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潰れて紫に腫れた  頑是ない児の目   残された婆さんと孫    岩手県気仙郡 中心の惨害(1)

三陸地方の災害状況は、気仙郡下において最も激甚といわれ交通機関の復旧とともに漸くその惨状が判明しているが、六日記者は高田町を中心に広田湾沿岸の災害地を慰問をかねて視察し、津浪の暴威の跡をマザマザと見たが、今泉村長部浜を始め末崎村、小友村、広田村にかけて沿岸の部落は殆ど全滅し、大船渡湾に臨む石浜、下大船渡も相当な被害をうけている。
此の地方では六日夜漸く電報の配達があり、各役場に山積みされていた慰問品の配給も開始されて罹災民に温かい救恤の手が着々と延びている。
 全滅部落の復興!それは恐らく海の暴威を忘れたころでなくては人が寄りつかないだろう。
高田町から自動車を駆って気仙郡東部の災害地を巡る。
名称高田松原から高田■内かけて津浪の惨禍は次々と展開され米崎村沼田では部落十軒が全潰し六名の死者を出している。
脇の沢対岸には全滅した長部部落のあたり、濛々と煙が立昇っている。
米崎村海岸通りは津浪に打抜かれた骨組ばかりの家が並び、小友村では戸数三十一戸、内六戸が倒潰したが幸い死傷はなく、両替部落では傾斜した家を起したり汚れた布団の洗濯をしたり部落総動員で復旧につとめている気まぐれな波のために柱一本残らず水にさらわれて丸裸になった男が、復旧に動く部落民をボンヤリ眺めながら、
 貧村から復旧なんか見込みがありませんヨ、こうして裸一貫になると却ってさっぱりしています、何とか喰べる対策だけでも考えているんですが−
と腕を組んだ。悪路を縫って小友村に入ると、左方寺の門をくぐって、編笠、白装束の男が一人、トボトボと寺の石段を登って行く
 −ああ位牌持ちが行く。津浪で死んだお葬だ!
自転車の運転手君がそういって指した。
小友村では只出部落が最も惨禍をなめ山の手の一部を除いて殆ど全滅である、海岸の家は敷石の跡を残しているばかり、津浪にさらわれて漁舟や発動機船と一緒にゴチャゴチャに掻き廻されて浜の裏手の田の中にバラバラになって押しあげられている。近隣の青年団や消防夫が部落民と一緒に跡片付けをやっているが、六日までに、ここで発見した死体は七個、また行方不明十一名である。泥田の中にしたいが埋まっていそうだとあって、家族の者達が、手に手に鎌を持って泥田の中をしきりにひっ掻き廻している。
 掘出した泥だらけの死体は浜辺で潮水をブッかけて洗い戸板に乗せ、寺に運んで土葬にしている。
男の子一人を残して八人家族が全滅したという悲運の者もあったが惨禍の割に死者の少なかったのはざめあみに出漁する漁師のお陰だといわれている。
 ちょうど二時ごろ、浜に出ている漁師たちが地震と共にサッと潮水が引いたのでそれッ!とばかりに部落中を駆け廻って津浪の警鐘を乱打したのだ。
ここで雑貨商をやっていた及川久治郎さんは当時の模様をマザマザと思い浮べながら、
