緒言
抑天災地変は一にして足らずと雖も蓋し其の惨毒を極むるもの海嘯より甚だしきはなし回顧すれば明治二十九年六月十五日の夜我が宮城県本吉桃生牡鹿等の三郡沿海一帯の地方古今稀有の一大海嘯あり其の被害の惨憺凄愴なること今にして之を憶うも尚且つ悚然寒慄せすんはあらず夫れ当時の景象たるや黄霧四方に塞がり澹雲鎌月を□め須臾にして微雨粛然として至り又乍ち晴れ四望転た凄然たりしも
海上風穏かにして波瀾駭かす敢て平常と異なることなし是時に当り誰か復た頃刻の後一大変事の暴発し幾多の生命財産を挙て之を殄滅し殆んど遺子なからしむるの惨事あらんことを予想せんや矧んや時恰も陰暦端午の佳節に当り僻陬の習俗未だ旧慣を脱せず親戚知己互に相招応し晏飲歌笑和気藹藹の間に団欒快楽し平日の労を慰するの時に於てをや嗚呼彼を想い此を思えば人生の常なき真に槿花朝露の嘆なくんばあらず豊悲愴惨憺の極ならずや
是日夜来降雨漸く滋く四顧黯澹風物最も凄愴たり時に□鞳たる涛声忽爾陸地に逼り来り其響き千雷の一時に降落せるかと疑わる是に於て幾万の人民は急遽の際其何事なるかは固より分明せされとも急遽狼狽しそれ大事よと云う一刹那山の如きの波涛空を捲て来り宛然屑巒畳嶂の傾倒せるが如く其勢いの猛烈なる何人も其席捲呑噬を僻くるに遑なく一瞬時間数十方里の陸地は桑田碧海と変し数十万の家財と数万の生霊とは激浪怒涛の為に摧壊殄滅せられたり嗟呼天下惨事の大なる豈復た之に加うるものあらんや而して此惨劇は実に我が三陸に於て演出せられたり是れ洵に古今稀有の一大災変にして後世子孫の長えに記憶すべき所なり且つ又此の奇変に就き畏くも 聖天子皇太后皇后三陸下を始め奉り各宮殿下の御下賜金及び公私仁人義士の義損金等は罹災人民の須臾も忘るべからざる所すなわち彼是を綜合して一部の宮城県海嘯誌を編成し永く紀念に資すると云爾
宮城県海嘯誌序
覆載之間。□災不一.而其禍之最鉅者。為地震海嘯矣。荒歉疾癘。其厄雖大。済之療之。有法有術。独至地震海嘯。則防之無策。備之無道。土□水立。変起不測。屋舎田畝。転瞬之頃。流蕩夷滅。至赤地千里。不駐隻影。其禍豈可勝言哉。明治廿九年六月。三陸之東。瀕海之邑。地震。継以海嘯。段々之声。震天撼地。波洪瀾。雷犇電駛。呑邑里。没閭閻。壊山嚢陵。人畜死亡者。以万千敷。余以当時官宮城県。職□民社。聞其報也。直定部署。督県吏。傷者則療焉。死者則□焉。生者則賑焉。規□処置。日以継夜。事閲数月而止。蓋其害渉宮城青森岩手三県。而岩手為最甚。宮城次之也。余将編一書。詳叙災害顛末。□往垂来。以資後日救急之参攷。適以遷任新潟。其事遂不得果焉。厥後県之長民者。雖□経更代。皆本余宿意。編纂有継。漸成是書。是書自当時事変之情状。興事後救済之方法。以至海嘯之原由等。條分件繋。□為四門。采択頗富。援据極確。其用心洵可謂厚且勤矣。今歳今知県某君。遣人請序於余。以余嘗当其事。義不得。不得弁。願余以率県吏。巡視災害地方也。往々見積尸累々横路。而村民之幸免死者。彷徨東西。号泣南北。尋父呼子之声。聞数里外。至今思之。猶使人不寒而慄矣。書中所載。一字一涙。有不堪卒読者。不知世之観是書者。亦当灑幾行悌涙也。序畢。蒼然者久之。
明治三十六年四月上浣
凡例
一、 誌編纂の目的たるや一は海嘯の惨状を仔細に記述し長く世人をして当時の海嘯が如何に猛烈なりしかを知らしめ併て其の起点及原因等に就き専明家の考説を列記して斯学者の参考に供し一は海嘯の及ぼしたる惨害は単に被害地の一部に止まらず延て全国一般の災害となり上は 至尊皇太后皇后三陸下及び各宮殿下の恩賜金となり又は政府の救済金となり下は各仁人義士の義損金又は義贈品となり其額積て数十万の多きに及べり故に之を各被害者に配付したる順序より救急及び善後の晝策に係る顛末を詳述し以て当局者の職責に晝したることを明かにせんとするにあり
一、 本誌編纂の□例を大別して災害、窮理、救済、雑篇の四章と為すすなわち災害篇は海嘯災害の実況を詳述し併て海嘯に伴う諸般の惨状を付記し窮理篇は海嘯の起点及原因等を列挙し救済篇は恩賜及救済金義損金品等の配付備荒儲蓄金支出の順序又救急保護及善後の晝策より官民交互尽力の顛末等を記載し雑篇は行賞及被災総額等を掲けたり
一、 右四章の外尚お蓋ささる所あらんことを慮り別に付録を設け被害地の実況と併て岩手青森二県の惨状を略述して本分と対照せしめ且生存者の逸事惨話を叙録して総か参考に資し看者をして遺憾なからしめんとす
明治三十六年四月下浣
編 者 誌
第一章 災害篇
(第 一) 海嘯の景況
明治二十九年六月十五日三陸地方東海岸に稀有の大海嘯ありて我が宮城県本吉桃生牡鹿三郡は殊に其惨害を被れり而して其海嘯襲来の時刻の如きは事意外に出て急遽狼狽の際素より精確なる能わずと雖も本吉郡沿岸は凡そ午後八時十分前後に於て最も猛烈なる惨害を被り桃生牡鹿の二郡に至りては是より稍や後れたるものの如し陸軍陸地測量部に於て牡鹿郡鮎川村に設置しある自□潮儀の証する所に拠れば激浪の同所を襲いしは午後八時三十分にして海嘯の最も激烈ないしは第一回より第三回に至るの間なりき其の後尚お絶えず襲来せしと雖も潮勢い漸く衰え第三回以下は敢えて著しき被害なきものの如し蓋し狂瀾怒涛の屋宇を捲き人畜を奪い極めて暴勢を逞わせしは概ね第二回の海嘯にあり而して潮波の進退か如何に迅速なりしかば左に記する陸地測量部牡鹿郡鮎川村潮候図に依り其一斑を推知すべきなり
今此の図に就きて其波状の如何に熟視すれば午前中は寔に平穏なる海面の景況を呈し午後八時二十五分に至りて満潮の時なるにも拘らず俄然として約子二十珊米(我か六寸六分)許りの退潮を示し同三十分に至りては突如として襲来せし激浪は一米四十(四寸六分)餘りの高度に昇り凡そ五分間にして降下し以後四五分毎に一昇一降其状宛も不規律なる鋸歯の如く或は駢列せる犬牙の如し同九時三十分同五十分の二回は殆ど等高に達し同十一時に於ては二米(六寸六分)許り高昇し此際に於ける海嘯の高低差は二米七十(八寸九分)にして激浪の形状時を移して次第に其高さを減せりと雖ども平常の海面に復したるは尚数日の後にあり
一、 (襲来の速力)本県東海岸一帯の地は海嘯概子東北面より襲来せること其被害の大小と波浪侵入の高低とを按ずれば容易に之を識認することを得えし
ニ、 (激浪の速力)三回の激浪相続き襲来したる間は十五分乃至十八分の時間にして一去一来の間平均僅かに五六分に過ぎず而して数百の民家を粉砕し数千の生霊を奪い去りて更に隻影を留めさりしは実に此の一瞬刹那の間にあり今左に二三の事実を列挙し以て当時激浪進退の速力最も著大なりしことを示さん
一、 本吉郡歌津村字湊浜に古来畳石と称する粘板岩あり湾の中央にありて高さ三尺長さ六尺幅六尺五立方積大目方約子百七貫あり平生は水面下凡そ五寸許にあり(干潮の時)漁夫若しこれに艪を触れれば終日漁獲なしとて常に警戒を加え居れり然るに該岩は激浪の為め旧位置を距る二百余間の陸上に打ち揚げられたり
一、 同郡十三浜村字大指に於ても俗に長線岩と称する高さ一丈余の岩石海中に在りしか是亦激浪の為め転倒して上下其位置を変えたり
一、 同郡唐桑村字大沢加茂神社は激浪の為め西方へ二間許り土台を離れ退却せしか其社前の大なる石燈篭は笠石及台石と共に旧位置を距る西方二十間の処に流されたり
一、 同郡戸倉村字水戸辺村上源吉の妻は第一回の激浪に押流され第二回の激浪に打戻されたるに其間僅に二呼吸に過ぎさりしと云う
一、 海嘯調査委員伊木常誠氏は波浪の速度を計算して左の如く立言せり宮古測候所の報告を見るに地震を始めて感じたるは六月十五日午後七時三十二分零七秒にして同八時零七分に至り一大波浪押寄せたりと雖も此以前八時頃既に増水したりと云えば其時差は約二十八分にして此時間に波浪は百五十里内外の距離を進み来れるなり(但し地震は斯る距離を進行するには僅に十秒を過ぎさるを以て茲には地震を感ぜし時を直に張ろう発作の時刻と見倣すとも敢て大差なし)又起点布哇ほのるる間の距離(大凡三千五百里)及宮古ホノルルに於ける津浪襲来時刻の差(十五時間と二十分)とにより海深を一様のものと仮定し計算を為すときは平均一時間約二百四十里の伝播速度を見るべし之を安政年度殆ど日本全土を震動せる大地震の時に起りたる津浪の速度(一時間三百五十八里)に比すれば較小なるが如し
三、 (海嘯の波長)海嘯の波長は性格に徴すべからずと雖ども必ず二三千間の長さに亘りたるなるべし然らば其傾斜は極めて著しき鈍角を為して海上船舶には毫も動揺を伝えざりしこと亦左の事実に依り之を知るべし
一、 本吉郡唐桑村字只越の漁業者亀谷市之助は六月十五日午後三時磁針を寅方に取り沖合凡五里の処に至り〔流し網〕を卸し鮪二本を捕獲し翌十六日天明帰航したるに前夜半頃酉戌の方面に二十分間許り汽船の進行するか如き音響を聞きたるに依り海中に卸せし網二十反の内十反を引揚ぐる抔専ら之を避くるの準備を為したるも汽船は遂に来らず爾後一時間許を過ぎ陸地各処に火光を認めたるを以て火事ならんと思いしのみを終夜別に異状なかりしと云う
一 同郡同村字大沢なる熊谷丹蔵は熊谷八重治の舟子に雇われ八重治と共に六月十五日凡二里許なる対岸岩手県気仙郡広田村字赤沼に至り桑葉を購求し合木船に搭載して日暮該地を発し航海中赤沼を距る五百間許りの処に於て沖合海底に雷の如き音響を聞き又海岸に亘り同様の音響を聞きたるも海上は依然として平常に異ならず殊に当夜は雨強く霧深かりし為め其何たるを知らず然るに大沢海岸を距る五六百間の処に於て少女の泣声を聞きしのみならず数多くの家財流れ来れるを見て或は陸地の洪水にあらずやと思考しながら船を進め陸地に近づくに従い波浪漸く荒く船の動揺従いて甚しく時に或は材木に縋り或は乗り漂流しつつ助命を乞うもの多きを見初めて陸地に容易ならざる災害ありしことを知り乃ち搭載の桑葉を悉く海中に投棄し穀田伊蔵加藤酉造伊藤トシ加藤亀助伊藤ハル小松源次郎加藤カチノ八名を救助し上陸せし八重治居宅は海岸に遠き高処なれば幸いに被害なかりしも丹蔵の居宅は海岸なりしを以て悉く流失せしのみならず妻子四名も亦溺死せりと云う
一 同郡同村字馬場漁業者鈴木四右衛門は六月十五日正午より〔流し網〕を以て鮪漁の為め磁針辰巳の方面に取り海上凡そ八里の処に至り網を卸せしに波浪恬静別に異状なかりしか午後八時頃海底に遠雷の如き音響を聴くこと二回に及び何れも奇異の思いをなせし折柄又汽船の疾航そ来るが如き音響あるを以て其衝突を避くる準備をなせしも遂に来らざるのみならず却て倭形風帆船三隻の走り来れるを見しかば一同□疑惧の念を生し或は俗に謂う亡霊船ならんとて念仏を唱え居る中何時しか其帆影失えり(是れ或は海嘯の高波を誤認せしにはあらざるか)須叟にして陸上各所に火光を認めたるを以て或は火事ならんと思い遂に網を揚げて帰帆の途に就き翌十六日午前二時頃海岸を距る約二十間の処に投錨したり時に霧深く陸上の景況を知るに由なかりしも天明に及で望見するに自身の家屋は既に影だに留めず仍て必定焼失せしならんと思い驚愕しつつありしに忽ち陸上より海嘯大災なりと呼ぶものありしを以て始めて其災害ありしを知り梶X上陸せしに家族十四人中六人を失えりと云う
四(波浪の高さ)被害の最も激甚なりし場所に在ては波の高さ二三丈に及びしものあり蓋し其高さは沿海岸の地勢殊に港湾の形状湾口の方向及海岸に近き海底の深浅に依り随所一様ならずと雖も概子北部の海岸は高く南行するに従いて次第に低下するを見る是れ襲来の中心点を距る遠近に伴う自然の状勢たるを免がれざるなり今本県土木課の測量に係る高位表を左に掲く
此表を通観すれば本吉郡小泉村今朝磯浜の四十四尺最も高く歌津村石浜の四十一尺之に次ぎ唐桑村小原木ノ内只越、同村後馬場、同村前馬場、同村笹浜、同村滝浜、大谷村赤牛浜、同村前浜、歌津村名足浜、同村中山浜等(以上皆本吉郡に属す)は孰れも三十尺以上に達せり
(参照)岩手県の沿海岸に於ては浪の高度遥かに本県に過ぎ気仙郡吉浜の如きは八十尺の最高位に達し其他概子三四十尺の間にあるもの多し
斯る高波の押寄する異なれば其勢恰も高嶽の屏立するが如く其傾倒するに当てや万雷の一時に堕落するが如く之れに触るるもの争が能く其博撃呑噬を免がるることを得んや
五 (潮浪の光明)潮浪に一種の光明あることは常に航海者の唱道する所なるが本吉郡唐桑村字小鯖の漁夫小松留八なる者当夜海嘯の襲来するを以て軍艦なりとし燐光を認めて艦上の電気灯なりと思惟せりと云う
六 (海嘯前後海上の有様)海嘯前にありては海上更に異状を感ぜず却て平常よりも静穏なりしとは一般近海漁業者の語る所なり而して一旦狂瀾怒涛の退くや其の後一両日間は断えず海潮穏かならざりしも時移り日を経るに従い波浪自ら平穏に帰せり
七 (海嘯の音響)海嘯の来るや其の前凡そ十分時(短きは五分と云い長きは五十分なりと云うものあり)東方に当り一種異様の大なる音響を聞くこと数回(二回なりとも云い三回なりとも云うものあり)而して又其の音響は人に依りて感ずる所各異なりと雖ども約ね左の数種に出でず
一、巨砲を続発せるが如し
二、雷鳴の如し
三、高山の崩るるが如し
四、強風の吹き来るが如し
五、数艘の汽船疾走し来るが如し
六、遠く汽車の進行するが如し
右の如く各自の云う所一様ならずと雖ども中に就きて第一種の発砲なりと思惟せるもの最も多く雷鳴なりとせるもの之に次ぐ蓋し当夜は陰雲四に塞かり絶えず降雨ありしか為め斯くは思惟せるものならん歟而して此音響は果して何処より来れるものか人或は地震の響にてもありしが如く想像し之を以て海嘯の前兆となすものあり然れども想うに這ば震響にもあらず亦前兆にもあらずして高浪空を衝き轟轟鼕々として来りし音響にて其中或は他の海岸を衝き汀涯を崩し屋舎を壊りたる凄まじき音響亦は混同したるならん歟何となれば音響の回数と海嘯襲来の回数と略ほ一致するのみならず海上に出漁せし者は多く其音響を陸地の方面に聞けりと云うを以て之を証すべければなり而して此音響は県下各郡を通して巨砲を放てるが如き一種の鳴動を感ぜしめたるのみならず遠く山形秋田の地方にても之を聞けりと云う

