文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

 「災害は忘れた頃に来る」とは故寺田寅彦傅(博?)士の名言である。過去の災害を忘却すれば、将来再び災害を繰り返す結果となる。
 子孫をして過去の災害を記憶せしめる一つの方法として、記念碑の建設がある。併し紀伊半島沿岸の如き多雨多濕の地に於ては、速かに風化して判読さへ不可能の状態となる惧れなしとしない。現に■木浦光明寺に存する碑の如きは辛うじてその半ばを判読し得るに過ぎぬ。
 過去の災害を記憶せしめる、よりよき、恐らくは最良の方法は、記念誌の編纂であらう。紀州には古来かゝる篤志家が少くなかつた。尾鷲の小河嘉兵衛氏、新鹿の坪田氏、北牟婁の若林多中氏を始め、毛綿屋平兵衛、山下竹三郎、水島七郎の諸氏等々、枚挙に暇なき程である。此等の人々は、いづれも優れたる災害記録を後世に残し、一は郷土の防災に貢献すると共に、他方には自分の如き地震の研究者を裨益することの多大なるものがある。
 本書の編者倉本爲一郎氏は、多年郷土史の研究に従事し、学殖極めて豊富なる上に、熱誠無比、加ふるに文筆に長ずる。君が本書の編纂を企図せられたるは、誠に以て其の人を得たりと云ふべきである。
 稿成り之を予に示されたので、早速一読するに、記事頗る詳細にして正確のみならず古来の震浪災より災害時の心得に至るまで、漏らす所なく記述せられ、誠にこの種の記念誌の範とするに足りると思はれる。
 東南海地震に際し、紀州沿岸の被害甚大なりしは実に悲しむべき事であつたが、君が郷土愛の結晶とも云ふべき本書によつて、この地が将来震浪災を免れるやうになれば、不幸なる犠牲者も以て瞑することが出来るであろう。
 求められるがまゝに、蕪辞を連ねて以て序に代へる次第である。


昭和廿四年 晩秋 東都吉祥時の寓居にて
武者金吉識

編者序

 東京都向島區寺寺島町一町目 吉岡医療機製作所の事務室へ、自分に宛てた速達便の端書が投げ込まれた。発信は自宅である。曰く─七ヒジンツナミカタウチリウシツソネカジカブジ─と書いてある。此の一片の端書が、私には不審で堪らない。其れ程の災禍を報らせるのに、何ぜ電報を打たないのか、発信日附を見ると十四日となつてゐる。斯人な急を要する通信を一週間も遅らすとは更に疑問の種である。せっかく手紙を出すなら電文など書かず、もつと詳しく報せて寄こせば良い筈。然かも─カタウチリウシツ─とあるが、あれほど奥の方にある自分の家が流れたとすれば、村の大半は流失したに違ひない。■棒な!そんな筈はあるまい、その證據に─ソネカジカブジ─と書いてあるではないか。賀田が大半流れたとしたら、曽根も梶賀も無事では済むまい。電車の中で空想を描きながら、長男長生の宅(西多广郡福生町熊川)へと急いだ。
 長男は賀田の自宅が流失したのだと主張するが、私には何うしても合点が行かない。前の家は古いし小さいから流れたにしても、裏の本宅は堅牢な上に、五六十センチも高く、2階建であるから、其れ程迄も浪が寄せる筈がない。カタウチリウシツとは、賀田で家屋が僅かに流れたといふ意味であらう等と、善意に解釈もして見た。
 兎に角帰らう……然し戦時中交通制限の爲、自由に切符を買ふ事が出来ぬ、幸末子■(やすし)が横須賀海兵団を退団して、一旦鳥羽の商船学校へ帰る事になつてゐる。早速海兵団へ■を訪問した。其の方は何とかして帰校の切符を求めよ、兎に角其の切符を俺に寄こせ、一刻も猶予ならぬ場合だからと、無理に子供の切符を奪うやうにして汽車に乗つた。
 紀勢東線へ乗り換へると、震害労災の模様が漸次判明して来た。三浦や尾鷲へ来ると、生々しい惨状が眼前に展げられている。賀田へ着いた。惨又惨!家も無ければ屋敷もない。崖から鉄砲州、六河谷、浜通りと、下の方は唯一面の荒磯である。涙も出なけりや言葉も出ない。榎本好文氏(次男悠紀生の嫁守野の父)宅へたどりついた。嫁は─お父さん、位牌も流してしまつて─と唯泣き崩れる計り、後は一同唯無言……
  落ちついてからの話で、疑問の手紙の謎は解けた。賀田郵便電信局は流失の災に遭つて、電報を打つ事も手紙を出すことも出来ない。長島へ救援米を積みに行く船に頼んで、電報を打つて貰ふ事にした。然し長島局でも電報は扱はないといふ。然かも其の人は四十幾通かの打電方を頼まれてゐるので、之を一々手紙に書き換へる暇が無い。止むを得ず電文をハガキに写して出したと云ふ話である。
 其れから丁度今年で四年目、其れ迄にも震災浪害の模様を記録して、後の世の人の為に残して置きたいと思つた事があつた。実は嘗て財団法人震災予防協会の武者金吉先生が、地震や津波に関する古記録採訪の爲めに、弊宅を訪れ、自分の藏書中から良い資料を得たと、喜こんで帰京せられた事があつた。昭和十九年の地震の後で、見舞状を頂いた末尾に、─先年私共が調査に行つたのは今度の地震を予期しての事でした云々─とあつた。私は其時思つたが、地震は予知できるものか、古記録は参考資料として、それ程重要な役割を持つものであらうかと、痛感したのである。
 其の後、寺下憲一氏とも度々話合ひながら、■■日を過した事だが、機至つて今度地震誌編纂の事が実現することになり、私が其の事に当ることとなつたが、当時東都に在て其の眞相を知らず、津浪に対する経験もないので、其の状況を記すことが不可能である。故に村中を廻つた。人々の実驗談を聞いて歩いた。役場に行つて当時の書類を探査した。それ等を集録したのが此の冊子ある。故に文に統一もなければ連絡もない。恰も浪で流失した物資が、一所へ溜つたような感じがする。然し皆の体験記録であつて、空想でもなければ作り話でもない、見たままの実相である。後の世の人々が此の記録によつて、幾らかでも爲になるならば、之に越した喜びはない。二十五の尊い避難死者供養のために、此の一書を残しておく。


昭和二十三年十二月七日


藻の花の香り高き梶賀浦にて
倉本爲一郎 識

一、東南海地震概況

A、昭和十九年十二月七日 東南海地震

 発震は十三時三十六分頃、震原は新宮沖の海底、北は仙台より南は九州宮崎に至るまで、此の地震を感じた、震害の最も大きかつたのは、靜岡、愛知の両縣で、其他倒潰家屋を生じた府縣は、三重、岐阜、大阪、和歌山、滋賀、京都、兵庫、徳島、香川、山梨、長野、福井、石川で、規模が極めて大きな地震であつた。震央に近い熊野地方に於て、震害の殆んど無かつたといふ事は、堅い岩盤の上に位置してゐる爲めであつて、唯新宮市だけが例外であつたといふのは同地の沖積層の厚さが、他の町村よりも厚いのが、原因の一つであつた事も事実であらう。
 津浪は西は土佐の清水から、東は銚子に至る迄の海岸を襲つた、中でも熊野の海岸に於ては、浪高七米から十米位の所もあり、震害は絶無で、浪害が甚大であるといふ、皮肉な結果を生じた。此の地震で新宮は三十センチ、勝浦は四十五センチ、尾鷲は二十センチ、泊は二十センチ、新鹿三十センチ、九鬼は三十センチから五十センチ、松坂は四十センチメートルの沈下をした。
 震害の甚だしかつたのは、地盤の軟弱な土地で、中でも人工埋立の土地に於て、被害が甚大であつた。引本は一米沈下したといふが、先年役場の地図を見て、埋立の部分が多いが、危うい事だといつた処、吏員等は地震や津浪に対して楽観的で、武者氏の警告に耳を籍さなかつたが、今度初めて分かつた事だろう。

B、昭和二十一年十二月二十一日南海道地震

 四時十九分頃、潮岬南々西、約五十キロの海底に発生した地震であつて、十九年の地震よりは一層雄大な地震であつた。損害を被つた範囲は、一府二十四縣に亘つていゐる。
 地震による被害は比較的少なくて、災害は主として津浪に因るものであつたが、特に新宮市は全潰戸数二三九八戸、半潰約一千戸以上、市街の大半は焼失した。被害統計は次の通りである。
全潰一一五〇六、半潰二一九七二、流失二一〇九、浸水三三〇九三、焼失二六〇二、船舶流失破損二九九一、死者一三六二、負傷二六三二、行衛不明一〇二である。
 津浪は紀伊半島の西岸では、大体三乃至五米程度であるし、南端では五十センチから六十センチ隆起し、田辺では却つて沈下して居る。

二、紀州に被害を生じた主なる大地震

A、天武天皇十二年十月十四日 南海道地震

 古書にあらはれた最初の南海道地震である。日本書紀によると「山崩れ河湧き諸國郡の官舎及び百姓の倉屋寺塔神社破壊されたる類勝けて数ふべからず、是に因りて人民及び六畜多く死傷す。時に伊豫の温泉没して出でず、土佐の田苑五十余万頂没して海となる」と出ている。此の地震に続いて沿海の地には津浪が襲来し、調物を運ぶ船が覆没したといふ事である。
 此の日の夜伊豆島(大島ならん)が噴火を始め、多量の溶岩を流したようである。

B、仁和三年七月三十日 南海道地震

 津浪が海辺を襲ひ、特に摂津の海岸を襲つた処を見ると、震原は紀伊半島附近の海底であつたであろう。

C、玄弘元年七月三日 紀伊地震

千里ヶ浜隆起して二十余町陸地となつた。

D、正平十五年十月四日 南海道沖地震

 此の地震は紀伊國が最も強く感じた様である。翌五日のの二十四時頃に再び強震があり、六日の六時頃、尾鷲から兵庫に至るまで沿岸に津浪が打ち寄せて人馬の死んだものその数が知れない程であった。
 震原は熊野沖の海底であろう。

E、正平十六年六月二十四日 南海道沖地震

 此の地震は摂津、大和、紀伊、阿波、山城の國に震害があり、熊野の社頭の仮殿、其他悉く破壊して、湯ノ峯の温泉が止つてしまつた。
 沿岸の地では、津浪の襲ふ所となつたが、被害状況から見ると、震原は紀伊水道の南方あたりかと思はれる。

F、応永十四年十二月十四日の地震

 此の地震は紀伊國熊野及び伊勢地方が最も強く、津浪の襲来があり、本宮の温泉は八十日間湧出が止つた。震原は多分熊野灘であらう。

G、明応七年八月十五日 東海道沖地震

 此れより先、延徳三年及明応元年に伊勢に強い地震があり、次で明応二年に渥美半島に強い地震が二回、更に明応七年四月五日に同半島で強い地震を感じた。之れ等は八月二十五日の大地震の、広い意味に於ける前震と云ふべきであらう。
 紀伊の熊野では、本宮の社殿が倒潰するし、那智の坊舎は崩れ、湯ノ峯の温泉は十月八日まで、四十四日湧出が止つた。
 津浪に襲はれた地域は、紀伊から房總に迄及んだようで、伊勢、志摩、では約一万人溺死したといふ事である。就中伊勢の大湊では、流失家屋一千戸、溺死五千人に及んだそうである。震源は東海道の梢々遠い沖合いの海底であつただろうと推測せられる。

H、永正七年八月八日の地震

 この地震を強く感じたのは、河内、摂津両國であつたが、海辺の地は津浪に襲はれた。震原は紀伊半島附近の海底であつたのだろう。

I、永正十七年三月七日の地震

震害を被つたのは紀伊國で、那智の如意輪堂は■(抉?)れ、浜の宮の寺、本宮の坊舎、新宮の阿■(闕?)堂が倒潰するし、海岸には津浪が押寄せて、民家の流失するものもあつた。震原は熊野灘であろう。

J、慶長九年十二月十六日の地震

 此の地震は古来有数の大地震で、故大森博士は、津浪の区域の広大なる事は我國地震史上稀に見る所であるといはれた如く、東は犬吠崎から西は九州南部に及んで、八丈島の如きも非常な浪害を被つた。
 伊勢の浦々では、地震の後に先づ数町の沖まで汐が引き、次で津浪が襲来したといふ事である。標式的リアス式海岸である志广や熊野沿岸の浪災は、定めし甚大であつたと想像されるが、記録が悉く滅び去つて、今は其の模様を詳細に知る事が出来ない。紀伊西岸の広村では、戸数一七〇〇戸の中七〇〇戸が流失してしまつた。

K、宝永元年の地震

 紀伊の海岸一体に津浪が押寄せて、三輪崎と太地で民家が三十戸流失した。此の津浪は地震津浪か風津浪か明らかではないが、若し地震津浪ならば、震原は恐らく熊野灘の海底で、次の宝永四年の大地震の広義の前震であつたのである。

L、宝永四年十月四日 東海道沖及南海道沖大地震

 慶長九年の大地震と同じやうに、東海道沖と南海道沖とから、殆んど同時に発生した巨大な双子地震で、両地震の時差は数分であつたと推定せられる。
 中でも震害の甚しかつたのは、東海道伊勢湾沿岸と、紀州半島である、紀伊半島の震度は田辺町の被害から推測する事が出来るが、此の地震に伴つた津浪は、九州の東南部から、伊豆半島に至る沿岸の悉くを襲ふた計りでなく、一方は紀伊水道から侵入して、大阪湾及び播磨灘にも達してゐる。
 紀伊の熊野も亦浪害が甚しく中でも尾鷲の如きは千余人の死者を出した。此の地震の伴つた著しい現象は、室戸半島、紀伊半島及遠江の東南部は、南上りの傾動を起こした事である。今村博士の調査によると、室戸崎附近は一.五個目紀伊半島の南端串本では一.二米の隆起を見た。
 この地震の約一ヶ月後に、冨士山が爆発して、宝永火口を形成した。

M、安政元年十一月四日 東海道沖地震

 十一月四日九時頃、遠州灘東部の海底から発生したと推定せられる地震で、規模が頗る雄大であつた。家屋の倒潰した範囲は、伊豆から駿、遠、参、尾の全部と、甲、信、濃、勢、志の大部、近江の東半部、越前の南西部を包含した三六〇〇〇粁平方に及ぶ広範囲である。伊勢國の津及松坂附近も局部的に震動が激烈であつた。
 津浪は房總半島から、土佐の沿岸を襲ひ、莫大な損害を被つた。伊勢湾沿岸では、家屋、船舶の破損流失、堤防の破損等莫大なる被害があつた。特に浪害の著しかつたのは、伊豆の下田と、志摩から紀伊國熊野にかけての沿岸であつた。
 志摩では流失家屋及び荒廃に帰した田畑は多く、死者も少なくなかつた。一二の例を挙げると、甲賀村では浪高十米、鳥羽では比較的浪高が小さくて、五六米だつたらしく、村によつては十米から二十米位の所もあつたといふ事である。
 古和浦では死人は少なかつたが、二五〇戸の中僅かに二〇戸程を残して、他は悉く流失してしまつた。熊野では長島は浪高五米から六米位、八百戸の中八十戸を残して他は流失するし、二木島、新鹿、大泊は熟れも八分通り流失した。
 尾鷲は浪高六米位であつたらしいが、人口の多いのと、道路系統が複雑な爲めに、一四人の死者を出した。先年実地について調査した所によると、遊木浦二木島、甫母寺は、浪高最も大なりしものの如く、熟れも十米位、二木島湾の奥の部分はそれよりも梢高かつたと思はれる。

N、十一月五日 南海道沖地震

 十一月四日の大地震から、約三十二時間を経て、五日十七時頃南海道沖から再び大地震が発生した。振動の強かつたのは、東は伊勢の周辺から、九州の東北端に至る間で、就中、土佐、阿波及び紀伊の南西部は、震動が頗る激烈であり、家屋の倒潰したものも甚だ多かつたのである。
 此の地震に伴つた津浪は、恐らく房總半島から、九州の東岸に至るまでの間を襲ふたのであらうが、紀伊の西岸は非常な損害を蒙つた事と思はれる。紀州広村の浜口梧陵が、己れの稲村に火を放って、村民を救つたのは、この津浪の時の事である。
 紀州領の被害は、倒潰、流失、破損、焼失等によつて、合計二六〇〇〇戸以上、同寺社七二大小の船舶が流失したり、破損したものが一九九二隻、流死六九人、怪我人三三人、荒廃に帰した田畑一六八〇〇〇石余り、紀州田辺藩の領分では、家屋の倒潰、流失、焼失合せて一二二八戸、土蔵の焼失したもの二六四、死者二四であつた。
 此時室戸、紀伊の両半島は、宝永地震の場合と同じやうに、南上りの傾動を起こした。
 今村博士の調査によると、田辺町の附近を東西に走る線を軸として、南側は隆起するし、北側は沈下して、南端の串本で約1、2米隆起、和歌山市外の加太で約一米の沈下を見た。尚此の地震に際して、紀伊半島の鉛山、竜神、峰等の温泉は、一時湧出が止まつてしまつた。

