目1部落なればそれについてのみの調査なり.
暗夜の爲確實なることは知り難きも沖一帶は低き黒雲の張りなびきたる如く見ゆるは盛上りたる浪なるべし.その音もノンノンと聞ゆ.
砂洲に上りたる浪は殆ど崩れて白く光れば明白に襲來の樣を見得たり.その音は秋雨の強く枯草に注げるが如くなりき.
3. 漂着地點は何れも部落内なれど略々元地點より南西に流れたり.
4. (イ) 音 a. 聞ゆ.
b. 津浪前約30分,發震時直前.
c. 遠くにて大砲を放ちたるが如き音.
d. 南東.
e. 睡眠中の者驚き立ちし程なり.
(ロ) 光 a. 見ゆ.
b. 火事の如く見えしがすぐ消ゆ.消ゆる時は西になびきて廣がりし如く思はる.
c. 電光に似て青白し.
d. 光りそのものばかりでなくその邊一帶を明るくする位の強さなりき.
e. 南々西の方位にて高からざる所.
f. 當村内にて3月3日午前2時32〜33分頃.
(ハ) 井泉 地震前後に井戸水の引きたるもの2〜3あり.其の他の變化井戸には見受けられず,井戸の位置は別紙略圖に示す.津浪襲來前二川目小川の水2〜3寸引きたり.
(ニ) 前兆 3日夜氣温は夜半より急降下を示し星の輝き物凄き程の快睛を示す.
(ホ) 其他 2〜3年前より津浪襲來の流言蜚語あり.村民はこれを週期的のものなるが如く考ふ.
一川目尋常小學校
1.
2. (i) 津浪の來る前30分に大砲でも打つた樣にどんと音がすると共に地ひびきし障子硝子戸はがたがたと音をたてました.
(ii) 2番波の前20分位の時も音もごくひくゝ,ひびきも小さう御座りましたが矢張どんと音がしました.
(iii) 地震最中には光が西,南に3〜4囘光が地面から上に向つて上りました.
(iv) 浪はくづれてヂワヂワと來ました然し押浪も退浪も普通の浪より非常に速い樣に見受けました.
3. 本村には倒壞家屋ありません.破壞1,浸水5,流失破損,附屬屋2〜3,死體
漂着2.
4. (イ) 音 a. 津浪前約30分大砲の音のやうに2囘ありました.
b.
c.
d. 南東.
e. 1囘は戸障子ががたがたする位,2囘目は夫より非常に弱かつた.
(ロ) 光 a. 地震最中.
b. 眞一文字に地面より上に.
c. 電燈より少し赤味あつて.
d. 7〜8間の長さに.
e. 南西に向つて.
f. 2時半から3時迄の間.
(ハ) 井泉 常にはどんなに汲んでも汲切れぬ井戸も津浪3日前には5斗入桶で8〜9囘汲みましたら濁りました.
(ニ) 前兆
(ホ) 其他
百石尋常高等小學校
1.
A.浪の高さは(明かならず)10尺以上はあつた.
B.1〜3囘(明かならず),浪と浪との間約5〜6分位であつた.
C.第1囘浪の襲來時刻(明かならず)午前3時頃.
D.第3囘浪と4囘浪との間が相等時間があつた樣に思はれる.
2. 川口部落小向仁助氏の意見談一節
波の音がハタと止んだ.はてなと思ひまして,又家を出て沖合を眺めて居りました,ところが南の沖合から汽車でも走つて來た樣な音が北の方ヘ移りました,するとまもなく沖から藍黒色の山の樣な大波がぐんぐんやつて來ました,そして川口の砂丘を越える時浪はくづれシヤアシヤアと物凄い音をたてゝ一帶が眞白くなりました.
川上へ押し流される船の速い事目に見えぬ位でした.云々
3.
4. (イ) 昔 a. 聞えた.
b. 音が聞えるや否や津浪がやつて來た.
c. 遠方から汽車でも走つて來た樣であつた.明治29年の津浪の時は大砲をうつた樣であつた.
d. 南方沖合 音が北の方に移つた樣に思はれた.
e. 大部強かつた.
(ロ) 光 a. 見えた.電光に赤味を帶びた色だといふ人もある.
b. ピカピカと見えた.潮光りと考へる.
c. 星の光の樣であつた.
d. ピカと光ると其附近はぼんやり明く見えた.
e. 沖合から.
f. 津浪が最初來た時.見た場所は川口部落.
(ハ) 井泉 井戸水がかれた.
「井戸水の不足になつたのは10日も20日も以前からだ」との事である.
井戸の位置.
當地方殆ど全部の井戸が減水せるとのことである.
變化模樣明かでない.
(ニ) 前兆 (i). 鯛の大豐漁の年は39年前の津浪のあつた年,本年は29年以來の大豐漁で老人は津浪があるから油斷がならぬといつて居つた.
(ii). 滿潮の時でも昨年の干潮位のものであつた.
(iii). 當地方に嘗て獲れたことのない小鯛が昨年9月頃澤山とれた.
(iv). 小禽が非常に囀つた等いつてゐるものもある.
(ホ) 其他 3月2日正午から午後1時迄の間だと思ふ川切替工事状況見學に海岸に行つた.兩3日以前から海水が5〜6尺も減じたと案内者はいつて居つた.(海深) 案内者は海底の砂は風のため押寄せて淺くなつたのだと説明して居つた.
[津浪] 百石尋常高等小學校高等科 岩崎安太郎
3月3日午前2時半頃,私達は眞にぐつすり眠りについて,夢を見つゝ寝てゐると,地震がゆり始めました.私は地震に目がさめて,そら大變だと言はんばかりにたんぜんをかぶつたまゝ,はだしで走つて大戸を開けました.間もなく電燈が消えた.兄さんは馬屋に行く途中でころんでゐる,妹はもう家を逃げ出して庭の馬肥の上に上つてゐて私をよんでゐる.ビリビリ非常に強い.私は何の氣なしに,強いなあ,長いなあと思ひ乍らブルブルふるへてゐた.やがて地震はやまつたがまだふるえてゐる.寝床に入つて眠らうと思つて足を踏みしめて床に上つて歩きながらもブルブルふるつてゐる,床に入つたがまだ心が落付かない,眠らうとしても眠られない,耳を澄して寝てゐると,地震がやんでから40分ばかりたつて,東南の方から「ドドン」「ドン」と2囘大きな音がした.兄さんが私に津浪が來なければよいがなあと言つた.隣の家の方からガヤガヤ話してゐる音がしてくる附近がダンダンさわがしくなつたなあと思ひ乍ら耳を澄して聞いて居ると半鐘の音が響き渡つた.それと同時に津浪だ津浪だと言ふ聲が聞えた.そら大變だとばかりにはね起き,身支度をして家をとび出した,小高いところまで行くと大勢の人が集つてゐてもう1番波が來て引いたと言つていた.そして私にまだ知らないでゐる人があつてはならないからお前が叫べと言つたので私は大聲で叫んでゐるとお父さんが私に濱の製造小屋があぶない早く行つてカンダヤ,ムシロ,スダレ等を岡の方にくばれと言つたので返事をするとすぐに製造小屋に向つて一目さんに馳せつけた,途中で1度ころんでひざの皮をひつたくりまたかけつけた.見ると浪の跡が海から300米位の處に迄來てゐる.家の小屋まで届いてゐる.小屋の中に入つてゐると岡の方から又來た——來た,來た,來た——早く逃げろ——と叫ぶ聲が聞えて來ましたのでさあ大變だ命を取られるものかと思ひ乍ら父さんと兄さんにまた來たさうだ逃げろと叫んだまゝ何も彼も忘れて一目さんにかけ上つた浪はひどいうなり聲をたてゝ私を追かけた,これは大變と夢中で走るもう浪は私の後2間程に近づいてゐる,やうやくの事で助かつた.小高いところに戻つて海の方を眺めると砂濱は一面に眞白だ,小屋のこわれる音がすごくビリビリと聞えてゐたが間もなく音が無くなつた,一同はたゞブルブルふるへて見てゐる.やがて2番浪もひけた今まで音がしてゐた綱堂(綱小屋)がもう何處へ行つたかあとかたもない,兄さんがもつて居た電燈をなげすてゝ走つたと云つて電燈をもつて居ない.父さんがため息をついたがまた小屋の方に行つた,兄さんも行つたので私も行つて見ると浪が400米も來てゐた.私はまた浪にこられては大變だと思つてすぐ岡の方ヘかけ上つた.はんしやうの音が絶みまなく聞えて來る.あつちでもこつちでも叫んだり泣いたり大さわぎをしてゐる.又沖の方がうなつてゐる.ノンノンノンノン何んとも言はれない程淋しい.人々は又來たと言つて叫べと言つたので私は大聲で叫んだ.又來た,來た,來た——のぶとくするなあ—早く逃げろ——と叫んだ,海の方を見ると青黒く土手のやうに見えるあれぱ波であらうと思つたから又前よりもつと大聲をはり上げて叫んだ,濱邊の小屋にはお父さんや兄さんが行つてゐるから特別に叫んだ.あたりのことは一切忘れて唯々叫んで居るとお父さんと兄さんがため息をつきながら驅上つて來たので少し聲を弱めて叫んだ,浪がノロノロとダンダン岸に近いて來た,今まで黒く見えた濱が白く一面雪のやうに見える,又ビリビリビリと音がして居ると思ふ間もなく水がひけたので行つて見ると私の家の製造小屋がこわれて製造道具がみんな流されてしまつてゐる.船が小屋の中に入つてゐる,雪に水がまじつて長靴でなければ歩かれない.もう東の方は明るくなつて來た私は綱堂の跡を見ようと思つて短靴をはいて行つて見ると雪が深くそれに水が含まれてゐるから靴に水が入る.ヤウヤウそこまで行つて見ると土臺ばかり殘つて綱堂はきれいに跡方も見えない.あたりにはごろが1本,くひが3本横たはつてゐた.寒さがきびしいので家ヘ歸らうと思つて走つたが3尺も積つてゐる水雪をこいだので甚だつめたい,やうやくたきびをしてゐる場所についた私もたき火にあたつて家に歸つた.云々
◆綴方の一節 本人は百石町大字二川目部落から通學して居る兒童です.その児童の遭難實話と思召して下さい.
三戸郡
下長苗代村 下長苗代尋常小學校
本村は沿海村ではありますが民家は海から遠く離れて居り且つ夜間の出來事でもあり,津浪の状態を目撃した者はありません.又前兆と認むべき何物も聞きませんでした.切角の御諮ねに對し何等御參考となるべき材料を差上る事の出來ませんことを遺憾に存じます.
八戸市
鮫尋常小學校
1.
2. 鮫町の状況
第1囘目最初に潮を引くこと最干潮時より甚しく,襲來するときは盛り上るが如く
第2囘目にも初は潮を引き,而して襲來する時は盛上るが如く且つうづ卷くが如し.
第3囘目には潮を引くこと少く,而して襲來の模樣は浪頭を折り返して猛烈に押寄せたり.
深久保の状況
鮫町と同樣なり.
3. 鮫町 西へ流れたり.但し翌日西風のため太平洋を流れ去り行方知れず.