 −ちょうど二時半ころ、津浪だ!逃げろ!と騒いで行く声に飛出して見ると、バリバリ、ミシミシという物凄い音こわれジリジリと押して来る水で家が壊れる音だったんですネ、そこへ電気がスパークして稲妻のようにパッパッと水面に映えるので、まるで活動写真のようでした。
広出の村道、勾配を駆けて泊里部落に向う
 村道から眺める広田湾の風光、遠く太平洋の水面が銀盤のように輝いて、湾内を静かに鴎が飛び、海はいま津浪の暴威のあとを冷やかに嘲笑しているようだ
椿と野生のしゆろの樹が、温暖と平和の村を表象しているのに、この村の東海岸は津浪の狂騰にに噛まれて跡かたもなく潰滅しているのだ、広田小学校から車を捨てて匡救事業の道路を、泥に塗みれながら泊里に出る、途中筒袖の老人が記者の前に立ちはだかって黙って懐中から紙包みを取出した、その封筒をのぞくと、
 −明治二十九年旧五月五日午後七時!と書いてある。この老人が二十九年前の津浪被害を調査して、しまっておいた広田村の貴重な記録なのだ。
 「一家一人生存者−十八戸」
などと当時の惨状が細かな数字で書きこまれている。
三陸の海嘯は五百年目に来るときいていたが、こうして一生二度も津浪にやられるんでは復興の気力も鈍って来る
老人はそういって、前の津浪に復興の槌を揮ったあとが、今また廃墟と化したこの呪われた村を悲しんでいた
泥田のような悪路を抜けるとそこは泊里部落の全景だ。見渡す限り茫漠たる廃墟の中に、倉庫の残骸ばかりニョキニョキ突立っている。塵芥を焚く煙が濛々とあたりを■め、吹きさらしの海風に乗って、魚の臭気が、死人のような異臭を送って来る。
罹災民は山手に残った数軒の家に分宿して焚き出しをうけ、救護班の活動に交って、子供達は散乱した魚粕をこの廃墟の中から拾い集めている。 
 ここで悲惨を極めたのは海産物商の小西さん一家だ。大黒柱の働き手は全滅しておばあさんのとよ(八一)と孫の市雄(ニ)さんが生残ったきり、墓場のような中に残っている倉庫に避難して、あまりに皮肉な波の悪戯を呪っている。
そのうす暗い倉庫の扉をあけると、焚出しの握り飯を頬張っていた女に抱かれて、頭に包帯した丸々と肥えた男の児がヒーヒー泣いている。見ればその子供の左眼は紫色にはれあがってつぶれている−これがおばあさんと二人で生残った市雄ちゃんなのだ。やがて蔵の二階からおばあさんが降りて来て、記者に元気よく布団をすすめてくれた。
 私は耳が遠いので、津浪だァ津浪だァ−と騒ぐ声が火事だァ火事だァと聞こえたので、ねえやに孫を抱かせて自宅外に飛び出したトタン、浪に投げあげられたと思ったらスッポリと頭から屋根をかぶってしまったんです。夢中で両手で屋根を掻いて穴をあけ漸く屋根の上に這い出たので救い出されたのです、その時の傷ですヨ
とおばあさんは両手のみみずばれを差のべて見せた。 
 おばあさん気を落としてはいけませんヨ
と慰めると首を振って
 孫がいるので仕方がない、元気を出しています。
と答えた。
泊里の先では根崎部落三十戸が全滅し行衛不明十五名、そのうち死体が二つあがったきりまだ跡片付けもついていない。ここから引返して五葉山の麓を通って、全滅の末崎村細浦港に向う。【写真、小友村海岸通り(上)広田村泊里倉庫に避難した生残りの老母と子供(下)