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(第 二) 海嘯前の兆候
海嘯数日前より天気一般に陰鬱にして嵐なく温度概子平均を占め十四日に降雨ありしのみにて別に著るしき異状を認めざりき海嘯の当日即ち十五日は朝来甚だ静穏にして黄霧あり時に少しく降雨ありしか午前九時頃雲霧全く霽れ同十時頃より時々雲間に日光を漏らし次第に晴天に赴き少しく南風ありて温度は頗る上昇せり午後零時四十分南西方に遠雷を聞き午後二時頃には八十度内外の温度となり本年以来第一の高温なりき午後四時頃より又曇天となり屡降雨あり甚だ静穏なれども一晴一雨恰も秋空の如き天候にして夜色何となく惨憺たり今左に当日前後三日間の気象観測表を掲げて参考に供す
一(潮水の干退)海嘯の襲来前には潮水干退するものなりとは古来一般に伝うる所なるか今回の変災にも亦到る所此のこの事実を聞かさるはなし今左に其状況の一斑を誌す
一本吉郡唐桑村字大沢の農夫吉田忠助は当夜海岸に居りしが海嘯の襲来する前海岸三十間許の間潮水退けるを見たりと云う
一同郡御嶽村字大沢付近の海面は当日午後三時頃稀有の大干潮にて平時十尋余の深さを有する辺までも干潮となりたれば老人輩は或は異変の前兆ならんとて憂慮したりと云う
一同郡志津川付近に於ては海嘯の当日古稀の老人も曾て覚えざる程の大干潮なりしのみならず未だ曾て見たることなき海底の凸凹を呈せりと云う
一同郡十三浜村字白浜の農夫佐藤惣治の語る所に依れば同浜の干潮は平常五尺位なるに当日は八九尺に及べりと云う
一同郡同村字大室の漁夫佐藤六助は当日三十年来見たることなき干潮なりと云えり
一桃生郡十五浜字雄勝に於ては海嘯の当日午後三時頃より対岸なる舟戸に徒渉し得べき程に海水減少せしを以て人々奇異の想いをなせりと云う
以上の事実に據り之を考うれば当日黄昏は満潮の期なりしにも拘わらず海潮の大に退きしことは疑うべからず然れども退潮の時刻に至りては明らかならず又当時里人の之を知る者少なき点より推考すれば日全く暮れて午後七時二十分頃より始まりしものの如し而して海嘯の襲来は八時十分前後なるを以て其干退の時間は三十分に過ぎざるべしと云う
二(退潮の距離)以上列記せる事実に據て之を考うれば少なきは二三十分間より多きは二三百間に至れるならん然れども咫尺を弁せざる暗夜なりし故其精確なることは得て知るべからざるのみならず亦大に海底の深浅にも関係し且つ遠浅の地は其距離大なれども急深の所は其距離小なる等土地によりて各不同なるべきは勿論なるが故に今茲に確言し難し
三(退潮の理由)海嘯前に潮水の干退することに付きて古来許多し説あれども其実際に近しと考えらるるものは一は海岸に地震発作の際土地の稍々上昇するに帰し
一はダーウイン氏の唱うる所なる蒸気船が海岸を通行する際起これる波浪は静水面にありて斜岸に達するに最初干退すると同一の事情に由るならんとの説なり
而して今回の場合は蓋し後説に帰するものならんか(伊木常誠氏の報告)
四(井水の異状)地殻に一大変動あれば其の際湧水井水等に変化を及ぼすことあり是れ地下水脈の断絶若くは壓迫せるるのに因るものにして今回も亦多少其の形跡あるものの如し
一牡鹿郡大原浜にては津浪前(時日不明)井水の量一尺乃至二尺減退せしものありしと云う(伊木氏報告)
一本吉郡歌津村字伊里前にては海嘯十数日前より井水は白濁色に変じ之を掬するに恰も石油の如く稍薄紫色を呈せしか海嘯後に至り旧に復せり此井水は八月三十日強震の前にも亦之と同様の変化を見たりとて同地の尋常小学校長は其のお実際を物語れり
当日海上に異状なかりしことは前項漁夫の直話等にて明瞭なり而して又当日漁獲上に於ても別に変象なく場所によりては却て漁獲多かりしが如し現に本吉郡唐桑村の漁業家鈴木禎治は年来東海の鮪漁を営む者なるが同人の語る所
に依れば本年春季の如きは金華山沖より岩手県沿海に至るまでの間魚網の利極めて少なかりしも其の以南網地嶋の方面に於ては実に未曾有の大漁ありき是れ漁業上大に例年と異なる現象なりとす尚お当時某新聞の報ずる所に依れば大海嘯あると同時に東京湾には鮪群集して非常の大漁ありし由蓋し是れ海嘯の為めに追われしものか将た其の前に避けて行きしものか奇と謂うべし云々
第二章 窮理篇
(第 一) 海嘯の起点
海嘯の起点は其の原因の如何に関らず孰れも本県と岩手県と境界相接する辺に当て即ち東方太平洋中に在りとすることは殆ど一定の説なるが如し蓋し海嘯の区域に就きて其の被害の大小と波浪襲来の方向とによりて之を考うれば何人も其の理の当然なると首肯すべし然れども其の位置の測定に就きては多少其の意見を異にせるものあり即ち左の如し
一陸軍陸地測量部に於ては予て本県牡鹿郡鮎川村の外北海道根室国花咲郡花咲村及び神奈川県 相模国三浦郡三崎町に据付けたる験潮儀によりて当日の波動を験し左の如く立言せり
一海上当日に於ける波浪の景況を察するに銚子以南には余威の幾分を感ぜしのみ鮎川と花咲とに就きて時刻を案ずるに殆ど二十分の差異を以て激変を現わしたり故に波動の速力を同等なりと仮定すれば其の原因は釜石の東方なる太平洋中に在りしものならんか而して右に二箇所験潮場の地勢は殆ど同一なれども鮎川に於ては最初退潮を感じ次で進潮の攻撃する所となりしは花咲と少しく其の趣を異にせり是に因て之を観れば海嘯の起点は乙地(花咲)より甲地(鮎川)に稍々きが如し何となれば高波侵入の時間に約二十分の差異あるのみならず最初退潮をじ次て激浪高潮となりし差異あればなり
一伊木常誠氏は海嘯の起点を其の襲来の方向より考査して東経百四十四度三十分北緯三十九度の近辺即ち国気仙郡吉浜の正東約百五十里内外(大凡我六十里)の所にありとせり
岩手県宮古測候所は海嘯の原因を海底地震に帰し而して其の起点を考定して曰く
一震原は何処なるやは未だ十分の材料を得ざれば推算し能はざれども概ね海岸を去る三十里乃至三十五里辺にありしものの如し即ち本所に於て明治二十七年三月二十二日観測せし結果並に一昨年根室大地震の際本所に影響せし地震津浪等の成蹟に依て概算を施すときは本所より東南に方り大凡東経百四十五度北緯三十九度の辺に震災ありしものなるが如し
(第 二) 海嘯の原因
抑海嘯の原因は種々あれども其の主要なるは地震に因るものと海中火山の作用に基くものとの二種なり其の他或は暴風によりて起るものあり或は潮流河水と相衝突して余勢陸地に汎濫するものありと雖ども要するに今回の海嘯は此の終りの二原因によりて起れるものにあらざることは論せずして明かなりm最初の二原因に至りては果して何れを取るべきや学者各其の見る所を異にし未だ格乎たる定説なし仍て今左に両様の推論を歴記し以て他日の参考に供せんとす
(第一)地辷地震即ち断層地震を以て原因とする説
是の説は我が東海中第一の深海と称せらる「タスカローラ」海床と三陸に近き海底との傾斜間に一大地辷を生じたるより起れりとするものにして当初世の信認を得たる頗る有力なりとす新聞紙上に現われたる三陸地方地震に関する原因説は一にして止まらずと雖ども陸地々質の構造陸地と海底との関係海底の形成海底の地質(仮想的)震動区域発 震時井水混濁に由る前兆洪水の襲来洪波の大さ洪浪の波及等の如き此地異に伴いて顕われ来れる所の諸般の事実を参量するときは其の原因蓋し地震にあること明かなり而して地震の種類も亦一にして足らざれば何種の地震か能く此現象と発生したる原因として適合なるやと案定すること必要なり若し火山力に由て生ずる海底の隆起若くは陥落即ち火山地震に起因するものと為さんか克く三陸地方沿海七十里の長に亘り同時に且稍同様の震動力を波及せしめんには其の焼点たる地動の中心点は此の沿海を距る大約四百海里の外太平洋中四千尋内外の深底を有する所にして「タスカローラ」海底の東辺に在るべきも のと為す然るに著しき地震動を初めて感じたる午後七時三十二分三十秒にして同七時五十三分三十秒に於て津浪あり其の間実に二十一分にして此の洪浪は四百海里を走れる割合となるべせい安政の地震は日本大半を震動せし大地震にして当時洪浪の太平洋を横ぎりて桑港に達したるは一時間三百七十海里又之ろい一屑の速度を以て布哇島に達したるは一線八百六十八年南亜米利加南岸の洪浪は一時間四百五十四海里なりしと云う此の両者に比較すれば三陸に於ける洪浪の襲来せる速度は殆ど三倍に達せり而して地震の強弱を推考すれば微震にして安政年度大地震の此にあらず且つ単に噴火性に属する海床の変動のみにては到底高浪の彼れか如き絶大の猛勢を発動せしむることを得ず之を為さんには必ず造山力即ち大々的地体の変動之と併発せざるべからず加之三陸罹災地方には噴火山は八ノ戸以北の地を除きては絶無の地にして其の東面の海洋中には従来の火山脈の存在することを聞かざれば火山活動を此の海底に揣摩するは些しく牽強の嫌なき能わず故に三陸地震の原因を火山力に帰するは其当を得たるものと謂うべからず
斯の如く論し来れば三陸地震の原因は自ら余す所の地辷地震即ち地体の大勢に変化を生する造山力の活動に由て発作する断層地震たるを知る三陸より北海道及千島に到る陸地東面の海床は汀渚線より水深百尋に達するな 十里内外の遠きに及べども百尋以下一千二千三千四千の深淵に達するは千島列島中得撫島の東面海中の最深なる所は四千六百五十五尋(二万七千九百三十尺即ち二里五町三十五間)あり実に富士山の高さに二倍する凹地我東海に於て東北より西南に横はるを以て日本国の東北に連なる地脈は其の東面の海底に向いて甚だ急峻の傾斜を為すことと知るべし
夫れ斯くの如き奇態の地勢を生じたるは又地体の大々的変動に由るや言を俟たす之を反言すれば地球収縮の結果より生じたる一大断層(大地辷)の曾て発作したる証拠なり果して然らんには当初地体の壓迫せらるるや数多の劈裂線を生じたるも亦理の当に然るべき所にして此破れ目の走向は東北より西南に向いて自ら陸地と併行したるなり
地体の弱点は斯の如くにして成り此の海床の痼疾となれり故に一朝地動力の其の威力を逞うするあらんには此の脆弱なる線路に沿い地体に変動を惹起せしむるものなれば輙ち今回の第惨状を三陸地方に演じたる洪浪の原因は該地の東めん急斜の海床に発動せる地辷に由て生じたる地震なりと考定するを得たり
(第二)海中火山の爆裂を以て原因とする説(伊木常誠氏)
今般三陸沿岸の特相とも言うべきは(一)浪の波及圏円状なりしこと(二)地震の極を徹弱なりしこと(三)津波の著しく強大なりしこと(四)海水の干退割合に少かりしこと等にして古来の地震津波なるものと稍々性質を異にするが如し
夫れ波浪の海上に起れるや其の大小は(一)海底の深浅(二)地盤震動の振幅と(三)海水の震動期との関係及(四)起点海岸間の距離等に関係するものなれども主として(五)其の原動力の強弱如何に由るものなるべし誠に見よ吾人が屡東京に於て感ずる所の関東平原の地震は如何、時に頗る強烈なるものありて往々去る九月(明治二十九年)の秋田地方の地震に勝ることあり而して其の震源は学者の説に依れば東京湾若は鹿島灘にありて多く地辷に帰せり然れども吾人未だ一回も津波を醸せしことを聞かず是に因て之の考うるに若し辷動地震が今回の如き大津波を起すものとせば極て絶大のものたらざるべからず而るに今般津波の起点を其の襲来の方向より考査すれば海岸を距る略百五十里の処に存在するものの如し故に若し地 盤の大々的辷動茲に起こらんか海岸に於ける僅々たる微震を以て止るべきにあらざるべし之に反して火山の活動に基く地震と局部の地震は頗る強烈なることあれども四辺に及ぼす震動は概ね微弱なるものなる彼の千八百八十三年八月「クラカトア」嶋破裂の際其の四辺に感じたる地震は甚だ弱かりしも絶大の津波を起して殆ど全地球に波及せり此れ局部の震動激烈にして海水攪乱せしに由るものにして要するに火山の活動が斯る強大の波浪を惹起する例証なり且つ今回の津浪と地震の関係能く此の減少に類するの観あり
斯く論し来たれば今回大津浪の原因は海底地盤の辷動に依て起れる所謂地震津浪に非ざるべく海中火山の活動と見做すを以て最も穏当なりと信ず勿論火山破裂伴う特相を認めしものにあらず材料の如きに至ても不完全なりと雖ども今回の事たる海底の事にして確証を得ること難きを以て勢い客観的に論定するの止むを得ざるに至りたるなり、今北上山地(地質学者「ナアマン」氏が北上川北東の地に与えたる名称)の地質構造を察するに太古屑中古代水成岩より成り花崗石閃緑岩珍岩等の深造火成岩其間に迸発起伏し之を北上川以西の火山質にして新成の地質構造を有するの地に比すれば全然其の性質を異にせり而して之れより三陸東海底の地質如何にも同一の考定を及ぼし該地方は火山活動に乏しきが如く思えども深く火山活動の状態を探り三陸沿海々底の地形を察すれば大に間然する所あるべきなり夫れ地球内部は地殻の為めに強大なる壓力を受け且つ強□を有することは夙に学者の唱うる所にして疑う可らざるものなり故に若し或る特種の事情によりて其の壓力減少せる場合には強□の為め地球内部に溶解密蔽せる岩奨若くは瓦斯体は強烈なる勢を以て迸発すべし是れ即ち火山活動にてし反言すれば火山活動なるものは地殻の累屑如何を問わず苟も地皮に薄弱点あれば之を破て行われ得るものありとす観よ太平洋周囲に幾多の火山脈あるは地殻収縮 結果許多の裂線を生じ地中の岩奨は此の間より噴出したるに由るものなり而して三陸沿海底の地形は東方百八十里内外の處に当り地殻劈裂線の東北より西北の方向に横わるありて地体の弱点実に茲に存す左れば或る情態に達すれば火山活動力は此の脆弱なる箇所を破て発作し海水を撹乱し以て三陸地方に於ける稀有の大海嘯を惹起し同時に地震をも伴いしものと論定することを得べきなり津浪波及の状圏圓を為し即ち一点より起りたるが如き形跡あるは一屑此の説を強からしむるに足るべし(伊木氏報告抄録)
因に云う陸前国気仙郡広田村小松駒次郎氏の談話に依れば氏の得たる経験に照すに三陸沿海に於ては寒暖雨潮流(寒流は俗に親潮と称し、暖流は即ち黒潮なり)ありて毎年春秋の二回変更期あり春より秋までは暖流の期とし南方より北方に向い秋より春までを寒流
の期とし北方より南方に流る而るに本年五月の候には暖流の漸次陸地に押寄せ
来りしも猶六月初旬に於て十里以内は華氏三十五度乃至四十度(平常平均三十四度)の寒流
にして陸前歌津村付近に達せし暖流は華氏五十七度乃至六十度(平常は平均五十四度なりと云う)
の温度にて其の以外を流れたり故に鮪を漁する者は例年より遥かに沖合に出て又膃肭獣の如き普通は近海に於て捕獲すれども本年は皆三百里以外に於てせり是に依りて之を観れば本年は潮流に変化ありしや疑うべからず而して氏は此の事実により這般の津浪は寒暖雨潮流の衝突の結果ならんと云えり、然れども小松氏が単に潮流異変の徴候のみを以て直に今回津浪の起因を判ずるは蓋し椛イの断定たるを免れざるなり(伊木氏報告)
(第 三) 海嘯の波及
今回三陸の海嘯は其の余波延て北は北海道の南海岸より南は小笠原島に達し東は布哇群島を経て遠く北亜米利加合衆国の西岸に及べ然れば其の区域の広大なる殆ど北部太平洋の全面を動かせる観あり
(一)北海道
六月十五日午後日高国幌泉村沿海に海嘯起り被害あり又同日午後十一時十勝国茂寄村にも海嘯ありとの報あり(北海道庁報告)
渡島国亀田郡戸井小安両村は六月十五日早朝より天候濛々として時々降雨あり
寒暖計華氏五十七度を昇降し海面は異状を現わさざりしも同日午後九時に至り
俄然海嘯起り村民海浜に出て防禦に尽力せしも汐波の為め凡三十分間にして小安村は破壊家屋一戸浸水三戸漁船三十四艘及橋梁一箇流出し戸井村は漁船六隻流失せり其他陸上に打揚げたるもの亦尠からず然れども人畜には異状なかりし
(同上)
日高国幌泉地方に於ける六月十五日津浪の襲来退却は各所一定ならざるも概ね
同日午後八時三十分乃至翌日午前一時前後に終れり又天候は終日別に異常を呈せず而して襲来の方向は南方より襟裳崎を衝き夫れより左右に分れ一は幌泉村に至りて海岸を掠めて猿留村に至りて沿岸を襲えり其の初に当りて海水潺々(さんざん)たる中一種の音響を発し退去すること十数分間にして数十間の海底を現わし俄然一転して一大激浪海岸を襲い数十間若しくは数百軒陸地を浸襲し其の余勢の盡くるや更に劇甚なる猛力を以て遠く海中に退却し大浪の進退すること凡そ三回
其の内被害の最も多かりしは第二回目とす潮水の深さ幌泉村は一丈内外歌別村小越村間は八尺乃至一丈五尺鹿野村と猿田村間は一丈二尺乃至三尺に及べり(同上)
六月十五日午後八時十勝国茂寄村海面沖合に於て遠雷の轟くが如き音響と共に激震あり其の震動に比し地震長く且つ大にして殆ど五分間に亘り同十一時俄然退潮数十尺に及び忽にして潮勢激烈に侵入すること六十尺乃至百尺にして其の勢漸次衰弱し去来数回にして東南に面する部分は殊に強猛なりし(同上)
去る十五日函館の海浜にては午後十時頃より海水次第に増加し十二時より翌日午前一時頃に至りては平常の波打際より四十間も陸上へ溢れ来りたれば前々夜よりの地震は正しく此の前兆なりしとて一時は騒擾せしも四時頃より潮水漸次減し去り遂に平常に復せり古老の言に依れば四十一年前(安政三年)も今回の如く風波なきに海水溢出せしことあり其の後二十年前にも一度あり其の時は旭橋近傍は陸上の水深一尺五寸乃至二尺にも及びしと云う(時事新報)
室蘭にては十六日午前四時頃天気清朗なるにも拘らず突然高浪押寄せ桟橋及突堤を洗い去れり(同上)
(二)小笠原島
東京府小笠原島父母両島に於て六月十六日午前四時頃より左記の如く潮水に異状を呈せり但し人畜には死傷なかりしと云う
同五時頃に至り非常の水量となり平時に比して三四尺の増加を来したるのみなず進退共に烈しく全く常潮と趣を異にしたるを以て二見港に於ては夫々警戒を為せしも港内宮港の如きは人々未だ起床前にして生栖中の□亀七頭及「カノー」船一隻流失せり釣浜境浦等も同時に同様の増潮を見たり扇村州崎東海岸初寝浦北袋沢小港南袋沢海岸西海の諸海岸に於ても同時に著く水屑の増加を認めたり又激浪の為め海岸に休憩中の漁夫にして漁具を流失したる者あり或は潮水渓間に充溢するに至れり
(弟嶋)本嶋に於ても同時に三四尺の潮層を増加し南北に面する方強く東西に向える方弱く数回激浪の奔騰するを見たり
(母島沖村及北村港)本嶋に於ても同時に激浪襲来して沖村港の桟橋を破壊し僅に板割二三葉残し余は悉く流失せり又北村港は地盤最も低く人家近傍まぜ潮水浸入せり
(三)布哇 群島
(ホノルル、府)布哇の首府ホノルル近海に起りし海嘯は六月十五日(我十六日に当る)午前七時三十八分に始まり同く四十五分に海嘯の高さ一寸に達し八時にて最低に下りしが五分を経て再び二寸の高さとなり夫れより二十五分間引続き八時四十八分に至りて退き九時には重ねて三寸の高さに上り其の後上りては下り下りては上り午後三時まで止まず十四時間に都合十四回の海嘯ありたり
(カウアイ島〔布哇の北西にあり〕)当日同島のカバー港に碇泊せし米国船ジェームス、マキー号船長の実験談仍れば午前七時三十分海上甚だ穏やかならず能く能く注目せしに津浪なることを知り得たえれば扠ては一大事なりと早速避難の用意に取り掛りたり
是れより先き端艇二艘は石炭を積みて埠頭に行きしに未だ荷物を陸上するに及ばずして此地異起り二艘とも砂上に押上げられ或は転覆の處ありしかば水夫は力を尽して之を防げり然るに之と同時に本船も浅瀬に乗上げしを以て出来得る限り早く災いを免れんと頻に端艇を呼び戻せしに彼の水夫等は死力を出して漸く漕ぎ付けたり兎角する内に海上は益々荒れ船体の動揺甚しく錨索二つ切れしかば若し此の儘に棄て置かんか忽ち他の索も断ち切れ果ては暗礁に触れて船舶乗組員共に微塵となり空しく魚腹に葬らるべしと思いし故に一同死を決して一層深き所に出てんとし九時に至り漸く目的を遂げし時には流石に気猛き水夫共も互に顔を見合せ詞なくして唯万死に一生を得た嬉し涙に暮るるのみ(但マキー号の碇泊せし場所の水尋は十二尺同号の吃水は十一尺にして波の引きし時船底を窺いしに砂上にあること屡々なり又其の付近の模様に依て察するに海水は少くとも其の深さ三尺を減したるが如し尚お或る港は海波退きし後俄に四十尺の陸地を増したる由にて〔カウアイ島〕の古老に聞けば未だ斯かる珍事に遭遇せしことなく迷信深き人民は是れぞ世の乱るる前徴なりと恐れ合えりと云う、ホノルル府のコンマーシャル、アドヴァータイザー新聞は此の事に就て記して曰く當地方にては前に何等の異状もなかりしに俄然斯の如き変事の起りしは思うに外国の何れにか地震ありて其の影響を及ぼせしものならんと)
(四)北亜米利加
合衆国桑港の南方に当れる〔サンタクルズ〕にて六月十五日朝大津浪の余波を受けたり同處はサン・ローレンズ川の海に注ぐ所にして河口一島あり造船所を設く前には堤防を築きて海波の襲来に備う同日の朝俄然沖合より大浪押寄せ堤防に打付けたり其の時浪の高さ五尺半許にして幸に堤防強かりしかば波は忽ち砕けて白沫となり其の儘退去せり余波は遠く河上に遡りて繋泊せる船舶は大動揺を受けたりと云う(時事新報)
(第 四) 海嘯の歴史
一清和天皇貞観十一年五月二十六日癸未、(或曰七月十三日)陸奥国地大震動、流光如昼頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殆、馬牛駭奔、或相昇踏、城□倉庫、門櫓墻壁、頽落転覆、不知其数、海口哮吼、声似雷霆、驚涛湧潮、沂漲長忽至、城下去海数千里、浩々不辨
其涯□、原野道路、総為滄溟、乗船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無子遺焉、(三代実録)按ずるに同年十月十三日詔に(略上)如聞陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢、而為患、或城宇頻壓而致殃、百姓何辜罹斯禍毒、憮然□懽、責深在予、今遣使者、論民不就布恩□使興国司夷、勒自臨憮、既死者尽加収殯、其存者詳祟賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜與済、務尽矜恤之旨、俾若朕親□焉(三代実録)とあるは即ち此の変を指せるなり
一正親町天皇天正十三年乙酉十一月二十九日、夜亥時、至子時、地大震、畿内及東海、東山北陸三道殊甚、地裂水湧、屋舎毀壊、壓死者無算、是時浜海水溢、溺死者数多、斯後震動十二日
按ずるに県下本吉郡戸倉村民の口碑に天正十三年五月十四日海嘯ありしと云うもの蓋し之を指すか
一後陽成天皇慶長十六年辛亥、十一月大晦日、松平陸奥守政宗、献初鱈、領就之政宗所、海涯人屋、波濤大漲来、悉流失、溺死者五千人(千一本作十)世曰、津浪云々、本多上野介純 正政為求、宗肴宗肴此日言上之、遣侍二人、則此者驅漁人、将出釣舟云、今日潮色異常、天気不快、難出舟
之由申之、一人者応此儀止之、一人者請主命不行、誣其君者也、非可止、而終漁人六七人、強相具之、出舟数十町、時海面滔天大浪如山来、消失肝魂之處、此舟浮浪不沈、而後波平處、此時静心、開眼見之、彼漁人所住之里、山上之松傍也、(是所謂千貫松也)
則繋舟於彼松、波濤退去、後舟在松梢、其後彼者漁人相共、下山至麓里、一宇不残流失、而所止之一人、所残漁人無遁者没浪死、政宗聞此事、彼者與俸禄、政宗語之由後藤少三郎、於御前言上之、仰曰、彼者依重其主命、而免災難、退得福者也云々、此日南部津軽海辺人屋溺死人馬三千余死云々、(駿府政事録)
按ずるに旧仙台藩主伊達綱村の時天正の初めより万治元年に至るまで凡八十六年間の記録を抜抄して時の将軍綱吉に奉りたる〔御三代御書上〕と称するものに此の記事を引きて右之趣駿府政事録に相見得申候手前にては委細不存候得共千貫松と申は名取郡岩沼の近所にて海辺一里余の所に御座候右の所に船を繋ぎ候と申松御座候由に付左候得ば実正と相見得申候尤も高山にしてなかなか嶺まで津浪など入申す山には無之候麓の儀と相見得申候右津浪は十月二十八日国元大地震津浪入候時分の儀にて可有御座候と貞山(政宗)治家記録(巻之廿二)にも之を記せり千貫松と云うは一株の松の名にあらず麓より峯上に至るまで数千本一列に並び立てり因て終に山の名となれり此處は名取郡にありて逢隈川の水涯近ければ海潮の余波此の河水に入りて泛濫し麓の松に舟を繋ぎし事も有
りしか伝えて云う〔往古此山上の杉に舟を繋ぎたりと今其の老杉ありと云えり〕
願うに舟を千貫松に繋ぎしと云うは未だ遂に信ずべからずと雖も其の発作の時日は十月二十八日とするを可とせんか県下本吉郡地方の口碑には慶長十八年十月二十八日海嘯ありし由伝うれども其事更に文書に見えず前文〔御三代御書上〕の言と照合して考うるに蓋し同一の事実を指して云いしものならんか
一慶長十六年十月二十八日大地震三度仕其次大波出来致候て山田浦(岩手県東閉伊郡山田町)は房カ沢(山田町の西二十町許の處)まで打参り候由二の波は寺沢(山田町小丘の後に当れる小字)まで参り候三の波は山田川橋の上まで参り候由に御座候外織笠村礼堂(織笠の西十数丁)まで打参り申候偖て浦々にて人死数知れず鵜の住居大槌村横沢の間にて二十人津軽石にて男女百五十人大槌津軽石は市日にて人数多く死申候偖浦々にて人牛馬共に其数相知れ不申候と山田の人武蔵六左衛門の蔵する覚書中にあり口碑に依れば此際津浪は小谷島より大浦に打越したりと云う(伊木氏の報告)
一慶長年間(?)県下本吉郡大谷村大地震ありて山崩れ水溢れ海嘯起り今回被害の字大谷駅頭西南に当り沼尻と唄うる處は往古不動川の流域にして川筋に沿い宿駅及田野ありしが噴潮の為め決漬して大沼となりしを以て新に川を掘り南方字川窪に向いて海に注ぎ夫れより漸々宿駅を今の地に移し其の沼を埋めて田野を開けり現今僅かに沼形と沼尻の名とのみ存せり然るに今回も復た同一方面より海嘯の惨害を受けたり(古老の口碑)
(参照)慶長十六年辛亥八月陸奥国会津大に地震し猪苗代四万石の地陥り湖となる死歿する男女三千七百四人(武徳編年集成会津風土記)
一後水尾天皇元和二年陸中の沿岸大津浪あり(宮古測候所調)
一後光明天皇慶安四年(紀元詳ならず凡二三一〇代)県下亘理郡東裏まで海嘯襲来せしことあり(古老の口碑)
一霊元天皇延宝四年丙申十月常陸国水戸陸奥国磐城の海辺逆波陸を浸し人畜溺死
し屋舎流亡す(弘賢筆記奉平年表)
一東山天皇貞享四年九月十七日塩釜波上鳴動し波濤湧出し市中へ潮一尺五六寸差上り進退十二三度非常の由上達宮城郡海浜皆然り(肯山公綱村治家記録目録)
一東山天皇元禄二年陸中海辺津浪あり(古老の口碑伊木氏報告)
一同元禄九年十一月朔日牡鹿郡石巻川口高浪船三百余艘船頭水手所在を失し溺死并に浦浜水溢るる趣上達(肯山公綱村の治家記録目録)
一中御門天皇享保年間海嘯あり田畑を害せしも民家人畜を害うに至らざりき(本吉郡階上村字波路上の古老小野寺弥平太所蔵小割帳による)
一光格天皇天明年間海嘯あり
一仁孝天皇六年六月陸奥国仙台の地大に震い城塁壊れ且つ海溢れ民家数百を破り溺死するもの算なし(十三朝紀聞)
一孝明天皇安政三年七月二十三日海嘯あり当時の状況に就きては里人の記憶する所概ね左の如し
一本吉郡十三浜村自信両三回ありて海嘯起れり然れども其勢弱くして浸水するに至らず同村字大指にては此の海嘯後居を山際に移せるものあり
一同郡戸倉村正午頃時ならざる干潮あり同三時頃殆ど十分間以上の大地震続きて海嘯の起り来ること夜に至るまで十五回なりし然れども潮浪徐々に来り唯だ家屋に浸水せしのみなりき
一同郡階上村日中海嘯あり沿海の田二町歩余流亡せしも家屋人畜には被害なかりき其際気仙沼より大島に渡らんとせし女三人死亡せりと云う
一同郡松岩村正午頃海嘯あり其三十分前大地震あり海嘯襲来後も十日間許数回の微震ありき当時大島村重左衛門と云う者の女(新城村字金成沢へ嫁せし者)一子を負いて気仙沼より実家大島へ渡海中溺死し其子は生存して波右衛門と称せり此外大嶋村にては尚一名の死亡あり時の地頭鮎貝兵庫八幡前に三昼夜詰切り下人を指揮して用水を満たしめ浸水の田を洗いたるが為め塩気流出して平年に異ならざる豊熟を得たりと云う(同村の古老千葉七兵衛の談)
(参照)岩手県八戸近傍の海浜は其水量今回より大にして被害多かりしと云う然れども其の波の勢に至りては到底這般の激烈迅速なりしに比するに足らず波浪退却せし後は悠々として打上げられらつ魚類を拾得せしと云う(古老の口碑 伊木氏報告)
一明治元年六月(日時不詳)小海嘯あり(本吉郡戸倉村字水戸辺)
一明治二十七年三月二十二日午後八時二十分頃陸中国三閉伊郡の沿海一帯に小津浪あり此際にも其来襲前に海水は干退せり蓋し此津浪は同日根室に起りたる大地震に伴いしものにして宮古測候所の報に依れば当日当地方は弱震を感ぜりと云う
一往古海嘯の際本吉郡大島村(大島)字外畑と裡の浜との間及中山と浅根との間潮浪の越したる為め一個の大島別れて三個の島となれりと云う(口碑)
一本吉郡志津川町より登米郡米谷村に至る間に水界峠あり里人伝えて云う水界の名称は峠の南東なる松の一叢繁れる旧道の辺を指すものにて是は往昔大海嘯の時潮水此處まで押上げしより斯くは名づけしものなりと(口碑)
一今より五十二年以前(弘化年中カ)亘理郡荒浜村海嘯の際急に干潮し阿武隈川の河水甚く減却したるが為め河口より五六町の上流に於て俄然河底を顕わしたるを以て人民大に驚ける中一時間許を経て高さ一丈に近き海嘯襲来せりと云う(口碑)
以上列挙する所の旧記若は口碑はいずれも其顕著なるものなれども就中慶長十六年の海嘯は極めて強烈なりしことを推知すべく而して又是等の海嘯は概ね地震に伴いしこと多きが如し
第三章 救済篇
(第 一) 救急の計画
大海嘯の飛報始めて本県に達したるは実に六月十五日午後十一時なりき、而して其飛報は本吉郡長の発する處にして「志津川に海嘯あり人畜の死亡多し」と云える簡単なる電報に過ぎず、此報の一い達するや知事勝間田実は直ちに参事官河村金五郎、蜀藤田秀睦、警部大内誠に命じ状況視察の為め即夜急行出張せしめたり翌十六日午前七時再び本吉郡長より「志津川海嘯被害数十戸人畜死傷夥し」との電報あり尋て牡鹿郡長よりも「女川海嘯被害多し」との電報あり是に於て知事は其事体容易ならずして且つ区域も亦志津川一方面に止まらざるを推知し蜀片野続に命じ桃生牡鹿両郡沿海の状況を視察せしめ自ら警部長川路利行、技師小泉郡司、蜀男沢庄次郎を随え同日午後二時志津川に向て出発せり是より先き河村参事官一行は途中人力車欠乏せるを以て半ば徒歩にて出張せしが為め時刻頗る遅延し午後八時に至り漸く志津川に達せり尋て知事の一行も来着したれば一同志津川警察分署に至りしに前夜来同署にて拾集したる死屍積んで山を為し一見酸鼻に堪えざるものあり是の時に当り道路梗塞人馬通せず各村落被害の状況は未だ全く之を詳にするを得ざるも郡町村吏警察官吏等の語る處に據れば志津川方面は此大海嘯の中心なるべく而して其余波各地に及び本吉郡は勿論桃生牡鹿二郡内も亦多少の害を被りたるは疑い無き事実なれば先つ部署を定めて視察及び救護に従事するに若かすと一決し知事は其部署及び救急の順序を左の如く定めたり
一知事は小泉技師を随へ志津川以北気仙沼地方を巡視する事
一警部長は志津川以南及び桃生牡鹿二郡を巡視する事
一河村参事官、藤田蜀は志津川に留り此方面の救護に従事する事
一救護の順序は負傷者救療を第一着手とし死体取片付及生存者救助を第二着手とし極めて敏速に之を行う事
一各方面の視察を終りたるときは知事、警部長、参事官は一先帰庁し更に救護の計画を定むる事
斯くて翌十七日は一同暁を冒して先ず志津川被害地を視察したるに其惨状は実に予想の外に出て半死半生の負傷者は各所に呻吟苦悶し流潰したる家屋堆積して所在山を成し満目荒涼凄惨の状筆舌の能く悉すべき所にあらず是に於て知事、警部長は二手に分れて南北二方面を視察するに各部落の惨状は志津川に比して更に一層甚だしきものあり積屍累々老幼婦女号泣の声濤声波音と相和し其状の惨憺なること目も当てらざる有様なるを以て一面は町村吏員巡査等に救療の方針を授け一面は志津川に飛報して仮病院設置巡査配置人足募集等の事を命じたり夫れより知事は歌津小泉等を経て気仙沼に至り同十九日一先帰庁そ警部長は桃生牡鹿二郡巡視の途に上りしが其被害敢て甚だしからざるを聞知し直ちに十三浜より引返し志津川に至りて河村参事官と巡査配置等の事を協議し馳て気仙沼に至りしに知事より気仙沼に止るべしとの命あり依て爾来同地に滞在して同方面の救護に従事せり
是より先き河村参事官、藤田蜀は知事警察部長より時々発せる飛報に依り南北両方面被害の惨状を詳にし益々迅速救護の必要を認め当初知事の定めたる計画に従い警部長と協議の上先ず巡査受持区域を定め警察本部に飛報し各警察署より警部巡査の応援を需めて之を配置し尋て病院設置区域を定め臨時病院を仮説し赤十字社支部より医師及び看護人の派出を求め郡吏員と共に専ら負傷者救護死体及び潰家取片付生存者の救助等に着手せり然るに当初是等に要する人足は郡長の指揮に依り郡内より徴発的募集を為さしめたるも被害区域の大なる到底周到する能わざるを以て広く管内より募集する見込を以て取敢えず栗原、登米、遠田三郡に電報を以て人足募集の事を通知したり是れ実に同十八日にして是日河村参事官は知事の電令に依り諸般の事務を藤田蜀に委任し歌津、小泉等の被害地を巡視して帰庁の途に就けり又桃生、牡鹿両郡に出張せし片野蜀は桃生郡十五浜村は非常の惨害を極めたるを以て郡長と共に救急の手配をなし其他牡鹿郡女川、大原等は其被害甚だしからざるを以て一応巡視の上同十八日帰庁せり是の時に方り各被害地の状況は大抵知悉するを得たるを以て知事は帰庁の翌日即ち二十日を以て書記官一坂俊太郎と共に大に救護の計画を定め先ず本庁と被害地の間に気脈を貫通し相呼応して迅速に其事務を處辨せしむるが為め本庁内に海嘯臨時部(海嘯臨時部及志津川気仙沼両出張所執務の景況は載せて本章第二に詳かなり)を置き本吉郡志津川町同郡気仙沼町の両地に出張所を置き一坂書記官を臨時部長に河村参事官を志津川出張所長に山田収税長を気仙沼出張所長に命じ其他庁員は殆ど挙て臨時部員又は出張所詰を命じ死体及び潰家取片負傷者救療生存者救助義損金穀物件分配等救急諸般の事務を分担せしめたり
尋て潰家の中なる死者の発掘及び道路開削の為め第二師団工兵隊及憲兵の派遣を又漂流屍体収拾の為め海軍省に軍艦の派出を請求し内務大臣へは第二予備金より難民救助として臨時救済金支出下付を申請し同時に県参事会を招集し備荒貯蓄金特別支給方法及其収支予算追加並に衛生費追加を議決し諸般の計画略ほ定まれるを以て知事は同二十五日出発し桃生、牡鹿二郡の被害地を巡視せり以上計画は何れも瞬速咄嗟の間に成り機に臨み変に応じて施設したる所に係るも幸に大なる蹉□なく終始一貫諸般の計画皆其肯緊に中り着々其歩を進め以て焦眉の急に応じ優に善後の計画を為すを得たり是れ憲兵工兵軍艦の応援亦赤十字社の助力大方有志者の慈恵等亦皆大に與りて力あり
(第 二) 海嘯臨時部及出張所
抑海嘯災害のことたる広く県治百般の事務に関連し救助に衛生に警察に土木に教育に勧業に其救急善後の策を講し以て急速處辨ぜざるべからざるもの尠からざるを以て被害の当初数日間は本庁各部署員を挙げて昼夜其事務に殃掌せしめたるも日常の応務亦一日も忽諸に付すべからざるものあり且救急の事務に至ては咄嗟の間に處辨ぜざるべからざるもの極めて多きを以て知事は被害地より帰庁の翌日即ち六月二十日を以て海嘯に係る一切の事務は日常の応務と区分して臨時特別の事務となし之を整理するの必要を認め本庁内に海嘯臨時部なるものを設け又本庁と被害地との気脈を貫通し相呼応して敏活に其事務を処理する為め本吉郡志津川気仙沼の両地に出張所を置き其庶務規定を定めたり即ち左の如し
宮城県海嘯臨時部規程
一宮城県海嘯臨時部を県庁内に置き其出張所を本吉郡役所内気仙沼警察署内に置く
二志津川出張所は本吉郡歌津村以南の事務を處辨し気仙沼出張所は同郡小泉村以北の事務を處辨す
三臨時部に部長一人部員若干人を置き出張所に所長一人所員若干人を置く
四臨時部は海嘯一切の事務を處辨す
五臨時部出張所は其所轄内に係る恤救、衛生、運搬、通信及救護員取締死体捜索を始め
六通信往復は総て部長出張所長の名を以てすべし
右の規程に依り即日部所長及部所員を命じ其事務を分担処理せしめたり今臨時部及出張所に於ける事務の分担及處務の梗概を挙ぐること左の如し
海 嘯 臨 時 部
一位置
本庁内第一応接所を以て之に充つ
一開閉
六月二十日を以て之を開き八月二十五日を以て之を閉ず其間六十七日にして其取扱に係る残務は本部閉鎖と共に各其主務部署に移し通常の事務と区分処理せしめたり
一部長
書記官一坂俊太郎を以て之に充て尚お参事官河村金五郎をして其事務を補佐せしめたり
一部員
蜀清野喜平治以下三十四名を以て之に充つ其官氏名左の如し
蜀 清野喜平治
同 片野 続
同 毛利義 保
同 富沢頼 孝
同 坂元蔵之充
同 小川卯太郎
同 前田河信保
同 我妻兵 衛
同 村上栄三郎
同 今村正 人
同 山田武 一
同 木村久 馬
同 坂川岩 彦
同 男沢庄次郎
同 八巻 良
同 鈴木重 雄
同 伊木精 一
同 千葉 弘
警部 今野三 朔
同 草間宗 軒
収税蜀 阿部景 毅
同 阿部慶 朔
同 山田 麟
雇 茂木安 勝
同 内藤弥一郎
同 内海 保
同 我妻義 矩
同 渡邊長一郎
同 中津川武蔵
同 遠藤政之助
同 金谷秀 夫
同 小谷智 雄
同 鈴木貞之充
一處理の梗概
臨時部の事務たる機に臨み変に応じて處辨せざるべからざるもの比々皆然らざるはなく予め一定の規を設けて之に遵由するが如きは殆ど少なく故に事細大となく部長を経て知の採決を受け處理するを例とせり又臨時部設置の当初十数日間は部員昼夜詰り執務鞅掌したりしも諸般の事務漸次其緒に就くに従い疲労も亦甚しきを以て部員は午前八時に出頭し午後八九時頃を以て退出し退出後に係る事務は部員交代を以て毎夜二名宛徹夜勤務し以て応急の処置を為したり今本部に於て處理したる事務の重なるものを挙ぐれば左の如し
一文書往復に関する事
一備荒儲蓄金給與及其収支に関する事
一国庫救済金給與及其収支に関する事
一恩賜金分配に関する事
一義損金并寄贈品分配及其収支に関する事
一臨時病院配置并監督に関する事
一赤十字社救護医員看護婦派遣に関する事
一篤志救護員配置及派遣に関する事
一被害地需用物品購入に関する事
一被害地派遣人足雇入上に関する事
而して右の内寄贈品分配病院及救護員配置需用品購入人足派遣其他物品并に金銭出納に関する事は蜀清野喜平治国庫救済金備荒貯蓄金給與其他県経済に関するものは蜀片野続文書往復恩賜金義損金分配其他雑務に関する事は蜀毛利義保警察上取締に関するものは警部今野三朔同草間宗軒主として之を担当したり就中其事務の最も煩雑多劇を極めたるものは寄贈品及寄贈金の収支是なり但寄付金は追て商議会なるものを設け分配方法を議決したる後配付するの見込なるに依り寄付者ある毎に其金員人名を帳簿に記入し領収証書を交付し現金は銀行へ預け入れ其金員人名は時々新聞紙を以て広告の手続をなすを以て一時に数千百人より数万円の寄付ある場合には其手数も頗る煩雑を極め深更に及びて総て其日の収入を結了するに至ること往々これありしも要するに現金の収受に止まるを以て非常の困乱を極むるに至らざりしが寄贈品に至りては更に之れより甚しきものあり衣服食品其他日用調度品等其種類固り一定せざるを以て同一の取扱をなすべからざるは勿論或は其容量の非常に多大なるものあり或は其物品の種々混乱せるものあり又は其品質に依り腐敗し易きものあり而して是等の物品は最も神速に且最も公平に配付せざるべからず然らざれば寄贈者折角の好意も或は水泡に蜀するの處なれきにあらざるを以て予め配付の手続を定め蜀村上栄三郎同今村正人等五名を以て特に配布係となし県会議事堂を以て仮に本部の支局とし寄贈の物品は総て一旦議事堂の楼上楼下に収容し掛員立会の上一々其物品を点検し更に荷造りをなし其配付箇所を定め本吉郡は両出張所に其他は郡役所に宛て船舶又は鉄道便等を以て送達せり
其物品中古着類等にして伝染性病毒潜伏の恐れあるものは特に其品類を分ち之を仙台消毒所に送り該所に於て悉く消毒せし後荷造をなすを例とせり故に寄贈物品の一時に集合したる場合は恰も戦場に於ける輜重部の如く物品を点検するものあり物品の種類を甄別するものあり配布箇所を定むるものあり荷物をなすもの荷積をなすもの運搬するもの等堂内に充満し其繁雑多劇なること実に名状すべからざりき之を次て困難なりしは人足及物品の供給なりき人足は当初被害地接近の各郡より募集したるも時恰も畏桑繁劇に際し労働者極てめ少なく普く之れが需用に応ずる能わざるを以て本部に於ては主として仙台市内より募集するの方針を取りたるも仙台市も亦人足不足にして容易に之れが募集に応ずるものなきを以て特に人足を取扱うものに依頼し特別賃金を支払い尚お鉄道には無賃乗車せりむる等種々の手段を蓋し昼夜之れが募集に従事し僅に其急需を充たすことを得たり又被害地に於て必要の物品例えば縄何万束鉈何千挺鍋何千個と云うが如きもの注文の続々ありしにも□わらず市内にては是等の仕入品僅少にして遂に調達すべからざるを以て或は各郡村に飛報して直に被害地に送らしめ或は東京其他へ注文して調達する等其手数も亦頗る繁雑なりき其他本部に於て處理したる事務は挙て数うべからざるも各其部内に就き詳述するを以て其煩を避け茲に記載せず其本部開設より閉鎖に至るまで六十余日間に取扱いたる文書総数は三千六百十三件にして内収受二千八百六十三件発遣七百五十件なりとす
一海嘯事務監査
志津川、気仙沼両出張所設置以来既に一箇月に垂んとし其事務并に郡役所海嘯に関する事務及被害地状況等本部に於て監査視察の必要を認むるを以て参事官河村金五郎は蜀坂川岩彦を随え七月十二日を以て先ず志津川に出張せり折柄国庫救済金給與戸数等調査中なるを以て併せて其事務を監督し同十九日気仙沼に至り事務監査を了し同二十七日を以て帰庁せり
第一 志津川出張所
一位置
本吉郡役所内を以て之に充つ
一所轄区域
本吉郡の内
十三浜村 戸倉村 志津川町
歌津村 小泉村
一開閉
六月二十一日を以て之を開き八月二十五日を以て之を閉づ其間日数凡七十日なり
一所長
初め参事官河村金五郎を以て之に充てたるも同参事官は当時知事の命に依り既に志津川を発し帰庁の途にあり依て出張中の蜀藤田秀睦に一時其代理を命じたるが参事官は帰庁後本部長補佐の事務に鞅掌し到底出張すること能はざるを以て七月五日其所長を罷め更に藤田蜀を以て所長心得となせり
一所員
蜀半田卯内以下五名を以て之に充つ其官氏名左の如し
蜀 半田卯 内
同 水町熊 太
同 佐藤令 史
同 玉虫六三郎
同 宮城惠那二
一処務の梗概
本所の事務は庶務、寄贈品、会計の四係とし庶務係は蜀半田卯内同宮城惠那二、寄贈品係は蜀佐藤令史、巡察係は蜀水町熊太、会計係は蜀玉虫六三郎之を担任せり
而して庶務係は人夫の出入来訪者の接待文書収受発遣其他庶務に関する事、寄贈品係は寄贈品の受入配布人馬舟車の雇入等寄贈品一切に関する事、巡察係は焚出の周到、寄贈品の分配其他罹災民の動静等査察の為め常に各被害地を巡視し其状況を報告する事、会計係は衛生費運搬費の支出命令並に出納郵便切手受払其他会計に関することを担当し尚各係援急相応し互に其事務を補助し本所一切の任務を尽すこととなし一同非常の勉励を以て鞅掌せしに依り幸に一事の渋滞なく所務を辨することを得たり而して文書の収発は当初は所員寡少なりしを以て別に帳簿を備えず随時収発したるが六月二十八日より文書収発簿を調製し毎件之に記載せり即ち同日より最終に至るまでの件数は四百七十四件にして内収受百九十四件発遣二百八十件なりとす其所務の顛末は藤田出張所長心得の復命書に詳かなるを以て左に其概要を摘録す
事務處辨の顛末(志津川出張所長心得蜀藤田秀睦復命書抜粋)
小官儀本年六月十五日海嘯の変報達するや直に河村参事官と共に本吉郡へ出張の命を受け同日同郡志津川町に至り爾来罹災者救急事務に従事せしが同月二十一日海嘯臨時部志津川出張所長心得を命ぜられ八月二十五日海嘯臨時部及出張所を廃止せられたるに付茲に其出張中取扱いたる事務の梗概を略述す海嘯臨時部規程第五項に依れば出張所は其所轄内に係る恤救、衛生、運搬、通信、及救護員取締、死体捜索を始め諸般の事務を處辨すとあるも恤救の如きは郡長、衛生及死体捜索の如きは警察分署長の事務に蜀するを以て出張所は其事務を直接に執行するにあらずして之を監督補助するものと解釈し是等の事務に対しては其注意を促がし又は自ら之を補助せり今其直接間接に執行したる事務に挙ぐれば概ね左の如し
第一焚出を周到ならしめ罹災者をして飢渇に陥らしめざることに注意したる事
第二負傷者を収容し救療を受けしめたる事
第三医員其他の救護員配置の事
附衛生材料等の供給に注意したる事
第四死体斃馬及潰家取片並道路開通の事
第五寄贈品の交付に立会し国庫救済金備荒儲蓄金給與の事に参与し又は被害地視察員に応接し其便宜を計り其他雑務を執行したる事
第一 焚出米給與
備荒儲蓄金官吏及支給規則に據れば焚出は郡長に於て直接執行す可き事務なりと雖も今回の如き被害区域広濶に渉り夥多の罹災者ある場合に於て郡役所又は其出張官に於て直接悉く米噌を買入れ人夫を儲役して焚出を為すが如きは到底能くし得ざることなるを以て郡長に注意し当初は各町村内各部落適宜の場所に於て焚出しをなさしめ日子を経るに従い罹災者の便宜を慮り漸次米噌を交付し各自をして自炊せしめたり而して其供給の周到なるや否やは時々巡察係をして其実況を視察せしめたり
第二 負傷者救療
志津川町字沖の須賀埋地の負傷者は公立志津川病院に収容の上治療に着手し清水細浦は開業医江島小四郎歌津村は開業医高橋弘十三浜村は開業医日野源治大槻俊平戸倉村は開業医小澤安之進武山岩吉等に於て差向の手当をなさしめたるも何分多数の負傷者なるを以て救護行届かず負傷者は泥槌に塗れ傷口は化膿し実に目も当てられざる惨状なるを以て最寄便宜の地に臨時病院を設け町村役場に催促して人夫を出さしめ重傷者は悉皆臨時病院に収容し軽症者は各其最寄開業医に托し治療を為さしめたり
第三 救護員配置衛生材料供給
日本赤十字社宮城支部医員又は陸軍軍医或は公立病院院医其他特志医員は六月十七日より追々志津川に到着し負傷者の軽重多寡等を聞き各随意に其欲する處の方面に赴かんとする模様なりしか斯くては通路便宜にして重傷者の多き地へは医員輻湊し否らざる所は医員の全く至らざるが如きことなきを期すべからず且各種の医員随意一所に集り個々救療に着手するが如きことあらば互に其意見を異にする等より衝突を来すが如きことなきを保せず依て臨時病院設置の地を概定し医員の到着に従い順次其方面を指示派出せしめたり但此配置をなすに方り一時困難を感じたるは医員医療器械療品薬品等を所持するもの僅少なりしに由り各方面を分つに当り其供給に差支を生じたること是れなり依て或は一組の携帯品を二個に引分け或は病院又は軍医等より些少の器械療品等を借受け以て他の医員に交付し一時の急を支えたるが如き又包帯用白木綿を購入せんとするも志津川近傍にては既に悉皆売尽し(死体白衣用に購入せしもの多きによる)止むを得ず天竺木綿を買入れ以て一時の急に応じたるが如き其他医員看護婦或は医□遞送用に駄馬を供せんとするも容易に之に応ずるものなく止むを得ず徴発的に命令して之を差出さしめ以て供用したるが如き一時其混雑名状すべからざるものありし但衛生材料は一両日を出てずして宮城支部より回送品到着し爾来供給に不便を感ぜざるに至れり
第四 屍体斃馬及潰家取片
事変後一両日は罹災者皆驚愕して為す處を知らず茫然手を束ね只惨状を傍観し居る有様にして斃馬は勿論屍体は累々として所在に露出せるを以て警察官は健康者を駆て其取片付に着手せしめたるも如何せん人夫寡少にして事業進まず折柄気候の変動に依り暑熱俄に加り屍体は日一日より漸く腐瀾し片時も猶予すべからざるを以て付近町村長に命じて人夫を差出さしめたるも是亦数日来昼夜の奔走に疲労し活発なる動作を為す能はず依て河村参事官と協議の上断然隣郡登米郡長に電報を発し人夫三百人内百五十人は志津川に五十人は大谷階上に百人は気仙沼に向け差出方を依頼し翌十九日には尚不足を感ぜしを以て栗原郡長に飛電し人夫二百人募集方を托し同日yろい二十日に亘り登米郡の人夫追追到着せしを以て先ず歌津村に差遣し栗原郡の人夫二百人も亦漸次到着するに従い郡内人夫と共に歌津村及志津川町の内清水細浦へ派遣せり然るに偶々工兵派遣の事あり後藤工兵少尉は下士以下七十八名を引率し伊藤三等軍医と共に二十一日到着翌二十二日より就業せられし為め爰に強大の勢力を得人夫等も稍々規律的動作を為すに至り爾来着々進行を見ることを得たり但沿海に露出の屍体は二十一日までに郡内外の人夫にて悉皆取片付を為せり而して同日人夫三百人差向方県庁に申立たるに第三日目即ち二十三日に至るも猶其出発の報に接せず一方にありては前日来工兵の作業進行に従い之に付随すべき人夫多数を用師数々隊長より督促を受くるに至り如何とも為し難きを以て更に桃生郡長に電報を発し人夫二百人二十五日午後までに十三浜村相川に着する様依頼したり然るに二十四日夕県庁より差向けられたる仙台人夫漸く三十人志津川に着し二十五二十六日に亘り都合二百余任到達し尚其他に予期せざる人夫二百五十余人栗原郡より来着し事業進行上には著しく便宜を得たるも其宿舎食料等の準備なかりし為め一時頗る混雑を生じたり右の如く追々郡外人の数を増加せしのみならず一面には郡内各町村より人夫を催促して日々出役せしめ各方面を定めて分遣し毎日午前六時警察官に於て点呼を行い午後五時まで就業せしめ警部巡査憲兵等に於て監督指揮せしに由り数日を出でずして大凡取片付を了り六月二十八日より漸次人夫を減少し七月五日を以て全く結了し翌六日人夫は悉皆解雇せり
第五 寄贈品配布及其運搬費
六月二十一日臨時部長より電報あり衣類物品の寄付を促がし得るに従い遞送す云々依て予め其配付方法等を考按せしに目下被害地各町村は渾て人夫の欠乏を告げ屋材に敷かれたる屍体すら未だ発掘するに至らざる実況なるに依り寄贈品を役場に送付するも速に其分配を為さざるべし斯くて配付を遅延するに於ては特り寄贈者の厚意に背くのみならず罹災者の困苦を長からじむべきに依り当分の間は各部落への配布人夫をも本部に於て之を付するに如かす尚其寄贈の意旨を各罹災者に徹底せしむるには大要の趣旨書を頒つ方可ならんと思惟せしを以て是等準備をなして荷物の到達を待ちたるに二十二日に至り衣類三個蜀佐藤令史携帯到着せしを以て之が荷造を改めて四個とし駄馬二頭に人夫五人を付し被害の最も甚しき歌津村へ即刻送付し尚佐藤蜀を同村役場に出張せしめ寄贈の要旨を伝達せしめ即夜村長をして毎部落に分別し翌二十三日早朝趣旨書数業を附し伊里前名足の各浜に送付し即日最困難者に分配せしめたり第二回は同方法を以て戸倉村に第三回は十三浜村に第四回は食品なるを以て各町村に第五回は衣類十二個の内五個は志津川町に七個は歌津村に配付し其後は総て町村役場まで送付し各部落へは町村の人夫をして之を分配せしめたり而して役場に於て罹災者に之が配與を遅滞し又は途中に於て紛失する等の掛念なきにあらざるを以て必ず出張所員又は郡吏若くは巡査等の内一名宛付添役場に至り先着物品の配付済否を調査し若く堆積しあるときは厳重に督促をなし即日配布を為さしむることとなせり又出張所に於ては毎回着荷に随い衣類の如き器具雑品の如き総て之れが荷解をなし悉く点検の上種類品位を公平に分別し更に町村毎に荷造をなし志津川町を除くの外海上静穏なる日は船にて回漕し否らざるときは駄馬を以て搬送せり本月十六日小官等帰庁までに臨時部より回送を受けたるは四十六回又同部よりの通報に依り各郡より回付されたる縄は十三回合五十九回梱数千三百八十二なり内衣類二万六千百四十四点食品九百二十一点器具一万七千六百六十四雑品三万三千二百二十五点合計七万七千九百五十四点なりとす寄贈品運搬費は七月一日金二百円同月二十八日金百円何れも現金を以て臨時部より送付ありしに付第七十七国立銀行本吉郡役所出張員と商議し現金は総て同人へ預け入れ而して一般官衙と金庫との関係に倣い原貨保管帳甲乙二冊を製し互に一冊を備え支出を要する毎に支出命令書を発し普通公金同一の取扱を以て之を収支せり而して七月末に至り該運搬費は国庫費と定まり郡長へ現金前渡になりたるに付出張所に於て支払を為すものは七月を以て打切り八月以降に蜀するものは渾て郡長に於て支払うこととせり即ち出張所に於て支払をなしたる運搬費は合計弐百壱拾壱円五拾銭四厘にして種別すれば即ち左の如し
種 別 金 員
荷解及荷造人夫賃 四二、〇〇〇厘
同漕舟夫賃 五八、三五〇
同漕用船雇上料 二九、〇三〇
荷馬車雇上料 四、五〇〇
駄馬雇上料 三、〇〇〇
荷造用品代 一、九二九
運搬費 七二、六九五
計 二一一、五〇四
右の外雑費に蜀する金四拾八円四十五銭五厘あり是は各其請求及戻入の手続をなし結局金四拾円四銭一厘の残金は本月十八日を以て海嘯臨時部へ返納せり寄贈品は単り海嘯臨時部のみならず各郡町村又は一個人より志津川出張所宛又は本吉郡役所宛にて其分配を依託し来るもの多し然るに其宛名により出張所と郡役所と各別に取扱を為すときは無用の手数を要するのみならず彼此混雑して明瞭を欠き整理上不都合なるを以て郡長と商議の上右等は総て郡役所に於て取扱うこととなしたるを以て茲に之を詳述せず
第六 恩賜金交付並国庫救済金與
恩賜金は本吉郡長八月十三日志津川小学校に於て十三浜、戸倉、志津川、歌津、小泉の五箇町村の罹災者へ交付さるるにより小官も立会せり又救済金及備考儲蓄金給與に就ては本所員挙げて其調査及給與に助力せり
附、来訪者の接待
六月十七日頃より同月下旬に至るまでに被害地観察として来訪せられたる人々は実に夥しく就中十九日より二十四五日頃までは日々数百名に上り郡役所は日中来訪者の絶えたることなき実況なりき而して多くは本吉郡の地形交通の便否をも知らざる人々なるを以て被害の景況を質すと共に其地理をも問うものあるを以て之れが接待には尠からざる時間を要し加の其人々が宿舎及車馬人夫に至るまで之が紹介をなすにあらざれば相対上要求に応ずるものなかりし為め郡役所員は勿論出張所員に於ても頗る繁忙を極めたり
上来叙述する所のものは唯其一部分に過ぎず小官が事務執行上緩急に応じ臨機に処したることの詳細は筆舌の能く悉す所にあらずと雖も文書を以て往復したるもの帳簿に登録したるもの及諸般の事実を調査したるものは悉皆之れが事類を分ち編冊保存せるを以て事の細大を問わず之に憑て其実況を調査せらるるに足らんか即ち其書目を左に挙ぐ
第一号 規程、官吏、文書、収発 一 冊
第二号 被害状況、救護、雑件 一 冊
第三号 工兵、軍艦、人夫 一 冊
第四号 寄贈品配布表、同受渡書類 一 冊
第五号 寄贈品寄贈品配布別表、寄贈品往復 一 冊
第六号 給與、会計 一 冊
第七号 衛生費支出、裁決及内訳書類 一 冊
第八号 運搬費支出、裁決書類 一 冊
第九号 海嘯被害戸口調表 一 冊
計九冊
第二 気仙沼出張所
一位置
気仙沼警察署内を以て之に充つ
一所轄区域
本吉郡の内
唐桑村 大谷村 階上村 小泉村 大嶋村 鹿折村 松岩村 御岳村
一開閉
六月二十一日を以て之を開き八月二十五日を以て之を閉づ其間数凡七十日なり
一所長
始め収税長山田揆一を以て之に充てたるも在職数日にして石川県収税長に転任したるを以て変災当初より引続き気仙沼に出張同方面の救護事務を監督し居りたる警部長川路利行を以て其所長となしたり己にして同警部長は東園侍従の先導として各被害地を巡回帰庁せざるべからざるに至りたるを以て七月六日其所長を解き更に蜀菱田重厚を以て所長心得となせり
一所員
警部大内誠以下三名を以て之に充つ其官氏名左の如し
警 部 大内 誠
蜀 佐武 雄平
同 桜田富三郎
右の外本吉郡書記及各郡より応援として出張したる郡書記は郡役所の出張事務担任の傍ら本所の事務を補助せり其官氏名左の如し
本吉郡書記 石井 山治
宮城郡書記 嶺岸 大力
志田郡書記 三井 益治
伊具郡書記 森 善太郎
本吉郡雇 高野 清吉
一処務の梗概
本所の事務は救護、通信、運搬、救護員監督、死体及潰家取片、寄贈品及寄付金分配、被害町村巡視等固より枚挙に遑あらず而して其事務たる何れも急速の措置を要せざるはなきを以て其事務の分担を定め互に其権限を守るときは処務の渋滞を来すのもならず僅少の所員にては到底處辨する能わざるに至るの虞なきにあらず依て大体の事務を概括して其担任を定め緩急相応し甲乙相助け以て専ら其處務の敏速を期せり即ち庶務及会計に関する事務は蜀菱田重厚同桜田富三郎之を担当し本吉郡書記石井山治以下四名之を補助し寄贈金穀の分配被害地巡視に関する事務は警部大内誠蜀佐武雄平之を担当し宮城郡書記嶺岸大力之を補助せり
而して庶務及会計は文書の収受来訪者の応接其他諸般の雑務人夫船車の雇入義損金の収支衛生其他金銭の出納又寄贈金穀分配及被害地巡視は寄贈物品の受付配当被害地の実況視察を掌り何れも繁雑多劇を極めたり次に本所に於て取扱いたる文書総数は弐千参百八拾五件内収受壱千参百四拾件発遣千四拾五件なりとす
而して其事務處辨の顛末詳細に至りては志津川出張所と大同小異なるを以て茲に之を省略す
(第三) 警察官の配置 附憲兵配置水上警察
本県警察部は警部長の伝令に依り六月十八日各警察署に飛報し応援として警部巡査を被害地に急行出張せしめ知事の定めたる配置区域に従いて各担当の方面に出せしめ警戒救護及び人夫の指揮監督など昼夜其任務を執らしむ而して其応援人員は警部十一名巡査百八名なり
第二憲兵隊小笠原憲兵中佐は六月十七日岩井憲兵大尉をして憲兵五名を引率し被害地に出張せしめ爾後追々其災害多大なるの報に接し更に憲兵を増派配置し且自ら被害地に臨み岩井大尉を志津川に駐在して南部を担当せしめ自ら北部を担当し警戒救護等の任務を執られたり
斯くて七月八日に至り救急の事務略ほ其緒に就きたるを以て各警察署より応援の巡査中若干名は残務取扱の為め便宜の地に配置駐在せしめ其他の警部巡査は尽く之を引揚げしめ次で残務取扱の巡査も悉皆本任地に復帰せしめたり今各警察署長の報告する所に依り各所轄内に於ける救護の始末を左に摘録す

