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1.はじめに

 東海地震説が叫ばれてから二年余が経過し,その間に安政東海地震と,それに伴った津波の挙動に一段と関心が高まってきた. さきに筆者(羽鳥,1974)は,地震史料に集録されている宝永・安政津波の記録を整理して,各地の津波の高さや波源域の考察を試みた.その後, 安政地震の静岡県報告が見出され(羽鳥,1976; 地震研究所,1977), さらに追加された史料をふまえて, 筆者(羽鳥,1977)は, 静岡県下の伊豆下田から浜名郡に至る沿岸各地の津波の高さ, 浸水域の広がりなどを現地調査してきた.
 一方, 三重県下の伊勢・志摩・熊野灘沿岸も東海沖でおきた津波で災害を繰り返し,近くには,1944年東南海津波で沿岸各地は潰滅的な打撃を受けた. 被災直後, 気象庁(当時の中央気象台, 1945)や地震研究所(表, 1946)によって調査が行われ,最近, 飯田(1977)により新たなデータがつけ加えられている.
 三重県沿岸における安政東海津波の記録は, すでに地震史料(武者, 1955)にかなり集録されているが, ほとんど現地調査されたことがない. さらに147年さかのぼった宝永津波については, 地震史料2巻(文部省震災予防評議会, 1943)に紀伊・四国地域の記録が多く, 三重県沿岸については数個所の記録が収録されているに過ぎない. 数年前から, 筆者は資料の空白域を埋めるべく, 三重県沿岸地域の市町村教育委貝会に依頼して, 史料集めをすすめてきた. 幸い, 各教育委員会の厚意ある協力のもとに, 市町村誌にある宝永・安政津波の資料をはじめ, まだ印刷されたこともない古文書の複写など, 多数の史料を収集することができた. そして提供された史料のなかで, 三重県沿岸各地に宝永・安政津波の犠牲者を葬った供養碑のあることを知った. その数は, 四国沿岸に分布する宝永・安政南海道津波の碑(羽鳥, 1978)を上回り,三重県沿岸で両東海津波が激しく振る舞ったことを伝えている. そこで1975年から現在までに3回にわたり, 伊勢・志摩・熊野灘沿岸各地の史料の裏付け調査をはじめ, 津波碑の現況をみてまわった.
 本稿では, まず宝永・安政津波の各地の主な記録や津波碑を紹介し, それらの記録をもとに浸水波高の測定値および推定値を示す. さらに1944年東南海津波の波高と比べ, 三重県沿岸におげる宝永・安政津波の特性を考える.

2.津波の概況

 安政東海津波は, 1854年12月23日の朝9時をすぎたころ遠州灘から熊野灘に至る海域で起こった. 駿河湾から遠州灘沿岸にかけて, 5m前後の津波の高さで一様に分布し, 駿河湾奥の内浦沿岸では7mに達した. 伊豆下田では市街全域に浸水し, 4.4〜6.8mの波高が測定された(羽鳥. 1977). また, 三河湾内にも侵入し, 沿岸低地に溢れ死傷者も出た. さらに遠く四国沿岸へ伝わり, 徳島・高知沿岸で1m程度の波高が記録された. 三重県下の志摩・熊野地域では, 海岸線がいりくんだリヤス式海岸が連なり, 津波は一段と猛威をふるい, 多数の人命を奪った. 津波の犠牲者を葬った供養碑がいまも浦々に建ち, Fig. 1はその分布を示す. 熊野灘沿岸は1944年津波の碑もある.
 さて, ここで三重県沿岸における安政津波の個々の記録を紹介するまえに,概況を表示すると, Table 1のようになる. これらの記録は, 地震史料に記載されているもののほかに, 今回新たに集めた記録も加えてある. 浸水潮位の手掛かりとなる具体的な記録のあるところでは, ハンドレベルで津波の高さを測定したが, 多くの地点では海岸の地盤高をもとに(表中に現在の水準点B.M.の値を示す), 被害状況から津波の高さを推定した. 表示のように, 10m近くに達した地域もあって, 平均的にいえば, 静岡県沿岸の波高を上回っている. また,志摩沿岸の大きな波高にも注目したい. なお, 比較のために, 1944年 東南海津波における各地の津波の高さの測定値(中央気象台, 1945, 表, 1946, 飯田, 1976)を付記してある. その検討は後章で述べる.
 宝永4年, 1707年10月28日の12時すぎ, 南海道沖で起きた津波は紀伊・四国沿岸地域に多くの記録を残したが, 同じころ東海沖で起こった津波の主な記録は Table 2に示す通りである. これらの記録の多くは, 今回集めた史料からの抜粋である. 宝永津波も, 三重県沿岸各地に, 安政津波を上回わる被害を与えたことが理解できる. 各地の津波の高さは, 被害状況から推定したもので, 尾鷲・賀田・新鹿では局地的に10mを超えたとみなされる.
 いま, 各地の流失家1戸あたりの水死者数を1944年津波と比べると, Fig. 2のようになる. ここに示す数字は, 各地の水死者数を表わしている. これら宝永・安政・昭和の津波は, いずれも昼間に起こっており, 避難時の条件は大体似たようなものである. 宝永津波の水死者は, 市街地の尾鷲・長島で500人を数え, ついで古和・神前・贄浦・五ヶ所湾 が目立つ. これに対して安政津波では, 尾鷲をのぞいて犠牲者数は一様に激減している. これは, 宝永津波の教訓が伝えられていたこともあろうが, 安政津波の半年前, 同年6月の伊賀地震(M=6.9)で志摩・熊野地域は強震に見舞われ, 沿岸住民が山へ避難するなど, 津波を警戒していたことが幸いしたようである. あとで述ぺるように, 沿岸各地に残された安政地震の記録の序言に, 伊賀地震の記事が申し合せたように記録されており, 地震の心構えができていたように読みとれる.
 一方, 1944年東南海津波において, 紀勢町錦で64人という安政津波をはるかに上回わる犠牲者を出している. また, 県南の賀田・新鹿沿岸も犠牲者が多い. しかし志摩沿岸では波高が2〜3mに止まったこともあって, 犠牲者はほとんどなかった. これが, 安政津波の場合と比べて, 1944年津波の特徴的な違いである.

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地図 Fig.1. Distribution of the monuments of the 1707 Hoei, 1854 Ansei and 1944 tsunami a1ong the Mie coast.
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Table. 1. 三重県沿岸(和歌山県の一部を含む)における安政東海津波の主な記録と津波の高さ(推定値)
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Table2. 三重県沿岸における宝永東海津波の主な記録と津波の高さ(推定値)
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地図 Fig. 2. Distributions of numbers of the drowned person per collapsed house for the Tokaitsunamis of 1707, 1854 and 1944. Numerals show the numbers of drowned person.

3.各地の記録と現地調査

 本章では今回集めた各地の主な史料や津波碑の碑文を紹介し, 浸水域の広がりや津波の高さの推定にあたって, その根拠を解説する. Fig. 3は, 調査地域の索引図を示す.

