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○参照第一

去る六月十五日に本州東海に大津浪が起こり、三陸沿岸に溢流して死人二万二千に達する大惨状を呈した。当時本会は理科大学地質学生伊木常誠に嘱託して当該地方に出張させ、踏査三旬(=30日)で津浪原因は海底火山の激憤によって生じた爆裂浪であることを認めた。顧みると陸上の地震のほとんどは地すべり地震であることの実証を得たのは、僅かに数年前の濃尾震災の時に得た結果で、海底火山の爆裂及び地すべり地震のようなものは、その位置がそういった結果にさせるためか、その現象は学会で未探の領域に属する。従来、国内国外に洪水、波浪が浸食し災害を陸にもたらすことはあっても、その際の学術上、収得した知識はわずかに波の運動と海の深さの算出にとどまり、かつて運動の原因を探求したのは「クラカタヲ」火山島のほかに、その例を知らない。津浪の原因を求めるという難題は推して知るしかない。今、伊木常誠の報告文を提出するについて、ここに一言申し述べる。
 明治二十九年九月   委員 理学博士 小藤文次郎
  震災予防調査会長 理学博士菊池大麓殿


三陸地方津浪実況取調報告
     震災予防調査会嘱託
   理科大学地質学生 伊木常誠


  目次
第一章 これまでの津浪
第二章 今回の津浪
第一節 前兆
(一) 海水の干退
(二) 井水の異常
(三) 地震
(四) 地球磁力の変動
(五) その他
第二節 音響
第三節 津浪襲来の時刻及び状況
第四節 津浪の波及
第五節 津浪の高さと海底深浅との関係
第六節 津浪襲来の方向、起点、速度及び波長
第七節 津浪襲来の勢力及び転向
第八節 地震との関係
第三章 三陸沿岸の地貌
第四章 今回の津浪の原因を論じる

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地図 日本沿海深浅略図

第一章 既往の津浪

(一)貞観十一年(西暦五百六十九年)五月二十六日、陸奥国、地大いに振動し、流れる光は昼の如く陰を映し、少しして人民は叫び呼び、伏して起きること出来ず、あるいは屋根倒れ、壓死し、あるいは地が裂けて牛馬驚き走り、あるいは共に踏みあい、城郭、倉庫門塔、垣、激しく落ちて転覆するものの数はわからない。海上咆哮する音は雷雲に似ている。驚きの怒涛の潮は漲りたちまち城下(地名不明)に至り、海を隔てて数百十里と広く、その際を知らない。原野の道路は隠れてしまう。船に乗せるに余裕がなく、山に登るには及びがたく、溺死するものは数千人、資産や苗の稼ぎはほとんど残されていない。(岩手公報)


(二)慶長十六年(西暦千六百十一年)十月二十八日、大地震が三度あり、その次に大波が来て山田浦は房が沢(山田町の西、二十町ほどの処)まで来たとのこと、二度目の波は寺沢(山田町の小丘の後ろにあたる地名)まで来て、三度目の波は山田川の橋の上まで来たとの事である。そのほかに織笠村礼堂(織笠の西数十町)まで来た。それぞれの浦々で死んだ人の数はどれくらいかわからず、鵜の住居、大槌村、横沢の間では二十人、津軽石にて男女百五十人、大槌、津軽石は市日で数多くの人が死んだ。浦々では人、牛馬ともにその数は分からない(山田の武藤六左衛門氏の所蔵する覚書の中にあり)。口碑によればこの際の津浪は小谷鳥より大浦に打ちつけてきたという。


(三)元和二年(西暦千六百十九年)、陸中の沿岸に大津波あり(宮古測候所)。


(四)元禄二年(西暦千六百八十九年)、陸中の海辺に津浪あり(口碑)。


(五)安政三年(西暦千八百五十四年)旧暦の七月二十三日、三陸の沿岸一帯に大地震があり、津浪が襲来した。この際、初め海水は大いに干退いて徐々に増水し志津川の如きは当時小船に乗って市中を徘徊し(今回はこのようなことはなかった)、八戸近傍の海浜は水量が今回より多く被害も多かったという。しかし、その波の勢いにいたっては到底、これらの激烈俊足と比べるまでもなく、波浪が退却するときは悠々としていて打ち上げられた魚を拾い集めたという(古老の談話)。
田老村の後方の山上に日枝神社がある。そこに登る途中の小さな橋が渓谷に架かっている。昔、大津波が襲来してこれを破壊したことがあると伝えられる。その橋は今回の波の高さよりもなお二丈余り上にある(口碑)。


(六)明治二十七年三月二十二日午後八時二十分ごろ、三閉郡の沿海一帯に小津浪があり、この際にもその襲来前に海水は干退した(本会報告第三号)。おそらくこの津浪は同日根室に起こった大地震に伴ったもので、宮古測候所の報に依れば当日同地方は弱震を感じたという。
以上列記する旧記を見れば三陸沿岸は古来よりたびたび津浪の襲来があるようで、その著しいものは多く強い地震と伴って当該地方の津浪は多く地震と密接の関係があることは明らかである。そして慶長年間の津波のように山田町および附近においては今回より遥かに遠くの陸地に浸入し、また箱崎地方では小谷鳥、大浦間(距離十二町で最高点五十尺位)を打ち越えたと称えるところがあるのをみると、恐らく今回の津波より大きいものであろう。そのほか、口碑などによるが今回のような大津波は時々襲来しているようである。

第二章 今回の津浪

第一節 前兆

(一)海水の干退 津浪の前、海水の干退することは我々の前々から伝え聞くところであるが、今回もまた確かにこの事実を認めた。その著しい例を挙げると、
 雄勝では午後三時ごろ(?)より対岸の舟戸に徒渉できる位に海水減少するので人々異常の思いをしたという。
 陸前本吉郡御岳村の海浜では津浪の当日午後より海水が非常に干退したので人々は異変が起こるだろうことを憂いたという。
 同大谷村では津浪前海水は二三百間干退したという。
 同皆浜では津浪前海水はおおよそ三百間干退したという。
 陸前気仙郡只出では津浪前海水はおおよそ二十間干退したという。
 陸中南閉伊郡両石でも右に同じ。
 同東閉伊郡重茂村千鶏の実地目撃者の談によれば当日、立網(鮪漁のために設けた場所)に赴いていたが日がまさに暮れようとする際、地震とともに俄然海水干退(六十間余)したので、津浪が寄せ来ることを予知し、早々に後方の小山に難を避けようとする刹那、山に怒涛が奔流してきて、ついに数名の溺死者を出したという。
 同小本では津浪前海水はおおよそ二三百間干退したという。
 陸中南九戸郡堀内では海水は急に二百間内外干退したので奇異の思いがして、あらかじめ逃れ去り、津浪の災害を免れたものがいた。
 同宿の家では暮刻、急に海水が干退したのを目撃した一老人がいて災難が来るだろうことを憂い、神仏に祈請する時に津浪が襲来し、家人は皆逃れ助かったけれども、その身はついに災いにあったという。
以上の事実によれば当日の黄昏は満潮の時期であることにかかわらず、海水の干退するのは疑いないこととする。だが、その干退し始める時期は不明であり、当時の里人でこれを知っている人は少ないところからも推しはかれば、日が全く暮れて(七時二十分頃)から起き始めたもののようである。そして津浪の大襲来は八時〇七分前後なので、その干退の時間は三十分を過ぎることはないであろう。干退の距離は大きく海底の浅深に関係して遠浅の地ではその距離大きく、海底が急斜面で深いところは小さいものとする。


(二)井水の異常、地殻に一大変動あればその際、湧水、井水などに変化を及ぼすことがある。これは地下水脈の断絶もしくは圧迫されることに
因るもので今回もまた多少、その形跡があるようである。
 陸前牡鹿郡大原浜では津浪前(時日不明)井水の水量一尺ないし二尺減涸したものがあるという。
 陸中大槌町砂州(俗に「スカ」と称す)における湧水は津浪襲来前二三日前より急に湧水が止まりその後、元に戻ったという。
 陸前気仙郡越喜来村の龍昌寺(太古層の板岩、砂岩の累積によりなる海面上およそ二百尺の山地にある)の井水は二日前より減涸したという。
この他、諸所において井水の減涸、もしくは変色したことを聞いたけれども深く信じることが難しく、ここでは略した。


(三)地震 地震は津浪の前三陸沿岸いたるところ感じないところはない。しかし何れも微震に過ぎず、地震と津浪と同一に起こったものとすれば地震の速度は津浪の速度より遥かに大きいものなので早く感じるべき理由である。一般に津浪はよく地震に伴うものなので沿海附近に住むものは地震を感じた際には必ず海水に注意を要するが、必ずしも徒労のことには属さないだろう。


(四)地球磁力の変動 震災予防調査会委員中村精男氏より同会へ報告した要旨は左のとおり。
明治二十七年一月十日愛知県下に烈震があった際、および、その後十月二十二日山形県下酒田附近大震の際に何れも磁力計は地球磁力の変動を示したが、今また、去る六月十五日三陸地方大津浪の際における地球磁力の模様を調査すると、仙台においては同十一日頃より水平分力ならびに偏角に多少の変動を起こし、大津浪の前日、すなわち十四日には特に著しい変動を示した。東京においてもまた、やや微弱ながらほとんどこれと同様の変動を示した。しかし名古屋における磁力計は少しも異常を示さないことから見れば、今回の磁力変動もまた地震を起こすべき地下の変動に起因していることをほとんど疑いない。果たして、そうならば六月十一日頃よりすでに三陸地方の沖合いにおいて地下に変動を起こしつつあって、十五日に至って海中に地震を起こし、ついに大津浪を来させたのであろうか。そして、もし根室地方において、すでに磁力計を設置完備しているなら、同地において偏角変動が来たか、来ていないかによって、ほぼ震源の遠近を略判定することができただろうか(七月九日官報抜粋)。


(五)その他 東閉伊郡磯鶏村高浜においては当春より海草および貝類(主として帆立貝鳥貝)が大いに繁殖し、また二十日ばかり以前には、鰻が海岸に群集して、あたかも安政年間の津浪の時の現象によく類似していると、ある老人は語った。
陸前本吉郡伊里前にて聞くところによれば、津浪の当夜、三四十里海洋沖合いに漁をしていた者が東北の方位に当たって火の燃えるようなものを目撃し、しばらくして陸地の方に連砲のような音響を聞いたという。
陸前気仙郡広田村小松駒次郎氏の談話によれば、氏の得た経験に照らすと三陸沿岸においては寒暖の両潮流(寒流は俗に親潮を称し、暖流はすなわち黒潮である)があり、毎年春秋の二回、変更期がある。春から秋までは暖流の期間として南方より北方に向かい、秋より春までは寒流の期間として北方より南方に流れる。それなのに今年五月の頃には暖流はしばらく陸地に押し寄せてきていたが、なお六月初旬においても十哩以内は華氏三十五度ないし四十度(平常は平均三十四度)の寒流で、陸前歌津村附近に達し、暖流は華氏五十七度ないし六十度(平常は平均五十四度であるという)の温度で、それ以外の海域を流れていた。そのために鮪漁をするものは例年よりはるかに沖合いに出て、またオットセイのようなものは普通は近海において捕獲するのだが、今年は皆三百哩以外において漁をした。これによって見れば、今年は潮流に変化があるのは疑いなく、そして氏はこの事実から、これらの津浪は寒暖の両潮流の衝突の結果であろうと云う。しかし、単に潮流の異変の兆候のみで直ちに今回の津浪の起因を判断するのは、思うに慌しい断定であることを免れない。
これを要すると、今回の大津浪のいわゆる前兆として最も注意すべきは、(一)、(三)、(四)で、殊に(四)のようなものは重要な事項で、その研究が深く進めば天災地異の一大妖怪である地震もまた未発に察知するに至るであろう。(五)はしばらくは疑問に属することである。