O、明治三十二年三月七日 熊野灘地震

 大森博士の説によると、此の地震の震原は、北緯三三度五〇分、東経一三〇度三〇分の海底で、紀伊、大和及び大阪は地震が強くて、多少の損害があつた。木本、尾鷲両警察署管内を通じて、倒潰家屋三五破損六二、死者七、三重縣全体の負傷者一九九人であつた。

P、明治四十二年十一月十日の地震

 震原は土佐南西端の南方八〇KMの沖合海底で、九州四國地方に被害が多かつた。

三、輪内を襲つた昭和地震と津浪

A、震災浪禍の実相

 其の年は不思議な程海の騒がしい年であつた。秋頃から続いてスブキがあり浜にはザアザアと波の打ち寄せる事が度々あつたり、又小さな津浪かとも思はれる様な浪の来た事もある。
 昔から三兵衛屋の処まで潮が引けば津浪が来ると伝へているのに、近頃はそれ位ではない、潮干狩をする春ともなれば、同家から更に一〇〇米二〇〇米の沖の方迄干潟(崩し字)になつてしまう程であつた。
 近年古川の河底が隆起して浅くなつた事も事実である。明治四十二年から昭和六年迄二十三年間に、北牟?郡船津村の太田沼附近で七センチ、木本町鬼が城附近で十二センチ、潮岬附近で十五センチ程沈下したのに、此の辺だけが隆起するというとゆうのはどうした事かと、不思議に思つた事もあつた。之れが今度の地震の前駆的現象であつたかも知れない。
 昭和十九年十二月七日、今日はいつにない暖かな日である。村の人々は薄着のまゝ山へ浜へ、或は畑仕事にと皆んな出てしまつた。書休みも寛くりすんで、午後の仕事にかゝつて暫らくしてからだつた。ゴウーと云ふ響と共に、山の木の葉は風に揺れる様にユサヽヽとしてきた。丁度一時二十五分である。方々で山鳴がする。其の内地面が揺れ出した。上から大きな石が転げ落ちる(古江道)段々と大揺れに揺れて歩くのに難儀である。然かも其の間が長い。凡そ 二三分も続いたであろう。此の時農業会の庭に積んであつた米俵は転げ落ち、松原薬店の箪笥の上の物は残らず堕ちてしまつたそうである。大河谷の上の方の溝は濁つて来た。松原屋のポンプが息するようにブクヽヽ噴き出したと云ふ。そんな家はまだ他にも有つたとゆう事を聞いた。
 明治三十二年の地震に逢うた人達は、今度は其の時の地震よりも揺れ方が弱かつたので、そう対して驚きもせず、あまり心配もしなかつた。其の内砂浜にヂヤブヽヽヽと漣が打ち寄せるのを見た。五六分たつたと思ふ頃、それよりも大きな波がザアヽヽと岸の方へ寄せて来る。地震で土地が動いたのだから、少々位海の水の騒ぐのは当たり前だ。其れに三十二年の地震の際も、彼れ程の強震でさえ津浪が来なかつたのだから、それ位の地震で津浪が来る筈がないと安心したのが失敗だつた。
 発震後二十分位たつて一時四十五分、今迄靜かだつた海が一時に濁つて来た。海の水は一時にムクヽヽと盛り上つて来る。ソレ津浪だといつて周章ふためきながら右往左往する人の群、子を呼び親を探すわめき声、救いを求める人の叫び、今迄眠つた様に靜だつた平和の世界は一瞬にして修羅の巷と化し、生地獄其の儘の姿に変わつてしまつた。小高い処に難を避けて津浪の襲来する模様を見て居つた人の話を綜合すると。
 海の水が急に嵩を増したと思ふと、淸水館のあたりから小山の様になつて押寄せてきた。初の頃は浪頭三尺位だつたと思はれたが、段々浅い処へ来ると浪が重なり重なつて飛沫をあげ、船場の附近からは一層高くなり、ゴオーと云ふ唸り声を立てながら濁りかえつた水が猛り狂ふ。恰も魔物が何物かに襲ひかゝる様な形相で覆ひ被さつて来た。こんな言葉で其の時の浪の様子をあらわせない。其の時の凄かつた浪の姿を今思い出してもぞつとする。
 大河谷の下流に在つた出馬医院の本宅は見る間に倒れてしまつた。此の時は浪高既に六七米もあつたと思ふ。彼の高い二階建の公会堂の屋根よりも高かつたと思はれる様な浪が、奥へ々ゝと進んで行く。浪にぶつかると、家々軒々は一溜まりもなく倒れて土煙をあげる。眞実に将棋倒しである。波のしぶきと土煙とで、海も空も濛々として向ふはちつとも見えない。
 倒れた家や丸太が泥水に漂ひながら奥へ々ゝと堰かれて行く。浪は鈴河橋を越して大垣から七八百米位の奥まで押寄せて行つた。小字岸(あざきし)の辺から鉄砲州、大河谷、浜通りにかけての低地の家は凡て流されてしまひ、今は平の田も無ければ、古川も見えぬ。無論古川橋など有ろう筈はない。塩浜に残つていた巨松の梢が少し計り水に浮いたやうに見える。浅間山の麓まで一面の広い泥海である。賀田の在所の半分は一時海の底に在つた訳だ。
 沖の方では二回目の浪が小山のようになつて高く低く前よりも嵩を増して襲来した。其の内一回目の浪が引き初めた。それが古川橋の辺まで来ると一時にぶつつかつて高く飛沫をあげ、渦を巻いてグルヽヽと廻る。其のうち塩浜の裾あたり迄引いて行つた。浪の引いた跡は割合靜に瀞んでゐる。
 家も丸太も、箪笥も米櫃も、夜貝も衣類も下駄も釜も、ありとあらゆる家財道具の一切は、泥海の渦に巻かれながら山王神社の下へ押寄せられ、更に浅間山の下の岸に沿つて大きく渦を描いて行く。飛鳥神社下から深津呂にかけて一線を劃して海の水は落差三米位もあろうかと思はれる程、上段と下段とに分かれ、上段の浪は荒れ狂つているが、下段の沖の方は割合浪は靜かで、小船はいつものやうに平気で櫓を漕いでいる。
 三回目の波が押し寄せて来た。二回目程ではないが、流失物は湾の中一面に拡つて、船の出入が出来ぬ程である。
 大きな機帆船は浪に漂つて焼野の奥に打ち上げられたのもあれば、飛鳥神社下の造船場で建造中の船は沖の砂洲へ据つているかと思ふと、丁度同じ砂洲の処に碇を投していた船は、飛鳥神社裏の造船場へ置き換へられた様に据つてた。
 五回目の浪が引いて海は平穏になつた。もう夕暮近い頃である。跡は荒磯同然、家も無ければ屋敷の界も分からず、浜も道も屋敷もみな一帯である。二階だけが残つた家が、其の侭道端に据つているかと思へば、銀行や局の大きな金庫が破れたまゝ、遠い所に転つて居り、何所の物やら誰れの所有物やら、何が何やらさつぱり分からず、彼処にも此処にも至る所に雑然と重なつたり散らばつたりしている。
浪に呑まれて行衛不明になつた人の家族や親戚の人達が、泣きながら死体を探し求める声は夕暗の空に響いて一入哀愁を感じさせた。家を流された人々は知己親戚を尋ねて一時そこに難を避け、親類縁者の無い者は学校とか寺院とか公共営造物に落ついて夜を明かした。羽根の大川益太郎氏宅では六十幾人とか避難していたそうである。眼られない不安な一夜は明けた。海上はピッタリと凪いで小波一つ立てず、何処にそんな巨浪がいたずらをしたのであらうかと思はれる程の靜けさであるが、どんよりと重苦しい気が満ちて薄(崩し字)気味悪い様な寂しい姿であつた。
 流失物は湾の中一面に漂つている。敷布のかゝつた蒲団は海底に沈んで、飛鳥神社下から曽根の網代の辺の海底は眞白くみえる、潮は平常より二尺以上も高く、満潮時に於ける秋潮位の状態でいつ迄も乾かない、それが二ヶ月も続いたであろう。
(曽根)
 地震が揺り止むと大抵の人は後ろ畠に避難して来た、神社裏の造船場の人達が四五人走つて行つた、続いて津浪だ々々ゝと叫びながら駆けて通る。役場の前へ出てみると、向井の磯の海の中の石が顕れて見える、其の中にむくゝゝと浪は靜かに盛り上がつて来た。酒井新次氏は船に乗つていたが、船は岸の方に寄せつけられたので、飛び降りた程の靜けさで盛り上つて来た、お宮の太鼓が流れ出した、三回目の浪が来た時船溜(崩し字)りの堤防が崩れた。其の時神社の拝殿も流失してしまつた。
 寺下憲一氏宅前の礎にヒタヒタと打ち寄せて来た、と思ふ間に盛り上つて来る、それが漸次逢神川の川上へ逆流して石橋のあたりで岸に打つつかり、右手に廻転して狂い廻る。其の内にゴーと物凄い音を立てて奔流の如く引いて行く宮の前から網納屋の辺迄干潟(崩し字)になつてしまつた。引き終ると暫しの間一碧の靜かな海となる。更に二回三回と押寄せて来た。
 西仁郎氏宅のオダレの屋根に薪が載つていた。酒井滝之助氏の納屋の二階の床上八寸位の処まで浪が上り、二階にはハダカミが沢山跳ねていた。寺下憲一氏宅でも、四十日許り過ぎてから、尾鷲から来た荷物が包装も解かず其の侭二階に上つているのを発見した。宝永の時には平石まで襲来したと云うから、どれ程であつたろうかと思ふ。
(古江)
 地震が揺り止むと直ぐ様築地で海の水が噴き出して来た。其の間十分位も続いたであろうか。其の内海上一面にブクヽヽと白い沫を立てて湧いて来たと思う間もなく七寸位潮が引いた、処が今度は六尺位も盛上つて寄せて来た。暫くすると岸から一町位の沖合迄干潟(崩し字)になり、海の底に大きな石が転つているのが見えた。今度は前よりも高い巨きな浪が寄せて来たと思うと、家はメリヽヽと潰れてしまう、丁度大きな力の男が何かを圧すようにグウーと潰れて行つた。安政の時には中森林助氏の精米所の処にあつたクネンボの木へ鰹船を繋いだとゆうから、今度の浪よりももつと高く寄せて来たのであろう。
(梶賀)
 浜で塩水を汲んでいると、砂が柔かくなつて、ブクヽヽと脚がめり込んで歩くのに困つた、ホウヽヽの体で陸へ上つて来ると、地震が起つたさうである。其の内に海の水が盛り上つて来て小山のように見えた。大型漁船は浪に漂つて彼方の岸此方の浜へと打つつかる、其の内に潮は引き、丁度宮の下迄干潟(崩し字)になつてしまつた、大きな石がいくつともなく転つている、海の底がブクヽヽ湧いてゐる。暫くして再び水嵩を増して盛上つて来た、向井では三米二十糎、奥の橋の附近で二米五十糎位上つたらしい、潮の引いた後には、海の底に色々の魚がピンヽヽ跳ねていた。
 婦人会の役員会に出席していた人達は、地震が起つたので、帰る途中網代迄来ると浸水して通れない、上の山を通つて梶賀道に出た、其の時丁度煙幕を張ったように白くなつて、賀田は一寸も見えなかつたとゆふ。
 書飯を終へてから、前庭の池?に鯉や金魚を眺めてゐた時地震が起つた。池の水が激しく動揺する、同時に身も倒れそうで歩くことが出来ない、引手の方面を見ると、石垣や畑が崩れる、漸く揺り止んだので家に入り、戸締りをして家族と共に裏口から畑伝ひに、曽根道のオオダへ避難した、ここは梶賀中での安全地帯として、村中の人達の避難場所である。
 地震が止んでから約十五六分して津浪が襲来して来た、浜は既に海水が盛上つて来て、浜の隠居の石垣一杯に浸水、常盤橋の上にも浸つてしまつた、宮の浜及小梶賀附近の海上にゐた伝馬、モーター漁船は櫓を操り、発動機先は浪に漂いながら浮んでいて、津浪が終ると、何事もなく悠々と帰つて来た。
 第二回目の浪は高さ六七尺、第五回目の浪に至つて平静に復した、第一回目の浪が引いてしまうと、宮の浜の堤防沖合迄海の底が顕はれたが、順次干潮の度合も小さくなり、五回目に平靜に復えると、心持の悪い程瀞んでいた。
 第一回の津浪で、海岸に揚げてあつた船、船具、木材、ドラム鑵、網等は流失して海上を漂いながら、奥の川近く押流されて打揚げられた、当區の被害状況は次の通りである。
 1、人畜の被害 黒芳助の子信造九才崩壊した土砂の下敷となつて死亡
 2、流失家屋 榎本嘉助
 3、浸水家屋 倉本長平、中川房子、野中定吉、川口文六、川口房吉、榎本富郎
 4、倉庫浸水 浜中広之輔二、浜中嘉平治一棟
 5、船舶破損 和船三隻
 6、屋敷崩壊 部分五ケ所
 7、畑地崩壊 部分五十七ヶ所
 賀田曽根との連絡全く杜絶し、電灯消え眞の暗黒の世界である、夜に入ても大小の地震十五六回揺つた。翌る八日未明中村市右ェ門氏と共に、モーター船で賀田や曽根に行つたが、海上には流失した木材、倒壊した家屋、家具など總ての物資が無数に浮かんでいて、船の航行が困難であつた。
 此の地震で著しい変化を来したのは、海岸の地面全般を通じて約三尺(一メートル)沈下、古来船を陸揚する事の出来た個所も、満潮になると約三尺位増水して不能となつてしまつた。(浜中広之輔執筆)
(登一丸船上にて)
 まだ出帆迄に暇があつた、東京から夜行で来て疲れているので、船室に入つて寝転んでいた、すると急に機械が掛つた様に船がドンヽヽヽヽと震動し出した、出帆時間には未だ早いが、何うしたのかと思つていると、地震!地震!といふ叫び声がしたので、甲板に出ると陸には土煙が上つて人々は馳せ騒いでいる、其の内誰れかが津浪だと叫んだ、沖はもう白煙が立つて堤防から沖の方は何も見えない、其の内に浪は盛り上つて来た、陸へ飛び降りようとすると、コンクリートの岸壁がガラヽヽと崩れてしまつた、危い!と制止されたので思い止つた、同時に■(??)がプツンと切れた、濁り返つた水は段々と嵩を増して来た
何千とも知れぬ程浜に積重ねてあつたドラム鑵が一時に流れ、幾百かの大小の船は濁つた渦に巻かれながら彼方此方と漂つている、碇泊中の軍艦も渦に巻き込まれ、船と船とがぶつつかる様である、どうなる事かと思つてると、今迄浪のまにゝゝ漂つた自分らの船はピタリと止つた、浪は物凄い勢で引き初めた、下を見ると其処は畑だ、傍の家は倒れて来て船にぶつつかつた、舷はバリヽヽと壊れてしまう、丁度製氷会社の辺である、ヨシと計り我を忘れて船から飛び降りた、倒れた家や流失物は道いっぱい重なり合つている、其の上を跨いだり飛んだりして避難した、二回目の浪が来た、何の辺か知らぬが膝の処まで浸つて来た、何処を何うして来たのか、尾鷲町役場の門が向ふに見えたのでホッとした。 (倉本菊枝誌)

B、浪高地図

オリジナルサイズ画像
  • 幅:2496px
  • 高さ:3488px
  • ファイルサイズ:471.9KB
地図 浪高地図

C、罹災状況

 本村役場の調査によると、罹災家屋は次の通りである。
罹災家屋八百六十五戸、内流失した家屋百八十七戸、半壊住家十六戸、半壊非住家十六軒、床上浸水四十二戸、床下浸水六戸、要扶養者三戸(十一人)


各區内訳
流失 全潰 仝非 半潰 仝非 床上浸水 床下浸水 罹災人
賀田 一七六 四 六 一六 一六 三 六 七四〇
古江 、 、 、 、 、 二一 、 五〇
曽根 一一 、 、 、 、 三九 、 二〇二
梶賀 、 、 、 、 、 四 、 二一
合計 一八七 四 六 一六 一六 六七 九 一〇一三