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地図 Fig. 3. Index map of the field investigation areas

大湊(Fig. 4)

 宮川と五十鈴川河口の間の砂洲に発展した町で, 古くは明応7年(1498年)・慶長9年(1605年)の大津波をはじめ(羽鳥, 1975)、宝永・安政津波に襲われ, 津波災害を繰り返してきた. 宝永津波では徳田・中須新田1,000余町が流失し(大湊町誌), 安政津波では「築屋敷橋詰の灯明台は弐丈七尺有之所, 其上をこしたる由なれぱ浪の高さは三四丈もありしなるべし」と記録されている(地震史料に収録された山中立之介の手記).
 大湊海岸の砂丘は高いものの, 海岸からひと側はいった市街地は海抜2〜3mの低地で, いまのような防潮堤もなく, 河川から津波がのぼり溢れやすい地形であった. 安政津波のとき,住民が町内の寺院・神杜の境内に避難し, 浸水を免れた地域もあり, 隣接の二見・鳥羽の記録から判断しても, 津波の高さは5〜6mクラスとみなせよう. 津波直後, 平地に土盛りして避難丘を作る試みもあった. 宝永津波はその浸水状況から, 恐らく安政津波と同じぐらいの波高であったと思われる. 1944年津波は2mの波高に止まった.
 現在, 市街地の前面には高い防潮堤が築かれているが, 伊勢湾台風のとき潮位が2m上昇し, 港付近では地上50cmぐらい溢れたという.

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地図 Fig. 4. Inundation height of the 1854 Ansei tsunami at Ominato and Futami (unit:m).

島羽(Fig.5)

 安政地震で鳥羽城の櫓・塀・門・侍屋敷などに大被害を受けた詳しい記録がある(地震史料).城下の岩崎通り(現在の駅付近)一帯に津波が上がり, 平地の家は「棟とても不見, 高みの家も浸し申候」とある. 浸水家屋441軒, 床上3〜4尺ほど上がった, ともある. 市街地は低地(駅付近の水準点は現在1.4m)で, 津波の高さは5.5m, 湾奥に流れこむ流速は比較的大きかったらしい.
 堅神の国適脇にある観音寺の記録によると, 安政津波の第1波と2波は境内の松の木近くまで, 3波目はそれを越え, 4波目が最大で「寺院不残流失, 但本堂は残る」とある.
 現在, 寺の前の海は埋立てられ, 海岸は遠くなっているが, この付近の地盤高からみて, 津波の高さは5m程度に推定される.

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地図 Fig.5. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Toba and Katakami (unit:m).

浦村(Fig.6)

 今浦の集落から坂を上がりきった高台に大江寺があるが, その手前の道路脇に“大津波塩先地”と刻まれた石碑がある(Fig.6a). これは, 安政津波の浸水潮位を示す標識で,海抜約5mの地点に建っている. 被害状況ははっきりしないが, 集落のほとんど全域が津波に呑まれたことになる.
 今浦の対岸の本浦は, 現在麻生浦大橋に結ばれており, 清岩庵境内に安政津波碑がある(Fig.6b). この地点は海抜約5mで, 碑文にあるように, 津波はこの境内に浸水した. 碑文はいまも明瞭で, 島羽市海の博物館の中田四朗氏の解読によると, 次の通りである.
「嘉永七年甲寅十一月四日大気陰惨夘時大震巳時滄海潮白浪如山須臾至村前中央直衛山腹入寺門者三寸許此時民屋額裂財物尽亡男女老少只以死免為幸成構草舎或苦覆而待震之定殆一同余其辛苦豈可言哉諺曰震動之後海嘯必至今果遭是?因記大略以示将来者  安政五年戊午年五月現住文鳳起焉」
 津波は集落深く押し入ったが, 幸い犠牲者は出なかった. この記録から, 本浦も今浦と同様に, 津波の高さは5m程度とみなせよう.

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地図 Fig.6.Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Uramura(unit:m).
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写真 Fig.6a. Monument of the inundation leve1(5m above M.S.L.) of the 1854 Ansei tsunami at Imaura.
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写真 Fig.6b. Monument of the 1854 Ansei tsunami at the Seigan'an Temp1e in Motoura. The writing says that the tsunami inundated in this temp1e(5m above M.S.L.).

国府(Fig.7)

 国府から甲賀に至る海岸は,高さ5〜6mの砂丘が連なり, 現在高い防潮堤が延々約1.5kmの間に築かれている. Fig.7aは国府から甲賀をのぞむ最近の海岸風景を示したもので, 宝永・安政津波はこの浜をのり越え, 集落深く侵入した. 国府には安政津波を記録した“下村家文書”が残っており, 地震史料に集落されていないので, 次に阿児町史編さん委員浦谷広巳氏が解読したものを紹介しよう. これは“嘉永七年寅ノ十一月四日地震津波ニ付御上江書上帳 下村扣”と題し, 本文は次の通りである.
 「嘉永七甲寅十一月四日朝上天気ニ而追々田畑ヘ参リ申候然所朝五ツ時頃, 大地震ニ而一同打驚罷有, 追々土居打潰, 五六所も棟落候, 然所程なく津波ニ相成. 村方一統, 大さうとう, 老人小供山々江逃はしり, 若者ハ麦米, 夜具持参ニ而山々江参り候内, 上者岩本(地名)より汐廻り下者川尻より野千坊(地名)縄手, 汐打越, 典後高サ三四丈程茂有之, 但し四五度参り, 天神下(地名), 三反田(地名)ニ而波打合ニ相成, 村方一同汐乗, 下筋(部落の南部)者浜辺より汐, 西川(地名)畑通り, 森太夫, 森兵衛, 治三郎, 武平, 市郎右衛門, 杢兵衛, 作兵衛, 伊助, 孫兵衛, 佐吉, 九十郎, 半潰ニ相成浜辺網小屋不残叉流失仕. 村内汐乗深サ凡, 下筋六七尺余茂有之候. 当家内ゆ家上より三尺弐寸汐乗り, 五郎七世古より新七内迄ハ汐乗不申候. 西川通りハ不残汐乗り中候. 源慶寺. 宗七内等ハゆ家下迄汐乗申候. 一, 同月五日夕刻ニも地震有之候者, 又候高波浦田地打廻り, 夫より十一月十一日, 十二日迄村中山住居仕候, 追々地震ハゆり申候」.
 この記録に続いて, 借用金の配布, 家屋・田畑・漁船・漁網の被害件数が細々と記されているが省略する. 記録が示すように, 津波は砂丘をのり越え集落深く侵入し, 国府南部では地上から潮位が2mに達し, 源慶寺では床下まで浸水した. こうした記録から, 安政津波はこの地域で10m近くの波高に達したことは疑いない.
 宝永津波を記録したものに, “井村家文書”がある. これは, 幕末のころ写されたと言われているが, 浸水状況は次のように記されている.
 「宝永亥年十月四日九ツ時, 大地震致し. 塩之干事厳敷, 油瀬(甲賀沖の岩礁)も陸之ことし, 井戸は水なき様ニ相成り地よりすす水の様成水出候. 是則津波なり. 上は字井合(地名)より御茶子(地名)の畑を波越し, 字野田(地名)へ一面, 下はガンナ橋より字瀬田橋デ両方の波打合, 潰家, 文蔵, 清蔵, 五郎助より惣七軒, 波ニ打潰, 文蔵前は淵になり, 家は野田へ流し, 瀬田庄左衛門西有之候. 藤左衛門の馬ハ岩田橋までヲヨギ山の手ニ付又小いちと申女ハ桶を持, 波ニ打れ, 漸くの事ニ西の森上り, 夕方飯米等取ニ村へ参リ申候様ニ村中山ニ申■(角+弓+弓)候得共, 誰も先達而村へ帰流ものなし. 儀右衛門子息の儀八郎. 達者成ものにて, 殊に家ハ瀬田橋近所ニ侯得ハ, 家ニ帰り見れハ, 家の床より壱尺五六寸, 潮入屋敷ハ魚いろいろ, すす水の色の塩也. 五日め屋敷ニ而鯛諸魚料理して食ス. 表裏共, 田畑及新田大波, 死人ハ壱人中村弥平のミ痛メ候人数多し(後略)」.
 以上のように, 宝永津波も砂丘をのり越えて国府の集落に押入り, 床上50mを記録した. 津波の高さは, 7〜8mはあったであろう. 記録によると, 津波は引き波で始まり,
500〜600mも浜が干上がり, 油瀬の岩礁が陸のようになったとある. こうした状況から, 住民がいち早く山へ避難することが出来, 大きな波高であったが,犠牲者は1名にとどまったのであろう.