第二節 音響

被害地の多くは津浪の前にあたって、二、三回の速砲もしくは雷鳴の如き音響を聞いた。しかし、その方位及び津浪に先立つ時間は随所で差異がある。すなわち宮城県下本吉郡以南の地方においては東北の方位に鳴饗を聞き、その時間は津浪襲来に先立つこと大概数分内外で、岩手県陸前国気仙郡沿岸では、鳴饗あると同時に津浪が押し寄せてきたので、里人は皆津浪の岩にぶつかる音だと言っていた。なお北位の陸中三閉伊郡、南北九戸郡地方においては津浪に先立つ少しの間、東南の方位に鳴饗を聞いた。そしてこの音は遠く北上川沿道の地、山形、秋田にいたるまで聞こえたという。
今、この音響というものを察すると、今回の津浪は気仙郡にあて正東から襲来し、それ以南は東北方より、以北は東南より来たことは後の章に説くが、このことを地形に照らせば三陸沿岸中、気仙郡白浜附近より南閉伊郡宮古附近に至る地は最も東方に突出し、陸前本吉以南および陸中北閉伊郡九戸郡地方は少し西方に偏る(第十四図参考)ために波浪は前述の方向に襲来するときは白浜、宮古一帯の地にまず激しく衝突し、南北には少し遅延するのは明らかなることである。そして気仙、南三閉伊地方においては、鳴饗は津浪の襲来と同時でそれより南北の両方の人はそれぞれ東北、南東の方位に聞いているのを見れば、音の空中を伝播する速度、波浪の進行の速度よりはるかに大きいことから、全く洪浪が気仙南閉伊地方の沿岸に激する音がしたのであろう。かつ、各地において聞いた音響の回数と洪浪襲来の回数とおおよそ一致すること、および海洋はるか沖合いに漁をしていた者の多くはその音響を陸地の方に聞いたと言っていることからも、これを証明するに足りるであろう。
この地、陸前国石巻、萩の浜、大原、雄勝、細浦などにおいて当日午後三時ごろ二回遠雷のような鳴響を聞いたというが、その区域も三陸中南方に限り、浪勢もまた弱い地方だけがこれを聞いた理由であろう。当日は朝来より曇雨朧欝の日であったので、あるいは真の雷鳴だったのであろうか。

第三節 津浪襲来の時刻および状況

三陸沿海岸地方は交通不便のところなので時刻を知ることは極めて困難である。その最も正確であると信じるべきなのはただ宮古測候所の調査に係わるものである。同所にて洪浪の始めて押し寄せてきたのは、すなわち、
 六月十五日午後八時〇七分である。そのほか諸所において時刻を聞くと随所で差異があるのは一つには津浪襲来の方向に関係するもので、今やや信じるべきものを取ると、これは要するに最東に突出する南閉伊より気仙地方は最も早く、漸次南もしくは北に遠ざかるに従い遅延する。
今津浪の襲来一般の模様を記そうとするが、宮古測候所の観測に依れば、今般の大津浪の起こり始めは(海水の退がり始めの時刻)夜間のことゆえ、観測することが出来なかったが、およそ午後六時五十分ごろで最初の地震後約十八分を経たころであろう。その後、十分時間を過ぎて午後八時頃増水し零時になって、やや退減し同八時〇七分にいたって最大激烈なものが轟雷のような響きをして襲来し、その後八時十五分、八時三十二分、八時四十八分、八時五十九分、九時十六分および九時五十分の六回に著しい増水があったが勢いは漸次減殺された。そして一大惨状を示したのは第二回目の激浪で、たちまちの間に幾多の生命、財産を一掃し去った。その後翌十六日正午頃まではたしかに海水の増減あったが頗る軽少で精密の観測をしなければ知ることが出来ない。そのうち著名な増減は往復八回、その往復振動期は約十分内外で最大津浪は湾内において約一丈五六尺であった。
また一般に里人の語るところを要約すると、当日は朝来より何となく暗淡陰鬱の日であったが暮夜に至り二、三回の微震(普通の地震に比べやや長時間の振動を感じたという)に次いで海上万雷の墜落したかような凄まじい音があったので、或いは海上を怪しみ、或いは恐れて戸外に出ようとする瞬時怒涛天を捲いて襲来し家屋を破壊し人畜を奪い去り、このような大波浪は一般に三回、第二回目が最大で漸次減殺される。そして起こり始めから終わるまで僅かに二十分内外、実に短時間のうちに稀有の大惨状を示すという。
浪の模様は種々の観察の結果から考えると、沖合いにおいては波長が頗る大で割合に波の山は高くないもののようで(沖合いに漁をしているもののさらに同様を感じなかったということをしてもこれが分かる)そして、海岸に接近すると下部摩擦のために洪大の水量一時に押し寄せ、よって生ずる波山の状態はあたかも大山の屏立するかのようで、その倒覆するにあたっては波頭白泡を飛ばし轟雷のような音を発する。里人が、白光が四方を照らすと思ったのは、この際に起こる燐光にほかならないだろう。波浪は倒覆しても水量洪大なるためにその余勢は甚だ迅速に遠く陸上に浸入し、悉く村里を破滅させてしまう。世人は試みに砂浜において波打ち際に立って一波浪の倒覆するのを待って、その余勢を避けようとしても多くはその意思を達することが出来ず、今回のような猛烈なる洪浪においてはなおさら無理なことである。

第四節 津浪の波及

六月十五日三陸地方を襲蕩した大津浪は、北は北海道南海岸より本当沿岸をかすめ、南は小笠原島に達し、東はハワイ群島を経て遠く北米合衆国の請願に波及した。そしてその著しく激烈なる襲来を受けたのは我本島三陸地方沿海岸で、南は金華山より北は陸奥の尻屋崎にいたるまでの大凡百里一帯の地であるという。
北海道の津浪 日高国幌泉地方における六月十五日の津浪の襲来退却は各所一定ではないが、おおむね同日午後八時三十分ないし九時三十分に始まり同十一時三十分ないし翌日午前一時前後に終わった。また天候は終日別に異常を示さず。そして襲来の方向は南方より襟裳崎を衝き、それより左右に分かれ一つは幌泉村にいたる沿岸をかすめ一つは猿留村にいたる沿岸を襲った。その初めにあたり海水は潺々(サンサン=さらさらと流れるさま)としているうちに凄然一種の音響を発して退去すること十数分間で数十間の海底を現し、俄然一転して一大激浪海岸を襲い、数十間もしくは数百間陸地を浸透し、その余勢の尽きるや更に激甚なる猛力をもって遠く海中に退却し大浪の進退することおよそ三回、そのうち被害の最も多かったのは第二回目とする。湖水の深さは、幌泉村は一丈内外、歌別村、小越村間は八尺ないし一丈五尺、庶野村、猿留村間は一丈二尺ないし三尺に及んだ(道庁報告)六月十五日午後八時、十勝国茂寄村海面沖合いにおいて遠雷が轟くような音響とともに微震あり。その振動に比して地響き長くかつ大にしてほとんど五分間にわたり、同十一時頃俄然退潮数十尺におよび、たちまちにして潮勢激烈に浸入し六十尺ない百尺になりその勢い漸次衰弱し、去り来ることはおよそ数回にして東南に面する部分は殊に強猛になった(道庁報告)。
去る十五日、函館の海浜にて、午後十時頃より海水次第に増加し、十二時より翌午前一時頃に至っては平常の波打ち際より四十間も陸上に溢れ来たので、前々夜よりの地震は正しくこの前兆であるとして一時は騒動になったが、四時頃より水は漸次減じ去り、ついに正常に復した。古老の言うことによれば四十一年前(安政三年)にも今回のような風波がない時に海水溢れ出たことがあり、その後二十年前にも一度あった。その節は旭橋近傍は陸上の水深一尺五寸ないし二尺にも及んだという(時事新報)。
室蘭では十六日午前四時頃、天気晴朗なのに係わらず突然と高浪押し寄せ桟橋及び突堤とを洗い去った、という(時事新報)。


小笠原島の小津浪
父島二見港では六月十六日午前四時より潮水異常を示し、同五時にいたり非常の水量となり、平時に比して三四尺の増加を来たしただけでなく、進退共に激しく全く常潮とは趣を異にした。釣浜、堺浦も同時同様の増潮をみた。
扇村、洲崎、東海岸初寝浦、北袋沢小港、南袋沢海岸、西海岸などでも同時に著しく増水を認めた。
弟島でも同時に三四尺の潮水が増加し、南北に向かう方強く、東西に向かう方弱く数回激浪の奔蕩を見た。
母島沖村及び北村港においても同時激潮襲来して沖村港では桟橋を破壊し北村港は地盤が低いので人家近傍まで浸入した(以上官報抜粋)
ハワイ群島の津浪 「ホノルル」府発行の新聞紙上に記載されたものを見ると(第二版参考)
「ホノルル」近海に起こった津浪は六月十五日(我十六日)午前七時三十分に当時は退潮し始めたときで俄然波が高まって、七時四十五分には波の高さは一呎の十分の一におよんだが、八時には最も低く八時五分に至ってまたまた十分の二の高さとなって、八時三十三分に至るまで多少の高低はあったがそのままで持続し、八時四十八分低下して九時になって十分の三の高さになり、ついに午後三時全く正常に復した。この日海岸の高まったのは都合十四時間内に十四回になったという。
「カワイヘー(Kawaihae)」では十五日午前八時十五分に津浪襲来して「カイルア(Kailua)」では同八時三十分に海水の干退するや否や洪浪押し寄せ増水すること約八呎、波止場は湾曲して弓形に変形した。この地および「コーナ(Kona)」地方沿岸は大惨状を示しているようだという。
また種々の報を要約すればハワイ島の西岸は北から南に進むに従い波浪の高さは減少し、かつ時刻も漸次遅延して、そして東岸に回ればますますこのような傾向があり、浪の高さは八呎ないし三十呎に達したという。


米国に及ぼした余波 北米合衆国桑港(=サンフランシスコ)の南方にあたる「サンタ、クルズ」では六月十五日朝大津浪の余波を受けた。同所は「サン、ローレンズ」川の海に注ぐところで河口に一島があり、造船所を設けて前には堤防を築いて海波の襲来に備えている。同日朝、俄然沖合いより大浪押し寄せて堤防に打ち付けた。その時、浪の高さは五呎半ばかりで幸いに堤防が強かったので、浪はたちまち砕けて白沫となりそのまま去った。余波は遠く河上を遡り、繋泊した船舶は大動揺を受けたという(時事新報)。
以上の記事によってみれば、北海道は論を待たず、小笠原島、ハワイ群島、米国「サンタ、クルズ」などにおける津浪は、その時刻および方向より察しても、その状況よりしても正しく我三陸沿岸を蕩尽した大津浪の余波であったことは明らかである。そうなれば今回の津浪の波及び区域は実に広大なものでその面積はほとんど北部太平洋全部を占めるといっても過言ではない。そして、余波はハワイにおいては殊に激烈で、その高さ三十呎に達したといえば、三陸地方の中位に比すべきほどの洪浪である。しかし当該島、小笠原島、「サンタ、クルズ」の報は地震に関して何らの伝えるところがない点を見れば、微震ですら感じないもののようで、これは振因を計ると遠いためであろうと信じる。
今回の津浪の起点は後に詳説するように北部太平洋中、日本三陸地方に接近して存在しその余波は遠く米国もしくはハワイ群島に達しながら、なぜ、本邦において相州三浦半島以西には著しくその余波を及ぼさなかったのか、これは日本地形がそうさせるところで、富士火山脈以西の地、すなわち「ナウマン」氏のいわゆる日本南湾の表面は一般正南に面するので波浪が圏円状になり、三陸の沿海より伝播して来たならばその陰に当たり、正しく影響の薄弱になる理由になるだろう。あるいは、日本本島を横断する富士火山脈は伊豆半島より海中に没し、諸所に島嶼を噴起し連なり続いて起伏して海底を自ら南北の山脈を成して、東北方向から来る波浪は、そのためにさえぎられたものであろうという。しかし、相州三崎験潮器の記すところを見ると、津波の高さは僅かに三寸内外で「ウェベル」氏の説によると、海波の直下に影響するのは波の高さのおよそ三百五十倍の深さに止まる、というところから伊豆諸島沿海の深さ(六百尺ないし六千尺)(第一版参照)に照らすと津浪はこの海中山脈に些少の関係もなく進行しえたようである。

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地図 第二版(伊水)布哇群島図

第五節 津浪の高さ及び海底深浅との関係

津浪の高さは平常水準より計ったものでその標目とするのは第一、海岸に生じた草木はその潮水が被覆した害を蒙った部分は悉く枯死して赤色に変色したこと、第二、被水の難を蒙ったが幸いに存立する家屋の土壁を見ると明らかに海水上昇の痕跡を認めること、第三、樹木もしくは岩壁などに懸垂した海草および木材の類、第四、樹木の折裂および樹皮の剥脱などで、なかでも最も確実なのは第一、第二の場合で他はこれらの事情に乏しい時に応用するものである。殊に第一の場合のようなものは無難の緑樹の青々とした部分と相反映してその境界は判然として、かつ、整然として凸凹なくあたかも土地隆起のところにおける汀線を観るのを彷彿とさせる。
以上の事実に基づき、私が巻尺でもって計った結果は左のとおりである(第十四版対照)。
但し、波浪は土地広濶で平坦な所には波山倒覆の後にその余勢が襲来した所が多く、よってその高さは正確なものではないために、これを計るにはすべての海岸の絶壁の所において計測することを必要とする。


