〇会 長 一名
十三点 当撰 渡 邊 洪 基君
二 点 子爵山 尾 庸 三君
〇幹 事 二名
十一点 当撰 辰 野 金 吾君
九 点 当撰 片 山 東 熊君
四 点 曽 禰 達 蔵君
二 点 妻 木 頼 黄君
二 点 久 留 正 道君
一 点 新 家 孝 正君
一 点 高 原 弘 造君
〇評議員 十名
十二点 当撰 石 井 敬 吉君
十二点 当撰 横 河 民 輔君
十一点 当撰 中 村 達太郎君
十一点 当撰 清 水 釘 吉君
九 点 当撰 新 家 孝 正君
九 点 当撰 妻 木 頼 黄君
九 点 当撰 山 下 啓次郎君
八 点 当撰 伊 東 忠 太君
八 点 当撰 曽 禰 達 蔵君
六 点 当撰(以下五氏同点数なれ共年長を推すの先例に拠る)高 原 弘 造君
六 点 葛 西 万 司君
六 点 宗 兵 蔵君
六 点 久 留 正 道君
六 点 滋 賀 重 列君
五 点 吉 井 茂 則君
五 点 木 子 清 敬君
四 点 岡 本 ソウ太郎君
四 点 中 濱 西次郎君
四 点 野 口 孫 市君
四 点 矢 橋 賢 吉君
四 点 佐 立 七次郎君
四 点 三 橋 四 郎君
二 点 高 山 幸治郎君
二 点 塚 本 靖 君
一 点 片 山 東 熊君
一 点 小 島 憲 之君
一 点 朝 倉 清 一君
演 説
○海嘯被害建物の調査に就て
伊藤為吉君講演
前以て御断りして置かなければならぬことがございます、三月以来担当して居ります工事が漸く一昨日済みまして帰って参りました、昨日は據ない所用の為に一日を費しまして今日は又十四日の拂日で支拂の傍草稿を書くと云う訳で六時頃に至って三十頁ばかりの草稿を書き、尚お吉里々々、大槌、釜石に渉りました分は御話の順序を立てることが出来なくして此処に上りましたのでございますから草稿のあります分は校正をする如き考を以て之を読立て、未だ考の纏まらざるものは考えながら御話をしなければならぬと云う有様でございます、どうか其辺は予め御承知を願います、
唯今会長から述べられました通り海嘯被害建物の調査に就て聊か見聞しましたる所を申述べまして諸君の御参考に供し之に対する建築方法の研究を願い広く其効力あるものの実行されんことを希望して茲に清聴を煩すことでございます、
本年六月十五日三陸沿岸に起りました海嘯は近来稀に見る所の惨状でありまして其災害の大なるは既に世の新聞雑誌の報じたる如く我れ人の驚くに堪えざる程の悲劇惨憺たる出来事でありました、私が此報に接したる時は同胞死傷者に向って悲哀憂悼の情に切なると同時に将来此被害に就て人力に依て如何なる程度にまで防禦することが出来るものであるかと云う所の観念が起りまして爾後寝食を忘るる程に之を考えました、若し海嘯を防ぐに堅牢なる築堤の方法を以てしたら、どんなものであろうか、之を考えるに甚だ大工事であって又其効能は甚だ覚束なき方法であると考えます、毎年各地に於ける水害は三陸の嘯害に較べまするに日を同じゅうして論ずるものでないことは世人の知る所でございます、然も年々歳々政府は此水害の為に議会の協賛を得るに遑あらざる程に災害善後策唯一の方法として築堤工事費の支出を為し殆ど遺憾なき程であるにも拘らず其工事の未だ不充分であると云うことは常に吾人の遺憾とする所でございます、要するに此地震、海嘯、洪水の如き天変地異は人力を以て積極的に之を防がんとすることは到底及ぶべからざる所であって寧ろ消極的なるの優れることを知りました、田畑を荒蕪の地となすは人命を毀損するに較べまして小事でございます、災害の時に臨んで如何なる手段を以てしてましたならば人命を救済するを得ることが出来ましょうか、是れ他に策のあるべき筈はございませぬ、唯水圧に耐える所の堅牢なる家屋を造り戸々小舟を備え加ふるに浮道具を平常に備置くと云うが如きものは之れ即ち消極的唯一の方法であると考へます、此の如く考え来ります時は今回の機会は我生涯に取りまして千載の一遇であつて必ず被害地に出張して彼の建物の破壊したる状態を親しく研究しまして建築学者たるものの参考に供し又以て自力の及ぶ限り此災害に耐える堅牢なる家屋の建築方法を考按せんことを企図いたしました、
