はじめに
*昭和十九年十二月七日午後一時三十六分過ぎ、マグニチュード八・0という東南海大地震・そのあとの津波……町内では四名の犠牲者と、七十軒ほどの全壊や流失という大きな被害を蒙った。
*当時は終戦直前という時期であったため、この被害についての写真はもちろん、報道もごく小さな取扱いで、それよりも戦果を宣伝する記事にあふれていた。中央気象台の被書謂査書が「極秘」扱いであり、この地震津波に関する調査内容は世にでることなく、ほとんど消されてしまった。
*しかもその気象台の調査官も当海山町に入った形跡は全く無く、ただ一つ引本駐在所の文書と思われる文書「被害報告書」が本町唯一の証拠である。また、各小学校沿革誌には、ただ津波があったという事実だけで、具体的な町の様子を知る手がかりになるような内容記載は皆無であった。
*しかし、災害直後に県の嘱託として当地方へ派遣された故金子安雄氏はカメラを持ち、尾鷲・引本.矢口を撮影している。今回その写真の海山町の分その他を中心とした展示ができたことは、被害の実際を目にすることのできる絶好の機会であった。できれぱこの記録集にも写真の部をいれたかったが、費用等の問題もあり、実現できなかった。この写真は「熊野の大津波」(関口精一氏編)で発表されているものである。今回の展示について、関口氏、金子氏夫人の両氏は好意をもって写真提供をしていただいた。両氏に感謝をしたい。
*学童疎開・学徒動員・それに報道管制・男子の応召や徴用等々大変な時代であったうえ、半世紀も前のできごとでもあり、当時の経験者も少なくなり、知っている人を探すのに苦労をした。せっかく見つけても「あの時代の事は語りたくない」とこぱむ方もいたが、とにかく沢山の方々から聞き取り、あるいは直接書いていただいたりと、いろいろな方のご理解とご協力で、この記録集が生まれた。せっかくきちんと話していただいたのに、つたない文章表現になったり、語り手の意図を充分書けなかった面も多々あると思うがその点ご容赦願いたい。とにかく貴重な内容の提供に対し、厚くお礼申し上げたい。
*また、編集締切り後になって、情報をいただいた方もあったが、それらは、また後日発表の機会があれぱと思っている。
*なお、文中の敬称はすぺて省略させていただいたことをご了承下さい。
*ご感想、ご意見、ご要望等聞かせていただげれぱ幸甚です。お待ちしています。
《島勝での聞き取りと手記》
島勝での聞き取り1
十月に横浜から疎開してきて、やっと島勝の家へ住み着き、まだ荷物の一部をさばいていないでいるそんな時の地震であった。
お勝手のクドのエントツが折れて、大きな横揺れだった。まもなく、おまわりさんが、自転車の上から、「避難せよ。津波がやってくる」とさけびながら回ってきたので、裏のコンピラサンヘ登った。
子どもを一人は背中へ、あとの二人はひっぱって山へ逃げた。海の様子や津波など見るどころではなかった。
家に帰ってみると、家の中はメチャメチャだった。タタミがぬれてしまったので、荷物のコモを敷いてその上に寝た。
その地震の翌日、空襲警報があった。B29が空をとんだ。なぜか子どもに「さわぐな、さわぐな」と言った覚えがある。たいへんな時代だった。
島勝での聞き取り2
あの日サツマイモを持って外に出た。近くで百歳になるおぱあさんなど年寄りの人たちがひなたぼっこをしていた。雲もない青空のきれいな日だった。「こんな日によく地震がいってくるんやが」などいろんな話をしていた。そしたらすごい横揺れが始まった。「ヨナオシー ヨナオシー」と言っていた。すると、一間くらいはなれているトコヤさんと、その道の向かいにある家の瓦と瓦が道の真ん中でくっつくぐらい大きな横揺れになってきた。これは危ないと思い、思わず愛宕山へ登ろうとして、その下まで逃げたら、消防の人が「愛宕山の忠魂碑の石がまくれてくる……」と言ったので、今度は宮さんまで走った。宮さんに着くと、間もなく宮さんのすぐ下の川まで潮がのぼってきて「ここもあむないぞ」というので、寺へ逃げた。
自分の家が、津波でつかって家の中がゴチャゴチャだったので、高い家の親戚のおじさんの家へいった。おじさんは、尾鷲の水産試験所へいっていたが、その日夜中の二時頃尾鷲から夜道を歩いて島勝まで帰ってきた。
話を聞くと、尾鷲はひどいものだったそうだ。水産試験所で働いている人の中で九鬼や錦の人たちは、「津波は来ないよ」と言って逃げなかったが、自分は絶対来ると思い、すぐ逃げてきたが、あの人たちはどうしているかと心配していた。
自分のおじいさんが病気でねていたが、地震のあと、しかたなく津波でぬれたままのたたみへ寝させていた。
余震のあるたびに、町中逃げ回って、おそろしかった。今の世はよくなった。空襲もないし……。
島勝での聞き取り3
病気の父が寝ていた。突然の大地震で、寝ている父を、妹と二人でどうすることもできずに困っていた。
その時、島勝の監視所へ勤めていた兵隊さんが、三、四人通りかかった。浜にあった監視所から、アタゴサンヘ大切な書類を持って、避難していくところだった。その兵隊さんたちが来て、父をいっしょにアタゴサンまで連れていってくれた。
アタゴサンから、海を見た。潮の引いた海の底はレンガ色だった。ガビガビした海底が見えた。舟は一隻も見えず、みな岸へうちあげられていた。海はみなレンガ色の海底だけだった。
津波がおさまって、家へ帰ったが、父をどのようにして運んだのか覚えていない。家のタタミの上まで津波がきていた。
島勝での聞き取り4
私は病気で、島勝の実家へ行っていましたが、地震があったので、中熊へ帰ってきました。実家へきてから余震があって、タンスが倒れてこないようにおさえていたりしていました。
タ方から夜にかけて、大きな余震が何回もあり、土地の人は家の中に入っておれないので、広場に集まり雨戸をはずした板に座って、余震のおさまるのを待ちました。
中熊の山の神の御弊がゆれて、津波がこないようにおはらいをしてくれたと、土地の人は言っていました。
私も神さんは実在すると思っています。
島勝での聞き取り5
その頃は稲作のあとの田に、田麦を作るのに、私は耕作の手伝い中でした。男の人は牛を使って田を耕している時で、牛はツクナッテしまって、歩けないほどでした。牛を家へ連れ帰り、そのあと、裏山へ逃げたのですが、あわてていたのか、くし柿を持っていました。百姓をしていた男の人は、島勝の方へ見に行きました。
当時中熊は六軒ほど家がありましたが、津波の被害はありませんでした。浜の道が高かったので止まったのですが、ただ、暗渠から、潮がふいて、田にかかった程度でした。井戸の中を見た人は、潮が引いた時は井戸の中は空になっていたそうです。
人の話だけれど、潮が引いた時、ずっと遠くまで海の底が茶褐色になっていて、すごい光景だったそうです。私は恐ろしくて浜を見なかったのは、何よりも残念です。
島勝での聞き取り6
私は風邪をひいて二階へ寝ていました。昼過ぎだったと思いますが、地震がゆすってきて、長い間ゆすっていました。子供が七人いて、一番下の子がしがみついてきて、はなさないのです。着替えをしようとしてもなかなかできませんでした。そのうち、下から、祖母が「はよ下りてこんか、津波がくるぞ」とおめてきました。私は二番目の子を連れて下りました。父が上がってきて、下の子をおんで下りてくれました。私は二番目の子をつれて下りました。玄関から山て前の川沿いに行き、寺の境内に入り、天神さんの前の石段に子供を座らせました。
津波は川沿いに水が先に来ました。「津波が来るぞ」と、巡査が自転車でさけんでいました。その巡査は津波の波にあたり、こけたのが見えました。家の方まで来てみると、家の小屋根の下まできていました。家の屋根のみが見えて水につかっていました。
その後、二、三目は波につからなかった家に宿泊させてもらいました。余震は毎日続き、三十日ぐらい続きました。私の家は菓子屋だったので、波で、置いてあった小豆から何からみんなもっていかれました。後で世古の浜へその小豆が打ち上げられ、芽を出しました。イモつぼのイモもみんななくなっていました。市場には軍用のアジがたくさん干してありました。それが皆、波で流されたために、後から町中にアジがちらばりました。それを拾って売った人もあったそうです。
島勝での聞き取り7
商店をしていました。子供が四人いて、上の十三歳と十歳の子は、学校へいっていました。主人はこのとき京都へ行っていて不在でした。私の家は、海のすぐそばにありました。地震がいった直後、すぐ逃げようとしましたが、七歳の子は家にいたのですが、小さい下の四歳の子が見当たらないので、この子を捜していたら遅くなりました。見当たらないので、七歳の子だけを連れて逃げました。裏の道ずたいに、野間屋(加藤家)のうらへ逃げて山へ上がりました。野間屋にも子供がいたので、連れていっしょに山へ上がろうとしたけど、この子は動きませんでした。
波が来て店の商品はすっかり流れてしまいました。桐タンスは浮いていってしまいました。湾内はすり鉢状に見え、真っ赤になりました。生の木を持たせなあかん、と言われていたので持たせました。
島勝での聞き取り8
私の家は高台にありました。私は出産して二週間目で、家の中におりました。地震がきて、はげしくゆするので、子供をだいて、裏の木戸から出て、竹藪の中へいこうとしましたが、途中で足をとられてころびました。その坂の途中でころんだところで、下の方の家のようすが見えました。家家の屋根の瓦が、ゆれていて、屋根から土煙が上がっているのが見えました。
上の子は、その時、椎の実をひろいにいっていて、じきに家へ帰って来ました。地震がおさまったあと、下のほうの人たちが大勢上がってきて、家はいっぱいになりました。当時の巡査が、津波がくるぞ、と、さけびながら、自転車で走っていたそうです。
昔から、地震がきて二時間後ぐらいに津波が来る、と伝えられていましたが、この津波は直ぐに来ました。家から岬のエビスサンの方をみると、磯は皆、真っ赤になっていました。湾はすり鉢のように見えました。
島勝での聞き取り9
私の家には、父母と十六歳の女子、四歳の女子、三ケ月の男子の四人がいました。私は子供を出産して三ケ月になっていました。男の子は津波っ子です。子供とともに寝ていて地震にあいました。父は開墾中に地震にあったそうで、ゆれがおさまった後家へ下りてきたら、波が来たそうです。四人で愛宕山まで逃げました。私は乳なしなので、逃げるときにマホービンを一つ持って逃げました。一人居なかった子は、あとからでてきて逃げてきました。その前に一度浜を見に行ったけれど、誰かが津波が来るから逃げよ、とさけんだので、あわてて逃げました。
家は海のほうをむいていたので、津波をまともにうけてしまい、家財道具や、米など、皆流されてしまいました。畳も全部ぬれてしまい、後から干しました。家がぬれてしまったので、その夜からしばらく、被害にあわなかったおぱさんの家で世話になりました。
島勝での聞き取り10
地震は島勝愛看町の自宅の家の中にいるときでした。息子のよしお(S七年生まれ)は風邪だったので、服を着せて、近くの愛宕さんへ逃げました。当時ほ今とちがって、土道でした。
よその人は、家と家が混み合っているので、二階の屋根伝いに逃げるのが見えました。その他、寺や学校へ逃げたようです。
私の家は高いところにあったので、津波は畳より一尺ぐらいで、荷物や家財などに被害はありませんが、畳だけは取り替えました。
家の近くにある大きな井戸は、塩水も入らず濁りもありませんでしたが、地下の井戸は塩水もさし、濁っていたようです。
津波の被害を受けた家の人は、受けなかった家に泊めてもらったりしました。
アジの干物が(軍用)流されて、トイレの汚物と混じったので、食用にできませんでした。
島勝での聞き取り11
昼ごはんのあと、こどもたち四人と姪を連れて、大根をひきがてら裏山へ行っているおじいさんのところへ行っていました。竹やぶのところまできたとき、ゴーというような音がして間もなく、地面がはげしくゆれてきました。足をとられて歩きにくい感じでした。おじいさんもすぐ下りてきましたが、あいなく上から大きな石がころげてきたので、子どもらをかばいながら「どうしよう」と思っていると、運よく竹の根っ子にあたって止まったので「ほっと」しました。
そのあとすぐうちの方へ下りてきましたが、「えらい、すごい地震だったなあ」というので、大きいとは思ったが、「そんなに?」と思いました。「竹やぶにいたので、下の方にいた人たちのいうほど感じなかっ
たのかもしれない」と思いました。それから「津波がくるかもわからんよって、下のほうへはもう行けんで」というので、何人かの人たちと竹やぶを通って、愛宕山の上の田んぼまで上がって行きました。校長先生の奥さんが下の二歳の子をおんでくれました。
下を見ると、神宮さんの島が海の底まで見えていました。真赤な岩はだだったのをおぼえています。海藻かなにかだったのでしょうか。それから潮がだんだんふえてきました。下の方から、ガタガタドン……と音がしてきました。ふえてきた潮に舟や丸太やコガなどが浮かされて、石や塀、家などにあたりながら上の方へ流されてきていたのでしょうか。町の中の道をドラムかんみたいなかたまりになった潮がやってきたと、うちの人がいっていました。何回か繰り返し波がおしよせてきたようです。
