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大海嘯見聞記  田野畑と普代、野田   (8) 後 藤 生

田野畑村の漁村島の越を慰問した湾に向って左の断崖に建てられた方は一二軒やられた外何事もないが右の方の浜にあった村は全滅している。何しろこの湾はすぐ荒海の事とて津波となっては一たまりもない訳である。よくよく岩手県の海岸殊に宮古以北の海岸はすべて断崖絶壁で、たまに砂浜があってもすぐ海で而も小さい面積である、然し其処に棲んで漁をせねばならない運命に我々の同胞があるのである。田畑を耕そうといった処で山岳重■して居るのである。それでも棲めば都である。津波こそ来なかったら漁のある処である鮑よし、鰯よし、鰤よし、するめありまぐろあり、それに海藻があるのである。太平洋を眺めて、如何にものんびりした生活が送れるのである。羨ましくもあり、又限りなく淋しい処でもある。何しろ海上を行くにしても、定期船がある訳でなく、陸を行くとすれば山又山、牛で荷物を運んで居る処なのである。今度もいざ津浪襲来といっても、岩泉の警察署から三日の夜やっと応援がついたという処なのである。配給も二三日忘られてた処、やろうたってやる方法がない処である。早い話が、絶海の孤島であるのである。今度の事件をチャンスとして、何うしても海岸道路の完成を期さなければならない。津浪で、命を拾ったと云っても病気にかかり、食物に窮したら結局苦しみを多くして死んでしまわなければならない。哀れなるものそれは田老から普代までの海岸地帯の人達である。

 海岸にある電柱が美事に折られている。津浪の力の大きさ一寸私の常識では想像されないものである。私はこんな風に考えて見た。間違って居るかも知れない。一秒十米とかの速さで津浪が来たという事だがその波の量は何の位であろうか。処によれば五十五尺もある。少くとも二十尺の処が多いからその水の量たるや何処石の水だろうじゃないか。その大量の水が速力で岸を襲って来る。まるで大岩石がのしかかって来ると見てよかないか。鉄筋コンクリートとか、土蔵なら少しは持ち耐えるだろうが普通の家なら、木葉微塵に粉砕されてしまうのである。そして引返して行くときは同じような力と速さで呑み込んでしまうのである。破壊力、拡大性、さらって行く力、真に恐ろしきものである。而も、ただ二度か三度で町を亡ぼし村を砂浜と化するのである。世に恐ろしきもの、津浪ほどのものはあるまい。
島越もお多分に洩れずこの恐ろしきものの襲来に遭って、シカ(砂浜)の方は廃村となってしまった四十三戸の内一戸残った丈で全滅した断崖の方を合せると流失五十一戸で死者十八名死体は七名しかあがっていない。漁船は一七〇隻発動機は二隻流されてしまった。配給は小本から牛の背で送られたが十日から船で輸送される事になった。岩手病院の救護班が普代からやって来ていた。郷軍や消防の人達は、我々のために海岸まで旗を立てて見送ってくれた。全滅の平井賀には上陸せず船の中から慰問の意を表して普代へ急いだ。平井賀は流失七四戸、死亡一三八死体は三〇しか発見されていない。外来人廿二名に上ったと聴いた。

