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1. はじめに

 津波が陸上に溢れ, 船舶・木材などの漂流物が猛威をふるい, ときには町を潰滅状態におとしいれるなど, 津波災害はきわめて凄惨なものである. しかしながら, 陸上における津波の挙動は, 研究の対象になったことはあまりなく, 不明なことが多い. これまでに1933年三陸大津波における数ヵ町村(NASU, 1934), 1946年南海道津波の高知県須崎・宇佐(高橋ほか, 1949)や1960年チリ津波における紀伊半島の調査(大矢, 1962)など, 陸上に遡上した津波の挙動と被害, 地形との関係を調査した研究は数例に過ぎない. ごく最近になって, 数値実験による解析が2〜3試みられてきた(例えば, 相田, 1977; 後藤・首藤, 1978; 岩崎・真野 1979).
 熊野灘に面した三重県尾鷲は, 近年遠洋漁業基地と重要港湾に指定され, 3万余人の人口をかかえた市街地である. 尾鷲湾奥の三方山にかこまれた地理的な一条件もあって(Fig
.1), これまで宝永・安政津波などの歴史津波をはじめ,近くは1944年東南海・1960年チリ津波に襲われ, その都度大きな津波災害を繰り返してきた.
 1944年12月7日の13時36分ごろ, 熊野灘でおきた巨大地震(M=8.1)に伴った津波は, 熊野灘沿岸一帯に大きな被害をもたらし(中央気象台, 1945; 表, 1946; 倉本, 1949), ことに尾鷲の被害は大きく, 38名にのぼる死者を出した. 当時, 戦時下にあったので調査報告は秘密扱いにされ, 社会一般に知らされず, 調査資料の多くは逸散した.
 現在, 尾鷲は山手方面に宅地開発がすすみ, 市街地が広域に発展しつつあるが, 旧市内には36年前の東南海津波に被災した家が各所にあり, 家屋内に津波の浸水痕跡をとどめている. また, 住民から当時の状況を聞くことができる. このように津波の痕跡が多数残っているが, 十分な調査報告もないことから今回, 尾鷲を調査地に選び, 1980年11月3日〜8日の期間に現地調査を行った.
 本調査の主たる目的は, 1944年東南海・1960年チリ津波を対象に, 市街地内の沿水高を測量し, 陸上に溢れた津波の挙動を調べ, 家屋被害との関係を究明すべき基礎的データを得ることにある. また一方において, 1854年安政東海津波の記録(武者, 1951)が多数あることから, 東南海津波のものと対比して, 安政津波の状況も考察してみる.

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地図 Fig.1. Map showing the location of Owase and the bathymetric lines in Owase Bay (depth in meters).

2.調査の方法と概要

地盤高ならびに浸水高の測量には, 測機舎製の自動レベルB-2型, 標尺はアルミ製3m(3段つぎ)のものを使用した. まず調査にあたって, 浸水高・家屋の被害程度・流速などの項目をあげた“調査表”を多数用意した. しかし, 実際に戸別に調査を行ったところ, 流失家屋の多い港町では家が建替えられ, 流れの状況も住民が避難し, はっきりしないところが多い. 浸水家屋では, 人目につきにくい棚の裏側などに津波の痕跡が各所で認められ, また不明なところは住民からききこみを行った.