深久保 西北へ流れ後鮫町と同樣.
4. (イ) 音 a. 地響きするが如き重音を感ず.或は遠方より浪音を聞く.
b. 5分位前に前者の響を感じたり.浪音は直前に聞く.
c. 前と同じ.
d. 北の方向より聞く.
e. 鈍重的に遠方より.
(ロ) 光 a. 或る人は空は明くなれるを見たりと.
b. 少しく明るく見たりと.
c. 赤く.
d. 青く光つたと言ふものもあり.
e. 北の方に.
f. 海岸で地震前に.
(ハ) 井泉 地震のため湧泉は濁れるもの數個所.但し前より涸れ又は濁れるを聞かず.
(ニ) 前兆 大漁續きであつた.(明治29年と同樣)
(ホ) 其他
白濱尋常小學校
1.
2. 押寄せる直前はパッタリと浪音絶へ靜かになつた(不思議に思はれる程)そしてモクモクと盛上る樣に來て岸にドット打付け大きな轟音がした.各囘とも同じ樣に思はれた.
3. 白濱 流失船舶の漂着所不明.
たゞ流されたものは同部落の北方岬により上つた.
4. (イ) 音 a. なし
b. なし
c. なし
d. なし
e. なし
(ロ) 光 a. なし
b. なし
c. なし
d. なし
e. なし
f. なし
(ハ) 井泉 津浪後井戸水の白く濁れるを發見せるものあり.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他
岩手縣之部
九戸郡
種市村 平内尋常小學校
1.
2. 第1囘目第2囘目は未だ暗きため良くわからず而し第3囘目以後のものは下からモクモクと盛上る樣に來た.
隣部も同じ樣なり,第3囘以後の私共の見た時の來方は各囘共同じ樣なり.
3. 川尻 當部落の流失物は幾部は其の場に漂着したるも大部分は漂着せず.
4. (イ) 音 a. 音が聞えた.
b. 約35分位前.
c. 雷鳴の樣な音.
d. 東の方向から.
e. 遠方で大砲を發射した位の強さ.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 電光の様に.
c.
d.
e. 東の方向.
f. 川尻部落,3時40分.
(ハ) 井泉 なし.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
種市尋常高等小學校
1.
2. 潮の滿ちて來る樣でなく下からモクモク盛上る樣に來た樣です.
浪は逆卷いて來ました.
4囘目以下は潮の滿ちて來る程度の強い樣な有樣.
3.
4. (イ) 音 a. 海岸人は聞かぬ,5里7里位山奥の村では大砲をうつたような
音をきいたそうです.
b. 不明.
c. 大砲をうつた樣にドンドーン.
d.
e. 夜ねてゐても驚くほどの程度.
(ロ) 光 a. 見えた.
b.
c. 青白かつたとのこと.
d.
e. 東南.
f. 種市村横手.
(ハ) 井泉 井戸水がひけて少くなつたそうです.
(ニ) 前兆 不明.
(ホ) 其他 津浪の夜は眞暗やみでわからなかつたが,色々起きてゐた人や其
他見た人などからきいて大體を記したものです.
城内尋常小學校
當學區は海岸を去る2里北上山脈の麓にあり殊に地盤堅固にして差したる事なかりしも余程以前より河水の激減せるを見たり.
中野村 中野尋常高等小學校
1.
備考 夜半なれば浪の高さを目撃せし者なし.
2. 夜半のことゝて當座の樣子は不明なれど翌朝の小津浪の有樣より推量するに襲來せんとするに先だち1度潮干たる如く浪引きて後下からモクモクと盛上る如くに襲來したる如し.
3. 當中野村の流失せるは磯舟全部,家屋は1-2軒の茅屋のみ.然して磯舟の全部は北方に流れ發見せるものなし.
家屋家財は當村海岸へは漂着せず隣村種市村(北方)海岸へ漂着せるならん.
4. (イ) 音 約20分前大砲の如き音3囘程聞えたり.
(ロ) 光 約20分前青白い光線を見たるものあり.見た場所は小子内方面.
(ハ) 井泉 中野部落の井戸涸れ,濁りし所あり.其他方々の家にてかゝる現象を目撃せるものあり.
然して津浪の前後共かゝる現象ありたり.
(ニ) 前兆 稍迷信的なれど,海の貝(しうり,まりこ)など食せるに腹痛せし者多しと.
又鮑の陸上めがけて來たる珍現象を呈せり.
(ホ) 其他
夏井村 平山尋常小學校
1.
2. 潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと押寄せ浪の前方はくづれて來た樣でしたが,大きな石は動かされて來たので下からも盛上りながら來た樣であります.
津浪の來方は同じ樣に來たさうでありすま.
3. 大部分同部落に漂着しました.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 25分位前に聞えました.
c. 遠方からの自動車樣の音がしました.
d. 南方の沖合より聞えました.
e. 50間乃至100間位離れた距離より自働車の音を聞く強さ.
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 水平線上に探海燈を以て照らした樣に見えました.
c. 青く見えました.
d. 普通の海上より高く一線に光りました.(波の押よせる時らしい)
e. 南より東に一線に.
f. 半崎海岸 午前3時.
(ハ) 井泉 なし.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
夏井尋常高等小學校
1.
2. 半崎部落は同村平山小學校學區に付,平山小學校より精しき御報告を申し上ぐる筈であります.
3. 半崎不詳.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 5〜6分前.
c. 自動車のエンジンに似た音.
d. 南方沖.
e. 40〜50間距やつた所に聞える自動車の音位.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 水平線に沿ふて相當高く見えた.
c. 青色?暗夜に浪が光る如き色.
d. 浪の色かも知れぬと地方民が云ふてゐる.
e. 沖の方一帶.
f. 半崎,2時半から3時過ぎまで.
(ハ) 井泉 別に著しい變化はなかつた樣です.
(ニ) 前兆 別に存じません.
(ホ) 其他 別にありません.
下閉伊郡
普代村 普代尋常小學校
1.
2. ドツと水鐵砲の樣に打付けて見る間に一面に水泡となつた樣です.
凡3囘位大きなものが來た樣です.小浪は幾囘も來た樣です.
3. 太田名部部落の流失物は大低北側の普代濱邊に打揚がる.
普代部落の流失物は大低北側の岸邊に打揚がる.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 1.4分程前(確です) 2.時間不明.
c. 1.風の如き音, 2.大砲の如き音.
d. いづれも東南方より.
e. いづれも弱く.
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 一般に明るく.
c. 橙色.
d. 火事の時の如くボーツと.
e. 北東.
f. 地震後10分頃,場所黒い丸の位置.(報告普代村の項參照)
(ハ) 井泉 なし.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
小本村 中島尋常小學校
1.
備考 夜明る迄數囘順次に小さく5時頃にて全く止む.
2. 1囘目はヂワヂワと.
2囘目ドツと.
3囘目ヂリヂリと.
4囘目(1丈以下)6〜7尺同上.
5囘目たいへんおとなしくヂワヂワザワザワ.
3. 新聞紙上にくわしく報道した樣でした(岩手日報).
4. (イ) 音 a. 30分前に大きな音がし地震があつた.
b. 30分位前に1分以上に渡る地震があつた.
c. 天地も振るはす樣な音があつた.
d. 岩手下閉伊郡小本村東南.
e. 普通地震の時の3〜4倍.
(ロ) 光 a. 見えたそうです.(人から聞いた)
b. ぼうと赤く而かもぼんやりと.
c. 赤く.
d. おぼろ月夜の樣に.
e. 東南.(南に近く)
f. 下閉伊郡小本村より西2里.
(ハ) 井泉 普通だと思つて居るけれど1ケ月位前から井戸水は不足でした.
(ニ) 前兆 何もあつた樣な氣はしなかつた.
(ホ) 其他
田老村 田老尋常高等小學校
1.
最初小浪(地方にてヨダと稱する程度)あり2囘目最大(20尺位か)其後は次第に衰へて數囘あり.6時頃にも小浪の襲來を見たり.
強大なるもの2〜3囘其の浪間は凡そl分位と思はる.
以上記する所兒童職員は勿論其の他多くの人々により調査したるも1人として判然たる答を與ふるものなく想像を加ヘて記したり.
本村は全滅の厄にあひ各人極度の恐怖に陥り人心動搖辛じて浸水せずに避難したる者もなきさけぶ者凍えんとするも重輕傷者等の中にあり加ふるに暗夜のこととて浪の高さ同數其の他能く知りたるものなし.
2. 20尺内外の高さにて浪の上表面だけ白波をけたて,それより下方は只黒く見えて押してくる樣に見えたといふものが多數であります.
これがためですか風が起つて浪に先立つて家が倒れたといひます.
各囘共同じ樣な來方なやうです.
3. 荒谷,田中 海岸と灣内は引水にとられ流されて出たものですが他は皆押流され破壞して積み重つた部落のみです.乙部,青砂里方面は大部分引水によつて海の方ヘ運ばれました.舟は大平方面に大破損或は破片等いつてゐました.
4. (イ) 音 高臺部落のものは音をきいたともいひますが當部落にては只浪のよせて來る大きな音しかきゝません.
(ロ) 光 光を見たといふものはない樣です.
(ハ) 井泉 津浪前後ではありませんが冬期以來そんなに涸れたことのない井戸や涌泉等が涸れたのでした津浪後は暖氣の加はつた關係もありませうが水が出てきました又涸れたためですか底に殘つてあつた水が濁つた所(小林の井戸)もありました.
(ニ) 前兆 何もあつたと思ひません.
(ホ) 其他
田老尋常高等小學校小田代分敎場
1.
備考 田老村のつゞき.津浪の押寄の順次とす
1.大平
2.小林
3.町(部落の眞中)
4.川向
5.青砂里
2. (1) 水鐵砲の樣にl分間に10米位の早さにて波は崩れて丁度山上の林を暴風がサアーサアーと吹く樣な音響を立てゝ來襲せること.
(2) 未だ津浪の來ぬ前から非常なアフリ風にて部落の家屋は所々破壞し家屋の破片其他色々の物飛散甚しく人畜の慘傷氣絶する者其數を知らず.
(3) 以上の場合に直に大津浪襲來あり逃るに路なく,登るに嶮坂なる惡路,幾百人の人命見る間に波浪に浚る.
(4) 電燈は全く消え暗黒の夜と化し零下15〜16度の寒氣夜明迄に凍傷にて慘死せる者夥し約1000餘人.
(5) 港灣の崎や岬の迂曲の關係か同じ灣内でも南西より侵されたること.
あをざり
先づ以上記入の如く大平,小林,町(部落の中央)川向, 青砂里 の順序
(6) 3日午前2時半大地震あり同3時直ちに津浪襲來あり.
「小生儀任地當分敎場は此度被害せる田老灣より1里餘西方山地に在り直接には關係なきも見聞の儘を實地御報告致し候に付御承知願上候」
本縣出版の岩手日報10日分御郵送候間參考下され度候也.
3. どうも流失物の漂着は殆ど在りません.
割合に岸邊に漂着しません.
如何にも3日の日中は田老灣には家の屋根其他破損物灣内の1/3程浮んで居るを見たるも風波の爲に全く沖流となり其形跡も見せず.