甲賀(Fig.7)
 妙音寺横の道路に面したところに, “地震津浪遺戒”と題した安政津波碑が建っている(Fig.7b). これは, 明治24年に建てられたもので, 浦谷広己氏が解読した碑文を次に示す.
 「蓋我甲賀村ハ其土地低キヲ以テ, 古ヨリ地震津波ノ災ニ罹ル事数多ク, 殊ニ明応, 宝永, 享保, 安永等ノ如キハ頗激烈ニテ村里ノ八九分ハ殆流失ニ帰シタリ. 故ニ漸丘地ニ居テ移セシナリトノ記録, 口碑存スト雖其ハ啻ニ昔話視セシガ, 安政元年六月十四日ノ夜大地震起キシカバ, 衆皆驚怖セシカドモ, 幸ニハ災変ニ至ラズ. 然ル同年十一月四日ノ朝再大地震起レリ. 是レ未曾有ノ激震ニテ, 家屋倒レ大道裂ケシカバ人畜驚挺擾奔逸シテ籔畠ニ避逃ス. 斯クル間ニ井水ニ涸竭シ海汐ハ遥沖マテ退干セシガ直ニ数丈ノ高浪恰雲ノ如ク起リ忽激進シテ陸地ヲ突ク事凡四回タメニ田野邸宅モ一時ニ潰エ殆野羅トナリタリ而シテ其流失ニ属セシハ実ニ戸数百四十一, 家屋四百十一, 舶五十一,堤防四ニシテ剰へ溺死セシモノ総十一人其他貨財糧米等一モ残留スルモノナシ. 是ニ於衆, 山野ニ起臥シ飢寒ニ困ム等, 其状実ニ言ワン方ナシ, 依テ藩主ヨリ米百八十三俵, 金五十六両衣類数領ヲ賑恤セラレタ外爾後数十年間夙夜回復ニ孜々タリシカバ漸今目ノ形勢トナレリ.
 嵯呼天災ニ測ルベカラズ. 後世ノ人若地震ニ際セバ必火ヲ戒メ速ニ老幼ヲ携へ高丘ニ避スベシ否ザレバ危難必共身ニ至ル事アルベシ典宣之ヲ鑑ムベキ也
 干時 明治廿四年十一月建之」
 安政津波も宝永津波の国府記録と同じように, はじめに浜が沖合まで干上がったとある. 歴代の津波記録のなかで享保・安永とあるのは, 享保7年6月14日(1722年9月24日)と安永3年9月2日(1774年10月6日)に, この地方を襲った台風による高潮を指しているのであろう.
 そのほか, 地震史料に集録されている記録を総合すると, 海岸からふくれ上がるように潮が溢れ, 第3波目が最大で2丈〜3丈5尺, 集落や田畑一面が海原のようになったという. 当時“奥"の集落は浜田との間の地盤高3〜4mの地域にあり, 津波が5〜6mの砂丘をのり越えたことから, 波高は6〜8m, 海岸では局地的に10m近くに達したようである. 宝永津波の波高も安政津波と同じ程度と思われるが, 1944年津波は3mにとどまった. 甲賀海岸で安政津波の波高が, 3倍近く上回ったことは疑いない.

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地図 Fig.7. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Kou and Koga(unit:m)
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写真 Fig.7a. View of the Kou beach. At the times of the 1707 Hoei and 1854 Ansei tsunamis, waves of about 10m ran into the villages.
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写真 Fig.7b. Monument of the 1854 Ansei tsunami at Koga. The writing says that 141 houses were washed away and 11 persons drowned.

越賀(Fig.8)

 安政津波は志摩半島の外洋に面した各集落に猛威をふるい. 越賀に入港の神島の漁船が遭難して, 14名の生命を奪った. 大蔵寺境内には“津波流倒記”と刻まれた石碑が建っている(Fig.8a). その碑文に越賀の状況が詳しく記録されており, 次に越賀愛郷会によって解読されたもの(原文は漢文)を示す.
 「一, 維れ時嘉永七, 安政改元寅十一月四日辰下刻大地震に付, 道路打破れ, 浜は踏込み, 井戸水濁減, 驚怖之内, 暫時津浪満寄せ, 程なく潮干去り, 常々見えざる底瀬相見え, 汐干凡そ三, 四尋有る所相顕哉, 未申(南西)方より山の如く高さ三丈許りの大波湧出し矢の如く当村え押還し, 波先五, 六丁程込入り, 御高札場及普門寺相倒れ, 在家二十一軒, 納屋十四ヶ所, 土蔵ニヶ所流失, 又二十四軒, 土蔵六ヶ所大潰並破損, 常舞台は神砥祗の加護にや無事, 浜辺筋田地砂入, 大荒二町三反八畝十七歩, 畑三反十四畝, 船数四十一艘流失 同破船, 網類百二十丈, 溺死三人, 誠に肝をひやし, 親子尋る問なく家財打捨て, 着た儘我先を高所へ逃去り音声四方に響く喧しき事記し難く, 毎夜野宿, 小屋住居, 其時只奉仰神仏の御威光のみ, 翌年夘四月迄折々震動あれ共時日を記せず. 向後若し大地震あらば, 火消し置き, 財宝に迷はず, 老人子供は勿論, 有合せの喰物持参の上, 早々高所へ退き, 夜中は猶又油断なく, 慾に迷はば身命危しと平生心得べし, 依て此事実を紙冊に残さんと慾すれ共, 朽ち易き故, 今愚昧の乱毫を染め石に勒して来世の一助に備へんとす. 恐らくは後世の人予の微志の拙きを謗り給わん事を顧みず, 爰に誌し置く者也.
 安政二乙夘五月 小川良忠謹誌」
 この記録によると, 越賀では津波は押し波で始まり, 津波の高さは9m, 浜から500〜600mも浸水した. 港付近の地形からみて(集落は比較的高台にある), 津波の高さは記録通り9m近くに達したであろう. そのほか被災家の1軒1軒の氏名が記録されている.
 また, 殿様や廻船問屋から救援金物資が配分された村に, 御座・布施田・片田・船越・波切・間崎・浜島・迫子・鵜方・坂崎の名が連なり, (御救金配当帳, 志摩町教育委員会)志摩沿岸一帯が安政津波で大きな被害を受けたことが理解できる.

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地図 Fig.8. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Koshiga (unit:m).
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写真 Fig.8a. Monument of the 1854 Ansei tsunami at the Daizouji Temple in Koshiga. inundation height was 9m and 3 persons were drowned. The instructive experiences of means of refuge are also written.