普代村太田名部に上陸する。ここも山手の方を残してシカは全滅である。村長サンも元気で出迎えてくれたが、家を流してしまって罹災民の一人であった。郷軍分会長も死亡者の一人であったと聴いた朝鮮師団から帰省した兵隊さんもいた。何しろ元村も波に浚われて居る被害激甚の土地であるのに、配給は四日にも来らず、五日の朝になって、久慈から陸送して来たというのである。その夜宮古からも物資がやっと着いたというのである。救援隊も無論来ない事だろう三日の朝から四日まる一日そして五日の朝まで、この土地の人達はどんなに心細く日を送った事であろう。ここも絶海の孤島であったのだ。記憶せよ。県民、そして国民よ、こういう断然不便なる村がこの岩手県の罹災地であることを。こうした事情を、私も何がなし感傷的になったよ。ラジオを聴いて、震災はナンだねといってる人達を私は恨めしく思った。嘗て両丹地方の震災のとき二三百万円の義捐金が集まったと聞いた。今度の津波は、それとはとてもお話にならぬ程悲惨なものであるのに、義捐金百万円も集まらぬではあまりに知らん顔ではないか。この村の被害は
部落 流失   半 死亡 行方 負   流失
        壊    不明 傷   漁船
普代 三三戸 一三  五 二一 三三  一七
太田 四〇   五 一七 八五 四五 一五三
名部                    
堀内  二   三 −  −   三  九〇
黒崎 −   −  −  −  −   七五
力持 −   −  −  −  −   三八
白井 −   −  −  −  −   四八
殊に哀れなのは小学児童二十名の死亡者である。子供をつれ出そうとした親達が大分犠牲になったそうだ。一家全滅が三戸、子供丈残った家もある。ここでも寝具が欠乏して居た。それでもバラックが四戸建ったとて自慢らしくいうのも却って淋しい事だった。
 八角将軍死体の上らぬ理由についてこう説明する。
  かつて駆逐艦が深海に沈んだとき経験であるが、死体に気■が生せず浮いて来なかった恐らくこの辺のもそうじゃないか。あつい時なら腐乱して浮きあがるだろうが・・・・・・。
 又船の人が私にこう教えた。一週間もたっていますからもう沖の方に行っておりましょう。木片でも此のとおり海岸には見られませんからね。
野田の浜についたら日はとっぷりとくれた。誰も出迎える人もなかった砂をふんで家のあるところに来たら、そこは罹災者の避難所であった。燈火のないところに大ぜいの人達が集まっている。野田の町を教わって道をやって行くとナルホド災害の跡が判るやがて向うから提灯をつけて迎いの人達がくる。役場の人達、消防、郷軍、警察官、有力者達である。この村の被害は
 罹災世帯六二人員三二六人流失住家五九戸非住家四二、死亡者村人六他村二負傷重一軽三流失小舟一二〇中舟七発動機一それに五万円の防波堤を流してしまった。
村では熊谷代議士より電報あって八角代議士の来るのを待っていたまるで陳情攻めである。
 一、浸水地の免租船税の免除
 一、低資十一万円の借入即住宅資金一戸五〇〇三万円漁業資金五万円商業資金三万円
 一、防波堤の復旧工事
について念入りの意見交渉が行われた。おしまいには満州問題の質問になっちまって八角氏得意の一席がある(写真は野田村にて)

補助金交付迄  殖銀から融通   沿岸漁組代表    きょう出県して陳情

三陸沿岸の漁業復興に関し進藤殖産銀行頭取と高瀬商工水産課長が東京に於て会合し種々協議を遂げるところがあったが二十二日午前十一時高瀬課長が沿岸漁業組合代表沢田県議、岡本勘平菊池長右衛門外数氏を帯道、殖銀に進藤頭取を訪ね漁業復興資金融通方を陳情するところあったが陳情の趣旨は斯うである。
 漁業復興については県及び国庫から補助をうけ早急復興を計りたいと思うが補助金の交付をうけるまでには相当の期日を要するからこの間殖銀から応急資金十万円の融通をうけ小舟一千艘の建造を計りたいなお償還期限は三ヶ月位とし補助金交付をうけるまでの繋ぎとしたい。
右の借受希望に対し進藤頭取は当行の貸出条件に適合する様取計われたいと答える処あったが陳情をなした漁業組合代表は各水産会に於て保證を決議し貸出しを仰ぐ意向であるが一部代表者は県の保證に依った方が簡便であるとなしているが近く保證問題が決まり貸出しを仰ぐこととなろう。

小漁船を建造  罹災漁民に配給   船材買上げに山林課員出張

県で小漁船六千隻を建造し罹災漁民に配給する事になり第一回に十万円で一千隻を速急建造に着手すべく船材買上げの為県山林課員は東京静岡名護屋方面に出張したが買上数量は一万石であり特殊材を必要とし又価格の点も考慮にいれねばならず東京での買上交渉は成立せず静岡名古屋両方面に交渉中であり船材買上も意外に手間取る模様であり本月内一千隻建造は到底ものになるまいと見られ船材一万石買上げの行悩みは憂慮されている。