陸上田老村は一夜の中に砂子の原と化せり.
最も警察署よりの流失物の届出を各町村に注意ありたるも些々たる物に過ぎず.
4. (イ) 音 a. 更に聞えず.
b. 同.
c. 同.
d. 更に聞えず.
e. 同.
(ロ) 光 a. 沖(太平洋)より丁度夜行の自動車前燈の光の如し.
b. 青くダンダンと岸に近づく.
c. 青々と.
d.
e. 沖の方向より岸邊に.
f. 沖の浪と同時に午前3時頃.
(ハ) 井泉 津浪の當夜地震と同時に一時どつと海水引き潮となり海岸に面したる川水,井戸水も當夜涸れたる模樣.
(ニ) 前兆 昭和7年9月より10月頃まで三陸沿岸の岸邊に非常なる鮑打揚げられたり(病鮑).漁民は「石灰さう」の爲ならんと.
(ホ) 其他
崎山村 崎山尋常高等小學校
1.
2. 日出島,中ノ濱,女遊戸,大澤の各部落は下からモクモクと盛上る樣に來ました.
宿部落は逆卷いて來ました.
津浪は各部落とも各囘共同じやうな來方でした.
3. 女遊戸 宿 } のものは長濱ヘ,(崎山村大字宿の陸續き東方)
他の部落不詳.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 5分位前に.
c. のうのう.
d. 沖の方.
e. 野砲の發砲位.(不詳)
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 疊1枚位の大いさ.
c. 赤.
d. ぱちぱちと.
e. 沖の方.
f. 場所女遊戸,津浪の3分位前.
(ハ) 井泉 津浪の數日前井戸水が涸れました.
井戸の位置は,報告崎山村の項參照.
津浪の際,川の水はすつかり涸れました.
(ニ) 前兆 鮑の陸に寄せられるもの多かつたこと.近年にないいわしの大漁なりとの由.
(ホ) 其他.
宮古町 宮古尋常高等小學校
1.
備考 爾後小動搖を繰返して漸時沈靜せり.
2. 波浪の押寄せて來る有樣は下の方からモクモクと水が盛上つて來たと云はれて居ます.
3. 宮古川口→宮古川殘瀨.
鍬ケ崎→鍬ケ崎.
4. (イ) 音 不明.
(ロ) 光 不明.
(ハ) 井泉 津浪直前に町内一般の井戸は涸れた.其後の變化はなき如し.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
津輕石村 赤前尋常小學校
1.
2. 當夜は闇の夜で明かに知る事は出來ませんでしたが人々の話を綜合して,波は灣口より白く泡を立てゝ襲來しました.沖に居た船はこれを感じないといひますから海底から盛上る樣に來た事と思ひます各部落とも500米位の山の麓の海岸の低地にありましたから各部落とも同じ模樣でありました波は各囘とも同じ來方であります.
3. 柳澤→油牛,眞下,乙堀内.
船は海岸よりそれ續く田畑に押上げられ渚より2町も押上られしもの多し.
4. (イ) 音
(ロ) 光 a. 1里餘隔てた灣口に當つて見えた.
b. 白く明るく見えた.
c. 白く仄かに青く.
d. 海面上だけに見えた.
e. 北方に二ある灣口に.
f. 學校の庭.(部落名眞下)3時50分頃
(ハ) 井泉
(ニ) 前兆
(ホ) 其他
大澤村 大澤尋常小學校
1.
2.
3.
4. (イ) 音 a. きこえた.
b. 7〜8分前.
c. 遠くより自動車でも走つて來るやうな音.
d. 東南.
e.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. c. d. 流星の如し.
e. 南東.
f. 小學校庭午前2時55分.
(ハ) 井泉 當村寺の境内にある井戸數日前より減水尺餘,少しく濁れり.
(ニ) 前兆
(ホ) 其他 あの強震にもかゝはらず鳥鳴かぬ.
織笠村 織笠村白石分敎場
當分敎場は海岸をさる1里餘の山中に有之報告事項無之候
船越村 船趣尋常高等小學校
1.
2. 船越 潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと來ました.
田ノ濱 モクモクと盛り上る樣に.
大浦 モクモクと盛り上る樣に.
一般に通ずる現象として,浪の家に當らない前に家の板垣等がはぢき飛ばされました.小さな浪となるにしたがつて,普通の磯波の樣になりました.
3. 船越
田ノ濱 } 報告 船越村の項參照
大浦 同
4. (イ) 音 a. 田ノ濱ではラツパの樣な音を聞いた.船越 田ノ濱は浪の音.
b. 津浪より3分位前から.
c. 遠潮鳴りの樣に.(波の進行の音)
d. 南西の方向.
e.
(ロ) 光 a. 3區にてそれぞれ見た.
b. 船越,田ノ濱では横に,大浦では縱に長く.
c. 船越(青白く),田ノ濱(うす赤く),大浦(黄色).
d.
e. 船越S60°E,田ノ濱N70°W,大浦N35°E.
f. 船越,田ノ濱,大浦いづれも津浪3分位前に.
(ハ) 井泉 船越,1ケ所 3日位前より,合せて5日にごつた.
田ノ濱,1ケ所 津浪後2日濁つた.
大浦,2ケ所
イ.水量が津浪の來る時へつた.
ロ.津浪後20日ばかりにごつた.
(ニ) 前兆 鰯が豐漁であつたこと.
(ホ) 其他
上閉伊郡
大槌町 大槌尋常高等小學校一ノ渡分敎場
當部落は海岸を距る約6000米の山聞にあり,御照介の該當欄に一々御答ヘすべき材料も御座いません.たゞ本分敎場隣家なる藤原定助氏なる者彼の地震に依り「炭ガマ」—木炭製造の—の崩壞して火災を出す恐れあるを慮り,炭「ガマ」を見届けに驅付たる歸途に遭つた出來事を表に記入いたしました.
4. (イ) 音 a. 聞えました,地震後約12-3分.
b. 不明.當部落は海岸より約6000米引上りの山間.
c. 雷鳴の如く,大山崩れの如き音.
d. 東北の間,稍北寄の方向.
e. 稍強き雷鳴程のもの.
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 空一面明るくなりました.
c. 薄い青光.
d. 探照燈の如く東より西ヘ,續けざまに2囘走りました.
e. 東より西へ走り,南寄りの室は特に光が強くありました.
f. 岩手縣上閉伊那郡大槌町大字小槌.地震後約15分.
(ハ) 井泉
(ニ) 前兆
(ホ) 其他
鵜住居村 箱崎尋常高等小學校
1.
2. 下からモクモクと盛上る樣に.
各囘共同樣な來方.
箱崎部落浪高第2囘は低きも力強かりしと見え,學校まで襲しは第2囘の浪でした.
他部落は不明です.
桑ノ濱は第2囘は高くて10米位あつたさうです3丈2尺といひます,同方面の兩石は4丈といひます.
3. (報告鵜住居村の項參照)
箱崎はどこにも行かないで海岸に.
桑ノ濱は對岸に右を廻つて流れ去る.
白濱部落同量ならん.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 約10分位.
c. 遠雷の如く.
d. 眞東より15度位南.
e.
(ロ) 光 a. 見た人も相當ある.
b. ぼうつと白く.
c. 山陰で探海燈を向けた樣.
d. ?
e. 東南.
f. 學校附近 音のした少し前.
(ハ) 井泉 箱崎部落の井戸全部濁つて3,4日間呑まれなかつた.
津浪前は氣が付かない涸た樣にも思はなかつた.
紫色に見えた等いふ子供もあつたが疑はしい.
(ニ) 前兆 ない.
(ホ) 其他 我々は津浪に經驗なきも只何だか普通の地震ではないと氣付いた併し津浪は來るとは思はなかつた,だがもしやと思はないわけでもなかつた.
白濱分敎場
1.
時刻は不明です.大槌を侵ふた浪よりは凡10分以上も早かつたと思ひます.白濱部落の第2囘の浪が過ぎてから大槌や安渡對岸の電燈の消ヘたのを見ましたと記憶致しますから.
2. 第1囘の津浪 ドツと音響強く崩れたる模樣なるも怒濤岩と激突する勢にはあらずと.
引き足早く,干潮線を干くこと10間プラスとも夜目に見えたり.
第2囘口の津浪 第1囘の引きて數分にて來り,潮の滿ちる樣にも似たり,下からモクモクと盛上る如くにも見えたり,一番大きく高く寄せて引く潮の早きこと,瀧瀬の如く騒然として引きたり.
第3囘 第2囘の規模の小なる形なり,第4囘も同じく,以下益々其の水勢弱りて間斷なき平常の波ヘ復歸せり.
3. 大槌→白濱
安渡→白濱
室濱→白濱
死髄(安渡より)49日にて白濱に漂着
4. (イ) 音
(ロ) 光 a. 見えた.
b. パツト南の山の端にひろく.スパークの如く何囘も.
c. 青白く光度弱し.
d. スパークの樣に何囘も.
e. 南の山の端一面.
f. 白濱,第4囘の津浪あたり.
(部落の人は波の光と云ヘり.)
(ハ) 井泉 白濱部落は水道なり.前夜(2日午後6,7,8時頃)水道の水少し混濁せりとの話あれどつまびらかならず.
(ニ) 前兆 海水の色例年と異り馬の小便の如く變り,又混濁せりと.干滿不規則にして,時ならぬ波あり,又津浪前日潮汐が尋常でなく,風がないのに浪荒れ,磯の採集も出來ず歸りたりと.
(ホ) 其他 前年(昭和7年)の磯草採集にはめのこ(こんぶ)例年に比して非常なる不作なり,めのこの不作は當地に於て饑飢の兆とせり.
地震には雉必ず鳴くとせらる.津浪の地震には雉鳴かずと噂あり(これ38年前の地震もかくあつたとか老婆の話).
釜石町 釜石鑛山尋常小學校
1.
2. 第1囘目の津浪より第2囘目までは約10分,第2囘目より第3囘目の津
浪までは約7分.
モクモクと盛上る樣に來ました(釜石灣の各部落)
各囘共同じ樣な來方でした.
3. 釜石町字龍ノ澤及越路→泉田海岸へ.
4. (イ) 音 a. 津浪前に音を聞いてる.
b. 津浪前25分位.
c. 遠くにて大砲を打つ音.
d. 釜石の沖の方.
e. 町民の騒大にして其の音を聞かざるもの多く音の強さ不明.
(ロ) 光 a. 不明.
b. 不明.
c. 不明.
d. 不明.
e. 不明.
f. 不明.
(ハ) 井泉
(ニ) 前兆
(ホ) 津浪前日大槌灣口沖4・5哩附近に於て大きな潮の渦卷を見た船がある.
平田尋常小學校
1.
2. 部落民の語る所によれば津浪は想像外にて3囘ともモクモクと盛上りて來れりと云ふ.何しろ丑3つ時の事然も突然の出來事故判然たらざれども,何れの人もかく云ふ.
3. 石濱 隣接部落内の濱にて人家1軒もなし.38年前の津浪の際にもこの濱に澤山の漂着物ありしといふ.他は大部分當部落内陸地に破れたるまま置去き去られたる態なり.老婦人1名の死體は大向濱に上りたりと云ふ.