五ケ所湾(Fig.9)

 五ケ所湾沿岸は, しばしば津波・高潮の災害を受けてきた. 1944年津波では湾奥の五ヶ所浦で浸水家屋170, 流失家3を記録し, 伊勢湾台風のときも防潮堤の未完成のところから町に浸水した. また, チリ津波も町に浸水し, 養殖真珠に潰滅的な打撃を与えた. 現在, Fig 9aに示すような防潮堤が町を包むように延々と築かれている. これら津波・高潮の潮位上昇は, いずれも3m程度であったが, 安政津波の高さは, さらに上回ったことは次に示す“西浜家文書(嘉永七年大地震大津浪見舞控)”から明らかである.
 「六月天王まつりをいたし候節, 其時十四日夜八ツ時大地震ゆりしが, 其節には此へんは無別条候しが, 則其冬霜月四日五ツ時大地震ゆり, すぐさま五ツ半時より大津波之事. 浦方三十軒もながれ, 外に塩天井迄附家三十軒も有之. 尚又, 山方も家かず弐十軒もながれ, 外に塩天井迄附侯家十四五軒も有之しが, 其時には我家は納屋共ながれずゆゑ本之屋敷に居住致し, 尤高塩は天井迄附, 隠居深八屋敷迄いろいろはこび致しが, 隠居之ゆか二尺も阿がり候ゆゑ, 此上其大地震ゆり候節は, すくさま○屋敷迄上る事第一也.
 尚々末代に至る迄第一に聞つたへる也(後略)」.
 漁港西側の護岸天端をハンドレベルで測ると, 平均海水面上約1.2mあり(防潮壁の高さはその上約2m), 潮が家の天井についたことから, 津波の高さは4.5〜5mと推定される.
 神津佐では, 徳田家文書“為地震津浪心得謹世残”によると, 「家の流ハ十八九軒, 塩のついたは廿四五軒よ, 人のしんだわ二人か三人」とあり, 津波の高さは宮のまわりで一丈, 後河内では九尺, 本広田・楠ガ谷の麦田も浸水した, と記録されている. 神津佐川河口の水準点は2.1mであり, 津波はこの川をのぼり集落の低地に溢れたことから, 波高は記録通り5〜6mとみなせよう.
 湾口の相賀浦では, 桂雲寺の過去帳に次のように記録された.
 「此年十一月四日大地震大津浪, ヒル五ツ時大地震. 引続大津浪, 村内半分床へ水付, 村中皆氏神へ登ル助カル. 一人モ不死, 近村ノ人死. 大向井ノ橋石段共ニ崩レ落.
 夘春迄汐大満, 寅十一月より中小ノ地震不絶. 寺モ方丈前迄波来石面迄来ル. 後ロノ石垣崩落ル. 行山(僧名)荒増ヲ此ニ記置ク」.
 桂雲寺は砂丘の裏側にあって, 現在, 砂丘に高い防潮堤が築かれている. 境内の地盤高をハンドレベルで測ると, 平均海水面上1.6mあり, 津波は潟に通ずる水路から流れこみ, 境内に溢れたのであろう, 集落で床上浸水していることから, 津波の高さは4m程度と推定される.
 そのほか田曾浦で4〜5m, 迫間浦では4.5mとみなされ, 五ヶ所湾内の波高分布は, 湾口の波高より湾奥が大きい. 各浦々の奥深く浸水したことから, 安政津波の周期がかなり長いことを考えさせる. ちなみに, 1960年チリ津波では, 平均して湾口で2m, 湾奥では3.3mであった.
 宝永津波は, 湾内各地の水死者が安政津波より上回ったが, 流失家数は同じ程度であった. 波高は安政津波と似たようなものであろう.

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地図 Fig.9. Distribution of the inundation heights of the 1854 Ansei tsunami in Gokasho Bay (unit:m).
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写真 Fig.9a. General view of the sea wall which surrounds the Gokasho town. At the time of the 1854 Ansei tsunami, the tsunami inundated 3m on land.

贄浦(Fig. 10)

 宝永・安政津波をはじめ1944年津波も激しく贄浦を襲い, 災害を繰り返してきた. 真南に向いた湾奥の集落は, 外洋からの風浪をまともに受けやすい地理的条件もあって, 現在町並みをかくすほどの高い防潮堤が延々と連なり, その前面にはテトラが高々と積み上げられている(Fig. 10a).
 安政津波の記録に, 贄浦庄屋西川甚左衛門義智の手記があり, 浸水潮位を知る事項を抜粋すると次の通りである.
 「此度の津波在所の真中中世古の辺にて汐の高さ凡一丈二尺程」, 「浦の浜吉蔵吉助善六居宅の近辺にて汐の高さ一丈四五尺程尤家の屋根上一ぱい漬り」, 「庄屋の宅にて浪の高凡八尺」, 「薬師堂床より三尺計潮漬り」, 「次郎三郎右衛道大道の所より最明寺の門前田の所二枚目田半分頃迄浪先来る此処限り浪上り不申」. このほか各戸の床上浸水の高さがこまごまと記録され, 集落内の波高分布が再現できるはど詳しい. 当時105戸のうち67戸が流失しており, 地盤高から判断して津波の高さは6m, 局地的にはさらに上回ったところもあったであろう.
 最明寺の山門脇に, 安政と宝永の津波碑が並んで建っている(Fig.10b). 安政津波の碑文は次のように刻まれている.
 「宝永四年丁亥十月四日有突浪村人溺死者六十人余 今年値一百五十年忌依之拝請隣刹之老翁宿於前浜修大施餓飢以営追福村中善男女亦施浄財助其供養者也
 嘉永七年寅十一月四日己刻大地震又有突浪溺死者三人民家六十余流出破損不知数也. 大地震則有突浪古今相同後人宣知之也
 安政三丙辰十月
  庄屋 西川甚左衛門
  当役肝煎 中村吉良兵衛
  同    楠崎 吉蔵」
 宝永津波に比べて,安政津波の犠牲者は幸い少なくすんだ. これは「此度の地震津浪は何の間も無之即刻の事何をする間もなく只々命夫切と心得着のみ着のまゝにし遁候」と記録にあるように, 住民がいち早く高台に避難したからであろう. 恐らく, 津波は比較的ゆるやかに陸上に溢れたものと思われる.
 なお, 「十一月四日津浪頃より天気旬気崩れたる物か汐満干順に無之小汐にても大汐同様高満ち有平年七月盆の頃汐同様高満也」, 「去年津浪ノ後潮高満致し尤去年迄平年満上り汐トハ三四尺モ高満ノ様思也」とあり, 地盤沈降が記録された.
 一方, 宝永津波も贄浦を激しく襲い, 庄屋から代官に報告した記録によると, 94戸のうち85戸が流失し, 482人のうち55人が流死, 漁船・漁網が多数流された. そのほか「浜島ニて浪打きわに而汐高ク三丈七尺ほと, 在所奥へ汐差込百五十問余」ともある. 最明寺にある宝永津波碑は安政津波のものと同じく, 安政三年に建てられ. 碑文は次の通り.
 「宝永四年丁亥冬十月四日午刻大地震之後高浪振起当浦家不残流出而男女六十人計溺死
也今此経塚之処迄浪到也後来若有大地震老必可知高浪来也為後鑑記焉 為溺死亡霊菩提」
 この石碑は最明寺境内より一段下, 現在の保育園(旧小学校)裏の集落より高いところにある. 宝永津波がこの経塚まできたということで, ハンドレベルで地盤高を測ると, 平均海水面上7.2mある.
 贄浦の東隣り, 慥柄浦では安政津波のとき西光寺近くの石橋まで波先がきた, という記録がある. その地盤高は防潮堤の天端面と大体同じレベルにあり,平均海水面上6.9mと測定された. しかし贄湾奥の道方・阿曾浦では細い水路奥にあることから, 津波の被害は受けず, 2〜3mの波高であった.