 △印は目測 ×印は聞取りしたもの
遠島半島   陸前牡鹿郡
  四岸   石巻(河口)二呎   渡波    五呎
       蛤浜    六呎   桃浦    四呎
       狐崎× 二−三呎   萩浜    七呎
       小網倉   七呎   大原浜   六呎
       小渕    八呎   鮎川    七呎
外洋     山雉   十四呎   新山    十呎
       泊浜×  二十呎
鮫浦湾    谷川   十一呎   鮫カ浦   十呎
       前網    八呎   寄磯    九呎
女川湾    前網浦浜  十呎   ナラ浜  十一呎
       飯子浜   九呎   野々浜   十呎
       横浦    九呎   高白    八呎
       小乗浜   六呎   女川    九呎
       石浜    八呎   竹ノ浦   七呎
雄勝湾    尾浦    八呎   御前浜   十呎
       指浜    九呎   
       陸前国桃生郡
       波板    八呎   分浜    七呎
       唐桑    六呎   舟戸    九呎
       雄勝    十呎   明神浜   八呎
追波湾    名振浜   十一呎
       陸前国本吉郡
       白浜    九呎   大室   十三呎
       相川   十五呎   小指   十五呎
       大指   十七呎
外洋     小瀧   二十呎
志津川湾   長清水  十六呎   藤ノ浜△ 十七呎
       瀧浜   十三呎   津ノ宮  十三呎
       水戸辺△  八呎   折立    九呎
       林浜    六呎   志津川   七呎
       平磯   十三呎   清水浜  十一呎
       細浦   十二呎   伊里前  十一呎
小泉湾    田ノ浦  十六呎   湊浜  二十二呎
       鞍打浜  二十呎   二十一浜 二十呎
       大沢  二十七呎   日門浜  十七呎
       大谷   十七呎
気仙沼湾   最知    八呎   片浜    七呎
       カジカ崎△ 五呎   浦浜(大島)七呎
       長崎(同)二十二呎  駒形(同)十四呎
       鶴カ浦  十四呎   宿浜   十四呎
外洋     馬場浜 三十二呎   石浜  二十八呎
       只越  二十八呎   皆浜   二十呎
高田湾    陸前国気仙郡
       長部   十一呎   勝木田   九呎
       三日市   八呎   泊浜  二十五呎
広田湾    大野浜 二十六呎   只山  三十五呎
盛リ湾    末崎細浦二十二呎   下大船渡(南端)十八呎
       大船渡  十一呎   赤崎△  十二呎
       長浜、蛸ノ浦は西側に比すれば海水深く土地は高位にあるが、家屋悉く破壊しその惨害は大船渡より大きい
外洋     綾里  三十五呎   白浜  七十二呎
越喜来湾   小石浜 三十四呎   越喜来 三十四呎
       同浦浜 三十四呎
外洋     吉浜   八十呎   荒川△ 三十五呎
       小白浜 五十四呎   本郷  四十六呎
釜石湾    陸中国南閉伊郡
       平田   十七呎   嬉石   十四呎
       釜石   十五−二十七呎
両石湾    両石  三十七呎   假宿  五十八呎
大槌湾    寝浜△  十八呎   箱崎   十九呎
       白浜  二十八呎   大槌    九呎
       安渡   十四呎
船越湾    波板  三十五呎   吉里々々△ 三十五呎
       陸中東閉伊郡
       船越   五十呎   田ノ浜  三十呎
       小谷鳥  五十呎
山田湾    大浦   十六呎   織笠   十一呎
       山田   十八呎   大沢   十三呎
宮古湾    金浜   十三呎   高浜    十呎
       磯鳥   二十呎   宮古   十五呎
       鍬ケ崎△ 三十呎   白浜  二十八呎
外洋     荒巻△  四十呎   音部   三十呎
       重茂  三十六呎   姉吉  六十二呎
       千鶏  五十六呎   大沢  三十三呎
       田老  四十八呎   小本   四十呎
       羅賀  七十五呎   明戸△  四十呎
       太田名部 五十呎   堀内△  四十呎
       陸中国南九戸郡
       玉川   六十呎   久喜   四十呎
       小袖  四十五呎   大崎  二十五呎
       陸中北九戸郡
       下麦生 二十八呎   白前  六十二呎
       小子内△ 四十呎   八木△ 三十五呎
       宿ノ内 三十五呎   種市   三十呎
       陸奥国三戸郡
       小舟渡  二十呎   鮫港    十呎
       白銀    十呎


この表を通観すると波の高さは、沿海岸の地勢、殊に港湾の形状、湾口の方向および海底の深浅により大いに異なるもののようである。例えば、湾形が狭小袋のようで遠く陸地に浸入している荻ノ浜、雄勝、女川、姉石などのようなところ、および湾口が直ちに波浪伝播の方向に正面に開いている唐丹湾(小白浜)、吉浜湾、小渕のようなものは皆その附近に比べれば浪跡が高位にある。また海底の浅いところは一般に高く、南北九戸沿岸はその適例である。そして同湾内において浪の高位に差異があるのは主としてその襲来の方向に関するもので、これは要するに遠島半島西岸では南行するに従って漸次に高さを増して、東岸に出れば一層高位に昇り、北行するに従いますます高く、ついに陸中吉浜唐丹(小石浜)附近において最高に達した。それより以北は漸次やや減少するが再び北閉伊より南北九戸沿岸は高位にあり、三戸郡に入れば大いに減少し八戸附近においてはついに牡鹿沿岸とほとんど同高位となるに至る。
海水の最も陸上遠距離に浸入したのは小本村で約三十町に達した。一般に河流のあるところはこれに沿って遠く浸入した。これは主として潮水が激甚に襲来したために河の流れを堰き止めて氾濫をきたしたものであろう。
浪の高さは海底の深浅の如何に大いに関係があることはつとに我々の信じていることで、さきに「ライヤー」氏は、もし海岸が遠浅である場合には洪浪は途中にてその勢力を減削されて、そのために甚だしい氾濫を起こすことはないと言い、「ダーウィン」氏は南アメリカにおいて観察した事実から津浪は海岸において、遠浅の面積が非常に広いときは陸地に浸入することないはずだが、その甚だ広くない場合には反って高位に昇るだろうと説いた。今回の津浪は気仙郡の正東を中心として圏円状に伝播したものなので地形上三陸沿岸中、陸前本吉以南と陸中南北九戸の沿岸とはほぼ同高位にあるはずの理由であるが、後者は前者に比すれば一般に頗る高く(高位表参照)、これは海岸に近い海底の差異によるもので、今海図(第十二版参考)を開いて、その深浅を比較すると北閉伊郡黒崎以北は十尋二十尋線は約三哩ないし五哩のところにあり、本吉以南の沿海の該線より二三倍(第十四版参考)の遠さにあることを見なくてはならない。また本吉地方でも小泉湾は殊に海底の傾斜が緩やかでその浪跡附近に比べれば高位にある(高位表および第十四図参照)。以上の事実は「ダーウィン」氏の観察とよく符合するもので、すなわち波浪は外洋からの水平圧力のために来て、浅海に達すると海底摩擦の抵抗を受け、上層の水は先方に向いて動き、従って浪はその高さを増大する。但し、浪の高さは外洋より押す圧力の強さと遠浅の大小に関するものであるが、ここに遠浅は波浪の勢力を減殺するだけの大面積にまで広がっていなかった。