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(一)気仙沼警察署所轄内救護始末 (署長警部上曰景安報告抜粋)
海嘯凶報の当署に達したるは六月十五日午後十一時にして而して部内沿岸七箇村の嘯害は罹りたるを知りしは翌十六日午前三時の後なりき是れ気仙沼町は海浜に位するも幸にして毫も其害を被らず他村の状況は報告を得て始めて知るを得るに由る此時に当り応急の第一着手として海岸に沿わざる地の駐在巡査に故夫を馳せ之れと同時に一面は署詰勤務の巡査は署内の事故に応じ得べき人員を残して他は悉く各被害地に派して罹災民の救護に従事せしむ其配置左表の如し
六月十八日に至り警察本部の飛報に依り各警察署の警部巡査は応援として続々来署せしを以て折柄出張の警部長は先ず警部四名を便宜の地に配置し其配置地内の救護員を指揮監督し且つ一般の事務を処理せしめ又応援巡査の配置は受持警部の請求に依り或は所長に於て必要と認むる地に漸次配置したり其配置左表の如し
又石巻警察署より六月二十五日水上警察署の汽船を派して来援し専ら被害沿岸の海上に漂流せる死体の捜索漂流物の取締等に従事し七月七日を以て引揚げしが海上の取締に就ては頗る便益を得たり
以上記する處は当初配置せし處にして此複雑なる事務は素より一定の配置区域を墨守すること能わず事務稍々結了するに至るまでには機に臨み時に応じて転務及交代等多少の異動あり而して七月八日応援員は総て引揚ぐることとなりしも其残務は受持巡査と署員の応援とのみにては到底整頓し得るの見込なきを以て警部長は更に巡査五名に残務取扱を命じ其事務を處理せしめたり其配置は左表の如し
罹災人民の救護は総て急を要し且時機を失うべからざるは固より言を俟たす然れども限りあるの警察官吏を以て限りなきの救護を同時になすことは当局者が如何に敏捷に奔走盡瘁するも素より為し能う所にあらず故に当署は最も貴重なる人命の救助即ち傷病者に医薬を与え死を免れしむるを以て第一着手とし他を顧るの暇あらざりしなり而して災害当時の有様は漂流又は潰破せる家屋内に悲泣する負傷者あり或は波浪と共に漂蕩し万死に一生を得しも扶持するの家族く空く道路に彷徨する創傷者あり父母妻子を失い号哭する鰥寡孤独あり或は死に瀕せる老幼に医薬を与うること能わずして夫妻互に其生死を尋ねんとして狂奔するものあり或は大施術を畏れて創傷を掩蔽する者あり此等は皆一日も忽諸に附すべからざるものなるが故に一定の方針を定めて断固たる処置に出てたり
即ち当初は医師を伴うて被害地を巡視し負傷者に一時応急の治療を施し各地に仮病院を開設するに従い災餘の壮者を督し之れが使役に充て病者傷者を舁がしめ或は負わしめ概ね入院治療せしむるに至れり又親戚故旧に依りて看護の稍行届くものあるときは之に薬餌を与えしむる等当時の繁劇と奔走そは実に言語に尽し難き程なりしなり
以上人命の救助即ち傷者の看護稍其緒に就くと同時に各署よりの応援員漸次到着し救護力の増大と共に倫盗の取締及死体の発掘捜索に従わしむ是れ即ち救護事務の第二着にして亦容易の業にあらざりしなり即ち幾多貴重の財産は海面に漂流するものあれば又沿岸に漂着するものあり或は深く泥沙の中に埋没するあり盗兒は此時を好機とし人命の救助又は家族の死体探査に名を藉り海面に船を浮べて漂流物を盗むあれば海岸を横行し漂着の財産を集めて掩蔽するあり又は被害親戚の財産なりと称して窃に賍物を持ち運び窃取するものあり是れ亦生命に亜くの財産なれば之を保全すべきは警察の職として一歩も猶予すべからず然れども当時の状況と実際とは救護力を財産の一方に傾注するを許さず即ち一面は偸盗の取締に充て他は悉く死体の発掘と其処置とに従わしむ即ち泥沙中に埋没し又道路に暴露する財産は之を集めて家族親戚に交付し潰家に壓殺せられ又は海岸に漂着したる死体は得るに従い之を遺族に引渡し其誰たるを容易に判別し能わざるものは棺に収めて之を埋葬せり然るに是等発見の死体は日を経るに従い漸次腐敗し其臭気鼻を衝き人夫も之に近づくことを肯せず依て火葬をなしたるもの亦尠からざりき其他潰家の取片付け井水溝渠の浚渫より漸次其歩を進め清潔的大掃除に着手し潰家は取毀ち塵芥は之を焼却し飲料水を清潔ならしめ又は溝渠を浚渫疎通し汚物は之を投棄し又は焼却して災地の衛生を保全し次て至らんとする疾疫に顧念なからしむ此に於て災餘の民は漸く其業に就き各自其堵も安んずることを得たり

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(二) 志津川警察分署所轄内救護始末 (分署長警部野村盛行報告抜粋)
六月十五日海嘯当夜は本官自宅にありしが海嘯の至れると共に戸外に出んとせしに狂澗怒涛は家屋に打当り海水は既に縁側を浸し叫喚の声は同時に四方に起りしを以て直に分署に駈け付けしが当時分署員は内勤巡査一名外勤巡査二名あるのみにして巡査部長外一名は出張不在中なり依て警鐘を打ちて志津川消防組を招集したるに各組員の自宅は流失又は波濤浸水の為め容易に来集の模様なきを以て先ず三名の巡査を率いて志津川町沖須賀方面に出張せんとしたるも波濤は志津川街路に押寄せ来り既に全町を浸さんとする勢あり或は歩し或は泳ぎ漸く海岸に至り見れば沖須賀海岸及埋地に建設しある民家は過半流亡し或は潰倒して救護を呼ぶの声遠近に響きたり然れども夜陰暗黒なるが為め其形を認むること能わず此時に方り大浪押寄せ来りて足を奪い水中に溺れんとすること数回にして終に携えたる提灯は大波に奪い去られ救護方一層の困難を極む是に於てか一策を案じ海岸稍小高き所に篝火を焚き海中に漂流せる者に陸地の方面を示し又陸上にあるものも地形劇変其方角を誤り溝渠に陥り不慮の災難に罹るもの等は篝火の為め其の水の深浅を辨するを得て避難の便宜を得せしめたり既にして曩に警鐘を鳴らして召集したる志津川消防組員卅名餘来集せしを以て海中に漂流せる罹災民を救助せんとて舟を求めたるも大小船共海岸にありしものは過半流亡し其陸上にあるものは数丁遠き丘上或は田園の中に在りて船体の全きものなく其叫声を聞くも之を援うこと能わず空しく波濤の間に溺死せしめたるもの其数を知らず然れども陸上潰家の下に壓せられ気息奄々たるもの亦少からざるを以て消防組員をして其潰家を発掘し救助せしめたるもの数人に及べり但大家高屋の打重りたる処は容易に材木を取り除くこと能わずして空く窒息致命せしめたるものも亦多し此の如く陸海共罹災者ありて其死生は分時を争う場合なるも僅々三名の巡査と三十名の消防夫を以て一時に救護すること能わざるを以て空く無残の死を遂げしめたるは実に畢世の遺憾なりき其後一時間許にして海中に漂い居るもの或は陸上潰家の中に壓せられたるものは悉く致命したるものと見え救護を呼ぶの声全く絶えたるを以て負傷者の救助は消防組員に当らしめ本官は一先帰署せり然るに此時までは各地より報告未だ達せざるを以て被害は志津川町海岸埋地沖須賀のみと思料したるに午後十時に至り志津川町の内清水浜細浦荒戸平磯等の諸浜悉皆流失人畜大概溺死し命を全うせるもの僅々にして海岸は殆ど人影を見ざる旨通信を得たるに依り署員は僅々三名にして救護に遑なきも巡査熊谷謙治をして該浜地方に赴き事の信偽を確めしめたるに清水浜荒戸細浦袖浜平磯等の浜々は道路変じて大海となり倒屋打重りて道を塞ぎ民家は海中に漂蕩せられ今日まで家屋軒を駢べ一市街たりしもの悉く流失し清水浜巡査駐在所は礎石だも残さず流亡せり而して該部落の消防夫は大半死亡せるものの如くにて救護に従事するものなく被害者は只悲声を放ちて救護を求むるのみ
其惨状は志津川町海岸より一層甚しき旨の飛報あり是に於て到底僅々たる署員にては普く救助すること能わざるべきを思料し警察部に向て応援巡査の請求をなし置き清水浜地方には志津川消防組員十名をして救援に赴かしめ熊谷巡査をして其指揮を為さしめたり翌十六日午前一時に至り各村よりの故夫往来織るが如く歌津村駐在巡査八島誠一よりの報告には該村駐在所は流亡し家族一名死亡自分は裸体の儘僅に死を免れたるも官給品被服帯剣靴に至るまで悉皆流亡し沿海諸浜大半流失人民の死傷幾百人なるを知らず目下海中に浮沈し惨状甚だしきにより至急人夫警察官の応援を請う旨報告あり続て戸倉村十三浜村亦何れも惨状甚だしき趣き急報あり殊に十三浜村役場よりは同村部落の被害甚しき処は相川浜にして同地附近は民家悉皆流亡し非常の惨状にして目下十三浜駐在巡査は不在にして差向き罹災者を救助するの途なきにより至急警察官の出張を請う趣き報告あり此時該村駐在巡査佐々木文作は疾病の為め志津川病院に入院中なるを以て勤務に服すること能わざりしが強て馬に騎り該地方に赴き救護に従事せしめたり是時までは応援巡査の未だ到着せざりし時にして二三の署員は百方の勤務に唯だ気を揉むの外なく生残の人民は裸体の儘にて警察署の門前に群集し其父母兄弟の死を救われんことを乞い非常の繁忙を極めたり巳にして無害地各村受持駐在巡査は此飛報に接し各其駐在所の消防組員を率いて来援せり依て消防組員には巡査一名宛を附し歌津清水方面に急行出張せしめたり即ち横山村消防組は清水方面に麻崎村消防組は歌津方面に志津川消防組は専ら志津川町内の被害人民救助に従事せしめ其救済の部署も略定まり茲に漸く生存者の飢餓に辺り居る者負傷者の道路に横わり居るもの等を救助するの余裕を得たり斯くて天明に至り海岸被害地一帯衣食なく住家なき幾百の災民は道路に彷徨し中にも負傷者の死に垂んとする者頗る多きを以て差向き志津川病院を救護所に宛て附近の負傷者は消防組員を督して尽く是を運搬入院せしめ志津川小学校を救助所に充て町役場に協議して市中より焚出飯を出さしめ一時の飢を凌がしめたり又被害人民中水に溺れんとする際水中に於て衣を脱せしより男女共裸体の者多きを以て古着商より衣類数十点を出し是等に貸与せしめたり溺死者は志津川町被害部落のみにても三百八十名にして翌十六日に至り死体を発見せるものは二百名程なり之を埋葬するには棺桶の必要あるも板釘等の材料なく又之を作るべき大工なきを以て累々たる死体は積みて山を為せり其引取人あるものは之に引渡せしも往々全家死亡或は幼児を残し一家過半死亡するものありて其死体の誰たるを辨するを得ざる者多し
依て町役場に協議の上杉板三百間程を町内より蒐集し応援の消防夫又は市中の大工をして仮棺を製造せしめ夫々下附の手続をなしたり然れども歌津村の如き被害地の広濶にして其死亡者殆ど七百九十人以上ある所は村役場の手も行き届き兼ね且当分署より五里許も隔りたるを以て其遺族等は之を筵又は茣蓙に包み裸体の儘埋葬せしもの多かりき元来溺死者は変死なるを以て制規に依れば警察官に於て一々死体を検視し之を引渡すべき筈なるも当所轄各沿海諸村通して一千五百名に近き溺死者なるを以て警察官に於て一々其手続を了すること能わず志津川町内に於て死亡せし三十餘名の死体は一先ず分署門内に運び入れ一応検視の上其遺族者に引渡したるも医員の立会を求むるの煩を省きたり其住所氏名の不明なるものは人相着衣を書取り番号を付し之を火葬又は埋葬し墓標を建て番号を記し置き他日遺族者に於て下渡を請う者あるときは下渡すべき便利を図れり越て翌十六日登米警察署及佐沼分署より巡査十名来援せるに依り十三浜方面戸倉歌津清水各被害地に二名づつ急行赴援せしめたり尋て登米警察署長齋藤警部来援せしも人夫少数にて事の為すべき様なきを慮り登米郡地方より人夫募集の為め帰郡せり此披県知事は警部長参事官小泉第二課長藤田第一課長及警部二名を随え急行来署せられ一応被害地巡視の上到底少数の救護員にては手配り行届き兼ぬるを慮り警部長は各警察署長に電報を発し左の警部巡査を召集せり
右の人員に当署員を加るときは巡査警部の人員は左の如し
右人員を左の如く被害地に配置せり
又被害地の要部に警察官事務所を設置したり其箇所左の如し
而して之を監督するは十三浜村戸倉村は警部市原求仁歌津村は同菅生益尚清水浜事務所は巡査部長粟野宗質とし尚時々当署詰警部出張し之れが指揮を為す事に部署を定めたり
又他郡及本郡出役人夫数は左の如し
右の如く救護委員を除き警部二名巡査五十四名外憲兵五名を以て人夫一千七百
七人を督励したるに依り負傷者救護死体捜索斃牛馬取片付死体焼却或は埋葬等に従事し其任務を全うすることを得たり就中其最も困難なりしは死体取片付の一事なりとす
海嘯の陸地を浸すや其退潮の激甚なるが為め避難者は大半海中に押し流され溺死せるもの多く是等の死体を引揚ぐるには舟を用いて普く海中を捜索するの必要あるより被害地各村に左に舟を準備し日々捜索に従事せしめたり
一志津川町 早波船 一艘 船手 三名 巡査 一名
一歌津村 同 二艘 同 六名 同 二名
一戸倉村 同 一艘 同 三名 同 一名
一十三浜村 同 一艘 同 三名 同 一名
右五艘の船を以て日々近海岸を捜索し傍ら漂流物隠匿犯を防ぎたり此際石巻水上警察署松島号の応援を得て非常の便宜を感じたり当署部内被害各村に至る道路は頗る険悪にして陸路は里程遠く人夫の発遣物品の運送等に非常の困難なりしが水上汽船来援以来各被害地及所蜀気仙沼警察署との交通を開きたるにより諸事頗る便利を得水上を巡視し漂流物等の窃取を防ぎ傍ら死体を捜索したるのみならず物品の発送官吏の往復皆此汽船に籍るの便を得たり巳にして死体は日を経るに従い何れも腐乱し其相貌を辨すること能わざる者多く其衣服の縞柄等により遺族に下付せるものあるも多分は氏名不詳のものにして其陸揚したるものは附近の共葬墓地に仮埋葬を為したり其海中に漂流せるものは漸次遠く沖合に漂流し去り遠洋漁業者等にして死体を拾い搭載し来る事往々ありき斯くて七月の始め即ち被害後十四五日を経て海中の死体は多く海底に沈み其未だ発見せざるもの三百三十七人に及ぶも沿海岸には漂流せる模様なきより海中捜索に従事せる水上汽船松島丸は七月三日帰航したり又陸上に於ける死体は大概潰倒せる家屋の下に壓せられ又は溝渠下水溜池或は泥砂中に三百餘頭の斃馬と共に埋没せられ其大家屋の潰れたる下にあるもおは悉く家屋を取除き捜索せらるを得ざるを以て一潰屋を捜索するに数十人の人夫数日間を要し尚十分の捜索を為し得ざる事あり其溜池等の中にある人屍斃馬の如きは悉く其汚水を汲み取り泥土を取除き而して後発掘するを以て非常の労力を費せり折柄時候炎熱に赴き死體腐乱臭気に堪えず間々人夫及巡査に於て疾病を引起す等の事ありしを以て死体には多量の石炭乳或は石炭酸を散布し消毒の後取扱う事に為したり然るに斃馬の如き重量なるものは運搬方に多数の人力を要し一頭の斃馬を運搬するには十人以上の人力を要する事あり人馬共何れも多量の潮水を呑み致命せるものなれば腹部膨張容体著しく変じて其家族の者と雖どもこれを判別する能わざるに至れり依りて腐敗に傾きたるものは火葬の上其遺骨を遺族者に与えたり
以上は救急の一端を挙ぐるに過ぎず初め海嘯の災害ありしや本県庁に於ては海嘯臨時部なるものを設け其出張所を志津川町並に気仙沼町に置き数多の吏員を出張せしめ被害人民救助其外行政上に於て昼策宜しきに適い以て今日の成績を致せりと雖も亦直接其衝に当りたる警察官の労苦亦大に與て力あり前に述る如く警察官の数は応援者を合せ巡査六十四人警部四人ありと雖も其内事務委員を除くときは五十名内外に過ぎず而して被害地は一町三箇村此延長里程は十五里餘に亘り其地区は三十九箇所にして之を一字毎に割当つるときは一人二分許に当る而して此少数の人員を以て被害民を救恤すべき衣食より人馬の徴集に至るまで一々警察官の手に成り昼間は終日東奔西馳死体捜索被害家屋取
片付等に尽力し且被害後一週間許は道路開通せず又海路便船なく交通の不便より遂に日用品糧米に至るまで欠乏を来し歌津村出張警察官の如きは玄米を炊きて僅に飢を凌ぐに至れり加之夜間に於ても其疲労を慰するに由なく半漬の家屋に在りて僅に雨露を凌ぎ被害人民と共に起居し死体と枕を並べて一睡を催すに過ぎず斯の如きもの六月十五日の夜より七月六日まで日数三週間に亘り其内白衣の被服は悉く茶褐色を呈し七月七日に至り応援巡査は僅に七名を残留し此援助を除く外一切当署員を以て之に当ることとなれり此時期候炎熱にして赤痢病は本県下に流行し隣郡登米桃生まで侵入し来り本郡内亦所々に発生し海嘯被害地を侵掠せんとする恐れあるより警察官は被害地一般に消毒的大清潔法を執行し毎戸の飲料井水は幾度となく浚渫し大に警戒せしにより被害地に流行の惨状を見るに至らざりしは亦実に災民の幸福なりとす

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(三) 飯野川警察署所轄内救護始末 (署長警部山中雷之助報告抜粋)
六月十五日午後六時三十分稍強き地震一回あり同十六日午前三時雄勝駐在所より同地に海嘯起り家屋の流入人畜の死傷夥多ある旨急報に接し始めて海嘯ありしを知り署長警部山中雷之助は直に巡査五名を引率し急行出張したるに同地駐在所は激浪の襲来を受け家屋の破壊家財の流亡夥しく郵便局より宮城集治監出役所に至る間山腹一帯の人家を除く外海岸通りの市街は悉く惨害を被り海岸處々に漂着せる木材及家財等は家屋の破壊と共に道路其他に散乱し行くに道なく踏むに地なきの状況を呈せり同地駐在所轄巡査伊藤運三郎の陳述に依れば同十五日午後八時東北の方向に当り轟然たる鳴動あるや瞬間にして激浪怒涛は宛も大山を築きたるが如く且其勢迅雷の如く忽然海岸を浸襲し来り雄勝市街は瞬時に海水の汎濫漲溢する所となりしを以て第一回の激浪に市民は避難するに由なく屋内に狼狽せり而して激浪の浸襲は都合八回就中一回乃至三回は平水より殆ど二丈餘の高浪にして其襲来尤も激甚なりしが為め惨害を被りしは最も此時にあるものの如し故に市民は一回二回の激浪引退の際概ね高地に非難したりしも狼狽して出る所を失し家屋の流亡と共に海中に押流され或は非難の途中激浪に襲われ溺死を遂げ或は家屋の破壊及漂流物に接触したる等の為め負傷者を生ずるに至りしものの如し就中被害の甚だしきは宮城集治監出役所にして同所には看守十五名小使一名囚徒百九十餘名なりしに同所は雄勝湾の尽くる所の平坦なる地に在るを以て海水の襲来最も激甚なりしものの如く最初東方の外囲を排倒して構内に漲溢し潮水軒に達し続て看守寄宿舎作業場及病監等を流亡し獄舎其地の家屋は何れも破潰を来したり
此際監守部長道山省三及看守佐藤常之丞外二名は監房の鎖鑰を開きたりしも巳に潮水嵩み来りて軒に達する場合なりしがば各囚徒は容易に戸外に出ずる能わざるを以て食器台に使用せし板を以て屋根を突き貫き屋上に出て夫れより附近の山上に避難したり此際看守八名囚徒四名は終に溺死し囚徒四名は其機に乗じて逃走したるを以て一面は各地に警戒を加え逃走囚徒の捜査に手配を尽したりしに同午後五時大川村大字釜谷に於て巡査大宮兵弥は人民と協力し内三名を捕獲し外一名は石巻警察署の手にて捕獲したり仍て山中警部は雄勝へ到達すると同時に巡査三名を船越駐在所部内及大川村大字長面方面へ出張せしめ人命救助及災民の救護其他に従事せしめたり船越駐在所部内は海嘯の襲来雄勝と同様にして該駐在所は稍々高地に在るを以て床下に浸水せるのみ他に被害なく且大字船越市街及名振は前面に八景島と称する小島を控えたるが為め激浪の襲来稍々緩慢なりしものの如く水層一丈四尺餘にして左程の惨状を極むるに至らずと雖も大字船越小字荒と称する所は船越市街より稍々東南に当り前面は太平洋に臨み光背は山を負いたる渓谷の間に在り平常に在りても動もすれば激浪の襲う所なるにより其襲来最も激甚を極め民戸十四戸尽く其災害を被りたる惨状は実に名状すべからず又大川村大字長面は海岸には凡十町餘の距離あるを以て市街地付近に於ては何等の被害なかりしも海岸に孤立せる家屋は多少其害を被りたり
六月十六日午前十時山中警部の一行雄勝に到達するや同地に警察官吏の臨時出張所を仮設し海嘯事務一切を處理することと為し巡査三名を船越方面へ派出し同地駐在所詰巡査と協力せしめ又巡査二名は雄勝に於て同地駐在所詰巡査と協力し先ず罹災者の救助其他に従事せしめ大川村大字長面は受持巡査をして之に従事せしむ又巡査三名を雄勝方面に巡査一名を船越方面に出張せしめ被害の最も大なる雄勝及船越を本拠として此處に駐屯せしめ置き各部署を定めて夫々救護に従事せしめ其従事したる状況は毎日巡査部長をして報告せしめたり其救護は最初は専ら人命救助罹災者の救護負傷者の治療死体の捜索及埋葬漂着物其他の家財及貨物の警護飲料水の供給等に従事し爾後漸次破壊家屋及漂着物の取片付井水の浚渫道路橋梁の修繕に関する監督等に従事せしめ且流潰家屋及浸水家屋溝渠下水等に清潔法を施行せしむる等緩急に応じて夫々處理せしめたりしに同七月十五日を以て概略結了を告げ各罹災者は孰れも就業するに至りし状況なるを以て枢要の地に両三名の巡査を駐屯せしめ置き他の出張巡査は一応之を引揚げ爾後随時出張巡視することとなし八月一日より七日まで警部前田元をして巡査五名を引率し各災害地毎戸に就き消毒的清潔法を実施せしめたり右は重に郡村吏員と協議を遂げ督励実行せしめたるものにして出張巡査は昼夜差別なく専心従事したる結果人命の救助罹災者の救護負傷者の治療等手配敏活にして周到なるを得たり而して死体は概ね発見し漂着物並に破壊家屋其他の家財及貨物等は総て安全を保つを得飲料水の供給充分にして清潔法の施行周到なりし為め幸に伝染病の発生を見ず且つ破壊家屋及漂着物の取片付道路橋梁の修繕等は何れも迅速竣工を告ぐるに至りし等頗る善良の成績を見るを得たり而して人命救護は六月十六日十七日は行方不明の者にして或は漂流家屋及木材等に縋り或は岩礁等に漂着し居るものあらんとの懸念ありしを以て先ず現存せる漁船数艘に適当の者を乗込しめ近海を捜索せしめたりしに其結果左の如し
雄勝に於ては
木材に縋り漂流し居る 男一人
破壊船に縋り漂流し居る 男一人
船越に於ては
岩礁に漂着し居る 男二人 女四人
木材に縋り漂着し居る 男一人
漂流家屋に縋り居る 男一人 女二人
爾後尚お漁船を出し人命救助を兼ね死体捜索を為し左の死体を発見せり
雄勝に於て四十八人 内 男三十一人 女十七人
内雄勝の者 男十七人 女七人 外氏名不詳の者なり
船越に於て六十六人 内 男三十五人 女三十一人
内船越の者 男七人 女十二人 外氏名不詳の者なり
又各罹災者は概ね着衣の儘辛うじて避難したるものなれな忽ち衣食に窮し殆ど飢寒に迫るの状況なりしかば郡村吏員と協議の上雄勝に五箇所船越に一箇所の救護所を仮設し食物を給與せしめ又小屋を仮設して一時の寝所に充て或は無難 家屋に罹災者を収容する等臨機の処置を為して飢渇を救い又食器等給與の方法を講じて罹災者を慰籍し漸次自家の取片付其他の事に就かしめ旁ら漁業に就くことを得せしめたり又負傷者は漏れなく調査の上雄勝及び船越に患者収容所を仮設して此に収容し地方の開業医をして夫々施術せしめ爾後軽傷者は各自の居家に重傷者は収容所に於て治療を加え尚お近村より医師を招致して充分なる施術を為さしめ軽傷患者は毎日一回乃至二回づつ往診を為さしめたり次で六月二十一日に至り赤十字社より医員の出張ありしも船越方面の患者は概ね経過善良にして巳に就業することを得たりしを以て出張医員は雄勝に於て四十一人の治療に従事せり爾後漸次各地より寄贈の衣服食器家具農具等陸続到達したるを以て巡査立会の上夫々給與せしめたるに災民は何れも其恩に感泣し奮然として恢復の念慮を惹起せり
飲料水は激浪の侵入したるが為め溷濁して供用すること能わず差向き災民の困難尠からざるのみならず衛生上の危険極めて多きを以て急速之が浚渫の道を講し最初は雄勝船越等災害の大なる地に適当の井泉数箇所を浚渫して災民の便益を計り爾後は漸次人夫を使役して毎戸の井泉を浚渫せしめたり又厠□は概ね押流され或は破壊せられたるを以て最寄便宜の地に仮設せしめたるに依り衛生上頗る良好の結果を得疾病に罹る者割合に寡少なることを得たり
(四) 石巻警察署所轄内救護始末 (署長警部黒田良正報告抜粋)
六月十五日海嘯の為め本部女川、大原、鮎川、荻の浜の四箇村沿海地に多少の害に罹りたるを以て罹災民保護及び漂着地取締並漂着死体捜索埋葬監督の為め左の各地に巡査一名づつを配置せり
鮎川村金華山 同村網地浜
同村長渡浜 女川村江ノ島
同村鷲ノ神 同村飯子浜
同村御前浜 同村竹ノ浦
同村出島 同村寺間
大原村谷川 同村寄磯
同村新山 同村泊り浜
荻ノ浜村田代
以上十五箇所に配置せる巡査は独り配置地に限らず其最寄海岸を担当せしめたり而して村役場と協議の上人夫を出さしめ之を指揮監督して家屋家財等の流失及び死体の捜索に従事せしめたるに幸に女川村大原に於ける溺死者二名の死体を発見し得たるも流失物等に至りては拾収に由なかりき家屋流潰の被害者は一時他の無事なる民家に寄宿せしめ或は小屋掛をなし以て刻下雨露を凌ぐの急需に供せり又半潰若くは浸水の家屋は一応の掃除をなしたる上夫々修補に着手せしめたり要するに牡鹿郡被害地は他の惨害とは異り部落全部の流潰なく又全戸死傷の惨害を免れたるを以て従て自活の道なき老幼者多からざるより之が救護を為すに当ても充分に行届くことを得たり但本郡被害地に於ける溺死者は前に述ぶる如く二名にして何れも捜索の末其死体を発見したるも他の被害地に於ける溺死者続々沿岸に漂着するを以て巡査をして絶えず沿海を巡航して死体を捜索せしめたり其巡査の拾収したるもの及び漁夫等が出漁の際引揚げ来りたる漂流死体の総数は実に百八十四人に達したり是等の死体も尚お通常変死人と等しく一々検視を遂げたる上死体は村役場に引渡し仮に埋葬せしめ埋葬所には番号を附したる標木を立て其番号に依り人相着衣を記録せしめ置きたり然るに七月中旬に至りては漂着死体の皮肉悉く腐乱して相貌詳かならず且つ臭気甚しく衛生上の害毒又少なからざるより死体は総て火葬せしめ村役場に対しては火葬費用請求に要する証明を与えたり又他地方に於ける罹災家屋の木材等各沿岸地に漂着し殊に金華山沖に最も多かりしかば漁夫等出漁の際之を収得し来りて隠蔽するの虞あるを以て厳に視察を遂げ注意を加え村役場に届出てしめたり其他被害清潔法等厳重に施行し以て本署の任務を尽したり
附記
水上警察の応援
石巻水上警察署は警察本部の電令に依り六月十八日を以て小蒸気船松島丸を被害地に向て回航せしめ海中に漂流せる死体の捜索医師人足負傷者の運搬等に従事せしめ救護上頗る便益を与えたり今左に航海報告を摘録す
松島丸航海日誌
(石巻警察署巡査部長佐藤新三郎報告抜粋)
大海嘯被害沿岸潰倒家屋取片付死亡者捜索負傷者救助保護とし水上警察署汽船松島丸派遣に付其乗込員及航行日誌左の如し
乗込員
自六月十八日 至七月十一日 二十四日間 巡査部長 佐藤新三郎
同 巡 査 小野 亀寿
自六月十八日 至六月廿三日 六日間 同 佐藤 忠吉
船 員
自六月十八日 至七月十一日 二十四日間 巡 査 中村 茂平
同 同 菊地 留吉
同 同 渡邊亜兵衛
同 同 相澤 久蔵
航海日誌
六月十八日拂暁曇前六時晴海上平穏午前四時十五分北上川抜錨志津川に向う航路は荻の浜を左方にして進み黒崎を回り金華山瀬戸を経午前八時十八分出島に寄港し採水終て同十時出帆桃生郡沿岸に差掛るや薪又は材木の海上に漂流すること三里許の長さに及び尋て塵芥什器の流動するもの倍多きを認む本吉郡海境に入るに及んでは破潰したる家屋材は海を掩蔽して海水を見ず依て之を避けて進航し午後零時五十分志津川湾に達す野村志津川分署長の委嘱に依り陸軍医官赤十字社医師並に薬剤員等廿一名其他郡吏諸荷物を搭載して午後三時五十分抜錨小泉に向う然るに漸く日没に及び小泉に達すること能わず止むを得ず名足に寄港し乗員を上陸せしむ日没後同所仮病院負傷者数十名を搭載し同港出帆海峡の都合に依り田ノ浦に寄港し更に患者数名を移し載せ午後八時二十分発名足に来りて上陸同夜午後十時頃名足発伊里前に碇泊す時に十九日午前一時なり此沿岸は概ね暗礁ならざるはなく殊に三十三根と唱うる難所なるを以て海員の心痛大方ならず此日航海殆ど二十三時間許
六月十九日午前六時三十五分伊里前抜錨同七時三十五分志津川着石炭積入及採水等をなし被害地に送る食物並に人足警部巡査村吏等八十餘名を乗せ曳舟を用い午後四時五十分発同六時伊里前に着船し陸揚了りて同六時三十分志津川に回航碇泊す此日名足迄進航の予定なりしも海霧の為め果さず
六月二十日昨宵より今朝に至る海上一面大霧此日も同く被害地に送る食物人夫等を本船並に曳舟二艘に積載して午前九時二十二分志津川を発し同十時四十分伊里前に着船し陸上が了りて午後零時発午後一時十分志津川に帰航再び物品人員を搭載し午後二時四十分発同三時二十分長清水浜に至り陸上が終て同四時十分投錨同四時五十四分志津川に回航す
六月二十一日久米内務参事官の一行を乗せ午前八時志津川を発し気仙沼に向う途上清水細浦伊里前の被害地に上陸視察了りて進航し将に三十三根の難所に至らんとするや偶東空に一大黒雲棚引き天候を望めば波際のガス天に漲りて海面を掩う此に於て舟体の過失と一行の不慮とを恐れ止むを得ず一行を泊浜に上陸せしむ頃日梅雨に際会せしむ以て動もすれば雨風に変じ晴曇時なく進航上大に苦心を極む午後一時四十分泊浜を発し同二時三十五分志津川に回航す
六月二十二日是より先き警部長は志津川より気仙沼に出張せらる仍て命を候する為め午前九時志津川抜錨伊里前田浦を経て午後六時気仙沼に着す
六月二十三日東風々波不穏
六月二十四日東風警部長巡視に付これを乗せ午前十時三十分気仙沼抜錨午後二時三十分大嶋長崎回航午後三時二十八分気仙沼に帰航す
六月二十五日石炭用意の為め午前五時十分気仙沼より志津川に向う安田警部乗船同八時五十分志津川着此日知事一行小泉駅に出張帰路伊里前より乗船の命あり午後一時志津川発伊里前に上陸し知事の来着を俟つ既にして午後十時知事着伊里前役場に臨まる暫時にして乗船午後十時二十五分抜錨志津川に向う此夜満空暗澹瓦斯充満し時々降雨あり四方晦曚進路を辨せず頗る苦慮せしも暫時にして海上稍晴れたるを以て無事任務を尽し午後十一時志津川に着船す
六月二十六日晴午後零時二十八分知事一行を乗せ桃生郡地方に向う波伝谷及び長清水相川各浜に寄港し午後五時白浜着一行上陸宿泊す
六月二十七日晴平穏午前七時一行白浜を出て此日鈴木桃生郡長乗船名振船越荒屋敷各浜を経て午前十時五十分雄勝に着船一行上陸了て正午同所出帆午後四時 志津川に回航雨に遇う
六月二十八日濃霧後曇天午前九時十七分志津川出帆同十時十五分伊里前を経午後二時十五分気仙沼に着船す午後四時二十七分抜錨警部長を乗せ唐桑村只越大沢付近に至る同六時四十五分只越発同八時四十分気仙沼に帰航此日上田、伊地知両警部随行す
六月二十九日気仙沼碇泊
六月三十日同上
七月一日雨甚昼霧午前五時気仙沼抜錨知事乗船大島湾頭に入津したる龍田艦訪問の上気仙沼に回航す此日内務大臣来県に付上陸気仙沼警察署に至り応援勤務に従事す
七月二日午前九時二十分気仙沼を発し一坂書記官草間警部唐桑村鮪立、宿、小鯖の各浜を巡回し午後一時四十五分気仙沼に帰泊す
七月三日気仙沼に碇泊す
七月四日同上
七月五日同上
七月六日同上
七月七日細雨霏々東園侍従及び警部長上田伊地知両警部同乗午前六時四十分気仙沼出帆唐桑村巡視同七時三十五分宿浜着船同十一時二十分同所発被害地経由の上侍従一行片浜より上陸午後二時二十分気仙沼に回泊す此日船内掃除採水等を為す
七月八日午後晴西風此日侍従一行志津川より乗船に付同湾に回航の手筈なるも風波不穏に付止むを得ず気仙沼に在りて天気の定まるを俟つ気仙沼湾頭大島麓下に一軍艦の来泊するを見る蓋し和泉艦なり
七月九日西微風曇天午後霧午前一時起床舟議(□)し同二時三十分気仙沼を出て同五時四十分志津川着船東園侍従一行警部長乗船午前八時十分志津川を出て波伝谷長清水相川白浜各浜巡視の上白浜に碇泊
七月十日霧曇微風午前七時十分白浜出帆同九時雄勝浜に着船午後零時十分同所を出て二時三十五分牡鹿郡女川湾に着船一行上陸任務を了し同所出発同日午後
七時牡鹿郡鮎川浜に停泊す
七月十七日晴午前九時鮎川浜抜錨午後一時石巻に帰署す此日北上川口に於て軍艦和泉艦を見る
(第 四) 臨時病院及び救護所の設置并に其方法
海嘯の飛報一たび達するや負傷者救療は一日も緩慢に付すべからざるを以て日本赤十字社宮城支部及び第二師団第二高等学校其他団体又は有志医師等被害地に出張し之が救護に従事せんとするもの極めて多し仍て知事は六月十七日を以て取敢ず臨時病院十一箇所を設置し便宜患者を収容し之が救護を嘱託せり其位置左の如し
一本吉郡十三浜村字相川
一同 戸倉村
一同 志津川町
一同 歌津村字伊里前
一同 歌津村字名足
一同 小泉村
一同 大谷村
一同 階上村字明戸
一同 気仙沼町
一同 唐桑村字宿
一同 唐桑村字大沢
右の外桃生郡十五浜村字雄勝に一の救護所を設けたれども此地方は被害の区域狭く傷病者の数亦随て少なきが故に出張僅に四日にして之を閉じぬ其他本吉郡の各臨時病院も時を経るに従い患者の数を減じたるを以て七月六日相川戸倉の二病院を志津川臨時病院に併せ七月七日名足、伊里前の二病院を志津川臨時病院に合し小泉臨時病院と共に三箇所となし同月三十一日を以て又三病院を閉鎖し残患者を公立志津川、気仙沼病院に付託したり
救護員は六月十七日より陸続被害地に向て出張せり其人員は日本赤十字社宮城支部より医員三十八名調剤員八名事務員三名看護婦十七名計六十六名第二師団より軍医八名看護長二名看護卒二十名計三十名第二高等学校医学部より教師一名生徒三十六名計三十七名通計百三十三名其他篤志者等にして適宜各病院に配置せり其配置左の如し
右の内第二師団及び第二高等学校は救護事務の稍々整理するを待ちて孰れも引揚げたるに依り爾来は主として赤十字社支部員を以て之を組織せり而して七月七日以後(コピー不明)病院合併後に於ける配置は左の如し
臨時病院設置以後救療したる患者は総数一千三百二十九名にして内入院四百名外来九百二十九名其延人員は凡て一万三千百三十名なり之を病院別にすれば左の如し
備考
一相川戸倉は病院を設けず救護所に患者を集め治療せしにより外来の部に算入す
一桃生郡は救護院出張所を設け各患者の所在に就きて治療せしにより是亦外来の又右患者を病症に依り類別すれば左の如し
又入院患者死亡総数は三十五名にして内志津川気仙沼両病院(各十名)を以て最も多しとす是れ主として重病患者を収容したるに依れるものにして其病院別左の如し
尚各病院に就き其詳細の事実を挙ぐれば左の如し