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地図 Fig.10. Distribution of the inundation heights of the 1854 Ansei tsunami in Nie Bay (unit:m).
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写真 Fig.10a. General view of the sea wall which surrounds Nieura town. Inundation heights were as follows; the 1707 Hoei tsunami: 7-8m, the 1854 Ansei tsunami: 6m, and the 1944 Tonankai tsunami: 5m.
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写真 Fig.10b. Religious monuments of the 1854 Ansei(1eft side) and 1707 Hoei(right side) tsunamis at the Saimyoji Temp1e in Nieura. The number of drowned persons of the tsunamis in 1707 and 1854 were 55 an

神前浦(Fig.11)

 1944年津波は地震の15分後に街を襲い, 山の根まで達した津波は6〜6.7mと測定された. 海岸近くの市街の361戸が流失倒潰し, 旧吉津村全村で39人の水死者を出した. 紀勢町錦につぐ犠牲者である.
 宝永・安政津波の記録は, 昭和31年ごろ吉津中学校小山堅司氏によって集められ, “吉津町災害史”に詳しく紹介されている. そのなかから安政津波の記事を抜粋すると次のようである.
 「海面は泥の如く湧起り一の浪, 浦間一面に寄来り村内の川口小■(言+通)より湧出る水勢夥し余りの急事なれば何を持出す暇もなし, 着の儘にて老若男女命を助る. 此時の浪は神前浦にては地蔵院の本堂の地形ひたひたに流入二の浪三の浪と次第に低く相成七,八度と寄来候, 上地は天王下の地形より一尺余り低く下谷は寺古屋敷ひたひたにて此度一の浪高さは凡一丈七, 八位也」
 そのほか飛鳥明神の鳥居より門口まで浸水, 弁財天は無事, 氏神大鳥居倒れ, 小鳥居流失, 大日堂も流失, 館殿の居宅座敷・土蔵・納屋のこらず流失とある. 津波はかなり速い流速で村山川を遡上して低地に溢れたのであろうが, 水死者は神前浦と村山地区を合せて僅かに5名に止まった. 浸水状況は1944年津波と似ており,津波の高さは7mと推定される.
 一方, 宝永津波も神前浦に潰減的な打撃を与え, 流家147, 水死者55を記録した. その波高は安政津波と大差なく, 7m程度であろう. こうした再三にわたり津波災害を受けてきたことから, 現在, 港付近は町並みをかくすほどの高い防潮堤が築かれ, 港には水門が備えてある.


古和浦(F1g.11)
 1944年津波は古和川を遡上し, 橋付近で津波の高さは6mにも達し, 250戸が流失, 24人の水死者を出したが, 高台の小学校, 甘露寺は浸水を免かれた. 甘露寺門前には“津波供養宝塔”と刻まれた石碑が建ち(Fig.11a), 当時の惨状を伝えている.
 一方, 安政津波も集落深く侵入し, 「人家凡二百五十軒許の浦方に候処皆々流失, 相のこり候処○二十軒許も有之候」とある. また, 2階にも波来り, 家が浮上がったと記録されているが, 水死者は5人にとどまった. これは, 同年6月14日の伊賀地震以後, 住民が津波を警戒していたことが幸いし, 「此度も地震の初めより誰教えることなく, 子供より騒ぎ立ち山に登りし故, 如斯之大津波にも死人少く」とある.
 宝永津波については, 流失家138, 水死者65という記録があるが, 詳しいことは判らない. 甘露寺の境内には, “三界萬霊”と刻まれた宝永津波の供養碑がある(Fig.11b).
 被害状況から, 宝永・安政津波の高さは1944年津波と大差なく, 6〜7m程度であろう.


新桑竈(Fig.11)
 “地震津浪記, 勢州田丸領慥柄組, 新桑竈”と題した安政津波の記録が残っている. 古文書は全体で65枚からなり, 各戸の被害記事のほかに, 救済金・物資の配布先がこと細かく記録されている. このなかで延宝6年(1678年)9月19日と安政2年8月の高潮災害も記録されている. この文書は地震史料にもなく, 今回全文を解読したが, 来襲時の状況は次の通りである.
「地震動揺之間ハ煙草三ふく位の内なり, ゆりやんで煙草五ふく位の間ありて大津浪となり, 別書之通家居諸道具ハ勿論流失損亡相成申候」.
 津波は地震後10〜15分ぐらいして, 押しよせてきたのであろう. 総戸数20軒のうち16軒が流失, 4軒が浸水しており, 津波の高さは5m程度あったようである.
同年6月13日昼八ツ時に地震があり, 14日夜四ツ頃大地震, 15日(伊賀地震)には食物衣類諸道具を高台に運び, 津波を警戒したともある. そのほか12月5日の南海道地震も次のように記録された.
「七ツ頃中地震ゆり候処其時も汐先寺之前迄来候, 文吾方床を流し候」とある. 津波の高さは2〜
3mあったらしい. 宝永津波は家26と記録され, 潰滅的な打撃を受けた.
 明治32年(1899年)3月7日, 奈良県南部におきた地震(M=7.6)で三重県南部に大きな被害をもたらした. 津波はなかったが, この地震を契機に新桑篭では集落の高台移転を決意し, 2年の間に大半の家が高台に移転した. その経過を区長島田多蔵氏らが記録した文書“明治三十二亥年四月家屋移転始末書 島津村第一区大字新桑寵”がある. 明治29年三陸大津波の直後でもあり, 村をあげてこの難事業を決意させたのであろう.
 現在, 漁港護岸には防潮壁が築かれ, その後方に明治時代に作られた石積みの築堤の名残りがある.

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地図 Fig.11. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami in Kamisaki and Kowa bays (unit:m).
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写真 Fig.11a. Religious monument of the 1944 Tonankai tsunami at the Kanroji Temple in Kowa. 28 persons were drowned in this village.
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写真 Fig.11b. Religious monument of the 1707 Hoei tsunami at the Kanroji Temple in Kowa. 65 persons were drowed by the 1707 tsunami.

錦(Fig.12)

 1944年津波による水死者は64人を数え, 熊野灘沿岸で最高を記録し, 宝永・安政津波による犠牲者を上回った. 津波の高さは6m, 地上からでも4mの水位で集落に溢れたのである. 被災直後に調査した表(1946)が指摘しているように, 市街地の背面に山がせまり, 避難路が河川に沿う低地という悪条件で, 避難中にかくも多数の人が波に呑まれた. 宝永・安政津波の教訓が不幸にも生かせなかった. 港を見おろす高台の金蔵寺境内に“大震粛災記念碑”と刻んだ石碑が建ち(Fig.12a), 次のように記してある.
 「来襲の時地震 昭和十九年十二月七日
津浪同 日午後一時五十二分
 津浪の高さ 漁業組合市場浜 四米八四
角町五米一五
第二火見櫓五米四五
死者 六十四名
避難所 浅間神杜 錦神杜 忠魂碑
金蔵寺保育所 錦小学校
被害家屋 倒壊流失 四百四十七
半壊 六十五 浸水壱百七十
農地の被害田 四十三反
畑 九十九反 農道一粁
漁具の被害 船四十六隻 破損五十五隻
漁網十七統
昭和二十九年十二月七日建之、
錦町々長 坂口久之進」
 一方, 安政津波については, “錦村郷土読本”に記録が集録されており「巳ノ上刻ニ至ツテ津浪起リ磯辺ニ湧出デ上ルコト凡二丈余」とある. また, 氏神牛頭天皇杜殿が流失, 釜上里も皆流れ, 寺下通りの家は破損したが流れなかったとある. 水死者は9人で, 金蔵寺境内に“津波流死塔”と刻んだ供養碑が建ち(Fig.12b), 次のように記してある.
 「嘉永第七甲寅年霜月四日辰下刻大地震亘, 巳之上刻津波入, 此時弐丈余満. 以後大地震有之節者, 火事津波亦可得心者也 錦江山十五代 覚林叟建之 維時 安政二乙卯七月仏歓喜日」.
 宝永津波についてははっきりしないが, 水死者は25人と記録されている. 宝永・安政津波の高さは, 1944年津波と同様に6mぐらいであろう.


