文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

三陸大震災史序

本年三月三日の三陸海嘯は言語に絶する大災害で、当面の救済や、善後の方策や、将来に対する研究などに朝野の力を傾けてるが、三陸震災史刊行会が早くも「三陸大震災史」を著述印行せら
れることは、すべての方面に多くの便宜を提供すると共に、後世に伝ふべき文献なのである。
印刷成りて私に序文を需められるが、私は此の著述に一語を加ふべき資格もない。
唯之について思ひ出されるのは、明治二十九年の三陸海嘯の時のことである。私はその当時佐々木敎潤、熊谷庄五郎、菅原通、村井宗三郎、黒澤十太の諸君と共に仏教研究の団体を組織してあつたので、海嘯の大惨事を聞くや、時の宮城県知事勝間田氏にも交渉して罹災死亡者の霊を弔ふべく奔走したのであつたが、いろいろ相談の結果、この空前の大災害を紀念すべく、災害の顛末を記述して後世に残さうといふことになつて、黒澤君が我々を代表し被害地方を踏査したのであつた。
その時、黒澤君は、一枝の筆三陸を弔ふとか何か言つて出かけたので、それから同君を一枝と呼んだ。後に東京朝日の記者になつてからも、同君は一枝の号で健筆を揮いつつ世を去つた。
この時編纂した書物は今私の手許には残つて居ないが、何でも正確な調査は三県の報告書として出てるから我々の方では公報に記されて居らぬ個々の惨害状況を記して置こうといふことに なり「三陸海嘯惨話」といふ書名にしたことを記憶してる。それから見ると今度の「三陸震災史」の如きは実に完全な記述であり、各方面に行渉つてる必伝の好著述といふべきであると思ふ。翻つて「海嘯惨話」当時のことを回想するに、当時事を共にした人々は前後皆世を去つてしまい、残つたのは菅原通君と私だけであり、その通君も今は釈好文老師として緇衣円頂の人となつて居られる。人生は二六時中緩慢な地震に揺られて居り、歳月は絶えざる海嘯として、次から次へとすべての生物をさらつて行くのである。筆を投じて暗然。
昭和八年四月一日
藤原相之助

自序

昭和八年三月三日暁も早き午前二時三十一分、東北の大地が突如鳴動したかと思ふ間もなく、恐るべき大津浪の来襲となり、宮城、岩手、青森三県を貫く所謂三陸沿岸は文字通り修羅の巷と化した。荒れ狂ふ海水は凡そ五千の尊い人命と無慮一万有余の人家を呑み去り夥しき船舶、漁船は、宛然、木の葉の如く、あしらひ去られた。噫呼!恐るべきは大自然の怒りでなければならない。明治二十九年今より三十八年前世を挙げて戦慄させた彼の三陸大海嘯の創痍漸やく消え失せかからんとしつつあつた今日、亦しても此の大災害に見舞われたわが三陸沿岸は永えに恨み多い存在として後世史家の文献に記録されるであらう……。
本書刊行会同人は慈に於て深く考ふる所あり、変事突発するや、日を置かずして直ちに罹災地を巡回行脚して具にその実情を踏査し併せて罹災者各位の悲境を同時に悲境として心からなる慰問をした。斯くて前後十日間能ふ限りの写真と、史実なる真相を得て之を縷述し、加ふるに美談、佳話等も添付して以て此一書を編成するに至つた。要は斯かる惨禍に遭遇せざりし多数の同胞に可及的省慮の念を促す事が出来れば、我等の所願はそれで足りる。
本書に於て全べて統計に属する数字は変事突発後旬日ならずして編纂に取り掛つた次第だから極めて大略を列記せざるを得なかつた。然し、多少の相違はあるとしても殆んど、正鵠に近い事を誇りとして読者に揚言したい。
次ぎに本書刊行に当つて、当日の惨害をもつとも迅速に、亦もつとも正確に報道して全国同胞に愬えられた、宮城、岩手、青森、及び北海道の河北新報、岩手日報、東奥日報、北海タイムス並びに中央帝都の東京朝日新聞、東京日日両新聞社の各震災記事に脾益させられた事も感謝せなければならない。
亦関係各当局の御好意をも併せて感謝する次第である。
以上本書刊行に当つて各方面の御援助を煩わして、より速く、より厳密に、より正鵠に…をモットーとして一同日夜超スピードで編成公刊した本会同人の労を希わくば諒とせられ内容の不備不体裁は宜しく御寛恕あらん事を御願いして序文のことばと云爾。
昭和八年四月
編者識

……惨害当日の新聞紙……

(1)上段河北新報。図内の写真は当日の地震計に現れた記録
右大正十二年関東大震災当日の震幅左今回の三陸大震災の震幅
(2)東京朝日新聞。図内の左側地図は大惨害を蒙むつた三陸沿岸縮図。(裏面全頁)

オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:4.3MB
写真 河北新報 当日の地震計に現れた記録
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:4.9MB
写真 東京朝日新聞 大惨害を蒙むつた三陸沿岸縮図
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:4.8MB
写真 惨状の一(岩手県釜石港の惨害跡)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:5MB
写真 惨状の二(燃焼中岩手県の釜石港)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.8MB
写真 惨状の三(宮城県本吉郡唐桑村にて前面の莚の下は惨死者)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.8MB
写真 惨状の四(津波の為巨船の陸地へ押し上げられたる図)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.9MB
写真 惨状の五(岩手県気仙郡田老部落の一部)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.9MB
写真 惨状の六(岩手県気仙郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.5MB
写真 惨状の七(倒壊家屋は畳を残して波に呑まれて行つたと云うユーモラスな状景)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.5MB
写真 惨状の八(圧死された死体を掘り起す村人 於本吉郡小鯖)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.6MB
写真 惨状の九(宮城県桃生郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.6MB
写真 惨状の十(宮城県桃生郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.4MB
写真 惨状の十一(宮城県本吉郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.4MB
写真 惨状の十二(宮城県本吉郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の十三…千貰以上の巨岩が押上げられたる処……(宮城県本吉郡)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の十四(同上 発動汽船の押上げられたる処)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の十五(気仙沼消防組員の活動)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の十六(気仙沼消防組員の活動)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.4MB
写真 惨状の十七(岩手県上閉伊郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.4MB
写真 惨状の十八(同じ県下閉伊郡部落所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.2MB
写真 惨状の十九(岩手縣大槌町附近所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.2MB
写真 惨状の二十(岩手縣気仙郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の二十一(中央気象■水富博士の賓地検分 於岩手縣気仙郡)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の二十ニ(岩手縣気仙郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の二十三(岩手県気仙郡所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 惨状の二十四(岩手県気仙郡所見)

緒論

恐るべき自然の暴威

人類史を通じて、そのもつとも悲惨なものに我等は戦争と天災地変を挙げなければならない、然しながら前者の悲惨には人類相互の意志が動ひている限り異なつた意味での悲惨さがあり後者のそれは無意志であり、不測であり、突発である所により大きな悲惨さがあるのではあるまいか、或ひは憶え一瞬にして十三万数千人を鳥有に帰したメッシナの大地震、更に憶え、今尚我等が耳朶に新たなるであらふ所の彼の関東大震災の歴史的空前の事実を……数え挙げれば我等只自然の暴威の前におそれ戦かねばならない……。
而かも筆を柯して今亦我等の郷土、我等の山河三陸の沿岸に再度の大災害を齎らしめたてふことを記録せねばならないとは!噫呼旻天河の無情か?我等の悲泣天を仰おげど徹せず、泥土地を塞ひで通ぜざるを如何にせん。

呪はれる三陸沿岸

昭和八年三月三日午前二時三十二分!此の日宮城、岩手、青森北海道三県一道にまたがる海岸線所謂三陸沿岸には夢びにだも忘るる事の出来ない大災害が降つて湧いたのだ、然り、降つて湧いたと云はざるを得ない、曽て死者五千人を出して地震国日本の当時をして戦慄と惨鼻を思はせた明治二十九年(今より三十七年前)六月十五日の三陸大津波から再度の怒りに触れた我が三陸沿岸は何と云ふ呪われた存在であらうか。


罹災者無慮十万
三日暁を破つて東北の天地を震撼した大地震は忽ち大津浪を伴つてその及ぼす災害は北海道より青森、岩手、宮城と一道三県に亘る太平洋海岸線数百里に亘つて、宛然この世ながらの生地獄を現出させた、内務省警保局に到着した情報丈けでも死者計数千五百三十五名、行方不明(死亡と見作されるもの)一千名、累計二千五百有余名、流失、倒壊、焼失、浸水家屋約二万戸、漁民の船舶流失実に三千六百有余艘、罹災者計数無慮十万を越えたと(三月五日現在調べ)称される。今次の三陸大震災は、その罹災程度、彼の関東大震災にも比すべきものありと云はれている。

史実に依る三陸大津浪

三陸沿岸と津波に関しては古来よりその因縁浅からざると見え日本中で一番その被害があると云はれている、古記録に依れば約一千年前清和天皇の御宇貞観十一年五月二十六日の陸奥国境地震に伴ふ津浪を始め三百二十二年前慶長十六年十二月二十八日(伊達政宗の頃)には日本災異史、伊達家の記録等に依れば溜死一千七百八十三人津軽領では人馬三千余を失ひ、蝦夷地では南東海岸に於て多数家屋が流失したとある。
亦その後の分の記録に残つている大津浪を挙げて見ると元和二年、延宝五年、元禄十七年、宝歴元年、安永三年、寛政五年、安政三年、明治二十九年と云ふ順序で三陸沿岸を襲つている、安永三年には南部藩箱崎浦では山岳鳴動し岩石累々として崩壊海中に没入し云々と伝えられているが明治二十九年六月十五日の津浪はもつとも甚だしくその被害は釜石地方だけで死者四千四十一人、負傷者六百三十五人被害個数七百九十一戸(全滅)船舶三百四十八と云ふ惨状さである。
当時目撃者の手記に、午後八時頃閉伊の沖合に轟然たる一発宛かも巨砲の如き大音響あり数分後津浪にわかに至り…三陸一帯七十余里、一瞬にして平砂荒涼し壊屋累々として満目惨たんたらざるなし……
云々と記されている、又同じく明治二十九年の三陸大津浪のときはあたかも陰暦端午の節句で地方の習慣として、親せき知己が互に相倚り湾上にかかった弦月が興趣を添えて和やかな団らんに平日の労を慰している時突如として襲つた大うねりなのだ。
「其の響き万雷に似て、山の如き怒涛一瞬時、数十万里の陸地は桑田碧海と変じ数十万の家財と数万の生霊は激浪のため、せん滅せられたり、古今稀有の一大災変にして後世子孫の長へに深く記憶すべき所なり。」
とて当時の惨たる涙の記録もあるが今次の三陸沿岸の大激震、大津浪は往事のそれにも匹敵すると云はれている。

旧記、古碑に依る三陸津浪の史的考証

旧記、古碑に依る三陸津浪の沿革はその淵源も古く往昔よりしばしば繰り返されてあつた様だが左にもつとも著名なる惨跡を記録して居る。(全べて宮城県海嘯史に依る。)


一、清和天皇貞観十一年五月二十六日癸未、(或曰七月十三日)陸奥国地大震動、流光如昼、頃之人民叫呼、依不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城敦倉庫、門櫓障壁、頽落顛覆、不知其数、海口哮吼、声似雷霆、驚涛湧潮、沂洄漲長忽至城下、去海数千里、浩々不辮其涯渓、原野道路、總為滄渙、乗船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無子遺焉(三代実録)
按ずるに同年十月十三日記に(上略)如聞陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢、而為患、或城宇頻壓而致映、百姓何睾罹斯禍毒、憮然鬼懼、責深在予、今遺使者、就布恩煦、使興国司不論民夷、勒自臨撫、既死者盡加収殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤濁、窮不能自立者、在所斟量、厚宣造濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉(三代実録)トアルハ即チ此ノ変ヲ指セルナリ


一、正親町天皇天正十三年乙酉十一月二十九日、夜亥時、至子時、地大震、畿内及東海、束山、北陸三道殊甚、地裂水湧、屋舎毀壊、壓死者無算、是時濱海水溢、溺死者数多、斯後震動十二日。
按スルニ県下本吉郡戸倉村民ノ口碑二天正十三年五月十四日海嘯アリシト云フモノ蓋シ之ヲ指スモノナラン。


一、後陽成天皇慶長十六年辛亥、十一月大晦日、松平陸奥守政宗、献初鱈、就之政宗領所、海涯人屋、波濤大漲来、悉流失、溺死者五千人(千一本作十)世曰、津浪云々、本多上野介正純言上之、此日政宗、為求肴、遺傳二人、則此者驅漁人、將出釣舟、云、今日潮色異常、天気不快、難出舟之由申之、一人者應此儀止之、一人者清主命不行、誣其君者也、非可止、而終漁人六七人、強相具之、出舟数十丁、時海面滔天大浪如山来、消失肝魂之所、此舟浮浪渡不沈、而後波平所、此時静心、開眼見之、彼漁人所佳之里辺、山上之松傍也(是所謂千貫松也)則撃舟於彼松、波涛退去、後舟在松梢、其時彼者、漁人相共、下山至麓里、一宇不残流失、而所止之一人所残漁人無遁者沒浪死、政宗聞此事、彼者興俸禄、政宗語之由後藤少三郎、於御前言上之、仰曰彼者依重其主命、而免災難、退得福者也、云々、此日南部津軽海辺、人屋溺死人馬三千余死。云々(駿府政事録)
按スルニ奮仙臺藩主伊達綱村公ノ時天正ノ初メヨリ萬治元年ニ至ルマデ凡八十年間ノ記録ヲ抜抄シテ時ノ將軍綱吉ニ奉リタル「御三代御書上」ト稱スルモノニ此ノ記事ヲ引キテ右ノ趣駿府政事録ニ相見得申候手前ニテハ委細不存候得共千貫松と申は名取郡岩沼の近所にて海辺一里余の所に御座候右の所に船を繋ぎ候と申松御座候由に付左候得ば実正と相見得候尤高山にしてなかなか嶺まで津浪など入申す山には無之候麓の儀と相見得申候右津浪は十月二十八日国元大地震津浪入候時分の儀にて可有御座候」
ト貞山(政宗)治家記録(巻之二十二)ニモ之ヲ記セリ千貫松ト云フハ一株ノ松ノ名ニアラズ麓ヨリ峯上二至ルマデ数千本一列ニ並ヒ立テリ因テ終ニ山ノ名トナレリ此所ハ名取郡ニアリテ逢隈川ノ水涯近ケレハ海潮ノ余波此ノ河水ニ入リテ泛濫シ麓ノ松ニ舟ヲ繋キシ事モ有リシカ傳ヘテ云フ「往古此ノ山上ノ杉二舟ヲ繋キタリト今其ノ老杉アリト云へリ」惟フニ舟ヲ千貫松ニ繋キシト云フハ未タ遽二信シヘカラスト雖モ其ノ発作ノ時日ハ十月二十八日トスルヲ可トセンカ県下本吉郡地方ノ口碑ニハ慶長十八年十月二十八日海嘯アリシ由傳フレトモ其事更ニ文書ニ見エス前文「御三代御書上」ノ言ト照合シテ考フルニ蓋シ同一ノ事実ヲ指シテ云ヒシモノナランカ。


一、慶長十六年十月二十八日大地震三度仕其次大波出来致候テ山田浦(岩手県東閉伊郡山田町)ハ房カ澤(山田町ノ西二十町許ノ所)マテ打参リ候由二ノ波ハ寺澤(山田町小丘ノ後ニ当レル小字)マテ参リ候、三ノ波ハ山田川橋ノ上マテ参リ候由二御座候外織笠村礼堂(織笠ノ西十数丁)マテ打参リ申候偖テ浦々ニテ人死数知レス鵜ノ住居大槌村横澤ノ間ニテ二十人津軽石ニテ男女百五十人大槌津軽石ハ市日ニテ人数多ク死申候偖テ浦々ニテ人牛馬共ニ其数相知レ不申候ト山田ノ人武藤六左衛門ノ蔵スル覚書中ニアリ口碑ニ依レハ此際津浪ハ山谷島ヨリ大浦ニ打越シタリト云フ。


一、慶長年間県下本吉郡大谷村大地震アリテ山崩レ水溢レ海嘯起リ今回被害ノ字大谷驛頭西南ニ当リ沼尻ト唱フル所ハ往吉不動川ノ流域ニシテ川筋ニ沿ヒ宿驛及田野アリシカ噴潮ノタメ決潰シテ大沼トナリシヲ以テ新ニ川ヲ堀リ南方字川窪ニ向ヒテ海ニ注キ夫レヨリ漸々宿驛ヲ今ノ地ニ移シ其ノ沼ヲ埋メテ田野ヲ開ケリ現今僅カニ沼形ト沼尻ノ名トノミ存セリ然ルニ今回モ復タ同一ノ方面ヨリ海嘯ノ惨害ヲ受ケタリ。(古老ノ口碑)
(参照)慶長十六年辛亥八月陸奥国会津大ニ地震シ猪苗代四萬石ノ地陥リ湖トナル死沒スル男女三千七百四人(武徳論年集成会津風土記)
一、後水尾天皇天和二年陸中ノ沿岸大津浪アリ。(宮古測候所発表)
一、後光明天皇慶安四年(紀元詳ナラス凡二三一〇代)県下亘理郡東裏ニテ海嘯襲来セシコトアリ。(古老ノ口碑)
一、霊元天皇延宝四年丙申十月常陸国水戸陸奥国磐城ノ海辺逆流陸ヲ浸シ人畜溺死シ屋舎流亡ス。(弘賢筆記泰平年表)
一、東山天皇貞享四年九月十七日塩釜波上鳴動シ波涛湧出シ市中へ潮一尺五六寸差上リ進退十二三度非常ノ由上達宮城郡海浜皆然リ。(肯山公綱村治家記録目録)
一、東山天皇元禄二年陸中海辺津浪アリ。(古老ノ口碑)
一、同元禄九年十一月朔日牡鹿郡石巻川口高浪船三百余艘船頭水手所在ヲ失シ溺死並浦浜水溢ルル趣上達。(肯山公綱村ノ治家記録目録)
一、中御門天皇享保年聞海嘯アリ田畑ヲ害セシモ民家人畜ヲ害フニ至ラサリキ。(本吉郡階上村字波路上ノ古老小野平彌平太所蔵小割帳ニヨル)
一、光格天皇天明年間海嘯アリ。
一、仁孝天皇六年六月陸奥国仙台ノ地大ニ震ヒ城塁壊シ且ツ海溢レ民家数百ヲ破リ溺死スルモノ算ナシ。(十三朝紀聞)
一、孝明天皇安政三年七月二十三日海嘯アリ当時ノ状況ニ就キテハ里人ノ記憶スル所概ネ左ノ如シ
一本吉郡十三浜村地震両三回アリテ海嘯起レリ然レトモ其勢弱クシテ浸水スルニ至ラス同村字大指ニテハ此ノ海嘯後居ヲ山際ニ移セルモノアリ。
一、同郡戸倉村正午頃時ナラサル干潮アリ同三時頃殆ト十分間以上ノ大地震続キテ海嘯ノ起リ来ルコト夜ニ至ルマテ十五回ナリシ然レトモ潮浪徐々ニ来リ唯タ家屋ニ浸水セシノミナリキ。
一、同郡階上村日中海嘯アリ沿海ノ田二町歩余流亡セシモ家屋人畜ニハ被害ナカリキ。其際気仙沼ヨリ大島ニ渡ラントセシ女三人死亡セリト云フ。
一、同郡松岩村正午頃海嘯アリ其ノ三十分前大地震アリ海嘯襲来後モ十日間許リ数回ノ微震アリキ当時大島村重左衛門ト云フ者ノ女(新城村字金成澤へ嫁セシ者)一子ヲ負ヒテ気仙沼ヨリ実家大島へ渡海中溺死シ其子ハ生存シテ波右衛門ト称セリ、此外大島村ニテハ尚一名ノ死亡アリ時ノ地頭鮎貝兵庫八幡前ニ三昼夜詰切リ下人ヲ指揮シテ用水ヲ満タシメ浸水ノ田ヲ洗ヒタルカ為メ塩気流失シテ平年ニ異ナラサル豊熟ヲ得タリト云フ。(同村ノ古老千葉七兵衛ノ談)
(参照)岩手県八ノ戸近傍ノ海浜ハ其水量今回ヨリ大ニシテ被害多カリシト云フ然レトモ其ノ浪勢ニ至リテハ到底這般ノ激烈迅速ナリシニ比スルニ足ラス波浪退却セシ後ハ悠々トシテ打上ケラレタル魚類ヲ拾得セシト云フ。(古老ノ口碑)
一、明治元年六月(日時不詳)小海嘯アリ(本吉郡戸倉村字水戸辺)
一、明治二十七年三月二十二日午後八時二十分頃陸中国三閉伊郡ノ沿海一帯ニ小津浪アリ此際ニモ其来襲前ニ海水ハ干潮セリ蓋シ此津浪ハ同日根室ニ起リタル大地震ニ伴ヒシモノニシテ、宮古測候所ノ報ニ依レハ当日当地方ハ弱震ヲ感セリト云フ。
一、往古海嘯ノ際本吉郡大島村(大島)字外畑ト裡ノ浜トノ間及中山ト浅根トノ間潮浪ノ越シタル為メ一個ノ大島分レテ三個ノ島トナレリト云フ(口碑)
一、本吉郡志津川町ヨリ登米郡米谷村ニ至ル間ニ水界峠アリ里人伝ヘテ云フ水界ノ名称ハ峠ノ南東ナル松ノ一叢繁レル旧道ノ辺ヲ指スモノニテ是ハ往昔大海嘯ノ時海水此所マテ押上クシヨリ斯クハ名ツケシナリト。(口碑)
一、今ヨリ五十二年以前(弘化年中カ)亘理郡荒浜村海嘯ノ際急ニ干潮シ阿武隈川ノ河水甚タシク減却シタルカ為メ河口ヨリ五六町ノ上流ニ於テ俄然河底ヲ顕ハシタルヲ以テ人民大イニ驚ケル中一時間許ヲ経テ高サ学一丈ニ近キ海嘯セリト云フ。(口碑)
一、明治二十九年六月十五日夜八時頃三陸一帯ニ渉リ猛烈ナル地震起リ分余ヲ距テテ物凄キ大津浪襲来シテ人家数十萬、人名萬ヲ突破スルノ大惨状ヲ呈セリ、古今前古未曽有ノ大被害ナリ。
以上列記シタル所ノ旧記、口碑ハ熟レモ著名ナルモノナレトモ就中慶長十六年ノ海嘯及明治二十九年ノ大津浪ハ未曽有ノ強暴ナリシ由ナリ。

惨害編(一) (宮城県の巻)

専門学者の当日の観測

順序として当日専門学者の観測に依る発表を見ると、先づ中央気象台では最大震幅四十ミリ、震源地は東径百四十三度、北緯三十八度金華山沖の海底とある。次に東北帝大向山観測所中村左術門太郎博士は左の如く発表している。
発震三月三日午前二時三十一分四十二秒四、初期微動継続時間四十秒、震源は仙台を去る東南約三百粁、総震幅八糎五以上、継続時間約一時問以上、弱震の強
右の如く総震幅は八センチ五に達し、これを大正十ニ年関東大震災の総震幅六センチ五に比して実にニセンチも大きく、向山観測所では地震計の針が外れてしまつた位である。
亦当日石巻測候所の発表は左の通りである。


発震時三日午前二時三十一分三十九秒一、初期微動継続時間二十秒一
最大震動二十三ミリ
総震動時問二時間
震度強震(壁に亀裂を生ずる程度)
震源地石巻測候所を去る約百五十キロの金華山東方沖合