 右の内大きな建物で流失したものは、黒潮青年学校七二坪、賀田郵便局三〇坪、一〇五銀行輪内支店三〇坪、南輪内巡査駐在所二〇坪、南輪内村農業会事務所二〇坪、同倉庫三〇坪、木本區裁判所南輪内出張所事務所三〇坪、同倉庫一五坪、其他輪内造船所、昭栄座劇場、大川浦吉製材所、だるまや貯炭倉庫、営林署板材置場、及事務所等である。当時の戸数及人口を各區別に列記すると、


賀田 古江 曽根 梶賀 合計
三四七戸 二七二戸 一一九戸 一一九戸 八五七戸
一四〇八人 一一九六人 四八二人 四七七人 三五六四人


 其他船舶、漁網、田畑、家畜等の被害、大型船舶の罹災したものは次の四隻が大破した。
 栄吉丸 (森岡牧太郎所有)
 河内丸 (海務局所有)弐隻
 勢吉丸 (新鹿長野忠一郎所有)


 小型船の破損したもの、古江に於て三隻、賀田、田七町一畝、畑五町八反流失して、作付不能となつてしまつた。
 薪炭の流失四千五百俵
 家畜 牛四頭、兎二五頭、鶏五〇羽流失
 漁網流失被害見積額 古江三万円、曽根一四万円、梶賀三万円、合計二一万円


罹災者氏名及罹災人員
 賀田
東 なみ子二、 榎本 富藏四、 東 初男六、 小川 彦四郎四、 小川 成子四、 榎本 巽九、 大川 若一六、 森岡 重吉八、 片岡 きさ一、 大川 四郎五、 浜中 弘行七、 浜中繁雄四、 鈴木八兵衛二、 榎本 しめ一、 後呂 安次郎二、 庄司かんゑ二、 平尾 増男四、 大川 幸男六、 阪本登美子一、 大川文之助五、 榎本ちゑの一、 榎本寛一郎三、 小川芳三郎三、 杉下 仲男三、 榎本 つね二、 斉藤 末吉五、 榎本 荒助四、 小川 武六、 家崎 甚之助二、 大川 浦吉三、 内山 春生二、 榎本 亮之助一、 大川 勝藏六、 杉下 惣三郎一、 榎本 重之二、 浜戸 茂四、 谷平 ちとせ三、 大川 好夫九、 大矢 定次郎二、 大川泰三郎五、 大川 助太郎四、 大川 もと二、 大川 松市一、 大川 沢吉三、森岡 ■(重?)太郎二、 大川 達太郎三、 森岡 牧太郎四、 杉下 利一六、 杉下 利助二、 大川 嘉吉五、 尚本 萬吉三、 榎本 敏夫四、 山田 寛次郎三、 榎本 喜之右エ門五、 大川 文太郎一、 大川 庄六二、 榎本 高一一、 大川 村司四、 大川 茂子二、 大川 おぎん一、 大川 徳夫四、 阪本 達夫二、 大川 寅之助一、 杉下 畄吉二、 阪本 きよゑ五、 山口 八郎三、 榎本 仙次郎三、 桑木 幸次三、 榎本 武平次七、 小川 はなよ一、 野地 定之助七、 谷 忠太郎二、 中森 孝四、 榎本 峯太郎七、 杉下 畄次郎二、 宮本 キヨ三、 浜田 すげ一、 杉下 恒次六、 竹村 音吉三、 田畑 爲吉一、 鈴木つるゑ三、 榎本 源子五、 大川 常ヱ門二、 水野 一雄四、 杉下 吉太郎八、 東 政次郎二、 出島 利助六、 中村 權之助五、 竹村 靜雄七、 小川 準一五、 森 久子四、 浜中 輝千六、 大川 梅太郎三、 榎本 繁治六、 小川 そのゑ二、 ■(脇?服?) 市藏四、 榎本 儀藏五、 河上 新三郎三、 榎本 潔次郎二、 杉下 近藏四、 三木 三次四、 田中 道司五、 榎本 種吉五、 阪本 吉雄六、 浜西 芳一五、 田中 文吾五、 森岡 一次一、 森岡 たづ一、 大川 武次郎四、 森 芳直七、 三國 慶吉九、 大川 畄松二、 大川 一尚五、 山本 謹次四、 浜中 ゆう一、 岡村 冨太郎一、稲田 弁次四、 竹村 優治五、 大川 利一三、 倉本爲一郎二、
大川 勝治七、 大川 ゆす三、 大川 載吉六、 松原 くすゑ二、
大川 かる三、 榎本 好文三、 榎本 徳三郎三、 大川 五十鈴六、
小川 彦吉六、 森岡ならゑ三、 大川 しづ子四、 大川ひでゑ二、
岩橋 酉五郎三、 森岡 一弘六、 榎本 照太郎五、 大川 保三、
小川 たまの一、 榎本勇吉二、 小川 儀一五、 大川 久之丞三、
大川いさ子一、 大川千代松八、 大川 薫三、 大川 熊市五、
大川 しも四、 竹村 鋭夫三、 榎本 はん二、 榎本 良藏一、
湊 こま四、 大藤嘉十郎四、 畑野次郎藏七、 小川 辰五郎四、
西原 きみゑ三、 大川 淸吉 、 小川 恒郎二、 中島 喜七二、
大川 さよ子、 杉山 よつ、 ? 定利、 竹平 徳太郎七、


曽根
森本 弥藏七、 糸川 力応七、 中村 滋野、 酒井 かつ二、
奥村 賢良六、 竹村 利八三、 江川 ■四、 伊世 繁生八、
奥村 米太郎三、 佐野 助夫六、 石垣 まさ七、 奥地京家屋〇


賀田
田中 政次郎三、 東 虎五郎七、 岡本 らく三、 小川 深三、
榎本 喜作、 杉下 増太郎六、 浜中 宰一二、 榎本畄次郎、
木下 寅由七、 大川 和藏二、 榎本 すぎゑ一、 木地 孝四、
大川 竹藏六、 榎本 りつ三、 大川 うめを一、 榎本 仙次郎三、


曽根
向井 儀助四、 大川 角太郎二、 森下 冨次郎三、 弓場 てる三、
吉成 保太郎七、 中森 重太郎四、 向井 しん一、 中森 覚十郎六、
森本 勝一五、 佐野 はん三、 庄司 淸次郎二、 向井 寅次郎三、
弓場こつゆ三、 西 仁郎七、 石垣 利雄三、 佐野 淸次郎五、
森本 定助六、 森 市朗五、 森 みや一、 向井 駿治六、
酒井 滝之助二、 奥地 謙次三、 糸川 末吉二、 西 長太郎四、
森 寅之助四、 中森 実六、 酒井 庄太郎五、 西 正一、
田中太郎べ五、 江川 新五、 山口 力藏五、 森 ふじ、
佐野 佐平次、 森 保七、 中森 誠重郎八、 弓場 國夫四、
中森 戈吉三


古江
大川 彦四郎三、 大川 畄次郎六、 中森 周衛六、 大川 友吉四、
中森 太郎一五、 大川 長松三、 大川 淸四郎二、 中森 卯一三、
中森 嘉藏二、 大川 柳吉三、 大川 覚吉七、 大川 音(昔?)次郎七、
大川 嘉四郎二、 糸川 万十郎五、 西 重三郎一、 大川 亀次郎三、
庄司 富三郎二、 榎本ゆすゑ五、 大川 庄十七、 大川 実藏五、
庄司 勇七、 庄司 つま四、


梶賀
黒 ゆきの四、 倉本 長平一、 榎本 富郎、 川口 文六、
(以上浸水)


賀田
小川 金之助二、 大川 忠一郎四、 大川孔次郎四、 大川 亀吉七、


曽根
寺下 憲一六、 森 やす二、 加藤億太郎五、


古江
大川 乙松七、 庄司 安市八、 中森 多吉八、 大川 須枝二、
(以上半壊)


古江
大川 太藏、 庄司 又次郎、 漁業会、 庄司國三郎、
大川 半藏、 大川 亀次郎、 庄司 源三郎、 中森 篤
(以上非住家浸水)

1/5
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:68.6KB
2/5
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:59.1KB
3/5
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:74.1KB
4/5
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:57.2KB
5/5
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:205.2KB
浸水家屋図(古江)
1/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:106.7KB
2/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:79.9KB
3/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:90.8KB
4/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:100.6KB
5/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:262.9KB
6/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:167.9KB
7/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:176KB
8/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:167.8KB
9/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:99.5KB
10/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:116.2KB
11/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:53KB
12/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:235.3KB
13/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:246.3KB
14/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:252.4KB
15/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:251.6KB
16/16
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:199.3KB
流失及浸水家屋図(嘉田)
1/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:229.6KB
2/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:165.4KB
3/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:222.9KB
4/4
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:98.6KB
流失及浸水家屋図
1/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:90.8KB
2/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:76.4KB
3/3
オリジナルサイズ画像
  • 幅:1760px
  • 高さ:2464px
  • ファイルサイズ:104.1KB
昭和二十一年十二月二十一日 津浪流失家屋図

D、避難死者

 ○ 大川勝治、小川由五郎、森金次郎氏
大川勝治、小川由五郎氏二人は曽根の造船場で仕事をしていて地震に逢つた。揺り止んだので家へ帰るべくひた走りに走つた、此時既に津浪は襲つていたらしい、古川端にかかつた時にもう浸水して来た、橋を渡り切らうとする刹那、橋の袂附近であれ程堅牢なコンクリートの橋桁が折れてしまつた、之はしまつたと後へ引返そうとしたが、南無三曽根側の袂近くの橋桁も落ちてしまつている、同時に来合はした森金次郎氏と三人で、右往左往したが施す術もない、進退谷まるとは実に此の時である、見てゐる者もどうする事も出来ぬ、遂に浪に呑まれて行衛不明になつた、三人共死骸は海から発見された。


 ○ 森岡重太郎氏同さと
 逃げ遅れたのであろう、埋立の畑の中に建つていた家と共に流されてしまつた、どうして屋根の上に登つたか、屋根の上に居る二人の姿を見た、小高い処から見て居ると、浪が打ち寄せる度に二人はうつ俯になつて逃げて居た、綱を投げたら届く程の処まで寄せて来たので、息子の牧太郎氏は救助に飛び込もうとした、然し周囲の人に遮られたので、涙を呑んで思い止つた。「今助けに行くから待つて居れ」と叫ぶうちに、浪に漂ひながら何処ともなく行衛不明となつてしまつた、重太郎氏は其の日の夕方、浅間山の下から発見された、其時には幽かながらまだ息が通つて居つた。


 ○中森徳一、大川時代、向井はるか氏
 三人共農業会の事務員であつた、徳一氏は出張先から帰つた計りで、小浜橋袂(曽根よりの所)に在つた事務所に居て津浪に襲はれた、浸水と共に三人は縣道を奥へ奥へとひた走りに走つた、百米を十秒で走る世界一の記録を持つた人すら、津波の速さには追ひ越されるといふ位だから堪らない、丘から横ぎれ横切れと呼んだが、既に膝の方まで浪に浸つて横ぎれない、遂にカイマガリへの途中で倒れたきり浪に呑まれてしまつた。
 同じ事務所にゐた倉本守野はモンペを穿きに家へ帰つた処、最早浪が襲来して引返す事が出来ずに命拾いした、一寸先に逃げた坂本吉雄氏は子供を連れていながら、早く横切つた爲めに助かつた、徳一氏は鈴河橋の附近から、時代氏はそれより奥の道路上に倒れて居るのを発見した。


 ○榎本勇一郎、同まり子氏
 賀田郵便局に勤めてゐた、地震だといふので、一旦家に帰つてゐた父勇一郎は局へ引返して来た処、突如津浪が襲来したので、一方出口の前から外に出た、既に浸水は大きい、まり子と二人榎本種吉氏と百五銀行の間の細道を通つて逃げる途中、早くも竹村音吉氏宅の処で浪に呑まれてしまつた。


 ○榎本薫氏
 やはり賀田局に居て避難した、浪に逃げ遅れたのであろう、然し家の屋根に上つたまゝ流れて行く姿を認めた、二回目の浪にたたきつけられた時姿を消してしまつた、死体は曽根の網代の海上で発見した。


 ○竹村玉枝氏
 地震と同時に平の上の方へ避難してゐた、再び家へ引返した時、津浪の襲来を受けて、家と共に流失した、倒れた家を取りのけると、位牌を握つて佛壇の前に手をついた侭の姿で発見された。


 ○森千代野氏
 初めのうちは、津浪等来るものかと云つていたそうである、処が浪が押し寄せて来た、それにしてもそう高くは来まいと思つてたのか、傍に有つたタンクの上に昇つて居たそうである、浪は段々盛上つて来て、遂に浚はれてしまつた、古川橋の上流、川に沿った田圃で発見された。


 ○岩岡末藏氏
 時の駐在巡査田中道司氏の妻の父である、此の日巡航船で着いた計りを此の災難に逢ひ、家と共に流失したのである、大川兵太郎氏宅の下の方で、うつぶしになつていたのを見たが、直ぐ浪に呑まれて不明になつた、

 ○山本よね氏
 藤崎に近い処に在つた家の近くの山へ上つていたが、再び家に引返した処を家と共に浪に流され、浅間山の下の方で、窓から首を出しているのを見た侭、姿を消してしまつた、今に至るも遂に死体は発見されない。


 ○大川吉之助、杉下利助、田畑爲吉、片岡きさ氏
 四人共家に居て逃げ遅れ、家と共に流死、利助爺さんは大川泰三郎氏の裏の家に押えられ、きささんは海の中から発見された、田畑爲吉さんは大河谷で、


 ○三國なを子氏
 母親に連れられて避難の途中、浪に浚はれて流死した、母親は九死に一生を得て難を免れた。


 ○中森よね子氏(曽根)
 家に引き返した処を、家と共に流されて死亡、九日眞浜の五十間計り沖合で発見された。


 ○大川すま氏(古江)
 婦人会の會義之列席の爲め役場へ来ていたが、地震が揺り止んだので、古江へ帰る途中津浪に会つて遭難、死体は鈴河の奥の方から発見された。


 ○黒 眞次氏(梶賀)
 地震の際川口庄太郎氏宅下の道路で遊んでゐたが、石垣が崩れて来て圧死、直ちに掘り出された。

E、九死一生

 ○中村権之助氏
 郵便局に於て勤務中地震が揺つたので、津浪は来るのではないかと、度々外に出て様子を見た、処が津浪が襲来する様な風も見えぬので、室内に入つて凡ての整理をしていると、津浪津浪といふ叫び声がした、時既に浪は入口から押寄せて来て、室内一ぱいになる、前の入口からは出られない、局長浜中輝干氏と共に裏の窓から飛出して板塀の上に昇つた、水は段々と嵩を増して浸つて来る、其の内に板塀はぐらぐらと揺れ出した。
 浜中氏は逸早く倒れた家の屋根へ飛び移つたので、自分も直ぐ様飛び下りた既に泥水の中である、あたり一面暗黒の世界だ、目は開いて居られぬ、口を開けば泥水を飲むに違ひないと思い、堅く口を閉じた、水面に浮び出ようとしても、どうしても出られない、如何しようかと考えていたが、それからは意識がない。
急にパツと明るくなつた、稲荷神社跡附近の水の上である、丸太に閉じ込められて、身動きも出来ずに浮いている、あたりは一面に材木である、陸では大きな声で気を励まして呉れる、朗らかな気持だ、両手は丸太から出ていて自由である、右手をあげて陸へ応えの合図をする、奥え奥えと流されて行く、丁度巡航船にでも乗つたようで、ゆらりゆらりと大辺気持がよい、其の内に山王神社の下え着いた、丸太を掻き分け材木の上を渡つて、陸え上つてほつとした、浜中さんは迎えに来て呉れていた。(中村氏直話)


 ○浜中輝干氏
 中村氏と同時に、局の裏から飛出して塀の上に上つた、堀は揺れ出したので隣の倒れた家の屋根に飛移つた、屋根を伝つてようよう難を免れた。


 ○東禅寺裏方佐野氏
 婦人会に出席して役場からの帰途、藤崎で浪に浚はれ、平素水泳が出来ないのに、どうした事か、其の時に限つていくらか泳ぐ事が出来た、丸太が流れて来たつかまつていると、附近に居た松栄丸によつて救助せられた。


 ○三國うん氏
 家の前に居て浪に呑まれたまゝ、大垣辺迄流され、砂の中に埋まつて居たのを、うめき声が幽かに聞こえるので、掘り出した処、息を吹き返した、同じに流れた娘の子は死亡。