長島(Fig.12)
 1944年津波は3〜4mの波高と測定され, 周辺の地域よりも低い. しかし, 市街地が河口に面した低地(山手側にある水準点3.0m)であるため, 100戸以上が浸水, 12戸が流失, 2名が水死した.
 一方, 宝永・安政津波も町の大半を流し, 水死者を葬った両津波の供養碑が仏光寺境内に建っている(Fig.12c). 慶応元年に仏光寺住職が書き残した安政津波の記録の一説に次のようにある.
 「十一月四日 朝辰下刻亦地大震諸方之山嶽崩人家土蔵至欲値仆其土塵恰如霞直至巳上刻津波起乎海汀湧出其勢蹴天高二丈余自夫別海面興陸地漲流低地甚疾矣於長島人家流失者五百余軒」
 震度5程度の強い地震動に見舞れているが, 津波は大きな波3回, 第2波目が最大で地上60cmほどに溢れ, 仏光寺門前に漂流物が集まった. 500戸の家が流れたことから, 海岸付近では5m近くの波高が見積もれ, 流速もかなり大きかったらしい. いま仏光寺山門にある数本の松は, 漂流物を防ぐために津波直後に植えられたという. そのほか, 安政地震によって, 60cmぐらい地盤が沈下したという記録がある.
 宝永津波については, 詳しい記録はないが, “津波流死塔”と刻まれた石碑に次のように記してある.
 「宝永四丁亥十月四日未上刻大地震適ニ津波入在中残流去基上五百余人流死仕候自今後大地震時者覚悟可有事」
 大半の家が流れたことから, 津波の高さは5mぐらい, 局地的にはこれを越えたところもあろう. なお, 長島郷土史によると, 慶長9年の津波では「人家流失に至らず」とある. この津波は西伊豆・新居・伊勢大湊に大きな被害を与え, 安政津波の挙動と似ているが, 長島では軽微であったようである.

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地図 Fig.12. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Nishiki and Nagashima (unit:m).
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写真 Fig.12a. Monument of the 1944 Tonankai tsunami at the Kinzouji Temple in Nishiki. The village suffered severe damage and 64 persons were drowned.
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写真 Fig.12b. Religious monument of the 1854 Ansei tsunami at the Kinzoji Temple in Nishiki. The writing says that the inundation height was about 6m and 9 persons were drowned.
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写真 Fig.12c. Religious monuments of the tsunamis of 1707 Hoei (right side) and 1854 Ansei (midd1e) at Nagashima. The tsunamis inundated the whole town and 500 and 23 persons were drowned by the tsunamis i

引本(Fig.13)

 1944年津波の高さは3〜4mと測定され, 湾奥の尾鷲・矢口の半分程度であるが, 市街地が低地のため37戸が流失し, 360戸が浸水した. 安政津波も集落に浸水し, 吉祥院の過去帳に次のように記してある.
 「霜月四日安政大地震より津浪寄在中へ揚り高壱丈五尺余, 人家大破○○○○流失, 直ヲ八ツ(14時ごろ)頃平穏也. 翌日又大地震浪壱丈余上ルトナリ(中略). 本堂裏手より浪押入○庭上二尺余浪水来也. 后日裏手石垣ヲ築ベシ, 流失ノ家ハ九軒程(中略). 寺ニ住ムモ別条ナシ. 海辺ヨリ本堂迄之高サ二丈五尺余アリ因寺内無事ナリ」
 また, 山門前に建つ石碑(Fig.13a)には, 次のように刻まれている.
 「安政元年寅六月十四日大地震, 霜月四日朝四ツ時大地震, 直様津浪在中江入, 尚巳前宝永四年亥霜月四日にかく変あり. 後来右の変ある節は早速ニ寺江にげへき事, 依之心得のため此石ふミを建置者也」.
 境内に60cmほど潮が上がり, 津波の高さは4.5mとあるから, 市街地のほとんど全域に浸水したとみなせよう. さらに過去帳には6月15日の伊賀地震のことも記録されており, そのとき住民は津波を恐れて寺に避難している. また地震は21日ごろまでに4〜5回あったことも書かれている.
 相賀から引本に通じる渡利の道路脇にも, “奉石書仏経宝塔”と刻んだ安政津波碑がある(Fig.13b). 文久元年に建てられたものであるが, 碑文の一部に次のようにある.
 「安政元甲寅六月十四日夜八ツ時諸国一同大地震続, 十一月四日朝五ツ時大知志ん, 直ニたかなみ海辺の浦ニおし入, 人家なミニ引たふされ, なミニたゝよひ死する人, 宝永の時ニ同し(後略)」.
 引本は河口付近にあって, 前面に砂洲が広がり, 毎回津波の高さは周辺地域と比ぺて小さい. 津波の勢力が河川流域に集中し, 相賀の集落に津波が広域に溢れた. 現在, 河口に面した海岸には, 街並みをかくすほどの高い防潮壁が築かれている.