而して私は其準備を試みて見まするに担当中の工事もあり其他種々なる要務がございまして火急に被害地へ発足することが出来ませずして荏苒日子を費して居りましたが、此際他に何人か出張せらるる方でもあったならば自ら其地に到ることを中止して今日為すべき所の要務に就かんと思いまして日々新聞紙を閲するに其記事を見出すことが出来ませなんだ、左様にして災害後時日を経過しますとすれば研究すべき材料も次第に無くなることであろうを恐れて断然諸事を抛ちまして去七月二日に東京を発し仙台盛岡を経て宮古附近の地より山田、船越、吉里々々(きりぎり)、大槌、釜石等の沿岸を跋渉して同じ月十二日に帰京の途に就いたことでございます、固より此短時日に於きまして遠距離の旅行を遂げましたことでありますから充分なる取調は出来よう筈がございませぬ、且つ災害後時日を経過したことでございますから多くは取片付けられたる家屋がありまして甚だ遺憾と存じたことでございます、去りながら結局被害建物に就て取調べましたる結果は耐震的家屋は海嘯地建物として効能の大なるものであると云うことを認定したことでございまして其旅行の如何にも有益であって且つ今夕諸君の参考に供せんが為に講演をすることを得るは今更に喜悦なることと存じます、去りながら私は恐る海嘯地を見聞しましたることは今日より九十日以前のことでございまして最早記憶に存するもの僅かにして諸君に満足を与え又自ら満足することが出来ぬものであると考えます、けれども聊たりとも申置くことが自らの義務であると思いて不本意ながら此処に出た次第でございます、海嘯被害建物の調査に就て御話をするには其被害物に接して自ら出でたる所の自己の意見及其地人の家屋に対する観念等に渉っても併せて申述べたき考でございますから前以て御許容を願置きます、
途すがら宮城県庁に出張しまして川村参事官に面会し管轄被害地気仙沼出張所への添書を得まして県庁を去ったことでございます、同参事官の申述べられたる言葉に、どうか今回研究の結果は被害地に適用することの出来る建築法を考案なされる丈けの材料となって、どうぞ此県下に完全なる家屋の造らるることの出来得る様に尽力して貰いたい、と依頼されたでございます、此時に同県下の本吉、牡鹿、桃生三郡の海嘯被害調査表を与えられました、それに依て見ますと七月一日の調で被害前の戸数が三千九百十七、人口が二万七千四百七十三、家屋の流潰が一千〇七十七、同破潰が二百九十七、死亡三千三百四十六、負傷九百六十八、同県下の被害は此表に依りましても三陸に於て最も少き損害でございますが、尚お此三千三百四十余の生霊を失い九百六十余の負傷者を出せしことは実に悲しむべきことでございます、此時私は一種言うべからざる感情が起りまして一刻も速く被害地に往って自ら為すべきことを尽さなければならぬと云う感情に迫られて仙台を出立いたしました、
初めは一ノ関から気仙沼に出ようと云う考でございましたが被害の少い所に往けば定めて取片付けも行届いて居って研究することが充分出来ぬだろうと思う考から岩手県下に参りまして先ず気仙沼には後に出ることと定め盛岡へ直行したことでございます、
岩手県では浅田書記官に会いまして東中北閉伊郡長及宮古警察署長等への紹介を与えられまして盛岡を出立して二日路二十七里の山路を半ば徒歩附きの人力車に乗じまして宮古町に出て其翌日郡長の新渡戸と云う人に会いまして被害地の建物に関する其地の建築方法及習慣上改良の行われ難き所のものを取質しましたけれども別に是と云う要領も得なかったことでございますが、其地古老の言に因りますと、此土地には家を建てるに床板は根太に固着せぬようにするのが宜いと云うことがあるそうでございます、去れども此口碑的の数を守って今日家を造る者は稀であって当地にも一二軒其様な家があるのみであって今回の如き災害に就て考えれば床板の張付けてあるのは家屋が浮上がる道理であるから其当を得たものでないと云うことを知ったけれども斯ることと云うものは中々広く行われ悪いことであると郡長自らが申述べ、私の彼の地に出張しましたことに就て大層喜んで、どうか此土地に適したる所の住家並漁屋の様なものを設計して呉れと依頼されたことでありました、同役場管内の各町村に宛てたる共通紹介状の様なものを興えられまして其区域地なる裏鍬ヶ崎と云う所に往って被害の惨状を見んと存じまして此土地へ朝早々に参りました、