おさまったようなので、うちへ下りてくると、うちは大丈夫でしたが、宮さんのところや町の通りはたいへんな変わりようでした。宮さんのところでは、背たけ程も潮がきたようでした。今は道になっているけど、あそこは川でした。鳥居の前の方には、モーター船が横たわっていました。それから下の川ぞいに何隻か舟があがっていました。その他何やらごちゃごちゃといっぱいものがあがっていました。宮さんの私の実家の家の中に大きなコガが二つも入り込んですわっていました。妹のうちの床下の芋つぼにいっぱいあったさつまいもが流されて空っぽでした。あいものやにあった「軍用のあじ」(兵隊用に供出するためのあじの干物)の箱が、あっちこっちに流されてきてころがっていました。木炭もたくさん流されて出ていました。
翌日から、たくさんの人が出て、丸太をならべて舟を海へおろす作業をしていました。片付けにかかりました。おじいさんと浜へ風呂木にする流れ木を拾いにいくと、海はごみといっしょにむしろがいっぱい浮いていました。どこかの納屋から流れたものでしょう。その翌日には何もありませんでした。外海へ流されていったものか、沈んでしまったものかわかりません。その後、風呂をたくと百人からの人が入りにきました。
島勝は流れた人や家はありませんでしたが、たくさんの家が浸水でやられました。
母親から「地震のあとには津波がくるかもしれんと考えよ、八十年から九十年のわりでくる」ということをきかされていました。
その時私は島勝湾の底を見た ─東南海地震の記憶─
昭和十九年十二月七日午後一時三十六分その日の午後の第一限(島勝小学校時)は図画の時闇で「水洗」に水を用意しパレットを開けていた。ちょうどその時「ドドドド」という音と同時に校舎が揺れだした。皆大騒ぎ。机の上の物が落ちる。「水洗」の水があちこちでこぼれ出す。隣の教室からは、廊下へ飛び山す騒ぎ声。「机の下へ入れ!」ふりしぼるような強い先生の声だった。大きな揺れが続いた。今にも木造校舎が倒れるのでほないかと思い恐ろしかった。私は机の下からふと先生を見たら、先生は手を後ろにくみ、揺れる中を悠々と(私の目にはそう見えた)歩いて、教室の入り口と出口の戸を開けていた。女子師範学校を出たばかりの女の先生だったが、すごい勇気のある姿を見たように思った。なぜか、私たちの学級は静かだった。隣の学級では、窓から飛び降りようとした子がいたり、階段近くの学級では、教室を飛び出して逃げようとしたが、階段で将棋倒しになり動けなくなっていた。
長い長い揺れが終わった。先生の「外へ出よ!」の声で、みんなは日頃の訓練どおり履物をはいて外へ出た。運動場は裂けて、大きな割れ目が口を開けていた。それを飛び越えて校庭の櫻の木の下に集まった。
その当時、私の隣家に東京から疎開をしてこられた老夫婦がいたが、その方から関東大震災の話をよく聞いていた。その時は、道路が裂けてその中に牛馬が落ちて死ぬところも見た等の話をされていたので、裂け目を見たときはとても怖かった。
桜の木の下に集まってきたみんなに、校長先生が「みんな無事だったか?」と確認していた。
その時、町の方から突然「津波だぞ!津波だぞ!」と大きな叫び声が聞こえてきた。
その声を聞いたとたんに私たちは一斉に学校の裏山の観音山に逃げた。途中、山口三四郎さん宅の石垣がゴロゴロと崩れ落ち道を塞いでいたが、その上を必死に逃げた。後で気ずいたことだが、シダがワラ草履を貫き足の裏が傷だらけになっていた。愛宕山へ逃げる人、谷地の奥山に逃げる人、フトンや家財道具を運び出している人も見えた。
海を見ると、波が湧き上がるようにみるみるうちに島勝湾いっぱいになり、世古の堤防、浜、魚市場、和具へ行く道も、赤島の下の岩肌も、そして島の上の松やイマメの木も全部波で見えなくなってしまった。しかし、次の瞬間急にすごい勢いで波がひいていった。魚市場の建物も、船も、家などすべての物を波がさらっていくのである。
その時だった。私は、島勝湾の底を見た。
黒茶色した海の底一面が見えた。と思った瞬間また波がすごい力で湧き上がり押し寄せてきた。そして、またいろいろな物をさらいながら波がひいていった。これが、三、四回繰り返されたように覚えている。
島勝浦全部が流されてしまったのではないかと、怖くてからだの震えが止まらなかった。
その時まわりで聞こえた悲鴨ともうなりともわからぬ声や、老女の「ナムアミダブツ」と唱えていた声、そして島勝湾の黒茶色の海の底が、五十年経った今でもハッキリと目の底に焼きついて忘れられない。
校長と教頭がいないと思っていたら、しぱらくしてから胸までずぷ濡れになって、私たちのいる山へ登ってこられた。白い布で包んだ四角い物を背負って運んできた。話を聞いたら、地震で奉安殿の扉が開かなくなり、津波の中で扉を開いたとか。それほど命がけで護らなけれぱならなかったものなのかと後日になって思ったことである。
家に帰るときは、当時駐屯していた兵隊さんたちが山を越えて子供たちを家まで送り届けてくれた。
山から下りてくると、氏神様の鳥居には、漁船が三、四隻積み重なるように引っかかっていた。社殿の砂利の上には、イワシやドホなどの小魚が多く打ち上げられていた。
家は、屋根と柱だけが残り、あたりにはモーター船の油と糞尿にまみれたサツマイモやアジの丸干し(当時は軍需用につくっていた)や、衣類、家具などが散乱し異様な臭いと無惨な光景だったことが思い出される。
夜は、山の近くの家に泊めてもらったが一本のローソクのまわりに集まり、何回も続く余震の中、不安な夜を何日も過ごした。
私たちは、教科書や文房具を流されてしまってたいへん困ったが、その時船津小学校や上里小学校から文房具や衣類などを大八車いっぱいに積んで運んできてくれて、たいへん嬉しかったことを覚えている。
毎日毎日、片付けばかりの日が続き心身ともに疲れきっていた。そんなとき、白い飛行機雲を吐きながらB29が飛んできて、みんな飛行機が落ちてくると思い大騒ぎとなった。近所のおばあさんは腰を抜かし、床板のない土間に落ちて大怪我をしてしまった。ところが、診療所も津波でやられていて治療ができず困ったことがあった。
私の父は、軍属として召集され輸送船で沖縄へ向かう予定でいたが、途中で船員が急病になり、田辺港に入港することになった。そのとき東南海地震にあったが、父が船員の下船手続きに行く途中、目の前で石垣の下敷きになって亡くなった人を見たそうです。幸い自分の船は、沖へ出していたので助かったが、隣に係留していた大きな貨物船は、引き波でひっくり返り、ふなべりで助けを求めていた大勢の船員も、次の波が押し寄せ、それが引いていった後では、一人の姿も見えなかったそうだ。父は、東南海地震にあったため、船団の出発には遅れてしまったが、沖縄へ向かった船団は、途中で魚雷を受けて全滅だったと聞いている。
翌二十年の七月には、まだ津波の被害で荒涼ととした三野瀬の駅の近くで、私はグラマン戦闘機の機銃掃射を受け、死ぬ思いをした。駅舎も穴だらけになり、停車中の汽車も狙われて多数の怪我人がでてたいへん
っだった。
なぜだか、東南海地震の恐怖と機銃掃射を受けたときの恐怖が重なりあって、思い出されるのである。とにかく、その当時は毎日が恐怖の連続であった。
(平成五年十二月記)
《白浦での聞き取り》
白浦での聞き取り1
地震の時は家にいたが、大きくて長い地震だった。頭の上へ棚の物が落ちてくるし、ゆってゆって(揺れて揺れて)立っておれなかった。
おじいちゃんを引っ張って、なんとかアバコ(少し上にある共同墓地の広場)へ行ったが、途中の石垣がくずれてきて、身体が横揺れして、どのようにして逃げたのか、こわかった。
十分程して、浜の方から「津波がくるぞー」という声がしたので、沖を見ると、海の水がごっそり引いて普段は見えない海の底が見えた。それは真っ赤で、赤い火のようだった。
しぱらくして、長浜の造船所へ行っていた主人が帰ってきた。フラフラしているようすだったが、家が無事であると言ったら、すぐ浜の方へとんでいった。
白浦での聞き取り2
地震のあった当時、長浜の三井造船で働いていた。昼食がすんだあとのいっぷくのころだったと思うが、グオーと突然音がしたとたん、工場の中が歩けないぐらいゆれ、工場が倒れそうになった。板張りの床も大きくゆれ、どのようにして外に出たか覚えていない。
引本の方をみると、魚市場から向こうの封翠棲のあたりが、土煙をたてて海中へ落ち込んでいくのが見えた。
白浦から七、八名の人がここへ働きに来ていた。まもなく、白の人が皆集まって、自転車で家へ帰ることになった。途中、生熊のハナで波がやってきた。矢口の巡航船乗り場のあたりで、自転車の三分の一くらいまで潮が来て、それから白越のあたりへ来るまでに、全身潮につかってしまった。自転車をそのまま畑へおいて、旧道を上ってワッショイ、ワッショイと言いながら歩いたがなかなか進まなかった。女の人など、なかなか進まないので、みんなでうしろからおしあげて峠を登った。峠から白浦の方を見たら、湾に海水が無かった。湾の中にセがあるが、そこが赤黒くなって見えた。七間くらいの深い海の底が見えて、海藻が生えているのも見えた。前にあるオドナ島を高い波が越え、三浦の方へ押し寄せていった。三浦では、この波のかえしで人も家もたくさん流されていったそうだ。
峠から下りてきてすぐ家へ行くと、家の方は大丈夫だどいうので、すぐ浜へいった。船が心配だったからだ。引いていった潮にのって、船が遠くに流れついていた。船をそのままアンカーの縄でしぱり、アンカーをかついで岸まで来て、船が流れていかないように固定した。
家へきてみると、家のすぐ下の石段の三段目まで波の来た跡があった。また、今までの大きな地震でもめったに時計の止まることがなかったのに、今度の地震では時計がとまっていた。
昔の人は、大地震があったら、すぐ、井戸の水を見よ、と言っていた。津波の来る最初に波が引き、その時、井戸の水位が下がるのだそうだ。白浦には井戸がニケ所あるので、今後、大地震があったら、すぐ、井戸を見るとよい。
白浦での聞き取り3
昭和十九年十二月七日尾鷲地方に地震あり、昼過ぎ震度七の縦揺れがしばらくあり、その数分後に津波がきて、床上浸水一、五メートル。浜にあった舟は、家と家との間の道迄も入り込み、道の奥までも流されて来て、まるで陸が海と化した。
引き潮時はものすごく、イモツボの中のサツマイモも魚等家の中にあったものは、すべて流され、家の中も外もごちゃごちゃでした。
逃げるとき、位牌や貴重品を風呂敷に入れて山まで逃げたが、人によっては、慌てて枕や座布団を持って逃げた人もあるそうです。その後、余震がいつまでもつずき、不安な毎日でした。
私はその時、二十二歳で、実家でミシンをしていて、ミシンが半分まで潮につかり、縫い物は全部パーになったことは忘れられません。
白浦は、百戸以上は床上浸水したが、家は流されずにすんだが、三野瀬は、駅まで浸水して、家もたくさん流され、お産していた人が、子どもは父親がだいて高いところへ非難して、人に預けておき、家内を連れに行ったら、家ごと流されて無かったそうです。矢口浦も奥が深いので、たくさんの家が流されたそうです。
白浦は被害が少なくすみました。不幸中の幸いでしょう。三野瀬には、その時の状況を記録にしてあるそうです。
白浦での聞き取り4
昼食後、疎開してきている人たちみんなと、二階で日向ぼっこをしていたら、地震がきた。階段が揺れて降りられなかったので、途中から飛び降りたことを覚えている。
みんなアコバに行くので、いっしょに逃げた。
しぱらくして家に帰ってみると、下の方の人のタンスなど運びこまれた荷物でいっぱいになり、足のふみばもないようになっていた。
津波がくるというので、上にあがって、海を見ると、海の底が真っ赤になって、しぱらく引いていた。
自分の家は津波にあわなかったので、仲人の大益さんの家(津波で床上一、五メートルほどつかった)へあくる日から一週間ほど手伝いに行った。イモツボのサツマイモや魚など家の中がゴチャゴチャで、全部つかったので、タタミなども全部捨てた。
《矢口での聞き取りと手記》
矢口での聞き取り1
風の強い日だった。大きな地震、すごい横揺れで、屋根の石が落ちたり、海岸の石垣がくずれる音がした。二人の子どもを家の中へ入れた。まもなく、西村盛一さんのおじいさんが、リヤカーへふとんを積み、「地震が大きかったから津波が来るかも」と大声で叫ぴながら新兵衛屋の方へ運んでいった。主人が出征中でだれもいないので、子どもを二階へでも上げようかと思っていたら、ちずさんがきて子どもを学校の方へ連れていってくれた。
戸棚の中のものを出して逃げる準備をしていたら、津波がやってきた。子どものいる学校の方に行こうとしたが、津波がもうそこまできていたので、近くの墓の方へ逃げた。墓の段へ上がるなり潮が来た。墓の上のほうで見てみたら、津波が海岸の石垣を上がって、木場のところまできたときは家よりも高く思え、より高いところへ逃げた。甚蔵さんに助けてもらった。子どもが一人、潮に流されていたが、あちで墓のうえに波といっしょに上がってきて助かった。