第六節 津浪襲来の方向、起点、速度及び波長

精密なる津浪伝播の方向についてはこれを実際に目撃観測したのではなければもちろん知ることは出来にくく、津浪の際は恰も夜色暗澹墨を流したようであったといえば、満足すべき材料を得られないことは疑うところはない。しかし、幸いにして三陸の沿海岸種々の港湾に富んでいるので、その湾形と浪の高さの関係及び草木の倒壊の状態、岩石の転位、里人の談話などによりおおよそこれを考え定めることができた。今、左にその考え調べた事実を述べる。
陸前遠島半島西岸においては(以下第三版参考)漸次南下するに従って浪の高さを増すといえども、その高位を地形について考えると蛤浜(折ノ浜の内)はその東南にある桃ノ浦より小網倉、富貴(土地は大原に比べ高いといえるが海水は庭面に溢れたと聞く)は大原よりその他の小淵、鮎川すべて湾向きが南面するのは浪跡が高位にある。また狐崎のようなところは岬角が突出し、南方を背にしている箇所は平常水準より増加することは僅かに二三呎に過ぎず、その影響は甚だ薄かったという。これから考えると、この沿海においては、浪はおおよそ南方より襲来したものになるだろう。荻ノ浜の折ノ浜と同高位にあるのは港湾の形が狭長なることによるもので、小渕が沿岸中で第一の高位にあるのも一つはこの理由による。有名な金華山間の山雉渡においては浪が北方より来襲し、金華山は東側一般に激甚であったことをいえば、津浪の方向は東北—西南であったようである。
遠島半島東岸において、新山浜は、その地形やや西北に湾入し泊浜は直に外洋に面し、むしろ南西に浅く曲入している。そして、この二者を比べると浪高に著しく差異があることを見なくてはならない。また鮫浦湾内は、南岸は一般にやや高位にあることより察すると津浪は東北より来襲したもののようである。
女川湾は湾口が東方に向かい湾内分かれて二股となっている。一つは西北に浸入し、女川村の最端に位置している。一つは西南に浸入し野口浜、大石原などがこれに近い。今該湾における方向を察すると湾口の南岸早崎より大貝崎に至る間は浪の高さ十呎ないし十一呎になって湾内に入れば、女川附近は平均八呎になって野々浜附近は平均九呎以上、すなわち一呎の高位になる。これは要するに湾内の浪の高さは、南岸は北岸より高く、また横浦、高白沿岸は北方に漸次減少するのは、正しく津浪は東北より来襲した形跡を示しているもので、今また鮫浦湾の前網とその裏浜(北)とを比べると後者は前者より高いこと二呎、かつ浪勢は頗る激甚であることからもこれを証明しているだろう。女川鷲神の被害大であったのは土地極めて低く、僅かに海面上三四呎の山麓が波打ち際に接して人家稠密しているためである。
雄勝湾は女川湾とほぼ同形で湾口の南方に偏って出島があり、尾浦の正面を押さえている。該湾のおける浪の高さを見ると南部尾浦、御前浜などは八呎ないし十呎に達し、北方に漸次減少し雄勝附近では再び約十呎になる。これらの事実は浪が東北より襲来したためで、もし、その津浪が正東から来たとしたら尾浦のようなところは出島のためにさえぎられ、その影響は少ないであろうが、浪の高さは波板などと均一していて、態勢は敢えてこれらに劣らないことを見れば、浪は正東よりむしろやや北に偏っているものに近い。雄勝において浪跡は高位にあるのは、おそらくその港湾の狭長曲折しているので、水量が堆留したことによるものであろう。
追波湾においては、十三浜沿岸は東方より東南方に漸次浪の高さは減少し、その両端の差は約十一呎、同湾にある名振浜では軍人の語るところによると、浪は東北よりごうごうと騒がしい音響をして襲来し。八系島のために大いに勢力を減殺させられ、幸いにして被害は少なかったという。
志津川湾(第四版参考)においては、波浪は明らかに東北より襲来した形跡がある。すなわち南側は北側より高くその平均の高位の差は四呎内外である。林浜にあっては、その正東よりやや北に偏って荒島があるために波浪はこれにさえぎられ、その高さは僅かに六呎に満たず、里人の言うことによれば、平常暴風の際に起きる浪の高さにも及ばなかったという。今、林浜より荒島の方位を計るとおおよそ北八十度、東に当たるので、ここではやや正確に浪の方向を推考することが出来る。
小泉湾(第五版参考)においても南方の浪跡高く、田ノ浦より御岳村大沢附近に至る間は平均二十一呎内外で、北方の日門、大谷、階上などは十七呎内外にすぎない。このように著しい差異を生じたのは、思うに南方はむしろ津浪襲来の正面に当たったものと認めざるを得ない。
気仙沼の湾(第五版参考)は唐桑の岬角が突出してその東面を押さえ、中央に南北に長い大島が横たわっていて、湾内を二画している。その西になるところを気仙沼湾といい、東になるところを唐桑湾(仮名)と名付ける。気仙沼湾ではその東西沿岸ともに南部にあって、浪跡は十三四呎に達するが北上するに従い、漸次減少し気仙沼町のようにほとんど潮水の増減がなかったという。これに反して唐桑湾は頗る高位にあり、大島の長崎と浦浜とを比べると、その差は実に二十四呎余り、この湾はまた北上するにしたがって浪高漸次減少するが宿浦附近はなお十五呎に達する。これによって考査すると浪は正東、もしくは東からやや北に偏った方向から来襲したもののようである。
広田村(気仙郡)村長の談話によれば、同沿岸から一里内外の沖合いに漁をしていた者は北方より一條の海波海岸に際立って奔騰して来るのを見ると、まもなく自分の船ははるかに南方に押し流されたという。
気仙沿岸は一般に正東に面する港湾において、浪は最も高位に達し、両側の沿岸はあえて高低なく、かつ浪勢強弱の形跡が見られない。そして盛リ湾、綾里湾、越喜来湾など(以下第六版参考)のように東南もしくは正南に向く港湾では浪の高さは正東面港湾のほとんど半分になっているのを見れば、この沿岸にあって浪は正しく東方より襲来したものと考えられる。なかでも白浜、吉浜などは、三陸沿岸中浪跡は最高位にあって、したがって最大の惨害を示した。
釜石、両石の両湾(第八版参考)について、浪の方向を考えると釜石湾は浪の高さは一般に十五ないし二十五六呎で、両石湾では両石で三十七呎、假宿にて五十呎以上に達し、この北岸は平均四十五呎内外、すなわち釜石湾よりはるかに高位にある。また釜石町は半田より浪跡高く、釜石町内で潮勢が衝き当たったのは町の西南端で、湾口よりほぼ西北西の方向になる。もし、その激浪が正東より襲来したのならば、釜石の港においてこの激浪の衝き当たるのは嬉石の一部および田中製鉄所の近傍になるはずだが、事実はそうではなく、やや北になる。特にまた、尾崎神社境内にある花崗岩鳥居、破壊家屋のようにことごとく西北の方向に打ち上げられているのを認める。これらの事実から推考すると、両湾における浪の方向は東よりやや南に偏った来たものの様である。
大槌、山田、宮古湾(第八版参考)は湾口が東北に向いて開けているので、浪跡やや低く、したがって惨況も他に比べれば互いに軽い。だがひとり船越湾は正東に面し湾口はまた大きいので津浪は激甚に襲来し、全村挙げて流失し、浪跡は高く三十五呎ないし五十呎に達した。そして田ノ浜より波板、船越間の断崖を望見すると、浪の最高位は船越で漸次南方に低減している。また、小谷島附近の沿岸は五十呎に達し南方の波板、吉里口などよりも高い。船越、織笠などの役場について聞くと山田湾に来襲する第一の波浪は船越湾より同地峡を越えて浸入したもので、先ず大沢を衝き、第二回の波浪は数分の後、外洋より来たという。これらの事実より考えると浪の方向は東南—西北のようである。
重茂村沿岸を巡検すると音部、重茂附近(第八版参考)は浪の高さ平均三十二三呎に過ぎないが、?(とど)山の南麓にまわり東南に面する千鶏、姉石などの諸浜を見ると平均約六十呎の高位に達している。これは、波浪は東南の方向から来て、重茂、音部などは?山の陰にあたって、これを避ける襲勢のために弱かったものと断定するほかない。かつ、千鶏、重茂の里人に聞くと皆、波浪は東南よりごうごうと激襲してきたということからもこれを知ることが出来る。
田老村の惨状は釜石以北に比肩の地がないほどで、当時その道の絶筆に上り、すでに世人の記憶するところで、その襲潮のいかに猛甚であるのか察するに余りある。そうなればある人は被害の惨劇を見て、うかつにも津浪の起点は田老沖にちがいないと言ったことがある。今該地の形勢を見ると(第九版参考)三面に山を負い、東南の一方が外洋に面し土地は平坦でやや広濶で海岸一帯の小砂丘(高さ十呎内外もあるという)があり、僅かに海波の浸入を防いだ。そのために今回のような洪浪(田老では約四十八呎)が東南より激襲したので惨憺を極めたのもあえて怪しむこともない。その方向を里人に問えば津浪の少し前に北方にごうごうとした音響を聞いたので北方より来るのだろうと言ったが、田老の東北に当たるのは真崎が遠く海中に突出しているので浪は他所においてと同じように、東南から進み来て、まずこの岬角に激突し、ごうごうという音響を起こしたものであろう。また草木ことごとく北方に倒れ、家屋の破壊した漂流物など一つに北隅に集まったのを見ると浪は東南から襲来したもののようである。
小本の地は(第十版参考)西北南の三面に山を負い、東面は外洋に迫り小本川が西より流れて海に注ぐ。今回津浪の形成を察すると砂州、小本の漂流物は一つに東北部である中野の山麓および小本川に沿って中島の東端に漂着し、小本宿などは潮勢が衝突せず、かえってその水が退くときに掠め取られたいうのを見れば、浪は東南から襲来したのであろう。また北岸の浪跡(四十呎)は南岸(十八呎)に比べれば頗る高位にあることからもこれを証明できる。
普代村長の談話によると、津浪は東南から襲来してまず北岸を衝いて西方に浸入し、退潮の時に南方を掠め去ったという。
久慈湾では(第十一版参考)門前、湊、大崎は最大の惨状を極め、南方の長内は同じく平地の内にあるが、その影響は甚だ少なく、浪の高さも門前などに比べればまた小さい。この津浪は小袖沿岸にほとんど平行に東南方から襲来したためである。
北九戸郡待浜村字白前の海岸に横沼というところがある。数十尺の断崖をもって外洋に面し、南方に高さ七八十呎ばかりの岩角が海中に突出している。今回津浪の際には波浪はこの岩角を越えて来て、その北陰に建っていた家屋を流失したという。同じくその海浜に約二間立法大の角閃花崗岩が打ち上げられるのが見える。その原位置を去り北六十度、東に百八十六呎(三十一間)のところにある。その他、附近の沿岸岬角は凸出して、その北陰に当たる地は南方からの浪跡は低く、かつ、被害の程度はきわめて小さい。これらの事実は正しく津浪は東南から襲来したことを証明するに十分である。
同八木では北岸は南岸より浪は約十呎の高位にあり、草木などはまた、北から六七十度西の方に倒されている。
種市村横手、平内の沿岸に幾多の巨岩、大石が陸上に打ち上げられたものがある。原位置から平均北から七十五度西の方向に転移して、その距離は岩石の大きさに応じて異なっているようである。
小舟渡、大久善附近の沿岸においては浪の高さはおおよそ十数呎ないし二十呎だが、鮫岬を回って鮫港、白銀などはわずかに十呎に過ぎず、この津浪は東南より襲来したのが鮫の岬角のためにさえぎられ、わずかにその余影を蒙ったのだろう(第十四版参考)。
北海道における浪の方向は道庁の報告(前掲)を見ると、幌泉近辺では南方から襟裳崎を衝いて左右に分かれ、一つは幌泉村に至る一帯を掠め、もう一つは猿留村に至る沿岸を襲ったとあり、また他の一報を見ると茂寄近辺では東南に面するところは殊に激烈であったとある。
小笠原島の報告の中、方向については南北に向かう方が強く東西に向かう方は弱いとあり、漠然として了解するに苦しむ。
ハワイにおける津浪の方向については「ホノルル」新聞紙上に詳説があり、これを見るとこれらの津浪は遠く北西から来たことは疑いないだろう。そしてこの方向に当たる日本帝国は常に地震の多い国土なので、その起点はおそらく日本にあるだろう。そうなれば浪は第一に「カウアイ(Kauai)」島、「ナパリ(Napali)」の地を衝いたのだろう。「オアフ(Oahu)」のほとんど平時と潮水が異ならなかったのは「カラアイ」島がその西北に位置して自然に潮勢を阻んだことによるだろう。これとおなじように「マウアイ(Maui)」島「モロカイ(Molokai)」および「ラナイ(Lanai)」島の陰に当たったので異常がなかった。ハワイ島はその西側は大洋に面し、波浪の影響が大きく、殊に激甚であったのは「カ、レー、オ、カ、マノー(Ka Lae O Ka Mano)」である。それより「カイルア」に至るまでの間は漸次浪の高さは減少し、「カイルア」では八呎(山陰に当たるためである)、なお南下すると十五呎、二十呎に達するところもあるが、「カウ」の沿岸を回って該島の西岸「ホヌアポー」に至ると十二呎、「ヒロー」では約八呎と漸次減少した(第二版ハワイ群島図参照)。
これを要約すると陸前気仙地方においては、津浪は正東より来襲し、それより南下した本吉郡、桃生郡、牡鹿郡に至るに従い港湾は南側で一般に浪跡が高位にある。東北向きの港湾は殊に著しく、換言すると津浪の方向は漸次、東北—西南に変わった。気仙郡地方から北になる三閉伊郡、南北九戸郡、三戸郡に至る間は東南向きの港湾及び東向きの港湾の北側は浪跡が高位にあり、すなわち津浪は漸次東南—西北の方向に変わった。そしてその変向の度合いは南方に比べてやや大きいようで、このような方向の変更は浪の高さ及び、その勢力の変更ともほぼ一致する。反対にいえば、浪の高さ及び、その勢力は気仙郡吉浜附近において最大に達し、北もしくは南になるに従い漸次減少した。この事実より津浪は太平洋中、吉浜附近の沖合いよりほぼ圏円状をなして伝播襲来したことを断定することができる(第十四版参照)。
以上に述べた波浪の襲来の方向を、種々の観察の結果によって判断すると、おおむね志津川湾では北から八十度東、吉浜附近では正東で、白前、種市あたりに至ると平均南から六十度東より来たもののようである。そして、いま、波浪の波及面を正円と仮定し、これらの来襲方向を延長すると東経百四十四度三十分、北緯三十九度の近辺にほぼ集合する。これは陸前気仙郡吉浜の正東約百五十哩内外(おおよそ六十里)のところにあたり、すなわちこれらの津浪の起点であるとする。
今、宮古測候所の報告を見ると、地震を初めて感じたのは午後七時三十二分〇七秒で、同八時〇七分に至って一大波浪が押し寄せたというが、これ以前に八時頃、すでに増水していたというので、その時差は約二十八分、この間に波浪は百五十哩内外の距離を伝播してきたことになる(但し、地震はこのような距離を進行するにはわずかに十秒に過ぎないので、ここには地震を感じた時を直ちに津浪発作の時刻と見なしても大差ない)。また、起点とハワイ「ホノルル」間の距離(おおよそ三千五百哩)および宮古「ホノルル」における津浪襲来時刻の差(十五時間二十分)より、海深を一様のものと仮定し計算をすると、平均一時間に約二百四十哩の伝播速度を見出せる。これを安政年度にほとんど日本全土を振動させた大地震の際に起きた津浪の速度(一時間三百五十八哩)に比べると比較的小さいようである。
宮古測候所員の観測によると沿岸での波浪の往復振動期は約十分内外であることをもって、これと波浪伝播の速度(二十八分間百五十哩内外なので一時間速度三百二十一哩の割合)からすると、近海の波長を差し出すとおよそ五十三哩内外であることを知ることができる。このように波長が極めて大きいために波山の傾斜は頗る緩やかで、沖合いで漁をしていた者が全く動揺を感じなかったのは、あえて怪しむことではない。
前述のような大速度で伝播するものなので、小笠原島と三陸との時差は七時間余りで、頗る長い時間になったようなのは、思うに他に理由がある。今日本沿海太平洋面の潮流を考えると、あの黒潮が八丈島附近から日本東海岸に沿って北方に流れているので浪のこの方面における波及は、あたかも川の流れに石を投げておこる波浪が、逆流の方向には大幅に遅れるという一般の理由であろうと信じる。

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地図 第三版(伊水)陸前南部略図
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地図 第四版(伊水)志津川湾略図
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地図 第五版(伊水)小泉湾略図
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地図 第六版(伊水)気仙沿岸略図
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地図 第七版(伊水)水路部海図による両石湾、釜石湾
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地図 第八版(伊水)
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地図 第九版(伊水) 田老村見取図
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地図 第十版(伊水)小本宿見取図
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地図 第十一版(伊水)
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第十二版(伊水)盛リ湾における津浪の転向

