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災害地の学術 調査

 東京帝大地震学教室から三陸震災地の調査に赴いた某氏は、海嘯の予防に関して興味ある報告をなしているが、この大意を大雑把にいうと次の如くである。
 海嘯予防は全然不可能なものに考えられていたが、今度の災害について実地調査をした結果予防可能であることを発見し得たように思う、明治二十九年の海嘯の後に予防設備の加わった部分は今度はいずれも災害から免れて居るし、然らざるものは反対の結果になっている。
前回の海嘯後において、海嘯襲来の範囲外に家を移したものについて調べると、今度の海嘯ではいずれも難を免れて居り、然らざるものは難にかかっているという事実の右の調査によって、大体明瞭になったということである。これは恐らく間違いのない事実であろう勿論、海に臨まないでは立って行けないという釜石港の如き場合からいうと、港の位置を海嘯の及ぶ範囲外まで退却させるということは出来ない相談に違いないけれども市街地ならざる漁村においてこの予防法は実行可能な問題であると思う。兎に角、それが災害地帯の全部に対して、そのまま適用できるものでないにもしろ、予防方法の見つかったということは、災害地の再建のために、よろこぶべきことである。
 右の報告だけでなく、各方面から行われた調査結果は、相次いで報告されるのであろうし、そしてその報告のうちには、災害予防に関して、貴重な文献となるものも見出されるかも知れない。がこういう有益なる調査報告を聞くにつけても、是非望まなければならないのは、災害地についての組織ある学術調査、つまり、綜合的なる調査研究をする必要があるということだ。これまでの調査は、所詮有志者の調査という範囲を超えて居らず、従って、調査は断片的にならざるを得ず、周到にして物の奥底に徹する調査はこれでは期待する訳に行かない。
災害の善後策については、当該地方■も、政府も、議会も肝胆を砕いて居る、それは素より当然過ぎることに違いないが、右に述べる根本調査のための関心が、政府にも地方にも、割合にうといように見られることに、われ等は寧ろ意外の感を持たなければならない。対策はどんな場合でも、抜本塞源式で行かなくてはならない。震災は勿論不可抗力には違いないけれども、そのために人為を加える余地が絶無だという訳のものではない。地震と海嘯の発生は防げまい又発生を予知することも人知の範囲外の問題かも知れぬ。けれども災害の予防に至っては可能でありしかも、右の如き周到なる学術調査を遂げることによって、今日常識を以て予想し得る以上の範囲に於て、それが可能になるかも知れないのである。そして、災害を運命的に受けざるを得ざハ地方について、こうした用意をこらすことは、災害をして最小限度に抑える途である。歴史の記載によると三陸の震災は過去に於ても数回繰返されて居るそうであり、学者の研究に従えば、其所は日本での海嘯地帯となって居るということだ。こういう危険区域について、先ず以て究むべきは予防に関する調査研究でなくてなるまい。そして、調査研究を徴するには、有志者の断片的な調査で以て間に合う道理はないのである。一体、わが国では科挙に依頼するという風は、比較的薄いのであるが、日本の科挙は決して幼稚な時代を歩いていない筈である。関係学者をこの問題のために動員して、徹底的に調査研究を開始するならば、必ず、しっかりしたものが生れることをわれ等は確信する。
 この種の企図は、無論、地方の力で出来るものでないし、又地方でやるべき事柄でもない。当然、国の手によって計画されなければならない。いうまでもなく、之を実行するには相当の経費を要するであろうが、一挙にして何千万円の損失をもたらす災害を予防するために、若干の経費を要するのは当然のことである。ということを言っておけばよい。