明治三陸大津波(幻灯版)

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 「三陸大海嘯遭難幻灯映画」、1組12枚をお見せします。
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 「三陸東岸海嘯地の地図」です。右が南です。ここを三陸と呼ぶようになったのは、明治の大津波からだそうです。
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陸地の点線は、開通間もない東北線です。沿岸には鉄道も無く、沿岸道路も貧弱でした。このため、災害後の救援は極めて困難でした。
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 被災地を示しています。南から気仙沼(けせんぬま)までが宮城県。死者は約3,500人でした。  気仙沼を過ぎると岩手県です。この沿岸では18,000人が犠牲となりました。
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 種市(たねいち)迄が岩手県、湊(みなと)からは青森県です。青森県では死者300人でした。
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「洪濤天を捲いて釜石市街を全滅す」  前触れとなる地震が異常に弱く、津波が非常に大きいと云う、いわゆる「津波地震(tsunami earthquake)」でしたから、事前に避難する人が殆ど居らず、沢山の人が死にました。
 この津波が襲ってきたのは、明治29年6月15日。旧暦では5月5日、端午の節句の日でした。しかも午後8時過ぎ。家族で御祝をしていた家が多く、地震が震度2と小さかったものですから、警戒する人もなく、津波が目の前に来てからやっと逃げ出したのでした。  こんな大波が襲来してからでは、とうてい逃げ切れるものではありません。  ここ釜石では、5,300人中、3,300人が命を奪われたのです。そのうち遺体が発見されたのは僅か1,000人。後は海へと流され、行方不明となりました。
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「十五ヶ浜村(じゅうごはまむら)一家惨死の悲況」
 宮城県の十五浜村の状況と題されています。外海に面していた荒屋敷(あらやしき)なのでしょうか。 ここでは津波が10mも駆け上がり、16軒中、15軒が流されました。
   10mの高さまで津波が駆け上がったと云っても、未だ上には上があります。明治の津波の最高の打ち上げ高は岩手県綾里(りょうり)白浜の38mと云うのが定説となっています。 それでも未だ日本一と云う訳ではありません。1771年、沖縄の石垣島(いしがきじま)では、80m以上の高さに津波が到達したと云い伝えられているのです。  子供を抱えて流されるお母さん。流れる家の屋根にすがりついている人。これらの人はどうなったのでしょうか。荒屋敷を含む船越(ふなこし)では、588人の内死者27人、負傷者80人と記録されています。
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「佐藤信安氏雄勝(おがち)監獄所を大石を以て破壊す」
 十五浜村の一つ、雄勝には監獄所がありました。津波当時囚人195人、看守34人が居たのです。午後8時20分頃、轟音がして直ぐ津波が襲来しました。  その時の宿直は部長1名、看守2名でした。  一人がひとつの監房を開けるのに成功しましたが、今一つはもう水が来てどうしようもありませんでした。佐藤さんと云う看守は泳ぎの達人でした。幸いにもランプが一つ消えずに残っていましたので、この灯りを頼りに危険を冒してたどり着き、敷石の大きなものを使って監房の扉を打ち壊し、囚人を助け出しました。  この看守の働きとランプ一つのお陰で被害は最小限に止まりました。犠牲者は溺死2名、行方不明2名だけでした。
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「気仙沼小友(おとも)村字只出(ただいで)発掘せし死体」
 表題は気仙沼となっていますが、岩手県気仙郡(けせんぐん)の間違いです。  これは明治29年7月15日の東京朝日新聞の号外で使われた写真と同じものです。この号外での説明は「気仙郡小友村字只出の死体置き場である。死体引き取り人が出るのを待っている。引き取り人が出ない場合、仮埋葬をする」となって居ます。
 小友村では被害前人口778人、死者210人とされており、この只出だけで181人と云われています。只出の戸数56戸のうち52戸がなくなりました。  沢山の人が亡くなりましたから、事後の処置には大変苦労した様です。遺体が回収されても津波で痛み付けられ、身元の確認が容易ではありません。その上、一家全滅も少なくありませんでしたから、多くの人が身元不明のまま埋葬されました。その場合、身に付けていた装身具などの特徴を新聞の広告欄に記載して置く事になりました。  しかし、何しろ数が多く、また夏になったため、時間が経つほど、身元確認は難しくなりました。  津波から1ヶ月後、宮城県は新聞での広告を取りやめとしました。
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「三戸(さんのへ)漁船山上へ押揚られて破壊」