4. (イ) 音 a. 雷の如く,或は爆發物の作業中の音の如し.
b. 約5分位前と綜合して話しが出來る.
c. 盛上る波の音なら,強風の音の如く1,2分前より聞えたり.
d. 沖の彼方に,しかも次第に近寄りて.
e. 重複のきらひあれども強風の如く.高波の音とも云ひ得る.
(ロ) 光 a. 沖に見たるものあり.山に見たるもあり.一帶に見たる者もあり.
b. サーチライトの如く.稻妻の如く.たゞ明るく.
c. 青茶色,青色,何づれも判然たらず.
d.
e.
f. 不明.
(ハ) 井泉 後日になりて,正しく井戸水が涸れてゐた等語れり.睛勝の天氣に寒さが嚴しければ水は凍りて出でぬならん等とのみ考へ居たる態なり.井戸と云ふ井戸全部にて,どの井戸が特別に水涸れをした等の事は全然判らず.
(ニ) 前兆 後日に至りて或ひは語る.猫,ねづみ,等は2〜3日前から音も出さなかつたとか.
(ホ) 其他 昨年あたり釜石町大字釜須賀濱に大潮とか稱して小津浪に似たるものおしよせたる事等あり.最近海の波の定まらざる事は漁夫ならぬ者にも氣付ける事なりし.
氣仙郡
唐丹村 小白濱尋常小學校
1.
2. 花露邊部落 大うね形に潮の滿ちる樣.
本郷部落 上部が卷きくづれながら押寄せて陸上に來りて渦流せり.
小白濱部落 ヂワヂワと上部が水鐵砲の樣に潮を吹き上げて來た.
片岸 小白濱と同じ.
荒川 大潮の押寄せる如くヂワヂワと來た.
大石部落 大潮の如く1丈2〜3尺浸水せるのみにして破壞力全くなし.
3. 花露邊→海岸附近に流出.後は赤磯邊へ.
本郷→山手に押込まれ,後は花露邊海岸へ.
小白濱→片岸へ流され後は寺の下に押込み,灣内に大部分出る.
片岸→山手に押込まる.
荒川→山手に押込まる.
4. (イ) 音 a. 3囘音響聞ゆ.普通の人は1囘だけ聞く.
b. 7,8分前に大音響.2日の午後9時40分位に小音響2囘.
c. 遠雷の如く,大砲の如く,石垣の崩れる如し.
d. 東南方.
e. 2粁位の遠くで小銃の音の如し.
(ロ) 光 a. 見えたり.
b. 稻妻の如く.
c. 紅黄色青色.
d. 下部は縱の模樣上部は横に模樣を作りたり.
e. 東南方.
f. 音響より一寸早く.
(ハ) 井泉 小白濱部落の東部の井戸が3,4日前より水量減ず.
(ニ) 前兆 前夜小白濱灣口附近は海水移動甚しかりき.本年は昨年末より近
海は常には南流するのが北流してゐたること.
(ホ) 其他
越喜來村 崎濱尋常小學校
1.
2. 潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと來ました.
それが結果から見れば水鐵砲の樣に打ちつけて來た樣に思はれます.
2囘3囘も同樣かどうかははつきり解りません.
3.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 15分位.
c. 底力のあるダイナマイトの樣な音.
d. 聞いた人がみな同一方向ではない.
e. ?
(ロ) 光 a. 見えた
b. c. d. 沖一面に夕燒けの樣な光,空の星までも赤く見えた.
e. 南東東.
f. 西端,地震直後.
(ハ) 井泉 それに氣付いた人はなかつた.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 潮流の方向が一定しなかつた.
越喜來尋常高等小學校
1.
2. 第1囘目は潮の滿ちて來るやうにヂワヂワと來て,第2囘目,第3囘目は下
からモクモクと盛上る樣に來ました.各部落とも同樣の來方です.
第1囘目の津浪の來る前に甚しく潮が引きました.
3. 浦濱→浦濱 崎濱
泊→泊 崎濱
甫嶺→崎濱
崎濱→崎濱
(イ) 音 a. 音が聞えた.
b. 5,6分位前.
c. 大砲を打つた如き音.
d. 沖の方に聞えた.
e. 強かつた.
(ロ) 光 見たといふ者あれども詳細は知り得ず.
(ハ) 井泉 a. 甫山領 龍昌寺内の井戸 渇水せり.
b. 泊 平田玉男の井戸 海嘯前 3日より井水混濁.
c. 村社新山神社々務所の井戸 海嘯前4〜5日より混濁渇水.
d. 浦濱 及川義雄の井戸 混濁渇水せり.
e. 浦濱 熊谷與左衛門の井戸 混濁渇水せり.
f. 崎濱 正源寺内の井戸混濁.
(ニ) 前兆
(ホ) 其他 昔から當地方では「津浪の地震にはキジが鳴かぬといつてゐますが,今囘の津浪前の地震の場合にキジは鳴かず馬が嘶きました.
綾里村 砂子濱尋常小學校
1.
大と數へ得べき波浪の寄せ來りしは5囘に候も最大は3囘就中その3囘目のが大なる次第に有之候.最高の浪の高さ等はその襲はれし痕跡に就き調べ尚且つ目撃者に據りての調査故大體あやまりなきものに御座候.
2.洋上遠き所より岸に來る迄はモクモクと盛り上る如く襲ひ來り岸に動り家屋を上に浮かし押し上げ引き波は極めて強く總てを拉し去り了る是は兩部落とも同じ.
破壞せられたる建物等にして極めて高き河川の上に置き去りにせられたる物につきて調ぶるもその上頂部等の全く濡れざるもの多きに見るも尚この事實を徴し得べし.
3月3日午前2時31分強震に入り此の強震の時間を約7分間とし其後20分にして海嘯の襲來となる.
海嘯の襲來當時は微風だに無かりしに海灣内蕭颯として宛も空林を亘る大風の如き音しつゝ波濤の到れるは岸を傳へて噛み來れるものか或は又波の捲き廻しつゝ洋上を渡れるものか定かならず但しその蕭颯むしろ淙々たる響きを聞きしは何人も皆一樣に同じとする所なり.
3. 砂子濱 大體其自らの部落に漂着.
小石濱 右同斷 但し何れも大部分は流亡して僅微の一部分のみ漂着.
4. (イ) 音 大砲の如き音を聞く.明治29年6月15日午後8時のは殷雷の如かりし約7〜8分前.釜石以東の洋上.
(ロ) 光 大砲の如き音したる時洋上に眞直なる光を見たるものありしといへど定かならず.
(ハ) 井泉
(ニ) 前兆
(ホ) 其他 今囘の大海嘯の前日即ち3月2日は終日欝陶しく空氣淀み一種の重壓を感ずる如く頭痛を訴ふるもの著しく何となく不安の念ありしは事實なり.是は明治29年の海嘯前日も亦同樣の趣きなりし.
綾里尋常高等小學校
1.
2. 生死の場合ですから確に之を眺めたる者なき筈です兎に角波に追ひ立てられ生命からがら避難した者の話によれば下からモクモクと盛り上る樣に上部に白浪が立つている樣に眺めたる事は何人も一致してゐる樣です.津浪は第1囘目は小で第2囘目は大なる樣に話さるゝも第1囘目は確かに大なりと信じます.家屋其他障害物を破壞のため余程の勢力をそがれたる爲第2囘目は水勢が強大なる樣に感じたるものと思はれます.隨つて第2囘目は最も遠方まで水力おとろへずに進行せり.これを第2囘目の勢力が大なりと誤りたるに非ざるか.
第3囘目は時間も遲れ勢力も全く減退して大潮の時の如くヂワヂワと來ました.流失物はそのまにまに上つたり下つたりして翌日午前10時頃までは海面一體に材木破片でうづまつてゐました.
同一村内に漂着してあまり遠くに流れず.(報告綾里村の項參照)
4. (イ) 音 a. 午前2時半の大強震後20分程經て微音があつた.
b. 津浪の來る10分程前である.
c. 遠雷の響の樣にドドンと全くの微音で感じた人が少い.
d. 東方.
e. 底力があつたが弱.
(ロ) 光 光り物等見た人がない.
(ハ) 井泉 津浪襲來の直前に於て井戸の水が涸れたことに氣附いた者があるから或は一帶に涸れたかも知れない.
砂子濱と云ふ部落の涌泉がやはり直前に全く止り襲來後10分程にて再び湧出すること常の如し.
(ニ) 前兆 浮游魚群は津浪襲來數日前より全く其姿を隱したるは其の前兆と思意される.
(ホ) 其他
大船渡町 大船渡尋常高等小學校
1.
2. 下船渡は灣口にある.下船渡の方から見たのには珊瑚島の島の方向に浪が見えたさうです.その時は非常に大きな波がモクモクと押し寄せてその浪の色は泥の樣な眞黒な色の浪になつて押し寄せて來て,海岸に來て波が退けるまでの色は銀色に眞白くなつてはねかへつて行つたさうです.滿ちて來る時は退けた水が一度にモクモクと恐ろしい樣に滿ちて來たさうです.浪が打ちつけて來る時は自動車でも走る樣にガウガウと音を立てゝ,打ちつけて來たさうです.波が崩れたり逆卷いたりしないで下からモクモクと盛り上る樣に勢よく押し寄せて來ました.第2囘目に來た浪が大損害を與へた樣です.川を逆上る海水もモクモクと盛り上る樣だつたといひます.
3. 下船渡 流失物は對岸赤崎村蛸浦に漂着したもの約7割.その他赤崎村小細浦
に漂着す.
平 赤崎村蛸浦尾崎神社下の邊に漂着す.
欠ノ下 赤崎村字永濱に漂着す.
赤澤 赤澤部落内に漂着物が有つた.
永井澤 赤崎村字清水に漂着す.
4. (イ) 音 a. 高い音が聞えました.
b. 10分位前に聞えました.
c. ドーンと大砲でも撃つた樣な音でした,
d. 釜石沖の方向にきこえた.
e. 強音で有つた.
(ロ) 光 a. 津浪と一緒に見えた.
b. 水の上つたのと一緒に銀色に光つて上下動しながら來た.
c. 銀色と黒色のまじり.
d.
e. 水の上つて來た部分が光つて見えたさうだ.
f. 濱邊より丘に約40米高さ7米位の所で午前3時頃.
(ハ) 井泉 永井澤部落に2ケ所あり.
潮の滿ちてゐても井戸水が干つてポンプをついても水が出て來なかつたと,井戸水が濁つた.
欠の下部落では「茶屋」といふ家の井戸が濁つて水も減つたと.
平部落には數日前後に亘つて井戸水が干たり増したりした井戸が數ケ所あつた.
井戸の大半が濁つたらしい(町内の)山に近い邊は濁らない.
(ニ) 前兆 前年度より海潮及海壓等が平年と異つてゐた.海藻等や海岸の貝類等が死んだりした.水の温度や潮流の平年の流れの經路と異つてゐた.