第七節 津波襲来の勢力及び転向

 地震の波動の伝達においてしばしば転向があるように津波も海岸の屈曲如何によって転向がある。その最も著しいのは盛湾で湾形が狭長で遠く北方に侵入し、南部はやや東南に折れて大洋に向かって開いている。里人の言うことによると、波浪は最初東方から激しく入ってきて細浦、石浜附近をはらいつくし去り、蛸ノ浦、米浦などには下大船渡に先立って来襲したという。今、その形跡に照らすと湾内の東側は西側より一般に土地がやや高いというが被害の惨状は甚だしく、また波の跡も三、四呎の高さにある。これらの事実から考えると波浪は東方から第一に細浦、石浜を衝いて、一転して東側の蛸ノ浦、長浜などを襲い、次いで西側に転じて、この際にはすでにその勢力はやや減殺され大惨状を起こすには至らなかったもののようである(第十二版参照)。宮古湾では東北方より侵入し、まず磯鶏を衝いて東側の白浜に転向し、再び転じて高浜、金浜を襲って津軽石、赤前などを掃蕩して退潮し、鍬ケ崎に当たってここに一大惨状を演じた(第八版参照)。
 その他、津波は港湾に侵入し円接線状に掃蕩したところが多い。例えば山田湾においては明神崎より大沢山田を襲い、大島、小島を廻って退潮し(第八版参照)、小本などは先に北側に衝突し、中野をはらいつくして小本宿は退潮の際に流失したという(第十版参照)。また遠島、半島の小渕(第十一版及び第三版参考)は鍵形の港であるが津波は南方から来て直ちに北側に衝突せず、南側に沿って常に来襲して北岸に回転して退潮したという。要するにこのように波浪の転向するのは、多くは狭溢な港湾において特に顕著である。
 狂涛が一度に激襲し、どんなに堅牢無比の大廈高楼(=大きな建物)も微塵にならないものはなく、大木を抜き、巨岩を砕き実にその潮勢の激甚の程度は我々の前々から知りたいと思うところだが、それは極めて好材料に乏しく、ここに僅かに二三の巨岩が漂流することからわずかに激甚の程度を察知するだけである。
 陸前本吉郡歌津村湊浜においては俗に壘(とりで)岩と称して湾の中央にある高さ三呎(=フィート)、長さ六呎、幅六呎五立方積大(約百七貫目)の粘板岩が旧位置から二百余間の陸上に打ち上げられた。
 釜石町においては尾崎神社の境内の花崗岩で作られた高さ一呎五、長さ七呎八、幅一呎三(目方約六十貫目)立方大の鳥居が四十七間の外に転置された。
 北九戸郡待浜村横沼では角閃花崗岩塊で高さ十呎七、長さ十呎二、幅十呎六(目方約百八十貫目)立方大のものが約三十一間、西北方に転置された。
 その他に直径が数尺にわたる巨岩の漂流は至るところで見られないところはなかった。
以上、第一、第二例は港湾内で潮勢が多少減削された場合で、第三例は外洋にあって正確な潮勢によって漂流したものだが、また気仙地方の被害状況と比較すればやや弱いものである。
 潮勢の激烈な地方においては、家屋材木はことごとく掃蕩し流失し去った。気仙地方のようなところは荒寥寂寞として、更に村落の形影を留めていないが、潮勢が緩やかだった地は壊屋が破村した旧地に残留し、もしくは上方に漂着し、かえって悲凄惨憺の状態を示している。
 被害地中、家屋はことごとく破壊流出し、高い樹木も砕け、洪浪がすこぶる激烈に襲来したところにおいては、往々にしてひとつだけ依然として存立しているのは土蔵である。それは、津波が来て家屋を破るのは四方の開口から侵入し内外から相応するからで、たちまちに粉砕してしまう。だが、土蔵は四方に潮水が侵入する口がなく、かつ土壁で重量がやや大きいので津波が非常に激烈に当たらないかぎりは流失、もしくは微細になる憂いは少ないであろう。これが土蔵の多く残っている理由であろうか。今後、海岸地方の建築上、必ず留意しなくてはならないものである。

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第十三版(伊木)小渕における波浪の転向

第八節 地震との関係

 各地至るところで津波の前後に微震を感じないことはなく、宮古測候所の観測に依れば発信時刻は午後七時三十二分三十秒で、ほとんど東西の方向に五分間水平振動する弱震で、性質は緩慢なものだったが、その後は絶震でこの日のうちに都合十三回の地震があったが何れも微弱震に過ぎなかったという。これを数種類の観察の結果より「ロッシー」及び「フオレル」氏の強差級(本会報告第八号)で示せば、第三級ないし第四級に相当するものである。震域は、北方は根室より函館、青森、西は山形、南は宇都宮を経て甲府に至る北日本で、やや広域であったとする。もし、今回の津波の原因がこの地震で、すなわち海中に大々的な地殻の断層が生じたためのものとすれば、その起点が陸地から隔てて六十里内外のところにありながら、振動はわずかに第三ないし第四級に過ぎないのはなぜか。そうならば、その原因は地すべり地震ではないのか。これは私が後章で論じようと思うもので、ここで私が言おうとする地震は津波の原因ではなく、海中に一つの活動力があり、海水を撹乱し津波を惹起し、同時に微弱な地震をも醸したものである、ということである。そして十五日午後七時三十二分三十秒、宮古で感じた地震は正しく今回の津波発作の際に起きたものであることを疑う余地はない。そして地震波動の伝播は海波の伝播よりはるかに大きいものなので、早く陸地に到着したのである。
 震域中、函館、青森および北上川附近は他に比べれば振動はやや大きいようで、これは地質構造上、当該地方が第三紀層もしくは第四期層などの軟弱な地盤からなるためである。ここに注意しておかなくてはならないのは、今回の津波は古来稀有の大津波で、微弱の地震に伴ったものであった、ということである。

第三章 三陸沿岸の地貌

 三陸沿岸は北端の尻屋崎より八戸に至る間は平坦な砂浜より成り、南に行けばすべて断崖障壁で、宮古以南は特に海岸線が犬牙錯雑して宮古、山田、釜石、雄勝、女川のように良好な港湾に富んでいる。このような屈曲凸入は沿岸の地質構造の状態に関わるもので北方花崗岩成の地方は一般に屈曲が少なく、これに反して南方の太古層もしくは中古層の水成岩より成る地方は、その湾曲が殊に甚だしい。これは主として両岩における水触作用の差異に基づくものとされる。また花崗岩地は一般に平らであるが、太古層岩地は山岳急峻で参差巍峨(=不揃いで険しく高いさま)は流水のために浸食され多くの深渓を生じた。中古層岩地は、多くは円頂状の丘陵が起伏してそれぞれの地勢の状態によって地質の構造を察することができる。
 人がもし北上山系を巡歴すれば、北閉伊郡小本、普代附近において海岸にそって海面上、約百呎内外の坦々とした(もちろんその間には数多の深く切り込んだ渓谷はあるが)隆起性の土地をみるだろう。また九戸郡白前以北は海面上四五十呎の原野で幅半哩乃至一哩、西は高森、高取、八神などの山麓に達し、海岸は断崖を階段状にして、そのほか本吉郡志津川、小泉間の原野のようにすべて古成の段丘で、すなわち北上山系が一つの隆起帯であることを示すものである。しかし、また翻って盛、雄勝、女川などの港湾を見れば、故原田博士が日本群島論において述べたように、かつて北上山地が陥没して海水深く渓谷に侵入し、それによりこれらの良港を生成したものであることを考えなくてはならない。そして、現在は気仙沼及び船越などの土地が上昇する変化があるのを見れば、またその沿岸一帯はやや隆起する状況があるはずである。要約すると北上山地は古来より再三土地の昇降があるもののようである。
 今、海図によりこの沿岸の深浅を考えると(第一版参考)、百尋線はやや遠く三十哩(=マイル)ないし四十哩内外のところにあり、宮古近海において最も沿岸に接近している。そして北部は南部よりやや遠距離にあり、千尋線は陸地を隔てること、割合に近く六十哩内外、約百八十哩内外を経ればついに四千尋内のいわゆる「タスカローラ」海床に達する。このように三陸沿岸の海底は傾斜が急なので今、この海床に立って仰ぐと仮想すると著しく急峻な険しい山々を展望するような感があるだろう。そして、当該海床は本邦の東海から千島火山列島にほぼ併行して東北に走り「アリユチャン」列島の南に達し、新月形をなして存在する。このような一大凹地が生じたのは、必ず地球冷却するに従って地殻が収縮する際に起きた一大変動によって生成されたもので要約すれば地皮の劈列線に外ないことである。

第四章 今回の津波の原因を論じる

 これら三陸地方の津波に関し、陸上に一つも原因と認めるべき形跡がないことから、これを海中の変動に帰するのは当然のことで、従って種々の考説が出たといえども不完の点があるのはやむをえないことである。私も今調査の結果と古来津波の実例とに照らし合わせ、ここに推論を述べ、なお後日の研究を待とうと思う。
 津波の原因に種々あるが、その主要なものには、地震に起因するものと、海中火山の作用に基づくものとがある。そのほか暴風によっても起こるだろう。また潮流が河水をせきとめ陸地に氾濫し、いわゆる海嘯を起こすこともあるだろう。
 そもそもいわゆる海嘯の起こるのは、必ず港湾の形勢、潮流の状況及びその他の特別の特相があることによるもので、かつその氾濫区域も必ず狭小になる。支那の銭塘江、インドの「ガンヂェス」河および南米「アマゾン」河などが有名である。しかし、三陸の大津波はこの類ではないことは論を待たずして明らかである。暴風によって起こるところの大波激浪(海膨Swell)もしばしば陸地に侵入し悲惨の状況を示すことがある。去る二十八年八月、房総東沿岸(安房長狭郡浜太はその一例)を襲った暴浪はその適例で、当時浪の高さ二丈余に昇ったという。もし暴風が遠い海洋上に起きた場合には、その余勢は多くの日時を経て突然陸地を襲うことがあるだろう。だが、これらの津波は当時の気象の調査によると少しも暴風の兆候がなく、かつ襲来の模様からみると暴風に起因したものではない。そうすると地震に源由するものであるのか、これが私の論じようとする主眼である。学者の考説によると、もし海中に地すべり、もしくは陥没のような地震発作の原動があれば激動を海水に伝え、洪波暴浪を起こして陸地を掃蕩して悲惨悲凄の状況を示すことになる。そしてその大々的波浪を醸すものの多くは海中地すべりによる地震によるものである。今、この地震津波なるものの状況を察すると二種あるようである。第一は震源が海岸近くの陸上、もしくは海中にある場合で殊に浅海であれば海水を撹乱することは激甚であるという。第二は震源が遠く海洋中深底にある場合である。古来から大津波と称するものの多くは第一類に属するようで、例えば彼の有名な一七七五年葡国(=ポルトガル)「リスボン」府の大地震に伴った大津波はどうであろう。その震源は海岸にあったのではないか。またわが国の下田の大津波はどうだろう。これを調べると当時地震の最も激烈だったのは箱根宿より浜松に至る一帯の海岸で、沼津附近の黄瀬川畔の小林においては一村あげて陥没し、今なお現にその跡がある。その他、駿州薩?峠山麓の海岸が隆起したものがある(古くは東海道を旅行の際は皆、峠を越えたのだが地震後、海岸隆起のため道路を通し今日はこの坂道は完全に廃棄の状態に属している)。そして津波の核心にあたる下田附近などは地震のたびにかえってこれら津波の被害に比べると、地震はより微弱であったというので、震源はむしろ陸上にあって、その振動を海水に伝え、そのために大氾濫を来たしたようである。また貞観十四年、慶長十六年の陸奥地方の大津波はどうだろう。何れも大地震に伴ったのを見るとその震源は海岸近くにあったもののようである。その他、内外の例を見ると陸地に掃蕩する大津波は大概大地震に伴うようで、換言すれば大津波を惹起する地震の震源は海岸線近くにあるようで、第二類の地震は数多の例に照らすと陸地に大地震を醸すことは稀で、洋中に漂泊する船舶はあたかも暗礁に乗り上げたような感じで地震であることを認めるだけで、たまたま波浪を起こして陸地を襲うのも第一類のように著しく強大なものではない。そうであれば去る二十七年十月の酒田地震のように震源が海岸近くにありながら、なおかつ津波を起こさず、振動の模様を深く考究するのでなければ知る由もないが、つまり断層面の方向がすべり運動の方向など海水を動揺させるのに適さなかったためだろう。ゆえに海岸近くに起こった大地震といえども、必ずしも常に大津波を伴うものではない。
 今般、三陸沿岸の津波の特相ともいうべきなのは(一)浪の波及圏が円状であること(二)地震が極めて微弱であること(三)津波が著しく強大であること(四)海水の干退割合が小さいことなどで、古来の地震津波のものとやや性質が異なっているようで、それは浪が海上に起こると、その大小は(一)海底の深浅(二)地盤振動の振幅(三)海水の振動期との関係、および(四)起点海岸間の距離などに関係するのであるが、主として(五)その原動力の強弱如何、によるものであろう。試みに見ると、我々が東京で感じる関東平原の地震はどうだろう。時に頗る強烈なるものがあって、往々去る九月の秋田地方の地震に勝ることがある。その震源は学者の説によれば、東京湾もしくは鹿島灘にあって多くは地すべりによるが、我々はまだ一回も津波がおきたということを聞かない。すなわち、このことを考えると、もし地すべり地震が今回のような大津波を起こすものとすれば、極めて絶大なものとならざるを得ず、しかし今般の津波の起点は、その襲来の方向から考えると海岸を離れておおよそ百五十哩のところにあるようである。ゆえにもし地盤が大々的なすべり動を起こしたとして、海岸ではわずかな微震だけですむことはないだろう。これに反して火山活動に基づく地震と局部の地震は大変に強大なこともあるが、附近に及ぼす振動はおおむね微弱なもので、有名な彼の一八八三年八月の「クラカトア」島の破裂の際には、その附近で感じた地震は甚だ弱いものだが、絶大な津波が起こってほとんど全地球に波及した。これは局部の振動が激烈で海水を撹乱したことによるもので、要するに火山の活動がこのような強大な津波を惹起する例である。かつ、今回の津波と地震の関係はよくこの現象に類するように思える。
 このように論じてくると、今回の大津波の原因は海底地盤のすべり動によって起きた、いわゆる地震津波ではなく、海中火山の活動とみなす事がもっとも穏当であると信じる。もちろん火山破裂に伴う特相を認めたものではなく、材料のようなものにいたるまでも不完全だが、今回のことは海底のことで、確証を得ることは難しく、よっていきおい、客観的に論定することはやむを得ないということに至った。今、北上山地(地質学者「ナアマン」氏が北上川北東の地に与えた名称)の地質構造を察すると太古層中古層の古代水成岩よりなり、花崗岩、閃緑岩、?石岩などの深造火成岩のその間に併発起伏していて、これを北上川異性の火山質で新成の地質構造のある地に比べると、全然その性質は異なっている。そしてこれより三陸東海底の地質がいかにも同一の考定を及ぼして、当該地方は火山活動に乏しいように思えるが、深く火山活動の状態を探り三陸沿海海底の地形を察すると、大きく問題となるところがあるはずである。地球内部は地殻のために強大な圧力を受けて、かつ強熱を有することは前々から学者の唱えるところで疑うところがないようである。そのためにもし、ある特殊の事情によってその圧力が減少する場合には、強熱のために地球内部に溶解、密蔽している岩漿もしくはガス体は強烈な勢いでほとばしり発するであろう。これがすなわち火山活動で、言い換えれば火山活動というものは地殻の類層のいかんを問わず、万一、地皮に薄弱な点があればこれを破って起きるものである。見よ、太平洋の周囲に幾多の火山脈が羅列しているのは、地殻収縮の結果、幾多の列線を生じ、地中の岩漿はこの間を噴出していることによるのである。三陸沿海底の地形は、すでに前章において述べたように東方百八十哩内外のところに当たる地殻劈列線の東北から西南の方向に横たわっていて地体の弱点は実にここにある。されば、ある状態に達すると火山活動力はこの脆弱なる箇所を破って発作し、海水を撹乱して三陸地方に悲惨の光景を呈した大津波を惹起し、同時に地震をも伴ったものと論定することができるだろう。津波波及の状圏は円をなして、すなわち一点より起きたような形跡があるのは一層この説を強力にしている。そして今回の破裂はガス体の大々的爆発で沿岸に至るところで、多少の軽石を見るのは、思うにこれに伴ったものであるかもしれない(暴風のときなどにも往々にして軽石が漂着する由なので直ちにこれを今回の破裂によってきたものとはみなすことは出来ない)。里人の語るところによると、津波当時の海水温度は水中にいると到底、長時間過ごすことができないほどの水温であるが、津波の際には一昼夜以上海中に漂流し、なおかつ生命を全うするものがいたので、多少潮水の温度が高まっていたのではないかとのことで、また沿海潮流温度が近来、やや高度であることはすでに第一節に記述した。これらの事実は、もとより特に当時の潮温を調査したものではないので信用を置くには十分ではないが、少しは参考となるだろう。
 火山活動に基づく地震はその震域が一般に狭少であるが、今般津波の当時に感じた地震は、北は根室から西は山形、南は甲府に至るまで伝達し、やや広域である。これは火山活動が大々的爆裂であったならば、このような広域を振動させることがあるのだろう。近々六十哩内外のところで一大変動があるのに、なおわずかに微弱震を感ずるのはまさに火山性の地震に近いようなものである。
 右に述べたように海中火山破裂によって今回の津波は起こったものであれば、潮水の干退も普通の地震津波の際に起こるものとはやや趣が異なるだろう。津波前に当たって潮水の干退することについては古来幾多の説があるが、実際に近いと考えるべき一つは海岸に地震発作の際に土地がやや上昇することによるのであり、もう一つは「ダーウヰン」氏の唱えるところで、蒸気船が海岸を通行する際に起きる波浪は静水面にあって斜岸に達すると最初は干退するということと同一の事情であろうといえる。思うに地震津波の際に起こる干退は主として土地の上昇に帰するものだが、今回のような津波の大きい割に干退の小さいところを見ると、単に後説に落ち着くものであろうか。