 ○森みき子氏
 三國さんと共に浪に浚われ、暫く漂う中怪我をしたが、大垣辺迄流され、辛うじて助かつた。


 ○奥地すみれ氏
 逃げおくれて家と共に流されたが、医者屋へ上つて行く石段の処え打ちあげられて助かつた。


 ○酒井しげ子、同しづよ氏
 水中に没してしまつた酒井滝之助氏の家の中に居て、段々増水して来る水に天井え押し上げられようとした時、田中巡査は屋根を破つて呉れたので、其処から逃れ出て難を免れた。


 ○向井志ん氏
 中森覚十郎宅附近で浪に浚われて流れて居たが、森音吉氏が竹竿を差し出し其れに縋つて引上げられた。


 ○伊勢はつゑ、同とし子氏
 二人は酒井虎之助氏宅の前で流され、酒井平之助氏に助けられて難を免れた。

四、救援事情

A、村の救急措置

 突如として起つた地震、続いて襲来した津浪、我等の郷土は一瞬にして廃墟と化し、荒磯同然の姿に変つてしまつた。其の上村内は云ふに及ばず、賀田、尾鷲間及木本間jの電信電話は、電柱の倒壊と断線によつて、通信はピツタリと止つてしまつた。然し今は躊躇する時ではない、村当局は直ちに警防団及男女青年団、婦人会其他あらゆる統制団体の非常召集を行つて、南輪内村駐在巡査田中道司氏指揮の下に、罹災民を各親戚又は縁故者、寺院、学校、曽根天理協会堂等に収容非難せしめ、共同炊事を行つて急にそなへ、同時に村長西仁郎名義の下に次のやうな布告を出し、村民の協力を求めたのである。
 第一、罹災民は食糧や衣料に不安を持たぬよう。
 第二、各戸米壱升宛、蒲団一枚、衣類一枚づゝ供出。
そして明る日、罹災者に対して次の品々を配球した。
 燐寸小函一袋、ローソク二本、汐漬玄米一人三升づゝ、炭一俵、生サンマ三本宛、牛肉五百匁、醤油、塩などである。

B、災害救済復興協議会

 村は直ちに災害救済復興協議会を設け、次の人々を任命して、救援の事に当らしめた。
 本部長 西仁郎 総務部長 中森周衛
資材部長 浜中宰一
勤労部長 榎本庸之助
土木部長 榎本正一
水産部長 中村市右ヱ門
農業部長 大川庄六
輸送部長 中森政寛
厚生部長 田岡亀吉

C、団体の活動

 各種団体は毎日出勤して、死体の捜査、流失物の拾集、散逸防止、被害物の片付、食糧輸送、盗難防止、治安維持に至る迄、万全の策を取つて、各団体?絡の下に活動、遺憾なきを期した。
 第一確保せねばならぬのは食糧である、梶賀水産協同組合所有船久立丸によつて、長島食糧営団から三百俵の米を廻送した、内百俵を北輪内村へ転送したので、補充分として長島営団から廻送して貰ふべく交渉した。
 十二月十五日現在々庫は、米百五十俵と、流失後に発見した飯用米、及供出用玄米(濡米)の数量百俵、合計二百五十俵である、然るに十六日から一月十四日迄1ヶ月間の一般配給数量は三五、〇〇〇瓩である、こんな場合の非常米は平素から保管しておかねばならぬ事を痛感した。
 各種団体が必死となつて活動したにもかゝわらず、盗難にかゝつた物資も仲々多い事であつた、初め警防団が流失物の全部を拾集して一つに纏め、個人勝手に持ち出す事を禁止したのであるが、政令一途に出る事が破れて、収集しがたい状態になつてしまつた、こんな場合には、今少しく警察權を拡充強化するか政令が一途に出るような統制を取らねばならぬ。
 又数日の間、流失物は浦の中をいつぱいになつて流れて居た、後になつての話であるが、死体捜査に全員を集中してしまつた爲めに、資材を流失した事は夥しい額に上つた。、アバを造つて喰ひ止めれば、大抵の物資は堰き止める事が出来たのである。
 当時の警防団の役員氏名は次の通りである。
 警防団長 竹村靜雄 副団長 中村市右ヱ門
 古江部長 大川広太郎 賀田部長 榎本國十郎
 曽根部長 佐野清次郎 梶賀部長 大滝壽太郎

D、同情救恤

 其の後各地から救援物資が入荷した、
砂糖特配 二〇二片
 ○麦作付け被害面積(田畑別) 二十町歩
 ○甘藷特配 十一才以上一貫匁 十歳以下五〇〇匁 割当五十俵
 ○昆布佃煮 二三〆 四六〆
 ○罹災者衣料切符 交付人員九四四名(四七二〇枚)
 ○罹災肥料 窒素十俵 綿実カス五俵 硫安五〇袋
各地から送られた罹災者用物資
 ○縣救済本部から マツチ二四〇〇個、毛布三〇枚、タオル五六枚、シヤツズボン八四枚、白ネル一〇枚、ローソク一六〇本
 ○縣農業会から 作業ズボン一〇〇枚、作業シヤツ一〇〇枚、地下足袋一〇〇足、イモ六五俵、ムシロ二〇枚、大根四俵、
 ○木本から 煮干一五袋、燈油二鑵、牛肉二十貫、キンシ二二〇〇個、蒲団三〇四枚、衣類三九五枚、食器一三五九、草履六八七 ムシロ二六〇枚、梅干六樽、甘藷一五俵、佃煮
 ○尾鷲から 甘藷九四〇貫、箸一二〇〇ゼン、味噌五樽
 ○長島から 米二〇〇俵、醤油五樽

E、復旧へ急ぐ

 一般民衆の救助は約一週間で打ち切られたが、青年団警防団は更に一週間出勤して救援に当つた。遭難死者の遺骸も、山本謹次氏妻よねさん(今に至るも発見せられず)を残して、十二月十五日頃迄に皆発見された。
 十二日には警察電話も開通する。公衆電話も、賀田木本間は十二日、賀田尾鷲間は十四日に全通して平常に復した。其他各官衛は次の場所に出張所を設けて事務を開始、漸次復興の気運は其の緖についた。
 駐在所(南輪内村役場) 十二月七日
 郵便局(田中武一郎宅) 仝 九日
 銀行(大川哲夫氏宅) 仝 七日
 登記所(南輪内村貭屋) 仝
 農業会(大川貢氏宅) 仝
 青年学校
 罹災者も他の納屋の隅や、二階借をするやらして、ぼつぼつ避難先から帰つて行く。縣では縣営のバラツクを建てて、罹災者を収容する事とした。
 賀田 三戸建九棟 四戸建二十一棟
 曽根 三戸建一棟 四戸建二棟
 其の内賀田に在つた三戸建一棟、四戸建三棟は、昭和二十一年十二月廿一日の津浪で流失してしまつた。

F、合同葬儀

 昭和十九年十二月十九日、遭難死者の爲めに、賀田東禅寺に於て合同葬儀がしめやかに取行はれた、立ち昇る線香の煙も幽かにゆらめいている、遺族たちの泣きじゃくる姿、一入哀れをもようす。
 中森徳一 四〇 波瑶錦燈居士 仝しもゑ
 向井春香 二三 玉海恵宝大姉 糸川忠次郎
 中森よね子 二〇 海室妙宗大姉 仝 力応
 大川すま 仝 福松
 森岡重太郎 七三 ?然淸海信士 仝 牧太郎
 仝 さと 六九 佛海祖底信女 仝 牧太郎
 榎本勇一郎 五〇 巨海全濤居士 仝 嘉順
 榎本まり子 一九 潮流呑毬大姉 仝 嘉順
 竹村たまゑ 五三 呑海龍珠大姉 仝 靜雄
 大川勝治 五三 潮流不勝居士 仝 徳久
 大川ときよ 三七 佛海全濤信女 仝 ゆす
 三國なを子 六 慈海流波童女 仝 慶吉
 小川由五郎 四九 刹海冬天信士 仝 彦吉
 大川吉之助 七一 蒼海竜門居士 仝 千代松
 榎本薫  三七 法海藏身居士 仝 良弥
 杉下利助 九二 風外清■居士 仝 利一
 片岡きさ  六七 天空自澄信女 大川万助
 山本よね 五四 泡沫慈観信女 山本謹次
 森金次郎 七五 碧流呑海信士 仝 義直
 仝 千代野 四七 逐浪流波信女 仝 上
 田畑爲吉 八一 熊峯南林信士 不明
 岩岡末藏 不明 震岩奇松信士 不明
 黒眞次  九 常光禅童子 仝 至視

G、救助美談

 南輪内村駐在巡査田中道司氏は、其の日曽根役場に居て地震に逢つた、揺り止むと氏は直ぐ様曽根の被害状況視察に出かけた、偶々浜の附近へ来た時である、一遍に浪が押寄せて来て、逃げる暇もなく傍の船に飛び乗つた侭、船と共に流されてしまつた。
 酒井滝之助氏宅では、一週間位前に大手術を行つた計りの妻女菊野さんを、非難させようとして戸板に載せてつり出す処であつた、田中巡査の乗つた船は丁度其処へ流されて来た、田中巡査は病人ならば船に乗せて避難せよと勧めた然し水は既に乳の辺まで浸つて来た、今はどうする事も出来ない、家の中へ引返すと、戸板は段々浮上つて行く、戸板を一旦流し元の上に置いたが、どうしても外に出す途がない、破風のの処を破つて外に出した、戸板は水に浮いているので、楽々運ぶ事が出来た、隣の屋敷へ釣り上げ、更に佐平治氏宅へ休息させた、処が其処へも浸水して来た、次で安定寺へ非難させてほつとした、処が宅にはまだ酒井しげ子、同しづよの二人が残つていた筈である、田中巡査は船から滝之助氏の屋根に飛び移ると、水に浸つた家の中で人声がする、家の中にまだ二人残つて居た筈だと云うと、巡査は直ぐ様腰の剣を抜いて屋根瓦をめくり、コマイをこじ開け、二人のむすめを引き出して助けた、然かも自分の義父岩岡末藏氏は浪に呑まれて、敢なき最后を遂げて居るにも係わらず、私事を捨てて人命を救助し、次で直ちに各種団体を指揮して救援の事に当つた、氏の行動に対して嘆賞せぬ者はなかつた、徳遂に孤ならず、上司に聞こえて表彰を受けた。
 向井志んさんは、中森覚十郎氏宅の辺で浪に浚はれたのを、森音吉氏は竹竿を差出して救助し、伊世はつゑ、同とよ子の両名は、酒井寅之助氏宅前で流れてゐたのを、酒井平之助氏が救助した、二人共縣から表彰を受けた。
 九立丸表彰
 昭和地震二回の地震津浪の災害に対して、梶賀浦漁業会所有九立丸は、食糧運搬に、流失物のせき止めに、各般に亘つて大なる功績があつた、よつて木本警察署長から、次のような表彰状を送られてゐる。


彰功状
南牟?郡南輪内村 梶賀浦漁業会所属 九立丸


 昭和二十一年十二月二十一日当地方に震災発生するや当時未だ危険の状態に在るも拘らず災害状況の連絡報告並其の救恤に対して所属九立丸を急派し克く管内の治安を確保し迅速且積極的に協力したことは民衆警察の模範でありその功績大である、
 茲に金一封を授与して其の功を顕彰して労を犒う
昭和二十二年一月十日
木本警察署長 中西靜夫

五  震災記念事業

 記録が貴重なものであり、参考資料として重要な位置を占めている事は。序文にも書いて置いた、其れで後人の爲めに、是非記録を残したいとゆう事は、年来の希望であつた、寺下憲一氏と其事に就て話し合つた事も度々である。然し荏苒日を過しつゝ、あつたが、弥々機が熟して実行に移す決意をした、村会議員大川好武(賀田)、中森政寛(古江)氏と四人が発起人となつて、計画案を立て、村長大川庄六氏に諮つた処、之れは村がやるべき事業である、どうか君等の力で是非完成して貰いたい、とゆう非常な熱意である。
 十一月廿日、役場楼上に発起人会を開いて、計画案及予算について協議、各職務を分担して実行する事にした、古江區長下地秀松、賀田區長田中武一郎、曽根區長糸川忠次郎、梶賀區長浜中健次氏の了解を求めて、區主催村後援とゆう形で、記念式を挙行する事とした。


計画案
一、日時 昭和二十三年十二月九日 正午
二、場所 賀田 東禅寺
三、要項 1、遭難死者追悼法要
2、公演
3、地震資料展示
4、体験発表座談会
5、調査(浪高図作製)
6、記録作製(永久保存)
7、記念碑建設
係員決定
倉本爲一郎 公演、編纂、会計、
寺下憲一 記録、案内状(遺族、来賓)
大川好武 座談会議長、挨拶
中森政寛 記録、地震資料展示
各區長 案内係
 村は早速村会を開いて、経費金壱万円の支出を提案した、村会は満場一致之を可決して、物心両方面から応援して呉れた。

A、遭難死者追悼法要

 十二月七日に行ふ予定であつたが、役場の都合で、九日の正午から行はれた、会するもの遺族、村長、村会議員、區長、学校長、青年団長、局長、警防団長、農業協同組合、婦人会長、其他有志多数参列して導師大川常信氏によつて、しめやかに取り行はれた。


 村長弔辞
 本日茲に、昭和十九年十二月七日の大震嘯における、犠牲者の慰霊祭を執行するにあたり、謹んで弔辞を呈します。
 あの日のお晝過ぎ、突然起つた大地震に続いて大津浪の襲う所となり、流失全壊家屋二百戸、浸水家屋百戸、罹災者人員千人に及ぶ、本村未曾有の大被害を蒙り、祖先伝来孜々として築き上げた郷土は、一瞬にして廃墟と化した思ひに、只呆然自失したのであります。とりわけ之が爲めに、二十有余の尊い犠牲者を生じました事は、本村初めての大悲惨事であり、当時を追憶すれば、今も尚その痛しい悲に、涙新らたなるものがあります。
 昭和二十一年十二月二十一日、再度襲つた南海大震嘯に、又々本村は甚大なる被害を被つたが、村民の復興意慾に、郷土の建設は着々と進捗している。
 然し、一度失つた犠牲者は永へに帰らないのであります。再びこうした惨害を繰り返すまいとの、村民の切実な叫びは、やがて平和百年の郷土を護るべく、防浪堤建設の一大事業に発展し、今や私達は犠牲者の尊き礎の上に、勇躍として建設の一歩を印したのであります。恐らく犠牲者最後の叫びであろう、郷土防護の一念を貫徹するこそ、安まれる犠牲者の令に酬ゆべく、唯一の道として、防浪堤の実現に懸命の努力を捧げんとする次第であります。私達は永久に銘すべき慰霊祭に臨んで、心より各霊位を供養するとともに、震災防護事業の建設完遂を霊に誓つて、聊か弔辞に代えるのであります。
 昭和二十三年十二月九日
南輪内村長 大川庄六

B、公演

 東京帝大地震研究所並財団法人震災予防協会嘱託、武者金吉先生を招いて、公演して頂く予定であつたが、先生は都合があつて出られないので、原稿を書いて送るからと詳細なものを送つて頂いた、第七項の講演集はそれである。

C、体験発表座談会

 割合低調であつた爲め、別に項を設けず、震災浪害の実相欄へ繰入れてしまつた。

D、地震資料展示

 地震■(彙?)報、反古の綴、地鯰居士随筆(十二冊)南牟?郡地誌、地震年表、大地震移動表、大地震発生地々図、田老村防浪施設図、大地震頻発図、俗説による地震の前兆表、地震前に觀察された魚の異常行動、耐震家屋図、災害時の心得、明治以後の大地震表、賀田流失浸水家屋地図(小川欽弥、大川藏輝、榎本吉宗調査)

E、浪高調査

 浪高図標の項へ挿入

F、記念碑建設

六、舊記輯録

A、熊野年代記

成務 三年 癸酉 熊野大浪浦々民屋流
天平勝宝 三年 辛卯 六月熊野大地震経三日
延喜 廿二年 壬午 熊野大地震山を崩し浦々浪入る
応永 十四年 丁亥 十二月熊野大地震三日
慶長 九年 己辰 熊野浦大浪
慶安 二年 己丑 熊野大地震
安政 元年 甲寅 六月十三日大地震、十一月四日大地震大津浪鵜殿、井田、阿田和、市木、有馬、木本流家なし、新鹿、二木島人家流れ人死す。

B、反古の綴(木本喜多草多■(赱or老)著)

 伝聞宝永四丁亥十月四日、熊野大地震津浪にて人皆山へ迯居る、木本、井土、有馬、阿田和、市木等へは津波不入、大泊、古泊、新鹿、遊木、二木島、曽根、賀田、尾鷲、長島其外東筋浦々、上方浦々へも同前浪入申候…木本浦は海上魔見島迄汐引候而、海中大岩小岩多見候而、丑の臥たる如くに相見え、暫して浜の中程迄浪上り候、大泊村人家不残流失致し、清泰寺計り残り、人も七人流れ死す、新鹿も家不残流失、人弐十四人流れ死、曽根は在所半分流失、人無難のよし、同月下旬迄毎日二三度つゝ地震する故、家々には山に住居する事凡そ三十日間なり。


