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浪に呪われた十五浜村を訪う  闇に黙する部落   消え失せた家を探す青年    蒼白く語る 高橋梅吉老

▼……悪魔の浪に洗われた三陸沿岸の一帯は何所も彼所も惨また惨で、つきぬ涙、宮城県桃生郡十五浜村は県下の悲惨を代表するものだ、浸水家屋五百、流水倒潰百余、死亡行方不明約七十を数えられ、その中同村■越字荒浜部落は二十八戸の内十八戸、その家族十七名が浪にさらわれた、三日夕刻まで死体十九個が発見され、瀕死の重傷は六名、重傷二十三名、軽傷二名を収容したが、三十九名の行方はーー死体−は未だ発見されないという惨状、日赤支部の医師と看護婦、■師団から派遣された千田二等軍医正外看護兵十六名もここに救援に赴いた。
▼……記者はこの報を得て人と家をさらわれた同部落を見舞うべく三日夕刻石巻に出発。約十一里の道を急いだ、百余戸流失という同村雄勝部落に着いたのが午後七時十分過ぎ、部落に自動車を捨てて一歩踏出した途端、目の前の小学校庭に大きな船が二隻とすぐ傍らの神社の鳥居前にも一艘、陸では見られない■体でころがっている、附近一帯は大浪であらわれた砂利道のようだ、今朝の三時半まで軒並の部落と聞いてはどんな暴威だったのだろうとただ驚くばかり、附近の様子も見たかったが百余戸の家屋流失ではあるが死者究明と聞いたので十八戸流失で五十八名の死者を出した。
▼……荒浜部落への道を急ぐため村役場を訪問した、ランプとローソクの光りの中で看護兵の一隊は飲料水、食糧など夜当準備中終るを待って発動機船交通丸に乗込んだ、軍隊十六名、応援の青年団消防組数名と記者等と午後八時半過ぎる頃同村大浜部落に上陸、ここで青年千葉太次郎君の案内により軍隊より一歩先早く大浜峠及び船越峠の難所へようやくで抜け午後十時荒浜部落に着いた。
▼……月はあるが雲に遮られて光なく、谷間の部落は暗闇の中に不気味な沈黙に包まれている、ただ浪の音のみ余所では聞かれぬ物すごさである、案内の千葉君「浪が荒いので荒浜というんです」とすごい説明をする、山の中腹のところにかすかな灯が見えたが足許の危なさと谷間の橋が流されているため越せない、案内の千葉青年も「この谷川を挟んで家屋が両側にあったのだが……」と消え失せた家を探す気のせいか異臭が鼻をつく、
▼……谷川の最上流の方は大丈夫だろうと探すうちに大きな構えの一戸を見つけた、途端に日赤の救護班一隊が同家を出て来たので入り代って訪ねた、一歩足を土間に入れた瞬間、居宅一ぱいに敷き詰められた蒲団、うめき声枕頭にうなだれる人々の蒼白な顔!記者は静かに見舞の言葉を述べた、
▼……主人の高橋梅吉老は「世の中には神も仏もありません、私共も津浪というものは何百年に一度かという様な気持でいましたが自分一代に二度もこんなことがあってはいくら先祖伝来の土地でも離れたくなります、もう漁稼業をやめて山の方へでも逃げるか…とても経費を掛けて仕事の計画を樹てるような気にはなれません
と悲愴な面持ちで語る、
▼……以下は同主人の談、明治二十九年の津浪のときはこの部落は十六戸でそのうち八戸流され廿八人死んだ、その時の浪の高さは十九尺五寸と調査されたので私共はこの程度なら大丈夫だろうと海岸を離れて家を建てた、ところが今朝の浪は三十五尺はあった、それがさほどの昔もなく地震後三十分位とも思う頃、ただの一遍でやって来たのだから溜まりません、ご覧の通りです、私の家には重傷の人が六人ですが縁側には七つの仏さんがいます、一家族全部亡くなられたのは高橋松男家の八人、高橋貞次郎、高橋しんの各四人の三家族です、海に流された人でも運よく隣の大須浜の船に十一人助けられたが、その中二人は凍死していたのです、流された瞬間生残った親は狂気のように海岸に飛び出し誰れ誰れと絶叫し流されて行く人は陸上目がけて夫を、妻を、子を、親を、口々に叫ぶ、ア、その声は未だ耳に残っています」
話はそれからそれへと尽きない、
この時救護軍隊の一行が着いた、千田軍医正は直ちに重傷の高橋善吉君を診療したが全身の打撲と内部出血で保■出来ない程度の状態とのこと、その他の人々へも叮嚀に診療して次の収容箇所へと廻る