右について石巻測候所野口所長は三日午前九時左の通り語つている。
本朝の地震は夜半の事とて非常に人心を動揺せしめたが幸ひ震源地が海底にあつたために陸上に於て思つた程に被害の少なかつたのは不幸中の幸と云はねばならない。尤も金華山から本吉郡志津川に至る宮城県沿岸地方に四百乃至七百程度の小規模な海嘯があつて可なりの被害があつたが、外側地震帯に起る大地の特徴として、今までも嘯々海屡が伴つたもので今回のも其の例に洩れなかつた。斯うした地震のあつた後には小さい地震が伴ふものであるから、今後も時々地震を感ずるであらうが、これは一度緩んだ地磐の安定上起るものであつて大した心配にはならない。尚今度の強震は昭和二年八月六日金華山沖合にあつた強震以来初めてのもので丁度六年振りのものである。詳細ほ取敢へず所員を被害地に派して目下取調ベ中である。……云々
以上を以て之を見るも如何に猛烈なる震動であつたかはかの関東大地震のそれよりその震幅の大であることに依つても想像が出来る。地震国たるも亦惨たる哉と嘆ぜざるを得ない。

被害の概観

此の日、厳密に云へば昭和八年(西暦紀元一九三三年)三月三日午前二時三十一分、宮城、岩手、青森三県下にまたがる海岸線を中心として深夜の夢を破つた一大強震が起り、震動は遠く本州中部地方西半部に渉り東京地方でも場所に依り時計の振子が止まつた程であるが、就中三陸沿岸、延々百里が程は地震だと思ふ間もなく物凄い海鳴りと同時に大津浪が襲来して、アッと云ふ間もなく逃げおくれた人々は哀れ海神の犠牲となつてしまつた。県保安課の調査に依れば宮城県下の被害は大略左の如し。(三月八日迄調査の分)


本吉郡唐桑村 死者三十一名行方不明二十七名計五十八名
同 鹿折村 死者四名計四名
同 階上村 死者一名計一名
同 小泉村 死者九名行方不明者六名計十五名
同 戸倉村 死者一名計一名
同 歌津村 死者四十六名行方不明三十八名計八十四名
同十三濱村
牡鹿郡鮎川村
同大原村
同女川村
同十五濱村
合計死者
死者八名行方不明者四名計十二名
死者一名計一名
死者三十三名行方不明二十八名計六十一名
死者一名計一名
死者三十名行方不明三十八名計六十八名
百六十五名行方不明者百四十一名


次ぎに動産家屋の損失額は全壊三七九棟、半壊二二八棟、流失九九○棟、浸水一五九七棟、発動船の流失八四、艘小舟の流失八五三で、その損害総額は百三十二万六百六十七円で各町村別にすれば左の通りである。

本吉郡

唐桑村家屋全壊一二六棟(四一、六四八円)流失二四○棟(九三、五六三円)浸水三二四棟(一三、四二七円)発動機船流失四七艘(四七、八八五)小舟流失二、一八艘(一〇、〇六三)家具其の他(七一、二七一円)合計二七七、八五七円
鹿折村家屋全壊二棟(一五〇円)流失四棟(二、○○○円)浸水四棟(三八○円)家財其の他(一、三七〇円)合計三、九〇〇円
大島村家屋全壊二棟(四○○円)全壊一棟(八○円)流失四棟(二、三六五円》浸水二一棟(一二五円)発動機船流失二艘(一、九五○円)小舟流失七艘(六、二○○円)家
具其の他(五、二五〇円)合計一六、三七○円
大谷村家屋全壊一棟(二○○円)全壊一棟(一五○円)流失一九戸(一○、○一九円) 発動機船流失三艘(二、一五〇円)小舟流失八五艘(二、四六七円)家具其他(五、 二六〇円)合計一九、二四六円
階上村家屋全壊六棟(三五五円)全壊一棟(○五○円)発動機船流失一艘(一、○○○円)小舟流失一○○艘(二、○○○円)家財其の他(一、二三○円)合計四六三五円
松岩村小舟流失七艘(一四七円)合計一四七円
小泉村家屋半壊十ニ棟(一、一六五円)流失五六棟(ニ六、六九七円)小舟流失七艘 (四二〇円)家財其の他(一三、七一八円)合計四二、○○○円
御岳村家屋全壊一棟(二○○円)小舟流失三ニ艘(一、八二二円)家財其の他(○五○円)合計二○七二円
志津川町家屋全壊五棟(一、ニ○○円)浸水一五○棟(ニ、五○○円)発発動機船流失五艘(四、五〇〇円)小舟流失七二艘(四、四○○円)家財其他(一、○○○円)合計一三、六〇〇円
戸倉村家屋全壊十棟(二、○○○円)浸水二三棟(五○○円)小舟流失一三艘(六五〇円)家財其他(二、三○○円)合計五、四五○円
歌津村家屋全壊一八棟(七五○円)半壊一二棟(八五○円)流失一二二棟(三五、五二四円)浸水四十練(二、三○○円)発動機船流失二艘(二、四○○円)小舟流失一九七艘(一一、五六五円)家財其弛(二三、一六〇円)合計七六、五四九円
十三濱村家屋全壊一六棟(三、七○○円)半壊二八棟(二、三○○円)流失九四棟(一八、○二二円)浸水四五棟(七五〇円)小舟流失一〇二艘(八、八○○円)家財其の他二八、九三〇円)合計六二、五五二円

牡鹿郡

鮎川村家屋全壊二棟(二、五〇〇円)流失一棟(五○○円)家財其の他(一六○円) 合計三一六〇円
大原村家屋全壊二五棟(四、三三〇円)半壊二四棟(九○○円)流失一一三棟四一(二四〇円)浸水二三二棟(二、九三○円)発動機船流失九艘(六三○円)小舟流失三九艘(二、三九五円)家財其の他(五八、三九○円)合計一○、八一五円
女川町家屋全壊七棟(一、七七○円)半壊六九棟(四、一○○円)浸水四十八棟(四、二一八円)発動機船流失一一艘(六、六○○円)小舟流失一二艘(八四○円)家財 其の他(一二六、六五五円)合計一四四、一八三円
荻浜村家屋浸水五五棟(三○○円)家財その他(三、六○○円)合計三、九○○円
十五浜村家屋全壊七七棟(六五、二○○円)半壊六二棟(一五、七四四円)流失三三七棟(一四八、五八六円)浸水二五七棟(二五、七○○円)発動機船流失六艘(八、五○○円)小舟流失一○八艘(六、七○五円)家財其の他(二四九、三二六円)合計五一九、七六〇円

亘理郡

坂元村家屋全壊二一棟(一、七七○円)半壊一八棟(四八○円)浸水ニ九棟、小舟五五艘(七、三五○円)家財その他四(七二○円)合計一四、三二○円

桃生郡

宮戸村階小舟流失一艘(一五〇円)合計蝋五○円

名取郡

閖上町家屋浸水一○棟
以上総計家屋全壊三七九棟(一二六、一七三円)半壊二二八棟(二五、八一九円)流失九九〇棟(三七八、五一六円)浸水一、五九七棟(五三、一八○円)発動機船流失八四艘(七四、六一五円)小舟流央八五三艘(六五、九七四円)家財其他(五九六、三九○円) 合計一、三二〇、六六七円


勿論以上の数字は本会の調査に依るもつとも正確に近い統計ではあるが、何分復興にも未だ着手出来ない悲惨な場所もあることとて厳密に云ふ正確は保し難きも稍々正確に近いものと信じて良い。殊に本書刊行時日が、震災直後十日を出でずして編纂に着手したので、要は惨状の真を写し置くを主眼としたものであるから多少の数字の誤りは読者諸氏に於て諒察されたい。以下、岩手県地方、青森県地方も岡断の事を附記しておく。(編者)

慘状視察記

筆者は惨状の報一度び伝はるや三月五日単身旅装を整へて、もつとも悲惨な運命に投げ込まれたと云はれて居る桃生郡十五浜雄勝浜、荒部落方面を振り出しに同郡沿岸を隈なく行脚して、具さに罹災民各位の苦衷を苦衷として味はつた一人である。筆者の廻つた頃はその夜の狂暴をサラリと忘れたかの如き太平洋の波はいとも静かに、春の海をノタリノタリとウネつていた。只物語られた沿岸の惨状を一目見渡して、ただ忘然、我を忘れて自失せしめられたのみ、噫呼、自然、何と云ふ、厳かにも怖ろしい極みではあるまいか。怖ろしさに眼を開いて再度大いなる自然の相を思ひ見たとき只々厳粛なる気分に蘇へさせられた。惨状を目の辺りに見て、我等は、忘れ勝ちなる自然の相を須隻も冒贖出来ないと痛切に感らぜれた。以下、被害地の惨状を紀行的に叙述して見やう。(A班)

見る影もない十五濱村

桃生郡十五濱村の大津浪は明治二十九年の海嘯に比較し水嵩六尺も高く、全村海岸部落を総なめにし、流失を免かれた家屋でも桂が、ぶち折れ、浪に持ち込まれた材木などで水が引いたあとは、見る影もない廃墟と化した。小学校や寺院に収容された無数の避難民は寒気烈しいその夜をまんじりともせず、浪をさまつて鏡の様に静まり返へつた雄勝濱の岸辺に集まつて、漂着した家財道具のうちから自分達の持物を選び分けているのも一入涙ぐましい状景ではあつた。殊に一家九名の家族の中七名を波に奪はれ奇跡的に命拾ひをした雄勝濱、菓子商鈴木求(三三)さんの語るところに依れば
丁度津浪が襲来したと聞いたので母ちよの(六五)はこの前の(明治二十九年の大津浪)津浪の時は屋外に遁れたものは皆死んだから、二階に上れと云ふので私共も二階に上つていたが、水は二階の上にぐんぐん浸水して家諸共海中に流れ出し浪の間に漂よひながら救ひを求めました。
その中に弟の武志(二二)は屋根の上にはひ上がり「兄貴しつかりしろ」と呼ぶのですが、老母や女房や幼い子供が私の腰にすがるので、そのまま皆で死ぬのかと覚悟をきめていると屋根の上から弟が屋根板を破しここから上れと云ふので私が先きに屋根に、はひ上ると家はそのまま激しい水の流れに持ち去られました。私共兄弟二人は夢中になつて激浪を泳いで穴岬に泳ぎつき助かりました。

神も仏もないと云ふ荒部落

悪魔の波にさらはれた三陸沿岸の一帯は何処も彼所も惨亦惨で、涙がつきない。中でも県下桃生郡の十五濱村雄勝濱、荒部落は、県下の悲惨を代表していると云つても敢て過言ではあるまい。
浸水家屋五百、流失倒壊百余、死亡行方不明七十を数へられる同村荒部落は二十八戸の中十八戸、その家族十七名が浪にさらはれている。筆者はこの人と家とをさらわれた同部落を見舞ふべく道を急いで、同村雄勝部落に着いたのは夜の幕も落ちた夜の午後八時頃部落に車を捨てて一歩踏み出した途端、目の前の小学校庭に大きな漁船が二艘とすぐ傍らの神社の鳥居前にも一艘、陸では見られない固体がころがつている。附近一帯は大浪であらわれた砂利道のやうだ、今朝の三時頃まではこれが軒並の部落だつたと聞いてはどんな暴威だつたらうかと、ただ驚くばかり、やがて五十八名君の死者を出した同村荒部落の高橋梅吉氏の宅を訪れて見た。居宅」ぱいに敷きつめられた蒲団、ウメキ声、枕頭にうなだれる蒼白な人、人、人の顔、筆者は静かに見舞の言葉を掛けた、主人の梅吉老人は力なく語る。
世の中には神も仏もありません。私共も津浪と云ふものは何百年に一度かと云ふ様な気持でいましたが自分一代に二度もこんなことがあつてはいくら先組伝来の土地でも離れたくなります。もう漁師稼業を止めて山の方へでも逃げるか……、、そも経費を掛けて仕事の計画を樹てる様な気になれません。
ご悲痛な面持ちで語られたが、尚語をついで明治二十九年の津浪のときはこの部落は十六戸でそのうち八戸流され二十八人死んだ、その時津浪の高さは十九尺五寸と調査されたので私共はこの程度なら大丈夫だらうと海岸を離れて家を建てました。ところが、今朝の浪は三十五尺からあつた。それがさほどの音もなく地震後三十分位かと思ふ頃、ただの一遍でやつて来たのだからたまりません。御覧の通りです。私の家には重傷の人が六人です尚橡側には七つの仏さんがいます。一家族全部亡くなられたのは高橋松男家の八人高橋貞次郎、高橋しんの各四人の三家族です。海に流された人でも運よく隣の大須濱の船に十一人助けられたが、その中二人は凍死していました。流された瞬間生き残つた親は狂気の様になつて海岸に飛び出し誰れ!誰れ!と絶叫し流されて行く人は陸上目がけて夫を、妻を、子を、親を、口々に叫ぶ、アアその声は未だ耳に残つております。…云々

奇跡的に命拾ひした凱旋兵

奇跡的に命拾ひをした同部落出身の凱旋兵で、本年一月満洲から帰還した歩兵第四連隊機関銃隊の高橋鶴吉君は頭と手にグルグル崩帯しながら語る。
丁度あの時です。家が持ちあげられた様な気がしたので、パッと起き出て雨戸を明けたとき、柱か何かで頭を打たれ、その儘倒れた。その後どうなつたかわからないがやつと気がついた時には浪に呑まれ乍ら山際の桑の木に横腹をぶつつけられて気がついたのでその瞬間桑の木に抱きついて離さなかつたので助かりました。

山上に恐怖の一夜

女川町ー牡鹿半島女川町を襲つた海嘯の模様について同町被害者の一人、石巻中学五年生阿部孝は語る。
夜中に大地震で目がさめました。少したつた午前三時十分頃と思ひますが海上から自動車の走つて来る様な音が聞えます。その瞬間「津浪だ!」と云ので私は裸体のまま戸外に飛び出した。
海岸通りを夢我夢中で走つて山へ山へと逃げのびました。私のあとから登つて来た人達の話では腰の辺りまで水びたりになつたさうで全町民は皆山へ難避するので大変な騒ぎで、暗黒な晩でしたが雨あかりで四退がボンヤリと見えています。何とも云はれない恐怖に満ちた物凄い一夜を私共は山上で一夜を明かしました。

アツと云ふ間に全部落ひとなめ

亘理郡磯浜部落ー地震と共に前後三回にわたる丈余の大津浪に襲はれた本県最南端亘理郡坂元村磯浜部落は全戸数七十五戸の内全壊半壊合せて二十五戸七十五棟、浸水家屋五十戸近くに及び全部落は津浪のために一なめにされ、アツと云ふ間もなく真ッ暗い深夜のこととて逃げ場を失ひ激浪に押し流されるもの、或ひは倒壊家屋の下敷きとなり救ひを求めるもの、泣き叫ぶ声等物凄く全く生きながらの水地獄を現出するに至つた。坂元村全村は直ちに警鐘を乱打し二百余名の消防総出動をなし、暗夜にづぶぬれになって此所かしこの松林の中にかたまり恐怖に戦いている罹災民の救助を開始し、負傷者六名は他の民家に移し応急手当を加へたが、全部落とも水浸しになつて目も当てられない惨状を呈した。

一家六名枕を並べて圧死

本吉郡階上村 同村藤の下四戸倒壊の現揚へ足を踏み入れると佐藤森治(四九)さんと呼ぶお百姓は倒壊した我が家の傍に、ぼう然とたたずんで語る。
母親いま(七一)が病床にあつたのでこれを救け様と妻まさ(四○)とともに努力したが母は屋台骨に押しつぶされてしまひ重傷を負つていた。妻を辛うじて蓮れ出し避難しましたが何としても悲しいことです。


同郡小泉村 小泉村字二十一浜は六十戸の部落のうち十八戸倒壊したが、海岸より二三丁山の手の十八戸が津浪に押し流され目もあてられない惨状で、津浪の濁水が襲つた跡は流された家財や漁具等の破片で埋まり足も踏み入れられぬ惨めさで、佐藤貞吉(三四)さんの一家六名は倒壊家屋に押しつぶされた後は殊にも凄惨な情景を呈し、家は滅茶苦茶にこはされその下敷に六個の犠牲者がかくされていて涙を催ほさせる。貞吉の母しげ(五六)のうつ伏せの死体が倒れた柱の間から見え、その死体の傍は去年生れた男児の死体もある。同じく同部落中舘賢蔵(六八)一家五名の圧死現場も前記同様無残な光景だ。同家で生き残つた賢蔵の長男年男君と同人の妻まつはこの突然の出来事に痴呆の様になつてウロウロ現場をさまよつている姿も一入悲惨の極みだつた。

唐桑村地方の惨状

本吉郡唐桑村ー震源地に最も近い唐桑村地方は県の東北唐桑崎にあつてその損害も莫大だと称されている。筆者は被害地視察の為め七日午前十時気仙沼港に至れば早くも親戚や知己の安否を気づかひながら、食糧品や防寒具等を山と積んで唐桑村行きの汽船新光丸に出発を待つ二十余名の人々は震災の話で持ち切つている。五十分にして小鯖浜に上陸すれば海中にさらわれた三十余の人家は全く海に没して影も形も見えぬもの、辛ふじて屋根丈を水の上に現はれているものなど、海と水との見境ひもつかぬ程である。陸には昨夜の騒ぎを思はせて鉄製の汽船が海岸に無気味に横はり赤の船底に春の光りの輝き渡る中を顔も青ざめた罹災民が右往左往して、うらめし気に父や母や兄弟姉妹が懐しい住家と共に海の底に沈んでいる、無残な情景を看守つているのも哀れさである。現場に只勇敢に働いてゐるのは救助に赴いて来た二十名の消防夫と郷内巡査ばかりである。区長神谷安蔵氏は疲れ果てて血の気もない蒼白な面持で左の如く語る。
地震があつてから三十分位経つた頃でした。電気でもつけた様に青い光のさした大浪がやつて来たので、アッ津浪だなあと思つたときにはもう大音響と共に人家がさらはれ十五人ばかりの人はそれつきり姿が見えませんでした。全く瞬間です。助かつた人も身を以て漸やく逃れた程でどうする事も出來なかつたのです。……
と涙も涸れ果てている。
辞して直ちに同村郵便局を訪へば平素は毎日、一二通に過ぎない電報がこの日は五六十通も山積して局員は目の廻る様な忙しさである。更に同村役場では収入役が吏員十三名と大童である。漸やく二里ばかりの道を越えて同村字只越部落に至れば海辺には一戸の人家も見えず、津浪に押しつけられた三十余戸の人家は一塊まりとなつて山際に押し固められその悲惨は全く目も当てられないが、被害のなかつた亀谷養助氏方が救済所に当てられ負傷者の手当も出来ていたが村人は惨死を遂げた二十余名の始末に余念がない。惨めな犠牲となつた人々の死骸はそれを葬るに棺桶もないのでセメントの空樽に一々納めて、それを佳家の跡に並べられていたが、それを囲んで涙と共に形ばかりの手向けをしている有様早くも人家の跡に馳せつけて土台石や竈を目印に附近に残つている板や畳切れなどで囲をなし、急造のバラックを作るに余念のない情景がいくつもあり早くも火を焚いて暖をとっているものもあるが早朝雪に襲はれたこととて着のみ着のままで逃げ出した避難民は、零下五度と云ふ寒さに凍えているが、その上空を時折爆音高く飛行機が飛来するので罹災民は気強さを感じている。
只越部落を出で一里余の同村大澤部落に向へば、常には自動車も交通出来ぬ只越峠の嶮を越えて二台のトラックが木の香も新らしい棺桶を満載し海岸地指して急ぐのも悲壮の感がした。大澤部落は百六戸の中流失家屋三十七戸で救済も割合完全に行はれているが、鹿折村からの救護班はトラックに分乗して消防夫や、青年団、これに医師も加はつて食糧品や防寒具を満載して持つて行つたので罹災第一夜は温い情に、飢えも寒さも凌がれる準備が成つていたのも嬉しい情景の一つであつた。

三度目の受難

桃生郡田の浦ー明治二十九年の三陸沿岸一帯を襲つた大津浪には部落全滅に瀕し、激浪にさらはれた者二百余名を出した。この田の浦は大正十二年の山火事で全焼の厄に遭ひ、火災復興に勢一ぱいの力で今日の七十二戸を築き上げ、まだその痛手がなほらない今日で三度目の大津浪襲来だ。
漁船は殆んど全部流失、破損して役には立たず、漁具は波に奪はれどうしてこれから生きて行くべきかに全く見当もつきかねている。
同郡港ー港部落は全戸数八十一戸災厄に漕遇した家屋は流失三十三戸浸水二十六戸、惨状は田の浦部落に亜ぐ、三陸沿岸では気仙沼港と同様、漁船避難の最適港で三日朝も漁船が数隻、波の音を子守唄に聞いて夢を結んでいたが、あの津浪で部落の漁船と同じ蓮命を辿つたと云ふ。朝に獲つた魚は夕の糧に変へねばならない忙しい生活に追はれているこの部落民は燃えるが如き更生の意気があつても旧態に復するには容易ではない。
以上本県下の被害地で最も代表的な部分のみを拾つて見たわけだが、之を県下各警察署管内の状況報告書と照し合せて読者諸氏の想像を帰納させたい。
宮城県警察部に達した管下被害地各警察署の災害状況報告は左の如し。

亘理署管内

各地被害状況
海嘯襲来したのは坂元村磯浜部落と中濱部落のみでその被害は磯濱部落は倒壊家屋(全壊一〇半壊一一)二一戸でその被害非住家共計一千三百七十円、漁船の被害五十五隻、見積七千三百五十円、船具の被害一千百九十円外に馬一頭堤防工事用「セメント」等計二干百六十円の被害、海嘯による負傷者は重傷は三名飯塚トシコ(十四)星いるよ(六九)星忠治(四二)外軽傷四名あり何れも生命に異状なし浸水家屋は床上三戸床下十八戸。
救護の状況一当署に於ては海嘯の報に接するや直に署長以下巡査部長一名巡査一名、医師一名と共に自動車にて現場に出で村当局と協議の上善後策を講じ坂元村消防組員百七十七名に出動せしめ救護に努めたり。
救護の状況二罹災民全部は食糧衣服等流失したるもので内罹災者は(同部落は総戸数七十八九戸)それぞれ親族を頼り救護せしめた食糧宿舎寝具等も各親族において給興した。又負傷者は各自医師を依頼して治療中で僅か七名の負傷者なれば充分なる医療を施しつつあり。

石巻署管内

海嘯襲来の状況三月三日午前二時三十分頃急激な強震約七分問に各地を襲ひ突然の地震に驚いた部落民は先を争い戸外に飛び出て避難した。戦慄せる強震次第に止み部落民も漸やく安意し屋内に入らんとしたるに同五十五分頃平穏であつた海面は急激に騰膨し海鳴を生じ来るを認めた。強震の為め恐怖せる部落民は海鳴を聞き海嘯に非ずやと予想したときは高波は勢鋭く沖より押寄せて来た。女川大原村の部落を洗流するに至り、部落民は身を以て戸外に遁れ小高き場所に避難した。午前三時頃より午前八時頃迄の間に地上四、五尺位に十数回反覆押し寄せた女川町は入海となつている関係上、直接海洋よりの影響を受くること少なく海嘯は徐ろに襲来し来るを以て部民は何等の死傷もなく町の後方山林に完全に避難した。大原村の谷川部落は強震に驚ろき戸外に飛び出し張震の止むを待つて家に入つたが、地震鎮まつてより約三十分位を経過したる頃、突然沖合に於て物凄き大音響と共に間もなく海上は薄気味悪き音を立て大波押寄せたもので部落民は小高き丘に避難した。
救済救護の状況女川町には巡査部長派出所、巡査駐在所二あるも尾浦巡査駐在所は目下病気中に付き欠員、午前三時五分頃女川部長派出所より海嘯襲来の報告に接したので、当署より署長、警部補、巡査部長二、巡査五名急援の為出発し、受持警察官及役場吏員は協カして部落民の避難其の他救護に努めた。急援隊現場に到着したる当時は地上四、五尺位の浸水あり午前八時頃迄に地上四、五尺位の大波拾数回反覆押し寄せ居るを認めたが如何とも為し難く、平静に復するを待つて救済に努めた状況で殊に道路に散在せる流失物の盗難予防に努むると共に町全部の部落にわたり被害の調査をした。大原村には大原浜に駐在所一あるも今回の罹災地より遠く、その部落民の救助及本署に対する連絡に困難を来したので被害あるが如き流説により、当署より水上警察署勤務警察官及管区巡査を貞山丸に乗船せしめ救助死体の検視、行衛不明者の検索に当らしめた。食糧は女川町にありては罹災者外の部民より給興を受けつつあるも、大原村に於ては差向、鍋百、ザル五〇、木炭五〇を罹災民に興へたり。宿舎は罹災者外の部落民の家屋に救助されつつあり。
寝具は夫々村役場に於て罹災者外の者より布団及毛布等を借集めそれを貸興した。医料方法は半島方面の村医全部の出援を求め其他日赤病院より派遣された救護班出張し万全を期しつつある。