所が初て東京を出立しまして被害の有様を見ることでありますから僅なる被害も尚お眼を著けて見ると云う風で誠に時間を沢山此地に失いまして後にて大に後悔した様なことでございましたが、此土地は入口の突出したる所に岩山がございまして、それと丁度相対して居る鍬ヶ崎、崎山、田老等の地を以て一の小湾形をなして居る所の地形でございまして海岸に沿うたる一條の被害地と云うものは高燥の地に始まりまして漸次北に向って低くなって居る地でございますが、海岸に沿うて奥まって居る所の場所は殆んど流潰に帰して見る影もない様でございました、所が土蔵の残りある者を認めましたが研究材料には甚だ乏しくございました、其他諸所に区々の或方向に於て四方に入口のなき低家建物を見ました、是は甚だ不思議なる結構であると思い人に尋ね見まするに二階建ての家が流れ来って階下の柱を悉く挫折したる者であって今は住うに少しも差支がないと謂う、今之に就て親しく考えるに如何にも其建物は二階梁が下にあって、それに柱が折れた跡もございます故に其話を確め如何なる部分が如何なる有様に成りあるかと目を止めて見ますに少しも異状がないので、自分ながら甚だ不思議に思ったでございます、尚其人の言うには此被害の建物に就て見ましても海嘯の起る様な場所は低家の建物は悉く流れて仕舞うから効力は無いが此の如く二階建家屋は階下を極り宜く失うのみにて住うには差支もなく退潮の後とて別に難儀もない、加うるに人命を全うせしむることが出来たから海浜の建物は暴風に耐える所の構造であったなら二階建に限ると云う意見を申述べたでございます、夫から建残って居る土蔵に就て取調を遂げましたのは高さ二間の建物でございましたが、鉢巻より七八寸下ったる所に一條の水平汚線を表わして居る、是は潮水の崇を示すものであって、詰り其所まで水が来たに違いないものでございます、そうして腰巻は悉く洗い落されて居る、此地にある所の土蔵は悉く腰巻は今申す通り洗い落されて其痕跡を止めぬような有様でございます、此土蔵は何年頃の建築であるかを人に就て尋ねまするに七八十年以前の建築であって土台は栗材で出来て居りますが是は腐朽して仕舞いまして寸法を確に調べることは出来ませぬであったが、柱は確に五寸角であって栗材の様に見受けました。樌は矢張り栗を似て造って一寸二分に四寸二分の者であってそれに小舞は雑木の一寸五分位の丸太を立てて横は杉の大小割位のものを株梠縄にて抓み附け、壁は五六寸位の厚さに塗ってある様で、屋根の勾配は甚だ緩くございまして凡そ三寸五分位のものであろうと思います、土居塗の上は猫台を隔てて柾板葺の上屋根を置いてあることは此地全般の風習の様に見受けます、地形は地上に割栗石を列べて之を突固め其上に花崗堅地を二段置くさうでございます、完全なる土蔵は更に其上に漆喰を以て目塗り様に目地を施してあると云うことでございますが、被害後には悉く洗い流されて其跡だに見ることは出来ませぬ、側根石は何れも其位置を乱しまして上なる建物は六寸余側根石より移動して居るのを見ました、此異状は来嘯したる水勢に建物が若干寸動かされて後更に退水の水勢に出て若干寸本位に復したる力の差であると見て足るべきものと存じます、此地に於ける土蔵の構造は概して側根石の積み方、腰巻の造り方は甚だ不完全であると認めたでございます、之を東京に於て造られる所の土蔵の構造と比較しまするに東京今日の土蔵は側根石を積み其外周に腰巻受石を据え、地上から四五尺の高さに至る間敲土にて側根石及び側柱を覆い、外面に漆喰を塗付けたものでございまして側根石が厚き敲土を以て覆われ又此敲土は此建物の四方に控壁を立廻したる如き効力があるでございます、左りながら被害地の土蔵に於ては側根石をむき出と為し敷石の如き目的に用いて土台下に更に玉石を据え腰巻は即ち土台下端