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はじめに

 私達の住む尾鷲市は、古来より多くの地震と津波に見舞われ、そのつど被害と犠牲者を出しています。その中でも江戸時代に2度・昭和に2度の地震・津波では、甚大な破害を被りました。
 今年は、この4つの地震・津波の中の安政[嘉永]地震と東南海地震からちょうど140年目と50年目にあたることから地震と溝波の惨事を再び繰り返さないために、当館の資料や聞き取り調査などを主に展示しました。
 この4つの地震と津波の概要は、


 ★宝永の地震・津波
 宝永4年10月4日[1707年]正午頃、東海道沖と南海道沖とからほとんど同時に発生した巨大な双子地震で、この両地震の時差は数分であったと考えられています。
 被害は全国で潰家29,000軒、死者4,900人、家屋倒壊範囲は東海道から中国・九州にいたる沿岸を襲い瀬戸内海にも達しました。[マグニチュード8.4、津波高4mと推定されています。]


 ★安政[嘉永]の地震・津波
 嘉永7年11月4日[1854年]午前9時ごろ、遠州灘東部の海底を震源地とする地震で、家屋倒壊範囲は伊豆から伊勢にいたる沿岸と甲斐、信濃、近江、越前、加賀に及び、津波は房総から土佐にいたる沿岸を襲いました。
 被害は、倒壊流失8,300戸余、焼失600戸、圧死300人、流死300人、[マグニチュード8.4、津波高3〜4m。]


 ★東南海地震・津波
 昭和19年12月7日[1944年]午後1時36分頃、紀伊半島東方に発生した地震で震源地は志摩半島の東南40km。
 披害は主に愛知、三重、静岡で、地震にともなう津波は伊勢湾、熊野灘沿岸にかけて襲いました。
 被害は、死者1,223人、負傷者2,864人、全壊17,599戸、半
壊36,520戸、流失家屋3,129戸、浸水家屋8,816戸。[マグニ
チュード7.9。]


 ★チリ津波
 昭和35年5月23日[1960年]チリのチェロ島沖で大地震があり、それにともなう津波が翌24日午前2時頃から日本各地の沿岸に襲来しました。三陸沿岸では津波高が6mにも達し、三陸沿岸を含め北海道南岸、志摩半島などで大きな被害がでました。
 被害は、死者119人、行方不明20人、全半壊3,754戸、流失1,259戸。[津波高3m]

1.宝永の地震・津波

 当市に遺る史料は、「見聞闕疑集」・[宝永海嘯ノ記」・「大庄屋文書巡見使御用留」と供養塔の三界万霊塔「馬越」・「中村山」「三界万霊地蔵尊」(岩屋堂)が知られている。これら上記の史料をもとに宝永地震・津波を観てみることにする。

A.地震発生のようす

「宝永海嘯ノ記」には、「晴天化(他?)日に異なり例ならす温なる日也」これよりすれば、宝永地震の当日はまれにみる小春日和であったことが記され、地震の前ちょう的なものが考えられる。
 地震の発生時刻は、「見聞闕疑集」によれば「宝永四亥年十月四日午刻大地震」、「宝永海嘯ノ記」では「午の中刻俄に震動大地を動し」とあり両者とも正午すぎに発生したことを報じている
 正午すぎに発生した地震の状況を「見聞闕疑集」には「山々崩れ家蔵石垣等をもゆりくすし」・「宝永海嘯ノ記」では「古き家はゆりつぶすべくも見へ稀り外へ戸板又は疊やうの物取出し地震ゆりさげん事を恐れて其上に益ミ居皆々肝をひやし只神仏の御力を祈ル計り也古キ土蔵ハ土壁を落しけハしき山ハ崩れ落野の鹿林の禽犬猫迄も驚き騒き物すさまじき有様たとへん物なし半時程して地震漸く止ミ」と大地震の状況を克明に記しているが、馬越の「三界万霊塔」には「大震有山邑山崩圧邑」と簡単に記している。
 「宝永海嘯ノ記」「半時程して地震漸く止ミ」とあるのは、半時(1時間)に及ぶ地震は、初期震動からの時間であろう。
 これら上記の史料には、地震による被害は記述されておらず津波に比して被害は小かったものと思われる。

