4. つなみ

それから、20分ほどして海水は海岸線から徐々に引き始め、ある湾では 沖合い1キロまで海底が現れました。
そのころ人々は、海の方から聞こえてくる大砲にも似た音を聞きました。 驚いて外に出た人々がみたのは水しぶきをあげながら迫ってくる巨大な 波の壁でした。
津波は大小14回に及び、翌日、海岸では多くの犠牲者が引き上げられました。
昭和8年。三陸沿岸はまたも津波に襲われ、3千の人名が奪われました。
昭和35年、みたび三陸沿岸を襲った津波は、なんと地球の裏側のチリから 伝わってきたものでした。
これは八戸市を襲う、チリ地震津波を記録した8ミリフィルムです。
押しよせてくる津波をこれほど克明に撮影したフィルムは世界にも例が ありません。
黒々とした津波が船を桟橋からさらっていきます。
波高5メートルの3つ目の波を最高に、数多くの波が船を押し倒し、 陸に打ち上げ、破壊していきました。
津波は太平洋岸一帯を襲い、5千戸余りを破壊しあるいは流し去りました。
最も被害の大きかった大船渡では3千トンの貨物船までも、陸に押し上げてしまったのです。
明治29年の津波の高さは、三陸沿岸の各地で10メートルを超えています。 8メートル近い大波に襲われた釜石では、人口の8割近く、5千人の生命が失われました。 また田野畑村には29メートルというほぼ10階建ての建物にも相当する 大波が押し寄せています。
29メートルの大波に見舞われた、田野畑村の羅賀は小さなⅤ字型の 入り江に面しています。
入り江を見下ろす、丘の中腹に立つ青い屋根の家。 津波はこの家の高さまで押し寄せ、昔ここに立っていたひさしに昆布を 掛けていったのです。
この家の2階から見下ろされた家も人々も津波は全て飲み込み、流し去ったのです。
ここは羅賀に程近い、弁天崎(べんてんざき)の対岸。 津波が来る前、向かい側の島とこの岸の間の矢印の地点には大きな岩がありました。 その岩は明治29年の津波によって、115メートルもながされ、今は水面に頭だけをだしています。
岩の大きさは差し渡し約9メートル、重さは推定730トン。 こんな大きな岩を一気に100メートル以上も動かす力を 津波は持っているのです。
これはチリ地震津波の年に撮影した、八戸の普通の状態の海。 海の色は青く澄んでいます。 そしてこれは、同じ年、チリ地震津波が襲っている時の海。 海の色は遥か沖合いまで不気味に黒く、津波が海底のドロや朽ちた海草を 巻き上げてきたことを物語っています。 数千メートルもの海全体を揺り動かすエネルギーが津波の猛烈な破壊力の 源なのです。 しかし上陸した津波の速さは人が走る速さとそれほど変わりません。