と其敷を同じうして上部と同じ壁土を以て塗出したように出来てありまするから腰巻の為に建物を堅牢になされある土蔵に較べますと甚だ不完全なる方法でございます、併し被害地の建物中土蔵は堅牢なるものの状況を示して居ると云うことは不完全なる建物ながら事質であると認めることでございます、鍬ヶ崎の破壊家屋中海辺に接したる側は土台下五六尺だけの大さに石垣を崩しまして土台を六尺も持出して居るのを多く見たであります、而して其家屋は大概貸座敷でありまして普通の建物より堅牢に造られたものと見えて僅なる傾斜を与えたる位のことで格別なる異状を認めることが出来なかったのでございますが広き海岸の家を破壊したる所に接したる建物の中、二階の脇壁若くは堅牢の土蔵の鉢巻下の破壊されたのを見たであります、是等のものは家屋が流れ来って之に衝突し又船が漂い来って之に衝突して破壊したものであるそうでございます、中にも最も気の毒なる話は鍬ヶ崎の町長山崎某の住所は造酒家でございまして普通の建物から見ると余程丈夫に出来た家であったそうですが一艘の帆船の一回の衝突に遭うて端なくも大破壊を蒙って全家辛うして土蔵の屋根に登って一命を全うしたと云うことです、
私は其日に意外に時を其土地に費したけれども、同氏の邸宅は既に其時建築中のことでございまして、それに従事する所の職工に向って彼の職工軍団的の趣意を以て一場の話を致しまして職工共に参考となる建築写真を与え而して同地の被害建物の未だ手を着けずしてある所の家を「スケッチ」いたし且つ詳細なることを知る為に其土地の写真屋に撮影することを依頼しまして其日の殆ど三時頃其土地を出立し、山田港と云う所に向って途中磯ケイ村を経て徒歩しながら此夜何れの所に泊ろうかと云う様な心配を心に懐いて道すがら壊われたる建物を調べつつ進み往ったでございます、
途中間口三間に奥行五間ばかりの藁葺の家が表から奥へ二間の間は地廻り以下を悉く流失せしめて唯圍爐裏に吊下って居る所の竹の自在のみ残ってある家を見た、藁葺の家は屋根の重量も軽いものでございますから二間位の持出しは出来るものか知らぬが、どうも私が算盤上で考えて見ると如何にも無理そうなことではないかと考えますに二間の所が屋根が依然としてあって持出されて建って居るとはどう云う加減であるか私は一向考が出来ずして其土地を去ったことでございます、
此日は小路十六里ばかり即ち大路八里を徒歩して豊間根と云う所に至って村役場から徴発的に宿を得まして幸い雨露に打たれずして夜を明すことが出来ました、
此宿の主人は元村長であって澤田某と云う少しく話の分る人でございます故に海嘯当時の話を聞きたいと求めましたが此豊間根と申す所は海から余程離れて居ります所でありますから別に御話する程のこともないが私の家の親戚であって是より三里程離れて居る重茂と云う所の西舘富弥なる者の家は全村流潰に帰しましたけれども其家のみ破壊せずに唯老母一人と牛一頭を失うたのみで其家の家族は一命を全うすることが出来たと云う、今其人の話したる大要を茲に申述べようと思います、
其家は正東に面して東南のみに土台を用いて他は玉石に真接に柱を建てて梁間四間半桁行五間、台所は半潰となって居りましたが本家即ち五間の一棟は原形の儘西に向て凡三間移動したばかりで又同家は突出
したる山■の下に建ってあって殆ど全村の建物が流れ来って其家に衝突しては壊われ、衝突しては壊われ、実に見るも面白き程の有様に全村の家が流れ来っては其家に障害を加えたそうでございます、左様に大なる傷害物がございましたにも拘らず、此建物に限って少しの痛みもなかったと云うことは只管、家屋の堅牢に造ってありし賜であると主人は深く感謝して居ると云うことでございました、更に進んで其建造の年月を聞きましたが凡百年前に建築したものであって木材の寸法構造法のことを聞きますに土台は栗であって六七寸角、柱も栗で四寸四分角、樌は杉で四寸四分に一寸二分のものをニ尺間に用いて腰堅めは栗材であって中には松材もあるそうですが四寸五分に三寸のものを梁間に用いて根太は松丸太の五寸以上を両端蟻掛けに致して腰堅めへ三尺間に組付け