B.津波来襲のようす

 津波が来襲するようすについて「見聞闕疑集」では「潮夥敷わき出高波波高は浜表にて一丈六尺という」と形容し、この津波に九死に一生を得た小河嘉兵衛の体験を記した「宝永海嘯ノ記」には「諸の漁船も驚き帰る沖の模様を尋るに何とやらんすさましき気色のよし漁人の物語り聞にものうく人々又沖のミに気を付け詠居たる其内半時ほど過る浪打側も何とやらん颯々と物すさまじく水の色も赤土をこねたるごとくに見ゆる中にも賢老人是ハ昔より聞及たる津波とやらが来るにて有らんと云出す夫より我先きにと逃出し中井本町筋より後を見かへれば半町も後より只ぐハらぐハらはらはらと鳴渡り空ハすすのけむりにて黒雲の落たる様に見ゆるそれよりいよいよ息を限りに中村山を心かけ逃のび後を見かへせばはや在中海となりて汐のさし引大川の早き水の行よりもすさまし其間に家蔵は桴と成る早き汐のさしひきも一時ほとしてやミ本のごとく陸となれり」と地震後半時(1時間)程して来襲した津波の遠さ・退き潮の強烈さを描写するものである。また馬越の「三界万霊塔」には「男女老幼流漂大洋遽然不返見者断腸」と沈彫し津波が人をのむ惨状のすさまじさを表している。
地震後の海の状態は「水の色も赤土をこねたるごとくに見ゆる」と海水の異常にも充分注意する必要性を説いている。

C.津波の被害

 津波の被害は、「見聞闕疑集」には「前代未聞の大変なり」とこの津波を形容し、「高浪ニ先役の諸帳面諸書付流失由へ是より新に改る」と大庄屋文書の流失を報じ「先大庄屋小門與助家内不残流死」大庄屋小門与助一家は全滅し、その供養塔「三界万霊・小門一家・流死仏・宝永四丁亥十月四日・嘉永二年七月松野屋忠蔵建」は中村山北西麓に建立されている。この小門与助流死後善後処理の任にあたったのが「見聞門疑集」の撰者仲助一(後に源十郎と改名)である。津波の被害の詳細は、「宝永海嘯ノ記」に「潮のあがりたる限りハ、西ハ今御目附屋敷の前まて、北ハ川筋の通坂場の後迄金剛寺堂へ汐二三尺上ル庫裡ハ半分ねぢ切ル、南の方家拾軒ほど残り林浦助九郎屋敷迄に留り、今町ハ六太夫家半分残り浪先ハ垣の内傅八屋しき迄行、堀ハ町留り迄野地ハ下横町六分通り流る敷右衛門家ハ残り其外ハ不残流れ行」記述され、これよりすれば当時尾鷲のほとんどが被害にあったと考えられる。
 その流死者の数は、「見聞闕疑集」では「惣而流死人五百三拾餘人」、「宝永海嘯ノ記」には「尾鷲五ケ村にて老若男女死人千餘人と書記ス其外旅人の死する数ハ不知則(測の誤か)間越の麓に千人塚と申あり是ハ尋る人なき死人かたち見分ケかたき死人を大なる穴をほり一所に葬る」ここにある千人塚とは、馬越の供養塔の事でありこれには、「男女老幼溺死者千餘人」と流死人数の相違がみられる。千という数は、あまりにも死者が多かったという表現であるとされていたが、藩への報告には堀北浦が全滅したため、この差違がでたと考えられ、千という数は、堀北捕を加えての総数とするのが定説となっている。
 このように流死人も多数であったが、流失・倒壊などの家屋の被害もまた大であつた。
尾鷲地域の被害は、以下の通りである。