気仙沼署管内

海嘯襲来の状況三月三日午前二時三十分頃強震あり為に何れも起床屋外に飛び出したが、後約三十分位で沖合に大砲を発射したやうな音響二回あり、其後海面干潮間もなく海嘯襲来した。去る明治二十九年の海嘯の際にも沖合に於て音響後一時に干潮となつた例があるので、之を知る者は直ちに海水に注意したが果して海水が引いたので海嘯の来る事を予期し部落民に急告した為比較的死傷者少なかりし模様。
各地被害の惨状小泉村二十一浜部落総戸数四十三戸の中流失家屋十一戸全壊一半壊にして死傷八名、行衛不明者七名、馬匹斃死三頭、半全壊の家屋二棟は形態を存するも、其の他は約二丁位小川に沿ふて上流に押し流されて大破した。同部落に死傷少なかつたのは地震直後出漁全部の為、海岸に居た漁夫が早くも海嘯襲来を知り部落民に知らせたる結果である。惨死者の死体は家屋の下に圧せられたもの、或は土中に埋没せられ中には老婆が孫を抱いて共に圧死したと云ふ悲惨なのもあつた。
大谷村字大谷部落総戸数四十戸の中流失家屋六戸(住家六、非住家七棟)で家屋は全部県道に沿ふて約三百米上方に押し流され県道田圃等に散乱し一時交通途絶した。
階上村杉下部落流失家屋四戸、浸水家尾四戸、死者一名傷者一名あり死者は本年七十歳の老齢且病臥中で長男夫婦は救助しやうとしたが浸水急激遂に救助し得ず辛ふじて避難するを得た。
唐桑村字小鯖浦部落総戸数六十三戸の中流失家屋二十九戸、浸水家屋十戸、死者八名、行衛不明者七名、負傷二名、同所には大洋丸(八十噸)不動丸(六三噸)松生丸(四〇噸)の三艘が海岸に押し上げられ、家屋の破片は湾内に充満し殆んど海面と陸地とを区別し得ざる惨状を呈した。
同部落民中強震後間もなく一時に干潮になり海嘯の前兆なることを知り、小高き丘に上の部落民に津浪だと告げたが火事、と間違ひ逃げおくれ死傷したものもある。
唐桑村石澤部落総戸数八戸の中四戸流出す、死者七名を出したが死者は何れも同一家族で生き残つたのは小野寺貞雄(二八)同人母みつの(四七)の二名、みつのは流失家屋と共に約二哩沖に押し流され約三時間海中に漂流中貞雄に奇跡的に救助された。
唐桑村只越部落総戸数八十三戸の中流失家屋三四戸、死者八名行方不明十七名負傷者三名、中には一家現在八人家族で全部死亡したのもあり、同所は連接部落なるため流失家屋は殆んど山根に沿ふて押し上げられ折り重なつて打ち壊され、宅地は一面河原と化し死体は諸所に散在する等惨惨状を極めた。
唐桑村大澤部落総戸数百六戸中、流出家屋二十五戸、半壊五戸、死者五名、傷者三名、馬斃死二同所は総戸数の割合に被害の少なかつたのは家屋は比較的山地に建築されみてた結果。
警察官応急手配並に救護の状況海嘯襲来の報を受くるや直ちに罹災地と目せらるる受持以外の警察官を迅速に非常召集し、署長以下現場に急行消防組員、自警団員を督励し村当局と協議の上死傷者の応急手当罹災者の放助死体の捜査等に従事し、医師なき村には気仙沼町より警察讐其の他の医師を急派し応急手当をした。罹災地は何はも通信機関不備で、人夫、伝書鳩等により通信の連絡をとり、十名の応援警察官を求め各地に之を配置した。
罹災民の惨状救護方法罹災民は辛ふじて身を以て遁れ衣類を初め家具等は全部流失し、住むに家なく糊口を凌ぐに食なきのみならず中には親を尋ぬる娘あり、姉を探す弟あり或は吾子の死体を守つて悲嘆に暮るるものあり等、実に惨状を極めたが罹災民は残存せる人家及神社等に収容し炊出しを供給して一時救済、更に唐桑村の如きは村費を以て一人二合五勺平均に救助米一週間分を供給し、その他の食糧品被服等は村内有志より寄贈あり之を供給し、假小屋料として一家十円づつを村費より支出給興することとした。又二師団よりは毛布七百枚を借受け当署下全罹災民に給興した。
唐桑村只越部落は三日来罹災現場整理の為め気仙沼消防手二七名、鹿折消防手二四名、鹿折自警団一四名、唐桑村より人夫五〇名出場し居り本日中には大体に於て同部落の災害家屋を整理し得らるる模様。
救護状況罹災者は附近の人家及神社四ケ所に避難し、食糧その他は恙なく配給せられ遺憾なき状態、罹災者二十五名中死体発見せしもの八名、未だ発見せざるもの一七名の死体は目下捜索中なり、医療機関は赤十字三陸救護班、県警察部衛生課救護班、気仙沼医師会救護班等出張し異動救護に従事してありて救療上何等遺憾なし。
流書ヒ語昨日ラヂヲ放送にて本朝午前三時強震ある旨放送せられ、再ぴ海嘯の襲来するとの流言ヒ語起りて罹災以外のものも夜半に神社その他に押し寄せ、一時混雑を極めたるも厳重取締をなし制止した。

飯野川署管内

各地避難民の状況十五濱村雄勝総戸数三百七十戸人口二千二百二十五人中流失戸数百二十八戸、半壊七十三戸、全壊五十六戸殆んど全部落に浸水行方不明九人(死体発見七、未発見二)同村船越字荒全戸数二十八戸、人口約二百二十人中流失十ニ戸、半壊三戸、全壊三戸、行衛不明五十九人(死体発見十七)負傷者、重軽計十八名、両部落共明治二十九年三陸海嘯に漕遇し相当経験あり、雄勝部落では終震後駐在所に於て消防組の後援団をして直ちに警戒に就かしめたので、海嘯襲来を早く知悉し各部落民に周知せしめ直ちに避難したる結果行衛不明者少なきを得、僅かに一家七名の行衛不明者あるに止まつたが、これは明治二十九年海嘯に際し階上に在りて完全に避難したが、今回の海嘯は明治二十九年より雄勝濱に於いて約六、七尺高かつたため家屋流失惨死したるもの。
荒部落に於ては何等非常の警戒をなさざるのみならず、終震後約三十分後海嘯があつたので一時就床したらしくその為行衛不明者多数に上つたもの。
船越部落流失家屋六戸、全壊二十二戸、半壊十三戸、浸水五十七戸。
名振部落の流失家量五戸、全壊六戸、半壊十三戸、浸水五十八戸。
警察署の探りたる措置三月三日午前二時三十五分発震終動直後午前二時四十分頃、管内各駐在所に非常電話を以て署の安全を通知すると共に駐在所の安否を確めたるに、何れも事故なき旨報告あり即時部内被害状況を調査報告すべきを下命した。然るに午前三時五分頃雄勝巡査駐在所勤務巡査高橋金男より非常信号を以て海嘯の電話報告あり、当署に於ては呼び返したるも何等の返事なきを以て海嘯の大なるを察知し、即時巡査部長千葉弘平、巡査半澤幸雄、同柴原芳策、同久永俊壽を自動車を以て現場に急行せしめたるに、雄勝部落の惨害甚しきを知るを得た。而して午前六時頃罹災者に対する炊出救護の必要を認めたるを以て署員の非常召集を行ひ二俣、大川、橋浦、飯野川、各消防組をして救出の救護を求め一方直ちに出動救援を下命、飯野川町貨物自動車二台乗合自動車四台の応援を得て合計百名に出動せしめ、倒壊家屋の整理、炊出の配給避難民の救助 その他に従事せしめ、十五浜消防組は各部落より直ちに救援せしめ、涌谷、仙台各署より各五名の警察官の応援を得たり。
罹災民の現状十五浜、雄勝浜、船越、荒の三区は尤も被害多く相当避難民あるものと思料、各部落小学校舎仏閣を避難所と指定収容した。避難民は或は自己住宅の半壊倒を利用し自己所有財産の管理に当り、又は全壊流失等の者と近親知己を便り何れも避難した。被害僅少な名振浜に於ては何等避難方法を講ずるの必要を認めなかつた。雄勝部落罹災民に対しては自動車及船の交通割合に便なるを以て、各附近部落より多数食糧の配給があつたが、船越、荒に於てはこれ等の便更になく附近部落に於ても多少被害あり、救護に向ふもの割合少きを以て被害なき隣部落大須浜より食糧供給しあり、昨三日緊急村会を開き一万四千百七十四円の救済金の決議をなし四日女川町より購入、寝具は附近各部落より若干の配給を受け更に大川村より布団百二十枚、県より毛布四百枚の配給を受け雄勝部落罹災民に配給した。名振、船越には割合被害少なく荒においては大須部落より配給を受けた。雄勝部落では開業医伊藤雄吾氏救護に当り負傷者十八名(内三名重傷)の荒部落にては同村開業医菅原義衛、大川村開業医永澤五郎の両氏これに当り、その後衛戌病院より千田二等軍医正外十五名日本赤十字社宮城支部より医師二名、看護婦四名の救援を得、治療救護中。

犠牲者

今次の震災に於て蒙むつた損害は動産、器物、什器に至る迄宮域県地方丈けで既に見積られた金額は五百万円を突破したと云はれている。然し見積られざる痛ましい人名の犠牲者を如何にするか別項記載の如き驚くべき多数の人名が哀れ天帝の犠牲となつてしまつた事は、返すがへすも痛恨の限りと云はなければならない。本書は、本書刊行まで判明の左記人名を列記して永く死者の霊に供へると共に後世史家の参照の資にしたい。

1/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.4MB
2/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
3/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
死亡者 本吉郡
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
死亡者 桃生郡
1/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
2/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
死亡者 牡鹿郡
1/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
2/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
3/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
4/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
5/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.2MB
6/6
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
行方不明者

宮城県地方震災被害者職業別調査表

県内に於ける今次の大震災に依る被害者を各職業別に調査して見ると大凡左の通りになる。(宮城県保安課調査に依る)が左表に見らるる通り漁業の第一位で次には商、農といふ順序になつてゐる。

1/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:611.6KB
2/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:433.9KB
宮城県地方震災被害者職業別調査表

惨害編(二)(岩手県及青森県地方の巻)

岩手、青森両観測所の当日の観測

今回の大惨害に於て三県中、その王座を占めたのは何と云つても岩手県地方沿岸でなければならない、曽て明治二十九年の三陸大津浪襲来の際も、別項付録参照の通り実に三県中もつとも甚だしい損傷を受け、巨万の私財と数千の人名を烏有に帰して、さしも地震国日本の国民をして、戦慄と恐怖の的たらしめたのも我が岩手県地方沿岸がその王座を占めていたのだ、而かも一代にしで再度のこの大災厄を甘受せねばならないと云ふ我等が郷土は亦何と云ふ悲惨さであらうか。前編宮城県の巻と重複する恐れあれども当日の当該地方の各權威の観測発表を順序として左に記載して見る。

水澤緯度測候所観測発表

当日(三日)の大地震に関して岩手県水澤緯度観測所長木村榮博士は左の如く語つた。東北地方に曽てない今朝の地震は午前二時三十一分四十一秒急激に起り三陸大海嘯があつてから三十八年目になつている。震源地は金華山沖合で北海道から三陸一帯に亘つて急激なる震動があつた震央は北緯三十八度東径百三十八度の太平洋岸で海嘯が襲来した模様あるが、各地の状況は未だわからないので調査を進めている。震幅があまり激しかつたので機械から外れ記録する事が出来ない位近年にない大地震であつた……云々。

青森測候所の観測

発震三日二時三十一分四十八秒
震源地、宮城県金華山東方沖合、初期微動継続十八秒、最大震幅八十七ミリ、人体感覚約八分、性質緩、震動強震弱、

盛岡測候所の観測

発震時午前二時三十一分三十九秒
初期微動継続時間 三十二秒
主要動継続時間 三分四十秒
総震動時間 約一時間余
最大震幅 四十粍
震度及性質 強震緩
震央方面 東南東
同距離 盛岡より二百四十粁
震央地 石眉真東約百七十粁沖

被害概観

岩手県地方の今回の大惨害はまことに筆舌に盡し能はないものがある。全滅、半全滅の部落数知れず、判明の分だけで、既に死者千四百七七名、負傷者五百五八名、行方不明千三百三五名、流失家屋二四五三戸、倒壊九七一戸、浸水二千百九六戸、燵失三一一戸、船舶流失凡そ二千艘と云ふ数字を現はしている。(十日現在調べ)本書刊行迄判明の各町村被害状況細目左の如し。

各町村別被害実数

五日現在に依る岩手県下町村別被害実数は左の如し(岩手県警察部発表)

1/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
2/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.1MB
岩手県下町村別被害実数 気仙郡 九戸郡 上閉伊郡 下閉伊郡

産業関係被害概観

岩手県地方の産業被害額は大凡そ漁業九百九十二万円畜産五十七万円、山林五十六万円の予定で内訳左の如し。
漁業関係被害見込は総計九百九十二万余円に上る見込で内訳
金百五十万円(発動機船破損五○○)金二十五万円(小漁船五○○○)金八十万円(一般的漁具流失一万戸分)金百二十万円(定置漁具流失四百統分)金十二万円(沖合漁業用延縄類二百隻分)金十万円(同流百隻)金六万円(底曳網類六十隻分)金三十九万円(旋網類流失破損百三十統)金三十五万円(漁業組合共同施設の破壊)金百万円(製造工場設備納屋網倉等)金二百万円(生産中の魚粕魚油其の他)十五万円(海苔場牡蠣場)金二百万円(海藻類飽)
右の外港湾八木、長部、綾里、白濱、鵜住居、白浜、小本、野田、二子各港復旧費約九万円を要する。
畜産関係被害見込総額は計五十七万二千四百三十六円に達すべく家畜被害数及び償絡は
△牛 九八五頭 一一八、三五〇円
△馬 一、〇九〇頭 一九〇、五〇〇円
△豚 二、七一○頭 四〇、六五〇円
△鶏 一六、一二〇羽 一二、八九六円
計 三六二、三九六円


家畜飼糧の被害は計十一万六百八十円厩肥の流失其の他による被害価格は計四十九万六千八百貫九万九千三百六十円に上る見込である。
山林課 関係の被害額は製材所の流失十三ケ所、木材四千五百円、木炭検査所六ケ所、倉庫百六十四ケ所、木炭五万七千俵、破壊炭ガマ五千八百十三基、海岸砂防林は全滅しこの被害総額五十六万八千四百円である。

畜産関係被害予想

オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.6MB
畜産関係被害予想

青森県地方被害概観

青森県地方被害状況は三日青森県警察部の発表に依れば左の通りであるが、何れも、前記岩手県地方の比ではなく、比較的軽微で済んだのは不幸中の幸と云はなければならない。
△三戸郡階上村 死者一名、行方不名一名、重傷五名、倒壊家屋七戸、流失家屋、十五戸
△上北郡百石町 死者一名、倒壊家屋十二戸
△上北郡三澤村 死者六名、行方不明二十名、重傷三十二名、流失家屋四〇戸
外に船舶の流失三百六十七艘、沈没一、破損八十五艘、尚損害見積り高は総計十三万三千三十七円六十銭此の中主なるものは船舶四万三千二百五円、酒類流失七万余円その他である。

北海道被害概況

北海道の一部沿岸は多少の余波を受けたが三県の如く甚だしくはない、僅かに死者十一、行方不明四、流失家屋十一、倒壊十二戸、浸水七○戸、船舶流失十四艘に過ぎず、軽微中の軽微で、済んだのは不幸中の幸である。

気仙郡下の惨害

六日現在 津浪被害概況
さかり税務署長早坂忠
三月三日午前二時半、激震後に襲来せる三陸沿岸大海嘯による被害の実況は沿く通信、言論機関の迅速なる報道により委曲を盡し今や江湖の同情翕然として起り財を割き衣糧を恵まるる等満天下志士、仁人各位の御厚意は不幸に泣く罹災民をして真に昭代の恵澤に感泣せしめたり、と誰も只惜むらくは一千に近き生霊を失ひ惨禍最激甚にして亦語るに忍びざる我が気仙郡下の実情は未だよく世に知られざるの憾なきにあらず、こは本郡中その被害最も甚大にして総戸数五四九戸中、流失、全壊戸数二六五、死者、行衛不明者四三五名を出し殆んど全滅の悲境に陥り今回の惨害中随一と伝へらるる田老村に亜ぐの惨禍を蒙りたる気仙郡唐丹村の如きは釜石警察署管轄に属する為め物質的に被害の中心地たる釜石港の惨害と共に報ぜらるると、他面本郡は僻諏の地にして常に通信言論機関全からず、殊に今回の被害により通信機関社絶の結果に外ならずと信ず吾等は職を当署に奉じ、僚友と共に各町村に亘り被害直後の惨虐たる情景を踏査し、不時の災厄に倒れたる諸氏の死屍を超へて英霊を弔ひ或は骨肉を喪ひ狂乱と飢寒に阿鼻叫喚する罹災民諸氏を親しく慰問して、同情の念禁じ難きものあると共に管内の被害程度大体判明するを以て茲に禿筆を呵し惨害の概況を述ベ併せて微恙を被らざりし我等に対し不取敢御見舞を辱うせる上司、僚友諸彦の厚き御岡情を拝謝し御礼旁々御報告申上ぐる次第である。

海嘯惨害の概況

三月二日午前二時半、俄然激震起りて余震なほやまざるうちに轟然たる大音響についで物すごき海鳴あり、去る明治二十九年三陸大海嘯の災厄を体験せるもの多き地方民は素破こそ海嘯襲来.と避難しあるひは避難準備中狂瀾天を衝き怒涛地をまき三陸沿岸は一瞬にして山川草木盡く激浪の谷呑むところとなる。「ああ惨なるかな」我等は夜明けを待ちて部署を定めあらゆる危難を冒して管内被害各町村に至り具さにその惨状をみるに被害激甚部落、住宅は礎石をも残さずして悉く流失し然らざるものは木葉薇塵と粉砕され船舶は数十尺の丘上に船腹を曝し死屍累々として到る所に横たはり肢体は砂中に埋まり手足のみを露すもの、顔面は滅茶々々に砕かれ何八とも判し難きもの、眼球脱出、歯を食ひしばりて最後迄の奮闘を思はしむるものなど、態様各々異なるも凄惨の状亦正視すベからず、声を限りに父母を叫ぶ可憐の幼児を喪ふて狂乱に血走る父母、死屍を擁して号泣する遺族、親戚の阿鼻叫喚天に轟き、大地に響く、鳴呼、惨なる哉鬼神亦哭すべく誰かこの惨状を視て泣かざるものあらん。噫、不幸本郡は沿海十二ケ町村悉く之が災禍に罹り死者行衛不明(行方不明は死体未だ発見に至らざるのみにして事実上死亡せり)者実に九三五名、流失全壊戸数一、三○○戸、流失破壊船舶二、三○○艘の驚くべき惨害を蒙り其の他の被害に至りては挙げて数ふベからず、就中避難の場所なき廣田、赤崎綾里、越喜来、唐丹の各村の如きは実に名状すべからざる惨害を蒙り、部落殆んど全滅に陥りたるもの少なからざるは誠に同情に堪へざる所なり

惨状視察記

火責め、水責め、地獄絵 そのままの釜石町

火責め、水責めの苦と云ふ言葉は、此の世の中に、只物語としてのみあつたものだと思はれてゐた我等は、余りにハッキリとこの現実を目のあたりに見せつけられた、さながらの地獄絵その儘の活人画を画き出させられた、釜石地方の惨状を視察すべく、本会調査部B班として三月七日仙台出発、東北本線花巻駅より岩手軽鉄に乗り換へ千人峠の険を越へて同日夕鉄の港、釜石へと着いて先づ、土地の人々に様子を聞いて見た。それによると、
丁度明治二十九年のそれの如く津浪直前何等の前兆もなく三日午前二時三五分突然激しい上下動がしたかと見る間に釜石沖合の海面に稲妻の如き怪しき光が輝き出したと同時に物凄い海鳴りが始まり。「アッ」と云ふ暇もなく海水は急激に引き去り、人々が津浪だ逃げろと叫び出したと見る間に、海は小山の如くもり上り漁船を乗せ人家を一となぎに、なぎ倒したもので、津浪では苦い経験のある同地方民も、この突然の出來事には全く施すすべがなかつた、同町須賀海岸の水産倉庫及び佳宅の一帯、釜石港湾修築公管事務所を始め水産倉庫数十棟は第一の津浪で瞬く間に海底に没し去られた等、実に惨、亦惨であつた、同町総戸数、千五百戸の中、千二百戸は水攻めに遭ひ、残り三百戸は次ぎに襲はれた火事の為に焦熱地獄の火攻めに遭つたので、同町民は全く、生色なく、此の世の修羅場を現出した、火事は地震後午前五時頃二ヶ所から発火し町内目抜の場所である只越場所前の間を燃えぬけ午前八時延焼時間、六時間にて漸く三百余戸を焼失して鎮火した。
尚同町流失家屋は百八十九戸、倒壊百六十三戸、浸水家屋二千である。町役場の調査に依ると損害建物百万円、漁船六十万円、その他で約三百万円の直額にのぼり明治二十九年の三陸海嘯の時より死者は少いが、損害は遥かに多いと。尚流失倒壊或は焼失した主なる建物は税関出張所及び土木管区、財務出張所、大崎神社、盛岡銀行、殖産銀行、富士館、緑館、信用組合等大建築のある目抜の場所である。

そつくり波にもつて行かれた田老村

東閉伊郡田老村は地勢上、曽ての明治二十九年の大津浪の時も全く、その形骸を残さない迄に、打ちのめされたが、今度の大津浪も文字通り、南北一里ばかりの同村は一瞬間の間に波にさらわれ、原始の砂原と化してしまつた、人家は勿論土台石一つ見付けられないと云ふ惨状だ。この村は大体海面よりずつと低いため、ドシャンと来た大波のために東西十六町南北一里の村一円を湖水の底に埋め一切を沖へ持ち去られたもので、このうち高台にある四十戸ばかりの漁家は燃えながら浪に呑まれて行つたと、生存者は語つていた、水の引いたあとは砂が水を吸つて善通の砂原と化してしまつた。道路等は勿論更に見分けがつかない、筆者の行つた時は、未だ、死体が百個余のも折り重なつて集められていたのが胸をついた。半焼けのものや胴体丈けの死体等大低寝巻姿である。関東大震災の惨状をホウフツとさせていた。妻を求め、子を捜し歩いてゐる中年の漁夫は、殆んど、喪心した様に、眼を泣きはらして、物を迅ねても答へやうともしない、心情の程を、思ひやられて、筆者も共に、貰ひ泣きをした。中でも同村消防組頭で村の助役を勤めた牧野興惣治さんの家では孫のあい(十二)さん一人残して八人全部死亡し、呉服商かめ屋では病気の姉を救はんとして姉妹六人溺死、組母さん一人残されたのもある。母親が幼児をヒシと抱きしめているのや、子供をすつぼり浪に抜き取られても抱き締めた恰好で死んでいる母親などの死体の恰好を見ると、わけて哀れさが胸をつく、その夜の田老村の光景について同村駐在所勤務照井巡査部長は撫然として語る。
物凄い怒濤の音に私は津浪を直感し、職務のため村人を山へ避難させるのに夢中だつた。第一回の津浪が襲つて来た時、首までも浪にひたりながら八ツになる子供が浪に浚はれて行くのを救ひ出すことも出来ず。村人が逃げおくれて流されるのを見て居る間、人家が滅茶々々に、こはされ、或ひは大きな浪の上に浮んだままの農家が燈火のともつた儘怒涛の彼方ヘ消えて行く様は想像も及ばない、私は三日昼になつて報告するよりも負傷者の手当よりも死人と食料を如何にすべきかに就いて苦労した、夜が明けると共に死体が予想外に多く砂をかぶつて凍りついているものや、馬牛と共に死んでいるものなどで、手の施すやうもなかつた夜に入つて、救援隊が、車で取敢えず残つた小学校と、村役場、寺院に負傷者を運び込んだが、もつと負傷者がなく働らき手があつたなら、見すみす殺さなくともよいものが沢山あつた。死体の中には銀行破綻から金を家に置いてあつたので随分沢山の金を所持したまま死んでいるものや、子供を抱いたままの若い母親の無残な死体は自分の心を悲嘆のドン底に追ひ込んでしまつた、妻は生き残つたがこれからは唯配給品の到着を待つのみだ死体は村役場に共に集めることに当分働らかねばならない…云々。
筆者は一村全滅に瀕した田老村の惨状を目のあたりに見て将来如何に復興されるであらうか、或ひは、生き残つた僅かばかりの人々は如何に生活の方便を講じて行くであらうかを考へて見たとき、只暗然とならざるを得なかつた。心憎いまでに荒らし廻つた大自然の大海原は、今日も、田老村の海岸をサラサラと事もなげに洗っていた。