あのときは逃げるのに精一杯だった。二年生の長男は学校にいて、津波がおさまってから区の役員だったか届けてきてくれて再会した。
津波がおわって家にいってみたら、いえの地所は柱の根石だげが残っていた。物は箸一本残っていなかった。ただ、梅干しの壼が一つだけ残った。
私の家は第一回めの波で奥のほうへ流され、川に近かったので、そのあとの引き波で海に流れていったようだ。瓦も全部流され骨だけになった家の残骸が海に浮かんでいた。でも中の荷物は何一つ残っていなかった。
その余震だったか、昭和二十一年の津波のとき、津波がやはり川をさかのぼり、家の柱が縦になって流れるのを見た。そのとき、道路は第一波のくる前に、道路から水の噴き出しているのを見た。
火事の後は、焼け残った物などでごちゃごちゃしているが、津波の後はきれいで何も残らず、運動場のようであった。
矢口での聞き取り2
店屋をしていたので三人のお客さんが来ていた。突然すごい地震がやってきた。ラジオが落ちる、棚が倒れる、家におれなくなって、長男を背負って墓の上に逃げた。酒を飲みすぎた人がひょろひょろするような歩き方で、横揺れのすごい地震のなかを走って逃げた。行く道は、田の水枯れのようなひわれのようになっていた。地蔵さんの前位で地震はおさまった。
家へ帰ったら、壁が落ち、家中めちゃめちゃで、店の棚がひっくりかえり、主人も出征中でどうなるかと思った。どうしたらよいかと思っていたら、甚蔵さんは「津波が来る!大事なものをもって早く逃げよ!」と大声で走っていった。
どうしたらよいか、どんな程度の津波かわからないし、どうしようと思っていたら、客の一人が長男を背負ってさきに逃げてくれた。自分は大事な物、金か米かふとんか、何を持てばよいか、衣料切符もいるか、とにかくそのへんにある物を風呂敷包へ入れていた。「命が危ないぞ!早く逃げろ!」という声が聞こえた。
大あわてで、子どもの着替えだけは、と思って、仏様を出す暇もなく大あわてで早く逃げた。
子どもは奥へ行ったはずだが、自分は少しでも近い墓へ行こうと思ったが、いつの間にか奥のほうへ逃げていた。高いところから見ていた人は、あんたのあとについて津波が追いかけていた、とあとで聞いた。逃げるのが精一杯で、うしろも見ずに逃げたので、どんな津波であったかは見ていない。
あとで仏様の持ち出しを忘れたことに気がついた。
奥の親戚の家で泊めてもらった。余震がひどく、電気もつかず、おそろしい日だった。あとで自分の家へかえってみたら、野原のようになっていた。幸い自分の家の屋敷内に父親の仏様を見つけ、ほっとした。店屋であった自分の家に置いてあったヒキゴトの置物も少し傷がついていたが、だれかが拾ってきてくれた。
それから寒い川の水で、洗い物をする日が続いた。B29が飛んでくるし、白いものは干してはいけないなどいわれ、大変な日が続いた。
矢口での聞き取り3
昼食後地震が来た。一歳九ケ月の子が、はなれのおじいちゃんの部屋にいた。おじいちゃんは子どもを連れてくるのに、だいてこちらに来るのに、立って歩けず、こちらに来るのに精一杯だったという。
おぱあさんは「昔の大津波は、地震から十五分から二十分くらいでくるから、その間に用意をせよ」と、古い書き物に書いてあったのを見たのか、その話を思い出した。
津波といっても、何を持ってよいのか、先ず食料、一斗缶に入っている米を裏の奥の高い所へ運んだ。布団や衣類などは風呂敷へ包んでうらへ置き、いつでも運ぺるようにした。空襲のときの避難袋に家にあった米を二升ぱかり持って、子どもを背負い、仏様を腰に風呂敷で巻いて新兵衛屋へ逃げた。そのあと、もう一度家に帰って荷物を取りに行こうとしたが、皆に行くなと止められた。
海がだんだん高くなって海面が上がって、電線の高さあたりまできたように見えた。潮が引くと、ずっと向こうまで潮が引き、陸上で魚がピチピチしていた。
新兵衛屋で一晩余震の中を明かした。西村さんは陸上でピチピチしていた大きなタイを持ってきて、タイの生きずくりをしてくれたが、こわさのためかあまり食ぺる気がしなかった。
家へかえってみると、家の形もなく、きれいになっていた。海水がいっぱいはいったイモツポとトイレのの穴だけあって、柱一本残っていなかった。 津波は家の棟より高く来ると家がひっくりかえるようで、海には何軒も家が浮いていた。中に残っているものがあると、それを見てそれぞれの家へ分けた。
着のみ着のままであって、警防団の立会いで残り物、流れ物を分けた。家の客用の布団が学校の横まで流れていたが、上部は濡れていなかった。そのまま浮いて流れていったものと思う。
仏さんを包んだ綿の風呂敷一枚だけが残った。
矢口での聞き取り4
長島の人が来ていて乳牛の話をしていた。その時大きな地震がきて、家の中の物が全部ひっくりかえった。
あまり大きな地震だったので津波がくるかもしれないと思って、娘を前の山へ逃がした。しぱらくたって、津波がくるかもというので、長男を背負って軒下へ出たとき、すぐ目の前に、こんな形をした大波(と言って手で形を作ってくれた。その形は、北斎描く「神奈川沖波裏の絵」[下図参照]のような形であった。)が見えた。次の瞬間、どのようにして、どうなったか全然覚えがないが、気がついたら、二階の大屋根の上にいた。大波にのって上へあげられたのでしょうか。全身ずぶぬれだったが、かすり傷ひとつなく、子どもを背負ったまま、大家根の上の棟へ登って波のおさまるのを待ちました。
そのあと、大屋根からどのようにして降りたのか、全く覚えがありません。近くの家がみな流されてしまったのに、この家だけが残って命は助かりました。今考えてみますと、奇跡だったとしか思えません。
家の中のタンスなどは流れてしまったけど、戸棚の中のものは、ごちゃごちゃになっていたが残っていました。
註 当時出征中だった主人貞夫氏の話
戦地で矢口は津波で大損害を受けたという話は、翌年の三月に聞いた。海岸に近いところは全滅だったと聞いたが、自分の家は大丈夫だろうと思っていた。その当時の家は、土の上に根石をのせ、その上に柱を立てて家を作った。しかし、自分の家は、墓礎にコンクリをうち、ボウドウで柱に固定して家を建てたのを見ていた。だから絶対流れたりしない、と思っていた。現在、その家は、解体されて神崎に売られていき、いまでもそのままの姿で残っている。
註 矢口で、数人から次のような話を聞いた。
「元大白からきた波と、引本の湾の方から来た波が、矢口の奥でぶつかったような大きな津波があったそうな。」と。
いつのときの津波か解らないが、安政の時の話かもしれない。怖い話である。
津波体験記
お昼の食事をすませたとき急に家が大きく揺れてきて棚の物が落ち出した。そして電気の傘が大きく揺れ出したので驚いて外に飛び出した。えらい地震だなあと思ううち、屋根の瓦が落ち、納屋の屋根石の落ちる音と凄い揺れで家の庭をひょろけながらうろうろしているうちにぼつぼつとおさまってきてちょっと安心していた。そのとき津村苗吉さんが、津波がくるぞ早く逃げよと叫ぴながら海岸の方から奥の方へ走っていったので、急いで部屋に寝かせてあった生後半年の姪を背負いこみ、何も持たずに裏の山に駆げ登った。途中の谷に船底の古板を橋にしてあって、これが上下に揺れて恐ろしかったが無我夢中で渡った。
地震が起きてから十五分から二十分位すぎたかなと思っている頃、私は木を両手でつかみ体を支えていたが、急にゴーゴーと凄い音がしてきて大きな波が家々をのみながら押し寄せてきた。みるみるうちに大徳さんの家も波にのまれ、引き波で見えなくなってしまった。
しばらくしてみんながぼつぼつと山を下りかけたので、自分も後に続いて下りた。来てみると母屋は残っていたが、風呂場、便所、豚小屋その外納屋と外小屋も全部流されて泥土と化していた。近くの石垣も大きく崩れているのが見えた。
こうした光景だけは今も忘れることができない。
この日は冷たい風がすごくきつい日で、裏の雨戸は全部しめてあったので家の中の物も流されたが、家具などはそのまま残り、畳もぬれたが中の間に置いてあった大きな火鉢の灰は濡れずにあった。海水は平木までつかったが、火鉢は浮き上がりそのまま元の位置にすわったものと思われる。
家の裏の近くまで浜にあった校長住宅の屋根が流されており、もしあの大きな屋根が流れてきたら私宅も駄目だったと思う。前の畑の真ん中あたりにも大きな屋根が流されていた。(引き波に流されなかったのか)小学校も下のガラス戸のあたりまでつかり、中の方も被害があったように聞いている。
津波の最終場所は奥の浜中鉄夫氏宅の前の畑で楕円形に波の跡が残っていた。浜の方は全部流されたのに津村源左衛門氏の家のみ残った。聞くところによると、建築の時ボウドウが入れてあった由という。
私宅の裏にはコノシロや鰺やその他こまかい魚も死んでいた。
当日の夜は井土照年さん宅でお世話になった。余震はかなり大きく何回も揺れて、眠れぬまま朝をむかえた。翌日から衣類の洗濯物をリヤカーで、生熊の姉の家まで何回も運び洗わせてもらった。後かたつけで多忙をきわめたが幸い親戚の方たちが来て下さり大助かりであった。海から木場へひろいあげられた品々は印をみて自分の家のものはそれぞれ持ち帰った。着のみ着のままの幾日が続いた。後日西村忠一氏の祖父峯吉さんよりお聞きしたことであるが、地震の前晩は風もなく静かな夜だったのに、大きな地鳴りがして一晩眠れなかったとか。
思い出すままに書いてみて、両親や和歌山から疎開してきていた四年生の弥太君、康之君を背負って逃げた弟嫁のことも無事であったが、あのときのことは記憶にないのが不思議に思う。
あのときの地震は昼食後の休んでいるときのことだったと思うが、もし夜の十二時や一時頃だったらと思うとぞっとする。
おもいで
──この体験記は「矢口小学校百年誌」に書かれた「おもいで」の文の中から、東南海地震津波の部分等を抜粋し、本人の了解を得て掲載させていただきました。──
(前文略)
○着任の頃
アッツ島の日本軍が玉砕してから、戦が激しくなって、応召される人も多くなり、軍歌に激励の心を託して、相賀駅まで見送りすることが多くなった。
三化めいちゅう駆除や麦踏み奉仕、開墾等に出かけて、素直に黙々と働く、子供等のけなげな姿に、胸うたれたことは、しばしばあった。
○地震と津波
十九年十二月七日、午後一限の授業が終わる頃、地響きする騒音がしたと思うと、戸棚が揺れだし、壁が落ち、土煙があがり、瓦の落ちる音もして、歩くのさえ困難で危険であったが、先生の適切な指導と、子供等の規律ある機敏な行動で、全員事故なく避難出来たことは、この上もない幸せであった。
津波の第一波は、地震から約十八分位で襲来、里の谷川に沿って、海水が洪水の押し寄せるように、奥の方へ流れ込んだ。浜辺付近と川に沿った曲がり角までの家屋は流失、学校側は、土地が高く、槙の生け垣をめぐらしていたので、流失を免れた。第二波も約十八分位してから、前よりも激しく、高さも学校の運動場一尺位まで浸水した。
○空襲と終戦
津波があってから、B29やグラマン機が矢口の空まで、度々飛来して、須賀利方面へ爆弾投下、機銃掃射して、南の空へ飛んで行くことが多くなった。
(後文略)
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思い出
──この体験記は「矢口小学校百年誌」に書かれた「小学校時代の思い出の文の中から、東南海地震津波の部分等を抜粋し、本人の了解を得て掲載させ
ていただきました。──
(前文略)
昭和十二年十二月七目、小学校四年生のときの南海地震。激しく揺れ教室の壁が落ちるほどでした。授業中だったので先生と一緒に戸口に走る者、窓から飛ぴ出す者などさまざまでした。校長先生が、大声でみんなの安全を確かめながら教室を回っておられたのも覚えています。
約三十分後、無気味な音をたてて津波が押し寄せてきました。私たちは、きもをつぶす思いで山の中腹まで逃げ、何人かで木の上からわが家の有無を確かめたものでした。波は二度、三度と押し寄せ、本当におそろしい経験でした。それ以来、地震といえぱ津波を想定する習慣がついてしまいました。
昭和二十年、(五年生の時)連日B29が飛来し、その度に警戒警報が発令され、集団下校して、友達と遊んでいました。艦載機による攻撃などもあり、更に戦況が悪化していきました。
八月十五日、戦争一色にぬりつぷされていた生活に終止符が打たれましたが、苦しい不安な生活が続きました。特に食糧事情が悪く、食ぺ盛りの私たちの空腹にほうりこまれたのは、サツマと麦でした。私たちはサツマで大きくなったようなものです。
(後文略)
墨ぬりの教科書(初等科国史)
(島勝小学校百周年記念誌より)
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あれから五十年