尾鷲(Fig.13)
 宝永津波をはじめ, 過去3回の津波が人口稠密な市街地を襲い, 潰滅的な災害を繰り返してきた. 1944年津波は港付近で局地的に8〜10mの高さに達し, 全戸数の6割にあたる2,326戸を流失半壌させ, 38人の犠牲者を出した. ガレキの山と変りはてた市街地の惨状を示す数葉の写真は, 津波の猛威をいまも生々しく伝えている.
 安政津波は, 1944年津波の惨事をさらに上回り, 市街地の9割近くを洗い流し, 201人の生命を奪った. そのときの状況を詳しく記録した若林太沖の手記“津波の記”が地震史料に集録されている. それによると, 津波ははじめ静かに盛り上がるように溢れた状況が次のようにある.
 「地震後半時には足ざるに, 投石島より半町ばかり沖と思ふ海面より潮の湧出るさまあかみをおびて追々強くなるにつけ, 人々つなみなることを知りて詞を伝へ, 追々に我も人も逃出しぬ」. また「追々湧重なり, 溢るゝ故に, 遂には急流の如く湖を覚ゆ」ともある. この手記から, 浸水域の手掛かりをひろい出すと次のようである.
金剛寺:鐘楼ならびに薬師堂大破, 本堂庫裏床上3尺浸水.
祐専寺:本堂無難, 庫裏大破.
光円寺:安性寺の2寺とも流失.
常声寺:良源寺の2寺とも無難.
氏神:無難
中川:杉の瀬まで, 計知川坂場まで, 矢の川檜の谷出合まで.
矢ノ浜:地下蔵の下まで21軒流失, 氏神杜流失, 円通寺半潰.
 これらの記録から, 尾鷲市街の浸水域はFig.13に示すように推定され, 1944年津波の場合(表, 1946)よりやや広域である. また, 「浪高1丈8尺」とも記録にあることや, 浸水域の広がりから津波の高さは6m, 局地的には10m近くに達したとみなせよう. そのほか尾鷲湾南岸の向井・大曾根浦・行野浦では無事と記録されており, 津波の高さは4m程度に推定される. 尾鷲湾内の波高分布のパターンは, 1944年津波の場合とかなり似ていると言えよう.
 一方, 宝永津波については, 尾鷲組の流失家屋641軒, 流死530余人と記録されている(尾鷲市史). 市街を見渡せる高台の馬越墓地に“経塚 三界萬霊”と深々と刻まれた津波碑が建っている(Fig.13c). これは, 正徳3年(1713年)に建てられたもので, 現在尾鷲市の文化財に指定されている. 3面に刻まれた碑文は, いまも明瞭に来襲時の状況が読みとれ, 宝永津波を理解する上で, きわめて費重な記録である. 次に尾鷲市郷土館長伊藤良氏が解読した全文を示す.
 「宝永丁亥冬十月初四日南海路地大震有山邑山崩圧邑者有水郷波起漂流村落者殊尾鷲邑老開水道於左右前面海広背後山高故怒濤自三面競起而廻避無方(土+頁)尅之間而男女老幼溺死者千有余人居民■有子遺屍積如山矣鳴呼痛哉無数生霊乃作泉下之人于?良源嵓上人憐無依之鬼興無縁之慈立塔普度由是乞銘於余目為銘曰
 大地震動山崩海揚怒濤圧邑廻避無方男女老幼流漂大洋遽然不返見者断膓摠老立塔普度群凶願依此徳同登覚場 正徳癸巳孟冬四仆 良源絶舘立万 永泉師心謹誌」
 以上のように, 地震で山崩れをおこし, 地震動もかなり激しかったことから, 震度5と推定される. 水死者が1,000余人とあるのは, 全滅したとみなされている堀北浦地区を加えての総数で, 屍が山のように積まれた惨状はまことに痛ましい. 津波が山の根までに達していることから, 波高は局地的に10mを越えたであろう.
 被害を免かれたものは「野地村30軒, 林浦20軒余, 矢浜村は半分, 天満浦は過半流れ, 水地浦は少々, 九木浦は浜場が流失, 須賀利浦もその半分が流失」という. これらの被害状況から, 湾内の波高分布は, 安政・昭和の津波と似たようなパターンとみなせよう.

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地図 Fig.13. Distribution of the inundation heights of the 1854 Ansei tsunami in Owase Bay(unit; m). The inundation area in Owase is also shown.
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写真 Fig.13a. Monument of the 1854 Ansei tsunami at the Kichijoin Temple in Hikimoto. It says that the 1707 Hoei and 1854 Ansei tsunamis ran into the village and invites the villagers to run into this temp
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写真 Fig.13b. Monument of the 1854 Ansei tsunami at Watari. The writing says the tsunami ran into the village and a few persons were drowned.
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写真 Fig.13c. Religious monument of the 1707 Hoei tsunami at Owase. The writing says that the tsunami ran into the town and about 1,000 persons were drowned.

二木島(Fig.14)

 1944年津波では,7.1mという大きな波高が測定されたが, 賀田のような大被害にはならなかった. これは, 集落が湾奥の南岸ぞいに並び, 裏手に山がせまり, 津波が定常波的な性質を示し流速が比較的小さかったからであろう. 伊勢湾台風後, 熊野灘沿岸各地の漁港には防潮壁が築かれてきたが, その1例としてFig.14aに二木島漁港の防潮壁を示す. 一方, 安政津波では浪高3丈, 流失を免かれた家は28軒であったという. Fig.14aに示す町並みの中ほどに観音堂があり, ここに津波が3度浸水し, 屋上の擬宝珠下まで潮位が上がったが, 流失を免かれた(地震史料). そのほか1944年津波は当時の村長宅の石段に溢れ, その潮位は安政津波より4〜5尺低いと伝えられている. これらの記録から, 安政津波の高さは8mと推定できよう.


新鹿(Fig.14)
 湾奥の河口の低地に発展した集落は, 津波災害を繰り返し, その都度, 熊野灘沿岸で最高波高を記録してきた. 1944年津波では流家146戸, 水死者13人, 津波の高さは8.4mと測定された. 郵便局付近に住民が建てた津波碑(Fig.14b)に, 次のように記してある.
 「昭和十九年十二月七日午後一時頃大地震あり, 大津浪が押しよせ死者十六名流家百五十一戸の被害を受け, 時恰も大東亜戦争中衣食窮乏の最中故真に生地獄の有様でありました. 若し夜中であったら恐らく何百人と言ふ死者を出したと思います. 大地震の時は先づ海に耳目を向けて下さい, くれぐれも
昭和二十六年六十一才厄払為 吉田慶三」
 安政津波は地震後間もなく押しよせ, 7〜8回, 大きな波3回, そのときの状況は「池中の水地上に湧くが如く」と記録され, 集落の8分通りが流失した(地震史料). 鉄道の山手側の民家の石垣に, 「津波留 嘉永七寅十一月四日昼五ツ時, 海辺ヨリ凡三丈 井本屋」と刻んだ大きな石がはめこまれてある(Fig.14c). 安政津波はこの場所まで押しよせ, 1944年津波の浸水面より1.5m高く(表, 1946), 8〜10mの波高が推定される. なお, 「津波より年暮迄海の汐当浦三尺程増候事」という記録があり, 地震で地盤沈降があったらしい.
 宝永津波については, 詳しいことはわからないが, 家が残らず流れ, 24人が水死しており(南輪内村誌), 津波の高さは安政津波と同じく8〜10mクラスとみなせよう.

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地図 Fig.14. Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami at Nikishima and Atashika (unit: m).
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写真 Fig.14a. View of the sea wall at the Nikishima fishing harbor. The tsunamis in 1854 and 1944 inundated 3-4m on land.
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写真 Fig.14b. Monument of the 1944 Tonankaitsunami at Atashika. The tsunami was 8.4m high and 16 persons were drowned in this village.
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写真 Fig.14c. Monument of the inundation level of the 1854 Ansei tsunami at Atashika(courtesy Y.Tsuji). The sea-1evel is 1.5m higher than that of the 1944 Tonankai tsunami.

熊野

 熊野から新宮に至る約20kmの区間は, 延々と砂丘が連なり, 国道42号線が縦走している. このような単純な地形であるから, 港湾の副振動による波高の増幅といった現象もなく, 1944年津波では3m程度の波高にとどまった. 外洋に面した市街地は地盤高10mの高台にあり, 津波の被害は受けたかった. 安政津波についても, 熊野(旧木本町)では「流家なし」と記録されている. 恐らく, 1944年津波の波高と同程度であったであろう.
 新宮以南の和歌山県下の勝浦・浦神付近では, 再び地形がいりくむリヤス式海岸で, 1944年津波をはじめ, 宝永・安政津波の被災記録を残している.