津浪、大火、津浪と三度も受難の両部落

気仙郡唐丹村、小白濱、本郷
百二戸中僅か一戸を残して全滅し死者五十三、行方不明二百九十三名を出した気仙郡唐丹村、本郷部落は跡かたもなく消え失せ、木の株に引つかかつた家屋の破片に依つて僅かに部落の跡がうかがわれる、死体の取片づけも未だ手が届かない、そこここに丸太の様に転がつている雲集したカラスの鳴き声のみ不気味だ、やがて東の空の白む頃から奇跡的に生き残つた人々が現場に馳けつけ、食器や衣類をごたごた堀りかへしている姿に思はず目を覆はしめる、三十がらみの狂女が犬を追ひ廻して何かしきりにわめき立てている、小白浜の部落の大部分は奇麗に洗ひ流され小学校や役場にギッシリ詰まつた家を奪はれた人々は未だ余震におびえている有様だ。
被害が斯くも激甚だつたのは両部落が共に海辺のすぐ近くに密集していたためで、明治二十九年の大津浪にも金滅の憂き目に遭ひ大正二年の大火には小白濱は二戸を残して全焼した等全く浮かばれない苦難をなめている。

大半死体が判らない下閉伊重茂村の惨状

岩手県の最東端下閉伊郡重茂半島方面は、トド崎砲台のある所とて、浪の威力の弱からう筈がない、戸数三百三十人口二千三百を数へ建網漁場をもつて知られる東北有数の漁業地なので、漁業船の損害も亦格別だ。一昨年大山火事で焼けた山と部落々々の海岸に散在する木材や家屋の破片等との対照が一層物凄い感じを興へている。全村の死傷百九十四名、流失四十五戸あるが太平洋の真ツ只中に遠く引き去らつたので、死体の大半が浪にさらわれ判明しないと云はれている程、引き波が恐ろしかつたらしい。
各部落の砂原に一人、二人むしろをかぶっている女子供の取りすがるのは救護の手配の行き届かない本当の片田舎だけに、ひとしほ、哀れをそそつている。二三十戸の部落が十も存在し網寄部落では建網に働らいている百三十名の若者が無雑作に全部流されてしまつて影を止めず、生き残つたのは不在者だけたつた四名とは、話の外だ。海岸の近くに浮沈する村民が救ひを求めていることは分りきつてゐても船を流されて救ふ事も出来ず、見すみす母親や知己のものを殺してしまつたと口をそろへて津浪の激しかつたことを物語つている。明治二十九年の大津浪にすつかり懲りた村民は浪の届かない高台にばかり家を建てたものだが、二三年この方津浪がなくなると次第に海岸に移つたもので、その人達は一たまりもなく再びこの惨害を蒙むつたわけである。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.2MB
写真 惨状の十九(岩手縣大槌町附近所見)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.2MB
写真 惨状の二十(岩手縣気仙郡所見)

着のみ着のままの細浦部落

気仙郡高田から廣田附近の惨状は殊の外酷いが廣田岬の末崎村の細浦部落約百五十戸の漁村は海岸の低地にあつたために全部海嘯のため押し流され高地に僅かに残つた三十戸は辛くも逃れた部落民が着のみ着のままで寒気に打慓へながら避難している。父母と共に高地に逃げていた七歳の女の子は後から小山のやうな海嘯に追付かれ押流されて父母と別れ別れになつて泣き叫んでをり目もあてれらずこの辺一帯の道路は海嘯に押し倒された家屋で車馬の往来全く不可能になつている。海岸には一杯に打ち上げられた倒壊家屋がメチャメチャになつて到るところ、うづ高く積み上がつてゐる。細浦末崎海岸には行方不明になつた家族の死体の浮上るのを狂気のやうになつて待ち暗の中に彷裡ふなど、その凄惨な光景は涙なしには見られない。

相当凄惨を極めた宮古町

強震に襲はれた宮古町は地震後海上に云ふに云はれぬ無気味さがあつたが、四五十分後突如呻る海嘯に襲はれ惨たんたる光景を呈した。鍬ケ崎、前海岸通り熊谷海産物問屋等十二棟は一時に破壊され川口の染谷代助方外五戸はまるで木の葉のやうに押し流された。藤原向町、鍬ケ崎川口方面一帯の橋は全部流れ港に碇泊していた多数の船は「アッ」と云ふ間にさらはれ、焼火のついたまま悲鳴を残して沖へ沖へと流されて行くのが見えていた。大型発動機船が屋根の上にどつかり打ち上げられ、木材が家屋を串剰しにしたり、宮古町地方の被害も相当凄惨なものだつた。

惨!一家族全滅 青森県三澤村の惨状

青森県下で被害最も甚大なる上北郡三澤村を観る流された家屋や漁船、漁具の破片が海岸一帯に散乱している中を行方不明の親兄弟や子供を求めて右往左往する村民等は目を血走らせ、此の世の人とも思はれぬ形相である。の此うちもつとも同情を引いていたのは字三川目の大川虎助一家十名がことごとく浪にさらわれて行方不明となり親類に預けられた不具の子供一人が残つて無心に笑つている。又同字森九傳次方では家族四名木村義之助方では三名、圓子幸三方では子供一人、二股松次郎方では家族二名も奪はれ悲嘆に暮れている。
字三川自では船見富一郎同妻えつ長男繁一(四歳)柳川定吉四男健蔵(一○)次男吉雄(七ッ)及び北田仁太郎長女とみ(三歳)が浪にさらわれ子を失つた親が半狂乱で探し回つているのも哀れだ即ち三川自では行方不明二十名(この内死体発見三名)重傷三十四名、四川目では行方不明六名、(死体発見三名)重傷四名を出したのを見ても惨禍の甚しさが察せられる。

生き地獄と化した 青森県淋代地方

世界的飛行場で有名な青森県上北郡海岸の三澤村字淋代は予想外で同村三川目、四川目、五川目部落は三日午前三時半過ぎ一大音響と共に海嘯が襲来するや、あはやと思ふ間もなく全村残らず波に呑み込まれ、寝巻そのままの姿で親は子を掻き抱き妻は夫の手にすがり声をかぎりに助けを求めて避難せんとしまつたく阿鼻叫喚の巷となり激浪にまき込まれ同六時ごろには溺死体は累々として漂着しこの世ながらの生地獄と化していた。

半分も死体の判らない 九戸郡八木附近の惨状

大震災と津浪の二重惨禍に見舞はれた岩手県九戸郡海岸の惨状は、文字通り悲惨だ、殊に八木部落は甚だしく、築港は木葉みじんに砕けどこに港があつたかを疑はせる位だ。山の手の家を除いてはことごとく惨害を蒙むつており、流失家屋五十三戸、半倒壊九戸、死者九十九名の多きに上つているが死体の発見されたものは僅か二十八名に過ぎず、生き残つた部落民は海岸に寄り集まつて空しく荒れ狂ふ海面を眺めて泣き叫んでいる。海岸には船の破片や滅茶々々になつた家の梁、ひさし、家財道具などがいづれも打ち上げられている。行方不明になつた死体捜査を口々に消防隊や、青年団に懇願している人々など哀れを催ほさせる。此の辺一帯の波は依然として荒い。船と云ふ船は三百余艘も或ひは押し流され或ひは破損しているので、人々は如何ともする事が出来ず。手を空しくして海面の静まるのを待つのと、救助隊の早く来られんことを待ちわびているのみだ。

共喰ひの他ない 下閉伊の全滅三村

下閉伊郡景代、田野畑、小本の三村は背後は山に迫られ、前は海に面し内陸との交通は全く絶たれわづかに海路唯一の漁船によつて他地方と交通していたが、その漁船が一艘も残さず津浪に奪はれたので、この地方の罹災民は全く袋の中同様罹災者に対する救護の手も延びかねて漸やく親戚に身を寄せているが、命の綱である船を流失しては、この先どうして暮らして行くかと途方に暮れている様も哀れである。何をおいても船を建造しない事には、この三村は共喰ひの外ない、三村に於ける死者は三百七十一名の多きに及んでいるが発見されたものはその半分にも達せず、浪打ち際に死体が揚がる毎に罹災家族がわつと立ち集まり、気狂ひの様に人垣を造つて身内のものか否かを探す有様は到底正視出来ぬ死体を葬るにも枢があるわけでもなく、子供などはあり合せの密柑箱に押し詰められている有様だ。
小説家片岡鐵兵の小説「綾里快挙録」で知られてい気仙郡綾里村は沿岸二百五十戸が津浪に総なめにされているが未だに救護の手が延びず罹災者は布団が足りないので、米を入れる紙袋の中に入つて体をあたためている有様だが、何れも酸鼻の極と云はなければならない。

死亡者名簿

岩手県地方の被害者は無慮四千名を突破するの惨状で、本書刊行迄判明の死者及行方不明者は、ホンの一部に過ぎず、今後続々海中掃索などをして目下当局で鋭意調査中だが、判明の分だけ採録しておく。
△唐丹村 五日正午調べ死体発見検視済(村役場発表)
▲本郷部落 佐藤力昌、新沼トク、義己、三浦健次、山澤鶴松、三浦福三郎、佐久間美代子、村上興造、阿部千代子、青山青、村上床助、ヱキ、佐藤チヨ、寄平野松蔵、サツキ、葛川コン、倉叉カネ、三浦正太郎、寄朝鮮人川上一郎妻、鈴木忠男、佐藤己代二、大木徳三郎、鈴木床之助、トメ、小池信二、三浦吉三郎、鈴木カツヨ、米山タツ、岩崎東喜、伊藤サトへ、伊藤將次郎、伊藤トキミ、及川マサ、岡本トメノ、阿部留治、上野留蔵、コマツ、ヨシ、徹夫、佐々木フクエ、曽根フク、永助、岡元幸子セツ子、猪川サン、田中ヨシミ、ミヨ、葛西隆、田中兼吉、リツコ、アキ、桝谷久右衛門、板乗長七、タマエ、ミキ、清、トメコ、久保市之丞、上野久米作、サトミ、新沼長六、田中徳四郎、千葉サダ、鈴木善治、薩賀ハル、サメ、福次、大木コキン、繁、葛西イマヨ、元木岩五郎、佐藤カツエ、吉男、新沼アヤ子、吉田吉蔵、三浦キク、ナミノ、助治郎、伊之吉、喜助、トキ、齋藤実、死亡庄岸、浅沼とめ、池田宗兵衛、同とめよ、同さとゑ、同勝男、
▲小白浜 高田いわ、同ゆき、出羽かつ、中村榮之助、磯崎たか、佐久間市太郎、佐々木留太郎下女、
▲花露辺 大瀧なみゑ、佐々木勘七、齋藤信海、葛西亀治郎方母とね、齋藤源太郎母と子四人
△重傷(本郷)板乗清之助、同マン、曽根コデン、同サト(死亡)佐々木ウメ、鈴木おもよ 尾形清一、葛西きく、出澤長松、阿部デン、青山トクエ、鈴木善一、円中チセ、久保ヨシノ、同キタヲ、岩崎サキ
小本村十三戸、六十五名、山内喜七郎九名、中島吾平三名、箱石廣吉二名、熊谷留吉三名、鳥居政吉七名、及川清之丞七名、三浦源次郎五名、同留太郎七名、栗谷川あさ一名、加川末治三名、 鈴木造四郎四名、菊地清七名、鐵道工業小松飯場高橋松四郎外

岩泉署下の全滅家族

岩泉署管下今回の海嘯で全滅せる家族は左の如くである。
普代村 三戸十人 中村武一家四名、熊谷權次郎一家三名、太田六蔵一家三名
田野畑村一戸五人 畑山寅助五名

釜石町

釜石町の海嘯犠牲者判明せる者次の通り。
溺死 岩井ぬい(五三)壓死、小原はつ(八二)上閉伊郡釜石町四地割十四番地山崎よし(三〇)同章平(三)焼死 澤田ちよ(三一)溺死 荒木田重太郎(四六)山崎くせ(四三)本舘うめ(三八)松尾源太郎、清水さわ、中村はな(二四)氏家留五郎(六二)上閉伊郡釜石町平田六十九番戸後藤しわ(八四

大槌町

大槌町に於ける死者及行方不明者の判明せるもの左の如し。
死者 小田博(五)平野桃太郎(五三)里舘さめ(五)佐々木とくゑ(三二)佐々木チエ(二)三浦種吉(五六)角地みな(五二)三浦うし(八一)志田そで(四一)志田勝郎(九)上野一郎(二六)一町田源太(二三)加藤恭平(一四)中島儀蔵(五四)太田ナカ(七八)小川ソワ(四九)岩間ハツ(三四)岩間興八(二)山崎やす(一三)山崎光平(七)田中たつ(五六)倉田きく(八)前川せつ(八○)小田喜蔵(八)川口宇之助(五〇)澁井佐之(二四)澤田静子(一)里舘きよの(四〇)上野亀三郎(四三)上野清之丞(五二)上野いは(四八)同寅次郎(二)同てる(二)中村りわ(八)佐々木はる(一四)
行方不明 上野しげ(一)中野りい(三一)同圭吉(一〇)同さき(三)前川幸吉(八一)同ふさ(一〇)同きん(八)里舘かつ(一一)同みよの(三〇)同芳雄(二)越田えき(八)佐藤やす、行川島田郎 (三八)芳賀石太郎(四七)同若松(三八)堀合重太郎(五二)竹本清蔵(三三)越田松五郎(五二)芳賀賢治、渡辺富治、太田勝秀(二九)

鵜住居

死者狐鼻くら(五八)坂本はつ(七八)の二名
行方不明 狐鼻のぶ(三一)澤本よし(一七)佐々木一郎(六)坂下たつ(五一)久保みよ(三二)

下閉伊郡普代村海嘯被害状況左の如し。(◎は一家絶滅)

主なる溺死者及家屋流失者
郵便局長大村謙三村会議員大村宗三、同大村文三、消防組頭、漁業組合長藤島興助、在郷軍人分
会長中村武司、太田名部区長野崎亥之蔵、青年団副長村田徳明外小学校生徒二十名


家屋のみを流失したるもの
村長 田代喜一郎
家屋流失者戸主氏名
太田名部 大村文三、太田榮太郎、同万之助、野崎彦之蔵、大村清、同貞衛、太田初之助、大村榮十郎、合砂興助、下居なみ、◎中村武司、太田興七郎、◎熊谷權次郎、太田丑之助、◎同六蔵同 仁平、同金之助、同三太、大村宗三、新屋永太郎、中居角太郎、同己之太、太田豊次郎、同米蔵 同寅吉,砂合興助、坂下豊治、太田信雄、大上佐太郎、釜谷覚太郎、太田丑蔵、須賀子々松、中居春吉、大上武雄、太田熊次郎、同亀吉、同邦夫、赤坂清三郎、太田權太郎
普代村 田股次郎、、田代喜一郎、上中村留之助、柳原市司、高井五郎、下谷地三太郎、中村福身、金子尚見、戸舘清一郎、大下佐之助、銭袋今蔵、野田口こりつ
普代村 野田口万徳、川村謁郎、石畑仙太、松葉にの、久慈直蔵、佐々木五兵治、小川岩之助、加差野榮助、細越みさ、野崎喜三、羽場治蔵、銭袋由太郎、清水野大太郎、永澤永蔵、野崎よし
船越省三、松葉佐兵衙、戸舘鶴松
堀内 秋元虎一郎、中山虎雄、大村謙三
溺死者氏名(太田名部)大村文二、同てつ、同剛一郎、同みつぎ、同うめ、太困にの、同卯三郎、 同せい、同りつ、同えい、同源二郎、同留五郎、同市郎、同万之助、岡りよ、同信一、野崎亥之蔵同みさ、同はつ、同まさ、同秀次郎、同保雄、大村きみ、同彰平、同貞衛、同かや、同りさ、 同貴男、同せつ、同臣平、太田初之助、同いつ、同京子、岡はな、大村榮七、同ゆき、同砂興助 同さき、同芳雄、同ちよ、下居なみ、同孝太郎、太田とめ、太田稔、中村武司、同すは、同幸、同信也、熊谷權次郎、同ふく、同武、太田留蔵、同とみ、同てる、同ふき、同卯之太、太田六蔵 同りつ、同善作、太田ふゆ、同善一、同儀平、同くら、同静雄、太田三太、同きく、同はなゑ、同りえ、同りつ、同榮八郎、同貞三、大村宗三、同謙三、岡ミき同重、同英、同いほ子、同あつ子 大村ふき、新屋こま、同永太郎、中居角太郎、同きその、同喜友、同みよし、太田はる、同きえ 同ひさ 同いね 太田米蔵 同すゑ 同弘、同勇、同なみゑ、同道雄 同賢一、同徳太郎、砂合みわ、太田はま、野田口てる
普代村 村田徳明、藤島興助、同ゑい、同榮吾、藤島忠良、同喜八郎、同普喜子、同大悟、袰野留蔵、同もん、同哲男、同りう子、同はま子、細越末五郎、同みつ、野田口藤太郎、竹下興助、 合砂五助、加差野由太郎
堀内村 下道林作、上田初吉、中上仁太郎、同茂雄、岩里留吉、秋元正雄、茂石きその
黒崎 柾屋千太郎、正路かめ
種市村 野口兼太郎
普代村 野田口字八、同正一