地震がおさまってからどれほどたっていたかよく覚えていないが、棚から落ちた食器などを整理していると、表の通りから「地震が来るぞ!」と言う声が聞こえた。
私と夫はそれぞれ仏壇の位牌や布団袋を持って逃げようと用意を始めた。長男(五歳)次男(二歳)に上着を着せ、くつをはかせていると、浜の木場の木が流れてきたので、箱車に積んだ風呂敷包みも何も持たず一人を背負い、一人の手を引っぱって川伝いに走った。大徳建設の前の橋を渡るときには、もう足がぬれて必死で小学校の運動場にかけのぼった時、後ろを見ると、もうそこまで波が来ていた。
女の先生二人がいたが、学校にいる長女と次女のことが心配で、宮の境内まで急いで登ったら、二人に会えてほっとした。木々の間から、我が家のあたりの方を見ると、屋根の上より高く波がきて材木などが流れているのが見えた。布団袋を車に積もうとしていた夫はもう波にさらわれているかもしれないと、それが気になりまだ自分も生きた心地がしていなかった。富の森では、気丈な女の人たちも泣いていた。
やっと無事な夫が下から登ってくるのが見えた。夫は布団袋を車に積もうとして表に出たら、もう波が道へおしよせていたので、それをかついで裏山にかけ登ったそうだ。あれで川沿いの道を走っていたら、おそらく助かっていなかったのではと、何度も話した。
タ方宮の森からおりた時もまだ津波の余波は寄せては返していた。だいぶんおちついたので裏山へ布団袋を捜しに行ったが、なかなか見つからなかった。そしたら、山のずいぶん上の方まで持っていってあり、こんな上まで逃げたのかと、夫はあらためて驚いたそうだ。その布団袋を持って、家族六人がその夜から夫の姉の家にご厄介になった。
翌日から流れた物をさがしまわった。車や家具は全然見つからなかった。屋根裏の物置がニケ所にわかれて奥の方の畑の中で見つかった。ひな人形や五月人形は、あわれな姿になっていた。位牌の入った風呂敷は網代(アジロ)に流れついていて、引本の親戚の家に届けてくれてあった。
それから何日も寒い中、ぬれた衣類や布団をさがしては、洗濯に明け暮れる夢中の日々を過ごした。家は津波のこない奥の畑へ建てることにしたが、やがて戦争が激しくなってきた。
我が家に六人が住めるようになったのは、戦争が終わってだいぶんあとのことになった。
註 この文章は、長女の伊藤美保さんにまとめていただきました。
《引本での聞き取りと手記》
引本での聞き取り1
あの日は風のある日であった。生後八か月になる長男が、二階へはい上がっていくためそのうしろから日当たりのよい二階へいっしょに上ったときであった。突然の地震、下へおりようとして階段へ行ったが、階段が大きく上下左右にゆれて、おりることができなかった。家がだんだん前のほうへ傾いてきて、海水が家の中へ入ってきたので、夢中で窓から飛び降りた。家の裏側に小浦屋のレンガ造りの倉庫があったが、そのくずれたところに立っていたのか、足を踏み入れると、ブクブクとくずれいつの間にか胸まで水につか
た。生きた心地がせず、思わず助けを求めてさけんでいた。子どもをどうしたかははっきりとは覚えていないが、いつの間にか子どもを片手で肩へかついでいた。どれくらい時間がたったのか、どのようにしていたのか覚えがない。気がつくと近くの人が「和泉さんの家が大変だ………」と見にきてくれていた。その中にカネ長のカメヤンがいて、手を差し出してくれた。助かった。その他のことははっきりとは覚えていない。
助けてもらって陸に上がったときに後ろをふりむくと、家が海水に沈んでしまって、屋根だけが少し見えていた。その屋根の横を、見覚えのあるカスリのモンペが浮いているのが見えた。
その後、仲治郎ヤヘいった。子どもも自分も着替えていると、「津波が来るぞ…」という声が聞こえてきた。広い所の方がよい、となんとなくそう思って、浜役所の広場へ行った。するとだれかが「そんなとこでは危ないぞ、逃げろ……」子どもを連れてどのように走ったか覚えていないが学校へ逃げた。
学校へ逃げるとき、帯で背中におんだはずの子供が、右肩にかついで走っていた。おそろしくて、あわてているので、自分でしていることがわからなかった。今思うと、そういうことが思い出の一つになっていて笑いがでてくる。今自分がこうして生きていられることに感謝している。
またその時、ハダシで逃げていたようで、浜順のばあちゃんが「ぞうりをはいていけ……」といって、追いかけてきてくれて渡してくれた。このときのありがたかったことを覚えている。また、途中の島田屋の角では、宮町の方から逃げて来る人、下本町の方から走って来る人と、押し合いへしあいの状況であったことを覚えている。
ちょうどその日、父親が尾鷲へ用があり巡航船でいった。「サンバシの上で流されている……」というような話も伝わり心配していた。しかし、津波もおさまってから学校で再会することができた。話を聞いてみると、当日は都合で汽車で行くことにして、徒歩で相賀駅へ向かっていた。すると、本地の踏切のあたりで「すごい、こわい、こんな長い大きい地震初めて……」と言いながら、半分腰をぬかしたようにしてすわっているおぱあさんに出会った。自分はちょうど本地の道を歩いていたころ地震があったはずなのに、少しも地震を感じなかった。しかし、これは大変だと思い、すぐ引本へ引き返した。しかし、渡利まで来たとき、渡利の人は、「ここから引本の方へ行ってはいけない。死にに行くのか。津波にやられるぞ……」といって縄を張ってある向こうへは行かせてくれなかった。それで、しかたなく渡利のニッキ山へのぼり、学校の裏山から下りてきたのだそうな。
そんなことで、私は津波は全然見ていないし、その様子もわからない。
津波がおさまったというので、自分の家を見に行った。屋根だけ見えていた。潮が引いてから、自分の家の物がなにかないかと探したが、ナベが一つ落ちていた。
また、あとになって、須賀利から、自分の家の勝手戸棚が流れついたという連絡があった。引き出しの中の、父の名や、保険の証書の名を見て知らせてくれたのだそうです。
あとになって、長浜からこちらを見ていた人たちが、「和泉さんの家が、白煙をたてて海中へ落ちていった。家の中の人はダメだろう」と話し合っていたそうです。
また、浜の木場で検尺をしていた玉井さんも、地震のため材木といっしょに海にのみこまれ、材木につかまっていたとき、「助けて……」という大きな声を聞いたがどうすることもできず……よく助かったね、と言ってくれた。
今までにも大雨が降ったり、台風で波の高い時など、家の近くの地面からアワがブクブク出てくるようなことがあり、築地は危ないし、安全なところに住みたいね、などと話したこともあったが……
今思い出してもゾーとする。よく助かったものだと思う。
でも、命があってよかった……。
引本での聞き取り2
この頃は築地へ自宅を新築中であった。おじいさんが壁用の赤土を家の前でねっていて、休憩するのに足が汚れていたため、灯台の下の海へ行って、足を洗おうと言っていた。しかし、寒い冬の日でもあり、ちょうど湯をわかしてあったので、自分の家で足を洗っていた。その時大きな地震があった。……今思えぱあのとき海へ足を洗いに行っていたら、そのまま海へ流されて命をなくしたかもしれない。
地震の最中、道を隔てた向こうにある対翠楼や和泉さんの家が土煙をあげながら海へ落ち込んでゅくのが見えた。
おじいさんはすぐ海へ行き、自分の家の船を見に行ったが、じきに帰ってきて津波が来るからすぐ逃げろと言ったのですぐ逃げた。そのうち津波が来た。沖の方を振り向くと、その当時低かった堤防の向こうに山のような波の来るのが見えた。そのまま学校の方へ走った。
物資の無い時だったが、新築用の畳を、カツオ節と交換した十四、五枚を、新築中の家の中へ積んであった。その新品の畳は、廊下の縁といっしょに、沖へ流されてしまった。
津波のあとの家は、まるで安芸の宮島のように、柱だけになってしまっていて、板などの用材も畳といっしょに流されてしまっていた。そのあと土地が低くなり、高潮になると家の中まで海水が入り、長靴をはいてお勝手仕事をするようになった。
昭和二十一年の地震は早朝だった。地震が止むまでおじいちゃんの四畳半の部屋へみんな集まっていた。
そのうちに家がだんだん海へ落ち込んできて、みんなはだしで、着のみ着のまま逃げたのを覚えている。
引本での聞き取り3
母親が買い出しに行った留守のことだった。
昼食後、北町の浜田しげおさんの家で雑談をしていたとき大きな地震がきた。その家とその前の家の小屋根同士がぷつかるぐらいの大きな揺れだった。
家へ走って帰ったら、祖母が腰を抜かしたように座敷の中をはいまわっていた。津波がくるかもしれないと思い、すぐ引本公園の中程の神様の所まで祖母を背負って登り、そこへいったんおいて帰った。当時は若者がいなかったので、,近くの人たちも、そこまで何度も連れて登った。でも、そこでも危ないというので、もっと上の神様の所まで上げた。若かったので上から下へと何度も連絡の係をしていた。
海の方を見たら、対翠楼が火事で燃えているような土煙を上げて沈んでいくのが見えた。弁天島の底が見えるほど潮が引いた。水平線の方から、だんだん潮が高くなってきて波がやってきた。
夕方になってから下りてきたが、当時は炊き出しなどもなく困ったことを覚えている。その後、津波のあとかたずけの日々が続いた。
友人や同級生が次々と応召され、もうすぐ自分にも赤紙の召集令状が来ると思い、左のような地震の時の心得を書いておくことにした。
この内容は、引本のチャンチキバイのおじいさんが子供のころに体験した地震や津波のことをよく覚えていて、その話を父から伝え聞いたものである。今回経験した地震や津波のことも含めて、是非後世に心得を書き残しておこう、応召されたら、どうせ命はないのだから、そんな気持ちで書き残した。
昭和二十年になってから召集がきて、その時に、いつも床の間に掛けてある掛け軸の、箱の蓋の裏に書いたものである。無事に帰還できたことを喜んでいる。
(註 左は遺書ともいえるその時の物である。縦六十㎝横十二㎝の板に墨書されたもののコピーである。)
紀元二六〇四年即チ昭和十九年十二月七日午後一時四〇分大地震アリテ此レニ伴ウ津波ガ起りテ引本浦矢口浦ニテハ相当ノ披害アリ当家ニテモ床上三尺浸水シタル津波来タルト云ッテモ先ズ良ク沈着ヲ守り高所二被待セヨ津波ハ地震在リテ依り約三十分後二来タル
山腹二逃ゲタルモ山崩レノ無キ所二逃ゲルベシ津波ノ来タルト思ヘバ先ズ海ヲ見テ居レバ判ル潮ガ良ク干イテ行ク沖ヲ眺ムレバ波ガ一段ト高クナッテ来ル龍権島ノ方ヲ見レバ良ク判ル
津波ハ昔カラ早クテ九十年経ッテカラ在ル遅イ時ハ百二、三〇年後ノ時ガ在ル
「克ク子々孫々二傳へ置クベシ」紀元二六〇四年拾弐月拾日
三浦宇七 三男 三浦茂
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引本での聞き取り4
ふとんを外に干せるような天気のよい日だった。
急に大きな地震が来た。地震と同時に、窓のガラスが割れた。その窓をとおして前の家を見たら、となりの対翠楼が、土煙をあげて海へ落ちかかっていた。
家には八十歳のおじいさんと、小学校低学年の長女がいた。家の前へは出られないので、裏側の道から逃げようとしたが、前の道が地割れをしていて、その割れ目が、広がったり狭まったりしていた。広がったときは五十センチぐらいもあったように覚えている。そのままでは危ないので、雨戸をはずして、その割れ目に渡し、おじいさんと長女を連れて外へ出た。
引本には、その割れ目に足をはさまれて怪我をした人がいる。
津波が来るというので、おじいさんと長女の手を引いて、本町の親戚の家へ走った。何をするひまもなく、大急ぎで走った。だからどのような津波であったかは見ていない。
津波のあと、自分の家を見に行った。幸い家は残っていた。毎年よくサクランボの実のなる、大きなサクラの木が家の横にあり、その根が家の下まではってきていたためか、傾いてはいたが家は残っていた。
前の対翠楼のおじさんとおぱさんが来て「いったん外に出てきたおじいさんが、まだ出てこないおぱあさんを助けるために、また家のなかにいったきり、まだもどってこない」と言って二人に泣きつかれたことも覚えている。
その二人はとうとうかえってこなかった。
引本での聞き取り5
大きな地震がきた。大きいね、大きいね、もう逃げようか、と言っていたが、病床についていた主人をやっと起こして引っ張るようにして外へ出た。電信柱が揺れ、電線がビュンビュンと音をたてて鳴っていて気持ちが悪かったのが耳に残っている。また、家の前に大きなかめを、防火用水として家の戸袋に結びつけてあったが、その中の水が大きくチャプチャプと揺れていたのも覚えている。十分以上揺れていたぐらい長い地震だった。
長女は学校へ、下の二人の子はトンネルの方にいたが、みんな帰ってきたので、いっしょになって宮さんへ逃げた。本殿の上から、天理の方へ行ける山道があったが、そこまで病気の父や子供たちの手を引いて、やっと登り、主人をそこへ休ませた。
海のほうがよく見えた。対翠楼あたりから土煙が上がっていた。