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宝永の津波被害表

D.復興のようす

 未曽有の打撃を受けた尾鷲地域に対して、藩のとった対策は、「見聞闕疑集」によると「水野九左衛門殿幸田彦左衛門殿御両人浦々御見分の上残りの人数へ米昧噌塩着類農具漁道具糸取車和歌山6御廻し在々江被下置候米は在々御蔵6御出粥米として被下命を助り誠以難有奉存候儀難尽筆紙候」と救援物資を送付し、「亥年の御年貫御赦免其上山海の稼元銀夫々御見計ひ御貸被成下候」とあるように税に対しても優遇した。しかし、この災害から2年たった尾鷲の状況は上記した藩の救済が微々たるものであったことが証明される。これは、「御巡見衆様御尋被遊候ハハ司申上品、尾鷲組、宝永六年丑極月日奥熊野尾ハシ組流失己後建家の品書上帳」という巡見使御用留に遺されている。この書上帳の内容を表にすれぱ下の通りである。


 これよりすれば、20%弱が復興したにすきない。これは、漁村であるため多くの人が網・漁船等の漁具を流失したものが少なくなく、またあまりの貧困であるため復興が容易でなかったためであろう。

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宝永の津波2年後の復旧状況

E.要因

 地震後津波まで1時聞程の時差があったにもらかかわらずこのような大惨事となった原因として以下の4点が考えられる。
 まず、「見聞闕疑集」には、「延宝元禄の頃も津波入候得共少々の儀にて候慶長九年にも津浪入候よしに候得とも人家を流し候程の事ハ無之由申伝へ候」このような記憶が、津波に対する警戒を怠る大きな理由であったことが窺える。
2として「宝永海嘯ノ記」にある「外へ戸板又ハ疊やうの物取出し地震ゆりさげん事を恐れて其上に益ミ居」という地震に対する恐怖に時を費いやしてしまったこと。3点めは、馬越の「三界万霊塔」に沈彫される「殊尾鷲邑開水道於左右前面海広背後山高故怒涛自三面競超而廻避無方」という尾鷲湾の地理的要因であろう。4点めには、海岸辺りに密集した集落であるがゆえに倒壊家屋等により避難を困難なものにしたと考えられる。
 上記した3・4点めは不可抗力であるにしても、地震後の津波を想定すれぱこの惨事も軽減できたであろう。

2.安政(嘉永)の地震・津波

 当市に遺存する史料の申から郷土室にて収集し得た「津なみ」(若林多仲著)・「嘉永海嘯ノ記」(念仏寺過去帳)・「大庄屋上申書」(北牟婁郡地誌)。「九木浦庄屋御用留」を資料として安政(嘉永)の地震・津波を観てみることにする。

A.地震発生のようす

 「津なみ」「嘉永七年甲寅の夏六月拾四日大地震ありて在中こぞつて程遠き所へ逃延び金銭衣類ハいふに及ばす諸道具を持運び中村山に小屋をしつらひぬ」と既に6月に地震があり中村山に避難するほどの大きさであったことを記している。「九木浦庄屋御用留」にも「嘉永七年甲寅十一周四目已巳の日ニて中段とる下段さしと申日也尤当年は七月閨也六月十五日ニも大地震有之右四目は晴天ニ而西気なれとも南風吹也」と同じく6月の伊勢・伊賀・大和を中心とした地震の事を記し、大地震前の地震に注意すべきことを指しているが、地震の前ちょうというべき気象の異常性は記されていない。
 地震の発生時刻と状況について「津なみ」では「我等朝飯を喰ひて少し考る事ありて書見ありしが地鳴甚しくして大に震ひ出せし故家及倒ん事を気づかハしく裏に出んとせしに水壷の水ゆり溢れ棚にある物転び落薪の積たるハ崩れいかがハせんと怖しく裏に出るに」と朝食後に起きた地震の状態を克明に記しているが「九木浦庄屋御用留」には発生時刻と地震の状況に対して詳しく記されている、「同日辰下刻俄ニ大地震有之我等家ニ居候故去六月神戸四日市辺の事と思ひ直様外へ逃出蔵の前の屋敷ニ立居ル所地震益々強く其音は山谷ニ響キ前の堀石垣崩れ込地面一寸二寸三寸程ツツ堅横ニ割れ込凡一時程も長く震動ニ而最早土蔵納慶ニ至迄担震り崩すべきト存ル有様也」と辰下刻(午前9時頃)に大地震があり、その地震は地割れを生ずる程の大きさであることを記し、「一時程も長く」とあるのは、地震が長かった事の形容であろう。「嘉永海嘯ノ記」には、「大変の地震ゆり出し直ちに広庭江飛出し石疊の上にて暫り行み」とあるようにほとんどの人が,このように大地震の強烈さに恐れおののき痕物あまりなすすぺもなかった事であろう.しかし、「津なみ」の筆者若林多仲は「兎角家のたをれて失火のあらん事を恐れ竃に水をそそぎ火鉢手爐烟早盆など都而火のある物を裏の中央に出し」と地震に伴なう火災を恐れて火の始末をしていることは特記するに値する。