不期節的不規則的に魚等がとれたりした.(大漁的に)
(ホ) 其他 地震後約30分位にして津浪が來た.普通の波の來方とは違ふ樣です.
小友村 小友尋常高等小學校
1.
第1囘浪の時間はドンと音がしてからのです.第2囘浪第3囘はその直前の浪との時間差です.
地震で時計の針の止つたのは2時半でした.地震がやんでから,音の聞えたのは20分とも言ひ30分とも言ひます.各部落で聞いたまゝを記入致しました,時間に違ひあることは御承知お願ひ致します.5〜10分の處は確實の時間が不明なのでやむを得ません惡しからず.
2. 只出部落は浪は崩れて押し寄せて來ました.他の部落はヂワヂワと音を立てゝ
來た樣です.
3. 只出 只出部落の裏泉田に打ち寄せられました.
獺澤 矢ノ浦 } 一部はそのまゝ打ち上げられ他の一部は引浪に沖に流出しました.
兩替 三日市 } 多くは裏の田畑に流れ出しました.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 10分位前.
c. ドンといふ音でした何だか「ハツパ」の樣な音でした.
d. よくわかりませんが東南の方向太平洋の方でした.
e. ハツパの強さでした.
4. (ロ) 光
(ハ) 井泉 有りません.
(ニ) 前兆 有りません.
(ホ) 其他 何事も氣がつきませんでした.
米崎村 米崎尋常高等小學校
1.
2. 勝木田に押寄せし津浪.各囘皆同じ樣にモクモクと盛り上る樣に來ました.
沼田,脇ノ澤方面の波は目撃せし者なし.
3. 沼田部落 沼田部落の海岸線は家屋の在る處より高く爲に所謂引浪無く(中央),唯々濱田川の注ぐ沼の方面と古川跡の川原崎の方面に(押寄せし浪は)分れ前者は沼を通り氣仙川(西方に在り)に入りそれから海に入る.故に其の途中に流失物が有り,後者は川原崎に行く途中に有る状態なり(報告米崎村の項參照).
勝木田部落 此の部落の流失物は山手の方に打上げられそのまゝとなり居る状態なり.
脇ノ澤部落 此の部落は浸水家屋のみにて流失物なき状態なり.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 3分位前.
c. ゴーと聞ゆ.
d. 沖の方より聞ゆ.
e. 高く.(終始同じ樣に聞く)
(ロ) 光
(ハ) 井泉 井戸は異状を認めず.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他.
高田町 高田尋常小學校
1.
2. ジワジワとよせて來ました.
トタン屋根に小石の數多當る如き音がして押よせて來ました.
各囘とも同様.
3.松原沼→松原背面より氣仙町寄の方面.
4. (イ) 音 a. きこえました.
b. 約15分.
c. 自動車のエンジンのひびきの大なる如き音.
d. 海の方向.
e. 不明.
(ロ) 光
(ハ) 井泉 當校にては實見者なし.
(ニ) 前兆 前日野球試合を豫定しありしも當校職員全部眠氣を催し身體倦怠を覺え中止せり.然れども津浪を豫想せるものにあらず.
(ホ) 其他
宮城縣之部
本吉郡
大島村 大島尋常小學校
1.
2. 浪の押寄方は本島の東側と西側とは稍其の模樣を異にしてゐます.
東側(太平洋側) 一旦海水がヅーッと沖の方まで引いて間もなくドツト逆卷いて打付けて來ました.浪は2囘目,3囘目と囘を經るに隨つてゆるやかになつて押寄せてきました.
西側(氣仙沼灣) 灣の入口ではかなり大きな波が入つて來ましたが次第に浪の高さが低くなつて潮の滿ちて來る樣に—然し勢強くゴーゴーと云ふ異樣な音を立てゝ—押寄せました.
3. 沖の方へ引かれました.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 20分位前.
c. 大砲のやうな音(ドーン)
d. 北東の沖.
e. 強.
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 色々.
c. 青光り.
d. 色々.
e. 音の方向.
f. 音と同時刻.
(ニ) 井泉 井戸水の濁つた所がありました.
本島の中央より見て東北の位置並に南方.
變化は雨上りの水のやうでした.
(ホ) 前兆 津浪の2,3日前.毎晩7,8時頃遠くで大砲をうつた樣な音がしました然し附近に鐵道工事石灰岩爆破等の工事があつたので津浪の前兆とは思ひませんでした.
(ヘ) 其他 津浪のあつた翌朝の海は實に靜かで油を流したやうで物恐ろしい程でした.
鹿折村 鹿折尋常小學校浦島分敎場
1.
2. 大地震後南方遠く何か音がした時,海岸に出て見たら,今まで岸に一杯潮が寄せてゐたのが,ずつと遠くまで潮が干つてゐたので津浪が來るのぢやないかとの豫感を持つた人あり.最初はどつと押寄て來たが,2囘目からは,波が逆卷き,崩れ乍ら盛上る樣に押して來た.これは各部落共大體同樣なり.
只鶴ケ浦は灣が深く入込んでゐるので,先の津浪がまだ引かぬうちに,後からまた津浪が押してくるので,灣内は他の部落よりも比較的水準が高かつた.それで,その灣奥にある家が1軒流失,家族4名死亡した.
4. (イ) 音 a. 遠くに當つて淋しい物凄い音がきこえた.
b. 約20分.
c. 何か爆破した如き音.
d. 南の方.
e. 底にこもつた音で,強く,遠くにきこえた.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 青く,明るく.
c. 青し.
d. マグネシユームを燃やした時の樣だつた.
e. 南方
f. 部落の海岸,音の起ると同時位.
氣仙沼町 氣仙沼中學校
生徒の囘答を集めた由である(2人の答案を集めた爲互に重複してゐる處がある).
1.
2. 大谷村大谷 浪の主力は2番目であつた.津浪の來る直前に潮が3囘とも澤山引いた.夫は急にザアザアと川鳴の樣に音をたてゝ引いた.
唐桑村只越 津浪の押寄せる前,滿潮より2丈5尺も水がへり.400米も引いた.引くときはザワザワと音を立てゝ引いて行つた.5分位經つと凄じい音と共に下からモクモクと盛上る樣に來た.引くときはガラガラと金捧を引ずり廻はす樣に各囘共同じ樣であつた.
唐桑村小鯖 第1囘では家は緩んだだけで流れず.第2囘で流動す.
同 鮪立 第1囘目は潮の充ちる樣にジワジワと來た.第2囘目は強く襲來した.第3囘目は幾らか先きより弱く來た.
松岩付尾崎 白く盛上つて堤防の樣な形をして押寄せて來た.押寄せて來る前に潮が引いた,各囘とも高低はあれ共同じ樣子で押寄せた.
大島,小田濱 潮の滿ちてくる樣にヂワヂワとしかも下からモクモクと盛上る樣に堤防形をなして來た.
唐桑村宿 最初急激な磯干となり間もなく堤坊形をなして押寄ず.其の波が入
江の奥深く進むに從ひ浪高大となる.
大谷 上と同樣.
津浪來襲直前普通干潮の數倍も干潮せりと見ゆる内に大浪となり押寄せ來る.海水は次第にモクモクと盛上る樣に増水して陸地へ上りたり,2囘3囘目も同樣なり.
大谷村前濱の状況 去る明治29年の時の浪は押浪も引浪も實に強かりしも今囘のは押浪強きも之に比して引浪は幾分弱し但し之は浸水田畑等の土の流れ樣を以て推測せるなり.
唐桑村字宿
1.潮の滿ちて來る樣にジワジワと來た.2.浪は崩れて來た.3.各囘共に同じ樣な來方.
唐桑村東舞根
一時滿潮より10分以上も水が引いて海底はブジブジと言ふ音が聞えてゐる内に(約30分位)海水は少し逆卷いて下からジワジワと音を立てモクモクと盛上つて來た.各囘共同樣な來方.
大島村崎濱 潮が急に常に引けるよりも3倍以上も大きく引けて20分位間があり沖の方からゴーゴーとなり乍ら浪が押寄せ海岸に來るとジワジワと下から盛上る樣に來た.
3. 馬場→東方沖へ
階上→松岩へ
唐桑村只越 流失した家屋,船,家財等は風のため皆沖合に流れて漂着場所不明.當部落に漂着物なし.
大谷村前濱 引浪弱きためと當夜は南の微風ありたるため流失物は沖合を流れず日出迄には大概岸に漂着せり.漂着物は何れも幾分北の方に漂着せり.同部落内に漂着せり.
大島村崎濱 同部落内に漂着.
4. (イ) 音 a. ドーンと爆發の如き音聞ゆ(襲來の30分位前にて地震よひ5分位後)
b. 津浪より30分前と云ふもの,6〜7分前と云ふもの.
c. ドーンと爆發の如き音,山の方でも聞えた(多分反響音?)
d. 南東沖合の方向,東微北.
e. 大砲の音を遠くきゝしが如し.
a. 聞えた(大谷村前濱),聞えた(唐桑村字宿).
b. 1〜2分前(大谷村前濱),20分前(唐桑村宿),15分前(大島村)
c. ゴーゴーと大風の來るときの樣に(大谷村前濱),爆音(唐桑宿)
d. 南沖に(大谷村前濱),西南方(唐桑村宿)
e. 強大(唐桑村宿)
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 浪の上にかたまつて來た.
c. 青光.
d. ぎらぎらと押しよす.
e. 津浪と共に南東より.
f. 唐桑の石濱,大谷海岸,午前3時頃.
a. 見えぬ(大谷村前濱),見えた(唐桑宿),當時釜石沖にて漁中の
勢進丸實見せりと(光につきて).渦状青光(唐桑宿)
b.
c.
d.
e. 沖の方(唐桑宿).沖の北方石濱部落,午前2
時30分(唐桑宿)
f.
(ハ) 井泉 井戸水涸れた・・・大谷津浪後1週聞位續いた.
井戸水濁つた・・・尾崎津浪前.
井戸水が灰色に濁つた・・・鹿折 津浪前1週間.
津浪後3〜4日すぎて井水減少して濁つた淡白色に,水の濁りと減少は同時である・・・大谷村大谷.地震後即ち津浪襲來前(海水が引く前)
海面鏡の如くおだやかなりき.
氣付かず(大谷村前濱),氣付かず(唐桑の宿).
井水涸れた・・・2日前より3日間(唐桑村崎濱水尻澤).
津浪の3,4日前より海水濁れりと漁師の言(唐桑村只越).
(ニ) 前兆 津浪來る直前に速力大に極端に海水退く各部落一般に然り.
前日午後1時頃南西沖にて雷聲1囘聞ゆ,當時の空模樣は風なくどんよりと曇りいや昧を帶ぶ,雷聲は底鳴の樣に聞えたり.(大村谷前濱)
2〜3日前より潮が惡く所々に渦卷が起つた.(唐桑村崎濱)
(ホ) 其他 津浪後鮑が多數打上げられた・・・歌津名足.
津浪後アサリが多く腐敗してゐた・・・大谷.
津浪前鰯の大漁,津浪後2ケ月後烏賊が例年來らざる灣内に多數押寄せたり.