○同年(明和七年)十月七日
 晝八ツ時地振夕暮迄四度ゆる、夜半に又ゆる、朝より曇、地震の比曇増々甚し、所に地破石垣崩れ、山より石の落る音甚し、二木島、遊木辺は津浪来るべしとて、四五日山へ迯け居たる由。


○同年十月朔日
 曇夜曇り弥々甚しく、不辨咫尺夜更に灰降、甚細末にして浮石の粉の如し、翌二日灰弥々降、四方の山不見、家の内へ吹散、人の目口に入、密室の内と■も入さる処なし、八ツ時少し晴て、日光少し見る、夜晴て星見へ、翌日晴、然れとも灰消せず、海騒しく波高し。六日又曇、四方不辨、灰少降、七日晴、灰消せず拂へども不浄、岩石草木に至る迄灰付て落ちず。八日夕暮より雨降、終に大雷雨波高し、九日雨歇み灰悉消す、上方は印南辺迄、東方は江戸迄、同日同刻に降、勢州津より上方は不降、京大阪和歌山は不降、大和は佛阪と云処迄降、昔寛永年中にも灰降よし、凡百四五十年になる。
 其節降たる灰、和州北山の或る家に貯へ有よし、此度と同物なり、後に聞くに薩摩国櫻島と云所の山吹出し、大石火に成り、地八尺計降積りし由、人も多く死せりと、櫻島は鹿児島の向の島なる由


○同年(天明三年)
 信州浅間山焼にて、熊野辺迄地震鳴動す。


○寛政四壬子正月
 廿一日より肥前國島原の山鳴動焼出候由、此辺まで地震ゆる。


○同年(文化五年)十月十七日
 晴天海靜にして八ツ時潮干時、俄に汐水溢耒、湊より大河の如く溯り、橋の下漲り上り、惣引惣満、船漂蕩す、日暮弥々甚敷、終夜指引止ます、当浦人民終夜不寐守り居、諸道具片付迯用意致、漸く二番鶏比靜り、翌十八日も少々指引ありて不靜、


○天保二年辛卯
 京都大地震

C、坪田氏地震記録

一、嘉永七年甲寅六月十三日、晝九ツ時揺、又八ツ時にゆる、同月十五日今暁八ツ時殊大地震、夕方に至り皆々津浪来るべくと心得、用意して諸道具着類、俵もの等、うへ地辺の家々へ持ちはこび、誠に大騒動致候得共、津浪来らず、尤も七月迄数度揺、其時の荒は伊賀上野、伊勢、四日市、奈良、古市、越前、福井其外国々所々の荒方大方ならず。
一、同年十一月四日四ツ時、大地震直様津浪来る、家財并貯の金米とも少しも残らず流失、津浪耒候体を見るに、池中の水地上にわくが如く、四ツ時より八ツ時までの津浪、大小五六度も来る、流家竃数五十七軒(此内本役廿三軒)死人六人(男一人女五人此内一人は死骸相見えず)牛五疋流失今日の荒方尾鷲浦死人凡三百四五十人 長島浦死人凡三十人余、其他浦の荒様夥し。
一、同月五日晝七ツ半時、又候大地震津浪少々来る、西の方に当て山のぬける様な音あり、夫より夜に入て数度ゆる、夜四ッ時に津浪少々来る、大空に鉄砲の音なるひびき有、今夜人々野宿致す、今日の地震、新宮家々大半倒る、田辺は出火并津浪来る、摂津、大阪、大津人家并舟も其荒方大方ならず、猶九州大荒、東海道筋大荒、尤も出羽、奥州并北國辺は地震少々の由、此度湯峯の湯并川湯とも五十日余も相止り候由、猶其外諸國の荒方誠に前代未聞の天変なり。
当村田地荒凡二百石余も波掛由候。
五日の夕方ゆり出し候てより、諸人田畑野山に居て、念佛の声夥し、眼前の地獄見ぬ修羅道の如く、夜に入て益々ゆり出し、居ながら往生と覚悟極候程の仕合、よふよふ六日の暁方より、少し相和らぐ。
当村に於て家財流失の者へ、木本表より、廻米を致し、十一月五日より廿三日迄の間、庄屋許にて一人前一日米三合当て養、此度の地震にはきじの声四方にこたへ、猶亦井戸に水有や、以後此義可心得事也。
津浪より年暮迄、海の汐当浦辺三尺程増候事、右の條々有増し相しるし置也、向後子孫に至迄若し地震有之候はゞ、少しも猶予無く上地辺へ迯可申事、此程の地震には片時も過ずして津浪来る、当度の荒方はいふに及ばず諸人不自由筆末にしるしがたければ略之
 年號 嘉永七年 改て 安政元年と成
 丁亥十月四日
  新鹿村庄屋 新宮屋藤十郎
  同  肝煎 津屋嘉左衛門
 宝永四年に津浪有之候由、当年迄百四十八年目なり。

D、安政元年海嘯事蹟(尾鷲若林多中著)

 津なみ
 嘉永七年甲寅の夏六月十四日大地震ありて、在中こぞつて程遠き所へ逃延び金銭衣類はいふに及ばず、諸道具を持運び、中村山に小屋をしつらひぬ、其時余が書記したるものあり、宝永四年の事を手本にして、驚くべからずと思ひ、且つ沢典学といへる儒者が、宝永山湧出たるあぶきの来るなれば、其後つなみといへる事あるべからずといひし事をも書記し、且地震の響きを考へしに、西北の北より鳴動して来りければ、戌亥の方に地震の本ありて、此近辺は畢竟そのとばしりとおもへるが故に驚かず、米一粒衣類一つをも、他へ持運ばずしてやみぬ、さはあれど、天地の変則測りしるへきにあらされば、若大地震ありて、津浪のあるほどならば、地鳴甚しかるべし、その時津浪と心得逃るならば、第一米銭帳面の類を持ち、其余ゆとりあらば、小屋かけの料に戸障子の類を持出すべし、必慾に雑具等に目をかけて、命を失ふべからずと記せり、此書きたる者在中に写し取りたる人もあるべけれど、今度の波に流失したるべし、当時宮の後に居住する宮崎氏の方にあるべし。
 扨家内のもの江心得の爲にいひしは、若つなみにて逃るときは、寺町通りを祐專寺の地内より、裏の木戸を通り、畑より眞一文字に中村山にのがるべしといひきかせおけり、よつて家内の者右のとふりに逃延しなり、今年霜月四日のつなみの有さまは、百四十八年前のつなみの事を、小河氏の記せしとは大同小異なりき。
 我等朝飯を喰ひて、少し考る事ありて、書見してありしが、地鳴甚しくて大に震ひ出せし故、家の倒れん事を気つかわしく、裏に出んとせしに、水壺の水ゆり溢れ、棚にあるもの転び落、薪の積みたるは崩れ、いかがはせんと怖しく裏に出るに、橙の木ありけるが、其あたり地?て彳むへき所もあらず、嫁孫下女等一つ所に集ひ、悲みけるとなだめすかし、すこし穏になりけるとき浜へ追い遣りて、兎角家のたふれて失火のあらん事を恐れ、竃に水をそそぎ、火鉢手爐煙草盆など、都て火のある物を裏の中央に出し、直に浜に出て近隣の人々と地震や止む、つなみや来ると評議しけること半時には足さるに、投石島(はだか島毛なし島ともいふ)より半町はかり沖と思ふ海面より、潮の湧出るさま、あかみをおひて追々強くなるにつけ、人々つなみなることを知りて詞を伝へ、追々に我も人も逃出しぬ、平生心得たる如く、寺町を祐專寺の庭より直ちに畑に出で眞一文字に中村山を逃登りぬ。
 我嚮に浜に逃んとして裏より部屋を見るに、佛壇の花瓶を初め、其外の道具もこぼれ出てありし、其時心得て巾■の入たる懸硯箱を持出し、井戸へ投しおかばことなからましに、その所へ気のつかざるは、元来つなみといへる事は、めつたにあるまじとおもふ所、心の底にあると、地震に周章たるとの故なり、あさましき事なりき。
 扨浜より逃もて我家を見れば、大戸をしめてあり、戸をあけて手近き所にある物を持ばやと思ひしが、若ひまどりて流死せば、末の代まで人の謗をうけん事とおもひて、其侭逃延ぬ、此戸をさしたる者を尋ぬるに、愚息俊藏なるよし、我等浜よりの逃るさに、戸を明おきなば、小遣ひ其外手近にある者を持などしてひまとりなば、いかなるあやまちあらんと思ひはかりしなりといひき。余は正月三日より持病さし出て、平臥かちにて、十月中旬漸く世間へ出たれば、気力乏敷寐巻の上に襦袢胴着綿入をきて、細き眞田を帯として、其上にかいまきを着て、又細き眞田を帯としたる侭逃たれば、歩行にむつかしくありし。俊藏は五歳の小児を抱き、嫁のていは乳呑子を抱き、兄弟の小女并に辻本氏の小女を引連れ、下女諸共先に逃ぐ、つゞいて我等夫婦逃げるが、兎角余は跡にさがり、畑中にてかへり見れば、波の鼻二百間ばかりに見江ける、又顧みれば百間は五十間にせまり、波鼻のとまりたる所を見れば、三十間ばかり隔たるとおもへり、されど波鼻のありさまを見るに、一向けはしくなかりし、たとへば盥の水を打あけたる如くなれば、波はなより七間や十間の間は、せいせい ?のあたりまて深さあるべしと思ひて、人に語りければ、人もさこそといへり、逃もて息つぐひまに、北の方を見れば、ぐはらぐはらと音して土埃夥しく、家土藏砕ながら漁舟も廻船も交じりて、やが上に計知河原を泝るさま、気も魂も消るばかり怖しかりき、さて中村山に登り、愛宕秋葉の間に憩ひて東方を眺るに、廻船数艘順風に帆をあけ、遥の沖に渡りぬ、されば太洋より大浪の来るにはあらず我愚ながら考るに、大地の底地震にて裂地の下の水追々湧出るものと覚ゆ、譬へば堀抜井戸を百も二百も一時に堀たるやうのものならんか、佛教に茨城といふ所に水のなき時、羅候羅尊者が右の手をそろそろ地中に入たれば、金輪際よりみず迸り出たといふ事あり、いかにも金輪際より水迸り出るものと覚ゆ、津なみおさまりて後ち、漁師のいへるに、大曽根浦の前辨才天社の島あたりに船を流しゐたるに、地震ゆるやかになるとひとしく、四斗樽ほどの水のかたまり爰彼に数十塊わき出たるゆへ、たゞ事ならずと心得、疾く逃帰りしと語れり、此所外々に波の湧出るを見しもの数多あり、追々湧重なりて溢るる故に、遂には打ちあけたるやうのありさま、是にて考ふべし、また海中はかり水の湧出るは海中は地の底薄きが故ならんか、又津なみ起りは、辰の下剋なれば、波の陸に入たるは潮の満るにつれて、込入りたるものか、又湧出る水の勢自然と西へさかのぼる道理か余は知らず、転地陰陽の理を極めたる人は能知るべし、余前に子孫のために書記たるものには、津なみの跡は河原となるべし、犁鍬等の農具あるものは田畑を耕作して飢を凌ぐ便あるべし、漁事なとの事は船も漁職も流失して、漁のよすがもあるまじと書きしがさにあらず、中村山より見るに、なみはひくと直に浜に出て、諸品拾ふものあり、小船にて拾ふもあり、流れ残り所々の屋敷は、堀溝などにある米麦の俵、其外味噌醤油香の物油等を初め、金銭衣類一切の家財に至るまで拾ひとり、きのふまで日々の糧、夜具衣類等に乏しかりしものも、小屋には住めどあたたかに着、あくまで喰ひ、何不足なくなりぬ、此時にあたりて一統に人心常にことなることありときこへぬ、浅猿しき事ならずや、されは在中に大地震あるはいふに及ばず、近在近国に大地震あらば、兼て用心して米麦衣類其外家財等をも、遠き所へ持運びおくべし、さりながら地震のゆりさまを考へたし。強大地震のゆれはとて、逃支度も愚慮の■といはんか、今年の大地震は日本國中の内、六十州までゆりたるといへる人もあり、土地の崩れ人家のつぶれ、津なみの人の死傷などの事は、難波の有枝といへる人の、世直り草紙と題せるものに大概を記したるものを見たり。
一、我が子々孫々のもの等、衣食住に奢らず、節儉を本として、及ばぬ事ながら、手遠き所へ小屋をしつらひおきて、平生に心得て、近國に大地震あるか居住はいふに及ばず、郡中などに地震しばしばあらば、手遠きところへ、衣類道具米麦の類持運び置たきものなり。
一、流死人 百六十三人

 十七人 南浦、 七十一人 林浦、 七十一人 中井浦、 三人 堀北浦
 一人 天満浦 外に三十一人 旅人並に他所より来る?人凡百九十四人
 波のあかりたる限大概を記す。
一、林 仲氏並常声寺への通道角迄
一、堀 祢宣町より金剛寺への通道より一町はかり
一、今町迄栢町への通道少し不迄
一、畑中畔本道限り
河筋波鼻
一、中川 杉の瀨まで 計知川 坂場まで 矢の川 桧の谷出合まで
一、北浦 皆流失 橋落る
一、氏神 無難
一、矢ノ浜 地下藏の下まで二十一軒流失 氏神社流失 圓通寺半潰
一、水地 無難
一、 天満 十二軒流失
一、 長浜 十軒流失
一、 向井大曽根松本 何れも無難
 漁舟流れ登りし所
 御制札場に一艘、念佛寺の後畑中に二艘、今町に盪送船一艘、漁舟二艘、栢町に一艘、堀に一艘、此外損傷の船数十艘、沖に出居たるは無難、されど雀島内に居たるは、破損の家藏の流物或は諸道具、杉桧材木の流木等にせがれ、甚危ふかりしといへり、必船に乗て逃べからず。
一、廻船 八十石積のイサバ下り坂へ流入、三百石積の船八幡山の麓稲荷社の側に流入
 寺
一、金剛寺 鐘楼并に薬師堂大破 金毘羅堂梵盃石表門流失 石垣悉崩る 本堂庫裏床より上三尺はかり水上がる。
一、念佛寺 觀音堂并に隠居所流失 庫庫大破 石垣悉崩る。
一、祐専寺 本堂無難 庫裏大破 石垣悉崩る
一、光圓寺 安性寺二ヶ寺とも皆流失
一、常声寺 良源寺二ヶ寺とも無難
破損軽重さまさま
 流残りたる分
一、高町は新町へ通る角より浜通り角まで両側残る、新町へ通る道にて一軒残る、
一、袋町は高町へ通る角ちかきあたり、竪横町にて納屋借家とも十軒はかり残る、
一、世古町四軒残る、
嘉永七年甲寅十二月 若林多仲識
因にいふ
 津なみの跡は人の心いつれも皆賊心おこり、ひそかに他人の物をうはいとり親兄弟の礼もなく、正直なる者をあほふの如くおもひ、誠に言語にたへたる事どもばかり也、小前のものともはいふもさらなり、中分以上の人々もみな賊心にて、おそろしき世となり、尾鷲浦にて漸く五七人正直なる人ありと覚えし誠にあはれたることともなりき、我等は七十才俊藏は壮年なれとも、正直にそたてたれば、家財の流れ残りたるものも、皆人にうばはれ、みな人の物となりぬ、南本町少し東へ入所、辻本屋敷辰五郎屋敷との間に、つぶれ、家の流れ集りたる中に、薬箪笥ありて、飴屋孫慶松并に下男等掘出し、三つ外に引出し箱両掛けの薬箱本箱六ツ取出し呉たり、去ながら、本箱はことことく戸を失ひ、書物みな汐入りになり、且端本多く泥入等にて、間にあわぬ物多かりぬ、薬箪笥は引出し一つも失はず、引出に汐のいらぬ物夛く、治療するに大に都合よかりし、是ひとへに先祖神明の助ならんか、さて津なみ引納りなば、家土藏納屋だどの、沖に流れ出、或はばらばらに破れたるはせんかたもなけれど、在内にそのまま潰れひしげてあるやなしやは、見歩行せんさくすべし、眼にあたらば人夫かけて穿ち掘へし、家財必有べし、此心得肝要なり、既に我等納屋中井にてつぶれたりと見へて、さる家に我等紋所のある衣類を見て、ひそかにせんさくして、絹の物はかり七つかへし貰いぬ、納屋の二階の箪笥長持には、衣類の襟数五六拾もありたり云々 (以下略之)
附記
 又尾鷲南浦に於て調査せし安政度の海嘯景況の上申書あり、其状況前に異ならずと雖も、接続村の流亡人数人員左の如し、
 其時の大庄屋土井八郎兵衛より、直使を馳せ、旧藩の役所へ事情申立てられたれば、銀拾貫七百九拾壱匁五分と、銭三百八十貫二百文、家木料として尾鷲組十四ヶ在へ御救助下され、一同有がたく拝受せり、又大庄屋役土井八郎兵衛より、米三十石と荒布六百貫目を救助したれば、一時糊口をお凌ぎしなり。而して、当時大庄屋初め、庄屋肝煎組頭の者四ヶ月間計も、日々巡回して取締を爲し、追々仮住居をして職業を操ることを得、遂には家屋を建並へて現今の姿とはなれり。
 当時の戸数及流失死者等左の如く、実に宝永以来の災害と云ふべきなり、
尾鷲中井浦
 元堀北浦 戸数九十三戸 人口四百五十六人
内半流失五十戸 半潰十九戸 浪入十四戸 死亡五人
 元野地村 戸数百十五戸 人口五百八十六人 内浪入二十六戸
 元中井浦 戸数三百七戸 人口千二百五十人
内 流失二百八十七戸 死亡七十九人 外旅人死亡二十五人
尾鷲南浦
 元南浦 戸数二百三戸 人口七十人
内流失百九十九戸 死亡二十三人
 元林浦 戸数二百二戸 人口七百二十七人
内 流失百五十一戸 半流失六戸 死亡五十七人 外旅人死亡十一人
 天満浦 戸数三十五戸 人口百六十八人 内 流失二十四戸 半流失十二戸
 元水地浦 戸数四戸 人口十六人 但無事
矢浜村 戸数百五戸 人口六百二十人 内 流失二十一戸 半流失三戸
向井村 戸数五十八戸 人口二百七十二人 但無事
大曽根浦 戸数百八十五人 但無事
行野浦 戸数三十三戸 人口百四十八人 但無事
九木浦 戸数百六十戸 人口六百五十六人 内 流失二十七戸
反流失六十三戸 浪入二十七戸
須賀利浦 戸数百二十戸 人口四百七十三人 内 流失二十四戸
浪入四十一戸 破損三十一戸 死亡一人