やがて津波が来た。大根の方へ向かって、大きな高波が数えたら七つすすんできて、矢口の方へいった。
その引き潮で、家が何軒も流れてきた。矢口の家がやられたのかなと思った。
余震もあったが、いったん下におりて、神社の社務所に泊めてもらった。主人が病気のため廊下に寝た。
家へ行ったら、家の中全部コールタンでベチョベチョになっていた。荷物を置いていた畳はそのままだったが荷のない畳は、浮いて流れたのかあっちこっちしていた。タンスの下から二段目半まで潮につかっていた。
そのあと家の中の掃除が毎日続いた。やっと一段落した一月十日、主人を京都の病院へ連れていった。行く途中、名古屋は空襲で所々焼けていた。大変な時代だった。
引本での聞き取り6
当時長浜にあった三井造船所へ通っていた。
造船中の船の中で仕事をしていたら、ガタガタガタガタという音と同時に大きな揺れを感じた。すぐ船底から上にあがって引本の方を見たら、対翠楼が水しぷきをあげて海の中へ落ちて行くのを見た。それが今でも目にしみついている。
どこのおじいさんだったか、津波が来る、というので、自転車で家へ帰る途中、赤石まで来たら波がやってきた。すぐ引本公園に上がって、津波を見ていた。
大きい波が三つぐらいきたように思う。引き潮になると海の底が見えた。道路から海水が流れ落ちるときは滝のようだったこともよく覚えている。自転車でやっと船津の自宅まで帰った。夜も余震があった。
その後引本の親戚のかたつけをした。畳など家の中の物がごちゃごちゃになっていた。
造船所で働いていた連中は皆あちこちへ行かされた。矢口、錦、九鬼、長島などへもあとかたつけの応援を命ぜられた。九鬼では、寺の近くだったが、家の中の座敷へ人さな岩が落ちていて、どうすることもでき
なかった。
年が明けてから、応召された。
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引本での聞き取り7
昼から石橋章さんの家の近くで遊んでいた。すると突然ドンドンという大きな音がした。道へ出たら母が次女を抱いて、地震だ、早く逃げよう、といっていっしょに津呂町の親戚へ走った。
途中、道路がところどころ地割れがしていた。逃げるときは、対翠楼も自分の家もまだ無事だった。
津波が来る、といってみんなさわいでいた。しかし、津呂町にいたので、その様子は見ていない。
タ方になって、父と自分の家を見に行った。対翠楼はなかった。となりにある自分の家も、海に沈み、道路と同じくらいの高さに自分の家の屋根だけが見えた。
家の中のものはほとんど流れてしまっていた。
翌日だったか、整理をしていたら、上空をB29が二機、飛行機雲を残して飛んでいるのを覚えている。
小さかったので、これくらいの記憧しか残っていない。
引本での聞き取り8
当時引本にあった中部青年学校へ通学していた。この学校は引本町な
ど三か町村(現在の島勝以外の海山町)組合立の青年学校であった。一週間に一日の出校の義務があった。水産、農業商業、体育科(教練科)等の授業があった。昼過ぎ地震があった。外へ出た。運動場が地震のため、波うっていて歩けない状態だった。じきに半鐘が鳴った。すぐ、消防団と青年学校生は手伝いに出た。仲町の線香屋あたりのおばあさんを、二、三人で学校へ避難させた。
津呂町の方へも行った。沖の海の方から水煙のようにくもった泥水のような波が来た。沖の方ぱかり見て見ているうちに足元まで水が来ていた。川口には大きな材木が潮の流れに乗って満ち引きにより、左右に動
いていた。
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忘れられない思い出
このごろ北海道で頻繁に地震がおきています。私たちの町でも五十年前に大きな地震がありました。
昭和十九年十二月、五歳だった私にもあのこわかった時の事をおぼろげながら思い出す事があります。
私は小さい頃、実家の近くにいる叔父夫婦に育てられました。あのときはちょうど昼頃だったように思います。小学校で親戚の人と遊んで来て、いえに帰るなり、ゼンソクを病んでいた叔父に、その汚物を魚市場まで行って捨てて来るように言われたので捨ててきて、その入れ物を叔父に渡すのと同時
に大きな地震におそわれ、叔父に抱きかかえられて市場の広場へ逃げました。叔母はその日は、矢口の親戚の家へ野菜をもらいにいって留守でした。
地震もおさまり、家に入ると浜の方から、津波が来る、という漁師さんの声がしてきました。隣のおばさん達が神社へ逃げると言うので、私たちも行こうという事になり、戦死した従兄弟の写真と位牌をもって、浜甚の横を通り、桜井薬局の方へ行こうとしました。ところが、前から波が来るではありませんか。これではだめだと思い叔父の手を引っ張って学校へ行こうと、本通りを足を水につかりながら、いちもくさんに逃げました。学校へ行ったら、津呂町にいる父母達も来ており、学校の校庭でタ方近くまでいたように思います。
その後のことは何も覚えていません。でも、津波の話をすると、一年ぐらいはこわかったように覚えております。
東南海地震津波の日
──この体験記は「引本小学校百年誌」に書かれた「百年祭に憶う」の中から、本人の承諾を得て、東南海地震津波の部分を抜き取り、掲載させていただきました。──
戦争も次第に熾烈をきわめてきますと、切り干しにするさつま芋もなくなり、いつしか目白の来る季節さえ忘れ果ててしまいました。そんな昭和十九年十二月七日のことでした。「明日は大詔奉戴日だから、今日のうちに頑張って麦を蒔き終えよう」と子供等と一生懸命、精を出していました。
そこは、矢口の奥、三浦寄りにあって山の斜面を開墾した段々畑でございました。朝から畝を切り、堆肥を入れ、今まさに種を蒔いて土きせをしようとする時でした。地唸りがしたと思う間もなく地面が波うつようにうねり、今まで作った畝も崩れて、べったらになっていきます。その様子に、子供等は「キャッ」と声を立てながら、畑の中に、べったり座り込みました。
その日は朝からとてもよい天気で、雲一つなかったように記憶していますが、その青空に向かって、山際から稲妻のようなもの──光でもなく、雲や霧でもなく──が飛ぴ立つのに気付きました。子供達の中からも「あれっ山が光っとる」と何人かが叫ぷのを聞きました。畑一面、うすい土埃がたちこめていました。
地震が止むと、私たちは何事もなかったかのように、すぐ仕事にとりかかりました。だが、その地震はあまりにも大きくあまりにも長く思われたので、相談の上、すぐ帰ることにしました。家の安否を気ずかう子供たちの声は次第に大きくなっていきました。矢口から上里へ通じる道路近くまで来ますと、山の上から手を振り、白布を振って「逃げよっ、逃げよっ」と叫んでいる姿が見えました。その人たちの足もとに布団のようなものや、桶のようなもののあったのが目に残っています。「津波じゃっ」という声も入り混じって聞こえてきます。私たちはトンネルの方へ一生懸命走りました。私は一番後を走っていきましたが、ふと振り返ってみて驚きました。道路に沿った川を赤茶色のどろ水に乗って、家がころころ転がるようにまくれてきますし、家の柱か何か、丸太が縦にまくれてくるではありませんか。又路面は、所々ぐさっと、めりこむような感触も忘れることが出来ません。「この分では、引本は全滅じゃろう」という村人の声を開いて、子供たちは列を乱し、右往左往をはじめ悲鳴がまきあがりました。職員皆が子供等を元気ずけ、軍歌を唄わそうとしましたが、なかなかものになりませんでした。トンネルを出たあたりから、やっと「七つボタンは桜に錨……」が静かな山峡へ流れ始めました。だが、歌は流れても、先ほどの喧噪とは異なって、何か空虚なものが全員を覆っている感じでした。もはや津波のことを話す者もなくなりました。このときぐらい、子供たちをいとおしく、可哀相に思ったことはありませんでした。
上里小学校、船津小学校、相賀小学校で休ませてもらいました。お茶も頂きました。だが、引本の状況は何もつかむことが出来ませんでした。
今朝通った渡利の橋が落ちていましたので、渡し船で子供たちを渡し、夕闇迫った五時半頃、校庭で子供たちを親に渡しました。
長い長い一日でした。その後で、私たちの留守中の様子を橋倉富平校長から詳しく聞かせていただきましたが、その中に「あの地震の直後、浜田俊作先生が、人知れず、津呂町、仲町、本町……と各町名を半紙に書いて、全教室へ張り付け、いつ、町民が避難してきてもよいように準備しておってくれた。校長の僕でさえ気のつかなかったこの推理力、判断力、機転、全く頭の下がる思いです。……」とおっしゃった言葉は今も耳の底に残っています。
増産や津波や火事や敗戦と
悪夢つきねど我に甲斐あり
昭和二十年になりますと、引本の上空にも米軍の艦載機が時々飛来してくるようになりました。ある時、その流れ弾が、銚子橋の袂の竹やぶにプスッ、プスッと飛んできて、そこに隠れていた私を、長い間うずく
まらせたこともありました。したがって、その頃はどの学校でも屋根と壁には、黒くコールタンで迷彩を施し、二階の天井板はとりはずしてありました。職員は勿論子供等にも夏休み等なく、歌の文句のとおり「月月火水木金金」で頑張ったものでした。
(後略)
たちを親に渡しました。
長い長い一日でした。その後で、私たちの留守中の様子を橋倉富平校長から詳しく聞かせていただきましたが、その中に「あの地震の直後、浜田俊作先生が、人知れず、津呂町、仲町、本町……と各町名を半紙に書いて、全教室へ張り付け、いつ、町民が避難してきてもよいように準備しておってくれた。校長の僕でさえ気のつかなかったこの推理力、判断力、機転、全く頭の下がる思いです。……」とおっしゃった言葉は今も耳の底に残っています。
増産や津波や火事や敗戦と
悪夢つきねど我に甲斐あり
昭和二十年になりますと、引本の上空にも米軍の艦載機が時々飛来してくるようになりました。ある時、その流れ弾が、銚子橋の袂の竹やぶにプスッ、プスッと飛んできて、そこに隠れていた私を、長い間うずく
まらせたこともありました。したがって、その頃はどの学校でも屋根と壁には、黒くコールタンで迷彩を施し、二階の天井板はとりはずしてありました。職員は勿論子供等にも夏休み等なく、歌の文句のとおり「月月火水木金金」で頑張ったものでした。
(後略)
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東南海地震津波の頃
──この体験記は「引本小学校百年誌」に書かれた「思い出をたどりて」から、東南海地震津波の部分を抜き取り、掲載させていただきました。──
(前文略)
運動場は甘藷畑となり、殊に矢口の大谷に山地を借り受け開墾作業をなすこととなり、私が作業班責任者のようなことで高等科の諸君を引率して、月二十日位は軍歌を高唱しつつ矢口に向かい、木の株おこし、除草、石垣つみと汗にまみれての作業をつずけ、できあがった所には甘藷を挿苗し、炎暑にもめげず生徒の諸君は全く苦しい作業にとりくまれ、本当に頭のさがる思いでした。
漸く二反くらいあったでしょうか、山地の開墾も昭和十九年十二月七日一段落となり、十二月八日は井土町長より、特にご馳走をつくって労をねぎらっていただけることになっており、一同労苦の実りを喜ぴ明日を期待して、正午近くそろそろ学校に引きあげる準備にかかろうとした所、突如グラー、グラと地鳴りと共に大地の大ゆれを感じ、折角つみあげた石垣も各所くずれはじめ、一同唖然たる状態でした。
振動のおさまりを待って、矢口の人家近くまで引き上げた所、既に矢口地内一帯はおしよせる大津波におそわれており、生徒と共に一瞬茫然と立ちすくむぱかり、学校へ帰る道も閉ざされ、やむなく馬瀬越えの道をとり、船津小学校にいったんとどまり、船津婦人会の方々に炊き出しを依頼したところ快く引き受けて下さり、準備にかかろうとしたが、引本までの行路は大丈夫との報をうけ、婦人会の皆さんには好意を謝し学校に帰りついたのは人の顔もさだかに見えぬころでした。 運動場には避難の町民で一杯でした。マイクを通じて父兄の方々に生徒一同無事であることを告げ、子どもたちを父兄に手渡ししましたが、親子手をとりあって、よろこび、かなしみ、おどろき、すすり泣き、それらが交錯した何とも形容する言葉もない情景で、その時の様子が今なお私の眼底にはっきりうつし出されてきます。
年改まって昭和二十年、次第に本土空襲がはげしさを加え、私たちの上空にもB29の爆音がうす気味悪くひびきわたり、その度に全児童を引率してて学校裏の在の山に待避する日がましてきました。
(後文略)
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運命の一撃 ─東南海地震の思いで─
地震が起こったとき、勤労奉仕で山にいた。一、二時間後学校に帰ると、何回目かの津波が、尾鷲湾の軍艦をほんろうしているのがみえた。汽車は運転中止のため、尾鷲から歩いて帰ってくる途中、鷲下の近くで「君の家はもうない」と、長浜から尾鷲へ歩いて帰る知人から聞かされた。