 市街地の地形
 地盤高の測量は, 国土地理院の1等水準点を基準に行った. 標石は市内の港町にあり(Fig.2のB.M.と記した地点), その値はT.P.上(東京湾中等潮位上)2.7056m(昭和44年測量)である. なお, 調査期問中に, 魚市場前の岸壁において, 4回ほど潮位観測を行った. その結果によれば, 尾鷲の平均海水面は, T.P.より9cm低い値が得られた. しかし潮位観測値には気象潮も含まれ, 短期問の観測では誤差も大きい思われるから, 以下に示す測量値は, すべてT.P.を基準にした位を示す.
 Fig.2は国土地理院の水準標石を基準に, 今回測量した尾鷲市内各点の地盤高(T.P.上)を示す. このほかに昭和37年に尾鷲市水道課の測量による地盤高低図(1/3,000)を参照して, Fig.2に等高線を画いた. 市街地の地形は, 図示のように北川河口の港町と南部の林町の(町名についてはFig.4参照)水路ぞいが, 地盤高2mの低地になっている. そして市街地の中央よりやや南側の朝日町地区(町名改正前に“高町”と呼ばれていた)が4mほどの台地になっている. なお, 市役所総務課によれば, 道路は戦後数回, 舖装工事が行われ, 東南海地震当時より10数cmカサ上げされた. また, 市の南部にあった瀬木ノ山は戦後間もなく崩され, 海岸を理めたて, 火力発電所が建設された. 東南海津波当時は, いまの海岸道路ちかくに岸壁があり, 北川河口と瀬木ノ山下は砂浜であったという.


 浸水高の測定地点
 Table1と2に, それぞれ1944年東南海津波と1960年チリ津波の測定地点ならびに, その場所の津波の高さ(T.P.上), 地面からの浸水高を示す. 測定点は, 東南海津波48個所, チリ津波41個所である. 浸水高の測量は前に述べたように, いずれも流失を免かれた家の浸水痕跡を手掛かりに行った. なかには床ノ間の壁に, いまも生々しく浸水潮位の跡をとどめたものもあり, またその後補修されて痕跡不明なものは住民から聞いて確かめた. 1例として, Fig.3に北浦における浸水高の測量の状況を示す.
 Fig.4は, 両津波の浸水高の測定地点を示したもので, 市内全域をカバーしてある. しかし, 北川河口の港町の1部では, 東南海津波で大部分の家が流失または全壊し, 現在あるものはその後に復興した家並みであるので, この地域は測定不能であった. なお, 測定地点は, 市役所から提供された住居標示のある1/1,500の市街図を現場に携行し, 位置を確認した.

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地図 Fig.2. Topography of Owase (unit in meters). Ground e1evations are above T.P.(Tokyo Point nearly equals to M.S.L.).
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Table1. 尾鷲市における1944年東南海津波調査表
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写真 Fig.3. Views of leveling survey of inundation height at Kitaura, Owase.

3. 1944年東南海津波

 津波来襲時の状況は, 尾鷲市史下巻(1969)に次のように, 記してある.
「尾鷲湾では雀島のあたりまで海水が引いて, 水深10mの底や防波堤の根囲いが現れた. その向こうではムクムクと盛り上がった海面がひとかたまりとなって, 尾鷲港内めがけて殺到し, 浅瀬に近づくにつれ波は一層高くなり, 狂奔して町並みを呑み, 波頭は北川を逆流して豊栄橋まで達したという. やがて, 町をうめた海水はおびただしい浮遊物とともに港外に引いていった」.
 津波は北川にむかって激しい勢いで流れこみ, 船・流失した家が次々と町並みを破壊していったようである. Fig.5は, 北浦において, 船が押し上がり, 町内がガレキの山と化した惨状を示す. 戦時下で秘密文書として尾鷲町役場に保管された報告書(尾鷲市史)によれば, 被災当時, 尾鷲町の全戸数は3,912戸であったが, このうちの約6割りにあたる2,326戸が被害を受けたとある. 地区別の被害状況はTable 3の通りである.
 個々の建物の強度, あるいは船・流木の衝突などで浸水域における家屋の破壊状況は多様であるが, いま, 各地区の家屋の破壊率D(相田・影山, 1961)を次のように表わしてみる.
(式)
 ここでa:流失・全壊戸数, b:半壊戸数, c:床上・床下浸水戸数である. すなわち分母は浸水を含め, 被害を受けた全戸数, 分子はそのなかで強く破壊を受けた戸数ということになる.