 この場所は判りません。青森県には確かに三戸がありますが、海岸ではありません。もしかすると、沿岸の三沢(みさわ)の間違でしょう。    津波で沖へ流されたもの、或いはこのように陸へ押し上げられたもの、様々でした。被災直後、沖へ流されて助けを求める人を助けようにも、陸上の船もこうした状態でしたから使用できず、見殺しにせざるを得なかったのです。  岩手県の漁船約7,500隻のうち5,000隻が津波で失われました。宮城県では約9,800隻中1,200隻が失われたと推定されています。
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「上北郡(かみきたぐん)下川目(しもかわめ)家屋大破」
 この場所も判りません。青森県上北郡には、海からはなれた下田町、或いは沿岸に南から北へと一川目、二川目と数字のついた川目集落はあるのですが。     沿岸の家は流され、或いは陸上で破壊されました。陸上の場合、人が下敷きとなっており、機械力のない当時は大変な作業となりました。  統計によれば、岩手県では流失全壊家屋5,630戸、宮城県で1,130戸、青森県で530戸と云われる大被害でした。
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「気仙沼小友村負傷者」
 これも気仙郡小友村の間違いです。  津波来襲当時、宮城県には赤十字支部がありましたが、岩手県は赤十字岩手県委員部でした。この津波が契機となり、岩手県にも支部が出来、看護婦の本格的な養成も始まります。  被災後に治療に当たったのは、赤十字、軍、それに地元の医者たちでした。  この気仙郡小友村の仮病院は、被災から4日目の6月19日に赤十字によって開院されました。 23日には軍医も加わりました。  6月30日の新聞記事が、「小友村の華蔵寺(けぞうじ)に置かれた赤十字仮病院には、医者2名、看護人1名で、入院患者16名、外来患者は既に100名以上で極めて忙しい」と伝えて居ます。  患者は、打撲・挫傷・呼吸器病・消化器病の順に多かったと云います。中でも手の施しようが無かったのは、津波で漂流中に水や異物を肺に飲み込んだ人で、殆ど助からなかったそうです。
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「唐丹(とうに)村死屍横断他二体」
公式記録によれば、唐丹村の人口2,535名中、死亡1,683名、重傷35名、軽傷40名でした。  中でも、唐丹本郷では166軒中165軒流失。873人中766人が死亡。助かった104人は漁に出ていた人と、その晩余所に行っていた人でした。  これでは堪らないと、幾人かは高台に引っ越しますが、浜作業に不便な事などから、次第に元の海岸近くに降りてきます。  明治三陸大津波の後、43の集落が高地へ移転したのですが、その殆どが元の低地に戻ったと云われて居ます。  そして、37年後また被害にあう事となります。
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「越喜来(おっきらい)一大非常の光景」
 越喜来湾湾奥の浦浜(うらはま)の津波後の写真です。ここでは、103軒中29軒が流失、828人中122人が死亡しました。  同じ越喜来湾の北岸にある崎浜(さきはま)の方が被害甚大でした。高地にあった10数軒を残し、75軒が流され、214名が死亡。  越喜来湾から流れ出た家の屋根の上に、馬が乗ったまま3日間漂流して助けられたと云う記録が残っています。  人間でも、何とか屋根に上がった人は助かっているようです。この津波の後、屋根に上がりやすい家を建てた方が良いと云われました。    今でも、名古屋市は、高潮対策として定めた市の条例に、この智恵を生かしています。
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「釜石町嘯災後死体発掘し運搬す」
 釜石にあった郵便電信局は津波で流失、連絡が出来なくなりました。山手の遠野から救援が来たのが、翌日の午後6時、津波から22時間後でした。  破壊された家の下は勿論、津波で運ばれた砂の下から遺体を掘り出さねばなりませんでした。6月18日から21日にかけ、救援の人手が500人以上となったので、この1,036体を発見したそうです。  津波は水を運ぶだけではありません。砂も運ぶし船や家の残骸を運んできます。明治の津波の時、田老村(たろうむら)でも沢山の砂に人が埋められ、当時の新聞に「人の砂漬け」の様だと書かれています。  1854年の安政東海津波の時、静岡県南伊豆町入間(いりま)では、津波の後に高さ8mの砂丘が残されました。これが今の所、津波が作った砂丘の日本記録です。
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「釜石町海嘯後の惨状光景」
 被災直後の釜石は、道路も市街地も田畑も、全く区別できない程、破壊された家屋が横たわっていました。    災害前の道路は海に平行な通りだけがあり、人家が密集して、山手へ向かう道は狭く、避難に不便でした。  完全に破壊された市街地の復興にあたっては、道路の整備・町並みの改善を図りました。  しかし、低地であり、海側に防護施設を設けなかったため、37年後にまた壊滅的な被害を受ける事となったのです。
 これが仙台市博物館所蔵の幻灯写真です。値段は、12枚1組で3円でした。米1升8銭、腕の良い大工の日給が50銭、小学校校長先生の月給が30円から50円、内務大臣の月給が500円の時代の3円です。