奇跡的の命びろい  桑の樹に抱き   ついて助かった    本年一月凱旋した高橋君     ようやくありつく握飯と沢庵

▼……奇跡的な幸運者高橋鶴吉君は本年一月満洲から凱旋した歩兵第四連隊機関銃隊の出身
 丁度あの時です、家が持ち上げられたような気がしたのでばっと起き出て雨戸を開けた時柱か何かで頭を打たれそのまま倒れた、その後どうなったか判らないがやっと気がついた時には浪に呑まれながら山際の桑の木に横腹をぶっつけられて気がついたのだそうだ、その瞬間桑の木に抱きついて離さず、それで助かったのです、
と頭と手に奉たいをしながら語った。
▼……同君と同じく本年一月満洲から凱旋した野砲第二連隊出身の福島長吉君も同様に助かった、話は尽きなかった午後十一時を告げたので死者の冥福と傷者の快復を祈って再び爪先登りの峠を越え船越小学校に着いたのが四日午前零時半、沼倉校長の好意で握り飯沢庵の御馳走を受け約二時間程休憩して再び千葉君の案内で名振海岸から明神に出で再び雄勝海岸に着いたのが午前六時だが
▼……陸も海も運輸の便がなく幸い師団寄贈の毛布三百枚を積込んで来た県のトラックに便乗して石巻に帰ったのが午前十時半であった。(特派員発)