 各地区の被害戸数(Table 3)をもとに, 上式から家屋の破壊率を求め, 市街地の地形図にその分布をみるとFig.6のようになる. 図示のように, 破壊率の分布は地形にかなり支配されていることがわかる. 北川河口の新川原・川原・知古・北町(以上, 現在の港町)の低地一帯がもっとも破壊率は大きく, 40〜50%にも達した. 住民の話によれば, 港内の多数の船がこの地域に乗上げ, 被害を増加させたという. ついで市街南部の新町・名月町の低地の破壊率は42〜45%と大きい. そして高町一帯の台地では, 1部島のように浸水を免かれ, 破壊率は小さい.
 測量の結果を整理し, 各地点の津波の高さ(T.P.上)をFig.7に示す. 津波の高さは, 海岸付近で5.0〜5.5mともっとも高く, 内陸にむかって減少している. なお, 被災直後の調査(表, 1946)によれば, 港町付近で8〜10mと地図に示され, 「冷凍会社の岸壁のあたりで8m位であったと思はれる」とあるが, 今回の調査ではこのように大きな波高の痕跡は見出せなかった.
 浸水域は町の北と南側の低地にそって伸び, 北川では宮前橋のすこし先, 河口から500mまで達した. また, 北川北部の北浦では, 山の根までに至り, 大体3mの地盤高の範囲に浸水域が広がっている・ 高町の台地では島のように浸水を免かれ, その範囲は等高線とは一致せず, やや後方にずれている.
 Fig.8は地面からの浸水高を示す. 町の南北両側が高く2mもあり, この地域に被害が集中した. 津波の高さが平均海水面上4mをこえると, 家屋の破壊率が急増することは, 1933年三陸津波をはじめ, 1946年南海道・1960年チリ津波のさい各地でみられた(HAT0RI, 1964). 今回の調査からも似たような傾向が認められ, 浸水高が地上から1.5mを超えたところに, 被害が集中している.
 いま, 市内4個所の断面(Fig.7)において, 浸水面のかたちを見るとFig.9のようになる. 市街北部のA-A'とB-B'断面では, 浸水面の傾斜が大きく, 流速の大きかったことを暗示している. 港口の天満で津波の高さは5.3mあり(鉄工所内にいまも明瞭な浸水痕跡があり, 側壁がコンクリート造りで流失を免かれた), 津波が港口から陸上に溢れていくにつれ, 潮位が減少していくパターンがよく理解できる.
 A-A'断面において, 陸岸の浸水高を3m, 浸水面の傾斜を1/300とみなし, 仮りに水理学の定常平均流のForchheimerの式が成立つとすれば, 粗度係数n=0.023として流速は3.5m/secと求められる. 北川河口の八幡大橋において, 多数の避難者が遭難しており, 流速が大きかったことを裏付ける. 一方, 町の中央C-C'と南部のD-D'断面では浸水面は平坦である. これは, 町の北部に比べ, 津波はゆるやかに押し上がったことを考えさせる.

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Table2. 尾鷲市における1960年チリ津波調査表
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地図 Fig.4. Map showing survey points of inundation heights of the 1944 Tonankai and the 1960 Chile tsunamis in Owase.
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写真 Fig.5. Ship cast upon the dry land by the 1944 Tonankai tsunami at Kitaura, 0wase (courtesy of Owase Municipal Office).
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Table 3. 1944年東南海津波による尾鷲の家屋・人員被害(尾鷲市史による)
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破壊率の(式)
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地図 Fig.6. Distribution of the percentage of damage to houses, D, in Owase by the Tonankai tsunami. (式), where a is the number of the flooded and destroyed houses. b, half-destroyed hauses, and c, inundat
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地図 Fig.7. Distribution of inundation heights of the 1944 Tonankai tsunami in Owase. Tsunami heights are in meters above T.P.(Tokyo Point nearly equals to M.S.L.).
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地図 Fig.8. Distributiun of inundation heights of the 1944 Tonankai tsunami in Owase. Inundated heights are in meters above ground.
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Fig.9 Profiles of inundation heights of the 1944 Tonankai and the 1960 Chile tsunamis in Owase. Cross sectional lines are shown in Figs.7 and 12.
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写真 Fig. 10. The 1960 Chile tsunami washes into Hayashi-cho Owase (courtesy of Owase Civil Engineering Ofiice).