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相川臨時病院
一位置
字相川の一民家
一開閉
六月十八日開院七月七日閉鎖救護期間凡そ十九日
一救護員
初め赤十字社支部派遣の医員佐藤熊之助以下九名救護に従事せしが開院後一日を経て悉く引揚げ爾来閉院まで村医日野源治以下二名及び事務員一名にて救護事務を担当せり
一患者
収容患者の総数は九十一名内男四十九名女四十二名にして死亡一名あり
初め開院の際直に重症者十名を志津川臨時病院に転送し其餘は皆軽症なるを以て別に患者を入院せしめたるものなし
患者重症の種類は孰れも外科的疾患にして打撲擦傷を多しとす
一残患者処分
閉院の際尚お三十六名の残患者ありしを以て更に之を村医日野源治大槻俊平に附托したり
戸倉臨時病院
一位置
本吉郡戸倉村字龍浜松林寺
一開閉
六月十九日午後一時半開院廿一日午後一時を以て閉鎖せり救護期間凡そ三日
一救護員
(不詳)
一患者
患者は其数総て二十九名負傷地を以て之を分ては波伝谷十名藤浜長清水各八名寺浜二名にして被害の多きに比すれば患者は比較的に少な
く且つ殆ど重傷者と認むべきものなし蓋し本村は志津川町を距る約三里折立より龍浜に至る沿海は山路稍々険岨なれども折立以北は腕車を通し且つ海上波穏かなれば舟行一時間にして志津川町に達すべきが故に病院開設前既に重症者を志津川臨時病院に転送せしによれるなるべし事情斯く如きを以て永く病院を置くの必要なきを認め
一日を隔てて之を閉じ患者は概ね村医小澤安ノ進に托し稍顧慮すべきもの二名を志津川町に転送せり
志津川臨時病院
一位置
初め本吉郡志津川公立病院に開設し後同地大雄寺に移転せり
一開閉
六月十七日午後四時開院七月三十一日閉鎖救護期間四十五日なり
一病室
公立病院の病室は従来其数七八に過ぎずして僅に二十名内外の患者を容るべきのみ到底多数の患者を収容することを得べからざるを以て止むなく其東隣なる志津川尋常高等小学校の教室を以て病室に仮用し約三十名の患者を収容したりしも薬料食品等の供給上不便尠なからざるを以て重症者は可成的本来の病室に入るることとせり
七月五日当病院を志津川町の西北端なる大雄寺に移転せり乃ち本堂及び其両側の座敷併せて凡そ三十三坪餘を以て病室に充れしが尚お狭隘なるを以て更に広縁下の一部五坪餘を区劃して畳を敷き此處にも患者を収容せり
一救護員
初め赤十字社支部幹事宮城病院長山形仲芸外医員六名薬剤師一名看護婦四名を以て救療に従事せり
一患者
開設当時収容せる患者は海嘯当夜より入院継続の者十三名之に新患者を合して約五十名なりしが後二十二三日の頃に至りては実に七十三名の多きに上れり
七月五日大雄寺移転の際は患者総数三十五名なりしが同日午後一時名足臨時病院より十七名六日伊里前臨時病院より五名を輸送し来りて都合五十七名の入院患者となれり
同九日十四名の退院者ありし為め俄然減じて四十三名となり七月三十一日閉鎖の際には七名の患者を残せり始より終に至る迄診察患者の総数凡そ二百十八名
今之を区別すれば左の如
更に入院患者百二十三名に就きて調査するに入院後一般に良好の経過を呈し全治若くは軽快退院するもの総て九十七名男四十四名女名死亡者の総数て十名(男女各五名)にして其餘未治退院九名残患者七名あり
又其病種によりて之を区別すれば外科的疾患多くして重症の者亦割合に多し即ち左表を見て之を知るべし
而して外科的疾患に於ては軟部挫傷(三十八名)最も多く打撲、骨傷(各二十四名)之に次ぎ内科的疾患に於ては肺炎(十七名)最も多し即ち左表の如し
而して死因の多くは肺炎に基けり
又負傷地によりて患者の多少を比較するに入院外来を通して清水(五十四名)最も多く志津川(四十四名)細浦(三十二名)之に次げり
一衛生
最初開設設せし公立志津川病院並に其隣地なる小学校舎等は共に高燥の地にありて空気飲料水共に佳良なりき大雄寺は前者に比すれば地質少しく卑湿なるが如し
一飲料水
左に飲料水分析票を掲げて参考に供す
其一 公立志津川病院飲料水
反応 亜爾加里性
色 無色透明
有機物 僅微
コロール 多量
硝酸 なし
亜硝酸 なし
アンモニア なし
其二 大雄寺飲料水
反応 中性
色 無色透明
有機物 なし
コロール 僅微
硝酸 なし
亜硝酸 なし
アンモニア なし
一清潔法
病室並に各部の清潔法は厳密に之を施行したり即ち光線の射入並に空気の流通等は充分に注意し又一日数回塵埃を掃除し汚物其他の排棄は一定の器物を備えて他に散乱するを防ぎ不潔の場所就中厠□の如きは時々浄水を以て洗浄し且つ石灰乳を散布せしめたり
一被服
患者の被服は当初弊衣を纏うもの多し加之間々腐敗せる創液膿汁等の為め湿潤せるもの等ありて外科的治療上頗る困難を感じたりしが爾後寄贈品の続々到達せるを以て之と交換し単衣の如きは時々洗濯給與せしを以て稍々清潔を見るに至れり
一浴法
患者の身体は被害の当時大抵泥濘に塗れ加之長く入浴せざるが為め頗る不潔を極めたり加之患者概ね多数の創傷を負い或は高熱を有せざるものなく又一方には浴場の設なき為め清潔法の目的を充分に達すること能わざりしに由り止むを得ず拭清法を取り可及的身体を清潔ならしむることを勉めたりしが大雄寺に移転せし以来風呂を設け日々患者の数を定めて入浴せしめ止むを得ざる者には依然拭清法を継続したり
一治療器械
初め赤十字社支部救護員の携帯せるものは各所分遣員各其必要品を選出し去れるが故に多少の不足を生ぜしも公立志津川病院内の器械物品を以て一時之を補充したりしにより作業上大なる不自由を感ぜざりき
一残患者処分
七月三十一日閉院の際残存せる患者七名は之を公立志津川病院に托し内四名は担架を以て運搬し其他は徒歩にて移転せしめ茲に全く当病院を閉鎖せり

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伊里前臨時病院
一位置
本吉郡歌津村字伊里前尋常小学校
一開閉
六月十七日(十八日)開院七月六日閉院救護期間凡二十日
一救護員
赤十字社支部医員桜田三六以下四名外に第二高等学校生徒七名救護に従事せり
一患者
当病院に於て取扱たる患者の数は総て百〇八名内入院二十七名外来八十一名外科的疾患就中打撲裂傷切傷等の多きこと他の病院に於けるが如し入院患者の重症は九名にして内死亡二名あり共に異物性肺炎に罹れるものなり
一残患者の処分
閉院の際残患者五名を志津川臨時病院に転送せり
名足臨時病院
一位置
本吉郡歌津村字名足尋常小学校
一開閉
六月十八日開院七月五日閉鎖救護間凡十八日
一病室
校内の二教室を以て病室に充てたれども元来狭隘にして且つ破損せるを以て辛うして各患者二十名を収容することを得たり
病床は室内歩床のみなるを以て琉球表或は藁を布きて之に充て寝具の如きは最初各自携帯せる蒲団又は毛布を用いたりしが六月二十二日午後より赤十字社寝具用毛布を使用せり(其用法は布団皮なきを以て床上に厚く藁を敷き上に琉球表を展布し然る後之を被うに毛布を以てしたるものなり)
一救護員
陸軍二等軍医奥谷虎彌太以下十名主として救護の任に当り外に第二高等学校生徒三名三日間(六月二十日より二十二日迄)補助をなし郡役所及び村役場吏員等亦各出張救護に尽力せり
一患者
当病院にて取扱たる患者の数は百三十九名内入院患者四十四名外来九十五名にして死亡二名あり患者病症の種類は打撲挫傷最も多きこと他の病院に同じ
一救療材料
当初軍医の第二師団より携帯せるものを以て之に充てしも供給不足にして救療
甚だ困難を感じたるが六月二十二日赤十字社支部志津川出張所より補充を仰ぎ爾来漸く補給迅速にして稍々欠乏の憂なきに至れり
一残患者の処分
閉院の際残患者三十二名の内十七名を志津川臨時病院に転送し外一名は親族の望みに任せ小泉病院へ転送せり其他全治退院若くは自宅療養を命ぜり而して此等自宅療養を命じたる者及び外来患者にして未だ全治に至らざるものには一般一週間の薬餌及び消毒包帯材料を附與せり
小泉臨時病院
一位置
本吉郡小泉村尋常小学校
一開閉
六月十八日開院是より先き村医佐藤元信千葉良造三束龍純等救護所を本村字今朝磯尋常小学校分校内に設け負傷者救療に従事せしが其不潔狭隘なるを以て之を此に移せしなり七月二十九日閉院救護期間凡そ四十一日
一病室
該小学校は間口十三間奥行五間の宏壮なる二階造にして其構造臨時病院に適し優に五十名の患者を収容すべし楼下は大小四室に分割せられ大なる中央の二室を以て軽症及び重症の室とし小なる一室を以て最重症室とす他の一小室は手術場にしえ机を以て手術台とせり病室に於ては患者一名に一畳の割合を以て徴集したる畳を敷き布団毛布病衣等を一二枚宛與えたり但藁布団の被布あれども藁の供給甚だ困難なるを以て止むを得ず綿入布団を用いたり
一救護員
開院の初めより七月六日までは陸軍一等軍医鶴田禎次郎以下救護員九名にて之を担任せしが七月七日臨時病院を志津川、気仙沼、小泉の三箇所に合併するに及びて爾後当院の救護事業は桜田三六之を提理し院医三名事務員看護員三名之に従えり
一患者
当院にて取扱いたる患者は入院四十四名外来八十九名総て百三十三名にして病症の種類は打撲挫創最も多く各其総数の四分の一を占めたり結膜出血子宮出血亦少なからず
患者中重症は其五分の一に当り他は皆軽症にして倒屋内に在りて負傷せしもの多し死亡僅に二名
一衛生
負傷者及附添看護人の食餌供給は出張村吏の尽力に依り村役場より調達し極めて粗食なりしかども飲食に欠乏を告ぐることなく負傷者には一般粥食を與えて飢を凌がしめたり殊に院内井水の善良なりしは救護其他に就て大に便宜を與えたり
滋養品副食物は殆ど供給の途なく初め諸方より僅に雛卵数個或はコンデンスミルク一二個を購い得たりしも多数の負傷者に配與すること能わざるを以て其重症にして食気減損の恐れある者にのみ配與せり然れども数日後に至りては赤十字社支部より寄贈せる牛肉缶詰、パン、ミルク等或は来訪慰問者より寄贈せられたるものを以て其用に供することを得たり
一救療材料
救療材料は当初軍医の携帯せる薬品諸器械と病院医の携帯せるものとを並用し
更に海嘯臨時部気仙沼出張所よりの補給を得て治療に従事することを得たり然れども其間里程遠隔せるを以て急遽の際に当りては稍々不便を感じたること少なからず
一残患者の処分
閉院の際残患者八名を志津川臨時病院に転送せり
大谷臨時病院
一位置
病院は本吉郡大谷村高橋某の居宅を以て之に充て別に外来診察所を村役場に設けたり
一開閉
六月二十日開院七月七日閉鎖せり救護期間凡そ十八日是より先き被害の翌日(六月十六日)村医荒木玄恭負傷者の治療に従事し翌十七日には赤十字社支部派遣の救護医員佐藤熊之助事務員看護婦四人と共に患者を治療せしが此に至りて病院を開設せり
一救護員
救護医二名村医一名事務員一名手伝三名病院取締一名より成る
一患者
患者総数は八十名にして内入院十名外来七十名なり初め病院開設の当時は四面泣哭悲鳴の声夥(?)しきを以て自己の傷疾を顧慮せず専ら死体の捜索に熱心従事したるを以て来院治療を乞うもの少なかりしが村長警察官憲兵等の訓諭を受け始めて自己治療の大切なることを知り忽ち来院治療を求むる者日々増加し終には被害負傷に非ざる患者も亦来たりて診療を希望するに至れり
一残患者の処分
閉鎖の際軽快一週日以内にして治療すべき患者十名は村医荒木玄恭に委託し癒期予定定し難き者三名は之を気仙沼臨時病院に転送せり
階上臨時病院
一位置
本吉郡階上村字明戸寿福寺
一開閉
六月十七日開設是より先き被害の翌日即ち十六日気仙沼町開業医伊藤幾三郎本村の嘱託を受け救済病院を設けて患者を収容し救急の処置を施せり十八日赤十字社支部派出員来りて一応患者を診察したる後更に気仙沼町に於て同支部長の命令を奉じ十九日を以て再び来り院内の事務引継を受け茲に始めて臨時病院の成立を見るに至れり斯くて開院十八日の後七月七日を以て閉鎖せり
一病室
病室は寺の本堂を以て之に充て手術場を其前部に当る廊下に設けたり場内に於て使用する寝台即ち手術台の如きは民間所有の畳を借り載するに戸板及び畳を以てし辛うして代用することを得たり其設備の不便想うべきなり
一救護員
救護員は赤十字派出医員堀田熊之輔以下四名にして其他篤志を以て治療及び看護の労を取りしもの医師二名看護婦四名あり
一患者
診療患者総数は百二十一名内入院二十八名外来九十三名にして死亡六名あり負傷者の種類重症患者の種類は打撲に起因する挫傷及び裂傷最も多く骨折之に次ぎ其他は脱臼並に臙下肺炎等なりとす而して挫傷及び裂傷等に於ける症状は単純の打撲より来れるものと少しく趣を異にせり何となれば這回の変災に於ける負傷者は或部に於て損傷を蒙ると同時に不潔汚穢の潮水創面に侵入し局部を腐敗せしむること速かなればなり故に当時細微の傷面にして患者自身に於ても更に意に介せざりし者も多少の日子を経過するに随い漸次皮下に広汎性の蜂窩織炎を誘発するもの少なからず事情既に斯の如きを以て患者一般に於ける治療の期も比較的に長日子を要せり骨折及び脱臼等の如きは敢て普通のものと異なる所なし嚥下性肺炎は幸に当村に於ては最も少数にして開院当時より閉院に至るまで僅に二名を収容せしのみ共に劇烈猛悪にして初め悪寒戦慄を発し爾後四十度以上の高熱性連りに持続し未だ肺部に充分の濁音等を発せず僅に「テッセル等を聴取するのみにして早巳に鬼畜に上るに至る病勢の急劇なる実に驚くに堪えたり軽度の負傷者に於ては打撲に起因する軽微の挫傷裂傷及び擦過創等を多しとす」患者の治療法 外傷患者殊に入院患者は極めて安静に就臥せしめ局所は法の如く石灰酸水を以て洗浄し切開若くは対孔膏を造りて排膿を利し沃土ムを散布しガーゼ及脱脂綿を充分に貼用し厳重の防腐包帯を施せり之に要する包帯ガーゼ脱脂綿等消毒の材料は需要高の多きに拘わらず毫も不足を感ぜざりしは誠に患者の幸福をと云うへし嚥下性肺炎にいたりては医に遭遇時を距ること四日以上に亘るを以て吐剤を用いて汚水を吐出せしむるの必要なく症状に随いて適応の解熱薬を與え□痰剤を投じ胸部の冷器法を施せり
一残患者の処分
閉院の際患者四名男一名女三名を気仙沼へ転送し其他未治患者二十三名は一般に外来患者として之を村医移川良哲に付託せり
気仙沼臨時病院
初め気仙沼救災病院と称し気仙沼町長松本茂徳等篤志者の義挙に成りしものなるが其位置南部階上大谷の諸村と北部唐桑村との中間にありて患者収容に便なるを以て赤十字社支部は更に之を継続して気仙沼臨時病院と称し救護治療に尽力せり
一位置
本吉郡気仙沼町字元町観音寺
一開閉
六月十七日開院七月三十一日閉院救護期間凡そ四十四日
一病室
病室は寺の客殿及び庫裏の一部を以て之に充て分ちて病室薬局医務室控所炊事場となし別に客殿の椽端に掛出しをなして手術場に充てたり是れ其光線の投射に便にして且つ塵埃の飛散を防がんが為めなり病室は更に分ちて六区となせり
一救護員
六月十七日開院の始めにありては軍医岡崎松太郎井上好一の両名専ら尽力し尚お気仙沼町長松本茂徳公立気仙沼病院長瀧澤八三郎等篤志を以て卒先救護の事に尽力せしが七月七日以後は更に瀧澤八三郎之を提理し医員四名外に調剤師事務員看護員等併せて十一名之に属せり
一患者
開院依頼診療せる患者の数は総て九十七名内入院六十六名外来三十一名にして外科的患者は入院に五十名外来に十五名内科的患者は入院外来共に各十六名なり而して是等の患者は概ね重症に属するもの多し是れ当院の性質最初より重症患者を収容するを以て目的とせるによる而して死亡者の総数は内外科各五名合せて十名共に入院患者にして其割合は患者十に対する一弱に当れり外科的疾患と内科的疾患と予後は前者良にして後者凶死亡数十%と三十一%との比例なり」
病室の種類 患者病症の種類は挫傷裂傷最も多く亦一身にして数創を蒙る者少なからず創傷発生の部位に就きては下肢最も多く頭首躯幹之に次ぎ上肢最も少し是れ何によりて然るが其理由未だ詳かならず
内科的に属するものは多くは呼吸器疾患にして呼吸圧迫し体温の高きこと外科的患者に過く特に嚥下性肺炎に至りては症状頗る猛悪にして体温凡て四十度以上呼吸圧迫脈拍細数全身「チアノーゼ」を呈し苦悩の状見るに忍びず大抵数時間にして鬼籍に上れり
伝染性疾患は幸にして本院に発生せしものなし唯唐桑村大沢病院より「テタニス」を併発せる患者一名を転送し来れすのみなりき
治療の方法 治療の方針は創傷伝染病の発生を防がんが為め務めて制腐を厳にし創口小なるも排膿の完全を期し多くは最初醸膿部を切開したり故に肉芽佳良なるに至れば第二期縫合等を施して創面の縮小を計り手術は創面の縮小を計るが為めに縫合等をなしたるのみにして格別注目すべきものなし唯下腿複雑骨折患者に大腿切断術を加えしもの一名ありたれども患者亡血の為め非常に衰弱せると切断部化膿せるが為め漸次衰弱の度を進め不幸にして遂に死亡せり患者中危篤なるものあるときは別室に移し予め親戚に通知して看護せしめ若し死亡するときは之に引渡すこととせり最初開院の当時死亡者多きにも拘わらず皆親戚に引渡すことを得たるは甚だ便利なりし
一衛生
被服及寝具 開院当時の入院患者は婦女小児を除くの外は裸体若くは不潔の襤褸を纏いて潮水浸潤し泥沙付着して頗る臭気ある布団を被りしが故に創傷治療に向いては最も危険を感じたるも幸に篤志者の寄贈を得て之と交換せしめたり後六月二十日に至り赤十字社支部より送れる病衣毛布等到着し及篤志者より続々新調浴衣を寄贈せしを以て悉皆之と交換せしめ小児には別に木綿衣を新調して用いしめたるが故に始めて創傷治療上心を安んずることを得たり
食餌 飲食に関することは開院当日より凡て気仙沼町役場に依託し大に其尽力を得たれども食費の規定額頗る少きが故に辛うして米飯、味噌汁、呑物を給與せしに過ぎず滋養物としては時々赤十字社支部及び篤志者の寄贈に係る缶詰、鶏卵、卵、魚類等の少許を與うるのみ負傷患者の食物としては治療上頗る不足の感ありしが七月十六日に至り赤十字社支部より食費を給せらるることとなり其予算額殆ど前日に倍せるを以て前記食物を十分に與うるの外一日二回づつ鶏卵若くは魚類を與うることを得て患者の喜悦医師の満足を見るに至れり
入浴 患者入院の始めは被服のみならず全身凡て泥沙垢埃付着し不潔言うべからず故に温湯を盥及び洗足盥に入れ創傷以外の部分を洗わしめ次で創面肉芽を以て覆わるるに至るや入浴の法を講じたれども職工欠乏の為め其望を達すること能わず七月十四日に至り漸く浴場出来せるが為めに毎日包帯交換前担任医師の意見により入浴せしむることとしたれども患者多くは之を背せざりき蓋し水の創傷に入らんことを恐れてなり而れども創傷以外の部分は能く之を洗い得たるが為め支部貸与の被服と寝具と相俟て茲に初めて汚穢の弊を絶つことを得たり
一救急材料
開院の当初救療材料の幾分は公立気仙沼病院より譲与せられたるも薬品の多くは気仙沼町薬舗より購求し包帯材料は大抵赤十字社支部送致のものを用いたり
一残患者の処置
閉院の際入院患者中未治者七名は支部長の命に依り公立気仙沼病院に引渡し継続治療することとせり
宿臨時病院
一位置
本吉郡唐桑村字宿地福寺
一開閉
六月十九日志田郡古川町赤十字社社員有志者篤志救護団なるものを組織し当村に来りて救護所を開設す同二十三日支部救護員之に代り臨時病院を開き七月五日之閉鎖せり救護期間凡そ十七日
一病室
病室には間口九間半奥行七間半の本堂を用い之を三分して重軽傷の患者を区別し又手術室看病人室を此に設け別に職員室を庫裏に置けり全体広くして患者の収容治療に関し毫も支障なかりき寝室は小学校用の二人机数十脚を借り入れ患者一人に付三脚を連用して之に充てたり即ち二脚を縦に一脚を横に伴列し其上に畳を布きたるものにして手術台の装置も亦之に同じ
一救護員
初め篤志救護団は医員犬飼元良以下六名にて救護に尽力し之と同時に第二高等学校生徒四名外事務員二名之を補助せしが六月二十三日以後閉院までは陸軍三等軍医吉井虎之助以下九名に代れり
一患者
当病院にて取扱いたる患者総数は百六十名にして内入院二十八名外来百三十二名なり
患者病症の種類は打撲外傷最も多く急性胃加多児之に次ぐ若し又外科的疾患に就て其部位を区別するときは胸部足部腰部下腿を多しとす
一衛生
飲料水 飲料水は病院を距る約二百メートルの位置にある村役場の井水を用いたり水質清澄臭味なく稍々飲料に適するものたるを認む
寝具被服 赤十字社支部より給せられたる毛布単病衣袷病衣を一人に付各一枚つづを供給せり然るに患者は白色布を嫌うものの如く瘻々之を脱し代うるに各自襲用する所の不潔なる衣服を以てせんとするにより数回注意を与えたる後ち漸く之を着用するに至れり
食料 古川救護団治療の当時は一般患者に飯を与えたるも品質不良或は炊嚢具の不完全なる等より往々熟煮に至らざるものあり且つ患者の多数は胃の症状を伴うものあるにより爾後総て白粥を与えたり
副食物の重なるものは味噌汁、焼麩、梅干等にして赤十字社支部より若干の牛肉缶詰を寄贈せられたるも患者の三分の一は之を食することを好まず魚肉に至りては全く欠乏して得ること能わざりき重症患者には別に鶏卵、ミルク等を与えたるも鶏卵は母鶏浪害に遭いし為め供給甚だ困難を感ぜり
一巡回治療
当病院患者収容区域の中鹿折村及大島村は土地遠隔にして救護に便ならざるを以て医員助手各一名と共に其被害地を巡回救護することとし六月二十日より之を実行せり然れども大島村は被害最も少くして唯僅に今回の津浪に関係なき二名の患者ありしのみ
一救療材料
救療材料の補給は豊富にして更に不便を感ぜしことなし
一残患者の処分
閉院に先だつこと一日(七月四日)入院患者の治療尚お数十日を要すべきもの六名を気仙沼臨時病院に転送し其餘十二名は村医虎岩玄庸に托し二三の外来患者には処方箋を交付し斯くて同く閉院の手続を結了せり
大沢臨時病院
一位置
本吉郡唐桑村字大沢洪龍寺
一開閉
六月十九日午後五時開院七月四日を以て閉鎖せり救護期間凡十五日
一病室
寺の本堂(間口七間半奥行六間)を以て病室に充て之を二分して中央に手術室を設け周囲は天幕を繞らして之を病室と区別し更に間口二間奥行三間の小室を以て医務室並に調剤室も供し病室と相隔離す病室には凡そ三四十名の患者を収容入院せしむるに足れり手術台は素より其設けあらざるを以て臨時小学校用の机を並列して之が用に供せり
一救護員
初め第二高等学校教授医学士神村兼亮以下九名専ら救護の事に当りしが六月二十四日以後は赤十字社支部派遣の医員大森右景等三名之に代われり
一患者
初め高等学校医学部一行の仮病院を開設せしときに於ては入院患者二十九名外来患者三十六名都合六十五名を収容治療したりき今之を病類によりて区別すれば内科的疾患に属するもの十八名外科的疾患に属するもの四十七名にして之を部落によりて分別すれば大沢四十四名只越十五名館、石森各二名長部、港各一名なり而して患者の疾患は悉く外科的にして気管支加答児を単発せしもの一名外三十四名は胸部打撲に胸膜炎若くは肝炎を兼発したるものなり
一病症種類
外科的疾患に於ては擦過傷、外傷性筋肉痛(各十三名)最も多く挫傷、裂傷、刺傷、切創之に次げり
内科的疾患に於ては気管支加答児(九名)最も多く脳充血、急性腸加答児之に次げり
患者の状況 開院第一日外科患者の症状を検するに皮下蜂窩織炎擦過傷皮下溢血等其主なるものにして当時既に被害後四日を経過せるを以て損傷部は多く化膿機を醸し腐敗臭気紛々鼻を衡けり是れ一は不潔なる物体によりて損傷を負えると一は医師の欠乏により充分なる処置を施すこと能わざりしとによる加之該地人民自ら其局部に不潔なる草葉若くは売薬等を貼用して以て姑息の治療法をなせるは一層其化膿機を促せるものの如し依て直に適応の処置を施し重症患者は悉く之を入院せしめたり爾後治療の経過頗る佳良に蜀し死亡者僅に三名に過ぎず而して其病症は遺物性肺炎外傷性肝臓炎及高度の気管支加答児なりとす
一衛生
飲料水 飲料水は透明無色無味無臭にして別に化学的検査を遂げたるにあらざ
るも性質不良ならず
食物 食物は米飯にして重症者には特に粥食を与えたり副食物は梅干又は粗悪なる味噌汁等に過ぎず偶々有志者の寄贈に係る牛肉缶詰及び「ビスケット」又は雑菓子等を与えたるも素より充分なる栄養を摂取すること能わず之れ治療上頗る遺憾を感ぜし所なり
入浴 入浴の如きも看護人又は介抱者に乏しきが為め軽症者にすら湯治せしむること能わず是れ亦治療上遺滅とせる所なり
一救療材料
薬品の消費せられたるものは赤酒稀塩酸単舎利最も多く重炭酸曹達珊篤涅醋酸加里臭素加里硫酸苦土苦味丁幾甘硝石精沃度丁幾歇布児塩酸古加乙□硝酸蒼鉛沃度保呂莫其他三四の薬品なりとす治療消耗品中消毒材料は最も多く消費し昇汞又脱脂綿紗各二百瓦脱脂綿三百瓦昇汞綿二百瓦及包帯の如きは一日平均三反を下らざりき
一残患者処分
閉院の際重症者九名を気仙沼臨時病院に転送し其餘軽症者及び外来患者若干は之を村医橋本長一郎に委托せり
十五浜村救護所
一当時は地勢上患者を一所に収容すること能わざるのみならず役夫欠乏の為め患者をして来りて診を乞わしむることも又得べからず救護員自ら医療器械及び薬品を携え峻坂嶮路を跋渉して回診するの止むを得ざる有様にて其困難実に察すべきなり而して其巡回の部落は左の如し
雄勝 大浜 荒 船越 水浜
就中負傷患者の最も多かりしは雄勝にして水浜の如きは全く浪害を被らず
一位置
桃生郡十五浜村字雄勝山下運蔵方
一開閉
六月十九日午後三時開所六月二十二日閉鎖救護期間四日
一救護員
救護員監督真山修一郎以下七名(第二高等学校生徒六人事務員一名)救護に尽力せり
一患者
全文述ぶるが如く救護員自ら奔走治療に従うと雖も元来此地方は悉く小部落のみにして人口最も少く患者亦甚だ少数にして総計僅に四十三名に過ぎず而も内二十一名は通常患者にじて津浪に基因るすものは其数二十二名のみ今之を病種によりて分ては外科十三名内科九名又部落によりて分ては雄勝十六名荒四名大浜一名船越一名なりとす
Array
津浪の惨聞四方に伝播するや金員を投じて救済の資に充てんことを請ふもの日に萬を以て数う是に於て知事は津浪臨時部中特に義損金取扱主任を置き其領収したる金員は国立銀行に保管預けとなし其金員及び姓名は新聞紙に広告し以て領収の証左に換え其金額拾圓以上のものには知事の名を以て特に謝状を贈与せり又直接被害地に向て義損せしものは郡長をして受領の手続を為さしめ其金員は取纏め之を本題に送納せしめたり
而して以上義損者の種類を挙くれば
一、個人の名を以てせしもの
二、団体の名を以てせしもの
三、新聞社に於て募集せしもの
四、有志者に於て募集せしもの
五、外国人に於て募集せしもの
六、海外在留本邦人に於て募集せしもの
等にして其金員の最も多額なるは殆んど壹萬圓に近きものあり最も少額なるは銭厘の僅徴なるものあり亦以て貴顕紳士豪商大農より孀婦貧人に至るまで挙て社交的の情義に因り分に応じ資を投じたるの一班を推知す可きなり抑も該義損金の性質たる前陳の如くなるを以て其配付に就きては特に慎重を加え独断専行或は施為其の宜しきを得ざるあらんことを罹れ商議会なるものを組織して其の意見により之を処分し被害地各郡長をして其の監督保護の責に任せしめ被害者をして生計必要の原資に充て不急の事物に費すこと莫らしめ以て志士仁人の厚誼に負かさらむことを期せり乃ち其の商議会の組織左の如し
津浪罹災者救助義損金処分商議会組織
一津浪罹災者救助義損金を処分するに付商議会を設く
二商議会は左の人員を以て組織す
一宮城県書記官同警部長同参事官
一被害三郡長
一仙台市長
一県会議長
一県参事会員
一義損金最多額者三名
三会長は知事若くは代理者之に当る
四商議会は県庁内に開く
右に依り知事は左の諸氏に義損金商議会員を嘱托せり
書記官 一坂俊太郎
警部長 川路利行
参事官 河村金五郎
本吉郡長 八乙女誠次
桃生郡長 鈴木太郎作
牡鹿郡長 島崎直信
県会議長 藤澤幾之輔
県参事会員 南條文五郎
同 松岡馨兒
同 斎藤信太郎
同 伊藤泰造
仙台市長 遠藤庸治
義損金多額者 金須松三郎
同 松倉 恂
同 遠藤敬止
商議会は七月二十二日八月一日九月二十三日の三回県庁会議室に於て開きたり其会議の於て定めたる義損金配付の規則は左の如し
義損金配付規定
第一條 義損金は左の三種に依り配付するものとす
第一種 備荒儲蓄金又は国庫救済金の救助を受けざる被害者にして地租五圓以上を納むるものには金拾五圓地租五圓未満を納むるもの若くは地租を納めさものには金貳拾五圓
第二種 備荒儲蓄金又は国庫救済金の救助を受けたるものにして左の各項に該当するものは各其所定の金額
一家屋流失 貳拾圓
一同 全潰 拾五圓
一同 半潰 五圓
一同 破壊 貳圓
一死亡 拾圓
一重症 五圓
一軽症 貳圓
一農具料拾五圓を受けたるもの 五圓
一同 拾圓を受けたるもの 拾圓
第三種 義損金総額より前二項の金額を扣除したる残額を備荒儲蓄金又は国庫救済金の救助を受けたる戸数に対し平等に分割したる金額
第二條 一家中にして前條各項数種に当るものあるときは総て各別に配付す
第三條 流失、全潰、半潰、破壊は住家にして自宅借家を問はず現住者に配布す
第四條 破壊とは住家の半潰と認むべからざるも甚だしく破損したるもの又は住家に浸水したるものにして其附属家半潰以上に至りしものを云う
第五條 死亡は災害に起因したる負傷疾病の為災後死亡したるものを云う
第六條 重症とは災害に起因したる負傷疾病にして災後三週日以上医療を受けたるものを云う
第七條 軽症とは災害に起因したる負傷疾病にして災後一週日以上三週日未満医療を受けたるものを云う
第八條 同居の者と雖も生計を同うせさるものは各一家と見做し配付す
第九條 全家死亡したるものは其跡式を引受けたる相続人に配布す
第十條 第一條中第一種配付金は現金を以て支給す
第十一條 第一條中第二種第三種配付金は郡長に於て別紙雛形に準じ作りたる義損金配付證書を以て交付す
第十二條 配付證書は売買譲與または質入書入を為すを得ず
第十三條 第一條中第二種第三種配付金は郡長に於て保管し農具漁具漁船漁網器械器具等製作の資金又は営業の資金等生産資本に用いる確実の目的あるものに対し其急要の応じ之を支給す
第十四條 第一條中第二種第三種配付金は本人にあらざれば交付せす
第十五條 第一條中第二種第三種配付金の支給を請はんと欲するときは費途の目的を詳記し区長町村長の證明を受け郡長に請求すべし
第十六條 全條配付金の證明を求むるものあるときは区長町村長は第十三條の事項に該当するや否やを精密調査し確実と認めたるものは證明を與うべし
第十七條 第十五條の請求に対し郡長は精密調査し確実と認めたるものは正当領収證書を徴し金員を交附すべし
第十八條 配付證書は金額下渡の際は之を返付せず但し内金交付のときは配付證書の裏面に交付の金額月日を記入し返付すべし
第十九條 配付證書を失いたるものはあるときは区長町村長の證明を受け再渡を請うべし
第何号
津浪罹災救助義損金配付書
郡村大字番地
一金何圓 何 之 誰
右県庁より配付相成候條此配付受けたるものは左の各項相心得べし
年 月 日 郡 長 印
一此證書は売買譲與又は質入書入と為すを得す
一此配付金は郡役所保管し農具漁具漁船漁網器械器具等製作の資金又は営業の資金等生産資本に用いる確実の目的あるものに対し其必要に応じ交付すべし
一此配付金は本人にあらざれば交付せさるべし
一此配付金の交付を請はんと欲するときは其請求書に費途の目的を詳記し且つ此證書を添付し区長町村長の證明を受け郡長に差出すべし
一此證書は金額交付の際は之を返付せず但し内金交付のときは此證書の裏面に記入返付す
一證書を失いたるときは区長町村長の證明を受け再渡を請うべし
(裏面)
記
一金何圓 配 付 高
内
(郡長)金何圓 (主任) 何年何月何日下渡
打切後に係る義損金配布方法
義損金の内準備として引去りしもの及び今後寄贈に係るものは之を合し其内より必要の仕拂をなし寄贈終了の日を待て之れが決算をなし残金は被害の各部落に割当て之か処分は各家各人に配布するも部落共同の費用に充つるも其部落の協議に任す而して部落割当の方法は左の如し
一半額は人口に半額は戸数に割賦す
決算報告は仙台三新聞及び東京其他の寄贈金を取扱いたる各新聞を以て広告し其広告料を仕拂うべし
是の時に方り恩賜金及び国庫救済金配付の為め特に調査したる被害戸別人員及び死亡者負傷者等の調査己に結了したるを以て義損金も右の調査に基き配付するものとし該調査に拠る可からざるものに限り郡長をして之を調査せしめ十一月十一日以後都合三回に配付せり今其収入計算及び支払計算書並に配付明細表を示す左の如し
義損金収入計算書
一金拾七萬八百六拾五圓六拾四銭貳厘 収入総額
内
金参千七百拾七圓九銭参厘 北海道庁
金五萬八千百八拾八圓八拾銭参厘 東京府
金壹萬参千七百四拾四圓四銭五厘 大阪府
金六千参百拾四圓九拾八銭参厘 京都府
金参千参百九圓参拾六銭参里 神奈川県
金四千百六拾八圓七拾戦八厘 兵庫県
金百参拾五圓壹銭四厘 長崎県
金貳千貳拾九圓四拾八銭七厘 新潟県
金千参百五拾四圓四拾四銭九厘 埼玉県
金八百貳拾六圓参拾五銭貳厘 群馬県
金八百四拾八圓五拾銭九厘 千葉県
金七百六圓四拾銭四里 茨城県
金千五百参拾七圓七拾九銭六里 栃木県
金貳千六百七拾六圓八拾銭六厘 奈良県
金千四百貳拾七圓八拾参銭貳厘 三重県
金六千百六拾貳圓五拾壹銭四厘 愛知県
金千七百七拾九圓七拾六銭四厘 静岡県
金六百五拾九圓八銭 山梨県
金千七拾壹圓参銭 滋賀県
金貳千百七拾五圓四拾九銭五厘 岐阜県
金千九拾圓拾銭貳厘 長野県
金千八百九拾圓参拾壹銭 福島県
金参百拾七圓六拾銭 岩手県
金六百拾五圓六拾壹銭貳厘 青森県
金貳千七百五拾貳圓拾四銭八厘 山形県
金八百拾六圓六拾参銭壹厘 秋田県
金千貳拾九圓参拾壹銭六厘 石川県
金四百四圓六拾五銭九厘 富山県
金六百八拾四圓四銭 島根県
金貳百参拾五圓八拾参銭貳厘 鳥取県
金百九圓参銭 福井県
金八百貳拾貳圓四拾六銭九厘 岡山県
金千八百五拾参圓九拾銭貳厘 広島県
金千貳百六拾七圓参拾五銭九厘 山口県
金八百八拾参圓五銭八厘 和歌山県
金参百五拾貳圓八拾壹銭六厘 徳島県
金参百六拾六圓参拾九銭 香川県
金九百六拾参圓七拾九銭 愛媛県
金七百六拾参圓壹銭四厘 高知県
金貳千八百八拾貳圓五拾九銭貳厘 福岡県
金六百参拾五圓七拾九銭八厘 大分県
金四百貳拾圓貳拾九銭六厘 佐賀県
金千貳百八拾四圓七拾八銭四厘 熊本県
金貳百五拾壹圓四拾参銭貳厘 宮崎県
金参百九拾貳圓九拾貳銭貳厘 鹿児島県
金六拾圓 沖縄県
金百参拾圓 台湾島
金六拾七圓六拾五銭六厘 在外本邦人
金貳千参百拾四圓七拾五銭五厘 外字新聞
及外国人
金壹萬貳千八百八拾圓九拾九銭六厘 管内仙台市
金千九拾五圓四拾壹銭 同刈田郡
金千貳百七拾七圓五拾銭五厘 同柴田郡
金千四百五拾参圓九拾五銭参厘 同伊具郡
金四百九拾壹圓四拾参銭 同亘理郡
金千貳百四拾四圓六拾八銭 同名取郡
金貳千四百九拾七圓七拾四銭五厘 同宮城郡
金八百九圓拾壹銭貳厘 同黒川郡
金六百貳拾圓八拾参銭八厘 同加美郡
金千百四圓七拾四銭壹厘 同志田郡
金貳百六拾参圓四拾六銭五厘 同玉造郡
金七百五圓七拾壹銭 同遠田郡
金千五百九拾九圓壱拾六銭四厘 同栗原郡
金千参百七拾貳圓参拾八銭六厘 同登米郡
金貳百四拾五圓六拾七銭 同桃生郡
金千七百七拾九圓参拾七銭五厘 同牡鹿郡
金参千八拾壹圓貳銭壹厘 同本吉郡
備考
在外本邦人及外字新聞並外国人より直接本庁へ寄送したるものは其名称を直記し各官庁又は新聞社等を経たるものは其所在府県郡市に編入せり
義損金支援計算書
一金拾七萬八百六拾五圓六拾四銭五厘 支払総額
内
金拾六萬七千拾参圓四拾八銭 現金配付高
(委細表出)
金貳千六百参圓拾四銭八厘 物品購入費
(委細表出)
金八拾圓 郵便税
金六百五拾五圓 広告料
金七拾参圓八拾八銭八厘 運搬費
金四拾五圓参拾五銭 人夫賃
金拾八圓六拾銭九厘 送金手数料
金参百七拾五圓九拾六銭七厘 諸印刷費
以 上
現金配付計算書
一金貳百八拾圓参拾銭 恩賜金残額配付高
一金拾六萬七千参拾圓四拾八銭 義損金配付高
計金拾六萬七千貳百九拾参圓七拾八銭
義損金を以て購入物品支払計算書
一壹萬四千貳百七拾壹点 器 具
一千四百六拾四点 食 品
一拾七萬参千五百六拾四点 雑 品
計拾八萬九千貳百九拾九点
此価格金貳千六百参圓参拾四銭八厘