写真説明

第一図 其一、其二は連続するもので陸前国気仙郡吉浜村の真景である。元はこの地は人家が密集していたところであったが、洪浪が一襲して全村あげて流失し、荒寥とした砂原に変じた。今回津波の最高点はすなわちこの地で山麓がところどころ黒影をもって区切られているのは津波による増水の痕跡を示していて、砂地広茫とした間に点々として数多の岩塊が散在しているのは家屋の礎石である。
第二図 其一、其二は連続するもので陸前国気仙郡綾里村の真景である。家屋はすべて破壊流失し、その破材は波浪のために打ち上げられて山麓に堆積し、津波の増水の高さを示している。
第三図 陸前国気仙郡細浦の惨状で津波氾濫のため、山腹の畑地における穀類もまたその害を被り、倒れなびいて枯れ朽ちている。

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写真 第一図 陸前気仙郡吉浜村南岸を望む(其一)
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写真 第一図 陸前気仙郡吉浜村南岸を望む(其二)
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写真 第二図 綾里湊浜(其一)
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写真 第二図 綾里湊浜(其二)
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写真 第三図 陸前国気仙郡細浦
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明治二十九年六月十五日津波被害表

○参照第二

 六月十五日三陸地方津波前後地球磁力変動報告(明治二十九年七月九日官報掲載)
去る明治二十七年一月十日、愛知県下に烈震があった際に名古屋における磁力計が、この地震に先立つこと七、八日前より著しく一種異様の変動を示したことは、当時すでに報告に及んでいたところである(官報第三一七二号参照)。その後、十月二十二日に山形県下酒田附近で大震の際における磁力計の模様を調査すると、地震前、約一週間より仙台の磁力計は著しき地球磁力の変動を示して、東京及び名古屋の磁力計もまた多少の変動を示した。ただし東京での変動を仙台のものと比較すれば、はるかに微弱であった。名古屋におけるものは東京に比べて更に微弱だった。このように、この地球磁力の変動は酒田地方を隔てることいよいよ遠くなるに従い、ますます微弱になったことを考えれば、この現象もまた酒田地方の大震を醸しつつあった地下変動に原因していたことはほとんど疑うべきでないようである。
 今また去月十五日三陸地方大津波の際における地球磁力の模様を調査すると、仙台においては同月十一日頃より水平分力ならびに偏角に多少の変動を起こし、大津波の前日、すなわち十四日には特に著しい変動を示した。東京においてもまた、やや微弱ながらほとんどこれと同様の変動を示した。しかし、名古屋における磁力計は少しも異常を示さず、これを見ると今回の磁力変動もまた地震を起こすべき地下の変動に起因していたことはほとんど疑いなく、そうならば去月十一日頃よりすでに三陸地方の沖合いにおいて地下に変動を起こしつつあり、十五日に至って海中に地震を起こし、ついに惨状があのような大津波を来たしたのだろうか。そしてまた根室地方において、すでに磁力計の設置、完備していたならば、同地において偏角に変動を来たしたか、そうでないかとによっておおよそ震源の遠近を判定することができたであろうが、不幸にして同地の磁力計はなお設備中で調査上の好材料を欠いているのは特に遺憾なことである。
右、とりあえず報告に及ぶものである。
 明治二十九年七月
      震災予防調査会委員 中村精男

 震災予防調査会長理学博士 菊池大麓殿

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明治二十九年六月十二日正午より同十三日正午に至る磁力変化の図
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明治二十九年六月十三日正午より同十四日正午に至る磁力変化の図
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明治二十九年六月十四日正午より同十五日正午に至る磁力変化の図

○参照第三

三陸地方に発生した津波の余勢は遠く、サンフランシスコ、バンクーバー、ハワイなどの沿岸に波及したという報せを聞いて本会は調査上の参考にするため、その詳細なる報告の収集を外務省に依頼したところ、同省から在「ホノルル」島村総領事が送付した同地の新聞紙を回付されたので、これを抄訳して左に掲げる。


