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全戸崩壊から復興 津波被災農家への教訓

チリ地震津波の教訓を生かせという声が強まっています。農業経営の面でも、
水田や畑作の単純な経営からサヨナラして、協同経営へ踏み切り、効率のよい
有畜集団経営へ進むべきだという意見もでています。また住居も協同高層耐震
住宅に切り替える動きがあります。こうした前向きの復旧計画へ意欲を燃やし
ている農家のみなさんへ静岡県修善時町熊坂部落の復興の実例を紹介しましょ
う。三十三年伊豆半島を襲った豪雨で、全戸崩壊の打撃を受けた熊坂部落は、
「共同農業経営」方式でみごとに立ち直ったのです。被災農家のみなさんも勇
気と信念をもって熊板に負けず、復旧の戦列に参加して下さい。

農耕、食事も共同で  一年後にみごと収穫

泥海に孤立 三十三年九月二
十六日夜。この夜を熊坂の人々は
永久に忘れないでしょう。伊豆半
島の天城連山に降りつづいた豪雨
は”*の濁流”になり、狩野川流
域の穀倉、田方平野を一瞬のうち
に泥海に変えました。被害がもっ
ともひどかったのが熊坂です。二
百八十九人の犠牲者をだし、住
家は全壊しました。それから一年
半−当時の悲惨さはもうありま
せん。この復興は全国から寄せら
れた”熊坂を救え”の暖かい援助
によります。しかしそれにこた
え、全部落が結集して「共同農業
経営」へ踏み切ったことが復興の
背骨になっているのを見逃せま
せん。
 災害復旧は団体の力で 熊坂
の被害をもう一度ふりかえってみ
ましょう。死亡者は二百八十九
人。家屋の流失、全壊は八十二
戸。農地流失は水田二百四十二
ヘクタール。畑七十八ヘクタールです。これは熊坂
部落の全耕地と同じといってよい
ほどの被害です。これらの田畑に
は五十センチ以上も土砂がつもって、
まったく手が施しようがないほど
でした。おもな働き手を*の濁流
にうばわれた熊坂は、それでも歯
を食いしばって復興へ立ちあがり
ました。復興事務所がまず建設さ
れ、災害の体験をいかした部落の
建設計画がたてられました。一戸
当たり四十九・五平方メートルの応急住
宅五十一戸が西側の山ぞい地区に
建てられたのが、その現実の一歩
でした。住宅を持った部落民は、
翌年の二月ごろからポツポツ田畑
で働くようになりました。しかし
耕地の上につみ重なった土砂は農
地の工面を不明にし、個人の力で
はどうすることもできぬことをさ
とらせたのです。
 共同農業経営の芽ばえ 熊坂
の農家はこのとき、個人の土地を
復旧するという考えから脱皮しま
した。「ことしこそ田植えしなけ
れば…」と部落の心が一つにな
ったのです。働き手を失ったの
で、老人も子どもも復旧作業に参
加しました。男は一人五百円、女は
二百五十円の日当をきめ、個人の
田でなく部落の田として復旧する
という決意で土砂の除去作業に取
り組んだのです。これに他地区の
婦人会や学生たちの応援隊が加わ
りました。こうして土砂が除か
れ、排水路が開かれ、七月には田
植えが終わりました。
この間、苗代つくりも、田植え
も、食事も共同で行なわれまし
た。秋の収穫も共同の線でつらぬ
かれました。0・一ヘクタール、三・五俵
という少ない収穫でしたが、この
作業を通じて、部落民が共同経営
の知識と自信を学びとったのは貴
重な収穫でした。
 着々進む共同経営 災害後一
年で収穫へコギつけてから、部落
の人々の共同経営システムは不動
のものになりました。現在国の補
助で共同作業所が三つできていま
す。共同作業用の脱穀機四台、耕
運機六台もあります。畜産物の共
同集荷所、育すぅ(*)機もあり
ます。すべてを失った熊坂は共同
の軌道に希望の生活をのせたので
す。
 忘れてならぬ共同精神 熊坂
の完全復旧はまだできていませ
ん。復興の悩みの少なくありませ
ん。田畑の耕地整理も、排水路の
整備も終わっていません。田植え
も耕地の地ならしが十分でないの
で、水の配分などで悩まされてい
ます。お米の収穫も少ないので、
近在の工場へ出かせぎしなければ
なりません。しかし熊坂の農家の
表情は明るいようです。狩野川の
堤防は立派に完成しました。堤防
からは、新しい下田街道が田畑を
横切って伸びているのがみえま
す。碁盤の目のように通る農道も
のぞかれます。鉄筋二階建の熊
坂小学校もみえます。それに道路
にそって整然とイラカを並べる部
落民の家も…。熊坂小の裏山で
は国民温泉建設計画が進められて
います。県は堤防の近くに殉職者
慰霊塔を建て、それを中心に公園
をつくろうとしています。菅原部
落代表は「あの悲しい状態から立
ちあがれたのは、共同精神があっ
たためです。この心をいつまでも
忘れずに伝えて行きたい…」と語
っています。

 農林手帳  効果ある防潮林を 津波の教えを生かして

 チリ地震津波が残して去った
教訓を生かそうとする計画が、
各県で真剣に検討されていま
す。二十三年もかかり「万里の
長城」といわれるガッチリした
防潮堤を築いた岩手県田老町
は、こんどの津波ではカスリ傷
も負いませんでした。この防潮
堤は明治二十九年と昭和八年の
津波の教訓をいかして実現され
たものです。こうした抜本的な
防災計画以外に、防災の効果が
ある細かい計画のいろいろな論
議がなされています。つい先ご
ろの伊勢湾台風とこんどの津波
の体験を生かした防災共同住宅
をつくる計画を宮城県の農業会
議はたてています。この住宅は
三階建で、二階以上は住宅で一
階は共同作業場になっていま
す。宮城県は防災計画の一つに
防潮林の造成をあげています。
防潮林の効果がハッキリと立証
されたのは桃生郡北上村長塩谷
部落の例です。昭和八年の津波
では十数戸が流され、道路も
耕地もズタズタにいためられま
した。その教訓をいかして防潮
林が植えられました。こんどの
津波では四メートルの高潮が襲いました
が、この三百五十メートルのクロマツ
防潮林が、激浪をセキとめたの
です。倒れた家屋が二戸でまし
たが、あとは浸水しただけで、
被害は軽微です。このほか雄勝
町の雄勝浜の防潮林も十分とは
いわれませんが、防災の役割を
果たしました。県の調べですと
防潮林は波の力を減衰させ、波
の高さをくずし、流木をおさ
え、引き潮の際の流失物をとら
えるそうです。それからわかっ
たことは長潮谷の防潮林のよう
に林の厚さが二十メートルぐらいない
と、倒木したり、切れたりして
効果が半減することです。こん
どの津波ではこうした防潮林が
千二百ヘクタール流失しています。また
湾のかたちや、海の深さなど
を考慮して、効果ある防潮林を
つくる***も痛感されていま
す。
 宮城県はこうした教訓をいか
して八・六キロから十キロの防潮
林を五年計画で、できるだけ
つくることになりました。それ
から効果のうすい防潮林の補植
や改植もやることになりまし
た。これらの防潮林は国の補助
と県費で大半実施する予定で
す。国有の砂地海岸は県が払い
下げしてもらい県営の防潮林に
するそうです。農漁家の住宅や
耕地が、チリ地震津波の苦い経
験をいかして保護されるのは結
構なことであり、住民は期待し
ています。岩手は大船渡中心
に、青森も八戸中心に防災林を
つくる計画をたてています。県
や国は被災者の立場になって実
現するよう望みます。