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津浪の惨害を逞うするや救急善後の計画其他施設を要するもの極めて多し就中死者の埋葬傷者の治療災民の救助病災の予防等は何れも焦眉の急務にして寸時も等閑に付すべからざるものとす此時に際し当局者が最も苦心焦慮せる所のものは是等救済の資に供する財源を得るの一事なりとす抑も現行法規中貧を済い窮を□むの特典なきにあらずと雖も大抵当時に於る鰥寡孤独若くは棄児行旅死亡人等に適用すべきものにして非常天災に遭遇せる窮民を救済するものは独り備荒備蓄法あるのみ而かも其範囲極めて狭隘にして之を実際に応用するに至りては往々隔靴掻痒の歎あるを免がれず是に於てか知事は一面は県会の議決を取り災民救助には備荒貯蓄法の許す限り其支給の範囲を広めて之れが費用を支出し死体の捜索埋葬病災予防には県経済の許す限り県費中より衛生費を支出し其他負傷者救療は日本赤十字社宮城支部に委托し一時救済の方法を講ずると同時に一面は政府に向い国庫金の特別支出を稟請したるに政府亦は窮民疾苦の状を閔察し災民救済費として特に金五万九千六百五十円を交付せられたり是れより先き災害の惨状一たび世に聞ゆるや志士仁人海の内外を問わず或は公に或は私に貴顕紳士は勿論嬬婦窶人より小学児童の輩に至るまで財を擲ち物を贈りて救恤の資に充てんとする者続々絶えず其金額積んで十七万餘円の多きに上り其物品凡そ拾四万餘点に及べり是れ実に予期せざる所にして災後救済の計画をなすに当り□補する所其幾何なることを知らず況や又事 天□に聞して忽ち恩賜を拝す罹災の窮民俯伏そて 天恩の辱きに感泣せざるはなし知事乃ち被害の多寡を較じ生計の難易を考え更に篤く商議を重ね配当の配当の区域と交付の方法とを定め以て上は優渥なる聖旨に副い政府特殊の恩典に酬い下は公共慈恵の精神に背かざらんことを期せり
是に於て優に救急善後の策を講ずることを得鰥寡孤独依るなきの民幸に生計の資を得各其堵に安ずることを得たるは啻に罹災者の幸福のみならず亦実に本県の大幸と謂うべきなり今左に其金額配布の顛末を記述すべし
(第一) 恩賜金
明治二十九年六月二十二日宮内省より 聖上皇后両陛下恩賜金三千円を下賜せらる其達左の如し
宮 城 県
本月十五日其県下非常津浪の為め被害尠なからざる趣憫然に被思召
聖上
皇后両陛下より金三千円下賜候條目下救恤の補助に充つべし
明治二十九年六月二十二日
宮 内 省
同年七月四日 皇太后宮職より 皇太后陛下恩賜金七百年を下賜せらる其達左の如し
一金七百円 宮 城 県
右今般津浪被害の趣 皇太后陛下被 聞食思召を以て下賜候事
明治二十九年七月四日
皇 太 后 宮 職
同年六月二十五日各宮殿下別当家令総代より各宮殿下御救恤金五百円を下賜せらる其文左の如し
本月十五日御県下津浪に付宮殿下思召を以て金五百円下賜相成候條罹災者救恤の補助に被充度即ち為替券を以て差出候御落掌有之度此段及御依頼候也
明治二十九年六月二十五日
各宮別当家令総代
閑院宮別当男爵花房義質
宮城県知事勝間田稔殿
以上三陛下及各宮殿下恩賜金は之を被害地人民は勿論被害地外居住者にして岩手青森の二県及本県被害地三郡に旅行又は止宿中津浪の難に遭い死亡負傷又は之れが為めに疾病に罹りたる者にも配付することとし其の方法に関しては知事先ず左の内規及び手続を定めたり
恩賜金配布内規
第一條 恩賜金は準率個数に依り左の七項に該当する家に対し平均六個を配付し
尚お左の項中に該当する人に対し各其の所定の個数を配布す
一家屋流失 七個
一同 全潰 七個
一同 半潰 四個
一同 破壊 二個
一死亡 五個
一重症 四個
一軽症 二個
第二條 一家中にして前條各項の数種に当るものあるときは総て各別に配付するものとす
第三條 流失全潰半潰破壊は住家にして自家借家を問わず現住者に配布するものとす
第四條 破壊とは住家の半潰と認むべからざるも甚しく破壊したるもの又は住家に浸水したるものにして其付属家半潰以上に至りしものを言う
第五條 死亡は災害に起因したる負傷疾病の為め災後に死亡したるものも含有す
第六條 重症とは災害に起因したる負傷疾病にして災後三週日以上医療を受けたるものを言う
第七條 軽症とは災害に起因したる負傷疾病にして災後一週日以上三週日未満医療を受けたるものを言う
第八條 同居の者と雖も生計を同うせざるものは各一家と見做し配布するものとす
第九條 全家死亡したるものは其跡を引受けたる相続人に下付するものとす
恩賜金下付手続
一恩賜金は各戸に分ち一々包装の上申渡書を付し明治二十九年八月一日を以て知事より三郡長に交付す
一三郡長は下付の時日を予定し本吉郡は志津川町気仙沼町桃生郡は十五浜村牡鹿郡は女川村に出張し村長区長及び被害者総代に対し下付すべし
一被害者総代は各部落二十名以下二名以上とす
一恩賜金下付の節は所轄警察署長又は分署長本県出張所長郡参事会員一名町村会議員等立会すべし
一被害者総代人は恩賜金並に申渡書を各被害者に配付し拝受証に捺印せしめ三日間を期し所轄町村長に差出すべし
一所轄町村長は前項拝受証を取纏め下付の日より五日以内に所轄郡長に差出すべし
一所轄郡長は前項拝受証を取纏め下付の日より七日以内に県庁に発送すべし
是に於て知事は被害三郡其の他各郡市長の詳細なる被害調査書を徴し以上の内規及び手続によりて各個別に其配付金額を定め一々包装の上水引を掛け上に 恩賜の二字を朱書し内に其金員を記し更に左の達文を四截の大奉書に朱刷すたるものを添付し明治二十九年八月一日を以て知事は之を被害三郡長に交付せり其金額総て三千五百五十五円二十銭なり其達文左の如し
去る六月十五日津浪の為め被害尠からざる趣憫然に思召され救恤の補助に充つべき旨を以て
聖上
皇后両陛下より金三千円
皇太后陛下より金七百円
御下賜相成りたるに付き配付致候條深く天恵の辱きを拝すべし
明治二十九年八月一日
宮城県知事 勝 間 田 稔
然るに爾後其の配付に洩れたるものあるを発見したるにより同年十一月二十一日更に恩賜金貳百六十九円八十銭を配付し又た同年十二月十六日被害地外居住者の災害に罹りたる者に対し別に恩賜金六十六円六十銭を配付せり今恩賜金配布後に於る収支計算及恩賜金配付明細表を掲ぐること左の如し
恩賜金計算書
一金三千円 両陛下恩賜
一金七百円 皇太后陛下恩賜
一金五百円 各宮殿下恩賜
計金四千二百円
内
一金三千八百三十七円六十銭 三郡被害者へ配付
一金八十二円十銭 被害地外在籍罹災者へ配付
計金三千九百十九円七十銭
残金二百八十円三十銭
(備考)此残金は義損金と共に配付せり

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(第二) 国庫救済金
明治二十九年七月十一日内務大臣より救済金下付に付支給並に整理方共訓令せらる其達左の如し
宮 城 県
今般其県下津浪被害の為め救済費として金五万九千六百五十円配付し支払命令を委托候條本年度歳出臨時部津浪災害費の□中難民救済費の項宮城県災民救済費の目を以て整理すべし
右訓令す
明治二十九年七月十一日 内務大臣伯 板 垣 退 助
今般津浪災害に付其県に対し救済金として金五万九千六百五十円第二予備金支出
相成候に付を各項の趣旨に依り夫々救助方取計うべし
明治二十九年七月十一日 内務大臣伯 板 垣 退 助
宮城県知事勝間田稔殿
一救済金五万九千六百五十円は左の各科目に分ち支出するものとす
一金六千七百二十円 食料 但七千人三十日分一日一人当三銭二厘の割
一金一万七千二百五十円 被服及家具量 但千五百戸分一戸十五円の割
一金二万三千円 救助金 但千百五十戸分一戸二十円の割
一金二千七百五十円 死体埋葬費 但千百人分一人二円五十銭の割
一金三千六百円 潰家取片付費 但七百戸分一戸九圓の割
一金三千六百三十円 負傷者救済費 但七百二十六人分一人五円の割
一救済金支出の目的は罹災の窮民にして自活の道を失したる者を救助するに在るを以て之を吊慰慈善的に濫費すべからず
一救済金は右の旨意に従い仮令災害に罹りたる者と雖ども多少の財産を有し自活の道に窮せざる者には給與すべき限りにあらず
一農具料種穀料を給與したる災民に対しては救済金を給與するの限りにあらず
一救療費は専ら医療に要する費用に充つる趣旨にして負傷者各個に療治費を分配する趣旨にあらず
一死体埋葬費潰家取片付料は之が為めに要したる人夫賃其他の雑費に充つる趣旨にして遺族若くは家屋所有者に分配する趣旨にあらず
一本訓令に列挙したる各科目の費用は交互流用することを得
一本訓令に掲記したる科目以外に於て必要の支出ありと認むるときは事由を具して内務大臣の認可を受くべし
一救済金支出の目的は主として罹災の窮民を救助するに在るを以て土木事業等災民救助の目的以外に渉る費用は支出することを得ず
一救済金の支出は帝国議会の承諾と会計検査院の承認とを経るを要するものにして費用の収支は最も詳細明確なるを要するは勿論救助金被服家具料食料等災民給與する金員に関しては正当受取人の受取証書(代理人ならば委任状と代理人の受取証書)を受領し置き後日紛議の因たらざるべき様篤く注意を加うべきものとす
一救済金の金額は各科目の掲記したる罹災の戸口に基き精算したるものなるを以て実地に臨み支給するに方りては精細なる調査を為し真に救助を要する災民に限り且つ救助の程度も各科目に定めたる範囲内に於て適当の等差を設け務めて濫費に渉らざる様篤く注意を加え若し残餘金を生ずるときは歳計剰余金として決算を了すべし
一救済金は災民の老幼癈篤疾にして親族等の救助に頼り難き者に限り特に一戸に付き三十円迄を給與することを得
一被服家具料は家族の人員多数なるものは特に一戸に付二十円迄を給與することを得
一災民救助の方法は以上掲記したる條項の範囲内に於て県知事適宜之を定むるべし
是より先き六月二十日知事は窮民救助の資に充つべき適当の財源なきを以て内務大臣に電報を以て国庫金特別下付を稟請したるに翌二十一日内務次官より救済の目的方法及び金額に付意見内申すべき旨電報を以て照会ありしに依り知事は同二十三日を以て具に其意見を陳述せり其略に云く
去る二十日電報を以て管下津浪に付臨時救済費国庫の御支給を仰ぎ候處直ちに電報を以て其目的方法等小官の意見御問合有之委曲領承即ち左に鄙見具陳仕候
一支給相成るべき目的は左の二項ならんことを望む
一救恤
一衛生
救恤の細目及び方法は凡そ左の如し
一食料補給
備荒儲蓄法には制限あり焚出米若くは現米代金等を給與するは三十日以外に出ずるを許さず然るに被害地に在りては幸に生存するものも纔に生命を拾い得たるまでにして家屋家財衣服を併せて蕩尽し去られたるを以て中産以下のものにありては災後両三ケ月間にして生活の道を立て飢渇の患を免がるる能わざる可し依て自から生存し得るものを除くの外は三ケ月間は焚出米を給與するが又は其口数日に応じ現米若くは現金を給與せんとす
二小屋掛料の補給
備荒儲蓄法には本項も同じく制限あり一戸十円以上を給與する能わず然るに木材暴騰の今日纔に膝を容るるに足るべき一時の小屋掛と雖ども五六十円を費すにあらざれば之を造築する能わず殊に破損又は半潰の家屋は備荒儲蓄の給與すら之を受くる能わず実際雨露を凄く能わざるの惨状なるを以て家族の人員等に応じ之を補給せんとす
三衣服調度の給與
罹災の窮民は前述の如く身外無一物なるを以て身体に纏う可き衣服は勿論一と通の臥具其他鍋釜等日常必需の器具は之を給與せんとす
四農具漁具の補給
農具料は備荒儲蓄より之を支給するを得るも是亦た制限あり物価騰貴の今時実に十分の一を補うに過ぎず殊に今回の被害は概ね沿岸一帯の漁民にして農具料を給する能わざるもの多きに居る依て漁戸に対しては漁具漁船等の費用を補助し農家に対しては農具料の不足を補給し又た他の商工業者に対しては其稼業を助くる為め相当の費金を給與せんとす
五雑貨
罹災者に施與の為め衣服器材等の義損を促がし而して其取扱及運搬等は県庁に於て執行したるも其費途なきを以て是等の費用も此費中より支辨せんとす衛生の細目及び方法は左の如し
一救療
救療は目下専ら赤十字社に於て負担し又医員の不足は軍医又は篤志者等を以てするも篤志者は勿論赤十字社と雖も是等限りなきの費用を辨する能わず依て其費用の幾部分を補助せんとす
二死体の片付
死体の陸地に在るものにして遺族親戚あるものは概ね発掘埋葬を了したるも其発掘又は取片付は町村役場郡役所又は県庁より数千の人夫を近隣郡村より召集して施行せしめたり此の費用の如きも巳むを得ざるものは之を支辨せんとす又死体は海上に流失したるもの過半にして其海岸に漂着したるもの若くは海中にて探見したるものは其最寄の陸地に仮埋め為さざる可からず然るに今日にありては本県及び岩手県に係る数万の死体海中に混乱せるを以て予め一定の地をとり獲るに従い之が仮埋を為さんとするもの其運搬人足棺桶標木等の費用は之を支出するの道なきを以て是等の費途に充てんとす
三潰家の片付
罹災地に在りては苟も人家の聚落をなしたる處は破壊したる家屋の断材敗壁散乱堆積して如何ともすべからず之を取片付けんとするに実に多数の人足を要す
是れ亦た其費途なきを以て之れに充てんとす
四飲料水下水溝渠の掃除
是項亦前項と略お同じ
以上列挙の費用を概算するに別紙記載の通り極て莫大の費額を要するを以て政府は右金額に対し御支給あらんことを望む抑も右列陳の條項中或は県税より支出を許さざるものあり或は町村或は個人の義務に属するも一村又は一部落を挙げて蕩尽し生存するものは数十戸中老若婦女を併せて毎戸纔に一両名に過ぎざるものあり町村会すら猶お且つ之を開くを得ず況や其費用を負担するに於ておや然りと雖ども費用支辨の道なきを以て之を傍観するは実に行政官庁の忍ぶ能わざる所にして非常に處するには非常の断なかるべからず小官に於ても法律規律の範囲に入るべきものは十分に之を拡充し又た臨機の処分を以て施行する等心力を尽して之が救済を務むるも意の如くならざるもの十中八九に居れり管下幾万の災民は巳に造物者の為めに魂魄を奪い去られ社会の仁人政府の徳政を仰ぐの外身を容るるの餘地なし仁人の慈善施與は之を望むべきも之を必する能わず唯だ政府の断然たる慈仁の政を仰ぐの外なしとす而して幸いに政府に於て鄙見採納せられ特に国庫費の下付ある時は其名義は救済費とし其内規に属する標準は兎も角も総て地方官の適宜處辨に御一任あらんことを請う貴電の趣により別紙調書を添え鄙見陳述候也云々(別紙は略す)
尋て七月五日内務大臣は被害三県(宮城、岩手、青森)知事を東京に召集し国庫救済金下附に付三県配布割合及び右支給に関する訓令案を内示せらる依て三県知事は内務省に会合し訓令の範囲内に於て支給方法を一定するが為め三県申合内規を定む其内規左の如し
救済金支給法三県申合内規
一食料は満三十日間備荒儲蓄金の救助を受けたるものにして尚自ら生活する能わざるものに之を支給す
二食料は老若男女を問わず一人一日玄米四合以内とし現金を以て満三十日分を一時に支給す但し焚出米は一切支給せず
三救済金は家宅の流失全潰半潰に係りしものに之を支給す
四救済金は左の割合に依て支給す
一一家老幼(六十歳以上十五歳未満)癈篤疾者にして親族の救助に依り難きものには一戸に付金三十円を支給す但し被害の軽きものは本項金額の四割以内を減ず
二前項に該当するものの外は国庫金下渡金の内より前項に係る金額を除きたる残額を毎戸平均に割当支給す
三前項の割合額一戸金二十円以上に当るときは二十円に止む
五被服家具料は家宅の流失全潰半潰に係りしものにして被服家具を失いたるものに之を支給す
六被服家具料は左の割合に依り支給す
一国庫下渡金を折半し其半額を戸数に半額を人口に割当支給す
但し半潰に係るものは戸数割人口割とも流失全潰に対する割付額四割以内を減す
二前項の割付額一戸金貮拾円以上に当るときは貮拾円に止む
七以上各項は三県協議の上にあらされは之を更正せさるものとす
八以上各項に掲くるもの、外支給法の施行細目に渉るものは三県適宜に之を定む
以上救済金の内食料被服家具料及び救助金は実地調査の上主務大臣は訓令及三県申合内規に基き災害の大小人口の多寡等に応じて各人各戸に支給するものとし死体埋葬費及び潰家取片付費は死体の捜索埋火葬潰家及び道路の取片付清潔法の施行等に要する人足其他の雑費に充て県費衛生費と連帯支辧するものとし負傷者救療費と負傷者の救護は当初より日本赤十字社宮城支部に委托したるを以て其救療に要する費用の補助に充て該社に交付するものとし尚ほ各費目過不足あるときは彼是流用支辧するの計画を定めて施行したり
食料 是の時に方り備荒貯蓄特別支給法に依り救助する焚き出米は已に法定に期□に達し窮民飢渇に迫るの虞あるを以て七月十三日被害三郡長に訓令し先つ食料を給與せり其訓令左の如し
今般津浪災害に付国庫より救済金下附相成候に付ては差詰食料給與候條右給與方左の通心得らるべし
右訓令す
明治二十九年七月十二日
知 事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
一食料は三十日間備荒儲蓄金の焚出米を受けたるものに限り之を給與す但本項の給與を受けたるものと雖ども自活の道を得たるものには給與せず
二食料は老幼男女を問はす一人一日玄米四合(石代金八圓)の割を以て本月十六日より向う三十日間給與す
三食料は総て代金を以て三十日分を一時に其戸主に交付す可し但し戸主なきものは其家族に交付すべし
四食料は部落毎の給與すべき人名を取調へ別紙書式に依り臺帳を作り其人名石数代金等を記入し照合の上交付すべし
五食料を交付したるときは別紙書式の受領證書を徴すべし
受領證書には戸主をして署名せしむ可し戸主なきものは家族一同の連署を要す
但實印なきものは拇印にても妨けなし
(注意)各人名の下には石数金額記載に及ばず
(注意)此受領證は戸主より差出すべし戸主なきもには家族一同連署すべし
但し実印なきものはにても妨げなし
翌十四日知事は食料給與の為め特に県官三名を被害三郡に派遣し郡長と共に精密調査の上之を給與せしめ同月十七日を以て結了せしか爾後調査脱漏の旨を以て之れか給與を出願するもの尠からす依て再び調査員を派出し同年八月一日を以て追く食料の給与を終えたり
被服家具料及び救助金 食料は大抵備荒儲蓄金焚出米給與の調査に基き之を給與したりと雖とも被服家具料及び救助金は最も精細厳密に調査の上給與するにあらざれは或は濫費の虞なきにあらざるを以て知事は七月十五日を以て救済金の内被服家具料救助金備荒儲蓄金の内小屋掛料農具料給與戸別人名調査書式及び調査例並に給與戸口調査員同立会員規則を定め郡長に訓令せり蓋し備荒儲蓄金は当初罹災民の願出に依り給與するの内定なりしも救助金と農具料とは併給するを得す且つ小屋掛料の如きも半壊以上の災民に給與するの精神なるを以て救済金と同じく各人の願出を俟たす実際の調査に基き同時に同一の方法を以て給與するの便宜にして且確実なるを認め同一に調査給與するものとしたり其訓令左の如し
今般津浪災害に付救済金として金五萬九千六百五拾圓第二豫備金より支出相成
候に付きては食料給與に係る分は不取敢本月十三日付訓第七八号を以て及訓令
候處右救済金支給法に関する内務大臣訓令並に岩手青森宮城三県申合内規寫各
一通交付候條右の趣旨に依り救済金を以て給与すべき救助金及び被服家具料其
他備荒儲蓄金給與に係る小屋掛料農具料共別紙書式に依り取調本月二十五日限
り差出さる可し
右訓令す
明治二十九年七月十五日 知 事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
第一号 救済金及備荒儲蓄金給與戸数人員表
記載例
一本表は一部落毎に其部落内に於て救済金及備荒儲蓄金の給與を受くべきもの、戸数人員等を調査し各町村別に調製記載するものとす
一小屋掛料及び救助金の欄には小屋掛料又は救助金を受くべき戸数を記載すべし
一衣服家具料の欄には衣服家具料を受くべき戸数及人員を記載すべし
一農具料の欄には農具料の給與を受くべき戸数を記載し其甲の部には農作に従事し得べきもの五人以上ある戸数乙の部には同五人未満ある戸数を記載すべし
第二号 小屋掛料給與戸数調査表 何郡何町村大字何々
記載例
一本表は一部落毎に家宅の流失全潰半潰に係りたるものにして小屋掛料を給與すべきものを調査し戸主あるものは其戸主戸主なきものは其遺族の尊長者の姓名を連載するものとす
一職業の欄には其家の重なる職業を調査し農業漁業商業工業雑業の五種とし記載すべし
一戸主又は家長の欄には戸主又は家長と記載す可し
一流潰の欄には流失全潰半潰の三種とし記載すべし
第三号 衣服家具料給與戸別人名調査表
記載例
一本表は罹災者にして其家宅半潰以上のものを調査毎戸別其戸主家族の人名を記載するものとす但し一戸分を一紙に記載すべし
一職業の欄には其家の重なる職業を調査し農業漁業商業工業雑業の五種とし記載すへし
一戸主家族の欄には戸主又は家族と記載すべし
一流潰の欄には流失全潰半潰の三種とし記載すべし
第四号 救助金給與戸別人名調査表
記 載 例
一本表は其家宅半潰以上にして農具料を給與す可きものを除きたるものを調査し毎戸別其戸主家族を記載するものとす但一戸分を一紙に記載すべし
一職業の欄には其家の重なる職業を調査し漁業、商業、工業、雑業の四種とし記載すべし
一戸主家族の欄には戸主又は家族と記載すべし
一癈疾篤疾の欄には左の区別に従い第一種、第二種、第三種、第四種と記載すべし
第一種 一肢の用を失いたるもの若くは之に準ず可きもの
第二種 一肢を亡し或は二肢の用を失い又は両眼を盲し若くは二肢を亡し若しくは之に準ず可きもの
第三種 唖瘋癩、白痴
第四種 負傷其他の病患に依り六箇月以内に生業に従事することを得ざるもの
一年齢の欄には本年六月を現在とし調査し何年何ヶ月と記載すべし
第五号 農具料給與戸別人名調査表
記 載 例
一本表は其家宅半潰以上にして救済金の給與を受くべきものを除きたるものを調査し毎戸別其戸主家族の人名を記載するものとす但一戸分を一紙に記載すべし
其他各欄は総て前表記載例に同じ
(内務大臣訓令、三県申合内規重出に付略す)
訓第八三号
今般訓第八二号を以て救助人員等調査方訓令候處右調査の標準等区々に渉り候ては其結果甲乙不権衡を生じ不都合に候條別紙の通り調査員立会員規則相設候
間右に依り正確に調査せしめ候様取計わる可し
右訓令す
明治二十九年七月十五日 知 事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
調査員立会員規則
一津浪被害地を分て左之七区とし立会員調査員出張の上其区内に於て救済金及備荒儲蓄金の救助を受くべき戸数人員等を調査すべし
第一区 唐桑 大島 鹿折
第二区 大谷 階上 松岩 御嶽
第三区 小泉 歌津
第四区 志津川
第五区 戸倉 十三浜
第六区 十五浜
第七区 女川 鮎川
二立会員は知事之を命ず其人員左の如し
毎区 蜀一人 警部一人
三調査員は郡長之を命ず其人員左の如し
毎区 郡書記一人
区内毎町村 町村長又は其代理者各一人区内毎部落 区長又は罹災者総代人各二人以内
四立会員は調査員に於て調査する事項を監査するものとす但調査員に於て不当の調査を為したりと認むるときは之に注意を与え若し之を用いざるときは一面は郡長に通知し一面は知事に報告すべし
五調査員は左の趣旨に依り調査すべし
一救済金は罹災の窮民にして自活の道を失したるものを救助するに在り吊慰慈善的に給與するの精神にあらず
二救済金は右の趣旨に従い仮令災害に罹りたるものと雖も多少の財産を有し自活の道に窮せざるものには給與せざるものとす
三農具料を給與するものには救済金を給與せざるものとす
四救済金は家宅の全潰流失半潰に至らざるものには給與せざるものとす
五罹災の為め全戸滅亡したるものと雖も相続人を定めたるものには相続人に対し救助するものとす
六戸数人口等は七月二十日現在を以て調査するものとす
七救済金及び備荒儲蓄金の救助を受くるものには公民権を停止せらるものとす
但し焚出米は此限にあらず
八全角項の外は各調査表の記載例に依り調査すべし
六調査は遅くも七月二十三日を以て結了すべきものとす
七調査員調査を了したるときは其調査の確実なるを証明するが為め調査書の末尾に連署し立会員の証印を受け郡長に差出す可し尋て七月十六日を以て蜀警部各七名に給與戸口調査立会員を命じ即時各区に出張せしめ調査員の調査を監視せしめたるが同月三十一日に至り各郡の調査全く結了し其調査書を本庁に進達せしに依り八月一日知事は審査考慮の上救済金及び備荒儲蓄金救助内規を左の通り定めたり
救済金及び備荒儲蓄金給與規定
一小屋掛料は左の金額を給與す
一戸に付金十円
一農具料は左の区分に依り給與す
農作に従事すべきもの五人以上は一戸に付金五十円
同上五人未満は一戸に付金十円
農作に従事すべきものとは七十歳以下十五歳以上のものを云う
一被服家具料は左の区分に依り給與す
流失全潰は
戸別割は一戸に付金七円五十銭
人別割は家族四人迄は一戸に付金七円五十銭五人以上は一人を増す毎に金二円を追加す
半潰は
戸別割は一戸に付金六円七十五銭
人別割は家族四人迄は一戸に付金六円七十五銭五人以上は一人を増す毎に金一円八十銭を追加す
一救済金は左の区分に依り給與す
一戸に付金二十円
一戸悉く老幼癈篤者なるときは流失全潰は特に金十円半潰は特に七円を増給す
老とは六十歳以上幼とは十五歳以下を云い癈疾とは一肢の用を失いたるもの若くは之に準ず可きもの又は一肢を亡し或は二肢を失い又は両眼を盲し若くは二肢を亡し若くは之に準ず可きもの及び唖、瘋癩、白痴を云い篤疾とは負傷其他の病患に依り六ケ月以内に生業に従事することを得ざるものを云う
一農具料を給與するもには救済金を給與す
右内規に依り本庁に於ては各郡調査書に基き各戸に給與すべき金員を算出査定し同月五六両日を以て右給與方に関し知事は被害三郡長に左の通り訓令せり
津浪罹災民へ己に恩賜金並に食料を交付し小屋掛料農具料並に被服家具料救助金及び義損金等不日交付すべき筈に付右諸種の金員は専ら生産物の元資に充て飲食其他不急の費途に用い濫費せざる様保護を加う可く又町村に於て立換たる金穀等は勿論他の債主に於て貸金返戻を促がし之れが償却に充てしむるが如きことありては優渥なる
聖慮に背き政府救恤の本旨に戻り志士仁人の好意を空うするものにして是等は徳義上為す可からざる儀には候得共災民保護上右等の事無之様注意致すべき旨町村長へ厚く訓諭せらるべし
明治二十九年八月五日 知 事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
救済金及び備荒儲蓄金給與調査結了に付右給與方心得別紙の通相定候條此旨町村長へも訓示し置き諸事不都合無之様取計わる可し但し未丁年者給與金は追て何分の儀訓令候まで郡長に於て保管すべし
明治二十九年八月六日 知 事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
(別紙) 救済金及び備荒儲蓄金給與心得
一救済金及び備荒儲蓄金給與の為め左の各町村に県蜀及び郡書記を派出す可し
本吉郡
志津川町 県蜀 二名 郡書記 二名
戸倉 村
歌津 村 同 二名 同 二名
十三浜村 同 一名 同 一名
唐桑 村 県蜀 二名 郡書記 二名
鹿折 村
小泉 村 同 一名 同 一名
御嶽 村
大谷 村 同 一名 同 一名
階上 村 同 一名 同 一名
松岩 村
大島 村 同 一名 同 一名
桃生郡
十五浜村 同 一名 同 一名
大川 村
牡鹿郡
女川 村
大原 村 同 一名 同 一名
鮎川 村
一派出員は来る九日を期し本吉郡は志津川気仙沼桃生郡は飯野川牡鹿郡は石巻に於て金庫員より各自に給與すべき現金を受取り担当町村に出張す可し但し金庫に於ては豫め各自に給與すべき金員を区分し便宜封筒に封入し置くものとす
一派出員は現金携帯中危険を豫防する為め便宜警察官吏の護衛を求む可し
一給與金は町村役場に於て町村長区長立会の上派出員自ら戸主又は家長に交付し領収證書を徴す可し其戸主未丁年者にして後見人なきものは其戸主並に一家中丁年以上の最近親者に交付し領収證書には連署せしむるを要す但場所の遠近により便宜其小学校又は区長宅に於て交付するも妨げなし
一給與金の給與を受くべきもの当日病気又は不在にして自ら領収する能はさるときは代理人に交付するも妨げなし但し代理人は区長及び町村長の證明したる委任状を提出したるものに限る
一一家尽く未丁年者なるときは別紙書式の書面を交付し置き現金は郡長に預け入れ郡長の預り證書を徴すべし
一派出員給與を終りたるときは県庁派出員は領収證書を取纏め直に帰県す可し
(別紙書式) 郡町(村)大字番地
何 某
明治何年何月生
一金
但小屋掛料
一金
但農具料又は救助金
一金
但被服家具料
合金何拾圓
右本日交付すべき筈の處未丁年者保護の目的を以て前金額は暫時郡役所に保管
せしめ追て交付せしむべし
尋て同月七日蜀拾四人に派出員を命じ各担当町村に出張せしめ尚ほ給与を受けたる罹災民をして可成給與金を保管預けとなさしむるの見込を以て銀行員同行にて各方面に出張せしめたるか同月十三日に至り三郡の給與全く結了せり其結果給與
(救済金備荒儲蓄金)総戸数千二百四十七戸此金員五萬六千参百参拾九圓参拾銭にして内郡長に於て保管せしもの参千六拾五圓拾銭銀行に於て保管預りとなしたるもの四萬参百貮拾五圓五拾銭なり
然るに爾後調査脱漏等に依り之れか給與を出願するものあるを以て更に立会員を命じ前調査をして調査例に照らして再調査を為さしめ救済金備荒儲蓄金より追給せり
死体埋葬費 津浪の当時被害地所在に堆積したる累々たる人畜の死体は警察官吏又は郡町村吏員に於て人夫を使役し潰家と共に一時取片付を為し親戚故旧あるものは之れに引渡し其他は最寄便宜の地に假埋葬を為したりと雖も沿岸数十里の広き爾来海上又は海岸に於て発見するもの続々として絶えず是等の死体中引取人なきものは行旅死亡人に準じ所轄町村役場に於て一々成規を踏み警察官の検視を受け新聞紙に広告し假棺を作りて仮埋葬を為し其費用は町村費を以て立換置き追て本庁に請求せしめ来りしも災後十数日を経過したる死体は顔面腐爛し其何人たるを認識する能はさる者比々皆然らさるはなきを以て是等の死体を畫く行旅死亡人に準じ取扱はしむるときは其費用増嵩して国庫下渡金にては到底保支する能はさるに至るの恐れなきにあらず且つ腐爛せる死体を土葬とするときは悪疾流行を媒助するも測られざるを以て知事は七月十六日を以て其制限を設けて畫く火葬となすの必要を認め沿海六郡長に左の通り訓令せり
海岸又は海中に於て発見したる罹災者の死体は最早腐爛し其何人たるを認むる能わざるを以て自今発見したる死体は警察官吏の検按を受け死体一人に付金七拾五銭以内を以て火葬し其費用は警察官吏の証明書を添え其都度本庁に請求候様示達方取計を可し但し本文発見の死体は新聞紙に広告を要せす
明治 年 月 日 知 事
爾來沿海各郡村より死体埋火葬の費用を請求するもの頗る多きも尚其遺漏あらんことを恐るゝと同時に町村長の請求を俟ち随時之を交付するときは幾十日を経過するも終に決算の期なきに至るを慮り知事は更に沿海六郡長に訓令し本年六月津浪後沿岸又は海中に於て屍体を発見し町村費を以て繰替埋火葬したるものは本年七月訓令前後を区分し仕譯書に正常受領証書を添付し八月二十五日限り請求す可き旨部内町村長に厳達せしめたり
潰家取片付費 津浪後被害各部落は家屋の潰倒したるもの岩石の崩落したるもの樹木の転倒したるもの到る所に堆積充満し道路を梗塞し交通を遮断するのみならず人畜の死体其間に埋没し之れか取片付を為すにあらされは死体の捜索埋葬をも為す能はさるに依り郡町村吏員警察官吏は郡内最寄各部落より徴発的人夫を募集し昼夜指揮して之れが取片付を為さしめたるも時恰も農桑多忙の期に際し容易に之れが募集に応ずるものなきのみならず郡内応募の人夫は一時幾万の多きに及びたるも其労働の過激なるか為め就役未だ数日ならずして忽ち疲労し其用に堪えさるに至るもの尠からず是より先き知事は死体及び潰家取片付は救急中の最も急務なるものとし県税中衛生費より支出するの見込を以て県参事会急施会の議決を取り一時県債を起して之れが需要に応ずるの計画を定めたるか此に至り到底郡内人夫にては供給する能わざるを慮り広く郡外より募集するの方針を取り仙台栗原登米遠田等各郡に飛電して之を募集し本吉郡は志津川気仙沼両出長所桃生牡鹿二郡は郡役所に於て各被害部落の需用に応じ之を供給せしめたり其賃銭は郡内より募集のものは一人一日賄付貮拾五銭自賄参拾五銭郡外より募集のものは同上賄付四拾銭自賄五拾銭とし精算の結果人夫賄料汽車賃船賃酒代等の雑費及び人夫賃の幾分は総て県税の支辨とし其他の人夫賃は本費より支辨するものとせり負傷者救療費 負傷者の救療は総て日本赤十字社宮城支部に委托せり初め被害の起るや同社は率先被害地に出張して臨時病院十一ヶ所救護所一ヶ所を開き医師及び看護人を派遣し救療物品を送達し以て幾千の負傷者を治療したるは臨時病院設置の部に詳述するか如し其功労の顕著なる被害者の感銘忘るゝ能わざる所にして本県救護上便益を得たる其幾何たるを知らす是れ偏に該社博愛慈善の主義に出てたるものにして当初より之れか報酬を望むの意なきや明なりとす今や幸に国庫救済金の下附あり以上各費目過不足流用支辨の上本費の於て尚ほ千八百圓を餘すを得たるを以て之を該社に交付し以て救療に要せし社費の幾分を補助せり其達左の如し
日本赤十字社宮城支部
津浪罹災者救療費補助として金千八百圓交付す
明治三十年二月二十六日 知事
以上各費目の有餘不足は彼是流用して以て其決算を了せり其収支決算左の如し
国庫救済金計算書
一金五萬九千六百五拾圓 国庫金下付高
内
金貮萬壹千六百八拾四圓八拾銭 被服家具料
金貮萬四百六拾七圓 救恤金
金四千六百拾五圓六拾八銭 食料
金壹千貮拾七圓四拾弐銭五厘 死体埋葬費
金九千参百九拾貮圓七拾五銭 潰屋取片付費
金貮千四百五拾九圓貮銭六厘 負傷者救済費
計金五萬九千六百四拾六圓六拾八銭壹厘
残金参圓参拾壹銭九厘 返納