 ハワイ島の津波詳報抄訳
  (六月二十日発刊の「ホノルル」新聞による)
六月十九日(金曜日)ハワイ島より「ホノルル」へ入港した「ダブルユー、ホール」号の船長「シマルソン」氏の実話によれば、
 津波が襲来したのは月曜日、すなわち十五日(わが国の十六日に相当する)の朝で「ホヌアポー(Honuapo)」に停泊した際である。私はそれが危険であることを察知して、汽笛を鳴らして小舟に注意して、沖合いに向かって出帆し、浪の静穏になるのを待って帰港した。
 当時、波浪は南西の方向からきて最初に「カワイヘー(Kauaihae)」を激襲した後「コーナ(Kana)」、「カウ(Kau)」両郡の沿岸を回り「ヒロー(Hilo)」港の方に向かった。
 「カワイヘー」には午前八時十五分に津波が来襲して多年の間、波浪に耐えて堅牢と認められていた波止場も一朝にして全く破壊された。
 「カイルア(Kailua)」には午前八時三十分に津波が来襲し、材木場を破壊し貨物庫を浸水して甚だしい損害を与えた。ただ、海洋にあって漁業に従事していた小舟は幸いに難を免れた。
「カイルアヂュー、ケーレマキュレー」氏よりの書簡を見ると、
 六月十五日月曜日(我々の十六日に相当する)、津波が来襲しました。その時には別に何の兆候もなかったのですが、海水は俄然、増水して普通の満潮の水準より八尺以上も高まりました。その結果、波止場は湾曲して弓形に変形し、幾多の倉庫が浸水し、私のヴェルナダ床上の二呎半にも昇りました。このような有様で、皆々第二の激浪が来襲することを恐れて安全の場所に避難しようとするのは当然のことで、当時私の倉庫の後ろに住居していた家族及び土民は、この目的を遂げようとしてそれぞれが上衣まで水に浸かりしました。役所の証券記録のようなものは他に移す暇がなかったため、役所での最高の架柵に投げ上げ、この時に私は全く潮水に取り囲まれましたが、書籍及び政府の記録のように難にかからなかったのは何より仕合せでした。要するに当地及び「コーナ」郡の沿岸は莫大の損害を受けたことに間違いないのですが、多忙の際、今回は御通報致しかねます。
また、「カイルア」在の「パリス」女史より「ホノルル」の友人の下へ送った書簡を見ると、
(略)私が土人と話をしながら戸外に出たときには月曜日(我々の十六日)午前九時頃で、その時ちょうど土人が海面を指し示しましたので、一見したところ不思議にも海岸一帯に潮水が干退して平常見慣れない岩石砂州が現れ出ていました。そして私は「クーレマキュレ」氏の自宅に向かったところ、潮水が氾濫してきて満潮水準より高く昇っていました。それから私宅へ戻った時には潮水はあたかも洪水が岩石に激しく衝突するかのような勢いで退がっていきました(略)第二回目の浪は以前よりも高くなってきて、第三回目には家の壁を打ち越えました。その後やや平穏になりましたので、もはや平常になったものと考え、家に入り込みました際、またもや激浪が襲来しましたので、とりあえず二階に走り上っておりましたところ、土人どもはすみやかに戸外に出て「まうか」に行ったほうがいいと勧めますので、屋外に出た際に見た外界の凄まじい有様は今になっても忘れがたいものです。潮水は引き続いて来襲し、すべてのものを掠めさり、私どもはしばらく潮水の退却する隙をうかがい、浅いところを渡って外壁の上に達しました。そうするや否や潮水は再び激来し、家屋の下半分は浸水しました。およそ一時間を経て立ち戻ってみると壁は破壊し砕片物はところどころに散在し、大変な惨状を示していました。日没前にまた一回波浪が襲来したので、それが退却するあいだに毛布及びその他の物品を取りまとめ、この夜は土人の一小屋で眠りました。
 「カイルア(Kailua)」では午前八時半に津波が襲来し、およそ三十呎増水して「バリ」の岩窟に侵入した。全潰九戸でうち四戸は草舎、五戸は板家で浪が退却するや、数多の魚類は陸上に取り残され、らんたな藪のようなものまでも魚の倉庫のような有様であった。被害地中最大の惨状を示したのは「ケアウハウ(Keauhou)」で浪の高さは三十呎に達した。これは当該湾の狭小であることに起因している。
 「ナプーポー(Napoopoo)」は午前九時に津波が来襲し、その高さ三十呎で三戸が流失、「スコット」氏の材木は「ケアラケアクア(Kealakeakua)」湾に漂流した。
 「カウワロア(Kauualoa)」は午前九時に津波が来襲し、その高さ三十呎で「モーセス、ヴァーレット」氏の自宅は破壊した。海水は貨物庫に浸入し、非常の損害を与えた。
 「フークナ(Hookena)」は午前九時三十分に津波が来襲してその高さ八呎、波止場は破壊され、もっとも大破損を来たしたのは橋梁である。
 「カアルアル(Kaalualu)」は午前九時四十分に津波が来襲し、その高さ十二呎。波止場及び四戸が流失した。
 「ホヌアポー(Honuapo)」は午前九時四十分に津波が来襲し、その高さ十二呎。
 「プナルウ(Punaluu)」は「ホヌアポー」と同時刻に津波が来て高さもまた同じ、被害なし。「プナルウ」及び「ホヌアポー」海岸の人民は一八六八年に起こった大津波の景状(八十一人が死亡)を記憶していたので今回も高位の安全なところに難を避け、尋ねて(=古例に基づいて)小舟なども皆曳き上げ、来襲したその夜は安穏に眠り、翌火曜日に各自、家に帰ったという。
 「ヒロー(Hilo)」は午前十時に津波が来襲し、ほとんど八呎に達したが、幸いにして被害なし。「コーナ」地方は朝三回、大激浪が来襲し、その高さは漸次減少したが、火曜日にいたってもその余波はなお止まず、水曜日の午前にいたって全く平穏に復した。数多の魚類は退潮の際に陸上に取り残され、また巨岩、破片物など打ち上げられたものが夥しく、幸いにして人畜の死傷がなかったが、財産に大損害を被ったところがある。
 地震津波、「オアフー」島の計潮器の指示するところによると、十五日の津波(火山浪であるともいう)がハワイ島の西岸に達した時刻はこの島よりもやや遅く、その来襲の方向は正しく西北より来たことは疑いなく、そうならば「オアフー」島の西北に当たる一小海中火山の破裂に基づいたものであろうというものがいる。しかし、深くこれを考えるとハワイ群島の西北に当たっては、未だ一火山を見たこともなく、そしてその方向における日本は、常に地震の多い国であれば、今回の津波は日本の方面から来たものであろう。そうすると波は第一着に「カウアイ」島「ナパリ(Napali)」地方に衝突して、その波の高さ及び損害がともに大きくなるはずである。「オアフー」島においては、ほとんど平常の潮水に変わりなかったが「カウイ」島がその西北に位置して津波の進路を遮ったことによるだろう。これと同じように「マウイ(Maui)」島も「モレカイ(Molekai)」及び「ラナイ(Lanai)」両島の陰に当たったので、その影響を感じなかった。次にハワイ島はその西側、大洋に全く開面しているので、波浪の大影響を被るのは当然のところである。そうなれば全島いたるところで津波の来襲がなかったところはなく、殊に「カワイヘー」は激烈だったが、激浪の全勢を極めて来襲したのは「カ、レ、オ、カ、マノー(Ka,Le,O,KaMano)」にほかならない。それより海岸に沿って(「カイルカ」まで)南に行けば、波浪の大きさが次第に減っていったのは、この島の陰に当たるからである。「カイルア」では浪の高さは八呎、なお南にいくに従い十五呎、二十呎に達する。「ケアウハウ」が大害を受けたのは、同所は「ぽつけつと」を成している港湾にあって、浪はその海岸に沿って下がり、地形状自然と港湾に増水したためである。
 精密な現象については専門家ではないので知る由もないが、その波の方向及び上述の理論は地図を開けて考えるものが容易に分かることである。
 「カウアイ」島の津波、また「カウアイ」島にも津波が起こり、当日の同島の「カパー(Kapaa)」港に停泊していた米船ジェームス、マキー号の船長の実験談によれば、
 午前七時三十分、海上は甚だ穏やかならず、よくよく注目していると津波であることが分かったので、これは一大事だと早速避難の用意に取り掛かり、これより先に端艇二艘は石炭を積んで埠頭に行っていたが、まだ荷物を陸揚げするには及ばず、この地異が起き、二艘とも砂上に押し上げられ、あるいは転覆する恐れがあったので水夫は力を尽くしてこれを防いだ。それなのに、これと同時に本船も浅瀬に乗り上げたのでできる限り早くこの災難を逃れようとしきりに端艇を呼び戻したところ、あの水夫らは死力を尽くして漸く漕ぎつけた。そうこうするうちに海上はますます荒れ、船体の動揺は甚だしく、錨索が二つ切れたならば、もしこのままに捨て置くとたちまち他の索も断ち切れ、果ては暗礁に触れて船舶もろとも乗組員も微塵となってむなしく魚腹に葬られてしまうだろうと思ったので、一同は死を決して一層深いところに出ようとして、九時にいたってようやく目的を遂げたときにはさすがに気が荒い水夫どもも互いに顔を見合わせ言葉をなくし、ただ万死に一生を得た嬉し涙に暮れるのみであった(ただしマキー号の碇泊した場所は水深が十二呎、同号の喫水は十一呎で波が引いたとき船底を見ると砂上にあることがしばしばであった。またその附近の模様によって察すると海水は少なくともその深さ三呎減らしたようで、なおある港は海波が退いた後は俄かに四十呎の陸地を増した由で「カウアイ」島の古老に聞くと、このような珍事に遭遇したことはなく、迷信深い人民はこれこそが世が乱れる前兆であると恐れあっている。「ホノルル」府の「コンマーシャル、アドヴァータイザー」新聞はこのことについて、曰く、当地方では前になんらの異常もなかったので、俄然このような変事が起こったのは思うに外国のいずれかに地震があってその影響を及ぼしたものであろう)。

○参照第四

 三陸地方津浪彙報
 明治二十九年六月十五日、三陸地方に発生した津波に関し、地方庁及びその他より本会もしくは内務省に対し報告されたもののうち、重要なるものを挙げれば左のとおりである。


●岩手県宮古測候所報、六月十九日本会宛
 去る十五日夜の海嘯は安政年代以来の未曾有の一大海嘯で本県管内の東海岸地方はもちろん隣県沿海地方のいずれも多少の惨害を被った。そして本県の各津浦の状況は実に酸鼻に耐えざる惨状を示し、その被害の概況は死傷数千人、家屋船舶の流失破損は無算で当地方においても沿海各町村で惨害を被らなかったところはなく、その甚だしいところは全村悉く流失したところもあるという。今を去る四十年前、安政三年七月二十三日(陰暦)の正午頃のものは、地震は甚だ強く、かつ頻繁であったが海嘯はこれほどの惨状を呈してはいなかったと古老は言った。今、海嘯当時の模様を略記すれば前日来、陰鬱の天候で雨霧があり、気圧及び温度ともに平年より高く、午後七時三十二分三十秒ほどやや弱震があり、振動時間は五分の長さにわたり方向は東北東、西南西で頗る緩慢であったが、次いで同時五十三分三十秒に微震があり、八時二分三十五秒、八時二十三分十五秒、八時三十三分十秒、八時五十九分に微震、その後九時より十時までの間に四回、十時より十一時までの間に一回、十一時より夜半までに二回の微震があって、計十三回振動した。そして海嘯の起こり始めは(海水の減退し始めた時刻)、夜間で精測することができないが、およそ七時五十分頃で同八時頃増水して暫時にしてやや減退したが八時七分にいたって最大の海嘯が来た。およそ一丈四五尺の高さの激浪は轟々と遠雷のような響きを成して襲撃して、たちまちの間に家屋人畜を一掃し去った。爾後、著しいものは六回あって、翌日正午頃までは幾分の増減があったもののようで、また地震は、翌十六日は十三回、十七日は十二回、十八日は六回でいずれも微弱震であった。


●同上 六月本会宛
(抄録)
 海嘯の現象及びその原因
 今般の大海嘯の起こり始めは(海水の始めて退減し始めた時刻)は夜間のことなので精測することは出来ないが、およそ午後七時五十分頃で最初の地震後、約十八分を経ていただろう。その後十分の時間を過ぎ、午後八時頃に増水し零時にやや退減し、同八時七分にいたって最大激烈なものが遠雷のように響きをなして襲来し、それから八時十五分、八時三十二分、八時四十八分、八時五十九分、九時十六分及び九時五十分の六回、著しい増水があって、勢力は漸次減殺された。そして一大惨状を示したのは第二回目の激浪でたちまちの間に幾多の生命財産を一掃し去った。その後、翌十六日正午頃までは確かに海水の増減があったが、すこぶる軽少で精密の観測をしなかったならば知ることも出来なかった。またその著明な増減は往復で八回、その往復の震動期は約十分内外で最大波浪は湾内で約一丈五、六尺であった。
 元来津波の起こる原因には二種類あり、暴風及び地震がこれである。そして海嘯当時の気象を通観すると、連日高気圧は太平洋に、低気圧は日本海方向に拡張して、かつその差はわずかで暴風の兆候なく、また当時の地震によって観察するとその原因は暴風にはなく、まったく地震津波であったことは明瞭である。そもそも震源の海中もしくは海岸にあって強い振動を発起するときは海水に激動を与え、水震(いわゆる津波)を起こし、時として沿海に非常の災害を及ぼすことがあって、すなわち今回のような現象を発生するものなので、海中に大震があったのは疑いないことである。


 海嘯前後の地震及び震源
 当地方は平常、地震が多い方ではなく、本所創業以来の観測によると平均一年間に十五回あるが、二十七年、二十八年はともに平年より一倍余りの多震で、すなわち二ヶ年とも三十二回を観測した。そしてこのように震数が増加したのは二十七年三月二十二日の根室地方における大震の余波をこうむったいわゆる余震(俗に揺り返しと名づけているもの)に関係するのかわからないが、また今回の災害を起こした原因であったのかも知ることができない。なお、本年は一月以来、概ね平均以上の多震で、なかんずく四月に至り十六回という非常な震数を示した。これはあるいは今回の前兆ではないのか、とにかく異例の現象を示していた。その後は別に異常なかったが六月十五日午後七時三十二分三十秒に至るまでやや弱震しほとんど東、西の方に五分間水平に震動し、とても緩慢であった。次に同七時五十三分三十秒に微震があって、それらの後は頻繁に続震して八時より九時までの間に四回、十時より十一時までの間に一回、十一時より夜半までは二回の微震があり、計十三回を観測し、翌十六日は十三回、十七日は十二回、十八日は六回、十九日は二回、二十日は四回、二十一日は一回、二十二日は三回、二十三、四日は各一回、二十五日は三回の微弱震があったが、中でも微震は最も多くまた上下動ははなはだ稀で、これまで述べていたところから観ると、今回の災変は地震津波であることは明瞭である。そして震源はどこであるのかはまだ十分の材料を得ておらず推算はできないが、おおむね海岸を去る三十里及び三十五里あたりにあったもののようで、すなわち本所でも観測した結果、ならびに一昨年、根室大震の際、本所に影響した地震津波などの成績によって概算を施すと、本所より東南東にあたり、およそ東経百四十五度、北緯三十九度あたりに震災があったもののようで、なお地震の性質及びトスカロラ海床の関係などにより観察を下すと、根室大震の時のように地すべりであったかもしれないだろう。