空は一帶にどんよりと曇り無風鬱々せる日に1つ雷聲の時は必ず天變あること多しと聞く.津浪後2〜3日間は潮の干滿に不拘小さな津浪と思はれる樣なのが4〜5囘あつた.津浪の來る前の地震で外ヘ出たとき空が氣味悪い程澄んで星が異樣に輝き(青白色)たり.
氣仙沼町九條尋常小學校九條分敎場
氣仙沼町は,氣仙沼灣中なる大嶋(大嶋村とて1村をなす)が自然の一大防波堤をなし,地形上に恵まれた地理的環境にある爲過般の津浪にはその慘害をまぬがれることを得た.ことに九條(地名)は氣仙沼町の郊外高台にある爲津浪襲來は3月3日の強震後數時間の後に至つて知れる者多く(町内にても然り),爲に津浪襲來當時の模樣を審にする者なし.唯強震後15分から20分位にしてドンと大きな音を2度までも耳にせるものは多い.又音の直後に東方に赤紅白のヒラメキを認めたものは(大谷村)ある.
階上村 階上尋常小學校
1.
2. 1. 潮の満ちて來る樣ヂワヂワと來ました然し早さは急でした.
2. モクモクと盛上る樣に來ました.
3. 第1囘目は折つて來たとも思はれますが,第2囘目以後はモクモクと同じ樣でした.
3. 大谷村大谷海岸よりの流失物は本村和城前濱に皆漂着しました.
本村のは本村同部落の畑に打上げられただけです.
浪跡を見ると大谷の海岸から廻つて來たやうでした.
4. (イ) 音 a. ゴーツと沖の方から物凄い音がしました.
b. 20分位前と思ひます.
c. 波の押寄せる音はドンドンと地響をして15分位續きました.
d. 本村のSEの沖合でした.
e. 室の中で大太鼓をうつのを10町位の所で聞くやうでした.
(ロ) 光 a. 1囘目の浪が岸を打つてはね上る時浪は光つて明かでした.
b. 光るといふよりも明るくと云いたいです.
c. 大てい海の水の微生物夜光蟲だと思ひます.
d. うす白いと申しませうか.
e. 浪を打つた海岸全體です.
f. 波路上地福寺前より明戸濱を一目に見ました.
(ハ) 井泉 丁度私は其晩夜警番で巡囘中でしたから,そんなことは聽きませんでした,注意しない爲でせうか.
(ニ) 前兆
強震のあつた時約30分前明治29年の津浪の罹災生存者は何れも豫言しました.
昨年當りより小地震が多い樣な氣もしました.
(ホ) 其他 明戸濱は明治29年に全部落80戸を流失した所で只今は耕地として全部上方に移轉しました.其處は此度の浪の高さは7〜8米も低いと思はれます.
御嶽村 馬籠尋常小學校
當學匠は海岸を離る2里餘の地點にあり然も北上山脈中の盆地をなす故津浪の被害なく從つて御下問に對し明確なる囘答をなす能はず.
歌津村 伊里前尋常小學校港分敎場
1.
(港部落以外は確實なることは申上げられません).
2. 1. 下の方からモクモクと盛上るやうに來ました,そして近海底の砂を多數に運んで浸水區域には多いところ1尺少いところで2〜3寸平均に砂を置き去りました.
2. 各部落とも殆んど同じ樣な樣子ですが東北に口を有する灣と南口とでは又異り東北方から押寄せて來たこと明かです.同日早朝のラヂオでは震源地は金華山東南とありましたが其時に於ても中央氣象臺發表は誤りであることを何人も口を揃へて云ひました.
3. 同夜は丁度小雪3センチ位ありましたが押寄せて來る波が雪の消えるのでよく解りましたセキ止めてゐた水が水量の増した爲め1度に止めがくずれて流れて來るやうに壓力の加つた水がモクモクと流れて來るやうでした.
4. 各部落とも同じ樣子です.
3. 各部落とも第2囘の大浪により陸の浪の打上つた山手に山積されました.そして引波でさらつたもの丈け沖に流されました.
4. (イ) 音 a. 山手の方には良く聞えたそうです.私は聞きません.
b. 約20分位前.
c. 遠くで大砲でも打つたやうな音とのこと.
d. 當地から東北方.
e. 先きの音は強く後のは弱かつたとのこと.
(ロ) 光 a. 見た人もあるとのこと.
b. 震源地の方向の空がサツと青白くなつた.
c.青白い色
d.
e.東北方.
f.高臺の人は見たと,2時40分前後らしい.
(ニ) 前兆 地震がある3時間ばかり前に鼠が室に入つて來.それは爐の友に穴をつくリペロリと出て室を驅け廻つた.洋室に爐がある室で未だ入つて來たことがなかつた.
浪の襲來する5〜6分前に潮がズツと引けたので不思議に思ひさわぎ出した.
志津川町 志津川尋常小學校荒砥分敎場
1.
2. 最初に潮が滿ちて來る時の樣に小浪がヂワヂワと來,それより約1間位後方に
高さ7〜8尺位の大波が小波に乗つて滑べる樣に來ました.
各部落,各囘共同樣に來ました.
3. 當學區内に流失家屋1戸もありません.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 約35〜36分位前.
c. ゴーゴーと言ふ音.
d. 南々東沖の方向.
e. 餘り強いとは言はれない.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 青光.
c. 青色.
d.
e. 南南東沖の方向.
f. 志津川町平磯海岸.午前2時50分頃.
(ハ) 井泉 志津川町字荒砥小宇權現海岸にある井戸に於ける水量は少量だけ
涸れたと言ふて居ります.
桃生郡
十五濱村 船越尋常小學校
1.
荒屋敷部落は28戸中5戸を殘し23戸は塵一片も殘さず流失し死者60名を出した.部落民は誰に聞きても津浪が何囘襲來せるか不明.熟睡中に只1度で宛も山崩にあつたやうに突然家屋が破壞倒壞され其の家屋と共に人體がゴツチヤになつて流されたらしい.
2. 汀より10間の地所に住む實際目撃せる者の實話其の儘を下に記す(船越部落武内榮左衛門(48歳)の實話).
午前3時の強震に起床し燒火をして就褥せずに居りしに戸外にて誰かの聲にて津浪だといふ2〜3人の聲を聞きし爲戸外に出で汀に立ちて沖の方を見た.
然るに暗夜なりしも音もなく沖の方にある島(小島)を見れば平素より海面が非常に高く見えたあの黒く高く見えるのが何だらうかと考へてる中(記者の推定は1分間か30秒位の時間)に自分の立てる汀の水が沖に向つてガラガラと引いた(ガラガラは礫砂の音)其の引方が生れて見たことの無い程沖に引いて行つた汀の小舟が引かれて行き其の高さが汀の家屋の屋根よりも高い位に沖の方に見えたので之は津浪だと感じ飛ぶが如くに家内に入り家族を起した時は既に浪が戸を破り屋内に入り家族が膝切り水に入りて逃げた裏山に登つたらガラガラと家屋が壞れて沖に引かれ行く音が實に凄い有樣であつた其後約5〜6分置き位に右の樣なすさまじい音がした.
3. 荒屋敷の物 大須海岸より金華山方面の沖合.
船越の物 何處ヘも行かず灣内に居止つた.
4. (イ) 音 午前3時の地震後約10分,ザアーと云ふ風の吹く樣な音が聞えた.其後約10分又前同樣音が聞えた.其後津浪の襲來より5〜6分前大砲の音の樣なのが唯1度ドツと聞えた.其の方向は東北の方.
(ロ) 光 光を見た者なし.
(ハ) 井泉 以上の樣なことなし.
(ニ) 前兆 なし
船越尋常小學校本須分敎場
當部落にては地震後再び寢につき津浪襲來後30〜40分後に津浪のありたるを知れる有樣にて調査事項に關しては記入致し兼ねます.
但し大須にて小舟數艘流失せるも他部落よりの漂着物無し.
羽坂尋常小學校
1.
2. 津浪が押寄せて來る前に潮がずつと引いてそれからモクモクと盛上る樣に來ました.
岩の附近は渦を卷いて丁度繪本にある鳴戸海峡の潮の樣でありました.
斯樣にして幾囘も滿ちたり干ひたりして浪が寄せなくなつても岩の近くは渦卷をして居ました.
3. 羽坂にて船が岸から離れて灣の中流から沖の方に漂ふて居りました.
4. (イ) 音 a. 地震後大砲の樣な音がしました.
b. 津浪より約15分位前でした.
c. 大砲の樣な音でした.
d. 南方の沖合でした.
e. 野砲の空砲位でした.
(ニ) 前兆 空模樣が常と變つてどんよりし日入,月入が至つてぼんやりして居ました又海水の流が南の沖に非常に早くありました.
赤井村 赤井尋常小學校南赤井分敎場
4. (イ) 音 a. 大砲の如き音を聞きたり.
d. 東方.
e. 普通演習の時より小なる大砲の音位.
(ハ) 井泉 上記の如き變化を認めず.
鷹來村 鷹來尋常小學校.
當地は1部落海岸に面して居候へども過般の地震に依る津浪の地とは全く正反對の地勢に相成候付何等の支障も無之候
唯30分餘前に大爆音致しそれより強震ありしのみにて海岸方面は全く平常と大差無之候間右御報告に替へ申上候
牡鹿郡
女川町 尾浦尋常高等小學校御前分敎場
1.
2. 3時頃40米も潮が退いた.すると潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと津浪が來た.
其の後15分位の間隔で3囘來た.
3. 御前濱 女川町出島.
指ケ濱 同
4. (ハ) 井泉 津浪の1週間も前から井戸水が濁り井戸水は半分位に減少した.
(ニ) 前兆 附近一帶は鰯の豐漁なりしと,井戸水の減じたことである.
江島尋常小學校
1.
備考 津浪の囘數は3囘或は4囘と言ふ人あり.
2. 潮の滿つるが如くヂワヂワと來る.尚滿潮と異なる所を學げればそのヂワヂワと來る中に畠のウネの如き小さき波が幾つも漂ふて來たと云ふ(私は見ません).而してそれが引く時は急激だつたと言ふ.各囘共同じに來たれり.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 20〜30分前.
c. 大砲の如き音す.
d. 東東南の方向.
e. ボンとボンヤリした音.
(ロ) 光 a. 見えた.
b. 廣く.
c. 赤く.
d. ボーツと大きく.
e. 東東南の方向.
f. 東海岸より午前2時30分頃.
(ハ) 井泉 津浪の数日後井戸濁る.
(ニ) 前兆 前日,午後6時頃,遠くで大砲の打つ如き音聞ゆと言ふ.
(ホ) 其他 墓石の位置變る.
石卷市 湊尋常小學校
調査無之候.
門脇尋常小學校釜分敎場
當部落一帶には津浪襲來無之候.
住吉尋常小學校
該當事實なし.
渡波町 渡波尋常小學校
1.
2. 潮の滿ちて來る樣に但し速度が非常に大でありました.
當地は萬石浦に沿ふ爲に水は全部浦の中心に向けて吸ひ込まれ被害は此爲に殆どなかつたのであります.
各部落とも各囘同樣でありました.
3. なし.
4. (イ) 音 聞えません.
(ロ) 光 見えません.