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(第三)備荒儲蓄金
津浪の惨害に罹るや所轄各郡長は知事の訓令に基きて不取敢一時焚出米を給與せしと雖も本県備荒儲蓄金管理支給規則は焚出米は災後七日を超ゆるを得す其他食料小屋掛料農具料の如きも一定の制限ありて其範囲を出るを許さず然るに今回の災害たる古来未曾有の天災にして其区域三郡の広きに亘り就中本吉郡沿岸各村の如きは其惨状最も甚しく衣食住居を失い道塗に彷徨号泣するもの幾萬を以て数え現行支給規則にては範囲狭隘にして実際適応の救助を為す能はす殊に食料の如きは炊具を亡失したるもの十中八九に居るを以て玄米若くは代金を支給するも之を炊く能はさるの状況なるに依り知事は特別支給法を設け食料は総て焚出米を以て給與し小屋掛料農具料の如きも備荒儲蓄法制限の極度を給し以て是等非常災民を救助するの必要を認め六月二十二日を以て県参事会の議決を取り備荒儲蓄金特別支給法を設け主務大臣の許可を乞い同時に備荒儲蓄金収入予算に金四萬七千百貮拾五圓を追加し内金参萬六千餘圓は中央儲蓄金の補助を請うの見込を以て主務大臣に稟申せり今左に特別支給法及追加支出予算の細目を掲ぐ
備荒儲蓄金特別支給方法
明治二十九年六月十五日津浪の害に罹りたる窮民に限り備荒儲蓄金管理支給規則に依らず左の割合を以て食料小屋掛料農具料を支給す但種穀料は之を給せす
一食料は老幼男女を問わず一人に付一日下白米四合の割合菜代薪代炊夫賃等は実費に依り総て焚出米を以て三十日間之を給す
一小掛料は家屋の流失破壊したるものは家族の人員に拘はらず一戸に付金拾圓を給す
一農具料は耕作に従事し得るもの五人未満は一戸に付き金拾圓五人以上は同金拾五圓を給す
備荒儲蓄金追加予算細目
一金壹萬五千圓 小屋掛料
但流失破壊凡そ千五百戸一戸金拾圓の割
一金壹萬壹千五百圓 農具料
但農作に従事する者五人以上三百戸一戸拾五圓五人未満七百戸一戸金拾圓
一金貮萬六百貮拾五圓 食料
但罹災戸数凡そ貮千五百戸人員一萬二千五百人一人一日白米四合菜代等壹銭
五厘の割
合金四萬七千百貮拾五圓
六月二十五日中央儲蓄金補助として先以て金壹萬円を交付し仕払命令を委任する旨内務大臣より電達あり壽て七月一日備荒儲蓄金特別支給許可の指令を得たるを以て之を管内に告示し且つ右支給方法に関し被害三郡長に左の通訓令せり
今般備荒儲蓄金特別支給法相定め候に付ては右施行方法左の通心得らるべし
年 月 日 知事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
一食料は郡長限り各町村便宜の地に於て支給法の範囲内を以て焚出米を為すべし焚出米は其給與の周到にして遺漏なからんことを期すると同時に濫費に流れさる様深く注意を加え被救者の員数を正確に調査し其実数に応じて之を給與し其自活の途を得たるものは随時之を担除し費額の節減を務む可し
一小屋掛料は家屋の流失したるものは勿論破壊せしものと雖も実際住居に任へさるものは之を給與するの精神なるを以て是亦其実数を調査し支給法に該当すると認むるものは本人若くは総代人をして本庁に出願せしむ可し
一農具料は田畑を所有すると否とに拘わらず従来農業に従事するものにして農具を失いたるものに給與すべきものなるを以て其実際を調査し耕耘に従事し得る家族の人員を記載し前項同様出願せしむ可し
食料 各郡長は右の訓令に依り食料は総て焚出米を以て給するものとし各町村長に令達して引続き焚出を給與せしめたり然るに爾来焚出米給與の実況を調査するに其給与方各郡区々一定ぜさるのみならず其間互に厚薄あり萬一已に自活の道を得たるも依然尚之れか給與を受くるか如きことありては災民救助の本旨に違うを以て其調査書を徴し其給與方を一定し濫費の幣なからしめんか為め電報を以て三郡長に左の通り訓令せり
救助焚出米は左の各項に該当するものに給與すべし且つ至急其人員戸数取調差出す可し
年 月 日 知事
本吉桃生牡鹿三郡長宛
一流失及び皆潰家に係るもの
但自食し得るものは之を除く
一半潰家に係るもの
但同前
一 半潰家に至らさるも貧困なるもの
斯くて七月十五日を以て食料給與の制限即ち満三十日に達したるを以て焚出米の給與を停止せり其給與明細表を示すこと左の如し
小屋掛料農具料 小屋掛料農具料は当初罹災民の出願を待ち調査の上給與するの見込なりしか偶々国庫救済金の交付あり該金は毎戸被害の大小等を精密に調査し給與するものとなしたるにより備荒儲蓄金も其出願の有無に拘わらず同時に同一の方法を以て調査し之を給與するの確定にして且つ遺漏なきを認め特に調査員立会員等を定め精密調査の上支給せり其調査給與の方法は救済金の部に詳記せるを以て□に之を畧す左に給与明細表を掲ぐ

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(第五) 寄贈物品
罹災者は概ね家産を蕩尽し僅に身を以て免れたるものなるが故に着るに衣類なく食うに器皿なし故に当時救済に急なるものは金銭にあらずして寧ろ物品にあり大方の慈善家亦此点に注意し日用の衣服調度より食用品に至るまで争うて之を寄贈し其配付を県庁に委托するもの甚だ多し依て県庁は之を新聞に広告して尚お必要なる物品の種類を掲げ之れが寄贈を促したるに仙台市内は勿論東京其多数百里外より汽車又は汽船に搭載し本庁に向て寄贈するもの積んで山を成し其数総て十四万一千十一点の多きに及べり今其物品の種類を挙ぐは実に左の如し
自明治二十九年六月二十一日
至同 十月 五日寄贈品調
一被服 七万一千百八点
単衣 袷 襦袢 綿入 シャツ 肩当 股引
脚袢 ズボン下 帯 洋服 手甲掛 裙 褌
法被 帷子 腹掛 手袋 帽子 手拭 白木綿
毛布 布団 半纏 蚊帳 前掛 解皮 反物
縫絲 上敷 ツンヌキ 足袋 敷地
一食品 二千八百二十五点
沢庵漬 味噌 梅干 奈良漬 茎漬 味噌漬 コンデンスミルク
煙草 菓子 ラッキョウ漬 鮭缶詰 乾板 佃煮 ビスケット
一器具 三万三千百四十点
皿 茶碗 椀 包丁 箸 柄杓 杓子
壜 箆 鍋 釜 盥 徳利 行平
土瓶 鉄瓶 手桶 水呑 盆 平鍋 飯鉢
飯入 笊 漏斗 火箸 貝敷 膳 擂鉢
五徳 俎 湯釜 急須 盃 丼 重箱
椀蓋 挽鉢 洗桶 薬缶 ランプ 火鉢 弁当
茶壺 大平 針 茣蓙 枕 煙管 煙草入
雑巾 団扇 下駄 足駄 十能 箒 行李
提灯 笠 鼻緒 風呂敷 布巾 筵 薄縁
扇 鉄葉油入 櫛 畚 茶台 算盤 鍋蓋
カンテラ 鋸 草履 鏨 傘 戸棚 机
轤
一雑品 三万三千九百三十四点
薬 ガーゼ 亜麻仁油紙 塵紙 紙 古綿 ランプ芯
裁縫具 石鹸 臭気止 荷筵 雑誌 書籍 筆
石筆 硯 石盤 習字草紙 石盤拭 墨 縄
草鞋
総計十四万一千十一点
備考
一被服中縫糸は総て一把を一点と算せり
一食品は凡て一樽、一缶、一箱を一点と算せり
一器具中、箸、火箸は一膳、重箱は一組、針は一本、下駄草履等は一足を一点と算せり
一雑品中薬は一袋、亜麻仁油紙は一枚、紙は一帖、筆、墨、石筆、石盤拭は一袋を一点と算せり
以上の物品は孰れも一時の急を救うに必要なるが故に県庁に於ては県会議事堂を之れが集配所に充て寄贈に従い昼夜を論せず一旦荷解をなし一々其物品を点検して凡そ配付す可き数量個所を定め本吉郡は両出張所桃生、牡鹿二郡は郡役所に充て各被害部落に配当せしめたり此際頗る便益を得たるは仙台消毒所の設置是れなり寄贈物品中衣服の如きは汚染したるもの尠からず或は伝染病流行の媒介をなすものあるも亦計られざるを以て是等の物品は消毒所に於て総て消毒の上之を送付し以て病毒の伝播を防ぐを得たり其他物品運送に付ては鉄道汽船其他海陸通運の諸会社に於て孰れも其運賃の割引を為し且最も迅速に取扱いしが為め毫も停滞等の患なかりしは被害者の為め深く感謝する所なり今左に寄贈物品配付明細表を掲ぐ
備 考
寄贈品中白木綿の如きは包帯、帯等に作りたるあり又腐敗せる食品破損せる器物等は棄却したるあり其受入物品の数と配付高と相符合せざるは之が為めなり
(第六) 町村吏員の措置
津浪変災の時に際し直接救護の責に当りたるは郡役所町村役場吏員なりとす就中町村吏員は身親しく被害地に住し同じく此災害に遭遇し或は其家屋財産を亡い或は其父母兄弟妻子を失い人間無上の悲惨境裏に沈淪するにも拘わらず死体捜索埋葬負傷者の救療生存者の救助等災後数十日間昼夜奔走侵食を忘れて救護事務に尽瘁し自家身上の如何を顧みるに遑あらざりしは偏に其職責を重んずるに出て其心事洵に嘉すべし其労績の顕著なる特筆大書して永く後昆に伝うべきもの尠からずと雖も是等の事蹟を網羅して遺漏なきを期するは到底一朝一夕にして能わず可きにあらざるを以て総て之を省略し左に郡役所に於て處理したる救護事務の梗概を摘録し以て郡町村吏員が如何に奔走尽力したるかを知る一助に供せんとす
(一) 本吉郡役所救護庶務の梗概 (本吉郡長八乙女盛次報告抜粋)
津浪変災の報あるや郡吏員は直に志津川町沿岸沖の須賀及び埋地の方面に出張し男女悲鳴号泣の声を聞き之を救助せんとするも激浪の餘流は早既に町内に侵入し其通路字横町の如きは泥水殆ど肩に及び逆浪急激容易に進むこと能わず仍て吏員一先ず郡役所に会し救護の方法を講じ傍ら県庁に急変を打電し溢水の稍や減退するを俟ち再び被害地に至り実見するに家屋所在に流潰散乱するも四面暗礁にして其概数は勿論死傷者の如きも其若干なるを知ること能わず実に意外の事変なると
以て重て本県に急電を発し一方には郡役所吏員警察署員町村役場員其他一同死傷者の探索救護に着手せしに咫尺を辨ぜざる暗夜なるのみならず潮水未だ減せず尚お海面の状をなし居れば各吏員相携えて或は水中を渉り或は堆積せる諸材を踰え一意救助に尽力せしを以て老幼男女の死に瀕せるものは大抵一夜中に於て救助することを得たり而して是等被害者の為め一時志津川小学校を避難所に充て之に入らしめ其負傷者は直に志津川病院内救護所に収容して之を治療せり焚出場は五日町十日町に各二ケ所を設け焚出をなし以て被害者に給與せり既にして志津川地方救護の方法は略お定まりたるを以て吏員を戸倉村へ派遣し視察せしめたるに字折立は其家屋の流失したるもの三戸あるのみにして人畜に死傷なく且つ字水戸辺は無事なるを知り得たるを以て引続き水戸辺以南の各字に至らんとするも水戸辺川落橋し通路を遮断せられたるが為め同所より一応帰郡せり先是志津川町字清水浜及び細浦より被害の急報に接したるを以て郡役所吏員二名町役場員一名医師一名を急行派出せしめたるが同所は其惨状最も甚しきを以て無害地なる字大上防の区長に命じ炊出をなさしめ被害者一同に給與し負傷者をば最寄に収集して派出医師及び地方の医師をして之を治療せしめたり以上志津川町方面に於ける被害救急の状況にして其他沿海各町村も亦同一の被害ならんと思惟し直に吏員を八方に派し尚お急電を以て其実況を問合せたるも電信不通の為め大島唐桑方面の被害を知るに山なかりしが漸次其報告の達するに従い其惨害一層甚しきを知ると同時に郡役所定員のみにては到底普く救護の事務に鞅掌する能わざるを慮り更に六名の臨時雇を採用し被害地各方面に向い出張せしめ人夫の督励炊出の準備患者の手当死体捜索等の事を取扱わしめたりと雖も如何せん被害の区域広く被害者の数夥しき為め殆ど救急の策に苦みたり仍て気仙沼町に郡役所出張所を開設し小泉以北は出張所之を管轄し歌津以南は郡役所之を管轄し内外相応し以て救急の事に尽力せり但し死傷の数実に三千六百有餘の多きに達し其死体を発掘せんとするも所在人夫に乏しく到底尋常の手段にては急速結了を期し難きを以て無害町村には徴発的人夫を課し死体の発掘負傷者の運搬等に従事せしめ又た郡吏員の一部は人馬物品の配付輸送其他救護の事務に服し他の一部は被害地にありて負傷者の給養又は死屍の運搬埋葬及び炊出給與等に従事せしめたり此際本県の訓令に依り各郡役所より応援として郡書記を派遣せられたるに依り本郡に於ては救護上頗る便益周到を得たり今本郡書記以下事務分担及び各郡応援書記の官氏名を挙ぐれば左の如し
本郡書記以下事務分担
庶 務 本吉郡書記 矢野 惟理
気仙沼出張所詰 同 石井 山治
馬匹人夫及び焚出米給與事務 同 勝倉弥惣治
会計事務 同 勝倉儀太郎
被害復旧工事事務 同 関口徳治郎
馬匹人夫及び寄贈品事務 同 岡本久之助
雑務 同 佐藤 信岳
文書往復事務 同 真山長八郎
雑務 同 小堀 定治
会計事務 同 阿部 源松
文書往復事務 同 遠藤 爽吉
救済事務 本吉郡視学 本多左右太
他郡より応援官吏氏名
救済事務 宮城郡書記 嶺岸 大力
同 柴田郡書記 大庭 善助
同 登米郡書記 岩村 茂樹
同 栗原郡書記 岩崎 省三
同 志田郡書記 三井 益治
同 伊具郡書記 森 善太郎
同 刈田郡書記 熊谷慶三郎
同 登米郡書記 須嶋 豊治
同 栗原郡書記 須藤亀代治
津浪変災の当時郡長戸澤精一郎は不幸大患に罹り事務を執る能わざるを以て郡書記矢野惟理郡長代理として救護百般の事務を管理鞅掌したるが七月二十三日に至り戸澤郡長非職を命ぜられ次で本官登米郡長より転任の命を受け七月二十七日赴任事務の引継を受け直に大雄寺なる臨時病院及び沖ノ須賀等の被害地を巡視し翌二十八日より志津川町始め南方被害地を巡視し七月三十日津浪事務上に付出県八月四日帰郡八月五日教育補助費の件に付郡会及郡参事会を招集し翌六日善後事務に関する一般の方針を訓示し八月七日より北部被害地を巡視し或は町村吏員に善後の方策を授け或は喪心せる被害者を慰撫して就業を慫慂する等爾来毎月二次乃至三次被害地を巡視せり今本郡に於て處理したる救急事務の梗概を挙ぐれば左の如し
一、焚出米の事
津浪襲来の当夜志津川町に於ては字十日町五日町に数ヶ所の焚出場を設け絶えず焚出を為し避難所に送付して罹災民に給與せり之が焚出を為すに当りては咄嗟の場合料米買入等をなすの寸暇なきを以て徴発的命令を発し或は資産家より或は焚出場なる家主より米穀を出さしめ最も迅速に之を處辨せり翌日に至りては四方に散在したる被害者悉く避難所に群集し其人員俄に増加したるを以て更に焚出場を増設し普く之を給與せり又同町字清水荒戸の如きは特に郡吏員を派遣し大抵同様の方法を以て焚出米を給與せり其他郡役所に近接せる十三浜戸倉歌津小泉の各村に対しては時々料米を輸送せしと雖も其他の部落に於ては便宜村長に訓令して救急上臨機の処置をなし一時之れが救助を取計らわしめたり然るに志津川に於ては忽ち料米に欠乏を告げたるを以て商売に厳命し登米地方より多額の米穀を輸入買収せしめしと雖も何分被害の区域広濶にして被害者の数夥多なるを以て到底保支する能わず依て本県出張官と協議の上備荒倉を開き儲蓄米を悉皆精米となし僅に供給に応ずるを得たり本郡内に於て焚出を為したる総人員は二十万八千五百八十人米石数八百四十六石二斗四合其石代金及び味噌薪炭雑費を合するときは其金額一万千五百九十二円七十三銭三厘なり
二、人足使役の事
津浪被害者救護上に関し最も困難を感じたるは人夫の供給にして死体の発掘負傷者の送致物品の運搬等に至るまで一として人夫を要せざるものなし然るに部内十七町村の内其害を被らざりしものは僅に麻崎、横山、入谷、気仙沼、新月の五町村にして其他は被害町村中に於ける数部落に過ぎず当初救急の場合には該地方へ人夫を課し其出役を督励せしと雖も時恰も農桑繁劇に際せしを以て之が募集に応ずるもの僅少にして到底広濶なる被害地一般の供給を充たすこと能わざるを以て止むを得ず其供給を他郡に仰ぐこととなし登米栗原両郡に依頼し到着次第順次其部署を定め監督者に付し被害地に派遣せしめ郡内人夫と共に死体の発掘屍体の運搬及び埋葬等の役務に服せしめたり又た地方無害者よりは随時荷馬車及び馬匹を徴発し食料及び器具寄贈品等の運搬を為し傍ら雇船を置き物品輸送の便利敏活を計れり其人夫及び馬匹等の数を挙ぐれば左の如し
一人足延人員 三万七千五百五十九人
内
郡外人夫 一万二千四百九人
郡内人夫 二万五千百五十人
一馬 匹 七十頭
一荷馬車 二 台
一雇 船 五 艘
三、恩賜金交付の事
恩賜金は南北二部に分ち北部は八月十一日気仙沼尋常高等小学校内に於て南部は八月十三日志津川尋常高等小学校内に於て之を交付せり其次第は町村長町村会議員区長及び被害者惣代を校内に召集し県官警察官郡参事会員立会の上各部落の被害者総代を呼出し郡長之を交付せり又拝受したる惣代者は各部落に於て被害者を召集し県官郡吏員警察官立会の上町村長之を各自に交付せり交付に際しては都て警護を厳にし最も森巌に挙行せり之を第一回とす爾後拝受すべき被害戸数人口中各町村とも多少脱洩に係るものあるを発見し県庁より第二回第三回に交付せられたるものは最初の手続を以て之を交付せり被害者一般 天恩の辱きを感泣せざるはなし
四、義損金配付の事
津浪罹災救助義損金配付に関しては先ず各区出張員及び被害町村長を招集し各被害者に対し江湖の志士仁人が寄贈したる義損金の性質及び其費途の目的等を示し本県論告の趣旨を服膺貫徹せしめ苟も濫費するが如きことなからんことを論示すべき旨を訓示せり尋て義損金交付手続義損金保管規程等を定め被害者にして義損金を請求せんとするものは其請求書に費途の目的を明記し区長及び町村長の証明を得て請求せしむるものとせり又町村配布義損金に対しては本県訓第七一号の趣旨に基き交付規程を定め第一回義損金は明治二十九年十一月二十八、二十九の両日を以て吏員を各町村役場に派し町村長区長総代人立会各被害者に交付し第二回義損金(遺漏追加の分)は三十年三月二十五日を以て第三回義損金(被害地外住居の被害者に対する分)及び町村配布義損金は三十年八月十日を以て第一回の手続に依り之を交付したり
五、寄贈金品の事
津浪の報各地へ伝播するや四方の志士仁人は被害者救恤の為め金員物品を寄贈するもの日に続々として絶ゆることなく随て分配すれば随て集合し郡役所はほんど寄贈の衣類食物器具を以て充たされたり而して所員は其数を検査して之を分配するもの荷造を為して之を発送するもの当時の繁忙実に名状すべからず其物品分配の方法に至りては被害の程度と物品の種類とを参酌し人馬車又は雇船をして之を被害地へ運搬せしめ以て其配付の迅速周到ならんことを務めたり又郡役所限り収入の義損金一千五百七十六円三十九銭七厘は一応本県へ送納せしに義損金分配商議会の決定に依り更に十一月を以て適宜被害者へ交付すべき旨を以て本県収入の分と共に下渡されたり依て郡役所に於ては義損金配付心得なるものを設け十一月二十八日二十九日の両日を以て事故あるものを除く外悉く之を交付せり其交付の方法は郡吏員被害町村役場に出張し町村長区長惣代及県郡出張員立会の上被害者一同を召集し証書を以て之を交付し尚お郡役所には臨時現金保管規程なるものを設け以て其取締を厳にせり今寄贈交付高を挙ぐれば左の如し
一四万二千百五十五点 総 高
内
九千三百二十七点 被 服 類
七千三百六十二点 食 物 類
二万千五百六十六点 器 物 類
六、被害戸口調査の事
備荒儲蓄金及国庫救済金を給與すべき被害者戸口調査は本県訓令に基き七月二十日より着手し同月二十三日を以て結了したり本調査は被害者救済の急策として重大の関係を有するを以て調査の時日最も短期なるにも拘わらず慎重に慎重を加え精密に之れが調査を為せり而して右調査の結了するや之を県庁に報告進達したるに直ちに救済金及び備荒儲蓄金の配付ありたるを以て郡吏員を各町村に派し県属町村長区長総代人立会の上郡吏自ら被害者に之を交付したり然るに多数の被害者中費途の目的未だ確立せざるものありては之を濫費するの恐れあると一は利殖の道を計り成るべく勧誘して之を銀行に預け入れしめたり
七、津浪に関する事項調査の事
津浪被害後郡吏を各町村に分派し被害に関する事項を調査せしめたり其調査の要項は死亡負傷家屋流潰船舶流破斃馬漁具の流破其他の事項にして之れが調査をなすに方りては事素より重大なるを以て及ぶ限り慎重を旨とし再調の患なきを期したりしと雖も当時被害者の大半は精神錯乱し万事挙措を失するの場合なりしを以て其申告する處或は誤謬に出ずるもの尠からず随て訂正すれば随て無効に帰するもの枚挙に遑あらず然れども本件調査は最も急要に蜀するを以て昼夜を問わず之が調査に従事したり其事項の重なるものを挙ぐれば左の如し
漁船流潰千百餘艘
魚網流失千三百餘
土地被害
田反別百九十町七段九畝十三歩
畑反別百三十三町六段五畝七歩
桑園反別九町二段三畝二十二歩
宅地反別六十九町八段三畝四歩
塩田反別三町二段六畝五歩
合反別四百六町七段七畝二十一歩
生産物の損害見積高
米二千二百十七石
麦二千百九十一石
大豆千九十三石
雑穀八百十八石
野菜六千七百三十四駄
此代金三万七千百五十一円
水産捕獲物八万五千二百五十五円
同製造物二万五千五百六円
海草五千四百三十八円
食塩二千百二十九円
計金十一万八千三百二十八円
養 蚕
繭七百五十三石
生糸百四十七貫
青綿屑物百四十三貫
桑葉八万六千二百八十五貫
計金三万千六百十一円
合計金十八万七千九十円
(二) 桃生郡役所救急庶務の梗概 (桃生郡長鈴木太郎作報告抜粋)
六月十六日午前三時十五浜村津浪の報に接するや即時郡書記西川貞中川新三郎を派遣し焚出米給与の任に当らしめ翌朝本官自ら出張し避難所の設置負傷者の手当救助出願の手続及び人命救助等の取調を監督し又焚出米の供給義損金の墓所金品の運送等内部の事務は専ら郡書記鬼怒川盛鈴木庄三郎の両名をして之を処理せしめたり
一、焚出米の事
十五浜村は地形上田畑極めて少なく為めに居民は概ね漁業を営み米穀の如きは常に需要を牡鹿郡石巻に仰ぐの状況なるを以て津浪に際し三十日間焚出に要する白米九十八石餘の内五十四石餘は被害地に於て買収せしも四十四石は郡内飯野川村より買収し被害地の隣村なる大川村字釜谷へ舟送し夫れより一里に餘る雄勝峠の峻坂を踰へ凡そ四里餘を陸送せしを以て頗る不便を感じたりき焚出場は雄勝区に五ケ所船越区に一ケ所を設け多きは一ケ所一日百六十餘人少きは百餘人に給与したるを以て一時頗る混雑を極めたり焚出人夫の使役は極めて迅速を旨とし握飯其他の食品を茣蓙又は戸板等に並列し各自の望に応じて之を給与し日数十日を経過したるに人心稍々平穏に帰し各自家財其他の取片付に従事せる為め便宜上五戸若くは十戸集合同炊を希望するを以て焚出場を鎖し郡書記二名村役場員数名をして成規の白米其他食品を授与せしめたり本郡に於て焚出をなしたる総人員は二万四千五百九十二人白米九十八石三斗六升八合にて其菜代及び味噌薪炭炊夫賃等雑貨合計金一千三百七十七円九十二銭なり
二、負傷者救療の事
負傷者の手当は津浪の報告に接すると同時に郡医星松伴を派遣し地方医砂金右貞高屋源治佐々木廉亮の三名と共に治療に従事せしめたり其後赤十字社救護員の出張ありしを以て大に便宜を得たり而して星砂金両人の取扱いたるものは各四十一名にして星は同月二十八日まで十三日間に延人員四百八十五人を砂金は同月二十日まで五日間に延人員三百十一名を高屋の取扱は三十七名にして同月二十日まで五日間に延人員百六十一人を佐々木の取扱は三十六名にして同月二十二日まで七日間に二百四十六名を治療したり但患者数に対し延人員の少なきは治療中死亡し又は短日数にして治療せしものあるによりるなり
三、人夫の事
六月十九日より二十五日に至る日数七日間は清潔法施行の為め人夫三百八十四人を大川村より募集し死体収拾行方不明者の捜索道路掃除漂流所材取片付等に使用したり然るに死体の運搬汚穢物の取捨等は尤も嫌悪すべき業務なるを以て引続き労働するものなく或は一日或は二日を以て逃帰り監督上頗る困難を極めたり右に要する賃金は一人一日金三十銭にして計金百十五円二銭なり
(第七) 津浪罹災地善後事務處辨方法
一津浪被害に罹る善後の事務を處辨せしめむが為め被害地を分割して四区とし毎区一名の出張員を置く事(桃生郡は被害地を分割し以下十七字を餘く)
二出張員は郡書記を以て之に充る事
三出張員は郡長の指揮を受け常に区内を巡視し左の事務を處辨する事
一食料小屋掛料農具料衣服家具料救助金の給与其他窮民救助に関する事
二家屋死体取片付家宅掃除飲料水検査其他衛生清潔法に関する事
三流潰家屋の建築及び建築地選定に関する事
四義損金穀物件支払分配等に関する事
五船舶魚網漁具等の新調修補に関する事
六農商工漁者の就業に関する事
七小学児童就学等に関する事
八道路堤防橋梁等の修築に関する事
九右の外善後の処分に関する一切の事務を監視する事
一罹災者に代り善後の計画施設に付出張員の協議に応ぜしむる為め各被害地部落に総代人三名以下を置く事
一総代人は毎被害部落をして総代人一人に付候補者各三名宛を推選せしめ郡長其中に就き適任者と認むるものに承認状を附与する事
一前各項の外施行上必要と認むる事項
右訓令に依り本吉桃生両郡長は知事の認可を得て善後処分法及び出張員配置区域を定め総代人を選挙せしめ郡書記を派出し其計画全く定まるを以て知事は更に蜀官五名に出張員を命じ郡長に於て定めたる各区に各一名出張し郡長の指揮を受け郡書記と共に其区内に係る善後事務を處理せしめたり其官氏名及び出張に際し演達したる訓令を挙ぐること左の如し
出 張 員
本吉郡第一区
蜀 千 葉 胤 継
同 第二区
蜀 佐 藤 令 史
同 第三区
蜀 安 藤 房 太 郎
同 第四区
蜀 後 藤 祐 吉
桃生郡第五区
蜀 武 沢 愛 次 郎
訓令
今般各員に出張を命じたるは津浪罹災者に対し諸般の善後事務を處辨せしめんが為めなり顧うに這回の津浪たる其区域数十里の広きに亘り其民家数千戸の多きに及び死亡者の埋葬生存者の救助負傷者の治療等焦眉の急に処するの事務枚挙に遑あらざりしも災後己に二ヶ月を閲し是等救急の事務は略お其緒に就きたりと雖も家屋の修築衣食の供給病災の予防を始め耕田漁魚其他百般の業務に従事し将来独立自営の途を立る等各人各個に於て今後計画施設を要するもの亦極めて多し今罹災者の為め是等の事務を處理するは頗る干渉に過ぐるの嫌いなきにあらざるも仰も非常災後の事務を處辨するに方りては亦須ぐ非常の手段方法を用いざる可からず況や災民が資を以て善後事業の財源と為すものは両陛下の恩資金政府の救済金備荒儲蓄の給与金志士仁人の義損金にして而して是等金員の給与分配の如何に至りては一々本官の責任に帰す今や恩賜金救済金給与金等は巳に之を交付し義損金も亦将に不日之を分配せんとす是の時に当り万一多数罹災者中前途有用の資に投ぜずして徒に酒食又は不急の事物に浪費するが如きものありては深く遺憾とする所なり本官は何を以て上 陛下及び政府に答え下志士仁人に見えんや是本官の特に各員をして善後事務處辨の任に当らしむる所以なり若し夫れ事務處辨の方法は郡長に於て特に本官の許可を得て定めたる規程あり各員は宜く別紙心得に依り其規程を遵行し出張の郡書記と共に区内町村長及び区長罹災者総代人に協議し災後の計画施設に就き誠実懇切を旨とし其事務を處辨せんことを望む此旨特に訓令す
年 月 日 知 事
津浪罹災地出張員心得
第一条 津浪罹災地を分画して本吉郡を四区桃生郡を一区とし毎区に出張員を置く
第二条 出張員は郡長に於て知事の許可を得て定めたる規定に依り其区出張の郡書記と共に其区内に係る津浪善後事務を處辨するものとす
第三条 出張員は特に知事の命令あるものを除くの外津浪善後事務に関しては郡長の指揮に従うべし
第四条 出張員は毎月五日限り其前月間處辨したる事務の顛末状況を知事に報告すべし
斯くて明治三十年三月二十八日に至り各罹災地に於ける前後の事務は大半之れが処分を了し罹災民も亦漸く其堵に安ずるを得たるを以て爾後処分を要する事務は郡出張員に於て處理せしめ本庁よりは時々官吏を派遣し巡視監督せしむることとし県庁派遣の出張員は尽く之を引揚げたり其處辨したる事務の顛末は郡長報告の部に詳載したるを以て茲に之を省略す
清潔法の施行
津浪災害の最も激烈なりし村落に在りては家宅人畜を挙って蕩然一掃し去り復た一物をも留めざるに依り却て清潔法施行の必要なきも破壊又は浸水したる家宅の多数を占むる村落にありては獣蓄の死屍河海の泥土其他の汚穢物所在に充満し其臭気鼻を撲ち不潔名状すべからず抑も災後の窮民は破屋に住し弊衣を纏い其食物亦粗悪にして栄養充分ならず此時に方り悪疾一たび発生し満村の汚穢物之れが伝播の媒介を為すときは災後の村落は再び修羅の巷となり幸に万死に一生を得たる災民も悪疫の為め其天幸を全うすること能わず死亡相踵き沿海数十里間は終に人類を絶つの惨状を呈するに至るは瞭然として火を視るよりも明なりとす是に於て知事は清潔法施行の必要を認め県参事会へ諮問の上其費用は衛生費より支出するものとし其施行方法を定むること左の如し但し本法施行に要する人足は総て罹災民を以て之に充つるものと為したるは災後活路に彷徨するものをして労役に服し其賃金を得て以て自活の途を講ずるの一助となさしめんとするに由る
被害地清潔法施行手続
一被害地清潔法は警察官吏に於て施行すべし
一清潔法は左に掲ぐる各項に限り施行するものとす
但し消毒薬は生石灰を用うべし
一井戸厠圃の浚渫掃除及び消毒
二溝渠下水の浚渫掃除
三塵芥汚穢物等の焼却
四浸水家屋床下の泥土汚穢物の取除及び消毒
一人夫は警察官吏の請求に依り町村長に於て供給すべし但し日々使用する人夫の員数は予め警察官吏に於て之を定め町村長に通知すべし
一人夫は被害部落のものに限り使用す可し但し十二歳以上十五歳未満は男女に拘わらず必要に応じ使役するものとす
一人夫の賃金左の区別に従い支給す
一男子は一日一人金三十五銭但し十二歳以上十五歳未満のものは金十五銭
二女子は一日一人金十銭但し十二歳以上十五歳未満のものは金八銭
一人夫の賃金は町村長に於て各部落毎に其人員金額を取調警察官吏の証明書を添え郡長に送付す可し但し郡長に於て本項の支払を為したらるときは本人又は人夫受負人の正当領収書を徴すべし
次で知事は清潔法施行に要する衛生費予算を定めて被害三郡に配付せり其達左の如し
其郡津浪罹災地清潔法施行の為め衛生費予算左の通り配付す
年 月 日 知 事
(本吉郡)
一金三千三十四円五十四銭二厘 衛 生 費
内
金二千六百七十二円六十七銭 人 足 費
金三百六十一円八十七銭二厘 石 灰 代
(桃生郡)
一金百九十七円二十銭二厘 衛 生 費
内
金百七十三円 人 足 費
金二十四円二十銭二厘 石 灰 代
(牡鹿郡)
一金百十一円十四銭九厘 衛 生 費
内
金九拾七円五拾六銭五厘 人足賃
金拾参円五拾八銭四厘 石灰代
而して施行法手続第一項に依り本吉郡は気仙沼警察署長志津川分署長桃生郡は飯野川警察署長牡鹿郡は石巻警察署長をして之を施行せしめたり即ち気仙沼警察署部内は同年八月十三日開始同月二十四日結了志津川分署部内は八月一日開始同月十日結了飯野川警察署部内は八月一日開始同月七日結了石巻警察署部内は八月一日開始同月七日結了せり其使役せし人夫一萬八千百九十一人内男一萬二千三百三十七人女五千八百五十四人十二歳以上十五歳未満男千七百九十六人女九百七十七人なり但し人足賃石灰代等の詳細は救済の資財の部県費の項に詳なり
郡役所善後事務処辨の梗概
津浪罹災地善後の事務は以上記述するか如く清潔法施行に関するものの外は県庁に於て大体に関する計画を定めて其施設の方針を授け其細目に渉るものは総て郡長をして便宜之を処理せしめ之か実施の責に任せしめたり今郡長の報告に基き事務処辨の顛末を左に摘録す
(本吉郡)
津浪善後事務処辨方法の事 津浪善後事務処辨規程及び被害部落総代人に関する規程は県知事の訓令に基き之を定め知事の許可を得八月十五日町村に訓令し之を実施せり其規程左の如し
津浪罹災地善後事務処辨規程
第一條 津浪被害地に係る善後事務を処辨するため被害地を左の四区に分画し毎区に一名の出張員を置く
第一区 十三浜村 戸倉村
第二区 志津川町 歌津村 小泉村
第三区 大谷村 階上村 御嶽村 松岩村
第四区 唐桑村 大島村 鹿折村
第二條 出張員は郡書記を以て之に充つ
第三條 出張員は郡長の指揮を受け常に区内を巡視し左の事務を処理するものとす
一小屋掛農具料衣服家具料救助金の給與其他窮民救助に関する事
二家屋死体取片付家宅掃除飲料水検査其他衛生清潔法に注意する事
三家屋の建築及び建築地選定に関する事
四義損金穀物件配與及び保管等に関する事
五船舶漁網漁具農具家屋材料職工等の需用に関し便宜を與ふる事
六農漁商工就業に関する事
七小学児童就学等に関する事
八道路橋梁堤防等の修築に関する事
九老幼の保護孤児の育成に関する事
十其他善後の処分に関する一切の事務を監視する事
被害部落総代人に関する規程
一罹災者に代り善後の計画施設に付出張員の協議に応せしむる為め各被害部落に左の総代人を置く可し
第一区
十三浜村
月浜長盥谷 二人
大室小室 二人
小泊 一人
相川 二人
大指小指 二人
戸倉村
浜折立、水戸邊 二人
波傳谷、津ノ宮、瀧浜 二人
藤浜、長清水、寺浜 三人
第二区
志津川町
志津川 二人
平磯 二人
荒戸 二人
清水 二人
細浦 二人
歌津村
韮ノ浜、寄木浜 二人
伊理前 二人
管ノ浜、館浜 二人
馬場浜 二人
中山浜 二人
名足浜 二人
石浜 二人
泊浜 一人
田ノ浦 二人
湊浜 二人
小泉村
蔵内浜、歌生浜 三人
廿一浜、今朝浜 二人
小泉駅、芝 一人
第三区
御嶽村
大澤、登米澤 二人
大谷村
平磯 三人
大谷 三人
階上村
明戸、杉ノ下 三人
長磯、最知、岩月 二人
松岩村
片浜、尾崎 二人
第四区
鹿折村
鶴ヶ浦 二人
唐桑村
崎浜、中井、中 三人
小鯖 二人
鮪立 二人
舞根 一人
宿 二人
石浜 二人
只越 二人
館 一人
大澤 二人
大島村
外浜、外畑 二人
長崎、横沼、回館 三人
駒形、要害 二人
一総代人は毎部落をして総代人一人に付候補者三人を推撰せしめ郡長其内に就き適任者と認むるものに承認状を付與す
以上規程に依り八月十四日郡書記四名に各区出張員を命じ其受持区に出張せしめたり次て本県より県属四名各区に派遣せしめられたるに依り出張の郡書記と共に其事務を処辨せしめたり其出張員受持区は左の如し
第 一 区 県 属 千葉 胤継
郡書記 諏訪部勝治
第 二 区 県 属 佐藤 令史
郡書記 石井 山治
第 三 区 県 属 安藤房太郎
郡書記 嶺岸 大力
第 四 区 県 属 後藤 祐吉
郡書記 勝倉 彌惣治
右の内第二区出張員郡書記石井山治は十月福島県へ出向に付郡書記関口徳次郎之に代り第三区県出張員県属安藤房太郎は十月他へ転任に付県属前田元之に代れり
而して県出張員は明治三十年三月二十八日限り引揚げたるを以て爾後は郡出張員のみにて継続事務を処弁せり但し同時に第三区出張員郡書記嶺岸大力は郡役所に引揚げ第二区出張員郡書記関口徳次郎をして之れに代らしめ第二区出張員には郡書記善積精一郎を以て之に充てたり
而して八月十五日郡役所内に津浪善後事務係を置き郡書記六名をして専ら該事務を管掌せしめ又町村長に訓令して町村役場内へ津浪善後事務主任書記を置かしめ郡役所及び出張員と町村役場との気脈を通じ其事務の敏活を図らしめたり
津浪被害者に対する複業諸般の計画に就ては考慮を要するもの少なからざるに依り毎月出張員及び町村長を会同し事細大となく其意見を諮ひ以て善後の方策及び施設の方法を定めたり其諮問の上決定したる事項中主要の條件を左に摘載す
一集合諸材分配の件
一弧児処分の件
一現役兵に該当するものの内自活し能はさるものの免役出願に関する件
一善後策に付町村へ委員を設ける件
一備荒儲蓄救助期限経過後尚ほ自活の途なき貧窮者調査に関し標準を定むる件
一陸前東浜街道改修工事費寄附の見込なきを以て県税を以て改修出願の件
一貯蓄銀行に出張を乞い救済金等交付の際預金を為さしむる件
一死体未発見の死亡者戸籍除籍の件
一被害者の精神を回復振起せしむることを力め自治心を惹起し速に常業に就かしむる様懇諭すべき件
一漁船漁具を整備する様誘導すべき件
一沖漁船は残余ある部落より一時借入漁業を奨励するの件
一漁網を新調するの資力なきものは資本家をして調製せしめ漁業者の便利を計らしむる件
一家屋の建築は費用多きを要するを以て一時間似合のものとし之に要する費用を転して漁農商工業の資本に充用せしむるの件
一家屋の建築は高地を□ひ製造所納屋等の如き一時の使用に供するものは沿海便宜の地に設けしむるの件
一家屋の建築地は先ず道路下水溝を開鑿し之に並列せしむる様計画を為さしむる件
一家屋材船材橋梁材等未だ官林払下を請願せざる向又は本数不足請願せし向は至急出願すべき件
一戸主死亡し跡相続人なきものは速に之を立てしむる件
一戸主未丁年者は速に相当の後見人を立てしむる件
一後夫後妻を要するものは速に之を迎えしむる様注意の件
一戸主死亡財産譲與の手続を為さざるものは速に処理すべき件
一死亡者除籍の手続を為さしむる件
一消毒清潔方法施行の件
一田畑の潮入地面回復の件
一町村に津浪善後事務担任書記を定め置く件
一出張吏員の事務所は町村役場内に設ける件
一焚出及寄贈金品受払整理の件
一義損金濫費を防くに関する件
一部落移転地々均は共同事業と為さしむる件
一同移転地に要する井戸は共同用として其構造を完全ならしむる件
一同移転地にして里道変更を要するものは出願を為さしむる件
一県道に添い家屋を建築するものの注意を促す件
一仮小屋住居者にして積雪前建築の運びに至らざるものの危険なき様注意の件
一官林払下樹木の伐採は共同事業となし種目材積等台帳へ記入せしむる件
一官林払下の木材は降雪前伐採方に注意の件
一船材料として若宮山官林を出願すべき件
一津浪善後工事に属する県土木工事は町村又は町村人民請負となさしむる件
一蚕種蚕具要意の件
一被害田地を回復し挿秧を為さしむる件
一人夫賃銀及人夫賄に関する受払整理の件
一官林払下木の搬出期限を愆らさらしむる件
一官林払下木は許可を得ざれば使用目的を変更し又は交換売買等をなし得ざることを注意の件
一職工募集に斡旋すべき件
一被害学校の建築修繕を督励すべき件
一町村教育補助費は費目外に支出せざるに注意の件
一被害の当時人命を救助せしもの又は徳行ありしものの賞與申請の件
一清潔法出役人夫賃銭受払整理の件
一被害者移転宅地の分裂登記及土地売買譲與等に関する件
一恩賜金救済金及義損金支出の正否を調査する件
一官林払下代金及移転地地均費用町村に於て受けたる義損金品受払整理の件
一被害地にして現地目に復旧の見込なきものは納税の猶豫を乞はしめ尚ほ追て免租を出願せしむる件
官林払下の事
被害民をして其本業に復し自活の途を得せしむるは家屋の建築と船舶の造修を促すより先なるはなし依て之れか速成を督励せんとせしも本郡は元來民林に乏しき地方なるを以て恰当の用材を得る能はす因て官林払下の必要を認め直に吏員を御嶽小林区署へ派遣し払下を得へき山林の調査を為さしめ被害各町村長と協議の上被害者に代り之れか払下を出願せしめ郡役所に於ては尚其許可の
一日も速かならんことを欲し屡々其間に立ちて交渉斡旋したる結果漸く払下を得るに至りしを以て各自被害の大小に準じ分配法を定めしめ且つ職工の少なき地方は便宜の方法を以て之を募集し差向き小屋掛の材料に供したり然れとも該払下官林たるや僅に一小部分に過ぎす之れか為め自然家屋の建築を遷延するものあるに至れり殊に船材の如きは被害一小部落の造船用にも尚且つ十分ならざるを以て造船の数極めて少なく漁民一網千金の好漁場を有しなからも出漁すること能はす適々破船を修造し沿岸の漁撈に従事するものあるも固より一時の用に供するに過ぎす遠海の漁業に至りては到底其用に堪えず漁族の群集せるを袖手傍観する有様なるを以て更に船材の払下を請はんと欲し数回町村長と謀り或は小林区署に或は大林区署に或は県庁に協議を遂け又或時は四方の官林を實査せしむる等昼夜幹旋し船材用として本郡戸倉村字若宮山外数ヶ銘の払下を出願せしめたり然るに宮城大林区署に於ては其後庁議一変し払下代償不相当なりとして之れか訂正を命ぜられたるにも拘らず爾後庁議更に再変して若宮山は全部払下を許可せられさることとなりたり依て重子て交渉の結果止むを得ず同村門前山官林及び若宮山に於ては松木を以て之に代ふることとなせり左に各町村に於て払下を受けたる官林を掲ぐ
宅地選定及び家屋建築の事
被害民宅地選定に就ては高処移住の策を立てしめ即ち今回津浪余波の及はさりし地を撰び之に建築せんことを勧誘したり然るに多数被害者の内には往々漁業の不便を唱え或は敷地売買交換等の手数を厭ひ動もすれは不快の感情を抱き依然被害地に居住せんとし移転を肯せさる傾向あるを以て是等は出張員に於て交換売買のことは勿論他に転せんとするも実際恰當の地所を得さるものに対しては高潮の及ばさるを度とし土盛を為さしむる等の計画を定め懇篤論示の上将来衣食住の安全を計り以て家屋の建築を督励せり而して被害部落中共同移転を促したるは戸倉村の内波傳谷志津川町の内沖の須賀埋地大谷村の内大谷階上村の内明戸唐桑村の内只越及び大澤の大部落とす被害後明治三十年八月の調査に係る新築家屋敷を挙くれは左の如し
本表に依り之を見るときは被害後一年余を経流潰戸数に対し殆ど七分強に達したり而して今日に至りては各被害地とも大抵旧観に復し被害前よりも一増堅牢なる建築を見るに至れり
船舶修造の事
漁船は漁民生命の繁る処にして其必要欠くべからさるは固より言を俟たす故に家屋の建築と共に急中の急務として其修造を督励し其生産力を挽回せんことを務めたり然るに会て出願せし官林は容易に払下の許可を得ず荏苒遷延し漁民は益々困難の状を呈するを以て一面に於ては被害者財政の許す限り他より恰當の材料を購入し新造せしめたるか官林払下の許可あるに及び当局者に厳重に督励を加え船舶を修造せしめたるを以て数月ならずして旧日の船数を見るに至りたり
漁網新調の事
被害部落中には幸に流潰を免かれたる船舶又は新規に造船せしものありと雖も漁網漁具は住家及び納屋等の流潰に依り概子流失或は毀損せし為め船舶を使用して漁業に従事すること能はす殆ど窮迫に陥りし有様なるを以て義損金又は救済金の幾分を支出せしめ之れか新調をなさしめ漁撈に着手せしめたり但し漁網は現今漸く各地に行はるる綿糸を用いしめんと欲し百方其効用の便利なるを説くと雖も容易に旧慣を改めず依然麻糸を用いるの傾向あるを以て被害者中重立ちたる漁業者を勧誘し之を使用せしめたる結果今日に至りては綿糸網を用いるもの稍々多きに至れり
津浪被害部落転地工事の事
移転地工事は本吉郡戸倉村字波傳谷外六箇所にして津浪の害に罹りし者各戸悉く高燥なる適当の場所を選定し部落を挙げて移転するの計画を定め被害者は各自土地を買入れ地均しを了し家屋を建設せんとするに當り道路新開の必要を生じたり然れども災余町村の負担に堪えざるを以て工費の全部県税の特別補助を仰ぎ三十年四月一日より該工事に着手し戸倉階上の移転地の如きは六月下旬全く竣功を告げたり今其補助金額及び町村部落別表を左に掲ぐ
津浪被害復旧工事の事
復旧土木工事は六月十五日の津浪及び八月二十八日激浪等の為め本吉郡沿岸各町村の堤防道路橋梁樋管等非常なる破壊を来したるも町村に於ては未曾有の災害に遭遇し以て設計を始め工事に関する一切の件を處理する能わざるを以て県庁に請うて技手の派遣を得先ず被害各町村長及び土木担当者を郡衙に召集し工法の程度を協議せしめ而して後被害地を南北二部に分ち吏員を出張せしめ実地踏査を遂げ以て復旧工事の設計を完結したり然るに其費用の多額なる被害町村長は到底町村の負担に堪えざるを以て町村会の議決を経て特別補助を県庁へ稟請し工費全部を補助せられたり其工費金額町村別左の如し
而して同年五月より該工事に着手し漸次完全に竣功せり
小学校に関する事
海嘯の災害は本吉郡内十二ケ町村に及び被害小学校十七校内校舎の粒子潰倒せるもの三校教員の死亡せるもの三名生徒の死亡せるもの三百七十八名同負傷せるもの五十三名にして其他被害の生徒数は実に九百餘名の多きに達し其惨状見るに忍びざるものあり是に於て吏員を急派し其被害児童は一般被害民と共に救助せしめ校舎の流潰又は破壊せるものは一時寺院を以て仮教室となし災後五日乃至十日以内に於て一般仮授業を開始せしめ一方には授業用具を給與し以て普通教育をして休止せしめざらんことを期したり然れども是只一時姑息の手段にして素より永続善後の策にあらず依て更に精密査覈の上被害小学校の編制を縮少し其経費予算標準を定め町村長及び小学校長を召集して其方法を指示し一面には流潰校舎再築の設計梗概及び被害町村各種歳入の滅損額を調査し校舎再築費と減損額との多寡に応じ教員俸給の幾部及び修築費は県税の補助を仰ぎ以て善後復旧の事を計画施行せり而して一町村の資力到底小学校維持に堪え難きものは引続き三十年度に於ても県税の補助を仰ぎ又三十一年度に於ても継続補助を請えり
左に縮少学級の概計及小学生徒被害明細表を示す
縮少学級の梗概
一縮少したる学級数 十六学級
一廃止したる分教場 六ケ所
一校舎再築補助費 六百十六円
一同修繕補助費 百 円
一教員俸給補助費 二千九百四十八円二十銭
又た被害生徒中書籍石盤等授業具を流亡せるもの甚だ多く其数書籍に於ては五百餘点石盤等に於ては四百餘点に及べり是等授業上一日も欠くべからざるものなるも幸に当時本県教育会中央部に於て被害生徒救護義金募集の挙あり本吉郡気仙沼小学校外九校職員は之が募集に応じ義金を投ずるもの八十九円九十五銭八厘に達せり依て該金を以て生徒授業具即ち書籍石盤筆墨紙等を購入供給し授業上差支なからしめたり
稲苗寄贈の事
海嘯の襲来するや沿岸一帯の田地は大抵砂入又は潮入の害を被らざるなく其甚しきは稲苗全く埋没又は流亡して其形を存ぜざるものあり然らざるも枯凋して赤色を呈し其生力を挽回し得べからざるもの比々皆是なり仍て無害各町村より稲苗の寄贈を促したりと雖も当時は概ね挿秧の終りたる場合なりしのみならず元来田地の少なき地方なるを以て剰餘の稲苗は如何に之を蒐集するも到底被害者の供給を充たす能わず仍て本県に請願し近郡登米桃生両郡より其寄贈を得以て挿秧せしめたるもの頗る多く其秋穫に至りても敢て平年と異ならざる結果を
見たり
蚕周寄贈の事
海嘯被害者中には養蚕家も亦数多あるを以て家屋の建築を督励すると同時に養蚕の飼育を促がし災後生計の一助たらしめんと欲し蚕種の寄贈募集方を宮城蚕糸業組合取締所へ依頼せしに四方の慈恵家は奮て之を恵贈し来り資て以て蚕児を飼育することを得たり其恵贈枚数を挙ぐること左の如し
春蚕種框製 四十 枚
春蚕種普通製 百十六枚
秋蚕種普通製 三 枚
計百五十九枚
備考寄贈者は登米栗原桃生刈田牡鹿伊具亘理等の各郡及び山形県なりとす