宮城県   死者百六十名   行方不明者百四十一名    三月八日現在各町村別の数

三辺知事は四、五、六、七の四日間県下の災害地方を一巡したがその際、各町村役場を通じ災害により死亡したもの及び行方不明中死亡と確認されたものに対し各金一封を贈った、なお八日現在各町村別の死亡者及行方不明者数は左記の通りである
町村別 死者数 行方不明者数 計
唐桑   三一     二七  五八
鹿折    四      −   四
階上    一      −   一
小泉    九      六  一五
戸倉    一      −   一
歌津   四六     三八  八四
十三浜   八      四  一二
鮎川    一      −   一
大原   三三     二八  六一
女川    一      −   一
十五浜  三○     三八  六八
合計  一六五    一四一 三○六

救恤品と  復旧材料   鉄道の取扱数量

鉄道省では去る三日から三陸震災地向の救恤品復旧材料寄贈品等の無賃或は五割引輸送を行っているが八日午前十一時現在までにおける取扱数量は貸切扱六一五キログラムを示したが、その発駅の主なるものは
 黒澤尻、花巻、盛岡、米沢、新潟、水沢、柏崎、青森、山形、福島、平泉等であるが、内容品は主として、衣類、布団、木材米、味噌、漬物、薬、■、茶碗ゴム靴の類である。

青年団員活動  鈴木警察部長   も感激

登米郡浅水村青年団員山内俊一君外二十一名は救護班を組織し夜具食糧を携帯罹災の甚だしい本吉郡十三浜村相川に至り、七日から救護並に跡始末に従事しているが、災害状況視察のため同村出張しにた鈴木警察部長は涙ぐましいまでのこの青年団の活動を面のあたり見て大に感激、八日警察部に報告せしめた。

救援方を懇請  仙台商工会議所   副会頭等上京

仙台商工会議所の佐藤副会頭は佐々木理事と八日朝上京したが青森盛岡の両会議所代表と東京で落合い日本商工会議所に三陸の災害状況を報告全国の実業団に呼びかけて救援方を懇請するはず。

望楼の設備  消極的だが是非必要   国富技師の談を数行して    野口測候所長語る

中央気象台の国富技師は八日午後一時仙台発準急で帰京したが同技師とともに三陸地方を実施調査した石巻測候所長、野口技師は八日国富技師を仙台駅に見送った、県庁に知事を訪問、視察状況を報告したが左の如く語る、
国富技師のいわれたように地震と、津浪を余地することは目下のところ全然不可能だ、結局消極的対策と設備で幾分その被害を防ぎ得るが、それには望楼の設備と港湾に対する堤防の施設だ、津浪は震源地にもよるが大抵震後三十分乃至一時間を要し津浪が見えてからでも三分と五分の間がある、この間に急報して避難せしめることが出来る大谷村の如き家屋の流失はあったが一名も死亡者のなかったのはこの好例である、更に堤防の問題だが、これは湾一面を造り得るなら最も安全だが、経費の関係で許されないだろう、こんどの津浪との関係から言えば雄勝浜はあの堤防があったから被害を受け志津川は、堤防のために安全だった、震源地が反対だったらこの反対に志津川が被害を受け、雄勝は助かったろう、この関係から見ても相当施設は考慮すべき重大問題である。

大金侍従  釜石視察   本日は久慈へ

岩手県沿岸災害地巡視の大金侍従一行は七日夜釜石に入り、八日親しく同地一円を視察、同午前九時鵜住居村に至り、大槌、船越、山田、大沢、豊岡、津軽石の各町村を経て午後四時四十分久慈町に向ったが、沿道罹災民は何れも聖恩の深きに感泣するのみであった。

軍人の罹災  仙台連隊区調査

仙台連隊区司令部の調査(七日朝までに判明の分)によれば本県下において現役軍人の罹災したもの二十八家族、在郷軍人の死亡者三名(本吉郡小泉村)で、日支事■遺家族中には死傷なく又北満武装移民の家族には死傷及び損害がない

子孫に憂目を  見せたくない   二度の災害に懲りた    岩手県九戸郡八木部落民     祖先の地を見限り高地へ移転

八戸海岸で最も津浪の被害の甚だしいかった八木部落(岩手県九戸郡)では惨害を蒙ると共に部落移転が想像されていたが、最近に至りますます真実性を帯び部落有志は断乎としてこの際部落移転を実現せしむべく協議を進めている。
 八木部落は三十八年前の三陸大海嘯の際にも全滅したるところで八木湾の入江に沿うた部落で背後には丘陵が■えしかも鉄道線路より低く人家があり、一見して津浪の被害の激甚を思わせるところであり、今回も僅かに五、六戸を残して全滅し死者九十九名を出だした悲惨事に鑑み今再び以前の場所へ住宅を建設せんには今後幾年かの後に子孫は当然かかる惨害を蒙るべきは火を見るより明らかなので、この際決然として祖先の地を離れ、安全地帯に新に部落を建設せんとするもので、その候補地は宿戸寄りと停車場前から東へ中野寄りとが考慮されている。