B.津波来襲のようす

「九木浦庄屋御用留」「扨此時我等は海面を能見誥居候処いまだ震り止ぬ内■海中泥をかし交せ候如くにごり海底■樽」のもし涌出海汐動キ候ニ付扨は津浪涌出侯様ニ見受侯故津浪来る□ケ様の時は心を丈夫ニ持必す狼狽ル事□心得申聞せ」と海面の状態より津波の来襲を予想している。「津なみ」では「直に浜に出て近隣の人々と地震や止む津なみや来ると評議しける事半時にハ足らざるに投石島(はだか島毛なし島ともいう)より半丁ぱかり沖とおもふ海面より潮の湧き出るさまあかミをおびて追々強くなるにつけ人々つなミなる事を知りて詞を伝へおひおひに我も人も逃しぬ」と津波が湧出るさまを記し地震後1時間弱にて襲来した。「九木浦庄屋御用留」も「直ニ津浪一ツ満上ル時は巳の上刻頃也」辰下刻(9時頃)に地震があったことを前述したが巳の上刻(10時頃)に津波が来襲したと記されているから宝
永時と同じように地震後1時間程で津波が来襲するということは、避難するに充分な時間があったということである。
 津波襲来のようすは、「九木浦庄屋御用留」に「此浪引行事海底顕れ二番浪一ツ来ル(中略)此浪引行事夥敷(中略)浦内の海面細長く相見へ候処又三番浪来ル(中略)然れ共引浪の烈敷事言語二述がたし」とあるように第2波の来る前には退潮跡ひどく海底があらわれ第2波の退潮では湾内が細長く見える程の退潮であることと引潮が強烈であることを記している。尾鷲では「津なみ」によれば「ぐはらぐはらと音して土埃夥しく家土蔵砕ながら漁船も廻船も交りていやが上に計知河原を泝るありさま気も魂も消るばかり怖しかりき」と津波の来襲がすさまじいものであることを記し「さて中村山に登り愛宕秋葉の間に憩ひて東方を眺るに廻船数?順風に帆をあげて遙かの沖を渡りぬされハ大洋より大波の来るにハあらず」津波がリアス式海岸の湾内のみにみられる事に気がついている。湾内では潮が湧出るようにと記述されているが、どのような状態にあったかは、「嘉永海嘯ノ記」に「天満長浜の方に掛り舟七八般(隻の誤りか)かかり是あり此舟ウツにまかれ居る有様ハ実に恐しき次第」とあり、さし潮と引き潮が渦をも造る事を記しているが、「津なみ」では「沖に出合たるは無難されど雀島内に居たるハ破損の家蔵の流物或ハ諸道具杉桧材木の流木等にせかれ甚危ふかりしといへり必舟に乗て逃べからず」と状況をよく観察し戒をも記している。