哀話 美談編

限りなく哀話は続く

今次の災変で被害を蒙むつた罹災者にからむ惨話、哀話、奇談、美談は限りなくある。而かも、それのどれを拾つても涙なしには綴り得ない。震後着々復興の実もあがると同時に多少の落ち着きを見られると、にわかに思ひ起すのは限りない過ぎ去つた涙の事実だ。本編では、鬼神も面を庵ふであらう悲話から、微笑まれる人情美の発露に至る迄一括して収集した。
×
岩手県沿岸の惨状は筆舌につくし現はされないものがある。次ぎは同県細浦浜で筆者の拾つた実見記だ。
小高い山の上には人魂のやうにさびしくたき火が立ち上がつている。その小さい火を囲んで夜の寒気に着のみ着のままで多数の避難民がふるへている。何を聞いても只「凄かつた」「アッと云ふ間だつた」とのみで涙もかわき切つたか、只ぼう然とうつろの様に泥によごされた手を火に差しのベて暖をとつている。余りにもひどいショックを受けた後の人間のこれが姿なのだ、道を進むところどころに、テント、ムシロその他あり合せなもので小屋とは名のみのものを作つて、炊き出しをやつている関東震災そのままの光景だ、と見るたんぼの中に呪ひの浪にさらわれて惨死した死骸の中から自分の親、予供、姉妹、兄弟を探している、ただ交はされる言葉は吐息のみ、七つばかりの女の児、両親の行方がわからず暗夜の中を泣き乍らさまよつている。かと思ふと、カフヱーキングと云ふ所の主人は津浪と共に可愛い二人の娘を先づ避難さすべく自動車に乗せて走り出した瞬間、津浪がドッと押し寄せて自動車諸共運転手と娘二人は高波の中に呑まれてしまつた。見送つた父はそれを僅かな所で見ておつたがどうする事も出来なかつたと云ふ。叉或る母親は幼児を抱えて走り避難の途中高潮に足をさらわれて倒れたトタンに幼見が手からはなれ浪に持ちさらわれたと云ふ。その母親がワイワイ泣き乍ら海水の引いた広い所を愛児を求めて歩き廻つていた。かうした哀話、悲話は数限りない、もつとむごたらし話がある。泥に埋れて漸やく見つけてそのまま何の浄めも出来ず土葬にしてゐることだ。葬る人も既に涙も枯れ果て言葉も出ない。人間の悲想さも茲に至つては極まれると云ふものだ。細浦の或る資産家では三万円の現金を入れた金庫が浪に押し流されて行方がわからず、懸賞金付きで探していると云ふのも、さこそとうなづかれる。
×
大津浪、吹雪、大時化と打ち続く三陸地方東岸の災害地方は雪もやんで日の光さへ見え出したが身を刺す様な寒気が襲つて、各漁村は家もなく、むしろや山の雑木、叉は山腹の窪みに穴居し着のみ着のままで梵き火で暖をとつている。衣類、寝具は未だ十分給興が行き届かないので、関係当局はじれが救済に涙ぐましいばかりの活動をしていたが、家財を失なつた罹災者は残つた家に避難し、あぶれた人達はふるへながら僅かに岸に流れ着いた木片等で小屋がけしている姿は涙も出ない惨状さだ、而かも中には小屋掛けも出來ない漁民は穴居に近い原始生活をして救助米の到着を待つていると云ふ惨状さは到底罹災地を目撃しないものには想像も及ばない現象だ。
×
同じく同県気仙郡米崎村細浦部落での話。料理屋の女中さんが奇跡的に命拾ひをしたと云ふ。
津浪と共に波に巻き込まれた女中さんは三度も大きな波にあほられて苦しさの余り観念して舌を噛み切つて死なうかとあせつた。
だが波にもまれてゐる間にこの女中さんの口の中は砂で一杯になつてしまつて、自殺も出来なかつたと云ふ。その女だけが奇跡的に波に打ち上げられて朋輩の女中さん達が行方不明になつている。
同じく次ぎの部落船河原港での哀話の主人公は舟大工藤澤春治さんの一家だ。乳呑児を抱いて嫁アキ(三四)さんが生き残つたきり八人家族は全滅した、アキさんは津浪と共に赤児を抱いて飛び出したが大切な子供を波に奪はれてしまつた、だが奇跡的にも波に打ちあげられて浜についたアキさんは目の前にボッカリ浮き上がつた子供を夢中で、もう一度抱きかかへたまま岸にのがれ出たその時の姿!
着物を波にとられて丸裸になつて母親が、シッカリ乳呑児を抱いて浜の砂に倒れていた。だが哀話は未だつきない、この母子は根崎の実家に帰つて行つたがこの部落も全滅して親に行き会ふ事も出来なかつた。トボトボと引きかへして来たアキさんは跡かたもない自分の家のアタリをさまよつていた……とそこに見覚えのある夫の着物が泥に汚れて残つているではないか、アキさんは乳呑児を抱いたまま、それッ限り気が変になつてしまつた。狂つたのだ、狂ふのが無理か、狂はないのがホントウだらうか、筆者はシミジミとさせられた。
×
同県同郡泊里部落の海産物商小西さんの一家は大黒柱の働らき手が全滅して沙娑の御用も勤め終せた八十一歳になるおばあさんと当年二歳になる孫の市雄君二人ッきりが生き残つたと云ふ、何と云ふ皮肉な浪の悪戯であらうか。とよおばあさんは語る。
わたしは耳が遠いので津浪だアーと云ふのも火事だアと聞こえたので、ねえやに孫を抱かせて外に飛び出したトタン、浪に投げあげられたと思つたら、スッポリと頭から屋根をかぶつてしまつたんです、夢中で両手で屋根を、はいで穴をあけ漸やく屋根の上這ひ出たので救ひ出されたのですが用のないわたしと乳呑見ばかり生き残つたなんて何だか此の先きが思ひやられます。……云々
×
三陸沿岸への海上交通機関として大活動中の塩釜三陸汽船会社の桟橋は、釜石その他の罹災地から避難して来る者、或ひは罹災の報に沿岸へ赴くものなどで一方ならない混雑を呈しているが、哀話は毎日のやうに現はれて傍人の涙をさそつている。去る六日の定期船新東北丸で罹災地田老(岩手県)に出発した女などは最も悲滲の極みであつた。その女は田老に夫と子供六人を残し乳呑児を背負つて郷里宮城県に帰つているうち震災に続く津浪で田老は全滅し夫と子供は全部海の犠牲者となつてしまつた。真赤に泣きはらした同女は、
郷里に帰つたばかりに、夫や子供に死なれてしまつた。こんな悲しいことになるなら一しよに死んだ方がよかつた、生き残つたのが、いつそ怨めしい。
と号泣して他の見る目も哀れであつた。
×
涙は地に溢れ、号泣は地に満ちる釜石の焼の原から拾つた哀話の数々、山なす死体の傍らにすはつた若い母親、膝の上には三歳位の子供が抱かれている。
「お亡くなりですか」
「ハイ」
唯目だけが空に開いている。
四囲の死骸にはそれぞれ親、兄弟が取りすがり涙もかれ果てた顔で頬ずりしている。哀れ造化の神にしあれば霊吹き込みてやりたきものを只越石応寺の立関にゆるく線香の煙数條。
×
数人の人々が泣きぬれながら線香をつぎたしてゐる。誰も満足に着物を着て居るものがない。若い乙女子で、男のズボンを穿いたのもある。髪などは勿論ザンバラだ。これは死んだものでせうかと死体をゆすぶつて居るものもある。
×
焼け出された千二百戸に数干人の町民は大抵親戚を頼つて辛くも暖いねぐらを得たが、身寄り親戚のない三百余の人々は風のもる活動小屋や小学校に収容されたが、零下十五度の寒さは不自由な夜具では過ごされず、十五八位一緒になつて体も押合ひ、まんじりともしない。
×
釜石町から半里離れた焼場にはひつきりなしにゆらゆらと煙りが上る。時には風にあふれて真赤な火さへ交る。丁度死神が手招ぎしている様だ。七日海岸東前に腕をくんだままの男の死体が上つた。
何故が死顔が笑つて居る妻君らしい女がかけた莚をはいで抱かんばかりにしてくどき立ている悲しみは死者よりも残されたものに残る。
×
宮城県只越の半焼した呉服屋の前では何やら口走しつて居る老娑がある。気がふれたらしい。落ている物を抱きしめてはやたらに泣いているその目は焦熱地獄に焼る鬼火の色だ。
×
こんなのもある同県只越千葉喜茂(二三)君は三日新嫁をもらつて人生の門出をせんとしたとき、火と水に遭ひ家は焼ける嫁は行方不明となり果ては物いふ力もなく焼跡をさまよつている。
×
海岸にうち上げられた漁船にションボリ座つた老漁夫。
「これがたつた一つの財産でしたがもう駄目です」
と言葉をのむ明日はどうなるか声は悲しい。
×
自然はあくまで冷淡か家を焼かれた人々にもなほ零下十二度の寒さでこれを責める、食物はなし温かい救ひ手を只管待ちわびている。
×
去る六日午後釜石小学校雑貨給附所で憤慨して下駄を振り廻す罹災者がある、聞けばその男、いつまで町当局の厄介になるは申譯なしと土工になるべく地下足袋を買いに行つた所「食ふだけで一杯だぜいたく言ふな」と係にいはれ、かあつとなつたもので、成程どつちの言分も無理はない。
×
三陸海嘯の際大津浪のため浚はれた岩手県気仙郡末崎村地内大船渡線鉄道工事有田組の三万八千円(現金三万円預金通帳八千円)在中の大金庫は十二日午後三時頃附近の海底より発見された。右金庫は海嘯の際どさくさまぎれに盗まれたと伝へられて居たが矢張り大海嘯の際浚はれたものであること判明した
×
宮城県唐桑村長で小鯖部落の漁元、吉川良之助氏の所有漁船、甚生丸(四○)トンが、永い遠洋漁業が終へて小鯖に帰港して磯近く船を着けて、十日目の午前二時半頃、例の大地震に揺れ、船内に寝泊りしている乗組漁夫五名、流石に経験から来る鏡い直感で避難行動を起すベく機関運転に取りかかつた、漸く運転し始めたところ突如船が左右に急直角で傾斜したので吃驚した乗組員一同、甲板に馳せ上つて海水一滴もなく船は動かずして陸上に乗上げていたのだ、津浪だー五名は異句同音に連呼して船上から飛び降り裏山に走り込んだ、それから間もなくだ、物凄い響きを伴つた海嘯..東の空が白々と明けかかり、押し寄せる津嘯の余波も漸く鎮まつて来かかつている頃、浜辺に出て見ると自分達のホテルである甚生丸が海面から数尺ある石垣を乗り越へ恰も大洋の真中に浮かんでいる如く船首を北に向けて陸上に乗り上つているのだ木造船なのと舷側を調べたが一向破損したところがない、梯子をかけて船内隅なく見廻つても機関から船蜜何れも異状無しで一同大喜び。
ところが何せ海面まで数尺あるので、進水するのには並大抵なことではない、この点でハタと行き悩みとなつたが。四十噸もある木造船が無暇だ、こんな例は他にそう澤山は無いと進水に頭を捻りながらもよろこんでいる。
×
磯から一町位は二階建の店舖を持ち雑貨商を営んでいた及川傳吉さんの家族達は津浪襲来を予知して裏山に避難した、押し寄せる物凄い波、メリメリといふ響も波音に聞きとれた。(家は流されたのだ)家族の顔を暗闇の中に見渡したが一同無事だ、生命拾ひしたのは何よりだと思ひ直して不安の夜が一刻も早く明けてくれればよいがと念じつつ機の下で夜を明した。
波の退くのも待ち遠しく山かけ降り見渡せば、向ひ山の下に数軒家が残つているだけだ、自分の家は跡形もなく何所かに吹き飛んでいる、足を奪はれながら破片を飛ぴ越へ部落内を一廻りに出かけた一丁も歩いた頃、見覚えのある家が田圃の真中にチョコナンと据はつている。ハテナ……秘密の家でも探るやうな心持ちで、近づいて見れば正しく我が家の二階だ、中へ入つて見ると畳も大してぬれていない、壁も大丈夫使用に堪へる。
五日、田圃の中から残つた二階家を引張つて来て元の家跡に据え付早速前の、雑貨商を開業といふスピード振りだ、傳吉さんの店先を通つただけでは流失した家とは思はれない、先づ被害地としては堂々たる店舖である。
「津浪の奴は随分激しく暴れ廻る奴ですが、こんな悪戯もするのです」
台所にする板囲ひの仕事から一休みした傳吉さんの話である。
×
全部落全滅の災厄に会つた岩手県気仙郡唐丹村本郷は九十八戸のうち九十二百八棟流失し、死者百名、行方不明二百二十七名あるが、いまだ救への手がのびないため七日は死体の運搬や家財道具の堀出しをなしてゐるに過ぎない、七日朝同村の沖合二哩の地点につぶれた家が漂流しているのを人夫が発見小舟で近づいて打破つて見ると人のうめき声がするので助けだした、これは三日の海嘯で死んだと思はれていた唐丹村花露辺川原善吉(七六)さんの一家六名で飢と寒さに瀕死の重態であつたが死の一歩前で救はれうれしさに一同声をあげてほろほろ涙をこぼしていた。
×
災害三日目の六日朝た零下十一度七日朝は多少弛んだがそれでも零下十度で罹災者、救護隊ともに悩まされ人口四千四百人中千人に近い死者を出した田老村の如きは猛烈な肺炎に襲はれ生き残つた多数の負傷者はこの酷寒のため続々衰弱加はり死を早めたものも少くない、六日食糧、衣類を下閉伊仙北両郡下に配給し十日の未明に宮古に帰つた水難救護発動機船弁天丸から左の如き悲しい土産話があつた。
小本村までは救護隊が行つて居るので先づ良いが田野畑、善代両村の海岸は手が届かず三三五五散在する家では死体を抱へたままなす術を知らず我々の船が近づくや手を振つて救助を求めぶるぶるふるへて手を合せている姿には泣かされた、重態の負傷者は六日からの塞さで死ぬものも多いが救助の手が早かつたなら寒さで死ぬものは防ぐことが出来たであらうに。……
×
宮城県志津川町の高野奥太郎さん、津浪を予期して警察にかけこんだがてんで相手にされず大憤慨帰宅したが治まらずに居ると半鐘の乱打だ「オヤ」と思つて出て見ると埋立地のたき火を火事と見過つて警報と知れたがおかげで町民は津波の襲来に逸早く避難出来た、怪我の功名といふところか。
×
宮城県歌津村中山部落の阿部忠二郎(三三)一家族五人家諸共押流され互に名を呼び合ふうち、岩に衝突、三名もあの世にやつた妻みさほ(二六)を屋根の上に救ひ上げたがじゆばん一枚の妻が危く凍死せんとして居るので自分の着衣を脱いで着せ屋根ぶきわらを束ねて体をおほひ四時問漂流の後、やつと照栄丸に救助された。
×
同県歌津村田ノ浦、三浦定雄君はやはり海中を漂ふうちこれも半死半生で流れて来た「父と娘」…
梶原雄三郎(五四)とみつえ(二五)を突さの機智で竹ざをを差出し両名を救ひ上げた同村から知事宛表彰状を申請中。
×
一部落全滅に瀕した宮城県唐桑村只越の吉田丑五郎(五〇)の家族九名は長男廣吉が足腰立たぬ母くら(五二)を背負つて逃げだしたが浪にのまれてしまひ家族も家屋と共に流され天井のはりにしがみついたが激浪に振り落されるので互ひに助け合ひ嫁みよし(二五)は妊娠六ケ月の身重に愛児の一人を背に、一人を抱へその上乳呑児を口にくはへて激浪と戦かひながらはりにブラ下ること約五時間夜明けに岸に泳ぎついたが、最後までわが子を護つたみよしの神業に等しい愛の力も哀れ空しく二人の子は死んでいた。病母を背負つた慶吉も夜近く板の上で九分通り死にかかつているところ同部落藤田長治(五五)に救助されたが、咳をしても砂を吐く程泥水をのんでいま気仙沼病院に入院中だが生命危篤だつた。
×
同じ部落の橋場芳吉(四二)方では十五才になる娘が幼児を背負つて逸早く山へ逃げたが芳吉夫婦と長男登(七)祖父留蔵の三名は家諸共行方不明となつた。生後三ケ月の乳のみ子を背負つた娘は父母や弟の名を呼んで海岸を泣き歩く姿には部落民は泣かさせられた。
×
宮城県本吉郡唐桑村小鯖の工藤新吉(四五)は商用を果して帰つて見ると妻はつを始め五才と三才の我子が家諸共に津浪にのまれてゐるのに気が狂つてうろついている。
×
宮城県牡鹿郡大原村の宿屋業渥美寛太夫(五四)の次男寛君は仙台野砲兵二連隊に在営中だが今度生家は流失両親とも遭難して死んだ、残つたのが幼い弟妹三人きりなので親戚でも早速悲報を知らせ
「是非臨時帰休を願つて帰れ」といつてやつたところ同君は折返し「もし満洲へでも行つていたら国家の干城で家族の不幸に戦場から飛んで帰れるか?皇軍に捧げた身体だから両親の死は悲しいが仕方がない」との健気な返事に親類も感に打たれて遺族の世話に心を砕いた、これを伝へ聞いた同君所属部隊の隊長大いに感激して帰休を許したので七日やつと災害地の生地に帰り遺児となつた弟や妹と涙の対面をしたといふ。
×
津浪にさらはれて一日溺死したが奇跡的にも蘇生した宮城県牡鹿郡大原村鯖の浦の阿部とめ(七七)婆さんは医者の手当を受けて常時ピンピンしていたが矢張り年のせいと衰弱で二日目の去る五日今度は本当にあの世へ。
×
宮城県大澤の伊藤平兵工(四二)は地震直後急いで海岸に行つて見ると既に一町歩ばかりの畠が浸水しているので驚いて逃げ返さうとすると水中に一枚の板にすがつて救ひを求めている村山親子(五〇)及び(一三)を見つけ暗夜を冒し我が身の危険も忘れて救助し命の親と感謝されている。
×
宮城県本吉郡唐桑村只越部落の人達、グラグラッとあの大揺れに夜更の夢を破られたがいつとはなしに聞かされていた古老の冨葉がピンと頭に來てその後に襲ひ来る恐ろしいものを予期して一同逃げ始めたが部落切つての素封家の興七爺さんは地震直後浜辺まで出て見て大丈夫と思つたが一人家に戻り重要書類とかシコタマ現ナマを持つて逃げんとするところをドドーッと来た大津浪にのまれておだ仏黄金と心中した訳だ。
×
また宮城県亘理郡坂下村の大津浪で瀕死の重傷を負つてる飯塚まさゑ(二三)は隣県の福島の新城村からつい先達つてお嫁に来たばかりのホヤホヤ新婚の夢まどかな深更一丈余りの津浪に新郎と共に松の木にしがみついてゐたが漁船がぶつかり松の木が折れて船の間にはさまつて重傷また姉の嫁入りに実家からついて来たとみ予(一四)も共に重傷を負つたのはよくよくの因果だと村人は気の毒がつている。
×
惨害の地岩手県気仙郡唐丹村で奇跡的にも一家六名が助かつた話 同村花露辺の川原善六(七六)の一家六名が津浪の時家は水浸しとなり家人は天井板を破り屋根裏に上りその内に波に家は流され屋根と天井板だけ残つて陸に置かれていたが七日救護隊員が屋根を叩いた家中から助けてくれと叫ぶので屋根をはがし漸やく中の人々を出し斯くして遭難四日目に救助されたものである。
×
岩手県気仙郡田老村小学校の児童は約百二十人が海に浚はれてしまつた、暗の中で「先生!先生!」と呼んで受持の教員に助けを求めた児童もあつたそれを助けようと思つて己が助る身を犠牲に捧げた先生が二名ある花輪村出身の元田光雄(二八)田老村赤沼ナツ(二〇)両先生だ、吉田中先生も身体十数ケ所に打撲を負ひ重症に陥つてゐる。木村校長は学校に起臥して居るので災に遭はなかつた。
×
岩手県山田町釜々洞米商上野三吾(三〇)君は海嘯の夜田老村のさる旅舘宿つていたが海嘯と同時に起きた火事に宿屋の二階から飛降りて両手両足をもぎ取られるの重傷を負つた宮古病院にかつぎ込れた。
×
折角浪打際岩蔭に打揚げられ乍ら酷寒零下十余度の寒さに凍死を遂げたものもあり「凍えて死にます」と遺書してあつたのなど悲痛の極みではないか。
×
六十余の老婆が電柱しがみついて助かつた、電柱は物凄い勢ひで倒れたが老婆は必死の力で電柱に抱きついていた、水が引いた時眼も口も砂でいつぱいだつたが電線を伝はつて山の手の方へ逃げた。
若き母が二人の愛児を両手にかき抱いて浪間に押し流されたが力尽きて右腕の方の女の子を捨て左の方の男の子だけは助けたいともがいたがその子を抱いたまま溺死を遂げた、捨てられた女の子がかへつて浜辺に打揚げられて助けられた皮肉な運命である。

母を背負つたまま 犠牲となつた田野畑村長 岩手県田野畑村 齋藤かつ子(手記)

三月三日突如東海岸をおそうた海嘯は幾多の正霊をのみ幾多の悲話を残したが就中下閉伊郡田野畑村長小田喜代八氏の死は聞く人々の涙をそそらずに置かない。
氏は田野畑村役場の衷員として二十年にも余る勤続でしかも努力の人であつた、今更氏の努力の功績は物語らずとも氏の今度の死は生前を語る華である、氏は村会の間まで役場所在地なる田野畑村平波澤に在り即ち村会の終れる二日氏の郷里なる平井賀に帰つて津浪に会つたのだ「津波だ!」と叫ぶ人々の声に飛び起きた氏は一旦戸外に逃げおくれたるを知り直ちに内に人り母人を背負ひて逃れたのだつた、この父にしてこの子あり氏の令嬢は灯をつけて父上の後に従つて氏をかばつた。この世にも美しき親子の愛情をもにくき波はかへり見ることなく一のみにのんでしまつたのだ、哀れ暁近く老ひし母上を負ひたるまま小田氏はむくろとなつて汀にうちあげられていた含嬢もそのかたはらにむくろとなつてうちあげられていたといふ、平井貿の死者は百を越えたといふが氏のむくろほど無惨なむくろがなかつたほどあまたの傷を負うていた、思ふに氏は母上を最後まで離すまいとして努カをつづけられたが為だらう氏の美談は氏の生涯を物語るに充分である。
×
筆者は今一つの悲話を述べて哀れなる犠牲者菊池みね子氏に一人でも多く涙をそそいでいただきたく思ふ、みね子氏は沼袋局長菊池伍助氏の令弟重三郎氏の令兄で良妻賢母のきこえ高き人であつた。実にみね子氏は嫁として伍助氏の母堂へ孝養をおこたらなかつた。兄嫁なる伍助氏の令けいとの間も誠に美しかつた、妻として母として幾多の美しい行為は述ペなくとも秀才として弟妹仲のよいことで令息たちの日頃を知る人たちは皆うなづくところである。
みね子氏は知人を送りて平井賀に泊り遂に呪はしき波にのまれてしまつた夫君重三郎氏の心事や如何ばかりであつたらう、が氏はかん然としてたつた、しかして氏は務持つ身の悲しさに愛妻の死をひとり静かにいたむいとまもなく罹災民たち救助に奔走している。健気なる氏の行為は村民の同情をひいている令息は高等一年令嬢は二年次男利男君は三年在学平井賀の海で母の名をよびつづけているさうだ。
×
筆者はこの外に田野畑村会の佳話を述べて筆を置きたく思ふ。
×
故小田村長在世中に羅賀小学校新築学級増加沼袋小学校の増築及び学級増加を村会で議決された氏は不りよの災害に死亡ばかりでなくあまたのぎせい者があり村からは救助のために四千円の金が支出されることになつたので今学校の増築などは遠慮したがいいであらうと、一部の説もあつたさうだが並居る村議たちは異口同音にいつた、教育は神聖だかの世界大戦の際ドイッは国力の充実は小学校教育の充実にまつより外はないといつて一意小学校教育の充実に力を入れた。
この件は小田村長の残された事業でもあり国家内外多事の場合第二国民の養成所たる学校が狭溢では何よりも支障を来すことである、より以上力を合せて敏育の為につくさうと議決したときく何と美しい佳話ではないか、田野畑の教育が目覚ましい進歩を見せる事は疑ふべくもない(岩手日報所載)

美談 微笑まれる人情美の発露

災害のもつとも甚だしかつた釜石町の死者十六名に止まつたことは奇跡とされているが、これは一に釜石郵便局の果断な女交換手の気転があることがわかつて町民を感激させた事実 同日の宿直員は六名で地震があつてから十分たつて釜石から三里北の大槌町から津浪が来たとの電話が入り、これを直ちに消防組警察に急報し警察消防組は警鐘を乱打して町民に警告したものでこの警報が無かつたならば死傷者がどんなに多かつたかと云はれている。
×
宮城県登米郡浅水青年団員廿四名は同本吉郡十三浜村へ震災突発するや直ちに食糧品をトラックに満載して馳けつけ、去る七日から三日間労力奉仕をしたと云ふので大した評判だつた。
×
同村相川は前回の(明治二十九年)大津浪に二百七十人の死者を出したのに今度はタッタ一名丈けで済んだのは同村の漁師阿部倉松(五六)さんが津浪を予知して、いち早く部落民に知らしめたためで今更乍ら同部落民は命の恩人と感謝している。
×
今度の津浪騒ぎに日支親善の人類愛の最高潮ともいふべき美談が、悲しい中にも郷人に取沙汰されている。それは宮城県桃生郡十五浜雄勝浜菓子商鈴木求(三三)君で同君は一家九名の家族全部が家諸共に渦巻く濁流に呑れ、海水遠く押流されて行きながら実弟武君(二三)と共に屋根板を破壊して屋上に這ひ出し、闇夜魔の海を泳いで附近の陸地に逃れやうとする時計らずも同人借家で十年ばかり以前に雄勝に居住して居る中華民国福州生れ邸恒栄(三八)が盛に救ひを求めながら押流されて行く声を聞いたので「邸さんは泳ぎを知ちない筈だつた」と直感するや直ちに自分の家族(老幼婦女子七名)の身上を案ずるいとまなく邸さんを救助して安全地帯に泳ぎついた物語は大津浪後の村民を非常に感動せしめて居るが求君の家族七名死亡したことは非常に同情されている。
×
釜石町長小野寺さんは二日の災害以来寝食も忘れて町復興の為働らいてゐる事は、他の見る目も気の毒な程であるが、三日の津浪の際も役揚吏員が、同氏宅に赴いて、手伝ひに行つた所「オレの家の家財道具ばかり片付けだからつてどうするんだ」と叱りつけ、自宅が、津浪と火災の真つ只中にあるにもかかわらず、声をからして町民一同の安否を気づかつてゐいたとは、同氏を知る誰もが、感激していると。
×
岩手県気仙郡廣田村出身の蒲生定喜巡査は地震と共に非常招集を受け宮古町の非常警戒に当つていたが、郷里廣田村では同家の家屋流失し、家族は身を以て避難し県からその旨通知を受けたが、同巡査は依然宮古に滞在して家を顧みず令に服した。
×
また同県上閉伊郡鵜住居村雨石にある山崎安蔵巡査は釜石で非常警戒に当つていたが同君の家屋も流失し、家族は身を以て避難したが同巡査は前記蒲生巡査と同様家を顧みず依然として警戒の任に当つていたと云ふので、目下両巡査の篤行に地方民は感謝している。
×
宮城県十五浜村大海嘯の際、隣接部落の惨禍を逸ち早く知つて救護に死力を尽くし偉大な功を樹てた部落があるそれは同村大須部落水難救護組合にして、組合長阿部善助氏外十三名の組合は、津浪襲来と聞くや激浪を衝いて救助船を下ろし、同村被害部落中最も惨害を極めた荒部落沖合に出動し、押流されて漂流中の部落民十三名を救助し、更に死者三個を発見、直ちにこれを引き揚げ安全地帯に送り届け、手厚い救護をなし、引続き波浪収まらぬ危険か冒し全組合員決死の勇を鼓して漂流物の捜査やら死体捜査に出動し同部落から小船五十艘(見積価格五千七百円)を拾ひ上げ一般から非常に感謝されて居る因に大須部落は太平洋に面した荒磯地帯にして、明治二十九年大海嘯の際両部落を一呑みにされたところにして、その後部落民申合せて全部高所に家屋を移転建築したため今度の惨害から完全に免れる事が出来たばかりか隣の荒部落に急援して素晴しい括動をしたものである。
×
惨禍の極村岩手県田老村の惨状がどうしてあれ程早く宮古署に報ぜられ残留避難者及び重傷患者の応急処置がとれたか?当夜激震に緊張した同村駐在所の照井宇一郎巡査は村内警備の為め駆け出した所間もなく海嘯に襲はれ辛ふじて一命は助かつたが、避難者は思ひの外少なく暗黒と寒気の中に不安な一夜を明かし逸早く避難者及び惨状の大略を知ると同時に、残存村民も重傷と寒気と空腹に悩むもの数知れぬ有様に一層村民保護の責任を感じ、自分も子供一人を行方不明にしているにもかかわらず役場に駆け入り一枚の用紙に走り書きして宮古本署迄陸路通報せしめ同村の急を告げたもので、同巡査の美談は、その後判明すると共に各方面からその機敏な処置を賞賛されている。
×
岩手県気仙郡盛町の医師須藤さとる氏は同郡沿岸に震災突発するや直ちに、負傷者救療に寝食を忘れて奮闘中病床にあつた周氏の長女(三才)は肺炎を起して遂に死亡したが罹災者の困窮を思へば、吾が子の死も省みられずとなし遂に愛児の死にも帰らず雄々しくも一意罹災民救助に当られたので、町民は気の毒な程同氏の行動に感激している。
×
岩手県気仙郡唐丹村小白濱に千葉と云ふ鍛冶屋の老爺さんが、これで三度目の大津浪に遭つたと語つている。タッタ三十八年間で三度の津浪に遭ふとは、ヨクヨクの不仕合せな時代に生れたものだと泣いていた。
×
同部落で高山イワと云ふ寡婦が三人の子供を順次丘に抱きあげて自分が逃げ去らうとした時遂に二度目の大浪に子供三人を助け乍ら母は暗い海に呑まれてしまつた、暗の中から「子供は!子供等は……」と泣き叫ぶ声が聞こえたと云ふ、母性愛の極致と云はねばならない。
×
砦手県気仙郡赤崎村役場近くの家で、産婦が二階に寝ていた、例の大津浪がドシーンとやつて来たので、驚ろいて押入に逃げ込んだ所階下だけ水に持ち去られ産婦は赤ん坊を抱いて丈夫であつたと云ふ、ユーモラスな話もある。(此の編終り)
×