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第四章 雑篇
(第一) 行賞の事
一明治三十年三月二十六日内務大臣より左の如き訓令ありたり
客年三陸地方海嘯の節罹災者救恤の目的を以て特に被害地域を指定せずして金穀財産等を義損したるものには宮城岩手青森三県知事連署を以て賞与取計うべし右に要する賞与費の請求支出等は之を取扱いたる県に於て處辨すべきものとす
右訓令す
明治三十年三月二十六日 内務大臣伯爵 樺山資紀
右と同時に内務書記官より左の如き通牒ありたり
本日訓第二八九号を以て客年三陸地方海嘯の節罹災者救恤の為め金穀財産等を義損したる者賞与方の義に付訓令相成候処右は新聞社又は会社協会団体等に托し一般人民より金穀財産等を義損したるものの行賞方にして各県各別に行賞ず各其出金出品価格に対し宮城岩手青森三県知事連署を以て賞与施行相成可然将又之に要する行賞費の請求支出等は協議の上之を取扱いたる県に於て處辨可相成儀に之れ有り候命に依り此段及通牒候也
大臣官房文書課長
明治三十年三月二十六日 内務書記官 千頭清臣
是に於てか三県知事は交渉協議の上二十七ケ條の行賞規約を議決せり其大要を抜録すれば左の如し
一、三陸海嘯の際被害者救助の為め三県に対し金員物品を義損したる者に賞与をなすには左の通り区分担当するものとす
○宮城県
受賞者総人員十分の三
石川県 岡山県 広島県 山口県
徳島県 香川県 熊本県 高知県
福岡県 在外内国人 宮崎県 鹿児島県
神奈川県 外国人 大阪府 愛媛県
佐賀県 沖縄県 台湾
○岩手県
受賞者総人員十分の五
日報社 群馬県 千葉県 茨城県
栃木県 三重県 奈良県 愛知県
静岡県 山梨県 滋賀県 岐阜県
長野県 福島県 京都府 山形県
秋田県 福井県 富山県 鳥取県
島根県 大分県
○青森県
受賞者総人員十分の二
東京都 北海道庁 新潟県 兵庫県
長崎県 埼玉県 和歌山県
前項の如く定むと三県各其管内に於て二県若くは三県連帯にて義損したる者又は既に二県に於て各単独行賞済に係る者の如きは各其県に於て行賞することに為せり
本県担当に係る内外人の褒賞予定総取は左の如し
右に対する褒賞費の予算は明治三十一年度に於て交付すられ其一部は之を三十二年度に繰越し支出を完了せり其額左の如し
而して其海嘯災害救恤者に対し明治三十一年以降同三十四年四月迄に賞与を執行し及其筋に稟申したる人員の地方別賞与種別は左の如し但褒賞予定数に比し著く減少せしは学校生徒又は救護団体の如き数百人の出金者にして其人別金額を調査し難き分は其団体又は共同者を合して行賞したるに由る
備考
本表に賞状とあるは総て木杯を賜りたるものなり
本表は宮城県の取扱に係るもの而己にして岩手青森両県に於て取扱いたるものは此外なり
備考 本表に掲ぐる人員は勅奏任官奏任官以上の待遇を受くる者並に従六位以上勲六等以上の者及華族又は銀杯を賜うべき者のみなり

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(第二) 被害総額
明治二十九年三陸海嘯の惨状は既に叙述したりと雖も尚一瞬刹那の間に於て本県下三郡の蒙るたる被害の総額如何を顧みれば貴重なる人名は勿論動産不動産の蕩尽鳥有に帰したる実に驚くべき巨額に上れり今其細密なるものは之を調査するに山なしと雖も当時救急及善後事務處辨の傍ら調査作製せしめたる被害総額を掲ぐれは実に左の如し

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附録
(第一)被害地の実況
一、本吉郡
本県海嘯の災害を被りたるは本吉桃生牡鹿の三郡にして就中本郡は最も其惨状を極て殊に同郡唐桑歌津階上の三村は最も激甚なりしものにして郡内被害の町村は総て十二、家屋の流失九百四十八、全潰八十四(被害前戸数三千二百四十)死亡せしもの三千二百六十五人(被害前人口二萬二千四三)負傷者亦甚だ多く重軽傷を各せ千名に上れり今左に順次被害地の実況を叙せんとす
唐桑村
唐桑村は本県の東北端にあり北は広田湾を隔てて岩手県に対し南は気仙沼湾に臨み沿岸凡そ五里許にして其の間大沢、岩井沢、只越、笹浜、崎浜、小鯖、鮪立、石浜、馬場、宿浦、舞根の諸部落皆其の害を被らざるなし最も被害の甚だしきものを只越、大沢、小鯖の三部落とす就中只越の如きは戸数五十四、人口四百余に過ぎざる小部落なりしが激浪一襲忽ち海岸の堤防を決潰し民家悉く破壊捲奪せられて更に隻影を止めず死する者亦た其半数に過ぐ大沢は村内極北の一部落にして地勢南東及び北東に広田湾を扣え出山其中央に突出す潮流其の二面より激進して相衝突し瞬間に惨害を逞うせり然れども之を只越に比すれに地域稍々広濶なるを以て西部山沿の家屋は幸に危難を免がれたり今左に被害各部落の概況を示さん
鹿折村
鹿折村は唐桑村の西に連り其の一部は気仙沼湾に接すと雖も前面に大島を控え為めに激浪を遮蔽せしを以て幸に被害少なく字鶴ケ浦と称する所に於て総戸数十六戸の内流潰十戸溺死者八名ありしのみ其の他は僅に浸水に止まれり
大島村
大島は気仙沼湾の中央に横わり周回五里あり村内の被害は比較的に少なく家屋の流潰総て二十二戸死亡六十一人にして崎浜に於て稍惨害の甚しきを見る而して気仙沼町の事なきを得たるは全く本当の前面に横われるが為なり
松岩村
松岩村は気仙沼湾に臨めり然れとも大島及び岩井崎の湾口を扼するを以て激浪其勢を逞ふする能はす前浜及片浜等平均高さ八九尺の浪を受けたるのみ従て被害甚だ少なく僅に片浜に於て全潰家屋一戸死亡(二人未定)人ありしに過ぎす
階上村
階上村は亦た気仙沼湾口に在り岩井最知長磯等湾口に面するの地方は松岩村と同じく大島を前に控え且つ岩井崎の突出によりて激浪を遮り従て被害も亦た少かりしも字明戸と称する部落は岩井崎と明神崎との間に介在して南は大洋に面し北は気仙沼湾を控え其間相距ること僅に四五町地勢は南方より漸次北方に低く海岸に接して人家列なく北方の低地に沿って防波堤を築き一面の□田あり故に北東より来れる高浪は明神崎に触れて益々激突し直に其方面を転じて北走し八十七戸の民家と四百有余の生霊を一掃して之を□田の中に投し殆ど其隻影を留めず悲惨悽絶の状今にして之を懐ふも尚ほ悚然たり蓋し是れ本郡被害の最も猛烈悲惨なりしものなり
大谷村
大谷村の内最も惨害を被りしものを字大谷とす大谷の地勢は東西に海湾を擁し其間岬角突出する處民家相連接して一部落をなせり故に激浪三面より襲来して西北部高地を除くの外悉く民家を流亡し死するもの二百五十人の多きに及へり蓋し其の惨状只越に過ぎ明戸に次ぐものなり大谷の西に不動川と称する一條の河流あり
伝え言う此の川は原と南角沼尻と称する處に注きしを慶長十六年津浪の時潮流漲り来りて河水氾濫し為めに民家田園を害せしこと多かりしか当時流域を変して今の河窪の地に移せるなりと
御嶽村
御嶽村は沿海の箇所少なく且つ地勢一帯に高きか故に従て被害も亦多からず只字大澤にて戸数五十八戸の中家屋の流潰二戸死亡三人負傷二人ありしのみ
小泉村
小泉村は本郡の中央にあり志津川町を北に距る四里半気仙沼町を南に距る六里にして地勢東小泉湾に臨み沿海の小泉廿一浜今朝磯浜歌生浜蔵内浜は皆其の害を被れり就中廿一浜最も惨状を極め殆んど家屋人畜を一掃せられき此の地元郡内屈指の富豪多く従て家屋の結構頗る宏荘なりしか瞬間に粉砕せられ幸に難を免かれしものは三十七戸の内僅に四戸あるのみ其の餘半潰二戸死亡凡そ百五十人に及へり
蔵内浜歌生浜之に次ぎ小泉今朝磯は被害最も少なし次に小泉駅は北東海岸に一帯の松林を扣へ田園其間に連なるを以て潮勢大に減殺せられ僅に駅頭の浸水のみに止まりしは僥倖と謂つへし
歌津村
歌津村は小泉湾と志津川との間に突出し不規則なる靴状の半島を為し地勢最も激浪の襲来に便なり被害の部落総て十三家屋の流潰二百五十餘戸死亡凡そ八百人の多きに及へり其惨状蓋し唐桑村と伯仲の間に在り就中北岸なる田ノ浦浜の如きは全部落五十五戸を挙て悉く之を粉砕し二百餘の生霊を溺死せしめたり其他中山湊名取の諸浜亦被害甚しく各百餘の死亡者を出せり南湾の伊理前亦之に次けり
志津川町
志津川町は志津川荒戸袖浜平磯清水浜細浦の総称にして志津川湾の北岸に臨めり
志津川は一小市街をなし戸数亦尠なからす同海岸の沖須賀埋地と称する所被害最も甚しく流潰四十餘戸に及へり然れとも郡衙警察署町村役場病院等の所在地たる部分は幸に流潰の害を被らさりしを以て本郡被害地の救護上には頗る好便宜を得たり最初被害電報の県庁に達せしは実に此の地を以て第一着とす清水浜細浦は共に山間の小部落にして東湾に臨み海岸低平なるか故に其の害を受けること最も多く家屋殆ど全滅し存在するもの僅に数戸に過ぎず死者亦各百数十人に及へり其他荒戸袖浜平磯等は比較的被害少なかりし
戸倉村
戸倉村は志津川湾の南岸に沿いて折立、水戸辺、波伝谷、津ノ宮、瀧浜、長清水等の総称なり被害割合に少なく家屋の流潰総て四十二戸死亡者総て七十三人長清水を以て最も多しとす
十三浜村
十三浜村は追波湾の北岸にありて小瀧、大指、小指、相川、小泊、大室、白浜、長塩、立神、月浜、吉浜、追波の十三浜を総括して外洋に面する部落は被害最も甚しく相川、大指、小指の如き殊に然りとなす就中相川の如きは海岸に近く民家相接せしを以て全部殆ど流亡の災に遇い死亡者亦百五十餘人に及び村内被害の第一に位せり唯だ小瀧浜は激浪最も高かりしも海辺に家屋なかりしが為め其の害を被らず其他小室以南の地は僅に浸水に止まり家屋を流失するには至らざりき

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二、桃生郡
本郡沿海の地は大川、十五浜の二村にして十五浜村は被害最も多し全部家屋の流失三十七戸全潰四十三戸にして(被害前戸数四百八十一戸)死亡五十人負傷者二百三十人あり(被害前人口二千八百七十六人)蓋し其の区域の狭きが故に被害亦多からず
大川村
大川村は追波の河口に臨み又其湾に面し居るも沿海民家少なかりしを以て流失家屋僅かに一戸死亡亦一人に止まれり
十五浜村
本村の被害地は雄勝、船越、名振の三部落にして就中雄勝湾は恰も袋状をなし本村は即ち袋底の位置にあり百八十余戸の人家は両岸の山麓に沿って連り直ちに海に臨めるを以て湾内に漲り来れる激浪は一時に之を襲い家屋数百戸を流潰し死亡者殆ど三十人を出せり宮城集治監の出役所亦此処にあり看守三十四人囚徒百九十五人を出役せしめ居りしが其位置恰も海嘯の衝点に当れるを以て頗る惨害を被れり然れども幸に救急の法其の宜しきを得たるを以て看守八人囚徒五人を失いたるのみにて其餘は悉く難を避くることを得たり(■膓惨話出役所の條酸看)字船越の内荒屋敷と称する所は僅かに十六戸許小部落なれども直ちに外洋に面するが故に怒涛山の如く襲来し一潟の下に十五戸を流潰し全きもの僅に一戸を餘せるのみ死亡者亦尠なからず名振浜は前面に八景島ありて潮浪を遮蔽せし為め幸に被害甚だ少なかりき
三、牡鹿郡
本郡は県下被害地の極南にあり激浪の中心を距ること漸く遠く潮勢亦甚だ急ならず唯だ女川、大原二村は比較的多く害を受けしも是れ亦各僅に流失四戸死亡一人ありしのみ鮎川村以南は殆んど浸水に止まり家屋を流し人畜を傷くるに至らず半島以西の地一帯の沿海岸に至ては潮水の異状を呈せしのみにて何等の災害なかりき
女川村
郡中被害区域最も広きものを女川村とす即ち女川湾沿岸一帯の諸部落北は御前浜より南は飯子野々浜に至るまで皆多少の損害を被らざるはなし就中御前浜は湾の正面に当れるを以て潮勢直進し来り家屋二戸を流失せり其他鷲の神に於て一戸を流失せし外概ね半潰浸水に止まれり但女川に於て浸水六七尺に達せしは蓋し此辺の土地極めて低く僅に三四尺に過ぎざるが故なり
大原村
本村字谷川は鮫浦湾内にあり被害多からずと雖も尚お家屋流失四戸全潰二戸死亡一人を出せり江ノ島は陸地を距ること東二里周回三里の一孤島にして戸数七十八人口六百餘あり此の地海嘯の衡に当るを以て激浪三四丈の高さにて打寄せしも人家は海面上八九丈の高地にあるが故に毫も其の害を被らず唯だ船舶の破壊せしもの一隻ありしのみ