(ハ) 井泉 何もありません.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
荻濱村 竹濱尋常小學校
1. 荻濱村小積 午前8時頃より2丈高地に上る 1囘丈
同村福濱浦 同 1丈位 同
同村牧濱 同 5尺位 同
2. 私どもの方は人畜に變りなく不明ですが人に聞いた事を知る丈申上ます.
谷川鮫浦の方は水は餘りに急に來たのでありません,爆音の後30〜40分後にしてザアザアと共に波音あり,それきり死んだ人は數々あります.
水は靜に來て上るだけ上り.引く時は急轉直下激烈にして家も何も皆さらはれたのです.各部落共全部同じでない樣でした.
桃生郡十五濱村では來る時は急にモクモクと來たさうでした.先方で委細尋ねて下さい.
岩手縣の宮古附近では爆音と共に赤い玉の如きものが沖より浪と共に陸の方に押寄せて來たそうです.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 30分前に.
c. ハツパの如き音でした.
d. 東の方向寢て居たので明瞭でありません.
e. ハツパの樣でした.
(ロ) 光 これは私どもはかげ濱故不明ですが,見た人に聞くと東の方に津浪の3〜4日前より毎晩8時前後に赤黄色の電光の如きものを見ました.
ピカピカともならず光つて居つたのです別に模樣もないのです.
牡鹿郡荻濱狐崎午後8時前後東方に又桃生郡二俣村倉迫にて之は3月3日午前2時40分頃地震最中に南東の空に同樣の光りものがあつたさうです.見た人に聞きました.
(ハ) 井泉 津浪の3〜4日前から牡鹿郡荻濱村牧濱鈴木トクヨの井戸濁り飮用出來ず.津浪後は急に今まで白くはまぐりでしたが,赤味泥水になりました.約5〜6日飲用しません.
(ニ) 前兆 井戸水を見たり光ものを見たり聞いたりした時にも誰1人として之は津浪の前兆と思つたものはありません.只寢中に爆音を聞いて始めて津浪たることを知つただけです.
(ホ) 其他 私の方は損害些少人畜死傷無く,委細申上兼ますが牡鹿郡大原村
谷川の慘状見るに堪えません.
荻濱村 小竹尋常小學校
1.
2. 潮の滿ちて來る樣にヂワヂワ來ました.各囘共同じ樣な來方でした.但し其の度に部落西南灣口(深水普通干潮3〜4尺,口廣約180間位)で浪が崩れてザワザワ音がしました.
4. (イ) 音 a. 津浪前爆音が聞えました.
b. 津浪より30分位前に音が聞えました.
c. 石油タンク爆發の樣な音がしました.
d. 罹災地釜石方面に聞えました.
e. 石油貯藏庫爆發の程度.
(ロ) 以下變つた事ありません.
大原村 大原尋常小學校
1.
2. 大原 給分 ヂワヂワ來ました.
小淵 小網倉 } モクモクと盛上る樣に來ました.
谷川 大谷川 鮫浦 } 水鐵砲の樣に打付けて來ました,浪は崩れ逆卷いて來ました.
大3囘とも非常な勢で來ました.
3. 大原村 大谷川.
谷川.
鮫浦.
小網倉.
泊.
(イ) 音 a. 銃のやうな音が2囘聞えました.
b. 20分位.
c. ドンといふ音がしました.
d. 東の方です.
e. 可なり強くありました.
以下 なし.
宮城郡
七ケ濱村 亦樂尋常高等小學校
當村は津浪の影響少なく,當日の浪の高さも普通の時化位のものにて滿潮面より4尺位の高さならん.
浸水家屋流失物等一切なし.
海底が金華山.福島縣鹽屋岬を劃する線内の海棚になつてゐる爲めか海嘯の影響意外に僅少なりき.
光りものを見たといふも,どの程度まで眞なりや不明なるも申出でありしまゝ記入す.
2. モクモクと渦卷のやうに來たとの答が多い.
各囘とも同樣らしい.
3. 流失物なし.
4. (イ) 音 a. 2囘.
b. 不明.
e. 大砲のやうな音ともあり.ものゝ崩れるやうな強い音ともあり.
d. 不明.
e. 鹽釜で打ち上げる花火位とあり,鹽釜港との距離直徑2粁位.
(ロ) 光 a. 見ないもの殆んど全部,僅かに數名見たとの事,ピカツと光つた.
b. 稻妻の光のやうに.
o. 青光してゐた.
d. e. f. 不明
(ハ) 井泉 津浪前から涸れた家1軒,海岸から30米許の處にあり.津浪後2〜3日で復舊.
津浪當日涸れた家2軒.
津浪當日濁つた家1軒.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
七ケ濱村 松ケ濱尋常小學校
1.
2. (1) 押寄せて來る模樣を目撃したる者なし.
(2) 音がしてから,後防波堤を越えて民家の庭に海水の浸入する有樣を知つて一時は避難せんとしたれども危險なきを知り避難せず.
(3) 同一部落にても東南に面せる海岸區は浸水10尺に達せず.
4. (イ) 音 a. 大砲の如き音を聞く.
b. 約30分前.
c. 大砲の遠音の如し.
d. 東北方の海上.
高砂村 高砂尋常高等小學校
當地は津浪の襲來無之1.2.3.は御答へ出來ません.
1.
2.
3.
4. (イ) 音 a. 音が聞えました.
b. 最強地震の後微動稍ある折.
e. 大砲の如き音を聞きました.
d. 東方.
e. 6〜7里位にして大砲の音を聞く程の強さ.
(ロ) 光 當地には無し.
(ハ) 井泉 變化なし.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
仙臺市 南小泉尋常小學校
該當事實なし.
名取郡
六郷村 六郷尋常高等小學校
1.
2. (1) ウネウネと高い浪になつて普通の浪よりも早く押寄せて來た.
(2) 各囘共同じ樣な寄せ方であつた.
(3) 水の流れが急なのでは5〜6尺の深い所でも濁つて濁流となつた.
(4) 川の中運河に置いた船が急流のため5〜6艘流れた,運河なるが故に流れた船には何等の被害がなかつた.
3. 浸水家屋なし.
4. 井戸に變化なし.
大曲濱 表濱分敎場
1. なし.
2. なし.
3. なし.
4. (イ) 音 a. 聞えました.
b. 地震後10分位の時.
c. 雷か爆音のやうな音.
d. 東南の方角.
e. 演習中の大砲位の音.
(ロ) 光 a. 見えました.
b. 稻光りのやうに.火桂のやうに・
c. 幾分青味がありました.
d. いなづまの樣に,しかし光はいなづまよりは弱い.
e. 北の方の空中.
f. 場所一定せず,地震後15分位の時.
(ハ) 井泉 變化はない.
(ニ) 前兆 漁師の話では引潮が非常に大であること,魚類が多く岸によつてくる事.
亘理郡
吉田村 長瀧尋常小學校
1.
2. 普通の浪が一時に押寄せて來た樣に思はれます.
3. 該當なし.
4. (イ) 音 a. 雷のやうな音がきこえた.
b. 2分位前と思はる.
c. 遠雷の音.
d. 東方といふあり,北方といふあり,北西方といふあり.
e. 今までかつてきいた事がない程強かつた.
(ロ) 光 a. 東方に上方にボーツと見えて間もなくきえた.
b. うす光上方にきえて行つた.
c. 普通の光.
d.
e. 東方海上と思はる.
f. 地震に驚き家外に飛出た場合,午前2時50分.
(ハ) 井泉 津浪の前には別状を認めず.
津浪後井戸水がやゝ濁る.
井戸の位置は海岸線より約1里の西方阿武隈山脈に近し.
(二) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
吉田尋常高等小學校
該當事實なし.
山下村 第二尋常小學校
1.
2. (1) 津浪と申す程のものにあらず,場所は砂濱なれば海水も一時に盛り上げる程度にあらず,浪が幾分高く潮の滿ちて來る樣に押寄せ漁船も一時2〜3町陸方に押上げられしものにて短時の模樣なり.引下がる時も急激の如く,押上げたものは其儘同場所に留まるもの多く海藻其他の漂着物にて事實を想像せり.
(2) 年1囘位は210日前後よく津浪に浸されることありて海水は防波堤を越すことあり.數日來の嵐の場合は殊に注意せり.
3. 流失物なし.
漂着物なし.
4. (イ) 音 a. 地震後約15分後地雷の如き鳴動を感ず.
b. 津浪と知りたるは翌日河水海水の入りたるにより津浪と知る.
c. 遠方雷鳴の樣でした.
d. 東南方海底の樣でした.
e. 稍緩慢.
(ロ) 光 a. 東方に見えたる事を聞く.
b. 青白色に明るさを感じた.
c. 青白色
d. 稍長時間に渡りしこと.
e. 海上なるも空明かなりと.
f. 亘理郡山下村笠野.
(ハ) 井泉 津浪の1時間前井戸水減少せることを認めたる家庭あり,海邊に屬する井戸なり.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 津浪のある前に一時海水の干潮になる事あり本囘は夜中なる爲め目撃せる者なきを遺憾とす井水の下水せる事を目撃せるものありたり
坂元村 坂元尋常小學校
1.
2. (1) 津浪は黒山の如く押寄せて來ました.
(2) 潮の滿ちて來るやうに來ました.
(3) 浪は逆卷いて來ました.
(4) 各部落とも同じ模樣でした.
(5) 津浪は各囘共同じ來方でした.
3. 磯濱 中濱 漂着物なし.
4. (イ) 音 a. 聞えた.
b. 2分位.
c. ドンドンと太鼓の樣な音.
d. 北東.
e. 可なり弱かつた.
(ロ) 光 見えなかつたが浪が光つた.
(ハ) 井泉
(ニ) 前兆
(ホ) 其他
坂元尋常小學校眞庭分敎場
本分敎場は坂元村の山手に在つて去日の地震による津浪について何等被害無之御調査要項に對して囘答致兼ぬる次第なり.
福島縣之部
相馬郡
福田村 福田尋常高等小學校
1.
2. 津浪の押寄せた状況は夜明けて始めて知つたので海岸の砂丘に打付けた浪の跡によつて大體の高さが分つたのである.囘數は2囘位と思はる.
3. なし.
4. (イ) 音 a. 海の音が常よりも大きく底唸りがするやうに聞えました.
b. 不明.
c. 音は底から盛り返すやうな恐ろしい音であつた.
d. 沖の方に.
e. 普通の音ではなく稀に聞く強さであつた.
(ロ) 光 a. よく分らない.
b. 不明.
c. 不明.
d. 不明.
e. 不明.
f. 不明.
(ハ) 井泉 異状なし.
(ニ) 前兆 なし.
(ホ) 其他 なし.
飯豊村 飯豊尋常高等小學校
3月3日の津浪に關し全校700の兒童に就き家庭方面ヘも聞き當りましたが何等の情報に接しません.
眞野村 眞野尋常高等小學校
記入すべきものなし.
福浦村 福浦尋常高等小學校
記入すべきものなし.