救済復興編 (宮城県)(岩手県)(青森県)

惨害と救済は同一連鎖

震災被害に次いで起るのは、即ち応急、救済復興の開題で、而もこの問題は、震災直面からその直後に直ちに連鎖さるべき間題で、その間分界線を画すべからざることは当然のことでなければならない、だが、本書刊行に当つては先づ、便宜上、惨害編と救済編に分類はしたなれど、要するに救済復興と直ちに応急の処置を講ぜられた事は勿論だ、然し乍ら事唐突の事件であり、更に予測もしていなかつた重大事変な丈けに、その応急処置も全く区々別々、その変に応じ、急に即して講ぜられた様な有様で、編纂者側から云ふなら、実に材料及び実際には並々ならない苦心を甘受したわけだ、殊に復興の緒に着したばかりの今日、どの程度に救済が徹底したか、或ひはどの程度に復興がなつたか、それは、神業ならぬ人力のなす所、万全を期したとは断言出来ない。だが能ふ限りの実際を縷述して、江湖の参照に資したいと思ふ、とりわけ、宮城、岩手、青森と被害三県を輔まとめにした事は編纂者側、及び読者の煩を避けた次第である。

真の復興容易ならず

限りなき悲惨の境地に突き落された三陸沿岸津浪被害地の一帯は悲嘆の底から湧き出して復興へ—の善後方針を樹て畏き大御心に対する感激と全国よりの慰問救恤に力を得て敢然雄々しくも起つ事になつた、災害の取り片付け、バラックの急設、漁業漁具の設備、生業資金の貸付等々具体的方針の下にそれぞれ実施に着手はされたが、被害の激甚地の復興は否、震災直前程度の建直しまでには二十ケ年を要してもなほ容易に望み得まいと復興の意気の影には一抹の淋しさが蔽ひ得ない実情にある。
漁村の窮状と復興の関係は、被害直前の事情にあるが、最も憂慮されるのは、数年この方、崇つて来た不況と今回の被害による二重の窮迫程度にある、而して各沿岸地方は被害前、逼迫せる経済の建直しにたまたま最も有利な條件の下に魚肥の製造に努力した、それは昨年来の鰛豊漁と労働賃銀の低下更に硫安高に依る魚肥の好況、これによつて窮迫せる経済の緩和と将来への施設を希望し多少の無理を伴なふ資本の融通を求めて、各濱共魚肥製造に努力をなし、殆んど成果期であつたその大部分、大最の魚肥、魚粕は完全に無価値に終つたのみか災害を倍加せしめる結果となつた、災害なき地方は早くも肥料の上向きを叫ばれて来た事実から見ても重要視すべき問題とされ被害地沿岸の町村の復興は相当額の無利子長期の個人貸付でもなき限の、真の復興は容易に望み得ない問題とされている。
然し乍ら、各罹災民も燃ゆる様な郷土愛と相互共力に依つて次ぎに示す通りの涙ぐましい復興行進曲を奏でているから近い将来必らず、或る程度の満足される復興振りを示すであらう。
以下 頁を逐ふて、救済方法、及び復興振りを縷述して見ることとする。

聖上の御沙汰を拝し 大金侍従被害地巡視

聖上の有難き御沙汰を拝して罹災地三県下を巡視に三月五日宮城県廳に差遣された大金侍従は被害地三県知事を招集してそれぞれ御下賜金を伝達して左の如く謹んで語つた。
具さに被害町村の状況を視察せよとの御沙汰を拝しましたので、如何なる不便も忍び幾日々費やしても詳細状況を視察すると共に、御気の毒な罹災者に対し優渥なる御聖旨を御伝へ致します。尚具体的なことは現地を視察後更らにあらためて申し上げたいと思ひます。視察の期間は大体十日位でうち宮城二日、岩手四日、青森二日を予定して居ります云々……。

三県代表感激して謹話

大金侍従より御下賜金を拝戴した後、三辺宮城県知事、多久青森県知事、前田岩手県内務部長は左の通り感激して語る。


三辺宮城県知事
我至仁至慈なる 天皇陛下には今回震災の被害啻ならざるを深く御軫念あらせられまして救恤費として特に内帑の資を下し賜ひ恵撫慈養の道を御示し給ひましたことは洵に恐惧描く所を知らぬ次第で御座います。
この度三陸一帯の地に起りました、強震は実に近年稀に見る所のもので御座います。従ひましてその被害は洵に甚大なるものがあつたので御座います。殊に海波狂荒沿岸に時ならぬ海嘯を生じました為に多数の死傷者を出したる外多くの行衛不明者を出し叉家屋の倒壊、浸水、流失夥しく船舟の覆没、流失せるものも亦多きに上りましたことは真に遺憾禁ずることが出来ないばかりでなく、誠に御気の毒に堪へない所で御座います。
されば何を措いても先づ以て罹災者の救護慰問に努め進んで復興の途を講じなければならぬと存じまして事象勃発後時を移さず先づ巡回診療班の活動を促し、或は廳員を各地に急派して具さに、その実情を視察せしめ救護の徹底と復興の計画樹立に意を致したのであります。
又第二師団司令部及日本赤十字社宮城支部の好意によりまして各地に毛布の配布を行ひ、或は本県水産試験場の試験船を罹災地沿岸に派して救護に遺憾なからむことを期し更に叉廳内に臨時災害善後委員会を組織して災害善後に関する事務を円滑機敏ならしめ他面広く江湖に罹災者の救援を愬ふる等災害地附近町村民と共に罹災者の救護慰問に意を致し来つたのであります。
然しながら、この事たる予想外の事でありますだけに周到綿密なる用意を以てしましても事功を挙ぐることは容易のことでないので御座います。然るに只今は御下賜金拝戴するの光栄に浴し叉親敷侍従を当地方災禍の現地に御差遣相成りましたことは、聖恩の宏大なる只々感泣の外はないので御座いまして、恐惧感激に堪へない次第で御座います。即ち此の聖恩に浴しましたる我等県民は這般の災厄に罹りたる者なると否とに拘らず苟くも生を本県に享けて居りまするものは真に感奮興起致しまして、匪躬の誠を致し同心協力、賑恤救護の目的を達成し進んで災害地復興の実を挙げ以て君恩の厚きに副ひ奉らんことを誓ふ次第で御座います。


前田岩手県内務部長
優渥なる御沙汰を拝しまことに恐惧に堪へません。本県の死傷者は大体千四百六十人、家屋倒壊流失九千戸に達しています。県では罹災地に五つの救済本部を設けていますので私は午後一時六分発帰県し明日これ等本部代表者を集め、御下賜金を伝達し度いと思つています。


多久青森県知事
優渥なる御沙汰を拝し恐懼に堪へません、私は今夜十時に青森につきまして、明日県廳で伝達式を行ひ度いと思ひます、被害の程度は他県に比して少いがそれでも死者三十一名に達しています。
なほ詳細は四日御内意を拝し、さらに調査中であります。御下賜金は出来るだけ広く伝達し度いと思つていますが、大体八戸市外七ケ村となることと思ひます。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 大金侍従一行惨害地視察(宮城県本吉郡唐桑村にて)
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:3.3MB
写真 罹災者救療班の活動(於岩手県気仙郡)

大金侍従の震災状況奏上に 龍顔を曇らせ給ふ

天皇 皇后両陛下より東北三県震災御救恤金並に聖旨、令旨伝達のため御差遣の大金谷次郎侍従は前後九日間にわたり、宮城、岩手、青森三県下の震災、罹災者慰問、災害状況視察を終へて十二日朝帰京したが同侍従は十三日午後四時三十分右伏奏のため宮中に出仕、御学問所にて 天皇陛下に拝謁仰せつけられて約一時間にわたり視察状況を具さに奏上申上げ三県下当局よりの御礼を言上した後、更に一村落では村役場をも失なつたので野天で村長に東北地方は天恵に乏しく気の毒に堪へない旨の御軫念の御言葉を伝達したるに周囲に集まつた村民はいたく聖旨に感激感泣した。
当時の事情を詳細に言上したるに 陛下には御感激深く御聴取時に龍顔を曇らせ給ひ、物資の配給救護の状況今後の罹災民の生活方針につき種々御同情ある御下問を賜はり同侍従は思召の程に感激退下した。大金侍従は次の如く語つた。
千尺以上もある山を越え、海を漕いで親しく罹災民を慰問視察しましたが、あまりの惨状に幾度か眼を掩ふこともあり言語に絶した凄惨の極みでした、只視察して深く感じたことは東北の人々は今回の天災に悲嘆ばかりして居らず、天命と観念して復興に力強く努カを開始し、また隣人愛の熾烈なること等涙ぐましい情景でした……云々。

復興の実を挙げよ 三辺宮城県知事の告諭

本月三日午前二時三十一分過ぎ突如金華山東南東沖合海底に発したる地震は最大震動二十三粍総震動時間凡そ二時間に渉り近年稀に見るの強震なり、而して一度地震起るや倏ち海波荒しために三陸一帯の沿岸に時ならぬ海嘯を生じ同日午後十時までに達したる情報を総合するも死傷者百六十余名を出したる外行衛不明者二百二十余名家屋の倒壊約三百に上りその流失せるもの四百七十余船舟の覆流流失せるもの亦千百四十の多きに達し浸水家屋亦極めて多し而して就中本吉郡唐桑村、歌津村、十三濱村、牡鹿郡大原村及桃生郡十五濱村の如きはその被害も甚大にして罹災者の近状真に察するに余りある所なり即ち県及び東北帝国大学医学部衛生班の巡回診療班は陸箪衛生班並日本赤十字社宮城支部臨時救護班と共に直ちに救療の任につき罹災者の救護に当ると共に県は各地に吏員、職員を急遽特派して具さにその実状を調査視察せしめ救護の徹底と復興の計画に資する所あらしめんことを期したり叉第二師団より陸軍用毛布を日本赤十字社宮城支部より貸付用毛布を借入れ直ちに災害地に向けて発送し或は本県水産試験場の試験船二艘を沿岸罹災町村地先に派して救護に遺憾なからむことを期したり、又同日災害善後に関する事務を最も円滑機敏に促進せしめむが為県廳内に新に臨時災害善後委員会を組織し更に叉余は今親しく災害地を巡りて実情の観察に併せて不辛なる遺族を弔慰せんとす。
当地方の災害の報一度天下の知る所となるや各方面より翕然として深甚なる見舞を寄せられ殊に横須賀鎮守府司令長官は特に駆逐隊を急派して救護に努めらる洵に感謝措く能はざる所なり、災害地附近における県民は必らずや古来の伝統的精神の発露たる隣保相助の道を尽して罹災者の救護慰問に万全を期しつつあるを信ず、されば斯かる災禍を伝聞するに過ぎずして地異の身辺に及ばざる者ありては不幸なる同胞のため絶大なる救援を吝しむべきにあらず、即ち内に誠意を披瀝し外に熱烈なる愛県の至情に愬へ相協力して救援慰問並復興の実をあげんことを期せざるべからず、若しそれ更にその詳細に至りては日を逐ふて実を致さん、切に自重奮励あらんことを。

復興は飽くまで組織的に 石黒岩手県知事の声明

石黒岩手県知事は震害地の復旧策につき左の如く声明した。
今回の震災並びに津浪に対し政府、貴衆両院も非常な同情を注ぎ陸海軍初め全国から多大の同情を賜はり臨機の処置が大体進み居るは感謝に堪えない、県民に代り厚くお礼を申す次第である。
今後の措置に関しては第一に衣食住の充実徹底を圖ることが必要で遺憾ない方法を講じたい、之を何時迄如何なる方法により支給するか早急に考慮する必要があり折角調査中である。第二に恒久の職業につく事で当分の間は復旧事業等に従事せしめて自活の途を辿らせる外特殊の仕事が他にあらば之に従事する様尽力もするし各種事業家、慈善事業家が此の地方の人に仕事を興へてくれる事も必要である、親戚等に寄留するものには旅費を支給しても自活の途を得せしめたい。
第二に罹災民の職業の復旧に就ては従来の職業を続けるものには器具機械を興へ生活を建てられる様に考へてやる、恒久的対策としては罹災者の多くは従来力産に従事していたのだから之をモット組織的に堅実に、ドシドシやらせる、夫には丁度幸ひ水産々業組合が組織されたから之を拡大し全海岸線に亘り指導統制を図りつつやらせる副業とか工業とかの復興も行なはねばならぬが之も組織的に考へてやらねばならぬ、今度の災害に鑑みて未改修道路の改修、橋梁港湾の完成を図る必要があり鉄道の速成も希望してやまない。
佐宅も今後は防波建築につき考慮を払ふ必要がある、防波設備をなさず再び建築をなす事は災害を繰り返す事になる、今後は合同のカにょり更生を図らねばならぬ、組合とか町村とか部落単位とかで産業交通其他の事を進行せねばならぬ、又貯金食糧品の貯蔵を考へねばならぬ。
資金関係に就いては国庫の補助を仰がねばならぬし県費も出すが国から借る低利資金は長期据置きのものとし利子は国家から補給する様にされ度い。
今後の計画は県廳員と県会議員とで復興委員会を設け復旧部と恒久対策部とに分ちて進める事にする。

一致協力復興は速かに 多久青森県知事の告諭

本県地震海嘯に因る被害の趣畏くも天聴に達し 天皇 皇后両陛下より救恤の御思召を以て金一千五百円を下し賜ひ又侍臣を遣はして災害地の実況を視察せしめ給ふの恩命に接す
県民等しく無限の 聖恩に浴す伏して惟みるに 陛下至仁慈蒼生を憐み給ふこと普天の下率土の浜に遍く曩に昭和六年本県凶作に際し巨額の御内帑を以て窮民賑恤の資に充てしめ給ひ今復恩賜の御沙汰を忝うす
天恩鴻鴻大寔に恐惧感激の至りに禁へず
優渥なる 聖旨を奉体し職に救恤を掌る者宜しく罹災民の匡済に其全力を臻し敢て遺憾なきを収むると共に全県民須らく其為牛業を励み一致協力復興を速かならしめ以て転禍為福の計を立て予め
災厄に所するの策を講じ鴻大無辺の 聖恩に応へ奉らむことを期すべし

第二師団の活躍状況

第二師団では今次三陸方面の震火災に対し軍部濁得の敏捷さを以て左の救護処置をとつた。
師団司令部千田軍医正の指揮する第一救護班(三十三)名を牡鹿郡に、鈴木軍医の指揮する第二救護班七名を気仙沼町に、佐澤軍医の第三救護班(六名)を志津川、歌津方面に、小川軍医の第四救護班(六名)を三目夜自勤車をもつて予備隊として出発せしめ、各救護班は衛生材料を満載して外科、内科の診療救護に当らしめている外、師団軍医部長亀井軍医監は現場視察並に衛生材料補給のため現場に急派され、師団長は宮城県知事を訪問叉山岩手県知事及罹災各地に見舞電報を発した。
△四日夕迄の状況により五日早朝工兵作業隊(三十七名)を宮城県桃生郡十五濱に派遣して救護に任ぜしめ、作業隊は乾麺麭五〇〇個を携行し必要に応じ救護に任じた。
△第一救護班は救護を一先づ完了し四日夕及五日に、叉第四救護班は四日朝帰仙した。
△連隊区司令官は震災後直ちに東海岸の視察慰問に任ず、連隊区司令官および山田参謀は五日侍従に随行した。
△毛布二千五百枚を県を通じ罹災民に貸興した。
△罹災地附近現役兵を帰省せしめ又是等戦友の一部を派遣し整理救護見舞に任ぜしめた。
△在仙各隊より五日宮城県廳を経て五百円を宮城県罹災民に、又師団司令部高等官一同より宮城、岩手県廳を経て各百円を両県罹災民に贈呈した。
△将校婦人会仙台支部より宮城県廳を経て金五十円を宮城県罹災民に贈呈した。


軍艦の活躍
今次の大津波で最も迅速に且つ応急処置を執り寒気と飢えに泣く罹災民に神の如く嬉しがられたのは軍艦派遣で将兵乗組員の危険を冒しての奮闘は涙ぐましいまでに勇壮であつた母艦厳島は六日宮古港に向け駆逐艦小風、羽風二隻に毛布一千九百二十枚服五千六百十着シャツ二干三百四十枚、缶一千五百二十キロ、ビスケット一千九百キロを積載して宮古に届けた下閉伊支廳では直ちに慰問救恤品を岩手県田老、小本、織笠、普代、船越その他罹災地に配給の手配を為した。


軍艦の出動
岩手県沿岸地方一帯の震災救済のため盛岡衛戌司令官は急救のため左の如く兵の出動を即日命令し
△久慈方面工八△釜石方面騎二三△宮古方面騎二四△高田同騎二三△盛、釜石騎二三将一名下士官十名二班の武装兵毛布六百枚カンメンポーキ缶連絡して医療器も宮古大槌間二四連隊二ケ班将校二名下士官二十名で毛布千枚外套千人分糧食千人分トラックで宮古経由直送した。
岩手県小本村を中心にして工兵隊は一ケ班将校一名下士官以下十名で宮古、山田方面連絡のため宮古橋架橋で携行品は毛布三百、食糧三百人分外套三百人分を罹災民に配給した。尚師団の命令あり次第直ちに増援する筈になつている。

罹災地派遣兵士の遺家族に金一万円

三日朝東北東海岸の大津浪で目下判明せる流失家屋約二千五百戸此の方面より満洲派遣兵約四百二十名ある旨盛岡連隊区司令官の報告に接し陸軍としては罹災の出征将士家族及び遺族救恤の為め取敢ず恤兵金一万円を電報で送金し尚被害程度判明次第次の救恤を講じ万全を期することにした。

簡易保険金非常払出し

仙台遽信局に於ては今回の三陸震災に因る簡易保険罹災加入者の為め左の施設を為した。
△簡易保険救護班の派遣
去る三日震災突発するや医師看護婦及び吏員を以て組織したる救護班を左記の通り急派し罹災傷病者の救護に努めた所何れも多大の感激を以て迎へられた。
第一班宮城県雄勝濱歌津唐桑方面、第二班岩手県釜石、小白潰越喜来方面、第三班青森県三澤岩手県種市方面、第四班岩手県田老小本方面、第五班岩手県高田只出、綾里方面、
△簡易保険非常局待払の開始
簡易保険罹災契約に対し保険金の即時払ひを行ふこととなり簡易保険局及び仙台遽信局より吏員出張の上左の各地に於て取り扱ふこととなつたが之は災害に因る死亡なので契約期間の長短に拘らず保険金の全額を直ちに当該扱ひ局に於て支払ふものであるが面倒な手続きに依らず町村長若しくは警察官の災害死亡証明書を提出すれば足るのである尚行方不明の者であつて死亡の事実確認し得るものに対しては特に即時払ひをなすこととなつた。
宮城県 大原濱 雄勝濱 歌津 唐桑
岩手県 只出 越喜来 綾里 小白濱 釜石 宮古 田老 小本 久慈 種市
青森県 三澤

郵便貯金の非常払ひ

盛岡郵便局では沿岸大災害の報に依り直ちに仙台遽信局と連絡をとり沿岸各地の被害局の復興を図り通信機関の回復をなすべく各係官を急派して善後処置を講じた尚釜石鉱山、泊濱、田老、綾里、平井賀、盛、野田の各局に対し三日午後郵便貯金の非常払ひ保険金の非常貸出を断行した。

四千の大宮人率先義捐

三陸地方の激震被害に対し畏き辺りでは大金侍従を御差遣遊ばされる外特に多額の御救恤金を下賜になつたので宮内四千の側近者、職員、及雇傭員は他省に率先して俸給中より義捐金を取纒めて被害三県へ寄贈した。

全国官吏一斉拠金

三陸地方震災救済熱は全国的に高調しているが全国の官吏高等官及び同待遇者は各自月給二百分の一を拠出し、尚ほ判任官も希望者にそれぞれ俸給額に応じて義捐金を拠出する事を申し合せた。

米一千石急送

災害の最も激甚であつた岩手県下は罹災民救護の配給米が不足を告げ農林省米穀部に対し正米払下げを懇請したので同部では五日保管米一干石(二千五百俵)を汐留駅から同県罹災地へ急送した。

宮城丸の活動賞讃される

宮城県渡ノ波水産試験場船宮城丸は災害救助作業に県の命令で牡鹿半島沖合より金華山近海、雄勝湾から三陸一帯の海上を家屋その他の漂流警戒の為めに出動したが、乗組員の敏速な行動で、非常な効果をあげたのでその奮闘振りを賞讃されている。

宮城県の罹災救助金

震災地罹災者の救護と復興計画については宮城県及関係当局において万善を期しているが、罹災救助基金より支出するがその総額十二万一干五百円で支出の標準並びに各町村割当額は左記の通り決定
した。

救済標準

一、食料は倒壊、流失の家族に対し二十九日間、床上浸水は十五日間支給
二、治療費は負傷の二割に対し十日間一人二円づつ
三、被服費は倒壊、流失の家族に対し一人当り四円五十銭床上浸水は一人当り二円五十銭づつ支給
四、小屋掛費は一戸当り六十円
五、就業費は全罹災人員の三割に対し給興の必要あるものと認め、倒壊流失は一人十円、床上浸水は一人七円、
六、埋葬費は死亡者(行方不明者を含む)一人に対し十円
七、学用品は罹災全児童に対し一人二円づつ
八、運搬費は総額の二分
九、雑費は総額の一分

1/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.4MB
2/2
オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.4MB
罹災救助費町村別割当

宮城県教育会の活躍

宮城県教育会では県内の小学校及び中等学校児童生徒等が、罹災地への義捐金品募集に当ることになつたが、金は小学校児童一人三銭乃至五銭、中等学校生徒五銭乃至十銭とし品物は教科書及ぴ雑記帳で各罹災地へそれぞれ贈興した。

仙台市役所の慰問隊

仙台市より震災害地に派遣された慰問隊は五日正午市内有志よりの寄贈せられたる
味噌五十樽、ミルクキャラメル五〇〇〇箱、沢庵三樽、布団三枚、衣類一一二包、手拭一包、ミルク四八○缶、
をトラック二台に積載し破害の最も甚だしい本吉郡歌津村方面へ出張それぞれ罹災民に配給して六日午後四時帰仙した。

各国使臣の同情

三陸沿岸震火災津浪に対して駐日米国大使、トルコ大使、ブラジル大使、鮑満洲国代表は六日外務省に内田外相を訪問して深甚なる同情を表したが、特にイタリー大使は個人として金百円を見舞として寄附した。

東北帝大病院救護班

東北帝大病院では三陸大震災に第一回救護班が即日現場へ急行したが更に第二回の救護斑が内科外科、婦人科の各医局員、看護婦に依つて組織され自動車九台に分乗、医療品、食料品、その他の救済品を満載して五日同大学を出発、志津川、釜石、宮古方面へ急行した。

海軍の救恤品

横須賀鎮守府では先きに被害地救護のため、第六駆逐隊、第一駆逐隊等を派造したが更に海軍大臣の訓令により。
毛布一万枚、下士官兵軍衣袴二万枚、襦袢一万個、雨着三干枚、乾パン六千キロ、缶詰五万キロ
等の救恤品を軍艦厳島に積載して被害地三県へ向け発送適宜分配をした。

宮城県罹災者救助方法

宮城県では左の基準に依り罹災救助基金より罹災者に対する前渡をなした。
一、食料は十五歳未満六十五歳以上に対して米男四合六勺三合宛
二、埋葬費は死体一個につき金七円以内
三、被服費は一戸四円五十銭
四、就業児童の学用品は実費支給
五、傷病者の治療費一日一人金三十銭
六、労働者に対しては就業準備金として四円五十銭以内