痛々しい犠牲  影も形もなきル   ンペンの一部落

時局多難の折柄、日本の鉄鋼を背負って立つ岩手県釜石鉱山の安否は各方面から懸念されたが実情調査に赴いた仙台鉱山監督局諸井鉱政課長に依ってその健在を報告され、その監督局では大いに安心したがその報告の一節に涙の物語り伝えられた−、好況の鉱山を尋ねて各地から集まって来たルンペンの群が鉱山エキストラとして将来の好況拡大を予想して釜石海岸須加部落を形成し、何時の間にやら一つの特殊部落をつくっていたがこれが津浪にやられて影も形もなくなっている何所に、何うなったか、寄留もしてない不幸な彼等は一時にその存在を消滅してしまったのである、鉱山好況の裏面で痛々しい犠牲となった彼等は笑えないネンセンス、喜劇の悲劇である。

全半潰六百七棟  流失は九百九十棟   大小船の流失九百卅七艘に達す    宮城県下の被害 保安課発表

今回の震災海嘯による宮城県下の被害は県保安課において調査中のところ八日発表されたが、それによると家屋の全潰三七九棟、半潰にニ八棟、流失九九○棟、浸水一五九七棟、発動船の流失八四、艘小船の流失八五三艘で、その損害総額は百三十二万六百六十七円である。各町村別にすれば左の通り
本吉郡
唐桑村 家屋全潰一二六棟、四一、六四八円、流失ニ四○棟、九三、五六三円、浸水三二四棟一三、四二七円、発動機船流失四七艘、四七、八八五、小舟流失ニ、一八艘、一○、○六三、家具其他七一、二七一円、合計ニ七七、八五七円。
鹿折村 家屋全潰二棟、一五○円、流失四棟、ニ、○○○円浸水四棟、三八○円、家財其他一、三七○円、合計三、九○○円
大島村 家屋全潰二棟、四○○円、半潰一棟、○八○円、流失四棟、ニ、三六五円、浸水ニ一棟、一二五円、発動機船流失二隻一、九五○円、小舟流失七、○艘六、ニ○○円、家財其他五、ニ五○円、合計一六、三七○円
大谷村 家屋全潰一棟、ニ○○円、半潰一棟、一五○円、流失一九戸、一○、○一九円、発動機船流失三艘一、一五○円、小舟流失八五艘ニ、四六七円、家具其他五、ニ六○円、合計一九、ニ四六円。
階上村 家屋全潰六棟、三五五円、半潰一棟、○五○円、発動機船流失一艘一、○○○円、小舟流失一○○艘、ニ、○○○円、家財其他一、ニ三○円、合計四、六三五円。
松岩村 小舟流失七艘、一四七円、合計一四七円。
小泉村 家屋半潰十二棟、一一六五円、流失五六棟ニ六、六九七棟、小舟流失七艘、四二○円、家財其他一三、七一八円、合計四二、○○○円