暗くなった引本小学校の、当時、麦を植えてあった運動場には、たんすやふとんが運びこまれ、津波をのがれた人たちがいっぱいいた。無事だった妹と父母に会ったが、その晩はどこに寝たのかは覚えていない。
翌朝、家のあったところにいくと、青い深い海となっていて、もと海岸堤防のそばの並木の松が、海の中でその梢だけをだしてならんでいた。私の家、対翠楼旅館と敷地は、裏の奥座敷にいた祖父母と共に、永久に消えてもどらなかった。
ふとん部屋が須賀利鼻の方に流れていて、ひろってきてくれたふとんを、リヤカーにつんで、銚子川の水でしおだしをした。着のみ着のままの私たち家族に救援物資の衣類がくばられたが、ふとんが流れついたのは有難かった。海の底には、せともの類が沈んでいた。箱眼鏡と長いはさみで、ちゃわんと皿を拾いあげた。私も手伝ったが、父は苦労の末、石うすも引き上げた。今も石うすは家に置いてある。
父母は、一生を賭けて手に入れた旅館を、開業後わずか一年で失ったショックと、その後の苦労がもとで、まもなく相次いでなくなった。実は私は、この父の弟夫婦の子で、いわば、伯父の家に、生後半年で迎えられ、そこのあととりとして大事に育てられた。商売人になれよ、といわれていたが、サラリーマンになってしまった。
それはよいとして、この父母が、銚子川の冷たい水でふとんの塩出しをするとき、また、海の底から、皿をはさみあげるとき、どんな気持ちだったのだろう、何の力にもなれなかったなあと、やっと今ごろ思っている。
(平成六年三月)
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《その他地区での聞き取りと手記》
その他地区での聞き取り1
当時高等科二年生だった。学校にいるとき大きな地震がきたので、すぐ家に帰るようにということで、走って家に帰った。その途中渡利の橋の坂(当時は本地の道路が今よりも低く、もっと急な坂だった)を渡っていた。その当時、渡利には回漕店があり、いつも二、三隻の機帆船が繋留されていた。名古屋あたりへ行く赤須賀船だったかもしれない。いつもその船には束木や丸太、炭などが積み込まれていた。
急に津波がやってきて、物凄い勢いで川の水が上流へ流れ始めた。その流れで船の一隻の錨綱が切れたのか、波に押されて上流の方へ流れ出した。船は運よく橋脚の間をくぐりぬけたが、帆柱だけが橋にひっかかり、折れてしまった。
現在新堤防と呼ばれているところは、その当時ヨシが一面に生えていて、よい遊び場になっていたが、その船はそのヨシの州におしあげられたのを見た。
そのあと、家族みんなで天理の竹藪に逃げた。たくさんの人が避難してきた。幸い渡利での津波は平素の大潮の少し大きいくらいの波でおさまったが、潮は白石湖の奥の小浦の方へ寄せていった。
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海辺の旅館
昭和六年夏八月、引本の築地の海岸に一軒の旅館が誕生した。旅館名は「対翠楼」。所は引本浦八八二番地の四、電話六六番。建物は南向きで南北に長く、六畳を中心にした二階の六つの客室から、東に向かって岬に囲まれた穏やかな入江と青い海が跳められた。東隣に製材所の敷地があり、そこから道路を隔てた先は護岸堤防が河口の方にずっと連なり、裏木戸の近くで曲がって魚市場に続いていた。堤防の上に一基の灯台が建っていた。戦争を記念して建てられたらしく、土台には確か日清戦争従軍者の名が刻まれていたと記憶する。天神山の表忠碑と何か関係があったかも知れない。
「対翠楼」の創業については、他の旅館と力を合わせて各地から客を誘致し、町の発展と繁栄にすこしでも貢献したいという父の意図があったようである。しかしながら、昭和六年といえは不況の時代、それに満州事変から上海事変へと続く世相で、宿泊客の少ない宿帳を毎晩駐在所に届ける時期がずっと続いた。
港はよく賑わった。漁船や巡航船が盛んに出入りし、湾内に網を曳く声が聞こえた。夏になると大勢の子供たちが築地に来て泳いだ。築地は赤石の海岸とともに学校の水泳指定地域であった。また堤防の上から魚を釣る人の姿も見られた。
客を招き寄せる方法として、できるだけ口コミに頼るほか、新鮮な魚、魚釣り、海水浴などをキャッチフレーズにしたリーフレットを時折発行した。また、他所から料理人を招き、その関西風の料理を賞味してもらう催しとか、ずっと後のことになるが、京都の著名な画家に頼んで滞在して絵を描いてもらい、希望者を募ってその絵を購入してもらう企てなどを一度ならず実行したこともあった。そうしたPRの効果もあったのだろうか、徐々に客筋がついて来た。遠く松阪の呉服屋、伊勢の米穀商、阪神地方の会社員などの固定客、それに病気療養の滞在客もあらわれた。近くは町会議員、漁業関係者、学校の先生など町内外の人たちに、食事とか宴会に利用されるようになった。カラオケのなかった当時、宴席に芸者を呼んで遅くまで弦歌に興じる夜もあった。芝原秀次氏の作詞された「引本小唄」がいつか新作「引本音頭」に代わり、三味線に合わせて歌われる歌も世につれて次々と移り変わっていった。
この旅館の表屋敷に俳句愛好家が集まって句会を催した時期がある。町内の主な俳人は、浜田紅洋氏をはじめ奥野骨、岡田紀山、桜井草坡、桜井紀水氏らのほか、それに父の片々楼が加わり夜の更けるまで句作と俳論を楽しんだ。とりわけ紅洋氏は俳壇に名が高く、作句が歳時記に例句として採られていた。このころ紀水氏の「夜濯(すす)ぎ」の句が「ホトトギス」の合評会に取り上げられて話題となった。旅館案内のリーフレットに載せた
晩涼やはろかに仰ぐ矢口富士 片々楼
の「ホトトギス」入選句も、恐らく当時作られたものであろう。平和な時代の集まりであった。
ふり返るとさまざまな思い出がある。四月上旬の公園祭に他の店とともに仕出し弁当を作ったこと、町を挙げて仮装行列に賑わった日、中継点となったこと、晴れの結婚式場として利用されたこと等々。またここに勤務して下さった方の数はどれほどにのぼるだろうか。個人的なことだが、ここで一緒に遊んだ私の友人の数も多い。こうして一軒の海辺の旅館は、多くの人々と共同の生活を営みながらその歴史を刻んでいったのである。やがて戦時色が濃くなるにつれ、軍務を帯びた将校が立ち寄り、講演などのため教授が宿泊するようになった。十七年、長浜に三井造船所が作られてから関係職員の往来も増えた。
十八年十二月一日、私は世に言う学徒出陣の一員として、久居の三十八部隊に入隊することとなった。その前日、二階の座敷において多くの方々から激励の言葉と壮行の杯を受けた。
征く者となり家を出づ冬の天
考えるゆとりもなく心情をそのまま俳句に託し、悲壮な決意を抱いて私は門を出た。そして引本神社から相賀駅へ、歓呼の声に送られて行った。
終戦を知らされたのはルソン島の深い山の奥。やがて窮地を脱し、日を経てマニラヘ。翌二十一年一月、浦賀に上陸復員。十五日、寒い故郷の土を踏んだ。小学校の前を曲がり本町通りにかかった時、旭座より下手の土地が低くなり海が近く見えるのを奇異に感じながら歩いて行った。そしてもとの所に来た。ない。堤防がない。灯台がない。さらに「対翠楼」の姿がない。なにもかもがなくなってしまっているではないか。
………聞けば十九年十二月七日午後一時三十六分、突如をして起こった南海大地震、続いて押し寄せた津波によって一帯が海底に沈んだとのことである。その時私はマニラの部隊にいた。戦況は日に日に緊迫し内地のニュースは知る由もなかった。今ここに生還し、眼前にする世の変転。「国破れて山河在り」、戦争ばかりか天災は人の世にあまりにも大きな惨禍をもたらした。
うぐひ釣る対翠楼の浴衣がけ 片々楼
と詠まれた平穏な日はどこへ行ったのか。私は青い海の色を眺めながら、言いようのない気持ちになって、波の寄せる海辺にじっと立っていた。
(平成六年三月記)
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東南海地震を顧みて
昨年末義姉の五十回忌の法事を営んだのだが、義姉は五十年前の東南海地震(マグニチュード8)の際に起こった荒れ狂う津波に呑まれて、三十三歳の短い人生を終わったのである。
半世紀前の昭和十九年は太平洋戦争の最中で、昭和六年の満洲事変から数えれぱ十数年間明けても暮れても戦いつずけてきたのであり、最初の頃は華々しい戦果を挙げてきたが、資源に乏しい日本が近隣諸国を相手にし、遂にはアメリカを敵に廻しての戦いは、勇猛果敢な兵隊さんの悪戦苦闘するところとなり、各地で玉砕する部隊が相次ぎ、学生の戦場への出陣や、或いは工場で兵器作りの参加など、銃後の国民も「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてし止まん」の精神で頑張っていた時であった。本土上陸決戦の声も叫ぱれるような時であった。
私も、教育挺身隊の名のもとに、十九年四月に早田国民学校へ赴任した。その時のことだが、授業をしていると、突然耳をつんざくというか、天井も吹っ飛ぷような「ドカン」という大音響に度胆を抜かれた。私は「今のは何の音だ」と子供に聞くと「先生、あれはアメリカの潜水艦が航行する貨物船に向けて撃った魚雷が命中した音で、今までにも度々あったんです。」と平然というところをみると珍しいことでもないらしい。これには驚いた。敵艦が自国の鼻先まで来ているとは何たることかと。昭和十九年四月のことである。
その後私は九月から九木国民学校へ転任した。戦局は風雲急を告げ、国民学校でも高等科は知能学科は午前中にして、天気のよい日は午後は実業科(農業)の実習をやるようになった。十二月七日は小春日和の暖かい日であった。午後の授業が始まり、校舎東側の山を開墾して作った実習場に集まって作業に取りかかった直後、急に地面が動き出した。上下動だ。立っておれない。歩こうとするが空足を踏むような感じで歩けない状態がしぱらく続いた。しゃがんで手をついているとこんどは大きな横揺れだ。地面が大きく揺れてい
る。なかなか止まない。畑のあちらこちらに露出していた花崗岩によく似た石英粗面岩(流紋岩ともいう。方言でガンギ石)の風化して丸くなったのが、地震で表面に出てきて転がり出した。「石が転がってくるから注意せよ」と叫ぷように注意する。転がった石は下の校舎の壁にドスンドスンと当たる音がする。高学年だけに上手に避けるが、低学年だったら大変なことだと思うとゾッとする。
校舎の屋根越しに向こうの段々畑のミカン山を見ると、石垣が崩れてあちらこちらで土煙が上がっている。
間知石で高く積んだ中村家の石垣はどうだろうかと見渡したが、そこからはみえなかった。(後で見に行ったところビクともせず大丈夫だった。)
揺れも次第に小さくなり漸く納まった。長い長い地震であった。校舎から集合の鐘がなり出した。ヤレヤレと生き返ったような気持ちで校庭に集合する。恐怖から開放された子供たちは安堵の胸をなでおろした様子でホッとしたような顔、顔、顔、全員無事で結構なことだと思いながら何気なく運動場から町の様子はどうだろうかと下を見下ろして、びっくり仰天した。
いつも満々とたたえている湾の海水はすっかり千上がって、しっとりと湿った海底が見えるではないか。アッこれは津波だ。津波なんてどんなものか見たこともない。ただ、「稲村の火」のことが一瞬脳裏をかすめた。
津波だ!の声に皆集まってきた。見下ろす異様な光景に呆然と見つめている。あっけにとられて見ているのもつかの間海水がどこからともなく押し寄せてきた。見る見る中に水位がぐんぐん上がって海岸道路をうめ尚も上がり、見えるのは屋根ぱかりになった。湾内をうめ尽し海面もいつもの何倍かに広がった。あれあれと見ていると、いつの間にか、水位が次第に下がりだした。増えるのも早いが減るのも早い。ぐんぐん下がって道路あたりから段差がついて滝のように落ち出した。長い海岸道路から白く落ちる滝はナイヤガラの滝も斯くあらんかと見とれる。然し、それも三分ともたない。再び湾内は干し上がってしまった。暫く間をおいてまたやってきた。
第三波、第四波……と繰り返すうちにだんだんと弱まり第六波あたりから殆どわからなくなって平静に戻った。地震発生から三時間くらいで何事もなかったように平静に戻ったのである。
私は下へ降りて町の様子を見て廻った。町の人たちは天井近くまで浸水した後片付けに一生懸命になっている。潮の引くカは強いようだ。三蔵屋という米屋の大きな鉄製の台秤が海へ引き込まれてなくなったとのこと、驚くばかりだ。津波の犠牲者も二人であったと聞いた、悲しいことだった。
交通も通信も不通だった。錦町は甚大な災害を受けたと、風の便りに聞いた。翌々日山坂越えて錦にたどりついた。見るも悲惨な有様で低い地帯の家々は全滅し一軒もない唯雑然たるゴミの山、大きな漁船が津波に乗って、湾内をぐるぐる廻って一軒残らず潰してしまったらしい。死者六十四名、その中に義姉も含まれていたのである。
(平成六年二月記)
墨ぬられていた葉書 ─僕の中学三年生のころ─
ガタガタ、ガタガタ、なんだこれは……地震だぞ!