4. 1960年チリ津波

 1960年5月24日の未明2時30分ごろ, チリ沖から23時間を経て太平洋を渡ってきたチリ津波は, 日本の太平洋沿岸全域を襲い, 北海道・三陸・志摩および熊野灘沿岸に大被害をもたらした(気象庁, 1961; チリ津波合同調査班, 1961). 尾鷲では市役所の調査によると, 床上浸水377戸, 床下浸水219戸にのぼり, 床上以上の被害人員は, 1,671人であった. 辛い死者はなく, 全壊家屋は7戸にとどまった. Fig.10は市街南部の林町おいて, 最高波の第3波目の波が町内に遡上したときの状況を示す.
 港内の天満にある三重県尾鷲土木出張所の検潮所では, Fig.11に示す津波記録が得られた. 天満では, 前記の鉄工所に明瞭な浸水痕跡があり, 津波の高さは3.6mと実測された. これは検潮器による最高潮位とほぼ同じ値である. チリ津波は波の周期が長いことが特徴であるが, 尾鷲の記録にも50分の長周期波であったことが認められる. 津波は早朝の3時25分ごろ微小振幅で始まり, 目立った波の3波目が最高波であった.
 Fig.12は, T.P.基準の津波の高さの分布を示す. 海岸付近の津波の高さは3.0〜3.6m, 港の南側がやや高い. 浸水域は北川に沿って伸び, 河口から400m, 宮前橋の近くまで達した. しかし朝日・林町地区では狭く, 浸水域は大体地盤高2.5m以下の範囲にとどまった.
 Fig.9には, 東南海津波と同じ市街地の断面に, チリ津波の浸水面のかたちを示す. 各断面において, チリ津波の浸水面は東南海津波の場合と異なり, かなり平坦である. これは, チリ津波の周期が長く, 住民の証言にもあるように, ゆるやかに津波が陸上に溢れたことを示している. しかし, 退潮時には遡上のときと打って変り, 海水が激しい勢いで港へ流れ出し, 家屋の破損, 家財を流失させたという. 幸い, 地上からの浸水高は大きいところで1m程度であったので, 家屋が流失するようたことはあまりなかった.

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Fig.11. Tide gauge record of the 1960 Chile tsunami observed at Owase.
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地図 Fig.12. Distribution of inundation heights of the 1960 Chile tsunami in Owase. Tsunami heights are in meters above T.P. (Tokyo Point nearly equals to M.S.L.).

5. 1854年安政東海津波

 尾鷲には若林太沖の“津波の記”に, 来襲時の状況が詳しく記録され, そのほか多数の記録が地震史料(武者, 1951)に集録されている. そのなかから, Table 4と5に主な記録を抜粋して示す. 町内全域で流失家屋は75%にものぼり, 地盤の低い港町と林町に水死者が多く出た.
 地盤高約3mの堀町・柏町・今町(Fig.13)に, 船が上がったことから, 津波の高さはT.P.上4〜4.5mと推定できる. また地盤高3〜3.5mの地点にある祐専寺・念仏寺も津波被害を受けた. これらの地域は, 東南海津波のとき浸水しなかった. Fig.13はこれらの記録から推定した浸水域と各地の津波の高さ(T.P.上)を示したもので, 地盤高4mぐらいまでの地域が浸水したとみなせよう.
 北浦の金剛寺と尾鷲神社には, 浸水潮位を示す具体的な記録があり, これを測量すると津波の高さはそれぞれ5.6mと6.2mとなる. 河川流域より山の根の波高が目立って大きいが, 同じ安政津波における伊豆下田においても, これと同様な現象がみられた(羽鳥, 1977). これは, 陸に遡上した津波が山の根で反射し, 定常波性の振る舞いをして, 波高が局地的に増幅されたものと思われる.
 防波堤など海岸保全施設のなかった時代の安政津波と東南海津波の波高とを単純に比較するのは適当でないが, 共通な地域(Table 4)の平均波高は, 安政津波5.3m, 東南海津波4.0mとなる. また, 浸水面のかたちから, 安政津波の海岸付近の高さは約6.5mと推定される.