御岳村 家屋全潰一棟、二○○円、小舟流失三二艘一、八二ニ円、家財其他、○五○円、合計ニ、○七二円
志津川町 家屋全潰五棟、一二○○○円、浸水一五○棟、ニ、五○○、発動機船流失五艘四、五○○円、小舟流失七二艘四、四○○円、家財其他一、○○○円、合計一三、六○○円
戸倉村 家屋全潰一○棟、ニ、○○○円、浸水ニ三棟、五○○円、小舟流失一三艘、六五○円家財其他ニ、三○○円、合計五、四五○円
歌津村 家屋全潰一八棟、七五○円、半潰一二棟、八五○円流失一二ニ棟、三五、五二四円、浸水四十棟、ニ、三○○円、発動機船流失二艘、ニ、四○○円小舟流失一九七艘、一一、五六五円、家財其他ニ三、一六○円合計七六、五四九円
十三浜村 家屋全潰一六棟、三、七○○円、半潰ニ八棟、ニ、三○○円、流失九四棟、一八、○ニニ円、浸水四五棟、七五○円、小舟流失一○ニ艘、八、八○○円、家財其他ニ八、九三○ 合計六二、五五二円
牡鹿郡
鮎川村 家屋全潰二棟、ニ、五○○円、流失一棟、五○○円家財その他、一六○円、合計三一六○円
大原村 家屋全潰ニ五棟、四三三○円。半潰ニ四棟、九○○円、流失一一三棟、四一、二四○円、浸水一三二棟、九三○円、発動機船流失九艘、六三○円、小舟流失三九艘、ニ、三九五円、家財その他五八、三九○円、合計一一○、八一五円。
女川町 家屋全潰七棟、一、七七○円、半潰六九棟、四、一○○円、浸水四十八棟、四、ニ一八円、発動機船流失一一艘、六、六○○円、小舟流失一二艘八四○円、家財その他一二六、六五五円、合計一四四、一八三円。
荻浜村 家屋浸水五五棟、三○○円、家財その他三、六○○円合計三、九○○円
十五浜村 家屋全潰七七棟、六五、ニ○○円、半潰六二棟、一五、七四四円、流失三三七棟一四八、五八六円、浸水ニ五七棟、ニ五、七○○円、発動機船流失六艘、八、五○○円、小舟流失一○八艘、六、七○五円、家財その他ニ四九、三二六円、合計五一九、七六一えん
亘理郡
坂元村 家屋全潰ニ一棟、一、七七○円、半潰一八棟、四八○円、浸水ニ九棟、小舟五五艘、七、三五○円、家財その他四、七二○円、合計一四、三ニ○
桃生郡
宮戸村 小舟流失一艘、一五○円、合計一五○円
名取郡
閖上町 家屋浸水一○棟
総計 家屋全潰三七九棟、一二六、一七一円、半潰ニニ八棟、ニ五、八一九円、流失九九○棟、三七八、五一六円、浸水一、五九七棟、五三、一八○円、発動機船流失八四艘、七四、六一五円、小舟流失八五三艘、六五、九七四円、家財其他五九六三九○円、合計一三二○、六六七円。