E、地震聚報

 大震後小地震の続きたる例
一、皇極天皇元年十月八日、大和國地震ひ、動揺晝夜を分たず、同月十四日に至り、漸く靜穏に帰す。
一、天長四年七月十二日、京都地大に震ひ、夛く屋舎を倒す、一日大震一度小震七八度、之に次き十四日より月末迄には、凡一時間に一度震動せり。
一、貞元元年六月十八日、京都地大に震ひ、其響雷の如く、宮城諸衙夛く破壊し、十九日震動十四度、二十日十一度余動翌日に及ぶ。
一、文治元年七月四日、京都地震ふ、山崩れ海傾き、屋舎破壊の響は大雷に異ならず、強烈なる震動は二三十回に及び、其の余震は三月余に及ぶ。
一、永享五年九月十六日、京都大震す、近江殊に強く、山崩れ家埋まり、人夛く死す、震動は初日より三日間迄は、日々三十回計りにして余震漸く減少せしも延て月余に及べり。
一、宝永四年十月四日 東海道の諸國大地震し、又海嘯の爲めに命を失ひしもの頗る夛し、就中大阪は大破損に及び、死亡三万余人あり、同月中は時々、軽震ありたり。
一、宝暦元年二月二十九日、京都地大に震ひ、社寺屋舎大に崩壊す、其後度々地震し六月迄已まず。
一、文政十一年一月十二日、越後地大に震ひ、損害死亡甚だ夛し、此日大震の後翌拂暁迄に十九度、十三日中に八度、十四日に七度、十六日より十八日迄晝夜七度、廿八日迄震動あり。
一、天保元年七月二日 京都地大に震ひ、京中至る所損害を受けさるなく、人畜多く圧死し、潰家よりは火を発せり、十余日を経過するも、小震は半時位を隔てて之ありたり。
一、弘化四年三月廿四日、信濃國大に震ひ、山崩れ川を塞ぎ、潰家二千四百死者二万余、五月下旬に至るも猶止まずと云ふ。
一、安政元年十一月四日、駿河、三河、遠江、伊勢、伊賀、摂津、播广及び四國の地大に震ふ、就中土佐も烈しく、今月より翌年十二月迄、十四ヶ月間に總震数八百十七回にて、十一月には二百四十七回に及ぶといふ。
一、安政二年十月二日。江戸に於ける大地震の惨酷なりし事(欠字)今夜は引続き三十回の劇震ありしも(破れ欠字)其後数日間は日々十数回の小震あり翌年十月に至るも震動す。
一、明治二十二年七月二十八日、熊本地大に震ひ、延いて八月(破れ欠字)鳴動百七十一回あり、其の後数ヶ月間は其回数減少せしも、震動全く已まざりしと。

F、其他の古文書

七 講演集

 此の一文は、東京帝大地震研究所並震災予防協会嘱託武者金吉先生が、震災記念式の際に送つて頂いた講演の原稿を取捨し、先生の著述の中からも取入れ自分の考や其他の古文書からも材料を集めて、書き改めたものである、若し誤りがあつたとしたら、其れは筆者が負ふ責任である、読者諸君諒とせられよ、尚演題も勝手に「紀州と地震」と改題した。


紀州と地震

A、大規模地震の発生地

 我國は世界一の地震國でありまして、有感地震だけでも年々千八百回位起ります。即ち一日に約五回の割合になります。其の中には家が倒れ人が圧し潰されるような破壊的地震が少くなく、特に近年は殆んど毎年のように大地震が起つて、甚大な損害を生じました。
 日本書紀を紐解いて繙いて見ますと、推古天皇七年(西暦五九九)大和國に大地震があつたと云ふ記事があります。これが我國の記録に殘つて居る最初の大地震ですが、然らばそれ以前に我國に地震が無かつたのかと申しますとそうではありません、書物の上には現われていませんが、じしんのあつた證據が処女形のまゝ少しも破壊されずに、実物として我が紀州熊野の地に、歴然として残されています。
 其れわ木本町の東に突出している鬼が城であります。鬼が城の岩質は、鬼御影と申しまして、割合軟かい質の石であります、外側は硬い様に見えているが中の方は指でこすつても、ボロボロ落ちて来る程であります、それが長い年月の間雨に打たれ、風に晒され、汪様として寄せ来る熊野灘の荒波にぶつつかつて、其の水際の処に岩窟が出来ました、処が何時の時代かに起つた大地震によつて突然隆起をいたしまして、洞窟は高く飛上つてしまいました、そうして幾百千年を経ている内に、再び汀線に洞が出来た処え、更に発生した大地震の爲めに、又々隆起作用を起こしました、現在見るような形貌を顕しています。
脇水博士の測定によりますと、最も高い段丘で、水準面から三十七米あるといわれていまして、之れが熊野沿岸が大昔大地震に見舞はれたという、何よりの證據であります。
 処で近年におきましても、百人以上の死者を出した大地震は、明治二十四年から昭和二十三年に至る五十八年間に十五回程も揺つています、丁度四年に一回の割に発生していますが、其の内には大規模地震も六回程あります、之れも十年に一回の割合になつて居ります。次に掲げた表は、被害の大きい順に挙げたのであります、又○印は大規模地震であります。
○大正十二年九月一日 関東地震 九九三三人
○明治二十九年六月十五日 三陸津波 二七〇〇〇人
○明治二十四年十月廿八日 濃尾地震 七二七三人
 昭和二十三年六月廿八日 福井地震 五五五五人
 昭和二年三月七日 丹後地震 三〇一七人
○昭和八年三月三日 三陸津波 二九八六人
 昭和二十年一月十三日 三河地震 一九六一人
○昭和二十一年十二月廿一日 南海道地震 一三〇二人
 昭和十八年九月十日 鳥取地震 一一九〇人
○昭和十九年十二月七日 東南海地震 九九〇人
 明治二十七年十月廿二日 庄内地震 七二〇人
明治五年二月六日 石見浜田地震 五三七人
大正十四年五月廿三日 但馬地震 三九五人
昭和五年十一月廿六日 伊豆地震 二五九人
明治二十九年八月廿一日 陸羽地震 二〇六人
 破壊的地震には大規模のものと局部的のものとあります。先年の福井地震や丹後地震は、震源地に於ける震動は極めて激烈ですが、震動を感じる範囲は比較的せまく、即ち局部的の地震であります。それに反して東南海地震とか、濃尾地震のような地震は、地震動を感ずる範囲即ち震域が極めて広大でありますから、大規模地震と申して居ります。南海道地震の時には、其の損害を蒙つた地域は、一府二十四縣に亘つて、我國の約半分に近い範囲であります。近年我國に発生した大地震について、規模の上から申しますと。
 昭和八年三陸沖、昭和廿一年南海道、昭和十九年東南海、大正十二年関東地方、という順序であります。
 処で色々の点から調査研究した処によりますと、大規模地震の発生する地域は、次の図に示してあるように、A、B、C、D、E、F、即ち南海道沖、東海道沖、相模湾房總沖、三陸沖、釧路根室沖、それから濃尾地方の六ヶ所に限られていまして、他の地域に発生する地震は其等の地域から発する大地震に比べますと規模が小さいのであります。

B、紀州に被害を生じた地震

 次に本論に入りまして紀州と地震について申上げます。古来紀州及び其の附近から発して被害を生じた地震を挙げて見ますと、次の通りであります。附近と申しましても遠州灘や土佐沖まで含んで居ります。
(1)*天武天皇十二年十月十四日 (2)*仁和三年七月三十日 (3)*延喜廿二年(月日不詳) (4)長暦元年十二月十七日 (5)*永長元年十一月廿四日 (6)*元弘元年七月三日 (7)*正平十五年十月四日 (8)*正平十六年六月二十四日 (9)*応永十年(月日不詳) (10)*応永十四年十二月十四日 (11)康正元年十二月廿九日 (12)*明応七年八月廿五日 (13)*永正七年八月八日 (14)*永正十七年三月七日 (15)*慶長九年十二月十六日 (16)*宝永元年(月日不詳) (17)*宝永四年十月四日 (18)*安政元年十一月四日 (19)*安政元年十一月五日 (20)*明治廿二年三月七日 (21)明治四十四年六月十日 (22)昭和五年二月十一日 (23)*昭和十三年一月十二日 (24)昭和十五年十月十三日 (25)昭和十五年十一月十八日 (26)*昭和十九年十二月七日 (27)*昭和廿一年十二月廿一日 (28)昭和廿三年四月五日
 さて右に記した地震を発した地点を調べて見ますと、大別して内陸と海底とになります。即ち紀伊半島の内部から発した地震と、紀伊半島附近の海底(熊野灘、紀淡海峽等)及び隣接地域の海底(遠州灘、土佐沖等)から発した地震とに分つことが出来ます。前記の地震の中*印を附したのが即ち海底から発した地震です。
 紀伊半島の内部から発した地震はすべて局部的のもので、大なる被害を生ずるようなものはありませんでした。それに反して遠州灘、熊野沖、潮岬より土佐沖にかけての海底から発する地震の中には極めて大規模のものがあり、必ず大津浪を伴ひ、沿岸地方に非常な損害を与えます。斯様な大規模の大地震は幸ひにして頻繁には起こりません。平均百年位の間隔をおいて起ります。併し一度斯様な大地震を発しますと続いて起る傾向があります。古い時代の地震は資料が夛く残つて居りませんから除きまして、比較的新しい時代のみについて申しますと、
/正平十五年 (熊野沖) \
\正平十六年 (紀伊西方沖) / 間隔約九ヶ月


/慶長九年 (東海道沖) \
\慶長九年 (南海道沖) / 同日


/宝永四年 (東海道沖)\
\宝永四年 (南海道沖)/同日


/安政元年 (東海道沖)\
\安政元年 (南海道沖)/間隔三十二時間


/昭和十九年 (新宮沖) \
\昭和廿一年 (潮岬南西沖) /間隔二年


 右のように先ず東の方から大地震が起り、ついで西の方から再び大地震が起ります。しかも二回目の方が一層大きく被害も大きいのが普通です。從つて二つの大地震の震源の中間にある地域では、第一の地震の後一二分から一二年の中に一層大きい地震・津浪に襲はれることになります。紀州沿岸、特に熊野地方は丁度斯様な位置に位して居ります。
 次に往々地震に伴う津浪について申上げます。海底に地震が発生し海底が陥没したり隆起したりする場合に、真上の海水を中心として、数十分の周期をもつた波、波の高さに比して波長の長い波が伝つて、八方に拡がります。之れを津浪と称するのであります。
 神明鏡という本に、─応永二十七年七月二十日、卯時より巳の時まで、瓦子相賀塩干事九度、魚多く打上げらる─という記事がありますが、之れは鹿島灘の地震の時の事で、卯刻は午前六時、巳刻は十時ですから、波の週期は三十分であつた事が分かります。
 波高は初めは小さいが、数千米の深海から、急に数百数十米という浅海に入りますと、段々高さを増し、湾の奥の狭い部分に侵入すると、時として非常な高さの浪になります。
 津浪のため甚大な損害を蒙るのは次の二つの條件が備はつて居る場合です。即ち(一)附近の海底が大地震を発する温床であること 及び (二)海岸の形がリアス式であること。不幸にして奥熊野地方の如きはこの二つの條件を備えて居ます。
 リアス式海岸でも特にV字形の湾の奥の部分では浪が非常に高くなり、從つて被害も大きくなります。複雑な形の湾の場合には浪が何回か岸に衝突し反射するので湾奥の被害が軽いこともあります。リアス式海岸の湾の奥では平地の面積が極めて狭いのが普通ですが、賀田の場合には平地が比較的広く、從つて人家も多かつたのが大被害を生じた一つの理由でせう。類例には尾鷲や新鹿があります。二木島などでは波が高かつたが湾の奥に平地が殆んどありません。從つて被害が比較的軽かつたのです。併し安政の津浪の浪高を標準にして建てた役場は、宝永程度の津浪が襲来すると流されること請合です。
 賀田でも深津呂の家が流れないのに、ずつと奥の山王神社下の家が流れて居り、二木島でも一番奥の学校が流失していますし、曽根でもあんな処がと思われるような、奥まつた処まで浪が入つて居ります。
 昔から津浪とは良く云つたものです。津と云うのはミナト即ち良港湾の意味で、宮津、魚津、唐津、焼津、大津、皆海か湖かの、水に面した港であります。宝永の津浪でも、安政の津浪でも、港の形態を備えていない、木本以南の御浜筋には少しも損害を受けて居らず、泊、新鹿、二木島、賀田、曽根、尾鷲、長島辺に損害が夛かつたのであります。
 紀州は地震や津浪とわ切つても切れぬ関係がありまして、被害を受ける事が大きいのであります。実に困つたものです。誰やらは産物を以てすれば木國であり、景色を以てすれば奇の國であると評した事がありますが、地震や津浪から云えば、又危の國であります。アブナイ國であります。

C、地震及津浪の災害軽減法

 然し地震や津浪わ、何んな力の強い人達が、何十万人かかつても之れを止める訳にはいきません、如何なる科斈の力を以てしても、地震の発生を未然に防ぐ事は絶対不可能であります、が然し我々の対策如何によつては、地震や津波の被害を、最小限度に喰ひ止める事は不可能ではありません、然らば如何なる対策を講ずればよいかといえば、地震の予知、浪災害予防施設、地震知識の普及とゆう事になりましよう、以下順を追うて申上げる事に致します。