床板は松の八分板を實矧ぎに張って柱材の配置法は座敷廻り四ヶ所に二間の振放しのものがあるに拘らず其壁の着けある部分は西に面して床の間及押入を備うる為に周らしたるものを存するのみで他は悉く開放された構造であったそうで、加うるに壁は総體土塗の由、長押は杉材を以て、此一棟は何れの間にも用いてあったそうであります、家の高さは十五尺で地廻り及び梁材は松を用い、母屋は杉、屋根勾配は三寸五分、小舞は杉を用い、屋根は栗の柾板(巾五寸厚五分)長一尺二寸を以て四寸足に葺いて、何れも此地の葺き方は釘を用いず栗石の五貫目程のものを一坪に一個づつ置き、それに小石を交ぜ合せて重量となし凡そ其坪に受くる所の目方は十七八貫目もあるそうであります、尚如何なる有様で水の侵入を受けたものであるかと聞いて見ますに最初東側の雨戸を外ずして座敷の仕切戸に支えられてあるかと思うと、間もなく其建物が移動を始めて水は既に床上五尺の高さに嵩み、主人は家の中で浮みながら二階の根太に取付いて階上に遁れ漸く家族を救上げたそうでございます、それから此図は其人が村の地形又村の建物の配置等を書いて詳しく説明をして呉れたものでございます、流失家屋の中で吉川嘉伝治と云う人の建物は凡そ五十年前の建築に係り当時大名の宿に宛てたもので甚だ堅牢に造られたものの由でございます殊に家屋の大さは西舘と云う村長の家の大さより一倍程の大さなりしも全家屋が浮んで来て此西舘と云う人の家に突当り家は四分五裂となって破壊したる由、聴くほど面白き話に思わずも夜を深かし一時過る後ち寝所に入り翌日はどうか重茂村に往って実地研究したいと思う考の中に夢を結びましたが、翌日は雨天でございまして山路六里の徒歩は一日を費すこと、帰京の急がるる身として不適当なる企であると断念いたしまして山田、船越、吉里々々等を経て雨中十二里の山坂を徒歩して大槌と云う所に泊りました、
此道中に在る山田港は一の宿駅でございまして市街の両側は整然たる廓をなして其市街入口の大抵の家屋は在形の儘唯地盤より一二尺移動をなして居るばかりなるも市街の中央以南に至りますと悉く破壊流潰の跡のみであって中に英吉利下見の間の子西洋館を見受ました、是は其地の警察署であったそうで被害地には珍らしい建物がございましたからそれに就て親しく見るに地盤の石垣から家屋の移動して居ることがニ尺位も離れて居るかの様見受けたが、只二三枚下見板が離れて居のみで家屋全体には少しの傾斜もなくして他に於ても異状を見出し得ぬでございました、是まで途中にて屡々目撃して大に参考となるべき者であると記憶して居るものは流失家屋跡の地面、瞭然家の大さと、庭の位置とを示して居ることでございます、そうして此山田に於て見ます所のものは実に其の如く同じ様に跡を遺して居ることは実に見るにも奇麗なる思いをなす位でございましたが、此位置が残り庭土の残って居るのはどう云う為であるかと云うに突固めたる玉石の周囲の土が固くなり、踏固めたる庭土の固くある為に依然として旧形を存して居る訳でございます、又街道の中にも決潰して居る所は一向に見なかったが道路に接して決損して居る部分は只水が高い所から低い所に落ちる場所は、何所でも深く掘れて居るのを見ました、是等に依て見れば人造地盤も強ち望のない者ではないと云うことを確めるでございます、
船越と云う所では実に見るものはございませぬでした、是は被害地中最も惨状を極めたそうであって、地勢から云うと外洋に突出して居る場所で、他の所は二回三回の浪涛の為に流れたそうでございます、けれども此船越と云う所のみは第一回の浪の為に全村を流して仕舞ったそうで、死亡者の如きも村の割合に多くあるそうで実に村役場で僅かに残された人々に顔を合わすは涙を以てする程で申すも憫なる有様でございました、
偖此土地に不思議に一軒残った建物のあるのを見ました、夫れは六間四面の寺院であって、此寺院は屋根までも水が着いたそうです、けれども僅に壁を洗い落したばかりで全家屋に異状なく然かも玉石の上に依然として残って在りしは誠に堅牢なる建物なれば海嘯にも充分なる効力のあるものであると云うことを確め得ました之を思えば自分が山坂の困難位いは少しも厭う筈はない、将来の海嘯は今日の建築者に由て必ず其被害の度を減殺することの出来得るものと大に元気を得た訳でございました、