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Table 4. 尾鷲における1854年安政東海津波の高さ(推定値, T.P. 基準)
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Table 5. 1854年安政東海津波による尾鷲の被害
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地図 Fig.13. Estimated inundation heights of the Ansei Tokai tsunami (Dec.23, 1854) in Owase. Tsunami heights are in meters above T.P.

6.むすび

 1944年東南海津波と1960年チリ津波を対象に, 住民からの聞きこみ, 浸水痕跡を手掛かりに, 尾鷲市街各地点の津波の高さを測量し, 市街地内の波高分布図を作製した. さらに, 安政津波についても古記録をもとに波高を推定し, 東南海津波と比較した.
 港付近の津波の高さは, 東南海津波5.0〜5.5m, チリ津波3.0〜3.5mと実測された. 市街地内の波高分布は, 大局的に地形に支配され, 浸水の等深線は北川流域と南部の低地にそって伸びている. 海岸から内陸にむかう浸水面断面のかたちをみると, 東南海津波では傾斜が急であるのに, チリ津波ではかなり平坦である. これは, 東南海津波の流速が速く, チリ津波はゆるやかに遡上したとの住民の証言と合致する.
 東南海津波において, 北川河口の港町では家屋の破壊率は50%, 林町付近では45%にも及び, 船や流木によって破壊されたものが多い. 浸水高が地上から1.5mを超えると, 被害は急増するようである. 北川流域の流速は3.5m/secと推定され, 流速の分布は地形に支配されるものであるが, 今後, 数値実験による検討が必要である.
 安政津波の波高は, 東南海津波より上回ったことは疑いなく, 浸水域も広域と推定された. 東南海津波と共通な地域の安政津波の記録から, 安政津波の高さは東南海津波より平均して70cmほど高く, 港付近では6.5mと推定される.
 現在, 尾鷲港の海岸通りには, 天端高T.P.上4mの防潮壁が築かれ, 港に通じる交差点に可動式の防潮扉がある. 北川の両岸は高い防潮壁で囲み, ここに流れこむ水路口には水門を設けるなど, 津波・高潮対策が講じられている. 東南海津波から36年, チリ津波からも20年が経過し, その後住民の転出入もあり, 災害は年ごとに忘れられていくであろう. 北浦山手の共同墓地内に, 1707年宝永津波の犠牲者を葬った古い供養碑があり, 市の文化財に指定されている. 市街地の人目につきやすいところに, 東南海・チリ津波の浸水潮位の指標を建てたり, 津波の体験談集を作るなどして, 市民の防災意識を高めたいものである.

謝辞

 本調査にあたって, 三重県土木事務所ならびに尾鷲市役所主幹川上賀也氏, 浜口禎也氏, 尾鷲郷土館長伊藤良氏から多数の津波資料が提供された. また現地調査には, 尾鷲市役所総務課の松井勝嘉氏が連日同行され, 津波のききこみ調査に協力下さった. ここに記して厚く御礼を申し述べる次第である.
 本研究は, 文部省自然災害特別研究「陸上に氾濫した津波の挙動と津波の流動による被災のメカニズムに関する研究」, 課題番号502007(代表者東京大学工学部 堀川清司教授)の一部である.