(1)地震の予知

 大地震の起る時と、場所と其の程度が、予め正確に分かりまして、天気予報のように一般に伝える事が出来ますならば、少くとも死傷者の数を減少する事が出来、火事など起さない様にすることが出来ますが、遺憾ながら今日の地震学は未だ其の域に達していません。然らば現在の処、地震の予知は全然不可能かと申しますと、そうでもありません、或程度の予知は出来るのであります。
 十七世紀以後に起つた太平洋側の海底から発した地震を調べて見ますと、例外なしに北東から南西に向つて震原が移動している事が知られるのであります。
 1、一六七七年三陸沖─一七〇三年房總沖─一七〇七年東海道沖─同年同月南海道沖
 2、一八四三年根室釧路沖─一八五四年東海道沖─一八五四年南海道沖
 3、一八九四年根室釧路沖─一八九六年三陸沖─一九二三年相模沖
 前の二回の例から、三回目は今相模湾で止つているのですから、次は東海道沖、其次は南海道沖から大地震が起こるであろうとゆう見当がつくのであります。
 其れから大きな地震の発生した年代を調べて見ますと、地震と地震の間が前に記しましたように大抵百年位の間隔を置いて発生しているようであります。
 正平十六年(此間百廿七年)明応七年(此間百〇七年)慶長九年(此間百〇二年)宝永四年(此間百四十七年)安政元年(此間九十年)昭和十九年(平均百十七年)
 然かも夏より冬に於て地震の多い事は統計の示す所であります。
 地震と云うものは、突発的に何処にでも発生すると云うものではありません、常々から土地の動きつヽある場所に発生するものでありますから、精密水準測量と申しまする土地の極めて微小な上り下りを調べる測量を、同じ地域に於て繰返し施行する事によつて、或る地域が比較的著しい地形変動が進行しつつあると云う事が判明いたします。
 斯ういう風にして厂史的調査と、精密水準調査を行う事によりまして、近き将来に大地震が起こりそうな土地を探し出す事は決して不可能ではありません。
 東海道沖及び南海道沖から発生する大地震に関しましては、室戸岬或は潮岬とゆう太平洋に突出している部分わ、平時に於ては南下りの傾動を示しています。即ち次第次第と沈下が行われていますが、大地震の起こる前になると、反対に少しずつ隆起を初め、大地震と同時に南上りの傾動を初める習慣があります、それで検潮儀と称する器械を要所要所に設えつけて、海面の上り下り、云い換えますと、陸地の上り下りを觀測する事によつて、或る程度迄、大地震の発生が近づきつヽある事を予め知り得る可能性がある訳であります。
 故今村博士が、渥美半島、串本、周参見、高知等之検潮儀を設置したのも、其の爲であつたのでありますが、戦争の最中で資材が不足して、觀測を中止せねばならなくなつた事は、返す返すも遺憾なことでありました。
 只今申述べました様な方法で、大地震が近き将来に起こりそうな土地が発見せられました場合に、次に取るべき対策は、地震の愈々発生するという直前に現われる色々な前徴を捕捉して、地震の予報を出す参考にする事であります。
 大地震の前徴には色々ありまして、前に述べました紀伊半島や、室戸岬の傾動が反対に現われて来ると云う事も其の一つでありますが、尚其の外にも色々の前徴が顕はれる事があります、然し其れ等の前兆は必ずしも現われるとは限つていません、現われる事もあり、顕れない事もあります、今地震の前徴に就て少しく申述べます。

(イ) 地電流 地磁気の変化

 土地の中を流れている弱い電流の電位が、大地震の前に急に変化する事があります。東北大学の觀測によりますと、関東地震の二三時間前から、地電流の変化が初まつたとゆう事であり、地磁気の変化も発震前に現われる事がありますが、昭和八年三陸津波の場合には、其の前年の末から既に変化が認められたという事であります。

(ロ) 土地の傾斜の変化及び伸縮

 石本博士の作つた、シリカ傾斜計は、一キロメートル先の点が、一ミリメートル上り下りしても記録出来るといわれます、斯の様な器械で土地の傾斜を計る事によつて、地震を予知する可能性がある訳でありますが、次には通俗的な皆さんにも分かり易い事柄に就て申上げます。

(ハ) 地鳴

 大地震の前に地鳴が頻繁に聞こえる事があります。明治二十四年濃尾地震の前に、震源地附近では砲台の様な音が晝夜を分かたず聞こえるので、土地の人は各務原で砲兵が演習しているのだと思つていたそうであります。
 地上で地鳴が聞こえなくとも、井戸の中で地鳴が聞こえる事があります。安政二年江戸地震の時に、其日の晝深川辺で掘井戸を掘ろうとした処、地の底が鳴つて仕事が出来なかつた(武江地動の記)という事であります。又利根川の畔の布川では、二日の日に井戸の中に身を府して聞くと、屡々地鳴が聞こえた(赤松宗亘利根川図誌)ということでありますし、昭和十八年の鳥取地震の時にも、こんな例があります。
 紫雲荘編纂天災予知法という冊子の中に「ジヤンは不漁の知らせ」というのが載つています、高知の漁師は、海や川の水底が破れ鐘を打つ様に鳴る事があるが、之をジヤンと云つて出漁中でも帰つて来ます。寺田寅彦先生の怪意考にある、孕のジヤンの事でありましよう、同書には「土佐の今昔物語」と引いて、出漁中に此のものが海上を行き過ぎると、忽ち魚騒ぎ走りて時を移すとも其夜は少しも漁がないと云つています、之れは地鳴によつて、短周期の彈性波であり、其れを魚が感受して、其の附近から遁走するのであろうと云つています。
 橘南渓の東遊記に、東蝦夷の海に「オキナ」とゆう魚があつて、体の長さは二三里に及び、春は南に下り、冬になると北の方に去る、此の魚が来ると海底が雷の如く鳴つて、風無きに波浪起り、鯨東西に遁去る、斯かる時は漁師も早々逃帰るとゆう、と書いてありますが、之も孕のジヤンと同じく、海底から発する地鳴であろうと思われます。

(ニ) 地下水の異常

 安政二年江戸の大地震の数日前に、浅草藏前の或る家の土間から滾々と地下水が湧き出した事があります。之れ程著しくないにしても、井戸の水が急に増したり減つたり、或は濁つたりする事が往々觀察されます。
 温泉も亦大地震の前に著しい変化を示す事があります。大正十二年関東地震の直前、即ち九月一日の午前に、伊豆山の温泉が急に濁つた事があります 又熱海の間歇温泉は老衰して、全く噴出を止めて居つたのが、大地震の前日突然噴出を致しました、それから山陰道の三朝(ミササ)温泉の温度が急に増しました。鳥取地震の前にも温泉が濁つたと云う事であります。

(ホ)前震

 大地震の前に、比較的小さい地震が数回或は数十回、それ以上も起る事があります、之を前震と申して居ります。
 安政元年六月十五日伊賀上野辺から発した地震の三日前から、小地震と地鳴が起りました。又明治二十九年陸羽地震の場合にわ、八日前から夛くの地震を発生して居りますし、昭和五年伊豆地方の地震の前震わ、二千三百五十八回の多数を算えました。

(ヘ)著しい地震の頻発

 強震程度の地震が数年の間に同一地域から続いて発生しまして、次に大地震が起こる事があります、こんな場合にはよく注意せねばなりません。次の表をご覧になれば分かります。
(a) 明治二十一年四月二十九日 震源東京湾 小被害
 同 二十二年二月十八日 同 同
 同 二十五年六月三日 同 東京湾北部 同
◎同 二十七年六月二十日 同 東京湾北方 全潰半潰十 死傷一八一
(b)  同 十八年一月二十七日 岐阜縣武儀郡
 同 二十年二月二日 伊勢湾附近
 同 二十二年五月十二日 美濃南部
◎同 二十四年十月二十八日 濃尾大地震
(c) 大正十年十二月八日 千葉縣龍ヶ崎
 同 十一年四月二十六日 浦賀水道
 同 十二年九月一日 関東大地震
寛政十一年金沢大地震の場合にわ、二十余年前からの其の附近に数回の強震、山崩、地辷等が起つて居ります。

(ト)発光現象

 発震の時、或は其の前後に一種の光が空中に現れる事が往々あります。宝暦元年越後高田地震の前に、海上で漁をしていた漁師が自分の村の方をみると、空が眞赤になつて大火事の様に見えたから、急いで漕ぎ帰つて見たが村には何の異常もありません、さては不思議な事であると話し合つている中に、大地震になつて村の背後の山が崩れて来て、上名立という部落は全滅、唯一人女だけ木の枝に引かかつて助かつたという事であります。
 昭和五年伊豆地震の前に現われた発光現象は、夛くの人が目■しましたが、昭和廿一年の南海道地震の時も、夛くの人が発光を觀察致しました。
 発光の形は大抵放射状、棒状、球状になつて現われるらしいが、発見した人は大抵周章ているのか、觀察が不確実なのが夛い様であります、若しそうした発光現象が現われた場合には、次の様な点を詳細に觀察して、報告して欲しいものです。
1、時刻 2、形状 3、見掛けの大さ 4、位置 5、色 6、移動する速度 7、現われていた時間

(チ)地気の上昇

 享和二年十一月十五日、佐渡の地震の後に、広島某とゆう人が金山を訪問した時、過日の地震で定めし坑も潰れ、人も損じた事でありましようと尋ねた所、いや此地では地震は以て分かりますし、先達の地震も三日前から分かつていましたので、入坑しなかつたから、一人として死傷者はありませんと答えました。それでは其の前徴わと聞くと、地震の前には坑のまえ地気が曻つて、傍らに居る人も互に腰から上は濛々として見えないものであると、答えたそうであります(地震考)
 発震前に天色濛々としていたという記事は、他にも沢山見出されるのでありますが、やはり地震考に、次のような記事も載つて居ります。老男が地を耕すとき、煙を生ずるが如きを見て、将に震せんとするを知る(中略)又世に伝うるに、雲の近くなるは地震の徴なりと、是は雲にあらずして、地気の上曻するにて、煙の如く雲の如く見ゆるなり、とありますのも其の一つであります。
寛文二年五月一日畿内地方の地震の日にわ、朝から天色濛々としていたという事であります。
享和二年、前に申しました広島某という人は、佐渡の小木で、日和を見るべく船頭と共に丘の上に登りますと、船頭のゆうには、今日の天気は誠に怪しげである、四方は濛々として雲が山の腰に垂れ、山の半腹から上は峯はあらわれている、雨とも見えず風になるとも覚えぬ、未だ斯る天気に遭遇した事がないと云う、そこで広島某は、之れは地気の曻る爲めで、前兆であるから、一刻も猶余すべきでないと云つて急いで出立した、果して道の程四里計り来た時に、山中で地震に逢つたとゆう記事も残つて居ります。
 天保元年畿内地震を、京都の東山で体験した人の話によると、先づ西山何となく気曻つてそれから忽ち市中土煙を立てて揺れるのを感じたとゆう事であります。但し地気とは如何なる現象でまた其れが果して地震の前徴であるか如何かは分りません。

(リ)大気現象の異常

 地震の前に空の色などが平常と変つたという記事も少なくありません。安政二年江戸地震の時、或旗本の門番が十月二日の暮頃天を仰いでいたが、やがて今夜は必ず地震がありますといつて、飯を炊き菜を取添へて用意万端整えていた、とかくする中果して大地震があつたので、主人は門番を呼んで尋ねると、奴は文政十一年越後の三條で地震に逢い、又信州で弘化四年地震に遭いましたが、三條にいる時、或る博識の人から聞きましたのに、地震のある前には天色朦朧として星の光が大きくて、昴参の中に糠星まで鮮かに見る事が出来ました、処が一両日前から空の色が変わつて、信州にいた時の模様と似ていたので、地震の前兆であると考えたのでありますと答えたとゆう事であります。
 天保元年畿内地震の前日の夕方にわ、一天朱を流した如く、平日の夕焼如何様に色濃く候とも、これ程の色は覚え不申云々とあるが、余程著しい色であつたと見えます。其後も強く振る毎に、夕焼の色が濃かつたという事であります、又主震のあつた三日前の朝、東の空が一面黄くなり、其の日は大地震がなかつたが、夥しい余震があつたとゆう事であります。
 元録十六年関東地震の頃、天野弥五左ヱ門とゆう老人が、星低く見え冬暖かな年は地震があるといつて、家に鎹を打つたりなどして置いたら、果して其の年に大地震があつたそうです。又此の地震の時に、渋川助左ヱ門という人、之れは天文に通じている人でありましたが、今夜大雷か大地震があるでしようと、御城へ言上したとゆう事ですが、斯る現象と地震との関係は今日明かでありません。

(ヌ)魚類の異常行動

 大地震の前に、種々の動物が平常と異つた様子を示したと云う話は、往々聞く事でありますが、中でも魚類が発震前に異常行動を示したという例も少なからず見出されるのであります、異常行動といつても、色々な種類がありまして、大別しますと次の四種類に分つことが出来ます。
 (い)水面浮上及び類似現象
魚の名 地震の年月 場所 異常行動
ドゼウ 明治廿四年 濃尾 ■に浮上


魚の名 地震の年月 場所 異状行動
            ┐
ウナギ 明治廿九年 三陸 │
海魚 大正十二年 関東  ├───単に浮上
ウナギ 昭和八年 三陸  │
ミヅサワラ 仝      │
高脚蟹 仝        │
            ┘
               ┐
淡水魚 昭和廿一年 磐梯山破裂 │
鹹水魚 仝 廿四年 濃尾    ├─弱つて浮上
フナ・コヒ 大正二年 関東   │
ボラ 文化七年 男鹿      │
               ┘
              ┐
ウナギ 明治廿九年 三陸   │
タラの種類 大正十二年 関東 ├─死んで浮上
鹹水魚 昭和二年 丹後    │
モウカザメ 仝 三年 三陸  │
              ┘


(ろ)不安の様子を示す並に水面跳躍
            ┐
ナマズ 安政二年 江戸  │
コヒ 昭和八年 三陸   │
鹹水魚 明治廿一年 筑前 ├─跳躍
ナマズ 大正十二年 関東 │
淡水魚 仝  │
サバ 昭和二年 丹後 │
フナ 仝 八年 三陸 │



(は)沿岸に来群並に大漁
イワシ 安政二年 三陸
ウナギ 仝 仝
イワシ 明治廿九年 仝
ウナギ 仝 仝
ウミヘビ 仝 仝
マス 仝 仝
ウニ 仝 仝


魚の名 地震の月日 場所 異状行動
アワビ 明治廿九年 三陸
背黒イワシ 大正十二年 関東
イワシ 仝 仝
カツオ 仝 仝
サバ 仝 仝
ナマズ 仝 仝
スルメイカ 昭和二年 丹後
アカエビ 仝 仝
エノハ 仝 仝
シイノハ 仝 仝
イワシ 昭和八年 三陸
ナメダ鰈 仝 仝
メヌケ 仝 仝
サバ 仝 仝
サバ 仝 仝
アワビ 仝 仝
タボハゼ 仝 仝
タコ 昭和十四年 男鹿
マス 仝 仝
マグロ 仝 仝
湖魚 仝 仝
タイ 仝 仝
アイナメ 仝 仝
アブラコ 仝 仝
ゴイカ 昭和廿一年 南海道
サヨリ 仝 仝
エビ 仝 仝
イカ 仝 仝
カマス 仝 仝
魚の名 地震の年月 場所 異状行動
アユ 昭和廿三年 福井


(に) 不漁
キス 明治廿四年 濃尾
サメ 仝 廿九年 三陸
タラ 仝 仝
ヒメクリ蟹 仝 仝
淡水魚 仝四十三年 有珠山噴火
鹹水魚 大正十二年 関東
アジ 仝 仝
カツオ 仝 仝
マグロ 仝 仝
ウナギ 仝 仝
淡水魚 大正十四年 但馬
鹹水魚 仝 仝
仝 昭和二年 丹後
背黒鰯 昭和八年 三陸
カレイ 仝 仝
ウグヒ 仝 仝
ナマコ 仝 仝
淡水魚 昭和十三年 屈斜路湖附近
ユゴイ 仝 仝
サンマ 昭和廿一年 南海道
アユ 仝 廿三年 福井 午前不漁
午後大漁


 右の前徴の中で地気の上曻や大気現象は今日の科斈では説明が出来ず、眞僞不明ですが、他の事柄は大地震の前兆と申して差支ないと思います。
 次は津浪についての予知を申上げます。

(オ) 津浪

 津浪が襲来するかどうかとゆう事を判断する事は、仲々困難でありますが、津波が発生(即ち地震があつてから)してから海岸に到達すまでには、少なくとも十分や十五分の余祐があります。然し震央が陸地から近い時には一概にそうも云えませんが、次に申上げる副現象によつて津浪の接近を察知する事が出来ます。
☆津波を伴う地震に■して大きく揺れ、且つ長く(以下不明瞭)
ります。岩手縣の唐丹(トウニ)村では古来から、地震が長い時は津浪の前兆であると伝えています、又三陸方面では地震の際に雉子が鳴けば津浪が無く、馬が嘶けば津波がくるといい伝えています。
 之わ同地方わ、震原が遠い沖合の海底にある爲め、震動が緩慢でそうゆう場合にわ雉子が鳴かず、反つて馬が驚怖して嘶くのでありましよう。


☆津浪の襲来する前に遠来又は砲声のような音をきく場合がありますが、此の場合には津浪が余程接近している兆であります、又津浪の来る前に発光を認める事がありますが、之れも津浪の接近している事を示すものですから、注意すべきであります。