それから吉里々々と云う所を過ぎまする節に取片付けてございました木材或は組立てられたなりの屋根がございまして之を調べましたに柱は矢張り以前申しました様に四寸四分から五寸までのものが用いてありました、■は東京辺りの物から見ると余程大きな■が附けてありますけれども悉く其■の附際から折れて居るのを見た、小屋束の如きは梁の上に送り蟻に致し上■は割楔で堅牢にしてございますから依然として屋根の形を残して居る、之に依て見ると仮令柱に■を設くる仕法を探るも其の為に柱材の弱ると云うことなくして家を丈夫にすることが出来ましたならば必ず其柱の大さ丈けは耐えることであるを確めました従来の構造法所謂切組法なるものの不完全であることを此土地に於て一層感じたでございます、
大槌は海から離れて居りますし是と云う物を見ることが出来ず、且つ其日は十三里も歩きましたこと故に非常に疲れて居るから何も見ずして其所に泊り、翌朝早く又山坂を越えて釜石の港に急ぐようなことでございました、
釜石で私が見ました建物は別段是と云う異ったことはございませぬ、土蔵の如きも鍬ヶ崎で見ました様に腰巻を悉く洗い流して或は切根石が不完全の為にいざり出して居ると云うことの外、別に是と云う異状は見なかったでございましたが、此土地にございまする尾崎神社と云う社の華表が折れて居るのを見ました、是は余程の力のあったものでございますが、仮に県庁の技師が測量した図面を持って居りました写して持帰りましてございますから後とで御覧に入れますが、ちょっと大体に就て申します、華表は花崗石で出来て居て、径が一尺三寸、高さ十四尺あって随分堅牢な華表で中々水の力位で折れそうもない様に思われますが、此華表が根元から折れて、笠石が一番遠方に往って居りました、柱はそんなに遠方にも往って居らなんだが、角なもので転げて行くことが出来まいと思わるる笠石が四十八間六尺の所に流れて往って居る、柱は一本の柱が十六間五尺、一本が十四間五尺、それから一本の折れが僅に五間ばかりの所にあったでございます、此尾崎神社は四方に木がございまして恐くは木の為に水が激して此石を折ると云う様な力になったことであろうと思います、此笠石が遠方に流れて居ったことは恐く上から落るまでに是だけの距離を要したことであろうと思う、其華表の石も私がかき取って此処に持って参りましたが、黒胡麻の甚だ多い花崗石であるけれども随分質の硬い石であるかの様に思われる、
釜石では私は是と云う建物を見なかったでございましたが、町長の依頼に依りまして釜石に建てる所の家を考えて貰いたいと云うことでございますから一日の滞在を為しまして私が考案しました所謂新式大工法を以て釜石地方に之を応用する為に其局部の図面等を拵えて之を町役場に残して参ったでございます、
此釜石に於て私が深く考えましたことは、どうか海嘯地で建物の堅牢であることを冀う人に向って標本家屋を其各地に拵えてそれを見本として家を造ると云う工合にしたら将来彼の土地に海嘯のございました折りに良き試験を為すことが出来ると思うて自分が東京へ帰った後はどうがなして此地に再び参りまして、そう云う建物を造り残したいと云う考を有って帰ったでございましたけれども、東京に帰ればそれそれ又追われることもございまして今日になっては殆どそう云う考が無くなって居ります、
偖此海嘯の如きものは実にそう度々あるものでございませぬけれども、彼年々各地に於ける水害に就ても堅牢の家を建てて置いたならば、ああ云う様な大きな損害も無し且つ人名を失う様なことは必ず無いであろうと考えます故に海嘯地に斯う云う運動をすると云うことは間接に損害を受けぬ人に注意を与えることであろうと深く信じます、願くは唯今私の申述べましたことは甚だ不完全な事柄で、且つ御参考になる様なことを取纏めて申述べることが出来なかったでございますが、堅牢なる所謂耐震家屋は洪水にも効力のあるものであると云うことを世人に知られると云う其目的を以て所謂其民度に適した所の家を造って之を各地に実行する如き周旋の労を御執り下さることは此建築に直接関係を持って御居でなさる所の諸君が任じて為して下さらなければならぬことであろうと思います、それで此処に買求めました写真等を携帯して諸君の御参考に備えようと思うて罷出でた次第でございます、