ガス淋しく灯る前に  白木の棺、線香の煙   一家九人の中八人も死んだ    小野寺家を目ざす

▼−海嘯惨禍第一夜が暮れる頃鹿折、唐桑両村に跨る只越峠の難路を越え本吉郡唐桑村只越部落を訪問する、全戸数九十三戸のうち流失家屋二十三、全潰九戸、半潰三戸、浸水十一戸、死者二十三名のこの部落は唐桑村内でも最も手ひひどき被害の部落である、電灯線が切断しておぼろ月の影薄く眺望をほしいままにした海を不気味に照らしている、
▼−只越部落入口に厄を免れたある一軒に案内を乞う
 正確ではないのですが私の時計で二時十分でした、あの地震ですそれから間もなくゴーッととても物凄い音が二回打ち続いたので外に出てみると直ぐ下に並んでいる家が見えなくなっていたので始めて津浪だと分かったのです、明治二十九年の三陸沿岸大海嘯の経験で地震が大してひどくなかったので大丈夫だとみんなが安心したのがこの惨事を起したのでしょう
かく語った
▼−この家の主人はランプの灯に淡く照らされた顔を暗くして勢いのなくなった頃の焚火をかきならし声を落して
 気の毒なのは直ぐこの後にいた吾妻長松という人の一家です、長松さんは気仙沼町の運送店に勤めていた留守中、親兄弟全部八人とも浪に浚われてしまったのです死体も分りません
といって後の人達をふり返る
 この人達は近所の人でみな津浪に襲われた人なのです
なるほど、今まで十二、三人の男女は口一つきかず黙々として夕食をとっている、家を奪われた人なのだ、
▼−この家を■した沖空にかかったおぼろ月の光をたよりに半潰の家の軒をくぐりくぐり海岸線に沿う尾崎道路に出る、山の中腹に焚火が四五ヶ所さびしく燃えているのが見える、罹災者の
 バラックから洩れる火なのだろう、急な坂道を登って見ると急ごしらえのバラックが五六軒並んでいる、中はまる見えで
辛うじて持ち出した布団が三重ほど重ねてある、様子をきくと「この家が私の家です」と眼の下に半潰となった家を指さして夕飯の準備から手を放したおかみさんが語った、数百の生命と家屋を一呑みにした海が今では処女のような静けさで岸辺に波を打ち返している
▼−更に尾崎道路を歩いて九人家族のうち八人まで津浪に奪われたという悲惨な石浜部落の小野寺家に急ぐ、道路側の一軒が眼に映ったので立ち寄ると庭先にアセチリンガスを点じ棺が一つ、その前に線香の煙がたち上っている、ここは平磯部落である
「親類のものの死体を発見したばかりでお通夜しているのです」
と髪を無造作にたばれた漁師のおかみさんが物に怯えた句調で語った、
▼−平磯から約一里も歩いたころから左手の土手下に沈み切った一軒家を妙に訪ねたくなって土手を駆け下りた、ランプ一つが照らしている庵の傍らに招ぜられる戸の家の主人に石浜の小野寺■唯一の生存者佐太雄氏の居先を訪ねると
「私は親類の者で今私の家に来て居る」
という話だ、この時記者との会話を聞いたのか家から出て来た近眼鏡をかけた三十位の人が、「私が小野寺です」と挨拶して庵の傍に座って語った。
 地震があってから妙に静まり十分位外を見廻ったところ、沖合雷光のような光りが見るだけで外に異状もないところから家に帰って来たら母のみち(四七)を始め私の妻とめ(二五)弟■(一九)妹てる(一四)末弟光一(一二)に長男の善男(六つ)次男泰雄(四つ)長女みえ子(二つ)の八人が心配して布団の中で目を覚ましていました、私は家に這入ってから大丈夫だ、寝ろと家族に言って間もなくです、ゴーッという物凄い音がしました飛び出して見るとその時は十五尺もある浪が押寄せて来るところです夢中になって津浪だ津浪だと叫んで裏山に駆け登り気がついて家の方を振返った時には早や家の形一つありません、舟を始め兄弟■子全部が家諸共に浪に持ち去られたのです、
▼……呆然としてこの家に寝ずの夜を明かしました、朝になって近所にいた人が沖合に私の家の屋根らしいのが見えるが……と知らせてくれたのでボート一艘を借り漕ぎ■して見ると正しく見覚えのある私の家なのです誰か一人でも生きていてくれればよいがと屋根の上に伸び上り声一ぱいに呼んで見ますと屋根の裏に微かな返事が答えるので屋根を破り覗き込むと母が首から上を水面に出していたのです直ちに母を■ぎ上げ今この家の奥に寝かして介抱し■漸やく元■も■に復しました。
▼……これが奇蹟というのですか小野寺家一家の生存者は私一人と思っていたところに母も助かってくれたので百万の味方を得たような力強さを感じます。
記者は同君の力強き決意に一層力づけの言葉を呈して村役場の所在地宿部落へ向った。

八戸線全通  四日より全区間

強震のため線路不通の状態にあった八戸線陸中八木、種市間は百米の徒歩連絡によって辛うじて連絡を取っていたが三日午後八時開通四日より全区間の運転網を快復した。

被害地出身兵  に帰郷を許す

在仙各部隊では被害地出身兵士を帰郷せしむる事となり、昨日その人員を調査さしたが、五日午前中までに歩兵第四連隊より百二十四名、野砲、■軍連隊より各二名が急ぎ帰郷した、騎兵、工兵連隊では目下調査中である。