石城部
草野村 草野尋常小學校絹谷分敎場
當分敎場は海岸に遠く當時に於ける被害は更に無之候.當夜は珍らしき大地震有之地震の直前に當り松風の音の如く異樣の物音がゴーツと致し忽ちミシミシと約l分間以上も續きあわてたる者は竹籔に走り,各戸戸を開けて模樣を見たる程度に御座候.
關東大地震の際の振れ方より一層大にして,地震靜まりし後は更にユリカヘシが來り候も左程強くは無之候.後寢に就き夜明け迄異状無之候.津浪につきては更に知る者無之候.
豊間村 豊間尋常小學校
潮の滿ちて來る樣にヂワヂワと來た.
午前4時頃直ちに襲來した樣子.
高さ不明なるも小さきものなり.
夜明け後も盛んに海岸に打寄せる波浪,風穩なるに比し猛烈なり.
4. (ニ) 前兆 地震前(10日餘に渉り)天候曇勝ちにして暗雲低迷し,何となく空梅雨の候に等しき日續きぬ.
小名濱町 小名濱尋常高等小學校
去る3月3日の地震は可成震動を感じたるも津浪と稱する程の事もなし波浪は海濱に來りしのみ人家に入りたる處なし從つて御問ひに對し御囘答する程の事なし.
殊に夜間の事とて一般人は殆んど無關心の有樣,唯海濱波打際迄鰯の加工品を干したる當業者も氣付かざるため流失したる有樣なり.
5.海震報告
昭和8年3月8日於神戸 寫 水路部,船舶課長
大阪商船株式會社もんてびでお丸船長 山口 正
洋上に於て地震の餘波を感じたる件
本船は昭和8年2月14日北米ロスアンゼルス港を出帆して横濱に向ふ航海の途中同年3月3日午前3時40分(當時本船時計は東經154度45分に於ける眞時を使用し居たり)推測位置北緯40度35分東經151度27分に於て突然強激なる推進機のracingの如き震動を約4分間繼續して感じたり當時の氣象及び海上の状態は左の如し.
船艦は稍々縱動し居たりしも震動を感ぜし直前當時の波浪と明らかに區別し得らるゝ階級4なる「ウネリ」を西方より受けたり.
依つて直に無線電信を以て銚子無線電信局に照會したる所關東地方に於ては約3分間強烈なる地震を感じたる報知あり後報によりて東北地方の震災を知れり以上御參考までに御報告申上候也.
昭和8年3月4日 於横濱港
小倉石油株式會社 小倉丸 總噸數7270・14噸
船長 岸良彦一郎 運轉士 齋藤達
昭和8年2月6日北米桑港發横濱に向け航海中昭和8年3月3日午前2時33分より約3分間北緯34度36分,東經143度45分の位置に於て激震動を感じたり,この激動は東北地方東岸に起りたる地震と同種のものならん.
昭和8年3月16日 於横濱港
日本郵船株式會社 摩耶丸 總噸數3145・25噸
船長 濱口才次郎 運轉士 安達秀一
昭和8年3月1日午後1時55分四日市港を出帆小樽に向け航海中3月3日午前2時32分頃推測位置北緯37度38分,東経141度36分(金華山燈臺の南方39浬水深219米)の地點で突然船體激動を感じた,丁度前進中全速力で機關を後退した樣に,寧ろそれ以上に激しかつた.(當時本船は空船状態であつた)就寢中の者も驚いて皆室外に飛び出した.約3分間最も激しく其後漸次衰へて2時45分頃には全く以前に復した.
動搖は上下動のみで海上は三角波で滿されたがうねりは見へなかつた.當時北北西の軟風,海上は穩であつた.
昭和8年3月13日 於横濱港
山下汽船株式會社 東星丸 總噸數5484・26噸
船長 伊藤磯吉 運轉士 河口俊巳知
昭和8年2月18日北米タコマ發横濱に向け航海中昭和8年3月10日午後5時5分(日本中央標準時4時36分)北緯39度45分,東經144度13分金華山沖に於て突如船體に激動を感じた.最初2秒間位の震動がありその後2囘の微動があつた.周圍には何等の漂流物もなく種々の點から考慮するに海震と思考した.
海震に伴ひ氣象状況に變化は來さなかつた.震度はルードルフ氏の震度階級に依る4乃至5程度.尚當時の氣象は次の通
平安丸 (日本郵船株式會社) 船長 金子文左衛門
北米晩香坡發横濱向航行中昭和8年3月3日午前2時31分より同36分(日本中央標準時)に至る約5分間左の地點に於て激甚なる海震を感知せり.
位置 北緯41度50分 東經149度30分
状況 當初恰も機關全速後退せし時の如き震動なりしが瞬時にして上下動甚しく羅針儀爲めに躍出せざるやと思はしめ就眠中の船員一同寝床を蹴つて室外に飛び出せし程度であつた.
天候 曇.風向西.風力4.氣壓29・94.
氣温 零下3度 水温1度
直ちに機關囘轉數,塗水,操舵機を點檢せしも何等異状を認めず.
得撫丸(農林省) 船長 鵜澤榮司 運轉士 濱中仙四郎
室蘭發大船渡に向け航行中昭和8年3月4日午前2時33分約1分間に亙つて強烈な震動を船體に感じた,機關には何等變調は無かつた.
位置 北緯39度57分10秒 東經142度32分40秒.
天候 晴,風 北西輕風,海上輕波.
南方遠く電光の閃くを見たり.
同日午前9時頃より沿岸一帶に木材.水船,家屋の破片等多數の漂流物に會ひ,傳馬船2隻拾得した.
昭和8年4月11日 於氣仙沼港 船長 伊藤哲美談
水産試驗場技手 上田正喜 聽取
異常遭遇者 宮城縣氣仙沼港畠山清一所有發動機付漁船盛進丸(50噸110馬力)乘組員一同 船長 伊藤哲美
當時の状況 昭和8年3月3日午前2時30分頃當時盛進丸は釜石東微北(E by N)約100浬の海區にて鼠鮫延繩漁業に從事して居つた.
當時天候快晴星の輝を見た,海上は平穩,同船機關は「ストツプ囘轉」の状態であつた.
異常の事實 午前2時30分頃(時刻は精確ならず)同船の沖側に於て北→南に獨樂の「うなり」の如き音響と共に「黒き何物かゞ通過する」感じを受け船體に微動を感ず.
「うなり」より3秒後「ドーン」と云ふ大音響を船より北寄りの沖合の方向に聞く.
大音響より3秒後船に大激動を感じ船體は2ツに折れるかと思はれた附近海面は猛烈な上下動をした此の大激動は約5分間續いた後次第に激動も小さくなり静まつた海水は濁らなかつた.死ぬかと思つた時だから光等は氣が付かなかつた.
小倉石油株式會社光洋丸報告
3月3日午前2時50分(標準時2時30分)北緯36度37分東經1146度32分に於て約3分間強烈なる震動(上下動)を感ぜり其後約1時間して偏北西方の可なり大なる動搖起る.
6.被害統計
津浪被害統計は内務省警保局,岩手縣廳,同下閉伊支廳,青森縣上北郡三澤村役場發表のもの,並びに當研究所より北海道,青森縣,岩手縣,宮城縣の太平洋沿岸各地の警察署に對して管下被害状況を照合して得たる材料を集録したるものである.警察署調査のものと他の報告と數字の合はない點もあるが調査日の相違其他で止むを得ない.

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Reports on the Sanriku Tunami of 1933.
The present reports were Written by members of the staff who were despatched to the scene of the disaster. The subjects composing the reports are seismological data, mareograms, damage to houses, inundated areas, heights reached by the water, and various other phenomena that accompanied the present Tunami. The reports cover the whole of the regions that were swept by the Tunami.
From seismological observations, the epicentre of the strong earthquake is placed at 144E, 38.5ー N. During March 3-6, twenty minor shocks were recorded on instruments in Tokyo.
Mareograms from various places were collected for the purpose of studying the propagation of the Tunami.
Mareograms, in which the disturbances of the sea level due to the Tunami are recorded, are collected and reproduced in Figs. 8-32. The distribution of the mareograph stations in Japan and more detailed feature of the submarine topography of the neighbourhood of several mareograph stations are shown in Figs. 1-7.
In Manila (P. I.) and Wellington (New Zealand), from information received, no disturbances of the sea level due to the Sanriku Tunami were noticed. In the mareograms of Sydney and Melbourne, as shown in Figs. 30 and 31, they are not clearly recorded. The meteorological elements on March 2-4, at Melbourne, together with the mareogram, are shown in Table III. They may have some relation to the small disturbances in the mareogram, that is, the secondary undulations activated in the bay.
In all the other mareograms, except for those of stations situated along the coast of the Japan Sea, the disturbances of the sea level due to the Sanriku Tunami were recorded quite clearly, In the mareogram of Iquique, Chili, since the scale for the time is much reduced, we cannot determine the period of the oscillation from direct readings, although the amplitude is considerable.
In response to questionnaires addressed to primary school throughout the affected regions, the teachers in these schools procured for us a large number of accounts by eyewitnesses relating to luminous phenomena observed at the time of the Tunami, to the sounds heard, to changes noticed in the water of wells and other ground waters, both before and after the Tunami, etc, all of which have received our careful attention.
Reports of sea-shocks from vessels at sea are also included in the reports, besides deails of the damage as published by the authorities and police.
Maps of the affected districts are added at the end of these reports. On these maps, the red curves indicate the boundaries of inundated areas, while the numerals in red (on the maps on scale 1/50,000) and heavier type (on the maps on scale 1/200,000 and others) are the heights above mean sea level (in meters) attained by the water at points indicated by red dots or arrows. These heights were based on marks that were left by the Tunami, such as stains left on the walls of houses, seaweeds adhering to trees, blocks of wood left on cliffs, etc. The fact that sea water caused the withering of such parts of cedar and pine trees that were touched by the Tunami, was of great aid in determining the boundaries of the inundated areas.
The areas hachured in red in the maps are those that were visited by fire immediately after the Tunami, Where no signs of any kind are given on the maps, in such places either the measurements were impossible or no serious damage was found, Maps of such districts as where no inquiries were made, owing to impossibility of doing so and to other reasons, are excluded from these reports, although their positions are duly numbered in the index maps. Most of the maps added to the end of these reports are reproductions in full size of the Land Survey maps, on scale 1/200,000 and 1/50,000.
In measuring the heights of the water, hand-levels and tapes were used, and the heights thus measured were reduced to sea level at the time just before the onslaught of the Tunami, with due corrections to the datum level by means of tide table. The tide tables however show that the sea at the time of the Tunami, was practically at mean sea level, so that the reduced heights may be regarded as the true heights above mean sea level.
mapgraph giving general ideas of the effects of the Tunami as well as the geographical features of the affected districts are also inclined in these reports.
昭和9年3月25日印刷
昭和9年3月30日發行
編纂兼
發行者 東京帝國大學地震研究所
東京市神田區美土代町二丁目一番地
印刷者 島連太郎
東京市神田區美土代町二丁目一番地
印刷所 三秀舎
東京市神田區一ツ橋通町
賣捌所 岩波書店
Sold by
Iwanami Shoten,
Hitotubasi dori, Kanda, Tokyo.
Price of this copy: 12.50 Yen. (Postage exclusive.)

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