尚お新家さんも後に講演せらるると云うことでありますから図面を書いて御覧に入れたいものもございますが、それは又他日に譲ることと致しまして今日は是で御免を蒙ります、
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論評
○会長(横河君)唯今の御演説に就て御質問がございますれば………御質問がございませぬければ私が一つ御質問いたします、道で藁葺の家を御覧なすって、半分取れたとか何とか能く分りませぬでしたが、
○答(伊藤君)それは五間の奥行の家で、表から二間の所が衝突して取れて仕舞ったのであります、
即ちこの部分が取れて二間のところは柱なしで茅葺屋根を持って居る、これに竹の自在が掛ったなりでこの下に囲炉裏がある、桁は一本の方はここで継いでありまして一本の方はこの辺で継いでございます、どうして持って居るか分らぬ、
○問(横河君)水の跡は………
○答(伊藤君)水の跡は見えませぬ、尤も新しい家は分るが、古い家
は跡が分りませぬ、
○問(横河君)西舘とか云う人の家ですがどう云う風に造ってあって免れたとか、樌がニ尺間に這入って居て総体の壁ですか、
○答(伊藤君)総体の壁ですが、壁と申しても先刻の御話する通り、斯う云う様な家でここに壁があるばかりで、ここは開放してある、この雨戸が外れてここの中仕切の帯戸に当ってこの帯戸が離れた為に家が動き始めた、こちらに下家があってこれは半潰で、これだけが三間動いた、
○問(横河君)それから山田でしたか、其市街は皆一二尺つついざって居ると云うことでありましたが………
○答(伊藤君)山田の市街が海嘯の来た方向と「ライトアングル」になって居ったからそれで同じ様に寄って居る、此方の側が一尺寄って居れば向う側は五寸位しか寄って居らぬよう見受ました、
○問(横河君)水の這入った高さが出て居らぬ様でしたが………
○答(伊藤君)二階床に著いた、けれども水が著いただけで家を動かしたのではない、
○問(横河君)一番酷い船越の寺院とかが一つ残った、屋棟まで水が来たと云うことでしたが、瓦は………
○答(伊藤君)瓦では柾板であって所謂桧皮葺………
○問(横河君)鉄とか石とか泥の様な性質のものは上って居らぬのですか、
○答(伊藤君)ちっとも上って居りませぬ、
○問(横河君)それは水が屋根まで来たに拘らず土台はいざらぬのですな、
○答(伊藤君)だから中に掘立柱でもありはせぬかと思う、真柱とか何とか掘立で這入って居らぬかと思いきす、
○問(横河君)水は一時に激して屋棟まで上ったのではないのですか、
○答(伊藤君)是は低い所で六間四面の建物で屋根も高くない、低い家の中にあるから高くは見えますけれども、そんなに高いものでない、船越は他の部分よりは余程海に出て居る所であります、
○会長(横河君)別に御質問もない様でございますが、伊藤君が此海嘯の御研究に御出でになって精細に御調になりまして私共それが為に利益を得ることは非常なことであると思います、同君が平素諸種の天災に対する建築に就て非常なる熱心、綿密なる注意等を以て研究さるることは私共大に謝する所であります、殊に本夕は此大なる災害地の建築を研究的の目的を以て御忙しきに拘らず出張して御取調になった所の有益なる御演説を諸君と共に拝聴しましたのを会員一同に代って謝します、其誠意を表する為に拍手を願います、
(一同拍手)
是れで閉会致します、
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雑報
○工事入札片々 東京其他に於て諸官庁工事の先月末より本月末迄に入札に付せられたる工事の一二を挙ぐれば
東京郵便電信局第二回修繕工事、東京砲兵工廠蒸気場、同木蒸場等なり