殺風景な兵舎の窓際でつかの間の日向ぼこをしていた時だった。ハダカ電球が大きく東西に揺れ、大きな地震を感じた。
ここは山口県、戦艦大和の出航した三田尻湾が眠前にある、防府通信学校の二二三分隊の一室でのことである。
中学三年になると、松阪の住友鋼管へ学徒動員として全員寮に入り、昼は勤労、夜は授業という毎日であった。「七ツボタンは桜に錨……」という予科練に志願、入隊したのは夏を過ぎた頃だった。昭和十九年のことである。
毎朝の起床から就寝までのラッパの音で時間に追われる厳しい訓練……通信学校のため訓練の大半は身体を鍛えることと、トツートツーの送受信の訓練が中心だった。
母は、僕の志願にも入隊にも機嫌よく賛成してくれ、歓呼の声に送られる時も、松阪の駅までずっと笑顔で送ってくれた。でも筆まめであった母は、月に二、三度は何も用がなくとも手紙をくれていた。しかし、その中に二、三度ぱかり文章の途中を墨でぬられた信が送られてきた。それは母がぬったのではなく、上官の検閲で、軍の士気に影響するような都合の悪いところがあり、検閲にひっかかったものであった。その内
容は何であったのかわからないまま、別にあまり気にもしないでいた。
翌二十年四月、訓練生を終えて田辺海兵団に配属させられ、第二乙種と呼ぱれる召集新兵…少し年をとった身体のやや虚弱な二等兵…の訓練を任された。訓練といっても、新兵の身体を鍛えることと、防空壕の穴堀が毎日の任務だった。時折通信室の当直があり、暗号の数字ぱかり並んだ無線を受信するだけだったが…
そのうち、昼夜を分かたず空襲の日々、直接一晩中爆弾や焼夷弾、海にいた護衛艦や兵舎をまともに艦載機の機銃掃射……そんな中で、何人かの死者もでた。
やがて終戦、田辺駅から、紀勢西線で木本まで、そこから省営バスで尾鷲に着いたのは、タ方暗くなってからだった。もう汽車もバスもなく、その夜は、尾鷲の親戚の家に御厄介になった。
その家から電話を借り、久しぷりに母と話した。その電話の中で、はじめて地震津波のことと、姉の死を知った。
ああ、あのときの墨でぬられた母からの葉書の内容はこれだったのだと知った。笑顔で送ってくれたあの母は、電話の中で泣いていた。僕の無事の生還を喜んでくれたのがわかった。
翌日巡航船で引本の実家に帰った。庭に立つと、僕の目の高さくらいまでの土壁が、まだ潮にぬれたような跡が残っていて、津波の跡がなまなましかった。
姉の墓参もした。征くときには元気であった姉は、墓の中の人になってしまっていた。昨年姉の五十周忌をいとなんだ。いろいろなことが頭の中をよぎった。
戦争は、生家が地震や津波で大きな被害を受けようと、実姉が病死しようと、そんなことまで伝えようとはしなかった。
僕の中学三年四年のころは、こんな時代だったのである。
《被害報告書》
─左記の報告書は、綴の他の文書内容から見て、多分当時の引本駐在所から出された文書の一部と思われる。(「尾崎」という印の署名がある)被害等詳細に金額なども書かれているので、原文のまま紹介しておく。
津波概況
屋崎印
昭和十九年十二月七日午後一時三十分頃突然一大強震ト同時二曽テナキ大津波ハ紀州沿岸一帯ヲ襲イ 瞬息ニシテ町内ハ阿鼻地獄ト化シ高地エ高地エト避難スル者全町二及ビ一時ハ混沌タル状襲ヲ示スニ至ルモ数時間後ニシテ津波ノ低調ヲ示スニ至ル
当時警防団及町民ノ活動実二敏捷ニシテ町民ノ指導及救助並ニ治安ノ維持ニ協力スルコト不眠不休ニシテ人心ノ安定ニ貢献スル所極メテ大ナリタリ 然ニ当地方ハ地震ノ被書軽少ナルニ反シ津波ノ被書実ニ甚大ナリタル為 一時的復旧ト人名ノ救助 保護 捜査 其ノ他ニ毎日ノ様ニ数百名ノ隣接町村並ニ各種団体ノ協カ応援アリテ 悲痛ノ内ニモ一路復活ヘト強進シタルモ 之ガ為家財ヲ失イ実ニ悲惨悲境ナル者多ク 町ノ発展ニ一大暗影ヲ投ジタリ 尚当時ノ被害概況左記ノ如シ
記
一 死傷数
イ 死者四名 口 傷者三名
二 家屋被害状況
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三 物資被書状況
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四 船舶関係
イ 巡航船関係 中破 一隻 損害見積二二〇円
口 渡船関係
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五 漁具類関係被害状況
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六 港湾施設ノ被害状況
堤防約二百間 其ノ他 損害見積約百万円 以上
《紀州地区に被害をもたらした地震》
─紀州付近(遠州灘や土佐沖位まで含む)に被害をもたらした地震を、海山町史年表、昭和地震誌(倉本為一郎編)尾鷲を襲った地震と津波(尾鷲中央公民館郷土室)その他を参考にしました─
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《古文書に残る災害の記録》
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見聞闕疑集
本書は、享保の頃(一七三五)尾鷲組大庄屋 仲源十郎、彦助父子が郷土の故事 旧事を後世に残そうとして編集したものの写本である。この中にある、宝永の地震津波の記録の要点だけを、読み下し文にして記しておく。
一 宝永四年十月四日午刻大地震山々崩れ 家蔵石垣等をもゆりくずし、半時ぱかり過ぎて潮夥しくわき出て高浪、但し浪高は浜表にて一丈六尺という、林浦野地村迄潮がきて、尾鷲中家蔵残らず流失した。
老男女数多く溺死した。流死人は五百三十余人。前代未聞の大変な地震だった。延宝、元禄の頃も津波があったが、損書は少々だった。慶長九年にも津波があったが人家を流す程の事はなかった。
一 尾鷲の内残った所は、野地村に家三十軒、林浦に二十軒余、矢之浜村半分程、天満過半数、水地少々九木浦浜辺は流れた。早田は別条なく須賀利浦は半分程、大曾根行野少々、
一 他所浦々で浪のきたのは、長島、三浦、矢口、引本、錦浦、古里、海野、三木浦、甫母、新鹿、遊木、大泊、小泊、であった。但し入江に浪が入り、浜磯へは浪が入らない。このことから津波というのである。
一 浪の入らなかった浦々は、木本、波田須、盛松、領野、早田、道瀬、であった。
一 御目附役所、御口前銀札役所も流失した。銀札役所は手代役人残らず流死し、役人一人と炊一人が助かった。先の大庄屋の家も残らず流死した。
一 浪のきた所は別紙の絵図に記してあります。(註 この絵図は現存しない)
《石造物に残る災害の記録》
石造物1
この項「ふるさとの石造物」(伊藤 良編)より転用
逃げ場を教える
引本の津波碑
北牟婁郡海山町引水の吉祥寺山門の前に、津波のときの処置についての指示を書き記した、大きな石の碑がある。
文久二年(一八六二)正月、時の庄屋芝原伴助と肝煎(きもいり・助役)の建立によるものである。
文面は、安政元年(一八五四)六月十四日大地震があり、それから霜月(一一月)四日朝四ッ半時(午前十時)大地震があって、すぐさま津波が引本浦の在中に押し背せた。
なお、ずっと以前の宝永四年(一七〇七)霜月(実際は一○月)四日に、このような変事があった。後世にこのような変のある時は、早速、寺へ逃げるようにと、注意している。
文面の中の宝永四年の地震津波の被害は、よくわからないが、尾鷲見聞けつぎ集に、十月四日正午大地震があり、一時間後に湖がわき出て、一丈六尺(約五メートル)の津波が押し寄せた。
引本・矢口ほか、各浦に波が入ったが、波は入り江に入り、浜州には入らない。それ故に津波という、と書いてあいる。
次の安政元年の災害は、十一月四日午前十時に地震があり、それから約一時間後に、高さ一丈八尺(約六メートル)の津波が押し寄せた。
引本浦の被害について、九木浦庄屋の宮崎和右衛門は、引本に海水が入ったが、家は流れなかったと、日誌に書いている。
この時の被害については、海山町史年表は詳しく、波は寺の広庭まで上がり、家が二─三軒つぶれ一人が死亡したとある。
このように津波たびに引本浦は被害を受けたが、山門の碑は後世の人を戒めて、吉祥寺に建てられ、当時、吉祥寺は現在の引本小学校の位置にあり、民家より一メートル余も高く、津波には安心できる場所である。碑は最も人目につく、山門に建てられた。
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石造物2
宝永津波の 島勝五輪塔
北牟婁郡海山町島勝浦の安楽寺境内に、高さ八八センチの特に火輪の優美な五輪塔がある。
その地輪には「六親法界、碧峰貞厳信女、宝永四丁亥天十月四日」とあり、いうまでもなく富士山の噴火に伴う大地震のあと、熊野灘一帯を襲った大津波の流死者供養塔である。
宝永の津波の記録や供養塔は案外少ないが、島勝沿革史には次のように書かれている。
宝永四年(一七〇七)十月四日午の刻、大地震があった。その日は青天で、むら雲ひとつなかった。
地震は二時間余り揺れ、石がきや小屋が崩れ地が裂けた。一時間ほどして山のような高波が入ってきた。前代未聞のことである。
波は西の河内の山端まで寄せ、大里では山の腰ヘニ丈ほど上がった。神杜は流され、寺の石段まで海水が上がった
このとき島勝浦の戸数は七十九軒であったが、うち十六軒が流されて柱だけが残った。流死は二人だったが、幸い船には被害がなかった。
島勝浦は三年前の宝永元年に大里から出火して、五三軒が焼け、ようやく復興しかかった時だったから、津波の痛手は大きかった。
安楽却の古い過去帳を見せていただくと、宝永四年十月四日の項に、六人の流死者がある。そのうちの一人に前記の碧峰貞岩信女があり、関下湖清兵衛の伯母とある。
この関下清兵衛というのは、元録四年(一六九一)藩の許可を得て、島勝浦で初めて捕鯨業をした人である。
宝永四年の津波で捕鯨道具一切を流し、そのため捕鯨業は廃絶してしまったが、この間の一六年間は毎年収獲をあげ、島勝浦を貧困から救ったのであった。
五輪塔の伯母には毎月の供養として、関下家から籔(やぶ)一か所が寺へ寄進されている。
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石造物3
津波の心得を説く
渡利の石経碑
北牟婁郡海山町相賀の渡利のはずれに、大きな石経碑が建っている。道路拡幅のため少し移転して今は目和山の山すそにある。
文久元年(一八六一)の仲秋に、古本村(相賀)雲祥寺一四代の越山魯州和尚の建立したもので、天下泰平・在中繁栄を祈願したためである。また、この碑の特微は、室永・安政両度の大地震津破の状況が記され、最後に海辺寄り
の人々は、末代までも心得るべきだと結んでいる。
安政元年(一八五四)六月一四日の夜八ッ半(午前二時)諸国に大地震(伊賀地震)が続き、一一月四日には朝五ッ時(午前八時)地援が起こり、そのあとの津波によって、人家が高波に押し流され、波に漂って多くの人が流死したと記されている。
雲祥寺の記録によると、他の浦々には、それぞれ被害があったが、渡利には「汐一切上り不申」とあって、津波は渡利を素通りしたのである。
これほど大きな津波に、渡利に被害のなかったのは、神仏の加護であると、当時、渡利で回船問屋を経営していた夏目忠平氏が、安政三年、菩提寺の雲祥寺へ子安地蔵尊を奉納した。
この子安地蔵は、夏目氏が京都の寺町に行って入手したもので、聖徳太子の御直作という法橋家の鑑定書が付いており、同寺の重宝になっている。
当時は船津川の河口は深く、中型回船なれば前桂まで上ったといわれるが、波利は中型・大型回船の入津港で、産業にも商業にも発達した港であった。
安政の津波に安泰であった波利の人々の喜ぴは、大へんなものであったが、渡利を代表する夏目氏が、菩提(ぼだい)寺へ地蔵尊を奉納したのは、無被害への感謝の表れであった。碑には「奉石書仏経宝塔」と大きく彫られ、引本湾を見下ろして建っている。
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《災害を伝える当時の新聞》
新聞1
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新聞2
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新聞3
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新聞4