偉勲を樹てた伝書鳩

気仙沼湾内の離島、大島村には電信、電話の架設なく通信機関は全く欠如している上、交通機関は僅かに渡船の便があるに過ぎないところから小守林気仙沼署長は昨夏以来盛岡高等農林学校から購入した伝書鳩二番の中、一番を気仙沼署桜上に一番を大島村巡査駐在所におき不断に訓練を施していたが計らずも今回の大震災には警察官の有力なる支持者となり津浪被害の状況通信に抜群の偉功を樹てた。小守林署長は語る。
人間に優る偉功を樹てて呉れた何かの時に役に立つと思つて飼育していたのが、三日の日の如きは大島、気仙沼間と唐桑、気仙沼間を五往復もして被害状況を知る上に絶大なる助けを得た。

日赤救護班の活動(一)

日赤岩手支部では医員看護婦等二十名を以て救護班を編成し釜石、山田、小本、種市の各町村に分派したが救護所開設以来七日までに患者総計二百六十一人延人員四百五十人を救護した。

日赤救護班の活動(二)

赤十字支部では救護班第一班を急派後更に第二班を送り叉山田及び小本方面にも一班を送り九戸八木方面にも五名の救護班を急行せしめて大いに活動をした。

焦土に雄々しく立つた五千の救援隊 釜石町で不眠不休

震災突発以来災害地釜石地方に県下各町村から在郷軍人消防組員、青年団、青訓生、自警団、警護団其の他各種自衛団体員が、雪の仙人峠を山越えして続々救護に赴むき事実上の県下各種団体員総動員が行はれ活発に活動を続けた和賀郡小山田在郷軍人分会員四十四名外に同青訓生上小山田同小山田連合青年団員を加へた七十四名は分会長菅原善吉氏引率の下に五日以来不眠不休で活躍を続け八日は折から災害地視察に来町した帝国在郷軍人分会副会長中野直枝中将閣下の名誉ある閲兵を受け大いに面目を施して十一日一先づ引き揚げた尚同日上閉伊郡達曽部青年団員十七名、和賀郡江釣子青年団員十二名、同岩崎村山口同二十名、上閉伊郡土淵青年団員四十二名も救援のため仙八峠を越えて釜石方面に向つた十一日までに釜石地方に向つたこれ等救援隊は五千名と言はれ救援隊の活動は罹災民達を感激せしめた。
盛岡大工組合の井上儀三氏は大工六十人を引率釜石町大渡瀬川方に宿泊してバラックの建設に大活動した。

救護に努力

岩手県廳から釜石町に急派された救護班は日夜奔走したが差当り四日朝白米五十五俵布団五百三十五組毛布九百枚を盛岡、花巻その他各地から急送して釜石、大槌、鵜住居、唐丹各地の罹災民に配給し更にドシドシ救恤品を集め救済に万全を期した。

衣食品の発送

岩手県廳農務課では三日午後三時半迄に被害地方に衣食品を左の通り発送した。

オリジナルサイズ画像
  • 幅:6070px
  • 高さ:4299px
  • ファイルサイズ:1.4MB
衣食品の発送

労力奉仕団

三陸地方震災の同情は全国的に高まつているが変つた同情者は岩手県一関青年団々長槻山直三郎氏外十一名、同県奥玉青年訓練所太田敬義氏外十七名、同県大貫青年団々津田正治氏外十五名の三団体の労力奉仕申込があるので、当局では斯くの如き真剣な同情に感心している。

軍艦に感謝

陸上の必死的救助を受けていた釜石地方罹災民は交通不便のため寒さと飢に苦しめられていたが、去る六日厳島他十隻の駆逐艦の一隊が毛布食糧を十万人分を配給するや町民は歓呼の声をあげて、同港に浮かぶ軍艦に感謝していたのも涙ぐましい状景だ。

釜石救護状況

釜石署五日迄の罹災者救護状況
一、罹災者人員三万一千二百八十四名
二、収容の状況 罹災者は各町村共小学校寺院に収容六日よりバラック建に取りかかる見込み
三、負傷者の手当状況 負傷者に対しては釜石町は鉱山病院、釜石町立病院、水野医院、三郡共立病院、赤十字救護班の五ケ所に収容手当中
四、死亡者の処置 消防組自警団遺族等と協カ死体捜査に努め発見次第検見の上遺族に(遺族不明の場合)町村役場に引渡している。

更生の意気に燃える宮古町

懸念された津波の再襲もなく罹災民も稍落ち着いた気持ちであと仕末に取りかかつて居り宮古町は殆んど衣食の心配はなく、殖銀、郵便局でも非常時払ひ出しを行ひ多大の便益を興へたが、山田、田老、小本を始め上織笠、斗米、津軽石、八木澤、高濱等でも急派された軍艦、警官、消防組、青年団等の尽力により衣食の配給は逐次続けられ最早不安が一掃されると共に下閉伊支廳では木材をどしどし各罹災地に向け発送し直ちに復興工事に着手しつつある全国よりの同情義捐金も陸続きとして到着し既に配給に取りかかつて居り罹災民一同もこの全国的同情に感謝の念を寄せて悲しみの中にも更生の決意に燃えている尚各地の通信機関は殆んど復旧した。

青森県八戸市会の救援

八戸市に於ては九日市会を招集し今回の震災に依る岩手県沿岸にして宮古以北の交通不便な港湾を慰間視察すべく協議した。
邸ち宮古以北の沿岸は殆んど八戸湊を取引の根拠として居る関係から同地方の発動機船が木炭積込の為め港湾を訪れた結果沿岸部落の悲滲なる情報が判明し下閉伊郡内の島の越部落の如きは只二軒の家丈け残されて居り各地とも交通不便の関係から殆んど救援の手が行届かず、ゴロゴロした死体の始末をするにも箱もなく釘等も勿論ないと云ふ状態で手の施す術もない有様である事から同市会ではこれ等に日用の物品及食料等を積込み慰問に出発する予定である。同地方の有力者の談に依れば岩手県の当局は広範囲の救済で困つて居るやうだがこれ等宮古以北沿岸の救済は八戸市に根拠を置いて市当局と連絡を取り救援の万全を期すべきだと云つていた。

満洲国溥儀執政二万元寄贈

満洲国薄儀執政は善隣日本の三陸地方の大惨禍に多大の同情を寄せられ九日国幣二万元を贈られたが尚満洲国民はこれに做らつて続々義捐金を募集しつつあると。

東京府よりも見舞金

東京府では会議長朝倉虎治郎氏代表で三県罹災者へそれぞれ見舞金を贈呈した。

満鉄から二万円

満鉄では三陸地方の救済義捐金として金二万円を九日午後内務省社会局を通じて寄附した、因みに満鉄今回の義捐金は目下満洲の野に転戦している三陸地方出身兵士の家族を特に慰問する趣旨を含んでいるものだと。

孤児、孤老を収容 全日本私設会社事業連盟の活動

今回の三陸震災はその被害の判明するとともに幾多の悲話惨話を生みつつあり、就中親を失ひ子を奪はれて独り廃墟に残された老人や子供の話は涙なくしては聞かれぬがこれ等気の毒な孤児、孤老の数は意外に多く被害地の関係町村に於てもその善後処置に腐心しつつあるが目本私設社会事業連盟においては全国約八百の連盟団体を動員して罹災地各市町村と連絡協同しこれ等気の毒な人々の収容救済に乗り出す事となり取敢ず特派慰問使として同連盟員二名を被害地に派遣して収容する手筈をした

通信綱復旧

震災地に於ける電信電話の短信綱は当局に於て徹宵努力した甲斐があつて一部分を除いては完全に復旧した。

各新聞社の活動

惨事突発するやもつとも機敏に、活動を開始したのに、各地新聞社がある、就中地元新聞社である仙台市河北新報社、盛岡市岩手日報社、青森市東奥日報社等は、各自、慰問班を組織して慰問品を満載して被害地へ急行せしめ、迅速なる配給を行ひ、或ひは、報導の正鵠を期する等、今次の事変に善処した事は、罹災民達をして感激せしめた。尚東京朝日新聞社、岡じく東京日々新聞社の各地駐在員を総動員しての活動も亦地元新聞社以上の奮闘振りであつた。とりわけ東京朝日新聞社では事変突発するや、直ちに金四千円也を罹災民に贈興した。

政府払下米交付

災害町村よりの政府払下米は左の如く決定去る十四日それぞれ交付した。
【気仙沼驛渡し】歌津、大谷、小泉、鹿折、四ケ町村九十六石
【石巻驛渡し】十三濱、女川、大原、十五濱、四ケ町村二百八十八石
以上合計八ケ町村三百八十四石九千六百呎だが、これを町村別に示せば左の如くである。
△歌津 七六戸四六石 △大谷 六戸一○石 △小泉 三五戸二○石 △鹿折 一九戸二○石 △十三濱 四三戸二○戸 △女川 四五四戸一○八石
△大原 一四七戸九六石 △十五濱 三五六戸六四石

雑編

日本地震史の大要

一、
日本の地震に関する伝説の、もつとも古くして雄大なるのは、孝霊天皇のとき、一夜大地震があつて富士山とビワ湖とが出来たと云ふのである、即ち日本の名勝の代表的なる富士山と琵琶湖とが生成の原因を大地震に帰するのである。如何にも地震国たる日本にふさわしい神話であると云つて良い。
歴史上に現はれた地震は元忝天皇の五年七月十四日(西紀四一六)を以て嚆矢とする、即ち有史以前の漠たる古伝説はしばらく措き日本の伝説は元忝天皇以来大正十二年九月一日関東大地震に於ける迄約千五百年間の歴史を有する。
文献に伝へられた地震の総数は約千四百回にしてその震域は全国に瓦つている、そのうち大地震と認むべきものは約四百回に近く大正十二年九月一日の彼の関東大地震は、就中最大なるものの一つである、世人にもつとも強い印象を興へたのは安政二年十月二日江戸の大地震と明治二十四年濃尾の大地震と、大正十二年九月一日の関東大地震の三大地震であるが、その惨禍の大なるを見れば大正十二年九月一日を以て古今未曽有の大震災と云ひ得る。


二、
日本の歴史に現はれたる地震について考察すると地震に周年率はない大地震と大地震との年数の間隔には或る一定の規則は見え出されないのである、彼の関東大地震迄の大地震は安政二年から約七十年であるがそれは関東若しくは東京丈けで云ふので、日本全体から見ればその間に数多の大地震があつた、日本地震史の干五百年間を五十年即ち半世紀づつに区分して考へると、その間に七個は二十回以上の大地震を有している、殊にその最大数は二十六回に達したのもある、そして三十の半世紀の大多数は十回以上の大地震に見舞はれているのである。即ち日本に於ては大地震と称するを得べき程度の地震が二三年に一回少なくとも五年に一回、あるものと見做さなければならない、もつとも干年以上に遡ると二百年に一回の大地震すら無かつた様だが、それは、おそらく文献の不備なる為であらう、そして近世に到るに随つて歴史上に地震の度数の多くなつて来たのは文献が完備した為であらう歴史上の地震を月別にして見るともつとも少なかつたのは、四月で、これに反してもつとも多かつたのは八月、次ぎは七月、その次ぎは九月と十月とである即ち五月から十月迄の半年は十一月から三月に至る迄の半年よりも地震の度数に於て約二割程多く、大体に於て夏の秋の半年が多いことになる、即ち連絡したる三ケ月を区切つて考へると八、九、十の三月が一番多いと云ふ事になる、故に過去の経験に徴すると日本に於ては盛夏から秋晩に即ち七夕、月見、菊花、紅葉の好時節が地震に対して警戒季節となるのである。
次ぎにこれ迄の大地震を日別にして考へて見ると月末で、もつとも多いのが、月初めの五日間である、濃尾の大地震は二十八日だが、安政のは二日、大正のは一日で、今回のは三日である、こう云ふ風に歴史上に考察すると最近の大正十二年の九月一日の大地震及び今回の大地震は地震期日に起つたものとも見る事を得る。


三、
世界の地震帯は南米の極南からその西海岸に沿ふて北米のアラスカ迄北上し左折してアリユーシヤン群島から千島群島をかすめて南下し、北海道及び、本州の表海岸に沿ふて房総半島、江豆半島四国沖より台湾を経て、広東に至る海底に到る「地球の弱線」にしてそれより上陸して、ヒマラヤ山脈を縫ふて再び海に入り地中海を西走して欧洲大陸の西端に達するのである、斯の如く地震帯は地球の半面に線を画いた様になつているが、殊に太平洋の沿岸は地震帯で、淵つけられている。日本はこの太平洋地震帯に、その細長い国土の全部を横たへていると云つても良い位であるから世界各国日本程地震帯の影響を多く受ける国はないのである。而して世界地震帯の幹線を専門家は外側地震帯と称し地方の名を附している地震帯の支線が幾つも我が国土を横切つて幹線に結びつけられてある。例へば東京に於ては江戸側から東京湾に到る地震帯は即ち地方的地震帯である。専門家の説明に依ると安政元年十一月四日の大地震は江戸側東京湾の地震の活動に属し大正十二年九月一日の大地震は安政二年十月二日の大地震と同じ外側地震帯の陥没に起因するものと云はれている、而して今回の三陸大地震も亦前條外側地震帯の陥没に起因されると断定されている。地震帯は地球の亀裂線で溝をなしているもので、即ち地球の弱線である。
歴史上に於ける有名なる大地震の原因は之を専門家の推定に任せることにして震域の地方を考へて見ると震域は普ねく全国の各地方に互つている。太宰春堂の文章のうちに地震のない国に行つたら幸福であらうと云つた様に日本では地震のない国を想像し得なかつた、もつとも地震の多少の区別はある。王化の昔から東北、奥羽、九州にも大地震の記事が見え今では僅かに、蒸気を吹く位の豊後の鶴見山さへも千年前には活動して地震を起している。日本は火山国である火山系が木の葉の繊維網の様に広がつているから火山の鳴動爆破に伴なふ地震が方々にあつた歴史に現はれたのは、富士山、浅間山、阿蘇山、桜島、温泉岳、磐梯山等のは著名なもので、その外に北海道の有珠嶽、下野の日光山等もある、ことごとく火山地震を列挙すれば未だ未だ色々あるのだ。


四、
震域としての大体から見れば表日本に多く、裏日本に少ない、然し越前、越後、秋田、田島、伯耆岩見或ひは佐渡等を中心とする大地震もあつたのだから裏日本とても、勿論大地震がなかつたのではない、古代文献の不備なりし時代は僻地の地震記事は洩れたのもあらうと考へられるが人間は地震に対しては神経鋭敏である、殊に今よりも古に於て甚だしい様であるから、各種類の災害のうちには地震記事には案外に遺漏が少なく大地震の回数の逸したのは殆んどあるまいと思ふ、中国には地層古く火山少なく、殊に山陽道に於て地震がもつとも少なかつた。歴史上では山陽道では安全地帯である。
地震学者の今村博士が地震本位から割り出した山陽道帝都説は歴史上にはその安全を裏書しているのである。
優美な上方は王朝以来地震が多かつた王朝時代のうちにも、地震難に基づく遷都説があつたかもわからない、それが、只今日に伝はらない丈けである、日本紀、続日本紀、日本後紀、類集国史、三大実録、続日本後紀、文徳実録、扶桑略紀、日本紀略、等より玉葉百錬抄の私記に至る迄華やかな平安朝に地震の多かつた記事が沢山にある、そのうちに、天平年間のは地裂け、水湧き、寛治三年(西紀一○八八)のは四十余日間も余震が続いた、物情恟々、京都の食糧欠乏して飢餓が起つた等の大地震も見える上方の方に近い、紀州、丹波、播磨、土佐等の大地震もある、奈良を中心とする大地震もあつた。それ等の震災の為に既に古代に於て築きあげた、文化の破壊された事は非常なものであつた。
神社仏閣に、蓄載された芸術の罹災は想像するに余りあるのである。
天武天皇の十二年京都及び諸国に亙る震域の広大なる大地震(西紀六八四)は土佐の五十有余万坪の田圃が陥落して土佐湾を生じたのは、永正七年(西紀一五一〇)の同じく諸国に亙る大地震の時に遠江の海岸が陥没して今切が出来たのと共に日本の海岸線に大なる変化を起した、紀念すベき二つの大地震であつた。


五、
上方の大地震では、何んと云ふても有名なのは、十六世紀の終りに起つた慶長元年九月四日(西紀一五九六)京都及び諸国に渉る大地震であつた此の時の震災は京都が尤も甚だしく、秀吉の伏見城は大破した。城中の臘女房七十三人、仲居下女五百余人も圧死したと云ふのでもその大震災は文学及び劇の上に地震加藤の名を以て象徴せられている。
地震国の文学として、代表的のものである。
文学上に記念せられている地震は少ない。安政二年の大地震といへども、多少の随筆、見聞紙誌などがあるばかりで、文豪が心血を濺いで大地震の記念とすべきものはない、画家のうちで広重が震災と、続いて起つた江戸の大火とをスケッチした稿本と伝へられるものが残つているこれらは注意すべきものである。
地震加藤は九代目団十郎の得意の芸の一つであつたがそれを見た江戸ッ児は団十郎の足つきが、地盤の上を踏みしめながらゆられて歩くやうに思はれたが、その後に、幸四郎の地震加藤を見たら生酔がよろめいて歩いているやうに見えたといつてい居た。


六、
関東及び湘南地方、尾濃地方は、千年前、王代のときから、歴史の上には、震災地として注目されていた。三河、遠江地方の大地震が始めて歴史に見えたのは霊亀元年(西紀七一五)でそれから間もなく天平十七年(西紀七四五)に美濃の大地震が見えている此のときは三日、三夜、地震が続いて美濃の仏寺堂塔、民舎等、触るるところ悉く崩壊したとある。関東の大地震が始めて見えているのは弘仁九年(西紀八一八)でその震域は相摸、武蔵、下総、常陸、上野、下野等に渉り壓死者は非常に多かつたらしい、その後、二十三年目に承和七年伊豆国の地震があつた。
元慶二年(西紀八七八)関東の大地震は、その惨害更に甚だしく民含一も、全たきを得たるものなく圧死者は数へ尽されなかつた。その惨害額は固より今日に比すべきではない。その後、相摸及び房州の大地震も記されている。
地震史上に鎌倉の名が始めて見えたのは建久二年(西紀一一九一)である。此の以後は鎌倉の地震の記事が続々と現はれて来る。試みにこれを年表にして見ると鎌倉の二字が、ズラリと並ぶことになる。しかもそのうちに大震が少くない。地が裂けたりしている。承久二年から文永三年(西紀一二六六)まで百七十六年間に目星しい地震が三十六回、鎌倉武士の時代の鎌倉には則ち五年に一度の地震若しくは大地震があつたわけである殊に正嘉元年十月九日(西紀一二五七)の大地震に至つては、鎌倉時代に於ける最大なる震災であつた。神社仏閣一も完たきものなく、築地は悉く破れ、山は崩れて多くの人民が圧死したところどころ地が裂けて水湧き、下馬橋の辺には、地が破裂して青い火を吐いたと、吾妻鏡に書いてある。
かうして見ると頼朝が鎌倉に幕府を創めてから鎌倉が俄かに地震に呪はれたやうに見えるが事実はさうではない、此の頃以前には、首府たる京都から見れば、関東は僻遠の地である稀に関東の国名を記すことはあつても、詳かに地名を記す必要もなくそれ等の細かい地名は京都人には興味がなかつた鎌倉幕府が創立されてから、鎌倉は政治の中心となり、随つて鎌倉の名が現れ、鎌倉地方の地震の記事が一世の注目を惹くやうになつたのである。それ以前にも鎌倉地方に大地震が度々あつたかも知れぬ、悉く、関東、若しくは相摸の名に包まれていたのだ、関東の文化は、頼朝に依つて起り、それと共に関東の地震記事が歴史上に明らかになつて来たのである。


七、
江戸開府以来、最初に関東を襲ふた大地震は、地震加藤後の五年、慶長六年、(西紀一六○一)に於ける房総の大地震である。則ち十七世紀の劈頭以来、今日に至るまで三百十三年の間関東は度々大地震に脅威されているのである。鹿島神宮の要石が、地底の大鯰は抑へつけている筈であるけれども時々鎮圧の手を脱がれて、災害を持ち来たすのであつた。最初の大地震のときには、房総に山崩れがあり却つて海中に山を生じ潮が引く事三十余町翌日には津波が襲ふて、溺死者多かつた。爾来、明治維新に至るまで関東に於ける顕著なる大地震を挙げると左の如くである。


一、慶長六年(西紀一六〇一)房総地方
二、同十年(西紀一六〇五)関東諸国
三、元和元年(西紀一六一五)江戸
四、寛永十年二月十日(同一六三三)関東地方 相州小田原尤も甚だし
五、同 四月八日(同)江戸
六、正保四年六月十五日(西紀一六四七)江戸
七、慶安元年六月十二日(同 一六四八)江戸相州地方
八、同二年七月二十五日(同 一六四九)江戸
九、同 七月三十一日(同)江戸
一〇、同 九月一日(同)江戸、川崎辺甚だし
二、同 九月三日(同)江戸
一二、同 九月十日(同)江戸
一三、同三年四月十三日(同 一六五〇)関東
一四、寛文九年九月六日(同 一六六九)江戸
一五、延宝六年十月二日(同一六七八)江戸
一六、天和三年五月一日(同 一六八三)日光山
一七、元禄九年七月十七日(同 一六九六)江戸
一八、同 十一月二十六日(同)江戸
一九、同十六年十二月三十日(同)関東、東海道、地震、津浪
二〇、宝永三年十月二十一日(同 一七○六)江戸
二一、同 四年十二月十六日(同 一七〇四)富士山
二一、享保三年三月十一日(同 一七一八)江戸
二三、同 十七年二月八日(同 一七三二)江戸
二四、同二十年八月二十日(同 一七三五)東海道
二五、昭和八年六月十四日(同 一七七一)江戸
二六、同 七月十三日(同)江戸
二七、安永七年四月十四日(同 一七七八)伊豆大島
二八、天明二年八月二十二日(同 一七八二)江戸
二九、同 八月二十三日(同)江戸
三〇、同三年三月四日(同 一七八三)江戸
三一、同 八月(同)浅間山
三二、寛政二年十二月(同 一七九〇)江戸
三三、同 四年八月十六日(同 一七九二)江戸
三四、同五年二月十八日(同 一七九一)江戸
三五、同六年十一月二十五日(同 一七九二)江戸
三六、文化六年四月五日(同 一八〇九)信州
三七、同 十月十日(同)富士山
三八、文化九年十一月七日(同 一八一二)江戸
三九、文政九年(春)(同 一八二六)江戸
四〇、同(秋)(同)江戸
四一、天保五年五月十六日(同 一八三四)富士山
四二、弘化四年五月八日(同 一八四七)信州
四三、嘉永元年六月八日(同 一八四八)江戸
四四、同 六年三月十六日(同 一八五三)江戸
四五、同年三月十二日(同)江戸
四六、同 三月二十二日(同)江戸
四七、同 十一月四日(同)江戸及全国
四八、安政二年十一月十一日(同 一八五五)江戸
斯くの如く江戸開府以来明治維新に至る迄約二百五十年の間に江戸及関東地方に於て約五十回にわたる目星しい地震があつたのである。


八、
明治、大正に至つては関東に大地震は少なかつた、明治二十七年六月二十日(西紀一八九三)東京に安政以来と称せられる大地震が久し振りに見舞つた、この時倒壊家屋九十、破損四千八百三十二、死者二十四と云ふ記録を以ていた。而して大正になつては、七年十一月二十一日信州大島附近を中心として大地震があつた丈けだ。全国としては明治二十二年七月二十八日、熊本の大地震二十四年十月二十八日有名なる濃尾の大地震があつた、この大地震は震域甚だ広く、本州を越えて四国、九州にも及び、東北は青森迄達した、その惨害を云へば家屋の全壊十四万二千百余、半壊八万三百余、死者七千二百七十三負傷者一万七千百七十五人に及んでいる。
以上日本大地震史を翻いて見ると、関東を中心とした大地震は、相当多かつた様に思はれる、地震国日本も、有難くない名物が多いものではある。
備考(東北を中心とした大地震の閲歴は本書緒論に所載してあるので、本編には省略した)