可憐な児童の  死者三十八名   負傷者は八名と判る    宮城県教育会弔慰金寄贈

今回の災害による宮城県下小学校児童の被害者は約一千名でうち死亡三十八名、負傷は地名であるが県教育会では死亡、負傷に対しては一人当り五円宛その他一般の被害者に対しては三円宛贈ることになった、なお県下の小学校二百八十八校から尋常一年より高等小学二年までの教科書各一部宛を集めこれを罹災小学校児童に贈ることになった。

蚕業被害  各町村別内訳

去る三日の津浪による宮城県の被害中蚕業関係は、桑園流失五十四町七反歩、冠水七十三町六反歩、蚕室蚕具の被害等を合し二十四万九千八百六十七円余で内訳は桑園ほ被害八万三千八百七十一円、蚕室蚕具の被害十六万五千九百九十六円である、尚被害町村別は左記の通り、
町村名  被害額
十五浜村 一一六、九九七円
女川町    六、五○七
大原町   二四、○九六
志津川町   二、一九○
戸倉村    三、五二八
十三浜村  三六、三三九
歌津村   一六、三六八
小泉村    七、六六二
大谷村    八、ニ五六
唐桑村   二四、七○八
大島村    三、一六に
坂元村       五四
計    二四九、八六七

建設用材  先ず三村に斡旋   宮城県当局奔走

罹災地方の住宅復旧応急措置として宮城県土木かでは材料の蒐集斡旋につとめまず屋根費用としてトタン一万二千枚を購入し、唐桑村一千三百五十枚、歌津村四百五十枚、坂元村磯浜へ四百五十枚を送った。なお建築用木材は県において集めることは輸送上にも不便であるので申込次第、当該地方の有力なる建築業者に県より懇談的にこれが応急措置の援助方を申達する方針で、第一回申込の唐桑村に対しては同地方の請負業者と懇談してその方法をとった。

焼土小景【釜石町の写真】

(1)桟橋が大破して沖に避難していた鉱業所用船も七日からエンジンの音勇ましく復古の揚荷に活動し出した(2)焼土に建ったバラックにかかげられた「たばこ」や(3)数十万個の握り飯を作ってなお元気な婦人救護隊(4)焼野原に焼残り品を投売りをする呉服屋

多数の人命を救った  志津川町の防波堤   地震があったら先ず山へ逃げよ    石巻に寛いた 国富技師談

三陸一帯の災害地を実地踏査し五日振りで現地調査を打ち切り石巻町に至り千葉甚旅館の一室に寛いだ中央気象台国富技師は今回の調査に関し左の如く語った。
まだ蒐集した材料を取纏めていないので纏った意見は発表出来ないが震央が金華山沖二百キロ東の浅い改定にあるため被害も大きかったのである、深海ならば大した被害もないのだが浅いだけに被害が大きく関東震災の如き大災害を被ったのである何せ外■地震帯は一年一千回以上も地震があり一ヶ月百回内外もある三陸沖の海とてこれを予知し津浪を予測することは困難というよりも不可能である。そこで今後の対策としては消極的ながら望楼台でも設けて浪浪を早く知り適当な避難方法を講することである、現に志津川港は高さ四米の立派なコンクリートの防波堤がありこのため人畜に死傷がなかったのである、もしあれがなかったなら人家の流失等も多かったに違いない、津浪は■■を襲う時は高くなって見えるものだ、夜もプランクトンによって波が光って見えるから判る現に今回大谷村の漁夫が出漁中浪が高くなり津浪を予知したので釣竿をかついで帰り居家財道具を持って逃げ出したので其村の多くのものが避難したということをきいて来た、津浪は深いところでは普通1秒百米の速さで襲うが浅いところ即ち深さ十米位の湾になると一秒十米の速さで襲うて来るから逃げることは決して不可能ではない。
また地震があってから約三十分乃至一時間を経て津浪がなければ安心していい、この用意さえあれば未然に災害から逃れ得る。それから金華山沖の海底に起る地震津浪は予知はされないが海底の深浅を調査することが先決問題である。
鰯が豊漁で地震を予知し得たという説は私としてはどうともいえぬただ参考にするのみだ、私は伊豆の大震の際三月から五月まで約二千回の微震があったのから微震が度々続けば、それに脅えて小魚が浮かんだのではないか、そう説明した方が最も今の虚穏富と考えられるが鰯との関係については材料を蒐集している=旅館に寛いだ国富技師=

地震前の  井水涸渇    地下傾斜運動なので    しばしばあるとだ     国富技師談

宮城県下各災害地の実施踏査を行っていた中央気象台国富技師は七日を以て打切り同夜自動車で石巻町に至り千葉甚旅館に一泊八日午前十時石巻測候所に立ち寄り十一時仙台に来り県当局を訪問したが激震当夜発震前に牡鹿郡石巻方面民が井戸水を汲みに行ったところ水が非常に渇れていたということにつき国富技師は語る
 大地震の前後には井戸水が渇れることはしばしばある、それは地震の地下傾斜運動の場合水の湧く道が違ってくるため一時湧く水が閉塞がれたりして涸渇するのである、また石巻地方海岸は今回の津波で被害のなかったのは湾の構造がよいからで、湾の構造の関係によって同一地方でも被害の大小があった云々