C.津波の被害

「九木浦庄屋御用留」には、「比時津浪ニ流失いたし候当浦の家数並び并名前左の通」として流失家屋を列拳し「〆家数二拾七軒」と記録している。これらの被災者は「古名地■岩地の○の入々ハ堀口へ逃上り小屋掛いたし里地岡の浜■蜷倉辺ハ桑の坂嶋之助殿へ逃上り小屋掛けいたし」とあるように海岸辺りの人々が過半であったと考えられる。またこの「九木浦庄屋御用留」には尾鷲の浦村をはじめ相賀組・木本組まで聞及んで記録している。これは、表に作製したものを参照されたい。「嘉永海嘯ノ記には、「林浦山の端より向矢の浜一里塚の?迄は平一面の泥海胞中井町(以下略)」瀬木山より東郭石油あたりまでは浸水したことを記している。町内の状況は、「津なみ」が詳しいので全文紹介する。
一 流死人百六十三人
     内
十七人 南浦  七十一人 林浦  七十一人 中井浦
三入 堀北浦  一人 天滿浦
 外ニ三十一人 旅人井他所より来る?人
 凡 百九十四人
   波のあがりたる限大概を記
一林 仲氏 常声寺への通道角迄
一堀 祢宜町より金剛寺への通道より一
   丁はかり上まで
一今町 栢町への通道少し下迄
一畑 中畔本道限り
   河筋波鼻
一中川 杉の瀬迄 計知川 坂場迄。
一矢川 樋の谷出合迄
一北浦 皆流失 橋落る
一氏神 無難
一矢浜 地下蔵の下迄二十一軒流失 氏神社流失
                 円通寺半潰
一水地 無難
一天満 十二軒流失
一長浜 十軒流失
一向井 大曽根 松本 何れも無難
一漁舟流れ登し所 御制札場に一隻念仏寺の後
         畑中に二隻今町に輸送船
一隻漁船二隻植町ニ一隻堀に一隻此外損傷の
船数十隻沖に出居たるハ無難されど雀島内に居た
るハ破損の家蔵の流物或ハ諸遵具杉桧材木の流木等
にせかれ甚危ふかりしといへり必舟に乗て逃べからず
一回船 八十石積のイサバ下り坂へ流入三百石積の船八
幡山の麓稲荷社の側に流入寺
一金剛寺 鐘楼并薬師堂大破金毘羅堂禁杯石
表門流失石垣悉崩る本堂庫裏床より
上三尺ばかり水あがる
一念仏寺 觀音堂并隠居所流失庫裏 大破石垣
     悉崩る
一祐専寺 本堂無難庫裏大破石垣悉崩る
一光円寺 安性寺 二ヶ寺とも皆無流失
一常声寺 良源寺 ニケ寺とも無難
     流残りたる分破損軽重さまさま
一高町ハ新町へ通る角より浜通り角まで両
 側残る新町へ通る道にて一軒残る
一袋町ハ高町へ通る角ぢかきあたり堅横町
 にて納屋借屋とも十軒はかり残る
一世古町四軒残る
 右大概を記すのみ
  嘉永七甲寅十二月若林多沖識
と尾鷲の大半が被災する程の強大な津波であったことは簡単に想像できる。特記すべき事は、「津なみ」にも記されているように高町附近は、この惨事からまぬがれている。「九木浦庄屋御用留」にもr萬町は余程地面高ト相見へ申候」と驚嘆して
いる.
これらを素に被害表を作製した.


