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大海嘯見聞記  宇部から種市へ   (9) 後 藤 生

思いがけず私は、野田で二十四年ぶりに昔の友達而も二人にでくわしたのはとても愉快な事でした。思わず手を出して堅く握り合った。一人は佐藤君、一人は小田君でした。共に中学の寄宿舎で同じ釜の飯を食った仲間なのです。ゼヒ名所野田の玉川を見て行けと云われたが、この際でもあり、いずれ出直して復興の野田を見に来たときに願下げをしたのです。中野中将の一行は、この夜鮫泊り、私共は久慈に一泊して、翌十一日朝宇部役場を訪問した。この村の被害は
    行方 流 倒 納屋  発 漁
    不明 失 潰 流失  動 船
    死亡         機 
久喜浜 一 一戸 四 一五 三 八九
小袖浜 六 三   一 二五 三 七七
三崎浜            四     二
 罹災人員三九〇で内十六歳以上は男女七一人づつ日和はいかが漁船皆無で失業状態であるという事だった。
長内村役場には御免を蒙って久慈町役場に行く。流失は住家一戸、小住家三五、全潰二、浸水十戸、漁船二三(久慈港工営所の被害算入せず)で死傷なし。夏井村にも失礼して、雪の悪路を自動車で侍浜に向う。役場につくと村長始め村の有力者が集まっていて例によって陳情である。浜は石浜というべきもの。巌と岩の間に舟溜場がある。その小さき入江が波浪の為に、断岩崩れ、沖の石が流されて来て舟溜場がなくなってしまった村長サン、青年達の案内で田子の木の浜を視察する。村長が『じき其処です』というので行って見ると中々遠い。ナルホド来て見ると二間四方の岩が浪に打上げられて二丈も上に来て居る。舟溜場が全滅して居る。復旧にはハッパをかけるとか、大変な力仕事をせねばならない。大小の石がうちあげられて、それが赤い色をしている。これは、鮑貝や若めや、海苔や、海藻がついて居たのが浜にあがって死んでしまって変色したのである。舟はこの岩石にうちつけられてメチャメチャである。村長サンは御丁寧にも、も一つの浜を見せるとて、とうとうひっぱられる。十二分に荒石浜の惨状を見て、どろどろの途を彼之一里半ばかり上ったり下ったり、ラストコースですっかり汗をしぼられた。二十九年の津波で住家を海から遠くし、納屋を海岸に造っていたが、流失納屋一二八で全くへこたれて居る。この辺の漁船は県南と違って丸木舟である。松の木をくり抜いて舟底として居る。ここは方二里の村で半分は国有林である。其処から舟の材料を払下げて貰わん事には生きて行かれぬという事だった。失礼だが貴村で、男の人達は春になると樺太へ出稼ぎをする。そこでその出発前に舟を造りたいというのであった。自動車こそ通るが電燈も医者もない村で、唐人の薬で大病を治す処である。不幸中の幸いは死者二人しかなかった事だが漁船一五三隻、発動機一隻を失って居る。

 役場で見せられたのだが先年来此村では海蘭が石灰藻というのに取りつかれて大騒ぎをして居るのである。其処に今度の津浪である。県の技師の話であるが津浪でプランクトンが砂のために荒され、おし流されてしまった。果して海藻が我々の海に育つか否か疑問とされている。もし海藻が育たぬことになれば小ザカナが近海に押しよせて来ない。小魚が居なければ、小魚をあさるマグロや■が来ないだろうこうなったら海岸は滅亡の外はない。げに津波の損害一億というものあるが、さもあろうじゃないか。
この村の駐在巡査高橋功二君は八角将軍岩手艦長時代の水兵とあって存外睦ましい話しが交されて居た。ここらが津波の縁とでもいうのだろう。中野村役場に至ると、村の有志達が集まって善後策まっ最中であった。被害は流失住家三納屋一八、半潰住家、納屋夫々四八木で死亡六人を出した。
 流失漁船九七で、海藻類一万一千円減収、鮑、雲丹、その他貝類は死滅により五千円減、船場船溜場の破壊で復旧費一万五千円を要するという事だった。そこで
一、漁船建造用材を低価にて侍浜国有林より払下げる途を講じてもらい度い
一、低資の長期借入
一、舟溜場復旧工事費の全額国庫補助を望む
一道路工事を起し耕整を始めたい
というのであった。
この村も石が舟溜場にあがって、何うもならんという事だった。

最後の村種市村に向う。災害地八木助役サンに来てもらった。工藤旅舘の二階で被害の全貌を聴く。
 死亡五九 行方不明五八 負傷二二 流失五三戸 浸水九 流失倉庫九 納屋六六 流失小舟二七四 発動機一〇 潜水船七 築港曳舟五隻橋梁一〇 護岸二幼駒運動場流失 海苔を取る透析事業九組合流失保安林林三ヶ所埋没埋立流失
 部落別にすると流失戸数は八木三八戸 川尻八 大浜七
かくて九戸郡で第一等の被害地総額六五一、七一〇円となった。(野田は第二)
津波は東南から斜にやって来た様だ。駅は安全だったが、駅から約一町ばかり北で鉄道線を乗り越えて町通りに入って来た、そして手当り次第に家を浚い倒潰してしまった。鉄橋が両岸とも穴をあけられて汽車が不通となった。その附近にあった家は全部流れてしまった桑の木が四五本前にあった家が救われて居る。埋立地の方はキレイさっぱりとやられてしまった。三十四五になる女の人と外に一二人助かった丈で後は波の藻屑となったそうだ。その女の人は、地震がゆってから炬燵にあたって居たそうだが津波らしいので逃げ出したのだった。築港に居た舟が激浪にのまれたがその中の男が助かった。築港も殆んど形なしにやられて居る。一ツ一千二百貫あるコンクリー一ヶ所に積んでおいたのが無茶苦茶におし流されて居る。大浜の方も只の一軒も残って居ない非人小屋のような処に大ぜい火にあたって居るのが哀れである。

配給は汽車沿道とて不自由なし、但陸海軍の毛布は貸すのだから借り手がないという事だった。病人凍傷が多く段々悪くなるという事だった。郵便局も流されて子供サン二人死んだそうだ。局長サンが病床に臥せって居るとか、避難港はなくなり、海藻は死滅し、舟が流され網は取られた。海岸として生きて行く望みはなくなった。大変な事である。舟を造るに、これから一二ヶ月を要する、網も必要、家も必要だ。それには金だ。国から助成して貰う外に県には余力がない。
 『八角サン、貴公等が政府に迫ってこの仕事を果さねばなりませんゾ』
八角サンは、充分のみ込んで盛岡への汽車の中で、もうその調査を始めた。(完)(写真は破壊された八木鉄橋)