罹災兵帰郷  昨日夕刻まで   に廿九名

在仙各隊では中隊長の裁量に依り震災地出身兵の帰郷を許しているが、四日夕刻までに更に野砲隊より十四名騎兵隊より七名、工兵隊より八名それぞれ郷里に向った。

電信電話  ■々復旧   釜石局の損害    十万円の見込

仙逓局において調査した震害地電信電話の被害最も甚大だった箇所は釜石町附近で同方面だけで損害十万円と見られているが釜石局は当時海嘯の襲来によって局舎水浸しとなったため三日5五十一時附近大渡無集配局に仮局舎を設け直ちに通信事務を開始したが四日夜までには本局に復帰する予定である、
 次に被害の大だったのは細浦局でその惨状雄勝よりも甚しく局舎は全部流失全滅し電話加入者も全滅したが三日午前十時二十分電信電話全部が完全を見るに至った
続いて被害の大なる箇所は宮古、大槌の局順だが一般から言って同地方は雪国のため電柱の建植も区間を短縮してあるためと電線のケーブル化によって比較的被害が少なかった模様で四日午前十時現在における震害地の通信網は電信三回線電話三回線を除く外全部の回復を見るに至った。

百余戸の部落中  僅かに残った二戸   生残者も海辺に食物を拾う    唐丹村の惨状を観る

釜石警察署管内において死者三百五十名を出し最も罹災者の多かった気仙郡唐丹村を見る。
−三日午後十時釜石町を出発した記者は、提灯をたよりに■夜の山道を唐丹村に向って進んだ。途中釜石町字平田部落の人家を訪ねて状況を聞いた。この部落は流失家屋十七戸を出し、死者は一名だけであった。三日未明来一睡もしなかった記者は同家の好意によって約四時間程炬燵に入りながら仮睡を取り、四日午前四時何難険平田峠を強行して目的地唐丹村字本郷に入る。
山を下って部落に入ると、半倒壊の家屋から老人が身体を起し「よく来てくれた」と記者に泣きすがったこの老人は娘を津浪にさらわれたのである。約百戸のこの部落は僅かに二戸だけを残して全くの荒野と化し、海岸から約三丁程へだてた山麓にひしがれた家屋が折重なっている。同部落には一家全滅の家が十五戸あるという。あちこちに溺死体が泥水にまみれて浮き上げられ約七百名の部落民中生存者は二百六十名に過ぎない。大都分の屍体が行衛不明となっている
更に小白浜部落に入る。小山の上から部落一帯を見れば漁業組合、岩手銀行支店等の目眩しい建物は跡方もなくなくなっている。ここは水面上五十尺の大津浪■同部落の三分の二を見舞ったのだという負傷者は釜石病院分院に収容しているが、医療品が欠亡してこまっている。未だ米が配給されず、海岸に浮着した食物を拾って食っている悲惨な有様で、生き残ったものは全く飢餓に瀕している。

木の幹に人の片足  死屍に群がる鳥など   惨澹たる岩手県気仙郡本郷浜

岩手県気仙郡本郷浜■■■は殊に酸鼻を極め陸に、海岸に、死体横たわり中には小枝を折り取られた大木の幹に片足がひっかかっているなど想像の外であり、死体の上に■■■が無数に集まっているのも見受けられた、なお船体の破片は生色を失った地面一帯に散らばり浜の住民等らと人影は更に見受けられない。

電信電話を魁に  復興を急ぐ釜石港   帰郷した兵士らも頼りに活動    驚嘆の外なき 自然の暴威

気仙郡方面の震害地を視察した記者は自動車、徒歩、モーターボート等々あらゆる交通機関を利用して■行的に四日釜石町に赴いたが釜石町海岸通りは一面焼野ヶ原で大嵐の跡の惨澹さを見せている。海岸の焦土には女学生やお婆さんに至るまで跣足で土運びその他跡片付けに忙しい。特に許されて帰郷した郷土出身の盛岡、弘前の兵士達が軍服姿甲斐々々しく活動しているのが目に附く。
復興の魁は何といっても電信電話で焦土の中を電柱を■つぎ電線を架設する工夫達の活動は目立って見える。かくして通信機関の全然無かった釜石から県境遠野間の一回線が開通し、唯一の通信機関となっている。
自然の暴威の余りに強く且大なるに唯々驚嘆する外はない。凶作、財界不況に、さらきだに疲弊せる沿岸の農民漁民に対し又此の地震津浪火災の兇変を加えた点は何所まで彼等に禍いするのであろうか