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三郡以外の海上景況
以上述ぶるが如く本吉桃生牡鹿の三郡最も海嘯の惨害を被り其余波延て南部一帯の沿海岸をも掠め至る所異常の潮候を呈せり
一、宮城郡
本郡七ヶ浜村は六月十五日午後九時頃海上寅卯の方面にて雷鳴の如き音響あり居民何れも何事ならんと怪み居る内高浪俄に襲来し海岸に繋ぎある漁船の陸上に打揚げられたるものありしも堤防及び海岸の破壊は勿論人馬等にも怪我なかりし而して襲来は僅に一回なりき
浦戸、松島、塩釜三町村の海岸は同日午後八時頃強震あり又東方に当りて大砲の如き音響を聞けり就中松島村に於ては潮流急激にして海上異状あるを認む然れども三村とも平穏にして其の余波を被らざりしは群島の間に点在せるを以てならん
二、名取郡
本郡の沿海六郷、東多賀両村に於ては六月十五日午後八三十分頃俄然波濤を起し襲来の響恰も遠雷の如くなりし而て海嘯の侵入すること三回なりし
三、亘理郡
六月十五日午後九時十五分頃本郡東北即ち太平洋沖合にて数回遠雷の如き鳴響あり最後に轟然一大鳴動を発すると同時に海嘯の襲来あり其の際山下村に於て十数戸の家屋を浸し荒浜村に於ては家屋を浸さざりしも海嘯の高さ四尺以上のもの一回一尺以上二尺以下のもの二回襲来せり
坂元村沿海にも海嘯あり当初数十回の地震あり次で海中に百雷の一時に落ちたるが如き激響ありたれば居民驚愕して地震の前兆ならん抔噂し居る間も無く海水急に押寄せ来り同村字須賀一面に漲溢し床上を浸されたる家屋六七戸破損せられたる漁舟十四艘あり磯浜にも亦多少の被害ありき大波の襲来は都合四回なりしも十六日の朝に至り平穏に帰したれば格別の被害なかりし
附岩手県青森二県の被害
岩手県
一、 気仙郡
本郡被害の面積は各郡中最も大にして其被害も亦少なからず広田村六ケ浦と称する所の如きは水面より五丈餘の高所に在る民家を襲い又は激浪の為め船を数丈の高き山頂に打揚げたり郡内第一の被害唐丹村と云い其人口二千八百餘の中死亡者実に二千五百人に及べり綾里村之に亜き死亡者凡そ一千五百人なり
二、南閉伊郡
本郡は被害地面積気仙郡に及ばずと雖も其被害は却て甚し即ち気仙郡は一町十一ケ村にして六千八百余の死亡者あり本郡は僅に二町一ケ村にして無慮六千六百餘人の死亡者あり以て其惨状を推知すべし釜石町は千二百餘の市街にして人口六千餘あり然るに海嘯の為め殆ど全部を流失し存するもの僅に百餘戸に過ぎずして市街は全く頽潰せり大槌町鵜住居村の如きも惨状亦甚だしかりし
三、東閉伊郡
本郡中被害の最も多き所は田老村にして激浪の高きこと十餘丈に達し潮流の勢最も強大にして沿岸に在りたる二抱以上の松樹凡百餘僅に根株を存するのみ又た風帆船の海岸より二町餘の山腹に打揚げられたるものあり以て其の惨況の一斑を知るべし船越村、山田町亦各死亡者一千餘人に及べり
四、北閉伊郡
本郡の最も甚しき所は普代村にして死亡者一千餘人あり小本村は三百八十六戸の中大半流潰し僅に八十餘戸を存せり
五、南九戸郡
久慈町被害最も多く家屋の流失百戸死亡者四百人あり
六、北九戸郡
種市村中野村の如きも亦被害少なからず然れども気仙郡等に比して被害の少なきは地勢の然らしむる所なるべしと雖も亦潮勢の激甚ならざるに因るべし(岩手県調査)
青森県
六月十五日午後八時海嘯の為め三戸郡湊村大字湊白銀民家流失四戸、破壊八戸、学校一、死亡三人、生死不明の者二人あり船舶漁具流失破壊数多あり又同日午後十時上北郡三沢村沿海海嘯の為め家屋破壊人畜死傷あり(六月十六日青森県報告)
六月十五日の夜の海嘯にて三戸郡市川階上、上北郡百石三澤の四村も害を受け家屋船舶数多流失し死亡者亦数十人あり(六月十七日同県報告)
小官(知事)管内海嘯の被害地を巡視し昨夜帰庁せり被害の区域は上北郡三澤村字天ケ森以南岩手県界に至る沿岸一帯にして多少軽重あるも概して惨状を極めたり昨日までの調査に拠れば死亡三百六十六人負傷者二百十三人家屋流失及破壊四百六十五戸比々死体の漂着するもの尠なからず青森衛戌病院より軍医二名、赤十字社並に同社青森支部より医員二名宛各数人の看護人を率て出張救護に従事す重傷は割合に少なく手当は行届けり(六月二十二日同県電報)
(第二) 生存者の逸話
□
本吉郡唐桑村字松畑漁業万右衛門
養子 千葉徳次郎(十九年)
本人は六月十五日午後八時頃鈴木禎治が所有に係る同村字崎浜にある大網の点屋と称する建物内にて漁夫五人と共に雑話を為し居りしに突然南方より第一回の激浪侵入し来り忽ち五人は点屋の北隅に押寄せられ互に梁に縋り付きたるも退潮の為め海中へ押し流され常に平水より高きこと八尺長さ二間半程なる黒子島と称する処に至るや点屋は其嶋に打当り微塵に砕けたり依て直ちに材木に取り付き五分間許沖へ流されし時第二回の激浪来て先の黒子嶋に打揚げられしに復た退潮の為め沖へ流さるること五分間許り其間浮沈すること数回にして尚復た第三回の激浪にて最初の島へ打揚げられ辛うして岩に縋り付き居りしに追々波は静穏に帰したるを以て其島より三間許を去る「コプイット」と称する海岸に泳ぎ付き帰宅したるは午後十一時頃なり扨て波の初めて来りしより三回目までは凡そ十分間餘と思われたり他の四人は家の北隅に押寄せられしまでは一所なりしも其後何れの場合に於てか溺死せり
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本吉郡唐桑村字小鯖大工職長助
長男 小松松助(廿五年五月)
本人は六月十五日午後八時頃激浪襲来するに及て背後の山に攀じ登らんとせしも左右より波に挟まれ登ること能わず漸く裏側の柱に縋りて屋内に入りしが遂に次回の波にて湾内に押し流され湾の中央に於て溜桶に乗り湾口にて折しも流れ来れる厩の屋根に乗り移れい此時小舟に乗り来る人あるを以て助を乞いたるに声に応じて船を漕ぎ寄せ来りしも其際復た大波の襲来に遭いて遂に其の影を失いたり此に於て独り思いらく此儘洋中へ押し流される時は到底死を免れず寧ろ死を決して泳ぎ岸に達するに如かすと奮然意を決し厩の屋根より海中に飛び入り凡そ十間許を泳ぎし時に忽ち激浪に捲込まれ漸く浮び出ずれば復た大波来りて捲込まれぬ此の時に当りては巳に手足の自由を失い深く海底に沈みしかども辛うして再び浮び出ずれば長五尺許なる五寸角柱一本流れ来りしを以て気を鼓して之に飛び乗り憩したる後更に股に挟み両手を以て水を掻きしも容易に目的の地に達することを得す凡そ拾間許にして蒲屋根(長九尺横三尺許)二個流れ来たるを見之れに乗移り其れより字角廻り「オソコトド」と称する処の嶋嶼に取付き始て蘇生の思をなせしが該所より陸地へは尚お幅五尺許りの潮流あり之を渡らざれば全生を期すべからず且つ闇夜前岸の何たるを見定むること能ざれども倉皇の際前後の差別なく無暗に飛越えたるに不幸にして辷り落ちたり然るに此時幸い潮水の退きたる場合なれば更に岩石に手を掛け攀じ上りしに恰も屏風を立てし如き断崖にして遂に復た辷り落ち膝部と足部に各長五寸横七分許り負傷し且つ右足拇指の爪を破りしかとも勇を鼓して再び攀じ登り漸くにして陸地に上ることを得たり時に足部の傷口木石に触れ苦痛耐え難く三度程倒れしかど此儘に止まるべきにあらねば道なき山間一二三丁許りを裸体洗足の儘歩行し字嶋木千葉三蔵宅に辿り付きし時は己に夜の十二時過ぎなりし同家に於ては衣類を着せ呉れ手拭を以て傷を包帯し且つ味噌粥を与えらるる等手厚き救護を受け翌十六日午前八時頃杖に助けられて帰り来たれり
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本吉郡唐桑村小鯖商業
小山鶴治(三十年十月)
本人は当夜感冒に罹りて宅にありしが汽船の疾走するが如き音響を聞くや早己に床上三尺餘潮水侵入し来たり忽ち谷奥に向て凡そ二百間許押寄せられ我知らず材木に乗りし時四五間脇に妹せきも亦材木に縋り居たるを見て幾多の材木を渡り妹が居りし処に行き互に手を携え水の減ずるを待ち居りしに第二回の浪にて又十間許り奥へ押寄せらるる途端妹を見失い殆んど精神を失いたるが浮み且つ沈みながら湾内凡そ三百間許の処へ流し出されぬ此時幸いに鰹船の漂流しあるを認め之れに乗りしに六七間離れし処に赤魚船に縋り救を呼ぶものあり近づき見れば袋に見失いたる妹せきなりしかば其の船より網を投げさせ之を引けども両船容易に近寄らざるを以て其網を便りに海中に入りて妹の船に至り暫くする中同村字中鈴木貞三郎吉田善蔵鈴木善之助千葉寅之助鈴木伊三郎畠山源六の六名船を漕ぎて救助に来りしかば右救助船の引船となり僅かに陸に上ることを得たり其如何なる場合なりしかば気付かざれとも足部に長四寸許り負傷したり而して右救助船を出したるは吉田源蔵なるものなるが同夜不意に異常の音響を聞き海嘯ならんと思惟し小鯖湾に繋宿しある鰹船の安否を心配の余り雨を冒して小鯖に至るや偶々海岸塵芥の裡より小児の助を呼ぶものあり声を便りに近づき見れば八九歳の男児なれば之を介抱すると同時に始て大災ありしことを知りたり依て六名が船を出して救援せしとするに若し再び激浪の来るあらば船は忽ち破壊すべきも同胞を見殺しにするに忍びぬ万一のときは共に魚腹に葬らるべしとの決心を以て直に船を漕ぎ出し二張の提灯に蝋燭九挺を消するの間小山鶴治外七名を助け流失せんとする鰹船三艘を繋ぎ留めたるものなり
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本吉郡唐桑村字小鯖商業松之助
孫 亀谷秋蔵(十八年九ケ月)
本人は六月十五日同字商業鈴木利三郎宅に至り利三郎の長男鈴木純七(二十年)と雑話中午後八時頃大砲の如き音響を聞くと同時に続きて二回許り地震ありし後雷霆の如き激響ありしを以て何事ならんと中仕切の戸を開くや台所の土台際より潮水噴き出るを見て此は海嘯ならんと直に座敷に帰る間もなく潮水充満して床板浮び両名とも畳と天井の間に挟まれ苦悶に堪えざる故手を以て天井を突き上げて這い上り其れより鈴木利三郎雇女なるみ(十六年)同人二女たまじ(八年)同人長男純七を順次に引揚げ居りしに何処よりか同人次男好雄(十三年)来り都合五人にて一憩したる後屋根を貫き僅に頭を出して四方を見るに闇夜にして咫尺を辨ぜず随て何れの海面に漂流せしが不明なれども浪の流動によりて家の転回する内東南の方位に当り山影を認めたり仍て屋根の頂上に登りしに百間餘北方の海岸に提灯の光を見始て同村字角廻りなるを覚り救助を呼ぶも更に応答なし其中自然に同所(オメコイド)と称する海岸十間餘の所に近づきたるを以て直ちに海水を泳ぎ上陸したるは既に夜十二時頃なりき暫くする中屋根は海岸浅州に近寄りし故に他の四人も続て上陸せり
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本吉郡唐桑村字鮪立漁業
鈴木 仁吉(四十二年)
本人は当日午後七時頃夜食を了り妻たま孫喜太郎の三人と座敷に仮寝をなし弟捨太郎同人妻きち長男仁三郎同人妻みつ孫金太郎雇人さとの六人及同村字日向畠山徳之助に嫁したるきよと共に台所に於て雑話をなし居りしに同七時五十分頃大砲の如き音響ありし故不審に思い長男仁三郎が台所の戸を開きて始めて異変あるを知り海嘯来れりと呼ぶに何れも大に驚き直に座敷の障子を一尺許り開き見るに三間許り先きに五尺餘高き白波来ると思う間もなく家に打当りきよと共に北隅なる壁に突き付けらるるや壁貫け二人共背後の山に打揚げられしに幸に六寸回り程の桜樹ありしを以て之に縋りしが其際家は忽ち湾内に流出されたり此時不幸にして縋り居りし桜樹の抜けしかば両人とも直ちに海中に押し流されしに偶長二間半幅五寸角位なる材木の流れ来りし故之れに取付海岸より四百間許沖なる字{かきいそ}と称する所まで漂流せり此に於て仁吉は同字内なる天神崎を目当に凡そ四十間餘泳ぎしとき黒き麦稈の如きもの流れ来りしを以て之れに縋りしに又其跡より転覆したる{ささば}船流れ来りしかば此れ幸いと其船に乗り移り妹きよを呼びたるにきよは袋の材木に乗りたる儘手にて水を掻き十間餘近寄り来りしより之を船に移らしめ此処にて暫く助を呼び居りしが沖の方より高浪復た襲来し乗たる船は自然十間許り西なる字{たる干し場}と称する岸に近寄りしを以て妹と共に四間餘泳ぎ始て上陸したるは翌十六日午前一時頃なりし其れより両人共同鈴木禎治の宅に至り衣類を借り薬品を貰い服用し居りしに一時間を経て長男仁三郎同人妻しづ雇人さとの三人もまた来れり其後一時間餘を過ぎ弟捨太郎同人妻きちの両人も来り何れも同様の手当を受けたり而して仁三郎及同人妻みつと雇人さとの三人は袋に家屋の押し流されし際早くささば船に乗りし為め湾内五六間の所を数回漂流せし後自家の海岸へ上り弟捨太郎同人妻きちは家の天井にて水中に居りし儘押し流され凡そ百五十間餘を距る蛭子棚と称する所へ打当り此に於て屋根の萱を毀りて其上へ這い上り其れより蛭子棚へ上陸したり然るに妹きよは翌日夫家へ戻しやりたるに其後十日許り腹痛せしも全快し仁吉は腹部及腕に微傷を受けたるも自療を以て全治し弟捨太郎は肩を五六分負傷し四日許り赤十字社救護病院の治療を受け是れ亦た全療し仁吉妻たま長男喜太郎孫金太郎は何れの場合に於てか溺死し死体は翌日発見したり
□
本吉郡唐桑村字鮪立寄留商業
丹野賛之助(三十九年四月)
本人は六月十五日午後六時頃同字商業村上定吉来り対酌中午後七時四十分大砲の如き音響ありしを以て不審に思い如何なる変事や起るやらんと二回の音響毎に時計を見居りしに須臾にして村上の暇を告げ戸口に出づるを以て之を見送らんとて夫妻共に戸口に至り暫し直立し居る中俄然頭上より水溢れ掛りしかば互に何事ならんと言う間もなく潮水は既に室内に充満せり是に於て妻きよし(三十九年二ケ月)と共に互に手を携え水中ながら戸口の柱に縋り付たるに直ちに初回の波にて居宅は海岸を距る三百間餘なる沖の蛭子棚と称する付近に流出されぬ此の時屋根の上と覚しき所にて{丹野死すな}と呼ぶものあり其時きよしは柱に縋り賛之助はきよしの身体に縋り居りしが其の手を放し右の手にて屋根を突上しに幸にも突き貫けしかば其の穴より上に手を出し袋に{死すな}と呼びたるは村上の声ならんと思いし故{村上此処だ}と答えしに暫くして村上は屋根を剥ぎ夫妻の手を取て引上げ呉れたり依て辛うじて屋根に上りしも到底生存の見込なきを以て互いに後事を語り死を決して心細くも四方を眺め居る中村上は早く何れへか其影を隠せり夫妻は心の中に流し船にても来れかしと念じつつ其屋上に佇立せしも元来杉皮葺の軟弱なるものなれば危険に思い其の場に流れ来りし他の屋根に乗り移りしに同字菅野作治の妻とくが裸体の儘乗り居りたるを見きよしの衣類を貸し与え尚波浪に任せて漂流中幸にして赤魚船の流れ来るある依て直ちに之に乗移り始めて蘇生の思をなせり此時凡そ三十間餘距りたる所に於て助を求むる者ありしかば自分は素と遊泳を能くせざるのみならず精神疲労し且つ潮水飲下の為め腹部膨張して苦痛に堪えざるも助命を乞う者は之を助けざるべからずと思惟し其声を便りに海中に累々として漂流しある材木を渡り行きしに同字村上忠吉次男米吉にして転覆せる小船の艫梁に合掌しながら佇み居りたる故之を背負い自分の船に連れ来りしが米吉も亦裸体なれば菰を与えて暖を取らしめたり続て又た凡そ十間餘の処に於て助命を乞う者あり依て船に積みある檣を推しやりしも長さ短くして達せざれば漂流せる木材に乗り檣を推しながら其場に至り見るに同字鈴木豊三郎の妻たまと同人の妹はるい同人の長女つねよとの三人にして漂流家屋の軒際に佇み居たり因て先ずたまの手を引き檣を渡らせて我船に連れ来り再び其場に引返しつねよはるいの二人をも連れ来りしに又々六七間を距る所に於て助を求むる者あるを以て船に積みある鉤付の竹棹を投ぜしも長さ短くして達せざれば材木に鉤を掛けて船を近づけしに同字村上多八の妻もとめ嫁きね長男藤蔵三男藤作の五人裸体の儘漂流し居るに付き皆船に乗り移らせ自分の着し居りたる襦袢と腰巻をきねに褌を多八に前垂を藤作に貸与し其れより多八藤蔵を相手とし漂流の家屋材木等を押し分け其場より少しく沖合に漕ぎ出てしに当時岩手県気仙郡より廻り居たる鰹船の繋留しあるにより一同と共に之れに乗り移り同字鈴木周吉の宅前に上陸したるは午後十一時頃と覚えり
而して船は多八に任せきよしを引き連れ鈴木禎治方へ便り就き妻は鈴木禎治の手当を受け自分は飲下したる水を吐んが為め薬品を乞うも既に数十の被害者に与えたる末なれば残余なしとの事により更に酒を求め凡そ七合五勺程を飲み再び遭難者を救護せんと欲し村上定吉と共に海岸に馳せ至りし際飲みたる水を皆吐き出しければ精神稍舊に復せしも何れの場合にてか掌中に釘を刺し貫き三週間餘赤十字社の治療を受け全快したりききよしも亦総身を打撲し開業医師虎岩玄庸の治療を受けたり是れより先き海中に於て其の影を失いたる村上定吉は初め丹野の宅を辞し戸口を出んとするや屋根よりも尚お高き激浪押し来たりしかば周章狼狽逃るるに途なく北側なる窓を破り自家を目指して凡そ三間許りを泳ぎ出てしも山崎健蔵の納屋と丹野の居宅と衝突したる途端丹野が家の屋根に打ち上げられ其儘海中に押し流されしが沖合字蛭子棚と称する付近に至りし際家根の上にて〔丹野死ぬな〕と数回叫びしに四分許を経〔村上此処だ〕と答え助けを乞うも固より暗夜にて咫尺を辨ぜざれば如何ともする術なく唯其の声を便りに死を決して這い行きしに屋根より手を出しあるを認め直ちに屋根を剥ぎ力に任せて丹野の手を取り引き上げたればきよしも亦夫の腰に縋り付き共に屋上に出ることを得たり是より漂流すること二十分程なりしが此儘にては到底死を免れ難しと思料し幸に生存したるものは互に遺族の為めに尽すべきことを約し死を決して凡そ二百間餘と覚しき所にある同字小松健次郎の鰹船を見当に泳ぎ行きしに漂流物の為め進行を妨られ浮沈すること数回にして漸く其船に泳ぎ付臚梁に綱の垂れあるを力に之れに乗り始めて蘇生の思をなし一憩し居りしに五許を分間経四五間先きに同字鈴木鉄蔵及び同人妻もよの両人助を求めながら泳ぎ来れるを認め船に積みある綱を三回投げ与うるも長け短くして達せず更に鰹釣棹を投げ与えたれば漸く孫昌平を背負い三女きの孫としょついの五人屋根に乗り泣き叫びながら自分の船に寄り来るを見船より屋根に飛び越え先ずこさを肩に掛け乗り移らしめ再びきの外二名を抱き上げ同じく乗り移らしめたり後殆ど十分餘を経たる頃水も稍々平穏に帰したれ場船を送れと陸上に声を掛けたるに幸にして同字小松源次郎が小船を漕ぎ来りしを以て此れに乗移り始て皆上陸することを得たり時に午後十一時頃にして其後も丹野と共に被害地を奔走して救護に尽力せり
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本吉郡唐桑村字石浜漁業とめ
叔父 畠山利蔵(三十一年十ケ月)
本人は当夜家に在て読書をなし其儘居眠り居りしに〔バリバリ〕と云う音響に驚き覚る間もなく居宅の倒るると同時に床下より噴出する潮水の為め天井に打ち揚げられしかば畢生の力を出して天上を破り又た更らに屋根を破りて其上に登り一と安心と思う間もなく再度の波にて屋根は微塵に破壊せられ其の破材と共に沖へ凡そ千間許りと思う程流出されたる後始めて浮び出れば微かに陸上に人声を聞けり之を望見するに南隣字馬場と称する所なれば遠く洋中に漂流したるにあらざるを知り一人心を強め居りし際退潮に押し流されし材木は背部に当り続て右脚部に負傷したり然れども尚お流れ来る材木は手を以て排除しつつ辛うじて木材に取り付き居りしに更に又た沖へ五百間許り流出されしも幸にして又千間許り北に方字石浜の内稲村浜の海岸に打ち寄せられたるを以て凡そ十許りを泳ぎ始めて上陸し砂地に腹を押し付け飲下せし水を吐きたる時は翌十六日の曙方にして不思議に一生を得たり此夜家に在りし者都で十人なりしが何れの場合にか九名は何れも溺死せり
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本吉郡唐桑村字只越
神谷三蔵(五十八年)
本人は当夜波の襲い来るや家と共に谷奥へ凡そ百六十間許り押し流され退潮の際屋根に上りし儘沖へ三百間許り流出され終夜漂流して翌十六日の曙方上陸せり而して何れの場合にか軽傷を負えり
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本吉郡唐桑村字大沢農業
吉田忠助(五十九年)
本人は小松兼吉千葉甚作の三名と共に同字の内「シナバ」と称する所の釜煮釜屋に於て製塩に従事中六月十五日午後八時頃高山の崩るるが如き音響を聞き何事ならんと釜屋より駆け出て海面を見るに櫛形の大波奔騰して字館の内八幡岬の方面より押し寄せ来るを認め或は海嘯ならんと疑い釜屋に入り他の両名に伝うる間もなく泳ぎ来れば忠助甚作の両人は背後の山によじ登り助かりしも兼吉は溺死し釜屋は流失せり
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本吉郡唐桑村字大澤鍛冶職長太郎
弟 姓不知倉吉(十四年十一ケ月)
本人は津浪の当夜寝に就かんとせし折しも海岸に当り救助を求める声と泣き声の起るを聞き不審に思う一刹那前面より家大の高波襲来しけれは避けむとする間もなく忽ち家は潰れ屋根のみ水上に浮ひし故二重梁に縋りながら押し流されしか海岸より千五百間許り東南なる松島沖合に至りし時風変りて家根は自然と西北なる字竹の袖と称する処の竹藪の際に近付きたるに(凡五六百間)幸に流れ来りし長二壽一尺角位の材木に乗り移り両手を以て水を掻き漸やく海岸に上ることを得たり此時既に翌十六日午前三時頃なりき斯くて其の竹藪の中に於て濡れたる衣類を搾り抔して帰宅せり而して又た長太郎(五十年1ヶ月)は同じく材木に縋り松嶋近傍を漂流すること二千間余にして同字出山ノ内袖の浜に上陸したるは是れ亦翌十六日午前三時過にして非常に潮水を飲下し剰へ身体疲労して歩行困難なりしも勇を鼓し這い且つ歩み漸く同字千葉兼五郎宅に至り種々介抱を受け稍く帰宅せしか其れより病気となり赤十字社の治療を受け十五六日を経て全快せり然るに母よしの妻かのめ長女みつ孫となゑ妹ちよしの五人は何れの場合にてか何れも溺死せり
□
本吉郡鹿折村字鶴ヶ浦農業
小松つめ(四十四年)
本人は当夜雷の如き音響あり追々近づき来るを以て何事ならむと戸を開き海面を見るや此時遅く彼時速く激浪空を捲て襲い来り潮水忽ち室内に溢れ夫久作(四十五年)弟嫁しま(三十四年)の三人は共に海中に押し流され其中つめは材木に縋り更に合木船に乗り移り海岸を距る五十間許りの処に押し寄せられし時恰も退潮に際し倖僥にも宅地の前に到り同字小松萬之助に引き揚げられ久作は海岸の石垣に泳ぎ就かむとし居るを是れ亦た萬之助に引揚げられしも五日目に死亡し弟亀治及長男十左衛門長女じん次女とめ亀治の長女くら三女さつの六人は最初背後の山に打ち寄せられ母をとはは屋根に縋り居り一時死を免れたるも遂に三日目に死亡せり
□
本吉郡大島村字横沼漁業伊藤養之丞妻
まつの(三十四年)
本人は当夜長男養助(十二年)次男泰治(七年)三男由吉(五年)と共に就寝中激浪の音響を聞き最初は雷鳴ならんと思い居りたるに忽にして激浪の浸入すると同時に家屋破壊し四人共海中に押し流されしかまつのは材木又は板戸に縋り更に壁や庇に乗り移り海岸を距る百五十間許りの所を漂流中同村小野寺卯吉伊藤作五郎外七人の出したる救助船に助け揚げられ養助は破れたる家根に乗りて漂流中字古濱と称する所の出岩に押し揚げられ退潮を待て上陸したるも泰治由吉は遂に溺死せり而して養之丞は当日同郡気仙沼町に至り帰途居宅の背後まで来りし際家屋は勿論家族皆漂流されしを見ながら他の遭難者伊藤留蔵及同人姉はるい小松三之助妻さといの三名を海岸に於て助け揚げたり
□
本吉郡大谷村大字大谷二百四十二番地
平民栄蔵弟 小野寺貞七(七十七年)
六月十五日兄栄蔵は流網漁の為め出船不在なりしか午後八時頃頻りに鳴動あり最初は近所の挽臼の響ならん杯話し居りしか漸次音響強まりし故或は浪ならんと思い自分は座敷の障子を明け海上を瞻るに変状なかりしより再び炉辺に来る間もなく潮水浸入し炉中の火を消ししかは不審に思いながら座敷の間に出て見れば激浪既に厩を浸し今や居家を襲わんとする勢なれば逃るる暇もなく忽ち浪と倶に二百間以上町上の須賀と称する処まで流され瞬時にして須賀濱方面より襲来の激浪にて小島と称する辺まで逆流されしに其時は全く夢中なりき稍暫くして夢の覚めたる如く風と四方を望めば身は濱より五百間許りの海上伊勢山崎の沖合に押し出され材木の間に挟まれ居たり此に於て声を限りに救を求めたれとも更に人声たになく仍て陸地に泳ぎ着かむとするも材木其他塵芥等海面に充満し身体自由ならず折柄屋根の漂流し来るを見て漸く之に這い上り居りしか退潮にて漸々沖合に押し流され困苦の場合恰も漁より帰り来れる大谷濱の鳳京松之助に救はれたり又兄栄蔵は流漁より海岸に帰着し将に居家に入らむとする途端津浪襲来し遂に死亡せり自分は脛に釘を刺したるのみにて外に負傷なかりし
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本吉郡大谷村大字大谷百四十五番地平民
利平弟漁業者 佐藤利四郎
妻 いと(四十五年)
本人の夫利四郎は遠島の大網に出稼中にて六月十五日は自分独り在宅なりしか午後八時頃轟々響き渡る音を聞き単に雷鳴ならむと思い居たるに稍暫く経るも其音響の止まされは不審に思いつつ戸外に出てて往来を見るに海浜の方より膝丈位に水の押し流れ来るを見て不審とは思いしも其儘戸を締めて内に入り炉辺に座し居たるか「バチバチ」と云う音の聞ゆると同時に浸潮の為め座したる儘屋根際に押揚げられ且つ咽喉を締められたれば苦しさ云はん方なく独り煩悶し居る中全身己に水に浸されし故辛ふして衣服を脱し裸体となりし迄は聊か記憶し居るも其後は全く夢中となれり暫くにして夢の覚めたる如くなりしかは風と四方を瞻るに何時しか我身は海中に浮されありしを以て材木に縋り付き木材家具等の累々として漂來するを排除しつつ声を限りに救を求めたるも援助し呉るる人もなく却て其処彼処に救を乞う声あるを聞くのみ斯くて苦痛の間彼れ是れ時刻を移す中屋根の漂流し来るに合い辛ふして這い上りたるか誰かは分らさるも男一人其屋根に居たるものありし而るに間もなく高浪襲来して身は再び海中に転没し該屋根は遥か沖合に押し流されければ偶々身辺に横はれる木材に縋り付きつつ退潮に任せて次第に沖合に押し出されたるか其時亦浪に襲われ殆ど魚腹に葬られんとせし折柄幸いに漁船に救われ大谷濱に上りし時は翌暁鶏鳴の頃なりき
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本吉郡大谷村字平磯六十二番地平民漁業
三浦萬次郎(三十八年)
六月十五日の夜は家族六人共団欒し居りしか午後七時過ぎ雷鳴の如き響きありて漸次地響烈しくなりしかは唯事ならずと思い妹すゑの(十八年)を戸外に出し海上を見せしめしに[浪が来た]と云いつつ家内に入るや妹の夫半治は家より駈け出し津浪なりと呼びし儘何れかへ出て行けり母りよ妹くまの同ゑすの孫みとりと自分は家内に在て半治の津浪なりと呼しを聞くや母は孫を懐きし儘台所より中座敷に遁けしかは自分も其後より続て中座敷に片足を入れしに潮水早くも座敷に侵入したれば母を救い出さんとする間もなく再度の激浪襲い来り半ば破壊せる家屋と共に海上沖合三百間以上の処に押し流され屋根裡の竹に縋り付き居りしか退潮の為め屋根は壊れ身体は木材に挟まれ北方海岸三四間の処まで押し寄せられたれば陸地に泳ぎ着かむとしたるも潮流急激にして意の如くならず却て南方沖合に押し出さるる模様なれば力を極めて身辺にある木材萱塵芥等を排除し一本の材木に縋り付き海岸に泳ぎ着かむとする時梁を認めたれば直に之に攀ち登り漸く岸辺に早期着き幸に九死を免れたりき然るに母妹孫の四人は救出するの暇なく遂に海底の藻屑となれり而して潮浪は都て三回襲来せしか二回目は最も激烈にして最初と三回目は稍緩なりしか如く襲来より退潮までの時間は実に瞬速にして僅かに三四分間位と覚えたり
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本吉郡大谷村字平磯六十四番地平民漁業
大原東五郎(二十四年)
本人は大谷沖鮪大網櫓見張番として日々出懸け居りしか六月十三日より同十五日津浪襲来当日迄東北の方位に於て数回大砲の如き音響を聞きしか当日音響ありて凡そ三十分程経たりと思うとき津浪襲来せり同夜は家族一同就蓐せしか間もなく(午後八時過ぎ)母に沖か鳴動すれば唯事ならずと言うて起されし故戸外に出て海上を見るに明神崎(平磯浜の突出したる崎)より内濱に前後二重なる高浪(前浪は凡そ二丈余後浪は四丈余)を認めしかは大に驚愕しつつ居宅に駈け入り戸締を為し二歩許り進むや猛然たる激浪の屋内に襲来すると同時に自分は屋根の裡に押揚げられ妻は當歳の女児を抱きしまま浪にとられて絶命せり家屋は瞬時にして沖合四百間程退潮の為め押し流され自分と母と長男甚太郎(四歳)は其屋根裡に縋り付き外部に出てむとせしも身体自由ならず凡そ二時間程経過したりと思う頃母は遂に溺死し甚太郎は其死骸に縋りて叫び居しか暫時にして屋根の破壊すると同時に其下に捲き込まれ其儘溺死せり自分は幸に破壊したる箇所より這い出ることを得て身辺に横はりある木片等に縋り付き陸地に漕き寄せんとしたるも材木萱塵芥等の為め身体数箇所に傷を負い疼痛甚だしく進退自由ならざるを以て材木に縋り付きたる儘陸地の方へ凡そ百五十間程漕ぎ寄せし時萱葺屋根の漂流し来るを是れ幸いと之に登り暫く気を休め居りし時南方にて救を求むるものあり誰なるやと問うに同濱の佐藤長蔵(十七年)なれば此処まで泳ぎ来れと声を懸け長蔵は漸く泳ぎ来りしも神気哀へ屋根に登るの元気あらされば褌を下して屋根に引き揚げ互いに屋根の上にて休息し居りしも漸々沖合に流れ出つるを以て長蔵と共に材木に縋り自分は長蔵より十間許り前に進みつつ長蔵に声を懸けながら岸を指して泳ぎしか長蔵は疲労の為め身体自由ならず終に途中にて溺死せり而して自分は辛うじて陸地に泳ぎ着き九死に一生を得たるも父母妻子の五人は非業の死を遂げ僅に自分と弟の二人のみ死を免かれたり
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本吉郡大谷村字平磯七十一番地平民
多吉弟漁業 大塚芳蔵(十六年)
本人は六月十五日津浪襲来の時は居宅の前に佇立し海上を眺め居たるに海潮は岸を距ること三四百間許退き汀辺に繋留しある船底は全く陸となるしかは不思議のことよと思い居る中即ち沖合より白波山の如く押し寄せ来るを認め大に驚きつつ逃れんとする間もなく居家諸共激浪に捲き込まれたる後は全く人事を□せす暫くにして風と眼を開き見れば身体は居家より五十間程山手の方なる菊地勇吉の破壊せる家屋の材木家什塵芥の中に押し込まれ居りしかは頻に救いを乞うも更に救援するものなく稍暫くにして自ら這い出て九死に一生を得たり而して家族は父母祖父母妹の六人死亡し伯父並に兄夫婦妹の五人は或は家内に埋り或は海上に押し流されしも辛うじて溺死を免れたり
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本吉郡大谷村平磯字赤込四十二番地平民
五十集商 紺野亀蔵(三十七年)
本人は退潮後二時間程経て親戚等集合し家屋の毀れ跡諸材の散乱したる所を通行するに当り微かに人声の如き音声を聞きしを以て直に其場に至り数人にて堆積したる材木を排除し掘り出したるに三男倉蔵(五年)なりしかは種々介抱をなし僅に蘇生せしむることを得たり
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本吉郡大谷村大字平磯字赤込三十八番地
平民清左衛門長男
漁業 紺野清十郎(三十一年)
本人は気仙沼町日の出巳代治に雇われ鮪大網漁に従事する者なるか六月十四日午前八時頃岩手県気仙郡姓不詳儀平と同船にて気仙沼町を出帆し大谷沖の大網に行き翌十五日大谷濱に向け航行中日没前北方に当り雷鳴の如き音響を聞くこと数回午後六時頃大谷濱に寄港し儀平は陸に上り自分は独り船に居たるか絶えず雷鳴の如き響あり且つ天気雨模様なれば苫を覆い船中にて就蓐せり間もなく儀平も帰船したるか不思審にも船底干上りたれば船を漕ぎ出しつつ沖合を見れば三丈以上もあらんと思う程高浪襲来するを認め大変なりと叫びつつ船より陸に上らんとする一刹那船諸共二百六七〇間許陸上に押し揚げられ杉樹に打当りければ船を棄てて該樹に上りたるに暫時にして退潮し一命を全ふすることを得たり儀平も倶に陸上に押し流されしも是れ亦無事なりし
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本吉郡戸倉村波伝谷区
漁業者 佐藤庄之助(四十八年)
本人は一家十一人の家族にて津浪襲来し家屋壊乱すると同時に忽ち七人は即死し自分も亦押し来る木材に打ち敷かれ只た死を俟つのみなりしか庄蔵(九年)あきの(五年)長之進(三年)は其木材に取り付き悲鳴し居る中重子来る激浪幸にも三児を置て其木材を奪い去りしか為め九死に一生を得たり
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本吉郡戸倉村波伝谷区
漁業者 三浦長七の遺孤
本人は一家六人の家族なりしか其れ津浪なりと云う間もなく家屋忽ち微塵となり長七外2りは即死せるも長左衛門(九年)長之進(七年)なつ(一年)の三名は激浪の為め畑地に打ち揚げられ不思議に存命することを得たり
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本吉郡戸倉村津ノ宮区
鍛冶職 高橋萬吉(三十六年)
本人は海岸大樹の下にありて鍛冶職を営みありしか第一回の激浪にて家屋忽ち転倒し其家屋と共に一家七人海岸海上の別なく渦巻浪に回転せらるること凡そ十分許家内七人必死と梁木に取付き居りしに第二回の激浪山をなして来り家屋は微塵となりて行く処を知らす僅に取り付きたる梁木激浪に連れて大樹に止まり非常の苦痛を経たるも一家七人幸に存命することを得たり
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本吉郡戸倉村滝浜区
漁業者 後藤勇作(五十三年)
本人は当日の漁業を終り船を海岸に着け子弟二人を海岸に立たせ其身は未だ船中にありしか忽ち山大の高浪白光を帯びて襲い来れるより其れと云う間もなく船は忽ち微塵となり子弟二人は影たもあらす(死亡)其身は漸く破壊に船板に取り付き回転出没海中に在ること終夜其内陸には家屋潰倒し諸材相触るる音或は悲鳴の声激浪に和し実に凄ましかりしか天明に至り助け船の為め辛うじて九死に一生を得たり
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本吉郡戸倉村長清水区二百七十九番地漁業
彦右衛門長男 須藤鶴松(六年)
彦右衛門は妻けんとの間に鶴松(六年)あさの(四年)の二子を挙げ家族四人なりしか大浪の襲来すると同時に家屋微塵となりて彦右衛門けんの両人は同時に非命の死を遂げ鶴松は激浪の為め漂流せる家屋の梁を右手に握り左手にあさのの襟元を握りあさのも亦た双手を以て其の手に取り付き或は沈み或は浮み苦痛に間に呼吸すること殆ど三十分に及び幸にも激浪は両児と破壊の屋根とを遺して退却せしを以て両児は辛うじて生命を全うすることを得たり
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本吉郡十三濱村小指区
漁業者 阿部新蔵(二十五年)
本人は家族八人にて何れも全潰となりたる家屋の中に在り或は梁に敷かれ或は倒れたる柱に押され遂に四人は悲鳴して死亡せしも自分は之れを目前に聞きながら其身梁下に在るを以て如何ともする能はす死力を出して屋根を抜き辛うじて残る三人と共に生を得たり
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本吉郡十三濱村大指区漁業者
西條萬治郎娘 とめ(十五年)
本人は其家屋破壊して激浪に捲き去られ僅に畳一枚に座したる儘凡そ五十間余海上に押し流され激浪の間に声を限りに助けを求めありしに之を聞きたる漁業家遠藤累蔵は折しも漁業雇人十余人を引率し提灯を照して走せ出てたるも潮勢激しく木材散在しあるを以て一歩も進むこと能はす且つ救助の声四方に起るのみならず木材に敷かれ悲鳴するもの甚だ多きを聞き寧ろ身を捨るも救助せんとする決心を為し人夫を八方に指揮して力を尽せしか其内難を避けたるものも漸次来りて之れか手伝をなせり然るに一艘の船たになく如何せんと思う折柄幸にも一艘の船の襲い来る浪と共に海岸に漂着したれば是れ天の助けなりと人夫と共に之に飛び乗り辛うじて畳に乗りながら漂流しあるとめを救い得たり
本吉郡十三濱村大室区は戸数二十二戸の内浸水七戸流潰十四戸死亡者十三人負傷者六人ありしか何れも雷鳴に和して汽車の進行に等しき音響を聞き区々の臆説をなし居る一刹那大山の一時に崩るるか如き猛勢を以て大浪打ち上げたれば其れ津浪よと叫びつつ逃かれんとする間もなく重子来る高浪は一層の激烈を加え家屋家具を微塵に砕き人馬共に押し流され且つ押し戻され燈火は消滅して前後を弁せす潮浪の回転は竹石を飛ばし木材を漂はし其惨酷なること言はむ方なし此場合に於て生を得たる者は真に天幸と云うべし殊に漁業佐藤太治兵衛(三十年)の妻はる(二十九年)は幼児一人を傍に臥さしめ一人は身辺にありしに其れ津浪と呼ぶと同時に其家屋破壊せしかは手早く身辺にありし幼児の手を取り傍に臥したる幼児を捜る間に潰れたる家屋は水車に捲き込れたるか如く回転するを事ともせす自分は一児を頭上に捧げながら右に倒され左に転け潮水の口に入ること数回なりしか辛うじて折れ残りたる柱に取り付き退潮の後声を限りに助け求めしに夫の太治兵衛は己に家根を破りて生を得たりし故此処に来て助け出せり父権右衛門は厠に至りし儘影たも止めすして溺亡し一家十五人中幼児を合して四人の死者を出せり
(第三) 断腸惨話
一本吉郡相川尋常小学校の主席教員原律平氏は仙台の人なり平素忠愛の心深く雅に人に語て曰く〔一旦校舎に変あらば身命を捧げて御真影を護り奉り斃れて後己まんのみ〕と常に学校内に起臥せり津浪の日は買物のため外出して某家の店頭に在りしか津浪と聞くや墓地に学校に馳せ帰れり其の後は全部落津浪の為めに襲われて唯た涛声の轟々たるを聞くのみにて氏の消息を知るに由なかりしか軈て退潮の後生存せる人々打連れて学校の在りし処へ到り見るに校舎は巳に流失し氏の影たになし左れば定めて御真影と共に海底に沈みしならんと猶此処彼処を見廻る内一段小高き処に何物か据置きあるを近付きて取上くれば是ぞ御真影の箱にて外側の紙は濡れしも御真影には一点の汚れもなし人々皆奇異の思いをなし這は氏か日頃の言葉に違わず一命を擲ちて御真影をは取り出しながら遂に海潮に捲去られしならんと且つ感じ且つ悲みしと云う尚ほ教育勅語も恙なく難を免れしと聞く氏か如きは洵に身を以て其職に殉せし者と謂うべし(奥羽日日新聞)
一本吉郡十三濱村字相川にて津浪の時或家の屋根の上に小児三人這い上り泣きながら[助けてくれ助けてくれ]と叫ぶものあるも如何とも詮方なくあれよあれよという間に後方より大屋根の浮ひ来りて覆い掛るよと見れば屋根も小児も忽ち隠れたり唯其声のみは今に耳に残れりとて鼻うちかむ老人ありき(風俗画報)
一本吉郡唐桑村鮪立濱のことなりとか一婦人の年二十四五歳許なるもの片手に麻の葉形の木綿切を堅く握り詰めたる儘斃れたるものあり是れ巳か子の片袖にて斯る非常の場合にも親子の情として死する迄も吾子を放たすありしに激浪は片袖のみを残して無惨にも身体を奪い去りし者ならん之を聞くもの誰か酸鼻せさる者あらん(奥羽日日新聞)
一本吉郡役所員坂本良太郎氏は当夜所用ありて志津川町に宿泊し居たるを以て幸に無事なりしが氏と老父母と息女は当夜志津川町荒戸濱の自宅にありて炉辺に団欒し四方山の談話に余念なかりし折柄屋外にざわざわと聞慣れぬ音のすると思う間もなく濁浪混々として屋内に漲り忽ちにして五六尺に及へり息女は其時當歳の小児に乳房を啣ませ居りしに第一回の狂潮を押し寄すると同時に無惨なる哉乳呑児を懐中より浚い奪われけれはやれと思うて矢庭に右手を差し伸へ愛児を激浪より奪い返し其身は手早く裸体となり湯布一点身に着けす辛くも屋外に泳ぎ出て危き一命を萬死の中に拾いたり去るにも老祖父母の身の上は如何ならむと気も半狂乱愛児をば小高き処の木の根に縛り置き再び漲きる濁浪に身を躍らせ漸く我家に泳ぎ着きたる頃は激浪次第に退却して僅かに膝下を浸すに過ぎさりければ今は心安しと矢庭に雨戸を押し破り辛うじて我家に入り見るに人の気はいもなく家財道具は何一つたになく跡も止めすなりにけり扨は祖父母を始め参らせ五歳の長女をも海低の藻屑となりけるか如何にすべきと暫しは途方に暮れ只た茫然として彳み居しか斯くては果てしと声を限りに[祖父様や祖母様]と呼び叫へば遥かの底に微かに人声の聞へければこれに力を得て漸とのことにて椽板を剥し見るに其下に祖父母長女の三人比目魚の如くなりて蹲まり居たりぬ如何にせしぞと問へば祖父は浪の押し寄するや孫女を片側に抱へたる儘暫らく屋内を回り居りし際如何なる機会なりけん椽板の引くり返ると共に其下に敷かれ今は身動きさへなら子は只万一を神仏に祈り居りたる処なりとのことに何は兎もあれ一命に別条なかりしこそ勿怪の幸いなりと五人相抱きて感喜の涙に一夜を泣き明せりと云う
一志津川救護院の病室内に四歳許なる小児の右の手に繃帯して釣を掛けたるかあり此児に就き最と憐れなる談話ありとて主任医佐藤熊之助氏の語る所を聞くに彼の夜児の母は津浪と聞くより児を背に負うて家をは遁れしか材木に打当りけむ児を負ひし儘道に倒れて絶息へぬ或人小児の泣声を聞き付け馳せ行きて此体に驚き介抱せしも其甲斐なし然るに背上の小児は母の死したるをしらず眠れるものと思いしか母の衣の襟を確と攫み引起さんとし[□母起きろ寝てはいやだ]と泣叫ぶに立集ひし人々顔を背け涙を流さすはなかりしと此児も右の二の腕を挫き居りし故病院へ連来りて治療せしに幸に軽快に赴きたれば近日退院するに至らむmし彼は津浪の夜父母共に喪ひ今は祖母の手に養われ居り誠に不孝の者なりと(奥羽日日新聞)
一本吉郡大島村亀山の頂に一帯の松樹林立す里人之を涙の松と称す伝え云う往年島中の漁夫数人鰹を遠洋に釣り台風に遭ふて転没す其の婦等思慕忘るる能はす日々此頂に上り良人の或は無事に帰り来ることもあらんとて秋波を疑して沖の方を望むに唯た海雲の渺々たるあるのみ遂に片帆の帰り来るなし斯くの如く朝より暮に至る迄相望めとも遂に良人の舟を見されは我夫は今日も亦帰らすとて声を限りに慟哭し山を降りて明けの日復た登て相望むこと前日の如し斯く毎日山に登るに各一本宛の松苗を携へて頂に植えたるに今や生長して巨木となりぬ
是れ涙の松の名ある所以なり然るに此時の被難は夫死したるも猶ほ寡婦の存在するありて松をも植え香火をも手向けしか今回の津浪にては夫婦相共に海底の藻屑となり復た一株の涙の松を植えるものなし哀れの限りにこそ(奥羽日日新聞)
一一漁船航海中波上に顕はれある屋根を破りたるか中より二人の子供現はれ而も生て居れり是れは本吉郡鹿折村鶴ヶ浦永沼某の子にて兄は十一歳弟は五歳の男児なり不思議の天幸と謂うへし
一本吉郡志津川町荒戸濱小字平磯渡辺清太夫は一家九人の家族なりしか父母兄弟八人圧死若くは溺死し唯た本年十三歳の女児一人残りしとそ真に哀れの孤児と謂うへし
一本吉郡志津川町清水濱桶職佐藤総三郎一家は悉く流失死亡し残るは伊三郎(十六年)むめの(十四年)の二人なるか数多の親類悉く死亡したれば真の孤児となり洗足破衣の儘来りて警察署に其状を訴え号泣して止まず之を説諭する巡査の声も曇り
遂に共に泣く傍に聴く役場員亦泣き傍に見るさへいとも哀れなりき(東北新聞)
一本吉郡大谷駅小野寺寅右衛門の妹□何は登米郡狼河原村へ縁付きしものなるが故ありて寅右衛門方に帰家中津浪六日前に分娩して母子共に健全なりしか終に津浪の惨厄に遭い激浪の為めに襲われ右の小児を抱ける儘溺亡せり初孫の顔をも見ずして惨死されし養父母及び夫等の心中も察し遺らるべきも生れて六日目の可愛の我子を抱き産所にありて共に惨死せしものの身の上こそ最も哀れなれ(東北新聞)
一本吉郡歌津村字伊里前駐在所詰巡査八島平一氏は津浪被害の当時救護防禦に必死尽力中其住家と妻子とは津浪の為め流され二度目の波似て押揚げられし際始めてそれと心付きしに幸にして妻は生存し居りしも八才になる小児は遂に流失せしとそ(東北新聞)
一本吉郡志津川町清水細浦地方にて既に四五百人の死者あり尋常一様のことにては埋葬すべくもあらす故に一家一穴と定めて大なる穴を掘り一家族四五人乃至六七人の死者を一纏めにして穴中に運び葬むる有様実に目も当てられす(東北新聞)
附記
宮城集治監雄勝濱出役所の被害
宮城集治監雄勝濱出役所大津浪の為め流失に付き本官(宮城集治監典獄小泉保直)直に現場に出張し実地見聞の上取調べし処同所へ出役せしめ置たる囚徒百九十五人看守三十四人にして出役所は湾を前に控え殊に合宿所の位置は最も其附近なりし為め激浪の衝に当り轟然たる鳴動を発するや休憩せる看守十六人孰れも戸外に出て上官の指揮命令に従事する際激浪怒涛の間に捲き去られ内八人は僅に一生を得たるも余の八人は生死不明内一人の死体は翌朝に至り出役所より一町程高所の叢の中より発見せり監房に於ては宿直看守鳴動を聞くと同時に激浪襲浸板塀を押し倒し立ろに監房中に六尺以上氾濫したるを以て囚人は角格子に攀じ登り救助を求めしか看守は必死を極め辛うじて監房の扉を敷石にて打ち破り水勢稍緩慢に赴くの機を見悉く囚徒を開放せり開放したる囚徒は看守長住居の近傍に集まりしを以て同所山腹に在る最高所なる天雄寺に避難せしむmし開放せし内五人は生死不明にして二人は死体発見せり外搆は悉く流失監房は大に破壊し到底出役し置き難き状況なるを以て跡片付の為め二十八人を暫時留め置き餘は皆本監に引き揚げることとせり(官報雑事欄抜粋)
一同出役所は湾の正面にあり殊に看守合宿所の如きは之れに接近するの故を以て津浪の真向に襲わるる所となりし由なるか当夜休憩の看守十八名にして終日の劇務に身体疲労し半ば寝に就き中には書見中の者もありしと云う今此の内に在りて存命せし者の咄を聞くに時恰も午後八時二十分頃海面に当り轟然物凄き鳴動を発したり急破こそ津浪起れりと各叫び合戸外に出んとして孰れも台所まで疾走し来りしに此時早く彼の時遅く実に咄嗟の間既に激浪怒涛の内に包まれ床板は破竹の如き響を為して天井裏まで刎付られ身体は板挟みとなり出るに途なかりしも幸いなるかな水明りに壁の一隅に一つの穴あるを透見したるに依り死を決して其穴より屋根上に出てしか此時既に柱礎一掃せられ僅に屋根のみ漂流し居れり之も亦瞬時に裂けんとするの危機一髪の中に流れ来る船ありしを以て直ちに之れに飛乗り三名丈け辛うじて保命の途を得るに至れり監房に於ては部長一名に看守二名の宿直なりしか前同様の鳴動を聞くと斉しく一名は早く一監房を開扉せしも外一名は他の監房に移らんとしたれど其監房は水先に当りて赴くこと能はず囚徒は房内の柵壁に攀じ登りて救助を乞うの声四方に喧騒せり時に一人の看守危険を冒して監扉を敷石の大なるものにて打破り水勢稍緩慢に赴くの機を見て悉く囚徒を開放せり此危険を冒して開放したる看守は佐藤信安と云う水練家なりしと且つ不思議にも場内に建設し置たるランプの一つ消へさりければ之を片手に差し上げ尚水嵩五尺の身体を没する中を先導しつつ囚人を無事山上に引到せり夫れか為め二百に近き囚人中僅に二名の溺死と行方不明の者二名を出たせしのみなりと若し此看守とランプのなかりせは或は如何なる事に至れるやも計り難しと云い合へり之れより先き部長は鍵を取り出さんと事務所に入り再び出てんとする時に於て既に身体を浚はれ生命危ふかりしを辛うじて萬死に一生を得たり開放したる囚徒は殊勝にも看守長の住居近傍に蟻集し尋て不取敢同所の山腹なる天雄寺に避難せしめ置きしか典獄は右の報に接するや否直ちに急行出張し其処分方法を講せし上百五十六名の囚徒を一先つ本監に引揚け残る廿七名をして跡形付の済み次第全く引揚られたり(奥羽日日新聞)
一死亡及び負傷者等の多き中にも辛うじて助かりし草刈看守の如き同夜合宿所にありて突然下部より海水に襲われし為め家根を破りて逃れ出てんとし必死となりて屋根を破壊せし際屋根裏の釘にて手及び頭部を乱刺し非常の苦痛を覚えしもやっと破り出て見るに四辺は漫々たる海潮故折能く漂流しある舟に乗りしも浪は怒り漕方は自由ならず見る見る流れ去りしを地方人民に救われ九死の中一生を拾いしと云う(東北新聞)