●三重県津測候所報七月二十四日本会宛
 海上異常取調書
 本年六月十五日、青森、岩手、宮城の三県沿海に襲来した一大海嘯の余波が遠くハワイにまで波及したという。そして当時本県の沿海にも必ず多少の影響があっただろうと推考したが、まだこれらの報道に接さしていなかった。しかし先般、当所技師が気象事務打合せのため南勢、志摩、紀伊の各郡役所に出張の途次以上、沿海の漁夫について取調べた事実からは、彼の三陸地方海嘯の余波と認めるべきものがあり、よって左に掲げる。
(一) 南牟婁郡木ノ本浦の漁夫は別に海波に異常を認めないようであったが、木ノ本から北西、およそ半里(直径)である大泊湾には多少の異常を示したようである。すなわち去る六月十六日早朝に大泊村より木ノ本に旅行したものの言に依れば大泊川(或いは清川という)の橋上より上流のおよそ一里半くらいのところに井堰があり、どんな大潮があっても同所までは海水が浸入することなく、井堰より半町ほどの下流まで注ぐことを普通としていたが、十六日午前七時頃、通行の際には海水の進入は非常に高く、右の井堰に及んだのを見受けたと云々。
(二) 北牟婁郡尾鷲港の漁夫は普通に異常を認め、あるいは海嘯の前兆だろうか、または一大暴風の襲来があるのだろうかと懸念したという。そしてその話を聞くと甚だばらばらで、かつ日時不明である。よって同港漁夫の取締役の者に取調べ、ようやく六月十六日払暁であることを確かめえた。すなわち同日払暁に出漁しようとして海岸に出たが、ちょうど干潮時であるにも係わらず、まだ退潮せず、かつ波浪の動揺は異常で、干退すると一面干潟となり漁舟を砂上に残して遠く去り、その帰ってくる波が来ると轟々と音を立てて激しい波が岸を打ち、このようなことが数次にわたり、午後漸くにして減衰して夕刻になって平穏になった。ただし、通常の海水の波動はどんなに激しくても漁舟を砂上に残すことはなく、すなわち舟の半分は始終水中にあるという。そして当日の海水は別に高いという感じはなかったが、波浪の動揺は実に甚だしく、未だかつてない経験をしたところであると云々。
(三) 同港漁夫で当時、新宮にいたものの言うことによると、同地方は少しも異常なく、また風説も聞かないという。
(四) 鳥羽港においては別に異常を認めたものはいなかったようだが、去る六月十六日は多少、平日より波が高く感じたというものはいた。
以上の事実によると、あの三陸地方の海嘯の余波は十六日午前三、四時頃に本県下沿岸に来たものであろうか。そしてその影響は海岸線の屈曲が多いところで甚だしく、その屈曲の少ない地方は多くは異常を認め得なかったもののようで、そうとはいえど、十五日はあたかも旧五月の節句に相当して、津、浦、漁村はいたるところで漁業につかないものが多く、そのために右の余波が波及する時刻は、或いは十五日の夜中にあったのかもしれないだろう。
(附言)伊勢内海においても当時多少の異常があったのだろうか、すなわち当所が伊勢沿海の各郡役所に照会して得た事実は左のとおりである。
 安芸郡白子地方の漁夫は十六日早朝より漁業に従事しているが、正午前とも思われる頃から潮流の進度が迅速であったのかもしれない、という感じがあったが、他にも何らの異常を認めなかった。
以上の他に、他の地方では海水に異常を認めなかったもののようである。


●印度土人監督官通報訳本(外務省の送付に係る)
 八月二十六日付、丁二四九六号の貴簡をもってお問合せの件、すべて承りました。右の海嘯について私の承知しているところは、何れも汽船「モウ」号船長「ロバーワ」ならびに「カヨユー」号船長「スプリング」の両氏より聞き及んだもので、右「ロバーワ」氏は当時、「ユクルレット」湾(ウバンクーバー島の西岸で太平洋に面し、北緯五十度内外にあり)に居た時に俄然、海嘯が襲来し、干潮より満潮に変わり、数次の間に激烈な進退をしたとの事でした。また、同様の件は「カヨユー」湾(同上)地方でも起こり、港内停泊の船舶を動揺させたが、ちょうどその時は干潮の時で別に損害もなく、潮水の高さも普通の満潮の時の高さよりは上がることなかったようです。
 以上はいずれも去る五月中の出来事ですが、確たる日時は申しあげられず、「ロバーワ」氏の語るところによると、右海波の起きたのを認めた後、「ウビクトリヤ」市に着いて始めて日本における海嘯の惨状を新聞紙上に散見したので、かれこれ日時が符号するようだと言っています。右、お答えまで申し上げたいと思います。敬具。
 紀元一八九六年九月二日
    英領「コロムビヤ」州「アルバー」市
      印度土人監督官「ハリー、ギロツト」手記
 在「ウビクトリヤ」府印度土人監督官長
   「エー、ダブリュ、ヴォーウェル」貴下


●岩手県報 六月二十四日内務省宛
(抄録)本月十五日は天候は朝来、朦朧として温度は八十度ないし九十度を昇降して平年に比べれば、その暖かいことは十度以上で人々大いに困り、しかし季節の不順なのは梅雨の常であり、特にちょうど旧暦端午の節句なので各町村、村落では或いは親戚を訪問して祝い合い、或いは友人が相会して宴会で飲みあうことがあり、それぞれが歓びをつくしつつあったが、暮れから夜に至り数回の地震があり、また午後八時頃、東閉伊郡沖合いにて轟然、一発の巨砲を放ったような音響があったが、沖合いの鳴動は普通のことで、あるいは軍艦の演習であろうと思い、さらに意に介するものもなかった。しかし、その音響がつきてから、まだ数分とたたずに海嘯が俄かに至り、狂瀾(=荒れ狂う大波)天を衝き、怒涛(=激しく打ち寄せる大波)地を捲き、浩々と大水がまっしぐらに押し寄せて来た。市街となく村落となく、すべて荒れ狂う大波の氾濫に没するところとなった。沿海一帯の七十余里はわずか一瞬にして人畜、家屋、船舶、その他を挙げてほとんど一掃し去られた。すなわち昨日まで家屋がならぶ市街も今や変わり果て平砂荒涼となった。死屍は累々と堆積し、家屋は流壊され、見渡す限り一つとして惨憺たる状況で凄惨でないものはない。その惨状は実に戦慄嗚咽の至りに耐えざるをえない。そして、その荒れ狂う大波の高いものは八十尺以上に湧きあがったという。潮勢の緩急はもとより一定しないとはいうが、西南に面するところは最も激しく侵害が甚だしい。
 しかし、当日沿海を隔てて約二里の沖合いで漁獲していた漁夫等はやや波浪が高いことを覚えているだけで、このような凶災があったことを知らず、陸地に到着して初めて海嘯の被害を知ったというのは、おかしなことというべきであろう。
 なお、各郡の状況の概ねを記すと左のとおりである。
一、気仙郡は被害各郡中で広大で最も広く、被害にあったところも少なくなく、広田村の六ヶ浦と称するところでは水面より高さ五丈余りのところにある民家を砕き、激しい波のために数丈の高い山頂に船が打ち上げられ、巡査駐在所は流失し、駐在巡査は重傷を負い家族は皆流され亡くなってしまった。
 末崎村でも巡査駐在所は流失し、駐在巡査は重傷を負い、家族六名は皆死亡した。大船渡村などでは沿海十八町余の間の電柱が悉く折れ、小友村では侵害された田畑は百八十余町余歩にわたった。
 綾里村のでは死者は頭脳を砕かれ手を抜かれ、或いは足を折られ、実に名状することができない状況で、村役場は村長一名を残すのみで、尋常小学校、駐在所はみな流失して影を留めず、駐在巡査は家族とともに死亡した。
 越喜来村では巡査駐在所は流失し、駐在巡査は家族とともに死亡した。そして尋常小学校も流失したが、訓導佐藤陳は妻子の死亡を顧みず、かろうじて御真影を安全な地に奉置した。
 唐丹村は郡内第一の被害地で、巡査駐在所は流失し駐在巡査は家族とともに死亡し、二千八百余の人口で死亡は二千五百を出し、実に悲惨の至りである。そしてその概数は左の如し。


一、南閉伊郡の被害地面積は気仙郡に及ばないが、その惨害は本郡において激甚を極めた。すなわち、気仙郡は一区十一ヶ村で六千八百余の死亡者を生じたが、本郡はわずかに二町一ヶ村で六千六百余の死亡者があった。そこからしても、その惨状のいかに甚だしいかが知られる。
釜石町は千二百余戸の市街で人口は六千余あるが、海嘯のために家屋はわずかに百余戸、高所より町を望むと市街は全く崩れ潰れて、片々と家屋の用材が積み重なり死屍は累々としていて、その間に現れる沿海の耕地はすべて泥濘で充たされ警察署、郵便電信局及び尋常小学校の六ヶ所が流亡し巡査一名が死亡し、署長以下皆重傷を負い郵便電信局の某はわずかに身をもって逃れ、数時間で予備機械を据え付けたために通信の方法を得た。
大槌町、鵜住居村なども惨状は最も甚だしく、その被害の概数は左のとおりである。


一、東閉伊郡で本郡中被害の最も大きいところは田老村で激しい波の高いところでは十余丈に達し、潮流の勢いは最も強大で沿岸にあった二抱え以上ある松の樹、およそ百本がわずかに樹根を残すだけで、また、風帆海船で岸の波打ち際から上がること二町余の山腹に打ち上げられているのがあり、そこからも惨況の全体を知ることができる。このようなので村役場、尋常小学校員等は皆死亡し、巡査駐在所は流失し、駐在巡査二名は家族とともに死亡した。
 重茂村重茂では、すなわち巡査駐在所の所在地などはあたかも平原と化して、ただ村長の屋根のみ山端に押さえつけられるようにあるのみ。船舶は一隻も残らず流亡し、あるいは破壊し、巡査駐在所は流失し駐在巡査一名が家族とともに死亡した。船越村もまた被害が少なくなく村役場、尋常小学校、巡査駐在所は皆流失し駐在巡査は重傷を負い、妻子は残らず死亡した。
 山田町の警察分署は大破し、海嘯のため千余人を失い、被災後の失火のため、またまた四十余人が一片の煙と化したのは実に酸鼻に耐えないことである。そして、その被害の概数は左のとおりである。


一、北閉伊郡の普代村は村役場の書記一名が死亡し、また巡査駐在所は流失し、巡査の家族は皆死亡し、小本村も巡査駐在所が流失し、駐在巡査はわずかに身をもって逃れ、その家族は皆死亡した。その被害の概数は左のとおりである。


一、 南九戸郡野田村では巡査駐在所は流失し、妻子が死亡したが駐在巡査は死を免れた。
久慈町は被害が最も多く、村役場、尋常小学校、巡査駐在所は皆破壊され、駐在巡査の妻子三名が死亡した。そしてその被害の概数は左のとおりである。


一、北九戸郡の種市村、中野村のようなところもまた被害は少なくなかったが、気仙郡等に比べれば被害が少なかったのは地勢のなせるところだろうが、また潮勢が激甚でなかったことにもよるのだろう。その被害の概数は左のとおりである。


以上、今日までの報告により取調べた被害の概況で、役場、学校、田畑荒廃の反別、船舶流失数等は目下取調べ中である。


●宮城県報 六月十六日午後十二時五十分発内務省宛
(電報)県内東海岸一帯に昨日午後八時、海嘯があった。家屋の流失、人畜の死傷は少なくなく、本吉郡志津川館の家屋七十余りが流失、七十余人の死傷があった。その他は取調べ中云々。


●同上 六月十八日同上
今日までに調査した概況は左のとおり(カッコ内は参照のため戸数、人口を示した)
 本吉郡
階上村流失家屋 八十五戸 死亡者四百二十一人(四百二十八戸、三〇〇九人)
小泉村同    五十五戸 同   二百三十人(二百七十七戸、千九百二十一人)
唐桑村同  二百六十二戸 同  八百二十三人(七百七十二戸、五千七百九十二人)
大島村同    三十一戸 同    四十五人(三百二十戸、二千六百三十人)
大谷村同    八十三戸 同  三百二十九人(二百四十戸、二千四百八十六人)
鹿折村同      三戸 同      六人(四百二十九戸、二千七百六十一人)
 右各村にて負傷はおよそ三百人
歌津村の死亡者は六百余人、負傷者二百余人、家屋は悉く皆流失(六百一戸、四千八十三人)
志津川町の流失家屋は七十余戸、死傷は七十余人(八百五戸、四千八百三十六人)
 右の外、取調べ中


桃生郡
  十五浜村字雄勝の流失家屋は四十余戸、死亡は三十一人(内、看守八人、囚徒七人)重傷者五人、馬三頭が斃死(七百十一戸、四千四百二十二人)
  同村字船越での行方不明者二十七人


  右の外、取調べ中


  牡鹿郡
女川村字女川では破壊家屋は三十六戸、溺死一人、巡査駐在所破壊のため帳簿書類等は流失した。(六百五十四戸、四千七十三人)同村字尾浦の人家が破壊され困難していたが、人畜に被害なし。
同村字御前浜では家屋二戸、納屋一棟を流失した。
大原村字谷川浜では家屋六戸、建造物十四棟が流失、溺死一人、馬二頭が斃死した(三百八十一戸、二千四百六十九人)。
 右の外、取調べ中


● 青森県報 六月十六日午後六時二分発本会宛
(電報)昨夜太平洋に面する海岸に津浪が起こり、沿海の人家が流亡し死傷者多くあり。


●同上 六月二十二日午後五時三十五分発内務省宛
(電報抄録)被害の区域は上北郡三沢村字天ケ森以南、岩手県界に至る沿岸一帯で多少軽重があるが、概ね惨状を極めている。昨日までの調査によれば死亡は三百四十六、負傷は二百十三、家屋流亡破壊が四百六十五、日々死体が漂着するが少なくない。

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気仙郡各地被害概数表
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南閉伊郡各地被害概数表
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東閉伊郡各地被害概数表
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北閉伊郡各地被害概数表
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南九戸郡各地被害概数表
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北九戸郡各地被害概数表
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写真 第十四版(伊木)三陸津浪浸害地地図