4. 各津波の波高分布

 伊勢湾から熊野灘沿岸に至る各地の宝永・安政津波の推定波高と, 1944年東南海津波の実測波高書Fig.15に示す. 波高の分布パタ一ンはFig.16のようになる.
 まず1944年津波と安政津波の波高を比べると, 熊野灘沿岸ではそれぞれ新鹿と神前付近にピークがあって, 分布パターンがよく似ている. 共通点の波高比は, 安政津波の波高が1944年津波のものより平均して1.2倍ほど大きい.
 しかし, 伊勢・志摩沿岸では様子がかなり異なり, 1944年津波の波高がこの地域で2〜3mにとどまったのに対し, 安政津波は平均して2.4倍も上回っている. 安政津波は志摩沿岸で10㎜近い波高に達したところもあり,犠牲者を葬った供養碑を建てられたことからも, 大きな津波に襲われたことが理解できよう. なお, 12月5日の安政南海道津波が, 熊野灘沿岸で2m程度の波高があったことも, 各地の記録から明白になった.
 一方, 宝永津波も, 熊野灘沿岸では安政津波とよく似た波高の分布パターンがみられる. 波高の推定値に幅があるけれども, 安政津波の波高よりも平均して1割程度大きい. 伊勢・志摩沿岸では, データは少ないが, 大湊・国府の記録は安政津波のものと似ており, 1944年津波より波高が大幅に上回ったことは疑いない.

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地図 Fig.15. Distributions of the inundation heights of the Tokai tsunamis of 1707. 1854 and 1944 (unit: m).
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地図 Fig.16. Comparison of the inundation heights of the 1944 Tonankai tsunami with those of the 1707 Hoei and 1854 Ansei Tokai tsunamis.

5.むすび

 三重県沿岸各地における宝永安政津波の史料を集め, 安政津波のほか, まだあまり知られていない宝永津波の記録を紹介した. これらの記録をもとに, 各地の津波の高さ, 浸水域の広がりを現地調査した.
 宝永・安政津波の波高を1944年東南海津波のものと比べると, 熊野灘沿岸では安政津波は1.2倍, 宝永津波では1.3倍ほど大きい. しかし, それぞれの波高分布のパターン
はよく似ており, 神前・新鹿付近にピークがある. また, 尾鷲・五ヶ所湾など湾内の波高分布も似ている, 1944年津波の周期は約20分であったが, 宝永・安政津波の周期も同じような長周期波であったことを考えさせる.
 一方, 注目すべきことは, 伊勢・志摩沿岸で安政津波の波高が1944年東南海津波のものより局地的には3倍, 平均して2.4倍も大きいことである. また, 宝永津波の波高も, この地域で安政津波同様に大きい. これは, 両津波の波源域が熊野灘から東海沖に伸びていることを暗示する. 検潮データから, 1944年津波の波源域は志摩沖, 大きく見積っても浜名湖沖どまりであるが(羽鳥, 1974), 安政津波の場合, 静岡県報告から波源域の東端が駿河湾奥まで伸びていたことは明白であり(羽鳥, 1976), 今回の調査結果もこの見方を支持していると思われる. また, 宝永津波の波源域も, 伊勢・志摩の波高分布から, 東海沖に伸びていたことが理解できる.
 宝永・安政津波の被災直後に犠牲者を葬った供養碑が浦々に建てられ, いまも寺院の境内や道路脇にみられる. しかし, こうした教訓が生かされず, 1944年東南海津波では錦・古和などの地域で安政津波を上回る犠牲者を出してきた. 1959年の伊勢湾台風後, 各港湾に高い防潮壁を築くなど対策が講じられてきたが, 海岸に直交した津波避難道路の整備など, 対策の見直しが望まれる. 将来, 駿河湾口付近に大地震が発生して, 波源域が御前崎から遠州灘に伸びるようなことになれば, 熊野灘沿岸のみならず伊勢・志摩沿岸も津波の影響圏内にはいる. 伊勢・志摩沿岸では, この120有余年おおきな津波に襲われたこともなく, その対策には宝永・安政津波の記録から学ぶことが多い.

謝辞

 本調査にあたり, 三重県伊勢市・二見町・鳥羽市・阿児町・志摩町・南勢町・南島町・紀勢町。紀伊長島町・尾鷲市・熊野市の各教育委員会から多数の資料が提供された. 尾鷲郷土館伊藤 良氏はじめ, 各教育委員会の方々から津波碑の碑文を解読して頂いた. また, 現地調査には梶浦欣二郎教授・相田 勇講師にいろいろお世話になり, 有益な助言も頂いた. ここに記して関係各位に厚く御礼し, 感謝の意を表します.

文献

中央気象台, 1945, 昭和19年12月7日東南海大地震調査概報, pp. 1-94.
羽鳥徳太郎, 1974, 東海・南海道沖における大津波の波源─1944年東南海, 1946年南海道津波波源の再検討と宝永・安政大津波の規模と波源域の推定, 地震2, 27, 10-24.
羽鳥徳太郎, 1975, 明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源, 地震研究所彙報, 50, 171-185,
羽鳥徳太郎, 1976, 安政地震 (1854年12月23日)における東海地方の津波・地殻変動の記録─明治25年静岡県下26ヵ町村役場の地震報告から, 地震研究所彙報, 51, 13-28.
羽鳥徳太郎, 1977, 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査, 地震研究所彙報, 52, 407-439.
羽鳥徳太郎, 1978, 高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑─1946年南海道津波の挙動との比較, 地震研究所彙報, 53, 273-280.
飯囲汲事, 1977, 昭和19年12月7日東南海地震の震害と震度分布, 愛知県防災会議, 1-120.
文部省震災予防評議会, 1943, 大日本地震史料, 2巻, 震災予防協会.
武者金吉, 1951, 日本地震史料, 毎日新聞社, pp.1-350.
表 俊一郎, 1946, 昭和19年12月7日東南海大地震に伴った津波, 地震研究所彙報, 24, 31-57.
東京大学地震研究所, 1977, 安政元年11月4日東海沖地震に関する静岡県調査報告, 明治26年, pp, 1-20.

66. Field Investigation of the Tokai Tsunamis in 1707 and 1854 along the Mie Coast, East Kii Peninsula.

By Tokutaro HAT0RI,
Earthquake Research Institute.


There are many old monuments of the Tokai tsunamis of Hoei (Oct. 28, 1707) and Ansei (Dec. 23, 1854) along the Mie coast, the Pacific coasts in Central Japan. Most of these monuments were built just after the earthquake to pray for the repose of tha tsunami victims and some indicate the inundation levels of the tsunamis. In the present paper the monuments scattered along the Mie coast are illustrated. Based on descriptions on the monuments, adding new data co11eoted from the present field investigation, inundation heights of the 1707 Hoei and 1854 Ansei tsunamis a1ong the Mie coast are examined in comparison with those of the 1944 Tonankai tsunami.
Inundation heights of the 1854 Ansei tsunami along the Kumano-nada coast, the east of the Kii Peninsula, are 5 to 6 meters with the localized run-up maximum of 8 to 10 meters. The estimated heights of the 1707 Hoei tsunami are almost the same as those of the 1854 Ansei tsunami. The inundation heights of the two higtorical tsunamis are 1.2 times as large as those of the 1944 Tonankai tsunami. Along the Kumano-nada coast, and in Owase and Gokasho bays, etc., the patterns of height distribution of the two historical tsunamis are similar to those of the 1944 tsunami. It is suggested that the three tsunamis have the same long period.
On the contrary along the Ise and Shima coasts facing Ise Bay, northeastern Mie Prefecture, the inundation heights of the two historical tsunamis are average 2.4 times as large as those of the 1944 Tonankai tsunami. Along these districts, the wave heights of the 1944 tsunami were only2 to 3 meters. It suggests that the source areas of the 1707 and 1854 tsunamis extended further to the north-east along the Nankai troughth than that of the 1944 tsunami.