☆津浪は引潮で初まる場合と上潮で初まる場合とあります、海底に陥没あると引潮で初まり、隆起した場合には上潮で初まるのでしよう。
 例えば海底が陥没すると、其処を埋める爲めに四方八方から浪が寄つて行きます、処が其の勢の爲めに量以上の浪が集り、反対に岸の方の浪は余分に引き去られて減つて行きます、今度は減つてしまつた岸の方を埋まる爲めに、震央近くの浪は岸の方へ寄せて来ます、津浪が一回でなく四回五回と寄せるのは其れが爲めであります、処が盥に水を入れて其のタラヒを動かすと、中の水はジヤブジヤブと動揺しますが、二回三回四回と回を重ねる毎に動き方が小さくなり、最後には静止してしまいます、津浪もそれと同じ理屈で、初めの一二回は大きく寄せて来ますが、段々と小さくなるのであります、地震のあつた後、一二時間は津浪に注意せねばなりませんが、二時間もたつて来なければ、もう大丈夫です。

☆津浪が襲来するか否かは、此辺でわ、山からの地震は津浪はないが、海からの地震は津波が来るといいます。之は音が山の方に起つた時と、海の方に聞こえた場合のことで、震央の方向をいつたものでしよう。

(2)耐震建築及び浪災予防施設

(イ) 耐震建築

 今日最も耐震的な建物は、鉄筋及鉄筋コンクリート建築でありますが、我國に於ては、経済関係や気候等の関係から、凡ての建物をコンクリート建にする事は出来ません、処が都合の良い事に、木造家屋は少しく注意を拂つて建築する事によつて、耐震的にする事が出来ます、福井の地震に殆んど全滅した町村で、唯一棟が倒潰を免れた家を調べて見たら、屋根が軽くて、筋違や方杖を以て耐震的にしてあつたそうであります。
 紀州は地震とわ切つても切れぬ関係にありまして、然かも海岸地形が津浪に関して危険でありますが、幸な事には地盤が堅硬に出来ているため、また大地震の震源が海底にあるために埋立地以外にあまり家屋の倒壊する事がありません。從つて震災よりも浪害の方が大きいのであります、以下浪害予防について申し上げます。

(ロ) 高地への移転

 浪害予防として最もよいのは、高地への移転であります、併し漁業や運漕業の爲めに、納屋とか事務所等を海岸から移す事は困難でありましようが、住宅や学校或は役場等は是非共高地へ設けるべきであります、浦神の学校のように、離れ小島の然かも概要に面する側に建設したり、今回校地を上げはしたが、二木島の如く湾奥の川口に学校を設けてあつた等は、最悪の位置というべきでありましよう。
 学校等は切取地に建てるべきで、埋立地に設ける事は危険なことであります、靜岡縣向笠で、昭和十九年の地震の時、山地と平地に建つていた家屋の被害は次の通りであります。


住家全壊 住家半壊 非住家全壊 非住家半潰 死者
山地 三 〇 〇 一〇 〇
平地 一一九 五六 二七七 二二一(印刷が切れている) 二
或村の役場は、安政の津浪を標準として安全と思われる位置にありますが、今一歩進めて宝永の津波を標準とすべきでありましよう。又湾の形によつては、津浪を正面から防禦することは殆んど不可能な場所がありますが、こんな処では津浪の進行する正面を避けて側面の高地に移転すべきであります。

(ハ) 防波堤

 津波除けの堤防であります、普通の防波堤は、風波を凌ぐ事が出来ますが大津浪に対して効果の無い事は、尾鷲の防波堤がよく之れを證明して居ります、津浪に対して有効ならしめるようにするのには、高さも幅も幾倍の大きさにしなければならず、時には第一、第二と段階的に設けなければならぬ場合もあります、そうした條件を充分満足せしめるように作られた防波堤は、大津浪に際して大きな効果のある事は、斯の浜口梧陵によつて築造された和歌山縣広村の防波堤が、昭和二十一年の津浪を美事に防ぎ得た事でも明らかであります。

(ニ) 防潮林

 海岸に広い平地がある場合には、海浜一帯に之を設けて置きますと、津浪の勢力を減殺する効果があります。但し林の厚みが余り薄くては効果がありません、岩手縣高田湾奥に高田松原という立派な防潮林がありまして、其の爲めに昭和八年の三陸津波の時高田町は殆んど損害が無かつたのでしたが、近年松原の一部を伐つて旅館を建てた処、云う迄もなく此の旅館だけが損害を蒙りました。

(ホ) 緩衝地區

 津浪の浸入を阻止しようとすれば、必然の結果として局部に於ける増水と隣接地區への反射、又は氾濫を来す事になります、若し川の流路、谿谷或は他の低地を犠牲にして、之れを緩衝地區とし、津浪が自由に浸入するようにすれば、隣接地の浪害を軽減する事が出来ます。
 船舶や木材が浪と共に上陸突進する時は、被害を著しく増加しますが、それらが緩衝地區へ導入されれば、被害を著しく減ずる事が出来ます、申す迄もなく緩衝地區には住宅、学校、役場等を設けない事であります。

(ヘ) 避難道路

 住宅地から安全な高地へ直接通ずる道路が必要であります、之が無い爲めに夛数の死者を出した例は、昭和二十一年の熊野錦浦があります。道路系統の複雑な爲めに沢山の流死者を出したのは、宝永四年及び安政元年の津浪の際に於ける尾鷲があります、安政の時には百九十四人も流死いたしました、二木島の如きは之れ以外に予防施設はないようであります。

(3) 地震知識の普及

 地震の予知も必要、耐震建築も大切ですが、地震の知識が一般に普及されることは何よりも重要です、日本は世界一の地震國震災國であるにも拘らず、大夛数の日本人の地震に関する知識は極めて貧弱であります。右の「大夛数の日本人」の中には政治家や教育者も入ります。とりわけ自分の郷土の過去の震災浪災については十分の知識を持たねばなりません、それが震災浪災予防の根底であります。昭和八年三陸津波の直後、同地方の小学校を歴訪して津浪についてどの程度の知識を児童に授けて居るかを尋ねたところ、校長の返事は一つの例外もなく、”ノー”であつた。そしてその理由は教科書に書いてないからと云うのであります。私(武者)は長嘆息せざるを得なかつたのです。其後、熊野沿岸を訪れ、或る村では小学校の位置を早く移転するよう勸告しましたが、その勸告は容れられかつた。或る部落の老人達からは津浪の惧のない土地へご苦労様にも東京から調査に来たと云つて大に嘲笑され、また或る村役場の吏員はこの地に浪災の心配なしと平気な顔をして居ました。また或る町では、校庭に宝永津浪流死者の塚があるにも拘らず、毎年津浪の記念日に其の塚のほとりで訓話を試みて居る様子はありませんでした。これも教科書に書いてないからでしよう。私は再び長嘆息さざるを得なかつたのであります。
 昭和の津波の被害も要するに、、一般の人々が地震や津浪に対する知識の欠けていた事が夛くの死者を出した原因であろう。紀州近海に発生する大地震は続発性のあるという事を知つて居れば、同じ場所で三回目の浪の被害を受けずに済んだのであります。
 津浪の経験がない爲めに、波はいくら大きいと云つた所で、御浜海岸に打寄せる土用浪位であろう、木本の子供等はあんな土用波でさへ泳いでいるのだから泳げるに違いない、泳いでいれば其の内助かるのは必定だ、高い浪が来たとて箪笥の上へあげておけば浸水位で済むだろう位の安い考えをもつたのが失敗
<一行 印刷が途切れている>
 殊に今度の地震よりも強震だつた明治三十二年の地震さへ、津浪の襲来が無かつたのだから定めし今度も津浪は来ないなどと、津浪は地震の強弱と合致するものでないという事も知らずに、早合点した事も其の一でありました。
 津浪に背を見せるなという諺の通り、浪の速さにはどうしても勝てないのも知らずに走つて命を失つたり、浪の周期がどれ程かを考えず、家の中に入るのに見張もつけなかつたというのも、今になつて思えば残念です。
 三兵衛屋の処迄潮がひけば津浪が来ると云い伝えている古人の言をおろそかに、何の気も止めずに呑気に暮らして居たのです。記録や口碑の重要なことも考え直す必要があります。
 佐々博士も、まあ、大体百年位は地震や津浪はないと考えてよいが、又百年目に同じ場所に、大きな地震や津浪が来るに極つている、然し此の辺は三陸のように三十米にも及ぶ事は一度もなく、大抵四米■至六七米のものであるから、一寸津浪よけの施設を考えればもう永久に津浪の恐れもなくなるのであるが、健忘症な日本人は直ぐ津浪の害を忘れてしまつて、次の地震や津浪の被害から避れる処置を取らないで困る、と云つて居られます。
 最後に、大地震・津浪の場合の心得を述べましよう。

D、災害時の心得

(1) 地震の場合

(イ) 広場があつたら直ぐ飛び出せ、但し火の用心を忘れるな。

 地震は初めゴトゴトと小さく揺れ、次にユサユサと大揺れになります、初めの小さい震動を初期微動といゝますが、大地震の場合にわ、初めから相当な揺れ方をします、斯様な時広場が近くにあれば、直ぐ避難するがよい、然し外に出る時には火を消す事を忘れてはなりません。

(ロ) 室内に止るなら堅牢な道具の下に身を寄せよ。

 大地震になると、揺れ方が初めから大揺れになるまでに一二秒の事さへあつて、外に出られぬ場合もあります、斯うして室内に居なければならぬ場合には、堅牢な家具の下へもぐるがよい、そうすれば桁や梁などで押し潰される事はありません。

(ハ) 二階にいたら下へ降りるな

 一階が潰れても二階が其の侭残る事が夛いものです。福井の地震で蘆原町の二階建五十棟の内、一階だけ潰れたものは四十棟、二階の潰れたものは一棟もありませんでした、愛知縣海部郡一色辺では、階下にいても地震が揺り出すと二階へ逃げるそうです。

(二) 石垣や石燈篭に近寄るな 屋根瓦に注意せよ

 屋根瓦の墜落は危険ですから、避難の際には、防空頭巾か坐布団を被つているとよろしい、熊野の様な石垣の夛い処では、石垣の傍によらない様にせねばなりません。遊木浦などに見受ける段畑の土止の石塊は実に困つたもので、地震の際に避難が困難でしよう。

(ホ) 人を救うより火を消せ

 地震の被害より実は火災による方が怖しいのであります、木造建築は倒れても梁などで押えられぬ限り滅夛に死ぬものでもありません。明治二十四年濃尾地震の調査によりますと、最も被害の夛くかつた所でも十戸に就て一人の死者を出した割合でありますが、出火があると甚しい場合には一戸につき、一人の死者を出す事があります。大正十二年関東震災でも、東京に於ける圧死者約二千人でしたが、大火となつたために死者六万人に及びました。出火があつたら何を置いても消火に力めなければなりません、大正十四年但馬大地震の時、震原の殆んど眞上にあつた田結(タイ)という部落では、八十三戸が倒潰して六十五人が下敷となりましたが部落の人達は人を救うより先づ火を消せといつて、三ヶ所に起つた火を消し止めて置いてから、下敷になつた人を助けたので、即死者を除いて全部を無事に救い出す事が出来ました。

(へ) 直ぐ水を貯えよ。

 地震が揺つたら直ぐに火を消してから、あらゆる器物に水を汲み入れて、出火に備えねばなりません。

(ト) 余震を怖れるな。

 大地震の後に必ず余震が発生しますが、余震は本震に比べると小さいのですから、怖がる必要はありません、然し本震で大破した家は余震で潰れる場合もあります、また東海道南海道沖の地震は二ヶ所から続いて起る習性がある事は前に申しましたが、一回地震があつた場合、二回目の地震がある迄は油断はなりません。

(2) 津浪の場合

 紀州熊野地方のような津浪の常習地では、地震があつたら直ぐに海の状況に注意せねばなりません、但し一二時間たつても津浪が来なければもう大丈夫です。
 津浪の襲来する回数は、一定していませんが、家を浚はれるような浪は初めの数回だけで、其の後は所謂強弩の末で恐るゝには及びません、然し新たに海底に変化が起こればそれは別問題です。
 津浪は或る周期をおいて間歇的に来るのでありますから、あまり慾張り過ぎて命を失う事があります、家に帰る時には見張りをつけておかねばなりません、然し近くに高い土地がない場合わ、絶対に帰つてはなりません。
 津波の速さは海の深さと、海底の地形や湾の形状等によつて、著しく違うのであります。三陸の沿岸のように深さ数千米もある沖合では非常に速くてアメリカの西海岸迄十時間二十分で達するといわれます。大体一秒間に三百米の速さです。浪が近くに迫つた場合には、出来るだけ最短距離を取らねばなりません、廻り道をして遭難した例は、今度の津浪に於てもあつた様です。兎に角、早く一尺でも高い処へ避ける様にせねばなりません。

八、結び

 地震、津浪に関する無智無関心のために貴重なる多くの人命を失い、莫大な損害を蒙つたことは返す返すも残念である。たゞ些か心を慰められることは、当時は戦争の最中で、隣組制度が完備していた事とて、僅か一時間か二時間で罹災者への配給品を渡すことのできた事でこれは非常な好結果であつた、罹災者の欲求したものは、食糧よりも衣料であつたとは、後日の懐旧談である。
 口碑や記録の尊いものであり、被害を少なくする事の出来る貴重なものである事は我々は痛感した。然し年が経つにつれて、彼の恐ろしい津浪の体験をしなかつた次の世代の人々は忘れてしまつて、再び繰り返すよう事があつてはならぬ、五年目か七年目かに、震災記念会を開いて津浪に対する対策を語り伝え次に来るべき津波の被害から逃れさせる様にするのが子孫への吾々祖先の責務であろう。


九は病五七の雨に四つひでり
六つ八つ時は風と知るべし

附録

大地震津浪之■

 宝永三年戌年十月ヨリ十一月迄大門建立其明年ノ亥十月四日午刻大地震津浪ニテ浜通不残流家仕者也 此時流人十一人有之也
 右宝永三年ヨリ弘化四年迄凡百三十三年
嘉永七年寅六月十四日七ツ時大地震殊ニ荒々舗此時猪鹿垣大半崩レ其後木山二ヶ所売右ヲ以猪鹿垣出来此津浪用夷イタシ申所其後津浪無之所同年十一月四日之朝五ッ半時大地震津浪左乃通リ也
一、浪高サ宝永ノ津波ヨリ凡三尺四五寸計ヒクシ
一、浪打畄井調ノ車
一、榎本弥三兵衛手船萬屋彦藏舗東ノ方ヘツナグ
一、浪榎本貞ニ良店舗迄
一、同人屋舗迄シオ乗り不申
一、稲荷上ノ社殿迄浪乗
一、三折家不流板シキヨリ
一、壽津古渡所迄浪来ル
一、鉄炮頭大川谷家壱軒茂不残流失ニ相成申
一、田中又五良家舗西ノ道迄
一、浪ハジメヤハラカニシテ治大ニツヨク入来其様荒々舗
一、此タビノ地震一流有初メ動出シ戌亥方ヨリドニラゴトクドンドントナリ来リ夫ヨリ家々コク江来ル者也
壽田村家数百六十一軒 此人数八百廿五人
津浪流家七十三軒 此人数三百五十五人 半浪二軒有之
流死人名前
一、六十四才 庄兵衛
一、三十五才 山伏桂重
一、五十八才 定七
一、十四才 仙助伜
一、九才 仙助伜
一、四才 和兵衛子
右文書 賀田 田中又一郎氏所藏 意味不明ノ個所アレド原文ノ侭抄録ス
(倉本爲一郎)

著者小傅(自敍)

 明治二十一年九月十三日、梶賀浦二番屋敷に生れた、明治四十五年三月、三重縣師範学校卒業後、本郡賀田、西山、○北桧杖、○三木、○三木里、○高岡、北牟?郡引本、○九木、○二郷、○上里各小学校に奉職(○印校長)して、二十一年間教育界にあつた、つとに郷土史研究并に考古学に趣味を持ち、紀伊及び熊野に関する古書、古記録を所藏して書架を満たし、夛くの考古学的遺物を拾集保存していた。
 又平素の研究調査を纏めて、上梓世に発表した冊子も数十種に上つている、近年「熊野群書類輯」を編纂、還暦祝に知巳(己?)友人に頒布する計画の下に執筆中郷土を襲つた津浪の爲めに、半世を費やした努力も一瞬にして流失、一切空となつてしまつた。
 其れにしても、研究的の精神だけは流失を免れたものの如く、其の古株から芽を吹き出して来る「昭和地震誌」編纂も、己れから求めて自分で苦労している、然し一生涯の遺物として社会へ送るものは唯是れだけに過ぎない。

還暦偶感

六十餘年夢寐中 繊身老骨白頭翁
何顔對祖先靈位 去々来々一切空


去思 倉本爲一郎




昭和二十四年十一月 印刷(謄寫)
昭和二十四年十二月七日 発行
著作者 倉本爲一郎
東京都文京區本町一丁目十三番地
印刷者 筆究社
南内輪村
発行所 震災記念會