 宝永時と同程度の規模であったとされるこの安政(嘉永)時の津波は、宝永時に比して20%弱と少い、これは冒頭において記したように6月に伊賀を中心とした地震により尾鷲地域においてもかなり大きな地震があり、中村山に小屋掛けしたという「津なみ」の記述がある。また「津なみ」の筆者若林多沖は、「津なみ」の中で「今年霜月四日の津なみの有さまハ百四十八年前の津なミの事を小河氏の記せしとハ大同小異なりき」と宝永時の大惨事が147年後の嘉永7年まで語り伝えられていたからであろう。
 要するにこれら宝永・安政(嘉永)の地震・津波の惨事をふたたびくりかえさせまいとその実態を伝え、一刻も早く高所へ避難せよと古文書は語っているのである,

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安政の津波被害表

3.東南海地震・津波

被害状況

 本地震・津波の資料として収集し得たものは、「昭和地震津浪概況」(尾鷲測候所報告写)昭和地震誌(倉本為一□)「矢之濱史」(矢浜公民館)・「尾鷲市に遡上した津波の調査」(地震研究所彙報56号)である。
「昭和地震津浪概況」は、地震発生からの状況及交通・通信網の状態をも記録する資料であり、「昭和地震誌」は、南輪内地区の被災調査・聞き取り調査等が収録され、「矢之濱史」の表紙には、津渡到達線が地図上に示されている。「尾鷲市街に遡上した津波の調査」は、本津波・チリ津波を対象とした浸水高等津波の状況を総合的に調査した報告であり、当津波の到達線は当調査報告によるものである。
「昭和地震津浪概況」は、前述したように発生から津波来襲の状況及終息後のようす等詳細に記録されているものであるから全文を紹介し概要とする。


当日午後1時35分家屋甚しく動揺し当所微動計の軸針は折れ地震計室や事務室の振子時計(南北に振れるもの)は止り屋外水槽の水は溢れ無線室中縁は硝子破損の為地断せり。依って直ちに測風塔上より海岸を見渡せば何等津浪の現象はなきも万一を慮り市内官公衛及び各階代表者へ注意を与ふべく電語をかけんとしたるも局より応答なく然るに間もなく国市の浜には、白浪が見え陸上に流材を押し寄せたり。
時に午後1時50分なり既にして避難者は、続々と高所に向って走るものあり、又間もなく浜へ帰らんとするものあるにより津浪の再来を注意し其後25分毎に尾鷲港内の防波堤が見えかくれし午後4時13分に至って終れり
地震と同時に市外電話電信汽車も不通となり、夜に入るも電燈は点火されず


被害としては、新町,北川附近の家屋倒壊流失等甚しく大小船舶(2Tから70T)55隻上陸して惨憺たるものあり、海軍将校の話によれば(当時津浪の最高時には、防波堤南端の燈台の点燈部の直下迄没した)、云々
津波の方向は東より港の岸壁に向って押し寄せ来りたるものが直に陸上に押し寄せ家屋を浮かし上陸せる船舶がこれにて当りて倒壊させ次の引き浪にて流失せるものあり北川に2箇所の鉄筋コンクリートの橋がありこれに船舶や家屋の倒壊せるものが堰となりて津浪が川を上らずに川の西側に押し寄せしものと見え水産試験所や松下工場が岸壁にあり乍ら残存せしは建物が浮上せざりしと船舶が押しのけざりし為と見らるるなり
津浪襲来時刻
第1回午後1時50分
第2回午後2時07分
第3回午後2時33分
第4回午後2時58分
第5回午後3時33分
第6回午後4時13分
浸水状況
尾鷲町中井浦(尾鷲郵便局附近)50CM〜70CM
同町北浦(尾鷲神社の前)68CM〜105CM
同町南浦(尾鷲漁業組会)255CM
同町海岸(松下鑵詰工場)290CM
同町同所(三重水産試験揚)280CM
同町矢浜(下地人家附近)135CM
同町国市浜(尾鷲造船場)273CM
地震状況
1.地震に因る倒壌家屋ナシ
1.墓石の倒れ=不安定のものは、南又は北に倒れ安定せるものは東より北に向って動揺し転廻せり
1.地割れ=海岸に出来たるも由なるも浪の為不明、其他所々に小さきものあるも注意せさればわからざる程度なり
1.崖崩れ=国道尾鷲木本間道路崩壊66ケ所、管営バスは1月下旬迄開通せず
1.電信電話地震と同時に電信は不通となり8日午後3時通ず、市外電話は発震と同時に不通となり10日午後6時通ず
1.汽車及電燈=汽車は発震と同時に不通となり9日朝通ず。電燈は津浪の為電燈会社流失し翌10日仮点燈す。
△地震後潮の干満に異変
地震後太平洋岸(志摩郡=南牟婁郡)の満潮位高く田畑に浸水し復旧せざる為地盤の沈下と推定し対策中
△震災後の復興
避難者は、学校寺院又は親戚等に寄寓し翌日より町民は各隣組より勤労作業隊を組織し、復興に従事す
△地震前の予感
井水の異変其他無し