地震と火事に関する伝説 藤澤衛彦

一、地震に感じ易い動物と変災の予知

天変地変の起るや、必ずその以前、何等かの大変動予兆期を経過するものとしたら、そしてある最も微細な変動も亦必ずその原因を持つものであらうとしたら、たとへ人間の感知本能がこれを受感することが出来なくとも、全動物のうちに、何ものかそれを感知して、やがて来る大災害を予知する動物はいないであらうか。否、否、
火山の将に爆発せんとする以前、多くの禽獣は其の山より逃走し、火事の起らんとする以前、狐は頻りに啼き、鼠は忽ちに其の家より移転するといふ。
動物のうちでも、数日前に災害を知るものと、当日なほまごまごしていると言はれるものがある。
多くの揚合、災害を最も夙く感知するものには、次の種類があげられる。
(一)雉(二)鴉(三)狐(四)鹿
(五)犬(六)狼(七)鼠(八)猫
土龍についても、其の移転の話を伝へられるが、狐に対する狸には、応々にして其の鈍感が伝へられる。それは丁度、狸の化術の形式が、馬鹿々々しい例へば大入道とか大顔とかいふものを選んでただ人を驚かさうとするに反し、狐は美しい女と化けて人を狂かす事に成功するといふ相違のあるやうに、敏感な狐が火事を予報すると信ぜられている事が多い。
猫に致つては、元来、電気性の鋭敏なる性質からして、時には死人に感電し、死人をして他動的に動かすことの可能性を、世俗には、一概に、魔性の怪物としたことなどもあつた事で、従つて、他の感知の本能も相応に勝れてをつたと思はれることでもある。
鴉は、「吉語を伝へて、安んぞ閑を得ん。」とまで言はれているのに、虱に於ては、「湯の沸くを聞いてなほ血食す。」と言はれている。
人間に於ては、虱同然、感知の官覚が興へられてない。果して、それら動物の、敏覚に災害を予知してをるといふ感知の本能が、人間にも興へられてをるならば、少くとも、事変前に、われわれは、地震を知り、天候を知る事が出来て、予め其の災害を免がれる事が出来るであらうと考へらるる事であるが、ウィルリ・ヘルパッハの研究によると、有機体の一般的衰弱に由つて、天候に対する敏感性の起ることを、殆んど実験的に確実に認識せしめたいといふことで、例へば、雷雨の場合、その感受牲を有する者に向つて、電気放射が未だ毫も認められない場合に於てすらも、即ち、第一に、この放射が、遙かに遠い場所にて起り居る場合、及び、第二に、所謂雷雨均衡と呼ばるる現象の起れる場合に於てすらも、その場合の雷雨状勢を了解することが出来るといふことで、人間に於ては、その多くは潜存的であるかも知れないが、随分感受し得るあるものもあるべき筈なのである。
要するに、一般に、動物に対する天候の影響は、昔から、人類の場合と同じく、甚だ精密に研究せられたが、動物に対する地震の作用に就ては、人類の場合以上極めて多数の問題が有している。それらの大部分は、実際、古来の地震に関する口碑伝承の観察として、人々の前に置かれたところである地震に感じ易い動物の多数の真に原始的な心意状態に於ては、地震の起る以前の天候状況の触動的効果と、地震の起る時に齎す感官的効果とは、独知的に作用すること人間に於けるよりも一層甚だしいようである。蓋し、以前に起れる地震に対する回想が、現に地震の起らんとする前に当つて昂まり来る興奮に対して多少の労力を及ぼす事は動物に於ては殆んど考ふべからざる事であるからである。
地震の起る前、いな可なり長い以前にも、多くの動物の態度を変ふることは、人類に於けるよりもなほ一層純粋な天候が、触動的作用の表はれとして見得ベきことが、われわれは又、単に間接な天候の作用なる態度の存することを知ることが出来る。
先づ
(1)魚が眺ねる。これは、雷雨の前にもさうであるが、地震の前にも、かれらの生活は何となく騒がしくなる。
ふだん不活発な鰌は、雷雨の前に不安静に水の中を馳けまはり、激しく泥土を掻き乱すといふことであるが、地震の前に於て
(2)鯰は、殊に最も不安静な活動を開始し、激しく泥土を掻き乱し、地震の前後には人間の眼に触れることが多くある。
(3)土鼠の土を掻き起すことも、雷雨の前、地震の前に多く行はれる。俗に土鼠の移転といはれるものがそれである。
(4)諸々の鳥は、ふだんより低く飛ぶ。囀る鳥の声を聞けば、その囀りやふだんの調子ならず、沈黙すること多きか、さなくば切れ切れに歌ひ、叉は奇異なる声を出す。
雷雨の前夜の跳り、鳥の低く飛ぶのは、雷雨の前には、平常よりも濃密に、昆虫類の水面上に集合することが多いに因るのであるとか、地に於ても、鳥の餌食となる昆虫類の、天候感受性を指示する現象に過ぎないと心理学者に説明されるが、地震に於ても、それらの原因が那辺にあるか、研究されてほしいものである。
雷雨の前に於て、
(5)猫の動静の頗る不安静に食はず、眠らず、鼠をも捕ふとしないのは、蓋しその性質の電気に敏感なためであるのであらうが、地震の前に於ても著しい生活の不安静が来るらしい。
地震の前に、
(6)鼠は、何の企図もなく漫に激昂して眺び廻ることは、変災の前に家鼠のあわただしく騒ぐのと同じ原因の何等かの感受性によるものであらう。
(7)栗鼠の漫りなる激昂も、変災前に行はれる。殊にかれの笛のような叫び声は、平素の非常な激昂の際に聞くものより、度数に於て甚だしいとされている。
(8)薮鴬はチヤッチヤッと急音に、危険のやがて来るを告げ、クウーと悲音に、悲しき精神の感動をもらす。ホーホケキョといふ平音は、変災の前には聞かれない。
(9)烏は、地震の前、不安静に、忙しげに、憂はしげに鳴きながら、短息なる声を出して彼方此方と急馳する。
(10)昆虫の膜翅類及び双翅類は、かれらの潜伏所の近くに停止し、あるものは五月蝿く、煩はしく、かつ殊更に兇悪となる。
(11)蛙については、殊におもしろい説話がある。
元来、蛙は、天候を予知する動物の一つとして、普通に最も知られている動物だが、晴雨を予報するばかりか、地震についても感受牲が敏感で、田圃や泉水の理境から、一はやく来るべき変災を知る
昔、播磨国明石城の蛙も、さうした蛙一流の敏感さから、住み心地のいいお城のお泉水や、四辺の田圃を捨ててギャア、ギャアと移転して行つた。それを、明石の人達は、お城の殿様の御威光によつて蛙が移転したのだと考へた。
そのはじめ、泉水の蛙たちは、かれら特異の感受性から、変災の初期微動(?)を知つて、囂々と毎夜毎夜やかましく鳴きたてたので、お城の殿様の御安眠を妨げると言ふので、大騒ぎが始まつた。
それで、お城では、蛙狩をしようといふ事に根談が決つた時、蛙の方では、幸にも、泉水や四辺の田圃に軅て来るベき大変災を予知したので、もう不安でたまらなくなり、いよいよ住みなれた土地を離れようと決心した、ちやうど其の日の朝のこと、折から御病中だといふお城の殿様は、お床の上に起直られて、蛙たちに向つて言ふことには、「これこれ、頻りに啼きつづくる泉水の蛙ども、お前達はさうして夜もすがらに啼き明さうとしているが、全体どうしたものか、元来が、お前たちの名は、それ、蛙といふのではないか、そんなに啼き立てて、名の如く速かに野に帰ることを忘れてはいけないぞ」と、まるで、人間でもさとすやうにおつしやつたもんだ。蛙たちが、「はいはいお殿様、あなたさまがさうおつしやらなくとも、私どもは、今、引越すところでございます。ギヤオウ、ギヤオウ」と答へたかどうかは知らないが、兎に角、蛙たちは、住みなれた泉水あたりの危険を前知したので、安心させる方面に所をかへて、ぞろぞろと引越して行つてしまつた。ところが、お城の人たちは驚いた。殿様の命令一で、蛙がぞろぞろと引越しだしたので、殿様の御威光はえらいものだと評判した。
そして、家来たちは勿論のこと、城下の町人どもまで大騒ぎをやつて、殿様の御威光の奇跡的であることを語り伝へた。その殿様は松平直明といふ偉い殿様で、殿様がお泉水の蛙の啼声を止めたといふ伝説は、今もなほ其の地方の語草となつているが、それが、その後の地震を予知した蛙の自然的行動であつた事には考へられていない。
兎に角、このやうな、諸動物の行動変化の特徴は、その変化が、概ね地震より余程以前に既に見えそめるので、のみならず、時として精確なる学的断定が、土地の現境的変化、天候状況の本質的変化をあらはす以前、既に現はるる事である。
未知の変災要素の作用を動物の上に見て、震災を予知し、そが予防の一つに数ヘることは、心理学的に一層これからの研究を必要とすべきことをわれわれは此の機会に提唱する。

二、大地震その他に廻り来る年の俗信

五日の雨十日の風といふ具合に、生物が生を遂げるには、自から適当の順気を運る。支那では、天道人事の変を占筮する方法として、先づ暦法に則り、天数を二十五、地数を三十、即ち天地の数五十五で、これを暦法の気盈朔虚の数から割出して、先づ、気盈の日の五日を扣除して五十とし、次になほ四分の一日の残つているものを一として除く、併せて六を、五十五の中から減くと、四十九残る。
これを四十九本の筮竹に象徴して占筮の用とする。
人間に於て、七は女性の基数となり、八は男性の基数となる。これが陰陽交錯する作用の差互を示した大易理旨の潜在するところである。それゆえ、男子は二八十六歳で陽道通じ、八八六十四歳で陽道が閉ぢ。女子は二七十四歳で陰道通じ、七七四十九歳で陰道が閉ぢるのを普通の原則としている。
男子の四十二歳、女子の三十三歳は俗間にいふやうな称呼数の音よみ死(四二)に通じ、産産(三三)に通じるといふ浅薄な理由にもとづくものではなく、四十二に人体組織の更始期である七年の六周した年数三十三は即ち七年の五周期でもある。
尋常の地震は毎年あるものだが、大地震はさう毎々やつて来るものではなく、その来るや易理の数に支配されるといふのは、「春秋経」に載するところの地震二百四十年間に五度と云ふ説にもとづいている。二百四十年間に五度は、凡そ四十九年に一度にあたる。
弘化四年の信濃大地震から、明治二十四年の濃尾大地震までは四十九年間の差があり、元禄十六年の関八州大地震から、天明二年の関東大地震までは四十九年の二倍数より七年少い差であり、寛永四年の関東大地震から、元禄十六年の関八州大地震までは、四十九年に七年を加へた年月の隔りがある
寛政十年の小田原大地震から、嘉永元年の小田原大地震までは、ちやうど四十九年間の隔りである。
安政二年の江戸大地震から、大正十二年九月一日の大地震までは、四十九年に七の三倍数を加へた隔りであり、嘉永元年の小田原大地震からは、四十九年に七の四倍数を加へた年月の隔りである。更に遡つて、寛文二年、五畿内大地震は、慶長十九年京伏見の大地震から、ちやうど四十九ケ年の隔りである。
俗説に、大地震は及そ六十年目に一遍と言はれるものには易理もなにもあるものでなく、ただ寛政十年の地震(小田原大地震)から、安政二年の江戸大地震までは凡そ六十ケ年の隔りがあり、寛永四年の関東大地震から、元禄十六年の関八州大地震までも凡そ六十年間の距離であるが、何れにしてもそれが一つの定理であると言ふのではない。
四十九を基本とする所謂大地震その地にめぐり来る年の俗信も、暦法に則るとは言ひながら、やはり俗信と言はれべきものであらうも知れぬ。

三、土地出現陥没の伝説

正史に載せられ、若くは口碑伝承によつて昔から、強く人心を刺激し、地震の限りなく強大な力を恐れしめた説話は、天文天皇の十二年に、諸国大地震、就中土佐国最も激震で、田苑五十余万頃陥没して海となつたといふ「日本書記」の記録と、近江国琵琶湖に関する口碑である。
田苑五十余万頃といふとなかなか莫大の土地のやうであるが、一夜に江州の地が裂けて、琵琶湖が出来たといふものに比ベると比較にならない。全く土地陥没の点に於て、琵琶湖水を湛へて出現の伝説は、陥没伝説の横綱として押さるベきものである。
それは、孝霊天皇の五年(今から二千二百九年前)もしくは開化天皇の十八年(今から二千六十二年前)の事、面積四十四五方里の土地忽ち陥没して湖となり、同時に富士山が出現したといふのである。
勿論、琵琶湖と富士山とは、その容積の点に於て、とても比較にならぬほど富士山の容積は広く、凡そ四十倍の大さであるが、この伝説は、日本民族の、原始的な単純なる一思想を現はしてをるものと見るベきで、説話の実否に拘泥すベき問題ではなかつた事でもある。
即ち、その頃の人達は、ただに琶琵湖陥没のみならず、例へば、諏訪湖の陥没と同時に浅間山が出現したと説くやうに、一方に凸みが出来れば必ず他の一方に凹みが出来ると考へたもので、これを山岳の成因の方から観ると、幾分でも、地殻の陥没作用に帰因せしめることは、そのはじめ、頗る幼稚な原始的解釈のやうに思はれたが、然も近代の地質学も、地殻が、徐々に冷却して起すところの収縮作用が、山脈発生の一般的原因であるとして、其の儘ではないが、原始的解釈に或一致を持つているのはおもしろい事だ。
陵谷の変は古人の論ずるところ、山川の形勢数十年にして小変し、数百年を経て中変し、更に数千年を経て大変せる事は、「時」の関渉にある目然の数たるべく見える。浅間諏訪湖の事は更にも言はず、遠州荒井の陸地崩れて海となり、信州姫河畔の稗田山崩れて南小谷の村落全滅し、最近大地震の後をうけて、九月十六日の夜より十七日にかけて、相州大山の町に崩れた眼前の事実など、江戸明治大正の時代に渡る小変にしても枚挙に暇もあるまい。まして伝説の時代に、地殻の陥没し、地表の隆起し、削磨作用によつて、岳頂の跡の渓谷と化り、原の渓谷の丘頂と変れることなど、どのくらい行はれたかは想像するに余りある。山岳の隆起作用と、渓谷の水蝕作用とが、両々相対して古来どのやうに山岳を変へて来たかは、アルプス山脈の脊が、今もなほ北方へと少しづつ退却して行くといふ実例に竣つまでもなく、古来何れの丘陵も山岳も、絶対に常住不変のものでないといふ事は地質学上言ひきられる事であると言はれる。
土地の隆起や陥没は、依然として最近まで世界の各地に行はれ、殊に瑞西地方アルプス山側の或一帯の地方には、今も果しなく此の種の運動が進行されているやうに考へられている。
現在に於ては勿論、過去としてもかなりの時代の昔であるが、日本アルプス地方に於ても、其の変遷あつた事を伝説は物語るのである。
その土地の隆起や陥没に、霊妙なる音楽の奇瑞の伝へらるる事があるのは、それは突出陥没に伴ふ自然の鳴動の神秘化されたものでもあるらしい。
天地開闢のはじめ、天照大御神が、常陸国筑波山の上に天降りましまして、琴を弾ぜられると、東の海の浪が、其の音に感じて、山の麓まで押しよせて来た。其の波が、地面の凹んだところに残つたのが、後の霞ケ浦で、波のつく山といふ意味で筑波山といふ名が出来たのだ。
一夜天楽頻りなる中に、富士山はひよつこり湧き出でた。
今の甲斐国北都留郡大目村の人たちが、不思議に思つて、寝巻のまま表へ飛出して見ると、眼の前にとてつもない高さの富士山が湧き出ていたので、大きな眼を見張つて二度びつくりした。
同じ郡の賑岡の村人たちは、不思議な音響で大層賑かなやうだが、何事であらうと雨戸を繰つて見て、「やあ、お山の移転だ。」、と言つてたまげた。
叉、今の南都留郡大嵐村の人たちに、寝耳に水ではない不思議の響きを聞いて、はじめ、大嵐でも襲つて来る前兆かと、こわごわ節穴から覗いて見たら、雲に突き抜けた霊峰だつたので、「これはどうだ、天と地とが繋がつた。」と驚き叫んだ。
そのまた隣村の鳴澤では、怪しい沼の澤鳴かと訝つて、皆大騒ぎしたが、確めて見たら富士の山鳴であつた。
道志村の人たちは、「これはどうしたことだ、天と地とが繋がるのかしらん。」と驚き叫んだ。
平栗の里の人たちは、また、「天のお成りか地のお出ましか。」と、地面に身を伏せて、ぶるぶる、顫へた有様が、毬栗の平つくばつたやうに見えたといふので、今でも其の地は、それぞれさういふ名で呼ばれるといふのだが、ただ独り、今の南都留の明日見村の人たちばかりは、一向そんな音楽をも山鳴をも不思議がらず、音響や世間の騒がしさをも気にとめず、翌朝になつても、誰一人、表に出て其の不思議な霊峰を見ようとする者がなかつたので、近くの村のおせつかいが、「おうい此の村の衆よウ、つくりはて見さつせ、(出て上の方をごらんの意)はんて、はんて。(急いで急いでの意)」と触れて歩いたが、此の村の人たちは、誰も彼も、「明日にせい、明日見よう」と答へて、其の日には、誰一人出て見る者が無かつた。ところが、そのまた翌日には、もう、此の村からは、見ようとしても見られないやうに、富士山の方でそつぽ向いてしまつた。それで、此の村は、何所からも、永久に富士の霊峰の姿を拝むことの出来ない明日見村になつてしまつた。
など言はれる説明的伝説がそれであるが、このやうに、一つの山岳が、音楽によつて糶りあがつで来ることは、それは、山岳出現、平地突出の上にばかり行はれる附帯條件ではなくして、あらゆる陸地出現伝説の場合に於て行はれることで、開化天皇の六年四月、相州江の島涌出に対しても、景行天皇の十年、江州湖中に竹牛島湧出に対しても、「縁起」が、その奇瑞を記録し、その出現鳴動に霊楽を附随せしめた事は、ただに縁起作者の作為によつたとのみ見るべきものではないのであつて、民間伝説のこれを伝承する場合が多いのである。

四、海底地震と津浪

慶長十年十二月十五日、南海、洪波俄に来つて八丈が島に大山湧出すなど史に見えるものは、海底地震と共に津浪の打寄せた事を語つているものだ、がこの海底地震の震央に於て、先づ海水に動揺を興へて、津浪の起原となるのは、主として海底の陥落や海中断崖の陥落などによるものだと言はれる海底地震のために起る津浪は、海岸と震源との距離に従つて、其の襲来の時間に遅速があるけれども、わが太平洋方面に起る地震津浪は、古来の場合に於てこれを見るのに、震後二三十分乃至一時間の経過をおいて襲来する。
その慶長十年、丈島津浪の場合は、震源が其の島にあつたので、地震と共に洪波をあげているが、本土と海浜に打寄する津浪の襲来に時間の経過があるから、海岸の人々は、その間にてつとり早い避難の処置をとらねばならない。
海岸が、直條を成して水の深いところでは、津浪の起る恐れは先づ先づ無いが、遠浅で、海岸線の外開きに湾形を成している海浜には、津浪が最も襲来し易い。だから、一般に、太平洋方面の海岸地方では、大地震を感じた時は勿論、大地震でなくとも、震動時間の長きにわたる地震であつたら、直ちに海水の状況に注意して、難を未然に避くるやう忙ぐがよい殊に津浪の激烈なときは、海水は先づ減退した後更に浜辺に昇つて来るのが普通であるから、よくよく注意ありたい。
海岸地方に永住の人たちは、津浪の真理を古来の伝承に寄つても知つているので、何を措いても先づその襲来を予想して避難に熱中するが、例へば海岸地方に避暑の客などは、津浪の性質の如何なるかを知らないため、つひした油断からその災害を被る者が多いといふとである。

地震津浪の避難に関する注意

△狼狽せず戸外に避難するを最も肝要とす
△地割れの危険は皆無心配するに及ばず
△成るべく広き場所に避難すベし、戸外に出づるも塀、塗壁、石燈籠等に身を寄するは危険なり、狭き道崖下、若しくは煉瓦、煙突の附近を通行するは注意すべし。屋内にても暖炉用煉瓦、煙突の下は煙突破壊、墜落の虞れあり甚だ危険なり
△普通日本家屋が倒壊するまでには相応に時の猶予あるも万一戸外に出づること能はざれば、丈夫なる机、寝台等の下に身を寄するも可なり
△避難の際には火の用心を忘るべからず、ランプ、火鉢、竈等より発火せしめざる注意を要す、電燈線に異状を起こせる疑あらば直ちに安全器により電流を遮断するを可とす
△震後の火災に伴ひ瓦斯管の破裂あり当局の注意を要する問題なり
△大震の際水道鉄管は容易に損害を被り貯水池も破壊することあり、吸水の不足を来すは必然なるのみならず、市内各所より発火すべければ、倒壊せざる家屋に於ても直ちに水道より水を汲み貯へおくを可とす
△海浜の地、殊に太平洋沿岸にて大地震あるとき、若しくは大地震ならざるも、稍々、強き地震が長く継続するとき(即ち稍々遠き地震なるとき)は一時間内外にして津浪来襲して港湾に高潮を押し上ぐる虞れあり、激甚なる津浪の前兆としては多くは海水減退するを例とす、斯かる場合には直ちに高所に避難するを要す。

津浪には予防林設置肝要

帝国森林会長 本田静六博士(談)
大津浪の被害予防につき帝国森林会長本多静六博士は海岸に適当な幅を持つた津浪防備林を造設するに限るとの説を公表した、その概略は
一、海岸に直接せる住宅地の再建を禁止し直接海岸に沿ふ一帯地に森林地帯を造る余地を残してその後方に住宅地を建築せしむる
二、港湾叉は漁村等にて船置場荷揚げ場の設備を要する場合にはこれのみ森林地帯の外方に設けしむる
三、繁昌せる港湾市街地等で森林地帯を造る余地なき場合に限り直立絶壁をなすか又は階段状に直立せる堤防を築設する
四、森林の幅は十間乃至五十間とし、びやくしん、むろ、いぬまき、つばき、ひさかき、たぶ、まさき、さんごじゆ、いぼたその他の雑木灌木を繁茂せしめる
五、海岸に直角をなす道路は一直線とせずS字形とする等であるが、これによれば海岸一帯に津浪予防に十分な築堤をなすよりも遙に小額の経費ですみ、かつ森林が数十尺に成長すれば津浪がたとひ数十尺の高さを以て押し寄せても決して心配なく大抵の津浪はこの森林によつてその偉力を全く減殺され津浪の実害を見ないで済むといふのである。

津浪には築港対策第一

東北帝国大学 中村左衛門太郎博土(談)
今回の三陸大津浪に関して東北帝国大学中村博士は左の如く語る。
今回の地震は外側地震の活動によるものである世界二大地震帯の内の強大な太平洋地震帯は常時でも活動していて今回のはその強大のものである一、九一六年のサンフランシスコ、最近におけるニユジーランドの地震も今回の地震と同様太平洋地震帯の活動で非常に広範囲に渉つている、地震の起つた最初の地点が金華山沖であつても震源の大きさは数十マイルに及んでいると想像される。
今回の地震は余震の初期微動に続て長いものと短いものとがあつたがこれによつても如何に広範範囲であるかが解る地震の範囲が広く深海の海底岩石は粘性を帯びているので地震は弱くても海水の動揺は激しく起る、この点は東海道地方の地震と相違する所だ、この辺の津浪は地震後三十分乃至一時間で襲来するから地震がゆるやかで長く続く揚合は津浪襲来と察知して避難せねばならん。
現に清水港の或る一家は地震と同時に津浪を予知して家財道具をまとめて避難し助かつたといふ生きた実例がある、今回の被害から見て今後の築港対策は深く研究せねばならぬ、志津川の一部分が被害の少なかつたのも埋立地の一部に僅かな護岸工事がほどこしてあつた結果である。
◇◇◇◇◇◇
三陸大震災史終