鍬が崎の津波

 岩手県宮古湾は,東北に口を開き南西へ伸びる全長約20㎞の細長い形をしています.湾 に入って直ぐの北岸に,鍬が崎地区があります.冬季の北西からの波,夏場の南東からの 波に上手く遮蔽され,昔から良い漁港として栄えてきました. ここは,何度も津波に襲われ,いろいろな話が伝えられて居ます.
 1611年、慶長の津波がここを襲います。鍬が崎と背中合わせで太平洋に面しているのが 観光地浄土ヶ浜です。黒褐色が基調の男性的な三陸海岸の中で、ここだけが白が基調の海 岸で、極楽浄土を思わせます。浄土ヶ浜のすぐ隣が蛸の浜ですが、ここの峠を乗り越えて、 慶長の津波は先ず山から鍬が崎を襲ったのです。 被災後、南部藩主が出張ってきて、海辺から場所を変えて町を再建します。こうして現 在の宮古市中心部が実現しました。 しかし、天然の良港鍬が崎は依然漁港として繁栄した模様です。
 1700年1月27目、突然地震も無いのに津波が押し寄せ、倒された家から火が出て、2 0軒程が消失しました。津波による火事として記録されている最初のものです。この津波 は、米国西岸のカスカディア沈み込み地帯で発生し、太平洋を横断して襲来したものでし た。日本では岩手県の宮古市、大槌町、和歌山県の田辺市等の記録に残り、アメリカでは インディアンの伝説にありましたが、津波の運んだ堆積物でも確認され、1990年代に米国 で津波対策が進展する基となりました。
 1896年(明治29年)6月15目(旧暦で5月5目の端午の節句)午後8時頃、明治三陸 大津波が襲来します。これは、地震が弱いのに津波は大きい「津波地震」によって起こさ れたものでした。この夜、高台にある鍬が崎小学校では、幻燈会が開かれていました。下 の浜で騒ぎが起こりましたが、異変を察した校長先生が、浜へ下りようとする人々を押し 止め、多くの人命が救われたと報じられました。このときの幻灯機は、今でも鍬が崎小学 校に残っているそうです。
このとき、隣接する磯鶏(そけい〉地区では、海岸の防潮林のため被害が軽減されたら しく、現地視察をした内務大臣板垣退助の談話に触れられています。 1933年(昭和8年)3月3目雛祭りの午前3時頃、激しい地震の後で又大津波が襲いま す。このとき、鍬が崎では左程大きな被害はありませんでした。災害後現地を調査した建 築家などによって、「耐震的建物は津波に強い」事が発見されます。その一例として、鍬が 崎の建物が漁船を押しとどめて居る写真が残されています。こうして、耐浪建築、防浪地 区の考えが出てきます。
 1960年、今度はチリ津波が襲来します。太平洋の向こう側で発生したチリ津波は、伝播 してくる途中で短周期成分が消えうせ、波長の長い波が生き残りました。長い宮古湾の湾 奥では被害が大きくなりましたが、湾口の鍬が崎では大事になりませんでした。 鍬が崎は、遠地津波では被害を受けにくいのですが、周期の短い近地津波には弱い所で す。チリ津波以後、宮古湾の他の地区では防潮堤の建設が進み、鍬が崎だけが無対策のま ま残されています。浜が狭く、人家が密集しており、防潮堤を作る用地もままならない場 所です。幸い高台は近い地形ですから、避難路を整備し、素早い避難で人命を守ることも 可能です。
 いま、この鍬が崎に明治三陸大津波がやってきたらどうなるのかを示すのが、この動画 です。格子間隔2mという、現在では最も詳細な計算の結果を使っています。家は現実のも のが一軒々々精密に計算に取り入れられています。柱だけで壁のない魚市場では津波が素 早く浸入し、壁のある建物では遮られ、邪魔者のない道路を伝わって広がって行く状況が 見えるでしょう。
 津波対策を考える住民の集会でこの動画を公表し、参考にして貰って居ます。