文献

相田 勇・影山正樹, 1961, 調査報告─女川, 石巻間, 1960年5月24日チリ地震津波に関する論文及び報告, チリ津波合同調査班, 丸善, 東京, 289-302.
相田 勇, 1977, 陸上に溢れる津波の数値実験─高知県須崎および宇佐の場合, 地震研究所彙報, 52, 441-460.
チリ津波合同調査班, 1961, 1960年5月24日チリ地震津波に関する論文及び報告, 丸善, 東京, 1-398.
中央気象台, 1945, 昭和19年12月7日東南海道大地震調査概報.
後藤智明・首藤伸夫, 1978, 越喜来湾に対する津波の遡上解析, 第15回自然災害科学総合シンポジウム論文集, 579-582.
HAT0RI, T., 1964, A study of the damage to houses due to a tsunami, Bull. Earthq. Res. Inst., 42, 181-191.
羽鳥徳太郎, 1977, 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査, 地震研究所彙報, 52, 407-439.
羽鳥徳太郎, 1978, 三重県沿津における宝永・安政東海地震の津波調査, 地震研究所彙報, 53, 1191-1225.
岩崎敏夫・真野 明, 1979, 明治29年山田湾における津波の数値解, 第16回自然災害総合シンポジウム論文集, 281-282.
気象庁, 1961, 昭和35年5月24日チリ地震津波調査報告, 気象庁技術報告, 8号, 1-390.
倉本為一郎, 1949, 昭和地震誌, 南輪内村震災記念会, 1-153.
武者金吉, 1951, 日本地震史料, 毎日新聞社.
NASU, N., 1934, Heights of tsunami and damage to structures, Bull. Earthq. Res. Inst., Suppl., 1, 218-227.
表俊一部, 1946, 昭和19年12月7日東南海大地震に伴った津波, 地震研究所彙報, 24, 31-57.
大矢雅彦, 1962, 紀伊半島の海岸地形とチリ地震津波, 資源科学研究所彙報, 56-57号, 62-75.
尾鷲市役所, 1969, 尾鷲市史下巻.
高橋龍太郎・相田 勇・羽鳥徳太郎, 1949, 高知県須崎及新宇佐町の津波調査報告, 南海大震災誌, 高知県, 114-129.

13. Field Survey of the Tsunamis Inundanting Owase City -The 1944 Tonankai, 1960 Chile, and 1854 Ansei Tsunamis.

By Tokutaro HATORI, Isamu AIDA, Sin'iti IWASAKI and Toshiyuki HIBlYA,
Earthquake Research Institute.


Owase located on the east side of Kii Peninsula has been hit by many tsunamis. Sources of most tsunamis were off Tokaido along the Nankai Trough. The 1960 Chile tsunami that propagated across the Pacific Ocean also hit Owase City. There remain even now traces of the inundated level on many houses in Owase caused by the 1944 Tonankai and 1960 Chile tsunamis Based on these traces, the inundation heights of the two tsunamis run-up on land were surveyed, using the automatic level from Nov. 4 to 7, 1980. The relation between the geographical distribution of the inundation heights and the damage to houses was investigated. The results of the present surveys are as follows :
1) The inundation heights of the 1944 Tonankai tsunami at the harbor were 5.0-5.5m above M.S.L. Ground about 3.0m above M.S.L. was inundated. The inundated area stretched along the Kita River. The water level decreased in height as It moved inland. The topography of the ground controls the damage to houses. Fifty percent of the ordinary Japanese wooden type houses were damaged when the water reached 1.5m above the ground. From the inclination of the water surface along the Kita River, the mean water velocity is calculated as 3.5 m/sec.
2) The inundation heights of the 1960 Chile tsunami at the harbor were 3.0-3.5 m above M.S.L. Although the water reached 1.0-1.5m above the ground, hardly any houses were washed away. The traces of the inundated level into land are nearly flat, suggesting that the velocity of the incident flow was small.
3) Based on old documents, the inundation height of the Ansei Tokai tsunami (Dec. 23, 1854) is estimated as 6.5m above M.S.L. The heignt is 0.7-1m higher than that of the 1944 Tonankai tsunami. Ground above 4m high was inundated.