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新聞5
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新聞6
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新聞7
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新聞8
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新聞9
中日新聞
12月10日と11日の記事
以上のようにどの新聞も写真
は一枚も掲載されなかった。
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新聞10
相賀大水害 大きな写真入りで報道された。
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新聞11
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新聞12
この地震の真相が始めて 報道されたのは、地震以後1年以上も経った昭和20年10月2日であった。
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《尾鷲測候所の地震計の記録》
この地震計は実際の二倍に感じるから、地面が約三糎動いたことになる。という測候所員の話である。S.1944(昭19)12.7
測候所員の話
第3の波が未だ退けきらぬ内に第4波が来たので、それは第2の波高位になった。以後大したものは無かつたが、平水に復帰したのは2時20分間の後であつた。週期は第1波と第2波の間が15分間位で第3第4の間は短かかつたと云はれた。常時は干潮時なる故に、.7米以上になる事になる。灣の内部に於ける波高が、次に記す灣奥の打上げられた部分より高いとは、吾々の常識と反する事にして、数理上の解説を要する注意すべき現象と思惟せらる。圖に浸水並に倒潰又は流失地域を示した。各所の津波の高さは種々の根跡により知ることができるが圖のL地點では2.5米、M地點では2.9米、N地點2.3米、S地點2.5であり、之等は水平面からの高さであり津浪は干潮時に近く起こつた故之等に約0.5米加ふべきである。又Q地點では異常に高く滿潮時で4.6米なる故に約5.6米の波高であつた。斯様に地點により種々な高さが觀測され尾鷲湾の津浪の高さは幾何と問はれたとき、その答えに困惑する。通常の常識に従つて特異の地點で異常に高くなつた處を除外し尾鷲灣の眞正面を考え家を倒潰或は流失しその餘勢が低地に押し上げた最高の高さを取ることゝし、之を以つて尾鷲灣の高さを代表せしめ約5米とする。
又津浪は灣から陸に向かつて右側に注ぐ川と左側即ちCの近くの堀に添ふて優勢に押し上げた従つて川添の家とC部の堀の奥が最も破壊された家が多く海邊から150米以上も奥まで倒潰した。その中關部はそれ程奥迄倒潰されてゐない。家屋の浸水は川添に400米以上も奥まで達した。浪高の著しいは一般に奥に向つて右側即ちQ側であつた。之には防波堤の影響があるように考へられる。
今回の津浪では尾鷲に限らず一般に家の破潰された材木等が押上げられてゐて餘り流失しないことが特に注目される(岡技師の撮影された寫眞を参照されたい)之は灣形にも大いに關係するであらうが津浪の週期が一般に長かつた事も原因するのではないかと思ふ。石油のドラム罐が千家山を隔てたR點まで流されてゐたのを見た。E部に近い某工場では地震後津浪のある事は大抵豫期してゐたが襲来を確認してから逃げたが追いつつかれ水の中を逃げて多数の工員中一人の死者も出さなかつたとの事である。この波でT部の道路は一ヶ所決潰した。Bは魚市場であり、最も津浪の強い位置にありながら何等被害を受けてゐない。それは鐵柱にトタン屋根の家で自由に津浪を通したからであるが海濱の建築物として注目すべきである。
圖の海岸のA部からC部に至る護岸堤並に補装道路の石畳は、接合するコンクリートが破壊せられ特にA部附近が甚しい。Aは氷碎機の鐵粹にして、冷凍會社の支配人二郷氏の談に依れば、土地の表面のみならず、基盤もから築き上げられたもので、東方に傾斜(2度位)して居る處を見ると、土地の表面のみならず、基盤も変動したものと考えられ、且つ震後潮が増している故、土地が幾分沈降して居ると考へられると語られた。但し、その沈降の量については不明だと言はれた。又同氏は津浪の當時海岸の屋上で見て居られたのであるが、灣内の防波堤附近の渦巻く波の様は恐るべき壯觀であつたと言はれた。以上の事質から、此處の震度は強震の極弱い方だと推定される。又地震前ゴーと云ふ地鳴を聞いたと云う者もあつたが、一般には聞かぬ者が多く、餘り明瞭のものでは無い様である。
次に津浪について述べる。檢潮儀の記象は流失せる由につき、目測せるものを記す。先づ尾鷲測候所にて、震後屋上にて、灣内の防波堤の隱れる様より津浪を觀測した。
第1波の極大14時2分にて、之より先測候所の屋上にて灣のE部の淺瀬に白波を立て押寄せて来る様を見る事ができた。此の14時02分は防波堤が隱れ、第1波の最高の時間であると推定される時刻であるが、この波高が最大のものであつた事は後に記す駒橋大尉の談より知る事が出来る。
第1波の極大14時19分
第3波の極大14時45分
第4波の極大15時10分
第5波の極大15時45分 此の際は防波堤が隱れる程にならず。
第6波の極大16時25分 再び防波堤が隱れる迄に増大し、以後強い波は来なかつた
以上の目測から順次週期を擧げれば、17分、24分、25分、35分、40分である。従つて津浪の襲来の時刻としては、14時02分より幾分か前の時刻をとるべきである。地震は13時36分に起て居る故に、震後26分で第1の極大に達した。最初の週期が17分となる事と、次に記す駒橋大尉の話などを考慮して、震後20分で到達した事に推定する。
津浪襲来の當時、駒橋大尉はF點のブイに連結された舟Gに乗つて居られたが、震後5分或は1分も經つかと思はれる頃、海水がジワジワとふくれ出し、H・Iの間から流込み、遂に棧橋を越え、ザーと音を立てゝ押寄せた。此の間舟の方向は圖の向となり、如何にしても変更出来ない。其の津浪の高さはと云ふにH・Iの燈豪は水平面から6.8米であるが、それが隠れて、J點のものはそれより高いのであるが、上部のみが見へ、支柱の部分(6.8米)は隱れて仕舞つた。其の波が退く時は、防波堤の無い側、即ち圖のKの矢の方向の流れが著しい。50米沖位迄海底が露れた。此の第1波が最高であつたが、第2の波の襲来で鎖が切斷され、辛じて圖のK矢の方向に遁れることが出来た。
尾鷲町、尾鷲警察署の御調査に依れば此の町の被害、12月14日現在、下記の通りである。
死者29名、行方不明67名、全潰並流失家屋604棟、半潰139棟、浸水家屋1644棟、漁船流失42隻97噸及破損22隻其の他消息不明の定時漁船多數あり。
是等の倒潰家屋は何れも津浪に依るもので、地震動に起因するものは皆無である。壁等も隅が抒れて土が少しく落ちた位で、亀裂の入つたものは稀である。墓石の轉倒や石垣等の破損も多少見受けられる。墓石の
轉倒方向は一定しないが、大體から見て南又は北へ倒れたものが多い。又廻轉の方向は、各所とも反時計様であつた。又町の西南部の六十米の山上の忠魂碑の豪の石垣は北東隅から北側にかけて破損し、又附設の記念碑(高さ2米、縦横1米の直方體)は時計様廻轉をなして居た。
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「東南海大地震調査報告書」
以下は「極秘」と、ものものしく書かれた「東南海大地震調査報告書」に記載されている、中央気象台から出された文書の一部である。その内容は被害の大きかった地域を、調査員が数組に分かれて実地踏査し、その状況をまとめたものである。
下記は、この地方を調ぺた両名の実地踏査報告の一部である。残念ながら海山町には来ていない。また、別項に、神戸海洋気象台の技手酒井氏が、和歌山から九鬼村まで踏査した調査書もあるが、これにも海山町内の記載はない。
したがって、この極秘文書からみるがぎり、海山町内の被害についての專門的な調査は、未調査であったといえるようだ。
ここでは、この調査書から、長島町(現紀伊長島町)と尾鷲町(現尾鷲市)の分だけを抜粋して、そのままコピーさせていただいた。
昭和十九年十二月七日
東南海地震の三重・和歌山下實地踏査報告
氣象技師 鷺坂淸信
雇員 黑沼新一
12月10日より22日に至る13日間小官等は該地震の實地踏査を三重・和歌山兩縣に就いて命ぜられ其の踏査概要を左に報告する踏査の方針として地震、津浪に特に注目した。其の理由は該地震は極めて擴範囲に倒潰家屋或は津浪があつて安政元年の地震を思はせるもので發震機構等も簡單ではない様であるから震源の位置の確定も稍困難である然るに津浪の有様は此の震源の確定に寄與する所が大であると考へられるからである。
長島町、地震動は中震と推定せらる。波浪も特別の地點を除いては、たいして高くはないが、町が低地にあり、床上浸水のため被害は相當のものである。町の部分での浪高は最高3米位であつた。次に長島警察署の調査による被害表を掲載する。この表に見るが如く錦の津浪の被害は甚だしい浪高も六七米に達したとの事である。
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おわりに
* 五十年前に眠った人が、今もし蘇生したとしたら、現在をどう感じるだろうか。
空腹の時代から飽食の時代へ、歩け歩けの時代から車社会へ、鼻たれ小憎が戸外で遊んでいた賑やかさから今は塾通いの子供たち、欲しがりませんの時代から使い捨ての時代へ……日常のくらしやくらし方の変革に、たった五十年の間に、俺は浦島太郎になったか……そう感じるであろう。
* しかし、自然は、五年前の雲仙普賢岳の噴火、一年前の北海道奥尻島の地震津波等、あいも変わらずマイペースですすみ、人の力の及ぱない恐怖を見せ続けている。
* 今回のこの記録集編集にあたって、この地方にあったこの天災を、遠い昔の、どこかのできごとのようにしか思っていない……そんな知らない人の多かったこと、同時にあのときの天災の猛威を直接経験した人の少ないことに驚いている。
また、経験した人の中でも、わが身が流れるかもと、必死になって逃げた方と、わが家に全く被害の無かった方との、地震津波に対する認識の違いの大きかったことにも驚いている。
* 時代は高齢化の社会を迎えようとしている。車椅子にすがってしか歩けない人、寝たきりの人、そんな人がますます増え続けていく時代を迎えている。今また、あのような地震がおこったら大丈夫だろうか……みんな安心して避難できるだろうか、助け合って、分かち合って……そんなことがそんな備えができているのか……しかも、五十年前よりも地盤がずいぷん沈下していること……今回の記録集作りでそんなことも感じた。
* 忘れかけている天災の怖さを、少しでも知っていただき、いつおきても、どこへ、どのようにして……本書がそんな一助にでもなれぱ幸いである。
* 「天災は忘れた頃にやってくる」という。今は忘れかけた頃のようである。話合い、語り続け、そんな種子本として活用していただけたら……そんな意味も含めて編集した。
今回の特別展での展示写真や記録集に参考にさせていただいた
文献やカットは左記の中から引用させていただきました。
☆ふるさとの石造物(尾鷲市郷土館友の会)
☆海山町史年表(海山町役場)
☆町内各小学校百周年記念誌(各小学校)
☆熊野の大津波(関口精一)
☆昭和地震誌(倉本為一郎)
☆尾鷲を襲った地震と津波(尾鷲市立中央公民館郷土室)
☆戦争が消した昭和の大地震
☆東南海大地震調査概報(中央気象台)
☆見聞闕疑集(尾鷲市立中央公民館郷土室)
☆引本公民館所蔵の写真
☆その他個人所蔵の写真
☆被害報告書(引本駐在所?)
註 米国の新聞の十二月八日号にはこの大地震についてトップニュースとして報道されたようです。ニューヨークタイムス、ワシントンポストなどが「日本の戦時産業に大打撃」というような見出しで報道したようです。その新聞は手に入りませんでした。
東南海地震五十周年記録集
平成六年十二月七日発行
海山町郷土史研究会
海山町郷土資料館
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