この地麗・津波の被害は、下表の通りであるが、北輪内地区の被災状況を記す資料は、収集し得なかった。

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東南海地震・津波の被害状況
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東南海地震津波調査表

旧尾鷲町内の被害

前ぺ一ジの津波調査表は、「尾鷲市街に遡上した津波の調査」(地震研究所彙報56)によるものである。


旧尾鷲町内の被害状況は、下表の通りである。

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旧尾鷲町内の被害状況

4.チリ地震・津波

被害状況

 本津波の資料として収集し得たものは、「広報おわせ61号」・「尾鷲市に遡上した津波の調査」(地震研究所彙報56)である。
 「広報おわせ61号」は、チリ地震・津波災害特集号である。これには、災害日誌・被害の総括と写真をもって津波の来襲から応急対策までを報じ巻末には浸水地域図を付してその被害状況を表しているものである。「尾鷲市街に遡上した津波」は、前述したように浸水高等津波の状況を総合的に調査した報告書である。
 昭和35年5月23目、チリのチエロ島沖で起きた大地震の余波は、日本沿岸まで17400KMを時遠725KM(秒速200M)でおしよせ翌24日、渦去3回の津渡とは異なり海ぶくれという型で尾鷲を襲った。
午前3時44分に退潮があり、第1波は午前4時24分に1,41Mを測り、54分後の5時10分に第2波、30分後の5時40分に最大の3,17Mを記録し、5時40分以後6時40分まで23波を記録し、以後29日午前7時30分に検潮機の異常振動が終了した。
 市内各地の最大波高は、尾鷲─3,17M・須賀莉─2,2/M・九鬼─1,48M・三木里─1,48M・古江─1,18M・費田─1,48Mを記録した。
 この津波の特徴は、前回(昭和19年)に比較すれば侵入速度の遅さがあげられるだろう。しかし侵入速度とはうって変った退潮時の勢いは強烈であり、漁船・ドラム缶・材木をはじめ土砂・家具までも海に引きづりこんだ。
 この津波による被害は、未明を急襲されたため浸水地域の家財道具が冠水または流失し・植付まもない水田が潮と土砂に埋没するという惨事となった。被害総額は4億1千89万円(建造物2億7千万・水産業関係3千235万3千)・農業関係1千218万・林業関係1千334万5千)・土木関係850万・商工業関係7千257万4千・消防関係163万8千・教育関係30万)となった。
 被害状況は以下の通りである。

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チリ地震・津波の被害状況

津波調査表

浸水高等は下表の通り、「尾鷲市街に遡上した津波の調査」による


 24日午前10時20分災害救助法が発令され、市役所には災害対策本部が設置された。
被災者には、水、食事等が配給され防疫・井戸換作業等が精カ的におこなわれ、青年団・高校生も勤労奉仕にあたった。

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チリ津波調査表

5.おわりに

 宝永時の惨事の教訓を安政(嘉栄)時に生かし被害を最少限にとどめたように今日我々も過去4回の地震・津波の悲惨な教訓を無視せずに災害防止に役だてる事が先人に報いる唯一の方法であろう。


 尾鷲地震・津波年表は、「尾鷲市史年表」・「写真・図説地震」より樋口きさゑが作製したものである。
(郷土室 田崎通雅)

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尾鷲地震津波年表
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地図 津波到達線想定図